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朝鮮で行われた大規模の耕地整理

    朝鮮では、1998年から農業生産を増やすための自然改造事業の一つとして、数段階にわたって大規模の耕地整理を行なった。

    朝鮮で穀物生産量を増やすためには、耕地面積を増やし、農業生産の機械化の比重を高めるべきである。そのためには、ちっぽけな田圃の多い耕地を決定的に整理して規格田圃に作らなければならない。ちっぽけな田圃を整理して規格田圃に作れば多くのあぜがなくなって土地面積が増え、整理された規格田圃では機械を使って営農を行なうことができる。

    朝鮮では、世紀にわたって代々に譲り渡されてきたちっぽけな田圃を社会主義の土地らしく大規模の田圃に作り変える雄大な目標をたてて江原道、平安北道、黄海南道、平壌市と平安南道の耕地を整理する事業を行ない、大きな成果を収めている。

    朝鮮における大規模の耕地整理は、金正日総書記の直接的発起と指導のもとに行なわれた。

    金正日総書記は次のように述べている。

    「耕地整理は国の富強発展のための大自然改造事業であり、万年大計の愛国偉業です。」

    金正日総書記は1998年5月、江原道昌道(チャンド)郡大白(テベク)里の小さな田圃を見ながら朝鮮の土地を一新させる遠大な構想を温め、朝鮮の中部東海岸に位置している江原道から先に整理するようにした。

    元々、江原道はごたごたしたちっぽけな田圃が多い地帯として知られた所である。それで、昔から田圃を耕す牛が回る所もなくて牛が入れなかったとか、ある農民が失った自分の田圃一つを探すために一日中さ迷い、夕方になって脱いで置いた傘の下で探したという逸話が伝えられていた。

    このように、不利な地帯で先に耕地整理を行なえば、それより有利な条件を持つ他の道でも耕地整理に自信を持って取り掛かるようになるであろう。

    金正日総書記は、こういうところから江原道の耕地整理に大きな意義を付与し、軍民が力をあわせて江原道の耕地整理を短い期間で完成するよう大胆でスケールの大きい作戦を示した。数回にわたって江原道の耕地整理現場を訪ね、工事を早める上で提起される問題とその遂行方途を明らかにし、設備と資材なども優先的に保障するよう措置をとってくださった。

    こうして、江原道の耕地整理は1998年10月から本格的に開始され、翌年4月まで成功裏に完成された。この期間に、3万6千余ヘクタールの耕地が規格田圃に整理された。17万2千個の小さな田圃と5449Kmのあぜがなくなり、その代わりに1700余ヘクタールの耕地面積をもっと得るようになった。

    金正日総書記は江原道の耕地整理に次いで平安北道の耕地を整理するようにし、それを賢明に指導した。総書記は、総力量を集中して早いうちに平安北道の耕地整理を完成し、江原道と違って水溜りを埋めながら田圃の整理を行なわなければならない実情に相応しく、耕地整理の地域別順序、目標と段階、整理の規模、条件保障など、すべての問題を詳しく指導した。

    江原道の耕地整理から経験を積んだ人民軍兵士と建設者たちは、平安北道の耕地整理も1999年10月から翌年5月まで成功裏に完成した。雲田(ウンジョン)郡と博川(バクチョン)郡から龍川(リョンチョン)郡に至る西海沿岸の協同農場と寧辺(ニョンビョン)郡のカンハ原、泰川(テチョン)郡のハンドゥレ原から義州(イジュ)郡の興南(フンナム)原に至る中部および山間地帯の田畑をはじめ、西海地区の穀倉地帯である平安北道の5万5千余ヘクタールの耕地がわずか5ヶ月も満たない期間に大規模の規格田圃と整理された。この過程に、53万1340余個の小さな田圃が14万9384個の規格田圃に整理され、延長距離2万9千余Kmのあぜが1万6千余Kmと縮まり、3500個の水溜りが190余個に整理され、数百余ヘクタールの新しい土を得るようになった。

    特に、平安北道の泰川郡のハンドゥレ原がりっぱに整理された。「ハンドゥレ原」という地名は昔、水源がなくて小川の底を掘って少しずつ溜まる水をハンドゥレ(ひとつるべ)ずつ汲んで営農をしたということから由来したと言う。解放前、この原を占めていた地主が田圃ごとに棒をさして自分の土地を標そうとしたが、あまりにもちっぽけな田圃が多くて間違ってしまい、隣の地主の田圃にも棒を差してしまったところ、お互いに喧嘩をしたという話も伝われている。それほど小さな田圃とあぜばかりであった。

    ハンドゥレ原は整理される前に1万3130余個のちっぽけな田圃とそれを囲む1449余Kmの畦、曲がりくねた小川、無秩序な牛車の道になっていた。

    このごたごたした田圃とくもの巣のようだったあぜがわずか2~3ヶ月の間に、自動車、トラクターが通れる真っ直ぐな道路と灌漑水路の流れる、機械化可能な田圃に整理された。

    金正日総書記は江原道と平安北道の耕地整理の後、また黄海南道の耕地整理を発起し、何回も現地指導をしながら賢明に導いた。こうして2000年の秋から翌年の春まで、2001年秋から翌年の春までの2段階にわたって10万余ヘクタールの耕地が大規模の規格田圃に整理された。この日々にほぼ75万の田圃が34万1700余りに、4万9600余Kmに達する曲がりくねったあぜ道が3万2200余Kmとなり、多くの水溜りがなくなった。小さな田圃が規格田圃に整理されたことにより、2310余ヘクタールの耕地面積が増えた。

    2002年10月から朝鮮では、また平壌市と
平安南道の9万4000余ヘクタールの耕地整理工事を始めて短期間に完成した。

    朝鮮で行なわれた大規模の耕地整理は、農業生産の物質的・技術的土台をより強固にし、穀物生産を決定的に増大させうる確固たる展望を開いた大変革であった。