目 次
第十章 自主の信念のもとに
(一九三五年二月~一九三五年六月)…………………………………………… 一
1 荒れ狂う旋風………………………………………………………………………………………… 一
2 大荒崴での論争……………………………………………………………………………………… 二六
3 共青の申し子たち…………………………………………………………………………………… 六四
4 四道溝惨劇にたいする報復………………………………………………………………………… 九一
5 革命の種子を広大な地域に…………………………………………………………………………一一四
第十一章 革命の分水嶺
(一九三五年六月~一九三六年三月)……………………………………………一四一
1 北満州の戦友たちのもとへ…………………………………………………………………………一四一
2 ふしぎな縁……………………………………………………………………………………………一七三
3 鏡泊湖のほとりで……………………………………………………………………………………一九八
4 戦友は北へ、わたしは南へ…………………………………………………………………………二二三
5 百戦の老将 崔賢……………………………………………………………………………………二四七
第十二章 解放の春をめざして
(一九三六年三月~一九三六年五月)……………………………………………二八〇
1 新しい師団の誕生……………………………………………………………………………………二八〇
2 二十元…………………………………………………………………………………………………三〇八
3 革命戦友 張蔚華 ………………………………………………………………………………三三五
4 革命戦友 張蔚華 ………………………………………………………………………………三六五
5 祖国光復会……………………………………………………………………………………………三八四
第十章 自主の信念のもとに
(一九三五年二月~一九三五年六月)
1 荒れ狂う旋風
試練の日々は夢のように過ぎ去った。われわれの行く手をさえぎった険峻な雪嶺ははるか彼方に消え去り、血潮と苦悩に彩られた遠征は勝利のうちに終わった。朝鮮の共産主義者には、この勝利にもとづいて革命の深化をはかれる新たな展望が開かれた。病躯をおして老爺嶺の頂をきわめたわたしは、隊員たちと一緒に汪清の山並みを見渡しながら歓声をあげた。数か月間、硝煙と酷寒の中で累積した疲れが一瞬にして吹き飛び、故郷の裏山に舞いもどったような喜びで心も軽かった。だが、汪清に帰還したあとも、何日かは床に臥して高熱とたたかわなければならなかった。遠征中にわずらった傷寒の後遺症に再びさいなまれたのである。かててくわえて、「粛反」のため遊撃区が満身創痍の状態になったというただならぬうわさが、病床にまでもたらされた。「看護兵」たちも、遊撃区を修羅場に変えた極左分子の罪業を憤激して告発するのであった。
数か月前まで革命のために汪清の谷間も狭しとばかり駆けまわっていた党員や共青員、婦女会員たちは、狂気じみた殺人台本の作成者とその執行者たちを呪い、自らの血をもって開拓し死守してきた遊撃根拠地
を捨てて四方に散っていった。わたしは心臓が凍りつくような戦慄を覚えずにはいられなかった。宇宙のすべての動きが一瞬にして停止し、この世のすべてのものが氷河に覆われて終焉を告げるかのような絶望と挫折感にとらわれた。羅子溝台地での試練など、これに比べれば物の数ではない。わずか十六名の隊伍を率いて傷寒に苦しみながら天橋嶺を越えるときの難関もやはり耐えがたいものではあったが、「民生団」問題で味わった苦しみに比べれば問題ではなかった。あのとき遠征隊の行く手に立ちはだかる障害は明白であった。それは敵の追撃とわたしの傷寒であった。われわれは金老人のような義人の助けで敵の封鎖を突破し、趙宅周老のような恩人のおかげで餓死、凍死、病死の陥穽からもまぬがれることができた。人民が活路を開いてくれたのである。
ところが間島(吉林省の東南部地域)の遊撃根拠地では、革命が革命を倒す悲劇的な事態が発生していたのである。倒す者と倒される者のあいだには、矛盾や対立などあるはずがなかった。にもかかわらず、倒す者は倒される者を敵と断じ、革命隊伍から容赦なく排除した。「粛反」の審判台に立たされた人の大多数は、それまで革命に一身をささげてきた点検ずみの闘士たちであった。だとすれば、革命が革命を倒すこの奇怪な「掃討戦」で敵と味方を判別する基準はなにかということである。誰を敵とみなし、誰を味方とみなすべきなのか。「粛反」指導部は処刑した数百数千の人たちにすべて敵という烙印を押したが、こういう判決が適正だといえるのか。もしもその判決が適正を欠いているとすれば、「粛反」を指揮した者たちはいったいなんと規定すべきか。われわれは誰を支持し、誰に反対すればよいのか。これは、数百数千の革命家の鮮血をあびて苦しむ東満州の現実がすべての共産主義者に質していた問いであった。
わたしは心身ともに苦しめられる破目になった。だが、腰営口にはわたしを病魔から救い出してくれる
ほどの名医もおらず、これといった薬材もなかった。ただ民間療法を多少心得ている隊員が代わるがわる冷湿布をしたりして誠意をつくしてくれるだけだった。小北溝の村人たちはわたしの病気を気づかって、蜂蜜とノロ鹿の血を送ってくれた。中国の老人たちも熱い茶を沸かして見舞いにきた。そして、金司令が健康でなくては遊撃区を守ることも、抗日をつづけることもできないからくれぐれもよく看護してもらいたい、と遊撃隊員たちに頼むのであった。蜂蜜も茶もノロ鹿の血も滋養補剤としては申し分ないものであったが、わたしはそれを遠征をともにし病苦にさいなまれている戦友たちにまわした。隊員の中には感冒や凍傷、大腸炎、気管支炎などで苦しんでいる者もいたのである。ある日、悪寒のする体ではあったが、宋甲竜に付き添われて病床の隊員たちを見舞った。そのとき、わたしの目を痛く突いたのは、遠征をともにした戦友たちの貧相な身なりだった。硝煙にくすぶり銃弾に射ぬかれた彼らの軍服には、戦火の痕がいたいたしく残っていた。冬中、酷寒の中で生死をともにした戦友たちに新しい服を着せ、栄養のある食べ物を十分に食べさせてやりたいという気持でいっぱいになった。
わたしは裁縫隊に伝令を送った。前年の秋、北満州遠征に出発するとき、翌年に着用する部隊の夏服を仕立てておくよう全文振に指示しておいたのだが、それができていれば遠征から帰ってきた隊員たちのために、まず二十着ほど持ってこさせることにしたのである。当時、裁縫隊は大荒崴から遠く離れた松樹谷(ソルバツコル)の密林の中にあった。メンバーといっても、全文振と韓成姫をはじめ数名にすぎなかった。全文振は東寧県で洋裁を多少習ってきた古参の隊員であったが、韓成姫は腰営口で児童団の活動をしていて遊撃隊に入隊した新隊員であった。伝令と一緒に軍服を背負って腰営口にきたのは全文振ではなく、数か月間、北満州遠征隊の帰還を待ちわびながら、孤島にひとしい松樹谷の密林で妊娠中の彼女を介護していた韓成姫であった。韓成姫は病床のわたしを見るやいなや、ぽろぽろと涙をこぼした。届けられた軍服を遠征隊員たちに着替えさせてから、韓成姫を裁縫隊に送り返した。ところが翌日の朝、松樹谷に帰ったはずの韓成姫が、松の実がゆの膳をととのえて現れたのである。わたしは腑に落ちなかったので、彼女に尋ねた。
「玉鳳さん、どうしたんだ。なにかあったのかね?」
玉鳳というのは韓成姫の幼名であり、そのほかにも韓英淑という別名があった。彼女は罪を犯した人のように深くうなだれた。
「将軍、許してください…。わたしは昨日、松樹谷へ帰らなかったのです」
一瞬、彼女の言葉が信じられなかった。児童団のころはもちろん、入隊後にも上部の命令や指示を一度もたがえたことのない、忠実で純朴かつ正直な女性であったからである。彼女がわたしの指示にしたがわなかったとすれば、それは一大事といえることであった。
「帰ろうにも心残りがしてならなかったのです。将軍が床についていらっしゃるのに、帰っても文振姉さんが喜ぶはずがありません」
わたしにたいする韓成姫の深い思いやりは、もちろんありがたかった。けれども、わたしは粟とワカメの包みを彼女の背のうに詰めてやりながら言った。
「ここには世話をしてくれる人がいくらでもいるから、きみはわたしのことを心配せず今日中に松樹谷に帰りなさい。きみが帰らなかったら全文振さんはどうするのだ。いまちょうど臨月だというのに、ひとりでお産するわけにはいかないではないか」
「将軍、ほかの命令ならなんでも実行しますが、これだけは…。介抱もしてあげられず裁縫隊に帰ってきたら許さないと、文振姉さんに言われたのです。わたしの立場も考えてください。将軍の容態がこんなだというのに、女性隊員が一人もいないなんて許されません」
韓成姫はかえってわたしを説き伏せようと懸命になった。
「成姫さん、頼むから早く帰って文振さんを介抱してあげなさい」
そのとき、李孝錫中隊長が助太刀をして韓成姫を窮地から救いだした。
「隊長、韓成姫がもどったところで助産婦の役はつとまりません。子どもを生んだこともない娘に、お産の手伝いができるわけはないでしょう」
子どもを取り上げたことのある女性を選んで送ることにするという中隊長の言葉に、わたしもそれ以上言い張ることはできなかった。韓成姫はその日から昼夜を分かたず看病してくれた。食事のたびに松の実がゆが出された。第四中隊の隊員たちが彼女に頼まれて腰営口の森林へ行き、雪に埋もれている松の実を拾い集めてきたようであった。中隊長自身も毎朝、竿をもって松の実を採りに出かけた。韓成姫は、もし自分の看護に不手際があって将軍の病気を快癒させることができなかったなら朝鮮人の資格がないといって、夜も眠らずかいがいしく面倒をみてくれた。いつか、彼女は自分の髪を切ってわたしの靴の中敷にしてくれたことがあった。わたしはそれを見て、韓成姫という女性は情ゆえに泣き、笑い、生身をそいで差し出すのも辞さないタイプの人間だと思ったものである。
血は争えないものである。韓成姫の一家はいずれも情が厚く、人間味の豊かな革命家たちであった。父親の韓昌燮は、李光、金喆、金銀植などの闘士とともに早くから北蛤蟆塘一帯で抗日革命に参加した先覚者の一人であった。大房子反日会組織の責任者として李光別働隊の軍糧米調達のため東奔西走していた彼は、一九三二年の春に日本軍討伐隊の軍刀で切り殺された。姉の韓玉善も火あぶりにされ、兄の韓松宇は戦場で戦死した。遊撃根拠地が解散するまで汪清でわたしと一緒に敵中活動を展開し、のちには北満州の抗日連軍部隊で支隊長として名をとどろかせた戦友の韓興権も、韓成姫の従兄である。韓興権の五兄弟は戦場で壮烈な最期を遂げた烈士たちであった。韓成姫の二人姉妹は父の仇を討とうと遊撃隊への入隊を決心した。ところが、二人とも家を発ってしまえば誰が母親に孝養をつくし、誰が家事をみるのかという問題に直面して、姉と妹のあいだで「口論」がはじまった。韓成姫は入隊適格者でないという理由でいつも受け身に立たされた。
「年が下だからといって、ばかにしないで。お姉さんのできることぐらいはわたしにだってやれるわ。背だってお姉さんと変わらないわ」
韓成姫がこう言うと、姉は姉でやり返した。
「背はそうだとしても、子どもっぽいのはどうしようもないわね。登れない木は仰ぎ見るなというたとえがあるでしょ。成姫は家でお母さんの面倒をみながら児童団の活動に精を出しなさい」
どちらも入隊の栄誉を譲ろうとはしなかった。寝床で二人が自分たちの明日の運命を決する深刻な論争をつづけているとき、その一端を耳にした韓成姫の母は、一張羅の木綿のチマをほぐし、夜を明かして大きさも形も同じ背のうを二つ縫いあげた。翌日にはその中にはったい粉をぎっしりと詰めた。その二つの背のうが自分たちの旅づくろいであり、わが子を思って母がととのえる嫁入り道具にひとしい物であることを姉妹が知ったのはその翌日のことであった。
その日、韓成姫の母は娘二人を座らせてこう言いふくめた。
「母さんはおまえたちの奉養に甘えたくない。国も取りもどしていないのに、孝行なんて考えたこともない。おまえたちがいなくても十分暮らしていける。だから二人ともこの足で遊撃隊に入隊しなさい」
「お母さん!」
二人は泣きながら母親の胸に顔を埋めた。姉妹は悲壮な誓いを立て、涙のうちに母親のもとを離れた。一九三四年の春、わたしは韓成姫を指揮部直属の裁縫隊に編入させた。韓成姫は前途有望な女性隊員だった。性格上の弱点があるとすれば、それは何事においても泰平を決めこむことであった。女性としてはあまりにも柔和で、軍人としては驚くほど素直で無警戒であった。この無警戒さのために、彼女は敵に捕らえられ、革命を中断せざるをえなかったのである。
本隊を訪ねるようにというわたしの指令を受けて他の隊員たちとともに北上の途についた韓成姫は、寧安県二道河子の森の中で敵に包囲された。数十名の満州国軍が銃をかまえて近づいてくるのも知らず、この若い女性隊員は歌を口ずさみながら川辺で髪をすいていたのである。われわれが撫松地区に進出して新しい師団を組織しているとき、彼女は羅子溝で敵に審問されながら苦しい日々を送っていた。囚人を監視する歩哨の中に、韓成姫にひそかに同情する良心的な朝鮮人がいた。彼はひところ革命に参加していたが、逮捕されて帰順書に署名して以来、恥辱の日々を送っている人間であった。刑吏たちが韓成姫を殺害しようとしていることを感知した彼は、脱出を勧めた。自分も銃を捨てるから、一緒に脱出して朝鮮に渡るか、深い山の中に隠れて小屋でも立てて暮らしてはどうかと言った。韓成姫はそれに同意し、彼に助けられて敵の巣窟から無事脱出した。その朝鮮人の歩哨は後日、彼女の夫になった。
韓成姫が敵に捕らえられたという知らせを受けたとき、われわれはみながみな悲憤慷慨した。女性隊員の中には、口惜しさのあまり食を断つ者さえいた。実の妹のように可愛がってきた戦友を奪われたのであるから、無理もなかった。韓成姫の価値をよく知っている汪清時代の闘士たちは、いまなお彼女を美しい追憶の中にとどめている。韓成姫の子どもたちは母親の経歴のことで非常に残念がったという。うちのお母さんも他の女性闘士たちのように祖国が解放される日までパルチザン隊伍にいたならどんなによかっただろうか、と。言うまでもなく、韓成姫が敵に捕らえられず戦いつづけることができたなら、それに越したことはない。だが、革命というものは坦々たる大路ではない。スタート音が鳴れば快速で走り、ゴールにたどりつける百メートル競走などではなおさらない。成功と失敗、前進と後退、高揚と挫折のたえまない交錯と反復の中で勝利めざして走りつづける果てしない行路が、ほかならぬ革命であるといえる。この長い行路に曲折がないはずはない。子どもたちが父母にたいする恨み言をいうたびに、韓成姫はこう諭したという。
「父や母の経歴に少々の汚点があるからといって、おまえたちまで悩むことはない。朝鮮労働党は両親の過ちをもってその子らを遠ざけたりはしない。両親の罪にたいし、子どもに責任を負わせることはできないというのが、
子どもにたいする韓成姫の教育の仕方は正しかったと思う。彼女は最期の瞬間まで党にたいする信頼の念をいだきつづけた誠実で潔白な女性であった。
韓成姫がつくった松の実がゆと鹿肉入りの粟がゆのおかげで、わたしは三日目にようやく床をあげることができた。ちょうどこのころに、反民生団闘争のすさまじい旋風のさなかにある遊撃区の実態を李孝錫中隊長がくわしく伝えてくれた。彼は、どの県ではどの幹部が殺され、どの県ではどの指揮官が民生団に仕組まれて虐殺されたというように一つひとつ実例をあげて説明した。彼の話が事実であるとすれば、間島では県と区の指導的幹部と中隊級以上の遊撃隊の指揮官はほとんど粛清されたものとみなすべきだった。朝鮮人で文章を書いたり演説らしいことができる人は、すべて消されてしまった。北満州へ遠征に向かうとき汪清に残したわれわれの部隊の将兵のうちでも、中核といえる精鋭分子はすべて除去されていた。かろうじて処刑をまぬがれた人たちは、書記、会長、区委といったポストからすべてはずされていた。
民生団の出現は、朝鮮にたいする日本帝国主義植民地支配の知能化の産物であった。日本帝国主義者が民生団を組織した目的は、謀略と権謀術数によって朝鮮革命を混迷に陥れようとするところにあった。鉄拳政治でもならず、「文化統治」のべールをまとって「内鮮一体」や「同祖同根」を唱えても効を奏さないので、骨肉相食む朝鮮人同士の争いによって革命勢力を粛清し、治安維持上の問題を解消しようとしたのである。九・一八事変(一九三一)後、満州地方における革命情勢の急激な発展に大きな脅威を感じた朝鮮総督斎藤は、間島視察班のメンバーとして東満州地方に派遣した朴錫胤と延辺自治促進会の巨頭全盛鎬、延吉駐在満州国軍の軍事顧問朴斗栄、A級反共特務金東漢をはじめ親日的な民族主義勢力を利用して一九三二年二月に延吉で民生団を組織したのであった。
民生団は表向きには「民族としての生存権の確保」「自由楽土の建設」「朝鮮人による間島自治」といった聞こえのよいスローガンをかかげ、あたかも朝鮮人の民生問題の解決をはかるのが
十六歳のときの日本留学をふりだしに親日の第一歩を踏みだした朴錫胤は、東京帝国大学の法科と大学院、ケンブリッジ大学など一流の大学で修学をした。イギリス留学当時は、朝鮮総督府の学務局から毎年三千余円という多額の学費まで支給されたという。海外留学後の彼の肩書はそれ以上にはなやかなものであった。『東亜日報』記者、『毎日申報』副社長、日本外務省嘱託満州国外交部参事官、ポーランド駐在満州国総領事など、帰国後に彼が歴任した職務と、後日、日ソ中立条約締結の日本側団長松岡洋右外相の率いる日本代表団の一員として一九三二年、ジュネーブで開催された国際連盟総会に参加したはなばなしい経歴は、彼が日本の支配層から厚く信頼されていたことを如実に示すものである。日本帝国主義者は民族主義者としての朴錫胤の体面が立つように、日本の植民地支配を非難する社説を書かせたり、創氏改名に反対して朝鮮総督と対決させたりし、太平洋戦争の末期には呂運亨(〔1〕)の主管した建国同盟にも関与させたが、民生団にからんだ怨念もあって、間島地方の朝鮮人はみな彼を嫌悪していた。解放直後、朴大愚と変名して陽徳に隠遁中、摘発され、民族反逆者として峻烈な審判を受けた朴錫胤は、法廷での陳述で、日本帝国主義支配下での朝鮮人の「民族自治」が自分の政治理念であった、朝鮮もイギリスの植民地であるカナダや南アフリカ連邦のような政治発展のコースを歩むべきだと考えた、こうした政治理念から斎藤総督と親しみ、日本の名だたる世界制覇論者で東亜連盟の精神的鼓吹者の一人である石原莞爾も崇拝したと告白した。彼はまた、民生団創立の趣旨が共産党と遊撃隊の破壊にあったことをつとめて否定し、民生団の当初の目的は純然たる「生存権の確保」にあった、この組織が日本帝国主義のスパイ・御用団体に転落したのは自分が間島を去ったのちのことである、反民生団闘争過程の悲惨な被害状況を耳にして驚いた、自分は日本人にあやつられる人形にすぎなかった、などと陳述した。彼の告白がどれほど真実であるかは歴史の判定に俟つほかはない。しかし、真偽のほどはどうであれ、彼が日本帝国主義の走狗であったということは、いかなる論拠をもってしても否定できないであろう。
民生団の組織に一役かった朴錫胤が日本の影響を多く受けた人間であるなら、民生団謀略工作の走狗金東漢はロシアの影響を多く受けた人間であった。金東漢の人生は共産主義運動からはじまった。彼は十月革命直後に早くもロシアで共産党に入党し、高麗共産党の軍事部委員や将校団長の役職を歴任して、士官学校卒業生としての本領を遺憾なく発揮した。しかし、一九二〇年代の初期に沿海州で日本官憲に逮捕されるや即座に転向し、反共の最前線に立つ親日特務になった。民生団が解体したのち、彼は関東軍の承認を得てその後身である間島協助会をつくりあげ、百余名の反動分子を糾合して義勇自衛隊なるものまで編制し、革命軍の「討伐」に血眼になった。彼は自らが朝鮮生まれの日本人だと思いこむほど徹底的に日本人に同化した人間であり、朝鮮民族は日本を祖国として誠心誠意をつくすべきだと高唱するほど売国反民族根性が骨の髄までしみこんだA級の逆賊であった。『満鮮日報』が伝える資料によっても、彼が帰順させた共産主義者は三千八百名に及ぶとのことである。金東漢の死後、日本帝国主義者は延吉西公園に彼の銅像と間島協助会名義の顕彰碑まで建てた。
日本帝国主義の「間島治安戦略」にもとづく思想謀略施策によって「間島省内の組織の全貌をあばきだし、約四千名を逮捕し、彼らを支持していた社会的基盤の崩壊に成功」したという「民生団戦略」の実相を剖検してみる必要がある。
民生団が民族主義者による間島の民生解決を目的に組織されたものでないことは最初から明白であったが、日本帝国主義侵略者は当時、それを民族主義のべールで覆うことに懸命になった。日本人は民生団の看板に民生苦の解決という美しい意匠をこらして賛辞を惜しまなかったが、東満州の革命組織はこの団体の頭目らが日本領事館の裏口から足しげく出入りしているのを看破した。敵は万民の鋭い視線から、民生団の正体を隠し通すことができなかった。われわれは革命的出版物と口頭宣伝によってその正体をあばきだす一方、反民生団闘争を大衆的な運動で展開する措置を講じた。表看板にまどわされて民生団に加入した人たちはすぐにこの組織から脱退し、手先に転落して謀略工作に加担した者は大衆の手で処刑された。民生団は創立されてまもないうちに、解体の破目に陥ってしまった。日本帝国主義はわれわれの隊内に民生団組織をほとんど扶植することができなかった。では、なぜ民生団の存在しない反民生団闘争がつづけられ、民生団員でない人間が民生団員として殺される事態が、それも党が存在し人民政権が樹立されていた間島の遊撃区で三年間も持続したのかということである。その根本的原因は日本帝国主義の謀略にあった。斎藤朝鮮総督の全面的な支援と竜井日本領事館の積極的な背後工作によって日の目を見るようになった民生団は、一九三二年四月、朝鮮駐屯日本軍の間島派遣と同時に新任朝鮮総督宇垣一成の意思によって解体されたが、それは形のうえで姿を消したにすぎなかった。民生団は解散したが、それを復活させようとする運動は、金東漢、朴斗栄などを軸にして極秘裏に展開された。
一九三四年の春、延吉憲兵隊長の加藤泊次郎(日本の敗戦当時、北中国特別警備隊司令官)と独立守備歩兵第七大隊長の鷹森孝は、朴斗栄をはじめ親日分子とともに間島の治安問題を再協議し、民生団組織を復活させることに合意した。これによって民生団謀略工作の第二段階がはじまった。彼らは民生団の再編が満州省委傘下の東満特委を相手にしての思想謀略施策であることを明らかにし、活動の骨子を第一に「朝鮮人遊撃隊にたいする強力な自己崩壊分断施策」、第二に「朝鮮人遊撃隊にたいする糧道遮断施策」、第三に「朝鮮人遊撃隊にたいする積極的な投降帰順勧告」、第四に「投降帰順者にたいする保護、定住監視施策」、第五に「投降帰順者にたいする職業補導、就労斡旋」におき、延吉憲兵隊に謀略活動全般を統轄させることにした。そして、一九三四年九月には、民生団活動の強化にともなって生まれる「帰順投降者を一括処理し、帰順者の背後関係、偽装帰順の有無調査、洗脳教育を目的」とする特殊機関として間島協助会をつくりあげ、これに民生団を統合した。金東漢を頭目とする間島協助会は、東満特委の反民生団闘争を巧妙に利用してさまざまな陰謀をめぐらした。日本の陰険な謀略家らが共産党と抗日遊撃隊を狙っての思想謀略工作の基調とした政治的要点は、東満州抗日遊撃隊の組織構成と指揮体系における特殊性であった。彼らは、人民革命軍が朝中両国共産主義者の共同の武力であるという点を本質的な弱点の一つとみた。そして、中国人幹部は朝鮮人の党員を信用せず不断に監視しているので、朝鮮人の党員と対立していると自分の判断を下し、この特殊性を利用して朝中両国の共産主義者のあいだにくさびを打ち込もうとした。「朝鮮人が満州で血を流すのは祖国の独立と民族解放とはなんのゆかりもない。にもかかわらず、あなたがたはなんのためにやっきになって戦うのか。なぜ勢力において優勢な朝鮮人が中国人に引きまわされ、無意味な戦いで血を流すのか。早く目覚めよ。投降帰順の道は開かれている…」こういうことを吹き込むのが民生団思想謀略工作の宣伝要領とされた。
日本帝国主義は民生団の解体後、特務と手先を用いて、遊撃区に民生団員が多数潜入しているかのようにうわさを広め、堅実な幹部と革命家を陥れ、互いに相手を疑い敬遠視させようとはかった。敵自身も「間島共産党破壊経験」という秘密文書で、最初は民生団員を十名単位の編成で遊撃隊内に送りこんだが、そのつどつかまって処刑され、それ以上潜りこめなくなったので、朝鮮人と中国人、労働者と農民、上部と下部を互いに信じられなくし、離間する戦術を使って共産主義者同士をたたかわせた、と述べている。革命隊列を内部から瓦解させる攪乱工作で日本の謀略家らが発揮した手腕には驚くべきものがあった。その術策の中にはこういうのもあった。たとえば東満特委のある幹部が地方巡視に出かけるとすれば、彼が通る道筋に、以前、指導のためにその地方を往来した県か区クラスの幹部宛のにせ手紙を落としておくのである。そうすれば、それを拾った特委の巡視員が手紙の受信人をどうみなすかは言わずと知れたことである。
反民生団闘争が極左に走ったいま一つの理由は、満州省委や東満特委、各級県党および区党組織の責任ある地位を占めていた各人各様の一部の「左」翼日和見主義者と分派・事大主義者の不純な政治的野望にあった。「左」翼日和見主義者は共産主義隊列内で指導的地位を専有し、上昇一路をたどっていた朝鮮共産主義者の革命闘争を自己の政治的野望の実現に従属させようとし、反面、派閥根性から抜けきっていない事大主義者は、彼らの支持と黙認のうちに分派的目的の達成に妨げとなるすべての人を隊伍から容赦なく排除し、自派勢力の拡大にこの闘争を悪用しようとした。他人の席を横取りして座りこむ口実をつくってやったのが、ほかならぬ民生団であった。おまえは民生団だからポストから退くべきだとか、死に値すると宣言すれば、それで万事休すであった。そういう判決には上訴が許されず、また上訴したところで通じるものではなかった。日本帝国主義が流布した民生団浸透説は、共産党と大衆団体および軍隊の責任ある地位を自派一色でかためようとする人たちの覇権主義的で出世主義的な欲求に火をつける引火剤にひとしいものであり、彼らが民生団の名であげる上々の「粛反」実績は、遊撃区の革命勢力を圧殺しようとする謀略家らに計り知れない利益をもたらした。結局は敵と味方が協力して遊撃区を踏みにじったようなものである。こういう奇怪な結託は、世界のいかなる革命戦争史にも見られないであろう。
反民生団闘争がこのようにファシズム国家の軍法や中世の宗教裁判をしのぐほどでたらめで苛酷で、拙劣な方法でおこなわれるようになったのは、日本帝国主義の凶悪な謀略と、それに乗せられた東満特委(東満党特別区委員会)の一部の人の政治的・思想的暗愚さと、彼らが追求した目的の卑劣さのためであった。当時、彼らが民生団の烙印を押す決め手には制限がなかったが、それを形態別に分けてみると、じつに数百に達する。遊撃隊の炊事隊員が水加減を誤ってご飯を半煮えにしても民生団にされる理由になった。ご飯に石が混じったりご飯に水をかけて食べても、それは「遊撃区の人民に病気を起こさせようとした証拠」となり、「民生団の仕業」というレッテルが貼られる根拠となった。下痢をすれば戦闘力を弱めるからと民生団、溜め息をつけば革命意識を麻痺させるからと民生団、銃が暴発すれば敵に遊撃隊の位置を知らせる合図だからと民生団、故郷が恋しいと言えば民族主義を鼓吹するからと民生団、熱心に仕事をすれば正体を隠すためのゼスチュアだからと民生団…。それこそ鼻にかければ鼻にかかり、耳にかければ耳にかかるといった有様であった。こんな基準でみるなら、民生団とかかわりのない人間は一人もいなかった。
「高跳び」とあだなされていた反帝同盟和竜県委員会の責任者は、長仁江で政治工作中に自衛団(日本が親日分子でつくった武装治安隊)員らに逮捕され、三十余名の愛国者とともに刑場に連れだされた。自衛団員らは彼らを一列に立たせて一人ずつ打ち首にした。「高跳び」もその刑罰をまぬがれることはできなかった。ところが、彼の首は地面に落ちずに首の皮と肉がはがれて背中に垂れ下がり、全身が血まみれになった。それは死よりも苦しい重傷であった。彼が気を失って倒れているあいだに、自衛団員らは刑場から去ってしまった。夜中に意識を取りもどし、かろうじて起き上がった彼は、歯を食いしばって痛さをこらえ、背中に垂れ下がった皮膚を首にはりつけ、服を裂いて巻きつけてから、二十四キロ余りの険しい山を腹ばいで進み、転がるようにして、ついに漁郎村遊撃区にたどりついた。しかし、「高跳び」の傷がまだ完治しないうちに、極左分子らは彼を大衆審判の場に引きずりだした。彼が敵の手先として革命隊列内に潜伏するため、わざと首に傷をつくって遊撃区にもどってきたというのである。極左分子らは彼の「罪業」を長々と並べ立てたが、審判の場に駆り出された大衆は彼らの判決に誰一人賛成しなかった。審判の立役者たちは彼を生かしておき、一定の期間、点検を通じて正体を明かすという判決を下したが、人知れず暗殺してしまった。
反民生団闘争を極左の泥沼にのめりこませる度合は、このように和竜県がもっともはなはだしかった。それは、この地方で党組織の指導的地位を占めていた者たちが政治的野心を達成する方向で人びとの運命を翻弄したからである。「粛反」のほこ先は、革命実践において模範的で大衆の信望が厚い闘士たち、阿ゆと屈従を知らず、不正にたいしては妥協することのない堅実な闘士たちに向けられた。
朝鮮人の幹部のうちで反民生団闘争をもっとも極左的にくりひろげたのは金成道であった。東満特委が汪清に位置していたころ、金成道はそこで堕落した生活をしていた。彼は妻を連れて歩き、特委、県委の幹部たちと一緒に飲酒と花札賭博にふけった。妻がモダン女性気取りで家事をかえりみなかったので、家事いっさいは児童団員に押しつけられていた。金成道はケシの花がきれいだといって、人民を駆り出して植えさせ、その乳液を貢がせた。それでいながら、「清廉な政治」を念仏のように唱えていた。このように私生活が薄汚い金成道が、真の革命家を民生団に追いやって排除したのは言語道断である。はなはだしくは、彼は児童団員たちにまで民生団に入ったという自白書を書くよう強要したほどである。
政治工作で多くの功労を立てた竜井東興村アジトの責任者金根洙も、極左分子の手にかかって刑場の露と消えた。
「わたしは民生団ではない。どうしても疑わしいというなら、たとえ両足を切り落としても命だけは生かしてくれ。両足を切ってしまえば逃げ出す恐れはないではないか。あなたたちがわたしを殺さず両足を切断するだけにしてくれれば、手で敷物を編んででも革命のためにつくしたい。革命闘争をつづけられずに死ぬのが口惜しい」
これは刑場で彼が最後に言った言葉である。しかし「粛反」指導部はかえって「あれを見ろ。あいつは死のまぎわになっても民生団の役を果たしている」とわめき、彼を棍棒で殴り殺してしまった。
「粛反」の鉄槌は党組織と大衆団体の範囲を越えて遊撃隊の頭上にまで打ちおろされた。「ホミ掻き」というあだなの持ち主で遊撃隊の模範戦闘員として活動した楊泰玉も、民生団のレッテルを貼られて大衆審判を受けた。「罪名」は銃の撃発装置を故意にこわしたというものである。楊泰玉に「ホミ掻き」というあだながついたのは、彼が組織の責任者とともに三蒲洞の飲食店へ行って緝私隊(密輸業者の取締り隊)の隊員の武器を奪取したときからだった。そのとき、緝私隊員のうち二人は飲食店の中でアヘンを吸い、一人は外で見張りをしていたのだが、楊泰玉はその見張りとはげしく格闘した。しかし、力のうえではかなわなかったので、腰に差していたホミ(草取り鎌)で緝私隊員の顔面を殴りつけた。緝私隊員が顔を覆って倒れたすきに銃を奪って三蒲洞の台地に駆け上った。彼は山の斜面を駆け上りながらも、銃を撃ってみたい衝動を抑えることができず、そっと引き金を引いた。どうしたわけか、彼が期待していた「バーン」という音は出なかった。安全装置がしてあったのである。彼はホミで撃発装置を叩いて安全装置をはずした。しかし、ホミの峰で打たれた撃発装置の傷のため、後日彼は遊撃隊から除隊させられ、敵地に追放される破目になった。
極左分子と分派・事大主義者によって民生団の濡衣を着せられて極刑に処された人や、遊撃区から追放された人は、ほとんどが「ホミ掻き」のように死も恐れぬ勇敢で筋金入りの闘士たちであった。そういう闘士たちが民生団の役目を果たそうとして、にせの拳銃やホミを持って白昼に武装警官の銃を奪取するという冒険をおかすであろうか。しかるに審判を仕組み彼らに有罪の判決を下した人間たちには、そういう熱血闘士たちが民生団に入る理由も、反革命に加担する必要もないことを判別できる能力もそなわっていないというのだろうか。いや、これは判断力の問題ではない。少なくとも革命に参加した人間でその程度の判断力さえない者はいるはずがない。
安図の闘士たちの証言によると、車廠子だけでも数百名の朝鮮人が民生団事件で虐殺されたという。東満党との連係が緊密で間島の実情に非常に明るい周保中もその回想録で、民生団事件で殺された人の数は二千名に及ぶと証言している。
「反民生団闘争」の陣頭指揮をとった者たちは、「粛反」の実績をあげるため、共産主義者としては考えられない悪らつな方法で、党組織と大衆団体のメンバーはもちろん、児童団のアクチブにいたるすべての民生団嫌疑者に耐えがたい苦痛を与えた。「粛反」運動の先頭に立った金成道、宋一、金権一らも、最後には民生団という判決を受けて銃殺刑に処された。宋一や金権一はいずれも善良な人間であったが、主体性を確立することができず、上部に盲従して本意ならぬ過ちを犯した。わたしは、彼らが刑場で
朴賢淑といえば、汪清でも五本の指に数えられる一流クラスのモダン女性であった。目が星のようにキラキラするからと、小汪清の人たちは彼女を「明星眼(まなこ)」と呼んだ。芸能に造詣の深い彼女は一時期、汪清で児童局長をつとめた。年は若かったが、地下工作経験が比較的豊富な女性であった。彼女の義父崔昌元(崔ロートル)は県の反帝同盟の責任者であった。朴賢淑がまだ崔亨俊と結婚する前、彼女の指導を受けていた牡丹川の児童団員たちは、二人のあいだを行き来しながら連絡の役目を果たした。朴賢淑から金をもらうと、児童団員たちは商店を歩いて遊撃隊に送る物資を買い入れた。それらの物資は「明星眼」の手をへて、秘密遊撃隊と別働隊の組織を急いでいた闘士たちに送られた。朴賢淑の一挙一動をひそかに監視していた警察は、彼女に逮捕令を下した。その日、彼女は同僚の結婚を祝うつもりである家に待機していたのだが、警官がその家にまで手をのばし、朴賢淑を引き渡せと乱暴を働いた。自分のために当家の主人に迷惑がかかるのを恐れて、天井裏に隠れていた彼女は「わたしはここにいる」と言って、警官の前に平然と現れた。彼女は獄につながれ、生身を切り取られるような拷問にあいながらも、節を曲げなかった。村人たちが面会に行くと、餅の器に革命歌を書き記してもどしたりして、むしろ獄外の人民と同志たちを励ました。その後、警察は彼女を釈放した。朴賢淑が崔亨俊と結婚式を挙げる日には、共産党の女がどういう嫁入りをするのか見たいという口実で、百草溝の警官が三人も割りこんできては、供応を受けながら新婦に歌まで請うた。朴賢淑はその要請を受けて堂々と革命歌をうたった。ほろ酔い気分で新婦の歌を聞いた警官たちは、それが革命を扇動する歌であることも知らず、共産党の女がたいへんな名歌手だといってアンコールまで求めた。
朴賢淑の夫崔亨俊も革命に忠実な人であった。家庭生活も堅実で、闘争でも模範であったが、不幸にも銃弾を受けて片足が不自由な身になった。そのために地方工作では以前のような実績があげられなくなった。馬や車があるわけでもなかった。そんな不自由な体では遠い道のりを行き来するのもままならず、仕事がはかどらなかった。ところが「粛反」指導部は、彼に「消極分子」というレッテルを貼って民生団扱いをし、迫害し監視した。朴賢淑も民生団の妻だという理由で幹部のポストからはずされた。そして、彼女が離婚を決心したといううわさがわたしの耳にまで届いた。それで、わたしは彼女に会ってこんこんと諭した。「民生団」問題は一時的なものであり、いつかは解決される問題だ、崔亨俊は地下工作で実績をあげた人であり、遊撃区に来てからもりっぱに戦った人ではないか、彼は理論水準も高い革命家だ、それなのになぜ離婚するというのか、間違っている、と批判した。その後、われわれは朴賢淑をソ連に送った。彼女がいまなお生きているとすれば、反民生団の熱風に草木までうち震えた汪清時代をどんな気持で回想しているだろうか。
遊撃区の人民は老若男女を問わずすべて動揺した。革命なんてそんなものなのだ、なにかといえば内輪同士で殺し合い、無実の罪までつくりだすといったほどなのだ、朝鮮人が不毛の地にひとしい間島で耕地を開拓し革命も開拓したのに、その先駆者たちを殺害したり追放したりして、いったいどういうつもりなのだろうか、それこそ主導権を握るための粛清でなくてなんだろう、権力のためなら、かつての道義も因縁もおかまいなしに味方を殺りくするのが革命だというなら、そんな革命をしてなにになるのだ、こんなことなら、家族を引き連れて故郷へ帰って野良仕事をするか、僧侶にでもなって木鐸を叩いて歩くほうがましではないか。このように人びとは苦々しく思うようになってしまった。反民生団闘争の狂風はこのように人びとの人生観と革命観をくもらせてしまったのである。
意識の低い大衆は革命を放棄し、敵地か辺地に逃避するようになった。革命を志してきて革命に排斥され宙に浮く身の上になった彼らが、羽をたたんで住みつく所はいったいどこだというのだろうか。革命は生きるためのものであって、死ぬためのものではない。人間らしく生きるためにたたかうのが革命であり、正義のために一身を惜しみなく投げだして戦いの場でいさぎよく死んで永生を得るのが革命なのである。しかし、永生などといえたものではない。革命家たちは昨日まで同じ釜の飯を食べた人間の手によって無差別に殺されているのだ。
それでわたしは解放後に、反民生団闘争のために遊撃区を去って「帰順」した人たちには罪がないと宣言した。革命を志しても、それをできなくする人間たちに無念の死を強いられまいと遊撃区と決別したことがどうして罪になるのだろうか。
非道な殺りくにより、汪清の川と古洞河の水は鮮血で染まり、間島のどの谷間でも痛哭の声が絶える日はなかった。こうした現実に幻滅を感じたあまり、史忠恒も間島から立ち去ってしまった。彼は「わたしは行く。ここでこれ以上、血なまぐさい臭いをかいで暮らすことはできない。共産党の治下でどうしてこんなことが起こるというのか。東満党指導部が共産党の恥さらしをしている」と言って北満州へ去ってしまったのである。
わたしは反民生団闘争の重大さを見てとり、より具体的な真相を知るため多くの人に会った。当時、腰営口の住民は敵の討伐がはげしいため、山林の中で土窟をつくって暮らし、革命軍は遊撃区の入口に兵舎を建てて生活しながら人民の保護にあたった。遊撃隊の兵舎から村までは六キロほどあった。わたしが伝令兵をともなって村へ行き、老人たちと語り合っているとき、洪慧星が話したいことがあるといって訪ねてきた。わたしは老人たちとの話を終えて彼女に会った。
「指導部の人たちはひどすぎます。口惜しくてもう我慢できません。汪清に来て苦労に苦労を重ねながらも歯を食いしばって我慢してきましたが、この気苦労にはとても耐えられません。間島でこんなひどい目に会いながら革命活動をするくらいなら、いっそのこと国内へ行って地下闘争をした方がましです。ここでのように遊撃根拠地はつくれないにしても、地下闘争ならいくらでもできるではありませんか。必要な工作費は薬局を経営している父の財産をはたいてでも工面しますから、朝鮮へ行きましょう」
洪慧星は唇をかみながら、涙にうるんだ目でわたしを見つめた。わたしは手振りで声を落とすよう彼女に合図した。
「こんなときに、そんな不用意なことを口にしてはいけない」
「将軍を信じてのことです」
「壁に耳あり障子に目ありというではないか。言葉を慎んだほうがいい」
わたしは洪慧星の告白を聞いてわびしい思いにとらわれた。洪慧星まで遊撃区を離れようと決心したとすれば、この汪清に残って革命をつづける人物は果たして何人いるだろうかという暗たんたる気持になった。彼女は誰よりも遊撃区を熱烈に愛した女性であった。遊撃区もまた彼女に大きな愛情をそそいだ。彼女は大胆な地下工作員であると同時に、生気はつらつとした情熱的な児童たちの教師であり、免許証はなかったが、診断と治療の上手な非専従医師でもあった。東満党指導部と汪清県党の幹部の中には、彼女の治療で三年越しの疥癬を治した人もいた。疥癬を治してもらった人は誰もが洪慧星に礼を言った。幹部たちも彼女を逸材だと称えた。洪慧星は、自分こそは遊撃区に必要な存在であり、ひいてはなくてはならない存在だと自負していた。そういう彼女が突然、わたしに脱出を訴えたのである。その一言だけでも、彼女は民生団として処刑されるに十分だった。彼女がわたしを信じて自分の心情を正直に告白したのはうれしかった。あれほど情熱にあふれ、闘争意欲に燃えていた洪慧星ですら脱出を決心したほどだから、遊撃区の空気がいかに殺伐としていたかは言わずもがなのことである。同志たちの屍で覆われたこの間島は、かつて彼女があれほど熱愛した別天地でも、わが家でもなかった。だが、わたしは彼女の提言を受け入れることはできなかった。
「そんなことをしてはいけない。自分一人が生きるか死ぬかということは問題ではない。革命が滅びるか興るかというこの瀬戸際に、苦難に耐えることができず安易な道を選ぶなら、自分自身をどうして真の共産主義者といえるだろうか。たとえ苦しくおぞましくても、ここで民生団問題を収拾して闘争をつづけるべきだ。これだけが革命家の行く道であり、革命を救う道なのだ」
わたしがこう所信を述べると、洪慧星は涙をぬぐってわたしをじっと見つめた。
「あまりにもお先真っ暗なので弱音を吐いてしまって、許してください。わたしはこのことをお話ししたくて、将軍が北満州からお帰りになるのを待っていたのです。わたしだけではありません。みんな民生団の牢屋にいても隊長さんの帰りを心待ちにしていました。金隊長はいつ帰ってくるのか、金隊長から便りはないのか、金隊長に東満州の状況を伝える方法はないのか、といって隊長さんをどんなに待ちあぐんだかご存知ないでしょう。ところが、ここでは北満州遠征隊が全滅したといううわさが広がりました。日本人が発行する新聞にもそう出ていましたし」
洪慧星はうっ憤をこらえきれず、両手を胸にあてた。彼女の目頭ににじむ血のしたたりのような涙を見ながら、わたしは胸が引き裂かれるような自責の念にかられた。彼女の言葉は、朝鮮の革命家としてわたしに負わされた責任を深く考えさせた。革命がこんな無惨なものに終わってしまうのか、それとも息を吹き返して再起するのかというこの厳粛なときに、数千数万の生命を脅かす「粛反」の無分別な殺人行為を阻止できないなら、わたしは朝鮮の男児という資格はおろか、この世に生き長らえる必要すらないと思った。
それでわたしは、反民生団闘争の問題を正すための会議を招集するよう、東満党指導部に提起した。時を同じくして、満州省委(満州省党委員会)の巡視員も同じような会議の招集を発案した。数日後、わたしは一通の連絡文書を受け取った。大荒崴で東満州地方の軍・政幹部の連席会議を招集するという通知であった。出発に先立って、わたしは炊事隊の兵舎を訪ねた。数か月来、民生団の嫌疑をかけられてふさぎこんでいる洪仁淑に、北満州で手に入れた服地を贈ろうと思ったのである。民生団の嫌疑者に贈物などしては、隊長も「粛反」指導部の手にかかりかねないと戦友たちに警告されたが、わたしはそれを無視した。人道主義が罪になるというのは、話にならなかった。
2 大荒崴での論争
「民生団」問題をめぐるわたしと東満党指導部のメンバーとの論争は大荒崴会議が最初だったと考えるなら、それは正確な考察とはいえない。この論争はすでに一九三二年十月にはじまっていた。北満州への進出を開始したわれわれの部隊が汪清地方に来てしばらくとどまっていたときである。わたしはそのとき、汪清滞留日程の手始めとして一区(腰営口)の党活動の指導にあたったのだが、その過程で県党と区党の一部の幹部が反民生団闘争を革命的原則に反して極左的な方法で進めている事実を目撃した。
ある朝、一区党の組織部長李雄傑と一緒に村を見てまわっていたわたしは、区党事務所からもれてくる悲鳴を耳にして立ち止まった。
「あの声はなんですか?」
李雄傑はなぜか顔をしかめた。
「県党のメンバーが李宗振という人を詰問しているのです」
「どうして? 民生団の嫌疑者ですか?」
「まあ、そういうことでしょう。本人は三日間も違うとねばっているのですが、幹部たちはしきりに罪状を告白しろと責め立てているんです。あの声を聞くと一日中仕事が手につきません。早く行きましょう」
「彼を民生団とする根拠はなんですか?」
「敵中工作に行って、帰りが数日遅れたのが問題になったのです」
「そんなことが理由になるというのですか?」
「隊長、気をつけてください。ここではその一言だけでも民生団にされますよ。民生団の嵐で生きていくのがまったくつらくなりました」
わたしは李雄傑が引き止めるのを振り切って区党事務所へ足を向けた。県党から来た人物は一区の赤衛隊員たちと一緒になって李宗振を容赦なく責め立てていた。わたしが事務所に入ると、県党の幹部は、見知らぬ客に汪清で階級闘争を果敢に進めているのを見せようとでもするかのように、すごい剣幕で李宗振を痛めつけた。
李宗振は中国人地主の家で十年以上も作男をしてきた雇農であった。敵の討伐で妻を亡くし、幼い二人の子は革命活動の妨げにならないように他人にあずけた。遊撃区に来てからは、一区所属の支部党書記として工作にあたり、大衆の信望も厚かった。こういう人が利敵団体に加わって反革命に走る理由があろうはずはない。それを、工作地からの帰りが遅れたからと、民生団の根拠にするのは正当であろうはずがない。
わたしは尋問を中止させ、県党と区党の幹部たちに助言をした。
「みなさん、わたしが調べたところによれば、李宗振同志には民生団扱いにする根拠がありません。はっきりした根拠もなしに、ささいな工作上の誤りをもって誰彼なしに暴力沙汰に及んではなりません。反民生団闘争は科学的根拠をもって慎重に進めるべきです」
尋問はいったん中止されたが、県党の幹部たちはわたしが腰営口を離れて馬村へ行ったあとで、李宗振を殺害してしまった。そのかわり、安図から来た
わたしの一区党事務所での言動は、事実上「民生団」問題をめぐるわたしと極左分子との論争の発端となった。この論争は一九三三年に入っていっそうはげしくなった。一九三三年は東満州地方の遊撃区で民生団にかかわる粛清がもっともひどくおこなわれた年である。この年に、民生団の嫌疑をかけられた朝鮮人出身の少なからぬ軍・政幹部と革命家が殺害されたり逃避したりした。
わたしもまたあやうく民生団のわなにかかるところだった。「粛反」を極左の極限にまでもっていった排他主義者と分派・事大主義者は、わたしを民生団と結びつけようと執拗に企んだ。彼らがもちだした「証拠」なるものは、なんの信憑性もないものであった。その「証拠」の中には図們地主拉致事件というのもあった。
当時、柳樹河子地方に常駐していた百余名の中国人反日部隊は軍服が調達できず、われわれに援助を求めてきた。そこでわれわれは、救国軍が義援金募集工作に利用しようと人質にしておいて逃した地主を連れもどして説得し、彼の助力を得て五百着分の軍服用布地と綿を手に入れたのだが、これが図們地主拉致事件と呼ばれていた。われわれはその布地と綿で汪清地方の反日部隊の将兵全員に新調の軍服を着せた。当時の状況からして、真冬に軍服すら着せてやれないなら、反日部隊の将兵が敵に帰順または投降する恐れが大きかった。救国軍のような友軍の協力を得ず、革命軍の力だけで孤軍奮闘しては、遊撃区を維持するのが困難であった。
李容国の後任として汪清県党書記に登用された金権一は、東満特委の幾人かの幹部とともに、遊撃隊が地主を利用して救国軍の冬季用軍服を調達したのは右翼投降主義的な行為だと非難し、軍隊を統率している
――反民生団闘争はとりもなおさず反スパイ闘争であるから、それは誰であれ避ける権利はない。わたしとしてもわれわれの部隊内に民生団が浸透するのを望まない。けれども民生団の粛清にかこつけて罪なき人を手にかけることにたいしては黙って見ていることはできない。罪のない味方の人間を手当たり次第殺害することこそ革命を破壊する利敵行為であるのに、そういう行為を見ながら、どうしてわれわれが口をつぐんでいられるというのか。見よ、あなたたちに民生団という汚名を着せられた人たちがどういう人たちなのか。この遊撃区でわれわれと生死も苦楽もともにしてきたえりぬきの戦士たちではないか。そういう戦士たちがなんのために革命に反対する民生団になるというのか。あなたたちの言うことは理屈に合わない――
極左分子たちはわたしの話を聞くや怒り心頭に発して、「それなら、きみは反民生団闘争路線に反対するのか?」と大声を張り上げて問い返した。
「革命に忠実な味方を殺すのがあなたたちの追求する反民生団闘争路線なら、わたしはそれを支持することはできない。民生団を摘発するなら科学的な根拠をもって摘発すべきなのに、なぜこの山中で飢えに耐えながら革命のために苦労している人たちを一人ひとり消してしまうのか。おかしいではないか」
わたしはこう論駁した。わたしが鋭く問いつめていくと、東満特委の極左分子たちは「
梨樹溝谷の民生団監獄に拘留されている人の中には、張捕吏(本名張竜山)と呼ばれる中隊長がいた。彼の父親は汪清地方の名猟師だった。張竜山は父親が狩りに出かけるときについて歩いて射撃術に習熟した。彼はうどん粉をこねておいてから、猟に出ては一度に八頭のノロ鹿を捕ってきてすいとんをつくったというほどの名射手だった。小汪清防衛戦闘のとき、彼が一人で撃ち倒した敵の数だけでもおそらく百人は越えるであろう。彼はわたしがもっとも大切にした指揮官のうちの一人だった。そういう人物が一朝にして民生団のレッテルを貼られ、畜舎にひとしい監獄につながれているのだから、それを目にするわたしの気持がどうであったかは言わずもがなのことである。
「張捕吏、はっきり答えるんだ。きみは本当に民生団なのか?」
民生団監獄に行くなり、わたしは張竜山に単刀直入に尋ねた。すると、彼は別にためらう気配もなく「民生団です」とあっさり認めてしまった。
「それなら、民生団だというのに、なぜ日本軍を大勢撃ち殺したのだ?」
張竜山の陳述を聞こうとして監獄までついて来た極左分子たちはみな、鼻息を荒くしてわたしを見守っていた。わたしは高ぶった胸を鎮め、条理を立てて張竜山を諭した。
「張捕吏、民生団というのは日本人を擁護するものだし、また日本人がつくりあげた反動組織だというのに、きみが民生団なら、彼らを百人以上も撃ち殺したというのはおかしい話ではないか。のど首に刀をつきつけられても、物はまっすぐに言うべきではないか。正直に話してみなさい」
こう言われてはじめて、張竜山はわたしの手をとって肩を震わせ、涙声で訴えるのであった。
「隊長、わたしがなんで民生団になるというのです。違うと言っても聞いてくれず、やたらに殴りつけるので、仕方なく民生団だと言ったんです。隊長の顔に泥をぬって申し訳ありません」
「わたしの顔に泥をぬろうと墨をぬろうと、そんなことは問題外だ。問題はきみが、ひどい仕打ちをする暴君の前では民生団だと答え、わたしの前ではそうでないと言う骨なしだということだ。二枚舌をつかう卑怯者はわたしには必要ない」
わたしがはげしく怒って「監獄」の外に出てきたので、極左分子たちはあえて口をきくことすらできなかった。その日、わたしは童長栄に会って強く抗議した。
「わたしの見るところでは、あなたがたのやり方に問題がある。反民生団闘争はそんなやり方で進めるべきではない。どうして罪もない人たちを民生団にして拘留するのか。反民生団闘争は民主主義的方法でやるべきだ。上層の一部の権力者の独断ではなく、大衆の討議をへて敵味方を正確に区別すべきだ。拷問と脅迫によってありもしない民生団をつくりだしてはならない。いまこの汪清で張捕吏を民生団とみなす人はあなたがたしかいない。張捕吏はわたしが命をかけて保証するから即刻釈放してもらいたい」
わたしは極左分子たちに、遊撃隊内の「民生団」は政治部の承認なしには連行できないと宣言した。そして部隊に帰ってからは、張竜山を「粛反」指導部に勝手に引き渡した指揮官を処罰した。その日、東満特委はわたしの要求どおり張竜山を釈放した。張竜山はその後、寧安県周家屯という所に派遣され、食糧工作にあたって最後までりっぱに戦った。
世に広く紹介された朴昌吉事件も一つの試練であるといえば試練に違いなかった。それは、われわれが嘎呀河に駐留していたときのことである。ある日、われわれは図們付近から引いてきた民会の牛をつぶして軍人と村人たちを接待した。ところが、その牛肉を食べた多くの人が下痢を起こして苦労した。戦友たちはわたしの宿所になだれこんできて、民生団が井戸にまいた毒薬のため全員中毒にかかっているが、皆殺しになるのではないかと大騒ぎした。それが事実なら、中隊は全滅しかねなかった。
わたしは万が一の場合を考えて中隊の全員を裏山に移し、ありうる敵の来襲に備えて万端の戦闘準備をととのえさせた。ところが不思議なことに、かなりの時間が経過してもわたし自身は全然腹痛が起こらないのである。当然あるものと予期した敵の出動もなかった。わたしは中隊長と政治指導員、共青書記、青年幹事など中隊の指揮官を集めて、「きみたちも本当に民生団が井戸に毒薬をまいたと思うのか」と聞いてみた。指揮官たちは深く考えもせず、「そうだと思います」と答えた。
「ところが、わたしは昨晩も今日の朝も牛肉汁を食べたが、腹に異常はない。他の人が腹痛を起こせば、わたしも中隊長も例外にならないはずなのに、痛くならないのだから、これはどう説明すべきなのか?」
「指揮官用の汁はきれいなものを使ったからでしょう」
中隊長がこう答えた。
「それは理屈に合わない。同じ釜の汁を使った以上、指揮官のものだからといって毒が及ばないというわけはないではないか」
しばらくして、村を巡察していた小隊長が、井戸に毒薬をまいた民生団を捜し出したといって、背丈が歩兵銃ほどの子どもをわたしのところに連れてきた。その子が問題の朴昌吉であった。小隊長の話では、彼が村人の前で自分の罪を率直に認めたというのである。村中は犯人がつかまったといううわさでもちきりだった。そいつは許せないやつだとののしる人もあれば、その子の母親を処刑せよと叫ぶ人もいた。昌吉は中国人地主の家で豚飼いをしながら苦労して育った子であった。兄たちの中には遊撃隊で中隊の給養責任者を務める人もおり、党支部に勤める人もいた。そういう子が遊撃隊の一個中隊を全滅させかねない悪事を働いたというのは、とても信じられないことであった。わたしは昌吉と数時間ものあいだ話をした。昌吉はわたしの前でも自分の「罪」を認めた。だがしまいには泣きながらそれを否定した。彼が最初、村人の前で自分の「罪」を認めたのは、毒薬をまいたという濡衣を無理に着せようとした村の女性たちにたいする反発からであった。
わたしは中隊を率いてただちに山から下りてきて大衆集会を開いた。そして朴昌吉の無罪を宣言した。
「この子は毒薬をまいていない。では誰がまいたのか? みなさんの中には毒薬をまいた人は一人もいない。毒薬を飲んだ人もいない。いるとすれば、下痢を起こして一日、二日苦労した人がいるだけだ。腹痛を起こしたのは、久しぶりに牛肉を食べすぎたせいだ。だから、ここに民生団問題というものはありもしないし、ありうるはずもない。わたしは今日この場で、みなさんが民生団扱いにした昌吉を遊撃隊に入隊させることを宣言する」
村の女性たちはわたしの演説を聞いて肩を震わせながら泣き出した。朴昌吉を民生団扱いにした人たちもみなすすり泣いた。
極左分子たちは朴昌吉事件にたいしてもやはり、右寄りの立場で処理されたといって問題視した。その後、遊撃隊に入隊した朴昌吉は、小汪清防衛戦闘で勇敢に戦った。このように、わたしは極左分子の包囲の中でいくつかの大きな冒険をした。民生団監獄から張捕吏と梁成竜を救出したのが一つの冒険であったとすれば、いま一つの冒険は朴昌吉の無罪を宣言し、彼を遊撃隊に入隊させたことであった。
権力に目のくらんだ浅薄で愚鈍な人間たちが、色メガネ越しに人びとの真価をはかり、検事や判事、刑吏の真似ごとをしているとき、人間を人間とみなし、同志を同志として接し、人民を人民として誠実に仕える信義の政治、愛の政治をおこなうというのは、正直に言って当時としてはきわめて危険な行動ではあったが、命をかけてでも挑まねばならないたたかいであった。万事を民生団の仕業とみなす不信の監視網のもとで、自分を救う最大の保身術は、何事にもかかわりをもたず、見ても見ぬふりをすることであった。しかしわたしは、不正を不正とする勇気がないなら、それは生きていてもこと絶えた命にひとしく、ことさら生きる必要すらない生命なき生命にすぎないという覚悟で、不正とみなされるすべてのことに反抗した。一身の安危のみを気づかうなら、それがなんの革命家といえようか。わたしは「粛反」の旋風がいかに猛威をふるおうとも、それは一時的な現象であり、われわれが一命を賭してたたかうならば、必ずそれを退けることができると確信した。
民生団ならぬ民生団の粛清で権力の味を知った「左」翼排他主義者と分派・事大主義者は、はなはだしくは、東満州遊撃区につくられた党と遊撃隊の組織体系とそっくりの東満党の民生団体系と人民革命軍の民生団体系なるものまで考案し、それを公表するにいたった。極左分子たちはわれわれに、遊撃隊内にも民生団がかなり浸透しているという印象を与え、反民生団闘争に歯止めがかからないように、わたしとわたしの配下の隊員たちとのあいだにもくさびを打ち込もうと策した。
ある日われわれの部隊を訪ねてきた某幹部が、わたし宛の東満党組織部長の手紙をもってきた。封を切って手紙を読んだわたしは唖然とした。どこから入手した資料なのかはわからないが、韓鳳善という隊員が民生団の手をのばしてわたしを殺害しようと企てており、罪状からして当然逮捕すべき対象であるから、ただちに連行すべきだというのである。韓鳳善の「罪状」は許しがたいものであったが、なぜか手紙に書かれている内容には信用できないところがあった。まず、彼が民生団の策動を大がかりにくりひろげるということが芝居じみていた。これまで命を惜しまず戦ってきた韓鳳善が、いったいなんの魔がさして民生団に加担するというのであろうか。人格のうえから見ても、彼は自分の上官を陥れたり殺害するという悪だくみのできる凶悪な男ではなかった。むしろ他人からそねまれるほど善良で礼儀正しい好男子であった。日ごろのわたしとの親交も非常に厚かった。そういう人間が、格別目をかけてくれる上官に危害を加えようとしているというのは信じられないことだった。だからといって、手紙に書かれていることを頭から否定することもできなかった。まさか組織部長がそんなつくりごとを書いてよこすはずはない。いずれにせよ、わたしの心中は穏やかでなかった。手紙を言付かってきた幹部には、わたしがじかにもっと点検してみて処理するから、安心して帰るようにと言った。
「いつ事が起こるかわからないというのに…。あなたはまったくおかしな人だ」と言って、彼はしぶしぶ立ち去った。
わたしの頭には複雑な思いがつぎつぎにわき起こった。韓鳳善が本当にわたしを殺害しようとしているのだろうか? なぜわたしを殺害しようとするのだろうか? わたしを手にかける理由はないではないか。彼を特委に引き渡さなかったのはよかった。だが、彼をそのままにしておいて、なにか事が起こったら大変ではないか。
数日後、わたしは韓鳳善を指揮部に呼んだ。彼はいつもと変わらずにこにこ笑いながらわたしに尋ねた。
「隊長、なんのご用でしょうか。敵中工作の任務をくださるつもりではないのですか」
「そのとおりだ。今日ただちに三岔口へ行って、密偵を一人捕らえてきてもらいたいのだ。きみは勘のするどい人だ」
「そういうわけではありません。昨夜、図們見物に出かけた夢を見たのですが、中隊の同僚たちの夢占いによれば、敵中工作に出る兆しだというではありませんか。夢占いがずばりと適中したわけですよ」
「では、護身用の拳銃を一挺やるから、持っていきたまえ」
「銃は持ち歩きが面倒なのでおいて行きます。口でうまく言いくるめて連れてきますから心配ご無用です」
「それなら銃はどこかに埋めておいて、帰ってくるとき持ってきたまえ」
韓鳳善は言われたとおりにモーゼル拳銃を途中で埋め、三岔口市内に行ってわたしの指名した密偵に会った。そして、「共産区域に一度行ってみないか。身辺の安全はわたしが保証する」と言いくるめて、密偵を遊撃区に連れてきた。
密偵の尋問はわたしが直接担当した。
「われわれはおまえが日本の手先であることをよく知っている。だが、おまえを殺しはしない。そのかわり、われわれの仕事を少し手伝ってもらいたい。憲兵隊に名前をのせて誓約もしたのだから、日本人に指図される任務はそのままやりながら、討伐隊が来るときだけあらかじめ知らせてくれ。他の任務は与えない。それだけを首尾よくやりとげれば、後日革命家として認めてやる。できるか?」
密偵は、隊長さんの言いつけはなんでもやるから、革命組織のメンバーが自分を殺さないように身辺の保護をしてもらいたいと哀願した。密偵が帰るときにも、わたしは韓鳳善を呼んで、彼を三岔口まで連れていくように命じた。韓鳳善がこの任務もりっぱに果たしたことは言うまでもない。
こういうことがあったあとで、わたしは東満特委の幹部たちに話した。
「韓鳳善を点検するため銃を持たせたが、逃走しなかった。日本人の手先を捕らえてこいと命じたところ、任務を果たした。銃と弾丸をやったのだから、わたしに危害を加えるつもりならいくらでもできたはずだ。けれどもそんなことはしなかった。こういう人が果たして民生団だろうか?」
東満党の幹部たちは、民生団もそういう芝居はうてる、彼が銃を携帯しながら逃走もせず、あなたを手にかけなかったのは、幹部の信用を得て隊列に深く潜入し、民生団の働きを大がかりにやろうとしたからだ、だから彼を信頼することはできない、と言うのであった。
わたしは韓鳳善に第二の任務を与えた。図佳線鉄道に爆発物をしかけることであった。彼は今回もためらう気色もなく笑顔で工作地に向かった。「きみは冒険好きなのが欠点だ。捕えられないように気をつけろ」と言うと、彼は「つかまったらつかまったでかまいません。そんなことは平気です。つかまっても裏切りませんから、わたしを信じてください。せいぜい銃殺されるくらいが関の山でしょう」と言うのだった。
わたしが韓鳳善を突撃隊に入れたのはそのつぎのことであった。われわれはそのとき汪清周辺のある集団部落を襲撃したのだが、戦闘は苛烈をきわめた。突撃隊の責任者となった韓鳳善は先頭に立って砲台を攻撃中、不幸にも片手を失った。だが、その代価としてこの勇敢無双の楽天家は、民生団の嫌疑から完全に解放されることになった。わたしは三回の点検によって、彼が民生団ではなく革命に忠実な人間であることを証明した。あのときわたしが彼を点検せずに組織部長に引き渡していたなら、間違いなく反動分子のレッテルを貼られて処刑されていたはずである。わたしが極左分子の指図を保留させ、点検を通じて彼を救い出したのは、命がけの冒険にひとしかった。もしあのとき、彼が銃を手にしてある幹部を殺害するか、敵地に逃走していたなら、わたしは彼を信頼した責任をまぬがれることができなかったであろう。これがわたしの三度目の冒険であったといえる。こういう冒険はその後もつづいた。
某幹部の一言の命令や一回の手振りによって、数十数百の人間の運命が決まる険悪な「階級闘争」の場で、革命家の冷徹な理性と分別はおろか、初歩的な人情や道義すら捨てた木石も同然の人間たちの挑戦に直面しながらも、いかなる圧力にも屈せず自分の信念にもとづいて最後まで正々堂々と行動することができたのは、白紙のように汚点のないわたしの経歴と遊撃隊指揮官としての戦果と理論的裏付けによるものだったといえる。また、間島で指導部を占めていた中国人幹部の中に吉林時代からわれわれの影響を多分に受けてきた人物が少なくなかったので、彼らもわたしだけは民生団にして排除することができなかったのである。
反民生団闘争のすさまじい旋風が東満州の遊撃区を吹きまくっているときに、わたしは病床を払って大荒崴に向かう準備をした。数十日間も病みつづけた体だったので、会議に参加するほどの気力はなかったが、わたしが要求した会議なのでぜひとも行かなければならなかった。ところが、第四中隊長と政治指導員をはじめ軍隊内の多くの同志たちは、わたしの大荒崴行きに必死になって反対した。
「隊長、満州省党からも共青満州省委からも派遣員が来たそうですが、どうもただごとではなさそうです。いくら真理が隊長の側にあるとしても、とにかく隊長は一人だし、彼らは多数を占めているではありませんか」
第四中隊の政治指導員がそれとなく言うのだった。伝令の呉大成さえも、わたしの大荒崴行きに憂慮を示した。大荒崴会議がわたしに微笑を投げかけ、祝福の挨拶を送るだろうという期待をもって励ましてくれる楽天家はただの一人もいなかった。彼らが出発をひかえてそれほど不安がったのも無理はなかった。一九三五年二月といえば、満州省党が東満州の各級党組織とすべての党員に、全党のボルシェビキ化をめざして粛反工作と「左」右両翼に反対する闘争を強力に展開し、党内に潜入した反革命分子をすべて除去し、派閥主義、民族主義、社会改良主義を清算せよという秘密指令を示達したあとだった。この指令が示達されて以来、東満州の各級党組織は反民生団闘争をいっそう極左的に容赦なく展開していた。
「民生団」問題をめぐるわたしと極左分子たちとの論争は、それまで非公式の場で自然発生的な形でおこなわれてきた。しかし、党と軍隊、共青の主要幹部が全員集まる大荒崴会議では、論争が公式的な形で鋭く展開されるであろう。極左に反対する勢力がわたし一人であるとすれば、わたしに反対する勢力は十名、二十名を越えるであろう。なぜなら、「民生団」問題が上程されると、言いたいことがあっても口をつぐんで素知らぬ顔をするのが通例だからである。したがって、わたしは極左の包囲の中で全員を向こうにまわしての力に余るたたかいをしなければならないはずである。論争の場はわたしを断罪する弾劾場となり、会場はわたしを葬り去る裁判の場になりかねない。民生団だといって、わたしを政治的にも肉体的にも葬ろうとする極端な企図もなきにしもあらずだった。戦友たちはこの点をいちばん憂慮した。「粛反」を主管している者たちが血も涙もない木石漢であることをよく知っていたからである。それで彼らは真っ青になって、大荒崴に行かないでくれと懇願した。だが、わたしはそれを振り切って出発した。
「諸君、これは死のうと生きようと発たねばならない道だ。もしもわたしが大荒崴へ行かなかったら、それは自滅をまねくだけだ。われわれには朝鮮の共産主義者の運命を救い、朝鮮革命を危機から救い出す絶好の機会が訪れた。対決は避けられず、黒白はぜひとも明らかにしなければならない」
わたしは呉大成ともう一人の伝令に付き添われて、会議が開かれて二日目の日に大荒崴に到着した。人民革命軍隊員のきびしい警護陣が布かれている第八区農民委員会の事務所で、王潤成、周樹東、曺亜範、王徳泰、王仲山などの東満党・団特委の幹部たちとともに、満州省党派遣員の魏拯民がわたしを迎えてくれた。このだだっ広い事務所の建物で、中国人側が東満党・団特委連席大会と名づけた会議が開催されていた。わが国ではこの会議を大荒崴会議と呼んでいる。ひところ一部の歴史家が朝鮮人民革命軍軍・政幹部会議とも言っていたが、それは正確な名称とはいえない。
大荒崴会議は十日ほど続行された。会議の期間に出入りする人もいたので、出席者の数は一定していなかった。中国人が大部分で、朝鮮人出身としては、わたしと宋一、林水山、趙東旭など数名の幹部だけだったと記憶している。趙東旭は会議の全期間、中国語を解さない朝鮮人幹部のために通訳の役目を果たした。わたしは東満党特委委員の資格でこの会議に参加した。
大荒崴で会議が招集されることになった動機は、共青満州省委の巡視員の資格で間島地方の活動状況を調べに出向いてきた鐘子雲(俗称小鐘)が、東満州地方の朝鮮人の七〇%が民生団であるという偽りもはなはだしい報告を省党組織に提出したことにあった。それが事実だとすれば、東満州の革命はどうなるだろうか。満州省党が東満州へ代表を急派して収拾策を講じようとしたのも当然のことである。論争は夜昼となく展開された。論争が熱気をおびはじめたのは、鐘子雲がその報告で、東満州にいる朝鮮人の七〇%、朝鮮人革命家の八〇%ないし九〇%は民生団かその嫌疑者であり、遊撃区は民生団の養成所だという従来の見解を繰り返した瞬間からだった。会議の雰囲気は鐘子雲の報告を支持する側に傾いた。粛反工作委員会を強化すべきだと発言する者もいれば、民生団の粛清は革命によって隊列内の反革命を包囲せん滅する特殊戦だという美辞麗句を並べる者もおり、また民生団がまき散らした種をより徹底的に容赦なく根絶やしにすべきだと主張する者もいた。
わたしは彼らにいくつかの質問をつきつけた。東満州で活動している朝鮮人革命家の大部分が民生団であるというなら、この会議に参加しているわたしと他の朝鮮の同志たちもみな民生団だということになるが、だとすれば、あなたたちはいま民生団と対座して会議をしているのか? われわれが民生団であるなら、なぜ獄につなぐなり殺すなりせず、ここに呼んで政治問題を論じ合おうとするのか? あなたたちが示したその数字の中には、戦場で戦死した革命家も含まれているのか? もし含まれているとするなら、彼らが抗日戦争で命をささげたことをどう説明すればよいのか? だとすれば日本人が自分の味方を大勢殺したことになるが、彼らがわざわざ育てた民生団員たちをそのように殺す必要があったというのか? この会場の警護にあたっている第一中隊の八〇%ないし九〇%も民生団とみなすのか?
この質問のためざわめいていた会場はたちまち、わたし自身も不思議に思えるほどの冷え冷えとした静寂につつまれた。誰もが黙然として執行部の席に座っている魏拯民に視線をそそいだ。
「承知のとおり、どんな物質であれ、本来の構成要素とは異なる要素が八〇ないし九〇%以上を占めるようになれば、その物質は他の物質に変わってしまう。これは科学である。東満州に住む朝鮮人の七〇%が民生団だということは、老人と児女を除いた朝鮮人の青壮年全部が民生団だということにひとしいが、だとすれば東満州では民生団が革命をしており、民生団が自分の主人である日本との血戦を展開しているというのか。一部の人は東満州で活動している朝鮮共産主義者の大部分は民生団だと公言しているが、これもやはり理屈に合わないことだ。もしも彼らが民生団だとするなら、なんのために三年ものあいだ恒常的な封鎖状態におかれている遊撃区で、きびしい冬のさなかに家もなく、着るものもなく、食べるものも満足に食べられず、敵と力に余る戦いをしてきたというのか。朝鮮人革命家の八〇ないし九〇%はおろか、その十分の一の八~九%だけが民生団だとしても、われわれはここで安心して会議を開くことはできないだろう。なぜなら、いまこの会場の周辺には、朝鮮人で編制された第一中隊が完全武装をしてわれわれを警護しているからだ。この席には数年前から敵が一掃できずに手をやいている東満州地方の名だたる革命家と指導中核がみな集まっている。あなたたちの主張が正しいとすれば、第一中隊のメンバーもほとんど民生団であるはずだが、彼らが銃器をもっていながら、われわれを襲撃して一網打尽にしないというのはおかしいではないか」
誰も彼も民生団だと強弁していた主唱者たちは、この問いにもやはり口をつぐんだままだった。
「第一中隊はもともとあなたたちが民生団中隊と断じた浮かばれない中隊だ。わたしが約二十日間、中隊で調べたところによれば、中隊全員を民生団とみなす根拠はなに一つなかった。むしろ二十日間の指導と点検の過程で第一中隊は模範中隊となり、そこから第七中隊が新たに誕生しさえした。実践闘争を通じて点検された結果によっても、東満州遊撃区に住む朝鮮人や朝鮮人革命家の大部分が民生団でないことはあまりにも明白な事実である。報告では遊撃区を民生団の養成所だと指摘し、党・団組織も民生団組織だとし、李容国は民生団の汪清県党責任者、金明均は民生団の汪清県組織および軍事責任者、李相黙は民生団の東満党組織担当責任者、朱鎮は人民革命軍第一師の民生団責任者、朴春は人民革命軍の民生団参謀長だとしているが、それなら東満党も汪清県党も人民革命軍第一師もすべて民生団の組織とみなしてよいのか? 東満党の幹部を民生団の操縦者、指導者とみなしてもかまわないのか?」
参会者はこの問いにも沈黙をもって答えた。
省党の派遣員としてこの闘争を客観的に正しく分析、総合し、評価すべき使命をになっている魏拯民一人だけが、党・団組織そのものを民生団組織とみなすのは誤りであり、部分と全体は必ず区別すべきだという見解を述べて、場内の緊張を若干やわらげた。
わたしは、東満州人民の大部分が民生団だと烙印を押すのは朝鮮人にたいする冒涜であり、こうした見解は今回の会議で即刻是正されなければならないと強く主張した。わたしの主張は即座に曺亜範の反撃をまねいた。
「あなたはあたまから民生団はいないと主張しているが、それは主観というものだ。監獄にはいま数百名の民生団嫌疑者が収容されている。彼らは自分の口で民生団に加入したことを自白しており、自分の手で自白書まで書いているが、その自白と自白書はなにを意味するのか。あなたはそういう証拠資料を認めないというのか」
「あなたたちの言うその自白や自白書なるものをわたしは認めない。その証拠資料というのは大部分、拷問という強制手段によってつくりあげたものだからだ。わたしは監獄へ行って、自白をしたという数十名の嫌疑者に会ってみたが、その自白を認めた人は一人もいなかった。わたしはあなたたちのそんな証拠資料よりも、活動と生活の過程で発揮された彼らの忠実性を信じる。正直に言ってみたまえ。あなたたちが自白と自白書をどのように強要したのかを…。あなたたちが民生団扱いにしている嫌疑者の大多数は、『粛反』の執行者によって加えられる肉体的苦痛に耐えられず、偽りの自白をした人たちだ。あなたたちはいま、民生団ならぬ民生団をほしいままにつくりだしているのだ」
突然、曺亜範が「プトイ(違う)!」と叫んだ。その「プトイ」という言葉に、わたしの神経はピンと張り詰めた。他の人ならいざ知らず、曺亜範がこの席であえて「違う!」と言えるというのか。
「なにが違うというのだ」
わたしは拳で床板をドンと叩いた。
「間島の朝鮮人はいまあなたを注視している。あなたが職権を悪用して理不尽な人殺しをしたからだ。安図遊撃隊の政治委員金正竜は誰に殺されたのか。和竜県党書記の金日煥は誰の手にかかって死んだのか。この席で正直に答えてみたまえ。吉林時代の曺亜範は暴悪でもなく、出世欲もない人間だった。金日煥が死んだといううわさを聞いてわたしは口惜しくて泣いた。金日煥はあなたの革命先輩ではないか。あなたが彼を救い出せないまでも、どうして手にかけるようなことまでしたのだ」
わたしは金日煥の死を深く悲しみ、痛いたしい気持で弔った戦友の一人として、彼を痛烈に批判した。金日煥はわたしが東満州地方を開拓するとき、はじめてかちとった革命家のうちの一人で、呉仲和と双璧をなす人物であった。彼とのはじめての出会いの場所が曺亜範の家であったか、李青山の家であったかはよく思い出せない。だが、明月溝会議のとき、彼とともに夜を明かして虚心坦懐に語り合ったことだけはいまなお覚えている。その最初の対話が非常に印象深かった。年齢の隔りがあったにもかかわらず、金日煥は格式ばったり偉ぶったりせず、わたしを同格として謙虚に応対した。わたしに呉仲和を紹介してくれたのが金俊、蔡洙恒であったように、金日煥を紹介してくれたのも吉林、竜井界隈を双子のようにいつも連れだって歩いていた金俊、蔡洙恒のグループであった。「サッカーに勝って牛をもらった人」、これは蔡洙恒が人に金日煥を紹介するときの決まり文句だった。明月溝会議の参加者たちに金日煥を紹介するときも、彼はこの宣伝文句から先に披露した。運動選手として知られた蔡洙恒は、サッカーがどれほど上手なのかを基準にして人を評価するくせがあった。考えようによっては、それもなるほど面白い基準といえる。蔡洙恒の紹介で、金日煥はともかく東満州地方の多くの革命家のあいだで才能ある運動選手として広く知られるようになった。金日煥は老練で経験豊かな政治幹部だった。呉仲和と同様、彼は間島一帯の共産主義者の中でも手本となりうる家庭革命化の先駆者であった。彼の一家はいずれも名を残した革命家であり、革命の道で国に殉じた熱烈な愛国者であった。金日煥の母呉玉慶は、革命家の世話をやくことに一生をささげた古い共産党員であり、妻の李桂筍は最期の瞬間まで革命家の節操を守り、勇敢に戦って倒れた朝鮮人民の誇るべき娘であった。弟の金東山は地下工作員として活動中、敵の討伐にあって犠牲になった。和竜遊撃隊の金正植も金日煥の従兄弟である。金日煥の妻の実家の人たちも、革命に一生をささげている。義弟の李芝春はつとに吉林時代にわたしを訪ね、闘争方針を受けて活動した人たちの一人である。
金日煥の印象を一言でいうなら、実のある人だといえる。彼は勉学にいそしんだ見識の高い知識人であった。和竜で金日煥と一緒に多年間地下活動をしてきた金一と朴永純は、彼は活動作風がよく活動方法が老練で、大衆性のある人であったとしばしば回想している。金一と朴永純はいずれも金日煥の影響下で党活動家に育った人たちである。金日煥がたびたび中国人救国軍工作に派遣されたのは、そういう長所のためであったと思う。当時、和竜地方の救国軍は誰もが金日煥を尊敬し優遇した。一度は安図の李道善部隊が救国軍を討伐しようとして、突如、車廠子を襲ったことがあった。靖安軍は救国軍を捜し出そうと村中をくまなく捜索した。そうしているうちに、金日煥の家からビラの束を見つけだした。それは金日煥の母が他の地方組織に届けることになっていた重要なビラであった。李道善は共産党をつかまえたといって、金日煥の家族一同を捕らえて尋問をはじめた。金日煥の母は見知らぬ人から預かったものだともっともらしく弁明したが、敵はそれを信じなかった。李道善の目は殺気だってぎらついた。金日煥一家の運命にどんな災難が降りかかるか知れない危急のときに、近くに住んでいた地主が現れ、彼らは共産党ではなく正真正銘の農夫であることを口をきわめて保証し、李道善を説き伏せた。これもやはり、金日煥が平素から地主に影響力を及ぼしてきたおかげであった。
金日煥の特徴のうちできわだっているのは、不正にたいする非妥協性とゆるぎない革命的原則性であった。そうした性格上の特質のために、後日、彼は民生団の濡衣を着せられて迫害を受け、ついには極左分子の手にかかって犠牲になったのである。「左」翼排他主義者と分派・事大主義者は、権力に追従せず、他人の笛に踊らず自分の信念をもって原則を貫いていく人を毛嫌いした。原則が貫かれている所では不正がまかりとおることはできず、妖怪などが勝手に寄りつくこともできないからである。金日煥が住んでいた村に李億万という党組織の責任者がいた。彼は革命隊列内に偶然まぎれこみ、堕落した生活を送っていたアヘン中毒者であった。金日煥は李億万が職権を悪用して多くの女性とみだらな関係をもっていることに同志的な忠告を与え、アヘンを切るよう勧告した。李億万が理性のある人間であったなら、この批判を心から受けとめたはずである。しかし、彼は上部の極左分子らをそそのかして金日煥に民生団のレッテルを貼りつけ、県党書記のポストから放逐する方法で批判にたいする報復をした。金日煥は県党書記の職責から解任させられた後も忠実に活動した。極左分子らは彼を点検するため、資本家の経営する炭鉱に労働者工作の任務を与えて送りこんだ。金日煥は点検される期間中に、極左分子から受ける苦痛をまぬがれ、家族と一緒に敵地(敵に統治されている地域)へ行くこともできた。しかし彼は、民生団の嫌疑を晴らせないまま遊撃区の人民の前で無念の死を強いられることがあっても、革命隊伍を捨てて逃げだす逃亡者という恥辱に甘んじようとはしなかった。
「わたしは逮捕されて殺されるだろう。わたしが日本人の手先団体である民生団であるはずはないし、またそうなろうと考えてみたこともない。けれども、革命家の節操を最後まで守って、ここで民生団にされて死ぬ方がむしろ妥当だと思う。もしわたしが生き延びようとして敵に投降し、変節するならば、革命により大きな損失を与えることになるからだ。そうなれば、革命を裏切ったわたしの罪悪は万代にわたってそそげなくなるだろう。最後にわたしが頼みたいのは、家族がみな朝鮮の解放と独立が達成される日まで、屈することなくたたかってもらいたいということだけだ」
これは金日煥が自分の最期が迫っていることを予感したときに、母と妻に語った言葉である。
一九三四年十一月、極左分子らはついに彼を裁判の場に引きだした。李億万の悪意にみちた論告は虚偽とでっちあげに終始していた。
「この男は反動のうちでももっとも悪どい反動だ。長期間尋問したが、一言も吐いていない。腹に大蛇が入っているのか毒蛇が入っているのか知れたものではない。こういう男を生かしておいては、われわれの革命は十年たらずで破滅してしまう。生かすべきか、殺すべきか」
これに答える者は一人もいなかった。ああいう人を全部殺してしまって、これからどうやって共産革命をするというのか、とささやく人はいても、正面きって彼の無罪を叫ぶ正義漢はいなかった。車廠子の人たちは権力者の仕打ちが不当であることを知りながらも、それを口にすることができなかった。金日煥の無罪を主張すれば、彼ら自身も民生団にされてしまうからである。極左分子らは和竜遊撃隊創建者の一人である金日煥に死刑を宣告した。
「いまに見ろ! 誰が本物の民生団で、誰が真の共産主義者なのか…。歴史は必ずや黒白を分けるだろう」
金日煥は、刑吏たちをにらみつけて叫んだ。この叫び声を聞いて憤激した孫長祥部隊の救国軍隊員たちが、あちこちで銃をかざして立ち上がった。「金日煥をなぜ殺すのだ。あの人はわれわれの先生であり恩人だ。ああいう革命家が民生団だというなら、いったい民生団でない人は誰なのか。金日煥はわれわれが保証する。銃殺刑を取り消さなければおまえたちをただではおかない」極左分子らは救国軍の圧力に押されて死刑宣告を取り消し、金日煥を釈放したが、その日の夜のうちに彼を暗殺してしまったのである。
「わたしはあなたたちに尋ねたい。あなたたちは本当に金日煥を民生団だと思っているのか? 民生団でないことを知りながら、他の目的から意図的に銃殺したのではないのか。金日煥のような人が民生団だというなら、この間島で民生団でない人はいったい誰なのか?」
わたしは曺亜範を凝視し、のどをからしてこう主張した。そして語調をゆるめて話をつづけた。
「みなさん、もうこれ以上、人間の運命をもてあそぶのはやめよう。人間を人間として扱い、同志を同志として扱い、民衆を民衆として扱うのだ。われわれは人間愛と同志愛、民衆愛を武器にしてこの世の中を改造し変革するために立ち上がった闘士ではないか。この愛という武器がないなら、われわれはブルジョアジーや馬賊と変わるところがないではないか。これ以上『粛反』の名をかりて人びとを愚弄するなら、人民は永遠にわれわれを遠ざけるであろうし、次の世代はわれわれを許さないであろう。民生団の濡衣を着せられて非業の死を遂げた数千の烈士の犠牲を償う道は、ただわれわれがこの無意味な殺りくを中止し、愛と信頼と団結の政治をもってすべての力を抗日に集中させることだ。敵が投げた民生団の餌を吐きだし、われわれの隊伍にセクト主義、排他主義、冒険主義がはびこるすきを与えるな。そうしてのみ、ここ数年来民生団のために生じた傷をいやし、民衆を救い、革命を救い、朝中両国共産主義者の国際主義的連帯を新たな段階に発展させる道が開かれるであろう。われわれ両国革命家の真の和合は、相手側にたいする尊重と相互理解、階級的信頼を基礎にしなければならず、兄弟的友愛を根底にすえなければならない。われわれがもっとも警戒しなければならないのは、共同闘争における覇権の追求である。ある一方が自己の利益を追求したり、その利益のために相手側を犠牲にするなら、そのような合作は強固なものになりえない。一言でいって、われわれの和合は信頼と愛情を原動力とするとき、永遠に不抜のものとなるだろう」
大荒崴会議では幹部問題についての論争も熾烈に展開された。この論争の発端となったのは、少数民族は幹部になれない、幹部になれるのは多数民族のみだ、少数民族が多数民族を指導するのは不当かつ不合理であるという特委指導部の一部の人の主張であった。彼らは、朝鮮人は少数民族であるから多数民族を指導できないし、そのうえ朝鮮人革命家は分派的習癖と動揺が多く、反動化しやすいから幹部には適さないという主張をもちだしてきた。
満州省党が東満党指導部の幹部抜擢と配置にさいして、従来の朝鮮人中心主義から中国人中心主義に切り換えるという秘密指令を発していたことは周知の事実である。この指令の主旨は、これまで朝鮮人は民族運動でも失敗し、共産主義運動でも失敗し、また動揺したり反動化しやすいうえに、言語風俗が違うので「少数民族の革命基盤」が強固でなく、「少数民族の指導による独立運動と共産主義運動の成功は不可能」である、したがって「東満州においては朝鮮人の基盤を中国人の基盤に切り換える」べきだというものであった。この指令の要求するところは、東満特委の書記以下、主要幹部はすべて満州省委が任命し、朝鮮人は特殊な場合を除いてはなるべく人民革命軍の中隊長クラス以上の指揮官に登用するなということであった。当時はもちろん、いまでもわたしはこの指令が中国共産党中央の意思によるものではないと確信している。指令が下されたのは、中国共産党中央の指導中核が蔣介石軍の包囲を突破して二万五千里の長征を敢行している時期であった。荒波のように襲いかかる内戦の陣痛のさなかに、革命戦争の重荷をになって孤軍奮闘していた中国共産党の中央は、自国の東北地方で起こっていた出来事に注意を向ける余裕はなかった。
満州省党の措置の中には、王明と康生が主管していたコミンテルン東方部の指令をそのとおり受け入れるか、その指令に準じて作成されたものが少なくなかった。満州省党の所在地であるハルビンから、コミンテルン東方部の機関が位置していたイルクーツクやウラジオストク、ハバロフスクヘ行くのは、井崗山や延安へ行くよりはるかに近かった。
少数民族は多数民族を指導できないという一部の人の主張は、われわれの自尊心をひどく傷つけた。そういう主張は共産主義者の幹部抜擢・配置原則にも合致せず、当時の東満州の幹部構成実態にもそぐわない不当な論理であった。わたしは再び論争に加わらざるをえなかった。
「朝中両国の共産主義者は共通の敵、日本帝国主義との闘争で勝利する日までともにたたかうべき崇高な任務をになっている。したがって、朝中人民の戦闘的団結と反日共同闘争の強化に資するよう幹部問題を解決すべきであり、マルクス・レーニン主義的な立場に立って、革命にたいする忠実さと能力を基本にして幹部を抜擢し、配置する原則を堅持すべきである。あなたたちも認めているように、朝鮮人は東満州地方で共産主義運動を切り開いた先駆者である。東満州地方の幹部と党員の構成をみても、朝鮮人が圧倒的多数を占めている。こうした現実をみようとせず、数年間共同闘争をしてきて、いまさら少数民族にたいする多数民族の指導だの、多数民族の幹部による少数民族幹部との交代だのと主張する理由はなにか。われわれは民族主義的な見地から朝鮮民族優越論を唱えるものでも、他民族劣等論を主張するものでもない。しかし、能力も資質もない人を多数民族出身だからといって、登用する傾向は必ず是正し根絶しなければならない。国籍や所属、人口の数が幹部抜擢の基準とされてはならない。少数民族であれ多数民族であれ、幹部の表徴がそなわっていれば幹部になるのであり、そなわっていなければ幹部にはなれないのである」
すると誰かが、朝鮮人革命家はかつて大部分が民族主義運動か分派とかかわりのあった人たちだから幹部にはなれない、と発言した。わたしは即座に論駁した。
「東満州で活動している朝鮮人革命家の絶対多数は、いかなる分派ともかかわりをもったことのない清新な新しい世代だ。われわれが一意専心して育てあげた勤労者階級出身の若い共産主義者が人民革命軍の主力をなしていることは、あなたたちもよく知っているはずである。この若い世代は、党、政府、大衆団体でも幹部として活躍している。かつて民族主義運動に参加したり、派閥に属していた人もいるが、彼らもすべて革命的に改造されている」
わたしが話を終える前に、また別の人が新しい論拠をもって反撃してきた。彼は、民生団の親は分派であり、分派の親は民族主義であり、民族主義の親は日本帝国主義だという奇怪な主張で会議場を呆然とさせた。その主張を裏返せば、かつて民族運動に参加したり派閥に加わったりした人はすべて日本帝国主義に養われた息子ということになる。これはなんの理論的妥当性もない奇弁であり、教育改造された派閥経歴者と民族主義者を包容している朝鮮共産主義運動の隊列にたいする不信の表示であった。わたしはそういう奇弁に打撃を加えるべきだと考えた。
「思想というのは固定不変のものではない。以前、民族主義思想をもっていた人でも、地道な改造過程をへて共産主義者になることができる。過去の経歴に民族運動に参加した事実があるからといって、そういう人を分派の親だ、日本帝国主義の息子だとみなすのは、それこそ言語道断である。もともと民族主義という理念の基礎は愛国愛族といえるのだから、それを反動視するのはとりもなおさず愛国主義を反動視することになる。民族主義だからといって、みだりに異端視すべきではない。民族主義がブルジョアジーの思想的道具に利用されないかぎり、それを排斥する必要はない。民族主義が歴史の反動とされるのは、ただ全民族の利害ではなく、ブルジョアジーの利害のみを代弁するときである。かりに、民族、民権、民生の三民主義を創始した孫文先生を帝国主義の息子だと断じたなら、あなたたちはそのような暴言が受け入れられるのか。民族主義に反対するというそのこと自体が、はなはだしい民族的偏見である。朝鮮の分派分子や民族主義者の中には敵に寝返った者もいるが、それは少数であることを銘記すべきである。なかには、派閥争いがあたかも朝鮮民族のもって生まれた気質であるかのようにみて、朝鮮の共産主義者といえば分派となんらかの関係があるかのように色メガネで見ようとする人がいるが、これもやはり、もってのほかというしかない。率直に言って、分派は朝鮮の共産主義隊列にのみあったのではない。分派はドイツやソ連にもあったし、中国にも日本にもあり、コミンテルン内にもあった。にもかかわらず、なぜひとり朝鮮人だけが分派的な習癖を気質としてもっている民族とみなされ、なぜ朝鮮共産主義者という名が分派の代名詞のように呼ばれなければならないのか。いま一部の人は、朝鮮民族はかつての独立運動と共産主義運動で失敗した少数民族であり、独立運動と共産主義運動での成功は不可能であるとか、革命闘争で動揺が多く、反動化しやすい民族だとか、幹部として採用できない論拠をあげているが、これはいずれも朝鮮人の幹部を排除するための不当な論拠にすぎない。こういう排他主義的な立場から、あなたたちはすでに東満州の軍・政関係の幹部の中から、あなたたちとともに多年間、同じ陣地で忠実にたたかってきた朝鮮共産主義者を幾十幾百名も除去したり、民生団と断じて殺害した。多くの指導中核が少数民族という理由でポストからはずされたが、それでもまだ除去しなければならないというのか。もしも現在のように朝鮮人を排斥し虐待する道をあえて進もうというのなら、われわれはそんな同居生活はこれ以上しないだろう」
爆弾同様の言葉に、人びとの視線はいっせいにわたしにそそがれた。固唾を呑む音が聞きとれるほど会場の空気は緊張した。そのとき、もし誰かがわたしの言葉に反駁したり、われわれの自尊心を傷つけるような発言を少しでもしたなら、論争は収拾しがたい局面にいたっていたはずである。幸いにも、幹部問題についての討議はそれ以上の激論を呼ばなかった。しかし、会議の進行にともなって、わたしと極左分子らとの論戦はいっそう激烈になった。会議場には朝鮮人の幹部が幾人かいたが、彼らはなにも言えずもっぱら沈黙を守っていた。だが、彼らも心の中ではわたしの立場を支持した。極左の代理人役を勤めて胸のうずく傷跡を少なからず残していた宋一でさえ、わたしを訪ねてきては、誰にもできないことを一人でやってのけたと、わたしを励ましてくれた。魏拯民と王潤成も公式的には自分たちの意思表示をしなかったが、内々にはわたしの主張に理解を示した。とくに、魏拯民の理性的な判断と公正な態度は、わたしにとって少なからぬ助けとなった。
一日三食とも大豆がゆをすすりながら、昼夜の別なく論争をつづけたため、わたしは骨と皮しか残らないほどやせてしまった。一日中会議に参加しては夜更けて宿所にもどり、病気に苦しめられては、朝になるとまた論争の場に出なければならなかった。独りで大勢を相手にしなければならなかったわたしにとって、欠席など考えられないことであり、棄権というのもありえないことであった。わたしは数千数万の間島の朝鮮共産主義者と人民の運命を思って、論争の場に身を置かなければならなかった。
会議でいま一つの論争の的となったのは、朝鮮共産主義者がかかげている民族解放のスローガンをどう評価するかという問題であった。言いかえれば、中国の領土で活動している朝鮮の共産主義者が祖国解放のスローガンをかかげてたたかうことがコミンテルンの一国一党制の原則に合致するのかどうか、そのスローガンが民生団の標榜していた「朝鮮人による間島自治」の反動的スローガンと本質上同じなのかどうか、という問題であった。一部の人は、朝鮮の共産主義者が唱える民族解放というスローガンは民生団がつくりだした「朝鮮人による間島自治」のスローガンと同じであり、コミンテルンの一国一党制の原則にも反していると主張した。こういう見解をもっている幹部は一人や二人ではなかった。これは、われわれとはまったく相反する危険な見解であった。もしこの見解にしたがうなら、われわれは朝鮮革命のためにではなく、他国の革命のためにその使い走りをするか、国際軍の一部隊の使命のみを果たさなければならないことになる。わたしは、朝鮮革命を大国の革命のたんなる付属物としか考えないそうした見解を容認することができなかった。
「『朝鮮人による間島自治』のスローガンは、日本帝国主義者が朝中人民を離間させ、共産主義者の隊列の内部分裂をはかり、彼らの植民地支配に有利な条件をつくりだす目的で民生団に唱えさせたスローガンである。それが間島の朝鮮共産主義者のかかげている民族解放のスローガンとは縁もゆかりもないことは論議するまでもない。われわれの民族解放のスローガンは、日本帝国主義の植民地支配をくつがえして祖国を解放し、朝鮮人民が搾取と抑圧のない自主的な新しい社会で真の自由と権利を享有できるようにする目的で示したものだ。しかるに、朝鮮の共産主義者が他の国で同居生活をしているからといって、自分の祖国を解放し、自国人民の自由と幸福のためにたたかう神聖な権利まで放棄しなければならないというのか。われわれが自国の革命のために働かず、他国の革命に従事するだけなら、なんのためにこの満州で衣食に事欠きながら幾年ものあいだ朝鮮の民衆を結束し訓練したというのか。中国革命が勝利すれば、おのずと朝鮮革命も勝利すると言う人がいるが、それは途方もないことだ。それぞれの国の革命には各自のコースがあり時間表がある。自分の力が準備されなければ、隣国の革命が勝利しても、その国の革命の勝利は絶対におのずともたらされるものではない。したがって、すべての国の共産主義者は、他人が自国の革命を助けてくれるのを待つのではなく、自分の力でそれを遂行するためにたたかわなければならない。これがほかならぬ革命にたいする主人としての態度である。一部の人は、コミンテルンの一国一党制の原則を論拠にして、朝鮮の共産主義者は民族解放のスローガンをかかげるべきでないと主張しているが、これは事実上、他国の共産主義者に故国の革命から手を引かせようとする見解としか他に言いようがない。フランスで活動している中国の共産主義者に、フランスの共産党員たちが中国革命のスローガンをかかげるなと言うなら、それを甘受することができるだろうか。共産主義者はどこへ行って活動しようと、自国の革命のスローガンをかかげてたたかうべきであり、それによってその国の革命を助け、世界革命にも貢献すべきである。朝鮮の共産主義者が祖国の解放のためにたたかうことは、誰も阻むことができず、代行することもできない自主的権利であり、神聖な義務である」
大荒崴会議ではじまった論争は、その年の三月に開かれた腰営口会議でもつづけられた。会議に参加した多くの人はわたしの主張を支持し、自分たちの誤りを認めた。だがこの会議でも、意見の相違は完全に解消されず、未解決として残された。われわれは両会議の論点で核心をなすいくつかの問題をコミンテルンに提訴し、その結論をもらうため、魏拯民と共青東満特委の幹部である尹丙道をモスクワへ送った。
「民生団」問題によって生じた間島地方の混乱は一種の悪夢にひとしいものであった。極左分子らの無分別な「粛反」運動のため、朝鮮の共産主義者が困難な闘争によって築きあげた革命の基礎はほとんど崩れ去った。それでは、彼らがすべて民生団であったというのか? 違う。敵の文書には、民生団はせいぜい七、八名であったという記録がある。その七、八名を剔抉(てつけつ)するため、「粛反」運動は二千余名の味方を民生団と断じて殺害したのである。これは世界の共産主義運動史に前例をみない大きな悲劇であり、愚昧と無知と非常識の極みであった。朝鮮と海外の各地から青雲の志をいだいて間島地方に集まってきた頼もしい人たちが、二、三年のあいだに「粛反」の刃になぎ倒されてしまった。この不幸な受難者の中には、さまざまな人材がいた。才人といわれる人物はみなそろっていた。「粛反」という狂風は、われわれの抗日革命が生みだした民族の誇るべき寵児たちを容赦なくさらってしまった。
民生団事件で死んだ人の数が戦場で倒れた人の数をしのぐといえば、新しい世代はおそらく信じようとしないであろう。だが、それは事実なのだ。抗日戦争の歴史は敵との無数の交戦を記録しているが、一回の戦闘で二、三十名の戦死者を出した例はない。しかし、東満州の遊撃区では二、三十名の革命家が民生団という罪名を着せられて皆殺しにされる日が多かった。われわれは彼らの霊前に墓碑すら立てることができなかった。合掌して涙を流し、いくら丁重に冥福を祈ったところでなんの役に立とうか。彼らは地に埋もれてもなお殺人者たちを呪いつづけたであろう。
民生団が解体された間島に民生団が存在したのかしなかったのか? わたしはこの問いに答える必要すら感じない。処刑を恐れて遊撃区から脱出した人たちの中にも民生団はいなかった。朱鎮は民生団だったのか? 違う。朴吉は民生団だったのか? 違う。朴吉は独立軍運動から抗日救国の聖戦に参戦した人物であった。彼は早くから沿海州地方へ行き、共産主義思想によって自己の理念を定立し直し、民族解放をめざす聖戦がもっとも熾烈に展開されていた間島に駆けつけ、地下政治工作にもあたり、武装闘争にも参加した。彼はわれわれが秘密遊撃隊と呼んだ小規模遊撃隊のころに早くも大衆に信望のある政治指導員となり、反日人民遊撃隊が正式に創建されたのちは、延吉大隊で大隊政治委員として活動した。延吉地方の革命を開拓した先駆者であった朴吉は、大衆の胸に火を点ずる有能な政治活動家、アジテーターであり、すぐれた軍事指揮官であった。彼の一家は五、六名もの抗日革命烈士を輩出した愛国的な家柄であった。朴吉の父朴曽元(あだなはトラ)は革命軍への援護活動で特出した模範を示したりっぱな農民であった。彼はもともと小作をしていたころから独立運動に献身した人物で、手間賃のかわりにもらった子牛を成牛に育て、それを援護基金として差し出してまで遊撃隊を誠心誠意支援したほどである。こういう家柄の朴吉を民生団扱いにするのは、それこそ理不尽である。にもかかわらず、極左分子らは朴吉が以前独立軍であったということと、姉が強引に巡査の妾にされ、逃げだしてきたいきさつがあることを問題視し、とうとう殺害してしまった。
金明均は民生団だったのか? 違う。金明均は汪清遊撃隊創建者の一人である。県党軍事責任者であった彼が、どんな野望をいだいて民生団に入るというのか。敵の手で作成された公判記録には、彼が民生団監獄に拘禁される前まで、日本人射殺二十余件、日満官憲襲撃二十余件、武器奪取八件を起こしたと記載されている。彼がもし民生団であったなら、こういう功績を立てることができたであろうか? 遊撃区から脱出したあとも訓導となり、子どもたちに民族の魂を吹き込むことができたであろうか? 敵に銃殺刑に処されるはずがあるだろうか?
