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回顧録「世紀とともに」第2巻

    

      目   次

    

    

     第四章 新しい進路を探求した日び

    

      1 孫貞道牧師

      2 きびしい春

      3倫会議

      4 最初の党組織――建設同志社

      5 朝鮮革命軍

      6 革命詩人 金赫

      7 一九三〇年の夏

      8 豆満江を渡って

      9 「理想村」を革命村に

        忘れえぬ人たち

     第五章 武装した人民

    

      1 受難の大地

      2 九・一八事変

      3 武装には武装で

      4 血戦の準備

      5 新しい武力の誕生

    

     第六章 試練の年

    

      1 南満州へ

      2 最後の姿

      3 喜びと悲しみ

      4 合作は不可能か?

      5 団結の理念のもとに

      6 救国軍とともに

      7 小沙河の秋

      8 羅子溝の台地で

    

    

       第四章 新しい進路を探求した日び

                      (一九三〇年五月~一九三〇年十二月)

    

      1 孫貞道牧師

    

    

    わたしは満州の情勢がきわめて険しいときに出獄した。

    反日読書会事件で全市が騒然とした一九二九年の秋と同様、吉林の街には戒厳状態を思わせる緊迫した雰囲気がただよっていた。道路の四つ角や官庁の建物の周辺では督軍署の憲兵が通行人を検問し、あちこちの路地で家宅捜索をする武装軍警の姿も目についた。

    李立三の極左路線が災いし、満州全土が苦痛にあえいでいた時期で、殺伐とした空気が支配していた。そのころ満州地方では五・三〇暴動が絶頂に達していた。

    わが国の史家が五・三〇暴動と呼ぶこの闘争を、中国人は「赤色五月闘争」といっている。われわれがそれを五・三〇暴動というのは、上海における五・三〇惨殺五周年にさいして展開された闘争であり、また五月三十日にこの闘争が絶頂に達したからである。

    中国共産党の指導権を握っていた李立三は、一九二五年五月の上海市民の英雄的闘争を記念して、全国の労働者、学生、市民の三派がストライキを決行し、同時に暴動を起こしてソビエト遊撃隊を創建するよ

    う全党に指示した。

    この路線が伝えられると、満州省委員会傘下の革命組織は李立三の提唱した「一省または数省における最初の勝利」というスローガンをかかげて大衆を動員し、各地で「突撃隊式」集会を開き、暴動を起こした。東満州の市街地と農村には暴動を呼びかけるビラや檄文が貼られた。

    五・三〇暴動がはじまると、共産主義者にたいする敵の攻勢はいつにもまして強化された。

    その波は吉林にもうち寄せていた。

    わたしが出獄して真っ先に訪ねたのは牛馬巷の孫貞道牧師の家だった。七か月のあいだ、獄中のわたしの面倒を見てくれた孫貞道一家に礼を述べて発つのが道理だと思ったからである。孫貞道牧師は、わが子が出獄したかのように喜んで迎えてくれた。

    「軍閥がおまえを日本側に引き渡しはしまいかとずいぶん気をもんだ。懲役をまぬがれて無事釈放されたのは、まったく幸いだ」

    「先生が援助してくださったおかげで、獄中でもそれほど苦労しませんでした。わたしのため看守たちにもずいぶんお金を使われたそうですが、どうお返しをしたものかわかりません。先生のご恩は一生忘れません」

    そのころ牧師は、中国本土へ転居する準備をしていた。わたしは孫貞道牧師に、なぜ急に吉林を発つのかとたずねた。

    孫牧師は溜息をつき、さびしそうに笑った。

    「張作相も頼りにならなくなったから、もうこの吉林でわたしを保護し、後援してくれる人はいない。

    張作相が朝鮮人を見離したのだから、日本軍が攻めてきたらどうなる? 三府が統合すれば独立運動が翼の生えた竜馬になると思ったのに、竜馬はおろか内輪もめで一日として安らかにしていられないのだから、ここでがんばっていたってしようがないではないか」

    中国本土には、彼が上海臨時政〔1〕府の議政院副議長や議長をしていたころ、親交のあった人もおり、興士団時代の同僚もいた。孫貞道が本土行きを思い立ったのは、彼らともう一度手を取って独立運動をさらに積極的に進めようとしたからではなかろうか、とわたしは思った。

    孫貞道牧師は、日帝の満州侵略は時間の問題だが、成柱はこの先どうするつもりかとたずねた。

    「わたしにはほかに道がありません。軍隊を大きくつくって日帝と戦うつもりです」

    孫牧師は驚いて、わたしを見つめた。

    「武器をとって日本に立ち向かうというのか?」

    「そうです。ほかに活路がないではありませんか」

    「日本が世界の五大強国の一つだということを忘れてはいけない。義兵や独立軍も日本の新式兵器の前では歯が立たず、みなつぶれてしまった。だが、どうせ決心したことなら、大胆にやってみることだ」

    わたしが吉林に来たころにくらべ、牧師の家は雑然として冷えびえとした感じがして、わたしはうらさびしくなった。以前この家では、蓄音器の音や時局を論ずる独立運動家の活気にみちた声が絶えなかった。孫牧師を訪ねる敬虔な信者の姿も見られ、少年会員のうたう『風よ吹くな』というもの悲しいメロディーも聞かれたものだった。

    しかし、それらすべては跡形もなく消え失せてしまった。牧師の家に集まる常連はみな、柳河や興京、上海や北京などに去り、『皇城の旧址』や『放浪の歌』の切々としたメロディーを流していた蓄音器も黙ってしまった。

    孫貞道牧師もしばらく北京に行っていた。北京は上海臨時政府の創設期に、牧師と志を同じくした著名な歴史学者で文筆家の丹斎申采浩が活躍したところであった。そこにはほかにも孫貞道先生の同志が多かった。

    牧師が北京へ行ったときは、申采浩が東方連盟との連係を結ぶため台湾に渡ったところを逮捕され、旅順監獄に投獄されたあとだった。申采浩のいない北京はさびしくひっそりとしていた。牧師と申采浩はそれほど厚い友情で結ばれていたのである。

    申采浩は青少年に朝鮮民族の悠久な愛国伝統と輝かしい文化を紹介し、祖国愛を鼓吹するために、国史の著述に多くの時間と精力をつぎこんでいた。彼は民族の啓蒙をはかって一時、出版事業にも情熱をそそいだ。『海潮新聞』は彼がウラジオストックで亡命生活をしたときに発行した人気のある新聞だった。朴素心が『海潮新聞』にときどき論文を投稿したのも、それを主管していた申采浩の名声が同胞社会に広く知られ、多くの人びとが彼の人格と文章に引きつけられたからである。

    路線から見れば、申采浩は武力抗戦の提唱者であった。彼は李承〔2〕晩の外交論と安昌浩の準備論をともに現実性のない危険な路線であるとみなした。そして朝鮮の民衆と日本の強盗が食うか食われるかの命がけの闘争を迫られている状況のもとで、われわれ二千万民衆は打って一丸となり、暴力、破壊の道を選ばなければならないと力説した。

    一部の人たちが李承晩を上海臨時政府の首班にかつぎだしたとき、申采浩が憤激して真っ向から反対したのも、平素から李承晩の委任統治論と自治論を快く思っていなかったからである。

    「李承晩は李完用にまさる逆賊だ。李完用は存在している国を売ったが、李承晩はまだ国を取りもどしもしない前から売り払った男だ」

    これは臨時政府を組閣する席上で、彼が投げつけた爆弾のような有名な言葉だった。彼は臨時政府を脱退して発表した「朝鮮革命宣言」でも、李承晩を痛烈に批判した。

    孫貞道牧師はときどき当時を回想し、「申采浩は剃刀のような性格で、鉄のような重みのある主張をしたものだった。彼が李承晩を李完用にまさる逆賊だと弾劾したときはじつに痛快だった。申采浩の言葉は民心を代弁したものだった。彼の気持はとりもなおさずわたしの気持だった。それでわたしは申采浩とともに臨政と袂を分かったのだ」と語っていた。

    こうした発言を参酌すれば、牧師の政見をある程度おしはかることができるだろう。 彼は自治論も委任統治論もともに妄想であると断じた。安昌浩の実力養成論にたいしては半信半疑の立場だったが、大衆を動員し民族あげての抗戦で国の独立を達成すべきだという、われわれの全民抗戦論にたいしては全幅的に支持した。彼はこうした革新的立場に立っていたので李承晩のような事大主義者、野心家が君臨する上海臨時政府の閣僚の地位にとどまることを潔しとせず、臨政と決別して吉林に活動舞台を移す勇断をくだしたのであった。

    孫牧師は吉林に来て以来日本警察が「第3勢力」と規定した革新派の人物と連係をとり、独立運動に積極的に参与した。彼は新しい世代の青年ともうちとけて付き合い、若い人のやることならなんでも誠意をつくして後援した。彼が牧師を勤めた大東門外の礼拝堂は、われわれの専用集会場のようなものだった。わたしは礼拝堂にたびたび行ってオルガンをひいたり、演芸宣伝隊の活動を指導したりした。孫貞道牧師がわれわれの頼みをなんでも聞き入れてくれ、われわれの革命活動を心から支持してくれたので、わたしは彼を父親のように慕い、尊敬した。

    孫貞道牧師もわたしを息子のようにかわいがってくれた。わたしが獄中で苦労していたとき、張作相に賄賂を使って、わたしの釈放運動をくりひろげた主導者も孫牧師である。

    孫牧師はわたしを親友の息子としてばかりでなく、一家言をもつ革命家として扱ってくれた。 彼は独立運動家のあいだで論議されながらも、解決をみていないむずかしい家庭の問題までためらいなくわたしに打ち明けて、助言を求めた。

    孫牧師は長女孫真実と尹致昌の縁談のことで頭を悩ましていた。吉林の独立運動家はみなこの縁談に強く反対していた。孫牧師も娘が配偶者の選択を誤ったと不満げだった。彼は娘が尹致昌に嫁ぐのは家門の恥だと考えた。 尹致昌が親日派の買弁資本家尹致昊の弟だったからである。牧師が娘を説き伏せることができず心を痛めていたとき、独立軍の保守派が資金を引き出そうと尹致昌を一週間、軟禁した。

    「いったい、この問題をどうすればいいのだ」

    孫貞道牧師はわたしの意見を求めた。わたしは大人たちの縁談に口をはさむのは差し出がましいと思ったので、ためらいがちに答えた。

    「お互いに好き同士なら、仲を裂くこともできないではありませんか。当人たちの気持にまかせるのがよいと思います」

    こんな助言をしたあと、独立軍保守派の人物を説いて尹致昌を釈放させた。

    北京に移った孫貞道牧師はたしか翌年、吉林にもどった。それは呉仁華、高遠岩など革新系人物の要請によるものだという人もいたが、それにどれほどの信憑性があるのかはわからない。いずれにせよ牧師が死去するまで吉林にとどまっていたことからおして、北京の方の独立運動状況も思わしくなかったろうし、彼の健康もすぐれなかったのだろう。

    出獄して孫貞道牧師に会ったとき、彼はわたしがやつれたといって心配してくれたが、わたしはかえって彼の顔色がすぐれないのを見て心配した。彼は持病がこうじて食事も満足にできなかった。

    「国が滅んだのに、体まで衰えて一日中溜息ばかりついているのだ。全知全能の父なる神も、わたしには福音をくださらない。あのときの島流しがわたしの体をこんなふうにしてしまった」

    孫貞道牧師の言葉だった。牧師は一九一二年、満州で布教中、桂太郎暗殺陰謀の嫌疑で逮捕され、珍島に二年間島流しにされたことがあった。そのとき、牧師は流刑地で病を得たものらしい。迷信のようだが、大衆から愛される人には病魔も容易に取りつくものらしい。

    わたしは翌年の春、明月溝で、孫貞道牧師が病死したという思いがけない知らせを聞いた。わたしにその消息を伝えてくれた人は、孫牧師が吉林の東洋病院で非業の死をとげたといった。

    わたしはまさかと思った。牧師が病気で急死するなど信じられないことだった。半年前に会ったときも病床にあったのでなく、独立運動の将来を論じていたのに、胃潰瘍で急逝することはありえないと思ったのである。しかし、不幸にもそれは事実だった。地下組織を通して確認したところによると、牧師は入院した日に吐血して息を引き取ったという。

    同胞のなかでは、孫牧師の死を謀殺と見る人が少なくなかった。その第一の論拠は、入院直前の孫牧師の病状が危篤状態ではなかったというのである。また東洋病院が日本人の経営する病院だというのが、いま一つの有力な論拠とされた。朝鮮人をためらいなく細菌戦の実験対象とする者たちであってみれば、謀殺以上の陰謀もこらしかねないというのが同胞たちの一致した見解だった。

    もっとも確かな論拠は、孫貞道牧師が著名な愛国志士であったということである。彼は日本警察がつねに監視の目を光らせている要視察人であった。桂太郎の暗殺嫌疑もそうだが、上海臨時政府議政院の議長、臨時政府の交通総長、時事策進会の会員、興士団の団員、労兵会の理事という抗日に貫かれた牧師の経歴は、日本の警察が彼を目の上のこぶと見るのに十分であった。日本人が孫貞道牧師をどれほど執拗に監視したかは、牧師の急死直後、吉林総領事が本国の外務大臣に『不逞鮮人孫貞道の死亡にかんする件』という文書をとくに作成して発送したことにもうかがえる。

    海石という孫貞道牧師の号に彼の特徴がそのまま示されているという人もいるが、彼は表面には出ず、聖職者の肩書きで一生を抗日の聖業にささげた志操堅固で良心的な独立運動家であった。孫牧師は吉林へ来ても、正義府の革新系人物とともに、時代の変遷に順応する独立運動の方向転換と愛国勢力の団結に意をつくした。われわれが朝鮮人吉林少年会と朝鮮人留吉学友会を組織したころは、満州農民互助社の結成発起人になり、その実現のために努めた。

    孫貞道牧師は弟(孫敬道)の名義で額穆県鏡泊湖一帯の五十ヘクタールの土地を買い、農業公社を経営した。これは安昌浩先生が提唱した「理想村」の一部だともいえるだろう。鏡泊湖のほとりは安昌浩先生がかつて理想郷建設の第一の候補地に見立てたところである。牧師は農業公社の収益から独立運動資金を得ようとした。

    孫貞道牧師の葬儀は、奉天会館でキリスト教式におごそかにとりおこなわれた。併合以前から数十年の歳月を独立運動にささげた牧師の霊前には、日本警察の妨害で四十数人の弔客しか集えなかったという。生前あれほど多くの人びとに取り巻かれ、愛国の魂で彼らを感化した牧師だったが、告別式はあまりにもひっそりとしていた。国父が死んでも泣くことさえままならない時節であってみれば、警察が立ち合った式場で泣こうにも泣けなかったのではなかろうか。

    わたしは間島ではるか吉林の空を仰ぎ、涙を流しながら故人の冥福を祈った。

    孫牧師を思い、父を思いながら泣いた。そしてこの国の父親たちの英霊を守り、恨みを晴らすため、必ず国を取りもどそうとかたく誓った。

    わたしは国を取りもどすことが、彼らの恩顧に報い、彼らの不幸をやわらげ、人民の手枷、足枷を取り去る道だと思った。

    その後、わたしと孫貞道牧師の遺族は、互いに異なった道を歩んだ。現世紀があと何年も残らなくなった今日でも分断の悲劇はつづき、われわれは有刺鉄線とコンクリート障壁、波高い大洋によって無慈悲に引き離されている。わたしは平壌、孫仁実はソウル、孫元泰はオマハ(アメリカ)というふうに、われわれは半世紀以上も互いに安否すら問うことができずに生きてきた。

    しかし、わたしは一日として孫貞道牧師とその遺族を忘れたことがなかった。彼らへの追憶は、時間と空間がたえず交差するなかでも、風化し、色あせることなく、わたしの心のなかで歳月とともに連綿とつながってきた。

    民族の悲劇が深まり、われわれを引き裂いている障壁が高くなればなるほど、この地のために涙を流し、この国のために鮮血を流した恩人や烈士を慕う心はいっそうつのるばかりである。

    歴史はその懐旧の情に顔を背けなかった。

    一九九一年五月、アメリカのネブラスカ州オマハ市で病理学の医師をしていた孫貞道牧師の末子孫元泰が、海外同胞迎接部の招待をうけて夫人(李有信)同伴でわが国を訪れた。松花江の砂浜で少年会員と留吉学友会員が「地」と「海」の二組に分かれて兵隊ごっこをしたとき、いつもわたしの組に入るのだとだだをこねていた十代のかよわい小学生孫元泰が、八十歳を目前にした白髪の老人となって、わたしの前にあらわれたのである。六十年の世の荒波も、白髪の下に刻まれた吉林時代の痕跡を消し去ることはできなかった。

    「主席!」と叫んでわたしに抱きついた孫元泰の目からは涙がとめどもなく流れ落ちた。数万言の言葉が集約されている涙、じつに多くを語る涙であった。長い歳月、われわれは懐かしさにもだえながらも、どうして白髪の老人になったきょう、はじめて会うことができたのか。なぜわれわれは、きょうのめぐりあいを半世紀以上も引き延ばさなければならなかったのか。

    六十年は一生にひとしい長い歳月である。超音速の飛行機が大空を飛ぶ文明時代に、十代のときに別れた人たちが八十近くになってはじめて会うのだから、われわれをたえず老年期におしやった時間の累積は、あまりにも非情でむなしいものではないか。

    「孫先生、どうしてこんなに髪が白くなったのです」

    わたしはかつての少年会員ではなく、アメリカの市民権をもつ老学者に語りかける儀礼的な言葉で孫元泰にたずねた。

    孫元泰は吉林時代にそうであったように、やや甘えるような表情でわたしを見つめた。

    「金主席にお会いしたくて心を痛めたものですから、こんなに白くなりました」

    彼は、自分が吉林時代に金主席を兄のように慕い、主席も自分を弟のようにかわいがってくれたのだから、どうか「先生」という呼び方だけはやめてほしい、といった。

    「それなら、昔のように元泰と呼びましょう」

    わたしは笑いながらいった。

    ぎこちない感情は一瞬に消え去った。われわれは吉林時代に帰ったような気分だった。わたしは平壌の応接室ではなく、吉林の昔の下宿で孫元泰に会ったような気がした。吉林時代にはわたしも孫牧師の家をしばしば訪ね、孫元泰もわたしの下宿によく遊びにきたものである。

    車光秀のように、いつも首をややかしげて歩いていた小柄で口数の少ない少年。だがいったん口を開けば、機知に富むジョークやユーモアを連発してみんなを笑わせた第四省立小学校の児童。その孫元泰が病理学の医者になったというのも意外だったが、人生のたそがれを迎えた白髪の老人になったのはさらに驚くべきことだった。わたしはいまさらのように隔世の感にうたれた。吉林で別れたのがついきのうのようなのに、あの多感な少年時代はどこへ行き、われわれはこうして老人になって、そのころを昔語りにしているのだろうか。

    わたしは孫元泰とともにすごした吉林時代のつきない思い出にひたった。少年会のことはいうまでもなく、町の鼻たれ小僧の小遣いを巻き上げていた飴玉売りのことまで話題にのぼった。

    吉林の飴玉売りはまったくずるがしこかった。飴が食べたくなると、箱のなかから一つ取り出してそっと口に入れ、さんざんなめたあと、それをまた箱にもどして人に売りつけたのである。子どもたちは飴玉売りがなめた飴とも知らずに買ったものだった。

    わたしたちはそんなことを回想しながら、もろもろの心配事を忘れ、大きな声で笑った。

    孫元泰は、西側のうわさとは違って、主席がかくしゃくとしているといい、わたしの手を無造作に引き寄せて手相を見た。わたしは唖然とした。

    「生命線がこんなに長いのですから、きっとご長寿なさるでしょう。それに大統領線がこんなにはっきりしているのですから、国の領袖として深い尊敬をうけておられるのです」

    孫元泰はこう言って笑った。

    わたしは手相を見てくれる人に会ったのははじめてのことだし、掌の筋に大統領線があるというのもはじめて聞くことだった。孫元泰がわたしの手相を見て生命線が長いといったのは、わたしの長寿を願う気持からであっただろうし、大統領線がはっきりしているといったのは、われわれの事業にたいする支持の表明であったのだろう。

    孫元泰には、一国の元首と会見をしているというこだわりが少しもなく、こんなことまでいいだした。

    「主席、いつ、わたしにジャン漿ジイ汁クオ果ズ子を買っていただけるでしょうか。吉林にいたころ主席と一緒にいただいたビン氷タン糖フ葫ル蘆も食べたいもんです」

    わたしは彼の言葉に胸が熱くなった。

    実の兄弟でなくては、そんなことを言いだせるものではない。彼はほんとうにわたしを実の兄のように思っているのである。孫元泰に兄がいないという考えが、ふとわたしの頭に浮かんだ。孫元泰の兄孫元一はいっとき南朝鮮で国防部長官を勤めたが数年前に亡くなった。わたしがいかに真心をつくして孫元泰をもてなすにしても、孫元一が自分の弟をいとおしむその愛の深さにはおよばないだろう。

    しかし、漿汁果子や氷糖葫蘆を食べたいという彼の願いをかなえてやれないはずはない。漿汁果子は豆乳と油で揚げたドーナツに似た中国の食べ物である。わたしは吉林にいたころ、孫元泰と孫仁実を連れて街を歩き、彼らに何度か漿汁果子をおごってやったことがあった。

    わたしが漿汁果子を買ってやると、幼い兄妹はいつもおいしそうに食べたものである。孫貞道先生に世話になっていることを考えれば、有り金をはたいても彼らの好きな食べ物を買ってやりたかった。しかし、わたしのふところには学費にも足りない端金しかなかった。

    わたしは孫元泰がほんとうに漿汁果子がほしくて、そんな注文をしたとは思わない。彼は漿汁果子という一言で、われわれが兄弟のように親しく付き合った吉林時代への懐かしさを表現したかったのであろう。

    「漿汁果子が食べたいのなら、このつぎにつくってあげよう」

    孫元泰は冗談でいったことだが、わたしは彼にほんとうに漿汁果子を食べさせたくなった。

    それもまたの機会ではなく、すぐにでもつくって出してやりたい気持に駆られた。彼がわたしに、いつ漿汁果子を買ってくれるのかとすっかりうちとけていった言葉に、わたしは深く心を動かされた。

    二日後、調理師がこしらえた漿汁果子が孫元泰夫妻に届けられた。朝食前にそれを受け取った孫元泰は、金主席のおかげで幼いころおいしく食べた漿汁果子の味を楽しむことができるといって、目をうるませたという。

    人情は時の流れよりも強い力をもっている。時の流れの前ではすべてが色あせ、衰えてしまうが、人情だけは葬り去ることができない。真実の友情や愛には老衰も変質もない。

    異なった道を歩んだがゆえに、一時断ち切られていたわれわれの友情は、60年という時間の空白を埋めて、このように再びつながったのである。

    われわれは吉林時代にうたった『思郷歌』も一緒にうたった。驚いたことには、わたしも歌詞を忘れていなかったし、彼も歌詞をそっくり覚えていた。

    孫元泰は、民族のためになにもつくせなかったので、わたしと顔を会わせる面目がないといったが、それは謙遜であった。彼は北京で大学に通ったころ、学生会の監察部長をして学生運動にも参加し、日本商品排斥運動にも参加した愛国青年である。それで彼は後日、長崎刑務所に投獄される破目になった。

    後半生、政治と隔絶した生活をしてきた彼の姿には、吉林時代の清らかで純真な人柄がそのまま残っていた。食うか食われるかの生存競争がくりひろげられている風土で、良心を失わず清廉潔白に生きるというのは容易ではない。

    孫元泰は、われわれがなしとげたすべての業績に心からの共感を示し、わが祖国を「美しい気高い国、子孫のために建設する国」だと激賞した。

    わたしは遅ればせながら孫元泰がわたしを訪ねてきて、吉林時代をともに回想したことを幸いに思った。祖国愛と民族愛、人間愛にあふれる孫元泰の姿は、そのまま孫貞道の姿であり、孫仁実の姿でもあった。彼はわたしに会うごとに「主席、どうかお年を召さずに長生きしてください」といった。わたしの健康を心から案じてくれる彼の姿は、60年前、わたしが最後に会った孫貞道牧師の姿を彷彿とさせた。

    その日、孫牧師はわたしを見送りながらこういった。

    「情勢がきびしいから、吉林にこれ以上とどまっていてはいけない。この地方の形勢はかなり険悪だ。時局が時局だけに、どこへ行っても身辺に注意しなさい。間島に行っても当分は僻村に身を隠して静養するのがよいだろう」

    わたしは、わたしの身辺を案じてくれる厚い人情に感謝を禁じえなかった。孫牧師の助言がいかに時宜にかなっていたかは、九・一八事変後の満州の情勢が雄弁に物語っている。吉林を占領した日本の軍警は真っ先にわたしを追った。彼らは吉林監獄の名簿をめくって、金成柱を引き渡すよう軍閥に要求した。

    孫貞道牧師をはじめ高遠岩、呉仁華、黄白河など独立運動家の支援で出獄していなかったとしたら、わたしは日帝につかまってさらに十年は投獄されていたことだろう。そうなれば武装闘争はできなかったはずである。

    わたしが孫牧師を命の恩人であるというのは、そのためである。

    吉林時代にわたしを助け、わたしの革命活動を心から支持してくれた人は数えきれない。そんな人のなかには崔万栄、呉尚憲、金基豊、李基八、崔日など前世代の運動家もおり、崔重淵、申永根、安信英、玄淑子、李東華、崔峰、韓周彬、劉振東、崔真恩、金学錫、禹錫允、金温順、李徳栄、金昌述、崔寛実、劉繍景など同年輩の先覚者もおり李東鮮、李敬恩、尹善湖、黄貴軒、金炳淑、郭淵奉、全恩深、安炳玉、尹玉彩、朴正元、郭基世、鄭行正など愛国少年もいる。

    わたしは情勢の動きからおして、これ以上吉林にとどまっていてはいけないと判断した。獄中でもある程度予想したとおりだった。孫牧師は自分の家で、わたしを保養させることができずに発たせるのをたいへん心苦しく思った。しかし、牧師の助言をありがたく受け入れたわたしは、昼食をご馳走になってすぐ新安屯へ向かったのである。

    

    

      2 きびしい春

    

    

    わたしは路上で思いがけず車光秀に出あった。その「ひょうきん者」の目は、度数のきつい近眼鏡の奥で喜びに輝いていた。わたしも遠くから歓声をあげた。

    彼は、わたしの消息を知りたくて孫貞道牧師の家に行くところだといって、わたしを両腕で抱き上げてぐるぐるまわった。

    彼は革命のために奔走していた人たちがみな逮捕されてしまい、わびしくて気が狂いそうだったといい、吉林の情勢を知らせてくれた。そして、こんなことをいった。

    「朝鮮の労働運動はすべての面で飛躍的な発展をとげている。闘争のスローガンや方法、形態などどれもみな清新なものだ。30年代の民族解放運動は、とくに闘争形態のうえで大きな変化を見せると思うが、どうだろう。激変する情勢に応じて、朝鮮革命は新しい旗をかかげて前進すべきではなかろうか」

    彼は血走った目でわたしの顔をじっと見つめた。

    そのころは革命家が生きのびることさえむずかしい険悪な時期だったので、理想を守りとおしていく人はいくらもいなかった。彼は敵の攻勢にひるんだりおじけづいたりすることなく、変装して同志を探し歩き、共産主義者としての模索をつづけていたのである。わたしは彼のひたむきな姿勢に深い感銘をうけた。

    「朝鮮革命が新たな旗をかかげて前進すべきだという光秀君の見解には、わたしも賛成だ。ところで、その旗はどのようなものなのか。わたしは獄中でこの問題をいろいろと考えてみたが、これからわれわれ青年共産主義者は新しい型の党を創建すべきだということと、武装闘争に移行すべきだという結論に達した。武装闘争のみが祖国を救い、民族の解放をもたらすことができる。朝鮮人民のいっさいの闘争は、党の統一的な指導のもとに武装闘争を主軸にした民族あげての抗戦に発展しなければならない」

    わたしは獄中で考えたことを語った。

    車光秀はわたしの意見に全幅の支持を表した。わたしは新安屯に行って金赫、朴素心とも相談したが、彼らも賛成してくれた。武器を取らずには朝鮮を救えず、新しい路線に依拠せずには革命を前進させることができないというのは、青年共産主義者の一致した意見であった。

    武装闘争は朝鮮の具体的現実が提起する機の熟した要請であった。日帝のファッショ的な強権支配はそのころ絶頂に達していた。そのため朝鮮民族の無権利と貧困はその極に達した。一九二九年以来、世界を襲いはじめた経済恐慌の波は日本にも押し寄せた。日帝は大恐慌の活路をアジア大陸の侵略に求め、戦争準備を急ぐ一方、朝鮮にたいする植民地的暴圧と収奪を強化した。

    日帝が朝鮮民族の収奪と抑圧に富国強兵の道を求めたとすれば、朝鮮民族は日帝にたいする闘争に民族再生の道を求めた。経済闘争一面に偏していた労働運動と農民運動をはじめ、大衆運動がしだいに暴力的な性格をおびはじめたのは、決して理由のないことではなかった。

    わたしは当時、新興炭鉱労働者のストライキを深い関心をもって注視したが、そのストライキも最後には暴動へと発展した。数百人の労働者が罷業団の指導のもとに炭鉱の検炭所と事務所、機械室、発電室、工場長私宅をうちこわし、炭鉱構内の電線をすべて切断し、ウインチやポンプなど生産設備を手当たりし

    だいに破壊した。日本人経営者が炭鉱の復旧に二か月を要すると嘆いたほど、罷業労働者は会社側に大きな損害を与えた。

    暴動は武装警官隊が介入して百数十人の検挙者を出すというものものしい様相を呈し、全国を震撼させた。

    この暴動から強い印象をうけたわたしは、後日、武装闘争をはじめたとき、危険をおかして新興地区に行き、労働運動の指導者と会った。

    朝鮮労働者階級の闘争は、組織力と団結力、持久性、連帯性の面でも従来の運動にくらべて質的な発展をとげていた。

    元山労働連合会に結集していた二千余人の労働者は、労連の指導のもとに一万余人の家族をも含めて数か月のあいだ粘り強くストライキをつづけた。

    元山ゼネストには全国各地の労働者、農民が激励の電報、檄文、義援金を送り、代表を送ってかれらの闘争に支持と連帯を表明している。

    洪原、会寧など国内の労組はもとより、元山から数百里離れた吉林でも、われわれが組織した反日労働組合傘下の汗誠会が元山労働連合会に義援金を送ったが、これからもわが国労働者階級の意識水準の高さをおしはかれるであろう。

    元山ゼネストは、一九二〇年代のわが国の労働運動において頂点をなした出来事で、世界労働運動史上、朝鮮労働者階級の戦闘力と革命性を誇示したものだった。

    わたしは獄中で元山ゼネストの全過程を慎重に注視し、その闘争がわが国の労働運動史に特筆すべき闘争であり、彼らの闘争経験は朝鮮の社会運動家がひとしく参考にし、学ぶべき経験であると思った。

    もしあのとき、入れ替わった労働連合会指導部が就業を指示せず、最後までストライキをつづけるか、全国の労働者、農民、知識人がストライキに呼応して本格的な実力闘争をくりひろげていたなら、元山労働者たちの闘争は勝利したことであろう。

    わたしは元山ゼネストの失敗を通しても、朝鮮の労働者階級の闘争を組織し、勝利に導くマルクス・レーニン主義党を一時も早く創立しなければならないと痛感し、武装闘争が民族解放運動の中枢となって本格的に進められるとき、労働者、農民をはじめ各階層の大衆闘争も、それに支えられていっそう熾烈にくりひろげられるであろうと確信した。

    敵が鉄拳をふるって民族解放運動を野蛮に弾圧している状況のもとで、朝鮮人民の闘争は不可避的に暴力化の方向に進まざるをえなかった。革命的暴力こそ、爪先まで武装した敵の反革命的暴力にうちかてるもっとも勝算の大きな闘争手段であった。敵が銃剣を振りまわす状況のもとで、朝鮮民族も自らを武装せざるをえなかった。武装には武装をもって対抗しなければならないのである。

    教育、文化、経済の振興によるたんなる「実力養成運動」や労農大衆の争議、外交工作などの方法では、国の独立は達成できなかった。元山ゼネストと新興炭鉱労働者の暴動を契機にして、われわれは朝鮮の労働者階級をいっそう厚く信頼し、その過程でわたしは、わが国の労働者階級がりっぱな労働者階級であり、朝鮮民族が戦闘的な民族であることを知り、深い愛情と自負を感じたのである。問題は路線や指導にあった。時代の推移に見合った正しい路線と指導さえあれば、いかなる強敵にも勝てるという確固とした自信がついた。破壊された組織をすみやかに立て直し、大衆をたえず意識化、組織化して、一刻も早く日本帝国主義との決戦にそなえさせなければならない。

    わたしの心はいらだち、血がたぎった。

    そのうち、わたしが出獄したといううわさを聞いて、四散していた同志たちが一人、二人とわたしを訪ねてきた。

    わたしは吉林地区の共青や反帝青年同盟、反日労働組合、農民同盟などの中核分子と膝を交えて、白色テロがはげしくなる状況のもとで、すみやかに組織を立て直し、大衆を結集する問題を討議した。

    車光秀を興奮させた武装という一言は、ここでも青年たちの支持をうけた。彼らの支持はわたしを大いに力づけた。

    われわれは間島と朝鮮の北部国境地帯で共青活動を強化し、この地域をすみやかに革命化する対策や、党創立の準備を着実におこなう問題など当面の課題を討議した。そのあと、その実行をはかって各地にオルグを派遣した。

    わたしも新安屯で一泊したあと、すぐ敦化へ向かった。

    わたしが敦化を工作地に選んだのは、そこが東満州各県と連係を結ぶのに便利なうえ、わたしに力を貸してくれそうな知己が何人かいたからだった。わたしはそこに当分のあいだとどまって、暴動がはげしい勢いで広がっていく東満州の事態に対処する組織の活動方向を示し、獄中で練った構想を実践に移す具体的な対策を立てたいと思った。

    吉林を発つとなると、中学はぜひ卒業するようにといった父の遺志を守れなくなったことで、わたしは心が重かった。

    朴一波は、父親にわたしの復学を毓文中学校当局と掛け合ってもらうから、卒業するまで中学にとどまるようにとわたしに勧めた。

    彼は吉林で『同友』という雑誌を発行していた民族主義者朴起伯の息子だった。朴宇天は彼のペンネームである。

    わたしの毓文中学校在学中、吉林法政大学に通っていた朴一波は留吉学友会の活動を手伝ってくれた。彼の夢は法曹界に進出することだった。彼はロシア語の勉強をするのだと、白系ロシア人の将校と付き合っていた。彼が白衛軍の将校と接触するのを新生ロシアにたいする裏切り行為と見た同志たちは、彼と関係を断つようわたしに忠告した。

    わたしは彼らに、「外国語も習っておけば、革命に役立つこともあるだろう。彼が白衛軍の将校と付き合うからといって遠ざけるのは、偏狭な態度ではないか」といった。解放後、朴一波がアレクセイ・トルストイの『苦悩の中を行く』などの名作をどしどし翻訳し、世に出すことができたのは、学生時代にロシア語を熱心に勉強したおかげだといえる。

    朴一波のほかにも、金赫や朴素心も復学が可能ならもう一年勉強をつづけて中学の過程を終えるようにと勧めてくれた。

    彼らは、李光漢校長が共産主義に理解のある人だから、金成柱が一年のあいだ勉強をつづけたいと願い出れば、断らないだろうというのだった。

    わたしは、勉強は自習でもやれる、人民がわれわれを待ち、破壊された組織がわれわれを待っているのに、難局を迎えた革命に背を向けて学校にもどるわけにはいかないといって、彼らの勧めを受け入れなかった。

    中学を中退し、いざ吉林を発つとなると、わたしの心はちぢに乱れた。生前、父が祖国に行って勉強せよと、冬のさなかに単身わたしを故郷へ送ったこと、学校から帰ったわたしを机の前に座らせて朝鮮の歴史や地理を教えてくれたこと、臨終を前に、成柱だけはぜひ中学校へ通わせようと思った、わたしの志をついで日に三度草がゆをすするようなことがあっても、成柱を必ず中学校へあげるのだ、と母に遺言したことなどが脳裏に浮かんで気が晴れなかった。

    卒業を一年後にひかえて学校を中退したことを知れば、三年のあいだ指がすりへるほど、洗濯や裁縫などの賃仕事で毎月仕送りをしてくれた母はさぞかし落胆し、弟たちは残念がるだろう。わたしを息子のようにかわいがり、学費を援助してくれた父の友人やわたしの学友はどんなにがっかりすることだろう。

    だが、母は理解してくれるだろうと思った。父が崇実中学校を中退したときにも母は、学校をやめて革命運動に専念したいという父の意向を支持した。そんな母だから、息子が中学ではなく大学を中退するといっても、それが革命と祖国のためになるなら反対しないだろう、とわたしは信じた。

    毓文中学校を中退して人民のなかに入ったのは、わたしの人生において一つの転機だった。そのときからわたしの地下活動がはじまり、職業的な革命家としての新たな人生がはじまったのである。

    出獄後、家にあいさつの手紙も出さずに敦化に向かうわたしの心は乱れた。革命に専念するからといって、簡単な消息一つ書き送れないわけはないと自らを責めてもみたが、どうしてか手紙を書く気になれなかった。

    わたしは入獄後も母に心配をかけまいと、そのことを知らせなかった。ところが一九二九年の冬休みをわたしの家ですごした学友が、わたしの入獄を母に知らせてしまった。

    母はそれを聞いても吉林に来なかった。息子が監獄に放りこまれたと知ったら、百里の道を遠しとせず差し入れを用意してきて、面会をさせてくれと看守に泣きつくのが母親の情というものであろう。しかし、わたしの母はそうしなかった。母はたいへんな忍耐力を発揮したのだと思う。母は父が平壌監獄に投獄されたときは、わたしを連れてたびたび面会に行ったものである。その母が十年後、息子が入獄したときは一度も面会に来なかったのだから、不審に思われるかも知れない。

    後日、安図でわたしに会ったときも、母は面会に来なかった理由を語らなかった。

    しかしわたしは、面会に来なかったところに、母の深い愛情があると思っている。

    鉄格子のなかで母に会えば成柱がかえって苦しむかも知れない。面会に行ったところで慰めにも力にもなれない。この先数かずの難関をのりこえなければならないのに、出だしから情にひかれては、わが子が道をまっすぐ歩めるだろうか。獄中ではさびしく思うだろうが、面会に行かないほうがわが子のためではないか。

    母はおそらくそんな気持で面会に来なかったのだろう。

    わたしはそのことから、平凡な女性から革命家に成長した健気な母を発見したのである。

    出獄して広い世間に出てみると、もう学校に縛られた身ではないのだから、家に帰って何日か母と一緒にすごすのが子としての道理ではなかろうかという気もした。しかし、わたしは敦化へ向かって決然と歩き出した。

    敦化の西南方24キロほどのところに四道荒溝という山村がある。そこがわたしの受け持った工作地であった。

    わたしの入獄後、吉林を襲った検挙旋風が撫松に波及するのを防ぐために、共青や白山青年同盟、婦女会などで活動していた数世帯の人びとが安図や敦化方面に移っていった。母も寒い冬の日に亨権叔父や弟たちと一緒に安図へ引っ越した。

    東満州に移った数十世帯のうち、六世帯が四道荒溝に腰を落ち着けた。そのなかには高在鳳一家もあった。

    正義府の給費生として撫松師範学校を卒業した高在鳳は、白山学校で教鞭をとったり、独立軍に入隊して撫松地区別働隊の指揮官を勤めたりした。彼は反日大衆団体のアクチブだった。

    彼の長弟高在竜は華成義塾時代の同窓生だった。彼はのちに楊靖宇部隊に入隊し、濛江か臨江かで戦死している。

    高在鳳の末弟、高在林は白山学校を卒業して吉林毓文中学校に通い、わたしと一緒に共青活動をしたが、一九三〇年春からは満鉄の医学専門学校で勉強した。彼は吉林にいたころ、わたしの活動をいろいろと助けてくれた。

    彼ら一家は撫松にいるときから、わたしの家族と格別親しく付き合った。彼らは宿屋を営みながら、わたしの父母を親身になって助けてくれた。

    小南門通りにあったわたしの家には、愛国の志士や独立運動家が頻繁に出入りした。なかには何日も泊まっていく人もいた。母は彼らの世話で台所につきっきりだった。

    それがいきおい軍閥の注意を引いた。警察が父を監視していることを知った高在鳳の母親(宋桂心)は、ある日、わたしの家へやってきて、こういった。

    「金先生、お宅ではこれから客付き合いを慎んだほうがよろしいでしょう。いまのようにお宅が客でにぎわっていますと、金先生に災いが及ぶかも知れません。撫松に来る独立軍のお客はわたしたちが引き受けますから、彼らが『撫林医院』を訪ねたらわたしの家へよこしてください」

    こんなことがあってから父は高在鳳の母親に深い信頼をよせ、わたしも高在鳳と親しく付き合うようになった。

    白山学校の廃校後、母がなんとか校舎を一つ手に入れようと奔走したときも、高在鳳の家では自宅の奥の間を教室に使うよう提供してくれた。

    高在鳳は四道荒溝に移ってきてから半年もたっていなかったが、その間、東興義塾を設立して子どもたちの教育にあたる一方、副百家長の役職を利用して四道荒溝とその周辺の村に共青と白山青年同盟を組織し、さらに反日婦女会と農民同盟を組織する準備を進めていた。

    彼の母親はわたしを見ると涙を流して喜び、撫松にいたころを回想した。わたしは昨年の秋に逮捕され、数日前に釈放されてまっすぐここへ来たといった。彼女はわたしの顔をしげしげと見つめ、面ざしは以前と変わらないが、顔がむくんで体の具合がずいぶん悪そうだ、お母さんが知ったらどんなに心を痛めるだろうといった。

    わたしはこの家で一か月近く世話になった。

    彼女はわたしの養生にいろいろと気を配ってくれた。

    彼女は麦と粟をまぜたご飯に山菜のあえ物など、心のこもる食事をもてなしてくれた。そしていつも、食事が粗末ですまないといっていた。なじみのない山村で宿屋も営めず、初年度の農事をはじめたばかりのところへ外孫まで来ているのだから、その家の苦しい暮らし向きを考えると、食べ物が喉を通らなかった。

    撫松時代からわたしの好物を知っていた宋桂心女史は、村に一つしかない製麺機を借りてきてソバをつくってくれた。高在鳳は敦化県城から塩づけのマスを買ってきて食膳にのせてくれた。高在鳳の義兄は毎朝早く泉に行って、むくみをとるのに特効があるというサンゴルを取ってきた。こうした真心こもる介護によってわたしの健康は日一日と回復していった。

    高在鳳はわざわざ安図まで出かけ、わたしの母に会って帰ってきた。四道荒溝から安図まではおよそ八十キロだったが、彼はそこまで一日で歩いていったのである。彼は小説『林巨正』に出てくる黄天王童のように一日に百二十キロは歩けるというのだった。

    そのとき、わたしが出獄して敦化地方に来ていると聞いて、弟の哲柱が高在鳳に連れられて四道荒溝にやってきた。弟は母の手紙とわたしの肌着を持ってきた。わたしはその手紙を見て、その間、撫松を離れて旧安図(松江)西門の外の馬春旭の家に間借りしていた家族が、興隆村に引っ越したことを知った。母は旧安図にいるあいだ、馬春旭の家でミシンを借りて裁縫の賃仕事をしながらいろいろと苦労をしたが、興隆村へ移ってからも暮らしを立てるため仕事の手を休めるいとまがないという。

    そのときまで哲柱は、まだ新しい土地の安図になじんでいなかった。中江、臨江、八道溝、撫松などと大きな川が流れている町に住んでいた彼にとって、平野と鉄道から遠く離れた山里の安図は、あまりにもうらさびしくなじみのない土地だった。

    「兄さん、出獄したあと撫松に寄ってみた?」

    哲柱はだしぬけにこんなことを聞いた。

    「寄りたかったが、寄れなかった。家にも寄れずにまっすぐ敦化に来たのに、撫松に行けるわけがないじゃないか」

    「撫松の人たちが兄さんにとても会いたがっているよ。蔚華さんは兄さんの便りがないかと毎日家に来ていたよ。撫松の人たちはほんとうにいい人たちだね」

    弟の声は撫松時代にたいする懐かしさに濡れていた。

    「うん、いい人たちだった」

    「撫松の友達が思い出されてならないよ。兄さん、そこへ行くついでがあったら、ぼくの友達にきっと会ってみてよ」

    「そうしよう。おまえは安図でも友達が大勢できたかい?」

    「まだだよ。安図にはぼくと同じくらいの子があまりいないんだ」

    わたしは、哲柱が安図に移ってからも、撫松時代を懐かしんで落ち着けないでいることに気づいた。哀愁をおびた弟のまなざしとさびしそうな表情がそれを物語っていた。望郷の念にとりつかれたその年頃の少年にありがちな、現実にたいする一種の反発心とでもいおうか。弟の落ち着かない心理状態はわたしの心にも影を落とした。

    「勤勉な農夫に農地のよしあしが問題にならないように、りっぱな革命家には場所柄のよしあしなど問題にならないのだよ。安図にもきっとよい友達がいるはずだ。友達は自分で見つけなければいけない。お父さんがいつもいってたじゃないか。 友達は天から降ってくるのでなくて、宝石を掘り出すように見つけ出すもんだって。 よい友達を大勢見つけて、安図をりっぱに開拓してみるのだ。おまえももう共青に入る年頃じゃないか」

    わたしは共青の加入準備を真剣におこなうよう、強く念をおした。

    「わかった。兄さんに心配をかけてすまなかったよ」

    弟は真顔になってわたしを見つめた。それから間もなく哲柱は共青に加入した。

    わたしは四道荒溝にとどまっているあいだ、高在鳳、高在竜と協力して少年探検隊、農民同盟、反日婦女会を組織し、また、東満州と南満州各地に散らばっている革命組織のメンバーと連係をとった。高在鳳を通して竜井、和竜、吉林のアジトに送ったわたしの手紙を見て、金赫、車光秀、桂永春、金俊、蔡洙恒、金重権など十余人の同志が四道荒溝にやってきた。彼らはみな共青と反帝青年同盟の幹部だった。

    わたしは彼らの話を聞いて、東満州を震撼させている暴動が予想外にはげしい段階に達していることを知った。

    この暴動の主力は満州地方の朝鮮人で、彼らを扇動して暴動に立ち上がらせたのは韓斌、朴允世といった人たちである。彼らは、中国の党に入るには実践闘争で功績をつんで認められなければならないということで、大衆を暴動へ駆り立てたのであった。

    当時、中国東北地方の朝鮮共産主義者は、コミンテルンの一国一党制の原則にもとづいて党再建運動を放棄し、中国の党に転籍する工作を猛烈におこなっていた。中国の党でも、実地の闘争を通して点検し、個々の審議をへて、個人の資格で入党させる原則で朝鮮の共産主義者を受け入れるといっていた。

    そんなやさきに、コミンテルンから派遣されてきた人物まで暴動を扇動したので、中国の党に入ろうとしていた満州総局所属の朝鮮共産主義者は、政治的野心と栄達に目がくらみ、人民を無謀な暴動へと駆り立てたのである。

    彼らは打倒の対象でない者も打倒し、学校や発電所にまで放火した。

    五・三〇暴動は日帝と中国の反動軍閥に、満州地方の共産主義運動と反日愛国闘争を弾圧する格好の口実を与えた。満州の朝鮮共産主義者と革命家は過酷な白色テロにさらされた。

    大衆は大きな犠牲を払い、農村や山間奥地に追われていった。庚申年(一九二〇年)の大「討〔3〕伐」を思わせる惨事が東満州各地方で起こった。留置場と監獄は暴動参加者であふれた。多数の暴動関係者が朝鮮に押送され、ソウルで全員、重極刑に処された。

    奉天軍閥も日本帝国主義者の奸計に踊らされて暴動大衆を残忍に弾圧した。日帝は朝中人民の離間をはかって、朝鮮人が東満州で暴動を起こしたのは満州を占有するためだと宣伝した。

    軍閥はその宣伝を真にうけて、朝鮮人は共産党であり、共産党は日帝の手先だからみな殺してしまえと叫び、暴動大衆を手当たりしだいに虐殺した。暗愚な軍閥は、共産主義者と日帝の手先を同一視したのである。

    五・三〇暴動期間に逮捕・殺害された人は数千人に達したが、その大多数は朝鮮人だった。検束者のうち少なからぬ人が死刑にされた。暴動によって革命組織は大きな被害をうけた。暴動がもとで朝鮮人と中国人の関係が悪化した。

    後日、中国の党内では李立三路線を「妄動主義路線」「プチブル的ヒステリー」と評価した。李立三のソビエト紅軍路線は、東北地方の実情に合わない冒険主義的路線であった。同年九月の中国共産党中央委員会第六期第三回総会は、李立三の極左冒険主義路線をするどく批判した。コミンテルンも『十一月一六日付け書簡』で李立三の極左冒険主義的誤りを批判している。満州省党組織は省委員会拡大会議と連席会議を開き、李立三の誤りを批判した。

    われわれもそれに先立つ一九三一年五月、春の明月溝会議で李立三路線を批判し、極左冒険主義的誤りを克服する対策を立てた。

    しかし、李立三の極左冒険主義の後遺症はその後も完全にいやされず、長いあいだ東北一帯の革命闘争に弊害をおよぼした。

    四道荒溝に集まった青年たちは、「朝鮮民族は無駄に血を流している」「われわれの革命はいつまで混沌とした状態にとどまっていなければならないのか」と慨嘆した。

    わたしは彼らに勇気を与えようとして、こう話した。

    「暴動が大きな災いを招いたのは確かだ。だからといって、いつまでも嘆いていたってはじまらないではないか。嘆くのはほどほどにして各地に出向き、組織を立て直し収拾しなければならない。肝心なのは分派分子の野心をあばき、大衆が彼らの影響をうけないようにすることだ。そのためには、彼らに朝鮮革命の進路を示さなければならない。暴動は流血に終わったが、大衆はそのなかで大いに鍛えられ、覚醒したであろう。朝鮮民族は今度の暴動を通して戦闘力と革命性をいかんなく発揮した。わたしは朝鮮民族の偉大な献身的闘争精神から大きな力を得た。このような人民に科学的な闘争方法と戦術、民族の進路を示すならば、朝鮮革命には新たな転換がもたらされるだろう」

    わたしはこう訴えたが、同志たちはあまり刺激をうけたようではなかった。彼らは「一星同志の指摘は正しい。だが大衆の共鳴が得られる新しい進路がいったいどこにあるのか」といって、もどかしそうにわたしの顔を見つめた。

    わたしは「そのような路線は天から降ってくるものでもなく、誰かがつくってくれるものでもない。われわれ自身が主人となってつくらなければならない。わたしが監獄で構想したことだが、みんなの意見を聞かせてもらいたい」といった。

    わたしは前もって車光秀や金赫、朴素心と論議した朝鮮革命の路線問題を長時間、討議にかけた。この会合が四道荒溝会議であった。ここでもわたしが提起した案はみんなの支持をうけた。

    東満州各地における悲惨な流血はわたしを再び憤激させ、覚醒させた。わたしは動乱の巷に恨みをのんで倒れた人たちの姿を瞼に描きみ、どうすれば朝鮮の革命大衆を血の海から救い出せるか、苦境に陥った朝鮮の民族解放闘争をひたすら勝利の道を歩む革命に引き上げられるかということを深く考えた。

    革命は武装を求めていた。りっぱに組織され訓練された革命軍隊と人民を求め、二千万人民を勝利に導く綱領とそれを実行する政治的参謀部を求めていた。

    内外の情勢は、朝鮮の共産主義者が祖国と民族を解放する聖なる戦いに転換をもたらすことを要請していた。こうした転換なしには、朝鮮民族はいっそう多くの血を流し、惨禍をこうむるだけであろう。

    わたしは、われわれがこの転換の突破口を開き、一九三〇年夏にはそれを実現しようと決心した。そして思索を重ね、要点をメモし整理した。

    われわれは四道荒溝を発つ組織のメンバーや工作員たちと、任務をすみやかに遂行して、六月下旬に倫で落ち合おうと約束した。

    その後、敦化で吉東地区党会議が開かれた。

    そこでは暴動にかんする問題が論議された。分派分子はまたも五・三〇暴動のような暴動を企てていた。

    わたしは、五・三〇暴動が無謀な暴動であったと批判し、彼らの計画に反対した。

    その年の春、わたしは獄中生活についで五・三〇暴動を体験し、多くのことを会得した。

    じつにわたしの生涯において、一九三〇年の春は忘れがたい成長の春、試練の春であった。その春、朝鮮革命は新たな転換を準備した。

    

    

    

    

      3 倫会議

    

    

    六月下旬になると、同志たちは約束通り倫に集まった。倫ではすでにわれわれの革命組織が活動していた。 われわれは一九二七年ごろから、満州各地を容易に往来しうる交通分岐点に活動基地を設ける必要を感じ、共青のアクチブを派遣してこの一帯を開拓しはじめたのだった。

    われわれが倫で会議を開くことにしたのは、そこが交通に便利であり、会議参加者の身辺の安全と秘密を守るのに有利な隠蔽された活動基地であったからである。

    倫には反日運動家が頻繁に出入りしていたが、敵はそれに気づいていなかった。それに当地の人民が、われわれに惜しみない援助を与えていたので、会議の開催地として申し分なかった。

    わたしが倫に到着したとき、少年探検隊の総隊長鄭行正がプラットホームに来ていた。彼はわたしが倫に行くたびに、駅頭に迎えてくれた。

    倫は敦化や吉林にくらべて雰囲気がやや平穏だった。

    五・三〇暴動のあとだったので、間島の空気はきわめて険悪だった。そのうえ日本軍の東満州出兵が間近に迫り、情勢はいっそう緊迫していた。日帝が間島に軍隊の派遣を企てたのは、その一帯で急速に拡大している革命運動を鎮圧して満蒙を占領し、ソ連侵攻の橋頭堡を確保するためだった。それで羅南駐屯日本軍第一九師団長の河島中将が竜井、延吉、百草溝、頭道溝地方を巡視していた。国民党吉林軍参謀長と民政庁の庁長も同じころ東満州を視察した。

    間島地方の革命組織が、東満州から日本軍中将と国民党参謀長、民政庁の庁長を追い返せと呼びかけたのはそのころのことである。

    わたしは倫では進明学校教員の劉永宣や張小峰の家に泊まった。

    張小峰は進明学校で教鞭をとるかたわら、『東亜日報』支局長をしていた。彼は車光秀のように筆が立ち、識見も高く、活動も手ぎわよくやっていたので、同志たちから親しまれていた。

    ところが家庭で夫婦げんかが絶えないのが疵だった。友人が忠告すると彼は、家内が封建的で理想が合わないといってこぼした。わたしは張小峰が家庭生活に親しむようたびたび説得し、批判もしたが、あまり効果がなかった。

    張小峰は朝鮮革命軍が組織されたあと、武器を購入するため長春に行き、警察に逮捕されて転向した。一時はわたしの「帰順工作」にも駆り出されたという。

    倫の革命化で金赫と張小峰は特出した功績をあげた。彼らは当地の有志と協力して学校と夜学を設け、そこをよりどころにして教育活動をおこない、農民会、青年会、少年会、婦人会など従来の啓蒙団体を農民同盟、反帝青年同盟、少年探検隊、婦女会などの革命的組織に改編し、各階層の大衆を抗日革命の有力な担当者に育てあげた。

    金赫の主管のもとに雑誌『ボルシェビキ』が創刊されたのも倫だった。

    わたしは倫に行ってからも、四道荒溝でのように朝鮮革命の進路について思索しつづけた。一月ばかり思索して整理した文章をまとめてみると、かなり長文の原稿になった。

    

    わたしがそれを書いたのは、朝鮮の民族解放闘争が新たな指導理論を切実に求めていたからだった。新たな指導理論がなくては、革命は一歩も前進できない状況だったのである。

    自主性を要求する被抑圧人民の革命的進出は、一九三〇年代に入っても世界的規模でいっそう大きく広がっていた。地球上で被抑圧人民の反帝解放闘争がもっとも熾烈にくりひろげられていた大陸は、アジア大陸であった。

    アジアが植民地民族解放闘争の主な舞台となったのは、そのころアジア後進国の利権を奪おうとする帝国主義者の侵略行為がいっそう露骨になり、東方の多くの国の人民が民族的自主権を守る決死の闘争をくりひろげていたからである。

    外部勢力を駆逐し、自由で民主的な新しい社会をきずこうとする東方人民の正義のたたかいは、いかなる力もおしとどめることができなかった。

    ソ連、モンゴル革命の躍進に歩調を合わせ、中国、インド、ベトナム、ビルマ、インドネシアなどアジア諸国でも革命の激流がさかまいた。非暴力不服従運動で世界の耳目を集めていたインドの街頭で、紡織工が赤旗をおしたててデモを断行したのもそのころである。

    中国人民は第二次国内戦争の戦火のなかで一九三〇年代を迎えた。

    中国をはじめアジア諸国における革命闘争と国内人民の積極的な進出は、われわれを興奮させ、奮起させた。

    われわれは党を創立し、正しい指導理論を提示するならば、人民を決起させて日本帝国主義を打ち負かせるであろうと確信した。

    こうした時期にもわが国の民族解放闘争の舞台では、各党各派の立場と利益を代弁するさまざまな主義主張が提唱されて大衆をいろいろな方向に導いていた。しかし、それらの理論はいずれも一定の時代的・階級的制約性をまぬがれなかった。

    われわれの見解によれば、それまでの民族解放闘争における最高形態の闘争は、独立軍の武装闘争であった。この闘争には民族主義左翼のもっとも積極的な反日独立運動家と愛国者が参加した。彼らが独立軍部隊を組織し武装闘争をはじめたのは、独立戦争をしなくては国を取りもどせないと信じたからである。

    一部の人は大部隊による軍事活動によってのみ独立が達成できると考え、また一部の人は直接的なテロリズムこそが日本帝国主義者を駆逐する最上の方途であると主張し、さらに一部の人はよく訓練された軍隊を持ち、ソ連、中国、アメリカなどの強大国が日本と砲火を交えるとき、彼らと連合して独立を成就するのが朝鮮の実情に合う戦略だとした。

    これらの主張はいずれも日帝との血戦を志向していた。

    しかし、独立軍の闘争はそうした初志を貫くだけの科学的な戦略戦術と、独立戦争を戦い抜く有力な洗練された指導部を持つことができず、闘争を人的、物的、財政的に裏打ちする強固な大衆的基盤を構築することができなかった。

    改良主義理論のなかでは、安昌浩の「実力養成論」という「準備論」が独立運動家の話題になっていた。

    われわれは安昌浩という人物そのものにたいしては、独立運動に生涯をささげた清廉潔白で良心的な愛国者として尊敬したが、その理論は歓迎しなかった。

    上海臨時政府の非暴力的独立運動路線も大衆の支持をうけられなかった。上海臨時政府が樹立後間もなく人びとの失望をかったのは、この組織がなんの可能性もない非暴力的な外交路線にしがみついてむなしく歳月を送ったからである。そのため、軍事路線を絶対視していた独立軍は終始それを冷笑した。

    李承晩が国際連盟に請願した朝鮮の委任統治案は路線の名に価しなかったし、民族主義右派が提唱した「自治論」も民族の独立精神に反する妄想にすぎなかった。

    一九二五年に創立された朝鮮共産党も、朝鮮の実情に合う科学的な戦略戦術を編み出せないままその存在を終えてしまった。

    総括的にみて、先行世代の戦略や路線に見られる共通の弱点は、人民大衆の力を信じようとせず、それに顔を背けたところにあった。

    先行世代の運動家はみな、人民大衆が革命の主人公であり、革命をおし進める力も人民大衆にあるという真理を無視していた。数百万大衆の組織された力に頼ってこそ日帝の打倒が可能であったが、わが国の反日運動家は革命も独立戦争も特定の何人かの人だけがやるものと考えていた。

    共産主義運動にたずさわっていた人もそうした立場に立っていたので、基礎構築をおろそかにし、少数の上層部の人たちで党中央の創立を宣言するやり方で党をつくり、大衆のなかに深く入ろうとせず三人一党、五人一派式に分裂して多年間ヘゲモニー争いに没頭した。

    先行世代の路線や戦略はまた、朝鮮の生きた現実に立脚していない重大な弱点をもっていた。

    わたしは朝鮮の現実に合う正しい指導理論を提示するには、古典や外国の経験を絶対視せずに、すべての問題を自らの実情に合うよう独自に考え、独創的な方式で解決しなければならないと考えた。指導理論をもたなければならないということで、十月革命などの経験をうのみにするわけにもいかず、コミンテルンに万能薬を期待し、腕をこまぬいているわけにもいかなかった。

    「われわれは人民大衆の力を信ずるしかない。二千万の力を信じ、その力を一つに結集して日本帝国主義者との血戦をくりひろげよう」

    わたしの心にはこうした叫びがたびたび湧き起こった。

    わたしはそうした衝動に駆られながら、今日われわれがチュチェと呼んでいる思想を報告のふしぶしに盛りこもうと努めた。報告の内容はすべて、朝鮮革命の前途にかかわる重大な問題であった。

    わたしはとくに武装闘争の問題を深く考えた。

    わたしは報告のなかで、武器を取って全面的な抗日戦争を展開することを反日民族解放闘争の基本路線とし、朝鮮共産主義者の第一の課題として提起した。

    武装闘争をおこなう決心を下し、それを方針として確定するまでには長い時日を要した。倫でこれを方針として採択するときにしても、われわれは徒手空拳にひとしかった。

    そうした状況のもとでもわたしは、武装闘争をおこなうには、青年共産主義者の手で新しい型の軍隊を創設しなければならないと主張した。

    しかし、現に独立軍が存在する以上、そこへ入って活動すべきであって、別個に軍隊を創設する必要はない、そうすれば反日軍事力の分裂を招くおそれがある、といって反対する人たちもいた。

    独立軍が右傾化し、反動化していく状況下で、そこへ入って軍隊を革新し、それによって武装闘争をくりひろげるというのは不合理であり、不可能なことだった。

    一九三〇年当時、独立軍の武力はきわめて劣勢であった。国民府傘下に独立軍の武力があったとはいえ、九個中隊にすぎなかった。それすら上層部の分裂によって、国民府派と反国民府派とが対立していた。

    国民府派とは、十余年間固守してきた独立軍の既存方針を絶対視する保守勢力であり、反国民府派とは既存方針に反対し新しい路線を求める革新勢力であった。反国民府派は共産主義に同調し、連携を試みたこともあった。日本帝国主義者は彼らを「第三勢力」と規定していた。民族主義者でもなく共産主義者でもない新しい中道勢力だという意味である。民族運動内部で反国民府派のような「第三勢力」が台頭したことは、この運動の方向を共産主義運動へ転換しようとする志向が実践段階に入ったことを示していた。

    国民府派と反国民府派の対立によって独立軍は分裂し、民族運動内部は混乱に陥った。

    独立軍の中隊は概して遊撃戦に不利な平場の村落に駐屯していた。武装が不十分なのはもちろん、規律が乱れ、訓練状態が低劣であったうえに、大衆との関係も好ましくなかった。

    青山里戦〔4〕闘や鳳梧谷戦〔5〕闘のように、日本軍の大部隊を痛快に撃滅した一九二〇年代初期の全盛期とは違って、独立軍はしだいに衰退の道をたどっていた。

    南満青総大会に参加するために旺清門へ行ったさい、わたしは玄黙観と国民府の話をしながらこんな質問をした。

    「先生、国民府の力で日本と戦って勝てる自信がありますか」

    じつは彼がしきりに国民府の自慢をするので、少しは薬になろうと思ってした質問だった。

    「勝算なんかあるものか。こうしてがんばっているうちに大国が助けてくれたら独立するのさ」

    わたしは唖然とした。戦って勝てるという胆力もなく、大国の援助をあてにして盲目的に戦う軍隊にどれだけの働きができるというのか。それでわたしは、国民府の先生方が武器をそっくりわれわれに引き渡してくれれば、三、四年内に日本人を追い出してみせると冗談めかしていった。

    そのときはまだ、大会準備委員にテロが加えられる前だったので、そんな冗談もいえたのである。玄黙観は吉林時代からわたしの冗談によく応じてくれたものだった。

    彼は苦笑していた。無邪気な空想だと思ったのかも知れない。

    国民府軍隊のような軍隊では、現状維持すらむずかしかった。それでわたしは新しい型の軍隊の創建を思い立ったのである。

    わたしは共産主義者の指導する武装闘争であってこそ、もっとも徹底した革命的な反日抗戦になりうると確信した。なぜなら、共産主義者のみが、武装隊伍に労働者、農民をはじめ広範な反日愛国勢力を幅広く集結させ、大衆の利益を正しく反映した科学的な戦略戦術で武装聖戦を最後まで戦い抜き、全般的朝鮮革命を勝利へと導くことができるからである。

    われわれが打倒すべき日本帝国主義は、日清、日露両戦争で日本領土の数十倍に達する広大な領土を持つ大国と戦って、やすやすと勝利した新興軍事強国であった。

    そうした強国を倒して国を取りもどすというのは容易なことでなかった。

    日本帝国主義を打倒することは、とりもなおさず世界的に公認された日本の軍事力を撃破することを意味し、彼らの狂信的な皇道精神を打ち破り、明治維新後、新興日本が七十年近くのあいだにととのえた人的・物的・財政的力との消耗戦で勝者になることを意味した。

    ところでわたしは、武装闘争をおこなえば三、四年ほどで日本を打ち負かすことができると考えた。血気にはやる若者でなくてはとても考えられないことである。日本の軍閥がこんな告白を聞いたとしたら大笑いしたであろう。

    そうした判断を裏付ける保証はなにかといわれたら、答える言葉はない。素手のわれわれに保証などありうるはずがなかった。

    われわれにあるのは愛国心と若い血気だけであった。わたしが三、四年内外と見たのは、日本の力を軽視したからではなく、われわれの愛国心がそれに勝り、正しいと考えたからだった。われわれに保証があるとすれば、それは二千万民衆の力だった。二千万をりっぱに訓練し、随所で日本軍警に打撃を加えるならば、国の独立が達成できるだろうという胆力がわれわれにはあった。

    それでわたしは、武装闘争を本格的におし進めるには大衆的基盤を構築しなければならないと考えた。

    ここから反日民族統一戦線の構想が生まれたといえる。

    わたしが組織の必要性をはじめて悟ったのが華成義塾時代だったとすれば、民族の力をはじめて感じ、それを頭に刻んだのは三・一人民蜂起のときだった。そして、わたしが人民のなかに深く入ってかれらを結束し、その力に依拠して革命をする決心をしたのは吉林時代のことである。

    二千万が総動員する民族あげての抗戦なくしては、植民地奴隷のきずなを断ち切ることはできない。純然たる階級革命なら、労働者、農民大衆だけが革命の原動力となるであろう。しかし、朝鮮革命はその性格からして封建と帝国主義に反対する革命である。それだけにわたしは、労働者、農民はもとより、青年学生、知識人、愛国的な宗教者、民族資本家も革命の原動力になりうると主張した。われわれの原則は、民族解放に利害関係のある反日愛国勢力をすべて結集し、動員しようというものであった。

    わたしがこの路線を提示したとき、古典に見られない規定だといって首をかしげる人がいた。彼らは共産主義者が労働者、農民以外の階層と同盟を結ぼうというのは妄想だといい、宗教者や企業家と手を握ることはできないと主張した。火曜〔6〕派の金燦がひところ国民府の人物と交渉をもったというかどで、朝鮮共産党満州総局責任者の地位からはずされたのもそうした観点からだった。

    民族主義者のなかにも、共産主義者を白眼視する人が少なくなかった。共産主義運動の内部では民族主義がタブーであり、民族主義運動の内部では共産主義がタブーであった。こうした傾向は、民族の力を共産主義と民族主義の二つの陣営に分裂させる結果を招いた。

    理性のある人はみなそれを慨嘆した。そうした人たちの努力によって、わが国では一九二〇年代の中期から共産主義と民族主義両陣営の合作をはかる運動が展開され、一九二七年の新幹会の創立によって実を結んだ。新幹会の出現は、理念は違っても民族を思う道で共産主義者と民族主義者が一つに結束しうることを示唆した出来事で、民衆の熱烈な歓迎をうけた。

    しかし、日本帝国主義者の執拗な破壊策動とそれに買収された改良主義者の分化作用によって、この団体は一九三一年に解散を余儀なくされた。

    二つの陣営が愛国という大前提のもとに強固な結合をなしとげていたなら、内外の破壊作用があったとしても、それほど容易に崩れることはなかったであろう。

    新幹会の解散によって、せっかく日の目をみた共産主義と民族主義の合作が流産したとき、われわれはたいへん残念に思った。民族を優位におかず、理念のみを絶対視するならば、真の合作は望めない。民族解放という大前提を優先させるならば、いかなる階層とも手を結べるというのが当時のわたしの見解だった。

    われわれはこうした立場に立って、解放後、一生を反共で通してきた金九先生とも合作したし、いまも民族の大団結をなしとげようと全同胞の理性に訴えている。民族が大団結すれば、残されるのは外部勢力と売国奴だけである。

    民族の大団結がそれほど貴重で、至上の課題であり、経綸であるため、生涯を反共の第一線でわれわれに銃口さえ向けていた崔泓煕、崔徳〔7〕新先生が平壌に来たときにも、彼らの過去を問わず、骨肉の情で喜んで迎えた。

    そのとき、わたしは崔徳新先生に、北に住もうと南に住もうと民族を優位におき、統一問題を考えなければならない、民族があってこそ階級もあり、主義もあるのではないか、民族がなければ共産主義をやり、民族主義をやったところでなにになり、神を信じたところでなにになるだろうか、といった。

    われわれは倫で反日民族統一戦線路線を模索した六十余年前にも、やはりそのように主張した。

    政治は器が大きくなければならず、政治家は度量が広くなければならない。政治の器が小さくては大衆をすべて包容することができず、政治家の度量が狭ければ、大衆はその政治家に顔を背けるであろう。

    報告では、党創立の問題をはじめ朝鮮革命の性格と任務、朝鮮の共産主義者が闘争で堅持すべき根本的立場についても述べた。

    報告の草稿ができあがると、わたしは早速、倫会議に参加するため各地から集まってきた共青と反帝青年同盟の指導幹部の討議にかけた。われわれは昼は野良仕事をしながら、田畑の端や霧開河の柳の茂みに集まって討論した。そして夜は進明学校の宿直室で、昼間まとめた意見を一つ一つ掘り下げては討議した。

    みんなで討論するなかで、刮目すべき現実的な問題が少なからず提起された。

    まず朝鮮革命の性格規定の問題が論争の種になった。報告にある反帝反封建民主主義革命という規定にたいしてさまざまな論議がたたかわされた。争点は、古典にもなく、まだどの国でも提起されたことのない反帝反封建民主主義革命という新たな性格規定が、革命の普遍的原理や合法則性に矛盾しないかということであった。あのころ青年たちは、近代史を更新した革命はブルジョア革命と社会主義革命以外になかったと見ていた。ところが社会主義革命でもなくブルジョア革命でもない、反帝反封建民主主義革命という新しい概念が提示されたのだから、疑問に思うのもあながち無理ではなかった。

    わたしが朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定したのは、わが国の階級関係と朝鮮革命の課題から引き出した結論であった。朝鮮民族のもっとも緊切な革命課題は日本帝国主義を打倒し、朝鮮人民を束縛している封建的諸関係を一掃し、わが国に民主主義を実現することであった。ここからわたしは朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定したのである。

    他人の鋳型に無理にはめこんで革命の性格を規定しようとすれば教条主義に陥る。鋳型が優先するのでなく、具体的な現実が優先しなければならない。たとえ古典にはない定式化であり、他国にない規定であっても、それが自国の実情に合う科学的な規定であれば、共産主義者はためらわずにそれを選び取るべきである。これがマルクス・レーニン主義にたいする創造的な態度である。

    そのような内容で、朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定した趣旨を説明すると、代表たちはそれを理解し、心から支持した。

    もっとも活発な論議の対象になったのは反日民族統一戦線の問題であった。民族統一戦線の戦略にかんする問題は当時、理論的にも実践的にも公に議論するのがはばかられる難問題とされていた。コミンテルンの一部の人が中国における国共合作の失敗をたてに、統一戦線政策の支持者をおしなべて改良主義者呼ばわりしたので、われわれの周囲の人たちもこの問題にたいしては慎重な態度をとっていたのである。

    それで、よほどの勇気がなければ、民族統一戦線政策を路線としてうちだすことができなかった。これを路線として提起するなら、コミンテルンの立場に挑戦するものととられかねなかったのである。

    あのとき、同志たちはじつに多くの問題を提起したものだった。

    父は地主だが、革命を支持する息子はどうみるべきか? 多額の独立資金を出し、独立軍に多くの物質的援助をしたが、共産主義者には背を向ける資本家はどう扱うべきか? 日本人とも如才なく交際し、人民ともうちとけてつきあう面長を革命の側に包容することができるか? 

    そのような質問にわたしは、本人の思想動向を基本にして評価すべきだと一言で答えた。

    そうした見解がその後、祖国光復会十大綱領に具体化され、解放後には20か条政綱のなかで国家の政策として明文化された。

    われわれが倫で提示した反日民族統一戦線路線の正当性はその後、実地の生活を通して実証された。

    同志たちの意見は報告を完成するうえで大いに参考になった。

    倫会議が正式に開かれたのは一九三〇年六月三十日の夜であった。

    地元の同志たちは、進明学校の教室に会場を準備した。代表たちのために教室の床に編み座布団を敷き、天井にはいくつもの石油ランプをつるした。

    初日の会議はわたしの報告で終わり、翌日からは農民の手助けをするかたわら、川辺や柳の茂みのなかにグループ別に、あるいは代表全員が集まって報告で示された課題の実行対策を討議した。まったくユニークな会議のやり方だった。

    倫の革命組織が村に水も漏らさぬ警備陣をしいていたおかげで、われわれは安心して会議を進めることができた。とくに少年探検隊員が会議のあいだ、われわれを頼もしく守ってくれた。

    新しい世代の青年共産主義者が中部満州地方に多数集結したことを探知した日帝は、われわれの活動区域である長春県、懐徳県、伊通県一帯に大勢の密偵を送りこんだ。なかにはわたしの写真を持ち歩いて行方を探索する密偵もいた。

    満州駐在日本領事館の手先や朝鮮総督府警務局の密偵を通して、吉林を中心とした満州地域に、従来の共産主義者とは系列も活動方式もまったく異なる新しい世代の共産主義者が出現して勢力を拡大していることを内偵し、神経をとがらせた日帝は、その指導的中核を摘出するためにわれわれを執拗に追跡した。われわれがうわさを立てずに広い地域を活動舞台にして人民のなかに深く入っていったので、彼らはわれわれをあなどれないとみたようである。

    倫で村の警備組織の責任をもち、少年探検隊員と反帝青年同盟員を統率したのが金園宇だった。彼はときどき会場からそっと抜け出しては村を一巡し、警備状況を点検した。わたしが仕事に追われて宿所に帰れず、進明学校の教室で夜を明かすときは、彼もわれわれを護衛して徹夜した。彼は学校宿直室の台所の焚き口でジャガイモを焼いて夜食に出してくれたこともある。

    金園宇は倫、孤楡樹、五家子の開拓で大きな功績をたてた。彼は吉林で青年学生運動に従事したときにも多くの仕事をした。

    われわれは1928年の春、長春地方の農村を革命化するさいに金園宇を派遣した。彼は倫の進明学校で教鞭をとるかたわら、倫と孤楡樹一帯をまわって青年を教育した。一九三〇年の春からは車光秀と協力して朝鮮革命軍結成の準備活動にも参加した。金園宇はきれいな顔をしていたので、女装をさせ、玄均と夫婦に仕立てて地下工作に派遣したこともあった。

    金園宇は朝鮮革命軍の組織後、武器購入工作中敵に逮捕され、何年か獄中生活を送った。彼は獄中でも節を曲げずりっぱにたたかった。

    金園宇は朝鮮戦争後、内外の情勢が複雑だった時期に地方で党の路線を擁護してたたかい、分派分子の手にかかって死んだ。当時、分派分子は党に忠実な人にさまざまな謀略をめぐらし、害を加えていた。

    金園宇の本名は辺黙声だった。

    倫がわれわれの頼もしい活動基地になり、われわれの理念を実現する革命村に変わったのは、金園宇、金利甲、車光秀、金赫など新しい世代の共産主義者がこの村を開拓するために早くから心血を傾けたたまものであった。

    われわれがこの地方に来る前は、当地の人びとは南道組と北道組に別れていがみあっていた。二つの組が霧開河の水をめぐって争ったこともあった。南道組が田畑を起こそうと水口を塞ぐと、北道組は自分たちの水田が乾いてしまうとシャベルを持っていって水口を開けた。しまいには子どもたちまで北道組と南道組に別れて一緒に遊ばず、にらみあうといった嘆かわしい事態に立ちいたった。

    そうした状態を改めようと金赫、金園宇、金利甲、張小峰などが力をつくした。彼らは人びとを説得してけんかをやめさせ、倫に各種大衆組織を結成し、学校を設立して無料教育をおこなった。

    代表たちは七月二日の夜、進明学校の教室で会議をつづけた。その夜、任務を分担し、会議をしめくくった。

    閉会に先立って、司会の車光秀がいきなり立ち上がり、感動的な演説をした。彼は「ひょうきん者」というニックネームのとおりよくおどけ、ともすると興奮することもあったが、そんなときにも理性を失わず、激情にあふれた雄弁で人びとを感嘆させる珍しい性格の持ち主だった。彼は拳を振りながら叫んだ。

    「朝鮮の共産主義者たちが胸をたたいて挫折を痛嘆しているとき、われわれはこの倫で朝鮮革命の新しい出発を告げる歴史的な呱々の声を上げた。この夜明けの鐘の音とともに朝鮮の共産主義者は新たな軌道に乗って邁進するであろう。同志諸君! 即刻武器を取り、日帝との決戦に奮い立とう!」

    われわれは彼の演説に歓声を上げ、『革命歌』をうたった。

    わたしがこのように倫で朝鮮革命の進路を示すことができたのは、吉林時代、青年学生運動をおこなうなかで朝鮮革命にたいする主体的立場を確立し、共産主義運動の新しい道を開拓してきたからである。わたしは闘争の日びに芽生え、獄中ではぐくんだその思想と立場を、『朝鮮革命の進路』と題して発表したにすぎない。それが朝鮮革命の路線となり、指導思想となったのである。

    わたしが論文で展開した内容はチュチェ思想が核になっているといえる。

    この思想はその後、抗日革命闘争をはじめ各段階の革命における複雑多難な実地の闘争のなかでたえず発展し、豊かになり、今日のように思想、理論、方法の全一的な体系をととのえた一つの哲学思想となったのである。

    解放後、われわれが主体性の確立をとくに強調したのは、戦後の社会主義基礎建設の時期であった。

    一九五五年、わたしは党宣伝扇動部門の活動家を前にして事大主義、教条主義を克服し、主体性を確立する問題について演説したが、それは『思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体性を確立するために』という表題の文献で公開された。

    わたしはその後も、折にふれて主体性を確立することについて強調してきた。

    チュチェ思想の本質と創始の経緯、その思想の具現については、外国人との談話のさいにたびたび説明した。

    しかし、わたしはそれを体系化して本にまとめようとは思わなかった。ただ朝鮮人民がその思想を正しいものとして受けとめ、革命実践に具現すればそれでよいと思ったのである。

    その後、金正日書記がその思想を全面的に体系化し、『チュチェ思想について』という論文を発表した。

     わたしは倫会議後、抗日武装闘争を進めるなかで、会議で示した路線が正しかったことを確認した。敵はわれわれを「滄海の一粟」といったが、われわれの後ろには底知れない力を持つ人民の海がひかえていた。われわれがうちだしたすべての路線を人民は容易に理解し、自分のものとして受け入れ、われわれの隊伍に数千数万の息子と娘、兄弟姉妹を送って物心両面の援助を惜しまなかった。

    われわれが零下四十度を上下する満州の酷寒のなかで、十五年ものあいだ、爪先まで武装した強敵と戦って勝つことができたのは、人民という強力な城塞があり、人民大衆という無限大の滄海があったからである。

    

    

    

    

      4 最初の党組織――建設同志社

    

    

    倫会議が閉会した翌日の一九三〇年七月三日に、われわれが新しい型の党組織を創立したことは、数年前に公開され、その会合でおこなったわたしの演説もすでに発表されている。

    党が革命において参謀部の役割を果たし、党の役割によって革命の成否が左右されるということは周知の事実である。革命が歴史の機関車だとすれば、党は革命の機関車だといえる。そのため革命家は党を重視し、党の建設に心血を傾けるのである。

    マルクスは科学的共産主義理論を創始したあと、実践闘争の手初めとして共産主義者同盟を創立し、『共産党宣言』を発表した。それが彼の活動における最大の功績として今日までたたえられているのは、世界を改造する共産主義者の闘争において党の使命と役割がそれだけ重要な意義を有するからである。国際共産主義運動と労働運動にあらわれたさまざまな日和見主義や改良主義も、結局は党にたいする誤った見解と立場に起因するものといえる。

    共産主義が新たな時代的思潮として労働運動の舞台に登場して以来、共産主義者が地球上でなしとげたあらゆる世紀的変革は、いずれも党という神聖な名と結びついている。

    われわれは倫会議が示した課題を実現するためにまず、党組織をつくる活動に取り組んだ。

    わたしが新しい型の党を創立する決心をし、その方途を全面的に模索しはじめたのは、朝鮮共産党がコミンテルンから除名されたという知らせを聞いたあとからである。

    わが国で共産党が組織されたのは一九二五年四月であった。各国で労働者階級の利益を代弁する政党があいついで出現し、大衆を導くのは世界的趨勢となっていた。そうした趨勢に合わせ、政治活動の自由と権利の不毛の地であったわが国で共産主義政党が創立されたことは、朝鮮人が新しい思潮と時代の趨勢に敏感で豊かな政治的感受性をもっていることを示した。

    朝鮮共産党の創立は、朝鮮の労働運動と民族解放運動の発展における必然的な帰結であり、合法則的な所産であった。

    朝鮮共産党は創立後、労働者、農民をはじめ広範な大衆のあいだに社会主義思想を普及し、労働運動を指導して、わが国の民族解放闘争が共産主義者によって指導される新たなぺージを開いた。朝鮮の共産主義者は朝鮮共産党が存在したあいだに、六・一〇万歳示威闘争のような大規模の闘争を指導して民族の気概を誇示したし、民族主義者と合作し新幹会のような大衆団体を結成して、反日愛国勢力の結集にも寄与した。

    朝鮮共産党が創立され、その指導のもとに労働運動や農民運動をはじめ各階層の大衆運動が展開されたことは、わが国共産主義運動の始原を開いた一つの歴史的な出来事であり、民族解放運動の発展をある程度促した。

    しかし朝鮮共産党は、日帝の過酷な弾圧と上層人物の派閥争いによって、一九二八年に組織された勢力としての存在を終えた。コミンテルンは1928年夏の第6回大会で、朝鮮共産党の承認を取り消した。これは事実上、朝鮮共産党がコミンテルンから除名されたことを意味した。

    もちろん、われわれは朝鮮共産党が存在していたときにも、派閥争いをこととする上層部にたいしては

    好感をもつことができなかった。しかし、その党すらコミンテルンから除名されたと聞いて残念な思いをし、恥ずかしくもあった。われわれはコミンテルンの処置を遺憾に思った。そのとき、わたしは、年も若く共産主義運動の経験も乏しかったが、われわれ自身が主人となって新しい型の党を創立するたたかいに積極的に取り組まなければならないと思った。

    純潔で清新な新しい型の党を創立するには、さまざまな障害をのりこえなければならなかった。

    最大の難点は共産主義隊列内にセクト主義が依然として残っていることだった。セクト主義が清算されなかったため、初期共産主義者は党再建運動を統一的に進めることができず、いくつにも分裂して各派閥が別々におこなった。

    朝鮮共産党がコミンテルンから除名処分をうけたあと、わが国の共産主義者は内外で党再建運動を積極的にくりひろげた。しかし、日帝の容赦ない弾圧と妨害策動によって、どの派閥も再建に成功しなかった。火曜派とM・L〔8〕派が再建運動を放棄して満州地方に組織した総局の解体を宣言したあと、ソウル・上海派が国内で再建運動に乗り出したが、それも発覚して、多くの党員が投獄され、挫折した。

    そこでわれわれは、解散した党の再建をはかったり、派閥争いの悪癖に染まった既成世代に頼ったりしては、革命的な党はつくれないと考えるようになった。

    党創建におけるいま一つの難関は、コミンテルンが一国一党制の原則を定めたことによって、朝鮮の共産主義者が満州地方で独自の党を創建することが不可能になったことである。

    コミンテルンは第6回大会で採択した規約の総則で、コミンテルン所属の個々の党は当該国の共産党(コミンテルン支部)の名称を持ち、個々の国では一つの共産党だけがコミンテルンの支部になれるという一国一党制の原則を規定した。

    コミンテルン東洋宣伝部は、一九三〇年五月、ハバロフスクで朝中共産党代表会議を招集し、朝鮮共産党組織問題にかんするコミンテルンの決議を通告した。コミンテルンはその決議で、在満朝鮮人共産主義者に中国の党に入党して中国の党員として活動する任務を提起した。

    こうして、再建運動に熱を上げていた多くの共産主義者は解体声明を発表し、中国の党に入りはじめた。そのあおりで五・三〇暴動の炎が東満州に燃え広がったのである。

    朝鮮の党員が中国の党に入って活動するのは、民族的自負のとりわけ強い新しい世代の青年共産主義者にとって深刻な問題であった。この原則をめぐって、同志たちは熱論をたたかわせた。コミンテルンの指令を無責任な処置、納得できない決議だと非難する青年、その措置を公明正大なものと評価する青年、コミンテルンが朝鮮共産主義者に中国の党への入党を要求するのは、党再建の可能性を永遠に排除するものだとうっぷんを吐露する青年などさまざまだった。

    同志たちはこの問題にたいするわたしの立場を知りたがっていた。

    わたしは、コミンテルンが一国一党制の原則にのっとって朝鮮共産主義者の中国党への入党を求めたのは、非難されるべき処置ではなく、その要求が朝鮮共産主義者から党再建の可能性を奪うものでもない、と指摘した。

    「現状では、コミンテルンの要求はある程度やむをえない。朝鮮共産主義者に独自の政党があれば、なんのために間借り住まいを要求するだろうか。だから、コミンテルンの決議は尊重すべきだ。それが国際主義的立場だ。中国党員の帽子をかぶっても朝鮮を忘れず、朝鮮革命のためにたたかえばよい。しかし、コミンテルンの指示に従うからということで、独自の党建設を断念し、いつまでも間借り住まいをしているわけにはいかない。朝鮮人は朝鮮人の党を持たなければならないのだ」

    これが党籍を移す問題についてのわたしの見解であり、立場であった。

    しかし、その見解が一国一党制の原則にたいするコミンテルンの解釈と一致すると断言することはできなかった。

    わたしは一国一党制の原則にたいする理解を深め、党建設方針をすみやかに確定するために、一九三〇年六月下旬、賈家屯でコミンテルンの連絡員金光烈(金烈)に会った。彼は日本で早稲田大学を卒業し、ソ連に行っていたインテリで、われわれの活動区域の孤楡樹、五家子、倫地方にたびたび滞在した。彼は連絡員の肩書きで、われわれとコミンテルンとの連係をつけようと努力した。彼はソ連で社会主義をいろいろと体験してきた人だ、と張小峰と李鍾洛が賛辞を惜しまなかったので、わたしも期待をかけて彼に会った。うわさにたがわず、彼は広い知識の持ち主だった。彼はロシア語と日本語に堪能で、ロシアの踊りも本国人なみに上手に踊り、しかも雄弁家だった。金光烈はわたしに、自分の個人的見解を聞くよりはコミンテルンヘ行ってみたほうがよい、コミンテルンのハルビン連絡所に紹介するから、そこで一国一党制の原則問題を討議するようにと勧めた。

    金光烈に会ったあと、わたしは同志たちと一国一党制の原則についての議論をつづけた。

    わたしは、一国一党制の原則を、1国から二つ、またはそれ以上の共産党がコミンテルンに加入することはできない、ただ一つだけの共産党が加入できる、一国には一つ以上の共産党中央が存在することができない、ただ一つの共産党中央だけが存在しうる、ということだと解釈した。

    この原則の本質は、一国に同一の利害と目的をもつ党中央が一つ以上あってはならないということであった。

    コミンテルンが一国一党制の原則を示し、それを厳格に履行するよう要求したのは、国際共産主義運動からセクト主義をはじめとするあらゆる日和見主義を一掃し、隊伍の統一団結を保障するところに重要な目的があった。コミンテルンは国際共産主義運動の歴史的教訓に照らして、1国一党制の原則をうちだし、さまざまな異端的要素が共産主義運動内に浸透しないようきびしく警戒したのである。

    コミンテルンが一国一党制の原則を示したのはまた、敵が共産主義隊列を内部から切り崩そうと悪辣に策動していたからだった。

    しかし、コミンテルンの規約は一国一党制の原則を示しただけで、外国で共産主義運動をおこなう人が居住国の党に籍を移す手続きや、その後の彼らの革命任務を設定する問題についてはふれていなかった。満州地方で活動している朝鮮共産主義者が中国の党に入る問題が、非常に複雑な論議を引き起こしたのもそのためであった。一部の人は、朝鮮の共産主義者が中国で自分の党組織を建設するのは一国一党制の原則に矛盾するとさえ判断したのである。

    コミンテルンの一国一党制の原則にたいするさまざまな解釈によって、祖国の解放をめざす朝鮮の共産主義者の活動には大きな混乱と動揺が生じ、朝鮮の革命家が祖国のためにたたかう権利さえ疑問視された時期に、わたしは党創立の方途を根気よく模索していた。

    コミンテルンの指示にもかない、朝鮮革命を力強くおし進めることもできる道ははたしてないのだろうか?

