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回顧録「世紀とともに」第8巻


目   次

第二二章 革命の旗をあくまで守ろう

一 小哈爾巴嶺で
二 未来への楽観
三 コミンテルンの連絡を受けて
四 一九四〇年の秋
五 魏拯民についての回想

第二三章 国際反帝勢力と連合して

一 ハバロフスク会議
二 革命家 金策
三 他郷で春を迎え
四 小部隊活動の日々
五 信念と背信
六 国際連合軍を編制して
七 東北抗日連軍の戦友とともに
八 北満州から来た闘士たち
九 革命の根をつちかい

第二四章 民族あげての反日抗戦によって

一 解放の日を思い描いて
二 全民抗争の炎は全国土に
三 対日作戦の突破口
四 民族の魂
五 反日愛国勢力との団結をはかって
六 玄海灘のかなたでも
七 最後の決戦の日
八 凱 旋

第二二章 革命の旗をあくまで守ろう


一 小哈爾巴嶺で

 小哈爾巴嶺会議は、抗日革命の最後の勝利を早め、祖国解放の大事を主動的に迎える準備をととのえるという新たな戦略的方針を採択した重要な歴史的会合であった。
 小哈爾巴嶺会議は、抗日革命の試練の時期、朝鮮の民族解放闘争と共産主義運動の逆境を順境にかえ、禍を転じて福とする金日成同志の労苦と情熱の結実である。
 この会議の準備と進行過程について金日成同志がたびたび述懐した話を、あらためてここに載録する。

 紅旗河で「前田討伐隊」を掃滅した後、われわれは花拉子の森林で朝鮮人民革命軍のそれまでの路程いて総括しました。それを二万里長征の総括ともいいます。われわれの歩んできた路程が二万里に及ぶという意味です。
 この長征での成果を強固なものにし、革命闘争の新たな局面を開くには、より多くの事をなし、さらに険しい道も歩まなければなりませんでした。それでわたしは強調しました。
  ――われわれが長征で勝利した基本的要因は政治的・思想的優位性と遊撃戦術にある。これが二万里長征の主たる総括である。昨今の情勢はかつてなくきびしい。新たな状況と地域的特性に即して多彩な遊撃戦術と戦法を巧みに活用しよう。人民の中に深く入って大衆政治工作も強化しよう。革命の最後の勝利をめざしてさらに数万里を歩むことも覚悟すべきだ。革命勝利の確固たる信念を持し、いささかも動揺することなく革命の旗をあくまで守りとおそう。今後も主導権を握って敵を痛撃しよう。
 一九四〇年の春といえば、「野副討伐司令部」の人民革命軍にたいする攻勢が従前よりいっそう激しくなった時期でした。兵力も増派され、革命軍を掃滅するための「討伐」計画も各面から綿密に立てられました。
 形勢はこのようなものでしたが、それでもわれわれは主導権を掌握しようとしました。つねに主導権を取って敵を圧倒してきたのだから、時局がどう変わろうと主導権だけは握りつづけようと決心したのです。何を頼りに主導権を握ろうとしたのか。それは精神力と戦術です。革命軍は人的予備や武装においては敵に比べて劣っていましたが、精神力と戦術においては彼らよりはるかにまさっていました。要はどちらの用兵術がすぐれているかということでしたが、それはわが方でした。
 われわれが花拉子の谷間に入ったときまで、「野副討伐隊」はすべて山間地帯に陣取っていました。革命軍の通路とおぼしき要所要所に陣取り、引き上げる気配を見せませんでした。わたしは会議で主導権の問題について強調しはしましたが、事実上われわれを取り巻く状況はきわめて不利でした。野副は東満州の兵力だけでは満足せず、通化方面からも応援隊の名目で兵力を引き入れているとのことでした。呉(オ)白(ベク)竜(リョン)の報告によれば、その兵力はすでに延吉、敦化県境の亮兵台近辺に到着しており、長白方面からも某工作隊という名の兵力が増派されてきたとのことでした。
 敵が兵力を増強してなお「討伐」の拡大をはかっている状況下で、今後それにどう対処すべきか。「東南部治安粛正特別工作」の美名のもとに強行された敵の第一段階の大「討伐」は大部隊旋回作戦によって撃破しましたが、それよりも悪らつで執拗な攻勢はどうやって粉砕するかが問題でした。大部隊旋回作戦が効を奏したからといって、今度もまたそういう方法をとるのか、あるいは他の戦術を用いるのか、世界の情勢からして、ドイツと日本が引き起こした戦火は遠からず全世界に及び、列強諸国も小国もすべてその戦火に巻き込まれるはずである、ならば、われわれは将来を見通していかなる戦略を立てるべきか、こういうことについて考えざるをえませんでした。言わば、われわれには当面の敵の「討伐」を撃破する戦術的対策とともに、急変する情勢に即した新たな戦略的路線を確立しなければならない課題が同時に提起されたわけです。
 わたしはまず、紅旗河戦闘後の難局を打開する戦術的方策を講じながら、新たな戦略的構想を練ることにしました。当時、敵は山間地帯に兵力を集結していました。そうした状況下でわれわれが主導権を握るには、分散活動に移行して丘陵地帯に抜け出すほかありませんでした。敵が城市や集団部落は警察や自衛団にまかせ、主力を山間地帯に集中している状況のもとでは、背後を攪乱して「討伐」兵力を分散させるのがもっとも勝算のある戦術でした。
 こうした判断にもとづいて、朝鮮人民革命軍の主力部隊は一九四〇年四月中旬、花拉子の密営から隠密に抜け出し、敵の「東南部治安粛正特別工作」を最終的に破綻させる作戦を開始しました。われわれはまず小沙河流域の大きな集団部落である東南岔と洋草溝を同時に襲撃し、追撃してきた敵を樹街峰の谷間で掃滅したのち、敵の兵力を振り切って車廠子方面へ素早く姿をくらましました。延吉と汪清一帯で活動していた安吉(アンギル)、崔賢(チェヒョン)の部隊も、主力部隊の動きに応じて県の中心地帯で敵背攪乱作戦を開始しました。
 いくつかの部落で銃声を上げたにもかかわらず、敵はこれといった反応を示しませんでした。敵を分散させるには、もう少し大きい餌を投じる必要がありました。それで、安図県城の東側にある三つの部落を同時に襲撃することにし、ある日の夜間に南二道溝、北二道溝、新成屯にたいする電光石火の攻撃作戦を敢行しました。さすがの敵も今度は餌に食いつきました。安図県と和竜県の南部隣境地帯に頑と構えていた関東軍部隊は、安図県城がいまにも攻め落とされるのではないかと心配し、一挙に押し寄せてきました。朝満国境の守備隊もこれに合流しました。
 われわれがこのように苦労して敵を安図県の中心部におびきだしたのは、敵の兵力を分散させて打撃を加えるとともに、豆満(トウマン)江一帯に陣取っていた日本軍が移動するすきに、再び武装闘争を国内に拡大するためでもありました。
 当時、国内進出の任務を受け持っていたのは、金一(キムイル)の率いる第八連隊でした。第八連隊には徐々に国境一帯に進出しながら分散活動を展開する任務を与え、第七連隊と警護中隊は安図県の北部へ送りました。それ以来、連日、敵をたたきました。その後、金一は一小部隊を率いてひそかに国内に潜入しました。この小部隊は五月中旬に茂(ム)山(サン)郡三長(サムジャン)面一帯に進出し、国境守備隊にたいする奇襲作戦を展開する一方、二日間、人民の中に入って活動しました。
 国境からはただ一人の遊撃隊員の潜入も許すなという南総督の厳命が下されていたときに、朝鮮人民革命軍の一小部隊が堂々と国内に現れて銃声をとどろかせ、余裕しゃくしゃくと政治活動までおこなったのは、一九四〇年代前半期の抗日革命史上刮目に値する成果といえるでしょう。
 われわれは国内進出の成果を強固にするため、豆満江沿岸と安図県の中部、北部でいっそう猛烈な攻撃戦を展開して敵を撃破しました。こうなると、「野副討伐司令部」の新たな「討伐」作戦は出ばなをくじかれたも同然でした。「討伐司令部」と「地区討伐隊」、「小地区討伐隊」のあいだでは連日、上部が下部の責任を問い、隣接同士が責任を転嫁し合う騒ぎが絶えませんでした。「野副討伐司令部」は新たな「討伐」指針を下達するなどと騒ぎ立てました。
 われわれが新たな作戦の準備を進めている最中に、南満州から韓仁和(ハンインフア)が五、六〇名からなる第一路軍の残存部隊を率いてわれわれを訪ねてきました。魏拯民の提言だとして、われわれの部隊に合流して活動する意向を表明しました。彼は第一路軍の参謀兼警護旅団の政治委員でした。われわれは南満州部隊との共同作戦を通じて彼らの士気を鼓舞することにしました。それで六月に入って、東京坪と上大洞を襲撃しました。襲撃してみると、東京坪はほとんど無防備状態でした。一〇日ほど前に襲撃したのだから、よもや重ねて襲撃することはあるまいとたかをくくっていたのです。われわれはその後も数か所の部落を同時に襲撃しました。
 古洞河伐採場を襲撃した翌日は、南満州から来た戦友たちとともに、ろ獲した物資で端午の節句を盛大に祝いました。韓仁和は杯を何杯か飲みほすとわたしの手をつかみ、魏拯民がなぜ自分を金司令のところに寄こしたのか、いまになって分かった、現在の情勢からすれば南満州より間島のほうがはるかにきびしいのに、「討伐隊」は野副や梅津の命令によってではなく、金司令の指図どおりに動いているようなものだ、と言うのでした。彼はわれわれが進めた作戦からよほど強烈な印象を受けたらしく、第二方面軍がいちばんだ、金司令の部隊こそは百戦百勝の部隊だ、これでわれわれも自信がついた、額穆か敦化方面へ行って陳翰章に会い、寧安方面へ行って周保中に会ってから力の限り戦ってみせる、と断言しました。
 朝鮮人民革命軍主力部隊の大胆不敵な活動に、日本軍はうろたえ、混乱に陥りました。
 失敗を重ねた「東南部治安粛正特別工作」を多少なりとも挽回しようと、敵が間島全域に厳重な警備網を張りめぐらしているとき、われわれの隊伍ではまったく思いもよらぬ事件が発生しました。大馬鹿溝付近の密営で治療を受けていた方面軍の政治主任、呂伯岐が敵に逮捕され、部隊の秘密を洗いざらい吐いてしまったのです。
 わたしは呂伯岐の逮捕と投降によって生じた難局を、敵への間断ない攻撃と多様な戦術上の変化で打開しようと考え、まず、部隊を小部隊化することにしました。方面軍の兵力を複数の小部隊に分け、各地で果敢かつ絶妙な消耗戦をくりひろげようというのでした。部隊を小部隊化すれば、活動の機動性をはかり、敵のきびしい警備網を容易にくぐり抜け、敵を再び混乱に陥れることが可能でした。部隊を小部隊化すれば、人員が少なくなるので、敵に発見されてもいち早く姿をくらますこともできるわけです。そこで、われわれはすぐさま方面軍をいくつもの小部隊に分け、小部隊による全面的な消耗戦を開始しました。
 このように、われわれは日本軍の攻勢にたじろいだのではなく、むしろそれを迎え撃ったのです。もしあのとき、われわれが敵の大攻勢に萎縮して安全地帯を探して隠れ歩いていたとしたら、どうなったでしょうか。言うまでもなく、われわれは甚大な損失をこうむったことでしょう。われわれが勝利を手にしたのは、主導権を取って息つくひまも与えず敵を攻め立てたからです。

 一九四〇年の春期、夏期の作戦で朝鮮人民革命軍が勝利をおさめたことは、敵も認めている。
 「秋、春期討伐の鋭鋒を巧に遁れましたる匪団は繁茂期に乗じ頻りに跋扈跳梁し、特に最近に於きましては第二、第三線の后方部落に迄積極的襲撃を敢行し来り、其の状真に傍若無人にして被害亦鮮少ならざるを見まするは各位と共に極めて遺憾とする所であります。日満軍、憲、警、鉄、協挙げて此所に数万、如何に季節の影響と地形の不利ありと雖も彼等をして尚且斯の如く暴威を呈示するを得せしめまする所以のものは一に討伐隊司令官たる私以下の責任に存するは勿論でありますが、具さに最近の情況を観察致しますると特に討伐隊及び各機関の融和団結と其の動態に包蔵する幾多の弱点と欠陥が著しく、粛正諸工作の推進を阻害し延て以て匪団の跳梁を許容するの結果を招来したるに非ざるやを痛感せしめられまするとは真に遺憾に堪へざる処であります」〔『治安粛正関係書類』野副匪伐司令部 昭和一五年(一九四〇年)〕