では、李雄傑はどうなのか? 彼も民生団ではない。わたしは李雄傑という人間をよく知っている。われわれが汪清にはじめて入城した一九三二年十月、わたしを迎えるため軍馬二頭を引いて小北溝に真っ先にやってきたのが、ほかならぬ民生団として殺されそうになったことのある一区党組織部長の李雄傑であった。年若いパルチザン隊長のため、一度に軍馬を二頭も引いてきたこの大男の思いやりに、わたしはその日忘れがたい感銘を受けた。李雄傑は和竜県で共青の書記を務め、竜井とソウルで獄中生活も体験し、李光指揮下の別働隊で政治委員としても工作した経歴をもつ、政治的感覚が鋭く闘争歴の古い革命家であった。わたしは彼を通じて区党の活動を指導し、その模範を一般化する方法で汪清地方の党活動に深く関与した。一九三三年の夏、彼は民生団の嫌疑がかかって極左分子らに逮捕されたが、「わたしが民生団というのはもってのほかだ!」という書置きをして遊撃区から脱出し、朝鮮国内に入った。富寧地方に活動拠点を置いた彼は、咸鏡北道、咸鏡南道一帯で愛国的な青壮年を結束して共産主義同盟を結成し、軍用道路建設反対闘争、供出反対闘争、徴用反対闘争などの反日闘争を指導中、日本警察に逮捕され、ソウルで獄中生活を送った。懲役十二年というのが彼に言い渡された判決であった。日本の法官たちは彼の値打ちを十分承知していたようである。こういう人が民生団として処刑されなければならないのだろうか?
大荒崴での論争の意義は、まさに李雄傑のような闘士たちの経歴から民生団という汚名をそそいでやったことにある。この会議での論争と、その後コミンテルンが下した結論によって、処刑された人たちも無罪と判明した。肉体的生命は回復されようがなかったが、政治的生命は復活した。この会議のいま一つの意義は、日本帝国主義の陰険な謀略の悪らつさ、そしてそれにたぶらかされた連中の政治的拙劣さを告発することによって、極左分子らの政治クーデターに歯止めをかけ、その手足を縛りあげたことにある。「粛反」の「左」翼化はとりもなおさず、職権の強い者がそれより職権の弱い者を肉体的に抹殺するために公然と断行した政治的暴力行為であり、天下り式のクーデターであった。
大荒崴会議を機に、東満州に居住する朝鮮人のあいだで、われわれの活動がより広く知られるようになった。わたしがこの章で「民生団」問題にかかわる過去を長々と回想するのは、そういう悲話をつくった張本人たちをことさら天下に告発しようとするためでもなければ、彼らが犯した罪の決算をしようとするためでもない。それは、革命隊伍を内部から分裂、瓦解させようとする敵の謀略と奸計は昨日だけでなく今日もあり、明日もあるはずであり、民族排他主義と極左分子らの政治的拙劣さは現在もわれわれの周辺を幽霊のように徘徊していることをあらためて認識させることによって、次の世代に朝鮮革命の主体性の確立と民族の自主性について教訓を残すためである。
わたしは反民生団闘争とその総括としての大荒崴会議の過程を通じて、自主性は民族の第一の生命であり、この自主性を堅持するためには、民族をなすすべての構成員、とくにその先覚者たちの犠牲的な闘争が必要であることを痛感させられた。
人間の第一の属性が自主性であるように、民族の生存を保障する第一の源も自主性にある。個々の人間の生活においても、民族をなす大集団の生活においても、その運命を左右する基本的な生存条件は自主性であるといえる。われわれが抗日革命を民族的自主権を取りもどす聖戦とするのは、自主権の復活こそは朝鮮人民が数十年間、切々と夢見てきた第一義的な願望であり、朝鮮共産主義者がその綱領とした至上の課題であったからである。一言でいえば、これは民族解放闘争の総体的目標であった。したがって、朝鮮共産主義者のすべての活動は、この目標の実現に服さなければならなかった。われわれは思考と実践において自主性の擁護を生命とし、そのためならいかなる環境のもとでも猛虎となり雷雨とならなければならなかったのである。
自主性というのは、誰かがつくりだして贈ってくれるものでもなく、時間の累積とともにおのずから実現するものでもない。それは闘争によって自らがかちとらなければならない。自らをかえりみない不屈の犠牲的な闘争精神を発揮する人であってこそ、自主性を獲得して、その永遠なる主人となることができるのである。なぜなら、地球上には他民族の自主権を踏みにじる反動勢力があまりにも多いからである。自分たちが自主性をもつのは当然のこととしながらも、他人が自主的に生きようとすることにたいしては神経をとがらせ、妨害する人間もたくさんいる。自主性を自分たちだけの専有物と考えるのは、時代錯誤的な帝国主義、支配主義の傲慢である。
自主性を踏みにじる勢力が、共通の目的をもってたたかってきた闘争隊列内に存在したということは、常識からはずれた歴史の気まぐれであった。この気まぐれのために、朝鮮革命は深刻な苦悩と挫折に直面した。われわれは挫折から突撃へと移行するため、犠牲をものともせず朝鮮民族と朝鮮共産主義者の自主的権利を侵害する人たちと猛虎のごとくたたかった。大荒崴会議は、朝鮮共産主義者が自主の旗をかかげ、朝鮮革命の主体的路線を堅持し、その権利を固守するために展開した一大思想戦であった。もしわれわれが情け容赦のない極左の鉄拳の前におじけづいたり、犠牲を少しでも恐れたなら、無軌道に疾走するその極左のキャタピラの下敷きになっている革命を救うことはできなかったであろう。革命を危機から救い出したのは、正義を守るためなら水火をもいとわぬ朝鮮共産主義者の剛毅な犠牲的精神と共産主義的原則性、自己の偉業の正当性にたいする不動の信念であった。
帝国主義者が社会主義の終焉について喧伝し、わが共和国をチュチェの軌道から逸脱させようと政治的心理戦に熱をあげている今日、自主性をひきつづき固守することは、依然として朝鮮民族とわが共和国の生死存亡にかかわる死活の要求となっている。朝鮮の共産主義者は、人民大衆中心の朝鮮式社会主義を固守し、自主性を擁護するための帝国主義との対決においても、やはり勝利者となるであろう。
わたしは反民生団闘争の過程を通じて、日常生活においても革命闘争においても、謀計と謀略がいかに有害であるかを骨身にしみて感じると同時に、分派行為を働く者とは革命をともにすることができないという深刻な教訓を汲みとった。謀計、謀略、派閥争いの弊害と反動性を理解するには、李朝五〇〇年の歴史をふりかえってみるだけで十分である。権力のためなら親子、兄弟が殺し合いをするのが、まさに反動化した人間の本性であり、分派の悪弊なのである。
解放後、敵は日本帝国主義が適用した民生団の手口を利用して、われわれの内部を瓦解させようとはかった。彼らはひところ、にせ手紙を送る方法で、白南雲(〔2〕)、姜永昌(〔3〕)、崔応錫など、党に忠実な南朝鮮出身の幹部を陥れようとした。われわれがそういう策略にのらなかったのは、遊撃区における反民生団闘争の経験のおかげだといえる。この体験がなかったなら、われわれは治安隊(〔4〕)の加担者とそのまきぞえになった人たちにたいする処理で極左的偏向を犯していたかも知れない。われわれは革命の利益をはかる方向で、それらの人たちの政治的運命を寛大に処理した。
わたしは社会安全相が新たに任命されるたびに毎回、右寄りの偏向を犯してはならないが、極左を警戒し、民生団の教訓を忘れてもならないと戒めている。極左は政治的ペテン師や野心家に新たな民生団騒ぎを案出させる温床である。この温床の主人たちは、他人より十倍、二十倍も高い声で党を云々し、革命を云々し、忠実性を云々する。こういうはねあがった革命性は、かつて遊撃区で人びとの政治的生命を意のままに翻弄した極左分子らの言動となんら異なるところがない。右翼が公然たる反革命であるなら、「左」翼は隠蔽された反革命であり、右翼がガンであるなら、「左」翼もそれに劣らぬ毒キノコである。右翼と「左」翼は革命という一つの巨木に寄生しながらも、互いに背を向け合って同床異夢をしているかのようにみえるが、実際には一つの脈絡に深くつながっているのである。個人が極左に走れば集団を害し、政権党が極左に走れば人民を失い、革命を敗北させかねないという真理を銘記しなければ、社会主義を守ることもできない。これは反民生団闘争の歴史がわれわれに教えている教訓であり、極左の侵害によっておびただしい血をみた一連の国ぐにでの骨身にしみる体験が、全世界の共産主義者に発する訴えである。
過激な言動の裏にかくれた極左に反対し、それを警戒し、その侵害から人びとの政治的運命を保護するのは、政権を掌握した国の共産主義者がその活動においていっときもゆるがせにしてはならない永遠の課題である。
3 共青の申し子たち
青年運動はわたしが生涯をかけて力をそそいできた大事業の一つである。わたしの革命活動が青年学生運動からはじまったということは、吉林時代の生活がよく物語っている。わたしは吉林監獄に拘禁される前にも青年学生運動にたずさわったが、出獄したのちも、地下活動の形で青年学生との活動に力を入れた。コミンテルン連絡所の活動家との最初の接触があった一九三〇年の夏からは、吉東地区の共青責任書記に任命されて共青活動にたずさわった。もちろん、汪清時代にも青年との活動はわたしの軍事・政治活動において基本をなす重要な構成部分の一つであった。遊撃隊の政治活動の責務をになう指揮官が、軍隊内の共青活動を指導するのは職能に合致した当然なことである。ところが東満党指導部と汪清県党幹部の要請によって、わたしは軍隊外の共青活動にも多くの時間を割かなければならなかった。
当時、党、共青、児童団を指して三代同盟と称していたが、ここで共青は党につぐ重要な位置を占めていた。人びとは共青を指して党の交替者、党の後続隊、または党の貯水池と称し、その使命と役割の重大さを強調する意味で第二の党とも呼んでいた。革命の発展にとって重要な意義をもつ戦略・戦術上の問題とその実行対策を論議する党会議には、いつも共青の書記たちが列席した。東満党はこういう会議を指して党・団連席会議と呼んでいた。そういう会議で、共青の書記は党員と同等の発言権と議決権までも行使した。党員がいないか、党勢の弱い地域では、共青のアクチブが中心になって大衆運動を指導した。
南満州と北満州への進出を終えて間島にもどったのち、わたしは李光別働隊の共青書記趙東旭、汪清県の共青書記韓在春、汪清県の共青組織部長金重権などを通じて、東満州地方の共青の活動状況を全面的に調べた。当時、東満州地方の共青の活動には、共青組織の建設と革命の発展を妨げる重大な左右の偏向が現れていた。
汪清地方の共青の活動で最大の難事となっていたのは、有能な幹部の不足であった。武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命がはなばなしい上昇期にあった当時の状況に即応して、活動を巧みに組織し処理できる有能な共青の幹部が絶対的に不足していた。共青員のほとんどは非識字者か国解(国文が解読できる程度の知識水準)程度であり、中学卒業程度の学歴所有者は米の中の籾といえるほど希少であった。分派分子らは青年運動を狭い遊撃区域の範囲に限らせ、その活動を労働者、農民階層の青年本位に進め、あたかも共青の活動は出身がよくて見識の高い特殊な少数の人だけがおこなうものであるかのように決めこんでいた。こうした傾向は必然的に共青の建設において関門主義を生みだした。分派分子らは共青組織の純潔と秘密保持の美名のもとに門戸をかたく閉ざし、共青への加盟を望む青年たちをあれこれの口実を設けて排斥した。学生は年かさがいかないとか出身に問題があるといって遠ざけ、純朴な労農青年は無知だといって相手にしなかった。共青に加盟するには、少なくとも『社会主義大義』程度は精通していなければならず、『共産党宣言』や『賃労働と資本』などの古典も読んで分析できなくてはならなかった。もし審査の過程で『共産党宣言』を読んでいないことが判明すると、「『共産党宣言』も知らずにどうして共青生活ができるのだ!」と難癖をつけるのが通例だった。大汪清のある青年は、ソビエト政府に牛を没収されたことが欠点とされ、共青の加盟申請を否決された。役牛が没収される程度の家なら資産家出身であり、ソビエト
の収奪の対象になったのだから加盟適格者でないというのである。
「左」翼関門主義者は、はなはだしくは農民協会、反帝同盟、革命互済会、少年先鋒隊などで忠実に組織生活をしてきた青年であっても共青組織にあまり加盟させようとしなかった。極左分子らが遮断機を下ろして門戸を閉ざした地域では、百余名を擁する大衆団体に共青員がせいぜい三、四名というケースがめずらしくなかった。東満党の指導部が位置している所であったせいか、汪清地方では共青の隊列を拡大するうえでも繩張りの壁が厚かった。他の県でいくら組織生活に忠実であった人でも、当該組織の移籍書類や保証文書がなければ汪清に来て共青の隊列に加わることができなかった。
東寧県城で地下革命活動にたずさわり、軍閥の逮捕騒ぎを避けて汪清に来た全文振も、遊撃隊の裁縫隊で熱心に働いたが、移籍書類がないという理由で籍を移せないでいた。軍服を仕立ててくれたことに礼を言うつもりで裁縫隊を訪ねたわたしは、彼女がなぜかひどく意気消沈しているのを見た。その後も何回となく裁縫隊へ出向いたが、彼女は相変わらずしょげこんでいた。それである日、彼女と話をしてみた。全文振は小心な女性であったが、心の中の苦衷を正直に打ち明けた。彼女はめざす新しい土地に来て望みどおり遊撃隊には入隊したが、共青組織が受け入れてくれないので、仲間はずれにされた雁のように憂うつな日々を送っていたのである。彼女が組織問題で悩んでいることをはじめて知ったわたしは、担当者と相談して、従来どおり共青の生活がつづけられるようにはからった。
ところが一部の共青組織では、同郷、同窓、親戚、親友などの面識や情実関係を手づるに、異分子や不純分子、偶然分子、動揺分子などが隊列内に潜りこんでくる有様であった。一部の共青活動家は出身のみを絶対視したあまり、作男出身という言葉にまどわされ、スパイの任務を受けて遊撃区に潜入した不純分子まで共青に受け入れた。こうした左右両極のはざまで、革命的に洗練されていない一部の共青員は、難関に耐えることができず敵地に立ち去った。
共青の活動に現れた偏向は、少なからぬ青年のあいだで共産主義への不信を生み、共産主義者の指導する革命運動を敬遠視させた。これは窮極的には、遊撃隊内の共青の活動と、青年学生をはじめ各階層の愛国的人民を抗日の旗のもとに結集する統一戦線運動にも悪影響を及ぼした。
遊撃区の共青活動にこのような左右の偏向が現れるようになったのは、共青の幹部たちが朝鮮革命の実情と利益に即した正しい組織建設路線をもつことができず、マルクス・レーニン主義の古典を教条的に適用したり、他国の経験をまるごと直輸入したためである。
遊撃区の活動を主宰する幹部たちが、共青の犯している偏向を克服して青年運動を革新する方途と活路を熱心に模索していた一九三三年三月、小汪清の馬村では共青活動家会議が招集された。この会議には汪清地区の共青委員、児童局長、延吉からの青年代表と竜井学生代表(地下工作員)をはじめ三十名ほどの青年運動関係者が参加した。いまでもわたしの記憶に残っている人としては、金重権、朴賢淑、趙東旭、朴吉松、李成一、金範洙、崔鳳松などをあげることができる。この共青活動家会議を回想するときは、なぜか会議の全期間、ひときわきらめく瞳でわたしの顔を食い入るように見つめていた朴吉松のまなざしがまざまざと思い浮かぶ。わたしがそれをことさら印象深く回想するのは、後日、彼がきらめくこの目の片方を関東軍部隊との遭遇戦で失ったせいかも知れない。二十六歳の若年で北満州のすぐれた遊撃隊長として最期を遂げた朴吉松は、当時はこれといった共青の職責もなく、模範共青員という資格で会議に参加したようである。
会議を終える日、県共青の幹部と代表たちは、わたしに演説をするよう求めた。
古今東西の哲学者、政治家、教育者たちはいずれも、社会改造と変革をめざすたたかいにおける若い世代の地位と使命について多くの高見を披瀝している。マルクス主義の創始者たちはひとしく、青年を革命の橋渡し、革命の後続隊とみなした。古代哲学者アリストテレスも、国家の明日の運命は青年の教育にかかっていると喝破した。唯物論を唱える哲学者であれ、観念論を唱える哲学者であれ、また東洋の学者であれ西洋の学者であれ、未来の運命といえる若い世代にたいしては、その世代を重視する立場で大同小異の評価を下している。青年を未来の担い手と評価する点では、わたしももちろん彼らと見解を異にするものではない。しかしわたしは、青年の地位を革命の橋渡しや後続隊のレベルにとどめることでは決して満足できなかった。マルクス・レーニン主義の創始者や理論家は、青年が前世代に依拠し、その指導と教育を受け、補助的に革命に参加する階層であると定義づけていたが、わたしはそういう定義づけに同意することはできなかった。青年を補助的な勢力以上のものとはみなさない見解は、朝鮮革命が歩んできた路程と実情からして正当なものとは言えなかった。
わたしはつねに、青年を革命の前衛とみなした。青年は革命闘争と社会的運動においてもっとも困難な部門をになって立つ先鋒隊であり、主力部隊であり、未来の運命までになう根幹部隊である。これは実践によってその真理性が十分に検証されている。八十の高齢に達したいまでも、わたしは革命の前衛としての青年の地位と役割についての見解を変えていない。われわれが革命運動を独自に切り開かず、前世代にのみ頼って彼らに指示されるとおり動き、彼らのあとにしたがうだけであったなら、日本帝国主義植民地支配のもっとも暗たんたる時期に、古い思潮と断固決別し、チュチェ思想の旗のもとに団結して朝鮮革命の新しい進路を切り開くことも、抗日遊撃隊を創建することもできなかったであろうし、民族の先鋒となって武装闘争を中心とする抗日革命全般を新しい時代の要求にそって発展させることも不可能であったにちがいない。
わが国の民族解放闘争史をみても、その先頭にはつねに青年が立っていた。彼らは監獄も、死も、絞首台も恐れない果敢な闘士たちであった。朝鮮の青年は三・一人民蜂起(一九一九)が起こったときにも先鋒決死隊となり、六・一〇万歳示威運動(一九二六)がソウルの街をゆるがしたときにも主力として登場し、愛国的なスローガンを高唱した。一九二九年十一月の光州学生運動も、その主体は青年学生であった。誰からも指図を受けていない青年学生が自ら立ち上がり、隊伍を組んで怒涛のごとく街をうねり歩き、銃剣を蹴散らして抗争の広場に駆けつけた。新しい世代の青年共産主義者は一九二〇年代の中ごろから民族解放闘争の舞台に主人公として登場し、抗日革命史の新しいページを開いた。
わたしの青年時代が共青活動からはじまったということは、前巻でもくわしく述べた。抗日革命闘争の全期間はわたしの青年期に相当する。わたしはその年で連隊を率い、師団を指揮し、軍団も統率した。ひところ朝鮮人民の中には、わたしを白髪の老将と思う人もいた。しかし、平壌公設運動場で凱旋演説をしたときは三十四歳にみたなかった。
遊撃戦争は昔のように相対峙して幕営を張り、陣太鼓を打ち鳴らしながら、大将同士で一騎討ちをしたり、城壁に依拠して矢を放つような旧式の戦いでもなければ、発達した軍需機材を使い、電話や無線で戦闘を指揮する新式の戦いでもない。そういう戦いであるなら、五十~七十代の老将でもゆうに指揮をとることができる。しかし遊撃戦争では兵士と指揮官とを問わず、千辛万苦に耐えて苦汁をともに味わわなければならない。指揮官もときには機関銃を手にしなければならず、状況によっては銃剣をかざして白兵戦の場にも躍り込まなければならないのである。屈強な体力とすぐれた精神力がなくては、こういう負担に耐えることはできなかった。抗日革命に参加した闘士たちは、その大多数が二十代の青年であった。楊靖宇は三十二歳で東北抗日連軍の第一路軍軍長となり、陳翰章は二十七歳のときから第三方面軍の軍長として活躍した。呉仲洽が連隊長の重責をになって戦い、戦死したのも二十九歳という若さであった。じつに抗日武装闘争は、青年が一手に引き受けて遂行した戦いであったといっても過言ではない。しかるに、若い世代をどうして革命の橋渡し、革命の後続隊としてのみ評価できようか。
わたしのこうした見解と立場は、その日の演説と談話にもそのまま反映された。
「青年は朝鮮革命を推進する主力のうちでも基幹をなす力量である。世界各国の歴史をみても、社会改革の先頭にはつねに青年が立っていた。彼らは山を崩し海をもせき止める大きな力をもっている。彼らを意識化し組織化して革命闘争の前列に立たせるのが、ほかならぬわれわれの青年運動である。それが、共青組織が門戸をかたく閉ざし青年大衆に背を向けているのだから、慨嘆すべきことではないか。一部の共青組織では、年がいっていないからといって優秀な青年を隊列に受け入れていないが、これこそ関門主義の典型だといえる。柳寛順は年が多いから三・一運動が生んだ英雄として民族史に記録されているのか?南怡将軍も、『男児二十にして国を平定できずんば、後世いずくんぞますらおを知らんや』と言っている。年を問題にして十代の熱血青年を排斥したり軽視するなら、それは共青組織を青年組織ならぬ壮年組織にするという結果をまねくのみであろう。十年も二十年も修養を積んで聖人賢者になってから加盟するのが共青であるなら、それがなんの青年組織といえようか」
つぎに代表たちが関心を示したのは、共青活動家の厳守すべき活動方法と作風にかんする問題であった。わたしはこの問題についても多くのことを述べた。
広範な青年を結集するためには、共青の活動を担当した活動家の活動方法と作風を改めなければならない。かりに、ある共青員が銃を五発撃って敵を一人も倒せなかったとしよう。遊撃隊では一発で敵一人というスローガンをかかげているのに、五発撃って一人も倒せなかったなら、過ちであることは確かだ。こういう失敗を犯した共青員に組織が批判を加え組織問題としてとりあげたとするなら、果たして正当な処置といえるだろうか? 諸君は問題をこのように単純に処理してはならない。過ちを犯したなら、まずいろいろな角度から検討すべきである。側面からも背面からも検討すべきである。武器の性能が悪いのか?照星、照門に狂いはなかったか? 床尾を肩にあてて引き金をそっと引かなかったのではないか? 引き金を引くときの呼吸の調節はどうだったのか? このように一つひとつ検討してみるべきである。また、身体に欠陥はないのかということも確かめてみる必要がある。近視なのか、遠視なのか? さもなければ乱視なのか? そして、大胆さに欠け、思想的に臆病なためではなかったのか? このようにあらゆる面から検討して問題を取り扱うべきであって、一律に思想が悪いとみなして思想闘争ばかりしようとしてはいけない。批判はあくまでも同志を助けるためのものでなくてはならない。欠陥にたいしては目をつぶらずに批判すべきであるが、科学的に分析して納得できるようにしなければならない。暴露するようなやり方でとがめたり、侮辱したりしてはいけない。
わたしはこの日の会議で、共青隊伍の組織的・思想的基礎を強化し、宣伝・扇動・教育活動を改善する問題、批判と自己批判を誠実におこなう問題、児童団を共青の後続隊に育てあげる問題、そして過去の愛国青年の闘争からすぐれた点を取り入れる問題など、共青活動の全般的分野を包括して演説をし、また談話もした。その後も機会あるたびに、共青の幹部はいつも大衆の中で暮らし、活動においては大衆の先頭に立つ旗手となり、対人活動では真の母となるべきであることを強調した。
共青活動家会議があって以来、共青幹部の活動スタイルには革新が起こった。官僚主義と関門主義、形式主義の古い枠にとらわれていた共青組織は生気にみちた組織となり、青年大衆の中に深く入っていくようになった。
ある日、わたしは金重権に会うつもりで共青県委を訪ねた。ところが、県委には連絡員が一人いるだけで、事務所は閑散としていた。みなどこへ行ったのかと尋ねると、区と支部の各組織に出向いているとのことだった。その話を聞いて、わたしは満足した。以前は、県共青の活動家が同盟員の中に入ろうとせず、事務所にかまえこんで支部や区の書記を呼んでは仕事をまかせ、その結果を報告させるという安易なやり方をしていた。県共青は、どこかで牡馬が子を産んだといわれても真に受けるくらい下部の実情にうとかった。それでいながら、会議を開いてひとしきり思想戦をしてはそれで満足していた。共青団体は会議と批判さえすれば万事がうまくいくものと思っていたのである。ところが、こういう旧来の活動方法が共青活動家の活動スタイルからいつのまにか姿を消すようになったのである。共青活動家は遊撃隊と地方の支部組織に出向き、責任感をもって共青の活動を援助した。県委の事務所で空論と文書いじりに終始していた人たちが、下部に出向いて同盟員に会い、グループの集まりや支部の会議に参加し、共青の書記を助けて活動計画の作成もおこなった。県委の事務所に共青の幹部が集まるのは会議のある日だけだった。
共青アクチブの隊列には、状況と条件に応じて臨機応変の活動ができる手腕家や、作風がよくて指導方法にそつのない洗練された活動家も少なくなかった。延吉県の八区共青組織部長を務めていた金範洙は明月溝会議にも参加した人であったが、彼の両親は自分の息子が青年から愛されている有能な共青の幹部であることを知らなかった。金範洙が小学校に通っていたとき、彼の母はひとり息子が読み書きを習っているのがあまりにも誇らしくて学校にまでおぶって送り迎えをしたほどだった。こうして蝶よ花よと育てた息子が成人するかしないうちに、急いで結婚させた。両親は息子が社会運動にかかわるのを恐れて、結婚させたあとも外出をきびしく取り締まった。しかし、金範洙は外出ができないかわり、自分の家の裏部屋を会合の場所にし、垣の下にひそかに犬くぐりほどの抜け穴をつくって青年たちをひんぱんに呼び入れた。両親は息子が出歩きもせず新郎らしく振舞っていると喜んでいたが、息子は夜ごと裏部屋で青年との活動に没頭し、新妻の顔を眺めるひまさえなかった。この裏部屋で、金範洙は数十名の熱心な共青員を育てあげたのである。
県共青書記は主として遊撃隊の共青組織に入っていって青年運動を指導し、組織部長と宣伝部長は遊撃区の共青組織と敵地の共青組織との連係のもとに青年運動を指導した。県共青書記は場合によっては遊撃隊員とともに戦闘作戦にも直接参加しながら大衆を指導することもあった。
馬村作戦のときだった。馬村の向かい側の台地に配置された中隊の共青支部は、県共青書記の参加のもとに非常会議を開いた。決戦を前にして、共青員たちはわれ先に火を吐くような決意を述べた。
「共青員の胸で、血潮をもってかちとったこの地を最後まで守ろう!」
共青員の銃口からは復しゅうの命中弾が矢つぎ早に発射された。敵はこの戦闘だけでも数百名の死傷者を出した。救国軍とともに東寧県城と羅子溝を攻撃したときも、共青の書記はパルチザン隊伍の先鋒をつとめた。
共青活動家会議の後も、たびたび共青の幹部たちに会って活動にかかわる諸問題を論議した。当時、共青の活動についてもっとも力点をおいて強調したのは、青年にたいする愛国主義教育、革命教育、階級的教育、反帝教育、共産主義教育、楽天主義教育、そして軍事教育を強め、共青の幹部と共青員のあいだで大衆観点を確立し、共産主義的な活動方法と作風をうち立てる問題であった。
われわれは共青組織がなによりも当面の政治、軍事、経済上の諸問題に注目し、その解決に総力を傾けるようにした。共青組織は学術団体でもなければ啓蒙団体でもなく、クラブでもなかった。それは革命の勝利のために青年大衆を教育し結集する組織であった。したがって、この組織の活動はつねに現行の政治実践、軍事実践、経済実践に服従しなければならなかった。それでこそ、各組織が生新な組織、強力な推進器となることができるのである。
当時、遊撃区の人民と青年のあいだには、経済問題の解決に関心を払わない偏向が生じた。遊撃区での経済問題というのは、食べて着て住まう問題を意味する。当世ふうに言えば食・衣・住の問題といえるだろう。当時、遊撃区の人民が消費する食糧の大部分は、遊撃隊が敵を討ってろ獲した戦利品でまかなわれていた。遊撃区の地味のうすい耕地で産する穀物では、一年分の食糧にもならなかった。人民は食糧が切れると軍隊に期待をかけた。こうした過程で、少なからぬ活動家と遊撃区の住民のあいだには、遊撃隊にたいする依存心が生じた。端境期になると、当然また軍隊が敵を討って食糧を奪ってきてくれるものと思い、腕をこまぬいて営農準備さえしない人たちもいた。
わたしは一九三四年の春に大荒崴に行って、第三中隊の隊員たちと一緒にメーデーを祝った。中隊の活動を指導する過程で、営農の準備状況も同時に調べてみると、それはまったくひどいものだった。当地の人たちは春耕の時期が近づいているというのに、種まきの準備もせず、その日その日を安穏にすごしていた。いったいどうしようというのだろうか? 驚いたのはわたしだけではなかった。わたしと同行した県共青書記も、こんなにも怠けていることができるだろうかと、不満の色をかくさなかった。数日後、われわれは腰営口のアジトで県共青拡大会議を招集し、春の種まきでの青年の課題について協議した。一九三二年の秋に収穫隊を編成して中間部の農地の取入れをおこなったように、今度は青年生産突撃隊を編成し、間島全域の遊撃区で春の種まき戦闘に突入した。この突撃隊には共青のアクチブをはじめ、遊撃区の中核青年がすべて参加した。彼らはすきをとって耕耘作業をするだけでなく、種子用穀物を手に入れ、農具をととのえる仕事までやってのけた。破損した農具は鍛冶場に持ちこみ、青年がみんなで取り組んで修理した。役牛の足りない地域では、つるはしやシャベルで土を掘り返してでもまんべんなく種まきをした。一九三四年の春の種まきは成功裏に終わった。この突撃隊の活動を通じて、遊撃区では共青の権威がいちじるしく高まり、青年の社会的地位も向上した。党組織は共青が望み立案することであればすべて支持し、共青の幹部が青年運動を大胆に進めていけるように後押しした。人民革命政府と農民協会、婦女会などの大衆組織も共青の活動を各面から後援した。
遊撃区の人民が共青の活動をいかに重視したかは、一九三四年九月の九青デーの記念行事の過程をみてもよくわかる。九青デーというのは国際無産青年デーのことである。全世界の無産青年は一九一五年にはじめてこの日を記念し、それ以来、毎年九青デーの記念行事をおこなってきた。この記念行事は中国でもおこなわれ、わが国でもおこなわれた。
汪清の人たちは一九三四年の九青デーの記念行事を大々的に準備した。この行事を前にして、われわれは敵地に工作員を派遣して集落単位の参観団を招請する一方、行事当日の参観団の接待に必要な米、小麦粉、食肉などの供給物資を購入した。給養係の中には、茶まで求めてくる人もいた。遊撃隊は敵を襲撃して祝日の準備に必要な日用品をろ獲してきた。腰営口広場には松のアーチが立てられ、広場のまわりには遊撃隊の戦果を示す連続画が貼りだされた。絵と絵のあいだにはアピールに富むスローガンもかかげられた。当時、第五中隊には驚くほど絵の上手な器用者が一人いた。ソ連帰りの人で、書道にもたけていた。彼は広場のまわりに人民革命軍の業績を示す戦闘略図まで貼りだした。彼が描いた絵は、その一つひとつがみな生きて動いているように見えた。われわれは政府の庁舎をそっくり空けて客用の宿所をしつらえ、そこにも参観団の鑑賞に供するポスターを貼りだした。
九青デーをひかえて、鶏冠拉子、影壁拉子、天橋嶺、転角楼など、遊撃区とその周辺の村では、それぞれ代表を選出して腰営口に派遣した。敵が集団部落をつくってその出入りをきびしく取り締まっていたので、敵地からの代表は集団的に来ることができず、一人ずつ鎌やかごなどを手に野良仕事の装いで遊撃区にやってきた。当日になると、遊撃区の青年たちは人民とともに、北三岔口でろ獲した絹地やセル地で仕立てた衣服で着飾って広場に参集した。県の共青幹部たちもりゅうとした新調の背広姿で広場に現れ、行事を取り仕切った。折目のついた軍服を着け、隊伍を組んで整然と会場に入ってくる遊撃隊のりりしい姿は、敵地の代表たちの賛嘆を呼んだ。
この日の行事は延吉爆弾を爆発させてその開会宣言に代えた。ガーンという爆音を合図に数十の赤旗が広場にひるがえり、シュプレヒコール、拍手、太鼓の音が会場をゆるがす光景に参観団のメンバーは目を見張った。
九青デーの記念報告があったのち、各界の代表は共青の業績を称賛し、反日を扇動する戦闘的な演説をした。当時はこういう演説を感想発表といっていた。行事終了後、われわれは敵地からの参観団のために盛大な歓迎会を催した。県党と県共青の幹部の要請を受けて、わたしは人民革命軍の政治・軍事活動にたいする積極的な支援を求める演説をした。これに答辞を述べようと、敵地から来た代表の一人が発言を求めたが、感激のあまりのどをつまらせ、なにも言えずに四方に向かってしきりにお辞儀をするだけだった。九青デーの行事に参加した敵地の代表たちは、わたしの演説を聞きおえると、先を争って入隊を申し込んだ。みながみな遊撃隊に入隊したいと懇請するので、かえって思いとどまらせなければならない有様だった。われわれは、家庭の事情や仕事の関係などを考慮して、その一部だけを革命軍に入隊させた。
その日の歓迎公演で異彩を放ったのは、第五中隊が用意した出し物だった。老黒山の地下組織での活動をへて入隊した遊撃隊員が沿海州へ行っていたころ習ったというロシア舞踊はじつに見物だった。参観団が遊撃区を離れるとき、われわれは敵地の人民のために残しておいた戦利品を持たせてやった。わたしがここで一九三四年の九青デー行事について詳細に言及したのは、それが遊撃区時代の青年の祝日のうちでもっとも規模が大きく印象深いものであったからである。当時、われわれは国際的な記念日を重視し、コミンテルン、国際共青、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)、国際農組などの国際的な組織との連係に大きな意義を付与していた。世界各国の共産党にコミンテルンという国際的な中央があったように、万国の共青にも「キム」という名称の国際的な中央が存在した。「キム」というのは国際共産主義青年組織の略称である。われわれがハルビンヘ行き連係を保って活動した組織も国際共青傘下の組織であり、わたしにモスクワ留学を斡旋した団体もコミンテルン青年部の使命をおびていた国際共青組織であった。
共青の綱領実行のための実践闘争の過程を通じて、青年の中からは民族解放闘争史の一ページをりっぱに飾ったすぐれた革命家が輩出した。「十三連発(〔5〕)」「シャベル(金鳳旭)」、朴吉松、黄正海、金沢万、金忠鎮、朱春日、李信順、金範洙、李東華、李順姫、朴浩俊など、多くの抗日英雄はいずれも組織生活を通じて育成された共青の申し子たちである。共青が生んだ名だたる英雄の中にはパルチザンの指揮官もいれば地下工作員もおり、教育者もいた。
腰営口のアジトで開かれた共青の会合では、敵地での活動をいっそう拡大強化する問題もあわせて討議された。そこでは政治的、実務的に有能な共青の指導中核が不足していた。各級党組織と共青の指導的地位を占めていた極左分子らの誤った施策によって、敵の統治区域での共青の活動はないがしろにされた。こうした実情を十分に考慮して、共青の会合では「敵の心臓部に砲台を築こう!」という戦闘的スローガンを示した。これは「敵軍の中に革命の砲台を築こう!」というスローガンと大同小異のものであった。「敵の心臓部に砲台を築こう!」というのは、敵の心臓部にわれわれの組織体をうちかためていこうという思想である。
この会議の決定にしたがい、多くの共青幹部が敵中工作の困難な任務をおびて東満州地方と朝鮮国内をはじめ広範な地域に潜入しはじめた。東満特別区委員会の児童局長を務めていた朴吉松も羅子溝に派遣された。彼は有能な共青アクチブたちとともに組織を拡大し、青年を実践闘争の中で鍛えた。数多くの季節少年労働者を擁していた間島有数の羅子溝酒造所にも、彼の手による工作ネットが深く張りめぐらされていった。
羅子溝児童局長を務めていた崔光も、共青組織の指示でこの酒造所に入って活動した。兪某が経営していたこの酒造所では、毎年二~五月と九~十月に季節労働者を募集していたが、安い賃金でも多くの仕事をさせることができる少年労働者だけを採用した。工場主は少年労働者に成人の一日分の賃金の半分にもならない三毛を支払った。それも現金ではなくて酒で支払った。三毛では酒一本分にしかならなかった。この一本の酒を稼ごうと、少年たちは早朝から夜遅くまで骨のおれる労働をした。仕事が終われば、賃金代わりにもらった酒を売るために一晩中市内を歩きまわらなければならなかった。崔光は共青組織の指導のもとに、賃上げ闘争に少年労働者を決起させた。酒造所に就職し、児童団組織に加入させた十余名の同僚たちを動員して、ストライキを呼びかける扇動活動を展開した。彼自身もバラック建ての食堂の戸口ごとに見張りを立てて扇動演説をぶった。組織生活を体験していない少年たちをストライキに立ち上がらせるのに苦労したが、彼は忍耐強く説得しつづけた。「酒一本もらうくらいでは暮らしていけない。みんなが団結して働いた分だけ金をもらおう。力を合わせさえすれば工場主を屈服させることができる!」彼のアピールに応えて少年労働者は三日間も工場へ出勤しなかった。職を奪われるのではないかと工場に出勤していた少年工たちも、彼の話を聞いてからは心を決めてストライキに合流した。二回にわたるストライキによって、少年労働者たちは工場主を屈服させ、三毛の日給を四毛に引き上げるのに成功した。
羅子溝の共青委員であった朴浩俊はすぐれた組織的手腕と巧みな大衆工作によって、敵地での共青活動で多くの成果をあげた。羅子溝酒造所の少年労働者を反日組織に結集してストライキを勝利させるため背後で指導したのは、ほかならぬ朴浩俊であった。しかし、彼は工作の途中で逮捕された。彼を逮捕した敵は、もう羅子溝一帯の秘密組織を全部あばきだしたかのように快哉を叫んだ。だがそれは誤算だった。彼らはいかなる方法によっても朴浩俊を屈服させることができなかった。ある日、敵は瀕死の状態にあった朴浩俊を懐柔してみようと、甘い言葉をかけた。
「おまえは末頼もしい青年だ。若さが惜しくはないか。おまえを頼りにしてひとりで暮らしている母さんをかわいそうだと思わないのか。共青の組織と幹部の名前さえ教えれば、たくさんの賞金をもらってぜいたくに暮らせる。どうだ、見込みのない革命なんか夢見ずに、生きる道を求めたほうがよいのではないか」
すると、朴浩俊は苦々しく笑ってこう言った。
「共青の組織と幹部の名を教えるから書き取れ。わたしを指導した幹部の姓は『共』で、名前は『産党』だ」
「共産党」という「名」を書き取って驚がくした敵を見ながら、壁にもたれて立ち上がった朴浩俊は、彼らをあざけった。
「わたしを育ててくれたその偉大な幹部の名をおまえたちが手帳に書きこんだところで、なんの役に立つというのだ。共産党はいまにわたしの仇を討ってくれるだろう」
こうして朴浩俊は自ら死の道を選んだのである。胸をはって刑場へ足を運ぶ共青員の不屈の姿を思い描いてみよ。その歩き方がいかにも堂々としていたので、敵軍の兵士でさえみな、共産主義者というのは本当にすごい人間だといって、おそるおそるささやき合ったほどである。誰かが刑場に引かれていく彼の手にそっとタバコを渡してやった。娘たちは彼の足もとに花束を投げた。
抗日革命が育てた共青の一世たちは、このように信義を守ってたたかい、いさぎよく死ぬこともできたのである。
当時、共青の隊列で育成された共青員たちは、自分一個人の利益を組織と革命の利益に完全に服従させていた。共青員林春益もまさにそういう闘士であった。共青延吉県八区南線特別支部の書記であった林春益は、早くから地下共青団体を組織した有能な政治工作員であったが、その団体を指導中、敵に逮捕された。彼もやはり野獣じみた拷問にさらされたが、組織の秘密を最後まで守り通した。彼は他の同志たちが担当した秘密工作までいっさい自分がしたことだと陳述した。そのおかげで、逮捕された他の同志たちは全員釈放された。彼は弱冠十八歳にして壮烈な最期を遂げた。美しく気高い犠牲的精神を発揮して組織と同志たちを救い、ひとり刑場に立った十八歳の共青員の高潔な人柄に敵も頭を垂れたという。
共青員李順姫も抗日革命が生んだ不屈の闘士である。わたしが李順姫にはじめて会ったのは、一九三四年初めの冬だったと思う。敵の討伐で両親を失った子どもたちに会うつもりで児童団学校へ行ったときに李順姫を見た。延吉で県児童局長を務めていた彼女が、汪清県児童局長として転任してきてまもないころだった。わたしが児童団学校の庭で子どもたちに取りかこまれていたとき、李順姫が駆けつけてきて挨拶をした。目もとがすずしくて、川辺のワスレナグサのように清楚な気品をただよわせる娘であった。学校の庭には冷たい風が吹きぬけていた。ところが、わたしを見てうれしそうにまとわりつく子どもたちの中には、ひとえの衣服を着た子や、素足のままでわらじを履き、すりきれた短いチマをまとった子が多かった。討伐にあったときに火の中から飛び出してきたのか、顔に火傷を負った子もいた。敵の統治区域で両親を失ってやってきた児童団員たちはほとんど裸同然の身なりであった。わたしは火傷のある子どもの手をなでながら、児童団員たちを一人ひとり見つめた。きらきらする子どもたちの黒い瞳が、なにかしら切なる願いをこめてわたしを見つめているようであった。わたしは胸を刺されるような衝撃を受けた。そして心の中で、おまえたちを孤児にした日本軍をきっと撃滅する、とかたく誓った。わたしは気を鎮め、子どもたちに心をこめて言った。
「おまえたちは祖国のつぼみであり、未来の柱だ。おまえたちが明朗であればわれわれも明朗になり、おまえたちが元気に育てばわれわれも力がわいてくる。…早くすくすくと育って国のりっぱな柱になるんだよ」
子どもたちはにわかに明るい顔になって、「はい、そうします」と声を合わせて元気よく答え、はしゃいだが、児童局長である順姫の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちた。
「将軍、お許しください。共青組織はわたしに児童局長の責務を与えたのに、子どもたちがあんなふうに着るものも着られずにいるのを見ながらも…」
順姫は罪を犯した人のように恥じた。涙に濡れた彼女の顔には深い悔悟の色がただよっていた。
子どもたちに服を着せられない責任がどうして李順姫にあるといえようか。事実、彼女は子どもたちの衣服を繕い、履物の手入れをし、ノートをつくったりして、夜も寝床につくひまがなかった。李順姫との最初の出会いから受けた強い印象は、自分の活動範囲で現れるすべての過失と不祥事の原因をつねに主観に求めるという革命家的な自己反省の態度であった。
数日後、わたしは児童団員たちのために戦闘をおこなった。ろ獲した戦利品で、児童団学校の子どもたちに綿の布団と新品の服、そして靴、ノートなどをととのえて送り届けた。遊撃隊員の血の代償によって得た子どもたちの服にほおずりをして泣き、そして笑っていた李順姫の姿がいまも忘れられない。いつだったか、李順姫はこれに返礼しようと、児童団演芸隊を編成してわれわれを訪ねてきた。
「将軍! 綿の布団と新しい服を送ってくださった将軍のご恩にわずかなりともお礼をさせていただこうと、子どもたちが演芸隊を組んでやってきました」
それを聞くと、胸に熱いものがこみあげてきた。その日、わたしは遊撃隊と根拠地の人民を集め、彼らとともに楽しい気持で公演を見た。その日の演芸舞台でわれわれの胸を強く打った演目の一つは口演であった。真新しい服に赤いネクタイを着けた幼い少女が登場し、わたしのお父さん、お母さんは日本軍に殺された、けれどもわたしは新しい服に赤いネクタイを着けて元気に育っている、わたしが着ているこの新しい服は遊撃隊のお姉さん、お兄さんたちが血を流して求めてくれた服だ、と前口上を述べ、火傷を負った小さな手を差し出した。
「将軍さまは日本軍の討伐で火傷をしたこの手をなでてくださりながら、おまえたちが明朗であればわれわれも明朗になり、おまえたちが元気に育てばわれわれも力がわく、とおっしゃいました。遊撃隊のお兄さん、お姉さん! わたしたちは明朗で元気に育っていますから喜んでください。力を出してください。将軍さまのお言葉どおり、わたしも早く大きくなって共青員のお兄さん、お姉さんのように銃をとって日本軍と戦います…」
少女の口演に涙を流さない人はいなかった。実り豊かな稲穂から勤勉な農民の玉の汗を感じとるように、われわれはその舞台から子どもたちに傾けた李順姫の労苦を読みとることができた。
ある日、わたしを訪ねてきた李順姫はだしぬけに、自分を敵中工作に派遣してほしいと言った。児童団活動に専念し、それにまたとない生きがいを感じていた彼女だっただけに、その突然の申し出には驚かざるをえなかった。李順姫はその後、重ねて共青組織に願い出て許しを得、朴吉松とともに羅子溝へ派遣されることになった。
三面が険しい山並みに囲まれている羅子溝の青山と肥沃な田野には、抗日血戦の跡とともに、敵中工作の道を歩んだ勇敢な共青員たちの赤い魂が宿っている。
わたしはここに李順姫の敵中工作の過程を長々と記そうとは思わない。肝心なのは、花うるわしい年で命をためらいもなくささげたその精神力がどこにあるのかということである。
李順姫は羅子溝からやや離れた地点の草小屋を根拠地にして活動した。寒風が吹き込み、雨漏りのするその小屋で春を迎え、夏を送り、秋を迎えた。その間、羅子溝では共青組織が拡大され、児童団組織が育った。敵の牙城に強力な革命の砲台が築かれたのである。李順姫はこの砲台を構築するため、変装をこらして軍警の銃剣と密偵の監視が常時つきまとう危険な敵地を昼夜の別なく駆けめぐった。だが、彼女は李奉文という陰険な密偵にかぎつけられ、ついに逮捕された。敵は羅子溝の地下組織をあばきだそうと、順姫を陰気な鉄窓につないでむごい拷問を加えた。地下組織の運命は李順姫にかかっていた。彼女が口を割るようなことになれば、羅子溝に張りめぐらされていた組織網はすべて露呈し、苦労して築きあげた革命の砲台は一朝にして崩壊しかねなかった。敵は空約束と甘言で順姫を心変わりさせようとした。しかし、彼らが李順姫からさぐりだした秘密はただ一つ、彼女が共青員であるということだけだった。彼女は鉄格子の中で共青員という名の重みをいっそう深く感じたようである。拷問を指図していた羅子溝憲兵隊の隊長はとうとう業をにやし、順姫を銃殺するよう命じた。ところが、死刑執行の前夜に事件が発生した。銃殺命令を下した憲兵隊長が、最後にもう一度順姫の心を動かしてみようとして部下を連れて監房に現れた。そのとき、順姫は衣服の手入れをしていた。汗と血にまみれてずたずたになった衣服ではあったが、きちんと着て刑場に出たかったからに違いない。憲兵隊長の飼い犬のような李奉文が順姫に近づき、「おまえが生き延びられる千載一遇の機会はいましかない。おまえの若さがもったいないし、かわいそうなので言うのだが、羅子溝にある地下組織メンバーの名前を一人だけでも教えろ、そうすればおまえを生かしてやる」と言った。順姫はなんとも答えず、血がこびりついた髪をなでつけてから懐に手を入れ、小さな灰色の袋を一つ取り出した。それを見た李奉文は色を失って監房の外へ飛び出した。他の刑吏たちも悲鳴をあげて彼のあとを追った。李奉文は順姫の取り出した小袋を手榴弾かなにかの爆発物と勘違いしたのである。だが、それは爆発物ではなく、土の入った袋であった。その小さな袋は、順姫の父が遊撃根拠地で戦死するとき娘に譲り渡したものであった。
「あわてるな! これはわたしの祖国の土を入れた袋だ。汚らわしいその命がそんなに惜しくて逃げるのか!」
祖国の土を懐に秘め、鉄格子の中で解放の日を思い描いた共青員李順姫と変節漢李奉文の人格を対比して「鳳凰とカラス」と表現した人もいたが、それは決して間違った比喩ではなかったと思う。李奉文のような変節漢にその土袋の価値がわかろうはずはない。
翌日、李順姫は刑場で革命万歳を叫んで最期を遂げた。彼女が最期の瞬間にうたった『共青歌』をここに紹介しておきたい。
新世界の夜明け いざ迎えん
われら無産青年 こぞって前へ
古い社会 勇敢に打ち倒そう
われら無産青年 無産青年らしく
われら勤労者大衆の 青年前衛隊
わたしはいつか李順姫と一緒に、児童団学校でオルガンを弾きながらこの歌をうたったことがある。この『共青歌』は共青員にかぎらず、共産党員や児童団員、婦女会員のあいだでも愛唱された歌である。それは、この歌の中に新しい社会にたいする勤労者大衆の一致した憧憬と未来への熱烈な愛、新しい世界の到来を早めようとする青年の不動の意志がよく反映されていたからである。幾多の共青員が、李順姫のように断頭台でこの歌をうたった。この『共青歌』はもともとわれわれがつくった歌ではなかった。ロシアの青年たちがうたった歌である。だが、歌詞とメロディーに流れる思想・感情は、自由を愛し正義を愛する全世界青年の心を強くとらえたのである。ウジェーヌ・ポティエの『インターナショナル』が多くの国で党歌となったように、『共青歌』もやはり国際的な青年歌として広く愛唱された。
李順姫のような烈女を輩出したのは、疑う余地もなくその政治的生命に光を与え翼をつけた共青組織の功労といえる。組織という存在がなく、組織的鍛練という成長過程がなかったなら、果たして李順姫のようなうら若い女性が刑吏の前であれほど勇敢に振舞い、あれほど高い誇りと自負をいだいて最期の瞬間を堂々と飾ることができたであろうか。それゆえ、わたしはいまも、組織は英雄を生む家であり大学であると言っているのである。組織生活を通じて鍛えられた一人の共青員や社労青員は、百人、千人の敵をも打ち倒せる大きな力をもっている。朝鮮人民が一当百の人民といえるのは、彼らがすべて組織生活を通じて鍛えられた人民であるからであり、わが人民軍が一当百、一騎当千の軍隊といえるのは、彼らが組織と呼ばれる溶鉱炉で自分自身を政治的、思想的に、軍事技術的にりっぱに練磨していく軍隊であるからである。
今日の青年は社労青(社会主義労働青年同盟)という組織を通じて闘士に、英雄に、革命家に育っている。抗日戦争当時の共青組織が職業革命家を育てる学校であったとすれば、現在の社労青組織は社会主義建設の前衛部隊を育成する基地であるといえる。抗日革命の時期と同じように、今日も青年は社会主義建設のすべての戦線で先陣に立っている。社労青はわが党がもっとも大事にしている頼もしい主力部隊である。この主力部隊が進出する所では、どこでも偉勲が輝き、奇跡が生まれている。西海閘門、北部鉄道、光復通り、メーデー・スタジアム、万景台学生少年宮殿、跆拳道殿堂など、わが国の万年の財宝といえる偉大な記念碑的建造物には、どれにも労働党時代の青年の貴い汗がにじんでいる。朝鮮人民が「速度戦青年突撃隊」を愛しているのもそのためである。
現代の社労青員と青年のあいだでは、万民の賛嘆を呼ぶ共産主義的美挙があいついでいる。一度失えば二度と取りもどせないのが人間の命である。にもかかわらず、わが国の青年は他人の生命のために自分の生命を鴻(こう)毛(もう)のごとく投げ出している。一生を戦傷栄誉軍人にささげることを決心して彼らの妻となった女性はあまりにも多くてその名をあげきれないほどである。わが国の社労青員の中には、未婚の身で両親を亡くした子どもたちの母親になってくれたありがたい女性もいる。他の国では青年たちが首都の市民権を得ようと苦心しているとき、朝鮮の青年は住みなれた首都をちゅうちょなく離れ、農村へ、炭鉱へ、開発地へ自ら嘆願し進出している。率直に言って、わたしはこういう青年たちを黄金の座布団に座らせたい気持である。
現代の青年のあいだで発揮されている共産主義的美挙が新聞や放送で報じられるたびに、わたしは青年運動のためにつくした朝鮮共産主義者の労苦を想起し、その運動の伝統をりっぱに継承している社労青を思うのである。現代の青年の中から世間をゆさぶる美談があいついで生まれて万人を感動させているのは、社労青の功績に帰すると評価することができる。組織生活を通じて鍛えられた青年の大部隊、それは事実上原子爆弾よりも強力なものである。
この世に青年運動ほどやりがいのある栄誉にみちた仕事はないであろう。もしもわたしが人生のふりだしにもどる幸運にめぐまれ、職業を新たに選択する権利を得られるなら、わたしは吉林時代のように、断然、青年運動に身を投ずるであろう。
遊撃区の解散を契機に、われわれは再び多くの政治工作員を敵地へ派遣した。当時われわれは、安図、敦化、撫松、長白、臨江などの各地に人を送って共青遼吉辺中心県委員会を設け、敵地での地下青年運動を強化することにした。遼吉辺というのは、遼寧、吉林、間島の辺境地帯のことである。われわれはまた、地下青年組織をまず茂山、甲山、豊山、会寧など、朝鮮の北部国境地帯に結成し、ひいては平壌、ソウル、釜山をはじめ朝鮮の中部地帯と南部地帯にまで拡大する遠大な構想を立てた。この構想を実現するため、汪清県共青書記の趙東旭も、共青遼吉辺中心県委員会書記の責務をになって敵地に潜入した。趙東旭は共青の活動経験が豊富な人であった。彼は五・三〇暴動(一九三〇)に参加したという理由で、吉林省第三監獄と呼ばれたハルビン監獄で一年以上の獄中生活も体験した。獄中で中国語を習得し、共青にも加盟したのだが、中学卒業者としては非常に博識で、学究肌の人だった。彼は共青寧安県委の委任により救国軍部隊に派遣され、共青の活動にたずさわった。そして一九三二年の九月ごろ、四十名余りの武装人員を率いて汪清に移ってきた。
わたしが趙東旭にはじめて会ったのは、その年の秋だったと記憶している。わたしは彼を李光別働隊の共青幹事に任命し、寧安から来た武装人員をその別働隊に配属させたのち、隊員たちを北満州に派遣して彼の家族を連れてこさせた。趙東旭の継父張基燮は「共産主義じいさん」と呼ばれていた誠実な党員だった。趙東旭はわたしと呉義成との談判を現場で目撃しただけでなく、王潤成とともに談判中のわたしを積極的に補佐してくれた人である。この談判のあとで、わたしは彼と王潤成を羅子溝市内にあった反日部隊連合弁事処へ派遣した。趙東旭と王潤成は各地の反日部隊から派遣されてきた連絡将校たちと義兄弟の契りを結び、中下層の将校と兵士のあいだに共産党支部と共青支部を組織した。反日部隊連合弁事処での活動を通じて、趙東旭の政治活動の手腕はいっそう洗練された。彼が敵地へ入って最初に腰をすえたのは安図県両江口であった。彼は小さな商店をかまえて「商売」をしながら、店に出入りする満州国軍相手の工作を巧みに進め、十五名の中下層将校、兵士たちと義兄弟の契りを結び、一個中隊を完全に手中におさめた。その一個中隊は趙東旭の指示によって造反し、山中に逃走してしまった。趙東旭は山中にたてこもったこの反乱軍と遊撃隊との連係をつけようと車廠子へ行った。ところが、極左分子らは彼を民生団嫌疑者とみなして拘禁しようとした。後日、趙東旭はそのときのことをつぎのように述懐している。
「あのとき東満特委の極左分子らは、わたしに会うやいなや、『宋一は民生団であることが判明して処刑された。宋一が汪清県党の書記を務めていたとき、おまえはその下で県共青の書記を務めた。宋一が民生団なのだから、おまえも民生団ではないか。こちらが証拠を示す前に白状するのが身のためだ』と脅しつけるではありませんか。わたしは脱出を決心しました。食事を運んでくれていた金正淑同志もわたしの決心を支持してくれました。正淑同志は旅費にするようにとお金までくれました。その金で両江口に帰ってから、母を連れて朝鮮へ渡りました」
その後も彼は朝鮮の各地を転々として青年運動をつづけた。
金振(〔6〕)の魂が李寿福(〔7〕)によって継承され、李寿福の魂が金光哲(〔8〕)、韓英哲(〔9〕)によって継承されているように、共青の命脈は民青によって継承され、民青の命脈は社労青によってゆるぎなく継承されている。一部の国ぐにで青年学生が社会的に頭痛のたねとなり、反革命の手先となって祖父の代に築いた塔を崩しているとき、わが国の青年はとりでとなり盾となって、抗日革命烈士が切り開いた革命偉業をりっぱに継承しているのである。
いま社労青隊列には、
4 四道溝惨劇にたいする報復
わたしが腰営口で遊撃区解散にかかわる指導のため多忙な日々を送っているとき、羅子溝の地下組織が連絡員をよこして、四道溝惨劇の詳報を伝えてくれた。連絡員が携えてきたレポには、聞大隊長が老黒山地方の靖安軍を引き入れて四道溝の村落を完全に焼きつくし、村民全員を虐殺したという、衝撃的ないきさつが記されていた。通報は信頼するに足るものであったが、わたしは皆目見当がつかなかった。聞大隊長がわたしとの約束を反古にして靖安軍を大虐殺へと誘導したということが信じられなかったのである。聞大隊長とわれわれの部隊とのあいだには、今日の攻守同盟に似たようなものが結ばれていた。われわれが聞大隊長と手を結んだのは羅子溝戦闘直後のことであった。
ある日、敵地の地下組織から満州国軍部隊の牛馬車輜重隊が羅子溝に向けて百草溝を出発したという情報がもたらされた。われわれは鶏冠拉子付近で伏兵戦を展開した。満州国軍の輜重兵たちは、ほとんど抵抗もしないで全員が投降した。捕虜の中には聞大隊長配下の鉄という姓の中隊長がいた。彼は革命軍に捕らえられたという強迫観念などみじんもなく、あたかも当然の応報だと言わんばかりに平然として笑っていた。
「きみは将校でありながら、なぜ抵抗もせずに投降したのか」
わたしはこのおかしな男に質問した。
「ここは高麗紅軍の活動区域だというのに、抵抗してなにになるんですか。勝ち目のない戦をするくらいなら、手を挙げるほうが上策でしょう」
彼も寧安地方の人たちのように、朝鮮人民革命軍を「高麗紅軍」と呼んだ。
「それに、高麗紅軍が捕虜を殺さないというのは、満州中が知っていることではありませんか」
貧農出身の鉄中隊長は、満州国軍の俸給がよいといううわさを聞いて、結婚費用なりともととのえるつもりで軍務に服した人間であった。あまりにも世情にうといと言う人もいたが、正しく教育すれば、満州国軍将校という表看板をかかげていても良心的に生きていける人間であった。われわれが捕虜との問答を終えて彼らを釈放すると、鉄中隊長はわたしにこう頼むのであった。
「隊長殿、この牛馬車に積まれている荷のうち、他のものは全部持っていってもかまいませんが、お金と銃だけはなんとか返していただけませんか? 手ぶらで帰っては兵士たちに月給もやれないし… おそらくわたしらは聞大隊長に銃殺されるでしょう」
わたしは牛馬車の物資全量と捕虜全員を羅子溝へ行かせることにした。遊撃隊員たちは、「こっちは弾丸代ももらえず、寝そびれて骨折り損のくたびれ儲けというもんだ」と冗談を言いながら彼らを見送った。
鉄中隊長は李孝錫中隊長に「きみ、この千切りのかますに何発か撃ちこんでくれないか」と言って弾薬箱を一箱おろした。われわれの寛大な処分に感じ入った様子だった。李孝錫が弾薬箱を受け取らずにそのまま馬車に積み返してやると、輜重兵たちは自分たちの手で千切りのかますに何発か弾丸を撃ちこんだ。そうしてから、装てんしてあった弾丸を全部抜いてハンカチに包み、それを草むらに投げだしてそそくさと立ち去ってしまった。
このことがあって以来、鉄中隊長は聞大隊長から格別に信頼されるようになった。聞大隊長は輜重隊を
送り出すたびに彼の中隊に護衛の任務をまかせた。他の中隊にまかせると無一物になって帰ってくるが、鉄中隊長は一度も奪取されることなく無事に帰ってきたからである。われわれは他の輜重隊は襲撃したが、鉄中隊長の輜重隊だけは例外にした。彼は軍需物資を運びに行くたびに部下を派遣して、輜重隊の通過地点とその日時、標識などをわれわれに知らせた。そうしているうちに聞大隊長も、鉄中隊長が人民革命軍の保護と関心のもとにあることを察知するようになった。
ある日、鉄中隊長は聞大隊長に会って「うちの中隊は羅子溝に来て人民革命軍の保護を受けていますが、いっそのこと、うちの大隊が金隊長の部隊と攻守同盟を結んで安全にすごしてはどうですか」と提言した。聞大隊長は、最初はなにごとかといわんばかりに驚くふりをして見せたが、のちには本心どおり、申し分ない保身の策だといって、その提言に快く同意した。このことが鉄中隊長を通じてわれわれに伝えられたので、われわれも満州国軍が人民の生命財産を侵害しないという条件で同盟の締結に同意するという意思を聞大隊長に伝えた。会談もなく、署名捺印もない型破りの「紳士協定」であった。われわれの部隊と聞部隊との攻守同盟は、双方が互いに協力し合って攻撃も防御もともにする同盟という本来の意味からはずれて、双方の軍事集団が互いに相手側を攻撃せずに親善を保つ同盟という別の意味をもっていた。この同盟は双方の利益を尊重し、相互協力を強める方向でこれといった曲折もなく維持されてきた。われわれが不可侵の原則を忠実に守ったので、聞大隊長は革命軍に多量の弾薬と食糧、被服を何度も送ってよこした。ひいては、日本軍の動静と関連する重要な軍事情報まで提供してくれた。
こうした同盟の和平関係からしても、聞大隊長が靖安軍を四道溝の討伐に誘導したという知らせは信じがたいものだった。わたしは鉄中隊長に連絡員を送って真相を確かめさせた。連絡員の報告により、四道溝の惨劇は事実であり、聞大隊長の裏切り行為も事実であることが確認された。聞大隊長が上司である日本人の圧力を受けて攻守同盟を破棄しようとしていると、鉄中隊長が知らせてきた。われわれは聞大隊長の裏切りと、彼が案内役を務めた四道溝惨劇に相応の報復をすべきであった。復しゅう戦を叫ぶ声が連日、指揮部にもたらされた。指揮官たちも四道溝人民の恨みを晴らそうと隊員たちを扇動した。狂犬は棍棒で成敗すべきだというのが、革命軍の好みの格言であった。わたしは隊員たちの要求が正当なものだと考えた。老黒山の靖安軍部隊や羅子溝の満州国軍部隊を放置しておいては、この一帯に住んでいる人民の安全をはかることも、村ごとに根を張っている地下組織の活動を軍事的に支援することもできず、人民革命軍の北部満州進出を支障なく断行することもできなかった。遊撃区の解散に混乱をきたすことも必定であった。羅子溝は汪清、琿春地方の解散した遊撃区の人民が転住する疎開地でもあったのである。
わたしは靖安軍部隊と聞部隊を同時に討つことを決心し、兵員を補充するために延吉第一連隊と車廠子に行っていた独立連隊を汪清に呼集した。独立連隊は一食にパン一つという粗食で約五日間強行軍し、われわれが駐屯していた塘水河子の村に到着した。独立連隊の連隊級幹部は連隊長であった尹昌範をはじめほとんどが民生団にされて殺害され、参謀長が部隊を引率してきたのだが、指揮官を失った彼らの士気はひどく落ちていた。
そのとき、われわれは独立連隊、延吉第一連隊、汪清第三連隊のそれぞれの一部の兵力で転角楼戦闘を決行した。土城内に深く立てこもって悪行をほしいままにしている満州国軍と自衛団の兵力を制圧せずには、羅子溝への通路を開くことができなかったのである。転角楼戦闘を終えた革命軍は、羅子溝攻撃の作戦計画を立て、出陣基地に内定されていた四道溝と三道溝、太平溝方面への白昼行軍を敢行した。かゆをすすりながらの八十余キロの行軍であったが、隊員たちの士気は高かった。
四道溝はもともと李泰京のような独立軍出身の老兵と義兵出身の先覚者たちが「理想郷」として開拓したところであった。四道河子または上房子と呼ばれるこの村は、後日わたしが李光と協力して革命村につくりかえた。われわれは李泰京老を表面に立ててこの村に反日会を組織し、農民協会や革命互済会も組織した。わたしが足しげく四道溝に出入りしたので、当時、羅子溝とその周辺の村落の人たちはそこを「共産党司令部」とも呼んでいた。人民革命軍にたいする土地の人たちの厚遇と愛情は格別のものであった。革命軍が来たという知らせを聞くと、取る物もとりあえず裸足で飛び出してくる彼らの情熱的な姿に感嘆させられたのは一、二度ではなかった。
四道溝村に近い三道河子も、われわれの影響を強く受けた有名な革命村だった。三道河子村の西側の山裾には、中国人の経営する酒造所が一つあった。わたしは周保中と一緒にこの酒造所に行って、地下革命組織の幹部と人民にたびたび会ったものである。
四道溝の人民にたいするわたしの旧情はこの土地をうるおす綏芬河の流れのごとく恋々たるものがあったが、村は焼き払われて灰じんに帰し、村人たちは塵土に埋もれた。峠の向こうの李泰京老の八間の家も焼け落ちて残ったのは土台石だけである。そこはわれわれが一年前に羅子溝進攻戦闘を前にして、周保中をはじめ救国軍部隊の指揮官とともに作戦会議を開いた所であった。老人はこの家の跡の近くに学校を立てて次の世代の教育に打ち込んでいた。惨劇のときの銃声と悲鳴がまだ耳から消えやらぬころ、彼は決意をかためて教育運動に力をそそいでいた。老人は四道溝の惨劇のときかろうじて生き残った独立軍時代の同僚の息子を自宅にかくまっていた。その青年は外出先からの帰途、四道溝が一目で見下ろせる山頂で靖安軍の蛮行を目撃したという。
四道溝事件の発端となったのは、羅子溝市内で工作員として活動していた共青員徐日男にたいする不当な審問であった。彼は商店の品物を盗んだという嫌疑で民生団にされて逮捕され、四道溝革命組織の責任者からいわれのない審問を受ける破目になった。いくら調べても民生団の証拠があがらないので、徐日男を逮捕した人たちはいったん彼を釈放し、その一挙一動を監視した。家に帰った徐日男は、民生団でもない自分が民生団扱いにされ拷問をかけられたと不平をもらした。これを知った上部では再び彼を逮捕し民生団と断じて処刑しようとした。その気配を察知した徐日男は逃走して敵に寝返った。そして、自分を迫害し拷問した人間たちにたいする復しゅう心にかられ、四道溝地下革命組織の秘密をもらしてしまった。徐日男が提供した秘密は、そのとき羅子溝に来て正月祝いの準備をしていた靖安軍部隊の殺人鬼を興奮させた。百余名の討伐軍は一九三五年陰暦一月十五日の早暁、四道溝村をまたたくまに包囲し、重機、軽機のいっせい射撃で村人を手当たり次第になぎ倒した。家々を立ちまわって火を放ち、火炎の中から飛び出してくる人は老弱男女を問わず銃剣で刺して火の中に投げ込んだ。敵はわずか一時間のあいだに村を焼け野原に変えてしまった。
三道河子の百家長が現場に駆けつけたとき、そこには九死に一生を得た八名の朝鮮人の子どもが屍の山の中で泣いていた。百家長は近隣の村人たちと、その子どもたちの養育問題を相談した。孤児になった子どもたちを一人ずつ引き取って育てることにし、百家長自身もそのうちの一人を引き取った。惨禍をまぬがれた三名の四道溝の青年はわれわれの部隊に入隊した。
われわれはこの惨劇の一部始終を聞いて、みながみな歯がみをした。禍のきっかけとなったのはもちろん、徐日男を民生団扱いにして迫害した人間たちの極左的行為にあったことは間違いないが、それはそれとして、四道溝村を血の海に変えた靖安軍の殺人鬼をわれわれは真っ先に呪わずにはいられなかった。四道溝における大虐殺は、日本帝国主義者の差し金によってのみなしうる野獣性、悪らつさ、残忍さの最たるものであった。外国の王宮に侵入してその国の王妃を殺害し、その犯罪の跡を湮滅するため死体まで焼いてしまうという乱暴を働く強盗の後裔にしてみれば至極当然といえることであった。わたしは幼いころ、父から乙未事変(一八九五年)の話を聞いて痛憤を禁じえなかったことがある。王宮で殺害され、死体すら安置することができなかったというその王妃こそは、朝鮮最後の国王である純宗の生みの親明成皇后閔妃であったのである。朝鮮の国政を一手に掌握していた閔妃が、親露派の中心となって日本勢力に反対する立場に立つや、狼狽した日本の統治者は朝鮮駐在の自国公使三浦を突撃隊に仕立て、守備隊と警察武力、それに無頼漢まで含む殺人集団を組み、彼らに景福宮を襲撃させた。日本刀で閔妃を滅多切りにした三浦の手下たちは、犯罪の跡を残さないため死体を焼き、その遺骨まで池の中に投げ込んだ。もともと閔妃は朝鮮人にそれほど崇拝されていなかった。開国によって国を滅ぼした張本人とみなされていたからである。閔妃が王家の嫁の身でありながら、外部勢力と結託して義父の大院君を政権の座から引きずりおろしたことにたいしても悪く評価する人たちがいた。大院君によって閉ざされていた鎖国の扉があと二十年か三十年くらい維持されていたなら、わが国が外国の植民地にならなかっただろうと甘く考える人もいたくらいだから、閔妃を恨む国民の気持も理解できなくはないであろう。しかし、いくら国民に信頼されていなかった閔妃だとはいえ、あくまでも政治は政治であり、王妃は王妃である。閔妃は朝鮮国民の一員であり、王家の主人であり、高宗を代弁して国政を司った国家権力の代表者であった。したがって乙未事変を起こした日本支配層の野蛮な行為は、とりもなおさず朝鮮人民の自主権を強盗さながらに侵害したことになり、伝統的な王家の尊厳を傷つけたことになるのである。国民意識と尊王精神が強く、民族的自負心が人一倍強い朝鮮人が、これを容認するはずはなかった。そのうえ断髪令まで強制的に施行されたので、民族的感情は噴火口を吹き飛ばしてはげしく爆発した。朝鮮人民は義兵抗争によって乙未事変と断髪令の施行にこたえた。
間島大討伐の年として知られた庚申年(一九二〇)にも、日本軍は満州地方で朝鮮人を多数虐殺した。それは鳳梧谷と青山里で喫した大惨敗(〔 〕)の恥を、在満朝鮮人の非戦闘員にたいする殺りくによってそそごうとする空前の殺人ヒステリーの発作であった。シベリア出兵に失敗して南下する日本軍と、羅南を出発し満州地方へ北上していた日本軍は、行く先々で朝鮮人の村落を焼き払い、青壮年を皆殺しにした。閔妃虐殺の手口をそのまま適用し、死体は石油をふりかけて焼いてしまった。自分たちが犯した罪悪の証拠をなくしてしまおうとしたのである。
一九二三年の関東大震災は、地殼変動による天災とともに、日本の国粋主義者によって朝鮮人に強要された人災も記録している。大震災を朝鮮人弾圧の好機とした無頼漢たちは、いたるところで日本刀と竹槍で朝鮮人を手当たり次第に殺害した。彼らは大勢の人の中から朝鮮人だけを正確により分けようとして、顔形を見ただけでは区別のつかない人には「五円五十五銭」という日本語をしゃべらせた。これがなめらかに言えない住民は例外なく朝鮮人とみなされ、殺害の対象となった。この災難の最初の十八日間だけでも、六千名を上まわる同胞が犠牲になった。これは日本軍国主義者が朝鮮人民を標的にして犯した犯罪の一部であり、殺りくと略奪によって血塗られた日本近代史の一端にすぎない。その歴史の一部が四道溝という小さな村で再現されたのである。
「村には地下組織もあったのに、どうしてそんなに無警戒だったのですか?」
わたしは口惜しさともどかしさのあまり、李泰京老にこう尋ねた。だが、これは無益な問いだった。警戒心があったとしても、どうすることもできないではないか。常備の遊撃隊のないこの村落では歩哨の立てようがないではないか。たとえ歩哨を立てたとしても、おびただしい兵員が夜明け前の薄闇に乗じて襲ってきたのだから、手のほどこしようがあろうはずはない。
「将軍、わたしどもが気をゆるめすぎていたんです。わたしら老いぼれが悪かったのです。革命軍に保護されていつものんきにすごしてきたので、亡国の民だということも忘れ、独立戦争をしている国の人民だということも忘れていたようです。四道溝村の年寄り衆の中には、ガンジーの崇拝者までいたくらいですから」
老人は間違ったことを口走った人のように、気まずそうに笑った。わたしはびっくりした。この山里にガンジーの崇拝者がいるというのか。
「ご老人、その人はどうしてガンジーを崇拝するようになったのですか?」
「朝鮮から渡ってきたある紳士が、そのじいさんにガンジーの話をしたようです。朝鮮の新聞に載ったガンジーの手紙まで見せたそうです。それ以来、じいさんは村のたまり場に来るたびに、暴力がどうの非暴力がどうのと、無血独立論を念仏のように唱えるようになったのです」
わたしも吉林時代に『朝鮮日報』紙上でガンジーの手紙を読み、朴素心と無抵抗主義について論評し合ったことがある。その手紙はつぎのようなものであった。
愛する友よ!
