社会主義は科学である。多くの国で社会主義は挫折したが、科学としての社会主義は依然として諸国人民の心のなかに生きている。帝国主義者と反動勢力は、社会主義を建設していた一部の国で起こった事態を見て「社会主義の終焉」について喧伝している。社会主義の背信者たちは、社会主義の理念そのものが誤りであるとして、彼らの醜悪な背信行為を弁護しようとしている。しかし、真理は覆いかくせるものではなく、抹殺できるものでもない。多くの国における社会主義の崩壊は、科学としての社会主義の失敗ではなく、社会主義を変質させた日和見主義の破綻を意味する。社会主義は日和見主義によって一時的に心痛に耐えない曲折を経てはいるが、その科学性、真理性によって必ず再生し、最終的に勝利を収めるであろう。
社会主義は自主性のためにたたかう人民大衆の理念であり、革命的旗じるしである。人民大衆の自主性は社会主義・共産主義によって実現する。
人民大衆は敵対的階級社会で自主性を無残に蹂躙されてきた。抑圧のあるところには抵抗があり、抵抗のあるところには革命が起こるものである。人民大衆は歴史的に長い間、自主性の実現をめざして力強くたたかい続け、その過程で階級社会の交替がなされ、自主性のための人民大衆のたたかいが発展してきた。しかし、敵対的階級社会の交替は、人民大衆の自主性を抑圧する形態上の変化をもたらしただけで、人民大衆は社会的・政治的従属から解放されなかった。
敵対的階級社会で人民大衆の自主性が実現されなかったのは、それがいずれも個人主義に基づく社会であったからである。個人主義は私的所有制度の産物である。私的所有とそれによって生まれる個人主義に基づく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生み、人民大衆に対する少数支配階級の搾取と抑圧を伴うようになる。歴史は、個人主義に基づく社会では人民大衆の自主性は実現され得ないことを示している。人民大衆の自主性を実現するためには、個人主義に基づく社会から集団主義に基づく社会、社会主義・共産主義へと移行しなければならないというのが、人類社会発展の歴史的総括である。
資本主義は個人主義をごく少数の資本家の際限ない貪欲に変え、個人主義に基づく社会の敵対的矛盾をその極に至らしめた。一方、自主性のための人民大衆のたたかいは新たな発展段階に入っている。現代は人民大衆が自己の運命の主人、世界を支配する主人として登場した自主性の時代である。これは、個人主義に基づく社会から集団主義に基づく社会への移行が歴史発展の必然的要求となっていることを意味する。
集団主義は人間本来の要求である。人間は社会的集団をなして活動してこそ、生存し、発展することができる。人間は個別的にではなく社会構成員の集団的協力によってのみ自然と社会を改造し、自主的要求を実現することができる。人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない。集団の自主的要求は、社会的集団の生存と発展のための社会構成員にとって共通の要求である。個人の自主的要求は社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求である。個人の自主的要求は、集団を無視し、すべてを個人の利益に従わせる個人主義的貪欲とは根本的に区別される。集団の自主的要求と個人の自主的要求は、集団主義によってのみもっともりっぱに実現される。集団主義を離れた個人の要求は個人主義的な貪欲へと変わり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害することになる。集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結びつけ、ともに円滑に実現していけるようにする。社会的集団をなして活動するのは人間の生存方式であり、人間の自主的要求は集団主義によってのみりっぱに実現するため、集団主義に基づく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である。
もちろん、社会主義制度が樹立されるからといって、ただちに社会生活のすべての分野に集団主義の原則が全面的に具現されるわけではない。それは、社会主義社会に旧社会から引き継がされた遺物が一定の歴史的期間、残存するからである。社会主義社会に旧社会の遺物が残るのは過渡的な現象であり、社会主義の発展に伴ってそれは次第に克服され、社会生活のすべての分野に集団主義の原則がいっそう全面的に具現されるようになる。
社会主義は歴史発展の必然的段階であり、社会主義社会は人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会であるが、それは決しておのずと実現するのではない。社会主義を実現するには、それを担って遂行する革命勢力が準備され、正しい闘争方法が講じられなくてはならない。革命勢力が準備されず、正しい闘争方法が講じられなければ、社会主義を志向する人民大衆の自主的要求は単なる願望としてあり続けるだけである。
搾取と抑圧、社会的不平等とその基礎にある私的所有をなくし、社会的所有に基づく平等な社会を打ち立てるという思想は、早くから空想的社会主義者たちによって提起された。しかし、空想的社会主義者たちは被搾取勤労大衆の哀れな境遇に同情はしながらも、彼らを搾取社会を葬り新しい社会を建設できる革命勢力とは見なせなかったのである。彼らは人々を啓蒙するとともに、搾取階級の「善意」に訴えて資本主義社会の不合理な点を改造することができると見なした。貪欲を階級的本性とする搾取階級に「善意」を期待するのは、非科学的な幻想である。空想的社会主義者たちが搾取階級に「善意」を期待したのは、彼らの歴史的な制約からであった。
搾取階級とその手先は「階級協調論」を提唱し、搾取と抑圧に反対する被搾取勤労大衆の闘争を阻もうと策動した。共産主義運動内では、改良主義者、修正主義者らが「階級協調」を唱えて革命運動の発展に大きな弊害を及ぼした。こんにち、社会主義の背信者たちも資本主義に幻想を抱き、帝国主義者の「援助」や「協力」に期待をかけて資本主義復活の騒ぎを演じている。歴史は、搾取階級の「善意」や「階級協調」に期待をかけるのは革命を無にする道であることを示している。