 一九四〇年の春期、夏期作戦の過程を通じて、われわれは小部隊活動で多くの経験を積みました。それまでは、場合によって小部隊活動もしましたが、主として大部隊活動をくりひろげました。しかし一九四〇年の夏には小部隊単位で、各地で連続打撃、反復打撃、同時打撃といった絶妙な戦法を多く用いました。その過程で、敵が「討伐」兵力を増強して水も漏らさぬ包囲網と警備網を張りめぐらしているときほど、戦闘単位を小さくして小部隊活動の方式で遊撃戦を展開するのが有利だという重要な経験を新たに得ることができたのです。これは、つぎの段階の戦略的課題とそれを遂行する闘争方途を策定するうえで大きな元手となりました。こういう元手がなかったならば、同年八月に開かれた小哈爾巴嶺会議で、わたしは大部隊活動に代わる小部隊活動の展開を主張することができなかったでしょう。それまで蓄積した経験があり、自信もあったがゆえに、小部隊活動を一九四〇年代前半期の主たる闘争形式とし、主導権を掌握しつづけることができたのです。
 なかには、われわれが小哈爾巴嶺会議以前は大部隊活動だけをおこない、小部隊活動はそれ以後のことのように思っている人がいますが、それは歴史的事実に反しています。遊撃戦の特徴は、そのときの軍事・政治情勢と環境に応じて臨機応変になされるところにあります。小部隊活動は大部隊活動が基本であった一九三〇年代の後半期にも重視されたし、必要に応じて適用されたのです。一九四〇年の前半期に活発であった小部隊分散活動の試験段階を経て、小哈爾巴嶺会議以後、パルチザン部隊はすべて大部隊活動から小部隊活動に移行しました。
 以上述べたことは大部隊旋回作戦の後日談です。歴史学者たちがこの部分の研究に空白が多いというので、今日こうして時間をかけて話したのです。
 小哈爾巴嶺会議を基準にして問題を考察するなら、一九四〇年の春から夏にかけてのわれわれの活動は、その会議を準備する過程だったといえます。
 わたしが大勢に即応して戦略を変えるべきではなかろうかと考えるようになったのは、ヨーロッパで勃発した戦争が急速に拡大する様相を呈していたころからでした。日本帝国主義者は「大東亜共栄圏」の野望を遂げるため中国大陸での侵略戦争を終結できないまま、東南アジア地域に戦火を拡大しようと狂奔し、「後方の安全」をはかるため手段を選ばず策動しました。上述した、われわれにたいする敵の執拗な大「討伐」攻勢と、朝鮮人民にたいするファッショ的弾圧と略奪がかつてなく悪らつになったのは、まさにこうした侵略政策の強化に起因するものでした。
 しかし、日本帝国主義者が侵略戦争を拡大すればするほど、国際的にも国内的にも孤立を深め、政治的、経済的、軍事的に抜き差しならぬ窮地に追い込まれるものとわたしは判断しました。全般的情勢は、日本帝国主義の滅亡が確定的で、時間の問題であり、朝鮮人民が祖国解放の歴史的偉業を達成する日が近づいていることを示していました。そのため、わたしは過去一〇年間の抗日武装闘争の過程での成果と経験を総括し、激変する情勢に対処して祖国解放の大事を主動的に迎えるために力量を保持、蓄積するという新たな路線を構想することになったのです。
祖国解放の大事を迎える万全の準備をととのえることは、当時、朝鮮革命発展の合法則的要求でした。新たな戦略的段階に移行するには、客観的情勢の変化一面のみを見てそれに受動的に対応するのではなく、つねに主動的に闘争を導き、最後の勝利を早める主体的力量の検討とそれまでの闘争にたいする分析がともなわなければなりません。
 わたしはまず、以前の段階で規定した戦略的課題が遂行されたかどうかを検討してみました。南湖頭会議で提示された戦略的任務を一つひとつ思い返してみましたが、未解決の問題はありませんでした。党創立のための組織的・思想的基礎の構築、反日民族統一戦線の結成と拡大発展、国境地帯への進出、国内への武装闘争拡大の問題など、いずれも解決されたと総括することができました。
 武装闘争の戦略的段階を定めるうえで必ず考慮すべきいま一つの重要な問題は、彼我の力関係の変化です。数量の上からすれば、彼我の力は比すべくもありませんでした。当時、敵はわれわれのことを「蒼海の一粟」と称していました。大海に浮かぶ粟粒ほどの存在だというわけです。常識からすれば、力の対比など論ずるべくもありませんでした。しかし、われわれの力の比べ方は、そういう算術的な方法ではありませんでした。革命軍一名が一〇〇名、一,〇〇〇名の敵兵に当たるというのが、われわれの比べ方でした。
 南湖頭会議以後、朝鮮人民革命軍は政治的、思想的に、そして軍事技術的にも長足の進歩を遂げました。革命軍は数量の上では敵より少なくても、数十、数百倍の大敵との戦いでつねに主導権を握って連勝してきました。その過程で、人民革命軍はいかなる状況にも適切に対処できる多様な戦法と戦術を体得した軍隊に成長しました。朝鮮人民革命軍は軍事的使命とともに政治的使命をも同時に遂行する、新しいタイプの特殊な革命軍でした。
 顧みれば、抗日武装闘争に限らず、全般的朝鮮革命遂行における朝鮮人民革命軍の確固たる指導的地位と増大する中核的役割は、われわれが革命武力の建設を重視し、それをすべての事業に先行させる原則を堅持したのがきわめて正当であったことを実証しています。一般的に政権獲得をめざす共産主義者の闘争においては、政治的指導機関としての党を先に組織し、そのつぎに武力建設に着手するのが一つの原理となっています。しかしわたしは、革命闘争、とくに植民地民族解放闘争における革命武力、暴力的進出の決定的役割と、当時のわが国の現実を踏まえて、まず武力を建設し、そのあとで党を建設する方法をとりました。
 われわれは一九三二年四月に、初の革命的武力としての反日人民遊撃隊を創建し、それを朝鮮人民革命軍に発展させ、まさにこの朝鮮人民革命軍に依拠して抗日武装闘争を拡大しながら全般的反日民族解放闘争を新たな高揚に導いたばかりでなく、朝鮮人民革命軍の指導と武力的保証のもとに、党創立の組織的・思想的準備、祖国光復会の組織と統一戦線運動の拡大発展、全民抗争の準備などを成功裏に進めてきたのです。
 事実上、日本帝国主義侵略者に反対する抗日革命の時期、朝鮮革命の中枢をなす中核力量であり、政治的導き手であり、民族的利益の武力的保証者であった朝鮮人民革命軍はそれ自体がわれわれの軍隊であると同時に、党であり、政権であったといえます。これらのことは、新たな戦略的段階の課題を十分担当できる主体的中核力量がしっかり準備されていることを示すものでした。
 人民大衆の意識化、組織化を促し、彼らを政治的、思想的に準備させる活動でも多くの成果をおさめました。当時、祖国光復会傘下の会員数は二〇余万に達していました。国内にはまた、労働者突撃隊や生産遊撃隊といった半軍事組織もたくさんありました。 そういう組織が母体となり、各地で全民抗争のための武装隊を組織していました。未組織大衆の動向もきわめて良好でした。
 そのころ、金一らが国内に進出して敵を討ち、豆満江方面へ行軍していたときの話です。隊伍の後ろから足の不自由な農夫が一人ついてきました。農夫は「遊撃隊の旦那がたはこっちから豆満江を渡るつもりらしいが、今夜は場所を変えたほうがいいですよ。この辺りは敵がうようよしています」と言うのでした。金一らは農夫の話を信じてよいものかどうか、判断がつきませんでした。農夫の素性が分からなかったからです。一同がためらっているのを見てとった農夫は、懐から新聞の切れ端を取り出して見せました。そして「わたしはこういう人間ですから信じても大丈夫です」と言うのでした。手のひらほどの新聞の切れ端を出して自分を信じてくれというのですから、彼らが目を丸くしたのも無理はありません。紙片の活字に目を通してみると、それは一九三九年五月の茂山地区戦闘にかんする記事でした。彼らは長い遊撃隊生活の経験に照らして、農夫は善良な人間に違いないと判断しました。それで、どこから行けば豆満江を無事に渡れるだろうかと尋ねました。農夫は、自分が案内する、そこにも警備はいるが、みな革命軍の味方だと言うのでした。その夜、金一らはその農夫に助けられて豆満江を無事に渡ることができました。警備に立たされていた村の住民は、遊撃隊が渡河するのを見ながらも、目をつぶってくれました。なかには「ここは浅いです」「そこは深いです」と教えてくれる人もいたそうです。
 人民大衆の政治的・思想的準備の向上と朝鮮人民革命軍にたいする変わることのない支持は、抗日武装闘争の拡大、発展にとって依然、巨大な推進力となっていました。
 武装闘争の戦略的段階を定めるうえで必ず考慮すべきいま一つの問題は、敵の戦略戦術上の企図の変化です。
 一九四〇年の夏、われわれは黄溝嶺道路工事場で日本軍の工兵将校を捕虜にしたことがあります。その将校を審問する過程で、敵が間島一帯と南満州方面で膨大な軍用道路網を形成しようとしていることが分かりました。安図県を中心に和竜、延吉、敦化、樺甸、撫松はもちろんのこと、国内と人里離れた白頭(ペクトウ)山東北部の険しい谷あいにまで道路が建設されるとのことでした。この軍用道路の建設状況は、「野副討伐司令部」を経て関東軍司令部にまで毎日報告されていました。工兵将校の話によると、近々野副司令官が工事中の道路を視察するとのことでした。この道路は、人民革命軍を「討伐」するときに利用する機動路でした。命令さえ下れば、この道路をつたって朝鮮と東北地方の各地から、われわれの活動地域におびただしい兵力が押し寄せてくるはずでした。
 敵はわれわれの周辺に飛行場まで大々的に建設していました。野副の極秘指令によって、野戦飛行場は東南部三省のいずれにも建設されるとのことでした。工兵将校は自分の知っている野戦飛行場の位置と、「地区討伐隊」はもちろん、「小地区討伐隊」にも飛行機が配属されるということまで自白しました。この将校の話が確かであれば、われわれは敵の野戦飛行場に包囲されることになります。
 そのころ、「野副討伐司令部」は吉林から延吉に移されようとしていました。延吉の「東地区討伐隊」司令部も図們へ移されるとのことでした。
 われわれの活動地域に敵の兵力がたえず増強されているという情報と偵察資料が相ついで司令部に届きました。成り行きからして、敵は近々いかなる犠牲を払ってでも決着をつけようと準備していることが察知されました。
 従前の戦略的方策のみでは、敵情の急激な変化に対処することができませんでした。決定的に戦略を変える必要がありました。そのため、わたしは無謀な戦闘による損失を避け、主動的な行動によって革命力量を保持、蓄積することを朝鮮革命のもっとも重要な戦略的課題として提起することにしました。祖国解放の大事を主動的に迎えるための戦略的方針は、一九四〇年八月に招集された小哈爾巴嶺会議で採択されました。
 われわれが安図と敦化の県境にさしかかったとき、第一五連隊長の李(リ)竜雲(リョンウン)と中隊長の任(イム)哲(チョル)が四、五名の護衛兵をともなってわたしを訪ねてきました。わたしは朱在日(チュジェイル)に小哈爾巴嶺で軍事・政治幹部会議を招集する趣旨を話し、中隊長、中隊政治指導員以上の軍事・政治幹部を全員集合させるよう指示しました。到着の期日は八月九日、陰暦七月七日までとし、汪清、東寧方面に進出している安吉、崔賢には後日、会議の結果を通報することにし、第一三連隊と第一四連隊には近くで活動している中隊にだけ連絡せよと命じました。第一五連隊からはすでに李竜雲と任哲が到着しているので、あらためて呼び出さないことにしました。
 小哈爾巴嶺会議は一〇日から一一日まで二日間にわたって開かれました。会議で大きな論点となったのは、以後の戦略的段階を革命的大事変の時期と規定できるかということでした。言いかえれば、つぎの段階で祖国の解放を成就することができるかということでした。わたしは言下に、成就できると確言しました。そして参会者に、もちろん現在も日本軍は強い、しかし滅びゆく軍隊だ、それは関東軍の精鋭と称される空軍部隊で暴動が起きた事実を見ても分かる、逃亡者や寝返る者が続出するため、中日戦争のさなかに予防策を講じるのに汲々としているという、長々と説明する必要はない、日本が敗北する日は遠くない、と話しました。
 日本はそのころ特別志願兵制なるものを発令して、朝鮮青年を弾よけに駆り出していました。台湾や満州でもそのような制度を実施しました。日本が自分たちに恨みをいだいている植民地国の青壮年を弾よけとして戦地に駆り出すほどになったのですから、兵力不足の程度は推して知るべしです。九・一八事変(〔1〕)から七・七事変(〔2〕)までの期間に、日本軍は満州でだけでも二〇万近くの兵力を失いました。中日戦線で一年間にこうむる損失はそれより大きいとのことでした。
 日本が保有している戦略物資の予備も限界に達していました。 小哈爾巴嶺会議直前の時期にいたっては、弾薬も一九三九年以後に製造されたものを使用していました。間三峰戦闘当時の弾薬は一九二〇年代に製造されたものでした。これは弾薬の予備もなくなってきたことを意味します。
 日本の政界も複雑をきわめていました。頻繁に内閣が交替し、口論は絶えることがありませんでした。軍部内の葛藤もはなはだしいものでした。将官や将校たちが各派に分かれて拮抗していたので、作戦での統一と連携も保たれませんでした。そのうえ、労資間の矛盾、軍民間の矛盾、宗主国と植民地間の矛盾が爆発寸前の状態にありました。本土の住宅街にまで情報員を配して国民の口を封ずるありさまでした。
 まさにこういう状況であったため、わたしは会議で、日本の国策はヨーロッパで勃発した戦争を機に東南アジアヘ進出する下心をさらけだしたものであって、もし日本がそれを実行に移すなら、それは彼らが自ら墓穴を掘ることになるという点をとくに考慮に入れて新たな戦略を構想したことを強調しました。
 つぎに会議では、大事変の時期に実行すべき戦略的課題について討議しました。われわれは、祖国解放の大事を主動的に迎える準備を進めるにあたって、朝鮮革命の枢軸をなす朝鮮人民革命軍の力量を保持、蓄積しながら、彼らを有能な政治・軍事幹部に育てることを新たな戦略的課題として策定しました。
 この大事変は彼我双方の政治的・軍事的潜在力が最大限に動員される最後の決戦を前提としますが、その決戦で勝利者となるには、各隊員がこれまでより何級も高い職務を果たさなければなりませんでした。祖国が解放されたら、ほかならぬその隊員たちが中核となって新しい祖国の建設もしなければならなかったからです。
 最後の決戦と新しい祖国の建設、この二つはわが国の歴史を新たに創造し、朝鮮人民の運命に劇的な変化をもたらす戦略的課題であって、他の国の人に肩代わりしてもらえるものではありませんでした。これは朝鮮人民革命軍に課された任務であり、朝鮮人民が果たさなければならないことでした。頼みとするのは、われわれ自身が長期にわたる抗日革命の過程で築いた主体的力量だけでした。「われわれが主人となって最後の決戦に臨むとき、他からの自発的な支援があれば結構というものだ。で、各自二、三級のレベルアップは可能だろうか」と参会者に問うと、異口同音に自信があると答えました。全人民を武装させて抗争に立ち上がらせることができるかと問うと、それもできると答えました。
 以上のような戦略的課題を順調に遂行するため、わたしは大部隊作戦から小部隊作戦へ移行する新たな方針を提示しました。もちろん、この案についても論議は交わされました。なかには、敵が各地で大挙して押し寄せてきたとき、われわれが大部隊ではなく小部隊で対抗しては各個撃破されてしまうのではないかと憂慮する人もいました。わたしはそういう人たちに言いました。
 ―― 大部隊の全盛期は過ぎ去った。大部隊で公然と行動する時期ではない。敵が大兵力を動員してわれわれを一網打尽にしようとしているとき、われわれが大部隊作戦をつづけるならば、敵の策略にはまって自滅することになる。言わば薪を負うて火中に入るようなものだ。小部隊単位で流動しながら戦闘をしたり大衆政治工作をしたりすれば、食糧も容易に手に入り、機動も自由自在にできる。食糧工作のため犠牲になった戦友がどんなに多かったことか。そうして命と替えて得た食糧も大部隊が消費したので、すぐさま底をついてしまったではないか。小部隊で活動すれば敵の兵力も最大限に分散させることができる。これはこの春と夏の小部隊戦闘行動の全過程が証明している。標的を小さくするのがわれわれの意図だ。
 わたしは、新たな戦略的課題を遂行するため、朝鮮と満州の広大な地域で小部隊による軍事活動を巧みに展開すると同時に、大衆政治工作を強力に進め、各兵士と指揮官の政治・軍事知識水準の早期向上につとめ、世界のすべての反帝勢力との連帯を強めることを重ねて強調した後、具体的な対策について合議し会議を終えました。
 小哈爾巴嶺会議は、抗日武装闘争の重要な戦略的路線を示した一九三一年一二月の明月溝会議、一九三六年二月の南湖頭会議とともに、朝鮮革命の新たな転機を迎えた時期に戦略的路線の変更を決定した歴史的な会議でした。
 もしあの時、われわれが大勢を見きわめることができず、目先の成果にとらわれて大部隊活動をつづけていたならば、力量を保つことはできず、自己の存在に終止符を打ち、殉国の烈士として歴史に名をとどめたにすぎないでしょう。
 小哈爾巴嶺は敦化県と安図県の境界に位置する哈爾巴嶺の末端です。会議はその嶺の北側のスロープでおこなわれました。前方にはカヤ原がありました。いまでも小哈爾巴嶺会議といえば、そのカヤ原を思い出します。人里離れたところであったためか、カヤを刈りに来る人もいませんでした。わたしはそのカヤ原を見下ろしながら、馬に乗って活動しているという金(キム)策(チェク)や許(ホ)亨(ヒョン)植(シク)、朴吉松(パクキルソン)など北満州の戦友たちが、こんなカヤ原を見たらさぞ喜ぶことだろうと思ったものです。小哈爾巴嶺のカヤ原で思い描いた北満州の戦友たちとは、極東に入ってからようやく会うことができました。


