目 次
第七章 人民の天下
(一九三三年二月~一九三四年二月)…………………………………………… 一
1 楽天地………………………………………………………………………………………………… 一
2 昼は敵の天下、夜はわれわれの天下……………………………………………………………… 二四
3 ソビエトか、人民革命政府か?…………………………………………………………………… 五〇
4 コミンテルンの派遣員……………………………………………………………………………… 七四
5 白馬の思い出………………………………………………………………………………………… 九八
第八章 反日の旗をかかげて
(一九三四年二月~一九三四年十月)……………………………………………一二三
1 李 光…………………………………………………………………………………………………一二三
2 呉義成との談判………………………………………………………………………………………一四六
3 東寧県城戦闘…………………………………………………………………………………………一六五
4 極端な軍事民主主義を論ず…………………………………………………………………………一八四
5 馬村作戦………………………………………………………………………………………………二〇二
6 密林の兵器廠…………………………………………………………………………………………二三四
7 永遠に咲く花…………………………………………………………………………………………二五六
第九章 第一次北満州遠征
(一九三四年十月~一九三五年二月)……………………………………………二八四
1 朝鮮人民革命軍………………………………………………………………………………………二八四
2 富者と貧者……………………………………………………………………………………………三〇三
3 老爺嶺を越えて………………………………………………………………………………………三二一
4 寧安に響いたハーモニカの音………………………………………………………………………三三九
5 天橋嶺の吹雪…………………………………………………………………………………………三五六
6 人民のふところ………………………………………………………………………………………三七八
第七章 人民の天下
(一九三三年二月~一九三四年二月)
1 楽 天 地
一九三三年二月の中旬、われわれは馬老人に案内されて汪清遊撃区へ向かった。二十日間、山小屋で政治討論に明け暮れ、退屈しきっていた十八名の遊撃隊員は、道に出ると元気いっぱい歩きだした。冬中の試練の跡はまだ消えさっていなかったが、隊伍は清新で生気はつらつとしていた。
いま汪清地方に住んでいる人たちに、お国自慢は何かと尋ねると、県長の演説が長いのと小学校の校舎が長いのと谷間の長いのが有名だ、とウイットに富んだ返答が返ってくるそうだが、それは冗談好きな汪清地方のユーモリストが愛郷心の現れとしてつくりだした話に違いない。
一九三三年当時のわたしにそういう名句の心得があったら、ひどい苦しみに耐えぬいた戦友たちをひとしきり愉快に笑わせることができたかも知れない。だが、わたしはそのとき、「汪清はどんなところですか?」という隊員の問いに、ただ一言、亡命者が多いところだとしか答えられなかった。亡命者が多いというのは、革命家が多いところという意味である。
汪清は間島の各県のうちでも早くから反日独立運動がもっとも白熱化した地方の一つであった。百戦老
将の洪範図が日本軍討伐隊を大敗させた戦場もここであり、徐一、金佐鎮、李範奭らが率いた北路軍政署独立軍の活動拠点もここにあった。李東輝はこの一帯で独立軍の人材養成に全力を傾けた。独立軍の猛活躍と独立運動家の出没は、 この地方の人民の民族的覚醒を促し、彼らを反日愛国闘争へと力強く励ました。
独立軍運動が凋落の段階に入り、独立運動のリーダーたちが沿海州地方やソ満国境一帯に姿をかくすようになってから、汪清地方での民族解放闘争のヘゲモニーは次第に共産主義者の手中に掌握され、闘争の主流も民族主義運動から共産主義運動へと転換していった。民族主義者によって培われた愛国愛族の土壌で、新思潮の先覚者は共産主義運動を発展させていったのである。
しかし、その運動の原動力にはさほど変化がなかった。民族運動の主体として登場した人びとの絶対多数は、共産主義運動への方向転換をとげていた。共産主義運動の隊列内には、最初から共産主義を志した人もおり、最初は民族主義を信奉し、思想改造の過程をへて次第に共産主義者になった人もいた。なんの主義にも与(くみ)しなかった新しい人たちだけで共産主議運動をするのは不可能なことである。これがまさに革命発展において、われわれが指針としている継承と革新の原理なのである。共産主義思想が人類思想史の
いずれにせよ、汪清は反日闘争の歴史が長く、大衆的基盤が強く、政治的地盤もしっかりしているところであった。祖国の六邑地区とも距離が近く、間島地方の愛国文化啓蒙運動の中心地である延吉、竜井地区とも隣接していて、いろいろな面で好都合であった。水積もりて魚あつまる、というたとえのとおり、こういうところに革命家が多く集まってくるのは理の当然であった。
苦学をするなら日本へ行き、パンを望むならソ連へ行き、 革命を志すなら間島へ行け、という流行語は、東満州を解放運動の最前線とみなし、そこを憧憬してやまなかった当時の朝鮮青年の思いをよく反映している。
間島へ行くのは銃眼めがけて突進するにひとしい危険きわまりないことであった。だが、われわれは革命をいっそう本格的に進めるために、その銃眼めがけてためらうことなく突進した。遊撃区に向かうわれわれの足どりがかくも軽快であったのは、そこに盛りだくさんのご馳走や快いねぐらが待っているからではなかった。それはほかでもなく、そこに生死をともにする同志があり、人民があり、われわれの闊歩できる大地があり、天皇の勅令や総督制令をもってもくつがえすことのできない、朝鮮式の真の世界があるからであった。
われわれが馬老人の案内で転角楼へ向かった一九三三年二月は、東満州各地での遊撃根拠地の創設が基本的に完了し、その生命力が発揮されはじめていたときである。
遊撃根拠地を建設し、それにもとづいて積極的な武装闘争を展開することは、朝鮮の共産主義者がすでに冬の明月溝会議でその趣旨を示し、方針として採択ずみの中心的課題の一つであった。われわれはそのとき、武力抗争をするなら陣地を築くべきだと強力に主張した。陣地というのは、遊撃根拠地を意味するわれわれなりの素朴な表現であった。
われわれが冬の明月溝会議で論議された解放地区形態の遊撃根拠地創設にかんする問題を独自の議題として上程し、その実現方途を改めて真剣に模索したのは一九三二年春の小沙河会議であった。この会議以後、われわれは間島各地に有能な指導中核を派遣し、農村の革命化に拍車をかけた。これは解放地区形態の遊撃根拠地を建設するための第一段階の作業であった。革命化された農村地域は、遊撃区ができあがるまで反日人民遊撃隊の足場として活動できる臨時拠点となり、遊撃根拠地を誕生させる下地となった。
冬の明月溝会議で理想的な候補地として選定された安図、延吉、汪清、和竜、琿春の山岳地帯の牛腹洞、王隅溝、海蘭溝、石人溝、三道湾、小汪清、嘎呀河、腰営口、漁郎村、大荒溝、煙筒拉子などの各地に遊撃根拠地が続々と建設された。
間島の山岳地帯に建設された遊撃区域には、敵とのするどい対決のなかでの朝鮮共産主義者の堅忍不抜の努力と血みどろの陣痛の痕が歴々としている。豆満江沿岸の遊撃根拠地を築くために、梁成竜、李光、張竜山、崔春国、朱鎮、朴東根、朴吉、金日煥、車竜徳、姜錫煥、安吉、李国振、李鳳洙といった朝鮮共産主義者が流した鮮血と労苦の跡は歴史に末長く残るであろう。
当時、国内と海外のひとかどの人物は先を争って間島地方の遊撃根拠地に集結した。汪清地区にも多くの人が集まってきた。金百竜、趙東旭、崔成淑、全文振など北満州の共産主義者も小汪清に移ってきた。小汪清の新しい住民の中には、沿海州地方で活動していた共産主義者や独立運動家もいれば、長いあいだ、敵中で地下活動をつづけているうちに発覚して闘争舞台を替えた人もおり、朝鮮革命の中心は間島だといううわさを聞いて越境脱出してきた国内の愛国人士やマルキストもいた。
東満州の遊撃根拠地には、このように革命に参加する覚悟をかためたか、または実践闘争の中で鍛えられて豊富な経験を身につけた精鋭分子が集まってきた。したがって、住民の構成も大汪清河の清い流れのように汚れがなかった。その気概と胆力からすれば、すべて一騎当千のつわものといえた。
朝鮮の共産主義者は革命の策源地ができた有利な条件を利用して抗日根拠地で遊撃隊の隊伍を拡大し、党、共青をはじめ、反帝同盟、農民協会、反日婦女会、児童団、赤衛隊、少年先鋒隊などの階層別組織と半軍事組織を結成して、全民抗争の基盤を築いた。われわれの先代に属する祖父や祖母たちが一度も味わえなかった真の民主的権利と自由を人民に与え、人民の利益をりっぱに擁護し代弁する革命政権が遊撃区域ごとに誕生し、人民の楽土を建設しはじめた。革命政権は人びとに土地と労働の権利を与え、誰にも無料で学び、治療を受ける権利を与え、歴史上はじめて万民平等の理念が実現した社会、互いに助け導き合い、尊重し合う美しい倫理が支配する社会を建設した。遊撃区にはステッキをついて横柄にふるまう金満家もおらず、借金と税金に押しつぶされてせちがらい世の中を嘆き、涙に暮れる人もいなかった。
遊撃根拠地には、いかなる受難や苦痛の中でもついえることのない悦(よろこ)びの脈動があった。それはあらゆる社会悪と束縛から完全に解放され、自主的な新しい生を開拓していく人民のロマンであった。人民革命政府から分与された土地に杭を打ちこみ、鉦を打ち鳴らし踊りに興ずる農民の姿は、朝鮮の共産主義者によって間島という不毛の地に創出された世紀のパノラマであり、別天地であった。たえまない流血と犠牲をともなう試練にみちた生活ではあったが、人びとには明日への夢と希望があり、歌があった。
敵のいかなる挑発や攻撃にも微動だにせず、東方の一角に毅然と立って民族解放の壮大な新しい歴史を開いていく間島地方の遊撃根拠地は、故国人民の賛嘆と憧憬を呼び起こす楽土、地上の楽園となった。朝鮮民族はその居住地と理念の違いにかかわりなく、共産主義者が血をもって築きあげたこのとりでを祖国解放の唯一の灯台と仰ぎ、心から支持声援した。一言でいって、遊撃根拠地は人びとがロマンと悦びと希望にあふれて人間らしく暮らせるところであり、数千年来の人民の夢を実現した理想郷であった。
遊撃根拠地の存在は、東京大本営の首脳たちにとって慢性化した頭痛の種となった。豆満江をはさんで朝鮮の北部地帯とつながっているこの一帯を彼らは目の上のこぶのようにみなしていた。間島一帯を「反満抗日の心臓部であり、北から朝鮮をへて日本へ向かう共産党の動脈でもある」といった高木健夫(〔1〕)の表現は的確であった。日本軍国主義者は東満州の遊撃根拠地を指して「東洋平和のガン」と呼んだ。この言葉には、遊撃根拠地にたいする日本軍国主義集団の恐怖心がいみじくも反映されていた。日本軍国主義者が間島の遊撃根拠地を「東洋平和のガン」とみなしたのは、この一帯の領域がとくに広大であるとか、この地方に関東軍を制圧できる共産主義者の大兵力が陣を張っているからではなかった。間島で投げた爆弾が東京の宮城や大本営まで飛んでいくわけでもなかった。彼らが間島を目の上のこぶのようにみなしたのは、なによりもこの地域の住民の絶対多数が反日感情の激烈な朝鮮人であり、その朝鮮人の大部分が日本の支配に反対することであれば、いさぎよく一命を投げだして顧みない革命性の強い住民であったからである。
間島地方の共産党員と共青員の九割以上が朝鮮人であったことを念頭におけば、日本の支配層がこの地帯の遊撃区域を満州支配における最大の頭痛の種とした理由は容易に理解できるであろう。「乙巳条約」と「韓日併合」に反対し、国内と満州の広野で十年有余の抗争をつづけてきた義兵時代の勇将と独立軍残存勢力の大部分もここに陣を構え、火縄銃で日本軍警を狙っていた。朝中両国共産主義者の兄弟的友情と血縁的つながりの手本もここでつくられ、満州全土と中国全域に拡大されつつあった。間島の遊撃根拠地は「東洋平和のガン」ではなく、東洋平和の華(はな)であり灯台であった。
遊撃根拠地を築くための朝鮮革命の戦略的課題は、抗日武装闘争を揺籃期に抹殺しようと狂奔する日本軍国主義勢力の無差別討伐によって重大な試練に直面した。しかし敵の焦土化作戦は、かえって間島一帯での遊撃根拠地の創設過程を加速化する結果をまねいただけである。
一九三二年の春、関東軍と朝鮮軍(朝鮮駐屯軍)はいわゆる間島処理方策を協議した。これは朝鮮軍所属の臨時派遣隊を投入し、間島地方の革命運動を弾圧しようとする凶悪な謀議であった。この謀議により、羅南師団所属の日本軍連隊を基幹とし、慶源守備隊、騎兵、野砲兵、飛行一個中隊まで含む間島臨時派遣隊は、秋収・春慌闘争が激烈に展開された東満州四県の全村落と市街地を標的にし、祖国の自由と独立、人間の自主的な生活を求めて立ち上がったすべての生命体とそのすみかに容赦なく砲火を浴びせた。
一九三二年四月初旬の大坎子襲撃を皮切りに、汪清の野山は血の海と化した。大坎子はひところ李光が李雄傑、金容範らとともに秋収闘争を指揮したところであり、金喆、梁成竜、金銀植、李応万、李元渉などの闘士たちが公安局を襲撃して武器を奪取した集落である。大砲と機関銃、飛行機で武装した羅南第一九師団の大軍が雲霞のごとく押し寄せてくると、この集落に駐屯していた王徳林麾下の救国軍部隊は磨盤山を越えて西大坡へあたふたと撤収し、村の保衛隊も抵抗を放棄して討伐軍に投降した。
大坎子を占領した日本軍は飛行機で汪清市街を爆撃し、住民家屋を襲って殺人、放火、略奪行為を働いた。汪清市内でいちばん大きな地主で富豪の李恒鐘の屋敷も、占領軍の手で焼き払われてしまった。ついで、徳源里と上慶里が火の海と化した。
この討伐がいかに残酷無道で狂気じみたものであったかは、当時、汪清の住民がつくったつぎのような歌からもうかがうことができる。
一九三二年四月六日
大坎子で反日戦争はじまった
大砲の音 野山をゆるがし
機関銃と榴散弾 雨あられ
飛行機は空から爆弾投じ
無産大衆の虐殺ほしいまま
大肚川の火炎は天をなめ
徳源里の農村は焼け野原
罪なき民の屍 野にみちて
汪清の野は人影消ゆる
満州に住む無産大衆よ
一致団結こぞって戦おう
われら血潮たぎらせ戦場で
勝利の旗をはためかさん
小汪清と大汪清の谷間には、討伐で家を失い肉親を亡くした避難民の群がひきもきらず流れこんできた。日本軍の飛行機は、非戦闘員しかいないその人波にも爆弾を浴びせた。水晶のように澄みきっていた汪清の川水は、またたくまに鮮血で染まった。その流れに虐殺された人の腸が流されていくことさえあった。
馬老人がわれわれを案内してくれた転角楼も、間島臨時派遣隊の暴虐ぶりが目に余るところであった。ここを襲った敵は数十名の青壮年と婦女、子どもたちを燃えあがる家に閉じこめて虐殺した。村はまたたくまに灰じんに帰した。東満州の各県で「転角楼での惨劇に際して全同胞に告ぐ」という檄が飛ばされたことを見ても、この討伐の規模と野蛮さを十分察することができるであろう。
間島革命の重要な発祥地の一つである小汪清と羅子溝に近い転角楼は、早くから抗日闘争の洗礼を受けてきたところである。数千に及ぶ農民と筏流し、林業労働者がひしめくように寄り集まっていたこの谷間には、党、共青をはじめ前衛組織とともに階層別の革命組織がみな揃っていた。春慌闘争のときにはこれらの組織が大衆を動員し、村に巣くっていた保衛団を叩きのめしさえした。大衆の気勢に恐れをなした保衛団員たちは、そのとき山に逃げのびたまま帰ってくることができず、土匪になってしまった。
闘争は勝利に終わったが、革命大衆は十三名の犠牲者を出した。こうした闘争の渦中で、転角楼はすぐれた革命家を輩出する温床となった。汪清遊撃隊三中隊長であった張竜山も、転角楼から三岔溝の区間で筏流しをしていた人である。李光が百家長という肩書で活動していた蛤蟆塘はこの村からわずか数キロのところにあった。
敵は村に共産党員が一人でもいれば、そこの住民を皆殺しにした。共産党員一人をなくすためには百名の大衆を殺してもかまわないというのが、日本軍警の合言葉であった。中日戦争のとき、華北駐屯日本軍司令官岡村寧次が華北地方の解放区を攻撃するとき採用したという三光政策(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)は事実上、一九二〇年代の間島討伐のときに実施され、一九三〇年代初にいたっては東満州各地での遊撃区域焦土化の本格的な実施によってその本質を赤裸々にさらけだしていた。朝鮮と満州大陸で日本帝国主義が唱えた三光政策と、いわゆる「匪民分離」を目的とした集団部落政策は、アルジェリアの抵抗勢力を弾圧する軍事作戦でフランスの植民地主義者によって適用され、ベトナム戦争のさい米軍によって完成されたのである。
三道湾、海蘭溝、竜井、鳳林洞など延吉県の主だった革命村もすべて屍でおおわれた。琿春県の三漢里一帯では千六百余戸の家屋が焼きつくされた。延吉一県で虐殺された人だけでも実に一万余名に及んでいるのだから、間島臨時派遣隊の罪業をなんと告発すべきであろうか。
日本軍は間島住民の生命財産は言うに及ばず、初歩的な生存手段である炊事道具までいっさいぶちこわしてしまった。炊飯もできないように釜を叩き割るかと思うと、部屋のむしろをはがし、オンドル石まで掘りかえした。果てには家屋を崩し、牛車で木材を大肚川市内に運び出した。人びとは草小屋で寝起きし、釜の代わりに石を熱してご飯を炊かなければならなかった。
山へ逃げられなかった人たちは、大坎子か大肚川などの市街地に行かなければ皆殺しにすると脅迫された。討伐軍の強制退去令は、地主も例外とはされなかった。抗日武装部隊の食糧や生活必需品が少なからず地主や資産家から提供されているということは公然の秘密であった。敵はこの源泉まで封鎖することによって、恒常的に食糧と被服の不足に悩む革命軍を完全に窒息させようとしたのである。
革命大衆は討伐隊の執ような追撃を避け、飲まず食わずで山中をさ迷った。だが、山だからといって必ずしも安全なわけではなかった。いくら深い渓谷でも行き止まりまで行けば、それ以上抜け道はなかった。行き止まりに突きあたると木立の中に隠れるよりほかはなかったが、そういうときに乳飲み子が泣き声を上げようものなら、皆殺しにされるのは必至だった。ある母親は討伐隊の捜索が身近に迫ったとき、背中の子どもがもしや泣きだしはしまいかと、乳首をくわえさせたまま強く抱きしめた。敵の銃口にさらされている数百人の革命大衆の身辺の安全を思ってのことであった。討伐隊が立ち去ったあとでわが子をゆすってみると、乳飲み子はすでに息絶えていた。このような悲劇は間島のどの村、どの谷間でもよくあることであった。こういう弊害をなくそうと、あるところでは乳飲み子にアヘンを飲ませた。アヘンを飲まされた子どもは眠りこけて泣きだせなかった。度重なる討伐にたまりかね、涙ながらに愛するわが子を他人の手に委ねる母親さえあった。
遊撃区の革命大衆と戦友のため、命よりも尊い抗日偉業のため、朝鮮の女性はこのように高価な代価を払わなければならなかったのである。ブルジョア人道主義者は、共産主義者の母性愛について論難するであろう。わが子の運命にかくも無慈悲な女性がどこにおり、わが子の生命にかくも無責任な母親がどこにいるものかと。しかし、幼い肉体から生命の火花をかき消してしまった責任をこの国の女性に問おうとしてはならないであろう。摘みたての棉のような肉体を枯葉の中に埋めるとき、そして見知らぬ家の戸口に愛するわが子を置いて立ち去るとき、遊撃区の女性が流した涙はいかほどであり、その胸の痛手はどれほど深いものであったろうか。それを知るなら、間島に殺人鬼の群を送りこんだ日本帝国主義者に呪いと憎悪を浴びせずにはいられないであろう。この国の女性の母性愛に耐えがたい試練を強いたのは、ほかならぬ日本軍国主義者たちだったのである。
日本が過去を清算するつもりなら、必ずこうした罪悪を反省すべきである。自分が犯した犯罪の跡を振り返り、誤りを悔悟するのはもちろん愉快なことであるはずがない。だが、そのような反省がいかに苦く屈辱的なものであっても、他人の家の軒下にわが子を捨て、乳飲み子の口にアヘンをそそぎこむときの母親や姉たちの苦しみに比べればはるかに軽いものではなかろうか。
日本の支配層が、その犯罪行為にたいするなんらかの証拠を求めるとするなら、それはかつて日本軍によって惨殺された数百万を数える朝鮮人にたいするはなはだしい冒涜である。
革命大衆には、日本軍の要求どおり都市へ行くか、それともその要求を拒み、いっそう深い山中にこもって生計を維持し闘争をつづけるかという二つの道しかなかった。郷里の豊饒な田畑を捨てて間島まで流れてきた朝鮮人のうち、日本軍が居座っている市街地へ行こうとする者が果たして何人いるだろうか。
間島の住民の大部分は、日本帝国主義の植民地的収奪によって経済的基盤を失い、 島国(〔 〕)(朝鮮中世の小説『洪吉童伝』に出てくる身分差別のない理想王国)のような理想郷を夢に描き、生きる道を求めて離郷した零細農民であった。彼らは官憲と土着地主に痛めつけられながらも、老爺嶺と哈爾巴嶺山脈の斜面や谷間で根気よく石を拾い出し、木の根を掘り出して畑を起こした。焼畑農業は骨がおれ貧困は相変わらずつきまとったが、日本人の責苦にさいなまれる心配がないので、人びとはそれだけでも満足していた。それを、あの悪逆無道な日本軍に従って都市へ行けというのであるから、汗水流して耕した土地を捨てて誰があっさり立ち去ろうとするであろうか。これは大殺戮の惨劇を体験した汪清一帯の住民にとって重大な試練であった。
討伐軍の脅迫に恐れをなした住民の中には、一戸二戸と都市へ行く者が出てきた。しかし、新世界を熱烈に憧憬し渇望する絶対多数の大衆は敵の恐喝に屈せず、深い山中へ身をひそめた。昨日まで同じ村里で革命のために志をともにし、苦楽をともにしてきた人たちは、こうしてそれぞれ山や都市へ散っていった。そのとき山中に残った人たちは県城(百草溝)から四十キロも離れた小汪清と大汪清の大森林地帯へ遠く移動した。李治白一家が中慶里から馬村へ移ったのもこのころであった。共産党汪清県委をはじめ県クラスの機関は小汪清に本拠を定めた。延吉県細鱗河、太平溝、王隅溝、北洞などへと場所を変えて活動していた東満特委(東満州特別党委員会)も、一九三三年の春には小汪清地域に来て梨樹溝の谷間に落ち着いた。小汪清は間島革命の中心地となり首都となった。われわれと中国共産党、朝鮮革命と中国革命はこうした歴史の流れの中で一つの脈絡をなすようになった。
汪清遊撃根拠地は腰営口を包括する一区と馬村、十里坪を包括する二区をはじめ、五つの革命組織区からなっていた。当時の汪清遊撃隊の兵力は三個中隊で、その代表的な指揮官は、李光、梁成竜、金喆、張竜山、崔春国、李応万らであった。
これらが汪清についてのわたしの大まかな予備知識であった。わたしにこういう予備知識を与えてくれたのは、汪清遊撃隊の創建者の一人である梁成竜と県党書記の李容国であった。一九三二年の秋にわたしが部隊を率いてこの地域に来て遊撃根拠地の実態を調べたとき、わたしの案内役を務めてくれたのが彼らであった。そのとき、わたしは汪清県内の各遊撃区を見てまわり、基層党組織の活動と、反日会、反日婦女会をはじめ大衆団体の活動を指導した。また、反日部隊に派遣されて活動している工作員の活動状況も聴取した。われわれが小汪清で東満州各県の兵器工場のメンバーと遊撃隊指揮官を集めて爆弾の製造法についての講習をおこなったのもこのころであった。
当時、汪清の幹部は食糧問題で頭を悩ましていた。農家がわずか数十戸の小汪清の狭い谷間に千名をこす人が一挙に流れ込んできたので、遊撃区には彼らに供給できるほどの食糧の余裕がまったくなかった。遊撃隊がときおり敵を奇襲して食糧をろ獲してくることもあったが、それだけでは根拠地住民の口をぬらすことさえ難しかった。遊撃区の小さなやせ地での一年間の収穫量は取るに足らぬものであった。
こうして、食糧調達の当面の打開策として、中間地帯の刈り入れが焦眉の問題となった。中間地帯というのは、敵の統治区域と遊撃根拠地の中間にある無人村のことである。小汪清と大汪清の外れにもそういう村がいくつも生まれた。討伐隊の襲撃を受けたそこの住民はみな遊撃区と敵区とに分かれて立ち退いたため、その地帯には穀物だけが残されたのである。そうした穀物の中には敵区へ立ち去った地主や反動派のものもあり、討伐隊の銃剣に押しまくられて百草溝や大肚川などに強制移住させられた農民のものもあった。
中間地帯の穀物は敵区でも目を光らせていた。敵区の地主と反動派は、武装した自衛団の掩護のもとに連日馬車や荷車を引いて中間地帯に現れては穀物を刈り取っていった。ときには脱穀場の付近まで接近して銃火を浴びせることさえあった。
そのとき、われわれはこうした実情を把握したうえで各遊撃区で収穫隊を編成し、根拠地の住民を総動員して中間地帯の刈り入れを早急に終える問題について汪清の人たちと合議した。収穫隊は小汪清の外れから穀物を刈り取りながら大肚川の方へ下っていった。刈り取った穀物はその日のうちに脱穀して倉庫に納め、遊撃区の住民に分配した。一三戸村の下手の方からは、収穫隊にたいする赤衛隊の警護が必要となった。五連発銃で武装した自衛団の襲撃を防ぐためであった。ときによっては、収穫隊が総がかりで穀物を刈り取っている畑を挟んで、赤衛隊と自衛団とのあいだに激しい銃撃戦になることもあった。わずかばかりの穀物のために夜を徹して決死の刈り入れ戦闘をくりひろげる汪清人民の姿は、われわれをいたく感動させた。困難をきわめてはいたが、根拠地で万事がわれわれの意図どおりに進行しているのを見届けたわたしは、そのとき満足な思いで小汪清を後にしたのであった。
わたしは再度、遊撃根拠地へ向かいながら二つの大きな課題を考えていた。一つは遊撃隊の隊伍を大幅に拡大することであり、他の一つは活動舞台を豆満江沿岸に移すことになった新しい環境と条件に即して、各階層の愛国勢力を一つに結集する統一戦線活動と中国人反日部隊にたいする工作をさらに積極化することであった。
馬老人はわれわれを転角楼まで案内し、羅子溝へ帰って行った。馬老人に代わってわれわれの案内人になった快活な性格の反日会員は、その間、汪清遊撃隊の小部隊が腰営口と泗水坪で日本侵略軍の討伐隊を撃破した模様を昔話のように興味深く聞かせてくれた。
翌日、われわれは反日人民遊撃隊と記した赤旗をかかげ、ラッパを吹き鳴らしながら汪清一区の所在地である腰営口遊撃区域に入った。後日、わたしの伝令となり戦死した崔金山の叔母洪永花が、二十名ほどの児童団員と一緒に道路に飛び出して手を振り、熱烈にわれわれを出迎えてくれた。洪永花は汪清一区党委員会傘下の女性組織の責任者であったが、遊撃隊と反日部隊にたいする後援活動に熱心で、軍民に愛されていた。その日、腰営口の人たちは、キビ餅やソバをつくってわれわれをもてなしてくれた。夕方には児童団員の公演も見せてくれた。
「
公演が終わり、軍民が一つに溶け合って交歓会に興じているとき、わたしのそばでその光景を目を細くして眺めていた汪清一区党委員会の組織部長李雄傑がこう言うのであった。
わたしは彼と一緒に交歓会場から席を外し、区党委員会の事務室で遊撃区の活動について長時間論じ合った。論議の焦点となったのは、転角楼のようなところでわれわれの党組織と革命組織をどのような方法で拡大し、遊撃区の全人民をどう武装させるべきかということであった。
われわれの対話が遊撃区の防衛問題に転じて具体化されようとしたときに、敵区から秘密レポを持った連絡員が駆けつけてきた。そのレポには、明日、大興溝駐屯の日本軍守備隊が遊撃区を討伐するという内容が手短に記されていた。
「去年の十二月に痛い目にあわされたので、仕返しをしようというのでしょう。あの悪鬼のようなやつらは、数百里の遠くから来た賓客もおかまいなしというわけです。実際のところ、わたしたちは金隊長の部隊にここで何日かゆっくり休んでいただこうと思っていたのですが、まことにあいにくなことになってしまいました」
日本軍が腰営口を討伐するのがあたかも自分の責任でもあるかのように、李雄傑はすまなそうな顔をして笑った。
「そんなことはありません。何か月かのあいだ戦闘ができなくて、みんなむずむずしていたところだから、ちょうどよかった。大坎子と転角楼、徳源里、三漢里の惨劇で朝鮮人民が流した血の償いをさせてもらう機会がきたようです」
わたしはこう言った。そして李光に部隊を率いて至急腰営口へ出動するようにというレポを飛ばした。李雄傑も気があせるのか、たてつづけに葉タバコを吸っていたが、そのうち交歓会場にいる赤衛隊長を呼び出そうとして席を立った。その表情を見ると、いまにも総動員令を下しそうな気配だった。わたしは李雄傑の腕をとり、笑いながら椅子に引きもどした。
「赤衛隊員に討伐隊がくるということを知らせるつもりではありませんか。交歓会がたけなわだというのに、せっかくの座がしらけてしまうから、そっとしておきなさい。その代わり一時間後には赤衛隊員を全員家に帰して夜明けまでぐっすり眠らせましょう。わたしも今晩は隊員を早めに寝かせます」
討伐隊の奇襲計画を知らせる緊急通報を受けながら、即座に臨戦態勢をとらずに軍民の交歓会を平然とそのままにしておいたのは、軍事実践上の見地からすれば常識はずれのことだといえるであろう。区党委員会の組織部長と軍事部署の仕事を兼任している李雄傑であってみれば、焦燥と不安の目でわたしを見つめたのも無理はない。けれどもわたしは、交歓会を終えて宿所にもどるまで、隊員たちに敵区からの通報の内容を公開しなかった。遠路の行軍で疲れている彼らを刺激しないためだった。いったん戦闘情況が知らされ、命令が下れば、どんな鉄の心臓の持主でもなかなか寝つけるものでないことはわたしも重々承知していた。
(今晩だけはなんとか睡眠時間を妨げないようにしよう。この冬中、眠られぬ日々を過ごした彼らではないか)
これが、その晩わたしをとらえた考えだった。遊撃隊を統率する指揮官としては無用の人情とでもいえようか。ともかく、夜十一時までには全隊員が宿所にもどり、深い眠りに落ちた。われわれの道案内を担当した転角楼の反日会員と敵区から来た連絡員は、わたしの計らいに承服しかねたのか、零時を回っても寝つけずにいた。李雄傑もしきりに寝返りを打っていた。わたしは彼の耳元でそれとなく尋ねた。
「行軍してきながら見ると、腰営口の入口の前後の高地が奇妙な地形だったが、そこで要撃してはどうだろうか? その前が車道になっていたようだが」
わたしがこう言うと、李雄傑はがばっと起き上がった。
「大北溝の西山のことですか? あそこなら要撃にうってつけの金城湯池ですよ」
わたしと李雄傑がこんな話をやりとりしたのは午前四時ごろであった。
しばらくして、われわれは腰営口の関門ともいえる大北溝の西山に登った。赤衛隊長と転角楼から来た反日会員も同行した。西山の南側は絶壁をなし、その下に車道が伸びていた。車道と並行して流れている川は小通溝と呼ばれていた。西山の高地には岩が多かった。これは遊撃隊がよりどころにして戦えるりっぱな天然の要害であった。
われわれは崖と崖の合間にいくつもの石の山を積み上げてから、腰営口の赤衛隊とわれわれの部隊の全隊員、別働隊の一部のメンバーを全員、西山に呼集した。そして凍土を掘って陣地をつくらせてから戦闘命令を下した。
…われわれが占めているこういうところを先祖たちは金城湯池といった。防備が鉄桶のように堅固な城池という意味だ。攻撃者には不利な地形であるが、防御者にはなんと有利な地形ではないか。しかし、金城湯池もよいが、それよりもわたしは諸君の腕をもっと信頼している。諸君、惨劇の歌ばかりうたわず、きょうは朝鮮人民が流した血の代価を数百倍にして償わせようではないか! 血には血で!
わたしは戦闘命令をこのようなアジテーションで結んだ。
この日、四台の軍用車に分乗して腰営口の谷間に攻め込んできた八〇余名の日本軍は、われわれの伏兵戦術にはまりこんで数十名の死傷者を出した。大興溝の日本軍守備隊は、つぎの日も兵力を総動員して腰営口に攻め入ってきたが、前日同様おびただしい死者を出して逃走した。これがほかならぬ間島地方の遊撃区域に来て、われわれがおこなった初の戦闘であった。史書にはおそらく腰営口遊撃区防衛戦闘と記録されているはずである。
翌日の夕方、腰営口の人たちは大北溝村で戦闘勝利を祝う集会を催した。この集会はいまでもわたしの記憶に残っている。各組織の代表が一人ずつ出ては拳を振り上げながら祝賀演説をするのだが、その熱気たるやまったくすさまじいものがあった。言うまでもなく、その晩はわたしも熱のこもった演説をした。
わたしが腰営口で呉振宇に会ったのはおそらくその年の冬か、その前年の秋だったと思う。そのとき、小北溝村の住民は、呉振宇が児童団の指導員を務めていた児童団学校でわれわれの歓迎会を開いた。呉振宇は、その歓迎会でわたしが三八式小銃を支えて演説した光景がいちばん印象的だったと、わたしとのはじめての出会いをしばしば感慨深げに回想したものである。そのときの彼の年は十五、六歳だったと思う。彼は始終われわれの後をついてまわり、わたしの腰のモーゼル拳銃をよく触ったりした。銃が欲しくてたまらない様子だった。われわれが携帯していた武器は、いずれも三八式小銃か最新式の拳銃であった。わたしは呉振宇に、遊撃隊に入りたいかと尋ねた。彼は入りたいのだが年が足りないからといって入隊させてくれないと泣き顔で訴えた。翌年か翌々年に、われわれは彼を汪清四中隊に入隊させ、北満州遠征にも参加させた。
われわれが腰営口で敵を撃退し、遊撃区の党活動や大衆団体の活動についても把握したのち、小汪清へ向かう準備をしているとき、折よく先方から、重要な軍事問題で相談したいことがあるから馬村へ来てもらいたいという知らせが届いた。
われわれはただちに腰営口を出発した。小汪清に到着したとき、わたしを迎えてくれたのは王潤成と他の二人であった。王潤成は一名馬英ともいったが、本名よりも「王(ワン)大(ダ)脳(ノウ)袋(ダイ)」というあだなで呼ぶ人が多かった。「王大脳袋」というのは、頭がきわだって大きいという意味である。わたしは「大(ダ)個(コウ)子(ズ)」をはじめ、遊撃区の幹部の案内で、馬村の北側の山すそにある李治白老の家に宿所を定め、そこで東満州の党代表と会った。「大個子」というのは李容国のあだなで、背高のっぽという意味である。当時、彼は汪清県党の書記を務めていた。馬村には「流動客宿場」と呼ばれる独身者の寄宿舎があったが、収容人員が多く混雑しているので滞留には不適当だといって、小汪清の人たちがいやおうなしに李治白老の家に宿をとらせたのである。李治白は、金重権の義父にあたる人だった。老人の夫人は徐姓女といった。李治白老の家庭は一家をあげて革命に参加している愛国的な家柄であった。
わたしはこの家で大布衫を着て王潤成一行と話し合った。
「汪清入城をお祝いします!」
これが「王大脳袋」の挨拶だった。
「また会えてうれしいです!」
わたしも彼の手をとって返礼した。
汪清という不案内なところに来て王潤成のような旧知の革命家に会えたのは、わたしにとって一種の幸運だといえた。わたしが彼にはじめて会ったのは、南満州への進出を終えて安図に帰還し、反日部隊工作に腐心しているときであった。そのころ、王潤成は陳翰章とともに孟連隊長の部隊で救国軍にたいする工作を進めていた。
北満州一帯にいた孟連隊が安図地方へ活動舞台を移したのは、遼寧一帯の唐聚伍自衛軍との連係を結び、彼らとの合作を実現しようという目的からだった。救国軍部隊で呉義成にたいする工作を進めていた中国の共産主義者は、南北満州抗日軍の連合によって反日闘争を満州全域に拡大しようとしていた。呉義成が孟連隊を安図へ送り込んだいま一つの目的は、アヘンを入手して軍資金を調達するところにあった。安図一帯はアヘンと朝鮮人参の主産地だった。唐聚伍も部下を派遣して、安図のアヘンを独り占めにしようとしていた。当時、満州地方では、アヘンがカネに代わる有力な等価物となっていたのである。
「救国軍が敦化と額穆で
李光の家で反日兵士委員会を開いたとき、王潤成は冗談まじりにわたしにこう言うのであった。われわれはそのときすでに、こういう秘密を包み隠さず話せるほどの仲になっていた。王潤成は安図に滞留している期間、われわれの活動を大いに助けてくれた。わたしからの胡沢民や周保中への連絡も、また彼らからのわたしへの連絡も王潤成が担当してくれた。彼は救国軍部隊の宣伝幹事の肩書をもっていたので、司令部はもちろんのこと、連隊部や大隊部、中隊部などを自由に往き来することができた。彼は、わたしと救国軍に派遣されている共産党員とのあいだで伝達長の役割をりっぱに果たしていた。
師範学校系出身のインテリが概してそうであるように、王潤成も大柄な体軀に似合わず、人柄はきわめて温和で善良だった。彼は寧安で師範学校に通っていたころ、北京、南京、天津などの大都会で勉強してきた同窓生の影響を受けて革命活動をはじめた人であった。彼が職業革命家に成長する過程では、潘省委(満州省党委員)の影響も大きかったという。
「東満州に革命の火の手が激しく燃えあがりはじめたいま、
彼は東満州と北満州でのさまざまな出来事について比較的詳しく分析した。そして東満州党組織に提起されている当面の問題をめぐって、虚心坦懐にわたしと意見を交わした。この日、さし迫った問題として論議されたのは、各遊撃区域で分散して活動している中隊にたいする統一的な指揮体系を確立し、軍事力量を質量ともに早急に拡大強化することであった。この問題については、その後、童長栄とも具体的に協議された。こうして、汪清の各遊撃中隊は大隊部の統一的な指揮のもとに動くようになった。
その後、東満州の他の県でも中隊を統轄する大隊が編制され、指揮官を新たに配置する改編過程をへて、遊撃運動の本格的な高揚期が準備されていった。
われわれの汪清入城過程には、このように印象深い多くの事柄や出来事があった。間もなく、われわれは汪清の風土になじむようになった。活動舞台と居住地を移すたびにいつも感じる不自然な気持は、すぐに新しい里への愛着と好奇心に変わっていった。
一九三三年当時のわたしは、事実上、よるべなき独り身同然の身の上だった。母の死はわれわれ三人兄弟を孤児にし、よりどころであった小沙河の葦原村のなつかしいわが家をクモの巣だらけの廃屋にしてしまった。わたしに残されたのは、他人の家で気がねの多い居候生活をしている二人の弟と、はるか彼方の故郷で、愛するわが子を国にささげてひっそりと暮らしている祖父母のみであり、そして夜ごと夢路に浮かぶ故郷への物悲しい郷愁のみであった。祖父母につくしたいわたしの孝心は故郷の家の軒先まで及ぶはずもなく、弟たちを見守りいたわってやりたいわたしの望みは空しい憂いとして残るほかはなかった。
わたしにとって情愛をそそぐことができるところは遊撃区以外になかった。遊撃区の人民は、わたしの祖父母、わたしの父母、わたしの弟たちに代わる肉親であった。わたしは徐姓女オモニの姿に、わたしの母の人徳と愛と恩情を見る思いがした。
敵の恒常的な封鎖と度重なる討伐の中で、東満州の遊撃根拠地は当初から幾多の試練の峠を越えなければならなかった。戦いも多く、流血も多く、苦悩も多かった忘れられぬ歴史の地――汪清、ときには一遊撃区で日に数十名もの犠牲者を出すこともあり、また数十棟の家屋や兵舎が燃え落ちてしまう日もあった。病院は負傷者と患者であふれんばかりであった。慢性的な食糧の欠乏、周期的に襲ってくる飢餓は多くの人を死に追いやった。ときには伝染病のため間島全域が全滅の宣言を受けさえした。
商店も市場も商人もない世界唯一の非商業地帯、ここでは貨幣が通用せず、価値法則が適用されなかった。住民の衣類や靴は軍隊の戦利品でまかなわれた。極左分子の専横によって、遊撃区の空気は時おり不安にうちふるえることもあった。しかし、そうした苦難は根拠地生活の主要な側面ではなかった。遊撃区の生活で主流をなしていたのは、たとえ制約された相対的なものではあっても、敵の暴圧から解放された人びとの自由で幸せな新生活と楽天的な精神状態であった。困難は形容しがたいものであったが、軍民の気概は白頭の峰のように毅然としていた。日本と満州国の行政権が及ばない絶海の孤島にひとしいこの地で、朝鮮の共産主義者は世界でもっとも進歩的で革命的な文化と道徳を創造していた。だからこそ、われわれは身も心もささげて遊撃根拠地を愛したのである。
根拠地を守り抜くためのわが民族の英雄的な壮挙が東満州の地で連日起こっていた。戦いに明け戦いに暮れる北間島の奥地、天地をゆるがす爆音の中でも新しい生活、新しい倫理が呱々の声を力強くあげる遊撃根拠地は、わたしの愛する家となったのである。
2 昼は敵の天下、夜はわれわれの天下
われわれは馬村でも望外の歓待を受けた。腰営口での戦勝のニュースが間島全域に急速に広がっているときだったので、われわれにたいする小汪清人民の歓迎ぶりも熱気をおびていた。敵の支配から完全に解放された遊撃区の生活は、われわれ一行の胸をふくらませた。
しかし、新天地を支配するすべてのことがわれわれを感動させたわけではなかった。間島革命を左右する一部の指導者の活動スタイルと思考方式には、納得しがたい側面があった。われわれをいちばん驚かしたのは、東満州地方の革命家の活動に熱病のように蔓延している極左病であった。これは、遊撃根拠地を建設する活動に顕著に現れていた。
明月溝および小沙河会議で遊撃根拠地の創設問題が論議されたとき、われわれはすでにその形態を完全遊撃区、半遊撃区、活動拠点の三つに規定し、形態の設定においてはその均衡を適切に保つことが合意されていた。ところが、東満州地方の一部の熱心な共産主義者は、解放地区形態の完全遊撃区の建設にのみ没頭し、半遊撃区や活動拠点の創設にはそれほど関心を向けていなかった。初期には汪清でも解放地区形態の遊撃根拠地のみが建設された。小汪清遊撃区域の場合にしても、現在のわが国の一つの郡に相当する領域が、すべて革命勢力の管轄する解放地区形態のソビエト区域になっていた。当時は完全遊撃区をソビエト区域とも呼んでいた。
このように広い地域に工農政権を象徴するソビエトの旗を押し立てて、幹部たちは「革命!」「革命!」と忙しく駆けずりまわっていた。遊撃区域の外ではこれといった戦闘もせず、プロレタリアート独裁だの、無産者社会の建設だのと宙に浮いたスローガンを叫ぶだけで、その日その日を無為に送っていた。なにかの記念日には、兵舎の庭や運動場などに集まってはロシア式のダンスをしたり、メーデー歌をうたったりした。ときには東満特委と県の幹部たちが集まり、声を張りあげて論争し合うこともあった。
こうした雰囲気の中で、われわれもその年の春は五里霧中のうちに過ごした。だが、遊撃区の活動における一連の左翼小児病的な偏向がしだいに判然としてきたので、それを是正する方途や戦術をいろいろと模索しはじめた。
遊撃区域には住民が多かった。草創期には汪清根拠地だけでも数千名もの避難民と亡命者がいた。琿春、延吉、和竜の実態も同様であった。耕地の少ない山奥に数千名の人がひしめき合う状態だったので食糧が問題だった。それで、誰もが大豆がゆを食べた。ひきうすで大豆を挽き、それに米を少し混ぜてかゆを炊くのだが、それもまだあるときはましな方で、ないときは灰(あ)汁(く)で煮つめた松の内皮を叩いて餅をつくって糊口をしのぐか、ワラビ、オケラの芽、キキョウ、ツルニンジン、アマドコロの根などを煮て食べたりした。そういうなかでも革命歌をうたい、拳を振り上げては帝国主義打倒、親日派打倒、遊んで暮らす寄生虫どもを打倒せよと熱弁をふるうのが、初期の根拠地の日課となっていた。
もちろん、小さな戦闘は何回もあった。警察署を襲撃したり、供給物資を積んだ馬車輸送隊を襲ったり、遊撃区域に侵入してくる討伐隊を掃討して武器を奪い取ったりもした。勝利して帰れば、人びとは旗をかざして万歳を唱えた。しかし、本格的な戦闘はあまりなく、山頂に登って歩哨に立ったり、避難民を保護
することなどで毎日を過ごした。根拠地は広かったが、銃も武装人員も少なかったので、遊撃隊員は銃を数挺ずつ分け、もっぱら根拠地の防衛に汲々とせざるをえなかった。
われわれが武装隊伍を拡大しようとすると、どこそこの書記だの委員だのといった面々が青い顔をして、革命軍は統一戦線の軍隊ではない、労働者と農民の精鋭分子のみを吸収すべきであって、誰もかもむやみに引き入れては烏合の衆も同然になってしまうといってかたくなに垣を張りめぐらすのであった。当時、抗日遊撃隊はソビエト区域内にある武装力であるという意味で、その名称も工農遊撃隊とされていた。工農遊撃隊というのは労働者、農民の軍隊という意味である。
わずか数個中隊にすぎない遊撃隊が数千平方キロに及ぶ広い地域を守るのは、力に余ることであった。防御密度が過疎な状態なので、いったん討伐がはじまると、敵はわれわれの防御陣を突破して深く攻めこんできた。すると、数千名の人民が家財をかつぎだし、避難所を求めて大騒ぎをするのであった。こうして毎日の避難騒ぎが遊撃区の人たちをいたたまれなくした。
極左病にかかった人たちは、あたかも解放地区の大きさが革命の成否を左右する決定的な条件でもあるかのように、彼我の力関係にたいする科学的な分析もなしに主観的な欲望にとらわれて広い地域を占め、遊撃区域を守ることにのみ没頭した。そのうえ、彼らは遊撃区域と敵の統治区域を「赤色区域」「白色区域」という名目で人為的に分離し、「反動大衆」「二面派大衆」というレッテルを貼って、敵区の人民と中間地帯の人民をみだりに疑ったり排斥したりした。国内の人民もやはり「反動大衆」として扱われた。これがいちばん大きな問題だった。
「赤色区域」では女性の断髪が「白色区域」との違いのしるしとされた。言葉、文字、歌、学校、教育、出版物などでも赤と白の違いは明白であった。「白色区域」から「赤色区域」にくる人は例外なく検問の対象とされ、取り調べのあとでもなかなか放免されなかった。「白色区域」からくる者はあたまから敵のスパイとみなせという上部の指示が児童団組織にまで下されていた。汪清県党の一部の者は、小汪清の谷間から都市へ移って行った人に日ごろから悪感情をいだいていた。
あるときは、東日村で見張り番をしていた赤衛隊員が、牛を買いに遊撃区に来た大肚川の農民を捕らえて尋問したことがあった。「白色区域」から来た怪しい農民を赤衛隊が尋問しているという通報を受けた県党の極左分子は、その農民はスパイかも知れないから、自白しなければ拷問をかけてでも正体をあばきだせと指示した。しかし、いくら痛い目にあわせても、農民はスパイでないと言い張った。事実、その農民はスパイでも敵の手先でもなかった。にもかかわらず、極左分子らは農民の懐から出てきた現金を押収し、うむを言わせずひどい仕打ちをした。
汪清で長いあいだ共青活動をしてきた崔鳳松は、いつか極左病が生んだ遊撃区時代の秘話が話題にのぼった席で、こんなことを話したことがある。
「極左という言葉だけ聞いても、初期の遊撃区時代が目の前にまざまざと浮かんできます。間島での極左はまったくひどいものでした。あるとき、遊撃隊員が汪清嶺で日本軍の塩を積んだ牛車をろ獲し、小汪清へ引いてきたことがありました。根拠地が生まれたばかりのことですから、おそらく
敵味方を区別せず、勤労者大衆にまで刑罰を加えるこのような暴挙は、他の県の遊撃区でも頻発していた。それに見過ごすことができないのは、この呪うべき行為がすべて革命という神聖な名のもとに強行され、抗日を叫んで立ちあがった数多くの革命的大衆を「白色区域」へ追いやるという、胸の痛む結果をまねいていることであった。遊撃区の極左分子は、はなはだしくは討伐の犠牲になった父母の法要のため穏城から上慶里に来た、李治白老の親戚までも「反動大衆」だといって捕らえていった。このような悪行を目撃するたびに、わたしは身も心も焼けつくような羞恥を感じた。かりに、ある共産主義者が、罪なき人民に反動という汚名をきせて意のままに処刑したなら、それはすでに共産主義者ではなく、A級犯罪者である。ところが、われわれが汪清で遊撃区の生活をしていたときにも、こういうA級犯罪者は何者も犯しがたい「A級革命家」気取りで、大衆を意のままに扱っていた。一部の者はソビエトさえ手中におさめれば万事が解決するかのように考えていたが、われわれはそこに問題があると思った。根拠地を守り、革命を発展させるためには閉鎖的な傾向を克服し、活動範囲を広げなければならないというのが、われわれの得た結論であった。いうなれば、遊撃区の死守のみにこだわる近視眼的な活動方式から脱却し、大がかりな精鋭部隊を編制して自由自在に機動させながら積極的な軍事・政治活動を展開しようというのであった。軍隊が本格的な軍事作戦に移るには、根拠地防衛の負担を軽減する必要があった。その一つの方策がほかならぬ完全遊撃区周辺の広い地域に半遊撃区を大々的に設け、それらの半遊撃区をして遊撃区を擁護させることであった。われわれは半遊撃区の創設に、朝鮮革命の新たな勝利を保障する突破口を求めた。
わたしは中国関内での遊撃区建設の経験を参考にするため、童長栄とも数回にわたって真剣に語り合った。一九三一年の秋、中国江西省の瑞金では中華ソビエト臨時政府の樹立を宣言し、ソビエト区域を創設した。童長栄の話によれば、中国革命の首脳部が集結しているソビエト中央区は、面積が非常に広く、住民は数百万を数え、兵力も数個軍団に匹敵するほど強大であるとのことであった。童長栄自身も河南省でソビエト区域を創設した経験をもっていた。当時、中国共産党指導下の紅軍は十余万に達し、その管轄地域は江西省の南部から広東省の北部に及ぶ広大なものであった。
わたしは彼の話を聞きながら、領土と人口のうえからすれば、およそ一つの独立国家に相当する中国のソビエト区域建設の経験を豆満江沿岸にそのまま引き移すのは不可能であるということ、そして間島を活動基地としている朝鮮の共産主義者にとって、革命の策源地を守り、遊撃戦を大がかりに展開できる唯一の捷径は、完全遊撃区週辺と北部朝鮮一帯に半遊撃区を創設することであるという見解をさらにかためるようになった。
半遊撃区創設の必要性は、武装闘争の実践の過程でいっそう切実なものになった。広大な領域を守るには力が及ばず、したがってその打開策を早急に立てざるをえなかった。もしわれわれが遊撃戦を体験することなく、古典でも繰りながら、ロシアのボルシェビキの経験がどうの、中国の瑞金の経験がどうのと机上の空論に明け暮れていたなら、解放地区形態の遊撃根拠地のほかに別の遊撃根拠地の必要性を痛感させられる程度にとどまり、その創設をそれほど急ぎはしなかったかも知れない。
半遊撃区の問題は根拠地にたいするたんなる形態上の考察ではなかった。それは事大主義、教条主義を克服し、革命において主体的な筋金を通すか否かという思想的立場の問題であり、極左から脱却して「二面派大衆」であると排斥されていた広範な人民を革命の原動力とみなすか否かという大衆観点の問題であり、ひいては彼らを反日民族統一戦線に結集できるか否かという、革命勢力の編成に直結する深刻な問題であった。半遊撃区とは、われわれも支配し敵も支配する地域で、形式上は敵の統治区域であるが内容的にはわれわれの統轄区域であって、抗日遊撃隊への支援とその予備隊の源泉確保、革命勢力の伸張、敵区と遊撃区間の中間連絡所などの役割を果たす区域を意味した。いわば、昼は敵が支配するが夜はわれわれが統轄する、そういう地域のことである。
革命根拠地建設での半遊撃区形態は、われわれの闘争の実情に適合するものであった。こういう形態は他の国の遊撃戦争の経験にはこれといって見られないものであった。当時、朝鮮革命発展の過程は、半遊撃区の創設を切実な課題としていた。
われわれは武装闘争を国内へ拡大発展させ、抗日武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命の急速な高揚をはかる措置の一つとして、一九三三年三月中旬、咸鏡北道穏城郡の王在山一帯に進出した。武装闘争を国内へ拡大し、祖国の解放をなしとげるのは、われわれが抗日大戦を宣言した当初から終始一貫堅持してきた戦略的目標であり、いっときもゆるがせにしたことのない不動の信念であった。武装闘争を国内に拡大するための先決条件は、六邑一帯をはじめ北部朝鮮一帯に半遊撃区をつくることであった。半遊撃区をりっぱに築けば、遊撃区の建設に現れていた種々の極左的偏向も十分清算することができた。
われわれは三次島に活動基地を置いている汪清大隊第二中隊の四十名と各中隊から選抜した十名の指揮官、政治幹部で国内進出隊伍を編制し、朴泰化小隊長とその他数名の隊員で構成された先発隊を穏城地区へ派遣した。
当時、東満州党組織の責任ある地位にあった一部の人は、われわれの国内進出に神経をとがらせ、それを阻もうと各面から圧力を加えてきた。彼らは、中国領内にいる朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のためにたたかうのは民族主義的な「朝鮮延長主義」の傾向であり、一国一党制の原則に反する行為であるから国内進出などはいっさい断念すべきだというのであった。しかしわたしは、民族的任務に忠実であることはとりもなおさず国際的任務にも忠実であることになり、朝鮮の革命家が朝鮮の解放のためにたたかうのはなんぴとも阻むことのできない神聖不可侵の権利であるという自分なりの信念で彼らの主張を論駁し、動揺せず国内進出の準備を進めた。
このような時期に、抗日遊撃隊の国内進出に暗い影を投げる事件が発生してわれわれを憤激させた。国内との連係を結ぶ任務をおびて穏城地方へ行った第二中隊の隊員が帰ってくるとすぐに金成道なる人物に逮捕され、東満特委に引き立てられていったというのである。
当時、第二中隊の中隊長は安基浩で、政治指導員は崔春国であった。彼らは事件が発生するやいなや、馬村にいたわたしのところに駆けつけ、中隊の指揮官も知らぬまに隊員を勝手に捕らえていった金成道の越権行為をはげしく非難した。新妻のようにおとなしく気立てがやさしくて、他人の悪口などめったに言ったことのない崔春国が、「めっかちの王」というあだなまで口にして金成道をなじったが、わたしは口をつぐんだまま黙って聞いていた。金成道についての予備知識があまりなかったからである。わたしが知っていることといえば、彼が共青東満特委の宣伝部長を務め、東満党特委に召還されてきたばかりの人で、現在、各県を巡視している最中だということだけであった。東満州の党組織では、上部組織の幹部が下部組織を指導して歩くのを巡視といっていた。
わたしは、崔春国が金成道を品のないあだなで呼ぶのが気に障ってきびしくたしなめた。
「君はいつから人の名前をあだなで呼ぶ悪いくせがついたんだね。金成道という人がわれわれを無視する脱線行為をしたのは確かだが、だからといって君には彼の人格を尊重する度量もないというのか」
崔春国は批判を素直に受け入れる人柄だった。彼は深刻な表情になってすまなそうに言った。
「申しわけありません。わたしの言葉が過ぎたのでしたら許してください」
「遊撃区も人間が集まって暮らしているところなのだから、あだながないはずはないだろう。しかし、そのあだなはちょっとひどすぎる。めっかちというのは…」
わたしはそのとき、第二中隊の隊員が金成道に逮捕されたということよりも、汪清の人たちが彼を「めっかちの王」と呼んでいることの方が腹にすえかねた。金氏姓の彼をなぜ王氏呼ばわりするのかと崔春国に尋ねてみると、朝鮮人である金成道が中国人風を吹かし、幹部にあまりにもへりくだった態度をとるのが小憎らしくて、間島の人たちが王という姓をつけたらしいというのであった。
東満特委へ行く途中、県党に立ち寄ってみると、そこでも金成道を「めっかちの王」と呼んでいた。県党の事務室で李容国が話してくれたところによれば、金成道はすでに一九二七年に朝鮮共産党に入党し、火曜派満州総局のある細胞で委員を務め、日本領事官警察に逮捕されて拷問にあい、監獄の飯も食わされたことのある古参の党員だとのことであった。出獄後はいち早く中国共産党に転籍して特委クラスの幹部に昇進したのだが、片目の傷を気にしてか、いつも色メガネをかけ、大布衫を着て出歩いているとのことだった。李容国は金成道を評して「飛び立つカラスの足に足袋をはかせられるほどの手腕家であり弁舌家」だといった。
わたしは東満特委の事務室で三時間ほど彼と対話をした。いざ対座してみると、彼の越権行為を問いつめるつもりだったわたしの決心はゆらぎ、むしろ彼が不憫に思われてきた。落ちくぼんだ目と疲れきったような暗い顔の表情に、そこはかとない同情心を呼び起こされたためかも知れなかった。片目の失明という不遇な身をおして、間島の険しい山並みを渡り歩き、革命のために奔走するというのはなんと雄々しく涙ぐましいことではないか。
「巡視員同志、あなたはなんの断りもなしに、工作中の遊撃隊員をなぜ拘引したんですか」
わたしはつとめて声をやわらげ、礼儀正しく尋ねた。金成道はメガネごしにわたしをしげしげと見つめた。特委の巡視員も見分けられず、あえて何の問責か、といわんばかりの気配だった。
「そんな質問をされるのはまったく心外だ。あの隊員の越境がプロレタリア国際主義に反する民族主義の表現だということくらいはわかっているはずだが… われわれは彼を民生団とみなしている」
「どんな根拠で?」
「朝鮮に行ってきたのだから民族主義であり、民族主義的誤謬を犯したのだから、それは民生団に決まっているではないか」
「それはあなたの考えなんですか?」
「そうだ。上部でもそうみている」
彼がこう答えたとき、わたしはけしからんと思うより哀れに思えて、しばし言葉を継ぐことができなかった。なんの科学的妥当性や真理性もない暴言に憤り、鉄拳のような論理をもってその不当さを論証して然るべき場面で、憤怒と軽蔑のかわりに一種の同情心が湧いてきたというのは、自分ながらまったく不思議なことであった。彼の途方もない偏見と幼稚な思考方式が東満特委の巡視員といういかめしい職責とダブって、金成道という人間をますます哀れむべき存在にしてしまったからなのかも知れない。
(身体上の障害のうえに精神的障害まで重なるとは、なんと不幸な人間であろうか。密偵の目印しになりやすい片目を色メガネで隠し、革命のために奮闘するその気概はもちろん称賛に値するだろう。その気概に健全な魂さえ宿っていれば申し分ないのだが、なぜ彼の精神はあれほど痛々しく侵されてしまったのだろうか)
わたしはこういう想いにとらわれながら、さらに声を押さえて静かに彼を諭した。
「あなたは民族主義と民生団を同一視しているようだが、両者をどうして同じ秤にかけることができるというのか。朴錫胤や曺秉相、全盛鎬のような幾人かの民族主義者が発起人となって民生団を組織したからといって、民族主義と民生団を同一視するのは、こじつけもはなはだしい三段論法ではなかろうか。わたしの知るところでは、あなたも最初は民族主義者の主管する団体に加わり、共産主義運動へ方向転換したようだが、それを根拠にしてあなたに民生団のレッテルを貼るなら、納得できるだろうか。どうだろう」
金成道は「そんなこと…」といって言葉じりを濁した。わたしは彼に反省できるゆとりを少し与えてから、条理をつくして説得をつづけた。
「あなたのいう上部というのは童長栄書記を念頭においているようだが、わたしは彼がそんな狭い了見の持主だとは思っていない。もし童長栄書記が実情をよく知らず、一時的な偏見や誤解のためにそんな判断を下したとするなら、朝鮮の物情をよく知っているあなたたちがなんとかして、彼に正しい認識をもたせるために助言を与えるべきではないだろうか」
金成道は依然として口を閉ざしたままだった。
逮捕された第二中隊の隊員を引き取って指揮部に帰ってくる道でも、わたしは彼が哀れでならなかった。正直にいって、わたしは彼が他人の笛に踊らされて「反動派粛清工作」の陣頭指揮をとるようになるまでは、理論闘争でたびたび衝突しながらも、心の中ではいつも彼を不憫に思っていた。だが、彼が民生団粛清の名目のもとに多くの堅実な革命家を殺害するのを見るに及んでは、彼に同情しなくなった。後日、彼自身も結局は民生団の烙印を押されて処刑されたのである。テロはテロによって滅び、極左は極左の審判台でついえ去るものであり、信念と気骨のない二股膏薬の人間の運命は自滅のほかにない。これが数十年にわたる動乱の時代に生きてきたわたしのいま一つの人生体験だといえよう。
三月初旬に馬村を出発して穏城郡塔幕谷の対岸に到着した国内進出隊伍は、松谷と呼ばれているところに宿営地を定め、穏城に潜入した先発隊がもどってくるのを待つ一週間ほどのあいだ、この一帯を革命化して半遊撃区につくりあげる活動に着手した。昼間は松洞山の西側のふもとで戦闘訓練をおこない、夜間は村をめぐり歩いて住民のあいだで地下組織をつくる活動をした。われわれはそのとき、満州国の末端行政責任者である十家長、百家長にたいする工作も進めた。われわれが人民の利益を侵さず、革命軍の服務規定どおり住民との関係に細心の注意を払ったので、彼らもわれわれには好感をいだいていた。そのとき遊撃隊員は松谷の農民の仕事をいろいろと手伝ってやった。山のハギを刈り取ってきて主人の家の垣根を繕ってやる隊員もいた。
朴永純の回想記に出てくる例の斧の話も、われわれがこの村に留まっていたときの出来事である。ある日、わたしは主人の中国人老夫婦の仕事を手伝おうと、斧と水汲みの缶を下げて豆満江の岸辺に出た。この地方の住民は、冬になると豆満江の水を汲んで使っていた。斧やつるはしで氷を割り、その穴から水を汲んできてはそれを飲み水にしていた。わたしもそのつもりで斧を持って行ったが、氷の穴が九分どおりできあがった矢先に、柄から斧が抜けて氷の穴に落ちこんでしまった。長い竿で何時間も川床をさらってみたが、斧はとうとう見つけだせなかった。わたしは主人に斧代として十分な償いをし、重ねてわびた。主人は、隊長さんに毎朝水汲みをしていただくだけでも恐縮だというのに、この老いぼれに力がなくて革命軍を援助できないまでも、斧代までもらうわけにはいかない、といってかたくなに辞退した。けれどもわたしは、償いをせずにこの村を立ち去ってしまうなら、隊長として革命軍の規律を犯すことになるから、わたしのためを思っても代金を受け取ってもらいたいと懇願した。
老人には十分な償いをしたものの、わたしの頭には氷の穴に落としてしまった斧のことがこびりついて離れなかった。たとえ代金を十分に払ったとはいえ、使いなれた道具を惜しむ主人の気持をなぐさめることはできないだろう。それで一九五九年の春、抗日武装闘争戦跡地踏査団が中国東北地方へ行くときに、涼水泉子のその老人に会ったら、わたしに代わって謝ってほしいと頼んだ。しかし、踏査団が涼水泉子を訪ねたときには、残念なことにその老人はすでに亡くなったあとだった。
われわれ一行が豆満江を渡り、先発隊の案内で王在山に登頂したのは午後の四、五時ごろであった。そのとき、六邑地区から集まってきて峰すじやカラマツの林の中で待機していた革命組織の責任者や政治工作員が、われわれを迎えてくれた。わたしは若木のクヌギが密生しているその山頂で、しばらくのあいだ周辺の風景を眺め渡した。十年たてば山河も変わるというが、この村里の一角は三年足らずのあいだにかなり変貌していた。頭婁峰で国内党組織を結成するときには見られなかった炭鉱のボタ山も新しく生まれた風景であり、雄基(先鋒)―― 穏城線の軌道を走る列車もやはり、一九三〇年の秋と一九三一年の春には見られなかった穏城の新しい姿であった。
山河の変容とともに、人びとも成長し、革命も前進した。われわれがここを訪ねて以来、六邑一帯とその周辺では新しい反日革命組織があいついで生まれ、活動を開始していた。六邑地区の闘士は、治安維持を担当した日本軍部と警察首脳らが国境警備に遺漏なしと豪語していた朝鮮の北辺で、革命組織という巨大な鋼鉄の網で敵の統治地区を包囲していた。
われわれの武装闘争も成長した。遊撃隊の隊伍は、東満州地方だけでも大隊級になっていた。各県にある大隊は遠からず連隊にもなり、師団にもなるであろう。遊撃戦争のための朝鮮共産主義者の武力は南満州にもあり、北満州にもある。われわれの師団と軍団が祖国に進出し、敵に鉄槌を下す日は遠くない。すでにわれわれはその先遣隊として、こうして穏城に来ているではないか。
わたしはこんな考えにふけりながら、彰徳学校のころ外祖父に教わった南怡将軍(一五世紀、李朝時代の名将)の漢詩をそっと口ずさんでみた。
白頭山石磨刀尽
豆満江水飲馬無
男児二十未平国
後世誰称大丈夫
この詩の意味はつぎのようなものである。
白頭山の石は刀でとぎつくし
豆満江の水は軍馬に飲みほさせん
男児二十にして国を平定できずんば
後世いずくんぞますらおを知らんや
外祖父はそのときわたしに、南怡将軍は北関の敵を討つ戦いで勇名をはせ、二十代ですでに兵曺判書(李朝時代の軍務大臣)になった、成柱も大きくなったら日本軍を討ち破る大将か先鋒長になれといった。わたしはその言葉を聞き、南怡将軍が奸臣の謀計で無念の死をとげたことが口惜しくてならなかった。そして、大きくなったら南怡将軍のように日本軍を討つ先鋒に立って、祖国と人民の安寧のためにたたかおうと心に誓ったものである。
(南怡将軍が六鎮をよりどころにして北敵を防いだとするなら、われわれは六邑の半遊撃区をよりどころにして武装闘争を国内深く拡大し、日本帝国主義を滅亡させる落とし穴をつくろう!)
わたしは王在山の頂でもこういう誓いを立てた。
王在山に集まった政治工作員と革命組織の責任者は、国内の実状とその間の活動状況をわたしに報告した。わたしは、六邑をはじめ北部国境地帯での抗日革命の大衆的基盤を築く活動で成果をおさめている彼らを励まし、武装闘争を国内に拡大発展させるための諸課題を提示した。ここでわたしが力点をおいて強調したのは、半遊撃区の創設問題であった。われわれは当時、穏城一帯を中心に、国内各地域に半遊撃区をつくり、それと合わせてうっそうとした密林地帯に秘密連絡所をはじめ各種の活動拠点を設け、武装闘争を国内へ拡大発展させる基礎を築こうとしていた。
王在山会議では、労農同盟にもとづく反日民族統一戦線の旗のもとに全民族を一つの政治勢力としてかたく結集する課題と、大衆運動と党創立の準備活動を力強くおし進めるための国内革命組織の課題についても討議された。
遊撃隊の穏城進出は、抗日武装闘争を国内に拡大発展させる序曲となり、民族解放闘争の発展におけるいま一つの里程標となった。この進出によって、われわれは朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のためにたたかうのはなんぴとといえども阻むことのできない神聖な任務であり、絶対的な権利であるという不動の信念と立場を内外に明らかにした。
抗日遊撃隊の穏城進出と王在山会議の全過程は、完全遊撃区の周辺と国内に半遊撃区を創設するというわれわれの主張が正しかったことと、間島および六邑一帯に半遊撃区を建設できる主・客観的条件が十分にととのっていることを実証した。
王在山会議を終えた後、われわれは慶源(セッピョル)の柳多島と剥石谷、鐘城郡新興村の錦山峰をはじめ国内各地に進出して会議や講習をおこない、政治工作も進めた。この進出の主要目的は、国内革命組織の責任者と政治工作員に地下革命闘争で堅持すべき原則と方法を教えることにあった。われわれが国内に進出して革命家にたびたび会ったのは、彼らを主体的な革命路線と活動方法で武装させ、複雑な実践闘争を正しく導いていけるようにしっかり準備させるためであった。国内革命組織の指導者と中核を政治的、実務的に十分に準備させるのは、半遊撃区を成功裏に建設するための先決条件であった。
当時われわれが派遣した指導中核は、国内へ深く潜入して反日抗争に総力を傾けていた労組、農民組合などに根を下ろし、各地に革命的な大衆団体を組織した。工作員は、ソウルをはじめ南部朝鮮一帯にも活動の輪を広げていった。六邑地区の半遊撃区を強固に築き、国内革命運動を高揚させるうえで、豆満江沿岸につくられた党組織は決定的な役割を果たした。
その後、東満州の指導的幹部は、半遊撃区建設にかんするわれわれの提案を方針として採択し、それを実行する課題を明示した。半遊撃区を建設すべきだというわれわれの公明正大な提案にたいし、右翼的だと論難する向きもあったが、そういう批判は即座にしんらつな反論をあびた。東満州のソビエト区域では、一九三三年の春から半遊撃区を創設する活動が活発に展開された。羅子溝、大荒崴、転角楼、涼水泉子などの汪清地区と延吉、琿春、安図、和竜地区の広い地域に半遊撃区がつくられた。この時期につくられた半遊撃区は、抗日武装闘争の発展に大きく貢献した。完全遊撃区のうち、防御に不利な一部の地域も半遊撃区に切り換えられた。満州国が信任していた屯長のなかにも、われわれに支持と共鳴を示す人が少なくなかった。羅子溝のようなところは、市内から一歩外に出てもわれわれの天下であり、われわれの味方であった。半遊撃区建設の経験とその路線の正しさは、その後、朝鮮人民革命軍の白頭山地区での活動を通じて如実に証明された。
半遊撃区というのはまったくすばらしいものであった。それで一九三〇年代の後半期に鴨緑江沿岸に進出して白頭山一帯の開拓にあたったときにも、われわれは革命軍の駐屯地域にだけ密営を設け、あとはすべて半遊撃区にした。赤と白の区分をせず、大衆の中に革命組織を浸透させ、そこに活動家を送りこんだ。われわれは一定の地域を占めようとせず、敵がこの地区に注目すればあの地区に移動し、あの地区に注目すればまた他の地区に移った。そういうなかで、鄭東哲、李勲、李柱翼(李聚)といった愛国区長、愛国百家長、愛国十家長、愛国面長、愛国巡査、愛国自衛団員が輩出した。われわれはそのころ、敵の下部末端統治機関に、しっかりした人を工作員として多数送りこんでいた。われわれが派遣した工作員ではない少なからぬ下部末端の官吏までも、革命の支持者に変えた。彼らは、昼間は満州国の指図どおり熱心に勤めているように装ったが、日が沈むと革命軍の道案内をしたり、昼間に収集した情報資料を提供するため革命軍の工作員を訪ねたり、また革命軍に届ける援護物資を集めたりした。東満州と国内に創設された半遊撃区は、解放地区の軍隊と人民を擁護し、そこに樹立された人民の政権と民主的施策の結実を保護する、信頼すべき衛星群となった。
完全遊撃区周辺の広い地域が半遊撃区に変わって以来、抗日遊撃隊は敵中に深く浸透して大衆を革命化し、党、共青などの前衛組織と各種の大衆組織を拡大することにより、抗日武装闘争の大衆的基盤をいっそう強固にし、消極的な防御戦から積極的な攻撃戦へと移行できるようになった。抗日戦争を主動的な攻撃戦へ切り換えることにより、われわれは敵の悪らつな経済封鎖作戦を打破し、遊撃区の生活でもっとも大きな難題となっていた食糧問題もより容易に解決することができた。
半遊撃区の建設は、赤色と白色区域の設定によって多くの大衆を敵側に押しやった極左的偏向を克服し、反日民族統一戦線の旗のもとに広範な人民大衆を一つの政治勢力に結集できる条件をつくりだし、事大主義、教条主義の克服と朝鮮革命の主体的発展に大きく寄与した。
汪清地方の半遊撃区のうちでもっとも模範的なのは羅子溝と涼水泉子であった。羅子溝での半遊撃区の建設では、李光の功労が大きかった。羅子溝へ派遣された李光は反日部隊工作や独立軍出身者への働きかけをおこなって、われわれの足がかりとなる強固な基盤を築いた。羅子溝は一九二〇年代初期から、李東輝一派が独立運動の主要基地として開拓したところであった。当時、李東輝に従って独立軍運動に関係してきた老年層が羅子溝一帯を牛耳っていたので、李光は彼らを通じてこの地方の人民を革命化することができたのである。そのころ半遊撃区を創設するために、有能な政治工作員が少なからず羅子溝に送りこまれた。しかし、その多くはわれわれの隊伍に生きて帰ることはできなかった。羅子溝の革命化に大きく貢献した崔正和もそこで犠牲となった。朝鮮人民革命軍の有能な支隊長であった朴吉松と崔光は当時、羅子溝で地下工作にあたっていた。
敵はこの地域で協和会や協助会といった悪質反動団体を組織して革命勢力を抹殺しようと狂奔していたが、われわれはそれに対抗して反日会のような大きな器の大衆組織を結成し、すべての愛国勢力を一つに結集した。羅子溝は汪清の革命大衆のための食糧倉庫のような役割を果たしていた。小汪清遊撃区では食糧事情が苦しくなると、羅子溝の革命組織に人をさしむけて緊急救助を要請した。すると革命組織のメンバーが、羅子溝から十里坪の石門の中まで穀物をかついできては汪清の人たちに引き渡してくれた。羅子溝が敵の占領下に入った状況のもとでも、解放地区ではひきつづきそこから食糧の供給を受けた。遊撃区が解散し、朝鮮人民革命軍の主力が北満州遠征の途についた一九三五年の下半期以後、汪清県内の革命家は事実上、羅子溝の食糧で食いつないでいたといっても過言ではない。敵の討伐を避けて、しばらくのあいだ羅子溝の西山にひそんでいた一部の革命大衆と汪清第三中隊の軍人も、この地方の人民が届けてくれる食糧で一九三五年の秋と冬を過ごしたのであった。
このように羅子溝が汪清の革命家の食糧供給所のような役割をりっぱに果たすことができたのは、そこがもともと通りすがりの浮浪者にもキビの飯を食べさせたほど肥沃な穀倉地帯であったという理由もあろうが、それよりもこの地方に多くの革命組織がしっかりと根を下ろし、日ごろから大衆を正しく教育してきたからだといえよう。
羅子溝の百家長金竜雲は満州国の信任を受けている末端行政機関の使い走り役であったが、内実はわれわれの組織メンバーであった。彼は百家長という合法的地位を利用して、革命家に少なからぬ援助を与えた。敵は遊撃隊工作員の城市侵入を防ぎ、人民の革命軍との内通を防ぐため、食糧と生活必需品の搬出をきびしく統制する一方、青年を城市警備に常時動員し、出入者をきびしく取り締まらせた。警備に立つ青年には棍棒が一本ずつ手渡された。それは満州国が発給した一種の信任状にひとしいものであった。革命軍が羅子溝へ食糧工作に行く日は、金竜雲がわれわれの影響下にある青年だけを厳選して警備に立たせた。食糧工作隊員が城市の周辺に現れると、警備の青年たちは彼らに棍棒を渡して村へ駆けもどり、百家長の指揮のもとに穀物を集めてはそれを食糧工作隊員たちに引き渡すのであった。
羅子溝では革命組織のメンバーが満州国軍を感化して、数万発の弾丸まで手に入れた。当時、羅子溝市内には革命組織が運営している商店があった。商店の主人は古い共青活動家で、城市から革命軍に送る援護物資が自由に入手できるように、満州国軍の兵士と義兄弟の契りまで結んだ。カネに目がくらんだある満州国の軍人などは、他の地方から安値で買ってきた品物をこの商店に持ちこみ、それを数倍も高くして売ってくれるように頼むのであった。軍人の商行為が発覚すれば処罰されるので、やむを得ず商店を利用するほかはなかったのである。その軍人は商店の主人と義兄弟を結んでからは、弾丸まで持ちこむようになった。商店の主人は弾丸一発当たり二十五銭で買って革命軍に引き渡したのだが、その量は五千余発に達した。これは、半遊撃区建設の正当性と生命力を実証する断片的な話にすぎない。
革命軍への援護活動では、汪清南部地域に創設された涼水泉子の半遊撃区も大きな役割を果たした。涼水泉子の革命組織は、数十回にわたって解放地区に食糧や生活必需品を送ってよこした。われわれはそのころ、穀物、被服、マッチ、医薬品、火薬、塩など、遊撃区人民の生活に切実に必要な物資の多くを穏城と涼水泉子の革命組織を通じて入手していた。
遊撃区でいちばん切実なものは塩であった。かゆを五さじくらいすすっては仁丹ほどの塩を一粒かんで味付けの代わりにするといった有様であった。そのころ敵は、遊撃区内で生きとし生けるものはすべて窒息させようと、食糧と塩を過酷に統制していた。秋になると、農民がその年に収穫した穀物を集団部落の倉庫にそっくり保管させ、家族数によって一日分ずつ出庫した。農民に食糧の余裕ができると、それが抗日遊撃隊や遊撃根拠地の人民の手に渡ることを知っていたからである。敵は塩の流出を防ぐため、緝私隊という塩取り締りの警察隊まで編制し、随時、家宅捜索をして歩いた。味噌、しょう油が少しでも余分にあると税金を課し、「尻叩き」と呼ばれる三角の棍棒でめった打ちにした。
われわれは一九三四年の秋、根拠地の食塩難を打開するため、第二中隊の三十名を含めた多数の軍民と児童で工作隊を編成し、それに馬までつけて涼水泉子へ派遣した。汪清から涼水泉子までは往復八十キロの道のりであった。事前にわれわれの知らせを受けていた涼水泉子の革命組織では、穏城の地下革命組織と南陽運送部から引き渡された大量の塩を豆満江の岸辺に積んで工作隊を待っていた。工作隊は馬の背に塩を二、三かますずつ乗せて三次島に無事に帰ってきた。残りの塩は一人当たり二、三十キロずつ背負って遊撃根拠地まで運んできた。一部の塩は羅子溝へ持って行って小麦粉と取り替えてきた。
涼水泉子の革命組織がわれわれに送ってよこした供給物資は、その大部分が穏城をはじめ六邑地区からのものであった。その地区の人民が送ってくれた遊撃隊と遊撃根拠地人民の生活に必要な品物の多くは図們と竜井一帯で買い求めたものであった。敵の監視と統制がきびしい国内では、日用品などを大量に買い入れることができなかった。それで国内組織は図們や竜井などの商業地区へひそかに渡っていき、必要な品物を買いだめしては、所定のルートを通じて抗日根拠地によこしていたのである。図們と竜井は事実上、われわれの後方役を担当する信頼すべき根拠地にひとしかった。したがって、われわれは図們、竜井、百草溝など、革命組織が網の目のように張りめぐらされている地域はみだりに襲撃しなかった。最初のころ、遊撃隊が一度百草溝を襲撃したことがあった。その襲撃戦があった直後、李光の父からの通報によると、統一戦線に引き入れるべき民族的良心をもった資産家をひどくおどかしてしまったので、災いが大きいとのことであった。それ以来、われわれは百草溝のようなところは襲撃しなかった。汪清とその他の解放地区の軍民の生活を支えるうえで、六邑一帯の半遊撃区はじつに史書に特記すべき功績を残した。
われわれは完全遊撃区と半遊撃区のほかにも、敵の統治区域に、遊撃隊の軍事・政治活動と連絡をとる目に見えない多くの拠点を設けた。地下革命組織と連絡所からなるこれらの活動拠点は、機動的で臨時の性格をおびた遊撃根拠地の一形態として、竜井、琿春、図們、老頭溝、百草溝をはじめ敵統治地域の大都市と鉄道沿線地帯に数多く設けられた。
間島と国内に半遊撃区を創設した忘れられぬ日々を回想するたびに、わたしの追憶にもっとも鮮明に浮かびあがってくる人物は呉仲和である。西大門刑務所から出獄するが早く、北方行きの列車に身を託した彼は、図們へ渡り、灰幕洞付近の妻の実家で何日か静養するとすぐまた石峴にもどり、わたしを訪ねてきた。呉仲和が獄中生活を終えて汪清へもどってきたことは、南満州と北満州への遠征を終えて遊撃区にもどって間もなかったわたしにとって、大きな喜びであり慰めでもあった。彼はわたしに会うやいなや、何か大きな任務をまかせてほしいというのだった。憔悴した彼の顔を見ると、数か月間は静養させてやりたかったが、どうしても仕事をさせてほしいとせがむので、嘎呀河周辺の一部の地域を半遊撃区に変えてみるようにといった。
呉仲和の属していた第五区は、涼水泉子、図們、延吉、百草溝、大肚川など、敵の主要討伐拠点と隣り合わせになっており、嘎呀河には日本領事館の警察分署まであった。一九三三年の一月初には、柳財溝が敵に襲撃され、その後は泗水坪が二度も討伐を受けていた。呉仲和自身にしても出所はしたものの、敵の尾行が影のようにつきまとっていた。だが、彼は任務を受けて喜びをかくしきれない様子だった。
わたしが呉仲和に嘎呀河周辺の一部の地域を半遊撃区に変える任務を与えたのは、その地域が敵の軍事要衝から至近距離にあり、また敵の攻撃目標と目されているためであった。危険をともなう難しい課題であったが、わたしは呉仲和を信じた。一九三〇年秋の最初の出会いのときすでに、彼はわたしにゆるぎない信頼感をいだかせた。そのとき、わたしは呉仲和の家で彼と真剣に語り合った。対話を終えて外に出てみると、垣の外に屈強な青年たちがものものしい警備陣を張っていた。村の外れにもそういう青年が何人も立ち並んでいた。わたしはその光景を見て、呉仲和の活動能力と革命家らしい風貌に深い感銘を受けたものである。彼の活動能力と革命家としての手腕は、大衆を引きつけるところに如実に現れた。彼は自分が住んでいる村を革命化するためにまずバリカンを一つ買い求め、「鋏契」(たのもし講のような互助組織)をつくってそこに村人を加入させた。当時、理髪店の料金は十五銭だったが、呉仲和は五銭にした。その収入で本を買い入れ、契員たちを覚醒させた。村人は安い代金で理髪ができるうえに本が読めるのが楽しみで、熱心に契に集まってきた。彼は、そういう機会を利用して契員たちを教育した。
「鋏契」を通じて村人を初歩的に啓蒙したあとは、以前の同窓会、学友会、親睦会といった啓蒙団体を統合して嶺東親睦会を組織した。この親睦会は敦化と哈爾巴嶺の東側の地区である延吉、琿春、和竜、汪清一帯の合法的な青年学生組織であった。呉仲和は村を革命化するために演劇公演もたびたびおこなった。彼が脚本を書くと、一個分隊を超す従兄弟たちが寄り集まって配役を分担し、舞台装置をつくり、自分たちで演出までして見事な作品を舞台にのせるのであった。
こういう方法で大衆に好感を与えてからは、自分の一家の人たちをまず革命組織に加入させ、しまいには村人をすべて組織のメンバーとして吸収した。そして冬の明月溝会議を前後した時期には姜相俊、趙昌徳、兪世竜らとともに、抗日遊撃隊結成の準備作業の重要な一環をなす武器獲得工作に参加した。彼らが命がけで奪取した武器は、崔仁俊、韓興権、姜相俊、金銀植などの闘士が加わっている別働隊員を武装させる大きな財産となった。呉仲和はわれわれの意図どおり敵の第一攻撃目標とされている第五区の一部の地域をりっぱな半遊撃区につくりあげた。彼は敵統治区域に活動拠点を設ける任務も誠実に果たした。図們の天日印刷所は彼がつくった重要な活動拠点で、革命軍の目と耳の役目を果たした。
敵は呉仲和とその一家を目のうえのこぶのようにみて、彼らを皆殺しにする機会を虎視眈々と狙っていた。一九三三年の春、遊撃隊の一グループが、竜井領事館から石峴警察署へ発した秘密文書を押収したことがあったが、それは呉氏一族を全滅させよという殺人指令であった。われわれはその情報を受けると同時に、遊撃隊を出動させて救援工作をおこなった。遊撃隊員たちは三十一名もの呉氏の大家族をまたたくまに十里坪へ疎開させた。
あくなき情熱と闘志に燃え、短距離陸上選手のように人生コースをまっしぐらに突っ走ってきた呉仲和は、一九三三年の夏、不幸にも北鳳梧洞のアジトで敵に逮捕された。敵はその場で彼を無惨に殺害した。呉仲和がどのような最期をとげ、どんな姿で死を受けとめたのか、それを目撃した者はいない。彼とその同僚たちを惨殺した殺人魔のみが、それを永遠の秘密のうちに葬り、虐殺現場から姿をくらましてしまったのである。
父親の呉泰煕老がこぶしを握って十里坪から北鳳梧洞へ駆けつけたとき、呉仲和はすでに血まみれの姿でアジトの近くに目を開いたまま横たわっていた。生命の火花がいまだ消えやらぬその瞳には、生前彼があれほど愛情をいだいてよく眺めていた遊撃区の青空が映っていた。だが、口だけは生きているときよりもかたく閉ざされていた。呉泰煕老は、その口もとを見ただけでも、息子が組織の秘密を生命と替えようとはしなかったことを読みとった。それがけなげで、老人はいっそうはげしく泣いた。
…この世に生まれて三十四年しか生きられなかったが、この子は一生を恥じることなく生きた。長生きするからといって楽がくるわけではない。しかし息子よ、おまえはあまりにも早く父のもとを去った。おまえをあれほど大事にしてくれた
そのとき、老人は息子の死体をかきいだいてこんなことを思ったという。
わたしは呉仲和が殺害されたという知らせを受けても、それを信じようとしなかった。平素あれほど多くを語り、多くの道を歩き、多くの痕跡を残して炎のように生きてきた彼が、こんなに音もなく去ってしまうというのか、という暗然たる気持だった。呉仲和のそばには、野辺の送りに立ち合った人が一人もいなかった。彼は一言の遺言も残さずに大地の上に倒れた。彼がわれわれに遺言として残せる言葉があったとすれば、それはどんなことであったろうか。半遊撃区の建設も終わったのだから、また新しい任務をまかせてほしいということを言ったかも知れない。呉仲和が生きていたら、わたしは彼にいっそう重要な大任を課していたであろう。革命家の倫理からすれば、多くの任務を与えるのが最大の愛情であり、
朝鮮革命は間島の一角で、万人の寵愛を受けていたいま一人の有能な組織者、宣伝者、人民には誇りを与え、敵には恐怖を与える、誠実で剛直な有為の人材を失った。それは東満州で怒濤の勢いで前進する朝鮮革命の高揚のために、まことに胸の痛む損失であった。しかし、呉仲和はその壮烈な死によって大衆を目覚めさせ、決起させた。彼は倒れたが、その血に染められた半遊撃区では抗日大戦の新しい全盛期をになって立つ主人公たちが雨後の筍のように育っていたのである。
3 ソビエトか、人民革命政府か?