社会主義を志向する勤労人民大衆の要求を革命勢力および革命的な闘争方法と結びつけたのはマルクス主義である。マルクス主義は、資本主義社会には生産力と生産関係との矛盾が存在し、この矛盾は搾取階級に反対する被搾取勤労大衆の階級闘争によって解消され、その階級闘争を担って導くのは労働者階級であることを明らかにした。マルクス主義によって資本主義の滅亡と社会主義の勝利の必然性が示され、社会主義を志向する被搾取勤労大衆の願望がそれを実現する現実的な革命勢力および革命的な闘争方法と結びつけられることによって、社会主義は空想から科学となり、人類解放闘争史に革命的転換がもたらされるようになったのである。
しかしながら、唯物史観に基づく従来の社会主義学説は歴史的制約性を免れることはできなかった。従来の理論は、社会的・歴史的運動をその主体である人民大衆の主動的な作用と役割によって発生、発展する主体の運動と見なさず、主に物質的・経済的要因によって変化、発展する自然史的過程と見なした。唯物史観の原理にしたがえば、資本主義社会では生産力が発展すればするほど、生産力と生産関係との相容れない矛盾と、搾取階級と被搾取階級との敵対的矛盾が激化し、労働者階級をはじめ革命勢力が成長し、その結果として革命の機がますます熟成することになる。社会主義に関する従来の理論は、物質的・経済的要因を革命闘争の基本と見なすだけで、革命の主体の強化とその役割の向上を革命の根本的方法として提起することができなかった。
資本主義社会において生産力の発展が及ぼす影響について言及するならば、それも一面的にとらえるべきではない。資本主義社会における生産力の発展は、「富益富、貧益貧」の両極分化を深め、階級的矛盾を激化させるとともに、独占資本家に独占的な高率利潤の一部を階級的矛盾の解消に利用させる可能性も増大させる。また生産力の発展は、農民をはじめ小ブルジョアジーを分化させ、産業労働者階級の隊伍を拡大すると同時に、生産部門の精神労働と技術労働に従事する勤労者と、非生産部門の勤労者の比重を高める結果をも招く。
革命闘争において客観的条件が重要な作用をすることは言うまでもない。しかし、革命の勝敗を左右する決定的要因は客観的条件にあるのではなく、革命の主体をいかに強化し、その役割をいかに高めるかにある。資本主義が発達した国であれ、未発達の国であれ、革命の主体を強化し、その役割を高めることに成功するなら、社会主義の勝利を手にすることができるのである。歴史的実例は、資本主義の発達した国々ではなく、相対的に立ち後れた国々で社会主義が先に勝利したことを示している。チュチェ思想の旗のもとに前進してきた朝鮮革命の経験は、革命の主体を強化し、その役割を高めるなら、所与の客観的条件を正しく利用できるだけでなく、不利な客観的条件をも有利な条件に変え、逆境を順境に、禍を福に変えて革命の勝利を保障できることを立証している。
唯物史観に基づく従来の理論の制約性は、社会主義制度が樹立されたのち、社会主義建設においていっそう顕著に表れてきた。
一般に、社会が発展すればするほど、社会的運動の主体である人民大衆の役割はいっそう高まるものである。それは、社会の発展に伴って人民大衆の自主意識と創造的能力が高まるからである。社会的運動の主体としての人民大衆の役割は、社会主義社会においてかつてなく高まる。社会主義社会は高い思想・意識をもち、一つに統一・団結した人民大衆の創造力によって発展する社会である。社会主義社会では人間改造、思想改造が社会主義の物質的・経済的条件を構築する事業よりもなお重要かつ第一義的な課題となり、人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができる。社会主義社会で客観的な物質的・経済的条件に決定的意義を付与し、経済建設にのみ汲々として人民大衆の思想改造を二次的なものとし、革命の主体を強化してその役割を高めることをおろそかにするなら、全般的社会主義建設を正しく進めることはできず、経済建設そのものも停滞を免れない。以前、社会主義を建設していた一部の国でこのような現象が少なからず表れ、社会主義の背信者たちはそれを奇貨にして「改革」を進め、社会主義経済体制そのものを崩壊させる反革命的行為をあえてした。
かつてマルクス主義の創始者たちが物質的・経済的条件を基本にして社会主義学説を展開したのは、神秘主義と宿命論を主張して資本主義を神聖化し、その「永久性」を説くブルジョア反動理論を打破することが重要な歴史的課題となっていた事情がある。ところが、こんにち、社会主義の背信者たちは資本主義に幻想を抱き、それを復活させるために物質至上主義、経済万能主義を提唱したのである。
社会主義を新たな科学的土台のうえに位置づけることは、従来の社会主義学説の歴史的制約性を克服するためばかりでなく、あらゆる日和見主義者の歪曲と帝国主義者の攻撃から社会主義を固守するためにも非常に切実な課題となった。
社会主義を新しい科学的土台のうえに位置づけるという歴史的課題は、
偉大な領袖
チュチェの社会主義理論の科学性、真理性は朝鮮革命の実践的経験によって実証された。朝鮮人民は、立ち後れた植民地半封建社会の状態で社会主義をめざすたたかいを開始し、人一倍困難な状況のもとで革命と建設を遂行せざるを得なかった。しかし、わが党はチュチェ思想の要求通り、つねに人民大衆を党と領袖のまわりに組織的、思想的に固く結集させて革命の主体を強化し、その役割を高めることを基本とし、それを堅持することで、社会主義の道を成功裏に切り開くことができた。わが党は社会主義建設においてあくまで人間改造、思想改造をすべての活動より優先させて、朝鮮革命の政治的・思想的威力をあらゆる面から強化すると同時に、自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることによって、こんにちの複雑な情勢のもとでも微動だにせず、革命と建設を力強く推し進めている。実践的経験は、チュチェ思想を具現したわが国の社会主義がもっとも科学的で生命力のある社会主義であることを如実に示している。
われわれの社会主義は、人間に対する主体的な観点と立場に基づいている。
人間に対する観点と立場の問題は、社会の発展、革命の発展にどのような観点と立場から向き合い、それをどう理解するかということにおいて基礎的な問題となる。人間に対する観点と立場は、思想と理論、路線と政策の科学性と正当性を決定する基準となる。人間に対するもっとも正確な主体的観点と立場に基づいているところに、わが国の社会主義の科学性、真理性がある。
チュチェ思想は歴史上初めて、人間の本質について科学的な解明を与えた。
人間の本質をどうとらえるかということは単なる学術上の問題ではなく、階級的利害を反映した社会的・政治的問題である。人間の本質に関する問題では、歴史的に進歩と反動とのあいだで深刻な哲学的論争が展開されてきた。