二 未来への楽観

 一九四〇年の春のことだったと思います。当時、朝鮮人民革命軍の主力部隊は安図や和竜など白頭山東北部一帯で猛烈な軍事・政治活動をくりひろげていました。
 思い起こせば、その年の春、われわれは実にきびしい試練を経たものです。少数の兵力でイニシアチブを取ろうというのですから、多くの苦労をせざるをえませんでした。最大の試練は、朝鮮人民革命軍の司令部を狙う敵の波状「討伐」でした。数百、ときには数千の大軍が四方八方から襲いかかってくるので、息もつけないありさまでした。
 野副もそのときは必死の体でした。白頭に征馬を進めて匪禍を根絶すると豪語して出で立った彼が、ひと冬中、かえって人民革命軍の大部隊旋回作戦のためさんざんな目にあったのですから、その痛憤たるや推して知るべしです。関東軍司令部はもちろん、軍部の追及も大変なものだったに違いありません。戦闘での主導権を奪われたじたじとなった野副は、挽回策として奉天、通化地区から増援隊を引き入れ、さらにはソ満国境の警備隊まで呼びよせて「討伐」に駆り立てました。さらに林(リム)水(ス)山(サン)のような投降分子らが敵の手引きとなって、朝鮮人民革命軍司令部の探索に立ち回っていたので、われわれはますます苦境に陥りました。そのうえ、山間奥地の猟師小屋、キノコ小屋、ケシの密栽培業者の小屋などにまで多数の密偵が張り込んで、遊撃隊の動静をうかがっていました。「工作隊」と称する走狗集団もわれわれの活動区域に現れ、「情勢は日本帝国の側に有利だ。見通しも立たない革命のために無駄な血を流さず帰順せよ」とわめきたてました。
 もっとも苦しい試練は食糧難でした。敵は一升の食糧たりともわれわれの手に渡らないよう、あらゆる方策を講じました。われわれが山に食糧を埋めておくと、いつのまにかかぎつけては、それを全部運び去ってしまうのでした。
 集団部落の住民の食糧統制は厳重をきわめていました。農民が野良仕事に出るときには、城門の歩哨が弁当まで開けてみるほどでした。多くの集団部落では軍警用の食糧や被服、弾薬などを土城の外の秘密倉庫に保管していましたが、その位置は管理者しか知りませんでした。倉庫の鍵は管理者が持っていて、必要なときに倉庫の物資を少しずつひそかに集団部落に運び込んでいました。われわれがたびたび城市を襲撃して給養物資を見つけしだい運び出していたので、彼らも対応策としてそういう方法を考え出したのです。
 鉱山や炭鉱、伐採場の実情も同じでした。そんな所でも、食糧は一日分か二日分、せいぜい三、四日分程度しか保有していませんでした。
 われわれが車廠子付近にいたときには食糧を完全に切らし、塩もありませんでした。第七連隊と第八連隊が安図地区をたえず移動しながら食糧工作に努めましたが、これといった成果はありませんでした。そのため、全部隊が飢餓にさらされました。
 その年のメーデーを蛙料理で過ごしたくらいですから、その窮状たるや言わずもがなのことです。蛙料理が高級レストランの人気料理の一つとなっている国もあるといいますが、わが国の食堂には蛙料理というものがありません。ときおり、子どもらが畦や小川で捕った蛙を串刺しにしてあぶっているのを見かけることがありますが、それもほとんどはいたずらか暇つぶしにするのであって、美味だからではありません。パルチザン生活がいかに困難であっても、メーデーのときだけは食事を抜いたことがありませんでした。小徳水の台地で迎えた一九三九年のメーデーには、隊員たちに酒までふるまったものです。ところが、一九四〇年のメーデーのときは酒はおろか何もありませんでした。それで小川の蛙を捕って食事に代えました。祝日をそういうふうに過ごしたのですから、普段は言うまでもないでしょう。
 車廠子付近にいた時分にも食糧を切らしてひどく苦労しましたが、洋草溝の奥地で活動したときにも空き腹をかかえて苦労したものです。全部隊が草を煮て食べながらその日その日を食いつなぐありさまでした。あのころの食糧難があまりにもひどかったので、洋草溝という地名が記憶の底に焼きついて消えないのかもしれません。
 ある日、わたしは機関銃小隊の食事中のところに行って、彼らをとがめたことがあります。雪もすっかり解けたのだから、山菜を摘んで汁でもつくれば美味だし、食糧の足しにもなるではないかと言うと、小隊長の姜(カン)渭(イ)竜(リョン)は歩哨の人員が足りなくて山菜を摘みに行かせることができなかったと答えるのでした。それを聞いて腹が立ちました。山菜などは立哨の場に行く途中でも摘めるし、歩哨を交替しての帰り道でも摘めるではありませんか。手配さえすれば、その日の汁の具などはたやすく手に入るはずでした。それで、指揮官たるものはつねに隊員の生活に責任をもつ心構えがなくてはならないと彼をたしなめました。そして、人員が足りないなら伝令とでも一緒に行くよう指示しました。
 翌日、姜渭竜は伝令の全(チョン)文燮(ムンソプ)と李(リ)乙(ウル)雪(ソル)、それに韓(ハン)昌(チャン)鳳(ボン)を従えて山菜を摘みに出かけました。四人は夕方になって帰ってきたのですが、山菜はかご一つにもなりませんでした。わけを聞いてみると、草原で相撲に夢中になってたくさん摘めなかったと言うのでした。なぜ命じられた山菜は摘まずに相撲をとったのかと問うと、春風に乗って野花の香りが漂ってくるうえに、やわらかい芝生を見ると、なんとなく故郷がなつかしくなり、裏山で楽しくはねまわった幼いころが思い出されて、誰が言い出すともなく相撲をはじめて半日を過ごしてしまったと言うのでした。全文燮と韓昌鳳は年も力もだいたい同じでした。それでなかなか勝負がつかなかったそうです。図抜けて体の大きい姜渭竜は審判役になり、ひと勝負つくたびに「よくやった、よくやった、もう一度やってみろ」と手を叩いて二人をあおり立てました。小隊長が手まで叩いてしきりにあおり立てるので、二人とも調子にのって相撲に夢中になってしまったのです。
 まったくあきれた話でした。伝令までつけて山菜を摘みに行かせたのに、四人でかご一つも満たせずに帰ってくるとは、それも部隊の食糧事情が逼迫しているときに大切な時間を浪費したのですから、開いた口がふさがりませんでした。
わたしは四人をきびしく批判した後、彼らを訓戒処分に処しました。過ちの重大さからすれば、それよりもきびしい処罰を適用することもできました。われわれの隊伍には、司令官から与えられた任務をそんなにいい加減に実行する者はいませんでした。解せないのは、その四人がいずれも責任感が強く、任務の遂行において人一倍忠実な隊員であったことです。どんなことでも、任せれば軽重を問わず不言実行する彼らでした。正直に言って、彼らは部隊でも模範的な遊撃隊員の典型として推奨できる存在でした。
その夜、寝床につくと、彼らが持ち帰ったすかすかのかごがしきりに目の前にちらつきました。そのかごを見て訓戒処分に処したものの、前後を忘れて相撲に興じたという四人の姿を思い浮かべると、隊員たちはこんなせっぱつまった状況にあっても悲観を知らず、悠々と相撲までとりながら楽天的に生きているのだと実感させられ、快い笑いがこみあげてくるのでした。
精神的ゆとりがなかったり、生活に楽観がなければ、当時の困難な状況下で相撲など考えることすらできないはずです。このパルチザン隊員のような信念の強者、意志の強者のみが、敵の包囲の中にあっても未来への夢を描き、歌をうたい、相撲に興じて楽天的に生きていけるのです。
朝鮮人民革命軍は古今東西にまれな楽天家の集団でした。世界には名を馳せた軍隊も多く、パルチザンも多くありましたが、朝鮮人民革命軍のように革命的ロマンと熱情あふれる、生気はつらつとして前途洋々たる軍隊はなかったでしょう。逆境を笑いをもってのりこえ、禍を転じて福となす人たち、天がそっくり崩れ落ちてもはいでるすきはあると信ずる楽天家の集団、これがまさに朝鮮人民革命軍でした。
全文燮にしても、外見は物静かでおとなしそうですが、実際は楽天家でした。彼は革命軍に入隊するとき両親の前で「お父さん、お母さん、わたしを待っていてください。無産革命が勝利して祖国が独立する日には、この文燮が車に乗って帰ってきますから」と言ったのです。日本帝国主義を打倒し、車に乗って両親のもとに帰ってくるという全文燮の決意はなんと突飛で楽天的なものではありませんか。
安吉も楽天家でした。わたしが彼を寵愛したのは、革命にたいする忠実な態度にもありましたが、彼の楽天的な性格を大切に思ったからです。安吉は悲観を知らぬ楽天的な革命家でした。
抗日パルチザンのなかには、彼らに限らず数多くの楽天家がいました。事実、銃を手にして日本帝国主義との決戦に立った闘士たちはすべて、つねに悲観を知らず革命的楽観に生きる楽天家でした。
わたしが、姜渭竜、李乙雪、全文燮、韓昌鳳、この四人の過ちを重大視しながらも「訓戒」以上の処罰を加えなかったのは、その行為の底にある何ものにもとらわれぬ楽天性と心意気を大切にしたかったからです。
そのとき、このささいな事件によってわたしは、苦難の行軍のような行軍を一〇回、一〇〇回と重ねても、彼らは最後までわたしについてくるだろうと確信しました。わたしの体験によれば、信念をもって革命に参加した楽天主義者は、横からどんな風が吹きつけようと動揺しません。たとえ明日は絞首台に立たされようとも、決して動じません。けれども、明確な信念もなしに、みなが革命に身を投じるから自分も加わってみようという気持ちで革命に飛び込んだ人は、いつかは安穏な場所に逃げ込んでしまうものです。
行軍途上でのザリガニ捕りの話は、みなさんも回想記を読んで知っているだろうと思います。この話は、革命家の日常生活と闘争において楽天性がいかに重要な働きをするかを示す生き生きとした実例だといえます。一九三九年秋の敦化遠征を大部隊旋回作戦の第一段階といっていますが、行軍途上でのザリガニ捕りというのは、この遠征過程での出来事です。そのときも、われわれは食糧不足でひどく苦労しました。敵を振り切らなくては食糧工作の手立てを講ずることもできないのに、「討伐隊」がひきも切らず追い討ちをかけてくるので、どうすることもできませんでした。どうしたことか、そのときは山ウサギも現れませんでした。人煙まれな山奥をひきつづき行軍したので、食糧の調達を依頼するところもありませんでした。隊員たちは倒木を乗り越える力もつきて、それを避けて歩きました。ときたま休憩の号令がかかると、地べたに倒れこみ、所かまわず寝ころんで疲れをとろうとしました。出発の号令がかかっても、眠気が覚めず起き上がれない隊員もいました。頭道白河、二道白河、三道白河、四道白河といった松花江の上流一帯は、もともと湿地や原始林が多くて猟師たちもあまり踏み込まない地帯です。ですから行軍の歩度が鈍るほかありませんでした。
「さあ、みんな元気を出せ。こんな時ほど気力を失ってはいけないのだ。両江口に着けば休息をとって腹いっぱい食べよう!」
わたしは疲れきった隊員を抱き起こしながら、こう言って励ましました。わたしとて腹をすかし疲れを覚えないわけではありません。しかし、それを顔に出せないのが司令官なのです。
ある日の昼時、なだらかな傾斜をなした尾根で休憩を告げ、警護隊員に尾根を下って状況を探ってくるよう命じました。彼らの報告によれば、下方には谷川が流れているだけで別状は認められないとのことでした。数名の隊員を連れて谷川のふちに行ったわたしは、ズボンを膝までたくしあげて水の中に入りました。そっと石を引き起こして水の底を手探りしてみたところ、大きなザリガニが一匹手にかかりました。そのザリガニを水際に放り投げると、隊員たちはいっせいに「ザリガニだ!」と歓声をあげました。隊員たちはわれ先に川に飛び込みました。喜びいさんでザリガニを捕る姿は、数日来飢えた人とは思えないほどでした。足が冷えてくるとしばらく岸に出ては、また川に入って水の底をあさりまわりました。そのうちに、全隊員がこぞってザリガニ捕りに加わりました。足を引きずりながらやっと隊伍のしんがりについてきた隊員たちまで、先を争って川に飛び込んできました。
われわれは休憩の場にもどって火を焚き、ザリガニを焼きました。香ばしい匂いがする真っ赤に焼けたザリガニを囲んで、あちこちから笑い声があがり、冗談が飛び交いました。束の間のザリガニ捕りが隊伍の雰囲気をがらりと変えてしまったのです。もちろん、数匹のザリガニで腹が膨れるはずはありません。けれどもザリガニ捕りに夢中になっているうちに、隊員たちは空腹も疲労も忘れてしまったのです。このザリガニ捕りの後、行軍の速度は倍も速くなりました。
その日、わたしは隊員たちの明るい姿を見て多くのことを考えさせられました。最前まで倒木をまたぐ力すらなくて遠回りし、休憩の号令がかかるが早いか所かまわず寝ころんだ隊員たちが、どうして急にあんなに活気づいたのだろうか。ザリガニ捕りが隊員たちの楽天性を呼び覚ましたのだと思います。ザリガニを捕ろうとはしゃぎまわっているうちに疲れがとれ、気分転換にもなり…それで力がわき、飢えた覚えもないように朗らかになったのです。ザリガニ捕りが隊内に明るい雰囲気をもたらすことができたのは、隊員の楽天的な情緒を呼び起こしたからです。
前にも話したことですが、一九三九年の端午の日に、玉石洞という村で軍民合同の娯楽会と運動会を催したことがあります。そのとき、軍民が一緒になってサッカーの試合もしたのですが、見る者を楽しませてくれました。久しぶりにボールを蹴るので、なんと蹴りそこないの多いことか、その姿に腹をかかえて笑ったものです。選手たちはミスの連続でしたが、見物人はそれを少しもとがめませんでした。かえって、そういうミスが人びとのより大きな笑いをさそいました。
茂山地区での戦闘があって以来、朝鮮人民革命軍の主力部隊を掃滅しようと四方から敵が大挙して押し寄せてくるとき、「討伐隊」の巡回が絶えない和竜のまんなかで、悠々と端午の節句を祝い、サッカーの試合までするというのは、口で言うほど容易なことではありません。それは臨機応変の戦法と革命的ロマンに燃える心意気をもった朝鮮人民革命軍の兵士、指揮官ならではのことです。
革命家は未来を楽観する人たちです。革命そのものが、未来への夢や新しい生活への憧れからはじまるのです。未来の世界にたいする崇高な理想をもち、その実現をめざし身も心もささげて地道にたたかっていくのが革命家なのです。未来への楽観と革命勝利の確信がない人は最初から革命に身を投じようともしないし、たとえ革命に参加したとしても、前進途上でのきびしい試練と難関に耐え抜くことはとうていできないでしょう。
革命家の人生観や人間としての品格、生活の信条ややり方が他の人間と違う点は、信念や意志、不屈さだけにあるのではありません。革命家にとって大切なのは、誰にもまして理想と抱負が雄大で、いかなる状況にあってもその理想と抱負が実現する未来を確固と楽観することなのです。革命的信念と意志と楽観は革命家の三大特質、革命家の思想的・精神的品格をなす三大要素といえます。
いつか外国の記者から、主席は八〇歳で五〇代の健康を保っておられるが、その秘訣は何かと問われたことがあります。そのときわたしは、長寿の秘訣は楽天的に生きることにあると答えました。すると彼らはいっせいに拍手をするのでした。人間の生理的年齢が生活をいかに楽天的に営むかによって左右されるように、一国の革命の成否や生命力は革命的楽天主義によって左右されるというのがわたしの見解です。
人間は楽天的に生きてこそ、一日を生きても生きがいを感じることができるものです。意気消沈し憂うつに生活する軍隊は団結もできず、勇敢に戦うこともできません。革命的信念と意志は未来への楽観にもとづくとき、さらに強固なものになり、革命の最後の勝利が達成されるときまで堅持されるのです。
革命家になるということは何を意味するのでしょうか。それは、監獄も絞首台も死も覚悟して闘争の道に立つことを意味します。言いかえれば、未来への確固とした楽観をいだき、ひたすら革命の勝利のために身をささげる決意と覚悟のもとに、民族解放、階級解放、人間解放の偉業に邁進(まいしん)することを意味します。われわれは革命的に生きるという言葉をよく使いますが、それは革命家のように生きるということです。未来のために、前人未踏の道をもためらうことなく歩むのが革命家であり、その道できびしい試練に直面するとしても、それを苦としない人間、党と領袖、祖国と人民のための闘争の道では生きるも死ぬも光栄とする強い覚悟をもち、水火をもいとわず飛び込む人間が革命家なのです。まさにこれこそ、革命家の人生が高貴かつ誇りあるものとなる所以(ゆえん)だと思います。
われわれの隊伍から逃亡した者をみると、それは例外なく未来への信念を失った悲観論者でした。彼らは革命が上昇線をたどっているとき、その気流に乗って偶然革命の隊伍に加わり、苦難が折り重なって情勢が不利になると、「なんとでもなれ。革命など関係ない。おれだけでも生きのびることだ」と逃げ出してしまった意志薄弱者です。
一九四〇年代は、われわれの隊伍において革命的ロマンと楽天主義が何よりも大事な時期でした。それは各隊員の真価と革命への忠実さを検証する試金石となっていました。われわれの勝利を信じた人はわたしとともに最後まで革命の道を歩み、勝利を信じなかった人は革命を中絶して隊伍を去りました。
革命的楽天主義は自然に生まれるのではありません。たえまない教育、不断の思想鍛練によってのみ養われるのが革命的楽天主義なのです。敵がまだ強く、革命の勝利の日を見きわめがたい時期に未来を楽観するというのは、正直な話、容易なことではありません。容易でないから、思想教育、思想鍛練をつづけなければならないのです。朝鮮人民革命軍がいかなる嵐の中でもひるまない強い軍隊になったのは、われわれが初期から思想教育に大きな力をそそいだからです。
われわれは終始一貫、革命への限りない忠実性、不撓不屈の闘争精神と革命的楽天主義、われわれの偉業の正当性と勝利の確信を遊撃隊員たちに植えつけました。わたしは暇さえあれば、隊員たちに楽天主義を植えつけました。隊員たちに「国が独立したら平(ピヨン)壌(ヤン)へ行ってボラ汁や冷麵に舌つづみを打ってから、牡(モ)丹(ラン)峰へ登って大(テ)同(ドン)江を見物しよう!」と言うと、彼らはいっせいに「早くその日が来るよう頑張ろう!」と言って拳を握りしめたものです。そして勇気百倍、戦闘に突入しました。
蛙料理で祝日のご馳走に代えた一九四〇年のメーデーの日も、わたしは革命的楽天主義と必勝の信念を隊員たちに植えつけました。その晩、われわれはみな焚き火のまわりに車座になり、時の経つのも忘れて語り明かしたものです。革命について、祖国について、故郷の父母兄弟について、勝利した未来について楽しく語り合いました。わたしは隊員たちにアピールしました。
―― 諸君、きょうは蛙料理でメーデーを過こしたが、日本帝国主義を打倒したあとは平壌へ行き、大同江のボラ料理で祖国の解放を祝おう。いま敵はわれわれを殲滅しようと狂奔しているが、われわれは決して屈しないし、尻ごみもしないだろう。われわれみなが未来への確信と、朝鮮民族としての自負、朝鮮共産主義者としての自負をいだき、日本帝国主義侵略者を撃破して祖国を解放するためさらに雄々しく戦っていこう。
焚き火に照らし出された隊員たちの顔を見ると、みな明るく生き生きとした表情をしていました。彼らは、折り重なる困難を楽観と勇気をもって乗り越え、奪われた祖国を必ずや取りもどさずにはおかない決意と自信にあふれていました。
もしあのとき、わたしが困難を前にして腕をこまぬき、黙然と遠山に目を向けるなり、隊員たちに蛙料理を供した後、さあ空腹も多少はいやしたのだから各自テントにもどるようにとでも言ったとすれば、隊伍の雰囲気があれほど明るく活気づきはしなかったはずです。少なからぬ隊員は、きょうはやっと蛙料理にありついたが、明日はまた何を食べて過ごすのだろうかと、心配で寝つけなかったことでしょう。
蛙を捕って祝日の料理を用意するよう指示したとき、隊員たちがみな歓声をあげ、両袖をたくしあげて繰り出したことや、焚き火の前で夜通し革命の前途について話したとき、熱心に聞き入ってわたしのそばから離れようとしなかったのは、司令官の姿に革命勝利のかたい信念と、いかなる困難に際会しても動揺しない胆力を感じ取ったからです。敵はいま、われわれに睡眠も食事も休息もとらせまいとダニのように食い下がってくるが、朝鮮人民革命軍は絶対に屈することも破れることもない、というのがわたしの考えでした。
それで指揮官の精神状態が重要だと言いたいのです。指揮官の肝がすわっていれば兵士たちも肝がすわり、指揮官が確固たる信念をもっていれば兵士たちの信念と意志もゆるがないものです。兵士たちの楽天性が指揮官の信念によって左右されるように、人民大衆の楽天主義は指導者の信念と胆力によって決まります。困難なときに大衆がまず指揮メンバーの顔色を見るのはそのためです。
隊員たちは、わたしが勝つと言えば勝つものと信じ、わたしが笑顔になれば革命の前途が明るいと考えました。また、わたしが釣りをしたり鼻歌でもうたおうものなら、来たる戦は勝ち戦だと判断したものです。わたしだけでなく、すべての指揮官が隊員に楽天主義を植えつけました。崔(チエ)景(ギヨン)和(フア)と姜(カン)燉(ドン)は、行軍の最中にも隊員の信念をかき立てる話をするのをつねとしました。
隊員の信念と楽天主義を培う教育で重要な手段となったのは文芸活動です。革命的な娯楽を抜きにしては抗日遊撃隊の生活について語ることはできず、革命的な歌と踊りを抜きにしては朝鮮人民革命軍の歩んできた勝利の路程について語ることもできません。
金(キム)正(ジヨン)日(イル)同志は、朝鮮革命は歌にはじまり、歌のなかで前進し、歌とともに勝利した革命だと言いましたが、まさにその通りです。朝鮮革命のように歌と密着した革命、歌でつづられた革命はこの世に二つとないでしょう。
革命そのものが荘重な交響楽であり、歌を生む泉なのです。歌を抜きにした革命など考えられません。『インターナショナル』の歌を抜きにして国際労働運動発展の歴史について考えることができるでしょうか。
北満州遠征のとき、われわれに近づこうとしなかった大衆を獲得したのも歌であり、われわれを避けて逃げだした中国人を引きもどしたのも、彼らに愛唱されていた『蘇武歌』でした。
歌はわたしの人生においても大きな作用を及ぼしました。わたしの人生が『子守歌([3])』ではじまったとすれば、わたしの革命闘争は『鴨緑(アムノク)江の歌([4])]ではじまったといえます。わたしは葡(ポ)坪(ピヨン)の渡し場から鴨緑江を渡るとき、この歌をうたいながら祖国を取りもどす決心をしました。そして後日、その歌を口ずさむたびに、鴨緑江のほとりで立てた誓いを思い起こし、戦場にのぞんだものです。中学時代からは自分で歌詞を作り、曲も付けました。そうして『朝鮮の歌([5])』が生まれ、『反日戦歌』や『祖国光復会一〇大綱領歌』が生まれたのです。わたしは困難なときはいつも歌をうたって力を出しました。食糧が切れ、水で飢えをしのいだときにも、歌をうたいながら難局を切り抜けたものです。その過程でわたしも成長し、革命も発展しました。ひもじいときに歌声を聞けばひもじさを忘れ、力が尽きたときに歌をうたえば力がわきあがりました。
苦難の行軍のとき、警護隊員たちが雪の中に埋もれて立ち上がれなかったことがあります。いくら立ち上がろうとしても手足がいうことをききませんでした。数日のあいだ何も口にできなかったうえに、疲労困憊(こんぱい)して力が尽きてしまったのです。わたしも自分の体を支えきれないありさまでした。わたしは雪の中にミイラのように横たわっている隊員たちに近づいて、静かに『赤旗の歌』をうたいました。隊員たちはその歌を聞いて正気に返りました。そして、敢然として立ち上がり、行軍をつづけたのです。
いっとき敵が数千の兵力で車廠子遊撃区を封鎖したことがありますが、当時その地域では多くの人が飢餓に苦しみながら世を去りました。はなはだしい食糧難と敵の度重なる「討伐」のため死に瀕した車廠子の人民を決戦に立ち上がらせたのは、児童団員たちがうたう革命歌でした。
いまとは違って、当時われわれには専門の芸術団体もなく、専従の創作家や俳優もいませんでした。けれども抗日遊撃隊員は自ら歌詞や曲をつくり、『遊撃隊行進曲』のようなすぐれた革命歌や革命的な演劇、歌劇、舞踊などを数多く生みだしました。
青年学生運動時代と同じく、遊撃区のころにもわれわれはしばしば演芸公演を催し、遊撃区を解散して広大な地域で大部隊による流動戦を展開した時期にも文化・情操生活を日常化しました。演芸公演は山中でも住民部落でも催しました。演芸公演のときは周辺に機関銃をすえて掩護しました。そうしたので、敵の奇襲があっても安心して公演をつづけることができました。公演は祝日や大戦闘をすませた後にもおこない、部隊に多くの新隊員を入隊させたときにもおこないました。どこでどんな公演をするにせよ、われわれが追求した終局的目的は、千万べん死すとも敵を討つという強靱な革命精神で軍隊と人民を武装させ、彼らをすべて不屈の革命闘士にすることでした。
この目的に即して、公演についての宣伝も楽天的な味わいが出るよう趣向を凝らしました。第七連隊第二中隊の戦友たちは桃泉里で軍民交歓娯楽会形式の演芸公演を催すとき、「お笑い大会」という広告を貼り出しました。お笑い大会を次の通り催します故、ぜひご参加のほどを、といった具合に広告を貼り出したところ、公演の場にした農家の庭とそのまわりは黒山の人だかりになりました。「お笑い大会」とはなんとウイットに富んだおどけた表現ではありませんか。この広告を見ただけで、人びとは口もとに笑みを浮かべたものです。パルチザンの演芸公演はめでたいときにだけ催されたのではありません。抗日遊撃隊員は悲しい出来事があったときにも、娯楽と公演活動によって気分転換をしたものです。
呉(オ)仲(ジユン)洽(フプ)と姜(カン)興(フン)錫(ソク)が戦死したときは、連続二回にわたって大規模の演芸公演を催しました。この二人が戦死したときほど部隊の兵士、指揮官たちが悲しみ、口惜しんだことはなかったでしょう。呉仲洽の葬儀をとりおこなった当日の夜、宿営地では白米のご飯に塩漬けのサバを焼いたものが食卓に出ましたが、誰も食べようとしませんでした。解放後、金(キム)正(ジヨン)淑(スク)はサバを目にすると呉仲洽を思い出して涙ぐんだものですが、彼を失った隊員たちの気分がいかに沈痛であったか察せられるでしょう。それで行軍の途中わざわざ時間を割いて娯楽会を催したのですが、隊内に重くたれこんでいた悲しみを歌や踊りや奇術でいくらか紛らすことができました。
数日後、夾信子を襲撃したときにも、松花江のほとりの林の中で大規模の演芸公演を催しました。抗日闘士や歴史家たちは、この公演は新入隊員を歓迎するためのものであったと叙述していますが、実際の目的はそれだけではなかったのです。呉仲洽の戦死による大きな悲哀と喪失の痛みを振り払い隊内に楽天的な雰囲気をつくりだそうという目的もあったのです。
その公演はなかなかの見物でした。ドロノキを伐り出して仮設舞台をつくり、テントを何枚もつないで幕も張りました。床板が凍っていて滑りやすいので毛布を敷きました。公演前にプログラムが貼り出されたのですが、合唱、独唱、舞踊、奇術、ハーモニカ合奏など多彩をきわめていました。幕は呼び子の合図で開け閉めされました。夕食をすませてから、新入隊員と古参の隊員、それに荷をかついできた労働者が全部集まって公演を観覧しました。
この日、金正淑が『女性解放歌』をうたい、踊りをおどったことが思い出されます。踊りのときには幕裏で舞踊曲がうたわれました。
幕間劇も人気を呼びました。地陽渓で入隊した背の高い隊員と延吉で入隊した隊員が活動写真の弁士よろしく映画の解説をして観衆を泣かせました。ぺベンイクッ(民俗劇の一種)も大変な人気でしたが、誰の出演だったかは思い出せません。中国人のある隊員は、いまのサーカス団のピエロ役のように竹馬に乗って踊りをおどりました。それもやはり異色の出し物でした。その隊員は行軍のたびに竹馬を利用して隊伍の足跡をかき消したものです。演目のなかには曹(チョ)道彦(ドオン)の奇術もあったし、胡弓を弾きながら歌をうたって異彩を放った新入隊員もいました。最後の出し物は、遊撃隊の生活を描いた寸劇でしたが、これはわたしが行軍の合間合間に構想して台本を書いたものです。
その日の公演は四、五時間もかかりましたが、観衆は少しも退屈しませんでした。演芸公演が終わると、追加的に入隊を志願する人がたくさん出ました。人びとに楽天主義を植えつけるうえで文学・芸術がいかに大きな効果を発揮するかは、抗日革命時代の演芸公演が如実に示しています。
革命は、思想・意志や規律だけでできるものではありません。思想・意志、道徳・信義とともに、ロマンを宿した情操をもってするのが革命なのです。生まれ育った故郷の山河と父母妻子を愛するこまやかな感情を抜きにしては、愛国主義は芽生えません。自己の集団にたいする愛着と献身の念もなしに、共産主義思想のような深遠な思想を永遠の真理として受容できると考えるなら、それはあまりにも単純な考え方です。抗日革命の全路程は、豊かな情操をもった楽天的な遊撃隊員であってこそ、自分の指導者とその思想にあくまで忠実であり、革命勝利の確固たる信念をもって、命をささげて祖国が記憶し人民が記憶する偉勲の創造者になれることを実証しています。
朴(パク)吉(キル)松(ソン)は最期を遂げる瞬間に何と言ったのでしょうか。「祖国よ! わたしはおまえを誇りに思う。…共産主義! これはまさに世界の青春である。…祖国の輝かしい未来を育む揺らんである。…われらはこれをあまりにもよく知っているがゆえに、このように笑って死ぬのだ」と言ったのです。
敵の拷問で両眼を失った崔(チェ)希(ヒ)淑(スク)は死を前にして何と叫んだのでしょうか。「革命の勝利が見える!」と叫んだのです。朝鮮人民が万歳を叫び解放を告げるその日が見えると言ったのです。
日本の刑吏は鉄鎖につながれた李(リ)桂(ゲ)筍(スン)に、反省の演説を一言口にすれば命を助け、一生栄華をきわめた生活を保障すると懐柔しました。しかし彼女は「仇敵のやからども、わたしの耳が汚れる。朝鮮の共産主義者がどんな人間であるかまだ分からないのか」と敵を唆烈に糾弾し、断頭台にのぼっては祖国解放の日は遠くないと叫びました。
抗日革命の途上で倒れた闘士はみな、革命勝利の不変の信念と豊かな情操をもった楽天主義者でした。
革命家は未来を楽観する人たちです。今日よりも明日を大切にする人、その明日のためなら、若き命も惜しみなくささげる熱血の闘士です。
わたしがきょうみなさんに革命的楽天主義についてことさらに強調するのは、内外の現実がいつにもましてそれを切実に求めているからです。
多くの国で社会主義が挫折した後、帝国主義者の制裁騒ぎのため、朝鮮人民はいま各面で深刻な困難に見舞われています。政治も軍事も、経済も文化も、すべて重大な挑戦を受けています。戦争ではないにしても、それよりもなお張りつめた対決状態におかれているといえます。
しかし、こうした難局が一〇〇年、二〇〇年とつづくものではありません。われわれが直面している難関は一時的なものであり、これは遅かれ早かれ克服されるものです。みなさんは未来を楽観し、自力更生、刻苦奮闘して、こんにちの難局を一日も早く打開し、祖国を急テンポで前進させなければなりません。
こんにち、楽天主義で核心をなすのは、金正日同志のような革命の新しい世代がいればわれわれは勝利するという気概です。金正日同志が革命を指導しているので、われわれは十分未来を楽観することができます。
わたしは、金正日同志を信頼せよ、そうすれば万事が順調にいくはずだとあらためてみなさんに強調するものです。金正日同志の気概に朝鮮の未来があり、二一世紀の未来もあるのです。歴史が必ずこれを証明するでしょう。