わたしはあなたがたの手紙を受け取りました。わたしからのただ一つの頼みは、絶対的に真なる無抵抗の手段により朝鮮が朝鮮のものになることを願うということだけです。
一九二六年十一月二十六日 サバルマチにて
M・K・ガンジー
手紙が示しているように、ガンジーは朝鮮人に無抵抗の方法で独立を達成するよう説いている。多分、ガンジーの思想に魅力を感じたある無抵抗主義者が彼に手紙を出したのであろう。吉林の同胞青年の中には、ガンジーの思想を自分の信条とする人は一人もいなかった。非暴力不服従運動のようなもので、暴悪かつ貪欲な日本帝国主義者から独立が与えられると考える愚かな幻想家はいるはずがなかった。しかしガンジーの思想は、武力抗争を放棄したか、独立運動の道から脱落した一部の民族運動家からある程度の共鳴と支持を受けた。イギリスの支配を呪わしく思いながらも、ただ一人のイギリス人も害する考えはないとし、イギリス政府の組織的な暴力を抑制できる力は組織化された非暴力だとしたガンジーの思想が広範なインド人民に受け入れられたのは、その思想に貫かれている人道主義精神の力にあったといえる。それがインドの実情にどの程度合致していたのかはわからない。たとえ、それが妥当なものであったとしても、アジアとヨーロッパの相異なる強国を宗主国としていた朝鮮とインドが、同じ処方で独立運動をすることはできなかった。インドはインドであり、朝鮮は朝鮮なのである。人民革命軍の軍事・政治活動がもっともはげしく展開されていた羅子溝地区に、無血独立論に未練を残している人がいたというのは理解しがたいことだった。
「あのじいさんは死のまぎわになって無血独立論の間違いを悟ったはずです。それさえ悟れずに成仏したのなら、悲しいことではありませんか。日本軍は血を見たくてあばれまわっているというのに、こともあろうに無血だとは…」
李泰京老は言葉をつぐことができず、拳を震わせた。
「ごもっともなお言葉です。強盗に無血などとは考えられないことです。狂犬は棍棒で成敗すべきです!」
「将軍、朝鮮人の命があまりにも安すぎます。わたしら白衣民族がいつまでこんな生き方をしなければならないのでしょうか。お願いです、四道溝の人たちの仇を討ってください。そうすればわたしは目をつぶって安らかに死ねます」
老人はわたしを見送りながらも、復しゅうしてほしいと重ねて頼んだ。
「ご老人の頼みを肝に銘じておきます。もしわれわれが四道溝人民の仇討ちをできずにもどってきたら、この家の庭先に寄せつけないでください」
殺人鬼の頭上に鉄槌をふりおろす確固とした決心をいだいて、われわれは羅子溝進攻の途についた。
わたしは一生、民族の尊厳のためにたたかってきた。わたしの一生は民族の尊厳と自主性を守る闘争の歴史であったといえる。わが民族を害したり、わが国の自主権を侵す者をわたしは一度も許さなかった。朝鮮人民を見下し愚弄する輩とも妥協しなかった。われわれに友好的な人たちとは善隣関係を結んで友好的に交わり、非友好的であったり差別する人たちとは関係を断って生きてきた。相手がわれわれを討てばわれわれも相手を討ち、相手がわれわれに微笑を投げればわれわれも相手に微笑を投げた。餅には餅で報い、石には石で報いるというのが、生涯を通じてわたしが固守してきた相互主義の原則である。かつて朝鮮の無能な封建政府は、わが国に来ていた日本人に治外法権を許した。今日、南朝鮮の支配層が米軍の違法行為にたいし法を発動できず目をつぶっているように、日本人が朝鮮人の生命財産を侵害するのを目のあたりにしながらも、その加害者を朝鮮の法にもとづいて処罰することができなかった。日本人は日本の法によってのみ裁かれるようになっていた。だが、朝鮮人民革命軍の活動区域では、そういう治外法権が許されるはずはなかった。われわれには朝鮮民族と朝鮮の領土にたいするいかなる形の侵害も許さないという掟があった。四道溝の惨劇を引き起こした殺人者は、この掟の前で無事ではありえなかった。
われわれは端午の日を期して西山砲台を占領し、一挙に羅子溝市内へ突入する計画だった。琿春連隊の到着によって戦力は増強された。革命軍の縦隊が羅子溝方面への行軍をつづけているとき、市内へ偵察に行った汪清連隊の隊員たちが鉄中隊長を連れてわたしの前に現れた。鉄中隊長が急きょ訪ねてきたのは、聞大隊長の動向を知らせるためだった。
「大隊長は人民革命軍が羅子溝を包囲攻撃するという情報に震えあがっています。靖安軍が押し入ってきて四道溝の位置を教えろというので、部下に教えさせたのだが、そんな惨劇が起ころうとは夢にも思わなかった、わたしに過ちがあるとすれば、日本人の圧力に負けて四道溝に靖安軍を案内したことであり、部下が住民の財産を略奪するのを制止できなかったことだけだ、こともあろうに金隊長との約束を故意に破るはずはないではないか、なんとか許してもらいたい、と言っていました」
わたしは鉄中隊長の話を聞いていろいろと考えてみた。聞大隊長が部下の略奪行為を取り締まらず、部下に靖安軍の道案内をさせたのは、明らかにわれわれとの約束を破ったことになる。だが、日本人の顔色をうかがって生き延びているかいらい軍部隊の将校の仕業であるから、その罪は大目に見てやることもできる。もしも聞大隊長を処刑するなら、どんな結果をまねくだろうか? われわれとの攻守同盟は完全に決裂するはずであり、羅子溝には聞部隊とは比べようもなく悪質な部隊が新たに派遣されてくるだろう。われわれが望むと望まないとにかかわりなく、敵は必ずそう行動するだろう。これは第二、第三、第四の四道溝惨劇を再現させる前提となるだろう。この一帯に汪清、琿春地方の遊撃区の住民を疎開させるわれわれの努力が難関に直面するようになり、羅子溝地区を朝鮮人民革命軍の戦略的拠点として固守したいわれわれの意図もきびしい挑戦に遭遇しかねなかった。ではどうすべきか? わたしは聞大隊長を懲罰せず、われわれの側にもっと強く引き寄せることにした。そのかわり、老黒山一帯の靖安軍を討って、人民を害する者の末路がどんなものであるかを示すことにした。東寧県一滞に送り込んだ偵察兵の報告によれば、老黒山の王宝湾には増強された靖安軍一個中隊の兵力が駐屯しているが、それが四道溝を焦土に変えた殺人者の集団であるというのである。偵察兵は、この中隊が悪名高い美崎部隊所属の一派遣隊であることまで探知してきた。わたしは鉄中隊長にわれわれの決心を伝えた。
「人民革命軍は羅子溝進攻の計画を保留する。聞大隊長がわれわれの信義を破ったのは事実だが、まだ彼にたいする期待を捨ててはいない。聞大隊長は攻守同盟に忠実であろうとする意思をあらためて表明してきたが、なにによってそれを保証するのか。その盟約が確かなものであるなら、まず端午の日に人民革命軍が羅子溝市内で軍民交歓運動会を催すとき、その安全を保障するのが望ましい。きみがもどって大隊長にわれわれの意思を伝えよ、ここで返答を待つ」
軍営にもどった鉄中隊長は、聞大隊長がわれわれの要求をすべて受諾したことを知らせてよこした。われわれの各連隊は戦闘隊形から祝祭隊形に早変わりした。羅子溝進攻の設計を受け持っていた作戦のエキスパートたちは、軍民の好みと感情に合った運動種目を選び、軍民一致の威力を示す合理的な選手団の構成におおわらわになった。敵が駐屯している城市の中心部で、革命軍討伐の使命をおびている敵軍に護衛されながら大盛況裏に開催された、戦史に例をみない羅子溝軍民交歓運動会はこうして準備されたのである。
運動会の当日は、地下にもぐっていた工作員たちまでが見物をした。聞部隊の兵士たちも、このものめずらしい祝祭に目を見張った。四道溝での惨劇で落ち込んだ人民の気勢は、端午の行事とともに再び高まった。軍民交歓運動会は、所属と名称にかかわりなく、人民を侵害しない軍隊とはいつでも友好関係を結ぶ用意があるというわれわれの一貫した立場と意志を内外に示した。
われわれは太平溝で中隊政治指導員クラス以上の軍・政幹部の指揮官会議を開き、老黒山戦闘計画を綿密に立てたのち、四道溝惨劇の犠牲者のための追悼式を厳粛に催した。この追悼式は革命軍将兵の復しゅう心を駆り立てる格好の場となった。
われわれが老黒山で「紅袖」を撃滅したのは、一九三五年の六月中旬ごろだったと思う。「紅袖」というのは、満州地方の人民が靖安軍につけたあだなである。袖に赤い腕章を巻いて歩く彼らのきざな身なりがそういうあだなを生むもとになったようである。そのとき、わが方の隊員たちは王宝湾から敵を巧妙におびき出した。老黒山の王宝湾に駐屯していた靖安軍は、第一次北満州遠征のとき、われわれの背後を執拗に追跡してきた部隊であり、四道溝の惨劇を引き起こした悪質な部隊でもあった。われわれは最初、小部隊を派遣して靖安軍に戦いを仕掛けてみた。だが、嗅覚のするどい彼らはわれわれの部隊が来たのをどうかぎつけたのか、なかなか応戦しようとはしなかった。わたしは村人を通じて、彼らが冬期だけ遊撃隊を討伐し、夏期はなるべく革命軍との交戦を避け、山林隊や土匪だけを相手にしていることを知った。彼らを討つためには、まずその巣窟から引き出さなければならなかったので、誘引戦法を使うことにした。われわれは敵の目につくようにわざわざ白昼に部隊を羅子溝へ撤収させた。敵をしてわれわれが他の方面に撤収したものと思い込ませる計略であった。そしてその夜のうちに、部隊をひそかに靖安軍の駐屯している王宝湾付近の樹林の中に移動させ、要撃の陣を張らせた。そして中国語が話せる十名余りの隊員を山林隊に変装させて王宝湾へ送り込んだ。村へ行った彼らは、住民のロバを奪い、家財道具を蹴散らし、野菜畑の柵を引き抜いたりし、騒ぎを起こして引き揚げてきた。しかし、最初の日はどうしたわけか、靖安軍はその手に乗らなかった。われわれは待ち伏せの地点で簡単に腹ごしらえをして夕食に代え、蚊に刺されながらうんざりする一夜をすごした。李寛麟が張喆鎬と一緒に白頭山地域を開拓するとき、蚊がひどく寄りつくので額にヨモギを巻きつけてジャガイモ畑の草取りをしたという話を聞いたことがあるが、老黒山のブヨのすさまじさもまたへきえきするほどのものだった。隊員たちはしきりに頰やえり首を叩きながら、この老黒山ではブヨまで「紅袖」に似て毒針で人を刺してくるとぼやいた。翌日も誘引班は王宝湾へ行って、山林隊の真似をしてもどってきた。少々ゆとりのありそうな家へ行って鶏を二、三羽捕ってこそこそと逃げ出すふりをすると、やっと靖安軍の一群が誘引班を追跡しはじめた。その日は、山林隊がまた現れたといって、住民がすごく騒いだ様子だった。実のところ、靖安軍は遊撃隊の戦法を知りつくしていた。彼らは遊撃隊が輜重隊をどう襲撃し、城市襲撃にはどのような作戦を用いるかということまで知っていた。そういう部隊をあざむくというのは、猫の首に鈴をつけることにひとしい至難のわざだったが、誘引班が山林隊の略奪の演技を首尾よく果たしたのだろう。
この戦闘にまつわるエピソードのうち、いまなお忘れられないのは、わたしが二日目の日に待ち伏せの地点で疲労のあまり居眠りをしているとき、金択根の夫人にゆすり起こされたことである。彼女はわたしが十里坪の谷間で熱病に苦しめられていたときも、看護兵の役を果たし、夫とともにたいへん苦労をした。いわば副官の役を果たしたわけである。ある日、彼女が葉の広い草を摘んできて、食用になりそうだがなんだか分からないと言って見せてくれた。それはシラヤマギクだった。熊の多い所に自生する草なので、わたしはそれに「熊シラヤマギク」という名をつけようと言った。解放後に大紅湍に行ったとき、そこでこの草を賞味した。
革命軍の伏兵圏内に入ってきた敵は、「こんな所で包囲されたら大変だ」と言いながら、不安そうにあたりを見まわした。敵が全員谷間に入ってきたのを見届けてから、わたしは戦闘開始を知らせる銃声をあげた。日本人指導官に狙いを定めて一発撃つと、のけぞって倒れた。敵はまともな抵抗もできず、またたくまに壊滅に瀕した。遊撃隊のアジテーターたちは、敵が地形地物を利用して抵抗を試みる前に、中国語で呼号工作に転じた。「日本帝国主義を打倒せよ!」「銃を捨てれば命は助けてやる!」こう呼びかけると、敵は抵抗をやめておとなしく武器を差し出した。老黒山戦闘はわれわれがおこなったはじめての代表的な誘引伏兵戦であった。このときから、日本の軍警と満州国軍はわれわれの戦法を「羅網戦法」と称した。
われわれは老黒山戦闘で、「天下無敵」を誇り傍若無人に振舞っていた靖安軍を百余名も撃ち倒した。重機、軽機、歩兵銃、手榴弾、軍馬など多くの戦利品が手中に入った。戦利品の中には迫撃砲もあった。敵は馬の鞍にその迫撃砲を積んで威を張っていたが、一発も発砲できずにわれわれに奪われた。わたしが趙宅周老に贈った白馬も、この戦闘でろ獲した十余頭の優良種軍馬のうちの一頭であった。われわれはこの戦闘で数匹の軍用犬も手に入れた。指揮官たちはそのうちの何匹かを護身用として使うようわたしに勧めた。だが、わたしはそのシェパードを太平溝と石頭河子の人民にやるように命じた。ろ獲した軍用犬は役に立たないと考えたからである。大荒崴会議のときも、同志たちがわたしの護身用にと、日本軍からろ獲した犬を一匹引いてきたことがあった。非常にたけだけしく利口な犬なので、役に立つと思ったのであろう。戦友たちの気持はありがたかったが、わたしは、日本人に飼いならされた犬なのだからパルチザン隊長にはなつかないだろうといって受け取らなかった。案の定、その犬は後日、敵の討伐隊との交戦があったとき、日本人の臭いをかいで敵陣へ逃げ去ってしまった。わたしは白馬にはかなり世話になったが、戦利品の軍用犬には一度も世話になったことがない。
われわれの抗日戦争史で誘引伏兵戦の典型とされている老黒山戦闘の全過程は、誘引伏兵戦こそは遊撃戦の特性にかなったもっとも能率的な戦闘形式の一つであることを実証した。この戦闘を起点にして、われわれは後日、濛江で工藤部隊を掃滅し、長白、臨江一帯では美崎自身が率いた精鋭部隊を撃破し、最後の決戦の時期には靖安軍の後身である第一師を壊滅させる連戦連勝の痛快な記録を残した。老黒山戦闘は固定した地域で遊撃区の防衛に主力をそそいでいた人民革命軍が、狭い解放地区の枠から脱して広大な地域に進出し、大部隊活動の威力をはじめて発揮した戦闘である。老黒山の谷間を震撼させたわが軍の銃声は、遊撃区を解散して広大な地域に進出し、積極的な大部隊活動に転ずるという腰営口会議の方針への賛歌であり、第二次北満州遠征の勝利を予告する鐘の音でもあった。老黒山戦闘の勝利によって、人民革命軍は第二次北満州遠征を成功裏に保障する準備を十分にととのえることができるようになった。
人民革命軍の勝利のニュースは稲妻のような速さで満州全土に伝わり、靖安軍の圧制に苦しんでいた朝中両国の労農大衆に信念を与え、彼らを闘争へと励ました。ろ獲した馬に戦利品を積んで太平溝に帰ってくるとき、地元の人民は道路の両側に長蛇の列をなして熱烈に歓迎した。三道溝の李泰京老もわれわれが休息していた新屯子村に駆けつけてきた。金廠と火焼舗の人たちも、慰問品を携えて人民革命軍を訪ねてきた。
わたしは第二次北満州遠征に先立って、琿春遊撃隊からの情報にもとづき、大荒溝に駐屯している一個中隊の満州国軍をわれわれの側につける作戦を進めた。そのときわたしに情報をもたらしてくれたのは、琿春遊撃隊で伝令を務めていた黄正海だった。彼の父黄丙吉は、安重根が伊藤博文を射殺するとき、それに参画した名だたる愛国烈士である。黄正海はわたしに、大荒溝の満州国軍中隊の中に容共思想をもつ中士(下士官クラスの階級)が一人いて、兵士によい影響を与えている、けれども彼は中隊全員を獲得しようとせず、一部の兵士だけを率いて遊撃隊に入ろうとしている、よくすれば中隊の全員を獲得できそうだが、助言をもらいたい、と言うのであった。大荒溝に駐屯している満州国軍の中隊にたいしては、わたしもすでに関心を払っていた。その一個中隊の満州国軍というのは、われわれが通う道筋に立ちはだかってなにかと遊撃隊の活動を妨げる厄介な存在であった。われわれはその中隊長が中国人であることや、中隊の通訳を務めている朝鮮人がきわめて悪質であることも知っていた。
造反工作の中心人物は、黄正海などのわれわれの工作員から指図を受けていた例の中士であった。彼はわれわれが送り込んだ工作員でもなく共産党員でもなかった。ただ、大連で労働をしていて軍隊に徴集された平凡な青年であった。彼が属していた討伐隊はもとは熱河に駐屯していたが、そのうち討伐隊の活動舞台が間島に移されたので、彼もおのずと琿春に来て服務するようになったのである。熱河にいたころから、間島には共産党の勢力が強大だという話を聞かされてきた中士は、琿春に来てからも周辺での共産主義者の活動に深い関心を払い、ひいては共産党と手を握って自分の運命を新たに切り開いてみようという大胆な考えまでもっていた。
ある日、飲食店で同僚たちと話しこんでいた中士は「くそおもしろくもない、共産党と戦ってなんの得があるというんだ。あっさりやつらを一人撃ち殺して寝返ってしまおうか」と不平を鳴らした。飲食店でこれを目撃した黄正海は、ただちにそのことを指揮官に報告した。こうして中士はわれわれが獲得すべき対象となった。折しも、琿春市内へ小部隊で工作に出かけた隊員の一人が警察に逮捕される事件が起こった。彼は朝鮮人であったが、中国語に堪能だった。警官が彼を縛りあげ、殴ったり蹴ったり怒鳴りつけたりしているとき、通りすがりにこの光景を見た例の満州国軍の中士が、逮捕された隊員を助けた。「この野郎、共産党なら共産党でかまわんじゃないか。きさまにしろこの人間にしろ、同じようにしいたげられている立場だというのに、そんなに殴る法はないだろう」彼はこう言って警官に平手打ちを食わせて追い払ってしまい、その隊員を自分の兵営に連れていった。途中で中士はこう言った。
「きみをここで逃がしてやることもできるが、わたしと一緒にわれわれの兵営まで行ってもらいたい。きみが勇敢な人なら、うちの部隊に一晩泊りこんで、中隊長などに共産軍の実情を話してくれ。わたしらはそれがとても知りたいのだ。うちの中隊には日本人の指導官が一人おり、通訳をしている朝鮮人が一人いるが、二人とも悪者だ。この二人はなんとかして街へ行かせるから心配しなくてもいい」
工作隊員は、中士がどんな思惑でそんな誘いをかけてきたのか判断がつかなかったが、どっちにしても死ぬのは同じだ、どうせなら誇り高く死のうと決心して満州国軍の兵営までついて行った。兵営に到着するとすぐ、中士は自分と仲のよい中隊長に工作隊員を会わせた。三人がテーブルを囲んで密談を交わしているとき、突然、日本人指導官が中隊指揮部に現れ、工作隊員をうさんくさそうに見つめた。中士は指導官に疑われないように、中隊長に向かって「この人はわたしの親友で、酒代を取りに来たのだが金がなくて困っている、酒代を都合してもらえないだろうか」と言った。中隊長もまたなに食わぬ顔をして「酒代はわたしが払ってやるから心配するな。きみの親友ならわたしの親友も同然だから手厚くもてなすべきだ。このまま帰すわけにはいかない。ここでお茶でも飲みながらゆっくり旧交を暖めて別れればいい」と言った。指導官が街へ出かけて行ったあとで、三人はまた密談をつづけた。中士に請われて、工作隊員は共産党の宣伝をした。「遊撃隊は朝鮮人もいれば中国人もいる朝中連合軍だ。わたしは朝鮮人だ。朝鮮人も日本軍の満州占領に反対している。きみたちの満州国軍にも愛国者がいるが、そういう人たちとは手を握る用意がある」と言って、満州国軍にたいするわれわれの政策を宣伝し、満州国軍にちなんだ歌をいくつか中国語でうたって聞かせた。工作隊員の宣伝に感化された満州国軍の中隊長は「明日、きみが帰ったら、われわれには遊撃隊と戦う考えはないということを上官に報告してほしい。たとえうちの部隊が討伐に出るとしても、密林のあたりで合図の銃声を何発か鳴らすから立ち退いてもらいたい」と言った。中士は中士で工作隊員を見送りながら「わたしは今後きみと連係を結びたい。きみもわたしと連係を結んで損することはないはずだ。今日相談したことをきみの政治委員に報告してもらいたい」と語った。こうして、われわれはそのルートを通じて造反工作を進めた。わたしは黄正海に具体的な任務を与えて大荒溝へ送り返した。黄正海はその中士と再び連係を結び、満州国軍の中隊を造反させる工作を進めた。中士は黄正海に「わたしらは仕方なしにこんな真似をしているのだ。人間として生まれ、他人のかいらいになることくらい恥ずべきことはない。きみらが羡ましい。中隊の全員を率いて共産軍の側に寝返る覚悟ができているから、わたしらを襲撃してくれ」と切望した。
われわれは満州国軍の兵営の付近に二個中隊か三個中隊の兵力を派遣した。それらの中隊が兵営を包囲し、満州国軍の兵士たちが朝の体操をしているときに威嚇射撃をして呼号した。満州国軍側は代表をよこして談判を求めたが、その代表がわれわれの影響下にあった大連出身の中士であった。中士は交戦の中止を求めたのち、わが方の代表に造反の決意を表明した。その決意のとおり、百五十余名の満州国軍将兵は日本人指導官と朝鮮人の通訳を処刑し、市内の敵の物資をすべて奪って馬車に積み、ラッパを吹き鳴らしながらわれわれの遊撃区域に入ってきた。この中隊を人民革命軍にどう編入するかという問題をめぐって、琿春連隊の指揮官たちは論議を重ねた。中隊を解体して人民革命軍の新しい中隊に配置しようという意見と、中隊を解体せずにそのまま編入しようという意見とがあった。だが、この両案のうち圧倒的多数を占めたのは、解体して編入しようという主張であった。連隊指揮部はその案をもって寝返ってきた中隊の指揮官たちと談判を重ねた。しかし彼らは、中隊の解体には容易に同意しなかった。琿春連隊の政治委員崔鳳浩は、わたしにこの問題の結論を求めてきた。わたしは満州国軍兵士の要求を正確に把握するため、彼らとじかに話し合ってみた。解体に反対する満州国軍側の態度は強硬だった。解体説のため、兵士たちは不安がっていた。捕虜でもなく、意識的に寝返ってきた人たちを、その願いに反してこの中隊、あの中隊と分散配置するというのは、正直に言って礼儀をわきまえない処遇であった。もっとも合理的な案は、彼らの要求を最大限に尊重することであった。わたしは、中隊を解体せずに編入するとして、人民革命軍の実情に即して三個の中隊に分立させ、各中隊の指揮官は造反軍人の全隊会議で民主主義的に選出するという折衷案を示し、それを討議にかけた。満州国軍側はこの折衷案を受け入れた。侯国忠連隊長と崔鳳浩政治委員もこの案に賛成した。造反工作で主動的役割を果たした中士も中隊長に選ばれた。もとの中隊長はソ連へ留学させることにした。わたしは寝返ってきた兵士のうち、中国関内に行くことを希望する者はソ連経由で関内へ送り、残留してわれわれとともに戦うことを志願する者は琿春遊撃隊に編入したが、北満州へ行ったとき彼らを李延禄の部隊に引き取らせた。
敵は、羅子溝、太平溝方面に進出して積極的な軍事・政治活動を展開していた人民革命軍の大部隊を包囲せん滅しようと、関東軍、満州国軍、警察、自衛団、鉄道警護隊などの大兵力を繰り出した。討伐軍の主力は羅子溝方面から太平溝を圧迫し、一部は腰営口と百草溝一帯に散開し、人民革命軍が西南方向へ退却する場合、その一帯の狭い地域で完全に包囲せん滅する作戦準備をしていた。一九三五年六月二十日、敵はついに太平溝への攻撃を開始した。われわれは太平溝の裏山に部隊を散開させ、迫撃砲中隊の近くに指揮部を定めた。その下方には天然の洞窟があった。敵は船に乗って大火焼舗河を渡河しはじめた。そのとき、われわれの迫撃砲中隊が砲門を開いた。敵船が一隻こっぱみじんになった。度胆を抜かれた敵は渡河を断念し、ほうほうの体でもとの陣地に逃げ去った。迫撃砲の砲手たちの腕は見上げたものだった。満州国軍を寝返らせ、その一部の陣容で迫撃砲中隊を編制したかいがあった。満州国軍の戦闘参加を気にしていた懐疑論者たちも、これを見ては自らの過失を反省せざるをえなかった。わたしは迫撃砲中隊長を抱きかかえて勝利を祝った。満州国軍から寝返ってきた人たちを信頼しきっていなかった革命軍の一部の指揮官も、喜びをおさえきれず迫撃砲の砲座に駆けつけてきた。大火焼舖河に鳴り響いた人民革命軍の砲声は、わが国の砲兵力の誕生を告げる歴史的な呱々の声であった。その砲声に敵は震えあがり、人民は躍りあがって喜んだ。現在われわれは、この日を砲兵デーとして記念している。
大火焼舖河の渡河を企図して迫撃砲の攻撃を受けて羅子溝へ逃げ帰った聞大隊長は、「まったく七不思議の一つが人民革命軍だ。昨日ろ獲したばかりの火砲で、今日はたった二発目に命中させる神技をもっているのだから、それにどう対抗できるというのか。人民革命軍に刃向かうというのは愚の骨頂だ。これからはわたしの首に日本刀が飛んできても
老黒山と太平溝であいついで凱歌をあげた人民革命軍の威力を背景に、われわれの革命組織は各地で生気を取りもどして活動した。羅子溝の反日会長は、人民革命軍が老黒山で靖安軍を壊滅させて以来、市内の住民は村政府ではなく、自分の所に来て婚姻届や出生届までするようになったと自慢した。
人民を害する者は赦さない! われわれは老黒山と太平溝で朝鮮共産主義者のこの意志を再び実践によって力強く示した。だが、人民を害する者はあまりにも凶悪だった。「共産主義を撲滅せずにはわれわれが生存できない!」、これはまさに人民の敵として登場した人間たちの信条であった。われわれはこういう信条の持ち主となお多くの戦いをつづけなければならなかった。太平溝戦闘のとき敵が流した血は、一週間以上も大火焼舖河を濁らせていた。そのせいか、その年は例年になく多くのウグイが群をなしてこの川をさかのぼってきたという。
5 革命の種子を広大な地域に
「粛反」の旋風がもたらした破滅的な結果のため東満州全土が悲嘆に暮れ、進路を模索していたとき、われわれは解放地区形態の固定した遊撃根拠地を解散して広大な地域に進出して積極的な大部隊活動を展開する新たな路線をうちだし、それを一九三五年三月の腰営口会議に上程した。この路線は、参会した絶対多数の軍・政幹部の全幅の支持を得た。だが、すべての人がこれに理解と共鳴を示したわけではなかった。会議に参加した共産党と共青の幹部の中には、遊撃区の解散に反対する人もいた。「遊撃根拠地を解散するとはなんたることだ。解散させてしまう遊撃区なら、なぜ建設したのか。食べるものも食べられず、着るものもまともに着られずに、なぜこの遊撃区のために三、四年ものあいだ血を流してきたのか。これは右傾だ。投降主義だ。敗北主義だ」と言ってわれわれを猛烈に攻撃した。当時、彼らが遊撃区の解散に反対してもちだしてきた主張を、学界ではいま「遊撃区死守論」と称している。
腰営口会議で遊撃区の死守をもっとも強硬に唱えた代表的人物は、寧安遊撃隊の創建者の一人である李光林であった。共青寧安県委員会と吉東局で青年運動にたずさわってきた李光林は、その後、汪清地方に派遣され、柴世栄、傅顕明などの反日部隊の司令たちとともに抗日連合軍を組織する準備活動に関係した。彼が腰営口会議に参加したのは、共青東満特委の臨時書記という肩書をもっていたときだったと思う。李光林はつぎのような論拠で遊撃区の解散を主張する人たちを攻撃した。
遊撃区を解散して革命軍が広い地域に進出すれば、人民はどう暮らしていくのか。遊撃区を解散したのちは人民を敵地へ行かせると言っているが、これは軍隊と一心同体になって生死をともにしてきた彼らを死地に追い込むことになるではないか。遊撃区という軍事的・政治的拠点をもたずに革命軍が遊撃戦を展開できるというのか。遊撃区で革命的に洗練された人民が敵地に行くというのは、われわれが手塩にかけて育てた数万名の革命大衆を失うことになるではないか。総体的には、遊撃区解散の措置が革命を一九三二年の原点に引きもどす結果をまねくのではないか。
スムーズに落着するかにみえた論議は、李光林の長広舌のため、しだいに複雑な様相を呈してきた。遊撃区解散の方針に支持を表明した人たちの中からも、彼の言葉を肯定する者が現れてきた。会議は遊撃区死守論と遊撃区解散論の二派に分かれて論議が交わされた。論争が極点に達すると、修養に欠けた一部の人は人身攻撃までしながら相手を強引に抑えこもうとした。なかには、李光林の私生活まで引き合いに出して、彼の主張を論駁する者もいた。李光林は寧安県で区共青の責任者を務めていたとき、ある女性に恋をしたことがあるという。恋慕の情はきわめて熱烈なものであったが、相手はそれを受け入れようとしなかった。彼がそそいだ情熱の代価として得たものは、出すたびに送り返されてくる恋文と、見ても見ぬふりをしてすげなく顔を背ける冷淡な態度のみだった。恋愛というものはやはり、一方の主観的欲望や情熱だけでは成立しないものである。彼は自分に失恋の苦汁を味わわせたその女性を穆棱県へ追いやって別の女性と痴情関係を結び、そのうち汪清に来たという。李光林の主張を論駁するために引き合いに出された裏話なので、ことの真偽は速断しかねた。発言者がこういう裏話までもちだすという卑劣な方法で李光林に強打を浴びせたのは、愛していた女性を他の地方に追放してしまうほど復しゅう心の強い彼のことだか
ら、論争の相手を負かすためならどんなことでもしかねないということを証明するためであった。ある人は、李光林はかつて朝鮮共産党満州総局管下の幹部連に熱心に追従していた「火曜派系列の残党」であることを想起させながら、遊撃区の解散に反対するのは分派病の再発とみなしてもさしつかえないのではないかと論難した。論敵の苦々しい失恋話をあばきだしたり、分派の残党というレッテルを貼りつけたりするのは、どうみても野卑な振舞いであった。だが、李光林にも責任はあった。自分を人民の忠実な保護者、人民の意思と利益の徹底した代弁者に描写し、他の人たちにたいしては、右翼日和見主義者、人民にたいする裏切り、赦しがたい自殺行為といったレッテルを貼ってはばからなかったからである。李光林のような人たちが遊撃区の解散に必死になって反対するその気持の一端は、わたしにも十分理解できた。遊撃区を解散するのはわれわれにとっても苦痛であった。自分の手でうち立て、自分の血と汗で築きあげ、「天国」以上に思ってかたく守ってきた楽天地を、なんの未練も愛情もなく見捨てて逃げだす人間が果たしているだろうか。われわれは涙をのみ、連綿たる未練と愛情に苦しめられながら、遊撃区の解散を決心したのである。李光林もやはりわれわれに劣らず遊撃区を愛したに違いない。しかし、当時の実情で解放地区形態の固定した遊撃区で膨大な軍事的潜在力をもつ強敵を相手に長期間の正面対決をするというのは、いかに公正に評価しても冒険主義としか言いようがなかった。それは自滅をまねく道であった。
遊撃区の生命力が絶頂にあった一九三三年か一九三四年当時には、われわれもあえて解散を口にすることはできなかった。むしろわれわれは当時、遊撃区をオアシスや地上の天国とみなしていた。ではなぜ、一九三五年になっては遊撃区の解散を主張するようになったのか。これは気まぐれではないか? 違う。気まぐれでもなく、動揺でもなく、後退でもない。それはかえって一歩前進ともいえる大胆な戦略的措置であった。われわれが一九三五年になって遊撃区の解散をあえて決心したのは、当時の主・客観的情勢がまさにそれを求めたからである。豆満江沿岸に建設された遊撃区は、自己に課された使命と任務をまっとうしたといえる。われわれが遊撃区の使命と任務としてうちだした最大の課題は、革命力量を保持し、育成することであり、同時に抗日武装闘争の拡大発展のための政治的軍事的・物質的技術的土台を強固に築くことであった。もちろんそのとき、われわれは任務遂行の期間を三年とか四年と見積ったわけではなかった。ただ、その期間が短ければ短いほど望ましいと考えただけである。
武装闘争の熱風の中で、軍隊と人民は不死鳥に成長した。創建当時数十名にすぎなかった遊撃隊伍は、大規模の遊撃根拠地防御戦闘と都市攻略戦まで展開できる、膨大な力量を擁する人民革命軍に発展した。人民革命軍の軍事・政治宝庫には、生新で独創的な遊撃戦の経験が豊かに蓄積された。遊撃戦争は闘士を育てあげる溶鉱炉であり、軍・政大学であった。この溶鉱炉からは純粋な鋼鉄だけが取りだされた。石ころ畑や地主の厩舎に転がっていたずく鉄も、この炉に入りさえすれば黒光りする鋼鉄になって出てきた。抗日軍・政大学は、貧富は手相にあり、易者の卦にあり、巫女の御託にあると考えていた農夫や日雇い人夫までも闘士につくりあげた。
以前、わたしは金慈麟の作男時代の話を聞いて大笑いしたことがある。笑いなしには聞けないひとこまの喜劇がその経歴を特色づけていたからである。いつものように金慈麟は朝早くから地主の家の牛を引いて野原に出た。彼が牛の飼葉になりそうな草を選んでせっせと鎌を使っているとき、山の角から突然汽車が現れ、全速力で走ってきた。彼は鎌を置いて土手っぷちに座り、汽車を眺めやった。汽車のデッキでタバコをふかしている色白の紳士の姿が目にとまった。なぜかその色白の顔が無性に憎らしく見えた。それで紳士に向かって拳を振りかざした。暖衣飽食している人間にたいする一種の反発であった。紳士の方でも目をむき、拳をかざして怒鳴り返した。その拍子に紳士のパナマ帽が飛んでしまった。紳士はしまったとばかりに両手を宙に泳がせたが、あっというまに疾走する汽車とともに遠い彼方に消えてしまった。そのかわり、紳士のパナマ帽は線路のふちの池に舞い落ちた。金慈麟は池に飛び込み、パナマ帽を拾い上げて頭にかぶり、金持になったような気分で線路の土手に立った。彼は運よくも土手の上で五分銀貨が包んであるハンカチを見つけた。紳士の頭からパナマ帽が吹っ飛ぶときに一緒に舞い落ちたハンカチだった。五分でなにを買ったものかと一日中思案した十代の作男金慈麟は、その晩、例のパナマ帽をかぶり、金持の息子たちが毎晩集まるばくち場へ行った。彼は五分の元手で、一晩のうちに金持の息子たちから大金をせしめた。彼はその金で地主に借金を支払い、一部は貧困と涙のうちに一生を送っている隣家のあわれな老人に恵んでやった。手元に残った金はいくらにもならなかったが、その金額なら何年かは不自由なく暮らしていけるものと思った。けれども、一年とたたないうちに、彼は再び借金に苦しめられるようになった。それで一文の金でも余計に稼ごうと牛のように働いた。一生懸命に働きさえすれば暮らしも楽になり、一身代つくって、うまくすれば出世もできるというのが、作男時代の金慈麟の世界観であった。だが、労働は彼に富を与えず、生活改善の道も開いてくれなかった。働けど働けど、彼にめぐってくるのは貧困と蔑視だけだった。彼は聡明で力持であったが、金がないばかりに人間扱いをされず、動物のように扱われた。彼は自分を侮辱し虐待する者にたいしては真っ向から対抗した。しゃくにさわると、相手の胸倉をつかんで腕力をふるうこともあった。だが、そういうやり方では生活苦を打開することができなかった。彼はその後、王隅溝遊撃区に来て遊撃隊に入り、間島でも五本の指に入る名機関銃射手に成長した。
朝鮮人民のあいだに不死鳥として広く知られている紅頭山戦闘の主人公李斗洙も、ひところは道端で物乞いをして歩く浮浪者であった。
遊撃区は数千数万を数える抗日の英雄と烈士を育てあげる源泉となった。歯がすっかり抜けた老婆でさえ遊撃区に来ては抗日を叫ぶアジテーターになった。ここではすべての人が働き手、哨兵、戦闘員であり、有能な組織者、宣伝者、実践家であった。趙東旭、全文振、呉振宇、朴吉松、金択根はいずれも汪清遊撃区で鍛えられたれっきとした革命家であった。抗日の英雄たちはその血と汗によって、この世の人が驚異の目を向ける不滅の抗争史をつくりだしたのである。
セクト主義と同時に左右の日和見主義に反対する困難なたたかいを通じて、革命隊伍はいかなる鉄槌によっても打ちくだくことのできない一つの大家庭に統一団結した。武装闘争と党建設のための大衆的基盤も強固に築かれ、中国人民との反日共同戦線も不抜のものとなった。これらの成果は、遊撃区が生まれて三、四年のあいだに達成されたものである。果たして遊撃区という策源地をもたずに、朝中共産主義者がこれほど実り豊かな収穫をおさめることができたであろうか。遊撃区という出陣基地、兵站基地、後方基地をもたずして、抗日革命に提起された第一段階の戦略的課題をかくも徹底的に、りっぱに実現することができたであろうか。
金明花は娘のころ、馬の毛で冠をつくって生計を立てていた最下層の女性である。彼女は遊撃区に来て人間らしい生活をするようになり、抗日大戦の熱風の中で朝鮮人民革命軍の隊員に成長した。遊撃区でなかったら、彼女はそのような驚くべき進歩の道を歩むことができなかったであろう。進歩はおろか、肉体的生命も救えなかったはずである。
抗日戦争が生んだ闘士の中には、かつての猟師もいれば賤民もおり、訓導、筏流し、鍛冶屋もいた。林春秋のような薬局の主人もいれば、徐哲のような医師出身の革命家もいた。東満青総の影響から脱してきた青年がいるかと思うと、南満青総や駐中青総の傘の下から参軍してきた青年もおり、都会から出てきた白面の書生や田舎から出てきた蓬髪の青年もいた。遊撃区は出身と生活経歴のまちまちな人間を一つの号令によって動く誠実な軍人に育て、抗日救国の戦列で祖国と民族のために決死の覚悟で奮闘する時代の寵児に育てあげた。
間島の山岳地帯に解放地区形態の遊撃区を創設したわれわれの決断が正当で時宜にかなったものであったことは、実践を通じて十分に検証された。ところが、遊撃区の生命力がまだ残っていたそのころ、われわれは腰営口でその解散の緊迫さを新たに力説するようになったのである。その根拠はなにか? 使命と任務をまっとうした遊撃区をこれ以上死守する必要はないということである。
一九三〇年代中ごろの間島地方における革命情勢は、朝中共産主義者に新しい時代の流れに対応する路線上の変化を求めていた。遊撃区にとどまって決戦歌をうたい、従来どおりの方法で一定の領地を守りつづけるというのは、厳正に言って、革命をさらに深化させる意思がなく、現状維持でよいという心算だといえた。革命を流れる水にたとえるなら、遊撃区死守論者の主張は、その水が海に流れ込まず湖や貯水池に留まっていることを望むにひとしいものであった。
革命は大河の流れにたとえることができる。岸壁につきあたってはうめき、溪谷に阻まれてざわめきながらも、宙に砕け散る億万の飛沫を集めてとうとうと海にそそぐ大河にひとしいのがほかならぬ革命なのである。大海を背に、山岳に向かって逆流する大河を見たことがあるだろうか。逆流と停止は大河の本性ではない。大河はただ海に向かってのみ流れる。障害物があれば突き崩し、同僚や同行者がいれば包容して、はるか彼方の終着点である海へ海へとたえまなく流れていくのである。大河の水が腐らないのは、まさに停止と休息を知らぬそのあくことなき運動のためである。もしも大河が一瞬たりとも流れを止めるなら、その川の一隅では腐敗現象が生じるようになる。あらゆる浮遊生物が繁殖して王国を築くであろう。
もし革命が革新を排除し、既存方針の固守を絶対視する方向に走るなら、その革命は流れを止めた川と同じものになる。革命は自分が立てた戦略的目標を達成するために、新しい環境と条件に即応して戦術を不断に更新しなければならない。こういう更新なしには革命は沈滞をまぬがれなくなる。同じ方法が五十年後にも有効であり、百年後にも絶対的価値を有すると考える人がいるとするなら、それこそ愚かな妄想家と言わざるをえない。これは人間の自主性と創造性と意識性を無視する立場であるとしか言いようがない。戦術はあくまでも相対的意味をもっている。一瞬を代表することも、一日を代表することもでき、一か月か一・四半期、一時期を代表することもできるのがほかならぬ戦術である。一つの戦略を成功に導く過程には十種、百種の戦術がありうる。一つの戦略のために一つの処方にのみ固執するのは、革命にたいする創造的態度ではない。それはドグマである。ドグマは自分の手足を自分で縛りあげる馬鹿げた自殺行為である。ドグマがあるところでは、生新で迫力のある政治はみられず、活力にみちたとうとうたる革命の大河にめぐり会うことはできない。
革命を大河の流れのように力強いものにする力は創造と革新にある。なぜなら、創造と革新こそは、自主的に生きるためにたえまない進歩と繁栄の道を歩もうとする人民大衆本来の要求を忠実に反映しているからである。そういう意味で、創造と革新は革命の推進器といえる。一民族の歴史の発展がどれほど速いかは、この推進器の馬力にかかっているといえる。朝鮮革命はこの推進器の力で、二一世紀の門前にまで迫っている。二一世紀を目前にひかえている今日、朝鮮労働党でもっとも重要な問題として論議されている政治的テーマはなにか? それは帝国主義連合の強力な封鎖の中で、人民大衆中心の朝鮮式社会主義をいかなる方法で固守し、輝かせていくかということである。
一世紀前にも、朝鮮半島は大国の包囲の中にあった。仁川沖には常時、列強の軍艦が浮かんでいた。封建朝廷が鎖国に固執して斥洋斥倭の立場をとるたびに、彼らは大砲を撃って門戸開放を迫った。日本帝国主義は親日内閣をつくりあげ、それを発動して内政改革まで強行させた。王と王妃の周囲には、日本帝国主義が差し向けた顧問や公使、密使たちが目を光らせていた。これも一種の包囲であった。
外来侵略者と帝国主義の包囲と封鎖は、歴史的に朝鮮民族に強要されてきた試練である。わたしも朝鮮民族とともに一生この包囲と封鎖の中で生きてきた。地政学的特殊性からくる宿命なのであろうか? もちろんそれも一因とはなるであろう。朝鮮という領土がかりにアラスカか北極のある氷河の端についていたとすれば、わが国にたいする強大国の興味も半減していたのではなかろうか。しかし、こういう「かりに」ということなどは考えられない。どんな国がどこに位置しているのかというのは問題外である。大国に追従せず自主的に生きていく国は、地球のどこに位置していようと、つねにグリーン・ベレーの攻撃目標になるか、無数の「トリセリ法」のいけにえになりうることを覚悟しなければならないのである。それゆえ、一生自主的に生きることを決心した人は、帝国主義の封鎖をつねに覚悟すべきであり、それを突き破っていく準備をととのえなければならないのである。
間島の抗日根拠地は、一九三五年にも蟻のはいでるすきもない封鎖状態におかれていた。この年の敵の封鎖は頂点に達した。われわれは路線転換をして革命を大団円にもちこもうと決心したが、敵は封鎖網を最小限にせばめ、「共匪」粛清で決定的な勝利を達成しようともくろんでいた。日本帝国主義は数千数万に達する精鋭兵力を動員して遊撃区を幾重にも包囲し、抗日根拠地の生きとし生けるものを地上から抹殺する討伐作戦を毎日のように強行した。
革命軍と人民との連係を断つ敵の策動のうちで基本をなすのは集団部落政策であった。この政策によって、人民革命政府の管轄外の行政区域のすべての住民は、好むと好まざるとにかかわりなく、土城と砲台に取り囲まれた密集部落に押し込まれ、五家作統法や十家連座法といった悪法と中世的な秩序の支配のもとで、モグラのような生活を強いられた。敵が満州各地に散在する数千数万の村落と民家に火を放ち、最後通牒ともいえる退去令を下して住民を平地の土城村へ強制移住させたのは、軍隊と警察、武装自衛団が常駐している「安民村」に居座ってらくに統治しようという目的もあったが、それよりも土城、砲台、堀、囲い、探照灯、鉄条網といった人工的な障壁によって、「共匪撲滅」の最大の障害物となっていた軍民一致の血脈を永久に断ち切ってしまおうとするのが主な目的であった。遊撃隊が人民の保護者であり、人民が遊撃隊の後方であり、重要な情報源であることは、敵も十分承知していることであった。人民をすべて土城内に押し込んでおけば、道路建設や軍事施設の設置などいろいろな夫役に集団的に駆り出すことも、その秘密保持に万全を期することもでき、労働力と資金、物資の徴発を容易にすることができた。敵は集団部落の建設を契機に反共宣伝を強化し、「おまえたちが住みなれた土地で暮らせず集団部落に行くことになったのは共産党のためであり、革命軍のためだ。彼らがおまえたちと通じ合って治安を乱しているので、当局はやむをえず散在する村落をなくし、『共匪』や馬賊に苦しめられずに暮らせる『安民村』を建設することになったのだ」と強弁した。
敵は土城を四角に築き、一区画の土城に百戸ないし二百戸ずつ押し込んだ。家は軍警の監視に便利に、今日の工場地区の社宅のように並べて建てた。同じ村の人でも、いったん集団部落に来ると軒を連ねて住めないように分離し、親戚や近しい人たちですら前後左右に隣接させず、東西南北に配置した。それは気の合う人同士が治安維持の妨げになる謀議をはかったり、秘密結社を企図できないようにするための措置であった。敵が集団部落の住民の分裂と離間をいかに悪らつにはかったかということは、五家作統法一つをとってみてもよくわかる。敵は五所帯で一つの組をつくり、そのうちの一軒でも遊撃隊と内通した事実がわかれば、その組の所帯全部に同じ処罰を加え、はなはだしい場合はその五所帯の住民を全員虐殺した。これが悪名高い五家作統法である。
集団部落を統治する行政官吏と武装軍警は人民革命軍の手中に一升の米も渡らないように、食糧統制をきびしくした。彼らは住民が土城の外へ働きにいくたびに、「共匪」に渡す余分の飯がありはしないかと、弁当包みまで調べた。弁当箱に一人分以上の飯がつめてあると、うむを言わせず奪った。集団部落の農民は野良仕事が忙しくて早朝から作業に出ようとしても、夜が明ける前には城外に出ることができず、そのうえ日が暮れる前に帰ってこなければならなかった。こういう状態なので、革命軍は集団部落の住民からの食糧の援助はほとんど期待できなかった。
遊撃区内で収穫する穀物では軍民の食糧をまかなうことができなかった。そればかりか、敵は執拗に農作を妨害した。彼らは人間と同じように農作物も焦土化の対象とした。発芽する作物は軍靴で踏みにじり、生育期の作物は火を放って焼き払い、実った穀物は武装隊が牛馬車ですべて運び去った。これは銃砲で全滅できない遊撃区域の軍隊と人民を完全に餓死させようとする卑劣きわまる飢餓作戦であり、首を締めあげる封鎖作戦であった。
民生団は解体したが、革命隊伍を内と外の両面から分裂、瓦解させる敵の破壊作戦は、従前に比べていっそう悪らつな様相を呈するようになった。投降を勧めるビラには、美人の裸体写真や安物の春画まで登場した。金で買収された美女たちが、口ーザ・ルクセンブルクやジャンヌ・ダルクの仮面をつけてわれわれの隊伍に入りこみ、軍・政幹部の魂を奪い警察署や憲兵隊につきだすための切り崩し工作を展開した。これらは、間島の遊撃区を人間の世界から完全に隔離された絶海の孤島に変え、それを徹底的に焦土化し窒息させようとする大殺人劇であった。
こういう大勢を見ようともせず、すでに包囲されている遊撃区の防衛にのみ没頭するなら、結局革命軍は軍事的に守勢に立たされ、敵とのたえまない消耗戦に引きずりこまれて多年にわたって育成した革命力量の保持はおろか、その壊滅をまねく恐れすらあった。狭い遊撃区の死守にのみ汲々とするのは、つまるところ赤色区域の軍民すべてを立体戦によって圧殺しようと狂奔する敵のもくろみに歩調を合わせる結果をまねくのみであった。
会議参加者の過半数が、遊撃区死守論を冒険主義として批判したのは正当なことであった。いまでもわたしが不思議に思うのは、あのとき腰営口会議で遊撃区死守論に固執した人たちの大部分が、日常生活においてドグマのはなはだしい、極左がかった独善的な人間であったということである。奇異なことに、彼らは創造的で革新的な立場の人たちを敬遠視しただけでなく、なにかをよく考案する人、発起する人、夢とファンタジーに富む人までよく思わなかった。だが、われわれは腰営口会議で、この過激で自尊心の強い男たちをとうとう説き伏せてしまった。コミンテルンに提訴することにした反民生団闘争の問題とは異なり、遊撃区解散の問題は会議で決定として採択された。これは、われわれが極左冒険主義との闘争でおさめたいま一つの成果であった。腰営口会議は、人民革命軍が遊撃区域を死守するという戦略的防御から戦略的攻撃の新たな段階へ移行する転機となった。この会議の決定により、われわれは遊撃区域の狭い範囲から脱して、東北と朝鮮の広大な版図で積極的な大部隊遊撃戦を巧みに展開できる洋々たる時代を迎えることになった。間島の五県に限られていた人民革命軍の活動舞台は数十倍に拡大された。活動舞台が広くなればなるほど、限定された地域の封鎖にのみ没頭していた敵が苦境に陥って右往左往するようになることは目に見えていた。五つの県を包囲するのは比較的容易なことといえようが、その他の東北の多数の省となると問題は簡単でない。これまで彼らは遊撃区を封鎖しておき、固定した地域に駐留して口笛を吹きながら楽々とすごしてきたが、これからは人民革命軍を追いまわし、前例もなければ規範にもない戦いをしなければならなくなった。
敵はわれわれの遊撃区解散の措置を「皇軍の分散配置による徹底的な討伐の結果」として「間島共匪の衰退を意味するもの」と描写しながらも、それが広範な遊撃運動へ移行するための新戦術にもとづいた自発的な行動であり、進攻の措置であると認めざるをえなかった。この新たな戦略的措置は、敵に不安と恐怖を与えた。遊撃区解散の措置がとられるという情報を入手した敵は、その解散をさまざまな手口で妨害してきた。軍隊と人民が遊撃区の外に抜け出せないように軍事的封鎖を強める一方、赤色区域の撤廃は武装闘争の終末を意味するだの、共産主義者が遊撃区を解散するのはとりもなおさず遊撃運動の放棄を意味するだのと世論をまどわせ、民心を動揺させる思想攻勢を各面から強化した。こうした敵の策動は、遊撃区解散での第一の難関となった。難関はそれだけではなかった。もっとも気になったのは、人民が遊撃区の解散を喜ばなかったことである。李光林のような軍・政幹部でさえ賛成しなかった新しい路線を、人民がなんの心理的苦衷もなく素直に受け入れるはずはなかった。昨日まで「天国」だと宣伝していた根拠地であるのに、今日になってはなぜ急になくせなくて焦っているのか、一体全体どうするというんだ、と言って遊撃区を解散しないでほしいと哀願する人たちもいた。呉泰熙老は十里坪の住民を代表して、遊撃区解散の取り消しを求める陳情書までよこした。
さまざまな解釈と判断が遊撃区に乱れ飛んだ。一晩過ぎると、出所不明の不吉なうわさがいくつか伝えられ、人びとを驚かせた。革命軍が赤色区域を撤廃するのは民衆保護の負担をはぶくためだとか、朝鮮の狼林山にこもって、国内で遊撃戦を展開しようとして間島を放棄するのだといううわさもあった。なかには、革命軍が疲労困憊したのでソ連か中国関内などに深く入って少し骨休めをしてから、隊伍を一挙に拡大して間島にもどってくるのだと言う人もいた。こうした憶測のうえに、敵の宣撫工作隊が広める流言飛語まで重なって、遊撃区の世論は収拾しがたい混乱状態に陥った。
われわれは腰営口で軍民連合大会を開き、遊撃区解散の緊迫さと正当さを根気よく説明した。東満州の各県と各革命組織区に出向いた特派員たちも、同じような性格の大会を開いて軍隊と人民を説得した。民衆は解散しなければ自滅するほかないという道理を理解し、それを正当な戦略的措置として受け入れた。ところが解散を実行する実務的段階に入ると、大多数の人民が敵地へは行かないといって座り込んでしまった。ここで草を食んでもよいし、獣の皮を煮つめて食べてもよい、敵地へ行くくらいなら、いっそのこと遊撃区で飢え死にした方がましだ、どうして敵地へ行き日本軍に苦しめられて生きていけるというのか、死んでも遊撃区を枕にして死ぬからわれわれを行かせないでくれ、と哀訴するのだった。
われわれは「説得し説得し、また説得しよう!」という合言葉のもとに毎日のように住民の家を訪ねまわった。各区別の集いを開いたり組織別の会議を開いたりして説明に説明を重ねたが、少なからぬ住民が敵地へは行かないといってねばりつづけた。わたしは共産主義者の宣伝と扇動がいかに偉大な力を生むものであるかをよく知っている人間の一人である。その力は無限大だという人もいる。しかし、それはどの場合にも適合する言葉であるとはいえない。それは、多くの住民が敵地へ行かず、深い山の中に入っていった事実を見ただけでもよくわかる。一部の住民は敵地での生活をまぬがれようと、参軍を要請した。入隊適齢期に達していない児童団員や少年先鋒隊員たちも、革命軍に従軍するといって聞かなかった。黄順姫はそのとき、自分を連れて行けないなら銃で撃ち殺してくれとまで言って遊撃隊員にすがりつき強情をはった。それで延吉遊撃隊では彼女の参軍を許した。黄順姫がその小づくりなか弱い体で、武装闘争の苦しい試練に耐え、幾百千もの死線を乗り越えて今日まで革命闘士としてりっぱに生き抜いてくることができたのは、あの強情さのおかげだったのかも知れない。太炳烈、崔順山も遊撃区の解散と同時に革命軍に入隊した闘士たちである。
われわれは当時、多くの青少年を遊撃隊に受け入れた。遊撃区で数年間、人民とともにあらゆる試練を乗り越えてきた党活動家と共青活動家、人民革命政府の活動家も武器を手にしてわれわれの隊伍に加わった。裁縫隊や兵器廠、病院の一員になって、革命軍に従軍したいと嘆願する人たちもいた。遊撃区解散の過程を通じて人民革命軍の隊伍はこのように急速に拡大した。
人民革命軍部隊は人民の熱烈な支持声援のもとに、広い地域での遊撃活動に必要な準備と補給物資の確保、武装装備の改善に最大の努力を払った。婦女会員たちは長びつの中にしまってあった布地を全部取り出し、遊撃区を発つ革命軍隊員のために軍服を仕立て、背のうやハンカチ、脚絆、タバコ入れなどをまごころをこめてつくった。われわれも疎開地へ行く人民のために最大の奉仕をした。この奉仕で基本をなすのは、疎開民の要望と実情に合わせて移動準備を急ぐことであったが、それがどれほど緻密に着実に進められたかは、間島の各遊撃区で住民の疎開に先立って作成された戸口調査表一つを見てもよくわかる。その調査表には、遊撃区から他の土地に行く人たちの姓名、年齢、職業、親戚と親友の住所、姓名、担当工作、知識、技術の有無、行く先、保有食糧などの事項がいっさい記載されていた。遊撃区の幹部たちはこの戸口調査表にもとづいて、ある住民は敵地や朝鮮国内に送り、ある住民は深い山中に送って農作を営ませた。また親戚のあてがある人とない人、身寄りのない子どもや病人を区分して隊列を編成し、その各隊列に武装グループをつけて目的地まで責任をもって護送するようにさせた。
遊撃区を離れて敵地や朝鮮国内、深い山中に入っていく家庭には、所帯当たり平均三十~五十元程度の生活補助金が支給され、布地、靴、器などの各種必需品と炊事道具が供給された。人民に分けてやる金額と物資を確保するために、われわれは戦闘も何回かおこなった。それらの戦闘のうちでいまでもわたしの記憶に印象深く残っているのは、呉白竜が実の叔父をひどい目に会わせたハプニングと劇的にからみ合っている大汪清集団部落襲撃戦闘である。
呉白竜が叔父にびんたを食わせたのは、受難にみちたわが民族史が生んだ一種の悲喜劇でもあった。われわれはそのとき集団部落を襲撃して大量の物資をろ獲した。二十余挺の三八式歩兵銃、四十余頭の牛馬、数十袋の米と小麦粉、数万元の貨幣…。じつに軍人だけの力では運搬しきれない莫大な戦利品だった。指揮官たちは戦闘現場から五、六百メートル先の村落へ行って住民を連れてきた。急襲と迅速な離脱は遊撃戦の重要な戦術的原則の一つであり、戦利品を迅速に処理しなければ部隊の撤収が遅れ、敵に反撃の機会を与える恐れがあった。こういう寸刻を争うときに、口ひげをはやした一人の農民が荷をかつごうとせず、不平がましく振舞った。そして「みなの衆、パルチザンの荷をかついだらどんな目に会うかわからないぞ。先のことを考えても軽はずみなことはしない方がいい!」と言って、他人にまで荷をかつがせなかった。たまりかねた呉白竜は、「荷をかつぎたくなければ帰ってもかまわんです」と言った。それでも口ひげの農民は帰ろうとせず、荷をかついだらえらいことになる、とわめきつづけた。呉白竜はとうとう自制心を失い、その農民にピシャリと平手打ちを食らわせた。そして遠縁の親戚に「あいつは反動分子ではないのですか?」と尋ねた。
「あれはあんたの叔父の呉春三だよ」
呉白竜はこう言われて、ぎくりとした。叔父が朝鮮人らしく協力もせず、半人足の真似をしているのも驚くべきことであったが、それよりも自分が二十を越すこの年になるまで叔父の顔も知らずに過ごしてきたという事実には、ぞっとするほど驚いた。呉春三は呉白竜がまだ物心もつかないうちに家を離れ、浮き草のような生活をしていた。そのため叔父も呉白竜を知らず、呉白竜もまた叔父を知らなかったのである。呉白竜が革命家に成長するあいだに、呉春三は革命を恐れる軟弱な人間になっていた。そのときの叔父は自分が革命に参加しないばかりか、息子たちが革命に参加することさえ喜ばない小心で卑怯な男であった。呉白竜は叔父に手出しをしたことを後悔したが、謝るすべがなかった。それで、その遠縁の親戚に短い手紙を託した。
「叔父さん、わたしが叔父とも知らず無礼を働きましたが、知らずにしたことですから、水に流してください。若い者にないがしろにされたくなかったら、叔父さんもこれから革命に参加してください」
その後、呉春三は甥の勧めを受けて家族全員を革命化した。自分自身も革命家になったが、妻子まで抗日運動に参加するよう導いた。彼の息子呉奎男は闘争の道で青春をささげた。
「甥の平手打ちが結局はわたしの一生を叩き直してくれたのだ」
呉春三は機会があるたびに、知人にこんなことを言ったという。
軍民関係にひびを入れるようなことをした呉白竜がきびしく批判されたのは言うまでもない。叔父といえば親のつぎに数えられる親族であるが、人民革命軍の観点からすれば呉春三も民衆の一員であった。笑うに笑えぬ悲喜劇のひとこまが演じられはしたが、呉白竜が人民を動員して運んできた戦利品は、遊撃区を離れる住民の以後の生活に少なからぬ助けとなる大事なものであった。
遊撃区解散措置の正当さは、一九三〇年代の後半期に高揚一路をたどっていた抗日革命にいっそうの高揚をもたらし、祖国解放の大団円をめざして力強く前進していた反日民族解放闘争史の全般的発展過程が生き生きと実証している。
遊撃区域の主動的解散とあいまって、人民革命軍部隊の広大な地域への進出により、われわれの抗争力量を間島の狭い山岳地帯に追い込んで窒息させようとした敵の企図は完全に挫折した。人民革命軍の大小の部隊は、南満州と北満州、北部朝鮮の広大な地域で、数量上、技術上優勢な敵を果敢に撃破していった。人民革命軍が解放地区形態の遊撃区を解散して広大な地域へ進出したのは、谷間から広野に出た快挙といえた。武装闘争という強力な背景のもとに遊撃区を離れた人民は、広野に根をおろして組織を拡大し、広大な地域に革命の種子をまきはじめた。帰順文書に捺印したごく少数の人物を除いては、すべてが大陸を燃やす一つ一つの火種となり発火剤となった。政治工作員も敵地を攪乱した。
一九三五年五月にはじまった遊撃区解散の仕事は、その年の十一月初、車廠子遊撃区域の解散を最後に完了した。車廠子での遊撃区解散が他に比べて半年ほど長引いたのは、まずこの根拠地周辺に二重、三重の包囲網をめぐらし、住民全員が餓死するのを待っていた敵の執拗な封鎖作戦のためであり、この区域の生活に責任を負っていた幹部の無責任さと無能さのためであった。
明月溝会議で遊撃区の候補地を選定するとき、車廠子を適地としてもっとも強く主張したのは和竜県出身の人たちであった。安図県代表の金正竜も、車廠子を適地だと言った。土地が肥え、山林がうっそうとしており、山容の険しいこの一帯は、彼我ともに目をつけていた天然の要害であった。車廠子は間島の他の土地と少しも変わらぬ寂しい山里であったが、遊撃戦争の過程で多少軍事に通じていたハイカラな陰陽(おんよう)師(じ)のおかげで地価がぐんと上がった。地名の由来も、軍事と関係のある神秘なものではない。土地の人の話によると、車廠子というのは荷車をつくる所という意味だそうである。和竜の人たちは車廠子が遊撃隊の軍事要衝になりうることを証明しようとして、洪範図部隊が日本軍を古洞河の岸辺に誘引し青山里で掃滅したのも、この一帯の特異な魅力のためであったからだろうと言った。
われわれは車廠子遊撃区域の建設を武力によって支援するため、一九三四年の春に独立連隊を安図地方へ派遣した。金日煥、金一などの政治工作員も車廠子へ行った。独立連隊は車廠子の付近に駐屯していた満州国軍一個中隊を追い払って、この土地の新しい主人になった。この武力を背景にして漁郎村遊撃区の住民が車廠子になだれこんで古洞河の向かい側に和竜県人民革命政府の建物を建て、そのあとを追うようにして王隅溝と三道湾の住民が神仙洞をへてつぎつぎとここに集まり、東南岔の谷間の入口に延吉県人民革命政府の旗をかかげた。こうして、車廠子には二つの県から移ってきた人民革命政府が同時に存在するという奇異な現象が一年も持続した。車廠子遊撃区域は、あたかも二基のエンジンをもった車か白馬をつないだ二頭立ての馬車のように気勢も高くばく進した。最初のころは食糧事情もそれほど困窮してはいなかった。
腰営口会議の決定により、車廠子遊撃区域解散の指導は、安図から派遣されてきた党指導部が担当することになっていた。ところがそのメンバーは、軍隊と人民に遊撃区解散の方針を知らせようともせず、さらには車廠子に駐在した特派員を民生団と断じて処刑しようとまでした。のちにこの知らせを受けたわたしは、驚かざるをえなかった。車廠子は間島の革命的大衆、とくに延吉、和竜、安図地方の革命的大衆が最後のよりどころとしていた拠点であった。そういうことから、この地区の解散を担当した幹部たちが優柔不断な態度をとるのもありうることだった。息づまる封鎖の中で、車廠子の人民が軍隊とともに一九三五年十一月まで遊撃区を守り通したのは、じつに驚嘆に値することである。先にも少しふれたが、当時の車廠子の空気は平穏ではなかった。極左分子が反民生団闘争にかこつけて遊撃区を無法地帯に変えたうえに、飢餓のために多数の革命的大衆が四苦八苦していた。われわれが白頭山地区で大部隊連合作戦を展開しはじめたころ、金平、柳京守、呉白竜、朴永純などは、車廠子で体験した飢餓についてしばしば回想した。金明花、金正淑、黄順姫、金喆鎬、全姫などの女性たちは、解放後にも食卓を囲むと車廠子のころを思い出して涙を流したものである。金明花と金正淑は当時、軍指揮部で炊事隊の任務を遂行していた。
この遊撃区の状況は軍指揮部の食卓にもそのまま反映された。王徳泰をはじめ指揮官たちのために、炊事隊員たちは毎日朝から山に登って松の皮をはいだ。ひとかかえほどの松の内皮を二束はいできても、指揮部の一日分の食糧にしかならなかった。それを灰(あ)汁(く)につけて三時間以上煮てやわらかくなったのをすくいだして川の水でゆすぎ、石の上できぬた棒で叩く。そしてそれをまた水で洗うのである。夕方までこういうことを何回となく繰り返し、米糠をまぜてかゆを炊いたり、餅をつくったりするのである。これが車廠子随一の食べ物であった。この餅を食べると便がかたくなった。そのため、子どもたちは用便のたびにたいへん苦労した。そのたびに母親たちは涙ながらに串を使って便をほじくりだした。大人たちもたびたび苦しい思いをした。それでいて、つぎの日になるとまたそれを食べるのだ。塩がなくて味もないものをそのままのどに通した。かゆや餅などはそれでも我慢できたが、山菜や菜汁などは塩なしではのどを通らなかった。ときおり車廠子に立ち寄る連絡員たちが携帯用の小袋から塩の粒をいくつかおいていった。大粒の塩を何人もの人が順番に一回ずつ舌の先につけてはそれをつぎの人にまわすのであるが、それこそのどをもてあます始末であった。松の内皮まで切れると、水車小屋から糠を持ってきてかゆを炊き、それをすすった。それでも糠がゆは古草のかゆよりはずっとのどに通しやすかったという。古草のかゆは固くてざらざらし、のどに通すたびにちくりちくりとした。そんなかゆさえ食べられなくて飢え死にする人が続出した。
人びとはみなもどかしげに春を待った。三月になれば慈悲深く豊饒な大地があわれな人間たちを飢餓から救ってくれるものと信じていたのである。しかし春も餓死から救ってくれなかった。春が人びとに恵んでくれたのは、雪の下からはいでるわずかな新芽だけだった。その若芽だけでは遊撃区の住民の命をつなぎとめることができなかった。人びとは冬眠から覚めていない蛇を捕りはじめた。そのつぎはネズミを捕って食べた。車廠子では齧(げつ)歯(し)類が絶滅した。蛙とその卵も住民の食用とされた。蛙の卵を煮るとキビ飯のようにねばり気があってとても美味だったという金喆鎬の回想談を聞かされたとき、わたしはねばねばするその食べ物がのどにからみつくように思われて気分が悪くなったものである。隊員たちとともにさまざまな雑食をしてきたわたしではあったが、煮た蛙の卵の味というものには、とてもなじめそうにもなかった。種まきのときに履く田ぐつも釜に入れられた。遊撃区の住民は田ぐつを煮たやや塩辛い汁を一杯ずつ飲んでは、ほふく前進する兵士のように腹ばいになって春の種まきをした。ところが、今日まいた種を二日とたたぬうちに掘り出して食べてしまうのである。人民革命政府と大衆団体は、種まきの終わった畑に歩哨を立ててそれを防ごうとした。だが、その歩哨でさえ飢えに耐えきれず、人目をしのんで種を掘り出しては食べてしまうのである。晩になると、子どもたちが軍指揮部の台所にそっと忍びこんできた。軍長以下そうそうたる幹部たちが食事をする所だから、残飯でもあるのではないかと思ってのことだった。それは期待はずれだった。彼らは自分たちが飢えれば王徳泰も飢えていることを知らなかった。けれども、軍指揮部の台所におこげくらいはあるだろうという望みすらもてなかったなら、子どもたちは絶望に陥って死ぬことを考えたであろう。炊事隊員がおこげをやると、子どもたちはすすり泣きをしながらその場でたいらげてしまうのである。そして羞恥心から、「もう来ません、二度と来ません」と誓うのである。しかし翌日も炊事隊員は、台所の前で食べ物をあさっているがんぜない子どもたちを見かけるのであった。こうした飢餓の中で、車廠子の人たちは畑のうねまをはうようにして草取りをした。手で土を搔いては倒れ、倒れてはまた起き上がり、爪がすりへるほど土を搔いた。二番草まで終えると麦の穂が出た。まだ実も入っていない水分だけの粒を夢中になって食べた。立ち上がって歩く気力すらなく、うねまに腹ばいになったまま、やっとのことで麦の茎をたぐり寄せては、一粒二粒と口に入れて嚙んだ。
車廠子の人たちがこういう餓死の境にありながらも、純粋な人間でありつづけることができたのは、幾年ものあいだその思考と行動を支配してきた共産主義的理念、集団のために自分を犠牲にする共産主義的道徳が間島のすべての革命的大衆を「聖人君子」にしてくれたおかげだといえる。人間が人間の手足を切り取って食べるような人倫に反する行為は、車廠子ではおよそ考えることすらできなかった。
春の端境期になると、まず子どもたちが飢餓に耐えられず、一人二人と死んでいった。そのつぎは男子の中から餓死する者が続出した。自分自身は飢えながらも、夫と子どもたちのために最後の瞬間まで最善をつくすべき義務をになってこの世に生まれた女性たちには、それより大きな不幸がめぐってきた。彼女たちは飢え死にした夫と子どもたちを棺に納めることもできず枯れ葉で包み、その屍の前で全身を焦がして灰になるほど号泣したくても、その気力すらなく、涙さえ流せない最悪の苦しみを味わわなければならなかったのである。
車廠子を襲った飢餓は、もっぱらこの区域を封鎖して野獣じみた討伐を重ねた日本侵略軍のためであった。遊撃区の責任ある幹部たちも、人民を生かすための必死の努力を傾けなかった。指揮部に潜入した反動分子と不純分子は「腹がすいても耐え抜かなければならない。絶対に屈服するな! 死ぬのは投降だ!」という超革命的な言辞によって大衆を愚弄した。車廠子の人民は民生団にされて殺され、飢え死にしながらも、敵地へ行かず最後まで遊撃区を守って戦った。彼らが発揮した堅忍不抜の心と不屈の革命的気概は、半世紀が過ぎた今日になっても、われわれの胸を強く打っている。
遊撃区の解散問題が日程にのぼった一九三五年十月に、金一、南昌洙、李桂筍、権一洙などの一家をはじめ二十余名の民生団連累者家族は統合所帯というのをつくり、東南岔谷間の行き止まりで一九三六年の夏までたたかいつづけた。そうしてでも民生団の濡衣を脱ぎ捨てようとしたのである。統合所帯というのは、いくつもの家庭が一つの所帯になって生活を維持し、闘争もしていく特異な生活方式のことである。彼らは一棟の丸太小屋に家財道具を集め、責任者を定めて毎日、毎週、毎月、各人に適した任務を分担し、その遂行状況を総括しながら組織的な生活をした。この統合所帯に加わった家庭は、車廠子を守り通した最後の防衛者たちであった。
敵は数千の兵力を動員し、軍警による従前の焦土化式討伐一点張りの戦術から、軍事、政治、経済などの各分野にわたる総合的な大封鎖戦術に移行し、車廠子を完全に圧殺しようと討伐に討伐を重ねたが、そのたびに惨敗を喫した。一九三五年十月の大討伐には数千の敵が投入された。車廠子の勇敢な防衛者たちは、そのときも敵の侵攻を英雄的に撃退した。彼らは遊撃区を空襲する飛行機まで狙撃兵器で撃ち落とす戦功を記録した。その年の十一月、車廠子の人民は遊撃区を解散し、軍隊とともに大部分が内島山方面に移動した。敵の封鎖の中でも長いあいだ人民とともに飢餓と病苦と戦闘を体験した車廠子防衛者の一人である白鶴林は、いまなおこう語っている。
「車廠子の人たちが体験した抗日戦争時期の惨状を知らないなら、なんらかの生活難についてあえて口にするな。車廠子の軍民が封鎖の中でどのように飢餓に耐え、寒さに耐え、敵の討伐に耐えたのかを知らないなら、なんらかの困難の克服についてもあえて自慢しようとするな!」
われわれは遊撃区解散の手配とその実行過程を通じて、朝鮮人民の組織性と鉄のような規律性、革命にたいする忠実性と不屈の精神をいっそう深く悟ると同時に、そういう人民を正しく動員し指導するなら、いかに困難な状況のもとでも十分勝利することができるという限りない自信をいだくようになった。いかなる人民であれ、いったん死を覚悟し、不正を討つためにこぞって決起するなら、そういう人民にたいする封鎖や焦土化は絶対に成功するものではない。それは国際共産主義運動の歴史が示している一つの力強い教訓である。新生ロシアにたいする十四か国の武力干渉者の国際的封鎖がどんな結果に終わったかは、全世界の人民がいまなおはっきりと記憶しているはずである。ヒトラー・ドイツもレニングラードの封鎖に成功しなかった。爆弾が雨あられと降りそそぐ困難な状況のもとでも、レニングラードの防衛者たちはパンを焼き、戦車をつくり、生産に励んだ。全世界のブルジョアジーがレニングラードは陥落するだろうと宣伝していた一九四三年に、この都市の勤労者は前年に比べて生産性をいっそう高める奇跡を起こした。中国の抗日根拠地にたいする蔣介石軍の数回にわたる封鎖と討伐も、やはり惨敗を重ねた。三十年間も持続しているキューバにたいするアメリカの封鎖ももちろん成功していない。アメリカはこの小さな島国の封鎖に莫大な力をつぎこんでいるが、その努力はそれほど功を奏していない。最近ではトリセリ法を排撃するキューバの決議案が国連総会で採択された。国際社会がアメリカの時代錯誤的な封鎖政策に冷笑を浴びせたわけである。カストロは「危険な瞬間に直面するとき、人体内ではより多量のアドレナリンが分泌されるものだ」と明言している。アドレナリンは心臓の機能を強めるホルモンである。これはキューバの共産主義者の楽天主義を象徴している。
アメリカや日本などの現代帝国主義者は、いまわが国を政治的、経済的、軍事的に封鎖している。しかし朝鮮の共産主義者にも、その封鎖をみごとに撃破できるチュチェの活力素がいくらでもある。朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮人民を軍事的に征服したり、政治的、経済的に窒息させることができると考えるのは、タマゴで岩を砕こうとする妄想にすぎない。
遊撃区が解散したのち、小部隊と政治工作員の国内進出は積極化した。革命の種子は満州と朝鮮の広大な地域に無数にまかれた。遊撃区が解散されたあとも、わたしはつねに汪清を忘れず、間島をおろそかにしなかった。遊撃区は解散したが、間島の五県はその後も依然としてわれわれの重視する基幹的な抗日戦区となっていた。崔賢部隊をはじめ人民革命軍の大小部隊は、汪清一帯だけでも、北蛤蟆塘の上村集団部落襲撃戦闘、四道河子襲撃戦闘、百草溝の仲坪村襲撃戦闘、大梨樹溝襲撃戦闘、張家店要撃戦闘、上八人溝襲撃戦闘、太陽村襲撃戦闘、大荒崴襲撃戦闘、夾皮溝要撃戦闘、小百草溝の湧邱村襲撃戦闘、十里坪採木工事場襲撃戦闘、春芳村の石頭河戦闘、羅子溝の上老母猪河襲撃戦闘など多くの戦闘をおこなって敵に甚大な打撃を与えた。
敵は神出鬼没の抗日遊撃隊の攻撃を防ごうと全力をつくした。間島地方の主要幹線鉄道では、軍用列車と客車運行の安全を保つため、重武装した装甲列車がつねに先行した。客車が夜間に山間地帯を通過するときは、車窓ごとに遮光幕を下ろして徹底した灯火管制を布き、憲兵、私服警官、鉄道警護隊が車両ごとに立って乗客を監視し取り締まった。遮光幕を上げてちらりと車窓の外をのぞくだけでも、通匪分子だとして殴打された。敵は集団部落の警備を強化し、人民を強制的に警備に動員した。さらにある開拓民村では、革命軍の襲撃に備えて、木銃や発火管のついた爆発物まで住民に与えた。人民革命軍の猛烈な軍事活動に敵がどれほど恐怖心をいだいていたかは、日本人警察官たちが集団部落の夜間警備を中国人と朝鮮人の自衛団員たちにまかせきり、毎晩寝場所を変えていたという事実からも十分にうかがうことができる。日本人警察官と満州国の自衛団員の中からは、厭戦厭軍思想に染まったアヘン中毒者が続出した。石峴地方で発生した「松村事件」一つをみても、一九三〇年代中期の日本帝国主義の敗北ぶりがどんなものであったかをおし測ることができる。松村という人物は日本で教師を務め、赤色教組事件に連座して亡命してきたインテリであった。彼は前金二千円をもらって日本人の経営する白頭山伐採場の現場監督になった。彼が現場監督になって数か月目に、われわれの部隊がその伐採場を襲撃した。松村は革命軍の戦利品を背負ってわれわれの部隊に同行し、わたしにも会い、演芸公演も見た。そして、革命軍の威力がよくわかったといって伐採場にもどり、主人に辞表を出して帰郷してしまった。日本の敗戦は時間の問題だと判断したわけである。
遊撃区の影響を受けた伐採労働者たちによって、汪清とその周辺では列車転覆事故が頻発した。遊撃区は解散したが、その精神は間島で消えることなく、敵を恐怖におののかせた。
第十一章 革命の分水嶺
(一九三五年六月~一九三六年三月)
1 北満州の戦友たちのもとへ
人民革命軍の第二次北満州遠征の準備は、老黒山戦闘と太平溝戦闘によって完了した。汪清と琿春連隊の一部の中隊と青年義勇軍によって編制された遠征隊が、人民から盛大に見送られて太平溝を出発したのは一九三五年六月下旬であった。石頭河子と四道河子をへて八人溝に到着した遠征部隊は、老爺嶺を踏破する困難な山岳行軍の途についた。長蛇の列をなして進む行軍縦隊の隊伍には、安図から来た独立連隊の一部の隊員も混じっていた。いま生存している人のうちで第二次北満州遠征について回想できるのは、当時汪清第四中隊の隊員であった呉振宇しかいないようである。第二次北満州遠征に参加した戦友の中には、韓興権、全万松、朴泰化、金泰俊、金麗重、池炳学、黄正海、玄哲、李斗賛、呉俊玉、全哲山などもいたが、彼らはすでにわれわれのもとを去ってしまった。
第一次北満州遠征のときの老爺嶺は大雪に覆われた雪嶺であったが、第二次北満州遠征に向かうときの老爺嶺は、あたり一面の草木に夏の色のただよう青山緑林であった。一九三四年十月には寒風を突いてこの嶺を越えたが、一九三五年六月には、焼きつくような陽光と蚊の大群に苦しみながらこの嶺を越えなければならなかった。酷寒と豪雪も耐えがたい苦しみではあったが、じりじり照りつける陽光と汗もまた障害であった。迫撃砲と重機を背にした軍馬は、傾斜が強く草木のからみ合った行軍路を開くのにたいへん難儀した。馬が歩みを止めて進めなくなるたびに、われわれは帯剣で茨を切り払い、のこぎりで倒木を切っては一歩一歩前進した。
われわれが老爺嶺を越えているころ、関内では毛沢東と朱徳の率いる中国労農紅軍が蔣介石軍の二重三重の封鎖を突き破りながら、歴史的な二万五千里の長征を成功裏に進めていた。一九三五年五月三十日、大渡河にたどり着いた紅軍は苛烈な戦闘の末に瀘定橋と呼ばれる古代の鋼索橋を占め、数万に達する長征勇士の進軍路を開いた。五月三十日は太平天国運動の指導者石達開が大渡河を渡ろうと試みた日であり、上海五・三〇事件の十周年にあたる日でもあった。こういういわくつきの日に勇敢な紅軍決死隊が瀘定橋を突破したのは、きわめて大きな意義をもつ出来事であった。貴州戦役のニュースについで間島に飛んできた大渡河突破のニュースは、われわれを大いに勇気づけた。瀘定橋戦闘ののち、紅軍は長征の路程でもっともきびしい障害の一つであった大雪山と夾金山を連続踏破し、甘粛平原に踏み入った。
われわれはそのころ、長江の氾濫により数十万の死者が出たとか、台湾で地震が起こって数千軒の家屋が倒壊したといった類の悲劇的なニュースよりも、ブリュッセルで万国博覧会が開催されたとか、モスクワの地下鉄が開通したとか、二万五千里の長征を開始した中国紅軍がどの地点を通過し、どの地域を占領したといった楽天的なニュースを重視した。われわれが老爺嶺を越えたのは、長征中の紅軍の大雪山踏破に匹敵する快挙であった。大部分の遠征隊員は休止の号令がかかるたびに、疲労に耐えかねその場に倒れて疲れをいやした。休息のときには四方から高いいびきが聞こえてきた。空腹との妥協がむずかしいよう
に、眠気との妥協もやはりつらいものであった。だが、遠征隊員のうちで、行軍強度がきついと不平を言ったり、行軍速度をゆるめてほしいと訴える者は一人もいなかった。全員が指揮官の号令にしたがって歯車のように狂いなく動いた。われわれが事前に思想動員を十分にしておいたので、彼らは北満州遠征の目的をよく知り、また万難を克服していく精神的準備もしっかりとできていたのである。
人民革命軍の活動舞台となりうる大地は、老爺嶺以南の東満州と南満州地方にもいくらでもあった。それにもかかわらず、人民革命軍が自己の発祥地であり安らぎの家である東満州を離れ、遊撃区解散後の初の遠征候補地を北満州に定めて険しい老爺嶺をよじ登ることにした理由はどこにあるのか。どんな政治的・軍事的要因がわたしをして日本軍と満州国軍が集中的に配置されている北満州へ遠征隊を率いていく決心を下すようにしたのか。もっとも重要な理由は、北満州一帯で活動している朝鮮共産主義者との連帯を強め、彼らとの全面的な協調、協同、協力の道を開くためであった。東満州で共産主義運動を開拓した先駆者、統率者、主唱者の大部分が朝鮮人であったように、北部満州地方で共産主義運動を開拓した主要人物のほとんどもほかならぬ朝鮮人であった。朝鮮の共産主義者は北満州における遊撃闘争の開拓においても先駆的な中軸の役割を果たした。
周保中はおりおり、東北革命につくした朝鮮人の労苦と業績を口をきわめて称賛したものである。
「一九三〇年当時、東北各地方の県党委員会書記と区党委員会書記はほとんどが朝鮮の同志たちだった。延辺の各県は言うまでもなく、寧安、勃利、湯原、饒河、宝清、虎林、依蘭など北満州各県の党委員会書記や県党委員もほとんどが朝鮮人の幹部であった」
抗日革命が最終段階にさしかかっていたある年の春、アムール川が間近に見えるハバロフスク周辺の北密営の砂原をわたしと一緒に散策していた周保中は、抗日連軍時代の共同闘争の日々を感慨深く振り返ってこう言うのであった。
「朝鮮の同志たちの業績をぬきにしては、抗日連軍の発展の歴史を語ることはできない。第二軍の九〇%以上が朝鮮人であることは周知の事実であり… 第一軍、第三軍、第四軍、第六軍、第七軍の開祖といえる主人公たちも、李紅光、李東光、崔庸健、金策、許亨植、李学万といった朝鮮の同志たちではないか。老魏と楊靖宇が倒れたあとは
事実、周保中は抗日戦争が終結したのち、吉林省党委員会を通じて、吉林と延辺地区に朝鮮人出身烈士の記念碑を立てるという決定を採択した。
朝鮮人は北満州地方へ行っても日満官憲と土着地主によって牛馬のような生活を強いられていた。松遼平原をはじめ一望千里の大平原と未開拓地からなる南満州と北満州の広野は、年産数千万トンを誇る世界的な大穀倉地帯であったが、ここでも朝鮮の貧しい同胞と開拓民は一年中、食・衣・住のために苦しめられなければならなかった。
朝鮮戦争の停戦直後、わたしはある簡素な宴会の席で、李永鎬が幼いころ北満州で体験した飢餓を回想して涙ぐんでいた光景を目撃したことがある。彼の一家が五人班か三岔口か、饒河に住んでいたころだというから、おそらく一九一五年前後のことだと思う。飢えに苦しめられていた彼の一家は、キャベツの茎で一秋を生き延びたという。そんな粗食でも、はじめのうちはおいしいご馳走だったという。だが三日もつづけて食べているうちに吐き気がしてきた。幼い永鎬は親の目を盗んでその塩からい食べ物を膳の下に全部吐きだしてしまい、汁だけをすすった。その様子を見た母親はチマに顔を埋めて悲しげに泣いたという。そのころの李永鎬はズボンも米袋でつくったものをはかされた。まんなかに「白米」という藍色の大きな文字が捺されている袋を裏表も考えずに裁断してつくったので、その二文字はズボンの右側の外股に残されていた。けれども彼はそれをなんとも思わなかった。その文字の意味がなんであるのか、知るよしもなかったのである。かえってそれを母親の神秘的な愛情の印でもあるかのように思いこんで覚えていさえしたのである。妙な文字が印されている一張羅のズボンを毎日はいていながらも、彼はあわれにもその文字が意味する白米のご飯を一度も食べることなく幼年時代をすごした。これは北満州の同胞の過去を物語る貧困の縮図である。
李敦化も雑誌『開闢』に載せた「南満州行」という文章で、満州へ行ってみると馬賊がはびこり、その狼藉ぶりは目に余るものがあったと書いているが、北満州は東満州や南満州に比べて、馬賊の悪行がいっそうひどかった。それは討伐隊を率いてたえず来襲する日本軍や満州国軍に劣らず頭痛のたねだった。北満州の胡狄(こてき)は殺人を朝飯前のこととしていた。短刀や短銃で武装した数百人の胡狄が狼の群のように襲いかかり、殺人、放火、略奪を働くたびに、同胞たちは不安と恐怖におののき不断に居住地を変えた。胡狄は金を奪い取るために罪のない住民を人質として連れ去った。深い山に人を連行しては、耳か手足の指を一つ切り取って人質の家に送り、これがおまえの息子の耳だ、何日までに金をいくら持ってこなければ息子の命はない、といった脅迫状をつきつけるのである。そういう脅迫状を受けた家では、やむをえず家財を売り払って息子を救い出さなければならなかった。胡狄の要求どおり金をやらなければ、人質は十中八九、死体となって返ってきた。
北満州は決して「王道楽土」でもなく、「五族協和」の世界でもなかった。そこを支配したのは、氾濫する社会悪と弱肉強食の法則だけであった。朝鮮民族はこの土地に来ても、日本の高官や軍閥、財閥、銀行家、商人たちの利益に奉仕する下男となり、役牛となった。この呪わしい現実は北満州地方の朝鮮人をして、早くから祖国の自由と独立のための抗日救国戦線に決起せざるをえなくした。間島の場合と同じように、北満州でも朝鮮の先覚者たちは早くから共産主義運動を主動的に開拓した。読み書きのできる人、頭脳明晰な人、感受性の強い人で共産主義運動に身を投じなかった朝鮮人はほとんどいない。しっかりした朝鮮人であれば誰もが共産主義を唯一の教義とし、打倒日本帝国主義、打倒地主・資本家を叫んで革命運動に参加した。北満州で共産主義運動を開拓した先駆者たちは、一九三〇年代の初期から日本帝国主義を実力行使によって打倒するための武力抗争の準備を進めた。宝清県では崔庸健の指導のもとに二百余名の朝鮮青年を結集した訓練班が組織され、抗日遊撃隊の創建をめざす基礎構築作業がはじめられた。名称が示すとおり、この訓練班は将来、革命軍の根幹となるべき青年を政治的、軍事的に訓練させる士官学校であった。わたしが通った華成義塾と同じように、歴史や戦術も学び、射撃訓練もおこなった。訓練班は十個中隊の編制になっていたが、司令を兼ねた総参謀長の役は崔庸健が、政治委員の役は朴振宇(本名金振宇)がそれぞれ担当していた。
『千里行軍』の著者である「承認ひげ」の金竜化もこの訓練班に加わって中隊長を務めた。彼に「承認ひげ」というあだながついたのは、わが国で反米大戦が終結した一九五〇年代の中ごろだったと思う。社会主義基礎建設の開始とともに、朝鮮人民の生活様式にはいくつかの変化が起こったが、その中でもっとも際立っていたのは、ひげをたくわえた者と長髪族、坊主頭、半ズボンが街から姿を消したことであった。ズボンはどういうものをはき、頭髪はどう刈り、ひげはどうしろといったことが国の法令で制定されたわけではなかったが、人民の生活にはこのように目を見張らせる変化がおのずと起こったのである。ところが、人民軍兵器廠の廠長であった抗日闘士の金竜化少将だけは、ひとり相も変わらず安昌浩ふうの口ひげを悪びれもせずたくわえていた。戦友たちはひげをそってしまえと彼に勧めた。妻子や上級幹部も熱心に説きつづけたが、馬耳東風だった。かえって毎朝、鏡の前で以前にもましてひげの手入れを念入りにするのだった。ある日、彼はわたしにこう質問した。
「首相はわたしのこの口ひげをどうお考えですか?」
「それはすばらしい傑作だと思う。口ひげがなくては金竜化がいくら美丈夫であっても金竜化とはいえない。わたしは口ひげのない金竜化を考えたことがない」
「それでは、わたしのこのひげを承認してくださるのですか?」
「承認? 人民が首相に多くの権限を与えたのは確かだが、他人のひげについてとやかく言う権限まではまだ与えられていない。決定権はきみにある。きみがよければはやすし、いやならそるまでのことだ…」
「それなら安心しました。首相、正直なところ、最近わたしはこのひげのためにだいぶうるさく言われたのです。けれど、これからはもうなにも言わせません」
金竜化は喜色満面になってわたしの部屋を出ていった。ところが数か月後、わたしに会おうと内閣庁舎に来た彼は、その口ひげのために護衛将校に制止された。護衛将校は服装がきちんとしていなかったり衛生道徳を守らない人はわたしの部屋に通さなかったのである。玄関口で押し問答をしている声が聞こえるので、わたしは窓を開けてみた。
「どうしたのだ?」
「少将同志にひげをそらなければ通さないと言ったところ、『承認ひげ』だと言い張るのです。
護衛将校は疑わしそうな目で金竜化を一べつした。
「そんなことなら少将同志を怒らせなくてもよい。そのひげは不可侵だ」
それ以来、彼は軍隊内で本名の代わりに「承認ひげ」というあだなで呼ばれるようになったのである。彼は九歳のとき結婚させられ、十一歳の年ですきを手にして戸主として働き、十三歳のときからは洪範図の連絡兵になり、数万人の死傷者を出した有名なイマン市激戦にも参加した歴戦の勇士であった。
宝清の訓練班は最初、朝鮮人青年だけで組織された。朝鮮の独立を達成するためには朝鮮人同士で部隊を編制すべきであって、異国人が混じると隊伍の運営過程で不協和音が生じかねないという主張が優勢だったので、そうならざるをえなかった。しかし、朝鮮人だけの構成では中国人反日部隊との連合に難関が生じかねず、また中国人民から孤立する恐れがあるという声がしだいに高まったので、訓練班の組織を主宰した幹部たちは隊伍に二名の中国人青年を受け入れることにした。ところが、この二人の中国人青年が訓練の中途で裏切り、敵に訓練班の秘密をすべて明かしてしまったのである。訓練班は検挙旋風を避けて宝清から百二十キロほど離れた所に移動して新しく校舎を建てたが、そこでも敵の討伐に耐えられず解散した。饒河に活動基地を移した崔庸健は、朴振宇、黄継興、金竜化、金智明などの戦友とともに三義屯小学校で、七十名程度の青年によって訓練班を再組織し、訓練生の中から政治的、軍事的に十分に鍛えられた精鋭分子を選抜し、手先の掃討、軍・政幹部の護衛、武器獲得を基本使命とする赤色特務隊(一名赤色テロ団)を組織した。後日、崔庸健は彼らを根幹にして饒河工農遊撃隊を組織した。
湯原と饒河での遊撃隊の組織と前後して、寧安、密山、勃利、珠河、葦河でも、金策、許亨植、李学万、金海山などが率いる武装隊伍が相ついで誕生し、困難な抗日長征を開始した。金海山と李光林が周保中とともに第五軍の基礎を築いた人だとすれば、金策、許亨植は張寿籛、趙尚志とともに第三軍を建設した老将であり、崔庸健、李学万、李永鎬、安英、崔一たちは、李延禄とともに第四軍と第七軍の組織にあたって旗手の役割を果たした功労者である。
南の老爺嶺から北のアムール川まで、東のウスリー川から西の大興安嶺にいたるまで、数十万平方キロに達する北満州の広大な版図で、朝鮮共産主義者の軍歌が響かなかったところはほとんどない。金策がハルビンの東部と東北部地方を包括する浜江一帯を中心舞台にして遊撃活動を指導していたころ、崔庸健と李学万は完達山脈を根拠地にして、敵の集団部落と後方基地にたいする襲撃戦をたえまなく展開していた。一九三〇年代の後半期、許亨植は金策、馬徳山と連合して西北遠征隊を組織したのち、側面で活動する各遊撃隊との連係を結ぶ目的で、海倫をはじめ多くの県に進出してその一帯を果敢に開拓した。姜健は老嶺山脈に活動基地をおき、牡丹江両岸の山岳と平原地帯を縦横無尽に駆けめぐりながら、敵を痛烈に撃破した。若年ではありながら、聡明な頭脳とあくことなき情熱の持ち主であった姜健は、前途が嘱望される軍事指揮官に成長した。
北満州地方における遊撃運動の深化発展に及ぼした間島出身の闘士たちの影響力はきわめて大きいといえる。東満州での実践闘争を通じて十分に点検され鍛えられた金策、韓興権、朴吉松、安英、崔一、全昌哲などの闘士は、北満州へ移動してからも、積極的な組織者、宣伝者、指導者となり、抗日戦争の困難な突撃路を切り開いていった。
北満州地方の朝鮮共産主義者は東満州革命の全般的発展過程をつねに深い関心をもって注視し、東満州地方で活動していた朝鮮共産主義者との連係を結ぼうとたえず努力してきた。彼らはさまざまなルートを通じて東満州のニュースを定期的に入手していた。北満州の人たちに間島のニュースをもっとも多く伝えたのは周保中であった。寧安に活動基地をおいてたびたび汪清に通っていた周保中配下の第五軍の連絡員と、第二軍から第五軍、第三軍、第四軍、第七軍、第六軍、第八軍、第九軍など、北満州の各部隊に派遣されていった闘士たちも東満州の宣伝をかなりした。吉東局指導部(吉東省委)も東満州の状況を紹介する重要な宣伝センターの役割を果たした。北満州の戦友たちはこの吉東局を通じて、東満州地方で発行されていた赤色系の出版物と『祖国光復会十大綱領』のような秘密文書まで入手していた。当時の吉東局は東満州と南満州を北満州につなぎ、北満州を東満州と南満州につなぐ交換台の役割も果たしていた。李永鎬も饒河県党で宣伝部長を務めていたとき、吉東局へ行って『祖国光復会十大綱領』を正式に配付してもらったという。彼は任地にもどり、吉東局を通じて入手した東満州の資料を戦友たちにもらさず伝えた。彼は抗日戦争のときにその文書の原本をなくしたことをたいへん残念がっていた。
北満州の戦友のうちで、わたしのことをもっとも積極的に宣伝したのは、金策と崔庸健であった。彼らは人民革命軍の隊員と労働者、農民に、わたしが朝鮮革命の勝利のために示した総路線や戦略・戦術、当面の任務などを熱心に説明し、われわれの戦果や道徳的品性に学ぶよう強調していた。
「東満州地方の革命闘争はいま、
これは崔庸健が饒河遊撃隊を組織するとき、隊員たちの前で語った言葉である。彼はわたしに四回も手紙を書いて送った。だが、その手紙を伝達する使命をおびて北満州を発った崔庸健の連絡員は一人もわたしのところにまで来られず、みな途中で犠牲になった。そのうちの一人が血路を分けてわれわれの部隊の活動区域である敦化付近まで奇跡的にたどり着いたのだが、彼も任務を果たせず犠牲になった。もし彼が敵に捕らえられずもう一日か二日もちこたえたなら、わたしに会えたはずである。そうなっていたら、わたしと崔庸健との出会いは一九四一年ではなく、一九三〇年代の中期にわれわれの活動地域である間島か、南満州もしくは北満州のいずれかの地点で実現していたであろう。
わたしは一九四一年にハバロフスクで金策と崔庸健に会ってたいへん驚いた。彼らがわたしの生活経歴と家庭の来歴までくわしく知っていたからである。彼らは、わたしのえくぼと八重歯が、日本の密偵が十年以上も捜しまわっている一攫千金の的であることや、わたしの首に数万円の懸賞金がかかっていることまで知っていた。彼らがわたしのことをよく知っていたように、わたしもまた北満州の人たちのことはあれこれのルートを通じて多面的に把握していた。金策は、わたしが吉林で獄中にあったとき孫貞道牧師から多くの援助を受けたことをよく知っていたが、わたしは金策が西大門刑務所で獄中生活をしていたとき、許憲(〔 〕)から多くの援助を受けたことをよく知っていた。辛酸をなめつくした革命家たちの半生であるだけに、その経歴や行路には涙なくしては聞くことのできない、感動的な話や、想像外のエピソードも多かった。そういういわれのある内容は、仕事を多くした人や功労の多い人であるほど多彩で豊富だった。漫然と無為徒食してきた者たちに聞くほどの話があろうはずはないのである。