反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間の本質を搾取階級の利害に合わせてねじ曲げ、搾取社会を合理化するのに利用した。かつて人間の本質に関する哲学的論争では、主に人間を精神的存在とする見解と、物質的存在とする見解とが両立していた。人間を純然たる精神的存在とする宗教的・観念論的見解によれば、人間はある超自然的な神秘的存在の産物であり、人間の運命もそれによって決定されるというのである。反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間に対する宗教的・観念論的見解から、勤労人民大衆が搾取され抑圧される不幸な境遇は避けがたい宿命であり、したがって定められた運命に従順であるべきだと説いた。人間を単なる自然的・生物学的存在とする見解では、意識の調整、統制のもとに目的意識的に活動する人間と、本能によって支配される生物学的存在との質的差異は区別できなくなる。反動的な支配階級とその代弁者たちは、こうした見解を弱肉強食の法則が支配する資本主義社会の弁護に利用した。社会主義の背信者たちがブルジョア自由化と資本主義市場経済を導入して資本主義を復活させているのも、人間に対する反動的な観点と立場に根差しているのである。
人間は純然たる精神的存在でもなければ、単なる生物学的存在でもない。人間は社会的関係を結んで生き活動する社会的存在である。社会的存在であるというところに、他の生物学的存在と区別される人間の重要な特性がある。
マルクス主義は、人間の本質を社会関係の総体と定義づけた。この定義は、人間を純然たる精神的存在と見なすか、単なる生物学的存在と見なす非科学的で反動的な見解を打破するのに歴史的な貢献をした。しかし、人間の本質を社会関係の総体と定義づけたのでは、人間そのものの本質的特性についての全面的な解明とはなりえず、したがって、それによって人間と世界との関係、世界における人間の地位と役割を正しく解明することはできない。
チュチェ思想は初めて、人間そのものの本質的特性を科学的に解明し、それに基づいて世界における人間の地位と役割を新たに明らかにしたのである。
以前にも、人間そのものの特性を基本にして人間の本質を解明しようとする試みは少なからずあった。人間を話す存在、労働する存在、思惟する存在というふうに定義づけようとしたことがその例として挙げられる。しかし、それらはいずれも、人間の本質的属性の発現である、その活動のある側面をもって論じたものであった。
人間は自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在である。自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在であるというところに、人間の本質的特性がある。
自主性は、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属したり束縛されることなく、自主的に生き、発展しようとする社会的人間の属性である。創造性は、自己の要求に即して目的意識的に世界を改造し、自己の運命を開いていく社会的人間の属性である。意識性は、世界と自分自身を把握して改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性である。自主性と創造性は意識性によって保障される。人間は意識をもって自主的で創造的な活動をするという点で、本能によって動く動物と質的に区別される。人間が活動する過程は、その自主性、創造性、意識性が発現する過程であり、自主的・創造的・意識的活動は人間の存在方式である。
人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在になり得るのは、発達した有機体、とくにもっとも発達した頭脳をもっていることと切り離しては考えられない。人間の発達した有機体は、自主性、創造性、意識性をもち得る生物学的基礎となる。しかし、それ自体が自主性、創造性、意識性を生むのではない。人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され、発展する社会的属性である。
人間は自主性、創造性、意識性をもつがゆえに、自己の運命を自分の力で開いていけるのである。生物学的存在にとってその運命は、客観的な生活環境にいかに順応するかによって左右される。生物学的存在は、客観的な生活環境によってその運命が決まる自然の一部であると言える。これとは異なり、人間は客観世界を自己の要求に即して改造しつつ、自己の運命を自分の力で開いていく世界の主人、世界の改造者である。人間の自主性、創造性、意識性が発展すればするほど、世界の主人、世界の改造者としての人間の地位と役割は高まり、それは人間による自然と社会の改造において表れてくる。人間の自主的思想・意識と創造的能力が発展し、その役割が高まるにつれて社会的富は増し、社会関係は改善されていく。歴史発展においてすべての世代は、前世代が創造した社会的富と社会関係、すなわち所与の客観的条件から出発し、それを利用する。社会発展においてこのような客観的条件は重要な働きをするが、客観的条件そのものは人間の自主的・創造的・意識的活動の歴史的創造物であり、それを利用し、さらに発展させるのも人間である。所与の客観的条件が有利であっても、それを利用し発展させる人間の自主性、創造性、意識性が低く、十分に発揮されなければ、社会は急速に発展することはできず、客観的条件が不利であっても、人間の自主性、創造性、意識性が高く、それが正しく発揮されれば、社会は急速に発展するものである。これは、社会発展の歴史的過程が人間の自主性、創造性、意識性の発展水準とその発揮程度によって決定されることを意味する。被搾取勤労大衆は早くから搾取と抑圧のない平等な新しい社会を望んだが、それが過去の歴史的時代に実現されなかったのも、勤労者大衆の自主的思想・意識と創造的能力が発展せず、その役割が低い水準にあったからである。自然と社会を改造し、歴史を前進させるのは人間であり、人間の自主的思想・.意識と創造的能力が急速に発展し、その役割が高まれば高まるほど、社会・歴史の発展は促進され、革命と建設は成功裏に推進されるのである。社会発展の歴史はつまるところ、人間の自主性、創造性、意識性の発展の歴史であると言える。
人間は自主的、創造的、意識的な存在であるため、もっとも尊く有力な存在となる。人間は世界における唯一の主人であり、唯一の改造者である。世界には人間ほど尊い存在はなく、人間より有力な存在もない。