    このような模索の末にわたしが見いだした活路は、先行した共産主義運動の教訓を踏まえて性急に党中央を宣布する方法ではなく、党創立の組織的・思想的基盤を着実にかためたうえで、名実ともに朝鮮革命の参謀部の役割が遂行できる党を創立しようというものであった。階級的に目覚め準備のできた組織的根幹の育成と、隊伍の思想・意志の統一、党が依拠する大衆的基盤の構築なしに主観的欲望だけでは党の創立はおぼつかなかった。

    わたしは分派とかかわりのない新しい世代の共産主義者を根幹にして基礎党組織を先につくり、それを拡大強化する方法で党を創立するのが、われわれにとってもっとも適切で現実的な党創立方法であると考えた。そうした方法で党を創立するならば、コミンテルンも歓迎するに違いないと確信した。

    わたしは、それまでわれわれが育成した新しい世代の青年共産主義者で党組織を先につくり、その役割をたえず高めながら、われわれの足がおよぶすべてのところで基礎党組織を拡大強化していくならば、共産主義運動と民族解放闘争にたいする指導を十分に保障し、われわれに課された国際的任務を円滑に遂行しうると考えた。

    中国領内でわれわれの党中央を別個に組織し、中国の党と併存するようなことをしないならば、コミンテルンの一国一党制の原則にも矛盾することはないはずだった。

    わたしはこうした考えを定立し、倫会議で党創立方針を提示した。こうして最初の党組織を結成する運びとなったのである。

    革命的党組織の結成は朝鮮革命発展の必然的な要請でもあった。

    朝鮮に党がなかったので、端川農民暴動の指導者たちは、暴動の戦術的問題にかんする意見を聞くために、わざわざコミンテルンを訪ねていかなければならなかった。朝鮮に労働者、農民の利益を代表する革命的党があり、洗練された指導勢力があったとすれば、彼らは旅費を使いながらコミンテルンまで訪ねていかなかったであろう。

    一九三〇年代の初期、わが国の民族解放運動は、その幅と深さにおいて従来の反日闘争とはくらべようもなく高い水準に達していた。

    われわれの闘争も初期にくらべてはるかに前進した。活動範囲は吉林の域を抜け出して遠く東満州と北部朝鮮一帯まで拡大した。青年学生運動にとどまっていたわれわれの革命闘争は、地下活動の様相をおびて広範な労働者、農民大衆のあいだに広がっていった。経験が積まれ、軍事的・政治的準備が十分にととのうようになれば、常備の革命軍隊を組織し、大部隊の兵力で本格的な遊撃戦をおこなわなければならないが、共青がその指導のすべてを担当することはできなかった。それまで共青が各大衆団体の指導にあたったのは過渡的な現象であって恒久的なものではなかった。

    いまや党を組織し、その党が共青をはじめ各大衆団体を掌握、指導し、全般的民族解放運動を指導しながら中国の党およびコミンテルンとの連係を保たなければならなかった。共青の名義ではコミンテルンとの交渉を円滑におこなうことができなかった。

    初期の共産主義者がてんでに自派を「正統派」と称し承認をとりつけようと働きかけたので、コミンテルンは判断に苦しんだ。コミンテルンは、朝鮮で分派が清算されなければ労働者階級の真の前衛が出現することは望めず、分派を根絶して新しい党を創立するには、派閥争いに無縁で権力欲のない新しい世代が進出しなければならないということをしだいに認識しはじめた。こうして、彼らはわれわれの闘争に注目し、われわれと連係を結ぼうと各方面から手づるを求めてきた。

    われわれは多年間の革命活動の過程を通じて、新しい型の革命的党組織を結成する礎石をきずいた。

    「トゥ・ドゥ」の結成は朝鮮の共産主義運動において、従来の党と異なる新しい型の革命的党創立の起点となった。すべてが「トゥ・ドゥ」からはじまった。「トゥ・ドゥ」が発展して反帝青年同盟になり、共青となった。

    共青が育成した朝鮮革命の中核部隊=反帝青年同盟によってきずかれた革命の大衆的基盤がとりもなおさず党創立の基礎となった。共青が創立され、それが強力な前衛組織として革命運動を指導した日びに、新しい世代の共産主義者は先行世代の共産主義者の誤りを克服し、大衆獲得と指導芸術で新たな境地を開いた。新しい世代の共産主義者によって発揮された英雄的闘争精神と革命的闘争気風は、日本帝国主義侵略者を打ち破る原動力となり、後日、わが党の精神となり気概となった。

    新しい世代の共産主義者の活動においてもっとも重要な成果の一つは、倫会議を契機に朝鮮革命の指導思想を定立したことである。倫会議の決定には、「トゥ・ドゥ」と共青の綱領を実現する闘争で共産主義者が原則とすべき戦略が明示されていた。それは新しい型の党を創立する思想的基礎となり、長いあいだ挫折と失敗の苦痛のなかで暗中模索をつづけていた共産主義者の活動指針となった。

    指導思想、指導中核、大衆的基盤――これは党組織結成の必須の要素である。われわれはこれらの要素をすべてととのえていた。

    わたしは一九三〇年七月三日、倫の進明学校の教室で車光秀、金赫、崔昌傑、桂永春、金園宇、崔孝一同志たちとともに最初の党組織を結成した。会議には参加しなかったが、金利甲、金亨権、朴根源、李済宇同志らも最初の党組織メンバーとなり、朝鮮革命軍の隊長に内定していた李鍾洛と朴且石もこの組織のメンバーとなった。

    進明学校は村から五百メートルほど離れた賈家屯前の野原にあった。学校の東側と南側には五、六ヘクタールのカワヤナギの茂みがあり、そのなかを霧開河という川が学校をめぐって東南に流れていた。

    学校の東側から村までは沼沢地がつづいていた。進明学校に出入りする通路は西側にしかなかった。それで、道路の入口に警備を立てれば学校は安全だった。危険が迫ってもカワヤナギの茂みに入れば、姿を隠すことができた。

    その夜われわれは、密偵が出没しそうな西側の通路に、2重3重に歩哨を立てて会議を進めた。いまでもそのとき、たんぼで蛙がかしましく鳴いていたことが思い出される。その蛙の鳴き声は神秘な情緒をかもしだしていた。

    最初の党組織を結成したさい、金園宇が会場をしつらえながら、演壇の横に赤旗を立てようと苦労したことが、忘れられない印象として残っている。その旗の赤い色は、最後の一滴の血がつきるまで革命のためにたたかおうというわれわれの覚悟をあらわしていた。

    いまでも最初の党組織について語るとき、進明学校のことが思い出され、進明学校を思えば演壇の横にななめに立てられたあの旗が瞼に浮かんでくる。

    わたしはその日、長い演説はしなかった。最初の党組織を結成する問題については倫会議の過程で十分論議したので、あらためて長々とその趣旨を説明するまでもなかった。

    ただ党組織メンバーの課題として、基礎党組織の拡大とそれにたいする統一的指導体系を確立する問題、隊伍の組織的・思想的統一と同志的な団結を実現する問題、革命の大衆的基盤をかためる問題などを提起し、その実現方途として党組織がすべての活動において自主的立場を堅持し、党組織建設活動を反日闘争と密接に結びつけることを強調することにとどめた。

    われわれは、そこでは党の綱領と規約を採択しなかった。「トゥ・ドゥ」の綱領と規約にわれわれ共産主義者の最高目標と当面の闘争課題が明記され、倫会議で採択された革命路線と戦略的方針にわれわれの進路と活動規範が具体的に明示されてあった。

    その後、われわれは最初の党組織に建設同志社という素朴な名をつけた。この名称には同志の獲得から革命の第一歩を踏み出し、生死をともにする同志をたえず探し求めて結束し、革命を発展させて、最後の勝利を達成しようというわれわれの抱負と意志が反映されていた。

    建設同志社に加入した同志たちは代わるがわる立ち上がって、激情にあふれた熱弁を吐いた。金赫は「出帆だ。われわれの船は出港した。われわれは激浪をけたてて遠洋へ櫓をこいで行く」という内容の即興詩を詠んだ。

    金赫の詩の朗唱が終わると、崔孝一が一場の演説をした。彼は演説を終えてこういった。

    「成柱、ここが教室でなくて山のなかだったら一斉射撃で記念するんだがな」

    わたしは日本軍と対決する日も遠くないから、そのときに思う存分撃とうといった。わたしは最初の党組織の結成を祝って、拳銃どころか大砲でもぶっ放したい気持だった。自らの党組織を持ち、朝鮮の党員として革命のために生涯をささげることを時代と歴史の前に厳粛に誓ったわれわれの心は、いいようのない喜びと自負でふくれあがった。

    十五年後、解放された祖国で党を創立し、幼い日の体臭がしみこんでいる生家のオンドル部屋のござの上に横たわったとき、わたしはもろもろの憂いを忘れて、倫で最初の党組織を結成したことを感慨深く回想した。

    最初の党組織――建設同志社はわが党の胎児であり種子であり、党の基礎組織を結成し、拡大するうえで母体としての意義をもつ組織であった。最初の党組織をもって以来、朝鮮革命は分派に影響されていない白紙のように汚れなく清新な新しい世代の共産主義者の指導のもとに、一路勝利の道をたどってきた。自主的な党建設をめざす朝鮮共産主義者の闘争は、それ以来、抗日大戦の奔流にのってひたすら前進してきたのである。

    その後、わたしは建設同志社のメンバーを各地に派遣し、豆満江沿岸の北部朝鮮一帯と満州各地で党組織を結成した。

    国内に党組織を結成する任務はわたしが引き受けた。わたしは一九三〇年の秋、われわれの影響が比較的強くおよんでいた咸鏡北道穏城郡に出むいて国内の党組織を結成した。

    結成後、日の浅いわれわれの党組織は、人民大衆と生死、苦楽をともにしながら、つねに彼らの先頭に立って抗日戦争の進軍路を切り開き、そのなかで鋼鉄の前衛に鍛えられ、大衆に絶対的に愛され信頼される不抜の勢力に成長した。

    われわれは独自の組織をもって活動したが、中国の党と緊密な連係を保っていた。われわれは朝鮮の共産主義者であったが、朝中両民族の長年の善隣関係と両国の境遇の類似性、両国革命家の時代的使命の共通性からして終始中国革命を支持し、中国の党と人民の利益を擁護してたたかった。中国の党と人民が民族解放闘争で勝利をおさめるたびに、われわれはそれをわがことのように喜び、彼らが一時的にせよ失敗と試練をなめるときには、彼らとともに心を痛めた。

    朝鮮の共産主義者は中国で活動するだけに、中国の党と連係を保たずには中国人民の援助をうけることができず、反帝共同戦線をしっかり維持することができなかった。

    われわれが中国の党との連係を重視したのは、満州省委員会傘下の党組織に朝鮮人が多かった実情とも関連している。東満州特別委員会にも朝鮮人が多数入っており、東満州地域の県党委員会や区党委員会の指導部もそのほとんどが朝鮮人で構成され、党員の比率においても九〇%以上が朝鮮人であった。彼らは、東満州地域の党組織で主導的かつ中核的な役割を果たしていた。

    満州地方に朝鮮人の党員が多かったのは、間島地方で共産主義運動をはじめた先駆者の大多数が朝鮮人であったからである。

    わたしが中国共産党と関係をもつようになったのは、日帝が満州を占領したあとからだった。

    華成義塾で「トゥ・ドゥ」を組織したときや吉林、五家子などで活動した当時は、まだ中国共産党とのつながりがなかった。

    もともと革命というものは誰かに指示されてするものではなく、自分の信念と目的に従って自主的におこなうものである。この要求からして、われわれは革命の指導思想の創出も自分の力でおこない、わが党の起源となった「トゥ・ドゥ」も独自に組織した。

    日帝が九・一八事変を起こして満州を占領した結果生じた新しい情勢、日帝が朝中人民の共通の敵となった新たな環境は、われわれと中国共産党との連係問題を機の熟した要求として目前に提起した。

    一九三一年の冬、明月溝会議を前後した時期、わたしは、曹亜範の家にとどまっていたときにはじめて中国共産党組織と連係をもった。

    曹亜範は吉林での学生生活当時、わたしと一緒に共青の活動にたずさわり、その後は和竜地方で教鞭をとるかたわら、中国共産党組織とかかわりをもっていた。その後、遊撃隊を組織し汪清などで活動したころは、寧安県党の責任ある地位にあって東満州地区まで指導していた王潤成とつながりをもち、大連にいた童長栄が東満州特委に派遣されてきたときは、彼と親密な関係を結んだ。わたしと中国共産党とのつながりはこうして結ばれ、その過程でわたしは中国党組織の幹部としても活動することになった。童長栄が敵の手に倒れたのちは魏拯民とつながりをもった。そのほかに、わたしはコミンテルンの巡視員だった潘同志とも連係を保って活動した。

    中国共産党とのこうした関係は抗日武装闘争の全期間にわたって維持され、それは日帝に反対する共同戦線の拡大と共同闘争の発展に寄与した。

    われわれが中国共産党との緊密な連係のもとに共同闘争を発展させたのは、朝鮮の共産主義者が他国で革命闘争をしなければならなかった当時の複雑な情勢と、コミンテルンの一国一党制路線の要求に合致する主動的で柔軟性のある措置であった。われわれは中国共産党とのこうした共同闘争を大いに発展させながら、終始、祖国解放の旗、朝鮮革命の主体的路線を堅持し、それをりっぱに貫徹した。中国の戦友たちは、われわれのこうした原則的な立場と誠実な努力にたいし、革命の民族的義務と国際的義務を正しく結合したりっぱな模範であると心から称賛した。

    数千数万の朝鮮人民のすぐれた子弟がプロレタリア国際主義の旗を高くかざして、中国の共産主義者と肩を組み、試練にみちた苦難の抗日大長征に参加した。

    一九六三年、周恩来総理は中国を訪問した崔庸健同志の誕生日を祝って瀋陽で宴席をもうけたさい、印象深い祝辞を述べた。総理はそこで、東北地方における革命を切り開くうえで朝鮮人が主導的役割を果たした、それゆえ中朝親善は決して損なわれることなく、永遠につづくであろう、抗日連軍は中朝人民のすぐれた子弟の連合した革命武装力であった、と述べている。

    東北地方における革命の開拓において朝鮮人の功労が大であったことについては、楊靖宇、周保中、魏拯民同志らも折にふれて指摘している。

    われわれが中国革命のために私心のない援助をおこなったので、中国人民もわれわれのためには生死をかえりみず誠心誠意援助してくれたのである。

    反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編したのち、われわれは遊撃隊のなかに朝鮮人民革命軍党委員会をおいた。それは倫で組織された最初の党組織が拡大発展した結実であった。われわれの自主的な党組織は、その後、祖国光復会の国内組織である朝鮮民族解放同盟や農民組合、労働組合にも根を張った。

    われわれが祖国凱旋後一か月足らずで党創立の大業をなしとげることができたのは、抗日革命の長い歳月、党建設偉業の実現をめざす闘争のなかで積み上げた成果と経験があったからである。

    

    

    

      5 朝鮮革命軍

    

    

    倫会議が重要な課題の一つとしてうちだした党組織建設の活動は、最初の党組織-建設同志社の結成によってその第一歩を踏み出した。

    しかし、われわれはこれに満足することができなかった。われわれには武装闘争を準備する困難な任務が残されていた。

    われわれは武装闘争の準備活動としてまず、孤楡樹で朝鮮革命軍を結成した。

    われわれが一、二年後に常備の革命武力の創建を予定していたにもかかわらず、朝鮮革命軍のような過渡的な政治・半軍事組織を創設したのは、革命軍の活動を通して大規模な遊撃部隊を編成する準備をととのえるためだった。われわれは朝鮮革命軍の政治・軍事活動を通して武装闘争の大衆的基盤を構築し、武装闘争に必要な経験を積もうと考えた。

    じつのところ、われわれには武装闘争に必要な知識がなかった。自国でなく他国の領土で武装闘争をするだけに、われわれにはその経験が必要だった。しかしわれわれが参考にすべき軍事教範や経験はどこにもなかった。

    われわれに元手があったとすれば、何人かの独立軍出身の同志と華成義塾時代の同志、それに拳銃が何挺かあったにすぎない。そのほかにはなにもなかった。自力で武器を獲得し、軍事的経験を積まなければならなかった。

    そのための過渡的な組織が朝鮮革命軍だった。

    孤楡樹ではじめのころは金園宇、李鍾洛が革命軍の結成準備にあたり、そのあと車光秀が派遣されて準備を完了した。

    革命軍結成の準備活動は各地で同時に進められた。

    準備活動での基本は、革命軍に入隊させる青年の選抜と武器の入手であった。

    われわれがその方途の一つにしたのは、独立軍に働きかけて先進思想に同調する堅実な軍人を味方に引き入れ、人と武器を獲得するやり方だった。革命軍に軍人出身が多いと、彼らを母体にして、軍事知識のない青年にも訓練を与えることができるわけである。それで、同志たちは国民府傘下の独立軍にたいする工作を積極的におこなった。われわれの方針は、独立軍のなかで進歩的な思想をもつ軍人に影響を与えて味方につけ、思想的準備の程度によって革命軍にも受け入れようというものであった。

    国民府はそのころも、国民府派と反国民府派に分かれてヘゲモニー争いをつづけていた。国民府派は在満朝鮮人の統帥権を、反国民府派は独立軍の統帥権をそれぞれ握ることになった。それは民衆と軍隊を分離する結果をまねいた。一九三〇年の夏になって、両派の対立は互いに相手の幹部を暗殺するテロに発展し、両派は完全に決裂状態に陥った。

    こんな有様だったので、独立軍内部では隊員ばかりでなく小隊長や中隊長でさえ上層部に背を向け、その指示に服従しようとしなかった。むしろ、彼らはわれわれが派遣した工作員のいうことをよく聞いた。

    車光秀は通化、輝南、寛西一帯で独立軍の工作にあたり、李鍾洛は孤楡樹で彼の指揮する隊員を教育し

    て革命軍に受け入れる準備をした。

    李鍾洛は孤楡樹で正義府所属の独立軍第一中隊に勤務し、その後、華成義塾で「トゥ・ドゥ」に加入した。彼と一緒に華成義塾に推薦されてきた第一中隊出身のなかには、朴且石、朴根源、朴炳華、李順浩などの青年がいた。

    李鍾洛は華成義塾の廃校後、孤楡樹の出身中隊に帰隊し、副中隊長をへて中隊長になった。いまとは違って兵力が少なかったあのころは、中隊といえば大きな兵力であった。満州で最大の勢力といわれた国民府も、傘下に九つの中隊があったにすぎなかった。だから、中隊長といえばおのずと、独立軍のなかでたいした幹部としてあがめられた。孤楡樹で李鍾洛はたいそう威信のある存在だった。

    金赫、車光秀、朴素心らが一九二八年から一九二九年にかけて、柳河地方で崔昌傑の影響下にあった独立軍の保護をうけながら活発に革命活動をおこなったように、孤楡樹に派遣された同志たちも李鍾洛の指揮する独立軍部隊の保護をうけながら活動した。

    李鍾洛もそのころは革命をやろうという覚悟と熱意が高かった。彼は華成義塾の廃校後、出身中隊に帰り、われわれが樺甸で任務を与えたとおり、独立軍隊員にたいする活動を忠実におこなった。大胆さ、決断力、判断力、統率力などに富んでいるのが、彼の長所であった。

    その反面、彼は冷徹な理性と思考力に欠けていた。気分本位に行動し、過激に走り、個人英雄主義が濃厚だった。後日、彼が革命を裏切った重要な原因はそこにあったと思う。

    一部の者は、独立軍の指揮体系が乱れ、内部が四分五裂の状態にあるのだから、各地に分散している中隊を武装解除し、国民府の反動分子を粛清しようと主張した。そして独立軍のべールを脱ぎ捨てて公然と活動し、武器を獲得し、国民府とも対決しようといった。

    わたしは独立軍との活動で極左的誤りを犯さないよう、そうした傾向をきびしくいましめた。

    亨権叔父も二つの工作グループを編成して長白地区に進出した。叔父は芝陽蓋の裏山に根拠地を定め、長白の各地に白山青年同盟支部、農民同盟、反日婦女会、少年探検隊を組織して、武器獲得工作と意識化活動をくりひろげ、地元の青年を受け入れて軍事訓練をほどこした。亨権叔父の努力によって長白地区の独立軍兵力はわれわれの影響下に入ってきた。

    隊員選抜と後進の養成とならんで武器獲得工作も活発におこなわれた。

    武器獲得での最大の功労者は崔孝一である。彼は鉄嶺にある日本人銃器商店の店員を勤めていた。当時、多くの日本人が満州で銃器を売っていた。彼らは匪賊にも中国人地主にも銃を売った。崔孝一は小学卒の学歴しかなかったが、日本語が上手で日本人なみに流暢に話した。崔孝一は店員にしておくには惜しいくらい頭が切れ、日本語も巧みだったので、店主はすっかり彼にほれこんでいた。

    崔孝一を味方に引き入れたのは張小峰だった。倫を開拓するさい、長春、鉄嶺、公主嶺一帯を往来していた張小峰は、たまたま崔孝一と知り合った。何度か付き合ううちに、彼の誠実で剛直な人柄を知った張小峰は、彼を反帝青年同盟に加入させ、李鍾洛に紹介した。それ以来、崔孝一は鉄嶺で敵中工作をはじめた。彼は李鍾洛と連係をもち、独立軍中隊に武器をひそかに売り渡した。店主は崔孝一が売った銃器が朝鮮人の手に渡るのを知りながらも、それも金儲けだということでそしらぬ顔をしていた。

    崔孝一は最初は中国人に武器を売り、つぎは独立軍に渡し、しまいには鉄嶺の日本人商店を共産主義者に武器を供給、調達する専用商店のようにしてしまった。そうしているうちに彼の世界観もめざましく発展した。

    李鍾洛と張小峰はわたしに会うたびに、鉄嶺にいるすばらしい青年を獲得したといっては崔孝一をほめた。それで、わたしも崔孝一にひそかに大きな期待をかけた。

    一九二八年だったか、それとも一九二九年だったか、崔孝一はわたしに会うためにわざわざ吉林にやってきた。会ってみると、彼はまるで深窓の佳人といったような色白の美青年だった。ところが容姿とは違って酒好きだった。革命家の物指しをもって測るとすれば、それがやや欠点といえた。わたしは旅館で一緒に食事をとり、長時間語り合った。彼が日本の「奥さま」言葉を真似て、日本の天皇や高位級の軍人、政治家、それに朝鮮の売国5大臣を罵倒したので、わたしは腹をかかえて笑った。

    崔孝一の妻は人がうらやむ美女だったが、彼は家庭生活に浸らず超然としていた。しかし娘のような顔立ちとは違って、革命闘争では驚くほど度胸があり、意志が強かった。

    彼が日本人商店の銃器を十挺ほど奪取して、妻と一緒に孤楡樹へ脱出してきたのは倫会議の直前だった。われわれが常備の革命武力建設に先立って、過渡的段階として小規模の軍事・政治組織を結成する準備を急いでいた折だったので、崔孝一の脱出は大歓迎をうけた。

    わたしは同志たちの報告を通して革命軍の結成準備が完了したことを知った。孤楡樹に行ってみると、隊員の名簿や武器がととのっており、結成集会の場所や参加者も決めてあった。

    朝鮮革命軍の結成式は、一九三〇年七月六日、三光学校の運動場でおこなわれた。

    武器を授与する前に、わたしは簡単な演説をした。わたしは、朝鮮革命軍は抗日武装闘争の開始を準備するための朝鮮共産主義者の政治・半軍事組織であると規定し、朝鮮革命軍を土台にして今後、常備の革命武力が創建されるであろうと宣言した。

    朝鮮革命軍の基本的使命は、都市と農村で人民大衆を教育し覚醒させて、彼らを抗日の旗のもとに結集しながら武装闘争の経験を積み、本格的な武装隊伍を結成する準備を進めるところにあった。

    わたしは演説のなかで、朝鮮革命軍の当面の課題として、抗日武装隊伍の結成に必要な根幹を育成する問題、革命軍隊の大衆的基盤をきずく問題、武装闘争の軍事的準備を着実に進める問題を提起した。

    われわれは朝鮮革命軍に第1隊、第2隊、第3隊などいくつかの隊をおいた。

    わたしの発議によって、朝鮮革命軍の隊長には軍事的経験が豊かで統率力のある李鍾洛が推薦された。

    一部の歴史家のなかには、国民府がつくった朝鮮革命軍とわれわれが孤楡樹で組織した同名の朝鮮革命軍を同一の軍事組織と混同する人もいる。国民府がつくった朝鮮革命軍メンバーのなかで少なからぬ人がわれわれの革命軍にも参加したので、そう推測するのもあながち無理ではなかった。

    二つの軍事組織は名称は同じでも、指導理念と使命は異なっていた。

    国民府の朝鮮革命軍は、国民府の内部矛盾をそのまま反映して、実地の活動過程で対立と紛争がたえず、その名称や幹部の顔ぶれが3日にあげず変わるので、事実上、実体をつかみようがなかった。

    われわれの朝鮮革命軍は共産主義の理念によって導かれ、大衆政治活動や軍事活動をともにおこなう政治・半軍事組織であった。

    われわれは朝鮮革命軍の結成にあたり、名称問題について論議を重ねた。朝鮮で共産主義者が組織する最初の武装力であったので、名称も斬新でなければならないと、みんなが熱心に発言し、いろいろな案が出された。

    わたしは国民府がつくった朝鮮革命軍の名称をそのまま使って、われわれの軍隊の名を朝鮮革命軍とすべきだと彼らを説いた。「トゥ・ドゥ」の結成にあたっても、民族主義者を刺激しないように、共産主義の匂いのしない打倒帝国主義同盟と呼称したように、われわれの軍隊も朝鮮革命軍のべールをかぶれば民族主義者の感情もそこねず、活動にも便利だといった。

    実際、朝鮮革命軍のべールをかぶったおかげで、その後われわれの軍隊は活動上の利点が多かった。

    朝鮮革命軍は組織後、多くのグループに編成されて、各地に派遣された。国内にもいくつかのグループが進出した。

    われわれが革命軍のグループを朝鮮に派遣したのは、武装闘争の大衆的基盤をきずき、国内の革命闘争をもりあげるためでもあったが、国内における武装闘争の可能性を検討するためでもあった。

    われわれは朝鮮革命軍の結成式に参加できなかった人のうち、李済宇、孔栄、朴振栄を中心にして国内工作グループを一つ編成し、彼らに新坡から狼林山脈を伝って平安北道一帯に進出し、広範な大衆のあいだで革命組織を結成する任務を与えることにし、そのグループの責任者として李済宇を任命した。

    われわれは一九二八年にすでに、撫松周辺と内島山一帯で活動していた彼らにたいし、朝鮮人が多く住んでいる長白地区に活動根拠地を移すよう指示した。それで、李済宇は長白県一帯で大衆を組織に結集し、国内深くにまで入って大衆を意識化する活動をおこなった。

    われわれは亨権叔父を責任者とし、崔孝一、朴且石などを隊員とするいま一つの工作グループを国内に派遣することにした。このグループには、長白から鴨緑江を渡り、豊山、端川、咸興をへて平壌付近まで進出する任務が与えられた。

    朴且石がこのグループに加わったのは、亨権叔父と親交を結んでいたからである。朴且石は吉林市周辺の農村で教員をしながら地下活動に従事し、一九二八年の冬に桂永春、高一鳳らとともに撫松一帯で革命組織の結成に努めた。そのさい、どういういきさつがあったのか、朴且石と亨権叔父は無二の親友となった。叔父が国内に派遣されるということを知った朴且石は、自分も同行したいと願い出た。われわれは彼の気持を察して、その申し出を快諾した。

    朝鮮革命軍隊員は、それぞれの活動区域で大胆に活動した。

    四平街と公主嶺一帯を活動区域にしていた朝鮮革命軍に玄大洪という隊員がいた。彼は四平街で大衆工作中逮捕され、長春に押送されたが、逮捕される寸前に敵の目を盗んで、体に隠していた武器を同志に引き渡した。

    警察では、武器の隠し場所をいえと残忍な拷問が加えられた。

    玄大洪はある鉄道駅の名をあげ、その駅の近くのドロノキの下に埋めたと「自供」した。脱走の機会を得ようとしたのである。それにのせられた警官は、玄大洪を汽車に乗せ、拳銃を埋めたという現場へ向かった。

    その途中、玄大洪は手錠を振るって二人の護送警官を殴り倒し、疾走する汽車から飛び降りて、革命組織のある卡倫まで這って帰ってきた。卡倫の同志たちは、やすりを使って彼の手錠をはずした。

    彼はこうした試練をなめながらも、健康が回復すると再び公主嶺で活動し、今度は日本警察に逮捕された。公主嶺は日帝が中国から奪い取った租借地で、日本人が管轄していた。玄大洪は法廷でも屈することなくたたかった。彼は無期懲役刑を言い渡され、ソウル西大門刑務所で苦役の末、日帝の野蛮な拷問がたたって死んだ。

    李済宇のグループは一九三〇年代に入ってメンバーが数十人に増えた。彼らの努力によって長白には反日組織があいついで結成された。各村に学校と夜学が設けられ、弁論大会、演芸公演、運動会などがしばしば催されて村人たちを革命的情熱でわきたたせた。

    こうしたとき日帝は、馬賊団を装った武装団を送って、朝鮮人村落を略奪する謀略劇を演出し、李済宇のグループをおびきだそうとした。しかし、われわれが馬賊団には注意するようにと警告しておいたので、彼らは敵の欺瞞策にのらなかった。そこではちょっとした紛争が起きて若于の負傷者が出ただけで、事件は全面的な戦闘に拡大しなかった。

    その後、李済宇の武装グループは、日帝の馬賊団と結託した反動軍閥軍隊の不意討ちにあって大きな被害をこうむった。朴振栄は戦闘で壮烈な最期をとげ、李済宇は不幸にも逮捕された。

    李済宇は死をもって恥辱をすすごうと、手足が縛られた状態で包丁を喉に刺したが死ねなかった。現場で日本の警察に引き渡され、ソウルに押送された彼は死刑を宣告され、間もなく獄中で死んだ。孔栄は、満州地方の反日運動家を誘導、拉致しようとして日帝がおとりに使った偽共産主義者に接近して統一戦線工作をおこない、殺害された。

    わたしが孔栄、李済宇、朴振栄らの悲劇的な最期を知ったのは、端川農民の大衆的暴動があった直後のことであった。連絡員からその話を聞いたわたしは、しばらく気持を静めることができなかった。なによりも親不孝の罪を犯したようで頭が上げられなかった。

    彼らはみな父がもっとも目をかけていた独立軍隊員で、民族主義運動から共産主義運動への方向転換を真っ先に実践した人たちだった。

    わたしが李済宇、孔栄、朴振栄の悲劇的な最期にそれほどまで心を痛めたのは、倫会議の決議を実行する強力な国内工作グループの一つがなくなったためでもあったが、父の遺志を貫くためにたたかう方向転換の先駆者たちを失ったくやしさのためだった。

    孔栄と朴振栄は、父が死去したとき柩輿の先棒をかついだ人たちだった。彼らは母に、喪服は自分たちが着るからわたしには着せないようにといった。14歳のわたしが喪服を着れば、痛ましくて見るにしのびなかったのだろう。そのときから、彼らは三年ものあいだ麻の冠に喪服を着てすごした。

    そのころ、独立軍訓練所は撫松市街から少し離れた万里河にあった。孔栄は週に一、二度、背負子で柴を運んできては母を見舞ったものだった。彼の妻もタラの芽やミツバヒカゲゼリなどの山莱を持って、しばしばわたしの家を訪れた。ときには孔栄が米をかついでくることもあったが、そうした心づくしがわが家の貧しい暮らしをかなりおぎなった。

    母も彼らとは弟のようにうちとけて付き合った。ときには姉のように彼らの過ちをきびしくさとすこともあった。

    孔栄が独立運動のため満州に渡ったあと、彼の妻は碧潼で一人で暮らしていたが、やがて夫を慕って撫松にやってきた。孔栄は、すいとんを煮ていて火傷を負った妻の顔を見ると、それが醜いからと、別れるといいだした。母は立腹して、彼を叱った。

    「なんということをいうのです。夫を慕ってはるばる訪ねてきた奥さんを金の座布団に座らせられないまでも、別れるなんて、あなたはそんな人でなしだったの」

    孔栄は、わたしの母のいうことはなんでもよく聞いた。その日も彼は母に頭を下げて、自分が悪かったと謝った。

    わたしが国内に進出した亨権叔父の武装グループの活動状況をはじめて知ったのは、新聞を通してであった。ハルビンだったか、どこだったか定かでないが、同志たちが興奮して持ってきた新聞を見ると、豊山にあらわれた四人の武装団が巡査部長を射殺し、北青から来た自動車を乗っ取って厚峙嶺の方に姿を隠したという記事があった。

    新聞を持ってきた同志は、国内で銃声が上がったのが痛快でならないと喜んでいたが、わたしはその銃声のためにかえって不安に駆られた。どうして、国内進出のしょっぱなともいえる豊山で銃声を上げたのだろうか?

    わたしはそのとき、叔父の激情に駆られやすい性分を思い出した。なぜかわたしは、叔父がその激情をおさえられず、銃声を上げたのではなかろうかと思った。

    叔父は小さいときから、いったんこうと思ったら、なにがなんでもやりとおさずにはおかない、男らしい気質を持っていた。

    亨権叔父といえば、わたしは真っ先にひき割り粥の出来事を思い出す。わたしが万景台にいたころだから、叔父が十一か十二のときである。

    わたしの家では毎晩モロコシのひき割り粥をすすっていた。それはモロコシを殼ごとひき臼でひいたのを炊いたもので、おいしくもなかったが、それよりも、飲みこむたびにモロコシの殻が喉をちくりちくり刺激するので、とても食べづらかった。わたしもひき割り粥は大嫌いだった。

    ある日、お膳の前に座った亨権叔父が、祖母の持ってきた熱いひき割り粥のどんぶりを頭ではねとばしてしまった。なんとも勢いよくはねとばしたので、どんぶりは土間に転がり、叔父の額からは血が流れた。まだ物心がつかないころのことで、粥をすすって空腹をしのぐ貧しい暮らしに腹を立てて、どんぶりに腹いせをしたのだった。

    祖母は「食べ物のことでとやかくいうのをみると、行く末が思いやられる」といって叔父を叱ったが、目には涙がにじんでいた。

    亨権叔父は物心がつくと、額の傷を気にするようになり、中国に来てわたしの家にいたときは、前髪をたらして傷を隠していた。

    亨権叔父が中国に来たのは、わたしたちが臨江にいるときだった。父が叔父を家に引き取ったのは、勉強をさせるためである。父が教育者だったので、叔父はわたしの家にいれば、学校に通わなくても中学の課程は学ぶことができた。父はゆくゆく叔父を革命家に育てるつもりだった。

    父が生きていたあいだ、亨権叔父は父の薫陶でかなり堅実に成長した。

    しかし、父が死去すると自制心を失い、気まかせにふるまいはじめた。頭で引き割り粥のどんぶりを割った小さいころの習癖がよみがえって、みなを唖然とさせた。亨権叔父は父が死去してからは家にじっとしていようとせず、臨江、瀋陽、大連などをさまよい歩いた。

    わたしの家の内情を多少知っている人は、叔父が故郷に帰って両親が決めた女性と婚約をしたが、許嫁が気に入らなくて、ああして落ち着かないのだろう、といった。

    もちろん、それも原因かも知れない。しかし、叔父が落ち着きをなくした主な原因は、父の死去からうけた絶望と悲憤をぬぐい去ることができなかったからである。

    わたしが華成義塾を中退して家に帰ってみると、叔父は依然として酔漢かなにかのような乱れた生活をしていた。わたしの家の暮らしは、母が洗濯や裁縫の賃仕事をして稼ぐわずかな収入に頼っていたので、たいへん苦しかった。そんな暮らし向きを見るにしのびなかったのか、李寛麟もいくらかの金と米を持ってきて母の手助けをしていた。叔父は亡くなった父に代わって家長の役目を果たすべき立場にあった。家で叔父のやれる仕事がないかというと、そうでもなかった。家には父が残した薬局があった。そこには多くはないが、うまくやりくりすれば暮らしの足しにできる薬剤もあった。しかし、叔父は薬局を見向きもしなかった。

    正直にいって、わたしは叔父のやることがじれったかった。それである日、わたしは家に閉じこもって叔父に長文の手紙を書いた。もっとも正義感が強いといわれる中学時代なので、道理に反することには目上の人でも我慢ができなかった。わたしはその手紙を叔父の枕の下に置いて吉林へ発った。

    母は、わたしが手紙で叔父に意見をするのが気に入らなかった。

    「いまは叔父さんが気持が落ち着かなくて家にいつかないけれど、そのうちよくなるよ。いくらなんでも本元を忘れるものかね。思う存分出歩いて、嫌気がさしたら家に帰ってくるよ。だから意見なんかすることはない。甥が叔父をいましめるなんてことはするんじゃないよ」

    母はこうわたしをさとした。母らしい考えだった。それでもわたしは手紙を書き残した。

    一年後、吉林毓文中学校に通っていたわたしが学期末休みに撫松へ帰ってきてみると、驚いたことに亨権叔父は家に落ち着いていた。母の予言が当たったのである。叔父はわたしの置き手紙については一言も口にしなかったが、その手紙が叔父にかなり刺激を与えたことは確かだった。その年の冬、叔父は白山青年同盟に加入した。

    わたしが撫松を発ったあと、叔父は白山青年同盟を拡大する活動にうちこんだ。翌年は同志の保証で共青にも加入した。こうして叔父は革命隊伍に加わり、一九二八年からは共青の指示で、撫松、長白、臨江、安図地方の白山青年同盟の活動を指導した。

    新聞を見た近所の人たちから、豊山で日本人巡査部長を射殺した事件を聞いて、万景台のわたしの生家でも亨権叔父が逮捕されたことを知った。

    祖父は「亨稷がそんなことをしていたのに、今度は亨権も日本人を撃ち殺したんだな。先のことはどうなるか知れないが、とにかくあっぱれなことじゃ」といった。

    後日、わたしは豊山で国内工作グループが展開した活動の全貌を知った。

    鴨緑江を渡ったグループは端川方面に進出する途中、一九三〇年八月一四日、豊山郡把撥里付近にある黄水院のクロマメノキの茂みのなかでしばらく休んでいた。そこへたまたま自転車に乗って通りかかった「クマンバチ」巡査部長(本名は松山)が一行に不審の目を向けた。彼は一九一九年に豊山地方に転任して以来、朝鮮人の一挙一動をきびしく取り締まっている悪質警官だった。地元の人たちは彼に「クマンバチ」というあだ名をつけ、彼をひどく恨んでいた。

    「クマンバチ」は工作グループが駐在所の前を通りかかったとき、一行を駐在所のなかへ呼び入れた。

    亨権叔父は駐在所に足を踏み入れたとたん、すばやく彼を撃ち倒した。そして公然と人びとの前で反日演説をした。その日、数十人の人たちがその演説を聞いた。非転向長期囚として世界に広く知られた元人民軍従軍記者李仁模もそのとき、把撥里でその演説を聞いたという。

    工作グループは敵の追撃をうけながらも、農民暴動の炎が燃え上がった地域に接近しようと試みた。

    当時、われわれは端川農民暴動をきわめて重視していた。暴動が起きた地域には必ず大衆運動の指導者がいるものであり、政治的、思想的に目覚めた積極的な革命的大衆の組織された大部隊が存在するものである。

    敵は暴動地域で主謀者を探し出そうと血眼になっていたが、われわれは暴動大衆のなかにいる汪清の呉仲和、竜井の金俊、穏城の全長元のような中核分子を探し出そうと努めた。彼らのような中核分子と連係を保って影響を与えるならば、国内の革命闘争をもりあげる基盤をきずくことができる。端川地区の開拓に成功すれば、その地方をへて城津、吉州、清津方面にも手を伸ばし、咸興、興南、元山をへて平壌にも進出することができるはずであった。

    われわれが亨権叔父の国内工作グループに、端川農民暴動の主人公を訪ねあてる任務を与えたのもそのためだった。

    把撥里で銃声を上げたあと、そこを発った武装グループは峰五洞のはずれで豊山警察署の司法主任が乗った乗合タクシーを抑留し、彼の武装を解除したあと、主任とその他の乗客に反日宣伝をした。ついで利原郡文仰里一帯に進出して、培徳谷と大岩谷など各地点で炭焼き労働者を相手に政治工作をおこなった。困難な状況にもかかわらず、つねに彼らは積極的に行動した。

    武装グループはその後、北青方面に進出する途中、二組に分かれて行動した。亨権叔父と鄭雄が1組になり、崔孝一と朴且石が他の1組になった。二つの組は洪原邑で落ち合うことにし、それぞれ別の方向に向かった。

    九月の初め、亨権叔父は鄭雄とともに敵の捜索隊がたむろしている北青郡大徳山の広済寺を襲撃したあと、洪原、景浦の方向に進出したが節婦岩付近で敵と遭遇し、前津警察官駐在所の所長を射殺した。

    叔父はその日のうちに洪原邑に入って集結場所の崔辰庸の家を訪ねた。

    崔辰庸といえば、亨権叔父ばかりでなく、わたしもよく知っている独立軍関係者だった。彼は撫松で安松総管所の総管をしていたとき、わたしの家にもたびたび出入りした。

    朝鮮で面長を勤めていた彼は、金を横領して発覚し、人びとの指弾をうけると、夜逃げして東北に渡り、正義府に加わった。一時彼は、わたしの家で何か月も居候をした。ところが日帝が満州を侵攻する気配を見せると、もう年をとって独立軍の仕事をするのが力に余るといいだして、撫松を発った。小さな果樹園でも手に入れて清く余生を送りたいといって洪原に行った彼は、そこですぐ日帝の密偵になりさがった。

    亨権叔父がそれを知るはずはなかった。崔辰庸は敵の警戒がきびしいからと、叔父に庭の片隅に隠れているようにといって警察署に駆けつけ、満州の武装団が自分の家に来ていると密告した。

    叔父が警察署に連行されていくと、一足先に崔孝一も捕えられていた。崔孝一を密告したのも崔辰庸だった。

    そのときはじめて、叔父は崔辰庸が日帝の手先であることに気づいた。彼の裏切りはあまりにも突然で思いがけないことだった。数か月のあいだ、日に三度あたたかいご飯に酒までそえてもてなしてくれた、成柱のお母さんの恩は死んでも忘れないと口癖のようにいっていた男が、汚らわしい背信行為をするとは誰が想像できたであろうか。わたしも彼が叔父を密告したと聞いたとき、耳を疑ったほどだった。

    それで、わたしはいまも、人を信じるのはよいが、幻想をいだいてはいけないといっている。幻想は非科学的であるので、それにとらわれると、千里眼を誇る人でもとりかえしのつかない失策をしかねないのである。

    日帝の包囲網から抜け出したのは鄭雄だけだった。彼はグループが国内に向かうさい、叔父の道案内をつとめた。彼の郷里は利原で、東海岸一帯の地理に通じていた。しかし彼もその後、春川で、密偵のために逮捕された。

    亨権叔父はしばらく洪原警察署に留置されたあと、咸興監獄に押送され、そこでまた中世的な拷問をうけた。

    わたしは咸興地方法院における法廷闘争の消息を人づてに聞いた。

    亨権叔父は法廷で日帝の罪状をするどくあばき、武装した強盗とは武装して戦わなければならない、と大声で叫んだという。

    いかにして叔父は、法廷でこのように毅然たる態度をとることができたのだろうか。それは叔父が革命を信念とし、それに忠実であったからだと思う。叔父にとって死よりも恐ろしいものがあったとすれば、それは人間に正義感と勇気を与え、人間をこの世でもっとも尊厳のある存在にさせる信念を裏切ることであったろう。

    裁判で、崔孝一は死刑を言い渡され、叔父には十五年の懲役刑が宣告されたという。

    叔父と戦友たちは法廷で革命歌を力強くうたい、スローガンを叫んだ。

    彼らは法廷闘争をつづけるためにソウル覆審法院に控訴した。咸興法院で驚かされた日帝は、ソウルではいっさい傍聴を禁じ、非公開裁判で咸興地方法院の判決を確定した。

    崔孝一の絞首刑は、判決の数日後に執行された。崔孝一は、しっかりたたかってくれと言い残し、泰然として刑場に向かった。

    亨権叔父は主に十年以上の長期囚を収監するソウルの麻浦刑務所に投獄された。そこでも叔父はたたかいつづけた。敵が重刑に服している「政治犯」を転向させようとしたとき、叔父は大勢の囚人の前で、思想転向に反対する熱弁をふるって彼らを感動させた。そして、囚人の待遇改善闘争の先頭に立って断固とたたかった。それらの事実はすでに世に広く知られていると思う。

    戦争の準備を急ぐ日帝は、弾丸箱をつくる作業に囚人を狩り出した。囚人は七等食をあてがわれて、殺人的な労働を強いられた。

    憤激した亨権叔父は、十月革命記念日を契機に刑吏の殺人的な強制労働に反対する獄内工場囚人のストライキを指導した。これには多数の囚人が参加した。

    日帝は叔父の影響を防ごうと暗い独房に移し、手枷、足枷をして、少しでも動けばそれが体に食いこむようにした。そして大豆を入れた子どものこぶし大の握り飯を日に一度しか与えなかった。

    そんな苦しみのなかでも叔父が闘争をつづけたので、監獄当局は金亨権が麻浦刑務所を赤化すると憂えたほどである。

    ある日、獄内工場で働いていた朴且石が、われわれが満州各地で武装闘争を活発にくりひろげているという消息を聞いて、それを亨権叔父に伝えた。

    

    「わたしはいくらも体がもちそうにない。生き残った同志たちが最後までたたかってくれ。満期に生きて出獄できたら、万景台の母を訪ねてわたしのことを話してくれ。…成柱に会ったらわたしの消息を伝えて、最期の瞬間まで屈せずにたたかったといってくれ。これが最後のお願いだ」

    叔父がすっかり衰弱して、起き上がることもできなくなったときのことである。

    叔父が重態に陥ったので、刑務所では万景台に面会許可の通知を出した。

    亨禄叔父は四十円の金を工面して親戚の鳳周と一緒にソウルに行き、亨権叔父と最後の面会をした。

    「刑務所に行くと、病監に案内された。ほかの囚人はみな座っていたが、亨権は骨と皮ばかりの体を横たえていた。あのときはまったく胸がしめつけられた。…わたしを見てもすぐには声が出せず、口をもぐもぐさせるだけだった。あまりにもむごたらしくて、それが弟だとはとても信じられなかった。そんな弟がかえってわたしに笑ってみせて、『兄さん、わたしは志をとげずに逝くが、日帝は必ず滅びます』といったときは、さすがにうちの亨権だと思った」

    これは、わたしが祖国に凱旋して生家を訪れたとき、亨禄叔父から聞いた話である。わたしはその回顧談を聞いて、亨権叔父を偲び涙を流した。そして以前、手紙で叔父に意見したことがくやまれた。

    弟の悲惨な姿を見て、気を失わんばかりになった亨禄叔父は看守に頼んだ。

    「わたしの弟の亨権を家で治療させたいから、出してください」

    しかし看守は、「だめだ。貴様の弟は生きても監獄で生き、死んでもここで死んで監獄の亡霊になるほかないのだ。家に連れていくことはならん」といった。

    「じゃ、わたしが弟の身代わりに監獄に入ります。弟を家で養生させて、よくなったらまた来ればいいじゃありませんか」

    「こら、懲役の身代わりだなんて法がどこにある」

    「法はあんたらがつくるのだから、その気になったらやれんことはないでしょう。頼むからそうさせてください」

    「こら、ふざけたことをいうな。弟が悪党だと思ったのに、兄も悪党だな。おまえの一族はみな悪党だ。とっとと出てゆけ」

    看守はこう怒鳴って亨禄叔父を監獄から追い出した。

    亨禄叔父は考えあぐねて看守に一六円を差し出し、「うちの亨権をよく見てやってください」と頼んで、万景台に帰った。それくらいの金で刑吏の心を動かせるはずがなかったが、叔父には金がそれしかなかったのである。

    監獄から帰った叔父は、一か月のあいだ眠ることができなかった。目をつぶれば弟の姿が瞼に浮かんで、どうしても眠れなかったという。

    三か月後に亨権叔父は獄死した。一九三六年初のことだから、わたしが第2次北満州遠征を終え、部隊が南湖頭地方へ向かっているころだった。そのとき、叔父は三〇歳だった。

    父も母も亡くなり、弟も叔父も亡くなったのだから、革命に身をささげてたたかったわたしの肉親はみな亡くなったことになる。わたしは山で叔父が死亡した消息を聞き、わたしは死なずに生き残り、亡国の恨みをのんで故国の名も知らぬ丘で無縁仏となった叔父の仇を討ち、国を取りもどさずにはおかないと誓った。

    死亡通知は届いたが、旅費の工面がつかずに引き取れなかった叔父の遺体が、麻浦刑務所の共同墓地に葬られた胸の痛む話はすでにふれた。

    亨権叔父はいまわのきわに、囚人たちにこう打ち明けた。

    「金日成はわたしの甥だ。甥はいま満州で大きな革命部隊を率いて日帝を討っている。その部隊が国内に進撃する日は遠くない。彼らを迎えるために武器を取って戦うのだ。武器を取って戦わずには、日帝を追い出して国を解放することができない」

    わたしは亨権叔父を回想するたびに、卡倫会議の決定を実行するために惜しみなく青春をささげた数多くの戦友の姿が瞼に浮かんでくる。

    亨権叔父には英実という独り娘がいて、解放後、万景台革命学院に通った。わたしはその子をりっぱに育てて父の後をつがせたいと思った。ところがその子も朝鮮戦争のとき、爆撃で死んでしまった。

    朝鮮革命の行軍路を血潮をもって切り開いた朝鮮革命軍隊員は、じつに偉大かつ崇高な業績をつみあげた。

    彼らの英雄的な闘争経験と教訓を踏まえた朝鮮人民革命軍は、彼らの流した貴い血によって常備の革命武力として誕生したのである。

    

    

    

      6 革命詩人 金赫

    

    

    革命は同志を得ることからはじまる。

    資本家の元手は金であるが、革命家の元手は人間である。資本家が金を元手にして財貨の塔を築いていくとすれば、革命家は同志を元手にして社会を変革し改造していくのである。

    青年時代、わたしのまわりには同志が多かった。彼らのなかには人間的に親しくなった親友もおり、闘争のなかで志を同じくして同志になった人もいる。その一人ひとりの同志たちはみな、千金万金をもってしても換えられない貴重な人たちであった。

    いま若い世代が革命詩人と呼んでいる金赫も、そうした同志の一人だった。金赫はわたしの青春時代に強い印象を残した人で、彼が死去して半世紀がすぎたいまも、わたしは彼を忘れられないでいる。

    わたしが金赫にはじめて会ったのは一九二七年の夏だった。

    漢文の授業が終わって廊下で尚鉞先生と話をしているところへ権泰碩が来て、客が訪ねてきたという。見知らぬ人で、車光秀というメガネの男と一緒に正門にいるというのだった。

    はたして正門には、女の子のようにきれいな顔をした青年がトランクをさげて、車光秀と一緒に立っていた。車光秀がいつも、才子だと賛辞を惜しまなかった金赫だった。彼は車光秀の紹介を待たずに、わたしに手を差し出し「金赫です」といって気安く握手を求めた。

    わたしは彼の手を取って、自己紹介をした。

    わたしがその場で金赫に親しみを覚えたのは、車光秀から彼の「広告」を耳にたこができるほど聞かされたことにもあったが、金赫の顔形がどこか金園宇に似ていたからでもある。

    「金赫兄を寄宿舎に案内して、授業が終わるまで一時間ほど待ってくれないか。ほかの授業ならサボるのだが、あいにく尚鉞先生の文学の時間でね」

    わたしは金赫に了解を求めて、車光秀にこう頼んだ。

    「ほほう、尚鉞先生の文学の時間というと、みなそんなに夢中なんだね。成柱も金赫のように文士になるつもりじゃないのかい」

    車光秀はメガネを押し上げながら冗談をいった。

    「金成柱だからって文士になれないわけはないだろう。革命をやるには、どうしても文学をやる必要があると思うがね。どうだい金赫兄、そうじゃないだろうか」

    金赫はわたしの言葉を聞いて歓声をあげた。

    「吉林に来て、はじめてうれしいことを聞くじゃないか。文学をぬきにした革命は語れない。革命そのものが文学の対象だし、母体なんだからな。文学教師がそんなにすばらしい先生ならぼくも会いたいね」

    「じゃ、折をみて紹介しよう」

    わたしはこう約束して、教室へもどった。

    授業が終わって出てみると、車光秀と金赫は正門で、不変資本がどうの可変資本がどうのと論じ合いながら、わたしを待っていた。

    

    二人の親友の熱気がわたしにも伝わってきた。わたしは、金赫が生まれながらの情熱家だと口をきわめてほめそやしていた車光秀の言葉を思い出し、りっぱな同志をまた得たとひそかに喜んだ。

    「寄宿舎で待ってくれといったのに、どうしてこんなところに立っているんだ」

    金赫は片目を細めて金色の日ざしが降りそそぐ空を見上げた。

    「このよき日にゴキブリみたいに部屋にへばりついていてもしょうがない。吉林市内を1日じゅう歩きながら話そうじゃないか」

    「金剛山も食後の眺めというから、昼食をとって北山か江南公園へ行こう。上海からはるばる訪ねてきた初対面の客に、食事もおごらないようでは非礼だからな」

    「吉林で成柱君に会えたのだから、何食抜かしてもがまんできそうだよ」

    金赫は性格も情熱的だが、物腰もきびきびしていた。

    あいにくわたしの財布には金がなかった。そこで、金を払わなくても喜んでもてなしてくれる三豊旅館に彼らを案内した。そこの人たちは愛想がよく、それにうまいソバを出した。旅館の女主人にわけを話したところ、ソバを六人前出し、一人に二杯ずつふるまってくれた。

    金赫は丸3日間、わたしの部屋で夜通し話しこんだ。そして四日目に、吉林一帯の様子を知りたいといって車光秀のいる新安屯に出かけた。

    わたしは一目で、彼が情熱家だと思った。車光秀がひょうきん者だとすれば、金赫は情熱家だった。いつもは女の子のようにもの静かだが、いったんなにか刺激をうけると、釜のように沸き立って熱気を吹き出すのである。車光秀と同様、東洋3国をまわり、世の辛酸をなめつくしたという風雲児だが、それにしては性格が淡白だった。話をしてみると、見聞も広く理論水準も高かった。とくに文学と芸術に造詣が深かった。

    われわれは文学と芸術の使命について多くを語り合った。金赫は、文学と芸術は当然、人間賛歌となるべきだと力説した。吉林ですごすうちにその考えはさらに洗練されて、文学は革命賛歌となるべきだといった。文学観も革新的だった。われわれは金赫のそうした長所を参酌して、一時、彼に主として大衆文化啓蒙の仕事をまかせた。彼が演芸宣伝隊の活動をたびたび指導したのもそのためである。

    金赫は詩作にたけていたので、われわれは彼をウジェーヌ・ポティ〔9〕エと呼んだ。彼をハイネと呼んだ人もいる。実際、金赫はハイネやウジェーヌ・ポディエをどの詩人よりも高く評価した。わが国の詩人のなかでは李相〔 〕和をもっとも愛した。

    彼が好んだ詩は、おおむね格調の高い革命的な詩編だった。しかしおもしろいことに、小説では激情的な崔曙〔11〕海の作品よりも叙情的な羅稲〔12〕香の作品を好んだ。

    わたしは金赫のそうした趣味を見て、世のことわりは妙なものだと思った。実際、われわれの生活には対照的なものが結び合ってうまく調和する場合が多い。車光秀はそんな現象を「陰と陽の結合」と適切に表現した。彼は金赫の場合も、陰と陽が適切に結合して独自の文学的個性を生み出しているのだといった。

    金赫は複雑多端な革命活動のかたわら、りっぱな詩を多くつくった。われわれの革命組織に参加した吉林の女学生たちは、彼の詩を手帳に書きとって、好んで詠んだものである。

    金赫の詩のつくり方は一風変わっていた。紙に書きはじめるのでなく、最初から最後の行まで頭のなかでそらんじながら完成していき、これでよいと思うと拳で机をドンとたたいて、おもむろにペンを取り上げるのである。

    彼が机をたたくと詩が一編できあがるのを知っていた同志たちは、「金赫がまた卵(詩)を一つ生んだ」といって喜んだ。彼が詩を脱稿するのは、われわれ共通の慶事でもあった。

    金赫には共青員の承少玉という美貌の恋人がいた。すらりとした体つきに福々しい顔をしていたが、正義感が強く、死をも恐れない気概と胆力のある女性だった。

    承少玉は共青の組織生活に忠実だった。

    吉会線鉄道の敷設に反対する大衆的闘争の起こった年の秋、わたしは街頭で彼女の扇動演説を聞いたことがあるが、なかなかの達弁だった。

    手帳に金赫の詩を書き取って、人一倍愛誦していた女学生が承少玉である。彼女は詩の朗誦も歌も演説も上手で、年中白いチョゴリに黒いチマを着ていたので、承少玉といえば吉林市内で知らない青年がいなかった。

    生活を情熱的にうけとめて詩作していた金赫は、愛情の面でも情熱的だった。青年共産主義者は革命運動にたずさわりながら恋愛もした。一部の人は共産主義者には人間性も人間らしい生活もなく、人間らしい愛情もないといっているが、それは共産主義者を知らない人がいうことである。われわれの多くの同志は革命運動をしながら恋愛をし、戦火のなかで家庭生活も営んだ。

    わたしは学期末休暇になると、金赫と承少玉に大衆工作の任務を与えて孤楡樹へ派遣した。孤楡樹に彼女の家があったからである。

    二人は大衆活動の合間に、柳の生い茂る伊通河の川辺で散歩をしたり釣りを楽しんだりした。釣り糸を垂れる金赫のそばで承少玉は釣り針から魚をはずしたり、餌をつけたりした。景色のうるわしい北山や松花江のほとりで、そして伊通河の岸辺で二人の革命的愛情はいっそう深まっていった。

    ところが、なぜか承少玉の父親の承春学は二人の仲を喜ばなかった。

    承春学は三光学校の前身といえる彰信学校の創設者で、校長だった。数年間ソ連に滞在し、沿海州地方を流れ歩いて勉強もし、文明にも接していたので、当時としてはかなり開けた人だった。われわれが孤楡樹で彰信学校を三光学校に変え、民族主義者の大衆組織を共産主義組織、革命組織に改編するときも、彼は真っ先にわれわれの活動に理解を示し、協力を惜しまなかったものである。

    そのような彼が二人の仲を許そうとしなかったので、さすがの金赫も途方にくれていた。

    承少玉の母親は金赫が気に入って娘との交際を黙認し、夫の前ではそれとなく娘の肩をもった。その後、しばらく金赫の人柄を観察した承春学は、彼がりっぱな革命家であることを知り、二人の仲を許した。父親の承諾を得た日、二人は婚約写真を撮った。承少玉の家にはカメラがあった。

    のちに金赫が犠牲になったことを聞いて悲嘆にくれた承少玉は、伊通河に身を投げようとした。同志たちは川辺で彼女を引きとめて気を取り直させた。

    承少玉はその後も忠実に革命活動をつづけ、『海外朝鮮革命運動小史』の著者崔一泉の後妻になった。継子を育てても、金赫のような革命家に連れ添うのが彼女の理想であったのである。

    金赫の炎のような性格は、革命実践における忠実性にあらわれた。彼は強い責任感と忠実性をそなえた革命家であった。彼はわたしより五つも年上で、日本に留学したが、そんなそぶりは少しも見せず、わたしの与える任務を誠実に果たした。それで、わたしは金赫をとりわけ大切にし、愛したのである。

    金赫は一九二八年の夏から車光秀と一緒に柳河県一帯で活動した。彼らの指導で孤山子の東盛学校に社会科学研究会(特別班)が設けられ、反帝青年同盟支部が組織されたのもそのころだった。

    金赫は人類進化史、世界地理、文学、音楽の授業を担当し、孤山子の青年学生のあいだでたいへんな人気だった。

    わたしが出獄して東満州へ行くころ、金赫は孤楡樹と吉林を往来しながら組織の任務を遂行していた。わたしは敦化に行くさい彼に手紙を送り、江東、吉林、新安屯の革命組織を指導するほかに、新たな出版物の発刊準備をするようにといった。

    しばらくして敦化での仕事を終えて倫に帰る途中、金赫を訪ねると、彼は任務を忠実に遂行していた。わたしが獄中で練った構想と倫の活動予定を話したところ、彼は興奮して、自分も一緒に倫へ行くといいだした。わたしは、仕事をやりとげたあとでゆっくり倫に来るようにといった。金赫はたいへん残念がったが、わたしにいわれたとおり新安屯にとどまり、新しい出版物の発刊準備を進めたあと、倫へやってきた。

    倫会議後、われわれは新しい出版物の発刊準備を本格的に進めた。新たな革命路線が示され、その実現へと大衆を奮い立たせる使命をになった最初の党組織が結成された現状で、その思想的代弁者の役割を果たす出版物の発刊は、緊切な課題となっていた。

    そんな事情をよく知っていた金赫は、倫へ来てからも夜を徹して出版物に載せる原稿を書いた。彼の提議で、新しい出版物の名は『ボルシェビキ』に決まった。

    われわれは『ボルシェビキ』を雑誌の形で発行し、大衆に革命思想を植えつけながら物質的準備が十分ととのったあと、しだいに新聞の形に拡大し、部数も増やすことにした。一九三〇年七月十日、ついに『ボルシェビキ』の創刊号が発行された。

    この雑誌を共青と反帝青年同盟の支部、そして各反日革命組織や朝鮮革命軍グループに配布し、われわれが掌握している学校にも送って教材に使うようにした。わたしが倫でおこなった報告の解説記事も雑誌に載った。倫会議の方針を紹介し宣伝するうえで、『ボルシェビキ』はじつに大きな役割を果たした。しばらくのあいだ月刊誌の形で発刊された『ボルシェビキ』はその後、発展する革命の情勢と読者の要望にそって週刊紙になった。

    金赫は『ボルシェビキ』の初代主筆として、倫を発つまで、毎日夜を明かして原稿を執筆した。炎のような情熱家だった彼は休息というものを知らなかった。

    そのうち、彼は朝鮮革命軍グループの責任者としてハルビンに行った。彼がハルビンに派遣されたのは一九三〇年八月初旬のことだった。主に吉林、長春、柳河、興京、懐徳、伊通一帯で活動してきた彼にとって、ハルビンはなじみのない土地だった。わたしもその都市についてはあまり知らなかった。

    わたしは吉林にいたころからハルビンを重視していた。

    この都市には労働者が多かった。労働者のなかに入るには、長春やハルビンなど大都市に大胆に進出して、われわれの勢力をのばさなければならなかった。吉会線鉄道敷設反対闘争や中東鉄道を攻撃した軍閥の背信的反ソ行為を糾弾する闘争を通してもわかるように、ハルビンの労働者と青年学生は革命性が強かった。こうしたところでうまく手づるをつかめば、多くの大衆を組織に結束することができた。

    われわれがハルビンを重視したのは、そこにコミンテルンの連絡所があるからでもあった。わたしが吉林毓文中学校に組織した共青と連係を保っていたコミンテルン傘下の共青組織もハルビンにあった。コミンテルンとの連係を保つためには、この都市にわれわれのルートをつくり、われわれが自由に出入りできるように開拓しなければならなかった。

    金赫をハルビンに派遣した重要な目的は、ハルビン一帯でわれわれの革命組織を拡大するかたわら、コミンテルンとの連係を実現することにあった。

    金赫がわたしから任務を与えられて興奮し、喜んでいたことが忘れられない。

    そのとき、コミンテルン宛の紹介状を書いたのは金光烈(金烈)だった。

    金赫は出発にあたって、わたしの手を長いこと握り、別れを惜しんだ。わたしの与える任務は軽重を問わずなんでもきびきびとやってのける彼だったが、単独任務をうけて出かけるときは、いつもこのように名残を惜しんだものだった。彼はなんでも大勢でやるのを好んだ。彼のもっともきらいなことは孤独だった。

    詩人がしばしば孤独を体験するのも文学修業に役立つはずだが、君はどうしてそれほど孤独がきらいなのか、といつかわたしは聞いたことがあった。すると金赫は、かつてうつうつとして放浪していたときは孤独も一つの道づれだったが、そうした生活と縁を切ったいまはそれがきらいになった、と率直にいうのだった。江東で何か月もわびしくすごした彼は、倫に来て同志たちと徹夜をしながら仕事をする楽しみを味わったばかりなのに、またみんなと別れることになったと残念がった。

    わたしは彼の手を取って、子どもをあやすようにいった。

    「革命運動をする以上、こんな離別もしなくちゃならないのだよ。ハルビンから帰ったら一緒に東満州に行って活動しよう」

    金赫はさびしそうに笑った。

    「ハルビンのほうのことは心配しないでくれ。どんなことがあっても組織の任務を果たして笑顔で帰ってくる。東満州に行くときは真っ先にぼくを呼んでくれよ」

    それが金赫との永遠の別離となった。

    彼と別れたわたしの心もわびしかった。

    われわれのルートがはじめてハルビンにのびはじめたのは一九二七年の末からだった。吉林第一中学校で苦学をしていた数人の学生が、授業時間に朝鮮民族を冒涜した反動的な歴史教師と大げんかをして学校をやめ、ハルビンに行ってしまったことがあった。彼らのなかにはわれわれの指導をうけていた留吉学友会のメンバーもいた。

    われわれは彼らに、ハルビンで組織を結成する任務を与えた。彼らはハルビン学院、ハルビン高等工業学校、ハルビン医学専門学校などの朝鮮人青年学生を中心にして、朝鮮人学友親睦会と読書会を組織し、この組織の中核分子で、一九二八年の秋には反帝青年同盟ハルビン支部を、一九三〇年の初めには朝鮮共産主義青年同盟ハルビン支部を結成した。われわれは学期末休暇のたびに韓英愛を派遣してハルビンの組織を指導した。吉会線鉄道敷設反対闘争が満州に広がったとき、ハルビンの青年学生がそれに呼応して大規模の闘争をくりひろげることができたのは、それらの組織が大きな役割を果たしたからである。

    ハルビンの革命組織には多くの頼もしい青年がいた。現在、党中央委員会政治局員の徐哲同志もそのころハルビンの共青支部にいた。

    金赫を責任者とする朝鮮革命軍グループが到着したときのハルビンの空気は、きわめて殺伐としていた。学友親睦会や読書会のような合法組織さえ地下にもぐり、共青など非合法組織は用心深く偽装しなければならなかった。

    金赫はハルビンの同志たちとともに組織を守り、組織のメンバーを保護する対策を討議した。彼の提議にもとづいて、この都市のすべての革命組織は、いくつかのグループに分散して地下にいっそう深くもぐった。

    金赫は武装グループのメンバーとともに、埠頭労働者や青年学生など各階層大衆のなかに深く入って、倫会議の方針をエネルギッシュに解説した。彼は巧みな組織的手腕と胆力をもって青年を教育し、組織を拡大する一方、基礎党組織を結成する準備と武器確保の活動も力強くおし進めた。敵のきびしい監視網をくぐって、コミンテルン連絡所と連係をとることにも成功した。

    ハルピンにおける活動をもりたてるうえで、金赫の功労は大きかった。彼は革命の一地域を担当した責任者にふさわしく縦横無尽に活躍したが、ハルビン道裡のアジトを奇襲され、銃撃戦をくりひろげた末、最期を覚悟して三階から飛び下りた。しかし、頑丈な体が彼の意志を裏切った。金赫は自決に失敗して旅順監獄に押送された。そして、残酷な拷問と迫害に苦しみながら獄死したという。

    金赫はわれわれの革命隊伍で、白信漢とともに祖国と民族のために若い生命をささげた最初の世代の代表者の一人であった。

    一人の革命同志が千金よりも貴かったあのころ、金赫のようなすぐれた人材を失ったのは、朝鮮革命にとって胸の痛む損失であった。彼が逮捕されたと聞いて、わたしは何日も眠れなかった。その後、わたしはハルビンに行った折に、金赫の足跡が印されている街や船着き場を心うつろに歩きながら、生前彼がつくった詩を低く口ずさんだ。

    車光秀や朴勲と同様、金赫も朝鮮の進路を模索して遠い異郷を放浪した末、われわれと手を握った人だった。上海のフランス租界地の下宿屋で、他人の世話になりながらうつうつと歳月を送っていた彼に、車光秀がわたしのことを手紙で知らせた。上海でくさっていないで吉林に来い、吉林に来れば君の求める指導者がおり、理論も運動もある、吉林は君の理想郷だ!... こんな手紙を三回、四回と書き送った。そうしたいきさつで金赫がわれわれを訪ねてきたのである。わたしと初対面のあいさつをしたあと、吉林市内を何日か歩きまわった彼は、わたしの手をぐっとつかんで「成柱! ぼくはここに錨を下ろすことにした。ぼくの人生はこれからだ」といった。

    車光秀と金赫が莫逆の交わりを結んだのは東京留学時代だという。

    わたしはいまも、共青を創立した日、涙を流しながら『インターナショナル』の音頭をとった金赫の姿が忘れられない。

    その日、金赫はわたしの手を取ってこういった。

    …わたしは一時、上海で中国の学生とともにデモに参加したことがある。彼らが反日スローガンを叫びながら行進するのを見て、わたしも心を動かされてデモの隊列に加わった。デモが挫折したあと宿所に帰って、これからどうすべきか、あすはどうしたらよいのかと、一人で思い悩んだものだった。どの党派にも組織にも参加していない無所属の青年だったので、どこへ集まれと知らせてくれる人も、あすはどこでどのような方法でたたかえと指示する人も、相談をもちかけてくれる人もいなかった。

    わたしはデモをしながら、わたしがこうしてデモをしていて、ひるむようなことがあったらがんばるのだと励ましてくれる人がいればいいのに、デモを終えて家に帰るとき、あすはどうしろと知らせてくれる組織があり、指導者がいれば元気が出るだろうに、弾に当たって倒れたらわたしを抱き上げて「金赫」「金赫」と呼んで涙を流してくれる同志がいたら幸せだろうに、そして、それが朝鮮人で朝鮮の組織だったらいいのにと思った。銃口に向かって突進しながらもこんなことを考えると胸がうずいたものだったが、吉林に来てりっぱな同志たちに会う幸運にめぐりあい、いまは共青にも加入したのだから、ほんとうに誇らしくてならない…

    金赫の言葉は誇張ではなかった。彼はつねに、自分の人生で最大の幸運はりっぱな同志にめぐりあったことだといっていた。彼はそうした人生体験があったから、『朝鮮の星』という歌をつくって革命組織に普及したのである。

    最初わたしは、そのことをまったく知らなかった。新安屯へ行ったところ、当地の青年がそれをうたっていた。

    金赫はわたしには内緒で、車光秀や崔昌傑とはからって吉林一円にその歌を普及した。わたしを星になぞらえた歌をつくってうたってはいけないと、わたしは彼らをきびしくいましめた。

    『朝鮮の星』が普及されたころから、同志たちはわたしの名前を改めて「ハン一ビョル星」と呼んだ。彼らは勝手にわたしの名前をつくり、わたしの意向は聞きもせずに「一星」と呼んだのだった。

    わたしの名前を「金日成」と改めようと発案したのは、辺大愚など五家子の有志と崔一泉ら青年共産主義者たちである。

    こうしてわたしは、「成柱」「一星」「日成」と三通りの名前で呼ばれるようになった。

    金成柱は父がつけたわたしの本名である。

    幼年時代は「ツンソニ(曽孫)」と呼ばれた。曽祖母が生前、わたしを「ツンソニ」と呼んだので、家族もそれにならって「ツンソニ」と呼んだのだった。

    わたしは父が命名した本名を大切にしていたので、ほかの名で呼ばれるのが気に入らなかった。ことに弱年のわたしを星や太陽になぞらえ、おしたてることを容認したくなかった。

    しかし、いくらきびしく取り締まっても、説得しても無駄だった。同志たちはわたしが喜ばないことを知りながらも、「金日成」と呼ぶのを好んでいた。

    「金日成」というわたしの名が出版物に最初に載ったのは、一九三一年の春、わたしが孤楡樹で軍閥に逮捕され、20日ほど投獄されていたときだった。

    しかし、以前からわたしと知り合っている大多数の人は、呼びなれた「成柱」の名で呼んだ。

    わたしが同志たちのあいだで「金日成」という一つの名で呼ばれるようになったのは、後日、東満州で武装闘争をはじめたときからである。

    このように同志たちは新しい名前をつけ、歌をつくってうたい、わたしを指導者におしたてた。わたしをおしたてようとする彼らの心づくしはたいへんなものだった。

    わたしは年も若く、闘争経歴も短かったが、彼らがわたしをおしたてようと努めたのは、統一団結の中心に欠け、各党、各派がてんでに英雄豪傑気どりで派閥争いに憂き身をやつし、革命運動を破綻させた前世代の運動から深刻な教訓を汲み取ったからであり、国を取りもどすには2千万民衆が心を合わせなければならず、そのためには指導の中心、統一団結の中心がなくてはならないという真理を骨身にしみて悟ったからであった。

    わたしが金赫、車光秀、崔昌傑らの同志を愛し、忘れることができないのは、彼らがわたしの歌をつくり、わたしを指導者に推戴したからではない。彼らが、朝鮮民族が切願しながらも実現できなかった統一団結、朝鮮人民の誇りであり、光栄であり、無限の力の源泉である真の統一団結の始原を切り開き、わが国の共産主義運動で指導者と大衆の一心同体を実現した統一団結の新たな歴史を血潮をもって切り開いた先駆者であったからである。

    われわれとともに革命運動にたずさわった新しい世代の共産主義者は、地位争いで隊伍に不和をかもしたこともなく、意見の相違で、われわれが生命のように大事にした統一団結を破壊したこともなかった。統一団結は、われわれの隊伍で真の革命家と、えせ革命家を分ける試金石であった。だからこそ、彼らは監獄や絞首台に引かれていっても、この統一団結を生命を賭して守った。そして次の世代の共産主義者に財宝として譲り渡した。

    彼らの最大の歴史的功績はここにある。指導者をおしたて、その指導者を中核にして統一団結した新しい世代の共産主義者の気高く美しい精神は、今日、わが党が一心団結と呼んでいる統一団結を生む偉大な伝統となった。

    青年共産主義者が指導者をおしたて、そのまわりに一心団結して革命闘争をおこなったそのときから朝鮮の民族解放闘争は派閥争いと混乱にいろどられた過去の歴史に終止符を打ち、新たなぺージを開いたのである。

    金赫が逝ってから半世紀以上の歳月がすぎ去った。しかし、夜を明かし、飢えにたえ、足を凍らせ、骨をえぐるような満州の寒風にさらされながら革命のためにたたかった金赫の姿は、いまもわたしの脳裏に焼きついている。

    彼が生きていたら、われわれとともに多くのことをしたであろう。わたしは革命が試練にあうたびに、愛国の一念に胸を燃やし、たたかいのなかで青春を輝かせた、情宜に厚い同志金赫を偲び、彼の早世を惜しむのである。

    われわれは金赫の姿を末長く後世に伝えようと、大城山革命烈士陵の最前列に彼の胸像を安置した。

    金赫の写真が一枚も残されておらず、彼と一緒にたたかった同志たちもみな世を去ったので、彼の顔形を知る術がなく、彫刻家たちが苦労した。それでわたしが金赫の顔形を彼らに教えて胸像を完成させたのである。

    

    

      7 一九三〇年の夏

    

    

    M・L派系の分派分子は五・三〇暴動の失敗から教訓を汲みとろうとせず、一九三〇年八月一日、国際反戦デーと前後して吉敦鉄道沿線地方を中心にまたも無謀な暴動を起こした。

    暴動によって、革命の前には重大な難関が立ちはだかった。五・三〇暴動以来、地下に深く入っていた残り少ない組織も露呈した。わたしが出獄して各地を巡り、かろうじて立て直した組織も、再度の打撃で破壊された。満州各地で、すぐれた指導中核が大挙逮捕され、処刑された。敵は共産主義を中傷し、共産主義運動を弾圧する格好の口実を得た。

    この暴動が日帝の民族離間策をどれほど助けたかということは、多言を要しないであろう。二回の暴動によって、中国人は朝鮮人を不信の目で見るようになった。その後われわれは、遊撃闘争をしながら苦労して中国人の信頼を回復した。

    東満州の朝鮮人は八・一暴動を経験したあとで極左冒険主義の危険性をしだいに悟り、大衆を無謀な暴動に駆り立てる分派事大主義者を遠ざけるようになった。

    わたしはただちに暴動のあった地域に工作員を派遣し、これ以上革命大衆が分派分子の扇動にあざむかれないよう措置を講じた。

    わたしも吉林をへて敦化へ行き、しばらくのあいだ組織を収拾するつもりだった。

    吉林に行ってみると、そこにも五・三〇暴動直後のような殺伐とした雰囲気がただよっていた。

    わたしは日に何度も変装して、組織に関係していた人たちを探し歩いた。

    吉林の駅や城門、道路交差点にはもれなく敵の検問所が配置されていた。日本領事館の密偵が街で朝鮮の革命家を捜索していた。民族主義運動が終焉を告げようとしていたときだったので、敵は安昌浩事件のときとは違って、独立軍の老輩には見向きもせず、共産主義運動をする青年たちを逮捕しようと方々に網を張っていた。

    吉会線鉄道敷設反対闘争でわきたっていた吉林市で、顔なじみに会うのもむずかしくなったと思うと痛恨にたえなかった。

    同志たちはわたしと別れるとき、吉林に立ち寄ってもぐずぐずせずに海竜か清原へ行くようにと勧めた。

    しかしそうかといって、すぐに吉林を発つことはできなかった。革命の新しい道を開拓しようと満3年のあいだ夜を日につぎ、心血をそそいで奮闘したことを考えると、後ろ髪を引かれる思いがした。吉林で投獄までされながら革命のために苦労しなかったとしたら、この都市にそれほど愛着を覚えはしなかったかも知れない。人間は心魂を傾けただけ、その土地を愛するものである。

    わたしは幸いに共青活動をしていた同志に会えて、数人の組織メンバーの行方を知った。わたしは彼らを集めて、これからは決して組織が露呈しないようにし、吉林少年会、留吉学友会などの合法組織も当分地下に入るよう指示した。

    倫会議の方針を実行する対策も討議した。把握ずみの同志には革命組織を立て直す任務を与えて、活動地域へ送り出した。

    

    わたしも吉林を発つ決心だった。わたしにはなすべきことがあまりにも多かった。吉林における活動をあらかた収拾してみると、東満州の破壊された組織を立て直そうという欲求に駆られた。

    わたしは清原か海竜でしばらく中国の同志の家に身をひそめ、それから被害の多い地方をまわってその収拾にあたることにした。海竜、清原方面に行けば、倫会議以来会っていない崔昌傑と連絡をとり、そうすれば彼と一緒に南満州へのルートが開拓できそうだった。その一帯は柳河とともに彼の活動区域だった。

    崔昌傑は柳河、海竜、清原一帯で基礎党組織をつくり、共青と反帝青年同盟など各種大衆組織を拡大していた。この地域の革命運動は、国民府派と反国民府派との対決がたたって大きな試練をなめていた。そんなときに八・一暴動の余波まで重なり、多くの革命組織が一挙に破壊された。

    海竜と清原のあたりに、わたしの吉林時代の同窓生が一人いた。彼は遊撃隊の草創期にわれわれの部隊にいたが、南満州遠征後郷里に帰った中国人の同志だった。彼の家にしばらくとどまっていれば、白色テロの旋風がいくらかおさまるだろうし、そうなればわたしも窮地から抜け出せそうだった。

    吉林を発つ日、数人の女性の同志が駅までわたしを見送ってくれた。財産家の令嬢のような身なりをしていたので、わたしは疑いをかけられずに汽車に乗ることができた。当時、軍閥は紳士のような人間は共産主義運動などしないものと思っていた。

    わたしは吉林の本駅を避け、敵の警戒が薄い周辺の駅で乗車した。ところが思いがけないことに車内で張蔚華に会った。

    瀋陽に勉学に行くところだという。瀋陽へ行く前に革命運動の手づるを求めてわたしを吉林に訪ねたのだが、そこの空気は殺伐としていたといった。「知っている朝鮮人はみな隠れてしまい、目につくのは軍隊や警官、それに日本人の狗だけだった。成柱に会いたかったが、それができず、知人もいなかったので、そのまま瀋陽に行くところなんだ」といって、有無をいわせずわたしを一等室に連れこんだ。彼はわたしがテロを避けて忍び歩いていることに気づいたようだった。

    その日、警官の乗客取り締まりはきびしかった。列車の出入口をすべて封鎖し、乗客の身分をいちいち確認し、ときには所持品を調べもした。車掌の検札もいつもより念入りだった。八・一暴動の影響は都市や農村ばかりでなく、列車にもおよんでいたのである。

    張蔚華のおかげで、わたしは海竜駅に無事に着くことができた。警官は車内で乗客をきびしく取り調べたが、中国の紳士服を着ている張蔚華には声もかけなかった。わたしも張蔚華と同席していたので尋問をうけずにすんだ。検札にあたっていた車掌もわれわれには乗車券の呈示を求めず、黙って通りすぎた。張蔚華が勢力家の子弟だったからであろう。

    わたしのふところには文書や秘密資料があった。もし身体検査をうけていたら、どんなことになったかわからない。

    海竜駅に到着すると、ホームと改札口のそばに日本領事館の警官が頑張っていた。殺気だった風景だった。わたしは危険が迫っていることを直感した。

    海竜駅で目を光らせているのが日本の警官だったので、わたしは緊張した。中国の警官だろうが、日本の警官だろうが警官には変わりないが、日本の警官にひっかかれば手のほどこしようがなかった。そのころ、日帝は満州で朝鮮の革命家をつかまえると、容赦なく国内へ押送するか、関東都督府法院で裁判にかけ、旅順、大連、吉林などの監獄にぶちこんだ。

    決心がつかず車窓の外をじっと見つめていると、張蔚華が、よかったら自分と一緒に行こうと誘ってくれた。父にも会い、自分の今後のことも相談したいというのである。

    わたしは草市駅で下車して目的地に行くつもりだった。草市駅までは、まだ駅が五つか六つあった。張蔚華が海竜駅で降りれば保護者がいなくなるので、どんな危険に陥るか知れなかった。

    わたしは彼の誘いに応ずることにした。

    折よく駅前に彼の父親が出迎えにきていた。営口で朝鮮人参を売りさばいて帰る途中、息子が海竜に到着すると聞いて迎えにきたのである。腰にモーゼル拳銃をさげた数十人の私兵が、われわれの前に豪奢な馬車を横付けにした。ものものしい行列だった。領事館警官はそれに気をそがれて、われわれに近づくこともできなかった。

    われわれは高級馬車に乗り、私兵の護衛をうけながらさっそうと駅前通りを駆けていった。わたしはその日、高級ホテルに泊まり、張蔚華と一緒にくつろいだ。ホテルの周囲には張蔚華家の私兵が2重3重に立っていた。

    張蔚華の父親は、久し振りに会えてうれしいといって、わたしを特等室に入れ、料理をたくさん注文した。彼は撫松時代からわたしをかわいがってくれた。客に誰かと聞かれると、冗談まじりに養子だと紹介した。はじめは冗談でそういったのだが、あとからは本気でそう呼んだ。

    わたしは張蔚華が富豪の息子ではあったが、撫松にいたころから彼と親しく付き合った。わたしは小さいときから、地主が搾取者であるという一般的観念をもってはいたのだが、張蔚華との関係ではそれにこだわらなかった。彼は善良で良心的なうえ、反日感情が強かった。それで彼と分けへだてなく親交を結んだのだが、こうして危険なときに救われてみると、感無量の思いだった。わたしが平素、地主の子だといって彼を遠ざけていたとしたら、あの危険な瞬間に、彼らがそれほどの誠意をもってわたしを守ってくれなかったであろう。

    革命に参加したり支持したりしなくても、一生ぜいたくに暮らせる張蔚華のような大金持の息子が、危機一髪の瞬間に、父親と協力してわたしを助けてくれたのは、彼がわたしとの義理を重んじたからだった。

    わたしが撫松で小学校に通っていたころから、張蔚華は富める者と貧しい者、中国人と朝鮮人というへだたりをおかずにわたしと親しく付き合った。彼は国を奪われたわれわれの悲しみを誰よりも深く理解し同情もして、祖国を解放しようというわれわれの決意と理想を心から支持してくれた。それは彼が祖国と中華民族を熱愛する愛国者であったからである。彼は朝鮮民族の悲運から中華民族の不幸を読み取っていた。

    張蔚華の父親も財産家ではあったが、外部勢力を排撃し民族の自主権を主張する志操堅固な愛国者であった。彼の愛国の衷情は彼が命名した子どもたちの名前にもよくあらわれている。彼は長男が生まれると蔚中と名づけた。蔚中の二番目の「中」は「中華民国」という国号の最初の文字からとったものだった。次男には蔚華、三男には蔚民という名をつけ、四番目が生まれたら蔚国と呼ぶことにしていた。ところが四番目はもうけることができなかった。四つの名前の二番目の文字を合わせると「中華民国」という国号になる。

