偉大な
主席は新社会建設に奮い立った発展途上諸国の前途に難関が横たわった時、発展途上諸国が進む道を示し、私心のない支援を与えた。
チュチェ61(1972)年10月、ブルキナファソ政府の親善代表団が朝鮮を訪問した。
主席は国事で多忙な中でも代表団を接見し、貴重な教えを与えた。
主席は彼らの朝鮮訪問を歓迎し、小国の代表団が互いに往来する過程を通じて団結し、知らないことは互いに学び、ないものはお互いに交換して新しく独立した諸国が一日も早く富強な国となり、再び帝国主義の植民地にならないように努力すべきであると教示した。
代表団のメンバーたちは主席の教示を受けて崇高な感情につつまれた。
アフリカの西部に位置しているブルキナファソは長期間、植民地化され、困難な闘争をくり広げて1960年に独立を成し遂げ、新社会建設の道に入った。
しかし、それは口でいうほど容易いことではなかった。地下資源は豊富であったが、外来侵略者の植民地統治の後腐れで工業の土台は貧弱であった。
代表団のメンバーたちはこうした自国の実情を詳しく調べ、教えを与える主席を限りない激情の中で仰いだ。そうした彼らに主席は、朝鮮労働党が堅持している自主的立場について話しながら、われわれはチュチェ思想を指導的指針とし、革命と建設のすべての分野で自主、自立、自衛の路線を徹底して貫徹していると教示した。
彼らは主席の教示を肝に銘じた。
事実、新社会建設に奮い立ったブルキナファソは自主権を守るために努力したが、経済分野でかつての宗主国との従属関係を断ち切らずにいた。
経済的発展を遂げようと新しい5ヵ年計画を立てて実践段階に入ったが、必要な資金の大部分を外部から調達していた。
主席はこうした情況を調べ、代表団のメンバーたちに政治的自主性を守るためには経済力を強化しなければならないとし、経済的に立ち遅れた諸国人民の頭の中には自然に発展した国々にたいする事大主義思想が生まれるようになると、大国を崇拝し大国に依存するようになれば自国のものはみな悪く、他国のものはみな立派に見えるようになり、ひいては大国に盲目的に追随するようになると教示した。
そして友人同士、困難な人同士で互いに分け合って食べることは別の問題だが、困難な人々が大国に訪ねていって何かをねだると必ずそれらの国は付帯条件を出すようになり、結局は大国に経済的に従属され発言権も持てないようになると教えた。
代表団のメンバーたちの表情は深刻になった。主席の教示は西側に期待をかけていた彼らに大きな衝撃を与えた。
主席はわが国で自立的民族経済を建設し、農業の物質的・技術的土台をしっかり築いている事実について話してから、自国の農業を発展させる考えはせずに、食べるものがないからといって他国に物乞いに行くのは自主性のない表現であると話した。
主席はわが国で揚水機をつくった経緯について話しながら、最初は物事がうまく行かなくて苦汁を多くなめたが、決心して取り掛かると大型の揚水機を作り出した、そのように作り出した用水機をもってわれわれは全国の水利化を自力で完成したと感慨深く回顧した。
続いて互いに助け団結すれば大国の助けがなくてもいくらでも発展できる、帝国主義者は新しく独立した国々を援助するかのように見せかけながらそれを口実に、それらの国を政治、経済、軍事的に従属させようとすると強調した。
代表団の団長は興奮を抑えず、主席にこう申し上げた。
「実に自主性は私たちの生命です。私たちが生きる出路は、ひとえに自主性を守る道です。私たちは閣下から与えられたこの貴重な鍵を手にして帰ります」
代表団のメンバーたちは政治における自主は、ひとえに経済における自立を通じてのみ実現できるという真理を自覚し、新たな決意に満ちて祖国に帰った。
主席の教示を受けて進路を探した国はただブルキナファソだけではない。ギニアを始めとした多くの国の政府人士が主席の接見を受けて新社会建設における成功の秘訣はほかならぬ自主性を守るところにあることをはっきり知るようになった。
実に、