三 コミンテルンの連絡を受けて

抗日革命の日々、金日成同志は朝鮮革命を自主的に指導する一方、国際革命勢力との連帯のためにも多くの努力を傾けた。
金日成同志は、一九三〇年代の末期から一九四〇年代の初期、コミンテルンやソ連との連係が深まり、朝鮮革命の国際的版図がさらに拡大され、朝中共同の抗日闘争が朝鮮、中国、ソ連を包括するより高い形態の新たな段階に発展した歴史的時期について、つぎのような回顧談を遺している。

われわれが数年来とだえていたコミンテルンとの連係を回復したのは一九三九年でした。大部隊旋回作戦をひかえて全員が綿入れの軍服に着替えたころでした。
朝鮮人民革命軍主力部隊が安図県の花拉子密営で軍事・政治学習をしている最中でした。ある日、小部隊工作に出ていた金一が、真っ黒な大布衫姿のまま縛られた三人の男を司令部に引き立ててきました。任務を果たして帰隊する途中、服装や行動に不審なところがあって捕らえたのだが、山間部の農夫らしくもなく、日本軍の回し者かもしれないと言うのでした。身体検査をしてみると、拳銃のほかに鍋と炒り豆が出てきました。
わたしはその三人と話し合うことにしました。われわれの部隊が第二方面軍で、わたしが金日成であることを知った彼らは、ようやく自分たちがコミンテルンの連絡員であることを明かし、マッチ箱を取り出して見せました。マッチ棒が非常に大きいのを見ると、満州や朝鮮でつくられたものではありませんでした。それはソ連製のマッチでした。しかしその時は、それがソ連製のマッチであることを誰も知りませんでした。
われわれは三人の身分をはっきり確認するため、他の証(しよう)憑(ひよう)品(ひん)の提示を求めました。すると、彼らの一人が一本のナイフを取り出しました。そのナイフは魏拯民がコミンテルンに出向くとき、接触暗号用として手渡したものでした。数年の歳月が流れ、その間きびしい風雪にさらされてきましたが、見慣れたそのナイフは忘れようもありませんでした。わたしは魏拯民にそのナイフを渡すとき、モスクワヘ行ったら接触暗号用としてコミンテルンに預けるようにと言いました。そして、コミンテルンからわれわれに人を派遣するときは、必ずそのナイフを持たせて身分が確認できるようにすることを頼みました。金一の小部隊が日本軍の回し者と間違えるところだった三人がコミンテルンの連絡員であることは、そのナイフを見ただけで分かりました。用件は何であれ、コミンテルンがわれわれを忘れず連絡員を送ってくれたのはうれしいことでした。
南湖頭会議以後とだえていたコミンテルンとの連係はこうして回復しました。われわれが二〇余万の大敵との決戦をひかえて新たな作戦を練っているとき、コミンテルンが連絡員を送ってよこしたことは、われわれにとって励ましとなりました。
連絡員の話によると、コミンテルンが派遣した人員は六名だったとのことです。六名のうち三名はわれわれを探し歩いているうちに病気にかかったため引き返し、自分たちは残ったのだが、引き返した三名のうちには朝鮮人も一名含まれていたと言うのでした。
コミンテルンが明確な所在を教えず、漠然と延吉方面へ行って金日成部隊を探してみるようにと指示したため、おおよその見当をつけてあちこち巡り歩いたので、日数もかかり、苦労したとのことです。ソ連を発つときには略図も用意してきたのだが、われわれの部隊が常時流動して活動するので、なかなか行方を探すことができなかったと言うのでした。そのうえ、人民まで気を許さないので、接触を断念してソ連へ引き返そうと考えていたところ、幸いにも安図県三道溝の村落に立ち寄ったとき、花拉子の方へ行ってみるよう耳打ちしてくれる人がいたので、こうして探し当てることができたと言うのでした。
彼らは山小屋に仮寝の宿をとったとき、火事にもあったそうです。衣服を焦がし、食糧まで切らして、炒り豆で飢えをしのぐありさまになり、花拉子でもわれわれに会えなければ諦めて引き上げるつもりだったというのです。彼らいわく、満州の地に足を踏み入れたその日から、大海のまんなかで遭難したような心地だったそうです。それほどに行路が漠として孤立無援であったと言うのでした。
三人の連絡員には新品の軍服を着用させ、必要な日用品も一式そろえて支給するようはからいました。新しい軍服を着て食事をすませた彼らは、司令部のテントで久しぶりの安眠をむさぼりました。

一九三九年の末、コミンテルンが金日成同志と東北抗日連軍の第一路軍に連絡員を派遣した事実について、日本官憲の資料にはつぎのように記されている。「康徳六年(一九三九年)一〇月一一日、金日成匪が和竜県三道溝西北方枕峰密営内に居る頃、共匪に似たる服装をし拳銃を携帯せるロシヤ人八名が朝鮮人通訳二名と共に金日成を訪ね重要対談をした。其のとき重要幹部以外には誰も傍に近寄らせず約一〇日間留まった後金日成匪団の内虚弱者一二名を連れ去った事実がある。其のロシヤ人はソ聯から連絡員として来た者達であると言い…詳細は明確でないが直接ソ聯から重要なる使命を帯びて連絡に来たものと見られる」〔琿春領事木内の報告 昭和一五年(一九四〇年)七月二六日〕
「次に党指導の領導路線の点でありますが、それは昨年(一九三九年)一二月ソ聯より直接第一路軍に四名の連絡者を寄越してゐますが、其の連絡内容目的は未だ全然解りません。只其の事実は本年(一九四〇年)一月二二日撫松に於て入手した魏拯民より楊靖宇宛の書信の中にその点が判然と記されて居り、経路は敦化より大蒲柴河に入り更に両江口を経て…来た事は明であります」〔「東北抗日聯軍第一路軍の動向」『思想月報』第七七号、司法省刑事局 昭和一五年(一九四〇年)一一月〕

そのとき、コミンテルンがわれわれに寄こした連絡の内容は簡単なもので、つぎのような二つの問題でした。
その一つは、コミンテルンの招集する満州パルチザン指揮官会議に、朝鮮人民革命軍と第一路軍の代表を派遣してほしいということであり、いま一つは、東北地方の抗日遊撃部隊の大部隊活動を当分の間、考慮してもらいたいということでした。
当時、コミンテルンとソ連は、東北抗日遊撃闘争の発展方向について新たな視点から考察していました。一九三〇年代末期の抗日連軍運動の内情は少々入り組んでいました。北満州と吉東地区で活動していた第二路軍と第三路軍の間には、指導と連合の問題をはじめいくつかの面で意見相違がありました。この意見相違を解消するため、コミンテルンでは第二路軍と第三路軍の代表を交えてソ連で必要な協議をおこないました。協議を重ねる過程で、彼らは北満州と吉東地区の抗日連軍の代表が一堂に会した機会に、朝鮮人民革命軍と南満州の第一路軍の代表も呼び、より広い範囲での協議を進めることによって、東北全域での抗日革命の高揚をはかる対策を立てると同時に、満州パルチザン闘争をソ連の極東政策に整合させようとしていた模様です。
もちろん、コミンテルンの連絡員がそういう内幕までわれわれに説明してくれたわけではありません。しかし、当時の極東の軍事・政治情勢やソ連とコミンテルンがとっていた一連の政策からして、そう判断するのは十分可能でした。
ところが、わたしや楊靖宇や魏拯民は遊撃戦区を離れられない身でした。敵の大「討伐」が目前に迫っているというのに、われわれが部隊を置き去りにしてソ連へ行ってしまうならば、新たな作戦の遂行に甚大な禍をまねくことにもなりかねず、隊員の士気に影響を及ぼす恐れもありました。
大部隊活動を考慮してほしいというコミンテルンの提言にしても、おいそれと受け入れることはできませんでした。大部隊活動を中断する場合、それが結局は消極的な分散逃避になるのではないかということも慎重に検討してみるべき問題でした。
わたしはコミンテルンの連絡員に、コミンテルンの二つの要請にたいするわれわれの立場を詳しく説明し、彼らのうちの一人を魏拯民のところに送りました。「漫(マン)江(ガン)」という別号をもった司令部の連絡員が彼を案内していきました。
コミンテルンの連絡員たちが花拉子の密営を発つとき、朝鮮人民革命軍の闘争内容を記載した文書と写真などを託送しました。それらの資料をソ連に保管しておけば安全であり、われわれの負担も軽くなるからでした。そのとき託送した資料類は背のう一つ分ぐらいになりました。わたしが眼鏡をかけて臨江県の五道溝密営で撮った写真もそのときに送ったものです。
ソ連に向かったコミンテルンの連絡員たちは、不幸なことに和竜県のある地点で鉄道を横断するとき、自衛団に逮捕されたとのことです。そのため、文書や写真などはコミンテルンに届かず、そっくり敵の手に渡ってしまいました。われわれが撮影した写真が日本官憲の記録に出ていることから推して、コミンテルンの連絡員たちがソ連に入る途中、敵の手にかかったことは明らかです。われわれのところに来たコミンテルンの連絡員のなかには寧という名の中国人もいました。魏拯民がコミンテルンに送った手紙には、寧が敵と交戦して負傷したということが記されています。
コミンテルンの二つの要請についての魏拯民の見解は、わたしの見解と一致していました。
われわれがコミンテルンとの連係をとりはじめたのは一九三〇年代の初期からです。一九三〇年代の前半期までは、その連係が比較的スムーズであったといえます。しかし、腰営口会議([6])で決着がつかなかった反「民生団」闘争([7])についての意見の相違を解消するため、魏拯民がモスクワヘ行ってきた一九三六年初から一九三九年の秋までは、われわれとコミンテルンとの行き来が絶えていました。われわれもコミンテルンに人を派遣しなかったし、コミンテルンからもわれわれに人を派遣してきませんでした。正直なところ、当時われわれはコミンテルンを訪ねていく必要性を感じていませんでした。朝鮮革命の明日の運命にかかわる重要な路線上の問題が公明正大に解決された以上、南湖頭会議で採択された方針どおりに革命をつづけていけばよいと考えていたからです。
われわれは明確な路線をもって革命を推進し、白頭山に陣取って武装闘争を国内へ拡大していきました。すべての路線と政策を自主的にうち立て、それを自力更生の革命精神で解決していくのは、われわれの一貫した立場であり、闘争気風でもありました。不足するものも多く、困難も一つや二つではありませんでしたが、朝鮮の共産主義者はそれをすべて自力で克服していきました。他人にはみだりにねだったり、哀訴したりはしませんでした。
抗日革命の時期から自主的革命路線を堅持してきた歴史的伝統と経験があったがゆえに、われわれはこんにちも依然として、世界でもっとも自主性の強い党、自主性の強い民族、自主性の強い国となっています。
世界には外部勢力を駆逐するため遊撃戦をくりひろげた国も多く、正規の武力によって現代戦をくりひろげた国も少なくありません。しかし、われわれのように困難な状況で武力抗争をくりひろげた例はほとんどありません。われわれがいつも、国家的後方も正規軍の支援もなしに一五星霜戦ったと言うのは、少しも誇張された表現ではありません。朝鮮革命の困難さを物語る事実そのままの表現なのです。
第二次世界大戦当時、ユーゴスラビアのパルチザンがよく戦ったのは、われわれも知っていることです。しかし、ユーゴスラビアがドイツ軍に占領されたのは一九四一年四月ですから、その国のパルチザン闘争の歴史も数年に過ぎません。チトーがパルチザン闘争を開始した当時、ユーゴスラビアには正規軍の根株が少なからず残っていました。それにユーゴスラビアのパルチザンはソ連の援助も少なからず受けました。ジューコフの回顧録によると、ソ連はこの国に小銃や機関銃のような軽火器だけでも数十万挺送ったとされています。ユーゴスラビアのパルチザンは、ソ連から大砲や戦車などの重兵器まで受けたといいます。
中国人民の抗日戦争も同じような筋道から説明することができます。蔣介石の配下には数百万の大軍がありましたが、その大軍が反共にのみ終始したとはいえません。消極的であやふやではあったにせよ、反日の旗をかかげたのは確かであり、日本軍と交戦したのも事実です。蔣介石軍が多少なりとも日本軍を牽制したのなら、それは中国人民の遊撃戦にたいする正規軍の支援になったとみるべきでしょう。国共合作という言葉自体が共同抗日を意味するものだといえるでしょう。
わが国の正規軍がその存在に終止符を打ったのは一九〇七年です。われわれはそれから二〇年以上も経過してから武装闘争を開始したのです。そのときは正規軍はおろか、その根株すら残っていませんでした。国が滅びたので、国家的後方については論ずるまでもありません。義兵や独立軍が使った銃がいくらかあったとはいえ、いずれも古びた旧式のものであり、それさえ錆ついて用をなしませんでした。われわれは一挺一挺の銃を命と替えなければならなかったのです。われわれが武装闘争の過程で体験した苦しみ、遊撃隊員が一〇年近く山中でなめた苦汁をすべて話そうとすればきりがありません。それでもわれわれは他人にすがろうとはしませんでした。
前にも何度か話したことですが、コミンテルンは中国やインドなど大きい国の革命にはかなり関心を向けましたが、朝鮮革命にたいしてはさほど注目しませんでした。コミンテルンの一部の人は、朝鮮革命を中国革命や日本革命の付属物のようにみなしていたのです。同じ中国革命の場合でも、関内の革命闘争にたいしては多くの関心を払いましたが、東北革命にたいしてはないがしろにしたといえます。コミンテルンが国民党にボロジーンやブリュッヘルなどを顧問として送っていたのは周知の事実です。共産党にはボイチーンスキ、マーリン、オット・ブラウンといったメンバーを送っていました。
ところが、東北革命のためには一名の顧問も送りませんでした。東北革命にたいする支援があったとすれば、それは第二路軍や第三路軍に偏重していました。ソ満国境から遠く離れて戦っていた朝鮮人民革命軍や南満州の第一路軍にはほとんど関心を向けなかったといっても過言ではないでしょう。
コミンテルンが東北革命を軽視したことは、彼らがソ連に留学させた満州出身の指揮官をほとんど東北に送り返さず、関内(万里の長城以南の中国本土)に派遣した事実をみてもよく分かります。遊撃区当時、間島でわれわれと共同闘争をおこなった東北人民革命軍第二軍の参謀長劉漢興や第五軍の李荊璞はいずれもソ連での留学を終えた後、もとの地域ではなく延安に配置され、日本帝国主義の敗退後に東北にもどってきたのです。
日本人の資料を見ると、東北革命はあたかもソ連やコミンテルンの支援のもとに展開されたかのように記述されていますが、それは事実に反する憶測にすぎません。ひところ日本人は、わたしがモスクワの共産大学で訓練を受け、一九三八年の夏にソ連から精鋭部隊を率いて満州に入ってきたと宣伝したものです。日本のある官憲資料には、わたしが相当長い間ソ連に行って部下を訓練させ、支援を受けて満州にもどってきたと記されており、張鼓峰事件後満州にもどって東辺道で猛威をふるっているとも記述されています。
こういう宣伝は、われわれをソ連やある外部勢力の教唆と操作で動く者のように描写することによって、国内の人民に及ぶわれわれの影響力を弱め、抹殺するためのものでした。
率直に言って、当時われわれはソ連やコミンテルンの世話になったことはこれといってありません。汪清で活動していた時期、手榴弾工場の設置を要請する手紙をソ連に送ったことがありますが、返答すらありませんでした。それでわれわれは、「延吉爆弾」という名の爆裂弾を自力で製造して用いたのです。
東北革命や朝鮮革命にどことなく冷淡で無関心であったコミンテルンが、一九三九年にいたって連絡員を派遣し、われわれをソ連に招請する異例の措置をとったのはなぜでしょうか。一言でいえば、このような変化は、日本の対ソ侵略が既成の事実となっていたソ連の軍事・政治情勢の要請によるものと判断することができます。ハッサン湖(張鼓峰)事件とカルキンゴル(ノモンハン)事件を通じて日本帝国主義の領土拡張野望と強盗的本性をいやがうえにも思い知らされたソ連は、彼らがいつかは「北攻」を断行するであろうことを察知し、コミンテルンと共同でそれに対処する方策を模索していたのです。
その際、コミンテルンがとくに重視したのは、ソ連を側面と背後から軍事的に支援する同盟者を探し出し、その同盟者との軍事的・政治的連合を実現することでした。東方でソ連を軍事的に支援できる存在は、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍しかありませんでした。コミンテルンは、東北における抗日武装勢力をソ連極東軍の一翼、その外郭勢力とみなし、一朝有事の際にはソ連極東軍兵力の別働隊にしようと考えていました。これにかんしてはもちろん、ソ連の考え方も同じであったことは言うまでもありません。
一九三〇年代の前半期までは東北抗日運動の存在に別段注目しなかったソ連でしたが、ハッサン湖事件とカルキンゴル事件のとき、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍がソ連を擁護して強力な背後攻撃作戦を敢行するのを見るにいたっては、満州パルチザンの存在があなどりがたいものであることを知ったようです。それ以来、彼らはわれわれとの連携を深めるために各面から努力するようになったのです。コミンテルンもこれに歩調を合わせました。すべての活動をソ連擁護の線で推進させるのは、コミンテルンの基本的使命であると同時に、一貫した政策でもありました。
だからといって、東北抗日勢力にたいするコミンテルンとソ連極東軍事当局の見解が最初から完全に一致していたわけではありません。満州パルチザンにたいするコミンテルンの立場は、戦時到来の時期までは力量の保持に重点をおくべきだということであり、極東軍事当局の立場は、中国全土がすでに戦時状態に入っており、犠牲も避けがたいものである以上、日本軍の中国本土への移動を阻止する強力な軍事的攻勢をとるべきだということでした。
ともあれ、コミンテルンが従前に比べ東北抗日運動にさらに関心を寄せ、重要な戦略戦術を協議するためわれわれをソ連に招請したことは注目に値する政策転換でした。これは、われわれが敵の背後でソ連を武力で支援できるほど強力な勢力に成長した結果でした。
しかし、われわれはそのときコミンテルンの要請を保留し、大部隊活動も中止せず、ソ連に行きもしませんでした。かえって満州に居座りつづけ、すでに設定ずみの時間表どおり、大部隊による旋回作戦を果敢に展開し、敵の攻勢を容赦なく粉砕しました。
大部隊旋回作戦を成功裏に終結することにより、われわれは受動的にではなく能動的に新たな闘争方針を立てることができるようになりました。あのとき、われわれがコミンテルンの要請どおりハバロフスクヘ行くなり、すぐさま小部隊活動に移行していたなら、大部隊旋回作戦のような大きな作戦を展開することはできなかったでしょう。