    張蔚華はわたしに、来年の春か秋ごろに日本軍が攻めてきそうだが、そうなったらどうするつもりかとたずねた。

    わたしは「日本軍が攻めてくれば、立ち向かって戦うつもりだ。武装闘争をしようというのだ」と答えた。張蔚華は、自分も戦いたいが、家で許してくれるかどうか心配だといった。

    それで、わたしはいった。

    「国が滅ぶというのに家どころの騒ぎではない。君も古い社会に反対してたたかおうと決心したのなら革命運動をやるべきだ。いまやほかに活路はない。そうでなければ愛国の志士気どりで共産主義を口にし、家で書物でもひもとくほかないではないか。道はこの二つしかない。だから、両親の顔色をうかがうことなく革命運動をやるのだ。それが中国を思う道であり、中華民族を救う道だ。君にはほかの道がない。中国人と一緒に革命運動をやるべきだ。日本軍が攻めてくれば、そのときは朝鮮人ばかりでなく、中国人もこぞって奮起するだろう」

    わたしはホテルに二、三日泊まっているあいだ、張蔚華に反日思想を吹きこんだ。張蔚華はわたしの勧告を聞いて、学校を卒業したら自分も革命運動に乗り出すといった。

    わたしは彼に「もしかのときに、また君の助けを借りるかも知れないから、瀋陽の行き先を書いてくれないか」といって、住所を書いてもらった。そして、目的地に無事に行き着けるよう力を貸してほしいといった。

    張蔚華は、君を助け、守ることなら、なんでもするといって、わたしを馬車に乗せ、海竜県と清原県の境にある中国人同志の家まで連れていってくれた。

    わたしが訪ねていったその家も、張蔚華のような金持だった。中国革命の先覚者のなかには、そうした人が少なくなかった。それで、わたしはつねづね、中国革命は特異な革命だと考えている。労働者階級や農民とともに、知識人や金持も革命運動、共産主義運動に多数参加した。

    富裕な家庭出身の人も、人間の自主性と社会の発展を抑制する矛盾点を発見すれば、それを除去する革命運動に参加する覚悟をもつものである。資産家出身のなかで、勤労者大衆の利益を擁護してたたかう闘士や先覚者が輩出するのはそのためであると思う。

    要は出身ではなく、世界観である。人生を一つの道楽だと思えば、革命はやれずに富を楽しむことにとどまり、道楽はできなくても人間らしく生きるべきだと思えば、資産家も革命運動に参加するのである。階級革命だということで、こうした先覚者を遠ざけるなら、革命は大きな損失をこうむるであろう。

    わたしはその中国人の同志の家に数日間泊まったが、彼も張蔚華同様、わたしを親切にもてなしてくれた。彼の姓が王だったか魏だったか、記憶がうすれていまは思い出せない。彼に頼んで何日か崔昌傑の行方を探したが、無駄だった。崔昌傑は八・一暴動後、地下に深くもぐったという。

    わたしは草市付近の共青員に会って、海竜と清原一帯で破壊された組織をすみやかに立て直し、武装闘争の準備を積極的におし進めよ、という内容の手紙を託して崔昌傑に届けてもらうことにした。

    中国人同志の家で、何日か客のもてなしをうけながらすごしていると気づまりだった。身辺が危くても大地を闊歩し、自由奔放な活動に身を投じたくてならなかった。工作のためにはまた変装して活動しなければならないが、軽率に動くと災いをまねくおそれがあった。吉林にもどるのもむずかしく、それに南満州鉄道は日本人の管轄下にあって、汽車に乗るのも危険だった。間島に行きたかったが、共産党検挙旋風が吹き荒れるところへ行っては、どこにも居着けそうになかった。だが、それでも行こうと思った。わたしはどんなことがあっても東満州へ行って、武装闘争の準備を進めようと決心した。

    わたしは中国人の同志と連れ立って海竜で汽車に乗って吉林まで行き、そこでまた他の汽車に乗って蛟河に向かった。蛟河にはわれわれの影響下にある組織がかなりあった。吉林時代から親しくしていた韓英愛と彼女の叔父韓光もそこにいた。

    わたしは彼らの力を借りて、当分のあいだ軍閥の追跡をまぬがれる隠れ家を見つけ、組織を立て直す活動をするつもりだった。韓英愛に会って、ハルビンにある国際共青傘下の上級組織との連係もつけたかった。

    韓英愛は一九二九年の初めに家庭の事情で吉林の学校を中退し、蛟河に帰ってからも、わたしたちとの連係を保っていた。

    わたしは誰から先に訪ねるべきか決心がつかずためらった末、独立軍時代に中隊長をしていた張喆鎬の家にまず立ち寄った。

    国民府ができてから独立軍の上層部と決別し、軍服を脱ぎ捨てた彼は、蛟河で精米所を経営し、その営業に専念していた。わたしが彼を訪ねたのは、彼が父の親友であり、わたしをたいそうかわいがってくれた、信頼のおける愛国志士だったからである。わたしには組織のメンバーに会うまで一時身を寄せる居所が必要だった。

    彼はわたしを好意をもって迎えはしたが、家にかくまってくれようとはしなかった。彼が少しおじけづいているようだったので、わたしは訪ねてきたわけを打ち明けなかった。わたしは李載純の家に足を向けた。わたしの父の生前、旅館業を営みながら、独立運動家を積極的に後援した人である。彼もやはりわたしを喜んで迎えてくれたが、中華料理店へ連れていって餃子を一皿おごってくれただけで、別れようといった。

    わたしには一、二度の食事よりも、隠れ家が必要だった。彼もわたしが訪ねていったのだから、そのへんの事情を察したはずだったが、一晩泊まっていくようにともいわず、気をつけていくようにというだけだった。彼は自分に災いがおよぶことを先に考え、過去の義理や友誼などは捨ててかえりみなかったのである。

    わたしはここで一つの深刻な教訓を汲み取った。思想的結合でなくては、父の友人といってもあてにならない。過去の親交や人情だけでは革命闘争をともにできないというのは、そのときに得た深刻な教訓であった。

    思想や信念が変われば、義理や人情も同時に変わるものである。それまで刎頸の交わりを結んだ者のあいだにひびが生じ、不和になるのも、ある一方の思想が変わるからである。永遠に変わらないと誓った友情や同志的連係も、ある一方が思想的に変質すればひびが入るものである。思想を守らなくては義理や友誼も守れないというのが、その後の長期にわたる革命闘争のなかで得た一つの教訓であった。

    李載純と別れたわたしは、韓光の家に向かった。彼はどこかへ身を隠しているかも知れないが、韓英愛は女性だから家にいるだろう、彼女がわたしの事情を知れば、生命を賭して助けてくれるだろうと思った。

    しかし韓光も韓英愛も家にいなかった。隣家の婦人に行方をたずねたが知らないという。朝鮮青年のなかで運動に少しでも関係した者はみな身を隠してしまったのだから、もう訪ねるあてがなかった。

    そんなところへ、誰が密告したのか、警官が追跡してきた。もはや逮捕されるほかないと観念したとき、韓光の隣家の主婦がわたしを救ってくれた。彼女はわたしに「どなたか知らないが、身辺が危いようだから、台所に入っていてください」といって、自分がおぶっていた幼児を手早くわたしに背負わせた。そして、「受け答えはわたしがしますから、先生は黙って火を焚いてください」というのだった。わたしが子持の男になりすましても、おかしくないほど老けて見えたらしい。

    幼児を背負ったわたしは火掻き棒を持って台所の土間に座り、彼女にいわれたとおりにした。革命運動をはじめて以来、たびたび困難にぶつかり、胸がどきどきする危険な瞬間にもよく出あったが、こんなことははじめてだった。

    警官が戸を開け放ち、「いましがたここへ来た若者はどこへ行ったか?」と主婦にたずねた。

    彼女は「若い人ですって? どんな人ですか? 家には誰も来ませんでしたが」ととぼけた。そして中国語で、誰もいないから、よかったら部屋に上がって食事でもなさっては、と低い声で勧めた。

    背中の幼児は、人見知りをして火がついたように泣きわめいた。あやそうにも動作がぎこちなくぼろが出そうで、進退きわまったわたしはしきりに火掻き棒で焚き口を突っついた。

    警官は、どこへ逃げたのだろう、勘違いしたのではないかといって、ほかの家の方へ行った。

    警官が立ち去ると、主婦は笑いながらこういった。

    「巡査が村を離れるまで主人役をつづけてください。野良に出ている主人に帰るよう知らせてきますから、ゆっくりなさって、主人が帰ったら、先のことを相談してみましょう」

    彼女はわたしの食事をととのえたあとで、野良へ行ってきた。

    しばらくして警官がまたやってきて、わたしに使いをさせることがあるから外へ出てこいと怒鳴った。主婦は落ち着きはらって、「患者だから使いは無理です。急用でしたら、わたしが代わりに行ってきましょう」といい、彼らの使い走りをすませて帰ってきた。

    このように、わたしは彼女のおかげで窮地を脱することができた。素朴な農村婦人だったが、気転がきき、知恵があった。革命意識もかなり高い女性だった。

    わたしはこの名前も知らない婦人から、忘れえぬ印象をうけた。危険をかえりみずわたしを救ってくれたのは、昔の友誼を頼りに訪ねた父の親友ではなく、一面識もないその主婦だったのである。彼女は革命家を助けようという純粋な気持から、自己犠牲的にわたしを救ってくれたのである。人間は困難にぶつかったときに、その真価があらわれるものである。

    革命家がためらいなく生命をも託せる清く堅実な道義は、やはり勤労人民のなかにあった。それで、わたしはつねづね戦友たちに、革命運動で困難にぶつかれば人民を訪ねるようにといった。ひもじくても、喉が乾いても、悲しいことがあっても人民を訪ねるようにといった。

    彼女はりっぱな人だった。いまでも彼女が生きているなら、その前で深々とおじぎをしたい気持である。

    その年の冬、満州地方で活動している朝鮮革命軍指揮官と地下組織責任者が五家子に集まって会議をしたとき、わたしはその女性の話をした。

    同志たちはそれを聞いて「とにかく成柱同志は運が強い。運が強いから天が助けたのだ」といった。

    わたしは運がよくて災いをまぬがれたのでなくて、りっぱな人民のおかげで軍閥につかまらなかったのだ、人民は天であり、民心は天心だ、といった。それ以来「蛟河のおばさん」という言葉は英知に富む自己犠牲的な朝鮮人民を象徴する一つの代名詞、危機にさいしておのれを犠牲にし、革命家を救うのが体質化している女性を象徴する意味深い代名詞となった。

    わたしはいまも焼けつくような陽光にさらされ、血にいろどられた一九三〇年の夏を想起するとき、蛟河に思いをいたし、忘れえぬ蛟河の主婦を瞼に描いてみる。数十年のあいだ探しつづけたが、いまもって行方の知れないその女性を回想するたびに、わたしは六〇年前のその日、彼女の名前を聞かずに早々と蛟河を発ったことで、胸のうずく自責の念に駆られるのである。

    あのとき名前を聞いておいたなら、広告を出して探すこともできたではないか。

    解放後、いろいろな経路を通して多くの恩人がわたしを訪ねた。異国で別れてから半世紀がすぎ、白髪の老人になってあらわれた恩人もいた。困難なときにわたしを助けてくれた少なからぬ恩人がわたしに会い、解放された祖国に帰ってきた。わたしは彼らに心からの謝意を表した。

    しかし、蛟河の主婦はどうしてもあらわれないのである。彼女自身は一九三〇年の夏にあった劇的な瞬間をなんでもないことと思って、忘却の彼方に葬ってしまったのかも知れない。

    60年前の恩人はなんの消息も、痕跡も残さず、ひっそりと大地のなかに隠れてしまった。りっぱな宝石ほど地中深く埋もれるものである。

    野良から主人が帰ってはじめて、主婦はわたしの背中から幼児を抱きおろした。あのときのひとこまひとこまは、そのままミステリーのような出来事である。

    わたしは本名を告げることがはばかれて仮名を告げ、革命運動をやっている者だといい、主人にあいさつをした。

    主人は自分も革命運動にたずさわっていたが、組織との連係が断たれ、無為無策に毎日をすごしているといい、隣に大きな犬(密偵)がいるから気をつけるようにといった。彼は、韓光は北満州に逃れ、韓英愛は弾圧を避けて潜行しているので、彼女には会えないだろうといった。

    それを聞いてわたしは暗い気持になった。隣に密偵がいるのでは、この家にとどまっていることもできない。しばらく家に隠れていて、情勢を見はからって再び敦化方面に行こうかとも思ったが、敦化は日本人の拠点であり、共産党火曜派の本部があった関係で捜査が厳重だった。頼りになりそうな朝鮮人はすでに五・三〇暴動直後ほとんど検挙され、女性しか残っていなかった。そんなところへ行って足がかりをつくれるかどうかが問題だった。

    あたりが暗くなってから、主人の案内で蛟河市内から六キロほど離れた村はずれの草庵に行った。その家の年老いた夫婦も親切な人たちだった。

    その夜、わたしは革命家がつねに信じ、頼りにできるのは人民であると改めて痛感した。

    夜、床を敷いて横になったが、目がさえ、いろいろな考えが頭のなかでうずまいた。たずねる人たちには会えず何日も無駄骨をおるとはなんということだ、こんなときほど受け身にならず逆境を打開していかなければならない、守勢に陥ったら破滅だ、なんとしても活動をすべきで、こんなところを隠れてまわるようではなにができよう、必ずこの難関を乗りこえて東満州へ行き、革命運動をもりたてようとわたしは思った。

    朝、思いがけないことに韓英愛がその家にあらわれた。わたしが東満州に来るという知らせをうけた彼女は、隠れ家を探して家を出るとき、右の頬にえくぼのある方が訪ねてきたら、自分に知らせてほしいと母に頼んでおいたという。一年ぶりの再会だった。

    苦労の末に彼女と会えたうれしさに、しばらくは口もきけず互いに顔を見つめるばかりだった。一度笑い出すとおなかをかかえて笑いころげていた彼女も、この一年のあいだにすっかりやつれていた。

    韓英愛の話では、間島の雰囲気も殺伐なものだという。

    わたしは彼女に、「こんなふうに隠れてばかりいるのは、意気地のない人間のすることだ。それでも、なんとか運動をしなくてはね。日本軍がいまにも攻めてこようとしているのに、腕をこまぬいていないで、戦う準備をするのだ。組織を早く立て直し、人民を目覚めさせるのだ。恐怖心にとらわれて閉じこもっているわけにはいかないではないか」といった。

    彼女は、自分も同感だ、困難なときにそういわれると勇気が湧くといった。

    「誰もいないこんなところに引きこもっていてはなにもできやしない。組織との連係をつけてやるから、ハルビンに行こう」

    韓英愛は組織との連係が切れてどうしてよいかわからず、いらいらしていたけれど、ちょうどよかったといって喜んだ。

    コミンテルンとの連係をつけるために金赫をハルビンに送っていたのだが、わたしは彼の報告を待たずに、わたし自身が早くそこへ行ってコミンテルンの人に会おうと思った。わたしは暴動ですっかり破壊された組織と、戒厳状態を思わせる殺気だった緊張感におしひしがれた都市や農村の様子を見て、極左冒険主義者が革命におよぼした弊害の深刻さを改めて痛感した。そしてそれを克服せずには、一九三〇年代のスタートから革命が大きな犠牲を強いられるであろうことを悟った。

    理論闘争だけでは、分派事大主義者と極左冒険主義者の妄動を阻止することができなかった。彼らはわれわれの道理にかなった主張も、革命に有利な主張もなかなか受け入れようとしなかった。われわれの意見には頭からとりあおうとしなかった。われわれの憂慮をよそに、五・三〇暴動をむしかえした八・一暴動がついに火の手を上げたのも、吉東地区党会議で出したわれわれの意見をかれらが黙殺したことを示していた。

    満州の大地をはばかりなく転がっていく極左冒険主義の車輪にブレーキをかけるためには、コミンテルンの援助が必要だった。

    わたしは暴動にたいするコミンテルンの見解が知りたかったし、それがコミンテルンの指令によるものか、あるいは一部の人の恣意による妄動であるかを確認したかった。もしもコミンテルンがその指令を出したのだとすれば、論争をしてでもその車輪にブレーキをかけたいと思った。

    敵の警戒がきびしいので、二人は中国人に変装して汽車に乗ることにした。

    その日、韓英愛は終日蛟河一帯を駆けまわって、二人が着ていく紳士服と履き物をそろえ、旅費を工面した。軍警から疑いをかけられないよう、トランクには化粧品も入れた。そのおかげで、わたしはハルビンに無事到着した。

    わたしはハルビン埠頭近くの尚埠街のはずれにあるコミンテルン連絡所を訪ねて連係を結び、彼らに韓英愛を紹介した。そして五・三〇暴動と八・一暴動によって東満州にかもしだされた事態を通報し、倫会議の内容を知らせた。

    コミンテルン連絡所でも、二度の暴動を冒険主義だと評価した。連絡所でわたしに会った人は、自分個人の見解では、倫会議で採択した決議はすべて朝鮮の実情に合い、革命の原則にも合っていると思う、マルクス・レーニン主義に創造的に対応しようとするあなた方の立場は鼓舞的である、といった。われわれが倫会議で新たな党創立方針を示し、その母体となる基礎党組織として建設同志社を結成したことにたいしても、それは一国一党制の原則に矛盾しないと、言明した。

    こうしてわたしはコミンテルンから、朝鮮革命の生命ともいえる自主性の原則、創造性の原則、そしてわれわれのすべての路線にたいして全幅的な支持を得た。

    そのとき、彼らはわたしに、コミンテルンが運営しているモスクワの共産大学に留学する意向はないかとたずねた。

    わたしはモスクワにそんな大学があることも、朝鮮共産党の推薦で共産主義を志向するわが国の青年たちが、その大学で勉強をしていることも知っていた。曺奉岩、朴憲永、金溶範などもその大学に通った。当時、モスクワ留学にあこがれる風潮が強かったので、満州地方の青年のあいだでは『モスクワ留学歌』という歌がうたわれていたほどである。

    わたしは革命実践から離れたくなかったので、「行きたいが、いまは状況が許さない」と答えた。

    一九八九年に文益煥牧師に会ったさい、余談にハルビンの話をしたところ、彼は自分の父親もそのころハルビンで、コミンテルンが選抜した留学生をソ連に送る仕事をしたといった。

    コミンテルンは、わたしに吉東地区共青責任書記の仕事を委任した。

    金赫が三階から飛び下りて監獄に引かれていったことも、コミンテルン連絡所を通して知った。

    金赫が逮捕されたと知って、わたしと韓英愛はハルビンに滞在中、ずっと沈痛な気持にとらわれていた。金赫が鉄鎖につながれたことがあまりにも無念で、彼が飛び下りたという道裡の三階建て建物の前に行ってみた。

    道裡の商店や料理店にはおいしそうな食べ物がたくさんあったが、われわれには、それらは高嶺の花だった。

    コミンテルンは一日の雑費として一五銭をくれたが、ハルビンでは15銭ではとてもやっていけなかった。普通の旅館では宿帳をきびしく調べるので、革命家はとても泊まることができなかった。警官の出入りがなく、宿泊届けをしなくてもすむ旅館は、白系ロシア人の経営するホテルだけだった。だが、そこでは食費と宿泊費がたいへん高かった。富裕な資本家などが泊まるところで、われわれのような者はとても寄りつけない豪華なホテルだった。わたしはいろいろと考えた末、一日一食ですましても安全な高級ホテルで泊まることにし、韓英愛は女性の取り締まりがきびしくない一般旅館に泊まるようにした。

    ホテルに泊まってみると、内部はたいへん豪奢だった。そこにはショップ、レストラン、娯楽場、ダンスホールなどの施設はもちろん、映画館もあった。

    わたしは金もなしにこのホテルに宿をとってたびたび困惑した。初日わたしがホテルに入ったとき、ロシア人の案内係がついてきて、爪を切ってくれるといった。爪を切ってもらうと金を払わなければならないので、わたしは爪がのびていないので必要ないといった。彼女が出ていくと、こんどは入れ違いにホステスが入ってきて、食事の注文を聞いた。わたしは面映ゆかったが、友人の家ですませたと答えるほかなかった。

    毎日こんな気苦労をしたが、金がないのでホテルでは食事をせずに、泊まるだけにした。食事は一日の仕事を終えてから、夕方、韓英愛と一緒に街に出かけ安いお好焼きを一、二枚食べてすませた。

    いつぞやわが国を訪れた劉少奇にその話をすると、彼は自分もその年ハルビンにいたといった。中国人の党員はいなくて朝鮮人の党員を何人か連れていたが、そのときわたしがコミンテルンと関係しなかったかとたずねた。時期からみて、劉少奇がハルビンから帰った直後に、わたしがそこでコミンテルンの人に会ったようである。

    わたしは韓英愛に、分散している組織のメンバーを探し出してもらうことにした。

    彼女は吉林時代から連係を保っていたハルビン共青支部の韓という人と連絡をとって、地下にもぐっていた組織のメンバーを一人、二人と探し出し、倫会議の方針を説明した。

    わたしも金赫が工作していた鉄道と港湾に行き、革命組織の影響下にある労働者たちに会った。このようにハルビンで地下組織を立て直し、同志たちのあいだの連係をつけたあと、韓英愛をそこに残して、わたし一人で敦化に向かった。緊迫したときだったので、韓英愛には満足に謝意も述べることができずに別れた。わたしが発つとき、彼女はわたしと一緒に行きたいといった。けれどもハルビンの同志たちが彼女を残してほしいと懇請するので、彼女の希望をかなえてやることができなかった。東満州へ行って、そのことがずっと気になったが、地下工作の規律上、手紙を出すこともできず、消息を知らずにすごした。

    韓英愛のその後の運命については、党歴史研究所が収集した資料を見て、ずっとあとになって知ることができた。

    わたしは革命組織に書簡を残して敦化に向かったが、彼女はその書簡でハルビンの同志たちに与えた任務を実行するために奔走し、一九三〇年の秋、警察に逮捕された。普通の女性なら家恋しさにも蛟河に帰っただろうが、彼女はハルビンにとどまって、夜もろくに眠らずにわたしが与えた任務を遂行した。口数の少ないおとなしい娘だったが、革命活動ではねばり強く勇敢だった。

    彼女は逮捕されるとただちに新義州監獄に押送され、そこで服役した。それは李鍾洛、朴且石など「トゥ・ドゥ」時代の縁故者が大勢逮捕、投獄された時期だった。そんなわけで彼女は李鍾洛と同じ監獄にいた。

    ある日、李鍾洛が韓英愛に会ったとき、「わたしも金成柱とはよく知っている仲だし、あんたも、金成柱の指導をうけた女性だから、一緒に力を合わせて彼を帰順させようではないか。よかったらわたしらの〝帰順工作隊〟に入ってこないか」といった。

    彼女は即座に李鍾洛を面詰した。そんなことをしてはいけない、われわれが金成柱を助けてやれないまでも、そんな汚らわしい背信行為ができるものか、出獄して革命運動ができないのは仕方がないとしても、そんなことはできない、と彼女はいった。

    一九三八年の冬、われわれが南牌子で会議をしていたとき、わたしを「帰順」させようとして会場にあらわれた李鍾洛がそのことを告白した。

    そうしてわたしは、それまで知りようがなかった韓英愛の消息を知り、彼女が投獄されて残忍な拷問をうけながらも革命家の節操を守り通したことを知った。李鍾洛や朴且石のような男は投獄されるとすぐに転向書に捺印したが、韓英愛は女性の身でありながらその苦痛にたえぬいた。

    「恵山事〔13〕件」後、各地で多数の革命家が逮捕され、闘争の道を歩んでいた人びとのなかから背信者が生まれ、革命運動に重大な損失をきたしていたときだっただけに、その消息を聞いて、わたしは深く感動し勇気づけられた。

    韓英愛は一時、中国丹東市のゴム工場で製靴工として働いた。彼女は労働をしながら同胞たちに吉林時代にうたった革命歌を教え、労働者の権益を守っていろいろな要求をかかげ、それを貫徹する闘争へと人びとを決起させた。

    彼女はその後、ソウルで数年間、洪命熹先生の息子の家で娘時代をすごした。

    彼女は組織のルートを探して再び満州へ行こうと何年も苦心し、晩婚をした。彼女は家庭に埋もれてはいたが、われわれと革命運動をともにしたころの良心と節操を捨てなかった。われわれが武器を取って白頭山一帯でさかんに敵を討っていたとき、ソウルでその消息を聞いた韓英愛は吉林時代の同志たちを思い浮かべ、心からわれわれの勝利を祈ったという。

    彼女の夫は解放後、南朝鮮労働党員として地下活動をしたが、後退の時期に敵に殺害された。

    韓英愛も戦争中、ソウル付近で女性同盟組織の責任者として前線援護活動を積極的にくりひろげた。夫が殺害されたあと、わたしに会おうと子どもを連れて平壌に来た。ところがわたしに会えずに、一九五一年八月十四日の夜、二児とともに敵の空襲で惜しくも死亡した。

    わたしは彼女が清らかな一生を送ったと思う。彼女は吉林時代の意志を曲げずに一生をすごした。歌をうたっても吉林時代の歌をうたった。

    革命家は韓英愛のように、絶海の孤島でも信念を失わず、良心を守りつづけなければならない。

    韓英愛も忘れられないわたしの生涯の恩人である。彼女は困難なときにわたしを訪ねてきて、危険をかえりみず助けてくれたありがたい女性だった。

    解放後、祖国に帰って彼女の行方を探したが、共和国の領域内にはいなかった。

    解放前は抗日戦争で彼女に再会できなかった。しかし彼女がわたしの変装用の中国服を手に入れようと、暑い日ざしのなかを汗を流して駆けまわったこと、列車のなかで軍閥軍警の調査をうけるたびに、臨機応変に危険な瞬間を切り抜けてわたしの身辺を守ってくれたこと、お好焼きを半分ちぎって、その一片を黙ってわたしの方に押しやってくれたことなど、わたしは片時も忘れることができなかった。

    彼女のわたしにたいする心づくしは、愛情や恋慕のような感情を超越した、清らかで私心のない同志愛からきたものだった。

    彼女が平壌まで来て、わたしに会えずに爆撃で犠牲になったことを考えると、哀惜の念にたえない。

    幸い彼女の若いころの写真が奇跡的に残っていて、わたしの手に入った。わたしはこの世にいない恩人たちが思い出されるたびに、わたしの青年時代に大きな痕跡を残した韓英愛の写真を見つめ、彼女の美しい同志愛に心から感謝している。

    

    

    

      8 豆満江を渡って

    

    

    父は折にふれて、間島の人たちは闘争力が強いという話をしたものである。わたしも五・三〇暴動と八・一暴動を経験してからは、間島地方の朝鮮人がぬきんでた革命性をもっていることをはっきり知ることができた。

    間島や北部朝鮮一帯は、早くから義兵や独立軍の活動舞台となっていた。ロシアにおける十月社会主義革命の影響のもとに、マルクス・レーニン主義思潮も早くからこの地域に広がった。間島一帯における共産主義運動は、指導者が犯したプチブル的焦りのために多くの紆余曲折をへたが、人民大衆の革命的進出はつづいていた。

    それだけに、わたしは獄中にいたときから、武装闘争をはじめれば、白頭山を中心にして朝鮮の北部国境地帯と間島一帯を重要な戦略的拠点にする考えだった。

    日本帝国主義者も久しい前からこの一帯に目をつけていた。われわれは白頭山を中心にした朝鮮の北部国境地帯とともに、間島を抗日武装闘争の主な拠点にしようとしたが、彼らはその一帯を満蒙侵略の戦略的要衝にしようとしたのである。日本帝国主義者が20世紀の初頭から東満州でさまざまな事件を起こしたのは、その野望を実現する布石であった。

    一九〇七年八月、日帝は「朝鮮人保護」の名のもとに延吉県竜井に軍隊を送り、そこに「朝鮮統監府派出所」を設けた。そして、一九〇九年には中国反動政府を抱きこんで間島協約を締結し、つづいて吉会線鉄道工事権も手に入れた。その後、竜井の「朝鮮統監府派出所」は日本総領事館に昇格した。日帝が竜井に総領事館を置き、その管下に五つの領事分館を開設したのは、間島在住朝鮮人のためにとった措置ではなかった。彼らはそれらの領事機構のほかにも各地に警察署を配置し、朝鮮人居留民会などの御用団体を数多く組織して、間島在住朝鮮人の一挙一動にするどく目を光らせた。東洋拓殖会社出張所や金融界も当地に手をのばしていた。東満州は政治的にも経済的にも完全に日本帝国主義の統制下に置かれた。

    このように東満州地方は、革命と反革命のするどい対決場と化しつつあった。

    それだけに、白頭山の大山林地帯とともに、東満州に武装闘争の拠点を設けるべきだという考えがしばしばわたしの頭に去来した。八・一暴動後、日帝の満州侵略が目前に迫っていると感じていたわたしは、革命性の強い東満州の人民を結集して、一日も早く武装闘争を展開しようという決心をかためた。それで東満州に向かったのだった。

    わたしが東満州に行くというと、同志たちが引き止めた。日帝の弾圧機構と情報網が網の目のように配置されたところへ行くのは、たきぎを背負って火中に入るような冒険だというのである。しかし、わたしは労働者、農民のなかに入って革命運動をおこなう決心をかため、思いきって東満州へ向かった。

    それまでのわたしの活動は、主に都市の青年と学生に重点がおかれていたといえる。倫会議で採択された革命路線の要求に応じて、闘争を新たな高い段階に引き上げるには、われわれ自身が労働者、農民をはじめ各階層大衆のなかに深く入り、彼らを日帝との抗戦にすみやかに対応させなければならなかった。

    コミンテルンもわたしが東満州に行くことに賛成した。

    

    わたしはまず、敦化に向かった。その一帯が八・一暴動の最大の被害地だったからである。敦化はこの暴動の根源地であり、中心舞台だった。

    そこには日本軍の一つの守備隊本部と吉林総領事館管下の領事分館があり、旧東北軍の第六七七連隊本部があった。敵の弾圧網がこのように稠密に配置されたところで八・一暴動のような無謀な暴動が起きたのは、この一帯で極左冒険主義者が大勢活動していたからだった。敦化は磐石とともにM・L派の本拠地で、朝鮮共産党再建運動の一つの中心地でもあった。朴允世、馬建のような八・一暴動の主謀者もここに活動基地を置いていた。

    敦化には党および共青、反帝青年同盟をはじめ、われわれが組織した各種の革命組織があり、陳翰章、高在鳳、高一鳳のような信頼できる同志たちがいた。

    わたしは敦化で陳翰章の家に泊まり、中国の山東服を着て暴動の後遺症を取り除く活動をおこなった。わたしが吉林で共青グループを各地に組織したとき中学に通っていた陳翰章も、敦化でわれわれの組織に参加して活動した。彼は、日帝の満州占領後は、呉義成部隊の総司令部で秘書長として活躍し、東北抗日連軍で師団参謀長、師団長、方面軍軍長、南満州党委員会書記を歴任したが、そのころは素朴でおとなしい共青員だった。

    陳翰章は張蔚華と同様、資産家の息子だったが、革命にたいする情熱をいだいて共青生活を忠実におこなった。彼の父親は大した富農で、数百頭の馬や多くの銃を持っていた。彼の邸宅はまわりに高い塀をめぐらし、あたりに威風を払っていた。彼は冗談まじりに、自分の家はもともと打倒対象で、家の周辺がみな自分の所有地だから、他人の土地を踏まないで暮らしている、と語ったものだった。所有地がどれほどか、くわしいことはわからないが、富豪だったことだけは確かである。

    陳翰章は、共産主義を教えてくれた先輩だといってわたしを歓待した。暮らしが豊かだったので、彼の家ではわたしが居候をしても気にしなかった。

    わたしは陳翰章と高在鳳を先頭に立たせ、散らばった組織を探し出す活動に取り組んだ。昼は中国服を着て、中国語を話しながら同志たちを探し歩き、夜は朝鮮服を着て、朝鮮語を話しながら組織を立て直した。このようにして暴動の後遺症をあらかた取り除いたあと、コミンテルンの委任にもとづいて、敦化で吉東地区共青委員会を組織した。

    その後わたしは、高在鳳など数人の共青員に、豆満江沿岸の都市と農村に出向いて大衆を革命化し、党組織を結成する任務を与え、彼らを活動区域に送り出した。

    そして、陳翰章に敦化中学校に入って共青活動をするよう任務を与えて、わたしも敦化を発った。

    わたしが東満州で最初に立ち寄ったのは和竜だった。

    そこには吉林師範学校在学中、われわれの共青組織に参加して活動した曹亜範という中国人の同志がいた。蔡洙恒のような朝鮮の同志もいた。わたしはそうしたルートをたどっていけば暴動の後遺症をいやし、組織も拡大できると思った。

    わたしはまず大拉子へ行って曹亜範に会った。

    曹亜範は、八・一暴動による被害がはなはだしいといい、暴動後、朝鮮の同志たちがどこへ隠れたのか一人も見かけることができないといった。そして、投獄された同志たちが間もなく釈放されそうだから、彼らに会ってみるようにと勧めた。

    数日後、蔡洙恒が連絡をうけてわたしを訪ねてきた。彼は竜井で東興中学校に通った人である。彼はわたしが文中学校に通っていたころは吉林の師範学校で勉強し、そのときからわれわれの影響をうけて革命運動に乗り出した。彼はサッカー選手で吉林の青年学生のあいだで人気があった。そのころ、和竜出身の青年が数人、吉林で勉強していた。金俊は竜井と穏城一帯でわれわれのことを宣伝し、蔡洙恒は和竜と鐘城地方を往来しながらわれわれの革命思想を宣伝した。彼は後日、県党書記として活動し、はからずも「民生団」関係者の汚名を着せられて殺された金日煥同志とともに共青を組織し、さらに反帝青年同盟、農民協会、反日婦女会などの革命組織を結成し、そこへ多くの大衆を結束した。延吉爆弾製造のベテランとして知られた朴永純同志も、延吉県の八道溝鉱山で反帝青年同盟員として活動した。

    ところがせっかく結成した組織が二度の暴動ですっかり破壊されてしまった。多数の中核分子が逮捕されたり、地下にもぐったりし、残り少ない組織のメンバーも鍛練が足りないので不安におののき、なすすべを知らずにいた。

    こうした事態を見て、わたしは革命家の信念について多くのことを考えた。倫を発ってから吉林、海竜、清原、蛟河、ハルビン、敦化をへて和竜に来るあいだに、わたしは反革命の攻勢に恐れをなし、革命勝利の信念を失って動揺する人をしばしば見かけた。革命勝利の確信は、万人の共感をかちとり、彼らを奮起させうる正しい革命路線と戦略戦術があり、自らの革命勢力が存在することを原理的に体得するときに生じ、闘争を通じて強固になるものである。

    ところが暴動を扇動した人たちは、大衆の旗じるしとなるべき綱領や戦略戦術を示すことができなかった。われわれが倫で採択した革命路線は、まだ人民のあいだに広く知られていなかった。わたしは蔡洙恒をはじめ数人の共青および反帝青年同盟の幹部と協議会を開き、彼らに倫会議で採択された革命路線をくわしく説明した。

    そして、闘争を通して点検された信望のある同志で指導中核をかため、破壊された大衆組織をすみやかに立て直し、その隊伍をたえず拡大するよう強調した。豆満江沿岸の各県に革命組織区をつくる課題もこのときに与えた。

    監獄や絞首台を恐れた暴動組織者たちは、大衆を敵の銃剣の前に置きざりにして逃亡したが、われわれは暴動の後遺症をすみやかに取り除かなければならない、とわたしは強調した。わたしが山東服を着ていたので、和竜の同志たちはわたしを「山東の青年」と呼んだ。

    わたしがつぎに訪ねたのは汪清であった。わたしが汪清におもむいたのは、呉仲和に会うためだった。

    わたしに呉仲和のことを話してくれたのは金俊と蔡洙恒同志だった。彼らは吉林に出入りしたころから、わたしに、どこそこに誰それがおり、どこそこに行けばこれこれのことをしている誰それがいる、誰それはどういう人で誰それはかくかくしかじかでしっかりしていると、多くの人物を紹介してくれた。それで、わたしは吉林にいながらにして間島一帯の実情にかなり通ずることができた。

    わたしは彼らの話を注意深く聞き、堅実だという人にたいしてはしっかり覚えておいた。

    りっぱな人がいると聞けばどこへでも訪ねていって同志を獲得した父の姿は、わたしに人材がすべてを決定するということ、真の同志をどれだけ多く得るかによって革命事業の成否が決まるという真理を悟らせてくれた。

    1人の同志を得るためには三日でも十日でも、なにも食べられなくてもいいというのがわたしの心情だった。こうした心情でわたしは汪清にも行った。蔡洙恒が和竜から汪清の石までわたしと同行した。

    わたしは石で呉仲和と呉仲洽に会い、呉泰煕老にも会った。

    呉泰煕老の一家は珍しいほどの大家族だった。呉泰煕ら四人兄弟は、もと咸鏡北道穏城郡古作谷に住んでいたが、一九一四年ごろ汪清に移った。その四人兄弟の子孫が数十人に増えた。彼らは豆満江をはさんで汪清と穏城に分かれて住み、革命運動に従事した。当時、呉仲和は汪清5区の党書記として活動し、呉仲洽は汪清県春華郷元家店で共青活動を進めていた。呉仲和の弟呉仲成は汪清県石で共青活動に従事し、一九二九年の初めに穏城郡豊利洞に引っ越して普文学堂の教師をしながら革命運動をしていた。

    呉仲和は中学校を卒業し、和竜の私立化成学校で教師を勤めていた。

    わたしは石で呉仲和同志に、大衆を革命化するためにはまず自分から革命家になり、それから家族と村人を革命化しなければならないといった。

    呉仲和はその後、家庭をりっぱに革命化した。彼の兄弟と近い親戚のうち10余人が忠実な革命家になって活動し、革命に生命をささげた。彼らのなかから呉仲和、呉仲成、呉仲洽のようなりっぱな共産主義者が輩出したのは、いわれのないことではない。

    石で仕事を終えたわたしは、ただちに穏城地区へ行くことを決心した。西道地方で生まれ、幼いころから異国で生活したわたしは、豆満江以南の六〔14〕邑一帯についてはよく知らなかった。

    六邑一帯は李朝時代に官職を奪われた両班たちが流された土地である。穀物が不足がちで気候がきびしいうえに上役の専横がはなはだしいので、辺境の守備に送られてきた軍人も、すぐほかへ去ってしまった。官吏もこの一帯に赴任するのをきらった。彼らは任命状をもらっても、あれこれと口実をもうけてソウルでぶらぶらした。そんなわけで封建支配者は五〇〇年のあいだ手を焼いたという。

    わたしは金俊が六邑の話をするたびに、先祖はその一帯を不毛の地だといってかえりみなかったが、われわれは血と汗をささげ、革命のとりでにつくり変えようといった。わたしはそうした遠大な計画のもとに、そこへ同志たちを送りはじめた。

    穏城は、われわれの影響のもとに、一九二〇年代の末から金俊、蔡洙恒、呉仲成などが本格的に開拓しはじめたところだった。われわれはすでにそのころ、朝鮮革命を発展させるうえで白頭山地区と穏城など豆満江沿岸の六邑一帯がしめる位置の重要性を見抜き、その一帯を抗日革命戦争の戦略的拠点に仕上げる計画を立てていた。国内の革命をもりたてる突破口もここで開くつもりだった。当時、穏城地区からは一〇〇人ないし一五〇人の青年が竜井に行って学校へ通っていた。彼らは学期末休暇に帰省しては、われわれとつながりの深い金俊、呉仲成などの先覚者の指導のもとにこの一帯に「吉林の風」を吹きこんだ。穏城には朝鮮共産主義青年同盟と反帝青年同盟の支部があった。それはわれわれが国内に勢力をのばす格好の踏み台だった。それを通してわれわれの思想がかなり浸透していた。

    わたしが穏城地区に行ったのは、国内に党組織を結成し、倫会議の方針を実現する対策を立て、全般的な朝鮮革命を拡大発展させるためである。

    石からわれわれと同行した呉仲和の従弟が一足先に、われわれが行くことを知らせるために呉仲成のいる豊利洞に行った。

    われわれは穏城郡南陽対岸の灰幕洞の谷間のはずれで、連絡をうけてやってきた呉仲成同志とその他の組織メンバーと会った。呉仲成とは初対面だった。兄の呉仲和にくらべて大柄で、豪放な性格だった。呉仲和は、弟が踊りや歌や詩の朗誦が上手だといった。

    われわれは夜分に船に乗って静かに豆満江を渡った。呉仲成は威勢よく櫓をこいだ。暗がりに沈んでいる山野を眺めると、五年ぶりに祖国の地を踏む感激で胸が熱くなった。

    わたしは南陽上灘で船を降り、呉仲和に、国の独立をなしとげてこの川を渡ればどんなにすばらしいだろうかといった。呉仲和はうなずいて、自分も豆満江を渡るときはいつもそうした感情にとらわれるといった。

    南陽上灘村をすぎ、南陽山に通ずる峠道にさしかかったわれわれは、呉仲成が準備した草屋に入って、穏城地区革命組織の活動状況と大衆の動向について説明を聞いた。

    穏城の人たちは、大衆組織を結成するうえでかなりの成果をおさめていた。

    わたしは一週間、国内地下革命組織の活動を指導した。その過程で、穏城地区の革命家は国内各地に多くの組織を結成したが、その組織を拡大発展させるうえではきわめて消極的であることを知った。

    この一帯では、把握ずみの何人かの精粋分子で組織を結成したあと、門戸を閉ざして隊伍を拡大しないのが普遍的な現象となっていた。そのために組織は広範な大衆のあいだに深く根をおろしていなかった。

    一九二九年の春、朝鮮共産主義青年同盟の傘下組織として結成された穏城共青も、数人のメンバーだけで垣根を高く張りめぐらし、大衆のなかに入ろうとしなかった。地方会、振興会、新幹会、党再建派など、さまざまな団体と派閥が青年たちを引き入れようと競い合っているので、悪い影響が組織におよぶのを防ごうと現状維持にあくせくしていたのである。

    わたしが豊利で会ったある共青活動家は、敵の策動が激化するので、人びとが自分たちと腹を割って話そうとしないといい、またある共青活動家は、青年同盟や新幹会に関係した青年をどう扱ってよいかわからないと訴えた。豊仁洞農民協会の責任者だった全長元は、区長や面長、巡査を勤めている親戚が多いので、彼らを通して敵の魔手が革命隊伍のなかにのびるのではないかとひそかに神経をとがらせ、近い親戚であっても敵の統治機関で働いている人には心を許さなかった。

    これはいずれも、大衆を信じていないことのあらわれであった。

    こうした弊害をなくさずには、穏城地区で新たな情勢の要請に合わせて革命を発展させることができなかった。

    革命家の一生は大衆のなかに入ることからはじまり、革命の失敗は人民大衆の力を信じず、人民大衆のなかに入らないことからはじまるといえる。

    わたしは呉仲成にこう言い聞かせた。

    出身階級の好ましい人だけでは革命ができない。大衆を大胆に信じ、彼らに組織の門戸を広く開かなければならない。さまざまな看板の青年団体がそれぞれ青年を誘いこんでいるこんなときほど、共青組織は受け身にならず、積極的に攻勢をかけて多くの青年を獲得しなければならない。青年同盟や新幹会などの組織に関与した青年や党再建派に追従したり、心ならずも利用されている青年も正しく導いて、一人ひとりかちとっていかなければならない…

    わたしは全長元同志にも、敵の機関に勤めている人たちとどのように活動すべきかという戦術的原則を教えた。

    革命家は家門に区長や面長、巡査がいるからといって驚いたり、萎縮してはいけない。君はむしろそうした親戚関係を利用して敵の統治機関にくいこみ、日帝の末端支配機構を麻痺させ、大々的に活動するように心がけなければならない。穏城をはじめ六邑一帯を武装闘争の戦略的拠点につくり変えるには、大衆を革命化すると同時に、敵の統治機関に勤める人たちを大胆に味方に引き入れなければならない。彼らをかちとる活動で経験を積んでみるのだ。

    穏城でもっとも忘れられないのは、金俊や呉仲和、呉仲成同志と連れ立って美浦面月坡洞鉄道敷設工事場に行き、労働者たちに会ったことである。

    日帝は一九二九年の初めから豆満江沿線で鉄道敷設工事をおし進めた。三南地方をはじめ国内各地と間島から千余人の人夫が集まってきて、月坡村に開風通りというたてこんだ住民地区を形成した。吉会線鉄道敷設工事場で働いていた人夫たちもやってきて、生活の糧を稼ごうと苦役に従事していた。

    以前吉林にいたとき、そのことを知ったわたしは、金俊に月坡洞で鉄道敷設工事がおこなわれていたら、労働者のなかに入って組織を結成するようにといったことがあった。

    彼もやりがいのある仕事だといって、好奇心をかくせなかった。その後、彼はわたしと約束したとおり、穏城におもむいて月坡洞に労働青年会と反帝青年同盟を組織した。

    わたしが鉄道敷設工事場に行くというと、穏城の同志たちは敵の警戒がきびしいから、それだけは思いとどまるようにといった。

    彼らは「コミンテルンの派遣員が来た」とふれこんでわたしの身辺保護に気を配っていた。

    彼らがわたしに「コミンテルン派遣員」という肩書きまでつけて抜かりなく護衛してくれたのは、国内で革命家にたいする日本警察の監視と警戒がとりわけきびしかったからである。

    もちろんわたしも朝鮮国内ではすべてに気をつけ、警戒心を高めなければならないことは承知していた。しかし、わたしは労働者のなかに入って、すぐには大きな活動ができないまでも、彼らの手を取って激励の言葉でもかけてやりたかった。それまでわたしが青年学生のあいだで活動をおこなったのはすべて、労働者階級のなかに入る橋を渡すためだった。わたしの終局の目的は、労働者階級をおしたてて朝鮮革命を開拓し、完成することにあった。労働者階級の解放を綱領としてうちだし、そのためには生命をささげることもためらわないと誓ったその日から、われわれは朝鮮の労働者階級に熱い思いをよせてきたのである。

    わたしは工事場で一日半、労働者たちと一緒に車から砂利を下ろしたり砂を運んだり、飯場で食事をしてみたりした。金俊はわたしを、延吉からアルバイトに来た学生だと紹介した。

    わたしはいまでも、あのとき労働者のなかに入ったのがたいへん有益だったと思っている。飯場や工事場で見たのは、わずかな賃金を稼ごうとあくせくする労働者の悲惨な群像だけではなかった。わたしはそこで、闘争を渇望する労働者たち、自分の運命を守り、切り開いていくための正しい道を模索している労働者を見たのである。

    その姿を見て、わたしは強い衝撃をうけた。わたしの胸は、労働者階級の幸せのために生涯をささげたいという熱望に燃えた。

    わたしは鉄道敷設工事場で、穏城出身で後日の抗日闘士、崔春国、崔鳳松同志ともはじめて会った。

    崔春国は宿所にわたしを案内したとき、自分が発破工をしているあいだに、ひそかに火薬を集めておいたが、工事の竣工日にそれでトンネルを爆破するつもりだといった。

    わたしは彼に、現状ではトンネルを爆破するような冒険をするよりも、組織をしっかりかため、労働者を意識化、組織化することのほうがもっと重要だ、火薬はとっておいて、この先武装闘争をするときに大事に使おうといった。

    わたしは労働者たちとすごしながら多くの話を交わした。

    わたしは彼らに、武装闘争や党創立、反日民族統一戦線の問題についても語った。国内に来て労働者に倫会議の趣旨をしっかり認識させるだけでも大きな成果だった。一人にいったことが十人に伝わり、それがまた百人、千人と口伝えに伝わって万人の耳に入り、ひいてはわれわれの思想が国内人民の信念となり、旗じるしになるであろうことは疑う余地がなかった。

    われわれの路線を知った鉄道工事場の労働者たちは、それを積極的に支持した。

    彼らはわれわれの路線から自信を得たようだったが、わたしはその路線を知って喜ぶ彼らの姿から自信を得た。

    穏城でおさめた最大の成果は、一九三〇年十月一日、頭婁峰で党組織を結成したことであった。

    穏城の革命組織を見てまわるなかで、わたしはこの一帯の革命家が戦略的問題の理解でいくつかの誤りを犯し、大衆との活動で小心になっているが、彼らの闘争の覚悟や準備程度は予想よりはるかに高いことを知り、穏城地区に党組織を結成できる基礎があるという結論を得た。

    会議に参加する穏城地区の革命家たちはそろって木こりの身なりをして頭婁峰に集まった。全長元は月坡洞の組織責任者に頼んで、会場近くに牛橇を引いてきておいた。

    われわれは月坡川をひかえた頭婁峰の奥まった空き地で、国内の党組織を結成する集会を開いた。

    わたしはまず参会者に、倫で採択された路線を知らせ、その路線を実行するうえでの第一義的な課題は革命的な党を建設することであると指摘し、穏城地区に新しい型の党組織を結成する趣旨を説明した。そして組織生活と実践を通して点検された優秀な先進分子で党の隊伍をたえず拡大強化し、大衆を反日闘争に奮い立たせる穏城地区党組織の課題を示した。

    わたしの提議によって、呉仲成、全長元、全昌竜、崔春国、崔鳳松、崔根柱同志らが穏城地区の党組織に加入した。党組織の責任者には呉仲成同志が選挙された。

    党員の栄誉をになった同志たちは、つぎつぎに立ち上がって自分の経歴を紹介し、手短に決意を披瀝した。

    彼らが述べた決意はほとんど覚えていないが、全長元が述べた決意は、いまもわたしの記憶に生き生きと残っている。

    全長元は、自分のように家庭の階級的成分が複雑な人間を党に受け入れてくれたことを死んでも忘れない、革命のために必要とあれば骨も肉も肝もすべてささげると誓った。そして、もし自分がこの誓いを破る愚劣な人間になりさがったら、この身を八つ裂きにして川に投げ捨ててくれといった。過激ながらも飾り気のない発言だったが、自分の気持を素直に述べたものである。

    全長元は後日、その決意通り穏城地区を半遊撃区につくりあげ、朝鮮人民革命軍を援護するうえで大きな功を立てた。

    秘密を守るために、集会で討議された内容はいっさい記録に残さなかった。会議では創立宣言文や趣旨書なども採択していない。

    集会に参加した穏城の人たちは、党組織を結成する歴史的な会合であるにもかかわらず、簡素で格式をととのえないのがもの足りない、衡平社のような賤民の組織でも発起趣旨文を発表して配布するのに、簡単な決意を述べるだけで会議を終えたのがひじょうにもの足りないといった。

    わたしは、諸君がいましがた述べた誓いは数百ぺージの宣言文や趣旨書よりも実質的だ、文書ばかりつくっても用をなさない、うわさを立て、名を出すのが党組織だと考えてはいけない、うわさは立てずに多くの仕事をするのが党員なのだから、諸君は実践闘争を通して党性と愛国心を発揮しなければならない、と励ました。

    穏城地区における党組織の結成は、国内に党建設の基礎を構築する突破口となり、国内人民の反日闘争をおし進めるうえで重要な転機となった。

    穏城地区党組織の活動によって、六邑一帯では大衆の意識化、組織化の過程がすみやかに進み、反日闘争がもりあがった。

    大衆がわれわれに従い、革命が新たな様相をおびてもりあがったので、この一帯で自派の勢力を広げようと努めた崔昌益も、故郷を離れてソウルヘ行ってしまった。解放後、彼は当時のことをわたしに率直に告白した。「穏城が故郷だったので、そこにM・L派が入りこんでいるだろうと思ったが、実際に行ってみると、われわれの勢力はなく吉林の風が吹いていました。その風がなんとも激しく、金日成同志の人たちにすっかり牛耳られていたのです。それで金日成同志を年配者だと思ったのですが、人の話ではそうでなく、二十代の青年で、なかなか手ごわいというではありませんか。それで訪ねていこうと思ったのですが、やめました」といった。

    崔昌益が穏城を去ってソウルへ行ったのは、われわれが分派をきらい、自分たちのように分派活動をする者とは妥協しないことを知っていたからである。

    わたしは党組織の結成後、そこで六邑一帯など各地の工作員と地下革命組織責任者の会議を指導し、そのあと帰路についた。於汀渡し場で渡し船に乗り川を渡ったが、帰りは行くときより心が軽かった。仕事が思い通りに運んだので、天にも昇るような気持だった。死線を乗り越え冒険をしながら祖国を訪ねたかいがあった。

    祖国ですごした一週間は、われわれが倫で示した革命路線が全人民の支持をうける正しい路線であることを実証する重要な契機となった。それは、祖国の人民からわれわれの路線を判定してもらったようなものだった。

    それ以来、穏城の人たちは変わりなくわれわれと運命をともにした。

    豆満江を無事に渡ったわたしは、呉仲和の案内で対岸の涼水泉子から長洞をへて延吉県朝陽川に着いた。朝陽川は竜井とともに、延吉地方でわれわれの影響がもっとも大きくおよんでいる土地であった。

    朝陽川では間島地区党および共青書記処のメンバーである馬得漢と羅一同志が活動していた。後日、朝鮮人民革命軍党委員会委員として活躍した林春秋も、この村で「逢春堂薬房医師林春逢」の看板を出して革命活動をおこなっていた。

    彼は延吉に来る前、学生事件で検挙されたことがあった。彼は東医師を勤めながら間島地区党および共青書記処と各県のあいだの連絡任務を遂行していた。

    わたしは朝陽川ではじめて林春秋同志に会った。若くして東医術を修得した彼は印象的だった。抗日武装闘争の全期間、遊撃隊員は大いに彼の東医術の世話になった。

    五・三〇暴動と八・一暴動は、延吉の革命組織にも多くの被害をおよぼした。そこは敦化よりも敵のテロがはげしかった。革命運動にたずさわった人は萎縮し、動揺していたし、自覚の足りない大衆は「共産党のために破滅する」と騒ぎ立てた。

    わたしは馬得漢、羅一、林春秋など党と共青の指導的幹部らと、極左冒険主義的策動の後遺症をすみやかに取り除き、革命闘争を拡大強化する問題を討議した。

    わたしが穏城から五家子に直行せず涼水泉子をへてわざわざ朝陽川に立ち寄ったのは、この一帯が今後われわれの武装闘争の舞台になると見たからである。

    わたしとしては、武装闘争にそなえて穏城や汪清、延吉で大衆的基盤をきずく基礎作業をしたわけである。

    その後、われわれが予想したように、この一帯は抗日戦争のもっとも有力な根拠地となった。

    

    

    

    

      9 「理想村」を革命村に

    

    

    ひところわが国の独立運動家は、「理想村」建設の構想を実現するためにいろいろと苦心した。

    「理想村」といえば誰でも、搾取も抑圧も不平等もなく、万人がひとしく自由に、そして幸せに暮らす世界(村)を連想するであろう。昔から朝鮮民族はそうしたユートピアのような世界を夢みてきた。

    民族主義者の「理想村」建設の主張は、万民が豊かにむつまじく、平和に暮らしたいという先祖の志向と念願を反映したものだといえよう。

    「理想村」建設を主張し、その実現をめざして多くの力を傾けた主要人物は安昌浩である。「韓日併合」条約の公布直後、安昌浩、李東輝、申采浩、柳東悦らは中国の青島で会合し、そこで安昌浩がもちだしたのが「理想村」建設の青写真であった。慎重な討議の末、独立運動の指導者たちはアメリカ人が経営していた大同実業会社(密山県)の土地を買い取って開墾し、武官学校を設けて独立軍を養成することにした。このような「理想村」をつくって、そこから資金を捻出し、人材も養成して、独立運動の物的・人的・財政的基礎をきずこうというのであった。

    この計画が流産したあとも、安昌浩は多年間、「理想村」建設の資金を工面し、適当な候補地を物色するために苦労した。彼が「理想村」建設に心血をそそいだのは、「実力養成論」を物質的に支える独立運動の基地が必要だと見たからである。

    「理想村」建設の試みは、当時の独立運動で一つの風潮となっていたようである。荒れ地を開拓して農場をつくり、武官学校を建てて実力養成の素朴な夢を実現しようと企てた民族主義者は少なくなかった。

    遼河村もそうした風潮の産物であった。

    遼河村をはじめて開拓したのは南満州地方で活動した民族主義者たちである。宋碩潭、辺大愚(辺昌根)、金海山、郭尚夏、文尚穆など南満州における民族主義勢力の一部の人が西部に向かって放浪の末、遼河のほとりで旅装をといた。彼らは朝鮮の理想村を建設するというふれこみで、ここに三〇〇余戸の同胞を移住させ、外界とは交渉を断って別天地を建設しはじめた。先にあげた5世帯が草分けだという意味で、彼らが定着した土地に五家子という地名をつけた。

    そのころ吉林の文光中学校に通っていた者のなかに、孤楡樹と五家子地方の青年が何人かいたが、彼らはしきりに五家子の自慢をした。

    それで、わたしは五家子に関心をいだき、その村を革命村に改造しようと思い立ったのである。

    わたしが東満州から五家子へ行ったのは、一九三〇年十月のことだった。元来、わたしは武装闘争準備と関連して、規模の大きい会議を東満州で開くつもりだった。しかし当時の情勢から見て、そこで会議を開くのは合理的でなかったので五家子に会場を移すことにした。わたしは何か月か五家子にじっくり腰をすえて会議の準備をしながら、村の革命化をおし進めようと決心した。そこはうわさにたがわず風習もよく、人情も厚かった。

    その一帯は風が強いので屋根に瓦をふかずに粘土を塗っていた。塩分を含んだ粘土を塗れば雨が漏らないからである。五家子の人たちは塀も土で格好よく築いた。粘土を槌でたたき、石のように固くなると適

    当な規格に切って塀を積み上げるのだが、こういう方法でつくった土ブロックは弾丸も跳ね返す、と地元の農民はうけあった。

    五家子を開拓した有志たちは、自分の理念や主義主張と合わない毛色の変わった思想潮流が村に入るのを決して許さなかった。

    彼らは農民と心を合わせて沼地を田につくりかえ、村に学校を建てた。また農友会や青年会、少年学友会などの大衆組織をつくり、村公会という自治機関を組織した。そして日本が「韓日併合」を宣布した八月二十九日がめぐってくると、村の住民を集めて『国恥日歌』をうたった。日本軍と中国反動軍閥の触手がそれほどおよんでいない自分たちの土地を「天国」とみなしたのは、決して不思議なことでなかった。

    五家子の住民の大半は平安道と慶尚道の出身だった。慶尚道出身の人たちは南満青総系のM・L派の影響下にあり、平安道出身の人は主に正義府の影響をうけていた。

    わたしは平安道出身だったので、五家子へ行っても倫でのように主に慶尚道出身の人の家に泊まった。そうしなければ慶尚道出身の人たちが神経をとがらせるおそれがあった。

    われわれは倫にいたころ、朝鮮革命軍の隊員を何人か工作員として派遣したことがあったが、彼らは五家子で思うように活動することができなかった。頑固なうえ地盤の確かな村の有志を説得できなかったのである。

    わたしは同志の紹介で、その年の冬を当地ですごした。一、二週間でもなく何か月も一か所に滞在したのは、それだけ五家子を重視したからである。

    われわれは五家子を、中部満州一帯における民族主義勢力の最後のとりでと見ていた。ここで着実に活動して五家子を農村革命化のモデルに仕上げれば、その経験を生かして、満州全域と朝鮮北部国境一帯で農村をわれわれの影響下におくことが可能であった。

    われわれが革命の基本的原動力を労働者や農民、勤労インテリと見、わけても農民の革命化に多くの力をそそいだのは、わが国の階級構成において農民のしめる位置と関連していた。農民は朝鮮の人口の八〇%以上をしめていた。間島地方も同様で、人口の八〇%以上が朝鮮人で、そのうちのおよそ九〇%は農民であった。軍閥の迫害と地主や高利貸しの過酷な収奪のために、彼らは極度の貧困と無権利にあえぎ、地代を通した搾取のほかにも奴婢や奴隷に加えられるような経済外的搾取に苦しんだ。

    国内農民の境遇も大同小異であった。それは農民大衆が労働者階級とともに革命をもっとも切実に求める階級であり、わが国の革命では農民が労働者とともに主力軍にならなければならないということを示していた。

    農村の革命化は、抗日武装闘争の大衆的基盤をきずく活動で真っ先に解決すべきカギといえた。

    工作員の活動によって、青年のあいだでわれわれを支持する気運が急速に高まると、五家子の有志たちはキセルを振りまわしながら、近頃の若い者がよからぬ風潮に染まり出した、遼河原に社会主義を引き入れるならず者は向こうずねをへし折ってやる、と青年たちをおどした。間島も共産党のせいで滅びたのに、その狂風が五家子に吹きこんだら遼河の農村も無事ではない、という有志もいた。

    軽はずみなことをしては、有志のキセルにうたれるおそれがあった。

    青年のあいだに動揺が起きた。共産主義の行進曲に歩調を合わせたかったが、年寄りの逆鱗に触れてはと、引っ込み思案になった。しかし、筋を通す青年は有志にたてついた。

    わたしは工作員の報告を聞いて、五家子革命化の先決条件はなによりも有志を説得することだと判断した。有志たちの頭を切り換えなければ五家子を「理想村」建設の幻想から目覚めさせることも、遼河の農村を中部満州のモデル農村につくり変えようというわれわれの構想も実現することはできない。有志さえ心をひるがえすようになれば、あとの人たちはわれわれの活動いかんにかかっていた。

    ところが、工作員は三か月ものあいだ彼らに近づくことができず、周辺をぐるぐるまわっていた。五家子の有志たちはそれほど手ごわい人たちだった。彼らは独立運動の戦績に加えて、学識があり理論の立つ年寄りたちで、並大抵の手腕では彼らに言葉すらかけられなかった。そのような有志の集団が村を牛耳っていたのである。

    村公会を陰であやつり、村の大小のことを監察していたのは辺大愚という老人だった。彼は村の実権者で有志を操っていた。村では彼を「辺トロツキー」老と呼んだ。そのあだ名は彼がトロツキーの話を好んでしたことに由来している。

    辺老は早くから独立運動のため国内と満州各地を歩いた。初期には故郷の漢川(平安南道)と慈城、道清溝(臨江県)などに学校を建てて、教育事業にたずさわった。彼が武装活動に関与したのは一九一八年、臨江の帽児山に根拠地のあった独立軍部隊に入隊したときからだった。当時、彼はわたしの父と連係をつけようと、臨江のわたしの家にしばしば出入りした。辺老が来られないときは外伯父の康晋錫が彼と父との連係をとった。

    大韓独立団宣伝部長、民族独立軍副総裁、光復軍軍法部長兼第1営長、統義府実業部長などを歴任し、独立軍運動をもりたてようと東奔西走した彼は、一九二六年に軍職からしりぞき、「理想村」づくりに乗り出した。

    彼は一時、共産主義運動をするのだといってソ連の極東地方にも出入りした。彼は高麗共産党に関与したときにもらったという青表紙の党員証を持っていた。

    辺大愚老の心をひるがえさせなくては、頑固な有志集団を引きつけることも、村を革命化することもおぼつかなかった。

    わたしが五家子に来たと聞いて、農友会の責任者であった辺老の息子辺達煥が訪ねてきた。彼はわたしに、民族主義者を押しのけて五家子を「理想村」から革命村に改造しようとしても、自分の父親や村の有志に妨げられてなにもやれないとこぼし、金先生が来たから、あの頑迷な邪魔者の年寄りたちを打倒しようといった。

    わたしはあきれて辺達煥にたずねた。

    「打倒ですって? それはどうしようというのです」

    彼の返答がふるっていた。

    「年寄りたちがなにをいおうと取り合わずに、わたしたちだけで組織をつくり、別の釜の飯を食いながら五家子を社会主義村にしようというのです」

    「それはいけません。そんなことをしては五家子が二つに割れてしまう。それはわれわれの路線とも合いません」

    「じゃ、どうすればいいのです。五家子をあの古くさい年寄りたちにまかせることもできないし…」

    「要は有志たちが、われわれを支持するように仕向けることです。会長先生のお父さんと話し合ってみようと思うのですが、どうでしょうか」

    辺達煥は、誰が会っても無駄だといった。それまで国民府や上海臨時政府、M・L系の共産党再建委員会の人物などが来て、五家子に足がかりをつくろうと努力したが、みな父親に冷たくあしらわれて引きあげた、普通の人には会ってもやらず、たとえ名のある民族主義の巨頭でも、訓戒を垂れて追い返してしまった、というのである。

    「会長先生のお父さんはわたしの父とよしみがあり、また会長先生とわたしも顔見知りなのですから面識のない人よりはそれでもましではないでしょうか」というと、辺達煥は、あの一徹な父親には縁故関係も役に立たない、といって困りきった顔をした。彼は十年前わたしの父にあてた辺老の手紙をもって臨江に来たことがあった。

    わたしは村の有志のたまり場になっている辺達煥の家で何日も「辺トロツキー」老と語り合った。

    初日は主に辺大愚老が話した。あぐらをかいてしきりに雁首を灰皿にたたき、いかにも人を見下ろすような態度だった。金先生の息子が来てうれしいといいながらも、わたしを子ども扱いにした。二言めには「おまえたち」「おまえたち」といって訓示を垂れた。男らしい容貌で性格が激しやすく、理論水準も高かったので、最初から威圧感を覚えさせるものがあった。

    それでわたしは、辺老がわたしの年を聞いたとき、五つ増やして23だと答えた。十八だといえばまったく子ども扱いをされるかも知れなかった。わたしは年よりは老けて見えるので、二十三といっても通ったのである。わたしはほかでも年を聞かれると、二十三だとか二十四だとかと答えていた。そうしたほうが有志たちや青年たち相手の活動に有利だった。

    わたしは辺老が理屈に合わないことをいっても、反駁したり、話の腰を折ったりせずに、最後まで礼儀正しく聞いた。

    老人は、近頃の若い者はこちらのいうことは十のうち一つも聞こうとせず、封建的だのなんだのといってけちをつけたがるが、成柱とは話がいがあるといった。

    ある日、辺老はわたしを夕食に招いた。金亨稷先生のご存命中は、臨江でたびたび供応にあずかったが、きょうは粗末なものだが食事を用意した、というのだった。

    そして、しばらく話しこんでいた老人が、だしぬけにこんな質問をした。

    「おまえたちは、わしらの理想村をひっくりかえしに来たというが、ほんとうかな」

    父親が共産主義者をいちばん警戒しているといった辺達煥の言葉はあたっていた。

    「理想村をひっくりかえすなんてとんでもないことです。お力添えはできないまでも、ご老人方が苦労して築かれた理想村をひっくりかえすなんて、誰にそんなことができましょうか。わたしたちにはそんな力もありません」

    「ふむ、そうか。ところがうちの達煥など五家子の若いもんは、しょっちゅう理想村がどうのこうのといって年寄りを引き下がらせ、この村に赤旗をひるがえすのだと力んでいる。人のうわさでは、五家子で青年を指導しているのは成柱じゃそうだから、ひとつ聞くが、吉林の青年もあいつらみたいに理想村が気に入らないのかな。ひとつ、わしらの理想村をどう思っとるか率直にいってみてくれ」

    「わたしは理想村を悪いとは思いません。異国に追われてきてさすらっている朝鮮同胞を集めて、むつまじく豊かに暮らそうとしてつくったのが理想村だと思いますが、それをどうして悪いといえましょうか。荒れ果てた遼河の沼地に、これだけの朝鮮村をつくったのはまったくすばらしいことです。ご老人方はこの村をつくるためにずいぶん苦労なさったことでしょう」

    辺老は満足して口ひげをひねった。言葉づかいも「おまえ」から「君」に変わった。

    「うん、もっともだ。君もいまにわかるだろうが、わしらの村には警察も牢獄も官庁もない。村公会という自治機関を通して朝鮮人同士が万事、民主的にやっておる。こんな理想的な村がまたとあるかね」

    わたしは「理想村」にたいするわれわれの観点と立場を明らかにする好機だと思った。

    「ご老人、自治機関を設けて民主的な方法で朝鮮人の生活上の便宜をはかる村をおつくりになったのは、ほんとうに愛国的だと思います。しかし、理想村をつくるというやり方で国の独立がとげられるでしようか」

    あぐらをかいて雁首をしきりにたたき、威厳をつくろっていた老人がふいに黙りこんで、眉をひくひくさせていたが、やがて大きく溜息をついた。

    「独立はできん。確かに君はわしの痛いところを突いた。理想村はつくったが独立運動の役には立たん。それでわしも悩んどる。理想村をつくって国の独立がなるなら願ったりかなったりじゃがな」

    わたしはときを逸せず「理想村」の建設が幻想にすぎないことを説いた。国を奪われた民族が異国に「理想村」を建設するのは不可能だ、老人方の努力で五家子がよその朝鮮人部落にくらべて暮らしよい村になったのは確かだが、だからといって朝鮮人の理想が実現したとはいえない、朝鮮民族の理想は、日本人も地主も資本家もいない独立した祖国で、搾取と抑圧をうけずに生きることだ、ところが地主の借金を背負っていては理想的に暮らしているといえようか、日本人が満州に攻めてくれば五家子も無事ではなかろう、日帝が満州を攻めとるのは時間の問題だ、日本人は朝鮮民族が理想的に暮らすのを望んでいない、と説いた。

    「だから理想村なんかやめてしまえというのかね」

    辺老はいらだたしそうに返事を促した。

    「この村を現状維持に満足してひっそりと暮らす村ではなく、祖国の解放のためにたたかう村に、革命をおこなう村に改造したいと思うのです」

    「それじゃ、五家子に社会主義を広めたいというのじゃな。それはいかん。わしは社会主義が大きらいじゃ。己未年(一九一九年)の夏、君のお父さんが寛甸で共産主義運動へと方向を転換すべきだと主張したとき、わしらはそれを支持した。ところがその後、高麗共産党に入ってみると、共産主義者というのは、どいつもこいつも分派活動に熱をあげている、気違いみたいな奴らじゃった。それからはもう共産主義と聞くだけで虫酸が走るのじゃ」

    辺大愚老が高麗共産党からもらった青表紙の党員証を出してみせたのは、このときだった。

    「成柱がいくら革命をやると力んでいても、こんな党員証は持っておらんじゃろう」

    こういって、老人はひそかにわたしの顔色をうかがった。

    党員証を広げて見たわたしは、それをいきなりふところにしまった。老人はあっけにとられて、わたしを見守った。

    「分派活動がこうじて解散した高麗共産党の党員証ですから、じっくり見たいのです」

    党員証を返せというかと思ったが、老人はなんともいわなかった。

    彼は、君たちは五家子を革命村につくり変えたいといっているが、そんな方略があったら聞かせてもらおうといった。

    わたしは、江東、新安屯、内島山、倫、孤楡樹などの村を革命化した経験を長時間話した。老人はそれに注意深く耳を傾けた。

    彼はわたしが話し終えると、「君たちの話を聞いてみるとスターリン主義者らしいが、わしは反対せん。だがスターリンばかりもちあげちゃいかん。トロツキーの主張にも一理がある」といってトロツキーの理論を説きはじめた。

    だからといって、彼がマルクス・レーニン主義に反対しているようではなかった。

    彼がトロツキーにかなりひかれていることはよくわかった。わたしはそれまで共産主義理論に通暁しているという人に少なからず会ったが、彼のようにトロツキーを擁護する人に会うのははじめてだった。

    わたしはそれが不審で、辺老にたずねた。

    「どうしてトロツキーをそれほどあがめるのですか」

    「いや、わしはトロツキーをあがめとらん。近頃の若い者がむやみに大国の人間をあがめるのが気に入らんので、そういったまでじゃ。トロツキーやスターリンがなんじゃ。いまの若い者はなにかというとすぐ、大国の人間の命題を引き合いに出し、ああだこうだといっとるが、なにも感心することはない。スターリンの命題がどうの、トロツキーの主張がどうのというのはロシア人がいうべきことで、朝鮮人は朝鮮の魂をもって自分の国の革命をりっぱにすることを話すべきじゃないか」

    老人の言葉には一理があった。数日間「辺トロツキー」老と語り合っているうちに、わたしは彼が平凡な年寄りではないことを知った。

    わたしは最初、彼がトロツキー派ではないかと思ったが、実際はトロツキー派などではなく、派閥争いを嫌悪して青年に警鐘を打ち鳴らしているのだと判断した。おまえたちは無分別に他人に追従してはいけない、どうしてロシアがどうの、スターリンがどうのと他国のことばかり口にするのだ、なんでもロシアの真似をせねばならんという理由はない。老人がわれわれにいいたかったのはこれだった。要するに自分の信念をもって生きろということである。

    「わしは若い人のやることには于渉せん。わしの息子のやることにも、とやかくいうつもりはない。達煥がなにをしようと、それは勝手じゃ。だが、若い者が自分の魂を持たず、他人の命題をやみくもに暗唱して知ったかぶりをするのは、ほっとかんつもりじゃ」

    わたしは老人の話を聞いて、分派主義や事大主義、教条主義に一貫して反対してきたわれわれの立場が正しく、自分の力を信じ、自国人民の力で革命闘争をおこなうべきだというわれわれの見解が正しかったことをいま一度確信した。

    つぎの日は、辺大愚よりも主にわたしが話をした。わたしは倫会議で採択したわれわれの路線についてくわしく説明した。新しい型の党と軍隊を組織し、思想、信教、財産の程度、老若男女の違いを越え、各階層の人びとが参加する反日民族統一戦線を形成し、二千万の抗戦によって国を取りもどすべきだというわたしの主張に、老人は強い衝撃をうけたようである。彼はとくに、反日民族統一戦線を結成しようというわれわれの意向に諸手をあげて賛成した。

    辺老は妻に先立たれ、息子の達煥はまだ妻帯していなかった。家事は娘が取り仕切っていたが、家のすみずみにただよううらさびしい空気はぬぐいようがなかった。

    わたしは同志たちにはかって花嫁を物色し、五家子近くの農村に住む沈という娘と辺達煥の縁談をまとめた。そして同志たちの世話で婚礼もした。未婚者が年長者の媒酌をするのはさしでがましく、気おくれもしたが、婚儀をとどこおりなくすませると、村人たちも自分のことのように喜び、口をきわめてわれわれをほめた。

    そんなことがあってから、村の有志たちはわれわれをいっそう信頼するようになった。

    ある日、辺達煥はわたしのところへやってきて、父親の様子を知らせてくれた。父は村の有志たちに「わしらに代わって理想村の世話をする主人があらわれた。成柱がその主人だ。彼らのやり方が社会主義だとすれば、わしらも安心して受け入れられる。成柱を若いとばかり思ってはいけない。わしらは年をとり、時代に立ち後れた骨董品だから、若い者たちに五家子をそっくりまかせて、せいぜい成柱のやることを助けることだ」といったという。ほかの有志もわれわれの主張が正しいと認めて感嘆したらしい。

    彼の話を聞いて、わたしは辺老を訪ねた。

    「高麗共産党の党員証をお返しに参りました」というと、彼は党員証には目もくれず、そんなつまらぬものはいらないといった。

    いらないといわれたので返すわけにはいかず、だからといって捨てるわけにもいかないので困ってしまった。その後何日か、党員証は同志たちの手から手に渡った。

    祖国が解放された翌年の一九四六年に平壌に来た辺大愚老にそのことを話すと、彼は苦笑して感慨にひたった。彼は北朝鮮全体が一つの理想村、理想天国となったのを見た、いまはもう死んでも思い残すことがないといって、五家子でわれわれが会ったときのことを回顧した。それは彼が六十七歳のときだった。わたしと会ったその年、彼は吉林省伊通県で死去したが、わたしはその悲報をずっとあとになって聞いた。

    辺老の息子辺達煥は、五家子で農民同盟の責任者として活躍した。彼はわれわれの指導のもとに反日闘争をした「罪」で一九三一年から数年間、新義州刑務所で服役した。

    五家子の革命化の突破口はこうして開かれた。それ以来、有志たちは村に来ている朝鮮革命軍の工作員をそれまでとは違った目で見るようになり、競って料理をつくって招待したものである。

    わたしは五家子を革命化するとき、中国人と手を握るためにも多くの努力を傾けた。中国人の有志を味方にできなければ、われわれは中部満州地方に安心して足がかりをつくることができなかった。それで、われわれはそれがたとえ地主であっても、可能性があればためらいなく包容し利用した。

    当時、五家子の近くに趙家鳳という地主がいた。彼は土地問題で他の地主と争ったあげく、訴訟を起こす決心をした。

    ところが、趙家鳳は訴状が書けないのでやきもきしていた。地主の息子が都市の中学校を卒業したが、訴状は書けなかった。中学校でしっかり勉強しなかったようである。

    趙家鳳は五家子で漢方医をしている金海山に、訴状を書ける人を紹介してほしいと頼んだ。

    ある日、金海山がわたしを訪ねてきて、訴状が書けるかと聞いた。

    わたしが地下革命活動をしていたころ、中国では一般住民と学生の便宜をはかって、手紙や祭文、訴状などの書き方を解説した参考書が出版されていた。

    金海山にともなわれて趙家鳳の家へ行くと、地主は中華料理をふるまい、土地の件で訴訟を起こすことにしたいきさつをながながと話した。

    わたしは中国語の訴状を書いてやり、県都にも出かけて、彼が裁判で勝てるよう知恵を貸してやった。彼はその訴状のおかげで裁判で勝つことができた。もし敗訴していたら、数十ヘクタールの土地を失ったに違いない。

    それ以来、趙家鳳は、金先生が共産党だというのは真っ赤なうそだ、金先生は共産党ではなくてよい人だ、金先生の援助がなかったら敗訴しただろうといい、わたしを積極的に擁護した。彼は、祝祭日には欠かさずわたしを招待してご馳走してくれた。

    わたしは彼の家庭を訪れるたびに、その家を訪ねる多くの中国人有志と近づき、彼らに反帝宣伝をした。

    それ以来、わたしは五家子で革命活動を公然とできるようになり、朝鮮人学校の運営も合法化され、この一帯でわれわれの革命闘争の基礎がかためられていった。

    われわれは村の有志をかちとったあと、大衆団体を革命的につくり変える活動に取り組んだ。

    まず青年会を反帝青年同盟に改編した。青年会ももとは民族主義の影響下にあった。朝鮮革命軍グループが五家子に入りこんでから青年会の中核分子は多少目を開いたが、まだすべての面で民族主義の名残を一掃してはいなかった。まず闘争目的と課題が明確にされていなかった。会員は少なく、活動方法も正しく立てられてはいない。看板ばかりでなんの動きも見られない有名無実の組織で、青年大衆を結束する活動はほとんどなされていなかったのである。

    五家子地区は四キロ、八キロ、遠いところは二十四キロも離れた村から成り立っていたが、青年会はどの村にも支部を置いていなかった。こうした実情では青年組織が大衆のなかに根をおろせず、青年大衆を動かすことができなかった。

    青年会をただちに反帝青年同盟に改編すべきだと主張する者もいたが、多くの青年がまだ民族主義者の影響下にあり、青年会に期待をかけている実情では、彼らの政治的・思想的準備程度を考慮しないで既成組織を新しい組織に改編するのは無理だった。

    朝鮮革命軍隊員は青年会の幹部と一緒に各村落に出向き、反帝青年同盟を結成する教宣活動をおこなった。こうして、おのずとわれわれの革命路線が青年大衆のなかに入りこんだ。わたしも、毎日青年たちと語り合った。

    そのような準備段階をへて、われわれは三星学校の教室で五家子反帝青年同盟を結成した。同盟は各村落に支部を置いた。同盟委員長には崔一泉、組織部長には文朝陽が選挙された。

    その後、農友会が農民同盟に変わり、少年学友会は少年探検隊に、南満女子教育連合会五家子支部は婦女会にそれぞれ改編されて、五家子大衆団体の活動には新たな転換がもたらされるようになった。

    改編後、各組織は会員を多数加入させた。五家子のほとんどすべての住民がそれぞれの組織に参加して政治生活をおこなうようになった。

    われわれは地方自治行政機関である村公会も革命的な自治委員会に改編した。五家子の先覚者が村公会を設立したのは一九二〇年代の前半期である。村公会は主に経済・教育事業を進め、中国官憲と交渉をもち、傘下に公主嶺米穀販売所のような機関を置いて、農民の生活上の便宜をはかっていた。

    ところが五家子の人たちは、村公会の職員が大衆奉仕の精神に乏しく、清廉潔白でないとおおっぴらに非難していた。

    わたしは農民との対話を通して、村公会の職員が公主嶺米穀販売所から入ってくる一部の食品と生活必需品を農民に均等に割り当てず、私利私欲をはかって裏口から処理していることを知った。事実いかんを確認するために、公主嶺に人を送ったところ、彼も帰ってきて村公会が腐敗していると報告し、村公会の職員が農民から集めた金を乱用し、私腹を肥やしているのは事実だと伝えた。

    村長が村公会の仕事を勝手に処理していたので、独断に走り、大衆の意思が無視されていた。大衆が関与できないので、村公会の内部に欠陥があっても外部の人にはわからない仕組みになっていた。人間も生活も仕事ぶりもすべて革命的に改造されている状況のもとで、従来の組織機構と古い活動方法をもってしては、村公会が大衆の要求どおりに活動することは望めなかった。

    われわれは、村公会の幹部と各村落の責任者、農民同盟委員長の参加のもとに協議会を開き、村公会の事業を総括した。この協議会で村公会が自治委員会に改編された。

    自治委員会はわれわれが意図したとおり、主観と独断を排し、民主主義を最大限に発揚させながら、着実に活動した。

    われわれは自治委員会傘下の公主嶺米穀販売所の活動にも大きな関心を向けた。五家子の農民は馬車や牛車を引いて四十キロ先の公主嶺へ行き、そこで米を売らなければならなかった。米価が下がったときは適当な場所に米を保管しておき、上がるのを待って売るのが利益だった。ところが公主嶺には五家子の農民が米を預けるところがなかった。保管するところがなかったので、価格には関係なく米を売り払った。こうした弊害をなくすために、五家子の農民は一九二七年の秋、公主嶺に米穀販売所を設けたのである。

    われわれは五家子の大衆組織の活動家のうちで、もっとも評判のよい人を米穀販売所に派遣した。朝鮮革命軍隊員のなかでは桂永春、朴根源、金園宇などが販売所の仕事を手伝うために公主嶺に派遣された。われわれが米穀販売所を掌握したあと、この販売所は農民の生活上の便宜をはかる合法的商業機関としての機能を遂行すると同時に、革命組織との連係を保障し、朝鮮革命軍に活動資料を渡す秘密の使命も果たした。

    われわれが村公会を自治委員会に改編し、その傘下に公主嶺米穀販売所のような革命運動を助ける合法的な商業機関を設けたのは、一九三〇年代初の革命闘争でつんだ一つの経験であったといえる。

    われわれは五家子にいたとき、満州各地に工作員を派遣して組織を拡大し、活動範囲を広げた。開魯地方にも工作員が数人派遣された。「トゥ・ドゥ」出身で華成義塾卒業生の朴根源もその一帯でしばらく活動した。

    開魯地方にはモンゴル族が大勢住んでいた。

    文明世界から隔絶されていた開魯の人たちは、病気にかかっても治療がうけられず、神に祈るだけだった。それで、同志たちはそこへ行くときは必ず医薬品を持っていって患者に与えた。それが大いに効を奏した。それ以来、開魯地方では朝鮮人が行くといつも歓待してくれた。

    われわれは組織責任者の政治実務水準を高めるために、各組織責任者とアクチブを参加させて講習会を開いた。

    わたしは車光秀、桂永春らとともに毎晩二、三時間ずつ交替で、倫会議で示した主体的な革命路線と戦略戦術的方針、大衆のなかでの政治活動方法、組織を拡大し質的に強化する方法、組織員にたいする教育活動方法と組織生活の指導方法などについて講義した。

    講習会が終わったあとも組織責任者と一緒にすごしながら、組織の結成、中核の育成、任務の分担と総括、会議の進行法、対話などのさまざまな活動方法を教えた。こうして五家子の指揮幹部たちは、自信をもって大衆のなかに入っていった。

    われわれは五家子住民の啓蒙と教育にも大きな力を注いだ。まず教育事業に第一義的な力を傾けた。

    われわれは、朝鮮革命軍隊員と地下組織メンバーのなかから有能な青年を選んで三星学校の教員に任命し、彼らが中心になって学校の教育内容を革命的に改編するようはからった。民族主義思想や封建的儒教思想を説く古い課目は廃止され、政治課目が新たに選定されたのも、われわれが学校の運営にあたったときからである。三星学校で授業料が廃止されたのもそのころだった。学校の維持費は自治委員会が支給した。こうして五家子の学齢児竜はみなその年の冬から無料教育をうけるようになった。

    後日、われわれは祖国光復会十大綱領に義務的な免費教育の条項を一つ入れたが、実際上、朝鮮の共産主義者が無料教育を真っ先に試み実践に移したのは、孤楡樹、倫、五家子においてだった。五家子の三星学校は、倫の進明学校や孤楡樹の三光学校とならんで、わが国の教育史上、最初の免費教育が実施された意義深い教育機関である。

    われわれは、学校教育をうけることのできない青壮年や婦女子のために夜学にも力を入れた。

    わたしは中心部の村落ばかりでなく、周辺の村落にも夜学を設け、そこですべての青年が学べるようにした。

    われわれは倫で『ボルシェビキ』を発刊した経験を生かし、五家子でも『農友』という雑誌を発行した。『農友』は農民同盟機関誌の役割を果たした。『ボルシェビキ』はやや難解だったが、『農友』の記事は農民が容易に理解できるよう簡潔で平易な文体で書いた。『農友』も『ボルシェビキ』と同じように間島にまで配布された。

    われわれはまた、学生を通じて村人たちに多くの革命的な歌を普及した。『赤旗の歌』や『革命歌』のような歌も、学校で教えると、その日のうちに村じゅうに広まった。

    五家子にはわれわれが組織した演芸隊があった。演芸隊は桂永春の指導で三星学校を本拠に活発に活動した。

    わたしも吉林時代に書きはじめ、何度かリハーサルをしてみた『花を売る乙女』の脚本を完成させる作業に取り組んだ。そして脚本が完成すると、桂永春が三星学校の演劇サークル員を指導して、稽古をはじめた。

    われわれは十月革命十三周年記念日に三星学校の講堂でこの歌劇を上演した。

    この作品は解放後、長年埋もれていたが、一九七〇年代の初期になって、党中央組織担当書記の指導のもとに、作家、芸術家によって映画、歌劇、小説にそれぞれ完成されて公開された。当時、組織担当書記がたいへん苦労をした。

    われわれは五家子住民の絶大な支援のもとに、短期間に遼河の農村を朝鮮革命軍の頼もしい活動基地に築き上げた。われわれは吉林周辺や長春近郷でも農民のなかに入って活動したが、五家子でのように農村を徹底的に革命化したのははじめてである。

    われわれが五家子でおこなったすべての活動にたいしては、コミンテルンの連絡員金光烈も驚異の目を見張った。

    われわれが独創的な革命路線をうちだし、自主的な方法で革命を切り開いていったので、コミンテルンも関心をもってそれを注視した。コミンテルン東方部では、われわれの活動にたいする論議が多かったようである。朝鮮に従来の共産主義者とはまったく異なった新しい世代の革命家たちがあらわれた。どの派閥にも属さず、うわさも立てずに独自に活動する勢力で、大衆的基盤も強固であるという。いったい彼らはどのような人たちなのか? おそらくこういう好奇心をもって連絡員を送ったらしい。

    金光烈はハルビン連絡所に立ち寄ったあと五家子にやってきて、われわれの同志や革命組織の責任者、有志たちにも会った。彼は多くの人たちに会ったうえでわたしにも会ったが、われわれの活動にたいしていろいろと励ましてくれた。彼は朝鮮の青年共産主義者が共産主義運動と植民地民族解放闘争で独創的な道を切り開いており、そのなかで多くの経験をつんだといい、われわれが提示した革命路線と方針を全幅的に支持した。