遊撃区で極左病がもっともはなはだしく現れたのは政権建設分野であった。政権建設における極左的偏向は、教条主義、事大主義、冒険主義に毒された人たちの小ブルジョア的性急さの所産といえるソビエト建設路線と、ソビエトの名で実施された一部の施策に集中的に現れた。
政権建設をめぐる問題はすでに「トゥ・ドゥ」のころからわれわれの論議の対象となり、誰も無視できない重要な論題となっていた。朝鮮青年にとって、政権問題は独立後に上程してもよい将来のことであり、また国権回復が実現したあとでのみ建設に着手できる理念上の問題だと主張する人もいたが、われわれはそうした見解に同意しなかった。政権の形態にかんする見解は、とりもなおさず、それがいかなる性格の革命を追求するかという問題に直結しているというのが、われわれの立場であった。
政権問題がわれわれの政治生活でもっとも激烈な論議の対象となったのは、吉林時代であった。吉林の政治舞台で、独立後の国家形態にかんする問題が論題とされなかったことはほとんどないといってよい。三府系統の独立軍指導者たちが王政やブルジョア共和制を主張して気炎をあげるかと思うと、金燦、安光泉、申日鎔といった旧共産党系列の政客は、社会主義の即時実現とプロレタリアート独裁を叫んだ。朴素心も古典の命題に執着して労働者、農民の独裁を云々した。彼は労農大衆が政権の主人となることには賛成しながらも、独裁という言葉が気に入らないといって、いつも頭を横に振っていた。
吉林の青年は、それぞれのレベルと利害の違いによって、王政を支持する者、ブルジョア共和制に未練をいだく者、ソ連式社会主義に拍手を送る者など、まちまちであった。金赫、車光秀、桂永春、申永根など新しい世代の共産主義者は、独立軍の老人たちが王政復古を云々するのが気に入らないといった。しかし、社会主義の即時実現という主張には半信半疑の態度であった。こうした実情は、われわれをして政治討論が主となっていた青年学生の演壇で、政権問題を大きくとりあげて論争せざるをえなくした。
その後、われわれは卡倫会議で朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と定義づけ、それにもとづいて共産主義者が解放後の祖国に樹立すべき政権は当然、王政やブルジョア議会制政治を排除した人民のための政治制度、すなわち労働者、農民、勤労インテリ、民族資本家、宗教人を含む広範な勤労者大衆の利益を擁護する民主主義政権であるべきだと強調した。一九三一年十二月の冬の明月溝会議で政権問題が論議されたときわれわれが主張したのも、本質上これと同一のものであった。
間島地方に遊撃根拠地が創設されて以来、朝鮮革命においては政権建設問題が本格的な論議の対象となって浮上した。解放地区形態の遊撃区を維持し、それを運営していくためには、その領域内の人民にたいする経済組織者、文化教育者としての役割を果たす政権を建設しなければならなかった。国家の縮小版ともいえる遊撃区に政権を樹立せずには、人民の生活を保障することも、彼らを闘争に奮い立たせることもできなかった。
こうした必要性からして、東満州地方で活動していた共産主義者は、一九三二年の秋から遊撃区域で政権樹立の歴史的な道に踏み出した。その年の十月革命記念日を契機に、汪清県嘎呀河では大衆集会を開き、ソビエト政府の樹立を世に宣言した。これと時期を同じくして、延吉県の王隅溝と三道湾でもソビエトが樹立された。遊撃区域に革命政権が樹立されたことは、疑う余地もなく人民の世紀的な宿望を実現させる有意義な出来事であった。
最初はわたしも、遊撃根拠地にソビエト政権が樹立されたことをうれしく思った。名称はどうであれ、人民の利益を擁護する政権であるならそれでよいと思ったのである。当時は「ソビエト熱風」が東満州全域に吹きまくっていたときである。ソビエトを樹立することは、社会主義・共産主義を志向する世界各国の革命闘士と進歩的人民にとって一つの公認された思潮として流行し伝播していた。この熱風はヨーロッパとアジアとを選ばなかった。中国瑞金の中華ソビエトとベトナムのグアン・ハティンソビエトの樹立はその好例といえる。朝鮮革命の性格をブルジョア民主主義革命とした人たちでさえ、労農ソビエト政権について論じていた。
コミンテルンの本部に常駐していた朝鮮人の崔成愚らが、コミンテルン執行委員会で東方部の仕事を担当していたメンバー(クーシネン、マジヤール、岡野)と共同で作成した「朝鮮共産党行動綱領」は、朝鮮の完全独立とともに「労働者、農民のソビエト国家の樹立」を当面の任務として提示していた。ソビエト路線を支持し、それを革命実践にそのまま無条件に受け入れることは、国際共産主義運動において疑問の余地すらない一つの常識であり、革命的な共産主義的立場と日和見主義的立場とを判別する一種の基準とされていた。植民地、半植民地の国はいうまでもなく、資本主義諸国の共産党と共産主義組織でも、ソビエト政権の建設を至上の課題としていた。ソビエトは全世界の無産者階級にとって一つの理想となっていたのである。ソビエトがそれほど大きな影響力をもっていたのは、それがあらゆる形の搾取と抑圧を一掃し、勤労人民大衆の利益を絶対視する福祉社会の建設を可能にする唯一無二の政権形態と認められていたからである。搾取と抑圧のない自由で平和な新しい世界は、人類の世紀にわたる願望であり理想であった。
ロシアに樹立された新生ソビエト政権は、打倒された搾取階級の反乱を粉砕して帝国主義連合の侵略から祖国を守り、経済を復旧し社会主義建設を推進するうえで、かつてのいかなる政権もなしえなかった絶大な生命力を発揮した。ソビエト社会主義のこうした凱旋行進は、人びとのソビエトにたいする崇敬の念を幻想の境地にまで昇華させていた。人類がソ連を灯台と仰ぎ、ソビエトをすべての政権形態のうちでもっともすぐれた先進的なものとして受けとめたのは、決して無理なことではなかった。ソ連と隣り合わせの地帯であり、また新生ソ連の影響をいろいろと受けていた間島地方で、ソビエトにたいする幻想が人びとの頭を支配するようになったのは当然なことであった。
南満州と北満州への遠征を終えて汪清に帰還したわたしは、ソビエトの施策にたいする不満の声が遊撃区のいたるところからわき起こっている現実を目撃して、唖然とせざるをえなかった。それらの声には、見過ごすことのできない深刻な問題が内在していた。彼らのとりとめのない陰口に真実がひそんでいることを、われわれはすぐに見てとった。
わたしは遊撃区域をまわりながら、ソビエトにたいする人びとの考えを詳しく調べた。数十数百人の人民との不断の接触と腹を打ちわっての真しな対話の過程で、わたしはソビエト政権の極左的施策がまねいた重大な結果を全面的に把握することができた。遊撃区の住民がソビエトをけむたがりはじめたのは、政府が社会主義の即時実現という極左的なスローガンのもとに私有財産の廃絶を宣言し、土地や食糧をはじめ、鎌(かま)、手ぐわ、フォークなどの農具まで、個人所有になっていた動産、不動産をいっさい共同所有に変えてしまったときからであった。ソビエト政府は財産の共有化を一挙に強行したあと、遊撃区内のすべての住民に老若男女を問わず共同生活、共同労働、共同分配の新秩序を強要した。これが、いわゆるソビエト急進論者が口ぐせのように唱えていた「アルテリ」の生活というものであった。これは、幼稚園の児童が小学校、中学校、高等学校をへずに大学に進学したようなものであった。
ソビエト政府はまた、大地主、小地主、親日地主、反日地主の別なく遊撃区内のすべての地主と富農の土地を無償で没収し、牛馬や食糧までも一律に収奪した。東満州がいわゆる「赤色区域」と「白色区域」に分離されたのち、敵区へ行かずに遊撃区域に留まった地主はほとんどが反日感情の強い愛国的な地主であった。共産主義者が汪清一帯で武装隊伍を組織したとき、彼らは遊撃隊の援護にも誠意を示した。そういう地主の中に、張時明という名の進歩的な中国人地主がいた。一九三二年春の大討伐のさい、間島臨時派遣隊はこの地主の米倉まで焼き払ってしまった。討伐隊が銃剣を振るって強制退去を命じたが、彼は大肚川へ行かず、そのまま留まった。日本人にたいする彼の怨念はその春からいっそう深まった。彼は地主でありながら遊撃区の住民の生活を物心両面から援助した。
「遊撃区のだんながた、わたしは日本人を見るのがいやでここに留まった人間です。あの悪鬼のようなやつらを大肚川市内からだけでもなんとか追い出してくださいな!」
遊撃隊員が義援金を募りに行くと、張時明はこう頼むのであった。遊撃区の住民と彼との仲は非常によかった。ところが、ソビエト政権はこの地主までも敵区へ追いやってしまった。張時明は遊撃区域に留まれるよう考えてほしいと懇願したが、ソビエトはそれを許さなかった。
「ソビエト政権は地主の財産をいっさい没収することにした。あなたは反日精神が強い人で、これまで遊撃区の仕事をいろいろと助けてくれたのは確かだが、搾取階級に属する人間であるから、粛清しないわけにはいかなくなった。だからここから早く立ち去れ」
これが反日地主に下したソビエトの宣告であった。誠心誠意革命を援護した張時明の財産は即座に没収され、ソビエト政府の管轄下にある倉庫に全部納められた。裸同然の身になった彼は、涙ながらに日本軍の駐屯している大肚川へ去って行った。そのとき粛清工作に動員された者たちは、地主の長櫃の中の子どもの花靴まで奮い取った。中国人には、女の子が生まれると、その子が大きくなって嫁いだあとで生まれる孫の靴までつくっておくほほえましい風習があった。そういう履き物を花靴といった。乳飲み子のころのものからはじまり、一歳、二歳と順々に大きさの違う花靴を揃えて長櫃の中にしまっておくのであるが、その中には指ぬきくらいの小さいものもあった。そういう靴まで残らず没収したのであるから、それを黙って甘受しなければならなかった地主が遊撃区を立ち去りながらどんなことを考えたかは想像に難くない。
小汪清の谷間には有産者から没収した牛や馬が多かった。それはかなり大きな牧場をつくっても余るほどのものだったので、根拠地の青年は誰も彼も馬に乗った。ソビエトの統治下では、それも一つの見栄だった。極左分子は、中国人の女性が纏(てん)足(そく)をしたり、耳飾りをつけたりすることさえ槍玉にあげた。
一九三〇年代の前半期は、東満州地方の極左が絶頂に達した時期であり、極左の専横の中で神聖な革命的原則が試練をへていたときである。どうして極左病がこのように東満州を吹きまくることができたのであろうか。間島の遊撃区域に集まった革命家はみな無頼漢か、それとも理性を失った狂人であったというのであろうか。そうではない。遊撃区を治めていた絶対多数の共産主義者は気高い革命的理想と道義に徹したりっぱな人間であった。彼らは誰よりも人間を深く愛し、正義への志向が熱烈であった。にもかかわらず、あれほど人情に厚く分別のある人たちが、なぜ極左路線の提唱者、実行者となり、取り返しのつかない失策を犯すようになってしまったのであろうか。われわれはその原因を路線に求め、その路線を作成した人たちの思想的未熟さに求めた。実情にうとい人たちがトップの座にあぐらをかき、古典の一般的原則と先行者の経験をそっくり直輸入した現実性のない指令を乱発したため、実践的には無理が生じざるをえなかったのである。むやみに排斥し、手当たり次第に一掃し、打倒し、葬り去るのがもっとも徹底した階級性とみなされ、もっとも前衛的な革命家の表徴と評されている時期であった。
極左がいかに神聖視されていたかを示すこんな事実もあった。汪清のある寡婦が機織りをして稼いだ小銭を農民に貸し付けたところ、農民はそれを高利貸しだと決めつけて借用書を焼き捨て、元金まで踏み倒してしまったというのである。背後であやつる者がいなければ、純朴な農民にこんなさもしいことができるはずはない。
いつか、わたしは汪清で李応万中隊長が武装隊伍に加入した経緯を聞いて驚いたことがある。最初のころ武装団では、労働者と貧農、雇農出身でなければ入団を許さなかった。ところが李応万にはひからびた山肌の土地ではあっても一万坪ほどの畑があった。この畑のために、彼は貧農や雇農と認められなかった。彼は武装団への加入を何回となく懇請したが、そのたびに階級的出身がよくないという理由ではねつけられた。一万坪も持っていれば中農だというのである。彼は思案のあげく両親に内緒で畑を売り払ってブローニング拳銃を一箱買い入れて武装団に加入させてくれと懇願し、やっと入団が許されたのである。李応万は遊撃隊員になれたと喜んだが、一夜にして一万坪の畑をなくしてしまった彼の家族は生きていく手立てを失い、ただ呆然とするのみであった。
極左を戒め、容認してはならないというわたしの決心は、間島に来ていっそうかたくなった。わたしはそのとき以来、一生のあいだ極左とのたたかいをつづけてきた。間島時代の体験は解放後、極左を防ぎ、官僚主義を一掃する闘争に大いに役立った。
もっともらしい革命的言辞とはねあがったスローガンの裏で、極左はつねに大衆を愚弄し、抑圧し欺き、功名と栄達を夢見るものである。その功名と栄達のために、自分を最前線で突進する戦車や装甲車でもあるかのように描写するのが極左なのだ。変装した反革命が極左に早変わりするのはそのためである。それゆえ共産主義者はつねに警戒心を高め、自己の陣地に極左の足がかりとなるようなすきを与えてはならないのである。
極左的なソビエト施策がまねいた禍のため、遊撃根拠地では収拾しがたい動揺と混乱が生じた。多くの家族がソビエト施策に不満をいだいて敵区へ移って行った。ある晩、わたしは隊員を率いて第二中隊の政治指導員崔春国がいる三次島へ行く途中、一家もろとも遊撃区を脱出していくある家族に出会った。白昼に抜けだして捕まれば反革命のレッテルを貼られるに決まっていたので、夜間を選んだのである。家族は五人であったが、荷物はそれほどなく裸に近い装いであった。男が連れているのは妻と三人の子どもであった。五十がらみの彼は銃を担っている軍人を見てふるえあがってしまった。遊撃隊の指揮官に見つかったのだから、もう最期だと思ったのであろう。
「あなたはどんな罪を犯したのですか?」
わたしは寒さにふるえている三人の子どもを一人一人抱き寄せながら、おだやかに尋ねた。
「いや、何も罪は犯しておりません」
「それでは、なぜ遊撃区を離れようとするのですか」
「ここではもう息がつまりそうなので…」
「では、どこへ行くつもりですか? 敵区へ行ってはここよりもっと息がつまるはずなのに」
「日本人にさんざんひどい目にあわされて遊撃区にやってきたわたしらが、またやつらのところへもどっていくなんてとんでもないことです。人のいない深い谷間へ行って、焼き畑でも起こして暮らしていくつもりです。そうすれば心だけでも安まるではありませんか」
わたしは胸がふさがる思いだった。この馬村より深い山奥にこもったところで、明日の暮らしのめどもつかない彼らに、果たして心の安らぐ生活ができるというのだろうか。
「まだ氷も解けていないし、草の芽も生えていないというのに、それまでの食糧はなんとかなるんですか?」
「食べ物なんてあるわけがありません。気力がつきるまで生きられれば生きるし、死ねば死ぬし… 仕方がないでしょう。もう命がつながっているのが煩わしいくらいです」
かたわらの彼の妻が突然、肩をふるわせてむせんだ。すると、わたしの胸に抱かれていた三人の子どもらも、せきを切ったように泣きだすのであった。わたしは頬を伝う涙を唇で噛み殺し、暗闇の中に呆然と立ちつくしていた。こうして一人二人と立ち去ってしまうなら、最後は誰に頼って革命をすればよいのか。朝鮮革命はなにゆえにこのように索漠とした窮地に落ちこんでしまったのだろうか。ソビエトの無謀な施策がもたらした結果は、このように破局的なものであった。
「もう少しすれば世の中もおさまりがつくようになるでしょうから、あまり気を落とさずにわれわれと一緒に時勢が改まる日を待ちましょう」
わたしは、その家族を家に連れて帰るよう隊員に命じた。そして第二中隊の兵舎で泊まることにしていた予定を変更し、西大坡にいる崔自益老の家を訪ねた。胸をえぐられる思いをしたので、遊撃区の民心をさらに知ろうという心積もりだった。崔自益は、汪清別働隊の隊員として遊撃隊の生活をはじめたのち、中隊長をへて独立旅団の連隊長にまで昇進して戦死した崔仁俊の父親で、わたしが三次島に来るたびに忘れずに訪ねることにしていた老人である。この老人は、徐一の率いる北路軍政署で書記を務めたほどの有識者であるうえに性格が快活で率直なので、会うたびにいろいろと参考になる話を聞かせてもらうことができた。
「ご老人、最近はいかがお過ごしですか」
わたしの挨拶に老人は「命がつながっているから、生きておるようなもんじゃ」と無愛想に答えるのだった。わたしはその無愛想な口調が遊撃区の民心を代弁しているように思えたので、いま一度問いかけた。
「遊撃区の生活がそんなに苦しいのですか?」
すると、崔自益は冠を曲げて声を荒らげた。
「ソビエト政府が役畜や農具を集めていくときはまだわしも我慢した。ロシアでも農業の集団化というのをやるときはそんなことをしたんで、わしらもそれに見習ったんだろうと思った。ところが、何日か前に共同食堂を経営するとかで、さじや箸まで集めに来たのにはへどが出たよ。『わしら老人たちが共同食事のために日に三回、自分の家のオンドル部屋をおいて外へ行ったり来たりしろというのか。こんなやり方はもう我慢できん。コンミューンだのアルテリだの、そんな化物の巣窟みたいな世の中をつくるのなら若い者だけでやれ。わしらは息が苦しくてついていけん』といってやった。すると、今度は封建粛清だのなんだのといって、年寄りたちを大衆集会に引き出して、嫁たちに批判させるじゃないか。朝鮮の歴史はざっと五千年を数えるというが、どの時代にこんな奇怪千万なことがあったというのか。うちの仁俊はそれでもわしに、ソビエトを誹謗しちゃいかんと説教しよる。それでわしは、仁俊の背骨を叩き折るところだった」
遊撃隊指揮官の父親がソビエトの施策に背を向けるくらいだから、他の住民の動向は調べてみるまでもなかった。その後、遊撃区での反民生団闘争が極左的に展開された恐怖の時期と、遊撃区の解散をひかえて軍隊と人民が涙のうちに惜別の悲しみを分かち合った日々に、胸を叩いて時勢を痛嘆したこの老人の訴えをわたしはしばしば思い起こしたものである。
ソビエト政府が樹立されて半年足らずのあいだに、朝中人民の関係は再び急激に悪化した。粛清された地主の大部分が中国人であっただけに、五・三〇暴動のときと同じような葛藤が再燃したのは当然の結果であった。反日部隊は以前のように再び朝鮮の共産主義者を敵視するようになった。日本軍と満州国軍に加えて、救国軍も、中国人地主も敵に回すようになったのである。
抗日遊撃隊は、小規模の秘密遊撃隊のように他人の家の裏部屋に隠れていた創建初期と同様の境遇になり、朝鮮人の集落に用心深くひそんでいた。だからといって、別働隊という看板を復活させるわけにもいかなかった。救国軍はわれわれに出会うと「高(コ)麗(リ)棒(パン)子(ズ)」といって乱暴を働いた。遊撃隊の活動は半地下闘争も同然のものになった。われわれが一年余りの闘争過程で積みあげたいっさいの功績は、無念にも水の泡のように消え去ろうとしていた。
ソビエトの施策をめぐって、われわれの隊伍のあいだにも分解作用がはじまっていた。こんなことなら、いっそのことロシアヘ行って革命のやり方を学んでから再出発しようという者もいれば、間島人のやり方どおりにしては革命もなにもみな台無しになってしまうから振り出しにもどってわれわれだけでたたかおうという者もおり、つまらない革命をするくらいなら家へ帰って親孝行でもした方がましだという者もいた。それで、家へ帰りたがっている中国人の一人は家に帰らせ、ソ連へ行って勉強したがっている別の中国人はソ連へ送ることにした。
こうした事態にあっても、遊撃区の運命に責任を負うべき人たちは政策転換を断行する決心を下せずにいた。東満特委が指導機関として存在していたが、コミンテルンの施政方針に修正を加えるだけの路線をもっていなかった。誰かが、右翼の極印を押される危険を冒してでも、果敢に立ちあがって混乱した時局をただし、遊撃区を崩壊の危機から救い出さなければならなかった。そのためには、極左的なソビエト路線に対抗する決断と新しいテーゼが必要であった。わたしが、セクト主義の一掃と革命隊伍の統一団結の強化にかんする論文をパンフレットにして発表したのは、ちょうどそのころのことだった。
わたしは政権建設問題をめぐって、馬村で童長栄と論争しようと決心した。ところが、県党書記の李容国をはじめ幾人かのメンバーがわたしを引き止めた。「ソビエト建設事業大綱にかんする東満特委の決議」がすでに示達されており、また泗水坪にソビエト政府も樹立されているのだから、いくら論争したところでらちがあかないし、下手に論争をしかけては制裁もまぬがれないというのであった。李容国は、金百竜がソビエトを批判して右翼分子と決めつけられたいきさつを手短に話してくれた。
金百竜は北満州でひところ県党委員会の委員として活動した人物であった。間島地方でソビエトを組織する宣伝活動がさかんに展開されていたとき、ある用件で金百竜は東満特委を経由し、ソビエト政府樹立の初のモデルケースに選定された汪清五区へ来ていたそうである。たまたまそこにソビエト政府が樹立されるという話を聞いた彼は、東満州にソビエトを組織するのは時機尚早だといったその一言のために、右翼日和見主義者のレッテルを貼られて攻撃の槍玉にされ、のちには北満州へ追われてしまった。
李容国から金百竜事件の話を聞かされたときから二年が過ぎた一九三四年の冬、わたしは寧安県八道河子で金百竜に会った。そのとき、彼は当地の区党書記を務めていた。彼は、ソビエト時機尚早論をもちだして右翼投降主義者のレッテルを貼られた一九三二年の秋をわびしそうに回想した。そのころはすでに東満州での極左的なソビエト路線が是正され、人民革命政府が遊撃区を治めはじめて久しかった時期なので、彼は極左的暴挙といえるソビエト路線の提唱者たちを臆することなく批評するのであった。会って話を交わしてみると、非常に賢く剛直な人だった。
わたしは彼に、どういう理由でソビエトの建設が時機尚早だと主張したのかと尋ねた。彼は「理由というのは単純ですよ。嘎呀河に行っていたとき農民とよく語り合ったのですが、彼らはそもそもソビエトがなんであるのか、その言葉の意味すら知らないではありませんか。人民が知りもしないソビエトを建設するというので、無謀に思えて時機尚早だといったのですよ」と簡単に答えた。
人民にはソビエトがなんであるのかわからなかったというのは、当時の実態をありのままに反映した言葉であった。区ソビエト選挙に参加した嘎呀河の老人たちは、ソビエトをソクセポ(速射砲)と混同していた。
「ソビエトが出てくるというので、日本軍をうんとやっつけるソクセポが出てくるのかと思って演壇を見つめていると、なんと、ソクセポではなくて赤旗が出てきましたわい」というのが老人たちの言葉であった。汪清二区のソビエト創立行事に参加した馬村の有権者の中には、ソビエトをセボチ(金だらい)と勘違いしている人もいた。ある村の人たちは、ソビエトの選挙に出かける有権者に、「ソビエトがどんな形のものなのかよく見てきなされ。大きいもんか小さいもんか」と頼んだという。またある村では「ソビエトという偉い人が来るそうだが、もてなすものがなくて困った」といって、かごを手にして山菜を摘みに出かける人がいたという話もある。
このように人民がソビエトについて自分なりに解釈し、それに人びとの笑いを誘うコミカルな註釈まで加えるようになったのは、無知がもたらした当然の結果ではあるが、大衆を指導する人たちの宣伝活動が正しく進められなかったからである。当時の宣伝テキストというのは、およそ題目からして大衆に理解できない外来語だらけのもので、「ソビエトとはなにか?」「コルホーズとはなにか?」「コンミューンとはなにか?」といった類のものだった。ソビエトにたいする概念は宣伝員自身でさえあいまいな有様であった。極左の毒素に侵された急進分子は、このように人民にはわかりもしないソビエトを各地にうち立て、労働者と貧農、雇農の独裁を叫び、革命が成功したかのように虚勢を張っていた。
わたしは汪清の同志たちの忠告を無視し、童長栄と政権形態問題について論争した。
「間島の一角に革命政権が誕生し、その存在をこの世に宣言したのはまったく喜ばしいことです。ところで童長栄同志、このソビエト路線のためにわれわれの統一戦線路線が侵害されているのを、わたしは見過ごすことができません」
童長栄は驚きの色を浮かべてわたしを見つめた。
「統一戦線路線が侵害されている? それはなにを念頭においてのことですか」
「明月溝でも話したことがありますが、われわれは朝鮮革命に利害をもつすべての反日愛国勢力を一つの強力な政治勢力として結集する路線をうちだし、その実現のために数年間、国内と満州地方で血みどろのたたかいを展開してきました。その過程で、われわれは多数の大衆を結集しました。その大衆の中には愛国的な宗教人もいれば商工人や下級官吏もおり、ひいては地主までいます。ところが、ソビエトの施策は彼らを一律に排斥してしまいました。きのうまでの革命の支持者、共鳴者が、きょうは革命に背を向け、反対する立場に立っているのです。朝中人民の関係も再び悪化しています」
童長栄は笑いながら、わたしの腕首を軽く叩いた。
「それはありうることであり、また本質的な問題でもありません。肝心なのは、ソビエト政権が人民の望んでいたことをすべて解決してやったということです。革命も上昇一路をたどっています。労働者、農民をはじめとする絶対多数の大衆はソビエト政権を支持しています。なにも恐れることはありません。労働者と農民さえいればいかなる革命でもできるというのがわたしの主張です。少々の損失は覚悟すべきではないですか」
「損失がありうることは認めます。しかし、味方にできる人を押しやる必要はないでしょう。われわれの総体的な戦略は、敵を最大限に孤立させ、絶対多数の大衆はすべて獲得しようというものです。それでこの一年間、危険を冒して反日部隊の工作も進めてきたのです。五・三〇暴動を契機に失墜した共産主義者の体面もやっと回復し、朝中両国人民のあいだに生じた不和も辛苦の末に取り除かれたというのに、あれほど骨をおって積みあげた塔が、一朝にして崩れ去る危機が再び生じているのです」
「
「違います。わたしはもともと何事でも楽観的に考察するたちです。革命はもちろんこれからも上昇一路をたどるでしょう。しかし、東満州に生じている極左的施策の結果については深く憂慮せざるをえません。東満特委はこの問題にたいし、当然熟考する必要があると思います」
「ということは、施策を再検討すべきだということですか?」
「そうです。施策を再検討し、その施策を生み出している政権形態について再検討すべきです」
童長栄は眉を寄せ、不機嫌な表情になった。
「
論争はつづいた。童長栄は自分の主張に固執しソビエトを絶対化した。彼は性格が温厚で人情味もある人であったが、片意地なところがあった。知識が豊かである反面、思考と実践の面ではドグマにとらわれることが多かった。
その後、わたしは再び童長栄と政権問題をめぐって論じ合った。そのときの論議で焦点となったのは、ソビエトを維持すべきか放棄すべきか、放棄するとすればどのような新しい政権形態を選択すべきかということであった。わたしは、反帝反封建民主主義革命の課題を遂行すべき東満州地方の遊撃区でソビエトが実情に合わない政権形態であることが生活を通じて証明された以上、朝中両国の共産主義者は決断を下して政権形態を変え、人民に喜ばれる政策を実施して混沌とした時局を収拾すべきだと童長栄を説得した。
「ソビエトが東満州の実情に合わないものであり、またソビエトの一部の施策が革命に損失を与えたということはわたしも認めます。この前、
特委書記の見解に生じた変化はわたしをほっとさせた。その日の童長栄は、大衆の意気がさかんな革命の高揚期にはソビエトのみが共産主義者の唯一の政権形態であると主張して譲らなかったかつての特委書記ではなかった。
「これまで人類が発見した労働者階級の政権形態は、コンミューンとソビエトしかないではありませんか」
童長栄はここまで言って、わたしの顔をうかがうような目で見つめた。そのまなざしは、もし君がわたしを納得させるだけの形態を探し出せるというなら、わたしもあえて反対はしない、という暗示を含んでいるようでもあった。
「それなら、実情に合った形態をわれわれの力でつくりだしてみようではありませんか」
「われわれがつくるというのですか? 悲しいことに、わたしはそれほどの天才ではありません。マルクス主義の古典にもないものをどうつくりだせるというのですか」
ある問題を固定不変のものとして絶対化し、それに自分を縛りつけようとする、そんな部類の見解と立場にわたしは同感することができなかった。
「童長栄同志、フランスの労働者階級がコンミューンを組織したとき、なんらかの古典を参考にしたでしょうか? ロシアのソビエトがマルクス主義創始者の古典に明示されていた政権形態だったというのですか? ソビエトがどうして一人天才の頭脳が生んだ産物としかいえないのですか? 人民が求めず、ロシアの現実が求めなかったなら、ソビエトは歴史の舞台に出現しはしなかっただろうとわたしは考えます」
童長栄はなんとも応答せず、ポケットから大きなタバコ入れを取り出し、マドロスパイプにタバコを詰めて口にくわえ、わたしにも一服つけるよう勧めた。彼は遊撃区をまわって歩くときにもいつもタバコ入れとマドロスパイプを手放さなかったが、道で農民に会うと、きまってそれを出して勧める風変わりなところがあった。そういう素朴な人柄のため、彼は遊撃区の人民から尊敬され愛されていた。冬になると、彼は農民がかぶる毛皮の帽子をかぶって出歩いた。
彼が沈黙を守っているのはじれったかったが、わたしの言葉に反駁しないのは好ましい兆だと思った。
童長栄と会ったのち、わたしは李容国、金明均、趙昌徳をはじめ数名の軍政幹部と膝を交え、ソビエトに代わる革命政権樹立の問題をめぐって数日間、深刻な討議をつづけた。討議の効率を高めるため、わたしは政権形態の規定にあたっては基準を定めることが重要であると強調した。わたしは、その基準というものを複雑に考える必要はない、われわれはみな人民のためにたたかう闘士であり、人民のために一生をささげることを決心した忠僕なのだから、われわれの樹立する政権も各階層人民の利益を擁護し、人民に支持歓迎されるものであるかどうかに基本をおき、現段階における朝鮮革命の性格がなんであるかを基準にすればよいはずだと力説した。
わたしの説明を聞いた同志たちは、これですべてが明白になった、各階層の人民というカテゴリには労働者と貧農、雇農以外の広範な勤労者大衆も包括されるのだから、彼らの利益を擁護する政府は統一戦線的な政府であるべきではないか、統一戦線的政権こそは反帝反封建民主主義革命の性格に適合した政権だ、そういう政権ならもろ手をあげて賛成だ、といって歓声をあげるのだった。わたしは彼らに、統一戦線的政府を樹立するとしても、労農同盟にもとづく統一戦線的人民革命政府を樹立すべきだと再三力説した。これが今日、歴史の本に人民革命政府路線と記されている政権建設路線である。
採決の結果は明白なので、説明するまでもないであろう。われわれが朝鮮人住民の多い東満州地方に適合した政権形態として人民革命政府を選択したのは、それが反帝反封建民主主義を目的とする朝鮮革命の性格に合い、人民の要求にもかなったもっとも理想的な形態であると考えたからである。われわれは政権形態の基準を人民の要求に求め、人民の利益をいかに擁護しりっぱに代弁するかに求めた。
こうして政権形態が人民革命政府に決まったのち、われわれはある一点にまずモデルをつくり、それがよいと認められれば他の革命組織にも一般化することに合意をみた。モデル・ケースとしては五区が選定された。わたしは汪清五区へ行き、李容国、金明均らとともに、人民革命政府第五区委員会の代表を選出する集会に参加した。集会は泗水坪から四キロほど離れた下牡丹川村で開かれた。その日はモップル記念日であった。モップルというのは、国際革命闘士後援会の略称である。一九二三年、コミンテルン執行委員会は、犠牲になった革命家の遺族を援護する目的でこの組織を設けることにし、三月十八日を国際的なモップル記念日に定めた。
五区ソビエト政府の会長であった趙昌徳は、われわれをソビエト政府の事務室に案内した。わたしはそこで二十名ほどの嘎呀河地方の農民と語り合った。
「われわれはソビエト政府のかわりに新しい政府をうち立てることにしました。しかし、この政府はみなさんの意思にかなったものでなければなりません。どんな政府にするのがよいでしょうか」
わたしがこう問いかけると、一人の老人が立ちあがって、「みんなが気苦労をせずに暮らしていけるようにしてくれる政府さえ立ててくれれば、言うことはありません」と答えた。
わたしは、ソビエト政府に代わる政府として人民革命政府をうち立てるということ、そしてこの政府は世界政権史上はじめての真の人民の政府になるはずだということを感情をこめて宣言した。
「この政府は、祖国を愛し同胞を愛するすべての人の利益を代弁し擁護し、その宿望を実現させるでしょう。みなさんの宿望はなんでしょうか? 土地を持つこと、労働の権利を持つこと、子どもを教育すること、万民が平等に暮らすこと… 人民革命政府はそういう願いをすべてかなえるでしょう」
嘎呀河の人民は人民革命政府路線についてのわたしの説明を聞いて、それをひとしく支持した。
われわれは人民革命政府の誕生を宣言する儀式に先立ち、ソビエト政府が没収した個人の財産をいっさい元の持主に返還した。没収した物の中には、破損したり消費してしまったものもあった。それを償うため、梁成竜は木材所襲撃作戦まで敢行した。農民はその戦闘でろ獲した牛や馬で、その年の春、分与された土地を耕した。
この日の集会では、人民革命政府は真の人民の政権であるという内容のわたしの演説のあとで、十か条からなる政府政綱の内容が説明された。この政綱の内容は、後日、祖国光復会の十大綱領にほとんどそのまま反映された。
泗水坪村での印象のうちで、いまでもありありと思い浮かぶのは、県党書記李容国の姿である。集会が終わって人びとが踊りの輪に飛びこみ、お祭り気分にひたっているとき、李容国は片隅に座って泣いていた。わたしは踊りの輪からそっと抜けだして、彼のそばへ近づいた。
「みんな踊っているというのに、どうしたんだね」
李容国は頬をつたう涙をぬぐおうともせず、重く溜息をついた。
「あの人たちはなぜ、わたしに唾をかけないのだろうか。汪清の人たちが極左病に苦しめられたのは、みんなわたしのせいではないか。だというのに、この村の人たちはきょうわたしに、礼をいうではないか。実際のところ、礼をいうなら金隊長にいわねばならないのに…」
「朝鮮人民は情に厚く度量のある人民なのだ。彼らが過去にこだわらず書記に感謝したのは人民革命政府路線を喜んで受け入れたことを意味するわけだ。これからはみんなで、明日のことだけを考えよう」
「わたしはこれまで自分の信念をもたず、ひとの言いなりになってきた。あなたはわたしに本当に貴い真理を悟らせてくれた。人民のために生きよう! 平凡なこの一言にどれほど深い意味がこめられていることか。わたしは一生この言葉を忘れはしない」
李容国はわたしの手を握って情熱的に言うのだった。
だが、彼はこの誓いを実践に移せずに終わった。東満特委が彼を県党書記の職責から解任する措置をとったのである。東満特委は、李容国はもともとM・L派であり、ソビエト路線の実行で汪清県党がはなはだしい極左的偏向を犯したので彼を解任したのだが、彼には民生団員の嫌疑もかかっている、といった。
李容国がM・L派だというのは事実に反する不当な言いがかりであった。細鱗河で青年活動に従事していた彼を東満特委の共青書記に推薦した人間が、かつてM・L派とつながりのある人物であっただけのことである。極左的なソビエト路線の実行によってもたらされた重大な結果をすべて県党書記一人の責任にするというのは、道義上からいっても無茶な話であった。彼に解任処分を適用するなら、ソビエト路線を押しつけた人間と、その実行を強要した当事者にはどんな処罰を与えるべきであろうか。また、李容国が民生団員だというのは根も葉もない虚言であった。わたしは、彼が分派でも民生団員でもないことを重ねて保証した。だが、われわれが呉義成との談判のために羅子溝へ行っているあいだに、李容国はとうとう「反革命分子」の烙印を押されて処刑されてしまった。彼の経歴から見ても民生団員になる根拠はなにもなかった。ひところ逮捕旋風を避けて亡命していった沿海州で、亡命者として安らかな一生を送ることもできたはずである。だが、彼は革命のために再び間島にもどり嵐の中に身を投じたのである。こういう誠実で良心的な人間が、なぜ民生団員のレッテルを貼られたのか、その理由はいまもって不明である。
五区に人民革命政府が樹立されてまもなく、わたしを訪ねてきた童長栄は笑顔で快活にこう言うのだった。
「
この年の夏、路線転換問題を討議する重要な会議が開かれた。この会議には、路線転換にかんする文書を携えて東満州地方に来たコミンテルンの派遣員も参加した。
わたしはこの会議で、労農同盟にもとづく統一戦線的政府としての人民革命政府路線を提示し、政府の施政方針にかんする案を改めて明らかにした。その案には、土地改革をはじめ経済、教育、文化、保健医療、軍事などの各分野にわたって政府が遂行すべき民主的諸施策が明示されていた。われわれの案はコミンテルンの新しい路線とも合致するものであった。コミンテルンの派遣員は、われわれが提唱した人民革命政府路線を全面的に賛同した。深刻な論争と思想闘争の雰囲気の中で会期を延長してつづけられた会議では、われわれの提示した人民革命政府路線にもとづき、ソビエトを人民革命政府に改編し、遊撃区の全地域でソビエト路線の極左的偏向を正す闘争を展開するという決定を採択した。
この会議以後、東満州地方のすべてのソビエトは人民革命政府に改編された。条件のととのっていないところでは、過渡的形態として農民委員会を組織し、徐々に人民革命政府に改編することにした。私有財産撤廃の名目で没収し、遊撃区の人民が消費した財産にたいしては、人民革命政府が現金と現物で補償した。人民革命政府は人民が主人となって統轄する政府として、絶対多数の人民大衆には民主主義を実施し、敵には独裁を実施した。
嘎呀河での人民革命政府の樹立と路線転換会議を契機に、東満州各県の革命組織区には区人民革命政府が誕生し、村ごとに村人民革命政府が出現した。区人民革命政府には、会長、副会長、九~十一名の執行委員をおき、土地部、軍事部、経済部、食糧部、通信部、医療部などの部署をおいた。これが解放後に誕生した人民政権の萌芽であり、原型であった。
人民革命政府は農民に土地を無償で分与し、遊撃区内の全域で八時間労働制を実施した。当時、小汪清遊撃根拠地には千余名の労働者がいた。彼らの大部分は伐採、筏流し、炭焼きなどの労働に従事していた。そのうちの五百余名は二区所在地の三次島で、あとの五百余名は芳草嶺から馬村へ抜ける峠の下で働いていたが、彼らはいずれも八時間労働の恩恵を受けた。人民革命政府の厳格な要求により、個人企業主は労働者に従前の二倍の賃金を支払わされた。
人民革命政府は遊撃区周辺の山林も管轄下において統制し、政府の承認なしには一本の樹木も伐採できなくした。この措置が効力を発揮しはじめると、大肚川にあった親和木材所の日本人所長と中国人の材木商は遊撃区にやってきて、伐採許可を得ようと交渉を求めてきた。その交渉があって以来、木材業者や材木商は樹木一本当たり一円の計算で、それに相当する被服、食糧、日用品などを遊撃区に納入して樹木を伐採していった。
人民革命政府は遊撃区の各集落に児童団学校を立てて無料教育を実施し、梨樹溝と十里坪に設置した遊撃区病院ですべての住民に無料治療が受けられるようにした。男女平等権の実施により、女性は男性と同等の権利をもって社会活動に参加した。遊撃区では出版所、裁縫所、武器修理所も運営した。
遊撃区の文化は、朝鮮人民が数千年の先までうたえる数多くの名歌謡を生みだし、『血の海』『ある自衛団員の運命』へとつながる演劇芸術の開花期をもたらした。
不人情と収奪の代名詞となっていたソビエトという言葉は、古傷をうずかせる一つの小さな破片として残されるだけになった。極左的なソビエト施策の被害をこうむるまいと敵区へ行った人も、一人二人と遊撃区にもどってくるようになった。老人たちは腰にキセルを差して、なんの屈託もなく隣近所を訪ね合った。遊撃区は再び信頼し親しみ合い、ほがらかに笑いさざめく睦まじい大家庭になった。きびしい冬にうちかった汪清の谷間と尾根には、山河を美しく彩る無数の花のつぼみのほころびとともに、新しい生活が力強く胎動しはじめていた。その生活がいかに羨ましかったのか、柴司令部隊によって人質として小汪清に連れてこられたある地主の息子は、遊撃区から自分を追い払わないでほしいと哀願するほどだった。
4 コミンテルンの派遣員
われわれが遊撃根拠地で極左との闘争を展開していた一九三三年の四月ごろ、童長栄は大布衫姿の中年の男をともなってわたしを訪ねてきた。身なりや物腰がかなり上品で洗練されている感じのその男は、わたしを見ると遠くから笑顔をつくり、挨拶がわりに片手を高く上げてみせた。旧知の客ではなかろうかと勘違いさせられるほど、近寄ってくるその男の目は人なつっこかった。
握手を交わしてみると旧知ではなかった。不思議なのは、初対面のその客がなぜかしきりに旧知のように感じられることだった。それで、わたしも笑顔で快く彼を迎えた。
この謎のような客がほかならぬコミンテルン派遣員(巡視員)の潘省委だったのである。潘は姓で省委は満州省党委員という職責の略語であった。魏拯民を老魏と呼ぶように、人びとはたいてい彼を老潘と呼んでいた。中国人には、年長者や尊敬する人の姓の上に「老」の字を冠する美風があった。潘省委を李起東という本名で呼んだり、潘慶由という別名で呼ぶ人はあまりいなかった。
潘省委は満州地方の共産主義者に広く知られていた革命家であり、党活動家である。わたしに潘省委の話をはじめてしてくれたのは王潤成であった。九・一八事変の後、潘省委が寧安県党の書記を務めていたとき、王潤成はその下で宣伝委員として活動した。彼は、自分が寧安県党で宣伝委員として活動することができたのは潘省委の推薦があったからだといい、それをたいへん誇りにしていた。彼の話によると、潘
省委は黄埔軍官学校の出身で、中国の武昌暴動と北伐戦争に参加し、ソ連に留学したこともある有能な老幹部であるとのことだった。ひところは綏寧中心県委の書記として活躍したこともあり、その人間味とするどい洞察力にはしばしば感嘆させられたという。潘省委にたいする王潤成の傾倒ぶりはたいへんなものであった。わたしはそのとき、彼の話を聞いて、われわれの近くで潘省委のようなすぐれた革命家が活動していることを非常にうれしく思った。その後は、北満州からきた崔成淑と趙東旭からまた、潘省委の話を聞かされた。崔成淑は、自分を汪清へ行けとあおり立てたのは潘省委であったといった。そして、彼の指導のもとに寧安市街でメーデーデモをおこなったときのことを面白く話してくれた。
こういういきさつがあったせいか、われわれは王潤成と崔成淑の話で多くの時間を費やした。
「寧安から来た崔成淑さんは元気ですか?」
われわれの対話は潘省委のこういう問いではじまった。下部の者にたいする思いやりが潘省委のきわだった長所だといっていた崔成淑の言葉が思い浮かび、にわかに胸があつくなった。
「元気です。北満州から来るやいなや、大汪清ソビエトの代表に選出されたくらいです。いまは小汪清区婦女部の委員に選挙されて、婦女会の仕事に専念しています」
「彼女はここへ来てからも馬に乗っていますか?」
「馬に乗るという話は聞きましたが、まだ見たことはありません」
「彼女は革命軍に入隊して騎兵になることを決心し、馬術を習ったんです。なかなか気丈夫で負けずぎらいな娘ですよ」
「だとすると、汪清の人たちにとっては望外の授かり物というわけですね。北満州のほうで手放したのが悔やまれませんか?」
「とんでもない。彼女の家族は北満州にいますが、わたしは東満州へ行くように勧めたのです。正直にいって、満州地方の革命闘争の中心は間島ではありませんか。それで彼女に言ったのです。革命に本腰を入れたければ汪清へ行くべきだ、そこには人民の天下になった根拠地がある、わたしは間島に大きな期待をかけている、わたしもそこへ行って仕事をしたい、と」
東満州地方が朝鮮革命の基本的な策源地だと評価されたことをわたしはありがたく思いながらも、一方では恥ずかしく思った。極左的な暴挙といえる遊撃区での事態を目のあたりにするなら、間島での革命闘争から、彼はどんな印象を受けるだろうか、ということが気がかりだった。もちろん、潘省委の政治的理念や政策的立場といったものは、わたしにとってまだ未知数にひとしかった。政治的視野が広く、闘争経験が豊富な彼だからといって、必ずしも極左に反対する立場に立つとは断定できなかった。だが、わたしは潘省委にたいする王潤成と崔成淑の評価を重くみた。彼らは、潘省委が下部の人間にたいし決して偏見をもって臨むことがなく、一家言をもって何事も公正かつ慎重に処理する老練な活動家であることを折々強調していた。潘省委にたいするわたしの第一印象もすこぶるよかった。
その日はその程度の挨拶にとどめた。われわれは後日再会して本格的に語り合うことにして別れることにした。しかしコミンテルンの客人は時間の選択を誤った。というのは、波状攻撃を重ねる数千の討伐軍を撃退するため、わたしは部隊を率いてただちに戦場へ出陣しなければならなかったからである。
「それなら、わたしも部隊について戦場へ行こう。粗末なものでもわたしに鉄砲を一挺ください」
潘省委は、東満州まで来て戦闘も見ないで帰ってはコミンテルン派遣員としての面目が立たず、一生悔いを残すことになるから、一日くらいの参戦は許可してもらいたいといって、隊伍から離れようとしなかった。
「潘同志、銃弾はコミンテルンの派遣員を見分けませんよ。観戦の機会はいくらでもありますから、きょうは旅の疲れをいやしてください」
わたしは潘省委を説き伏せて戦場へ向かった。討伐軍は小汪清遊撃区を三面から包囲し、三日連続で執ように攻撃してきた。われわれは頑強な防御戦で攻撃をはねかえし、壊滅的な打撃を与えた。敵は数百名もの死傷者を出して退却した。そのとき討伐軍は、関門拉子(石門内)方面とトンガリ山方面から春もやにまぎれてひそかに遊撃区に侵入しては、同士討ちをする悲喜劇まで演じた。この「望遠戦闘」はしばらくのあいだ小汪清の人たちの話の種となった。潘省委もこのニュースを聞いて爆笑したという。
潘省委の出現は、汪清の人たちにさまざまの反応を呼び起こした。極左的なソビエト路線をコミンテルンの施政方針とみなし、コミンテルンの命令しだいでくしゃみをしたりあくびをしたりする人は、老潘が自分たちの立場を支持してくれるはずであり、したがって彼の出現は人民革命政府路線の提唱者を右翼と断定し、二度と政権形態の問題で悶着を起こさないように制裁を加える好機になるものと思った。一方、ソビエト路線を極左だと非難し、人民革命政府路線による新しい形態の政権樹立を不断に追求してきた人たちは、ソビエトに反対してきた自分たちの立場が老潘によって拒まれ、悪くすればコミンテルンの名で処罰される恐れもあるという被害意識にとらわれ、潘省委の動きをするどく見守った。彼らのうちの多くは、潘省委の出現が、ソビエト路線からいままさに脱却しはじめた遊撃区の情勢をいっそう複雑にする契機になりかねないと推測した。
前者が先走って勝利の凱歌を上げていたとすれば、後者は心の中で敗北の哀歌をうたっていた。彼らのこのような態度は、両者がいずれもコミンテルンの権威と権限を絶対視しているためであった。一党の破産を宣言することもできれば、一個人の犯罪を裁くこともできるコミンテルンは、彼らにとって国際的な「大法院」にひとしい恐るべき存在であった。コミンテルンは一革命家の運命にたいし生殺与奪の権限を握っている存在だと彼らは思っていたのである。潘省委の出現は遊撃区を緊張させた。わたしもやはり、その張りつめた空気をひしひしと感じとっていた。コミンテルンの意思にそわない人民革命政府路線をソビエト路線にとって代え、ソビエトの施策を極左的暴挙としたわれわれの行為にたいし、潘省委がどういう立場をとるかということは、大きな関心の的であった。
わたしは、極左の専横に打ちひしがれている東満州にコミンテルンが派遣員をよこしたのは、革命のために幸いなことだと思った。ソビエト路線と人民革命政府路線が相対峙し、それぞれ自己の正当性を論証しようとしている時点での潘省委の出現は、二者択一の決定的な局面を開くに違いなかったからである。
コミンテルンがわれわれの立場を支持してくれるだろうという保障は、まだ誰からも取り付けてはいなかった。しかしわたしは、コミンテルンと満州省委をはじめ各組織が遊撃根拠地の実情に合わない指令を乱発したことにたいし、彼に抗議する決心をかためていたし、同時にソビエト路線の実行と反民生団闘争の過程で露呈している極左的偏向を是正するために、必要とあれば理論闘争も辞さないという覚悟もかためていた。処罰やなんらかの制裁措置にたいする憂慮といったものは念頭にすらなかった。一言でいって、わたしは決着をつけるときがきたと考えたのである。当時、不平をいだいていた一部の者が、東満州の事態の収拾を要請する手紙をコミンテルンに送ったようであった。コミンテルンはそれらの手紙を検討し、東満州地方に朝鮮人が集結している実情を考慮し、朝鮮人の潘省委を派遣して事態の収拾にあたらせることにしたようであった。後日、潘省委自身も、コミンテルンにそういう請願書が届いたことがあると語っていた。
われわれが小汪清防御戦闘を終えて帰ってきたあとで、潘省委は再びわたしを訪ねてきた。初対面のときよりは顔色が明るくなかった。うわべでは微笑をたたえていたが、心中では深い憂いをふり払おうと努めているような派遣員の表情から、彼がついに政治哲学の錯綜するきびしい現実の十字路に立たされていることを察知した。様子からして、彼はなにか路線上の問題で童長栄と衝突したようであった。
わたしは、馬村でいちばん大きい李治白老の家に潘省委の宿所を定め、その一間で十日余りのあいだ大いに語り合った。潘省委は中国語がたいへん上手だった。彼が最初から中国語で話しはじめたので、わたしもいきおい中国語で応対せざるをえなくなった。対話の時間はだいたい夜と夜明けのひとときであった。日中はわたしが部隊の指揮にあたらなければならなかったので、彼と語り合う時間がなかった。潘省委も日中はあちこちと遊撃区の実態調査のために忙しく歩きまわっていた。
客地での生活体験の多い人は、他家での居候というものは不便な点はあっても、客人同士を非常に親密にし、そうした過程で交わされる話がまたいかに興味津々たるものであるかをよく知っているはずである。わたしと潘省委も、その十日余りのあいだに、断金の交わりともいえるほどの親しい仲になった。潘省委はわたしより二十歳余りも年上で、闘争経験の豊富な老練な革命家であったが、年齢上の違いをかさに尊大ぶったりせず、わたしを同志とみなし、虚心坦懐に、情熱的に話すのであった。はじめは、革命実践にかかわる公式的な話は後まわしにし、それぞれの経歴を紹介し合った。わたしが自己紹介をすると、ついで潘省委が自分の経歴を披露した。そのつぎは、交互に半生記を補足したり所感を述べ合ったりして、夜が更けるのも知らずに過ごした。
わたしが二十歳にもなる前に四回も逮捕され、獄中生活もしたという話を聞いて、彼は非常に珍しがった。
「すると、獄中生活の面では金同志のほうがわたしより先輩だというわけだ」
彼は、自分もハルビンでくさい飯を少々食わされたことがあるが、メーデーデモを指揮したために、寧安県党が壊滅状態に陥ったというのであった。満州国官憲の容赦ない弾圧と日本軍の討伐によって組織はすべて破壊され、党員や中核分子は四方に散ってしまったという。潘省委は、それは党勢の急速な拡大と活動の積極化に幻惑されて頭がのぼせてしまった結果だと断じた。そのかわり、メーデーデモの教訓が、金海山、李光林を隊長とする寧安遊撃隊を誕生させる政治的動機となったことは彼も認めていた。
「みんな監獄に入れられ痛い目に会わされてはじめて、デモが下手に組織された時期外れのものであったことに気付いたのだ。組織をもっと地下に深く潜伏させ、武装闘争をしなければならないときに、こともあろうに県城の市街で党員まで動員してデモをするとは…」
彼はそのデモの話が出るたびに、腹立たしげに自分をなじった。そして、われわれが吉会線鉄道敷設工事に反対して断行したデモ闘争をしきりにほめるのであった。彼は他人の業績にたいしては公正でおおらかである反面、自分自身のことにたいしては過小評価したり虚無的な態度をとりすぎる、そういうタイプの人間であった。
「数日前に二十一回目の誕生日を迎えたのなら、わたしの年の半分ということだが、監獄生活での先輩といえるだけでなく、総体的な人生体験の面でも、金同志はわたしの先輩といえる」
潘省委はわたしの経歴を聞き終えてから、こういうのであった。わたしは「先輩」という言葉が出るたびに面映い思いをした。
「潘同志、そんなにおだてるようなことばかり言っては、若い者をだめにしてしまいますよ」
潘省委はロシア人のように、両手を広げ、肩をすくめてみせた。
「金同志を評価するその裏には、じつのところわたし自身の人生にたいする不満が横たわっているというわけだよ。わたしは充実した人生を過ごすことができなかった人間だ。四十三歳ともなれば、盛りも越したといえるが、これといって自慢できるほどの話の種もないのだから、困ったものさ」
「それは謙遜というものです。潘同志の生涯には南方の赤熱もあり、北方の豪雪もあります。笑いもあり、悩みもあり、涙もあります。正直いって、わたしは自虐的な人をそれほど好きになれません。四十を越したからといって、どうして盛りが過ぎたというのですか」
わたしがこんな批判めいたことをいっても、潘省委は気分を害さなかった。わたしには、彼が自分を卑下しすぎているように思えた。中国南方での活動は別としても、北満州で寧安県委と綏寧中心県委の書記役を歴任し、寧安遊撃隊を誕生させる産婆役まで果たした彼の功績は、決して無視できるものではなかった。綏寧中心県委というのは、穆棱、寧安、東寧、密山などの県委を統合して設けた、かなり規模の大きい県委であった。いっときは、潘省委がコミンテルンと満州省委間の中間連絡機関の使命を果たす吉東局の幹部に栄転するといううわさもあった。それが実際にどうなったのかは定かでないが、コミンテルンが彼を召還して東満州地方の活動を点検指導する派遣員に任命したことからしても、彼が信望のある活動家であったことがうかがわれる。
われわれの対話は自己紹介の域を脱し、相互の関心事であった現行政治問題についての実情通報と意見の交換に移った。
第一の論点となったのは、コミンテルンと国際共産主義運動にかんする問題であった。コミンテルン連絡所の活動家との連係を保ちながらも、彼らとつっこんだ対話をする機会がなかったわたしにとって、この論議はきわめて有益なものであった。わたしは潘省委に、コミンテルンの決定実行のための朝鮮の共産主義者の努力を説明したのち、コミンテルンの路線と指示にたいするわれわれの立場と態度を明らかにした。
「われわれは、コミンテルンが国際共産主義運動の参謀部としての役割をりっぱに果たしているとみています。コミンテルンはこれまで全世界の共産主義者を一つの国際的な連合に結集し、帝国主義に反対し、平和と社会主義をめざすたたかいで大きな業績を築きあげました。われわれはコミンテルンが共産主義運動で中央集権的機能を果たす国際的センターであることを明確に認識し、これまでと同様、今後ともコミンテルンの規約と路線を忠実に守るつもりです。しかし潘同志、無礼な態度だといわれるかも知れませんが、われわれはコミンテルンの処置にたいし若干の意見もあるのです」
わたしの最後の言葉は、潘省委の表情を一瞬こわばらせた。
「それはどんな意味に解すればいいのかな。なにか苦情があるらしいね」
「さあ、苦情といおうか、不満といおうか。わたしは以前からコミンテルンに向かって言いたいことがあったのです」
「このさい、どんなことでも、遠慮なく話してみたまえ」
潘省委は好奇のまなざしでわたしを見つめた。わたしは、きょうこそはコミンテルンに向かって言いたかったことを忌憚なく話せる機会だと思った。
「分派をかばうわけではありませんが、われわれはコミンテルンがかつて朝鮮共産党の解体を宣言したことをたいへん残念に思いました。分派は朝鮮の共産主義者だけにあるわけでもないし、ジャガイモの偽印をつくったような事件はインドシナ共産党や他の党でもあったではありませんか」
わたしがこう言ったとき、潘省委の顔をかすめたのは緊張ではなく、驚きといったものであった。海千山千の彼にとっても、わたしの言葉は思いがけぬ急襲となったようであった。
「わたしはコミンテルンの派遣員としてではなく、金同志と変わりない朝鮮共産主義者の一人として、朝鮮共産党の解散を恥とし、それを宣言したコミンテルンの処置を残念に思っていることに同感を示すものだ。しかし、ここで一つ知っておくべきことがある。朝鮮共産党は解散させられたのに、インドシナ共産党は解散させられず健在である理由はなにかということだ。それは、ホー・チミンのようなすぐれた人物がインドシナ代表としてコミンテルンに構えていたからだ。ところが、あの当時、朝鮮共産主義運動の隊伍には、コミンテルンに認められるだけのずばぬけた人物がいなかったし、指導中核がなかったからだ」
党解散の主なる理由の一つを指導者と指導中核の欠如に求めた潘省委の指摘は、党解散の第一の原因を派閥争いにあるとみなしていたわたしにとって、大きな衝撃であった。コミンテルンに認められるだけの世界的な指導者の欠如、そのために朝鮮共産党の解散をくいとめられなかったというのは、事理にかなった潘省委流の分析であり発見であった。
われわれはコミンテルンの問題とともに、朝鮮革命で提起される実践上の問題をめぐっても有益な論議をした。潘省委はとくに、朝鮮の共産主義者は、党の消滅によって大多数の党員が海外に亡命し、外国の党で同居生活をせざるをえなくなった挫折状態から脱却し、なんとしてでも自分の党を新たに創立するために努力すべきだと言った。
「わたしが朝鮮の革命家だからというわけではないが、朝鮮人は必ず自分の共産党を創立すべきだと思う。朝鮮共産党が解体宣言を受けたからといって、朝鮮の共産主義者が党再建の可能性を完全に奪われたかのように受けとめるなら、それは自殺行為にひとしいものだ。朝鮮人が自分の党をもつのは、なんぴとも侵すことのできない正々堂々たる権利だ。居候も一、二年であって、いつまでも他人の家に身を寄せているわけにはいかないではないか」
朝鮮の共産主義者が自分の党を再建すべきだという潘省委の主張は、われわれが卡倫で採択した党創立方針と完全に一致するものであった。わたしは彼の言葉に力を得た。
「そのとおりです。朝鮮人が自分の党を再建しようと努力しないのは、朝鮮革命の放棄にひとしいことです。われわれは間借り部屋で肩身のせまい思いをしながら、その日暮らしをするような人間になってはならないはずです。こういう立場から、われわれはすでに三年前に基層党組織を先に結成し、それを拡大強化する積みあげ式の方法で党を創立するという新しい方針をうちだし、建設同志社という名称の党組織を結成しました」
わたしは、初の党組織を結成することになった歴史的経緯と、その結成、拡大の過程でじかに体験したさまざまな事柄を詳しく説明した。
潘省委はわたしの言葉を注意深く聞いてくれた。
「わたしが空想家だとすれば、金同志は徹底した実践家だといえる。とにかく大したものだ。ところが、朝鮮共産主義運動線上には派閥が多くて困ったものだよ。だから、派閥に加担している連中は認めず、必ず若い者だけで再出発すべきだ。分派を放任しては何事もできない。少なからぬ分派分子が日本人の犬になりさがってしまった。犬にはなっていない連中のなかにも、分派の悪習が骨の髄までしみこんで革命など眼中になく、ヘゲモニー争いにうつつをぬかしている者が少なくない。派閥とたたかうためには反日闘争を強化しなければならない。闘争の過程で隊伍がかためられ、中核が結集されれば、それがとりもなおさず党創立の土台になるのだ」
潘省委の言葉はわたしを興奮させた。もちろん、それは耳新しい言葉ではなかった。分派に毒されていない新しい世代の青年で党を創立すべきだというのは、われわれが前から主張してきた基本方針だった。わたしはなんとしてでも朝鮮人で中核をかため、彼らを結束して党を創立し、祖国解放の大事をなしとげようという決心をさらにかたくした。
潘省委とのあいだで、国際共産主義運動とコミンテルンの問題、朝鮮での党建設問題を論議し、完全な意見の一致をみたのは幸いなことであった。われわれの話題は、間島の民心が集中しているソビエト問題へと自然に移っていった。人民が背を向け、唾を吐き、敬遠しているソビエト政権にたいする潘省委の見解がどんなものであるかを聞きたいのが、そのときのわたしの率直な気持であった。わたしが「老潘、間島ははじめてだとのことですが、遊撃区を見てまわった感想はどうですか」と水を向けると、彼は返答のかわりに、やにわに上衣のボタンを勢いよくはずして胸をはだけた。そして急に高い声で、遊撃区についての所感を吐露しはじめた。
「わたしはまず、この不毛の地に遊撃区のような別天地を建設した間島の人民と革命家に敬意を表したい。間島の人たちはじつに大きな仕事をしたし、苦労も並大抵のものではなかった。ところが、このりっぱな別天地に歓迎できない妖怪がはいかいしているのは、ほんとうに遺憾なことだといわざるをえない」
わたしは潘省委の高ぶった声から、その興奮のほどを読みとることができた。
「妖怪ですって? それはいったいなにを念頭においているのですか」
わたしがこう聞くと、彼は李治白老が出してくれたタバコ箱から、きついきざみをたっぷりつまみ取って太く巻きはじめた。
「極左的なソビエト路線を念頭においているのだ。この極左のために、間島の人たちがあれほど骨をおって築いた塔が崩れてしまったわけだ。わたしはまったく理解できない。満州革命をまっ先に切り開いてきた間島の共産主義者が、あんなにも理性を失ってしまうものだろうか」
「実際のところ、わたしもその極左のために白髪がふえそうです」
「どうしてあんなに愚鈍になってしまったのか… 話を交わしてみると、彼らはロシアのソビエト政権についてもまったくの門外漢ではないか。童長栄同志は闘争経験もあり、性格も温厚な人だというのに… 失策にもほどがある。コミンテルンに苦情の手紙がとどいたのも偶然ではない。その間、さぞかし気苦労が多かったことだろう」
わたしを見つめる潘省委の目には、深い同情の色がただよっていた。
「わたし一人の気苦労だったら、いくらでも我慢できます。わたしは、極左の専横のもとで人民が戦々恐々としているのがたまらないのです」
潘省委は憂さ晴らしでもするかのように、たてつづけにタバコを吸っては吐きだした。
「わたしが不幸中の幸いだと思ったのは、誰も歓迎しないこの極左が吹きまくるなかで、革命を危機から救いだす人民革命政府路線が誕生し、遊撃区人民の支持を得ている事実だった。金同志がまったくうまい定式化をしたものだと、わたしもいましがた童長栄同志に言ったところだ」
「では、潘同志も人民革命政府路線を支持するというのですか?」
「支持しないなら、わたしが童長栄同志にそんなことをいうわけがないではないか。人民革命政府路線は、童長栄同志も支持していた。人民がよいといえばそれはよいものだといった金同志の言葉に、彼は大きな感銘を受けたようだった。これからはすっかり安心して、もっと仕事にうちこんでみよう」
潘省委はわたしの手を強く握った。こうして、われわれは人民革命政府路線にたいするコミンテルンの支持を確認することができた。
潘省委はついで、別働隊を組織する方法で遊撃隊を公然化し、救国軍との関係を切り開いたことは特記すべき業績だとし、東満州の革命家は以後、この業績を固守し発展させるべきだと言明した。潘省委は、人民革命政府路線が中国共産党の民衆革命政権路線とも基本的に合致していると言い、その内容を簡単に説明してくれた。それは一言でいって、路線転換を中心的内容とする満州問題の戦略を明らかにしたもので、形式上は中国共産党中央の名義になっていたが、実際にはコミンテルンが作成したものであった。したがって、これは結局、コミンテルンの意思であったといえる。ここでわれわれの注意を引いたのは、農村政権機関としての農民委員会を組織するという趣意であったが、農民委員会は農民と遊撃隊との関係を調整しながら、平時は遊撃隊に食糧を供給し、武装自衛隊を組織し、党は全力をつくして雇農と貧農を農民委員会の指導力量とし、そのまわりに中農大衆を結集すべきだというものであった。したがってこれは、コミンテルンが政権分野における極左的なソビエト路線の不合理性を看破し、それを新しい政権形態に替える必要性を認めたことになり、同時に、われわれの主張する人民革命政府路線の正当性が実証されることになる。
しかし、潘省委は農民委員会というその名称にかなりこだわった。彼は、農民委員会はソビエトよりは満州地方の実情に適した形態であることは確かであるが、雇農、貧農本位でいくなら、その周囲に広範な大衆を結集することは不可能だろうといった。それに比べれば、労働者、農民、学生、知識人など反日を志向するすべての階層を結集する統一戦線的な人民革命政府形態の方がすぐれており、発展的であるから、政権形態についての自分の見解を文書にしてコミンテルンと満州省委に送るつもりだといった。
「名称などは農民委員会でも、人民革命政府でもかまわないのではないですか。施策が人民の要求にそったものであればよいではありませんか。人民革命政府が組織できるところでは人民革命政府と呼び、農民委員会を組織するところでは農民委員会という看板をかかげればよいではありませんか」
わたしはこういって安心させようとしたが、彼はどうしても気がかりだったらしい。
「総体的にはそれが妥当だと思う。しかし政権機関の名称は人民がよしとするものでなくてはならない。どうみても、この問題はコミンテルンに提起する必要がある」
その後、潘省委が決心どおりコミンテルンに手紙を出したかどうかはつまびらかではない。
こうした流れの中で、東満州のすべての遊撃区で、ソビエトは人民革命政府か農民委員会にとって代わられ、工農遊撃隊は反日人民遊撃隊に改称され、赤衛隊は反日自衛隊に改編された。
潘省委の出現は、遊撃区の旧秩序をゆさぶる旋風であった。われわれが吉林時代から一貫して堅持してきた革命にたいする主体的立場は、国際的な支持と鼓舞を受け、われわれがうちだしたすべての路線と方針は、その正当性があらためてはっきり検証されたわけである。だからといって、われわれがコミンテルンのすることを一から十まで肯定したり、その指令に盲目的にしたがったわけでないことは言うまでもない。わたしはコミンテルンの処置を尊重しながらも、朝鮮革命と世界革命の利益の見地から、それに主体的な態度でのぞんだ。コミンテルンの戦略や処置のうちでいちばん釈然としなかったのは、世界革命の一環としての朝鮮の存在と、朝鮮革命にたいする彼らの見解と扱い方であった。ロシアで十月社会主義革命が勝利し、社会主義が理想から現実に変わったとき、万国の共産主義者には、十月の獲得物を固守し、その成果を世界的版図に拡大すべき聖なる課題が提起された。こうした時代の要請にたいする解答として、レーニンは一九一九年にコミンテルン(第三インターナショナル)を結成した。コミンテルンの歴史的使命は、帝国主義の抑圧と資本の鉄鎖を断ち切るための全世界の労働者階級と被抑圧民族の解放闘争を国際的範囲で組織し発展させることであった。それは第一、第二インターナショナルがになっていた使命とは異なる新しい時代の要請に合致する戦闘的使命であった。
コミンテルンの活動でもっとも大きな比重を占めた当面の闘争課題の一つは、ソ連を擁護することであった。勝利した社会主義の陣地を守ることは、社会主義偉業の拡大と不可分の関係にあり、またそれを抜きにしては、十月革命の成果を世界的範囲へ拡大発展させることもできなかった。ソ連を擁護しようというのが共産主義者の国際的スローガンとなり、このスローガンを貫徹するのが国際共産主義運動の重要な内容となったのは当然のことであった。
しかし、歴史的に避けがたく、また切実に必要であったこうした関係は、コミンテルンの指示によって動く各国共産党を「ソ連の手先」とみなし、民族の利益を売る反民族的な集団と断ずる反共分子とブルジョア反動論客の水車に水をそそぐような結果をまねいた。各国の共産主義者はここから相応の教訓を汲みとり、各自に負わされた国際主義的任務と民族的任務を正しく結合していくべきであった。コミンテルンとしてもやはり、当然この点を重視すべきであった。コミンテルンが自己の使命を円滑に遂行するためには、勝利した社会主義陣地の固守に重点をおきながらも、他の国での共産主義運動、とくに帝国主義の抑圧に苦しんでいる植民地弱小国家人民の利益を擁護し、その革命闘争を心から支援すべきであった。しかし、コミンテルンはこの要請に顔を向けなかった。コミンテルンの一部の活動家は、大国の革命運動にたいしてはかまびすしく騒ぎ立てながらも、小国の革命はないがしろにしたり、意のままに処理したりした。ソ連擁護の国際的なとりでの構築に、どの国がどれほど貢献するかによって、それらの国の革命にたいする彼らの立場と態度はあまりにも違っていたように思える。
コミンテルンの要職を占めていた一部の活動家や理論家は、大国での革命運動が勝利すれば隣接した小国での革命闘争や独立運動もおのずと勝利するという見解を流布した。いうならば、烹頭耳熟といった類の見解といおうか。烹頭耳熟とは、頭を蒸せば自然に耳まで煮えるという意味である。このような見解は、小国の共産主義者のあいだに、革命の主体は自分自身の力であり、自国人民の力であるという自主的立場を離れ、大国に頼ろうとする事大主義的傾向を生み、一方、大国の共産主義者のあいだには、小国の共産主義者を無視し、その自主的活動を抑制する大国本位主義的傾向を生むようになった。社会主義国家の誕生とコミンテルンの創立という巨大な出来事に大きく力づけられ、それを理想とし灯台と仰ぎ、たたかいの烈火をつき抜けてきた各国革命家の、コミンテルンと国際共産主義運動への信頼と清純な心にかげりが生じはじめたのは理由のないことではなかった。
十月社会主義革命の勝利とコミンテルンの創立後、共産主義思潮にたいする祝福と憧憬の波は止めることのできない力で全世界に打ち寄せていた。世界各国の有名人士のあいだで、共産主義信奉者の隊伍は急速に拡大されていった。共産主義を人類の唯一無二の未来とみた時代の先覚者のうち、少なからぬ人たちは所属と信教の違いにかかわりなく、新生ソビエト共和国かコミンテルンと連係を結び、その助力を得ようと各面から努力した。
わが国の民族主義者の中にも、その信奉者、支持者、共鳴者は少なくなかった。そういう人物の中には、キリスト教、天道教をはじめ宗教界の権威ある人士もいた。一九二二年一月、モスクワで開かれた極東人民代表大会に、朝鮮キリスト教代表会議の名で、ソウル貞洞メソジスト教会の三代担任牧師であった玄盾が参加した事実は、その実例の一つといえる。玄盾は朝鮮の名だたる牧師の一人で、上海臨時政府が組織されたとき、そのメンバーに選出された人の一人でもある。数年前、わが国の関係者がソ連のコミンテルン文書庫から得た資料によると、玄盾は三・一独立宣言書作成者の一人であった金秉祚をはじめ趙尚燮、孫貞道、金仁全、宋秉祚といった牧師たちの印判のある委任状をもって会議に参加したとのことである。玄盾は、ロシア共産党高麗部から求められたアンケートに、自分が上海共産党にも関係したことがあり、一九一九年九月にすでにロシアに来て三週間滞留したことがあるという事実を明らかにした。そして「目的と希望」はなにかというアンケートには自筆で、「朝鮮の独立を目的とし、共産主義の実施を希望する」と明記した文書が関係者の手で新たに発掘された。もちろん、彼が共産主義という新思潮をどれほど深く理解し、思想的に共感したのかはつまびらかではないが、コミンテルンという存在には相当な期待をもっていたようである。
上海臨時政府の初代国務総理であった李東輝も、共産主義運動に関係した人物であった。彼が高麗共産党連合代表会議の結果をコミンテルンに報告するためモスクワヘ代表として派遣されたことは周知の事実である。天道教系の革新勢力も、コミンテルンとの提携を積極的に模索していた。天道教一世教主の崔済愚の孫にあたる二世教主崔時亨の息子崔東曦は、天道教革新勢力の代表的人物であり、天道教非常革命
さらに崔東曦は、当時ソ連の外務人民委員であったチチェーリンに手紙を送り、十五個の混成旅団で高麗国民革命軍を組織できるように、銃砲、爆発物、弾薬、騎兵装備、運搬手段などを二年以内に提供してもらいたいと要請した。天道教の革新勢力が守旧派の憎悪と非難を受けながらも新しい方法で独立運動を起こしていこうとしたことは、全民族の称賛を受けて然るべきであった。だが、ソ連も、コミンテルンも、天道教革新勢力のこの要請を聞き入れてくれなかった。
夢陽呂運亨も、一九一九年、モスクワにレーニンを訪ね、朝鮮独立問題について論じたことがあった。
李承晩のような反共分子が一時ソビエトロシアを支持したことがあったといえば、おそらく誰も信じようとしないであろう。だが、これは事実であったらしい。いつか、彼はモスクワヘ行って法外な財政援助を求めたのだが、それが黙殺されると、ソ連とコミンテルン系と絶縁し、極端な親米一辺倒に走ったという資料もあるという。
ソ連の百分の一にしかならない領土に、わらぶき小屋が軒を連ね、やせ細ったロバが往き来する朝鮮という国が、コミンテルンの活動家にとってはあまりにも見すぼらしい微小な存在だったに違いない。われわれが満州地方で抗日武装闘争を展開した時期になっても、朝鮮にたいする彼らの認識はさほど変わらなかった。わたしが残念に思ったのは、このようにコミンテルンが小国の人民の運命と小国の共産主義者の民族解放闘争に無関心であったことである。彼らのこうした冷遇と冷淡さが、われわれをして革命において主体性という柱をさらに強くうち立て、自力で民族の解放をなしとげずにはおかないという決心を不変のものにさせたことはいうまでもない。
コミンテルンの処置と立場を不快に思いながらも、それに反対したり是正させるだけの力がまだなかったこと、コミンテルンの活動スタイルとマンネリになった事務室的な活動作風が朝鮮革命をみすみす犠牲にし、朝鮮革命の主体的発展を妨げる一つの障害となっていることを知りながらもそれを阻止できなかったこと、これがわたしにとっていちばん歯がゆく思われる問題であった。われわれ新しい世代の共産主義者が切望したのは、コミンテルンが朝鮮共産主義者のこうした苦衷を察し、革命を主体的に進めようとするわれわれの志向と確固たる決心に同調してもらいたいということであった。
このように、われわれが革命実践上、至急解決すべき複雑な問題をかかえて悩んでいるとき、潘省委が東満州に現れたのは喜ばしいことであった。いずれにしても、潘省委との出会いはわたしの生涯における有意義な出来事であった。コミンテルンにわれわれを理解し支持する人がいるのは望ましいことだった。わたしはとくに、分派に毒されていない者で中核を育て、朝鮮共産主義運動の隊伍を再編し、朝鮮人の党を建設すべきだといった彼の言葉から、強烈な印象を受けた。そのときの彼の助言は、わたしの思考と実践において主体性をいっそう強く堅持させる契機となった。あのとき、潘省委からの影響と同志的な励ましがなかったら、反民生団闘争が過酷に展開された時期に、われわれが朝鮮民族と朝鮮革命の主体を守り、決死のたたかいを展開することはできなかったであろう。
わたしに『資本論』の手ほどきをしてくれたのが朴素心であり、『紅楼夢』を紹介してくれたのが尚鉞先生であるなら、潘省委は、朝鮮人は朝鮮を忘れてはならないというわたしの信念をいっそうかためさせてくれた真の支持者、鼓舞者、共鳴者であった。わたしの抗日革命活動史において、潘省委に会ったときのように朝鮮革命の運命と路線問題をめぐってあれほど真剣に、熱烈に掘り下げた論議を交わしたことはなかったであろう。潘省委は革命にたいする自分なりの一家言をもった、まれに見る理論家であった。一九三〇年代の後半期、わたしが大部隊を率いて白頭山一帯に進出したとき、潘省委が生きていてわれわれとともに活動したなら、朝鮮革命の直面した難問を理論的、実践的に解決するうえで大きな貢献をしたに違いない。わたしは潘省委に会って以来、革命闘争においては実践家も重要だが、その実践を先導し操縦できる理論家も必要であることをいっそう痛切に感じるようになった。
小汪清での忘れえぬ対話を契機に、潘省委はわたしの無二の友人となり同志となった。二〇歳以上も年の隔りがあるわれわれが、十日余りのあいだに十年の知己に劣らぬ友人となり同志となったのは、なんらかの物質的な力や利害打算の魔力によるものではなかった。われわれが白熱のようにあつい友情を分かち合うことができたのは、朝鮮の解放と自由を一日千秋の思いで待望する心情が同じであり、万事を定見をもって独自に解決していこうとする主体的な思考方式と志向が同じであったからである。友情の深さを決めるのは時間でもなく弁舌でもない。長い交わりだからといって友情が深まるものではなく、短い交わりだからといって友情が薄いというわけでもない。要は人間とその運命にたいし、民族とその運命にたいし、いかなる立場と態度をとるかということである。こうした立場と態度の共通点と相違点は、友情を倍増させることもできるし、破綻させることもできる。人間愛、人民愛、祖国愛、これは友情を確かめる試金石である。
潘省委が小汪清を発つとき、わたしは馬に乗って琿春の境界まで彼を見送った。彼は足が多少不自由だったので、馬を都合してやった。われわれは馬上でも多くの話を交わし、十里坪に二日間留まったときにも国際共産主義運動にかんする問題や中国共産党との関係、とくに朝鮮革命の当面の問題と将来の問題まで包括する多くの問題について意見を交わし、かたい盟約まで結んだ。
そのときのことを素材にすれば、長編小説にしても事欠かないであろう。その十里坪はほかならぬ李範奭の士官学校があった村であり、呉仲和一家が難を避けて移ってきた村でもあった。
潘省委は最後にはプライバシーまでうちあけた。彼には二十歳も年下の若い妻がいた。妻の名が呉英玉だったか、呉朋玉だったかよく思い出せない。わたしは彼に、四十歳が過ぎるまで妻帯しなかった理由を尋ねた。
「ははは、理由などあるもんかね。わたしが頼りなさそうなので、娘らがみんな目もくれずに通り過ぎてしまったというわけだよ。誰がこんなびっこに情をそそごうとするかね。うちの呉氏夫人でなかったら、嫁ももらえず、じいさんになってしまうところだったよ」
彼は笑いながらこう答えるのだった。ともあれ、彼は自分を痛めつけるためにこの世に生まれてきた人間のようであった。わたしは彼の晩婚に深い同情を禁じえなかった。
「呉氏夫人に人を見る目があったわけですよ。聞くところによると、すごい美人だそうで、あつあつというところでしょう」
「まんざらでもないね。だが不思議なのは、わたしの方から求婚したのでなくて、彼女の方から愛の告白をしてきたんだ。とにかく晩婚というのはなかなか味なものだよ」
「北満州の人たちから、だいぶ羨ましがられているといううわさを聞きましたよ」
「しかし、男の沽券にかかわるから、金同志だけはわたしのような遅刻生にならないようにしたまえ」
「さあ、わたしも遅刻生にならないとはかぎりません。この道だけは思いどおりにいかないものですからね」
われわれは十里坪の草原でこんな冗談をいいながら愉快に笑った。そういう過程で、われわれの友情はいっそう深まった。潘省委はその間、汪清が好きになったといって、わたしとの別れをたいへんさびしがった。潘省委のつぎの目的地は琿春と和竜であった。
「金同志の印象は一生わたしの記憶に残りそうだ。汪清に来て
琿春―― 汪清の境界を越えるとき、潘省委は真顔になってわたしの手をとり、目をうるませてこう言うのであった。
「わたしもやはり同じ気持です。潘同志に会えたのはわたしの幸運です。正直にいって別れたくありません」
「別れたくないのはわたしも同じだ。今度の旅程が終わったら、わたしも女房ともども東満州へ来て、金同志とともに手をとり合って活動してみたい。わたしはもう古くなったよ。苔が生えたんだ… 朝鮮のホー・チミンになってくれたまえ」
潘省委はこんな言葉を残して汪清を後にした。歩きだしていくらかすると、彼は後ろを振り返り、手を高く振り上げた。初対面のときとまったく同じ仕草を見たわたしは、なぜかその間かなり長い月日が流れたかのような思いにとらわれた。その顔の一つ一つの印象は、数十年前から見慣れてきたものであるかのようでさえあった。
知り合っていくらもたっていないのに、彼を見送るわたしの心がなぜこんなにわびしく物悲しくなるのだろうか、というのがそのときのわたしの胸に迫った情感であった。彼は笑っていたが、その顔はなぜかさびしげだった。わたしはその微笑がいつまでも気にかかった。むしろ笑ってくれなかったなら、わたしの心はもっと軽かったかも知れない。また帰ってくると約束してわたしと別れた潘省委は、琿春へ行って不帰の客となったのである。
彼を殺害したのは、琿春遊撃隊の大隊政治委員の朴斗南であった。路線転換問題を討議する琿春県党拡大会議で、潘省委からもっともこっぴどく批判されたのは、ほかならぬこの朴斗南であった。彼は派閥争いの頭目という烙印を押されて政治委員職から解任された。潘省委が宿所で書き物をしているとき、その庭で護衛にあたっていた兵士たちが戦利品の三八式小銃を見物しているすきに、朴斗南がその銃で彼を撃ったというのである。そのうわさが汪清まで飛んできて、人びとをひどく憤激させた。
それを聞いたわたしは、潘省委とともに革命を論じ、人生談を交わした李治白老の家の一部屋で終日戸を締め切り、涙のうちに故人をしのんだ。
5 白馬の思い出
正直なところ、わたしはこの逸話を公開する考えはなかった。人生八十をそうそうとたどるこの文章で、軍馬一頭にまつわる話など取るに足らぬものである。述懐すべき英雄や恩人はどれほど多く、出来事はまたなんと多いことか。
だが、この逸話をわたしだけの秘密にしておくには、白馬についての追憶があまりにも切なく、それを伝えずにはいられない衝動があまりにも強いのである。まして、その白馬は多くの人たちとの忘れがたい情義でからみ合っている。その人たちの話もやはり、埋もれたままにしておくには忍びがたい。
わたしがはじめて軍馬を得たのは一九三三年の春であった。ある日、十里坪人民革命政府の幹部がその一帯に駐屯していた遊撃隊員と一緒に、一頭の白馬を引いてわたしを訪ねてきた。当時、汪清大隊の指揮部は小汪清馬村梨樹溝の谷間にあった。白馬一頭のための随行にしては大げさすぎた。彼らは指揮部の前庭に馬をつないで、わたしを呼び出した。
「険しい道をたくさん歩く金隊長に乗っていただこうと、馬を一頭用意しましたから、受け取っていただきたいのです」
十里坪人民革命政府の幹部が一行を代表してこう言った。わたしはこの代表団の突発的な出現と、儀式めいた厳かな雰囲気に気を呑まれてしまった。そのうえ、現在の編制でいえば一個分隊をはるかに上回る
ものものしい随行メンバーには驚いてしまった。
「これは分不相応です。やっと二十歳の年で白馬に乗るというのは、ぜいたくすぎるではありませんか」
わたしがこういって辞退すると、年輩の十里坪の幹部はいまにも飛び上がらんばかりの身ぶりをしてみせた。
「分不相応とはなんですか。日本人は大隊長程度でも将校だからといって馬に乗り、威張りちらしているのに、わたしらのパルチザン隊長が日本軍より見劣りしてよいものですか。伝記物語によれば、紅衣将軍郭再祐も馬に乗って義兵を指揮したというではありませんか。軍隊を指揮するには、なにはともあれ威風がなくてはなりません」
「これはどこで手に入れた馬ですか。まさか農家で使っていた役馬ではないでしょうね」
十里坪の幹部はあわてて両手を横に振り、わたしの言葉をさえぎった。
「役馬だなんて、そんなはずはありません。これは役馬でなくて愛玩用の馬です。先日、十里坪で政府委員に選出された下男出身の老人を覚えていますか?」
「覚えていますとも。わたしがその老人の支持討論をしたではありませんか」
「この馬は、その老人が金隊長に差し上げる贈物なのです」
「あの老人にこんなみごとな馬があったとは信じられないですね」
わたしは鞍にあぶみまでついている白馬をつぶさにあらため、なでてみながらこういった。どう見ても、この白馬は役畜として使ってきた馬に違いなかった。十里坪のような谷間に愛玩用の馬をもった農夫がいるということ自体が信じられなかった。地主の家で下男をしていた老人がこんなにすばらしい愛玩用の白馬をもっていたということは、なおさら疑わしかった。けれども十里坪の幹部は愛玩用の馬だと言い張った。役馬だといえば、わたしに送り返されるのではないかと心配している様子だった。わたしに白馬を贈ってよこした下男出身の老人の名前がなんであったか、いまは記憶に残っていない。ただ、姓が朴氏であったことだけはおぼろげながら思い出される。朴老人がわたしに贈った白馬には、そのまま聞き流すことのできない涙ぐましいいわれがあった。
話は、彼が地主に暇を出されて下男奉公を辞めたときにさかのぼる。朴老人が年老いて働きぶりが悪くなると、地主は彼に暇を出した。そのとき地主が報酬のかわりに老人にくれたのは、生まれて数か月もたっていない毛白の子馬であった。生まれてすぐ、親馬の下敷きになってひどい傷を負ったその子馬は野外に出て跳びはねることもできず、栄養不良の状態で気力もなく、馬小屋で不遇な日々を送っていた。惨めなほどやせ細った馬、かろうじて生きのびている死馬にひとしい子馬であったが、けちな地主はそれを恩に着せるのだった。
朴老人はその子馬を抱き取り、涙ながらに小屋がけの住まいにもどってきた。数十年のあいだ地主のために身を粉にし、あらゆる苦役にたえて奉公してきた代償がこの子馬であったというのか、こう考えると、人生というものはこんなにもむなしく、世間はこんなにもせち辛いものなのか、という悲しみが胸にこみあげてきた。けれども、膝もとに一人の肉親もなく孤独に生きてきた朴老人は、その子馬を掌中の珠のように大事にし、愛情深く育てた。その甲斐があって、やがて子馬はりっぱな白馬に育った。彼は孤独にさいなまれるたびに、白馬のそばに座っては、ぐちったり、訴えたり、嘆いたりするのであった。白馬は彼にとって愛する息子であり、娘であり、親友であったのである。一生を日陰者のように生きてきた朴老人は、自分を馬や牛のような役畜と同列に置き、世間のあらゆる冷遇を当然なこととして受けとめてきた。人びとから人間並みに扱われると、かえって気詰まりになり、怖じ気づいてしまうのであった。
ところが、この老人が十里坪遊撃区の政府委員に選出されたのである。その日、彼がどれほど感激し、どれほど涙を流したかは、ここであらためて説明するまでもないと思う。その感激は、その日の夕方、政府の庭に老人が自ら引いてきた白馬が無言のうちに説明していた。
「会長さん、わたしに代わってこの白馬を
これが人民革命政府の会長に託した朴老人の言葉だった。そういういわれまで聞かされては、白馬を受け取らないわけにいかなかった。
「辞退したいところですが、気持が気持だけに、ありがたくいただくと老人に伝えてください。ところで、一人でよいはずなのに、どうしてこんなに多くの人が来たのですか」
わたしは十里坪の幹部から渡された手綱を手にしながら、誰にともなく尋ねた。
「金隊長さんの馬上の姿を一度なりとも拝見したくて、軍隊と人民が代表を選んできたんです。隊長さん、さあ鞍についてください!」