チュチェ二九(一九四〇)年の秋、金日成同志は再びコミンテルンの招集する会議への参加を求める通知を受けた。コミンテルンからの使者が死線をくぐり抜けて金日成同志を訪ねてきた。そのころを回想して金日成同志はつぎのように述懐している。

わたしがコミンテルンから二度目の連絡を受けたのは、一九四〇年の一〇月中旬でした。朝鮮人民革命軍の全部隊が小哈爾巴嶺会議の方針にもとづき各地で小部隊活動をくりひろげていた時期です。
コミンテルンが派遣した二名の連絡員がわれわれを訪ねてきました。彼らの話によれば、派遣したのは極東軍司令部付きの将官リューシェンコで、彼がコミンテルンの名で伝達を命じた事項は、一二月にコミンテルンがハバロフスクで招集する会議への参加を要請するものでした。彼らはまた、満州で活動するすべての抗日武装部隊は大部隊活動から小部隊活動に移り、極東に基地を定めて兵力の収拾、再編をはかるため早急に入ソせよというコミンテルンの指令も同時に伝達しました。
リューシェンコは極東軍司令部付きで、コミンテルンの主宰する仕事を担当していました。彼とは後日、ハバロフスクに行ったとき会いました。彼はわたしに会うや、金日成同志と握手を交わすのがこんなにむずかしいとは、と言って、われわれとの連係を結ぶため小部隊やグループを派遣したいきさつを詳しく話しました。彼は、初対面から人の心を引きつける情熱と親しみやすさを持った人物でした。リューシェンコは普段、王新林という別名で活動し、主としてコミンテルンやソ連とわれわれとの間の橋渡しをしていました。
連絡員の話によると、一九四〇年の初にコミンテルンがハバロフスクで招集した満州パルチザン指揮官会議は、朝鮮人民革命軍と第一路軍の代表が参加しなかったため、北満州と吉東地区のパルチザン代表だけの会議になってしまったとのことです。しかし、コミンテルンは当初の計画を放棄せず、東北のすべての抗日武装部隊の指揮官会議を必ず招集して、東北抗日運動の発展方向を討議し、ソ連が直面している国難も打開しようとしたのです。
連絡員がわれわれのもとに到着したのは一〇月ですが、コミンテルンが会議招集の通知を送ったのは一九四〇年九月でした。その通知は、第二路軍と第三路軍には電信で伝達されましたが、無線電信システムを備えていなかったわれわれには連絡員を通して伝達されたのです。コミンテルンがハバロフスク会議への参加を指定した対象は、各路軍の総指揮、政治委員、党書記などの主要軍事・政治幹部でした。
わたしは魏拯民に、コミンテルンから連絡員が来たことを通報し、それに共同で対処することを提起しました。魏拯民は、コミンテルンが主宰する会議であるから参加しなければならないが、健康状態が思わしくないので発てないとのことでした。そしてわたしに、コミンテルンに行ったら朝鮮人民革命軍を代表すると同時に、東北抗日連軍第一路軍と南満省党委の代表をも兼ねてくれるよう依頼しました。
小部隊活動にかんするコミンテルンの要請は、われわれがすでに小哈爾巴嶺会議で採択した小部隊活動の方針と合致していました。この時期の軍事・政治情勢は、われわれが一九三九年末から一九四〇年初にかけて大部隊活動をくりひろげていた時期よりはるかにきびしいものでした。大部隊で行動するのが困難な時期でした。まず、敵が集団部落化を完成した時期だったので、大部隊の食糧を調達するのが困難でした。米一合、トウモロコシ餅一個のために血を流さねばならないときが少なくありませんでした。毎回、戦友の血の代価によって食糧を手に入れたのです。
当時、敵は治本工作と思想工作にとくに力を入れていました。そのころの集団部落政策は、以前、西間島で実施された集団部落政策よりはるかに悪らつなものでした。散在する家屋をすべて焼き払い、「武装部落」を建設する方法で「匪民分離」を強行する一方、食糧、物資、弾薬などの統制と「通匪」分子の摘出、検挙、渡し場の警備などを強化しました。ケシの密栽培の取り締りも厳重をきわめました。そうしながらも、口では「難民救済」だの「民生工作」だのと宣伝しながら、革命的大衆と人民を思想的に瓦解させようとしたのです。
われわれの経験は、小部隊活動に移れば、大部隊活動のときに比べて食糧を比較的容易に入手できることを示していました。戦略と戦術の策定にあたっては、食糧問題を考慮に入れざるをえませんでした。食糧が第一であり、そのつぎが戦術でした。食わずには戦えないではありませんか。わたしが、衣食住という言葉を食衣住という言葉に変えて使うのは、パルチザン時代に食糧のため苦労をした体験の反映といえます。
極東に出入りして小部隊で活動すれば、人民の中に入って政治工作をするのにも好都合であり、部隊の幹部を訓練し養成するのにも有利でした。また、夏期には軍事活動を展開し、冬期にはソ連が提供してくれる場所で軍事・政治訓練をする時間的余裕と空間の確保も可能になるはずでした。それは力量を保持し育成する意味でも有利だといえました。一九三〇年代の末期から一九四〇年代の初期にかけて、われわれは敵の大「討伐」で多くの幹部を失っていたのです。
わたしはコミンテルンの連絡員に、われわれが抗日武装闘争発展そのものの要請から小哈爾巴嶺で会議を開き、力量保持と小部隊活動に移行する方針を採択したことを通報し、ソ連入国の要望にたいしても今後考慮する旨を伝えました。
敵がわれわれを壊滅させようと必死になっている状況下で、隊伍を収拾し再編する時間的余裕と空間地帯を確保することは、武装闘争の現在だけでなく明日のためにも必要な措置となりえました。力量の保持と育成のためには、そういう安定した基地が必要だったのです。
われわれがその時期にいたって力量保持の問題に大きな関心を払うようになったのは、朝鮮革命の最後の勝利の日が目前に迫っているという確信をいだいていたからです。一九四〇年の後半期にいたり、第二次世界大戦の炎は全ヨーロッパに広がりました。ソ連とドイツの間に戦争が起こるということは誰もが予想していることでした。日本は中日戦争の終結をみない状態で、南方を標的にしたいま一つの戦争を画策していました。日本が米英を相手に新たな戦争を引き起こすなら、そういう冒険がどんな結果をまねくかは火を見るよりも明らかでした。こういう情勢下では、正面衝突を避けて力量の保持、拡大、強化をはかるのが上策でした。われわれのこうした見解は、ソ連やコミンテルンの考え方と基本的に一致していました。
ソ連が自国の領土内に、兵力を収拾、再編し、隊伍を保持、拡大できる基地をわれわれに提供し、必要な軍事的・物質的支援を与えるというなら、それは望ましいことでした。しかし、わたしはソ連に入るのを急ぎませんでした。重要な問題であるだけに、熟考する必要がありました。まず極東に行く場合、どれほど滞留するのかが問題でした。しばらくしてもどってくるのか、それとも長く留まることになるのか、極東に基地を定めて長期間滞留する場合、武装闘争をどんな方法でつづけることができるか、必要なとき、国内や満州に思いどおり進出できるか、国内運動の指導は今後どのように進めるか、といったさまざまな問題点があったし、それにともなう対策が必要でした。
こういう事情からして、わたしは極東へ行く問題をいくつかの場合を想定して考察し、解決することにしました。第一の場合は、主力は現在の位置に残して指揮官だけ行って会議に参加し、帰ってきてもとの位置で闘争をつづけることであり、第二の場合は、指揮官だけ先に行って会議に参加した後、適当な時期に現地の実情を見て部隊をソ連領内に呼び入れることであり、第三の場合は、会議に参加することとソ連領内に入ることを時間的に一致させ、まず暫定的に現地に滞留しながら以後の対策を立てることでした。
わたしは、やがて極東に入るとしても、白頭山地区に設営した秘密根拠地をさらに補強する前提のうえで、ソ連領内に新たな基地を創設するという原則で事を処理することにしました。そのためには時間が必要であり、より詳しい状況の把握も必要でした。われわれはもともと、小哈爾巴嶺会議の方針にもとづいて、われわれが掌握していた地域を舞台に小部隊活動を進めながらひと冬を過ごすことにし、その準備を急いでいました。それを中途で投げだすわけにはいきませんでした。
このような分析と判断にもとづき、コミンテルンの要請にたいする回答は後回しにし、先にソ連に送ったメンバーに具体的な状況を調べてわれわれに報告させることにし、以前から推進してきた越冬隼備をつづけさせました。
わたしは李竜雲に、ソ連への新たなルートを切り開く一方、以前から利用してきたルートの正確さと安全性を再確認するよう指示しました。李竜雲は第三方面軍で勇猛をもって知られた連隊長でした。彼は一九三九年八月の安図県大沙河――大醤缸戦闘で戦死した全(チョン)東(ドン)奎(ギュ)の後任として連隊長になったのです。彼はコミンテルンに送る魏拯民の手紙を携えてソ連へ行くことになっていたのですが、事情があって行けませんでした。
李竜雲は大柄で年のわりに老けて見えました。口が重く、重厚な人柄でした。普段は穏和でしたが、いったん戦場に臨むと勇猛かつ機敏でした。
彼の部隊が敦化県のある集団部落を襲撃したときの話です。部隊は行軍の途中で食糧を切らし、集団部落を襲撃することにしてまず斥候を出しました。斥候は、部落には敵兵が三人しかいないという情報をもたらしました。最初は、機関銃分隊が部落に突入して敵を掃滅する計画でしたが、李竜雲はたった三人の敵兵のために機関銃分隊まで繰り出す必要はないとし、自分が伝令を連れて先に敵を制圧するから合図があったら部落に入ってくるようにと命じました。彼の伝令は太(テ)炳(ビヨン)烈(りヨル)でした。
夜になると、李竜雲は伝令一人だけを連れて集団部落へ行き、まっすぐ兵営に踏み込みました。ところがどうでしょう。部屋には三〇人余りの将校が席をつらねて作戦を討議している最中だったのです。軍用地図を指して何やら指示していた頭目株の将校は、突然部屋に押し入った李竜雲を見て仰天しました。李竜雲について部屋の中に入った太炳烈は、後日そのときのことを回想して、生きて帰れるとは思わなかったと言っています。しかし李竜雲は平然としてモーゼル拳銃をかざし、お前らは包囲された、手を挙げろ、と脅しました。すると、頭目株の将校はやあっと声をあげて李竜雲の拳銃につかみかかりました。李竜雲は引金を引きましたが不発でした。それで拳銃を力いっぱい引っ張りました。あまりの勢いにその将校は掌が切れて、つかんだ銃身を放してしまいました。李竜雲は素早く装弾しなおしてその将校を射殺し、抵抗する将校らを蹴り倒し、一人で敵を制圧しました。幾人もの将校が彼の銃弾を浴びて即死しました。太炳烈はこういう事態になるまで、銃も発射できず戸口に立ちつくしていたとのことです。彼は「炳烈、壁を守れ!」という李竜雲の叫び声を聞いてはじめて、自分の後ろ側の壁にずらりと掛かっている数十挺の拳銃を目にしました。李竜雲は太炳烈にその拳銃を全部集めさせ、生き残った将校たちを生け捕りにしました。その夜、二人は遊撃隊の「討伐」からもどってきた多数の敵兵まですべて生け捕りにしました。
李竜雲は額穆県城襲撃戦闘と大沙河―― 大醤缸戦闘、腰岔戦闘をはじめ数多くの戦闘で、勇敢無比で果断かつ有能な指揮官として名を馳せました。
わたしが李竜雲連隊長に任務を与えた場所は小哈爾巴嶺の入口であったと思います。そのとき任(イム)哲(チョル)にも会いました。李竜雲に、ソ連への連絡ルートを首尾よく切り開くようにと言うと、彼は心配無用だと請け合いました。
林(リム)春(チユン)秋(チユ)と韓(ハン)益(イク)洙(ス)が負傷者と虚弱者を引き連れてソ連方面へ向かったのは、李竜雲と任哲がソ満国境地帯でルートを切り開いているときでした。心配だった負傷者と虚弱者は無事目的地に行き着きましたが、特使として発った李竜雲は日本軍と交戦して壮烈な戦死を遂げました。彼はルート開拓の任務をりっぱに遂行し、そのルートを通じて負傷者をソ連に送り込むことにも成功しました。彼に残された任務は、ソ連に行って現地の状況をわれわれに伝えることでした。彼はその任務を遂行するため国境方面へ向かう途中、隊員たちの服装がみすぼらしいのに気付き、司令部の委任を受けてソ連へ行くのにこれでは面目が立たないと思い、以前から連係があった炭焼き小屋の主人を通じて服を求めようとしました。ところが、その炭焼き小屋の主人は悪党でした。革命を中途で裏切り、敵の密偵になりさがっていたのです。彼は服を買い入れてくるとだまし、一〇〇人余りの敵を引き連れてきました。李竜雲は一人で数十人の敵兵を撃ち倒し、壮烈な戦死を遂げたのです。数年間、断絶状態にあったコミンテルンとの連係はこうして回復されたのです。その後も、わたしはコミンテルンと密接な連係を保ち、国際革命勢力との連帯の強化に努めました。