    彼はとくに、われわれの反日民族統一戦線路線にたいへん驚いたようだった。連絡員は、いま国際共産主義運動では、革命の支持者、共鳴者を規定する問題をめぐって深刻な論議がつづいているが、あなたたちは頑固な民族主義勢力や宗教者、ひいては資産家層とも提携しているが、これをどう理解すべきかとたずねた。

    わたしは、少数の共産主義者や労働者、貧農、雇農の力だけでは革命はできない、日帝を打倒するには中間勢力も残らず動員しなければならない、他国はどうか知らないが朝鮮では大多数の民族資本家や宗教者が外部勢力に反対している、革命を喜ばない勢力はひと握りの地主、買弁資本家、親日派、民族反逆者にすぎない、それ以外の人はみな結集して民族あげての抗戦を組織しようというのだ、朝鮮人の力で朝鮮の独立を達成する秘訣は、すべての反日勢力をかちとることにある、と述べた。

    連絡員はわたしの説明を聞いて、「あなたは古典にこだわらず、すべてを独創的に処理しているが、わたしはそれがなによりも気に入った」といった。そして、わたしにモスクワ留学を勧めた。

    「あなたは前途洋々たる人だから、実践も大事だが、勉強をすべきだ」

    金光烈は洋服とワイシャツ、ネクタイ、靴をつめたトランクを開けて見せ、コミンテルンではあなたに大きな期待をかけて再三勧めているのだから、それに応ずるのがよいといった。彼はコミンテルン本部で、わたしを説得してモスクワに送るよう指示されたらしかった。

    わたしは「あなたたちがわたしに関心をよせてくれて感謝にたえないが、わたしは東満州で人民のなかに入るつもりです。わたしがソ連に行ってロシアのパンを食べれば、ロシアびいきになるかも知れないが、わたしはそれを望みません。それでなくても朝鮮にはM・L派とか火曜派、ソウル〔15〕派といった派閥が多くて心痛にたえないのに、わたしがそのような人たちの前轍を踏むわけにいかないではありませんか。マルクス・レーニン主義は読書によって勉強したいと思います」と答えた。

    車光秀や朴素心をはじめ同志たちもトロズで、留学に必要な身の回りをいっさい整えてくれて、わたしにモスクワヘ行くよう勧めたことがあった。

    わたしはその年の十二月下旬、五家子で朝鮮革命軍指揮メンバーと革命組織責任者の会議を招集した。会議を招集したのは、倫会議の方針の実行過程で得た経験と教訓を総括し、情勢の要求に合わせて革命運動をさらに拡大発展させるためであった。

    日本は軍国主義の鉄拳を振りかざし、国力を総動員して新たな植民地を確保し、領土を広げるために侵略戦争の準備に拍車をかけていた。そしてその妨げになると認めたものは容赦なく掃滅した。

    われわれは日本が満州を侵攻する前に東満州に拠点をつくり、侵略に対抗する準備を進める計画だった。東満州に行くには中部満州地方における活動を総括し、武装闘争の準備に必要な対策を立てなければならなかった。五家子会議はそういう目的で招集されたのである。

    この会議には朝鮮革命軍の中核分子と革命組織の責任者が全員参加した。間島と穏城、鐘城地区から蔡洙恒をはじめ多くの革命組織責任者が零下三十度の酷寒にもめげず五家子に集まった。面識のなかった多数の青年革命家がこの会議を契機に顔を合わせ、友誼をあたためながら朝鮮革命の将来について真剣に討議した。

    論議の焦点は、東満州における活動を決定的に強化する問題であった。闘争の基本的舞台を東満州に移すのは、われわれの確固とした志向であった。それは革命情勢に照らしても引き延ばすことのできない問題だった。わたしが五家子にいながらも東満州を忘れず、そこへ行く日を待ち焦がれたのもそのためである。

    わたしは会議で、抗日武装闘争の準備をおし進め、国際革命勢力との連帯を強化する課題も提起した。

    会議の全過程は、青年学生運動と農村地下運動から武装闘争の段階に移行して、敵に決定的攻勢をかけようというわれわれの決意をはっきり示していた。倫会議では武装して日帝を打倒し、祖国を解放しようとする朝鮮民族の意志が集大成されたが、五家子会議ではその意志を再確認し、抗日戦争への近道が明らかにされた。

    五家子会議は、われわれ青年共産主義者が倫会議から一九三一年の春の明月溝会議と松江会議、冬の明月溝会議をへて日帝との決戦場におもむく橋渡しの役割を果たした。

    われわれの青年学生運動は一九三〇年代にいたって、ついに武装闘争段階へと発展した。五家子はここで跳躍台の役割を果たしたといえる。

    わたしが五家子を発つとき、文朝陽は4キロ先まで涙ながらにわたしを見送ってくれた。

    

    

    

        忘れえぬ人たち

    

    

    いつぞや、わたしは平壌でカストロ同志と会ったさい、抗日革命時期の闘争経験について長時間話したことがある。そのときカストロ同志は、わたしに多くの質問をしたが、そこには武装闘争で食糧問題をいかに解決したかというのもあった。

    わたしは、敵の食糧を奪うのも一つの方法だったが、人民から不断に供給されたと答えた。

    青年学生運動と地下活動をしていたときも、人民はわれわれに食事と宿所を提供してくれた。

    上海臨時政府や正義府、新民府、参議府などの独立軍団体は、それぞれ法をつくって同胞から義援金を募り軍資金を集めたが、われわれはそういうふうにはしなかった。革命活動に金が必要なときもあったが、われわれは税金を徴収するなどの法を制定することはできなかった。なんらかの法や規定で人民を縛りつけ、帳簿を持ち歩き、戸別に金額を割当てて取り立てるのは、われわれの理念に合わなかった。人民がくれればもらい、くれなくてもかまわないというのがわれわれの立場だった。しかし、人民はいかなる状況のもとでも生命を賭してわれわれを援助してくれた。人民は覚醒し、奮起してつねに革命家をわが子のように助けてくれた。だからわれわれはつねに人民を信じた。人民のいるところでは、1度も食事を欠かすようなことがなかった。

    われわれが赤手空拳でゼロから闘争をはじめ、勝利を重ねることができたのは、もっぱら人民の支持声援のたまものであった。孤楡樹の玄正卿、金保安、承春学、倫の劉永宣、劉春景、黄順信、鄭行正、五家子の辺大愚、郭尚夏、辺達煥、文時駿、文朝陽、金海山、李蒙麟、崔一泉などは、南満州と中部満州地方でわれわれを誠意をつくして支援してくれた忘れえぬ人たちである。

    人民はたとえ自分はかゆをすすっても、われわれにはご飯を炊いて親切にもてなしてくれた。

    われわれは人民に迷惑をかけるのがすまなくて、忙しくて徹夜をするという口実をかまえ、学校の宿直室に泊まることもあった。倫では進明学校の教室がわれわれの宿所に利用され、孤楡樹と五家子では三光学校と三星学校の教室がそれにあてられた。

    玄均は、わたしが三光学校の教室で寝ていると、きまってわたしを訪ねてきて腹立たしげに、わたしの腕を引っ張るのだった。

    「トゥ・ドゥ」のメンバーで朝鮮革命軍隊員の玄均は、聡明、実直で、人情にも厚かった。

    彼の兄玄華均は孤楡樹で農民同盟の仕事をしていたが、われわれの活動を少なからず援助した。

    兄弟がそろってわれわれの組織のメンバーだったうえに、父親も独立運動をしていた関係で、彼の家族はいつもわれわれに親切にしてくれた。

    玄均の父親玄河竹は、独立運動家のなかではかなり地位が高く、権威があった。河竹は号で名は玄正卿である。孤楡樹の住民は彼を本名の代わりに河竹先生と呼んでいた。玄河竹先生といえば、当時、満州在住の朝鮮同胞のなかで知らない人はいなかった。

    わたしの父も生前、折にふれて玄河竹先生のうわさをしたもので、彼とよしみが深かった。2人はたんなる親友ではなく、独立運動の同志として、たびたび会って互いの考えを語り合い、深い情愛をもって相

    手を尊敬し、ともに独立運動に献身した。

    玄河竹先生は、統義〔16〕府時代には中央法務委員長、正義府時代には中央委員、そして国民府時代には民族主義者が民族単一党と呼んだ朝鮮革命党政治部の責任者であった。彼は共産主義にも理解が深く、日ごろ共産主義を志向する青年に同情をよせ、彼らをわけへだてなく扱った。

    金赫や車光秀、朴素心らが柳河地方で社会科学研究会を設け、各地に反帝青年同盟組織を結成していたとき、玄河竹先生は青年の啓蒙をはかって、しばしば講師を勤めた。旺清門学院の時代と化興中学校時代に彼の講義を聞いた人たちは、その後彼をよく回想したものである。

    わたしが孤楡樹に行くと、玄河竹先生はいつもわたしを自宅に泊めた。

    「伯父の家に来たつもりでゆっくりくつろぎたまえ」

    先生はいつもわたしにこう言った。先生はわたしの父よりも十数歳年上だった。

    わたしは先生の家に十日や二十日、ときには一か月以上も泊まって大衆工作を進めた。ある年は孤楡樹で玄河竹先生の家族と一緒に端午の節句を祝ったこともある。

    あのころは、一日ならいざしらず、何週間も客を泊め、食事をもてなすというのは容易なことではなかった。百姓をして小作料を納めた残りのわずかな食糧で、革命家の接待をするとなると、家族たちはかゆをすするのもむずかしかった。

    玄河竹先生の家庭では、わたしにおいしい食べ物をもてなそうと真心をつくした。鶏をつぶしたり、豆腐や打ち豆、フダンソウの汁などもこしらえてくれた。

    その家の婦人が豆腐をつくるためにひき臼をまわすときは、わたしも袖をたくしあげてまわすのを手伝った。玄華均の妻金順玉は二二、三歳で、ひき臼の前でわたしと向かい合って座るのが恥ずかしく、いつもうつむいていた姿がいまも忘れられない。

    玄河竹先生は民族主義団体の国民府に属していたが、国民府内の革新派を自認し、ゆくゆくは共産主義運動に乗り出すつもりだとおおっぴらにいっていた。

    孤楡樹を離れたわたしは、その後、玄河竹先生が国民府の内紛に嫌気がさして西安に行ってしまったという話を聞いた。張学良軍が西安へ移動したので、先生も張学良に期待をかけて、あとを追ったらしい。張学良は排日感情が強かったので、彼の保護をうけて反日運動を進めようとする人が少なくなかった。満州事変を前後して、東三省一帯で活動した多数の朝鮮の独立運動家が上海、西安、長沙などに活動舞台を移した。

    祖国の解放後、外国訪問のさい、列車や飛行機で中国東北地方を通過するたびに、わたしはなじみ深い満州の山河を眺めながら、孤楡樹や玄河竹先生、そして先生の子孫たちのことを思った。先生は死去したとしても、子孫の一人や二人は生きているはずだが、どうしてなんの便りもないのだろうか、わたしは彼らの居所を知らないからどうしようもないが、彼らはわたしに手紙を出せるのではなかろうか、と思った。人の世話になるのはやさしく、恩を返すのはむずかしいものである。

    ところが一九九〇年の春、玄河竹先生の子孫と感激的な対面をした。

    玄河竹先生の長男の嫁金順玉が、わたしが彼女の家で使った真鍮の食器と、豆腐をつくるときにまわしたひき臼を六〇年間も保管していて、それを平壌の革命博物館に寄贈したのである。吉林の朝鮮人が発行する雑誌『桔梗』がそのいきさつを記事にしたのを、わが国の『労働新聞』がその全文を転載した。

    こうして六〇年間、消息の知れなかった恩人が生きていることを知ったわたしは、感無量の思いにとらわれた。つねづね国が独立したら孤楡樹で世話になった恩を返そうと考えていたわたしは早速、彼女に会って粗餐なりともともにして、つもる話をしようと思った。

    その金順玉も、死ぬ前にわたしに会えたら思い残すことがない、といったという。

    それで一九九〇年三月、わたしの名義で金順玉を招待した。こうして彼女に会ったのだったが、もう八十の高齢で、残念なことに老衰して歩行も自由にできなかった。

    金順玉がわが国に来るとき、孫子を六人連れてきたが、わたしにはなじみのない顔ぶれだった。

    彼らと会った席には玄均の息子もいた。彼の口許が不思議なほど父親に似ていた。口の格好だけでも似ていたので、故人の玄均が生き返ってわたしに会いにきたような思いがした。

    わたしは金順玉一行を外国の貴賓用の宿所に泊め、一か月ほど故国を広く見物するようはからった。

    遺憾なことは金順玉が耳が遠く、話をよく聞きとれないことだった。発音も不明確で記憶力もかなり薄れていた。こうして、安否を案じていた恩人の一人に六十年ぶりに奇跡的に会ったものの、思うように意思の疎通ができなかった。わたしが思い出せないことは彼女が補い、彼女が忘れたことはわたしが補って、孤楡樹にいたころのことをいろいろと回想することができるだろうと楽しみにしていたのだったが、期待がはずれて残念でならなかった。

    子孫たちも玄河竹先生の運命と活動についてはよく知らなかった。それでわたしは彼らに、先生が朝鮮の独立のためにたたかい、われわれの革命活動を援助したことをくわしく話してやった。それは、先生の経歴をよく知っているわたしの義務でもあった。

    たとえ同じ血筋を引いた子孫であっても、烈士の偉業をおのずと継承するものではない。烈士の闘争業績をよく知り、それを心から貴ぶ子孫であってこそ、父や祖父の世代が切り開いた革命偉業をしっかりと継承していけるのである。

    わたしは金順玉と会った席で、孔国玉とも会い、また五家子でわれわれの革命活動をいろいろと援助してくれた文朝陽、文淑坤とも会った。

    孔国玉はわたしの父が亡くなったとき、わたしに代わって3年ものあいだ麻の冠をかぶり喪服を着てくれた孔栄の娘である。わたしが吉林で毓文中学校に通っていたある年、学期末休暇で撫松に帰省してみると、顔に火傷の跡ができて夫に嫌われ、実家へ帰っていた孔栄の夫人が、子どもを連れてわたしの家に来ていた。その子どもが孔国玉である。

    わたしは解放直後、平壌で農民同盟の会議を指導したさい、碧潼の代表に孔栄の遺族のことをたずねたことがあった。彼が碧潼の出身だったので、未亡人と娘が故郷に帰っているのではないかと思ったからである。

    その代表は、碧潼に孔という姓の人は多いが、孔栄の家族がいるということは聞いていないといった。

    わたしは彼の返事を聞いて落胆した。それでもほかの遺族とは会っているのに、孔栄の遺族は行方すらわからないので、残念でならなかった。

    そのころ、われわれは万景台に革命家遺児学院を建てる準備を進めていた。

    わたしが平壌公設運動場で市民に凱旋のあいさつをしたあと、20年ぶりに祖父母が待っている生家に帰ったとき、小学校の同窓生たちが訪ねてきた。彼らはわたしの父が一時教師を勤めた順和学校の跡に、わたしの名を冠した中学校を建てようといった。万景台は金将軍が生まれたゆかりの土地なのだから、大きな学校を建てて、将軍の名を冠し「金日成中学校」と呼べばすばらしいではないかというのだった。

    そのころまで、わたしの郷里には中学校がなかった。

    わたしは彼らに、これまで数多くの愛国者がわたしと一緒に武器を取って山で戦い、犠牲になった、彼らはいまわのきわに、朝鮮が独立したら子どもたちを勉強させてりっぱな革命家に育ててくれとわたしに頼んだ、わたしはそれ以来、朝鮮が独立したら彼らの遺言通り同志たちの遺児を勉強させて親の遺志をつがせようと考えてきた、祖国を取りもどしてみると、その決心がいっそう強くなった、だから万景台には中学校でなく革命家の遺児を教育する学院を建てるつもりだ、と話した。

    すると村人たちは、革命家の遺児がどれほどになるのか、そんなに多くもない遺児のために学院を建てようというのかといった。党や行政機関の要職をしめる幹部のなかにも、そんな人がいた。彼らはどれほど多くの人たちが国のためにたたかって犠牲になったか、想像すらできなかったのである。

    異国の山河に戦友の屍を数知れず葬ったわたしは、そんなことをいわれるたびに驚かずにいられなかった。

    われわれは、農民が土地改革後はじめて得た収穫の一部を国に献納した愛国米を元手にして、万景台に革命家遺児学院を創設した。

    われわれは学院に引きとる遺児を探し出すために、多くの人たちを国内各地と中国東北地方へ派遣した。こうして数百人の遺児が中国から連れられてきた。現在、党中央委員会で政治局員として活動している一部の同志も、そのころ林春秋にともなわれて祖国に帰った人たちである。

    染料の売り子やタバコの売り子などをしていた一部の遺児は、万景台に革命学院が設立されるといううわさを聞いて訪ねてきた。彼らのなかには独立軍関係者の子孫や、労働組合や農民組合などの組織で反日闘争をして犠牲になった愛国者の子女もいた。

    ところが、孔国玉はどうしても姿をあらわさなかった。

    わたしは平安北道地方へ行くたびに、孔栄の遺族の行方を探し、地元の活動家にも彼女たちを探してもらいたいと依頼した。

    わたしは祝日に学院を訪れて遺児たちと一緒にすごし、彼らが明るく踊りうたう様子をみると、山菜の包みを頭にのせ、わらじをはいて小南門通りのわたしの家を訪ねてきた孔栄夫人の姿や、その背におぶさって拳をしゃぶっていた孔国玉の姿が瞼に浮かび、胸がうずいたものだった。

    わたしは一九六七年に、やっと孔国玉を探し出した。それは彼女の母親が死去したあとだった。金日成が金成柱であると知っていたら、孔国玉の母親はきっとわたしを訪ねたであろう。彼女は金日成が誰か知らなかったし、共産党が政権を取ったのだから、独立軍にいた夫をよく思わないだろうと考えて、子どもたちにも父親のことを話さなかったようである。

    われわれは孔国玉を高級党学校で勉強させた。彼女は卒業後、平壌市党委員会や鉄道省事績館に勤めたが、いまは年をとって老齢年金をもらい、家庭で余生を送っている。

    孤楡樹の金保安も玄河竹先生と同じく父の親友だった。彼は独立軍で中隊長を勤めたこともあった。

    金保安は、わたしが玄河竹先生の家にばかり行き、自分の家に寄らないのが不満だった。同志たちが彼の家を訪ねたさい、金保安は、自分は金亨稷とはただの仲ではないし、成柱も粗末にしていないのに、どうして1度も訪ねてこないのかわからない、といったという。

    それを聞いて、わたしは孤楡樹に行けば、必ず金保安の家を訪ねることにした。

    金保安は薬局を経営し、そこからあがるいくらかの金を、われわれの三光学校の後援金として提供した。彼は教育事業に熱心で、青少年の啓蒙に大きな関心をよせていた。三光学校で講演をしてくれるようにとわれわれが依頼すると、いつも喜んで応じてくれた。

    金保安は、孤楡樹の人たちは金の勘定もできない明き盲だ、そんなことでは朝鮮の独立はできるわけがないと慨嘆していた。

    いまどきの人は、大人が金の勘定ができないといえば首をかしげるだろうが、あのころ中国人や吉林省に住む朝鮮人移住民のなかには、金の勘定ができない人が多かった。省で発行する貨幣と県で流通する貨幣が違い、吉林官帖とか、奉天大洋、吉林小大洋、銀大洋などとさまざまな貨幣があって、その価値がそれぞれ違っていたので、無学者は市場で金の勘定ができなかった。

    われわれは夜学に農民を集めて、算数の時間に金の勘定法を教えた。

    金の勘定もできない明き盲たちだと舌打ちしていた金保安も、彼らが加減乗除を正確にするのを見て相好をくずし、「それはそうだろう。もともと朝鮮人は頭がよいんだからな」といった。彼は「無知な人間が有識な人間に成長するのを見るのは愉快なことだ」といって、夜学や三光学校の授業をよく参観した。

    三光学校高等科の生徒たちはみな頭がよくかしこかった。なかでもいまも印象に残っていて忘れられないのは、劉春景や黄順信のことである。

    二人は倫の革命組織から推薦されてきた女生徒だった。劉春景の父親劉永宣は、進明学校の教師を勤め、われわれの革命活動を極力支援してくれた。劉春景と黄順信は当時一四、五歳だった。

    われわれは孤楡樹から倫や吉林に帰るときは、彼女たちに武器を運んでもらった。軍閥の軍警は女の子はあまりきびしく取り締まらなかったからである。

    劉春景と黄順信は、われわれに頼まれたことはいつも誠実にやってくれた。彼女たちはチマの下に武器を隠し、五十メートルほど離れてわれわれのあとについてきた。軍閥の軍警は、路上でわれわれを調べることはよくあったが、彼女たちには注意を向けなかった。

    黄順信は解放後帰国し、郷里で農業にたずさわった。彼女は三光学校時代に少年探検隊員だっただけに仕事も熱心で、多収穫農民として知られた。そして人びとから親しまれ、尊敬されて一生を有意義に生きた。戦後、最高人民会議の代議員に選ばれたこともある。

    劉春景は満州各地を転々とした末、李寛麟のように祖国で晩年を送ろうと、一九七九年に帰国した。

    黄順信のように若い年で帰国していたなら、彼女も後半生を名のある女性活動家として、社会と人民のためにもっと多くの仕事をしていたであろう。三光学校時代の劉春景は、女生徒のうちで作文や演説がいちばん上手で、頭がよく、将来が期待される少女だった。

    われわれが安図で遊撃隊の創建準備に取り組んでいた当時、彼女は手紙で、わたしのいるところへ来て闘争をつづけたいと書いた。そのころは武装闘争の準備に奔走し、いったん武装闘争をはじめれば女性は男と行動をともにするのがむずかしいと思ったので、安図に来るようにという返事は出せなかった。

    そのころ、われわれは男女同権を主張してはいたものの、女性は武装闘争に適さないと考えていたのである。

    帰国当時、劉春景の年がせめて五十前後であったとしても、勉強させて社会活動に参加させたであろう。

    われわれは、かつて革命闘争に参加または関与した人びとを探し出すと、多少年をとっていても勉強をさせて、適切な地位につけ、政治活動をさせるのを原則としていた。いかに聡明で有能な人間も、長年杜会活動から離れて家庭に埋もれていれば、思考能力が衰え、世事にうとくなり、人生観にもさびがつくものである。

    解放後かなり多くの闘士や革命闘争縁故者が適所に登用されず、埋もれていた。分派分子は、経歴はりっぱだが無知で使いみちがないといって、長年、抗日闘士を幹部に登用しなかった。無知であるなら、なんとしても勉強させてりっぱな働き手になるよう育てるべきだが、取り合おうともせずにおしのけてしまったのである。

    それで、われわれは革命家の遺児や革命闘争の縁故者を探し出すと、彼らを高級党学校や人民経済大学などで勉強させ、レベルに合わせて幹部に登用する措置を講じた。

    学習もせず組織生活もしなくては、革命運動に長年たずさわった闘士であっても、時代に立ち後れてしまう。

    多くの闘士と彼らの遺児、抗日革命闘争の援助者がこうした過程をへて、党と国家の有能な幹部に、著名な社会活動家に育った。

    五家子の文朝陽もそういう人の一人だった。文朝陽は五家子で反帝青年同盟組織部長として活動したころ、辺達煥、崔一泉、李蒙麟、金海山とともにわれわれの活動を極力援助した。彼はわれわれと一緒に多くの文章を書き、演説をし、大衆組織を結成する活動にもエネルギッシュに参加した。彼の家は会議場としてもっとも頻繁に使われたと思う。

    わたしは五家子では文朝陽の兄の文時駿と崔一泉の家でたびたび世話になった。

    文時駿は気前のいい人だった。彼はわれわれが何か月もそこで世話になっていても、いっさい食費を取らなかった。われわれが五家子で活動していたとき、彼が豚をつぶしてご馳走してくれ、ぜひ国の独立をなしとげてくれといったことも、つい、きのうのことのようである。わたしは彼の家に長いあいだ泊まって世話になった。

    彼の家では食膳にいつもニンニクの辛漬がのったものだが、その味は格別だった。その独特な味が忘れられず、解放後、文時駿の娘文淑坤に会ったさい、そのことが思い出されて彼女を家に招き、その漬け方を教えてもらったほどである。

    わたしが地方に行けば、ニンニクの辛漬がよく食膳に上るが、あの困難な時期に五家子で水をかけた粟飯をかきこみながら食べた漬物の味にはとてもおよばない。

    しばらく前に文朝陽は傘寿を迎えた。わたしは五家子のころを思いだし、彼に花束と祝膳を贈った。

    わたしは五家子で、反帝青年同盟委員長兼『農友』誌主筆の崔一泉の家でも、一度行けば何週間も泊まったものである。そのころ彼は、崔泉、崔燦善とも呼ばれた。『海外朝鮮革命運動小史』にある崔衡宇という名は、解放直後ソウルで使ったペンネームである。

    五家子では彼がもっとも開けた人だった。彼は金赫のように詩は書かなかったが、散文家としての文才に恵まれていた。彼はわれわれに勧められて長年長春に住み、地下工作員として活動しながら『東亜日報』支局長を勤めた。そしてわれわれの活動資料をいろいろと収集し、りっぱな文章を書いてはしばしば投稿した。

    崔一泉は日本情報機関の「要注意人物」だった。彼が勤める『東亜日報』支局の玄関前には、日本の憲兵と密偵が彼を監視するために交替で張りこんでいた。日帝が崔一泉に目をつけたのは、彼が長春で青年活動をつづけ、国内の愛国人士と緊密な連係を保ってさかんにわれわれの宣伝をしたからである。

    われわれが東満州で武装闘争をはじめると、彼は反帝青年同盟組織を通じて育成した中核青年を抗日遊撃隊に送ってくれた。『海外朝鮮革命運動小史』に述べられた在満州朝鮮人の民族解放闘争の実状と闊達で情熱にみちた彼の筆致は、そうした革命実践のなかで磨かれたものだと評価すべきである。

    崔一泉は瀋陽と北京にいたころ、何度かソウルを訪れ、国内の著名な人士や各階層人民に抗日武装闘争の戦果を紹介した。祖国光復会の結成後はその綱領も解説した。彼の話を聞いて李克魯先生が指導した朝鮮語学会と民俗運動も、祖国光復会10大綱領を全幅的に支持し、その精神にのっとって民族文化と民族精神を守るためにたたかった。

    崔一泉は日本官憲の迫害と監視がいよいよきびしくなると、『東亜日報』支局長当時、満州各地で収集したわれわれの闘争資料と独立運動資料をもってソウルに行き、朝鮮語学会の会長をしていた李克魯先生に預けた。そこにはわれわれが五家子で発行した『農友』誌の束もあった。

    「これは国宝的価値のある資料です。わたしは敵の監視と追跡をうけているので、とてもこれらの資料を保管できそうにありません。国が独立したら、これらの資料を使って史書を著述したいと思いますから、それまで預かっていただきたいのです」

    崔一泉は、このように李克魯先生に頼んで満州にもどった。

    彼は解放直後、李克魯先生が大事に保管しておいた資料を返してもらい、一気に『海外朝鮮革命運動小史』を執筆した。それは砂粒まじりの粗末な再生紙に印刷したものだったが、すぐに売り切れたので、歴史や文学を専攻する若い知識人がそれを全文書き写し、耽読したといわれるほど人気のある書物である。

    崔一泉は解放直後、米軍政庁が反共反北を南朝鮮の「国策」とする為政者を銃剣で支援した殺伐とした状況のもとで、反日闘争の漫画を出版して青少年に反帝反日精神を鼓吹した。

    解放後、政治的混乱と無秩序が支配したソウルで、『海外朝鮮革命運動小史』のような重みのある書物を精魂を傾けて著述したというのは驚嘆すべきことである。

    崔一泉は解放後、南朝鮮政界に進出し、朝鮮革命党政治部長、新進党中央委員会部長、金日成将軍歓迎委員会委員、民族自主連盟執行委員などの要職を歴任し、呂運亨、洪命熹、金奎植などの人士と提携し、民主勢力の結集と南北統一のために献身的にたたかったが、祖国解放戦争中、ソウルで反動派に殺害された。

    『海外朝鮮革命運動小史』は崔一泉の未完作である。彼は第二集についで続巻を書くはずだったが、解放後の南朝鮮の複雑な政治舞台に足を踏み入れてからは、多忙にまぎれてそれを果たすことができなかった。彼は続巻でわれわれの革命活動を全面的に取り上げる計画だったという。

    崔一泉が生きていたなら、その書物が世に出て、われわれの革命活動史に興味のある史料が添加されたことであろう。

    長い歳月がすぎたいまでは、抗日革命闘争の時期を回想しうる生存者が残り少なくなった。われわれの初期の活動を回想できる人はさらに少ない。わたしの記憶力にも限界がある。忘れたことも多く、記憶がおぼろで、正確に思い出せない日時や人物もある。

    南満州と中部満州一帯でわれわれの活動を援助してくれた人のうち、金利甲の恋人、全京淑はとくに強い印象をわたしに残した。

    金利甲は「金剛館(大成館)」事件の主人公で『海外朝鮮革命運動小史』にも紹介されている。

    中国人に変装した日本領事館の警官が一九三〇年の春、吉林市内の福興街にある呉尚憲(呉春野)の家を襲い、金利甲に猿ぐつわをかませ、手足を縛って長春に連行した。その後、彼は法廷で懲役九年の重刑を言い渡され、大連監獄に投獄された。

    全京淑の両親は、娘が金利甲のような革命家に嫁ぐのに反対したが、彼女は親に逆らって家出し、恋人を追って大連に行った。そのとき彼女は一八か一九歳であった。彼女は紡績工場に入り、共青の責任者として活動しながら、金利甲に差し入れをつづけた。

    わたしにこの話をしてくれたのは、東満州特委書記をしていた童長栄である。彼は大連で地下党活動をしていたとき全京淑に会ったことがあるといい、彼女の真実な熱い愛情に感動し、「彼女に会って、朝鮮女性の操と意志がきわめてかたいことを知った」といった。

    わたしもそのことを聞いて全京淑の高潔な品性に感嘆した。そして、南満青総大会に参加するため旺清門へ行っていたとき、わたしを夕食に呼んで、国民府のテロ計画をそっと知らせてくれた彼女のことを思い出し、金利甲はじつに幸福な男だと思った。

    新しい世代の共産主義者が民族を救うために満州の大地で奔走していたとき、食べ物を提供し、爪に火をともして蓄えた金を、学費や旅費に使うようにといって出してくれた恩人の話をしようとすればきりがない。

    そのような恩人のなかには、まだ安否も居所もわからない人が数えきれないほどいる。いまでも彼らが姿をあらわしてくれれば、やるせない心が慰められそうである。彼らと一膳の食事なりともともにし、数十年のあいだ積もった回顧談をすることができたら、それにこした喜びはないであろう。

    しかし、そうしたからといって、彼らがわたしのためにつくした労苦と誠意にすべて報いることはできないだろう。

    人民により幸せな生活と福利をもたらし、人民の支持声援のもとに開拓した革命を完成することが、彼らにたいする最大の報いであり、贈り物だと思う。人民にこうした報いをする前には、なんぴとも共産主義者としての義務を果たしたとはいえないであろう。

    

    

    

       第五章 武装した人民

                   (一九三一年一月~一九三二年四月)

    

      1 受難の大地

    

    

    五・三〇暴動と八・一暴動を契機にはじまった白色テロの旋風は、一九三一年に入るといっそうはげしく満州の大地に吹き荒れた。敵は、朝鮮の共産主義者と愛国者が何年もかけて育てた革命勢力を根こそぎにしようと、いたるところで血なまぐさい弾圧を強行した。

    東満州は、南満州や中部満州よりも情勢が険悪だった。暴動の結果も悲惨をきわめた。敦化の南門で竿につるされた暴動参加者のさらし首を見て、わたしは敵の反革命攻勢がいかに悪辣きわまるものであるかを知った。

    教条主義とプチブル的英雄主義にとりつかれた分派事大主義者は、五・三〇暴動と八・一暴動のあとにも、国恥日、十月革命記念日、広州暴動記念日などを契機に記念暴動、収穫暴動、恐怖暴動などと称してひっきりなしに暴動を引き起こしたが、その延べ回数はじつに数百回に達した。年がかわってもテロ旋風がおさまらなかったのはそのためでもある。

    間島の革命組織は壊滅状態に陥り、先頭に立ってたたかった中核分子はもとより、暴動参加者に食事を運んだ人たちまで検束、処刑された。一年前にわれわれが豆満江一帯で立て直した組織もかなり被害をうけた。暴動参加者の一部は自首し、あるいは革命組織から離脱した。

    地下にもぐった組織のルートを求めて村へ行くと、人びとはわれわれに疑わしそうな目を向けて心を許そうとしなかった。「間島は共産党のために滅んだ」「共産党の妄動がたたって間島は血の海、火の海になった」「共産党に踊らされたら一家が絶滅する」といって、所属や系列にかかわりなく頭からかぶりをふり、共産主義者を敬遠する人たちが少なくなかった。

    わたしが明月溝へ行ったとき、甕区党委員会の委員李青山は暴動後の苦衷をこう語った。

    「上部では大衆のなかへ入って組織を立て直し、拡大せよと督促するが、はっきりいって、もう人びとに会う気になれず、そんな勇気も湧かない。わたしを革命家だからといって尊重してくれた人たちやわたしの推薦で組織に入った人たちまで、数か月前からは、わたしを見ると避けようとするのだから、気落ちして革命をやる意欲が湧かない。暴動を何度もつづけたとどのつまり、間島の民心はすさんでしまった。こんなに冷たい目で見られるくらいなら、いっそ革命を放棄して、どこかで生活の糧でもかせぐ方が気が休まると思うときさえある。だからといって、革命家がそうやすやすと初志を放棄できるものではなかろう。とにかくなんとかしなくてはいけないんだが、それがどうにもうまくいかないんだから、この騒々しい時局を恨めしく思うほかない」

    それは李青山の苦悩であると同時にわたしの苦悩でもあった。間島のすべての革命家が一九三〇年から三十一年にかけて同じような苦しみを体験した。李青山のように黙々と誠実に働く老革命家でさえこんな弱音を吐くのだから、当時の事態がいかに険悪で暗たんとしていたかは察して余りあるであろう。

    

    李青山はもちろん革命を放棄しなかった。

    わたしはその後、安図で彼に会った。わたしが豆満江沿岸の各県を巡っているあいだに、彼は安図区党委員会に異動していたのである。甕声磖子(明月溝)にいたときにくらべて表情が明るかった。彼は、新しい任地ではすべてがうまくいっていると満足そうにいった。

    「悪夢のような時代は過ぎ去った」

    彼はその生活における変化を簡単にこう表現した。人びとから敬遠されていると訴えたときの、あの沈うつな表情はもうどこにもなかった。

    しかし、わたしが甕声磖子で彼に会ったころは、満州地方の革命家は白色テロにさらされ、人民から遠ざけられて苦しみ悩んでいた。

    わたしも例外ではなかった。わたしがカラシナの漬物でトウモロコシの薄がゆをすすり、夜ともなれば、冷たい隙間風が吹きこむ他人の家で木枕をして横になり、ひもじさとたたかったのもそのころのことである。当時、われわれをさいなんだ最大の苦痛の一つは空腹だった。実際、われわれはあのころ間島で、寒さと飢えにはひどく悩まされたものだった。

    わたしは綿入れもなく、ほとんど洋服のままで冬をすごしたので、他人よりも寒い思いをした。布団のない家では、夜、洋服を着たまま寝るほかなかった。李青山の家には枕も布団もなかった。それで、洋服も脱げずに一晩をすごしたのだったが、あまりの寒さに一睡もできなかった。

    その夜のひどい寒さが忘れられず、後日、安図のわが家へ行ったときにそのことを話すと、母は数日後、馬丁などが着る大きな綿入れを一着つくってくれた。それを着るようになってからは、夜具のない家ではハンカチで木枕を包み、足を縮め、綿入れをかぶって寝たものである。

    しかし、そんな苦労はものの数ではなかった。その年の春、間島でわたしは一日として安らかに眠ったことはない。夜、床についても寒く、ひもじくてなかなか寝つかれなかったうえに、同志たちの死がいたまれ、破壊された組織のことが気がかりで心を落ち着けることができなかった。

    人民に冷たくあしらわれては絶望し、孤独感にさいなまれた。われわれに気を許そうとしない人びとに会ってから宿所に帰り、寒ざむとした部屋で肘枕をして横になると、彼らに白い目で見られたときの光景が思い浮かんで、眠ることができなかった。

    われわれは以前から、間島地方に大きな期待をかけていた。延吉は分派の影響をかなりうけていたが、他の地方はそれほどでなかった。間島地方は新しい世代の共産主義者を早く育成し、新たな方法で革命を展開しうる有利な条件がととのっていたのである。同志たちは何年も地道な努力を傾け、この一帯で抗日革命をさらに高い段階へと引き上げる準備を着実に進めていた。

    ところが2回もの暴動がたたって、せっかく積み上げた成果はまたたくまに崩れてしまった。左傾日和見主義者は超革命的な言辞やスローガンで大衆を一時眩惑させたが、その弊害ははかり知れないほど大きかった。左傾は右傾の裏返しだというのは決して誤りではない、とわたしは思った。われわれが万事をあとまわしにして間島へ急行したのも、この左傾日和見主義がもたらした損失を埋め、一日も早く武装闘争へ移行する準備を急ぐためだった。

    大きな期待をかけて訪れたのだったが、間島の破壊ぶりは予想外にひどく、人民は革命家に不信の目を向け、敬遠していたのだから、ショックは大きかった。

    人民のためにたたかう闘士が産みの親の人民から見離されるとすれば、それ以上の悲しみがまたとあろうか。たとえ一日でも人民の信頼を失い、人民の支持を得られないなら、革命家の生命はもはや喪失したにひとしいのである。

    大衆が誰かれの見境なく革命家一般を白眼視したとき、われわれが深く胸を痛めたのは、暴動がもとで共産主義者の権威が失墜したこと、大衆が指導者を信頼せず組織から離脱したこと、そして朝中人民のあいだに不信と誤解の壁が生じたことである。それがわれわれの最大の悩みだった。

    だが、われわれは苦しみもだえてばかりいたのではない。革命家の前途に困難がないとすれば、それはもはや革命とはいえないであろう。革命家は苦しいときほど不屈の意志をもち、確信にみちて困難をのりこえていかなければならないのである。

    われわれは一九三一年にも間島一帯で、五・三〇暴動の後遺症をいやす活動をねばり強く進めた。倫会議の方針を貫くうえで、第一の障害がこの暴動の後遺症であった。その障害を至急取り除き、革命隊伍を再整備せずには、革命を危機から救い、発展させることができなかった。

    五家子会議を終えて東満州に向かうとき、わたしは、わたし自身と同志たちに二つの課題を提起した。

    その一つは五・三〇暴動を総括することだった。暴動を計画し指揮した当事者ではなかったが、われわれはそれをいろいろな角度から科学的に分析し、総括する必要を感じていた。

    暴動は失敗を重ねたにもかかわらず、東満州ではいまだに狂信的なテロリストや李立三路線の支持者が無謀な暴動へと大衆を駆り立てていた。

    一国における社会主義革命勝利の可能性を指摘しているレーニンの命題を教条主義的に適用した「一省または数省における最初の勝利」という李立三の路線は、大衆を暴動へと突進させる強烈な起爆剤となった。

    中国共産党の実権を握っている人物がうちだした路線であり、それが組織のルートを通じて下達されたのであるから、李立三が党職をしりぞき、その主張に極左冒険主義の烙印が押されるまで、人びとは長年彼の路線に追従した。彼らは失敗と挫折の苦杯をなめながらも、李立三が描いてみせる甘い夢からさめることができなかった。

    五・三〇暴動を総括すれば、人びとはその夢からさめるに違いなかった。そこで五・三〇暴動を総括することによって、分派事大主義者の栄達主義と功名主義、プチブル的英雄主義に警鐘を鳴らすことにしたのである。

    暴動の総括はまた、満州地方の革命家に科学的な戦略戦術と大衆指導方法を体得させる一つの歴史的な転機になるだろうとも考えた。

    いま一つの課題は、広範な大衆を一つの政治勢力に結集する正確な組織路線をうちだし、それによって新しい世代の共産主義者を武装させることである。

    間島地方の共産主義者には、破壊された組織を立て直し、拡大強化する明確な組織路線がなかった。

    東満州地方の分派事大主義者は、大衆を組織化する活動でも大きな極左的誤りを犯していた。彼らは「階級革命論」を唱えて、貧農と雇農、労働者だけを組織に加入させ、その他の階層はいずれも革命とは無縁の存在とみなした。そのため組織に入れなかった人たちは、共産主義者というのはあんな人でなしなのだ、白米にまじったもみ殻のようにかすばかり寄り集まってこそこそ立ちまわり、ほかの者はつまはじきにするのが共産主義だ、といって憤慨した。

    このような排他的傾向を打破して各階層の愛国勢力を一つに結集するには、古典の命題や外国の経験にこだわる事大主義的、教条主義的な傾向を克服し、すべての愛国勢力をもれなく包容する正しい組織路線をうちだし、すみやかに実行しなければならなかった。

    わたしはこれらの課題を間島における第一段階の活動目標とし、東満州への道を急いだ。ところが、孤楡樹で大衆組織の活動を指導したあと、柳鳳和、崔得永とともに長春方面に向かう途中、不用意にもスパイの密告で反動軍閥当局に逮捕されてしまった。そのころ軍閥当局はわれわれの活動に目を光らせていた。彼らは日本の警察に劣らぬするどい嗅覚をもち、われわれが武装闘争の準備のため東満州へ向かっていることまで探知していたのである。

    孤楡樹が中部満州地方における朝鮮共産主義者の主な活動拠点であることをかぎつけた軍閥当局は、伊通県の県公署に指示して村に督察員を送り、われわれの一挙一動を監視していた。

    孤楡樹には県公署の督察員と結託して、われわれの活動を内偵していた李出流という中国人地主がいた。

    われわれが孤楡樹を発って、長春方面に向かったことを督察員に告げたのがこの男である。われわれは大南屯で、督察員の通報をうけて出動した保衛団員に逮捕され、県公署の留置場で何日か尋問をうけたあと長春へ護送され、二十日ほど獄中生活をした。わたしの生涯における3度目の入獄だった。

    そのとき長春には、たまたま吉林毓文中学校の李光漢校長と河先生が来ていた。彼らはわたしが逮捕されたことを知ると軍閥当局を訪ねて、「金成柱は吉林監獄でも無罪釈放されているのに、なぜまた逮捕したのか。金成柱はわれわれが保証する」と強く抗議した。彼らの尽力で、幸いにもわたしは釈放された。

    二人の恩師がともに容共人士であったからこそ、あの危急にさいしてためらいなくわたしを救ってくれたのだと思う。

    以前と変わりなくわたしに心から同情し、われわれの偉業を理解してくれる彼らに、わたしは生涯忘れえぬ大きな感動を覚えた。

    東満州におけるわれわれの活動は、朝鮮革命軍の隊員と革命組織の中核を対象に敦化講習会を開くことからはじまった。

    そこでは武装闘争の準備を本格的に進める課題と実行方途、基礎党組織にたいする統一的指導で提起される原則的な問題、分散した革命大衆を組織に結束する問題などが扱われた。それは同年十二月の冬の明月溝会議の予備作業ともいえる講習会だった。

    講習会を終えたあと、わたしは安図、延吉、和竜、汪清、鐘城、穏城などの革命組織の活動を指導した。

    間島と豆満江沿岸六邑一帯の実態を十分に把握したわたしは、一九三一年五月中旬、甕声磖子の李青山の家で党および共青幹部会議を招集した。歴史上、この会議は「春の明月溝会議」と呼ばれている。

    甕声磖子とは甕器の音がする岩という意味である。日本が満州を占領する以前、明月溝は甕声磖子と呼ばれていた。日本人が満州占領後に鉄道駅を設けたさい、甕声磖子を明月溝と表記したのが定着し、その後、人びとは甕声磖子を明月溝と呼ぶようになったのである。

    いまは明月溝が安図県の県都であるが、われわれが会議を開いた当時はまだ延吉県に属していた。

    春の明月溝会議には党と共青の幹部、朝鮮革命軍のメンバー、地下工作員など数十人が参加した。間島地方の青年共産主義者のうちで、白昌憲のようなそうそうたる革命家は、ほとんどこの会議に参加したと記憶している。

    『極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しよう』は、この会議におけるわたしの演説を整理したものである。そこには、わたしが東満州に向かうさいに提起した二つの課題が含まれている。

    あらかじめ計画したとおり、われわれはこの会議で、五・三〇暴動の本質を深刻に分析、総括するとともに、勤労者大衆を結束し、そのまわりに各階層の反日勢力をかたく団結させて、全民族を一つの政治的勢力に結集するという革命的組織路線を提示した。

    そして組織路線を貫く課題として、指導中核をかため、その自立的役割を高める問題、破壊された大衆団体を立て直し、それに各階層の大衆を引き入れる問題、実際のたたかいを通じて大衆を鍛える問題、朝中人民の共同闘争と友好団結を強化する問題などが討議され、さらに、小規模の闘争から大規模の闘争へ、経済闘争を漸次政治闘争へと発展させ、合法闘争と非合法闘争を巧みに結びつけるなどの戦術的原則を定め、最後に極左冒険主義的傾向を徹底的に克服する問題がとくに強調された。

    一九三一年五月に開かれた春の明月溝会議は一言でいって、大衆獲得をめざした会合だったといえる。大衆獲得における最大の障害は極左冒険主義路線であった。それでわたしは、あえてその路線をたたいたのである。

    わたしが極左路線をたたき、幅広い組織路線を提起すると、会議の参加者たちはそれに全幅的な支持を表明した。

    会議では多くの人が発言したが、それはみな革命的な内容にみちていた。彼らは一様に、日本の満州侵略は時間の問題だから万全の準備をととのえ、時期が到来すれば決戦をくりひろげようと強調した。老練な革命家が大勢参加していたので、参考にすべき有益な発言が多かった。

    わたしはこの会議から多くのことを学んだ。会議後、間島全域と国内に向けて工作員たちがつぎつぎに出発した。

    わたしはしばらく明月溝一帯の党組織と大衆団体の活動を指導し、そのあと安図に向かった。当分のあいだ安図を活動拠点にして、間島と国内の革命活動をもりたてるためだった。

    安図は鉄道や大道路そして都市から遠く離れた山間地帯で、険しい山や密林にとりかこまれ、日帝の触手もそれほどのびていなかった。それに延吉、和竜、汪清、琿春などの地区や撫松、敦化、樺甸などの地区はもちろん、六邑一帯をはじめ国内の各組織とも連係を保つのに有利な地点であり、遊撃隊を組織して訓練をほどこし、党組織の建設を進めるうえでも格好の土地だった。住民の構成もきわめて良好だった。

    さらに祖宗の山――白頭山が近かったので、祖国を瞬時として忘れることのできなかったわれわれは、その荘厳な山容から大きな精神的な慰みと鼓舞をうけたものである。すがすがしく晴れ渡った日には、遠く西南の空に銀灰色の白頭連峰が望めた。はるかなその遠景に見入っていると、早く武装をととのえて祖国のふところにいだかれたいという衝動に駆られた。たとえ祖国を離れ異国で武装闘争を開始するとはいえ、白頭山が望めるところで抗日の銃声を上げたいというのは、われわれの一致した念願であった。

    わたしは敦化での講習会を終えたのち、四月にすでに安図へ行って大衆団体の活動を指導したことがあった。

    そのころ、母は病気がちでかなり衰弱していた。医術が未発達なころだったので病名もわからず、母は「癪」だろうといっては、煎じ薬を飲んでいた。

    母は自身の病気は一向にかまおうとせず、一銭の金も持たずに各地を巡り歩くわたしのことを気にかけながら、婦女会活動にうちこんでいた。

    2か月ぶりに安図に向かうわたしは、母への思いが脳裏から離れなかった。

    安図に着いたわたしは、思いのほか明るい母の顔色を見て胸をなでおろした。家のことは心配せず、祖国解放のたたかいに専念するようにといつもいいながらも、わたしに会うと喜びをかくせず、明るい表情をつくってみせる母だった。

    わたしが帰ったと聞いて、万景台の祖母が履き物もはかずに飛び出してきて、わたしを抱きしめた。父が亡くなった年に満州へやってきた祖母は、その間、郷里へ帰らず、撫松で母と貧しい暮らしをともにしていた。わたしたち一家が撫松から安図へ移ったときも、祖母は母に同行した。安図では興隆村の英実の母の実家に身を寄せ、両家を行ったり来たりしていた。

    英実は亨権叔父の一人娘だった。

    亨権叔父が逮捕されてから、叔母(蔡燕玉)はノイローゼにかかっていた。結婚して娘をもうけたばかりで、むつまじく暮らそうとしていたやさきに、不幸にも夫が監獄に捕われる身となったのだから、無理もないことだった。

    亨権叔父が十五年の懲役刑を言い渡されたので、わたしは手紙で叔母に、子どもを人にあずけて再婚するようにと勧めた。しかし、叔母はそれに従わなかった。夫を亡くした兄嫁も1人で苦労しながら3人の子を育てているのに、どうして生きている夫を捨てて再婚などできるものか、自分が再婚すれば監獄の夫はどんなに気を落とすだろう、それに、自分が英実を手放して再婚したとしても、それで気持よく眠れ、食事が喉を通るだろうか、だからそんなことは二度といわないでほしい、というのだった。叔母は貞節で気丈夫な女性だった。

    母は安図に転居したとき、気晴らしをするようにといって、それまで一緒に暮らしていた叔母を興隆村の実家に帰したのだった。

    祖母はその英実の母の実家で起居しながら嫁の介護をし、話し友達にもなっていた。そして病身のわたしの母のことが気になると、急いでやってきて、薬を煎じたり、台所仕事をしたりするのだった。病弱な2人の嫁の世話をやかなければならなかったのだから、祖母もずいぶん気苦労したであろう。

    祖母が郷里に帰らず異国の地で何年もすごしたのは、孤独な2人の嫁を哀れんだからに違いない。

    わたしが安図に到着した日の晩、祖母はわたしと枕を並べて寝た。

    深夜、目をさますと、祖母がわたしの頭を腕に抱いていた。わたしが眠っているあいだに、枕を押しのけてわたしを抱き寄せたのだろう。わたしは祖母の気持を思うと、枕の方へ頭を移すことができなかった。

    そのときまでもまだ眠っていなかった祖母が、わたしにそっと話しかけた。

    「おまえ、里のことを忘れたのではないかい」

    「忘れるはずがあるものですか。わたしは片時も万景台のことを忘れたことがありません。国もとの一家親族のみなさんが懐かしくてたまらないのです」

    「わたしが満州へ来たのは、おまえたちをみんな連れて帰ろうと思ったからだよ。おまえは連れていけないにしても、母さんや弟たちをみんな連れて帰るつもりだった。でも、おまえの母さんが承知しないのだよ。国を取りもどすまでは二度と鴨緑江を渡るまいと誓ったのに、成柱の父さんが亡くなったからといって、どうしてその決心をひるがえせようかというのだよ。どんなに強く決心したものか、撫松を発つとき、一度も後ろをふりかえろうとしなかった。だから、くにへ帰ろうとは二度といいだせなかったよ。ここに残るほうが朝鮮の独立にもっとためになるのなら、わたしはなにもいわずに一人で万景台へ帰る。くにのことを思い出して、おじいさんやおばあさんに会いたくなったら、ときどき手紙を出しておくれ。そしたら、おまえたちに会ったと思えるからね。わたしは、ここへはしょっちゅう来られないのだから」

    その後、わたしは祖母の希望に一度も添うことができなかった。

    祖国の新聞にたびたび掲載されるわたしの名と抗日遊撃隊の戦果が、わたしの消息を伝えているのだと思って、あえて手紙を書こうとしなかったのである。祖母は、おまえが仕事にうちこもうとすれば、母さんが達者でなければならないのに、病気はつのる一方だし、それでも仕事には身を惜しまないのだから困ったものだ、とそっと溜息をもらした。

    それを聞くと、わたしは母のことが心配で眠れなかった。一家の責任を負った長男として、万景台の家門を引き継ぐ長孫として、考えさせられることが多かった。

    当時、われわれとともに革命に参加した青年のあいだには、戦いの道に立ったからには当然、家のことなど忘れるべきだという心情が支配していた。家のことを考えるようでは大事をとげることができない、というのが青年革命家たちの心情だった。

    わたしは早くからそんな見解を批判し、家庭に愛着を覚えない者は、祖国も革命も心から愛せるものでないといってきた。

    ところが、わたしはわが家をどれほど愛し、そのためになにをしたというのだろうか。革命に献身することこそ親兄弟を真に愛することだというのが、当時のわたしの孝行についての考え方だった。わたしは革命を離れた純粋な孝心というものを考えたことがない。なぜなら、家庭の運命と祖国の運命は切っても切れない密接な関係にあるからである。国が平安なら家庭も平安であるというのは一つの常識である。国の悲運は、それを構成する数百万の家庭にもおよぶものだ。したがって、家庭の安泰と幸福を守るためには国を守らなければならず、国を守るには各人が公民としての義務をりっぱに果たさなければならないのである。

    しかし、革命をおこなうからといって家庭を忘れることはできない。家庭を愛する心は革命家をたたかいへ奮い起こす一つの原動力である。家庭を愛する心が冷めるとき、革命家の闘争意欲も同時に冷めるのである。

    わたしは家庭と革命のこのような相関関係を原理的には理解していたが、革命に一身をささげた革命家の場合、家庭をどのように愛するかということでは、まだはっきりした見解をもてずにいた。

    朝、目をさまして家の内外を注意してみると、男手の必要なところがいろいろとあった。たきぎもほとんどなかった。

    わたしは、今度帰った機会に母の手助けをし、できるだけ家族の面倒をみようと決心した。その日は、ほかのことはなにもしないことにして哲柱と一緒に山へ登った。柴を刈ることにしたのである。

    ところが、どうしてそれに気づいたのか、井戸端へ行っていた母がトワリ(頭に物をのせるときの敷き物)と鎌を持って、あとを追ってきた。家へ帰るようにといくら頼んでも聞き入れなかった。

    「手伝ってあげようとして一緒に行くんじゃない。山へ行っておまえと話をしたいのだよ。ゆうべは、おばあさんがおまえと長いこと話したじゃないか」

    母はこういって、明るく笑った。

    わたしは母の気持が理解できた。家では、祖母がわたしをほとんど一人じめにした。祖母がそばを離れると、今度は弟たちがまつわりついた。

    母は柴を刈りながら、ずっとわたしと語り合った。

    「おまえ、崔東和という人を知っているかい?」

    「知っていますとも。共産主義運動をしている人のことでしょう」

    「先日、その人が訪ねてきてね、おまえがいつごろ安図へ帰ってくるのか、帰ってきたら知らせてほしい、おまえとひとつ論争をしてみたいというのだよ」

    「そうですか。その人がどうして、わたしと論争をしたいというのでしょうか?」

    「おまえがほうぼうで、五・三〇暴動は間違った暴動だったと宣伝しているのが気に入らないんだって。上部が支持し、後押しをした暴動なのに、成柱のような分別のある人間がなぜそれを非難するのかわからないって、頭を振っていたよ。おまえはもしかしたら人びとに嫌われてるんじゃないの?」

    「そうかも知れません。わたしの主張を快く思わない人たちがいるようです。で、お母さんはそのことをどう思います?」

    「わたしに世間のことがわかるものかね。ただ、人びとが大勢殺され、つかまっていくので、たいへんなことになったと思ってるんだよ。中心になる人たちがみんないなくなったら、革命は誰がするのだろうかってね」

    わたしは素朴ながらも明快な母の考え方が気に入った。人民の目はつねに正しい。人民が判断できない社会現象などありえないのである。

    「お母さんのおっしゃるとおりです。崔東和よりお母さんのほうがよっぽど正しく問題を見ています。暴動の被害はいまだになくなっていません。わたしはその被害を収拾しようと、今度また安図へ来たのです」

    「じゃ、おまえはこの前の春のように今度もまた忙しいんだね。それなら、きょうみたいに二度と家のことなんかにかかずらっていないで、その方の仕事を一生懸命にするのよ」

    母がわたしにいいたかったのはこれだった。そのことをいいたくて、母はわたしに崔東和の話を引き出したのである。

    わたしは母の望みどおり、組織づくりに専念した。安図でも五・三〇暴動の被害は大きかった。それにもかかわらず大衆を組織化する活動は円滑に進んでいなかった。安図を革命化するにはなによりもその一帯で党組織を拡大し、党員を増やし、党の組織指導体系を確立しなければならなかった。

    われわれは、一九三一年六月中旬、金正竜や金日竜などのアクチブたちで安図県小沙河区党委員会を組織し、さらに二道白河、三道白河、四道白河、大甸子、富爾河、車廠子などにオルグを送って基礎党組織をつくるよう任務を与えた。

    区党委員会を組織したわれわれは、その後、柳樹河、小沙河、大沙河、安図などで共青組織を拡大する一方、農民協会、反帝同盟、革命互済会、少年探検隊などの反日団体もつくった。

    こうしてその年の夏、安図地方では大衆を組織化する基礎作業が完了した。組織づくりがなされなかった村は一つもなかった。

    安図を革命化するうえでの最大の障害は、革命の隊伍が四分五裂していることであった。

    安図は川をはさんで江南、江北の二つの集落からなっていた。ところがそれらの集落には別個の青年会組織がつくられていた。江北の青年組織は正義府の流れをくむ者が、江南の青年会は沈竜俊など参議府系の者がそれぞれ統轄していた。この二つの組織が張り合っているところへ、崔東和の指導するM・L系青年組織が割りこんで、青年運動内部は錯綜していた。

    そこでわれわれは、青年組織の再建にとどまらず、それらを一つの組織に統合する方向へと青年を啓蒙し、導いていった。われわれが青年運動の分裂をはかるささいな企図にたいしても仮借のない批判を加え、警戒を怠らなかったので、崔東和のような派閥争いをこととする人たちでさえ、安図地区に統一的な青年組織をつくろうというわれわれの見解に慎重に対応せざるをえなかった。

    安図の革命化では、敵対分子の妨害策動もまた激しかった。

    倫や五家子では村長もわれわれの影響下にあったが、興隆村では村長が悪質地主の穆漢章とぐるになってスパイ行為を働いた。彼は村人や大衆団体の動静を探っては城市へ報告に駆けつけた。そこでわれわれは、興隆村で、大人から子どもまで全村民が参加する弾劾集会を開いて、村長を追放してしまった。

    すると数日後、穆漢章がわたしを訪ねてきて、こんなことをいった。

    「金先生が共産主義者であることは、わたしも前から気づいていました。ところが、わたしはふだん旧安図におり、ここには配下の保衛団だけがいるので、どうにも気がかりでなりません。あの無知な者どもが金先生の正体を知って危害を加えでもしたら、わたしはすべての共産主義者を敵にまわすことになりかねません。だからといって、いままでどおりにすごすわけにもいきません。日本人に知られたら、わたしの首が危ないのです。ですから、お互いに悪くないようはからうのがよくないでしょうか。それで、金先生はここを去っていただきたいのです。旅費が必要ならいくらでも都合してさしあげますから」

    わたしは彼の言い分をすっかり聞いてから、こういった。

    「ご心配にはおよびません。わたしは、あなたが地主であっても、中国人の良心があると信じており、中国を奪おうとする日帝を憎んでいると思います。だから、あなたがわたしたちに反対し、危害を加えるわけはないと思っています。わたしもまた、あなたや中国人青年の保衛団員を悪く思っていません。あなたが愚劣な人間なら、こんなことはいいません。わたしのことを心配するより、まずあなた自身が日本人の狗だといわれないよう気をつけたほうがよいでしょう」

    穆漢章はこういわれると、黙って興隆村を去った。

    その後、穆漢章と保衛団はおよそ中立的な立場に立ってわれわれに慎重な態度をとり、新任の村長もわれわれの顔色をうかがいながら、やむをえない場合だけ行政任務を遂行した。

    もし、われわれが安図で大衆組織化の方針を適時に実行しなかったとしたら、白色テロの吹き荒れた間島で穆漢章のような大地主を屈伏させて中立を守らせ、有名無実な存在に変えることはできなかったであろう。

    組織化された大衆の力はじつに大きく、その力の前では不可能という言葉が通用しないものである。

    興隆村とその一帯の革命組織は活気にみちて、勢力を広げていった。

    

    

      2 九・一八事変

    

    

    安図の革命組織が活発に動きはじめると、その成果を広げるために一九三一年の夏から初秋にかけて、わたしは和竜、延吉、汪清一帯に出かけて五・三〇暴動以後、四散していた大衆を結集する活動をおし進めた。

    わたしが敦化を拠点にして安図、竜井、和竜、柳樹河、大甸子、明月溝などの同志たちと連係を保って活動を進めていたとき、九・一八事変が勃発した。そのとき、わたしは敦化近くの一農村で共青のアクチブたちの活動を指導していた。

    そうした九月十九日の早朝、陳翰章がわたしのところへ駆けつけてきて、関東軍が奉天を攻撃したと伝えた。

    「戦争だ! 日本軍がついに火ぶたを切った!」

    彼は重い荷物を背負った人のようにあえぎながら、縁先にへなへなと座りこんだ。「戦争」というその一言は、涙ぐましいまでに悲壮な響きをもって彼の口からほとばしりでた。

    かなり以前から予想していた事変であり、その時期もほぼ適中してはいたが、それが朝鮮民族と数億の中華民族にはかり知れない災難をおよぼし、わたし自身の運命をも大きく左右するであろうと思うと、息づまるような緊張を覚えた。

    その後、われわれはいろいろな経路を通じて事態の真相をつかむことができた。

    一九三一年九月十八日の夜、瀋陽北大営の西方にある柳条溝で日本満鉄会社所有の鉄道が爆破された。日帝は、張学良軍が鉄道を爆破し日本軍守備隊を攻撃したと喧伝して不意の侵攻を開始した。日本軍は北大営を一挙に占領し、翌十九日朝、奉天飛行場を手中におさめた。

    瀋陽についで、安東、営口、長春、鳳城、吉林、敦化など東北地方の大都市が、関東軍と鴨緑江を渡った朝鮮駐屯軍によってつぎつぎに占領された。わずか五日足らずのあいだに、日本侵略軍は遼寧省と吉林省の広大な地域をほとんどしめ、戦域を拡大しつつ錦州へ肉迫した。

    文字通り電光石火の進撃だった。

    日本帝国主義者は事件の真相を隠蔽し、中国側に責任を転嫁したが、それを真にうける者は誰もいなかった。狡猾な日帝の本性をあまりにもよく知っていたからである。後日、事件を引き起こした当事者も認めたように、満鉄会社の鉄道を爆破して九・一八事変の導火線に火をつけたのは、関東軍の特務機関だった。われわれは当時、出版物を通して柳条溝事件は満州占領を画策する日帝の謀略であると暴露した。

    関東軍が満州事変をひかえて待機状態に入っていた一九三一年九月十八日の朝、その画策者の一人、土肥原賢二大佐(瀋陽特務機関長)が突然ソウルにあらわれた。彼は朝鮮駐屯軍司令部の高級参謀神田正種に会って記者連中がうるさくて君を訪ねてきたと、その朝鮮訪問理由をほのめかした。満州事変が起きれば、記者たちのうるさい質問攻めにあうだろうから、事前にそれを避けて朝鮮に来たというわけである。

    同じころ、日本航空本部長渡辺錠太郎大将はソウルを訪れ、朝鮮駐屯軍司令官林銑十郎大将とともに白雲荘という料亭で宴会を開いたりして休息していたという。満州事変のような大事変を引き起こした男の

    行動としては、あまりにも安穏で余裕のある行動だったといえるのではなかろうか。

    この歴史の記録をひもとくと、なぜか朝鮮戦争の勃発当時、トルーマンが別荘で休暇をすごしていたことが想起される。われわれが九・一八事変と朝鮮戦争という相異なる二つの戦争を比較してみるのは、二つの戦争がいずれも宣戦布告なしに突発的に開始されたということのためだけではない。それらの事変を引き起こした者たちには、ともに帝国主義者に特有な狡猾さと破廉恥さ、侵略的野望と支配主義的本性が見いだされるからである。

    歴史を、くりかえされない事件の累積だという人もいるが、その個々の事件のあいだに類似性や共通した傾向が見られるのも、また無視できない事実である。

    われわれは、日本が九・一八事変のようなことを引き起こして満州を占領するだろうということは、すでに予想していた。日本帝国主義者が張作霖の爆死事〔 〕件を引き起こしたときにもそれを予感したし、万宝山事件によって朝中人民の険悪な対決状態がかもされたときにもまた、それを予感した。そして「農学士」の肩書きをもってスパイ活動をしていた関東軍参謀本部付きの中村大尉の「失踪」事件が起きたときにも同様なことを予感した。

    わたしはとりわけ、万宝山事件が起きたとき大きな衝撃をうけた。

    万宝山は長春の西北方三十キロほどのところにある小さな農村である。万宝山事件というのは、その村で用水路問題をめぐって朝鮮人移住民と中国原住民とのあいだに生じた紛争のことである。朝鮮人移住民が水田をつくるさい、伊通河から用水路を引いたのだったが、その用水路が中国人の畑地を侵した。それに、伊通河をせきとめれば、雨期に川が氾濫するおそれがあったので、原住民は水路工事に反対した。

    そんなときに、日本人が朝鮮人に工事を強行するようそそのかした。こうして紛争は拡大し、それが朝鮮国内にまで波及して人命や財産にも被害をおよぼす騒ぎとなった。農村によくある小さないざこざが、民族離間策にうまうまと乗せられて大きな事件に拡大したのである。

    もしあのとき、日本人が離間をそそのかさず、また朝中農民のなかに先覚者がいて、少しでも理性的に判断をしていたなら、紛争は口論程度で終わり、暴力沙汰にまで発展することはなかったであろう。この事件の結果、朝中人民のあいだには大きな誤解と不信が生じ、反目し合うまでになった。

    そのとき、わたしは夜も眠らずに考えつづけた。日本帝国主義者のために同じような不幸をなめている両国の人民が、なんのために対立し、血の雨を降らさなければならないのか、抗日という大前提のもとに両国人民が手を握って共同闘争に奮い立たなければならないときに、用水路のようなささいな問題をもって「骨肉の争い」をくりひろげるとはいったいなんとしたことか、なんのために、誰のためにそんな惨事が引き起こされたのか、はたしてそれは誰の利益となり、誰の損害となるのか、と考え、そしてまた考えた。

    ふとわたしは、その事件があらかじめ仕組まれたドラマ、さしせまった重大事件の序幕ではないかと思った。なによりも長春領事館が農民の偶発的な衝突に介入して、朝鮮人の権益「擁護」をうんぬんしたことからして解せないことだった。「土地調査令」という略奪的な法規をもって朝鮮の農土を奪い、殺人的な農政を実施している者たちが、突然、保護者に変身して朝鮮農民を「擁護」するなどというのは、世人の嘲笑を買う一つの政治戯画にすぎなかった。長春の『京城日報』支局があわただしく本社へ万宝山の紛争を知らせたのも、それをいち早くうけて国内で号外を出す騒ぎを起こしたのも、やはり見逃せないことであった。

    朝中両国人民の離間を策していた日帝の謀略機関が、局地的ないざこざを機敏に利用して大謀略事件をでっちあげたのではなかろうか? だとすれば、彼らはなんのためにそのような謀略をめぐらしたのだろうか?

    われわれが間島奥地で革命組織を立て直していたとき、日本帝国主義者は明らかに何事かを大急ぎで準備していたのである。

    万宝山事件の余波がまだ消えやらぬその年の夏、突如として中村大尉の「失踪」事件がもちあがり、中日関係を戦争瀬戸際へと追いやった。「失踪」事件につづいて日本本土では連日、ただならぬ出来事が起こった。東京の青年将校が靖国神社に集まって中村の慰霊祭を催し、各人の血をもって日章旗を染め出した。そして、それを社頭にひるがえして国民の戦争熱をあおった。また、さまざまな満州関係団体が満蒙問題各派連合大会なるものを開き、実力行使によってのみ満蒙問題の解決が可能であると喧伝した。

    わたしはそのとき、日帝の満州侵略はもはや時間の問題だと判断した。判断の根拠には事欠かなかった。

    朝鮮占領後は満蒙を攻略し、ついで中国を掌握し、さらにアジアを制覇するというのは、「田中上奏書」にももられているように日本の基本的国策であった。東亜の盟主を夢見る軍国主義日本の鉄輪は、そうした国策にそって休むことなく回転していたのである。

    日本帝国主義者は中村大尉の「失踪」事件を口実に、関東軍兵力を瀋陽に集結し、攻撃態勢をとった。

    そのとき陳翰章は、日本軍の満州占領は目前に迫っているが、赤手空拳にひとしいわれわれはどうすればよいのか、と不安の色をかくせなかった。彼は国民党軍閥の張学良になにがしかの期待をかけていた。彼らはこれまで優柔不断な態度をとってきたが、いったん国権が侵される事態になれば、中華民族にたいする体面を考え、さらには数億人民の圧力に押されて、抵抗に踏み切るだろう、というのだった。

    わたしは彼に、国民党軍閥の抵抗を期待するのは妄想だといった。

    それは張作霖の爆死事件を想起すればわかる。それが関東軍の謀略であることは明白であり、ゆるぎない証拠まであるというのに、東北軍閥は真相の究明はおろか、関東軍に一言の抗議もしなかった。そればかりか、日本人弔客まで故人の霊前に招き入れたのである。それをたんなる慎重さ、脆弱さ、優柔不断と見るべきだろうか。国民党は共産党の撲滅と労農紅軍の「討伐」に血道をあげ、数十万の大軍を江西中央ソビエト区に投入している。日帝に国土の一部を割譲するようなことがあっても、共産党と労農紅軍を撲滅しようというのが国民党の本心だ。外部の敵と戦う前に共産主義勢力を粛清し、国内の政局を安定させようというのが国民党の路線なのである。ところが張学良は父親の爆死後、国民党側に完全に傾き、その呪うべき路線に盲従している。だから抵抗はありえないし、彼に期待をかけるのは愚かなことである。

    陳翰章はわたしの説明を慎重に聞きながらも、同意はしなかった。張学良がいかに国民党の路線に追従していようとも、彼らの政治的・経済的・軍事的地盤である東北地方を完全に失う危機に陥れば、侵略者に抵抗しないわけがあろうか、と軍閥にたいする期待を捨てようとしなかった。

    そのやさきに九・一八事変が勃発し、数十万を数える張学良軍がなんの抵抗もせずに瀋陽を明け渡したのである。それで陳翰章も顔色を変えて、わたしのもとへ駆けつけてきたのだった。「わたしは愚かな妄想家だった。まったくの世間知らずだった」

    彼はこういって、身震いした。彼の興奮はおさまらず、なおも自分を責めたてた。

    「張学良のような男が東北地方を守ってくれると考えたのだから、わたしはなんて愚かな人間だろう。張学良は中華民族の信頼を裏切り、抗日を放棄した卑怯な敗戦将軍だ。以前、瀋陽に行ってみると、全市に彼の軍隊がひしめいていた。どの通りを見ても新式銃を持った軍隊の姿があった。ところがその多くの軍隊が銃を一発も撃たずに退却したのだから、こんなくやしいことがどこにある。いったいこれをどう理解すべきだろうか」

    いつもは沈着で温和な陳翰章が、その朝は興奮をおさえることができず、喉をからして叫びつづけた。

    張学良はのちに抗日を主張し、国共合作にも寄与したのだが、満州事変当時は評判がよくなかった。

    わたしは陳翰章を部屋に招き入れて穏やかになだめた。

    「気を静めたまえ。日本軍の満州侵攻はすでに予想していたことではないか。だから、いまさらそんなに騒ぐことはない。われわれは事態のなりゆきを冷静に見守り、それに対処する準備をととのえるべきだ」

    「もちろんそうすべきだ。だが、こんなにくやしいことがどこにある。わたしは張学良に期待をかけすぎたようだ。ゆうべはまんじりともしなかった。一睡もできず苦しみもだえたあげく、駆けつけてきたのだ。張学良の東北軍がどれくらいになるか知っているかね。ざっと見て30万はいる。三十万! 三十万というのは簡単な数字ではない。ところがその30万が銃一発撃たずに、一晩のうちに瀋陽を明け渡したのだ。…ああ、わが中華民族がそんなにもろくて無気力だというのか。孔子と孔明、杜甫と孫文の中国がこんなにたやすく滅びるというのか!」

    陳翰章は胸をたたいて痛嘆した。目からはとめどなく涙が流れ落ちていた。

    彼が民族の悲運を前にしてあれほど胸をかきむしり、悲嘆に暮れたのは当然のことだった。それは祖国を愛する人だけがいだく清い感情であり、神聖な権利であった。

    わたしもいつだったか、郷里の松の根方で日帝に踏みにじられた祖国を思い、人知れず涙を流したことがあった。それは、平壌市内で日本の警官に足蹴にされ、傷だらけになってうめきもだえていた老人の姿を見て、家へ帰ってからも終日憤りをおさえることができず、万景峰で一日をすごしたある日曜日の夕方のことである。

    わたしはその日、陳翰章と同じように、わが国の歴史が5,000年にもなるというのに、その悠久な歴史を誇る国がどうして一朝にして亡国の屈辱をさらしたのか、この屈辱をなにをもってそそぐべきかと憤り、悲しみながら考えた。

    そうしてみると、わたしと陳翰章はまったく同じ亡国の屈辱を体験したことになる。それまで、われわれは共通の理念によって接近したのだが、その日からは共通の境遇によって友情をさらにあたためることとなった。同病相憐れむという言葉もあるとおり、人間は不幸なときほどより親密になり、友誼と愛情を深めるものである。かつて朝中人民と共産主義者があれほど容易に兄弟のように親しみ合えたのは、境遇と目的、偉業の共通性によるものであった。帝国主義者は利潤のために一時的に結びつくが、共産主義者は共通の闘争目標である人間の解放と福祉を実現するために、強固な国際主義的団結をなしとげるのである。わたしは陳翰章の悲しみを自身の悲しみとし、中華民族の受難を朝鮮民族の受難としてうけとめた。

    もし、数十数百万の大軍を動かせる位置にあった蒋介石や張学良など政界や軍部の首脳に、敦化の素朴な一青年と同じ愛国心や洞察力があったとしたら、事態は変わっていたであろう。彼らが民族の運命を自分一個人やその党派の利益よりも上において連共に踏み切り、全民衆と軍隊を抗戦へと呼び起こしていたなら、日帝の侵略をその第一歩から挫折させ、領土と人民をりっぱに守り抜いたことであろう。

    しかし彼らは、祖国も民族も眼中になかった。

    日本が満州事変を引き起こす前にすでに、蒋介石は張学良の東北軍に、「日本軍側からの挑戦があった場合、慎重を期し、あらゆる手をつくして衝突を避けること」という内容の命令書を送り、軍隊の抵抗を事前に抑制した。それはのちに中国数億人民の憤激を呼んだ。

    九・一八事変勃発後も蒋介石の南京政府は、中国人民と中国軍は日本軍に抵抗することなく平静と忍耐を発揮せよ、という投降主義的な声明を発表して軍隊と人民の士気を落としていた。満州の運命はすでに九・一八事変前に決まっていたわけである。そればかりか蒋介石政府は代表を東京へ送って日本政府と秘密交渉を進め、日本が中国の他の地域を占領しないという条件つきで、中ソ国境地帯の日本帝国主義者への割譲に同意する売国行為をあえてしたのである。

    蒋介石が数億の人口と数百万平方キロの領土を誇る一国の主席としての自尊心まで投げ捨てて、日本人に国土のかなり大きな部分を譲渡する軽挙妄動をあえてしたのは、彼が日本の大砲よりも地主、買弁資本家、国民党の官僚に抵抗する国内人民の銃口をより恐れたからであった。

    こうして、三十万の東北軍はその二五分の一にもみたない関東軍に追いまくられ、無尽蔵の天然資源を持つ広大な満州全土を捨てて敗走したのである。

    わたしは亡国の悲憤に慟哭する陳翰章にこういった。

    「もはやどの党派や軍閥、政治勢力も頼りにならなくなった。ただ自分自身と自分の力に頼るほかない。大勢はわれわれ自身が民衆を武装させて反日戦に踏み切ることを求めている。生きる道は武器を取ることにある」

    陳翰章は無言でわたしの手を握った。

    わたしはその日、陳翰章の気分を転換させようと、終日、彼と一緒にすごした。亡国の悲しみなら、実際にはわたしの方がもっと大きかった。陳翰章は祖国の一部を失ったにすぎないが、わたしは祖国のすべてを失った亡国の子だからである。

    陳翰章から、ぜひ家へ行こうと誘われて、翌日、わたしは彼と一緒に敦化へ向かった。

    九・一八事変は朝鮮と中国のみならず、世界を震憾させた。日本の朝鮮占領に驚愕した世界が、九・一八の砲声にまたも驚かされたのである。人類はそれを第2次世界大戦の開始と見た。

    日本は九・一八事変を中日間の交渉によって解決できる局地的な突発事件であるかのように宣伝したが、それを真にうける者はいなかった。世界の公正な世論は、日本の満州侵攻を主権国家にたいする乱暴きわまる侵略行為として糾弾し、占領地帯からの日本軍の撤兵を要求した。

    だが、アメリカをはじめとする帝国主義者は、日本の銃口がソ連に向けられることをひそかに期待して、日本の侵略行為に同調する態度をとった。国際連盟はリットン調査団を満州に送ったが、彼らは正義の側に立って是非を明らかにしようとせず、曖昧な態度をとって日本を侵略者とは断定しなかった。

    砲声が大陸をゆるがし、日本軍の猛攻にさらされた張学良の大軍が一朝にして崩壊し総退却すると、数億の人民は意気消沈した。日清、日露の戦争が生んだ「無敵皇軍」の神話はまたしても目の前の現実となったのである。やるかたない怒りとともに恐怖の波が朝鮮と満州、そして全アジア大陸をおおった。そうした恐怖の波のなかで、すべての武装力と政治勢力、革命団体、そしてあれこれの憂国の士や著名人士がその正体をあらわしはじめた。

    九・一八事変が勃発すると、すでに崩壊状態にあった独立軍の残存勢力はほとんどが山間奥地に追い立てられ、実力培養を叫んでいた人たちは日帝の前に膝を屈した。独立軍の兵士たちが銃を地中に埋め、肩を落として故郷に帰っていたとき、民族改良主義者は親日を唱えだした。そして独立宣言を連発して救国抗争を訴えた憂国の士は、『望郷歌』をうたい、そうこうとして海外へ亡命した。退却する張学良軍のあとを追い錦州や長沙、西安などに避難する独立運動家もいた。

    愛国と売国、反日と親日、自己犠牲と保身を分かつ錯綜した分化過程が、九・一八の砲声とともに民族内部で急速に進行した。各自がその人生観に従って、あるいは陽極に、あるいは陰極に引きつけられていった。満州事変は、民族一人ひとりの動向と本心を識別する一つの試金石となったのである。

    わたしはそのとき敦化で、陳翰章と数日にわたって九・一八事変にたいする論議をつづけた。最初はわれわれもかなりあわてた。武器を取る時機が到来したことは容易に判断できたが、日本軍がなだれのように押し寄せる状況のもとで、なにからどうはじめるべきかについては迷わざるをえなかった。しかし、われわれはすぐ冷静にかえり、事態のなりゆきを注視した。

    とりわけわたしは、日帝の満州侵略が朝鮮革命におよぼすであろう影響についていろいろと考えた。

    日本軍の満州出兵が現実となり、満州占領が既成の事実となったため、われわれは敵と直接対峙することになった。「三矢協約」にかこつけて日本の官憲はここ数年、中国反動軍閥の支援をうけながら朝鮮の独立運動家と共産主義者をきびしく弾圧したが、朝鮮国内の軍警が国境をこえて満州に入りこむことはまれだった。協約は日本軍警の越境を原則として禁じていた。

    満州地方で朝鮮の革命家を捜査し逮捕するのは、だいたい日本領事館警察が担当していた。

    満州事変以前は朝鮮占領軍も満州へ入ってこられなかった。ロシアの国内戦当時、シベリアへ出兵した日本軍が撤退するさい、中国側の了解を得て琿春に残った2個中隊が東北地方に駐屯している朝鮮占領軍のすべてであった。

    だが、九・一八事変によって、満州は日本軍がばっこする地帯となった。朝鮮からも上海からも、そして日本からも数万を数える日本軍がぞくぞくと満州へ入りこんできた。満州全土は一時、彼我入り乱れる最前線となった。朝鮮と満州を分けていた国境は日本軍の侵攻によって事実上除去された。

    日本軍の満州占領によって、そこを活動拠点にしていたわれわれのたたかいは大きな困難に直面した。日本の満州侵攻目的の一つが、満州一帯で高まる朝鮮人民の民族解放闘争を圧殺し、朝鮮国内の治安維持を容易にすることにあったのであるから、われわれの活動が常時、日本軍警の脅威にさらされることを覚悟しなければならなかった。

    朝鮮国内で適用されていた「新治安維持法」は、満州地方の朝鮮人にもそのまま適用されるに違いなかった。

    日本が満州にかいらい政府を立てれば、それもわれわれにとって大きな障壁となるのは明らかであった。実際にその後、日本がつくりあげた「満州国」はわれわれの活動にとって大きな障害となった。

    日本の満州占領はまた、その一帯に定着した数十万にのぼる朝鮮人の生活を塗炭の苦しみに追いこむに違いない。日本の侵略者がいないところで、総督政治の首かせを取り除こうとした朝鮮移住民の自由への期待は一場の夢と化し、なじみのない異国に生きる道を求めた彼らの離郷は無意味なものとなってしまうであろう。

    しかしわれわれは、九・一八事変をめぐって不利な点のみを考えたのではなかった。もし、われわれがそのようにして悲嘆の涙に暮れていたなら、二度と立ち上がることができず、絶望のふちに落ちこんでしまったことであろう。

    わたしはふと「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざを思い浮かべた。われわれの祖先が数千年の歴史的経験によって体得したその人生哲学が、わたしに深奥な真理を明かしてくれたのである。

    (満州は虎の穴に変わった。その穴で日本帝国主義という虎を捕えるのだ。いまこそ武器を取って戦うときなのだ。いま敵と戦って決着をつけなければ、われわれは永遠に人間扱いをされないだろう)

    わたしはこう考え、機会を逃さずに立ち上がるべきだと決心した。

    日帝は戦争勝利のために朝鮮における植民地支配を強化し、戦略物資の補給をはかって経済的収奪に血道を上げるであろう。民族的矛盾と階級的矛盾は極限に達し、朝鮮民族の反日気運はさらに高まるに違いない。われわれが武装隊伍を組んで抗日戦争に突入すれば、人民大衆は物心両面からわれわれを極力支援するであろう。

    中国の数億の人民大衆も、全民族的反日抗戦に立ち上がるはずである。

    きょうの満州侵攻はあすの中国本土侵略につながり、中国大陸は全面戦争の炎に包まれるであろう。

    自主精神の強い中国人民が祖国の前に迫った危機を腕をこまぬいて傍観するはずはない。われわれの側には、帝国主義の侵略を許さず、民族の自主権を擁護しようという一念に燃える中国の数多くの共産主義者と愛国者、自由と独立を愛する数億の兄弟がいるのだ。これまで朝鮮人を亡国の民として哀れんだ彼らが、いまやたんなる同情者から信頼すべき同盟者となって、同じ塹壕で同一の目標に銃口を向けることになるであろう。

    われわれの一翼には、つねに中国人民という偉大な同盟者、同盟軍がいるのだ。

    日本が中国本土へ戦争を拡大すれば、欧米列強の利害とも全面的に衝突し、それは新しい世界大戦を引き起こす導火線となるであろう。中日戦争が長期化し、日本が世界大戦に巻きこまれれば、彼らは人的・物的資源の欠乏と枯渇に悩むはずである。

    日本が満州を占領すれば、その支配区域が拡大する反面、支配力は必然的に弱化する。日本は植民地支配において従来の統轄密度を保てなくなるであろう。

    こうして世界が日本帝国主義を侵略者として糾弾し、日本は国際的に孤立するほかなくなるであろう。

    わたしは以上のすべてが、朝鮮革命に有利な戦略的局面を開くことになるだろうと確信した。

    張学良軍が総退却し、日帝侵略軍が怒濤の勢いで侵攻してくると、われわれの周囲では驚くべき事態が発生した。官公署の官吏や公安局の警官が業務を中断してわれ先に逃亡し、何日もたたないうちに軍閥の地方統治機関はすべて門を閉ざしてしまった。張学良軍の敗走によって軍閥の支配体制が麻痺したのである。

    日帝侵略軍は戦果の拡大に汲々として、治安の維持に力を入れることができなかった。こうして満州地方ではひところ無政府状態がつづいた。われわれは、日帝が大陸で支配体制を確立するまでそのような状態が当分つづくものと判断した。この空白状態こそ、われわれが自由に武装隊伍を組織する絶好の機会であった。この好機を逸してはならなかった。

    革命はまさに転機を迎えていた。

    朝鮮革命に課された任務を果たすには各自がなにをすべきかを決断し、その実現に向けて全力をつくすときがきたのである。

    九・一八事変は中国人民にたいする侵略であり、同時にその一帯に居住する朝鮮人民と朝鮮共産主義者にたいする攻撃でもあった。われわれは朝鮮の共産主義者として、当然それにこたえなければならなかった。

    わたしは、武装隊伍の組織を急がなければならないと考えた。

    

    

    

      3 武装には武装で

    

    

    九・一八事変によって、われわれには抗日戦争を遅滞なく開始すべき緊迫した課題が提起された。第2次世界大戦を予告する不正義の砲声に、正義の砲声でこたえる絶好の機会が到来したのである。

    日帝の満州侵略が伝えられると、革命家たちは地下から出てきてそれぞれ闘争態勢をととのえた。大陸をゆるがす砲声が、満州地方の人たちをわれにかえらせたといえよう。砲声は人びとを萎縮させたのでなく、むしろ覚醒させ発奮させた。敵の暴圧で焦土と化した満州地帯に再び闘争の気運が胎動しはじめたのである。

    われわれは、大衆を闘争のなかで鍛える好機が到来したと判断した。

    正直にいって、当時、満州地方の人たちは暴動の失敗後、挫折感にうちひしがれていた。革命を新しい段階に引き上げるには、彼らに自信をいだかせる必要があった。だが、それは檄を飛ばし、議論をたたかわせるだけで解決できるものではない。

    失敗をくりかえし、落胆している大衆に勇気と自信をいだかせるためには、彼らを新たなたたかいに決起させ、それを必ず勝利に導かなければならなかった。たたかいに勝利してのみ、大衆を悪夢のような深淵から救い出せるのであった。大衆をたたかいのなかで鍛えずには、何人かの先覚者が武装闘争をはじめたとしても、功を奏することはできないのである。

    九・一八事変の勃発は、東満州地方の人民をいま一度闘争に立ち上がらせる契機となった。国内人民の暴動的進出もまた彼らに大きな衝撃を与えた。

    国内では農民の小作争議と反日暴動があいついで発生していた。高原東拓農場、竜川不二農場、金堤多木農場などの小作争議はその代表的な例であった。

    竜川地区では一九二九年以後も農民の闘争があいついで起きた。当時、地元の組織はわれわれとの連係のもとによくたたかった。竜川にはわれわれの工作員がかなり送りこまれていた。