十里坪人民革命政府の幹部が真剣な顔で言うのだった。第二中隊の隊員もこれに声を合わせて、早く乗馬するようにとせかした。彼らはわたしが馬にまたがるのを見届けてから、満足げに十里坪へ帰っていった。朴老人の誠意と恭敬の念はこのうえなくありがたかったが、わたしは数日が過ぎてもその白馬に乗らなかった。わたしが馬にまたがり、ぜいたくをするようになれば、人民がわたしをよく思わなくなり、隊員の指揮官を見る目も違ってくるだろうという憂慮を感じたからである。
わたしは兵器廠にいた李応万にその馬を譲った。ブローニング拳銃を一箱買い入れてきて遊撃隊に入隊したという例の李応万である。非常に大胆で勇敢な男であったが、脛の銃創をこじらせて脚を切断する破目になった。李応万の脚の手術をしたのは、小梨樹溝の大隊兵舎付近にいた遊撃区病院の医師張雲甫であった。彼は小汪清の医学界を代表する唯一の人物で、内科と外科を受け持つ両刀遣いの医師であった。医師が一人しかいないので、一人でさまざまな治療にあたらなければならなかった。
当時、遊撃区病院の管理を担当していたのは互助会であり、患者の派遣状に印判を押すのは人民革命政府の会長であった。この互助会が医師協議会に代わる権限をもち、銃弾で骨を砕かれた患者にたいしては一律に手術をせよという決定を採択した。医薬品がなく、これといった治療対策もなかったので、そういう極端な決定まで下さざるをえなかったのである。張雲甫は時計のぜんまいばねでメスをつくり、李応万の脚を切断した。こうして李応万は遊撃隊の活動に参加できない身体障害者になった。彼は退院後しばらくのあいだ病院の近くにあった梁成竜の家に留まり、その母親の看護を受けた。李応万はわたしが譲った馬を有効に乗りまわし、すこぶる明朗な兵器廠生活を送っていた。
その後しばらくして、わたしには別の白馬が一頭めぐまれた。この白馬は大荒溝戦闘のさい、われわれの部隊が日本軍からろ獲したものであった。転角楼戦闘のときにろ獲した馬だと回想している抗日闘士もいるそうだが、わたしはあえてそれを否定しようとは思わない。どこで手に入れた馬かということは本題ではない。肝心なのは、日本軍将校の馬がわれわれの手に入ったということであり、その馬が万人の人気の的になったすばらしい軍馬であったということである。
そのとき、われわれは伏兵戦を展開したのだが、その白馬の主人である日本軍将校は不運にも、われわれの第一の標的となって鞍から転げ落ちた。ところがおかしなことが起こったのである。主人を失った白馬は日本軍の方に走らず、われわれの指揮部が占めている山腹めがけてまっすぐに駆けのぼってきたのである。伝令の曺曰男は、白馬が現れると、指揮部が敵の目標になりそうなので、なんども道路の方へ追い払った。伝令が木の株や薬莢まで投げたりしたが、馬は主人の方へもどろうとはせず、またもわれわれの方にもどってくるのであった。しまいには四つ足でふんばり、動こうとさえしなかった。
「行きたくないとふんばっている動物を追い払うことはないだろう。いじめるにもほどがある」
わたしは伝令をたしなめた。そして馬のたてがみをなでてやった。伝令はあわててわたしの前に立ちふさがり、声を張りあげた。
「敵の注意が指揮部に集中したらどうするんですか!」
「敵はいま指揮部を見分けるどころではない。もう尻に帆をかけているではないか」
馬が遊撃隊のろ獲物になったのはいうまでもない。隊員たちは、日本軍将校に奉仕していた馬がわが方に寝返ってきたことに神秘さを付与しようとした。
「こいつは朝鮮人と日本人の見分けがつくんだ。われわれが朝鮮人だと判断して、ただちに義挙を断行したではないか」
馬牌を見て、白馬の出産地が慶源(セッピョル)であることを確かめた隊員がこういった。他の隊員はもっと信憑性のある義挙の動機を見つけだした。
「日本軍の将校に平素ひどく虐待されたようだ。でなかったら、主人がおだぶつになるやいなや、われわれの方に寝返ってくるはずはない」
われわれは戦場から撤収して馬村へ帰ってくる途中、ある中国人の老人にその馬を役畜として利用するようにといって与えた。間島では牛と同じように馬も役畜として広く利用されていたのである。ところが、その後いくらもたたず、老人はわれわれの部隊を訪ねてきて、馬を返すというのであった。足首が細く、ひ弱で、役畜としては使い道がないというのである。そのうえまた、手におえない性癖で、自分など近づけようとせず、とうてい手なずけることができないというのである。戦友たちはその話を聞いて、「どう見ても、この馬はわれわれと一緒にいる回り合わせなのだ」といった。そして、わたしの腓腹筋痛を気づかい、馬に乗って歩くよう勧めた。一、二年で終わる遊撃戦争でもないのに、痛む脚をそんなに酷使しては取り返しのつかないことになると警告するのであった。事実、わたしはそのころ、行軍のたびに腓腹筋痛のために悩まされていた。幼いころからあまり歩きすぎて生じた病気なのかも知れない。吉林時代にはそれでもときおり汽車に乗ったり自転車などを利用したものだが、恒常的な封鎖状態におかれている汪清一帯では、そんなぜいたくを望むことができなかった。山並みを越え、日に数十キロも強行軍をしなければならない遊撃区での生活は、歩行が思うにまかせぬわたしにとって肉体的に大きな負担であった。
しかし、わたしは今度も戦友たちの勧めを退けた。すると、同志たちは党会議を開き、何月何日から
はじめて馬に乗った日、戦友たちはわたしを取り囲み、手をたたいて喜んだ。馬籍簿の記録を見ると、慶源軍馬補充部産となっていた。ときには薄灰色に見え、ときには雪のように真っ白に見える、きりっとした馬であった。ひづめが競馬用のように細く、走りだすと飛ぶように速かった。この馬はわたしを乗せて二年ほど戦場を駆けめぐり、ときには人跡未踏の千古の密林をつきぬけ、わたしとともにあらゆる困難を体験した。そのためか、この白馬がときおりわたしの追憶の中によみがえり、胸にしみじみとした情趣をかもし出すのである。
わたしは一日の日課を馬の世話からはじめた。朝早く起きて馬のこうべをなでてやり、ほうきで体のほこりを払ってやったりした。馬の世話をした経験もなく、要領がわからないので、万景台の祖父がよく牛の背をほうきで払っていたことを思い出し、それを真似たのである。ところが、白馬はほうきが体に触れるたびにわたしのそばから逃げだすのであった。わたしが白馬をさかんに追いまわしているとき、李治白老が鉄製の櫛をもってきて、これで一回背中を掻いてやればおとなしくなるだろうといった。いわれたとおりその櫛で背中を掻いてやると、馬は地面に足を踏まえたままじっとしていた。
わたしは馬の背に鞍をのせるとき、鞍の皮とモケット地のあいだから小さな袋を発見した。袋の中には馬籍簿と記された小さな手帳と鉄製の櫛、毛ブラシ、雑巾、鉄串などが入っていた。鉄櫛、毛ブラシ、雑巾などの用途はすぐ見当がついたが、先がへらのような形の鉄串だけはその用途がわからなかった。ところが、わたしが鉄串を手にして白馬に近づくと、またたくまに奇跡が起こった。白馬が曲馬団の馬のように片足をぱっと上げたのである。これは鉄串とひづめとの関係を示すなんらかの暗示に違いなかった。だが、それがなにを意味するのか、謎はなかなか解けなかった。馬はもどかしげにわたしのまわりをぐるぐると回っていたが、やがてやや離れたところに打ちこんであった杭のそばまで行くと、その上に片方の前足を乗せた。馬蹄のすきまには、土や小石、わらくずなどがいっぱい挟まっていた。鉄串でそれを取り除いてやると、馬はまた別の前足を持ち上げ、臆する色もなくわたしの方を見るのであった。
このように手探りするようにして馬の飼養法を修得しているとき、折よく小汪清の親戚を訪ねてきた国内の種馬飼育場の人が、わたしに馬の飼養の秘訣と乗馬の要領を教えてくれた。彼の話によると、馬は体にほこりがついたり、ひづめに陶器のかけらなどが挟まるのをいちばん嫌うので、一日に二回程度きれいな水で洗ってやり、なでたり掻いたり、油を塗ってやったりし、土やわらくずなどをそのつど取り除いてやらなくてはならないというのであった。とくに、馬が雨に濡れたり汗をかいたりしたときは、よく拭き取ってやらねばならないというのである。馬の飼料でいちばんよいのは乾草とエンバクで、大麦や大豆もよい飼料になるということ、人間と同じように馬も毎日少量の塩を必要とすること、過度の運動のあとは水をたくさん飲ませてはいけないということ、これらのことも種馬飼育場の人から教えてもらったことであった。
こうした過程で、わたしは白馬と親しくなった。馬はわたしの求めと意思にいつも従順であった。わたしの目つきや手ぶりを見ただけでも、自分のなすべきことを察して相応の奉仕をしてくれる白馬の目ざとさは驚くばかりであった。これが果たして人間でなくて馬だというのか、とすべての人が驚嘆するほど、白馬の性質や動作には芸術的に完成されたある種の人格さえ思わせるものがあった。
だが、白馬は賢く忠実である反面、性質が非常に荒々しかった。主人以外の人間が自分に触れたり鞍につくのを絶対に許さないのである。気まぐれ者が現れて、馬に乗ろうと手綱を取ると、ぐるぐる回ってすきを与えず、ときには後脚で蹴ったり嚙みつこうとさえした。
伝令の曺曰男も白馬に乗ろうと試みて、そのつどそっけなくはねつけられた。最初彼は白馬を縁側の横に引き止め、櫛で横腹を掻いてやりながら、素早く身をおどらせたのだが、鞍に体が触れたとたん、馬にさっと身をかわされたので、地べたに尻もちをついてしまった。こんなぶざまな目に合ったのち、彼は奇抜な乗馬術を考えついた。足首まではまりこむ溝の中に馬を連れこみ、馬が草をはんでいるあいだに、そっとまたがろうというのであった。しかし、それも成功しなかった。今度も溝に振り落とされてしまったのである。年少の伝令は白馬を立木に縛りつけ、鞭をふるって腹いせをした。それ以来、白馬は彼がそばに近づくだけでも逃げだしたり、蹴ろうとした。曺曰男は口惜しさのあまり泣きべそをかいた。自分がいくら誠意をつくしても馬が気を許さず、乗せてくれようともしないのだから、中隊へ帰ると言いだした。わたしは彼に、白馬がおまえを寄せつけないのは、白馬にそそぐ真心が足りないからだ、だからもっと真心をつくすべきだといって、馬の飼い方を一つひとつ教えてやった。彼はわたしに教えられたとおり、白馬に真心をつくした。白馬がその真心に真心をもってこたえるようになったのはいうまでもないことである。
あまりにも遠い以前のことなので、こまごまとした事柄はほとんど忘れてしまったが、いくつかの場面だけはいまなお鮮やかに眼前によみがえってくる。
一度はこんなこともあった。呉白竜が小隊長であったときのことである。わたしは羅子溝地方で大衆政治工作を進めるため、呉白竜小隊を率いて馬村を出発した。そのころ、わたしは一日平均二、三時間しか睡眠がとれなかった。戦闘をし、訓練をし、大衆工作まで終えると、寝床につくのはたいてい一時か二時であったが、仕事がつかえたときは夜を明かさなければならなかった。一行が夾皮溝嶺にさしかかったとき、わたしはつい馬上で居眠りをしてしまった。前日の馬村か十里坪での徹夜のためであった。白馬が小隊の先頭を進んでいたので、一行のうちわたしが居眠りをしているのに気づいた隊員は一人もいなかった。ところが不思議なことは、小隊が夾皮溝嶺を越えるときから馬の歩調が違ってきたというのである。これに気づいたのは、ほかならぬ呉白竜小隊長だった。白馬は前脚をぴたりと寄せて歩幅を狭くし、用心深く坂道を登るのだが、その歩みがあまりのろいので、呉白竜がいらいらして癇癪を起こしたくらいであった。
(イギリス紳士のような馬にしては歩調が少しおかしい)呉白竜の独白であった。
白馬は下り坂でも後脚をすり寄せてのろのろと峠を下った。そのうちに隊伍は遠く前方を進んでいた。しんがりに取り残されたのは、白馬とわたしと呉白竜だけだった。呉白竜はわたしが心配で落ち着かなかったが、上官がまたがっている馬に鞭をあてることもできず、一人で気をもんでいた。白馬は峠を下りきると、夾皮溝川の岸辺に倒れていた朽木の前で立ち止まった。倒木の一つくらいはらくらくと飛び越えてきた名馬が、なんでもない障害物の前で立ち止まるのを見た呉白竜はますますおかしく思った。
(馬がこんなに横着をきめこんでいるのに、なぜ怒りもせず、鞭もあてないのだろうか)
こう思いながら鞍にまたがっているわたしを見あげた彼は、そのときになってやっとわたしが居眠りをしていることを知ったのである。
「これはすごい馬だ!」
小隊長は感にたえず声を張りあげた。白馬は前脚で倒木をトントンと叩いた。その音でわたしは目を覚ました。
「この白馬にきょうはご馳走をしてやりましょう」
呉白竜はにこにこしながら馬のたてがみをなでた。わたしが居眠りしているあいだになにか珍事でも起きたというのだろうか。
「急にご馳走とはどういうわけだね?」
呉白竜は、白馬が夾皮溝嶺をどのように越え、また倒木の前に来てどのように立ち止まったかを、得意げに話した。
「わたしの父の話では、昔は国随一の馬を国馬といったそうですが、わたしたちもこれからこの白馬を国馬と呼んではどうですか」
「いや、国馬では物足りないね。小隊長の話どおりだとすれば、天下馬と呼んでも惜しくないくらいだ」
「天下馬というのはどういう意味ですか?」
「天下第一の馬という意味だ」
「だったら天下馬と呼ぶのに賛成です。呉仲和兄さんの話では、昔、馬に高い位まで授けた国があったというではありませんか」
「わたしもそんな話を聞いた覚えがある。ある国の皇帝は、自分の愛馬に執政官という位まで授けたそうだ。その馬は象牙の飼葉桶で餌を食べ、黄金の杯で酒を飲みながら、人びとに敬意を払われたというのだ。だとすれば、われわれもこの馬に領議政という位でも授けることにするか」
「とにかく、この馬は逸物です。背中に目がついているわけでもないのに、どうして居眠りしているのがわかったんでしょうかね」
わたしが手綱を引くと、白馬は倒木をひとまたぎにして矢のように走りだした。われわれはまもなく小隊とともに羅子溝三道河子の端にたどりついた。ここは川を挟んで両側に岩がそびえ立っている奇妙なところであった。この川にはイワナが多かった。わたしは草原に囲いの線を引き、白馬の首に手綱をかけてから、隊員たちに大衆政治工作の任務を与えて三道河子、四道河子、老母猪河へ派遣した。そして、川辺で待機していた政治工作員や地下組織の責任者と会って長時間語り合った。対話を終えて白馬のところにもどってきたわたしは、いま一度驚かざるをえなかった。白馬はわたしが線を引いた囲いの中で、さっきのとおりせっせと草をはんでいるではないか。とにかく、この馬はまれに見る逸物であった。
女性革命家の洪慧星も、この馬のおかげで九死に一生を得たことがあった。彼女は国内で女子高等学校まで通ったインテリであったが、竜井で先進的な青年学生とともに地下工作を展開しているうちに遊撃区を天国のようにあこがれ、汪清へ来て政治工作をつづけた。彼女の父親は高麗医術を身につけた名医であった。洪慧星は遊撃区へ来て以来、父親から習った医術で遊撃隊員と住民の疥癬の治療に一役買って尽力した。性格がほがらかで人なつっこいうえに高麗医術の心得まであるインテリ出身の容姿端麗で勇敢なこの女性政治工作員は、遊撃区の軍隊と人民からたいへん愛された。
ある日、わたしは白馬に乗って曺曰男と一緒に西大坡へ地方工作に向かう途中、さほど遠くないところから急に鳴りひびく銃声を耳にした。討伐隊が襲来したのではないかという気がして、銃声のひびく方角ヘギャロップで馬を走らせたわれわれは、思いもよらず路上で、一人で苦戦している洪慧星を発見した。地方工作の帰途、敵の待ち伏せにあったのである。敵は大声を上げ、威嚇射撃をしながら彼女を生け捕りにしようとしていた。わたしは交戦現場まで急きょ馬を乗りつけ、逮捕直前の危険をおかして必死に応戦していた洪慧星をすばやく馬に乗せた。馬もわたしの意を察したのか、四キロほどの道を矢のように駆けつづけた。こうして彼女は救われたのである。
このことがあって以来、遊撃区の人たちは口をそろえてわたしの白馬を名馬だとほめそやした。洪慧星が百草溝での敵の討伐で犠牲にならなかったなら、いまわたしと一緒にそのありがたい白馬を追憶しているであろう。
わたしはこの馬に乗って涼水泉子一帯にも何回となく出向き、その一帯を半遊撃区に変えた。羅子溝、三道河子、四道河子、老母猪河、太平溝とともに、涼水泉子一帯の南大洞、北大洞、石頭河子、カジェ谷一帯と図們付近の村には、われわれの組織がくまなく入っていた。
こんなりっぱな軍馬を他人の手に渡しそうになったことがあったといえば、おそらく読者は信じようとしないだろう。わたしがこの白馬との離別を覚悟しなければならない苦しい事情が生じたのは、呉白竜小隊の隊員と一緒に谷坊嶺であったか、どこかの地方工作に出たときのことである。折しも春の端境期であったので、村人たちは食糧を切らして苦労していた。われわれは、付近の敵を襲って駐屯区域の住民の食糧を何回も調達した。しかし、ろ獲した食糧だけでは、その地域の住民の食糧需要をみたすことはとうてい不可能であった。われわれは極力消費量を減らし、蓄えた食糧を住民にまわす一方、欠食しない程度の質素な食生活をした。そのため、白馬への飼料の供給量も最大限に減らさざるをえなかった。エンバクや大麦、大豆などの高級飼料はいわずもがな、乾草やそれに代わる穀草を手に入れるのもなまやさしいことではなかった。
忠実なわたしの隊員たちは、白馬のためならなにも惜しまなかった。部隊の活動状況がどんなに困難なときにも、周辺の集落や敵区を走りまわって、白馬に与えるエンバクや塩などを手に入れてくるのであった。なかには、刈り入れの終わった田畑を歩きまわって落ち穂拾いをする隊員もいた。苦労して一つ一つ拾い集めた穀物の穂をもみ砕き、軍服のポケットに大事に入れてきて、それを馬に与える隊員もいた。白馬はそういう隊員が近くに現れると、鼻先で軍服のポケットをまさぐるのであった。
隊員たちがこのように白馬をいたわり大事にしたのは、わたしへの気づかいからであり、わたしにつくす革命的友情の表示、忠誠の表示であった。わたしはそうした友情と忠誠心が痛いほどありがたかったが、その反面、申しわけない気持をおさえることができなかった。彼らが熱心に飼料を用意し、白馬の手入れをするのを見るたびに、わたしの心にはこれ以上こんな待遇を受けてはいけないという反作用が起こるのであった。わたしは他人の奉仕を心やすく受けられない人間であった。パルチザン時代のわたしの生活でいちばんつらい思いをしたのはどんなときだったか、と問う人がいるとしたら、わたしはこう答えるであろう。隊員から特別扱いをされるときだったと。他人にはほどこされない特別な待遇や特恵がほどこされるとき、わたしは自分を特殊な存在とみなす優越感や自足感よりも、針のむしろに座らされたような心づらい思いをするのである。
わたしは、まだよくなっていない腓腹筋痛のために数か月は苦労することがあっても、隊員の苦労を軽減するため、忠実なわたしの愛馬を農民にゆずろうと決心した。半遊撃区のようなところへ行って役畜として利用されれば、戦場を駆けめぐらなくてもすみ、殺される恐れもないはずだった。最初は、わたしに白馬の贈物をしてくれた十里坪の下男あがりの老人に与えてはどうだろうかとも考えてみたが、老人が曲解し残念がるように思えてやめることにした。わたしは当直官を呼び、残りの飼料を全部はたいてでもその日の昼の給食は特別にあてがうように指示した。
「きょうは蓄えの飼料のうちから最上のものを出して白馬に腹いっぱい食わせなさい。そのあとで白馬を山の向こうの村へ引いて行って、その村の反日会長に引き渡しなさい。行くときに残りの飼料も全部持って行くようにし、役畜のない、いちばん貧しい家に白馬をやるようにといいなさい」
「わかりました」
当直官はこう答えながらも、部屋を出ようとせず、もじもじしていた。
「早く行って命令を実行したまえ」
彼がためらっているのを見て、わたしはきびしく督促した。当直官が出ていったあとで考えてみると、白馬のためにわたしが下した命令はあまりにも不人情であったように思えて後悔した。わたしは白馬に最後の別れを告げるつもりで外に出た。いつもと同じように鉄の櫛と毛ブラシであちこちをすいたり掻いたりしてやり、たてがみを手で何十回となくなでてやった。この馬とともに数百里の道のりを歩んできたのだと思うと、胸が張り裂けんばかりだった。ところが驚くべきことに、わたしを見つめていた白馬の目から、大粒の涙がポタポタと流れ落ちるではないか。わたしは驚いた。この愛馬がどうしてわたしとの離別を予感したのであろうか。白馬は確かに、わたしの顔から、自分に下された宣告がどんなものであるかを知ったようである。わたしはそのとき、白馬のいたいたしい姿を見つめながら、われわれが鞭に物をいわせて意のままにこき使っている動物の世界にも、人間を感動させる美徳があり、その美徳はわれわれが生きているこの世界の美しさをいっそう引き立て、多彩なものにしてくれることをはじめて悟った。
(白馬よ、許してくれ。おまえとわたしはきょう、名残惜しいが別れなければならないのだ。身を切られるような思いだが、これ以上おまえの背にまたがって楽をするわけにはいかないのだ。わたしのために千辛万苦にたえてきたおまえの苦労にたいしては、一生忘れないだろう)
白馬のたてがみにしばらく頰を埋めていたわたしは、やがて宿所にもどってきた。その日は心がうつろで一日中仕事が手につかなかった。自分の体面を考えすぎて、つまらぬ決断を下してしまったのではなかろうかと後悔さえした。だが、いったん下した決断を撤回するわけにもいかなかった。わたしは、わが愛する白馬がせめて勤勉でやさしい主人にめぐりあうことを願いながら、当直官の夕刻の報告を待った。ところが、当直官は夕刻になっても姿を現さなかった。その代わり、あたりが暗くなったころ、呉白竜小隊長が夕食の膳を用意してわたしの前に現れ、だしぬけに許しを請うた。
「規律違反をしたわたしを罰してください」
わたしは、彼がなにを念頭においているのか見当がつかなかった。
「規律違反?」
「報告もせずに、木材所を一か所襲撃しました」
呉白竜はその襲撃のいきさつをせきこんで説明しはじめた。朝、わたしから隣村へ白馬を届ける任務を受けて小隊へもどった当直官は呉白竜に会い、しかじかの指示を受けたのだが、別のことならいざしらずこの命令だけはとても実行できない、なにか方策はないだろうか、と相談をもちかけた。呉白竜は当直官の考えに同感だった。
「白馬のために隊員に苦労をかけるのがすまなくて、隊長がそんな命令を下したようだが、あの白馬をどうして隊長のそばから引き離せるというのか。隊長はまだ腓腹筋痛のために苦労しているではないか。われわれが飼料をたくさん用意して意地を通せば、隊長の決心が変わるかも知れないから、君は馬を隣村へやらずに、どこか見えないところにかくまっておきなさい。そのあいだに、わたしが親和木材所へ行って飼料を手に入れてくる。わたしがどこへ行ったかは報告するな」
親和木材所は小汪清から四、五里ほどの地点にあった。その木材所の監督の中には、呉白竜の知り合いが一人いた。呉白竜は、この人間が伐採のために遊撃区に出入りしているうちに知り合うようになったらしかった。呉白竜は五、六名の隊員で飼料工作班を組み一挙に親和木材所に押し入った。彼の知り合いの監督は、遊撃隊に理由もなく穀物を与えてはあとのたたりがあるから、あっさり木材所を襲撃してくれといった。監督の話に一理があると考えた呉白竜は、歩哨を押さえこみ、木材所の管理員や警備員が博打をしていた事務室を襲ってすばやく武装解除したのち、四、五俵ものエンバクと大豆を背負って無事、基地に帰ってきた。
呉白竜の報告を聞いたわたしは食膳を脇に押しやり外へ出た。果たせるかな、白馬は隣村の零細農のところにではなく、一日中隠しておいたところから連れもどされ、もとの厩舎につないであった。白馬は鼻を大きく鳴らし感謝でもするかのように、わたしに向かって何回となくこうべを縦に振るのだった。わたしは目頭がじんとしてきた。白馬が身近にいることを確かめたわたしは、ほのぼのとした気持になった。しかし、白頭山の熊のように太っ腹な性格の呉白竜と当直官が、指揮官の命令に背いたことはどう始末したものか。飼料がたくさん用意されれば、白馬を隣村へやることにした上官の決心を変えさせることができるという自分なりの判断で木材所を襲撃した呉白竜の独断と図太さは、なんとあきれたものではないか。あの途方もない図太さを萌芽のうちに断ち切ってしまわなければ、これからどんな事態が発生するかわからないという不安のため胸がひやりとする思いであったが、また一方ではありがたい気もした。
不思議なのは、原則とはいささかも妥協することなく生きてきたわたしが、従前のようにその原則を通すことができなかったことである。毛ブラシで背中を軽く掻いてやると、涙をたたえた目でわたしにこうべを垂れてみせた白馬の姿を見てからというもの、なぜか命令に服従しなかったと呉白竜を叱る勇気がわかなかった。そのうえ、呉白竜がテコでも動かぬ強引さでねばるので、わたしとしては是が非でも白馬を隣村へやれと命令することができなかった。
「隊長、わたしを処罰しても降格しても結構です。けれども、この呉白竜が生きているあいだは、白馬をどこへもやれないということを知っておいてください!」
彼はこんな大げさな最後通牒をつきつけてから、大戦闘を終えた直後のように、鼻で荒く息をついた。気持としては、呉白竜を抱きよせて「ありがとう!」「ありがとう!」と背中でも叩いてやりたいくらいだった。わたしのためとあれば生死を問わず、たとえ火の中、水の中でも飛びこむこの大胆きわまりない小隊長の忠実さに、わたしが感嘆させられたのは一度や二度ではなかった。彼は、非識字者であった自分に朝鮮の文字を教えてくれたのも
わたしも彼を実の弟のように愛しいたわった。わたしが手塩にかけて育てあげた指揮官が、きょうはわたしの白馬のために命をかけて木材所を襲撃してきたのである。しかし、上官の承認も得ず、勝手に飼料工作に行ったのは重大な規律違反行為であった。これを許すなら、以後いっそう大きな脱線もしかねない。どうすべきか。こういうときにこそ指揮官の正しい決断が必要なのである。
呉白竜は、ゆげが立つ汁の器を見下ろしながら、気づかわしげにいった。
「汁が冷めてしまいます。はやく召し上がってわたしを処罰してください」
わたしはにわかに目頭があつくなった。処罰してくれと引き下がらないその姿が、なぜかわたしののどをつまらせた。
呉白竜は少年先鋒隊員であったとき、「マッチ拳銃」という自製の拳銃をもって穏城に渡り、税関巡査を射殺して武器を奪い取ってきたという、ただならぬ経歴の持主であった。家族十七名という大家庭で苦労しながら育った彼は、幼いときから一本気で義侠心が強く、同僚たちから特別にかわいがられていた。彼は少年先鋒隊のころ、遊撃隊員になりたいあまり、「薬莢事件」という珍事件まで引き起した。彼は、遊撃隊に入隊するにはしっかりした推薦人に保証に立ってもらうか、銃の一挺でも奪取して保証品として納めるか、せめて「きぬた手榴弾」のようなものでも一個手に入れて行かなくてはだめだといううわさを聞いた。彼はさっそく、銃撃戦が終わったばかりの戦場へのりこみ、木の皮でズボンのすそをくくったのち、片手で腰もとをつかみ、片手で弾丸と薬莢を拾っては両方のズボンの股にいっぱいつめこんだ。そして脂汗をたらしながら遊撃隊を訪ねていった。ズボンのすその紐をほどくと、一斗ほどもある弾丸と薬莢が一気にこぼれ落ちた。
「どうですか。これくらいあれば、ぼくも遊撃隊に入れてもらえるでしょう」
呉白竜は得意気に中隊長を見上げた。ところが中隊長が返答をする前に遊撃隊員の爆笑が起こった。
「こら白竜、その薬莢はなんのつもりで拾ってきたんだ。それは鉄砲を撃ったあとのかすじゃないか」
中隊長が笑いながら言った。呉白竜は、薬莢でも敵を撃てると思っていたのである。彼は自分の失策に気づくと、弾丸と薬莢の仕分けをはじめた。弾丸は数百発もあった。この「薬莢事件」は、彼が遊撃隊に入隊するときの有力な持参品となった。入隊後、呉白竜は敵の討伐で犠牲になった父母兄弟の復しゅうのために勇敢に戦った。彼は入隊当初、たいへん気苦労をした。銃の掃除中に暴発事故を起こして処罰を受けたのである。彼に処罰を与えた中隊政治指導員は、敵がもぐりこませたスパイであった。東満特委と県党の要職を占めていた分派分子の信任を得て中隊政治幹部の地位までよじのぼってきた彼は、遊撃隊を内部から切り崩そうと悪らつに策動した。
呉白竜が暴発事故を起こしたとき、彼が適用した処罰は、革命軍の規律や道徳的尺度からして、想像すらできない非人間的で下劣なものであった。呉白竜は処罰として、満州国軍一個中隊が駐屯している牡丹川へ行き、土城のまん中に押し立ててある満州国の旗をもぎとってこいという命令を受けたのである。これは事実上、敵中におどりこみ冒険して死ねというのにひとしい命令であった。戦友たちはみな、呉白竜は生きて帰ってくることはできないだろうと思った。ところが呉白竜は、遊撃隊の駐屯地から四十キロも離れた牡丹川へ行き、満州国の旗をもぎとって無事に帰ってきた。政治指導員の肩書をもったこのまわし者は、その後も呉白竜をおとしめようと執ように機会を狙っていた。彼は隊員たちが飯に水をかけて食べることまで問題視し、軍隊は汁を食べてはならず、水気のないおかずを食べなければならないと説教した。一度は中隊で久しぶりに牛を一頭つぶしたことがあった。隊員たちは、「飯に水気のないおかず」のために胃袋がかさかさになるところだったが、今夕は飯に牛肉汁をかけて腹いっぱい食べられると喜んだ。ところが、その日も例の政治指導員が現れ、食べつけていない牛肉汁を急に食べては下痢を起こすから、汁は食べずに、飯と肉だけ食べるようにと指示した。そのため、隊員たちはあれほど食べたがっていた牛肉汁も味わえなかった。この指示にさからって汁をすすったのは、呉白竜と別の隊員一人だけであった。炊事隊員であった呉白竜の二番目の義姉が二人にこっそり牛肉汁をもっていってやったのである。呉白竜は兵舎の庭の積み木の裏でその汁をすすっているところを運悪く政治指導員にみつかってしまった。この事件は、政治指導員が彼に民生団のレッテルを貼りつける格好の口実となった。戦友たちの保証がなかったなら、呉白竜は民生団の汚名を着せられたまま処刑されていたであろう。政治指導員はその後、敵のまわし者であることが判明し呉白竜の手で処刑された。それでなくても故意に自分を死地に追いこんだ処罰処置に怨念をいだいていた呉白竜に、もう一つの処罰を加えるなら、それは彼にとって別の意味での新しい傷を残すことになるであろう。
「小隊長、君がわたしの白馬のために敵区まで行ってきたのはありがたいことだ。けれども規律違反は、指揮官として二度と繰り返してはならない重大な誤りだ。こういうことがこれからもまた繰り返されてはいけない。君たちの気持はよくわかったから、白馬はよそへやらないことにする。どうだ、満足かね?」
わたしがこう言うと、呉白竜はにっこり笑って、「はい、満足です」と答えた。そして子どものようにはしゃぎながら宿所へ帰っていった。わたしはこのように数言の指摘で事件を簡単にかたづけた。
白馬はその後も、わたしに忠実に仕えた。小汪清防御戦闘が激烈をきわめたときのことを、わたしはいまも忘れることができない。当時、敵は梨樹溝の奥のファンガリ谷一帯まで侵入して遊撃区の人民を殺戮した。山も野も谷も死体でおおわれ、家屋はすべて焼き払われた。わたしは白馬を駆り、硝煙弾雨をついて連日、戦闘を指揮した。きのうはトンガリ山で防御戦を指揮し、きょうは磨盤山で敵の突撃を挫折させ、翌日はまた梨樹溝背面の高地で人民の退避を掩護するといったふうに東奔西走する過程で、危機一髪の瞬間も何回となく体験した。
弾雨の中を突き抜けていくうちに、外套の裏地の毛に火がつくことさえあった。外套についた火はまたたくまにわたしの全身をなめつくしかねなかった。ところが、わたしはそれに感づかなかった。白馬が風に逆らって走っていたので、外套のすそが後ろ向きにはためいていたからである。わたしが外套に火がついたと気づいたのは、馬が追い風に乗って走りはじめたときだった。炎は後ろにではなく、前の方にめらめらと燃え移ってきた。しかし、もはや外套を脱ぎ捨てる時間の余裕がなかった。走る馬から飛び下りては、岩場に転がって命を落とすか、はげしい打撲傷を負いかねなかった。このような絶望的な瞬間、飛ぶように走りつづけていた白馬が、くぼ地の雪の吹きだまりの前で速力を落とすと、そっと前脚を折って横ざまに倒れるのであった。わたしはとっさに雪の中に転げこんだ。雪に埋もれて体を左右に横転させているうちに、外套を燃やし軍服にまで燃え移った火はやっと消えた。白馬の両脚からは血が流れていた。白馬でなかったなら、わたしはその日、助からなかったであろう。たとえ命拾いをしたとしても、死に劣らぬひどい火傷を負っていたはずである。わたしはそのときも、白馬のするどい感覚と神通力に賛嘆を禁じえなかった。わたしの体に火がついたのが、どうしてわかったのだろうか。どうしても解きがたい謎であった。
わたしはいまもなお、その謎を解き明かしていない。白馬の類まれな判断力は、かりに生体の長所に求めるとしても、脚に傷を負いながらも自分の主人を救助する、その驚くべき献身性はどこに根源を求めればよいのであろうか。世には忠犬愛馬という言葉があるが、わたしはむしろ、それを忠馬愛犬という言葉に換えたいくらいである。わたしの白馬は遊撃区人民の寵愛を受ける伝説的な存在となった。白馬のうわさは小汪清周辺の半遊撃区と敵統治区域の人民のあいだにも広まった。呉義成もこのうわさを聞いて、わたしの馬を欲しがった。
「金司令、その白馬と五十頭の軍馬と取り替えないかね」
わたしが反日部隊との共同戦線を実現するため羅子溝へ談判に行ったとき、呉義成からこういう駆け引きをもちかけられたことさえある。そのとき、わたしがどう答えたのかはよく思いだせない。とにかく、羅子溝で談判が終わってからも、呉義成がなんとかして自分のものにしたがっていたその白馬に乗って、わたしは馬村に帰ってきた。
わたしとともに二年近く、蹄鉄をはめ替えては数百里のけわしい道を走りつづけてきた白馬は、一九三四年の冬、小汪清で死んだ。第一次北満州遠征を終えて帰ってきてみると、白馬は見えず、わたしの戦友たちがつくったという白馬の墓だけがわびしく残っていた。そのときのわたしの悲しみはどう表現してよいかわからないくらいであった。わたしが残念がるのを見かねた隊員たちは、白馬のために弔銃を撃とうと言った。だが、わたしはその提言を受け入れなかった。弔銃を撃ったところでなんにもならない、白馬は生きているときも銃声のたえない喧騒の地で歳月を送ったのだ、死後にでも安息をあじわえるよう、銃声をあげるなと言った。白馬の墓はいまも汪清のどこかに残っているはずである。
呉白竜が護衛総局長の職にあった一九六〇年代の初、わたしは彼とともに馬に乗って散策しながら、白馬の思い出を語り合ったことがある。数十年の歳月が流れ去っていたが、かつての遊撃隊小隊長は白馬にまつわる事柄をこと細かに記憶していた。そのときの回顧談がどういう経路をへてか、作家の宋影に伝えられ、李箕永にも知られるようになった。ある将校が彼らに、白馬にちなんだ文章を書いてくれるよう頼んだそうだが、詳しい顛末はわからない。けれども、抗日戦争の烈火の中で生まれ、その烈火の中で一生を終えた白馬は、回想記ではなく、一幅の小さな油絵となって朝鮮革命博物館に現れたのである。白馬にまつわる伝説めいた話が、李箕永か宋影を通じて画家の鄭寛澈の耳にまで入ったようである。その油絵は、ほかならぬ鄭寛澈が描いた絵であった。呉白竜にせがまれて博物館へ行ってみると、その絵がかかっていた。画幅には、わたしと白馬しか描かれていなかった。その絵を見ると、白馬とともにわたしに忠実につくしてくれた伝令と呉白竜のことが思い出され、彼らも描いてくれればよかった、といった。画家はわたしの意向を汲み、二名の伝令を加えて作品を完成させた。それがいま朝鮮革命博物館に展示されている油絵である。わたしは、わたしに忠実であった伝令と白馬がなつかしくなると、折をみて博物館に足を運んだものである。
八十の高齢になったいまでは、追憶の中でのみ、ときどき描き出して見るだけである。その忠実な白馬の姿は、いまもわたしの目の前に六十年前のように生き生きと生きつづけている。この白馬がもし人間であったなら、忠臣中の忠臣と評価されるにちがいない。
第八章 反日の旗をかかげて
(一九三四年二月~一九三四年十月)
1 李 光
わたしと李光の友情は吉林時代にはじまった。
ある日、東満青総系の金俊たちが見知らぬ青年を連れてきてわたしに紹介した。それが李光だった。李光が吉林に現れたことについて、みんないろいろとうわさをした。勉強をするために来たのだろう、組織の手づるを求めて来たのかも知れない、いや、吉林一帯の青年学生運動の実態を確かめに来たに違いないなどと。金俊は、彼が吉林に来たのは省内の教員が集まるなにか秘密の会合に参加するためらしい、と耳打ちしてくれた。
聡明で、おおようで寡黙な青年、これが彼の初印象だった。その後、接触を重ねるにつれて、彼が人一倍感受性が強く、情にもろく、友情に厚い青年であることを知った。どういうわけか、学友たちは一目で彼に惚れこみ、識見を高めたければ文光中学校がよい、出世したかったら法政大学にこしたことはない、革命運動には毓文中学校がうってつけだ、などといって、彼を吉林にとどまらせようと口説いた。李光も吉林が気に入ったようであった。彼は、自分が延吉県の古城子で小学校に通っていたころ、独立軍指導者
たちの使いで吉林に何度か来たことがあるが、青年学生の様子が当時とは見違えるほど変わっている、以前はこの都市に青年がいるのかと疑ったほどだったのだが、いまは学生の社会運動がさかんで、都市がわき立っているような印象を受ける、と感嘆していた。結局、彼は吉林第五中学校でしばらく学窓生活を送ることになった。
李光が最初に接した人たちはほとんどが、洪範図、金佐鎮、黄丙吉、崔明禄などという独立軍の大物だった。古城子にある妻の実家が独立軍の指揮部の一つになっていたので、多くの民族運動指導者と知り合ったのである。のみこみが早く判断力にすぐれ、重厚な彼の気質は、たちまち独立軍指導者の心を引いた。呉東振や李雄がわたしを跡継ぎにしようと考えたように、彼らも李光を独立軍の後継人材に育成しようとしたようである。
少年時代、外祖父の書堂で漢文の勉強をした彼は、持病に苦しむ父を見かねて進学の夢を捨て、まだ十四歳の身で家事を手伝った。十六歳からは戸主として家計を切り盛りした。そんなわけで進学の希望はかなり遅れて果たした。卒業後は、一時、延吉と汪清の小学校で教鞭をとった。
当時はまだ李明春という本名を使っていた彼が、李光と呼ばれるようになったのは、春華郷北蛤蟆塘で教員をしていたころからだった。北蛤蟆塘では周辺の八つの学校が連合し、啓蒙活動の一環として弁論大会や運動会をよく催したものだが、地下工作に関与していた彼は、李光という別名でサッカーの試合に蛤蟆塘チームの選手として出場した。それがきっかけで李光と呼ばれるようになったのである。
「ぼくに民族主義の案内をしたのは独立軍だし、共産主義の案内をしたのも独立運動だ」
わたしとはじめて会った日、彼は古城子時代をふりかえって、こんなことをいった。
わたしは、どうも腑に落ちなかった。
「それなら、独立軍の人たちはいっぺんに二つの思想を君に吹きこんだのか」
「いや、吹きこまれたというのではなくて、なんといおうか… 染まったというのが適切かな。とにかく、ぼくは彼らから民族主義の影響を受け、同時にマルクス・レーニン主義思想の影響も受けたというわけさ」
「その人たちは、二重の思想の持主だったというわけか」
「二重思想の持主というより、方向転換を模索していた人たちだといえる。彼らは独立軍運動をしながら、ひそかに共産主義の書籍を読みふけっていたんだよ。妻の実家へ行くと、部屋の隅にその人たちの本が散らかっていたので、退屈しのぎに読みはじめたのだが、いまでは、どっぷりとつかってしまったよ」
わたしは、彼の手をぐっと握り、こだわりなくいった。
「共産主義の信奉者に会えてうれしいよ」
ところが彼は、あわてて手を横に振った。
「いや、ぼくはまだ共産主義者ではない。マルクスやレーニンの共産主義原理には、理解できない概念が少なくないんだ。ぼくの素朴な見方からすると、共産主義的理想というものは、どうも大げさすぎる。こんなふうにいえばがっかりするかも知れないが、遠まわしにいうのがいやでね。わかってくれるだろう」
初対面ではあったが、その率直な話しぶりが気に入った。そういうところが、彼のなによりの魅力でもあった。このように最初に会ったころの李光は、民族主義者でも共産主義者でもない、いうなれば方向転換途上の人間だった。それが吉林でわれわれと接触しているうちに、心から共産主義を信奉するようになった。それでも、われわれの共青や反帝青年同盟に加わろうとはしなかった。
李光が吉林へ来るとき、学田三万余坪にあたる土地証書のうち三通を抵当に入れて四百余円の旅費を都合したという資料が発見されたというが、真偽のほどは確かでない。学田とは教育機関の経費として、国家が特別に与えた田畑のことである。その資料に間違いがないとすれば、彼が公有地を抵当に入れるという冒険をしてまで、郷里を捨てる勇断を下したのには、それだけ抱負が大きかったからであろう。家をあとにするとき、彼は義弟におよそつぎのように悲壮な決意を書き残している。
「わたしは満州の広野と朝鮮八道をくまなく探し歩いてでも、真の愛国者をきっと見つけてみせる。この願望が十年後に果たせるか、二十年後に果たせるかは誰にもわからない。しかし、これが成就しないかぎり、両親のもとへは二度と帰らないつもりだ」
この決意には李光の性格がよく現れており、彼が親元を離れて、満州の主要都市や政治活動の中心地を足が棒になるほど巡り歩いた理由がなんであったかも推察される。彼は芯が強く几帳面で、考え深いたちだった。中国語も土地っ子に劣らず自由自在に駆使した。そうした長所が幸いしてのちに十家長、百家長、郷長などの役目も勤まったのである。西道(平安道と黄海道の通称)出身のわたしは、李光から間島や咸鏡道の風習もいろいろと聞かされたものである。
彼は吉林に来てからも、なぜか組織に加わろうとしなかった。吉林を一時的な停車場のようなものとみなしていたからかも知れない。けれども、わたしとはよく会ったし、のちには、わたしの母ともとくに親しく付き合うようになった。彼がわたしの母に会ったのは、吉林での勉学を終えて間島に帰るときだった。わたしに挨拶に来た彼は、だしぬけにこういった。
「間島に帰るさい、ちょっと撫松に寄って、君のお母さんに会いたいが、かまわないだろうか」
わたしは彼の気持がうれしかった。
「なんだ、君らしくもない。かまわないだろうかなんて。会いたければ、黙って会えばいいではないか。そんなことまで断らなければならないのか」
「じゃ、同意するというわけだね。わかった。それなら、お母さんにお会いすることにしよう。みんなが君のお母さんを『うちのオモニ』といって慕っているのに、ぼくはまだ挨拶に上がったことさえないんだ。こんな失礼な話がどこにある。どうして君のお母さんが金赫や桂永春らにだけ、『うちのオモニ』と呼ばれなければならないんだ。ぼくもオモニと呼んでみたいよ」
「ありがとう! これで母にもう一人の息子ができたわけだ。ぼくたちはきょうから兄弟だ」
「じゃ、杯を交わすべきではないか。せめてソバの一杯でも一緒に食べるとか」
もちろん、われわれは酒をくみ交わしソバも一緒に食べた。
李光は約束どおり、撫松に寄って、数日間、母の話し相手を勤めてから汪清に帰った。当時、彼の家族は延吉県の依蘭溝ではなく、汪清県に住んでいた。彼が撫松を去ったあと、母から送られてきた手紙には、冒頭から彼のことがつづられていた。
「成柱。李光がきょう間島へ発ちました。李光を松花江の渡し場まで見送ってやりました。おまえを他郷に送り出した日のように、心がうつろで、仕事が手につきません。ほんとうに気さくな人で、とても他人の子とは思えないのだから、不思議ではありませんか。李光も、わたしを親のようだといっていましたけれどね。たのもしい息子たちが毎日のように増えるので、どんなにうれしいか知れません。この世に楽しみがあるとしたら、これ以上の楽しみがどこにありましょう。ほんとうにりっぱな青年を紹介してくれてありがとう。李光はね、哲柱と一緒に陽地村のお父さんの墓参りをし、草もきれいに刈ってくれたのよ。ここを訪ねるおまえの友達は一人や二人でないし、わたしが知っている青年もたくさんいるけれど、李光のようにわたしの気持をひきつけた人ははじめてです。おまえたちの友情が、あの南山の松柏のように変わりなくつづくことを望んでいます」
手紙をもらった日、わたしも終日落ち着かず、松花江のほとりをそぞろ歩いた。行間ににじむ母の喜びがわたしにも移ってきたのである。母がうれしければわたしもうれしいし、母が満足であればわたしも満足なのである。李光の出現が母をそんなに満足させたのなら、それはわたしにも最大の喜びなのである。
李光が吉林を発ったあと、わたしに一通の郵便為替が届いた。わたしが毓文中学校在学当時、多くの人から財政的援助を受けたことは、前にもたびたび書いた。わたしに学費の援助をしてくれた人たちは、ほとんどが呉東振、孫貞道、梁世鳳、張喆鎬、玄黙観など吉林市内に居住するか、柳河、興京、撫松、樺甸その他独立軍の本拠地にいながら、正義府本部に出入りしていた父の親友であった。吉林時代の後援者の中には、共青員や留吉学友会員もいた。文光中学校に在学し、共青の中核として活動した申永根も、裕福ではなかったが援助してくれた。
前にも触れたが、当時母の収入といえば、針仕事などをして得る日に五~十銭というわずかなものだった。日に十銭として月に三円。それは毓文中学校の一か月分の学費に相当した。母は送金するときも倹約して郵便局の世話にはならなかった。毎日の収入を月謝額になるまで積み立て、吉林へ用があって行く人に頼んで送って寄こした。だから、わたしは郵便局に出入りする必要がなかった。
母の送金を手にするとき、わたしはいつも矛盾した感情を覚えたものである。学費が届いたから恥をかかなくてすむという安堵と、わたしに月収を残らず送ったら、一家の生活はどうなるだろうかという気がかりだった。三円といえば、裕福な家庭の子なら一食分の食事費にもならないわずかなものだった。毓文中学校の場合、生徒の半数以上が裕福だった。生徒たちのあいだで「カネさや」と呼ばれていた郵便為替が、ときには数十通も学校へ届く日があった。そんな日は、わたしのように郵便為替がどんなものか知らない貧乏人の子は、もっとしょんぼりとして元気がなかった。
そんなときに、人一倍貧しい家の子であるわたしに十円という大金が舞いこんだのだから、ただごととはいえなかった。わたしは、為替を持って郵便局に向かいながら、金を送ってくれたのはいったい誰だろうか、と考えた。しかし、どうしても思い当たらなかった。吉林市以外のところから金を送ってくれる唯一の人は母であるが、十円もの大金が母に生じるとはまず考えられないことだった。あるいは、郵便局で宛名を書き違えたのでは、とも思ったが、そんなことはあろうはずもなかった。
郵便局では差出人の姓名を告げないと、金をなかなか出してくれなかった。ところが、窓口では相手の名を聞きもせずに黙って金を出してくれた。それで、わたしの方から差出人の名を聞くと、意外にも「李光です」という言葉が返ってきた。そのときの驚きはまったく表現しようのないものだった。わたしには李光よりも親しい友達が少なくなかった。彼とは吉林で親密に付き合ったとはいえ、離別後、金まで送ってこようとは思いもよらないことだったのである。その深い思いやりには、ただ感謝するのみだった。
彼は汪清に帰ってからも、わたしの一家と交際をつづけた。母が安図にいたころは、多くの煎じ薬と金を持って興隆村を訪ねたこともあった。その金は彼が百家長を勤めて得た月収を貯えたものだった。義侠心の強い彼は、他人を助けるときは、いっさい損得を考えず、自分のものを惜しみなくそそぎこんだ。李光は母を訪ねるとそこで何日もすごし、なにくれと面倒をみては汪清に帰った。そんなことがくりかえされるうちに、彼はわが家の、誰よりも親しいかけがえのない客となったのである。
わたしは他人から財政上の援助を受けるたびに、その好意に報えないのがもどかしかった。借りを金で返済するには家庭が貧しすぎた。わたしは祖国のりっぱな息子、民衆の忠僕となることで友人や同志たちの配慮にこたえようと考えた。
李光は一九二九年の冬、吉敦線の列車に乗りこんだ。わたしに会うためだった。そのとき、わたしは獄中にいたのだから、それは無駄足といえた。しかし彼は、宿屋の女中孔淑子から吉林地方青年学生運動の実態を聞き、それを主管してきた指導中核の闘争方法を深く理解した。孔淑子は宿屋の女中をしていたが、共青組織から、吉林にやってくる青年とわれわれの間を取り持つ橋渡しの役目を果たしていたのである。そのときの出会いが因縁になって、彼女はのちに李光の二度目の妻となった。先妻の金オリンニョは病死していた。
李光は男やもめになってからも、亡妻を忘れなかった。妻を深く愛していた彼は、世に彼女のような女性はいないと考え、一生独身ですごそうと決心した。妻の死後、一年もたたずつぎつぎに縁談がもちあがったが、潔癖で一徹な彼は、それらにいっさい応じなかった。わたしは李光に会うたびに学友たちとともに、幼い子どもや病弱な両親のことを思っても再婚すべきだ、と熱心に勧めたものだった。彼の決意をひるがえさせるのは、枯れ松の幹をねじってやにを搾り取るよりも難しいことだった。彼は亡妻の三回忌をすませたあとで、やっとわたしの勧告を聞き入れた。後添いの孔淑子は、心のやさしいしとやかな女性で、誰もが感心するほど、まま子を大事に慈しみ育てた。子どもたちも、彼女を実母のように慕った。残念なことに孔淑子には子ができなかった。
李光はわたしには会えなかったが、孔淑子の紹介で吉林毓文中学校と吉林師範学校の運動圏の青年と親交を結んだ。国の独立を成就するためには、なによりも愛国勢力が団結すべきであり、そのためには旗じるしとなる思想と路線が必要であり、統一団結の中心がなければならないというのが、吉林の組織が彼の胸に植えつけた真理であった。彼は、この真理にめざめて間島へ帰った。それは、彼の革命活動で一つの転機となる出来事であった。それ以来、彼は日本領事館のスパイと満州警察から監視される身となったが、臆することなく新しい航路を勇敢に進んだのである。
秋収・春慌闘争は、李光が吉林で得た真理を実証する重要な契機となった。彼の世界観は、この闘争を通してさらに飛躍した。居住地を汪清に移してから彼は北蛤蟆塘で郷長を勤めた。革命そのものが理想のすべてだと称してきた人が、末端行政機関の小使いともいえる郷長の役職についたのだから、なかなか興味深いことだといえる。
わたしが李光と再会したのは、一九三一年十二月、明月溝でのことだった。彼は冬の明月溝会議に参加した人たちの食事や宿所の世話をやき、せわしく立ちまわった。その彼が粟を入れた背負袋に五羽のキジを載せて会場に現れたときは、さすがに李光らしいと感心したものである。トリ肉とキジ肉を具にした間島独特のジャガイモのソバは、誰もみなお代わりをしたほどおいしかった。わたしと李光は同じ膳に向かい合って座り、ソバを二杯ずつたいらげたあと、李青山の家の一間で木枕をして夜を語り明かした。わたしはまず、彼が親身になって母の面倒をみ、学費まで送ってくれたことに心から謝意を表した。
「ぼくは今夜、ソバをご馳走になりながら多くのことを考えた。キジ肉を手に入れるためにどんなに苦労したろうかと思うと、つい、ほろりとなったよ。吉林でも、君はときどきぼくを料理店へ連れていってくれたが、いつその恩返しができるだろうか」
こういうと、李光はわたしの肩をこづいた。
「なにが恩だ。ぼくはただ義援金を出すつもりで君の一家を助けただけさ。君のお父さんは一生を独立運動にささげたではないか。君だって青年学生運動の指導ではずいぶん苦労をしている。そういう愛国者の家庭にいくらかでも援助をするのは当然なことだ。恩だなんて、そんな水臭いことは二度と口にするな」
彼はわざと怒ったような表情をして強く手を振った。わたしはそこに、彼のいま一つの美点を見る思いがした。
「そういわないでほしい。恩には感謝がつきものだ。母の分まで含めて、もう一度感謝する。正直な話、君がぼくたちの一家にそんなにまごころのこもった援助をしてくれるとは、思ってもいなかった」
「そうだろうな。ぼくがそういうことをしたのはただの思いつきじゃない。それだけの動機があったのさ」
「動機?」
「そう。ある日、お母さんがぼくに、君のお父さんと縁組したときの模様を昔語りに聞かせてくれた。縁談がずいぶん手間どったとね」
「それはぼくも知っている。父の死後、母がぼくたち三人兄弟を前にして話してくれたのだ。まったく涙ぐましい結びつきだったそうだ」
父と母の結婚話だから、それは「韓日併合」前夜のことだった。母の実家がある七谷と父の住んでいた南里は、低い丘をあいだにはさんで三キロほど離れていた。南里から平壌城内へ行くには七谷を通り、七谷の人たちが南浦方面に向かうときは南里の近くを通った。頻繁に往来し、親しみ合っていた両村の人たちは、縁組する場合も多かった。
外祖父も南里で婿選びをし、白羽の矢を立てたのが父だった。両家のあいだに仲人が行き来し、まず、外祖父が南里の父の家を訪れた。けれどもそこでは決心を下せず、黙って七谷へ帰った。婿となる人物は気に入ったが、あまりにも暮らしが貧しかった。そんな家へ娘をとつがせては、たいへんな苦労をさせるという不安に襲われたのである。外祖父はその後、五回も父の家を訪れた。貧乏ほどつらいものはないという言葉のとおり、父の家では、この先あいやけになるはずの大事な客を六回も迎えながら、一度も満足な昼食をもてなせなかった。外祖父は六回の訪問の末、外祖母の同意を得て、やっと縁組に同意する手紙を寄こした。
「そんなエピソードを聞いて、君の一家のことがいっそう深く理解できるようになった。ぼくがモクズガニ事件のことまで知っていると聞いたら、びっくりするだろう」
モクズガニ事件と聞いて、わたしはほんとうに驚いた。それは一家の中でも、母と祖父とわたしなど数人しか知らない家庭内の隠された秘話だったからだ。
「なんだって? 君はそんなことまで知っているのか」
「ぼくと君たち一家との間柄がどれほどのものかということが、これでわかるだろう」
彼は得意そうにいった。
わたしがモクズガニを捕りはじめたのは、万景台時代の六、七歳ごろのことだった。祖父は暮らしの足しにと、よくカニ捕りをした。大同江支流の順和江にはモクズガニが多かった。祖父はカニ捕りにはいつもわたしを連れていった。幼いころから暮らしの知恵をつけさせたかったのかも知れない。金持は見向きもしないだろうが、塩漬けにしておくと、それもご馳走であった。
モクズガニを捕るのは、じつに単調な作業だった。十分に煮たコウリャンの穂を水中に入れると、その匂いに引かれてモクズガニがたくさん集まってくるのである。こうして日に数十、数百匹のカニを捕り、袋に入れて帰るときの楽しさは、えもいわれぬものであった。モクズガニは一家の暮らしを大いに助けた。祖母は客があると壺から塩漬けのカニを出して勧めたものである。そんなとき、わたしは外祖父母にもそれをもてなせたら、どんなにいいだろうかと思った。わたしにとって、七谷の家はなつかしい神秘な愛の世界であった。わたしは七谷の家の牛小屋からただよってくるかぐわしい飼い葉の匂いが好きだったし、庭のナツメの木の枝でさえずる小鳥の鳴き声に聞きほれたものだった。夏の晩、蚊やりのヨモギの燃える匂いをかぎながら、むしろに座って聞く昔話にも大きな愛着を覚えた。
母方の伯母は、わたしがそこで生まれたので、七谷を片時も忘れてはいけないと、いつも諭した。母はお産をするとき、実家に帰っていたらしい。しかし祖父母の方では、わたしの出生地は南里だと強調していた。おまえのお母さんがお産をするとき、しばらく里に帰っていたのは確かだが、だからといって、出生地が七谷になるわけではない、女が他郷で子を生んでも父の居住地を出生地とするのは先祖代々からのしきたりだ、というのである。
とにかく、わたしは本家に劣らず母の実家に強い愛着を覚えていた。カニ捕りをするときにも、よくそういう思いにとらわれた。七谷で彰徳学校に通っていたころも、日曜日にはよく万景台に帰って、祖父と一緒にカニ捕りをしたものである。ある日、わたしは捕ったカニを半分ほど草むらに隠して、祖父に袋を見せた。祖父は、「きょうは、あまりかんばしくないな」と残念そうにいった。わたしはそしらぬふりをした。そんなとき、七谷に持っていくつもりで半分残した、と正直に打ち明ける方がよかった。だが、そういったら祖父が喜ぶか嫌な顔をするか判断がつかなかったので、そんな勇気がわかなかったのである。わたしは、袋を家まで持っていったあと、また順和江にもどって、隠しておいたモクズガニを袋に入れ、七谷まで走っていった。母の実家では、成柱のおかげでカニのご馳走にあずかれると喜んだ。わたしは、カニは輔鉉おじいさんが捕ったのだから、礼をいいたかったら万景台のおじいさんにするようにといった。ところが外祖父が万景台を訪ねたさい、おかげでカニをおいしくいただいた、とモクズガニのことを祖父に話したのである。祖父は思いがけない礼をいわれて驚いたが、わけを聞いて喜んだ。その数日後、わたしは祖父から賢い子だとほめられた。
これが李光のいうモクズガニ事件である。貧しさの織りなすエピソードであり人情劇である。
ところが李光は人情の面からではなく、別の意味でこのエピソードを解釈したようである。
「ぼくは縁談話やモクズガニ事件のことを聞いて、君の一家に同情を寄せたのだ」
李光の言葉だった。わたしはその言葉にこもる思慮深さにすっかり感服した。
「ところで、郷長の仕事はおもしろいのか」
これは、わたしが中部満州地方にいるころから、知りたかったことである。当時、東満州のオルグから送られてくる間島地方の通報には、わたしが最大の関心を寄せている対象の李光が汪清で郷長をしていると記されていたのである。李光は微笑した。
「ちょっときついが、収穫は悪くない。去年の秋、同志たちが蛤蟆塘で保衛団につかまったことがあるが、そのときも、ぼくが保証人になって彼らを救い出した。郷長の役職がものをいったのさ」
彼は、許されるなら生涯郷長を勤めてもいい、と冗談まじりにいった。
わたしが生まれ故郷の自慢をすると、彼は楽しそうにいった。
「万景台がそんなによいところなら、ぼくも独立後、家族を連れて君のあとを追っていくよ」
「じゃ、鐘城はどうする? 故郷がそこだと聞いたが」
「住みつけばどこだって故郷になるさ。生まれた土地だけが故郷でもなかろう。とにかく、そのときは小学校の教師の口でも世話してくれよ。君が校長になり、ぼくはその下で教員を勤めればいいだろう」
「これはまいった。小学校の先生というのはまっぴらごめんだよ」
「そんなはずがない。君が安図か孤楡樹で教壇に立った経歴があるということは、聞いて知っている。お父さんも長年教鞭をとられたのだし」
二人の友情は、別働隊を組織する日々にさらに深まった。
李光が小沙河にわたしを訪ねたのは、わたしの勧めで汪清で別働隊を組織した直後のことであった。当時、朝鮮の共産主義者と愛国的青年にたいする救国軍の敵対行為が激しくなり、汪清の同志たちは反日人民遊撃隊の創建準備で大きな困難に遭遇していた。李光は別働隊の組織後も活動方向が定まらず、困っていたのである。わたしは、反日部隊と統一戦線を結ぶうえでの若干の原則的な問題と方途について所見を述べ、別働隊の活動方向と方法について具体的に討議した。彼はわたしの意見を素直に受け入れた。
粟とコウリャンを混ぜた飯にみそ汁、山菜のあえ物という粗末な食事だったが、母は李光を心からもてなした。李光もわたしの母を慕い尊敬した。母の深い愛情に李光が感動し、李光の若者らしい情熱と純朴な性格が母を満足させた。
われわれが反日人民遊撃隊を創建したのは、李光が興隆村に滞在しているときのことだった。病中にもかかわらず、哲柱と一緒に遊撃隊を訪ねた母は、李光の銃にさわりながら、こんな銃があったらほんとうの戦(いくさ)ができる、独立軍のように火繩銃しかなくてはどうやって日本軍に勝てるというのか、あなたたちが軍隊をつくってりっぱな銃をかついでいるのを見ると、積もり積もった恨みが晴れるようだ、あなたたちのお母さんが見たら、どんなに喜ぶだろうか、お母さんたちはわが子が怠け者だったり不良だったりすれば胸を痛めて泣くだろうけれど、祖国のために銃を取って戦場に向かう息子を見れば、うれし涙を流すだろう、と語った。
汪清に帰った李光は救国軍工作に本格的に取り組んだ。われわれが安図で于司令との合作に成功したのは、反日部隊工作のりっぱな経験となった。反日部隊工作は最初かなり順調に進み、実りも大きかった。多くの救国軍部隊がわれわれとの反帝共同戦線に積極的に呼応した。救国軍部隊との統一戦線実現の切り札は、共産主義者の手中に握られていたのである。
ところが極左分子が統一戦線を妨害した。彼らの「上層打倒、下層獲得」という冒険主義的なスローガンは、反日部隊上層部の強い反発と怒りを買い、少なからぬ救国軍指揮官をして共産主義者を警戒させたり、弾圧、殺害させたりした。
そんなとき李光が反日部隊工作に取り組んだのは、歓迎すべきことであった。彼はそのために、居住地を北蛤蟆塘から太平溝に移したほどであった。わたしは太平溝の彼の家をしばしば訪れた。三百戸ほどの農家からなる太平村は、地理的には小汪清、腰営口、老黒山を結ぶ三角地点の中心にあり、ほど遠くないところにソ満国境があった。そこから羅子溝までは八~十二キロであった。救国軍の主要集結地はどれも太平溝の近くにあったのである。李光の指揮する別働隊の駐屯地は、羅子溝の市内から二キロほど離れた繭廠溝であった。李光の家は太平溝の本村の川辺の斜面にあった。ぽつんとした一軒家で、印象的なのは家のかたわらのつるべ井戸だった。それで、彼の家はつるべの家と呼ばれていた。わたしはその井戸の水をよく飲んだ。蒸し暑い夏の日、わたしが汗をたらたら流して訪れると、彼はいつも冷たい井戸水を汲んでくれた。そのうまかったことはいまでも忘れられない。
わたしは羅子溝へ行くときはきまって太平溝に寄り、李光の両親に挨拶をしたものである。周保中、陳翰章、胡沢民、王潤成など中国の共産主義者と、救国軍との統一戦線問題を討議した最後の反日兵士委員会も李光の家でおこなわれた。
李光は小汪清防御戦をはじめ大小の戦いで、指揮官としてのすぐれた手腕を発揮した。彼が身をもって示した模範は、救国軍兵士を感動させ、軍事・政治幹部としての彼の名声は東満州の民衆に広く知れわたった。呉義成が別働隊を真の反満抗日の武力として信頼し、李光を救国軍前方司令部保衛隊長に任命したうえ、護衛隊員をつけたくらいであった。
その後、李光は救国軍との連合抗日をはかって同山好につながりをつけた。同山好は反日の旗をかかげて武器を手にしたのだが、そのころは土匪になりさがっていた。いまもそうであるが、当時は少なからぬ人たちが土匪と馬賊を同一視していた。満州地方には以前から馬賊が多かった。清末に中国本土から大勢の漢民族が山海関を越えて満州地方に流れこんできたとき、彼ら移住民の侵入から農土を守り、祖先が残した遺産を守るために、土着民は自衛的な武装隊を組織しはじめた。これが日本人から馬賊と名づけられた、満州における義賊の起こりであった。馬賊団は「山賊」や「流賊」のように卑俗な盗賊とは違って、自己流の掟をもつ義賊として行動し、他人の財物を奪うような強盗・強奪行為はしなかった。馬賊社会は中央の政治的権力の手が届かない辺地にあり、中央権力には抵抗的であった。
馬賊の生活は武装をぬきにしては考えられなかった。彼らはつねに武器を手から離さなかった。それは人びとの羨望や憧憬を引き起こしさえした。「女嫖男匪」という言葉が満州地方でおおっぴらに使われていたのは偶然ではない。「女嫖男匪」とは、女は嫖子つまり遊女になり、男は匪賊になれという意味である。
馬賊社会のきびしい掟がいつもきちんと守られていたかというと、そうではない。少なからぬ馬賊部隊は生活の維持が難しくなると堕落して土匪に転落した。馬賊団を見ても、どれが義賊でどれが土匪か正体の見きわめにくい集団もあった。かなりの匪賊が義賊を装っていたからである。当時、義賊の仮面をかぶった匪賊の群れが帝国主義侵略勢力や軍閥に政治的に買収されて、無残な殺戮行為をおこなっていたが、その被害は想像を絶するものがあった。
反日部隊の工作中に適用された極左分子の「上層打倒」戦略の反作用で、多くの救国軍指揮官が共産主義者に恨みをいだき、強い反感を示していたとき、それにいちはやく目をつけ、反日勢力の内紛を助長したのが、日本の謀略家であった。「夷を以って夷を制す」とか「匪を以って匪を征す」というのは、謀略にたけ、離間の策に長じた日本帝国主義者が他人の手を借りて反日勢力をいがみ合わせ、切り崩そうとする悪名高い手法であった。
彼らはこの手を使って、同山好に李光別働隊全員を惨殺させたのである。彼らはまず李光にたいする帰順工作からことをはじめた。李光を捕らえた者には多くの賞金を与え、本人が帰順すれば高い地位を与えるという傲慢無礼な張り紙がいたるところに貼り出された。呉義成の部隊を瓦解させるには共産主義者の影響を防ぐべきであるが、その張本人は李光であると断定したのであった。李光の別働隊は救国軍の心臓部に深く入りこんだ統一戦線の突撃隊といえた。日本の情報機関は彼の真価を十分に知っていたのである。
土匪の典型といえる同山好は政治的に愚鈍なうえ、暴虐で気紛れな男だったので、日本の謀略家に手もなく買収された。李光の意図を百も承知の彼は、日本人の書いた脚本にしたがって、老黒山で連合作戦問題をもって談判しようと、餌を投げた。李光の失策はその餌に前後をわきまえずとびついたことである。同山好が日本人の手先に転落したことを知るよしもなかった李光は、救国軍前方司令部書記長の王成福など十数人の別働隊員をともなって老黒山へ向かった。党組織は、同山好のような粗暴きわまる土匪の頭目と接触するのは危険だから熟考するようにと警告したが、彼は、反帝共同戦線路線の貫徹なしに革命の前進は望めない、危険を恐れて談判を避けてはなにもできないではないか、たとえ死地であっても行くべきだ、と主張し、初志を曲げなかった。
同山好は酒席を設けて接待したあと、李光一行を惨殺した。生きて帰れたのはただ一人だった。土匪は、皆殺しにしたものと思って立ち去ったのだが、われわれが彼を救い出したのである。しかし彼もその後、羅子溝と老黒山のあいだの樹林地帯で戦死した。
李光は二十七という若さで不帰の客となった。彼の誤りは警戒心の欠如にあった。同山好と統一戦線を張るには彼らを思想的に改造すべきであったが、彼はたんに人間的な親交を結ぶことでそれを実現しようとした。それで老黒山付近の山小屋で謀殺されたのである。
わたしは李光の死に、乱れた気持をしずめることができなかった。そのときわたしの感情を支配したのは、部隊を引き連れて同山好一党を誅殺しようという復讐心だった。反日部隊と共同戦線を結成するのが共産主義者の時代的義務であり、課題であり、総体的戦略であるという理性の叫びがなかったとしたら、わたしはそうした感情の噴出をおさえきれず、血なまぐさい復讐戦を決行していたであろう。
東満州のすべての同志が同山好の許すまじき罪業に怒りを爆発させ、血には血でと叫んだ。極左妄動分子は、なぜ軍隊を出動させて李光を惨殺した階級の敵に報復を加えないのか、と不平を鳴らした。遊撃隊が同山好を討たないのは右傾だ、と騒ぐ人たちもいた。
反帝共同戦線に向けた共産主義者の偉業は、李光の犠牲によって、とりかえしのつかない打撃を受けた。彼は千人の敵とも替えることのできない貴重な同志であった。敵はわたしから、朝鮮革命を担って立ついま一人の有力な人材を奪い去ったのである。
わたしは身を裂かれるような痛みを唇を噛んで耐え忍び、考え、また考えた。抗日戦争を開始してわずか一年のあいだに、なんと多くの戦友を失ったことか。どうして同志たちは、親交を結ぶ早々二度と帰れぬあの世へ立ち去ってしまうのだろうか。果たして、これは宿命だろうか? わたしは拳を握り、李光と一緒に抗日大戦の戦略を論じた小汪清河のほとりをあてもなくさまよいながら、わたしをこのように悲しみのふちに追いこむ運命のたわむれを呪った。そして決心した。
李光の死を無駄にしてはならない。彼があれほど精魂を傾けた反日部隊との統一戦線を成功に導けば、彼も草葉の陰で喜んでくれるだろう。
李光の死はわたしに呉義成との談判を急がせた。彼の死はわたしを統一戦線から遠のかせたのではなく、かえってより近くに、もはや引き返すことも立ち止まることもできないほど近づかせた。呉義成に会おう!彼との談判に成功すれば李光の恨みも晴らすことができる。わたしはこう考えて、白昼、羅子溝への行軍を急いだ。李光の家族に悔やみを述べようと、太平村に立ち寄ったところ、夫人の孔淑子が両手を広げて行く手をさえぎった。
「将軍、行ってはなりません。そこは将軍の行くべきところではありません。夫もそのために… 将軍、お願いです」
涙に濡れた夫人の切々とした声が、わたしの行軍に拍車をかけたのは、なんとも不思議なことであった。
七つか八つになる少年の肩をいだいた夫人はチヨゴリの付け紐で目頭をおさえ、声もなく肩をふるわせていた。彼女にいだかれていた少年が、李光の遺児李保天であった。少年も涙ぐんでわたしを見つめていた。わたしが訪ねていくと、庭で遊んでいても「成柱おじちゃん!」と叫んで、しおり戸の外へ走り出してくる保天だった。いつかは、わたしにまとわりついて、草バッタをつくってくれと、うるさくせがんだこともあった。母親に手を取られて出てきた保天を見ると、その願いを聞いてやれなかった自責の念が胸をうずかせた。この子が、以前のようにわたしにまとわりついて草バッタをつくってくれとせがんだら、どんなに気が休まることだろうか。せめて、わたしを「おじちゃん」と呼んで親しんだいつもの腕白小僧らしく肩車に乗せてとしがみついてくれれば、少しは気が晴れようものを…。
ところが保天はなにもいわず、涙をぽろぽろ流していた。わたしの前には、人なつこく元気のよいいたずら小僧の李保天ではなく、七色の虹のような童謡時代に別れを告げ、早くも苦悩の世界に飛びこんだ沈うつで小心な少年が立っていた。父親の死は、少年から草バッタを欲しがる楽しい童心の世界を奪ってしまったのである。保天は十になる前に両親と死に別れたわけである。
保天はもう二度と、わたしにそんなことをねだらないだろう。その小さな魂にはただ、父の死という悲劇的な出来事だけがみちているのである。
わたしはやるせない気持にかられて保天の顔を見つめた。
「保天! 元気でいるんだぞ。きっとお父さんのかたきを討ってくるからな」
喉から危く、こんな言葉が出かかった。しかし、わたしは別なことをいった。
「保天! おじさんは喉が乾いてしょうがない。おじさんがここへ来るときは、いつもおまえのお父さんが水を汲んでくれたんだよ。きょうはおまえがお父さんに代わって、水を一杯汲んできてくれないか」
夢想にふけっていたような保天の瞳に生気がよみがえったのは、その瞬間だった。台所へ駆けこんだ保天は真鍮製の器に井戸水を汲んで現れた。そのちょっとした動きが、少年のふさいでいた気分を一変させたようである。器の揺れる水を見ると、いまさらのように李光の姿がまぶたに浮かんだ。その小さな水面に、李光と保天の顔が二重写しになって見えたとき、涙がどっとあふれそうになった。わたしは少年の誠意を無にしてはと、器の水を残らず飲み干した。保天は手の甲で鼻の下をぬぐうと器を受け取り、親しみのこもった目をわたしに向けた。
わたしはほっとして、部隊に出発命令を下した。そして別れの言葉をかけようとしたとき、なにを思ったのか、保天はやにわに家へ向かって走り出した。どうしたんだろうと不審に思っていると、保天は大急ぎで走って帰り、掌を広げてわたしの白馬にエンバクを食べさせた。その無言の行動が、こらえにこらえていた涙をわたしの目からあふれださせた。われわれが川を渡り、遠く見えなくなるまで、保天は川辺に立ちつくしていた。馬上からふりかえると、少年の姿が白っぽい点となっていた。
(保天! 大きくなったら、お父さんの遺志を継いで革命の道を進むのだぞ)
わたしは手を振って、保天の将来を祝福した。その後、遊撃区を解散し、第二次北満州遠征をはじめたときに、わたしは李光の家に寄って一週間ほどすごし、孔淑子と保天の身の振り方を相談した。
彼はその後、わたしの念願どおり革命家に成長した。林溝で鉄道労働に従事していた彼は、日本の軍用列車を襲撃しようとし、それが発覚して、二年間、獄中に捕らわれていた。まだ二十になる前のことであった。解放(一九四五年)とともに出獄した李保天は、祖父の生まれた祖国の大地と空と水が恋しくて、その秋、丹東をへて平壌やソウルをひと巡りしたあと、林溝にもどった。その旅は二十歳の多感な、前途洋々とした青年李保天の胸中に強烈な印象を残した。父親の友人がいる祖国で建国の熱いるつぼに身も心も投げ出したいという衝動に駆られながら、後ろ髪を引かれる思いで、彼は鴨緑江の鉄橋を渡った。祖国には父親が望んでいた新しい世界があり、彼自身が幼いころから夢見てきた楽園があったのである。
ところがその楽園が五年後、戦火に包まれた。年若い共和国は、存亡をかけて決死の戦いをくりひろげた。数百里はなれた外国で硝煙の臭いをかいだ中国人民解放軍の中隊長李保天は勇躍、朝鮮戦線へ志願し、人民軍に編入された。機械化師団で指揮官を勤めた彼は、一九五〇年秋惜しくも戦死した。
李光の炎のような生涯と革命活動を誰よりも深く把握していた
李光の夫人孔淑子は遊撃隊に入隊し、裁縫隊員として活躍し戦死した。わが子の死から受けた悲しみを革命軍援護の熱意でまぎらわせていた李光の父親李周平と姉李鳳珠は敵の拷問がたたって早く世を去った。李保天に息子が一人いたのは不幸中の幸いだった。その子はいま銃を取り、祖父の世代が切り開いた道、そして父の世代が広げたその道を力強く前進している。
こうしてみると、李光の一家は、三代にわたって革命軍に服務していることになる。一家三代が銃を取るというのは、じつに聖業ともいえる誇らしいことである。李光の孫が他の分野を望まず、祖父と父親の跡を継いで軍服を着たのは、たいへんりっぱなことである。
容貌も物腰も歩き方も祖父とそっくりな若い将校が、母親と一緒にはじめてわたしの前に現れたとき、わたしは、六十年前に世を去った李光が生き返って訪ねてきたのではという錯覚にとらわれ、胸が熱くなった。
二十五歳で夫と死別した李保天の妻が四十年のあいだその子一人を頼りにし、りっぱに育てて李光の代を継がせ、革命精神をはぐくんだのは万人の祝福を受けてしかるべきであろう。
李保天の息子はわたしに会ったとき、自分はもちろん、子どもたちにも軍服を着せて、わたしと
李光が死なずに解放なった祖国に帰っていたとしたら、なにをしたであろうか? わたしはいまでも、ときどきこんなことを考えてみる。李光の社会活動は教育からはじまっていたし、冬の明月溝会議のさい、李青山の家で吐露した理想も教壇に立つことであった。
しかしわたしは、彼が解放された祖国に生きて凱旋していたなら、姜健や崔賢のように軍服を着たであろうと思う。彼は困難な持場を自ら進んで担当し、一生を送った献身的な共産主義者であった。
2 呉義成との談判
闘争の舞台を汪清に移したのち、われわれの活動で至急に解決すべき最大の難題の一つは、反日部隊との関係で生じた深刻な対立であった。日本帝国主義の執ような離間策と反日部隊上層部のたえざる動揺、極左的なソビエト路線の弊害などで、抗日遊撃隊と救国軍の関係は一九三三年に入って再び交戦直前の状態に陥った。
朝中両国の共産主義者が九・一八事変後、満州地方で反日部隊工作に精魂を傾けたことは、前にも触れた。汪清遊撃隊が初期に反日部隊と友好関係を保てたのも、そうした努力のたまものであった。遊撃隊と自衛隊を一方とし、関大隊長部隊を他方とする二つの武力が協同して一九三二年の春、徳谷で日本軍守備隊の侵攻を撃退したのはその好例である。
そのとき、大肚川の日本軍守備隊は、国民党時代に伐採しておいた木材を運び出すために、数十台の馬車を引いて徳谷方面に現れた。大汪清と小汪清の谷間に、木材が無尽蔵に積まれていたのである。その日、わが軍は誘引伏兵戦で四十~五十人の日本軍守備隊をほとんど掃滅し、多くの兵器を手に入れた。
徳谷の戦いは、反共意識の根強い汪清一帯で共産主義者のイメージを改め、救国軍との関係を敵対から協同へと転換させる重要なきっかけとなった。戦闘後、共産主義者たちは救国軍の中へ浸透できるようになり、金銀植、洪海一、元弘権、張竜三、金河一らが関部隊に入隊した。名射撃手の金河一は連絡員に任
命され、学識のある金銀植は参謀長に抜擢された。
徳谷戦闘後も、馬村の人たちは変わりなく関部隊の将兵の衣服を洗濯し、歯ブラシ、歯みがき粉、石鹸、タオル、タバコ入れのような心のこもった慰問品を贈り、児童団の慰問公演もたびたび催した。共青員は宣伝パンフレットやビラをたずさえて政治工作をした。
救国軍が共産主義者に「同志(トウンズ)」と呼びかけることはまれだったが、関部隊の将兵は革命軍隊員をいつも「同志」と呼んだ。関部隊に入隊した同志たちはいずれも区党委員の水準を上まわる実力者だったので、救国軍工作を巧みに進めた。関大隊長は共産主義者の人柄と能力にすっかり惚れこんだ。これは他の救国軍部隊との関係を改善するうえでも大いに役立った。
琿春地方の抗日遊撃隊は救国軍部隊と情報の交換もし、さらには手先の粛清も共同でした。煙筒拉子遊撃隊は救国軍から贈られた銃で武装した。共産主義者がより積極的に取り組むなら、救国軍との連合戦線の実現に転換をもたらせる有利な局面が開かれた。
ところが、極左冒険主義者が引き起こした「金明山事件」によって、せっかくかちとった反日部隊との友好関係は無に帰した。この事件は関大隊長が白旗をかかげて日本帝国主義者に投降し、救国軍の他の部隊まで共産主義者に背を向けさせる由々しい事態をまねいた。同じころ延吉県では、崔賢の部隊が敵に帰順する反日部隊の兵士に機銃掃射を加える出来事が発生し、救国軍との関係はすっかりもつれてしまった。
汪清遊撃隊は初期、救国軍との関係でいろいろと失策を犯した。大隊長の梁成竜は、何挺かの銃欲しさに統一戦線政策に背いた。彼は品性が正しく戦上手の有能な指揮官であったが、軍事実務主義、冒険主義に陥って統一戦線を軽んじていたのである。それで、われわれは彼をきびしく批判した。
関大隊長の前轍を踏まずに抗日遊撃隊との連合を守りつづけたのは、われわれの影響を多分に受けた靠山部隊であった。靠山部隊は一九三三年五月の端午の日、朴斗成のチャットギ(いまの太平村)自衛隊と連合して、東寧県城から出撃し東南岔をへて十里坪に攻めこんできた三百余の日本軍守備隊と満州国軍を撃退し、多数の敵兵を掃滅した。
救国軍は遠方の見張りを無視し、門前に歩哨を立てることしかしないので、反日自衛隊が靠山部隊に代わって遠方の見張りにも立った。靠山は他の反日部隊と緊急連絡をつける場合にも、よく十里坪の半軍事組織に依頼した。そんなとき少年先鋒隊員は反日部隊の兵士に代わって、きちんと通信を伝達したものである。
しかし、そのような友好関係は他の部隊との関係にまでは広がらなかった。遊撃区に吹き荒れていた極左妄動の狂風は、靠山との同盟関係まで破壊する危険をはらんでいた。ソビエトの極左的な施策は、それまで同盟関係ないし同調関係にあった反日部隊の腐敗と変質を早める促進剤となった。
「左」翼日和見主義者は中国人反日部隊の工作も極左的におこなった。彼らは「救国軍とは下層統一だけをすべきだ」「救国軍兵士に頭領を殺させ反乱を起こさせるべきだ」と称して、「地主、有産階級の長官を打倒せよ!」「兵士は反乱を起こして遊撃隊に寝返ってこい!」などと呼びかけた。それは、反日部隊との上層部統一を破壊する弊害をもたらした。反日部隊は、朝鮮人を「日本の手先」「老(ロ)高(コウ)麗(リ)共(クン)産(チャン)党(ダン)」といっては殺害した。
日本帝国主義者はこれを奇貨にして朝鮮人民と中国人民、朝鮮の共産主義者と中国の共産主義者、抗日遊撃隊と反日部隊を離間させる全面攻勢をかけた。彼らは、満州占領以来、抗日の旗をかかげて張学良の旧東北軍から離脱した救国軍部隊の制圧に全力を傾けていた。彼らがなによりも恐れたのは、遊撃隊と救国軍の連合であった。共産主義者と救国軍部隊との合作が実現すれば、それはとりもなおさず彼らの治安維持と大陸侵略を妨げる恐るべき力となり、その息の根を止めかねないと見ていたのである。日本の離間策は、早くも万宝山事件、竜井事件(実現しなかった)、撫順事件などに如実に現れた。権謀術数にたけた日本の諜報謀略機関は、朝中人民の善隣関係を弱めるために、動物や石の地蔵でさえ顔を赤らめる撫順事件なるものを起こした。
撫順事件というのは、日本の諜報機関が日本人刺客に短刀を与え、なんの罪もない中国人を撫順で殺害させた事件である。日本の謀略家はそのとき、朝鮮人が中国人を殺して逃走したと見せかけようとして、刺客に朝鮮服のトゥルマギ(周衣)を着用させた。ところが殺人には成功したのだが、トゥルマギの下から日本服がはみだして刺客の正体が露見し、朝中人民を離間させようとした謀略は失敗に終わったのである。
このような事件の延長が柳条溝事件であり、蘆溝橋事件であった。日本人が謀略をめぐらすときに使う手はこのように幼稚で、悪らつなものであった。しかし少なからぬ人たちは日本帝国主義者の謀略に乗って災難にあいながらもまた、難なくその欺瞞策に乗せられていたのである。
日本帝国主義者は朝中人民の離間をはかって、「朝鮮人が満州を奪おうとしている」「共産党は救国軍を武装解除しようとしている」と宣伝する一方、民生団の反動分子をおしたてて「間島朝鮮人自治区」「朝鮮法定自治政府」の樹立を骨子とする朝鮮人の間島自治を叫ばせた。また中国人の家屋に火をつけては、それが朝鮮遊撃隊のしわざであるかのような根も葉もないうわさを広めもした。
抗日遊撃隊と反日部隊の連合戦線を破局に導いたいま一つの要因は、日本の悪らつな帰順工作とそれに乗せられた反日部隊上層部の抗日意識の変質であった。
一九三三年一月、琿春県土門子に駐屯していた王玉振が部下を引き連れて敵に投降し、そのうちの数百人がわれわれと戦う臨時遊撃隊に改編された。二月には、小汪清の関部隊が半ば帰順して、満州国保衛団と公安局に採用され、同月、大荒溝付近に出没していた馬桂林部隊の将兵数十人も転向して蛤蟆塘自衛団に合流した。汪清県二岔子溝の姜海部隊と火焼舗の青山部隊の将兵も敵に帰順を申し入れた。
日本帝国主義者は老黒山一帯を占めていた悪質な土匪隊長同山好を買収して、李光の別働隊を全員謀殺させた。遊撃隊は救国軍の襲撃を避けるため白昼の行軍をひかえ、夜間行軍しかできない有様であった。救国軍との関係を改善しなくては、朝鮮人は出歩くことすらままならないほどだったのである。救国軍との関係を敵対的なものから同盟関係へと転換させるのは、革命の運命にかかわる問題として再び朝鮮共産主義者の前に提起されたのである。
わたしは救国軍前方司令の呉義成に会うことを決心した。王徳林が間島を去ったあと、救国軍の実権は彼の手に握られていた。呉義成の説得に成功すれば、「金明山事件」と李光別働隊謀殺事件によって東満州に生じた遊撃活動の硬直状態を終わらせ、朝鮮革命が直面している難局の打開も容易になるだろう、とわたしは考えた。
わたしは、呉義成との談判問題をもって潘省委と具体的に討議した。彼はわたしの決心が正しいと肯定しながらも、呉司令と会うのはひかえるようにといった。中国人ならまだしも朝鮮人が行っては、呉義成のように自尊心が強く、偏見にこりかたまっている男を説得するのは困難である、それに、呉司令や柴司令と同盟するには、その裏面で参謀役を務めている李青天の策謀をおさえなければならないのだが、それも問題だというのである。
わたしは、潘省委の反対にもかかわらず、困難が大きくても行かなければならないと言い張った。
「李青天も朝鮮人です。反共分子ではあるけれども、よく説得すれば妨害はしないでしょう。彼とわたしは旧知の間柄です。吉林で三府統合会議がおこなわれていたとき、彼とたびたび意見を交わしたこともあります。父も李青天とは親交がありました」
「旧知だの初対面だのということがこのさいなんだというのだ。彼らにそんなわきまえがあると思うのか。それに呉義成はひととおりの頑固者ではないというではないか。まず成功はおぼつかないだろう」
潘省委はわたしの冒険を思いとどまらせようと懸命だった。
「わたしには、安図で于司令を説得した経験があります。于司令を味方にしたのに、呉義成を説得できないはずはないでしょう」
「于司令と談判するときは、劉本草先生がそこで参謀長をしていたではないか。そういう背景が幸いしたのだ」
「そういう背景なら呉義成部隊にもあります。陳翰章がそこで秘書長を務めているではありませんか。参謀長の胡沢民も工作員です」
これはつじつまの合わない自家撞着であった。わたしがその背景だと強調した陳翰章からは、しばらく前に、決定的な応援を求める手紙が届いていたのである。そこには、自分一人の力で呉司令との同盟問題を打開するのは望みがないと前置きし、「
「革命の前途はまだまだ遠いのに、そんな冒険をしてはいけない。どうか慎重に考えてくれ」
彼は執ようにわたしを説得した。
「自分の体を個人のものと考えてはいけない。まかり間違えば李光の二の舞になる。これを肝に銘じるのだ。われわれがみな死んで白骨になろうとも、君たちだけは生き残って最後まで朝鮮のために戦ってもらいたいのだ」
この言葉にわたしは大きく心を動かされた。しかし共同戦線の大望は放棄できなかった。
潘省委が琿春県へ向かったあと、東満州各県の遊撃隊代表が汪清に集まり、統一戦線問題を深刻に討議した。ここでも中心の論点は救国軍との同盟問題、つまり呉義成、柴世栄、史忠恒らの救国軍が集結している羅子溝に、誰が談判に行くかということであった。わたしは、自分が行くべきだと頑強に主張した。会議では、護衛を百人ほどつけるという条件づきでわたしの羅子溝行きを決定した。呉義成のもとへ行くまでの経緯はこのように簡単でなかった。
呉義成と談判するにはまず、陳翰章か胡沢民を通して、そこの実情を把握する必要があった。ところが、陳翰章は呉義成の秘書長を務めているうえにきまじめな性格で、終日事務所にこもり、外へはあまり出歩かなかった。たとえ外へ出ても朝鮮人と接触すれば誤解をまねくおそれがあった。それでも彼は以前、わたしのかかわっていた共青組織のメンバーであり、当時の盟約もあって、わたしのためなら危険を冒して援助してくれるはずであった。
わたしは、陳翰章と胡沢民に手紙を書いた。ついで呉義成と柴世栄にも書簡を送り、わたしの羅子溝訪問趣旨を知らせた。差出人の名前の横には格式張って方形の大きな判を押した。その後、羅子溝地方の革命組織を通して呉義成部隊の動静を確かめたところ、反応は好ましかった。羅子溝の地下組織は、救国軍が市の入口に「朝鮮人反日遊撃隊を歓迎する!」というスローガンをかかげたことも知らせてくれた。
わたしは選りぬきの遊撃隊員百余人をしたがえて羅子溝へ向かった。新しい軍服に新式銃、新しい革製鞄といういでたちで行軍する部隊。それはじつに壮観であった。わたしは白馬にまたがり、部隊の先頭を進んだ。太平溝に到着すると、反日人民遊撃隊の羅子溝入城声明を読み上げ、呉義成部隊に伝令を送った。そして回答が来るまでそこで一晩をすごした。
翌日、談判に同意するという回答が届いた。呉司令が談判に応じたのには陳翰章の保証にあずかるところが大きかった。彼はわたしの手紙を受け取ると、呉義成に、金隊長とは旧知の間柄だがたいへんりっぱな人物だと話した。呉義成はそれを聞いて、「彼は共産党だが、君とはどうしてそんなに親しいのだ? 君も共産党じゃないのか」と聞き返した。陳翰章は、金隊長とは同窓で古くからの付き合いだ、と答えた。