四 一九四〇年の秋

最近、抗日革命史を叙述した文を読む過程で、歴史家たちの研究活動では成果も多かったが、さらに開拓し深化させるべき部分も少なくないことに気づきました。とくに、小哈爾巴嶺会議前後の史料が欠けています。
一九四〇年の秋は普通の秋ではありませんでした。あの秋にわれわれが体験した幾多の曲折について語ろうとすれば、おそらく数編の長編小説にしても書き足りないでしょう。大部隊活動から小部隊活動に移行した時期だったので、撫松県城戦闘や間三峰戦闘のような大規模な戦闘はありませんでした。
抗日革命史上、「苦難の行軍」ほど苦しい行軍はなかったし、「苦難の行軍」のときほど苦しい時期もなかったとはよく言われることで、それは確かです。しかし、一九四〇年の秋にわれわれが経た試練は、それに劣らぬものであったといえます。「苦難の行軍」が肉体的苦痛の限界を超えた試練であったとしたなら、一九四〇年の秋にわれわれが置かれた逆境は、精神的苦痛が非常に大きかったいま一つの試練でした。
肉体的苦痛であれ精神的苦痛であれ、それを耐えぬくには強い意志がなくてはならず、それは自分自身との不断の闘争をともないます。われわれが一九四〇年の秋に経た体験はまさにそういうものでした。
小哈爾巴嶺会議以後、大部隊活動から小部隊活動に移ったのち、われわれは新たな闘争戦略に即して部隊を再編し、方面軍の管下にいくつもの小部隊を組織しました。
その小部隊の活動地域と任務を分担した後、わたしは小部隊を率いて延吉方面に進出しました。そのとき金一の率いる小部隊には、汪清、東寧一帯で活動する任務を与え、呉白竜の率いる小部隊には、延吉、安図一帯で越冬用の食糧を調達する任務を与えました。
われわれは延吉県発財屯の奥地で呉白竜の小部隊を待っていました。ところが、何日経っても連絡がありませんでした。トウモロコシ一本のためにも血を流さなければならない時期だったので、ありうることでした。米の一升でも得ようとすれば集団部落に潜り込まなければならないのですが、それは命を賭ける覚悟がなくてはできないことでした。
われわれはその年の夏中、ほとんどヤナギヒゴタイだけで食いつなぎました。ヤナギヒゴタイは山にいくらでもありましたが、空腹をそれだけでいやすとなると、いくら食べてももの足りなくて耐えられませんでした。
そんなときに、食糧のありそうな所へ偵察に行った隊員が、谷の下手に仮小屋を発見したと報告してきました。朝鮮の農夫三人が寝泊まりしている仮小屋で、そのまわりには犂(すき)で畝(うね)までつくったかなり広い畑もあり、その農夫たちに話せば食糧をいくらか手に入れることができるのではなかろうかと言うのでした。
それで、姜渭竜を仮小屋へ差し向けることにしました。彼には、仮小屋の主人に、われわれが遊撃隊であることを隠さず話すよう言い含めました。姜渭竜が頼み込むと、農夫たちは難色を示したそうです。そして、食糧を求めるには明月溝まで行かなければならないが、警戒がきびしくてむずかしい、けれども遊撃隊の頼みだから断るわけにはいかない、と言って明月溝へ向かったとのことでした。姜渭竜からこういう報告を受けたわたしは、隊員たちに警戒心を高め、警備を強化するよう指示しました。
その日、炊事場ではツルニンジンの粥(かゆ)を炊きました。ツルニンジンを叩いてじっくり煮込むとお粥のようになるのですが、これに穀粒を少々足せば結構食べられました。山菜の料理としては上等といえました。粥がさかんに煮え立っているとき、立哨中の孫(ソン)長(ジヤン)春(チュン)が駆けつけ、敵の大軍が押し寄せてくると騒ぎ立てました。監視所に出てみた隊員たちは、敵がどこから来襲しているのか全然見えないと言うのでした。それでも孫長春は山のふもとを指差しながら、あそこに敵がいると言い張りました。彼の指差す方には木の株しかありませんでした。熱病を患ったばかりの人は、彼のように木の株を見ても人間と錯覚するものです。彼は熱病が治って間もなかったのです。わたしが孫長春を立哨勤務につかせた指揮官を問責している間に、炊事場にいた隊員たちは敵来襲の声を聞いて、せっかくの粥を全部こぼしてしまいました。
数日後、食糧を求めにいった仮小屋の主が現れたという報告がありました。明月溝へ行ったのは二人のはずでしたが、洋服姿の紳士が一人ついてきてわたしとの面談を求めているとのことでした。その紳士というのは、以前、汪清遊撃隊で中隊長を務めたことのある崔(チエ)容(ヨン)彬(ビン)でした。
崔容彬はひとかどの勇士で、もともと大の力持ちでした。ある日わたしを訪ねてきた彼は、体が衰弱したから当分の間、職務を解いて休息させてほしいと言うのでした。それで、しばらく休みをとらせることにし、小汪清の奥地へ行って狩猟でもして、保養かたがた地元の党組織の活動も援助してやるようにと話しました。ところが、しばらくして「民生団」の汚名を着せられた彼は、妻に置き手紙をして敵の統治区域に行ってしまいました。手紙の内容なるものは、子どもをよろしく頼む、おれは革命に参加して「民生団」にされた、犬死にしたくないのでここを去るのだから、そう思ってくれ、だが、どこへ行っても革命活動はつづける、というものでした。出産して間もない彼の妻が、その手紙を持って泣き泣きわたしを訪ねてきたのです。産後の肥立ちがよくないためか、顔がむくんでおり、赤児はいまにも息が絶えそうなありさまでした。半死半生の妻子をすてて自分一人生きのびようと敵地へ逃亡してしまった崔容彬、お前はいったい何たる人間なのか! わたしの胸にはむらむらと怒りがこみあげてきました。わたしは心の中で崔容彬を薄情な人間だとなじりながらも、手紙に書かれているとおり変節せず、革命活動をつづけてくれれば、と願いました。それからというもの、崔容彬に代わってわれわれが彼の妻子の面倒をみてやったのです。のちには、この親子を負傷兵と一緒にソ連に送りました。
ところが、あのようにふいと姿を消してしまった崔容彬が、五年を経てわたしを訪ねてきたのです。それも、「民生団」の狂風が吹きまくっていた当時よりさらにきびしい時節にです。
崔容彬は鍋をぶら下げた背のうを背負った姿で、軽々と山を登ってきました。これといった苦労もしていないらしく、容貌もすっきりしていました。彼は司令部のテントに入るやいなや「本当に久しぶりです!」と、わたしに走り寄りました。わたしもうれしく彼を迎えました。過去はどうであれ、汪清時代わたしの配下にあった指揮官ではありませんか。
崔容彬はわたしと対座するが早いか、遊撃隊に舞いもどろうと山中をさ迷い歩いたことを長々と話しました。食事はすませたのかと聞くと、山のふもとで飯を炊いて食べてきたところだと答えました。そして、背のうから米袋やカレイの干物、酒などを取り出すのでした。背のうにぶら下がっている鍋を見ると、煤が全然ついていないではありませんか。遊撃隊を探して山中をあちこちさ迷ったという人、それもいましがた飯を炊いて食べたという人の鍋に、煤がまったくついていないというのはおかしな話でした。
わたしは、彼が李(リ)鍾(ジョン)洛(ラク)と同類の汚らわしい人間になったことを確信しました。ひところ、部隊では彼が帰順したといううわさが立っていたのです。彼はわたしからどう見られているのかも知らず、コップに酒をなみなみとつぎ、再会を祝って乾杯しようと言うのでした。わたしがそれを拒むと、コップを上げた彼の手が急に震えだしました。わたしの声が怒りをおびていたので、自分の正体が露見したものと思ったようです。
わたしは、「崔容彬、隠さずに言え。仮小屋の主とはどういう因縁で会い、ここに来た本当の目的は何か」と問い詰めました。彼は、もはやすべてを観念したようでした。それで、仮小屋にいた三人は密偵であり、自分は彼らの報告を受け、三個の「討伐隊」を導いてこの谷あいを包囲させてから登ってきたと白状しました。彼が合図さえすれば、「討伐隊」がいまにも攻め寄せてくる形勢でした。
わたしは、抜け出しがたい包囲に陥ったことを察知しました。しかし、そのときわたしの心をさらに苦しめたのは、死ぬか生きるかの危難にさらされたということよりも、崔容彬が日本の犬になって臆面もなくわたしの前に現れたということです。
それにもまして唖然とさせられたのは、彼がわたしを「帰順」させようとあらゆる詭弁を弄して御託を並べることでした。彼はわたしの顔色をうかがいながら、金将軍がどんな苦境に陥っているかをよく知っている、満州全土は日本軍で埋めつくされている、もはやなす術がないではないか、金将軍は民族のためになしうることはすべてなした、この際「帰順」したからといって非難する人はいない、「帰順」した人はみないい目を見ている、将軍も山を下りれば吉林省の省長のポストにつけるといっている、と並べ立てました。
わたしは崔容彬の話を聞くに堪えず、「容彬、お前はどうしてこんなざまになったのか。以前は汪清で中隊長まで務めたというのに恥ずかしくないのか。それでもわたしは、お前が妻子をすてて逃亡したとき、惜しい指揮官を失ったと残念がったものだ。お前がこんな姿であえてわたしの前に現れるとは。妻子もすてて敵のふところに転げ込んだお前に人間の良心があるといえるのか。汚らわしい人間になり果てたものだ」と非難しました。
自分のことだけを考える人間は結局はこうなるものです。崔容彬の変節は、体の衰弱を口実に中隊から離脱し、小汪清の奥地へ行って生活したときからはじまったのだと思います。あのとき、彼は革命のことよりも自分一個人の保身を先に考えたのです。「民生団」にされ、無駄死にするのがいやで敵地に行ったとはいうものの、それは革命への信念が弱くなった結果といえます。
崔容彬の実例が示している通り、革命の道から一歩退けば、行き着くところは変節です。それでわたしはいつも隊員たちに、革命家の進む道は生きようと死のうと革命の道一つしかない、この道から外れれば反動になり、裏切り者になり、人間のくずになる、雨風や敵弾、食糧難、山岳行軍、監獄、絞首台などが怖くて革命を中途で投げだす人間は、刑具の前に何度か引き出し、トウガラシの水を飲ませるだけで、すぐさま旗色を変えてしまうものだ、と話したものです。
背信というのは良心をすてることからはじまるものだといえます。これは崔容彬の事件がわれわれに残した教訓です。間島で「民生団」問題で多くの人が処刑されたころには、崔容彬のように遊撃区を離れて敵地に行った人が少なくありませんでした。しかし、革命家の大部分は「民生団」の濡れ衣を着せられ、いわれのない迫害を受けながらも遊撃区を離れず、革命隊伍に留まりました。なぜでしょうか。たとえ死んでも良心を売ることはできないし、革命に背を向ければ反革命の道しかないことをあまりにもよく知っていたからです。このように、革命家は良心をすてて革命の旗の前から去ることを恥とし、死にひとしいと考えたのです。言わば人の道にはずれた行為と考えたのです。
神仙洞遊撃区であった話です。朴(パク)成(ソン)哲(チヨル)の中隊に仁(イン)淑(スク)という女子隊員がいました。ある日、立哨中だった朴成哲のところに仁淑が来て一通の手紙を見せました。それは他の中隊の中隊長を務めている彼女の夫が妻に宛てた手紙でした。手紙の内容は「赤の捕り繩にかかった」というものでした。これは「民生団」の濡れ衣を着せられたという隠語でした。
当時、朴成哲は中隊の青年幹事を務めていました。仁淑が幹事にそういう手紙を見せて自分の運命にかかわる問題を相談しようとしたのは、組織観念の見地からしてよいことでした。仁淑は朴成哲に、夫が「民生団」の烙印(らくいん)を押されたのだから自分も無事ではいられそうもない、いわれのない死を強いられるくらいなら敵地に行った方がよいと思うが、どうだろうか、と言うのでした。
朴成哲は、なんということを言うのだ、敵地に行くというのは革命闘争を放棄することを意味する、それは投降するにひとしいことだ、そんなことをしてはいけない、とたしなめました。仁淑は、いや違う、「民生団」の繩を避けようというのであって、革命闘争を放棄しようというのではないと言いました。すると朴成哲は、革命の隊伍から去れば反革命の道しかないではないか、と諄々(じゅんじゅん)とさとしました。
仁淑は彼の話を聞いて、自分が革命家としての道を踏み外すところだったと悔いたそうです。そのとき朴成哲が彼女をさとしたからよかったものの、それとは反対に、死にたくなかったら行けとでもあおったとしたらどういうことになったでしょうか。
仁淑は遊撃区を離れず、革命の隊伍で戦いつづけ、壮烈な戦死を遂げたとのことです。彼女が革命か逃亡かという二者択一の道で、逃亡の道ではなく革命の道を選ぶことができたのは、一身上の問題を自分一人の主観によって処理せず、青年幹事に打ち明けて組織の助言を求めたからであり、いったん組織の助言を受けた後は心を入れかえて理性を取りもどし、革命家らしく動揺を克服したからです。
ところが、偉丈夫の崔容彬は、同志の助言を受けようともせず、妻に置き手紙を一枚残し、卑怯にも敵地に逃亡してしまったのです。彼が人間の良心を少しでも尊ぶ人間であったなら、出産したばかりの妻を置き去りにして、あのように敵地に逃亡するという卑怯なまねはしなかったはずです。彼には克己心が欠けていたのです。彼の運命はここにおいてすでに決まっていました。克己心のない人は、想像もできない大罪を犯すようになります。自分一個人のみを考える人間、自分の感情のみを絶対視する人間は、いつかは革命を裏切るものです。裏切りというものは、どんな場合でも「自分」というものからはじまります。「われわれ」というものからは裏切りが生じないし、生じるわけもありません。ですから、革命家はつねに「自分」を抑制し、「われわれ」というものに習慣づけられるよう、たえず努力しなければならないのです。これがまさに、革命の道に投じた人間の汚れのない良心であり、つね日ごろ、自分を完成させていく修養の過程なのです。自分一個人のみを考える人間は決して革命家にはなれず、革命の道を最後まで歩むこともできません。
南牌子では李鍾洛が日本軍属の服装で現れては「帰順」を説き、「苦難の行軍」のときには李(リ)虎(ホ)林(リム)が逃亡し、林水山も変節し、今日はまた崔容彬がやってきてどうのこうのと言うのですから、わたしの気持ちがどんなものであったか察しがつくと思います。
ところで、問題はどこにあるのか。李鍾洛にせよ崔容彬にせよ、わたしが大事にし信頼していた人間であったということです。さほど大事にもせず、信頼もせず、愛しもしなかったなら、あれほど心を痛めはしなかったでしょう。朝鮮革命軍時代の隊長といえば相当なものでした。抗日遊撃隊の中隊長というのも並のポストではありません。変節しても家に閉じこもっていたというならまた話は別です。革命を裏切ったことがいかに良心に外れた恥ずべきことかも知らず、かつての上官の前に臆面もなく現れて「帰順」を説くのですから、余計心がうずいたのです。彼らはなぜそれを恥ともせず、わたしの前に現れることができたのでしょうか。革命は失敗に終わったのだから、昔の司令官を訪ねて「帰順」を説いてもかまわないと思うほど情勢にうとく、人間そのものが堕落しきっていたからです。
崔容彬は李鍾洛と同じ運命をまぬがれませんでした。
その日、敵はわれわれがこもっていた山を二重三重に包囲しました。四方八方焚き火の海でした。しかし、いくら網を張っても山全体を覆うことはできないものです。敵は大体、山の尾根や谷間に歩哨を立てて包囲陣をしくのがつねでした。われわれは敵同士を衝突させ、山腹をつたってそこから抜け出しました。明月溝から安図に通じる道路を横切って森林に分け入り、ひと息つきながら動静をうかがうと、われわれのいた発財屯の奥地に登りつめた「討伐隊」は、同士討ちを演じていました。われわれは密林の奥に姿をくらましました。
こういう予想外の状況が生じたため、呉白竜小部隊との接触がむずかしくなりました。呉白竜の小部隊とは発財屯の奥地で会うことになっていました。呉白竜部隊の連絡員に会うには、誰かがそこへ行かなければならないのですが、それは死を覚悟しなければならないことでした。それよりなお問題なのは、発財屯の奥地が敵の手に渡ったことを呉白竜の連絡員が知らないことでした。
わたしは、池(チ)鳳(ポン)孫(ソン)と金(キム)洪(ホン)洙(ス)を連絡地点に派遣しました。金洪洙は長白で入隊したばかりのころ、「チビ新郎」というあだ名で呼ばれていた責任感の強い隊員でした。この二人は翌日の夕刻、約束の地点で連絡員に会い、呉白竜の手紙を受け取って無事に帰ってきました。彼らが連絡員に会うため約東の地点まで潜入していったいきさつを聞いてみると、本当にはらはらさせるものがありました。立ち木を一本一本抱くように隠れながら進んで行ったそうです。呉白竜らはその間、集団部落を襲撃していくらかの食糧を手に入れました。のちに彼らはその大部分を司令部に送ってよこしました。
発財屯を発ったわれわれがつぎに居所を定めたのは、安図県の黄溝嶺基地でした。ここで一九四〇年の冬を過ごしながら、小部隊活動をくりひろげることにしました。小部隊活動をくりひろげながら破壊された革命組織を立て直し、大衆基盤を固めるには、越冬準備に万全を期さなければなりませんでした。それで呉白竜の小部隊のほかにも、各小部隊に食糧と塩、布地など越冬準備に必要なさまざまな生活必需品を購入する任務を与えました。
越冬準備でもっとも重要なのは、政治的・思想的準備でした。いかに困難な状況下でも革命的信念を守り通せるよう、隊員の思想教育に格別力をそそぐ必要がありました。それに、いつにもまして規律を強め、不祥事が発生しないようにしなければなりませんでした。
ところがその後、姜渭竜の小部隊では気のたるんだ現象が現れました。密営の設営に適した場所を探索していた彼らは、渓流に群がる魚を見て見境なく銃を発射したのです。わたしはその話を聞いて肝を冷やしました。その近くの山頂には、敵兵が砲台の構築に動員されていたというのに、そんな所で銃声をあげるとはなんと危険きわまる行為ではありませんか。ひと冬密営に構えて多くの活動をしようという計画が、数発の銃声のためご破算になるところでした。
当時のことでいま一つ忘れられないのは、牛をめぐっての事件です。この事件の張本人は張(チヤン)興(フン)竜(リヨン)でした。彼は機関銃小隊の分隊長でしたが、食糧工作のため小部隊を率いて夾皮溝方面へ出かけたのです。ある日、彼は牛を一頭引いてきたのですが、それは伐採場の牛でもなく、角に王の字の印がある民会の牛でもない、農民の牛でした。もちろんそれなりの事情はありました。彼らは部隊の食糧を調達する目的で村へ行く途中、山の中でその牛を発見したそうです。牛の主を捜そうとあちこち歩き回っても見つからないので、張興竜は隊員たちにその牛を密営に引いて行かせ、自分はその場に残りました。牛の主が現れれば、事情を話して代金を払うつもりだったのです。ところが、いくら待っても牛の主は現れませんでした。結局、彼は代金を払えずに密営に帰ってきました。のちに分かったことですが、その主が牛を連れに来たところ、銃を手にした人間が行ったり来たりしているので、恐れをなして逃げ出したということでした。
張興竜の小部隊が代金も払わずに農民の牛を引いてきたという報告を受け、わたしは慣慨に堪えませんでした。革命軍の服務条例をよく心得ていない新入隊員ならいざ知らず、古参の張興竜がそんな途方もない脱線行為をするとは、とても信じられませんでした。
張興竜は一九三二年に自衛団との戦闘で指を一本撃ち落とされて捕虜になり、その後脱出して帰隊したことがありました。最初、同僚たちは、彼が敵の回し者になってもどってきたのではなかろうかと疑いました。彼は戦友の信望を得ようと涙ぐましい努力を重ね、車廠子遊撃区でのひどい飢餓にも耐え、「苦難の行軍」も耐えぬきました。そういう人が、主の承諾も得ずに牛を引いてくるという過ちを犯したのは理解しがたいことでした。
軍民関係を損なわないようにするのは、武装闘争当初からわたしが強調してきたことであり、人民革命軍の服務条例にも明記されていることです。一九四〇年当時は、軍民関係が非常に高いレベルで維持されていた時期です。それがどれくらい潔癖なものであったかといえば、人民が給養物資を送ってよこすと、それを送り返すくらいでした。
一九四〇年の春、洋草溝で戦闘があったときのことです。戦闘が終わると、村人たちがわれわれにたくさんの鶏を送り届けてくれました。その返礼として、われわれもまた彼らに鶏代の数十倍に相当する金を渡そうとしました。すると、村人はとんでもないことだといって怒りだしました。革命軍は人民の息子、娘で組織された軍隊だというのに、自分の子から金をもらえというのか、誠意を無視するにもほどがある、と言うのでした。そう言われてみると、返す言葉がありませんでした。人民の誠意に遊撃隊が金の支払いで応えようとしたのですから、彼らにしてみればさぞ残念だったに違いありません。それでもわれわれは、金を受け取らなければ鶏はもらわないと言い張りました。こうして、金と鶏は何回となく行ったり来たりしました。結局はわれわれが鶏を受け取り、村人が金を受け取るということでけりがついたのです。けれども、部隊が洋草溝から撤収するときには、そういう鶏すらそっと放してきたものです。
どうでしょう。これは昔の話でもなく、数か月前のことだというのに、張興竜はそういう前例を無視してこんなことをしでかしたのですから、わたしの気持ちがどうであったかは察しがつくはずです。
張興竜にたいする隊員たちの批判は唆烈をきわめました。張興竜は死をもってしてもこの過ちをぬぐうことはできないと弾劾しました。当の張興竜も深刻な自己批判をしました。心底からの自己批判だったので、軽い処罰を適用するだけにとどめ、牛を持ち主に返すよう命じました。
一九四一年にわたしが小部隊を率いて再び満州に来たころ、張興竜は金一の小部隊に加わって活動中、戦死しました。
われわれが黄溝嶺基地を拠点にして活動していたころ、逃亡事件が発生したこともあります。逃亡者は小蔡という中国人の隊員でした。彼はいつも里の家を恋しがっていました。中秋の日などは月餅を食べながら泣いたりするほどでした。たいへん気の弱い人でした。それで、党組織は彼にたいする個別教育に力を入れました。彼が伝染病にかかったので、後方病院へ送りました。その後、彼が炊事隊の女子隊員に故郷へ帰ろうと誘った事実が司令部に報告されました。彼は軍務にも誠実でありませんでした。当直をさせると居眠りをし、歩哨勤務を命じると腹が痛くてたまらないと仮病をつかいました。革命は強制してできるものではありません。彼はとうとうわれわれの誠意を裏切って逃亡してしまいました。
ところが、逃亡したあとの行動が問題でした。彼は隊伍を離脱するやいなや「討伐隊」の手引きとなって、われわれに襲いかかってきたのです。大部分のメンバーが小部隊工作で出払い、密営にはわたしと数名の伝令しかいませんでした。
その後、われわれは司令部の位置を孟山村の奥地に移しました。小部隊と工作班は、任務を遂行し次第ここに集結しました。
呉白竜の小部隊は数百石の食糧を手に入れて秘密の場所に貯蔵しておきました。トウモロコシ畑を丸ごと買っては実を取って麻袋につめ、富爾河から二〇キロほど離れた密林の奥に倉庫をつくって蓄えておいたのです。
ソ連で開催される朝・中・ソ軍事指揮官会議に参加せよというコミンテルンの連絡が届いたのはこの時分でした。前にも話したように、その連絡を受けたとき、わたしはまず先発隊を派遣して向こうの状況を具体的に調べさせる一方、従来の方針通り東北地方での越冬の準備を完了しておくことにしました。
ところが、その食糧が全部敵の手に渡ったという報告が飛んできたのです。畢連隊長の裏切り行為のため、食糧を貯蔵しておいた場所が露呈したというのです。畢連隊長なる者は、金明花(キムミヨンフア)が敦化の密林で手厚い介護の末に生き返らせた、かの畢ロカデです。連隊長まで務めた彼が、試練に耐えることができず変節したのです。
食糧貯蔵庫の位置を探り当てた敵は、山に火を放ち、人びとを動員して倉庫をぶちこわし、食糧を全部運び出していったのです。数か月間の苦労が一朝にして水の泡になってしまいました。
しかし、そういう困難に直面しても、わたしは動揺しませんでした。もちろん、そのころの難関は深刻なものでしたが、そういう難関に直面したのは一度や二度ではありませんでした。羅子溝台地での苦労、二回にわたる北満州遠征と撫松遠征はなんときびしく、「苦難の行軍」はまたなんと曲折にみちたものだったでしょうか。しかし、われわれはそのすべてを克服したのです。傷寒にもうちかち、飢餓にも耐え、真っ暗闇の絶望をも克服しました。戦友を亡くした悲しみと心の痛みも踏み越えて立ち上がりました。それはわれわれがみな、いかなる状況にあっても革命勝利の信念を失わず、祖国と民族にたいしてになった使命と責任、革命家としての良心を一瞬たりとも忘れなかったからです。
いかなることがあろうとこの苦境を耐えぬき、革命を再び高揚させよう。よし、誰が勝利者になるか、いまに見ろ! あのとき孟山村で、わたしはこう考えたのです。革命にたいする使命感といおうか、心意気といおうか、試練が折り重なるほど胆力は増し、革命への情熱と責任感はますます熱く燃え上がるのでした。
どこに活路を見いだすべきか。こういうときほど強行軍を断行しなければならないのです。強行軍をするには、信念と勇気を与える思想動員が必要でした。
この必要性から招集したのが、ほかならぬ孟山村会議です。
わたしは隊員たちに忌憚なく話しました。
―― 情勢はさらにきびしさを増すであろう。われわれの革命偉業が実を結んで国の独立が達成されるというのは誰もがひとしく信じていることだが、その日がいつごろかは誰にも分からない。われわれは一〇年もの間あらゆる苦労をしながら戦ってきたが、そういう苦労がこれから五年つづくか一〇年つづくかは推定しがたい。しかし明白なのは、最後の勝利は必ずわれわれのものだということだ。もちろん、この道には幾多の難関が横たわっている。これまでの難関より数倍、数十倍の難関もありうる。だから、最後までわたしに従って革命をつづける自信のない者は家に帰ってもよい。家に帰るという者には旅費も途中の糧食もあてがう。そして、闘争を中断したことも問題視しない。力が弱く自信がなくて隊伍を離れるのは仕方ないことだ。行く者は行け。だが別れの挨拶はして行け。
わたしが話を終えると、隊員たちはいっせいにわたしの腕にすがりつき、「将軍、革命の勝利の日を見ずに死んでもかまいません。死んでも生きても将軍のそばを離れません。人間の寿命は知れたものです。同志を裏切り、山を下り、敵に頭を下げて生きるくらいなら、ここで戦って死ぬほうがましです。将軍と生死をともにします」と涙にむせぶのでした。
隊員たちの言葉に、わたしも目頭が熱くなりました。あのときの彼らの言葉はわたしに計り知れない力と勇気を与えてくれました。どんなにすばらしい演説であっても、あの日の隊員たちの言葉以上に人びとを感動させることはできないでしょう。あのときのわれわれの誓いは、抗日革命の壮途にささげたわれわれ自身の血を無駄にすまいという決意だったのです。
孟山村の奥地での会議、それは離れることもできず、離れてもならない司令官と戦士との混然一体、指導者と大衆の鉄桶のごとき統一団結をいま一度実証した会議でした。抗日遊撃隊員はこの会議を通じて、革命的良心を貴び、司令官と戦士があくまで運命をともにするところに、抗日武装闘争を危機から救う鍵があることをさらに深く自覚したのです。孟山村会議を終えたわれわれは、朝鮮の革命家が革命的信念と意志をもって屈することなくたたかえば、必ず勝利するということをいっそう強く確信するようになりました。
まさにそういうときに、かねて極東へ送った同志たちからの連絡がありました。
コミンテルンがやがてハバロフスクで招集する朝・中・ソ三国軍事指揮官の会議に参加すべく、わたしと魏拯民をはじめ朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第一路軍の代表が早急にソ連に来ることを重ねて要望するということと、その機会に東北地方で活動中の遊撃部隊がソ連領内に入ってくる場合、その受け入れ準備もできているということでした。コミンテルンは、われわれがいったん極東に入ってひと冬過ごした後に、以後の活動対策を実情に即して討議することを提起してきました。
まず、コミンテルンが招集しようとする会議の趣旨が明白であり、また東北抗日連軍の他の指揮官たちもすでに到着しているという実情にてらして、わたしはソ連領内に入って会議に参加することを決心し、主力部隊の一部を連れていくことにしました。
しかし、これも口で言うほどやさしいことではありませんでした。祖国の地からさらに遠く離れ、これまで戦ってきた土地をしばらくの間とはいえ再び離れるとなると、心さびしいというのが隊員たちの一致した心境でした。
指揮官会議でソ連入りを決定し、それを隊員たちに知らせると、コミンテルンが重大な会議を招集して司令官を呼んでいるのだから、将軍をはじめ数名のメンバーだけ行くことにし、あとは残って戦いをつづけてはどうかという隊員もいました。もちろん、それも一つの方法ではありました。しかし、わたしは部隊を率いて極東入りするのがこの時点では正しいと考えました。それで、隊員たちを説得しました。
――われわれが極東入りするのは、革命を放棄してしまおうというのではなく、またそこへ行って永久に落ち着こうというのでもない。わたしの考えは、昨年コミンテルンが招集した会議にも参加できなかったので、今回の会議には参加しようというのだ。そして、そこでコミンテルンやソ連当局と朝鮮革命の将来についてさらに幅広く論議してみたいのだ。そうするのがわれわれにとって有利であるはずだ。しかし、その会議がどれくらい長引くかは分からない。それでその会議に参加するさい、きみたちを連れていこうというのだ。越冬の準備も不十分な状況のもとで、きみたちだけ残して行くわけにはいかない。だからみんな一緒にソ連領内に入って冬を越し、春にまたこの戦地にもどって来よう。
後日、わたしはこのきびしい一九四〇年の秋を振り返り、あのときわたしが指揮官として下した決断は時宜にかなったものであったと考えたものです。
われわれが極東入りの準備を終えて車廠子の奥地を後にしたのは一〇月の末ごろでした。出発に先だって、魏拯民と呉白竜に連絡員を送りました。魏拯民も呉白竜も病床の身で、極東入りは不可能でした。連絡員に会えなかった呉白竜は、その後わたしの行方を追って安図一帯をくまなく捜し回ったそうです。呉白竜が車廠子の奥地にたどりついたのは、われわれがすでに出発した後でした。呉白竜が、われわれが埋めていった食糧と冬服を発見して泣いたというのは、そのときの話です。極東入りするとき、呉白竜たちのことを思って米二かますと冬服数十着を埋めておいたのですが、それが彼らを助けたわけです。その後、呉白竜の小部隊も後を追って極東入りしました。
極東へ向かう道のりでも多くの苦労をしました。昼間はたいてい林の中に隠れていて、夜間に行軍したのですが、敵を避けての行軍なので、いろいろと手間どり、時間もかかりました。それでも、老頭溝までは一気に行き着くことができました。その後、百草溝方面へ行く途中で「討伐隊」と遭遇しました。われわれが一列縦隊になって峰を越えかかったとき、谷間の下手から敵が登ってきたのです。われわれはいま来た道を逆もどりし、また尾根に駆け登りました。そのとき、多くの荷をかついでいた金(キム)正(ジヨン)淑(スク)が隊に後れて危うい目にあいました。尾根を越えたあとで隊列を確かめてみると、金正淑が見えないではありませんか。わたしは再び尾根に駆け登り、敵が向かってくる丘の下手を見下ろすと、彼女は大きな背のうのためかろうじて歩みを進めていました。敵は、「生け捕りにしろ!」と叫びながら追い詰めてきました。わたしはモーゼル拳銃を引き抜いて追い手を撃ち倒しました。警護隊員たちも駆けつけ、機銃掃射で金正淑を掩護しました。こうして彼女は無事に救い出されたのです。
敵をやっと振り切った後、蛤蟆塘付近で宿営することにしました。その日は敵の機動がはげしくて、日暮れどきまで村の近くの粟畑の畝間に伏せていました。都合よく粟畑の畝間に白菜と大根が植えてあったので、それで空腹をまぎらわせましたが、寒くてたまりませんでした。それで、ろうそくに火をともしてかじかむ手をあぶったものです。
琿春からは二人の朝鮮の農民がわれわれを案内してくれました。ソ満国境付近まで案内してくれた彼らは、前方の山を越えればソ連領だと教えてくれました。ところが、その山を越えてみると、何の標識もない茫々たる広野でした。どこまでが満州で、どこからがソ連なのか見当がつきませんでした。それで李(リ)斗(ドウ)益(イク)に、高い木に登って川の流れの方向と人家の有無を確認させました。彼は幼いころから木登りが上手だったのです。木のてっぺんまで登って下りてきた彼は、川もなく人家も見えないと言うのでした。
東に向かってもう少し進むうちに、林の中に電話線が伸びているのを発見しました。碍(がい)子(し)を見ると中国や朝鮮のものとは違っていました。ソ連領に入ったことが実感されましたが、さらに確認して行動しなければなりませんでした。
その夜、再び斥候を出した後、一行が休憩しているとき、東の方からけたたましい機関銃の音が響いてきました。しばらくして斥候に出た隊員たちがもどってきて言うことには、ある小さい哨舎に入って湯飲みや湯沸かしをいじっているとき歩哨に見つかって大事にいたるところだったと言うのです。湯飲みや湯沸かしがばかでかく不格好なのをみると、ソ連の国境哨所に違いないというのでした。その哨舎の位置を問うと、向こう四キロくらいの地点だとのことでした。
ソ連国境警備隊員の威嚇射撃はひと晩中つづきました。斥候に出た隊員たちが彼らをひどくびくつかせたようでした。
翌日、李乙雪と姜渭竜を国境哨所に送って、ソ連の警備隊員を連れてこさせました。いざ警備隊員と向かい合ってみると、言葉が通じなくて往生しました。わたしは彼らに、われわれは朝鮮のパルチザンで、わたしがその隊長の金日成だと何度も繰り返しました。幸いに「パルチザン」や「金日成」という言葉だけは通じたようでした。
極東に入るまでの経緯も、このように容易なものではありませんでした。コミンテルンの連絡を受けてのソ連入りでしたが、その具体的なルートや時間が国境の哨所にまで知らされていなかったので苦労させられました。
ソ連領内に入った後、数日は防疫のため手間どりました。一日中、部屋の中でなすこともなく過ごすので、隊員たちはみな退屈しきっていました。なかには日がな一日歌をうたいつづける隊員もいました。革命歌という革命歌は全部うたいつくし、しまいにはいつどこで聞いたのか分からないような歌までうたいだす始末でした。隊員たちはもともと歌をたくさん知っていました。
わたしは隊員たちの部屋に行き、そんなにいらいらすることはないとなだめました。
――こうして国境で何日も待機させられるのでがっかりするかもしれない。だが、ソ連の同志たちに冷遇されていると思ってはいけない。国ごとに国境通過規定というものがある。その国境出入秩序にしたがって必要な身元調査をすることもある。検疫をするのは伝染病の保菌者を探し出すためだ。最近、満州にいる関東軍の細菌戦研究集団がソ連の極東に伝染病を広めた。そのためソ連政府は入国検査を厳重にする決定まで採択したという。われわれにはなすべきことも多く、克服しなければならない試練も多い。朝鮮革命はいまや新たな局面を迎えようとしている。解放の日も遠くない。だから、いまから心の準備をしっかりとして、革命歌を高らかにうたいながら、祖国解放のその日まで力強く戦っていこう。
その後、ソ連側はわたしの引率した隊員たちをポシェトという所へ移送しました。
わたしは国境哨所に待機していたとき、かつて洪(ホン)範(ボム)図(ド)部隊の通訳であった金承斌(キムスンビン)に会いました。われわれとソ連側との通訳は彼が受け持ちました。彼は車廠子をよく知っていました。
そのとき女子隊員たちは、はでやかな服装で自由に街を行き交うソ連女性の姿を見て、いつになったら朝鮮の女性もあのように大手を振って歩けるだろうかと目をうるませたものです。
一九四〇年の秋は、このように一日一日が苦難と試練でつづられた峻厳な秋でした。あのような苦難と試練の重圧の中でも、われわれが窒息せずに生き抜くことができたのは、いかなる逆境にあっても動揺せずに難関をつきぬけたからであり、革命的信念を守り通したからです。前途が険しいからといって、われわれは決して回り道をしませんでした。つねに祖国の解放をめざして近道のみをまっしぐらに突き進んだのです。われわれの行く道が祖国の解放を早める道であるなら、いかなる試練もいといませんでした。
革命家に試練はつねに宿命的についてまわるものといえます。古いものを変革し、新しいものを創造する革命家の日常生活は、つねに試練と難関をともなうものであるからです。試練を恐れたり、それを避けて歩く者は革命家とはいえません。
一九四〇年の秋、いまもなおあの晩秋が忘れられません。あの晩秋の日々、枯葉をしとねにした間島の山河が目の前にありありと浮かんできます。
銃声もなく屍もない極東に行ってみると、別世界に来たような気がしました。しかし、われわれの前には越えなければならない幾多の試練が横たわっていました。祖国解放の日までは、まだ五年という年月が残っていたのです。