一度は、われわれの部隊の一連絡員が北満州へ行ったとき、第七軍の軍長李学万が十一歳になるまで乳を飲んでいたというあきれた話を聞いてきて戦友たちを笑わせたことがある。われわれはその話を聞いていっせいに大笑いした。隊員たちは、でたらめにもほどがある、十一歳といえば嫁をもらう年だというのに、そんな年で乳を飲むというのはつくり話だといって、連絡員を攻撃した。わたしももちろん、それは大げさな話だと思った。後日、ハバロフスクの北密営で李学万の甥にあたる李永鎬にはじめて会ったとき、きみの叔父が十一歳の年まで義姉の乳を飲んでいたというのは本当なのかと聞いてみた。李永鎬は本当だと答えた。
「そうだとすれば、きみの母親の乳を飲んだということになるが、あのずうたいの大きい叔父がきみの分まで搾取したのではないか?」
わたしがこう言うと、李永鎬はあわてて叔父をかばいだした。
「とんでもない。わたしがそんな搾取をされるわけはありません。叔父が飲んだのは片方の乳だけです。片方はわたしのものでした」
「それ見たまえ。きみは五〇%の食糧を搾取されたのだ。二・八制でも三・七制でもない、そんな略奪を受けたというのに、叔父をかばうのか」
李永鎬はわたしの冗談を聞きながら涙が出るほど笑いこけた。
「わたしは片方の乳だけで十分だったのです。わたしの母は乳がたっぷりだったようです。わたしを生むと乳が増えて、わたしが飲んだあとの残りは搾って捨てるくらいだったのです。手で搾ると痛いし、きれいに搾れないので、ある日おばあさんが学万叔父さんに、わたしの母の乳を少し吸ってやれと言い付けたそうです。叔父は言い付けどおりにしました。最初は吸った乳をすぐ吐き出してしまいましたが、そのうちいたずら半分に一口飲み込んでは、義姉さんの乳もお母さんの乳みたいにおいしい、と言ってわたしの母の乳を毎日飲むようになったのです」
「叔父はなかなか図太かったようだね」
「そうです。とても変り者だったんです。石松が飲む乳までおまえがみんな飲んでしまったらどうするのだと、おばあさんが心配すると、叔父は、だから片方だけ飲んでいるじゃないか、と言ったそうです。石松というのはわたしの幼名です。わたしが二歳か三歳になった年から叔父は乳を切りました。でも、わたしが乳を飲むときはそばに座って生唾を飲み込んでいました」
その日、李永鎬は叔父にまつわるエピソードをさらにいくつか披露した。わたしは李学万の人間像にすっかり魅せられた。しかし、惜しくも彼はすでに故人となっていたのである。わたしが李永鎬との初対面を果たした一九四〇年代は、北満州の抗日隊伍で多くの人が荒野の霊魂となって消えたあとだった。
かつて北満州の抗日連軍各部隊でたたかった安英は、北満州の野山に葬ってきた戦友たちの名を一人ひとり呼びながら涙ぐんだ。だが、われわれが太平溝戦闘を終えて老爺嶺を越えているころには、彼らの大部分は生存し、北満州の広野と山並みを縦横無尽に駆けめぐり、猛虎の勢いで敵を打ち倒していた。北満州のその戦友たちが、われわれとの対面を待ち望んでいたのである。彼らには、われわれとの協力の問題だけでなく、コミンテルンとの関係、中国の共産主義者との関係、中国人民との関係、中国人反日部隊との関係で、解明がまたれる問題や解決を要する問題も多かった。われわれにしてもやはり、彼らに訴えたい問題が少なくなかった。われわれが東満州で「民生団」問題のために頭を悩ましていたとき、彼らは北満州で彼らなりの問題をかかえて人知れぬ苦しみを味わっていたのである。
こうした事情は、われわれをして二回目の北満州への行軍を急がざるをえなくした。われわれが北満州の戦友たちに望んだのはただ一つ、同じ民族としての情であった。反民生団騒ぎは、愛と信頼の倫理のみが支配していた間島の遊撃区を人情の不毛の地に変えてしまった。われわれはその不毛の地で数年来、人の情けに飢え、それをオアシスのように希求してきた人間たちである。老爺嶺がいくら険しいとはいえ、北満州の戦友たちに向かって白雲のように流れていくわれわれの情をおしとどめることはできなかった。
われわれが第二次北満州遠征を断行することにしたいま一つの目的は、第一次北満州遠征によってすでにその端緒が開かれた北満州の中国共産主義者との戦闘的同盟を強固にし、新たな時代の要請に即応して彼らとの共同闘争をいっそう推進させるところにあった。反帝反戦を志向する進歩的諸人民と社会主義勢力の進出にあわてふためいた帝国主義列強は、一九三〇年代の中期にいたって世界の自主勢力に反対する国際的連合を強めていた。人類に世界大戦の惨禍をこうむらせる運命をもって生まれたヒトラー・ドイツとムッソリーニのイタリア、そして日本は、反共的、反平和的な同盟の結成を急いだ。
こうした情勢のもとで、抗日革命を新たな時代の要請にふさわしく発展させるためには、各国の共産主義者、とくに中国の共産主義者との国際的連帯の強化が焦眉の問題として提起されざるをえなかった。満州各地方の抗日連軍部隊が閉鎖的で孤立した活動方式から脱却して相互の連係を強め、連合した力で敵を撃滅するというのは、コミンテルンの一貫した要求でもあった。
当時、東北地方に組織された各軍の力量は平均していなかった。指揮官の能力とレベルによって、各軍の戦闘力と準備のほどにはある程度の差があった。それぞれの軍部隊は側面の軍部隊との連係もなく、たいてい固定した地域で孤軍奮闘していた。こうした分散性は、満州全域に割拠する遊撃部隊の力を状況と軍事・政治情勢の変化に応じて総合的に利用することを不可能にしていた。これは以後、各地域で閉鎖的で孤立した活動をしている遊撃部隊が敵に各個撃破される弱点を内包していた。こういう実情から、東満州と南満州、北満州に存在していた遊撃部隊は、それぞれ他の地方の遊撃部隊との連係を模索せざるをえなかった。満州のすべての遊撃部隊には、固定した解放地区形態の遊撃根拠地で限られた地域を守りながら孤立無援の活動をしていた従来の方式から脱却し、互いに緊密に協力し支援し合って軍事・政治活動をより幅広く大胆に展開すべき戦闘的課題が提起されていた。こうした戦略的課題を遂行することなしには、満州地方の遊撃運動をより高い段階へ引き上げることも、統一的に深化発展させることもできなかった。反民生団闘争の過程で朝中両国共産主義者のあいだには共同闘争の障害となる不和と不信が生じていたが、われわれが北満州へ行って中国共産主義者との協力に力を入れれば、そうしたよそよそしい雰囲気も払拭することができるはずだった。部隊を率いて北満州に渡り、何か月かのあいだ各地を転戦していれば、モスクワヘ行った魏拯民と尹丙道もコミンテルンの結論を得て帰ってくるだろう。この二人に会うのは、われわれの設定した第二次北満州遠征のいま一つの重要な目的であった。
老爺嶺を越えるとき、寝返ってきた満州国軍の兵士たちで編制された琿春連隊所属の中隊がたいへん苦労した。山岳行軍になれていなかった彼らは、行軍開始後、二時間足らずのあいだに疲れはててしまった。わたしの命令で、汪清連隊の張竜山がその三個中隊を担当して行軍を助けた。転角楼と三岔口の区間で筏流しをした経歴をもつ彼は、生来の力持だった。彼が帯剣を一振りすると、雑灌木はばっさりと打ち払われた。彼は二、三人分の銃と背のうをかついでも、急傾斜の山道を軽々と登ることができた。
「お―い、みんな、この峰が越えられないようだったら男をやめてしまうのだな」彼はこんな冗談まで言いながら隊員たちを励ました。
われわれは艱難辛苦の末に老爺嶺を越えた。しかし、七月になってやっと、山東屯の付近で周保中の居所を捜し出すことができた。昨日の綏寧中心県委の軍事責任者であった彼の肩には、抗日連軍第五軍軍長という新たな肩書がずっしりとのしかかっていた。数か月前は杖をつき、および腰でわれわれを迎えた周保中が、今度は杖を投げだし、密営から四キロも離れた老泉溝まで駆けつけてきてわたしを抱擁した。
「その間、わたしの傷はすっかり治った。東満州の遠征隊が発ったあと、われわれは軍を新規に編制した。寧安ではそれ以来、党組織と大衆団体も活発に動いている。これはみな金司令の遠征隊が昨年われわれを助けてくれたおかげだ」
わたしが尋ねる前に、周保中は興奮ぎみに寧安の実態を一気に説明した。
「周兄の傷がすっかり治ったというから安心した。この数か月は周兄のために流れた月日のようだ。第五軍の軍長に就任したのだから、祝い事はたっぷりあるというわけだ」
わたしはこんなふうに周保中を祝ったあとで、平南洋の安否を尋ねた。北満州の地を踏んでみると、昨年、戦いの中で結んだ情義がいまさらのようによみがえってきた。一、二か月親しんだだけのあの荒武者の風貌が、竹馬の友のようにわたしの記憶の中にくっきりと焼きつけられているのはじつに不思議なことであった。
われわれは第五軍の宿営地に到着するが早く、共同行動の問題で周保中と意見を交わした。ところが、ここで若干の摩擦が生じた。周保中が琿春連隊の連隊長である侯国忠に、遠征隊の行動方向を天下り式に押しつけようとしたのが動機になって、双方間の協議がしばし膠着状態に陥ったのである。当時、第五軍の政治委員であった胡仁は部隊を率いて穆棱一帯で活動していた。それで、遠征隊が穆棱へ行って胡仁を助けて戦い、五河林地区に進出してそこを掌握してもらいたいというのが周保中の要請であった。それほどむずかしい要請ではなかったが、自尊心の強い侯国忠は言下にそれを拒絶してしまった。それを要請ではなく指示と感じたようである。安吉と金麗重の見解も彼と同じであった。われわれにはわれわれなりの遠征目的があり、歩まねばならないコースもあるのに、ああせよこうせよと言うことができるのか、第五軍は第五軍であり、第二軍は第二軍だ、と言って腹を立てた。彼らが腹を立てるのも無理はなかった。われわれは第二軍を代表して北満州に来たのであるから、共同闘争だからといって他人の指揮棒にしたがうわけにはいかなかったのである。
周保中は、パルチザンが火砲や重機のような重火器を持ち歩くのは遊撃戦の特性に合わないと指摘し、それを冒険だと言った。わたしは彼の主張にも一理はあると肯定しながらも、重火器が遊撃戦に適合するか否かは少し期間をおいてみるべき問題だと考えた。もともとわれわれは、抗日戦争をはじめるとき、遊撃隊の使用する基本的武器は軽火器とする原則を示したことがあった。ところが、太平溝戦闘で迫撃砲を使用してその威力を知って以来、遊撃戦だからといって重火器を一概に使わないことにする必要はなく、環境と条件によっては適切に使う方が効果的だという見解をもつようになった。事実、ソ連のパルチザンが国内戦争当時、火砲やマクシム重機を使用した実例がある。部分的ではあるが、中国の一部の遊撃隊員もそのころは火砲を用いていた。東満州遠征隊が火砲や重機を持ち歩いていることにたいし、周保中が冒険だと指摘したのは行き過ぎだといえた。わたしは緊張した雰囲気をやわらげるため、みなが共同行動についての構想をさらに練りあげたあとで、また集まりなおして両者が受容できる対策案をつくってみようと提案した。周保中はわたしの提案を快く受け入れた。こうしてわれわれには、北満州部隊との連合作戦のための具体的な対策案を研究しながらも、遠征隊員たちの行軍の疲れをいやす少しばかりの余裕が生じた。
山東屯は百戸余りの農家からなっている中国人村落であった。山東屯という地名は、山東地方の人たちが集まって暮らす村落ということに由来していた。敵はこの村落を封鎖するため、そこから六キロ離れたところに二百~三百人ほどの討伐隊を常時駐屯させていた。わたしは山東屯にとどまっているとき、寧安県党書記や山東屯党組織との連係も結んだ。わたしが山東屯で李延禄軍長に会ったのもそのころだった。そのとき、わたしはある地主の家を宿所にしていた。主人は地主ではあったが、気だてのやさしい人間だった。それで客人たちは、その家の仕事を少しでも手伝ってやろうと気を配った。ある日、われわれは主人の家の畑で小麦の刈り入れをしているうちに雨が降ってきたので、刈り取った小麦が雨に濡れないようにきちんと積みあげて宿所にもどってきた。すると劉漢興が、きょうはうっとうしい天気だから昼食をとって休息しようと言って、自分の手でいろいろな料理をつくって盛りだくさんな食膳をととのえるのだった。わたしは李延禄の部隊が汪清に来ていたときから劉漢興の料理の腕前が並々ならぬものであることを知っていた。劉漢興のような中学出の知識分子が、専門の調理師そこのけの料理の腕をもっているというのは、まったく珍しいことであった。彼は料理もさることながら、酒もよく飲んだ。こちらが一杯飲めば三杯くらいはあける酒豪だった。われわれは彼がつくった料理をさかなにして酒を飲み、ワンタンも食べた。さかながよかったせいか、その日はわたしも何杯か傾けた。
ところがわれわれがワンタンを食べている最中に、急に手榴弾の破裂する音が聞こえてきた。外に出てみると、小麦のわらの前に数十匹もの蛇がずらりと横たわっているのが目についた。当家の主人が福蛇だといって飼っていた蛇であったが、手榴弾で皆殺しにされたのである。主人は蛇が家の中に入ってきて膳の下をはいまわっても放置しておくほどだった。この地方では蛇を一種の守護神のようにみなす迷信じみた風俗があった。その日、庭で立哨勤務を勤めていたのは、われわれの部隊に配属されて北満州まで従軍してきた青年義勇軍の隊員たちだった。彼らが交替で歩哨に立っているとき、雨が止んで日が射してきた。すると、わら積みの中から蛇が鎌首をもたげた。地元の人たちが蛇を神聖な動物とみなしているのを知るよしもない歩哨は、前後の見境もなく、手榴弾を蛇の群に投げつけたのである。当家の夫妻は死んだ蛇を見てひどく気を落とし、不吉な災厄の前ぶれとでも感じたのか、まっ青になっていた。周保中と劉漢興がその場をとりなそうと慰めたが、彼らの不安をぬぐうことはできなかった。それでわれわれは、食事も終えないまま、やむをえずその家を辞去しなければならなかった。
一九三五年七月下旬、東満州から「高麗紅軍」が来たという情報を受けて、数百人の満州国軍と警察隊で編制された混成騎馬隊が山東屯に押し寄せてきた。ざっと見て、数百人にはなりそうだった。そのとき第五軍の主力は穆棱と寧安県の西北方へ進出していたし、第四軍指揮部の兵員もわずかなもので、数量のうえでは敵側がわれわれより二倍ほど優勢であった。戦うべきか、避けるべきか? 周保中と劉漢興はわたしの意向を尋ねた。わたしは戦うことに決心した。第四軍、第五軍との連合作戦はこのように机上ではなく、土煙をあげて襲いかかる敵騎馬部隊の散開隊形の前で妥結し、実践に移された。強敵は避け、弱敵は討てという「避実撃虚」の戦術は昔の聖賢の教えであり、また遊撃活動の規範でもあったが、それは必ずしも一律に適用されるものではなかった。北満州で一度われわれの威力を誇示するのは、見方によってはわれわれの北満州遠征の目的達成に必須の要件であるともいえた。また、当時のすべての状況と地形条件からみても勝算があった。それでわれわれは簡単な協議の末に、直ちに戦うことに決定し、戦闘行動を開始した。われわれは人民に被害が及ばないようにするため、敵が山東屯に攻め入る前に迎え撃てるように陣地を定め、各部隊に必要な戦闘任務を与えた。太平溝戦闘で偉勲を立てた迫撃砲中隊の砲手と重機関銃中隊の名射手たちは、敵の進攻路と目される方向を制圧するための射撃諸元まで決めてわたしの命令を待った。
涼水嶺子村河を挟んだ谷間づたいの道を恐ろしい速さでやってきた敵は、山東屯西北方の地域を占めようと山を登ってきた。われわれは前方百五十~二百メートルの近距離まで敵を引きつけてから、いっせい射撃を浴びせた。生き残った敵は退却し、涼水嶺子村河をへて南側の尾根づたいに再び進攻を試みたが、そこでも道筋に待機していたわれわれの勇士たちが痛快に撃ち倒した。こうした攻防戦がいくたびか繰り返された。敵の指揮官は不利な状況を収拾しようと、隊伍を再整備していた。敵が指揮所に密集したとき、迫撃砲中隊長が射撃命令を下した。砲弾が金属音を立てて敵陣に飛び、つづけざまに炸裂した。生き残った敵は馬に乗って寧安方面へ退却する態勢になった。わが方の迫撃砲は撤収する敵に砲門を向けた。袋のネズミになった敵は、「共産軍が火砲まで持っているとは夢にも思わなかった」と叫びながら硝煙の中をさ迷い、夕闇にまぎれ算を乱して逃走してしまった。この戦闘でわれわれが迫撃砲を使ったことは大きな反響を呼んだ。敵はわれわれがソ連の援助を受けて迫撃砲まで持っていると言い、「高麗紅軍」という言葉を聞くだけでも震えあがった。われわれは老黒山戦闘でろ獲した迫撃砲弾を山東屯戦闘で全部消費したのち、迫撃砲は地中に埋めた。
山東屯戦闘で惨敗して以来、敵はあえてわれわれに戦いを挑もうとしなかった。敵は城門を締め切って城外に出てこなかった。さらには、われわれが送る手紙を見て、食糧、食用油、靴などの軍需物資を送ってよこしさえした。北満州の地で再び勝ちどきをあげた山東屯戦闘は、手榴弾で蛇退治をした珍無類な事件とともに、わたしの生涯でもっとも印象深い戦闘の一つとして記憶に残っている。
われわれの砲声に敵は戦慄したが、人民は溶岩のごとくわき立った。北満州の中国人共産主義者との共同闘争は、このように緒戦から大きな実績をあげた。これは両国の共産主義者間の戦闘的同盟を強固にする確固たる土台となった。周保中はそのときから重火器の不合理性を二度と口にしなかった。
われわれは山東屯を発ってから、斗溝子でも方という人の家で、北満州の共産主義者との反日共同闘争問題についてあらためて討議した。われわれの主動的な発案により、北満州遠征隊は周保中との合意のもとに数個の編隊に分かれ、第五軍の活動地域へ行って共同闘争を進めることにした。遠征隊は第五軍政治委員の胡仁が活動している穆棱地方にも行き、平南洋が活動している地方にも小部隊を派遣した。周保中は馬廠、団山子、沃糧河、石頭河子などの各地に向かうわれわれの編隊に、第五軍の一部の兵員を配属してくれた。これらの土地は、われわれが第一次北満州遠征のとき丹精して改良した沃土地帯であった。われわれはこの一帯の革命組織にしっかりと依拠して猛烈な軍事・政治活動を展開した。沃糧河の地下組織は村の周辺だけでなく、遠く東京城にまでネットを広げていたが、われわれはその組織の援助を少なからず受けた。沃糧河を思い出すと、一中国人老婆の姿が浮かんでくる。第一次北満州遠征のとき、その老婆は婦女会の活動に熱意をみせていた。還暦間近の身で軍服を仕立てたり、遠征隊の世話をやいたりして夜も眠らない老婆の姿を目のあたりにして、われわれはみな故郷の母や祖母に思いをはせた。老婆はわたしが一日でも見えないと、わたしの伝令兵に「ジンスリン(金司令)はどうして見えないのだい?」と尋ね、わたしが無事であることを聞いてやっと床についたという。その老婆の耳に、間島から「高麗紅軍」が来たという知らせが届いたのである。老婆は雄キジ一羽と器にソバの玉をのせて、斗溝子で出発の準備を急いでいたわれわれの部隊を訪ねてきた。
「昨年の秋は金司令に満足なもてなしもできなかったんですが、今日はソバの材料を持ってきましたから、このばあさんの誠意を受けてくれればなによりです」
ソバの材料を隊員にあずけながら老婆がいった言葉である。老婆はわたしの伝令とどう親しくなったのか、わたしがソバの好きなことまで聞きだしていたのである。その日、わたしは周保中と一緒に老婆のまごころのこもったソバをおいしく食べた。キジの汁にキジ肉と野菜の具をのせたソバの味は格別だった。周保中は二杯たいらげたあとで「金司令は北満州に来て、いつああいう中国人の老婆までさらったんだね? わたしは大衆をかちとる金司令の手腕にはいつも感嘆しているが、今度の機会にそちらの部隊に配属されたうちの中隊に政治工作の方法を教えてやってもらいたいと思う」と冗談とも本気ともつかぬ言い方で頼むのだった。
その年の九月、部隊が額穆地方で活動しているとき、第五軍の政治委員胡仁が、われわれに正式に連合作戦を申し入れてきた。しかし、そのときわれわれは葦河地方へ南下する金策との連係を結ぶためその要請をしばらく保留しておいた。その後、やむをえない事情のため、胡仁の要請には応じることができなかったが、わたしは抗日戦争の全期間、われわれにたいする彼の信頼をいつもありがたい気持で追憶したものである。
われわれが北満州の開拓にあたって、寧安のつぎに重視した地域は額穆であった。額穆はわれわれがほとんど足を踏み入れていない土地であり、中国人部隊でさえ革命の風を吹き込もうとして歯が立たず、放棄したところであった。だが、金策が所属していた第三軍との共同闘争のためには、いずれにせよ額穆の土地にすきを入れなければならなかった。西北は第三軍の活動地域である葦河、珠河と隣接しており、西は第一軍、第二軍の活動区域と隣接するこの謎のような未知の土地は、彼我双方の垂(すい)涎(ぜん)の的となっていた。北満州の多くの武装部隊が額穆の開拓を企図して失敗したのは、この地方の人民のあいだに深く染み込んでいた反共風潮のためである。寧安も反共の風あたりが強いところであったが、この地方に比べればまだいいほうであった。額穆が反共の汚染区域になったのは、この地方を本拠にして八・一暴動のような無謀な極左的妄動によって共産主義の恥さらしをしたM・L系分派分子らにも責任があった。八・一暴動のあおりを受けて、額穆の人たちは日本帝国主義と反動軍閥からはなはだしい被害をこうむった。それ以来、この地方の人たちは、共産主義者といえば首を横に振った。日本帝国主義は宣撫班を派遣して、人民と共産主義者のあいだにくさびを打ち込んだ。額穆県青溝子の密林で炭焼きをしていて入隊した一青年の体験談は、この地方の人たちの反共中毒がどの程度のものであったかを雄弁に物語っている。早くから伝染病で両親と兄弟を失い、天涯孤独の身になった彼は、物乞いをしながら無情な歳月をかろうじて生き延びているうちに額穆地方にたどり着き、道路工事場で苦役を強いられた。そのとき、彼は工事場のある人夫から革命歌を一曲習ったのだが、それはこの世に生まれてはじめて習った歌だった。その後、彼は任家溝付近のある農家で臨時の雇われ労働をした。ある日、村で結婚式があった。彼も主人についていって新郎新婦を祝ったのだが、媒酌人の要請で歌を一曲うたった。それは道路工事場で習った例の革命歌であった。ところが、その歌のために式場では騒動が起きた。学のある村の某有志がその革命歌を聞いて、青年を共産党だと決めつけたのである。その有志は青年を雇い入れた中農を指さして「人を雇うならしっかりした人間を雇うがいい。よりによって、共産共妻をするというろくでなしの共産党を雇う必要はないではないか」とどなった。責めたてられた中農は、その日のうちに青年を追い出した。悲劇のもとは、その青年が共産主義者によってつくられた革命歌をうたいながらも、それが共産主義を鼓吹する歌であることにまったく気がつかなかったところにある。無学がまねいた結果だと言う人もいたが、それは無学のためではなく、反共風潮のためであった。日本帝国主義は土匪や馬賊の暴挙までを共産主義者の仕業だと逆宣伝した。
こうした状況下で遠征隊が額穆を開拓することに決心したのは、正直なところ冒険にひとしいことだった。事実、われわれは鏡泊湖を渡って額穆に足を踏み入れた瞬間から住民に冷遇された。額穆地方の東側の関門ともいえるその村落は、中国人だけの小ぎれいな村だった。われわれが村に到着すると、大多数の村人は「紅胡子」が来たといって、子どもたちまで連れて逃げ出してしまった。村に残ったのは老人と病人だけだったが、彼らも家の中に隠れて外には出てこなかった。村外れの林の中にテントを張って隊員を休息させたあとで、わたしは村を一巡することにした。小学校へ行ってみると、教職員や生徒もみな隠れてしまって見あたらなかった。これは額穆に火を点じようと千里の道もいとわず訪ねてきた東満州の客人にはあまりにも冷酷なあしらいだった。わたしは校庭にオルガンを持ち出し、それを弾きながら青年義勇軍中隊の隊員たちと一緒に『蘇武歌』と楊貴妃の歌をうたいはじめた。隊員たちは漢族の民謡をうたわせても上手にうたいこなした。この二つの歌は、中国の勤労民衆にとくに愛唱されている名曲だった。『蘇武歌』はわたしが吉林時代に習った愛国的な歌で、原題は『蘇武牧羊』といった。蘇武は紀元前二世紀の漢の忠臣として声望が高かった実在の人物である。漢朝の使者として北方の匈奴に行ったのだが、匈奴は彼を人質として捕らえ、屈伏しなければ帰さないと脅迫し、雄羊が子を産むまでは帰れないだろうとうそぶいた。こうして蘇武は十九年ものあいだ匈奴に囚われていたが、節を曲げなかった。一言でいって、『蘇武歌』は中国人民の愛国主義的思想・感情をよく反映している歌である。オルガンに合わせて『蘇武歌』と楊貴妃の歌をうたっていると、隠れていた小学校の高学年の生徒たちが先に好奇心と驚きの色を浮かべてわれわれのそばに集まってきた。そして、わたしのオルガンの音に合わせて歌をうたいはじめた。しばらくすると、教員や村人たちが一人、二人と集まってきた。「高麗紅軍」が中国の歌を上手にうたうという事実に驚かされたのでもあろうが、その歌のために、彼らは紅軍と自分たちのあいだに漠然としたものではあれ、一種の共通性を感じたのかも知れない。ともかく、遠征隊をひどくけむたがっていた人たちが、親しみと驚きをこめた目でわれわれを見つめるようになったのである。逃げていった村人が校庭にみな集まってきたとき、わたしは中国語で反日演説をした。演説を聞き終えると、村人はわれわれに心を許した。
彼らは、「高麗紅軍」は匪賊でもなく馬賊でもない、「高麗紅軍」は本物の愛国的な革命軍であり、紳士の軍隊だといって、われわれの部隊をほめた。『蘇武歌』によって北満州の中国人を感化することができたのだといえる。そのときのことを通じて、わたしは文学と音楽が人びとを感動させ目覚めさせるうえでどれほど大きな役割を果たすものであるかを身をもって体験した。わたしが文学・芸術を革命の武器として重視するのは、そのときの体験にもとづいているともいえる。
第二次北満州遠征当時、鏡泊湖畔のあの中国人村落での体験がたいへん強烈なものであったため、わたしは解放後、『蘇武歌』の歌詞を入手しようといろいろと努力した。最近になって、わが国の関係者の助けで、中国語の原文の歌詞を入手することができた。そのとき、わたしはうれしさのあまり、八十の高齢であることも忘れて『蘇武歌』をうたった。八十にもなってうたうのだからたいしたものではない。のどがつまって声がよく出なかったが、心の中には遠い雲の彼方に消え去った青年時代の感慨が新たによみがえり、苦難の中で開拓した北満州の大地にたいする懐かしさがほのぼのとわき起こった。
中国の共産主義者とともに困難な共同闘争の道を開拓した日々が懐かしくなると、たびたびオルガンでこの歌を弾く。口笛を吹くこともあるが、二、三十代のころのような澄んだ音は出ない。ここに『蘇武歌』の歌詞を記しておく。
蘇武牧羊
一 蘇武は胡(えびす)に囚われしも 節を辱しめず
氷雪に覆われし匈奴の地にて十九年
渇して雪を飲み 飢えて毛氈(もうせん)を食みては
北海のほとりに羊を追う
心は漢にあれど この身老いても還れず
苦難をなめるほどに心は鉄石の如く
夜半に辺塞にて笛の音聞けば
心は痛み つらさ増す
二 蘇武は胡に囚われしも 節を辱しめず
いつしか北風吹き 雁の群漢へ飛ぶ
白髪の母はわが子の帰り待ちわび
うるわしの妻は独り閨房を守る
夜更けてともども夢路をたどれど 誰が夢ぞ
海が涸れ 石が腐爛するとも
大節はいささかもそこなわず
匈奴も胆をつぶし 漢の威徳に心服す
額穆での印象のうちでいまでも忘れられないのは、三棵松で全州金氏の老人に会ったことである。
六棵松という言葉が六本の松の木を意味するように、三棵松という言葉は三本の松の木を意味する。
三棵松にとどまっているとき、県城からさほど遠くないある地主の家に指揮部を定めた。その地主の家から五百メートルほど離れた所に、小柄な老人がわずかな田を耕作して暮らしていた。伝令兵が確かめたところによれば、その老人は朝鮮人らしいのだが、朝鮮語は使わず、舌足らずの中国語を使い、中国人を装って暮らしているというのだった。ある日の夕方、わたしはその老人の家を訪ねた。名乗り合ってみると、間違いなく朝鮮人であり、本貫(氏族の始祖の出身地)もわたしと同じ全州の金氏であった。洪範図につきしたがい、青山里戦闘にまで参加した人物であったが、その戦闘を最後に部隊が解散すると、額穆に来て妻帯し、隠遁生活をはじめたというのである。わたしが全州金氏であることを知った老人は、万里の他郷で同姓同本に会えてまったく感慨無量だと、喜びをかくしきれなかった。
老人は夫人を促し、踏みうすで籾米を搗いて白米のご飯を炊いてくれた。北満州に来てはじめて味わう白米のご飯だった。
「最初はわしらの志も遠大なもんじゃった。洪範図将軍の麾下で鳳梧谷での大勝を飾った時分は、朝鮮の独立がいまにも実現すると思えたもんじゃった。そのころは夢を見ても独立門をくぐって漢陽城(ソウル)へ入城する夢ばかり見たもんじゃ。ところがいまはどうじゃ。こうして野辺の石ころのような身の上になってしわばかりむだに増やしているのだから、情けない話じゃ。この老いぼれに楽しみがあるとすれば、漢族の天下も同様のこの北満州の最果てで、長雨の季節に星を見るように朝鮮同胞にめぐり会うことじゃよ。金将軍の部隊が間島へ帰らずに、額穆にこのまま残ってくれれば願ってもないことじゃがな」
老人はこんなことを言って重い溜め息をついた。国を取りもどそうと火繩銃を手にして勇みたったその雄志が、過酷に刻まれるしわとともについえ去るのかと思うと、わたしもやはり寂しい気持を抑えきれなかった。わたしは、この老人の初志を無駄なものにしないためにも、われわれ青年がいかなることがあっても闘争を中断せず、必勝不敗の道を歩まねばならないという決心をいっそうかたくした。この金老人には片方の耳がなかった。食事を終えてよも山話をしているうちに、老人にそのわけを聞いてみた。すると老人は、牡丹江で氷に穴をあけ、釣をしていてそういう目にあったと言って、自嘲めいた笑いを浮かべた。大きな鯉を釣り上げて胸に抱きとめたとたんに、その鯉があばれて凍傷を負った耳を打ったのだという。そんな災難にあった老人がひどく痛々しかった。わたしは三棵松村に一週間ぐらいとどまっていたが、その間毎晩、老人の家へ行って洪範図の話を聞かせてもらった。打ち解け合ってみると、額穆の人たちも間島の人たちのように反日感情が強かった。彼らが反共に汚染したのは、組織の指導を受けていなかったからである。
わたしは大衆工作を進める過程で、青溝子の四号部落の百家長を務めていた劉永生とも親交を結び、のちには指揮部もその家に移した。劉永生は、人民には負担をかけずに夜ごとたき火を囲んで娯楽会に興じ、隊員が男女の区別なく一団となって踊りもすれば学習もするわれわれの部隊を見て、変わった軍隊だと思った。彼が見なれてきた軍隊というのは、表看板にはかかわりなく、いずれも人民に目をいからせ、怒鳴りちらす類のものであった。ところが、間島から来たこの「高麗紅軍」は住民の水汲みを手伝い、庭を掃き清め、子どもの頭も刈ってくれるし、上下の別なく実の兄弟のように仲よくすごす不思議な軍隊だと、村中がささやき合った。
ある夜、劉永生百家長から六号部落に駐屯している日本軍守備隊と満州国軍が四号部落方面へ押し寄せてくるという不吉な通報があった。わたしはその通報を受けて、全部隊に就寝の号令をかけた。隊員たちは就寝時間になる前に床につかなければならなかった。百家長はそれを見て、また不思議に思った。ふつうならば三十六計逃げるに如かずと敵を避けて逃げ出すはずなのに、この「高麗紅軍」は逃げ出す準備もせず、かえって村に落ち着いて寝ようとさえしているのだから、これはまったく謎のような軍隊だと思わざるをえなかったのである。彼はいまにも村に敵軍が襲ってくるような気がして、一晩中寝つけず、せわしく出たり入ったりしていた。わたしは彼の手をとって座らせ、こう言った。
「わが軍が村をしっかり守っているのだから、心配しないでぐっすり休んでください」
「宵の口から布団にくるまる軍隊がどうやって村を守るというのですか?」
彼は不安を振り払うことができず、そわそわしていた。
「歩哨が立っているではありませんか。『高麗紅軍』はうそをつきませんから、今晩はぐっすり休んでも大丈夫です。そのかわり、明日の朝われわれが出発したあとで、敵のところに行って、『高麗紅軍』が村に立ち寄ったと届け出てください。百家長さんがご覧になったとおり話せばよいのです」
「届け出るなんて。わたしは『高麗紅軍』のようなりっぱな軍隊を密告するつもりはありません」
「いや、百家長さん。わたしが本気で頼んでいるのですから、そのとおりにしてください。それでこそ、われわれが助かり、百家長さんも村も助かるのです。あとでそのわけがわかるでしょう」
警察に「高麗紅軍」の動きを逐一密告させたのは、集団部落内に閉じこもっている敵を外へおびきだすためであった。翌朝、われわれは四号部落から撤収し、額穆方面にのびる道路を行軍した。行軍の途中で一個中隊は西南方の尾根に伏兵の陣をはらせた。百家長の届け出を受けた敵は、数百人の討伐隊を繰り出して、行軍中のわれわれの主力部隊をすさまじい勢いで追撃してきた。こうして北満州遠征隊は、額穆進出後はじめての誘引伏兵戦をすることになった。この戦闘に投入された日本軍守備隊(憲兵隊ともいう)は全滅した。人民革命軍の弾幕からかろうじて一名の守備隊員が生き残り飛行機の救助を受けたが、その飛行機も着陸時に事故でこっぱみじんになったので、その一人まで「天国」行きとなったわけだ。わが国の踏査団が額穆を訪ねた一九五九年まで、青溝子六号部落には日本帝国主義の手で立てられた「忠魂碑」がそのまま残っていたとのことである。
われわれは一九三五年十二月、官地付近でも戦闘をおこなった。この戦闘は柳菜溝戦闘とも呼ばれている。この戦闘でわれわれと遭遇した二百余人の敵は大部分が掃滅された。われわれに追いつめられた敵の将校が、野原にあった棺桶の中に死人になりすまして入っていたというエピソードは、この戦闘の後日談である。
北満州で戦われた数々の戦闘は枚挙にいとまがない。われわれが額穆地方の開拓を熱心に進めていた一九三五年の秋、コミンテルンは周保中を通じて、第二軍と第五軍の共同作戦のための合同指揮部を構成したことと、その合同指揮部の政治委員兼葦河部隊の司令官にわたしを任命したことを知らせてきた。大隊と連隊、師団などの政治委員を務めた経歴のため、コミンテルンがわたしを第二軍と第五軍の合同指揮部の政治委員に抜擢したようである。しかし、これはわたしの望むところではなかった。わたしは職責を望んだのではなく、北満州で活動する中核的な朝鮮共産主義者との対面を切望していたのである。しかし結局は、合同指揮部の政治委員という思いもよらぬ職責がこの渇望をかなえられなくしてしまった。遠征隊の活動だけでなく、他の軍の政治活動まで主宰する重荷が負わされたからである。わたしはこの重責がさせる過重な仕事をかかえ、南湖頭会議を前後する時期まで、北満州の戦友たちとの対面をあとにまわして、二つの軍の政治活動のために、寧安とその周辺の各県を巡回しなければならなかった。しかし、その過程を通じて、中国の共産主義者との連携の基礎をさらに強化することができた。その収穫は、遠征を開始するときに予見したものよりもはるかに大きなものであった。ただ残念なのは、遠征の主要目的のうちでも最優先の項目としていた、金策、崔庸健との対面を果たせないまま、それを遠い将来のこととして残したことである。われわれは中国共産主義者との接触を維持する日々にも、北満州の広野であらゆる辛苦に耐えて血戦を展開している朝鮮の共産主義者と愛国者をつねに忘れなかった。対面が遅れるほど、彼らへの思いはいっそう熱く燃えあがるのであった。
東満州の朝鮮共産主義者と南満州および北満州の朝鮮共産主義者がはじめて一堂に会して紹介し合い、感動と愛情にあふれて抱擁したのは一九四一年の初めであった。それ以来、われわれはみな同じ密営で、同じ釜の飯を食べながら祖国解放をめざす決戦の準備を進め、解放された祖国に帰っては建国のるつぼに身を挺したのである。彼らはみな、二〇世紀のもっとも劇的な年代に、わたしとともに抗日戦争はもちろん、反米戦争(朝鮮戦争一九五〇・六~一九五三・七)にも参加し、民主改革と社会主義建設の苦難の峰々を営々と乗り越えてきた忠実な闘士たちである。
北満州で戦った闘士たちは、いまもわたしとともに朝鮮式の社会主義を輝かすため苦楽を分かち合っている。半世紀を越す長い年月、わたしとわれわれの偉業を支持して変わることなき一路を歩んできたこの忠臣たちに、未来の幸福とともに清らかで美しい追憶のみが残されることを願う。
2 ふしぎな縁
北満州の額穆地区は、吉林時代からわたしと縁のある土地である。姜明根との連係のもとに麗新青年会という革命組織を結成し、それに参加した青年たちを対象に活動してきた蛟河と新站、杉松も、当時はまだ額穆県に属していた。この県が蛟河県に改称されたのは一九三〇年代の末期だったという。
第二次北満州遠征のとき、われわれは額穆だけでも数百里の長征をした。青溝子、琵琶頂子、南天門、三道溝、馬鹿溝、新興屯、官地、柳菜溝、三棵松、牡丹江村、黒石郷、駝腰子などはいずれも、そのころ開拓した土地であり、北満州遠征隊の武功が記されている思い出深い戦跡地である。その過程では面白いエピソードも多かったし、印象深い人たちとも多く出会った。
第二次北満州遠征の当時まで、この地方には革命の風の吹かない未開拓地が多かった。われわれが額穆遠征の問題を討議するとき、周保中が心配したのは決して理由のないことではなかった。
「金司令は呉義成のような頑固者さえも一朝にして帰服させたほどなので心配はないと思うが、われわれはこの春に額穆へ行って『紅胡子』呼ばわりされ、行く先々で門前払いされたものだ」
周保中の言う「紅胡子」とは中国語で匪賊という意味である。ひところ共産主義者を敬遠していた呉義成が「紅胡子」という呼び名で周保中をさげすんだのだが、それ以来いつのまにか、それは共産主義者の軍隊一般にたいする蔑称となっていた。やはり周保中の言葉どおり、わたしは遠征部隊を率いて額穆に足を踏み入れた瞬間から「紅胡子」としてあしらわれた。額穆の住民が遠征部隊を見ると「高麗紅軍」が来たといって村を空けて逃げ出したのは、われわれを「紅胡子」に劣らず敬遠したことを意味する。明らかに、彼らにとって「紅」の字は背徳と残忍の代名詞のようになっていたのである。
このような事情があったので、われわれは遠征中の多くの時間を大衆工作に費やした。大衆工作に時間をかけるのは浪費ではない。そういう努力の結果として、人民革命軍を敬遠していた人びとが親しい友人となり援助者となり、敵対関係にあった人たちが容共、親共の道を歩みはじめるとき、われわれはじつに千金にも替えがたい無上の喜びを感じた。腰営口会議以後、泣く泣く遊撃根拠地をあとにした人たちの顔がしきりに目の前にちらつき、そのうえ革命にたいする憂慮が幾重にも重なって心身ともに疲れきっていたときに、額穆で得たそうした収穫はわれわれにとって大きな喜びであった。革命家にとって第一の喜びは同志と友人を得ることであり、もっとも悲しいのは彼らを失うことである。
われわれは額穆県境にいたる前に、すでに鏡泊湖畔の小山咀子で柴和という名の中国人漁夫と知り合い、その湖水を容易に渡ることができた。柴和もわれわれと会う前までは、革命軍を敬遠していた人である。十九歳のときから三十年近く鏡泊湖で漁労を唯一の生業としてきたこの純朴な漁夫は、「高麗紅軍」を匪賊だという日本人の宣伝を真に受けていた。だが、遠征隊の偉容と秩序整然とした姿を目のあたりにし、隊員たちの気さくで謙虚な人柄に引かれるようになってからは、態度を改め、革命軍に親切に接するようになった。「川を隔てれば千里」という言葉のとおり、軍隊の遠征途上で行く手をさえぎる川は、千里の道に匹敵する障害であった。それゆえ、敵の目を盗み遠征隊の鏡泊湖渡河に全力をつくして助力してくれた柴和老の苦労は生涯忘れてはならないだろう。解放後の一九五九年に革命戦跡地踏査団が中国へ行ったとき、
柴和老の写真を持ち帰った。写真の彼はすでに七十歳の高齢に達したしわだらけの老人であった。だが、背が高く首の長い昔の面影はそのままで、感無量であった。
青溝子戦闘のとき、危険を冒してわれわれに給養物資を届けてくれた百家長の劉永生と、黒石郷付近で息子を遊撃隊に入隊させた兪春発老など、われわれは額穆でじつに多くの友を得、大衆をかちとった。
人民の中に入って各階層大衆の工作にあたる過程で、わたしは満州国軍の連隊長の一人とも深いよしみを結んだ。遠征隊が敦化県方面の木材所を襲撃するため夜通し強行軍をしたときなので、おそらく一九三六年初のことだったと思う。空が明けそめてくるころ、行軍を停止して道路ぎわのある地主の家に旅装を解いた。大がかりな土城をめぐらし、砲台までそなえたものものしい家だった。満州国軍が組織されたあとであり、また日本人が私設武力を許さないときだったので、私兵だけはいなかった。二棟造りの家なので、一棟は隊員が占め、他の一棟は指揮部のメンバーと給養係りが占めた。門の前に下男を装った隊員三人を交替で周辺の監視にあたらせ、あとの隊員は休ませた。
午後四時ごろ、歩哨から馬車がこの地主の家に近づいてくるという報告があった。やがて馬車は地主の家の前に止まり、貴婦人が兵士に伴われて馬車から降りると、少し暖をとらせてもらいたいと言って、まっすぐ中に入ってきた。窓越しに外を見ると、雪が舞う庭に、キツネの毛皮のコートを二重にまとった美貌の若い女性が立っていた。隊員たちはそのはなやかな装いに驚きながらも、正体不明のその女性を取り囲んで検問しはじめた。わたしが誰なのかと聞くと、年若い歩哨は「司令官同志、怪しい女です」と大物のスパイでも捕らえたかのように得意げに答えた。歩哨はその女性からするどい視線を離さなかった。若い中国人女性は色を失い、言葉もなく震えていた。わたしは身体検査までしようとする歩哨をとがめ、こう命じた。
「歩哨兵、ご婦人が火にあたれるように部屋に通しなさい」
彼女は部屋の中に入ってきてからも首を垂れたまま、かすかに震えていた。わたしは彼女を安心させようと、中国語で話した。
「怖がらずに体を温めなさい。若い歩哨兵が少々手荒くあしらったようですが、許してください」
わたしは彼女に茶を勧め、火鉢も身近に押しやった。
「あなたはどう思うかわかりませんが、われわれはこの土地の人たちが『高麗紅軍』と呼んでいる人民革命軍です。『高麗紅軍』という言葉を聞いたことがありますか?」
「耳にしたことがあります」
彼女はうなじを垂れたまま、か細い声で答えた。
「それなら幸いです。『高麗紅軍』は日本人が宣伝しているように、人民の生命と財産を侵害する匪賊の群ではありません。われわれ革命軍は抗日救国を目的としている人民の武装力です。われわれは朝中両国を侵略している日本帝国主義者とその手先に反対して戦うだけであって、人民の生命と財産には指一本もふれません。ですから、安心してください」
彼女は感謝のしるしとして合掌してみせた。だが、その表情には不安と恐怖、半信半疑の気持が複雑に交錯していた。わたしは彼女の緊張がほぐれるまで話をつづけた。
「われわれはあなたが満州国軍を連れて歩いているからといって、罪をただしたり処罰したりはしません。あなたがどうして兵士に護衛されているのかも問いません。人民と革命軍に危害を加えないかぎり、通りすがりの旅人を侮辱し虐待するはずはないでしょう。われわれも主人の許しを得てこの家に少し立ち寄り、疲れをほぐしている客ですから、余計な心配はせずにゆっくり火にあたっていきなさい」
彼女はこう言われてはじめて安堵の息をつき、用心深く顔をあげた。ちらりとわたしを見た彼女の目に、ふと驚きの色がただよった。彼女は両手を胸にあて、もどかしげに唇を嚙んだ。
「どうしたのですか。まだわたしの言うことが信じられないのですか?」
「いいえ、そうではなくて… 実のところ隊長さまのお顔が… わたしは隊長さまがもともとやさしいお方だということを…」
彼女はこうつぶやいて、またわたしをまっすぐに見つめた。そのとき、護送兵を尋問していた呉白竜が、鬼の首でも取ったような顔で戸口に現れ、彼女にはわからない朝鮮語でそっと報告した。
「将軍、護送兵の話によると、あの女は満州国軍第十二連隊長の妻だそうです。大きな魚が自分から網にかかってきたようなものです」
「そんなに得意がることはない。大きい魚なのか小さい魚なのかはあとでわかることだ」
口ではこう言ったものの、実際のところ満州国軍連隊長の妻だと聞いて驚いた。連隊長といえば並みのポストではない。満州国軍の階級順位からすれば、上からは四番目の位であり、下からは十三段もの梯子をよじ登らなければ得られないポストである。満州国軍一個連隊の管轄区域が数県を包括する場合もあったのだから、それを統轄する指揮官の権限がどれほどのものであるかは説明するまでもないであろう。当時、額穆県には蛟河に本部をおく満州国軍混成第九旅団管下の第十二歩兵連隊が駐屯していた。敵軍切り崩しを重要な戦略的課題の一つとしていた当時の状況で、満州国軍連隊長の妻にめぐり会ったのは、興味あることだといえた。だが、連隊長の妻だからといって、わたしは少しも顔色を変えなかった。
「満州国軍連隊長の妻だからと、恐ろしい罰を下すとでも思ったのですか?」
彼女はひどく気まずそうな顔をして、手をすり合わせた。
「そんなことは… わたしの勘違いでしょうか… 隊長さま、失礼ですが、金成柱(キムソンジュ)というお名前ではありませんか?…」
思いがけない質問に、今度はわたしが驚かされた。間島から数十里も離れた北満州で偶然めぐり会った満州国軍連隊長の妻がわたしの幼名を知っているというのは、無関心ではいられない事件である。どこかで見かけたことも、会ったこともない、見知らぬ貴婦人がどうしてわたしの幼名を知っているのだろうか。驚きとともに、その謎を明かしてみたい好奇心がわき起こった。
「ここ額穆で幼名を呼ばれて、妙な気がします。わたしは金成柱でもあり
彼女は顔を真っ赤にした。その表情から、言いたくても口に出すのをためらっているなにかがあることを感じとった。
「成柱先生が吉林で青年学生運動の指導をなさっていたとき、女学校に通っていたのです。わたしはそのころから先生を存じておりました」
「そうでしたか。これはなつかしい」
顔をあげて最初わたしを見つめたとき、その瞳に映った熱のこもった輝きがなにを意味していたのかをやっと理解することができた。ともかく額穆のようななじみのない土地で吉林時代の女学校の学生にめぐり会うというのは、なんという奇遇であろうか。吉林というその一言は、突如わたしの胸にノスタルジアに似たしびれるような情感を呼び起こした。いまもそうであるが、そのときもわたしは、自分を数年間釘づけにしたその都市に深い愛情をいだいていた。彼女はわたしの顔にわき起こる過ぎし日の追憶を読みとったのか、いくぶん落ち着いた声で言った。
「成柱先生も吉会線鉄道敷設反対キャンペーンが展開された一九二八年の秋をお忘れではないでしょう。あの秋の吉林はどんなにわき立ったことでしょう。信じられないかも知れませんが、わたしもあのときは学生デモに参加したのです。省議会の広場で成柱先生の演説を聞いたことがまざまざと思い浮かびます…」
かつてはデモ隊に加わってシュプレヒコールを叫んだ吉林女子中学校の学生、だが今日はキツネの毛皮のコートに身を包み、護送兵に守られて里帰りをする連隊長の妻の目からは涙がこぼれた。わたしは今昔の感に堪えず、いまさらのように彼女を見つめた。昨日まで反日を叫んだ女性が、今日は親日の列車に身をゆだねているのである。彼女をしてそうさせたのはなんであろうかと深く考えさせられた。自民族の運命に絶望しての堕落であろうか? しかし、わたしは吉林時代を回想する彼女の切々たる表情を見て、その心の中には反日を叫んだ昔日の志向がまだ残っているように思えた。そのうえ、彼女はわたしの前で、涙で自分自身を悔悟し、恥をしのんで女学校時代を追憶したではないか。彼女がなぜわたしを見た瞬間あれほど驚き、戦慄を覚えたのだろうか。それは良心で感じた恐怖であったに違いない。
「成柱先生、なぜなにもおっしゃらないのですか。わたしをお赦しください。先生が演説をなさったとき、拳をあげて呼応したその少女が… こうして軍服を着て苦労なさっている成柱先生を見ると… 感慨無量で… 恥ずかしくてなりません」
彼女の目からはどっと涙があふれた。
「気を鎮めてください。自分をそんなに卑下してはいけません。そういう絶望、自暴自棄に陥るには、時局があまりにもきびしすぎます。内外の情勢は、祖国を愛し人民を愛する中華のすべての息子、娘と知性人を抗日救国の広場に呼んでいるのです。連隊長の妻になったからといって、抗日が不可能だという法はないではありませんか」
わたしがこう言うと、彼女は涙をぬぐって顔をあげた。
「では、わたしのような境遇でも抗日に参ずる活路はあるというのですか?」
「ありますとも。あなたが夫によい影響を与えて、革命軍の討伐をやめさせるだけでも、それは抗日に貢献することになります。満州国軍の連隊長といえば高級な官職です。しかし、わたしは官職が問題ではないと思います。要は自分が中国人であるということを忘れないことです」
「わたしの夫も連隊長とはいえ、好き好んで務めているわけではありません。夫も民族的良心だけは深くいだいています。ですから、成柱先生のおっしゃるとおり夫をよく説得して、遊撃隊の討伐に部下を出動させないようにします。わたしの言葉を信じてください」
「そうできればなによりです。一人の連隊長が親日から反日へ方向転換をするというのは、その配下の兵士も愛国の道を歩むことを意味します。ここにあなたと夫の再生の道があるのです」
わたしは、かつて間島で満州国軍の将校たちが親日から抗日へ方向転換をした例をいくつかあげて、彼女に自信を与えた。彼女は、きょう成柱先生に会えたのは天が下した幸運だ、先生の話を聞いて考えさせられることが多い、先生はきょうわたしに吉林時代の魂を呼びもどし、わたしたち夫婦を再生の道に導いてくれた、この恩は一生忘れない、と言って中華民族の娘として正しく生きていくことを誓った。彼女に、われわれがつくった宣伝物と、宋慶齢、章乃器などが上海で発表した抗日救国六大綱領も見せてやった。第一次北満州遠征のとき寧安の周保中の山小屋で呉平が見せてくれた例の六大綱領である。連隊長の妻は時計を見ると、懐中から白い紙包みを取り出してわたしの前に置いた。中国紙幣だった。アヘンを売った金だが、軍資金として使ってほしいというのである。誠意はありがたかったが、わたしはそれを受け取ることができなかった。
「その金はおさめてください。わたしはきょう、失った反日学友にまた会えたのですから、それだけでも大きな財産を得たことになります」
わたしがこう言うと、彼女はまた泣いた。別れる前にわたしはご馳走をととのえて夕食がわりに彼女をもてなした。彼女は発つときに自分の姓名を教えてくれたが、いままで忘れずに覚えているのは「池」という姓だけだ。残念なことに、わたしは彼女の名前を忘れてしまったのである。
それから何日かして、わたしは満州国軍連隊長から手紙を受け取った。あなたがたはこの世にまたとないりっぱな人たちだ、わたしの妻の命を保護し、わたしを罪悪の泥沼から救い出し愛国の道に立たせてくれたあなたがたを、わたしは死んでも恩に報いる覚悟で助ける決心だ―― こういう内容の長文の手紙だったが、筆端には悲壮な決意のほどが表われていた。その連隊長の名も「張」某といったが記憶は確かでない。
その後、わたしは旧正月を迎える準備のため、額穆県城の近くに軍需官を派遣した。彼は冷凍豚肉をはじめ正月料理に必要な物資を手に入れようと市街地まで入って行ったのだが、任務を遂行できないまま県警察に逮捕されてしまった。この情報がどういうルートを通じてか、張連隊長の耳にまで届いた。連隊長は警察署に、人民革命軍は軍の管轄だから軍需官を引き渡せと要求した。最初、軍需官は満州国軍の連隊長が自分を殺すに違いないと思った。ところが、連隊長は妻に料理をつくらせ、軍需官を貴賓として歓待し、こう話した。金司令の部隊が妻を助けてくれて感謝する、今後どんな状況にあってもあなたがたは討伐しない、命をかけて保証するから、わたしの言うことを信じてもよい、あなたがたの部隊と遭遇したときは銃声を三発上げるから、そのときはわたしの部隊だと思ってやり過ごしてほしい、わたしは死んでも金司令の恩だけは忘れない、金司令にわたしの衷心からの挨拶を伝えてもらいたい。
その後、張連隊長は軍需官に話したとおり約束を守った。われわれが三棵松部落にとどまっていたころ、官地部落方面に日本軍が駐屯し、額穆県方面には満州国軍の連隊が駐屯していた。両部隊とも討伐に出てはいたが、第十二連隊長の指揮する部隊は、われわれの部隊と遭遇するとわざと交戦を避けるのがつねだった。われわれも日本軍のみを選んで攻撃した。当時、日本軍と満州国軍を見分ける主な目じるしの一つは鉄かぶとであった。鉄かぶとをかぶっていれば日本軍で、かぶっていなければ満州国軍だというのが、パルチザンのどの部隊でも通じている公式であった。ところが、のちには満州国軍も鉄かぶとをかぶって戦場に現れるようになった。そこでわれわれは、鉄かぶとをかぶっていれば日本軍とみなして無条件射撃するから、遊撃隊と戦いたくなければ鉄かぶとを脱げと警告した。それ以来、満州国軍はわれわれに接近すると鉄かぶとを脱いで、自分たちが満州国軍であることを知らせた。パルチザンは鉄かぶとをかぶった者が前にいれば前を叩き、後ろにいれば後ろを叩いた。日本軍は「パルチザンは不思議なほどわれわればかり選んで攻撃する」と悲鳴をあげた。われわれは満州国軍が討伐に来るときは銃の「暴発」でパルチザンに合図を送るよう要求したが、彼らはこれもよく守った。「暴発」も不可能なときは、数十、数百人が一個所に集まってがやがや騒ぎ立てる方法でその位置を知らせた。張連隊長はわれわれに給養物資も少なからず送ってよこした。彼はときおり、馬車に豚肉や冷凍したギョーザを満載し、討伐に出るという名目で駐屯地を出発しては、われわれとの接触地点に部下をよこしてそれを置いていった。そして、自分はパルチザンもいない方角違いのところに部隊を進めて数時間めぐり歩いては兵営に引き揚げるのだった。
われわれの部隊が官地付近のある村に駐屯したときのことである。ある日、数名の指揮官がわたしのところに来て、正月を前にした隊員たちの気分状態を報告した。そして、ソバ粉やジャガイモの澱粉を手に入れて正月にソバでも打てるように、村で食糧工作をするから承認してほしいと言った。だが、わたしは人民に負担をかけるのを避けるため、それを許さなかったし、しばらくして部隊に撤収命令さえ下した。そのとき村人たちは、金司令部隊と一緒に正月がすごせるからと準備におおわらわだった。ともすれば、部隊の正月料理のために村人の数か月分の食糧が底をつきそうであった。わたしが部隊を率いて急いで村を離れたのもそのためであった。人民の利益を侵害しないという名分で撤収を断行したものの、隊員たちは納得できないようであった。黄泥河子の奥まった所に居所を移した遠征隊は、木材所の労働者が使用していた山小屋を手入れして正月をすごした。正月とはいえ、隊員に行き渡ったのは各自食器一杯ほどの粟飯だけだった。隊員たちがそれを食べて物足りなさそうにしているとき、張連隊長がよこした豚肉とギョーザが到着してわれわれを喜ばせた。
わたしとの親交が深まっていくと、張連隊長は遠征隊に武器や情報までも提供するようになった。一女性を感動させた誠意は、このように振幅の大きい報恩のこだまを呼んだのである。張連隊長は満州国から与えられた連隊長の帽子をそのままかぶっていながらも、果断な容共の実践によって歴史と人民にたいしてその罪をあがなった。満州国軍の絶対多数をなす下層兵士大衆の獲得に基本をおきながら、中下層将校と一部の良心的な上層将校まで味方につけて、ごく少数の悪質将校を孤立させ排撃するという敵軍切り崩し方針は、張連隊長にたいする工作においても大いに効を奏したことになる。これは予想外の大きな収穫であった。わたしとただの一度も接触したことのない張連隊長が、妻に感化されて反革命の手先から容共愛国人士に変貌したのである。こうしてみると、吉林女子中学校出身の連隊長の妻が夫を改心させるため積極的な思想攻勢を展開したようである。彼女はたいへんりっぱな女性である。
張連隊長はしばらくして樺甸地方へ移動した。わたしは彼を魏拯民に引き継がせた。それ以来、長いあいだ張連隊長の消息は跡絶えていたが、一九四一年になって、樺甸で魏拯民を補佐していた郭池山を通じて一片の消息を耳にすることができた。郭池山は、樺甸の満州国軍第十二連隊と第十三連隊がまもなく熱河方面へ配置されるということと、両連隊の連隊長が熱河へ移動する前に抗日革命軍に編入する意思を表明してきたことを伝えた。しかし、樺甸には当時、二つの連隊を同時に受容できる部隊はなかったし、両連隊長の勇断にたいし責任ある返答のできる幹部もいなかった。郭池山がわたしを訪ねてきたのも、その返答を受けていくためだった。魏拯民が戦死した後、第二軍所属の軍・政幹部たちは部隊の活動で提起される大小の問題にかんする結論をわたしから受けていた。わたしは、両連隊が熱河へ移動する前に義挙を断行させる緊急任務を与えて、郭池山を樺甸へ送り返した。しかし惜しいことに、時間が遅れたため、両連隊に義挙を断行させる大事は実現しなかった。後日知ったことであるが、張連隊長は樺甸にいるとき、楊という姓の新任連隊長に自分の連隊を引き継がせた。そのさい、彼は新任連隊長に反日の道を歩むよう説き、隣接部隊であった第十三連隊の連隊長にも、友誼をもって反日革命に助力するよう勧告した。その後、熱河方面へ配置された満州国軍第十二連隊と第十三連隊の後日談はどこからも聞くことができなかった。そうしてごく最近、対日作戦当時の満州国軍の崩壊にかんする資料を見るに及んで、それらの部隊が決定的な時期に日本帝国主義に反旗をひるがえしたことがわかり、感慨を新たにした。
敵軍の中の一人の良心的な友は数千数万の友を得させるものである。それゆえ、われわれは抗日武装闘争の初期から「敵軍の中に革命の砲台を築こう!」というスローガンをかかげたのである。敵軍の中に砲台を築くというのは、敵軍の中にわれわれの陣地を築くということである。いわば、敵軍切り崩し工作を目的に、敵軍の中に革命勢力をつくるということである。当時、敵軍切り崩し工作は対敵政治工作という言葉で通用していた。銃弾によって敵を撃破するのと、対敵政治工作によって敵を瓦解させるこの両者は、抗日闘争のための二つの戦略的路線であったといえる。どの時代、どの戦争、いずれの側を問わず、敵との闘争はつねにこの両線上でおこなわれてきた。一つは武力による戦いであり、一つは精神と思想宣伝による戦いである。
日本帝国主義のいわゆる治安粛正においても、治表工作、思想工作、治本工作という三つの方針がうちだされていたが、これも総体的にみれば武力を専門とする「掃匪工作」と宣伝宣撫を専門とする「思想工作」の両側面である。敵もわれわれの革命隊伍を精神的に瓦解させようとやっきになっていた。にもかかわらず、対敵政治工作のため敵軍の中に革命組織をつくる問題をわたしがはじめて提起したとき、少なからぬ人はこれに呼応しなかった。命が惜しくて敵軍切り崩し工作方針に反対するような臆病者は一人もいなかった。一部の人がこの方針にすぐさま呼応しなかったのは、それを階級的線からの逸脱とみなしたところに主な理由がある。われわれは労働者、農民の軍隊であり、相手はブルジョアジーの軍隊なのだから、彼我は水と油の仲だ、水と油がとけ合わないのは三つ子にもわかる明白な理であるのに、敵軍の中に革命組織をつくるというのは論外だというのである。
マルクス主義の古典を背のうにいっぱい詰めこんでかつぎまわる者たちは、敵軍の中に革命組織をつくるのは一種の階級協調ともいえる右寄りの脱線だと評した。それは相容れない矛盾関係にある階級敵との提携を策することになるが、古典には敵軍切り崩しにかんする命題はないと主張した。現今の青年なら、杓子定規のような人間だと非難するであろうが、古典の命題なしには一歩も動けなかった当時であってみれば、こういう一面的な立場がかなり支持されていたのである。階級闘争がきびしく、階級敵にたいする恨みが骨髄に徹していたころなので、そういう立場の者がいても、それを大きな逸脱だとする人はほとんどいなかった。多くの人が階級敵にたいする憎悪心から革命に加わり、万難を克服してきたのであり、したがって「階級」というこの名詞の前ではいささかの譲歩もしようとしなかった。そのうえ、マルクス主義創始者たちの階級闘争論にたいする教条的な解釈の結果として少なからぬ共産主義者には愛という感情よりも憎悪という感情、包容し容赦する度量よりも懲罰し糾弾する非妥協性の方が強くなったのである。あまつさえ、えせマルクス主義者は無条件的な非妥協性を革命家の特質とみなし、思想的、精神的に未熟な青年を偏狭な人間に、文字どおり血も涙もない「紅胡子」にしてしまった。事実、マルクス主義革命はこうした弊害のため陣痛を体験し、共産主義者の印象を悪くした。階級擁護と階級的非妥協性のスローガンのもとに、階級の利益一面のみを高唱してきた極左分子と教条主義者は、多くの人が共産主義革命に背を向けて敵陣に下るのを見ながらもそれを阻止することができなかった。問題はマルクス主義古典に敵軍切り崩しにかんする命題があるかないかではなく、革命の根本的利益から路線と方針をうち立てようとしないところにあった。
自国人民への愛に根ざして革命をはじめるべきだと考えたわたしは、マルクス主義古典の研究にあたっても、非妥協性を求めようと努力したのでなく、愛と団結の思想をまず探し求めようと努力した。わたしが敵軍の中に十分革命勢力を扶植することができると考えたのは、労働者、農民の子弟である絶対多数の兵士と中下層将校はもとより、一部の上層将校の中にも、われわれの革命に同調し、搾取社会の受難者をあわれむ良心的な人間がいるとみたからである。彼らをすべて革命の側につけ、友軍として獲得するなら、敵はそれだけ瓦解し、われわれの革命勢力は数倍に成長するであろう。それは銃砲弾を使わずに階級敵をせん滅する大攻撃戦となり、共産主義者こそは人類の幸福と和睦を願う気高い理念の持ち主であることを認識させる一大宣伝となる。われわれは、少なくともこうした理想と志をもって「敵軍の中に革命の砲台を築こう!」という合言葉を対敵政治工作の基本スローガンとしてうちだしたのである。敵軍の中に革命の砲台を築けると確信したわたしの思想は、人間の本性にたいする主体的な立場にその基礎をおいている。人間は自主性、創造性、意識性をもった偉大な存在であると同時に、正義を擁護し志向する美しい存在である。人間はその本性からして、善良かつ高尚なものを追求し、邪悪で醜悪なものを軽蔑する。この固有な本性こそは人間性なのである。ごく少数の反動的な上層を除いた多数の中下層の人間と上層の一部の人物は、われわれが広い度量をもってよい影響を与えるなら、革命の支持者、同調者、援助者にすることができるものである。たとえ地主、資本家階級に奉仕する人であっても、人間性があり、祖国と民族を愛する人間的な芳香があるなら、それはわれわれが彼らを味方につける基礎となるのである。ごく少数の反動分子と悪漢を除いた民族の全構成員を民族大団結の旗のもとに結集するというわれわれの政策は、ほかならぬこうした立場に根ざしているのである。
解放後、わが国の人たちは、金九(〔 〕)をテロの総元締と規定し、李承晩と同列において反動視したことがある。彼が一生、共産主義者に反感をいだき敵視したのは事実である。彼らにたいする憎悪心がどれほどのものであったかは、金九と李承晩がカボチャを頭にのせて豚舎に入っていく漫画まで出たことをみてもわかるであろう。降仙製鋼所の労働者たちは、製鋼所の煙突に「金九を打倒せよ!」というスローガンまでかかげた。当時は、朝鮮人民の中に金九を改造できると思った人は一人もいなかった。だが、金九自身は四月南北連席会議(〔 〕)のとき、わたしの影響を受けて反共分子から容共・親共人士に改造された。彼がこういう改造過程をへることができたのは、わたしの影響もあるが、共和国北半部の現実を目撃する過程で、彼が一生をささげてきた愛国愛族の精神が高度に発揚され、その人間性が最大限に啓発されたためである。
愛国愛族と人間性にたいする考慮がなかったなら、われわれは反共第一線でわれわれを狙っていた崔徳新(〔 〕)と手をとることもなかったはずであり、今日の南朝鮮執権者との対話の席も設けはしなかったであろう。われわれが南朝鮮の支配者たちと対話の方法で祖国を統一するための協商の席に対座するのは、たとえ制約はあるとしても彼らの民族的良心と人間性に期待をかけているからであり、それらがいつかは民族和合の大花園で花と咲き誇るものと信じているからである。
われわれは敵軍獲得の対象と方法の問題でも少なからず論争した。日本軍を相手にする対敵政治工作についての論争はなおのこと合意をみるにいたらなかった。大部分の人は、満州国軍の中下層は獲得できる対象とみながらも、幼いころから「大和魂」によって天皇を盲信し、強圧的な規律にならされてきた日本軍人は味方にできない存在とし、敵とみなした。日本の陸軍士官学校出身の独立軍(朝鮮の独立をめざした民族主義者の軍隊)頭領の反共思想を抜き去ることもむずかしいというのに、ましてや日本軍将兵などはいわずもがなのことだと首を横に振った。ところが、思いもよらぬ一つの事件が、この見解を見事に否定してしまった。
ある年、間島の農村に熱病がはやり、日本軍が病人を家に閉じ込めて焼き殺す蛮行を働いたことがある。童長栄が病床に臥していた村も討伐隊に襲われた。部屋の中に横たわっている童長栄を見た日本軍将校は、即座に戸を締めきって火をつけるよう部下に命令した。日本兵は上官の命令どおり火を放とうとした。最期が迫ったと考えた童長栄は、どうせ死ぬなら宣伝でもして有益な死に方をしようと決心し、拳で床を叩きながら熱弁を吐いた。彼は日本で大学まで卒業していたので、日本語がたいへん流暢だった。「おまえも労働者、農民の息子であるはずなのに、なんのためにここへ来て貧しい人たちを手当たり次第に殺すのだ。殺してなにが得られるのだ。無礼にもほどがある。病人を殺す法がどこにあるのだ」良心の扉を叩く絶叫に心を動かされた日本兵は裏の戸を蹴破り、上官に気づかれないように童長栄を外に抜け出させたあとで火を放った。童長栄は畑のうねまに隠れていて、かろうじて救出された。このエピソードは、日本兵は味方にできないと強弁していた人たちを黙らせてしまった。それ以来、われわれは自信をもち、勇猛果敢かつ聡明で知略にたけた隊員を選抜して、ためらうことなく敵中に派遣した。敵軍の中にただ一人という孤立無援の状態でも、志操を曲げず対敵政治工作をりっぱに遂行した有名無名の多くの工作員の働きかけによって、満州国軍と自衛団のあいだでは毎日のように造反が起きた。
われわれは、遊撃隊員であれば誰でも呼号、出版物の普及、世論操作、革命歌の普及など、さまざまな形式と方法で対敵政治工作が能動的にできるように教育した。敵軍の内部と外部、個人と集団とを選ばないわれわれの熱烈で感化力のある宣伝攻勢によって、多くの満州国軍部隊が遊撃隊と戦うことをやめ、わが軍への忠実な「武器輸送隊」となった。満州国軍は手紙を一通出しても、武器、弾薬、食糧を届けてくれたし、戦場で「要(ヨ)槍(チャン)不要(プヨ)命(ミン)(銃が必要だ、命は必要ない)」と口で脅すだけでも、銃を差し出して投降した。討伐隊は人を選ばず手当たり次第に虐殺したが、われわれは敵軍を捕虜にすれば、満州国軍であれ日本軍であれ、差別せず人道的に待遇して説諭し、旅費まで与えて帰らせた。そのために、なかには銃を携えて七回も捕虜になる満州国軍の兵士さえいた。その兵士に冗談まじりに、「また来たな」と言うと、彼はにこにこ笑いながら「革命軍に銃をおさめに来ました」と答えるのであった。われわれは東満州で活動していたころ、汪清県羅子溝の聞部隊の中隊長をはじめ、敵の中隊長クラス以上の将校もかなり獲得した。一九三四年に南蛤蟆塘の馬桂林部隊に入って切り崩し工作をりっぱに果たした銭中隊長も、もとは満州国軍の中隊長であったが、われわれが影響を与えて共産主義者に改造した人物である。
日本軍兵士の中にも、われわれを助けてくれた忘れがたい友人がいる。小汪清防衛戦闘のとき、戦場捜索をしていた呉白竜が、日本侵略軍運転手の死体から遊撃隊宛の一片の走り書きを見つけて持ってきたことがある。走り書きを残したのは労働者階級出身の日本軍運転手で、日本共産党の党員であった。彼は弾丸十万発をトラックに積んでわれわれのところに向かったのだが、遊撃区に近い山すそで発覚し、遺書をポケットに入れて自決したのである。彼の高潔なプロレタリア国際主義的革命精神はすべての人を感動させた。愛する父母と妻子を日本に残し、茫洋たる滄海と険しい山岳を越えてきては、われわれを助けようとして異国の野に果てた日本共産党員の姿は、いまもわたしの胸をあつくしている。小汪清の人たちは、地元の小学校にこの国際主義戦士の名を冠したというが、その校名がいまもそのまま伝えられているかどうかは定かでない。
額穆で満州国軍の連隊長を獲得した経験にもとづき、われわれは後日、安図―― 敦化県境にある大浦柴河でも敵軍切り崩し工作を巧みに展開した。大蒲柴河には遊撃隊の討伐で悪名をはせた一個大隊の満州国軍が常駐していた。この大隊は戦闘歴に富み、指揮体系と隊列の統率にもたけた悪質な部隊であった。工作員を派遣するにも、潜入することができなかった。われわれは弱点を探し出すため、この部隊を多面的に研究してみた。その過程で、大隊長は俸給が低くて上級に不満をいだいており、金に窮して副官にアヘンの密売をさせているということを探り出した。これは、その部隊にたいする切り崩し工作を可能にする有効な端緒だった。ある日、工作隊は道端に待ち伏せていて、大量のアヘンを仕入れて帰ってくる副官を捕らえた。副官は、貨幣と等価で通用する大隊長のアヘンが革命軍に奪われるのをもっとも恐れた。だが、工作隊員たちはアヘンなど見向きもせず、副官を説諭して大隊へ帰らせた。これに感動した副官は部隊にもどると大隊長に、日本人の宣伝を聞いて共産軍を匪賊だとばかり思っていたが、実際に会ってみると上品で物わかりのよい人たちだとくわしく報告した。大隊長もそれを聞いて大いに感嘆した。
その後、わたしは副官を通じて、わたしの名刺入りの手紙を大隊長に送った。その内容は、遊撃隊はあなたたちと戦うことを望まない、あなたたちは革命軍を攻撃して数々の悪行を働いたが、それをとがめはしない、われわれは他のことは要求しない、人民に危害を加えず、人民革命軍と戦うな、これがわれわれの要求だ、もしも前非を悔いて革命軍と友好的に交わる意思があるなら、『鉄軍』のような出版物をときどき送ってもらいたい、というものであった。
この手紙にたいする返答として、副官はわたしに雑誌『鉄軍』を持ってきた。そして以後出版物を引き渡す秘密の場所を合議して帰った。それ以来、彼らは隊内と隊外で発刊される各種の新聞、雑誌と重要な情報を古木の空洞に入れておく方法で、われわれに定期的に送ってよこした。金を渡して部隊の生活に必要な品物や軍需物資の購入を依頼すると、それも間違いなく果たしてくれた。われわれの好意に感心した満洲国軍の大隊長は、負傷した遊撃隊員の治療までするようになった。兵営の中に負傷兵をかくまって厚くもてなしながら銃創がすっかり治るまで治療してくれた。人民革命軍を真の人民の軍隊とみた大隊長は、われわれとの友好関係が深まってくると、「山中の戦友たちに告げる」という感動的な手紙までわたしに送ってきた。
真実を尊び愛を礼賛するのは人間本然の性である。わたしはつねづね同志たちに、敵は欺瞞と虚偽、威嚇と恐喝によってわれわれの隊伍を瓦解させようとしているが、共産主義者は真実と愛によって敵軍の心を動かさなければならない、と強調していた。
わたしのこの言葉を心に受けとめ、対敵政治工作を誠実に遂行した工作員の中には、任銀河という若い女性遊撃隊員もいた。広く知られている演劇『ひまわり』は、ほかならぬ彼女の実際の闘争を描いた作品である。わたしが任銀河にはじめて会ったのは一九三六年の春、迷魂陣密営においてである。朝鮮人民革命軍の新師団編制と祖国光復会の創立準備にかかわる重要な諸問題が討議されていたころ、任銀河もわたしにしたがって白頭山地区へ進出したい一念でそわそわしていた。彼女は物静かでありながらも決断力のある、かわいらしい娘だった。年はまだ二十歳にもならず、体も少女のように小柄だった。
「将軍さま、今度はきっとわたしを連れていってくださるでしょう?」
彼女は会うたびに、わたしの引率している朝鮮人民革命軍の主力部隊に加えてほしいとせがんだ。けれども、わたしは病弱な魏拯民を思って任銀河を彼のそばに残しておくことにした。わたしにしたがって祖国へ行けるものと思っていた期待がはずれるや、彼女は涙ぐんだ。わたしは彼女を慰めた。
「そんなにさびしがることはない。わたしが白頭山方面へ行って落ち着いたら、魏拯民同志を呼んで治療させることにする。そのときはきみも一緒に来ればよい」
「わかりました。わたしのことで心配なさらないでください」
彼女はこう言ってわたしを安心させようとしながらも、ぽつねんと南の空を眺めていた。
数日後、われわれは迷魂陣を出発し、小富爾河付近の村で宿営することになった。ところが民家がわずか四、五軒しかないこの奥まった山村で、思いもよらぬ不祥事が起こった。早朝、大蒲柴河に駐屯していた敵が村を襲ってきたのである。われわれは迅速に有利な地点を占めて敵を迎撃したが、谷間の向こう側で別個に宿営していた人たちがまだ脱出できずにいた。その家には魏拯民と、われわれのところに新しく派遣されてきたモスクワ中山大学出身の李主任、それに曺亜範の妻と任銀河がいた。
敵を撃退して戦場を捜索していたわれわれは、家の天井から魏拯民を捜し出した。銃創を負った彼の大腿は血まみれであった。その日にかぎって彼は病状が悪化して身動きさえできなかったのだが、任銀河がやっとのことで天井にかくまったという。しかし、任銀河自身は敵の銃火を避けて山へ駆け上っているうちに、脚に敵弾を受けて捕らわれてしまった。その日、曺亜範の妻と李主任は敵弾に倒れた。
敵は任銀河を大蒲柴河付近に駐屯する満州国軍中隊に置いて洗濯や炊事婦の仕事をさせた。最初は日本人指導官がひどい拷問を加えて秘密を吐かせようとしたが無駄だとわかると、戦術を変えて雑役で使いながら、心変わりをさせようとはかった。
任銀河は敵陣に独り囚われの身になりながらも、どうすれば革命に役立つことができるかを考えあぐねた末に、満州国軍の一個中隊全員に義挙をさせるという大胆な計画を立てた。彼女はまず、生来の美声を生かした歌で、つらい軍隊生活ですさんだ男たちの心を動かしてみようと決心した。そして満州国軍兵士と接触する機会をつくるため、わざわざ洗濯紐を兵営の庭に渡し、しばしば洗濯物を見てまわりながら郷愁を誘う物悲しい歌をうたった。われわれには対敵政治工作のためにつくったよい歌があった。それは万里の長城の築造工事に駆り出されて死んだ夫をしのび、その墓前でうたった昔の悲歌の曲に、革命的内容の歌詞をつけたものだった。任銀河は、将校のいるところでは普通の歌をうたい、兵士の前ではその歌をうたった。彼女が雑役を務める中隊の兵士は、以前救国軍に属していたが、指揮官の裏切りで満州国軍に編入された人たちで、もともと反日感情が強かった。美しく清らかな彼女の歌は、兵士の心をとらえた。将校でさえ、彼女の哀愁にみちた歌を聴かされると、遠い空を仰ぎながら物思いにふけるのであった。捕虜の女性遊撃隊員が名歌手だといううわさが広まったため、わざわざ訪ねてきて歌をせがむ兵士までいた。
「遊撃隊の娘さん、歌をうたってくれないか」
すると任銀河はにこにこ笑いながら「お金もかからないそんな歌でよかったら、いくらでもうたいますわ」と言って声をととのえ、物悲しげに歌をうたった。そのうら寂しい歌には、日本人に虐待されて死んでいく中国人の恨みがにじみでていた。昔は万里の長城の苦役が中国人の墓を積み、今日は日本軍の銃剣がわれらの墓を積む、立て、進もう、中国人の恨みを晴らすため…。こういう歌をうたうと、いつしかうたう本人も泣き、屈強な兵士たちも涙ぐむのであった。
任銀河は歌だけでなく、兵士の縫い物も手伝い、彼らの好きな食べ物も残しておいては分けてやったりした。こういう過程で、任銀河と兵士たちのあいだにはあたたかい情が通い合うようになった。その中には、任銀河を実の姉のように慕う弱年の兵士が数名いた。彼らは早くから両親をなくし、浮浪生活をしているうちに、口すぎでもしようと軍務に服した若者たちであった。任銀河はこの寄る辺のないあわれな兵士たちの世話をやくために心を砕いた。人情に飢えていたこのような兵士たちにとって、彼女はいつのまにか実の姉か母にもひとしい大切な存在となった。
ある日、弱年の兵士三人が彼女のところに来て、義兄弟を結ぼうと言った。
「銀河はわたしらの長姉だ。姉さんのためならこの弟たちは命でもささげる」
若者たちの誓いは厳粛で切々たるものであった。任銀河が彼らの申入れを承諾したのは言うまでもない。そして「この姉も弟たちのためなら命を惜しまない」と言って若者たちの手をとった。任銀河は彼らを中核として義兄弟の数を増やし、それを反日会組織に発展させる一方、義挙のために満州国軍中隊長にまで接近した。中隊長もやはり救国軍の出身であったが、日本人指導官の専横のため、いつも憤懣やる方ない日々を送っていた。こうした気分状態をとらえた任銀河は、ある日、中隊長を訪ね、遊撃隊への義挙を断行した満州国軍の生活を微に入り細をうがって話した。そして、大胆にこう迫った。
「中隊長さんも部下を引き連れて義挙を断行してください」
彼女の突然の提言に、最初中隊長は狼狽した。
「あなたたちはいつまで牛馬のようにしいたげられているつもりですか。きのうも中隊長さんがいちばん目をかけている兵士の王さんが日本人指導官に殴られて気絶したのに、あなたは一言もいえなかったではありませんか」
任銀河はそのときのことを思い出して憤激する中隊長にたたみかけた。
「わたしが力をかしますから、義挙を断行してください! あなたの部下はみなわたしの義兄弟で反日会の会員です」
燃えるような彼女の眼を中隊長は驚異の目で見つめた。この小さな女性遊撃隊員が、なんということをしてくれたのだろうか。小さな体に似合わぬ大胆不敵な面魂に、中隊長は強い衝撃を受けた。
「男に生まれながら自分が恥ずかしい!」
彼は吐き出すようにこう言うと、そそくさとその場から姿を消した。その翌日であった。任銀河の影響下にあった兵士たちが、六か月間も遅払いになっている給料の支払いを要求して集団的な抗議闘争に立ち上がった。日本人指導官はその日も兵士の代表をひどく殴りつけ、口汚なくののしった。任銀河はいまこそ運命を決するときだと判断し、敢然と兵士たちの前に進み出て造反を訴えた。
「わたしの兄弟、愛するお兄さんたち! あの傲慢無礼な日本人指導官を処刑せよ! 恥ずべき満州国軍の生活を捨てて、わたしと一緒に抗日遊撃隊に行こう!」
満州国軍の兵士たちは任銀河の訴えに呼応して日本人指導官を処刑し、迅速に隊列を組んで抗日遊撃隊をめざして出発した。そのとき彼らが持ち去った武器は、チェコ製の機関銃三挺、歩兵銃十九挺、拳銃一挺、弾薬四千七百余発であった。二十歳にもみたない若い娘が敵軍一個中隊に義挙を断行させたこういう事件は歴史にまれなことである。日本軍の秘密文書にも、女性隊員の起こした満州国軍中隊の造反事件は未曽有の事件として特記されている。任銀河はわたしの意図どおりまごころと愛と共産主義者の度量をもって満州国軍兵士を正しい道に導いた遊撃隊の花であり、大胆不敵な朝鮮の娘であった。
一九三〇年代の後半期から、対敵政治工作はいっそう活発になり、さらには悪質な靖安軍にまで革命組織が根をはるようになった。自衛団や満州国警察などでは、われわれの組織が深く根をはっているケースが多かった。そのため、祖国解放のための対日作戦を展開した当時、満州国軍はほとんどが日本帝国主義に銃口を向けるか、もしくは崩壊状態にあった。不正義の軍隊であった日本帝国主義侵略軍と満州国軍の恥ずべきこの運命は、歴史発展の合法則的帰結である。いずれにせよ、人間は真っすぐに進もうと回り道をしようと、また今日でなければ明日には必ず正義と真理の側に回帰するものである。
わたしは額穆で友誼を結んだ満州国軍連隊長の生死、安危について、いまなお知るところがない。だが、連隊長自身は言うまでもなく、夫人やその子孫たちもどこかに生きているなら、祖国と中華民族のために献身的にたたかっているものと信じて疑わない。
3 鏡泊湖のほとりで
満州大陸随一の景勝である鏡泊湖の南側の湖畔には、南湖頭と呼ばれる小さな村がある。南湖頭というのは、湖水の南の先端にある村という意味である。この湖水の北側の湖畔にある村は北湖頭という。湖水にそそぐ小家琪河の流れに沿って数里さかのぼっていくと、深い溪谷のさる山腹に古びた二棟の丸太小屋があった。その一棟がほかならぬ一九三六年二月にわれわれの会議の場となった家である。いまは草木に覆われ、その跡すら見分けられないほどになっているというが、五、六十年前にはその丸太小屋の前に大きなタケカンバと五葉松が一本ずつ立っていて、ここを訪ねてくる人たちの目印になった。一九三〇年代後半期の歴史の発祥地となったのが、わが国の歴史家たちによって「小家琪河の丸太小屋」と呼ばれているこの家である。
われわれが第二次北満州遠征と称しているいま一度の遠征を終えてここに向かったのは、一九三六年の二月中旬、立春もすぎて雨水を迎えるころだった。節気からすれば春の始まりといえたが、北満州の酷寒は依然として猛威をふるい、きびしい大陸風はわれわれを容赦なく叩きつけた。鏡泊湖ではときおり氷の割れる音が聞こえ、小家琪河の密林の中からは、凍てついたクヌギやオノオレカンバの裂けるするどい音が響いてきた。この地方の酷寒はすさまじいもので、熟練の炊事隊員でさえ屋外で炊飯をするときはご飯を半煮えにしてしまうのがつねだった。釜の底の米は真っ黒に焦げても、上の方は零下四十度の低温のために煮えないまま冷めてしまうのである。北満州はわたしの生涯で半煮えの食べ物をいちばん多く食べさせられた土地としても印象深い。
抗日大戦の最初の銃声が響いていつしか四年という歳月が流れていた。朝鮮革命の主体的力量は軍事的にも政治的にも大きく成長し、闘争の展望も楽観的であった。波瀾と逆境を乗り越えてきた抗日革命は確実に、新たな転換期に向かって力強く進展していた。
遠征を終結し、重なった疲労を解く暇もなく、魏拯民と会うことになっていた南湖頭への道を急ぐわたしの心は、革命の未来にたいするさまざまな考えのため錯綜していた。わたしは北満州遠征の全期間はもちろん、遠征を終えて小家琪河へ行っているときにも、半年前にモスクワヘ向かった使節の帰りを待ちわびていた。腰営口会議の決定にしたがって魏拯民がコミンテルンに提訴することになっていた基本問題は、表面上は東満州で数千名の朝鮮共産主義者を排除した「民生団」問題であったが、内容的には朝鮮革命の主体性にかんする問題であったといえる。いわば、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のスローガンをかかげてたたかうのが正当なのか不当なのか、合法なのか非合法なのか、コミンテルンの一国一党制の原則に矛盾するのか矛盾しないのか、ということであった。いまの考え方からすれば、それはあまりにも当然で火を見るよりも明らかなことであるが、コミンテルンが存在し、一国一党制の原則が逆らいがたいものとなっていた当時としては、どちらの見解が正しいか誤っているかは軽々しく判定できない複雑かつ深刻な難問題であった。それはまた、われわれの運命を決する重大な問題でもあった。
一国一党制の原則を盾に、朝鮮人が朝鮮革命のスローガンをかかげるのは共産主義者らしからぬ異端行為であり、反党的分派行為だと言いがかりをつける人たちの主張は、たいへんものものしく恐ろしいもの
であった。その論旨は、共産主義者はとりもなおさず国際主義者であるのに、どうして偏狭な民族主義理念にとらわれ、自分が党籍をおく国の革命にすべてをつくそうとせず、党もない故国のことに熱中することができるというのか、それは第二インターナショナルの時期に「祖国防衛」の看板をかかげた修正主義者と同じ立場だ、レーニンはつとに「祖国防衛」論者たちを社会主義・共産主義の背信者、敵として烙印を押し糾弾した、きみたち朝鮮の共産主義者が朝鮮革命論を主張しつづけるなら、社会主義の背信者、敵という烙印を押されかねないから、軽挙妄動しない方がよい、というものであった。
もちろん、わたしはこの問題についてそれほど心配はしなかったし、ある意味では魏拯民がもたらす結果をおおよそ推測していたといえる。というのは、わたしの提起した問題は正当であり、またその問題にたいし魏拯民も十分な認識と理解をもっていたからである。わたしはコミンテルンの関係者たちが、朝鮮革命の根本問題にかんするわたしの提訴に当然、肯定的な返答を与えるものと信じて疑わなかった。コミンテルンがわれわれの苦衷を真理の側に立って公明正大に解決してくれるに違いないと確信していたのは、魏拯民を通じてモスクワに提訴した問題点がどの面からみても革命的原則と革命の利益に合致していると信じてきたことにもあるが、コミンテルンが新しい路線を追求していた当時の事情とも少なからず関係していた。レーニンによってコミンテルンが結成された一九一九年当時は、政権を握った労働者階級の政党はロシア共産党しかなかった。第二インターナショナルの修正主義的な社会民主党から革命的な左翼が決別して共産党を組織してはいたが、それらの党はまだ組織的にも思想的にもきわめて未熟で、自国の革命を自分の力で遂行できる勢力にまでは育っていなかった。ロシアで社会主義革命が勝利したのち、世界的範囲で資本の鉄鎖を断ち切り、ソビエト共和国を樹立するたたかいは時代の一潮流となってはげしく展開されたが、相応の結実をみることができずに挫折した。史上はじめての社会主義国家の出現という有利な客観的情勢にもかかわらず、各国の主体的革命力量は敵を圧倒し、最後の勝利が達成できるほど完璧には準備されていなかったのである。こうした事情は、全世界の共産主義者に、新生ロシアとロシア共産党を軸にした国際共産主義運動の再編成と組織的団結を重要な課題としてうちだし、コミンテルンの組織形式と活動方式において民主主義中央集権制の原則をうち立て、各国の党と革命運動が国際的中央の指示に絶対服従することを求めた。この要求を教条的に受け入れた結果、一部の共産主義者のあいだには自国の革命の目的と民族的利益を無視し、モスクワに追従する事大主義的な傾向が現れ、そのため各国の革命運動は少なからぬ損失をこうむった。
しかしながら、コミンテルンの統一的な指導のもとに、各国の革命運動は発展し、それらの国の革命力量も成長した。そして各国の共産主義者が自国の革命を独自に遂行できる勢力として登場しはじめた。一九二〇年代の初期からは、アジアの植民地、半植民地諸国でも共産党があいついで出現し、それらの党の指導のもとに民族解放闘争も急速に発展した。こうした過程で、多くの国の党の発言権が強まり、自分の党の路線を自主的に決定しようという要求が高まってきた。また、コミンテルンがモスクワにあって世界革命の操縦桿を握り、各大陸の国ぐにの具体的実情にかなった処方をそのつど下したり、千変万化する状況と条件に即してそれらの国の革命闘争を指導するというのも、実際上むずかしいことであった。多くの国の人たちの連合体として組織されたコミンテルンは、路線と政策の作成と示達において一定の制約をもたざるをえなかった。国際共産主義運動は、世界的範囲で革命力量を組織し闘争を発展させるうえで、その組織形態と指導方法を徐々に変える必要があるという認識に到達するようになった。革命は輸出または輸入によって進められるものではないという事情と、それぞれの国の革命力量を一つにかたく結集すべき緊切さは、各国の共産主義者をして路線の作成とその実行において主体性を確立し、自国の党の独自性を堅持する必要性を痛感させた。このような情勢は、コミンテルンが朝鮮革命の主体性を確認することのできる重要な裏付けとなっていた。
魏拯民は一九三五年の夏に琿春方面からソ連に入ったのだが、もどってくるときはハルビンか穆棱をへて寧安にいたり、そこでわたしと会う約束になっていた。それでわたしも額穆遠征を終えて、寧安へ向かったのである。
われわれが南湖頭への道を急いでいた時期と前後して、国際舞台ではファシズムの危険性が日ましに増大していた。スペインの内戦はファシストの露骨な武力干渉によって国際的な性格をおびた白熱戦と化していた。東方では日本が新たな戦争の温床となりつつあった。日本の軍国化は時々刻々加速化していた。一九三二年の「五・一五事件」につぐ斎藤内閣の成立によって政党内閣の時代は終わり、軍部内閣時代に移行した日本では、「戦争は創造の父であり、文化の母である」と賛美する熱気をおびた言辞が臆面もなく全世界に向けて乱発されていた。
日本におけるファッショ化のすう勢は、南湖頭会議直前の一九三六年の「二・二六事件」によって極点に達し、ついに少壮派軍部の海外侵略論が現実化していく局面をまねいた。反乱に参加した青年将校と千余名の下士官および兵士は、首相以下大臣らの官邸を襲撃し、内大臣、蔵相、教育総監、侍従長などの政府要人を殺害し重傷を負わせ、警視庁、陸軍省、参謀本部、陸相官邸を占拠して、「日本の政治の心臓部」を制圧した。「尊皇討奸」のスローガンのもとに起こった武装反乱は四日目に鎮圧され、首謀者にたいする死刑宣告によって政局は収拾されたが、この事件は日本軍国主義がばっこする危険信号となった。皇道派と統制派の対立によって表面化した軍部内の軋(あつ)轢(れき)の産物と評されている「二・二六事件」は、日本におけるファッショ化、軍部独裁による軍国主義体制の確立がいかにゆゆしい段階にいたっているかを実証していた。日本国内での軍国主義勢力のしゅん動は、新たな戦争と大規模な軍事行動に発展しうる危険をはらんでいた。
われわれは日本でのこうした事態の進展を強い警戒心をもって注視し、そこから招来される結果を予測して、闘争戦略を再検討した。反乱は失敗したが、それは日本軍国主義が国内政治にいかに横暴に参与しており、海外侵略の道を開くためいかに狂奔しているかを如実に示した。事実、日本はその後一年半足らずのうちに中日戦争を引き起こし、より大きな侵略の道に突き進んだのである。
日本のファッショ化は、植民地朝鮮を窒息させる策動を加速させた。朝鮮半島では朝鮮的なものをすべて抹殺し、あらゆる形の反日運動と反日的要素まで全滅させる狂気の大せん滅戦が展開された。日本語ではなく朝鮮語を使うこと、色物ではなく白衣を着ること、「日の丸」を掲揚しないこと、神社参拝をしないこと、「皇国臣民の誓詞」を唱えないこと、ひいては下駄をはかないことまでもが反日、反逆、反国家行為として犯罪視され、処罰を加え、罰金を科し、拘束した。
民族抹殺のすさまじい大旋風の中で、良心のかけらさえ失ってしまった昨日の愛国志士は、命だけでもつなぎとめようと、「同祖同根」と「内鮮一体」を唱えて民族反逆への道を歩んだ。愛国は押しやられ、売国がまかりとおる時世だった。朝鮮そのものが消え失せようとしていた。こうした暗たんたる現実こそは、われわれが白頭山へ進出して、朝鮮は生きている、朝鮮はたたかっている、朝鮮は必ずよみがえる、ということを実証しなければならないもっとも切迫した理由になっていたのである。
南湖頭会議と前後した時期、内外ではこのように衝撃的な変化が相ついで起こっていた。こうした国際的な出来事がわれわれに大きな重圧感を与えたのは確かであるが、だからといって意気消沈していたわけではない。わたしは、武装闘争を国内に深く拡大すれば、日本帝国主義を必ず打倒することができるという自信をいだいていた。
行軍はつらく、疲れもたとえようもなくひどかったが、近い将来の白頭山地区進出を眼前に描く隊員たちの士気は天をも衝かんばかりであった。われわれが鏡泊湖にまつわる珍珠門村の伝説を聞きながら、その伝説が示す意味深長な教訓をもって論争し合ったのも、南湖頭への途上であったと思う。伝説の筋は非常に面白い内容のものであった。
鏡泊湖畔の珍珠門という村に貧しい父親と娘が住んでいた。二十歳になろうとする娘は傾国の美女といわれるほどだったので、付近の若者はみな、この娘と偕老同穴の契りを結びたがっていた。ところで、娘の父親は千丈の水の中まで見通せる神通力をもっていた。ある日、父親は娘にこんなことを言った。
「わしが以前、釣をしながら湖の底をのぞくと、金の鏡が沈んでいた。その鏡を取ってくるためには、湖底に棲む三つ頭の怪物を退治しなければならないのだ。そういう大事をなしとげるには勇敢で大胆な助太刀が必要だ。そういう助太刀が探し出せなくて、お父さんはこのごろ悩んでいるのだ」