「君の同窓で、りっぱな人物だというなら、昼食でも一緒にしながら会ってみよう」
わたしは、救国軍がわれわれを抑留し、危害を加える場合に対処して、即時、応援に駆けつけられるよう琿春中隊を太平溝のしもの村に待機させ、残りの五十人を引き連れて、赤旗を先頭にラッパを吹き鳴らしながら威風堂々と羅子溝に入城した。
迎えに出た陳翰章が救国軍指揮部にわたしを案内した。談判中わたしを補佐する趙東旭と連絡兵李成林もモーゼル拳銃をさげてあとにしたがった。指揮部には国民党系の副官が大勢待っていた。
呉義成はひげを長くのばした恰幅のよい男だった。客を迎えても立ち上がることがなく、虎の敷き皮に体を斜めに横たえて対話もすれば、茶もすする傲慢な男だといううわさを聞いていたが、その日は、格式張って丁重にわたしを迎え入れた。それでいて客に茶を出す中国の習わしは守らなかった。
わたしはまず、「張学良の旧東北軍部隊がきそって日本軍に投降したとき、司令の部隊が抗日に踏み切ったのは愛国的な壮挙で、高く評価すべきことです」と下手にでた。
すると呉義成は口もとに笑みを浮かべ、副官に茶を運んでこさせた。
「わしは、金隊長が日本軍とりっぱに戦っていることをよく知っている。あんたたちの部隊は少ない人数でじつに勇敢に戦っているのに、わしらは数ばかり多くて日本軍とはうまく戦えない。部下の話では、あんたの部隊は全員新式の銃を持ってきたそうだが、何挺でもいい、わしらの旧式の銃ととりかえてはもらえまいか」
談判は呉義成のこんな話からはじまった。挨拶にしてはきわめて底意地の悪いものだった。一方では持ち上げ、他方では難題をもちだしてこちらの出方をうかがう呉司令の表情を眺めながら、わたしは、彼は海千山千のしたたか者だと判断した。数千の部下を率いる前方司令が何挺かの新式銃に欲が湧いて対面早々本気でそんな条件を出すとは思えなかった。
「とりかえるまでもありません。そんなものならただで差し上げましょう」
わたしは彼の申し出を快く受け入れながらも、こう皮肉った。
「だが、そんなけちなことをするまでもないでしょう。日本軍を攻撃すればいくらでも手に入るのですから。それでもぜひとおっしゃるなら喜んで進呈しましょう」
呉義成はひげをなでて話題を変えた。
「ところで、あんたらの共産党とはどういうもんだね。陳翰章は共産党を悪くないといってるが、そんなこと、わしはまるで信じられん。周保中も共産党だが、わしの顧問をしていたときの様子を見ると、なにをしているのか、いつもぐずぐずしてどうも気にくわなかった。それで、やめてもらったのだ。で、なんだな、あんたらの共産党は祠(ほこら)と見ると、壊してしまうそうだな」
「なんのために祠を壊すのですか。それは悪い連中が共産党を中傷するための宣伝です」
「じゃ、金隊長は祠を拝むのかね」
「祠を壊しもしなければ、それとはなんの関係もありませんから、拝みもしません。では、呉司令は拝むのですか」
「いや、拝みやしない」
「わたしも呉司令も祠を拝まないのだから、同じことではありませんか」
言葉につまった呉義成はにやっと笑って、またひげをなでた。
「それはそうとして、あんたらの共産党は男と女の別なしに同じ布団の中で寝るそうだし、やたらに他人の財産を奪うともいうが、ほんとうかね」
わたしは、談判の成否がこれにどう答えるかということにかかっており、呉義成に共産主義者にたいする正しい認識を与えるためには、彼の投げた餌を巧みに処理しなければならないと考えた。
「それも悪者たちのデマ宣伝です。共産主義を正しくのみこんでいない何人かの者が、地主の土地であれば親日と反日の別なくみだりに奪った事実はありますが、われわれはそれが正しいとは思っていません。でも地主のほうも、小作人が飢えているときは、人情をほどこして食糧を分け与えるのがあたりまえであって、自分一人楽をしようとそしらぬ顔をするのは、道義にはずれているのではないでしょうか。地主が食糧を分けてやれば、騒ぎ立てるはずはないでしょう。おなかがすき、生きる手立てがないのだから、たたかうよりほかはないではありませんか。くわしいことはわかりませんが、昔、中国でも太平天国の乱というのがあったそうですが、それもそんなことで起きたのではないのですか」
呉義成は大きくうなずいた。
「それはそうだ。国が乱れているとき、自分一人楽をしようとするのは悪いやつだ」
わたしは勢いにのって追い討ちをかけた。
「それから、男と女が同じ布団に寝るというのも、共産党を冒涜するために日本人がいいふらしているデマです。遊撃隊にも女性はたくさんいますが、誰もそんなことはしていません。お互い気に入れば夫婦になります。われわれの男女間のモラルはきびしいのです」
「そりゃそうだろう。まさか一人の女を何人もがかわりもちにするようなことはなかろうて」
「もちろんですとも。われわれ共産党のように清廉潔白な人間はいません」
話がここまで進むと、呉義成はわたしを金司令と呼び、からかうような言葉つきを改めた。
「ほほう、金司令はこのわしを共産党にするつもりだな」
「呉司令を共産党にするつもりは毛頭ありません。共産党は誰かになれといわれてなるものではないのですから。しかし日本帝国主義者と戦って勝つためには、力を合わせるのが望ましいと思います」
呉義成は眉をしかめ手を強く振った。
「わしらが別々に戦うのはいいが、共産党と合作はせん」
「でも、力に余る場合は、合作して戦うほうがいいのではないでしょうか」
「とにかく、わしは共産党の世話にはならん」
「先のことはわからないものです。いまにわれわれの世話にならないとも限らんでしょう」
「まあ、それもそうだ。人間、一寸先が闇だというからな。ところで、金司令に一つ頼みたいことがある。どうだ、家家(チャチャ)礼(リ)に入らないかな。わしの考えでは、共産党より家家礼に入ったほうがいいようだが…」
呉義成はいきなりこんなことをいって、こちらのたじろぐ様子を見ると、小気味よさそうにわたしの顔をのぞきこんだ。実際、わたしは家家礼といわれてどきりとした。呉司令はわたしを面食らわせるには効果満点の難題を吹っかけたのである。
家家礼とは一族という意味をもつ中国人の「青紅幇」という組織のことである。運河を掘り引き船をしていた労働者たちが苦しい生活に耐えかね、皇帝に反抗してつくった結社である。そこでは財産を共有していたという。当時としては有力な組織であった。義兄弟の縁を結べば兄、弟の関係が成立するが、家家礼に入れば、親子の縁を結ぶ。そこには自分が父親になって息子を得るために入るのではなく、息子となって父親を得るために入るのである。高い門閥の家家礼に入れば、それだけ威厳がそなわり権勢もふるうことができた。家家礼に入るには式を挙げなければならない。われわれの指示で第二十四代目の子として家家礼に入った金在範(金平)の話によると、その儀式はなかなか見ものだという。家家礼に入る者は、父親にあたる人や先輩に何十、何百回とお辞儀をしなければならないのである。
そんな結社に入れといわれて、わたしは困惑した。いやだとことわれば、せっかく順調に進んでいる談判が決裂しかねないし、同意すれば、すぐにでも仏の前にひざまずかなければならない破目になるであろうから、結局は呉義成の意のままに操られることになる。わたしは談判にのぞむとき、こんな問題にぶつかるだろうとは予想だにしなかった。とにかく、この場をなんとかうまく切り抜けなければならなかった。
「呉司令と一緒に家家礼に入るのは大きな名誉です。でもわれわれは他の組織に入る場合、党組織の承認を得なければなりません。わたしの一存では決められないのです。組織の承諾が得られるまで見合わせることにしましょう」
「ほほう、そんなら、そちらは半人前の司令で一人前ではないんだな」
呉司令はちょっと物足りなさそうにわたしを見つめていたが、ふと思い出したように、こんな質問をした。
「金司令、酒はいけるのかね」
「少しはやれますが、反日闘争にさしさわりがあっては困るので、つつしんでいます」
「あんたらの共産党はなかなかいいところがある。金司令とは手を結びたいが、マルクスに染まるのが心配だ。わしらのもんたちに共産党の宣伝をするのはいかん」
「司令、そんなご心配には及びません。われわれは共産党の宣伝をする考えはありません。ただ抗日の宣伝だけはします」
「あんたらの共産党は、共産党にしてはなかなか紳士的な共産党だ! しかし汪清の共産党が関大隊長部隊の武装を解除したのはよくない。金司令はその事件をどう思っているのかな」
「どうもこうもありません。それは過失のうちでも最大の過失です。それで、われわれは去年、汪清別働隊をこっぴどく批判しました」
「金司令はじつに公正な軍人だ。ところで、共産党は一から十まで間違うようなことがないという者がいるが、どうしてそんなことがいえるかね」
「共産主義者も人間なんですから間違いを犯さないはずはないでしょう。わたしもときどき間違いを犯します。それはわたしが機械でなく人間だからです。いろいろとすることが多いので、失策もときどき犯すのです。それでわれわれは学習に努め、精神修養にも心がけているのです。そうすれば過ちも少なくなると思いますから」
「もっともだ。怠け者には失策もありえないわけだ。共産党は多くのことをやっている。それはわしらも認めている。とにかく、金司令とは話を交わす面白味がある。率直だから気持がよく通じるのだ」
呉司令はこういって談判に一段落つけ、やさしくわたしの手を握った。談判の成功は確定的であった。彼は上機嫌で、陳翰章は金司令の親友だそうだが、なかなか筆が立つ、その筆で自分を助けてくれている、彼がいなければ、自分は何もできない、などとも言った。
彼は、胡沢民を知っているかと聞いた。肯定すれば内通していると疑われそうで、知らないと答えた。すると、彼は胡沢民を呼び出し、この人が
その日、わたしと呉義成は、抗日遊撃隊と反日部隊の日常的な連係を保ち、両軍の共同行動を維持調整する常設機構として反日部隊連合弁事処を設けることにし、そのメンバーの問題も話し合った。弁事処の反日部隊側代表は中国人の王潤成が、遊撃隊側代表は趙東旭がそれぞれ選ばれ、事務所は羅子溝の呉司令の指揮部に近いところに置くことにした。
そのあと、呉義成は豪勢な午餐会を催した。陳翰章は、これも特別待遇だと耳うちしてくれた。昼食中の談話も和気あいあいとしたものだった。日本軍の満州占領が話題になるたびに、呉義成は黒い眉をぴくぴくふるわせて、悲憤慷慨の色を見せた。彼は、同山好が李光を謀殺したことにも怒りを示した。
「あいつらはもともと土匪の仲間で、わしらとは系統が違う。同山好が日本人の手先になるとはな。金司令の部隊に危害を加えたからには天罰を受けてしかるべきだ。わしらの中華民族にあんな悪魔がいるとは、なんとも恥ずかしい話だ」
こんな言葉を聞くと、改めて呉司令の人柄がうかがえるようであった。わたしは談判の結果と呉義成の歓待に満足した。
呉司令はもったいぶったところがあり、思想的には国民党の枠から抜け出していない人間であったが、それが本質的な問題ではなかった。大切なことは抗日の意志が人一倍強く、救国の心に燃えていることであった。思想や階級、民族を問題にし、その制約性にこだわっていては合作は不可能である。共同戦線路線は、われわれをしてそのような制約性を無視させた。
わたしはその日のうちに、呉司令との合作に成功したこと、残る問題は柴世栄にあるが、彼とはこれから協商することにする、統一戦線をかためるには東寧県城のような大城市を攻略する必要があるから、いつでも出動できるよう準備するようにと、小汪清に伝令を送った。
呉義成との最初の談判に成功したわたしはただちに、救国軍中もっとも頑固な勢力である柴世栄部隊を反日連合戦線に引き入れる工作に取り組んだ。陳翰章も、呉司令は心変わりしないだろうが、柴司令が問題だ、李青天を失脚させることができないものだろうか、と思案した。呉司令の配下には一個旅団ほどの兵力しかなかったが、柴司令の部隊はそれより多かった。
わたしはひとまず李青天に談判を申し入れた。しかし、彼はそれに応じなかったばかりか、共産軍の武装を解除しようと柴世栄をそそのかした。李青天の提言ならなんでも聞き入れる柴司令ではあったが、さすがにこれには同意しなかった。呉義成司令が金隊長を招いて昼食までもてなした、それに金隊長は精強な汪清部隊を引き連れている、まかり間違えばたいへんなことになる、とかぶりを振ったという。しかし李青天からどれほど反共思想を吹きこまれたのか、わたしは柴世栄とは下交渉すらできなかった。
唯一の打開策は、柴司令部隊を呉義成と引き離すことであった。われわれとの合作に応じた呉義成を柴世栄から切り離すには、呉司令の基幹部隊である史忠恒旅団をわれわれの影響下に置く必要があった。旅団長をよく説得すれば、呉義成との談判でかちとった初歩的な成果をさらにかためることにもなる。旅団の構成を確かめると、ほとんどの将兵が下層階級の出身であった。史忠恒も九つのときから地主に雇われて豚を飼い、生活の方便として軍服を着たという。彼は吉林陸軍で王徳林の配下にあったが、九・一八事変後、救国軍に属して小隊長、中隊長、連隊長をへていまは旅団長に昇進していた。戦を好む典型的な軍人気質だという。
わたしは胡沢民の紹介状を持って、即日、史忠恒に面会を申し入れた。旅団長はなんの格式もなしに、すぐわたしを部屋に招き入れた。そして、日本軍をいつも打ち負かしている金隊長の訪問を受けたのは喜ばしいことだ、とわたしを友人として温かくもてなした。彼には反共意識も軍閥らしいところもなかった。じつにざっくばらんで温厚な人柄だった。
彼は、金隊長の部隊が日本軍と戦って連戦連勝するのは、朝鮮人の誇りであるだけでなく、東満州人民の誇りでもあるといった。われわれは当時、夾皮溝戦闘、涼水泉子戦闘をはじめ多くの戦闘で日本軍に大きな打撃を与えていたのである。新聞にこそ報道されなかったが、間島地方にそのうわさは広く伝わっていた。驚いたことに史忠恒はそれらの戦いの経緯と戦果をくわしく知っていた。
連合して東寧県城を攻略しようという申し入れに、彼はもろ手をあげて賛成した。
「わたしは以前から、われわれの近くに金隊長の遊撃隊のような強力な友軍があればと願っていた。きょうからわれわれは兄弟だ。金隊長の敵はわたしの敵であり、金隊長の友はわたしの友だ」
旅団長とわたしは談判の成功を祝って、かたく抱擁した。それ以後、二人は困難な戦いの日々に苦楽をともにする兄弟となり、戦友となった。史忠恒が独立二師の師長に任命されてから戦死するときまで、二人の友情は変わりなくつづいた。
羅子溝談判の結果、抗日革命の前に立ちはだかっていた最大の暗礁は取り除かれた。于司令との合作が共同戦線の第一歩であるとすれば、呉義成との談判はその成果を東満州全域に拡大した歴史的な前進であり、五・三〇暴動と万宝山事件によって生じた朝中両国民族の無意味な対立と流血をくいとめ、反満抗日の激しい流れを一つの大河に合流させた意義深い出来事であった。
呉義成、史忠恒との談判を通してあらためて痛感したのは、共同戦線も自分の主体的な力が強いときにはじめて実現するということであった。一九三二年の南北満州遠征と汪清を中心とする一九三三年の大小の戦闘で、もしわれわれが軍事的実力を十分に発揮できず、遊撃隊を上昇一路をたどる無敵の鉄の軍隊に発展させることができなかったとしたら、呉義成はわれわれを見くびり、門前払いをしたであろう。呉義成との合作が上首尾に終わったのは、われわれの力が強く、政治的・道徳的品格が救国軍よりすぐれ、われわれの熱烈な愛国心と国際主義的友愛心、自己の偉業の正当性にたいする確信が彼の共感を呼んだからである。
わたしは救国軍との合作を成功させて以来、統一戦線の最上の手がかりは主体的な力であるということ、この力を育てないではどのような友軍や友邦とも連合して戦えないということを座右の銘として、革命の主体をかためることに生涯をかけてきた。
東寧県城を討とうということでは呉義成と柴世栄も賛成した。わたしは羅子溝で、呉義成、史忠恒、柴世栄その他救国軍指揮官と連合会議を開いて具体的な作戦方針を立てたあと、再び汪清本部に手紙を送った。
呉義成との談判と東寧県城戦闘の成功によって、東満州の遊撃部隊と救国軍部隊、反満抗日勢力のあいだにわれわれの名が広く知れわたった。呉義成との合作過程を通して、われわれは統一戦線の強化こそ全般的抗日革命の推進において堅持すべき生命線であり、中心の環であることをいっそう強く確信したのである。
その後、間島を離れ、長白一帯に移ってからも、わたしは呉義成との合作を成功させた日々のことを感慨深くふりかえったものである。当時、東北抗日連軍に属した呉義成は撫松地区に拠点を置いて、われわれの側面で戦っていた。彼が近くにいると聞いて、共同闘争を進めた日々のことがなつかしくよみがえった。
わたしは百余人の隊員を引き連れて、呉義成部隊の密営がある西崗東方の森を訪ねた。呉義成は兵営の外へ飛び出してきて、わたしの肩を抱いた。二人は十年、二十年ぶりに再会した竹馬の友のように熱い抱擁を交わしたのである。硝煙にくすんだ呉司令のざらざらしたひげが頬に触れた瞬間、なぜかわたしは喉のつまるような激情に包まれた。自尊心の強い軍閥気質のこの中国人との再会が、なぜそんなにもわたしの胸を熱くさせたのだろうか。戦いのなかで結ばれた友情は格別なものである。呉司令が国籍を越え、ずっと年下のわたしを兄弟のように心から歓待してくれたことに、わたしは深く感動した。
弾雨のなかで結ばれた友情。世にそれ以上に真実で強く熱い友情があるだろうか。もっとも親しい人間同士の友情を戦闘的友情と呼ぶ理由はここにあるのではなかろうか。
虎の敷き皮に体を斜めに横たえ、鷹のようなするどい目で相手の人となりを探っていた往年の横柄な面影はどこにも見られなかった。数千の部下を叱咤する緑林の豪傑というより、田夫とでもいったほうが適切な素朴な風貌であった。以前よりやせ、目の光もいくぶんにぶっているという感じだった。
わたしはそこで二日をすごして帰った。別れるとき、呉司令は百人の部下をわたしに譲ってくれた。わたしが辞退すると彼は怒ったように言った。
「金司令になにかがないとか不足するようなことはないだろう。しかし、大きな戦いを準備する金司令に、わしも親友としてなにか援助すべきではないか。この百人はわしが連れているより、金司令の麾下に置くほうがよい。麻につるるヨモギという言葉もある」
その後、わたしは呉義成に二度と会えなかった。同じ年の暮れに部隊を他人にまかせてソ連に行ったとは聞いたが、それっきり消息が絶えたのである。
呉義成は、われわれが共同戦線の偉業を切り開くさい、一時的に必要としたただの道づれではなく、実戦のなかで手を取り合い、砲煙弾雨をくぐった忘れがたい戦友である。呉司令が後半生をどのように送り、その最期がどのようなものであったかは、いまもってわからない。どこにも信ずるに足る情報がないのである。
彼が最期の瞬間まで国を愛し民族を愛して、その理念に忠実であったとすれば、わたしはそれで満足するのみである。
3 東寧県城戦闘
羅子溝談判後、反日部隊連合弁事処は救国軍工作を活発におこない、近隣の山林隊にも働きかけて反日連合戦線への参加を促した。
わたしは弁事処の助力を得て一九三三年九月初旬、羅子溝付近の老母猪河で、呉義成、史忠恒、柴世栄、李三侠などの反日部隊指揮官と東寧県城(三岔溝)攻略作戦を討議するための連合会議を開き、作戦方針を最終的に確定した。呉義成司令の提案で、わたしが作成した作戦計画が満場一致で採択されたのである。
われわれが羅子溝談判後ただちに東寧県城を攻撃せず、二か月以上の準備期間をおいたのは、この戦闘の意義をとくに重視したためであった。わたしは、この戦闘を抗日遊撃隊の公然化を完成する突破口とみなし、遊撃隊と救国軍の統一戦線協約も、この戦闘の勝敗によって実効いかんが決まるものと判断した。
戦闘が上首尾に終われば、反日部隊との連合戦線の土台は強固になり、失敗すれば、羅子溝談判の結実が無に帰し、構築されつつあった連合戦線は崩壊するであろう。そればかりか、数々の血戦を通してようやく積みあげた抗日遊撃隊の軍事的権威にも傷がつく。救国軍が統一戦線のせいで破滅したと慷慨すればたいへんなことになるのだ。
われわれにとって、それは大きな試験ともいえた。われわれの偵察資料と地方組織からの通報によれば、東寧県城には石田指揮下の五百人ほどの関東軍兵力と頃連隊長麾下の満州国軍一個連隊が駐屯し、さら
に満州国の警察と自衛団が集中配備されていた。それに彼らは大砲など近代兵器をそなえた堅固な城塞にこもっていた。
反日部隊指揮官の中には、東寧県城占領の可能性は三〇%にすぎないとみる者がいた。彼らは、連合会議の席上でも、攻撃側の兵力は防衛側の三倍にならなければならない、これは世界が公認する軍事教範の要求である、ところが、敵の兵力に比べてわが方はあまりにも劣勢であると懸念するのだった。
しかし、呉義成など他の指揮官たちは、それは李青天が学んだという日本陸軍士官学校あたりでしか通じない生兵法だから一顧の余地もない、と彼らの弱腰を戒めた。以前、救国軍が東寧県城の攻略に失敗したこともあって、一部の指揮官が「無敵皇軍」を豪語する日本軍の神話に恐れをなし、彼らを過大評価するのは無理もないことであった。
連合会議で作戦計画が採択されると、反日部隊連合弁事処は胡沢民の助言のもとに、戦闘に参加する兵力を各部隊に割り当てた。
われわれの遊撃隊は、汪清、琿春、延吉からそれぞれ一個中隊程度の兵力を参加させることにし、各中隊を羅子溝に呼んだ。わたしが引率した汪清中隊と白日平大隊政治委員が指揮する琿春中隊は、一九三三年八月末、羅子溝付近で感激的な対面をした。しかし連絡に行き違いがあって、延吉中隊は惜しくも集結場に到着できなかった。そのとき、延吉大隊からは部隊最強の崔賢中隊が選ばれていた。出発を前にして崔賢は各隊員に実弾百五十発と履き物一足ずつを分け与えた。北洞を発った中隊が強行軍をつづけて馬村に到着したのは、われわれが東寧県城戦闘をすませて小汪清に帰っていた九月中旬のことであった。
汪清中隊と琿春中隊は、救国軍将兵と住民の熱烈な歓迎を受けながら羅子溝に入城した。その中には近郷
の農民も少なくなかった。彼らの熱狂的な歓迎から、当地方の反日組織の熱い息吹を感じることができた。
手を振り歓声をあげる人びとの背後には、崔正和のような有能な革命家がいた。彼は羅子溝反日会長であったが、表面上満州国に仕えながら、内実は反日兵士委員会メンバーの資格で救国軍工作に専念し、われわれが羅子溝で示した反日共同戦線路線の正当性を広く宣伝していた。彼は人民に働きかけて救国軍部隊に多くの食糧や布類も提供した。
わたしは中国人街で部隊を整列させ、抗日救国を呼びかける演説をおこなった。ついで兵士の踊りと歌がくりひろげられた。道路ぎわの中国人商店主たちも店を閉めて見物に集まった。反日人民遊撃隊と救国軍が兄弟のように交歓する羅子溝の町は、お祭りのように賑わった。朝鮮人街も中国人街も全城市が楽しい雰囲気に包まれたのである。
若者たちは人民遊撃隊のうわさを聞くと、金隊長を一目見ようといって押しかけ、金隊長は平安道の人だ、咸鏡道だ、いや慶尚道の生まれだなどと言い争った。
子どもたちは三八式小銃や弾帯を珍しそうにさわってみたりした。 隊員は一人当たり、三つの弾帯を帯びていた。一つは腰にまわし、二つは両肩から掛け合わされており、一弾帯に百発、合わせて三百発である。
「祖国を取りもどすために苦労なさっているみなさん! 昼ご飯を一緒にいただきましょう」
女性たちが集まってきて、遊撃隊員の腕を取って思い思いに引いた。そこには羅子溝から四キロ、八キロと離れたところから昼食を用意してきた人たちも少なくなかった。
羅子溝に到着したその日、わたしは反日部隊連合弁事処員の案内で呉義成司令の宿所を訪れた。すでに顔なじみのわれわれは、なごやかに談笑した。六月の最初の談判のときのような腹を探り合うものではなく、人間対人間の虚心坦懐な心の触れ合いであった。
羅子溝に向かうとき、なによりも憂慮したのは、その間に呉司令が東寧県城戦闘を断念したのではなかろうかということであった。李青天のように、われわれとの合作を快く思わない者たちが、呉義成に東寧県城戦闘を思いとどまらせ、われわれと救国軍の関係を協商以前の状態に引きもどそうとしたのではなかろうか?… 反日部隊連合弁事処からは、李青天が抗日遊撃隊と救国軍との合作を流産させるよう柴世栄にけしかけている、呉司令にもその影響が及ぶおそれがある、とたびたび知らせてきていた。
しかし、それは杞憂だった。呉義成の統一戦線意志には変わりがなく、東寧県城の攻略を果たして、往年の敗北を挽回しようという決心はかたかった。呉司令がなによりも恥じていたのは、一九三二年末、日本軍に羅子溝を攻撃されてこうむった敗北であった。十数機の飛行機と数百の兵力をもって、日本軍は救国軍を容赦なく蹴散らした。羅子溝は廃虚と化し、救国軍は城南村、新屯子、石頭河子などに追われた。
「数の上では、わしらが日本軍より優勢だったが、それでも羅子溝を明け渡して山奥に逃げた。あのときのことを考えると、口惜しくていまも眠れない。羅子溝を占領した日本軍は、生きた人間の首を切り落として南門にさらしたが、わしらは仕返しもできず山奥にこもっていた。日本軍は恐ろしいとばかり思いこんでいたもんでな。なんとも恥ずかしい話だ。今度こそ東寧で思う存分仕返しをしてやる」
呉司令はこんなことを言いながら、たびたび腰の拳銃に手を触れた。復讐心に燃えるその態度からも、彼の決心のかたさがよくわかった。統一戦線の前途のためにも望ましい兆だった。
その日、わたしは潘省委と膝を交えたときのように、わたしの経歴をかいつまんで話した。呉義成も返礼にその経歴を語った。郷里が山東省東昌のどこそこだということや、彼に呉紀成という別名があったことも、そのときのざっくばらんな閑談を通じて知った。談話中、呉司令の宿舎の屋上には、二人の遊撃隊員が歩哨に立ち、救国軍のほうでも指揮部周辺に水も漏らさぬ警戒陣を張っていた。
うわさに聞いたとおり、呉義成はその日も、虎の敷き皮に体を横たえていた。肥大な体が不便なのか、椅子に座って格式張った談話をするのを好まないようであった。それで、わたしもおのずと木枕に片ひじをあて半ば横になって話すことになった。
彼は部下に、この方は大事な方だから、昼食の支度に粗相がないようにと言いつけた。わたしは、食事は用意させてあるから、心配には及ばないと辞退した。そのときわたしの食事の世話をしてくれていたのは、顔にあばたのある中国人隊員であった。呉司令はわたしの中国語が気に入ったようであった。父のおかげで上達した中国語が、呉義成と親しむうえでも大いに役立ったのである。
汪清中隊と琿春中隊は、羅子溝で重ねて大衆政治工作方途を討議した。わたしは遊撃隊員たちにこう強調した。
…救国軍が将来どの道を進むかということは、今度の戦いにかかっている。遊撃隊が先頭に立ってりっぱに戦えば救国軍はわれわれのあとにつづき、そうでなければ背を向けるだろう。だから、諸君は日常生活はもちろん、戦場でもつねに手本にならなければならない。今度の戦いは何挺かの銃やいくらかの米を得るためのものではなく、統一戦線のための戦いだ。われわれはこの戦いに統一戦線の運命をかけている。戦利品は残らず救国軍に譲ろう。彼らがアヘンに手をつけようと、なにに手をつけようと関知することはない。しかし、政治的道徳的な面では譲歩がありえないということを忘れてはいけない…
反日部隊の指揮官の中で、東寧県城戦闘方針を誰よりも積極的に支持したのは、史忠恒旅団長であった。抗日遊撃隊が羅子溝に滞留していたとき、わたしと史旅団長のあいだには国籍と所属を越えた真実の友愛が芽生えた。遊撃隊と救国軍の大部隊が羅子溝を発ち、東寧県城に向けて行軍していたときも、彼はずっとわたしのそばにいたがった。宿営もわれわれの隣でし、戦場でもわたしの部隊と行動をともにすることを望んだ。羅子溝から東寧県城まで数十里を行軍する日々に、わたしと史旅団長はさらに深く理解し合った。
九月初めに羅子溝を発った遠征部隊は、何日も路上を行軍した。その行軍は朝鮮共産主義者の高潔な革命精神と真の人間的風格を見せる場となり、抗日遊撃隊と救国軍の政治的・道徳的格差は、実生活と行軍の中で歴然と現れた。われわれはどこでも人民の軍隊らしく行動した。祠を見かけても、こわすことはもちろん、供え物に手をつけたり、欲しがったりするようなこともしなかった。中国人の村に入れば交歓会をしたり、ポスターを貼り口頭宣伝をしたりした。他の部隊は住民になにかと迷惑をかけたが、われわれは住民の手助けをして、水を汲み、臼をひき、脱穀を手伝い、垣根の手入れなどもした。朝鮮人村では、伝記物語も読んで聞かせた。すると、住民は民衆を尊重するりっぱな軍隊だと感動し、餅をつき、豚をつぶした。彼らは、ほかの部隊はどれも柄が悪く、粗暴だが、金司令の部隊は上品で、気さくで、人情も厚いので、自分の肌でもそいであげたいほどだ、といってほめたたえた。
われわれが人民を心から愛し、人民もまたわれわれを支持し、誠心誠意歓待する光景を目のあたりにして、史忠恒旅団長は、親指を立てて見せながら、金隊長の軍隊は世に二つとない粋な紳士軍隊だ、と称賛してやまなかった。彼は自分の部下にも、金隊長の率いる共産党の軍隊を手本にせよと、たびたび訓戒した。
「いま、行軍の先頭で、救国軍の恥をさらす者がいるが、諸君はそれを見習ってはいかん。品行が正しかったら、天もご照覧のはずだ。この旅団に女をからかったり、ひとの財産に手をつけたり、農民を怒鳴りつけたりする不届き者が現れたら、誰であれ厳罰に処する。いいか」
彼の訓戒は効能の高い覚醒剤となった。
救国軍の中には、暗闇の中で稲むらを見ても日本軍だといって逃げ出す者があった。こんなことが度重なると、わたしは遊撃隊を行軍の先陣に立たせ、救国軍はそのあとにつづくようにした。このなんでもない措置が遊撃隊員を発奮させた。彼らは、東寧県城戦闘の勝敗は稲むらを日本軍と見間違える救国軍にではなく、自分たちにかかっている、したがって統一戦線の車輪を動かす決定的な力も自分たち自身にあると痛感し、一路行軍を急いだ。
遊撃隊員は行軍中も学習をつづけた。ときには深刻な政治問題をもって論争もした。
「姜君、なぜ東寧県城を攻略するのか、わかりやすく説明してくれないか。羅子溝で隊長の説明を聞いたときは、ちゃんと理解できたようだったが、いまは、どうもわかったようでわからん」
遠征軍が老黒山の近くへさしかかったとき、汪清中隊のしんがりで一人の隊員がもっともらしく持ち出した質問であった。わからずに聞いたのではなく相手がどれほど理解しているかを確かめようとしたのである。質問された隊員も隅に置けなかった。
「ほう、さては他人のゴボウで法事をするつもりだな。そんなに物覚えが悪いんなら、教えてやろう。ついでだから、かぞえ歌で聞かせてやる」
彼は、相手に応答する暇も与えずほんとうにかぞえ歌をうたいだした。
ひとつとせ!
百雷落ちてもたじろぐな
たじろぐな
統一戦線張るのが第一だ
第一だ
ふたつとせ!
不抜の革命城塞遊撃区
遊撃区
ソ満国境へ広げよう
広げよう
みっつとせ!
身を切る寒風もここちよい
ここちよい
ソ連へのルートを開くこと
開くこと
… … …
質問した朴隊員は感心したように口をあんぐりさせた。
「ひゃあ、見上げたもんだ。おれのような石頭にも、東寧県城攻撃の目的が、空に輝く十五夜の月のようにはっきりしてくるよ」
実際、汪清中隊の姜隊員はそれだけの称賛に値した。第一次世界大戦の錯雑とした経緯もかぞえ歌でうたいあげ、九・一八事変の勃発から満州国成立までのおぞましい政治的災厄のなりゆきも、かぞえ歌の旋律に要領よくまとめてしまうのである。
東寧県城戦闘の目的をわかりやすく解いたかぞえ歌は、たちまちのうちに、汪清中隊から琿春中隊へ、琿春中隊から史忠恒旅団へ、そして柴世栄部隊へと広まった。救国軍兵士のなかには、行軍中にもかぞえ歌をうたう者があった。救国軍は遊撃隊の手本に見習おうと努めた。
しかし救国軍の将兵すべてがそうしたのではなかった。なかには、戦利品の分け前を考え、一攫千金を夢みる者も少なくなかった。部隊の活動地域をソ満国境へまで広げようとか、遊撃隊との統一戦線を成功させて満州を取りもどそうなどという、抗日の崇高な理念を話題にする者はほとんどいなかった。
「おい、東寧を占領すれば、アヘンがどっさり手に入るかな」
遊撃隊のあとにつづく史忠恒部隊の兵士が、仲間にこう話しかけた。
「そうだな。満州国軍が一個連隊もいるそうだから、アヘンは多いはずだ。アヘンのない満州国軍なんて考えられんからな。ところで、アヘンを吸わん男が、なんでそんなことを急に聞くんだ」
話しかけられた兵士は、いぶかしそうに見返した。
「それもわからんのか。アヘンはカネだし、カネはアヘンじゃないか。腰に一万両つるしていれば、コウノトリに乗って楊州にも行けるというものだ」
「それもそうだ。杭州見物もカネがなくちゃできないからな。おまえは一万両のアヘンをさげて、杭州にも徐州にも行くんだな。おれはただ、日本製の懐中電灯が一つ手に入ればいいんだ」
「たかが懐中電灯くらいのことで心配することはない。日本軍がうようよしているのに、懐中電灯の一つぐらい。…」
「ばかなことをいうな。アヘンも懐中電灯も戦いに勝たなくては手に入らんのだぞ。東寧県城がそんなにやすやすと落ちると思うのか」
聞くともなしに聞いたこの会話に、わたしの心は重くなった。
戦利品のことしか念頭にないあの救国軍兵士たちが、果たして「無敵皇軍の勇士」と白兵戦が戦えるだろうか? 中華民国万歳を叫び、肉弾となって砲台めがけて突進できるだろうか? 彼らの言動やいんうつな目には、なにかしら信頼しがたいものがあった。それは不吉な兆候であった。
老黒山では汪清遊撃隊と琿春遊撃隊の交歓会がもたれ、いま一度東寧県城戦闘の目的と軍事的・政治的意義を認識させる政治工作が進められた。それから、東寧県城近辺の高安村、烏蛇溝一帯に進出して敵情を確かめ、戦闘計画を確定した。その夜、われわれは東寧付近の地下党組織も探し出した。それは潘省委が綏寧中心県党委員会の書記を務めていたころ、東寧、高安村、新立村、老黒山などに設けて指導した組織であった。それが一九三二年の春に発覚して敵の追跡を受け、一部は汪清に逃れ、一部は東寧に残って地下にもぐった。そのさい、潘省委は、党員や共青員だけでなく遊撃隊員や一般大衆も多数汪清に移動させた。
彼は琿春へ向かうさい、東寧を訪れる機会があったら地下にもぐっている党員と共青員を探し出して、組織とのつながりをつけ、自分に代わって面倒を見てほしいといった。わたしはそれを忘れず、羅子溝で大衆政治工作要綱を発表するさい、住民政治工作に力を入れ、東寧県の地下党組織を再建するよう強調した。
わたしは高安村付近で探し出した数人の党員をもって東寧県地下党を復活させ、羅子溝地下党がその指導をおこなうよう、両組織のつながりをつけた。この地下党組織はその後、われわれに多くの情報を提供した。彼らの援助で、ソ連へのルートも容易に開くことができた。
東寧県地下党は、われわれが与える秘密工作任務を忠実に果たしたし、一九四〇年代まで健在だった。小哈爾巴嶺会議後、朝鮮人民革命軍部隊が白頭山密営とソ連領ハバロフスク周辺の訓練基地を拠点にして小部隊活動をくりひろげたころ、われわれは主に東寧のこのルートを利用した。多くの小部隊がそこを通って国内や間島に向かい、逆に白頭山からソ満国境地帯に入りもした。国内に派遣された個々の工作員も、沿海州に入るときはたいていこのルートを利用した。
ソ満国境一帯で偵察活動を活発にくりひろげた全文旭のグループも、東寧地下党組織の援助を受けた。当時、東寧県の向こうのソ満国境地帯で軍務生活をしていた国際主義戦士ヤ・テ・ノビチェンコ(〔3〕)も、朝鮮人民革命軍の小部隊がこのルートを通って行き来するのをよく見かけたと回想している。東寧の地下組織は、対日作戦時にも、敵の背後攪乱に積極的な役割を果たし、東寧県城の解放に大きく寄与した。
わたしは、高安村付近の住民や地下組織メンバーとの談話を通して、東寧県城の満州国軍連隊長は満州国に仕えているとはいえ、反日感情が強いこと、満州国軍と日本軍守備隊の関係は表面上平穏に見えるが、内面は軋轢がはげしいということも知った。
連隊長は県城内の中国人商店主らと親しく付き合っており、彼らの頼みごとを快く聞き入れているという。地下党員たちは商店主らとなじみが深かった。わたしは地下党員に任務を与え、中国人商店主に働きかけて、連隊長をわれわれとの合作に応じさせるようにした。
東寧県城戦闘は、一九三三年九月六日の夜から翌日の昼にかけておこなわれた。抗日戦争全般を通じて、一つの戦闘に二日間もかけた例はほとんどなかったと思う。
東寧県城の攻略で重点をおいたのは、西門外の稜線に二段づくりになっている西山砲台を奪取することであった。そこには何挺もの重・軽機がすえられていた。砲台と日本侵略軍本部のあいだには、深い交通壕と地下秘密通路があって、有事には予備部隊がいつでも投入され、攻撃を牽制できるようになっていた。以前、救国軍が東寧県城の攻撃に失敗したのも、この西山砲台のためであった。
わたしは防御任務を遂行する琿春中隊をチャジャク谷に配備し、汪清中隊を西山砲台の攻撃にまわした。
夜九時、敵陣にひそかに接近した遊撃隊の破壊グループは、城市攻撃開始を告げるわたしの銃声を合図に、西山砲台に一斉集中射撃を加えた。敵軍は交通壕と地下秘密通路からたえまなく兵力を増強し、熾烈な火力戦が数時間つづいた。
わたしは、西門から市内に突入した遊撃隊員に敵の兵営を封鎖させる一方、一部兵員を砲台の北側に迂回させて敵の火力を分散させたあと、破壊グループに、猛烈な手榴弾攻撃を加えて西山砲台を占領するよう命じた。夜が明けそめるころ、砲台はようやく抵抗をやめ、静かになった。わが主力部隊は日本軍守備隊の兵営を完全に包囲し、敵の必死の反撃企図を制圧した。日本軍は北門から敗走した。
便衣隊として市内に潜入していた救国軍部隊と、東門と南門から城市に突入した救国軍部隊も、それぞれの位置で戦った。
満州国軍の本営では、協同して日本侵略軍と戦おうというわれわれの申し入れに同意した。合作が成功すれば、城市は完全に陥落するはずであった。
ところが、このとき柴世栄麾下の一部部隊が満州国軍の占めている商店を荒らし、民家に押し入るなどの略奪行為を働きはじめた。これに怒った満州国軍は約束を取り消して猛烈に抵抗し、日本軍守備隊がこれに合流した。救国軍の一部の部隊は、驚いて占領区域を放棄し、城門外に逃走しはじめた。
一方、遊撃隊は決死の市街戦によって占領区域を広げ、敵兵を県城の一角に追いつめた。救国軍もこれに力を得て、兵器廠を占領し、軍需品置き場を攻撃した。市街戦は数時間つづいた。
連合作戦の目的が基本的に達成されたと認めたわたしは全軍に撤収命令を下した。遊撃隊は主動的に城外に撤退する救国軍部隊を火力で掩護した。
史忠恒旅団長が重傷を負って城市内に倒れているという報告を受けたのは、そのときであった。彼の部下は、旅団長を死地に残して城門外に退却してしまった。副官さえも彼を助けようとせず、命からがら城門の外に逃げだしてしまった。わたしのまぶたに、戦利品の話をしていた救国軍隊員の姿が浮かんだ。彼らがアヘンや日本製の懐中電灯に目がくらんでいたとき、わたしはただ、略奪とそれが全般的戦闘の進行に及ぼす影響を憂慮するのみであった。実際、そのような略奪は戦いのさなかに発生した。
ところが、彼らは上官を平気で見捨てる驚くべき行為までしたのである。およそ軍人というのは、上官を父とも母とも頼むものである。だから、救国軍は父母を死地に見捨てて逃げたことになる。わたしは戦争にかんするエピソードをいろいろと聞いてはいるが、こんな不孝者の話は一度も聞いたことがない。救国軍の略奪と上官を捨てて逃げる不忠不孝には一脈相通ずるものがある。物欲が結局、生命にたいする極端なエゴと、卑怯さに転化したのである。家で漏れる容器は外でも漏れるという祖先が残した名言には、なんと深い生活の真理がこもっているではないか。
戦いは日常生活の延長であり総括ともいえる。軍人の戦闘成果は、戦場ではなく、平時の生活ですでに決まるといっても過言ではない。戦いはその日常生活の反映であり、端的な表現にすぎないのである。
歴史は、道徳的に退廃した軍隊が勝利者の壇上にあがった例を知らない。ヒトラー・ドイツのナチス軍が敗戦の泥沼に陥没したのも、彼らが人倫を否定し、戦車で善と美を踏みにじった道徳的敗北者であったことに主因がある。無敵を誇った日本軍が落日の運命をまぬがれなかったのも、軍隊の道徳的腐敗にあった。日本は、日本軍を世界でもっとも野蛮で恥知らずな軍隊だと糾弾し、憎悪する数十億の善良な人民と、国際的連合軍の包囲の中で窒息せざるをえなかったのである。
日本軍のように、戦場に「慰安婦」まで連れて歩きながら他国を侵略し、人間を屠殺した例は、世界の戦史にまたとないであろう。
戦争は力の対決にとどまらず、道徳と倫理の対決でもある。戦争過程で道徳の影響力を無視するか、道徳そのものを無用の装いとみなすなら、そのような軍隊は一つの巨大なごみの山のようなものである。
わたしは、崔春国に史忠恒の救出を命じた。崔春国は命を賭して遂行した。遊撃隊は生命を賭して救い出した史忠恒を背負って、火力に掩護されながら高地に無事撤収した。遊撃隊員たちは、上官を見捨てた史忠恒の部下を、不届き者だとののしった。救国軍隊員の行為を思えば、そのような非難は当然であった。しかし、そのことで遊撃隊と救国軍のあいだにひびが入るようなことはなかった。
東寧県城戦闘の意義は、敵軍を数百人殺傷したことにだけあるのではない。大切なことは、この戦いによって救国軍が朝鮮共産主義者を完全に信頼するようになったことである。反日人民遊撃隊は東満州で、以前と同じように赤旗をかかげて公然と活動できるようになった。東寧県城戦闘は救国軍の意識に、朝鮮共産主義者の正しいイメージを植えつけたのである。
それ以来、中国の反日部隊は、われわれに危害を加えようとする者があれば、進んでわれわれをかばい反撃を加えた。
「一九三三年九月七日は、わたしが二度目の生命を得た日だ。いままでの生命は両親から授けられたものだったが、九月七日以後の生命は
これは史忠恒が意識を取りもどしたときにいった言葉である。彼の口をとおして、抗日遊撃隊はじつに犠牲心に富んだ軍隊であり、同志的義理に厚い軍隊である、という伝説的なうわさが満州各地に広まった。
東寧県城から羅子溝まで数十里の帰途、わたしはずっと史旅団長につきそった。初日は遊撃隊員が担架で運んだ。救国軍の兵士たちは、上官が遊撃隊員の担架で運ばれているのを見ても、あえて近づくことができず、遠くから眺めているだけであった。副官が隊員と一緒にやってきて司令を引き取りたいといったが、遊撃隊員は彼らを追い払ってしまった。
副官が三度目にやってきたとき、わたしは、史忠恒の横たわっている担架を救国軍に引き渡すよう命じた。彼らも自覚のある人間だから、もう自分たちの過失を反省しているはずだ、彼らに担架を運ぶ権利だけでも譲れば、戦場で犯した罪をいくらかでもつぐなわせることができるだろう、と遊撃隊員に言い聞かせたのである。
史忠恒を引き取った救国軍の兵士たちは、申しわけなさそうに頭を下げた。史旅団長は部下に見捨てられたことをたいへん残念がりながらも、兵士の卑怯な行為にたいしては、上官の立場からむしろわたしに許しを請うた。
「金司令! あの出来損ないどものために、会わせる顔がない。わたしが部下をしっかり仕込めなかったせいだから、あれらを叱らずにわたしを叱ってくれ」
部下の恥辱をおのれの恥辱とする彼の態度に、わたしは感動した。史忠恒が部下にあたり散らしたり、少しでも恨みごとをいっていたなら、わたしはさほど心を動かされなかったであろう。彼はじつに闊達で、度量の広い武官であった。
「中国のことわざに、甘いマクワウリにも苦いへたがあるというのがありましたね。いつでも嫌気のしない人間などいるはずがなく、いつでも美しい花というのもないでしょう。史旅団長が致命傷を負いながらも、こうして元気を取りもどしたのですから、わたしはそれで満足です」
「馬を買うなら歯を見よ、人と付き合うなら心を見よという言葉がある。金司令のような人と知り合ったのは、天から授かった好運と考え、それを生涯大事にするつもりだ」
史忠恒はわたしより十二、三歳年上だったが、反日共同戦線を張る途上で、わたしと血を分けた戦友となり、同志となった。東寧県城戦闘後、彼は部隊の駐屯地を馬村からほど遠くない西北溝に移した。二人は親類を訪問するようにたえず往来し、親交を温めた。
史旅団長の銃創の治療に役が立てばと、わたしはいろいろと薬を贈り、彼が正しい思想に目覚めるよう共産主義的な影響も多く与えた。そうするなかで、彼は共産党に入党し人民革命軍の指揮官に成長した。
史忠恒は、一九三四年六月の羅子溝戦闘でも反日連合作戦を成功させるためりっぱに戦い、人民革命軍に編入されてからは、独立第二師師長として多くの武功をたてた。彼は戦場ではつねにモーゼル拳銃をかざし、真っ先に敵陣に突入したものである。それで彼の部下は、史旅団長のようにりっぱな指揮官はいないとまで考えるようになった。他の救国軍部隊の兵士たちも史旅団長を尊敬し、心から慕った。彼らの中には、自分の部隊を捨てて史忠恒の部隊に移ってきた者も少なくなかった。
史忠恒は老松嶺戦闘でも先頭に立ち、腹部に致命傷を負った。銃弾が腹部に残っていたので、それを取り除くためソ連へ運ばれていったが、彼地で息を引き取った。史旅団長の追悼式がおこなわれたと聞いて、わたしは深い悲しみに包まれ、追憶にひたった。
東寧県城戦闘を通して、抗日の志でわれわれと強く結ばれた柴世栄もやがて人民革命軍に編入され、第五軍副軍長をへて軍長になった。彼は北満州を活動拠点とし、周保中の下でわれわれとの兄弟的連帯をかためるために多くの努力を傾けた。一九四〇年代前半期まで、柴世栄とわたしは強く結ばれていた。
東寧県城戦闘で、抗日遊撃隊と反日部隊の共同戦線が切るに切られぬほど強固になったとき、その共同戦線を瓦解させかねない、思わぬ出来事が発生した。発端は、蒋介石を賛美した呉義成の発言であった。羅子溝に帰ったわれわれは連合集会を開き、共同で東寧県城戦闘の総括をおこなった。集会で最初に発言した呉司令は、連合部隊の勝利に触れながら、なにを思ったのか、だしぬけに蒋介石を称賛し、南方の蒋介石から大砲や軍隊を送ってもらえば、東北の抗日戦争が今後も勝利一路をたどるであろうといった。それが遊撃隊員の憤激を買ったのである。琿春遊撃隊の引率者白日平は、それを聞くとやにわに壇上に駆け上がり、蒋介石が帝国主義の狗だということを知らない者はない、その彼がどうしてわれわれを援助し、指導することができるのか、蒋介石を擁護し、たたえる呉司令は反動だと決めつけた。
呉義成は真っ赤になって怒り、白日平を逮捕し、銃殺すると息まいた。
今度は、白日平の隊員たちが激昂した。おれたちは東寧県城の戦いで一人の隊員も失わなかった、統一戦線のために上官を失うというのはもってのほかだ、指揮官を失ってはおめおめと琿春に帰れない、たとえみんな討ち死にするようなことがあっても、最後まで呉義成と戦って、白日平同志を救い出そう。彼らはこう口々に叫んで銃を構えた。救国軍も彼らに銃を向けた。
一度銃声が上がれば流血の惨事が引き起こされ、せっかく成功した統一戦線が崩れ去る一触即発の瞬間を目の前にして、呉義成は顔面蒼白になり、唇をぶるぶるふるわせていた。
わたしは演壇の前に進み出て、朝鮮語と中国語を使い分けながら、両方の兵士をなだめたあと、呉司令をいさめた。
「呉司令! お腹立ちとは思いますが、ここは寛大に白日平を許してやってください。彼が司令の体面を傷つけ、反動だとまでいったのは礼を失したことですが、呉司令も少し考えてみるべき問題があります。全中国が蒋介石を帝国主義の狗だと糾弾しているときに、彼をそんなに持ちあげては、快く思う人がいるでしょうか。旧東北軍は抗日をしてはならないと、九・一八事変が起きる前から張学良に釘を刺したのは蒋介石ではありませんか。白日平を銃殺すれば、全満州が呉司令を逆賊だと指弾するでしょう。ここは深く考えるべきだと思います」
わたしが言い終わると、救国軍兵士の中から、「誰だ、あれは? 南方から来たのか?国民党の派遣員か?」と、いう声が聞かれ、「なにが南方だ。
「わしは無学なためにあんなことをいったが、わしと蒋介石を同類と見ないでくれ」
呉義成はこういって、銃殺命令を取り消した。しかし、それから二日たっても白日平を釈放しようとしなかった。
こうなると、救国軍の平隊員たちが、司令はおろかな人間だと非難しはじめた。
「呉司令はなぜ金司令との約束を守らないんだ」
「おれたちが殺さなければそれまでだ。呉司令が殺したかったら、好き勝手に殺せると思っているのか」
「白日平を殺せば、おれたち救国軍が天罰を受ける」
兵士たちがこんなことをささやきあっているとき、将校たちは呉義成に白日平の釈放を促す手紙や陳情書を送った。白日平は三日目にようやく釈放された。
反日部隊との共同戦線が実現する路程は、このように多くの苦労と忍耐と犠牲をともなった。血液型の異なる二つの「生命体」の結合が、どうしてなんの曲折も苦衷もなしに、やすやすとなされるだろうか。
敵軍は、東寧県城戦闘で戦死した将兵の死体を三日がかりで火葬した。わが方は胡沢民を失った。羅子溝への帰途、銃の暴発で命を落としたのである。
4 極端な軍事民主主義を論ず
ソビエト路線が政権建設分野における極左的偏向であったなら、極端な軍事民主主義は軍の指揮、管理に現れた極左的思想傾向であった。極端な軍事民主主義というのは、軍の指揮、管理で各軍人が上下の別なく同等の権限を行使すべきであるという主義主張、つまり軍事行動のすべての面で過度の平均主義を主張し、それを絶対視する思想である。
遊撃隊内に極端な軍事民主主義が胎動していることにはじめて気づいたのは、南満州遠征を終えて汪清に帰り、遊撃隊の指導にあたったときのことである。当時は、極端な軍事民主主義の偏向が現れはじめたばかりで、きわだった弊害はまだ見られなかった。
東寧県城戦闘後、汪清に帰ったわたしは遊撃隊の活動を検討する過程で、萌芽にすぎなかった極端な軍事民主主義が、いまや軍内の指揮体系をむしばみ、麻痺状態に陥れていることを知った。
極端な軍事民主主義の危険性を告げる最初の警鐘は、一九三三年秋、琿春県大荒溝で打ち鳴らされた。大荒溝は琿春の中心遊撃区で、コミンテルンの派遣員潘省委が朴斗男に殺害されたところである。ここで、東寧県城戦闘に参加した琿春遊撃隊の勇士のうち十三人が枕を並べて戦死するという事件が発生し、東満州全人民の悲憤を呼び起こしたのである。
羅子溝で戦闘の総括をして遊撃区に帰った琿春中隊は、ある一軒家でしばらく休息し、中秋をすごした。
その二日後も、彼らは歩哨を立てて終日休息をとっていた。ところがそれを内偵した日本軍守備隊が、夜半に一軒家を包囲したのである。この場合、敵の盲点を突いていちはやく包囲網を脱け出すのが上策である。そのためには、指揮官が状況判断を的確におこない、ただちに決断を下さなければならない。ところが、隊伍の責任者である中隊長には結論を下す権限がなかった。一行のなかには呉彬のような有能な軍事指揮官がいたが、極左分子の策動で県党委員会軍事責任者の地位から平隊員に落とされていたため、彼の発言は無視されていた。当時、上級党組織の指導部をしめていた極左分子は、指揮官に軍事問題の結論権を与えなかった。軍事作戦にかんする問題は一から十まで必ず会議にかけ、多数決の原則で集団的に決めなければならないというのが、彼らの主張であった。それは軍の指揮、管理上、誰も背くことのできない鉄則として、指揮官の手足を縛っていた。指揮官が結論を下せないのは無能のせいではなく、極端な軍事民主主義の重圧によって指揮機能が麻痺していたからである。
敵兵が一歩一歩包囲を狭めている危急な状況のもとで、彼らは、戦うべきか、包囲を破るべきか、といたずらに討議を重ねた。一部の隊員がたまりかねて、論争ばかりしていては皆殺しになる、いったん戦闘からはじめてみるべきだと提案したが、極端な軍事民主主義に毒されていた隊員たちは、会議の決議もなしにどうして戦えるのか、と一蹴してしまった。それは包囲された遊撃隊を壊滅させる犯罪的な自殺行為であった。討議が空まわりしているうちに、敵の攻撃が開始された。それでやっと会議を中止して応戦したのである。
雨あられとそそぐ敵弾に、十三人の遊撃隊員が命を落とし、生き残ったのは何人もいなかった。その一人が呉彬の遺言で汪清のわたしのところに駆けつけ、十三勇士が戦死したいきさつをくわしく話してくれたのである。
戦死者のなかには白日平と呉彬もいた。彼の話によると、彼が死体を掻き分けているとき、腹部に貫通銃創を負った呉彬が、腸のはみだしていることにも気づかず、最後の力をふりしぼって、こう頼んだという。
「ぼくはいま、君に命令する権限がない。しかし党員として頼みたい。きょうのこの出来事を、必ず
わたしは、極端な軍事民主主義の主唱者と、それを戦闘に盲目的に適用した教条主義者を呪った。極端な軍事民主主義にむしばまれていなかったなら、琿春中隊の同志たちはいちはやく包囲を切り抜け、十三人もの犠牲者を出す惨事をまねくようなこともなかったであろう。
その十三人はいずれも、東寧県城戦闘をともに戦った忘れがたい戦友であった。戦いを終えて東寧県城から撤収するときに防御隊の任務を果たした彼らは、汪清部隊がじつによく戦ったと喜び、競って握手を求め、わたしを肩車に乗せたり、胴上げしたりした。犠牲になった戦友たちの追悼式では声を上げて泣き、追悼の辞も述べた。あれほど情熱に燃え、愛情の深い同志たちが、一夜のうちに十三人も命を落としたのであるから、こみあげる憤りをおさえることができなかった。
なかでも、呉彬は誰よりも忘れがたい戦友であり同志であった。彼は、わたしが六邑地区を開拓するさい、蔡洙恒の紹介で親交を結んだ同志である。蔡洙恒が竜井で大成中学校に通っていたころ、呉彬は同じ都市の東興中学校で学んでいた。両校はともに、社会運動と独立運動の人材を輩出した。二人は竜井で学生運動にも一緒に参加した。呉彬は蔡洙恒とともに、わたしが主宰した共樹徳会議と冬の明月溝会議にも参加し、武装闘争方針を確定する問題の討議に積極的に関与した。
呉彬と蔡洙恒がわたしを鐘城に案内したのは、一九三一年五月のことだったと思う。鐘城は蔡洙恒の故郷でもあった。彼らと舟でひそかに豆満江を渡り、新興村に第一歩を印したのがきのうのことのようにありありと思い浮かぶ。すがすがしい新緑の柳、古色蒼然とした古城の跡、美しい祖国のたたずまいに胸を高鳴らせながら、国の未来を語り合ったものである。
その年の春、わたしは、新興村の北門の外で鐘城反帝同盟の責任者として活動していた呉彬の父親呉義善にも会った。延吉県茶條溝で小作人をしていた彼は、息子が職業革命家になったあと、所帯をたたんで新興村に移ったのである。彼の家はやがて、汪清地区の反日人民遊撃隊と鐘城郡内のすべての地下革命組織とを結びつけるアジトになった。
わたしが新興村に行くと、呉彬の家ではいつもソバを打ってくれた。一九三三年五月の端午もそこですごしたのだが、そのとき、呉義善は十二キロも先の豊渓市場からソバ粉を買ってきて、昼食に平壌冷麺をしのばせるソバをもてなしてくれた。
その端午の日の印象のなかで、いまもって忘れられないのは、飲料水が近くになくて困っている一家のために、その家の庭に地下水の流れを探り当てて、浅井戸を掘ってやったことである。琿春で武装闘争に専念している呉彬に代わり、息子になったつもりで、わたしはせっせとシャベルをふるった。
東寧県城戦闘をひかえて、羅子溝で呉彬に会ったとき、新興村の父親からもてなされた端午の日の冷麺の話をすると、彼はうれしそうな表情をした。琿春で軍事責任者から平隊員に落とされたころだったが、彼には失望したり、元気をなくしたりした様子が少しもなかった。
わたしが気を落としてはいけないと慰めると、彼はこう言った。
「ごらんのとおり、ぼくは元気一杯だ。軍事責任者が隊員になったからといって、呉彬が金彬になったり、朴彬になったりするわけはない。けれども琿春ではもうなにもしたくない。東寧県城戦闘がすんだら、上級に申し出て汪清に移りたいと思うが、隊長はどう思う?」
「君が汪清にくれば、それにこしたことはないが、君に民生団のレッテルを貼る極左分子は汪清にもうようよしているよ」
「そうだろうか?」
「汪清だからといって、極左の風当たりが弱いわけではない」
「でも隊長の近くにいれば、気持がずいぶん楽になりそうだ。とにかく、ぼくはきっと汪清に移ってみせる。この呉彬に二言はない」
呉彬は手榴弾を持って西山砲台占領の先頭に立ち、突撃路を開いた。その戦功は、戦闘総括で、当然高い評価を受けた。総括後、羅子溝で部隊が別れるときも、彼は自分の決意を改めて表明した。汪清に移る決心はかたかったのである。彼は、東寧県城戦闘のさい、汪清の隊員たちが西山砲台を占領し、城市に突入するその戦いぶりを見て、決心をいっそうかためたという。
もちろん、わたしは力添えを約束した。ところが、約束を果たす前に、彼が戦死したという悲報が汪清に届いたのである。春に李光を失い、夏は潘省委が落命し、今度は呉彬がその切望を果たせずに不帰の客となった。
呉彬ら十三勇士の最期は青天の霹靂にもひとしい衝撃であった。それ以来、わたしは極端な軍事民主主義には戦慄にも似た嫌悪の念をもよおし、どんな場合にもそのような要素が隊内に発生するのを決して許さなかった。
わたしがそれほどの嫌悪と警戒心をもって極端な軍事民主主義を排撃したのは、それが革命になんの役にもたたない、百害あって一利のない思想的傾向だったからである。
われわれは現在も、軍事作戦にかかわる問題はすべて党組織で討議するのを鉄則としており、大衆の意見が党組織を通して軍事作戦の樹立に反映されることを歓迎している。しかし、そのような集団的合議制が、部隊の管理に責任を負う指揮官の権限に抵触するのは許さない。
だが抗日戦争初期、極端な軍事民主主義は集団的合議制の名のもとに指揮官の権限を侵し、部隊の管理と軍事作戦における指揮体系を麻痺させた。当時、軍内では軍事作戦を立て戦闘をおこなうさい、党員の創意を引き出すためにグループ会議、支部会議、各級委員会などの党会議を開き、今日の軍人総会のような機能を果たす全隊会議も開いた。しかし、そこには状況を考慮するという原則があった。ところが、極端な軍事民主主義をナポレオン法典のように絶対視していた極左分子は、軍事問題はすべてその大小や状況にかかわりなく、必ず各級党組織と全隊会議で討議しなければならないと主張した。
たとえば、革命軍がある都市の攻撃を計画する場合、まず党グループ会議がおこなわれる。都市の名は伏せておき、ただその都市の略図を書いて、攻撃する必要があるかどうか、あれば、どのような方法でやるかということを決めるのである。グループ会議で戦闘の必要性と勝利の可能性が認められ、具体的な作戦が決定すると、つぎは支部総会で同じ問題を前と同じやり方で討議し、挙手によって可決する。つぎは全隊会議である。全隊会議で討議される内容と手続も、グループ会議や支部総会と異なるところがない。違いといえば、党員でない軍人も討議に参加できることである。われわれはいま、Aという都市を攻撃する予定である、この都市を占領すれば、政治的にも軍事的にも多くの利益がある、損失はなく、犠牲も少ないであろう、作戦計画はこれこれしかじかである、この計画どおりに戦えば必ず勝利する、というように討議を進め、決議を採択する。これにしたがって戦闘命令が下され、A市への進撃がおこなわれる。
池に石を投げるようなやり方で、予告もなく議題を持ち出しては、大勢の人間が結論を引き出すまで、やろう、やめよう、できる、できない、勝てる、破れる、などと論争するのだが、軍事民主主義のおかげで誰もが同等な発言権をもって、負けず劣らずに意見を出し合い、論議はいつ果てるとも知れず際限なくつづくのである。そうしているうちに敵情が変わると、各級会議でせっかく討議、決定した作戦は使いものにならなくなったりする。たとえその作戦が実行に移されるとしても、状況の変化に即応できないので、革命軍は大きな損害をこうむらざるをえないのである。
十三人の犠牲者を出した大荒溝事件は、極端な軍事民主主義がまねいた弊害の典型的な実例だといえよう。
極端な軍事民主主義のいま一つの表現は、民主主義の名のもとに革命軍内で過度の平等主義、平均主義が主張されたことである。そのような例は、わたしの指揮する部隊にもなくはなかった。
ある日、わたしは県党委員会軍事責任者金明均と一緒に、第一中隊の活動状況を点検するため中隊の兵営を訪ねた。そこでは、中隊長がほうきを手にして庭を掃き、片隅では中隊政治指導員が隊員とまきを割っていた。上下一致の美風をまのあたりにして、わたしはほほえんだ。ところが、軍事責任者の金明均はどうしたわけか、にがりきった顔をしていた。
「指揮官たちがあのように率先垂範しているのは目の保養になる」
わたしがこういっても、彼の顔つきは変わらなかった。
「ついでに、わたしたちも一緒に庭を掃いてやろう」
わたしは、庭の隅に転がっているほうきのほうに向かって歩き出した。
すると、金明均はわたしの袖をそっと引いた。
「いま、あきれた場面を見せてやろう」
彼は当直官に、中隊長と政治指導員をすぐここへ呼んでくるようにと命じた。当直官はすかさず、「いまは朝の掃除の時間です」と答えた。
「呼んでこいといったら、呼んでくるべきじゃないか。なにを口答えしてるんだ!」
金明均は頭から怒鳴りつけた。当直官はそれでも引き下がろうとしなかった。
「そんなことをしたら、中隊長と政治指導員が全隊会議で批判されます」
わたしは腑に落ちず、金明均にわけを聞いた。
「中隊長や政治指導員も人格上は隊員と同等だから、隊員が掃除をするときは、なにはともあれ掃除に参加しなければならないというわけだ」
これは、まだ極端な軍事民主主義がはびこる前のことであった。このような盲目的な平等思想はその後、遊撃隊の軍事行動に影響を及ぼし、軍の指揮体系を一時麻痺させた。
もちろん、すべての人間、すべての軍人は人格上平等だといえる。しかし抗日遊撃隊や今日の人民軍のような革命軍では、各人がその責務にしたがって任務の分担を異にしている。ある軍人には中隊長の責務が、またある軍人には小隊長や分隊長の責務が負わされる。
それぞれの責務と任務の分担によって、革命軍内には上下関係が存在するようになる。中隊長は小隊長の上級であり、小隊長は分隊長の上級であり、分隊長は隊員の上級である。革命軍の軍務条例には、下級は上級の命令、指示に絶対服従すべきであると規定されている。これなしには軍を指揮、統率することも、軍隊の鉄の規律を維持することもできない。抗日遊撃隊の軍務条例は軍人たちの意思を十分に反映したもので、指揮官がそれを自覚的に守るよう求めている。
ところが、「左」翼日和見主義者は、抗日遊撃隊の軍務条例に規定されている上下関係を無視した。それは、規律と秩序、将兵一致を生命とする抗日遊撃隊の生活規範を乱し、その道徳的基礎をうちくずす結果をまねいた。
極端な平等主義は軍内で極端な軍事民主主義として現れ、平等の名のもとに、下級が自ら推挙した上級を尊敬せず、ぞんざいな言葉づかいをし、上級の命令に異議を申し立てるような現象まで生じた。下級が上級に敬礼もせず、ぞんざいな言葉づかいをし、上級の命令、指示に可否を論じるようでは、それはもはや軍隊ではなく烏合の衆である。そのような軍隊で、兵士は指揮官の盾となり、指揮官は兵士の先頭に立って肉弾となる高潔な同志愛、そして思想・意志の統一を望めるであろうか。またその隊伍を、全隊員が同じように語り、同じように歩み、同じように息をつく、鋼鉄の統一体にかためることができるだろうか。
極端な軍事民主主義は、戦闘にさいして、指揮官に隊員と同じように行動することを求めるところにも現れた。牛の角もおのおの念珠もおのおの、ということわざは、何事であれ各人にはそれぞれの持場があることを教える単純な理である。それなら、戦場で指揮官のなすべきことと隊員のなすべきことは同じでないはずである。これは三つ子にも理解できる簡単な道理である。
ところが、極端な軍事民主主義者は指揮官に向かって、突撃するときは先頭に立ち、防御するときは前面で敵弾を防げと説いた。こうした要求は、指揮官の戦場における責務の遂行を不可能にした。広い視野をもって戦況を不断に見守り、多角的な指揮をとるべき指揮官が最前線に立って隊員と一緒に戦うので、部隊を戦況の推移に即応して動かすことができないのである。
もちろん、ときには指揮官が先頭に立って隊員を突撃へと導くときもあり、敵弾が炸裂する塹壕をまわって戦闘員を励ますこともある。部隊が苦境に陥り、それを順境に変えなければならないとき、指揮官の先駆者的な手本が必要とされるならば、当然、先頭に立って隊員を敵撃滅へと奮い起こさなければならない。だからといって状況にかかわりなく、そんなふうにばかりするのは率先垂範とはいえないのである。
当時の戦闘総括では、指揮処を離れて突撃の先頭に立ち、隊員と同じように行動する指揮官は、いつも称賛を受けた。隊員たちは、どの小隊長は高地に敢然と立って戦闘を指揮し、銃弾が降りそそいでもたじろがなかった、どの中隊長は敵陣に突入するとき、隊員より二、三メートルは先に進む、自分たちの大隊長ほど勇敢に敵陣に躍りこみ、白兵戦を展開する大隊長はいないだろう、などと上官をほめそやした。
戦闘規定の示す位置で戦いの動きを全般的に正しく見きわめ、部隊のつぎの行動を決定しなければならない小隊長や中隊長、大隊長が、持場を離れ、ひとりで敵中深く突入する無謀な行為は、このような雰囲気に乗って東満州のすべての遊撃隊に広まった。抗日戦争初期、小隊長や中隊長など遊撃隊の基本的単位の軍事指揮官が多く戦死したのは、そうした風潮のせいであった。
汪清遊撃隊でも単独突入の名手が輩出した。金喆、金成鉉、李応万たちがその例である。金喆と金成鉉は真っ先に突進して戦死し、李応万も先頭に立って戦い、足首に深手を負った。
延吉の崔賢と曺道彦は、東満州で知らぬ者のない突撃名手であった。彼らは偵察も隊員にまかせず、自分でやった。軍事指揮官というよりは、中学生のようにがむしゃらに駆けまわる天真爛漫な冒険家であった。
曺道彦は延吉遊撃隊が生んだ名だたる冒険家であった。口ラッパをよく吹くので、延吉地方の人たちは早くから彼を「曺ラッパ」と呼んでいた。彼はどこでも、このニックネームのおかげで人びとの注目をひいた。人びとは彼が口ラッパを吹かなくなって久しい壮年時代はもちろん、白髪の晩年にも、本名より「曺ラッパ」と呼んだ。それは、抗日戦争の砲煙弾雨の中をいつも先頭に立って突っ走っていた闘士、曺道彦にたいする愛情の表現でもあった。一生「曺ラッパ」と呼ばれてきた彼は、本名で呼ばれるとむしろ妙な顔をしたり、残念がったりしたものである。
ある日のこと、外で「こちらは曺道彦同志のお宅ではないでしょうか」と尋ねる声がした。すると、曺道彦はむくれたような声で、「この家に『曺ラッパ』はいるが、曺道彦というもんはおらん。ここは『曺ラッパ』の家だ」と答えて、客をまごつかせたことがあった。これほど彼は、抗日戦争時代に戦友からつけられた愛称に大きな愛着を覚えていたのである。
曺道彦が故人ではなく生きているなら、わたしもいま本名のかわりに大衆があれほど愛していたニックネームを使って、彼のことを回想したであろう。
両親の名前もまともに書けなかった曺道彦は、青年時代になって夜学に通い、そこで朝鮮語の文字を習い、九九と『幼年必読』を学んだ。彼は非識字者という路地裏から抜けだすやいなや、組織生活に参加し遊撃隊にも入隊して、中隊長の重責を任されるほどになったのである。彼は中隊長になってからも、敵の砲台近くまで入りこんで敵情を探り、中隊にもどって襲撃命令を下すと、また先頭に立って疾風のように突進する格別な軍人であった。
極左分子は、彼が白昼に敵情を探り、自衛団を襲撃して一度に多くの武器を分捕ってくると、各種の集会や公式文書で、その武勲を大々的に宣伝した。しかしそれは、彼がそんな冒険をつつしまなければならない指揮官であることをまるで考慮しない、一面的なものであった。とにかく、そのような宣伝で、彼は東満州でほとんど知らない者がないほど名声をとどろかせた。
彼は、大甸子戦闘でも部隊の先頭に立ち、機関銃座めがけて走り致命傷を負った。機関銃のすぐ前まで近づいていたので、敵弾は腹部から背中にかけて斜めに貫通した。彼は奇跡的に生命を取りとめたものの、その傷のため六年ものあいだ病床ですごし、あれほど愛していた中隊にはついに復隊できなかった。
彼が病床にあったのは、抗日武装闘争が大部隊活動に移って南北満州と国内に活動地域を広げ、上昇一路をたどっているころであった。朝鮮人民革命軍は広く世に知られた伝説的存在となり、その正義の戦いは、世界の被抑圧人民に光明をもたらす灯火となった。抗日戦争は、新たな師団や連隊を指揮する有能な人材、百戦の老将を必要としていた。曺道彦が戦闘能力を喪失していなかったら、抗日戦争がめざましい高揚期にあったとき、赫々たる武勲を立てていたことであろう。
軍内に極端な軍事民主主義が横行したころ、極左分子は指揮官の安全をまるで考慮しなかった。連隊と師団に指揮官の護衛任務を担当する警護隊が編制されたのは、その後のことである。
極端な軍事民主主義はまた、軍内で賞罰を適用する場合の平均主義にも表現された。
抗日遊撃隊は、部隊の戦闘力を強化する措置の一つとして賞罰制を設けていた。戦闘と訓練、日常生活で手本を示した軍人には賞を与え、軍務条例に背いた者は処罰した。賞には功労に見合った等級をつけ、罰も過ちの軽重によって適用されていた。ところが、極端な軍事民主主義者はこれを無視して、なぜ誰それには一等賞を与え、同じ分隊で同じ任務を遂行した誰それには二等賞を与えるのか、誰それは注意処分にしながら、同じ過ちを犯した誰それはなぜ警告処分にするのか、などと難癖をつけ、賞罰を平均主義的に適用するよう世論をあおり、圧力を加えた。これは、軍の戦闘力の強化を目的とする信賞必罰の根本原則に背く超現実主義的な立場であった。
一言でいって、極端な軍事民主主義は抗日遊撃隊の軍事的・政治的・道徳的優位性を不断に発揚し、抗日武装闘争を勝利のうちに前進させようとするわれわれの志向と努力にブレーキをかける、有害な思想的傾向であった。このような思想的傾向をすみやかに克服しなければ、抗日遊撃隊のすべての指揮官は遅かれ早かれかかしも同然の存在となり、遊撃隊は上下関係も、指揮官と兵士の区別もない無秩序な集団に転落し、内部から武装解除させられるのは必定であった。
極端な軍事民主主義は、その表現形態がどうであれ、小ブルジョア思想に根ざす日和見主義的な思想傾向であった。それは事実上、一種のアナーキズム的傾向で、労働者階級の革命思想とは縁もゆかりもないものであった。小ブルジョア思想の反映としてのアナーキズムは、その理念の根底に、一般的には権力にたいする極端な憎悪、特殊的にはブルジョアジーの政治的権力にたいする反発があり、極端な民主主義、自由放縦を高唱し、社会にアナーキズム的な混乱と無秩序を導入しようとするものである。
資本主義的大生産とブルジョアジーの政治的独裁の重圧に押しひしがれて、経済的に破産し、政治的に無権利な小市民階層の不安な心理を体現した一部の極端な思想家は、資本家階級の政治的権力を暴力によって打破し、アナーキズムを実現すると称して、権力一般の否定へと大衆を駆り立てようとした。
フランスの小ブルジョア思想家プルードンからロシアのバクーニン、クロポートキンにいたるアナーキストの、政治的権力にたいする極端な憎悪、無分別な社会的平等の要求などで表現されるアナーキズム的理論は、勤労人民大衆を資本の抑圧に反対する強力な闘争へと呼び起こすのを妨げ、搾取階級の独裁を打倒した国では革命の獲得物を危険にさらし、真に人民的で民主的な新しい制度、新しい生活の創造を妨げる、百害あって一利のない思想として、すでに歴史の厳正な審判を受けていた。
しかし、そのようなアナーキズム的思想傾向は一時、小市民階層に極端な民主主義と無制限な自由への幻想をいだかせ、したがってそれは、資本主義的大工業がさほど発達していない、小市民的・農民的思想傾向が支配的な地域や国ぐににかなり波及した。少なからぬ人たちが反資本主義闘争においてアナーキズムが一定の役割を果たしているかのように評価する重要な理由の一つは、ここにあるのである。
労働者階級の党の中には、地主、資本家の反動政権を打倒するたたかいに、アナーキズムの勢力を引き入れた例もあった。ソビエト政権が国内戦争当時、ウクライナのアナーキスト集団マフノ徒党と合作したことは、よく知られている事実である。
抗日遊撃隊内に極端な軍事民主主義が胎動していたころ、アナーキズム的傾向は一定の社会階層、とりわけ小市民階層の革命性を誇示する一種の政治理論として存在しつづけ、労働者階級の革命理論と実践に無視できない害毒を及ぼしていた。
だからといって、極端な民主主義はアナーキズム的傾向としてだけ表現されるものではない。国際労働運動内に発生した修正主義者の行動もまた、極端な民主主義と一脈通じるところがある。彼らは、民主主義のべールをかぶって、ブルジョア自由主義とアナーキズム、無節制、無秩序を助長し、社会的混乱と放縦を引き起こした。このことを念頭におくとき、極端なブルジョア民主主義とアナーキズムは思想的に共通しているという結論に到達せざるをえない。
極端な民主主義が軍事分野に入りこめば、それはアナーキズム的な混乱を引き起こすことになる。極端な軍事民主主義を適時に克服しなければ、遊撃隊の建設と軍事作戦に予想外の弊害をまねき、革命運動の発展全般に少なからぬ支障をきたすであろう。
わたしが極端な軍事民主主義の克服を決心し、それに取り組んでいたころ、十里坪では遊撃区創設後一年半の活動を総括し、敵の大討伐に対処して遊撃区の防衛対策を講ずる東満州遊撃隊指揮官・政治委員の会議が開かれた。
わたしはここで、金日竜と金正竜に会った。金日竜は安図遊撃隊の隊長で、金正竜はその政治委員であった。和竜県からは張隊長と政治委員車竜徳が、延吉県からは総隊長朱鎮、隊長朴東根、政治委員朴吉が参加した。琿春からも代表が参加したが、誰であったか思い出せない。
会議では、部隊の指揮、管理における極端な軍事民主主義の克服対策も討議された。わたしは、遊撃隊を指揮するうえでの基本は、指揮官の決心であり、厳正な中央集権的規律と秩序を確立することである、部隊の指揮、管理では政治的働きかけを優先させることである、と主張した。隊内では上下の区別が明白かつ無条件的であり、指揮官は上部の命令を断固として実行し、いったん決心したことはあくまでも貫かなければならない。指揮官はつねに能動的に指揮し、複雑、困難な状況を前にして動揺したりためらうべきでなく、決断力をもって行動しなければならない。しかし、部隊の指揮にあたって主観や独断に走ってはならない。指揮官は上級の命令実行と戦闘の指揮において大衆の力と知恵に依拠すべきである。指揮官は命令一つで部隊を指揮するのではなく、なによりも政治的働きかけによって、隊員の自覚的熱意を呼び起こさなければならない。現代戦は一騎討ちによって勝敗を決する奴隷制時代や封建時代の戦争とは違い、軍隊と人民が一丸となって戦う現代的人民戦争である。戦いの勝敗は、どちらが軍民の熱情と創造的積極性をより大きく発揚させるかにかかっている。軍民の熱情と創意を引き出すためには、必ず政治的働きかけを優先させなければならない。党会議、全隊会議、アジテーターの解説、宣伝などは、いずれもその有力な手段である。したがって、指揮官はそうした手段を効果的に活用しなければならない…
わたしがこの会議で強調した内容は、およそこのようなものであった。
わたしは琿春遊撃隊が大荒溝で犯した過ちを批判し、十三勇士の犠牲をまねいた極端な軍事民主主義の弊害を説いて各県遊撃隊の代表に警鐘を鳴らした。
ここで触れたいくつかのエピソードや、それらが包摂している幼稚で小児病的な、極端な民主主義の傾向について、いまの若い人たちはよく理解できず、まさか、と首をかしげるかも知れない。しかし、それは本当にあったことである。
武装闘争の開始当時、軍内に極端な軍事民主主義が入りこんだのは、根拠地の防衛と統一戦線の重荷をになって部隊を管理しなければならなかったわれわれにとって、大きな試練といわざるをえなかった。
わたしは会議で、民主主義にもとづく個人責任制の原則に立って、部隊を指揮、管理すべきであることを重ねて強調した。
大荒溝事件後、遊撃隊内には、二つの相反する主張が現れた。一つは、指揮官の唯一管理制を実施すべきだというものであり、いま一つは、民主主義的部隊管理原則を固守すべきだという主張である。両者にはともに一長一短があった。唯一管理制を絶対視すれば、部隊の指揮、管理で独断と主観が助長され、民主主義を絶対視すれば、部隊の指揮、管理で迅速性と敏捷性が麻痺する。そこでわたしは、民主主義にもとづく個人責任制の原則を提起し、それを討議に付した。
民主主義にもとづく個人責任制とは、党組織の集団的な討議、決定にもとづき、指揮官が責任をもって部隊の指揮、管理にあたるということである。民主主義にもとづく集団的合議制は、随時に持ち上がる複雑、困難な軍事的課題を、大衆の集団的な知恵によって円滑に遂行することを可能にし、それにもとづく個人責任制は、高度の迅速性と決断力、行動の一致を前提とする軍事的要求に即応して指揮官の責任感と役割を高められるようにした。
わたしはまた、抗日遊撃隊内に整然とした命令体系を確立し、鉄の規律をうち立てるべきであることも強調した。指揮官の命令はある個人の意思の反映ではなく、上級機関の民主的・組織的意思の発現である。軍事命令は法的性格をおび、上官は自分が下した命令にたいし法的な責任を負う。隊員は決して命令にたいし加減したり、駆け引きをしてはならず、いかに困難な状況のもとでも、時間をたがえず確実に実行しなければならない。指揮官は命令の実行を正しく指揮し、統制しなければならない。
われわれはまた、共産主義思想の学習を強化し、極端な軍事民主主義が求める幼稚な平等主義やアナーキズムなど小ブルジョア思想との闘争を強めて、隊内に健全な思想的雰囲気をつくりだす問題と上下一致の革命的気風を確立する問題についても討議した。
十里坪会議は遊撃隊指揮官の覚醒を促した。そして、うちつづく戦いの試練を通して、極端な軍事民主主義は完全に克服されたのである。
抗日戦争の初期に極端な軍事民主主義が克服されていなかったとしたら、解放後、あのきわめて短い期間に、人民軍を不敗の隊伍につくりあげることはできなかったであろうし、したがって、アメリカをかしらとする帝国主義の国際的連合との戦いで、勝利をかちとることもできなかったであろう。
今日、朝鮮人民軍の中には無原則な平等や平均主義を主張したり、上官の命令にたいし駆け引きをするような者はいない。指揮官の命令に、兵士はただ「わかりました!」の一言で答えるだけである。朝鮮人民軍は、軍人宣誓をした日から除隊証を渡される日まで、一貫して上下一致、軍民一致、自力更生、刻苦奮闘の精神で生きる忠臣の集団である。
人民軍の軍人が民主主義をどう理解しているかを知りたければ、彼らの「党が決心すればわれわれは実行する!」という戦闘的スローガンを見れば十分であろう。軍人のあいだで発現されている上下一致の真髄を知りたければ、一命を投げうって多くの戦友を救った金光哲英雄(〔4〕)と韓英哲英雄(〔5〕)の最期を見ればよくわかるであろう。
極端な軍事民主主義は久しい前に克服されたが、それとたたかう問題は今日もその意義を失っていない。われわれは民主主義を擁護するが、極端な民主主義には反対し、平等を主張しても、過度の平等主義はタブーとしている。極端な民主主義や平等主義は、ともに修正主義を引き入れる媒介物だからである。
地球上には、朝鮮式の社会主義を修正主義の病菌で汚そうとやっきになっている勢力が少なくない。しかし、朝鮮人民と人民軍は修正主義の浸透を決して許していない。われわれは、朝鮮労働党が極端な民主主義によってクラブ化し、市の場と化するのを望んでいない。極端な軍事民主主義によって強要された抗日戦争当時の陣痛と、東ヨーロッパの教訓がそれを強調しているのである。
5 馬村作戦
その年の秋、遊撃区に熱病がはやった。高熱にうなされて体がぞくぞくし、皮膚に赤い斑点ができるこの急性の伝染病は、猛烈な勢いで小汪清の谷間に広がった。わたしもそれにかかり、十里坪で寝こんでしまった。あとで知ったことだが、それは発疹チフスであった。
いまの若い人たちは、発疹チフスがどんなものか知らない。すでに早くから伝染病を根絶した病菌のない地帯に住んでいるからである。しかし、われわれが山地で武装闘争をしていた六十年前、根拠地の人民は伝染病にずいぶん悩まされた。あまり広くない谷間に何千人もの住民が密集していたのだから、さまざまな伝染病がはやった。三日にあげず討伐隊が襲来しては人家に火を放ち、逃げまどう人たちを殺しまくる状況で、不衛生な環境を改善する見通しがたたず、予防対策を立てようにも手だてがなかった。伝染病が発生すると、しおり戸に繩を張ったり、壁に「出入りを禁ず、伝染病」と書いた紙を貼るのが関の山であった。
数千人の敵が根拠地の掃討に連日押し寄せ、決死の戦いをつづけているときに伝染病まで重なって、われわれは最悪の試練をなめていたのである。そこへ、わたしまで熱病に倒れたのだから、指導部の幹部たちは顔色を変え、遊撃区の運命を憂えた。
彼らは、わたしの護衛と看護を兼ねて、金択根小隊長夫妻と一個小隊程度の隊員をつけてくれた。他の部隊が戦っているときも、彼らは十里坪から動かなかった。北満州の掖河に住んでいた金択根夫妻は、東
満州で革命闘争に参加しようと、穆棱をへて汪清にやってきたという。
この二人のほかに、汪清県婦女部委員の崔金淑が党の委任でわたしを介護してくれた。
最初、わたしは春子という婦人の家で病気の治療をした。夫の金権一は区党委員会の書記を務め、のちに県党委員会書記に昇格した。
敵が遊撃区に現れると、金択根はわたしを背負って、谷から谷へと避難した。討伐が激しくなると、彼らはわたしを背負って、谷川ぞいに十里坪の奥へ避難し、敵の手の届かない岩山の中腹にテントを張った。そこは、ロープをかけて登り降りする人目につかない小さな空地であった。わたしは彼ら三人の手厚い看護で全快することができた。
三人はわたしを死から救ってくれた忘れがたい命の恩人である。あの心のこもる看護がなかったとしたら、わたしは十里坪の谷間から生きて帰ることができなかったであろう。病気はかなり重く、たびたび意識を失ったほどである。わたしが昏睡状態に陥ると、彼らは、気を確かに持ってください、隊長が寝こんでしまったら、われわれはどうなるのです、と涙を流して叫んだという。
金択根が食糧を求めに行って、そばにいないときは、崔金淑がわたしをかかえるようにして、谷間をさまよったものである。わたしが一命をとりとめたのは、彼女のおかげだといっても言いすぎではない。
わたしは汪清に来た当初から、彼女の援助をいろいろと受けた。南満州と北満州の遠征を終えて馬村にきたとき、彼女は大汪清の第二区婦女部委員を務めていた。当時、県婦女会の責任者は李信根であった。活動の打ち合わせなどで李信根のところへ来る彼女を、わたしは李治白老の家でよく見かけたものである。李信根と崔金淑は姉妹のようにむつまじかった。
李信根は崔金淑がたいへんな速筆家だと口をきわめてほめた。最初、わたしはそれにあまり気をとめなかった。いくら速くても女性のことだから知れたものだと思ったのである。ところが、彼女の整理した会議録を見てわたしは舌を巻いた。会議の発言内容が細大もらさずきちんと記録されているではないか。現代の速記術はたいへん進んでいるというが、彼女以上に速く正確に記録する人を、わたしはまだ見たことがない。崔金淑は会議の発言を一晩のうちに清書までするので、わたしは重要な会議があると、いつも彼女に記録を依頼するようになった。
彼女は男性のようにおおらかで人情に厚い反面、革命的原則を曲げない芯(しん)の強い女性であった。わたしの指示なら、砂の上で舟を引けといわれてもそのとおりやりかねないほどの気性で、わたしが工作任務を与えて敵の統治区域に送ったときなど、いつも任務をりっぱに果たしたものである。
彼女は両親のいないわたしに、女性らしいやさしさできめ細かな配慮をめぐらしてくれた。彼女がわたしを弟のようにいたわるので、わたしは彼女を姉さんと呼んだ。わたしが戦場から帰ると、彼女はいつも真っ先に会いに来てくれたし、また、なにかの役に立ちそうな物が手に入ると、それらを取っておいてそっとわたしにくれた。ときには衣服のほころびを縫ってくれ、毛のシャツも編んでくれた。
彼女が梨樹溝にしばらく見えないと、わたしの方から訪ねていくこともあった。このように姉と弟のように親しくしていたので、よく冗談も交わした。咸鏡道地方の人たちの通例ではあるが、彼女も村の年寄りには、「アベ(おじいさん)」「アメ(おばあさん)」と方言で呼びかけた。「穏城アベ」「茂山アメ」「会寧アジェ(おじさん)」という表現も聞き慣れないものだったが、その抑揚もおかしかった。わたしがそんな言葉づかいを面白半分にまねたり、度が過ぎた冗談をいったりしても、腹を立てるようなことがなく、にこにこ笑うだけであった。しかし、それほどこだわりのない彼女も、美しいといわれるときだけは、黙っていなかった。
彼女に美人だといおうものなら、ひやかしている、といって目をむいた。彼女が赤くなってわたしの背中をたたくのがおもしろくて、きまり悪がるのもかまわず、わたしはそれでも、きれいだと言い張った。実際、彼女はきわだつほどの美貌の持主ではなかったが、たいへん福々しかった。わたしの目には、都会の娘や淑女より、崔金淑のような遊撃区の女性のほうがはるかに気高く美しかった。わたしは、遊撃区の女性以上に美しい女はいないと思っていた。
彼女たちは、おしろいけ一つなく、すすにまみれた苦しい生活をしながらも、それを不満とせず、ひたすら革命のためにすべてをつくした。わたしは、そこにこそ最上の美があると認めた。崔金淑を美人だといったのも、そんな心理が働いていたからであろう。わたしは当時、根拠地の女性たちの身づくろいに役立つことなら、なんでもした。
戦利品の中にはときどき、おしろいやクリームなどの化粧品もあった。最初のうち、隊員たちはそんな日本の女のおしゃれに使うものは見るのも汚らわしいといって、溝の中に捨てたり、踏みつぶしたりした。はじめは、わたしも香気のただようハイカラな戦利品がそんなふうに扱われるのを放任した。なんの役にも立たないしろものだと思ったのである。遊撃区の女性は化粧をしなかった。おしろいや香水の匂いをまき散らして出歩くのはほめられたことではないと考えていたので、祝日などに化粧する女がまれにいても、大衆集会場では隅の方に縮こまっていたものである。
わたしは、それを残念に思った。年がら年中おしろいけ一つなく、すすや灰にまみれ、砲煙の臭いをかぎながら苦労している彼女たちである。考えるほどに胸が痛んだ。それで隊員たちに言った。
「これからは化粧品を捨てないことにしよう。われわれのまわりにも女性がいるではないか。遊撃区の女性は女でないとでもいうのか。遊撃隊の女隊員や婦女会員よりりっぱな女性がどこにいるのだ」
隊員たちはみな賛成した。
「そうです。遊撃区の女性よりりっぱな女はいません。彼女たちは一年半もこの遊撃区で草の根や木の皮で飢えをしのぎ、討伐に愛する夫や子どもたちと恋人を失い、寒い冬も薄着ですごしながらも敵区に移ろうとせず、遊撃隊と運命をともにしています。朝鮮の男たちが彼女たちに絹の衣服を着せ、紅おしろいをつけさせて自慢できないのはわれわれの恥だし、残念なことです。われわれは衣食に事欠いても、いいものが手に入れば、まず彼女たちに贈りましょう。化粧品が手に入れば、おしゃれもさせましょう」
ある日、わたしは敵から奪った化粧品を崔金淑のところへ持っていき、婦女会員に分けてほしいといった。彼女は大喜びして受け取った。その日から、小汪清遊撃区には脂粉の香がただようようになった。ある祝日に、児童演芸隊の公演会場に行ってみると、そこでもおしろいやクリームの匂いがただよっていた。
ところが、なぜか崔金淑だけは何日たっても化粧をしなかった。どうしたのかとわけを聞いても、ただ笑うだけである。不審に思って李信根に尋ねると、彼女は自分の分をそっくり十里坪の婦女会員に譲ったというのである。