五 魏拯民についての回想

金日成同志は生前、東北抗日連軍の主要政治・軍事指揮官の一人であった魏拯民についてたびたび回想している。その回想談を通じて、金日成同志と魏拯民との並々ならぬ友情、革命家としての魏拯民の人間像と悲壮な最期、彼の末期の苦悩と願望が何であったのかを知ることができる。

わたしが魏拯民にはじめて会ったのは、彼が満州省党派遣員の資格で間島に来て、大荒崴会議([8])に参加したときでした。それ以来、わたしと魏拯民はいつも抗日の道で厚い友情を分かちあいました。
魏拯民は若いころからひたすら抗日愛国の道を歩んできた職業革命家です。彼は安陽の軍事学校で学び、北京で学を修めた時期には抗日デモにも参加しました。革命家としての彼の活動は、九・一八事変後、闘争舞台を満州に移して以来、新たな時期に入ったといえます。彼が満州に来て最初に落ち着いたところはハルビン道外で、そこで党書記として活動しました。
風貌からすれば、魏拯民は大学教授を思わせる人でした。武官タイプではなく、文官タイプだったのです。革命の時代でなかったら、科学の探究か著述活動に一生をささげたかもしれない思索家タイプの人物でした。人間としては素朴でありながら人付き合いがよく、生まじめで穏やかで、謙虚で素直なのが特徴でした。

コミンテルンの文書庫に保管されていた「満州の遊撃部隊指揮メンバーについての評定書」には、魏拯民についてつぎのように記されている。
「魏拯民
南部グループの副指揮官、中国共産党員、南満党委員会書記……
政治的能力をそなえた指揮官である。遊撃隊員の評によれば権威のある人物と認められる。経歴にかんする資料はない。偵察局と内務省に彼についての否定的資料はない」