親孝行な娘はその話を聞いて父親にこう言った。
「お父さんを助けて金の鏡を取ってくる若者がいれば、わたしはその人に嫁ぎます」
父は娘の申し出に賛成した。そして隣近所の村に娘の考えをふれまわった。そのうわさを聞いて、多くの若者が珍珠門に集まってきた。けれども、娘の父親から金の鏡を取ってくる方法を聞いては、誰一人助太刀をしようとする勇気のある者がいなかった。そんなとき、楊という姓の若者が現れ、助太刀をしたい、と申し出た。父親と娘は即座にその申し出を快諾した。そして、金の鏡を取ってくることに成功すれば婿に迎えるという約束までした。一点の雲もなくきれいに晴れたある日、父親はその若者を連れて湖へ行った。舟を湖に浮かべた老人は、大、中、小の三振りの剣を若者に渡し「わしが最初水面に浮かびあがったらいちばん小さい剣を渡すのだ。二回目は中剣、そして三回目は大剣を渡してくれ。ただし、剣はすばやく渡さなければならない。怖がってはいけない。金の鏡を取ってくる前に、途中でおじけづいて逃げ出すようなことがあったら、わしの命はもちろんのこと、おまえの命もないものと思え」と言った。若者は「それは心配に及びません」と言って老人を安心させた。やがて老人は水中に潜っていった。若者は舟から水中をのぞきこみ、娘は湖畔で若者を見守った。しばらくすると、老人の蒼白な顔が水面に浮かびあがった。若者は約束どおり小剣を老人に渡した。老人はそれを受け取って水中に潜っていった。すると、湖水の深層がはげしく揺れはじめた。老人は血のしたたる人間の頭ほどの怪物の頭を手にして水面に現れては、中剣を受け取ってまた水中に潜っていった。しばらくすると、にわかに水面が波立ち、舟を転覆させかねない風浪がまき起こった。全身血まみれになった老人が、今度は馬の頭ほどの怪物の頭を手にして水面に現れ、若者から大剣を受け取り、またもや荒れ狂う水中に消えていった。雷鳴がとどろき、湖水には激浪が逆巻いた。若者が乗っていた舟はいまにもその激浪に呑み込まれんばかりにはげしく揺れた。湖畔に立ってこの恐ろしい光景を見守っていた娘は、心臓がとまりそうな気持で手に汗を握り、居ても立ってもいられなかった。気が動転した若者は、老人との約束を忘れ、湖畔で自分を見守っている娘のこともすべて忘れ去り、岸をめがけて全力で櫓をこいだ。娘はいきどおって若者を責めた。そして若者を説き伏せて自分も一緒に舟に乗り、湖水の真ん中に舟をこぎだして父親を探した。風はおさまり波も静まったが、父親は二度と現れなかった。娘と若者は声をかぎりに呼びつづけたが、すでに湖水の霊となっていた父親が二人の絶叫にこたえるはずはなかった。娘は涙ながらに約束をたがえた若者をなじった。だが、口論に夢中になっていた舟の上の二人の姿もいつしか霧の中に消え去ってしまった。
額穆で聞いた話と寧安で聞いた話とでは多少違ってはいるが、伝説の筋はおよそこういうものだった。鏡泊湖という湖水の名も、おそらく珍珠門の伝説に由来しているのであろう。この伝説は、道義と犠牲的精神という二つの側面でわれわれに多くのことを考えさせた。隊員たちはみな、若者を義理知らずの卑怯者だとののしった。この伝説が残した余韻は非常に大きかった。後日、パルチザンたちは隊列内から卑怯者が出ると、「鏡泊湖の楊のようなやつ」だと非難するのだった。
生死の岐路に立たされた祖国の運命、民族の運命がわれわれに提起している当面の歴史的課題を解決するにはどんな対策が必要であるか、という問題を討議、決定するため、わたしは白頭山へ向かう前にまず小家琪河で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を招集することにした。モスクワヘの使節の帰りを待ちながら、会議に提出する報告の草稿をほぼ書き終えた二月中旬のある日の夕方、ノックもなく丸太小屋の扉が開くと、魏拯民がわたしの前に現れた。彼は数か月間の入院治療のため予定より帰りが遅れたと謝ったが、予定の期日は過ぎていても病弱な体をもちなおして満州にもどってきたのは喜ばしいことだった。モスクワの空気を吸ってきたせいか、丈夫になったように見えた。まだくわしい話は交わしていなかったが、その物腰と余裕綽々の態度を見ただけでも、彼のモスクワ行きが好ましい実りをもたらしたに違いないと推測された。
魏拯民の帰路は坦々としたものではなかった。鉄道を利用してハルビンを経由し、寧安まで来て周保中の第五軍の人たちに会ったのち、南湖頭へ来る途中、湾溝部落付近で巡察中の警官につかまった。数言の不審尋問によって怪しい人物だと判断した警官は、彼を自分の分署へ連行しようとした。彼の携帯品の中にはコミンテルンからの重要な文書が入っていた。連行されれば万事休すである。彼は警官に五十元をつかませて、その場を無事に切り抜けた。彼は、自分の値打ちが数万元にはなるのではないかと思っていたが、たったの五十元だったと冗談を言った。
魏拯民はことさらに改まって、わたしに握手を求めた。
「
わたしは腑に落ちなかった。
「さっき握手したばかりなのに、また握手ですか?」
「祝うべきことがあるのです。これは意味のある握手です。喜んでください。
わたしはわれ知らず目をうるませ、魏拯民の両腕をむんずと引き寄せた。
「そうでしたか!」
「ええ、コミンテルンは反民生団闘争の問題をはじめ東満党の一部の活動に重大な極左的失策があったことを指摘しました。このことについては、コミンテルンの責任幹部から中国共産党代表部の活動家にいたるまで、みな同じ見解を披瀝しました。もっとも重要なのは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命を直接責任をもって遂行するのは誰にも譲歩できない神聖な権利であることをコミンテルンが認め、それを支持したということです。コミンテルンは、今後、中国の共産主義者は中国革命のために、朝鮮の共産主義者は朝鮮革命のためにたたかうように責任を分担すべきだという明白な結論を下しました」
魏拯民はなぜか、しばし言葉を継ぐことができなかった。わたしは、彼が深い自責と悔悟にとらわれていることを感知した。互いに額に青筋を立てて語気を強め、自己の主張の正しさを論じ合った激論を思い返しているのだろうか。大荒崴と腰営口の会議場でわれわれはどれほど深刻な論難を体験してきたことか。そして会議場の外ではまた…。
だが、魏拯民のモスクワ行きによって、あれほど複雑をきわめていた問題が、われわれの所望と念願どおりスムーズに解決されたのである。魏拯民のモスクワ行きにかんする一部の資料によれば、彼はコミンテルン第七回大会に参加したのではなく、学習視察を目的に地方党および団の幹部十名を伴って琿春から出発し、その主要任務はコミンテルン駐在の中国代表団に「民生団」問題を報告することであったとされている。その他にもいろいろな資料があるが、それは事実とは合致していない。彼がコミンテルン第七回大会に参加したという資料は現在も厳然としてコミンテルンの文書庫に残っている。魏拯民は自分がモスクワヘ行って、満州におけるパルチザン闘争にかんする詳細な資料をコミンテルンに提出したと述べている。彼がコミンテルンに提出した報告は「馮康報告」という題目になっている。彼はモスクワヘ行っては、魏拯民という本名のほかに馮康という名でも活動した。反民生団闘争が極左的に進められた問題にかんする資料には、相異なる見解が記録されている。ある資料には、その極左の主なる責任は魏拯民にあると記されており、また別の資料にはそれとは逆に、彼が東満特委の書記として派遣されてきて以来、反民生団闘争の偏向が正されるようになったと記されている。わたしは、反民生団闘争の弊害がすべて魏拯民の責任だとは考えなかった。正直なところ、一九三四年の冬、魏拯民がハルビン市党書記を務めながら、省委の巡視員として東満州に派遣されてきた当初、「民生団」問題のような複雑な事態に狼狽して手をつけかねていたことは事実である。当時、彼は革命組織と遊撃隊内には民生団が多数潜りこんでおり、したがってそれを徹底的に粛清しなければならないという既成の思考方式にかなりこだわっていた。後日、彼が語ったところによれば、最初は朝鮮人の大部分が民生団ではなかろうかとまで考えたという。彼がコミンテルンに行ってわたしのことについて報告した資料をみても、彼の話はおおむね真実であると思われる。
「
いずれにせよ、魏拯民は初期にはあれこれの誤りを犯したが、モスクワまで行って「民生団」問題にかんするコミンテルンの結論を受けてきたのであるから、粛反闘争における極左的誤謬の是正に大いに寄与したと評価するのが妥当であろう。事実、彼は大荒崴会議のときも「民生団」問題についてのわたしの立場に理解を示した。彼が民族観念を超越して、コミンテルンに東満州の実態を正確に報告し、われわれに有利に万事をスムーズに解決して帰ってきたのはうれしいことだった。
「ありがとう。コミンテルンもありがたいし、とくにわれわれのために病弱な体でモスクワまで行って骨をおってくれた魏拯民同志がそれ以上にありがたいです。この恩は忘れません」
これはわたしの心からの挨拶であった。魏拯民は過分な称賛だと言っててれていた。
「東満特委とその傘下のわれわれ中国人共産主義者は、反民生団闘争において偏狭に問題をとらえ、人びとの運命を極端に処理する重大な過ちを犯しました。事実、多くの朝鮮人共産主義者と革命家がいわれもない被害をこうむったのです。反民生団闘争を公明正大に進められなかった問題にかんしては、わたしも大いに責任を感じています。コミンテルンでも、この問題について深刻な批判がありました」
わたしは彼の言葉を心からの自己反省として受けとめた。
「老魏、共産主義者も人間なのですから、失策がないはずはないでしょう。わたしは『民生団』問題が複雑になった根本的原因は日本人の民族離間策動に求めるべきだと思います」
「そうです。結局はわれわれが一時敵の計略に陥って骨肉相食む争いをしたわけです。味方同士で殺し合ったのだから…。わたしが東満州にはじめて来たとき、誰かが、朝鮮人は間島を自分らの領土だといって奪い返そうとしている、きっと日本人を笠に着て間島を占拠しようとするに違いないから強く警戒すべきだ、と言うではありませんか。わたしも最初はそれを少々真に受けたようです」
彼はこう言ってぎこちなく笑った。彼の表情を見て、わたしはなんとなく同情心がわいてきた。
「老魏、万事が望ましく解決されたのですから、以前のことはもう考えないことにしましょう。正直に言って、老魏をコミンテルンに送り出すとき、わたしの心はとても重苦しかったのです。けれども、老魏がわたしの提議を受け入れ、コミンテルンに責任をもって伝達すると言明したとき、わたしはその誠実さを信じました」
「ありがとう。わたしもそう考えてくれるものと信じました」
コミンテルンは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のスローガンをかかげるのは誤りではなく、それはコミンテルンが朝鮮の共産主義者に当然分担すべき神聖な義務であり、一国一党制の原則によっても奪い去ることのできない朝鮮共産主義者の堂々たる権利であることも明白に結論づけた。わたしは籠の中から放たれた鳥のように、思う存分青空を飛びまわれる無限の自由を得たような気持だった。われわれには以前にはなかった翼が生えたようなものである。翼が生えた以上、朝鮮革命には急速に上昇飛行できる展望が開かれたわけである。
魏拯民はコミンテルン第七回大会の全過程についてもくわしく伝えてくれた。当時コミンテルンに提起された焦眉の課題は、反ファシズム闘争を世界的範囲で強力に展開することであった。第一次世界大戦後、イタリアとドイツを中心に発生し、本格的に体系化されたファシズムは、ヨーロッパ諸国に陰惨で不安な政治的変動をもたらし、人類の頭上を新たな戦争の暗雲で覆った。イタリアのムッソリーニによって組織された「国民ファシスト党」からはじまったファシズムは、ドイツのヒトラーと彼によって組織されたナチ党によってその極限に達した。
ファシズムは極端な民族排外主義を鼓吹したが、これはドイツに新たな世界大戦を起こさせる禍根となった。ファシズムが内包している極端な反共心理は、反ユダヤ人主義と結合して、それまで存在した古今東西のあらゆる反動思潮の中でももっとも悪らつで有害な思潮となった。ファシストはドイツをはじめ多くの国の政治舞台に無視できない勢力として登場した。ドイツの大資本家たちは、ヒトラーのようなファッショ独裁者の強力な暴力によってのみ、ドイツが直面しているすべての危機を克服し、共産主義を制圧してドイツ帝国の新たな中興を期することができるとみなした。ヒトラー・ファシストは権力を奪取したのち、その手はじめとしてドイツ共産党弾圧の謀略に取り組んだ。世界を驚愕させた悪名高い国会議事堂放火事件は、その謀略によって演出された前代未聞の茶番劇である。これによってヒトラーやゲーリングのもくろむ政治的企図は恥ずべき失敗に終わった。言うまでもなく彼らは、この事件を契機に共産党を非合法化し、国会そのものを有名無実の存在に変えはしたが、世界の面前にもっとも反動的で露骨なブルジョア政体としてのファシズムの正体を赤裸々にさらけだした。ドイツ・ファシストは世界の面前で、挑発者、独裁者、戦争放火者という烙印を押された。
ドイツにおけるファシズムの強化は、進歩的諸国人民を目覚めさせた。ファシズムの台頭と新たな戦争の危険に直面して、コミンテルンは共産党と社会党の分裂を防ぎ、統一的な歩調でファシズムに対抗することを重要な戦略的課題として提起した。こうして国際的に反ファシズム人民戦線運動が活発に展開されるようになった。東方の被抑圧民族と植民地従属国での反ファシズム人民戦線運動は、帝国主義の侵略に対処してすべての民族的勢力を一つに結集する反帝民族統一戦線運動として具現された。コミンテルン第七回大会は、まさにこうした戦略的目的から、各国の共産党がすべての反ファシズム勢力と反帝勢力を結集するよう要求した。
魏拯民は、帝国主義とファシズムに反対する闘争を国際的範囲で強力に展開するというディミトローフの報告がきわめて印象的であったとし、彼にたいする敬愛の念を披瀝した。世界の耳目と進歩的知性が見守っていたライプチヒ公判の主人公ディミトローフを、わたしは当代の巨人だと思った。ファシズムに反対して積極的にたたかおうという彼のアピールは、強い力で進歩的諸国人民の心をとらえた。
ソ連人であるジノービエフ、ブハーリン、マヌイリスキーに代わってブルガリア人のディミトローフがコミンテルンの首位に立ったのは、新しい発展段階に入った国際共産主義運動の状況をそのまま反映する一つの象徴となり、コミンテルンの活動が各国共産党の独自の活動に立脚して進められる新しい時代に入っていることを示す証左となった。コミンテルン第七回大会がその決議で、各国党の独自の活動を大幅に許容したのは、こうした時代の要請を反映したものだといえる。大会が朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の権利と責任を全面的に認めたのは、まことに幸いなことであった。
魏拯民の帰還報告を聞きながら、わたしはわれわれの偉業の正当さ、われわれの路線の正確さをいっそう強く確信するようになった。魏拯民は「満州における反帝統一戦線について」という楊松の文章が載ったコミンテルン機関誌『コミンテルン』と、コミンテルン東方部の王明、康生が連名でコミンテルンから吉東地区の責任幹部によこした書簡をわたしに渡しながら、ここに朝鮮にかんするコミンテルンの決定の基本的部分が解説してあると話してくれた。楊松はその文章で、「左」翼日和見主義的誤謬を克服して反日統一戦線を早急に結成することを提唱しながら、中国共産党はいまや中国、朝鮮、モンゴル、満州の被抑圧民族の統一戦線というスローガンをかかげるべきだと指摘した。また、中朝民族はかたく連合して日本のかいらい満州国統治をくつがえして間島朝鮮人民族自治州を樹立し、朝鮮人民革命軍の各部隊が中朝反日連合軍に網羅されて活動しながら、朝鮮民族の独立をめざしてたたかうようにすることについても強調していた。楊松とは、わたしが第一次北満州遠征のとき周保中の山小屋で会ったことのあるコミンテルン派遣員呉平の別名である。
コミンテルンはわれわれにたんなる精神的支持、路線上の支持のみを与えたのではなかった。今後、朝鮮革命を力強くおし進めるうえで助けとなるいくつかの対策案まで示して、行動上の支持も与えた。そのうちの一つが、これまで連合して共同闘争を展開してきた各反日遊撃部隊を朝鮮人部隊と中国人部隊とに分けて再編制せよという指示であった。これは事実上、朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の責任と権利にかんする問題で核心をなしており、朝鮮革命の主体性、独自性を堅持するうえできわめて重要な位置を占めていた。コミンテルンの指示どおり満州のすべての遊撃部隊から朝鮮人を全部引き抜いて純粋の朝鮮人部隊を別個に編制するなら、その勢力だけでも朝鮮駐屯の日本軍二個師団を相手に血戦をくりひろげることができた。われわれが一当十の精神で日本軍と血戦をくりひろげるなら、朝鮮の青年たちは腕をこまぬいてはいないだろう。彼らがわれわれに加勢するなら、戦局は変わり、祖国の解放はいちだんと早まるはずだった。
しかし、われわれはこれまで多年にわたって同じ戦列で共通の敵に反対して連合抗日の闘争を展開してきた共産主義者としての兄弟の道義、戦友の道義を捨てることはできなかった。自分たちに有利だからといって朝鮮人をすべて引き抜くなら、朝鮮人が兵員の九〇%を占める第二軍などは崩壊せざるをえなくなるはずだった。第二軍を除く他の遊撃部隊では中国人が過半数を占めていたが、その大部分は反日部隊出身で、共産主義者は多くなかった。そのうえ、指揮メンバーはどの部隊でも多くが朝鮮人であった。各部隊の中核をなしているのもやはり朝鮮人隊員であった。こういう状態で朝鮮人と中国人を分けて別々に部隊を編制するなら、当面は抗日連軍部隊の維持が困難になるほかはなかった。
朝鮮の共産主義者は一九三〇年代の中期から中国の共産主義者とともに抗日連合軍を編制し、反満抗日の旗のもとに共同闘争を展開することによって、抗日武装闘争を成功裏に発展させていた。新しい情勢のもとで朝鮮人民革命軍部隊が国境地帯へ進出して朝鮮革命に力を傾けるからと、中国人民の抗日武装部隊との共同闘争を弱めることはできなかった。ファシストらの連合した力に対抗して、スペインで人民戦線を支持する進歩的勢力が団結して戦っているとき、朝中抗日武装部隊を朝鮮人部隊と中国人部隊とに分けるというのは、時代のすう勢にも合致せず、道義にも反することであった。
われわれが中国の領土で武装闘争を展開している状況で、朝鮮人が別個に部隊を組織するとなれば、われわれにたいする中国人民の支持と援助も従前より弱まりかねなかった。われわれが要求したのは自主権であって、分権ではなかった。朝鮮人が制約と拘束と妨害を受けずに朝鮮革命を推進できる自主的権利を認め、尊重することを要求したのであって、勢力配分を要求したのではない。もちろん、このことは魏拯民をはじめ中国の同志たちもよく知っていた。だが、魏拯民はモスクワから持ち帰ったもっとも大きな贈り物はほかならぬこの分権だと考えていたようである。彼は、コミンテルンの意思どおり部隊を民族別に分ける案を立ててはどうかと、重ねて言った。
「魏拯民同志、あなたの気持は十分理解できます。しかし、問題をそのように一面的に考えるべきではないと思います。われわれは共産主義者なのですから、すべての問題を革命の原則と階級的利益の見地から考察すべきです。朝鮮の共産主義者が自国の革命を語るのは、決して偏狭な民族的利益のみを追求してのことではありません。わたしは、革命の民族的利益はつねに国際的利益と結合しなければならないと思うし、また民族的利益に反するいかなる国際的利益もありえないと考えます。それで、朝中抗日部隊、それもすでに数年間同じ戦列で戦っている統一的な武装部隊をそのまま存続させる方が革命に有利なのか、さもなければ民族別に分ける方が有利なのかということを、わたしとしては熟考せざるをえません。抗日武装部隊を民族別に分けるのは、朝鮮の共産主義者を尊重しての提起だといえますが、わたしは決して問題を形式的に考察しはしません。それに事実上、われわれは中国の共産主義者とともに戦いながらも、内容的には朝鮮人民革命軍として活動しています。こういう状況のもとでは、形式上の分離は不必要だと思います」
魏拯民は喜びを隠しきれない表情ではあったが、慎重な口調で尋ねた。
「そうなると、コミンテルンの指示を実行しないことになるのではないでしょうか? 道徳的見地からしても、われわれには抗日連軍部隊に朝鮮の同志たちを引きとめておく権利はありません」
「それは心配する必要がないと思います。連軍の体系どおり活動しながらも、われわれが朝鮮国内と東北の朝鮮人集落へ行っては朝鮮人民革命軍と名乗り、中国人集落へ行っては抗日連軍と呼んではどうかということです。そうすれば、連軍の体系を維持しながらも、コミンテルンの指示を実行することになるではありませんか。どうですか?」
「感謝します。金同志がそれほど深く理解してくれようとは、わたしも考えていませんでした。朝鮮の共産主義者がそういう度量をもってこの問題にのぞむなら、それは中国革命にたいする大きな支持となります」
わたしは笑顔で魏拯民の手を握った。
「老魏、われわれが一、二年だけ一緒に戦ったのでもないし、また、これから一、二年戦って別れるわけでもないでしょう。中国がわが国の隣にあり、共産主義の理念が勝利する国でありつづける以上、われわれの友誼は永遠につづくでしょう」
「感謝します。金同志、わたしはあなたのような朝鮮の同志と同じ隊伍で戦えることを光栄に思っています。今後わたしは
われわれはかたく抱き合って満足げに笑った。
事実、わたしは南湖頭で魏拯民に会って以来、彼にたいする認識を新たにした。また、魏拯民自身も、かつての失策についていつも負い目を感じていた。彼はコミンテルン第七回大会以後、満州地方の党組織体系を改編したのち、南満省委書記兼東北抗日連軍一路軍政治委員の重責をになったにもかかわらず、少なからぬ期間、中国人指揮下の部隊ではなく、わたしの率いる部隊と行をともにした。彼自身が冗談半分に言ったように、本当にわたしの指揮した朝鮮人民革命軍の政治委員になったようなものであった。どういうわけか、彼はいつもわたしと一緒にいたがった。日本官憲の資料に、魏拯民(魏明勝)がわたしの政治委員であったと記録されているのはあながち理由のないことではない。事実、彼はわたしとともに長白地区にも長くいたし、白頭山秘密根拠地にも何回か足を運んだ。彼は南湖頭会議以来、わたしの主張する路線や提案にたいして、ほとんど反対することがなかった。
反民生団闘争によって一時、試練をへなければならなかった朝中共産主義者の同盟は、南湖頭会議を境にして新たな段階を迎えた。われわれはその後も中国の共産主義者、中国の反日勢力と共同で日本帝国主義との武装闘争を十年近くつづけながら、一方では朝鮮革命を前進させ、他方では中国革命を積極的に援助した。このように、朝中共産主義者間の支持と連帯の歴史は、一九三〇年代の初期からはじまっていたのである。中国のある指導者は、朝中人民のこうした兄弟的友誼と支持を評して、朝鮮人民の中国にたいする支持は細いが長く、中国人民の朝鮮にたいする支持は太いが短いと語ったことがある。これには、小さな国でありながら長いあいだ兄弟的中国人民を援助した朝鮮人民の業績への心からの評価がこもっているといえる。
魏拯民との出会いは、わたしの記憶に生涯消えることなく残っている印象深い出来事のうちの一つである。彼のモスクワ行きが朝鮮革命の前に横たわっていた障害を取り除くうえで大きな役割を果たしただけに、わたしはいまなお彼をありがたく思っている。
ここに、魏拯民との出会いをいっそう忘れがたいものにしたエピソードが一つある。わたしが軍・政幹部会議の準備をしていたある日の昼食どき、伝令兵が駆けつけてきて、監視所が大きな虎に脅かされているから、発砲するのを承認してほしいと言うのであった。彼の話によると、見張りに有利な崖の上に監視所を定めたのだが、その崖の下に虎穴があり、大きな虎が子を二匹連れて棲んでいるというのである。歩哨に立つ隊員が怖がって監視所を移そうというのだが、適当な場所がないし、虎も襲ってくる気配がないのでなんとかすごしてきた。ところが、昨日から虎がものすごく猛りたっているというのである。虎が急に荒々しくなったのは理由があってのことだと思い、監視所に行ってみた。崖の上から見下ろすと、すごく大きな虎が洞穴の前に座っていた。わけを聞いてみると、虎を怒らせたのは監視勤務に立った隊員たちであった。彼らは洞穴の外で日向ぼっこをしている子虎とたわむれているうちに手を引っ搔かれたので、いたずら半分に頰面を一回軽く叩いた。餌を求めて帰ってきた親虎がこの光景を見てからは、監視所に向かって日に何回となく吼えて高い崖岩の中腹まで飛び上がってくるというのである。
「そんなに心配することはない。虎があんなにけたたましく吼えるのは、監視所の隊員が子虎に危害を加えるのを恐れて威嚇しているのだ。あれは二度とわが子をいじめたら赦さないぞという警告だと思えばよい。虎も銃をもった人間とは勝ち目のない戦いをしようとはしないはずだから、安心してもよい」
わたしがこう言ったので、監視所の隊員たちは虎を退治する計画を放棄した。彼らは百獣の王と仲よくすごすことにした。最初の措置として、ノロ鹿の脚を一本崖の下に投げた。その後も何日か餌づけがつづけられた。虎が威嚇しなくなったのは言うまでもない。それ以来、虎はわれわれと親しい隣人になった。われわれが南湖頭を離れて白頭山地区へ行った後も、この地方で活動していた人民革命軍の将兵たちは、その虎との「善隣関係」を維持したという。
林春秋の話によると、この虎穴を最初に発見したのは大家琪河の谷間に来ていた崔仁俊の中隊であったという。大家琪河の谷間には病院もあり、兵器廠や通信処もあった。給養担当のメンバーもここに来ていた。一九三五年の末にわたしに呼ばれて汪清から南湖頭方面へ遠征隊を訪ねてきた林春秋は、しばらくのあいだ小溝の主のない隠者庵に病院を設けて患者の治療にあたっていたが、大家琪河の台地にもっと適切な密営地が見つかったのでそこへ移ることにした。隠者庵というのは山中で隠遁生活をする人が住む小屋のことである。若いころ山中にこもって七、八十歳になるまで一生隠者庵で世間との交わりを断ち独身で暮らす人たちの生業は狩りと薬草の採集、ケシ(アヘン)の栽培であった。隠者庵の主人たちはほとんどが長命だった。だが、長寿を保つ人の人生にも終末はあり、孤独な人生が幕を閉じれば、主のない隠者庵は空家になる。
林春秋の病院では、われわれの遊撃隊員だけでなく、第五軍の負傷者も治療した。汪清連隊の参謀長だった柳蘭漢が入院して病死したのもこの病院である。崔仁俊指揮下の汪清第三中隊は、彼らを保護、扶養する任務をになっていた。中隊は武器や食糧を手に入れるため付近の満州国軍の兵営を襲撃したことがある。その戦闘で百余挺の小銃をろ獲した。彼らは武器の保管に適した場所を物色しているうちに、病院と通信処が位置していた台地の下の崖岩で洞穴を一つ発見した。崔仁俊はその洞穴の中に百余挺の小銃を隠した。洞穴の入口を石でふさいで崖から降りてくる途中、彼はもう一つの洞穴を発見したのだが、それが例の虎穴であった。わたしは南湖頭会議を回想するたびに魏拯民が思い出されるのだが、同時に会議中の話題の的になった大家琪河密営の例の虎が思い浮かぶ。
われわれは一九三六年の二月下旬からほぼ一週間、小家琪河で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を開いた。この会議は一名南湖頭会議ともいう。会議には魏拯民をはじめ中国の同志たちとともに、金山虎、韓興権、崔春国、全万松、崔仁俊、朴泰化、金麗重、林春秋、全昌哲など三、四十名の軍・政幹部が参加した。コミンテルンヘ行ってソ連の病院で治療を受けてきた尹丙道もこの会議に参加し、小家琪河で数か月ぶりに魏拯民と感激的に再会した。魏拯民は参会者たちに、わたしが大荒崴と腰営口で提起した一連の問題にたいするコミンテルンの見解と指示を伝達した。参会者たちは、彼が病躯をおしてモスクワまで行き、望ましい結論を受けてきたことに深い謝意を表した。
わたしは報告で、一九三〇年代前半期に豆満江沿岸で展開してきた軍事・政治活動の経験を総括し、革命の新たな転換期を迎えた反日民族解放闘争の強化発展のために朝鮮の共産主義者に提起される重要な課題と、それを遂行するための新たな戦略的方針を示した。すなわち、朝鮮人民革命軍の主力部隊を国境地帯と白頭山地区に進出させ、闘争の舞台を徐々に国内へ拡大する方針、反日民族統一戦線運動を拡大する方針、党創立の準備活動を積極的に推進する方針、共青を反日青年同盟に改編する方針など、抗日武装闘争とそれを中心とする朝鮮革命全般を一大高揚へと引き上げる新たな方途を示し、それを討議にかけた。発言者たちは、報告で提示されたいろいろな方針に絶対的な支持と賛同を表明した。一つの方針をめぐって甲論乙駁し、口論をたたかわすようなことはほとんど起こらなかった。抗日革命を開始して以来、幾多の会議を主宰したが、路線の討議がかくも順調に運び、参会者の気分状態がかくも高揚した会議ははじめてであった。それはまったく、笑顔ではじまり、笑顔で終わった会議であった。参会者は、白頭山へ向かう日、国内深く進出して決戦をくりひろげる日を眼前に描きながら、競って発言した。
白頭山と国内深くに進出するのは、朝鮮革命の主体的力量をうちかため、すべての力を総動員して朝鮮人民自身の力で日本帝国主義を撃滅するための決定的な闘争路線であった。白頭山へ進出し主力部隊を強化してまず国境地帯を掌握し、ひいては闘争舞台を国内深くに拡大するというわたしの提案は、参会者の絶対的な支持を得た。われわれが白頭山を根拠地として国境地帯と国内で武装闘争を活発に展開するなら、日本帝国主義の野蛮な軍事ファッショ支配のもとで苦しんでいる朝鮮人民に祖国解放の曙光をもたらすことができ、朝鮮人民革命軍を一日千秋の思いで待ち焦がれ、その姿を見たがっている二千万同胞に勝利の信念を与えることができる。これは百言を費やすよりなお力強い示威となるはずであった。会議では、全国的範囲で祖国光復会を組織し、共産党創立のための活動を推進するという朝鮮革命の戦略的方針が採択された。
南湖頭会議を分岐点にして、朝鮮革命は新たな高揚期を迎えた。そういう意味で、南湖頭会議は一九三〇年代の前半期と後半期を画する朝鮮革命の分水嶺といえる。南湖頭会議で採択された決定により、朝鮮の共産主義者は抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般をいっそう高い段階に発展させる新たな里程標を立てることになった。南湖頭会議は一言でいって、朝鮮共産主義運動と反日民族解放闘争の歴史において、主体性を完全に確立したはじめての会議だといえる。この会議で採択された一連の決定は、それ以後の各段階の革命において、朝鮮の共産主義者に主体的立場を堅持し、いかなる逆境にあってもそれを民族の第一の生命として掌握していけるようにした。南湖頭会議はまた、勝利者の祝宴ともいえた。この勝利は、朝鮮の共産主義者が祖国と人民、歴史と時代の前に惜しみなくささげた無数の犠牲と血と労苦によって達成されたものである。初期の共産主義者の派閥争いと朝鮮共産党の解散や、反民生団闘争での「左」翼日和見主義者の誤謬のため、コミンテルンからも、兄弟諸国の党からも敬遠され、部分的ではあれ朝鮮人民からも敬遠された朝鮮共産主義運動は、南湖頭会議を契機に以前の欠点を払拭し、上昇一路をたどることができるようになった。
小家琪河では南湖頭会議の方針を実行するための講習が約一週間つづけられ、党創立方針の実現方途を討議する党政治活動家会議がおこなわれた。わたしはこれらの講習と会議で、南湖頭会議の方針について具体的に説明し、会議の基本精神を反映した当面のスローガンを提示した。「祖国へ進軍してラッパの音を響かせよう!」――これは朝鮮革命の一大高揚への飛躍を願ってうちだしたわれわれのスローガンであった。
われわれは南湖頭会議後、歩武堂々と祖国への進軍の途についた。抗日武装闘争はまさに自己発展の新たな段階にさしかかっていた。
4 戦友は北へ、わたしは南へ
南湖頭会議を終え、白頭山地区へ向けて小家琪河を発ったその日の朝は、風の音がことさら騒がしかった。足ごしらえをして南下行軍の途につくとき、まずわたしの脳裏に浮かんだのは、「千里の道も一歩より起こる」という朝鮮の格言であった。小家琪河の丸太小屋を発ったわれわれは、降り積もったばかりのぼたん雪の上に行軍の初の足跡を残した。一行には王徳泰、魏拯民など中国人の軍・政幹部の姿もあった。心臓病をこじらせソ連で治療を受けてきた魏拯民でさえ、その日は王徳泰ときつい冗談を交わしながら、朗らかな気持で足を運んだ。冷え冷えとした荒れぎみの天候ではあったが、行軍はつつがなく進んだ。南湖頭会議の決定どおり白頭山地区への進出をめざす始発点で、小家琪河から老爺嶺―― 爾青牌―― 明月溝―― 安図をへて白頭山にいたる直線行路にそって南下するのが当然であったが、われわれは小家琪河から額穆県青溝子―― 官地―― 安図―― 撫松県をへて白頭山地区に入る迂回路を額穆方面へ北上していた。この迂回路は、直線行軍路のほぼ二倍という遠路であった。この迂回路にそって北上行軍をしなければならなかったのは、わたしとともに第二次北満州遠征に参加した戦友たちが、新しく開拓した額穆県青溝子密営で、南湖頭会議の報告を待っていたからである。東満州からわれわれを訪ねてきた遊撃隊員や老人、虚弱者、傷病兵、身寄りのない子どもたちも、そこでわたしを待っていた。「民生団」問題をめぐって間島の各遊撃区で発生したすべての極左的妄動に弔鐘を鳴らし、朝鮮人が朝鮮革命をおこなう自主的権利を宣言した南湖頭会議の決定は、青溝子密営でも感動的な歓呼を巻き起こすに違いなかった。東満州と北満州の広大な地域で数年ものあいだ血戦の道を歩みながら、彼らが寝ても覚めても思い描いてきたのは祖国であり、祖国への進軍であった。しかしながら官地一帯と青溝子密営の戦友のうち大部分は、わたしとともに祖国への南下行軍のコースをとることができず、かえって、より深く北上して北満州部隊との共同闘争をしなければならなかったのである。
南湖頭会議を契機に朝鮮革命の転換期がもたらされたそのときから、白頭山を本拠に武装闘争を国内深くに拡大しようというのは、朝鮮共産主義者の第一の願望となった。しかし、中国人民との共同闘争を抗日革命の重要な戦略的課題としてうちだして不断の努力を傾けてきたわれわれとしては、その共同闘争の経綸を中途で捨てて全員が白頭山に進出するわけにはいかなかった。もしわれわれが、自国の革命のみを考え、朝鮮人遊撃隊員全員を率いて白頭山に進出するとすれば、東北地方の遊撃闘争は深刻な難局に直面しかねなかった。軍・政幹部や中核軍人の不足を痛感していた北満州の各部隊では、東満州の部隊にしばしば共同闘争を求めてきた。これにたいする返答が、ほかならぬ二回にわたる北満州遠征であった。小家琪河で南湖頭会議が開かれていたころにも、北満州の各軍からは、われわれに人的支援を求めてきた。こういう事情はわれわれをして、北満州地方の抗日連軍部隊への戦闘的支援の問題を南湖頭会議で一つの付随議題としてとりあげ、それを実行する実務的対策を講じざるをえなくした。こういう理由から、わたしは白頭山地区への進出を断行する画期的な時期に、数年ものあいだ生死をともにした戦友と別れる覚悟で北上行軍をすることになったのである。白頭山地区進出の歴史的壮挙は、長いあいだ心を砕いて育ててきた戦友とのいつまた会えるとも知れぬ別離の苦しみを強いたのである。わたしと一緒に白頭山地区に行け
ず、かえって祖国から遠く離れた北方へ行かなければならない彼らの気持はいかばかりであろうか。わたしは、小家琪河を発つときからこの問題のため頭を悩ましていた。
思えば、わたしは革命闘争をはじめたときから、このような別離の苦しみを数多く味わってきた。十三歳のときに故郷の万景台の人びとと別れなければならなかったし、樺甸でも「トゥ・ドゥ」を組織するが早く、親しんだばかりの友人たちと別れなければならなかった。その別離はのちに胸の高鳴る抱擁と握手をともなう再会へとつながった。樺甸で別れた「トゥ・ドゥ」の初の申し子たちが吉林で再会し、「打倒帝国主義」の旗のもとに青年学生を結集しはじめた。その旗のもとに結集した青年はみな、水火をもいとわぬますらおであった。その一人ひとりは、肉親にも、千金にも替えがたい貴重な存在であった。しかし、わたしは吉林監獄を出獄した後、闘争舞台を中部満州から東部満州へ移さなければならなくなり、別離の苦しみをまたも味わわされたのである。三三五五連れ立って歩いたわたしの戦友たちは、新しい任務をおびて中満州、南満州、北満州の広大な地域に散っていった。それは樺甸での別離とは違って、いつまた会えるとも知れぬ痛々しく、骨身にしみるものであった。
崔昌傑、金園宇、桂永春、康炳善、朴素心、崔一泉、高在鳳、朴一波との別離と同様に、ハルビンまでわたしと同行した韓英愛との別れもそのようなものであった。わたしがコミンテルン連絡所との接触を終えてハルビンを発とうとしたとき、彼女は東満州へ連れて行ってくれるようせがんだ。革命に参加するからには吉林時代のように一(ハン)星(ビョル)同(〔 〕)志の指導を直接受けたいから、願いをかなえてほしいと哀願した。しかし彼女にはすでに、わたしが処理していなかった二つの仕事がまかされていた。つまり、ハルビンに残って破壊された組織を立て直し、同時に、満州省党巡視員との連絡を保つよう依頼していたのである。わたしは、韓英愛と一緒に東満州へ行きたい気持はやまやまだったが、任務のためにそれができないジレンマに陥ったまま、ハルビンを発った。吉東共青責任書記として活動していれば、少なくとも二、三か月内にはまた会えるだろうという希望をいだいて彼女と別れた。わたしが韓英愛の願いを無視してハルビン地区の特派員として残してきたのは、組織が与える任務であれば軽重を問わず着実に実行するその強い責任感を信じたからであり、また、その責任感がハルビン一帯の革命活動の推進に必要であったからである。奇しくも、わたしはこのように、身近な戦友をいたがらない場所に残したり、遠いところに送ってしまうのがつねだった。こうして、わたしは南に向かい、韓英愛は北に残った。そのときの別れはじつに寂しいものであった。チジム(お好焼きの一種)で食事に代えるときは、自分の分をいつも半分わたしの前に差し出したその誠実な戦友を北満州の片隅に残し、さようならの手振り一つで別れを告げたそのときの心は、決しておだやかなものではなかった。
こうしてみると、革命の新しいぺージが開かれるたびに、別離は影のようにわたしの後をつけまわしたようなものである。わたしが丹精してはぐくんだ革命組織を維持し、強化していくためには、いずれにせよたたかいの中で育てあげた人たちをそこに残し、わたしはまた別の地方に行って新しい人を育てる基礎作業をしなければならなかった。いわば、わたしが処女地を開拓する耕耘作業をすれば戦友たちはそれを豊かな果樹園に、美田につくりあげるのである。まさにこのような革命の要求がわれわれの別れを避けがたいものにしたのである。
ところが、わたしの命令であれば死をもいとわぬ忠実な同志たちが、革命の要求する別離にはしばしば服従せず、悶着を起こした。わたしが東満州に活動舞台を移すとき、連れて行ってほしいと子どものようにせがんだのは、韓英愛だけではなかった。もっとも、三、四年間も同志愛を分かち合い、苦楽をともにした戦友たちの別離が、旅路で知り合った人たちの別れのようにごくありきたりのものであろうはずはない。理解できるほど説明もし、とがめたり諭したりしても頑として聞き入れない場合もあったのである。わたしを十分理解してくれて然るべき車光秀でさえ、「こんなふうに別れようとわれわれが生死をともにしてきたのか。別れないで革命活動ができる最善の方途を見つけてみよう」と熱気をおびて訴え、八キロもわたしを追ってきて困らせた。わたしと別れるのがつらいあまり、文朝陽などは声をあげて泣いたものである。わたしはそのとき、革命とはこんなに苛酷なものだろうか、車光秀が言ったとおり、別れずに革命活動ができる方途は果たしてないものだろうか、と何度も自問してみた。しかし、それはほとんど不可抗力的なものであった。それでわたしは同志たちに、われわれは遠からずまた会える、別れは一時的なものだ、再会の日を思ってこの悲しみに耐えよう、泣き顔ではなく笑顔で別れよう、と説き伏せた。別れが百なら出会いも百、という言葉があるではないか。
しかし、現実はわたしの予言をしばしば裏切ってしまい、その後、生きて再会した戦友は幾人にもならない。その数少ない人たちでさえわたしのそばを離れ、早々と永別の道を歩んだのである。生活は別離と邂逅のたえまない循環であると言う人もいるが、わたしには、別れた後に再び会えない別離があまりにも多かった。正直に言って、わたしはそういう理由から、別れを告げる場で、それとなく不安を感じ不吉な思いにとらわれることが多かった。
それにもかかわらず、これからまた青溝子密営へ行き、数年ものあいだ東満州でともに戦った戦友たちと再会も知れぬ別離をしなければならないのであるから、それは白頭山地区へ進出するわたしの喜びの中にひそむ悲しみだといえた。
白頭山地区への進出をひかえて誰よりも喜ぶはずのわたしの表情から沈うつな気分を読み取った魏拯民は、なにか心配事でもあるのかと尋ねた。わたしは胸に渦まくもろもろの思いを一言で言い表わすこともできなかったし、またそういう気持を他人に知られたくもなかったので、別にないと答えた。
「そういえば、昨年に亡くなった弟さんの哲柱のことを最近になって知ったそうですね。つらいでしょうが、気を落とさないようにしてください」わたしが沈うつになっている理由を魏拯民は自分なりに推測していたのである。
もっとも、その喪失の苦しみも耐えがたいものであった。そのころわたしは、見知らぬ満州にたった一人の肉親として残った幼い弟の英柱の生死も知らなかった。そういう悲しみに同志たちとの別れが重なって、わたしの顔になおさら暗い陰がさしていたのかも知れない。魏拯民はわたしの気を晴らそうと、冗談を言った。
「
「そうだとも。男が二十四といえば婚期を逸していますからね。もしかしたら、いま金司令は恋人との離別を悲しんでいるのかも知れない」
王徳泰もなんとかしてわたしの気分をほぐそうと、魏拯民の冗談に輪をかけた。魏拯民は調子づいた。
「そうだ。そうかも知れない。話が出たついでだから、夫婦げんかの話より、別離にちなんで伝えられている『折柳』という中国の故事を紹介する方がよさそうだ」
魏拯民は、「折柳」という題で伝えられているその故事のとおりにすれば幸運が訪れると言った。
「折柳」というのは柳の枝を折るという意味で、それは漢時代の故事に由来しているとのことである。漢の都の近くに橋が一つあったが、漢の人たちは親友と別れるときはいつもその橋に来て、将来の幸運を祈る意味で柳の枝を折って贈ったという。それ以来中国では、別離の場で柳の枝を折ってやるのが一つの習わしとなり、魏拯民の故郷でも、その儀礼がそのまま伝承されているという。魏拯民は、愛する人と別れるときに柳の枝を折ってやればきっと幸運が訪れると言い、わたしにもそうするよう勧めた。この故事にちなんだ柳は、故郷を象徴しているように思える。たとえ別れても、緑の柳の枝を見ながら自分の生まれ故郷と故郷の人たちを忘れるなという意味で、そういう故事が生まれたのではないかと思う。
北満州の酷寒が猛威をふるっていたそのころ、別れる同志たちに柳の枝を一本ずつ折ってやるなら背負子一つ分くらいは集めなければならないが、それほどの柳の枝をどこで手に入れ、またそれを分けてやったところで、わたしの気をまぎらすことができるだろうか。ともあれ、わたしの重い心を少しでも軽くしようと「折柳」の話をしてくれた魏拯民の気持だけはとてもありがたかった。
いつだったか、崔昌傑は別離を前にして、孤楡樹の柳の土手でわたしにこんなことを言った。
「この崔昌傑は南崗と丹斎が別れたときのように、格式も別宴もなしに静かに立ち去る」
崔昌傑のいう南崗とは李昇薫のことであり、丹斎とは申采浩のことである。前述したように、南崗李昇薫はわが国でも指折りの資産家で、早くから愛国的な教育運動や慈善事業に一生をささげた人物である。定州の五山学校が南崗の創立した学校であることは、周知の事実である。李昇薫は、海外へ出立する独立志士の面倒を見ているうちに、丹斎申采浩とも深い親交を結んだ。申采浩は、南崗の頼みでひところ五山学校で国史と西洋史を教えたが、その講義の上手なことが海外にまで知れ渡り、丹斎の存在は吉林でも学生が口をきわめて称賛する評判のたねになった。丹斎は、朝鮮が日本帝国主義の完全な植民地と化した庚戌年(一九一〇)前夜の冬を五山で過ごしていたが、ある日、急に南崗にこう言った。
「どうしても、わたしはここを発つことにする」
これを聞いた南崗は驚いて彼を引き止めた。
「こんな寒いときに急にどこへ行くと言うんだね。行くとしても雪解けのころになってからにすればいい」
「雪解けもなにも、日本人を見るのがいやでたまらないのです」
こう言い張った丹斎は翌日、忽然と定州を立ち去った。そのとき申采浩は中国をへてロシアヘ行ったという。
南崗は丹斎に去られたのが寂しくて、ひとりで怨みごとを言った。
「なんという人だ。道中の路銀でも少しもっていけばよいのに、一言の挨拶もなく去ってしまうとは…」
独立運動家を送るときはいつも盛大な送別宴を催し、旅費まで十分にもたせてやった南崗にしてみれば、丹斎と握手の一つも交わせずに別れたことに胸を痛め寂しがったのは当然のことであろう。崔昌傑が柳河へ発つときに言った南崗と丹斎の別れとはこういうものであった。
金赫は、南崗に一言の挨拶もせずに立ち去った丹斎の態度はつれなすぎるとなじった。すると崔昌傑は、申采浩の人となりを知らずにそういう言い方はするな、丹斎こそは誰よりも南崗を大事にした熱血漢だ、と反論した。彼の解釈によれば、申采浩が挨拶もしないで定州を発ったのは、独立志士に面倒をかけまいとしたためであり、別離の席で味わわなければならない苦しみからのがれるためであったというのである。崔昌傑の言うとおりであった。丹斎は火のように熱い人であり、南崗を格別に大事にしたのである。丹斎と南崗の別離を真似ようとした崔昌傑は言うに及ばず、金園宇、桂永春など、他の戦友もみな、わたしから任務を受けて発つときは、申采浩のように黙って出立するのであった。わたしの戦友はすべてそのような人たちだった。
わたしはその後、東満州で武装闘争を展開しながらも、自分が育てあげた有能な軍・政幹部や若い伝令兵、そして大切な隊員たちを兵員の不足している南満州と北満州の各部隊に派遣した。そのたびにこぼれる惜別の涙は胸中にしたたり生身をけずった。まして、その戦友たちがいつどの戦闘で、どのように戦死した、という悲報に接すると、それはわたしの心身を苦しめる終生の傷となってしまうのである。このような別離を通じて、革命同志間の愛情がいかに熱いものであるかを体験し、革命家の一生で同志の占める比重がどれほど大きなものであるかを切実に感じるようになった。解放後、わたしは社会主義建設の過程でいつも幹部たちに、愛情には親子同士、夫婦同士、兄弟同士、親友同士とさまざまな種類があるが、第一にあげるべき愛情は革命同志間の愛情であると話してきたが、それはこのような体験にもとづいての結論である。
真実の同志愛は、真の意味での革命を体験せずしては味わえず、弾雨降りそそぐ戦場で生死をともにせずにははぐくむことのできない愛情である。かつて、わたしの戦友たちは幾日も生水で飢えをしのぎながら血戦を展開する最悪の逆境の中でも、凍って落ちた一粒の木の実を雪の中から見つければ、まずそれを同志に譲った。
牽牛と織女の悲しい伝説(〔 〕)が示しているように、愛が熱烈であればあるほど離別の悲しみも増すものである。そのため革命同志間の別離も、かくも耐えがたい苦しみをもたらすのである。しかし、別れがいかに悲しいものであっても、それなしには革命闘争はできないのであるから、なすすべはないのである。
命令さえ下せば東西南北に別れ別れになる一人ひとりの戦友を思うわたしの心は、もうすでに火の粉を散らすほど熱くなっていた。若い伝令兵の呉大成と崔金山は、そんなわたしの気持も知らずに、祖国へ行けるといってはしゃぎながらわたしについてきたが、彼らのうちの一人も北満州部隊に送らなければならなかった。
長い行軍の末に青溝子密営に到着したのは、昼下がりのころだった。密林の丸太小屋から大勢の人が出てきてわれわれを取り囲み、小躍りして喜んだ。彼らが北満州に残らねばならない、汪清と琿春から来た隊員、その他ソ連に送る傷病兵と老人、虚弱者たちであった。
一人の少女がわたしを呼びながら、鉄砲玉のように飛んできて腕にとりすがった。
「これはこれは。おまえもここにいたんだね」
わたしは少女を抱きあげてその小さな顔をのぞきこんだ。彼女は汪清遊撃根拠地で両親と祖母まで亡くした梁成竜の娘梁貴童女であった。
「将軍さまがここにおいでになるというので来たの。将軍さまは白頭山へ行くんでしょう?」
「おまえがどうしてそんなことを知ってるんだね?」
「あの李応万おじさんが教えてくれたの。わたしたちみんな将軍さまと一緒に朝鮮に行くんだって」
少女が指さす方を見ると、松葉杖をついた李応万が隊員たちの中に混じってにこにこ笑っていた。わたしは唖然として、しばらく言葉が出なかった。彼が汪清遊撃隊の中隊長であったことは先にもふれている。資質や能力からすれば、大隊や連隊も統率できる器の指揮官であったが、惜しいことに片脚を切断したため軍職を離れて第二線に退いていたのである。彼はまだ傷が治っていない体でありながら、兵器廠で武器の修理をしながら楽天的に生活していた。
「将軍、わたしの言ったことに間違いはないでしょう。わたしはここにいても、そちらの話を全部聞いていますよ」
李応万はひとしきり冗談を言ってから、南湖頭会議の話をしてほしいとせかせた。わたしは旅装を解いてから、密営内の軍民全員を集めて南湖頭会議の決定を伝えた。丸太小屋に集まった人たちは、両手を高くあげて万歳を叫んだ。コミンテルンが間島でのそれまでの反民生団闘争が極左的であったことを認め、朝鮮人が朝鮮革命を遂行するのは誰も妨げることのできない神聖不可侵の権利であると宣言したことを話すと、これからはわが国、わがふるさとの地を踏み、生まれ故郷の祖国で日本帝国主義との決戦ができるようになったと誰もが涙を流して喜んだ。中国生まれも、一刻も早く祖国へ行きたいと言って興奮を抑えきれなかった。気の早い人は白頭山の自慢話をはじめた。
北満州に残されると思っている人は、一人もいないようだった。人びとの感激の度合いが強くなればなるほど、彼らにつらい真実を打ち明けなければならないわたしは、ますます苦しい立場に追い込まれた。けれども、わたしはつらくとも別れについて話さなければならなかった。
「同志諸君、振り返って見よ! 武装闘争の弁証法的過程として新たな情勢が到来するたびに、われわれには決まって別離がめぐってきた。南湖頭会議を契機に、朝鮮革命の転換期が到来した今日にいたってもそれは例外とならない。したがって諸君は、いまもまた別離を覚悟しなければならない。日本の軍部ファシスト集団は『二・二六事件』を起こした後、北方にたいする侵略をいっそう本格化している。日本帝国主義がチチハルと北部中国を掌握し、ソ連侵攻の口実を設けようとたえずソ満国境で挑発行為を働いているのは、諸君もよく知っている事実である。北満州の各遊撃部隊はこれに対処して、抗日勢力を強化するために努力している。ところが彼らは、幹部の不足で大きな困難に直面している。そのため、何回もわれわれに支援を求めてきた。このような状況下で、われわれすべてが白頭山方面に進出するとすれば、どのような結果がもたらされるだろうか」
聴衆がわたしの話を吟味する余裕を与えようと、わたしはしばし場内を見まわした。聴衆の中から不安にかられたささやきが聞こえてきた。片隅でひそひそとささやかれていたその声は、波のように一人ひとりの聴衆を呑み込み、やがては場内を蜂の巣をつついたように騒然とさせてしまった。予想どおりのはげしい反応であったが、それでもわたしはいささかあわてた。戦友たちとの別れがきびしい難関につきあたるかも知れないという予感のため、すぐには言葉をつぐことができなかった。ところが、聴衆はいつの間にか口をつぐんでわたしを注視した。わたしは、別れを告げる瞬間がきたと判断し、南湖頭を発つときから数十回も考えてきた人事異動を一気に発表した。
「汪清連隊は崔庸健同志の活動区域へ向かい、琿春連隊は第三軍の活動地域に向かうこと。第三軍には金策同志がいる。汪清連隊と琿春連隊の一部は周保中麾下の第五軍とともに寧安、穆棱、葦河一帯で共同作戦に参加することになる。負傷者と老人、病弱者はソ連で治療を受け、一日も早く健康を取りもどさねばならない。諸君、許してほしい。このとおり、わたしは諸君を連れて白頭山へ行くためではなく、別れの挨拶をしにここに来たのだ」
聴衆は数秒間、静寂の中でわたしをじっと見つめた。不服の声で騒然となるものと思った場内に、信じられないほどの静寂が訪れ、その息苦しい無言の中で人びとがわたしに落ち着いた視線を向けているのが不思議であった。わたしは、数千数万言の抗弁に代わるその無言がもっと恐ろしかった。しかし、静寂は長くつづかなかった。その不思議な静寂に代わって、あちこちからむせび泣く声が聞こえた。わたしは、別離宣言のため意気消沈した隊員たちの前に、言葉もなく立ちつくしていた。それでも、わたしの下で数年間政治幹部を務めた崔春国には度量があった。彼は、「わたしたちが収拾しますから、心配しないで疲れをいやしてください」と、わたしを慰めた。実際のところ、彼もわたしと別れ、独立旅団を編制して活動しなければならない立場にあった。
北満州に残る人たちのことを崔春国にまかせたわたしは、ソ連へ行く負傷者と老人、病弱者と別個に会ってみた。数年間の遊撃闘争の過程で、われわれの隊伍には多くの負傷兵と病弱者が生じた。遊撃区があったころは根拠地の病院で彼らを治療することができたが、遊撃区の解散後にはそれが難問題となった。それで大部分の負傷兵と老人、病弱者を沙河掌と鏡泊湖付近へ移して応急治療を受けさせ、のちに青溝子密営を設けてそこに集結させた。しかし、それも完全な意味での安全策とはいえなかった。幸いにも、魏拯民がコミンテルンの当該組織と交渉し、最大の難問となっていた負傷者と病弱者の治療問題をわれわれの要請どおり円滑に解決してきた。その結果、人民革命軍の負傷兵や病弱者は当分のあいだソ連領内で治療が受けられるようになった。魏拯民はコミンテルンとの合議のもとに、ソ連領内に入る負傷兵の受け渡しにかんする実務的手順まで打ち合わせてきた。彼の努力によって、コミンテルン傘下の学校への留学生派遣問題もスムーズに妥結した。やがて汪清連隊と琿春連隊が北満州の部隊に向けて発つときに、その留学生のグループも負傷兵たちとともにソ連に行くはずだった。
まずわれわれの部隊の負傷兵、老人、病弱者、孤児たちで二組の集団をつくり、一組ずつ二回にわたってソ連に送ることにした。国境までの負傷者の警護は、王潤成が一部の隊員を連れて担当することになっていた。この問題もすでに南湖頭で内定していたが、青溝子の負傷兵たちはそれを知らずにいた。
わたしが負傷兵たちのところへ足を運んでいるとき、突然松葉杖をついた李応万が現れてわたしの前に立ちはだかった。
「将軍、こんな話がどこにあるというのですか。この李応万もソ連へ行かせるつもりですか?」
声はうわずり、過度な興奮のため頬まで引きつっていた。
「応万同志、そう興奮せずにここに座りたまえ」
わたしは彼を支えて倒木に座らせた。李応万はわたしの腕をつかんで哀願した。
「どうか将軍のそばで最後まで戦わせてください。たとえ片脚はなくとも、銃は射てるし、武器の修理もできます。口もきけるのですからアジ演説もできます。同志たちが血を流して悪戦苦闘しているときに、この李応万がソ連に行って楽をしていられる人間とでも思うのですか?」
もちろん、わたしは負けず嫌いの往年の遊撃隊中隊長がこう出てくるだろうとは予測していた。事実、彼は革命闘争をつづけるために脚を切断した人間ではないか。わたしは李応万の手をとって頼んだ。
「きみがそんなことでは、他の負傷兵たちも我を張ることになる。抗日武装闘争の隊伍から離れる戦友のことを思うとわたしも胸が痛む。しかし、きみたちは肉体的条件のためいつも生活上束縛されてきたではないか。遊撃区があったときは不便ではあってもなんとか過ごすことができたが、垣から飛びだして洪吉童(〔 〕)のように東に西に転戦しなければならない新しい状況下で、そんな体では部隊について歩くのは無理だ」
わたしは一時間余り彼を説得したが、馬の耳に念仏であった。
「わたしは革命が勝利した国に行って、他人のパンをかじりながら楽に暮らすつもりはありません。戦いもしないで楽に過ごすつもりなら、なんのために財産をはたいてブローニング拳銃一箱を買い、遊撃隊に入隊したというのですか。お願いです。わたしを将軍のそばに残してください。わたしは落伍者になりたくないのです」
李応万は、革命隊伍からの離脱そのものを、死よりも恐れる真の共産主義者であった。しかし、彼の考え方には極端すぎるところがあった。ソ連に行くからといって、革命を放棄したり、ぜいたくをせよというわけではなかった。李応万が安全なところでゆっくり治療を受け、義足をつけて帰ってくるなら、それだけでも満足することができた。わたしは李応万の訴えになんとも答えられず、彼とともに遊撃区を守って戦った汪清時代を感慨深く回想しながら、黙々と密営地の雪を踏んだ。ところが、苦痛のうちに重く流れるその沈黙がかえって李応万の心を動かしたのである。しばらくわたしの表情をうかがっていた彼は、突然わたしの肩に顔を埋めて、「わたしのことで将軍を苦しめたりして… わたしはソ連へ行きます。そこで毎日、白頭山に向かって将軍の勝利を祈ります」とむせび泣いた。
李応万との別れに劣らず胸が痛んだのは、梁貴童女との別れであった。彼女もソ連へ行くと聞いて泣きどおしだった。それでわたしは青溝子密営にいるあいだ、いつも彼女を連れて歩き、食事も寝床もともにした。われわれが青溝子密営を発つ前日の夜、彼女は毛布にくるまったままおしゃべりをつづけた。
「将軍さま、ソ連はここよりもっと寒いんでしょう?」
彼女は大人から、ソ連という国には酷寒のツンドラがあるという話を聞かされたようである。
「大丈夫だよ。おまえが行くところの寒さはここと同じくらいだ」
丸太小屋の外に吹きすさぶ北満州のすさまじい風の音を聞きながら、そう答えるわたしの胸は張り裂けんばかりだった。両親もいない幼い子を他郷からまた他郷へと送らなければならない現実があまりにもむごく思われた。だが、彼女に吹雪と寒風という二つのイメージしか刻みつけていない殺伐とした風土のかの地は、日本人もいなければ搾取も、圧制の鞭もない社会主義国であった。やがて、彼女はそこへ行き、善良な人を迫害し虐待する呪わしい世の中と決別し、ヒバリのように朗らかに、トビのように自由に、ハトのように幸せに暮らすであろう。そして、大人になればわれわれの隊伍にもどってきて革命闘争に参加することになるであろう。われわれが梁貴童女のような哀れな子どもたちをソ連に送ったのは、このような慰めと希望があったからである。
「応万おじさんが言っていたけれど、将軍さまは白頭山で戦っても、月に一度はわたしを訪ねてくださるんですってね。本当なの?」
彼女がどうしてもソ連に行かないというので、李応万がそんなうそを言ったようである。わたしはなにも言えずに、彼女の澄んだ瞳を見つめるだけだった。子どもに質問されて、こんなに困ったのは、はじめてだった。ところが幸いにも、彼女自身がわたしを助けてくれた。
「将軍さまが白頭山を留守にしてわたしのところにいらっしゃったそのあいだに、日本軍がまた朝鮮人を殺したらどうするの? 将軍さま、わたしのところに来ないでずっと白頭山にいてちょうだい」
「えらい、本当にえらい子だね! おまえの言うとおり白頭山を留守にしないよ。そして、そこでおまえのお父さん、お母さんの敵を討ってやる」
わたしは思わず貴童女を抱きしめた。彼女は小鳥のようにわたしの胸に顔を埋めて、わなわなと身を震わせた。多くの父母の悲惨な死を目撃してきた少女の脳裏に、恐ろしい過去の映像が一挙によみがえってきたのかも知れない。
白頭山を留守にしないでほしいと言った少女の言葉には、すべての朝鮮人の願望と頼みがこめられているように思われた。
しばらくして、貴童女はまた話しかけた。
「将軍さま、白頭山はとても高くて、わたしのような子どもは登れないんですってね。それでわたしは、白頭山へ行かないで、応万おじさんと一緒にソ連へ行くのよ」
わたしはなんとも答えずに、ただ少女の頭をなでるだけだった。そして、心の中でささやいた。(おまえも、ときがきたら白頭山においで。そのときは、朝鮮もソ連のように住みよい国になるだろう)
わたしはその晩、一睡もできなかった。夜が明ければくりひろげられる涙ぐましい惜別の光景がしきりにまぶたに浮かんで、わたしを苦しめた。彼らとどう別れたらよいのか? 「折柳」式にここにある木の枝を一本ずつ折ってやるべきか。でなければ丹斎のように黙って去るべきか。
夜が明けそめてきたころ、崔春国がわたしを訪ねてきた。
「将軍、いつお発ちになりますか?」
「早めに朝飯をすませて出発することにしよう。官地にいる中隊が首を長くして待っているだろう。で、どうだね? ここの人たちの心が少しは落ち着いただろうか? きみたちもすぐ、北上行軍をしなければならないのだし」
わたしのそばで一晩中おしゃべりをしていた貴童女は、別れの日が来たのも知らずにすやすやと寝息を立てていた。
「将軍、わたしたちのことは心配しないでください。北満州でりっぱに戦いますから、安心して出発してください」
「りっぱな戦友たちだ。だからわたしも、別れるのがつらいのだ。きみともこれで…」
わたしは言葉を濁して崔春国を見つめた。そして彼の手を握りしめた。
「きみとはこうして話でも交わせたが、韓興権とは会えないまま去らなければならないのだから、なおさらつらい。北満州の部隊で会ったら、こうして発つわたしの気持を伝えてくれたまえ」
われわれはその日、簡素な朝食で別れの宴に代えた。崔春国が言ったとおり、青溝子の戦友たちは官地方面へ向かうわたしを笑顔で見送ってくれた。ただ、梁貴童女が悲しげに泣いただけだった。離れまいとする九つの少女を李応万の手にゆだね、重い足どりで青溝子密営を後にしたあの日を思うと、いまも胸がうずく。李応万と梁貴童女はその後、一次か二次の隊列に加わってソ連に入ったという。それ以来、長いあいだ彼らの消息はわからなかった。彼らの安否をはじめて伝えてくれたのは、青溝子密営で部隊と別れてソ連に入り、解放後に帰国したかつてのパルチザン裁縫隊員の全文振であった。彼らが健在であることを知り、喜びを禁じえなかった。梁貴童女はもう七十に近いはずである。その年なら、人生の黄昏といえる。
わたしはいまでも、民生団のレッテルを貼られて苦しんでいたかつての梁成竜大隊長の娘梁貴童女をときおり思い浮かべてみる。しかし、まぶたに浮かぶのは古希を間近にした老婆ではなく、花のつぼみの九つの少女の姿である。わたしには、年老いた彼女を想像することができない。わたしの追憶には、わたしについて白頭山へ行くのだとはしゃいでいた少女の姿が残っているだけである。
青溝子では、崔春国が自分と一緒に北上する隊員たちを説得してくれたので、ことなく別れたが、官地の金麗重中隊と呉振宇の所属する中隊を北満州の部隊に派遣するときは、かなり手をやいた。呉振宇の所属する中隊は、是が非でもわたしについて白頭山へ行くと言い張った。説得を重ねると、彼らは北満州の部隊に行くことにはするが、安図の境界まででも一緒に行かせてほしいと頼んだ。琿春青年義勇軍の一個小隊も、雷同して安図への同行を願った。その小隊には、かつてわたしの指示で、琿春で満州国軍の造反工作にあたっていた黄正海がいたのだが、彼が中心となってわたしの許しを得ようと懇願した。わたしは、北満州地区の実情を説明しながら、数時間、彼らを説得した。
魏拯民が黄正海の所属していた琿春青年義勇軍の小隊をたいへんほしがっていたので、その一個小隊だけは彼に引き渡すことにした。呉振宇の所属する中隊は、肩を落として迷魂陣を発った。魏拯民とともに、風の音も物寂しい迷魂陣の丘から涙をのんで去っていく呉振宇の所属する中隊を見送るわたしの心も、惜別の情にあつく濡れた。
北満州の各抗日連軍部隊に個別的に派遣されていく戦友たちとの別離は、なおさら胸をえぐるような苦しみを味わわせた。参軍の一歩を踏みだしたばかりの北満州の各抗日連軍部隊では、軍・政幹部の不足で少なからぬ困難に直面していた。わたしは彼らの要請によって、韓興権、全昌哲、朴吉松、朴洛権、金泰俊などの幹部は言うまでもなく、わたしの伝令兵であった呉大成までも北満州に派遣した。間島で大事に育てあげた幹部は、そのときそっくり引き渡したことになる。
呉大成は呉仲洽の二番目の弟である。十里坪で少年先鋒隊の活動をしていた彼は、兄たちがつぎつぎと遊撃隊に入隊するのでうらやましがり、やきもきしていた末に、自薦してわたしの伝令兵となったのである。わたしが呉大成に北満州の部隊に行けと言うと、最初は冗談だと思ってにやにや笑っていた。だが、それが本当だとわかると、泣き顔になってわたしを責めた。
「どうしてぼくに行けと言うのですか。ぼくは行きません。ぼくみたいな者が北満州の部隊に行かないからといって、革命がだめになるわけではないじゃありませんか。将軍のそばにつきそわせてください」
指示さえ下せば、ただ一言、「わかりました」と答えていつもわたしを満足させていた伝令兵が、このときだけはまったく別人のように荒々しい態度をとるのだった。わたしは、数十回も説得を重ねてやっと、呉大成を遠い北満州の部隊に送ることができた。あれほど行かないと我を張っていた呉大成もさすがに別れを前にしては大人のように、逆にわたしを慰めた。わたしが目をうるませているのを見た彼は、「将軍、ぼくがいなくなったら、あの金山がぼくと同じくらい将軍に仕えるでしょうか?」と茶目っ気な冗談まで言うのだった。
別れる前日の夜、呉大成はわたしのもう一人の伝令兵である崔金山と夜通しひそひそと語り合っていた。わたしはもともと零時をまわってから寝床につき、夜明けの三、四時に起きるのが普通であったが、その夜だけは遠くへ旅立つ伝令兵のことを思って、早めに明かりを消して床についた。一晩中寝ずにひそひそと話していた二人は、明け方になると外に出た。なにをするつもりなのだろうか、と好奇心にかられて耳をそばだてた。
「金山、ぼくが発ったあと、将軍にりっぱに仕えてくれよ」
呉大成がささやいた。金山は黙って溜め息をついているようだった。
「白頭山の方に行ったら、必ずトウガラシ味噌を手に入れて食事ごとに将軍に差し上げるんだぞ。朝鮮人の多いところだから、努力すればすぐ手に入ると思う。将軍はトウガラシ味噌が大好物なのをきみも知ってるだろう? それなのに、ぼくたちはまだ一度もそれができなかった。実際、ぼくたちは伝令兵の資格がない。将軍のそばを離れるいまになって、それが気になるんだ」
「きみの言うとおりにするから心配しないでくれ。こんなふうに別れていつまた会えるだろうか?」
崔金山の声はうるんでいた。
「さあ、いつまた会えるだろうかな…。そうだ。金山、向こうへ行ったらまず平安道出身の家から訪ねてみろ。平安道出身の家には塩辛のようなものがあるはずだ。将軍は塩辛が大好きだそうだ。あー、白頭山へ行ったらそういうのを手に入れて将軍にどっさりご馳走しようと思っていたのに…」
朝、呉大成を見送ったのち、わたしは本にはさんである彼の置き手紙を発見した。
「将軍、祖国を取りもどそうと一年三百六十五日、一日として安らかに眠られたことのない将軍に、ご心配ばかりかけて発つこの伝令兵の心は、申し訳ない気持でいっぱいです。けれども、向こうへ行ってりっぱに戦いますから、どうかご心配なさらないでください。苦しいときは、『祖国を取りもどすためにこの苦労に耐えよう』とおっしゃった将軍のお言葉を思い返します。愛情の中ではぐくんだ愛国の節義を汚すことなく、この一命をわらくずのごとく投げだして解放の聖業にいささかなりともつくすつもりですから、将軍、ご心配なさらずなにとぞお元気でいらしてください」
幼い伝令兵の手紙にしては、あまりにも奥床しいものであった。わたしの戦友たちはみな、このように義理がたく、情に厚かった。
この日、魏拯民は、南湖頭から青溝子、官地をへて迷魂陣まで来る道々で、朝鮮の同志たちのあいだにゆきかう同志愛がいかに厚いものであるかを実感させられたと言って、涙ぐんだ。
「勇将の下に弱卒なしという言葉のとおり、
わたしは琿春の青年義勇軍小隊と一緒に、炊事隊員として任銀河も魏拯民にゆだねた。黄正海も魏拯民について行くときは、呉大成のようにわたしとの別れを悲しんだ。だが、彼もやはり涙を流しながらも、将軍の願いどおり魏拯民同志を見守るから心配しないでほしいと、わたしを安心させた。そして、そのときに誓ったとおり最期の瞬間まで魏拯民をりっぱに護衛した。魏拯民の病気が最悪の状態になったときには、黄正海がいつも背負って歩き、敵の討伐のたびに必死の血戦を展開して彼を救った。そのため、魏拯民は臨終のときに親しみをこめて黄正海を呼び、「わたしはあの世に行っても正海を忘れず、朝鮮の同志たちのまごころを忘れない。どうかりっぱに戦って、
南湖頭から白頭山への数百里の南下行軍の途上で、北へ向かわせたわたしの戦友はどんなに多かったことか。朴吉松、韓興権、張竜山、全万松、朴泰化、崔仁俊、呉大成、呉世英、金泰俊など、数え切れないほどの戦友が、南満州と北満州の山野に若い血潮を流して倒れた。
名射手で人情に厚い張竜山の犠牲もそうであるが、弱年で昼夜を分かたず仕えてくれた呉大成との再会を果たせなかったのは、じつに哀惜に耐えない。彼は呉仲洽に非常に可愛がられた弟である。わたしが呉大成と別れるとき、第一師第二連隊に属して蛟河遠征に参加していた呉仲洽は、弟が遠く北満州へ向かうのも知らなかった。
わたしは、金山のおかげで、白頭山地区で蒸しトウモロコシにアミの塩辛をつけておいしく食べたことがある。蒸しトウモロコシにアミの塩辛という取り合わせが風味であったことは確かであるが、そこに呉大成の願いと情がこもっていることを思い、わざと腹いっぱい食べた。兄は南、弟は北と遠く離れて戦ったが、祖国解放の日にはきっと武功を誇る再会ができるだろうとかたく信じた。だが、彼らは二人とも異国の荒野に果て、祖国には帰れなかった。犠牲となった戦友たちはわたしが期待し信じたとおり、南満州と北満州の各地で朝鮮革命家の気概を失わずりっぱに戦った。
青溝子密営で戦友たちと涙ながらに別れたのち、崔春国とは一年半ぶりに再会し、ある戦友とは五年、六年後に、またある戦友とは解放された祖国で感激的な再会をしたが、彼らはみな粛然として先に逝った戦友たちを追想した。
生き残った戦友たちもまた、数々の武勲談をたずさえてわたしのもとにもどってきた。ある同志は常勝の英雄支隊長となって名をとどろかし、またある同志は中隊長、旅団長、師団政治委員などのそうそうたる軍・政幹部となって赫々たる武功を立てた。しかし、昔日の甘え気はまだ残っていて、「将軍のそばを離れてからは親もとを離れたような気がしました。お目にかかりたくて、いつも泣いたものです」と言って涙をぬぐうのであった。
わたしがもどれなかった戦友たちをしのぶと、彼らは抗日闘争の日々のように、わたしを慰めながら、こう言うのであった。
「将軍、あまり心を痛めないでください。祖国を取りもどす戦いで、どうして犠牲がないといえるでしょうか。彼らとのあの日の別離が永久の別れになりましたが、その代価として祖国を取りもどしたのですから、彼らも自分の死を後悔しないでしょう」
わたしはこのような戦友の愛情につつまれて八十の生涯を生きてきた。わたしのもとにもどれずに永別した戦友たちは、わたしの生涯に深い傷跡を残したが、われわれの抗日革命史と祖国の歴史をきら星のごとく輝かせてくれた。そのため、わたしもやはり、抗日闘争の日々、北へ、南へと戦友たちを発たせた、あの悲しい別離を後悔していないのである。
5 百戦の老将 崔賢
南湖頭から白頭山に向かう路程の中で、われわれがめざす重要な目的地の一つは、敦化―― 安図県境の牡丹嶺山脈に位置する人民革命軍独立第一師の後方密営基地―― 迷魂陣であった。大小さまざまな密営が千里樹海の中に散在しているこの奥深い大密営地区で、わたしは王徳泰、魏拯民をはじめ第二軍の主な指揮官たちとともに、南湖頭会議の方針を貫徹する一連の対策を討議する計画だった。一、二度来たことのある人でさえ、方向を見失って立ち往生してしまうという深山幽谷の迷魂陣、峰々や谷間のなりたちがあまりにもよく似ていて、はじめての人は誰でも皆目見当のつかない混迷の世界に迷い込んでしまうというのだから、この千古の森林地帯を迷魂陣と名付けた先人の明知には感嘆せざるをえない。
われわれも、はじめは密営をすぐ探し当てることができず、右往左往した。幸いに、牛心頂子で朴成哲の所属する独立第一師第一連隊第一中隊の隊員たちに会ったので、彼らに迷魂陣までの道案内を頼むことにした。ところが、彼らはわたしの頼みを聞き入れようとしなかった。その迷魂陣はいま、腸チフスが蔓延し、熱病患者が数十名も寝込んでいて感染区域になっているから、そんな所へ幹部たちを案内しては身辺の安全が保証できないというのだった。
「患者の中からは、すでに死者も相当出ているそうです。そういう所に将軍を案内するような冒険はできません」
彼らは道案内をきっぱり断った。当時、人民革命軍では、伝染病のために多くの損失をこうむっていた。遊撃区があったときから発生した発疹チフスと腸チフスは、遊撃区を解散した後も、影のようにわれわれの隊伍にまとわりついて、千金にも替えがたい生命を容赦なく奪い去っていった。これは人民革命軍の戦闘力を弱める恐ろしい禍根となっていた。
「腸チフスも、人間の体に生じるものであるから、人間がいくらでも処置できるものだ。人間が伝染病を征服するのであって、まさか、伝染病が人間を滅亡させることはあるまい。だからそんなに怖がることはない。きみたちは、その腸チフスをうちかちがたい病気のように思い込んでいるようだ」
わたしはこう言って伝染病にたいする恐怖症をたしなめてみたが、彼らは依然として腸チフスの危険性を力説し、迷魂陣には行ってはいけないと言い張った。
「人間が伝染病を征服するとはとんでもないことです。あの病気には強者も弱者もありません。どんな人間でもヘビににらまれたカエルのようなもんです。あの強健な崔賢中隊長でさえ腸チフスで何週間も寝込んでいるくらいです」
「なに、あの鋼鉄のつわものが伝染病にやられたというのか。彼が腸チフスで苦しんでいると知っては、なおさら行かなくてはならない。わたしが牛心頂子まで来て、伝染病が怖くて迷魂陣には立ち寄らずに白頭山へ向かったと知ったら、彼がどんなに落胆することか。きみたちはわたしのことを心配しているが、わたしはすでに汪清で熱病を患ったことがある。免疫になっているはずだから、感染を気づかうことはない」
第一中隊の指揮官たちは、それを聞いてやっと、道案内兼護衛として一個小隊ほどの人員をわれわれにつけてくれながら、迷魂陣に着いても熱病患者の病室には絶対に近づかないようにと念を押した。
率直に言って、わたしはそのとき崔賢が熱病に冒されたと聞いて心配でならなかった。口でこそ、腸チフスも人間が征服できる病気だとは言ったものの、実際のところそれは戦慄すべき疾病であった。その呪うべき疾患が、革命軍の指揮官だからと手加減してくれるはずはなかった。崔賢のような性急な男には、かえって万病がたち悪く襲いかかり猛威をふるうものである。病気は万人をひとしく冒しながらも、往々にしてせっかちで忍耐力に欠けた人には、より多くの不幸をもたらすものだ。大事な戦友の生命が危険にさらされていると思うと、瞬時も気を休めることができなかった。
「金司令、なにをそんなに考え込んでいるんですか。崔賢のことが心配なのではありませんか?」
わたしが沈うつな表情で黙々と歩いているのを見た王徳泰がこう尋ねた。彼は社交性に乏しく口数も少ない無愛想な軍事指揮官ではあったが、人情の機微を的確に読み取るうえでは驚くほど繊細なところがあった。
「そうなんです。しかし、どうしてわかりましたか?」
彼が沈黙を破ってくれたのがありがたかった。人間が口をつぐんでいるときは、さまざまな雑念にとらわれがちであるからだ。
「それは簡単なことですよ。金司令が、この王徳泰と一緒にいながら沈黙を守っているのは、人の運命について深刻に考えている証拠ですよ」
「そのとおりです。さっきからずっと崔賢のことばかり考えていました。彼が無事であればよいのですが、病状がどの程度なのか、不安でなりません」
「ご安心なさい。崔賢は必ず病気にうちかつと思います。彼は意志の強い人ですから」
「そうでしょうか。そうであれば、どんなにいいでしょう!」
「そうしてみると、崔賢という人はまったくの幸せ者ですね。ひとの夢の中に自分が現れ、ひとの記憶の中に自分がとどまり、ひとの関心の中に自分が生きているということ… これこそ、本当の幸せというものじゃありませんか!」
王徳泰の素朴ながらも含蓄のある見識にわたしはいたく感動した。わたしは、王軍長の見解に心からの共感を覚えた。
「なるほど、意味深長な話ですね。しかし、わたしはまだ一度もそのような考え方をしたことはありません」
「おそらく、崔賢も今ごろは金司令のことを思っているはずです。彼が日ごろからどんなに金司令を慕っていたか、まったく嫉妬を覚えるほどでしたよ。わたしの記憶に狂いがなければ、金司令と崔賢との出会いは、一度しかなかったはずなのに、どうしてそんなに深い友情を結ぶようになったのですか?」
「それはわたしにもよく説明できません。二晩一緒に過ごしただけなのに、十年の知己になってしまいました。そのあいだに、わたしは彼にぞっこん惚れこんでしまいました。片思いということになるのかも知れないが…」
「はっはっは、片思いではありませんよ。崔賢も馬村の風にあたってからは、いつも金司令の話ばかりしていましたよ」
崔賢が馬村の風にあたったというのは、彼が小汪清の馬村に来てわたしに会ったということである。わたしと崔賢との最初の出会いについては、『抗日パルチザン参加者の回想記』を通してすでに紹介されており、この回顧録の第三巻にも簡単にふれておいた。
われわれの出会いのきっかけになったのが東寧県城戦闘であったことは周知のとおりである。連絡員の手落ちで参戦命令が即刻伝達されず、崔賢が馬村まで駆けつけてきたときは、東寧県城戦闘が終わったあとだった。崔賢は口惜しさのあまり地団駄を踏んだ。そして、例の連絡員の名を指してあたり散らしてから、気が少し鎮まるとわたしに聞いた。
「汪清や琿春の隊員たちも参加し、救国軍の連中までみな参戦したというのに、ひとり、延吉のこのできそこないだけが、東寧県城の門前にも行けずに尻もちばかりついていたんですから、腹が煮えくり返ってたまりません。
「若い者に向かって、その殿づけだけは止めてください。ただ、
こう言ってわたしが謙遜すると、全身に火薬の臭いの染みついたこのつわものは、一瞬表情をかたくした。
「年の差がなんだというのですか。わたしは、とうの昔から、心の中で金隊長を朝鮮軍隊の上座に仰いでいたのです。ですから、敬称をつけるのは当然のことです」
「いいえ、若い者をそのようにおだてると、傲慢になりのぼせあがってしまいます。あなたがなおそんなふうにおだてあげようとするなら、もう二度と相手にしません」
「これはまいった。わたしも強情だが、金隊長も一筋縄ではいきませんね。よろしいです。金隊長がお望みなら、これからは呼び捨てにしましょう」
それ以来、崔賢は言葉づかいを改めた。彼は、やるといえばどこまでもやり、やらぬといえばあくまでやらない典型的な武人気質の男だった。その後、彼がわたしにたいして敬語を使ったのは、ただ公式の席のみであった。二人のあいだのわずらわしい儀礼や格式が取り払われることによって、われわれの友情には真実さと清新さが倍増するようになった。
海の底から真珠を採取するように、一人ひとり苦労して選んだ同志がわれわれの革命の「黄金」となり、革命を拡大し高揚させる不可欠の推進力になっていたその時期に、崔賢のような偉丈夫を同行者として得たことは、まさしくわたしの生涯において特記すべき出来事であり幸運であった。
馬村での出会いは、はじめからわたしに大きな満足感を与えた。最初の出会いにしては衝撃があまりにも強く深いものだった。ところで不思議なのは、初対面の崔賢が、なぜか旧知のように感じられることだった。声も聞きなれているようであり、その容貌や物腰までが、とてもよく見なれているような気がした。ひいては、以前この武人と対座して抗日を論じ、救国を語り合ったことがあるような気さえするのである。崔賢が旧知のように感じられたのは、おそらく、彼の身にそなわっているすべてのものが、わたしがそれまで頭の中に描きつづけ、一つの形象として完成させた典型的な武人のモデルに近かったこともあるが、すでに間島で崔賢にかんするさまざまなエピソードになじんでいたせいであろう。
崔賢は、亡国の悲運が絶頂に達しようとしていた一九〇七年、黄土大地の異境間島で呱々の声をあげた。一九〇七年といえば、わが民族史に恥辱の記録を数多く残した悲痛な、多事多難の年であった。李儁がハーグで割腹自決したのも、高宗の退位と朝鮮軍隊の解散が宣布されたのも、「丁未七条約」の締結と「次官政冶」の強行によりわが国の内政権がすべて日本帝国主義者の手中に収まったのも、まさしくこの年であった。未曽有の破壊力をもった経済恐慌の波がすさまじく押し寄せる間島で、崔賢の父母は新しい生命の将来を憂えて不安におののいた。「韓日併合」と三・一人民蜂起、庚申年の間島大討伐などは、幼い崔賢の血をたぎらせる劇的な出来事であった。
その絶望的な暗黒時代に、一縷の望みとなったものがあるとすれば、それは間島の一角で武力抗争に腐心していた独立軍の存在であった。洪範図、任秉国は、彼にとって先輩であり教師であった。崔賢の幼少期は、勇敢で不屈なこの老将たちの活動と切り離しがたく密接につながっていた。彼はこの老将たちから、射撃術も乗馬術も習った。洪範図の下で独立軍の活動に参加していた父親の崔化心は、崔賢が十一歳になるときから文書連絡の仕事をさせた。崔賢はその年に、父から一挺の拳銃を授けられた。
庚申年の大虐殺事件は、朝鮮同胞の多く住む間島のいたるところに血なまぐさい痕跡を残した。崔賢も、その討伐によって母を失った。彼は父と一緒に、任秉国の部隊にしたがって沿海州に渡って行った。土地柄も、人も、言葉もなじまなかったが、一生を日本帝国主義とのたたかいにささげようという崔賢の決心はゆるぎないものだった。任秉国隊長は彼を連絡兵に任命し、配下の一支隊に派遣した。乗馬術にたけた崔賢は、馬を駆って支隊と本部との連絡任務を忠実に果たした。当年わずか十三歳のあどけない少年が馬で広野を疾駆するときは、ロシア人まで驚嘆と羨望のまなざしで眺めた。
ある日、文書連絡の任務をおびた彼は、馬で三人の同僚と一緒に雨あられと降りそそぐ弾幕をついて最前線へ突進して行ったことがある。一行中の三人は敵弾に倒れ、崔賢も腕を負傷したが、それをかえりみようともせず、弾雨の中を果敢に突っ走り本部への連絡任務を果たした。任秉国は崔賢の腕に包帯を巻いてやりながら、「独立軍の将軍たるべき逸材だ」と彼を誉めそやした。
その独立軍部隊が敗れ、間島に帰ってきた崔賢は、後年の独立連隊長である尹昌範の紹介で東満青総に加入した。東満青総時代は、崔賢が民族主義運動から共産主義運動へと方向転換をした時期であったといえよう。この方向転換の過程は、彼の延吉監獄での七年余の獄中生活の時期に促進された。中国の反動軍閥当局は、一九二五年、不意に彼を逮捕し、義援金募集事件に連座させ無期懲役という途方もない重刑を宣告した。
五・三〇暴動と秋収・春慌闘争の波が過ぎ去った後の延吉監獄は、この闘争の先頭に立って大衆を導いた間島革命の先覚者や愛国者であふれていた。自由を束縛されていながらも、昂然と胸を張って生きぬく生気はつらつとしたこのロマンチストたちの小社会は、崔賢の成長に決定的な影響を及ぼした学校であり溶鉱炉であった。彼はこの監獄で、獄内地下組織の反帝同盟に加入し、赤衛隊にも入隊した。苦難にみちた獄中生活は、独立軍時代の元連絡兵を、ついに民族主義者から共産主義者へと完全に改造してしまったのである。
軍閥当局が吉林第四監獄と呼んでいた延吉監獄で崔賢によって創出され、彼自身が主人公として登場する獄中のエピソードや冒険談は、東満州地域の各遊撃区に広く知れ渡った。
崔賢の獄中生活はまず、監房の帝王と呼ばれる「カントゥル(牢名主)」との対決からはじまった。彼が収容された監房の「カントゥル」は、囚人たちをむごくいびる強盗殺人犯だった。新入りの囚人が監房に入ってくるたびに彼は、その持ち物を全部奪い取ってしまった。食べ物が入ってくると、ひとの分まで取り上げて自分の腹を肥やしていた。
「カントゥル」の性根を叩き直すことに決めた崔賢は、ある日、高級タバコの「カール」を一本口にくわえると、他の囚人たちにも一本ずつ分けてやった。だが、「カントゥル」だけにはわざと勧めなかった。これは「カントゥル」をいらだたせる無言の挑戦だった。つむじを曲げた「カントゥル」は、崔賢に向かって持ち物を全部納めろと脅した。崔賢は、素知らぬ顔をして口一ぱいに吸い込んだタバコの煙をプカリプカリとくゆらした。堪忍袋の緒が切れた「カントゥル」は、拳を振りあげて躍りかかった。瞬間、囚人たちの頭上を飛び越えた崔賢は、手錠がかかったままの二つの拳で、「カントゥル」の顔面を殴りつけ、大声で怒鳴った。
「このたわけものめ! おれが誰だと思ってふざけたまねをするんだ! きさまは人殺しで入ってきた分際で、なんでかわいそうな兄弟たちをいじめるんだ。きさまみたいな悪党がどこにいる。きさまだって、おれたちと同じ平民の子じゃないか。今度だけは大目に見てやるが、これからは振舞いに気をつけろ。今日からはきさまがあの便器のそばに行け。この上座はおれの場所にする」
崔賢にはかなわないと思った「カントゥル」は、いわれるままに便器のそばに膝を立ててうずくまった。「カントゥル」の悪行から解放された囚人たちは、それ以来、崔賢を恩人のように慕ってなつくようになった。
崔賢が無期懲役を言い渡されてまもないころ、軍閥当局は、大成中学校、東興中学校、永新中学校、永新女学校、恩真中学校など、竜井市内の多くの学校に監房見学を頻繁にやらせた。こういう方法で、思想団体や反日・反軍閥団体が続出し猛烈な活動を展開しているこの一帯の青少年学生の革命意識を除去し、闘争気勢を圧殺しようと企んだのである。崔賢は、全監房に連絡をとり、前もって水鉄砲を作らせて時の来るのを待った。そして例の学生たちがやって来て監房を見まわりはじめたとき、囚人たちは引率者の反動教員や看守らをめがけていっせいに悪臭のする便器の汚水を浴びせながら罵倒した。
「この野郎ども! なにを見せるつもりで学生をここまで引き連れて来たんだ!」
不意打ちを食らった反動教員はあわてふためき、学生たちを連れて逃げ去ってしまった。監獄側は、主謀者を摘発しようと手をつくしたが、囚人がみな自分こそ責任者だと名乗り出る始末なので、どうすることもできなかった。
崔賢は、延吉監獄内の製靴工場では製靴工を、石版印刷工場では植字工を、被服工場では高級洋服を仕立てる裁縫師を務めた。のちには木工場で大工もやり、理髪師にもなって囚人はむろん看守や看守長、監獄長の髪もかったが、どこでなにをしても、自分をむやみに虐待したりさげすむ者には、それが誰であろうと容赦せず、懲罰を加えた。ある日、崔賢は机や椅子を作るのに使うクロツバラの木で将棋の駒を作ろうとして、獄内工場の監督に見つかり、ひどい仕置きを受けた。その監督は、囚人を殴るくらいのことはいつも平気でやっていた。憤激した崔賢は、組立て中の椅子の脚を抜きとると監督をこっぴどく殴りつけた。監獄当局は、彼に一週間の営倉処罰を加えたが、それ以来監督は、囚人たちに二度と暴行を加えることがなかった。
崔賢の獄内闘争の中で異彩を放ったのは脱獄闘争である。彼は尹昌範らと一緒に、独立軍時代の上官であった任秉国やその他の革命家たちを脱獄させるのに成功した。正義のためならば焼身も辞さず、千尋の崖をも飛び下りるのが、ほかならぬ崔賢のもって生まれた気質であり、風浪の中で培われた性格であった。
出獄後、崔賢は太陽帽赤衛隊に入隊し、試練にみちた闘争を通じて共産党にも入党し、人民革命軍延吉遊撃隊の中隊政治指導員にまで成長した。馬村で崔賢に会うときまで、この名だたる猛者についてわたしが知っていたのはおよそ以上のようなことであった。
「どうせこうなったからには、汪清に二日ほどとどまって、金隊長の話を聞いて行くことにしますよ。邪魔ではないでしょうね」
初対面の挨拶が終わって、崔賢はこう言った。わたしは快く同意した。われわれは、夜の更けるのも知らず一晩中語り合った。翌朝、歩哨隊から、敵が遊撃区に攻めてくるという合図が指揮部に届いた。わたしは部隊を高地に配置し、山に登りながら崔賢に諒承を求めた。
「ひと戦して来るから、それまで宿所で少し待っていてください」
崔賢はそれを聞くと、ゴムまりのように跳ね起きた。
「せっかく獲物が現れたというのに、宿所にいろとは殺生です! こんなときに金隊長について行かず、宿所でひとりポカンと待っているようでは、崔賢じゃありませんよ。天も今日はこの崔賢の気持をわかってくれたんです。金隊長の下で一度でいいから戦ってみたい。わたしも一緒に連れてってください!」
「どうしてもと言うなら、一緒に戦いましょう」
崔賢は顔をほころばせ、わたしについて高地を登りはじめた。
敵は、遊撃隊が待ち伏せている線にまでは突進せず、遠くの方で盲撃ちばかりしていたが、そのうち遊撃区人民の血と汗の染みた穀物の山に火をつけはじめた。
わたしは、長距離狙撃戦で敵を残らず掃滅するよう遊撃隊員たちに命令し、崔賢に向かい「射撃の名手だと聞いていますが、一度、その手並を拝見させてもらえませんか」と言った。崔賢はマレーシャン銃を手にとると、たいまつを持って穀物の山に駆け寄る敵兵を一発のもとに撃ち倒した。敵との距離は五百メートルほどもあったが、彼は一発ごとに敵兵を一人ずつ撃ち倒していった。彼の射撃術は万人を感嘆させるほど見事なものだった。
「東寧県城戦闘に参加できなかった恨みがこれで少しは晴れましたか?」
戦闘が終わって崔賢にこう尋ねると、彼は舌打ちしながらかぶりを振った。
「まあ、少々の気晴らしにはなりましたが、まだ物足りませんね」
われわれはその夜も語り明かした。話題の中心になったのは、朝鮮革命の当面の課題とその遂行方途にかんする問題であった。わたしは、反日部隊との連合戦線の問題、反日民族統一戦線問題、新しい型の主体的な党の創立問題など、いくつかの重要な路線上の問題をとりあげ、彼と実践的な論議を重ねた。崔賢は話合いの結果にたいへん満足した。
「東寧県城戦闘に参加できなかった口惜しさが、これでいくらかやわらいだようです。東寧県にはついて行けなかったが、馬村に来てその腹いせを十分にして帰れることになったわけです」
わたしは崔賢を見送るとき初の出会いの記念にと、東寧県城戦闘でろ獲した大台槓銃四挺と琥珀のパイプを贈った。以来、そのパイプは彼のもっとも愛用する所持品となった。
戦局を左右する緊張した思索が求められるときは、彼の琥珀のパイプからきついタバコの煙がもくもくと立ち上るのがつねだった。崔賢の周辺には、そのパイプを欲しがる愛煙家が少なくなかった。ある者は腕力で、ある者は甘言で、またある者は物物交換の方法で手に入れようとした。もっと欲深い者は彼が酒に酔っているときポケットからそっと抜き取ろうとまでした。このように、そのパイプを奪い取るのに手段と方法を選ばなかったが、その試みはみな失敗に終わった。
解放後、党や政府の要職にいた愛煙家の中には、「崔賢同志、そのパイプを口にくわえるとタバコの味が格別だというが、わたしにも一服吸わせてくれないか。『料金』はたっぷり払う」と、掛け合う人まで現れた。頑固者の崔賢にはそういう駆け引きもまったく通じなかった。ただ一度、崔賢が羅津で休養していたとき、同じ休養客で親しくなった金翊善が一日かぎりという期限づきでそのパイプを借りるのに成功しただけだった。
いまその琥珀のパイプは、朝鮮革命博物館に展示されている。博物館の職員たちは最初、崔賢にその趣旨を話せば、琥珀のパイプを簡単に収納できるものと思った。ところが、それは誤算だった。崔賢は職員たちの狙っているのが、自分が数十年間も宝物や黄金よりも大切にし愛用してきたパイプだと知ると目をむいて怒りだした。
「なにがどうしたと? 崔賢の琥珀のパイプを博物館に展示するのだと? このパイプは全人民の所有でなくてわしの個人所有なんじゃ!