その後、敵の兵站基地を襲撃して多くの化粧品を手に入れたとき、いくつかを崔金淑に与え、今度はひとに譲らずにきっとお化粧してほしい、金淑姉さんの化粧姿が見たいのだ、と言った。彼女は、命を的に差しだして手に入れたものだから、隊長の心づくしを思っても化粧します、と答えた。
数日後、崔春国中隊を指導するため十里坪に向かっていたわたしは、大汪清河の川辺で崔金淑を見かけた。人気のない川岸で道路に背中を向けて座り、水面をのぞきこんでいる彼女の清楚な姿を見て、わたしは伝令の李成林に、大汪清婦女会長が川辺に座ってなにをしているのか見てくるようにと命じた。李成林が崔金淑に挙手敬礼をするのが遠目に見えた。ところが、彼が不意に腹をかかえて笑い出すではないか。どうしたのだろうと思い、わたしは急いで二人に近づいた。
「隊長、金淑姉さんの顔が…」
李成林はわたしを見ると、笑いを押えて、彼女の顔を指さした。一瞬、わたしも吹き出した。あの福々しい色白の顔が、紅とクリームでまだらに塗りたくられているのである。ところが、崔金淑はわけがわからず、きょとんとしていた。
「婦女会長さん、顔が世界地図みたいですよ」
李成林からこう言われて、彼女は「まあ!」と叫び、水ぎわにしゃがんで、あわてて顔を洗いはじめた。まずい化粧が彼女の罪でも不注意でもないのに、彼女は大恥をさらしたかのようにうろたえた。洗濯石のかたわらには、わたしが数日前に贈ったクリームと紅が置いてあった。
わたしの目にも、彼女の化粧はひどかった。だからといって、どうしてそれが笑いの種となろうか。彼女は化粧というものをはじめてしたのである。それに鏡もなかった。だから川の流れに顔を映して、用心深くクリームを塗り、紅をつけたのである。顔に世界地図を描いたのは驚くべきことでも、笑うべきことでもない。李成林がまた彼女に近づいてからかおうとするのを、わたしは手で制した。そうしなかったら、彼女は涙を浮かべて逃げ出したに違いない。
毎朝、豪華な姿見や三面鏡の前で高級化粧品を使っておしゃれをする女性が、このくだりを読めばきっと彼女に同情するであろう。近ごろは嫁に行くとき、三面鏡を持参するのが一つのはやりになっているという。これは豊かな文化生活を求める朝鮮女性の志向がどの水準にあるかを示す一つの例証である。
しかし、われわれが凍りついた地面に腹ばいになって敵情を監視し、草がゆをすすりながら根拠地を守って悪戦苦闘していたころは、小汪清の住民の中に三面鏡はおろかコンパクトを持っている女性もあまりいなかった。だから化粧をするにも、崔金淑のように小川に行かなければならなかったのである。
わたしは崔金淑の下手な化粧をからかう李成林をたしなめるよりは、遊撃区の女性たちに鏡を贈れなかった自分が腹立たしかった。
われわれの女性にたいする奉仕は、彼女たちがわれわれにそそぐ愛情に比べればなんでもなかった。われわれの愛情はいかなる場合にも、人民がわれわれにつくしてくれる厚い恩情をしのぐものではなかった。崔金淑の場合も同じである。彼女はわたしがよせた信頼の何倍もの愛情とまごころをもって、わたしを温かく介抱してくれた。わたしの病気が好転したとき、彼女はさっそく四十キロも先の図們へ行ってきた。図們は朝鮮から満州に入る各種産物の集散地であった。彼女はそこで朝鮮の梨とリンゴを一かご買って、十里坪に帰ってきたのである。それを見ると、涙がこぼれた。亡くなった母が崔金淑に生まれ変わって、このような愛情をそそいでくれるのでは、と思ったほどである。それは実の母や姉だけがそそげる愛情であった。
「金淑姉さん! 姉さんのこの恩をどう返したらよいだろうか」
わたしは、祖国のくだものの香気を胸一杯吸いこみながら礼を述べた。
「恩? どうしても恩返しがしたかったら、独立後、平壌の見物でもさせてよ。平壌は天下の景勝だというではないの…」
彼女の返答は、冗談と真情の入りまじった切々としたものであった。
「そんな心配は無用です。まさか、そんな希望がかなえられないわけはないでしょう。祖国が解放されたら平壌の土を踏むためにも、お互い死なずに戦いましょう」
「わたしは死なないわ。けれども、あんたのことが心配でたまらないのよ。自分の体はちっともかまわないんだから」
彼女はわたしに食欲をつけようと、ゴマ粉を手に入れてきておかずやかゆに入れてくれた。わたしが重病にかかったのは、栄養が足りないからだったといっては、栄養のある美味な食べ物を食膳にのせられないのを残念がった。気持は山々でも、なにもかも不足していたときのことである。
金択根が小川でアブラハヤを捕ってきて、それを納豆と一緒にして煮たり焼いたりしてくれた。日に七、八十尾も捕ってくるのだが、その熱心さもさることながら魚捕りの腕もなみなみならぬものだった。
崔金淑は、わたしの食膳にいつもアブラハヤばかりのせるのがすまなくて、村でソバを手に入れてきた。そのとき彼女はわたしの安否を気づかう遊撃隊員に、隊長の健康が早く回復しなければならないのだが粗末な食事しか出せないでいる、択根小隊長が捕ってくるアブラハヤばかり毎日食膳にのせるので合わせる顔がない、それでも隊長はご馳走だといってくれている、と答えた。それを聞くと、部隊の魚捕りの名人たちが引き網を使って一かますもの魚を捕ってきた。崔金淑はそれをいろいろと調理してもてなしてくれた。
回復のきざしが見えると彼女は、わたしが意識を失っていたとき、誰か知らない女の名をしきりに口走っていた、とその口真似までしながらおかしそうに笑った。金択根の妻と口裏を合わせたたわいない作り事であったが、わたしは発病後はじめて彼女たちと一緒に手をたたいて笑った。あとで考えると、それは涙をさそう芝居であった。長い闘病生活に苦しんだわたしの気分を転換させようとして、彼女たちはそんなことをいったのである。
崔金淑は、わたしが全快する前に馬村に帰るのではないかと気をつかって、病気の期間がたいして長くなかったかのように偽った。わたしが失神状態から正気にかえって、何日意識を失っていたのかと聞くと、彼女は実際より少なく答えた。たとえば二日間気を失っていたとすると、二時間だと答え、五日間なら五時間だともっともらしくいった。全快後、彼女の言葉を念頭において日数を数えてみると、十日そこそこにしかならなかった。それで、わたしは少し軽い気持になれた。
彼女のうそは、崔春国がわら小屋に見舞いに来てばれた。人をだますということを知らないこの実直な政治指導員は、わたしが一か月も寝こんでいたというのである。それを聞いて崔金淑は、まったく気の利かない人だと、罪のない彼をなじったが、わたしは驚いてすぐさま馬村に帰ったのである。
指揮部では山積した情報資料がわたしを待っていた。それらには間島の治安と関連した日本帝国主義者の動静が多角的に反映されていた。
わたしが病床にあった一か月のあいだに、日本軍は冬期討伐の準備を完了していた。日本政府が派遣した高官たちが間島に現れて、軍、憲兵、警察、外務など各部門の首脳と協議し、東満州遊撃根拠地にたいする冬期討伐計画を最終的に確定した。東京ではこの問題が閣議で取り上げられた。
満州問題にかんする諸会議では、「満州の治安は間島から!」という声があがった。彼らは、間島の治安が満州国の建国大業に大きな影響を及ぼすばかりでなく、日本帝国の辺境の安全ともきわめて密接に関連しているだけに、満州国はもちろん、日本のためにも緊急な重大事であると認めた。そして、ソ連侵攻を第一の使命としている関東軍司令官自身が満州の警務機関を統制し、軍事警察をつかさどる憲兵隊長を間島治安の第一線に立たせることにしたのは、大満州国の前途にとって祝福すべきことである、と気炎をあげた。
日本帝国主義者は満州国をつくりだしたあと、この一帯の治安の維持をはかって重要な諸対策を講じた。間島臨時派遣隊に代わって、関東軍師団を新しい討伐軍として投入し、各県には武装行政警察隊を編制し、高等司法警察と産業警察を新設するなど、警察組織の立体化をはかり、警察機関を大々的に拡張した。
反抗分子の根絶、掃討と民心の安定をはかるために、日満合同の諮問機関として治安維持会が、中央はもとより省、県など満州全域に設けられて活動を開始し、さまざまなスパイ御用団体が出現して共産主義陣営に黒い触手をのばした。以前、中国で実施され、日本が台湾と関東地域の治安維持で効果をあげた保甲制度がここでも導入されて、日満警察は民衆の手足を縛りあげた。在郷軍人からなる日本人武装移民の大がかりな流入と、自衛団の拡大も、東三省一帯に根強く存在している反満抗日勢力の制圧に一役買った。土匪工作に従事する現地の特高警察官には、即座の処刑を許す「臨陣格殺」の権限が与えられた。
これらの措置は、日本帝国主義者が植民地満州国の支配、維持にどれほど苦心惨憺していたかをよく示している。とくに、東北の一角で帝国の前面と背後に強力な打撃を加えている間島地方朝鮮共産主義者の武装闘争と、それを根幹とする幅の広い民族解放運動は、彼らにとって大きな頭痛の種であった。日本の一憲兵隊長が、朝鮮共産主義者の活動を制圧すれば、間島治安の九割が成功したと見てよいといったのは、決して大げさな表現ではない。
いわゆる大日本帝国は、抗日遊撃隊とその戦略的拠点の遊撃根拠地をそれほど恐れていた。だからこそ彼らは、どんな代償を払っても東満州の抗日遊撃区を抹殺しようとしたのである。
一九三三年の夏、日本軍部は、抗日遊撃隊の攻撃で満身創痍になった間島臨時派遣隊の一部を朝鮮に送り返し、人見部隊をはじめ多数の関東軍精鋭部隊を東満州各地に投入した。朝鮮占領軍の主力は、遊撃区の討伐作戦に即時投入できる朝鮮北部国境地帯に集中的に配備された。こうして一万数千の膨大な兵力が間島の遊撃区を包囲し、冬期討伐作戦を開始したのである。
彼らは朝鮮革命の参謀部が位置している小汪清遊撃区に攻撃のほこ先を向け、そこへ関東軍、満州国軍、警察、自衛団からなる五千余の兵力を投じた。方陣を敷いて勝敗を決していたマニュファクチュア時代の戦争を除けば、散兵線出現後の戦争で、兵力をこれほど稠密に配備した例は、日露戦争当時の旅順攻防戦以外にはないであろう。飛行隊も出動準備をととのえて待機した。間島特務機関が主管する特別捜査班も遊撃区一帯に送りこまれた。こうして、東満州全域がわれわれと日本帝国主義とのもっとも激烈な血戦場となった。いくつかの地域の遊撃区を守る防衛戦と見るには、あまりにも規模の大きい対決戦であった。
ところが、小汪清には二個中隊の遊撃隊しかなかった。それに、遊撃区には食糧の備蓄もほとんどなかった。東満州の遊撃根拠地は危急存亡の危機にあった。大砲と飛行機まで持つ強敵を二個中隊の兵力で撃破できると考える楽天家は、遊撃区内に一人もいなかった。最後の一人まで戦って死ぬか、遊撃区を捨てて敵に屈服するかという二つの道しかなかった。われわれは、前者をこそ取れ白旗をかかげることはできないと考えた。
遊撃戦術上の原則からすれば、そんな対決は避けるのが上策である。しかし戦わなければ豆満江沿岸のすべての遊撃区が壊滅するほかない。遊撃区を守れなければ、人民革命政府の恩恵に浴しながら真の平等と自由を享受していた革命大衆がきびしい冬のさなかに飢えて死に、凍えて死に、撃ち殺されるのである。遊撃区を失えば人民は二度とわれわれを相手にしないであろう。
汪清の秋は絶景である。それが冬期討伐の暴風にむざんに荒らされる運命にさらされているのだ。
全遊撃区が息をひそめてわれわれを見守っていた。軍隊の動向いかんによって人民の顔が明るくもなれば、暗くもなるのである。
わたしはいい策はないものかと考えはじめた。しかし、それは容易に見いだせなかった。わたしの周辺には、戦術問題を論ずるだけの人物がいなかった。黄埔軍官学校出身の朴勲も近くにいなかったし、ソ連で何年か軍隊生活をした「小個子」金明均と独立軍士官学校出身の李雄傑は民生団の疑いをかけられて姿を隠していた。梁成竜も民生団の狂風に巻きこまれていた。
わたしは、洪範図のような名将がいたらどんなにいいだろうかとさえ思った。洪範図は汪清に大きな足跡を残した義兵将軍である。青山里と鳳梧谷で独立軍部隊がたてた赫々たる武勲は、彼の知略によってもたらされたといえよう。彼を知略のない要領一つで戦う将軍だと酷評する向きもあるが、それは道理に合わない評言である。彼らのいう要領も、つきつめてみれば、結局、知略の所産である。
彼がすぐれた知謀家であることは生前、父もよく話していた。そうでなかったとしたら、彼が高麗嶺で、あれほど巧妙かつ用意周到な伏兵戦で日本軍を大敗させることはできなかったであろう。その野人のような風貌にただよう知性が感じとれない人には、洪範図を語る資格がないであろう。
哈爾巴嶺一帯を股にかけた独立軍司令が汪清から足跡を消してかなりの年がすぎた。歳月の苔におおわれて、いまでは人びとの追憶からも消えかかっている。困難に際会すると、先達が切実にしのばれるものである。
わたしが戦術問題で頭を悩ませていたある日、李治白老が蜂蜜の壷を持って真夜中に指揮部の丸太小屋を訪ねてきた。
「熱病にかかっていたとき、お見舞い一つできなかったが、これで気力を回復してくれまいか」
老人は壷を差し出しながら、こう言った。
「野生の蜂蜜ですか。こんな高価なものがよく手に入りましたね」
「ファンガリ谷の馬老人が山で見つけたそうじゃ。この前、馬老人が山で蜂蜜を見つけたと自慢していたんで、訪ねてみると、壷ごと譲ってくれてな。
わたしは、老人のまごころに胸を熱くした。
「ありがとうございます。でも、わたしは若いではありませんか。これはご老人が使ってください」
「年寄りの誠意を無にするんじゃない。それでなくても、金隊長を一度も見舞えず胸を痛めていたんじゃ。…隊長の顔色はどうもよくない」
老人は、家で夜食なりと一緒にしようといって、わたしの手を取った。わたしは誘われるままに老人のあとにしたがった。夜食そのものより、わたしと潘省委の体臭がしみている部屋で一晩寝てみたかったのである。いまは宿所を替えているが、わたしを息子のようにいたわってくれたこの気だてのよい純朴な老人の家には、いつも心を引かれるのであった。
夜食にはウズラ豆を混ぜたトウモロコシがゆとカボチャが出された。熱病のあとだったからか、なんともうまかった。老夫人の徐姓女はわたしの好みをよく知っていた。彼女が出してくれる食べ物の中で、とくに忘れられないのは、焼きジャガイモと焼きトウモロコシである。間島地方のジャガイモは大きいうえ、一冬貯蔵したものは糖分が多くて甘かった。雪の降りしきる冬、丸大根の漬け汁と一緒に食べる焼きジャガイモの味は格別である。
夜食後、わたしは潘省委がすごした部屋で、李治白老と枕を並べた。なぜか老人はすぐに寝つけず、しきりに溜息をついていた。数か月前に死んだ息子のことが忘れられず、胸を痛めているのではないかと思えた。老人の息子の李民権は、一九三三年の春に敵に帰順しようとした関部隊の武装を解除しようとして重傷を負い、秋月溝病院で治療中死亡した。追悼式にはわたしも参加した。一九三二年九月には、この家で遊撃隊員崔潤植の追悼式をしている。
「ご老人、どうして溜息ばかりついているのです?」
わたしは布団のふちをのけて、老人の方に寝返った。
「どうにも眠れんのじゃ。敵が遊撃区のすぐ外に何千人もの陣を敷いているというのに、のんびりと寝ていられるかの。今度の討伐では遊撃隊がやられるといううわさもあるが、隊長はどう思っているんじゃ」
「遊撃隊がやられるというのは反動どもが流しているデマです。しかし、しっかり対策を立てないと、遊撃区が二、三日でつぶされてしまうでしょう。実際、遊撃区の運命はせっぱつまっています。それで、わたしも眠れないのです」
「遊撃区がつぶされてはいかん。遊撃区がなければ、生きがいもなくなってしまう。そんなことになるなら、死んでカラスの餌食になるか、亡霊になってさまようほうがましだ」
「そうです。われわれは死んでも、この根拠地を守って死ぬべきです。でも、どうすればよいでしょうか? 敵は数千人にもなるのに、小汪清を守る遊撃隊は百分の一そこそこなのですから…」
老人はタバコをスパスパ吸いこむと、真顔になってわたしのほうに枕を近づけた。
「兵隊の数が少なければ、わしも隊長の部下になろう。この小汪清には、わしのように銃を撃てる年寄りが一人や二人じゃない。鉄砲さえくれれば江華鎮の防衛隊そこのけに戦ってみせる。以前、わしが住んでいた中慶里の近くに、たしか独立軍が埋めた鉄砲と弾があるはずだ。それを見つければ、猟師や独立軍にいた年寄りはもちろん、青年運動だのなんだのといって駆けずりまわっているわしの婿の重権のような者なんかにも鉄砲を持たせることができる。みんなが兵隊になって、決死の覚悟でやってみるんじゃな。鉄砲がなかったら、敵の喉もとに食らいついてでも根拠地を守らにゃいかん」
老人の言葉は、遊撃隊が敵に比べてあまりにも劣勢だと思い悩んでいたわたしに、全民の抗戦のみが当面の難局を打開する唯一の活路であることを示唆してくれた。遊撃隊とともに激戦の第一線に立てようとした自衛隊や少年先鋒隊のような半軍事組織だけでなく、民間人を残らず動員して、いたるところで決戦をくりひろげれば、戦いの主導権を握れるという自信が生まれた。小汪清防衛戦は、敵軍対抗日遊撃隊の戦いではなく、敵軍対遊撃区内全軍民の戦いとならなければならない。われわれの側には半遊撃区の人民もいるのである。
李治白老との談話は、わたしに力を与えた。
(そうだ。人民は戦うといえば戦うだろうし、人民が勝つといえば勝てるのだ。戦争の勝敗は人民の意志にかかっている。人民をいかに奮起させるかにかかっているのだ)
これは数千人の汪清遊撃区人民の意思を代弁する老人の沈着な声から受けた最初の衝撃であった。われわれの構想する作戦には必ず、李治白老が見せたような人民の意志が反映されなければならないのだ。わたしは、小汪清防衛戦は遊撃区の老若男女すべてが参戦する全民の抗戦にならなければならないと考えた。全民抗戦という言葉には、すでに二年間、あらゆる困難にうちかって軍隊と生死、苦楽をともにした、遊撃根拠地人民への最大の信頼がこもっているのだった。戦いそのものが生活といえる遊撃根拠地での短くない体験が、わたしにそのような確信をいだかせたのである。
創設以来二年ものあいだ、遊撃根拠地が健在でありえたのは軍隊のおかげだけではない。その要因の中には、軍の建設と遊撃区の防衛で少なからぬ役割を果たした人民の力も含まれているのである。一対十、一対百の力に余る戦いをおこなっているときも、人民があとにひかえていれば困難を容易に克服できた。人民が湯や握り飯を塹壕に運んでくると、その息づかいを聞くだけでもわれわれの戦闘力は百倍、千倍に強まった。
全民抗戦を決意し、それを実行に移した背景には、人民の力にたいするこのような確信があった。それに、遊撃根拠地と運命をともにし、つねに軍隊と混然一体になろうと願う人民の意思にも合致するものだった。人民を最大限に動員すれば、それは恐るべき力となるであろう。これが、李治白老から教えられた遊撃隊の予備軍であった。いや遊撃区の人民は、われわれの予備軍というより、もっとも信頼すべき主力軍であった。
わたしは、敵の兵力が分散しているときは力を集中して襲撃、掃討し、敵が大兵力をもって侵入するときは分散して、いたるところで敵の背後を攪乱する従来の戦術的原則をあらためて確認し、小汪清の住民に全民抗戦を呼びかけた。
遊撃区の人民はこれにこたえて、組織別、階層別に激戦の準備に奮い立った。自衛隊と青年義勇軍は遊撃隊とともに防御陣地を占め、銃をもたない青壮年は防御線の傾斜の急な高地に石を積みあげた。張、崔、李の三猟師をはじめ汪清の名うての猟師は馬村に集結し、独立軍出身の老人とともに猟師隊を組んで第一線に出動した。炊事隊と担架隊の女性も前戦に向かう準備をした。子どもたちは板に釘を打って、敵の軍用自動車が通る道すじに埋めた。老弱者と幼児は安全な地帯に退避させた。
われわれは、戦いの中で倒れることがあっても、汪清を捨てた北路軍政署の独立軍のような卑怯な真似はすまいと誓い、激戦の準備に万全を期した。
汪清には、鳳梧谷の戦勝の記録だけでなく、討伐隊の銃剣に同胞をさらしたまま姿を消した北路軍政署の独立軍の痛恨事、恥ずべき敗戦の記録も残されているのである。南満州に西路軍政署という独立軍団体があったのと同様、東満州でも汪清県の西大坡一帯に、徐一を総裁とし、金佐鎮を総司令とする北路軍政署という独立軍団体があって勢力をのばした。軍政署傘下の愛国志士は五百人、弾丸は百万発、資金は十万円を越えるといわれた。北路軍政署が運営する十里坪士官練成所(軍官学校)も、四百人以上の学生を収容できる相当な規模のものであった。汪清と近在の農民が軍政署の軍人に贈るわらじや食糧を運搬するときは、西大坡まで牛馬車が長蛇の列をなしたといわれている。
この独立軍には洪範図の独立軍と力を合わせて、青山里で日本軍を大敗させた戦歴もある。銀色サージの軍服に軍刀をさげた金佐鎮が青味のかかった白馬にまたがって通るとき、汪清の住民は老若男女をとわず、宰相か李王の行列を迎えたかのように深々とおじぎをした。それは独立軍が青山里で立てた戦功をたたえる挨拶のしるしであった。
ところが、そのように人望の厚い金佐鎮が、日本軍の間島大討伐が間近だと聞いては、抵抗を試みようともせず、部下とともに行方をくらましたのである。そのとき、汪清の人たちは、独立軍が討伐を恐れて逃げているのだとは知らず、金佐鎮総司令を一目見ようと、競って道路へ集まってきた。
軍政署に残った兵力は一個中隊だけであった。この一個中隊がなにを思ったのか、間島討伐の開始直前に、東日学校の卒業式に参加した。学校では慣例にしたがい、盛大な宴会を催して卒業式を祝った。式が終わると、独立軍隊員は待ち構えていたように「独立万歳!」を三唱し、われがちにテーブルに向かい合って濁酒や餅や冷麺を飲み食いした。そんなところへ、討伐隊が押し寄せたのであるが、彼らは戦おうともせずに逃げ出し、学生や父兄も四散した。あたかもアリの巣を掘り返したような光景だったという。討伐隊はなんの掩護もなしに逃げまどう徒手空拳の人民を手当たり次第に撃ち殺し、切り殺し、突き殺した。
北路軍政署の独立軍は討伐軍の前であえなく自滅してしまった。あれほど気勢をあげていた北路軍政署が一朝のうちについえさったと、汪清の人たちは地面を叩いて痛哭したという。
政権が人民の手に握られた汪清でそのようなことが再びくりかえされるならば、われわれは胸を張って自分たちを朝鮮の息子や娘だとは言えなくなるであろう。
わたしは、遊撃戦の要求に即応した伏兵戦、誘導戦、奇襲戦、夜間襲撃戦など、変化に富んだ戦法や戦術を駆使して敵を撃破しようと決心した。
これらの遊撃戦法は、敵の重なる討伐攻勢を撃退し、遊撃区を守る戦いの日々に自らの知恵であみだしたものである。朝鮮の共産主義者が遊撃戦を武装闘争の基本的形式として選択し実行した最初のころ、われわれには戦術上の知識がほとんどなかった。他国での戦いの経験や教範でもあれば参考にできたであろうが、それもなかった。そこで、ソ連に使いを送って国内戦争当時の戦闘経験にかんする軍事資料をいくらか取りよせたのだが、遊撃闘争の概念や伏兵戦、襲撃戦の方法についていくらか理解ができたとはいえ、われわれの実情にかなうものではなかった。
わたしは独自の遊撃闘争教範をつくることにし、一九三三年三月末の夾皮溝戦闘後、一年余の武装活動で得た初歩的な軍事経験を総合して、『遊撃隊動作』という小冊子を出した。そこには、遊撃隊の精神的・道徳的品格から遊撃戦の一般原則にいたる根本的な問題が明らかにされており、さらに襲撃戦、伏兵戦、防御戦、行軍、宿営など、戦闘行動の組織、射撃、武器の管理、規律など遊撃隊動作の全般的な原則と方法が簡明に規範化されていた。
もちろん、これは『孫子』やクラウゼウィッツの『戦争論』のような大著ではなかった。しかし、著名な軍事理論家も歴戦の老将もいなかった当時、その小冊子はわれわれ式の素朴な遊撃戦争論を代表する軍事宝鑑であった。遊撃隊の指揮官と隊員は、これを背負い袋に入れて持ち歩き、毛羽だつまで研究して実戦への応用に努めた。
『遊撃隊動作』はその後著された『遊撃隊常識』とならんで、革命武力の建設と主体的戦法の確立、発展における原典となった。
一九三三年十一月十七日、敵は歩兵、砲兵、航空隊の共同作戦によって三方面から小汪清遊撃区を包囲攻撃してきた。血迷ったオオカミの群れのように殺気だった「大和」の後裔は、たけだけしい勢いで遊撃区に襲いかかった。その傲岸不遜な気勢は、汪清を一撃のもとに撃滅せんばかりの威圧的なものであった。
大討伐は厳冬のさなかに波状的に強行された。飛行隊は軍政指導機関のある馬村と梨樹溝にくりかえし爆撃を加えた。戦術も悪らつをきわめた。遊撃区に侵攻し攻撃が挫折すると、その日のうちに引き返す従来のピストン式討伐から、攻撃に失敗しても退かずにその場に野営し、一歩一歩前進して占領地帯をかためる「歩歩占領」戦術に移ったのである。これは占領地域内のいっさいの生命体を抹殺し、家屋を手当たり次第にうち壊し焼き払う悪どい戦術であった。
しかし、遊撃隊と人民は一心同体となって遊撃根拠地を英雄的に死守した。
もっとも熾烈な攻防戦が展開されたのは、遊撃区の関門であるトンガリ山と磨盤山スッパク谷哨所であった。トンガリ山と磨盤山を守っていた第三中隊と反日自衛隊は、敵兵を二十メートルほどの近距離に近づけては不意に集中射撃、手榴弾攻撃、石落としなどを加えて撃滅した。敵は執ように波状攻撃を加えてきたが、遊撃区の第一線陣地を突破することができなかった。磨盤山界線の防衛隊は高度の機動力をもって遊撃区を迂回攻撃してくる敵の騎兵を大汪清河の湾曲地点で痛快にせん滅した。
敵の大兵力がトンガリ山と磨盤山の陣地にひきつづき投入されると、われわれは全面的な防御戦から、誘導・欺瞞戦術を主とする伸縮自在の機動と積極的な防御活動を展開する消耗戦に移った。それはさまざまな戦闘形式をもって敵の兵力を不断に掃滅し、能動的に相手をたえず戦いに引き入れることによって、息つくひまも与えない自由奔放な特殊戦法であった。あのとき、このような戦闘形式を適用せず、千篇一律の防御戦術のみに頼っていたとしたら、遊撃隊は、大兵力と戦闘技術機材の優勢をたのんで執ように食い下がる敵の攻撃でずたずたになってしまったであろう。
遊撃隊はわたしがとった新たな戦術的措置にしたがって、半軍事組織員とともに第一線の陣地から退き、遊撃区の奥深くへ敵を不断におびきよせては、伏兵戦、狙撃戦、宿営地襲撃戦、たき火爆弾戦など千変万化の戦法を駆使して、敵を受け身に立たせて小気味よく撃砕した。
たき火爆弾戦というのは子どもたちにもできる戦法で効果てきめんであった。遊撃隊は陣地をつぎの界線に移すときは、たき火のなかに爆弾を仕込んでおいた。敵兵は遊撃隊が放棄した陣地を占めると、我先にたき火のまわりに集まって凍えた体を暖めようとした。そんなときに爆弾が炸裂して敵兵を皆殺しにした。呉白竜の四番目の弟呉竜錫も、自衛隊の女性隊員と一緒に、トンガリ山の中央歩哨所でたき火爆弾戦法を使って敵兵を殺傷した。
われわれは敵宿営地への夜間襲撃もしばしばおこなった。二、三人または四、五人からなる襲撃組が敵陣にしのびこんで、敵軍の瓦解をねらったビラをまいたり、銃声を何発か鳴らして引き揚げるのである。テントやたき火めがけて銃弾を数発撃ちこむだけで、宿営地はハチの巣を突っついたような騒ぎになる。このような夜襲は一晩に三度、四度、ときには五度もおこなわれた。敵兵は一晩中おちおち眠れず恐怖におののき、同士討ちをすることさえあった。われわれの相つぐ奇襲に恐れをなして動転する敵兵も現れた。彼らの中には、遊撃隊員がまいた「日本兵士に告ぐ!」「満州国軍兵士に告ぐ!」のようなビラを読んで、投降してくる者もあった。
猟師たちも火縄銃を持って戦った。年はとっていても射撃術は大したものだった。敵の将校を狙い撃ちする驚くほどの腕前は、現代の狙撃兵のそれに劣らないであろう。婦女会員は握り飯や湯を休みなく塹壕に運んだ。十歳前後の子どもたちも戦場に現れて太鼓を叩き、ラッパを吹いて戦闘員を励ました。
馬村作戦で異彩を放ったのは、石落とし戦法である。遊撃区の軍人と人民は、トンガリ山のような第一線の陣地に石の山を築き、討伐隊が接近すると石を転がして大量に殺傷した。急傾斜の山腹を石がなだれをうって転がり落ちるとき、戦場にとどろく落雷のような轟音と、砲煙かと思われる砂塵は、侵略軍の心胆を寒からしめた。騎兵隊を攪乱し、軍用車や砲の前進を妨げるうえで、石落とし戦法は大いに功を奏した。
馬村作戦が生んだ英雄の中には、「十三連発」というニックネームをもらった遊撃隊員もいる。「十三連発」は、汪清地方では青年冒険家として広く知られていた。彼に冒険家といううわさがたったのは、共青組織の指示で豆満江岸のある税務署から武器を奪ってきたときからである。税務署に入った彼は、「だんなさまがた、ご機嫌いかがですか。わたしは朝鮮の青年です。共青員なのです」と自己紹介をしてから拳銃をつきつけ、悠々と壁に掛けてあった三挺の小銃を分捕った。そして、警察官駐在所に電話を入れ、「貴様たちはなにをしているのだ。いまここに共産党が現れた。早く総動員してやってこい」と怒鳴りつけた。駐在所からは騎馬警察隊が急派され、彼は危うく命を落とすところだった。その後も似たような冒険が何度もくりかえされた。共青組織からどれほどきびしく批判されたかはあえて説明するまでもないであろう。
その「十三連発」が、スッパク谷哨所で、抗日革命史の一ぺージをりっぱに飾る偉勲を立てたのである。スッパク谷を守っていたのは十数人の防御隊で、「十三連発」はその責任者であった。彼は小隊長であり隊内共青グループの責任者でもあったのである。
日本軍、満州国軍、自衛団からなる討伐隊の大集団は、夜陰に乗じてスッパク谷を包囲し、哨所を奇襲した。こうして早暁から熾烈な戦いがくりひろげられた。防御隊は、哨所の丸太小屋がその一角に火がついて崩れるまで、敵の七回にわたる攻撃を退けた。「十三連発」は弾雨のそそぐ中で共青グループ会議を開き、こう呼びかけた。
「諸君! われわれの背後には遊撃根拠地があり愛する兄弟がいる。もし一歩でも退くなら、われわれは朝鮮青年として生きる資格がない。骨が砕け身が粉になろうとも決死に戦って哨所を守ろう!」
敵愾心に燃える防御隊員たちは銃剣をかざして敵陣に突入し、白兵戦をくりひろげようとした。「十三連発」もそんな衝動を覚えた。しかし、与えられた任務を果たさなければと、はやる心をおさえた。かつて、個人英雄主義、冒険主義という病癖のため批判の的になった勇敢な戦士は、このはげしい血戦の中で自分の感情を制御し、理性的に行動する洗練された指揮官に成長していたのである。
わたしが援軍を引き連れてスッパク谷に駆けつけたとき、彼は十三発の銃創を負って哨所に倒れていた。「十三連発」というニックネームは、そのことに由来している。防御隊員の中には七か所、三か所、二か所の傷を負った者もいた。彼らにも「七連発」「三連発」「二連発」というニックネームがつけられた。汪清の人たちは、彼を「十三連発」と愛称した。わたしもそう呼んだ。そのうちに本名の方は人びとの記憶から薄れてしまった。彼の本名を思い出せないのはじつに残念である。しかしながら、本名よりも抗日戦争が生んだ「十三連発」というニックネームのほうが、読者に鮮やかな余韻を残すのではなかろうかということで、わたしは自分を慰めている。
戦いは日がたつにつれて、ますます熾烈になった。住民は日本軍の砲火で焼け野原となった小汪清をあとにして十里坪に避難した。敵兵は、兵士はもちろん、平民であっても老若男女の別なく見つけ次第に殺した。冬期討伐で殺された小汪清の住民は数百人を数えている。
わたしの率いる部隊が十里坪五次島木材小屋の前で戦っていたとき、避難民を装って検問所を通過した日本軍が、馬村から大汪清に移動する住民の背後から機銃掃射を加えて数十人を殺した。夜中に杜川坪村を包囲した敵兵は機関銃の集中射撃で就寝中の住民を一人残らず殺害した。遊撃区でりっぱな演劇の台本を書いていた区青年団書記白日竜の一家もみな死んだ。その年の討伐では小汪清の子どもたちが大勢殺されている。
遊撃区が最悪の状態に陥ったとき、梨樹溝の谷間には千五百余の避難民が集まっていた。彼らを大汪清に移動させるために、遊撃隊員たちは筆舌につくしがたい苦労をした。大汪清に向かっていた避難民の行列が敵の襲撃にあって二つに別れ別れになり、お互いに相手の行方を探し求めて、終日山をさまよったこともあった。わたしも一日中幼児を抱きかかえて革命大衆を掩護したものである。遊撃隊員は誰もが、敵と戦いながら老弱者の世話を焼かなければならなかった。今日の朝鮮人民軍と人民のあいだに見られる軍民一致の先駆けとなった、涙ぐましい絵巻はこのようにしてくりひろげられた。その絵巻の一枚一枚はすべて血潮と涙でいろどられているのである。
避難民を導いて梨樹溝から十里坪に移動したあの日のことを思うと、いまでもその苦しみがよみがえってくるようである。避難民の中には、討伐のために二十日ものあいだ穀物を口にすることができず、豆ざやや大根の葉で飢えをしのいだ人も少なくない。彼らは十里坪に移ってからも、穀物がなくて牛皮を煮て食べる有様であった。顔をあげて空の太陽を仰ぐ力もなかったあの飢餓の年に、遊撃区人民が口にした「飲食物」をいまの若い人たちの前に展示するならば、彼らも先輩たちが体験した人間以下の飢渇の苦しみに涙をそそられるであろう。
金明淑(延吉)は遊撃区時代に、春の端境期を切り抜けることができず、二人の子を餓死させ、本人も命を落とすところであった。一週間以上なにも口にできなかった彼女は、子どもたちが飢え死にしたのを見ても、野外に埋める力がなく、小屋の中に倒れていた。衰弱がそれほどひどかったのである。隣家の人たちが死体を外へ運び出したものの、土を掘って埋めることができず、枯れ葉をかぶせただけであった。彼らも金明淑と同様、一週間なにも口にしていなかったのである。
解放なった祖国に帰り、はじめて白米の飯を前にしたとき、金明淑は、二人のわが子を奪った遊撃区時代の春の端境期のことを思って泣いた。
車廠子遊撃根拠地には、漁郎村戦闘のさい機関銃創を八か所も受けて頭蓋骨から脳がはみだしたにもかかわらず、奇跡的に一命をとりとめた人がいた。その強靱な生命力のため、人びとは彼を「八連発」と呼んだ。八発もの銃弾を撃ちこまれながらも死ななかったという意味である。その「八連発」も、東南岔政府で働いていたときに飢えて死んだ。彼は死ぬ前に同志たちにこう絶叫した。
「敵の弾丸を八発受けたときに死んでいたら、英雄の名を残したかも知れないのに、ここで飢え死にするとは、なんと無念なことだ」
敵は遊撃区を銃剣で封鎖し、その中で人民を飢え死にさせ、凍え死にさせた。朝鮮人はあのとき、じつに苦しい試練をなめた。そのときの犠牲は、いまもわが民族の胸の奥底に大きな痛手を残している。
日本の支配層は朝鮮と満州大陸で犯した罪業を道徳的に深くかえりみるべきであろう。反省は羞恥でも屈辱でもない。それはおのれを理性的に見直す過程であり、完成へと導く過程である。目を閉じるからといって歴史がおのずと湮(いん)滅(めつ)されるものではない。日本が謳歌している高度成長の絹布団に朝鮮民族の血がしみついていることを忘れてはならない。日本も異邦人の銃火に命を落とし、愛する姉妹や娘たちが占領軍に辱しめられるという国難を体験しているではないか。
敵は満身創痍になってあえぎながらも執ように長期戦を企図した。人員も武器も食糧も補給されるあてのないわれわれを、長期戦の泥沼に引きずりこんで、凍えて死に、飢えて死ぬのを待とうとしたのである。
戦局を決定的に転換させてのみ、遊撃隊と遊撃区人民の活路が開かれるのである。遊撃区の防衛戦とならんで、敵の背後で強力な攪乱作戦を展開するのが、遊撃区と人民を救う唯一の道であった。
もともと、わたしは汪清に来た当初から、遊撃区の死守にのみ固執する防御一辺倒の傾向に反対していた。つまり敵の兵力が分散しているときは力を集めてこれを襲撃、掃滅し、敵が兵力を集結して攻撃してくれば兵力を分散していたるところで敵の背後を攪乱しなければならないというのである。このような戦法を「避実撃虚」の戦法とも呼んでいる。そうしてはじめて根拠地を守り、部隊の兵力も保存できるのである。
ところが東満州党委員会と県党委員会の大半の幹部は、敵が集結して攻めてくればこちらも必ず集結して防御すべきである、さもなければ遊撃区も人民も保護できない、と主張していた。
この二つの理論が戦術上の問題として対置され、ついにはどの主張が真にマルクス主義的であり、どちらが非マルクス主義的であるかという物々しい論戦にまで発展した。
彼らはわたしの理論を非マルクス主義的なものと解釈し、ひいては現実逃避的で投降主義的なものだと評したが、わたしは一歩も退かず、敵中攪乱戦の正当性をあくまで主張した。
われわれがいかに兵力を集結したところで、敵と対等に戦えるはずはない。それなら、むしろ人民を四方に避難させ、遊撃隊も一部だけを残し、いたるところで銃声をあげさせよう。そのあいだに残りの遊撃隊はさらに兵力を分散させて、敵の背後を攪乱しよう。かりに銃をもった十人の隊員が敵中に入るとしよう。彼らが素手の青年三、四十人をともなって守りの弱い敵陣を攻撃してまわるならば、銃も手に入れば、食糧も得ることができる…。
多くの同志が当時の状況を理性的に正しく判断し、わたしの主張を支持した。しかし一部の頑迷な人たちは、どうしても聞き入れようとしなかった。むしろ、その活動歴を鼻にかけて、「若い者たちは闘争経験の多い者の意見を聞くべきだ。敵が攻めこんでくるときに、軍隊が遊撃区の外へ出ていくというのは話にならん。それは人民がどうなろうと軍隊だけが生き残ろうという考え方だ」と途方もない言いがかりをつけた。
遊撃根拠地が焦土と化し、人民や遊撃隊に死者が続出するのにたまりかねたわたしは、童長栄、李相黙、宋一などの特委や県の幹部に会って、敵中攪乱戦の展開を強力に主張した。
「いまやすべてが最後の界線にいたっている。このままではわれわれも死に、人民もみな死ぬほかない。これ以上、どこへ避難するというのか。追われ追われて山の奥へ入りこんでいるが、山林の中に深く入れば住む家はもちろん食糧も手に入れるのは難しい。追われはじめると果てがなく、人民を保護することもできなくなる。あなたがたは、遊撃隊と一体になって戦えば敵を撃退できると考えているらしいが、それは見込みのない話だ。今夜すぐにも遊撃隊を三つか四つの組に分けて敵中に送るべきだ。敵中で彼らの根拠地をいくつか叩けば、討伐隊はきっと小汪清から退却するだろう」
東満州の他の遊撃区でも、そのころ小汪清と同じように苦戦していた。琿春の人たちは金廠と火焼舗方面に追われ、王隅溝では大荒崴と三道湾方面に、和竜県では車廠子方面に人びとが移動しはじめていた。事態がここまで立ちいたっているにもかかわらず、一部の幹部は決断がつかずためらっていた。
そこで、わたしは敵中攪乱論をもう一度説明し、「軍隊はわたしが責任を負っているから、わたしの決心どおりにする」と宣言した。そのあとで遊撃隊員を集めて、こう言った。
「われわれは防御に汲々としないで、敵の後頭部にも打撃を加えなければならない。敵中には誰が行く? 志願者はわたしのあとにつづけ。多くはいらない。半分は敵中に入り、半分は遊撃区に残って人民を保護しなければならない。敵中に行く者は、今夜のうちに包囲網を突破しよう。包囲網を突破すれば、活路が開ける。敵の拠点と根拠地に連続打撃を加えれば、そのうわさが広がる。うわさを広げながら各地の敵をひきつづき攻撃すれば、背後に脅威を覚えて、山に入りこんだ討伐隊はみな引き揚げるだろう」
こうして遊撃隊は二手に分かれた。一隊は崔春国の指揮のもとに十里坪を守り、いま一隊はわたしが引き連れて敵中に入っていった。千五百余の根拠地人民は共青員に導かれて羅子溝に疎開した。
わたしは崔金淑に、病中の童長栄を廟溝方面に避難させて看護するよう任務を与え、予備の食糧を集めて彼女の背負い袋に入れてやった。これが彼女との最後の別れであった。
わたしはその夜、遊撃隊の一隊を引き連れて、匍匐で敵の包囲網を突き抜け、敵背深く入りこんだ。案にたがわず敵の背後はほとんどがら空きであった。都市周辺の最初の村に入ると、村人たちは正月祝いの準備をしていた。彼らは、日本軍の討伐で遊撃根拠地の人がみな死んだと思っていたのに、こうして会えてうれしい、といって、ギョーザやキビ餅などの正月用料理をふんだんにもてなしてくれた。呉白竜小隊の金生吉は、ギョーザを百四十個もたいらげ、腹痛を起こして死ぬ思いをした。
翌日は疲れがひどかったので、歩哨を立てて、一日中隊員に唾眠をとらせた。何か月ものあいだろくに食べることも眠ることもできず、酷寒の中で苦労したため、眠りからさめたとき、誰もが目やにをためていたが顔色は晴ばれとしていた。
われわれは翌日から敵陣をつぎつぎに襲撃した。そこでは小さな討伐拠点を主にし、これにあわせて、比較的大きな討伐拠点も攻撃する戦術をとった。
最初に攻撃したのは涼水泉子であった。われわれは奇襲によって満州国軍と自衛団を壊滅させ、日本領事館警察兵営を占領した。ここで背後攪乱戦の最初の銃声をあげたわれわれは、遠くへ行方を隠したように見せかけたあと、もとの地域へ引き返し、新南溝で機動中の敵のトラック輸送隊を襲撃して掃討し、大量の小麦粉と軍需物資を分捕った。そのあと、新南溝からかなり遠い北鳳梧洞の山岳地帯にひそかに抜け出し、つぎの戦闘を準備した。一九三四年二月十六日の夜、北鳳梧洞の満州国軍と警察、自衛団員は一人残らず、わが部隊によって殺傷ないし捕虜にされた。
北鳳梧洞で勝ちどきをあげ、北高麗嶺を越えて寺洞方面に進出した部隊は、東谷の山林警察隊の兵営を襲い、敵兵を残らず殺傷または捕虜にした。
敵の冬期討伐の粉砕で決定的な役割を果たした最後の戦闘は、図們―― 牡丹江間の鉄道上にある軍事要衝の大肚川でおこなわれた。敵の討伐隊に変装したわれわれは、四十数キロの険しい山道を強行軍で突破し、三つの組に分かれて大肚川の警察署と自衛団室を襲撃し、軍用倉庫を焼き払った。
この戦闘後、敵は遊撃区の包囲網を解いて、九十日前の出撃地点に引き返した。敵は「ガン」を取り除くことができなかった。三か月にわたって遊撃区の存立を脅かしていた冬期討伐は、落日の運命をまぬがれなかったのである。
便宜上、馬村作戦と呼んだ小汪清根拠地防衛戦は、われわれの勝利に終わった。それは、アドルフ・ヒトラーの就任とライプチヒ裁判、ソ米外交関係の樹立などで騒然とした世界の一角で、世に知られずに起きた一つの奇跡であった。小汪清遊撃区防衛者たちの英雄的な偉勲と、苦難にいろどられた戦いぶりを生き生きと描けないのが遺憾である。
われわれはこの勝利のために高い代償を払った。数百の生命が敵の砲火に倒れた。なによりも哀惜の念に耐えないのは、崔金淑と童長栄の死である。
わたしを弟のように慈しみいたわってくれた崔金淑。われわれが敵中から帰ったとき、凱旋勇士たちを涙に濡れて歓迎する遊撃区人民の中に、彼女の姿は見えなかった。伝令がになっているわたしの背負い袋には彼女に贈るコンパクトがあった。他の婦女会員に贈る戦利品の麻袋も多かった。
この冬、婦女会員は遊撃区を守ってどんなに苦労し、どれだけ多くの涙を流したことだろう。炊事仕事はどれほどし、草の根はまたどれほど多く掘ったことだろうか。道案内を強要する敵兵を、遊撃隊のいない方向に連れこんで地団駄を踏ませ、銃殺された恵淑と英淑! 指揮部のある崖の上へ敵兵が這い上がるのを見て、敵だ、敵だと叫びながら、彼らを自分のほうにおびきよせた崔昌範の叔母!…
どうして桂月香(〔6〕)や論介(〔7〕)だけが朝鮮の烈女であり、愛国者といえよう。
けれども、時機を失したわたしのまごころは、崔金淑の手に届かなかった。敵は、わたしが一生のうち姉さんと呼び、慕ったただ一人の女性、祖国が解放されるまで死なずに戦おうというと、かえって、自分は不老長寿するが、隊長はわが身をかえりみないので心配だ、といっていた女性を奪い去った。
童長栄の死もわたしには胸の痛む喪失であった。彼は、わたしを愛し、わたしの思想を尊重してくれた中国の同志の中でも、とくに忘れることのできない戦友の一人であった。わたしは彼と、重要な路線上の問題で論争も多くした。我が強く、見解が一致しない場合もときどきあったが、それが二人の友情を傷つけるようなことはなかった。彼は朝鮮人の中ではわたしがもっとも信頼できるといっては、なにくれとわたしの力になってくれた。
大肚川戦闘を終えて腰営口方面に撤収したわれわれは、そのあと馬村に帰って小汪清遊撃区防衛戦を総括した。そのとき馬村では、疎開地からもどった人びとが焼け跡に家を建てていた。ある年寄りは、遊撃区に来てから家を建てるのが七十回目だと語った。死んでも生きても遊撃区と運命をともにしようと決心した間島人民の生命力は、このように強靱であった。
こうした人民の支持、後援がなかったとしたら、遊撃隊は敵の大討伐を撃破できなかったであろう。馬村作戦の勝利は軍民一致のたまものであり、人民抗戦の結実であった。困難が大きければ大きいほど、いよいよ奮い立ってそれに立ち向かうわれわれの攻撃精神と、それに根ざす変化に富んだ独自の戦法は、馬村作戦の勝利をもたらした決定的な要因である。
馬村作戦の全過程は、革命政権の土壌の上に百折不撓の朝鮮民族の意志と気概をもって巨木のようにそそり立つ遊撃区精神の燃焼過程であった。それは飛行機や大砲をもってしても征服できない堅忍不抜の力を湧き出させ、全土を血潮で染めながら小汪清を守りぬかせたのである。
馬村作戦は、敵に大きな軍事的・政治的・道徳的惨敗をこうむらせ、革命軍の軍事的権威をいちじるしく高めた。われわれはこの作戦を通して、遊撃戦法の骨組みとなる新しい戦法を無数に編み出し、やがて大部隊活動に移行する軍事組織的・戦術的基礎を築きあげた。抗日遊撃隊は、敵のいかなる侵攻をも撃破できる豊富な経験をつんだ。
馬村作戦は小汪清を守りぬくことによって、隣県の遊撃区に加えられた危機の解消にも寄与し、抗日武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命を高揚に導くうえでも大きく貢献した。一二一一高地(〔8〕)を死守した英雄的戦士の防衛精神は、一九三〇年代に生まれた遊撃区精神に根ざしている。われわれはいまも、この精神をもって帝国主義の包囲の中で朝鮮式の社会主義を輝かせながら一路邁進している。
抗日戦争の砲火の中で生まれ、鍛えられた遊撃区精神を圧倒する力はこの世にない。この精神のあるかぎり、われわれの軍隊と人民は今後も永遠に必勝不敗の道を歩むであろう。
6 密林の兵器廠
わたしは馬村にいたころ、兵器廠へたびたび出かけた。兵器廠とは兵器の生産工場で、「廠」は中国語で「工場」という意味である。当時、われわれは兵器廠を素朴に鉄工所とも呼んでいた。そのような鉄工所は間島の各県にあった。
馬村兵器廠または小汪清兵器廠と呼ばれたこの鉄工所では、最初、組織から送りこまれた一、二名の人が炉に炭火を起こし、ふいごを使って槍や刀剣のような武器をつくる程度にすぎなかった。
馬村作戦の直前に鉄工所へ行ってみると、職人が七、八人ほどに増え、そこでは区政府糧食課長に転任した朴斗京に代わって、金尚旭が責任者を務めていた。彼らのうち、いまも名前が思い出せるのは、呉学鳳、崔相文、楊道吉、姜海山、朴永福、李応万である。そのうち、鉄工の経験があるということで兵器廠に派遣された技能工は姜海山一人で、残りは鍛冶の経験がほとんどなく、まして兵器の修理などは一度もしたことのないずぶの素人であった。そういう未熟な彼らが、やがて旋盤もボール盤もセーパーもフライス盤もない片田舎の鍛冶場で、近代的な軍需工場でしかつくれないと思われていた爆弾や拳銃、小銃、弾丸はいうまでもなく、それに必要な火薬まで難なくつくりだしたのである。それは抗日戦争が生んだ奇跡であり、民族の自主的な闘争によってのみ戦いに勝利すると確信していた、朝鮮共産主義者の不動の信念と自力更生の革命精神が生んだ奇跡であった。
一時、間島の人たちは、当てもないままソ連の援助で遊撃根拠地に手榴弾工場を建てようとした。全世界の共産主義者がソ連を人類解放の灯台と仰いでいたときのことである。先に革命を遂行した国の援助に頼ろうという考え方は、人びとのあいだに他人への依存心を助長した。他人への依存心、他人の援助によって革命を遂行しようという志向は、民族主義者のあいだでは、資本主義列強への事大主義思想を生み、共産主義者のあいだではソ連への依存心を生む根源となった。われわれは当時、革命勝利の先頭を切ったソ連の共産主義者が、後進国の共産主義者を援助するのは当然の国際主義的義務であると考えた。
ところが、ソ連側からはこの要請になんの回答もよこさなかった。要請を容れるという約束も、それは困難だとか、不可能だという通知もなかった。自力更生以外にないと、われわれが強く決心したのはそのときである。ソ連の沈黙は、われわれを、自力更生のみが生きる道である、革命をおし進めるうえで決定的なのは自らの力を最大限に発揮することであり、他国の援助は付随的なものであるという確固とした立場に立たせた。こうして、われわれは兵器廠の運営をとくに重視し、それに全力をそそいだのである。
朴斗京が廠長を務めていたとき、われわれは鉄床、金槌、やっとこ、ハンマー、ふいご、やすり、ドリルなどの鉄工具を補充し、兵器廠の改善をはかった。それらの工具で、彼らは武器を修理、製作して、遊撃隊と半軍事組織に供給した。兵器廠が生産した武器の中で異彩を放ったのは、破損した旧式小銃や三八式小銃の銃身を切断してつくった単発の拳銃である。そのような拳銃は軍隊には与えず、自衛隊や少年先鋒隊に送った。漁郎村遊撃隊でつくった単発拳銃は、主として政治工作員に供給されたが、使用者の評はよかった。兵器廠では三八式小銃の使用ずみの薬莢から雷管を取り出し、そこへ自製の雷管を入れ、火薬をこめて銃弾を再生させた。
兵器の生産に必要な資材や原料のうちもっとも緊要で、入手が困難なのは火薬であった。最初、遊撃区の兵器廠では鉱山労働者や地下工作員から送られてくる火薬で爆弾をつくり、銃弾を再生させたが、火薬を手に入れるのは、つねに危険をともなったし、苦労して鉱山に組織した革命組織が露呈する恐れもあった。実際、火薬と引き替えに多くの生命が失われた。その代表的な例は竜水坪沼沢事件である。
竜水坪は八道溝鉱山の近くにある村で、崔賢の戦友であり夫人でもある金喆鎬が育ち革命家に成長した土地である。村はずれにアシの生い茂った深い沼があった。村人たちはその水を引いて稲作を営んだ。ところが、農民の命の綱ともいえるその沼がある日、血で染められた。遊撃根拠地に火薬を持ちこんだ八道溝鉱山の労働者二十数人が日本憲兵隊に捕らわれ、沼ぎわに引き出されて無残に殺されたのである。
この事件は遊撃根拠地の指導者や兵器廠の関係者に、鉱山組織に全面的に依拠して火薬を入手していた従前の方法に代わる、新しい方法を探求せざるをえなくした。遊撃区の兵器廠で爆弾や銃弾に使われた火薬は文字どおり、闘士たちがささげた血と肉の結晶であった。
われわれは、火薬を自力でつくろうと決心した。砂上に楼閣を築くようなものだという者もいたが、わたしは、覚悟を決めればできないことはない、祖先がつくった火薬をその子孫がつくれないはずがあろうか、という一念で、火薬製造の歴史や参考資料を熱心に調べた。そして、火薬の主成分である硝酸カリウムが民家でもつくれるという結論を得た。
それは、人家のあるところならどこでもつくれる、われわれがふだん見ているものであった。陽光がまぶしく降りそそぐある日、わたしは兵器廠のメンバーをともなって、灰と肥やしが積まれている李治白老の家の庭へ行った。積み肥のまわりに白く光っている塩のようなものを指して、これが硝酸カリウムだというと、彼らは、自分たちは手に持ったキセルを探しまわる年寄りと同じだった、と愉快そうに笑った。
厠(かわや)の跡や、牛小屋、馬小屋などの積み肥の地面からも、硝酸カリウムを集めることができた。
高麗時代に崔茂宣が火薬を発明して、国防に大きく寄与したのは周知のとおりである。彼がつくった大砲は軍船に装備され、高麗水軍は鎮浦沖の海戦で倭寇を大きく撃滅した。彼が火薬の製造に使った硝酸カリウムも、住家の周辺で集めた灰やちりを精製したものだったという。
一時、高麗時代の火薬は崔茂宣の発明ではなく、彼が外国人から教わってつくったという説があった。そんな火薬を発明するにたる理論的・技術的土台が、当時わが国にはなかったというのである。わたしはそれを公正な評価だとは思わなかった。史料によれば三国時代に新羅で大砲が使われたという。外国人がなにか発明すると、「その国の人たちはたしかに頭がいい」と感心しても、朝鮮人がなにか発明したというと「ほんとうかね?」と首をかしげる事大主義的、虚無主義的な思考方式は、われわれの自尊心をひどく傷つけるものであった。
兵器廠の人たちは、たやすく硝酸カリウムをつくりだした。硝酸カリウムの精製には、底に穴のある土器やブリキ製のこしき、陶製の壺などが利用された。それらの容器に、馬小屋や厠、積み肥の下から掻き集めた土をかたく詰めて水をそそぐと、底の穴から液がしたたり落ちる。それを受け、釜に入れて煮詰めると最後に白い結晶が残る。それが硝酸カリウムである。
そのときにできる表層の結晶を横物、深層の結晶を縦物といって区別した。縦物は指向性が強いので小銃や拳銃の銃弾に装てんされ、横物の方は、その拡散性を利用して爆弾の製作に多く用いられた。
火薬の製造に必要な原料、資材はすべて大衆を動員して入手した。火薬になくてはならない硫黄は、警備電話線の碍子から掻き集めてきた。火薬にはアルコールのような可燃性物質も必要だが、それはパイカル酒で代用した。われわれは失敗にもめげずに実験をくりかえし、ついに理想的な配合比を見いだした。
わたしは、火薬の製造に参加した当時の人たちを忘れることができない。孫元金もその一人である。元来、わたしは孫元金とはゆかりがなかったし、会ったこともない。けれども、わたしは彼の経歴や活動状況を十年の知己以上によく知っていた。
彼のことをはじめて話してくれたのは、朴永純であった。爆弾製造の講習会を開いたときに講師として馬村に来た彼は、わたしと同宿し、何日かのあいだ身辺の出来事をいろいろと話してくれた。そのなかで孫元金の名前がよく彼の口にのった。十に一つほどくりかえされる名前であったが、そこからは朴永純の格別の愛情と尊敬心が読みとれた。それで、わたしは孫元金が話題にのぼると、注意深く耳を傾けた。朴永純は彼の親しい戦友であり、入党推薦人であった。
人間はその業績によって有名になることもあれば、才能やなにかの出来事でも名を知られることがある。一九三二年当時の孫元金は、警察署脱出事件で間島地方の革命家に広く名を知られた。薬売りを装った彼は、バイオリンを肩に、あの村この村と渡り歩いて通信連絡任務を遂行しているうちに警察につかまった。拷問で全身傷だらけになった彼は、汚水が腰までつかる下水道から外へ抜け出し、一日じゅう川の中に隠れていた。あの警戒のきびしい敵の巣窟から無事脱出したのも驚くべきことであるが、血まみれの体を日暮れまで水中に漬けていたのだから、驚嘆のほかない。
その後、遊撃隊に入隊し、共産党にも入った孫元金は、誠実な努力によってその存在をきわだたせはじめた。
金谷村の神仙徳鷹岩谷には、朴永純を責任者とする和竜兵器廠があった。ここで最初につくられた爆弾を音爆弾といった。音爆弾はやがて唐辛子爆弾となり、ついに延吉爆弾と呼ばれる強力な爆弾として完成した。
延吉爆弾の製造には多くの資材が必要であった。それらを兵器廠が自らの手で集めなければならないので、苦労はたいへんなものであったが、孫元金はいつも先頭に立って難題の解決にあたった。
「音爆弾の製造中、大きな困難にぶつかったことがありました。装てん袋用の紙と布が底をついたのです。どうしたものかと頭を悩ませているとき、彼はいつの間にか村へ走っていき、自宅の障子紙と一枚しかない布団の布を引きはがしてきたのです。夜中に息を切らせて兵器廠にもどった彼を見ると、わたしはなんともはずかしい思いがして…」
朴永純が馬村で、わたしにした話である。
「それがほんとうなら、彼はじつにりっぱな革命家です」
わたしは彼の話から受けた感動を、ありのままに表現した。
朴永純は言葉をついだ。
「彼は何事をしても人に後れをとりません。針金がなくなって爆弾の製造がゆきづまったときも、それを真っ先に手に入れてきたのは孫元金でした。何里も先の南陽坪へ行って、三百メートルもの電話線を切断してきたのです。硫黄も、鉄片も、ブリキ板も彼が集めてきました」
ある吹雪の夜、ブリキ板と古鉄を背負って兵器廠に入ってきた孫元金の後ろから、どこの誰とも知れない老婆が鉄の釜を頭に載せて現れた。見知らぬ老婆の出現にみなが驚いた。
「おい、どうしたんだ? シベリア風で肌がちぎれるようなこの寒い夜中に、年寄りを連れてくるなんて…」
朴永純は彼女の頭から釜をおろしながら、こういった。孫元金は背中の荷をおろして、かぶりを振った。
「わたしが連れてきたんじゃありません。おばあさんがどうしてもといって、ついてきたんです」
朴永純は老婆に向き直った。
「おばあさん、どうしてここへいらしたんです?」
「この人とは以前からの知り合いなんですよ。内豊洞にいたころからね。うちの嫁が重い病気を患っていたとき、薬一服使えなかったわたしたちに、バイオリンを弾いて薬売りをしていたこの若い衆が、金もとらずに薬をくれ、米まで買ってきてくれたんですよ。おかげで嫁が命をとりとめました。お礼ができず気に病んでいるところへ、きょう、ひょっこり村へ見えたんですよ。家を一軒一軒まわりながら古鉄を集めているので、ああ、よかった、それなら恩が返せる、と思って喜びました。これは、うちのいちばん大きい釜です。でも、こんなものでお返しができるかどうか…」
老婆は必配そうに、炉の前に置いた釜に視線を移した。
「おばあさん、お気持はわかりますが、わたしたちが集めているのは壊れた釜で、新しい釜ではないのです。この釜はお持ち帰りになってください」
朴永純は恐縮してこういった。老婆はむっとした。
「なにをおっしゃるんですか。わたしのせがれは二人も日本軍に焼き殺されたんですよ。こんな鉄の釜がなんだっていうんですか」
兵器廠の人たちは黙りこんでしまった。
朴永純の話を聞くと、すぐにも和竜へ行って、孫元金に会いたくなった。わたしを引きつけた孫元金のもつ人間像、その真髄は強烈な自力更生の精神であった。わたしは感動して、朴永純にいった。
「今度、一緒に来ればよかったのに、残念です。彼の経験はたいへん教訓的です。そのりっぱな経験をみんなにすっかり話して聞かせることができたら、さぞかし喜ぶでしょうに。朴君が彼に代わって話してはどうですか」
馬村で爆弾製造講習会があってから、孫元金は東満州に広く名を知られるようになった。
講習会を終えて朴永純が馬村を発つとき、わたしはこう頼んだ。
「和竜に帰ったら、孫元金君に、彼の経験が講習生にとってたいへん参考になったと話してください。そして、いずれ会う機会があるだろうから、そのとき友情を温めたいというわたしの気持も伝えてください」
しかし、彼にはついに会う機会に恵まれなかった。そのうえ、彼は作業中、爆発事故で両眼を失うという不幸に見舞われた。
火薬の製造には、たえず危険がつきまとった。ときには命を落とすことさえある。もっとも危険なのは、爆弾や銃弾に火薬を装てんする作業である。朴斗京、朴永純、姜渭竜なども火薬の製造中、重傷を負っている。それでも彼らは作業場を捨てなかった。
孫元金は失明の苦しみにも落胆せず、「みんな、悲しまないでくれ。二つの目は失ったが、ぼくには心臓が残っている。両腕と両足もあるではないか」と、かえって同志たちを励ました。そして手探りで針金を切断し、爆弾をつくりながら、インターナショナルを歌った。
無情な世の荒波に父親と兄と姉をつぎつぎに失い、いまや自分自身まで光明から見放された孫元金! まだ生の半ばにも達していない若さであった。
孫元金は遊撃区の解散後、戦友の重荷になるまいと、部隊と別れて金谷村に移った。彼の耳には毎日のように遊撃隊を中傷し、共産党をののしる敵の宣伝が聞こえた。
「遊撃隊は山で全滅した」「根拠地の人たちもみな餓死した」「車廠子へ行ってみろ。どくろばかり転がっている」「共産党の政治は滅びる政治だ。共産党についてまわったところで得になることはこれっぽちもない」
孫元金は怒りに血をたぎらせた。彼は民家を訪ね歩いて熱心に説いた。
「そうではない。遊撃隊は生きている。生きて、さらに広い地域に進出している。いま南北満州のいたるところで敵を撃滅している。数十人ではじめた遊撃隊が、いまでは大砲や機関銃をそなえた数百数千人の隊伍に成長した。同胞のみなさん! 兄弟のみなさん! 敵の宣伝にまどわされないで人民革命軍をもっと熱心に援護しよう。抗日戦争は必ずわれわれの勝利に終わるであろう!」
孫元金の足跡は金谷村の範囲を越えて、数十里先の延吉や竜井にも印された。以前のように、バイオリンを肩にかけ、杖で地面を探りながら歩くこの「哀れな乞食」に軍警は目もくれなかった。
そうした旅の途上に普天堡戦闘のニュースを伝え聞いた彼は、延吉の大通りや路地で絶叫した。
「朝鮮同胞のみなさん! 六月四日、
彼の火を吐くような熱弁に延吉の街は沸きかえった。しかし、その代償として、彼は日本の警察に逮捕され、火あぶりにされた。
「みなさん! わたしは目が見えません。けれども解放された祖国の山河がはっきりと見えます。勝利の日まで強く戦ってください!朝鮮革命万歳!」
これは、彼が刑死直前に残した言葉である。享年二十五歳。自力更生の先駆者孫元金は、このようにして世を去った。
朴永純は、孫元金を追憶するたびに、「彼は嫁さんももらえずに世を去ったのです」と声をつまらせたものである。
もし、彼がいまも生きているとしたら、若い人たちに自力更生について教訓的な話を聞かせているであろう。彼の経歴そのものが自力更生の生きた教科書といえるのである。
火薬の開発は、兵器の生産に大きな転換をもたらした。火薬がつくれるようになると、爆弾の製造量は急速に伸びた。爆弾にはブリキ缶が利用され、それに導火線がつけられた。外皮は普通、空き缶を使った。敵の統治区域や半遊撃区の地下組織を通して集めた空き缶に火薬を装てんした油缶のような別の缶を入れ、外皮と油缶のあいだに、犂やその他のものを砕いた鉄片をつめ芯をつければ爆弾ができあがるのである。手製の爆弾だから操作に不便で見栄えもしなかった。下手に扱えば、使用中に事故を起こすこともある。ある隊員が涼水泉子の敵を襲撃するとき、点火に手間どって自分の腕を吹き飛ばしてしまった例もある。しかし、この爆弾は手榴弾とは比べようもなく大きい殺傷力をもっていた。日本軍は、パルチザンの爆弾といえば、震えあがったものである。
火薬がつくられるようになってから、遊撃根拠地では木製の砲も製作された。呉義成部隊は、今日の対戦車砲に似た鉄製の大砲をさかんに使ったが、われわれにはそんなぜいたくが許されなかったので、木砲というものをつくりだしたのである。汪清でタケカンバの木を使って、はじめて木砲をつくったのは東寧県城戦闘の直後であったと思う。大肚川を攻撃するとき、この砲を使ってみると、落雷のようなすさまじい爆音がした。手製の木砲だから威力といっても知れたものである。ところが砲弾を一発撃ちこむと、敵兵は仰天して逃走してしまった。
和竜地方でも漁郎村媒苦園子の兵器廠で木砲をつくった。それを千里峰に運び上げて砲撃すると、十二キロ先の二道溝の日本軍警があわてふためいたという。
革命軍が木砲を撃つと敵は何事かと驚き、呆然自失の体であった。なんら技術的設備のない遊撃根拠地で大砲をつくるというのは、想像すらできないことだったからである。
武器の製造、修理で兵器廠の人たちが発揮した、革命的な積極性と堅忍不抜の精神、創意性は、じつに世人を驚嘆させるものであった。遊撃隊の兵器廠には、近代的な機械や工具はほとんどなかった。汪清ではドリルを一つ、朴永純の和竜兵器廠では、大拉子の鍛冶屋を通して入手したという手動ボール盤一台をそなえていたにすぎない。延吉県の頭道溝、能芝営などの兵器廠にそのような機械があったかどうかは、思い出せない。ドリルと手動ボール盤を除けば最上の工具はやすりであった。
兵器廠ではやすり一つでさまざまのものを修理した。やすりをかけ、砥石でみがき、金槌でたたき、火と水、泥土で焼きを入れたりして、小銃の駐退桿や撃針を修理し、やがて機関銃なども簡単に再製した。そこには、朴永純、孫元金、姜渭竜、朴斗京、宋承泌、姜海山のような器用な人が少なくなかった。彼らは、針に穴をあける技までもっていた。
こうした奇跡の秘訣は、ほかならぬ自力更生にあった。もし朝鮮の共産主義者が最初から外国の共産主義者にたいする幻想にとらわれ、自力更生を考えず、また、それだけが生きる道であり、祖国を救う道であるという信念に徹していなかったなら、遊撃区に兵器廠は出現しなかったであろうし、木砲や延吉爆弾のような強力な武器もつくられなかったであろう。そうなれば、独立軍のように人民に軍資金を出せと訴えたり、外国を巡り歩いて支援を哀願したりしなければならなかったであろう。哀願するとなれば、相手にこびへつらい、足の裏をなめろといわれれば足の裏をなめ、目くそを取ってくれといわれれば目くそも取ってやる、卑劣な俗物になりさがるほかはない。
われわれが抗日戦争の初期から自力更生のスローガンをかかげてそれを貫いたのは、当時の革命情勢の要求にも適合していた。日本軍の満州侵攻は、朝日、中日間の矛盾を激化させ、それは必然的に武装闘争という高い形態の闘争課題を朝鮮の共産主義者に提起した。
そのようなときに、われわれが自力更生に依拠せず、外国にすがる哀願外交策をとっていたとしたら、日本軍の満州占領直後、あれほど早く抗日戦争を開始することはおぼつかなかったし、遊撃隊もわずか数年のあいだに、有力な隊伍に成長することができなかったであろう。
自力更生は、自主、自強を前提として、民族の自決による国の独立を渇望している人民の志向と要求をもっとも正しく反映したスローガンである。人民が最初からこのスローガンに共鳴し、いたるところで鍛冶場を兵器廠につくりかえたり、兵器修理所を新たに設けたりしたのは、決して偶然な出来事ではなかった。
自力更生、刻苦奮闘は兵器の生産や修理だけでなく、抗日革命の全分野を貫く基本的な精神となり、革命への忠実性をはかる尺度となった。いくら愛国心が強く、共産主義思想に忠実な人間であっても、自力更生、刻苦奮闘の精神に欠ければ真実の革命家とはみなされなかった。それは自力更生にこそ、革命の勝敗を決するカギがあったからである。
かつて民族運動の指導者がウィルソンの民族自決論に眩惑されて、外部勢力依存の道に走ったのは、彼らに自力更生の精神がなかったからである。
延吉県依蘭溝には南陽村という村があった。秋収・春慌闘争後、日本軍警はこの村を襲撃して、罪のない住民や青壮年を惨殺し、人家を焼き払った。
南陽村に派遣された政治工作員は若者たちを集めてこう訴えた。
「われわれは非暴力的な政治闘争をしているが、敵は武器を使っている。素手では敵に勝てない。銃剣をもって日本帝国主義と決戦するときはきた。諸君! それでは、どうすればいいだろうか?」
一人の若者が拳を振って叫んだ。
「古鉄を集めて槍なりともつくろう。槍を一本ずつ持っていれば、それで敵兵を突き殺し、銃を奪えるではないか」
彼は昔の鍛冶屋李泰順老の息子だった。彼は、家の納屋に父の鍛冶用具がしまってあるから、それを使えば、刀剣や槍はいくらでもつくれる、というのである。みんながそれに賛成した。
「そうだ。槍と刀からつくるのだ。つぎに、その槍や刀を銃に替えよう」
李泰順老が農具をつくっていたときの金槌ややっとこを、人目にあまりつかない谷間に持ち出した彼らは、オノオレカンバの根で炭を焼き、牛車の鉄輪をはずして槍を鍛え、砥石でみがいて刃を立てた。
村の外から響いてくる槌音は昔日の鍛冶屋を谷間へ誘い出した。若者たちは鍛えていた槍を草むらに隠し、火打ち金をつくっているように見せかけた。
「なにをつくってるんじゃ」
李泰順老は、けげんそうに彼らを見まわした。
「火打ち金です」
みんなは口裏を合わせた。
「ひまなやつらだ。槌をこっちへよこせ」
老人はまたたくまに火打ち金を十個つくると、鍛冶用具を持って帰ってしまった。
翌日、老人が畑に出たすきに、若者たちはまた用具を持ち出して槍を鍛えた。
「なんというやつらだ。きのうつくってやった火打ち金はどこへやって、また、こんなことをしているんだ」
壁も屋根もない若者たちの鍛冶場に不意に現れた李泰順老は、きびしく問いただした。
「友だちにみな取られたんです」
息子が仲間に代わって答えた。
こんなことが、その後、何度かくりかえされた。李泰順老は、彼らが火打ち金をつくっているのでないことをすぐに見破った。農繁期に村の若い者が火打ち金ほしさに、そんなことをするはずがなかった。蒸し暑い夏のある日、トウモロコシ畑のうね伝いに現場にそっと近づいた老人は、若者たちが息子に教わりながら槍を鍛えているのを見た。
「こいつらめ。春も夏も休まず、なにをしているのかと思ったら、自殺の支度をしていたんだな」
老人は鍛冶用具を掻き集めながら怒鳴りつけた。若者たちは老人の腕にとりすがった。
「おじさん。敵は若い男だと見ると、手当たり次第に殺しているのに、ぼくたちがじっと座りこんでいてよいものでしょうか?」
返答につまった李泰順老は、それもそうだとうなずき、ちょっと考えてから重々しくいった。
「そのやっとこをわしに寄こせ。おまえたちは槌を打つんだ。見張りを怠るんでないぞ」
その日、老人は十数人の若者に一本ずつ槍をつくってやった。ところが、隣村の若者たちが鉄片やこわれた牛車の鉄輪を持ってきて、槍と取り替えていった。鍛冶場のない村を助けるべきだというのである。
李泰順老は、ずく鉄では槍がつくれないといって、それらの鉄片を捨ててしまった。そして家にしまってあった数十挺の八角のみを持ってきて、高硬度の短刀と槍を数十本つくってやった。南陽村の二十余人の若者は、老人がつくった槍と短刀を持って、延吉から九竜坪方面に移動していた満州国軍の小部隊を襲い、多くの武器と弾薬を奪った。
李泰順老は喜んで、彼らの戦果をたたえた。老人の指導のもとに、南陽村の秘密鍛冶場では、多くの刀槍をつくりだし、やがて、爆弾の製造もはじめた。兵器の製造と修理に専念していた老人は、ある日、敵の手に捕らえられて殺された。
これは自力更生の生命力を示す一つの例にすぎない。自力更生はこのように、わが国の民族解放闘争史上はじめて、無から有をつくりだす新しい時代を開いた。この生気にみちた時代相は、何事であれ人民の力と知恵を最大限に引き出して切り開いていく共産主義的方法が、いかに正しく有力であるかを実証する生きた絵巻といえる。
自力更生は、朝鮮共産主義者の闘争において主体性を確立する重要な方途の一つであったし、自力更生をぬきにしては主体性について考えることも論ずることもできなかった。それなしには、どだい朝鮮革命の発展について考えることさえできなかった。自力更生のみが、朝鮮人民の近代的な精神生活を強く束縛していた事大主義を一掃し、自主、自強、自立の理念のもとに民族再生の活路を成功裏に切り開いていけるようにするからであった。自力更生は、主体性の確立した人間とそうでない人間とを見きわめる試金石であった。
だからわれわれは、抗日戦争を開始したときから、自力更生の革命精神をもって大衆をたゆみなく教育した。他国の援助があれば、それはよいことであるが、たとえ援助がなくても、自力で国を取りもどすべきであり、また取りもどせるという思想、上部が助けてくれればよいが、助けてくれなければ、万事自分の知恵と力でやりぬくという思想は、容易に大衆の共鳴を得た。しかし、少なからぬ人は自分の力に確信がもてず、それを過小評価する古い思想から抜け出せずにいた。
自国人民の力を信頼し、それに依拠して革命を遂行しようという呼びかけに熱烈に呼応した人の中にも、さほど困難でもない武装問題がもちあがっても首をかしげ、難色を示す傾向が現れた。
安図で遊撃隊の創建を前にし、その準備の一環として教練に励んでいたある日、李英培と方仁鉉の二人が銃の掃除中、撃針を折ってしまった。銃の一つ一つが命との引き替えであった当時の実情にあって、それは見逃すことのできない非常事故であった。
わたしは折れた撃針をあらためたあと、李英培と方仁鉉にこういった。
「君たちに一日間の余裕を与えるから、明日のいまごろまで撃針を直すのだ」
二人は目を丸くした。まさか、わたしがそんな途方もない要求を出すとは思ってもいなかったらしい。
「え? 近代的な軍需工場でつくられる兵器を、わたしたちがどう直せるのです? 命をかける冒険とか戦闘ならいざ知らず、これは技術のない人間にはできないことではありませんか」
「たやすくやれることだけを選んでするのが革命なら、なんのためにわれわれの事業に革命という神聖な名をつけるのだ。普通の人間には考えられない偉業をやりとげるところに革命の真の意味があり、革命家の誇りがあるのではないか」
「でも折れたのは鋼鉄製の撃針です。これが、理屈どおりにできることでしょうか」
方仁鉉は顔を曇らせ、手にしていた撃発装置に視線を落とした。彼は、撃針を元どおりに直せというわたしの要求を、無理難題と受け取っていた。こんなとき指揮官が命令や指示を取り消せば、どんなことになるだろうか。
わたしは無理な要求だとは思いながらも、冷たく突き放した。
「直せないなら遊撃隊員になる資格はない。ちっぽけな撃針一つ直せない者に、複雑な社会改造という大仕事ができるというのか。君たちにほんとうに撃針を直す気がないなら、あすから教練に参加しなくてもよい」
こう威圧するようにいうと二人はびっくりして、きっと撃針を直すと答えた。そして方法を教えてほしいといった。
「わたしにもわからない。方法は自分たちで考えるんだ」
李英培と方仁鉉は撃発装置を持って、しおしおと教練場から立ち去った。
翌日、彼らは撃針を直し、にこにこしながら教練場に現れた。完全な形ではなかったが撃針はりっぱに動いた。それには驚かない者がいなかった。修繕を命じたわたしも、わが目を疑ったほどである。技術もないのにどう直せるのかと言い張っていた彼らが、どうしてこんなにたやすく直したのだろうか。
「最初は太い鉄線にやすりをかけて撃針をつくろうと思ったのですが、適当な鋼線がないではありませんか。それで折れた撃針を焼いて叩きのばし、砥石にかけてなんとか形を仕上げたのです。ところが焼きなました鉄を硬くするのがうまくいきません。そこで下小沙河の年寄りの鍛冶屋さんに相談に行ったのです。すると老人は、ずく鉄を鋼(はがね)に変えるには、油で焼き入れしろと教えてくれました。いわれたとおりにするとこんなに硬くなったのです」
方仁鉉は興奮した口ぶりで、こう説明した。
彼らの経験は人びとを大いに奮発させた。自分の力を確信し、それを発揮すれば、誰でも人を驚かすようなことができるという教訓を感動のうちに汲みとったのである。
修繕した撃針をつかんで教練場に走ってくるときに見せた李英培と方仁鉉の明るい微笑を、わたしはいまも忘れられない。その微笑は自分の力にたいする限りない誇りが表に現れ出たものであろう。自分にはないと思っていた力を、自分の中に発見したときの快感や喜びにまさる歓喜がまたとあるだろうか。
一本の撃針など実際はとるに足りないものである。それを直す時間なら、新しい小銃を十挺でも奪ってこられるであろう。しかし、その一本の撃針を直したことから得た教訓は水爆一個の力よりも大きな力を生み、拡散させるのである。
マルクスとエンゲルスは、人類発展の歴史を階級闘争の歴史だと説いた。それはもちろん正しい規定である。人類の歴史は階級闘争の歴史であると同時に、自己発展の歴史、自己創造の歴史、自己完成の歴史であるともいえる。言いかえれば、人類が自分自身の中に人間特有の力と才能を不断に見いだし、みがきあげてきた創造の歴史であり、同時に人民大衆の自主性をめざす闘争の歴史である。人類の歴史はまた、自らをたえず政治的・思想的に、文化的・道徳的に、科学・技術的に洗練させてきた革新の歴史であるともいえる。人類はこのような創造と革新の力でいまやロケット時代、コンピューター時代、遺伝子工学の時代、緑の革命の時代を迎えたのである。
こうした見地からすると、自力更生は歴史の発展を促してきた強力な推進力だといえる。人間が自分の力を啓発せず、天地万物の創造者だという神や天の恩寵にのみ期待をかけてきたとしたら、われわれはまだ旧石器時代に生きているかも知れない。
われわれが東満州各地で兵器廠を活発に運営していたころ、史忠恒は、東寧県城に王徳林の救国軍が経営していた兵器工場があると教えてくれた。それを聞いて、わたしは東寧県城にいっそう強い関心を向けるようになった。史忠恒の話によれば、その兵器工場は、一九三二年春、一、二台の旋盤と鋳なべ車、ミシンをそなえた兵器修理所として発足した。その年の下半期から、それは手榴弾、迫撃砲弾、二十五連発機関短銃、俗に豚砲と呼ばれた火砲などを生産する本格的な兵器工場に発展し、職員は二百余人にのぼった。その間、工作機械などの生産手段や設備も補充された。ここで生産される武器は主に汪清県大甸子と寧安地方の救国軍部隊に供給された。日本軍の占領後に工場は閉鎖されたが、設備や機械は残されていた。もし、われわれが一九三三年秋に東寧県城の完全攻略に成功し、そこを占めていたなら、その兵器工場はわれわれのものとなり、より近代的な軽火器や重火器で遊撃隊をりっぱに武装することができたであろう。
一九三〇年代前半期に遊撃根拠地でつんだ兵器分野の経験は、一九三〇年代後半期、白頭山根拠地に建てられた兵器廠で活用され、さらに発展した。
われわれは各遊撃根拠地に裁縫隊を置き、軍服も自給自足した。布地の入手から染色、仕立てにいたるまで、すべて自力でやったのである。クヌギ、マンシュウグルミ、キハダの樹皮を大釜の水に浸し、その水に布地を漬けるとカーキ色が得られる。樹木の種類や配合によって色は少し違ったものになった。
汪清裁縫隊の初期のメンバーは、金蓮花と、一時、六戸村の病院で看護婦をしていた全文振で、そのほかにも名前は忘れたが、男性の裁断師が一人いた。その後、小汪清裁縫隊には李一波、金明淑、金順姫らが補充された。人手が足りないときは臨時に人を増やしもした。
小汪清時代のわたしの軍服は全文振が仕立てたものである。わたしが安図から汪清に移ったとき、汪清の裁縫隊員は、青年将軍を迎えたのだから、りっぱな服をつくらなければといって、コートと軍服をそろいでこしらえてくれた。服地は自分たちの手で染めた質素な綿布ではあったが、その一針、一針にこもるまごころは、じつに木目のこまやかなものであった。
小汪清裁縫隊は二、三台のミシンで大隊や連隊の軍服ばかりでなく、そこからの注文があると、反日部隊将兵のそろいの軍服もつくった。そろいというと上衣とズボンのほかに、軍帽、脚絆、弾帯も含まれる。裁縫隊の作業量は、通常の能力をはるかに上まわるものであった。そのように過重の負荷がかかるとき、骨惜しみというものを知らない忠実な裁縫隊員たちは、夜も寝ずに仕事に励んだ。睡魔に襲われると顔を冷たい水で濡らし、歌をうたった。だから裁縫隊員は誰もが、数十曲の革命歌謡をそらでうたえたのである。
小汪清裁縫隊の初代責任者は金蓮花であった。汪清の人たちは彼女のことを、おきゃんとか、おてんばなどといった。ときたまタバコを吸うので、男(おとこ)女(おんな)と呼ぶ者さえいた。ところが、この跳ねっ返りの彼女が、編み物や針仕事だけは誰にもひけをとらなかった。彼女が裁縫を習ったのは結婚後のことである。夫が片足のない不遇な男だったので、極貧の生活を支えるために賃針仕事をはじめたという。だから、彼女の裁縫の腕は、そのときから鍛えられたといえる。彼女は軍服はもちろん、中国服もりっぱに仕立てた。金蓮花を男女とからかっていた人たちも、彼女の仕立てた服を着てからは、「蓮花さん、ありがとう」と裁縫隊のいる谷間に向かっておじぎをしたほどである。
裁縫隊員の中には、兵器廠のメンバーに劣らぬ自力更生の先駆者が多かった。金明淑、全文振、韓成姫、安順和、崔希淑、金容金、金寿福、崔仁淑、朴正淑、趙永淑、朴洙環、馬仁玉、金善などは、わたしと行をともにしながら、数千、数万着の衣服を仕立てた刻苦奮闘の名手たちである。世に広く知られた安順和の最期や、干巴河子密営での六人の裁縫隊員の英雄的な殉国の模様を生々しく描くには、わたしの表現力があまりにも貧弱である。
遊撃区には各所に病院が設けられ、負傷者や病人を自分たちの手で治療した。メスやピンセットなどの医療器具はすべて兵器廠でつくられ、若干の新薬を除いて、植物性薬品もほとんど医者たちが大衆の援助のもとに自分たちの手で採取し、製造したものであった。
医者や看護婦はどこからも連れてくるあてがないので、自力で養成した。高麗医の経歴をもった一、二名の先覚者が数多くの医者を育てあげたのである。林春秋、李鳳洙たちは治療活動で特出した功績を残した名医であるばかりか、後進の養成でも大きな功労を立てた斯界の権威であった。なんと多くの人が彼らの治療を受けて、生の歌、蘇生の歌をうたいながら起き上がり、各自の隊伍に帰ったことであろうか。
われわれは食糧問題も自力更生で解決した。納入量を人民に割り当てて食糧問題を解決するのは、われわれのやり方ではなかった。われわれは、軍隊と赤衛隊、反日自衛隊、少年先鋒隊、青年義勇軍などの半軍事組織に食糧の自給自足目標を与え、遊撃区の農耕地で穀物を栽培するよう強く要求した。朝鮮人民革命軍が広大な地域に進出し、大部隊による遊撃戦を猛烈に展開した一九三〇年代後半期には、兵站部隊を白頭山のふもとに送って農事に専従させる措置も講じた。
自力更生はこのように、長期にわたる抗日戦争の日々、革命軍の存亡をかける生命線であった。自力更生すれば生き残り、さもなければ死滅するという認識は万人を支配する考え方となり、座右の銘となった。この座右の銘を信条とした者は絶海の孤島でも志操を守り、そうでない者は落伍して変質、投降するか、中途半端な道を歩んだ。
抗日の先達が白頭の寒風の中で大事に守り育てた自力更生の火種は、解放後、全国人民の胸に受け継がれ、新しい朝鮮建設ののろしとなって燃えあがり、東方の一角に伝説のチョンリマ(千里馬)を飛翔させる原動力となった。ただの修理所にすぎなかった小工場で、われわれが電気機関車の製作に取り組んだとき、ある外国の大使は、朝鮮人に電気機関車をつくれるはずがない、天地神明に誓うとまでいった。わが国の労働者と技術者が自力更生の力でつくりだした「プルグンギ(赤旗)」第一号は、その軽快な汽笛の音をもって大使の予想を軽く吹き飛ばしてしまった。
遊撃区の兵器廠に響いた自力更生の槌音は、労働党時代の脈拍、現代を動かす強力な原動力となった。
抗日戦争の嵐の中から生まれた自力更生の精神は今日、
7 永遠に咲く花
一九三三年のことである。
王隅溝の革命組織は上部の措置にしたがって、北洞児童団学校の児童金今順(金今女)と金玉順を小汪清に送った。この二人の少女は、延吉地方の人たちにとくにかわいがられている才能豊かな演芸隊員だったが、革命大衆が集結している汪清一帯の根拠地の人民に歌と踊りを普及する任務を受けて、馬村に来たのである。当時、東満州地方の革命組織は、たびたび人材を選抜して朝鮮革命の策源地―― 小汪清につぎつぎに送りこんでいた。今日、朝鮮人民が平壌を誠心誠意支援しているように、東満州地方の人民は小汪清にさまざまな支援をおこなった。
馬村に到着した二人の少女はその足で、同行した北洞児童団学校の管理者と一緒にわたしのいる軍部を訪ねてきた。二人とも十歳前後の幼い少女だった。姉妹なのかと思ったが、そうではなかった。名前が似ているだけである。北洞児童団学校の管理者は、二人をかわるがわるわたしの前に立たせて、その経歴と家庭のことを興味深く話してくれた。それがきわめて印象的だった。金玉順は自分のことが紹介されたとき、涙を流した。わたしも危うく涙をこぼしそうになった。彼女の歩んだ十三年の短い人生は、あまりにも大きな悲劇に彩られていたのである。
金玉順は、九つのとき二十をすぎた地主の息子と婚約した。本人も両親も知らないうちに成立したまや
かしの婚約である。男が二十をすぎれば老チョンガーとみなされ、両親はやきもきして仲人を立て、嫁を物色した時代のことである。息子が二十すぎまで許嫁がいなかったばかりか、玉順の父親に大酒を飲ませて酔いつぶし、その手をつかんで文書に拇印を押させるというやり方で、強引に婚約を成立させたことから推して、相手の若者は普通では結婚できない欠陥があったに違いなかった。
その文書によると、金玉順は十五の年に正式に結婚することになっていた。彼女の父親は、そこにそんな無茶なことが書かれているとも知らず、二日間も酔いつぶれていた。家に運びこまれてやっと正気にかえった彼は、かくしの中に自分の拇印が押されている婚約証書と、わけのわからない八十円の金があるのを発見して痛哭した。その八十円は新郎側から送られた結納だったのである。
それを知って玉順は涙で月日を送った。しかし、一枚の文書で娘の運命を決めてしまった父親の金在万はやがて、八十円の結納でわらぶき家と自留地、それに牛と豚を買って、黙々と暮らしを立てた。長い物には巻かれろとあきらめ、どうせなら、転がりこんできた金を元手にし、禍を転じて福とならせようという算段であった。娘がわが身の不運を嘆くたびに、彼はこういって慰めた。
「泣くんじゃない。あの八十円が、それでも落ちぶれたわが家を救った。とにかく飢え死にするよりはましじゃないか。おまえが婚約したおかげで死ぬほかない父母兄弟が救われたと思ったら、悲しみもおさまるだろう」
無知で純朴な金在万は革命を理解しなかった。人間は誰でも精出して働けば貧乏にうちかち、働きいかんでは百万長者にもなれると考えるほど純情であった。だから自分を搾取する地主にも幻想をいだいた。地主はときどき玉順の家に食べ物を持ってきた。それで金在万は、こんなにありがたい地主はほかにはいないとまで思いこむほどになった。ある日、玉順が学校の校庭で、地下工作員の演説を聞いたことがあった。そのことを知った金在万は娘を牛小屋にくくりつけ全身にみみずばれができるほど鞭打った。娘が革命運動にかかわってはと恐れたのである。
金在万が階級的にようやく目ざめたのは、五回にわたる敵の討伐で村が焼け野原になったときのことである。彼は討伐で家も家畜もみな失った。近所の人の中には焼死者も出ていた。
「玉順、こうなったからには、やつらがくたばるか、おれたちが皆殺しになるか、最後まで戦うほかない。お父さんはあまりにも世間を知らなかった。おまえたちは革命を起こして、あの悪鬼のようなやつらを一人残らず叩きのめすのだ」
娘を王隅溝遊撃区域に送り出す日の夜、金在万はこういった。
その後、金玉順は松林洞の金今順の家に寄宿し、二人で一緒に北洞児童団学校に通った。そして区演芸隊と県演芸隊に入って大衆啓蒙活動にも参加した。
朝鮮の子どもたちは玉順のように、親に甘える年ごろで早くも、生活の苦労を背負わされあえいだのである。世の荒波はおとなと子どもを区別しなかった。子どもにも情けをかけない世の中、年少者にもおとなと同じ重荷を背負わせる無情な世の中に抗して、朝鮮の子どもたちは戦いに立ち上がった。間島地方の朝鮮の少年は各地で児童団、少年先鋒隊、少年探検隊のような革命組織をつくり、組織された力で戦いの場に飛びこんだ。革命的組織生活を通して教育され、鍛えられたすべての少年少女が抗日革命を動かす一つの歯車となり、ねじとなった。金玉順、金今順もそんな歯車やねじの一つであった。
わたしは、金玉順の経歴を聞いて、痛々しい気持にかられた。その清楚な姿に降りかかったひとすじの不幸には、朝鮮の数百万の少年少女にのしかかっている不幸が凝縮していた。
しかし革命を志し、幼い身で親のひざもとを離れ、遊撃根拠地にやってきたその決意、その気概はなんとりっぱなものではないか。そしてきょうはまた、小汪清を支援するために、王隅溝から大荒崴、腰営口をへて馬村まで数十里の道を歩いてきたのである。なんとありがたい子どもたちであろうか。おとなの履くような地下足袋を引きずり、重い背負い袋を肩にし、棒切れでいばらを掻き分けながら懸命に小汪清へやってきた二人の少女。なんとけなげな頼もしい子どもたちであろうか!