しかし、ブルジョア反動勢力は、人間をもっとも尊い存在と見なすのではなく、物質的生産の一つの手段、商品として売買される、労働力をもった取るに足らぬ存在と見なしている。彼らはまた、人間を自らの力で自らの運命を開いていく有力な存在と見なすのではなく、黄金によって支配される無気力な存在と見なしている。社会主義の背信者たちが資本主義を復活させ、失業と貧困を競争意欲と労働の強度を高める強圧手段と見なして、社会主義がもたらしたあらゆる人民的施策を抹殺しているのも、自国人民の力に頼らず、西側資本主義諸国の「援助」と「協力」に期待をかけて帝国主義者に阿諛追従しているのも、人間に対する反動的なブルジョア的観点のためである。
人間本位の社会主義は、人間を中心にすえて社会・歴史発展の合法則性を新たに科学的に示したチュチェの社会・歴史原理に基づいている。人間本位の社会主義は、人間に対する主体的観点と立場から出発して、すべてのものを人間に奉仕させ、すべての問題を人間の創造的役割を高めて解決していくもっとも科学的な社会主義である。われわれの社会主義は、人間の自主性をしっかり擁護、保障し、人間の思想・意識と創造的能力を急速に高め、それを大いに発揮させて、世界の主人、世界の改造者としての人間の地位と役割を比類なく高め、革命と建設の強力な推進を可能にする。
チュチェ思想は、人間の生命の本質と生の価値についても新たに解明した。
人間を一つの生物有機体とすれば、人間の生命はすなわち肉体的生命を意味する。しかし、人間は肉体的生命のみをもって生きる存在ではない。チュチェ思想は歴史上初めて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるとすれば、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命である。社会的・政治的生命は社会的存在である人間に固有な生命である。
人間にとって肉体的生命は大切である。人間は肉体的生命がなければ、社会的・政治的生命をもつこともできない。そういう意味で、肉体的生命による要求を実現する物質生活は、人間の第一義的な要求を実現する生活であると言える。人間は単なる生物学的存在とは異なる社会的存在であるため、人間の自主性、創造性、意識性の発達と社会の発展に伴って物質生活に対する人間の要求は絶えず高まり、それは社会的・政治的生命にも影響を及ぼす。安定した健全な物質生活は、人間の肉体的生命による要求を十分に保障するばかりでなく、社会的・政治的生命を維持し、輝かす物質的保証となるものである。
人間にとって肉体的生命も大切であるが、より大切なのは社会的・政治的生命である。肉体的生命より社会的・政治的生命をより大切にするのは、社会的存在である人間本来の要求である。社会的・政治的生命の要求を抜きにして肉体的生命の要求のみを追求するならば、いくら豊かな物質生活を営むとしても、それは決して有意義な生活とは言えず、そうした物質生活は人間の本性に反する動物の生活にも等しい奇形的かつ変態的な生活になりさがってしまう。
人間にとって自主性は生命である。人間は自主的な社会的存在であって、何ものにも従属したり、束縛されることなく自主的に生きることを求める。人間が自主的に生きるということは、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きることを意味する。人間は社会的存在であり、自主的権利をもって、自主的要求を実現しながら生きてこそ、社会的・政治的生命を持し、尊厳をもって生きていると言える。人間が自主性を失い、他人に従属しているなら、命はあっても社会的、政治的には屍に等しい。自主的に生きようとする人間の要求は、何よりもまず自主的な政治生活を通じて実現される。人間が社会的、政治的に従属していては、いかなる自主的な生活も営むことはできない。
人間にとってもっとも大切な生命は社会的・政治的生命であるため、人間の誉れ高い生き方は社会的・政治的生命を持し、それを輝かしながら生きることである。人間は社会的・政治的生命を社会的集団から授けられる。社会的集団は、人間の社会的・政治的生命の母体である。それゆえ、人間の生が価値あるものかどうかは、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっている。人間の生は社会的集団に愛され信頼されれば価値あるものとなり、社会的集団から見捨てられれば価値のないものとなる。人間は個人の利益よりも社会的集団の利益を大切にし、社会的集団に忠実に奉仕するとき、社会的集団から愛され信頼されるようになる。結局、人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである。まさにこれこそが、人間が社会的・政治的生命を輝かして生きる道であり、社会的存在として人間らしく生きる道である。
こんにち、ブルジョア反動勢力と社会主義の背信者たちが人間による人間の搾取と支配を正常なことと見なし、人間を個人の物質的欲求のみを追求する低俗な存在と見なすのは、人間の生命の本質と生の価値に対するブルジョア的観点と立場の反動性を示す明白な表現の一つである。
すべての人がもっとも大切な社会的・政治的生命を輝かし、肉体的生命の要求をも充足させる真の人間生活は、集団主義に基づく社会主義社会でのみりっぱに実現することができる。社会主義社会では、人々があらゆる搾取と抑圧、支配と従属から解放され、社会・政治生活をはじめすべての分野で自主的かつ創造的な生活が営めるようになる。社会主義社会で人々が社会の主人としての高い自覚と能力をもって自主的かつ創造的な生活を営めるようにするには、彼らに組織・思想生活と文化生活を正しくさせなければならない。人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通じて自主的な思想・意識をもち、全面的に発達した創造的能力を備えてこそ、社会と集団に積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高い生を営むことができるのである。
わが国の社会主義は、人間をもっとも大切にし、人間本来の要求をりっぱに具現して、すべての人が社会的・政治的生命をもち、それを限りなく輝かすようにし、彼らの肉体的生命の要求を十分に保障する真の人間本位の社会主義である。人間本位の社会主義は、社会の全構成員が高い思想・意識と創造的能力を身につけて社会と集団のために献身しながら、社会と集団に愛され信頼されて、共にむつまじく暮らし、誉れ高く甲斐ある生を思う存分営めるようにする。