    永興の三千余の農民と三陟の二千八百余の農民は、九・一八事変後、「非常時局」と称してファッショ的弾圧と収奪を強める日帝に抗して大規模な暴動を起こした。

    そうしたときに、われわれは間島地方で秋収(秋の取り入れ)闘争を組織した。

    各地の闘争委員会は傘下に宣伝隊やピケ隊を組んでビラや檄文をつくり、闘争スローガンを決定するなど、十分な準備のもとに革命組織区別に秋収闘争に突入した。たたかいは小作料の引き下げを要求する合法的な経済闘争からはじまった。

    一部の歴史家はそれを「秋収暴動」と命名したが、わたしはそれを適切な表現だとは思わなかった。秋収闘争は五・三〇暴動の模倣でもむしかえしでもなかった。それは李立三の極左妄動的な思想的毒素を一掃したうえで、新たな戦術的原則に立って展開し勝利した大衆闘争であった。五・三〇暴動では分派分子が主役を演じたが、秋収闘争では新しい世代の共産主義者が舵を取り、大衆を導いた。

    秋収闘争は暴力を基本的な手段としたのではなかった。五・三〇暴動は変電所や教育機関に火を放ち、地主と資産家をすべて打倒し、放火、殺人をためらいなくおこなったが、秋収闘争の参加者たちは小作料を三・七制ないし四・六制にせよという正当な要求をかかげ、闘争委員会の統一的な指導のもとに隣接とも足並みをそろえて秩序整然と行動した。

    小作料の引下げ要求は、飢餓線上にあった農民の境遇からして、決して無理なものではなかった。その要求が正当であったからこそ、吉林省当局も小作料を三・七~四・六制(地主三~4割、小作人六~七割)とすると発表せざるをえなかったのである。

    農民の要求を受け入れる地主には決して暴力が用いられなかった。暴力は闘争委員会の要求をあくまでも拒む悪質地主や、農民のたたかいを銃剣で弾圧する軍警にたいしてのみ使用された。農民の要求に応じない頑固な地主の場合は、田畑でじかに三・七制または四・六制の割合で小作人の分を持っていくか、または倉庫を開放して分け合った。

    略奪的な東拓会社の金融部や高利貸し、日帝の支配に協力する朝鮮人居留民会のような反動団体も闘争対象となった。

    わたしが延吉地方で秋収闘争を指導して安図に帰ったある日のことである。

    五・三〇暴動後、日帝の捜査を避けて地下にもぐっていた崔東和がわたしを訪ねてきて、秋収闘争が暴力的な様相をおびはじめたといって憂慮を示した。

    安図地区で五・三〇暴動を扇動した張本人であり、暴動を極左的妄動だと指摘したわれわれに不満をもって論争を挑んだ彼が、一変して暴力有害説を唱えたのだから、驚かずにはいられなかった。

    「成柱君! いったいどうしたわけだ。五・三〇暴動を極左的妄動だと非難した君たちが、純然たる経済闘争に暴力を引き入れているのだから、これをどう理解すればいいのだ」

    崔東和はこういうと、腕を組んでわたしのまわりを歩きまわった。わたしの急所を突いたと、ほくそえんでいるようだった。

    「先生はなにか誤解しているようです。先生方が五・三〇のときに唱えた〝赤い暴力〟と、われわれが秋収闘争で行使している暴力が同じものだと思っているのですか」

    質問に質問をもって答えるのは非礼なことだと考えるいとまもなく、わたしはこう反問した。

    「もちろん、少しの違いはあるだろう。だが、いずれにせよ暴力には違いないはずだ」

    「われわれは正当な理由と妥当性のある場合にだけ暴力を使うのです。例えば、地主が農民の要求を聞き入れなければ、力ずくで米蔵を開けています。軍警が人びとをつかまえていくときは、実力で奪還闘争をしました。彼らが暴力をもって闘争を弾圧しても、われわれはそれに善をもってこたえなければならないのですか」

    「暴力には暴力でというマルクス主義の一般的原理を知らずに君たちを非難しているのではない。いまは一対一で腕力をふるうときでないのだ。五・三〇暴動はもう遠い昔のこととなった。われわれの革命は不幸にも退潮期に入っている」

    「退潮期ですって?」

    「そう、退潮期だ。二歩退却のときなのだ。ストルイピン反動期もおそらく、いまほどには絶望的でなかったろう。関東軍が一挙に全満州を占領したのが見えないのかね? 張学良の三十万大軍さえ退却したのだ。こんなときは革命勢力を露呈させずに保存すべきなのだ。敵をへたに刺激すると、この東満州でも庚申年(一九二〇年)の大『討伐』と同じ惨事を引き起こしかねないのだ」

    崔東和は秋収闘争が暴力闘争に発展するのを防ぎ、武器を取るのを中止させなければならないと主張した。彼は、われわれの武装闘争構想も時期尚早で、砂上の楼閣にひとしいものだといって反対した。

    崔東和との論争は骨がおれた。彼は頭が切れ、共産主義理論にも通じている知識人なので、なかなか折れようとはしなかった。彼は二言目には古典の命題を引き合いに出して自説を正当化するのだったが、そのいずれも筋が通っていた。彼を納得させるのは容易なことでなかった。

    彼の主張は結局、革命が退潮期に入ったというところに論拠をおいていた。彼は、日帝の大々的な武装攻勢や張学良軍の敗走、独立軍の崩壊などの不利な兆候を見るだけで、国内と東満州人民の暴動的進出にはまるで関心を向けようとしなかった。わたしの前には、確かに目は明いているが現実を見ることのできない明き盲が立っていた。

    反革命の攻勢と卑怯者たちの敗走をもって、ただちに革命の退潮期と見るのは正しくない。要は、革命の主体である人民大衆の動向にかかっているのである。

    崔東和は前世代の共産主義者がみなそうであったように、人民大衆の力をまるで信じていなかった。

    彼は人民大衆を革命の主体としてとらえることができず、その力を信頼するよりも過小評価した。

    わたしは、革命の退潮期をうんぬんする崔東和を通じて、前世代の共産主義者とわれわれとのあいだに根本的な違いがあることをあらためて感じた。彼らとわれわれのあいだに存在するすべての違いは結局、人民大衆にたいする観点からきているのである。同じ理想と目的を追求しながらも、われわれと彼らが協力できず、別行動をとるのは、ほかならぬそうした相違のためだった。

    わたしは彼にいった。

    「逆説だといわれるかも知れませんが、わたしは、人民大衆が日帝の侵略に屈することなく暴力的に進出しているいまこそ、革命の高潮期だと思います。われわれはこの高潮期を逃すことなく、秋収闘争が終わりしだい大衆をさらに覚醒させ、組織化して抗日闘争をより高い段階に発展させようと決心しています。大勢がどう動こうと、この決心は変わりも揺るぎもしないでしょう」

    崔東和はそれ以上なにもいえず、にがりきった顔をして帰っていった。

    崔東和などのような人たちは、革命的暴力の不可をうんぬんしてわれわれの行動にブレーキをかけようとしたが、われわれは自ら選択した道を一歩も踏みはずすことなく、確信をもって秋収闘争を指導した。

    10余万の間島農民は、一九三一年九月から年末まで、日本の軍警と反動軍閥の野蛮な弾圧にも屈せず血みどろのたたかいをくりひろげた。

    そうしたなかで、朝鮮民族の英雄的気概を示す伝説じみたエピソードが数多く生まれた。開区地方の人民がデモ中、豆満江の氷上で日満軍警を相手にくりひろげた果敢なたたかいは、一時、満州地方の人たちの魂をゆさぶるほどの話題になった。

    女性闘士金順姫の劇的な最期を伝える物語も、秋収闘争と春慌(春の端境期)闘争のなかで生まれた。金順姫は薬水洞の赤衛隊の隊員で秋収闘争委員会の委員であった。

    薬水洞にあらわれた「討伐隊」は産み月の彼女の腹を銃剣で突っつきながら、腹のなかになにがあるのかと聞いた。

    金順姫は自分を取り囲んでいる日本守備隊員と領事館付き警官をにらんで、「よくすれば王様だし、悪かったら大門前通りをうろつくおまえたちのようなものだ」という有名な返事をして、彼らを驚愕させた。彼女は秘密を守るために舌を噛み切った。そして、敵がつけた炎のなかでうら若い二十二歳の生を終えたのである。

    秋収闘争は農民の勝利に終わった。

    このたたかいを通して、東満州地方の人民は自信を得た。彼らは、闘争の勝敗があくまでも大衆自身の不屈の意志と指導方法にかかっているということを悟った。そして秋収闘争を勝利に導いた新しい世代の青年共産主義者に驚異の目を向け、そのまわりにかたく結集した。

    大衆は秋収闘争の勝利を通して五・三〇暴動が失敗した原因を知り、暴力の量が闘争の成果を決定する要因にはなりえないという真理を発見し、それを確信するようになった。五・三〇暴動が失敗したのは、投入された暴力が小さかったからではなく、秋収闘争が勝利したのもやはり、投入された暴力が大きかったからではない、ということを大衆は理解した。暴力は決して万能ではなかった。それは目的達成の一つの手段にすぎないのである。

    正義の目的に向けて、適時に行使される正しい、分別のある暴力のみがたたかいの勝利を約束し、社会の改造と歴史発展の促進に役立つのである。われわれはそのような暴力のみを支持している。

    要は大衆をいかに動かし、組織し、指導するかにある。そのような意味で、新しい世代の共産主義者は一つの手本を示したといえる。秋収闘争は経済闘争と政治闘争を密接に結びつけ、平和的方法と暴力的方法を適切に結合し、終始主導権を握って敵を受身に追いこんだ独特なたたかいであった。翌年の春慌闘争もそのような闘争であったといえる。

    秋収闘争を通して朝中人民の団結が強まり、朝中共産主義者の革命的なきずなも強まった。

    秋収闘争は人民大衆の覚醒を促し、きたえあげるりっぱな契機となった。闘争のなかで、素朴で平凡な人たちが闘士に、革命家に育った。東満州の革命組織は秋収闘争で鍛えられた数多くの中核によって隊伍をかためることができた。そのような中核が準備されたのは、まもなく開始される武装闘争にもプラスとなった。

    秋収闘争のなかで輩出した多くの青年革命家が後日、東満州各県で組織された遊撃隊の根幹となった。

    わたしは秋収闘争を指導しながら、武装闘争の構想を深めていった。闘争のなかで発揮された東満州人民の集団的英雄主義と不屈の闘争精神は、新しい段階の革命路線を模索していたわたしを大いに力づけ、われわれがいったん武器を取って日本帝国主義者と血戦をくりひろげるとき、大衆は必ずわれわれを支援するであろうとの確信を強めた。

    秋収闘争の炎が東満州全域に燃え広がっていた一九三一年十月、わたしはしばらく咸鏡北道の鐘城地方を訪れた。わたしが鐘城へ行ったのは国内の同志たちと武装闘争の問題を討議するかたわら、六邑一帯に派遣された工作員を集めて武装闘争と関連した重要な任務を与えるためだった。わたしを鐘城に案内したのは蔡洙恒と呉彬だった。

    鐘城は蔡洙恒の故郷で、妻の実家があるところであった。彼の先祖は旧韓国の末期まで当地で暮らした。曽祖父は、鐘城座首(郷庁の長)を勤めたことがある。彼の一家が祖国をあとにして和竜県の金谷に移ったのは「韓日併合」の直後である。

    彼は間島で成長したが、幼なじみの故郷につねに思いを馳せていた。彼はわたしと一緒に鐘城を訪れるときは、いつも喜びをかくせないでいた。

    ところが、今度はなぜか気持が沈んでいるようだった。

    わたしは秋収闘争によって蔡洙恒の家の米蔵もはたかれたのだろうかと思い、それとなくたずねた。

    「君の家も収奪の対象になったのではないのか?」

    彼の一家は富裕な地主だった。それに父親は貧乏人から毛嫌いされている徳新社の社長だった。

    「収奪だなんてとんでもない。うちでは農民が要求する前に3対7の割合で、畑でじかに穀物を分けたんだ」

    「さすがに県党書記の家庭は違う。ところで、どうして顔色がそんなに悪いのだ」

    「一部の人たちから、父を説得して社長をやめさせろといわれているのだけれども、父が聞き入れないのだ」

    彼は、父親が革命組織の指示で徳新社の社長になっているのを知らなかった。父は規律上、そのことを息子に打ち明けていなかったのである。蔡洙恒が父親を、話がわからないといって恨むのは当然だった。

    彼が頭を痛めているのはうなずけることだった。当時、上級党委員会の要職をしめている幹部のなかには、革命の利益に反する極端な要求を押しつけて下部の活動家を困らせる極左分子がいた。

    蔡洙恒は父親と階級的に「一線」を画さないという「罪」で、県党委員会の書記役を解任されたこともあった。もっとも彼は後で書記に復職していた。

    わたしは蔡洙恒の気分を転換させようと、武装闘争の問題を話題にした。彼は冗談まじりに、軍隊が組織されたら真っ先に入隊して機関銃手になるといった。

    「君は武官向きではない。文官が天分のようだよ」

    わたしは笑って、こう冗談をいった。

    しかし、それはわたしのほんとうの気持だった。わたしは彼をもって生まれた政治活動家だと考えた。彼が生き残って革命軍に入隊していたなら、間違いなく連隊か師団の政治幹部になっていたであろう。

    われわれが遊撃隊を創建して武装闘争を本格化していたとき、彼は大拉子付近で日本の「討伐」隊に殺されてしまった。

    呉彬は竜井東興中学校時代から運動選手として名を知られていた。彼は琿春県運動会の相撲競技に出場して優勝し、牛の大賞をもらったこともある、快活できびきびした青年だった。

    わたしは呉彬こそ革命軍の猛将になれる武官タイプだと考えた。人と交われば、彼が革命軍でどんな職務を担当できるだろうかと考える習癖がついたのは、そのころからだったと思う。抗日戦争を目前にした当時の緊迫した情勢が、わたしをそのような「打算家」にしたのであろう。

    石建坪渡し場から舟で豆満江を渡ったわれわれは、潼関鎮にある豆糧組合の大豆精選場に立ち寄った。そこでは、日帝が満州で略奪した大豆を等級別に選別して計量し、麻袋に入れて日本へ積み出す作業をしていた。

    われわれは間島からの出稼ぎ人夫を装って労働者の仕事を手伝い、彼らと話を交わした。

    われわれが間島から来たと知った彼らは、秋収闘争の話をもちだした。秋収闘争にたいする彼らの見解はおしなべて悲観的だった。日帝が満州を占領する前から、間島ではいろいろと暴動を起こしては失敗をくりかえしてきたではないか、だから日帝が満州を侵略しているときに秋収闘争のようなものを起こしたところで勝ち目はない、それも結局、五・三〇暴動と同じ運命をまぬがれないだろう、いまはどんな闘争をやっても成功しない、日本軍は旭日昇天の勢いにあり、強大国の国際機構まで日帝の肩を持っているのだから、弱小民族には頼るところがない、というのが労働者たちの共通した見方だった。

    わたしは彼らの話を聞いて、三つの点で深く考えさせられた。第一に、革命家が民心を把握するには、つねに大衆のなかに入らなければならないということ、第二に、武装闘争をはじめるにはなによりも大衆を政治的に覚醒させ、組織化する活動をいっそう積極的におし進めるべきであるということ、第三に、いかなる闘争であれ、大衆がその意義を十分に理解し、進んでそれに取り組まないかぎり、成功はおぼつかないということだった。

    労働者たちの虚無的ですてばちな意見を聞いたわたしは、われわれ共産主義者が一日も早く武装闘争を開始して、朝鮮民族に再生の希望、独立の希望をいだかせなければならないと痛感した。

    わたしはその日、光明村青年会会長崔成勲の家で国内政治工作員と地下組織責任者の会議を開き、武装闘争と関連した国内革命組織の課題を討議した。

    わたしは参会者たちに、九・一八事変後の急変した情勢と、わが国反日民族解放運動の歴史的教訓が組織的な武装闘争の展開をさしせまった要求としている、武装闘争の開始はわれわれの革命闘争の合法則的要求であり、質的な飛躍を意味すると強調し、軍事的準備を十分にととのえ、武装闘争の大衆的基盤をしっかりきずくという二つの重要課題を提起した。

    参会者たちは、組織的な武装闘争についての構想を聞くと興奮をおさえることができず、武装隊伍の組織を支援する創意的な意見を出して熱弁を振るった。

    武装闘争を展開するための革命武力の準備問題は、一九三一年五月の共樹徳会議ですでに討議され、確定していた。それにもとづいて開かれた光明村会議では、武装闘争を目前にひかえて、国内革命組織の実践的課題が討議されたのである。それは、国内の人民と革命家に送る武装闘争のシグナルであった。席上、武装闘争にたいして表明された国内革命家の積極的な支持は、わたしを大いに力づけた。

    わたしは鐘城で一泊しただけで間島に帰り、蔡洙恒、呉彬と別れた。われわれは十二月中旬に再び明月溝に集まって武装闘争の準備状況を総括し、武装闘争の具体的な方途と戦略戦術的問題を討議することにした。

    その後のわたしの日程は、すべて明月溝会議の準備にあてられた。

    会議の準備といえば、報告書や決定書などの文書の作成が念頭に浮かぶであろうが、そのときの会議の準備というのは、路線問題を構想し、戦略戦術を規定する模索の過程であった。成文化は二次的な工程にすぎなかった。

    わたしはとくに、武装闘争形式の選択に多くの時間をかけた。

    マルクス・レーニン主義の理論でも武装闘争の意義を強調してはいるが、どのような形式で武装闘争を展開すべきかという公式の規定はなかった。どの時代、どの国にも適合する処方などありえないからである。わたしは武装闘争の形式を模索するうえでも、ドグマにとらわれないように努めた。

    そして、武装闘争にかんする論議を深め、新しい情勢に対処する課題を討議するため、童長栄に会うことにし、東満州特委(東満州共産党特別委員会)を訪ねた。満州で武装力を創建し、抗日戦争をはじめるからには、中国共産主義者との協力を無視するわけにいかなかったのである。

    武装闘争問題は、満州地方の中国共産主義者のあいだでも日程にのぼっていた。中国共産党と中国の労農紅軍は、九・一八事変後、大衆を組織して日帝の侵略に抵抗し、手に武器を取って日本帝国主義者に打撃を加えようと呼びかけていた。

    同一の標的に銃口を向ける朝中共産主義者の前には、いかなる力によっても破壊されない強固な共同戦線を結び、緊密に協力し、支援すべき緊要な課題が提起された。

    特委書記に任命された童長栄は、途中で日本軍の「討伐」に遭遇したが、九死に一生を得て無事、竜井市内に入り、わたしに会うことを望んでいた。

    わたしは大勢の密偵が目を光らせている竜井市内へ行くのは危険だったので、彼に明月溝へ来てもらうことにした。

    ところが、まだ間島の実情に暗い童長栄は特委が他へ移動したことも知らず、その所在を探しているうちに密偵の触手にかかって獄につながれた。東満州特委から伝えられたその思いがけない知らせは、わたしを失望させた。満州省党委員会書記の羅登賢と省党軍事委員会書記の楊林は、九・一八事変後、瀋陽を離れ、行方がわからなかった。楊靖宇もまだ入獄中だったので、討議すべき人がいなかった。

    わたしはどんなことがあっても童長栄を救い出すべきだと決心し、その方法を同志たちと相談した。

    そのとき高宝貝(宝貝は変名)が、童長栄を救い出してみせるといった。マジシャンよろしく小手先の器用な彼は、「スリ」の名人だった。向かい合って話している人のポケットから、そっと万年筆を抜き取る芸当もやってみせた。高宝貝がそんないたずら好きだったので、彼のいるところでは、持ち物が「なくなった」という騒ぎがよく起こった。

    彼は竜井市内に入って、「スリ」をしてわざとつかまり、獄中の童長栄に会った。そして警官たちをどう丸めたのか、特委書記はほどなく留置場から出てきた。彼はその後、明月溝会議にも参加した。

    われわれは、一九三一年十二月中旬、明月溝で党および共青幹部会議を招集した。それは便宜上「冬の明月溝会議」と呼ばれている会議である。

    それには車光秀、李光、蔡洙恒、金日煥、梁成竜、呉彬、呉仲和、呉仲成、具逢雲、金喆、金重権、李青山、金日竜、金正竜、韓一光、金海山など、献身的なたたかいによって大衆から愛されている人望の厚い40数人の青年闘士が参加した。

    わたしはそのとき明月溝で、ヨンチェ(カラシナの一種)漬けというのをはじめて食べた。わたしが明月溝に到着した日、李青山の家で、夕食にインゲンをまぜたトウモロコシがゆとヨンチェ漬けを出してくれたのだったが、その味は格別だった。ヨンチェ漬けは咸鏡北道の吉州、明川地方の人たちが好んで漬けるもので、今日ではそれが国の宴会にも出されている。

    明月溝会議のとき、李光がどこからかキジを5羽捕ってきた。会議中、代表たちがトウモロコシがゆや粟飯ばかり食べているのに胸を痛め、共青の仲間をさそってキジ狩りをしたようだった。

    夕方、李青山はいい具ができたと喜んで、ソバを打った。明月溝の谷間では米はなかなか手に入らないが、ジャガイモのでんぷん粉はあった。

    ソバに目のない車光秀がおどけて、李光に「おい汪清のおじさん!キジがたったの五羽では腹の虫がおさまらんよ」とやじった。彼は胃腸病のせいで少食だったが、青年が大勢集まるところでは、大食漢ぶっていた。

    「吉林のやっこさん、トウモロコシがゆの一杯だってたいらげられないくせに、大きなことをいうんじゃない。その5羽のキジも穀物だわらに載せてかついできたもんで、こっちはへとへとなんだ」

    李光は、笑ってこう言い返した。

    車光秀は、キジが五羽では肉がいくらにもならないから、代表たちを二部屋に分けて、一方の部屋ではキジ肉入りのソバを食べ、他の部屋ではトリ肉のソバを食べてはどうかといってはしゃいだ。

    しかし、誰もそれに賛成しなかった。われわれはその日の夕方、キジ肉とトリ肉をまぜた具をつくり、一つの部屋でソバを仲よく食べた。大食漢の朴勲は三杯もたいらげて「そば大将」というあだ名を頂戴した。

    会議を成功させるため、われわれは本会議の前に李青山の家で予備会議をもった。ここでは会議の議案と会議参加者の資格、会順などの打ち合わせをした。

    予備会議をへて開かれた十日間の本会議では、武装闘争をどのような形式で進めるべきかが集中的に論議された。それが落着すれば、武装組織の形式や根拠地の形態など他の問題も同時に決定されるからである。

    国家がないので正規軍による抗戦は望むべくもなく、また全人民をただちに武装蜂起させることも不可能であった。だから、わたしはおのずと遊撃戦を志向せざるをえなかった。

    レーニンによれば、遊撃戦は、大衆運動がすでに暴動に転化したとき、または国内戦争で大戦闘と大戦闘のあいだに多少の中間期が生じたとき、不可避的に進められる補助的な闘争形式であると規定されていた。レーニンが遊撃戦を基本的な戦闘形式とせず、一時的、補助的な闘争形態と見たことが、わたしには歯がゆかった。なぜなら、そのときわたしが関心をいだいて探究を重ねたのは正規戦でなく、遊撃戦だったからである。

    わたしは、常備の革命武力による遊撃戦を武装闘争の基本的形式として選択する場合、それがわが国の実情に合うかどうかをいろいろと考えた。わたしは『孫子』を読み『三国志』も再読した。わが国の兵書としては『東国兵鑑』や『兵学指南』などを読んだ。

    遊撃戦の始原を紀元四〇〇年代と見る人たちがいるが、それが具体的にどの国でどう進められたのか、わたしには知るすべがなかった。

    マルクスとエンゲルスがもっとも関心を向けて研究した遊撃戦は、1812年の露仏戦争におけるロシア農民武装部隊の活動であった。露仏戦争が生んだパルチザン英雄ジェニス・ダビドフ、正規軍とパルチザンの連合作戦を巧みに指揮したクトゥーゾフ将軍の話は、遊撃戦に心を引かれるわたしの好奇心をいっそうそそった。

    遊撃戦を基本的形式と規定するうえで、壬辰祖国戦争はわたしに多くの示唆を与えた。わたしは壬辰祖国戦争を勝利に導いた義兵闘争を遊撃戦史上特出した位置をしめる一つの手本と見た。郭在祐、申石、金応瑞、鄭文孚、西山大師、そして崔益鉉、柳麟錫など義兵出身の名将が発揮した勇猛ぶりと多様な戦法は、わたしを完全に魅了した。遊撃戦という言葉が、爪先まで武装した日本帝国主義者との戦いを目前にしたわたしの心をとらえて放さなかった。

    ところが、遊撃戦は国家的後方や正規軍の支援を前提にするというのが問題である。マルクス・レーニン主義の創始者が明示したそのような付帯条件のために、わたしは武装闘争の形態を選択するうえで複雑な探求過程をへなければならなかった。後方としての国家もなく、正規軍も存在しない朝鮮の実情でも遊撃戦は可能かという問いには、誰も答えることのできない未知の問題であった。われわれのあいだではこれが深刻な論争の種となった。

    われわれの周辺では、革命を促す劇的な出来事がつぎつぎに起きていた。蒋介石と張学良の投降主義に不満をいだいた愛国的な旧東北軍将兵の造反があいつぎ、王徳林、唐聚伍、李杜などが張学良に反旗をひるがえした。馬占山のような将軍も反乱を起こして、武力による抗日を叫んだ。彼らを軸にして満州各地で反日部隊が組織され、救国軍運動がはじまった。

    そのような事態は、武装闘争を志向するわれわれにとってきわめて有利な環境をつくりだした。

    わたしは、武装闘争の形態には歴史的に正規戦と遊撃戦があり、そこでは正規戦が主導的で遊撃戦は補助的であったと説明し、われわれはこの二つの形態のうちの一つを選択すべきなのだが、わたし個人の考えでは遊撃戦のほうがわが国の実情に適している、正規戦の不可能なわが国の場合、既存の慣例にとらわれることなく、遊撃戦を主導的な闘争形態としなければならない、と強調した。

    「変化に富んだ遊撃戦こそ、われわれが選択すべき基本的な武装闘争形式である。国家のないわれわれの実情で、正規戦をもって日帝に対抗するのは不可能である。われわれは軍事的、技術的にも、量的にも劣勢な武力で強大な日帝侵略軍と戦わなければならないのであるから、変化に富んだ遊撃戦を適用すべきである。このほかに方法はありえない」

    張学良軍閥の軍隊や独立軍、そして日本軍しか見ていない青年たちには遊撃隊の表象がまるでなかった。

    わたしは正規軍と遊撃隊の違いを説明し、強大な日本侵略軍との戦いに勝つためには、小部隊と大部隊の巧みな提携作戦、奇襲戦、伏兵戦、政治活動、政治工作、生産活動など、軍事、政治、経済にわたる全般的活動をくりひろげなければならない、そのためには、分散と集中を組み合わせて自由自在に戦える遊撃隊を組織しなければならない、と説明した。

    何人かの人たちは、そんな形式の武装闘争で敵を打ち破れるのか、戦車や大砲、飛行機のような最新兵器で装備された数百万大軍を国家的後方も正規軍の支援もなしに、それも他国の領土で遊撃隊のような非正規軍の力で撃破できるのか、という疑問を提起した。

    もっともな疑問だった。

    わたし自身、その可能性を何度も秤にかけてみた。

    われわれが何挺かの銃をもって軍事強国日本に立ち向かうならば、世間の物笑いの種にならないか。義兵も独立軍も張学良の三〇万大軍も日本軍の威力の前には壊滅の運命をまぬがれなかった。にもかかわらず、われわれはなにに頼って日本軍を打ち破ろうというのか。われわれに国権があるのか。領土があるのか。財貨があるのか?

    わたしは彼らに話した。

    「われわれは国権も、領土も、資源もすべて奪われた亡国民の息子たちだ。いまは他国の領土で間借りをしている赤手空拳の青年だ。しかし、われわれは日本帝国主義者にためらいなく戦いをいどんだ。なにを頼みにしたのか? 人民に頼って抗日戦争をはじめようと決心したのだ。人民が国家であり、人民が後方であり、人民が正規軍だ。戦いがはじまれば、全人民が兵士となって立ち上がるであろう。だから、われわれがはじめる遊撃戦は人民戦争といえる」

    われわれはこのように長時間の論争をへて、遊撃戦を基本とする武装闘争を展開する問題で完全な意見の一致に達した。

    遊撃戦は、自己の戦力を保存しながらも敵に大きな政治的・軍事的打撃を加えることができ、小兵力で量的にも技術的にも優勢な敵を掃滅しうる武装闘争方法である。われわれは、人民大衆の積極的な支援と有利な自然地理的条件に依拠し、遊撃戦の方法で武装闘争を展開すれば、最終的には敵を打ち倒せるであろうと確信した。

    遊撃戦が正規戦の補助手段であると見られていたときに、われわれがそれを基本的な闘争形式として確定し、方針として採択したのは、われわれの実情にかなった科学的かつ創造的な決断であった。

    遊撃戦を基本にして組織的な武装闘争を展開する問題の討議が終わると、われわれはそれを実行する方途を協議した。

    まず、革命武力の建設問題が上程された。

    そこでは最初、地方ごとに小規模の遊撃隊を組織して武装力の強化に力をそそぎ、漸次大部隊の革命武力に発展させること、その第一段階では大隊を組織し、やがて人民革命軍に成長させるということで合意した。ついで武器の獲得問題が討議された。

    遊撃隊の組織にかんする討議を終えると、われわれは根拠地問題の討議に移った。反日遊撃隊が組織されれば、活動拠点をどこに置くのか、山間地帯か都市か、それとも農村か、また朝鮮と満州が日帝の占領下にある状況のもとで、遊撃戦の基地を国内に置くか満州に置くか、といった問題をめぐって真剣に意見が交わされた。

    いかなる軍隊であれ、拠点がなければならないというのは学童でも知っている常識である。

    われわれの武装力は国家的後方も正規軍の支援もなしに戦うのであるから、戦闘後、安全に休息し、隊列を整備し、武器、弾薬を補充し、さらに訓練をほどこし、負傷者の治療もできる根拠地があってこそ、遊撃戦を長期にわたってつづけることができるのである。したがって、われわれは遊撃隊を創建するだけでなく自力で根拠地を築かなければならなかった。

    われわれは活発な討議の末、大衆的基盤がよく物質的保障条件も良好で、しかも地形的に有利な間島の山間地帯に遊撃根拠地を創設することにした。広大な面積を持つ満州大陸は朝鮮にくらべて敵の支配密度が薄いので、まず間島に基地を設け、時機を見はからって国内にも進出し、白頭山大樹林地帯と狼林山脈に基地をつくろうというものだった。

    根拠地は敵の支配がおよばない解放地区形態を基本として、国内作戦を展開し、朝鮮人民の支援をうけるにも有利な豆満江沿岸の山間地帯に設けられなければならなかった。豆満江沿岸には、物質的保障条件がととのい、攻撃には不利で防御には有利な地形の山間農村が少なくなかった。

    根拠地の候補を具体的に選定する段になると、李光、呉彬、金日煥など多くの同志がいろいろとよい案を出した。こうして漁郎村、牛腹洞、王隅溝、海蘭区、石人溝、三道湾、小汪清、嘎呀河、腰営口、大荒溝、煙筒砬子など天険の要害に根拠地を築くことに決まった。それらの地域には、秋収闘争後、日帝の「討伐」を避けて移ってきた革命的大衆が集結しており、赤衛隊も組織されて革命組織や人民を守っていた。

    論議が進み具体化されるにつれて、根拠地の長期運営と維持に関連した問題、つまり農業生産と経済運営、兵器修理所と病院の建設、住民行政の担当など複雑な実務的問題が提起された。

    本会議では武装闘争の大衆的基盤の構築問題、朝中人民による反日共同戦線の形成問題、党組織活動と共青活動の強化問題なども討議された。

    これらの問題はいずれも、遊撃戦を基本にして武装闘争を展開するうえで必ず解決すべき重要な問題であった。会議ではそれらすべての問題が方針として採択された。

    それはじつに膨大かつ深奥な創造的活動であった。どの時代、どの国の遊撃戦史をひもといても、わが国の革命実践にそのまま適用できる手本はなかったため、われわれは自分の頭で考え、自力で根拠地をきずくほかなかった。それは、国家的後方も正規軍の支援もない、史上類例のない困難な状況のもとで遊撃戦を展開しなければならないわれわれ共産主義者にとって、避けることのできない宿命的な課題であった。

    この課題の解決にあたって、正規軍の支援を前提にし、それと連携して遊撃戦をおこなった外国の経験を教条主義的に模倣していたならば、われわれは取り返しのつかない失敗をまぬがれなかったであろう。

    いつだったか、わが国を訪れたラテンアメリカのある抗戦運動の指導者がわたしに、遊撃戦争の経験を話してほしいと要請したことがあった。

    わたしは、抗日戦争当時の経験をいくつか話したあと、遊撃戦には万能の公式などありえない、それは人間の創造的な知恵が最大に発揮されるべき雄大な創造的闘争である、われわれの経験はあなた方にある程度参考になるかもしれないが、それを絶対視し、機械的に模倣してはいけない、国ごとに実情が異なるのだから、あなた方も自国の実情に合う闘争方法と形式を創造し、活用すべきだ、勝利の秘訣はそこにある、と話した。

    わたしの説明を聞いて、しばらく考えこんでいた彼はやがて、自分の国には山岳地帯が多いが、これまでそうした特質を考慮せず、都市遊撃戦にしがみついていた、そのせいか戦果は少なく、損失が大きかった、今後は実情に合わせて山を利用し、農村での遊撃戦を基本にして抗戦運動を展開したいと語った。

    われわれは本会議を終えれば活動地域に帰り、ただちに遊撃隊の組織に着手することにして討議を終えた。日帝侵略者の流血の弾圧と「討伐」に親兄弟や同志を失うたびに痛嘆し、渇望してやまなかったわれわれの軍隊、われわれの武装力の誕生を眼前に描いた青年たちは、いっせいに立ち上がり、『革命歌』と『インターナショナル』をうたい、その雄々しくも荘重なメロディーをもって愛する祖国と革命の前にかたい誓いを立てたのである。

    明月溝会議には童長栄など中国の共産主義者も少なからず参加した。彼らは朝鮮共産主義者と朝鮮の住民が圧倒的多数をしめる東満州の特質からして、この一帯での朝中人民の友好と朝中共産主義者の合作を当初から重視してきた先見の明ある革命家たちであった。

    童長栄は、東満州で長年闘争し、経験も多い朝鮮の同志が重要発言をすべきだ、と重ねて要請した。

    わたしは会議で論議された問題を骨子とし、武装隊伍の組織と武装闘争にたいするわれわれの構想について、中国語と朝鮮語を交互に使い分けながら、力強く演説した。

    中国の同志たちも、その構想に全幅的な支持を表明した。遊撃戦争の形式問題、遊撃隊の組織問題、遊撃根拠地問題などでも、彼らはわれわれと意見を同じくした。

    それ以来、共同の敵日帝にたいする朝中人民の武装闘争は大陸を震撼し、偉大な朝中親善の伝統は血戦のなかで根をおろしはじめたのであった。

    一九三一年の冬の明月溝会議は、抗日武装闘争の起源を開いた会議であり、わが国反日民族解放運動と共産主義運動に転機をもたらした歴史的な会議であった。倫会議で示された武装闘争路線はこの会議を通して深められた。反日民族解放運動を最高段階の武装闘争へ移行させようという朝鮮民族の意志が卡倫会議で確認されたとすれば、明月溝会議ではそれが再確認され、「武装には武装で、反革命的暴力には革命的暴力で!」というスローガンのもとで、日帝撃滅の抗日戦争を遂行することが正式に宣言されたのであった。まさにこの会議で、遊撃戦の方向を規定する戦略と戦術的原則が確定し、やがて、それにもとづくきわめて豊富で変化に富んだ武装闘争の戦法が創造されたのである。

    明月溝会議後、わたしは白岩の下で童長栄と語り合った。大連監獄につながれている金利甲と、紡績工場で働くかたわら、共青活動をしながら獄中の彼の世話をしている全京淑のことを彼から聞いたのも、そのときだったと思う。

    童長栄は、住民構成はもちろん、東満州党組織の党員構成を分析してみても、その大半が朝鮮の同志だ、彼らを代表して自分の活動をよく援助してもらいたい、とわたしにいった。

    「東満州における革命闘争の主力軍は朝鮮人です。朝鮮族住民に依拠しなくては、遊撃戦争の勝利は不可能です。日本がいくら離間を策しても、両国の共産主義者は民族的偏見を防げるでしょう。特委は今後、朝鮮の同志たちとの活動に特別の注意を向けるつもりですが、多くの援助をお願いします。わたしは金日成同志を信じます」

    わたしは彼の要請に快く応じた。

    「両民族間の団結については、われわれも特別な関心を向けていますから安心して下さい。朝中人民のあいだに生じた一時的な不信は、遊撃戦争の銃声によって一掃されることでしょう」

    われわれはほほえみ、手をしっかり取り合った。

    その後、わたしと童長栄はしばしばこの日のことを回想した。

    周恩来総理は、わたしが中国を訪問するたびに宴会での演説や会談などで、一九三〇年代初の抗日遊撃隊の創建と朝中武装力の反日共同闘争を通じて、朝中親善が高い段階に発展したことを指摘し、その親善の根深い伝統について感動的な話をいろいろとしたものである。

    そのたびにわたしは、朝中親善の熱気こもる明月溝の会議場に思いを馳せ、われわれとともに砲煙弾雨をついて戦った魏拯民、童長栄、陳翰章、王徳泰、張蔚華、楊靖宇、周保中、胡択民をはじめ、中国の親しい共産主義者を胸熱く追憶したのである。友好の情も人間の感情であるからには、具体的な人間関係を通じて結ばれてこそ強固なものとなり、そのようにして結ばれた友情は歳月がいかに流れても冷めないであろう。

    

    

    

      4 血戦の準備

    

    

    明月溝会議は組織的な武装闘争の展開を決定すると同時に、その実行で先駆的かつ中核的な役割を果たすようわたしに求めた。

    「スタートは金日成が切るべきだ。何事であれ標本があり、手本がなければならない」

    同志たちはこの言葉で、わたしとの別れのあいさつに代えた。

    わたしは参会者たちが全員出発するまで明月溝に残り、最後に童長栄と別れて安図に向かった。遊撃戦を開始するには、どの側面から見ても安図が適地だと思えた。

    十二月の明月溝会議でも論議されたように、武装隊を組織するうえで第一に解決すべき問題は九・一八事変後、満州各地で組織された中国の反日武装力である救国軍との提携を果たすことであると認めたわたしは、組織の主力を安図と汪清に置くことにした。安図と汪清は救国軍の集結中心地であった。

    興隆村に帰ったわたしは、家族と一緒にしばらくのあいだ馬春旭の家にいたが、やがて小沙河土器店谷の葦原村に移り、反日人民遊撃隊の創建準備に本格的に取り組んだ。小沙河は組織化された村で、興隆村よりも環境がはるかに有利だった。強力な地下組織を持つこの村では、密偵が自由に出入りできなかった。敵の手先の暗躍がないので、軍警も小沙河を容易に「討伐」できないでいた。

    反日人民遊撃隊の創建は最初からさまざまな困難に遭遇した。そこには人、武器、教練、食糧、大衆的基盤づくり、救国軍との関係などさまざまな軍事的・政治的難問が提起されていた。

    われわれは武装隊伍の結成で、人と武器をなによりも重要な要素とみなした。ところがわれわれには、その二つのどちらも不足していた。

    われわれがここでいう人とは、軍事的、政治的に準備された人たちを意味した。われわれには政治を知り、軍事に通じた人、祖国と人民のために長期間、武器を取って戦う心構えのできた青年が必要であった。

    われわれは一年半のあいだに朝鮮革命軍の根幹をほとんど失った。金赫、金亨権、崔孝一、孔栄、李済宇、朴且石など革命軍の主力が1年のあいだに戦死または投獄され、一九三一年の一月には、朝鮮革命軍にかんするパンフレットを持って武器工作におもむいた中隊長の李鍾洛が金光烈、張小峰、朴炳華などとともに日本領事館警察に逮捕された。軍事に明るい金利甲も獄につながれ、白信漢は戦死した。崔昌傑と金園宇はどうなったのか消息すら知れなかった。

    革命軍には軍事経験のある隊員が残り少なかったうえ、彼らも大衆政治工作にふりむけていたので、武装隊伍に組み入れることができなかった。わたしが安図で遊撃隊の創建に取り組んでいたとき、わたしのそばにいた朝鮮革命軍の出身者は車光秀一人だけだった。

    国家権力を握っていれば、動員令や義務兵役制などの法令によって必要な軍事要員をたやすく充足できるであろうが、われわれにはそれができなかった。法制や物理的強制力によって大衆を革命に動員することはできない。かつて上海臨時政府はすべての国民は納税、兵役の義務があると憲法で規定したが、人民はそんな法律が採択されたことすら知らなかった。国を失い、外国の租界地で国権を行使しようとする亡命政府の法律や指令が効力を発生しえないのは自明の理である。

    

    植民地民族解放革命では動員令や義務兵役制のような法的手段によって人びとに銃をになわせることはできない。そこでは革命を導く領袖と先覚者の呼びかけが法に代わり、各人の政治的・道徳的自覚と戦闘的情熱が入隊を決定するのである。大衆は誰かの要求や指令がなくても、自らの解放をめざして進んで銃を取るものである。それは、自主性を生命とし、そのためには、わが身をも進んでささげるのが人民大衆の本性であるからである。

    われわれはこうした原理にもとづいて、安図とその一帯で遊撃隊の隊員になれる人たちを物色しはじめた。赤衛隊、少年先鋒隊、労働者行動隊、地方突撃隊などの半軍事組織には遊撃隊への入隊を希望する頼もしい青年が多かった。秋収・春慌闘争を通じて半軍事組織は急速に拡大し、そのなかで青年たちもたくましく成長した。

    しかし、大衆が入隊を志願するからといって、彼らの準備程度を考慮せず、無条件に入隊させるわけにはいかなかった。東満州の青壮年はまだ軍事的に準備されていなかった。遊撃隊の人的源泉を確保するには、赤衛隊や少年先鋒隊などの半軍事組織で青年の政治的・軍事的訓練を強化しなければならなかった。

    ところが、わたしの周囲には教練を担当できるだけの人材がいなかった。わたし一人の力では安図地区の全青年を軍事化できるはずがなかった。わたしも華成義塾で少しは学んだとはいえ、新しい型の軍隊、遊撃隊を動かす軍事実践的面では白紙にひとしかった。学生あがりの車光秀は、わたし以上に軍事に暗かった。李鍾洛まで入獄しているので、期待できる人物はどこにもいなかった。李鍾洛がいれば、彼に軍事をまかせて、わたしは政治活動に専念できるのだが、そうできないのがもどかしかった。

    困難に直面するたびに、わたしはいつも同志の不足を感じた。

    われわれがこういう苦渋をなめているとき、朴勲という黄埔軍官学校出身の有望な人物がわれわれを訪ねてきた。黄埔軍官学校の校長は蒋介石で、政治部主任は周恩来だった。この学校には朝鮮の青年が多かった。中国人は広州暴動を「三日ソビエト」ともいっているが、その暴動で主役を演じたのは黄埔軍官学校の学生たちだった。

    朴勲と安鵬は広州暴動に参加し、暴動失敗後、満州に逃れた人たちである。朴勲は体格がよく、物腰も軍人らしくきびきびしていた。彼は朝鮮語よりも中国語を多く話し、中国服をよく着ていた。その彼がわたしの「軍事顧問」になった。

    蒋介石の裏切り行為(四月十二日事変)によって国共合作が破壊され、第一次国内革命戦争が失敗すると、南方から楊林、崔庸健、呉成崙(全光)、張志楽、朴勲など黄埔軍官学校や広東軍官学校、雲南講武堂などの軍官学校を出て、中国革命に参加していた人たちが蒋介石のテロを避けて満州地方に大勢入ってきた。

    正直にいって、わたしはそのとき黄埔軍官学校と聞いて、朴勲に大きな期待をかけた。

    彼は2挺拳銃を得意とした。その射撃術には目を見はらせるものがあった。まったく神業といえるほどの腕だった。

    彼のいま一つの特技は号令であった。朴勲は一万や二万の軍隊を肉声で簡単に動かせるほどのすばらしい声量の持ち主だった。彼が土器店谷の台地で大声を上げると、その声は全村に響き渡った。

    安図の青年は朴勲の号令を聞くと思わず嘆声をもらし、彼に見とれた。

    「あれほどの声なら、東京にいる天皇の耳にも聞こえるだろう。思わぬ宝物が転がりこんできたものだ」

    赤衛隊員の教練を指導する朴勲を見て、車光秀は感嘆した。彼は朴勲にほれこんだ。二人は議論をよくたたかわせながらも、すっかり意気投合していた。

    朴勲が安図でおこなったすぐれた教練のおかげで、われわれの組織した部隊は汪清へ移ってからも、「大学生部隊」といわれたものだった。わたしの部隊に属する遊撃隊員は抗日戦争の全期間、秩序正しく、規律があり、謙虚で身なりの端正なことでいつも人びとから尊敬された。楊靖宇も、わが革命軍の節度ある生気はつらつとした文化的な生活ぶりを見ては、いつもうらやましがったものである。

    そんなとき、わたしは朴勲のことが頭に浮かび、土器店谷の山あいに響いた彼の号令が耳によみがえってくるのだった。

    教官としての彼のいま一つの特質は、訓練生にたいする非常なきびしさだった。そのようにきびしかったからこそ、訓練生は軍事知識を予想外に早く身につけることができたのだと思う。

    ところが、朴勲はときどき隊員に体罰を加えた。制式動作を間違えるか、規律に違反する訓練生を見ると、目をむいて怒鳴りつけたり、蹴ったり、前へ立たせたりした。革命軍隊内で体罰は厳禁だといくら注意しても、改めようとしなかった。

    ある日わたしは、訓練で喉をからした朴勲と一緒に帰りながら、こういった。

    「朴勲君には、なぜか軍閥くさいところがある。どこでそんな臭いが身についたのだ」

    朴勲は軍閥くさいという言葉に苦笑して、わたしを見返した。

    「わたしの教官が恐ろしいほどきびしかったのだ。ドイツ人の教官がわたしにそんな遺産を残したのかも知れない。とにかく、すぐれた軍人になるには、鞭の味を知る必要があると思う」

    ドイツ式軍事教育の痕跡は彼にいろいろな形であらわれた。彼が理論講義でもっとも多くの時間をかけたのは、プロシア軍にかんする話だった。彼は、イギリス軍の勇敢さとフランス軍の迅速性、ドイツ軍の正確さとロシア軍の頑強さについてよく話した。そしてそのたびに、われわれはそのすべての資質をそなえた万能の軍隊にならなければならない、と強調するのだった。

    彼が指導する訓練の多くは、われわれがはじめようとする遊撃戦の性格に合わなかった。彼はナポレオン式縦隊隊形とイギリス式線型隊形がどんなものであるかを教え、二十人足らずの訓練生にそんな隊形をつくらせてみようと懸命になった。

    教練を見ていたわたしは、休憩時間に、朴勲に向かって穏やかにいった。

    「君がいま教えたイギリス式線型隊形というのは、簡単に説明するだけにして訓練をはぶいてはどうだろうか。われわれがここでワーテルローのような激戦をするならいざ知らず、山に依拠して、大砲と機関銃を装備した敵と遊撃戦争をしなければならないのに、そんな旧時代の兵法を学んだところで、なんの役にも立たないだろう」

    「戦争をする以上、その程度の軍事知識は知っておく必要があるのではなかろうか?」

    「外国の一般的な軍事知識ももちろん重要だ。だが、いますぐ必要なものから先に教えるべきではないか。武官学校で習ったことを、そっくり消化させようとするのはやめたほうがいい」

    そのとき、わたしが彼にいったのは、教練で教条主義を警戒せよということだった。

    朴勲に赤衛隊員を十人ほどつけて射撃訓練をさせたところ、彼は平地に杭を立てて、終日、敵の中心下部を狙って撃てということばかり教えた。

    わたしは彼に、教練をそんなふうにしてはいけない、実情に合わないものはやめて、遊撃戦争に必要なものから先に教えよう、とくに山岳戦に必要な訓練から先にすることだ、われわれに合わないものは思い切ってつくり変え、教範にないものはわれわれの知恵を集めて、一つ一つつくりあげていこうと話した。

    朴勲はわたしの言葉を深刻にうけとめた。

    それ以来、われわれは遊撃戦争に必要なものを基本にして教練を進めた。初歩的な制式動作や武器操作法はもちろん、擬装法、合図の仕方、銃剣術、敵情探知法、山道行軍法、棒術、武器奪取法、夜間戦闘における彼我識別法など、実用的な軍事知識を教えた。朴勲は最初、思いつくままにあれこれと教えていたが、のちには課程案を作成して計画的に教練をほどこした。

    後日、彼は当時をふりかえって、自分が黄埔軍官学校で学んだ軍事知識はどれも世界5大強国のものだった、それは古今東西の兵法を集大成した包括的で総合的な軍事知識だった、わたしは現代中国の軍事教育の殿堂ともいえる有名な黄埔軍官学校でそのような知識を学んだことに誇りをいだき、東満州でそれを普及すれば、わたしは拍手喝采をうけるだろうと思った、しかし、それは誤算だった、わたしは拍手喝釆どころか冷淡な対応にぶつかった、青年たちはわたしの講義を、知っても知らなくてもいい一つの常識として聞いただけで、死活にかかわるもの、必須のものとしてうけとめなかった、わたしはそれまでの数年間に学んだ軍事知識が世界的なものではあっても、遊撃戦には必要のない片端の知識であると痛感し、それを万能の法典のように絶対視した自分に幻滅を覚えた、そして遊撃戦に必要な軍事理論を創始しなければならないと痛感した、わたしはそれ以来、ドグマから脱して朝鮮革命に適応した朝鮮式の思考方式を身につけるようになった、と告白している。

    安図地区の教官のなかで朴勲についで異彩を放ったのは金日竜だった。彼は朴勲のような現代戦の知識はなかったが、独立軍で戦ったときに身につけた実戦の経験をもって、隊員を地道に訓練した。

    赤衛隊と少年先鋒隊、少年探検隊などの半軍事組織の訓練を強化し、隊列の増強をはかっていくなかで、政治的、軍事的に準備された堅実な青年がわれわれのまわりに数十人集結した。われわれは豆満江沿岸の各県で工作にあたっていた同志や、秋収・春慌闘争で鍛えられ、点検された青年を選んで安図に集めた。安図や敦化など東満州各地から多くの青年がわれわれを訪ねてきた。

    われわれはそれらの青年のなかから、車光秀、金日竜、朴勲、金喆(金喆煕)、李英培など十八人の中核を選んで、ひとまず遊撃隊グループを組織した。同時に、延吉、汪清、和竜、琿春などの地方にも同じ形態の武装隊伍を組むよう指示した。こうして各県に十~二十人からなる武装隊がつぎつぎに生まれた。少数の人員で武装隊を組み隠密に活動しながら武器を確保し、経験を積み、隊列を増強し、条件が熟すれば各県別に大規模な武装隊伍を創建するというのが明月溝会議の方針であった。

    遊撃隊グループの結成過程は、武器獲得の流血の闘争をともなった。困難は多かったが、武器獲得以上の困難はなかった。

    日帝侵略軍は、本土の軍需産業が大量生産する近代兵器と装備をもって陸海空軍の戦力を不断に強化していたが、われわれには武器を供給する国家的後方も、一挺の銃を買う金もなかった。われわれに必要なのは大砲でも戦車でもなかった。当座は小銃や拳銃、手榴弾のような軽小武器があればよかった。国内に兵器製造工場があれば、労働者の力をかりても手に入れることができたであろうが、わが国にはそんな工場がなかった。不幸にもわれわれは、自分たちを武装するうえで自国の工業に依拠することができなかった。

    そのため、「敵の武器を奪って武装しよう!」という悲壮なスローガンが生まれるほかなかったのである。

    わたしは安図に来ると早速、父が母に預けた二挺の拳銃を地中から掘り出した。その二挺の拳銃をかざして同志たちにいった。

    「さあ、これが父がわたしに残した遺産だ。父は義兵でも独立軍でもなかったが、世を去るまでこの銃を持っていた。なぜか? 武装闘争こそ国の独立を成就する最高の闘争形態だと認めていたからだ。父の総体的な志向は武装闘争だった。わたしはこの二挺の拳銃を譲りうけたとき、父に代わってわたしがその志を実現させずにはおかないと決心した。いまやそのときがきた。この二挺を元手にして独立行軍を開始しよう。いまはこの二挺がすべてだが、これが子を産み、孫を産んで二百挺、二千挺・二万挺となる日を想像してみよう。二千挺の銃があれば十分祖国を解放できる。元手があるのだから、これを利用して二千挺、二万挺に増やそう!」

    わたしは、雄図むなしく早世した父を思い、胸がつまって話をつづけることができなかった。

    武器獲得問題が日程にのぼったとき、朴勲がわたしに、うわさでは撫松のある金持の息子が君に数十挺の銃を提供したということだが、それらをどうしたのかと聞いた。その金持の息子というのは張蔚華のことである。わたしが五家子で活動していたとき、彼が私兵の銃四十挺を持って訪ねてきたことがあった。わたしはそれらを残らず朝鮮革命軍の隊員に分け与えた。

    朴勲はそれを聞いてたいへん残念がり、活路は金にあるといった。彼はわれわれがきずいた革命村をまわり、農民に訴えて金を集めようといった。

    わたしは彼の意見に同意しなかった。金持に訴えて資金を集めるのならいざ知らず、貧しい労働者や農民のふところをはたいて武器を買うのは好ましい方法といえなかった。生命を賭して銃を奪い取るより、金を集めるほうがはるかに容易なことは事実であった。

    しかし、われわれは安易な方法を捨て、困難な道を選んだ。金で銃を買うのも一つの方法だとは認めたが、それを奨励する気にはなれなかった。人民に献金を求めるのは独立軍のやり方であって、われわれの方式ではない。たとえ募金をしたにしても、それが大きな元手になるはずもなかった。

    いつだったか、崔賢同志が山林隊に一千五百円を払って機関銃を買ってきたことがあった。牛一頭が五十円くらいだった当時の市価で計算すると、牛を三十頭ほど売っても機関銃は一挺しか手に入らないということになる。われわれはその数字を重視せざるをえなかった。

    われわれは討議を重ねた末、内島山地方で独立軍が埋めておいた銃を数挺掘り出してきた。

    他の県でもきそって、独立軍が使っていた武器を回収した。

    洪範図麾下の独立軍は青山里戦闘後、多量の銃と弾薬を大坎子一帯に埋めてソ満国境へ退却した。

    密偵の通報でそのことを知った日本軍守備隊が、数十台のトラックを動員してそれらの銃と弾薬を積んで帰った。明月溝会議のあと、汪清の同志たちは大坎子に人を送り、日本軍守備隊が掘り返したところで五万発近くの弾薬を拾い集めた。

    何挺かの銃が手に入ると、それを元手にしてわれわれは敵の武器を奪う戦闘行動に移った。

    最初の攻撃目標は双秉俊という地主の家だった。彼は四十人ばかりの保衛団をかかえていた。団長はのちに「新選隊」の隊長となって悪名をとどろかせ、崔賢同志の部隊によってせん滅された李道善である。

    保衛団の兵舎は、地主屋敷の土城の内と外の両方にあった。

    われわれは事前に偵察をおこなったうえで、遊撃隊グループと赤衛隊員で襲撃班を組んで小沙河本村の双秉俊の屋敷を奇襲し、十数挺の銃を奪った。

    武器奪取闘争は豆満江沿岸の全地域で大衆的運動としてくりひろげられた。革命的大衆は「武器はわれわれの生命だ! 武装には武装で!」を合言葉にして遊撃隊グループ、赤衛隊員、少年先鋒隊員、地方突撃隊員を先頭に老若男女の別なくこぞって立ち上がり、日帝侵略軍と日満警察、親日地主、反動官僚の武器を奪う決死のたたかいをくりひろげた。

    「要槍不要命!」とは当時さかんに使われた言葉だった。翻訳すれば、銃が必要だ、生命は必要ないということである。税関や保衛団、公安局、地主の家へ押し入り、銃を突きつけて「要槍不要命!」と叫ぶと、臆病な官吏や反動地主、警官はぶるぶる震えて、武器を残らず差し出した。

    「要槍不要命!」という言葉は東満州の全革命組織区で流行語となり、四方八方へ広がっていた。

    呉仲和の父親(呉泰煕)と叔父も、膳の足でつくったにせの拳銃で「要槍不要命!」といっては警官や自衛団員を威嚇して武器を奪い、赤衛隊に送ってよこした。彼らのうわさは安図にまで伝わってきた。われわれはそれを聞いて、年寄りたちの機知と大胆さに驚いたものである。

    のちに汪清で呉泰煕老に会ったとき、「どうして、そんなすばらしいことを思いついたのですか」と聞くと、老人は笑って、「晩に見ると、お膳の足が拳銃に見えてね。わしらに鉄砲があるかね、手榴弾があるかね。それでお膳の足を使ったんじゃ。窮すれば通ずるってことじゃな。渇した者が井戸を掘るっていうじゃないか」

    老人の言葉はもっともだった。実際、われわれはそのとき、渇した者が井戸を掘る、そんな心情で武器奪取闘争を果敢に展開したのである。それは最大の創意と知恵が求められる困難なたたかいであった。

    東満州の革命家と革命的人民は、ときには憲兵に、ときには救国軍部隊の軍人や日本領事館の官吏、大富豪、貿易商に変装して臨機応変に武器を奪った。あるところでは、女性が洗濯棒や棍棒で軍警を襲って武器を奪いもした。

    武器獲得闘争は全民抗争の序幕であり、予備戦闘であった。このたたかいにはすべての革命組織が参加し、全人民が呼応した。革命が武器を求める時期が到来すると、大衆はためらうことなく武器奪取闘争に立ち上がり、そのたたかいを通して覚醒し、自分たちの力がいかに大きいかを自覚したのである。

    自分の武器は自分で、という合言葉は、いたるところで大きな生命力を発揮した。

    もちろん、そうしたたたかいで、われわれは多くの同志を失った。そのときに獲得した一つ一つの銃には、同志たちの熱い血潮がにじみ、彼らの燃えるような愛国心がこもっていた。

    われわれは自力更生のスローガンをかかげて、武器を自分の手でつくる運動も同時にくりひろげた。

    最初は鍛冶場で鉄を鍛えて刀剣や槍のようなものをつくり、やがては拳銃や手榴弾もつくった。

    そういう拳銃のうちでもっとも精巧で実用的だったのは、汪清県南区反帝青年同盟員たちのつくった「ピジケ拳銃」である。咸鏡北道地方の人たちはマッチをロシア語式に「ピジケ」といっていた。拳銃の名を「ピジケ拳銃」とつけたのは、薬莢に黄燐マッチでつくった火薬をつめていたからだった。銃身もブリキでつくっていた。

    東満州の兵器廠のうちとくに人びとに知られていたのは和竜県の金谷にある神仙徳鷹岩窟兵器廠と汪清県の南区兵器廠、そして延吉県依蘭溝南陽村の朱家谷兵器廠であった。

    鷹岩窟の兵器廠では、延吉県八道溝鉱山の革命組織から送られてくるダイナマイトを使って爆弾も製造していた。

    最初は音爆弾というのをつくったが、それは音のすさまじいわりに殺傷力がほとんどなかった。その弱点を補ってつくったのが唐辛子爆弾だった。音爆弾よりは効果があったが、それも悪臭を発散するだけで、やはり殺傷力はそれほどでなかった。

    和竜の同志たちはその後、唐辛子の代わりに鉄片を入れて殺傷力を高めた。その爆弾が有名な延吉爆弾である。延吉爆弾がつくられると、われわれは和竜から朴永純を呼び寄せて小汪清大房子で二日間、爆弾製造講習をおこなった。東満州各地に爆弾の製造技術を普及するためである。講習会には間島各県の兵器廠のメンバーと遊撃隊の指揮官が参加した。

    初日の講習会では、わたしが火薬の製造法を講義した。当時、遊撃隊の兵器廠では爆弾用の火薬を鉱山からひそかに購入していた。

    鉱山では火薬をきびしく取り締まっていたので、それを入手するのはつねに危険をともなった。われわれは民家から簡単に火薬の原料を集め、それで火薬をつくるのに成功した。講習会ではその秘法を伝授し、各地方に普及することにしたのである。

    朴永純は爆弾の製造法と使用法、保管取扱法を教えた。彼らが和竜で自力更生によって開発した爆弾製造の苦心談を聞いて、講習生たちは感嘆した。鷹岩窟兵器廠を主管した朴永純と孫元金はたいへん器用な同志たちだった。後日、その兵器廠は人民革命軍の有力な兵器製造所、修理所として抗日戦争に大いに寄与した。

    もし、武器獲得闘争で朝鮮人民が発揮したたぐいまれな犠牲精神と大胆さ、縦横の機知、すぐれた創意についてのエピソードを収集して、文学作品を書き上げるなら、おそらくそれは荘厳な一つの叙事詩となるであろう。数千年のあいだ歴史から疎外され、安価な労働力とのみみなされ、無知と蒙昧を強いられてきた人民大衆、亡国の民の悲しみに歯ぎしりし、涙に暮れながらも、それを宿命として甘受しなければならなかった素朴な人民大衆が、いまや自己の運命を自力で切り開く聖なる解放闘争に立ち上がったのである。

    地方の各組織が奪取し、または製作した武器を見るたびに、わたしは人民の力を信じ、それに依拠して朝鮮革命をおし進めようとしたわれわれの決意がいかに正しかったかを、改めて誇らしく確認したのである。

    われわれは、常備の革命武力建設の準備を急ぐ一方、抗日武装闘争の大衆的基盤をきずく活動に特別な関心を向けた。人民大衆を実践闘争のなかでたえず覚醒させ、りっぱに鍛えて、彼らを抗日戦争にそなえさせるのは、発展する革命の必須の要請であり、最後の勝利は広範な大衆がこぞって自覚的に立ち上がるときにのみ、達成できるのである。

    一九三〇年の未曽有の凶作とそれにつづく大飢饉は、東満州で、秋収闘争にひきつづき新たな大衆闘争をくりひろげる契機となった。われわれは秋収闘争によって高まった大衆の闘争気勢をゆるめず、日帝と親日地主を相手に春慌闘争を展開することにした。春慌闘争は地主に米の貸し出しを要求する借糧闘争から、日帝と親日地主の穀物を没収する奪糧闘争へ、さらに日帝の手先を粛清する暴力闘争へと急激に発展した。

    春慌闘争の炎のなかで、東満州地方人民の革命化は新たな段階に達した。革命にたいする反革命の攻勢はいちだんと悪辣になっていたが、朝鮮の共産主義者は大衆のなかに深く入って、ねばり強く彼らを啓蒙し、教育した。大衆団体は関門主義を排して門戸を広く開放し、大衆を実践闘争のなかで不断に鍛えた。

    しかし、それはどの地方でも順調に進んだのではなかった。一つの村を革命化するために何人もの革命家が命を失うこともあったし、ときには人びとからたえがたい侮辱をうけ、不信の目で見られながらも、自分が革命家であることを明かせず、それをたえしのばなければならなかった。

    わたしの富爾河村における体験もその一例だといえる。

    富爾河は安図と敦化を結ぶ要地だった。そこを通らずには、敦化地方ばかりか南満州一帯を自由に行き来することができず、その村が革命化されなくては、小沙河、大沙河、柳樹河など近隣の村の安全もはかれなかった。有能な工作員が何人も送りこまれたが、誰一人成功できなかった。

    そこに早く組織をつくらなければならないのだが、村へ入った工作員はみなつかまって命を落としているのだから、われわれも困惑せざるをえなかった。金正竜は、富爾河を反動村と決めつけ、スパイか白色組織がひそんでいるに違いない、その正体がつかめないのが問題だといってくやしがった。彼らの話を聞くと、わたしも首をかしげざるをえなかった。

    富爾河に宋という組織のメンバーが一人いるにはいたが、彼一人の力では反動分子を摘発することも、村の革命化をとげることもできなかった。誰であれ生命を賭して村に入り、スパイを摘発し、組織をつくって村を反動村から革命村につくり変えなければならなかった。

    そこで、わたしが富爾河へ行くことにした。

    わたしは宋を小沙河に呼んで、こう約束した。

    「村へ帰ったら、手不足だから作男を雇うつもりだといいふらしたまえ。そのあとで、わたしが作男になりすまして、君の家へ住みこむことにしよう」

    宋は目を丸くして、危険な反動村に入るのは冒険だ、それに、作男になるなんてとんでもないとかぶりをふった。わたしが富爾河へ行くことには組織も反対した。

    わたしはそれらの反対を押しきり、宋と一緒に牛橇に乗って富爾河村へ向かった。顔も洗わず、髪も刈らず、少し足りないような格好をして「反動の巣窟」へわたしは入っていったのである。

    数時間後、わたしが宋と一緒に夕食をとっていると、不意に騎馬警察隊がほこりを巻き上げて村へやってきた。誰がどう通報したのか、早くも安図から警官が急派されてきたのである。

    外で遊んでいた子どもらが騎馬隊だと叫ぶのを聞くと、わたしは庭へ出て薪を割りはじめた。蛟河の見知らぬ女性の家で体験したのと似たような状況だった。

    騎馬警官はわたしを指して、誰かと聞いた。宋が家の作男だと答えた。

    警官は、「共産党の幹部がこの村を指導に来たと聞いたが…」といって首をかしげた。りゅうとした身なりの人物を念頭において馬を飛ばしてきたのだろうが、見すぼらしいチョゴリ姿の、顔にすすのついたわたしを見ると、無駄足を踏んだと思ったらしかった。

    わたしは、われわれのなかに敵と内通している者がいるのではないか、とさえ思った。わたしが富爾河に向かったのは何人かの幹部しか知らなかったからである。

    騎馬警察隊が帰ったあと、ふりかえってみると、宋は蒼白な顔をし、額に汗をにじませていた。

    わたしは翌日から、朝早く起きて水を汲み、薪を割り、庭を掃き、飼い葉を煮こんだ。そのあとで宋と一緒に牛橇を引いて毎日、山へ行った。山で文書に目を通し、柴を刈り、活動上の打ち合わせもしながら、彼に一つひとつ任務を与えた。

    わたしは働き者の「作男」として村じゅうに知られるようになった。富爾河村の人たちはわたしをばか正直な「作男」だと信じきっていた。井戸端に氷が張ると、村の女たちはわたしを手招きして氷を割ってくれと頼んだ。わたしはそれにも気持よく応じた。村人から多くの仕事を頼まれれば、それだけわたしの「作男」役がうまくいっていることになり、彼らの頼みごとに気軽に応じていれば、密偵もわたしが革命家だということを容易にかぎだせないだろうと思ったからである。

    ある日、宋家の前の家で祝い事があって、村人たちが餅を搗いてくれといってきた。わたしが作男だから、そんなことはお手の物だと思ったのだろう。

    一生百姓をした祖父は、すき起こし、押し切り、餅搗きの三つを上手にやれないのは本物の百姓でないと口癖のようにいったものだった。けれども、わたしは一度も餅を搗いたことがなかった。わたしの一家は餅を搗いて食べるほどのゆとりがなかったのである。村人の頼みを聞き入れれば正体がばれそうだったし、断れば作男らしくないと思われそうなので、迷わざるをえなかった。それで、いまはうちの仕事が忙しいからといいつくろった。

    ところが、彼らが何度もやってきて促すので、とうとう断りきれなくなってしまった。

    わたしがその家の庭にあらわれると、女主人がこれで仕事の手がはぶけるといって喜んだ。彼女は中老のやせた隣家の人の手から杵を取って、わたしに渡し、「きょうの餅の味はおまえさんの腕にかかっているんだから、しっかり頼むよ」というのである。人の気持も知らずに、ふかしたての餅米を運んできながらはしゃぐ女主人を見ると、おかしくもあり、あきれもした。村人たちは「作男」の腕前を拝見しようと、まわりに集まってきた。農村では餅搗きを見物するのも楽しい生活の一こまなのである。

    わたしは杵を取った手に唾をつけ、心のなかで、えい、どうにでもなれ、とにかく力いっぱい杵をふるってみよう、これも、人間のやることだ、作男だからといってなんでもやれるわけはなかろう、せいぜい餅搗きが下手だとけなされるくらいだろうと思った。そのとき、わたしの胸中を察したらしく、宋が助け船を出した。彼は、「おい、その痛んだ腕で餅が搗けるのか。腕を早く治せとあれほどいったのに、聞き分けのない奴だ」と、わざと声を張り上げてわたしを叱った。そしてまわりの人たちには、「この男はきのう柴刈りに行って腕を痛めたので、餅は搗けませんよ。お隣の祝い事なんだから、わたしが搗いてあげましょう」といいつくろった。

    村の女たちは、客に餅をもてなすときも、わたしを作男以上には扱わなかった。ほかの人たちには餅を皿に盛って出したが、わたしだけには掌にのせてくれたのである。

    わたしは村人たちからそんなふうに扱われても平気だった。かえって工作のためには好都合だと思った。

    富爾河村の革命化はこのように簡単ではなかった。五家子村の革命化でも難渋したが、この村にくらべればなんでもなかった。わたしはその村で一月半ほどすごして組織をつくり、中核青年を動かして密偵も摘発した。

    小沙河へ帰って、そんな苦労談を話すと、みんなが腹をかかえて笑った。わたしは同志たちに、「革命家に不可能なことはない。これまでそれができなかったのは、水に浮かんだ油のように大衆のなかへ入らず、紳士気取りで革命活動をやったからだ」といった。

    反日人民遊撃隊の組織後、わたしは部隊を率いて富爾河に立ち寄ったことがあった。馬に乗って村に入り、大衆を集めて演説するパルチザン隊長のわたしを見て、村人たちはびっくりした。

    わたしに氷を割ってくれと手招きした若い女が、演説を終えて馬にまたがるわたしを見て、「あれまあ、あの人はこの村にいた『作男』じゃないか。あの人が革命軍の隊長になるなんて」といって目を丸くした。

    われわれの前に立ちはだかっていた障害は、このようにして取り除かれた。

    しかし、最大の難間は依然として未解決のまま残されていた。それは、朝鮮共産主義者に多くの血を流させた救国軍部隊にたいする工作であった。

    

    

    

    

      5 新しい武力の誕生

    

    

    一九三二年の春は、重大な出来事があいつぎ世界は騒然としていた。満州大陸を占領した日帝は、孫文の国民革命によって打倒された清国最後の皇帝溥儀をかつぎだし、かいらい満州国をでっちあげた。日本の御用宣伝機関や中国、満州の親日的なマスコミは「五族協和」「王道楽土」の建設を唱えて満州国をたたえたが、アジアと世界の進歩的世論はそれをはげしく排撃した。

    世界の耳目は、九・一八事変勃発の原因と責任の所在を解明するため日本に到着した国際連盟調査団の活動にそそがれた。

    イギリス枢密院顧問リットン卿を団長とするアメリカ、ドイツ、フランス、イタリアなど列強代表からなる調査団は、天皇に謁見し、首相、陸相、外相にも会ったあと、中国に渡って蒋介石、張学良と会見した。そのあと満州にあらわれて関東軍司令官本庄中将に会い、九・一八事変の勃発現場も視察した。日本側と中国側はそれぞれリットン調査団に秋波を送り、応接と歓迎に熱を上げた。調査団が真相を明らかにし国際連盟が影響力を行使すれば、日本は満州から撤兵するかも知れないという憶測が、政界、社会各界、マスコミはもちろん、政治に敏感になった小学生や隠居部屋の老人のあいだでもささやかれた。

    しかし、安図地区で武装闘争を準備していたわれわれは、そのような憶測やうわさにはいっさい耳を傾けず軍事教練に熱中した。小沙河婦女会の会員は、毎日のように昼食を用意して土器店谷の台地にやってきた。

    われわれは三月中旬、安図で東満州各県に組織された遊撃隊グループの指揮官のための短期訓練(短期講習)を催した。各地から二十人近くの指揮官が小沙河土器店谷に集まった。

    短期訓練は二日間で、初日は理論講義を、翌日は動作訓練をおこなった。わたしは朝鮮革命の路線と方針問題をもって政治講習の講師をつとめ、また遊撃隊の生活規範と活動準則にかんする講義もした。軍事訓練は主に朴勲が担当した。そのときわれわれは、隊列動作、武器の分解と組み合わせなど初歩的なことから襲撃、伏兵など戦術的問題へと訓練を深めていった。

    安図は反日人民遊撃隊の創建をめざす朝鮮共産主義者の活動本部、中心となった。豆満江沿岸の各県から工作員や連絡員がわれわれとの連係をはかって随時、小沙河にやってきた。われわれが安図で遊撃隊を組織するといううわさは口から口へと伝わり、国内にも知られるようになった。うわさを聞いて朝鮮や満州各地から二十前後の血気さかんな青年が死線を越えて安図を訪れ、入隊を志願した。

    五家子の辺達煥が入隊を志望する八人の青年と連れ立って安図へ向かう途中、日本軍警に逮捕され投獄されたのもそのころのことである。解放直後、わたしを訪ねてきた辺大愚老は、息子が入隊もできずに何年もむなしく獄中生活を送ったと残念がった。

    間島各県のうちでも、とくに延吉地方の人たちがもっとも多くわれわれのところへやってきた。延吉地方には敵の支配機関と弾圧手段が集中し、密偵網もととのっていた。一九三二年四月初め、羅南第一九師団所属第三八旅団の第七五連隊を基幹にし、砲兵、工兵、通信兵によって増強された池田大佐麾下の間島臨時派遣隊が東満州地方「討伐」を目的に豆満江を渡り、延吉をはじめ間島一帯に進駐した。

    そうした実情のなかで、当地の地下組織は入隊を志望する青年を安図に数多く送りこんだ。組織の推薦とは関係なく、うわさを聞いて自発的に訪ねてくる青年も多かった。

    敦化の陳翰章も胡択民という中国青年と一緒にわたしの前にあらわれた。胡択民は和竜で師範学校の教員をしていた。

    ときには、十数人もの青年が連れ立ってやってくることもあった。

    ところが、救国軍が途中で彼らを捕えては集団虐殺する事件がしばしば起こった。

    当時、中国東北地方には東北自衛軍、反吉林軍、抗日救国軍、抗日義勇軍、山林隊、大刀会、紅槍会など、さまざまな反日部隊があった。反日部隊とは、日帝の満州占領後、抗日救国の旗をかかげて旧東北軍から離脱した愛国的軍人や官吏、そして農民からなる民族主義軍隊のことである。それらの部隊はおしなべて救国軍と呼ばれた。

    満州地方の反日部隊のなかで有名だったのは、王徳林、唐聚伍、王鳳閣、蘇炳文、馬占山、丁超、李杜などの部隊である。

    東満州最大の反日部隊は王徳林部隊だった。王徳林は一時、穆と綏芬河一帯の密林で主義主張もなく「緑林の豪傑」といわれる土匪となって青年時代をすごし、のち部下を引き連れて張作相の吉林軍に入り、正規軍の将校となった人物である。彼は九・一八事変まで、旧吉林軍の第3旅団第七連隊第三大隊長を勤めた。民間では彼の大隊を「旧三大隊」と呼んでいた。

    日本軍の満州侵攻後、彼の上官の旅団長吉興が白旗をかかげて関東軍司令官に会い、日本帝国への忠誠を誓って吉林警備司令官に任命された。

    上官の反逆行為に憤慨した王徳林は、即時反旗をひるがえし、抗日救国を宣言した。彼は五百余人の隊員を引き連れて山中に入り、中国国民救国軍を組織して呉義成を前方司令官に任命した。そして、日本帝国主義侵略軍にたいする抗戦を開始した。

    羅子溝一帯を活動拠点として間島地方の敵を牽制し、のちにわが遊撃隊と親密な関係を結んだ呉義成や史忠恒、柴世栄、孔憲永などは、いずれも王徳林の忠実な部下だった。

    南満州の山間地帯では唐聚伍の自衛軍が活動し、黒竜江省一帯では馬占山部隊が北上する日本軍に抵抗していた。安図の山間奥地に入ってきたのは呉義成麾下の于司令部隊である。その部隊は非常に鼻息が荒かった。

    彼らは朝鮮共産主義者を日帝の手先とみなし、朝鮮人が満州大陸に日帝侵略軍を導き入れた張本人だと思いこんでいた。日本帝国主義者が朝中両国人民のあいだにくさびを打ち込もうと離間策を弄していたうえ、五・三〇暴動と万宝山事件による朝鮮人への悪感情が中国人の胸にいつまでもわだかまっていたのである。

    救国軍の頑迷な上層部には、朝鮮民族と中華民族は日本帝国主義侵略者によってまったく同じ災難と不幸を強いられている被抑圧民族であり、中国人が日帝の手先になれないように朝鮮人も日帝の狗になれず、中国人が朝鮮人民の敵になれないように、朝鮮人も中国人民の敵になれないということを理解するだけの政治的判断力や洞察力がなかった。彼らは、共産主義にたいしても盲目的な敵対感情をいだいていた。それは救国軍の上層部が、ほとんど有産階級の出身だったという事情に起因していた。救国軍の上層部は、朝鮮人は共産党であり、共産党は派閥集団であり、派閥集団は日帝の手先であるという自己流の公式をつくり、それを尺度にして朝鮮の青壮年を迫害し、殺害したのである。

    都市や平場では日本侵略軍がばっこし、日本軍に占領されていない農村や山間地帯では数千数万の救国軍がたむろして、われわれを圧迫した。救国軍の敵対行為は幼弱なわが遊撃隊の存在自体を脅かす重大な障害となった。

    日本帝国主義者はもとより、山林隊や独立軍まで朝鮮共産主義者を敵視したので、われわれは孤立し、文字通り四面楚歌の窮地に立たされていた。

    反日部隊との関係を改善せずには、遊撃隊の存在と活動を公然化できなかった。遊撃隊が認められなければ、隊伍の拡大も公然たる軍事行動も考えられなかった。

    部隊は組織したが公然と活動ができないので、われわれはいわば裏部屋に閉じこもっているほかなかった。外に出てこそ日の目が見られるのだが、それができないのである。軍服もなく私服姿で他家の裏部屋でモーゼル拳銃をいじくってばかりいては、どうして抗日ができようか、と慨嘆するのみだった。それも朝鮮人村に隠れて自由に出歩けず、暗くなってからせいぜい何人かでひそかに出歩くという有様だった。

    当初、われわれが遊撃隊を秘密遊撃隊と呼んだ理由もそこにあった。

    われわれは、日本軍ばかりか救国軍や満州国軍の敗残兵をも避け、共産主義者を敵視する朝鮮の一部の民族主義者や反動分子をも警戒しなければならなかった。公然と活動すれば共産党だと発砲し、乱暴を働くのだからまったく身動きができなかった。延吉、和竜、汪清、琿春などの事情も変わるところがなかった。

    だからといって、共産主義者の家ばかり選んで歩くわけにもいかなかった。それでなくても貧しい人たちのところへ、何十人も押しかけて面倒をかけては、彼らの生活はいっそう苦しくなるばかりである。

    遊撃隊を公然化して日中に歌をうたい、大衆の歓迎をうけ、宣伝をしてこそ事が順調に運び、戦意も高揚するのだが、そうできないのがもどかしかった。

    われわれは集まりさえすれば、遊撃隊をどうして公然化すればよいのか、反日部隊との関係をどう解決すべきか、などの問題をもって論議を重ねた。

    もっとも深刻な問題は、共産主義者が中国の民族主義者と手を握るのが正しいかどうかということだった。救国軍は上層部が有産階級出身でしめられ、地主、資本家、官僚などの利害を代弁する軍隊である。われわれ共産主義者がそんな彼らと手を握るのは階級的原則の放棄、妥協を意味しないか、と疑念をいだく人たちが少なくなかった。彼らは、救国軍と一時的に関係が改善できても、同盟関係は結べない、彼らの敵対行為を実力でおさえるべきだと主張した。

    それはじつに危険な主張であった。

    わたしは、救国軍にはいろいろな制約があっても、闘争目的と境遇が共通している以上、抗日戦争でわれわれの戦略的同盟者になりうるという確固とした立場に立ち、救国軍との関係改善はもちろん、彼らと連合戦線を結ぶべきだと主張した。思想と理念の異なる二つの武装力が連合戦線を結ぶという構想は、当時はじめて提起されたもので、はげしい論争の的となった。

    反日部隊との連合戦線結成問題は、中国共産党でも深刻な問題として提起されていた。東満州特委は早くから王徳林部隊に注目し、七、八人の優秀な共産党員を派遣して救国軍の工作にあたらせた。われわれも李光などの共産主義者を救国軍部隊に送りこんだ。

    わたしは連絡員を通じて、同山好部隊に派遣された李光が救国軍工作に苦慮している状況をたびたび聞いた。

    救国軍がいよいよ横暴をきわめると、同志たちは、連合戦線は空想にすぎない、彼らをたたいて犠牲になった人たちの恨みを晴らそうといいだした。わたしはそのような彼らをやっと説き伏せた。救国軍を敵にまわし、ことごとに報復を加えるのは反日の大義と道理にもとり、幼弱なわが遊撃隊を自滅に導く無分別な行為でもあった。

    間島はもちろん、満州全域の共産主義者と遊撃隊員が救国軍のために苦しんでいた。

    当時、各県の遊撃隊は隊員数がいくらにもならなかった。一つの県にせいぜい数十人程度だった。それも救国軍につかまれば容赦なく殺害されるので、部隊を増強したくても思いどおりにいかなかった。

    そのような状況だったので、わたしは遊撃隊が当分のあいだ于司令の部隊に入って、別働隊として活動するのが合理的ではなかろうかと考えた。于司令の部隊に入れば、救国軍の看板がかかげられるから被害をうけるおそれがなく、武器も少しは得られるだろう、積極的に影響を与えれば彼らを共産主義化して安全な同盟者に変えることもできる、という仮説を立てて同志たちの討議にかけた。

    この問題をめぐって、党組織の本部がある小沙河の金正竜の家で終日会議がつづけられた。それをいまでは小沙河会議と呼んでいる。そのときの討議は激烈をきわめた。救国軍部隊に入って別働隊として活動するのは可能かどうか、有益かどうか、と朝から夜更けまで喉をからして論争した。愛煙家はもちろん、タバコをたしなまない者まで、タバコの葉を紙に巻いてはさかんに煙をくゆらすので、目が痛く、息苦しくてたまらなかったことが忘れられない。当時、わたしはまだタバコを吸わなかった。

    結局、別働隊にかんするわたしの着想は同志たちの支持を得た。

    会議では、救国軍と談判するため于司令部隊に代表を送ることが決定され、わたしが適任者として選ばれた。同志たちから推薦されたのでなく、わたしが自ら買って出たのである。

    当時、われわれには軍事外交の経験者がいなかった。それで、誰を代表として送るべきかということがまた深刻に論議された。代表を送るとしても向こうが相手にしてくれるだろうか、談判をはじめても彼らが無理難題をもちかけてわれわれを窮地に追いこまないだろうか、それに、下手をすれば代表が殺害されかねないという懸念もあって、そうした状況を臨機応変に処理できる人物が代表として選ばれなければならない、と異口同音に強調した。

    われわれのなかにはそれだけの人材がなかった。于司令と対座するには年配者を送るべきだったが、それに該当するのは朴勲と金日竜、胡択民の3人しかいなかった。金日竜はわたしより十数歳年上だったが、中国語が上手ではなかった。それ以外の人たちは曹亜範のように学校を出たばかりの十八~二十歳の青年だった。

    わたしは同志たちに、自分が行こうといった。

    彼らはそれに反対した。成柱は隊長ではないか、于司令が共産党だといって危害を加えたらたいへんだ、だから陳翰章か曹亜範、胡択民など中国の同志のうち駆け引きのうまい人を選んで送るべきだと主張した。

    わたしは彼らに、于司令がどうしてわたしを殺すと思うのか、と反問した。彼らは、知れたものではない、そこへ行って「高麗棒子(朝鮮人め)」といって殺されたらそれまでだ、ほかの者がみな殺されているときに、君だからといって殺されない理由があるのか、汪清の関部隊事件以来救国軍は朝鮮の青年と見ればますます殺気だっている、だから君は行かないほうがよい、というのだった。

    関部隊事件というのは、汪清で活動している李光の秘密遊撃隊が反日部隊の関部隊を武装解除した事件である。そのため遊撃隊と救国軍の関係は急激に悪化し、遊撃隊の活動はいっそう困難になった。汪清から来た連絡員は、自分たちの地方では関部隊事件があったあと、その報復として何人もの遊撃隊員が救国軍につかまって銃殺されたといった。金策同志が北満州で山林隊につかまって九死に一生を得たのも同じころの出来事だった。

    わたしは、自分が行くべきだと強く主張した。わたしがそれほど強力に主張したのは、わたしの外交術がとくにすぐれているとか、于司令を説き伏せるなんらかの妙策があってのことではなかった。当時、遊撃隊の存亡は于司令との談判いかんにかかっており、われわれの成敗も彼らとの連携いかんにかかっていた。それに救国軍を同盟者にしないでは、東満州で遊撃戦はもちろん、自由に動くことすらできないのが現実であった。そしてこの難局を乗り切って武装闘争を開始しなければ、朝鮮の息子としての生きがいがなく、生き長らえる面目もないと考えたからである。

    わたしは、死を恐れては革命ができない、わたしは中国語ができるし、青年運動時代にさまざまな試練をのりこえた経験もあるのだから、行きさえすれば于司令にきっと会える、だからわたしが行くべきだ、と同志たちを説得した。そして、朴勲と陳翰章、胡択民のほかにいま一人の中国人青年をともなって、于司令のもとへ向かった。なんら身辺保障のない冒険の道だった。

    めざす司令部は両江口に位置していた。

    救国軍にどこから来たかと聞かれたら、安図だといわずに吉林から来たと答えることにした。救国軍に遊撃隊の駐屯区域である東満州の地名を告げるのは危険だった。

    われわれは大沙河に通ずる道の途上で于司令部隊に出あった。数百人の隊伍が『三国志』に出てくるような「于司令」と染め出した旗をなびかせ、威風堂々と行軍してきていた。于司令部隊が南湖頭で日本軍を掃討し、機関銃まで奪ったあとだったので、世間がそのうわさでもちきりのときだった。

    「避けないか?」

    胡択民が不安げにふりむいた。

    わたしは「いや、ぶつかっていこう」といって、そのまま歩きつづけた。ほかの四人もわたしの両側に一列に並んで足並みをそろえて歩いた。

    救国軍はわれわれを見ると、「高麗棒子、来い!」と怒鳴った。そして、有無をいわせず逮捕しようとした。

    わたしは彼らに、われわれも君たちのように抗日をしているのになぜつかまえようとするのか、と中国語で抗議した。彼らはわたしに、朝鮮人でないのかと聞き返した。わたしは胸を張って、朝鮮人だと答え、陳翰章や胡択民らは中国人だといった。

    「われわれは急いで協議したいことがあって、君たちの司令を訪ねていくところだ。司令に案内してもらいたい」

    わたしがこう威厳をつくろって要求すると、彼らの態度が少しやわらぎ、自分たちについてくるようにといった。

    しばらく行くと、旧東北軍将校の身なりをした指揮官が昼食の命令を下し、われわれを近くの農家へ拘禁した。

    そのとき、思いがけないことに、吉林毓文中学校時代の恩師、劉本草先生が農家に入ってきた。彼は毓文中学校で一時、漢文を教え、のちに文光中学校や敦化中学校でも教鞭をとった人だった。彼は尚鉞先生とも親交が深く、陳翰章とも旧知の間柄だった。先生は人柄がよく知識が広いうえに、良書をいろいろと紹介してくれたり、りっぱな詩をつくって学生の前でよく朗唱したりしたので、われわれは劉先生を慕い、尊敬したものだった。

    わたしと陳翰章は歓声を上げて先生の前へ走り寄った。苦境に陥ったとき恩師にめぐりあったのだから、うれしさはひとしおだった。

    劉本草先生も驚きと喜びをかくせず、われわれにたずねた。金成柱、どうしてこんなところにいるのだ? なんのためにここへ来たのだ? どこへ行こうとしてつかまったのだ?