職員たちは崔賢のはげしいけんまくに驚いたが、それでもあきらめずに、何度も足を運んだ。そして五度目にようやくこの頑固者の老将を説き伏せるのに成功した。数日前まで猛虎のように怒鳴っていた老将軍が、その日にかぎって別人のようになっていとも親切に客を迎え入れた。
「今日からは、このパイプは崔賢の所有でなく、全人民の所有じゃよ… 最後に一服吸ってから渡すから、少し待ってくれ」
崔賢は、巻きタバコを一本取り出してパイプに差し込み、マッチで火をつけた。そして一服、一服たっぷり吸い込んでは、ゆっくりと宙にくゆらすのである。思いなしか老将軍の細い目は、遠い北の空の彼方を追っているようだった。その空の下にはわれわれの初の出会いの歴史が刻まれた馬村もあれば、彼が四十歳近くまでモーゼル拳銃を腰につけ、足首が痛むほど駆けまわったパルチザン時代のあの硝煙にけむる戦場もあるに違いなかった。
わたしと崔賢を一つのきずなに結び、永遠の同行者としたあの運命の二泊三日は、文字どおり二人の友情の歴史にいかなる力や手段によっても断ち切ることのできない鉄壁のような万里の城を築きあげたのである。
初対面を通して崔賢がわたしに残したもっとも強い印象は、彼がきわめて率直でざっくばらんな人間であるということである。彼は見たままを話し、思ったとおりを表現する男だった。彼の思想と感情はつねに、ありのままに顔に表われた。こういう人には、うそも、作りごとも、お世辞も通じないものである。崔賢の子どものような単純さは、はたの人の心までもきれいに浄化してくれる不思議な力をもっていた。その魅力に引かれて、彼には自分の心のうちをさらけださざるをえなかった。
わたしは迷魂陣密営に到着するやいなや、五十余名の熱病患者が収容されている半洞窟式の病棟を訪ねた。その五十余名の中に、わたしがあれほど会いたがっていた崔賢がいるのだ。密営を守っていた給養係たちが病室の戸を開けながら金司令が来たと知らせると、崔賢はやっとの思いで床から起き上がり、戸口の方に這い出してきた。彼をひと目見た瞬間、わたしは唖然とした。馬村で刻みこんだ面影は跡形もなく、骨だらけのやつれた顔は見分けがつかないほど無惨に変わり果てていた。
「金隊長、お願いです。入ってこないでください! ここに入ってきてはいけません!」
彼が両手を横に振りながら火の出るような目でわたしを凝視するので、わたしはしばし戸口に立ちすくんでしまった。
「迷魂陣の人はこんなに薄情だというのか。崔賢に会いたくてこうしてやってきたのに、門前払いとはひどいではないか」
わたしがこんな冗談口をたたいても、崔賢は頑として聞き入れなかった。
「薄情だと言われてもやむをえんです! 金司令だって、ここが地獄の入口だということくらいは知っているでしょう!」
「はっはっは、百かますもの弾丸を撃ちまくったという崔賢が、こんな弱虫とは思わなかったね」
崔賢は自分の言葉では太刀打ちできないのを知ると、わたしを案内してきた給養係たちに悪態をついた。
「このできそこないの唐変木め、ここがどこだと思って金司令を連れてくるんだ! 金司令にこんな扱いをするやつがどこにいるんだ!」
度胆を抜かれた給養係たちは、姿をかくしてしまった。
崔賢が怒鳴りちらしているあいだに、かまわず病室の中にすたすたと入っていった。
「オノオレカンバの棒のようにがっしりしていた崔賢が腸チフスとはなにごとだね」
わたしが枕もとに座りながら握手を求めると、崔賢はあわてて毛布の下に手を引っ込めた。
「金司令、わたしの体には腸チフス菌がうようよしているんです。どうか、わたしの体にさわらないでください。伝染病の倉庫みたいなこの迷魂陣にいったいなにしに来たんですか?」
「なにしに来たかって、崔賢に会いたかったからだ。世にも不思議なことがあるものだ。崔賢が伝染病にかかるとは」
わたしは毛布の下に手を差し込み、火だるまのような崔賢の手を強く握った。崔賢の目にまたたくまに涙がにじみでた。
「金司令、ありがとう! たかがこの崔賢のために… わたしは金司令にも会えずにあの世へいくのではないかと思いましたよ」
ついさっきまで、近寄るなと哀願していた彼が、いまはわたしの手をきつく握って放さなかった。そのときの崔賢は子どもそのものであった。彼は第二次北満州遠征についていくつかの質問をしたのち、腸チフスによる被害状況を説明した。わたしは、崔賢の運命にかかわる一身上の問題に話題を転じた。
「その間、民生団の濡衣を着せられて気苦労が多かったと聞いたが、それは事実ですか?」
「事実です」
崔賢は憂うつな表情でうなずくと、自分に民生団の嫌疑がかけられたいきさつを性急に語りだした。
「金隊長は馬村で統一戦線について多くのことを話してくれましたね。わたしはその路線がまたとない名路線だと思いました。それで、延吉に帰ってから部隊で宣伝すると、王徳泰軍長までも、統一戦線がなくてはだめだと言うではありませんか。ところが、わたしはその統一戦線のために民生団のレッテルを貼られたのです」
われわれが第一次北満州遠征の途についたのち、崔賢は中隊を引き連れて敦化県と樺甸県の境界地帯に進出し、遊撃活動区域を拡大する政治・軍事活動を活発に展開していた。この一帯で遊撃区域を拡大するための先決条件は、大荒溝の奥地にたむろする反日部隊との関係を正しく保っていくことだった。当時、大荒溝の谷間には、八十名と百名程度の兵員を擁する二つの山林部隊(中国人反日武装隊の一つ)が駐屯していた。八十名の方の山林部隊は傾向が非常によかった。パルチザンの工作員たちがその部隊に浸透し、反日宣伝工作をさかんにおこなったためだった。その山林部隊は、付近の自衛団とも好ましい関係を結んでいた。親日から反日へと帆を替えたこの地方の自衛団は、いろいろな形式と方法でその山林部隊を積極的に後援していた。しかし、百名の方の山林部隊は、人民の財物の略奪に明け暮れていただけでなく、柳樹村の敵の軍警とも内通し、集団的な帰順の準備まで進めていた。抗日と投降・変節という、志を異にするこの二つの山林部隊の対立は、流血の武装衝突をもまねきかねない一触即発の危険をはらんでいた。投降を企図しているこの山林部隊をそのままにしておいては、他の山林部隊を抗日の道へ導くことも、彼らとの反日共同戦線を成立させることも不可能であった。
崔賢は二つの山林部隊の和議をはかるということで宴会を催した。投降をはかっていた百名の方の山林部隊の指揮官たちも宴会に招待された。その指揮官たちが宴会場に現れると、崔賢中隊はまたたくまに彼らを武装解除した。だが、八十名の方の山林部隊には手出しをしなかった。その部隊と友好関係にあった自衛団にたいしてももちろん実力行使をしなかった。崔賢が自衛団を討たなかったのは、統一戦線路線の要求に合致する公明正大な処置であった。ところが軍指揮部の政治主任をはじめ上級の極左分子らは、「敵を見て討たざるは、すなわち敵に投降するにひとしい」という論理で崔賢の正当な処置を犯罪視し、彼を政治指導員の地位から罷免し、愛用のモーゼル拳銃まで取り上げた。その処分があまりにも不当だったので、王徳泰までが「崔賢同志が民生団なら、われわれの第二軍で非民生団はいったい誰だ!」と叫んだほどである。崔賢は兵士に降格されたが、のちに王徳泰軍長の下で一年間、軍指揮部の軍需処長を務めた。そして一九三五年の末になって中隊長になった。
「この崔賢は、金司令のおかげで助かったようなものです。大荒崴で金司令が命をかけてわたしらを擁護してくれなかったら、わたしはいつまでも民生団扱いをされてモグラのように生きてきたはずです。金司令、教えてください。その自衛団を討たなかったのが果たして投降といえるのでしょうか!」
崔賢はがばっと起き上がり、食いいるようにわたしを見つめた。真剣そのものの彼の顔は急に真っ赤に上気した。わたしは、彼の手をあたたかく両手で包みながら首を横に振った。
「それがどうして投降になるというのだ。反日戦線のための正しい処置だというのに… あなたを民生団にして降格させたのはなんの名分もない不当きわまりないことです」
「そうでしょう! いくらなんでもこの崔賢が、間違っても民生団になるはずはないではありませんか。べらぼうめ、考えただけでも、腹が煮えくり返る」
「あなたのように民生団にされて処罰を受けたり、いわれもなく殺された人が数千名にもなることを思うと、胸が張り裂けそうです」
「みんなうそ八百です。尹昌範や朴東根のような革命家がどうして民生団だというんです。やつらは熱心に働き、勇敢に戦う人ばかりを選んで処刑しておきながら、大きな手柄でも立てたような面をしてのさばり歩いていたんです。そんなのが共産主義なら、沿海州から間島に帰ってきはしなかったですよ」
「反民生団闘争は、われわれの抗日闘争史に二度と繰り返されてはならない惨酷な受難でした。どんなに多くの朝鮮共産主義者が無念の死をとげたことか。幸いにもコミンテルンは、わたしが大荒崴会議で表明した立場が正当であり、これまで東満党が指導してきた反民生団闘争が極左的であったことを正式に指摘し、その収拾策を早急に立てるよう指示してきました」
崔賢はそれを聞くと涙を流して喜んだ。
「それが本当なら、わたしはこの場で万歳を唱えます。金司令、ありがとう!」
「重要なのは、濡衣を着せられて死んだ戦友たちの恨みをどう晴らし、朝鮮革命がこうむった甚大な損失をどのように挽回するかということだと思う。そうではないだろうか」
「そのとおりです! 金司令、わたしたちの力でその穴を埋めていきましょう。生き残った人間が種子になってです!」
わたしは、崔賢の返事を聞いてすこぶる満足した。彼は軍事だけでなく政治にも明るい指揮官であった。その後の数十年間の活動の過程で、彼が軍事のベテランであるだけでなく、一家言あるすぐれた政治活動家であることを確認した。彼は有能な軍事作戦家であると同時に、老練な政治活動家、洗練された扇動家でもあった。崔賢は軍事外交にもたけており、敵軍切り崩し工作も巧みだった。彼が掌握した満州国の軍警は、人民革命軍部隊に系統的に弾薬と武器を提供し、敵情も常時知らせてくれた。
崔賢を軍人としか見ないのは、近視眼的な評価だといわざるをえない。解放後のこと、抗日戦争に参加した老兵たちが『チャパーエフ』というソ連映画を見て、こんな感想を述べ合ったことがある。
「あのチャパーエフは、崔賢大将とそっくりだ。まるで、チャパーエフが崔賢大将に乗り移ったようだ。言葉づかいも、振舞いも、考え方も、いや、戦闘の仕方までそっくりだ」
崔賢はそれを聞くと腹立たしげに反駁した。
「なにがチャパーエフだ。崔賢はあくまでも崔賢だ」
これは、自分を野放図な軍事指揮官としかみなしていない同僚たちにたいする不満の表示だった。崔賢をチャパーエフと同類項におくのは正確な評価とはいえない。崔賢を評価するには、彼をただ武官であるとするだけでなく、遊撃隊の政治指導員と党中央委員会政治局委員の経歴をもつ、有能な政治活動家の一人であったことを銘記すべきであろう。
わたしは、熱情と信念にみちた崔賢の目を頼もしく見つめながら、彼の手にわたしの手を重ねて話をつづけた。
「…その種子が十人、百人、千人を得て、その千人がさらに一万人を獲得すれば、われわれはやがて人材の宝庫を得ることになるでしょう。これは朝鮮の共産主義者が第一義的に解決すべき大業です。
この大業のためには、わたしが南湖頭会議で強調したように、祖国と接している長白地区、白頭山地区に進出して新しい形の根拠地を建設する必要があるのです」
崔賢は新しい形の根拠地という言葉に、上半身を起こしながら目をしばたたいた。
「なんですと? 遊撃区を解散したばかりなのに、また新しい遊撃区を建設するというのですか?」
わたしは崔賢に、新しい形の根拠地建設の必要性と、それが従来の根拠地と異なる点を説明した。万事を即座に理解し敏感に受けとめる崔賢の政治的感性にはじつに驚くべきものがあった。崔賢は、朝鮮革命を主体的に発展させる強力なテコとなる南湖頭会議の方針に絶対的な支持を表明した。この会議の決定は、崔賢をはじめ迷魂陣密営のすべての熱病患者を絶望のふちから救い出す力になったのである。
「チフスにかかってから、わたしは生死の境を幾度もさ迷いました。ひどく苦しいときは、いっそのこと死のうかとさえ思いました。死んでしまえば万事が終わるし、こんなひどい苦痛からも解放されるだろうと妄想にとりつかれたこともありました。ところが今日、金司令に会って、そんな雑念が吹っ飛んでしまいました。金司令の顔を見て、生きたいという気持が強くなり、生きぬいて決着をつけようと腹がすわってきます」
崔賢の言葉である。彼はわたしとの出会いにおおげさな注釈をほどこしたが、わたしも彼との出会いに深い意味を見いだした。
「あなたはわたしの顔を見て力を得たと言うが、わたしこそかえってあなたの顔を見て力を得ました。民生団の嵐にも抗して生き残った崔賢を見ただけでも、どんなにうれしいことか! いまの情勢では、生き残ったということ自体が大きな功績になるのです」
その日、わたしは李東伯とともに密営をくまなく見てまわった。密営の医療条件と食糧事情は悲惨なものであった。迷魂陣の近くに駐屯していた第一師第七中隊がときおり食糧を工面して来てくれたが、それだけでは数十名もの患者の食事をまかなうのはとても無理だった。食糧が切れるとかゆも炊けず、腐敗したトウモロコシの糠をもみ、それを熱湯に溶いてすすったりしたが、その粗末な食べ物さえいつもあてがわれるわけではなかった。
密営の管理を担当する金某なる者がいたが、彼は自分の安全しか考えない臆病者であった。崔賢は病院に後送されてくると、すぐ彼に密営を管理する事務長になるよう頼んだ。しかし彼は、あれこれと口実を設けては職務を怠った。密営の周辺には、一九三五年の秋に崔賢が敦化地方で地主から奪い取ってきた多くの食糧と副食物が備蓄されていたが、金某はいつも食糧がないと言っては、一日に一、二食の豆がゆさえも満足に供給しなかった。そして患者の世話は幾人にもならない裁縫隊員にまかせきりにし、自分は感染を恐れて四キロ以上も離れた密営に移り、白米のご飯と肉のおかずでぜいたくな生活をしていた。金某は、女性隊員たちに歩哨勤務までさせた。金喆鎬、許成淑、崔順山など迷魂陣の女性隊員たちが患者を看護する苦労は並大抵のものではなかった。密営には金、郭、劉などの給養係がいたが、彼らは外部工作に飛びまわっていたため、患者を世話する余裕がなかった。女性隊員たちは順番を決め、裁縫隊の仕事や歩哨勤務をしながら、患者の看護にもあたった。昼夜、病苦にさいなまれる腸チフス患者は、神経をとがらせ看護人に当たり散らしたりした。彼らは、水が自由に飲めなくて気が狂わんばかりに苦しがった。どういうわけか当時、人民革命軍隊員のあいだでは、腸チフス患者が水を飲むのは毒薬を飲むにひとしい自殺行為だという話が広まり、それが治療にまで適用されていた。崔賢が密営の病院に冷水禁止令を下し、違反者は厳罰に処すると威嚇したのも、この話を絶対視したためであった。しかし、のどの渇きに理性を失った熱病患者は、狂ったように水を求めた。ある者は看護兵の目を盗んで軒先にたれさがったつららをもぎ取って渇きをいやしたりした。パルチザンの規律にはあれほど従順で忠実であった人たちが、渇きには耐え切れず、あばれ馬さながらになった。女性隊員たちが冷水の代わりにかゆを差し出すと、その食器を投げつけては口汚くののしった。それでも女性隊員たちは、熱病患者の要求には断固として応じなかった。患者がかめの水を勝手に飲まないように、交替で歩哨に立って監視した。
ある日の夜のことだった。孟孫という風変わりな名の連絡員が水がめめがけてまっしぐらに這って行った。その夜の歩哨当番は女性隊員の許成淑であった。彼女は、それを見て水がめの方に飛んで行き、彼の手からパガジ(ひさごの水汲み用具)をひったくった。そして、病室が割れんばかりに大きな声で彼をとがめた。
「孟孫同志! 命令を忘れたんですか! そんなことをして死ぬつもりですか! 早く床にもどりなさい」
自制心を失った孟孫は、かまどのそばにあった薪で許成淑のふくらはぎを殴りつけ、かめの水をむさぼり飲んだ。気を晴らした孟孫は、毛布を引っかぶると、一晩中死んだように横たわっていた。許成淑は孟孫が死ぬような気がして、歩哨勤務を終えた後も彼の枕もとに座って夜を明かした。ほかの患者たちも、たいへんなことになるのではないかと心配した。ところが、夜が明けるころ、息をひきとるのではないかと思っていた孟孫が毛布を払いのけて起き上がり、だしぬけに許成淑に抱きついた。
「成淑同志、ありがとう! ぼくは助かりました! ぼくが水を飲むのを見逃してくれたおかげで、熱がすっかり下がったんです。あんな高熱がどこへいったんだろう?」
「汗腺から抜けたに決まっているわ。ほら見てごらんなさい、毛布から湯気がもうもうと立っているじゃないの!」
許成淑は汗で濡れた孟孫の毛布を高くかかげて病室を見まわした。眠りから覚めた患者たちが、みなその毛布を見つめた。
こうして冷水禁止令は取り消され、患者たちは自由に水が飲めるようになった。日がたつにつれて、迷魂陣の多くの熱病患者が死の境から抜け出していった。病床から起き上がった腸チフス患者たちは、女性隊員と一緒にお祭り気分になり、ご馳走づくりに手をかした。
わたしは劉という給養係と一緒に密営の周辺で、崔賢が敦化からろ獲してきたという多量の食糧と肉類を探し出した。それ以来、密営の人たちの食卓はうるおうようになった。幾度もの遠征とたえまない戦闘を通じて鍛えられた戦友たちは、長い遠征の疲れをいやす間もなく、迷魂陣の女性隊員たちに代わって毎日歩哨勤務に立った。
病魔から救われた人びとが喜びをいだいて大地を闊歩できるようになったころ、わたしは迷魂陣で王徳泰、魏拯民とともに人民革命軍軍・政幹部会議を開き、南湖頭会議の方針を貫徹するための実践的な対策を討議した。この会議には、金山虎、朴永純、金明八をはじめ、人民革命軍の中隊政治指導員クラス以上の幹部たちが多数参加した。
南湖頭会議の決定は、固定した解放地区形態の遊撃根拠地を解散して活動舞台を満州一帯と朝鮮半島全域に拡大しはじめた朝鮮共産主義者が、一九三〇年代の後半期に堅持すべき戦略的課題であった。この課題を遂行するには一連の戦術的対策を立てる必要があった。
わたしは、やがて白頭山地区を朝鮮革命の策源地とし、南満州、北満州と国内深くまで自由自在に移動しながら、大部隊による積極的な軍事攻勢と政治活動によって、わが国の反日民族解放闘争と共産主義運動をさらに高く昇華させることを考えていた。言いかえれば、戦いを大々的にくりひろげることを決心したのである。この構想を実現するには、なによりも、三つの点で力量の問題を解決する必要があった。党の力量、軍事力量、全民族的範囲での統一戦線の力量――この三つの力量を十分にととのえなければ、革命を新たな高みに発展させることは不可能であった。
このような時代の要請にこたえるものとして、迷魂陣会議では人民革命軍部隊の改編問題を討議し、新たに編制される師団と旅団の活動地域を決定した。まず、一個師団、一個独立旅団を新たに編制し、人民革命軍の戦力を従前の二個師団から三個師団、一個独立旅団に大幅に拡大することにした。この決定にもとづいて部隊別の活動区域が分担された。新しく編制される第三師(のちの第六師)は白頭山を中心とした鴨緑江国境沿岸一帯で、第一師は撫松、安図、臨江一帯で、第二師は間島と北満州一帯でそれぞれ活動することにし、新たに編制される独立旅団は、北満州地方で流動作戦をおこないながら、しだいに鴨緑江沿岸に進出して国境一帯に出没する敵を制圧することにした。まさにこれは、短期間内に電撃的に人民革命軍の戦闘力を二倍ほどに拡大することを要求する戦闘的な決定であった。参会した軍・政幹部は、人民革命軍の改編を抗日武装闘争全般の一歩前進とみなし、この措置を熱烈に支持した。とはいえ、すべての問題が順調に解決されたわけではなかった。実践的な対策を討議する場では、会議の進行に歯止めをかける雑音も聞こえてきた。その主なものは幹部不足にたいする憂慮であった。人民革命軍の改編を無条件に歓迎しながらも、幹部不足のためにその前途に憂慮を表明するのも一理あることであった。反民生団闘争の過程で、人民革命軍の隊伍からは数多くの軍・政幹部が除去された。極端な軍事民主主義の禍も、幹部不足を招来した一つの要因になっていた。少なからぬ現職幹部には、そのときまで民生団のレッテルがついてまわった。人民革命軍の多くの部隊からは、指揮官を送ってもらいたいという要請がひきもきらず伝えられてきた。
わたしは、思いきって信じ思いきって登用する原則で、新たに編制される部隊の幹部配置案を作成した。この案により、第三師はわたし直属の部隊になった。安鳳学は第一師師長として留任し、崔賢は中隊長から第一師第一連隊長に登用された。われわれは迷魂陣会議で、祖国光復会創立準備委員会の組織問題も論議した。
南湖頭会議が一九三〇年代の前半期と後半期を画する一つの分水嶺であるとすれば、迷魂陣会議は、東崗会議、西崗会議、南牌子会議とともに、朝鮮革命を一九四〇年代の大事変へと誘導した礎石といえよう。南湖頭を発った急行列車は迷魂陣、西崗、南牌子をへて小哈爾巴嶺に向かってまっしぐらに疾走した。南湖頭から小哈爾巴嶺へのこの歴史的な路程の中で、迷魂陣、西崗、南牌子は、わたしの友情と心魂が惜しみなくそそがれた忘れがたい中間停車場であった。
わたしは、連隊長に昇進した崔賢を祝い、別れの挨拶をした。
「このつぎは、白頭山地区で会いましょう。健闘を祈ります」
崔賢はわたしの腕をつかみ、子どものようにしつこくせがんだ。
「一緒に連れて行ってくれなければ、この腕を放さんです。わたしも白頭山方面に行って、金司令の下で戦いたいんです」
「崔賢同志、わたしだって、あなたと離れたくないのは同じです。わたしも欲のある人間だし、情のある人間です。でも誰もがわたしのところへ来たら、ほかの部隊はどうなりますか。崔賢や崔庸健、李学万、韓興権のような指揮官が、大きい戦線をそれぞれ担当して戦ってこそ、朝鮮革命が広い版図で翼を広げ、速い速度で舞い上がっていけるのではないだろうか。わたしは、牛(ぎゅう)後(ご)になった崔賢よりも虎になった崔賢が見たいのです」
「わたしのような者が、虎になんかなれるもんですか! 馬鹿な!」
崔賢は、「馬鹿な!」と、繰り返しつぶやきながら目を細めて、どこともなく遠くに目をやった。
「それじゃ、今日はわたしが我慢しましょう。だけど、このつぎはだめですよ。夢にもこの崔賢を忘れないでください。わたしも夢を見るときは、
わたしと崔賢との三度目の出会いは、撫松県西崗の楊木頂子密営で実現した。もちろん崔賢は、迷魂陣で決着のつかなかった駆け引きをつづけようと試みた。しかし、そのときも彼の願いはかなえられなかった。わたしに会うやいなや、主力部隊に移してくれと言い出したが、どうしてもわたしを説き伏せることができなかった。
崔賢は生涯を通じてわたしのそばにいたがり、またそれを実現させようとあらゆる努力を傾けた。だが、彼のその願いは、それ以上に切実で現実的なほかの誘惑のために、いつもかなえられなかった。その誘惑とはほかでもなく、わたしがもっとも気にかけ関心をもつきびしい最前線へ、すすんで駆けつけようとする水晶のように清らかな良心の衝動であり、献身的な服務精神であった。
わたしを身近で補佐したいと思いながらも、わたしが示すもっとも困難な戦線には誰よりも先に自分が行くべきだと考える類まれな闘魂、ここにこそ崔賢の忠臣らしい風貌があり、その人間味を飾る特出した魅力があった。この二つの欲望は生涯、彼の心の中で双子のように同居しながら際限なく競い合ってきた。崔賢は、二つの欲望をひとしく追求しながらも、いざ困難な問題が提起されると、いつもわたしのそばを離れ、わたしが重視する戦線へと勇躍突進して行くのであった。これは崔賢の一生を貫く快い矛盾であった。人民武力省や政務院の相の地位でわたしを補佐した晩年を除いては、彼の生涯はほとんど硝煙けむる最前線で流れたといえよう。彼は、一九三〇年代の後半期だけでも、数百回もの戦闘をおこなった。三道溝戦闘、五道溝戦闘、小湯河戦闘、黄溝嶺戦闘、金廠戦闘、紅岩戦闘、熊(コム)の(ジヤ)跡(リ)戦闘、間三峰戦闘、那爾轟戦闘、老金廠戦闘、木箕河戦闘、富爾河戦闘、葦塘溝戦闘、天宝山戦闘、大沙河―― 大醤缸戦闘、腰岔戦闘、寒葱溝戦闘など、数百回の大小さまざまの戦いはすべて崔賢の名前とつながっており、すぐれた軍事指揮官としての彼の才能と無比の勇敢さを余すところなく示している。
日本帝国主義者が残した秘密資料の中にしばしば見られる「猛だけしい男」とは、ほかならぬ彼ら自身が崔賢につけた呼び名である。日本軍警は「崔賢(さいけん)部隊」と聞くだけで震えあがった。「さいけん」という名前は、敵を恐怖におののかせる無敵将軍の代名詞となった。
解放後の建国当時も崔賢は、三十八度線(〔 〕)の標識が目の前に見える最前線で新しい祖国の建設を武力をもって防衛した。アメリカ帝国主義を撃滅する戦火たけなわの日々には、戦線東部で軍団を指揮した。祖国が見守り、人民が注視する激戦場では、つねに兵士たちを突撃へと鼓舞する崔賢の自信満々たる号令の声が響きわたった。
遠くに離れていればいるほど、崔賢はわたしの心の中の、より親しく愛すべき存在となった。千里比隣、つまり、心が咫(し)尺(せき)なら千里も咫尺、心が千里なら咫尺も千里というたとえのとおり、人間が人間を愛し尊ぶうえで時空の開きは問題にならないようである。崔賢は誰よりも遠い所にいても、いちばん身近でわたしに仕えてくれた忠臣であった。
彼は、すでに建国運動の時期から、わたしの写真を手帳にはさんで持ち歩いていた。大きさは普通のマッチ箱くらいだろうか。おかしいのは、写真の持ち主である当のわたしも、その写真の出どころがよくわからなかったことである。おそらく、彼が旅団長になって三十八度沿線へ発つとき、正淑にねだって手に入れたのだろうと思うが、その事実いかんは定かではない。崔賢は、敵地で第二戦線を敷いてパルチザン式に活動するときも、わたしが懐かしくなると、その写真を取り出して見たという。
あるとき崔賢は、敵中活動で大きな手柄を立てた分隊長に自分の名義で表彰をしようと考えたことがあった。その分隊長の名前は金万成といった。金万成分隊は敵中活動期間に、二十二台のスリークォーターと二十八台の砲車、計五十台の車をろ獲し、百五十余名の敵兵を殺傷する赫々たる戦果をあげた。戦果からすれば、もっとも高い位の勲章ももらえる軍功であった。ところが、
「これは勲章よりももっとでっかい表彰だ。
これが、わたしの写真を与えながら述べた崔賢の言葉であった。
その後、崔賢は
「さすがに崔賢らしいやり方だ。しかし、その金万成という分隊長はたいへんな損をしてしまったわけだ。いくらなんでも、そのマッチ箱ほどの写真では勲章の代わりにはならんだろう」
「それはあまり思いやりがなさすぎます。この崔賢でなかったら、誰がそういう表彰ができるんですか。ところで将軍、写真はまあ写真としてですよ、将軍にもなにかやってもらいましょう。
それは予期しなかった応酬だった。わたしは知らぬまに誘引戦の名人の手にまんまと引っかかってしまったわけである。兵士を限りなく愛する「軍団長じいさん」のそのおおらかな度量は、涙を誘うほどわたしを感動させた。
「もっともだ。そうしましょう。写真は崔賢同志がやったものだから…
この小さな水滴のようなディテールを通して、わたしは崔賢をさらに深く知ることができた。このエピソードの中に、彼の高潔な世界観が凝縮されているのである。崔賢はおおよそこのような人間であった。
彼がもっていた人間的な魅力をより正確に伝えるには、さらにどういう話を付け足せばよいのか途方に暮れる。硝煙にくすぶり風雨にさらされた彼の自叙伝は、あまりにも多くの内容と出来事で彩られているからである。
崔賢は一生、悲観を知らずに生きてきた楽天家であり、どんな嵐の中でも揺らぐことなく、ひたすら前に向かって突進してきた戦車のような男だった。彼が愛したのはどんなタイプの人間であったろうか? 率直な人、単純な人、勤勉な人、大胆な人、誠実な人、豪胆な人、陰口をきかぬ人、決断の下せる人―― そういう人たちだった。彼がいちばん嫌ったのは、おべっかつかい、卑怯者、怠け者、おしゃべりなどだった。彼は都合よく使いわけるポケットを十二個ももっている者や、面の皮を十二枚もかぶっている人をいつも警戒した。
崔賢が有名な将棋狂であったことは全国に知れわたっている。将棋で一度でも負けると、食欲がなくなってしまうほどに口惜しがった。だが、誰かが彼の気分をおもんぱかって、さりげなく負けたり引き分けにしたりしようものなら、それよりもっと不快がった。彼はまた、全国でも随一の映画愛好家であった。彼が熱烈な映画ファンなので、
崔賢が病床で臨終をまぢかにしていたころ、わたしは幾度も彼を見舞った。病魔とのたたかいで疲労困憊した彼の体は、さながら十代前半の少年を連想させるほどにやつれ果て、見る影もなかった。果たして、あんなに小さい人間が二つの大戦の波涛を乗り越えて敵を恐れおののかせた、あの「猛だけしい男」、百戦老将の崔賢なのだろうか、という思いにさえとらわれた。
板のようにかたかった手は筋肉がほぐれ、掌のたこも落ちて幼児のようになよなよになっていた。わたしがその手をとって、「崔賢、あの猛虎のような『さいけん』がこんなふうに倒れていいのか」と言うと、彼は急に唇を震わせながらむせび泣いた。わたしは、ハンカチで涙を拭いてやりながら彼をなだめた。
「崔賢同志、泣くな。泣くと気力が落ちる」
「主席、わたしはいま迷魂陣でのことが思い出されて、つい…。あのときも、主席はこうしてわたしの手を握ってくれましたね」
「迷魂陣…。そういえば、なぜかあのころのことが懐かしくよみがえってくる。苦しいときだったが、われわれはみな血気盛んな二十代の若者だった。崔賢同志は、あのとき三十歳だったかな?」
「ええ、いまの数え方でいえば二十九歳でした。あのとき、主席と手を握って誓い合ったことが思い出されます。『生きても死んでも運命をともにしよう!』… 主席、あのときのことを覚えていますか?」
「覚えているとも。忘れられるものか」
「ところが、わたしはその誓いを守れずに、こうして先に… 主席、申し訳ありません」
「いや、かえってわたしの方が申し訳ない。あなたの面倒をもっとよく見てあげていたら、こんなにまではならなかったはずだ。いつも仕事ばかりさせてしまった。それも、無理な仕事ばかり選んで…。わたしはいま、それが悔やまれてならない」
「とんでもないことです。かえってわたしの方こそ一生涯、主席に迷惑ばかりかけました。わたしらが死んでも、主席だけはご健在で、祖国を統一してください。主席、どうかお体を大事にしてください。崔賢の最後のお願いです。主席は自分のことをあまりにもかえりみないのが欠点です」
崔賢は、死の直前まで、わたしのことばかり話しつづけたという。わたしを補佐する幹部たちが見舞いに行くたびに、「主席はお元気だろうか?
わたしは、崔賢に生涯、無理な仕事ばかりさせて先に逝かせたのがあまりにも胸にこたえて、彼をモデルにした劇映画を撮って全国で上映するようにさせた。それが劇映画『革命家』である。
家庭での崔賢の功績は、妻子をみな党と領袖以外はみとめない忠臣に育てあげたことである。崔賢の夫人金喆鎬は、一生を革命にささげた百折不撓の闘士である。彼女は敵地で地下工作にたずさわり、わたしと一緒に武装闘争にも参加した。女性の身で、零下四十度を上下する満州の峻嶺や樹海雪原で銃を手に、十年間も敵と息づまる戦いをつづけるというのは、北極探険に勝るとも劣らぬ難事であった。金喆鎬は敵の討伐にあったとき、その銃声のショックで雪原の中で子を産み落としたが、助産婦もなしに自分の手でへその緒を切り、その体で追撃してくる敵と銃撃戦をくりひろげた不死鳥のごとき女性であった。パルチザン当時のあのきびしい試練をもっとも貴いものと思った彼女は、この世を去るまで月に一、二度は必ず子どもらに丸ごとのトウモロコシがゆを食べさせていた。
崔賢が金喆鎬を光明の道に導いた忠実な発動機であったとすれば、金喆鎬は崔賢の多事多難な一生を百花で飾ったあたたかい陽光だといえよう。
彼女は夫とともに、白頭山の雪原で鍛える気持で子どもたちを厳格に育てあげた。彼女が産み育てた息子たちはいま、
青年総大将の崔竜海は、わが国の共産主義運動史に偉大な記念碑として残る第十三回世界青年学生祭典を成功させるのに大きく貢献した。彼は母の金喆鎬が死去したその日も、葬儀にしばし列席したのち、人民文化宮殿での祭典のための国際準備委員会の会議に参加した。わたしはその報告を受け、さすがに、その父ありてその子ありの思いがした。
リンゴの木にリンゴがなり、ナシの木にナシがなるのは、動かしがたい自然の法則である。社会の法則もこれと異なるところはない。白頭山の下では白頭の精気を宿した新しい世代が生まれでるものである。一世たちが、吹雪と強風の中で精魂をつくして開拓し発展させてきた朝鮮革命を、その二世、三世、四世たちが
第十二章 解放の春をめざして
(一九三六年三月~一九三六年五月)
1 新しい師団の誕生
迷魂陣を発つとき、われわれの隊は二十名足らずであった。二人の幼い伝令兵と呉白竜をはじめ十名の護衛兵、金山虎、それに和竜の山里で書堂の訓長(私塾の先生)を務めていた「パイプじいさん」、これがわたしの率いていた「家族」の全員であった。官地からついてきた汪清連隊の一個中隊も、北満州の部隊に合流するため依蘭県方面へ向かった。わたしのいでたちはいとも身軽なものであったが、前々からの願いがかなえられるのだと思うと言い知れぬ喜びを覚えた。
(早く撫松へ行こう。馬鞍山では第二連隊がわたしを待っているはずだ。彼らを軸にして無敵の新師団をつくろう)
これが迷魂陣を発つときのわたしの考えであった。新しい師団を編制するのは、朝鮮革命の主体的路線を貫徹するうえで第一に解決すべき要の問題であった。もはや、われわれが朝鮮革命に専念するのを誰も論難したり邪魔をすることはできなくなった。われわれが早くから探索し敷設してきた朝鮮革命の軌道には、いかなる遮断機もおろされていないのである。その軌道を真っすぐに進めば、祖国解放という慶祝の
広場にも、人民の国という別天地にも到着することができるのだ。そのためには、その軌道の上を走る頑丈な機関車と車両をつくり、強力な司令指揮所も設けなければならなかった。朝鮮革命の先頭の機関車とはなにか? それは、われわれが新たに編制しようとしている朝鮮人民革命軍の主力師団である。われわれが創立する祖国光復会は、その機関車の後ろに連結される車両にたとえることができた。遠からずして本拠となる白頭山は、朝鮮革命の司令指揮所といえようか。われわれは時を移さずこうした課題の遂行に邁進しなければならなかった。
当時われわれが構想していた新しい師団は、日本帝国主義の軍隊と警察を軍事的に制圧する軍事活動のみを展開する、本来の意味での師団ではなかった。それは軍事活動を展開する一方、われわれが目標とする白頭山に進出して国内各地に党組織網を拡大し、祖国光復会や各種の反日組織を通じて全人民を反日抗戦に結集させ、指導する政治的軍隊としての新たな任務と面貌をそなえたものでなければならないのである。もちろん、そうした任務はほかの師団も遂行しなければならない。しかし、その中でもすべての部隊の先駆的役割を果たす主力師団がなければならない。それで、その主力師団を朝鮮革命の機関車にたとえたのである。
朝鮮革命の機関車の役割を果たす強力な主力部隊をどのような方法でつくりだすべきであろうか? わたしの相談相手になってきた人のほとんどは、抗日連軍の各部隊に散在している朝鮮青年を総結集して大部隊を編制し、白頭山に進出すべきだと主張した。第二軍管下の各部隊から頼もしい遊撃隊員を特別に選抜して主力部隊を編制すべきだと力説する戦友もいた。どの案にも一理はあったが、こうした意見を唱える人は例外なく、共通の敵に反対してともに戦っている中国人たちの運命や、われわれの共同闘争の展望などは眼中になかった。彼らの思考の出発点は、まず主力部隊を編制してからのことだというものだった。換言すれば、部隊本位主義といえるだろう。わたしは結局、北満州遠征のときに率いていった数百名の隊員を葦河で活動している各部隊に分散させ、撫松で活動しているという第二連隊のメンバーを軸にして東満州一帯と国内のすぐれた青年を受け入れ、新しい主力部隊を編制することにした。
われわれが迷魂陣を発つとき、王徳泰は敵の木材所を討ってろ獲したという二十数頭の馬を譲ってくれた。
「手塩にかけて育ててきた勇士をみな北満州の人たちに譲り、こうして単身で発つ金司令を見るとなんとも申し訳ない。人の代わりにこの馬を道連れにしてほしい。よく訓練された馬のようだから、役に立つときがあるでしょう」
われわれはその馬に乗って南へ向かった。ある日、休息中に三頭を見失ってしまった。草を食ませようと放しておいたところ、目の届かない密林の中に姿をかくしてしまったのである。わたしは付近に敵がいないことを確認してから、伝令兵に二発ほど銃声をあげさせた。銃声が鳴り響くと、三頭の馬があちこちから現れ、われわれのところに駆けてきた。ある山中で車廠子遊撃区にいた人たちにめぐり会ったとき、役畜にでも使うようにと、それらの馬を譲った。
北満州の小家琪河の谷間から、小白水谷と呼ばれる朝鮮北端の山里にいたるまで、半年以上もつづいたこの年の南下行軍でもっとも難儀させられたのは、ほかならぬこの迷魂陣から馬鞍山までの路程である。無勢のわれわれに、いたるところから敵が現れては行軍を妨げた。われわれは迷魂陣を発ったその翌日から、日に一、二回、ときには三、四回も戦闘を交えなければならなかった。敵は炊飯をしたり、ほころびた服を繕う時間の余裕さえ与えなかった。飯は抜いてもタバコなしでは一日も生きられないという「パイプじいさん」が終日パイプをくわえることのできない日もあったほどだから、敵との交戦がどれほど頻繁であったかは想像にかたくないであろう。われわれは夜になってから奥まった場所を探し、やっとの思いで食事をしたり、濡れた靴を乾かしたりした。しかし、夜もゆっくり休むことはできなかった。人数が少ないので、歩哨を立てるのもむずかしかった。一交替に少なくとも門前哨一名、山脚哨二名、望遠哨二名は必要だが、負傷者と看護にあたる隊員を除くと、交替人員が足りないのである。それでわたしも隊員に代わって何回も歩哨に立った。ある日の夜、衛兵所を見まわっていた金山虎は、わたしが歩哨に立っているのを見て一大事でも起こったかのように騒いだ。司令官が隊員を甘やかしすぎるというのである。金山虎がそんなことを言い出すと、なだめるのが容易でなかった。わたしは彼の袖をつかんで頼みこんだ。
「そんなに騒がないで、少しは幼い隊員たちの身にもなってみたまえ。昼は行軍と戦闘のために疲れ、夜は毎晩歩哨に立たねばならないのだから、どんなに疲れていることか。彼らの代わりに歩哨に立つといっても幾晩にもならないではないか。馬鞍山まで行けば人員はいくらでもいるから、歩哨を代わってやる機会もないだろう」
いくら言っても無駄であることを知った金山虎は、なにも言わずに立ち去った。
早く馬鞍山へ行こう! 馬鞍山に着けば、多くの戦友の抱擁と心温まる安らぎの場が待っているだろうし、そのときにはこれまでの艱難辛苦も終わりを告げるだろうとわたしは考えた。満足に食べることも休むことも眠ることもできず、連日の戦闘と行軍で疲れきっていたわれわれに力と勇気をわき起こさせたのはこうした希望であった。
南下行軍の路程の中間地点にあたる安図と撫松は、どの谷間、どの尾根も見慣れた風景であり、一木一草が深い追憶を呼び起こす土地であった。松江、興隆村、十五里、小沙河、劉家粉房、富爾河、大甸子、柳樹河、南甸子、杜集洞、万里河、内島山などは、いずれもわたしの青春時代と切っても切れないつながりのある土地である。その見慣れた土地を数年ぶりに踏むわたしの胸には、言い知れぬ情感がわきあがってきた。南下行軍の途中、大西北岔の西側の峰に登ったとき、わたしの眼前には深い感懐を呼び起こすすばらしい景色が開けた。眼下に見える小さな僻村は、遊撃隊創建の準備を進めていた日々に、わたしが作男を装って地下工作をした忘れがたい村であった。いま立っているこの峰も、当時、地下組織のメンバーと一緒に足しげく通い、会合を開いた所である。一本の樹木、一株の草、一つの岩もそのまま見過ごすことのできない懐かしい土地であった。過ぎ去った昔日を追憶し、連々とつづく南方の峰々を眺めていたわたしの視野の彼方に、四年前、抗日遊撃隊の創建を宣言した小沙河の台地が浮かんできた。あの台地から少し下った陽当たりのよい山すそに母の墓があるのだ。この足で昔の足跡の残るあの道を行き、母の墓参りをしてから撫松への行軍をつづけようかという感傷が、わたしをとらえて放さなかった。芝もまばらな母の墓に告別の涙を流し、土器店谷を後にしてから四年になろうとしている。四年なら墳墓の芝も大分根を下ろしたことだろう。いまごろは枯れ葉の間から生えたかも知れない新芽にほおずりをし、墓地に眠っている母と束の間でも言葉を交わしたいという切なる思いがわたしの心を強く揺さぶった。隊列が峰を降りたのも知らずに、わたしは尾根に立ちつくしていた。
寒食の節気が近かったので、母への思いがいっそうつのったのかも知れない。陽地村にある父の墓は、康済河先生の家族が年に二回訪れて法要をいとなみ、草刈りをしてくれていると聞いたが、土器店谷にある母の墓はどうなっているのだろうか…。
「将軍、なぜ山を降りないのですか?」
麓に向かっていた崔金山がもどってきて、いぶかしそうにわたしを見つめた。わたしはようやく冥想からさめ、歩みを移した。
「どうなされたのですか? 小沙河に母上のお墓があると聞きましたが、もしや…」
崔金山は両手をわたしの耳元に寄せてささやくように言った。胸のうちまで見透かすような若い伝令の言葉を聞いて、わたしは心中を打ち明けた。
「そうだ、母のことを考えていたのだ…」
「それなら、お墓参りをしてはどうですか?」
「行きたいのはやまやまだが、時間が許さない」
「小沙河はすぐそこなのに、時間がないからといって母上のお墓参りもなさらないというのはあんまりではありませんか。土器店谷には弟さんもいるはずですが…」
「たとえ時間が許すとしても、わたしは行けない身なのだ。母がそれを望んでいないのだから」
「どうしてでしょう。なぜ望まないと言われるんですか?」
「母は、わたしが朝鮮の独立をなしとげるまでは墓を移してはいけないと遺言したのだ。わたしがいま土器店谷の墓に行かないのは、その遺言を大切にしているからだ」
わたしがこう言っても、なにが不満なのか崔金山は首をかしげた。
「お墓参りをしたからといって、朝鮮の独立ができないということはないじゃありませんか。遺言は遺言として、行ってこられるべきです」
「いや、それはだめだ。わたしは母が生きていたときに孝行ができなかった。せめて亡くなったあとにでも孝行をしたいと思っているのだから、もう言わないでくれ。これといってなしとげたこともないのに、どうして母のもとへ行けるというのだ」
金山虎と呉白竜までが小沙河へ行くよう勧めたが、わたしは彼らの提言を聞き入れなかった。だが、心は依然として土器店谷の母のもとに走っていた。わたしは峰を降りながら、心の中で母に詫びた。
(お母さん、道を急ぐので土器店谷に立ち寄ることができません。一年中冷たい雪と雨にうたれているお母さんの墳墓に一握りの土もかぶせられず、草刈りもしてあげられないまま安図の地を踏むのは心苦しいかぎりです。あれから弟たちの面倒もよく見てやれませんでした。哲柱は昨年戦死したとのことですが、遺骸がどこにあるのかもわかりません。しかしお母さん、朝鮮革命には洋々とした前途が開かれました。これから馬鞍山へ行って大きな師団を編制するつもりです。その部隊を率いて白頭山に本拠をかまえて本格的に戦います。国を取りもどさないかぎり、お母さんの遺言どおり墓のそばにも行きません。信じてお待ちください。きっと祖国を取りもどしてお母さんを万景台にお連れします)
われわれは馬鞍山への行軍を急いだ。この行軍にかけた期待は非常に大きなものであった。それゆえ、樹海の中から馬の鞍のような形をした峰が現れたときは、期せずして「馬鞍山だ!」という嘆声がいっせいにあがった。
真っ先にわれわれを迎えてくれたのは朝鮮(イン)人参(サム)畑であった。畑の端にみすぼらしい丸太小屋が二軒あったが、人影はなかった。日が暮れかけたころ、深い谷間でもう一軒の小さな丸太小屋を見つけた。二、三人が隠れ住んでいるその丸太小屋で、ジャガイモを焼いて食べていた第一師政治主任の金洪範に会った。
「第二連隊はどこですか?」
「今月の初めに、蛟河方面に遠征しました」
金洪範は当然のことのように答えたが、それはわたしにとって青天の霹靂であった。第二連隊がいないということは、南湖頭から構想を煮つめてきた新しい主力部隊の編制が不可能になったことを意味する。頼みにしていた樹が倒れてしまったようなものである。第二連隊は、独立連隊として活動していたときから戦上手の「高麗紅軍」として知られた純然たる朝鮮人部隊の一つであった。この連隊は東満州の延吉、汪清、和竜など各県の遊撃区からそれぞれ一個中隊を選抜して編制した部隊で、隊員の大部分はわたしと縁の深い人たちであった。連隊長の尹昌範や連隊政治委員の金洛天は言うまでもなく、権永璧、金周賢、呉仲洽、金平など連隊の中核メンバーもわたしが育てた人たちである。
わたしが最後に第二連隊の隊員たちに会ったのは一九三五年五月、わたしの指示で彼らが汪清県塘水河子に来たときである。十日ほど彼らと一緒に過ごしながら、学習と訓練、戦闘もさせてみたが、彼らはわたしの率いる部隊の隊員に劣らず進歩が早かった。まさに彼らが車廠子遊撃区を最後まで守りぬき、「不屈の車廠子」という伝説的な実話をつくりだした英雄たちであった。
われわれが第二次北満州遠征に発ち、車廠子遊撃区が解散したあと、第二連隊は南満州に進出し、その年の初めに安図県内島山をへて撫松県馬鞍山に移動した。連隊は馬鞍山に指揮部と後方基地をおき、冬のあいだ撫松地区でわれわれを待つことになっていた。これが、南湖頭で知った第二連隊の活動にかんする内容のすべてであった。わたしが馬鞍山に来るとき、北満州遠征隊の全員を他の部隊に譲ったのは、第二連隊を引き取れば、それを母体にして新しい師団を編制することができると考えたからである。
「第二連隊に送ったわれわれの連絡は受けなかったのかね?」
わたしは迷魂陣に到着するとすぐここに連絡員を派遣し、第二連隊はわたしを待っているようにと指示していたのである。
「受けませんでした。第二連隊が遠征に出たあと、ここには誰も来ていません」
だとすると、途中で連絡員に不慮の事故があったに違いない。たとえ彼が無事に着いたとしても、留守の第二連隊に会えるはずはなかったのである。
「第二連隊が蛟河方面へ遠征した目的と理由はなんなのだ?」
「それはわたしにも…」
「いつ帰ってくるという話もなかったのか?」
「ありませんでした」
「引率者は誰だ?」
「連隊長の張伝述同志と連隊政治委員の曺亜範同志です」
「馬鞍山に残っているのはきみたちだけか? きみたちはここでなにをしているのだ」
わたしが話題を変えてこう聞くと、金洪範の口からは驚くべき言葉が返ってきた。
「あの参圃密営には百余名もの民生団がいるんです。彼らを監視するためにわたしが残っているのです」
「なんの民生団がそんなに多いというのだ。参圃のそばの丸太小屋は空っぽではないか」
「民生団の嫌疑者はいま、臨江の螞蟻河方面に食糧工作に出ています」
「食糧工作に派遣できるくらいなら、どうして民生団だと言うのだ」
「彼らを飢え死にさせるわけにはいかないではありませんか」
「民生団に間違いないという証拠でもあるのか?」
「みな証拠文書のある連中です。自白書、陳述書、尋問調書…」
金洪範は暗い部屋の隅から大きな調書包みを引き出した。
「これがその調書です」
第二連隊の隊員たちに会おうと万難を排して千里の道もいとわず駆けつけてきた馬鞍山で、まずわたしを待ち受けていたのは、この民生団の調書包みだったのである。調書包みはなんと一部屋を埋めつくすほどの量であった。
歓声と抱擁の代わりにかびくさい臭いが鼻をつく犯罪記録の束を目の前にした瞬間、わたしはひどく欺瞞され愚弄されたような気がして身震いがした。民生団と聞いただけでもぞっとするというのに、あの民生団という魔女が徘徊して、いまなお多くの人を苦しめているというのか? 古くずのようなこの調書包みが、どうしてここまでついてまわっているのだろうか?
大荒崴と腰営口で度重なる論争が交わされてから一年近い歳月が流れていた。コミンテルンの判決がわれわれに伝えられてからは一か月半しかたっていない。したがって、その判決の内容がまだここには伝えられていないのかも知れない。しかし、民生団はでっちあげだという絶叫が東満州を震撼させて久しいのに、なお民生団の名をかりた狂気の沙汰がつづいているのは、まったく思いもよらぬことだった。金洛天のような人まで害しておきながら、なにが不足で百余名もの無実の人を陥れようとするのか。
わたしは金山虎に、臨江の螞蟻河方面に連絡員を派遣して彼らを全部連れもどすようにと命じ、民生団の調書包みをほどいて一枚一枚検討した。夜も寝ずに調書を調べ、翌日もその作業をつづけた。調べれば調べるほど、わたしはますます迷宮に陥った。その調書には、誰もあえて否認できないものものしい罪状が克明に記されていたのである。わたしは調書を閉じてしまった。それを見るのは百害あって一利もないことであった。それを信じなければならないとすれば、多くの人を失うことにしかならない。どんなインクでも吸い込む紙の上に書かれた文章を信じることはできなかった。
臨江県の螞蟻河方面にいた民生団の嫌疑者たちは、わたしの連絡を受けると、険しい竜崗山脈を越え、数十里の山道をわずか二日で踏破して帰ってきた。民生団の嫌疑者たちが参圃密営の丸太小屋に到着したという報告を受けたわたしは、ただちに金洪範を連れてそこへ行った。霧氷におおわれた丸太小屋の戸を開けると、中には見るにたえない身なりの人たちがいっぱいうずくまっていた。それは、まさしく激情も歓声も涙もない奇妙な対面であった。わたしに敬礼をする者もいなければ、表敬報告をする者もいなかった。わたしを見上げる者さえいなかった。室内は水を打ったような静寂と沈黙につつまれていた。どれほど虐げられて、顔を上げる権利、挨拶をする資格すら失ってしまったというのか。いかに重罪を犯した者であっても、これほどまでに気がくじけ、とげとげしくなるものだろうか。
「その間、みなさんの苦労は大変なものだったでしょう」
なぜか、のどがつかえて思うように言葉が出なかった。
「こうしてみなさんの姿を見ると、挨拶の言葉さえ出ません。でも会えてうれしいです。わたしはみなさんに会いたくて、遠い北満州の鏡泊湖畔からここまで来たのです」
わたしの言葉に反応を示す者はいなかった。依然として息や咳の音さえ聞こえない沈黙がつづいた。抗日戦争を開始して満四年になろうとしているが、隊員たちにこんなふうに迎えられたことは一度もなかった。
わたしは話をつづけた。
「わたしがここに来たのは第二連隊の隊員たちに会って新しい部隊を編制し、白頭山に進出して戦うためである。ところが、いざここに来てみると、使える人は蛟河方面へ遠征し、残っているのは悪い人間だけだという。わたしはみなさんにかんする民生団嫌疑の調書を調べてみた。それを見たかぎりでは、みなさんの中に民生団でない人は一人もいない。わたしは調書だけでみなさんにたいする判断を下すことはできないと考えた。みなさんの言うことを聞いてこそ正しい判断ができるではないか。だから、すすんで心の内を打ち明けてもらいたい。恐れずに、ひとの顔色を気にしないで正直に話してほしい」
こう訴えたが、厚い沈黙の氷は割れる気配すら見えなかった。わたしはいちばん前にいた青年に、「きみから答えてみたまえ。きみが民生団員だというのは本当なのか?」と問いただした。彼はうなだれたままためらっていたが、消え入るような声で「そのとおりです」と答えた。わたしはそんな返事を期待してはいなかった。涙を流し、胸を叩いて、絶対に民生団ではないと絶叫するものと期待していたのである。その青年の返答はわたしを失望させた。わたしは背の高い別の青年に同じ質問をした。
「それなら李斗洙同志、話してみたまえ。きみが民生団員だというのは確かなのか?」
江原道春川出身のその若い小隊長は、日本帝国主義にたいする恨みが骨髄に徹していた人である。彼の右の太ももには青黒い傷跡があった。いつか、わたしがどの戦闘で負った傷なのかと聞くと、犬に嚙まれた傷だと答えた。彼が十一、二歳の年のことだったという。かゆで食いつないでいた端境期のある日、斗洙は一さじの塩もない窮状を知り、柴刈りをしてそれを三束市に持ち込んで一升の塩に替えた。彼は塩袋を背負子の上にひっかけ、軽やかな気分で村へ向かった。ある日本人の家の前を通りかかったとき、突然どう猛なシェパードがとびかかり、太ももに嚙みついて彼を倒した。犬をけしかけた日本人の少年は家の中に隠れ、門にはかんぬきがかけられた。その家の者たちのやり方に憤激した目撃者たちは、血まみれの斗洙を背負って警察署に押しかけ、抗議した。嚙みちぎられた太ももの傷はひどく、人びとは彼を病院にかつぎこんだ。
斗洙は生まれてはじめて病院の世話になり、そこで毎日白米のご飯を食べた。かゆの食事にうんざりしていた蓬髪の少年は、白米のご飯が食べられるのがうれしくて、傷が早く治らないほうがよいと思うほどだった。彼は入院生活が自分と自分の家庭に大きい災難をもたらそうとは夢にも思わなかった。治療費は犬の主人が支払ってくれるものとばかり思っていたのである。しばらくたって病院では、金を払わなければこれ以上入院させておけないと言い渡した。治療費は二十円にもなっていた。一か月二十銭の月謝も払えなくて、小学校の一学年を三か月しか通えずに退学させられた貧しい少年の家に、二十円もの大金があろうはずはなかった。李斗洙の祖父と父、兄たちは代わるがわる犬の飼い主と警察署、病院に熱心に通い、頼みもすれば、抗議や提訴もした。しかし、被害者の哀願と抗議や提訴を受け入れてくれるところはなかった。犬に嚙まれたのは嚙まれた方の責任だというのである。彼らはみな、朝鮮人の肩をもつはずのない日本人であった。結局、李斗洙の家では二十円を借金して病院に払った。その借金が子を生み孫を生んで、二年後には先祖代々住んできた家を売り払っても返済できないほどになった。そのために春川で暮らすことができなくなった李斗洙の一家は、住みなれた故郷を後にして北へ向かったのだが、債鬼たちは夜逃げをする一家のあとを八キロも追いかけて、祖母の風呂敷包みの中から最後の家産である一疋の絹地まで取り上げた。一時は離れと使用人部屋まで付いた八角屋根の瓦家と数ヘクタールの農地をもち、人びとから尊敬され羨まれた李王朝家門の後裔たちは、王朝も国も家も奪われ、最後の布地までも奪われて丸裸になり、流浪の途についた。異国に向かう幼い斗洙の胸に亡国の悲しみと離郷の悲哀を植えつけたのは、元山発清津行の火輪船(汽船)の食堂で食事を運んできた給仕のうら悲しい声であった。
「異国へ行くみなさんの悲しみと悲哀は極に達し、流浪の客が流した血の涙は東海の水ほどにもなりましょうが、溜め息と涙では生きてゆく道は開かれぬから悲しみに堪え、祖国の米と水でつくった別れの飯をお上がりなさい…」給仕の同情にみちた言葉は李斗洙少年ののどをつまらせた。
日本帝国主義に国を奪われ、家も故郷も失い、愛する故国の山河を後にした彼の脳裏には、日本人とは絶対に同じ空の下で暮らすことができないという酷烈な怨念が刻みつけられた。彼は、自分が大人になれば、朝鮮の空の下では日本人はいうまでもなく、日本人の犬一匹、猫一匹さえうろつけないようにしてやる、とかたく決心した。李斗洙は成人する前に銃をとって遊撃隊に入隊した。こういう人間が民生団に入るわけがない。ところが、李斗洙もさっきの青年と同じことを言った。
「民生団に入ったのは事実です」
わたしが小汪清梨樹溝谷の民生団監獄を訪ねたとき、張捕吏が最初に口にしたあの言葉、あの態度であった。わたしはこみあげる憤りを抑え、民生団に入ったというのなら、どうして入ったのかみんなの前でくわしく話してみろ、と言った。彼はとぎれとぎれに、自白書と陳述書に記されているとおりのことを話した。民生団に入った経過を述べる李斗洙の話はつじつまが合っており、疑いをはさむ余地は微塵もなかった。民生団の嫌疑者たちはひとしく自分の罪を認めた。わたしは辛抱強く再び李斗洙に尋ねた。
「きみは日本人の犬のために借金を背負い、家も失い、故郷も失った。その犬はきみの生身を嚙みちぎっただけでなく、十人を越す家族の暮らしまで破産させ、踏みにじってしまった。日本人の犬のために、きみは犬にも劣る身の上になった。そういうきみが、いまになって自ら敵の懐に飛びこみ、同胞と同志を嚙み殺す狂犬の役をつとめているということになるが、果たしてそうなのか? 敵から残飯ももらえないきみが、敵の犬になったというのは本当なのか?」
李斗洙は涙をこぼすだけで、なにも言わなかった。唇を嚙んだまま、肩を震わせてむせび泣くばかりだった。息が詰まりそうな沈黙が長くつづいた。わたしは呪わしい丸太小屋を出た。新鮮な空気がしだいに息苦しい胸をさっぱりとさせ、うっ気も振り払ってくれた。もやもやしていた頭もすっきりしてきた。
民生団嫌疑者との対話を通じて、わたしは理解しがたいことを発見した。拷問の場に引き出されたわれわれの闘士のほとんどは、中世の宗教裁判をほうふつさせる残酷な刑罰に処されながらも、「知らない!」の一言で自分がしたこともしていないと言い張ったものである。こうした毅然とした態度は死刑を宣告されてもゆるがなかった。ところが、同じ共産主義者の前では、していないこともしたと言い、違うこともそうだと陳述しているのだから、これをどう解せばよいのか、ということである。わたしは林の中を歩きながら、民生団嫌疑者が自殺行為にひとしい陳述をする理由がどこにあるのかを考えてみた。彼らが民生団に加担しなかったということは明々白々である。にもかかわらず、なぜ彼らは民生団に入ったと「自白」し、策動したとして自ら罪をかぶろうとするのか? 嘎呀河村の朴昌吉少年も、馬村の張捕吏も偽りの陳述を事実だと言い張った。こうした奇怪な現象がどうして生じるのだろうか? 民生団嫌疑者という罠にかかった当初は、みな自分が民生団に入ってはいないと正直に話した。ところが、その真情の吐露が彼らにもっと大きな禍をもたらした。まことは作為、真情は欺瞞、率直さは狡猾さとみなされたのである。真実の告白を反復するほど仮想の罪状はますます重大なものになり、拷問はそれに正比例して度を増した。野蛮な拷問と煩悩が極限に達すれば、どんな異変が生じるだろうか? 数年間、同じ屋根の下で苦楽をともにしてきた革命同志の不信を買って迫害されるくらいなら、ことさら生きてなんになるのか、生き延びるには銃を捨てて山を降り帰順文書に判を押すか、敵の手先になる以外にないが、いやしくも共産主義者ともあろう者にそんな背信行為ができるわけはない、処分にまかせるのが上策だ、といった自暴自棄に陥りかねない。
同じ目的のために戦う同志から受けるいわれなき誤解と不信、これこそ百余名のパルチザン隊員を絶望と自暴自棄に追いやった根源であったのである。金銭や利潤追求の見地からではなく、理念の共通性によって思想的、道義的に結ばれた革命家の集団において、信頼は統一団結と発展を保障する第一の生命といえる。集団の各人は信頼にもとづいて同志を愛し、信頼にもとづいて上級が下級をいたわり、下級が上級を敬う共産主義的道義が集団を支配するようになるのである。
朝鮮の革命家にとって、信頼は過去と現在と未来を貫通する共産主義的人間関係の原点となっている。われわれは過去にも信頼という武器によって同志を獲得し、人民を団結させたのであり、現在もやはり愛と信頼という強力な手段によって社会の一心団結をかたく維持しているのである。集団主義にもとづくわれわれの社会において、信頼は社会を支える強固な基礎となっている。組織と同志から信頼されるとき、わが国の党員と勤労者は最大の誇りを感じる。しかし組織が自分を信頼せず、同志が自分を遠ざけていると感じるときには、それを最悪の苦痛として受けとめる。わたしが幹部に会うたびに、対人活動に力を入れるようにと強調しているのはそのためである。
資本家は金なしには生きていけないが、共産主義者は信頼なくしては生きていけない。わが国において信頼は社会関係の総体、集団主義の存在方式となっている。組織と同志から自分が信頼されていると思う人は、党と祖国のために底知れない力を発揮することができる。信頼は忠臣を生み不信は逆賊を生むという格言は、このような事理を説いたものではなかろうか。
満州の地で間借りのような暮らしをしながら中国人民と共同闘争を展開していた抗日戦争の時期、われわれの隊伍で信頼の原理を破壊した民生団の調書包みが、ひたすら組織を信頼して革命に身を投じた闘士たちの生活に、どれほど大きな混乱と被害をもたらしたかは誰にも推測できることである。当時は敵味方間に明確な境界線はなかった。峠を一つ越えても敵、川を一つ渡っても敵であった。信頼を失った人たちが、おまえたちだけで革命でもなんでも好きなようにやってみろ、と敵地に逃走してしまえばそれまでだった。罪のない革命同志に民生団のレッテルを貼りつけるのは、彼らを敵陣に追いやるような妄動であった。絶望に陥った人たちを救いだす唯一の道は、不信の罠となっている民生団の嫌疑を晴らしてやり、その罠をきれいに取り除くことである。口だけでは人びとの政治的生命を蘇生させることはできない。必要なのは実際の行動のみであった。
わたしは林を抜けて再び丸太小屋に足を向けた。とある木の後ろから、突然一人の女性隊員が現れた。背が高く、目もとのすずしい端麗な女性だった。心のやさしそうなその顔は涙に濡れていた。
「将軍、わたしは民生団ではありません!」
女性隊員が発したその一言は、わたしに言い知れぬ喜びを与えた。
「わたしは民生団の嫌疑者と結婚したという理由で民生団にされました。でも、彼は民生団ではありません。もちろん、わたしも民生団ではありません。わたしたちがどうして日本人のスパイになれるというのでしょうか。わたしも張哲九オモニも、夫のために民生団の濡衣を着せられたのです」
この勇敢な女性隊員が後日、撫松県城戦闘で六人もの敵兵を刺殺して「女将軍」という別称とともに金の指輪の表彰にあずかった金確実である。火田民の娘であった彼女は、車廠子で遊撃闘争に参加した。車廠子遊撃区の東南岔の樹林の中には朴永純を責任者とする武器修理所と朴洙環を責任者とする裁縫隊が位置していたのだが、金確実はそこで二十余名の隊員の食事をまかなっていた。ある日、武器修理所で不慮の爆発事故が発生した。修理所の建物は一瞬にして煙と火炎に包まれた。民生団という汚名のために武装隊伍から追放され武器修理所に来て働いていた姜渭竜という青年が、小銃弾の再生作業をしている最中に火薬が爆発して気を失った。そばにいた人たちも爆音に驚いて作業場から飛び出した危急な状況の中で、火炎をくぐって修理所に飛びこみ負傷者を救い出したのは炊事隊員の金確実であった。姜渭竜の火傷はひどかった。だが、軍医は彼の顔面に消毒液をそそぎ、よじれた皮膚をはいでワセリンを塗り、包帯を巻くだけだった。そのあとは金確実が看護婦の役を務めた。蜜ろうを溶かし、それを紙にのばして傷口に貼り、目やにを取ったり足を洗ってやったりした。こうしてまごころをつくして看護しているうちに、確実は姜渭竜を愛するようになり、姜渭竜も彼女を愛した。やがて二人のあいだには結婚問題がもちあがった。しかし、二回にわたる暴発事故のために民生団の嫌疑をかけられた姜渭竜は、彼女に累が及ぶのを恐れて内密に婚約をしただけで、正式の結婚をためらった。朴永純と朴洙環は、ためらうことはない、いったん約束を交わしたからには早く結婚すべきだ、と二人にすすめた。それに励まされた二人は車廠子人民革命政府へ行って結婚届をした。これが問題となった。粛反工作委員会は、民生団嫌疑者との結婚は民生団の数を倍加させる反革命的な利敵行為であるとみなした。極左排他主義者は、結婚して半月にもみたないうちに金確実を姜渭竜から引き離し、そこから遠い王八脖子の方へ追放した。そして組織生活にも参加させず、罪人扱いにしたうえ民生団嫌疑者の中に入れてしまった。
夫と引き離されてから九か月たったとき、金確実は姜渭竜が武器修理所とともに近くに来ていることを伝え聞いたが、曺亜範や金洪範の承認が得られず、夫との束の間の対面さえも果たせなかった。しばらくして姜渭竜は、曺亜範に連れられて、第二連隊と一緒に蛟河への遠征に発ってしまった。遠征隊には武器の修理ができる人がぜひ必要だという理由で、民生団の嫌疑者である姜渭竜を蛟河に同行させたのである。
「姜同志が本当に民生団だったら、わたしは結婚はおろか火の中から救い出しもしなかったでしょう。彼は敵の討伐で父と兄弟を虐殺された人です。戦闘でも勇敢でした。だから救国軍まで大衆審判の場で彼をかばってくれたくらいです」
わたしは、金確実がこんな告白をしてくれたことがありがたかった。金確実は張哲九と同様、愛情のために罪人にされたのである。わたしは彼女を連れて丸太小屋に入った。彼らはさっきと同じように首をうなだれたままであった。わたしは全員を見まわし、語気を強めて言った。
「みなさん、顔を上げなさい。わたしはきみたちの罪を追及し判決を下すために来たのではない。白頭山へ行ってともに戦う戦友を訪ねてきたのだ。わたしは戦友を訪ね、革命同志を訪ねてきた。ところが、ここにいる人たちはみな、わたしの戦友になれない親日逆賊であり反動分子であると言っている。わたしはそれを信じることはできない。きみたちが民生団なら、日本人のところに行けばいいのであって、満足に食うことも着ることもできずに山で苦労する必要はない。家に帰って結婚し、温かいオンドル部屋で過ごし、農業でも営めば気楽なはずなのに、なんのために山で苦労するのか。きみたちが自分の口で話してみたまえ。本当にきみたちは日本帝国主義のために何年ものあいだ求めて苦労をしたのか。氷と雪に覆われた満州の広野で露を枕に野宿してきたのは、日本の犬となり肉親と同志を害するためだったのか。李斗洙同志、話してみたまえ。きみは太ももを嚙みちぎったあの犬のような獣になりたくて苦労して戦ってきたのか?」
わたしがこう言うと、李斗洙は涙声で叫んだ。
「わたしが、わたしがどうして… 日本人の犬になれるでしょうか! 違います! わたしは日本人の犬ではありません! 民生団ではありません!」その瞬間、あちこちからいっせいに叫び声が上がった。「わたしも違います!」 「わたしも違います!」
室内はいつしか、ありもしない罪をでっちあげた者を糾弾し、「粛反」の名のもとに強いられてきた悲しみを訴える一種の集会と化した。誰もが拳を振り上げ、涙を流しながら、胸にうずまいていた思いを吐露した。集会が終わりかけたころ、わたしは金洪範を呼び、民生団の調書包みを焼却する準備をするようにと指示した。金洪範は飛び上がらんばかりに驚いた。
「粛反工作委員会が作成した法的文書を承認も得ずに焼き捨てるというのですか? あれを焼却しては大変なことになります」
金洪範は武装隊伍に加わる前から党活動に専従してきた古参の政治活動家であった。彼は延吉師範学校の出身であった。知識があり活動経験もあったが、創意に欠け、能動的に判断し処理することのできない欠点があった。
「法のことをとやかく言うことはない。早く民生団の調書包みをもって来なさい。他人にできないことだからと、われわれがしてはならないという法はない」
「組織の決定で手続きをへて作成された文書なのに、それを焼却するのを黙って見ていたのかと追及されたら、わたしはどうすればいいんですか? そのときは将軍もここを発ったあとです。わたしはどう責任をとればいいんですか?」
顔面蒼白になった金洪範は脚を震わせた。わたしは彼を責めようとは思わなかった。事実、法的性格をおびた文書を一個人が勝手に焼却しても無事であったという話は、わたしも聞いていない。こんなことはありえないことに違いなかった。しかし、百余名の民生団嫌疑者に不当な疑念と絶望しか与えない、その罪悪の調書包みをきれいに焼き捨ててしまおうというわたしの決心はかたかった。わたしは、この決心がいかに危険千万なものであるかを十分承知していた。「粛反」運動を指導し尋問調書を作成した当事者でなければ処理できないことをわたしがやるというのは、実のところ冒険であった。必要とあらば、なんでも民生団の仕業とする強大な権限を有し、でっちあげをこととする「粛反」の下手人たちは、一枚の調書を焼却したという罪過だけでも、わたしに十分懲罰を下すことができた。彼らはそうすることによって、反民生団闘争の問題をコミンテルンにまで提訴したわたしに、いくらでも報復ができる人たちであった。わたしは金山虎にその調書包みをもってこさせた。民生団の調書包みを焼却することにしたのは、じつに勇断であった。わたし一個人の命をなげうって百余名を救う道が開けるなら、どんなことでもする決意であった。調書包みを焼却する準備を終え、集会を締めくくるとき、わたしはこう話した。
「ここできみたちのうち誰が民生団で誰がそうでないと結論を下すのはむずかしい。なぜなら、誰一人それを証明することができないからだ。しかし、わたしがいまはっきり言えるのは、ここには民生団が一人もいないということだ。それは、きみたち自身が民生団でないと言っているからだ。わたしはきみたちの言葉を信じる。きみたちはこの瞬間から白紙にもどり、再出発するのだということを知るべきだ。汚らわしい過去はもはや存在しない。だが、きみたちの革命家としての真価は過去によってではなく、実際の行動によって決まるということを銘記すべきだ。きみたちみんなにはいま人生の白紙が配られた。その白紙にどれほど貴い生と闘争の記録が残されるかは、もっぱらきみたち自身にかかっている。全員が再出発し、祖国と人民と歴史に誇りうる闘争行跡をその白紙に記すものと信じる。わたしはこの瞬間から、きみたちをあれほど苦しめてきた民生団の嫌疑が完全に晴れたことを言明すると同時に、きみたち全員が朝鮮人民革命軍主力部隊の隊伍に加わったことを宣言する」
わたしは民生団嫌疑者とされていた人の中から何人かを選び、調書包みを庭の真ん中に積み上げさせて火をつけた。その調書包みに火をつけながら、民生団嫌疑者の不名誉な過去だけでなく、あらゆる悪行の精神的根源となる人間憎悪観、人間不信観を永久に焼き払ってしまいたいと思った。
半世紀以上もの歳月が流れたいまでも、民生団の調書包みを焼き捨てたことがなお忘れられないのは、たぶん火をつけたときに心の中で祈ったことが、あまりにも大きく深刻なものであったからであろう。調書包みが炎に包まれると、隊員たちは声をあげて泣いた。炎を見つめながら涙にむせんだ人びとは、わたしの気持をわかってくれたのである。そこにいた人はみな、新しい人間に生まれ変わった。隊伍には、心から信じ合い、助け合い、愛し合う新しい気風が生まれた。ひいては金洪範まで別人のようになった。翌日、わたしは休息を兼ねて狩りをすることにしたが、それを知った金洪範は護身用として隠しておいた百余発の小銃弾を彼らの前に差し出した。彼が前日まで囚人のように扱っていた人たちに、護身用の銃弾を全部与えるというのは、大異変といわざるをえなかった。彼らには棒切れほどの役しか果たせない套筒(旧式小銃の一種)のような武器と、湿気と錆のために使いものにならない三、四発の銃弾しか与えられていなかった。そのため、彼らの薬きょうには木製のにせ弾丸が詰めこまれていた。まともな武器と銃弾を与えては、彼らを疑い迫害していた自分たちにどんな報復が加えられるかわからないと思っていたからであろう。
わずかな灰になって残った民生団の調書の跡を見下ろしながら物思いに沈んでいた金洪範は、わたしにこう言った。
「きのう将軍が火をつけるとき、わたしは怖くなってそっと立ち去りました。焼却現場に居合わせたという理由だけでも、違法大罪の共謀者にされて首が飛ぶと思ったのです」
「では、いまは怖くないんですか?」
「善行を支持して命を失うのは光栄なことだと考えると、恐怖心がなくなりました」
「そう考えてくれるならありがたい」
「いいえ、ありがたいのはわたしの方です。将軍はわたしまで新しい人間に生まれ変わらせてくれました。わたしの恩人にもなってくれたわけです」
そこまで言われるとばつが悪かった。金洪範はわたしより年上だったのである。
「若い者をおだてるのはやめてください」
わたしがこう言うと、彼はかぶりを振った。
「いや、そうじゃありません。将軍のその度量と肝の太さが本当にうらやましいかぎりです。お世辞をいっているのではありません」
「おだてるのはそれくらいにして、きょうは一緒に狩りをしませんか?」
金洪範は晴れやかな気分でわたしの誘いに応じた。その日の狩りはじつに愉快なものであった。わたしは護衛兵の銃を全部彼らに持たせ、そのまともな銃で一発ずつ撃たせてやった。その日は勢子が多かったおかげで、七、八頭もの猪とノロ鹿をしとめることができた。女性隊員の中では金確実がノロ鹿を一発でしとめ、断然、頭角を現した。その日は、獲物の肉と少し残っていた粒トウモロコシと小麦粉で、盛りだくさんの夕食をととのえさせた。夕食がすんだあとは娯楽会も催した。馬鞍山の参圃密営のさびれた丸太小屋でのその日の夕食会と娯楽会は質素なものであったが、じつに深い意味をもっていた。
第二連隊を母体として編制しようとした最初の計画とは違って、新しい師団はこのように、罪悪にみちた不信の文書を一握りの灰にした炎の中から生まれたのである。
民生団の調書包みが焼き捨てられ、新しい師団が誕生したといううわさはまたたくまに四方に広まった。そのうわさを聞いて、あちこちに隠れていた人たちがわれわれを訪ねてきた。真っ先に訪ねてきたのは、大碱廠の谷間に隠れていたという和竜出身の反日自衛隊員たちであった。彼らの中には後日、司令部の伝令兵となった白鶴林や「ウグイス」で通っていた金恵順もいた。朴禄金(本名朴永姫)がやってきたのもこのころである。彼女は新師団に暫定的に設けられた初の女性中隊の中隊長になった。撫松県老母頂子では、腸チフスで苦しんでいた青年たちが新師団に編入された。彼らで一個小隊を編制し、金正弼を小隊長に任命した。安図県五道揚岔付近の樹林地帯で活動していた金周賢たちも訪ねてきた。車廠子方面からは金沢環の小部隊が駆けつけてきた。
わたしは正式に連隊と中隊を編制した。「あわて者」というあだなで呼ばれていた李東学と金沢環はそれぞれ中隊長の職務につかせ、金周賢には政治指導員の役をまかせた。主力部隊の連隊政治委員になった金山虎は、それ以来いつも笑顔を絶やしたことがなかった。馬鞍山に到着したときは十五、六名にすぎなかった隊伍が、東崗にいたっては数百名に増えた。
われわれは新たに編制した主力部隊の武装を改善するたたかいを積極的に展開した。民生団嫌疑者の武器のほとんどが套筒であったことは前にも述べた。わたしは十〜十五名規模のグループを組織して責任者を任命し、自力で戦う準備をととのえるようにした。わたしは彼らに、これから一か月のあいだに銃弾を補い、銃も取り替えてこい、銃は日本軍にいくらでもある、林の中で敵を待ち伏せ、銃剣や銃器を利用して武器を奪うのだと言った。当時、彼らはみな銃剣を一本ずつ腰に下げていた。彼らは一か月とたたず、半月の内に全員帰ってきたが、銃弾も補い、銃も新しいものを携えていた。なかには機関銃を奪ってきた隊員もいた。わたしは彼らを根幹にして連隊を編制し、その後はこの経験を生かして隊員を一人ひとり増やし、第六師と第二方面軍も編制して日本軍と戦ったのである。
われわれが主力部隊の武装を一挙に改善することができたのは、西南岔を討った後の西崗戦闘によってである。この戦闘の目的の一つは、部隊の武装を一新することにあった。西崗には一個連隊の満州国軍が駐屯していた。この連隊の完備された武装にわれわれの食指が動いたのである。交通の不便な奥まった地域であるうえに、周辺はうっそうとした樹海をなしていたので、不意打ちには有利であった。敵もこの弱点を考慮に入れ、兵営の周辺に大木を使って背丈の三倍ほどの「城壁」をめぐらし、その四隅には砲台も構築していた。正面攻撃で城内に突入するのは困難なので、火攻めで敵陣を混乱に陥れ、敵を威圧して降伏させる戦術をとった。敵の兵営は完全な木造建築だったからである。
日が暮れてから、わたしは金沢竜をはじめ手榴弾投擲の名手たちに、石油にひたした綿のかたまりに火をつけて兵営の屋根に投げさせた。初夏の小雨が降ったあとだったので、すぐには火がつかなかったが、火攻めは成功した。隊員たちは機を逸せず、降参すれば命は助けてやるから銃を捨てて出てこい、と呼号した。しかし、敵は頑強な防御戦の構えでこれにこたえた。わたしは数名の隊員を敵の砲台にいちばん近い民家に送り、その家の台所から砲台の地下に通ずるトンネルを掘らせた。一方、偵察兵に満州国軍連隊長の義母を連れてこさせた。わたしはその老婆に、婿が無謀な抵抗をやめて武器を差し出すよう説得してもらいたいと言った。老婆は二つ返事で城内に入り、婿の手紙をもってきた。満州国軍の連隊長は、隊員の半数を連れて撫松へ行かせてくれるなら投降してもよいというのである。わたしはその申入れを一蹴し、無条件降伏を要求した。再び婿に会ってきた老婆は、婿が連れていく人員をいくらか減らす用意があることを伝えた。連隊長は談判を引き延ばし、応援が来るのを待つつもりに違いなかった。砲台を爆破するための坑道掘削作業はすでに半ば以上進んでいた。わたしは老婆に坑道と爆薬を見せ、投降要求に応じなければ砲台を爆破するという最後通牒を婿に伝えるようにと言った。三たび城内に入った老婆は、笑みをたたえてわたしのところにもどってきた。婿が護衛兵を二人だけ連れて行かせてくれと言っているとのことであった。わたしはその要求を受け入れた。連隊長は部下を全員整列させ、武装を解除して一か所に集めた後、護衛兵を二人連れてそそくさと北門から抜け出した。その武器はそっくりわれわれのものになった。新しい師団を編制しなかったなら、撫松県城のような大きな城市を思いどおり攻撃することはできなかったであろうし、その後、鴨緑江と白頭山の周辺であいついで凱歌をあげることもできなかったであろう。
当初の思惑に反して、第二連隊は新しい師団の誕生のためにはもちろんのこと、その成長にもなんら寄与することができなかった。馬鞍山で引き取ることになっていた第二連隊がわれわれのところに来たのは、それから半年以上もたって白頭山に進出して居をかまえた時分だった。それは、すでに主力師団の格好がととのったのちのことである。到着が遅すぎたという感はあったが、なによりもうれしかったのは呉仲洽、権永璧、金平をはじめ以前からの親しい戦友たちとまた起居をともにするようになったことであった。姜渭竜も元気な体で無事に新師団を訪ねてきた。金確実の心の片隅に残った最後の傷跡をいやしてやれると思うと、心が安まった。
彼らが到着した翌日、わたしは姜渭竜に会った。
「金確実はきみの妻だと聞いたが…」
背が高い彼は耳たぶまで赤くした。自分に妻があるのを認めるのがてれくさかったのであろう。
「確実同志はここから数里離れた横山方面の後方密営裁縫隊にいる。そこへ行って彼女に会いたまえ。わたしがいますぐ道案内を付けてやる」
彼はもじもじしていたが、きまり悪げに笑いながら後日ゆっくり会うことにすると言った。
「彼女に連絡してここに呼ぶと時間が倍もかかるだろうから、きみがいますぐ行くほうがよいだろう」
「会うのはゆっくりでかまいません」
姜渭竜の煮えきらない態度は、わたしをいらだたせた。
「きみはそれでいいかも知れないが、きみのために金確実同志がやせほそるのを黙って見ておれないのだ。なにも言わずにすぐ発ちたまえ」
わたしがこう言ってもなおうつむいていた彼は、やがて涙ぐんだ顔でわたしを見つめ、「しかし配属もまだ決まっていないのにどうして先に妻に会えるというのですか。革命を志して銃をとった以上、革命の任務が先ではありませんか」と言って聞き入れなかった。
わたしはなにか口実をつくってやろうと考えた。
「ではきみに任務を与えよう。第二連隊と一緒に来た女性隊員を連れて裁縫隊に行き、冬期用の綿入れ軍服をつくるのだ。それが全部できあがる前に帰ってきたら処罰するから、そのつもりでいたまえ」
わたしがこう言うと姜渭竜は言葉に窮し、命令どおりにすると答えた。極左排他主義者によって長いあいだ引き裂かれていた二人の感激的な対面はこうして果たされた。
馬鞍山での民生団の調書包みの焼却は、新しい人間の誕生、新しい師団の誕生をもたらしただけでなく、愛情の復活、新しい愛情の誕生をもたらしたのである。人びとを信頼したがゆえに、われわれは天下を得たわけである。
われわれの革命隊伍において朝鮮革命の指導的中核にたいする絶対的かつ無条件的な忠誠が普遍化し、その指導的中核を中心とする真の思想的・道義的団結が闘争の過程でいちだんと強化されたのは、このような信頼のたまものであったといえる。われわれの一心団結の歴史的根源は、朝鮮人民革命軍の主力部隊の誕生とともに、信頼と愛情をそそぎ、徳をほどこす過程で、なにをもってしても打ち破りがたいものとして、朝鮮の共産主義者の心の中に深く根を下ろすようになった。
馬鞍山にいた百余名の民生団嫌疑者は最期の瞬間まで革命に忠実であったし、時代と歴史の前に一点の汚れもない清らかな良心と祖国愛に燃える赤誠をささげた。彼らは祖国の解放革命史に永遠に輝く貴い闘争業績を残したのである。
2 二 十 元
馬鞍山の西側の密営で極左分子が民生団の調書包みをもてあそんでいるとき、春の雪解けもはじまっていない東側の密営の日陰では、数十人の子どもたちが病気と飢えと寒さに苦しんでいた。子どもたちの大部分は、間島革命の最後のとりでといえる車廠子で大人たちとともに辛酸をなめつくし、遊撃区の解散後、内島山をへて西に向かう人民革命軍部隊に保護されて、敵の手があまり及んでいない南満州の後方密営にたどりついた孤児であった。馬鞍山密営の幼い住民の中には、延吉地方から来た児童団員もいた。
遊撃区が解散したとき、彼らが敵地に住んで物もらいになったり、路頭や商店、市場で人の財布をかすめとってその日その日を生き長らえるスリや浮浪児にならず、遠い撫松の奥地まで訪ねてきたのは、じつに感嘆すべきことであった。にもかかわらず、人民革命軍部隊の管轄下にある後方密営で、共産主義者の保護を受けている子どもたちが飢えと寒さに泣くという惨状がくりひろげられているのはどうしたことだろうか。子どもたちの養育を受け持っている人たちが急に「継父」や「継母」になり、彼らを虐待しはじめたというのだろうか? それとも、子どもたちがわずかなことですぐ涙を流し、だだをこねる甘えん坊になったというのだろうか? いや、そんなはずはない! わたしはこの二つの仮説をどちらも否定した。それならば、あの子どもたちの泣き声はなにを示唆しているのだろうか。寒さと飢えによる生理的苦痛が限界に達したという無言の訴えであるのかも知れない。しかし、それくらいの苦しみは遊撃区にいたときにもよく味わったはずではないか。われわれの児童団員は苦労のために涙を流すような金持ちの子とは違う。年端もいかないうちに父母兄弟を亡くして孤児となった彼らにとって、寒さや飢えがそんな大きな悲しみや悩みになろうはずはない。しかし、馬鞍山密営で子どもたちが涙に暮れているというのはまぎれもない事実であった。新しい師団を編制するための会合が最終段階に入ったある日、朴永純が一枚の紙切れをそっとわたしの手に渡した。
「将軍、会議が終わったあとで、馬鞍山の児童団員のために多少時間を割いていただけないでしょうか。子どもたちがひどい状態です。新師団を編制したのち、わたしと一緒に馬鞍山密営にご足労を願いたいと思います。子どもたちがどんなに将軍を待ちこがれているかわかりません」
紙切れにはこう記されていた。
馬鞍山の児童団員の惨状については、後日わたしがその密営に到着したときに金正淑からも詳細な報告を受けた。馬鞍山の孤児の中には、彼女の指導を受けていた児童団員が少なくなかった。もともと彼女は符岩洞にいたころから児童団の指導員として活動していた。子どもたちは遊撃区にいたときから彼女によくなついたという。元来、金正淑は子どもをたいへん可愛がった。遊撃区の人民が最悪の食糧難にあえいでいた車廠子時代に、彼女と子どもたちは断ち切りがたいきずなで結ばれた。当時、金正淑は軍指揮部の炊事隊員を務めていたが、餓死寸前にあった子どもたちが夜ごと彼女のところに来ては、なにか食べる物をくれとせがんだ。ときには炊事隊員の目を盗んで台所に忍びこみ、食器棚や米がめをあさることもあった。そのたびに彼女は、食事を抜いてとっておいたおこげやソンギ餅(松の内皮をうるちの粉に混ぜてつくった餅)などを子どもたちの手に握らせてやった。空腹に苦しむ子どもたちを思って、彼女は日に一回は食
事を抜き、その分をひとに知られないようにとっておいては、もらい食いをしにくる子どもたちに与えた。車廠子で筆舌につくしがたい苦労をした児童団員は、彼女の恩をいつまでも忘れなかった。その子どもたちがパルチザンと一緒に内島山にとどまっていたとき、金正淑はそこで児童団活動を指導した。彼女が馬鞍山の子どもたちの生活状態を涙ながらに報告したのは十分うなずけることだった。共産主義者に保護されている数十人の孤児が、砲火の及ばない革命軍の後方密営で涙に暮れているというのは、見過ごすことのできない非常事件であった。わたしの神経はたかぶった。いったいどういう事情があって、子どもたちがそんなにわたしを待ちこがれているというのであろうか?