わが国の社会主義は、人民大衆に対する主体的観点と立場に基づいている。
社会主義の真理性と優越性は、それに対する人民大衆の支持と信頼に表れる。わが国の社会主義は人民大衆に対する主体的観点と立場に基づいているため、人民大衆から絶対的に支持され信頼される、もっともすぐれた威力のある社会主義である。
人民大衆は歴史の主体である。人民大衆は働く人々を基本に、自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団である。
人民大衆という言葉は、階級社会においては階級的性格を帯びる。搾取社会においては生産手段と国家主権を握っているかどうかによって、社会は搾取階級と被搾取階級、支配階級と被支配階級とに分かれ、人民大衆は基本的に被搾取階級、被支配階級により構成される。人民大衆の階級的構成は固定不変ではなく、社会、歴史の発展過程で変わる。資本主義社会では、労働者、農民だけでなく、勤労知識人をはじめ自主性を擁護してたたかう諸階級と階層が人民大衆をなす。社会主義社会では、すべての人が社会主義的勤労者となり、各階層の人がすべて人民大衆の構成員となる。もちろん、社会主義社会でも少数の敵対分子による蠢動が続き、革命隊伍から裏切り者も出かねない。それゆえ、社会主義社会でも人民大衆とそれに敵対する要素とを明確に見極めなければならない。
人民大衆という言葉は社会的・階級的関係を反映しているが、それは純然たる階級的概念ではない。もともと、人民大衆は相異なる階級と階層からなっている。人民大衆の構成員かどうかを判別するには社会的・階級的立場を見なければならないが、それを絶対視してはならない。人間の思想と行動は社会的・階級的立場の影響だけを受けるのではない。人間は革命的影響を受け、先進思想を体得すれば、社会的・階級的立場はどうであれ、人民大衆に奉仕することができる。人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的基盤がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある。各階層の人々を人民大衆として結合させる思想的基礎は社会主義・共産主義思想だけではない。祖国と人民と民族を愛する愛国、愛民、愛族の思想をもっていれば、誰でも人民に奉仕することができ、したがって人民大衆の構成員になることができる。
帝国主義者と反動勢力はその階級的本性からして人民大衆と対立しており、したがって、人民という言葉そのものを恐れている。帝国主義者と反動勢力は、「国民」という言葉をよく使って資本主義社会の階級的対立と矛盾を覆い隠そうとしている。社会主義の背信者たちも「公民社会」の建設だのなんだのといって、「公民」という言葉で彼らの反人民的策動を隠そうとしている。もちろん、反動勢力や背信者たちが偽善的に「人民」という言葉を使うのをよく耳にすることがある。しかし、人民を敵視する者、人民を裏切った者が「人民」という言葉を使うからといって、その反人民的本質が覆い隠されるものではない。人民、これはひたすら人民に忠実な人、人民大衆のためにすべてを捧げてたたかう共産主義者のみが堂々と使える神聖な言葉なのである。
人民大衆は社会のあらゆるものの主人である。それは社会のあらゆるものが人民大衆によって創造されるからである。
人民大衆は自然と社会を改造するもっとも有力な創造的能力の持ち主である。個々の人の力と知恵には限界があるが、人民大衆の力と知恵には限界はない。この世に全知全能の存在があるとすれば、それはほかならぬ人民大衆である。人民大衆の底知れない力と知恵によって社会のあらゆるものが創造され、歴史は前進し、革命は推進されるのである。
人民大衆は自然を改造し、生産力を発展させ、物質的富を創造する。もちろん、資本家階級もより多くの利潤を得るために生産力の発展に関心をもつが、彼らは自分の手では物質的富を創造しない。人民大衆は思想的・文化的財産を創造する。人民大衆は直接、思想的・文化的財産を創造するだけでなく、先進的な思想家、すぐれた科学者、才能ある作家・芸術家を輩出する。搾取階級も自己の思想・文化の代弁者を推し立てるが、彼らのつくりだす思想・文化は社会の健全な生活と発展を阻害する。人民大衆は社会を改造する。反動的な搾取階級は社会の改造ではなく、旧搾取制度の維持、強化にだけ利害をもつ。ブルジョア支配層が進める「改革」なるものは、あくまでも資本主義の危機を免れるためのものである。社会の進歩的な改造は、自覚し団結した人民大衆によってのみ遂行される。社会のあらゆるものは人民大衆によって創造されるため、人民大衆は当然、それらすべてのものの主人とならなければならない。人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなる社会主義社会においてのみ、社会のあらゆるものの真の主人となるのである。
人民大衆は社会のあらゆるものの主人であるため、主人としての地位を占めて権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受すべきである。
人民大衆は社会のあらゆるものの主人としてその地位を占め、権利を行使すべきである。
主人の地位を占め権利を行使するのは、人民大衆の自主的要求である。自主性は人民大衆の生命であり、自主的地位と権利は、人民大衆の運命を左右する基本的条件である。人民大衆は国家と社会の主人であり、政治、経済、文化など社会生活の各分野で主人としての地位を占め、権利を行使しなければならない。
人民大衆の自主性をしっかり擁護し実現するためには、人民大衆の自主的要求を反映させてすべての路線と政策を策定し、人民大衆の力に依拠してそれを実行しなければならない。
人民大衆の自主的要求は、路線と政策の正否を判別する基準となる。革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折を免れる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、彼らの意思と要求に耳を傾けることである。人民大衆は何ごとにおいても教師である。人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化すれば、思想になり、路線と政策になるのである。労働者階級の党はつねに、路線と政策の策定にあたって人民大衆のなかに入り、彼らの意思と要求に耳を傾けなければならない。幹部の活動においても、人民大衆の意思と要求に耳を傾けることを優先させなければならない。わが党が複雑かつ困難な環境にあっても、もっとも優れた社会主義制度を樹立し、それを絶えず輝かしてくることができたのは、人民大衆のなかに入り、彼らの自主的要求を汲み上げて路線と政策を策定し、人民大衆の力に依拠してそれをあくまで実行してきたからである。わが国の社会主義がいささかの偏向や曲折もなく、もっとも科学的な道にそって成功裏に前進してきた秘訣はここにある。