    わたしがひととおり訳を話すと、先生は部下に向かって、「この人たちを手厚くもてなせ。わしもここで一緒に昼食をとるから、ご馳走を持ってくるのだぞ」と大声で指示した。先生は日本軍の満州侵攻後、教壇を離れて于司令部隊に入り、参謀長を勤めているというのである。

    劉本草先生は食事を取りながら、国が滅ぶのを黙って見るにしのびず軍服を着たのだが、無知な部下を引き連れて戦うのだからやきもきすることが多い、自分たちのところへ来て一緒に戦わないかと勧めた。われわれがそれに同意し、于司令に会わせてもらいたいというと、于司令はいま両江口から安図城市へ向かっている、だから自分と一緒に行けば会えるだろう、といった。

    そこで、わたしは先生にいった。

    「先生、われわれも朝鮮人部隊を一つつくりたいのです。日帝にたいする恨みは中国人より朝鮮人の方が深いではありませんか。ところが、反日部隊はなぜ朝鮮人の抗日を妨げ、乱暴を働き、殺しさえするのですか?」

    「そうなんだ。わしはそんなことをするなと懸命になってとめるのだが、どうも思うようにいかない。共産党がなんであるのかも知らない無知なやからだからね。共産党も日帝に反対しているのに、なにが悪いというんだ」

    劉本草先生も憤慨した。

    わたしは先生の言葉を聞いて、よかった、活路は開けた、とひそかに喜んだ。わたしはただちに朴勲を小沙河へ送りかえし、われわれが無事である、于司令部隊の参謀長が心からわれわれを助けてくれている、遊撃隊を公然化できる見通しがついた、と同志たちに知らせた。

    食後、われわれは劉本草先生について安図城市へ向かった。

    先生には専用の軍馬があった。先生に乗馬するよう勧めたが、「君たちを歩かせて、わたし一人乗るなどとんでもない。君たちと一緒に話をしながら歩こう」といい、城市までずっと歩きとおした。

    反日部隊の兵士はほとんどが「不(プ)怕(パ)死(ス)不(プ)擾(ヨ)民(ミン)」という文字入りの腕章をつけていた。それは死を恐れず、人民に危害を加えるな、という意味である。

    兵士たちのあいだにただよう険悪な印象とは裏腹に、彼らの合言葉はきわめて健全で戦闘的だった。それを見ると、于司令との出会いがよい結果をもたらすかも知れない、という期待が大きくなった。

    その日、われわれは劉本草先生の紹介で、于司令と難なく会うことができた。彼は参謀長の体面をおもんばかってか、われわれを礼儀正しく迎え入れ、高位級の客としてもてなしてくれた。われわれがみな中学校を卒業し、演説もできれば檄文も書け、武器も扱える血気さかんな青年だと知って、麾下に置きたかったのかも知れない。

    案にたがわず、于司令はわれわれに自分の部隊に入らないかと勧め、わたしには、司令部宣伝隊の隊長になれというのだった。

    わたしは、われわれの軍隊をつくり、それを公然化するのが目的だったので、司令の要求には困惑せざるをえなかった。わたしが拒絶すれば、于司令の憤激を買うだろうし、劉本草先生の立場も苦しくなるだろうと考えた。

    わたしは妙なことになったと思ったが、于司令に信頼されるのは、とにかく幸先のよいことだと考え直し、司令のお言葉通りにする、と答えた。于司令はすっかり機嫌をよくして、その場で部下に任命状を書かせた。

    こうして、わたしは司令部宣伝隊長になった。そして胡択民は副参謀に、陳翰章は秘書に任命された。まったく思いがけない結果になったが、これも踏まなければならない道だった。とにかく遊撃隊を公然化する活路が開けたのである。

    わたしは、他家の裏部屋にこもっていたときの境遇と、劉本草先生の紹介で于司令部隊の心臓部に深く入りこんだ状況を対比して、万事うまくいったと心中ひそかに快哉を叫んだ。

    ところがその日の夕方、われわれは思いがけない出来事にぶつかった。救国軍が延吉から冨爾河に向かっていた朝鮮青年を七、八十人も捕えて、城市へ引き立ててきたのである。

    驚きと憤りの入りまじった気持で引き立てられてくる青年たちを遠くから眺めていたわたしは、劉本草先生のところへ飛んでいった。

    「先生、たいへんなことになりました。先生の部下が朝鮮人をまた大勢つかまえてきました。あの人たちのなかに親日派がいるわけはありません。あのなかには親日派などいません。日帝の手先が実際にいるかどうかを調べて処理すべきではありませんか」

    劉本草先生はわたしの話を聞いて、「成柱、君が行ってみたまえ。わたしは君を信じる」と答えた。

    「先生、わたし一人ではだめです。先生も一緒に行って下さい。先生は演説が上手ではありませんか。先生が演説すれば、彼らが日帝の狗だとしてもりっぱに感化できるでしょう。彼らを感化して日帝と戦わせるべきです。親日派でもない者をやたらに殺して、どうしようというのです」

    「成柱は演説が上手なのに、わたしまで演説することはなかろう。一人で行ってみなさい」

    劉本草先生は手を横に振って、聞き入れようとしなかった。

    先生がいうように、わたしが学生時代に演説をたくさんしたのは事実だった。吉林、敦化、安図、撫松、長春などをまわって、日帝の満州侵略野望を暴露し、朝中人民の団結を呼びかける演説をいろいろとした。劉本草先生はそのことをよく知っていた。

    「先生、わたしが朝鮮語で演説すれば、先生の部隊の人たちはなにをいっているのかわからないではありませんか。わたしがよくない宣伝をしているのではないか、と疑われたらどうします」

    劉本草先生はそれでも手を振って、早く行ってみるようにと促した。

    「成柱がやるのはせいぜい共産党の宣伝ぐらいだろうから、大丈夫だ。わたしが保証人になるから、心配せずに演説をしなさい」

    先生はわたしが共産党に関係し、共産主義運動をしていることも知っていた。

    「共産党の宣伝も必要なときはすべきではありませんか。それがいけないということはないでしょう」

    互いに信頼する仲でなかったとしたら、わたしは劉本草先生にこんなことをいえなかったであろう。わたしが共産党で日帝の手先だといって危害を加えられたとしても、どうしようもなかったはずである。だが、先生はわたしとごく親しい間柄だったので、もちろんそんなことは起こらなかった。

    わたしと劉本草先生は毓文中学校時代、わけへだてなく交わっていた。当時、劉先生はわたしにとくに目をかけてくれたものだった。

    わたしが参謀部で劉本草先生と押し間答をしているところへ、于司令があらわれた。彼は捕えてきた青年たちのほうに目を向けて、また共産党員をつかまえてきたらしい、共産党がいつのまに満州にあんなに増えたのだろう、と首を振った。

    そのとき劉本草先生がわたしに、「宣伝隊長が早く行って、あの人たちと話し合ってみなさい。朝鮮人がみな共産党員であるはずはないし、また共産党だからといって、みな日帝の手先であるわけもない」といって目くばせした。于司令はそれを聞いて、かんかんになった。

    「なんだって? 暴動を起こして土地を奪おうとしたあげく、日本人まで引き入れた奴らではないか。それでも共産党が日本人の手先でないというのか?」

    朝鮮人にたいする于司令の偏見は思ったより強く、盲信的だった。共産主義者にたいする誤解もそれに劣らず執拗なものだった。

    わたしは、なんとしても于司令を説き伏せようと思った。わたしはこう決心すると、単刀直入に質問した。

    「司令は共産党が悪いというのを本でお読みになったのですか? それとも誰かから聞いたのですか?それでなかったら、どうして共産党員が悪いというのですか」

    「本など読むものか。人の話によればそうだということだ。口のある者ならみな共産党員は悪いといっている。だから、わしも悪いと思ってるんだ」

    わたしはあきれたが、一方では、そうだったのか! と安堵の胸をなでおろした。体験からではなく、うわさを聞いただけでの反共なら、誤解は十分にとけると思ったのである。

    「司令が定見もなしに他人の言葉をうのみにしていては、大事をとげることはできません」

    そこに居合わせた陳翰章や胡択民も共産主義者であり、参謀長もその支持者だったから、結局、于司令はわれわれに包囲された格好になった。

    わたしは好機を逃すまいと追い討ちをかけた。

    「司令! 大事な青年をやたらに殺してどうするのですか。あの人たちにすぐには銃を持たせられないとしても、槍を1本ずつ持たせて突撃隊に使ってみてはどうでしょうか。日帝と勇ましく戦うかどうかを試してみるのです。勇ましく戦えば、それにこしたことはないはずです。ただ殺してしまうことはないではありませんか」

    于司令はわたしの話を聞いて、「それもそうだ。では、宣伝隊長が行って、その問題を解決してみるんだな」といった。

    わたしは捕えられてきた青年たちのところへ行き、紙切れにこう書いて、そっと彼らのあいだにまわした。「君たちは証拠がない以上、絶対に共産党員だというな。君たちの体を調べるときに出てきた『反日兵士に告ぐ』というビラは、どこかで拾ったものだと答えろ」という内容のものだった。彼らは、その紙切れがどのように自分たちのところにまわってきたのかわからなかった。

    わたしを見る彼らの目は怒りに燃えていた。わたしを于司令の手先だと思っているようだった。

    わたしは、彼らの敵意にみちた視線を全身に感じながら、こう質問した。

    「君たちのなかで、金成柱という名前を聞いたことのある人がいますか?」その一言が張りつめていた彼らの緊張をほぐした。場内がざわめき、金成柱という名前を聞いたことがあるという者もいれば、聞いたことがないという者もいた。

    「わたしがその金成柱です。わたしはいま、この于司令部隊の宣伝隊長をしています。

    于司令は先ほど、君たちが救国軍に合流して戦う意向があるかどうか、確かめるようにといいました。われわれとともに戦うつもりがあれば、戦うと答えてください」

    彼らはいっせいに「戦います!」と声をそろえて叫んだ。

    わたしは于司令に青年たちの意向を伝え、彼らを受け入れて日本軍と戦わせてみてはどうか、と提案した。于司令は一も二もなく同意した。青年たちの生死とその運命は、われわれの思惑どおりに決定された。われわれには、反日連合戦線を実現できるさらに広い道が開かれたのである。

    こうして遊撃隊の公然化がほとんど実現したと思われたとき、于司令を裏で操っていた朝鮮人顧問が妨害をはじめた。彼は金佐〔 〕鎮派に属する古くからの民族主義者で、南湖頭で農業に従事していたのだが、九・一八事変が勃発したとき救国軍に合流した人物だった。彼は知識があり頭が切れるので、于司令の厚い信任を得ていた。

    彼は于司令をそそのかして共産主義者を迫害する策士だった。彼は先の青年たちの問題でも、七、八十人もの人間を調べてみもしないで部隊に受け入れるのは軽挙妄動だ、あのなかには親日派がいないともかぎらないではないか、と騒ぎたてた。彼をおさえなくては、われわれの活動にまたも重大な障害が生じかねなかった。

    ある日、わたしは于司令にそれとなくたずねた。

    「この部隊に朝鮮人が一人いるとのことですが、なぜ、そのことを話してくださらなかったのですか」

    司令は、まだ会っていないのか、といって、部下に彼を連れてくるよう命じた。

    彼はかなりの長身で、体格もがっちりしていた。

    わたしは、「はじめてお目にかかります。先生はお年を召されて経験も積んでおられるでしょうから、未熟なわれわれ若い者たちをよろしくご指導願います」と、先にあいさつした。

    彼も自己紹介をした。彼は、司令部に中国語の達者な朝鮮青年が来て宣伝隊長になり、于司令を補佐していると聞き、同じ朝鮮人としてたいへんうれしく思っているといった。

    彼が朝鮮人の名分をかかげ、民族をうんぬんしたので、わたしは機会を逃さずにつめよった。

    「それなら、抗日をしようという人たちを一人でも多くつのるべきだと思いますが、どうしてやたらに殺すのでしょうか。思想が違えば殺してもよいというのでしょうか? 朝鮮人が祖国で暮らせないだけでもくやしいのに、ここ満州に追われてきてまで救国軍に殺されるのですから、こんなくやしいことがどこにありましょうか。共産主義であろうが民族主義であろうが主義を問題にせず、団結して日帝と戦うべきであって、やたらに排斥し、殺してなんの利益になるというのですか」

    彼は、宣伝隊長のいうことが正しいといって、わたしをしげしげと眺めた。こうして第二の障害も取り除かれた。

    于司令は、われわれの対話がなごやかに終わったのを見てほほえんだ。

    わたしは于司令に、司令がわたしを信頼してくださるなら、宣伝隊長の地位は胡択民のような人物に兼任させて、わたしにはむしろ、朝鮮人を集めて戦う隊長の任務を与えてもらえないだろうか、と提起した。

    劉本草先生は、それがいいといって、わたしを支持した。

    于司令は、朝鮮人の部隊を別につくるとすれば、銃はどこから手に入れるのかと聞いた。

    わたしは、「銃は心配しないでください。司令に出してくれとはいいません。われわれは敵の銃を奪って部隊を武装させます」と答えた。

    于司令はそれを聞いて、たいそう満足した。

    「それなら部隊をつくるがいい。だが、君たちに武器を与えて、この先、その銃口がわしらに向けられたら、どうするんだ」

    「そんな心配はご無用です。そのような裏切りは絶対に起こらないでしょう。銃口を向けたところで、われわれのようなちっぽけな部隊が司令の大部隊にかなうわけがないでしょう」

    于司令は手を横にふって、隊長が冗談を真にうけたようだ、といって豪傑笑いをした。

    わたしは、最初から救国軍を離れるといえば于司令が怒るだろうと思い、司令の名義で部隊の名をつけてほしいといった。

    かたわらにいた劉本草先生が、「では別働隊としよう。朝鮮人別働隊とするのがよいだろう」といった。

    劉本草先生の提案に于司令がうなずき、わたしも賛成した。

    秘密遊撃隊を公然化する基礎作業は、別働隊の誕生によってりっぱな実を結んだ。われわれはこの別働隊に安図の秘密遊撃隊員と于司令部隊に抑留されている七、八十人の青年を繰り入れて、遊撃隊を公然化させた。

    わたしは陳翰章と胡択民の手を取って、司令の部屋を出た。われわれは「勝利した!」「大成功だ!」とくりかえしながら夜通し城市のまわりを歩いた。

    胡択民はわたしにタバコを一本勧め、ひとつ煙を吸ってみろといった。きょうのような喜ばしい日には酒に酔うか、それがなければタバコの煙にでも酔ってみようというのである。

    わたしは生まれてはじめてタバコをくわえ、煙を吸いこんだ。ところが、煙が喉につかえ息がつまって、長いこと咳きこんだ。それで胡択民も笑い、陳翰章も笑い、わたしも笑った。

    「なんだ、タバコも吸えないで、どうやってパルチザンの隊長になるんだ」

    胡択民はこんな冗談口をたたいた。

    小沙河へ帰って談判の成功を伝えると、裏部屋に閉じこもっていた同志たちが、わたしを肩車に乗せていっせいに外へ飛び出し、村じゅうに響けとばかりに万歳を叫んだ。

    渋い喉で知られている金日竜が『アリラン』を歌い出した。明るく楽しいワルツや勇ましい行進曲がふさわしいこのよき日に、筋骨たくましい大の男が『アリラン』のような哀歌をうたいだしたのだから、みな驚いた。

    金喆(金喆煕)が金日竜の腕をつかんでたずねた。

    「日竜さん、このうれしい日になぜそんな歌をうたうんです?」

    「わからん。おれにもわからんよ。自分でも知らないうちに『アリラン』が出てきたんだ。とにかく、おれたちはずいぶん苦労したもんな」

    金日竜はうたいやめて、涙にうるんだ目を金喆に向けた。

    わたしは彼の言葉を聞いて粛然とした。彼がいったとおり、われわれはこの日のために、どれほど険しい試練をのりこえてきたことだろう。金日竜の半生はそのまま、その試練の縮図といえた。彼は独立軍に入って民族主義運動にも参加し、共産主義運動にも従事した。朝鮮にも住み、満州や沿海州にも住んだ風雲児である。それは溜息と涙の絶えない受難にみちた生涯だった。

    『アリラン』はそうした生涯を集約したものであった。溜息を笑いにかえ、挫折から突撃に移るべきその歴史の分岐点で、金日竜は『アリラン』によって波乱に富んだ過去を総括し、新しい門出に立った歓喜を、思う存分、青空の下でうたったのである。

    あのとき、路上で劉本草先生に会えなかったとしたら、われわれの運命は、そして遊撃隊の運命はどうなっていたであろうか。わたしは現在も当時のことをふりかえっては、いまは亡き劉本草先生に無言の感謝をささげるのである。

    于司令部隊における談判の成功を誰よりも喜んでくれたのは劉本草先生だった。彼はわれわれが城市をあとにするとき、軍営の外まで見送り、われわれはもう敵ではなくて兄弟だ、友軍だ、といって喜び、わたしの手をかたく握って、日本帝国主義侵略者を打倒しよう、と激情に燃えていった。

    のちに先生が亡くなったという知らせに接したとき、わたしは安図城市におけるあの忘れえない談判の日びや毓文中学校時代のことを回想し、悲しみに沈んだ。

    われわれは于司令との談判に成功して遊撃隊の存在と活動を公然化し、ひいては反日抗戦でともに手を握ってたたかう同盟軍を獲得した。談判の成功はまた、愛国愛族の大義をかかげるならば、思想と理念の異なる他国の民族主義者とも統一戦線を結んで、共同闘争をくりひろげることができるという自信をわれわれにいだかせた。

    そうした自信は、その後の半世紀以上にわたるわたしの政治生活に大きな影響をおよぼしたと思う。わたしは、思想と理念の異なる民族主義者や生活経歴の複雑な有産階級出身など各階層の人士を包容する問題が提起されるたびに、それをためらい、偏見をもって対応する人たちに、于司令と談判したときの経験談を話し、彼らに広い度量をもてと言い聞かせたものである。

    小沙河へ帰ったわたしは、汪清地区で対救国軍工作で難渋している李光に、于司令との談判内容と朝鮮人別働隊が組織された経緯をくわしく知らせ、安図での経験を参酌して汪清でもすみやかに別働隊を組織するよう任務を与えた。

    当時、李光は地下活動をしていた。わたしは1個中隊の人員を彼のもとへ送り、そこでも別働隊を組織して地下活動から公然活動へ移るようにした。

    別働隊とは、朝鮮人で組織された特別部隊のことである。朝鮮人部隊が救国軍に認められて公然と活動したのは、われわれと李光の部隊をおいてほかにはない。そのとき、われわれが別働隊という名称を使ったのは、遊撃隊の公然活動を保障し、救国軍との連携を強化して反日連合戦線を実現するための一つの戦術的な措置であったといえる。

    われわれは別働隊の組織後、それを拡大し、再編することによって、反日遊撃隊を一日も早く結成するために、その準備を活発におし進めた。

    隊伍の編成ではさまざまな論争もあった。

    そのとき、遊撃隊に労働者出身の隊員が少ないことをなによりも憂慮する人たちがいた。百人余りの入隊対象者を調べてみると、ほとんどが学生か農民の出身だった。その実態に驚いた彼らは、労働者出身が少ないのは革命軍の組織においてマルクス・レーニン主義の原則に反するのではないか、それに将来、それが革命軍の変質を招く要素になるのではないか、というのだった。

    わたしはそうした見解にたいして、労働者階級が革命軍の主要構成成分となるべきだというのはマルクス・レーニン主義軍事学の一般的な原理である、しかし、その原理を機械的に適用する必要はない、わが国では農民が住民の圧倒的多数をしめており、労働者は農民にくらべてきわめて数が少ない、だからといって労働者の数が増えるまで遊撃隊の創建を先にのばして待つわけにはいかない、わが国では農民や学生出身もみな労働者に劣らず革命意識が高く民族性が強い、出身は違っても労働者階級の思想をもって戦えばよいのだ、だから農民やインテリ出身が多いことが革命軍の変質要因にはならないと、諄々と説いて聞かせた。

    われわれは、指揮体系を確立するうえでも既存の命題にとらわれることなく、遊撃戦争の特質と要請に合わせて、号令をかける人より号令を実行する兵士の方が多くなるような方向で隊伍を組み、編制を定めた。つまり、指揮体系を高度に単純化したのである。したがって部隊に給養部やそれを主管する指揮官を別に置かなかった。各人が飯も炊けば洗濯もし、戦いもすれば、場合によっては政治工作もできるよう隊員たちを準備させたのである。

    あのとき、われわれにクラウゼウィッツの『戦争論』のようなものがあったら、どんなによかったことか。当時われわれには、部隊の編制における三・三制はナポレオンによって創始されたという程度の単純な軍事知識しかなかった。クラウゼウィッツについては、ただ名前を知っている程度だった。

    わたしは、第2次世界大戦のころはじめて彼の『戦争論』を手に入れた。指揮体系を単純化し、兵士を増やすべきだという彼の主張にはわたしも容易に共感できた。

    反日人民遊撃隊は中隊を基本戦闘単位にして組織された。わたしは隊長兼政治委員に選ばれた。

    遊撃隊の軍服はクヌギの樹皮で緑色に染めた。左の胸には中隊の番号を記した五角形の赤い布切れをつけた。そして軍帽には五稜の赤い星をつけ、すねには白い脚絆を巻くことにした。遊撃隊創建の最後の仕上げともいうべき服装の決まりを一つ一つ定めていくのは、胸のふくらむ楽しい作業であった。

    われわれが熱心に討議して決定した服装の仕様にそって、婦女会員が総がかりで軍服をつくった。

    わたしの母も病気がちだったが、婦女会員と一緒に真心をこめて軍服の裁断をし、ミシンをかけた。

    われわれは、一九三二年四月下旬、反日人民遊撃隊を組織する最後の会議を安図で開いた。そこでは、入隊志願者を最終審議し、遊撃隊結成の日時と場所を決定し、さらに当面の活動地域を確定して遊撃隊の活動と関連した全般的な対策を立てた。

    会議後、入隊志願者は三道白河のはずれの劉家粉房(発財屯)にいったん集まったあと、小沙河に集結した。志願者は百人余りだったが、いまわたしの記憶に残っているのは、車光秀、朴勲、金日竜(小沙河)、趙徳化(小沙河)、あばた(あだ名、小沙河)、趙明化(小沙河)、李明洙(小沙河)、金喆(金喆煕、興隆村)、金鳳九(興隆村)、李英培(興隆村)、郭○○(興隆村)、李鳳九(三人坊)、方仁鉉(三人坊)、金鐘煥、李学用(国内)、金東振(国内)、朴明孫(延吉)、安泰範(延吉)、韓昌勲(南満州)だけである。

    一九三二年四月二十五日の朝。

    われわれは土器店谷の台地で反日人民遊撃隊の創建式を挙行した。カラマツ林にかこまれた台地の広場に新しい軍服に身をかため銃をになった隊員が区分隊別に整列した。広場の一角では小沙河と興隆村の人びとが見物していた。

    隊員たちのたくましくも清新な姿を前にしたわたしは、深い感懐にとらわれた。この武装隊伍を結成するために、われわれの同志はどんなに遠い道を歩き、どんなに多くの会合をもち、演説をしたことだろう。その間、のりこえた試練はどれほどであり、胸の痛む犠牲はまたどれほど出したことだろう。反日人民遊撃隊は数多くの同志の涙ぐましい労苦と、血みどろの闘争と、犠牲の代価として得た朝鮮革命の貴い結実であった。

    わたしは、この日を見ることができずに逝った故人を一人残らず、ここ土器店谷の台地に呼び集めたい衝動を覚え、胸中にうずまく激情を一気に吐き出す思いで演説をはじめた。

    わたしが反日人民遊撃隊の創建を宣言すると、隊員たちは声高らかに万歳を叫び、人民は割れるような拍手喝釆を送った。

    万国の労働者の戦闘的祝日である5月1日、わが反日人民遊撃隊は、赤旗を先頭にかかげて安図県城に入城し、ラッパや太鼓の音も高らかに歩武堂々と閲兵行進をおこなった。

    反日人民遊撃隊の指揮官に任命された金日竜が、この日の行進で歌の音頭をとった。

    その日は市民だけでなく、反日部隊の将兵も街角にあらわれ、親指を立てて歓迎のあいさつを送り、祝賀の拍手を送ってくれた。

    武力示威をすませて隊伍が土器店谷にもどると、車光秀と金日竜がわたしの家に駆けつけて、病床の母を連れ出した。

    病苦にやつれた顔、眉間に刻まれたしわ、黒い髪にまじる白髪。しかし、母の目はおだやかな笑みをたたえていた。母は李英培の前へ近づき、銃や弾帯、五稜の星をしばらくまさぐった。そして金喆、趙徳化、金日竜、方仁鉉、車光秀などの銃や肩をなでさすった。

    母の目に涙が宿った。

    「ほんとうにりっぱだこと。わたしたちの軍隊が生まれたんだから、もう大丈夫。日帝を倒し、国をきっと取りもどすのですよ」

    声も潤んでいた。母はおそらく、われわれのためにつくした労苦をすっかり忘れて、祖国の解放を願いつつ先に逝った父や愛国の士を思い描いたに違いない。

    その後、延吉、汪清、琿春、和竜をはじめ東満州の他の地方でも遊撃隊がつぎつぎに組織された。金策、崔庸健、李紅光、李東光など朝鮮の堅実な共産主義者によって、北満州と南満州でも遊撃部隊がぞくぞくと結成され、敵に向かって砲門を開いた。

    一九三二年の春は、抗日戦争の銃声のなかで深まっていった。

    

    

    

       第六章 試練の年

       (一九三二年五月~一九三三年二月)

    

      1 南満州へ

    

    

    遊撃隊活動の公然化が実現し、抗日遊撃隊が正式に創建されると、隊員たちのあいだでは、活動をどのようにはじめるべきかという問題が深刻に論議された。

    城市で閲兵行進をして小沙河に帰ったわれわれは、隊員を三、四人ずつ農家に分宿させて数日間休息をとらせ、あわせて遊撃隊の活動方向を決定する討議をおこなった。ここでも、卡倫や明月溝のときと同様、激烈な論争がくりひろげられた。

    それはまさに諸説紛々であった。

    遊撃戦の概念もまちまちだったが、戦術のことになるともう十人十色の感があった。知識水準や生活経緯、それに所属団体まで違っていた百余人の青年が集まったのだから、主張にまとまりがあるわけもなかった。

    彼らの主張は、およそつぎの三つに大別することができた。

    第一の主張は、グループ論だった。つまり、中隊や大隊、連隊、師団といった判で押したような部隊編制法を採用せず、機動性のある簡便な武装グループをたくさんつくり、たえまない消耗戦によって敵を打ち破ろうというものだった。遊撃隊員を三人一組、五人一組などに分け、参謀部の統一的作戦に従って数十、数百のグループがいたるところで活動すれば、日本帝国主義者を十分屈服させることができるというのである。

    彼らは、武装グループを基本単位とする遊撃戦が植民地民族解放闘争の新しい形式を創造する過程になるだろうと主張した。このグループ論の主張者は、敦化と延吉から来た青年のなかにとくに多かった。彼らは李立三の極左冒険主義路線の影響をもっとも多くうけ、その毒素がいまもなお彼らの思考方式に残っていたのである。

    車光秀は、この武装グループ論を現代版ブランキスムだとこっぴどく批判した。彼の見解にはわたしも同感だった。

    日帝の軍事力はとてつもなく強大であるから、大部隊による全面的な武力対決を避け、何人かずつグループをつくって羅錫疇や姜宇奎のように敵の主だった者たちに爆弾を投げ、支配機関に火をつけ、親日派や民族反逆者に鉄槌を下そうというのが武装グループ論の本質である。

    武装グループ論は遊撃戦の外皮をまとったテロリズムの変種であった。この主張に従えば、われわれは大部隊による遊撃戦を事実上、放棄することになる。それは闘争方法における後退を意味した。われわれは、そうした後退を認めるわけにいかなかった。

    反日人民遊撃隊の創建を前後して、日本と中国では、わが国の愛国者による二つの衝撃的な事件が起こった。その一つは、東京宮城の桜田門外で天皇の乗った二頭立て馬車に爆弾を投げた李奉昌烈士の義挙で

    あり、いま一つは、同年四月二十九日、上海の虹口公園で尹奉吉烈士が断行した爆弾投擲事件だった。李奉昌の場合は爆弾がそれて目的を果たせなかったが、尹奉吉の方は成功して、上海駐屯日本軍司令官白川大将と村井上海総領事、河端居留民団長を即死させ、さらに駐中公使、第9師団長、海軍大将をはじめ、天長節を記念するため虹口公園に集まった首脳クラスの軍事・政治要人に重傷を負わせて、内外に大きな波紋を投げた。

    李奉昌が天皇の行列に爆弾を投げて逮捕された翌日の一九三二年一月九日、中国国民党の機関紙『国民日報』は、特号活字の「韓人李奉昌狙撃、日本天皇不幸否中(不幸にも命中せず)」という見出しで事件を報じ、その他の各新聞も李奉昌の義挙を大々的に報じた。この記事を見て激怒した現地の日本軍と警察は『国民日報』社を襲撃、破壊し、「不幸」という表現を使った新聞社はことごとく閉鎖してしまった。

    尹奉吉の義挙は朝中人民がひとしく激賞した。虹口公園事件後、中国各界の名士は、連日、事件の黒幕と目される金九に面会を申し入れた。日本の侵略に投降主義政策をとっていた国民党反動政府の首脳部も朝鮮民族の徹底した抵抗精神と英雄主義に感動し、在中朝鮮人にたいする経済協力を約束したほどである。

    李奉昌と尹奉吉はともに金九の部下で、彼が主管する韓人愛国団のメンバーだった。韓人愛国団の基本的な抗日闘争方法はテロリズムだった。

    李奉昌と尹奉吉の義挙につづいて、大連では、金九が送った愛国団員が関東軍司令官暗殺未遂の嫌疑で逮捕される事件が起きた。彼らは国際連盟のリットン調査団が奉天を出発して大連に到着するとき、日本の軍事・政治要人が駅頭に出迎える機会を狙って、関東軍司令官と満鉄総裁、新任外事部長の暗殺を企てたのである。金九は部下を派遣して朝鮮総督まで暗殺しようとした。

    伊藤博文を射殺した安重根が民族の英雄としてまつりあげられ、李奉昌、尹奉吉の義挙によって、国内はもちろんアメリカ大陸、沿海州、満州などの同胞社会がわきかえった。そうした時代の雰囲気が敵愾心に燃える多くの朝鮮青年をテロリズムヘと走らせたのである。そんなときに武装グループ論が台頭し、反日人民遊撃隊の活動方向を決める論議の場にまでもちこまれたとしても、別に不思議なことではなかった。武装グループ論の提唱者は、朝鮮と日本、中国など各地で尹奉吉義挙と同じような事件がつぎつぎに起これば、日本の支配機構がゆらぐであろうと力説した。

    いま一つの主張は、即時、全面的武装攻撃を断行すべきだというものであった。金日竜は武装グループ論の支持者だったが、朴勲や金喆(金喆煕)は即時武装対決論に未練をもっていた。数千数万の正規軍や暴動大衆がさかんに気勢を上げる大都市の光景を見慣れていた朴勲が武装グループ論を鼻であしらい、全面的な武装攻撃をただちに開始しようと言い張るのはある程度理解できたが、入り婿暮らしに慣れた温順な金喆がその性格に似合わず、どうせやるなら最初から大きく出るべきだと熱弁を振るうのを見ると、驚かずにはいられなかった。

    全面的武装攻撃に移行すべきだとする主張にも、それなりの論拠はあった。日本は九・一八事変によって満州占領の目的をいとも簡単に達成し、さらに中国本土でも上海その他の要衝を掌握した。東3省にはかいらい「満州国」が誕生して国旗をかかげた。つぎの目標はどこか? 中国本土とソ連である。いま日本軍は情勢の推移を見て攻撃速度をゆるめてはいるが、いずれまたなにかの口実を設けて中国を攻撃し、ソ連に進攻するのは火を見るより明らかである。だから、現在組織された武装部隊をもって全面的な軍事作戦を展開するのは、戦争の泥沼に深くはまりこんだ日帝の後頭部を強打することになる。わが遊撃隊が積極的な攻撃態勢をとるのは歴史の命令である… これが彼らの論拠であった。

    金日竜はその急進的な主張を「布団の丈を見て、足をのばせ」ということわざをもって一蹴した。実際、それは反日人民遊撃隊の準備程度を考慮しない無謀な主観的見解だった。

    もちろん、われわれが倫でうちだした武装闘争路線は日帝との全面的武装対決を予見したものである。抗日武装闘争の基本的様相が組織的で全面的な武装対決になることは疑いをいれなかった。しかし、第一歩を踏み出した遊撃隊がなんの準備もなしに、最初からそのような冒険をするのは自殺行為にひとしかった。

    以上のほかに、いま一つの主張があった。それは、敵を知り、おのれを知れば百戦百勝し、敵も知らず、おのれも知らなければ百戦百敗するという理屈による慎重論だった。

    慎重論者はこう主張した。われわれの相手は強敵だ。われわれはどうか。量でも質でも敵に劣る新生の若芽にすぎない。もちろんわれわれが将来、強大になるのは疑いない。だが、いまは隠密に行動しながら量的、質的に不断に力を養わなければならない。われわれの戦いは長期化するであろうから、地道に力を蓄積し、敵が弱体化する機会を狙って一挙に攻撃を加えて撃滅すべきである…

    それは、きわめてなまぬるく、しかも、めどのつかない漠然としたものだという非難を浴びた。

    われわれは、このような論議を小沙河ではじめておこなったのではない。孤楡樹で革命軍を組織するときも論議し、倫で武装闘争路線を確定し、明月溝会議で組織的遊撃戦争の展開を決定したさいも同じような論議をした。だが、以前からわれわれと組織生活をともにしていない人たちは、われわれの意図を正しく把握できなかったのである。

    同じ隊伍のなかで、重要な路線上の問題をめぐってこのようにさまざまな意見が出されたのは、反日人民遊撃隊の幼さを示す一つの好例といえよう。われわれの部隊は、職業や知識水準、出身地や出身組織の異なる人たちで構成されていた。『東亜日報』や『朝鮮日報』などの出版物を読み、中学講義録なども定期的に購読して知識を広めてきた青年もいれば、蒋光慈の『少年漂泊者』や崔曙海の『脱出記』のような小説を読み、社会改造のバラ色の夢を追って遊撃隊に入隊した青年もいたし、また学校へ行けなかったが赤衛隊や少年先鋒隊などの革命組織で何年か政治的修養を積み、銃を手に入れて武装隊伍に入った青年もいた。したがって、さまざまな事物現象を理解するうえで、おのずとレベルに差が生ずるのはやむをえないことだった。

    こうした実情にあって、われわれは部隊内で思想の唯一性、行動の一致性、慣習の統一性をはかる組織・政治活動にとくに関心を向けざるをえなかった。われわれはその第一工程としてなによりも、遊撃隊の戦術的原則と重要な路線上の問題を理解するうえで一致性を保つべきであり、この工程をへずには誕生したばかりの反日人民遊撃隊が第一歩からつまずくおそれがあると認めた。

    わたしは車光秀とともに村をまわり、われわれの戦術上の意図を理解できずにいる隊員たちにこう説いた。

    「武装グループ論は安重根の前轍を踏もうとするものだ。テロリズムで日帝を屈服させるというのは妄想にすぎない。伊藤博文は死んだが、日本の支配はそのまま残ったばかりか、むしろ『満州国』まででっちあげ、いまは中国本土に触手をのばしている。ときには反日人民遊撃隊がグループ活動をすることもありうるが、グループが基本的な戦闘単位になってはならない」

    「ただちに全面的武装攻撃へ移ろうという主張も非現実的である。100人余りの部隊で数十数百万を数える日本の大軍に正面からぶつかっていくなど途方もないことだ。百人が突撃して数十万の大軍をおさえられると考えるのは、それこそ浅はかな判断である。諸君! 絶対に敵を過小評価してはならない」

    「ではどうすべきか。当分は中隊を基本単位にして遊撃戦を展開しよう。グループ単位の活動では大きなことがやれない。やがて部隊が成長すれば、もっと大きな単位で行動することにもなろうが、いまは中隊単位で行動するのがもっとも理想的だ。最初から大部隊を編制できないというのは君たちも承知しているはずだ。抗日戦争が何回かの戦闘で終わる短期戦になるわけはない。だから少数の兵力でスタートを切り、戦闘を進めていくなかで不断に武力を蓄積し拡大して、時機が到来すれば、全人民の武装蜂起と結びついた決戦によって最後の勝利をかちとるのだ。われわれは軽装備で縦横無尽に機動し、集中した敵を分散させ、分散した敵は各個撃破し、大敵を避け、小敵は掃滅するといった戦法で、終始、戦略戦術的優勢を確保し、たえざる消耗戦によって日帝を打ち破らなければならない。これが遊撃戦であり、そこにこそ遊撃戦の妙味があるのだ。戦いを避け、こそこそと隠れ歩きながら兵力の蓄積に汲々とし、好機の到来を待って一挙に敵を撃滅しようと主張する慎重論者諸君! 闘争と犠牲なしに、そして血を流すこともなく好機がひとりでにやってくると思うのか。われわれに独立の機会を提供する者は、どこにもいないことを銘記すべきだ。そのような機会は、われわれが闘争によって自らつくりださなければならない」

    わたしはこのようにして、われわれの意図を隊員たちに納得させた。もちろん、すべての隊員がその場でわたしの説明を理解したわけではなかった。なかには自説をあくまでも曲げようとしない者もいた。

    わたしは実地の闘争だけが彼らの論争に終止符を打ち、真理がいずれにあるかを判定するであろうと考え、遊撃隊の活動方向を決定するための思索に惜しみなく時間を割いた。

    抗日戦争の途についたわれわれの部隊には、当時、つぎのような課題が提起されていた。第1に、反日人民遊撃隊を実戦のなかで鍛えること、第2に、部隊を質的および量的に急速に拡大強化すること、第三に、革命軍隊が依拠すべき大衆的基盤を強固にきずき、遊撃隊のまわりに各階層の広範な大衆を結集することである。

    われわれは以上の課題解決の突破口を南満州遠征に求め、それを一九三二年の主要な年間戦略として確定した。

    われわれが安図で組織した武装部隊は、他の県や区で結成された武装部隊とは異なる特殊な点があった。他県の遊撃隊は地元の人たちで組織されていたが、安図遊撃隊は東満州と南満州の各県で選抜された前衛や国内から来た先覚者からなっていた。そして他の地方の遊撃隊は地元に定着して活動することを原則としていたのにひきかえ、われわれの部隊は活動範囲を一定の地域に限定せず、白頭山地区と鴨緑江および豆満江沿岸の全般的地域で活動することを原則としていた。

    安図は地域的に見て、遊撃戦にきわめて有利なところではあったが、われわれはそこに閉じこもっているわけにいかなかった。たったいま殻を破って生まれ出たわが遊撃隊は、広大な地域に進出して風雨にさらされながら幹を伸ばし枝を張って、人民のなかに根をおろさなければならなかった。性急に戦闘一面に偏るのも警戒すべきことだったが、自己保存に汲々として狭い枠のなかに閉じこもり、時間を無駄に送るのも許されないことだった。

    われわれが遠征によって反日人民遊撃隊のスタートを切ることにした重要な理由の一つはそこにあった。

    南満州遠征の主な当面の目標は、鴨緑江沿岸で活動する独立軍部隊との連係を結ぶことであった。南満州の通化地方には梁世鳳司令の指揮する独立軍部隊が駐屯していたが、われわれは彼らと共同戦線を張ろうと考えた。

    梁世鳳の指揮する独立軍部隊は数百人にのぼり、朝鮮革命軍とも呼んでいた。

    安図で反日人民遊撃隊が創建された当時、梁世鳳は唐聚伍の自衛軍と合作して、日本軍と満州国軍を打ち破る戦果をあげた。そのニュースは小沙河の谷間にまで伝わってきて、われわれを喜ばせたものである。

    朴勲は、反共思想にこりかたまった国民府系民族主義者の梁世鳳が、共産主義者との合作を喜ぶはずはない、と懸念したが、わたしは、中国の救国軍とも共同戦線を結んだわれわれが、反日という共同の目的をもち、同じ血を引く人たちと手を握れないわけがない、独立軍部隊との統一戦線をなんとしても成功させるべきだと強調した。

    わたしが梁世鳳との合作が可能だと見たのは、彼がわたしの父と深い親交を結び、わたしをたいへんかわいがってくれたかつての情宜とよしみを重視したためでもある。金時雨と梁世鳳が樺甸で父と義兄弟の契りを結び、記念写真まで撮ったということを、わたしは幼いころに聞いていた。梁司令と父との親交はなみなみならぬものだった。そんなよしみがなかったなら、彼がわたしのために華成義塾に紹介状を書いてくれるはずもなかったであろうし、吉林に来るたびに毓文中学校にわたしを訪ねては、そっと金を握らせてくれるようなこともなかったであろう。学費に困り、一銭の金さえ惜しんで他人がよく買って食べる焼餅の味も知らずにすごしていた当時、その金がどんなに役に立ったか知れない。

    旺清門事件後、国民府一般に幻滅を感じて梁世鳳とも自然に疎遠になってはいたのだが、彼にたいする感謝の念はいささかも消えていなかった。

    遊撃隊は創建したものの活路が開けずに苦悩していた当時、真っ先に梁世鳳に会おうという考えが頭に浮かんだのも決して理由のないことではなかった。統一戦線そのものも重要であったが、長年、実戦経験を積んだ彼から助言をうけ、激励してもらいたかったのである。

    一度の戦闘経験もなく、初陣に発つ喜びで浮き足立っていたわれわれにくらべると、梁世鳳司令は百戦の老将といえた。われわれは民族運動家に会うたびに、独立軍のようなやり方で戦うようなことは決してしないといいきったものだが、それは人民の力に依拠していない彼らの前轍を踏まないということであって、彼らの軍事経験や技術まで無視したわけではなかった。

    旺清門で国民府の白色テロを体験したとき、二度と独立軍のお偉方とは交渉をもつまいと決心したものだが、民族解放という共通の聖業を前にして、われわれは彼らの古傷にはふれないことにした。過去をうんぬんするなら合作は不可能である。

    南満州には梁世鳳部隊のほかにも、李紅光や李東光など朝鮮共産主義者が指導する抗日武装部隊がいた。李紅光が一九三二年五月に組織した遊撃隊は磐石工農義勇軍といった。この部隊はのちに中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊、そして東北人民革命軍第1軍に改編された。

    李紅光が有名になったのは、彼がすぐれた知略と用兵術をもって部隊を巧みに指揮したことにもよるが、関東軍や「満州国」の新聞が、彼を「女将軍」と誤報したことにも起因していた。

    李紅光が「女将軍」と呼ばれたのは、笑いを誘う喜劇的な出来事に由来している。東興襲撃戦闘を終えて根拠地に帰った李紅光は、部下の女性遊撃隊員を捕虜の尋問にあたらせた。女隊員は捕虜たちに「わたしは李紅光だ」といって、彼らに警察の配置状態や「討伐」計画をただした。

    その捕虜たちが帰隊して、「李紅光は二十ほどの美人だ」といいふらした。こうして、日本軍のあいだでは李紅光が女将軍だといううわさが広まったのである。

    李紅光が武装闘争で軍人としての機知と胆力を大いに発揮したとすれば、李東光は党建設と大衆の意識化・組織化でぬきんでた手腕を示した有能な政治活動家であった。彼の名は早くも、一九二〇年代後期から東満州地方に広く知られていた。

    わたしに李東光のことを話してくれたのは、金俊と徐哲、宋茂璇であった。李東光は竜井の東興中学校時代に学生運動のリーダーとして頭角をあらわした。竜井で、彼が第一次間島共産党事件で検挙され、その後脱獄したといううわさは吉林にも伝わった。

    わたしが一九三〇年の夏、ハルビンで徐哲に会ったとき、彼はなにげなく、李東光がわたしのことを知っているといった。安昌浩先生が吉林で講演をしたさいにわたしを見、また五里河子で開かれた磐石地区農民代表者会議に参加したときもわたしを見たというのである。それでわたしは徐哲に、李東光に会ったらわれわれの闘争戦略を伝え、いずれ会ってあいさつを交わし、同一の戦線で手を握ってたたかいたいというわたしの言葉を伝えてほしいといった。

    李東光はのちに南満州特委書記、東南満州省委組織部長を歴任したが、われわれが南満州遠征を準備していたころは、磐石県で区委書記を務めていた。

    東満州と同じように、南満州地方でも抗日武装隊の根幹をなしていたのは朝鮮の共産主義者であった。

    われわれは南満州に行けば、彼らとも連係をとる計画だった。幼年期の部隊が一堂に会して経験を交わし、闘争対策を共同で模索するのは、反日人民遊撃隊の発展にとってきわめて有益である、とわたしは考えた。実際、われわれは抗日武装闘争の全期間、南満州地方の遊撃部隊と緊密な連係を保って活動した。そうした活動を通して、わたしは李紅光、李東光、楊靖宇などと深い親交を結んだのである。

    柳河、興京、磐石など南満州一帯では、われわれの組織が広くネットを張っていた。われわれが中部満州一帯で活動したさい、それらの地域に共青と反帝青年同盟のすぐれた活動家を多数送り、組織活動にあたらせた。崔昌傑と金園宇もその地方へ派遣されていた。ところが、彼らの努力によってつくられた組織が九・一八事変後、壊滅状態に陥ったのである。

    われわれが南満州へ行けば、それらの組織を立て直し、萎縮している革命家に活力を与えるうえでも有利であった。

    反日人民遊撃隊の創建後、われわれのすべての活動がなんの障害や曲折もなく、きわめて順調に進んだかのように叙述している歴史家がいるが、革命はそんなに単純なものではない。

    遊撃隊が南満州遠征によって第一歩を踏み出すことにし、それを実行に移すまでには、じつに多くの苦悩と曲折をへなければならなかった。

    わたしは一九三二年五月、区党本部の金正竜の家で、東満州各県の党および共青の指導的中核を集めて会議を開き、南満州遠征問題と根拠地創設問題を討議にかけた。われわれが提起した南満州遠征案は参加者の一致した支持をうけた。部隊内でいくつかの派に分かれて激論をたたかわせた青年たちも、遠征方針には喜んで賛成した。

    われわれが遠征準備に没頭していたある日、参謀長の車光秀が、深刻な表情をしてわたしの前にあらわれた。

    「隊長! どうせ遠征するなら数日内に小沙河を離れてはどうだろうか? 近くの大道路を敵の輸送隊が頻繁に行き来しているのも穏やかでないし、食糧事情も逼迫している。農家は四十戸ほどしかないのに、百人以上もの隊員がごろごろしているのだから、小沙河がいくら人情に厚い村だといっても、たまったものではないだろう」

    春から飢饉に見舞われて春慌暴動さえ起こした当時のことで、食糧に困っているのは改めて説明されるまでもなく、わたしもよくわかっていた。

    しかし、敵の輸送隊の往来が頻繁だから早く小沙河を発とう、という問題の設定には同意できなかった。

    わたしは、安図からこっそり抜け出そうという車光秀の提案にこう答えた。

    「参謀長、われわれは銃を取って立ち上がったのだから、ここらで一度戦ってみてはどうだろうか」

    「戦闘をやろうというのか?」

    「そうだ。部隊をつくったからには、戦いをはじめるべきではないか。敵が鼻の先を行ったり来たりしているのに、腕組みして見物ばかりしていることはなかろう。発つときは発つとして、安図でひとつ銃声を上げてみよう。戦いもしないで隊員が鍛えられるわけがない。うまくいけば、遠征に必要な物資も手に入るかも知れない」

    車光秀は快く応じた。そして、その日のうちに朴勲とともに道路沿いの地形を偵察した。伏兵に適した地点を見つけるためだった。偵察から帰った彼らは小営子嶺の峠道にひそんで、通りかかる輸送隊を襲撃しようといった。それはわたしの構想とも合致した。わたしは遊撃隊の戦闘形式のうちでもっとも適切で普遍的な形式は伏兵戦だと見ていた。

    小営子嶺は安図と明月溝のほぼ中程にあった。大甸子から大沙河に抜ける近道で、小沙河からは直線距離で十六キロ余りである。山容は険しくなかったが、谷に沿って道がくねくねとつづいているので伏兵には格好の地形だった。敵はこの道路を利用して、安図の各地に投入されている兵力に軍需物資を補給していた。

    ちょうどそのとき、武器と補給物資を積んだ「満州国軍」の馬車輸送隊が、明月溝から安図に向けて出発したという通報が地方組織から届いた。わたしはその夜、南満州に向かう予定の隊員を引き連れ、迅速に行軍して小営子嶺に到着し、道の両側に伏兵を配置した。

    夜間の伏兵戦は合理的な戦法とはいえない。彼我の区別がつけがたい夜間は、伏兵戦より襲撃戦の方が効果的である。抗日戦争の全期間、われわれが夜間に伏兵戦をした例はあまりなかったように思う。

    呱々の声を上げたばかりのわれわれはまだ、そこまで見透かすことができなかった。幸いに満月の夜だったので、同士討ちをする懸念はなかった。

    輸送隊はかなり遅くなってから小営子嶺にあらわれた。百メートル前方の第1陣から敵の出現を知らせる合図があった。輸送隊は十二両の馬車からなっていた。

    わたしは心臓の鼓動が感じられるほど緊張し、興奮していた。はじめてなにかを決行するとき、はげしい胸のときめきや不安、危惧に襲われるものだということを、わたしはそのとき身をもって体験した。かたわらに伏せている朴勲を見ると、彼もかなり緊張しているようだった。黄埔軍官学校を卒業し、硝煙をくぐった経験のある彼でさえそうなのだから、他の隊員の場合はおして知るべしであった。

    前方の伏兵は馬車隊をそのまま通過させた。行列がわれわれの前へ半分ほど入ってきたとき、わたしは岩に上がって拳銃を発射した。谷間に割れんばかりの銃声が鳴り響き、喊声が上がった。

    われわれは腕に白手拭いを巻いて敵味方を見分けたが、奇襲された輸送隊はそれもできず、盲滅法に銃を撃った。十数人の護送兵が馬車の陰に隠れて必死に応戦した。戦いが長引けば、われわれに不利になるおそれがあった。

    われわれは十分ほど射撃をつづけてから突撃に移り、一気に戦いの結末をつけた。敵は十数人の死傷者を出して投降した。捕虜の数もそれと同じ程度だった。彼らは「満州国軍」の兵士であったが、そのなかに日本軍下士官が一人いた。わたしは捕虜を前にして簡単な反日演説をした。

    その夜、われわれは十台の馬車に戦利品を積んで木条屯に帰った。小銃十七挺と拳銃一挺、それに百人が一か月は食べられる小麦粉と布地、軍靴… 初の戦利品としてはたいへんなものである。

    われわれは深夜の十二時すぎ、庭のたき火をかこんで小麦粉のすいとんをつくって食べた。緒戦の勝利を祝う簡素な宴会だった。

    わたしはすいとんを食べながらも、高鳴る心臓の鼓動を静めることができなかった。すいとんの味もよかったが、気分はそれ以上によかった。わたしはあのときの緒戦に勝利した喜びと、破裂しそうな心臓の鼓動を60年がすぎたいまも忘れていない。

    近眼鏡の奥で涙を流しながらたき火を見つめていた車光秀が、いきなりわたしの手をつかみ、うるんだ声でいった。

    「成柱! やってみたらなんでもないな」

    これが参謀長の初陣の所感だった。

    わたしの所感も一言で集約すればそのようなものだった。戦いとは特別なものではない。銃があり、胆さえ座っていれば誰にでもやれる。敵はわれわれが考えていたほど手ごわいものではない。どうだ、彼らはわれわれに手を上げて降参したではないか。だから自信をもってもっと大きな戦いを準備しよう。われわれは勝てる。われわれは勝利できるのだ。これがわたしの気持だった。

    「こんなときに金赫がいたらどんなにいいだろうか。金赫がいたら、いまごろは即興詩が飛び出していることだろうに。あんなに早く逝くとは。金赫! 信漢! 利甲! 済宇! 孔栄! … みんなどこへ行ってしまったんだ!」

    車光秀はうわごとのようにつぶやきながら、頬を伝わる涙をぬぐった。反日人民遊撃隊の誕生を見ずにわれわれの隊伍を離れて先に逝った同志たちのことを思って泣いているのである。

    わたしもまた、反日人民遊撃隊創建の地ならしをして犠牲になった同志たちのことを思った。この日を見ずに逝った戦友の面影が瞼に浮かび、こみあげる悲しみをおさえることができなかった。彼らがみな生きていたら、われわれの隊伍はどんなに強力であろうか。

    車光秀はメガネを取り、手を振りながら演説した。

    「諸君! われわれは第一歩を踏み出した。われわれは緒戦を飾った。誰が飾ったのか。ほかならぬここにいるわれわれだ」

    彼は両腕を広げ、隊員をかかえあげるかのようなゼスチュアをした。

    「銃を取ったからには、それを発射すべきだし、銃を発射すれば勝利しなければならない。そうではないか? 今夜、われわれは馬車輸送隊を一つ掃滅した。これは一つのささいな出来事にすぎない。だが、それはわれわれの偉業の幕開きだ。いまや、小さなせせらぎが深い山の谷あいから広びろとした大海に向かって流れはじめたのだ」

    わたしは、車光秀がそんなに興奮するのをはじめて見た。

    その晩、彼はじつにりっぱな演説をした。わたしがいま記憶をたどってつづるこの文章の記録より、はるかに生き生きとして感動的だった。彼の演説をそのままここに再現できないのが残念である。

    「諸君! 戦ってどんなによかったか。銃が手に入り、食糧も被服も履き物も手に入り… わたしは今夜、偉大かつ深奥な弁証法を学んだ。これから、ぶんどった銃を分けることにしよう。その銃でまた新たな敵を撃滅しよう。そうすればさらに多くの銃が手に入り、食糧も得られるだろう。機関銃も大砲も手に入るだろう。ぶんどった糧米で米袋をみたそう。それを食べながら勇ましく行軍しよう。日帝を完全に掃滅するその日まで、われわれは今夜のように武器と食糧を彼らから奪い取ろう。これこそわれわれの生存方式であり、闘争方式ではなかろうか」

    彼が演説を終えると、わたしは真っ先に拍手を送った。彼の演説にこたえて四方から熱烈な拍手が起こった。

    つぎに、誰かが立ち上がって歌をうたった。趙徳化だったか朴勲だったか、いまは思い出せないが、大いに感興をそそる歌であった。

    われわれはこのようにして、確信にみちた第一歩を踏み出したのである。

    

    

      2 最後の姿

    

    

    部隊が遠征の準備を本格的に進めていたある日、弟の哲柱がわたしを訪ねて小沙河にやってきた。反日人民遊撃隊が小営子嶺で日本人指導官の引率する「満州国軍」輸送隊を撃滅したといううわさは、安図県の向こうの敦化や延吉地方にまで広がり、人びとは集まりさえすれば、その戦功談でもちきりだった。松江、大甸子、柳樹河子の革命組織などは小営子嶺戦闘の経過をくわしく知りたくて、わざわざ小沙河まで人を送って寄こした。

    わたしは最初、弟もそんなことで来たのだろうと思った。

    ところが、弟は小営子嶺の伏兵戦については一言も聞かなかった。ただ黙々と隊員の制式訓練を眺めたり、指揮部の隣室で遠征隊員にまじってわらじをつくったりした。指揮部が指定した遠征準備品のなかには、わらじも含まれていた。

    それでわたしは、哲柱が小沙河に来たのは遠征隊の出発準備を手伝いにきたのだろうと独り合点した。夕方、わたしが村の農民組織責任者に会って指揮部にもどると、待ちかまえていた哲柱が、家へ帰るといった。せっかく来たのだから、夕食を一緒に食べて帰るようにと勧めたが、かぶりを振ってそのまま帰るという。弟はなにかいいたげな様子を見せながらも口を一文字に結び、思いつめたような表情でわたしの顔色をうかがっていた。

    わたしは、弟が遠征準備の手伝いに来たのではなく、なにかの事情でわたしに会いにきたのだと直感した。わたしに告げることがあるとすれば、それは、母か本人自身にかかわる問題に違いなかった。

    わたしは指揮部に寄らずに村はずれまで弟を見送り、単刀直入に聞いた。

    「土器店谷でなにかあったんじゃないか?」

    わたしが土器店谷といったのは、わが家を念頭に置いていた。家という言葉を口にするのが、なぜか恐ろしかった。

    「ううん、なにも変わったことはないよ」

    哲柱はこういって、つくり笑いをした。芝居ごとが好きで、ユーモラスなところのある弟だったから、わたしの目をあざむくことくらいなんでもないはずだった。だが、そのときの微笑には悲哀がこもり、口もとがゆがんでいた。弟はわたしの顔をまともに見るのを避け、肩越しに遠くの空を見つめた。

    「なにかあったら正直にいうんだ。黙って帰ったら、兄さんが心配するではないか。あれこれ考えないではっきりいえ」

    哲柱は大きな溜息をついて、いいにくそうに口を開いた。

    「お母さんの病気がもっと重くなったみたいだ。二日前からもう箸に手をつけようとしないもの」

    わたしはどきっとした。母が食事に手をつけないと聞いて目の前が真っ暗になった。母が重病で衰弱しているのを知らないわけではなかった。

    家族が八道溝にいたころは、母が寝こむようなことはなかった。ところが撫松に移ってから父が亡くなり、わたしが吉林の中学校に通うようになると、なにかと患いはじめた。哲柱がときどきそのことを手紙

    で知らせてきた。

    わたしは手紙を見て、母が風土病にかかったのではなかろうかと思った。撫松地方の住民には風土病患者が少なくなかった。それにかかると、手がこわばり、指の節が太くなり、喉がはれて労働能力を失い、たいてい三十前に死亡するといわれていた。父の死後、撫松に来た呉東振が、母に吉林へ引っ越すようにと勧めたのも、一つには、その風土病を懸念したからである。

    学期末休暇のときに帰ってみると、母は風土病ではなく過労のために病んでいた。それまでの半生、母は休息というものを知らずに苦労のしどおしで、疲労に疲労が重なって健康を害したのだと思うと胸が痛んだが、あの恐ろしい風土病でなかったと知って、それでもほっとしたものだった。

    母は、安図に移ってからは胃痛で苦しんだ。当時は胃痛を「癪」といっていた。胃のあたりでなにか大きなものが胸を突き上げるようだと母は訴えていた。いまにして思えば、胃ガンだったのかも知れない。

    医者は癪だと診断を下しながらも、これといった処方はできなかった。母の病にはどんな薬も効かなかった。胸がつかえるときは床に横たわるか、食事を抜くか、薄い重湯をさじで数杯すするのが唯一の療法だった。

    母の病気を治そうと、同志たちもいろいろと気をつかってくれた。共青の同志たちはてんでに薬を送ってよこした。新聞広告を見て、母の病気によさそうな薬があると、いくら高価なものでも買って小包で送ってくれた。小包は吉林からも、瀋陽やハルビン、竜井からも送られてきた。

    安図地区の漢方医も母の治療に労を惜しまなかった。大沙河の漢方医は治療費も取らずに治療をしてくれた。

    わたしは哲柱の充血した目や沈んだ表情から、母が危篤状態にあることを悟った。家に米はあるのかと聞くと、それも切れたという。

    わたしは翌日、小沙河の同志たちからもらった金で粟を1斗買い、土器店谷へ向かった。一斗なら三人家族(母、哲柱、英柱)が一か月は食いつなげるだろうし、そのあいだにわれわれは南満州遠征から帰れるだろうと思った。

    一斗なら十五キログラム程度になる。かゆも満足にすすれない当時のわが家にとって、十五キロというのは祝い事でもできるほどの量である。しかし、わたしにはその一斗の粟があまりにも少なすぎるように思えた。背負い袋のひもが肩にくいこんだが、それでも荷が重いとは感じなかった。わたしにそそいだ母の愛にくらべれば、それは一ちぎりの綿ほどにも感じられなかった。

    わたしは以前、父から十三道倡義隊長李麟永の話を聞かされたことがあった。

    彼が十三道倡義隊長に推された経緯はじつに劇的で、教訓的だった。関東(江原道)の義兵隊長たちが李麟永を義兵部隊の指導者に立てようとして家を訪れると、彼は臨終間近い老父をみとっていた。彼は、義兵はほかの者でも指揮できるが、両親は一度亡くなったが最後、二度と会えない、いつ亡くなるかも知れない老父を残して、どうして家を離れられようか、わたしは不孝者になりたくない、といって拒絶した。しかし、四日目にとうとう彼らの要請を聞き入れた。

    全国の義兵が競って李麟永のもとに馳せ参じ、その数は八千に達した。やがて許、李康年の部隊も合流して倡義軍は八千人から一万人にふくれあがった。そこには小銃で武装した三千人の旧韓国軍も含まれていた。

    全国の義兵長は李麟永を十三道倡義隊長におしたて、彼の陣頭指揮のもとにソウルヘ向けて進撃した。ソウルに突入して一挙に統監府を攻め落とし、保護条約を廃棄するのが義兵の最終の目的だった。

    この作戦計画に従って義兵部隊がソウルに迫っていたとき、父親の訃に接した李麟永は、指揮を他人にゆだねて突如、郷里へ帰ってしまった。彼の帰郷に加えて許の指揮する先陣の敗報まで伝わると、義兵は士気を落とし、ついに部隊が崩壊するという悲惨な結末をまねいたのである。

    わたしは吉林で学生運動にたずさわっていたころ、留吉学友会の学生たちと、こうした李麟永の行動の正否をめぐって論争したことがあった。

    そのとき、多くは李麟永を腑抜けの義兵長だと非難した。一万もの兵力を率いる義兵隊長たる者が父の死を聞いて、それもソウル進攻を前にして帰郷するなどもってのほかだ、それでも男児か、いや愛国者か、と彼らは気炎を上げた。

    しかし、誰もがみな李麟永を批判したのではない。なかには彼の支持者もいて、父に死なれた者が帰郷して喪主の務めを果たすのは当然なことではないか、といって彼を孝子だとほめたたえた。

    今日では、国に忠実で親にも孝養をつくす者が孝子とされているが、当時はただ、両親に孝養をつくせば、それで孝子といわれた。わたしは、李麟永の行動はとても孝子の手本になれないと論駁した。

    「国と家庭をともに愛する人であってこそ、ほんとうの孝子といえる。家庭のみを重んじ、国難を軽んずるようでは、どうして孝子といえようか。いまや、孝道にかんする儒教的な価値観を正すべきときだ。李麟永がおのれの責務をまっとうし、目的を成就したあかつきに墓詣でをし、そこで焼香し、酒をついで墓前にぬかずいていたとしたら、その名は後世にいちだんと光り輝いたであろう」

    これは、封建的道徳観や儒教的孝道観にこりかたまっていた人たちに投げつける爆弾宣言であった。

    留吉学友会のメンバーは2派に分かれて、成柱の主張は聞くに価する、いやそうではない、とけんけんごうごうの議論をたたかわせた。

    今日の社労青員や少年団員なら論議の余地すらない単純明快な問題であろうが、当時としては、その正否を判断するのがきわめてむずかしい論題だった。国と家庭をともに愛することこそ真の孝道である、と全人民がひとしく認め、それを信念とするまでには、じつに数十年の歳月と血と涙の体験が必要だったのである。

    米袋をかついでわが家へ向かうとき、わたしはいまさらのように李麟永の逸話が思い浮かんだ。そして、なぜかあのときの倡義隊長の行動が正しかったようにも思えた。かつて腑抜けの義兵長だと口をそろえて非難した彼の行動に、一種の正しさを発見してひそかに同情し、多少なりともそれが理解できると思ったのは、われながら不思議なことであった。

    革命にたずさわるからということで家庭を忘れるのは容易なことでないし、実際にはありえないことである。革命も人間のためのものである以上、革命家がどうして家庭を無視し、父母や妻子の運命から顔をそむけることができようか。われわれはつねに、家庭の幸福と国の運命を同一線上においてとらえてきた。国が逆境に陥れば家庭も平穏でありえず、家庭に影がさせば同時に国の表情も暗くなるというのが、わたしの持論であった。そのような信念があったからこそ、われわれは一戦士の家族を救出するため、一個連隊の兵力を敵中に送る戦史にたぐいない措置もとったのである。これは朝鮮の共産主義者のみが守りうる義理であり、道徳である。

    わたしもはじめのうちは、そうした道徳に忠実であろうと努めた。出獄後、東満州に活動舞台を移し、敦化と安図を中心にして各地をまわりながらも、母の病気に効きそうな薬を求めてはたびたび家に帰ったものである。

    ところが、それが母の怒りを買った。わたしの帰宅する回数が多くなると、ある日、母はわたしを前にしてこういった。

    「おまえは、革命にたずさわるつもりなら革命に専念し、家庭生活をするつもりなら家庭生活に専念する、そのどちらか一方を選びなさい。わたしの考えでは、家には哲柱もいることだし、わたしたちだけでちゃんと暮らしを立てていけるから、おまえは家の心配などしないで、革命に専念する方がいいと思う」

    わたしは母の戒めを聞いてからは、帰宅するのをできるだけひかえた。

    反日人民遊撃隊の創建後は、ほとんど帰らなかった。それがわたしにはくやまれた。母がなんといおうと、わたしは息子の道理を果たすべきではなかったろうか。こう思うと、胸がうずいた。家庭と国家にともに忠実であろうとするのは確かに容易なことでなかった。

    土器店谷が近づくにつれて、わたしの歩みはひとりでに速くなったが、心はかえって重くなった。

    重態の母の姿を見ることになるのだと思うと、心が乱れた。

    湿地の葦がもうかなりのびて風に揺れていた。この一帯は葦が多いので、昔は葦原村と呼ばれていた。それが数年前、下の村の金秉一の一家が土器を焼いて売り出すようになってから、この閑散とした山里の様子がすっかり変わり、村の名も土器店谷と呼ばれるようになった。

    わたしは丸木橋を渡って、上の村へ向かった。見慣れたわらぶきの家が目の前にあらわれた。まばらに編んだハギの柴垣が一方に傾き、屋根のわらも長らくふき替えなかったので、廃屋のようにさびれて見える家、それが何年も男手の届いていないわが家だった。

    しおり戸を開けて庭に足を踏み入れたとき、部屋の戸がガタンと開いた。母は門柱に背をもたせてほほえんでいた。

    「お母さん!」

    わたしはこう叫んで、母の前へ走り寄った。

    「やっぱりおまえだったのね。足音に聞き覚えがあると思ったよ」

    土縁に下ろした背負い袋のひもをまさぐる母の様子は、ほんとうにうれしそうだった。また帰ってきたのかと叱られはしまいかと心配したのだが、幸い、母はそんな素振りを見せなかった。

    母とわたしはしばらく安否をたずねあった。わたしは話をしながらも、母の顔色や声音、身ぶりなどに注意をこらし、母の健康状態をうかがった。見かけは、この前の冬に会ったときとそれほど変わっていなかったが、気力はかなり衰えているようだった。張りのあった胸がすぼみ、首も細くなっていた。びんには白髪が目につくほどまじっている。無情な歳月がこんなにも早く母の面影にいたいたしい痕跡を残したのかと思うと、悲しみをおさえることができなかった。

    わたしはその晩、十二時すぎまで母と語り合った。日本軍がどこまで来たのか、遊撃隊はこの先どう行動することになるのか、梁世鳳先生とはどう手を握るつもりか、根拠地ではどういうことをするのか、と思いつくままに交わす会話には限りがなかった。

    母はしきりに政治問題を話題にした。わたしが家の暮らしや母の容態にふれると、一言、二言答えてはすぐ話をそらし、深入りするのを避けた。

    わが子に自分の容態を話そうとしないのは、それだけ病気が重いことを意味している、とわたしは思った。母の余命はもういくばくもないのだと考えると、背筋が寒くなり、ひそかに涙をのみこんだ。

    翌日、わたしは早目に朝食をすませて哲柱と一緒に山へ登った。柴を刈るつもりだった。家の様子を見ると、たきぎが二束ほどしか残っていなかった。それで今度帰った機会に、たきぎなりともいくらか準備しておけば、少しは気持が軽くなるのではないかと思ったのである。

    できることなら、数か月分のたきぎを集めておきたかったが、それはとてもできそうになかった。深い山ではないので枯れ木はどこにもなかった。やむなくホザキナナカマドの枝を切るほかなかった。

    「哲柱、こんなのでなく、もっといいのはないのか?」

    わたしがこうたずねると、弟は木綿のパジをゆすりあげて答えた。

    「なんでもいいから早く一束かついで帰ろうよ。お母さんに知られたら、また叱られるじゃないか」

    まだ子どもだと思っていたのに、そうでもなかった。

    哲柱は鎌を使いながらも、しきりに村の方に目をやっていた。母にいわずに出てきたので、感づかれはしまいかと気にしているようである。わたしが家事にかかずらうのを母が喜ばないことを弟もよく知っていた。

    わたしは木の枝をつかんでは懸命に鎌をふるった。

    わたしたちは日が暮れかかるころ、柴を背負って山を下った。葦原が見下ろされる山の鼻を曲がったとき、庭先に立っている母の姿が目に映った。

    わたしは息杖を突いて山道を下りながらも、重い想念を追い払うことができなかった。重態の母を残して遠征するのだと思うと胸が締めつけられ、目の前がかすんできた。遠征期間は一か月か二か月と予定されていたが、そのあいだにわたしの運命と部隊の行軍路にどんなことが起きるか、それは誰にも予測できないことだった。

    わたしはこんなふうにも考えた。地下闘争をもう何年かつづけてはどうだろうか、そして何か月かに一度は帰宅して家事の相談にも乗り、母を慰めもすべきではなかろうか。そうするのが、半生を苦労しつづけ、精神的苦痛も人一倍大きい母にたいして、わたしが息子として守るべき当然の道理ではなかろうか。祖母が郷里に帰って何日もたっていないときに、わたしまで安図を発ってしまえば、どこにも頼るあてのない病弱な母は、孤独にたえられるだろうか。だが、わたし一個人の家庭問題のために、遊撃隊が年間活動方針として立てた南満州遠征計画を反故にすることはできなかった。

    「まあ、この山にたきぎがなくなるとでも思ったのかい」

    しおり戸の前でわたしたちを待っていた母が機嫌悪そうにいった。

    わたしは返事がわりに微笑を浮かべ、汗をぬぐって母の顔を見つめた。

    「おまえは、だんだんおかしくなるようだね。撫松でもそうでなかったし、興隆村にいるときもそんなことはなかったのに、近ごろはどうして家の心配ばかりしているんだい」

    母の声はうるんでいた。

    「久しぶりに草の匂いをかいで、気持がすっとしました」

    わたしは母の言葉を聞かなかったかのように、平静をよそおって庭へ入った。

    その日の夕方、わたしたちは久びさに四人家族みんなで膳を囲んだ。皿にハヤの焼き物が盛られていた。その味は格別だった。どこで手に入れたのかと聞くと、兄さんが来たらおかずがなくて心配だといって、英柱が川で釣ってきた魚を串ざしのまま軒につるしておいたのだ、と母がいった。指の大きさほどのものが一皿だったが、喉に通らず何尾か残した。

    英柱が眠ると、母は壁にもたせていた上体を起こして、きびしい口ぶりでこういった。

    「近ごろ、おまえはどう見ても変わったようだ。まさかおまえが、米袋までかついできて、母さんを養おうとするとは思わなかったよ。母さんの病気が心配なのかい。親孝行をしようという気持はありがたいけれど、わたしはそんなことで心が晴れはしない。撫松にいたとき、婦女会を増やそうとおまえの手を取ってあの険しい山道を歩いたのは、わたしがきょうこんな慰めをうけたかったからだと思うのかい。おまえにはもっと大事なことがある。それはお父さんの遺言を守ることなんだよ。わたしよりもっと苦しい思いをしている朝鮮人はいくらでもいる。だからわたしの心配はしないで、早くおまえの道を行くのだよ」

    母の声は激情にふるえていた。

    わたしが顔を上げると、母はあとの言葉がつづかず唇を噛んでいた。その一言一言に集約された母の人生観が一瞬、わたしの心をはげしく揺さぶり、いたいほど肺腑にしみこんだ。

    母はちょっと息をついて、話をつづけた。

    「柴を刈ることにしてもそうではないか。おまえが暇な人間なら、それもいいだろう。…この世に母さんも弟たちもいなかったことにして、家の心配はいっさいするのでない。おまえが家を出て革命活動をりっぱにすれば、わたしの病気だって治るかも知れないよ。だから、おまえは部隊を引き連れて早く発ちなさい。それがわたしの願いだよ」

    わたしは即座に答えた。

    「お母さんのお言葉を肝に銘じます。今夜はここに泊まって、あす小沙河にもどり、部隊を率いて南満州の梁世鳳先生のところへ向けて出発します」

    わたしはどっと涙があふれ、顔をそむけた。母も気が休まらなかったのか、片隅の針箱を引き寄せて、わたしの軍服のボタンをつけはじめた。

    どうしたわけか、ふとわたしの脳裏に、父の葬儀のときのことが思い浮かんだ。

    あのとき母は喪服をつけず、父の墓所にも行かなかった。ただ、わたしたち3人兄弟にだけ喪服を着せて葬礼に送り出した。叔父をはじめ呉東振、張喆鎬、梁世鳳など独立軍の人たち数十人が柩のあとにつづいたが、母は家に残った。

    父の没後の端午の日、わたしたちは一緒に墓参りをしようと母にせがんだ。

    母は、わたしは行かないから、おまえたちだけで行きなさい、といって一緒に行こうとしなかった。そしてわたしたちに供え物を持たせて、焼香の仕方や酒のつぎ方、礼の仕方などを一つ一つ教えてくれた。母がわたしたちと一緒に墓参りをしなかったのは、子どもたちに涙を見せたくなかったからであろう。

    だが、母は一人でよく墓参りをした。その慣例を破ったことが1度あったが、それは葬儀に遅れて撫松にやってきた李寛麟が父の墓参りをしたときである。母が彼女を墓地へ案内したのだが、李寛麟が墓前に泣きくずれてしまったので、むしろ母の方が彼女を慰めたほどだという。

    母は情にもろかったが、人前では涙を見せなかった。女性としては珍しいほど気丈な性格だった。 少年時代に目撃したその驚くべき性格は、わたしの生涯に消しがたい印象を残した。

    そのような母であったからこそ、あの孤独な病床生活のなかで、自分の道を行けとためらいなくわたしを促し、きびしく鞭打つ心情でわたしの魂を強くゆさぶり、一生の座右銘となる深刻な訓戒をしたのである。

    わたしは、母が普通の母親ではなかったと思う。わたしが折にふれて、馬東煕の母堂張吉富女史は普通の母親でない、といっている理由もそこにある。彼女は解放後、わたしに会った。ところが彼女は泣かなかった。ほかの婦人たちはわたしに会うとみな泣いたが、彼女は泣かなかった。わたしは、お子さんの戦友が多い平壌で住むようにと勧めた。だが、張吉富女史は、息子を密告したかたきを探し出さなければといって、誰にも告げず郷里へ帰った。

    わたしは眠れなかったので庭へ出た。冷たい空気にあたりながら傾いた垣根の前を歩いていると、哲柱がそっと戸を開けて出てきた。

    わたしたち2人は薪束の上に座って語り合った。哲柱は、これまで共青活動の方に熱中して、お母さんの面倒はあまり見られなかったが、これからは兄さんに心配をかけないように母につくす、といった。じつは、わたしもそのことを頼みたかったのだが、弟が先にいってくれたので気持が晴れた。

    朝、わたしたちは打ち豆をおいしく食べた。食後、わたしは裏手に住む金正竜を訪ねた。弟たちの身の振り方を相談するためだった。

    あすにも南満州へ向けて発たなければならないのだが、家のことが気がかりで、土器店谷を離れるのがためらわれる、とわたしは偽りのない気持を打ち明けた。金正竜は、家族のことは自分にまかせて発て、自分が一切の面倒を見る、弟たちの世話も焼き、母の病気もみとるから心配しなくてもよい、といってくれた。

    わたしは家へもどり旅支度をした。わたしが履き物のひもを結んでいると、母は行李の底から五円紙幣を四枚取り出して、わたしの前に置いた。

    「客地ではなにかとお金がいるだろうから、これを持って行きなさい。男のふところには急場に使うお金がなくてはならないものだよ。清朝末に、孫文先生がある外国の大使館に監禁されたとき、掃除夫にお金をいくらかつかませて脱出したことがある、とお父さんがよくおっしゃっていたではないか」

    金は受け取ったものの、手がふるえてふところに納めることができず、どうしたものかと迷った。その二十円に母の汗がどれほど深くしみているかを、わたしはあまりにもよく知っていた。指がすり減るほど洗濯や裁縫の賃仕事をしながら、一銭、二銭と蓄えた二十円の金。役牛一頭が五十円ほどだったあのとき、その金なら若い牛が買えた。米を買っても三人が一年は食べていけるほどの金である。

    わたしは金の重みで、体の釣り合いを失ったかのようによろめきながら縁を降りた。「お母さん、行って参ります。どうかお達者で」といって頭を下げた。そのときわたしが気づかったのは、ふだんと違ったふうにあいさつをして母を悲しませてはいけないということだった。それで、なんでもないように、いつものしなれたあいさつをしたのである。

    「早くお行き、どうせ行く道なんだから」

    母は病色の濃い顔に無理に微笑をたたえて、うなずいてみせた。

    わたしが一歩踏み出すと、後ろで戸の閉まる音がした。わたしは歩き出した。だが、足は村はずれに向かうのでなく、家のまわりを巡りはじめた。手には二十円の金がそのまま握られていた。一回まわり、二回まわり、三回まわり…

    その長くもない時間に、わたしの脳裏には終夜、心をとらえて放さなかった複雑な想念が、雲のように湧き起こった。わたしがこの庭にもどってくる日はいつのことだろうか? はたして自分は勝算のある道に向かって進んでいるのだろうか? 前途にはなにが待ち構えているだろうか? 母の病気は好転するだろうか?