「誰がおまえたちをこの小汪清に送ったんだい?」
わたしは、彼女たちの地下足袋を運動靴かゴム靴に替えてやらねばと思いながら、こう聞いた。
「尹丙道先生です」
二人の少女はスカートの腰帯に両手をつけて姿勢を正し、元気よく答えた。瞳が明るく輝き、声もすがすがしいばかりにはきはきとしていた。
わたしはたいへん気分がよかった。子どもたちと親しむのは、生活における大きな楽しみである。子どもたちの笑顔は、心の痛みや悩みを洗い流す強力な洗剤だともいえる。彼らの童心世界に入りこんでみたまえ。すると生への強い衝動を覚えるであろう。そして子どもたちがいるために、人類の生活はますます美しく彩られ、彼らの瞳にみちあふれている理想を花咲かせ、守るのが、神聖な使命であることを胸いっぱいに感じるであろう。
わたしは、顔やすねに擦り傷をいくつもつけた今順の姿が痛ましくて、こう尋ねた。
「遠くから歩いてきて、たいへんだったろうね。高い山も多かったはずなのに、越えるのが難儀じゃなかったかい?」
「足にまめができて、痛くてたまりませんでした。でも、わたしたちを連れてきたおじさんから、王隅溝に帰れと言われてはと思って、平気な顔をしていたんです」
「家へ帰って、お父さんやお母さんのそばにいるほうがいいんじゃないのかい」
「もちろんですわ。でも、それじゃいつになっても、おとなになれません。おとなになるには苦労をたんとしなくちゃいけないって、児童団の指導員先生もおっしゃっていました。わたしはうんと苦労して、早くおとなになりたいんです」
「そんなに早くおとなになって、どうするつもりだい」
「朝鮮を独立させなくちゃ。金隊長さん。どんなことがあっても、あたしを家へ送り帰さないでください」
今順のおとなびた考え方にわたしは驚いた。年は幼かったが、朝鮮の独立に一生をささげようという覚悟は、思想的にたいへん早熟なものである。
「うん、そんな心配はしなくてもいい。間島で三本の指に入る才女たちが転がりこんできたのに、帰すわけがあるかね。これからはわたしと一緒に汪清で暮らそう。ここで児童団生活をするのも悪くないよ」
今順は手をたたいて喜んだ。
わたしは県と区の共青幹部に、二人を馬村児童団学校に入れ、児童団の組織生活に参加させるようにし、親の膝元を離れてなじみのない土地へ来た子どもたちのために、気楽にすごせる親切な家庭に同居させてほしいと頼んだ。
汪清の軍隊と人民は馬村児童団学校の運動場で、その年のメーデーを盛大に催した。行事には汪清地区の全軍人が集まった。王隅溝から来た二人の少女は競走と高跳びでそれぞれ一等をとり、汪清の人たちの拍手喝采を受けた。
今順は同じ年ごろの子よりずっと小さかった。彼女が演芸隊の先頭を、背負い袋をかついで足早にちょこちょこ歩く、その純真なかわいい様子を見ては、みなほほえんだものである。
わたしも彼女の様子から大きな力を得た。わたしはもともと、生活を悲観的に見る人間より、楽天的な人間を好んだ。われわれが山で、草の根を噛みながら苦しい武装闘争をしていたころは、一人の楽天家が数十門の大砲に匹敵する力を人びとに湧き立たせたものである。今順は、当時、党、共青、児童団の三代同盟の中で、もっとも若い世代を代表するすぐれた闘士であり、楽天家であった。
今順に会った数日後、わたしは馬村児童団学校の子どもたちを指揮部に呼んで、彼らの生活状況を点検した。児童団員は、背負い袋の中に一週間分の食糧を常時携帯することになっていた。ところがその日、背負い袋を調べてみると、学校で出してやったはったい粉を食べてしまった子どもが少なくなかった。ところが、今順はそれにひとさじも手をつけず、一週間分をそっくり保管していたのである。
「ほかの子たちはみな食べてしまったのに、うちの末っ子は、ほんとうによくこらえたもんだ。今順がいちばんえらい!」
わたしは背負い袋の点検を終えると、親指を立てて今順をほめた。はずかしそうにほほえんでいた今順は、こういった。
「わたしも、はったい粉の袋を何度出したり入れたりしたかわかりません。でも食べたいのをやっと我慢したんです」
「どうやって我慢したんだね」
「ほかの子たちがはったい粉を食べるとき、わたし、目をじっとつむっていたの。それでも食べたくなったら、外へ出て行ったんです。それでも食べたくなったら井戸へ行って、水を一杯飲んでくることにしました。そしたら、はったい粉を食べたくらい、おなかがふくれるから」
わたしは、すらすらと答える彼女の言葉に、すっかり感心した。涙を誘わずにはおかないその童心世界には遊撃区人民の経済的窮乏が集約されており、そうした窮乏の中でも不屈に革命を切り開いていく、幼い不死鳥の魂が格調高く鼓動していたのである。
その日、わたしは子どもたちに、十コップ分のはったい粉とトウモロコシ餅を与え、背負い袋にマッチも入れてやった。数日後には、新調の綿入れと綿布団、履き物、ノート、鉛筆など二台の牛車に積んだ生活必需品を児童団学校に贈った。たえず戦闘をくりひろげていたころのことで、敵から分捕った戦利品が少なくなかった。衣料品や食糧のゆとりはなかったが、われわれはいつも戦利品の中からかなりの量を割いて、児童団学校に贈ったものである。
「いちばんよいものを子どもたちに!」これは、今日、われわれの生活の不動の原則になっているが、他国に居候していたあの困難なときにも、われわれはこの原則に立って、子どもたちのためにあたうかぎりのことをした。彼らの衣食住問題を解決するためなら、部隊を出動させて敵と戦うことさえためらわなかった。
われわれは児童団に「朝鮮の独立と全世界無産者階級の解放のためにつねに準備しよう!」というスローガンを示し、子どもたちを愛国主義思想、プロレタリア国際主義思想で教育した。
児童団員は、大衆啓蒙、演芸活動、歩哨勤務、通信連絡、敵情探知、武器奪取、遊撃区防衛の戦いなどで、おとなに劣らず数々の偉勲を立てた。敵の討伐で焼き払われた丸太小屋を建て直す場でもつねに、子どもたちの姿を見ることができたし、根拠地を死守する激戦のさなかにも歌をうたい、革命軍の塹壕に握り飯を運ぶ幼い荒ワシたちに出会ったものである。農繁期には畑の草取りもすれば、秋の取り入れもした。ときには野生の果実を摘んで遊撃隊に贈りもした。
あるときわたしは、トンガリ山の中央歩哨隊で前方歩哨勤務についている児童団学校の子どもたちを見かけたことがある。腰に重い爆弾を一つずつ下げた彼らは、長さ一・五メートルほどの長柄の先に穂のある槍を持って歩哨に立っていた。交替は一時間ごとにするという。マッチ軸の二倍ほどの線香に火をともし、それが半分ほどになると交替するのである。線香が燃えつきるのに二時間かかると聞いて、その独特な時間測定法に感心したものである。
その子どもたちがある日、裏付きのパジ(朝鮮式のズボン)、チョゴリとパジの裾ひも、灰色の絹チョッキ、乗馬ズボン、靴、長靴、黒ゴム靴などをそろえて、わたしのところへ持ってきた。それは、児童団学校にたびたび戦利品を贈ったことへの返礼であった。われわれは日本侵略軍の輸送隊を襲って分捕った朝鮮のリンゴを残らず児童団員に贈ったこともある。遊撃根拠地の子どもたちの中には、異郷で生まれて一度も朝鮮の土を踏んだことがなく、祖国のリンゴすら見たことのない子どもたちが多かった。遊撃隊員が手に入れた祖国のリンゴを箱ごと持っていったとき、児童団員たちがどんなに感激し、どれほど深い感謝の念に燃えたかを、そのエピソードの証言者、体験者である金玉順は、しばしば熱い思いで回想している。
朴吉松児童局長はある日、児童団学校を訪ねてこういった。
「みなさん! 金隊長先生はわたしたちをわが子のように深く愛してくださっています。ところが、わたしたちは恩顧を受けるだけで、それに報いられずにいます。金隊長先生に、わたしたちのまごころを少しでもお見せしなければならないと思うのですが、どうすればいいでしょうか」
児童局長が話し終えると、すかさず今順が立ちあがった。
「りっぱな服をこしらえてさしあげましょう。隊長先生は寒い冬も、ひとえの服を着ていらっしゃるそうですわ」
朴吉松はほほえんだ。
「今順がりっぱな服をこしらえて贈ろうといったが、みなさんはどう思うかね」
子どもたちは、いっせいに「賛成です!」と答えた。
「賛成だね。よろしい。わたしも今順と同じように厚い服を仕立ててさしあげたいと思っていた。生地を手に入れて婦女会か裁縫隊に頼んでりっぱな服をつくりましょう。しかし、みなさんが忘れてならないのは、生地は天から降ってくるものではないということです」
「キノコを採って、干して売ればいいと思います。キノコは高く売れるそうです。お金さえあったら、生地はいくらでも買えますもの」
今順がまた立ちあがって、さえずるようにいった。
「そうだわ! キノコを採って地主に売りましょう!」
ほかの子たちもにぎやかに応じた。
翌日から、児童団員たちは、朴吉松と一緒に、かごを持って山に入っていった。
わたしは彼らがキノコを採り、歌をうたいながら梨樹溝の谷間を行進する光景をたびたび見かけたが、そのキノコのかごにこもっている秘密を知らなかった。ただ、あの子らは入院中の戦傷者に美味な副食物を贈ろうとして、熱心に働いているのだろう、とひとり合点していた。ところが、そのキノコが金になり、服となってわたしの前に置かれたのである。
「寒い冬もひとえの服ですごしていらっしゃる隊長先生に着ていただきたくて、これをつくってまいりました。遠慮なさらないで、どうかお受け取りになってください」
今順がきちんと児童団の敬礼をして、こういった。
当時、わたしがひとえの服を着て冬をすごしていたのは事実である。服を贈られて、わたしは心中、涙を流した。わたしは服を手に取って、礼を述べた。
「みなさん! わたしはひとえの服を着ていても、こんなに元気です。君たちのまごころはいつまでも忘れません。しかし、この服は小汪清でいちばんのお年寄りに着ていただくことにしますから、悪く思わないでほしい」
子どもたちは泣き出さんばかりになって、うらめしそうにわたしを見あげた。わたしが服を受け取ろうとしないので、残念でならなかったのであろう。わたしが二度、三度とよく言い聞かせると、子どもたちはむりに笑顔をつくった。
大衆集会のあと今順はわたしのそばへ来て、軍服のそでをそっとなでた。そして、こうささやいた。
「服が薄くて、寒いでしょう」
いまも厳冬を迎えると、小汪清でつぶやいた今順の言葉が耳朶を打つ。
最初、汪清の人たちは彼女を「黒目の今順」と呼んだ。瞳が人一倍黒いので、そのような愛称がつけられたのである。しばらくすると、今度は「馬村のシメ」と呼ばれるようになった。小鳥のシメのようにかわいいといって、吉州・明川地方出身の女性たちがつけた愛称である。彼女は「黒目の今順!」と呼ばれても「はい!」、「馬村のシメ!」といわれても「はい!」と答えた。いくらそんなふうに呼ばれても、彼女は決して機嫌を損ねなかった。
今順が舞台でタップを踊る日は、汪清はお祭り騒ぎであった。彼女は玉順と組んでタップをよく踊ったが、児童演芸隊の演目の中でも、それがいつも最大の拍手喝采を受けた。彼女が激しくタップを踊りながら、両足のあいだからスカーフを抜き取る動作をくりかえすときなど、観客は足を踏み鳴らして歓声をあげたものである。
わたしは汪清にいたとき、毎朝、白馬にまたがって、馬村の谷間をまわりながら遊撃区の状況を視察し、新しい構想を練った。朝の散歩はわたしの規則正しい日課であった。白馬にまたがって汪清の谷間をまわるとき、遊撃隊のラッパ手宋甲竜と伝令の曺曰男が同行した。そんなときは決まって道端で児童団員の歌唱隊に出会ったが、そのときの気分はじつに楽しく爽快なものであった。
リンゴのように赤い頬をした子どもたちの元気はつらつとした姿を、馬上から見下ろすときのあのみちたりた気持をなんと表現すればいいだろうか。わたしは雨や雪の日も、児童団員たちが見たくて朝の散歩を止めなかった。子どもたちが雨や雪にもめげず散歩道に出て来て、わたしに会えなかったら、どんなにさびしがるだろうか、と思ったものである。子どもたちもわたしと同じ気持で、天気のよしあしにかかわらず一度として散歩道に姿を見せなかったことはない。
歌唱行進で歌の音頭をとるのは今順だった。数十の音声が混じり合って響く雑然とした歌声の中からも、スズメのさえずりのような今順の特異な声は、すぐに聞き分けることができた。その声を聞くと、なぜともなく、きょうも遊撃区の仕事はみんなうまくいくに違いないという安堵感が胸をみたしたものである。
ところが、ある日、梨樹溝の谷に響きわたる児童団学校の子どもたちの歌声の中から、彼女の声を聞きとることができなかった。
わたしは、まるでなじみのないよその子どもたちの歌声を聞いているような思いにとらわれ、丸太小屋の庭に出た。歌唱隊は指揮部近くの小道を行進していた。先頭には、いつものように今順が立っていた。ところが、どうしたわけか、彼女は歌をうたわず、うなだれて、とぼとぼ歩いているのである。その朝、歌の音頭をとっていたのは、児童団団長の李民学だった。今順が音頭をとらない歌唱隊は、ソリストのいないカンタータのようなものだった。
その日はなぜか、一日中仕事が手につかなかった。わたしは今順に会おうとして、夕刻、児童団学校へ行った。そして思いがけなく、王隅溝の彼女の家族が敵に殺害されたという悲痛な知らせを聞いた。今順がなぜ、口をつぐんでしょんぼりと歌唱隊について歩き、なぜ李民学が彼女に代わって音頭をとっていたのかが、そのときになってわかったのである。
その日、今順はわたしの膝にうつぶせて、気を失わんばかりに激しく泣いた。
「わたし、どうしたらいいの? お父さんもお母さんも、弟もみんな死んじゃったのに、わたしひとり生きてどうするの?」
彼女はこんな恨みごとをいいながら、雨に濡れたスズメのように全身をわなわな震わせた。わたしは、今順をどう慰めてよいかわからなかったが、暗くなるまで学校に残り、彼女を力づけようと努めた。
「今順、気持をしっかりもつんだよ。悲しみにかてないでくじけてしまえば、敵はおまえまで殺そうとするだろう。日本軍はこの間島で朝鮮人を皆殺しにしようとしている。けれども朝鮮民族がそうやすやすと殺されてよいものかね。おまえは、どんなことがあってもりっぱな革命家に育って、かたきを何倍も討たなければいけないんだよ」
今順はこういわれてはじめて泣きやみ、涙をぬぐってわたしを見あげた。
「はい、きっとかたきを討ちます」
それ以来、彼女はあまり笑わなくなり口数も少なくなった。まして以前のように声を立てて笑ったり、喉をからして論戦したりするようなことはほとんどなくなった。歌の音頭をとるときも、もうさえずるような声を出さなかった。小汪清では「馬村のシメ」という愛称が聞かれなくなった。幼い少女は復讐心に燃え、児童団生活と演芸隊活動にいっそう熱心にうちこんだ。
今順を中核とする児童演芸隊は、石峴、図們の灰幕洞など敵の統治区域にもさかんに出かけて活動した。汪清児童演芸隊の名声は東満州ばかりでなく、遠く北満州にまで広まった。
当時、東満州と北満州の共産主義者は、老爺嶺をはさんで密接に交流し合っていた。老爺嶺山脈の天険も、両地方の革命家が不断に往来し、接触し、助け合うのを妨げることができなかったのである。
間島を抗日大戦のとりでに変えた遊撃根拠地は、万民のあこがれる理想郷のモデルとなり、その新しい制度、新しい秩序は隣邦人民の賛嘆と羨望の的となり、宿望となった。とくに東寧県城戦闘は、満州地方の人民と武装部隊のあいだで、共産主義者のイメージを高めるきっかけとなった。この戦闘後、救国軍将兵はわたしを「金司令」と呼ぶようになった。人民がわたしを「金将軍」「金隊長」と呼ぶようになったのも、このころからである。遊撃区でわれわれが示した路線と民主的施策は、万民の祝福を受ける時代的な関心事となった。
北満州の党組織と軍部は、東満州地方人民の遊撃区づくりの経験を学ぶために、汪清とその周辺の根拠地にたびたび参観団を派遣した。
そのころ汪清の中心地は小汪清から腰営口に移っていた。今順が属する児童演芸隊も馬村を発った。敵の大討伐後、遊撃区の全機関が同時に腰営口に移動し、わたしも一九三四年春、一部の部隊を引き連れてそこへ移った。
その年の夏、地方組織と遊撃隊から選ばれた寧安県の参観団が任英珠という女性の共青書記に引率されて、八道河子から神仙洞をへて対頭拉子へやってきた。腰営口の人民と遊撃隊員は参観団を熱烈に歓迎した。児童団員は赤い三角旗を振りながら、「北満州見学隊を歓迎します!」とくりかえして叫んだ。そして夕方、兵営の庭にたき火をたいて参観団のための演芸公演を催した。
児童演芸隊は北満州のお客に多彩な演目を披露した。演芸隊には芸術的才能の豊かな子どもたちが多かった。李民学はダンスとハーモニカが上手だった。彼がコメディアンとなって出演すると、観衆は腹をかかえて笑った。金在範もダンスの名手だった。彼の特技は、アヒルやウサギのような歩き方をして踊ることだった。
彼らは汪清県内の革命組織区をくまなく巡演し、歌の普及にも努めた。われわれは戦利品の中から最上の絹布を選んで舞踊服や演劇の衣装をつくり、児童演芸隊に贈った。
周保中がじきじきに派遣した反日同盟軍の小部隊も、しばらく腰営口にとどまって汪清遊撃隊の経験を学んだ。それは単純な遊覧式の参観ではなく、訓練と実践を兼ねた実習のようなものであった。腰営口に滞留中、彼らは汪清遊撃隊の日課にしたがって生活し、教練、政治学習、文化生活もすべて汪清部隊式におこなった。
わたしは共青組織と児童団に任務を与えて、反日同盟軍の隊員を日常的に慰問させた。児童演芸隊が中国語で革命歌謡を練習し、それを反日同盟軍の隊員に教えると、彼らも子どもたちに楽しい中国の歌を教えた。児童演芸隊員は中国語で演劇を準備して、彼らに見せたこともあった。児童演芸隊の慰問に感動した北満州の客は、ご馳走があるときはいつも子どもたちを兵営に招いた。彼らは北満州に帰って、児童演芸隊のうわさを大きく広めた。
一九三四年夏、周保中は汪清地方の児童演芸隊を北満州に招いた。われわれは、それに快く応じた。わたしは朴吉松に、遠征公演の準備に万全を期して北満州の軍隊と人民を喜ばせようといい、演芸隊の北満州巡演日程も具体的に立ててやった。
われわれが演芸隊を北満州に送ったのは、中国人たちに喜びを分かち、彼らとの連帯をいちだんと強めるためであった。他方、周保中が児童演芸隊を招請したのは、共産主義者の影響下にある反日部隊の指揮官、兵士を啓蒙するためであった。当時、周保中は寧安一帯に組織された綏寧反日同盟軍の弁事処主任を務め、王徳林の救国軍から脱退した抗日隊伍の結束をはかって刻苦奮闘していた。
わたしは児童演芸隊を北満州に送り出してからも、しばらくは彼らのことが心配でならなかった。戦いをしばしば経験し、さまざまな苦しみや飢えにも慣れた子どもたちではあるが、目的地までつつがなく行き着いたろうかという憂慮が頭につきまとって離れなかった。ほかの子たちもそうだが、今順のような幼い子どもが、険しい老爺嶺山脈を無事に越えることができるだろうか、と。
しかし、それは杞憂であった。児童演芸隊員は誰もが動乱の中で鍛えられた幼いタカであり、死線をたびたび越えた不屈の闘士である。彼らは、不可抗力の障害とさえ思われた老爺嶺山脈をたいして苦労せずに突破し、土匪の活動区域も無事に通り抜けた。雨にあえば、松の枝やシラカバの樹皮を傘代わりにして行軍した。夜は飯盒で飯を炊いて簡単に食事をすませ、歩哨を立ててたき火のそばで野宿した。何人かの子どもたちはおなかを痛め、山中でたいへんな苦労をしたという。演芸隊が選んだコースは荷馬車や橇の通る汪清―― 老爺嶺の街道ではなく、遊撃隊の連絡係などが近道をとって歩く険しい細道であった。それでも、その数十里の行軍で落伍者は一人も出なかった。最年少の今順も、背負い袋を寄こせという仲間の手を軽く押しのけ、歌をうたいながら独力で老爺嶺を越えたという。
今順と一緒に北満州へ行った金玉順は後日、機会があるたびに救国軍部隊での公演活動の模様を興味深く話してくれたものである。
児童演芸隊が北満州で初演の幕を開けたのは、馬廠に駐屯している柴世栄部隊であった。柴世栄は、救国軍指揮官のうち、共産主義者の影響をもっとも多く受けていた。われわれの影響がさらに強く及べば彼を同盟者にするのはもちろん、共産主義者にも改造できる可能性があった。
馬廠での幕開きは、今順の演説からはじまった。そこでは柴世栄以下百五十人の救国軍将兵が観覧したが、たいへんな人気を博したという。彼女が演説を終えると、彼らは、「クリ粒みたいな女の子が、なんと演説が上手なんだろう! あの子のことを思っても、抗日に励むべきだ」と興奮して言い合ったそうである。
すっかり感心した柴司令は今順を自室に連れていき、膝に乗せて耳飾りと腕輪までつけてやった。そして巡演の便宜をはかって、演芸隊に二台の馬車まで提供した。
一週間を予定した公演は、反日部隊将兵の要請で何日も延期された。演芸隊は周保中の部隊でも公演した。柴世栄は彼らに綿入れ、大布衫、襟巻き、豚、鶏、乾麺、小麦粉など荷馬車に二台もの贈り物をし、さらに子どもたち一人ひとりにカバンを与え、銃まで持たせた。
演芸隊が遠征公演を終えて腰営口に帰ったとき、わたしは部隊とともに他地方に出かけていた。わたしが遊撃区にもどると、子どもたちはわたしをとりかこんで、北満州でもらった贈り物の自慢をした。
「これはみな、柴司令という人がくれたの。レーニンみたいにひげをのばして、とてもやさしい人でした。わたし、その人の部屋で豚足の料理も食べました。周保中先生も贈り物をどっさりくださいましたわ」
今順はこのように柴司令と周保中の称賛をひとくさりして、七連発拳銃をわたしの腰に吊した。
「将軍さま、この拳銃はきっと将軍さまがお使いになってね。わたしたちの決定ですから」
彼女は決定という言葉に力を入れたが、なにを思ったのか、くすっと笑った。
わたしは子どもたちが残念がらないように、その拳銃を何日か腰に下げていて、青年義勇軍の隊長にそっと譲った。残りの武器もすべて青年義勇軍に与えた。北満州から持ち帰ったほかのみやげは、残らず児童演芸隊の処理にまかせた。
その年の秋、腰営口遊撃区には、今順の母親が生きているという奇跡のような消息が届いた。それを聞いて、今順が野菊を何本も髪にさし腰営口の谷間をチョウのように飛びまわったとき、彼女の家庭の事情をよく知っている根拠地の人たちは、ほほえましく彼女を眺めた。
児童団組織は、母親に会いたがっている今順の切願をかなえることにした。まだ幼くても、道理に明るく、集団主義精神の強い今順は最初、組織の配慮に応じようとしなかった。親を恋しがっている子はいくらでもいるのに、自分ひとりがそんな特典にあずかってよいものかというのである。
わたしが彼女と最後に会ったのは、部隊が転角楼で北満州遠征の準備を進めていた一九三四年の秋だった。そのとき今順の児童演芸隊はそこにきて公演をした。遠征隊を歓送するための特別公演だったと思う。公演後、われわれはノロを捕らえて児童演芸隊員にギョーザをご馳走した。
わたしが子どもたちの食事をしている家をのぞいて帰ろうとしたとき、今順が箸を置いてわたしのそばへ駆け寄った。そしてなにか内緒事でも打ら明けるかのように、耳に口をあててささやいた。
「将軍さま、わたしのお母さんが生きているんですって!」
「うん。遊撃隊のおじさんたちもそれを聞いて、みんな喜んでいる。わたしもどんなにうれしいか知れないよ」
「わたし、あんまりうれしくて、きょうは独唱を三回もしましたの。それでも、もっともっとうたいたかったんです」
「そんなら、もっとうたえばいいのに」
わたしは、転角楼村の子どもたちに与えようとして持ってきたいくつかの戦利品の中から、すきぐしと解きぐしを一つずつ取り出して、今順の手に握らせた。
「ありがとう!」
今順は甘えてわたしの腕にしがみついた。幼くても人に甘えることのなかった、このかわいい少女のそんなしぐさや口ぶりから、鳥の羽ばたきにも似た歓喜の嵐を感じとるのは、ほんとうに楽しいことだった。
「じゃあ、早くお母さんに会いに行かなくては。おまえが出かけるときは、見送れそうにない。北満州に行かなくてはならないのでね」
これは、わたしが今順と交わした最後の言葉になった。
今順が転角楼での公演を終えて児童団学校に帰ったのは、腰営口の革命組織が、敵区に送る極秘文書の伝達者を物色しているときであった。誰を送るのがもっとも安全で合理的であるかを組織では慎重に討議した。そして今順に白羽の矢が立てられた。
革命組織から、誰にもやすやすとまかせるわけにいかない重要な連絡任務を授けられたとき、幼い今順はそれを最大の信頼として喜んで引き受けた。
今順が敵区へ向かう日、韓成姫は彼女を水辺へ連れていって、嫁入り娘の世話でもするように、顔を洗ってやったり、髪を解いてやったりし、履き物のひもも結び、スカートのしわものばしてやった。大粒のドングリを三つピンにさして、リボン代わりに髪にとめてもやった。
児童団員たちは、村はずれまで今順を見送った。
どこまで行くの
延吉まで行くよ
どのみね越える
吉青嶺を越える
なにしに行くの
通信連絡に行く
だれと行くの
ひとりで行くよ
今順はこんな歌を口ずさみながら、森の小道をゆっくり歩いた。それは彼女が足にあわせて即興的にうたったものである。見送る子どもたちはその歌を聞いて、手をたたいて笑った。そして声を張りあげてうたい、腰営口の谷間に響けとばかりに彼女の歌にこたえた。
今順は組織の任務をりっぱに果たしてから、母親を訪ねていこうとした矢先、おとなたちと一緒に日本憲兵隊に捕らえられた。
憲兵隊では今順が遊撃区から来たと知って、ひそかに快哉を叫んだ。重要な情報を吐き出すに違いない「チビ共産党」が転がりこんできたと思ったのである。彼らは今順が腰営口から来たことまで探り出したようであった。腰営口には東満州指導部があるのだから、うまく手なずければ大きな秘密も引き出せると思ったらしい。
実際、今順が遊撃区の秘密をかなり知っているのは確かであった。革命軍の活動、幹部の動静、遊撃区と半遊撃区を結ぶ秘密ルート、根拠地住民の生活と動向などは彼女のよく知っていることだった。今順は演芸隊の一員として敵区へ行き、公演もいろいろとしているのだから、彼女を屈服させれば、地方組織の秘密も探り出せるはずだった。
彼らはこうした可能性を計算に入れて、今順からできるだけ多くの情報を引き出そうとした。最初は、うまそうな食べ物を与え甘い言葉をかけた。つぎにはおどしつけ拷問も加えた。
わたしは以前、外国の小説で、ある島の子どもが銀時計ほしさに、カヤのむらの中に隠れている人のことを教え、父親に射殺されるという内容の物語を読んだことがある。それからもわかるように、子どもを手なずけるのは難しいことではない。子どもは物に誘惑されやすく、おどしや拷問にも屈しやすいのである。
しかし組織生活を通して政治的に鍛えられた子どもたちは、志操を曲げないものである。われわれの児童団員の中に、政治的信念をいくらかの金と替えた子どもは一人もいなかった。解放後、朝鮮労働党の配慮のもとに育った徐康斂、李憲秀、林炯参も十三~十五の少年ではあったが、敵に銃口を突きつけられても、組織の秘密を漏らさなかった。
今順は抗日革命の炎の中で鋼鉄に鍛えられた不屈の幼い闘士であった。この朝鮮の幼い娘は、肉をそがれる拷問にも口を開かなかった。口を開くのは相手をののしるときだけだった。
「おまえがなにもいわないなら、殺してやる。いいか!」
今順を取り調べた憲兵将校がこうおどすと、
「けがらわしい! おまえのような強盗なんかとは口も利くもんか」
と今順は答えた。
凶悪な憲兵は、革命軍の秘密を明かさないという、ただそれだけの理由で幼い今順を殺そうとした。全身が血にまみれて刑場に引かれていく遊撃区の幼い住民を見て、人びとは断腸の思いであった。百草溝の草原は涙にひたされた。しかし今順は同情を寄せ涙を流す人たちに向かって叫んだ。
「おじさん、おばさんたち! なぜ泣くのです。泣かないでください。革命軍のおじさんたちが、きっと敵を討ち滅ぼします。祖国が解放される日まで、しっかり戦ってください」
火を吐くようなその最期の絶叫には、彼女の九年の生涯が集約されている。刑場では「日本帝国主義者を打倒せよ!」「朝鮮革命万歳!」という今順のあどけない叫び声がりんりんと響きわたった。
わたしは今順が殺されたことを知らされてから、しばらく児童団学校を訪ねなかった。そこへ行くのがそら恐ろしかった。今順のいない児童団学校、今順のいない児童演芸隊… こう考えると、悲しくてたまらなかった。敵は汪清の人たちからあんなにかわいがられていた演芸隊のチョウ、遊撃区のヒバリをわたしのそばから永遠に奪い去ったのである。
これからは誰が今順のように苦労に耐え、血を流して戦っている遊撃区の人たちのために、あんなに明るい声で歌をうたい、はつらつと軽やかに踊りをおどってくれるだろうか。誰が今順のように、なめらかに中国語で歌をうたって救国軍将兵をうっとりさせ、毎朝白馬にまたがって散策するわたしに清く生き生きとした愛らしい微笑を送ってくれるだろうか。
今順の最期を伝える悲痛な知らせは、汪清一帯の革命大衆を奮い立たせた。腰営口の谷間では今順の追悼式がおごそかにとりおこなわれた。東満州各県で、憤激した数十人の青年男女が、今順のかたき討ちを誓って朝鮮人民革命軍に入隊した。
コミンテルン系の雑誌や中国、日本の出版物は、世界被抑圧民族の解放闘争史に類例のない、この幼い英雄の死を競って報じ、『幼い烈女の略伝』と題して今順の英雄的な生涯を激賞した。あの小さい足で激流を渡り、峻険を越えて革命の歌を情熱的にうたいつづけた遊撃区のヒバリ今順は、このように九つの年で、世界をゆさぶる人物となった。
わが国の近代史には、柳寛順という著名な殉国少女がいる。柳寛順といえば、なによりも己未年(一九一九年)の三・一運動が思い出される。ソウルの梨花学堂で校費生として学業にうちこんでいた彼女は、三・一運動の激動の中で学校が閉鎖されると、故郷の忠清南道天安に帰って独立万歳のデモを組織し、その先頭に立ってたたかい、日本憲兵隊に逮捕された。
法廷は彼女に懲役七年という重刑を言い渡した。三・一人民蜂起を先導した三十三人衆に加えられた刑期が
柳寛順が西大門刑務所で獄死したあと、朝鮮民族は彼女を「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼んで、いまなお熱い愛情をこめて追憶している。
しかし今順にはまだそのような称号が与えられていない。彼女と同じ年ごろの英雄少女、彼女の業績に比肩できる偉勲を残した少女の先例がないからである。
三・一の英雄柳寛順とならんで金今順のような幼い英雄を持っているのは、疑いなく朝鮮民族の誇りであり栄光である。近年、今順を主人公とする小説や映画がつくられているが、それだけでは若い人たちに彼女の偉勲を十分に伝えることができない。今順のような幼い英雄の業績を子々孫々伝えるためには、金や銅の像を建てても惜しくはない。
金今順は九つの年で永遠の生命を得た少女である。九つといえば、ちびた鉛筆のように短い生涯である。しかし稲妻のようにひらめいて消えたその幼い年で、彼女は人生の達しうる
金今順、全基玉、睦雲植、姜竜男、朴明淑、朴虎哲、許正淑、李光春、金得鳳…
彼らはいずれも抗日革命の嵐の中で生まれた幼い烈士である。
「ぼくを鉄砲で撃たないで槍で殺せ。そして、その弾は遊撃隊に送れ」
これは通信連絡任務の遂行中、敵に捕らえられ、刑場に引かれていった琿春の児童団員全基玉少年が最期の瞬間、満州国警官に向かって叫んだ有名な言葉である。
処刑直前のあの殺伐とした緊張と死の恐怖の中でも、自分一個人の生命や肉体よりも遊撃隊のことを思い、抗日戦争の勝利を考えたその崇高な革命精神は死刑執行人すら感動させた。
睦雲植少年の偉勲も世界に広く誇るべきものである。わらじに密書を隠して永昌洞から平崗に向かっていた彼は、吉青嶺警備所の前で取り調べを受けた。秘密を探り出そうと全身を検べていた自衛団員が、だしぬけに少年の左足からわらじをはぎとった。その瞬間、睦雲植は相手を突きのけて、警備小屋の中に飛びこんだ。そして右足をかまどのたき口へ押しこんだ。右足のわらじに密書が入っていたのである。それと知った自衛団員は、少年をかまどから引っ張り出そうと、蹴ったり殴ったりした。それでも睦雲植はかまどにしがみついて、火の中から足を引き出そうとしなかった。わらじが燃え、綿入れのパジの裾が焦げ、足に大きなやけどを負った。
睦雲植は病院に運びこまれた。意識を失った少年の胸に注射針がさされた。意識を回復させてあくまでも秘密を聞き出そうという魂胆だったのである。しかし少年は秘密をかたく守って、静かに息を引き取った。
抗日武装闘争を第一線で支援した児童団員と少年先鋒隊員は誰もが、朝鮮革命の一世のうちでも最年少の世代を代表する英雄であった。
今日も、朝鮮革命は社労青とともに少年団を労働党の有力な貯水池とみなしている。われわれが全国の財宝を集めて子どもたちの宮殿を建て、次代の教育に惜しみなく投資しているのはそのためである。
それで、わたしはいまも幹部たちに向かって、若い世代を愛するようにといい、子どもたちを国の「王様」だと再三強調している。未来を愛さない革命、未来をはぐくまない革命は、前途の暗い革命である。そのような革命がなにかりっぱな理想を達成するであろうと考えるのは、愚かしいことである。
地球の片方ではいま、享楽主義が伝染病のように蔓延している。次代はどうなろうと、自分だけが快適に暮らせればよいという極端な利己主義が多くの人たちの頭をむしばんでいる。中には子どもがいると煩わしいといって、子を生もうとしない人たちもいる。結婚を放棄している人たちもいる。結婚しようがしまいが、子を生もうが生むまいが、それは各人の自由である。しかし子孫がなくてなんの楽があるというのだろうか。
極端なエゴと享楽に毒された修正主義者は、次の世代を保護しようとせず、精神的に武装解除して、あらゆる社会悪の中に容赦なく投げこんでいる。十代の少年少女が親を恨み、為政者や世間を恨み、すさんだ現実を前にして悲嘆に暮れているとするなら、その国の革命は疑いもなく未来のない絶望的な革命である。幹部が次の世代のために時間も資金も情熱も努力も惜しまないとき、われわれの革命はさらに多くの金今順、全基玉、睦雲植を輩出するであろう。
今順の一家は著名な革命家の家庭であり、抗日戦争の渦中で残酷な苦難にあった。父親は王隅溝で地下革命組織の責任者として活動中、民生団の容疑で処刑され、母親は武器を取って根拠地の防衛に参加し、壮烈な戦死をとげた。
わたしは、今順の生前の父親に内々で重要な任務をしばしば与えた。彼はいったん任務を受けると、なんであれ、あくまでもやりぬかずにはおかない強靱な性格の持主であった。今順を含めて、今順の家族は五人もの犠牲者を出している。柳寛順一家の運命となんと酷似していることだろうか。
しかし、あの苛酷な運命の女神も、このりっぱな一門の血統を惜しんでか子孫を一人残した。今順の母親が戦場で命を引き取るとき、村人たちにあとを頼んだ二つになる今順の弟金良男が奇跡的に生き残ったのである。
彼が金今順の弟であることをたしかめ、わたしにその生い立ちを知らせてくれたのは、
わたしは、金良男の父親が民生団とはかかわりのない、堅実な革命家であることを保証した。それ以来、金良男は文学・芸術部門を指導する党中央委員会のスタッフになり、
金良男は、
金良男が不治の病に倒れたときは、数十人の専門家からなる強力な医療チームを組んで、昼夜を分かたぬ集中的な治療をおこない、各国の朝鮮大使館に彼のカルテを送って効能のある高価な薬を大量に取り寄せ、製薬工業の発達した国ぐにに特別機を送りもした。金良男はそのような恩情の中で十数回もの手術を受け、二年近くも生命を引き延ばした。
彼は四十の年で世を去ったが、それでも姉に比べれば四倍以上も長生きしている。とはいえ、長寿者の多い現代の尺度にてらしてみるとき、あまりにも早く生を終えたといわなければならない。「佳人薄命」という古来の生活哲学が人生のことわりに符合する真理であるとすれば、現にこの世に生きている数多くの金今順や金良男のために、われわれはその哲学を追放しなければならないであろう。しばらく前、金良男の次男が父親の母校、平壌音楽・舞踊大学の作曲学部を卒業して万寿台芸術団に入団し、芸術創造の第一歩を踏み出した。祖父母と伯母がうたい、父親がうたった革命の歌を、いまは彼がうたっている。
先輩たちが血をもって切り開いた朝鮮革命は、このように代を継いでりっぱに継承され、完成されつつある。
今順は世を去ったが、彼女の気概と魂は、馬村と腰営口の谷間を天真爛漫に駆けまわっていたときのように、いまも若い世代の心の中に生き、脈打っているのである。
第九章 第一次北満州遠征
(一九三四年十月~一九三五年二月)
1 朝鮮人民革命軍
人民のいるところに国があり国のあるところに軍隊があるのは、一つの初歩的な政治常識である。モナコなど若干の特例を除いて、世界の大小の国はほとんど自衛のための民族軍隊を持っている。地球上の多くの弱小国が、植民地主義者のあげた数発の銃声のために自主権をそっくり奪われ、数百年ものあいだ奴隷のくびきにつながれたのも、軍隊がなかったか、弱かったことに重要な原因があった。
旧韓国の軍隊も国を守ることができず壊滅した。内乱を平定するときはあれほど悪らつだった軍隊が、外敵の前では砲門も開けず、応戦の素振りをするだけで崩壊してしまった。わが国が滅んだのは、国政が腐敗したためでもあるが、軍事力が弱かったためでもあった。
奪われた祖国を取りもどそうと、朝鮮の先覚者たちは独立軍を組織した。国権を強奪された民族が、国権の回復をはかるために軍隊を組織するのは必須の要求である。
民族主義者は独立軍を組織して多年間武力抗争をおこなったが、朝鮮の共産主義者は遊撃隊を創建して日本帝国主義侵略者に鉄槌を下した。小規模の秘密遊撃隊をもって抗日長征の第一歩を踏み出した武装隊
伍は、そのころ間島各県で連隊規模に発展していた。
冬期討伐の砲声が止んだのち、われわれは反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編する必要性を痛感し、他の地方の遊撃隊指揮官とその方途を慎重に討議した。各県に組織されている遊撃隊の連隊を一つの軍に統合する問題は情勢の要請からしても、反日人民遊撃隊発展の合法則性からしても、焦眉の急務となっていた。反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編するのは、大きく成長した遊撃部隊にたいする統一的指揮を円滑にして戦闘力を高め、日本帝国主義の大規模攻勢により主動的に対処する革命的措置であった。
革命軍の問題が最初に論議されたのは明月溝会議であった。当時、われわれは反日人民遊撃隊の展望を論じ、遊撃隊をいったん大隊規模に組織し、一定の期間、質的、量的に発展させ、時が来れば大部隊の革命軍に改編することにした。もちろん、この問題が主要議題ではなかったが、革命軍の将来にかかわるこの問題について、代表たちは会場でもその他の場所でも真摯な論議を重ねた。大部隊革命軍のもっとも熱烈な主唱者は呉彬と朴勲だった。
植民地や半植民地国の抗争武力は、最初は小規模に組織されるのが通例である。小規模の兵力で武装隊伍を組織したあと、それをもとにして漸次兵力を増強し、条件がととのえば部隊を統合して一つの軍を編制するのである。亡命先のメキシコからキューバに帰ってきた当初のカストロの部隊は八十二名であった。彼らのうち生き残った十二名が七挺の銃を手にシエラ・マエストラ山に入って隊伍を拡大し、力を養ったあとハバナに進撃し、バティスタ親米独裁政権を一挙に崩壊させたのである。
一九三三年下半期から、間島では、遊撃隊を統合し、その指揮体系を単一化する問題が重要な論点となっていた。それは、敵の冬期討伐を撃破するための馬村作戦と数千数万平方キロメートルの範囲で展開さ
れた英雄的防衛戦の教訓でもあった。
作戦総括会議の席上、中隊間の協力問題と部隊の統合問題について熱弁を吐いたのは、小汪清管内で九十日間ずっとわれわれとともに防衛戦に参加した第二中隊長や第三中隊長ではなく、作戦地域から遠く離れていた韓興権中隊長であった。彼は馬村作戦のさい自分の中隊が受けた任務は、老爺嶺を越えて東満州に侵入する敵を牽制することであったが、その間、敵とは一度も交戦したことがなく、主力部隊のためになにもできなかったといった。つまり根拠地討伐軍の後頭部を叩くべきであったが、そうしなかったし、そうすることもできなかったというのである。
彼の発言を聞いて、わたしは多くのことを考えさせられた。韓興権の発言は自己批判的だったが、彼が批判を受けなければならない根拠はなにもなかった。彼は任務を忠実に果たしたりっぱな指揮官だった。それでは、どうして彼が自分を義理も革命性も洞察力もない指揮官だと卑下したのだろうか。彼が総括会議で強調したかったのはなんであったろうか。彼が近視眼的だったと嘆いたとき、わたしはわたしなりに彼を指導する上官として、馬村作戦から深刻な教訓を汲みとっていた。それは刻々と変化する戦況に応じて中隊間の協力を円滑に組織するには、それを総轄する指揮・参謀機構が必要だということ、そのためには指揮体系を単一化すべきだという教訓であった。指揮体系を単一化すべきだという彼らの要求は、結局、反日人民遊撃隊を統合して整然とした軍制を確立しようということであった。
敵の冬期討伐を粉砕する防衛戦の全期間、各地に散在していた遊撃部隊は、隣接部隊との共同の連携や援助もなしに孤軍奮闘した。和竜県では一九三三年十一月初旬、漁郎村遊撃根拠地への討伐がはじまったという。この最初の討伐は、強い反撃を受けていったん挫折し、そのあとは十一月末から第二次討伐が三日間つづいただけだったという。日付けが示しているように、漁郎村討伐は小汪清攻撃に十五日ほど先立っていた。こんなとき、交戦状態でなかった他県の遊撃部隊が相互協力の原則で、敵の背後を攻撃していたならば、漁郎村遊撃隊ははるかに有利に戦えたことであろう。延吉県や琿春県の事情もそれとあまり変わらなかった。
このことはなにを意味するのだろうか。それは遊撃区ごとに討伐時期が異なる実情で、各県と区の遊撃部隊を統一的に動かす単一の指揮体系と参謀機構さえあったならば、すべての遊撃隊が歩調を合わせ、相互協力という強力な武器で戦闘をより容易におこなえたであろうことを遅ればせながら示唆していたのである。
ところが、県と区を単位にして遊撃隊を指導していた当時の状況のもとでは、そのような能動的で積極的な協力関係は望めなかった。これは冬期討伐当時の遊撃隊指揮体系が、現実の要請に即応できない制約性をもっていたことを意味する。当時、遊撃隊の指揮は各級党組織の軍事部にまかされていた。一つの県に一、二個中隊の兵力しかなかった遊撃運動の草創期には、小規模の戦闘しかしなかったので、県と区を単位にして軍隊を指揮する体系も悪くはなかった。
しかし遊撃隊の隊伍が拡大し、敵の討伐兵力も百の単位から千、万の単位に急増した状況のもとでは、小規模の戦闘だけを選択的におこなうわけにいかなかった。戦闘は交戦者のいずれか一方の意思だけでおこなわれるものではない。敵が兵力を不断に増強して戦いを挑んでくれば、われわれもそれに対抗せざるをえないのである。
敵が師団や旅団、連隊の兵力を各地から集め、大部隊でわれわれを攻撃するとき、われわれは互いに協力せず、隣接部隊には目もくれず、あちこちの谷間に引きこもって散発的に戦ってきたが、今後もそのように戦うべきなのだろうか。大都市や城市を攻撃するときは各県から人員を選抜し、兵力を集中しているのに、防御戦ではなぜ県別、遊撃区別に戦わなければならないのだろうか。馬村作戦と前後した時期、わたしはそんな考えにとらわれていた。
一言でいって、遊撃運動はその内容と規模に見合った新しい器を求めていた。県と区に分散している武装部隊を、一つの体系に結束する画期的な対策が必要だったのである。この要求を満たすいちばんの近道は、反日人民遊撃隊を統合して大部隊の革命軍に改編することであった。
腰営口に駐屯していた第四中隊長の手紙もそれを示唆していた。第四中隊長はやむをえない事情があって馬村作戦総括会議に参加できず、馬村に彼の中隊の総括内容を手紙で送ってきた。その手紙をわたしに伝えたのは中隊長の伝令、呉振宇だった。馬村作戦を総括しながら、わたしは反日人民遊撃隊の統合問題について深く考えた。わたしはこの問題について朱鎮、梁成竜などともしばしば協議した。ある日、わたしは梁成竜の家でギターを弾いた。それは楽しかったからでも、心が安らかだったからでもない。正直にいって、そのころわたしの心はたいへん憂うつだった。馬村作戦には勝利したものの、遊撃区は深い悲しみに沈んでいた。われわれと生死をともにしてきた多くの人が命を落とした。垂木一本残っていない焼け跡に家を建て直し、新しい生活を営むのは容易なことでなかった。軍事問題を相談したくて梁成竜を訪ねたのだが、彼も沈うつな表情でわたしを迎えた。大隊長だった彼は民生団加担の容疑で拘禁されたことに憤慨していた。わたしの保証でやっと釈放はされたが、復職できなかった。彼は小汪清と羅子溝を行き来しながら食糧工作にあたり、討伐で妻と母を亡くしてからはいっそう口が重くなった。
わたしが大部隊の革命軍組織問題を持ち出すと、彼はがぜん関心を示した。
「問題はどんな形式と方法で部隊を統合するかにあると思う」
梁成竜は賛成とも不賛成ともいわなかったが、形式と方法の問題を提起することで軍の組織に支持を表明した。彼がいちばん心配したのは、反民生団闘争に熱をあげている一部の排外主義者が、それをどう受け取るだろうかということであった。
彼が憂慮するのは無理もなかった。そこに朝鮮共産主義者の苦衷があり、その難点を用意周到かつ円満に解決しなければならない特殊な事情があったのである。共産主義運動と民族解放闘争で提起される諸問題を、自己流の原理と尺度で測って押しつける「国際路線」が幅を利かせ、いわゆる階級的利益と国際的連帯の名のもとに、民族的伝統と志向がすべて民族主義的偏向だと決めつけられていたころ、他国で革命運動を進めなければならない朝鮮共産主義者にとって、独自の武力建設構想を実践に移すのは容易なことでなかった。
反日人民遊撃隊を大部隊の革命軍に統合、改編する問題については朱鎮も賛成した。闊達で気さくな彼は、わたしが話を切り出すが早いか威勢よく手を振りながら、部隊を統合して一発くらわせてやろうといった。わたしは、「一発くらわせてやろう」というその表現がたいへん気に入った。それは間島の朝鮮人の人気を集めている豪傑男児朱鎮ならではの痛快な表現だった。彼は、朝鮮人が部隊を統合して独自の革命軍を編制すれば、「朝鮮延長主義」のそしりを受けるかも知れないが、そんなことにはかまわず、一日も早くことを進めようといった。
童長栄もわたしの構想を支持した。彼は、東満州に組織された反日人民遊撃隊は、朝鮮共産主義者が中心になって組織した武装力であり、構成でも朝鮮人が大多数を占め、中国で組織されはしたが、結局は朝鮮革命をめざす朝鮮の革命的武装力となるべきだというのである。童長栄の評価は、朝鮮革命を論ずること自体が民族主義として犯罪視された当時の実情では、きわめて公正かつ進歩的なものであった。
彼も正しく指摘したように、東満州はもとより南満州の李紅光、李東光、北満州の許亨植、金策、李学万、崔庸健など朝鮮の共産主義者は、満州地方の党建設で先駆者的、主導的役割を果たしたように、軍建設でも開拓者、主唱者、統率者の役割を演じた。軍を構成している指揮官と隊員の絶対多数も朝鮮共産主義者であった。童長栄は、軍を編制するのはよいが、中国共産主義者との連帯を強める方向で、互いに支持、補充する形式と方法を適切に選択するようにと勧め、そうするのが朝中双方の利益になるだろうと指摘した。
反日人民遊撃隊を大部隊革命軍に統合、改編することについては、コミンテルン派遣員の潘省委も、コミンテルンの路線に合う正しい方針だとして積極的に支持してくれた。
汪清大隊を一緒に統率した梁成竜をはじめ、のちに人民革命軍独立第一師の師長になった朱鎮、東満特委の童長栄、コミンテルン派遣員潘省委など、良識あるすべての人が反日人民遊撃隊を大部隊革命軍に統合、改編する方針について完全に見解を同じくした。統合、改編された武装力の名称選択と性格規定でも、彼らはわたしとほとんど同じ意見であった。
わたしは一九三四年三月、反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編する方針を正式に提起した。これはわれわれの闘争目標にもかない、それを担当し遂行する政治的勢力の性格にも合致した。
初期に東満州の一部の地域で反日人民遊撃隊を工農遊撃隊と命名したのは、性格の規定で階級性の一面を過度に強調したもので、社会的解放よりも民族的解放と独立を優先的課題としていた朝鮮革命の性格にはもちろん、中国共産主義者が主管した東北革命の性格にも合わなかった。
抗日遊撃隊を人民革命軍に改編する準備として、東満州地方の朝鮮の共産主義者は、中国の共産主義者とともに、各県の遊撃隊大隊を連隊に発展させた。こうして、間島地方遊撃隊の総兵力は五個連隊になった。各連隊には遊撃隊にたいする党の指導を使命とする政治部を置き、作戦、偵察、通信任務を担当する参謀部署と、被服、食糧、軍医などを受け持つ兵站処を設けた。
汪清連隊は東満州地方連隊兵力の先駆けであり、抗日遊撃隊を人民革命軍に改編する第一段階の準備活動における最初の産児であった。
抗日遊撃隊を人民革命軍に改編するうえで、第二段階の目標は師団体系を創設することであった。わたしが師団組織の必要性を痛感したのは馬村作戦のときであった。二個中隊の兵力で五千の大軍と対抗したのは、世界の戦史に類例のないことだった。わたしは小部隊による敵の背後攪乱作戦で遊撃区の難関を打開しながらも、われわれに軍団はさておいて師団級の兵力でもあればどんなによいだろうか、数千の兵力で大砲を撃ちまくりながら、大部隊活動ができたらどんなに力が湧くことだろうか、といつも考えていた。
各県に連隊が組織され、その兵力も急速に増加している状況のもとで、師団の組織は一刻の猶予もならない最大の課題であった。
われわれの目標は、朝鮮人民革命軍の管下に二個師団と一個独立連隊をまず編制し、その成果を拡大して、ゆくゆくは数個師団の兵力を組織することであった。われわれはこうした目標を立て、延吉と和竜にある連隊で一個師団を編制し、琿春と汪清の連隊を基本にしていま一つの師団をまた編制することにした。
反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編する過程で、朝鮮人民革命軍党委員会が新たな党指導機関として誕生した。朝鮮人民革命軍党委員会は、軍隊内の党組織にたいする指導と地方の党組織にたいする指導を同時に担当する重責をになっていた。武力の保障がなくては、地方の党組織が自らを保護し維持することが難しい状況にあったからである。従来は地方党組織が軍隊内の党組織まで指導していたのである。
反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編する活動は、一九三四年三月から五月までのごく短い期間におこなわれた。このことを知った遊撃区域の人民は先を争って軍隊を支援し、各地で盛大な慶祝集会を準備した。汪清の婦人たちは、祝旗をわれわれに贈り、共青は児童演芸隊の祝賀公演を催し、いろいろな運動競技もおこなった。延吉の三道湾遊撃区域では、敵統治区域の代表も参加した中で千人余の大衆集会を開き、デモをおこなった。人民は、朝鮮人民革命軍の編制によって祖国解放の明日をいっそう深く確信し、軍隊と一心同体となって抗日革命戦争にこぞって立ちあがる決意をかためた。
われわれは反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編することによって、より広い地域に自由に進出し、積極的な大部隊活動を展開する大路を開いた。もし、われわれが反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編しなかったり、連隊や師団のような大部隊の軍事力を適時に編制しなかったとしたら、暗雲に閉ざされた祖国を明るく照らした普天堡ののろしも考えられなかったであろうし、撫松、間三峰、紅頭山、鯉明水、大紅湍、紅旗河など国内と満州各地で敵の精鋭部隊を壊滅した連戦連勝の喜びも味わえなかったであろう。また冬期討伐についで遊撃区を脅かした悪名高い囲攻作戦も破綻させることができなかったであろう。
反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編することによって、われわれは武力抗争によって必ず祖国の解放をなしとげようという朝鮮民族の意志を内外に強く誇示したのである。
朝鮮人民革命軍は、ときには東北人民革命軍の名で活動した。われわれの見解では、東北という名称はある国を意味する国号ではなく、あくまでも地域的概念であった。われわれの組織した人民革命軍が「満州人民革命軍」や「中国人民革命軍」ではなく、東北人民革命軍の名でも活動したのは、反満抗日を闘争目的にしていた中国の同志たちにとっても適切なことであった。結局、東北人民革命軍は朝鮮人民革命軍としての使命とともに、中国共産主義者の反満抗日の偉業に寄与する革命武力としての使命も同時に遂行したのである。
朝鮮人民革命軍は、間島と東辺道一帯、白頭山を中心とした朝鮮半島全域におけるもっとも強大な武装力に発展した。
反日人民遊撃隊を人民革命軍に統合、改編する過程で朝鮮共産主義者のとった原則的な立場と用意周到な政治的考慮は、その後、朝中人民の反日共同闘争、とくに中国東北地方における抗日武装闘争の発展に大いに寄与した。もし、われわれが当時の主・客観的情勢を考慮せず、朝鮮革命の主体的路線に名実ともにふさわしい形式や名称のみにこだわっていたとしたら、朝鮮共産主義者は、抗日武装闘争を中国人民の幅広い支持声援のもとに効果的に進めることができなかったであろう。
後日、われわれは東北抗日連軍を組織してからも、朝中抗日連合軍の性格に即して、中国東北地方で活動するさいは東北抗日連軍と呼称し、朝鮮人が多く住む地方や朝鮮に進出したさいは、朝鮮人民革命軍と称した。このように状況に応じて名称を変えて活動したので、どこでも朝中両国人民に愛され保護されながら生活し戦えたのである。
われわれが運動の形式的側面よりも本質的内容を重視したのは、現在の時点で評価しても、正しく誇らしいことであった。このような原則的な見解と度量ある態度を持したおかげで、われわれはつねに国際主義者としての本分をつくしながらも、闘争の民族的性格と独自性を十分に守り、ひいては中国の同志やコミンテルンから深く尊敬され支持されることができたのである。
当時の出版物は、間島に組織された人民革命軍を東北人民革命軍ではなく、朝鮮人民革命軍と書いた。一九三五年、上海商務印書館発行の『東方雑誌』は、東北におけるパルチザン闘争に触れ、間島に朝鮮人民革命軍が三千人いると指摘しているが、それはパリの救国出版社発行の『東北抗日烈士伝』にも転載されている。
東北抗日連軍の編制後、朝鮮人民革命軍部隊が第二軍と呼ばれたのもいわれのないことでない。朝鮮人民革命軍は、性格上、朝中両国人民の国際的な反日統一戦線体としての側面をもち、第二軍内の朝鮮人は、朝鮮の独立のために戦う独自の任務を遂行しながら、中華民族の解放運動を国際主義的旗じるしのもとに支援した。
間島に朝鮮人民革命軍が組織され、戦果を広げていたとき、誰よりもそれを恐れ、その存在の危険性について喧伝したのは日本帝国主義侵略勢力であった。彼らは、東満州と南満州で活動するわれわれの抗日武装力を、その名称にかかわりなく「
反日人民遊撃隊が朝鮮人民革命軍に改編されたのち、反日共同闘争の成功をはかって、間島地方で孔憲永、柴世栄、史忠恒、李三侠などが率いた抗日義勇軍は、第二軍の部隊番号をもっていた朝鮮人民革命軍と連合したが、それは「東北華韓人民革命軍」(東北朝中人民革命軍)ともいわれた。こうした経過をへて、事実上、東満州には一九三〇年代前半期、すでに朝中抗日武力の強固な連合が成立していた。
周保中は、「抗日連軍第二軍は同時に『朝鮮人民革命軍』であった。…抗日遊撃戦争中、中朝人民は共同の事業のために鮮血で結ばれていた」と書き、朝鮮人民革命軍の実体を認め、共同闘争の道程で歴史的に存在した朝中抗日武力の連合を激賞した。
日本人が満州、とくに間島に組織されたパルチザンを「朝鮮人純血パルチザン」と指摘したのも、そうした意味からだったであろう。
われわれの関係者が発掘した資料によれば、ソ連の著名な中国・朝鮮問題専門家ウェ・ラポポルトは、一九三七年、ソ連の国際政治誌『太平洋』に掲載した論文『北部朝鮮地域におけるパルチザン運動』の中で、「…朝鮮パルチザンの大多数は統合されており、自己の中央を有し、人民革命軍と呼んでいる」「朝鮮パルチザンと満州パルチザン間の現存する連係と接触の拡大は、日本軍国主義者にきわめて大きな不安をいだかせており、そのため日本は国境地域に深い関心を払っている」と書いた。
反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編するのは、たんなる名称の変更や実務的な再編を意味するものではなかった。それは抗日遊撃隊の歩んだ戦闘の道程を総括し、その成果と経験を生かしていく方向で遊撃隊の指揮体系を改善し、隊伍を質的、量的に強化する軍建設の新たな段階を意味した。
反日人民遊撃隊の朝鮮人民革命軍への改編後、われわれは敵の囲攻作戦を粉砕する積極的な軍事作戦を展開した。
最終掃討戦と大言壮語した冬期討伐で惨敗を喫すると、関東軍首脳部と東京の軍部は、失敗の原因と責任を究明する騒ぎを起こしたあげく、一九三四年春から、従来の焦土化戦術を再検討し、より悪らつな新しい討伐計画として、いわゆる囲攻作戦を案出した。それは軍事的包囲攻撃と政治的暴圧、経済的封鎖を組み合わせて遊撃区を最終的に掃滅するというあくどい作戦であった。わたしは、日本人のこの新発明が、じつは蒋介石が中国のソビエト区を攻撃したさいに用いた封鎖政策の焼き直しと見なした。
蒋介石の封鎖政策は「政治恐怖と経済恐慌の非人間的世界を現出して」、共産軍が着ることも食べることもできないようにすることを目的にしていた。一方、囲攻作戦は遊撃区の人民と軍隊を残らず飢え死にさせ、凍え死にさせ、撃ち殺し、焼き殺すことを目的にしていた。日本人は、この作戦のために集団部落をつくって軍隊と人民を分離し、中世的な十家連座法と五家作統法のような保甲制度によっていっさいの抗争勢力を摘発、粛清しようとはかった。
封鎖政策と囲攻作戦には戦術的な側面でも類似性があった。蒋介石の戦術は、「穏紮穏打 堡政策」であった。この戦術は、相手を包囲したのち追撃を急がず、深入りもせず一地点を占領すれば徐々にそれをかため、再び明け渡さない方途を研究しながら、次の地点への攻撃に移るというものだった。
この戦術に対比できるのが、日本人の考案した「歩歩占領」戦術であった。同志たちがこの戦術を評して、「日本人も哀れなものだ。蒋介石の知恵まで借りるとは」といったのはたんなる冗談ではなかった。
彼らは囲攻作戦を準備し、一九三四年春から遊撃区の周辺に関東軍精鋭部隊と朝鮮占領軍部隊をより多く投入し、満州国軍部隊を増強した。
敵の囲攻作戦が拡大されている緊迫した情勢に対処して、われわれは朝鮮人民革命軍部隊をして、遊撃区の防御にひきつづき力をそそぎながら、大規模作戦を展開し、敵背の軍事的・政治的地点を連続打撃して敵の企図を前もって破綻させる一方、より有利な地帯に遊撃区を拡大するようにした。これは当面の難局を能動的に打開し、血を流してかちとった勝利をかため、高揚した人民の革命的気勢をひきつづき盛りあげることを可能にした。
朝鮮人民革命軍は、春期攻勢に出て、汪清地方で敵軍の主要駐屯地と小百草溝、大肚川、石頭河子、転角楼など集団部落建設場を襲撃した。琿春と延吉、和竜の同志たちも集団部落建設場を襲撃して敵の囲攻作戦企図を出端からくじいた。
われわれはこの攻勢でおさめた成果をかため、イニシアチブをとって囲攻作戦を完全に破綻させるため、ただちに夏期攻勢を開始した。この攻勢の主要目標は、遊撃区域を安図県の西北部と汪清県の東北部に拡大することであった。敵の包囲攻撃にたいして、固定した幾つかの遊撃区だけを守っているとすれば、それは敵の思うつぼにはまり、敵の企図に手を貸すことになる。
遊撃区を安図県の西北部に拡大するのは、人民革命軍第一師と独立連隊が担当し、汪清県の東北部に拡大する任務は、第二師が受け持った。大甸子と富爾河を結ぶこの遊撃活動区域が安図県の生命線であるとすれば、羅子溝、老母猪河、太平溝、三道河子などの一帯は、琿春県と汪清県の生命線であった。これらの地方はいずれも、牡丹嶺と老爺嶺をひかえた遊撃活動に理想的な適地で、独立運動時代から洪範図、崔明禄、李東輝、黄丙吉のような有名な武人の関心を引いたところであった。
われわれは、第一師の師長朱鎮と独立連隊長尹昌範にまず大甸子―― 富爾河一帯を攻撃させて、敵の注意を引きつけたあと、羅子溝方面に進出する計画を立てた。
関東軍の視線が安図県大甸子一帯に集中しているすきに、われわれは人民革命軍第二師第四、第五連隊の一部を反日部隊とともに羅子溝方面に進出させて、三道河子と四道河子を占拠した。三道河子では朝鮮人民革命軍と千五百余人の反日部隊将兵の交歓会が開かれた。これは羅子溝戦闘で勝利をかちとるための一つの思想戦であった。羅子溝戦闘には、反日部隊から孔憲永部隊、史忠恒部隊、柴世栄部隊、李三侠部隊が参加した。
羅子溝は汪清県百草溝、東寧県城とつながった敵の軍事的要衝であった。羅子溝市内には聞長仁大隊長の指揮する数百人の満州国軍が駐屯していた。羅子溝は住民所帯が五百戸ほどのさほど大きくない町だったが、九・一八事変後、敵の軍事的拠点に急速に発展し、一九三二年の春からは間島臨時派遣隊の重要な基地となっていた。日本帝国主義はこの派遣隊が撤収すると、増強された一個大隊以上の兵力を羅子溝に常駐させ、それを囲攻作戦の持ち駒の一つに使おうとしていた。
先制攻撃を加えて羅子溝一帯を掌握するのは、囲攻作戦の一角を突き崩すと同時に、遊撃区を拡大するうえに有利な条件をつくる鍵であった。
われわれは三道河子の李泰京老の家で反日部隊の指揮官とともに、羅子溝攻撃にかんする作戦会議を開いた。李泰京は義兵と独立軍の経歴をもつ憂国の情が厚い老人で、一時崔自益とともに北路軍政署の総務を務めたこともあった。徐一が一兵卒にすぎない李泰京を総務に任命したのは、彼の抜群の射撃術と書にほれたからだという。徐一が檀君をあがめる大倧教を布教したとき、李泰京はその敬虔な信者になり、金佐鎮が反共闘争を主張したときにはそれにも同調し、褒賞として拳銃を贈与された。間島大討伐をひかえ、金佐鎮が北満州に撤収するさい、老人は指揮官たちにしたがって密山に向かった。しかし金佐鎮が延吉県倒木溝の密林に姿を消すと、彼も仲間とともに四道河子地方にきて銃を埋め百姓仕事をはじめた。
李泰京老のいまでも忘れられない印象は、わたしが反日部隊の指揮官に作戦意図を説明しようとして羅子溝市街地の略図を広げたとき、風にあおられないよう、窓側の方の略図の端に石を置いてくれたことだった。彼の家族はその石を福石といっていた。それは卵のように表面がなめらかで奇妙な形の石だった。老人は十里坪で北路軍政署の総務を務めたさい、友人が死ぬ前にその石を譲ってくれ、長いあいだ保管していれば福が授かると遺言までしたという。
その福石は、いま朝鮮革命博物館に所蔵されている。李泰京老は死ぬ前に、その石を家宝として息子に残した。
李泰京老は共産主義が嫌いだといいながらも、われわれを援護することでは労を惜しまなかった。わたしが羅子溝反日会長崔正和の紹介で、彼にはじめて会ったのは一九三三年の夏だった。そのときわたしは白馬に乗って三道河子に行き、大衆政治工作をおこなった。その過程で三道河子反日会が組織され、村の最年長者である李泰京老もそれに参加した。彼は反日会に入会して以来、村人たちをりっぱに教育した。村の最年長者でいちばんの有力者である彼の一言一言に、村人たちはみなよくしたがった。
村に義兵や独立軍出身の人が一人か二人いれば、そんな村の革命化はスムーズに進んだ。李泰京のように武器を埋め中途で闘争を止めた独立軍の人たちも、ほとんどが愛国心だけは捨てていなかった。彼らが中核になって家々をまわりながら、山で苦労している革命軍を援護しようと訴えると、誰もが「そうしましょう」と応ずるのだった。彼らが先に立って、村に革命軍が来たがどうしたものだろうかと相談を持ちかけると、「餅をつきましょう」「牛をつぶしましょう」などと答えた。独立軍出身者の中には思想転向した人もまれにはいたが、ごく少数で、絶対多数は晩年まで潔白に生きた。それで、わたしはどの村でも独立軍出身の有志との活動をおろそかにしなかった。石峴では呉泰煕、西大坡では崔自益、馬村では李治白、東日村では金東順、三道河子では李泰京といったふうに、まず独立軍出身の長老を訪ねて挨拶し、木枕を並べて時局を論じたものだった。
解放後、一部の人は独立軍出身を思想が違うからということで排斥した。共産主義思想をもった人でなければおしなべて色眼鏡で見たときのことだった。たまに偏狭な人物が人事問題を扱うときには、そうした人たちを遠ざけることがあったが、それはわれわれが終始守ってきた統一戦線政策に水をさす妄動であった。わたしはそうした傾向を目撃すると、こう言い聞かせたものである。
「思想が違うからといって独立軍出身を排斥するのは、もってのほかだ。独立軍が共産主義者になれなかったのは制約であって罪ではない。君たちは古典小説の春香や李夢竜(〔9〕)まで共産主義者に仕立てようとしているのではないのか。共産主義者が政権を取ったからといって、愛国的な先輩を無視してはいけない。時代によって思潮が異なるものなのに、なぜ彼らを排斥し、警戒し、のけものにするのだ。他人がオンドル部屋で妻子や家族にかこまれ、温かいご飯を食べながら暮らしていたとき、独立軍に入って命を的に朝鮮の独立のために戦ったのが罪だとでもいうのか。わたしは自分の家で暮らしを立てながら気楽に暮らした人たちよりは、銃を取って戦った義兵や独立軍の方がりっぱな愛国者だと思う。独立軍を排斥すれば、われわれが人民に見捨てられるということを銘記すべきだ」
わたしはこうした立場から、万景台に革命家遺児学院を創立したさい、そこに独立軍の遺児も入学させたし、われわれの新しい朝鮮建設路線を積極的に支持する独立軍出身の人たちを能力に応じて幹部に登用した。初代農民同盟中央委員会委員長の姜鎮乾(〔 〕)先生や共和国内閣の初代都市経営相の李鏞(〔 〕)先生も独立軍出身だった。
われわれが作戦会議を終え、戦闘準備にとりかかっているとき、敵が先手を打って城市から出撃したという偵察の報告が指揮処に届いた。われわれは有利な地帯に敵をおびきだし、主力を掃滅したのちに追撃戦を展開して城市を攻撃した。連合部隊は豪雨の中で苦戦をしなければならなかった。
東寧県城戦闘と同様、羅子溝戦闘でも、最大の暗礁は西山砲台だった。この砲台の必死の抵抗で戦闘は三日間もつづいた。三日目にわれわれが反日部隊の指揮部で会議を開いていたとき、西山砲台から迫撃砲弾が飛んできて周保中など数人の反日部隊指揮官が重軽傷を負った。周保中は孔憲永部隊の参謀長として戦闘に参加していた。指揮官の負傷で士気を落とした一部の反日部隊は、羅子溝から算をみだして退却しはじめた。退却を阻止しなければ、戦いに敗れるおそれがあった。西山砲台の占領いかんは、羅子溝戦闘の勝敗を左右する鍵であった。西山砲台には迫撃砲のほかにも重機や軽機が数挺あった。
この砲台の火力のために、韓興権中隊長は腸がはみ出る致命傷を負い、曺曰男も戦闘能力を失っていた。深手を負った韓興権は、自分を射殺してくれと哀願するほどだった。
わたしは、歯ぎしりしながらも砲台に接近できずうつ伏せている人民革命軍隊員に向かって叫んだ。
「諸君! どんなことがあっても西山砲台を占領しよう! 革命のために最後の一滴の血までささげて戦おう!」
そしてモーゼル拳銃で敵兵を撃ち倒しながら突進した。砲台から雨あられのように降りそそぐ機関銃弾が耳をかすめ軍帽に穴をあけた。しかし、わたしは息をととのえる間もなく、まっしぐらに突っ走った。隊員たちは地を蹴って立ちあがり、わたしにつづいた。
難攻不落を豪語した西山砲台は三十分で陥落し、砲台の頂に赤旗がひるがえった。赤旗を見た反日部隊の兵士たちも勇気づいていっせいに突撃に移った。彼らを挫折から突撃に奮い起こすうえで、周保中をはじめ中国共産主義者の犠牲精神が大きな感化力を発揮した。周保中は重傷を負ったにもかかわらず、両腕を広げて、逃げる反日兵士を制止し、西山砲台にひるがえるあの赤旗が見えないのかと叫んだ。それを見た反日兵士たちは踏みとどまり、ついで喊声をあげながら敵陣に迫った。
戦闘はわれわれの勝利に終わった。羅子溝を守っていた聞大隊長と日本人指導官は、関東軍司令官に送った最後の電報で、
「弾薬はすでに射ち尽くし、我等の運命旦夕に迫る。遮莫、我等は国家のため、満洲建国のため全力を尽くしたるを本懐とす。司令官、これを諒せよ」
羅子溝と大甸子でのわれわれの勝利は、朝鮮人民革命軍がおさめた抗日戦争初期の最大の成果であった。朝鮮人民革命軍の羅子溝進攻戦闘は、敵の囲攻作戦企図に痛撃を加え、敵を驚愕させた。この戦闘後、遊撃区周辺の大小の討伐隊は恐怖におののいた。
じつに、羅子溝戦闘は、汪清遊撃区東北部一帯の敵を制圧して遊撃区の拡大に有利な局面を開き、反日部隊との連合戦線をかためるのに大きく寄与した。羅子溝戦闘後も、われわれは敵の囲攻作戦企図を破綻させる猛烈な軍事・政治活動をおこなった。遊撃区の解散後、東満州の革命大衆のうち多数が安図と羅子溝一帯に住みつくことができたのは、われわれが早くから軍事・政治活動を猛烈にくりひろげ、この地域を目に見えない革命根拠地に変えたからであった。
革命軍は一九三四年の夏期攻勢で少なからぬ血も流した。大甸子の戦勝談には、和竜遊撃隊組織者の一人であり連隊政治委員であった労働者出身の信望の厚い指揮官車竜徳が流した血の痕も記されている。彼は朝鮮人民革命軍の編制後、最初に戦死した政治委員であった。
2 富者と貧者
遊撃根拠地がわれわれの住まいであり、安息の地であったことは確かであるが、わたしがいつもそこにとどまっていたのではない。軍隊が一定の場所に閉じこもっているのは、戦術的にみて自滅の道である。
人民から供給される食糧を使いはたしながら、小汪清の谷間でぶらぶらしているのは、わたしの性分にも合わなかった。それに堅実な同志を民生団の嫌疑で殺害する極左分子や民族排外主義者の行為にも嫌悪感を覚えていた。
そこで、わたしはできるだけ軍隊を率いて敵中に入っていったものである。半遊撃区が設けられてからは、いっそうひんぱんに出撃した。人民も軍隊が敵中に進出するのを歓迎した。そうすれば米や布地が手に入るからであった。敵がいくら共産主義の悪宣伝をしても、われわれが一晩宿営したところでは、もはやそれに耳を傾ける人がいなかった。人民は彼らの宣伝よりも、われわれの道徳と礼儀を通して示される共産主義者の実像を重視した。
敵中の生活に興味を覚えた隊員たちはみな、わたしと同行することを望んだ。わたしが引き連れた部隊は第五中隊だった。あまり多人数だと食糧にも困り、痕跡も多く残すことになるので、五十~六十人に制限したのである。それより多くの兵力が必要なときは、第一中隊を加えた。わたしが敵中にひんぱんに出撃したので、第二中隊の責任者崔春国と第三中隊の張竜山が汪清の守備のために苦労した。腰営口の防御
を担当したのは第四中隊であった。
第五中隊は汪清の最精鋭部隊であった。三歩間隔で進めとか、息をひそめよとか命令すると、そのとおりにした。大きな戦いはあまりせず、手ごろな敵を襲撃しては、その夜のうちに八キロ~二十キロ強行軍して行方をくらますのである。われわれの敵中攪乱戦によって、敵は遊撃根拠地の討伐にかかりきっていることができなかった。
解放後、党の宣伝活動を担当した一部の人たちは、抗日戦争当時、朝鮮の共産主義者がおこなった敵中闘争経験を人民にまったく紹介しなかった。宣伝したのは外国の伝統や経験だった。彼らが広めた事大主義がひどく災いして、解放直後、人びとはスターリングラードの激戦やクルスクの戦車戦についてはよく口にしたが、わが国の抗日戦史に小汪清防御戦のような苛烈な戦いがあったことは、まったく知らなかった。一時、李寿福英雄(〔 〕)を「朝鮮のマトローソフ」ともいった。祖国解放戦争当時にしても、朝鮮人民は世界ではじめて銃眼を体でふさいだ英雄はソ連のマトローソフだとばかり思い、自国の抗日烈士の中に、彼よりも先に銃眼をふさいだ金振という闘士がいた事実を知らなかった。
解放直後、われわれが革命伝統教育だけでも十分にしていたなら、朝鮮戦争の後退の時期にあれほど多くの人が犠牲にならずにすんだであろう。五、六人、十五~二十人の小部隊を組み、各自が斧や米の一、二斗も持って山を駆けめぐりながら銃を撃ったりビラを貼ったりしていても一、二か月は容易にもちこたえることができたはずであるが、事前にそうした教育をほとんどしなかったので、十分に避けられる被害までこうむることになったのである。
わたしが敵中でもっとも多く活動したのは、豆満江沿岸の農村であった。ある年、列車で豆満江流域を
通りすぎながら眺めた山や谷は、昔日のおもかげをそのままとどめていた。
灯台もと暗しで、敵の足下にぴたりとついているのも悪くはなかった。部隊は図們の裏山に駐屯していたことさえあった。そこでは全員平服を着ていた。三つの峰に歩哨を一人ずつ立て、森の中で眠りもすれば、本を読みながら余裕しゃくしゃくとすごした。それでも、敵は目と鼻の先に遊撃隊がいることに気づかなかった。
われわれが豆満江沿岸の図們と涼水泉子一帯で敵中活動をしたのは、一九三三年の夏と一九三四年の夏であった。呉義成との談判後、汪清に帰り、涼水泉子付近で大衆政治工作をおこなったさい、わたしは指揮部を設ける適地を物色するために、図們地方に隊員を派遣したり、地元の人たちの話を聞いたりした。彼らはだいたい、松洞山、北高麗嶺、草帽頂子の三つの地点を格好の候補地だとした。しかし、それらの地点は指揮部の安全を保障するにはよかったが、われわれの進出目的には適合しなかった。
わたしはなぜか、以前穏城に出入りしたさい、平壌の牡丹峰に似たところがあると思った図們の裏山に心が引かれた。地図を広げてみると、われわれの進出目的にもかなっていた。谷間がいくつもあるうえ、木が生い茂って、夏にワラ小屋を張ってすごすにはあつらえ向きだった。山の周辺には一九三〇年以降、われわれの組織が根をおろした土地も多かったが、未組織村もかなりあった。われわれはそれらの村をすべて革命村に変えるつもりであった。
わたしは羅子溝戦闘が終わり次第、図們の裏山へ行こうと考えていたのだが、反日部隊の被服と食糧を入手するために、出発予定日を延ばし、しばらく小汪清にとどまることになった。盛夏を前にしたころだったが、青山部隊の将兵はすりきれた綿入れを着、スズメの卵ほどのジャガイモを掘って飢えをしのいでいたのである。それで、部隊駐屯地周辺のジャガイモ畑がすっかり荒らされ、畑の主人たちは青山部隊を恨んでいた。衣食に事欠くので、いきおい上官と部下の関係も悪化し、部隊は土匪に転落しはじめていた。投降の気配も一部にはあった。靠山部隊や史忠恒部隊の実態も似たようなものだった。靠山部隊がまだ朝鮮人民革命軍に編入される前のことである。
われわれは青山部隊とともに嘎呀河を攻撃して得た食糧と布地を反日部隊に分け与えたあと、吊廟台の敵まで襲撃してから、やっと図們の裏山に向かうことができた。羅子溝で腸がはみでる重傷を負って遊撃区病院へ送られた韓興権中隊長がどのように病院を抜け出したのか、ひそかに中隊のあとを追い、図們の裏山に到着したとき、だしぬけにわたしの前に現れた。
一か月前の銃創の手術のあとを見るとほとんど全治しており、ただ抜糸したあとにかすかな血痕が認められるだけだった。傷あとが裂けてはと、病院にもどるよう勧めると、大男の中隊長が泣きべそをかいて、どうか送り返さないでほしいと哀願した。わたしは中隊長代理の王に、手術のあとが悪化するといけないから図們の裏山で十分休息させるようにと指示した。
図們は以前、灰幕洞といわれていた。灰幕洞という地名は、かつて朝鮮人がそのあたりに小屋をかけて消石灰を生産したことに由来している。この一帯は石灰石の山だったという。
九・一八事変後、満州を占領した日本帝国主義者は、吉会線鉄道を朝陽川から灰幕洞まで延長し、駅名を図們と命名した。駅の近くの村に建物を建てて市街を形成し、領事館分館、警察署、税関を設けたあと、守備隊まで駐屯させた。石灰しかなかった田舎村は、軍警の横暴な行動に悩まされる繁雑な消費都市に変貌したのである。この新しい市街の名は図們に変わり、西側の山のふもとの古い村は旧市街となったが、その名は朝鮮人が名づけた灰幕洞を継承した。図們と南陽のあいだにまもなく国境鉄道が敷かれた。それ以来、図們は満州大陸で日本の利権を守る東方の関門となった。対岸の南陽も朝鮮と満州を結ぶ重要な通路であった。一九三〇年代の後半、この地区にソ連侵攻の諜報謀略機関が設置された。このように図們は軍事的、政治的に重視される都市であった。
図們がわれわれの活動拠点となり、国内半遊撃区との連係を結ぶ重要な通路として利用されたのは、いろいろと有益なことであった。
われわれは早くから灰幕洞に組織を置いた。この組織は呉仲成らの影響下にあった。わたしは一九三〇年九月、穏城に行くときも灰幕洞の同志たちの援助を受け、翌年の五月、鐘城に行くときも彼らに見送られた。崔金淑が病気のわたしに食欲をつけようと、リンゴやナシを買いに行ったとき、彼女を助けたのも灰幕洞の組織だった。
図們は穏城とわれわれを結ぶ中継所のようなところで、遊撃隊の補給物資供給基地ともいえた。
われわれは図們の裏山に駐屯しているあいだ、敵が施政方針としてうちだした「匪民分離」策を破綻させることに活動の総体的目標をおいていた。「匪民分離」とは、彼らが「共匪」と呼んでいる革命軍と人民を隔離することであった。日本帝国主義者はこれを一つの政策として宣布し、思想工作、集団部落政策、十家連座法、五家作統法、帰順工作などというものをあいついで案出し、遊撃隊と人民とのつながりを断とうとやっきになった。
「匪民分離」の暴政下で多くの組織が破壊され民心も騒然となった。一部の人たちは帰順申請書に捺印した。こうした現象のもっともはなはだしかったのが、豆満江流域の汪清南端であった。
われわれは敵の分離策を軍民の団結で破綻させようというスローガンをもって大衆の中に入り、組織工作をはじめた。呉仲洽のいた南陽村組織もそのときに立ち直った。大拉子には崔氏らを中核にした組織を新たに結成した。周辺の村で組織工作を終えたあと、しだいに涼水泉子の方へ大衆工作の舞台を移し、林業労働者と農民の中に入っていった。わたしは一グループを引率し、松谷をへて琿春県密江の雄基洞に行き、豆満江対岸の慶源(セッピョル)、訓戌の組織を立て直したこともあった。こうして「匪民分離」に泣かされていた人民は、軍民和合によって笑顔を見せるようになった。
図們の裏山に出入りしたころ、わたしは国内各地の基層党組織と革命組織にたいする整然とした組織指導体系を確立し、党組織建設活動を国内深くに拡大するため、六邑一帯にしばしば足をのばした。
一九三〇年十月、穏城郡頭婁峰で党組織が結成されたのち、豆満江沿岸一帯には党指導中核の呉仲和、金日煥、蔡洙恒、呉彬などと、政治工作員の李鳳洙、安吉、張金珍などによって、会寧、延社、雄基(先鋒)、茂山、慶源(セッピョル)、羅津、富寧、清津新岩洞などに多くの基層党組織がつくられた。
一九三三年八月、慶源剥石谷で地下党活動にかんする講習会が開かれた。炭焼き小屋近くの木の下で二日間開かれた講習会には、北部朝鮮一帯をはじめ国内で活動する政治工作員と地下革命組織責任者が参加したが、地下党組織建設の問題ではわたしが、共青活動の問題では趙東旭が、婦女活動の問題では朴賢淑が、児童活動の問題では朴吉松がそれぞれ講師を務めた。
わたしの指導のもとに、穏城で、国内党組織および革命組織代表たちの会議が開かれたのもそのころだった。一九三四年二月、いまの穏城郡豊仁労働者区にあった進明書塾で開かれた会議では、国内の広い地域に党組織を拡大し、党組織指導体系を立てることが中心議題となり、地区党委員会のような地域的指導機関を設けることが決定された。この会議の決議によって、全長元を責任者とする穏城地区党委員会が組織された。この会議は一九三〇年代前半期の国内党組織建設活動を拡大するうえで転換的使命をはたした重要な会議であった。当時、『朝鮮日報』が「進明書堂の党大会で数項目の過激なスローガンを決議し、印刷配付」したと報じたのは、この会議の一端を示すものである。
図們の裏山における敵中活動は、面白い多くのエピソードを残した。その中でいまでも忘れられないのは、悪質な地主をこらしめたことである。その村の名がなんであったかは思い出せないが、朝鮮人村だったことは確かである。
ある日、わたしは隊員たちを図們の裏山で休ませたあと、平服を着てその地主の住む村に向かった。そのときの服装は洋服ではなく朝鮮服のパジ・チョゴリだった。われわれの背負い袋にはつねに平服が用意されていた。平服を着ないでは敵中工作ができなかったのである。日本語の達者な隊員は日本人の服をしまっていた。
そのとき、わたしと同行したのは伝令の李成林と二人の隊員だった。昼すぎで、日没までにはまだかなり間があった。わたしは、はじめて訪れるその村の民心がどのようなものか知りたかったし、何日も山にこもっているのがうっとうしくもあった。民心がよければ世話にもなり、組織づくりもするつもりだった。村には日本の軍警がいなかった。
わたしは村でいちばん構えの大きい瓦家の門前で案内を請うた。まだ明るかったが、なぜかかたく閉ざした門の中からは応答がなかった。取っ手をつかんで門をがたがたゆすぶると、やっと履き物を引きずる音が近づいた。中年の男が門を開けて不機嫌な目をこちらに向けた。彼が、われわれがこらしめた地主であった。
「行きずりの旅の者ですが、もうすぐ日が暮れるというのに行くあてがないのです。一晩泊めてもらおうと訪ねてきました。ご厄介になれないでしょうか」
わたしは丁寧に訪ねたわけを話した。ところがその男は、頭から無礼者呼ばわりをし悪口を浴びせた。礼儀をわきまえない不親切な地主だった。
「この二キロ先に宿屋があるのに、なにをわざわざ民家の世話になろうというのだ。ここが村の溜まり場だとでも思ってるのか」
目をいからせて、たわけた野郎だとののしり、まるでわれわれを乞食かなにかのようにあしらうので、わたしも腹が立った。しかし我慢して穏やかに言葉をついだ。
「足が腫れて歩けないのです。なんとか一晩お世話になれないものでしょうか」
地主はかんしゃくを起こした。
「なんだと? 宿屋が近くにあるというのに、ヒルのようにしつこいやつらだ。ついたちの市でも見かけなかった男たちが…」
わたしの後ろにいた伝令が口をはさんだ。
「宿屋に行こうにもお金がないのです。善行を施せば、神様もご照覧のはずですよ。まあ、一杯おごるつもりで…」
地主は伝令の言い終わるのも待たずに、「じゃ、わしに金を出せというのか? ばかなことをぬかすな」といってぺっと唾を吐き、門を閉めてしまった。
十年近くの革命運動中、こんな応対を受けたのははじめてのことだった。地下活動でしばしば出向いた中部満州地方にも、裕福な人は多かったが、この地主のように薄情な人間に会うのははじめてだった。
伝令の李成林は激昮した。隊長がこんな田舎地主にあなどられようとは思ってもいなかったのだろう。彼は口惜しさのあまり、あんな豚にも劣る人間は生かしておく必要がないから、撃ち殺してしまおう、でなかったら、せめて耳のそばで空砲でもぶっぱなして度肝を抜いてやろう、といった。
わたしも腹の虫がおさまらなかった。同じ民族同士なら異郷ではいっそう親密になるものである。故国では犬猿の仲であった人たちも、外国で会えば手を取り親しみ合うのが、人情である。ところが、われわれをたわけた野郎だと侮辱した地主には、そのような人情がひとかけらもなかったのである。国が滅んだからといって、人情まで汚れてよいものだろうか。同じ不幸にあっている者同士は、互いにかばい合うのが人生のことわりなので、われわれの祖先は同病相憐れむといったではないか。朝鮮民族ほど情にほだされてよく笑い、よく泣く民族がまたとあろうか。それで先人も、鬼神は経文に弱く人間は人情に弱いといったのである。
客を歓待するのは朝鮮人の美徳である。客を断らずに泊めるのが祖先伝来の朝鮮人民の風俗であり人情である。他家の墓守りをして生計を立てていたようなわたしの家でも、客のもてなしはおろそかにしなかった。米がなければかゆ釜に水を足しかゆをのばしてでも食事をもてなした。そんなとき母や叔母には水っぽいかゆしか残らなかった。一、二食抜くようなことがあっても、わたしの家の婦女たちは決して婚家を恨んだり、身の上を嘆いたりしなかった。これが幼いころからわたしの網膜に焼きついた朝鮮民族の本然の姿であり、イメージであった。
ふところにびた一文ない行商も、その気になれば朝鮮八道を無銭旅行できるのが、はるか三国時代から伝わる朝鮮の風習であった。だから一度でも朝鮮の民家でもてなしを受けた外国人は、わが国を指して東方礼儀の国とほめそやしたものである。ところがあの野卑な地主の体には、朝鮮人の血が流れていないとでもいうのだろうか。どうしてあんな不人情な振舞いができるのだろうか。
この地主はまず道徳的にみて無頼漢であった。国力の衰えた民族が国をそっくり奪われるようなことはありうることである。国を失った民族が言葉や文字、姓名まで奪われることはある。しかし国を失ったからといって人情まで捨てることができようか。みながあの地主のように同じ民族に背を向ける醜悪な人間になりさがるならば、朝鮮人は祖国を取りもどせないであろう。幸いにも、朝鮮民族にはあの地主のような人間は少数にすぎない。