人民大衆の自主性を擁護し実現するためには、国家と民族の自主性を固守しなければならない。
政治における自主、経済における自立、国防における自衛を実現することが、わが党が終始一貫して堅持している革命的原則である。わが党と人民は国家と民族の自主性を尊び、帝国主義者と支配主義者の圧力のもとでも自主、自立、自衛の革命的原則を貫き通し、国家の自主権と尊厳を揺るぐことなく守り、こんにちも変わることなく自己の信念に基づいて社会主義の旗を高く掲げて前進している。
いま帝国主義者は横暴にも他国の内政に干渉し、他国人民の自主権を踏みにじりながら、それを「人権擁護」という口実のもとに正当化しようと策動している。人権は、国家と民族の自主権と切り離しては考えられない。外部勢力に支配される国の人民には決して人権は保障されない。人権は政治、経済、思想・文化など社会生活の各分野で人民が行使すべき自主的権利である。帝国主義者の言う「人権」とは、金さえあれば何でもできる有産階級の特権である。帝国主義者は失業者の労働の権利、身寄りのない人や孤児の生活の権利などは人権として認めていない。勤労者に基本的な生存の権利さえ与えず、反人民的な政策と人種的・民族的差別政策、植民地主義政策を実施する帝国主義者には、人権について論ずる資格もない。人権の第一の敵は、人民の自主権を踏みにじり、「人権擁護」の看板のもとに他国の内政に干渉する帝国主義者である。われわれは、わが国と民族の自主権をみだりに侵害しようとする帝国主義者のいかなる干渉や専横をも絶対に許さず、国家と民族の自主権を断固として守り通すであろう。
人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、その責任と役割を果たさなければならない。
人民大衆は主人としての責任と役割を果たさなければ、主人としての地位と権利を守ることはできない。革命と建設は人民大衆のための事業であり、人民大衆自身の事業である。人民大衆は、革命と建設で提起されるすべての問題については自分自身が責任をもち、自分の力で解決しなければならない。
人民大衆が社会のあらゆるものの主人としての責任と役割を果たせるようにするためには、主人としての自覚を高めなければならず、そのためには思想改造、政治活動を優先させなければならない。思想改造、政治活動をすべての活動に優先させるのは、社会主義社会本来の要求である。人民大衆が国家と社会の主人となっている社会主義社会での社会発展の基本的推進力は、自主的な思想・意識をもち、党と領袖のまわりに固く団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性である。思想改造、政治活動を優先させて、社会の全構成員を共産主義的に改造し、彼らの革命的熱意と創造的積極性を高めてこそ、革命と建設を力強く推し進め、社会主義の優越性を高く発揮させることができる。したがって、社会主義建設においてはつねに思想改造、政治活動を優先させ、人民大衆を教育し、彼らの革命的熱意と創造的積極性を高める活動を基本にとらえていかなければならない。社会主義建設を推進するうえで思想改造、政治活動を優先させて、人民大衆の役割を高める方法以外に妙策はあり得ない。金で人を動かそうとするのは、社会主義社会の本性に反し、そういう方法では社会主義の優越性を発揮させることはできない。金で人を動かす資本主義的方法に依拠するようになれば、人々の革命的熱意と創造的積極性を高めることができないばかりか、社会主義制度そのものを変質させて危険に陥らせる結果を招くことになる。わが党は思想改造、政治活動をあくまで優先させることで、人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性に依拠して革命と建設を力強く前進させ、社会主義の優越性を高く発揮させることができた。党と領袖のまわりに固く団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性は、もっとも科学的な社会主義である人民大衆中心の朝鮮式社会主義の優越性と不抜性を誇示する力の源である。
人民大衆が社会のあらゆるものの主人としての責任と役割を果たせるようにするためには、人民大衆の創造的能力を培わなければならない。人民大衆の創造的能力を培うことは、革命と建設においてつねに第一義的な関心を払うべき重要な問題である。人民大衆は社会のあらゆるものの創造者であるため、革命と建設の成果は、人民大衆を有力な存在に育てる活動をいかに進めるかにかかっている。人民大衆を有力な存在に育てるというのは、人民大衆の自主意識とともに創造的能力を高めることを意味する。資本主義社会では、自主的かつ創造的な存在として絶えず発展しようとする人民大衆の要求が満足に実現されることはない。帝国主義者や資本家には、自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間ではなく、自分たちに従順で剰余価値を生み出す奴僕が必要なのである。そのために帝国主義者と資本家は、勤労者大衆を資本の奴隷にするためには手段と方法を選ばず、大衆を思想的に堕落させ、彼らの創造的能力を奇形化しているのである。自主的かつ創造的な存在として発展しようとする人民大衆の要求は、社会主義社会でのみ確実に実現されるのである。わが党は、もっともすぐれた社会主義教育制度と全人民が学習する体系を打ち立て、それを国家と社会の負担で運営することで、社会の全構成員を全面的に発達した社会主義・共産主義の建設者に育てる事業を着実に進めている。そのため、朝鮮人民はきわめて困難な状況のもとでも、自力更生の旗のもとですべてを自らの力と知恵で解決し、社会主義建設を力強く推進しているのである。
人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、誉れ高い幸せな生活を享受すべきである。