子どもの涙は正義を代弁するものである。ある不当な力が正義を愚弄し惨酷に踏みにじるとき、子どもは義憤に堪えきれず泣きだすのである。その泣き声は自分を侮辱し虐待する者に向かって幼い魂が投げつける論告である。それは、あらゆる不義にたいする抗弁と弾劾に代わるものであり、その不義によって傷つけられた自尊心と侵害された権利を代弁している。子どもは涙によって自分に差し迫った災難を警告し、その災難から自分を救ってくれるよう求めるのである。涙は、自分を愛するか愛することのできる人たちへの子どもの精一杯の訴えである。人びとがその涙に胸をしめつけられ、耳を傾けるのは、子どもを慈しみ見守るのが人間の本性のうちでももっとも基礎的な本性であるからである。
馬鞍山の児童団員について言うならば、彼らは戦友たちがわれわれに残していった宝のような存在であった。戦友たちは遺言で子どもたちの将来を託し、自分たちに代わって子どもを革命家に育ててくれと頼んだ。われわれの双肩と良心には、あのかわいそうな子どもたちをもっともすぐれた健全な正義の守護者として育成すべき神聖な課題がになわされていた。
わたしが馬鞍山の児童団員の運命を気づかったのは、たんなる人間的な同情からではなく、小市民的な感傷主義の衝動からでもなかった。それは、彼らの父母が死にさいしてわれわれに託した権利であり義務であった。たとえ彼らの父母が生きていたとしても、われわれはその子どもたちの涙を袖手傍観しはしなかったであろう。これは共産主義者だけがもつことのできる人道主義的感情である。戦友の息子は自分の息子で、自分の息子は戦友の息子であるというのが、共産主義的な人間関係なのである。自分が苦しむときは同志も苦しみ、同志が苦しむときは自分も苦しみ、自分がひもじいときは同志もひもじがり、同志がひもじいときは自分もひもじがるのが、まさに共産主義者をこの世でもっとも美しい人間にする倫理道徳である。
ある副業水産作業班管理委員会の委員長は、川で溺れた同僚の娘を救い出して岸にもどる途中、自分の娘が浮いたり沈んだりしながらもがいているのを発見した。普通の人なら、まず自分の娘を救ってから、同僚の娘を助けるために再び川に飛びこむはずである。そうしたからといって他人から非難されるわけはまったくないのである。しかし彼は、抱いていた同僚の娘を救い出してから自分の娘のところへ泳いでいった。だが娘はすでに死んでいた。駆けつけた村人たちが涙ながらに管理委員長を慰めると、彼は救い出した同僚の娘を指して言うのだった。
「わたしは自分の娘が死んだとは思わない。この子もわたしの娘だ」
浅薄で利己的な人間の度量をもってしてはとうてい考えることもできない崇高な犠牲的精神を発揮しながらも、それをありきたりのこととし、万人の評価と処遇にかえってはにかむところに共産主義者の魅力があり、朝鮮民族の美徳があるのである。
新しい師団を編制したらすぐに撫松をへて長白へ直行するというのが、当初のわたしの計画であった。だが、馬鞍山の子どもたちの不遇な境遇は、その計画の変更を余儀なくさせた。その子どもたちに会わなくては、長白へ行っても心の束縛から解放されそうになかった。迷魂陣会議が終わったあと、わたしは馬鞍山の東側の密営の児童団員を訪ねた。その日わたしを密営まで案内したのは、馬鞍山武器修理所の責任者である朴永純である。わたしは道案内を買って出た彼をありがたく思った。この道は朴永純という人間を総合的に把握するよい機会となった。馬村で芽ばえた二人の友情は、このときの出会いを通じてさらに深まった。朴永純がシリーズ物の長編小説にでもなりそうな自分の家門の膨大な歴史についてはじめて語ったのは、このときだったと思う。
朴永純の先代の祖父たちは一八六〇年代から金谷村で初の異郷暮らしをはじめた世代の代表的人物であり、この一帯で朝鮮式営農法を普及した荒野開拓の先駆者であった。父の代になると、家に小さな鍛冶場もつくられた。この鍛冶場で父の助手を務めた朴永純の少年時代は、後日、彼が兵器分野の特出した技術者として名声をとどろかす下地となった。父親は農閑期になると猟銃をもって狩りに出かけた。朴永純も十七歳のときから暇つぶしに狩りをするようになった。父の目をかすめてときたまこっそりとやるので、調子づくほどではなかった。彼の父親は猟銃の使用をきびしく取り締まった。長男が狩りをするのは黙認しながらも、次男の朴永純が銃を手にするのはなかなか許さなかった。銃身に手を触れるだけでも目をつりあげて恐ろしく怒鳴りつけた。しかし、十八歳になると事情が変わってきた。金谷村の老練な猟師たちが何回も取り逃がした虎を彼が一発でしとめたのである。朴永純は虎のひげを抜きとって意気揚々と家に帰ってきた。そのひげは彼が苦労の末に取得した猟師の免許証のようなものであった。村中の人が虎のひげを見ようと彼の家に押しかけてきた。父親は息子の腕前を認めざるをえなかった。その日から金谷村の老狩人たちは彼のことを「朴捕吏」と呼ぶようになった。もちろん、朴捕吏には猟銃の使用許可が下りた。鶏林炭鉱と堡格拉子鉱山に就職して地下革命活動に参加するまで、朴永純はその猟銃で数百匹もの鳥獣をしとめた。
わたしは朴永純に「朴捕吏」という異名がついたいきさつを聞き、彼がもし兵器廠の仕事を担当せずに人民革命軍の狙撃兵として活動していたなら、自らしとめた鳥獣よりはるかに多くの敵を撃ち倒したに違いないと考えた。しかし、わたしを驚かせたのは、彼の鍛冶の腕前が射撃のそれをはるかにしのいでいることであった。彼は現役軍人の隊伍では影のうすい存在のように思われていたが、兵器分野ではなくてはならない存在として重宝がられていた。
朴永純は五、六羽のキジの入った網袋をかついでわたしに同行した。その大きな荷物を見ると、重い米の背のうの上にキジを載せて明月溝の谷間にやってきた李光の姿が思い出され、胸の熱くなる感慨にひたった。
「朴捕吏同志、いまでも狩りをすることがあるのですか?」
わたしはキジの入った袋を指しながら尋ねた。朴永純は眉をひそめて、袋をゆすりあげた。
「ずっと前にやめました。これは罠を仕掛けて捕らえたものです。子どもたちのところへ手ぶらで行くわけにもいかないので、ちょっとやってみたんですよ」
「子どもが本当に好きなんですね。子どもたちを愛するのはよいことですよ」
「愛するですって?」
彼はこう問い返して、なぜか苦笑いをした。
「わたしはそんなおほめにあずかる資格がありません。わたしは卑怯者です」
「卑怯者? なんでまたそんなことを言うんです?」
「思い出すのも恥ずかしいくらいです。けれども司令官同志の前ですから、恥を忍んでありのままに話しましょう。いつかわたしは野ウサギを十羽ほど捕まえて馬鞍山の子どもたちを訪ねたことがあります。野ウサギを見て子どもたちが喜ぶので、わたしもいい気分でした。ところが、あの第一師政治主任が突然現れ、手をつきだして怒鳴るではありませんか。いったいきみはなんだ、上級の承認も得ないでここでなにをしているのか、誰がこんな慈善をほどこせときみにいったんだ、あいつらにどんなレッテルが貼られているのか知ってるのかとまくしたて、さっさと消え失せろとハエのように追い払ったのです」
「それで、どうしたんですか?」
「しかたなく野ウサギをまたそっくり網袋に入れて、兵器廠に帰ってきました」
「怖かったのですか?」
「ええ、腹も立ったし、怖くもありました。いまでこそこのように胆が太くなって大きなことを言っていますが、あのときはとてもそんなことはできませんでした。政治主任に小民生団を助けた反革命分子だと噛みつかれた日にはおしまいじゃありませんか。幸いにもそういう目には会いませんでしたが。それからは子どもたちのところへ行けませんでした。いま考えてみると、恥ずかしくてたまりません」
朴捕吏は、わらじにゲートルという格好で道をつけていく第一師の政治主任金洪範の後ろ姿を憎らしげに見つめながら顔をしかめた。
「それで、いまはどうですか? いまでも怖いですか?」
「いまはなにも怖くありません。司令官同志がそばにいるので、力がわいてきます。ここ数年のあいだ、民生団騒ぎのためにびくびくしながら暮らしてきたことを考えると、口惜しくてなりません」
「それは文字どおり悪夢ですよ。野ウサギの袋をかついで子どもたちを訪ねたというそのことだけでも、あなたは次の世代に感謝されます。子どもを愛し同情することは、なんと美しく崇高な感情でしょうか」
わたしがこう言うと、朴永純はようやく顔のこわばりをゆるめ、大股で歩きだした。岩のように厳格で無愛想な自尊心の強いこの男から、文学少女の日記にみられるような真実の告白を聞かされ、涙が出るほどうれしかった。彼の言行と心根からにじみでる剛直で潔白な人となりは、わたしに言い知れぬ感動を与えた。
もし誰かに、生活でいちばんうれしく幸せだと感じるのはどんなときかと聞かれたら、わたしはこう答えるであろう。
「わたしの生活で喜びと幸福はごく普通なこととなっている。それは、わたしがこの世でもっとも美しく理想的な生活が創造されている国で、政治的にもっとも自主的で、思想的にもっとも進歩的で、文化的、道徳的にもっとも開けた純真無垢な人民とともに、楽天的な生涯を送っているからだ。わたしの生活は毎日毎時、喜びと幸福にみちている。とくにうれしく幸せなときがあるとすれば、それは人民とともにいるときであり、その人民の中から全国のモデルになるりっぱな人間を見出し、彼らと時局を論じ、生活を論じ、未来を論じるときである。それに、われわれが国のつぼみと呼んでいる子どもたちと一緒にいるときである」
これは、わたしの一生を貫いている幸福観だといえる。朴永純との対話がわたしをかくも満足させたのも、そういう幸福観が働いたからであろう。朴永純はわたしが生活の中で見出した革命家の手本であり、良心的な人間の典型であった。わたしはその後の実践を通じて、彼が人一倍革命的原則に徹し、否定的傾向との妥協を知らず、万事に公明正大な人間であることをあらためて確認した。
朴捕吏が抗日武装闘争戦跡地踏査団を率いて中国の東北地方を巡歴した一九五九年のことである。むし暑い夏のある日、代表団はとある素朴な農家の奥の間で一泊することになった。地元の農民は、烈士の足跡をたどって連日困難な踏査をつづける隣国の客人のために、その部屋の壁紙を貼りかえ、アンペラも敷きかえた。ところが、虫に弱い何人かの団員が夜中に南京虫に悩まされ、寝具をかかえてつぎつぎと庭に逃げ出し、むしろの上で一夜をすごした。その部屋で最後まで頑張ったのは団長の朴永純だけだった。団員たちは、団長がどんな所でも熟睡できるか、虫にかまれない特異体質なのだろうと考えた。翌朝、朴永純は団員を集めてきびしく叱りつけた。
「一国を代表する踏査団員ともあろう者が、南京虫のために放浪者のようにむしろの上で野宿をしては、われわれに心地よい寝所を提供しようと気をつかってくれた地元の人たちの誠意を無視することになるではないか。それくらいのことを辛抱する忍耐力も自尊心もないのか。これから先、また代表団の体面を汚すようなことをしたら、その軽重によって祖国に送り返すこともありうる」
こう言われてはじめて、団員たちはこのパルチザン出身の剛毅で寡黙な男が、夜通し南京虫に悩まされながらも、この家の人たちの誠意をむげにすることができず部屋に残っていたということを知った。この話はその後、戦跡地踏査団員の口を通じてわたしの耳にまで届いた。
われわれが密営に到着すると、児童団員たちは「将軍さま!」と叫びながら、われ先に丸太小屋から飛び出してきた。密営の空にこだまして鈴のように響く子どもたちの声を耳にした瞬間、火のように熱い激情にかられ、小走りに子どもたちに歩みよった。まさにあの子たちだ。殴り殺され、刺し殺され、焼き殺された父母兄弟の敵を討つために、険しい山々と雪原を越え、千辛万苦の茨の道をかき分けて革命軍についてきた子どもたち、まさにあの子たちが鉄条網のない収容所ともいえる薄情で陰うつな山中で民生団連累者といういわれなきレッテルを貼られ、冬中悲しみにうちひしがれ、わたしを待ちこがれていた子どもたちなのだ。人民の利益よりも超革命的な「原則」のスローガン、「階級性」のスローガンを優位におき、大衆を愚弄し虐待することに慣れた民族排他主義者と「左」翼日和見主義者は、革命軍の重荷になるからと子どもたちをかえりみなかったのである。子どもたちが近くにいると密営が敵にかぎつけられるといって、わが身の保身をはかって森林の中に小王国を築き、そこにこもって別に生活をし、その界隈には子どもたちをいっさい寄せつけなかった。この継父のような人間たちは、子どもたちが厳冬に草の根を食べ、飢えと寒さに苦しんでいるのを見ながらも、わずかな食糧も与えず、一着の服さえもつくってやらなかった。子どもたちを哀れみの目で見る人、子どもたちの傷口に薬を塗り包帯を巻いてやる人、子どもたちの凍えた手と頰にあたたかい息を吹きかけてやる人、子どもたちが可愛いとなでてやる人、悲しみに泣く子どもたちを抱きしめて涙をこぼす人、そういう人たちは例外なく民生団のリストに載せられ迫害されたのである。
尹昌範の死後、独立連隊の代理連隊長を務めた名射手の金洛天は、児童団員を連れて馬鞍山に来る途中、あまりにもみすぼらしい子どもたちの身なりを見かねて、連隊給養係が保管していた軍服用布地で子どもたちに服をつくってやった。子どもたちは涙を流して連隊長に礼を言った。しかし、そのために金洛天は無念にも民生団の濡衣を着せられて処刑されたのである。子どもたちに同情を寄せることが罪となり、冷遇することがかえって手柄になるこの密営では、真の人間的な香り、共産主義的な香りをまったく感じることができなかった。わたしをめがけて駆けよってくる数十の涙に濡れた瞳は、人間性を失い、初歩的な人間的道理さえわきまえない連中の罪状を赤裸々に告発していた。息を切らして駆けよってきた子どもたちのあいだに突然、動揺が起きた。いちばん体の大きい先頭の子がどうしたわけか急に空地の真ん中に立ち止まったのである。すると、ほかの子どもたちも絶壁にぶつかった波のように、さっきの熱風のごとき流れを止めて横目づかいにわたしの顔を見つめた。ひとかたまりになってたたずんでいる子どもたちを見ながら、わたしは小声で朴永純に言った。
「あの子たちはいったいどうしたんだろう?」
「恥ずかしいからでしょう。あの身なりを見てください」
わたしは子どもたちの身なりに注意を向けた。服というのは名ばかりで、実際、裸も同然であった。焦げたり破れたり、すり切れたりした子どもたちの服は、服というよりは、ぼろか雑巾に近いみじめなものであった。数か月ものあいだ生存を脅かされ、飢えとたたかってきた児童団員の顔色は、みながみな蒼白そのものであった。
幼い受難者の惨状はふと、小沙河で別れて以来一度も会っていない弟英柱の姿を思い出させた。英柱もこの子らと同じ年ごろである。腰まで隠れる葦原で、哲柱と一緒に涙ながらにわたしを見送った末弟の面影がまぶたに浮かんできた。親戚でもなく同姓同本(苗字と氏祖が同じ)でもない隣近所の知人に弟たちの世話を頼んで小沙河を後にして以来、手紙一通送れずに四年の歳月を過ごした自分の薄情さが恨めしく思われた。一九三六年の春に東崗密営で金恵順に会ったとき、彼女から英柱が安図で児童団の活動をしていたということと、一九三五年の春か夏に英柱が演芸隊員を率いて車廠子に数日間とどまり、公演をしたという断片的な消息を聞いた。そのとき彼女が演芸隊員の食事の世話をしてやったという。金恵順はそのときの英柱の歌が非常に印象的だったと言い、その歌詞を口ずさんだ。それは、わたしが撫松で演芸隊の活動を指導していたころ、セナル少年同盟員や白山青年同盟員がうたっていた歌である。
みなさん腰に気をつけなされ
笑いすぎて折れた腰は
華陀や扁鵲でもなおせない
エヘラ 遊ぼう 元気に遊ぼう
肩もうきうき 楽しいな
華陀と扁鵲は古代中国の名医である。
東崗で金恵順から聞いた話は、わたしにとって大きな慰めとなった。だが、馬鞍山の子どもたちを訪ねていくそのときにしても、わたしは弟の行方を全然知らなかったのである。風に吹かれる晩秋の落葉のように、ひとところにかたまっている子どもたちの哀愁をおびた瞳を見つめながら、わたしは考えた。弟の英柱もあの子たちのように、どこかで飢えと寒さに苦しんでいるのではなかろうか。あの子たちのように食べるものも食べられず着るものも着られず、この無情な兄を恋しがっているのではないだろうか…。
だというのに、革命を志してこの山奥までついてきた子どもたちに民生団のレッテルをむやみに貼りつけることができるというのか。あの粗暴で憎むべき人間どもには、この子たちが民生団ではなく、民生団であろうはずもないことを判断する能力もなく、彼らをかわいそうに思って面倒を見る一片の慈悲心や同情心すらもないというのか。人間解放のためには死をも辞さないと誓った人たちが、人間の中でももっともか弱く独り立ちできない子どもたちを、こんな状態になるまで放置しておくことができるというのか。
わが国の歴史ではじめて「オリニ(子ども)」という単語をつくり「子どもの日」という祝日を制定した有名な少年運動家である作家の方定煥は、『子どもの日の約束』という文章で世人につぎのように訴えている。
「…子どもを大人よりも大事にしなさい。大人が根だとすれば、子どもは芽といえます。根が大本だからといって上から芽を押さえつけると、その木は枯れてしまいます。根が芽を育ててこそ、その木(その家の運)は伸びていくのです。…」
これは一九二三年五月一日、「子どもの日」にちなんで彼がつくって配布したビラの一節である。この願いをこめた文章の行間には、子どもにたいするあつい愛情がにじみでている。わたしが彰徳学校に通っていたとき、康良煜先生も父兄たちにこういう意味のことをよく言ったものである。それが『子どもの日の約束』をそのまま引用したものなのか、それとも自分なりに言い直したものなのかは定かでない。いずれにせよ、先生が、子どもを尊重すべきである、子どもを尊重しなくては大人が子どもから尊敬されない、と父兄に説くたびに、わたしはその言葉に真理がひそんでいると考えたものである。子どもを大人よりも大事にせよという彼らの訴えは、自分自身よりも次の世代を愛する人たちの魂からほとばしる崇高な理性の声である。
「子どものいない世界は太陽のない世界」という名言には、次の世代にたいする愛情がいかに格調高くうたいあげられていることか。
歴史にその名をとどめている世界的な偉人たちは、例外なく子どもを熱愛した。マルクスが子どもたちの忠実な友であったということは、カール・リープクネヒトの言を借りるまでもない事実である。愛する子どもたちを喜ばすために、この偉大な人物が「馬」となり「馬車」となったということは、世人がほほえましく回想している逸話である。いまも人びとがスイスのペスタロッチを追憶しているのは、彼が子どもたちのために全財産と生涯をささげたりっぱな教育者であったからだといえるであろう。人類が記憶している東西のすべての偉人は例外なく次の世代を愛することを最大の美徳としてきた、子どもたちの真の友人であり教師であり父であった。
ところが、貴族でもブルジョアジーでもない馬鞍山の主人たち、二言目には人間性を云々し、人間解放を念仏のように唱えるこの密営の共産主義者たちは、どうして子どもたちをこんなひどい目に会わせているのだろうか! わたしはこみあげる怒りを抑えることができなかった。革命そのものを命よりも神聖視してきた子どもたちの純真な信念がこうも無残に踏みにじられるというのは、身の毛がよだつほど恐ろしいことであった。わたしはこの子たちを知りつくしている者の一人である。この子たちが車廠子で大人とともにどのように飢餓に堪え、内島山で人民革命軍を助けてどのように握り飯を運び、不寝番に立ったかを誰よりもよく知っている。この子たち一人ひとりの自叙伝は、小説のストーリーのように、わたしの脳裏にはっきりと刻みつけられている。
大きな子どもたちの脇で雨に濡れたひよこのように全身を震わせ、凍えた手で膝小僧を隠して立っている百草溝出身の九歳になる李五松の経歴をみても、馬鞍山の子どもたちがへてきた千辛万苦のほどは察して余りある。彼は車廠子にいたときに、すでに集団餓死を目のあたりにした。ほかの子どもたちと同様、彼も腹がすくたびに冬眠中のカエルを捕まえて食べ、春の播き付けがすんだ畑から種子を掘り出して食べた。父親も車廠子で餓死した。五松は畑の大麦の穂をもぎ取り、芒(のぎ)をこすりとった一握りにもならない麦粒を父の口にふくませたが助けることはできなかった。五松と幼い妹は草の根や木の皮で端境期をしのぎ、車廠子を発って内島山に向かう人民革命軍にしたがった。しかし、彼も金洛天の義弟ということだけで民生団の嫌疑をかけられたのである。
孫明直を団長とする十四人の児童団員は、内島山に向かう数十里の路程で、組織生活を通じて鍛えた不屈の闘志と革命への忠実さを遺憾なく発揮した。前方は腰まで埋まる雪と険しい山が道を阻み、後方は討伐隊が執ようにつきまとった。行軍を開始した初日から食糧は底をついた。腹が減ると松の葉を嚙んだり、握って固めた雪をほおばったりして飢えをしのいだ。トウモロコシの餅一つが十四人の一度の食事になる日は、まだましだといえた。野宿をするときは孫明直、朱道逸、金泰泉など体の大きな年上の子どもたちが十歳未満の児童団員を親鶏のように抱いてわが身で風を防ぎ、束の間の睡眠をとりながら交替で歩哨に立った。
隊伍を引率した児童団の団長孫明直は、すぐれた組織的手腕と統率力を発揮した。彼は王隅溝にいたときから児童団活動をりっぱにやりとげた。一時は敵地へ行き、金在水の指導を受けて地下工作に参加したこともある。七歳のときから書堂で漢字を学んだ孫明直は、十歳にもならないうちに千字文と『明心宝鑑』を修めたが、のみこみが早く記憶力がよいので地下工作にも適任であった。彼は児童団時代に組織を動かして校内の日本語教員をはじめ七人の反動教員を追放する実績もあげ、早くから革命家たちに信頼された。孫明直の家庭は代々愛国愛族の魂を受け継いできた革命一家であった。祖父は一九一〇年の「韓日併合」を前後した時期に義兵隊長として活動した人であり、父親の孫化俊は百家長の看板の裏で秘密工作にあたった革命闘士であった。孫明直の五親等の叔父にあたる金鳳錫(原名孫鳳錫)は小部隊活動に参加し、解放を数時間前にして惜しくも戦死したわたしの忠実な伝令兵であった。
たとえ死のうとも革命軍について行くといって、凍えた手に息を吹きかけながらこんな山奥まで訪ねてきた子どもたち、金持の子が螺鈿の膳でご馳走に舌づつみをうっているときに、たき火のそばで枯れ葉を布団代わりにうたた寝をしながらも、解放なった祖国を夢見てきたあの子たちに罪があるとすれば、それはいったいどんな罪だというのか。この可愛い花のつぼみたちに錦衣玉食はあてがえないまでも、質素な木綿の服を着せ、豆がゆを食べさせるぐらいのことがなぜできないのか。
「みんな顔を上げるのだ。ぼろを着ているのはおまえたちのせいではない。さあ、早くおいで!」
わたしは両腕を大きく広げて子どもたちに近づいた。言い終わらないうちに、数十人の子どもたちがわたしを取り囲み、声を上げて泣きだした。わたしは泣きつづける子どもたちを連れて兵舎の中に入った。数日来、病気のため起き上がることもできないという四、五人の子どもが、毛布もかけずに部屋の片隅にうずくまるようにして横たわっていた。なんの病気かと聞いても子どもたちは約束でもしたかのように返答を避けた。密営の警護に当たっている隊員たちも重病だと言うだけで、はっきりした病名は告げられなかった。それが心の病であることを知っているのは朴捕吏だけだった。なんの罪もない青玉のような子どもたちに民生団のレッテルを貼りつけたのだから、答えようがあろうはずはなかったのである。わたしは伝令兵を呼び、背のうから毛布を取り出させた。それは汪清にいたとき日本軍の輸送隊を襲ってろ獲した、わたしの一枚きりの毛布であった。この一枚の毛布だけでも病気の子どもたちにかけてやれば、いくらか心が安らぎそうだった。わたしの心中を察した隊員たちがきそって自分の背のうから毛布を取り出した。わたしはそれを隊員たちの方に押しやった。
「よしたまえ。この子たちが病気にかかって寝こみ、寒さに震えているのに、百枚の毛布をかけて寝たところで、わたしの心は暖まらないだろう。わたしのことを考えてくれるなら、まずこの子たちの面倒をよく見てやりなさい」
わたしがこう言うと、密営の給養係は深くうなだれた。わたしの声はくぐもった。
―― わ たしはきょうここで、革命家の価値観についてあらためて深く考えざるをえない。われわれはなんのために革命をはじめ、いまもまたなんのために万難を排して革命をつづけているのか。われわれはなにかを破壊するためではなく、人間を愛するがゆえに革命の道を踏み出したのである。あらゆる不義と悪弊から人間を解放し、人間的なものを擁護し、人間が創造したいっさいの富と美を守りぬくために、この呪わしい世の中に向かって反旗をかかげたわれわれではないか。虐待される階級にたいする同情心、亡国の悲しみに泣く民族にたいする哀れみ、貧困と無権利にあえぐ父母、妻子にたいする愛情がなかったなら、われわれは一日として困難に耐えることができず、暖かいオンドル部屋に舞いもどっていたであろう。共産主義者であるわれわれが、どうして子どもたちがこんな状態になるまで放っておくことができるのか。きみたちの胸の中からは、革命の道を踏み出すときに宿していた純粋な人間愛がいつのまにか冷めはじめたのだ。いまわたしが残念に思うのは、まさにこのことだ。
ある意味では、われわれの革命は子どものための革命ともいえる。子どもたちにひとさじのご飯も食べさせてやれず、一着の服もつくってやれないなら、どうしてわれわれが革命にたずさわっていると公言し、自分を共産主義者だと誇ることができるだろうか。子どもは階級の花であり、民族の花、人類の花である。この花をりっぱに育てるのは共産主義者の神聖な任務である。子どもをどう育てるかによって革命の未来が決まるのだ。革命は一世代で終わるものではなく、幾世代にもわたって完成されるものだ。今日はわれわれが革命の主人となっているが、明日はあの子たちが成長して革命をになっていく主力部隊になるのだ。したがって、われわれが朝鮮革命に忠実であるためには、革命の血筋を受け継ぐ後続部隊をしっかり育てなければならない。まして、あの子たちは戦友たちが残していった遺児ではないか。われわれは戦友への信義を守るためにも、あの子たちを慈しみあたたかく見守ってやらなければならないのだ。いわゆる上部の迫害が怖くて子どもたちをかえりみない者が、どうして敵の銃口に自分の胸をさらすことができるというのか。きみたちは自分でも気づかないうちに保身のよろいに身をかため、ひとの不幸を見ても同情せず目をふさぐ卑劣な人間になってしまったのだ。考えてみよ。それが世界の改造を志した共産主義者のおこないといえるだろうか。子どもをないがしろにするのは自分自身をないがしろにすることである。彼らの面倒をよく見ず、彼らが苦境に陥っているときに保身をはかって見捨てるならば、遠い将来、彼らはわれわれをかえりみなくなるだろう。子どもたちのために払う努力いかんによって、数十年後に彼らがわれわれを見る目が決まり、彼らが建設する祖国の姿が左右されるのだ。われわれがいま、子どもに愛情をそそげばそそぐほど、明日の祖国は、より富強で、文化的で、美しいものになるだろう。子どもを愛することは、すなわち未来を愛することである。われわれの祖国はやがてあの子たちの手によって百花繚乱たる花園に建設されるだろう。祖国の未来、人類の未来のために子どもをもっと慈しみ大事にしよう!――
その日、わたしが兵舎で話したことはおおむねこういうものであった。これは八十の高齢になったいまも、わたしの変わりない児童観といえる。わたしはいまも、子どもを慈しみ見守ることに最大の生きがいと幸福を感じている。子どもなくして生活になんの楽しみがあろうか。わたしが鉛筆の生産を北朝鮮臨時人民委員会の第一回会議の議案として上程したことや、毎年元日を子どもたちと一緒に楽しくすごしていることも、こうした児童観の表われといえる。
子どもにたいするわたしの愛情は、彼らの教育を受け持っている教員を尊重し愛することにも表われている。共和国の初代内閣のメンバーの中に李炳南という保健相がいた。彼は解放前から小児科部門の医療活動に従事してきた高名な医学博士であり、誠実で良心的な愛国者であった。一九四八年四月の南北連席会議に参加するためにソウルから平壌にやってきた彼は、わたしの勧誘をいれて共和国の初代保健相に就任した。彼の品性のうちでいちばん際立っていたのは、子どもをこのうえなく愛し、うまく扱うことであった。小児科が専門の李炳南はいつもポケットにガラガラを入れて歩き、泣く子をあやした。重病にかかって弱りきっていた子どもも、彼がガラガラを振ってみせると、泣きやんでおとなしく診察に応じたものである。道化師も顔負けするほどのとぼけた表情と、腹をかかえて笑いだしたくなるほど滑稽な冗談で子どもをあやし、またたくまに治療を終えてしまう巧みな腕前のおかげで、彼はどこへ行っても幼い患者から尊敬され、彼らのやさしい友となった。
わたしの娘の慶喜がはしかにかかったとき、なかなか発疹があらわれなくて手をやいた。そのうえ、風に当たって肺炎まで併発した。慶喜はお母さん、お母さんと言って泣きつづけた。幼い妹が苦痛をこらえ切れず泣きだすたびに、兄の
わたしは李炳南に聞いた。
「李先生、どうですか? あの子が泣くのはどうしてでしょう?」
「それはいい兆しです。子どもは病気が快方に向かうときに泣きだすのです。お嬢さんは三日後には全快するでしょう」
李炳南は、鎖も縁も金製で琥珀の飾りがついた懐中時計を取り出して慶喜の鼻先で振ってみせた。それは、彼が幼い患者をあやすときに、ガラガラとともに「鎮静剤」として用いてきた金時計である。慶喜は泣きやんで、口もとに笑みを浮かべた。三日後には本当に慶喜の病気が治った。わたしは保健相の見事な治療の手際に感嘆を禁じえなかった。
「まったく驚いたものだ。どうして李先生の予言がそんなにぴたりとあたるのですか。李先生は医者である前に、子どもの親友であり児童心理学者です。そうしてみると、小児科の医者は人一倍子どもを熱愛しなければならないというわけですね」
「そのとおりです。子どもにたいする愛情がなければ、子どもの胸にむやみに聴診器を当ててはいけないのです」
一九五〇年の秋にわたしは高山鎮で李炳南に会った。容貌は以前と変わらなかったが、一つだけ違う点があった。時間を知りたいとき、彼はポケットから鎖のない古ぼけた懐中時計を取り出すのだった。慶喜をあやしたあの金時計はとうしたのかと聞くと、軍器献納品として国に納めたという。戦争勝利のためにすべてをささげようとする李炳南の愛国的至誠と、良心的人間としての真情はわたしを大いに感動させた。その懐中時計があまりにも貧弱だったので、わたしは後日、彼に新品の腕時計を贈った。
この小さな出来事を通じてわたしは、子どもを心から愛する人であってこそ真の愛国者になり、真の人間愛をもつ人であってこそ真の愛国者になりうるという真理をあらためて痛感した。子どもへの愛情は人間の愛情のうちでももっとも献身的かつ積極的な愛情であり、人類にささげられる頌歌のうちでももっとも純潔で美しい頌歌である。共産主義者はまさにこの頌歌の創造者であり、この頌歌のためにたたかう奉仕者である。李炳南のような子どもたちの友人が馬鞍山に一人でもいたなら、児童団員はあれほどひどい境遇に陥りはしなかったであろう。
わたしはいまこそ、母が臨終を前にして遺産として残してくれたあの二十元を使うべきだと考えた。金銭がなくてはどうしても乗り切れない苦境に陥ったときに使うようにと念を押された二十元であった。指先に血がにじむように賃仕事をして少しずつ貯えた労働の結晶であった。わたしは幼いとき金を手にしたことがなかった。父は生涯を通じて息子に金を与えたことがなかった。ノートや鉛筆を買うのも母にまかせてわたしを商店や市場に出入りさせなかった。子どもの時分から金を手にすると大きくなって守銭奴になり、祖国も民族も眼中にない俗物になってしまうというのが、金についての父の持論であった。ある日、病床に臥していた父がわたしに街を見物しに行こうと誘った。外出もままならなかった父が、わたしと一緒に出かけるというのは異例のことであった。中国語が達者でない父は、ときたま通訳が必要なときにわたしを連れて歩いた。わたしは父の忠実な中国語「通訳」だったのである。
(病気がひどいのに外出するのは、急用ができたからに違いない。誰に会うつもりで、そんなにせくのだろうか?)
わたしはこんなことを考えながら、寝床から起き上がる父に手を貸した。しかし、父の腕をとって街へ出たあとも、わたしはその日がわたしの誕生日だとは気がつかなかった。父が病床に臥していたときなので、誕生日のことなど考えるゆとりがなかったのである。街を一回りしたあと、父はわたしの手をとって商店に入った。それは予期しない出来事だった。なぜわたしを連れてこの商店に来たのだろうか、と考えながら陳列棚を眺めていると、父は気に入った懐中時計を一つ選ぶようにと言った。さまざまな懐中時計が並べられていた。孫中山(孫文)の肖像入りのものもあったが、肖像のない懐中時計を選ぶと、父は三元五毛を払った。そして意味深長な口調で言った。
「おまえも時計が必要な年ごろになった。国を取りもどすたたかいに立った人間が大切にすべきものは二つある。一つは同志であり、もう一つは時間だ。時間を大切にせよという意味でやる誕生祝いだから、そのつもりで大事にしなさい」
時計が必要な年ごろになったという父の言葉は、わたしが大人になったという意味にとれた。なぜかわたしには、その言葉が臨終前夜の遺言のように聞こえた。事実、父はそのときすでに自分の余命がいくばくもないことを予感していたようである。そんな予感から、父は時計とともに、生涯の労苦を傾注した独立の偉業をわたしに引き継がせたのである。それは一種の成人式のようなものであった。誕生祝いに懐中時計を買ってくれたその日から二か月もたたないうちに父は他界した。その後、わたしはその時計をもって華成義塾で学びながら志を同じくする学友たちに出会い、打倒帝国主義同盟を結成した。わたしはパルチザン時代にも、その時計に合わせて日課を実行し、攻撃開始の時間や落ち合う時間を定めるときにも、その時計を基準にした。その懐中時計の代わりに腕時計をはめるようになったのは普天堡戦闘のころである。戦友たちは、懐中時計も古くなったし、司令官の体面を考えても新しい腕時計をはめるべきだとすすめた。それでわたしは、十年間身につけていた懐中時計を戦友に譲り、新式の腕時計をはめるようになった。このように、父はわたしが革命闘争の道を踏み出すまで金を手にさせなかった。わたしが自分の手で代金を払って商店で品物を買ったのは吉林時代だけである。こうして、わたしの金銭にたいする無関心さが助長されたのだといえば、読者は少しもおかしくは思わないであろう。
金品に目がくらむと、党と領袖、祖国と人民も眼中になく、あまつさえ父母や妻子もかえりみない唾棄すべき人間になってしまう――これが八十風霜の人生を総括しながら、わたしが次の世代に言っておきたいことである。
このように、息子たちが子どもの時分から金を知らずに育つようきびしくしつけるのは、父がうち立てたわが家の独特な家風であった。しかし、臨終を前にした母ははじめてその家風を破り、生涯の辛苦が集約されている二十元を遺産としてわたしに渡したのである。母の苦難にみちた生涯がその何枚かの紙幣に凝縮されているように思われ、それを大切に受け取った。二十元、それはわたしにとって護身符のようなものであった。それを懐にしていると、空腹も寒さも恐れも感じなかった。そして母がいつもそばにいて、全身全霊でわたしを守ってくれているような気がした。どんなことがあっても私事には使うまいと決心していた二十元である。できることなら、息子にたいする母の愛情のよすがとして、いつまでもとっておきたい金でもあった。しかし、きびしい現実はこの決心を何度もぐらつかせた。その金を使おうと懐に手を差し入れたことは一度や二度ではない。金を使わなければならない状況はしばしば生じた。羅子溝の台地でわれわれを救ってくれた忘れがたい馬老人と別れるときにも、その二十元で恩返しをしようと思った。命の恩人にお礼をするのは人間として当然のことではないか。二十日近くもその山小屋にいて、老人の一年分の食糧を食べてしまったのに、懐に金がありながら謝礼をしないとすれば、天もわたしを叱責するに違いなかった。だが、この神仙のような老人はどうしてもそれを受け入れなかった。国を取りもどすためには、これ以上の困難にぶつかることもあるだろうから、そのときに使いなさい、わたしはもう生きるだけ生きた身であり、こんな山奥では金を使うところもないからもらってもしょうがない、わたしは罠にかかる獲物だけでも食いつないでゆける、と言って頑として金を受け取らなかった。こうしたいきさつをへて、母の愛情がこもった二十元の金は手つかずのまま懐に残っていた。この金でぼろをまとった児童団員たちに服をつくってやれば、母も喜んでくれるだろう。
(お母さん、このお金をいただいてお母さんのもとを離れてからもう四年になります。その間、何回も苦しい目に会いながらも将来のことを考えてなんとか取っておいたのですが、きょうはどうしてもこの二十元を使わなければならなくなりました。この世に一人の肉親もいない、あのかわいそうな子どもたちに服をつくってやりたいのです。これから先、これよりも大きな困難があるだろうことは百も承知していますが、よくよく考えたうえで決心したことですから、お母さんも賛成してください。人一倍子ども好きなわたしの気性はお母さんもよくご存知でしょう…)
遠い土器店谷の冷たい山すそにひとり寂しく眠っている母に向かって、わたしは心の中でこうつぶやいた。
「撫松市内へ行ってこの二十元で布地を買ってきなさい。それで子どもたちに服をつくってやりたまえ」
連隊政治委員の金山虎に命令した。彼は困った様子であったが、しかたなくその金を受け取った。地主の家で下男をしていたときに押し切りで指を一本失った五家子の時代から、わたしと一緒に反帝青年同盟の活動を展開してきた好男子の金山虎は、この二十元のいわれを誰よりもよく知っていたのである。
「司令官同志の命令ですから実行はしますが、どうも手が震えます。これはただのお金ではないではありませんか」
彼はこう言い残し、撫松市内へ行って一尺で一毛というギャバジンのような布地を七、八疋買った。大力の金山虎ではあったが、それをかついでくるのに苦労したそうである。ところが帰途に、土匪になりさがった山林部隊の残党にその布地をそっくり奪われてしまった。土匪たちは彼を木にくくりつけて逃走したので、さすがの怪力の政治委員ももう少しで凍え死ぬところだった。わたしは小部隊を派遣して金山虎を救出し、布地も奪い返した。七、八疋の布地では密営の子どもたち全員に服をつくってやることができなかった。それでわたしは、張蔚華宛の手紙を持たせて、金山虎を再び撫松へ送った。彼は張蔚華の助けで多量の布地を手に入れた。その布地で密営の子どもたちと、民生団の汚名をすすいで新師団に編入された百余名の遊撃隊員の服を仕立てた。それで、重かったわたしの心もいくぶん軽くなった。
実のところ、二十元というのは大した金ではない。しかし、そのときわたしはすこぶる晴れやかな気分になった。こうして、われわれは馬鞍山を発つことになった。すると、新しい服を着て大喜びだった密営の子どもたちが一緒に連れていってくれとせがんだ。わたしは多くの人の反対を押し切って子どもたちの願いを聞き入れた。遊撃隊についていけそうにない幼児と病人を除く大部分の子どもたちが、南下するわれわれの隊伍とともに困難な長征の途につくことになった。遊撃戦を展開しながら東西を駆けまわる革命軍が、十代の子どもを多数伴って行動するというのは一種の冒険であった。しかし、わたしはそれがたとえ遊撃戦の歴史にはなく常識に反することであっても、子どもたちを烈火の中で鍛え、彼らを鋼鉄の人間に育てあげようと決心したのである。いちばん骨のおれるのは倒木を乗り越え、川を渡るときであった。それで、戦闘や行軍のさいに子どもたちを保護する任務を隊員たちに分担した。隊員たちは子どもたちを自分の瞳のように守った。倒木は抱いて越え、川はおぶって渡り、敵の統弾はわが身で防ぎながら彼らを育てた。
あのとき、わたしについて白頭山地区に進出した子どもたちは、その後すべて革命軍に入隊し、苛烈な遊撃戦を通じてりっぱな軍・政幹部に成長した。従軍は無理なのでしばらくのあいだ大碱廠密営にとどまっていた九歳の李五松も孫長祥の伝令兵を務め、のちには長白に来てわたしの伝令兵になった。一九三九年五月に部隊を率いて茂山地区へ進攻したとき、彼は十二歳にすぎなかった。そのとき彼は、水が深くて川を渡ることができなかった。それでわたしが抱いて渡してやった。あのときひよこのように懐に抱いて育てた子どもたちが、いまでは党と国家と軍隊で中核的役割を果たしている。
馬鞍山でぼろをまとった子どもたちを目にしてうっ憤を抑えきれなかったあのときの衝撃があまりにも大きかったので、祖国が解放されたら、なんとしてでも国家が無料で子どもたちに服を供給する制度をうち立てようと決心した。戦争によって破壊され零落した国を再建していた一九五〇年代の後半期にすでに、われわれは国家が服をつくって供給する歴史を創造しはじめた。これは、馬鞍山での苦悩を体験した朝鮮の共産主義者でなくては創造できない一つの奇跡である。われわれは毎年、子どもたちの服を供給するのに数千数億ウォンの予算を支出している。
わが国を訪れる外国の人士は、ときおりわたしにこう尋ねることがある。―― そんなに莫大な資金をなんの代価もなしに無償で支出しては、国家が損をするではないか。各自が商店で布地を買ってつくるようにしてもいいはずなのに、なぜ国家が子どもたちに学校の制服をつくってやるのか。服を無料で供給することによって生じる損失はなにによって埋め合わせるのか――
わたしはそのたびに、馬鞍山でぼろをまとった児童団員たちに会ったときの話をして聞かせている。われわれが抗日戦争を展開していたとき、その戦争の砲声を聞いたことのない資本主義国の政治家が、共和国政府の施策に秘められた深い歴史的な意味がよくわからず、財政的な面でのみ問題を考察するのは無理からぬことである。だが、人民のためにこうむる国家の「損失」は損失とはいえない。人民の福祉のためにより多くの資金が支出されるほど、わが党はより大きな喜びを感じ、次の世代のためにより大きな「損失」をこうむるほど、国家はより大きな満足を覚えるのである。
わが国に社会主義制度が存在し、白頭の伝統が継承されるかぎり、国家が子どもたちに服を供給する共産主義的施策はつづくものと確信する。
馬鞍山時代の児童団員と抗日闘士たちは、全国の子どもたちと同様、季節が変わるたびに、
3 革命戦友 張蔚華
前にも述べたが、金山虎が布地を手に入れて馬鞍山に帰ってくるなり、わたしは再び彼を撫松県城へ派遣した。二十元分の布地では児童団員全員に服をつくってやることができなかったのである。戦闘をすれば布地はろ獲できるのだが、早くからわたしと縁のあるこの城市で白兵戦をおこなうつもりはなかった。新しい師団の編制によって革命軍の面貌を一新したわれわれは、その成果を踏まえて人民革命軍の軍事的・政治的力量を拡大する段階にあった。力を蓄える前に銃声をあげたのでは、撫松で四面楚歌の窮状に陥り、白頭山地区への進出も大きな難関につきあたるおそれがあった。布地を手に入れる唯一の道は張蔚華の助けを借りることであった。富豪の息子であり、わたしの革命戦友であり、抗日救国の理念に忠実なアクチブである張蔚華であってこそ、わたしの苦衷を自らの苦衷とし、全力をつくしてわたしを窮地から救い出してくれるに違いなかった。再び撫松へ行ってくるよう命ずると、金山虎はいささか面食らったようであった。たったいま行ってきた所へまた行けといわれたのだから無理もなかった。わたしとしても彼を休ませたいのはやまやまだったが、子どもたちと新しく編制される部隊のためには、再び彼にむずかしい任務を与えるしかなかった。金山虎は張蔚華への働きかけがごく自然にできる適任者だったのである。張蔚華が張亜青という幼名で五家子の三星学校で教鞭をとっていたとき、金山虎はそこの反帝青年同盟支部で青年活動をしていた。活動上の連係や親交はなかったが、その程度の縁があれば信任状の代わりにはなった。
「山虎同志、すまない。難題が生じるとついきみを呼んでしまう。なぜそうなるのか、わたしにもわからない。ひどい上官につかえていると思いはしないかな?」
自分を救出した小部隊の隊員たちとともに馬鞍山に帰って一息入れていた金山虎が、新たな任務を受けるためにわたしの前に現れたとき、わたしはこう言って彼を迎えた。充血した目でしばしわたしを見つめていた金山虎は太い声で言った。
「司令官同志に似合わず迂回作戦をされるのですか? わたしの任務をずばりと言ってください」
彼の返事を聞いて、心が軽くなった。
「よし。それじゃ明日の朝、もう一度撫松に発ちたまえ。きみを張蔚華のところにやることにした。どう考えても少々彼の世話になるしかないようだ。五家子に来て小学校の先生をしていた中国人青年を覚えているだろう?」
「張亜青先生ですか? 覚えていますとも。メガネ越しに照れくさそうに人の顔を見つめるあの目つきが忘れられません。ギターがなかなか上手でしたね」
「それなら大丈夫だ。紹介状を書くから、それをもって張亜青に会うのだ。市内を一回りして偵察したあと、小南門通りの方へ行って張万程の家を訪ねなさい。その張万程という人が張蔚華の父親なのだが、撫松で指折りの金持だ」
金山虎は喜色満面になり、胸を張ってわたしを見つめた。まるでピクニックにでも出かけるかのようにうきうきしていた。人並みはずれた六尺豊かなこの男には、同僚たちが尊敬の目で見る篤農の気質があった。彼は仕事がある日は肩で風を切って歩いたが、なんの仕事もまかされない日は心気病者のように憂う
つな顔をしていた。彼の表情は、任務をまかされた日とそうでない日の気分状態を正確に反映するバロメーターともいえた。
わたしは、自分の日課のうちで一刻千金ともいえる明け方の時間をそっくり費やして、張蔚華に伝える手紙を書いた。そのとき誰かが大豆油の缶を二重底にして手紙を入れる妙案を考え出した。金山虎はその大豆油の缶をぶらさげ鼻唄まじりで馬鞍山を発った。軍警の検問を通過できる正真正銘の油売りに見せかけるため、朴永純はクーリー(下層労働者)の服よりも粗末で油光りのする服を手に入れて彼に着せた。
わたしはいまや遅しと張蔚華の返事を待った。金山虎の帰りが待たれて寝つかれなかった数日間、頭には張蔚華のことしかなかった。金山虎の帰隊を待つあいだの一刻一刻は、張蔚華への思いのうちに流れていった。いますぐにでも腰に粗末な手ぬぐいをぶらさげ、金山虎のようにクーリーの装いで県城へ行き、張蔚華に会うことができたらどんなによいだろう。彼と一緒にわたしの住んだ家がある小南門通りをぶらつき、第一優級小学校時代の先生や学友に会い、陽地村の父の墓に参ることができたらどんなによいだろう。もし仕事が山積しておらず、また、肉親以上にわたしの身辺を気づかう戦友たちがいなかったなら、わたしは万難を排して撫松行きの冒険をしていたかも知れない。だが、それほど行きたいと願っていたその土地には、わたしを知る人があまりにも多かった。学窓時代の多くの日々を撫松で過ごしたわたしは、その地方の軍警にも歓迎できない人物として広く知られていた。撫松は、わたしが官憲の手にかかって留置場の飯を食わされたいま一つの陰険な軍閥の巣窟であった。しかし、そこにわたしの少年時代の生身のような一断面が残っており、父の墓があり、愛する中国の友人張蔚華が住んでいるがゆえに、わたしはこの盆地の都市を変わることなく愛していた。
撫松の十字路のかたわらに、一九三二年六月の南満州遠征のときに張蔚華との出会いの場となった「東焼鍋」という酒造工場があった。工場はその後名称を改めたが、南満州遠征のさいわたしがここで張蔚華に会ったという事績にちなんで、再び以前のとおり「東焼鍋」と呼ばれるようになったという。わたしの八十回目の誕生日に、張金泉はその酒造工場製の「東焼鍋」という銘酒を携えてきたが、そのときわたしは撫松の人たちのあたたかい情をあらためて感じたものである。そこでわたしは張蔚華と何回も語り合った。革命について、未来について多くのことを語り合った。そのとき張蔚華は、自分の妻が懐妊したことまで話した。その子が現在、撫松に居住している彼の息子張金泉である。
張蔚華はそのとき、部隊の威容を見て驚いていた。
「成柱の部下たちは本当に頼もしい。ぼくたちが汽車の中で会ってから一年もたっていないのに、こんなに早く軍隊を組織するとは。成柱は大きなことをやってくれた。これなら大事をとげることができる。大したものだ!」
彼は親指を突き立てて、しきりにわたしをほめた。面と向かっての称賛にぼうっとなるほどだった。
「蔚華、あまりおだてないでくれ。われわれはいま第一歩を踏み出したにすぎない。人間にたとえれば赤ん坊のようなものだ。しかし、この赤ん坊を誕生させるには蔚華がくれた数十挺の銃が大きく物を言ったんだ。蔚華はわれわれの軍隊を生みだすうえで無視できない功績を立てた助産婦の一人というわけだ」
「それはお世辞というものだ。ぼくはいま、自分のことをどれほど能無しの無力な人間だとののしっているかわからない。成柱はいまでも以前のようにぼくを信じているだろう?」
「もちろん、信じているとも。それも心底から信じている。あの松花江が逆に流れるようなことがあっても、蔚華にたいするぼくの気持は変わらない」
張蔚華はいきなりわたしの手をきつく握りしめ、訴えるような目でわたしを見つめた。
「それなら成柱、ぼくを成柱の部隊に入れてくれ。ぼくも武器をとって堂々と抗日戦に参加したいのだ。ぼくの願いを聞いてくれなければ、撫松から成柱をどこへも行かせないぞ」
この単刀直入な頼みを聞いてわたしは喜びを禁じえなかった。
「蔚華、本当か?」
「本当だとも。成柱の部隊が撫松に来たその日から、ぼくは毎日そのことばかり考えていたんだ。妻も賛成してくれたし…」
「で、お父さんはどうなんだ。行かせてくれるだろうか?」
「父が行かせてくれようがくれまいが、そんなことは関係しない。ぼくが行くといえばそれまでさ。成柱もあのとき汽車の中で言ったではないか。国がなくなるというのに家がなんだ、親の顔色をうかがっていないで革命に参加すべきだと。陳翰章も富豪の息子でありながら革命に参加しているというのに、ぼくだって救国軍の工作ぐらいはできるじゃないか」
「蔚華がパルチザンについていくというのはよいことだ。だけど蔚華、革命というのは武装闘争という一つの戦線だけではないのだ。ぼくは蔚華が撫松に残って地下革命活動をしてくれたらと思っている」
「地下革命活動だって? それじゃ遊撃隊には受け入れられないというのか?」
「そうではなく、ほかの戦線で戦ってほしいということさ。大衆を教育して結集する地下革命闘争は武装闘争に劣らぬ重要な戦線だ。この戦線で活動する闘士が人民大衆をかたく結集できなければ、武装闘争はその基礎をかためることができない。それで、撫松地区にも強力な地下革命戦線をつくろうと考えたんだ。ぼくはきみがその戦線を指揮する司令官になってくれたらと思っている」
張蔚華は気が抜けた人のようにうなだれ、ゆっくりとメガネを拭きはじめた。
「それじゃ成柱はぼくを敵の銃弾が及ばない第二線に回そうという魂胆だな。金持の息子でぜいたくをしてきたから、苦労に耐えられないというんだろう?」
「そういう考慮がまったくないとはいえない。蔚華の体質では、険しい山を渡り歩く遊撃隊生活に耐えることはできない。ぼくはなにも隠しはしない。蔚華の思想が信じられないのではなく、肉体的な条件を心配しているのだ。だから、山の中で苦労をしようとしないで、家にいて写真館を設けたり教員をしたりしながら、われわれの活動を力の限り援助してくれというのだ。富豪の息子というのはまたとない看板ではないか。その看板なら、革命活動をしても自分の正体をいくらでも隠すことができるのだから」
わたしは翌日も根気よく説得した。押し問答は結局、張蔚華がわたしの助言を容れることで終わった。撫松を発つ日、彼はわたしを見送りながらこう言った。
「正直に言って、ぼくが遊撃隊に入ろうと決心したのは、地下闘争がいやだからではなくて、成柱と一緒にいたかったからなのだ。成柱がいないぼくの生活、それはバイオリンのない管弦楽のようなものだ。ぼくがどんなに成柱のことを思っているか、成柱にはよくわからないだろう。どこへ行ってもぼくのことを忘れないでほしい。ぼくには成柱ほど親しく大事な友だちはいないんだ。くれぐれも体に気をつけてくれ」
張蔚華は涙ながらにわたしを見送ってくれた。その日、わたしは彼を地下共青組織に受け入れた。あれから四年という歳月が流れていた。四年というのは短くない歳月である。だが、張蔚華はいつもわたしの関心の中にあり、わたしの胸はつねに彼にたいする思いでいっぱいだった。
わたしはいまかいまかと金山虎の帰りを待った。大豆油の缶をかついで撫松市内に入った金山虎は油売りをしながらしばらく県城内をぶらついているうちに、張蔚華が「兄弟写真館」を経営していることを知った。見かけは写真館だが、実際は撫松地区の地下組織を指導する本部も同然であった。張蔚華はこの本部にかまえて収益をあげる一方、組織のメンバーとの連係も保っていた。金山虎が写真館を訪ね「張先生、ちょっと会っていただけないでしょうか」と言うと、彼は現像室に案内した。
「わたしは
金山虎がこう言うと、張蔚華はすぐに彼を思い出し、喜びの色を浮かべた。
「ああ、金成柱! 成柱が近くに来ているというんだね。金成柱がいる所につれていってもらえるだろうか?」
「遠いのでいまは無理です。あとで中間地点に適当な場所を決めて知らせるから、そこで金将軍と会うことにしてはどうでしょう?」
張蔚華は疑わしそうな目で山虎を見つめていたが、わたしが送った手紙を読んでようやく微笑を浮かべた。
「いいだろう。それでは連絡を待つことにしよう。手紙をありがたく受けとったと金成柱に伝えてくれたまえ。それに、わたしが元気だということと、約束を忠実に守っているということも報告してほしい」
金山虎は意気揚々と馬鞍山密営に帰ってきた。新しいニュースでいっぱいの彼の報告は、一九三六年の春がわたしにもたらした
わたしが会おうとする人物が、数十ヘクタールの土地と数十ヘクタールの朝鮮人参畑、多数の私兵を擁する富豪の息子であることを知った隊員の中には、穏当を欠いた危険な行為だといって、わたしの廟嶺行きに反対する者もいた。
「司令官同志、差し出がましいことを言うようですが、富豪の張氏の息子に会うのは考えなおしてください。彼は司令官同志の小学校の同窓で長年組織生活もしたとのことですが、階級的本性は変わるわけがありません。なんといっても彼は搾取階級の息子ではありませんか」
わたしはそういう忠告を言下に一蹴した。
「きみたちがわたしの身辺を気づかってくれるのはうれしい。しかし、わたしはそれを受けることはできない。きみたちはいま階級的本性を云々して、司令官がすすんで罠にはまりこもうとでもしているかのように騒いでいるが、それはわたしの無二の革命戦友張蔚華にたいする冒とくであると同時に、われわれの統一戦線政策にたいする冒とくだと言わざるをえない」
「司令官同志! わたしたちは地方組織に属していたとき、人間の階級的本性は変わるものではない、金持とは絶対に妥協してはならない、と教えられました。革命軍に入隊してからも、多くの指揮官からそう聞かされました。それで地主、資本家と労働者、農民のあいだには闘争という一つの原理があるのみであり、搾取階級一般にたいしては誰彼の区別なく打倒するか粛清するしかないと考えるようになったのです」
廟嶺行きに反対する人たちは、一言の訓戒でたやすく引き下がるような者ではなかった。彼らが革命の原理に反するはねあがった主張をするからといって、箝口令を敷くわけにはいかなかった。そのころ、われわれの隊内には、マルクス・レーニン主義の古典の命題を革命実践との連関の中で創造的に考察するのでなく、うのみにしたり機械的に適用する人間がまだ少なくなかった。マルクスやレーニンの命題は、彼らにとって寸分の酌量も許されない絶対的な法規となっていたのである。こうした人たちの思孝方式からドグマをなくすには、地道な原理教育が必要であった。
わたしは話した。
―― 搾取階級に反対してたたかうのはもちろんよいことだ。地主や資本家がわれわれの敵対階級であることはわたしも認める。しかし、きみたちが銘記すべきことは、地主や資本家だからといって一律に扱ってはならないということだ。地主や資本家の中にも国を愛する人がおり、抗日を志す人がいるのだ。ここには五家子の内幕をよく知っている金山虎同志もいるが、そこの趙家鳳という地主は、われわれの革命活動をどれほど助けてくれたかわからない。張蔚華の父親である張万程は趙家鳳よりも積極的にわれわれを援助してくれた。われわれが五家子で武装闘争の準備を進めていた一九三〇年の秋、張蔚華はその私兵が使っていた四十挺の銃をわたしに提供してくれた。いまわれわれが手にしている銃の一つひとつにどれほど高い代価が払われたかは、きみたちもよく知っているはずだ。われわれの隊伍には、一挺の銃のために青春をささげた烈士も少なくない。ところが張蔚華は、命までささげて手に入れなければならなかったそういう武器を無償で四十挺も提供してくれたのだ。張蔚華を信じられない理由がどこにあるというのか。以前、張氏一家がわれわれにどんなに友好の情を示し、わたしの家庭をどれほど助けてくれたかについては、ここであえて話さないことにする。しかし、階級性と階級闘争にたいする一面的な解釈が革命にいかに大きな損失をもたらすかについては、どうしても言っておかなければならない。きみたちの見解どおりにすれば、張万程のような地主は革命にいくら有益なことをしても、搾取階級だから打倒の対象になり、逆に、労働者、農民出身の密偵は革命にいくら害を及ぼしても、勤労者階級だという理由で包容の対象にしなければならないことになる。これはなんと馬鹿げた規定だろうか。共産主義者は人を評価するうえで、つねに公明正大な立場に立たなければならない。つまり、所属や信教、階層のいかんにかかわりなく、りっぱな人はりっぱな人として評価し、功労は功労として評価しなければならないのである。共産主義者はまた、人を評価するうえでつねに科学的な立場に立たなければならない。科学的な立場に立つというのは、なにかの枠をつくっておき、それにあてはめて人を評価するのでなく、その人の思想と実際の行動を基本にし、あくまでも客観的な立場から正確に評価するということだ。人を評価するうえで出身階級のみを絶対視するなら、科学性が保障されず、そのような評価は公正な評価とはいえない。もしわれわれが階級性や階級闘争一面のみを強調して、人びとを極左的に評価するなら、どういう結果をまねくだろうか? 疑いなくそれは、多くの人を敵の陣営に追いやることになるだろう。敵はまさに、われわれがそんなふうにむやみに人を疑い、手当たり次第に打倒することを願っているのだ。われわれはみな間島で反民生団闘争の的となり、たいへん気苦労をしてきた。同じ釜の飯を食い、生死をともにしてきた人たちから疑いの目で見られ、きみたちは胸を叩いて慟哭したではないか。そんなつらい思いをした人たちが、どうしてきょうは疑う余地もない人たちにあの呪わしい不信の武器を向けることができるのか――
わたしは廟嶺行きに反対する者を諭し、何人かの護衛兵をしたがえて馬鞍山密営を発った。
一部の人が金持の階級的本性は変わらないという前提のもとに、張蔚華と会うことに反対したのは杞憂にすぎなかった。彼らが平然と言った言葉がわたしと張蔚華との友情、わたしの家庭と張蔚華の家庭との親交を侮辱したように思われ、不快感を禁じえなかった。それは、十年以上の歴史をもち、松花江の流れのように倦むことも変わることもない神聖で深い友情に墨を振りかけるようなものだった。われわれの友情はいかなる理由や奇弁によっても傷つけることのできない、ひたむきで深奥で真実なものであり、全般的な革命の利益と共産主義的人道主義と倫理道徳にも合致するものであった。有産階級に属する者は搾取者であるという一つの基準で金持をすべて反動派とみなすのであれば、われわれ共産主義者は自分自身を金持にするため社会改造の困難な道をあえて進む必要がないではないか。
わたしは幼いころから財産の有無や多少によって人を評価しはしなかった。人を評価する基準は、その人が人間をどれほど愛し、人民をどれほど愛し、祖国をどれほど愛しているかということであった。金持であっても祖国を愛し人民を愛する人であればりっぱな人間とみなし、無産者であっても祖国愛と人間愛に欠けていれば下劣な人間とみなした。一言でいって、思想を基本にして人を評価したのである。すでに幼いころを回顧した節で述べたが、わたしの少年時代の最初の同志である康允範は裕福な家の生まれであった。彼の家には小さな果樹園もあった。生活水準からいえば、わたしの万景台の家とは比べものにならなかった。しかし、わたしは康允範を非常に愛し信頼した。それは、彼が誰よりも熱烈に祖国を愛し、人民を愛する少年であったからである。
本書の第一巻で述べた白善行も大金持であったが、平壌市民に尊敬されつつ生涯を終えた。実際、彼女を財産家にしたのは、終生、食べたいものも食べず、着たい服も着ず、求めて苦労をした、その超人的な勤倹節約の精神である。言うまでもなく、この世には多くの土地と財物をもち、人間を過酷に搾取して財をなす守銭奴、人倫にもとる蛮行をほしいままにし、あらゆる社会悪を生みだすよこしまな金持が多い。だが、金持と資産家がみなそうなのではない。白善行は仕事という仕事はなんでもやっている。もやし商売、豆腐売り、花売り、機織り、糸紡ぎ、豚の飼育、残飯の売り買いなどまでして、化粧をする暇もなくあくせくと働いて富を蓄えた。十六歳にして若後家の身となって以来、数十年間一日として休むことなく、血と汗によって蓄えた数千数万円にのぼる巨額の金を、彼女は社会事業にそっくりささげたのである。彼女が社会のためにおこなった最初の事業は、ソルメ橋と呼ばれた松山里の石橋の建造である。白後家の徳行に感動した平壌の人びとが彼女の名を善行と呼び、ソルメ橋を白善橋と命名したのはのちの話である。
当時、平壌の新開地には府立公会堂が一つあった。その公会堂の使用は日本人に限られ、朝鮮人は利用できないということを知った白善行は、憤慨の余り朝鮮人のための公会堂建設の工事費を全額負担し、数万円もの資金を惜しみなく投じた。いまも練光亭の前には、かつて平壌公会堂として使われていた三階建ての石造建築が昔の姿をそのままとどめている。白善行は民族教育の発展のためにも莫大な資金をつぎこんだ。平壌の光成小学校、彰徳学校、崇義女学校などは、彼女が寄贈した数十ヘクタールの土地を財源にして運営された。結局わたしも、白後家の功徳がほどこされた彰徳学校で、彼女の徳行の一部にあずかったことになる。
白善行は自分の後援する学校を訪れては、子どもたちにこう頼んだものである。
―― おまえたちは朝鮮の未来をになって立つ子どもたちだ。眠いからといって眠り、遊びたいからといって遊んではいけない。勉強したくないからといって本を投げ出さないで、熱心に学ばなければならない。おまえたちがしっかり学んでこそ朝鮮の独立がなしとげられるのだ――
朝鮮総督府の表彰を伝達するためソウルから高官がやってきて面会を求めたとき、白後家はそれを拒絶した。
幼いころからわたしが主張し堅持してきた思想本位、行動本位の人間評価の基準は、後日、わが国の共産主義運動と民族解放闘争に少なからぬ影響を及ぼした。もしわれわれがこうした基準によって民族の総動員を訴えなかったならば、祖国光復会の傘下にはあれほど多くの大衆が結集しなかったであろうし、祖国の統一が至上の課題となっている現在、あれほど多くの南半部の民衆と海外同胞が民族大団結の旗のもとに肩を組み、「われらの願いは統一」と叫びもしないだろう。もしわれわれが当人の思想や本心を見ようとせず、身分を基準にしてすべての富者に反対する方向に走っていたなら、解放後、鄭準沢、姜永昌、盧太石、李智燦、金応相などの有産階級出身の知識人はわが国の政治舞台に登場しえなかったであろうし、わが国の科学技術を発展させるうえで、あのような驚くべき献身性を発揮し偉勲を立てることもできなかったであろう。
わたしは中国の財産家にもこれと同じ観点と立場でのぞんだ。このような観点と立場に立たなかったならば、大地主の息子である陳翰章を友としなかったであろうし、富豪の息子である張蔚華を革命組織に受け入れ、彼との永遠の友情を誓い合うこともなかったであろう。陳翰章や張蔚華の生涯が示しているように、中国で共産主義運動を切り開いてきた名望家の中には、有産階級出身とその子女が多かった。生涯を中華民族の幸福と共産主義偉業、プロレタリア国際主義偉業にささげた周恩来も、出身からすれば清朝末期の富裕な官吏の息子である。
張蔚華がその出身に束縛されず、有産階級を敵対階級とみなす共産主義者と手を握り、共産主義運動に生涯をささげたのは、わたしの影響によるところが大きかったと思う。彼に愛国主義的な教育をしたのは父親の張万程であるが、共産主義的な影響を与えたのはわたしとわたしの同志たちである。わたしが撫松第一優級小学校の第五学年に編入したころにしても、彼は国を憂える素朴な少年にすぎなかった。わたしも当時はまだ平凡な愛国少年であったにすぎない。彼が共産主義思想を信奉しはじめたのは、わたしが「トゥ・ドゥ」と共青を組織し、その枝を四方に伸ばしていたときである。当時、わたしはわたしの母と朴且石を中心に、撫松で党組織の役割を果たす共産主義秘密グループを結成したのだが、鄭学海、蔡周善とともに張蔚華もその組織に関与した。彼はそのときから共産主義の影響を受けるようになったのである。わたしは史会長の紹介で撫松第一優級小学校に編入したその日から、張蔚華とともに学んだ。優級というのは高級という意味である。不遇な亡国少年である金成柱と富豪の息子である張蔚華が席をともにして学ぶという、歴史のいたずらのようでもある数奇な結合で類まれな友情が芽生え開花したのは、まったく不思議な因縁だといえるだろう。だが、「ともに」という条件がわれわれの友情の起点となったわけではない。わたしと張蔚華との友情は、わたしの父である金亨稷と張蔚華の父親である張万程の親交をその起点としていた。
孔栄と朴振栄に助けられて漫江の土匪の巣窟から無事に脱出した父は、しばらくのあいだ朝鮮人が多く住んでいる大営という村落にとどまっていたことがある。そのとき、以前から親交があった崔面長という独立運動家に、撫松で暮らせるよう県当局の居住許可を得てくれるよう頼んだ。父の依頼を受けた崔面長は県政府を訪ねたが、自分の管轄区域に朝鮮人革命家が住み着くのを喜ばない県長は、亡命者であることを理由に許可しなかった。そんなときに、撫松の富豪である張万程が病気にかかり、名医を探しているといううわさが父の耳に入った。崔面長の依頼で、父は張万程の治療にあたることになった。その過程で、父の筆が彼を感嘆させたという。張万程も能筆であったので、これがきっかけとなって、父と張蔚華の父親は友人になった。父は張万程にも、自分の撫松居住許可の件で県政府に働きかけてくれるよう頼んだ。崔面長は彼なりにまた張万程を説得し、撫松で一番の有志であり知識人である史会長と交渉した。史会長とは、撫松で中学校の校長をしていた史春泰先生のことである。史春泰先生が校長と教育会の会長を兼任していたので、撫松の人たちは名前の代わりに彼を史会長とも呼んでいた。史会長は助力することを約束した。
その後、張万程は県政府を訪ね、朝鮮人亡命者が一人いるのだが、彼が市内で医院を営めるように許可してもらいたい、彼の居住を許可すると日本人の挑発に乗せられそうなので、あなたがためらっているということはわしもよく知っている、しかし朝鮮人が自分の国を奪った日本人に反対してたたかうのは当然なことではないか、あなたも親日派ではないのだから許可すればよいではないか、ここには日本領事館もないのだから怖がることはないではないか、臨江からくる領事館の警察と密偵だけ言いくるめればすむのだから金亨稷が撫松に来ることに反対しないでくれ、と説得した。県長は彼の熱意にほだされ、父の撫松居住を許可した。
張万程は、わたしの父が閉鎖されていた白山学校を復活させ、その認可を得るために東奔西走していたときも、県商務会副会長兼教育会委員の肩書きにものを言わせて有志たちと一緒に県当局を説き伏せ、認可を取りつけた。わたしの一家が打開しがたい生活上の困難に遭遇するたびに、彼は手数が必要なときは手数をかけ、金が必要なときには金を使い、誠心誠意援助してくれた。わたしの家庭にたいする張氏一家の援助は父の他界後もつづいた。張万程は、母がひとりで子どもたちを連れてたいへんだろうと、よく金や食料を送ってくれた。
わたしが吉林で学校に通っていたとき、亨権叔父が軍閥当局に捕まり投獄されたことがあった。禍独り行かずという言葉のとおり、父が死去していくらもたっていないときに叔父まで獄につながれたので、母としてはお先真っ暗であった。母は思案の末に、今度も張蔚華の父を訪ね、警察当局を説得してくれるよう頼んだ。張万程が交渉して、叔父はすぐ釈放された。
張万程は民族の自主権を主張し、祖国を熱烈に愛する良心的な民族主義者であった。彼は世の中がどうであれわれ関せずと安楽に暮らしていける富豪であったが、国を取りもどそうと臥薪嘗胆するわたしの父に同情を寄せ、父の病死後もあつい憐憫の情をもって、わたしを独立運動家として支持し擁護してくれた。張蔚華はわたしが共産主義者であることをよく知っていたが、彼の父親はわたしのことをただの独立運動家と思っていた。撫松には軍閥の手先や日本領事館の密偵もいたが、張万程、史春泰、袁夢周、全亜鐘のような良心的な有志や愛国者も少なくなかった。袁夢周は張蔚華の外伯父にあたる人である。わたしが第一優級小学校に通っていたとき、瀋陽師範学校出身の彼はこの学校で教鞭をとっていた。後日、校長を務めたこともある。彼が担当した遊戯体操とオルガン教習の時間は、生徒にいちばん人気があった。国民党左派に属する全亜鐘も思想傾向のよい人であった。医院と時計屋を兼業していたが、思想だけは非常に進歩的であった。彼の兄である全亜哲もりっぱな人であった。
わたしの父と張万程の親交は当然、わたしと張蔚華の友情に大きな影響を及ぼした。父が張万程の家へ往診に出かけ、張万程がわたしの家に遊びにくるとき、わたしも張蔚華の家を訪ね、張蔚華もわたしの家に勉強をしにきた。張蔚華が家に来ると、母はいつも手づくりの朝鮮料理をもてなした。彼は朝鮮料理をたいへん好んだ。張蔚華の家ではわたしにギョーザを出してくれた。張蔚華が朝鮮料理を好んだように、わたしもギヨーザが大好物であった。ギヨーザをつくるのは山東地方出身の人が上手だったが、張万程はその地方の生まれであった。
一九二〇年代中期の撫松市街は、通りが「井」の字形になっていた。市内の東側に東門が一つ、北側に北門が一つ、西側に西門が二つあり、南側には小南門と大南門があった。大南門から北に少し行くと、張万程が経営していた商店があり、そこからもう少し先の道を折れると張蔚華の家があった。わたしと張蔚華はこの城市の通りという通りをくまなく歩きまわり、門という門もすべてくぐりぬけた。行かない所はなく、遊びという遊びもすべてした。一緒に校庭でテニスをしたり、松花江で水浴びをしたりしたものだ。文芸・娯楽競演会にも一緒に参加した。
張蔚華は内向的な性格だったが、剛直で情熱的な人間であった。正義を守るためなら後先を考えず真っ先に飛びこみ、不正にたいしては相手が誰であろうと断じて許さなかった。いったん決心すると刃の上にでも立ちかねない鋭気ある人間であった。ある日、警官が生徒の面前でわれわれの学校の教員につまらぬことで言いがかりをつけ、その教員を殴り倒したことがあった。教員を神聖な存在と思っていた生徒たちは、この驚くべき光景を目のあたりにしてひどく憤慨した。わたしは張蔚華とともに、生徒たちを立ち上がらせるため弾劾演説をした。――警官が教員に暴行を加えたのは学園にたいする侵害であり、教職員と生徒にたいする重大な冒とくだ。小さい県警察署の警官ごときが教員に乱暴を働くとはもってのほかだ。われわれは教え子として当然、警察当局に謝罪させなければならない。あの無頼漢のような警官が学校に来て暴行を受けた先生に脱帽して謝罪するようにさせよう――
われわれは「教員に暴行を加えた野蛮な警官を厳罰に処せ!」「教員の正当な権利と利益を守ろう!」というプラカードをかかげて県政府庁舎の前に押しかけ、悪徳警官の処罰を要求する座り込み闘争を展開した。しかし、県政府はこの正当な要求を黙殺し、生徒を丸めこんでこの事件をうやむやにしてしまおうとした。闘争は失敗に終わった。われわれは腕力でその警官をこらしめることにした。ある日の晩、わたしはその警官が劇場に行くという通報を受けた。警官をこらしめるには絶好の機会であった。ところが、警官を殴りつけたあと他の警官が駆けつける前に劇場を抜けだすには、舞台の上のガス灯をなんとかしなければならない。誰がそれを消すか? この問題を話し合ったが、張蔚華が自分にやらせてくれと言った。その夜、十余人の生徒は劇場に行って予定どおりに事を運んだ。休憩時間になったとき、張蔚華が舞台に駆け上がり、棒切れでガス灯をうちこわした。「なぐれ!」とわたしが叫ぶと、生徒たちは警官がひざまずいて謝るまで殴りつけ、すばやく姿をかくした。
引き揚げる途中、張蔚華はわたしにこう言った。
「まったくいい気分だ。不正を力で裁くのがどんなに気持よく痛快なことか、今晩はじめてわかったよ」
「あんな連中は許してはならないんだ。あんなやつらとは同じ空の下で暮らすことはできない」
わたしがこう言うと、張蔚華は急に立ち止まり、深刻な口調で聞いた。
「成柱は小学校を卒業したら、どの学校に行くつもりなんだ?」
それはまったく思いがけない質問であった。わたしは小学校を卒業したあとの自分の身の振り方については、まだ真剣に考えたことがなかったのである。それで、ごく月並に答えた。
「そうだな、できれば中学校に進みたいが、ぼくの立場ではとうてい無理な話だよ。蔚華、きみはどの学校に行くつもりなんだ?」
「ぼくは外伯父が通っていた瀋陽の師範学校に行きたい。父もそうするようにと言っている。きみさえよければ、ぼくはきみを瀋陽に連れていくつもりだ。そこで同じ学校に通おうじゃないか。師範学校を卒業したら大学にも一緒に行って…」
「亜青、そう言ってくれるだけでもありがたい。でもそんなことが果たして実現できるだろうか?」
「なぜだ? 学費のためかい?学費のことなら心配するな。ぼくがいるじゃないか」
「それはぼくの両親が許さないだろう。それに、ぼくもいつまでも勉強ばかりしようとは思っていない。亡国の民になってしまったというのに、大学どころではない」
「お父さんのあとを継いで独立闘争をするというんだな? きみが革命の道に立つときには、ぼくもついていくよ」
「瀋陽はどうするんだ? 師範学校へ行くと言ったじゃないか」
「それは、きみが一緒に行くならの話であって、きみが同行しない瀋陽行きなんてありえないよ。ぼくはね、一生きみのそばにいたいんだ。きみが上級学校に進むならぼくも上級学校に進み、きみが共産党になるならぼくも共産党になり…」
張蔚華が言いたかったのはこのことであった。張蔚華の言葉はわたしをいたく感動させた。わたしは彼の手を握りしめて小声で言った。
「亜青、ありがとう。だけど、きみは共産党がどういうものか知っていてそんなことを言うのかい?」
「知っているとも。李大釗や陳独秀がやっているようなことだろう」
「共産党になれば投獄されたり、死ぬことだって覚悟しなければならないのだぞ。そんな覚悟ができているのか?」
「そんなことは怖くない。きみと一緒なら投獄されても死んでもかまわない」
張蔚華のこの唐突な宣言は、わたしをひどく驚かせた。彼がどんな衝動にかられてそんな宣言をしたのか、見当がつかなかった。明白なのは、その晩、彼がわたしに言ったことは、以前から暖めてきた理想と信念の告白であるということである。張蔚華はわたしの理想を自分の理想とし、わたしの信念を自分の信念にしようとしたのである。彼は自分の主義を決めたうえでそれにかなった友を選んだのではなく、友を選んだうえで、友の志向する主義にしたがったのである。将来を決定する方法としてはきわめて単純なようであるが、意味深長といえる。張蔚華のこういう立場は、わたしにたいする絶対的な信頼と友情に根ざしていた。彼は心からわたしを憧憬し慕っていたのである。
わたしが華成義塾に進学するとき、彼が泣きながら自分も一緒に行くと言ったのは無理からぬことである。彼との別れはわたしにとっても堪えがたいことであった。別れを前にして張蔚華があまりにも悲しむので、わたしは二晩も床をともにして、夜通し彼をなだめなければならなかった。一晩はわたしの家で、一晩は彼の家で語り合った。わたしが樺甸に向かう日も、彼は松花江の渡し場まできて涙ながらに見送ってくれた。
その日、彼はわたしにこんなことを聞いた。
「成柱、身分の差というのはエベレストよりも高いものだろうか?」
「身分の差など、なんの関係もないさ。お父さんがきみの頼みを聞いてくれないのは、まだ他郷で苦労させたくないからさ」
「もし身分の差のために父がこんな束縛をするのなら、ぼくはきみとの友情のために喜んで貧乏人になる覚悟ができている。とにかく成柱、きみがどこでなにをしようと、ぼくはいつかはきみを訪ねていくということを忘れないでくれ」
張蔚華はその後、この決心をそのまま実行した。わたしが吉林で毓文中学校に通っていたとき、彼は父親の拳銃を盗みだし、家族には行先も告げずにわたしを訪ねてきた。前ぶれもなく突然現れた張蔚華を見て、わたしは唖然とした。
「成柱、ぼくはついに家庭という枠を越えてきみのところにやってきた。さあ、これがぼくの決心だ!」
彼は拳銃を取り出した。そして、得意げに天井の一点を見つめた。
「お父さんがよく許したものだな」
「許すわけがない。いますぐ瀋陽へ行けというのを振り切って、黙って抜けだしてきたんだ」
「ご両親が心配するのではないか?」
「きっと大騒ぎをしているだろう。しかし、そんなことはかまわない。探して見つからなかったら、誰かが吉林に来るだろう。十中八九きみのところだと思いこんでいる」
張蔚華が予想したとおりだった。数日後、彼の兄の張蔚中が私兵を連れ、毓文中学校に弟の行方を尋ねてきたのである。弟がわたしのところに来ていると聞いて、彼は胸をなでおろし、地べたに座りこんだ。
「よかった。土匪に捕まったとばかり思っていた」
「蔚中兄さん、わたしたちがよく面倒をみますから、亜青のことは心配しないでください」
わたしがこう言うと、張蔚中は「成柱、おれは安心して帰る。蔚華はおまえにまかせる」と言った。彼は張蔚華から拳銃を取り上げもせず、私兵を連れて撫松へ帰ってしまった。
その後、わたしは張蔚華を五家子と孤楡樹地方に派遣した。彼はそこで一年ほど教鞭をとっていたが、両親の望みどおり上級学校を卒業してからわれわれのところに来て革命活動をする方がよいというわたしの助言を容れて家に帰った。
このように、わたしと張蔚華の友情は出会いと別れという両極点がたえまなく交錯する中で、月日がたつにつれいっそう深まっていった。
当時わたしと張蔚華が落ち合った洞窟は、いまも撫松にそのまま残っているという。鉤形のその洞窟は奥行きが十五メートルほどのもので、密会の場としてはこれ以上理想的な場所はないといえるほど大自然の中に深く隠されていた。張蔚華はわたしを見ると、前後を忘れて泣き出した。わたしも、現像液の臭いが染みついた彼の肩を抱きしめて泣いた。
「成柱、いままでどこへ行っていたんだ。なぜ一回も撫松に来なかったのだ。どれほど成柱を待っていたことか」
張蔚華はこう切り出した。
「ぼくもどんなに会いたかったか知れない。ぼくも撫松に来たかった。撫松に来て蔚華の顔を見たかった」
「それなら手紙でも寄こすべきじゃないか。ぼくには成柱の居所がわからないが、成柱はぼくの居所を知ってるではないか」
「蔚華、許してくれ。われわれがいた間島の遊撃区には郵便局もなかったんだ」
「郵便局がないって? この世にそんなところもあるのか?」
わたしは四年間の辛苦をつぶさに話した。張蔚華はわたしが話しているあいだも、手の甲でしきりに涙をぬぐった。
「蔚華、なぜ泣いてばかりいるんだ? なにかよくないことでも起こったのか?」
わたしは話を切って彼の顔をのぞきこんだ。
張蔚華は涙をぬぐってつくり笑いをした。
「成柱が歩んできた道があまりにもきびしいので、つい涙が出た。成柱がそんなに苦労しているときに、ぼくがそばにいなかったことを思うと、胸が張り裂けそうだ」
「いや、そうではない。蔚華はいつもぼくのそばにいた。ぼくのそばにいて、ぼくを励ましてくれたんだ」
「ありがとう。成柱がぼくを忘れなかったというだけでも、ぼくは幸せだ。みんな成柱のことを将軍とか司令官とか呼んでいたが、ぼくもこれからそう呼ぶことにする」
張蔚華が司令官という言葉を口にしたので、わたしはあわてて手を振った。
「蔚華、ほかの人たちがみんな司令官と呼んでも、頼むからきみだけは成柱と呼んでくれ。ぼくもきみを先生と呼ばずに蔚華と呼ぶことにする。成柱、蔚華!… なんとよい呼び名ではないか。ところで蔚華、きみはその間どう過ごしていたんだ?」
張蔚華は老人のようにかぶりを振り、寂しそうに笑った。
「成柱のことを聞くと、ぼくのことは話す気にもなれない。ぼくがこの鶏の巣のような撫松でなにができるというんだ。華成義塾時代の成柱の同窓生の康炳善と二人で『兄弟書局』と『兄弟写真館』を設け、それを拠点にして共青組織を指導しただけのことさ」
彼は共青組織の活動状況と撫松地方の反日団体の動きについて手短に説明した。わたしは張蔚華の活動の成果をねぎらった。そして、共青組織を母体にして、撫松地区に党組織を結成する新たな任務を与えた。張蔚華は困りはてた様子であった。
「成柱、ぼくの力でそんな大きな仕事ができるだろうか? 地下活動の経験も浅いし…」
「四年間も共青組織を指導してきたのだから、それも大きな経験といえる。政治委員の金山虎をたびたび派遣することにするから、困難なことがあったら彼の助けを借りればいい」
われわれは三時間以上も語り合った。話が活動上の問題から再び私生活の問題にもどると、張蔚華はいきなりわたしの肘をつかみ、家族の安否を尋ねた。わたしはしかたなく、母が他界したこと、哲柱が戦死したこと、英柱が他人の家に世話になりながら児童団活動をしていることなどを話した。それは話題にしたくない事柄だった。張蔚華の気性をよく知っているので、彼がそれを聞いて胸を痛めるのではないかと心中ひそかに恐れた。そうなると、わたしの心の傷からも血が流れ出そうに思われた。四年ぶりに果たしたわれわれの出会いに、悲劇的な色をおびさせたくなかったのである。しかし、事は心配していたとおりになってしまった。わたしの話を聞くと、張蔚華はまた両手に顔を埋めてすすりあげるのであった。
「これで、成柱はまったくの独りぼっちになってしまったんだな。英柱もかわいそうだ。英柱のためにぼくができることはないだろうか? 居所だけでも教えてくれ」
彼はポケットから万年筆と手帳を取り出し、わたしの顔を見つめた。わたしは軽く手を振った。
「蔚華、英柱ももう子どもじゃない。あの年なら自分で生きていけるさ。英柱に情けをかけようという考えなど絶対に起こすんじゃない」
こう言っても張蔚華は聞き入れず、手帳を広げたままねばった。わたしは仕方なく安図の金正竜の住所を書き込んだ。張蔚華があれほど早く非命の最期を遂げていなかったなら、安図の英柱のために大きな慈善をほどこしたであろう。
廟嶺洞窟で会ったあと、われわれは大営温泉村で二度目の対面をした。大営の向かい側の谷間にわれわれの司令部が二、三十名の隊員を率いて駐屯していたのだが、そこから張蔚華に会いに行った。そのとき彼は温泉へ行くという口実で大営に数日間とどまっていた。われわれの部隊が撫松地区に進出して以来、敵がわたしの縁故者や知人の後をつけて厳重に監視していたので、彼も司令部の安全には格別気を使っていた。
わたしと張蔚華は温泉につかりながらも大いに語り合った。そのときの対話の中でいまも忘れられないのは、彼がわたしに言われたとおりに共青組織で鍛えられた中核分子で党組織を結成したと誇らしげに語ったことである。あのとき彼の顔に表われた朝焼けのように明るく幸せそうな表情を、わたしはいまも忘れることができない。張蔚華が大営にいるあいだに、彼が推薦して連れてきた三人の共青員を部隊に受け入れた。自分が手塩にかけて育てた青年たちが革命軍の軍服をまとい、銃を肩にして現れたとき、張蔚華の口元に浮かんだあの幸せそうな微笑も、わたしは永遠に忘れることができない。その三人のうちの一人である教員出身の延書記は、後日われわれの部隊が白頭山地区で活動したとき、密営の樹木に多くのスローガンを記した。いまでも多くの密営にその樹木が残っているはずである。
大営温泉での出会いでいまもとりわけ印象深く思い出されるのは、別れの前夜の最後の対話である。そのとき張蔚華はわたしの手をとってこう言った。
「成柱、ぼくは成柱を見るたびにすまなく思うことが一つある」
「なんだろう?」
彼がはにかみながらわたしを見つめるので、わたしも好奇の目で見返した。
「ぼくは早婚で、満二十歳にもならないうちに結婚し、四年前に一子をもうけ、数か月後には二子の父となる。成柱が部隊を率いて南戦北征の困難な道を歩んでいるときに、ぼくは家にいて結婚し、子どもを育てながらぬくぬくと暮らしていたのだから、まったく恥ずかしい話だ」
「なにを言うんだ。結婚して父親になるのがなんの罪だ。祝福を受けて当然だ」
「しかし、ぼくより一歳上の成柱はまだ独身ではないか。成柱、どうなんだ。いつまで独身で通すつもりだ?」
「そうだな、ぼくはまだ結婚については考えたことがない。結婚がぼくの関心事となるには、まだまだ時間がかかりそうだ」
「そんなことを言っていると、婚期を逸するぞ。成柱に異存がなければ、ぼくが撫松で結婚相手を探してみる。撫松で見つからなかったら瀋陽、天津、長春、吉林、ハルビンをくまなく探しまわってでも、みんなをあっと言わせる絶世の美人を見つけてみせる」
「やめるんだな。そんな美人が山に来て、のどにひっかかる粒トウモロコシのかゆを食べるというはずがないだろう」
「いまに見たまえ。楊貴妃のような美人を見つけてみせるから」
張蔚華はこんな冗談を言って、握ったわたしの手を大きく揺すって大営を後にした。そのときの彼の微笑は消しがたい映像となってわたしの網膜に焼きついている。それは張蔚華がわたしに残していった最後の微笑であった。もちろんわたしは、彼が言ったことが本気とも冗談ともつかぬことであり、実現不可能な約束であることを百も承知していた。にもかかわらず、わたしはその言葉に張蔚華ならではの真の友情を感じた。張蔚華だからこそ、わたしのためにあれほど率直で純潔な、熱い約束をしたのである。