わたしは富者にたいする見解を改めて定立し直さざるをえなかった。
一九三三年の夏、十里坪に駐屯していた救国軍の一部隊が、石峴に攻めこみ、義援金を出させる目的で中国の金持の妻を人質に捕らえてきたことがあった。纏(てん)足(そく)をした彼女は、肌着姿でつかまってきて、何日か十里坪に抑留されていた。救国軍は彼女の夫に、いついつまで指定の金を持ってくれば、妻を送り返してやると脅迫状を送った。しかし、金持はそれだけの金があれば、もっとましな女を嫁にもらえるといって、要求に応じなかった。救国軍に金を払って、その女を引き取ったのは実家の父親だった。たちの悪い金持というのは、およそそのようなものであった。
われわれは宿をとろうと村をもう一度まわった。今度は瓦家でなく、わらぶき屋で頼んでみることにした。地主の家からほど遠くないところに、二つの部屋の戸を明け放して夕食をとっているわらぶきの家があった。わたしはその家の縁先に立って、地主にいったように頼んだ。
「行きずりの旅の者ですが、日が暮れましたので、一晩泊めてもらえないでしょうか」
主人はすぐ腰を浮かし、門柱に手をあてて外を見た。
「とにかくお上がりなさい。お粗末ですが、かゆなりと一緒にすすりましょう。それしかないので悪く思わんでください。さあ遠慮なくお上がりなさい。むさくるしくて、どうも」
「とんでもない、どうぞお構いなく」
われわれは主人に手を引かれて部屋に上がった。部屋はみすぼらしかったが、主人の言動と心づかいには厚い人情が感じられた。
主人は妻に、かゆがないかと尋ねた。彼女はあると答えた。その光景を見ると、やはり貧しい人は違うと思った。人情は富者ではなく貧者にあった。予期しない客を二人も迎えた彼らに夕食を勧められて、われわれはすっかり感激した。
「ご主人の食事をわたしたちがいただいては、お宅はどうするのです。わたしたちはただ泊めていただくだけで結構です」
わたしは食卓についても、かゆが喉を通りそうになくて、何度も辞退した。
すると主人は目をむいてわたしをたしなめた。
「なんとおっしゃる。客であるからには、客のもてなしを受けるものです。…あまり粗末なので遠慮されているようですが、わしらにはこれしかないのです。おい、ネギを二、三本抜いてきたらどうだ。みそももう一皿持ってな」
妻は主人にいわれたとおり、ネギとみそを持ってきた。その親身なもてなしに、わたしは思わず涙があふれそうになった。わたしは食卓の前に座ったが、村はずれで警戒任務を遂行している隊員たちのことを思うとさじが取れなかった。
「ありがとうございます。わたしはあとでいただきますから、どうぞ先に召しあがってください。仲間を村はずれに残してきたのです」
「何人いるのですか」
主人の顔に心配そうな色が浮かんだ。かゆは一椀しか残ってないというのに、客が増えれば、困るほかないだろう。
「二人ですが、足が腫れて歩けないのです。ところで、この近くに宿屋があるというのは確かですか」
「あります。三キロほどになりましょうか。三キロですから一里も同じようなものですが、痛む足を引きずって一里もの道を歩くのは無理です。あすの朝行くことにして、おかゆでも一緒に召しあがって休んでください。外の方たちもお連れして」
わたしは主人に、地主の人となりを聞いてみた。主人は、地主がけちで性根の悪い男だといった。そして、村人には背を向けているが、警察や官吏とはだいぶ親密だとつけ加えた。数日前、朝鮮から親類を訪ねてきた青年が、なんの罪もなしに警察に連行され、半殺しの目にあって故郷に帰ったことがあるが、それも地主の告げ口のせいかも知れないともいった。
そうしているうちに、あたりが暗くなった。わたしは、今夜はこの村で泊まるから、警戒任務を勤めている隊員を山に送って、隊員をみな連れてこさせるよう、伝令に命じた。しばらくして、韓興権中隊長が部隊を引き連れて村にやってきた。
軍人が六、七十人もいっぺんに村に入ってきたのを見て仰天した地主は、隊員たちに「軍人さん、どうもご苦労さんです」とお世辞をふりまき、遊撃隊員を自分の家に請じたいといった。わたしは、あんな二枚づらをもって、時と場合によって別人のように行動するのでは、不便きわまりないのではないかと思ったほどだった。
なにも知らない韓興権はすっかり感心して、「隊長、あの地主は小汪清の張地主や図們の地主のように親切な人です」といった。張地主とは遊撃隊の援護に力をつくしているうちに、ソビエト政府の追放令で大肚川の方に移っていった人であり、図們の地主とは反日部隊が被服を手に入れることができず苦心していたとき、われわれの要求を入れて五百余着分の軍服用布地と綿、その他の物資を提供してくれた良心的な地主である。われわれはその布地で、小汪清地方の反日部隊全員に軍服をつくってやることができた。
図們の地主は親類に会いによく十里坪にやってきていた。それを知った同志たちが、義援金を出させようと彼を抑留した。わたしが敵中活動から帰ったのは、指導部が、そんなやり方ではいけないといって地主を釈放した直後のことだった。わたしは隊員に命じて、遊撃区の外へ逃げていく地主を連れもどし、反日部隊の被服事情を打ち明けた。地主は遊撃隊の要求に応じると約束して帰った。そして忠実に約束をはたしたのだった。
わたしはついさっきの出来事を韓興権に話した。
「あのずるいゼスチュアにだまされてはいけない。あれは通りすがりの旅人に戸も開けてやらない人でなしだ」
韓興権は、最初あきれた顔をしていたが、しまいには拳を握って憤慨した。
「けしからんやつではありませんか。そんなやつは許してはいけません。裁判を開いて銃殺してやりましょう」
わたしは息巻く韓興権を制した。
「それはいけない。あんな地主を一人射殺してなんになる。いたずらに世間を騒がすだけだ。…それよりは朝鮮人の良心を守るようきびしくさとすのだ」
「じゃ、地主を思いきりこらしめてやりましょう。あんなダニのような男をほうっておくわけにはいかないではありませんか」
「だが、土匪のように振舞ってはいけない」
わたしは彼が行きすぎたことをしでかしそうなので、釘をさした。
韓興権が地主の家に現れると、ずる賢い地主はへりくだって、隊長は誰かと尋ねた。隊長以下数人の指揮官だけを泊め、村に分宿する隊員のことはかまいたくないという下心からだった。不人情な男だけあって利にはさとかった。韓興権は自分が隊長だといって、さりげなく話しかけた。
「お宅は裕福なようですね。一、二か月厄介になっても困ることはないでしょう」
「いや、なに、二か月はなんだが、数日間なら大丈夫です」
地主は遊撃隊に二か月もいられてはたいへんだと思って青くなった。地主がなんといおうと、韓興権はしらばっくれて相手が胆をつぶすようなことばかりいった。
「わたしの部下は何か月も肉が食べられなかったのですが、お宅に豚が何頭ありますか。よそはどうか知れないが、お宅の倉には米が百俵はあるでしょうね」
「百俵だなんてとんでもない。ほかの家だってかゆをすすって、貧しいふりをしているが、米はみな持っていますよ」
「米があろうがなかろうが、とにかくお宅にひとつ振舞ってもらいましょう。あんたは財産家だから、それくらいのことでびくびくすることはないでしょう。あなたにも朝鮮人の良心があるなら、国の独立のために一肌脱ぐべきだ。あなたのような人の助けを借りずに、食糧が切れて困っている貧乏人の米びつをはたけというのかね。種籾がなくては農作ができんじゃないか」
地主は韓興権のおどしに恐れて、豚をつぶし米も出した。他の家に泊まった隊員も、そこの食糧には手をつけず、地主の家から米を持ってきて飯を炊いた。彼がわれわれを人間並みに扱っていたら、そんな目にはあわなかったであろう。
韓興権は地主を思いきりこらしめたあと、わたしの寝床にと、地主の家からござと布団を運んできた。元来彼はこんな喜劇をよく演ずる傑作な男だった。
その夜、われわれは麦がゆを勧めてくれた純朴な農民の家で、韓興権が地主の家から持ってきた米で夕飯を炊いて食べた。
主人は驚いて、「こんなことをして大丈夫でしょうか」といった。わたしは彼を安心させた。
「心配することはありません。あなたとはなんのかかわりもないのですから。あなたは釜を貸しただけではありませんか。あとで地主が言いがかりをつけたら、遊撃隊がやったことで、こちらの知ったことではないとつっぱねるのです」
「遊撃隊ならわたしらも安心です。遊撃隊のかただとはつゆ知らず、どうも」
主人夫婦はほんとうに、われわれをただの通りすがりの人だと思いこんでいた。ただ朝鮮人の淳朴な礼節から、かゆであれ、みそであれ、家にあるものを出して一緒に食べようと勧めたのであった。しかし地主はそんな礼節もわきまえていなかった。日本の巡査が戸口に現れたとしたら、座布団を出してこびへつらったであろう。
富者と貧者とはこんなにも違うのである。だが、富者だからといって人情や愛国心の持主がまったくいないのではない。張蔚華の父親張万程は大地主だったが、人望が高く愛国心の強い人だった。わたしが白後家(〔 〕)のような富者をりっぱな女性だと評価するのも、彼女が民族の啓蒙と発展のために金銭を惜しまない人徳の高い愛国者だったからである。それで後世の人たちも彼女を白善行と呼んだ。
しかし、大多数の富者はわたしが会ったその地主のようにりんしょくで薄情だった。米びつみちて人情が生まれるというのは、もちろん世の中の道理に合った言葉である。しかし、それも普遍性のある言葉とはいえない。わたしに麦がゆを勧めた農民は、米びつがみちていたからそのような人情をほどこしたのではない。ついでにいえば、その家の米びつは空っぽだった。ただ実る前に刈り取って搗いたばかりの麦が一袋部屋の隅に置いてあるだけだった。
財産が多くても人徳がなければ世間から遠ざけられる。粗末な家に住んでも人徳が高ければ、大勢の友人を持ち、人びとに尊敬される道徳的な富者になれる。人間の優劣を分ける尺度が道徳だとすれば、われわれを門前払いにした地主は、道徳的に人間以下の哀れな貧者だといえる。真の人情は広壮な屋敷ではなく、庶民の住む粗末な家にあった。
李鳳洙夫妻は以前、馬廠で活動していたとき、発疹チフスにかかったことがあった。夫人の安順和は夫が院長を務めている病院にいたのだが、飢え死にした子を埋めようとして外に這い出し、クヌギの葉をかけてやった。李鳳洙は自分も息子のあとを追ってすぐ死ぬだろうと予感して、同志が数日前持ってきてくれた新調の服を脱ぎ、つぎのような遺書を書いて、その上に置いた。
「この服はいくらも着ていないから、この遺書を見つけた同志は、わたしの代わりに着てください」
これがその地主とは対比すらできない革命家の人情の世界であった。
李鳳洙は奇跡的に助かって革命運動をつづけた。彼が残した「遺書」は、彼の人間性を物語る証拠文書として人びとを感動させた。これは共産主義者でなくては創造できない気高く熱い人情世界である。
図們の裏山から遊撃区に帰ったわたしは、隊員を集めてその村での出来事をありのままに話した。これが階級的本性というものだ、貧しい人はかゆなりとも一緒にすすろうというが、富める地主はかゆはおろか門前払いをする、悪者ではないか、そんな者をのさばらせないためにも搾取社会をなくさなければならない。この話はりっぱな階級的教育の資料になった。
それ以後、富める地主と貧しい農民の話は豆満江沿岸の農村に広がった。話を聞いた人たちは、ひとしく地主を人でなしだと非難し、農民を人情の厚い人だとたたえた。そして平服を着た隊員が村の近くに行くと、青年たちがやってきて、誰それの家は金持で、誰それの家には民会の牛があると知らせてくれた。
そのころ農村では民会の牛を飼った。民会の牛は日本の満州占領後、反動団体の民会が農民に分け与えた牛であった。しかしそれは農民の所有ではなく、成牛に育てて返さなければならなかった。これも労働力を搾取する一つの手段であった。民会の牛は角に刻印があった。
青年が民会の牛があるといったのは、つぶしてもかまわないということだった。遊撃隊員は村人が教えてくれたように、民会の牛だけを選んでつぶした。すると日本人は、この村は悪者の村だ、共産軍に民会の牛のある家がわかるはずはない、村人が教えたに違いないと騒ぎ立てた。
そんなとき農民は、「わしらは知りません。知るはずがないじゃありませんか。彼らには台帳があるのです。それを見て引いていくのだから、どうしようもありませんよ」と言い逃れをした。
わたしは長年の体験を通して、富者であればあるほど美徳に欠けた薄情者であることを骨身にしみてさとった。善と徳に背を向けた富は美徳を生む泉でなく、美徳を葬る陥穽であった。豆満江の岸辺のその地主が、わたしの胸に消しがたい刻印を刻みつけたのである。彼のせいで、わたしはその村からよくない印象を受けた。
そんな出来事があったあと、わたしは、ゆくゆく国が独立すれば、地主、資本家がわがもの顔に振舞う背倫背徳の古い社会を一掃し、万人が貧富の別なく一つの家庭のようにむつまじく暮らす、美しく健全な社会を建設しようという決意を新たにした。
われわれはいま、すべての勤労者を富者にするために力をつくしている。他人の血と汗を搾って暖衣飽食する富者ではなく、自分の労働で社会の富をたえず創造する誠実、勤勉で、物質的に豊かでありながらも人徳の高い、道徳的な富者をつくろうというのである。カネが万能の手段となっている資本主義社会をわれわれは容認することができない。万人がひとしく物質と道徳の富を享有する時代が到来するとき、人類を汚す社会悪は根絶されるであろう。
3 老爺嶺を越えて
敵中活動を終えて遊撃根拠地に帰ってきたわれわれは、すぐにまた背のうを背負って汪清を発たなければならなかった。北満州で活動中の周保中が、援助を求めてきたのである。
わたしは彼の要請を慎重に受けとめた。周保中は反日兵士委員会のころから、わたしと深い連携を保って、共同の目的のために戦ってきた親しい戦友である。羅子溝戦闘をきっかけに、われわれの友情はいっそう深くなった。彼はわたしより十歳も年上だった。わたしは彼の要請にこたえるのが神聖な国際主義的義務だと思い、北満州遠征の準備を急いだ。
一九三四年十月下旬、ぼたん雪が降りしきる日、汪清、琿春、延吉から選抜された三個中隊からなる百七十余人の北満州遠征隊は、対頭拉子を発って老爺嶺を越えはじめた。
自然の力は神秘というほかない。山脈を境にして国境が引かれたり、ときには省や県が分かれたりもする。山脈という障壁は、政治、経済、文化の格差をもたらす一つの要因ともなる。老爺嶺は東満州を北満州と南満州から分離し、北間島と東間島、東間島と西間島を分離する天険の障壁でもある。この障壁の南側と北側とでは、地勢も対照的である。屏風のような山岳が幾重にもつらなる南側に比べて、北側には朝鮮の湖南地方を思わせる一望千里の大平原がいくつも広がっている。老爺嶺以南の東満州地方の朝鮮人住民は大半が咸鏡北道出身であり、以北地方には慶尚南北道の出身が多かった。
意識水準から見ると、北満州人は東満州人に比べて後れており、革命にたいする熱意も東満州より高くなかった。いつだったか周保中は、北満州人民を政治的に啓蒙するのは東満州人民を啓発するよりはるかに難しいといったことがある。北満州の共産主義者にとって、それは活動上の大きな苦衷であった。彼らの苦衷を少しでも取り除くなら、東北革命の釣り合いの取れた発展のためにも有益であるはずだった。
わたしは東満州と国内はもちろん、南満州や北満州もゆくゆくは大部隊の活動舞台に変える計画であった。近接との共同・協力に最善をつくすのは、わたしが初期から一貫して主張してきた立場であった。わたしが李紅光、李東光と会うのを南満州進出の重要な目的とし、その実現に努めたのもそのためであった。北満州を支援するのは、とりもなおさずこの一帯で遊撃活動を進めている金策、崔庸健、許亨植、李学万、李啓東など朝鮮の共産主義者を助けることにもなる。
遠征隊は出発早々心が浮き立っていた。新しい土地はつねに、虹のように華麗な憧憬を呼び起こすものである。それに、遠征隊員のほとんどが好奇心のもっとも強い十八~二十前後の青年であった。隊伍を率いるわたしも、彼らに劣らず心がはずんでいた。
しかし、わたしは遠征隊が対頭拉子を発ったときから、しきりに足をとられるような不安に取りつかれた。それは遊撃区から遠ざかれば遠ざかるほど、ますますつのった。わたしは、東満州の遊撃根拠地が包囲攻撃の脅威から完全に抜け出していないときに、北満州に向かったのである。長期特別治安工作は、朝鮮人民革命軍の夏期攻勢で苦杯を喫した日本帝国主義者が、持久戦でぜがひでも囲攻企図を実現しようとして考案した討伐大綱であった。この大綱の要点は、一九三四年九月から一九三六年三月までの一年半を三つに分け、最初は比較的治安の安定した地域からはじめて、しだいに人民革命軍の最後の拠点へと掃討
を深めていくというものであった。占領地域を漸次拡大していく「歩歩占領」戦術に、討伐の絶対時間をのばす持久戦の戦術まで加わって、囲攻はそれこそ革命を窒息させかねなかった。
もちろん、そのとき、われわれが断行した北満州遠征が日本侵略軍の囲攻企図に大きな風穴をあけたのは確かであった。
敵の囲攻作戦に劣らず遊撃区の運命を脅かしたのは、間島全域で極左的におこなわれた反民生団闘争であった。この闘争は、東満州の党が設定した本来の課題とはうらはらに、指導部の一部野心家と出世主義者、民族排外主義者、分派事大主義者の不純な政治的目的に利用されて、革命隊列を内部から切り崩し、遊撃根拠地の存立を脅かす重大な結果を招いた。「粛反」の名のもとに、自己の偉業に忠実な革命家や愛国的大衆が敵味方の選別もなく連日大挙処刑され、遊撃根拠地内の軍民はほとんどが民生団の嫌疑をかけられていた。
ところがここで見逃せないのは、反民生団闘争の矛先が朝鮮人、それも党と軍隊、大衆団体の責任的地位にあった中核幹部と精鋭分子に向けられていたことである。「粛反」の銃口はつねに、大衆が信頼し、支持する前衛的活動家と闘士、積極分子を狙った。汪清県党書記李容国が民生団の罪名で処刑されたのもその一例である。民生団の容疑で投獄され、わたしの保証でかろうじて釈放された汪清大隊の大隊長梁成竜も、依然として監視を受けていた。間島地方の一部の野心家や策略家は、このように「粛反」の名で誠実な革命家に危害を加えた。民生団の嫌疑を受け処刑される運命にさらされていた県党軍事責任者金明均と一区党書記李雄傑は遊撃区から脱出した。
十月末になると、満州大陸ではすでに大雪が降り、烈風が吹き荒れる。北関の人たちはその風をシベリア風と言い習わしてきた。
部隊が対頭拉子を発った日も、老爺嶺では身を切るような寒風が吹きすさんで行軍路を阻んだ。老爺嶺は弓を引き絞ったような様相であったが、祖父の嶺という名は、それが高く険しい嶺だということを意味している。われわれは一日がかりで嶺を登った。李成林はいやに険しい嶺だとしきりにぼやいた。
嶺を越えるとき、高宝貝が特技を生かして戦友を励ました。童長栄が竜井監獄に入獄していたとき、わたしの指示で高宝貝が「スリ」をして留置場に入れられ、彼と連絡をつけたことは、先に触れた。彼は大きな市場のカネも洗いざらいかすめることができるほど機敏な手品師であった。その気になれば、百万長者のようにぜいたくに暮らせたであろう。その彼が深い山中の革命というるつぼに飛びこんだことは、不思議でもあれば、称賛に値することでもあった。
しかし、手品は彼の特技の一つにすぎなかった。それにまさる妙技が口真似と道化であった。口に手をあてるとどんな音でも出せたし、顔面を何度かひくひくさせると、目と口が一方にかたよるようなおどけた仕草もしてみせた。それには第二軍軍長王徳泰のような無愛想でとっつきにくい謹厳居士も、腹をかかえて笑ったものである。彼が片脚を曲げ、片脚で跳ね歩く様子を見ては、どうにも笑わずにいられなかった。麻袋をかついで物乞い歌をうたいながら歩く彼のほうけた風体には、敵もまんまと一杯くわされたものである。
彼はそうした特技と変装術を使って、しばしば町や村で敵情を探った。そんなことが重なって、彼には宝貝というニックネームがついた。宝のように貴重な人間だという意味である。戦友の中には彼を本名で呼ぶ者があまりなかった。わたしもニックネームで呼んだほどで、本名のほうはあまり知られていなかった。
彼の故郷については、咸鏡北道とも咸鏡南道、江原道ともいわれていたが、彼は自分がどこの生まれか知らなかった。故郷がどこかと聞かれると、ただ朝鮮のある海辺だと答えるだけであった。乳飲み子のころ満州に移り、幼いときに親に死に別れたので、わからないというのである。少年時代から労働で鍛えられた彼はなんでもよくできた。鍛冶仕事、家普請、理髪などとできないことがなかった。
高宝貝は一時、東満州と北満州を結ぶ連絡員の任務を遂行していたが、自分がどこでなにをしているかいっさい口外しなかった。誰かから「君は近ごろなにをしているんだ? 遊撃隊員か?」と聞かれるとそうだと答え、「巡視員か?」と尋ねられても、やはりそうだと答えた。そう答えるときも、冗談とも本気ともつかない顔つきで、あいまいに笑うのである。それは自分の職務を隠す彼独特の手口だった。
高宝貝がわたしを心から尊敬し慕ったように、わたしも彼を心から信頼し、愛した。
われわれが老爺嶺の頂に登りつめたとき、日本軍の複葉戦闘機二機が山の上を低空飛行して飛び去った。おそらくわれわれを追っていた討伐隊が本部に知らせたのであろう。
その日、雪は朝から晩まで降りつづいた。まれに見る大雪である。老爺嶺北側の稜線と谷間はすっかり雪に埋もれて、谷間の見分けがつかなくなっていた。かてて加えて、昼すぎから強い風が吹き出して、北満州地方になじみの薄いわれわれはもとより、このあたりの地形にくわしい高宝貝さえも、方角を失ってあわてた。われわれは八道河子から三十二キロばかり離れた地点で道に迷い、立ち往生することになったのである。降りしきる雪と酷寒の中で、隊員たちはわたしの顔を見守った。あれほど朗らかだった高宝貝も青くなり、大罪を犯した者のようにわたしの前に肩を落として立っていた。
「毎年、この嶺では道に迷った旅人が雪に埋もれて死んでいるのです。去年も反日部隊の兵士が七、八人この山中で行き倒れになりました。村へ引き返して一晩泊まり、吹雪が止むのを待って出直してはどうでしょうか」
彼は雪に埋もれた北側の谷間をいらだたしそうに眺めながら、用心深くいった。わたしは彼の提案を受け入れなかった。こういう場合の後退は百害あって一利なしだからである。
「いや、そうするわけにはいかない。つい最近まで君が足しげく通ったところではないか。恐れることはない。老爺嶺が哈爾巴嶺や牡丹嶺に姿を変えないかぎり、ここにあった道がどこかに消えてなくなるはずがない。わたしに羅針盤があるから、まっすぐ北に向かえばいい。心配することはない。勇気を出すのだ。北満州の同志たちが待っている」
わたしの言葉に力づけられた高宝貝は、口真似で自動車のエンジンの音を出しながら、先頭に立ち雪をかき分けて進んだ。それを聞いて遠征隊員は爆笑した。
われわれは翌日まで行軍をつづけて、やっと中国人の小さな集落を見つけた。遠征隊が村に入ると、待ち構えていたように隣村から日本軍討伐隊が襲ってきた。こうして北満州で最初の戦いがはじまった。
北満州地方の日本軍討伐隊や満州国軍は、それまで人民革命軍と交戦した経験がなかった。彼らが相手にしていたのは、概して遠くから日本軍を見ただけでも逃げ出す土匪や山林隊のような劣弱な武装集団であった。
弱い相手をちょっとした追撃戦でわけなく掃滅することに慣れていた日本軍討伐隊は、われわれを土匪か山林隊のたぐいだろうと思ったのか、意気揚々として攻め寄せてきた。われわれはいちはやく山に登って討伐隊を迎え撃ち、一個小隊を迂回させて敵を挟撃した。勝手の違う猛烈な反撃に日本軍は狼狽し、多数の死傷者を出して敗走した。
この戦いのうわさが彼らの口を通して北満州地方に広まった。人びとは、東満州から「老高麗」部隊が移動してきたが、じつに勇猛な部隊だ、いったい誰の指揮する部隊だろうか、東寧県城を襲撃した
遠征隊は戦いに勝ったが、村人たちは避難してしまったので、食事もとれない孤立無援の状態に陥った。とにかく周保中部隊を探し出すまで村落に何日か滞留することにしたが、そのためには敵情を知らなければならなかった。情報網もなく知人もいないので、つぎの段階の活動に移ることができなかった。寧安遊撃隊の行方は高宝貝も知らなかった。
われわれは村で宿営するわけにいかず、名の知れない谷間で一夜をすごした。翌日、高宝貝と呉大成が偵察に出かけて周保中のいる山小屋を見つけた。わたしはその山小屋で、二、三十人の隊員に守られて治療を受けている周保中に会った。羅子溝戦闘のとき、迫撃砲弾で受けた傷がひどく化膿して、数か月がすぎたそのときもまだ治っていなかったのである。
杖をついた周保中は、隊員に支えられて、山小屋からかなり離れたところまでわれわれを迎えに来た。
「ごらんのように、わたしはまだこんな有様だよ」
彼は杖を持ち上げてみせ苦笑した。そしてわたしの手を力一杯握った。
「また会えてこんなうれしいことはない。よろしく頼む」
短い挨拶だったが、彼の声と目の光からは切々たる期待が読みとれた。
わたしと周保中との対面は、抗日武装闘争史に新たなぺージを飾る出来事であった。この対面を起点にして、朝鮮人民革命軍は中国人共産主義者の率いる遊撃部隊との全面的な共同闘争に踏み出した。
われわれが中国共産主義者の指導する武装隊との合作を重視したように、満州地方の中国共産主義者も朝鮮の共産主義者が率いる武装部隊との連合戦線を実現するためにいろいろと努力していた。九・一八事変後、蒋介石の無抵抗主義に反旗をひるがえして、反日部隊、救国軍、紅槍会、大刀会などの名称をもったさまざまな抗日義勇軍部隊が各地で組織され、日本の侵略に抵抗したとき、朝中両国の共産主義者はともに、それらとの統一戦線に大きな意義を認め、その実現のためになみなみならぬ力を傾けていた。それがどれだけ実り多い結実をもたらしたかということは、ここでくりかえし述べるまでもないであろう。
一九三四年以降、抗日義勇軍の活動はしだいに衰えていた。日本軍の攻勢が強まると、かなりの抗日義勇軍指揮官は部隊を引き連れて中国関内に移り、一部は投降したり匪賊になりさがった。一部の勢力は史忠恒のように、民族主義思想から共産主義思想に指導理念を変える方向転換の大路に踏み切った。敵はこうした反日部隊を「政治匪」と呼んだ。
そのような状況で、満州地方の抗日武装闘争は、朝鮮共産主義者が組織指導する反日人民遊撃隊と中国共産主義者の影響下にあるさまざまな反日部隊を連合して、一つの整然とした体系をととのえた軍を編制する方向に発展した。
周保中は寧安反日遊撃隊の誕生過程が平坦でなかったと、その経過をくわしく説明した。寧安反日遊撃隊は、彼が羅子溝を発ったときに率いてきた二十人ほどの反日兵士をもとにして組織された。
吉東局が解散し、綏寧中心県委員会が組織されると、軍事部の責任をになった周保中は、その二十人を母体にしてただちに武装隊伍の拡大に着手した。隊伍はやがて五十余人になった。朝鮮人遊撃隊が周保中の部隊に編入されたのである。ついで数回にわたる交渉の末に、二道河子地方に根拠地を置いている平南洋部隊との統合に成功した。周保中は平南洋を統合部隊の隊長に推し、自分は軍事責任者になった。
平南洋は本名を李荊璞といった。彼が平南洋と呼ばれるようになったのには、つぎのようなわけがあった。平南洋とは南方を平定するという意味である。当時、日本の侵略軍兵力は寧安県の南方地帯に集中配備されていた。李荊璞はそれら日本侵略軍との決戦を使命にして戦った。こうして李荊璞の武装部隊に平南洋部隊という名称がつけられ、指揮官の李荊璞もやがて平南洋と呼ばれるようになったのである。
このエピソードによっても、平南洋が愛国衷情に燃える豪勇男児であることがわかる。彼は反日感情が強く、勇敢ではあったが、規律を守らない部下にてこずっていた。それは、この部隊の統率者であり、実権者である周保中にとっても頭痛の種であった。
周保中はわたしに、自分に代わって平南洋への働きかけをしてほしいというのである。
「平南洋は英雄心の強い人だが、金司令には好感をいだいている。自分の命を救ってくれた恩人が朝鮮の共産主義者だったからね」
信頼してくれるのはありがたいが肩の荷が重くなるというと、周保中は笑って、「わたしは于司令と呉司令を説き伏せた金司令の卓越した感化力を頼りにしている」といった。
周保中は、反日部隊との関係問題でも悩んでいた。寧安県一帯には大小の反日部隊がかなりあったが、少なからぬ部隊が共産主義者を敵視していた。それは寧安反日遊撃隊の活動で至急に取り除かなければならない大きな障害であった。
東京城西方の北湖頭を中心に出没する大平、四季好、占中華、仁義侠などはいずれも、一時、平南洋と提携していたが、のちに決別した反日部隊であった。それらは共産主義者に敵意をいだいていたうえ、靖安軍が帰順を勧めながら離間策を弄していたので、去就ははかりがたかった。
東京城の西北方で匪賊行為を働いている双山、中洋などの反日部隊も、やはり靖安軍の脅威を受けており、寧安東方の唐道溝一帯の群小反日部隊のうちもっとも勢力の大きい姜愛民部隊も、日本軍第一三旅団の討伐に痛めつけられてからは、動揺していた。姜愛民の部隊は、第一三旅団の執ような攻撃にたまりかねて東満州に追われてきたことがあった。そのとき彼らは食糧を略奪してまわり、帰順申請までしたが、われわれの同志がかろうじて制止したのであった。
周保中の話では、馬廠付近の柴世栄部隊の活動も鈍っているという。周保中は、寧安でも汪清の関部隊事件(〔 〕)に似た占中華事件が発生し、そのあおりで部隊の公然活動が困難になったと嘆いた。
占中華事件は周保中が平南洋との統合を実現する前に起きた不祥事であった。平南洋の部隊が内紛による陣痛をへていたとき、反乱者が平南洋をはじめ反対派に酒を飲ませて武装を解除し逃亡した。平南洋もモーゼル拳銃を奪われてしまった。彼は丸腰の部隊を再建するため、腹心の部下とともに、帰順をはかっていた南湖頭付近の占中華部隊を襲って武装を解除し、その銃で部下を武装させた。この事件があったあと、北満州の反日部隊は平南洋の名と結びついている寧安遊撃隊を敵と宣告した。
結局、周保中の要請は、部隊の活動を公然化するには反日部隊との関係を改善しなければならないが、わたしに仲介の労をとってほしいというものであった。
周保中の最大の心配事は、寧安地方の革命運動の実態であった。彼は、その一帯で革命の飛躍が見られないのは、自分の無能、失策のためであるかのように思い悩んでいたのである。
「東満州の人たちにとって、寧安は革命の風がほとんど吹かない無風地帯のようなものだ。大衆の気勢がどうしてこうも低調なのか、わけがわからん。革命に決起せよといくら呼びかけても人民は応じないのだ。この地方の農民の動向がどんなものか知っているかね。地主にいじめられても生きるすべはあるというのだ。山中に入れば土地はいくらでもある、それを開墾すれば生計を立てていけるのに、なにも好き好んで血を流し、苦労して革命をする必要はない、というのだ。国民の観点から見れば、土地の広いのはうれしいことに違いないが、当面はそれが階級意識を鈍らせる障害となっているのだから、われわれとしては、北満州に土地が多いことを誇りにしてよいのか、嘆いてよいのかわからない有様だ」
周保中がこんなことをいったので、わたしは吹き出してしまった。
「ハッハッハ。土地が広いのは、四億の中華民族のために幸いなことではないか」
周保中も顔のしわをのばして、愉快そうに笑った。
「そうだな。広大な領土と肥沃な土地は万民福祉の源だ。そうしてみると、わたしはつまらぬ心配をしているようだ。金同志、いまいったことがわたしの苦衷だ。よろしく頼む。寧安で革命運動を高揚させる方途を見つければ枕を高くして寝られるのだが、いまのところ無為無策の状態なのだ」
周保中はわたしと北満州で会ったとき、およそこんなことをいった。
わたしは彼の苦衷を十分に察した。彼は能力があり、学識もあった。しかし、北満州革命がかかえている難問にてらしてみるとき、彼の体はあまりにも衰弱していた。彼はひどく化膿した銃創に痛めつけられて能力を十分に発揮できずにいた。それに彼のまわりには水準の高い中核が多くなかった。
わたしは八道河子の山小屋で、数日間、周保中と北満州革命を発展させる方途を模索した。そして北満州革命がかかえている難題を解決する突破口を、人民の中に入ることに求めた。人民を覚醒させ動かすことによってのみ、北満州革命を沈滞状態から引き上げることが可能であった。そのためには、人民の中で政治工作を進め、同時に遊撃隊の軍事活動を強化する必要があった。武装隊伍は戦闘の過程で大きくなり、革命も闘争の中でこそ発展するのである。戦わずに腕をこまぬいていては、なにもできない。それに軍事活動を強化しないでは、反日部隊との関係を敵対関係から同盟関係に転換させ、占中華事件で失墜した平南洋のイメージを改善することも望めない。
われわれは、これらの問題で見解が一致したことを確認した。そのとき、周保中の山小屋にはコミンテルン満州特派員の呉平も来ていた。彼は上海から持ってきた抗日救国六大綱領という文書を見せてくれた。六項目のこの文書の原名は、『対日作戦にかんする中国人民の基本綱領』であった。中華民族武装自衛委員会準備会議の名義で発表されたもので、宋慶齢、章乃器、河香凝、馬相伯など名士の署名があった。署名者は自動的に中華民族武装自衛委員会のメンバーになるのだが、それはすでに数千人に達しているという。
抗日救国六大綱領は、日本帝国主義者が公然と中国の保護者を自称して華北の武力占領を企み、蒋介石が第五次共産軍討伐作戦の砲門を開いた状況のもとで、中国共産党の反帝統一戦線政策を反映したものであった。中国革命でも共産主義者の志向は、民族勢力を最大限に結集し動員することに向けられていた。わたしは抗日救国六大綱領が時宜にかなった文書であると思った。
われわれは十日ほど、呉平と諸般の問題について論じ合った。
わたしはそれを通して、中国の共産主義者が毛沢東の戦略思想にもとづいて蒋介石の包囲を突破し、北上抗日の旗のもとに二万五千里の大長征を開始したことを知った。中国革命が第一次国内革命の失敗による退却から部分的な進攻に移行して成果を拡大していることは、わたしを大いに力づけた。
中国の共産主義者によってもたらされた北上抗日の激流とともに、中国本土で活発に展開されている抗日救国運動は、東満州をはじめ満州地方で進められている朝中両国共産主義者の革命闘争に有利な条件をつくりだす可能性があった。
周保中は共同活動をはかって、われわれに一個小隊ほどの兵力を割いてくれた。遠征隊はその一個小隊を加えて八道河子の山小屋をあとにした。
数日後、鏡泊湖畔の石頭河で、朝中共産主義者の兄弟的友誼とプロレタリア国際主義の威力を示威する共同闘争の最初の銃声がとどろいた。革命軍が出撃したという情報を入手して北湖頭を出発した二百余の日本軍討伐隊は、鏡泊湖上でわが方の機銃掃射を受けて大敗した。
ついで、われわれは房身溝付近で日本軍に痛撃を与えた。北満州の広漠とした大自然の中で連戦連勝を記録し、おごりたかぶっていた無敵皇軍の神話についにひびが入り、かげりがさしはじめた。これは、東満州遊撃区にたいする日本軍の囲攻作戦にも穴をあけた。
寧安地方の人たちはまたまた「老高麗」のうわさを広め、快哉を叫んだ。うわさを聞いて、真っ先に駆けつけて来たのが、寧安反日遊撃隊の隊長平南洋であった。われわれが南湖頭地方で、のちにわが汪清部隊を物心両面から支援してくれたその地区の党組織の中核党員たちと会い、ついで西青溝子方面に向かって行軍していたとき、平南洋が周保中の伝令をともなって、だしぬけにわたしの前に現れたのである。彼は自己紹介もせずに、「ご苦労さん」「ご苦労さん」といってしきりに嘆声をもらした。
わたしは隊伍に休止命令を下し、彼とざっくばらんに語り合った。
「いま、北満州全土に
平南洋は両手でわたしの手を取り、親しみのこもったまなざしで見つめた。
「いま、わたしの部下は東京城の北方にいますが、靖安軍にひどくやられたという報告を受けました。日本軍や靖安軍と遭遇すると、きまってひどい目に合わされるのだから、口惜しくてなりません」
「では、ひとつ靖安軍とぶつかってみましょうか」
「金司令の部隊と一緒なら… 一緒に戦えば胆もすわり、学ぶことも多いでしょう」
わたしは平南洋の希望どおり、彼の四十人ほどの隊員を遠征部隊に合流させ、その代わり、周保中がわたしにつけてくれた一個小隊は平南洋を案内してきた伝令と一緒に八道河子の山小屋へ送り返した。一方、敵の討伐による東満州の緊迫した情勢を考慮して、延吉中隊の隊員を間島に帰した。平南洋をわたしのもとへ送るとき、周保中は東満州から来た連絡員を一緒によこしたのだが、彼から間島の情勢を聞いたのである。
わたしは北湖頭付近を通りすぎるとき、全隊に単数の足跡を残して行軍するよう命令した。
敵の集結地点の近くを通過するだけに、足跡を消さなければならなかった。単数の足跡を残すというのは、十人、百人、千人が行軍しても一人が歩いたように見せかけるために、先頭の足跡を踏んで行軍する方法である。
わたしが各中隊にそうした行軍法ばかりでなく、足跡を消す法、分散行軍法、村で宿営する法などを一つ一つ会得させているのを見て、平南洋は朝鮮人民革命軍は遊撃戦に完全に精通しているといった。
われわれは新安鎮付近で、平南洋部隊とともに竹内中佐の指揮する二個大隊の靖安軍を撃滅し、ついで中洋という反日部隊と共同して大海浪河畔で他の靖安軍部隊を痛撃し、八道河子谷の老伝家では、靖安軍の騎兵中隊と歩兵第六中隊を撃破した。
士気を落としていた反日部隊が力を得てぞくぞくと遠征隊に合流したのは、そうした戦果のたまものであった。
八道河子の山小屋にもどって周保中とつかのまの対面をしたわれわれは、十二月下旬、大平、四季好、占中華、仁義侠など反日部隊の要請をいれて、再び牡丹江を渡り、新安鎮付近で靖安軍を討ち、満州国警察署を襲撃した。これらの戦闘は平南洋から離脱した反日部隊を寧安遊撃隊に引きもどす目的でおこなったものであった。積極的で主動的な軍事活動に参加して敵を連続打撃する過程で、寧安遊撃隊は反日部隊や地方の入隊希望者を迎え入れて、隊伍をたえず拡大した。
「金司令、もうこわいものはない。日本軍にも靖安軍にも勝てる自信がついた。金司令にどう恩返しをしてよいものか…」
新安鎮付近で靖安軍と戦った日、平南洋はわたしの手を取って自信たっぷりにいった。
「恩返しはどうでもいいが、そのつもりならば大いに敵を撃滅してほしい。軍隊は戦いのなかで鍛えられるものだから」
わたしは彼の手を握り返し、熱をこめて励ました。
わたしは遠征中に柴世栄、姜愛民とも会って、反日連合戦線問題を討議した。日本軍第一三旅団の攻撃にあって、壊滅状態に陥っていた姜愛民は、わたしに会おうと東満州へ行き、われわれが北満州で活動していると聞いて、あとを追ってきたのであった。敗戦を重ねた部隊の指揮官とは思えないほど、彼は明るく血気さかんであった。
「金隊長部隊に応援を求めようと汪清に行ったところ、方振声という人が、自分たちも苦しいので、とても他人を支援するゆとりがないといって困った顔をしていました。金隊長、ひとつ、われわれに力を貸してください」
姜愛民は大部隊の指揮官という体面にこだわらず、苦衷を率直に打ち明けた。方振声はわれわれが北満州に来たあとで、われわれの部隊の連隊長に赴任した中国人指揮官であった。
われわれは平南洋部隊や群小反日部隊との共同作戦を通して多くのことを体得した。遠征隊が使命とした軍事的・政治的目的はかなりスムーズに達成されていった。
のちに、遠征を終えて間島にもどったわたしは、北満州で周保中が寧安反日遊撃隊を根幹にして東北人民革命軍第五軍を編制したという朗報に接した。わが遠征隊とともに北満州の厳寒の中で戦闘的友誼を深めた大多数の反日部隊が第五軍麾下に入った。第五軍の幹部の中には、北満州遠征のさいに知り合った人が少なくなかった。平南洋は第一師第一連隊長から師長に昇進し、柴世栄は第二師師長から副軍長になった。姜愛民は第二師で第五連隊を指揮した。それらの部隊には、われわれとともに血路を開いてきた朝鮮の共産主義者も少なくなかった。わたしは第五軍が組織されたと聞いて、老爺嶺の彼方から寧安の地をしのんで周保中を祝福した。
われわれの第一次北満州遠征は、羅子溝戦闘とともに敵の囲攻作戦を破綻させる発端となり、原動力となった。われわれの攻勢によって、寧安駐屯日本軍第一三旅団の主力と靖安軍部隊は壊滅状態に陥った。
われわれは北満州で多くの血を流した。なによりも胸の痛む犠牲は、延吉中隊政治指導員と少年伝令兵李成林の戦死であった。李成林は汪清でのわたしの最初の伝令であった。日本軍の討伐で両親を失い、孤児となった彼をわたしが引き取って育てた。新しい服を着せ、読み書きを教えると、すっかりあかぬけのした少年になった。彼はいつもわたしの首にだきついて眠ったものである。梁成竜はそれを見かねて、子どもでもないのにあんな甘ったれようでは行く末が思いやられる、児童団学校に送ってしまおうといった。李成林は行きたくないと泣きべそをかいた。李成林が梁成竜の機嫌を損ねたのは、李成林がわたしからもらった小型拳銃を見せびらかそうと、児童団学校に足しげく出入りしはじめたときからであった。ある日、李成林はわれわれが指揮部で会議をしていたすきに、こっそり児童団学校へ行って、校庭で遊んでいたはなたれ小僧たちを柳の土手に連れ出した。拳銃を自慢したいからだった。拳銃を分解したり組み立てたりしているうちに休み時間がすぎてしまった。そのとき教室に入った教師は驚いて非常呼集をかけた。拳銃の見物に出払って、教室には誰一人残っていなかったのである。
事件の一部始終を聞いた梁成竜は、あんな伝令を連れていたのでは、なにをしでかすか知れたものでない、伝令を替えよう、とわたしに勧めた。しかし、わたしはそれを聞き入れなかった。
李成林はわたしにしたがって、穏城や鐘城に行き、図們の裏山でも長いあいだ一緒にすごした。彼は死を恐れない、がむしゃらなほど勇敢な伝令だった。
李成林が戦死したのは、確か団山子付近で戦ったときのことであった。そのとき、われわれは日本軍と靖安軍から猛烈な挟撃を受けていた。彼はわたしの命令を伝えるために平南洋部隊に走っていく途中、不意に敵と遭遇した。戦死した彼の拳銃をあらためてみると、弾丸が一発も残っていなかった。そして、五、六人の敵兵の死体があたりに転がっていた。彼の血の代価は十分支払われたのである。
わたしが李成林を抱いて激しく泣いたせいか、平南洋まで声をあげて泣いた。
敵を撃破し、勝利をおさめた戦場で、李成林の死体を発見したとき、わたしのまぶたに真っ先に浮かんだのは、彼が足しげく出入りした汪清児童団学校だった。そこには彼の幼友達、意気投合して遊びまわった友達が多かった。この成林を北満州に葬って、汪清児童団員にどう顔向けできようかと思うと、われ知らず涙がこみあげてきた。
戦友たちが凍てついた土を掘って、死体を埋葬しようとしたとき、いまにも彼が生き返ってわたしの胸に抱きついてきそうな気がして、一瞬、土をかけるなと止めた。冷たい土の中に幼い少年を埋めて発つのだと思うと、とても足を踏み出すことができなかった。
なんとも険しい嶺だとぐちをこぼしながら老爺嶺を越えた李成林は、きょうも戦友たちとともに満州の広野に響く新しい生活の歌を聞きながら、その嶺のふもとに静かに眠っているのである。
4 寧安に響いたハーモニカの音
人民のために戦う軍隊が、人民から白眼視されるほど惨めなことはないであろう。老爺嶺を越えた遠征隊が最初からそんなめにあったといえば、読者は首をかしげてこう尋ねるであろう。真の道義の創造者であり擁護者であり代表者である人民が、人民の利益を守る革命軍隊にそっぽを向き、冷遇するようなことがあるのかと。
わたしはそんな事実があったことを認めてその常識をくつがえすほかない。
寧安が肥沃な穀倉地帯であることは周知のとおりである。しかし遠征隊が老爺嶺を越え北満州に入ったとき、寧安の人たちはわれわれに飯を炊いてくれようとさえしなかった。貧しいのなら理解もできるが、誤解と不信にとらわれ、まるで相手にしてくれないのだから、人民の支持と歓待に慣れてきたわれわれは呆然とせざるをえなかった。かんじきを履き脚絆をつけた遠征隊員が遠くに現れると、住民たちは、「高麗紅軍」が来たといって、表にいる女子どもを家に呼び入れ、門を閉ざすといった有様である。それからひそかにわれわれの動静を探るのだった。そうした不愉快な光景は、われわれの自尊心をひどく傷つけた。
われわれはしばらくのあいだ、露天で飯を炊いて食べたり、眠ったりしなければならなかった。間島ではついぞ体験したことのないことである。われわれが戦いに勝利して帰ってくると、東満州の人たちは群れをなして駆けより、太鼓やどらを打ち鳴らし、拍手喝采をして花束を贈ってくれた。湯や初物の蒸しト
ウモロコシを勧める人もいた。いつだったか、馬村では松葉のアーチを立てて軍人を祝ってくれたこともある。ところが、寧安の人たちはわれわれに背を向けた。偵察を派遣したり地下組織に依頼したりしたが、土地の住民の声を聞くことができなかった。これは東満州で周保中や、たびたび北満州へ往来していた高宝貝から聞いて予想はしていたが、それにしてもあまりにも冷淡な応対であった。
寧安県に沃糧河という村があった。地味が肥え穀物が豊かに実るということでつけられた地名であるが、ここでも村人たちは食事の接待はおろか、目もくれようとしない。政治工作をしようにも村人たちが集まらないので、時局講演会を開くことさえできなかった。李成林は老爺嶺が険しいとこぼしたものだが、それは老爺嶺よりも険しい障壁といえた。
もともと寧安の住民は非情だと決めつける隊員もいたが、わたしはそう思わなかった。土地が変われば民心にも多少の違いがあるのは確かだが、客をねんごろにもてなし便宜をはかる中国人や朝鮮人の良俗美風がこの地方だからといって、損なわれているはずはないのである。だとすれば、遠征隊を驚かせた彼らの非礼をどう説明すべきだろうか。
史書によれば寧安は、一時、渤海の国都であった。この由緒深い古都に、十万の住民が住んでいたときもあったという。だから、寧安はかなり古くから開拓された土地だといえる。土地が肥沃で、人民は勤勉、素朴誠実で信義が厚く、正義と掟(おきて)を重んずるというのが、歴史に記録されたこの地方の風土である。渤海の国都が移され、住民が四散したあと、数世紀のあいだ人口の増減過程がたえずくりかえされ、数十代の世代が交替したが、寧安の人たちの良俗美風は色あせたり、汚れずに代をついで受け継がれた。彼らがもとから冷淡で薄情だというのはあたっていない。
寧安地方はもともと共産主義運動に適さない、というばかげた主張をする隊員もいた。彼らがあげた第一の論拠は、寧安の人たちの意識水準が低くて共産主義を受け入れないというものであり、第二の論拠は、寧安県に土地が多い反面、農民人口が相対的に少ないので、社会階級関係における敵対的矛盾が生ぜず、したがって階級闘争が起こらないというものであった。
こうした虚無主義的な主張は、その場で論駁された。世界に共産主義の適地、不適地があるとでもいうのか、共産主義が浸透できない土地があるとすれば、そんな共産主義がどうして全世界をかちとれるというのか、「万国の労働者団結せよ!」という『共産党宣言』の思想がどうして実現できるというのか、住民が少なく、土地が広いために敵対的矛盾が生じないという見解も、現実を知らない皮相的な判断にもとづいている、その理論からすれば、人口密度の高いドイツの方が低いロシアよりも階級的矛盾が激しく、革命も先に勝利しなければならないはずではないか、それは詭弁にすぎない、と一蹴されてしまった。
寧安の人たちが共産主義を理解できず、共産主義者を敵視するようになったのはまず、手段と方法を選ばずにあくどく反共意識を鼓吹した日本帝国主義者のせいである。寧安で共産主義運動が活発になると、日本帝国主義者は、共産主義者と人民を引き離そうと、早くから卑劣な反共宣伝をくりかえした。政治的・思想的啓蒙が比較的後れていた寧安で、その宣伝は住民のあいだに容易に浸透していった。
寧安一帯における反共風潮の責任は、派閥争いに終始した朝鮮の初期共産主義者にもあった。朝鮮で共産党が創立されたあとの一九二〇年代中期、早くも火曜派系の人物はこの地方に朝鮮共産党満州総局というものものしい機関を設立し、共産主義という神聖な名を売りものにして派閥勢力の拡大に没頭した。そして純朴で善良な民衆に向けて、朝鮮の独立と社会主義の即時実現を叫び、彼らを無謀な暴動とデモに駆り立てた。極左分子は寧安人民に五・三〇暴動に決起せよと呼びかけた。暴動の主な闘争対象は、間島では日本の植民地支配機関と中国人地主であったが、寧安では韓族総連合会のような民族運動団体であった。しかし、県城ではじまったデモは、そのスタートから手痛い打撃を受けた。
共産主義者が決行した一九三二年五月一日のデモも、結局、敵の前に中核分子を露呈させ、寧安の市街を鮮血で染めるという痛ましい結果を招いた。これらの向こうみずなデモのために、寧安地方の革命組織は軒並みに破壊された。メーデーデモをきっかけに、寧安地方の共産主義運動は急速に凋落しはじめた。党指導部は武力建設と遊撃区建設を中断し、穆棱、東寧、汪清などに分散していった。革命を放棄した一部の人は寧安県城に移っていった。
日本帝国主義者と満州軍警の無差別的な白色テロは、人びとの面前で共産主義のイメージを無残に踏みにじった。闘争のあげく監獄に入るか、死ぬほかなかった人びとは絶望し、戦慄した。革命の終着駅は死であるという考え、共産主義運動をしたところで得るものがないという虚無主義的な認識が、多くの人の頭にこびりついた。
朝鮮の共産主義者が大衆の中に深く根をおろすことができず、不毛の地であると宣告して立ち去った寧安に、中国の共産主義者が入って再建活動をはじめたが、彼らも革命一般にたいする大衆の冷たい反応に驚かざるをえなかった。朝鮮の一部の民族主義者も寧安地方に反共の毒素を振りまいた当事者だといえる。庚申年(一九二〇年)の大討伐に恐れをなしてロシアに亡命し、黒河事変(〔 〕)後、寧安にもどった独立軍の残存勢力は、反ソ・反共宣伝に熱をあげた。彼らは黒河惨事がソ連と結託した朝鮮の亡命共産主義者によって発生したと宣伝し、共産主義とソ連を中傷した。民族主義者は、はなはだしくは、金佐鎮の死も共産主義者の仕業だといいふらした。それは金佐鎮殺害事件の真相を歪曲したものであったが、純真な民衆はそれを真に受けた。
寧安地方の住民は、共産主義ばかりでなく、軍隊も遠ざけた。彼らは所属と使命にはかかわりなく、軍隊といえば頭から嫌悪した。すべての軍隊が米びつと財布をはたかせる食客として、住民に君臨したからである。日本軍と満州国軍はいうまでもなく、抗日救国を標榜する一部の中国人反日部隊も、人民から金と米と家畜をまきあげた。朝鮮の民族主義者も寧安に新民府という行政機構を設け、軍資金と軍糧米を徴集した。そのうえ、土匪まで出没し、人質を捕えては住民を苦しめた。こうした食客の世話をやかなければならない人民の胸中はいかばかりであったろう。
そうした歴史的根源を考えるとき、寧安の人民を非情だと責めるわけにいかなかった。遠征隊が物質的な支援を受けられないのは我慢できた。最大の苦衷は、北満州人民の中に革命の種を植えつけようという重要な遠征目的が達成できなくなったことである。人民がわれわれに心を許さないとすれば、遠征隊が北満州を革命化することはまったく不可能になる。
寧安の人たちを革命運動に呼び起こすには、どうしても突破口を開けなければならなかった。
われわれは、八道河子区党委員会の活動状況を調べる過程で、区党書記金百竜から寧安県の実態をくわしく聞くことができた。それによると、それでも寧安でもっとも革命化が進んでいるのは八道河子だという。
八道河子を一名笑来地盤といった。そこには寧安県党委員会があり、区党委員会もあった。八道河子が笑来地盤と呼ばれていたのは、和竜県一帯で大倧教の教主をしていた金笑来の名に由来している。わたしが彼のことをはじめて聞いたのは、吉林毓文中学校時代で、話してくれたのは徐重錫だった。彼は一時、金笑来が設立した和竜の建元学校で教鞭をとったことがあるという。金笑来は同校の設立者であり校長でもあったが、徐一と深いつながりがあり、北路軍政署と間島国民会の上層人物とも親交があった。反日感情の強い彼は、建元学校の卒業生を洪範図、金佐鎮など独立軍猛将のもとへ送って救国運動を後援した。金笑来は独立軍が北間島から撤収したあと、八道河子の谷間に移り、そこで土地を買って地主になり金佐鎮独立軍に軍資金を提供した。李光も遊撃隊の創設期に彼から何挺かの武器を入手している。
金笑来が大倧教の教主だというので、寧安地方の革命家はひところ彼を快く思わなかった。歴史に暗い人たちの中には、彼の宗教を日本の宗教だと誤解する人もいた。大倧教とは朝鮮の建国神話にある桓因、桓雄、桓倹の霊を拝む純粋な朝鮮の宗教である。
金百竜は、八道河子の谷間の長さは少なくとも三、四十キロになり、そこには多くの散在村落があるが、住民構成で朝鮮人の占める割合が少なくないといった。一時、独立軍の兵站基地として栄えた八道河子は、一九三〇年代に入ると、寧安遊撃隊の活動拠点になった。
わたしは敵情や住民の動向を知るために、一縷の望みをもって金百竜が紹介した八道河子の一村落に政治工作グループを派遣した。そこには名うてのアジテーターたちが加わっていた。
ところが、彼らを引率して住民の中に入った第五中隊政治指導員の王大興は、疲れきった表情をして、わたしの前に現れた。
「また失敗です。なんと話しかけても、耳を貸そうとしないのです。寧安の人たちを相手にするくらいなら、牛の耳に『四書三経』を読んで聞かせるほうがましでしょう」
こういって、彼は絶望したように首を振った。
そばでそんな報告を聞いていた金百竜は、寧安の人たちが東満州の客を冷遇するのが自分のせいでもあるかのように、大きく溜息をついた。
「いずれにしても、寧安の人たちは困ったものです。東満州の経験に学ぼうと、参観団を送ったりして骨をおったのですが、さっぱり効き目がないのです。参観団が帰ってきてやっと児童団学校を設けたのですが、はじめのうちは五十人ほどの子どもが集まってにぎやかだったのに、それも尻切れとんぼになってしまいました」
人民が人民の利益を擁護し代弁する革命家に顔をそむけるとすれば、そんな人民をどう理解すべきか。はじめてこうした絶壁にぶつかったわたしは心が重かった。富爾河と五家子の革命化過程が複雑だったとはいえ、その地方の住民も寧安の人たちほどには冷淡でなかった。
数千年の悠久な朝鮮民族史において、人民が悪かったということは一度もなかった。わたしは、一度として人民をよい人民と悪い人民に分けてみたことがない。歴史に汚点を残したり、その歴史を愚弄したりしたのは一握りの支配層であって、人民ではなかった。もちろん、個別的な人間の中には逆賊、守銭奴、詐欺漢、ペテン師、野心家、背徳者などがいた。しかし、それは米の中の籾ともいえる少数にすぎない。
世界の全体を代表しているともいえる人民という巨大な集団は、つねに歴史の車輪を先頭に立って誠実にまわしてきたのである。その歴史上、彼らは必要とあれば亀甲船(〔 〕)をつくり、ピラミッドを築いた。時代が血を要すれば、人民は死を恐れず肉弾となり、敵の銃眼めがけて突進した。
問題は、寧安の人たちの心をとらえる近道が発見できないことにあった。王大興が引率した政治工作グループも、感動的な反日宣伝をしたことであろう。しかし寧安の人たちにそんな演説が耳新しかっただろうか。おそらく耳にたこができるほど聞かされていたに違いない。独立軍も救国軍も匪賊もそんな演説をぶっているのだ。だから王大興の政治工作が成功するはずがなかった。
誤りは、彼らが頭から人民を教えようとしたところにある。いつからわれわれは自分を人民の教師だと思いこみ、人民を弟子だと思うようになったのだろうか。人民を無知から光明に導くのが共産主義者の使命であるのは確かだが、われわれが自分を人民の教師だと自任するのはあまりにも思いあがったことではないか。
人民の心の奥深く入りこむ道はいくつもある。しかし、そこに入っていけるパスポートは一つしかない。それはまごころである。まごころだけがわれわれの血と人民の血を一つの動脈の中に融合させるのである。心から人民の息子になり、孫になり、兄弟になって大衆の中に入らないならば、われわれは寧安の人たちからいつまでも遠ざけられるであろう。
汪清児童演芸隊が寧安で公演をしたさい、公演会場はいつも超満員だったという。児童演芸隊も革命を訴え、遊撃隊も革命を叫んだが、どうして児童演芸隊は歓迎され、遊撃隊はそっぽを向かれたのだろうか。
わたしは金百竜に尋ねた。
「児童演芸隊がこの地方に来たとき、君も公演を見物したのかね」
「しましたよ。子どもたちの公演はたいへんなものでした」
金百竜は、汪清児童演芸隊が寧安中の評判になったものだといった。
「演芸隊の公演はどこでも超満員だったそうだが、共産党の宣伝を喜ばない寧安の人たちがそんなにつめかけたのは、はじめてではないかな。大衆を大勢集めた秘訣はどこにあると思うかね」
「その子らが住民にかわいらしくふるまったからですよ。演芸隊の公演で寧安の人たちを喜ばせたうえ、にこにこと笑いかけて人びとの心をとらえたのです。親になつくように、人びとの中にとけこんだのですから、木石のような寧安の人たちも、すっかりまいってしまったのです」
「そのちびっこ芸能人たちは、汪清でもたいへんな人気だよ」
「演芸隊の公演もそうですが、子どもたちが住民の気に入ったのです。子どもたちの品性には、わたしもすっかり感心したものです。その子らは、八道河子を隅から隅まで掃除もしましてね。朝早く起きて村中をきれいに掃き清めるのです。昼間は野良仕事も手伝いましたしね」
彼がしきりに演芸隊をほめたので、わたしはすっかりうれしくなった。
「小さくても、分別はちゃんとついているんだ」
「子どもたちは村人たちにずいぶんなついたものです。おとなが遠くに見えても、児童団の敬礼をして『おじいさん』『おとうさん』『おじさん』『姉さん』『兄さん』と呼んで駆け寄ってくるのですから… とにかくたいへんな評判でした」
児童演芸隊が北満州で住民の心をつかんだのは、彼らが住民にまごころをつくしたからである。わたしが豆満江の氷の穴に村人の斧を落としたとき、数時間ものあいだそれを懸命に探したのも、人民への真情の発露、愛情の発露ではなかったか。われわれがまごころをつくすとき、人民がそれを拒んだり、われわれを排斥したりするようなことは一度もなかった。
王大興政治工作グループの失策は、人民にそのようなまごころをつくさなかったことにある。彼らは北満州の人民を革命化すべきだという実務的な目的ばかり考え、人民にまごころをつくし、親しくなろうとはしなかった。そうしてみると、北満州の人民がわれわれに心の扉を開いてくれなかったのは、なにも異様なことではない。なによりも北満州人民との接触を演説からはじめたのがまずかった。まず人びとになつき、心の琴線に触れる歌でその親近感を深めた汪清児童演芸隊の活動はなんと教訓的ではないか。
わたしは、政治工作の形式から変えるべきだと考え、その方途を指揮官たちと相談した。そのあと、各中隊の政治指導員に指示してハーモニカの上手な隊員を全部指揮処に集め、一人ひとりに吹かせてみた。
延吉中隊の洪範は、聴衆が浮き浮きするほどハーモニカが上手で、アコーデオンの合奏に近い音を出すこともできた。汪清第五中隊にも上手な隊員がいたが、彼の足もとにも及ばなかった。
洪範は小学校のころからハーモニカを吹いた。家にちょくちょく遊びにくる客が置いていったハーモニカだったが、その後訪ねてくることがなかったので、おのずと彼の愛用品になったという。何年もたつうちにめきめき上達したが、ハーモニカはすっかりめっきのはげた中古品になってしまった。幸いにリードだけは以前のままだった。
対頭拉子で遠征準備をしていたとき、わたしはそのハーモニカを見て新品を求めてやろうと思った。ところがチャンスがなく、出発するまでそれを果たすことができなかった。
間島地方遊撃隊員と人民の中には、洪範の経歴をよく知っている人が少なくなかった。平隊員にすぎない彼の経歴が、人びとの話題にのぼるほど東満州に広く知られるようになったのは、彼のずば抜けたハーモニカ演奏のおかげである。ハーモニカ奏者は、どこでも戦友の人気者になっていた。
彼の故郷は咸鏡北道鐘城であった。幼いころ親に連れられて間島地方に移住した彼は、早くから革命運動に参加した。一時は、赤衛隊に入隊して、敦図線鉄道工事を破綻させる大衆闘争に参加したこともあった。海蘭溝遊撃区域解散後、ハーモニカを背負い袋に入れて王隅溝に移った彼は、そこで遊撃隊に入隊した。
わたしは王大興に、先日政治工作グループが断念して帰ったその村に、ハーモニカ重奏団を引き連れて乗りこみ、村人の心を動かしてみるようにといった。そして地下組織を通してハーモニカを買えるだけ買ってきてもらうよう金百竜に頼んだ。
わたしはその日、村人たちに配布する宣伝ビラを準備するため、寧安県党委員会書記処を訪ねた。わたしが書記処の同志たちと話しこんでいたとき、ハーモニカ重奏団を引率して村に行った王大興が、相好をくずして帰ってきた。
「隊長、成功です。いままで反応のなかった人たちが、わたしたちにすっかりうちとけてきたのです」
王大興はまず結果を述べてから、工作の経緯を要領よく報告する特色のある指揮官だった。
革命軍に冷たく背を向けていた人たちの心をとらえたというハーモニカ重奏団の活動経緯は教訓的であった。
重奏団の活動は、村の中ほどにある農家の庭の雪かきからはじまった。だだっ広い庭に歩哨を立ててから、まず上演したのが、洪範ともう一人のハーモニカ二重奏だった。重奏団のほかのメンバーは二重奏に合わせて踊りを踊った。すると近くの路地でコマをまわしていた二、三人の子どもらが垣根の方に駆けてきた。ほかの路地からも、子どもたちがパジ(ズボン)をずりあげながらそこへ走ってきた。
二重奏は『総動員歌』から『児童歌』『どこまで来たの』と演目を変えた。洪範のハーモニカから流れ出る軽快な旋律に魅了された子どもたちは、手拍子を打ちながら一緒にうたった。村中を走りまわって、間島から来た「高麗紅軍」がダンスを踊ってると大声で触れまわる子もいた。それを聞いたおとなたちが出てきて、腕組みをし遠くから革命軍のむつまじい集いを見物した。中には近寄って「高麗紅軍」の「楽士」たちをしげしげと眺める者もいた。
観衆が四、五十人になったころ、ハーモニカ重奏団は『アリラン』を吹いた。その『アリラン』がとうとう村中の人たちを残らず誘い出してしまった。観客は百人、二百人、そして三百人とふくれあがった。そのとき高宝貝が『平安道愁心歌』をうたった。哀愁を帯びた歌に興趣をそそられた数百人の村人は、この場を丸くとりかこんで、「高麗紅軍」のうたうメロディーに耳を傾けた。
高宝貝は歌をしまいまでうたわずに中途でぷつりと止め、ちょっと新派じみた抑揚で語り出した。
「みなさん、みなさんの故郷はどこですか? 慶尚北道ですって? 咸鏡南道、江原道、もちろん平安南道の方もいらっしゃるでしょう。だが、みなさん、わたしの故郷は尋ねないでください。なにもわたしがもったいぶっているのではないのです。わたしは生まれ故郷を知らんのです。朝鮮は朝鮮に違いないが、どこかの海辺だということしか覚えておらんのです。親の背に負われて朝鮮から渡ってきた川が豆満江だったか鴨緑江だったか、それもわからないのです。はい、そうです。わたしはもともとそんな抜作なんです…」
村人は彼の口演に夢中になってクスクス笑ったり、ひそひそとささやきあったりした。高宝貝は木枯しに舞う落葉のように間島の各地を流浪した話や、遊撃隊員になって日本軍と戦った話を面白おかしく語ってから、それとなく話題を変えて革命運動の啓蒙をはじめた。
「みなさん、わたしらみんなの望みはなんでしょうか。それは祖国に帰ることです。ところが、祖国に帰ろうにも日本人どもがわれわれを遮っているのです。いったい、そんなやつらをほっとけましょうか。わたしは我慢できません。それで銃をかついで遊撃隊員になりました。彼らを一人残らずやっつけようと寧安にも来たのです。北満州をのさばり歩いている日本軍はなおさらこしゃくなやつらだというではありませんか」
ここで、だしぬけに高宝貝の頭に日本軍の軍帽がのっかった。ふところに隠していたものである。ついで顔にひげが生え、メガネがかけられた。観衆はそのすばやい扮装が、日本軍将校を装ったものであることを知った。
そんなおかしい格好をした彼は、手足を大きくのばし、あくびを連発した。そして、後ろに手を組み、あごを突き出し、顔をひくひくさせながらあたりをふた回りほどまわった。それは、寝床から起き出して兵営のあたりをそぞろ歩いている日本軍将校を連想させるに十分であった。クスクス笑っていた観客は、こらえきれなくなって腹をかかえて笑いだした。
高宝貝は笑い声が静まると、観客の前をまわりながら、老婆の前では年老いた女の笑い声を、老人の前では年取った男の笑い声を、若い女性の前では新妻の笑い声を出すといった具合に、性別や年齢に応じてさまざまな笑い声を出した。観客は涙が出るほど笑いこけた。
ハーモニカ重奏団は、このように村人たちの心をやわらげてから、重ねて反日宣伝をし、革命軍への援護を訴えた。
前日、政治工作グループが失敗したばかりの村で、ハーモニカ重奏団がこのように驚くべき実績をあげたのは、彼らの宣伝工作の大衆性と真実性のおかげであった。
われわれはそうした経験にもとづいて、大衆の中にいっそう深く入り、さまざまな形式と方法で寧安県の数十の村を漸次革命化していった。東満州から来た「高麗紅軍」と寧安の人びとのあいだをへだてていた厚い壁はついに取り除かれた。「高麗紅軍」がとどまった地方では、党の隊列が拡大し、共青、婦女会、児童団などの革命組織も急速にのびた。
共産主義者とうちとけた人民は、革命軍の支持と援護に最大の生きがいを感じるようになった。そうした人びとの中には、天橋嶺伐採場の金老人、大崴子の趙宅周老、沃糧河の中国人孟成福老夫人、南湖頭の李老人など忘れえぬ多くの人びとがいる。
孟成福さんはいとこの相嫁と一緒に日本警察に逮捕され迫害されたが、重大な敵情をたびたび遠征隊に通報してくれた。
南湖頭の李老人は敵に監視されている注意人物であった。彼は遊撃隊を援護したかどで、八間の家屋を焼き払われた。憲兵隊に連行され、棍棒でめった打ちにされたこともあった。そのような迫害にも屈せず、李老人は食糧と履き物を持って革命軍の宿営地をしばしば訪ねてきた。
「こわくありませんか」
いつかわたしは李老人に尋ねた。
「こわいですとも。わしが革命軍に物資を贈ったことがばれたら、三人のせがれはもとより、一家皆殺しにされるでしょう。けれども、ほかに手はないじゃありませんか。革命軍の方がたが国を取りもどすために夜も休まず、食べ物にも困りながら苦労なさっているのに、わしらが身の安全を考え、手をこまぬいているわけにはいきません」
老人の回答だった。祖国を愛し、正義を擁護する心は、北満州人民の胸にも宿っていたのである。その熱い心は東満州人民のそれと少しも変わりがなかった。ただ、その外皮が厚く、堅かったにすぎないのである。
人民は自分を同情し理解する人には進んで心の扉を開くものである。そして熱く彼らを包容するのである。しかし、自分を生み育てた土壌が人民であることを忘却した恩を知らない者、人民には自分に仕える義務があり、自分には奉仕を受ける権利があると思う高慢な者、人民をぞんざいに扱ってもよいと思いあがっている官僚層、人民をいつでも乳の搾れる乳牛のように思いこんでいる搾取者、人民を愛するといいながらも人民が苦痛をなめているときはそしらぬ顔をするくわせ者や偽善者、やくざ者、ペテン師にはかたくなに心の扉を閉ざすのである。
いま、わたしのそばには第一次北満州遠征をともに回顧しうる戦友が一人もいない。百七十余人の遠征隊員のうち、解放後、祖国に帰ったのは何人にもならなかった。汪清中隊では呉俊玉、延禧寿だけだったと思う。
われわれが寧安に行ったとき、姜健は児童団員だった。いまでも革命運動をつづけることのできる年だったが、彼も偉大な祖国解放戦争が勃発した年の初秋、最前線で戦死した。当時、彼は朝鮮人民軍総参謀長だった。
高宝貝はのちに周保中が指揮した第五軍で連隊政治委員を務めた。彼は戦死したともいわれ、ソ連で死亡したとも伝えられているが、いずれが正しいかつまびらかでない。ユーモアとおどけた身振りで全間島に笑いを振りまいた才能のある楽天家が死んだと聞いて、わたしはそれがどうしても信じられなかった。あの楽天家が死ぬなどとは想像すらできなかったのである。
高宝貝とともに北満州遠征隊のルートを先頭に立って切り開いたハーモニカ重奏団の過半数は、周保中の要請で北満州にとどまったか、帰路の激戦場で倒れた。ほかの人たちのその後の運命はどうなったことだろうか。わたしにはそれを知る手立てがない。いまでは彼らの名前もよく思い出せない。
第一次北満州遠征後、半世紀近く歳月がすぎたある日、わたしは遠征参加者の一人が平壌に住んでいるという喜ばしい報告を受けた。届けられた写真を見ると、ハーモニカ重奏団の首席奏者洪範であった。目の縁には、身を切るような北満州の寒風にさらされながらのりこえた艱難辛苦の跡が歴然と刻まれていた。歳月の邪険なたわむれは、彼の容貌をすっかり変えてしまったが、アオサギのような長い首だけは、うれしいことに昔のままだった。これが間島の人たちの人気者だったあの有名なハーモニカの名手洪範だというのか。第一次北満州遠征の参加者であり、生き証人でもあるこの貴重な人物が、わたしの近くにいながら、どうしてこれまで名乗り出なかったのだろうか。
わたしは関係部署にそのいきさつを聞いてみるよう頼んだ。彼がそれまで名乗り出なかったのは、あまりにも純朴で謙遜な性格のためであった。
「わたしは抗日革命に参加しましたが、人に誇れるだけの功績がありません。誇らしいことといえば、主席にしたがって北満州に遠征したことだけです。けれども、北満州からもどってから三道湾の奥地で熱病を患い、遊撃区が解散したことを知らずにすごしたので隊伍の行方がわからず、故郷に帰るほかありませんでした。わたしが抗日戦争参加者だと申し出れば、党ではかずかずの配慮をめぐらしてくれるでしょうが、わたしはそのような負担をかけるのが心苦しかったのです」
これが晩年の抗日闘士洪範の言葉であった。
当時七十の高齢者であった彼は、戦勝分駐所で守衛を勤めていた。住まいも簡素な一間であった。一九五〇年代、六〇年代に生まれた新しい世代の演奏家が三DK、四DKの新築住宅に越していったときも、抗日長征の風雪の中で苦難にたえた遊撃隊のハーモニカ奏者は、その一間の住まいに満足していた。彼はそれ以上の特別な待遇や特典を望まなかったのである。
抗日戦争参加者は、みなこのような人たちであった。
洪範は、わたしが寧安で買ってやったハーモニカを一生保管していたという。事績関係者が取材に行ったとき、彼はそのハーモニカで、北満州遠征のときに吹いた革命歌謡連曲を聞かせたが、見事な演奏ぶりだったという。
彼は党の配慮で光復通りの新築アパートに引っ越し、そこで世を去った。
北満州遠征や苦難の行軍のようなむごい試練をなめた闘士たちは、解放された祖国に帰ってからもわたしとともにかずかずの苦難にうちかった。
「若いときの辛労は金でも買えない」という先祖の名言は、いかに深く力強い生活の真理を宿していることだろうか。苦難と試練は万福の母である。
5 天橋嶺の吹雪
われわれが遠征隊の軍事的・政治的任務を遂行し帰路についたのは、一九三五年一月下旬であった。
汪清の対頭拉子を発つとき百七十人を数えた部隊は五、六十人に減っていた。遠征初期、延吉中隊を東満州に帰したわたしは、琿春中隊も寧安から撤収させた。敵の囲攻作戦から革命の策源地を防衛すべき急迫した情勢がかもしだされていたからである。三か月間のあいつぐ戦闘で、われわれはかなりの死傷者を出し、負傷者もみな安全地帯に送ったので、隊員数は三分の一に減少してしまった。
しかし、部隊を補強することはできなかった。遠征隊がとどまった村では、入隊志願者がかなりいたが、彼らはみな周保中部隊に送った。周保中は、われわれの帰路をたいへん気づかった。
「情報によれば、敵は
わたしの顔にそそがれた彼の視線には不安な色がただよっていた。
「ありがとう。今度も老爺嶺の吹雪がわれわれをかくしてくれるだろうから、そんなに心配することはないよ。なんとか無事に帰れるだろうから」
わたしを気づかう彼の友情はありがたかったが、わたしはこともなげにいった。
「死地におもむくというのに、こんなにのんきなんだから、金司令はあいかわらずの楽天家だ」
周保中は帰路についたわれわれのために、もっとも安全なコースを選定したうえ、百余人の反日兵士をつけてくれた。そのコースは、われわれが北満州に向かったときの対頭拉子―― 老爺嶺―― 八道河子の正常コースとはまるで異なる、天橋嶺――老爺嶺――八人溝の迂回コースであった。それは敵の配置地から遠く離れた山道であった。彼の話では、敵の意表をついたコースである。
このコースには周保中よりも平南洋がくわしかった。彼はわたしの肘をたたいていった。
「天橋嶺の方に抜けるのがどう見ても無難です。そっちの伐採場には食糧がたくさんあるし、討伐隊も天橋嶺の方にはめったに現れません。それはわたしが受け合います」
天橋嶺は文字どおり、山容が天にかけた橋のように見える峻険な高山であった。わたしは北満州の同志たちが勧めるとおり、天橋嶺―― 老爺嶺―― 八人溝の迂回コースをとって間島に帰ることにした。老爺嶺を越えるほかの二、三のコースは、すでに敵が封鎖していた。
われわれは北満州の戦友たちに見送られて、周保中の山小屋を出発した。凍った土に枕もなく横たわっている李成林など多くの戦没者の墓に土を盛ることも墓碑を立てることもできずに、間島に帰るわれわれの胸は引き裂かれんばかりに痛んだ。さらば、戦友たちよ!国が独立すればあらためて訪ねてくる。いまは遠い他郷の凍った土に君たちを置いてゆくが、解放の日を迎えたら故郷の山に背負っていこう。君たちの霊前に墓碑を立て、祭壇を置き、まわりに花木を植えて毎年墓参もしよう。戦友たちよ、その日までさようなら。わたしは、北満州の荒野に倒れた戦友の冥福を祈り脱帽して三分間黙祷するよう、全隊に命じた。
寧安の名も知れない峰や谷に、着たきりの軍服に包まれて横たわっている戦友たちに安らぎを与えようとでもするのか、北満州の空は、その日も大雪を降らせた。それは、われわれの足跡を消してくれた。行方をかくしながら行軍するにはうってつけの天気だった。
しかし、天の思いやりも、鷹の目のように鋭い敵の監視を曇らせることはできなかった。遠征隊が海抜七百メートルほどの尾根で、北満州の同志たちから贈られた心づくしの昼食を食べてしばらく休息しているとき、敵の討伐隊が遠くに現れた。平南洋が名誉をかけて安全を保障したこの千古の密林地帯で、ひそかに追撃してくる敵軍を発見したのは、まったく思いがけないことであった。遠征隊員は目を丸くして、なんということだ、道に迷ったのではないか、せめて帰り道だけでものんびりしようとしたのに、あんなに追撃してくるようでは休むどころかうるさくてやりきれなくなった、とこぼした。そんな気構えでは、部隊がうまく帰路を切り開けそうではなかった。
わたしは、出発そうそう弱気になったり、気をゆるめたりしないよう、隊員をいましめるべきだと思った。
「諸君、われわれはここ数年ずっと敵の包囲の中ですごした。前後左右に敵がいたし、空にも敵がいた。パルチザンのいるところにはどこにも敵がいた。行軍中、敵の追撃を受けたことのない者がいるなら、そういってくれ。われわれの抗日戦史に、銃声も白兵戦もなかった安全な行軍がはたして何回あっただろうか。戦友諸君、だからわれわれは、この行軍でも戦う覚悟をしなければならない。戦うこと、これはわれわれが包囲を突破して間島に帰る唯一の活路だ」
遠征隊員たちはわたしの話を聞いて心を引き締めた。
わたしは追撃してくる敵の実情を確かめるために偵察班を送り出した。彼らは敵の尖兵を襲って二人を捕虜にしてきた。彼らは陳述の中で、われわれとの相つぐ戦いで惨敗を重ねた靖安軍部隊長美崎の名をたびたび口にした。遠征隊にひどい目に合った美崎は敗戦の恥をそそごうと重ねて兵力を増強した。その部隊がわれわれを追撃している討伐隊であった。
九・一八事変直後、関東軍参謀小松少佐の指揮下に関東軍に協力する特別独立軍の名目で組織された靖安遊撃隊は、靖安軍の前身で日満一体の混成部隊であった。
一九三二年十一月、満州国軍の建軍とともにこれに編入された靖安軍は、司令官藤井重郎少将以下指揮官の三分の二が日本人であった。靖安軍には候補生隊というのがあったが、その大半は十七、八歳で日本本土出身の中学卒業生であった。靖安軍は兵器、被服類を関東軍から支給された。袖に赤い布を巻いたので「紅袖隊」ともいったが、「常在戦場」、つまりつねに戦場にのぞんでいるという精神で教育し、「大和魂」に加えて悪質な「靖安魂」を鼓吹した。
この部隊の中国人は、大半が有産階級の子弟で日本語が巧みであった。日本に忠実な者たちで組織された靖安軍は、共産主義者の遊撃戦に遊撃戦で対抗するつもりであった。これは、靖安軍の主な活動目標がわが遊撃隊の掃滅に向けられていることを示していた。
当初、靖安遊撃隊の兵力は日本軍の一個連隊を多少上回る三千人程度であった。美崎は靖安軍歩兵第一連隊の連隊長であった。彼の部隊は靖安軍の中でももっとも悪質であった。この部隊の討伐にあえばどんな強兵でも多くの犠牲を出す覚悟をしなければならなかった。彼は管下の部隊が掃滅されると、ただちにほかの部隊を補充した。彼には人民革命軍遠征部隊に連続攻撃を加える十分な予備兵力があったのである。
しかし、われわれには犠牲者に代わって隊伍を補充できる予備がなかった。われわれは、追撃してくる敵と、日に四回も五回も銃撃戦をくりひろげなければならなかった。われわれが行軍すれば敵も行軍し、われわれが宿営すると敵も宿営した。彼らは、こちらがねをあげるまで追跡をやめない執念深い部隊であった。
周保中がいったように、靖安軍はわれわれが
敵は「われわれが百人倒れても共産軍を一人倒せれば、たいへんな利益だ。われわれは百人を補充できるが遊撃隊は一人も補充できない」とうそぶき、たえず新手を繰り出した。彼らは兵力の予備が多かったので、押しも強かった。靖安軍の思惑は、千人の犠牲を払っても間島からの遠征隊を全滅させることであった。そうすれば、
靖安軍がこのように執ようで悪らつなうえに、その年は吹雪が例年になく荒れて、彼我の見分けがつかないほどであった。どちらかが声を出すとはじめて敵と味方の見分けがつき、戦闘が開始されるのである。
われわれと同行した反日部隊の兵士は試練をのりこえることができず、立ち去ってしまった。犠牲精神の乏しい彼らは、うむことを知らない靖安軍の追撃と情け容赦のない酷寒に耐えられなかったのである。彼らがわれわれを保護したのではなく、われわれが最後まで彼らを保護したようなものであった。
平南洋が持たせてくれた食糧も、まもなく切れた。われわれは何日も食事の代わりに雪をほおばらなければならなかった。まったく人気のない荒涼とした冷酷な大地で、われわれが労せず求めることのできる唯一の食糧は雪であった。決死隊を組んで、たびたび敵の宿営地を襲撃したが、ろ獲した食糧だけでは隊伍を維持できなかった。敵も出陣するときは食糧をあまり持ち歩かなかった。
どのような困難をのりこえても天橋嶺の伐採場にたどりつこう。そこには食糧がたくさんあると平南洋もいったではないか。われわれはこのような希望をいだいて、励まし合い支え合って行軍をつづけた。わたしは食べ物が少しでも手に入ると隊員たちに譲った。一升のトウモロコシをみんなで分け合って食べた日もある。そんなとき、わたしはいつも、わたしの分を幼い隊員たちに与え、雪で飢えをしのいだ。雪を食べたところで力が湧くはずはなかったが、気力をふりしぼり、吹雪を衝いて山腹をよじ登った。
韓興権は雪にも栄養素があると言い出して、みんなの好奇心をそそった。わたしは、その主張にみんなが論駁するだろうと思った。ところが意外にも、ばかげたことをいうなと一蹴する戦友はあまりいなかった。ほとんどの隊員が、水にも栄養素が多いかも知れないといって、韓興権の新説を上回る仮説を持ち出した。わたしも彼の仮説を支持するほうにまわった。それをばかげているとか、無知なことをいうなとか決めつけてしまえば、荒唐無稽な仮説を持ち出して、弁論に熱中することで空腹を忘れようとしている隊伍の雰囲気に水をさすことになるからだった。飯やパンではなく、雪に栄養素があるという仮説を立て、その正否の論争で苦痛をまぎらしている遠征隊員たちの様子はじつに健気で涙ぐましかった。
二万五千里長征のさい、中国の同志たちは革のベルトを煮て食べたという。われわれも、それが食糧代わりになることを知っていた。しかし、革のベルトを鍋に入れて沸かすだけの時間のゆとりがなかった。苦しい行軍にうちかとうと、吉林時代に読んだ長編小説『鉄の流れ』の場面を思い出し、力を奮い起こしたこともあった。
わたしは毎夜、隊員と同じように歩哨に立った。危機状況の中では、隊長だからとかまえてはいられなかったのである。
ところが、部隊を動かす指揮官の手腕と統率力がいつにもまして要求されているときに、遠征隊員たちは重ねて打撃を受けることになった。わたしが天橋嶺近くで傷寒(高熱をともなう急性疾患)に襲われたのである。食事も睡眠も休息もできなかったので病魔にたやすく冒されたのであろう。体がかっかと燃えるような高熱と悪寒のために、わたしは雪の上に倒れてしまった。ひどく寒気がしたとき、たき火にあたっていたらよかったのだが、戦友に心配をかけまいと我慢したのがいけなかった。手足がこわばり、やがて昏睡状態に陥った。戦友たちが手足をもんでくれて、わたしはやっと正気づいた。蜂蜜をとかした湯を飲み、暖かいオンドル部屋で汗を出せば傷寒は治るといわれているが、海抜千余メートルの無人の境では、そんなことは望めなかった。
韓興権は隊員と一緒に橇をつくった。戦友たちはそこにわたしを座らせ、布団と鹿皮をわたしの体にかけ、交替で橇を引いた。戦友たちは、敵が追撃を止めるよう神にでも祈りたい気持でわたしの身を気づかったが、討伐軍にそれが通ずるはずがなかった。追いすがる敵を牽制しながら、病気のわたしを乗せた橇を引いて険しい嶺を越えるのは、身も心もつきはてる苦役であった。
美崎はわれわれを追撃する討伐軍に、「討伐王」と呼ばれた工藤中隊を編入した。工藤は満州で立てた戦功により死後、「軍神」に祭りあげられた男であった。「軍神」の遺骨は靖国神社に祭られるという。工藤は天橋嶺界線に現れて、部下に命令した。
わたしが昏唾状態から覚めたとき、まわりには十六人の隊員しかいなかった。懸命に目をこらして見まわしても、わたしを取り巻いているのは十六人だけだった。みんなどこへ行き、これしかいないのだ、貴重な戦友がみな天橋嶺の雪に埋もれてしまったというのか、こんな考えが頭をよぎった。
「王大興はどこへ行ったのだ?」
喉が渇いて口がきけなかったので、わたしは布団の下にあったモーゼル拳銃の柄で、雪の上に字を書いた。そして、韓興権中隊長の顔をぼんやり見あげた。韓興権は返事のかわりに頭を深く垂れた。不精ひげの伸びたあごの下で喉仏が引きつった。
「政治指導員同志は戦死しました」
わたしが十里坪で発疹チフスで倒れたとき、看護のために苦労した金択根小隊長が涙声で答えた。彼の顔もひげが伸び放題であった。目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。
部隊が敵の包囲に陥ると、中隊政治指導員王大興は、金択根など数人の隊員で決死隊を組み、包囲を突破するために白兵戦をくりひろげた。王大興は銃剣と銃床で五人の靖安軍を倒したが、彼も雪の上に倒れて二度と起きあがれなかった。
王大興は、わたしがもっとも愛した軍事・政治活動家の一人で、みんなから尊敬された精悍な軍人であった。王大興という名前と母国語に劣らず自由に話せる中国語のため、彼は中国人と思われがちだったが、じつはきっすいの朝鮮人であった。北満州の軍隊と人民を支援する活動で、彼は自分の役目をりっぱにはたした。中国語の巧みな彼は、どこでも中国人から歓迎された。周保中が彼をほしがったのも、いわれのないことではなかった。
周保中がほしいといったとき、残してくるんだった… わたしは断腸の思いで亡き戦友をしのんだ。
「状況が急迫していたので、政治指導員同志の亡きがらは葬ることができませんでした」
悲憤と悔悟に震える金択根小隊長の声が、またわたしの耳朶を打った。
「この北満州には、雪がいくらでもあるではないか。せめて雪でもかぶせてやればよかったのに」
わたしは危うく、そうとがめるところだった。幸いに理性がその言葉を抑えた。金択根にそんな判断力がなかったはずはない。この人情の厚い男が、そのまま去らなければならないほど、危急な状況だったのだろう。
わたしはまた、拳銃の柄で雪の上に字を書いた。
「王大興が戦死した谷をきちんと覚えているだろうね」
「はい、それは大丈夫です」
金択根の返答だった。
「それならいい。凍った土が解けたらもどってきて、葬ることにしよう」
隊員たちは、わたしが雪の上に字を書くとき、文字が重ならないよう橇を少しずつ前へ動かした。しかし、われわれはその後、二度と王大興のもとにもどることができなかった。
天橋嶺には王大興ばかりでなく、われわれが埋葬できなかった戦友の亡きがらが何体もある。いまもそれを思うと、胸がうずいてならない。永遠に返すことのできない負債を背負いこんだような思いである。この悔悟の念をどう言い現せよう。
解放後、趙基天は長編叙事詩『白頭山』を脱稿すると、原稿を持ってわたしを訪ねた。わたしは最初の読者になって、彼の朗唱する叙事詩を鑑賞したが、珠玉のような詩句もさることながら、その内容にまったく魅了された。叙事詩には心の琴線に触れるくだりが多かった。
…
この地の木こりよ
心して 木を伐れ
烈士の霊
その木の下に 寝てないと だれがいい得よう!