人民大衆の誉れ高い幸せな生活において、物質生活は重要な位置を占める。物質生活は社会生活の基礎をなすものである。社会主義社会において人民大衆は国家と社会の主人であるため、当然、豊かで文化的な物質生活を享受しなければならない。わが党はこれまで、経済建設を強力に推進して社会主義経済制度を強固にし、強力な社会主義の自立的民族経済を建設することで、人民の物質生活を自力で十分にまかなうための確固たる保障を手にすることができた。われわれが自力更生、刻苦奮闘して建設した自立的民族経済の潜在力はきわめて大きく、それは全人民の健全で安定した物質生活を保障する貴重な基礎となっている。われわれは社会主義経済建設に引き続き大きな力を注いで国の経済力をいっそう強化し、人民の物質生活水準を社会主義的要求に即して絶えず高めていくであろう。
人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである。
人民は元来、社会的集団の愛と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かしながら生きていくことを求めるが、搾取社会ではそれは実現されない。人間による人間の搾取と抑圧は、人民への愛と信頼とは決して両立しえず、搾取者と被搾取者のあいだには真の愛と信頼はあり得ない。人間の人格的価値が交換価値にすり替えられ、それが金銭と財物によって評価される資本主義社会では、人民大衆への愛と信頼について論ずることはできない。ブルジョア反動勢力が超階級的な愛について云々するのは、資本主義搾取制度の反動的本質を覆い隠し、階級的矛盾をうやむやにするための狡猾な策動である。先行した労働者階級の理論は、ブルジョア反動勢力の偽善的な超階級的愛の反動性を暴露し、階級社会では愛も階級的性格を帯びることを明らかにした。愛が階級的性格を帯びるというのは、愛と信頼は社会的・階級的立場が同じ人たちのあいだでのみ交わせることを意味するのではない。社会的・階級的立場は異なっても、人民大衆の自主性を擁護して共にたたかい、創造的な活動を共同で進める人たちのあいだには、愛と信頼を交わす関係が生まれ得る。
社会主義制度が樹立されれば階級的対立は一掃され、人々の関係は対立と不信の関係から愛と信頼の関係へと変わる。社会主義社会では、愛と信頼は社会的集団とその構成員のあいだ、社会の個々の構成員のあいだに生まれ、それは領袖と戦士のあいだでもっとも崇高に発現される。領袖と戦士、党と人民が愛と信頼によって結ばれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生がもっとも尊く美しい生であり、それを実現した社会がもっとも強固で生命力のある社会となる。
人民大衆中心の社会主義は、社会生活のすべての分野で同志的団結と協力、愛と信頼の関係をもっともりっぱに具現し、政治も愛と信頼の政治へと変える。愛と信頼、これは人民大衆が政治の対象から政治の主人となった社会主義社会においては政治の本質をなしている。われわれは愛と信頼の政治を仁徳政治と称している。帝国主義者は「複数政党制」だの「議会民主主義」だのとブルジョア政治を粉飾し、社会主義政治をこきおろしているが、黒白は転倒できるものではない。ブルジョア政治は金権と結びついた過酷で狡猾な抑圧政治、略奪政治である。
社会主義社会で真の仁徳政治を実現するためには、人民への限りない愛を体現した政治指導者を推し立てなければならない。社会主義政治の指導者は能力もなければならないが、何よりも人民を限りなく愛する気高い徳性を備えていなければならない。それは、社会主義政治が本質において仁徳政治であるということと関連している。社会主義政治の指導者が能力に欠けていれば、社会主義社会の発展を遅らせる結果を招くが、仁徳に欠けていれば、人民に背いて社会主義を滅ぼす結果をも招きかねない。
社会主義社会で愛と信頼の政治を施すためには、社会主義政権党を母なる党に建設しなければならない。
労働者階級の党は社会の指導的政治組織であり、したがって社会主義社会で国家機関とすべての組織が人民にいかに奉仕するかということは結局、党をいかに建設するかということと関連している。党を母なる党にするのは、社会主義社会の国家機関とすべての組織を人民の奉仕者にするための先決条件である。党を母なる党にするということは、母がわが子をこのうえなく愛し温かく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもって細やかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味する。以前は党を主に階級闘争の武器と見なした。労働者階級の党は階級闘争も展開すべきであるが、党のすべての活動はあくまでも人民への限りない愛と信頼から出発しなければならない。党は人民大衆の利益を擁護することを第一とし、人民大衆の利益を侵害する者とたたかわなければならない。少なからぬ党が人民大衆の支持と信頼を失い、結局、その存在を終えることになったのは、党を、人民の運命を責任をもって温かく見守る母なる党にするのでなく、尊大で権力を乱用する官僚的な党に転落させた結果である。
社会主義政権党を母なる党にするためには、すべての幹部と党員を、人民を限りなく愛し、人民に忠実に奉仕する精神で教育しなければならない。
人民に忠実に奉仕するためには、自分自身よりも人民のことを先に考え、人民の喜びと苦痛を自分の喜びとし、苦痛としなければならない。人民に忠実に奉仕するのは共産主義者の神聖な義務であり、人民に奉仕するところに共産主義者の真の生の価値がある。革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためである。苦労は人より先に味わい、楽しみは人より後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は他に譲るのが真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員である。党員をこのように育てるためには、彼らのあいだで人民に献身的に奉仕する思想教育活動を強化しなければならない。