    わたしがこんな想念にとらわれて家の周囲をまわっていると、母が戸を開けてきびしく叱った。

    「なにが気になってまだ行かず、ぐずぐずしているの。国を取りもどそうと決心した人間が、そんな弱気になって家のことでくよくよするようでは、どうして大事をなしとげられるというの。おまえは家のことを心配する前に、獄中にいる亨権叔父や晋錫伯父のことを考えるべきではないか。奪われた祖国を思い、民衆を思うのだよ。日帝に国を奪われて22年にもなるのに、おまえが朝鮮の男児なら大きな心をもって、しっかりと第一歩を踏み出すべきではないか。この先、おまえが母さんのことを気にしてここへ来るというなら、二度と門前にあらわれてはいけないよ。わたしはそんな息子には会わないから」

    母の言葉は落雷のように、わたしの心に響いた。

    母はその一言一言に気力をことごとくつぎこんだかのように、頭を門柱にもたせて、愛情と熱気と怒りの入りまじったまなざしをわたしに向けていた。それは百里の道を歩き通して八道溝にたどりついた日の夜、わが家に一晩も泊めずにそのままわたしを臨江へ送り出した、あのときの母を思い出させるような姿であった。

    わたしは、あのように義に燃え、熱気にたぎる、強く気高い母の姿を見るのははじめてだった。母は全身をおおい包んだその義と熱気に焼かれて、そのまま灰になるのではないかと思われた。

    そのときまでわたしは、わたしを生み育てた母を十分に理解しているつもりであった。ところが母はあのとき、まるで想像もできなかったはげしい気迫と魂をもって、わたしを見下ろしていたのである。

    その姿は、母というよりはむしろ師のそれだった。なんとりっぱな母、なんとありがたい母だろうかと、わたしは母にたいする誇りで胸が張り裂けるほどの幸福感にひたった。

    「お母さん、お元気で」

    わたしは帽子を取り、深々と頭を下げた。そして村の外へ向かって大またで歩き出した。

    丸木橋を渡ってふりかえると、白衣の母が門柱に体を支えてわたしを見守っていた。それがわたしの瞼に残った母の最後の姿だった。あの病弱な体のどこに、この息子の胸をあれほどはげしくゆさぶる剛毅な気高い魂がひそんでいたのだろうか。あんなにりっぱな母が病魔に苦しんでさえいなかったら、わたしはどんなに軽やかな気持でこの道を歩めるだろうか。

    わたしはこみあげる涙をこらえ、唇を噛んだ。

    それは、生涯に数十、数百回と体験するただの離別ではなく、わたしの生涯に胸の痛む追憶を残した、二度とくりかえされることのない永別だった。わたしはその後、ふたたび母に会うことができなかった。

    数か月後、母の死を知って、真っ先にわたしの心をとらえたのは、最後に別れたあのとき、なぜもっとあたたかい言葉をかけてやれなかったのかという悔恨の念だった。だが、母はそのような感傷的な離別を望まなかったのだから、わたしとしてはどうしようもなかったのも事実である。

    高齢のいまになっても、わたしはあのときのことが忘れられずにいる。人間の生涯には、少なくとも何度かはそのような体験を味わうものである。そうしたとき、紙一重のわずかな違いから人間の運命は大きく変わり、まったく正反対の終着点に至るものである。あのとき、母がわたしに家庭の苦しさを訴えるか、わたしの決心をにぶらせるようなことをなにか一言でもいったとしたら、翼を広げて大空へ飛び立とうとするわたしの胸中にどんな波紋を起こしたであろうか。

    幼年期の反日人民遊撃隊を率いて小沙河の台地をあとにしたあのときから、わたしは戦友とともに数十年の歳月、人間の想像を絶する血戦の道、酷寒の道、飢餓の道を歩んだ。その後は社会主義の旗をかかげて、創造と建設の半世紀を歩んだ。

    祖国と民族のためのあのきびしい試練にみちた日び、革命家の信念をためす苦境に遭遇するたびに、わたしはなんらかの理念や哲学的命題を想起する前に、わたしを南満州へ送り出したときの母の言葉と、わたしを見送ってくれた母の最後の白衣の姿を思い出しては勇気を奮い起こしたものである。

    

    

    

    

      3 喜びと悲しみ

    

    

    反日人民遊撃隊の南満州進出と時を同じくして、于司令部隊も二百人で編制した区分隊を通化地方に派遣した。その区分隊を引率したのは劉本草先生だった。于司令がその右腕ともいうべき劉本草参謀長を南満州に送ったのは、唐聚伍の自衛軍との合作をはかり、彼らを通じて武器を入手するためである。当時、于司令は武器の不足に悩んでいた。遼寧省に本拠を置く南満州地方の自衛軍には于司令の救国軍よりもすぐれた武器が多かった。

    われわれが遠征すると知って小沙河にやってきた劉本草先生は、自分たちも南満州へ進出する命令をうけたのだが、目的地も同じだから一緒に行かないかといった。自分たちと一緒に行けば唐聚伍に紹介しよう、彼と連係すれば武器の入手も可能だ、というのだった。

    わたしは劉本草先生の申し入れを喜んで承諾した。実際、われわれには武器がいくらでも必要だった。救国軍と行動をともにすれば、途中、中国人反日部隊に出あっても衝突を避けることができ、安全が保障されるはずだった。

    唐聚伍はもと東辺道省防軍第1連隊長を勤めていたが、九・一八事変後、抗日救国を唱えて遼寧民衆自衛軍を組織した。彼の麾下には一万余の兵力があった。唐聚伍の自衛軍は通化地方を活動拠点にして、南満州一帯を中心に瀋陽駐屯関東軍と力に余る戦いを展開していた。彼らは国民府傘下の朝鮮革命軍部隊との連合作戦もたびたびおこなった。

    組織当初の遼寧民衆自衛軍は士気が旺盛で戦果も悪くなかった。しかし大勢が日本側に有利に傾き、戦いが困難になると、唐聚伍は動揺しはじめた。

    国際連盟がリットン調査団を満州へ送って九・一八事変の真相調査にあたってはいたが、日本軍はそれを尻目にかけて戦果を拡大した。一九三二年1月初め、錦州を占領した日帝は一月二十八日、陰謀を仕組んで強盗さながらの上海事変を引き起こした。彼らは5人の日本人僧侶が上海の虹口で殴打されたことを口実にして、中国人の工場や商店を破壊し、警官を殺害した。ついで海軍陸戦隊を投入して上海市に大々的な攻撃を開始した。日本が上海事変を起こした目的は、上海を中国本土侵略の橋頭堡にすることにあった。日本軍部の首脳は、上海を電撃的に占領すれば、その戦果を拡大して中国の全領土を一挙に占領できるものと夢想した。

    上海の軍人と市民は即時、英雄的な反撃を開始し、日本侵略軍に大きな打撃を与えた。しかし、蒋介石と汪精衛の率いる国民党反動政府の背信的な売国政策によって抗戦は挫折し、上海事変は屈辱的で反革命的な「松滬協定」の締結によって幕を下ろした。上海抗戦の挫折は、救国軍や自衛軍など反日をめざすすべての愛国的軍人と人民の士気を落とした。

    上海事変と「松滬協定」の締結過程が示したように、国民党政府の反動的な売国売族政策は、抗日救国勢力にとって最大の障害であった。国民党反動集団は上海抗戦を支援しなかったばかりか、それを妨害し、犯罪視した。蒋介石と汪精衛は第十九路軍への軍需物資の補給を故意に中止し、全国各地から上海に寄せられた援護金を押収する一方、海軍に秘密指令を発して、日本側に食糧と野菜を供給する恥ずべき反逆行

    為をためらいなくおこなった。

    国民党反動集団は自ら抗日をしなかったばかりか、人民の抗日を妨げたのである。彼らの銃口はつねに抗日を志向する人たちの胸を狙った。抗日を叫ぶ人たちは例外なく国民党のテロをうけるか、絞首台に立たされた。

    蒋介石はかつて、中国が帝国主義によって滅ぼされれば、われわれは亡国の民にはなっても生きのびられるが、共産党によって滅ぼされるときは奴隷としてすら生き残れないであろうと放言した。それは蒋介石とその反動集団が、外国帝国主義侵略勢力よりも人民革命を恐れて警戒する帝国主義者の徹底した下僕であり、手先であることを証明している。

    蒋介石の売国行為は、国民党となんらかのつながりがあり、また旧軍閥と官僚、政客の利害を代弁する救国軍と自衛軍の上層部に思想的な悪影響をおよぼした。

    上昇一路をたどる日本軍の威力も、救国軍の士気を落とす一因となった。リットン国際連盟調査団はその報告書で、満州を日本の独占にゆだねず、国際共同管理下に置くべきだと提議した。だが、日本側はそれを無視し、戦闘行為をつづけた。日本軍は山海関と北満州地方に勢力をのばして北満州の広い地域を攻め取り、熱河方面に兵力を集中した。

    日帝は北満州進攻に先立ち、関東軍の特務機関を動かして東北軍を政治的に瓦解させ、特務の買収・陰謀活動によって北満州東北軍の各旅団を四分五裂させ、それらが互いに不信をもつか、権力争いに没頭するようにしむけた。彼らは馬占山を攻撃するときは蘇炳文を味方につけ、馬占山が敗亡すると蘇炳文を一挙に掃滅するといったふうに、北満州の反日部隊を難なく各個撃破したのである。

    北満州一帯における反日部隊の瓦解は、東満州の王徳林や南満州の唐聚伍にも影響をおよぼさずにはおかなかった。

    唐聚伍は人民の革命的気勢に乗じて抗日救国の旗をかかげはしたが、大胆かつ積極的な活動をくりひろげることができず、大勢をうかがいながら恐る恐る行動していた。

    当時、丁超、李杜、占清など少なからぬ反日部隊の頭領たちは、抗日を積極的にすることはない、国際連盟に依拠してこそ万事がうまく解決される、といった妄想にとらわれていた。そればかりか彼らは「張学良が日本軍に抵抗しないのは共産匪賊を粛清するためだ。共産匪賊を先に粛清すれば日本軍も追い出せる。共産党が日本軍を引き入れたのだ」という途方もない主張をしていた。

    われわれが南満州へ向けて出発した年の春、周保中が自衛軍につかまったことがあった。彼は自分を逮捕した指揮官に向かって、君たちの軍隊はなぜ自衛軍と称しているのかと質問した。

    質問をうけた指揮官は、自衛とは自分の部隊を守るということだ、自分の部隊を守ることすらむずかしいのに、なんの力があって日本軍を討てるのか、日本軍がわれわれを攻撃しなければ、われわれも攻撃しない、自衛とはそんなものだ、と答えた。

    これがほかならぬ自衛軍の思考方式であり、政治的見解であった。自信をなくして動揺していた唐聚伍は傘下部隊の統率を放棄し、なるがままに任せていた。そこへ于司令が劉本草を自衛軍本部に派遣したのは時宜にかなった措置だといえる。

    初日の行軍路程を短めにとり、六月三日の午後、小沙河を出発した遠征隊は、沙河(下小沙河)農民協会会長の案内で二道江を渡り、劉家粉房に入った。われわれはここで一晩泊まり、政治工作をすることにした。

    この村が劉家粉房と呼ばれるようになったのは、劉という人がそこに製粉所を設けたときからだという。

    われわれは夕食後、製粉所前の広びろとした庭でたき火をたいた。

    遊撃隊が来たといううわさを聞いて、隣村からも人びとが劉家粉房に集まってきた。村の組織責任者たちは各農家からむしろを集めてきて座席をつくり、隣村の人たちのためには丸木や垂木を運んできて、そこへ座るようにした。製粉所の庭には数百人もの人たちが集まった。われわれは彼らとたき火のまわりにつめあって座り、夜更けまで話を交わした。

    その晩、彼らはわれわれに多くの質問をした。一生涯、人民のなかに入っていろいろと組織活動や政治活動をしてきたわたしだったが、そのときほど矢つぎばやの質問をうけたことはなかったように思う。

    わたしは喉がかれて声が出なくなるほど、夜遅くまで彼らと話を交わさなければならなかった。

    最初の質問は、遊撃隊はどんな軍隊か、遊撃隊と独立軍の違いはなにか、ということだった。彼らも一か月前に小沙河で反日人民遊撃隊が組織されたことを知っていた。単純で当然な質問のようではあるが、そこには新しく誕生した武装力への期待と疑念が入りまじっていた。独立軍も朝鮮の解放をめざしており、反日人民遊撃隊も朝鮮の解放をめざしているのであれば、なんのためにまた遊撃隊を別につくる必要があるのか? 遊撃隊を新しくつくったら、独立軍も歯が立たない日本軍に勝てると思うのか? 勝算があるというならその裏付けはなにか? 独立軍になにかと煩わされ、さらに独立軍の挫折で絶望感に陥っていた劉家粉房の人たちが知りたがっていたのは、およそこういうことであった。

    わたしはできるだけわかりやすく簡明に答えようと努めた。

    反日人民遊撃隊は別に変わった軍隊ではない。文字通り日本帝国主義に抗して戦う人民の軍隊だ。この軍隊はほかでもなくみなさんのような労働者、農民の息子や青年学生、知識人によって組織されている。反日人民遊撃隊の使命は、日本帝国主義植民地支配をくつがえし、朝鮮民族の独立と社会的解放をかちとることである。

    反日人民遊撃隊は義兵や独立軍とは異なる新しい型の軍隊だ。独立軍の指導思想はブルジョア民族主義だが、抗日遊撃隊のそれは共産主義思想である。共産主義思想とは、わかりやすくいって、貧富貴賎の別がなく、すべての人が自由で平等に暮らせる世の中をつくろうという思想である。

    金のある人たちが主人となる社会をつくるのが独立軍の理想なら、働く人たちが主人になる世の中をつくるのが反日人民遊撃隊の理想である。独立軍はみなさんのような平民を解放運動の協力者、同情者だとしか見ていないが、われわれはみなさんを抗日革命の担い手、主人と見ている。独立軍は外部勢力に大きな期待をかけ、その力を借りて国の解放をなしとげようとしたが、われわれはわれわれ自身の力をもっと強く信じ、その力で国を取りもどそうとしている。

    義兵のあとをついで独立軍がその間、満州の山野と祖国の北部地帯で十数年間、日本の侵略者と血闘を交え、多くの苦労をしたのは事実だ。だが、独立軍の軍勢はしだいに衰え、いまではその存在すら危ぶまれている。それで、われわれは新しい軍隊を組織した。独立軍が果たせなかった祖国解放の聖業を、われわれが完成しようという決心のもとに組織したのが反日人民遊撃隊である。

    わたしがこういうと、村の一青年が、反日人民遊撃隊の兵力は何千人ほどになるのかと質問した。

    わたしは、まだ初期だから何千人というほどでなく、数百人ほどだ、いまはまだ遊撃隊の数が多くはないが、遠からず数千数万に増えるだろうと答えた。

    彼はわたしの説明を聞いて、反日人民遊撃隊に入隊するにはどんな手順を踏まなければならないのか、とたずねた。

    わたしは、特別な手続きや格式はない、戦う覚悟のできている青年なら誰でも入隊できる、だが身体は強健でなければならない、入隊は革命組織の推薦によってもできるし、部隊を訪ねてじかに志願する方法でもできると答えた。

    すると、数人の青年がわたしを取り囲み、自分たちが入隊を志願すれば、この場で受け入れてくれるかと聞いた。われわれにとって、それは思いもよらぬ収穫であった。

    「受け入れます。ただし、入隊しても当分は武器なしですごさなければなりません。武器は戦場で、自分の手で獲得するのです。それでも入隊するというなら、われわれはいまこの場でみなさんの入隊を承諾します」

    彼らは、武器がなくてもよいから遊撃隊に入れてもらいたいといった。

    こうして、われわれは村の多くの青年を新入隊員として部隊に受け入れた。それは劉家粉房が幼弱なわが遊撃隊に与えた思いがけない贈り物であった。われわれ一同はその贈り物を前にして喜びを禁じえなかった。革命同志1人を得るために、ときには二人、三人の同志を失うことさえあった当時、10人近くの青年が一度に部隊に入ったのだから、そのときのわれわれの喜びは想像にかたくないであろう。

    雪をほおばり、野宿しながら苦難の道を歩む革命家には、資産家や市井の俗人には味わえない特有の楽しみがある。それは、新しい戦友を得たときに覚える、胸のふくらむような精神的充溢感である。きのうまで一面識もなかった人たちが入隊を志願して死線を越えて訪ねてくるとき、われわれは彼らに軍服を着せ、銃を与えては、俗世では味わえない荘厳かつ爽快な喜びを覚えたものである。われわれはそれを、われわれの方式の喜びとし、楽しみとしたのである。その夜、遊撃隊員は新入隊員を祝福して娯楽会を開いた。わたしと車光秀も歌をうたった。

    われわれがこのようにさしたる努力もなしに大きな収穫を得ることができたのは、九・一八事変直後の民心がそれほど大きく抗日遊撃隊に傾いていたことに起因している。日本が満州まで占領したのだから、朝鮮人はここでも安心して暮らせなくなった、満州でも自由に暮らせないなら、死ぬか生きるか、決然と立ち上がって決着をつけるべきだというのが、当時の朝鮮青年の共通した心情であった。

    われわれは夜通し語り合い、夜が明けそめるころ、たき火のまわりにむしろやアンペラを敷いて、遊撃隊組織後、はじめての野営をした。

    朝鮮人の住む村で遊撃隊に野宿をさせるのは、われわれ劉家粉房村民の体面にかかわると村人たちが騒ぎ立てたが、われわれは組織責任者たちが割り当てた農家に入るのを辞退して、露天で一夜をすごすことにした。人民の利益を侵さないという名分でそうしたのだったが、いってみれば革命家は暖かいねぐらよりも荒れ地で寝る方が分に相応しているという一種の楽天的な気分から、彼らの誠意を退けたのである。

    われわれは南満州遠征から帰るときもこの村で宿営した。そのときは、呂修文という中国老人の家の前で野営した。家の前に広いジャガイモ貯蔵窟の跡があった。われわれはそのまわりに穀草の茎を編んで垣をめぐらし、そのなかでたき火をたいて一晩をすごした。

    われわれが老人の家へ入らず、野外で飯をつくって食べ、寝支度するのを見た呂修文老はわたしのところに来て、部隊をみな動かすのが困難なら、隊長だけでも部屋に入って休むようにと勧めた。

    「成柱先生が面識のない人ならいざ知らず、わしらは旧安図にいたころからの顔なじみじゃないですか」

    老人は、わたしがそんな水臭いことをするとは思わなかった、と恨み言を並べた。

    実際、わたしと老人とは旧知の間柄だった。わたしの家族が馬春旭の宿屋で間借りをしていたころ、わたしはそこで呂修文老に二、三度会ったことがあった。そのとき老人が見せた闊達で熱情的な性格はたいへん印象的だった。

    老人は、抗日を目的に数百里もの道を遠征して帰った軍隊が野外で宿営しているときに、自分だけがどうしてぬくぬくとふとんをかけて寝ていられようかといって、夜遅くまでわれわれの話相手になってくれた。

    劉家粉房の人たちが概してそうであったように、呂老人も時局に敏感だった。彼は、九・一八事変後、日本軍が満州国というかいらい国家をつくり、長春の名を新京と改めて首都にしたあと、そこへ溥儀をかつぎだしたことも知っていた。

    老人との対話でいまも忘れられないのは、安重根についての話だった。

    彼は、朝鮮の烈士のなかで自分がもっとも尊敬する偉人は安重根だといった。

    「安重根先生こそ東洋の巨人じゃ。袁世凱大総統さえ安重根烈士の義挙をたたえて詩を詠んだじゃありませんか」

    老人のその言葉はわたしに深い感銘を与えた。

    伊藤博文を射殺した安重根は、満州地方の中国人のあいだに伝説的な人物として知られるようになった。彼らのなかには、安重根の画像を壁にかけて霊牌のようにまつりあげる者さえいた。

    「ご老人は朝鮮人でもないのに、どうして安重根のことをそんなによくご存じなのですか?」

    呂修文が深い愛情をこめて安重根をたたえるので、わたしはそれとなくたずねてみた。

    「満州に住む者なら誰でも安重根を知っていますぞ。ハルビン駅に安烈士の銅像を立てようという人たちさえおるんじゃからね。わしはいまでも、息子たちによくこういい聞かせているんじゃ。革命家になるなら孫文先生のような革命家になり、りっぱな男になりたかったら安重根のような男になれ、とね。金隊長さん、どうせ部隊をつくったからには、関東軍司令官のような大物をやっつけることができないもんかのう」

    わたしは老人の素朴な言葉に思わずほほえんだ。

    「たかが関東軍司令官を一人殺したところでなにになります。伊藤博文を殺したら別の伊藤博文が出てきたように、本庄を殺したってまた別の本庄が出てくるではありませんか。テロなどで大事がなせるものではありません」

    「では、隊長さんはどんな方法で戦うつもりですかい?」

    「関東軍が十万だそうですから、その十万を相手に戦うつもりです」

    呂修文老はそれを聞くとたいそう感激し、わたしの手を取って放さなかった。

    「金隊長!まったく見上げたもんじゃ。隊長さんこそ安重根のようなお方ですわい」

    わたしは笑って、こういった。

    「過分なお言葉です。わたしは安重根のようなりっぱな人間ではありませんが、亡国の民の生活には甘んじないつもりです」

     翌日、遊撃隊が村を発つとき、呂修文は別れを惜しんで遠くまで見送ってくれた。わたしは劉家粉房を思い出すたびに、呂修文老との対面を熱い思いで回顧するのである。

    劉家粉房をあとにした部隊は、二道白河付近で第二夜をすごし、さらに道路にそって行軍をつづけていたとき、撫松から安図方面に移動する日帝侵略軍の尖兵と遭遇した。われわれは行軍のさい、いつも隊伍の前方に三、四人の尖兵を立たせていたのだが、彼らと日本軍尖兵とのあいだに撃ち合いがはじまった。

    正直にいって、われわれはそのとき少なからずあわてた。それは、遊撃隊創建後の最初の遭遇戦であり、しかも無敵を誇る日本軍との最初の戦闘だからであった。小営子嶺では、われわれが綿密な事前計画を立て、敵を待ち伏せて先制打撃を加えたのだが、ここではそういかなかった。相手は臆病な「満州国軍」でなく、実戦経験の豊かな、しぶとく敏捷な日本軍であった。それにひきかえ、こちらはたった一度の戦闘経験しかない新兵の集まりである。

    まだ遭遇戦では、どう戦うべきかということもわからないときだった。

    遠征の目的や遊撃戦の基本的原則からしても、遠距離行軍の途上では、できるだけわが軍の行動に不利な影響をおよぼす無益な衝突は避けるべきだった。昔の兵書にも「避実撃虚」と書かれている。強敵を避け、弱敵は撃てという意味である。それなら、この場合はどうすべきか? 

    全隊員が緊張した表情でわたしの顔を見守っていた。わたしの決心を待っているのだった。わたしは敵の本隊が到着する前に有利な地点をしめなければ戦いの主導権が握れないと見てとり、尖兵が銃撃戦を交わしている高地の北側の稜線に部隊をいちはやく移動させた。そのあと一部の隊員を道路の南側に進出させた。部隊は道路の南側と北側から一斉射撃を加えて敵の尖兵を撃滅した。

    ほどなく、重装備をした敵の行軍縦隊が道路を突進してきた。一目で一個中隊ほどの兵力だと知れた。敵は尖兵がせん滅されたと知ると、われわれを包囲しようとした。

    わたしは、合図の銃声が上がるまで絶対に射撃しないようにと命令し、敵が射撃圏内に入るのを待って、その動きを見守った。われわれには弾薬があまり多くなかった。

    わたしが合図の銃声を上げると、全隊がいっせいに射撃を開始した。

    わたしは四方で鳴り響く銃声に耳を傾け、隊員の士気をおしはかろうと努めた。その一つ一つの銃声からは、興奮し、意気がさかんではあったが、やはり分別を失い、あわてている隊員たちの心理状態を感じとることができた。

    敵は多くの死傷者を出しながらも、数を頼んで迅速に戦闘態勢をととのえ、わが方がしめている二つの陣地めがけて猛烈な攻撃をかけてきた。

    わたしは、道路の北側と南側に配置した主力の一部をわが方の両翼にすばやく機動させた。彼らは陣地をしめると、ただちに側面の敵兵を狙撃し一人残らず掃滅した。だが敵の主力は一歩も退かず、必死に高地へ向かって這い上がってきた。われわれは石まで転がしながら陣地を守ったが、敵は屍を乗り越えて突撃をくりかえした。

    敵の攻撃がやや下火になったのを見はからって、わたしは全部隊に突撃命令を下した。森林にこだまするラッパの音とともにいっせいに尾根から駆け下りた遊撃隊員は、逃げまどう敵を追って容赦なく撃滅した。数人の逃走者を除いて、一個中隊の敵がわれわれの突撃によって全滅した。金日竜は白兵戦のさなかにも、敵兵が倒れるのを見ては「また一人やっつけた!」と歓声を上げていた。

    遊撃隊もかなりの戦死者を出した。

    われわれは名も知れぬ高地に戦友の屍を葬って永訣式をおこなった。わたしは軍帽を脱いですすり泣いている隊員を見まわし、ふるえる声で永訣の辞を述べた。そのとき、どんなことを述べたかはなにも覚えていない。ただ弔辞を終えて顔を上げたとき、隊員たちの肩がはげしく波打ち、隊列が劉家粉房を発ったときよりかなり短くなっているのを見て、全身に戦慄が走ったことを覚えているだけである。

    やがて、わたしは部隊に出発命令を下した。全員が道路に整列したが、車光秀がひとり、土まんじゅうにうつ伏せていた。誰もかえりみる人のない墓、柩板一枚敷けずに埋葬した墓を残してはどうしても発つ気になれなかったのであろう。

    わたしは尾根に駆け上がって、車光秀の肩をゆさぶって大声を上げた。

    「光秀! どうしたのだ。立たないのか」

    わたしの声がどんなに大きくきびしかったのか、車光秀は膝をついて立ち上がった。わたしは声を落として、ささやくようにいった。

    「隊員がみなわたしたちの顔色をうかがっている。…七転八起の気概はいったいどこへいったのだ?」

    車光秀は涙をぬぐい、隊列の先頭に立って黙々と歩き出した。

    のちになって、わたしはあのときのことをいつまでもくやんだ。安図――撫松県境戦闘があってから四か月後、車光秀が戦死したという悲報を聞いて、最初に頭に浮かんだのがそのときのことである。

    (あのとき車光秀に、なぜあんなふうにしかいえなかったのか。ほかにいいようがなかったのだろうか)

    じつは、わたしもあのとき戦友を失って、何日も食事が喉を通らず夜も眠れなかった。

    戦死した隊員はいずれも「トゥ・ドゥ」時代から喜びも悲しみもともにしてきた部隊の根幹であり、中核であった。

    犠牲のない戦いはもちろんありえない。革命はつねに犠牲をともなうものである。自然を改造する平和的な労働でもいろいろな損失が生ずるものである。まして、あらゆる兵器や手段を総動員し勝敗を争う武装闘争において、どうして死を避けることができようか。だが、われわれは安図――撫松県境で出した犠牲を、あまりにも残酷な、容認しがたいものとしてうけとめた。革命がいかに酷薄な犠牲をともなうとはいえ、第一歩を踏み出したばかりの隊伍がこんな大きな損失を強いられなくてはならないのだろうか、というのが、あのときのわたしの偽りのない気持だった。

    算数的に計算すれば、十人たらずの人員を失っただけだから、それほどの損失ではなかったといえるかも知れない。一度の戦いで戦死者が千人、万人と出る現代戦において、10人程度の人命損失はなんでもないともいえるだろう。だが、われわれは戦友を失ったとき、その損失を算数的にのみ計算したのではなかった。算数はわれわれにとって、人間の価値を評価する手段にはならなかった。

    われわれとともに闘争の道を歩んだ一人ひとりの闘士は、世の何物にも代えがたい貴重な存在だった。遊撃隊員一人は百人の敵とも代えられないというのが、われわれの信条であった。敵は国の法と動員令により、一日にして数千数万の兵力を集めて戦場に大々的に投入できるが、われわれにはそんな物理的な手段も強権もなかった。たとえそんな力があったにしても、革命同志の一人ひとりはあくまでも千金に価していたのである。志を同じくする一人の同志、生死をともにする一人の戦友を見つけ、彼らによって一つの組織的な隊伍をつくりあげるには、じつになみなみならぬ努力を傾けなければならなかった。

    だからこそ、わたしは抗日革命闘争の全期間、たとえそれが百人の敵を倒して勝利した戦いであっても、わが方に一人の犠牲者でも出れば、それを戦果として誇れなかったのである。

    歴史家は安図――撫松県境戦闘を、遭遇戦を巧みに反撃戦へと導いて1個中隊の敵を完全に掃滅した勝利の戦いであったと評価している。もちろん、それは疑いなく勝利を得た戦闘であった。その戦闘の意義はたんに幼弱な反日人民遊撃隊が一個中隊の正規軍を完全に掃滅したことにのみあるのでなく、遊撃闘争史上はじめて天下無敵を誇る日本軍の神話を粉砕したというところにもあるのである。われわれはその戦いを通して、日本軍が強い軍隊ではあるが、決して無敵でも不敗でもなく、退却を知らない軍隊でもない、われわれが遊撃戦の特質に合った戦法を駆使して戦いを巧みに進めれば、少ない兵力でも強大な日本軍を十分打ち破れるという自信を得たのである。

    それにしても、あの戦闘でわれわれは、「トゥ・ドゥ」以来ともにたたかった戦友を十人近くも失うあまりにも高価な代償を払ったのであった。

    (一個中隊の敵を掃滅するのに十人近くもの戦友を失ったのだから、朝鮮と満州に駐屯する十万以上の日帝侵略軍を撃滅するのには犠牲者がどれだけ出るだろうか!)

    硝煙の消えやらぬ安図――撫松県境の戦場をあとにしながら、わたしは同志たちの遺体が横たわる稜線をふりかえって、こう考えた。われわれはあのとき最初の遭遇戦を終えて、遊撃戦争を進めるには、今後、苦労も並大抵ではなく、犠牲も少なくないであろうと認めざるをえなかった。

    安図――撫松県境戦闘後、われわれが十数年間つづけた抗日戦争はじつに、戦争にたいする人間の既成概念をもってしては、とうていおしはかれない苦痛と試練と犠牲をともなったのである。

    

    

      4 合作は不可能か?

    

    

    安図と通化を結ぶ反日人民遊撃隊の行軍路程には、わが国の北部国境地帯に見られるような険しい山や谷が多かった。安図から撫松まで長白山脈がのび、さらに撫松から通化までは三岔子嶺や三道老爺嶺などの険しい嶺がいくつも連なる竜崗山脈が走っている。

    部隊はその山脈づたいに一か月近くも力に余る行軍をつづけた。日中は敵の目が光る大道路を避けて山中を行軍し、夜は朝鮮人の住む村に入って政治工作や戦闘訓練でせわしい時間を送った。

    われわれは撫松にも数日間とどまって、当地の革命組織を指導した。そこでは張蔚華にも会った。

    張蔚華は、われわれの滞留期間が短すぎるといってたいへん残念がり、学窓時代の友情を考えても撫松でもう二、三日すごしていけと勧めた。わたしもそうしたかった。撫松はわたしにとってさまざまな思い出を呼び起こす意味深い土地である。

    だがわたしは予定通り、三日目か五日目かに部隊に出発命令を下した。昔日の追憶がいかに貴重で、後ろ髪を引かれる思いがする土地であっても、梁世鳳司令との対面を思えば、残念ながら張蔚華とも別れるほかなかった。

    撫松から通化までは二百キロほどあるとのことだった。行くほどに山は深くなるという言葉通り、山容は険しさを増し、行軍はますます苦しくなった。歩きなれていない峰や谷を伝って数十里の山道を強行軍するうちに、隊員はみなくたくたになり患者が続出した。わたしもうちつづく行軍で疲労の極に達していた。

    遠征隊が通化近くに来たとき、車光秀がわたしのところへやってきて、二道江で一日か二日休んで通化へ入ろうといった。

    「撫松にもっといたかったのを我慢して、二百キロの道を休まずに行軍してきたのに、通化を目の前にして休息しようというのはどうしたわけだ。車光秀らしくないな」

    わたしは彼の意図を察しながらも、かぶりをふってわざとこういった。

    すると、車光秀はメガネをはずしてハンケチでぬぐいはじめた。それは、彼が自説を押し通そうとするときに見せる癖だった。

    「みな綿のように疲れている。隊長自身も極限状態だ。そうでないというかも知れないが、この目はごまかせない。あんなに患者を何人もかかえて行軍する有様なのに、そんなざまで梁世鳳にはどう面会を求めるつもりだ」

    「梁世鳳先生は、それくらいのことも察しがつかないわからず屋ではない」

    「司令は眼識があってそうだとしても、数百人もの部下の目はどうする。われわれを烏合の衆だといって後ろ指をささんともかぎらんではないか。百里を行軍した苦労が水の泡になるのではないかと、それが心配なんだ」

    こうなるともう、車光秀の強情に勝てる者はいなかった。

    わたしも車光秀の主張に一理があると認めた。われわれがだらしのない格好で通化にあらわれたなら、

    独立軍にあなどられるおそれは十分にあった。彼らが反日人民遊撃隊を鼻であしらうようなことになれば、せっかく計画した合作は成功がおぼつかないであろう。だとすれば、車光秀の主張通り二道江で一、二日休んで元気を回復し、整然と隊伍を組んで勇ましく通化市内に入るのも悪くないと思われた。

    わたしは部隊に、行軍を停止して二道江で宿営するようにと命じた。そして梁司令に連絡兵を送り、独立軍との合作のため反日人民遊撃隊が安図を出発し、通化の近くに到着して休息しているということを知らせた。

    われわれは通化へ派遣した連絡兵が帰るのを待ちながら、二道江の村で旅の疲れをほぐした。

    指揮部は水車小屋のある家に定めた。その家の老人夫妻は心からわたしを歓待してくれた。

    わたしが指揮部に十人ほどの隊員を集めて、独立軍の工作に必要な行動上の注意を与えていると、それをじっと見ていた老人は、隊長が民衆の誠意に無頓着だといってわたしをいさめた。

    「昔の聖賢も、人間は多くを話せば気を損い、過度に喜べば感情を損い、腹をよく立てれば意志を損うといっておる。少なく考え、少なく気を使い、少なく働き、少なく話し、少なく笑えというのが昔から伝わる摂生の本道であり道理じゃ。ところが、隊長のように長ながと話し、あれこれと気を使い、いろいろと考えては、気はどう蓄え、病はどう振り払おうというのかのう。ましてあんたらは朝鮮を独立させる軍隊じゃからな」

    老人はいちいち覚えられそうにもない数十の養生法を熱心に説明し、大事は一日や二日でなるものではないから、将来のためにも健康にはとくに留意すべきだと、何度もくりかえして強調するので、わたしはやむなく注意事項の説明を中断して、それを車光秀にまかせるほかなかった。わたしは老人の話を聞いて、彼が許浚の崇拝者であり、われわれに長時間説明したその摂生法というのが『東医宝鑑』にあるものだということを知った。どこでどう身につけた知識なのかは知らないが、老人は保養法についてかなり深い知識をもっていた。

    われわれが二道江を発つとき、老人は朝鮮紙に包んで保管してあった蓮の実と蜂蜜で練って乾燥させた枸杞の丸薬を数袋、車光秀の前に差し出し、多くはないがこの薬を隊長の保養に使ってもらえればありがたいといった。

    わたしは、老人がわが身の摂生をはかって大事にとっておいたその補薬を受け取るのがはばかられて、丁重に辞退した。

    「お志はありがたく思いますが、その薬をいただくわけにはいきません。われわれ若い者が気や血が不足して生きていけないということはありません。一生苦労がたえず、ゆったりと暮らせなかったご老人こそこの薬をお使いになって、朝鮮が独立する日まで長生きしてください」

    わたしがこういうと、老人はいささかむっとした顔で、われわれにむりやり薬を押しつけた。

    「わしらはもう生きるだけ生きたんじゃから、補薬は使っても使わなくても同じことじゃ。だが、あんたらは朝鮮を独立させる先鋒隊ですぞ。わしらはいわば枯れ草にすぎんが、あんたらは青い松竹じゃないか」

    通化でわたしの書簡を受け取った梁司令が、反日人民遊撃隊の通化入城を歓迎し、遊撃隊の歓迎準備を部下に命じたという報告をもって連絡兵が帰ってくると、われわれは早速二道江をあとにした。二道江で休んでいるあいだに髪を刈り、ズボンの折り目までつけた反日人民遊撃隊員は、指揮官の号令に従って歩調を取り、革命歌もうたいながら通化市に向かって威風堂々と行進した。

    行軍中、わたしは金日竜に指揮をまかせて、梁世鳳との談判計画を車光秀といま一度綿密に打ち合わせた。わたしのすべての思索と想念は間もなくはじまる独立軍の工作に集中されていた。水車小屋の老人は思考も心配も仕事も話もみな少なめにし、笑うことさえ控え目にするのが摂生の本道だと再三強調したが、わたしはそんなに拘束の多い摂生法をとても守ることができなかった。われわれの活動は一から十まで無を有に変える過程であり、前人未踏の道を切り開く独特な創造過程であるだけに、誰よりも多く思索し、多く気を使い、多く議論しなければならなかった。

    わたしがもっとも気がかりだったのは、反日人民遊撃隊との交渉にあたって梁世鳳がどんな態度をとるかということだった。交渉の結果について、車光秀は最初から疑問をいだいたが、わたしは終始楽観していた。

    通化市が前方に見えたとき、わたしはふと、梁世鳳についてのほほえましい逸話を思い出した。それは、父が病床にあったとき、志を同じくする同志たちを一人ひとり回顧し、わたしと母に聞かせてくれた余談だった。

    三・一運動のしばらく前、梁司令の郷里では貧農でつくられた契(互助会)が中心になって、畑を水田につくり変えようという話がもちあがった。梁司令の一家も契に入っていた。畑より水田の方が収穫がはるかに多いことを常識として知っていた彼は、誰よりも工事を歓迎した。ところが契を牛耳っていた年寄りたちが、稲作は把握がないからといって頑強に反対した。年寄りと若手のあいだには春の種まきを前にして、契ができて以来はじめての口論が連日つづいた。

    若い者たちは頑迷な年寄りたちの強情に勝てなかった。契ではその年も種まきの時期がくると、若者たちが田づくりができずにじりじりしているその畑に粟と麦を植えた。年寄りたちは契の農事が若者たちのいいなりにならず、例年通り順調にはかどったので胸をなでおろした。

    だが、若手の先頭に立っていた梁世鳳は自分の主張を通す機会を狙っていた。そして四方で蛙が鳴きはじめた田植えどきのある日の晩、牛を引いて畑へ行き、粟や麦が青い芽を出している畑をこっそり水田につくり変えてしまった。

    きのうまで粟や麦が青々としていた畑が一晩のうちに田に変わり、そこに水まで引かれているのを見た年寄りたちは仰天し、「けしからん奴だ。契の農事をめちゃくちゃにしおって。今年、農事が台無しになったら、おまえも乞食になると思え」と息まいた。

    ところが粟や麦を植えて9石しか取れなかったその耕地で、梁世鳳はその年24石もの収穫をあげた。

    契の年寄りたちは目を丸くして、「とにかくあの世鳳はただ者でない」と舌を巻いた。その後、梁司令の郷里はもちろん近隣の村でも農民たちは競って稲作をするようになった。契を牛耳っていたちょんまげ頭の老人たちも、それからはすっかり梁世鳳のいいなりになったという。

    通化を目の前にして、こんな挿話を思い出したのはなぜだったろうか。おそらくそれは、梁司令との談判の成功を願う自分の気持を合理化する方向にわたしの思索が集中していたからだったのであろう。

    梁司令は三・一運動の前夜に故郷(鉄山)を捨てて南満州の興京県へ移った。父がはじめて梁世鳳に会ったのがその興京であった。

    当時、彼は統義府の検務官を勤めていた。正義府の成立後、彼は一躍中隊長に抜擢され、呉東振の寵愛をうける中堅幹部になった。彼の中隊が撫松に駐屯していた関係で、わたしも梁世鳳に会う機会があった。

    わたしの家族が八道溝から撫松に移って間もなく、梁世鳳は興京に呼びもどされ、その後任として張喆鎬が撫松にやってきた。三府が統合して国民府が誕生すると、独立軍の指導幹部は、剛直で実行力があり、民衆の信望も厚い梁世鳳に軍の統帥権をゆだねた。梁世鳳は軍部だけでなく、三府の元老重鎮がむらがる朝鮮革命党でも大きな影響力を行使していた。

    梁司令はいつも、自分と金亨稷は義兄弟だからといって、わたしをたいそうかわいがってくれた。呉東振、孫貞道、張喆鎬、李雄、金史憲、玄黙観などとともに、吉林でわたしを経済的にもっともよく援助してくれたのが梁世鳳である。

    旺清門事件後、国民府上層部にたいするわれわれの感情がきわめて悪化し、反動化したその軍部の首脳梁世鳳ともわたしは長年会う機会がなかったが、わたしにたいする梁司令の愛情と信頼には変わりがないものと確信していた。

    これらのことは人間梁世鳳、愛国者梁司令にたいする好意的な回想だった。わたしは、われわれの合作に暗い影を投げるような過去はあえて思い出そうとしなかった。わたしは談判の成功を期待して、できるだけ明るい過去のみを回顧しようと努めた。それは、談判の見通しに暗影を投げるような思い出で、自分を心理的に圧迫したくないという一種の防御本能に根ざすものであったのかも知れない。

    通化をはじめ東辺道の二十の県は、すべて東辺道鎮守使于山の管轄下にあった。彼は一時、張作霖から第三十軍の軍長に任命されたこともある将星だったが、一九三〇年六月の大刀会の反乱を鎮圧できなかったために張学良の信用を失った。于山は東辺道の各要地に一個旅団規模の省防衛軍を配置し、東辺道の最高統治者として君臨した。彼は九・一八事変後、東辺道保安委員会を組織して自ら司令になり、関東軍首脳と連係を保ちながら奉天省のかいらい政権に積極的に協力した。

    于山の協力をとりつけた関東軍は東辺道一帯には大兵力を投入せず、独立守備隊と満州国軍、警察などに治安をゆだねた。当時、関東軍の大半は北満州に出動していた。

    そのすきに乗じて、唐聚伍の遼寧民衆自衛軍が梁世鳳麾下の朝鮮革命軍部隊と連合して通化県城を包囲した。興津良郎を主任とする日本領事館通化分館の日本人職員とその家族は、包囲のなかに閉じこめられ救援を待つ破目に陥った。

    関東軍司令部は通化県城が包囲され、現地の日本人が危険にさらされているとの通報をうけたものの、全兵力を北満州一帯に出動させていたため、わずか百人ほどの警察官を救援隊として送っただけで、于山軍の援助に期待をかけた。于山軍は二隊に分かれて、北方と鳳城方面から、梁、唐の連合軍を圧迫した。

    関東軍は板垣参謀長の名で「通化にいる日本人のみなさん、奉天から至急援軍が出発し明朝到着しますから、しばらく頑張って下さい」と放送した。

    このように、九・一八事変後、国際連盟調査団の満州派遣と時を同じくして、奉天省一帯の反満抗日軍はいたるところで日本侵略軍と「満州国軍」を脅かした。そういうときだったので、通化県城を掌握した朝鮮革命軍と自衛軍の士気はきわめて高かった。

    反日人民遊撃隊が通化県城に入城したのは六月二十九日の夕方であった。

    独立軍は市内の各所に「反日人民遊撃隊を歓迎する!」「日本帝国主義を打倒しよう!」「朝鮮を独立させよう!」というスローガンをかかげて、われわれ一行を盛大に歓迎した。数百人の独立軍兵士と市民が街頭に立ち並んで拍手をし、手を振ってわれわれにあいさつを送った。梁世鳳はそのとき、反日人民遊撃隊の通化入城を独立運動発展の転機にしようとしたようだった。

    安図から来たわれわれはここで2隊に分かれて、劉本草の率いる救国軍兵士は自衛軍司令部代表の案内で中国人の家へ向かい、わたしが引率した反日人民遊撃隊は朝鮮人の家に分宿した。

    独立軍の隊員は反日人民遊撃隊員を宿所に案内してからもすぐには帰ろうとせず、われわれとともに時間をすごした。わが部隊にたいする彼らの反響は予想以上によかった。彼らは、遊撃隊が安図から来るというので、どうせ槍や火縄銃を持った田舎者の部隊だろうと思ったのだが、なんと、ぱりっとした紳士軍隊ではないかといって、たいそううらやましがった。

    夕方、わたしは梁世鳳司令の自宅を訪れた。

    梁司令はわたしを喜んで迎え入れた。わたしはまず、梁司令夫妻の安否を問い、母のあいさつを伝えた。

    「母は安図へ移ってからも、しばしば先生の話をしていました。そして、おまえのお父さんが亡くなったとき、梁司令先生が親友のみなさん方と一緒に葬儀の世話をしてくださり、おまえを華成義塾にも送ってくださったのだから、そのご恩を忘れてはいけない、といっておりました」

    梁司令は謙遜して手を横に振った。

    「わたしと君のお父さんは義兄弟なのだから、恩だのなんだのということはない。君のお父さんから鞭撻をうけたことを思うと、その恩こそ死んでも忘れられるものではない。ところでお母さんのご容態はどうなのだ? 安図へ移られてからは病気がちで、苦労しておられるということだったが」

    「はい、病気がかなり重くなったようです。近ごろは仕事をする日よりも、床についている日の方が多くなりました」

    われわれの対話は、このように日常的なあいさつからはじまった。わたしは、通化市内へ入ったときの印象を語った。

    「司令の部下が数百人も街頭に出てきて拍手で歓迎してくれましたので、わたしたちはみな感激して涙を流しました。独立軍の顔色が明るいのを見ると、わたしたちの気持も晴れました」

    「わたしの部下は戦うほうはほめたものでないが、客は粗末にしないようだ」

    「ご謙遜がすぎます。わたしたちは安図を発つ前、司令の部隊が唐聚伍の遼寧民衆自衛軍と力を合わせて通化県城を包囲し、難なく攻略したことを聞いております」

    「それは自慢するほどの戦果ではない。自衛軍の数万の大軍をもって城市一つ攻略できないようでは、食をはむ面目がないではないか」

    梁世鳳はこういいながらも、通化県城包囲戦の顛末をくわしく語った。

    その晩はそんな程度の会話をしただけで、その家で一晩泊まった。わたしは訪問理由をあえて切り出さなかったが、梁世鳳も説明を求めなかった。彼がわれわれの遠征目的を聞こうとしないので、いくぶん不安ではあったが、わたしを心から歓待してくれたことから、談判の成功はまず疑いないという当初の確信をいっそう強くした。

    翌日、朝食をすませてわれわれは本格的な対話に入った。

    先に話を切り出したのは梁司令だった。彼はこういった。

    「隊長も承知のように、いま満州は蜂の巣を突いたような有様だ。おびただしい蜂が日本という侵害者を刺そうと、毒を含んで立ち上がった。唐聚伍、李春潤、徐遠元、孫秀岩、王鳳閣、鄧鉄梅、王桐軒… これらはみな東辺道の蜂だし、東満州と北満州でもまた多くの蜂が立ち上がっている。こんなときに、わたしらも力を合わせてりっぱに戦えば勝てると思うが、隊長はどう思うかね」

    彼の見解はわれわれの遠征目的とも合致していた。梁司令自らが合作を模索し、先にそれを提案したのだから、わたしとしてはなんともありがたく、幸いなことだった。

    わたしは独立運動全般を大局的見地から考察する梁司令の高い識見に感服し、その提議を喜んで受け入れた。

    「力を合わせて戦おうという司令のお言葉にはわたしも同感です。じつはわたしたちも、そのことを相談したくてお訪ねしたわけです。朝鮮の武装部隊が力を合わせ、中国の武装部隊も力を合わせて朝中両国の愛国者と人民が一丸となって戦えば、ゆうに日帝を倒せると思います」

    梁世鳳はほほえんだ。

    「隊長が賛成なら、この問題を真剣に相談してみよう」

    「ところで司令、時局は団結を求めているのに、わが民族の内部は残念ながら団結を果たしていません。共産主義者の内部でも民族主義者の内部でも団結がなされていません。また、民族主義者と共産主義者のあいだの団結もなされていないのですから、そんなことでどうして日本という強敵と戦えるでしょうか」

    「それはみな左翼の連中がでたらめなことをしているからだ。隊長も左翼だというから、そのへんのことはよく心得ていようが、彼らが闘争を過激にやるものだから民心が離れてしまったのだ。小作争議をして農民を暴徒に変え、赤い五月だのなんのといっては地主を打倒し… そんな有様だから中国人は朝鮮人を相手にしないのだ。これはみな共産主義運動をするとかいう連中のせいなんだ」

    それは共産主義者が進めるいっさいの暴力をきらって否定する言葉だった。わたしは彼が労働者、農民を敵視し、地主や資本家に同情してそんなことをいったのではないと考えた。梁世鳳自身も独立運動に関与するまでは最下層の零細農民として多くの苦労をなめた人である。彼は毎年、年の暮れになると、地主から借財の返済を迫られて血涙をしぼった債務奴隷にひとしい小作農だったし、大根の葉をまぜた稗がゆでほそぼそと命を長らえてきた貧農の子孫だった。

    わたしはまた、彼が共産主義者の暴力闘争を非難するのは、共産主義の理念そのものに反対しているからでも、また、それと反対の資本主義思想を擁護しているからでもないと考えた。彼が嘲笑し、非難するのは一部の共産主義者の運動方式や闘争方法であって、共産主義の理念そのものではなかった。だが、方法にたいする立場や態度は、理念にたいする認識や観点に影響をおよぼさないはずがない。初期の共産主義者が大衆運動の指導で犯した極左的な誤りは、遺憾ながら新しい思潮にあこがれる多くの人たちに、共産主義に背を向けさせる嘆かわしい結果をまねいた。わたしは梁世鳳司令との対話からも、満州地方で初期の共産主義者たちがもたらした弊害が、いかに大きいものであったかをいまさらのように痛感した。

    わたしは一部の共産主義者が大衆闘争で犯した極左的な誤謬を認めた。だが、大衆闘争一般を民族の団結を破壊する害悪行為と見る梁世鳳の偏見は、ただす必要があると思った。

    「司令がおっしゃるとおり、朝鮮共産党出身の指導者たちが階級闘争で大きく脱線したのは確かです。彼らの極左的妄動のために、じつはわたしたちも大きな被害をこうむりました。その結果、朝鮮人が日帝の手先と思われるようにさえなったではありませんか。でも、農民が地主に反抗して立ち上がるのはやむをえないことだと思います。司令も長年農業にたずさわっておられたのでご存じでしょうが、秋になって地主と農民は収穫物をどう分けているでしょうか。汗水流して得た収穫物をほとんど取り上げられて口を糊することすらできない農民が、なんとか生きようとして小作争議を起こすことまで、十把ひとからげに悪いときめつけてよいものでしょうか」

    梁司令は、わたしが大衆闘争を弁護したのが気に入らなかったのか、それとも正しいと思ったのか、とにかくそれにはなんの反応も示さなかった。

    その日、独立軍部隊は反日人民遊撃隊を歓迎して集会を催した。独立軍隊員のなかには、柳河や興京にいたころから、われわれが派遣した「トゥ・ドゥ」のメンバーや政治工作員から共産主義の影響をうけた青年が多かった。彼らが世話役になって催した歓迎会だったので、集会はたいへん盛大で、熱狂的なものとなった。歓迎会には通化県城在住の朝鮮人も大勢参加した。

    主人と客は、代わるがわる立ち上がって演説もし、歌もうたった。そうしたなかでも反日人民遊撃隊と独立軍の個性の違いがはっきりとあらわれた。独立軍の隊員は反日人民遊撃隊員の謙虚でこだわりのない楽天的な姿や、規律正しく節度があり、しかも気迫にみちた部隊の風格をうらやんだ。彼らがとくにうらやんだのは、遊撃隊員のうたう革命歌謡と38式歩兵銃である。

    彼らは、「こんな頼もしい軍隊がうわさ一つたてずに、どこで急に生まれたのだろう」といって驚きもし、「君たちとの合作が成功すればよいのだが、梁司令との談判はどうなったのだ?」と聞きもした。

    梁司令はその日、成柱の軍隊を見ようといって反日人民遊撃隊を訪れた。遊撃隊員は拍手と挙手の礼をもって、相手をきりりとさせるような歓迎をした。ところが、そこで梁司令が反共演説をはじめたので、歓迎の雰囲気はたちまち敵対的な空気に変わってしまった。

    「朝鮮独立を成就するためにはなによりも利敵行為をやめなければならない。ところが共産党はいま利敵行為をしている。工場では資本家と労働者を争わせ、農村では地主と農民を反目させ、家庭では男女平等だのなんのといって夫婦の仲を割っている。口を開けば収奪だ、打倒だといって同胞のあいだに不和の種をまき、異民族のあいだに不信の壁をつくっている」

    遊撃隊員たちは彼の演説を聞いて憤慨した。車光秀は顔面蒼白になって、梁司令をいまいましげににらんでいた。

    反共一点張りの梁世鳳の演説には、わたしも不快感を禁じえなかった。なぜ彼がそんな演説をするのか理解できなかった。

    「司令、われわれはそんな利敵行為をする者たちではありません。われわれは朝鮮民族の解放をめざして戦い、勤労民衆の利益を守って戦う者です。朝鮮を独立させるためには労働者、農民のような勤労大衆を中心にしてたたかうべきであって、以前のように何人かの烈士や英雄豪傑の力だけではできるものでありません」

    わたしがこういうと、隊員たちもいっせいに国民府を攻撃した。国民府が旺清門で6人の愛国青年を殺したのは利敵行為でないのか、民族の前にそんな大罪を犯しながらも、国民府集団はあえて利敵行為だのどうのといって、われわれを非難できるのか、と口々になじった。

    すると梁司令は真っ赤になって、われわれを口ぎたなくののしりだした。

    あまりにも度をすぎたその非礼ないいざまに、わたしは唖然とした。彼が突然、理性を失ってわれわれをののしるのが腑に落ちなかった。われわれのちょっとした批判が彼の自尊心を傷つけたのだろうか? それとも合作を快く思わない何者かが裏で彼をけしかけたのではなかろうか? いずれにせよ、彼がそれほどいきまくのにはなにか理由がありそうだった。

    ともかく、わたしは辛抱強く彼を説得した。

    「先生! そんなにお怒りになることはありません。われわれがどんな人たちかは、しばらく一緒にすごせばわかるではありませんか。お互いに理解するには、司令の部隊とわたしたちの遊撃隊が接触を深めるべきだと思います」

    梁司令はこれにはなんともいわなかった。

    わたしは、梁司令の反共姿勢がいかに動かしがたく思えても、根気よく説得すればきっと考えを変えることができるだろうという一縷の望みをいだいて宿所にもどった。人を疑うのは一種の排外主義であり、人を信ずるのは最善の人道主義といえる。 国土を奪われた愛国者にとって、最上の人道主義は民族の団結をなしとげ、団結した民族の力で父母兄弟と同胞姉妹を解放することである、とわたしは考えた。

    わたしが、生まれて一か月しかたっていない部隊を引き連れて百里も離れた梁世鳳を訪ねたのも、そうした目的を果たしたかったためである。

    ところが、会談が物別れになったその日、通化市内のわれわれの組織員から、独立軍が反日人民遊撃隊の武装解除を企てているという情報が入った。

    梁司令がそんな陰謀を企てようとはとても信じられないことだったが、われわれは万一にそなえて、ただちに通化から撤収した。そんなわけで、劉本草先生とも別れることになった。

    反日合作の緊要な課題を果たせず、独立軍との衝突を避けて通化を去った反日人民遊撃隊員のあいだには、沈うつな気分がただよっていた。車光秀は隊列の後尾で、部隊の行軍コースが記されている手帳をのぞきながら黙々と歩いていた。

    「光秀、きょうはなぜ、そんなにふさぎこんでいるんだ」

    わたしは彼の気持を察して、わざと笑いながら声をかけた。車光秀は待っていたかのように、手帳をポケットにしまい、不服そうに答えた。

    「では、こんな場合に笑えというのか? 正直にいって、腹が立ってたまらないんだ。血まで流して百里の道を駆けつけてきた苦労が水の泡になったではないか」

    「なぜ参謀長は、独立軍との談判を失敗作だとしか見ないのだ」

    「では、失敗作でなくて成功作だというのか? 梁司令は合作でなく武装解除を企てたではないか」

    「参謀長は上層部の表情だけを見て、下層部の様子は見なかったのか。独立軍隊員が遊撃隊を見てどんなに感嘆し、うらやんだか知れないではないか。わたしは武装解除説よりも、そのことをもっと重視したいのだ。大切なのは上層部の表情ではなくて、下層部の態度だ。わたしはそこに合作の可能性を見ている」

    こういうわたし自身も、そのことを確信していたわけではなかった。わたしはただ予感を語り、念願を表現したにすぎなかった。

    わたしも内心は悩んでいた。それは、国籍の異なる梁司令と唐聚伍が手を握り、われわれと于司令も合作を実現したのに、同じ民族の反日人民遊撃隊と独立軍との合作はなぜこんなにむずかしいのか、はたして梁世鳳司令との合作は不可能なのだろうか、ということだった。

    あのとき、独立軍が実際に武装解除を企んだかどうかは、わたしの長年の疑問だった。わたしはその情報が組織を通して入手したものだったために間違いないと思いながらも、根拠のないものであってほしいと願った。たとえそれが正しい情報であったにしても、わたしはいささかも梁司令を非難する気にはなれなかった。人間の思想には限界があるもので、その限界を越えるには莫大な時間と体験を要するものである。だから、わたしは通化を去りながらも、独立軍との合作が不可能だという結論を急いで下そうとはしなかった。

    むしろ、梁司令がいつかは必ずわれわれを理解し、われわれと手を握る日がくるであろうと期待した。愛国は連共の大海に向かって流れる大小の川のようなものである。

    何年かのちに、部隊を引き連れて朝鮮人民革命軍側に移ってきた独立軍の司令崔允亀は、わたしとともに一九三二年の夏を感慨深く回顧した。崔司令の話によれば、あのとき反日人民遊撃隊の武装解除を企てたのは梁司令ではなく、彼の参謀だった。梁司令は反日人民遊撃隊との合作を実現させようとしたのだが、参謀が反共をうんぬんして陰でわれわれを誹謗したばかりか、腹心の部下とはかって遊撃隊の武装解除を企んだのであった。

    崔允亀の説明を聞いて、梁司令にたいするわれわれの疑いは消えた。梁司令がわれわれとの決別をいつまでもくやんでいたということ、そして武装解除の陰謀にはいっさいかかわっていなかったということを知って、わたしはほっとした。そのときはもう生きていなかったが、彼が愛国心に燃え、義理を重んずる人間であったことを改めて確認できたことが、わたしにはなによりもうれしかった。自分がりっぱだと思った人間が、数十年の歳月が流れたあともなおりっぱであり、その清い印象にいささかの曇りや汚れも見いだせないとすれば、それ以上喜ばしいことはないであろう。

    梁司令の失策は敵の奸計を見破れなかったことである。彼は正義感が強く剛直な人間ではあったが、側近の参謀がわれわれとの合作を妨げようとして陰謀を企てていたことに気づかなかったし、彼が共産主義者を悪どく誹謗したときも、その本心を見抜けなかった。梁司令が非業の死をとげたのも敵の奸計にはまったためだった。

    梁世鳳司令が反共から連共へと立場を変えたのは、彼が命を落とす少し前だった。当時、独立軍の内部はきわめて複雑であった。密偵とそれに買収された者たちの暗躍に加えて、部隊を離れる落伍者や脱走者が続出した。だが、一方では共産主義者との合作を要求する声も高まっていた。

    梁司令も共産主義者を無視することができなくなった。彼は朝中両国の革命において共産主義者が主要な勢力として登場し、彼らが政局を大きく動かす新しい激動の時期が到来したことを認めて、共産主義にたいする自分の立場を冷静に検討し、ついに連共に踏み切ったのである。

    共産主義が理解できなかったばかりに敵対感情をいだき、われわれとの合作に踏み切れなかった梁司令が連共を決意したのは、彼自身の生涯はもちろん独立軍の闘争史において特筆すべき出来事である。彼が反共を退け連共を志向したことは、楊靖宇との共同行動を実現したことからも知ることができる。彼はわれわれとの合作も考えていた。

    日本帝国主義者は、梁世鳳の部隊がわれわれと手を握るのをなによりも恐れた。朝鮮人民革命軍と独立軍が手を握るということは、わが国の民族解放運動において共産主義と民族主義の政治的・軍事的統一が実現することを意味した。それは彼らにとって大きな脅威であった。

    日本の憲兵隊、警察機関、そして特務機関は梁世鳳を殺害し、独立軍を内部から切り崩そうと画策した。その陰謀には奉天憲兵隊や朝鮮総督府の福島機関が関与した。「日本関東軍特務機関東辺道遊撃隊」も梁司令を監視し、尾行した。

    梁世鳳殺害作戦の機密費として、十数万円の金がばらまかれたともいわれている。朴昌海ら興京の密偵もその作戦に参加した。

    敵は梁世鳳司令をおびきだすために、以前彼と関係を結んで独立軍に協力していた背信者の王を送りこんだ。ある日、王は梁世鳳を訪ねて、中国抗日軍が独立軍を援助するために司令との面会を求めていると巧みにいいくるめた。梁世鳳は中国抗日軍が援助を約束したという甘言に乗り、深く考えもせずに王の案内に従って抗日軍が待っているという大拉子へ向かった。

    王は途中、やにわに拳銃を引き抜いて「おれは以前の王明藩ではない。命が惜しかったら日本軍に投降しろ」とおどした。

    梁司令が王を一喝して拳銃を抜いたとたん、高粱畑にかくれていた敵がいっせいに射撃して彼を殺してしまった。

    崔一泉が描写したように「『鶏林(朝鮮)の罰はうけても倭王(日本王)の禄は食まず』という朴堤上の諌言」が司令の魂となって敵を戦慄させたのであった。

    梁司令がもう少し早く連共に踏み切っていたなら、彼の運命も違っていたのではなかろうかと、わたしはよく思うことがある。もちろん、それは彼の死を悼むわたしの未練からなのであろう。

    「わしは死んで抗日ができないが、おまえたちは生きて金日成司令のもとへ行くのだ。生きる道はそれしかない!」

    梁司令は部下にこのような遺言を残して目を閉じた。それは遺言というより、反共の壁を破った一愛国者の死によって生まれた連共宣言であった。

    その宣言通り、四年後、かつて通化市でわれわれを歓迎した300余の独立軍隊員が、崔允亀司令を先頭に朝鮮人民革命軍に合流するため白頭山へやってきた。そのときわたしは彼らと樺甸で会った。

    桓仁県の朝鮮人は敵に梁司令の死体を奪われまいと、村の裏山に遺体を平土葬にして安置した。平土葬というのは、土まんじゅうをつくらずに墓をまわりの地面と同じ高さにする埋葬法である。

    ところが日本の軍警はその墓まで掘り起こし、故人の首をはねて通化市街にさらした。

    梁司令の遺族もひどい迫害をうけた。彼らは日満軍警の迫害にたえかねて姓を金と変え、鉄道から400余キロも離れた桓仁県の深い山里に身をひそめて暮らした。

    わたしは解放後、南満州へ人をやって梁司令の遺族を祖国へ連れもどした。そのとき帰ってきたのは司令の夫人(尹再順)と息子と娘、婿であった。

    「その間、司令に先立たれ、日本軍警に追われながらずいぶん苦労なさったことでしょう」

    わたしがこういうと、尹再順女史は涙を流し肩をふるわせた。

    「将軍! 将軍にお会いできて、積もり積もった悲しみがいっぺんに消えるようです。隠れて歩くのがどうして苦労といえましょうか。将軍が日帝を追い出すためになさった苦労は、ほんとうにたいへんだったでしょう」

    「戦いに追われて、一度も消息をお伝えできずに申しわけありません」

    「将軍! わたしたちのほうこそ申しわけありません。わたしたちはあの山奥でも、将軍の消息をちゃんと聞いておりました。わたしは将軍の消息を聞くたびに、将軍に従わず、異国で恨みをのんで死んだ夫がうらめしくてなりませんでした」

    「でも、梁司令は最後まで全力をつくして、りっぱに戦ったではありませんか」

    その後、わたしは梁司令の息子梁義俊を万景台革命学院で勉強させるようはからった。

    四月の南北連席会議(一九四八年)のとき学院を参観した金九先生が、そこで梁司令の息子に会ってたいそう驚いた。

    「わたしは、北朝鮮当局がパルチザン闘士の子女を養育するこの学院で、独立軍司令の子弟まで勉強させているとは想像だにできませんでした」

    「この学院にはパルチザンの子女だけでなく、国内で労組や農組の活動をして犠牲になった愛国者の子女も勉強しています。国のためにたたかって犠牲になった愛国者であれば、それがどんな系列の人であっても、われわれは差別しません」

    わたしがこういうと、金九は感激して、「この学院は民族団結の象徴です」というのだった。

    学院を卒業して空軍部隊の政治幹部になった梁義俊は、朝鮮戦争後、飛行機事故で死亡した。わたしはそのことを聞いて落胆した。梁司令の血統が絶えたと思ったからである。

    幸いなことに梁義俊には息子が一人いた。名前を梁哲秀といった。ところが、哲秀は小児麻痺のたたりで不自由な体になってしまった。

    わが党は彼を人民学校、高等中学校、そして大学にまで通わせて、十四年間、健康な子と同じ教育課程を修めるようにはからった。彼が金日成総合大学に通った四年間、学友たちは一日として欠かさず、十七階の教室まで彼を車椅子に乗せて一緒に通学した。愛国烈士にたいする彼ら二世、三世の尊敬心は、身体障害の遺児にたいするそのようなあたたかい愛情によっても表現されている。いま、梁哲秀は共和国のりっぱな作家として、ベッドの上で文学作品の創作に励んでいる。

    梁哲秀は二男一女の父親である。血筋からすると、その子らは梁世鳳の曽孫である。中秋節にはその子らも両親にともなわれて、愛国烈士陵の曽祖父の墓参りをしている。彼らはまだ、曽祖父の生涯につきまとった苦悩と不幸がどんなものであったかを知らない。

    その無邪気な子らの肩には、反共か連共かといった重い荷を二度と背負わせたくないものである。

    

    

    

    

      5 団結の理念のもとに

    

    

    部隊は柳河に向けて急行軍をつづけた。柳河は興京、通化、樺甸、磐石とならんで、南満州一帯における朝鮮独立運動の重要な策源地の一つとして広く知られていた。その地方には、旧世代の独立運動家だけでなく、共産主義を志向する新しい世代の闘士も多かった。わが国の独立運動史に最初の武官学校として紹介された新興講習所も、南満州柳河県哈泥河に設立された。

    われわれが柳河を行軍コースの一つに定めたのは、その一帯で反日人民遊撃隊の大衆的基盤を拡大する政治工作を本格的にくりひろげるためだった。われわれは柳河だけでなく、三源浦、孤山子、海竜、濛江など安図への帰途にある各地方で大衆を革命化し、遊撃隊の隊伍を拡大する活動を積極的にくりひろげることにした。南満州遠征の戦略的目標の一つもそこにあった。

    遠征部隊はまず、三源浦、孤山子、柳河、海竜などにとどまって革命組織の指導にあたった。

    九・一八事変後、この一帯の革命組織は敵の白色テロによってはなはだしく破壊されていた。新しい世代の共産主義者が何年ものあいだ、血と汗の結晶としてつくりあげた組織の大半が破壊ないし解体され、なかには全員が検挙または殺害されて再建不能なところもあった。

    九・一八事変の最大の被害地は海竜地方だった。海竜には日本領事館があったため、敵の触手が他の地方よりも深くのびていた。組織とのつながりを回復しようと苦慮している人たちは、どの地方でも見られた。

    わたしは、われわれが立ち寄ったすべての土地で、最初の党組織を母体にしてつくられた基礎党組織のメンバーや、共青、反帝青年同盟の中核分子、農民同盟、反日婦女会、少年探検隊の責任者たちと会って、それぞれの組織の活動状況を聞き、当面の革命任務と闘争課題を討議した。その過程でこの地方の革命組織員の動向や思考方式に、見逃すことのできない問題点がいくつかあることを知った。

    第一の問題点は、九・一八事変以来、急速に広がっている敗北主義的傾向であった。

    そうした傾向はなによりも、日本が満州を占領したのだから万事休すだといった考え方にあらわれていた。日本は世界で最大の領土を持つロシアを破り、清国を撃破した、いまは満州についで中国本土を虎視たんたんと狙っている、アメリカやイギリスの軍隊がどれほど強いかは知らないが、おそらく日本軍にはかなわないであろう、まかりまちがえば日本は世界を征服するかも知れない、そんな状況のもとで朝鮮の独立を待ち望んだところで、それは漠然としたものではないか、という人も少なくなかった。日清、日露の戦いを通して生じた日本軍にたいする幻想は、当時ますます強く人びとのあいだに広まっていたのである。

    朝鮮民族自身の力で日帝を破るのは机上の空論にすぎない、と考える人もいた。こうした見解がこうじれば、勝ち目のない革命活動をなんのためにするのか、という敗北主義に陥るおそれがあった。

    敗北主義を克服せずには、人民を結集し、広範な愛国勢力を革命闘争へ立ち上がらせることはできない。

    われわれは政治・実務水準の高い隊員や指揮官を選んで、九・一八事変と朝鮮革命の見通し、というテーマをもって大衆のなかに入り、講演や談話を進める措置を講じた。

    大衆がもっとも知りたがったのは抗日武装闘争についての話であった。彼らは抗日遊撃隊の規模や戦略戦術上の原則にとくに大きな好奇心をいだいていた。わたしは劉家粉房人民の前でした演説をここでもく

    りかえし、拍手喝采をもって迎えられた。

    われわれの講演や談話のうち、もっとも人気を呼んだのは、安図――撫松県境戦闘談であった。広大な満州大陸を一挙に占領し、満州国をでっちあげた日本軍の戦績にくらべて、1個中隊の小敵を撃滅した戦果は確かに微々たるものだといえよう。しかし、人びとはその戦闘談になによりも大きな興味をいだいた。日本が満州の支配者として君臨しているとき、第一歩を踏み出したばかりの反日人民遊撃隊が白昼、道路上の戦いで日本軍1個中隊を全滅させたということが、彼らを驚嘆させたのである。

    人びとは戦闘のくわしい模様、ひいては、わが方の突撃に追いまくられ、ほうほうの体で退却した敵兵の具体的な動きまで知りたがり、それを確かめようと矢つぎばやに質問を浴びせるのだった。われわれは同じ場所で、戦闘のくわしい模様を二度、三度とくりかえして話さなければならなかった。

    わたしは安図――撫松県境戦闘の反響を総合した結果、朝鮮民族自身の力で国の独立が果たせるという信念を大衆にいだかせるには、言葉よりも具体的な行動が必要であり、実戦によって遊撃隊の威力を示すことが大切であると、いま一度確信した。

    大衆の動向に見られるいま一つの問題点は、反日人民遊撃隊の創建を背景に、少なからぬ青年が武装闘争を絶対視し、地下革命活動を過小評価する傾向だった。彼らは、敵が戦車や大砲、飛行機をもってしゃにむにわれわれを踏みにじっているときに、日がな一日、会議をしたり、議論をしたり、ビラをまいたりしたところでなにになるのか、銃を取って立ち上がり、日本軍を一人でも多く撃ち倒してこそ成果があがる、地下活動などしたところでらちがあかない、といったふうに考え、組織生活をおろそかにしていた。

    彼らは、武装闘争も組織生活のなかで鍛えられた中核によって進められ、組織という巨大な貯水池がなくては武装隊伍の組織が不可能であり、ましてその隊列の拡大も考えられないということを理解していなかった。これも九・一八事変による左翼小児病的後遺症といえた。

    抗日遊撃隊の貯水池が組織であり、組織を離れた革命闘争は論ずることも成立させることもできない、組織が活動を停止すれば革命という巨大な有機体はその生を終えるほかにない、ということを大衆に認識させるのはそれほどむずかしいことではなかった。われわれは、朝鮮共産主義者が満州各地で反日人民遊撃隊を組織し、武力による抗戦を開始することができたのは、もっぱら革命大衆が組織活動をりっぱにおこなってきたためであることを、わかりやすく説明した。

    南満州地方人民の動向に見られるいま一つの問題点は、国民府のテロにテロでこたえようとする傾向であった。当時、国民府の反動層は南満州地方で、共産主義者と方向転換を試みる革新派民族主義者にたいするテロを強化していた。

    柳河地方の共青員と反帝青年同盟員は、テロに血道を上げる国民府右派とは決死の対決をすべきだ、と主張した。国民府のテロにテロでこたえるのは有害であるという、われわれの論拠を彼らは容易に納得しようとしなかった。テロを力で制圧せず受け身になっていては、テロを助長するばかりだというのである。

    わたしは、テロにはテロでこたえるのがなぜ正しくないか、それが革命にいかに大きな損失をもたらす軽挙妄動であるか、ということを長時間説明しなければならなかった。

    国民府が愛国者を殺害するのはもちろん絶対に許せない重大な罪悪であり、すぐれた愛国者が同族の手にかかって倒れるのは、どこにも訴えようのないわれわれ全体の悲劇である。国民府はその罪業によって後代にいたるまで朝鮮民族から憎悪されるであろう。国民府を殺人者集団と決めつけ、報復を誓った君たちの気持はもちろん理解できる。だが、われわれは報復の刃を研ぐ前に、このような不祥事がどうして発生したのかを深く考えてみる必要がある。国民府が民族主義右派の巣窟になりさがったからといって、そこにいる人たちすべてが悪党だと考えてはならない。問題は、日帝が国民府の反動化を企んで手先を潜入させ、不断に瓦解工作を進めていることにある。彼らは国民府内新興勢力の革新派に目を向け、内部を分裂させ対立させようと巧妙に立ちまわっている。われわれがテロによって国民府を打倒すれば、喜ぶのは日帝であり、漁夫の利をしめるのも日帝である。だからわれわれは、反動化した国民府上層部を孤立させるとともに、内部にひそんでいる日帝の手先を摘発し、陰謀を暴露しなければならない。民族再生の裏付けが団結にあることを、われわれは忘れないようにしよう。

    わたしがこのような趣旨で話をすると、青年たちはよくわかったとうなずいた。

    わたしはこうした偏向をただすとともに、破壊された革命組織を至急に立て直し、そのまわりにより多くの大衆を結集すること、中核を育てて武装隊伍に送ること、実地のたたかいを通して点検された労働者、農民出身の青年共産主義者をもって党組織を拡大すること、中国人反日部隊との活動を強化することなどの課題を南満州の同志たちに与えた。

    われわれが三源浦、孤山子、柳河、海竜一帯にとどまっているとき、多くの青年が志願して遊撃隊に入隊した。これはわれわれが南満州地方でおこなった積極的な政治活動の総括といえた。

    柳河地方の革命運動を高揚させるうえでの障害を取り除くためには、崔昌傑などこの一帯に派遣されて活動している最初の党組織のメンバーと共青の中核の役割を高めなければならなかった。われわれが一年前に連係が途切れた崔昌傑の行方を知るために、八方手をつくしたのもそのためである。彼に会えば、日帝の満州占領につづいて武装闘争が開始された新しい状況に即応して、南満州地方で革命を発展させる問題を立ち入って討議し、具体的な活動方向を示すつもりであった。崔昌傑は南満州地方におけるわれわれの代表といえた。

    柳河は「トゥ・ドゥ」の決定に従って彼が活動した区域であり、彼とはいろいろな意味で関係の深い土地だった。彼は独立軍の生活をここではじめ、またここで梁世鳳の推薦をうけて華成義塾に入学している。

    華成義塾の廃校後、出身中隊に帰って独立軍の参事になった彼は、柳河地方を中心に南満州の広い地域で「トゥ・ドゥ」の活動範囲を広げるために全力を傾けた。彼は柳河で活動していたとき、金川県城の日本領事館分館を襲撃する戦闘にも参加した。

    柳河や興京など南満州一帯で「トゥ・ドゥ」の組織が急速に拡大したのは、金赫、車光秀の積極的な努力とならんで、この地区の主人公といえる崔昌傑のめざましい努力と洗練された活動能力に起因している。彼は新思潮をタブーとする独立軍のなかで生活しながらも、自分が共産主義者であることを隠さず、進歩的な独立軍隊員のあいだで意識化活動を積極的にくりひろげ、多くの隊員を共産主義の支持者に変えた。崔昌傑が対人活動をどれほど大胆におこなったかは、彼が部隊の駐屯地域から4キロも離れた土地へ出むいて何か月ものあいだ政治工作をしたときも、直属上官が目をつぶつて上部に報告しなかったことを見てもわかるであろう。

    柳河は分派分子と反共謀略にたけた民族主義保守派の影響が強いところであった。M・L派は磐石県で住民会という団体をつくって南満州の民族主義団体と対決し、革新派と保守派の対立で分裂寸前にあった独立軍内で社会主義を志向する左派の一部は、火曜派、ソウル・上海派と手を握って民族単一戦線の組織をおし進めていた。

    玄黙観、高而虚など保守派は、共産主義思潮に同調する人たちに大々的な反動攻勢を加えた。

    こうした複雑な状況のもとで崔昌傑は柳河地区に反帝青年同盟を組織し、その隊列を急速に拡大していった。

    分派分子は、中国における朝鮮青年の唯一の組織は駐中青総であるといって、柳河反帝青年同盟にいいがかりをつけた。M・L系の分派分子は柳河反帝青年同盟を内部から切り崩すために異分子を送りこんだ。彼らはさらに磐石地方の青年数十人を大泥溝に集めて棍棒団というテロ団をつくり、三源浦で独立軍が反乱を企てているという偽りの情報を警察に提供して、彼らとともに反帝青年同盟の幹部に暴行を加えた。

    そのとき、崔昌傑は彼らの醜行を阻止し、同盟の幹部を暴行から救った。

    崔昌傑は、分派分子の挑発に軍事的手段で報復するようなことはしなかった、彼は元来、対人活動や仕事の処理で太っ腹なところがあった。のちに、倫でわたしに会ったとき、彼は分派分子の棍棒に打たれて傷つき血を流している反帝青年同盟員を見ながらも、銃を発射せず理性的に行動したのは、われながら驚くべきことだったと語った。

    われわれが柳河へ向かうとき、誰よりも喜んだのは車光秀だった。彼は崔昌傑との対面を描き見ながら、子どものように興奮していた。崔昌傑と同様、車光秀も柳河とは深い関係があった。崔昌傑が梁世鳳の下でコルトを下げて活動していたとき、車光秀は教壇に立って子どもたちを教えていた。そのとき二人は意気投合して同志になった。

    「この崔昌傑は目の高い男だが、車光秀には一目でほれこんでしまった。見かけはひょうきん者だが、じつは大した傑物だ。彼の頭のなかにはカール・マルクスが十人はあぐらをかいているよ」

    いつだったか、崔昌傑は車光秀との出会いを回想して、こんな冗談をいった。

    「崔昌傑が若い娘だったら、あのひょうきん者を真っ先にお婿さんにするんだがな。ところが、吉林のお嬢さんたちの目ときたら、どれも節穴らしいよ」

    車光秀はそれを聞きながら、にやにや笑っていた。

    吉林時代の車光秀は未婚だった。それで崔昌傑は、いつも車光秀の仲人には自分がなるといい、ひょうきん者が馬に乗って花嫁御寮を迎えに行くときは、馬の口取りをしてやる、とおどけては人を笑わせたものである。

    二人は顔を合わせさえすれば、おまえは弟分だから兄貴のおれを敬え、などと負けず劣らず冗談口をたたいたものだが、彼らの友情は誰もがうらやみ、ねたましく思うほど厚いものだった。

    彼らの友情は、柳河、興京、鉄嶺一帯を中心にして共青と反帝青年同盟の隊列を拡大していた日びに、いっそう深まったといえる。崔昌傑は車光秀と力を合わせて朝鮮共産主義青年同盟孤山子支部を結成し、また、旺清門を中心に興京県、柳河県、磐石県など南満州の各県で社会科学研究会という名の啓蒙団体もつくった。

    社会科学研究会は、マルクス・レーニン主義と朝鮮革命の指導理論を研究し普及することを使命としていた。その運営方法は今日の大学通信講座と似ている。年に十五日ほど農閑期に青年たちを呼び集めて講義をし、ほかにも数か月に一度、出張講義をした。さらに学習用テキストなども送って、会員の啓蒙に努めた。

    社会科学研究会のメンバーは参考書を利用して講義の内容を自習し、週に一回ほど集まって討論会を開き、むずかしい問題は書面による質疑応答によって知識を深めていた。

    南満青総大会が招集された年の秋、柳河で社会科学研究会の活動にかんする車光秀の説明を聞いたわたしは、そのユニークな運営方法に感心し、研究会を指導する三人の戦友(崔昌傑、車光秀、金赫)をスケールの大きい創造性に富んだ人たちだと評価した。彼らが実地の活動を通してつくりだしたその運営方法は、困難な地下闘争のなかでも頭を働かせるならば青年たちを時代の先覚者、歴史の開拓者にりっぱに育てあげることが可能であることを示した。

    崔昌傑との間もない再会を描き見ながら、隊伍を率いて三源浦方面に向かうわたしの胸も、車光秀に劣らず高鳴っていた。

    卡倫で最初の党組織を結成し、彼と別れてから満二年近くたっていた。その間、崔昌傑は柳河、興京、海竜、清原、磐石など南満州の広大な地域で党組織をつくり、各種大衆団体を拡大し、また朝鮮革命軍の一隊を指揮して常備の革命武力建設に必要な人的・物的準備に東奔西走した。一九三一年の春には、朝鮮革命軍吉江指揮部を東方革命軍と改称して、その指揮官になった。わたしにそのことを知らせてくれた崔昌傑の連絡員は、彼が国民府反動派との軋轢のために苦労しているといった。

    柳河との連絡が途切れたのは、そのあとのことである。わたしは不安でならなかった。それは彼が身の危険をかえりみず、どこへでも飛びこむ生得の冒険家であり、楽天家であるというだけの理由からではない。彼は、テロリズムを万能の手段と考えはじめた国民府のなかで、反動派の注視をうけながら活動している共産主義者である。国民府の目から見れば、彼は要注意人物だった。

    旺清門事件があった年の暮れに、国民府の反動派は崔昌傑や崔得亨など六人の青年共産主義者を逮捕して大牛溝で処刑しようとした。それは歴史に柳河事件として記録されている。

    新しい思想を志向する国民府内の革新勢力は、この事件を契機に反動派にたいする非難の声を高めた。被害者の崔昌傑は、ファッシヨ化した国民府上層部に報復を加えるといって歯ぎしりしていた。

    わたしはそのことを聞いて、柳河へ朴根源を送り、つぎのような内容の手紙を彼に届けさせた。

    「国民府との衝突はいかなる場合にも百害あって一利なしだ。反日を志向する同族間の流血はありえないことだし、あってはならない。旺清門で六人の同志を失う痛恨事にも、涙をのんでたえしのんだわれわれではないか。何事にも慎重を期し、軽挙妄動をつつしめ」

    柳河事件後、国民府は一九三〇年八月の朝鮮革命党執行委員会と代表者会議を契機に、二つの陣営に分裂した。玄黙観、梁世鳳、高而虚、金文挙、梁河山などは既存方針の固守をかたくなに主張し、それを通そうとしたが、高遠岩、金錫夏、李辰卓、李雄、玄河竹、李寛麟など少壮派は、朝鮮革命党を人民の意思に反するファッショ的政党と決めつけ、党を解体して無産者を代表する階級革命の前衛につくり変えるとともに、在満州朝鮮農民を階級的に指導すべきである、と方向転換をめざした革新的な主張をした。

    このような理念上の対立から、両派は互いに相手を葬り去ろうとして流血のたたかいをくりひろげた。

    国民府派は奉天省政府の了解のもとに中国の官憲や軍警まで買収して、反国民府派を粛清するテロリズムに走り、李辰卓など五人の反国民府派を暗殺した。反国民府派はそれにたいする報復として、国民府本部を襲い、第四中隊長金文挙を射殺した。その後、反国民府派は脱退声明を発表して、国民府の打倒をめざす反国民府委員会を結成した。

    わたしが崔昌傑の身辺を気づかったのは、そのような政治的背景のためである。三源浦の前方二、三キロのところで、わたしは行軍隊伍に早足の号令をかけた。崔昌傑にいっときも早く会いたいと気がせいて、行軍速度を速めさせたのである。

    ところが、三源浦に到着したわれわれは崔昌傑の消息を聞いて呆然となった。当地の組織員から、彼が殺害されたという悲報を聞かされたのである。崔昌傑は孤山子共青支部の活動を指導中、国民府右派にとらえられて行方がわからなくなったという。反日人民遊撃隊の到着を知って、われわれを訪ねてきた三源浦共青支部の朴という青年も同じような話をした。彼は、国民府のテロリストが崔昌傑を金川県姜家店におびきだして殺害し、共産党のスパイだから処刑したといいふらしたというのである。崔昌傑が海竜――清原間で活動中に殺害されたという青年もいた。

    いずれにせよ、崔昌傑がもはやこの世の人でないのは間違いないようであった。わたしはあまりのことに口が利けず、涙も出なかった。

    あの熱気にたぎり、情に厚かった「トゥ・ドゥ」の健児が、なぜそんなにあえなくわれわれのもとを去ってしまったのだろうか! それは安図――撫松県境の名も知れない山上でわれわれの胸を引き裂いた悲しみについで、またしてもわれわれを襲った大きな悲しみであった。

    歴史の舞台に軍服姿のりりしい反日人民遊撃隊が登場して武装闘争を開始し、その銃声が新時代の序曲として満州の広漠たる大陸にこだましたあの激動の日びに、崔昌傑のような忠実な戦友を失ったことは、朝鮮革命にとって痛恨にたえないことであった。

    わたしのかたわらに座っていた車光秀も、炎熱にしおれた草原を涙で濡らした。

    わたしは崔昌傑の遺族に会ってみようと思い、部隊を率いて孤山子へ向かった。崔昌傑の妻はまだよちよち歩きもできない男の子と義弟と一緒にわれわれを迎えた。彼女はじつに健気な女性だった。彼女はわれわれの前で涙を見せなかった。むしろ、われわれに、夫は銃を取って日本軍と戦うことを願っていたのだから、夫に代わって自分を遊撃隊に受け入れてほしいというのだった。われわれは予定を変え、遺族につきそってその夜をすごした。

    翌朝、部隊が孤山子村を発つとき、崔昌傑の未亡人は遠くまでわれわれを見送ってくれた。

    わたしはなんといって夫人を慰めてよいかわからず、幼児を抱き取って、ほおをなでた。乳歯が二本しか出ていないその子は、父親に生き写しだった。幼児はわたしの顔にさわって「パパ」「パパ」といった。それを見て母親がはじめて涙を流した。わたしも瞼が熱くなり、幼児にほおずりしながら孤山子村の方を黙然と見やった。

    「奥さん! この子をりっぱに育てて、お父さんのあとをつがせましょう!」

    わたしは胸がつまって、あとの言葉がつづかなかった。

    部隊が孤山子から二キロほど離れたところへ来たとき、われわれの沈みきった様子を見て、金日竜が崔昌傑を追慕して弔銃を撃とうといいだした。そうでもしたら、いくらか心が晴れるのではないかと思ったらしい。さすがに苦労人の金日竜だけあって考え深かった。

    「うわさだけでは彼の死を信じたくない。遺体も見ずに、どうして弔銃を撃てるというのか」

    濛江をへて両江口に到着したわれわれは、そこで驚くべき情報を入手した。撫松地方にひそんでいる20人ほどの独立軍が、七、八十人からなる中国人武装部隊とぐるになってわれわれを襲い、武装を解除しようとしているというのである。首謀者は国民府傘下の独立軍だという。彼らは濛江から両江口方面に移動する反日人民遊撃隊の行軍コースを内偵し、中国人反日部隊に、われわれが共産軍主力部隊であると知らせた。独立軍は中国人反日部隊とともに、反日人民遊撃隊が通過する予定の村へ入り、われわれを待ち構えていた。

    われわれに情報を提供したのは両江口の共青員たちであった。当地にはわたしと旧知の組織メンバーや青年が多かった。彼らは、われわれが両江口に到着するとただちにそのことを知らせてくれたのである。

    遊撃隊員たちが、崔昌傑の弔い合戦をして国民府のテロリストどもを掃討しようと憤激したのは、このときだった。柳河の青年たちが、国民府のテロリストに鉄槌を加えて、南満青総大会のさい槐帽山の谷間で殺害された六人の烈士と崔昌傑の仇を討とうと叫んだとき、わたしと一緒に彼らをなだめた隊員たちまでが指揮部にやってきて、われわれの自制心にも限度がある、見せしめに一戦交えて、彼らの根性をたたきなおしてやろうといいだした。しかし、根性をたたきなおすといっても、それは口でいうほどやさしいことではない。第一、数のうえからしても相手はわれわれより優勢だった。

    もっとも、そんな比較は大きな問題でなかった。なによりも困るのは相手が敵らぬ敵だということである。抗日救国という共同の目的をもって戦う武装部隊同士が撃ち合いをするのは一九三〇年代初の混沌とした時局のみが描きうる一つの戯画にすぎなかった。反日人民遊撃隊と独立軍が血を血で洗うというのも笑止なことであるが、中国の反日部隊と独立軍が手を握って反日人民遊撃隊を攻撃するというのも奇怪なことだった。

    戦えばもちろん勝敗は決まるであろう。しかし、そのような戦いは勝者も敗者もともに道徳的な糾弾をまぬがれないのだ。勝者に与えられる月桂冠もありえないし、敗者の犠牲に同情する涙もまたありえないのである。

    それに、中国人武装部隊に軽率に手出しをすれば、われわれの活動には収拾しがたい困難が生じるに違いない。せっかく成立した救国軍との共同戦線は崩壊し、われわれはまた他家の裏部屋で武器の手入れをしながら、むなしい日びを送った初期の状態に逆戻りすることになる。独立軍部隊を討つのもそれに劣らぬ災いを生むであろう。共産軍部隊が独立軍部隊を討ったと知れば、人民はわれわれに背を向けるだろうし、反共分子はほくそえんで共産主義者を中傷するはずである。

    それはわれわれの望むところではなかった。反日人民遊撃隊と独立軍が武力衝突をして血を流すなど思いもよらないことだった。 ところが、独立軍は松花江の対岸でてぐすねを引いて待ち構えているのだ。

    一九三二年の夏といえば、真っ先に思い浮かぶのがそのことである。あのとき、わたしは夜も眠れず、この難題を民族団結の経綸と抗日救国の大義にふさわしく処理する方途を見いだすために腐心した。そのために寿命が十年は縮まったような思いがしたものである。

    共通の敵日本軍には立ち向かおうとせず、同族のわれわれには禽獣も顔をそむける悪業をあえてする国民府軍隊の行動には、わたしもこみあげる怒りと嫌悪感をおさえることができなかった。指揮官たちと協議すると、彼らも怒りがおさまらず、国民府ファシストに鉄槌を下すべきだと異口同音に主張した。

    「二度とわれわれに手出しができないよう、根性をたたきなおしてやろう。彼らがあの世へ行っても、二度と同族の血で手を汚すようなことがないように思い知らせてやろう」

    車光秀は目をぎらつかせ、国民府の手にかかった同志たちの恨みを晴らすときがきたと叫んだ。

    そうしてみると、当時、われわれを取り巻いていた武装部隊はどれもみな敵といえた。独立軍も敵であり、救国軍も馬賊も紅槍会も大刀会もみな敵だった。反日人民遊撃隊がそのような窮地に陥ったのは、われわれが救国軍の別働隊であることを保証する劉本草のような証人がいなかったからである。われわれは劉本草を通じて部隊の公然化には成功したものの、劉本草のような有力な保証人がそばにいなかったため、たえず四方八方から攻撃をうける危険にさらされたのである。

    われわれが通化への遠征中、于司令部隊は安図から撤収して王徳林部隊とともに寧安一帯の奥地に退却し、安図は空白地帯として残されていた。自衛軍はほとんど戦うことなく、ぞくぞく日本軍に投降していた。当時、自衛軍の一部は早くも反満抗日の旗を下ろし、日本軍顧問の指揮棒に操られる反動軍隊に転落していた。中国人反日部隊が共産軍の主力軍と目されたわが部隊をあえて掃滅しようと企てたのは、彼らが日本軍の指揮をうける反動軍隊になりさがっていたからである。

    国民府の反共宣伝に乗って正否の見きわめができなくなった独立軍の残党は、われわれの本態も知らずに、反動化した反日部隊と組んでわれわれに挑もうとしているのであった。この問題をめぐって、わたしは思索を重ねた。相手がいくら土匪化し右傾化した軍事集団だとしても、同じ血筋を引いた民族であり、また救国闘争に身を投じていた人たちなので、われわれとしては武力によって報復したり制裁を加えたりすることはできなかった。なんとかして彼らを政治的方法で説得しなければならなかった。われわれはそれくらい反日統一戦線を絶対視していた。

    こうして、朴勲を責任者とする幾人かの同志が独立軍の駐屯している二道白河へ向かった。

    「朴勲君、きょうは銃ではなくて君の口が武器だ。銃は一発も撃たずに口で独立軍を説き伏せなくてはならない。君は弁が立つし、印象も好感がもてるから、十分彼らを感化して交戦を防止できるはずだ。いかなる場合も武力行使は絶対禁物であることを胆に銘じたまえ。われわれがここで一発でも銃声をあげるなら、民族主義者との統一戦線はご破算になる。どうだ、君の性分に合わない任務だが、なんとかうまくやれるだろうか?」

    わたしの言葉に、彼は笑いながら頭をかいた。

    「むずかしい任務だが、なんとかやってみよう」

    わたしは朴勲を送り出してからも、松花江のほとりを長いこと行ったり来たりした。今夜だけはどうか銃声が上がらないようにと願いつづけた。彼がはたして独立軍を説得しうるだろうかという憂慮もあった、

    もちろん、彼は有能なアジテーターであり手腕家であった。だが、いったん怒りにかられるとなにをやるかわからないそのはげしい性格を知っていたので、気が気でなかった。

    わたしが朴勲のそのような弱点を知りながら、あえて独立軍の陣営へ送りこんだのは、わが部隊に彼にまさる人物がいなかったからである。

    そのころ、この分野で朴勲に比肩できる人物といえば車光秀しかいなかった。状況からすれば当然、彼に一役買ってもらわなければならなかった。しかし、車光秀は崔昌傑の犠牲の報に接し、あまりにも大きな衝撃をうけて自失の体にあった。

    (朴勲、どうか成功してくれ!)