心して 路の辺の石を蹴れ
烈士のどくろ
その石の辺に 埋もれてないと だれが知り得よう!
これは国内工作の任務を受けて鴨緑江を渡った哲鎬が、敵の凶弾に倒れた永男を葬ったときの心境を詠んだものである。このくだりを朗唱したとき、趙基天も泣き、わたしも泣いた。
わたしはこのくだりを聞きながら、北満州に墓もつくってやれなかった王大興など多くの戦没者や天橋嶺などの戦場を回想した。満州の山野や川辺には、われわれの先達と戦友の亡きがらが数多く埋もれている。
わたしは以前、内閣首相をしていたとき、教育省の一幹部からこんな話を聞いたことがある。
「おじちゃん、この手、どうしてこんなになったの?」
「戦争でヤンキーと戦って、こうなったんだよ」
「人民軍隊も負傷するの?」
「そうだよ、死ぬことだってあるんだよ」
教授の子はそれを聞いて口惜しがった。人民軍が負傷したり、死んだりするとは、とても信じられなかったのである。客の話は、人民軍は死にもせず負傷もしないとかたく信じていた子どもの考えをくつがえしてしまった。
そのころにしても、絵本や児童映画には、敵兵が死ぬ場面は多かったが、人民軍将兵が死ぬ場面は少なかった。それで、子どもたちは人民軍や抗日遊撃隊は死にもせず、負傷もしないと考えるようになったのである。教育者や作家は米日帝国主義者にたいする革命戦争の勝利が、いかに大きな犠牲をともなったものであるかを、次の世代にありのままに教えていない。われわれは形容しがたい苦悩と屍のはしごをよじ登って、抗日大戦の勝利という高く険しい峰に登りつめたのである。訴えにも、請願にも、テロにも動じない帝国主義強敵を打ち破る戦いで、どうして犠牲がともなわないことがあろうか。死は敵と味方を選ばず、正義と不正義も選ばない。ただ、その死が異なる様相を呈するにすぎない。一人の死が十人を生かし、十人の死が百人を生かし、百人の死が千人を生かすのが革命軍の死である。
王大興が死んだと知ってまもなく、わたしはまた意識を失った。全身を焼きつくすような高熱にうなされ、脳裏には幻想なのか夢なのか、もうろうとした光景がくりひろげられた。わたしは王大興と一緒に担架を持って五佳山嶺を越えていた。担架には車光秀と周保中が腕枕をして並んで横たわっていた。ところが、なんと車光秀も王大興も生きていて、生者と死者が混然一体になるのだが、それがなんの違和感もないのが不思議だった。陽光がはげしく降りそそぐ夏の日で、遠く険しい峰をよじ登りながら、われわれは喉の渇きとうだるような暑さにあえいだ。峠が高くなるほどに、喉の渇きはいよいよひどくなっていく。わたしはこらえきれず、道ばたの小さな水溜りに走っていって水を飲もうとした。すると、どこからともなく「だめよ」という耳慣れた声がした。喪服をまとった母が、弟の英柱と一緒に峠の上でわたしに手を振っていた。
「だめっ、その水には毒がある。飲んではいけません」
母の言葉だった。わたしは水溜りをのぞきこんで驚いた。ブドウの房のようなカエルの卵が水の中にうようよしていた。この水にどうして毒があるというのだろう。わたしにはそれが蜂蜜をとかした水か、清水に見えた。わたしは水ぎわに腹ばいになって水を飲もうとした。そのとき、また母の叱る声がした。
「飲んではだめだといったでしょう」
わたしは驚いて立ちあがった。そして峠を見あげた。母と弟の姿はなかった。
それは夢だった。わたしは、わたしを呼ぶ声に夢からさめた。
「成柱兄さん、どうか目を開けて、気を確かにもってください。兄さんが起きあがらないと、朝鮮は光を取りもどせません」
わたしはその声にはっとした。誰かが、橇の上にかがみこんで、わたしの顔をのぞきこんでいる。吉林時代からわたしを慕い、書きものも手伝い、使いもしてくれた曰男という共青員であった。
夕焼けに赤く燃える密林の雪景色が、ゆっくりと後ろの方に遠ざかっていく。夕暮れの冷たい空が、頭の上でぐるぐるまわった。
曰男は「成柱兄さん」「成柱兄さん」と叫び、涙をぽろぽろこぼしながらついてきた。それから呉大成だったか誰だったかが、またわたしにしがみついて叫んだ。
「隊長にもしものことがあったら、朝鮮は滅んでしまいます」
橇の前と後ろに付き添って黙々と歩いていた戦友たちが、わたしをとりかこみ、声をあげて泣き出した。わたしは泣いてはいけないと言おうとしたが、口をきくだけの力がなかった。いや、わたしもそのときに泣いていたのである。それから、わたしは前後不覚の昏睡状態に引きこまれていった。
翌朝、熱が少し引いて目をさましたわたしは、密林の空き地に止まっている橇と、そのまわりに倒れている十六人の戦友を発見した。いまでは、彼らがわたしを慰めるのではなく、わたしが彼らを励まさなければならなくなったのである。何日ものあいだ飲まず食わずで戦った彼らに気力が残っているはずがなかった。わたしを救うためにどんなに苦労をしたことだろう。われわれは、この数年間、間島でさまざまな苦難に耐えてきたが、彼らがあんなにげっそりやつれ、衣服や履き物があんなにぼろぼろになったことがあったろうか。
胸が重苦しかった。まだ道ははるか遠いのに、あの雄々しい若者たちが気力を使いはたして倒れたのだから、どうすればいいのだ。彼らに起きあがって汪清に帰れるだけの力があるのだろうか。吹雪に埋もれて、もはや立ちあがれないかも知れない。そうなれば、わたしひとり生きながらえてなんになろう。わたしがこれまで抗日の旗をかかげ、万難を排して戦ってこられたのも、彼らがいつもわたしを支持し、ともに戦ってくれたからであり、また、わたしが彼らを信頼し、彼らの力に依拠して積極的に戦ったからである。彼らがいなければ、わたしは生きることも革命運動をつづけることもできない。彼らがわたしを救ったのだから、今度は、わたしが彼らを救わなければならない。わたしが起きあがらないでは、雪に埋もれた彼らを救い、革命運動をつづけることができないのに、指一本動かす力もない。どうすればいいだろうか。
わたしの意識はまた、もうろうとした霧の中に沈んでいった。恐れを知らぬ火の鳥のように青空をはばたいていたわたしの翼がここで折られてしまうのかという挫折感にとらわれ、胸がうずいた。
われわれがここでくじけてしまえば、再生の希望をわれわれに託している民族が悲嘆にくれるだろうという危惧が、ふと頭をよぎった。わたしの体は電気に触れたように震えた。朝鮮民族の悲哀は日本帝国主義者の喜悦となり、朝鮮民族の絶望は日本帝国主義者の歓喜となる。われわれが挫折すれば日本の資産家と軍国主義者を喜ばすだけである。日本帝国主義者は満州の奥地でわれわれが飢えて死に、凍えて死に、絶望して投降することを待ち望んでいる。
歴史は、われわれにまだ死ぬ権利を与えなかった。歴史と時代が課した任務を遂行できずに一握りの土となってしまえば不孝者になる。一家庭や家門の敷居を越え、自分を生み育ててくれた人民にたいして不孝者になる。われわれは決して不孝者にはならないだろう。
わたしは重く垂れ下がるまぶたを雪でこすり、せわしく駆けめぐる思いを一つひとつまとめていった。
もし、革命軍が天橋嶺の冷たい雪の中に消えてなくなれば、朝鮮人民にたいする日本帝国主義者の暴圧は一挙に十倍、百倍につのるであろう。朝鮮人民革命軍が健在しているいまでも、彼らは朝鮮人民の膏血を搾り、朝鮮民族を皇民化するためにやっきになっているではないか。
日本は一九三三年に国際連盟から脱退したあと、経済封鎖による損害を朝鮮民族にたいする収奪によって補おうとしていた。一九二〇年代、斉藤朝鮮総督の産米増殖計画、綿花・養蚕増産政策は、朝鮮の農村における階級分化を促し、離農、離郷の悲劇を激増させた。そして宇垣総督時代の朝鮮工業化政策、産金奨励政策、南綿北羊政策は、朝鮮の脆弱な経済を硝煙の臭う戦争経済の付随物に転落させていた。鋼鉄、石炭、綿花、綿羊はいずれも、日本の富国強兵の祭壇にささげられていた。
朝鮮の言葉と文字は非公式の方言に落とされてしまった。進歩的な書籍も日本帝国主義者によって焚書の憂き目にあった。祖国で増えるのは練兵場と監獄だけであった。愛国者の血で彩られた悪名高い西大門刑務所も投獄者の激増で増築中だという。世界制覇を夢みる日本の大財閥と軍閥、その番犬どもは軍国主義の軌道を狂人のように突っ走っていた。中日戦争の勃発は時間の問題であった。引き金を引くのは日本軍閥の意思にかかっていた。ドイツと日本のファシストによって、地球の西側と東側では新たな世界大戦の危険をはらんだ黒雲が急速に広がっていた。
反革命がこのようにやっきになっているのに、それを打倒しようと決心したわれわれが、どうして一時でも絶望に陥り、きょうの逆境を嘆いていられようか。天が崩れても歯をくいしばって生きのび、革命運動をつづけなければならない。われわれが生きて帰らなければ、東満州でわれわれを待ちうけている多くの仕事はどうなるというのだ。ここで挫折すれば、朝鮮人民は永遠に日本帝国主義者の奴隷になってしまうだろう。
ふと、わたしの脳裏にある詩想がひらめいた。それは、今日『反日戦歌』と呼ばれている歌の詩想であった。
日本の軍靴の音は荒く
うるわしいわが祖国を踏みにじる
殺人放火 搾取略奪 屠殺の蛮行
数千万わが同胞を踏みしだく
愛するわれらのはらからは
敵の銃剣に血を流し
家財と田畑はことごとく
灰と荒れ地になりはてる
…
立て勤労者 肩を組み
不屈の意志もて戦わん
赤旗かざして白色テロ打ちくだき
勝利の凱歌どよめかさん
わたしは橇の近くに倒れている曰男を揺り起こして歌詞を書き取らせた。そして、二人で歌をうたった。すると、倒れていた戦友たちが一人、二人と起き出して合唱した。
われわれは朝の十時ごろ、西扁臉子のある伐採場にたどりついた。トウモロコシがゆでもすすり、汗を出そうと思ったのである。その日、わたしの体温は四十度を越えた。当時の治療法といえば、トウモロコシがゆをすすり、中国胡酒に黒砂糖をとかして飲むことだった。汗を出さなければ治らないのだが、ずっと橇に乗って野外で震えているのだから、病状はよくなるどころか悪化するばかりであった。昏睡状態で高熱とたたかうわたしを見て、戦友たちは、このままでは遠征隊が救われる見こみがないと判断した。この危機を切り抜けて汪清に帰れると楽観する者は誰もいなかった。もうこれまでだと思いこみ、沈痛な気持で中隊長の韓興権にすべてを託していた。
韓興権は伐採場雑役夫の金老人に、トウモロコシがゆを炊いてくれるよう頼んだ。一行は丸二日間、なにも口にしていなかった。隊員たちは最初、この老人が中国人だと思った。中国服を着て中国語を話したからである。われわれが間島から来た朝鮮遊撃隊だと知ると、金老人は自分も朝鮮人だと明かした。そして、息子が八道河子で遊撃隊の隊長をしている金海山だということも打ち明けた。
金海山は一九三一年冬の明月溝会議参加者の一人である。金老人は息子を遊撃隊に送り出し、夏のあいだは山で畑を耕して食糧を手に入れ、冬のあいだは伐採場の雑役をして塩や油を得ていた。
一行が伐採場で老人と挨拶を交してまもなく、韓興権は討伐隊が伐採場に接近したという偵察報告を受けた。そのとき、曰男は、ふたのないほうろうの器を台所のかまどにかけて、わたしのために湯を沸かし、わたしの濡れた履き物を乾かしていた。彼は、隊長の病気も治らず包囲を突破する見こみもないから、もはや絶望だと思い涙にくれた。吉林でわたしと行動をともにした当時から、彼の誓いはかたかった。彼はわたしが死ねば、自分も死のうと思っていたほどである。
たきぎをかかえて台所に入ってきた金老人は、曰男が泣いているのを見て、どうしたのかとわけを尋ねた。
「隊長は病気だし… 討伐隊はここを幾重にも包囲して一時間もすれば押し寄せるというのに、抜け道がないので口惜しくて泣いているのです。抜け出すには川を渡るしかないのに… 凍ってもいないあの大川を渡ることはとてもできないではありませんか。だから橋を渡るしかないのですが、そこには討伐隊が一個中隊もいるので、それこそ四面楚歌ではありませんか」
金老人は彼の嘆きを聞くと、包囲を突破する妙案を教えた。
「そんなに気を落とすことはない。天が崩れ落ちてもはい出る穴はあるというものじゃ。うちの主人は満州国の手先だが、もうすぐここへ来るじゃろう。だから主人をとりこにして説き伏せ、討伐隊が伐採場へ来ないよう通知を出させるのじゃ。そうすれば、夕方までここにいられる。そのつぎの手は夕方考えることにしよう」
曰男は老人の話を韓興権に伝えた。こうして韓興権が一行を代表して老人と相談し、最終的な脱出策が確定した。
韓興権は金老人がいった筋書どおり、主人を縛りあげておどしつけた。
「おい、誰に伐採場の経営許可をもらったのだ。おれたちは満州国なんか認めておらん。悪かったと思うならおれたちの軍隊に義援金を十分に出せ。いくら出す?」
天井に届くほどの大男で、見るからに無骨な容貌の韓興権から威嚇された主人は、震えあがって彼のいいなりになった。
「ハ、ハイ、おっしゃるだけ差し上げます」
韓興権はわざと、主人が驚いて目をまわすほど多量の軍服、豚、小麦粉を出せと要求し、出せるかと聞いた。
「わたしを助けてさえくださるなら、あなたがたがここにいるあいだ、討伐隊がよりつかんようにします」
「どうやって来ないようにするのだ」
「パルチザンが抜け出したと言いましょう。わたしは討伐隊の将校と親しくしているから、わたしの話なら信じます」
「おれたちの要求を聞き入れるなら、許してやる。おれたちがめざすのは抗日だ。おまえも罪ほろぼしをして抗日をしたかったら、おれたちに協力するのだ」
「要求どおりしますから、どうか繩をほどいてください」
中国人材木商も知恵が回る男だった。彼は、われわれの望んでいるのが物資ではなく、身辺の安全と包囲からの脱出であると、すぐに悟ったのである。
材木商が隊長は誰かとしきりに尋ねるので、韓興権はわたしのことを伏せて「隊長はおれだ」と答えた。主人がわたしを指して、「あの方はどうかしたのですか」と聞くと、彼は体の具合が少し悪くて休んでいるととりつくろった。
材木商は約束を守った。彼が通知したおかげで討伐隊は日が暮れるまで伐採場に現れなかった。われわれは朝食をかねて昼食をとり、そこで夕食もすませた。夕食の食膳には豚肉の料理もあった。食欲がなかったので、わたしはトウモロコシがゆを少しすすって喉の渇きをいやした。
夕食後、金老人は脱出計画の続編を話した。それもまたすばらしい名案であった。
これからは橋を無事に渡りさえすればよいのだが、それは危険きわまりないから、あんたたちがうまく戦術を立てなければならない。ひとつは、歩哨の目をごまかして橋を通過する方法であり、いまひとつは、伐採場の主人を道案内にして橋の警備兵をあざむく方法である。敵が調べようとすれば、即座になぎ倒して橋を渡らなければならない。橋を渡れば金司令を背負って山に入ればよい。橋から八キロほど下れば深い谷間がある。そこからさらに分かれた狭い谷の奥に、朝鮮人の住家が三軒ある。日本人に背を向け、そこでひっそり農事を営んでいる人たちの住まいだが、満州国に戸籍の登録もしていないという。彼らに頼れば、金司令の治療もうまくゆくだろう。
韓興権がそれに同意すると、金老人は満足してこんな案を付け足した。橋を渡るとき、いざというときは小隊長が応戦し、残りの人はわしの案内にしたがって動いてほしい。中隊長は背が高く、力が強いから金司令を背負ってわしについてくればよい。橋を渡りさえすれば、そのあたりの山はわしがよく知っているから、敵が追ってきても大丈夫だ。橋を無事に渡ったら、わしと主人を寧安県市街地の近くまで連れていき、そこでわしを少し殴ってくれ。主人もおどしつけて…。そのあいだに、ほかの人たちは中隊長と一緒に金司令を護衛して谷間に入ればよい。
韓興権はその話まで聞いて、わたしに老人の案を伝えた。聞いてみると、十分うなずける妙案だった。老人は軍事専門家ではなかったが、義兵長でも務まるほどの大胆な作戦家であった。さすがにパルチザン隊長の父親だけのことはある。老人の脱出策は、ひとかどの指揮官にもちょっと考え出せない妙案であった。そのときも身にしみて体験したことだが、朝鮮人民の頭はこの世のどのような難事も解決できる知恵の泉であった。
困難であればあるほど人民の中に深く入らなければならないというわたしの信条は、こうした体験を通して得られたものである。
わたしは韓興権に、すべてを君に一任する、いいようにはからってくれ、わたしは病気で起き上がれないのだから、どうしようもないではないか、といった。
夜になると、韓興権は主人に五台の馬橇を用意させた。伐採場には馬がたくさんあった。戦上手の金択根小隊長が先頭の橇に主人と同乗し、わたしは三台目の橇に乗った。
橋を警備していた日満混成軍の歩哨は、われわれを見ると、暗がりのなかから「誰か」と声を張りあげた。材木商は筋書どおりに、うちの労働者が急病なので、病院まで連れていくついでに、寧安市内に買いものに行くところだと自然に答えた。材木商の声を聞き分けた歩哨は、橇に近寄ろうともせずに、[行け]と怒鳴った。
五台の馬橇は矢のように橋を渡った。馬橇の下で木橋が揺れ、その振動がわたしの体に伝わった。橋の下には激流が渦を巻いて流れていた。その川は牡丹江の大きな源流であった。
「もう大丈夫じゃ。思ったとおりだった」
馬橇が橋を渡りきると、金老人はほっとして韓興権を抱きしめた。伝説かミステリーもどきのスリラーはこうしてめでたく幕をおろした。そのあとの過程も筋書どおりに運んだ。金老人に会えなかったとしたら、わたしは死地から抜け出せなかったであろう。遠征隊はわたしと一緒に天橋嶺の奥地で壊滅したに違いない。金老人は大恩人である。パルチザン隊長の父親らしく、われわれを命を賭して助けたりっぱな人だった。
危機一髪のせとぎわでは決まって、不思議にも金老人のような人が現れて、わたしを死地から救ったものである。蛟河では名の知れない婦人が、あやうく逮捕されそうだったわたしを救ってくれたし、羅子溝の台地では、馬老人が飢えと寒さに震えていたわたしと同志たちに安息の場を提供してくれた。そしていままた天橋嶺では一面識もない金老人が、全滅寸前の遠征隊とその指揮官であるわたしを千丈の奈落から救ってくれたのである。
この話をすると、偶然に助かったのだという人もいれば、必然だったと見る人もいる。国と民族のために粉骨砕身する愛国者を、救援者が現れて助けるのは偶然ではないというのである。
わたしはその正否を論じたいとは思わない。わたしは生涯たびたび生命の恩人に出合っているが、偶然はつねにわたしに味方しているのである。人民のために生涯をささげる人には、偶然も善意をほどこすのであろう。
遊撃隊が人間解放をめざす義人の武装集団であることを人民が知らなかったとすれば、人民の網膜に焼きついている遊撃隊のイメージが美しく気高く偉大なものでなかったとすれば、あのとき、われわれは天橋嶺で金老人の援助を受けることができなかったであろう。そして抗日革命闘争史上、天橋嶺の伝説のような神秘な話も生まれなかったに違いない。
6 人民のふところ
三重の検問所を無事に通過したわれわれが、あの運命の分かれ目となった夜に定めた宿営地は、大崴子の谷間の壁だけが焼け残っている住家の跡であった。そこで戦友たちは夜を明かし、翌日の昼まで、わたしの介護につききった。介護といっても大勢がたき火のまわりに座り交替でわたしの手足をもむことだった。
十六人のうちの一部は、満州国に戸籍登録をせずに住んでいるという朝鮮人の家を探し出そうと、翌朝から一日中山中を歩きまわった。しかし、日本の軍警と満州国官憲の目を避け、世捨て人のように暮らしている人たちの隠れ家を見つけるのは容易でなかった。彼らは夜がかなり更けたころ、ゴヨウマツやシラカバ、トウシラベがうっそうとした老爺嶺中腹の原始林の中で、丸太小屋を探しあてた。それが朝鮮人民のあいだに大崴子の一軒家として広く知られるようになった趙宅周老の家である。回想実記『いつまでもおすこやかに』を書いた崔日華は、趙宅周老の長男の嫁である。
山の中腹の密林に、小川をあいだにはさんで大きさと外形がまったく同じ一間づくりの丸太小屋が二軒立っていた。小川の北側の山すそにある小屋には趙老人夫妻と長男の趙旭夫婦、孫など九人家族が、南側の小屋では次男趙景の五人家族が住んでいた。軒が低く丸太小屋というよりは土窟といった感じの家だった。厚く土を盛った屋根には、小松が何本も生えていたが、それは家のありかを隠すための偽装であった。偵察班がその家を探し出せず山中をさ迷ったのも、そんな偽装のためであった。
老爺嶺を往来する人たちは大崴子の名も知れない山の中腹に人目をしのぶ風変わりな人生観の持主が住んでいることに、まったく気づかなかった。それらの家のありかを知っているのは、東満州と北満州を行き来しながら連絡任務を遂行していた三人だけだったという。
偵察班からわけを聞いた趙宅周老は、
趙宅周老の家からわれわれのいるところまでは近道でも八キロ以上あった。趙旭と趙英善が偵察班と一緒にわれわれの宿営地に着いたとき、遠征隊員たちはたき火を囲んで、昏唾状態のわたしを思って飯盒に湯を沸かしていた。彼らは意識のないわたしを背負って、趙宅周老の家に向かった。曰男は松の枝で足跡を消しながらしんがりをつとめた。
幼いときから世の辛酸をなめつくした趙宅周老は、韓興権中隊長にいくつかの質問をしたあと、金隊長の病は過労と栄養失調、ひどい冷えからきた傷寒という重病だが、こじらすと命とりになる、体を暖め汗を十分に出せば、三日ほどでもちなおせるだろうといった。そして、この病気の治療には絶対に安静が必要だと付け加えた。
「金隊長が失神して意識を取りもどせないのは、血液の循環がよくないからです。それがうまくいけば大丈夫だから、心配せずに次男の家でゆっくり休みなされ」
老人は嫁と一緒にわたしの手足をもみながら、韓興権中隊長にこう言ったという。何日も起きあがれないわたしを囲んで憂いに沈んでいた遠征隊員たちは老人の言葉に力を得た。彼らは老人からいわれたとおり、趙英善の案内で向かいの趙景の家に行った。わたしのかたわらには、趙宅周の家族と二人の護衛兵が残った。
趙宅周老は、熱い湯にどんぶり半分ほどの蜂蜜を溶かして、わたしに飲ませたあと、枕元につきそってときどき額に手をのせては病状をおしはかった。しばらくして、蜂蜜を溶かした重湯をわたしの口に含ませた。その夜、わたしにつきそっていた護衛兵の話によれば、その重湯を喉に通したあと、わたしの顔に少しずつ血の気がさしはじめ、昏睡状態からさめたという。うららかな春の日和の大気のように頭がすっきりし、身心ともに綿のようにふわふわ浮きあがるような心地がした。わたしの周囲にはあきあきするほどはてしなくつづく密林の雪景色も、吹雪も、寒さも、耳朶を打つ敵兵の銃声もなかった。ずきずきした頭痛や悪寒や高熱はもちろんなくなっていた。どうしたことだろう。わたしを重態に陥れてさんざん苦しめた病気がすっかり治ったのだろうか。
わたしは心を引き締めて、窓辺をすぎる風の音に耳を傾けた。ブーンと震える障子の目張りの音は、対頭拉子を発った日、老爺嶺の山頂で見た複葉機のエンジンの音を思わせた。わたしの視線は、白い毛の混じった長い眉の下からわたしをのぞいている、見知らぬ老人のいたわるようなまなざしにぶつかった。わたしの右の手首を軽く取っている老人の節くれだった手には、幼年時代、わたしの額や頬を愛撫した万景台の祖父の暖かい手と同じ感触があった。
「ここは、どこですか?」
わたしを見下ろしている謎のような老人に、わたしは低い声で聞いた。
その短い質問は、老人の顔に形容しがたい強い波紋を投げかけた。老人の口元にかすかにただよっていた微笑が、みるみるうちに頬と目のあたりに広がって、大地のように慈しみ深く純朴なしわだらけの顔を神秘な表情に変えた。わたしはそれほど清純で、親しみのある顔を生まれてはじめて見るような気がした。
老人のそばにまんじりともせずに座っていた曰男が涙をこぼしながら、遠征隊員たちが死線を越えて西扁臉子の伐採場から大崴子の谷間にたどりつくまでのいきさつを一気に話してくれた。
「ご老人、ありがとうございます。おかげさまで命びろいをしました」
「いやいや、金隊長は天が下した将帥です。この丸太小屋で生き返ったのは、わしらの力ではなく、天命です」
趙宅周老はまるで天がわたしの命を救ったかのように頭をあげて、天井の隅の方を見あげた。老人の言葉にわたしはすっかり恐縮した。
「ご老人、お言葉がすぎます。わたしを天が下した将帥などとおっしゃるのはおおげさです。わたしは天が下した将帥ではなく、普通の農家に生まれた人民の子であり、孫です。朝鮮の軍人として、まだ、これといって国につくしてもいないのです」
「なんということをいわれます。金隊長のりっぱな戦功を知らん者はおらんでしょう。わしは、こんな人里離れた山奥で焼き畑を起こしてやっと生きているつまらない人間ですが、東北三省のうわさだけはちゃんと聞いています。これ、この方が一昨年の秋、朝鮮の軍隊を率いて、呉司令の部隊と東寧県城を討った、あの有名な金隊長じゃ。早くおじぎをせんか」
わたしが意識を取りもどしたという曰男の知らせで、夜明け前に床から起き出した遊撃隊員と一緒に台所の戸口から入ってきた子や孫たちに、老人はこう高ぶった声でいった。わたしは半ば上半身を起こし、彼らの挨拶に答えた。
官庁の戸籍謄本にもなく、郵便配達夫も通わない深山の丸太小屋からは、ときならぬ笑い声がひとしきり流れ出た。
「いまではこうして楽しく笑っているが、敵の包囲に陥って苦労したときは、目の前が真っ暗でした。もうこれで最後かと思ったほどですから」
金択根小隊長が声をうるませていった言葉である。
「わたしのために、ずいぶん苦労したろうな。君たちが生き残ったのはなによりだ。死ぬまで君たちの恩は忘れない」
わたしはそのとき、涙ぐんだ目でわたしを見つめる戦友たちの顔をまぶたに刻みこんだ。いまでも五十余年前の彼らの顔は、わたしの脳裏にまざまざと焼きついている。ところが名前は半ば以上忘れてしまった。名前だけでも後世に伝えたい気持は山々なのだが、いかんながら、おぼろな記憶力がわたしの願いを裏切ってしまった。半世紀以上に及ぶ月日のあいだに、直接、間接にかかわりあいをもった数千、数万の名前が、その十六人の名前に交錯して、区別がつかなくなったのである。抗日革命史の奥深く埋もれている個々の名前を掘り起こすには、史料の助けを借りなければならないのだが、残念なことに、われわれにそんな記録は残っていない。われわれは、記録を残すために抗日戦争をくりひろげたのではなく、勤労人民大衆が主人となる新しい時代を創造するために、手に武器を取って戦ったのである。
しかし、そんな言いわけをしたところで気が休まりそうにない。いずれにせよ、わたしは自分を死地から救ってくれた忘れがたい戦友の名を半ば以上も忘れてしまった、かつてのパルチザン隊長ではないか。
「ご老人、こんな奥地に追われてこられて、故郷はいったいどこなんですか?」
わたしは血管が青くふくれあがった熊手のような趙宅周老の手に自分の手を乗せて、半世紀の政治史がそのまま刻まれているような老人のしわ深い顔に、憐憫をこめたまなざしを向けた。
「わしの郷里は茂山郡三長面です。日本人の乱暴にたまりかねて、二十九のとき、郷里を捨てて和竜に移ったのです」
趙老人は沈んだ声で答えた。
豆満江を渡った年から、老人は三十年近くのあいだ小作をした。六・一〇万歳事件から二年後、老人一家は老爺嶺を越えて日本稲田工事に登録してある荒れ地を開墾しはじめた。
わたしの眼前には、朝鮮の亡国とともに落ちぶれた一農家の数奇な受難の歴史が、映画のスクリーンのようにくりひろげられた。
老爺嶺を越えた趙宅周老が杭を打ちこみ、土台石を据えたところは朝鮮人の家が三軒、中国人の家が五軒の大崴子という集落であった。その後、朝鮮人の家が十軒に増え、この僻村にも反日自衛隊、婦女会、少年先鋒隊、児童団などの組織がつくられた。しかし九・一八事変の余震で、これらの組織は根こそぎ破壊されてしまった。討伐は村を焼け野原に変えた。村人は焼け跡に家を建て直し、ねばり強く暮らしていった。一九三三年の春、二度目の惨禍が大崴子を襲った。住家がまた火炎につつまれ住民は焼死した。
一九三四年の春、趙宅周一家は大崴子から十二キロほど離れた老爺嶺の山奥に、丸太小屋を建てて引っ越した。それが蜂蜜を溶かした粟の重湯を飲んでわたしが快癒した家である。趙老人の九人家族は、そこから八キロ離れた谷間のはずれに粗末な小屋を建てて焼き畑を耕した。農繁期には、時間を借しんで家族全員が小屋で寝泊まりした。穀物は実りしだい取り入れ、人力で山小屋に運び地下壕に貯蔵したあと、踏み臼で搗いて口を糊した。
素朴で原始的な自給自足の暮らしであったが、趙宅周老はそれに満足した。家族が穀物を持って寧安市街に行くのは、交換に必要なときだけであった。布地、履き物、マッチ、塩、針と糸などを求めるには、どうしても市場で取り引きしなければならなかった。そのほかには、外部との交渉がいっさいなかった。都会の文明は、道路も乗り物も電気もないこの孤立した奥地には顔をそむけた。子どもたちは教育を受けることができなかった。趙老人の訓戒が教育を代用し、崔日華の昔話と十指にみたない歌が文学・芸術のすべてであった。
「ご老人、人の往来のない山奥では、さぞさびしいでしょうね」
うっぷんに近い感情に駆られて、わたしはさりげなく尋ねた。趙老人はわびしそうに笑った。
「さびしいが、日本人の姿を見ないだけでもせいせいします。 島国だってうらやましくありませんよ」
島国という言葉がわたしの胸を刺した。こんな僻地がどうして 島国に比べられよう。朝鮮民族の理想がこれほどまでに惨めになったのだろうか。日本は朝鮮に移民を送りこんで沃土を取りあげているのに、わが同胞は満州の荒野に追われてきてまで、こんな日のあたらない、モグラの巣のような谷間で暮らさなければならないのか。これほどむごい監獄がまたとあろうか。そうだ。それは確かに監獄だった。普通の監獄と違うところがあるとすれば、看守がなく囲いがないだけである。この監獄の最大の看守は日本と満州国の軍警であり、囲いは彼らの脅迫であった。趙老人がこの監獄を 島国にたとえたのは時代錯誤の慰めにすぎなかった。
監獄に閉じこめられていながら、それを楽園だと思う老人の考えにわたしは気落ちした。朝鮮人が趙老人のように現実に甘んずるとすれば、朝鮮はいつまでも再生の暁を迎えることができないだろう、という暗い気持になったのである。
「ご老人、こんなところを 島国と考えるようになったのでは、朝鮮人も落ちぶれたものです。流刑の地で知られた三水や甲山もここよりはましでしょう。日本人が朝鮮と満州にいるかぎり、われわれには 島国も太平な世の中もありえません。いつかは、この山奥にも討伐隊が現れてくることを覚悟しなければなりません」
わたしは老人が不安に駆られるかも知れないとは思ったが、つつみ隠さずに話した。
趙老人は眉をひくひくさせ、絶望をたたえた暗い目をじっとわたしに向けた。
「あの鬼のようなやつらがこの山奥まで襲ってくるようなら、この世に朝鮮人の住めるところはないでしょう。わしら百姓をこんな目に合わせたのはいったい誰です。…わしは引っ越しのたびに、売国五大臣(〔 〕)をののしっているのです」
その日の早朝、わたしと趙宅周老が交わした話はおよそこんなことであった。
翌日から、わたしは床を払って散歩をしたり本を読んだりした。数日後からは軽い手仕事もした。昼は軍事・政治学習を指導し、夜は隊員たちの娯楽会に参加した。娯楽会を催すときは趙宅周老の家に泊まっている二、三人の隊員も、わたしと連れ立って小川の向こうの趙景の家に行った。この狭く暗い難民の山小屋でも、遊撃隊の日課は汪清にいたときのようにきちんと守られた。
それから三、四日すぎて、わたしは隊伍に出発命令を下そうとした。十四人もの大家族がひしめいているところへ、それより多い隊員が居候をして火田民の乏しい食糧をへらすのは、道義にももとる非礼な行為と考えたからである。しかし、わたしの意向は、即座に韓興権中隊長の反対にあった。
傷寒を病んだあとで冷たい風にあたるのは自殺行為にひとしい、そんな無謀なことには同意できないというのである。彼は、わたしが林の中を散歩するのにも反対した。
二十人近い隊員が一日三度食べる食糧は少なくなかった。現在、食糧供給所で成人に供給する定量で計算しても、二十日では四かますになる。いずれにせよ、その家の食糧はわれわれがほとんど食べつくしてしまった。しかし、趙宅周老はわれわれが負担をかけても、困惑し、顔をしかめるようなことがなかった。われわれが迷惑をかけてすまないというと、自国の軍隊を援護するのは人民の当然の道義であり、本分である、迷惑だなんてとんでもない、といってかぶりを振るのである。彼はじつに度量の大きい年寄りであった。
崔日華も心のやさしい女性であった。焼き畑農作なので米はなかったが、粟、大豆、大麦、エンバク、ジャガイモなどの雑穀で日に三度、われわれの好みに合うおいしいご飯を炊いてくれた。打ち豆や粗豆腐のみそ煮も食膳にのせた。彼女は、病みあがりのわたしに肉料理をもてなせないことを心苦しく思った。
「人目をしのんで暮らしているので、家畜を飼わなかったのです。それが残念でなりません。せめて鶏が一羽でもあったら、さっそく将軍にもてなすのですが。十里の先からでも肉を買ってきたいのは山々ですが、討伐隊につかまりそうで、そうもいきません。なんという世の中でしょう…」
彼女の飾り気のない言葉には、深く温かい人情がこもっていた。
「そういわれては恐れ入ります。わたしも小さいときから、青物や干しなっぱ汁を食べて育った普通の百姓の子です。ですから肉のないことなど気にしないでください。にがりがなくて粗豆腐のみそ煮しかつくれないとおっしゃりますが、その粗豆腐のみそ煮と打ち豆のおかげで、こんなに元気になりました」
「平安道の男衆は気性が荒いといわれていますのに、隊長さんはなんとおやさしいんでしょう。娘がいれば平安道に嫁にやりたいくらいです。粗末なおかずですが、たくさん召し上がって、うちですっかり病気を治してください」
わたしが食事をするときはいつも、彼女はかまどの前にうずくまって気をもんだ。食べ残しはしまいかと心配したのである。わたしは食欲がすすまないときも、彼女にすまなくて、食膳のご飯とおかずを無理してでも残らず食べた。そんなとき、彼女の口元にはかすかに微笑が浮かぶのである。
人民のわれわれにたいする思いやりはまったく清らかで影がなかった。それを川の流れにたとえるならば「清流」や「玉流」になぞらえたい。その思いやりは長さでも重さでもはかれない無限のものである。
人民の愛情につつまれて生きる人間は幸せであり、そうでない人間は不幸である。
これはわたしが一生もちつづけている幸福観である。いまでもわたしは、人民から愛されることに最大の生きがいと幸せを感じている。人生第一の冥利はここにあるのではなかろうか。この冥利を知る人だけが人民の真の息子になり、忠僕になれるのである。
趙宅周一家の心づくしで健康は日一日と回復した。わたしは韓興権の反対をおしきって、たびたび散歩をした。家族たちの手助けをして、たきぎを割ったり踏み臼を搗いたりすることもあった。
わたしが大崴子の谷間で趙老人一家の真心こもる看護を受けはじめてから、いつしか十数日がすぎた。わたしは遊撃区に早く帰らなければと考えた。汪清を発ってから、ずいぶん長い月日がたったような気がした。日数からすれば三か月にすぎないが、そのあいだ遊撃区はどうなっているだろうか。遠征隊が汪清に帰ったとき、遊撃区はどういう状態でわれわれを迎えるだろうか。それが気がかりだった。なぜか不吉な思いに駆られた。われわれが八道河子一帯で活動していたとき、東満州から来た連絡員はたびたび、粛反工作のあおりで、間島地方の物情が騒然としているとほのめかした。ある者は反民生団の棍棒に叩かれて革命陣地が崩壊しそうだと嘆き、ある者は粛清が本格化すれば遊撃根拠地が一、二年で壊滅するだろうともいった。遊撃区に帰って、極左的な反民生団闘争の弊害を一刻も早く取り除こうという決心は日に日にかたくなっていった。
ある日、密林の中をそぞろ歩いていたわたしは、韓興権中隊長にそうした決心を告げようと、趙景の家に足を向けた。中隊長は趙景の家の近くにある切り株に腰をおろし、北の空をぼんやり眺めていた。胸に両腕を十文字に組み合わせ、木彫のように黙然と座っている彼の姿には、近づきがたい哀愁が強くただよっていた。わたしの足音に気づいた韓興権は、あわてて目頭をこすって立ちあがった。わたしは、中隊長の目のふちが赤くなっているのを見て不安になった。昨夜なにかあったのではなかろうか。それとも、この大男に人知れぬ悩みでもあるのだろうか。
「韓興権らしくないね、朝からどうしたのだ」
わたしはこういって、彼のまわりをゆっくりとまわりだした。
彼はなぜか、わたしを沈んだ顔で見つめた。中隊長は涙にうるんだ目をしばたたかせ、大きく息を吸いこんでからぽつりぽつりと語った。
「北満州へ行くときは数十人もいたのに、生き残ったのはたった十六人にすぎんのです…。あれほど苦労して組織した中隊なのに」
わたしは彼と一緒に第五中隊を組織したときのことを熱い思いで回想した。第五中隊は十里坪駐屯の汪清第二中隊から分離した新設中隊であった。わたしは第二中隊の一部の隊員を率いて羅子溝地方に行き、そこで新入隊員を補充して韓興権の指揮する第五中隊を組織したのであった。
汪清第五中隊は、わたしが直接率いる中隊でもあった。わたしは大隊や連隊を指揮するときも、つねに第五中隊を引き連れて敵中攪乱作戦をおこなった。汪清第五中隊は東満州遊撃隊の中でも、もっとも戦闘力が強く、戦闘経験の豊かな精鋭部隊の一つであった。その中隊がかなりの犠牲者を出して、わずかの隊員しか遊撃区に帰れなくなったのだから、韓興権が懊悩するのは当然であった。
「第五中隊の損失を思うと、わたしも胸が張り裂けそうだ。しかし、北満州の同志たちに有益なことをしたと自分を慰めている。確かに得るところも大きかった。われわれはむだに血を流したのではない。もういちど部隊を増強して戦友の血の代価を百倍、千倍にして支払わせるのだ」
これは、じつは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
彼は口をかたく閉ざし、北の空をかたくなに見つめていた。そんな簡単な慰めの言葉でいやされる傷ではなかった。深さや強さをおしはかれないのが男の悲哀であろう。彼の沈黙はわたしを失望させたり、腹立たしくさせたりはせず、かえって彼にたいする信頼感を深めさせた。
数日後、わたしは趙宅周老が引きとめるのを振りきって、隊伍に出発命令を下した。老人に別れの挨拶をしようと、丸太小屋の前に整列した隊員たちは厳粛な表情をしていた。
「ご老人、わたしは隊員の背中におぶさってお宅に来ましたが、こうして歩いて遊撃区に帰れるようになりました。おかげで病気を治し命びろいをしました。このご恩はいつまでも忘れません」
わたしは老人一家にそんなふうにしか謝意を表せないのがもどかしかった。感情の強さと表現の乏しさは比例するものらしい。趙老人はわたしの言葉に恐縮した。
「ひときれの肉さえもてなせなかったわしらに、それほどまで感謝されては困ります。金隊長をもっと引きとめられないのが残念です。けれども、朝鮮のためにどうしても早く発たなければならないものなら、しいてとめようとは思いません、国が独立したら、わしらもこの山里を離れて、故国に帰ります。わしらは金隊長だけを頼りにしています」
「みなさんが故郷を捨てて、はるばるやってこられた異国の地でも、こうして日の目を見ることができずに隠れて暮らさなければならないのは、わたしたち朝鮮の若者の責任です。けれども明るい世の中で暮らせる日はきっときます。春になれば敵の討伐がもっと激しくなり、この谷間にも銃声が聞こえるようになるでしょうから、面倒でも羅子溝方面に引っ越してはいかがでしょうか。そこは革命勢力が強いのでここよりは安全でしょう」
わたしはこう念を押して大崴子の谷間をあとにした。
崔日華はその日、夜通しで粟や大麦を搗いてこしらえた三日分の食糧、そしてシラカバの皮に包んだ唐辛子みそとにぎり飯をわれわれの背のうに入れてくれた。長男の趙英善は、老爺嶺の積雪を掻き分けて八人溝まで案内してくれた。
その後、趙老人の家の近くでしばしば討伐隊の銃声が響くようになった。わたしの予言が的中したのである。夜中に食糧と衣類をまとめてひそかに大崴子を発った老人一家は太平溝に移り、小作農になった。
わたしはその年(一九三五年)の六月、太平溝で老人一家と再会した。老黒山で悪質な靖安軍部隊を壊滅させた東満州の遠征部隊は、そのとき太平溝の隣村の新屯子に滞在して活発な大衆工作をくりひろげていた。わたしは太平溝村にも有能な政治工作員を派遣した。彼らはわたしと一緒に大崴子の谷間で趙老人一家の世話になった隊員だった。彼らが道ばたでたまたま趙宅周老に出会い、わたしに報告したのである。
わたしはその日のうちに趙宅周老を訪ねた。半年前、失神状態で老人の家に背負われていったわたしである。あのときは、わたしのそばには北満州の荒野で疲労困憊した十六人の隊員しかいなかった。しかし、その日は十六人ではなく、大部隊を率いて元気な体で老人を訪ねたのである。だが、生と死の岐路にあったわたしを、人間としてなしうる最大の誠意をつくして看護し、世話をしてくれた命の恩人たちを訪ねるにしては、荷があまりにもみすぼらしく軽かった。わたしにはいくらかの肉と一、二か月分の食糧が買える金しかなかった。そのわずかの肉や金が数十頭の家畜であり荷馬車一杯の金貨であったら、どんなにすばらしいだろうかとさえ思った。
徳に徳で報いることのできないときのきまり悪さ、面目なさをなんと言いあらわせばよいだろうか。しかし、わたしは臆することなく胸を張って道を急いだ。なにはなくても、生きてまた会える幸運にあずかったではないか。わたしも無事だし、趙老人一家もみな達者だというから、これにこしたことはない。
貧しさがありありと読みとれるみすぼらしい居間、そこでほころびた衣服をまとい、狭苦しくすごしている大家族。窮状はきわみに達していたが、わたしを迎えた彼らの顔に明るい笑みが浮かんだ。わたしは土縁の石に腰をおろして老人とつもる話をした。老人は靖安軍を撃破した革命軍の戦いぶりを知りたがり、わたしは老人一家のまずしい暮らしに気をくばった。
「ご老人、役牛もなしに、農事やたきぎの運搬はどうなさっているのです?」
これは、わたしが大崴子に滞在していたときから気づかっていたことである。
「人力でやっています。十四人がみんなで牛や馬になって犂を引き、たきぎを運ぶのです」
六十年の生涯つきまとった貧困を意にもとめない趙宅周老が、その日、わたしの目にはことさらおおように見えた。
「これだけの大家族を養うのは、たいへんでしょうね」
「それはもう…。でも、土地を耕す苦労がいくら大きいといっても、金将軍の労苦に比べたら、なんでもありません。このごろは食べるものがなくても、いくら貧しくても胸を張って生きています」
「なにかよいことでもあったのですか」
「金将軍の軍隊が日本軍をこっぴどい目に合わせているので、せいせいしましてね。革命軍が連戦連勝しているうわさを聞くと、ひもじいことなんかなんでもなくなります。大崴子で金将軍を見送ったときは目の前が真っ暗でした。わしの家族ほどにしかならない軍隊になにができようかと思いましてね。ところがきのう、老黒山から凱旋する金将軍の軍隊を見ると、何百人にもなっているじゃないですか。それでわしは心の中で、『もう大丈夫、朝鮮は勝った』と思って膝を打ちました」
大崴子では主に民生問題ばかり話していた趙老人が、その日は驚いたことに革命軍の戦果だけを話題にした。半年という歳月は彼を別人に変えていた。世間に背を向けた無気力な、抵抗というものを知らない隠遁者が、自ら決別した世間に帰り、明日への希望をいだいて明るく生きる楽天家になったのである。
(軍隊が戦いに勝つと人民も強気になる!)
これがその日、趙老人から受けた衝撃であった。
わたしは老人の家を出るとき、暮らしの足しにといくらかの金を置き、翌日は隊員を差し向けて、老黒山の戦いでろ獲した一頭の白馬を届けた。いくぶんやせてはいたが、よく太らせて役畜として使ってもらおうと思ったのである。老人一家がわたしにつくした誠意に比べれば、あまりにもわずかな償いであった。金や財物だけで、この一家への借りを満足に返すことができるものではない。
波乱の多い運命のたわむれは、その後、わたしと超宅周一家を結びつけていた血縁的なきずなを断ち切ってしまった。当時、わたしの主な活動舞台は白頭山地区であった。白頭山地区に進出してからは、太平溝村には一度も行けなかった。わたしが老人一家の行方を知ったのは一九五九年の秋だった。中国東北地方におもむいた抗日武装闘争戦跡地踏査団が寧安で崔日華を探し出したという報告がわたしに届いたのである。
数十年間行方を探しつづけた大恩人が外国ではあるが健在なのだ! すぐにでも国境を越えて寧安に行って恩人たちに礼をいい、それから先達の夢が花と咲いている祖国に招いて、彼らとともに歳月の苔がむした足跡をたどり、なつかしい思い出を語り合いたかった。
しかし、わたしとその一家のあいだには国境という障壁が横たわっていた。複雑な手続きをしなくてはかなえられない対面!そうした障害も月日とともにつのるわたしの熱望、対面を待ちわびる心を阻むことはできなかった。
たとえ何か月でもいいから、普通の旅券を持った一市民になって、パルチザン時代のように地下足袋に脚絆、背のうといった格好でにぎり飯をほおばり、ズボンの裾をたくしあげて川を渡り、草木に埋もれた昔日の激戦場をめぐって、戦友の墓に芝生を植え、そして、わたしを命がけで助け、守ってくれた恩人たちに挨拶がしたかった。
庶民生活へのあこがれとノスタルジアは、どの政治家にも共通した心理らしい。国家管理に責任を負った首班が一般市民の生活をうらやましがるからといって、なにも不思議なことはない。
解放後、たびたび中国とソ連を訪問する機会があった。満州とソ連の中央アジア地方には、わたしが会いたい戦友と恩人が多かった。しかし、国家首班という公式的な職務のために、訪問日程に私事をさしはさむことができなかった。わたしの関心は、抗日、抗米の二度の大戦で破壊され、零落した祖国の再建にそそがれていたのである。
もし、わたしが一般市民の資格で、ソ連や中国を訪問したとしたら、抗日戦争時代の縁故者と容易に会えたことであろう。わたしがおりにふれて一般市民の生活を羨望するのは、このためである。
国家を指導する国家首班が日常生活で束縛を感ずるといえば「そんなことがありうるだろうか?」と首をかしげる人がいるかも知れない。例えば、ある地方に現地指導に出かけようとすると「主席、その地方は天気が思わしくありません」といい、どこそこへ行って誰かに会おうとすれば「主席、そちらは沼地で車が入れません」といってとめられるのである。もちろん、わたしのためを思ってのことであるのだが、わたしにとってはやはり束縛にならざるをえないのである。
翌年、崔日華は家族を連れて祖国に帰った。趙宅周老の和竜行きからはじまったこの一家の長い放浪生活は、六十年のきびしい試練をへたあと、その子孫たちの平壌到着で終わりを告げた。独立した祖国、自由な祖国、廃虚の上に自立の旗をかざし立ちあがる祖国の雄大な姿を、趙氏一家はどのような心境で眺めたであろうか。
崔日華が帰国したのは、国際世論が「資本主義から社会主義への民族の大移動」と指摘した在日同胞の帰国が実現し、全国が沸いた歴史的な激動期であった。この奔流に乗って、趙氏一家も帰国の途についたのである。当時、崔日華は六十七歳であった。大崴子の谷間の日陰に積もった雪が吹きよせたのか、彼女の頭は白髪におおわれていた。梁世鳳夫人もそうであったが、彼女もはじめはわたしの手を取って泣いてばかりいた。
「こんなうれしい日に、どうしてお泣きになるのですか。わたしたちは、生きて、こうしてまた会えたではありませんか」
わたしが崔日華の涙をぬぐおうとハンカチを取り出すと、彼女は目頭をチョゴリの付け紐で押さえた。
「首相さまが傷寒で苦労されたことを思い出したのです」
「わたしの苦労はなんでもありません。苦労はあなたや趙宅周老がなさったのです。わたしはその恩が忘れられず、祖国解放後も満州に人を送ってご家族を探しつづけました。太平溝でお別れしたのは確か一九三五年の夏でしたね。討伐が激しくなって寧安に行かれたそうですが、その後はどうすごしてこられましたか」
「いただいた白馬でたきぎを運び出し、それを売って命をつなぎました。首相さまが白馬を下さらなかったら、わたしたちは飢え死にしたに違いありません」
「白馬が役に立ってわたしもうれしく思います。趙宅周老は一九五三年に亡くなられたそうですね」
「はい、義父は生前よく首相さまのことを話していました。アメリカの飛行機が平壌を空襲したと聞いては、『
趙宅周老が最後までわたしを忘れず、わたしの健康を案じたという彼女の言葉に、わたしは胸が熱くなった。
いつまでも変わらないのは人民の情であった。この世の中のすべてが変わっても、われわれにたいする人民の愛は変わらなかった。その愛は、きのうからきょうに受け継がれ、さらに明日に昇華して、どんな逆境や災難にあっても、色あせることなく、宝玉のようにいつまでも光を放つのである。
「七年だけもっと長生きされていたら、祖国にお帰りになれたのに、残念です。わたしは、いまでもときどき大崴子の丸太小屋を思い出します。そこに行かれたことがありますか?」
「行けませんでした。いまでは、とてもあんな山奥に住めそうもありません」
「もう、そんな山里に住むようなことはないでしょう。一生苦労されたのですから、これからはお子さんの世話になって安らかに余生をすごすのです。わたしが住宅を選んで差し上げましょう」
一九六一年四月十五日、わたしの誕生四九周年を祝って、わたしの家を訪れた崔日華は、わたしに一本の万年筆を贈ってくれた。彼女は、はにかみがちに記念品の説明をした。
「首相さまがくださった白馬が、この万年筆になったのです。首相さまからいわれたとおり、白馬を太らせて野良仕事につかいましたが、軍馬に徴発されそうなので、牛に替えました。一家はその牛を頼りに生きのびることができたのです。解放後、その牛を合作社に出しました。祖国に帰るとき牛の代金をもらい、この万年筆を買ったのです。首相さまがお仕事に実りをあげ、万年長寿なさるよう願って、この万年筆を差し上げます。どうかわたしの気持を汲みとっておおさめください」
わたしは、白馬が万年筆に変わるまでの趙宅周一家の歩みに凝縮された、朝鮮人民の受難の民族史を感慨深くふりかえった。
「ありがとうございます。あなたがおっしゃったように、長生きして、人民のためにつくしたいと思います」
その年の八月十五日、全国の家庭が光復節十六周年を祝っているとき、わたしは大同江畔の崔日華の家を訪れた。新世帯らしく清新な感じが強くただよう部屋に、祝日を楽しむ子どもたちの明るい笑い声があふれていた。その家は作家や抗日革命闘士のためにわたしが場所を選定し、設計図を見たうえで建てたアパートであった。そのころは平壌にそれだけりっぱなアパートはほかになかった。
平壌市民は崔日華の住宅があるこの慶上洞一帯を平壌の都心と見ていた。
「どうです、家が気に入りますか」
「もちろんですとも。こんなりっぱな家に住むのははじめてです」
彼女は新居からの眺めを自慢したかったのか、大同江に面した窓を開け放った。涼しい川風が吹きこんで、労苦の日々をしのばせる彼女の白髪をやさしくなでた。
「一生山奥で暮らしてこられたあなたのために川辺の家を選んだのですが、山がなつかしくありませんか」
「いいえ、わたしは、あの大同江を見るほうが好きです。川辺で暮らすと体も丈夫になるような気がします」
「それでも山が恋しくなるときがあるかも知れません。大崴子は人の住めない僻地ですが、それでも空気は澄んでいましたね。山の空気がなつかしくなったら、牡丹峰に登ってください。山をなつかしがるだろうと思って、牡丹峰の近くに住宅を選んだのですから、散歩もなさってください。この先もっとよい家が建ったら、新しい家に越すことにしましょう」
「首相さま、わたしたちはこの家で満足です。ただ、首相さまのおそば近くに住むことができるのですから、それで結構です」
崔日華は、玄関の外まで見送ってくれた。別れの挨拶をしようと手を差し出すと、彼女はその手を取って、思いつめたように尋ねた。
「首相さま、おそばにりっぱなお医者さんがおりますか」
わたしはだしぬけにそんな質問をされてとまどった。
「医者は大勢います。なぜですか」
「首相さまが傷寒で苦労されたことが思い出されたのです。あんなたちの悪い病気にかかったら、たいへんですから」
「それはご心配なく。わたしは元気です。それに、そんな重病にかかっても、こわくありません。傷寒を上手に治す崔日華さんが近くにいらっしゃるじゃありませんか」
彼女と別れたわたしは深い思いにとらわれ、祝日の雰囲気でにぎわう首都の中心街を長いあいだ見てまわった。二万所帯建設運動ののろしがあがった勝利通り、人民軍通りとともに、平壌の中心街は趣のある公共建築物や高層アパートが立ち並んで、街づくりが完成されつつあった。戦後八年のあいだに数万の首都市民が壕舎を引き払い、復興建設の槌音高い首都の新築アパートに引っ越した。
しかし、建設事業はまだスタートしたばかりであった。首都市民の大半は、まだ文明以前のみすぼらしい壕舎や一間の家に住んでいた。彼らは抗日、抗米の戦火の中で、地球上のどの民族も経験したことのない、悲惨な犠牲と苦痛を強いられた人たちである。朝鮮人民ほど血を多く流し、寒さに震え、飢えに苦しんだ人民がほかにあろうか。彼らにりっぱな住宅と織物をもっと多くあてがい、充実した学校、休養所、病院をさらに建てよう。そして、祖国にあこがれる海外同胞をもっと多く帰国させよう。これが、わたしを傷寒から救い、生命を救った人民のために、わたしのなすべき畢生の仕事ではなかろうか。わたしは夜通しまんじりともせず、こう考えた。
崔日華は、数年前故人となり、愛国烈士陵に眠っている。われわれを八人溝まで案内した彼女の息子趙英善と水を汲んでくれた娘はすでに七十代の老人になっている。彼らが解放された祖国で、後半生を送っているのは幸いなことである。
平壌から大崴子までは数百里の道程である。豪雪に閉ざされたあの閑寂な谷間に別れを告げたときから、いつしか六十年近い歳月が流れた。しかし、きびしい寒風から趙老人の山小屋を守ってくれたあの密林のそよぎは、いまもわたしの耳に休みなく聞こえてくるのである。
注 釈
〔1〕 高木健夫(一九〇五~一九八一) 福井県出身。読売新聞社など各新聞社で記者として活躍。一九七二年から日朝文化交流協会理事長を務める。数回にわたって訪朝し、抗日武装闘争参加者の回想資料、日本軍と官憲の回想資料および極秘文書、読売新聞社長春支局長をしていたとき取材し、目撃した事実資料などにもとづいて
〔2〕 島国 朝鮮の古典小説『洪吉童伝』の主人公洪吉童が、当代の社会を呪いながら夢見たヤンバン(両班)と平民の身分差別のない住みよい理想国。( ページ)
〔3〕 ヤ・テ・ノビチェンコ(一九一四~一九九四) ロシアのノボシビルスク州出身。一九三八年ソ連赤軍に入隊して極東地方で服務。対日戦争の際、ソ連軍の某機械化部隊で服務し、日本の敗亡後、朝鮮駐屯軍で服務。一九四六年三月一日、平壌駅前広場で催された三・一運動二十七周年平安南道祝賀大会の最中、反動分子が幹部壇に向かって投げつけた手榴弾を身をもって防いで朝鮮革命の首脳部を守り、重傷を負う。一九四六年十二月、健康を回復し、傷痍軍人として除隊し、帰郷した。( ページ)
〔4〕 金光哲(一九六五~一九九〇) 朝鮮人民軍将校。一九九〇年一月、戦闘訓練中、破裂寸前の手榴弾の上に身を伏せ、十余名の兵士を救って犠牲になる。( ページ)
〔5〕 韓英哲 朝鮮人民軍兵士。一九九二年二月(当時二十一歳)戦闘訓練準備中、破裂寸前の手榴弾の上に身を伏せ、戦友たちを救って犠牲になる。( ページ)
〔6〕 桂月香 一五九二年六月、日本侵略軍が平壌城を占領したとき、敵将小西を誅殺するよう金応瑞将軍に手を貸した愛国的な女性。( ページ)
〔7〕 論介 壬辰祖国戦争(文禄・慶長の役 一五九二~一五九八)の時期、晋州城が日本軍の手に落ちたとき、敵将の一人を道づれに高い岩壁から川に身を投じた愛国的な女性。( ページ)
〔8〕 一二一一高地 朝鮮の東側中部に位置。アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味が引き起こした朝鮮戦争(一九五〇・六~一九五三・七)の時期、軍事戦略上の重要拠点となった高地。この高地の防衛戦士たちは寸土も敵に渡すな、という朝鮮人民軍
〔9〕 春香、李夢竜 李朝時代の代表的古典小説『春香伝』の主人公たち。ヤンバン(両班)と平民の身分上の不平等を批判し、青春男女の愛と人間性の尊さを説く。( ページ)
〔 〕 姜鎮乾(一八八五~一九六三) 咸鏡南道利原出身。一九一九年の三・一人民蜂起に参加。その後、反日独立団体の「興業団」という武装団体を組織。三水郡嶺城警察官駐在所の襲撃をはじめ二十余回の襲撃戦闘を指揮。一九二三年八月、日帝に逮捕され、無期懲役刑を言い渡され、長期間監獄生活を送り、解放後、一九四六年から党と国家の要職に就いて活動。( ページ)
〔 〕 李鏞(一八八八~一九五四) 咸鏡南道北青出身。一九一八年中国浙江省の陸軍士官学校を卒業。「高麗義勇軍」を組織し、当時のソ連赤軍とともに白衛軍の残党を一掃する戦闘に参加。その後、故郷へ帰り、朝鮮人民革命軍政治工作員の影響を受け、祖国光復会会員になって抗日武装闘争を支援。一九四八年から都市経営相、司法相、無任所相などを歴任。( ページ)
〔 〕 李寿福(一九三三~一九五一) 朝鮮人民軍兵士。平安南道順川出身。アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味が引き起こした朝鮮戦争の時期、一二一一高地に連なる無名高地の奪還戦闘の際、敵の銃眼をわが身でふさぎ、部隊の突撃路を開いて戦死。( ページ)
〔 〕 白後家 慈善家白善行の別称。平壌出身。資産家でありながら一生を質素に暮らし、財産を社会事業のために提供。橋梁や平壌公会堂の建設、民族教育の奨励などのために莫大な金額を寄付。二十歳前に夫を亡くして後家となったので白後家と呼ばれ、八十の生涯を終えるまで独身で通す。( ページ)
〔 〕 関部隊事件 汪清の李光の秘密遊撃隊が関保全部隊という中国人反日部隊の日本軍への投降を防ごうとして、その武装を解除した事件。これを機に、関部隊は朝鮮の革命家にたいするむごい復讐戦を挑む。これによって、遊撃隊と中国人反日部隊の関係は悪化し、遊撃隊の活動は難関に直面する。( ページ)
〔 〕 黒河事変 分派分子の派閥争いによって、一九二一年六月、ロシアの極東地方にある自由市で起こった朝鮮独立軍同士の流血の衝突事件。一名「自由市事変」ともいう。( ページ)
〔 〕 亀甲船 十六世紀、朝鮮で建造された世界最初の鉄甲船。豊臣軍勢との海戦で威力を発揮した。( ページ)
〔 〕 売国五大臣 一九〇五年十一月、日本が不平等で侵略的な「韓日協約(乙巳五条約)」を強要した際、それに屈した五人の売国大臣―― 学部大臣李完用、内部大臣李址鎔、軍部大臣李根沢、農商工部大臣権重顕、外部大臣朴斉純。乙巳五賊ともいう。( ページ)