社会主義政権党を母なる党にするうえで重要なのは、幹部をしっかりと革命化し、彼らのあいだで権勢と官僚主義、不正・腐敗との闘争を積極的に繰り広げることである。社会主義社会で仁徳政治の実現を阻む主な要素は、幹部のあいだに現れる権勢と官僚主義、不正・腐敗である。社会主義はあらゆる特権に反対する。社会主義制度が樹立されれば特権階級はなくなる。国家主権と生産手段が人民の手に掌握されている限り、社会主義社会で新たに特権階級が生まれることはない。しかし、社会主義社会においても権勢と官僚主義、不正・腐敗との闘争を繰り広げなければ、資格の不十分な一部の幹部は思想的に変質し、人民から遊離して特殊階層化しかねない。党と国家のすべての政策は幹部を通じて実行されるため、党と国家がいくらりっぱな政治を施しても、幹部が権勢と官僚主義に走ってはそれが正しく具現されない。幹部が特権を振り回し、官僚風を吹かし、不正・腐敗をこととすれば、社会主義政権党は大衆の支持と信頼を失うようになり、大衆から支持されない党はその存在を維持することはできない。歴史的教訓が示しているように、社会主義政権党が幹部の権勢と官僚主義、不正・腐敗を許すのは、自ら墓穴を掘るに等しい。
わが党は早くから政権党に現れ得る権勢と官僚主義、不正・腐敗の危険性を見抜き、それとの闘争をねばり強く展開してきた。こんにち、わが国の幹部は「人民に奉仕する!」という党のスローガンを高く掲げ、人民の忠僕として人民に忠実に奉仕している。しかし権勢と官僚主義、不正・腐敗は古い思想の残滓に根差しており、われわれの内部に古い思想を扶植しようとする帝国主義の思想的・文化的浸透策動が続いている状況のもとでは、われわれは権勢と官僚主義、不正・腐敗との闘争をいささかもおろそかにしてはならない。幹部のあいだで権勢と官僚主義、不正・腐敗行為を根絶するための教育活動と思想闘争を引き続きねばり強く繰り広げなければならない。
わが党の愛と信頼の政治、仁徳政治は、わが国の社会主義の優越性と不抜性を決定づける根本的要因となっている。
党と領袖の仁徳政治によって、朝鮮人民は人民大衆中心の朝鮮式社会主義制度のもとで尊い社会的・.政治的生命を輝かし、もっとも誉れ高く尊厳ある生を営んでいる。社会の全構成員が互いに信頼し、愛し、助け合うむつまじい大家庭を構成し、共に生きがいと幸せを享受しているのがわれわれの社会の真の姿である。
わが国では全人民が領袖を実の父と仰ぎ、党の懐を母の懐と信じて慕い、領袖、党、大衆が生死を共にする一つの社会的・政治的生命体をなしている。革命の同志を危険から救い出すために自分の命を惜しげもなく投げ出し、青年男女が戦傷栄誉軍人の人生の伴侶となり、孤児や身寄りのない老人を肉親のように温かく世話するなど、全社会に共産主義的美風がみなぎっている。これはわが党の仁徳政治の誇りある結実である。
わが党の仁徳政治の生命力は、人民の気高い精神的・道徳的品性だけでなく、日増しに向上する彼らの健全で平等な物質・文化生活にも現れている。朝鮮人民は誰もが衣・食・住の心配をせず、無料義務教育制度と無料医療制度の恩恵を受けて生涯にわたって学び、無病長寿を保っている。わが国では国家が労働能力を有するすべての勤労者に安定した職をあてがい、全人民の生活を責任をもって保障し、一時的に労働能力を喪失したか労働能力のない人、身寄りのない老人の生活まで温かく見守っている。老革命家と参戦老兵、戦傷栄誉軍人と功労者は、国家の保護と人民の深い尊敬と愛情のもとで張り合いのある生活を営んでいる。
わが党の仁徳政治の恩恵は、育ちゆく新しい世代により細やかに施されている。新しい世代は革命の継承者であり、国と民族の未来である。革命の前途と、国家と民族の興亡盛衰は新しい世代をいかに育てるかにかかっている。それゆえ、新しい世代の育成の問題は親にだけ責任を負わせることではない。新しい世代の将来が親の財力によって左右される資本主義社会では、彼らが社会的不平等と社会悪の餌食になるのは避けられない。帝国主義者の侵略と干渉、搾取階級の略奪により現在、世界の数多くの子どもと若い世代が戦争と社会的衝突、疾病と飢餓によって命を失い、身体障害者となっており、街をさ迷い、犯罪と転落の道をたどっている。しかし、仁徳政治が実施されているわが国の社会主義社会では、すべての新しい世代を国家が引き受けて育てている。わが党と国家は、育ちゆく新しい世代に最大限の愛と配慮を傾けている。わが国では、新しい世代はすべて制服から学用品に至るまで国家から支給され、もっとも優れた全般的一一年制義務教育制度のもとで思う存分学んでいる。党と領袖、国家と社会のこのうえない愛と配慮のもとで、わが国の新しい世代はなに羨むことなく幸せに育っている。
こんにち、わが国で実施されているすべての人民的施策は、人民大衆中心の朝鮮式社会主義制度の優越性を示すものであり、人民に対する党と領袖の気高い愛に発している。仁徳政治は、偉大な領袖
わが党は、
朝鮮人民に対する党と領袖の気高い愛と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こしている。朝鮮人民は古くから正義感が強く、勤勉かつ勇敢で道義に厚く、礼儀正しい人民として広く知られてきた。朝鮮人民の優れた品性は、われわれの時代に至って新しい精神的・道徳的基礎のうえに全面的に花開いている。朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩恵に忠誠をもって報いるために身も心も捧げてたたかっている。
わが党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっている。愛と忠誠に基づく領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であり、このような一心団結に根差している朝鮮式の社会主義は必勝不敗である。
世界の人々は、わが国の社会主義をもっとも理想的な社会主義として羨望のまなざしで見ている。それは、わが国の社会主義が人民への愛と信頼の原理をりっぱに具現している、真に人民大衆中心の社会主義であるからである。
人民大衆が国家と社会の主人としての地位を守って権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受しているところに、人民大衆中心の朝鮮式社会主義が人民大衆から絶対的に支持され信頼される不抜の社会主義となる根拠がある。
わが党はつねに、社会のあらゆるものの主人である人民大衆を絶対的な存在とし、人民に限りない愛と信頼を寄せる真の人民の政治、仁徳政治をりっぱに行っていくであろう。こんにち、わが党と人民には、偉大な領袖
人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義は、もっとも科学的でもっとも優れた、もっとも威力のある社会主義である。社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利する。