    わたしは心のなかでしきりにこうくりかえしながら、二道白河の方から目をそらすことができなかった。

    幸いなことに、わたしが心配していた不祥事は起こらなかった。

    独立軍は愛国勢力の団結を切々と訴える朴勲たちの説得に感化された。彼らは、上層部のやり方に不満をいだきながらも行動に移せなかった自分たちの優柔不断な態度を率直に認め、武器を差し出し、われわれの反日人民遊撃隊の隊伍でともに戦うことを願い出た。

    独立軍の上層部はわれわれとの統合を快く思っていなかったが、下層の兵士は対決ではなく、合作してともに戦わなくてはならないことを肌で感じ、喜んでわれわれと手を握ったのである。

    これは独立軍との統合の第一歩であった。

    こうして、われわれはいま一つの難関を無事に切り抜けたのである。梁世鳳との交渉決裂に崔昌傑の犠牲という衝撃的な事件が重なって、国民府への怨恨と憎悪に駆られていたとき、われわれが民族大団結の経綸のため、20代の青年たちにとっては並々ならぬ度量と忍耐力を発揮できたのは、まったく幸いなことであった。万が一あのとき、われわれが復讐心に駆られて理性を失い、国民府を打倒するなり、独立軍隊員と武装対決をしていたならば、今日のように晴ればれしい気持で若い世代の顔を眺めることはできなかったであろう。また三百人を越える梁司令の部下が厳冬のさなかに、合作の旗をかかげて朝鮮人民革命軍のもとに馳せさんずる歴史的な出来事もありえなかったに違いない。

    この世に、愛国愛族の心ほど偉大かつ清純で神聖な感情はない。

    民族団結の精神は愛国愛族の感情のうちでも、その精髄をなす最高の精神だといえよう。朝鮮の共産主義者は、民族の解放をめざして出立してから今日にいたるまで、いつどこにあっても民族団結の理念を一貫して貴び、そのための努力を惜しんでいないのである。

    

    

    

      6 救国軍とともに

    

    

    わたしは柳河にとどまっているあいだ、李紅光、李東光と連係をとるため、磐石地方へ連絡員を派遣した。われわれが南満州遠征を終えて帰路についたころ、彼らも遊撃活動に没頭していた。九・一八事変後、保民会などの親日団体の手先とたたかうために組織された武装赤衛隊(打狗隊ともいった)は、一九三二年九月に磐石労農義勇軍に再編された。この義勇軍は奪糧闘争と走狗粛清、武器奪取、反日蜂起など各種形態の大衆闘争を通じて鍛えられ点検された朝鮮青年で構成されていた。李紅光と李東光は一九三二年の夏から、抗日遊撃区の創設に取り組んでいた。

    彼らは走狗粛清の闘争できわだった手腕を発揮し、多くのエピソードを残した。

    わたしが彼らと会おうとしたのは、南満州地方の主人である彼らをたんに表敬訪問するためではなかった。重要な目的は意思の疎通をはかることにあった。なによりもまず、わたしは彼らと闘争経験を交流したかったのである。

    つぎにわたしが関心をもったのは、朝鮮革命の前途にたいする彼らの見解と立場であった。わたしは朝鮮共産主義者の当面の課題についての自分の見解と立場を表明し、それにたいする二人の意見を聞いてみたかった。

    もっとも重要なのは、満州各地で分散的に武装闘争を開始した朝鮮共産主義者の地域相互間の連係、隣接との歩調の合わせ方、活動における協調と協力、協同の実現方法といった実践的問題をもって彼らと意見を交換することであった。わたしは北満州の金策、崔庸健、李学万、李起東、許亨植ともそういう問題で意見を交わしてみたかった。南満州と北満州はわれわれの隣接であり一翼でもあった。隣接との協同をどう実現するかは、武装闘争全般の発展に大きな影響をおよぼす重要なポイントであり、テコでもあった。

    磐石へ送った連絡員は、われわれが海竜を出発して濛江に落ち着いたときになって部隊に帰り、李紅光と李東光が地方工作に出かけて会えなかったので、当地の地下組織にわたしの信書をあずけてきたと報告した。

    わたしは彼らと会うのを後まわしにし、濛江で本格的な軍事・政治活動を展開した。濛江でのわれわれの活動の基本的目的は、武器の獲得と隊伍の拡大であった。この目的を達成するためには、活発な政治活動とともに軍事外交活動が必要であった。

    濛江にはわれわれのこうした目的の達成に有利な点がいくつかあった。濛江の官吏のなかには、吉林毓文中学校時代の同窓生が少なくなかった。傾向からすれば左翼でも右翼でもなく、どんな政治運動にも参与せず、もっぱら鉢巻きをして勉学に励んだおとなしい人たちだったが、いまは彼らが濛江の実権を握っていた。彼らは中学卒業後、国民党県公署に勤務していたが、日本の満州侵略以後は自衛軍に入ってそれぞれ相当な地位についていた。

    濛江には通化地方に本部を置く唐聚伍自衛軍総司令部の代表も来ていた。同窓生を立ててその代表とうまく交渉すれば、武器が手に入る可能性もあった。こうした実態を把握したわたしは、濛江に腰を落ち着けて自衛軍にたいする工作を積極的に進めることにした。

    

    だが部隊の指揮官たちは、この工作にさほど乗り気でなかった。自衛軍との接触を冒険とみなす指揮官が大半だった。彼らは、同じ朝鮮人の梁世鳳とも意見が合わず談判が決裂したのに、自衛軍を工作して武器を手に入れるというのはとうてい不可能なことだ、まして自衛軍はいま崩壊状態にあり、ある部隊などは日本人指導官が乗りこんで共産主義者を掃討する謀議をこらしているというのに、そういう落とし穴に隊長が自らすすんで入っていこうとするのは賛成できない、というのである。

    わたしは、自衛軍の内部に日本人指導官がいるのはそれほど心配する必要がない、彼らに共産主義者を判別する触覚があるなら、われわれには彼らの目をあざむき、自衛軍の指揮部に乗りこんでその上層部を説得する胆力がある、自衛軍が崩壊状態にあるなら、それはむしろわれわれの工作目的が容易に達成できる有利な条件となる、彼らは日帝や土匪に銃を手渡したり投げ出すよりは、抗日を志すわれわれに譲り渡すほうがましだと考えるだろう、あれほど頑固な于司令とも意志が通じて合作に成功したのに、自衛軍だからといって説得できない理由はない、と説いた。

    すると指揮官たちは、隊長が于司令との談判に成功したのは千に一度の幸運にすぎない、もしあの部隊に劉本草先生がいなかったら談判は成功しなかっただろう、だから自衛軍部隊へ行く問題は熟考すべきだ、と強く反対した。

    わたしは彼らに、やってみようともせず、裏部屋でああだこうだと詮索するのは共産主義者らしくないやり方だ、遊撃隊の公然化をかちとるうえで劉本草先生に負うところが大きかったのは確かだが、その成功をたんなる偶然と見るのは非科学的だ、われわれが救国軍との関係改善のために主動的な努力を傾けなかったなら、劉本草先生もわれわれを援助できなかったはずだ、要は腹を決めて主動的に活動することだ、と説得に努めた。こうして、わたしは連絡兵を一人連れて自衛軍の指揮部を訪ねていった。

    自衛軍の兵舎には兵士が群がり、軍需物資を運ぶ牛馬が引きも切らず正門を出入りしていた。

    歩哨がわれわれを止め、山東地方のなまりで「誰か?」と誰何した。歩哨は、われわれの顔ではなく、自衛軍とは対照的な遊撃隊の服装と帽章の星をねめまわした。

    わたしは山東人の言葉つきを真似て中国語で答えた。

    「安図から来た救国軍の別働隊だ。わたしは別働隊の隊長金日成だ。君たちの司令に案内してくれ」

    「金日成? 金日成別働隊なら共産党じゃないか」

    あばた面のいま一人の歩哨がわたしの名をつぶやきながら、いぶかしげにわたしを見つめた。金日成部隊が共産党の部隊だということを小耳にはさんでいたらしかった。

    「われわれは于司令の別働隊だ。于司令も知らんのか?」

    わたしが威厳をつくろってこういうと、あばた面の歩哨が「ああ于司令か! 知ってる。于司令の部隊は南湖頭で日本軍の機関銃をろ獲した。于司令は偉い人だ」といって親指を突き出してみせた。

    結局、于司令の別働隊という肩書きが功を奏したわけである。中国人反日部隊にはこの肩書きがものをいった。そんなわけでわれわれは行軍のさいも、反日部隊との衝突を避けるため、いつも救国軍朝鮮人別働隊という看板をかかげていた。

    しばらくして、例の山東なまりの歩哨が兵営から恰幅のいい男を連れてきた。当時の救国軍はだいたい旧張学良軍時代の軍服を着ていた。ところが歩哨について正門にあらわれた将校は、奇妙なことに半袖のシャツに膝まで見える短い半ズボン姿で布靴をはいていた。髪も油をつけて、てかてかしていた。

    「やー、金成柱主任じゃないか!」

    それは「張のっぽ」というあだなで通っていた毓文中学校時代の同窓生だった。彼がわたしを主任と呼んだのは、わたしが毓文中学校時代に図書主任をしていたからである。彼は学生時代、いつも「金主任」「成柱主任」といってわたしに好意を示していた。

    われわれは手を取り合って、しばらく学生時代を懐かしんだ。彼と会うのは三年ぶりだった。わたしは出獄後、学友に別れのあいさつをするいとまもなく早々と吉林を去ったことを後悔していた。革命のために私的なことはいっさい犠牲にするという気持で駆けまわっていた時期なので、やむをえなかったともいえるが、恩師や学友にあいさつもせずに去ったという道義上の負い目が胸に重くのしかかって、ときどき自分を責めることがあった。

    彼に会ってみると、すでに水平線の彼方に消え去った毓文中学校時代の数々の思い出と、当時のロマンにみちた学生気分がよみがえってきた。わたしは軍靴の音がやかましい練兵場ではなく、ハシドイの香りがただよう毓文中学校の校庭に立っているような錯覚を覚えた。彼の手を取ってこのまま兵営の門を出れば北山や松花江の川辺にもすぐ行けそうな気がした。それは胸をじいんとさせる名状しがたいノスタルジアのようなものだった。

    彼は学生時代のように、無造作にわたしの腕を取って、大声で笑いながら自分の部屋へ案内した。

    「母校の卒業写真に、金主任の顔がないのはなんとも残念だよ」

    彼はわたしに椅子を勧めながらこういった。

    「卒業写真を撮るとき、みんなで金主任のうわさをしたものさ。金主任が学校を中途でやめなかったなら、首席で卒業して表彰されたはずだとね。革命というのが学業を断念させるほど成柱を誘惑したのかい?」

    わたしは笑って、冗談半分に彼の言葉を受け流した。

    「もちろんさ、君もそんな誘惑に負けて、こうしてモーゼルを腰に下げた自衛軍の将校になっているではないか」

    彼は目をしばたたかせながら、わたしの手の甲をとんとんと叩いた。

    「それもそうだな。九・一八前まではおれも世間知らずの俗物だった。ところが、日本が満州に攻めこんでくるのを見て、はじめて目をさましたというわけさ」

    「だからいったじゃないか。人間は政治の外では生きられないものだとね」

    「あのころは上の空で聞いていたわけだ。時局がなぜ、こうも急転しているのか見当がつかんよ。この満州はいま狂風が吹き荒れたあとのように殺伐としているからな」

    わたしは彼が時局を正しく判断していると思った。

    満州を舞台に渦巻く歴史の流れは、じつに人びとを驚愕させる変化にみちあふれていた。そうした変化は、人びとの運命にも酷薄な災いをもたらした。彼にしても数年前までは、北京大学に進学して歴史学を専攻しようと志していた。しかし日本軍が満州を占領するにおよんで、彼はその夢を捨て、奮然と自衛軍に入隊したのである。

    孤高の書斎人といわれ、杜甫の詩行にただよう牧歌的で平和な情緒をこまやかに解説してくれた劉本草先生が、救国軍の参謀長となって硝煙をくぐるだろうとは誰が想像したであろうか。

    「どうだ金主任、 九・一八のおかげで、おれも軍服をまとって豪傑男児になったのさ」

    彼はこういって、わびしそうに笑った。

    「軍服を着たのは君だけではない。おれも軍人になって濛江にまで流れてきたではないか。同窓生としてだけでなく、お互い軍人としてこのように向かい合って大勢を論じているのだから、これこそ奇縁というものじゃないか」

    彼は、それも日本人の「おかげ」だ、その「おかげ」で、みな少しは賢くなったようだといった。

    聞いてみると、濛江の自衛軍部隊には、ほかにも毓文中学校時代の同窓生が何人かいた。その晩、わたしは彼らと遅くまで語り合った。政治に背を向けて立身出世の夢を追っていた彼らが、首に青筋を立てて日本を糾弾し、蒋介石を中華民族最大の奇形児だと嘲笑するのを見て、わたしは満足感を覚えた。

    われわれは夜更けまで、反日人民遊撃隊と自衛軍との共同行動についても協議した。自衛軍の指導部にいる同窓生はみな、われわれの部隊との合作を歓迎した。

    こうして、わたしは難なく自衛軍部隊の内部に入りこみ、濛江駐屯自衛軍総司令部の代表とも会うことができた。

    ある日、わたしは張君の要請で自衛軍指揮官たちの前で演説をした。そこには総司令部の代表も姿を見せていた。

    わたしは「みなさん! われわれと手を取り合って進もう!」というアピールで演説をはじめた。

    「自衛軍と反日人民遊撃隊は共同行動をとるよう努力すべきだ。反日人民遊撃隊に共産軍というレッテルを貼って敵視するのは抗日を妨げ、日本を助ける行為である…

    反日人民遊撃隊と自衛軍は朝鮮人独立軍部隊を助け、連合戦線を結成しなければならない。朝中人民の離間をはかり、その葛藤を利用して両者をともに弱体化させる方法で支配しようとする日帝の狡猾きわまる策動に、警戒心を高めるべきである…

    自衛軍は大刀会、紅槍会などの民間武装力や土匪が、罪のない朝中人民を殺害したり、略奪しないよう説得し、彼らを反日闘争に積極的に引き入れるべきだ。大小の民間武装隊はすべて抗日救国勢力として団結すべきである…

    一部の反日部隊のなかには、日本軍の勢いに恐れをなして中国本土に逃避したり、投降したりする弊害が見られる。投降と中途半端なやり方は自滅の道であることを肝に銘じよう」

    そのときの演説内容を要約すれば、だいたい以上のようなものである。

    自衛軍の指揮官たちは、わたしの呼びかけに熱烈に呼応した。

    このような演説があってから、総司令部の代表はわれわれに数十挺の武器を譲ってくれた。

    われわれは、濛江で約二か月ほど、自衛軍の保護をうけながら大衆宣伝活動を進め、訓練をおこない、屈強な青年を選抜して隊伍を拡大した。安図を出発するときは四十人にすぎなかった隊員が、濛江に来てから一五〇人ほどに増えた。金成柱が大部隊を編制して進出しているといううわさが広がると、濛江とその周辺の青年はあいついで入隊を志願した。濛江で、われわれは権力を握ったかのように自由自在に活動した。

    安図へ連絡員を送って確かめてみると、東満州の状況もきわめて良好だった。連絡員が持ってきた金正竜の手紙を見て、われわれが安図に残してきた部隊の隊員もその間大幅に増え、汪清、延吉、琿春などでもそれぞれ100余人規模の遊撃隊が組織されたことを知った。

    わたしは、遊撃闘争が萌芽の段階から本格的段階へと移行しはじめた東満州の中心部(汪清)へ活動舞台を移し、そこで他県の部隊と共同で武装闘争をより大きなスケールで展開することにした。南満州遠征を通してわれわれが得た重要な教訓の一つは、遊撃隊の力が弱い現段階では一定の活動拠点をしめて戦う方が有利であり、効果的であるということであった。

    われわれは、濛江から撫松を経由せず、安図へ直行する行軍コースを選んだ。行軍中、部隊は匪賊や反日部隊の敗残兵とたびたび遭遇した。彼らはわれわれの新式銃に目をつけて腕ずくで奪おうとした。それでしばしば危険な目にあった。

    そんなとき、参議府系の一老人が、昔話に出てくる道士のように忽然とわれわれの前にあらわれ、山をぬって部隊を両江口まで無事に案内してくれた。そのときの山越えがわれわれを大いに鍛え、その後の長期にわたる遊撃闘争の準備作業ともなった。

    われわれが両江口を出発しようとしたとき、于司令麾下の1個連隊の主力が両江口に到着した。その連隊は孟連隊長部隊と呼ばれていた。孟連隊長の秘書を勤めていた陳翰章も部隊に従って両江口へやってきた。

    陳翰章は遠目にわたしを認めると、両腕を広げ歓声を上げながら走ってきた。

    「成柱、久しぶりだったな!」

    彼は数十年ぶりに会った人のように、わたしを抱擁して離そうとしなかった。

    安図で于司令との談判をして別れて以来、会う機会がなかった陳翰章であった。その間わずか三か月しかたっていなかったが、彼はその三か月を、三年か三十年に錯覚した人のように、懐かしげにわたしを見つめた。

    わたしもやはり、それが長い離別の果ての奇跡的な再会でもあるかのように、喜びをおさえることができなかった。人間の一生で三か月といえば一瞬にすぎないが、わたしにはその三か月のあいだにかなり長い人生が過ぎ去ったように思えた。

    生活の苦渋や人生経験が多いと歳月が長く感じられるというが、それもうなずけることだと思う。

    「われわれは君の部隊の行方がわからなくて、ずいぶん探したよ。南満州から帰ったとも聞いたが、なにしろ音沙汰なしだったからな。ところが、両江口で朝鮮共産軍が独立軍と統合をはじめたといううわさがわれわれの部隊まで伝わってきたんだ」

    陳翰章は孟連隊長にわたしを紹介してから、こんなことをいうのだった。

    「ありがとう、陳君。わたしも君に会いたかったんだ。ところで両江口へ来た目的はなんだ?」

    「来年の春までこの地方で活動せよという王徳林の命令があったんだ。どうだ、両江口でしぱらくわれわれと一緒に活動しないか?」

    そばで彼の話を聞いていた孟連隊長もそう勧めた。

    わたしは、孟連隊長部隊と一緒にいれば、やっと成立させた救国軍との共同戦線を強化できるだろうと考え、彼らの申し入れを喜んで承諾した。

    張学良の正規軍だった孟連隊は、それに造反して離脱した部隊なので、武器や装備も近代化されていた。火砲もあり機関銃もあった。何挺かの銃のほかには刀や槍などしかない他の救国軍にくらべて、この部隊の戦闘力ははるかにすぐれていた。反日人民遊撃隊が両江口にとどまっているあいだ、孟連隊はわれわれをよく護衛してくれた。

    当時、南満州地方の反日部隊はほとんどが日本軍の強力な攻勢にあって崩壊または投降し、彼らの指揮下に入っていた。救国軍のうち、それでも投降せずに残っている大きな勢力は王徳林部隊であった。しかし、その部隊ですら日本軍の砲火がおよばない満州東辺の東寧やソ連境内に退却していた。反日部隊があえなく崩壊していくのを見て、われわれの少なからぬ軍事・政治幹部が反日部隊に不信の目を向けていた。ある人は、中国人反日部隊の動揺と混乱は防げないから、彼らとの連合戦線は不要だと主張し、ある人は見込みのない反日部隊との連係を断って、反日人民遊撃隊は単独で戦うべきだと主張した。いずれも容認しがたい危険な考え方であった。

    反日連合戦線を放棄するのは、とりもなおさず数万に達する膨大な兵力を敵側に押しやることであり、反日部隊の各個撃破をねらう日本帝国主義者の戦術に巻きこまれることを意味した。

    反日部隊の動揺性と不徹底さは、彼らを指導する上層部の階級的制約性にも起因していたが、それは主として敵を恐れるところからくるものだった。反日部隊の動揺と壊滅を防ぐためには、彼らにたいする働きかけを積極化すると同時に、戦闘を通して彼らに勝利の信念を植えつける必要があった。

    このような現実的要請にもとづいて、われわれは陳翰章、李光、胡択民など救国軍内に派遺されている政治工作員と、東満州各県から来ている軍事・政治幹部の参加のもとに、反日兵士委員会を二回にわたって両江口で開き、反日部隊にたいする活動で提起される諸問題を討議した。

    会議ではまず、救国軍にたいする工作状況が報告されたあと、その過程で蓄積された活動経験が交換され、反日部隊の動向が分析、総括された。そして、大多数の反日部隊が抗戦を放棄して安全地帯へ撤収するか、敵に投降して反動軍隊に変質している状況のもとで、なんの抵抗もうけずに占領地帯を拡大している日本軍に打撃を与え、愛国的軍民の士気を高めるため、われわれの部隊と呉義成部隊、孟連隊が連合して敦化県城と額穆県城の襲撃戦を展開することを決定した。

    孟連隊長もわれわれの戦闘計画に賛成した。

    二千人に達する救国軍部隊は三組に分かれて吉敦線方面と延吉方面、敦化県城方面にそれぞれ進出し、われわれの部隊は孟連隊とともに、富爾河東方と大蒲柴河東方の山道にそって敦化南方の大荒溝付近の樹林地帯に到着した。われわれはここで敦化県城へ偵察兵を派遣し、高在林から送られてきた偵察資料を再確認した。

    当時、敦化県城には日本軍守備隊とともに、満州かいらい軍吉林警備第三旅団本部と第四連隊、第九連隊、飛行場警備隊、日本領事館警察、満州かいらい警察など、膨大な兵力が駐屯していた。彼らは各城門の砲台と領事館分館の正門に水ももらさぬ警備陣を張りめぐらしていた。

    九月二日午前三時、わが方の各部隊はいっせいに敦化県城にたいする攻撃を開始した。われわれの部隊は南門から、胡択民の率いる救国軍部隊は西門と北門から県城内に突入した。

    城内に突入した部隊は敵の指揮処を襲撃し、ついで旅団指揮部と領事館分館、警察分署を一挙に掃討して旅団区分隊に強力な打撃を加えた。戦闘の主導権はわが軍の手におさめられた。

    混乱に陥った敵は、二機の飛行機を飛ばしてわが軍に機銃掃射を浴びせ、爆弾を投下した。

    救国軍隊員のあいだに混乱が生じた。こうした状態で夜が明けるなら戦況が逆転し、わが方は甚大な損失をこうむるおそれがあった。わたしは陳翰章と胡択民に急転した戦況を告げ、部隊を撤収させ、敵をおびきだして掃滅する新たな戦術を示した。

    それにしたがってわが部隊は県城西南方の高地を、救国軍部隊は官屯子南方の無名高地をしめ、追撃してくる敵を要撃してせん滅した。不利と見られた戦況が一瞬にして逆転すると、救国軍部隊の兵士たちは意気衝天して逃走する敵を追撃した。

    日本当局の報道管制がきびしかったせいか、当時の新聞はこの戦闘について、これといった報道をしなかった。世の人びとは亡国22年目にあたるこの年の初秋、敦化でそのような戦闘があったことすら知らなかったのである。

    敦化県城戦闘は、一九三三年九月の東寧県城戦闘と類似した性格のものであったといえる。敦化県城戦闘が救国軍との連合作戦によって遂行されたように、東寧県城戦闘もやはり救国軍主力部隊との合作によって計画され遂行された戦闘であった。戦闘の規模からみても、両者は似通っていた。だが、前者は朝中人民の共同闘争史上、抗日遊撃隊が中国人反日部隊との共同作戦によって日本軍を撃破した初の県城戦闘であったところに意義がある。

    「中国人は清、露両大国を一挙に撃破した日本の軍事的名声の前であまりにも萎縮していた。ところが、きょうはその萎縮感から完全に解放された。領土解放に先だって精神解放がなされたのだ」

    陳翰章はわたしを抱擁してこう叫んだ。あのとき、彼の目に涙が宿っていたことを、わたしはいまでもはっきり記憶している。

    「成柱、われわれはこの道でいつまでも別れないようにしよう!」

    彼はわたしの手を握り、激した語調でいった。彼がいった「この道」というのは共同闘争を意味した。陳翰章はその後戦死するまで、自らの誓いに忠実であった。

    敦化県城戦闘後、一週間ほどして、われわれは救国軍と協同して額穆県城を襲撃した。われわれはこの戦闘でもやはり勝利した。あまり知られていない戦闘であったが、その銃声が残した余韻は大きかった。

    

    

    

    

    

    

      7 小沙河の秋

    

    

    われわれは両江口に帰ると、小沙河で南満州遠征に参加しなかった残留人員まで集めて、遊撃隊創建以来の半年にわたる活動を総括した。主な内容はもちろん南満州遠征にかかわることであった。遊撃隊員は、われわれの武装隊伍が半年のあいだに飛躍的な成長をとげ、その過程で遊撃戦によっても十分日帝を打ち破る自信がついたことを一致して認めた。

    わたしはこの総括会議で、遊撃闘争を新たな段階に発展させるために、部隊につぎのようないくつかの課題を示した。

    それは第一に、反日人民遊撃隊の根拠地を汪清地区に移すこと、第二に、中国人抗日救国軍にたいする工作をいっそう強めること、第三に、東満州一帯で急速に拡大されはじめた遊撃闘争を正しく指導し、革命根拠地の創設を急ぎ、それをしっかり守ることであった。

    この三つの課題のうち、もっとも深刻に論議されたのは、反日人民遊撃隊の活動根拠地を汪清に移す問題である。この問題をめぐって安図、延吉、和竜から来た軍事・政治幹部と数日にわたって討議を重ねた。

    安図の同志たちは活動拠点を汪清へ移すことに反対した。彼らは、安図で創建された遊撃隊は安図にとどまるべきであって、汪清へ行く必要はない、遊撃隊が汪清へ移動してしまえば安図はどうするのか、と難色を示した。狭い地域観念から脱皮していない素朴で片意地な考え方であった。

    反面、延吉と和竜の同志たちは、遊撃隊の始祖であり原種場である安図部隊が、朝鮮人の集結している間島の中心に移動するのは、戦略的見地からしても、地域的条件からしても当然であり、時宜にかなっていると主張した。彼らは、戦闘力がもっとも強い安図部隊が汪清へ移れば、延吉、琿春、和竜など隣接県の遊撃部隊の活動にも大きな転換がもたらされるであろうと確言した。

    汪清が地域的に見て、「格好の土地」であることは安図の同志たちも認めていた。汪清はまず、国内との距離が近くて好都合だった。対岸の六邑地区は「吉林の風」がかなり吹きこんだ土地なので、将来、遊撃闘争に人的および物的支援を与える有力な策源地になりうる。したがって六邑地区を足場にして国内の革命を高揚させることが可能である。汪清一帯の大衆はすぐれた闘争力と革命性をもっている。それは、独立軍の武装闘争史において絶頂をなす青山里戦闘や鳳梧谷戦闘のさいの支援活動で遺憾なく発揮されている。汪清は北路軍政署の活動基地であり、ここで活動した数百人の独立軍と武官学校の学生はみな、この地方の住民がつくった五穀で食糧をまかなっていた。

    しかし、汪清の土地柄がよいからといって、むやみにそこへ移ることはできなかった。それでわれわれは、安図県に根拠地を設けてわれわれ自身の力で遊撃闘争を開拓すべきか、それとも救国軍とともに公然活動をつづけながら、徐々に朝鮮人部隊を増やしていくべきか、という二つの案をめぐって連日討議を重ねた。

    わたしは、救国軍との共同行動のために活動上、多少の制約をうけるとしても、血潮をもってかちとった反日人民遊撃隊の公然化をいっそう確固たるものにし、在満朝鮮民族を「第二の日本人」とみなす中国の兄弟たちに、わが民族は日帝の手先でも尖兵でもなく、彼らが親日的だとみなしている朝鮮共産主義者の武装部隊は、徹底した反日勢力であることを示すことが重要だと考えた。

    

    こうしてわれわれは一定の期間、救国軍とともに活動しながら遊撃隊の公然化を維持し、他方では実地の闘争を通じてその影響力を拡大しつつ武装隊伍の増強をはかり、それが大きく育ってから互いに合流するという案を採択した。

    この案を確定したのち、工作員を選抜して東満州の各地方へ送りこんだ。延吉、和竜、琿春、そして羅子溝の救国軍部隊にも有能な工作員を何人も派遣した。汪清には別働隊をもう1組編成して送りこんだ。金日竜は安図に残留させた。こうして百数十人に達した部隊はふたたび40人程度に減少した。

    このように、われわれが部隊の人員を大勢割いて他の県にも頻繁に送るようになると、東満州特委の幹部たちも満足した。彼らは、われわれの部隊が基本部隊なのだから、しっかりした人間を選んで他の地方の遊撃部隊を補強してほしい、と再三要請していた。

    われわれの部隊が小沙河を発って南満州遠征の途についてから4か月という時日がすぎた。両江口の山河には日一日と秋の色が深まっていった。朝起きると落ち葉が積もり、その上に霜が降りて大陸のきびしい冬の到来を予告した。

    季節が変わり気温が下がってくると、病床の母のことが気になった。しかし案ずるだけで、わたしには小沙河へ行ってくるゆとりがなかった。土器店谷へ行って母に会いたい気持は山々だったが、先に延ばすほかなかった。

    北満州へ出発する日が迫ったある日、車光秀はどこで手に入れたのか薬の包みを出して、土器店谷へ行ってくるようにと勧めた。わたしがためらうと、彼は、金成柱らしくないとたしなめ、母親のことも考えないような隊長なら、金輪際相手にしないといった。

    わたしは小沙河へ向かった。薬を携えていきながら心配になったのは、またつまらぬことに気をつかうといって、母に叱られるのではなかろうかということだった。けれども、車光秀が持たせてくれた薬だといえば、母も喜んでくれるだろうとわたしは思い直した。

    わたしが小沙河にいたときに買っていった一斗の粟は、すでになくなっているはずだった。母は賃仕事もできない状態だから、いまごろはどうして生計を立てているのだろうか。母は、生きている人の口にクモの巣は張らないから心配することはない、この世に母親と弟たちはいなかったとして家のことは考えないように、とわたしをきびしく戒めたが、産みの親や弟を忘れ、家のことを考えない人間が果たしているだろうか。

    重くもない薬の包みであったが、それを携えていくわたしの歩みは、なぜか小沙河に近づくにつれてますます重くなった。もしや母の病状が悪化しているのではなかろうか、という不安もあったが、なによりも気になったのは、梁司令との合作を完全に成功させずに南満州から帰ってきたことである。母が知ったら、たいへん残念がるだろうと思った。病床に伏したままの母が、わたしに南満州へ行くよう再三再四促したのは、息子が父の親友と合作しに行くのがうれしかったからに違いない。母は若い者が主義にこだわって独立運動の先輩に背を向ける行為をよしとしなかった。

    いちばん気がかりなのは母の病状であった。わたしが前に家を発つときは、うすい重湯さえ喉を通せなかった。その間いくらかでも持ち直しているだろうか、それとも重態に陥って苦しんでいるのではなかろうか。わたしはなんとも推測しがたかった。

    わたしは道を急ぎながらも、胸を締めつけるような不安を振り払うことができなかった。土器店谷の見なれた一本橋を渡るときも、そんな思いが頭から離れなかった。

    わたしが一本橋を渡ると、いつも母は不思議なくらいわたしに気づいて、戸を開けて迎えてくれたものである。母はわが子たちの足音を聞き分ける特別な感覚をもっているようだった。ところが、その日にかぎって、戸は開かれなかった、煙突に夕餉の煙も立たず、薪や鉢をもって勝手口を出入りする弟の姿も見えなかった。

    わたしは心臓が一瞬凍りつくような不安と緊張感に襲われ、やっとの思いで取っ手を引いた。そして戸を開けた途端、わたしは土縁にへなへなとくずおれてしまった。母の寝床は跡形もなかった。遅かったか、という後悔が稲妻のように頭をよぎったとき、どこからか音もなく哲柱があらわれて、わたしの肩にしがみついた。

    「兄さん、どうしていまごろ来たんだ」

    弟は全身をふるわせ、涙に濡れた顔をわたしの胸にこすりつけた。そして、子どものように泣きじゃくった。そこへ末弟の英柱が飛びこんできて、わたしにすがりついた。

    わたしは敷石の上に薬包みを落とし、涙にくれる二人の弟をひしと抱きしめた。二人の泣き声がすべてを語っていたので、いまさら母の安否を問うまでもなかった。わたしの不在中にこんな不幸がやってくるとは…

    いまわのきわに、わが子の顔を見つめたい母親の最後の願いさえ、わたしの母には許されなかったのだろうか。貧困のなかに生まれ、一生を貧しく生きてきた母! 受難の祖国の悲運を思い、夫との死別にも唇を噛んで涙をこらえた母、わが身を犠牲にし、生涯、人の幸せのために全身全霊をささげて逝ったわたしの母!

    わが子が母への情におぼれて大事を損ねるのではないかと、いつも心配していた母だったからこそ、革命を志す息子の足かせになるまいと、急いで目をつぶったのではなかろうか。

    わたしはこの前、母が最後にわたしを戒めたときにつかんでいた門柱をなでながら、たとえあのときよりきびしく叱責されるとしても、この戸の前で母をいま一度見ることができたら、どんなによいだろうかと思った。

    「哲柱、お母さんがなにか言い残したことはなかったか?」

    わたしがこうたずねたとき、しおり戸を開けて庭へ入ってきた金という婦人が、哲柱に代わって答えた。

    「お母さんはわたしに、こんなことをいい残しましたよ。『…わたしが死んだあと、うちの成柱が来たら、わたしに代わってよろしく頼みます。まだ日帝がおり、朝鮮の独立をとげずに来たら、わたしの墓を移してはいけないといってください。いや、追い返してください。でも、わが子を自慢するのではないけれど、成柱は戦いをやめて帰ってくるようなことはしないでしょう』こういって、わたしに戸を開けてくれというのですよ。そして、あの一本橋のほうをずっと見ていました」

    婦人の言葉は、遠い「天国」から聞こえてくる声のようにかすかに聞こえた。けれども、わたしはその一言一言にこめられた深くも悲痛な意味を一つ残らずはっきり理解することができた。

    わたしは弟たちを両腕に抱いたまま、一本橋のほうに目を向けた。

    そして、わが子を思う母の気持、愛する息子に会えずに永眠する母の気持を想像してみようと努めた。しかし、想像の戸口にも立つ前に、不意に涙がせきを切ってこぼれ落ちた。

    しばらく泣いて顔を上げると、先ほどの婦人が涙にうるんだ目でわたしを見つめていた。その温和な思いやりの深いまなざしを見て、わたしは思わず母の目ではないかと錯覚するところだった。

    「おばさん、その間、母のためにほんとうに苦労をおかけしました」

    わたしは胸の裂けるような悲しみと苦しみのなかからやっと理性を取りもどし、最後まで母に付き添ってくれた婦人に礼をいった。婦人はいっそう悲しげにすすり泣いた。

    「苦労だなんてとんでもない。わたしは、そうたびたびは来られなかったんです。わたしたちがよく面倒をみてあげられなかったので、お母さんには髪をすいてあげる人もいなかったんですよ。弟さんも革命活動で家にいつかなかったし。ある日、お母さんはわたしに、男の子のように頭を丸刈りにしてほしいというじゃありませんか。頭がかゆいといって…そう頼まれても、わたしは鋏を入れるに忍びませんでした。お母さんの髪はほんとうにふさふさとして漆のような黒髪だったでしょう。わたしが、それだけはかんべんしてもらいたいといっても、お母さんはぜひそうしてほしいというじゃありませんか。頭がかゆくなければ天にも昇れそうだといわれて…それで、もったいない髪の毛を…」

    婦人は話をとぎらせ、声をあげて泣いた。

    わたしは、その話は聞かせてもらわないほうがよかったと思った。その悲痛な最期の話には、はらわたがちぎれるような思いがした。一生涯、息子たちにつくしてきた母なのに、そのふところで育った子には臨終をひかえた母の髪をすいてやる孝心さえなかったというのか。

    わたしは撫松にいたころ、わたしと同じ年ごろの少年が病気の母親を背負って、南甸子から小南門通りまで汗だくになって医院を訪ねまわっていたのを目撃したことがある。そのとき、われわれはみなその少年を孝行息子だとほめたものだった。婦人の話を聞いてわたしは、ふと、あのときの汗みずくの少年の姿を思い出した。

    その少年にくらべれば、わたしは不孝者といわれても返す言葉がない。二十を越すこの年まで、わたしは母のためにいったいなにをしたというのか。幼いころはそれでも、母にあたたかいオンドルに座るよう勧めたり、井戸から水を汲んでくる母の凍えた手に、息を吹きかけてあたためてやったりした。朝は、母の手助けをしようと鶏に餌をやったり、水汲みをしたりしたものである。

    しかし、革命活動をはじめてからは、母にしてやったことがなにもなかった。「下る愛はあっても、上がる愛はない」という先人の言葉は、まさにわたしのような人間を念頭においた名言なのかも知れない。まったくそのとおりである。わたしはまだ、親の愛にまさる孝心をもって親につくした子がいたという話は聞いていない。

    「哲柱、お母さんが、おまえたちになにか言い残したことはなかったか?」

    わたしは母の遺言がほかにきっとあったに違いないと思って、哲柱に同じことをたずねた。

    弟は手の甲で目頭をぬぐいながら、かれた声で答えた。

    「兄さんをよく助けてあげるようにといってた。ぼくらが兄さんをよく助けて、兄さんのような革命家になったら、草葉の陰で目をつぶれるって…」

    母の精神力は最期の瞬間まで、ひたすら革命にそそがれていたのである。

    わたしはその足で弟たちを連れて母の墓を訪ねた。

    楡の老木が一本立っている丘のふもとに、縦縞模様に芝を植えた母の墓があった。わたしは軍帽を取り、弟たちと並んで墓前にひざまずき、深く頭をたれた。

    (お母さん、成柱が参りました。親不孝者の息子をお許しください。南満州からやっといま、お母さんのもとへ参りました)

    わたしが心のなかでこんな言葉をつぶやいていると、哲柱がやにわに墓の芝をかき分けはじめた。

    「なにをしてるんだ」

    わたしは不審に思って弟を見すえた。

    哲柱は返事の代わりに大粒の涙をこぼしながら、わたしが両江口から持ってきた薬包みを墓土の中に埋めるのだった。

    弟の無言のしぐさが、わたしの胸中に突き上げていた悲哀を容赦なくほとばしらせた。わたしは墓土の上にうつ伏せて長いあいだむせび泣いた。革命家から一人の平凡な人間にもどったのである。

    地上のありとあらゆるものがその墓に凝結し、この世のすべてのものが母の死という一つの悲劇に凝縮されたかのような瞬間だった。だが頭上には、果てしなく澄みきった秋空が無心に広がっていた。わたしたちの悲しみをよそに、あの空はどうしてあんなに平然を装っていられるのだろうか、という恨めしい気持にさえなった。

    こうして、わたしは母を亡くした。それは亡国の年輪が二十二回も刻まれた一九三二年の陰惨な夏のことである。国が滅びなかったなら、母はもっと長生きできたことだろう。母の病は労苦の末に生じたものであり、その労苦は亡国の時運がもたらしたものであった。息子たちにつくした母の労苦は並大抵のものではなかった。母にたいするわたしの孝心が十であったとしたら、わたしにそそがれた母の愛情は幾千万をもってしても数えきれないだろう。

    わたしは地下活動のころ、四、五人の共青員とともに撫松市街で敵の包囲に陥ったことがあった。 包囲網を破って県城を抜け出さなくてはならないのだが、われわれには武器がなかった。それで母に、万里河の同志のところへ行って武器を持ってきてもらえないだろうかと頼んだ。

    母はわたしの頼みを二つ返事で引き受けた。

    「大丈夫、わたしが持ってきてあげる」

    万里河へ行った母は、二挺の拳銃を持って無事に帰ってきた。母は同志たちに頼んで、引き金を引けば発射できるように弾をこめてもらった。そしてその二挺のモーゼル銃を牛肉のあばら骨の下に隠して、大胆に城門を通過した。城門の前で警官が木鉢を指して「それはなんだ」と質したが、母は平然と「牛肉ですよ」と答えた。警官は木鉢にかぶせた紙をめくってみただけで、母を通過させた。

    装弾されているうえに撃鉄が上げられている拳銃を見て、わたしはびっくりした。

    「お母さん、たいへんなことになるところでしたよ。どうして拳銃に弾をこめたんですか?」

    「わたしがそうしてくれといったのだよ。もしも木鉢を調べられたら撃ってやろうと思ってね。相手はどうせ二人か三人だろうから、かかってきたら一人でも撃ち倒して、わたしも死ぬつもりだったのだよ」

    母のこの言葉には、わたしの体験や狭い考えではとうていはかりがたい高潔な魂が秘められていた。それは、わが子への理解と熱烈な共感なくしては思いもおよばぬ勇気であり、真実な愛情であった。

    わたしたちが旧安図で、馬春旭の家に間借りをしていたときである。ある日、同志たちが拳銃の手入れをしているうちに暴発して、母の足に傷を負わせてしまった。まかり間違えば命とりになりかねない銃創だった。

    母はその日から、出歩くことができなかった。誰かが来てどうしたのかとたずねると、朝方、とぎ水を捨てに行って転んで足をくじいたのだと答えた。傷口を見られないようにふとんをかぶって横になり、ひそかに亨権叔父の治療をうけた。それでも恨みごとをいったり暴発した人に気がねをさせるようなそぶりはまったく見せなかった。

    暴発事故を起こした当人は罪ほろぼしをしようと、自殺をはかった。

    それを耳にした母はひどく怒り、「そんなばかな真似をするものではない」とたしなめた。

    「不手際でそうなったのだし、それでも幸いだった。男が、それくらいのことで自殺だなんて。そんなことでくよくよするより、秘密をしっかり守ることを考えなさい。このことが漏れたらおまえたちも、このうちもたいへんなことになる。それにおまえたちは大事をとげられなくなるんだよ」

    母は自分の足の銃創よりも、われわれに武器のあることが警察に知られるのを恐れた。

    馬春旭の家でも、暴発事故についていっさい口外しなかった。

    母のいちばんよい点は、わたしの同志をわが子のように愛したことであった。母はわたしの同志を、わたしとまったく同じように扱った。彼らが家に来ると、運動費も出してやった。それは裁縫や洗濯などの賃仕事で得た金だった。そのころ、木材所の人たちや朝鮮人参を採取する季節労働者が木綿地を持ってきて、母に服の仕立てをよく頼んだものである。母は彼らの服をつくって一日に七、八十銭ほどの収入を得ていた。ときには一円の収入を得ることもあった。

    母は苦しい生活をしながらも、金を使うときは出し惜しみをしなかった。食糧代と、ときおり遠くへ出かけるときの旅費、それに家賃のほかは稼いだ金をとっておこうとしなかった。同志たちが来ると麺や豚肉を何斤か買ってきて餃子やすいとんをつくって食べさせたり、運動費の足しにするようにと蓄えた金をそっくりはたきだすのだった。

    同志たちが「オモニの暮らしもゆとりがないというのに、有り金を全部はたいてしまったら、あとのやりくりはどうするんですか」と心配すると、母は「人間はお金がなくて生きられないのでなくて、寿命がたりなくて生きられないのよ」と答えた。

    母は同志たちが何か月も寝泊まりしても、決していやな顔をせず、いつもわが子のように世話をやいた。そのため、満州で青年運動に従事し、家に何日か泊まったことのある若者はみな、わたしの母を「成柱のオモニ」といわず「うちのオモニ」と呼んでいた。

    母は一生、革命家の食事の支度に追われて亡くなったといっても過言ではない。父の存命中も愛国者の世話で息抜きの外出もできず、せわしい日びを送った母である。臨江にいたころは毎晩のようにご飯を炊いたものだった。みんなが床について寝ようとすると、父の友人がどっと押しかけてきて、のんびり寝ていられる時節か、と冗談口をたたいては奥の間に座りこむのである。すると母は、また起きて食事の支度をしなければならなかった。

    母は革命家の世話をやくかたわら、自分も革命活動に参加した。母が革命活動をはじめたのは、撫松にいたころである。母はそのとき南満女子教育連合会の白山地区会に入り、女性と子どもたちの啓蒙に努めた。父が亡くなってからは婦女会の活動もはじめた。

    母が革命の協力者から直接の担当者に育ったのは、父やわたしの影響もあったが、李寛麟の影響もまた大きかったといえる。李寛麟はわたしの家に来ているあいだに、母を南満女子教育連合会の活動に引き入れた。

    母が純然たる母性愛の持ち主にとどまっていたなら、わたしはこのように熱い情愛をもって母を回顧することができなかったであろう。母がわたしにそそいだ愛情は、たんなる母性愛ではなかった。それは、息子をわが子と思う前に国の息子と思い、父母に孝養をつくす前に国に忠誠をつくすべきことを息子たちに教えた革命的な真実の愛情であった。母の生涯は、わたしの心に真の人生観、革命観を植えつけてくれた教科書ともいえるものである。

    父はわたしに、代をついでたたかっても必ず国の独立をなしとげなければならない、という不屈の革命精神を植えつけてくれた師であったが、母は、いったん革命を志した人間は情におぼれたり脇見をすることなく、最後まで目的ひとすじに突き進まなければならないという理を教えてくれたありがたい先生であった。

    親子の愛情も盲目的なものであれば、それは真の愛情とはいえない。愛情を貫く精神が真実で高潔であってこそ、その愛情は永遠かつ神聖なものになりうる。亡国のあの当時、母の愛情とわたしの孝心の底に流れていたのは愛国心であった。その愛国心のために、母は息子に孝道を求める母性としての当然の権利さえ犠牲にしたのである。

    わたしは母の墓に碑を立てることもできずに土器店谷を発った。墓場に母の名を刻んだ墓碑が立てられたのは解放後のことであった。安図県の人たちが母を追慕して碑石を立て、そこにわたしたち三人兄弟の名を刻んだのである。

    遺言通り、祖国が解放されたのちになって、母の墓は父の墓と一緒に万景台に移された。

    わたしは祖国に凱旋したあとも、しばらくのあいだは異国の地に眠る父母の墓のことを考えるいとまがなかった。 時局が複雑多端をきわめ、なすべきことがあまりにも多かったからである。われわれが青春時代をすごした満州の山野には、わたしの父母だけでなく、わたしとともに革命の炎の海を渡って倒れた戦友たちの遺骸が数知れず葬られていた。それに、彼らが残していった遺児もいた。 戦友の遺骸を祖国の土へ移し、彼らが託した遺児を解放された祖国に連れもどすまでは、自分の父母の墳墓を移せないというのがわたしの決心であった。

    そんなときに、張喆鎬が訪ねてきて、ご両親の墳墓を故郷に移すべきだとわたしを説得した。そして、墓を移すのは自分にまかせ、将軍は万景台でりっぱな墓所を選んでおくように、というのであった。満州時代の縁故者で、わたしの父母の墓を知っているのは張喆鎬一人しかいなかった。彼はその墓を移すため人知れぬ苦労をした。

    わたしが武装闘争を展開しているとき、敵はわたしの父母の墓を荒らそうと執拗に探してまわった。だが撫松と安図の人たちは、解放の日まで彼らの目をあざむいて父と母の墳墓を守り、誠意をつくして管理してくれた。華成義塾時代のわたしの恩師康済河先生は一年に二回、寒食と中秋の日が巡ってくるたびに妻子を連れ、供え物を携えて、陽地村のわたしの父の墓所を訪ねては法要をし、草取りもした。

    母が亡くなって、わたしは二人の弟の保護者となり家長となった。しかし革命はわたしに家長の務めも、保護者の役目も果たすことを許さなかった。荒涼とした葦原に囲まれた小沙河の谷間に、涙にくれる幼い弟たちを残して北満州へ向かうわたしの心は重かった。

    

    

    

    

      8 羅子溝の台地で

    

    

    日本軍の安図入城は時間の問題であった。親日派地主は早くも歓迎用の旗まで用意した。救国軍はもはや両江口にとどまっていられなくなった。孟連隊長部隊には、草原に山をひかえた羅子溝、汪清方面への退却命令が下った。

    急変する情勢に対処して、われわれも救国軍とともに安図を離れることに決定した。この決定を採択したのが両江口で開かれた兵士工作委員会会議だった。総体的な方向は活動拠点を汪清に移すことであったが、当分のあいだ退却した救国軍部隊の集結している羅子溝に落ち着いて、反日部隊にたいする工作を進めることにした。于司令部隊も安図から羅子溝へ撤収した。

    われわれが北満州へ向かう準備を急いでいたとき、弟の哲柱がわたしに会いに両江口へやってきた。

    「兄さん、ぼくも兄さんの部隊についていきたい。兄さんがいなくては、もう土器店谷にいたくないよ」

    弟はわたしが聞く前に、訪ねてきたわけを打ち明けた。弟の気持はわたしにも理解できた。母が亡くなった小沙河で、他人の世話になってその日暮らしをするのは、感受性の強い年ごろの弟にとってつらいことに違いなかった。

    「おまえまで土器店谷にいなくなったら、英柱はどうするのだ。英柱はひとりぼっちで我慢できないだろう」

    「よその家に二人も厄介になっていたんじゃ、すまなくて… 英柱一人だったら、ちょっとはましなはずだよ」

    哲柱のいいぶんはもっともだったが、それに同意することはできなかった。もう十六歳なのだから、銃をかつがせれば部隊について歩き、軍隊生活をすることもできた。哲柱は年のわりに体が大きいほうだった。だが、まだ子どもらしい弱々しさがあったので、遊撃隊の重荷になりそうだった。そのうえ、哲柱は安図地区の共青活動をもりたてる責任をになっていた。

    「おまえが二年か三年後にそういうことをいうなら、兄さんも反対はしないだろう。けれども、いまはおまえの望みどおりにはしてやれない。ちょっとつらいし、さびしいだろうが、もう何年か我慢するんだ。どこかよその家で手伝いをするなり季節労働でもしながら、共青の活動に本腰を入れてみろ。地下活動も武装闘争に劣らず重要な活動なんだから、おろそかにしてはいけない。共青活動をしていて、時期がきたら革命軍に来るんだ」

    わたしは哲柱が強情を張らないようになだめたりすかしたりした。そして弟を連れて池のほとりの居酒屋に入った。透き間風が窓の目張りをブンブンふるわせるさむざむとした部屋だった。

    わたしは酒と肴を注文した。冷えきったしみ豆腐二皿と酒一本である。

    それを見て哲柱はもう涙ぐんでいた。わたしが酒を飲まないのを知っていた弟は、その一杯の酒がなにを意味するのかを察したようだった。

    「哲柱、おまえの願いを聞き入れてやれない兄さんを許してくれ。兄さんだっておまえを連れていきたいさ。おまえを置いていかなくてはならないと思うと、胸が張り裂けそうだ。けれども、寂しさをこらえ

    て、兄さんとおまえはまた、ここで別れなくてはならないのだ」

    わたしは酒の勢いで、しらふではなかなかいいにくいことを一気に話してしまった。しかし、われ知らず涙がこみあげてきた。

    わたしが涙を見せまいとして外へ出ると、弟も飲みかけた杯を置き、わたしを追って出てきた。

    「兄さん、わかったよ」

    弟は後ろからわたしの手を取って、そっと放すのだった。

    こうしてわたしは弟と別れた。その後、わたしは弟と二度とめぐりあうことができなかった。

    あのうらさびしい池のほとりの秋を思い出すたびに、わたしの手をそっと握って放した弟の手を、なぜ長く、そして熱く握り返してやれなかったのだろうかと、悔やまれてならない。いま考えても、あまりにも切ない離別であった。

    あのとき、わたしが弟の願いを聞き入れていたなら、二十歳にもみたない年で早世しなかったかも知れない。 炎のように燃えて炎のように去った人生であった。

    哲柱は十歳になるが早く革命組織に加わった。撫松にいるころはセナル少年同盟の宣伝キャップを勤め、小沙河に移ってからは区共青委員会の書記をした。

    両江口でわたしと別れた哲柱は、その後、多くの共青員を育てて朝鮮人民革命軍に入隊させた。弟はすすんで反日部隊にたいする困難な工作も受け持った。反日部隊の兵士とともに大甸子市街の襲撃戦闘にも参加した。哲柱が関係していた杜義順指揮下の反日部隊は、日本軍の間島討伐隊と勇敢に戦ったという。

    その後、哲柱は安図で反日部隊工作部長の重任をおび、延吉県符岩洞蔵財村鹿林にあった徐奎伍反日部隊の工作にもあたった。徐奎伍は反日を唱えながらも、朝鮮の共産主義者といえば頭から敵視する偏屈で片意地な頭領だった。彼は最初、朝鮮人と仲がよかった。

    徐奎伍が朝鮮の共産主義者に背を向けるようになったのは、彼が妾にするつもりで抑留した共青員(朝鮮人女性)が符岩洞の反日婦女会員に奪還されたときからである。その娘は演芸隊に加わって反日部隊へ宣伝工作に行ったとき、徐奎伍の目にとまって抑留されてしまった。いったん彼の手にかかったが最後、どんな女もその要求を聞き入れないことにはおさまらないのである。徐奎伍はそういう手口でたびたび女を代えた。

    そのことがあって以来、朝鮮人は徐奎伍の部隊に寄りつけなくなった。彼と懇意にしていた人も相手にされなかった。恋煩いがこうじた彼は、部下に命じて朝鮮人を迫害し、弾圧した。

    そんなとき、哲柱が漢方医の資格をもつ林春秋を連れて徐奎伍部隊を訪ねたのである。

    「隊長さん、体の具合がだいぶ悪いと聞いてお見舞いにあがりました」

    哲柱が流暢な中国語で丁寧にあいさつをしたが、徐奎伍は振り向こうともしなかった。朝鮮人は見たくもないし、話をするのもいやだというのである。

    「隊長さんの病気を治してあげようと、りっぱなお医者さんを連れてきたんですが、一度診てもらってはいかがですか」

    哲柱が重ねてこういうと、徐奎伍はやや気乗りがしたらしく、それなら診察をうけてみようといった。林春秋の針治療を何日かうけた彼は、偏頭痛で死ぬ思いだったが林先生のおかげですっかりよくなった、と大喜びした。これが縁となって哲柱は徐奎伍の部隊のなかで反日兵士にたいする工作を公然と進めた。

    のちにわれわれの方面軍に編入された徐奎伍は第十連隊長に任命され、最後までりっぱに戦った。ひところ阿片と女なしでは夜が明けぬほど放蕩にふけった彼が、革命軍に編入されてからは共産党に入党するまでになった。わたしが部隊の名で入党を祝うと、彼は「軍司令同志、わたしはきょう入党して、軍司令同志の弟さんを思い出しました。哲柱が助けてくれなかったら、きょうのような日は迎えられなかったでしょう」といって、哲柱が林春秋を連れてきて病気を治してくれたことや、反日の道から脱線しないように熱心に説いたことなどをしみじみと語った。

    一九三五年の六月、哲柱は車廠子付近で壮烈な戦死を遂げた。

    わたしが弟の戦死を知らされたのは鏡泊湖畔でだった。

    そのせいか、いまでも大きな川や湖を見ると、弟の姿が瞼に浮かんでくるのである。

    哲柱まで戦死したので、末弟の英柱はまったく身寄りのない身になってしまった。金正竜一家が車廠子遊撃根拠地へ移ったあと、英柱はあちこちで子守りや雑用をして糊口をしのいだ。関東軍がわたしの「帰順」工作の具にしようと、親類縁者を手当たりしだい捕えていたときだったので、英柱は自分の名前と出身を隠して東北3省はもちろん、中国本土の都会や農村を巡り歩き、あてもない放浪生活をしなければならなかった。それで、英柱は一時、北京にいたこともある。

    わたしは解放後、日本警察が残していった文書のなかから、弟の指名手配にかんする件を見たことがある。

    英柱は新京ビール工場で働いていたとき、故郷恋しさに3か月ほど祖国に帰っていたことがあった。そのとき、英柱は黒の洋服に白い靴という格好で万景台にあらわれた。

    その身なりがいかにもりゅうとしていたので、祖父は末孫が官職にでもつき、自力で一家をなしたのではないかと思ったくらいである。英柱は祖父母に心配をかけまいとして、長春で大学に通っていると偽った。警察が写真をまわして指名手配をしていたときなので、弟は故郷に帰っても万景台にはいられず、叔母の家に隠れていたが、そのうちまた満州へ舞いもどってしまった。

    両江口を出発した反日人民遊撃隊の四十人の隊伍は、敦化、額穆をへて山伝いに南湖頭方面へ北上した。部隊がわたしの「作男」時代のエピソードで知られた富爾河村に立ち寄って政治工作をしたのもそのころであり、敦化県哈爾巴嶺付近で敦図線(敦化-図們)鉄道敷設工事に動員された日本軍輸送隊と激戦を交えたのも同じころだった。この戦闘があったのち、わたしは敦化県頭道梁子で高在鳳に会った。

    敵の弾圧がはげしい四道荒溝から頭道梁子に活動舞台を移した高在鳳は、地下組織の運営する農民学院で教鞭をとっていた。頭道梁子から敦化県城までは十二キロしかなかった。わたしはそのとき頭道梁子で高在鳳の母親にも会った。

    われわれは日本軍輸送隊を襲撃して奪った小麦粉を住民に分け与え、それで食事を用意して彼らと一緒に食べた。ろ獲した木綿地は、農民学院の学生服用に提供した。

    頭道梁子をあとにしたわが部隊は、北上をつづけて官地付近と南湖頭地方で反日部隊にたいする工作をおこなった。それから汪清地区に入って党、共青組織と大衆団体の活動状況を調べ、各階層人士とも知り合った。これはやがて汪清に活動拠点を設けるための予備作業だといえた。

    われわれは汪清でも、反日部隊にたいする工作をゆるがせにしなかった。わたしは、李光の別働隊が何挺かの銃のために下手に手を出して騒がせた関保全部隊を訪ねて梨樹溝へ行った。ところが、関保全はすでに抗日の旗を下ろして行方をくらませていた。正直なところ、わたしはそのとき、関大隊長に会ったら汪清の同志たちに代わって謝罪し、共同闘争の方途を相談して、ひところ朝中武装部隊間に生じた葛藤と対立を解消する考えだった。

    関保全は逃走したとして、残った人たちにでも会ってみようと連絡員を送ったところ、百人ほどの反日兵士たちが、敦化県城で日本軍を討った金日成部隊とはいったいどんな部隊なのかと、好奇心をもってわれわれのところへやってきた。わたしは彼らの前で、汪清別働隊が武器獲得のために関大隊の兵士に手出しをしたのは非友好的な行為であったことを認め、朝中人民の共同闘争と反日部隊の使命について率直な考えを述べた。

    これにたいする反日部隊の反響は大きかった。わたしの話を聞いた靠山という指揮官は、自分も関保全のように抗日を放棄するつもりだったが、これからは正しい道を歩みたいと語った。彼はその誓いにたがわず反日戦線でりっぱにたたかった。汪清で大きな頭痛の種だった反日部隊との和解はこのように順調に進んだ。

    われわれは反日部隊との活動にあらわれていた極左的偏向を正し、彼らを抗日連合戦線により多く引き入れるため、羅子溝で反日兵士委員会を招集した。そのころ東寧県城に集結した救国軍部隊はソ連領を経由して中国本土へ退却する凖備をしていた。われわれはなんとしても救国軍の国外脱出を防ぎ、彼らを反日戦線にかたく結束しようとした。そうせずには、われわれの遊撃闘争に重大な難関が生じるおそれがあった。反日部隊を撃破しようと、四方に分散していた敵の「討伐」隊が数百人にすぎないわが遊撃隊に集中攻撃を加え、幼年期にあったわれわれの武装力を一挙に圧殺しかねなかった。彼我の力関係がわれわれに不利になるのは明らかだった。

    当時、日本軍は満州の群小都市をすべて占領する計画のもとに、随所で反日武装力にたいする攻勢を強めていた。彼らは県都を残らず占領しようと画策した。

    会議にはわたしと李光、陳翰章、王潤成、胡択民、周保中をはじめ三、四十人が参加したが、わたしと李光は朝鮮側を、陳翰章、王潤成、胡択民、周保中は中国側を代表した。

    会議の主な議題は、救国軍の逃走を防ぎ、反日連合戦線を強化する対策についてであった。

    会議ではまず、汪清遊撃隊の誤謬を検討した。

    ことの起こりは、汪清部隊で発生した「金明山事件」であった。以前、張学良軍時代の「保衛団」に属していた金明山は九・一八事変後、六人の中国人兵士を率いて汪清遊撃隊に寝返ってきた朝鮮人である。彼はもともと名うての猟師で、勇猛な点では定評があった。汪清部隊の同志たちは、彼が寝返ってくると、宝物が転がりこんできたかのように喜んだ。

    ところが、彼が率いてきた6人の中国人のうちの一人が、敵の統治区域に偵察に行ったさい、大坎子の食堂でショ焼ビン餅1皿を無銭飲食して帰ってきたことがあった。餅代を払う金がなかったのである。彼は部隊に帰ると、そのことを率直に打ち明けた。

    県党の要職をしめていた極左分子は、遊撃隊の名誉を傷つけた害悪分子という汚名を着せて、その中国人隊員を銃殺してしまった。県党軍事部の措置で、汪清で処刑された中国人隊員は十数人に達している。

    金明山と一緒に寝返ってきた残りの中国人隊員は、こうした殺気だった雰囲気におじけづいて部隊を脱出し、馬村付近に駐屯していた関保全部隊を訪ねていった。遊撃隊が中国人をむやみに銃殺しているという彼らの話を聞いて危険を感じた関保全は、遊撃隊の駐屯地から遠く離れた深い谷間に部隊を移動させ、朝鮮の共産主義者を殺害する機会をうかがっていた。

    十月革命記念日に、汪清の人びとは手に手に槍や棍棒など原始的な武器を携えて記念式場に集まってきた。彼らがこうした幼稚な武器を持って集まったのは、行事の雰囲気をもりあげるためだった。

    ところがこれを見て、自分たちにたいする攻撃準備と勘違いした関保全は大いに憤慨した。そして、部隊の参謀長の職責で救国軍隊員の教育と統一戦線運動を担当していた遊撃隊工作員の金銀植と洪海一、元弘権など数人の朝鮮人を銃殺してしまった。ことわざにあるとおり、「行く棍棒に返るきぬた棒」のような逆襲であった。

    その後、戦いを放棄した関保全の部隊は、三三五五、敵の統治区域へ散りはじめた。汪清部隊は関部隊の投降防止という名目で、数回にわたって彼らの武装を解除した。そればかりか、武装解除に応じない投降兵数人を殺害さえした。

    この事件が発端となって、朝鮮の共産主義者にたいする関保全部隊の血なまぐさい報復がはじまったのである。彼らは共産主義運動に加担していると思われる朝鮮青年は見つけしだい捕えて銃殺した。組織されて数か月しかたっていない汪清遊撃隊は反日部隊に包囲され、多くの犠牲者を出した。

    反日部隊との関係で露呈したこのような未熟さと無分別は、朝中関係を急激に悪化させ、朝鮮革命をぬきさしならぬ泥沼に追いこんだのである。

    参会者たちは、反日部隊との関係を破綻させながらも、その誤りの重大さを悟らず、報復をうんぬんする汪清遊撃隊の指揮官をするどく批判した。そして長時間の論議の末に、救国軍との活動で順守すべき原則と行動準則を再確認し、それにたいする共通の理解に到達した。

    つぎに論議されたのは、救国軍を満州に踏みとどまらせ、抗日戦をつづけるようにさせる方途を探し出すことだった。

    救国軍は当時、数万に達する兵力を擁していたが、日本軍を相手にして戦う力はないと考えていた。彼らは日本人が流布している「天下無敵」説を真に受けて、この世に日本に対抗できる力はなく、日本軍と対戦できる軍隊もないと見て、戦いをほとんど放棄していた。彼らの頭にあるものといえば、日本軍に殺されたり捕虜になったりすることなく、まだ戦火のおよんでいない山海関の向こう側へ安全に逃れる方策を考えだすことだけだった。

    日本軍は間島地方で、王徳林部隊に攻撃のほこ先を向けていた。日本軍の王徳林部隊にたいする攻撃が開始されれば、羅子溝が敵の手中に入るのは時間の問題である。

    参会者は、なんとしても救国軍と共同で羅子溝を守り抜こうと決意した。そのためには王徳林を説得して、ソ連への逃走を思いとどまらせなければならなかった。救国軍は、ソ連領を通って中国本土へ入ろうともくろんでいた。反日部隊の頭領や兵士のあいだで、ソ満国境を越えるのはおしとどめることのできない一つの傾向となっていた。数万の兵力を擁していた李杜や馬占山もソ連をへて中国本土へ逃走した。救国軍の逃走を防ぐ唯一の道は、日本軍との戦闘でめざましい戦果をあげ、彼らの頭から「無敵皇軍」の幻想と恐怖心を一掃することであった。

    参会者のうちで王徳林を説得できる適任者は周保中だった。彼はコミンテルンの委任で王徳林の顧問を務めていた。

    わたしは周保中に、王徳林を説き伏せて、なんとしても退却を中止させ、遊撃隊との連合戦線に応じるよう努力することを勧告した。

    「われわれは東満州に居住する朝鮮人を土台にして、長期の遊撃戦を展開することができる。問題は救国軍だが、君があらゆる手段を講じて王徳林を説き伏せ、満州に残って最後の一人まで抗戦をつづけるようにするのだ。彼らがソ連へ行くというのは、シベリアで社会主義革命をするためではなく、ソ連領をへて本土に逃走するためだ」

    周保中は、むずかしい宿題だといってかぶりを振った。

    「君たちはまだ内幕を知らないだろうが、救国軍というのは実際のところ臆病者の集団なんだ。日本軍の飛行機が飛んできてビラをまいてもブルブル震えて逃げ出す意気地なしどもだ。だから戦闘などまったくおぼつかない。あんな卑怯な連中ははじめてだ。救国軍と連合して日本軍に対抗するというのは妄想にひとしい」

    周保中と同じように連合不可能説を主張する人は少なくなかった。こうして意見が対立し、不可能論を固執する人たちに批判が加えられた。あのころは誰もが英雄であり、天才であり、指導者であった。救国軍兵士工作委員会というのは、各地で地方工作にあたっている人たちで構成された臨時の組織だったので、これといった指導者がいなかった。

    だが、会議の議長はわたしがつとめ、会議はそれなりに議事を進めた。わたしが議長役をつとめたのは、地位が高かったからではなく、救国軍工作では金日成が長老格だからといって、中国の同志たちがわたしを推したためである。

    これが羅子溝会議と呼ばれる会議であった。救国軍兵士工作委員会としては最後の会議である。そのあと兵士工作委員会は解散した。

    羅子溝会議の決定で、わたしと李光、陳翰章と周保中、胡択民は、王徳林部隊、呉義成部隊、柴世栄部隊にたいする工作を分担して受け持つことになった。呉義成と柴世栄はいずれも王徳林の部下である。

    やがて、呉義成部隊へ行った陳翰章から通報があった。呉義成が羅子溝会議の方針に応ずると約束したという楽観的な知らせだった。

    わたしが王徳林部隊にたいする工作を進めていたとき、日本軍が羅子溝一帯へ侵攻してきた。彼らは、われわれの主力部隊と王徳林部隊との連合戦線が成立するのを恐れて大兵力を動員し、急速度で攻撃を加えてきた。そのとき王徳林は、戦おうともせず羅子溝から逃走した。数千数万の大兵力が一陣の風に吹きまくられる枯葉のように、日本軍の弾幕を避けソ満国境へ向けて退却した。

    わずか数十人の遊撃隊の力で羅子溝を守り抜くのはとうてい不可能であった。そのため、われわれも救国軍とともに東寧県方面へ後退した。東寧県まで追っていってでも、救国軍を立ちもどらせるためである。少数の人員で大兵力と激戦を交えながら後退するので、われわれの苦労は並大抵ではなかった。旧暦十一月の厳寒のことで、反日兵士のなかに凍死する者が少なくなかった。

    わたしは救国軍のあとを追いながら、王徳林を懸命に説得した。あのとき彼がわたしのいうとおりにしたなら、共同戦線を張って東北地方で抗日武装闘争を成功裏に展開することができたであろう。だが、王徳林はわたしの勧告を聞き入れず、とうとうソ連領を経由して中国本土へ行ってしまった。

    われわれは王徳林との交渉を断念し、コースを変えて最終目的地の汪清地区へ向かった。羅子溝から数十里を歩き通し、ソ満国境の見えるところまで行って、むなしく引き返さなければならないわたしの心は暗澹としていた。数万に達する救国軍ですらあえて日本軍に対抗できず逃走しているというのに、十八人しか残っていないわれわれの部隊は、この冬をどう越したものだろうか。この苦境をどう乗り切ったらよいのだろうか。十八人という人数は、日本人がよくいう「滄海の一粟」にひとしい微々たるものだった。

    40人の部隊が18人に減ったのは、さまざまな事情があってのことである。戦死した者もおり、病気にかかって脱落した者もいた。また、体が弱くて帰した者もおり、なかには戦いきれないという本人の訴えで帰した者もあった。とくに独立軍出身の年配の隊員と一部の農村青年は、なおさらたえぬくことができなかった。

    最後まで隊伍に残ったのは、吉林時代から共青組織生活をした同志であった。その十八人を率いて死線を越え、汪清に向かうときわたしが新たに悟ったのは、人間は組織生活を通して鍛えられてこそ、いかに最悪の状態に陥っても自己の信念を最後まで守り、革命家としての道義的責務を果たすことができるということである。

    われわれは汪清への途上で呉義成の伝令兵と会い、彼と行動をともにした。伝令兵の名は孟昭明といった。

    わたしの隊員は最初、身分を確かめようと彼を取り調べた。日本のスパイが四方で暗躍しているときだったので、われわれは得体の知れない人間を非常に警戒した。孟昭明は救国軍兵士工作委員会と反日部隊との協約によって発給されていた反日会員証を持っていた。それは遊撃隊員と反日部隊の兵士たちに発給されたもので、これを持っている者は双方が保護し援助することになっていた。孟昭明は反日会員証のほかに王徳林にあてた呉義成の支援要請書も持っていた。こうしてわれわれは、彼が呉義成の伝令兵であることを完全に信じることができた。

    孟昭明が天橋嶺へ行くのは、それだけの理由があった。

    「じつはこの手紙を伝達しようと東寧まで行ったのですが、王徳林が逃走したあとだったので無駄足になりました。それで呉義成のところに引き返すと彼も老母猪河に一個大隊を残して紅石拉子方面へ撤収したあとでした。ところが、老母猪河に残したというその一個大隊すら小三岔口(天橋嶺)方面へ行ってしまったというのです。それで、いまその大隊を追いかけている最中なのです。たとえ死のうとも抗日はしなければならないですからね」

    孟昭明の抗日精神は徹底していた。彼は、東北三省には時局を平定できる人物がいないと慨嘆し、「隊長さんはわれわれが勝つと思いますか、それとも日本が勝つと思いますか」と聞いた。

    「われわれが勝つと思います。西洋のある作家は、人間は敗北のためでなく勝利のために生まれたのだといっています。あなたもわたしも、勝利のためにこの雪をかき分けて進んでいるのではありませんか」

    わたしは孟昭明と一緖に、小三岔口方面へ行ったというその大隊長を探そうと決心した。われわれはその一個大隊を連合戦線の命綱とし、是が非でも彼らを説き伏せて戦いを放棄させないようにしようと考えた。孟昭明は汪清まで行き、われわれとともに腰営口防衛戦闘にも参加した。

    彼はもっとも困難なときにわれわれを助け、われわれと生死をともにした忘れられない道づれである。一九七四年に彼はわたしに手紙を寄せ、羅子溝台地でのわれわれの出会いを感慨深く思い出させてくれた。

    わたしはその手紙を見て、かつて困難に際会して友誼をあたためた呉義成の伝令兵が生きており、敦化合作社で農業に従事していることを知った。

    われわれがもっとも苦しい体験をしたのは、老黒山へ行ったときであると思う。老黒山まではそれでも救国軍が一緒だったので、いろいろと苦しい目にあいながらも別に孤独な思いはしなかった。だが、彼らがソ連へ逃走してしまったあと、広漠とした台地に取り残されたのはわれわれ十八人だけだった。王徳林が越境するとき残していった一部の隊員まで、周保中が引き連れてよそへ行ってしまったので、われわれはまったく孤立無援の状態に陥った。

    空からは飛行機が投降を促すビラをまき散らし、地上では「討伐」に動員された日本軍が四方からわれわれを包囲した。そのうえ朝鮮の高山地帯でもまれな酷寒と腰まではまりこむ大雪のため、隊伍の前進は難渋した。その日その日になんとか都合をつけ、かろうじて蓄えた食糧も底をついた。五月に出発するとき小沙河で着た新しい軍服も裂け膚がのぞく有様であった。

    そんなとき、われわれは羅子溝の台地で、馬という姓を名乗る親切な老人に出あって九死に一生を得た。われわれが馬老人と出あったのは旧暦十二月の大晦日のことである。思想から見れば無政見、無所属であったが、国民党の政治にたいしては、けしからぬと唾を吐きかける老人だった。だからといって、共産主義に共鳴しているわけでもなかった。いわば厭世家であった。だが、他人の苦しみを見ては助けずにはいられない善良で人情深い人間だった。

    馬老人には家が二棟あった。われわれが入ったのは手前の棟で、向かいの棟には救国軍の敗残兵が陣取っていた。彼らの大部分は反ソ感情が強く、ソ連が共産国だというので越境に踏み切れず、満州にいた者たちである。敗残兵のなかには、呉義成が老母猪河に残していった郭大隊長の部下もいた。

    孟昭明は一息入れるいとまもなく、救国軍の様子をうかがってくるといって、敗残兵のいる向かいの棟へ行った。わたしは、救国軍の兵士がわれわれと共同行動をとる意向があるかどうかを打診してみるように、と彼に頼んだ。彼は、郭大隊長の部下のなかに知り合いがたくさんいるから、ひとまず自分が彼らの腹を探ってみて、脈があったら金隊長が行ってじかに交渉してみてはどうかといった。

    ところが、敗残兵に会ってもどってきた孟昭明は肩を落とし、憂うつな表情でいうのだった。

    「連合戦線どころか、なんの役にも立たない連中ですよ。彼らはもう土匪になる相談をしているんです」馬老人も、彼らがわれわれの武装解除を企んでいると耳打ちしてくれた。われわれの銃を奪って仲間を増やす計画だというのである。

    こういう事態に直面して、われわれは自分自身の運命と革命の前途について深く考えざるをえなくなった。周辺に数千数万の反日部隊がいたときは、日本軍と戦えばすぐにでも勝てそうな気がしたが、彼らがみな逃走したうえ、われわれの隊伍も十八人しか残っていないいまとなっては、途方に暮れるほかなかった。汪清へ行くとしても十数挺の銃しかないのだから、それではなにもできるはずがなかった。延吉にある武器というのも、数十挺の銃にすぎなかった。かててくわえて、あの無法な敗残兵までわれわれの武器を奪おうとしているのだから、いったいどうすればよいのだろうか。名も知れぬ羅子溝の台地まで来て、汪清へ帰る道もおぼつかなくなった。いかにすべきか。わたしは自分自身に問い返してみた。武器を投げ出して地下活動でもするか、さもなければ苦労を覚悟して武装闘争をつづけるべきか。

    こういう動揺がなかったといえば、真実をねじまげ、歴史をねつ造することになるだろう。わたしはあのとき、わたしだけでなく集団内に動揺が起きていたことを隠さないし、また隠す必要もない。

    鋼鉄も酸化すれば変化をきたすものである。まして、人間は鋼鉄でもなく、弱くて変わりやすい存在なのである。だが、人間は鋼鉄よりはるかに強いともいえる。なぜなら、鋼鉄は自分の力で酸化過程を防げないが、人間は自分の思想に起こる変化を自ら統制し調整する能力をもっているからだ。問題は動揺にあるのでなく、その動揺をどう克服するかにある。人間を万物の霊長というのは、人間が自分自身を調整できる特有の能力をもっているからであり、革命家を偉大だというのも、彼らが無から有をつくりだし、逆境を順境に変えることのできる剛毅かつ創造的で犠牲的な人間であるからである。

    わたしはそのとき、いかにすべきか方向をつかむことができなかった。火が降っても槍が降っても武装闘争はつづけなくてはならないのだが、残っている隊員はみな二十歳にもみたないうら若い青年たちである。わたし自身にしても、まだ経験が浅いといえた。吉林の巷でビラをつくったり演説をして歩きまわったころは誰もが英雄豪傑気取りだったが、この場にのぞんでは誰もが初心者にすぎなかった。地下工作のときはいろいろと手立てがあったが、数万の友軍を失い、敗残兵しかいない無人の境界で十八人の行路を開くというのは、われわれの力に余る難問題であった。

    向かいの家の敗残兵は土匪になる謀議をこらしているが、われわれは絶対にそんなことはできなかった。組織化された大衆のいるところへ行けば、なにか方策が生まれるだろうが、朝鮮人の村落は八十キロほども離れているという。しかもそのあいだの谷間という谷間には、日本軍がたむろしているとのことだった。

    革命とはこんなに困難なものだろうか。二、三年もすれば容易に決着がつくだろうと思った革命が、こんなにも険しい断崖絶壁のきわに追いつめられてしまったというのか。安図でラッパを吹き鳴らし意気揚々と出発したわれわれの隊伍が、荒涼としたこの台地で前進を止めてしまうのかという思いもした。

    この部隊を誕生させるために、寝食を忘れて奮闘した日びはどれほどだったろうか。この部隊のために母の死に目にもあえず、愛する弟たちとも生き別れをしたわたしではなかったか。車光秀も、崔昌傑も、この隊伍のために青春をささげたではないか。車光秀は敦化へ偵察に行って戦死している。

    歩んできた道を振り返り、歩むべき道をまさぐるわたしの心は、地球全体がのしかかってきたように重かった。

    わたしが焚き口の前に座って複雑な思いにとらわれていると、馬老人がわたしのそばに来て静かに聞いた。

    「あんたが引率者かな?」

    「そうです」

    「なんだ、隊長ともあろう人が涙を見せるとは」

    「吹雪のなかを行軍してきたせいでしょう」

    わたしはこう答えて、その場をつくろった。だが、実際のところ、吹雪のせいでなく、わたしはこれからのことを思って泣いたのである。

    老人はしばらくのあいだわたしを見ながら、まばらな長いあごひげをなでおろしていた。

    「向かいの家にいる連中のことで心配しているようじゃが、あまり心配せんでもいい。今晩わしがよいところへ案内するから、そこで何日かゆっくり休むことだ。二十日ほど休みながら勉強もし栄養補給もすれば、諸葛孔明より頭がさえてくるじゃろうて」

    真夜中、馬老人は正体なく眠りこけていたわれわれを揺すり起こして、正月用につくった肉饅頭をふるまった。そして、二十キロほど離れた山小屋へわれわれを案内した。山小屋は空からも見えないほどうっそうとした森林の奥にあった。

    山小屋といっても、むしろござをやっと一枚敷ける程度の広さで、小さな納屋が一つついているだけだった。納屋には馬老人が罠を仕掛けてとったノロや兎の肉に小麦、トウモロコシなどの穀物やひき臼もあった。

    「部屋は狭いが、わらを敷いてすごせば結構、急場はしのげる。ここに引きこもってせいぜい養生することじゃ。外部の動きはわしが数日おきに来て知らせてやる。あんたらがここを発つときは、道案内もわしが引き受けてやろう」

    老人がこういって山小屋の焚き口に火をたきつけてくれたとき、われわれは、あまりのありがたさに喉をつまらせて涙ぐんだ。人里離れたさびしい台地で馬老人のような奇特な恩人に出あえたのは、望外の幸運であった。隊員たちは「神様」の御照覧にあずかったのだ、と冗談をいった。

    われわれは山小屋で半月余り休養をとりながら、学習をしたりノロ狩りをしたりしてすごした。

    山小屋には馬老人の本がたくさんあった。小説もあれば政治図書もあり、偉人伝などもあった。馬老人は奥深い山のなかで狩猟生活をしていたが、なかなかの学識家だった。みんなが順を争って回し読みをするので、どの本もみな毛羽だってぼろぼろになってしまった。

    本を読んだあとは必ず読後感を発表したり、一定のテーマを設けて論争し合ったりした。誰もがマルクスやレーニンの命題を引き合いに出して、自分の主張を論証しようと熱を上げた。マルクス主義創始者の命題や、有名な作家の名文句をそらんじるのが当世の流行であった。青年たちは、孫文さえ槍玉にあげるほどだった。誰かを崇拝するのも見栄だったが、もてはやされる偉人を批判するのも、また一つの見栄だったのである。

    あの時節は、誰もが自分をひけらかそうとした。誰もがひとかどの人物であり、英雄豪傑であった。

    この山小屋で、われわれは今後の行動方向についても真剣に論議した。解散して家に帰るか、さもなければ汪清の朝鮮人村へ行き、そこの別働隊を集めて部隊を拡大し、戦いをつづけるべきなのか。

    誰もが戦いをつづけようと決意したが、海竜で入隊した一人だけが、体が弱くてわれわれと一緒に武装闘争をつづけられそうにないと本音を吐いた。その隊員が遊撃闘争にたえられるほど丈夫でないのは確かだった。

    わたしは彼のそういう告白をとがめたり、問題視しようとはしなかった。

    「ついていけなければ、ここであっさり行けないといったほうがよい。革命は無理にやれるものではない。強権や脅迫ではやれないのが革命なのだ。だから去りたければ去り、戦いをつづけたければ残って戦うべきだ」

    わたしは部隊の責任を負わされた指揮官として、自分の見解をこう表明した。そして、各自がよく考えて決心するよう余裕を与えた。

    数日後、わたしは再び全員を集め、各人の決心を聞いてみた。一行のうち十六人は、たとえ死のうとも革命をつづけると誓った。

    残りの二人は除隊させてほしいといった。

    海竜から来た隊員は、先日と同様、体が弱くて武装闘争はできないから、家に帰らせてほしいといった。そして、だからといって卑怯者扱いにしないでほしいとつけ加えた。体が弱いということなので、われわれとしては彼の要請を無視することができなかった。

    わたしは彼に、われわれとともに行動するのがつらければ家へ帰れ、それをとやかくはいわない、だが、そんな格好では行けないだろう、服が破れて浮浪者のような姿なのに、そんなぶざまな格好で親もとに帰るわけにはいかないではないか、帰るとしても朝鮮人村へ行き、旅費の工面をつけ、服も着替えて帰るように、と勧めた。

    他の一人は、ソ連へ行って勉強をしたいといった。

    「推薦もうけずにソ連へ行ったところで、勉強をさせてくれるか労働をさせるかわかったものではない。汪清でしばらく活動をして、向こうと連絡がついたら、組織の推薦をうけて行くほうがよくはないか」

    二人はわたしの勧めにうなずいて、そのとおりにするといった。

    その後、われわれは馬老人に連れられて無事、羅子溝の台地を発った。老人は汪清県転角楼までわれわれの道案内をしてくれた。ほんとうに親切で世話好きで、人情深い老人であった。

    それから数年後、われわれが根拠地の内外で敵にあいつぐ打撃を加えた遊撃闘争の高揚期に、わたしは心づくしの布地と食糧を準備して羅子溝の台地を訪ねていった。だが、老人はすでにこの世の人ではなかった。

    いまもわたしの記憶には、馬老人の面影が六十年前の姿そのままにありありと残っている。いつぞや、わたしは作家たちに、その老人をモデルにして歌劇か演劇をつくってみるようにといったことがある。馬老人の伝説のような物語は、歌劇や演劇のりっぱな題材になるであろう。

    あの冬、われわれが羅子溝の奥地で餓死も凍死もせず、銃弾を浴びて死ぬようなこともなかったのは、奇跡中の奇跡だったといえる。わたしはいまでも、あの試練のなかからわれわれを立ち上がらせた力がなんであり、われわれを敗北者や落伍者ではなく、勝利者にして抗日の旗をかかげさせた力がなんであったかを自問してみるときがある。そしてそのたびに、「それは革命にたいする責任感からだった」と誇らしく自分に言い聞かせている。この責任感がなかったとしたら、われわれは雪の吹きだまりのなかに埋もれて二度と立ち上がれなかったであろう。

    わたしはあのとき、われわれが挫けてしまえば朝鮮は蘇生できないということを肝に銘じていた。われわれが死んだとしても朝鮮を救う入間がほかにいると考えたなら、われわれは羅子溝台地の雪崩に埋もれて、2度と立ち上がれなかったであろう。

    

    

    

    

    

     注  釈

    

    〔1〕 上海臨時政府 一九一九年四月、朝鮮の反日独立運動家が中国の上海で組織した臨時政府。(3ページ)

    

    〔2〕 李承晩(一八七五~一九六五) 上海臨時政府の閣僚。委任統治論の提唱者。一九四八年から一九六〇年まで南朝鮮大統領。一九六〇年の四・一九人民蜂起で放逐され、アメリカに亡命。(4ページ)

    

    〔3〕 庚申年の大「討伐」 一九二〇年、日帝が間島一帯の朝鮮人に加えた血なまぐさい虐殺蛮行。( ページ)

    

    〔4〕 青山里戦闘 間島一帯で活動した独立軍部隊が一九二〇年十月、吉林省和竜県青山里で多数の日帝侵略軍を掃討した戦闘。( ページ)

    

    〔5〕 鳳梧谷戦闘 一九二〇年六月、洪範図指揮下の朝鮮独立軍が吉林省汪清県鳳梧谷で日帝侵略軍に手痛い打撃を与えた戦闘。( ページ)

    

    〔6〕  火曜派 一九二〇年代の初め、朝鮮の初期共産主義者が組織したグループ=火曜会に参加した人たちをいう。火曜会という名称はマルクスの誕生日が火曜日だったことに由来している。( ページ)

    

    〔7〕 崔徳新(一九一四~一九八九) 金日成主席が通った華成義塾の塾長崔東旿の息子。日帝の朝鮮占領後、中国に亡命。解放後、南朝鮮で軍団長、外務部長官、西ドイツ大使などを歴任。朴正煕執権期にアメリカに亡命。その後朝鮮民主主義人民共和国に永住し、祖国平和統一委員会副委員長、天道教青友党委員長として活躍。( ページ)

    

    〔8〕 M・L派 一九二〇年代中期に組織され、朝鮮共産主義運動と労働運動に大きな弊害を及ぼしたセクト集団。( ページ)

    

    〔9〕 ウジェーヌ・ポティエ(一八一六~一八八七) パリコンミューン文学の代表的詩人。第一インターナショナルに加入。パリコンミューンの委員。『インターナショナル』『暴動者』の作詩者。( ページ)

    

    〔 〕 李相和(一九〇一~一九四三) 朝鮮の著名な詩人。慶尚北道大邱の出身。初期はブルジョア文学流派に属したが、三・一人民蜂起後は進歩的な文学団体「カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)」に加盟。作品には『奪われた野にも春は来るか』『海の歌』『嵐を待つ心』などがある。( ページ)

    

    〔 〕 崔曙海(一九〇一~一九三二) 作家。咸鏡北道城津(金策市)の出身。少年のころから独学で文学修業。一時満州で放浪生活。帰国後『故国』『脱出記』『飢餓と殺戮』『朴礏乭の死』など多くの小説を発表。一九二五年「カップ」の創設に参加。( ページ)

    

    〔 〕 羅稲香(一九〇二~一九二七) 作家。ソウル出身。『啓蒙』と『時代日報』記者を務めながら創作に従事。

        初期はブルジョア文壇に作品を発表し、三・一人民蜂起後は当代社会を批判する作品を創作。作品には『使用人部屋の息子』『おのれを探す前』『水車』『唖の三竜』など二十余篇の短編小説と三篇の長編小説がある。( ページ)

    

    〔 〕 「恵山事件」 日本軍警が一九三七年の秋と翌一九三八年に鴨緑江沿岸一帯で朝鮮の革命組織と革命家に加えた二回の大検挙事件。( ページ)

    

    〔 〕 ソウル派  朝鮮の初期共産主義運動内の派閥。一九二〇年代に「ソウル青年会」の分裂後に組織された。( ページ)

    

    〔 〕 統義府 一九二〇年初、中国東北地方の桓仁県で韓族会、光復軍総営など各団体が統合して組織された朝鮮独立運動団体。( ページ)

    

    〔 〕 張作霖の爆死事件 日帝が満州侵略の口実をかまえるために起こした事件。

        一九二八年六月、張作霖は北京から瀋陽へ引き揚げる途中、瀋陽近くの鉄橋で列車を爆破され殺害された。( ページ)

    

    〔 〕 『孫子』 中国に伝わる最古の兵書。呉の孫武が著者とされている。( ページ)

    

    〔 〕 『三国志』 中国三国時代の歴史を記述した史書。晋の陳寿の撰述。( ページ)

    

    〔 〕 『東国兵鑑』 一四五〇年に編纂された朝鮮の兵書。戦争史を主に著述。( ページ)

    

    〔 〕 『兵学指南』 一七八七年に編纂された朝鮮の兵書。訓練法を主に著述。( ページ)

    

    〔 〕 壬辰祖国戦争 日本の朝鮮侵略によって起こった七年間(一五九二~一五九八)の戦争。壬辰倭乱ともいう。( ページ)

    

    〔 〕 金佐鎮(一八八九~一九三〇) 朝鮮の独立運動家。忠清南道洪城の出身。

        一九一三年大韓光復団に加入。満州に亡命して徐一らとともに北路軍政署を組織。新民府の幹部の地位にあって反日武装活動を展開。( ページ)

    

    〔 〕 『戦争論』 プロシア出身のクラウゼウィッツ(一七八〇~一八三一)の著書。ベルリン陸軍大学校長時代にナポレオン一世の諸戦争を分析して著わしたもので一八三二年に出版。( ページ)

    

    〔 〕 東三省 中国東北地方の吉林省、黒竜江省、奉天省(いまの遼寧省)。( ページ)

    

    〔 〕 許浚(一五四五~一六一五) 朝鮮の名医。五篇二十五巻の膨大な医書『東医宝鑑』を執筆。( ページ)