撫松へ帰った張蔚華は、財力と精神力を傾けてわれわれの部隊を熱心に援助した。彼の主動的な努力によって調達された綿、靴、靴下、下着、薬品、食糧、写真機材など莫大な量の援護物資がつぎつぎと密営に運び込まれ、撫松地区における革命軍の活動を経済的に大いに助けた。彼のまごころこもった三千元の大金で、児童団員と主力部隊の隊員の服を新調し、各種の給養物資も購入した。
大営の警察分署長唐振東はわたしがよく知っている人であった。梁世鳳との合作のために南満州へ行くときにも、撫松で彼に会ったことがある。われわれが再び大営へ行ったとき、彼は密使をよこし、自分たちに公然と脅迫状を送れ、そうすれば朝鮮人民革命軍の脅迫に屈するようなふりをして、要求する物資をなんでも送ると言ってきた。
「脅迫状」を受け取って以来、彼は数回にわたって豚肉、小麦粉、大豆油、メリヤス製品などの給養物資を牛車に積んで送ってよこした。 その物資のおかげで、警護中隊は二十日間ほど苦労をせずに過ごした。
その年の秋、張蔚華は突然憲兵隊に捕まり投獄された。彼を密告したのは、ひところ白山青年同盟撫松県支会の会長を務めたことのある、わたしの小学校時代の同窓生鄭学海であった。彼は当初は革命風を吹かしていたが、のちに変節して臨江憲兵隊の操縦する宣撫工作班に入った。宣撫工作班は帰順工作隊と同義語である。わたしが部隊を率いて撫松地方へ進出したのち、敵はわたしの行方をつきとめるため変節漢を方々に派遣した。
ある日、鄭学海が張蔚華を訪ね、「
張蔚華は死を前にして妻にこう言い残した。
「
彼は「敵はスパイを派遣して朝鮮人民革命軍の司令部を探している。司令部を早く移すように」という内容のわたし宛の手紙をしたためたあと、現像用の昇汞(しょうこう)(塩化第二水銀の俗称)を飲んで自決した。この悲痛な出来事が起きたのは陰暦の一九三七年十月二日のことだという。張蔚華は、そのときまだ二十五歳にもならぬ紅顔の青年であった。
わたしの親しい友人であり忠実な革命の戦友である国際主義戦士は、こうして逝った。彼はわたしのために、朝鮮革命の司令部のために、朝中両国人民の共同偉業のために、砲声とどろく中華の大地に愛する父母、妻子と青雲のような美しい夢を残したまま、壮烈な最期を遂げたのである。彼が自分自身よりも愛した息子の張金泉はそのとき四歳であり、娘の張金禄は生まれたばかりであった。人が天寿をまっとうできずに死ぬことほど、痛々しく無念なことはない。張蔚華は失策して捕われたが、実際は命まで断つことはなかったのである。憲兵隊にもっと多くの賄賂をつかませれば、「罪」を黙認させることもできたし、いくつか殴打される程度で寛大な処分を受けることもできたはずである。だが、彼は自決の道を選ぶことによって、生きることを自ら放棄してしまったのである。
人が生きるのも容易なことではないが、死ぬのもたやすいことではない。死に方はさまざまであるが、自決はもっとも苦しい死に方というべきであろう。過ぎ去った過去よりも来るべき未来の多い青年にとって、自決は悲壮な決意と気強さがなければできることではない。これまで、自ら生きることを断念し死を選んだ人は少なくないが、そのほとんどは自分自身のためにその道を選んだのである。張蔚華のように、他人のために死を選んだ例は多くない。それは人間のための人間の犠牲の中でも、もっとも気高く美しい犠牲といえよう。彼の犠牲がほかの人間のそれよりも悲壮で荘重な意味をおびる理由はここにあると思う。
張蔚華が自決したという悲報に接したわたしは数日間、夜も眠れず食事もとれなかった。わたしのすぐそばでこの世の一角が音を立てて崩れ落ちていくような虚無感と、胸を刺されたような衝撃のために、わたしの魂は底なしの迷宮に落ち込んでいくようだった。あの悲嘆の日々、わたしの胸には追悼歌のうら悲しいメロディーがどれほど響いたことか。彼がわれわれの部隊への入隊を希望したとき、その願いを聞き入れてやらなかったことが悔やまれた。もし彼が人民革命軍に服務していたなら、もっと長生きできたのではなかろうかという未練に、肺腑をえぐられる思いであった。彼が入隊を願い出たとき、当然それを審議にかけ、部隊に受け入れるべきであった。そうするのは原則的な要求でもあった。一青年が入隊を熱烈に志願するとき、その願いをかなえてやるのは当然のことではないか。だが、わたしはその原則を守らず、第一線に立つべき張蔚華を第二線に立たせたのである。わたしが原則に反してまで彼の入隊志願を認めなかったのは、あまりにも彼を愛していたからである。富豪の子で苦労を知らずに育った彼を、山できびしい試練にさらさせたくはなかった。自分はそんな苦労に耐えぬくことができるが、張蔚華には無理だと考えたのは、彼にたいする偏愛のためであった。それが間違っていたと非難されても、返す言葉がない。
かつて申圭植、朴英、楊林、韓偉健、張志楽、金成鎬、鄭律成、韓楽然など数千数万の朝鮮の共産主義者と愛国者が中国革命のために身を挺して戦ったように、 数多くの中国の息子と娘が朝鮮革命のために貴い生命をささげたのである。愛に国境がなく、科学に国境がないように、革命にも国境はない。張蔚華やノビチェンコ、チェ・ゲバラ、ベチューンの実例がそのことをよく示している。張蔚華やノビチェンコは国際主義者の典型であり、 スペイン人民戦線運動にたいする世界各国の共産主義者の支援と中国人民義勇軍の抗米援朝運動は国際主義の模範である。張蔚華の名は、それらの模範の中でも巨星のように輝いている。
今日、張蔚華は朝鮮人民のあいだで朝中親善の象徴と呼ばれている。朝鮮人民は老若男女を問わず、朝鮮革命にたいする彼の業績を崇敬の念をもって追憶している。
4 革命戦友 張蔚華
生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものだろうか? つづくとすれば、どんな形でつづくのだろうか? これは、伝令兵の金正徳が鶏冠拉子戦闘で戦死した直後、彼の親友であった金鳳錫がわたしに投げかけた問いである。金鳳錫はパルチザン時代のわたしの伝令兵であった。彼は金正徳が戦死したあとも、長いあいだ故人のことが忘れられず、悲しみに沈んでいた。そのときわたしは、生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものであり、その場合の友情は、生きている人が故人のことを忘れず、故人が生きている人の追憶に刻みつけられる形でつづくのだ、と答えた。その実例として、わたしと張蔚華の友情について話した。
それは、体験にもとづくわたし自身の心情の告白であった。張蔚華が死去して数年たっていたが、わたしは彼のことを忘れていなかった。夢の中にもたびたび彼が現れ、生前と変わらぬ姿でわたしと友情を交わしたが、そんな夢から覚めたときはじつにはかない思いがしたものである。
金鳳錫はまた聞いた。
「司令官同志、生きている人が故人のためにできることはなんでしょうか?」
おそらくそのとき伝令兵は、生涯の座右の銘となる深奥な訓戒のようなものを聞きたかったのだろう。だが、わたしはそんな質問に十分に答えられるだけの準備ができていなかった。生きている人と故人の友情にかんする問題が、わたしの精神生活の一部を占めていたことは確かであるが、それは山奥のきこりでも考えられるような平凡で素朴なものであった。
「生きている人が故人のためにできることのうちでいちばん大事なのは、故人の遺志をしっかり守ることだと思う」
そのとき、わたしが金鳳錫に答えたのはこれだけである。わたしと同じ立場に立たされたら、おそらく誰でもそういう答え方をしたと思う。わたしが言ったことは、きこりだけでなく、小学校の生徒でも答えられる単純な事理であったが、金鳳錫はそれを深刻に受けとめた。金正徳の遺志は、国の解放をなしとげるまで、司令官同志に忠実に仕えてくれということであった、金鳳錫はその遺志を守り、解放の日まで忠実に仕えてくれた。そして、彼自身も戦死したのである。
故人の遺志をかたく守ることが、彼らにたいする生者の至高の道義であるというのは、抗日戦争の日々わたしの戦友たちがひとしくいだいていた共通の見解である。
「倒れた革命戦友の敵を討とう!」
「中隊長同志の遺言を肝に銘じて、あの高地を占領しよう!」
「同志たちが言い残したとおり、必ず祖国を解放しよう!」
戦場や宿営地、行軍路などにしばしば響いたこのようなスローガンには、倒れた戦友の遺志を守ろうとするパルチザン闘士の志向と念願がそのまま反映されていた。朝鮮の共産主義者は自己に課された革命任務を忠実に遂行することによって、先立った戦友への道義を守ろうと努力したのである。わたしもまた、革命任務を忠実に果たすことによって、先に逝った革命同志の遺志を守り、彼らが生前に寄せてくれた大
きな信頼と期待にこたえようと奮闘した。わたしはいまも、このような立場と観点に立って、党と人民から課された革命任務の遂行に専念している。
だからといって、これが故人にたいする生者の道義のすべてだといえようか。祖国の解放という大事変を分岐点として、この道義の内容は新しい時代の要請と条件に即応して比べようもなく豊富になった。故人の遺志を守れば亡き戦友にたいする生者の友愛をつくすことになると考えていた人たちが、それだけでは満足できなくなったのである。彼らは異国の山河に散り散りになっている戦友のなきがらを祖国に移したいと考え、歴史の森に埋もれている戦友の業績を次の世代に知らせたいと考えるようになった。国が富強になると戦友の銅像を立てたいと考え、新しい都市や街が生まれると、それに戦友の名を冠したいと思うようになった。
倒れた戦友にたいする同志的道義は、彼らの子女にたいする愛情に集中的に表われた。わたしは祖国に凱旋するとただちに活動家を派遣し、海外に散り散りになっている革命家の遺児を祖国に連れてきた。砂原で金の粒を拾い集めるように、一人また一人と探し出しては、万景台革命家遺児学院で学ばせた。国内で戦った闘士の子女たちもこの学院に入れ、新しい朝鮮建設の担い手に育成した。
一九七〇年代には、戦友たちの姿を子々孫々に伝えるため、大城山の朱雀峰に革命烈士陵を建設した。兄弟山区域新美里の丘には、第二の革命烈士陵ともいえる愛国烈士陵が建立された。これらの施策と措置は、革命闘争で犠牲となった人たちにたいする生者の道義を最大限に具現しようとする朝鮮共産主義者の崇高な同志愛と変わらぬ情義の表われである。朝鮮の共産主義者は半世紀以上にわたる長い革命実践を通じて、生存している革命戦友は言うに及ばず、亡き戦友との関係においても、万人に称賛される模範を創造した。
生きている人と故人のあいだにも友情はつづくということは、朝鮮の革命家が創造した比類ない人間関係の歴史、同志愛の歴史が如実に物語っている。わたし個人の歴史で見れば、張蔚華との友情を想起するだけで十分であろう。
わたしと張蔚華の友情が彼の死によって終わったと考えるなら、それは正確な判断とはいえない。ある人の死が彼との友情の終わりを告げる終幕となるなら、そんな友情をどうして真の友情といえようか。生きている人が故人を忘れなければ、そのことだけでもその友情は生きた友情、生命をもった友情となるのである。わたしと張蔚華の友情は彼の死後もつづいた。張蔚華は他界したが、わたしは片時も彼を忘れることがなかった。彼が残していった人間的な香りは、流れる歳月とともにわたしの心にいっそう深く染みこんだのである。抗日戦争が朝中共産主義者の勝利に終わったとき、わたしの脳裏に最初に浮かんだ幾多の中国の同志と恩人の中でも、真っ先に思い出されたのは張蔚華であった。解放された祖国で、わたしとわたしの一家を助け、朝鮮革命を誠心誠意援助してくれた多くの中国の恩人を一人ひとり思い浮かべると、じつに感慨無量であった。よい世の中がめぐってくると、恩人たちにたいする懐かしさもいっそうつのってきた。
わたしは張蔚華を思い出すたびに、彼が残していった父母と妻子のことを考えた。とりわけ彼の一家のことをしきりに考えたのは、日本が無条件降伏をしたあと、東北地方で土地革命をはじめとする民主諸改革が実施され、蒋介石の国民党軍隊と中国人民解放軍のあいだに展開された内戦の炎が満州全域に広がっていたときであった。各地で悪質地主や買弁資本家を一掃し、親日派、民族反逆者を打倒しているときだったので、張氏一家も独裁の対象と判定され、不当な制裁を受けるのではなかろうかと憂慮したのである。隣国で動乱が起こり、なにかを打破する社会的運動が展開されるたびに、わたしは張蔚華の遺族の運命を憂えた。張蔚華が功績の大きい革命烈士であることは事実だが、地下工作が多かっただけに、大衆が大金持の息子である彼を反動派や逆賊と断定せずに共産主義者と認めるだろうか、と考えたりもした。彼らに会いたいという思いは日増しにつのるばかりであった。しかし、建国と反米大戦(朝鮮戦争)、社会主義基礎建設など、その複雑な進展過程は、わたしに多くのことを後回しにせざるをえなくした。探したい人も多く、会いたい人も多かったが、わたしは国事のためにそれらの誘惑をしりぞけ、仕事に専念した。
わたしが張蔚華一家の消息を知ったのは一九五九年ごろであった。その年、わが国では抗日武装闘争戦跡地踏査団が組織されて満州に向かった。わたしは踏査団が出発するとき、団長の朴永純にこう頼んだ。
「朴捕吏同志、馬鞍山密営で子どもたちが病気と寒さに苦しんでいたとき、布地や金を送ってくれた『兄弟写真館』の主人張蔚華を覚えているかね? 彼が他界して二十年以上になるというのに、わたしはまだ彼の父母と妻子に挨拶もしていない。撫松へ行ったらわたしに代わって故人の遺族に挨拶をし、よろしく伝えてほしい」
「承知しました。わたしも撫松では張蔚華の遺族を訪ねるのが道理だと思っていました。彼にはずいぶん世話になったのですから」
朴捕吏は感慨にひたり、しきりに目をしばたたいた。
「実際、張蔚華は国籍は違うが、朝鮮人も同然であり朝鮮の革命家と変わりがない。彼の業績は中国の共産主義運動だけでなく、わが国の抗日革命史でも一ぺージを飾るに十分なものだ。もし張蔚華の遺族が撫松から他の地方に転居していたら、公安機関の助けを借りてでも必ずその行先をつきとめてほしい」
「わかりました。中国全土をくまなくあたってでも彼らを探します」
踏査団が中国に向かったのち、わたしは撫松の消息を待ちわびた。戦火の傷跡をいやし、都市と農村における社会主義的改造も終わったあとだったので、先立った戦友とその遺族の運命に関心を払う多少の精神的なゆとりが生まれたのである。
祖国を発って数か月後、ついに朴永純は待ちこがれていた撫松の消息を電報で知らせてくれた。
「きょう撫松で張蔚華の家族に会いました。首相の挨拶を間違いなくお伝えしました。夫人は礼を述べ、泣くばかりでした。夫人が踏査団に写真を一枚くれました。首相と張蔚華の共同闘争を反映した資料を収集するため最善をつくしています。くわしいことは帰国してから報告します」
後日、わたしは朴永純の報告を聞いて、張万程が一九五四年に死去したことと、彼が物故したあと、張蔚華の妻が息子の張金泉と娘の張金禄を連れて、撫松の旧家でつましく暮らしていることを知った。
朴永純がわたしの挨拶を伝えると、張蔚華の妻はいたく感激したという。
「空は時間とともに変わり、人は生きていくうちに変わるというのに、
彼女は答礼として数十年間大事に保存してきた一枚の写真を踏査団の団長に差し出し、わたしに渡してほしいと頼んだ。それがほかならぬ張蔚華とわたしの弟の哲柱が一緒に撮った写真である。その写真は、その年の秋に革命戦跡地踏査団が収集してきた事績資料とともに、当時の民族解放闘争博物館に展示された。張蔚華の顔が朝鮮人民に知られるようになったのはそのときからである。
展示場を見て回ったとき、わたしはその写真の前に長いあいだ釘づけにされてしまった。二十余年前に大営で別れた張蔚華が、生き返って平壌を訪れたのではないかと錯覚させられるほど、その写真は大きな衝撃を与えた。それまで朝鮮人民の中で張蔚華を知っている人はそれほどいなかった。宣伝部門の要職を占めていた事大主義者らがわが党の革命歴史と革命伝統についてよく紹介していなかったときなので、彼がわたしをどう助け、朝鮮革命のためにどんな業績を築いたのかを知っている人もあまりいなかった。張蔚華とわたしの緑(えにし)を知っているのは、数名の抗日革命闘士だけであった。わたしは随員たちに、彼がいかにりっぱな人間で、いかにりっぱな革命家で、いかにりっぱな国際主義者であるかを誇りたかった。二十余年の歳月、わたしの胸にたまりつづけた憐憫の泉、追慕の泉がついに噴水となって吹きあげたのである。
「この人が撫松第一優級小学校時代のわたしの同窓生、張蔚華です。彼はわたしの友人であると同時に、忠実な革命戦友でした。彼の戦友の中には朝鮮の共産主義者がたくさんいました。張蔚華はわたしを通じて朝鮮を理解し、わたしとの交友を通じて朝鮮人民の抗日闘争に共鳴と支持声援を寄せた偉大な国際主義戦士です。革命に参加しなくてもぜいたくに暮らせる人でしたが、彼は自発的に闘争の道に立ちました。そして、その道で生命までささげてわたしを守ってくれました。きょうここでこの写真を見て、彼のことが思い出されてなりません。われわれは幸せであればあるほど、張蔚華のような恩人を忘れてはならず、われわれの革命偉業を血をもって助けてくれた中国の友人たちを忘れてはなりません」
それ以来、わが国の出版物には張蔚華の業績が広く紹介されるようになった。張蔚華は、羅盛教や黄継光のように朝鮮人民の誰もが知る有名な国際主義烈士となったのである。われわれの次の世代は、金振や馬東煕を思い浮かべるように、つきない愛情と尊敬の念をもって張蔚華を追憶している。
わが国の踏査団が撫松に到着したつぎの日、張蔚華の妻は子どもたちにこう語ったという。
「
母の思い出話を聞いて血気盛りの二十代の青年、張金泉はなかなか寝つくことができなかった。一九五九年の張金泉は、父親が現像液を飲んで自決したときの二つ上の美青年であった。彼は家族一同の心情をこめて、わたしに長い手紙を書いてよこした。その手紙を手にしてから数日間、しきりに張蔚華のことが思い出されて夜も眠れなかった。わたしと張蔚華をつないでいた友情の血は、わたしが伝えた挨拶と張金泉の手紙によって、再び同じ動脈を駆けめぐるようになったのである。
故人にたいする生者の友情は、先立った人たちの子女にたいする生者の愛情と配慮を通じてもつづくものだといえる。張蔚華にたいするわたしの友情は、わたしと彼の遺児たちとの対面が重なる中で新たなおもむきをもって深まっていった。
張金泉から手紙を受け取って以来、わたしの関心は、容貌も気性もまったくわからないこの未知の青年にそそがれた。筆跡は不思議なほど父親のそれと似ていた。面ざしまで父親に似ていればいいのだが、そして彼の姿を写真でなく、この目で実際に見ることができたらどんなにいいだろうかと思ったものである。しかし、それは夢でしかなかった。その夢を実現するにはまださまざまの難関を乗り越えなければならず、わたし自身もたゆまぬ熱意と忍耐力を発揮しなければならなかった。わたしと張蔚華の遺族のあいだには、国境という無情な制止線が引かれているのである。国境は、過去の道義や親交というものに理解を示さない厳格な遮断物なのだ。
張金泉から手紙をもらってから二十年以上の歳月が流れた一九八四年五月、わたしはソ連と東欧社会主義諸国を歴訪する機会に、列車で中国の東北地方を通過する幸運に恵まれた。東北の山野はわたしが二十年以上の歳月を過ごしたところであり、久しく武装抗日の風雪に堪えてきたゆかりの地である。わたしの故郷ともいえるこの山野には、幾多の思い出が刻まれていた。生前には行けないのではというもどかしさが脳裏から離れず、夢の中でも足首が痛むほど踏み歩いた土地! それで、
「ここはわたしがずっと前から来たいと思っていた所だ、時間が許せばパルチザン時代の戦友や知人に会い、戦友のなきがらの眠る戦場の跡にも行ってみたいが、そうできないのが残念だ。ここから数十里にしかならない撫松に張蔚華の家族がいまも暮らしているそうだ。彼らに記念品を伝えてもらいたい」
数日後、中国の関係者の手でわたしの贈り物が張蔚華の家に届けられた。
東欧諸国の訪問を終えて帰国したわたしは、張金泉からの二度目の手紙を受け取り、彼を平壌に招いた。そして彼の訪朝がスムーズに実現するよう、胡耀邦
一九八五年四月、ついに張金泉は妹の張金禄と長男の張琪を連れて歴史的な朝鮮訪問の途についた。あらゆる草木に花が咲き、新芽が吹くのどかな春の日、わたしは興夫迎賓館で撫松からの貴賓を迎えた。車を降りる張金泉と張金禄の姿を見た瞬間、わたしは激情にかられて言葉が出なかった。父親似の張金泉と母親に生き写しの張金禄、そして両親の顔立ちから美点だけをとったような張琪! 彼らが父母の面ざしをそのまま譲り受けたのは彼ら自身にとっても喜ばしいことであるが、わたしにとってもうれしいことであった。不帰の客となった張蔚華夫妻が生き返ってわたしの前に現れたのではないかと思ったほどである。わたしは彼らの一挙一動に張蔚華の面影を見出そうとして目をこらした。そして、廟嶺と大営で張蔚華に会ったときのように、張金泉、張金禄、張琪をひしと抱きしめた。
「よく来てくれた!」
わたしは最初の挨拶を中国語でした。数十星霜をへて、わたしの中国語にも少なからぬ空白が生じていた。だが、わたしの口からは「よく来てくれた」という中国語がとっさに飛び出したのである。国家元首が外交の場で外国語で話すのは慣例に反するという人もいるが、わたしはそのような慣例を無視した。張金泉一行は外交のためにわたしを訪ねてきた客ではなく、わたしも外交のために彼らを招いたのではない。戦友の子や孫に会うのに、外交や慣例にとらわれる必要はない。それでわたしはその日、彼らのために催した昼食会でも祝辞を述べなかった。それも慣例にないことであった。
「わたしたちは同じ家族なのだから、祝辞などいらないだろう。ただここにいる人たちの健康と中朝親善のために乾杯しよう!」
わたしが祝辞の代わりにこう言うと、張金泉も喜んだ。張金泉は父親に似てさほど酒をたしなまなかった。それでわたしは、彼にあまり酒を勧めなかった。われわれはアルコール分のうすいブルーベリー酒を三杯ずつあけた。フランスのミッテランが訪朝したさいにも、わたしはこの酒を勧めたものである。日本の植民地時代には、天皇しか飲めなかったという有名な酒である。三杯という酒量には深いわけがあった。一九三二年六月、撫松県の十字路北側の「東焼鍋」と呼ばれる酒造工場でわたしと張蔚華が別れを惜しんだときも、われわれは三杯の酒を酌み交わしたのである。
撫松の貴賓の歓迎宴は三時間もつづいた。格式と慣例を度外視したその日の昼食会はじつに家族的なものであった。われわれは庭園でも多くの話を交わした。その日の話題の中心となったのは道義にかんする問題であった。わたしは、わたしの一家にたいする張万程と張蔚華の道義にからめて撫松時代の体験を述懐し、客人はわたしの道義にたいして謝意を表した。
「おまえのおじいさんは朝鮮の独立運動を助け、お父さんは朝鮮の共産主義運動を助けてくれた」
わたしは張氏一家の功績を一言でこう評価した。その日わたしが張万程と張蔚華の道義についてとりわけ多くのことを語ったのは、たんに彼らを称賛するためにだけではなかった。わたしはその話をすることによって、張金泉、張金禄、張琪をはじめ張蔚華の子孫も代を継いで道義を重んじる誠実な人間となり、志操堅固な革命家となることを願ってやまなかったのである。
人間の道義は封建的な道徳でいう君臣や親子のあいだにのみ存在するものではなく、友人や同志のあいだにも存在するものである。「友の道理は信にあり」というのは、こういう理を説く成句であろう。それで昔の聖賢たちは、徳と道義にもとづく徳治主義を宣揚して「仁者に敵なし」と言った。徳があれば人を得、人があれば土地を得、土地があれば財を得、財があれば用をなす、と教えているのである。「徳人地財用」の五字に含蓄されている昔の東方哲学のこの事理はじつに奥深い妙味をもっており、現代の生活においても参考とすべき価値は大であると思う。わたしは三綱五倫をあたまから悪いものとはみなしてはおらず、それを故意に共産主義理念と対立させ、共産主義道徳に反するものと評する人たちの極端な見解も容認しない。国に仕え奉ずる臣下の道理がなぜ悪いものといえ、父母を敬う子の孝道がなぜ法度に反する行為といえようか。わたしは、こういう道徳観念が封建的な国家社会制度を合理化し、人民を無抵抗と盲目的な屈従に追いやることに反対するのであって、人間本然の道徳的基礎を強調する三綱五倫の原理的側面は決して否定するものではない。
張蔚華とわたしは君臣の関係でもなく、親子の関係でもなかった。彼が命を投げだしてわたしを守ってくれたのは、三綱の君臣の義によるものではない。彼は、たんなる革命同志にすぎないわたしと革命そのものの利益のために、三綱の要求とは異なる最大の共産主義的道義を発揮したのである。張蔚華の業績が貴く偉大であるのは、その道義の純潔さと崇高さのためといえよう。
張金泉一行は撫松の人びとと家門を代表して、わたしに「玉に遊ぶ二匹の竜」という表題が刻まれた木彫り装飾の時計と一幅の中国画『多寿図』を贈ってくれた。その絵は、大きな長寿の桃がいっぱい入った篭を持つ農家の子どもを描いたもので、張金泉の説明によれば、わたしの健康と長寿を願う意味がこめられているとのことであった。わたしは返礼として、わたしの名入りの金時計を張金泉、張金禄、張琪の腕にそれぞれはめてやった。張金泉は平壌で総合検診を受け、悪くなった奥歯をぬいて金の入れ歯をした。わたしと張金泉一行は国境都市の新義州の迎賓館で二度目の対面をした。そして帰国の途につく彼らのために再び昼食会を催し、三時間にわたって語り合った。
別れにさいして彼ら一人ひとりにカメラを贈ると、彼らは非常に感激した。わたしはいろいろと考えた末に記念品としてカメラを選んだのである。張蔚華は撫松で「兄弟写真館」を経営していたときにカメラも一台送ってくれたことがある。わたしが準備したカメラは、あのときの張蔚華の贈り物にたいする返礼でもあり、写真業で革命につくした彼の模範が受け継がれることを願う気持の表われでもあった。張金泉も父親のように撫松で写真業にたずさわっているとのことであった。
別れぎわにわたしはこう言った。
「わたしは明日、新義州を発って平壌に帰る。帰国したら仕事に励み、りっぱな共産党員になるのだ。地位を欲してはならず、過ちを犯さないようにしなさい。おまえたちは小さいときからお父さんがいなかったが、これからはわたしがおまえたちのお父さんだ」
張金泉は一九八七年にも、妻の王鳳蘭と次男の張瑤、孫娘の張萌萌を連れてわが国を訪問した。そのときわたしは彼らに七回も合った。これも慣例や規範を度外視したことであった。五歳の張萌萌は、わたしの七十五回目の誕生日を祝うために訪朝した外国の賓客の中でいちばん年少の友人であった。萌萌は、張氏家門の五番目の世代を代表する子でもあった。四月十三日の夜、張萌萌は、祖父と祖母、叔父と一緒に烽火芸術劇場に招待されて、「四月の春親善芸術祭」に参加した世界各国の芸術団の交歓公演を観覧した。その日、わたしはそこではじめて張萌萌に会った。休憩室から出て中間通路をへて客席に向かっていたわたしは、通路ぎわの最前列にいた張金泉夫妻と挨拶を交わし、萌萌を抱いて高く差し上げた。萌萌は臆する色もなくわたしに頬ずりして明るく笑った。その瞬間、数千の観客はいっせいに拍手を送った。わたしと張氏一家との縁を知るよしもない外国の賓客も、この場面を目撃して思わずほほえみ、場内が割れんばかりに祝福の拍手を送りつづけた。
―― そうだ。萌萌、わたしはおまえのひいおじいさんにあたるのだ。こうして抱いていると、おまえのひいおじいさんのことが思い出されてのどがつまりそうだ。ひいおじいさんは大の子ども好きだった。いま生きていたら、おまえをどんなに可愛がることだろう。しかし、ひいおじいさんは三十歳にもならないうちに、わたしのために自ら命を断ったのだ。どのようにしてその恩を返せばいいのか。おまえは五代目の朝中親善の花なのだ。おまえの高祖父と曾祖父、わたしとわたしの父はこの親善のために一生をささげてきた。おまえはこの人たちが流した血と労苦の上に咲いた一輪の花なのだ。朝中両国の親善のために、誇らかに美しく咲くのだ――
割れるような拍手に包まれた束の間に、わたしはこんな想念にとらわれていた。わたしは萌萌をしっかりと抱きしめた。萌萌の小さな心臓はわたしの心臓の近くで早鐘を打つように、しかも規則正しく鼓動していた。その力強く熱情的な響きがわたしの胸に伝わってきた瞬間は、わたしと張蔚華の友情が五代目に受け継がれた意味深い瞬間だといえる。張万程、張蔚華、張金泉、張琪、張萌萌…。そうだ、風波はげしい歳月の流れにもかかわらず、両家の友誼は無数の大河と小川を渡り、五代目に引き継がれたのである。これは両家の友情であると同時に、朝中両国、両人民の親善なのだ。それゆえ、張金泉も後日、この親善のことを「つきせぬ旧友の情」と名づけたではないか。わたしとわたしの懐に抱かれた萌萌の姿を見たとき、人びとは朝中親善が千秋万代にわたって不滅であることを確信したのである。その日わたしは記念として、張蔚華と弟の哲柱が一緒に撮った写真にサインをしてやった。金泉はそれを家宝として大事に保存すると言った。
張金泉一行がわが国に滞在するあいだ、わたしは彼らに専用機と特別列車を仕立ててやり、身のまわりの世話をする多くの人をつけた。彼らは張蔚華の子孫として、国賓として当然のもてなしを受けたわけである。
一九九二年四月、張蔚華の子女はわたしの八十回目の誕生日を祝うため再び訪ねてきた。それは彼らの三回目の訪朝であった。張金泉夫妻と張琪夫妻、張瑜、張萌萌、北京在住の張金禄と夫の岳玉賓、娘の岳志雲、息子の岳志翔など総勢十二名が平壌に集まった。訪問が繁くなるにつれ、わたしと張蔚華の子孫との情はますます深まった。張金泉は三回目の訪問記念として、自分の長編手記『つきせぬ旧友の情』を贈ってくれた。それは、わたしの父と張万程の親交にはじまる両家の友誼について、ありのまま素朴に叙述した本である。筆致は素朴ながらも行間ににじみでる友愛の情、親善の情はじつに豪放で流暢なものであった。その本はわたしの心を大きくゆさぶった。わたしがりっぱな文章だとほめると、張金泉は子どものように顔を赤らめ、自分たちにたいする伯父さんの厚い恩情が十分に表わせたかどうかわからないと案じた。
わたしは返礼として、わたしの回顧録『世紀とともに』の中国語版第一、二巻を贈った。
「外国人で命を賭してわたしを守ってくれたのは、張蔚華とノビチェンコの二人だ。ノビチェンコは生きているが、決死の覚悟がなければそういう犠牲的精神は発揮できるものではない。考える余裕もなく瞬間的にそういう行動をとるというのは容易なことでない」
張金泉一行が三回目にわが国を訪れたとき、わたしは彼らにこう言った。すると張金泉と張金禄は、ある意味では自分の父の功績より、ノビチェンコの功績の方が何倍も大きい、彼でなかったら大変なことになるところだった、と真剣な顔で言った。
「わたしの生涯には、わたしにつくしてくれた人が数えきれないほど多い。危機一髪の瞬間に助けてくれた忘れがたい命の恩人がたくさんいる。いまおまえたちと同行している孫元泰先生の父の孫貞道牧師もそうだし…。それでわたしは、国のためにつくす人は天が照覧し、いつも義人に助けられるのだと考えるときもある。これは観念論ではない。人民のために一生をささげる覚悟ができている人は、どこでも人民に助けられるものだ。これは真理であり弁証法である」
わたしは彼らに、父親のように人民に奉仕し、人民のために一生をささげるりっぱな人民の息子、娘にならなければならないと言い聞かせた。
張金禄は自分が編んだ赤紫色のウールのジャケットを贈ってくれた。直接身にまとうものをと考えたということであった。他の品をもってくると、国際親善展覧館のようなところに保管して使ってもらえないようなので、身近に置いて使えるものを準備したというのである。思慮深いはからいだった。わたしはそれをありがたく受け取り、彼らの希望どおりその場でジャケットを着て記念撮影をした。張金泉はそのとき、父の五十五周忌を機に墓碑を立て直すつもりなので、そこに刻む碑文を書いてほしいと頼んだ。遠慮のないそんな願いがうれしかった。それは、彼がわたしを心から伯父として慕っていることを意味した。
「もう五十五年になるのか。お父さんが亡くなったのは陰暦で十月だったと思うが…」
わたしは粛然とえりを正す思いで一九三七年のあの陰惨な秋を回想した。
「そうです。伯父さん、陰暦で一九三七年十月二日です。陽暦では今年の十月二十七日に当たります」
「それなら、こうしよう。おまえたちが立てる墓碑に字を書くのでなく、わたしの名で記念碑を立てることにしよう。どうかな?」
突然の提案に、張金泉と張金禄はただ顔を見合わせるばかりであった。彼らはそんな大きなことを求めようとしたのではなかった。わたしを家長のように思って、遠慮なく心の内を打ち明けたまでなのに、予想もしなかった記念碑の問題をもちだしたので、狼狽したようであった。
それで金泉はあわててこう言った。
「そんなことはできません。伯父さんを煩わすわけにはいきません。碑文だけ書いてくだされば、それを持ち帰って墓碑に彫りつけるようにします」
「それも悪くはないだろう。しかし、せっかくのことだから、わたしが書いた碑文を彫った記念碑をここでつくって送ろう。それを立てる準備でもしなさい。いつごろ送ればよいだろうか?」
「そうしていただければ本当にありがたいと思います。しかし伯父さんはお忙しい身なのに、またご心配をかけることになって申し訳ありません。わたしが出過ぎたことをお願いしてしまったようです…」
張金泉と張金禄は恐縮しきっていた。
「記念碑をつくるのにはそれほど時間がかからないだろう。しかし、せっかく立てるのだから、お父さんの命日に行事を取りおこなうのがいいだろう」
張金泉一行はわたしの提案に同意した。彼らは、撫松に帰ったら記念碑の除幕式の準備を急ぎ、中国の当該機関にも知らせると言った。こうして、かつての革命戦友である張蔚華の墓所に、わたしの名で記念碑が立てられることになった。わが国の党歴史研究所の幹部が記念碑を平壌から撫松まで運んだ。中国の党と政府は臨江の橋のたもとまで人を派遣してわが国の代表たちを手厚く出迎え、十月二十七日には撫松市内にある張蔚華の墓所で盛大な記念碑建立行事を取りおこなうようはからった。中国の報道機関はこの行事に大きな意義を付与し、広く報道した。
「張蔚華烈士の革命業績は朝中人民の親善の輝かしい象徴である。烈士の崇高な革命精神と革命業績は人民の心の中に永遠に生きつづけるであろう。
金 日 成
一九九二年十月二十七日」
わたしの自筆による記念碑の全文である。
代表たちが平壌に帰ってきたあと、わたしは記念碑の建立行事を録画で見て、その盛大さに驚いた。それは朝鮮人民と中国人民、朝鮮の闘士と中国の闘士でなくてはつくりだせない親善と道義の生きた画幅であった。
生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものなのか? こんな質問を受けるたびに、わたしはつづくと答えてきたし、いまもそう答えている。張氏家門の三世、四世、五世とわたしとの親交、撫松で取りおこなわれた記念碑建立行事は、この答えの妥当性を力強く立証している。
生きている人は逝った人を忘れてはならない。生きている人が故人を忘れないでいてこそ、その友情は強固で真実で、永遠なものになりうる。生きている人が故人を忘れるならば、その瞬間から友情は消滅をまぬがれない。故人をつねづね追憶し、彼らの業績を広く紹介し、その子孫を見守り、彼らの遺志を守ることが、先代と先達、先に逝った革命同志にたいする生きている人の道義だと思う。このような道義なくしては、歴史と伝統の真の継承はありえない。
記念碑を送ったので、ひとしお心が軽くなった。だが、数千数万の記念碑を立てたところで、わたしのために一命をなげうった張蔚華の恩に報いることはとうていできない。いま張蔚華の孫の張瑜と外孫娘の岳志雲は、両親の希望どおり平壌国際関係大学で学んでいる。張蔚華のことが思い出されると、わたしは彼らの宿所を訪れる。分秒が大切な国家主席の多忙な日課から、外国の留学生に会う時間を割くというのは容易なことではない。しかし補佐官たちは、張蔚華の孫たちのためにあてる時間を惜しみなく割いてくれている。わたしも、彼らのために費やす時間は少しも惜しくない。張瑜と岳志雲が流暢な朝鮮語で新年の挨拶をしたとき、わたしはすこぶる満足した。彼らの朝鮮語はなかなかのものである。彼らが一日も早く朝鮮語をマスターし、朝鮮の食べ物になじみ、朝鮮人と親しくなることを願っている。
二一世紀を迎える世界の政局はきびしく複雑をきわめているが、わたしと張蔚華一家のあいだに流れる旧友の情は変わることがない。わたしは久しい前から撫松を訪問したい気持を表明してきたが、いまもその気持は変わっていない。撫松へ行き、南甸子にある張蔚華の墓に参りたいが、それがたんなる願いに終わってしまうのではないかと不安にかられるときがある。この願いが実現されないなら、せめて夢の中ででも昔の戦友のそばに行ってみたい。
5 祖国光復会
新しい師団の誕生によって朝鮮人民革命軍の主力部隊がいちだんと強化されたので、われわれの前途には反日民族統一戦線運動と党創立の組織的・思想的準備をより幅広く、深く展開しうる突破口が開かれた。新師団の出現は、武装闘争を国内深くに拡大し、各階層の愛国勢力を一つに結束するための朝鮮共産主義者の活動を軍事的、政治的に保障する強力な推進力となり、卡倫会議以来、力強く展開してきた統一戦線運動に画期的な転換をもたらす雄大な展望を開いた。
南湖頭会議以後、われわれの統一戦線運動は汎民族的な統一戦線体を組織する活動に集中された。一つの常設的な統一戦線組織を結成し、その傘下に広範な反日愛国勢力を結集するのは、朝鮮革命発展の見地からしても、内外情勢の要請からしても、これ以上引き延ばすことのできないさし迫った課題であった。自主独立をなしとげるもっとも確実な道は民族大団結にもとづく全人民の抗争であり、民族大団結が自力独立の成否を左右する鍵であるというのは、わたしが早くから主張してきた思想である。統一戦線は主体性の確立とともに、抗日革命闘争の初期から堅持してきたもっとも重要な理念の一つであった。民族大団結と統一戦線の理念にもとづき、われわれはさまざまな民族主義勢力と反日愛国勢力との連合を実現するためねばり強く努力する一方、闘争舞台が中国であるために、中国の広範な反日勢力、共産主義者との共同闘争も積極的に発展させてきた。その過程でわれわれが積みあげた少なからぬ成果と経験は、統一戦線
運動の幅広い発展の貴重な源泉となった。われわれはこうした成果と経験を踏まえて統一戦線運動を全民族的な範囲で展開する条件をととのえると同時に、それを遂行する中核と主体的力量をすみやかに育成するために全力をつくした。
民族の総力を一つに結集する試みは、一九三〇年代以前にもなされた。朝鮮の近代史において、主義と主張を超越した民族の大同団結の問題が論議されはじめたのは、一九二〇年代の中期以後からである。当時、わが国の民族解放闘争の舞台には、民族主義と共産主義に代表される二つの勢力が存在していた。日本帝国主義の暴政と収奪が強まるにつれ、民族解放運動を指導していた先覚者たちは愛国勢力の糾合と民族大団結の必要性を痛感するようになった。こうした必要に迫られ、初期の共産主義者は民族主義者との連合を模索し、民族主義者は共産主義陣営との提携を試みた。民族の解放と民族自主権の復活に同一の利害関係をもつ二つの陣営の指導者たちの共同の努力によって、一九二七年二月、ソウルでは朝鮮史上初の統一戦線組織である新幹会が創立された。当代の愛国人士と歴史家が新幹会を指して民族単一党とも呼んだほど、この団体への民衆の期待と信頼は大きかった。共産主義と民族主義の両勢力間の反目と対立に不満をいだいていた大衆は新幹会の創立を歓迎した。主義主張の違いのために反目し合っていた共産主義運動家と民族運動家が遅ればせながら統一団結の必要性を認識し、単一戦線機関を結成したことは、民衆の念願と時代の要請に合致する大慶事であった。
わが国の民族協同戦線の初の申し子といえる新幹会は、その趣旨と目的において愛国的で反日的なものであった。民族を代表するといえる二大勢力の共同戦線が実現することにより、新幹会は発足の当初から全民族を代表する唯一の組織となった。この団体の創立趣旨は、発起人たちが「古木新幹」という意味で
新幹会と名付けた名称そのものによく反映されている。「古木新幹」とは、老木から新しい幹が伸びるという意味である。名称が示しているように、新幹会は新しい基礎に立った民族力量の総結集を志向していた。
李商在、洪命熹、許憲など民衆の人望が厚い進歩的な愛国の志士によって発起、推進され、運営された新幹会運動は、民族の政治的・経済的覚醒の促進と民族の団結の強化と、いっさいの日和見主義の否定を明らかにした綱領の内容も革新的で革命的なものであり、会員の職業別構成も多様で幅広いものであった。新幹会には労働者、農民、旅館業者、写真業者、記者、商人、医師、会社員、教員、代書人、牧畜業者、印刷業者、漁業者、運輸業者、紡織工、縫製工、学生、弁護士、著述家、銀行員、聖職者など、さまざまな職業をもつ三万七千余人が参加した。しかし、左右合作によって民族の総力を一つに結集することをはかったりっぱな趣旨と目的にもかかわらず、新幹会は一九三一年五月に自己の存在を終えた。新幹会解散の原因についてはいろいろな説がある。共産主義運動家はそれが民族主義者にあるとし、民族主義者は共産主義者に責任を転嫁しようとした。ひところ一部の歴史家は、新幹会解散の根本原因は上層部の分裂と改良主義的傾向にあるとし、この組織の愛国的性格と民族史的意義そのものを否定しようとした。わたしはそのような虚無主義的な見解に同調することはできなかった。解散の原因を科学的に分析し、教訓を汲みとるのはよいが、責任を他に転嫁するのは好ましくないことである。新幹会の上層部に若干の改良主義者がいたからといって、組織そのものを否定してはならず、その民族史的意義をゼロとしてもならない。
新幹会解散の原因はなによりも、朝鮮民族の反日抗争勢力が一つに団結するのを恐れた日本帝国主義者が内部にくさびを打ち込んで分裂をはかり、改良主義的な上層部を買収したことにある。敵の謀略と破壊工作をしりぞけ、新幹会を巧みに運営し導いていける中心的な指導陣がなかったことも解散の主な原因の一つといえる。
新幹会の瓦解から骨身にしみる教訓を汲みとったわれわれは、愛国的民族勢力の統一においてはわれわれが主導権を握るべきだという強い決意のもとに、反日民族統一戦線の問題を重要な方針としてうちだし、民族の総力を抗日救国偉業の旗のもとに結集する地道な努力を積み重ねてきた。その過程で、この運動を主導することのできる中核を育成し、有益な経験も積んだ。
南湖頭会議は汎民族的な統一戦線体の創立にかんする決定を採択することにより、わが国の統一戦線運動に新たな転機をもたらす歴史的な分水嶺となった。
この時期は、国際的にも帝国主義の侵略を阻止するための人民戦線運動が台頭し、ファシズムと対決していたときである。ドイツにおけるナチスの政権奪取に大きな衝撃を受けたフランスの労働者階級は、自国でもファシズムの脅威が増大しているのを目のあたりにし、反ファシズム統一戦線結成の必要性を痛感した。大衆が統一を熱望したので、社会党は一九三四年七月、共産党の提案を受け入れて反戦・反ファシズム統一行動協定を締結した。二党の影響を受けて分離していた労働組合も統合された。こうした時流に乗って「労働と自由と平和の人民戦線」が結成された。情勢の進展は、この戦線を中産階級との統一にまで拡大発展させることを求めた。こうして一九三五年六月末に、社会党と共産党の連合に小ブルジョア政党である急進社会党が加わることにより、いわゆる「人民集合」が実現した。七月十四日、パリでは数十万名の参加のもとに、人民戦線の大規模なデモがおこなわれた。三党の首脳であるモーリス・トレーズとレオン・ブルム、ダラディエが肩を並べてデモ行進の先頭に立った。一九三六年一月には三党を中心に、反戦・反ファシズム闘争に立ち上がった進歩的グループの統一にもとづく人民戦線綱領が正式に発表され、同年四月から五月にかけておこなわれた下院の総選挙で人民戦線は圧倒的な勝利をおさめた。その結果、サロー内閣は総辞職し、レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が誕生した。人民戦線政府は大衆の購買力を高める方法で恐慌を切り抜けようとしたが失敗し、スペインの人民戦線政府を支持しながらも、いわゆる不干渉政策を実施して積極的な支援をしなかった。結局、人民戦線も崩壊してしまった。しかし、これはフランスにおけるファシスト政権の樹立を阻止し、国際共産主義運動と反ファシズム闘争における一つの有益な経験となった。
コミンテルンはフランスにおける人民戦線運動の発展にヒントを得て、全世界の共産主義者に人民戦線の結成を重要な闘争目標として提示した。これにもとづいて国際共産主義運動は、資本主義の即時打倒をめざす世界革命ではなく、平和と民主主義を擁護し戦争とファシズムに反対する運動を当面の課題としてうちだした。これは、国際共産主義運動における一つの路線転換といえた。第二インターナショナル系列に属する多くの政党はコミンテルンの統一戦線提案を拒否したが、フランス、スペイン、ラテンアメリカなどでは人民戦線運動のめざましい発展をもたらした。一九三六年二月のスペインにおけるアサニャ人民戦線政府の出現はその端的な例といえる。スペイン人民戦線はフランコの反乱とドイツ、イタリアの軍事干渉によって窮地に陥った。スペイン人民戦線にとって致命的な打撃となったのは、アメリカとイギリス、フランスの主導のもとに推進されたいわゆる不干渉政策である。厳正中立と武器禁輸を決定した不当な不干渉政策は結局、反乱軍を助ける結果をまねいたのである。ソ連もはじめは不干渉の立場をとっていたが、それが人民戦線政府にとって決定的に不利であることが明白になると態度を変え、人民戦線政府に飛行機や戦車などを送った。スペイン人民戦線の危機は、各国の知識人と勤労者大衆の同情を呼び起こした。そして各国から多くの義勇兵がスペインへ駆けつけた。こうして、スペインはファシズム勢力と人民戦線を支持する進歩的勢力間の国際的交戦の舞台となったのであるが、その交戦は小規模の世界戦争を連想させた。
以上が、われわれが東崗で祖国光復会を結成したころの国際的な反ファシズム運動の状況であった。
当時、われわれは、イタリア侵略者に抗して立ち上がったエチオピアの愛国者の英雄的な抗戦にも大いに力づけられた。
コミンテルンは急変する世界情勢をすばやく把握し、各国の労働者階級と勤労人民を反戦・反ファシズム闘争に立ち上がらせ戦争を防止して平和を守り、ファシズムに反対して民主主義を固守することを当面の戦略的課題として提示し、世界革命の指導機関としての本分を果たした。ここに反ファシズム人民戦線運動におけるコミンテルンの歴史的な功績があるといえる。
われわれにとってファシズムは新しい敵ではなかった。国際ファシズムの台頭によって、朝鮮革命の対象が変わったわけでもなければ、性格が変わったわけでもなかった。われわれは、コミンテルンが反ファシズム人民戦線運動路線をうちだす前から、われわれなりの反日民族統一戦線路線を示し、その軌道にそって朝鮮革命を力強く前進させてきた。
汎民族的な統一戦線体としての祖国光復会を創立する準備は南湖頭会議以後に進められた。それまでは主に、わたしがひとりで光復会創立の構想を暖めてきたにすぎない。金山虎、崔賢、朴永純をはじめ何人かの同志たちがときおり必要な助言をしてくれることもあったが、彼らは概して司令官同志の考えどおりにしてもらいたいという立場をとった。そのうちに、敦化地方の玉水川付近のある山村で年配の識者に出会ったが、その人がりっぱな助言者になり、相談相手になってくれた。その村落には朝鮮人の家が二軒あったが、わたしはそのうちの一軒にとどまっていた。そこへ、和竜地方で活動していたある小部隊が訪ねてきて、妙な人を連れてきたと報告した。和竜の僻村で会ったのだが、小部隊が司令部を訪ねていくということを知って
こういうわけで、彼は会う前から好奇心をそそったが、初対面の場でもやはり変わった態度をとった。小部隊のメンバーがわたしを司令官だと紹介したが、その妙な客は耳を貸そうともせず、自分の年と熱意を汲んででも本物の
とにかく、変わり者だった。彼はホー・チミンのようなあごひげをたくわえていた。実際は四十四、五歳だが、年齢より老けていて五十過ぎに見えた。彼は、巷のうわさはよく耳にしていたが、あまりうわさが高いので、どんな人なのか会ってみようと思って訪ねてきたと言うのだった。わたしが「前評判の祝宴にご馳走はない」という言葉を返すと彼はうなずき、将軍の服装を見ただけでも苦労のほどがうかがわれると言った。年の差が大きいにもかかわらず、なぜかすぐに話が通じ、気心が通じた。彼の自己紹介がまた突飛であけすけなものであった。
「わたしはこれといってしたこともなく、あっちに付いたりこっちに付いたりで右往左往してきた日和見主義者です」
わたしはこれまで数千数万の人に会ったが、はなからなんのためらいもなく自分を日和見主義者だという人に会ったのははじめてだった。底抜けに良心的な人こそ底抜けに率直なものである。率直さは白雪のように汚れない良心の反射であり、隠しきれない良心の光といえる。みんなを面食らわせるほど率直な数言によって、わたしはすぐ彼が好きになった。自ら卑下するその飾り気のない話からかえって彼の人格の高さを読み取った。
わたしは早く迷魂陣へ行かなければならなかったので、その村に長居はできなかった。それで、彼が心残りしない程度に話し合って別れるつもりであった。ところが、いざ発とうとすると、彼はわたしについて行くと言いだした。金将軍とすぐには別れがたいから、数時間だけでもおともをして、話でもさせてもらいたいというのである。なぜか、わたしも彼と別れたくなかった。それで、わたしは彼を連れていくことにした。行軍中ずっと彼と話を交わしたので退屈しなかった。話に熱中しすぎて、しばしば隊員を休ませることも忘れて行軍をつづけることさえあった。そんなときは、金山虎がそばにきて、少し休んではどうかと耳打ちしてくれた。
まさにこの人が、わが党の歴史に祖国光復会の発起人と記録されている「パイプじいさん」の李東伯である。「パイプじいさん」というのは彼のあだなである。咸鏡南道端川が李朝末期の参領(武官の階級の一つ)で、有名な義兵指導者、共産主義運動家である李東輝の故郷であることを知る人は少なくないが、李東伯の故郷であることを知る人はあまりいないだろう。漢学を修めた李東伯の成長過程に及ぼした李東輝の影響はきわめて大きく、そのため彼が独立運動に飛びこんだということも、行軍途上の話で得た知識である。彼が所属していた闘争団体の名称は軍備団で、その所在地は長白地方であった。軍備団と姜鎮乾の話が出ると、われわれの話はいっそうはずんだ。姜鎮乾については、彼もわたしに劣らずよく知っていた。李東伯は八道溝や臨江方面にもたびたび足を運び、そのたびに姜鎮乾と深い連係を保ったという。軍備団での彼の職務は通信事務局長であった。しかし、庚申年(一九二〇)大討伐の嵐が長白地方に波及してくると、あれほど威を振るっていた軍備団も一朝にして雲散霧消してしまった。失望した李東伯は李東輝を訪ねてロシアヘ行った。彼はチタで李東輝に会い、ついで高麗共産党にも入党した。昨日までの独立運動家が突然、共産主義運動家に変身したのである。それから間もなく、彼は派閥争いに巻きこまれることになった。
李東伯の口から高麗共産党の話が出たので、五家子で高麗共産党の党員証を見たことを思い出し、辺大愚を知っているかと聞くと、彼とは莫逆の友だと答えた。わたしが五家子の辺大愚から高麗共産党の党員証を見せてもらった話をすると、李東伯はジャガイモの判を押した代表証も見たのかと聞いた。その話は初耳だと答えると、彼はジャガイモの判の話をしてくれた。
一九二二年十一月、ロシア極東のベルフネウデンスク(現在のウラン・ウデ)で上海派とイルクーツク派の合同大会が開かれることになった。大会で多数派とならなくては合同後に党の主導権を握ることができないと考えた両派は、自派の代表を増やすため熾烈な暗闘をくりひろげた。イルクーツク派はジャガイモの判までつくって大量の代表証を偽造し、大会ににせの代表を参加させた。上海派もそれに劣らぬ不正行為をした。大会はすったもんだのあげく、修羅場になってしまった。幻滅を感じた辺大愚は、民族主義運動にもどることにして臨江方面に去り、李東伯は李東輝に派遣されて琿春方面に出てきた。李東伯は琿春でしばらく教員生活をしていたが、一九二五年の春にソウルヘ行った。彼は仮名で朝鮮共産党創立大会に参加し、翌年の六・一〇万歳示威運動にも参加した。派閥の集結所であるソウルに滞在していた李東伯は、自分も気づかぬうちに再び新たな派閥争いの渦中に巻きこまれてしまった。はじめは火曜派に引きこまれ、つぎはM・L派に属するなどの一人二役、一人三役のせわしく騒がしい日々を送った。党の主導権を握ろうとする派閥は醜悪な暗闘を繰り返した。中央委員を袋に入れてきては棍棒や木枕で殴りつける醜態をさらけだし、他派を警察に密告して逮捕させるといった痛嘆にたえない悲喜劇を演じた。ソウルにとどまっていたのでは、いつどの路地で人知れず捕まるやら、棍棒で頭を割られるやらわからない有様だった。それで李東伯は再び北間島へ向かった。帆も舵も櫓も失った難破船のように、風の吹くまま波の打ち寄せるまま右往左往してきた李東伯は、派閥争いの世界から遠ざかり陸地にじっくりと腰をすえた。彼は竜井で新聞記者をしながら、独立軍運動にも共産党運動にも背を向けてしまった。しかし、間島の大地に燃えあがりはじめた三〇年代の抗日運動は、またも李東伯を風浪の中に押しやることになった。火曜派系列のいかがわしいグループに引っぱり込まれた彼は、和竜県三区の書記を務めていたが、間島大討伐のときに九死に一生を得たあとは、永久に世を捨てて暮らすことを決心し、家族とともに和竜の山間僻地に入った。そこで、書堂の先生をし、ここ数年隠遁生活をしてきたというのである。
「だから、わたしが日和見主義者でなくてなんでしょう。ソウル・上海派を除いては派閥という派閥にみな首をつっこんだまったくの日和見主義者ですよ」
李東伯は波瀾に富んだ自分の過去に終止符でも打つかのように、パイプに刻みタバコを詰めこんだ。
彼は大変な愛煙家だった。ときには馬上行軍のときにもパイプをくわえ、年少の伝令兵からたしなめられることもあった。そんなときも腹を立てるでもなく、「こりゃ、うっかりしていた。行軍中にタバコを吸うと遠くの犬にまでかぎつけられるというのに、また忘れたな」と弁明がましくつぶやいては、パイプを重ね着のポケットに差し込むのだった。彼は刻みタバコを紙に巻いて吸わず、いつもパイプを使った。「パイプじいさん」というあだなもそのせいだった。
「率直にお話ししてくださって、ありがたく思います。しかし、わたしは先生を日和見主義者だとは思いません。朝鮮社会の真の進路を求めて迷ったにすぎないのです。真理の道を模索する過程でいろいろな党派に関与したのは決して日和見主義ではありません」
わたしがこう言うと、李東伯は非常に驚いた。
「実際にいろいろな党派に巻きこまれたというのに、日和見主義者じゃないというんですか?」
「それは、隠遁生活をする決心で和竜の山間僻地に何年間も閉じこもっていた先生がその決心をひるがえし、若くもない体で千里の道もいとわずにわれわれを訪ねてこられたことだけでもわかります。それを日和見主義者の本心が働いたからだとみるべきでしょうか?」
「そんなに心の内まで読み取られては脱帽するしかありません。わたしがまた家を出たのは、数十年間探せなかった〞宝物〃をなんとしてでも死ぬ前に探し出そうという執念のためだといえます」
「義心を抱いて真理を求める先生のような方に会えてうれしいかぎりです。わが国にもひところは先生のように真理を求める人や義心のある運動家が多かったのに、ある者は獄につながれ、ある者は変節し、またいろいろと被害を受けたので、いまではほとんど見られなくなりました。先生が生きておられるだけでも幸いというものです」
「パイプじいさん」との興味津々の対話は、迷魂陣に到着するまでつづいた。その過程でわたしは李東伯に親しみを感じ、李東伯もまた、わたしになじんだ。「親しむや別離」ということわざもあるが、そんなふうに別れるのはつらいものである。だからといって、戦いの連続である遠く危険な行軍の道に年配の人をいつまでも同行させることはできなかった。迷魂陣を発つ前に、わたしは李東伯に家に帰るよう何度もすすめた。それには答えず、彼は重ね着の懐から四つ折りにした一枚の紙を取り出した。それは漢字混じりの入隊申し込み書であった。突然、西から日が昇ったほどの驚きであった。
「その年でどうやって一緒に行動できるというんですか?」
「心配には及びません。乙支文徳(〔 〕)や李舜臣(〔 〕)の麾下には、わたしより一倍半も年をとった兵卒もいたんです。だから年齢は入隊拒否の理由にはなりません」
「和竜の奥地で帰りを待つ奥さんと子どもたちは誰が面倒をみるんですか?」
「流刑もいざ行けないとなると残念がるというじゃありませんか。まして、救国の大業に一身をささげるつもりのわたしに家に帰れというんですか。将軍も、病の母上と幼い弟さんたちの面倒をみてくれる人がいたから国を取りもどす戦いに身を投じたわけではないでしょう?」
どうしても「パイプじいさん」を説き伏せることができず、負けてしまった。入隊を記念して、わたしは二年間愛用してきた拳銃を彼に与えた。入隊が決まると、李東伯は自分がなぜ家に帰らずに、わたしのもとにとどまる決心をしたのかを語りだした。
「わたしが将軍のもとにとどまるのはなぜだかわかりますか? 第一はもちろん将軍の高明な経綸であり、第二は将軍の縫い繕ったズボンと迷魂陣の熱病患者の泣き声でした。…隔離状態にある熱病患者をなんのためらいもなく見舞い、いたわるのを見て、わたしは深く考えさせられました。身の危険をかえりみず部下の運命を見守るというのは、口で言うほど簡単なことではありません。大物といわれる人物ともずいぶん会ってみましたが、まったく話になりませんでした。朝鮮革命の真の主人、朝鮮の運命に責任をもつ真の主人、真の指導者を見出したこと、これがわたしをここにとどまらせた根本的な理由なのです。机上の空論、空理空論をしないこと、将軍はこの長所一つだけでもわたしのような田舎書生を十分に感動させることができたのです」
「先生をとどまらせた三番目の理由もあるのですか?」
「もちろん、ありますとも。それは将軍の創造的で実践的なものの考え方と革命勝利のゆるぎない信念です」
ある日、行軍の休憩時間に、「パイプじいさん」と民族統一戦線体の問題について意見を交わした。彼はフランス、スペイン、中国などでは共産党、社会党、国民党などの政党と労働運動団体があったので各政党、団体が連合して人民戦線を結成することができたが、わが国では事実上いかなる政党も合法的団体も皆無の状態だから、統一戦線体の組織は不可能ではなかろうかと言うのであった。わたしは彼に雪のかたまりを二つ渡し、それを一つにしてみるようにと言い、わたしはわたしで小さなかたまりを雪の上に転がし、彼の二つのかたまりを合わせたほどの大きさのものをつくった。
「さあ、見てごらんなさい。先生は二つの政党を連合して一つのかたまりをつくり、わたしは小さな求心力を利用してそれより大きなかたまりをつくりました。これでも、政党がなければ統一戦線体の組織は不可能だといえるでしょうか?」
李東伯は万華鏡をのぞきこむように、わたしの手の上の雪のかたまりをじっと見つめながらつぶやいた。
「じつに妙を得ています。けれども雪のかたまりは雪のかたまりで、政党は政党じゃありませんか」
「ところが、われわれが体験する自然現象の中には、社会現象と理屈のうえで一致する事柄が少なくないのです」
わたしは、吉林時代から終始一貫堅持してきた統一戦線政策と、新しい世代の青年共産主義者が各階層の反日愛国勢力を結束する活動で積んだ経験をくわしく話した。
「統一戦線は必ずしも政党・団体の連合によってのみ結成されるものではありません。政党・団体説を絶対視すると、それはドグマになります。大衆があり、指導的中核さえあれば、統一戦線体をつくることは十分可能です。目的と志向の同一性を基準にして、十人であれ百人であれ結集すべきだというのが統一戦線にかんするわたしの見解です。われわれはこういう立場に立って、早くから統一戦線運動を推進してきたのです」
李東伯は首筋を叩きながら「やっぱりドグマが問題ですな」と言って高笑いをした。彼はわたしのもとにとどまった理由を説明してから、こうつけ加えた。
「わたしは将軍のそばに来て、有意義な晩年が送れる仕事を見つけだしました。言わば自分の生存価値を見出したわけです。自分がこの世にどうしても必要な人間になれると感じたとき、その人間は幸せな人間といえるでしょう。いまわたしがそんな幸せな人間になったんです」
「いったいどんな仕事を見つけだして、幸せになったというのですか?」
「わたしが見つけた仕事は、ナポレオンについて歩いたダビッドがしたのと同じようなもんです。ダビッドが絵に移したように、わたしは日記帳に移そうというわけです。ナポレオン軍隊の歴史的行跡ではなく、朝鮮人民革命軍の歴史的行跡をですよ」
李東伯は決心したとおり毎日日記を書いた。一、二回、ときには数日間飢えることはあっても、日記をつけない日はなかった。彼は最期の瞬間まで、朝鮮人民革命軍史の著述家としての使命をりっぱに果たした。入隊後、司令部の書記処で活動し、のちには祖国光復会の機関誌『三・一月刊』の主筆として出版所の責任者を兼任した。彼が収集した文書や写真は膨大な量だったので、書記処が場所を移すたびに、十に余る文書入りの背のうや謄写用具を移す運搬隊として、幾人もの兵員をつけねばならなかった。いつだったか、金周賢がそのおびただしい荷物を整理して半分ぐらいに減らしてはどうかと言って、ひどくとがめられたことがある。
「なにを言うのだ。この文書が民生団の調書包みだとでも思っているのか、あんたは指揮官だが、眼識に欠けておる。これはわしの命の十や百を差し出しても代えられぬ宝だ。軍事上の位は連隊長でも、この荷物の前では兵卒も同じだ。国の宝がどんなふうにつくられるのか知りもせんだろう」
こんなことがあって以来、「パイプじいさん」の荷物がいくら多くても、指揮官たちは一言も言わずに運搬隊をつけてやるようになった。
彼が記録し、収集し、保存したあの膨大な文書と日記、写真などが失われていなかったら、「パイプじいさん」が言っていたように、それはいま万代の国宝とされているはずである。ある日、李東伯は暴発事故を起こした。彼がナポレオンのことをよく口にするので、ある警護隊員が彼を「ナポレオン崇拝じいさん」と呼んだのがきっかけだった。ちょうどそのとき、李東伯は分解掃除を終えた拳銃を手にしていた。
「馬鹿ものめ、わしが誰を崇拝しているかはこの拳銃が教えてくれるだろう。さあ、聞くがいい」
李東伯は実弾をこめた拳銃を空に向けて引き金を引いた。この思いがけない暴発事故のため、老母頂子の宿営地では非常呼集がかかる騒ぎまで起こった。指揮官たちは、警告処分と同時に一か月間の武器携帯禁止処分に付すべきだと主張した。わたしが一回だけ許してやろうととりなしたが、軍規は酌量の余地がなかった。結局、拳銃は金山虎に取り上げられてしまった。
宝のような「パイプじいさん」が入隊してきたことは、人に恵まれてきたわたしにとっていま一つの大きな幸運といえよう。実際、願ってもない人が降ってわいて、われわれを助けてくれたようなものである。
百余名に及ぶ民生団嫌疑者の問題がかたづき、新しい師団が編制され、馬鞍山の児童団員の生活状態が改善されたのち、わたしは全力をあげて祖国光復会の創立準備に取り組んだ。その過程には幾多の困難があったが、すべての難事が思惑どおりスムーズに解決され、万事が急速に進捗した。李東伯は金山虎とともに、この活動において誰も代行できない誠実かつ周到な援助者になってくれた。李東伯が入隊したのち、わたしはすぐさま彼を祖国光復会創立準備委員会のメンバーに加えた。準備委員会の委員の中でもっとも中核的な役割を果たしたのは金山虎と李東伯であったが、金山虎は外部組織との連絡を担当していたので主に外で活動し、内部での準備を主宰したのは李東伯であった。祖国光復会の綱領と規約、創立宣言の作成にあたっても、彼はわたしを大いに補佐してくれた。わたしは条項の一つひとつについて彼と相談し、草稿は彼が作成するようにと勧めた。しかし李東伯は自分の文体は古くさいうえに、将軍の意図を正確に反映させる自信がないと言って聞き入れなかった。それで草稿はわたしが書き、彼がそれを補うというやり方で創立文書を書き上げていった。彼と討議した問題のうち、意見の差がいちじるしかったのは綱領の第一条であった。第一条の内容は、祖国光復会がいかなる理念と闘争目的を有し、どのような性格の政治団体であるかを一言で規定づけるものであるため、論議が深刻にならざるをえなかった。わたしが以前から考えてきたとおり、二千万朝鮮民族の総動員で強盗日本帝国主義の植民地統治を転覆し、真の人民の政府を樹立するという内容にしようと言うと、李東伯は首をかしげて考え込んでから、かぶりを振った。
「無産階級の社会を建設するという文句が一つもないので、物足りない感じがします。綱領の第一条に共産主義のにおいが全然ないとなると、共産主義を信奉する多くの主義者たちが共鳴しないのではないでしょうか。真の人民の政権という文句は階級的性格があいまいで、どことなく民族主義のにおいがします」
後日、白頭山密営ではじめて朴達(〔 〕)に会って話を交わしたとき、彼も祖国光復会綱領の第一条については李東伯とまったく同じことを言った。たしかに、当時はわが国にえせマルクス主義的な見解が広く流布していた時期であった。共産主義者を自称するほとんどの人は、あたかも共産主義が民族的理念と相容れない思想であるかのように考え、共産主義者は狭小な民族的理念から抜け出し、階級的原則と国際主義的立場を固守してこそ、労働者階級と全人類を搾取と抑圧から解放することができると力説していた。共産主義を信奉する少なからぬ人がこういう主張をするようになった主な原因の一つは、共産党宣言の「プロレタリアートに祖国はない」というマルクスの命題をきわめて単純に受け入れたことにある。
マルクスとエンゲルスが生存したのは、一国社会主義革命の可能性がまだ熟していなかった歴史的時期である。彼らは資本主義が高度に発達したいくつかの国で同時に社会主義革命が起こると予言した。労働者階級の打倒対象である各国のブルジョアジーが民族的利益の擁護者を自任している状況下で、全世界のプロレタリアートが自国のブルジョアジーの標榜する「民族主義」や「愛国主義」の甘言にのせられるならば、プロレタリアートの全世界的な革命偉業は失敗する恐れがあった。各国のプロレタリアートにとって、ブルジョアジーの支配下にある母国は決して祖国となりえず、したがってプロレタリアートは国粋主義と国際主義、民族主義と社会主義の両者のうち、必ず国際主義と社会主義の側に立たなければならなかった。まさにこのような見地からして、マルクス主義の創始者たちは労働者階級がいわゆる愛国主義的な幻想にとらわれることを戒め、愛国主義と社会主義の両者のうちつねに民族主義的偏見を捨てて社会主義を擁護するよう教えたのである。マルクスはパリコンミューン失敗の原因を分析して、コンミューンの参加者が反動派の巣窟であるベルサイユを攻撃しなかったのは、外敵であるプロシア軍がパリを包囲しているときに内戦を起こすのは愛国主義に反すると誤断したためであると断言し、レーニンは、第二インターナショナルの修正主義者たちが第一次世界大戦が勃発するや労働者階級の革命的原則を放棄して「祖国防衛」のスローガンのもとにそれぞれ自国のブルジョアジーの側についたのは、社会主義偉業にたいする裏切り行為であると断定した。
自民族を犠牲にしてでも自己の富を増やそうとする、血迷ったブルジョアジーの植民地争奪戦争に「祖国防衛」の看板をかかげて加担するのは、自民族にたいする裏切りであると同時に、社会主義にたいする裏切りである。したがって、帝国主義国家のプロレタリアートが社会主義偉業に忠実であるためには、「祖国防衛」の看板でなく「戦争反対」の旗をかかげて戦争ボイコット運動を展開しなければならない。
しかし、植民地従属諸国においては完全に事情が異なる。植民地従属国で共産主義者が祖国解放と愛国主義の旗をかかげるのは、とりもなおさず宗主国のブルジョァジーに反対することになり、まさにこうすることによって、彼らは民族革命と階級革命、そして国際革命偉業にともに寄与できるのである。この明白な真理を悟ることができずに、「プロレタリアートに祖国はない」という命題を絶対視し、愛国主義、民族主義を共産主義の敵のようにみなして排斥したところに、えせ共産主義者、えせマルクス主義者の理論的・実践的誤謬がある。社会主義革命が民族国家単位に進められる新たな歴史的環境のもとで、植民地諸国における真の民族主義と真の共産主義のあいだには実際上、大きな隔たりはないといえる。一方は民族性にいくぶん重きを置き、他方は階級性をもう少し強調しているだけのことであって、外部勢力に反対し、民族の利益を守る愛国愛族の立場は同じであるとみるべきである。
真の共産主義者も真の愛国者であり、また真の民族主義者も真の愛国者であるとみなすのは、わたしの変わらぬ信条である。こういう信条から、われわれは一貫して愛国的な真の民族主義者との合作を重視してきたのであり、彼らとの同盟を強めるために力をつくしてきたのである。われわれは、朝鮮の共産主義者が祖国解放のために戦うのは民族的権利であることを認識させ、それは決してプロレタリア国際主義と矛盾するものでないことを納得させるため、多くの時間と精力を費やさなければならなかった。同時にわれわれは、自己の純粋な祖国愛と民族解放をめざす実践闘争によって、共産主義者こそ真に国を愛し民族を愛する者であることを全民族に誇示し、ついには民族解放闘争の陣頭に正々堂々と立つようになったのである。
われわれのこうした長期にわたる犠牲的な闘争の誇らしい結実となるのが、ほかならぬ祖国光復会の創立である。したがって、「祖国光復会」という名称そのものも堂々とかかげ、綱領の第一条に朝鮮民族の全構成員自身の力によって祖国の解放をなしとげ、東満州の遊撃根拠地にうちたてたような真の人民の政府を樹立するということも明記しなければならない。
わたしの話を注意深く聞いていた李東伯は、膝を打って歓声をあげた。
「よくわかりました! 将軍と論争したおかげで目から鱗が落ちたような思いです。大賛成です」
綱領の他の条項にかんしては、これといって意見の食い違いはなかった。このように、われわれは祖国光復会十大綱領で権力問題の解決を朝鮮民族の第一義的な課題とし、人民に民主的自由と権利を保障し、社会の民主的発展をなしとげる課題、海外同胞の民族的権利を擁護する課題をはじめさまざまの政治的課題を提示した。
また、綱領には革命的な軍隊を建設する課題とともに、日本帝国主義と売国的親日地主の土地、ならびに日本国家および日本人所有のすべての企業所、鉄道、銀行、船舶、農場、水利機関と売国的親日分子の全財産を没収し、貧民を救済し、民族工業・農業・商業の自由な発展を保障して民族経済を建設する問題など反帝反封建民主主義革命の段階で解決すべき経済的課題も明示した。民族工業・農業・商業の自由な発展を保障し、民族経済を建設するという思想は、民族資本と買弁資本を厳格に区別して愛国的な民族資本を奨励し、民族資本家は倒すのでなく積極的に擁護して反日共同戦線に結集しようという、われわれの終始一貫した方針と路線にもとづいている。まさにここに、反日的な民族資本家を含むすべての資本家を同一視すべきだとするえせ共産主義者と、ブルジョアと称されながらもその志向において愛国的で実践において反日的なすべての民族資本家を革命の原動力とみなす、真の共産主義者との違いがあった。
祖国光復会の十大綱領はまた、社会的・文化的課題と対外的課題も提示した。
宗教家や民族資本家、愛国的な地主の問題で多少摩擦が生じるものと予想していたが、綱領の第一条にたいする論議を通じてわたしと同じ世界観をもつようになった李東伯は、驚くほど正確にわたしの見解を悟り言いあてた。この問題にかんしては、むしろ金山虎や呉白竜などの方が偏狭な態度をとった。
わたしが綱領と規約、創立宣言文を起草するあいだに、ほかの人たちは創立準備委員会の名義による手紙や宣伝文を作成した。まったく一分一秒も無駄なく使い果たした多忙な春であった。
綱領と規約、創立宣言文が準備委員会の最終討議にかけられた場所は、漫江部落の許洛汝村長の家である。「パイプじいさん」は、これまで共産主義運動家をもって自任していた分派分子たちはこれといった綱領も示せない分際でヘゲモニー争いに血眼になってきた、しかしまさにいま、真っ暗だった朝鮮革命の進路をいっそう明るく照らす灯台が現れた、と言って喜んだ。
四月末に準備を完了したわれわれは創立大会の場所を東崗の森に内定し、そこに移った。招待状を受けた代表たちはほとんど集まったが、必ず参加すると返書までよこした南満州の李東光と全光(呉成侖)はどうしたわけか大会が終わるまで姿を見せなかった。国内の代表としては康済河の組織のルートから碧潼の天道教代表と農民代表が参加し、穏城地区の党組織のルートから教員代表と労働者代表が一名ずつ参加した。
歴史的な祖国光復会創立大会は五月一日からはじまった。花盛りとはいえないまでも、山々には春の色が動いていた。会合をひかえ、代表たちは感激と興奮に包まれていた。俗に東崗会議と呼ばれるこの会議は、十五日間もつづけられた。
まず李東伯が大会宛の祝辞を読みあげ、つづいてわたしが報告をおこなった。わたしは報告で、祖国解放の旗のもとに全民族を一つの政治的力量に結束する課題と、国境地帯と国内に進出して反日民族統一戦線運動を強力に展開し、抗日武装闘争をいちだんと拡大発展させるため、国境沿岸に朝鮮人民革命軍の新たな根拠地を創設する課題を提起した。この報告は後日、『反日民族統一戦線運動をさらに拡大発展させ、全般的な朝鮮革命を新たな高揚に導こう』という題目のパンフレットで発刊された。
わたしはまた、祖国光復会の十大綱領と創立宣言を大会の審議にかけた。十大綱領では、一九三〇年代の革命情勢とわが国の社会経済状態、階級の相互関係などを正確に分析し、それにもとづいて朝鮮革命の性格と任務、戦略戦術上の原則を規定するとともに、労働者、農民をはじめ勤労者大衆の利益と各階層の愛国的人民の共通の利害を十分に考慮して、朝鮮革命の前途を明らかにした。
参会者は綱領に全面的な賛同を示し、明白な闘争目標をもって朝鮮革命の勝利をめざして邁進できるようになった喜びを吐露し、綱領に示された課題を積極的に実現していく決意を述べた。
これに劣らず、代表たちは祖国光復会の創立宣言について胸を高鳴らせつつ討議した。創立宣言の一字一句は冒頭から参会者の心をとらえた。とくに、全民族が金のある人は金を出し、食糧のある人は食糧を出し、技能と知恵をもつ人は技能と知恵をささげ、二千万民衆が一心同体となって反日祖国解放戦線に参加するなら、朝鮮の独立は必ず成就されるという確信を表明し、ともに祖国光復会に結集してたたかうことを熱烈に訴えた部分は参会者を強く感動させた。
祖国光復会の創立宣言が採択されたあと、これを誰の名で発表するかという問題が討議された。参会者は異口同音にわたしの名で発表しようと言った。祖国光復会創立の発起人もわたしであり、創立準備委員会の活動もわたしが主宰し、また綱領と創立宣言もわたしが作成したのだから、討議するまでもなく当然わたしの名で発表すべきだというのである。しかし、わたしは見解を異にした。祖国光復会は全朝鮮人民の反日勢力を総結集しなければならないのだから、民族的な形式をとるべきである。したがって発起人としては、過去の義兵運動や三・一運動の時期から朝鮮の独立運動に献身してきた名望の高い年配の愛国志士を立てるべきだと考えた。事実、そのころまでは、朝鮮人民革命軍の闘争舞台が主に満州地方であったので、国内の広範な人民にはわれわれの存在があまり知られていないものとわたしは考えていた。わたしの名が国内人民に広く知られるようになったのは、白頭山に新たな秘密根拠地が設けられ、武装闘争が国内深くにまで拡大されはじめたときからである。われわれの主力部隊の動きと闘争が国内の新聞にはじめて掲載されたのは、おそらく一九三六年九月の『毎日申報』であったと記憶している。『毎日申報』は、長白県に百五十~百六十名規模の部隊が現れたが、「部隊の首領は
わたしは大会の代表たちに率直に話した。誰が発起人で誰が準備委員会の責任者であり、また誰が綱領と規約を作成したのだから、誰それの名で発表すべきだといずれも言い張っているが、そんなことにこだわってわたし一人を押し立てるのは意味がない、二千万同胞の誰もが知っている人物の名で祖国光復会への結集を呼びかける方がずっと効果的である、わたしのことは同胞民衆の息子の一人と考え、民衆のために陰で骨を折ったのだとすればそれでよいではないか、大義のために小義を捨て名望のある高年の愛国志士を共同発起人に立てることにしよう、と訴えた。そして、李東伯と呂運亨を共同発起人にして創立宣言文を発表することを提案した。これに真っ先に異議を唱えたのは李東伯であった。彼は年齢や過去の名望などは問題にならない、実際に全民族を代表して祖国解放の大業を導いている指導者は内外を見渡しても金将軍しかいない、この厳然たる事実を無視してわたしのような者を発起人にしてはならない、金将軍が祖国光復会の会長になり発起人になって然るべきだ、と言って譲らなかった。彼はわたしの提案を参酌してわたしと呂運亨を共同発起人に立てることを提案した。慎重な討議の末、わたしは金東明という仮名を使うという条件付きで、発起人の一人になることに同意した。わたしが譲歩すると、李東伯も発起人になることに同意した。こうして、五月五日に発表された祖国光復会の創立宣言には、金東明、李東伯、呂運亨の三人が共同発起人として名を連ねることになった。
金東明という仮名を考えたのは李東伯である。わたしが仮名でなければ同意しないと言うと、彼はそれ以上我を張ることができず考え込んでいたが、仮名の姓はそのまま金とし、名は東方が明るむという意味で東明としてはどうかと提言した。「金東明」とすれば、民族を代表する意味で意義深い名前になるだろうというのである。全員が熱烈な拍手をもって賛意を表明した。「
われわれが発表した祖国光復会宣言はその後、内外の各地に発送されたが、あるところではそれを自分なりに複製して発表し、発起人もその地方で影響力のある人物や著名人士に替えたりした。われわれは臨機に事を処理することを許容した。祖国光復会の名称そのものも、東満州では東満朝鮮人祖国光復会とし、南満州では在満韓人祖国光復会とされた。党歴史研究所が掘り起こした祖国光復会宣言文の中に、呉成侖、厳洙明、李相俊(李東光)、安光勲などの名が見られるのは、こうした事情によるものである。
わたしは祖国光復会創立大会参加者の総意によって、この組織の会長に推された。こうして、わが国の反日民族解放闘争の歴史で初の常設的な反日民族統一戦線体が誕生した。
わが国における初の反日民族統一戦線体としての祖国光復会の創立は、革命の大衆的基盤を強化するうえで画期的な出来事となった。祖国光復会の創立により、反日民族統一戦線運動は抗日武装闘争と密接に結びつき、全国的範囲でより組織化、体系化されて急速に発展し、すべての反日勢力を国の解放をめざす闘争に力強く組織動員できるようになった。民族の総力を解放戦線に結集することは、われわれが闘争の初期からうちだしていた至上の課題であり、その実現のために数年前からねばり強く準備を進めてきた。祖国光復会の創立は、革命の主体的力量を不断に育成してきたわれわれ青年共産主義者の主動的かつ積極的な努力のたまものであった。それは、朝鮮人民が自らの力で日本帝国主義との戦いをいっそう果敢に展開する意志をいま一度おごそかに宣言した歴史的な契機となり、抗日武装闘争を軸とする朝鮮革命全般を新たな高揚へ導く転機となった。
祖国光復会の創立は、朝鮮革命そのものの発展の要求と時代の潮流に合致するものであったがゆえに、内外の大きな支持と反響を呼んだ。内外の各地で賛同の声があがったが、真っ先に反応を示したのは独立軍部隊であった。祖国光復会の創立が宣言されてまもなく、朝鮮革命軍政府参謀長の尹一坡はわれわれに書簡をよこして祖国光復会の創立を祝い、今後反日戦線で緊密な連係を保つことを希望した。また、上海で活動していた民族主義運動家の朴某は千里の道もいとわず満州まで足を運び、祖国光復会の南満州代表に会った。上海、北京、天津など中国関内で多年にわたり独立運動にたずさわった愛国の志士として民族主義運動家のあいだでかなりの影響力をもっていた彼は、今後国内と国外を包括する広い領域で祖国光復会の活動を活発に展開することを約束し、ゆくゆくは全民族的な武装力としての「独立革命軍」を結成する方途についても深く論議を交わして帰った。
『三・一月刊』の創刊号に李東伯が、「天道教上級領袖の某氏、わが光復会の代表を親しく訪問」という見出しで書いているように、天道教の道正(教区の管理責任者)朴寅鎮も祖国光復会創立の朗報に接して、白頭山密営にわれわれを訪ねてきた。天道教青年党の百万党員を祖国光復会の会員にすると彼が約束したのは、そのときのことである。
李昌善、李悌淳、朴達をはじめ多くの人があいついでわれわれを訪ね、祖国光復会の拡大に大きく貢献した。
短期間のうちに数十万の会員を擁する汎民族的組織に拡大した祖国光復会の発展史について書くなら、部厚い数巻の書物にしても収めきれないであろう。
一九三六年五月、白頭山北辺の麓での祖国光復会の誕生は朝鮮革命の発展に新たな転機をもたらし、祖国解放の曙光をまねく歴史的な出来事であった。朝鮮革命の洋々たる新時代は、このように白頭山の麓から明けはじめたのである。
注 釈
〔1〕 呂運亨(一八八六~一九四七) 京畿道楊平出身。「上海臨時政府」と高麗共産党に関与して朝鮮の独立のために活動。ソウルで朝鮮中央日報社社長、「朝鮮建国準備委員会」委員長、「南朝鮮民主主義民族戦線」議長などを歴任。一九四六年、平壌で
〔2〕 白南雲(一八九七~一九七九)全羅北道高敝出身。ソウルで教職に携わるかたわら秘密組織を結成して活動中、日本警察に逮捕され、獄中生活を送る。勤労人民党の副委員長として活動。アメリカ帝国主義の植民地政策に反対し、一九四八年四月、南北朝鮮政党・大衆団体代表者連席会議に参加。朝鮮民主主義人民共和国の創建後、教育相、科学院院長、
〔3〕 姜英昌(一九一二~一九六五) 慶尚北道奉化郡出身。日本の植民地時代、中国の旅順工科大学を卒業し、三菱電機株式会社に技師として勤務。解放後、南朝鮮から入北し、城津製鋼所の技師長、金属工業相、科学院院長を歴任。反動派の策謀のなかでもつねに朝鮮労働党を信頼し、人民経済の復興発展と社会主義建設、科学技術の発展のために精力的に活動。( ページ)
〔4〕 治安隊 祖国解放戦争(朝鮮戦争 一九五〇・六~一九五三・七)の時期、米軍と南朝鮮かいらい軍が共和国北半部を一時的に占領し、その地域に組織した反動団体。( ページ)
〔5〕 十三連発 ある遊撃隊員が小汪清遊撃区防衛戦闘(一九三三~一九三四)のとき、日本軍「討伐」隊の侵攻からスッパク谷衛所を守って勇敢にたたかい、十三発の銃傷を負ったとして、十三連発というあだ名で呼ばれた。( ページ)
〔6〕 金振(一九一二~一九三九) 敵の銃眼をわが身でふさいだ初の英雄。
〔7〕 李寿福(一九三三~一九五一) 朝鮮人民軍兵士。平安南道順川出身。アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味が引き起こした朝鮮戦争の時期、一二一一高地に連なる無名高地の奪還戦闘の際、敵の銃眼をわが身でふさぎ、部隊の突撃路を開いて戦死。( ページ)
〔8〕 金光哲(一九六五~一九九〇) 朝鮮人民軍将校。一九九〇年一月、戦闘訓練中、破裂寸前の手榴弾の上に身を伏せ、十余名の兵士を救って犠牲になる。( ページ)
〔9〕 韓英哲 朝鮮人民軍兵士。一九九二年二月(当時二十一歳)、戦闘訓練準備中、破裂寸前の手榴弾の上に身を伏せ、戦友たちを救って犠牲になる。( ページ)
〔 〕 鳳梧谷と青山里で喫した大惨敗 洪範図指揮下の朝鮮独立軍と間島一帯で活動していた独立軍部隊によって一九二〇年六月と十月に、日本侵略軍が中国の吉林省汪清県鳳梧谷戦闘と和竜県青山里戦闘で甚大な打撃を受けたことをいう。( ページ)
〔 〕 許憲(一八八五~一九五一) 咸鏡北道出身。ソウルで弁護士を務め、日本の朝鮮占領を断固糾弾。解放直後、南朝鮮労働党中央委員会委員長の重責をにない、祖国統一のためにたたかい、入北後は
〔 〕 金九(一八七六~一九四九) 黄海南道海州出身。初期には反日義兵闘争に参加。三・一人民蜂起後、上海で「韓国独立党」を組織。「上海臨時政府」の主席を務める。日本の敗亡後、南朝鮮に帰り、対米従属に反対し、一九四八年、平壌で開催された南北朝鮮政党・大衆団体代表者連席会議に参加。その後、ソウルで連共・統一をめざしてたたかい、暗殺される。( ページ)
〔 〕 四月南北連席会議 南北朝鮮の五十六の政党、大衆団体の代表六百九十五名と海外同胞の代表、一部の右翼民族主義者が参加して、祖国統一問題を討議した会議。一九四八年四月に平壌で開かれ、
〔 〕 崔徳新(一九一四~一九八九)
〔 〕 ハンビョル(一星)
〔 〕 牽牛と織女の悲しい伝説 星の国で牛を引く牽牛と布を織る織女が互いに愛しながらも別れ別れに暮らさねばならなかった不遇な運命を内容とする伝説。( ページ)
〔 〕 洪吉童 朝鮮の中世小説『洪吉童伝』の主人公。洪吉童は、変幻自在な術を使い、義侠心のある人物として描かれている。( ページ)
〔 〕 三十八度線 一九四五年八月当時、米国が敗亡した日本軍の降伏受理と武装解除のための分担地域境界線という名目のもとに、北緯三十八度線を境にして解放された朝鮮を北と南に二分した一時的な境界線。三十八度線は全朝鮮の占領を企図するアメリカによって引かれた。( ページ)
〔 〕 乙支文徳 六一二年、高句麗――隋戦争の時期、薩水戦闘で敵に壊滅的な打撃を与え、高句麗の軍隊と人民を勝利に導くうえで大きな役割を果たした高句麗の愛国名将。( ページ)
〔 〕 李舜臣(一五四五~一五九八) 李朝時代の愛国名将。世界最初の鉄甲船である亀甲船を創案、建造。壬辰祖国戦争の時期(文禄・慶長の役 一五九二~一五九八)、海戦で日本侵略軍の艦船数百隻を撃沈。数万の軍勢を掃滅し、海の守りを固めて敵の「水陸併進」企図を破綻させ、戦争の勝利に大きく寄与した。最後の露梁海戦で戦死。( ページ)
〔 〕 朴達(一九一〇~一九六〇) 咸鏡北道吉州出身。日本帝国主義の朝鮮占領時期、朝鮮民族解放同盟の責任者として活動しながら、日帝に反対して戦う。一九三八年九月、日本警察の手先に密告されて逮捕、投獄される。一九四五年八月、朝鮮の解放とともに西大門刑務所から廃人同様の体で出獄し、病床についたまま執筆活動を続けた。( ページ)