魏拯民は中国の革命家でしたが、朝鮮の革命家を支持し、朝鮮革命のために助力を惜しみませんでした。大荒崴会議は深刻をきわめた会議でした。あのとき党派遣員の資格で会議に参加した彼が公正な立場に立たなかったならば、われわれはきわめて不利な立場に追い込まれたことでしょう。彼はわたしの主張に耳を傾け、肯定すべきことは肯定し、参酌すべきことは参酌してくれました。腰営口会議を終えた後は、われわれが訴えた問題についての結論を得るため、モスクワのコミンテルン本部にまで足を運びました。
彼がコミンテルンに行ってきたのは、朝鮮革命に利することでした。死線をくぐり抜けて南湖頭に来た彼と抱き合ってほおずりしたあの日のことが今も思い出されます。
朝鮮の革命家は朝鮮革命の旗をかかげてたたかうべきだというわたしの主張は国際主義と矛盾するものでなく、反「民生団」闘争が極左に走ったというわたしの意見も正しいというコミンテルンの見解、それに朝鮮の共産主義者は朝鮮の民族軍隊をもって国内と鴨緑江沿岸で戦うべきだというコミンテルンの結論を伝達しながら、魏拯民がわたしの肩を抱き寄せたとき、わたしは朝鮮革命に尽力した彼の功労を忘れまいと肝に銘じたものです。
南湖頭会議を契機にして、わたしと魏拯民との友情はいっそう深まりました。そこで彼と半月ほど起居をともにしたのですが、意思がよく通じて、彼にたいする理解を深めることができました。
迷魂陣会議では部隊の再編にかんするわれわれの意思を支持し、その後、祖国光復会の創立も熱烈に歓迎しました。
そのころから彼は、朝鮮の同志たちとの共同闘争のためには意思の疎通をはからなければならないと言って、朝鮮語を習いはじめたそうです。彼は朝鮮人の隊員をたいへん大事にしてくれました。これは、朝鮮革命にたいする国際主義的支持と声援の表われでした。
われわれも魏拯民のために最善をつくしました。情には情で報いるという言葉があるではありませんか。迷魂陣会議の直後、彼はわれわれとともに白頭山方面へ向かう途中、富爾河付近で負傷しました。そのとき、われわれには敵を討ってろ獲した数頭の軍馬がありました。わたしはその軍馬のうちからいちばんりっぱなものを選んで彼に提供しました。彼はその馬に乗って馬鞍山までわれわれと同行しました。わたしは朴永純(パクヨンスン)に命じて大碱廠に病院を設営させ、そこで彼を治療するようはからいました。
その後、魏拯民は熱河遠征([9])にかんするコミンテルンの指示を伝達するため楊靖宇を訪ねて行き、われわれが西間島に進出して白頭山密営の設営を終えようとしているとき、わたしを訪ねてきました。南満州へ行ってきた彼を見ると、その衰弱ぶりは目もあてられないほどでした。彼の持病は心臓病と胃腸病でした。もともと虚弱な体質のうえに、何事においても身を惜しまないたちなので、病気が悪化するほかありませんでした。いつか彼は隊員の先頭に立って山をよじ登り峰を越えるとき、心臓の発作を起こして昏睡状態に陥ったこともあります。そんな体でありながら、治療を受けるべきだと勧めると、肉体が冒されるのは怖くないが、思想が冒されるのは怖いものだと笑いに紛らせてしまうのでした。
わたしは朴永純と姜渭竜に命じて、魏拯民のために横山方面に療養所らしきものを建てさせました。黒瞎子溝密営は前方に位置していたので、彼のような虚弱者を療養させるには不適当でした。
魏拯民は横山密営でしばらくの間、療養生活をしました。わたしは姜渭竜と金雲信(キムウンシン)を長白へ送り、人造のスッポンの血をはじめ彼の養生に必要な薬品や栄養剤を買い入れさせました。彼らは二〇〇元余りの義援金で、人造のスッポンの血はもちろん、白米、小麦粉、缶詰、牛乳、煎餅(せんべい)まで買ってきて魏拯民に供しました。彼は粉食が大好物だったのです。
その年の旧正月は、横山密営で魏拯民と一緒に過ごしました。朴永純が空き缶に穴をあけて製麺器をつくったので、魏拯民と一緒にジャガイモの澱粉でつくった麺を味わい、酒も何杯か傾けました。その日は第八連隊長の錢永林も一緒でしたが、彼の料理の腕前は見事なものでした。肉用と野菜用の包丁まで持参して、いろいろな肴(さかな)をつくったのですが、肉をせん切りにしては何枚もの皿に盛りつけ、素早く薬味をふりかける手さばきは普通ではありませんでした。
わたしは、魏拯民が人を譲ってほしいと要望すれば、それも聞き入れてやりました。黄正海(フアンジヨンヘ)と白鶴林(ペクハクリム)はわたしが目をかけていた隊員でしたが、指名してきたので送ることにしました。
黄正海は中隊長や連隊長の職務でも遂行できる聡明な隊員で、何事においても他にひけをとりませんでした。そのうえ、中国語に堪能であり、大衆工作においても適任者といえました。
白鶴林もわたしのもとで数年間伝令を務めた隊員です。彼は誠実かつ純朴であり、身を惜しまない性分だったので、わたしはいつも彼を連れて歩いたものです。普天堡(ポチヨンボ)を襲撃するときにも連れていきました。わたしが佳林(カリム)川のほとりのドロノキの下で戦闘を指揮するとき、彼は四方に飛び回ってわたしの命令を伝達したものです。間三峰で崔(チェ)賢(ヒョン)指揮下の第四師が包囲されたとき、彼らを救出するため第七連隊と警護中隊に突撃命令を下したのですが、その命令を伝達したのも白鶴林です。彼がしばらくの間戦闘部隊で戦いたいというので、ある連隊に送ったことがあります。ある日、彼に会ったとき、戦闘部隊での生活はどうかと聞くと、気は弾むけれど将軍のもとを離れては生きていけそうにない、伝令としてまた呼びもどしてほしいと言うのでした。それで、彼を司令部に連れもどしました。彼はわたしと一緒に「苦難の行軍」にも参加しました。あのとき、わたしと一緒に一合のはったい粉を分け合った隊員のうちの一人がこの白鶴林なのです。
上下間の関係がこのように密接になれば、上下いずれも相手を親兄弟以上に大事にするようになるものです。そういう隊員をいざ他に譲るとなると、わたしも正直なところ心さびしい思いをしました。けれども、重患の魏拯民のたっての頼みだったので、思いきって送ることにしたのです。
楊靖宇が戦死したという報に接していちばん悲しんだのは魏拯民でした。悲しみのあまり食事もとらなかったといいます。
楊靖宇が戦死した後、第一路軍の指揮にあたった魏拯民は、戦闘でも勇名を馳せました。その年の秋、彼は戦闘で二度目の銃傷を負いました。そのうえ肺結核まで患ったので、それ以上部隊を率いることができなくなりました。
日本帝国主義者は楊靖宇を殺害したのち、その生首を街にさらし、南満州の抗日連軍部隊を全滅させたかのように宣伝しました。そして、東北地方の抗日武装闘争は早晩終末を告げるだろうと広言しました。
事実、この時期、東北抗日連軍は内外で重大な試練に直面していました。日本軍の「討伐」は日を追って狂暴さを増し、隊内からは背信者と動揺分子が続出しました。いっとき旅団長だった方振声も楊靖宇の死と前後して敵に捕らわれ、変節してしまいました。そのうえ、南満州の第一路軍の大衆的基盤もはなはだしく弱まっていました。
このような事態は、第一路軍政治委員であり、南満省党委書記である魏拯民に大きな衝撃を与えざるをえませんでした。彼は自分の活動に手落ちがあり、見過ごすことのできない深刻な欠陥があると考えたのです。
魏拯民は自分自身にたいする要求がきびしく、他人の経験や長所を謙虚に学び取る軍事・政治幹部でした。彼はわたしに、朝鮮の同志たちは遊撃区の解散後も、東満州と国内、西間島の広い地域で党組織の建設と大衆団体の建設に力をそそいだが、その経験を聞かせてほしいと言うのでした。
遊撃区当時は、間島一帯の県がすべて革命組織の天下でした。六、七歳の子どもまで棍棒を腰にさげ、児童団だの何だのと気勢を上げたものです。女性も封建の殻を打ち破って婦女会に結集しました。組織が大衆に働きかけ、大衆が決起して軍隊と一体となって勇ましく戦い、農作も営み、人民革命政府も建設したのです。
ところが、南満州の部隊は遊撃区を離れたあと、軍事活動一面に偏り、大衆工作をおろそかにしました。遊撃区に雲集していた人民を敵の統治区域に行かせた後は、彼らに別段関心を払いもせず、新たな大衆的基盤を築こうともしませんでした。そのため、人民との連係が自然に断たれてしまいました。
それらの部隊で軍事第一主義の傾向がもっともはなはだしく現れたのは熱河遠征の時期でした。軍事第一主義とは、軍事活動と軍事的対決によってのみ問題を解決しようとする傾向のことです。武装闘争だからといって、軍事一辺倒に走ってはなりません。軍隊を支持し援護し、その人的予備を補ってくれる大衆がなく、大衆的基盤がなくては遊撃闘争はできません。
われわれが抗日遊撃隊を組織した初期は、銃も数挺しかなく、人員もわずかなものでした。それでもわれわれは、ちゅうちょすることなく抗日大戦を宣しました。われわれは勝てるという自信と胆力をもって抗日戦争を開始しました。強力な経済力をよりどころにしていた日本の軍事力とわれわれ遊撃隊の軍事力とでは、事実上対比すべくもありませんでした。では、われわれは何を頼んで抗日大戦を開始したのでしょうか。革命的民衆観をよりどころにした政治的思想的・道徳的・戦術的威力をもって日本帝国主義を打ち倒そうとしたのです。
熱河遠征の無謀さは、人民との連係についての考慮や戦術的な見積もりを欠き、主観的な願望にとらわれて場数を踏んだ戦場を離れ、日本軍と真っ向から対決しようとしたところにあります。
われわれが遊撃区を解散したのち、南湖頭会議と東崗会議で、党建設の推進、統一戦線組織体の結成、共青の反日青年同盟への改編、鴨緑江沿岸と国内への武装闘争の拡大などを決定し、白頭山地区に陣取って祖国光復会の組織を結成し、それを国内の広い地域に急速に拡大していったのは、軍事活動を裏打ちする民衆工作を重視したからです。
朝鮮人民革命軍はそうした組織の力にあずかるところが大でした。敵が集団部落をつくり、土城を築いて遊撃隊と人民を分離し、一升の米、一本の糸も土城の外に持ち出せないようにしていたとき、そういう組織がなかったなら、われわれにたとえ天に昇り地に潜る才能があったとしても役に立たなかったでしょう。軍と民は針と糸のような関係であって、いかなる環境にあっても一心同体とならなければならないのです。
魏拯民が南満省党委の招集した会議で、有能な遊撃隊の幹部を満州各地へ派遣することにしたのは、それまでの欠陥を改めるための措置でした。彼が遅ればせながら失策を悟り、軍事一辺倒の偏向を正そうとしたのは幸いなことでした。
密営で闘病生活をしていた魏拯民が日夜腐心したのは、莫大な人的・物的損失をこうむった第一路軍の兵力を収拾、再編する方途は何か、失敗と挫折の苦汁をなめさせられた南満州革命を再び高揚に導く方途は何かということでした。彼は迫りくる大事を前にして伸縮性のある戦略を立て、その戦略に即して戦術を変えるべきだと考えながらも、新たな状況に見合った決断を下せないのがもどかしくてならなかったのです。
彼は解決方途の一つとして、関内の第八路軍との軍事的連合についても考えながら、その年の四月にコミンテルンに送った書簡にたいする回答を待ち望んでいました。

魏拯民がコミンテルンに宛てた書簡には、当時の彼の苦衷をうかがわせるつぎのようなくだりがある。
「…一九三五年の秋…以後…中央との連係が一切断たれ、中央の具体的な指示が受けられず、また中央の文書、通信も受けられない状況で、狡猾な敵の四面攻撃を受けている。
…われわれは実に、茫々たる大海原で船頭を失った小舟にもひとしく、また両眼をなくしてあてもなくさ迷う子どもにもひとしい境遇にある。偉大な革命の波が激しく打ち寄せているのに、われわれは他人の家に閉じこもっているありさまであり、空気がまったく通じない大太鼓の中に閉じこめられているさまで…上級機関とのつながりが切れて以来、活動上予測しなかった重大な損失をこうむっている」

彼が書簡を送ったのは、コミンテルンと中国共産党中央に第一路軍の窮状をつぶさに知らせるためであり、第一路軍の衰勢を挽回するうえでコミンテルンと党中央の積極的な支援を受けるためでした。
コミンテルンや党中央への彼のこのような期待は、きわめて現実性にとぼしいものでした。当時コミンテルンやソ連は、自己の安全をはかる見地から満州で日本を刺激しない宥和政策をとっており、党中央は数千里離れた遠方で日本帝国主義者と戦っていたので、東北革命を支援できる状態ではなかったのです。
そういう時期に魏拯民がコミンテルンや党中央の支援に期待をかけたのは、しばらくの間軍事・政治活動から遊離し、情勢を正確に評価できる客観的な資料が入手できなかったうえに、病気のため心身ともに弱りきっていた事情とも関連しています。
彼がコミンテルンの回答をあれほど待ち望んでいたのは、第一路軍の欠乏する幹部と軍需物資の補充を書簡で強く要望していたからです。彼は、コミンテルンの支援が第一路軍の衰勢挽回の唯一の方途だと考えていたのです。ところが問題は、連絡員一名を派遣するのもむずかしい状態のコミンテルンが、幹部はどこからどう補充し、軍需物資はどのルートからどう送るのかということでした。実現不可能なコミンテルンの支援に期待をかけるより、破壊された地下組織を立て直し、大衆的基盤を強めたあと、彼らから人的・物的支援を受けるのが適切な方途ではなかろうか、というのがわたしの見解でした。
小哈爾巴嶺会議を終えたのち、わたしは寒葱溝密営で病気を治療していた魏拯民を訪ねました。病苦にさいなまれて青ざめた彼の顔を見ると心がうずきました。介護にあたっていた隊員たちは、彼の銃創の跡はほぼ治りつつあるが、持病がこじれて病状が好転しないと心配していました。密営の悪条件では現状維持もむずかしいのではと思いました。魏拯民は、胸から何かかたまりのようなものがしきりに突き上げてくると訴えるのでした。それを聞いて、わたしはぎくりとしました。わたしの母が胃腸病に悩まされているとき、よくそういうことを訴えていたからです。
それでも彼は、しきりに遊撃闘争の当面の課題と戦略戦術上の問題に話題を向けるのでした。われわれが新たな情勢の要請に即して革命力量を保持、蓄積し、大部隊活動から小部隊活動に移行する方針を採択し、それにともなう実践的措置をとりはじめたことを通報すると、彼は朝鮮の同志は情勢を正しく判断し戦略も正しく立てていると言って、われわれの方針を支持してくれました。
そのほかにも、新たな情勢と以後の活動についていろいろと話し合いました。その日、負傷兵と病弱者をソ連に後送する問題や、小部隊活動に必要な冬期の食糧を確保する問題についても協議しました。そして彼に、ソ連へ行って病気の治療をするようにと勧めました。しかし、第一路軍の実態について深く思い煩っていた彼は、まだ正すべきことも多いのでそうすることはできないと言うのでした。かえってわたしに、ソ連へ行ったら第一路軍の実態をコミンテルンに詳しく報告し、コミンテルンに宛てた書簡が間違いなく届いたかを確かめてほしいと頼むのでした。
自分の病気よりも第一路軍の運命を心配する彼を見て、わたしもやるせない思いをしました。楊靖宇が戦死して以来、第一路軍は試練に見舞われていたのです。しかしその時点では、わたしとしてもまだ、すぐにはソ連に行ける状態でなく、また行く考えもありませんでした。それでわれわれは、連絡員を通して今後も必要な連絡をとり合うことにしました。
「金司令、お願いします!」これが、密営を去ろうとするわたしに言った彼の最後の言葉でした。その後、彼に二度と会うことができなかったわたしにとっては、遺言ともいえる言葉だったのです。額面どおり受け取れば、しごく単純で平凡な言葉です。しかし、その日、彼がわたしを見送りながら言った「お願いします」という言葉を、わたしは非常に重く、意味深長に受け取りました。もちろんそれは、彼が一生涯にわたってはぐくみ愛してきた革命を最後まで成功させてもらいたいという意味であったろうと思います。あるいは第一路軍のことを頼むという意味であったのかもしれません。彼がそう言ってわたしを見つめた眼差しが忘れられません。物悲しい眼差しでした。
密営を去るとき、魏拯民のために食糧や給養物資を残しておきはしたものの、心は晴れませんでした。米や冬服などを置いていくからといって、彼が元気づくわけではないのです。彼に必要なのは、革命活動がつづけられる健康な体だったのです。
わたしは黄正海と郭(クァク)池(チ)山(サン)に、何がなんでも彼の健康を回復させるようにと頼みました。彼ら二人は、面倒をよくみるから心配せずに帰るようにと言いながらも、しきりにわたしについてくるのでした。
名も知れぬ山奥に彼らを置いていくとなると、後ろ髪を引かれる思いがしてなりませんでした。それで一度頼んだことを何回となく繰り返すうちにかなりの時間を費やしてしまいました。
後日、ハバロフスクヘ行ったわたしは、魏拯民に頼まれたことを全部果たしました。コミンテルンでは彼の書簡を間違いなく受け取ったと言いました。

魏拯民がコミンテルンに送った秘密書簡がはじめて公開されたのは一九四〇年一二月、日本官憲の資料集『思想彙報』第二五号に全文が掲載された後のことである。
この書簡が日本帝国主義者の手に渡ったのは、第三方面軍の李竜雲連隊長がその年の秋、汪清で戦死し、敵が彼の所持品を回収した際、その中にそれがあったからだという。そのため、魏拯民の書簡はコミンテルンに届かず、途中で敵の手に渡ったものと解されていた。
では、コミンテルンが間違いなく受け取ったという魏拯民の書簡は誰によって伝達されたのであろうか。コミンテルンの文書庫に残っていたつぎの資料はこれにたいする明白な解答になるであろう。
「極秘 コミンテルン執行委員会御中
抗日連軍第一路軍副司令、中国共産党南満省委書記魏同志の一九四〇年四月一〇日付報告と二通の書簡翻訳文を送付する。
シェリガノフ
一九四〇年八月一〇日」
この文書には一九四一年一月二三日の日付とディミトロフの署名がある。
書簡の冒頭につぎのような文面がある。
「われわれの通報は四つの部分からなっている。ここに述べきれなかった事柄や欠落した事柄も多い。それゆえ、今回そちらに行く王潤成との話し合いによって同志たちの関心事となる諸問題を解明されんことを望む。文面に記せない秘密事項についても彼が話すはずである。同志たちに派遣する人物についてはわたしが特別に保証する」
この引用文からして、魏拯民は李竜雲だけでなく王潤成にもコミンテルン宛の書簡を託したものと推察される。一部の個所に若干の違いがみられるが、二通の書簡の基本的内容は合致している。ただ李竜雲の所持品から出てきた書簡の内容には、王潤成についての言及がないだけである。
王潤成は早くから東満州で金日成同志と密接な連係を保って活動していた「王大脳袋」という別名の持ち主である。彼は東北人民革命軍第二軍第二師第四連隊の政治委員を務め、後に東北抗日連軍第二軍第二師の政治委員を務めた。
チュチェ三〇(一九四一)年の春、小部隊を率いて死線をくぐり抜け満州に進出した金日成同志は、魏拯民との最後の対面の場となった寒葱溝を訪ねた。しかし魏拯民一行はそこにいなかった。金日成同志が魏拯民とその護衛兵たちの詳報に接したのは、それから数か月後の年末であった。

われわれが満州と国内での再度の小部隊活動を終えて帰ってくると、ソ連の同志たちが至急わたしに会いたいと言ってきました。ウラジオストクから来たという私服姿のソ連軍の大佐がわたしの前に現れました。彼の話によると、抗日連軍の小部隊の一つとおぼしき人たちがソ満国境を越えてウラジオストクに来ているのだが、彼らは自分らの身分を確認できるのは金日成同志しかいないから、ぜひとも会わせてほしいと強く要求しているとのことでした。
その大佐の車に同乗してウラジオストクヘ向かう道すがら、わたしはさまざまなことを思い巡らしました。もしやその一行の中に魏拯民がいるのではなかろうか、彼が病死したというのはたんなる噂にすぎないのではなかろうか、という期待をいだいてみたりしました。車がのろすぎるような気がして、やきもきさせられました。
ウラジオストクに到着して、大佐がわたしの前に連れてきたのは郭池山でした。わずか一年の間に六〇の老人のように変わり果てた彼の姿を見て、わたしは驚かざるをえませんでした。その姿が、魏拯民一行のなめた辛苦のほどを物語っているように思われました。
郭池山はもと延吉地方で教鞭をとっていましたが、遊撃隊に入隊して政治幹部になった人です。最初は延吉遊撃隊で中隊の指揮官として活動しました。彼は辛酸をなめつくした洗練された革命家でした。彼から読み書きを習った人がたくさんいます。彼は見識が高く品行方正だったので、どこへ行っても尊敬されました。彼が人びとから慕われ尊敬されたのは、同志のためなら水火をもいとわない人だったからです。それに人柄もおおらかでした。彼を指して「一二幅のチマ」という人もいました。どんな人間であれより好みせず、すべて包容するおおらかな人柄ということでしょう。大所帯の雑事をすべて引き受けて気をつかう母親のようだという意味をこめて「一二幅のチマ」と呼ぶ人もいました。第一路軍に警護連隊が組織されるとき、わたしは彼を魏拯民の給養担当副官に推薦しました。そのときから。隊員たちは彼を「郭副官」「郭副官」といって慕いました。彼は魏拯民のために誠意をつくしました。何回となく死線をくぐり抜けて敵地に行き、食糧や医薬品を手に入れてきました。魏拯民はいつも、自分が生き延びているのは郭副官のおかげだと言っていましたが、それはいわれのないことではありません。
しばらくして気を少ししずめた郭池山は、大佐に預けたモーゼル拳銃を持ってきてくれるようにと頼みました。大佐が拳銃を持ってくると、彼はうるんだ声で「魏拯民同志のモーゼル拳銃です」と言うのでした。彼から拳銃を受け取ったものの、「彼はどうなったのだ」という問いの言葉が出ませんでした。魏拯民の姿は見えず、拳銃だけがきたのですから、彼が死去したのは明らかでした。
その日わたしははじめて、魏拯民の死にいたるまでの話を郭池山から詳しく聞くことができました。
わたしが寒葱溝で魏拯民と別れた後、彼らは樺甸県の夾皮溝密営に居所を移したそうです。夾皮溝という地名は汪清県にもあり、東寧県にもあります。満州には夾皮溝という同名の土地があちこちにあるのです。
樺甸県の夾皮溝に居所を移した魏拯民一行は、密営を二か所に設けました。一つは夾皮溝の北方数里の地点であり、いま一つは西南方のもう少し遠い地点でした。魏拯民は一番目の密営にいました。その密営には黄正海や金(キム)鳳(ボン)男(ナム)、それに医者の金(キム)熙(ヒ)善(ソン)もいました。七、八名の機関銃班のメンバーも一緒でした。郭池山と金(キム)喆(チヨル)鎬(ホ)、朱(チユ)道(ド)逸(イル)、李(リ)学(ハク)善(ソン)、全(チヨン)文(ムン)旭(ウク)、金(キム)得(ドク)洙(ス)らは二番目の密営にいました。両方の密営の位置を知っているのは郭池山だけでした。彼が両方の密営を行き来する労をとって必要な連絡をとったり、食糧の運搬をしたりしました。彼は家(チヤ)家(ジヤ)礼(リ)(中国の義兄弟の契り)を結んでいた満州国軍将校らの助けを受けて食糧を調達していたのです。その将校たちは郭池山の頼みであればなんでも聞き入れてくれました。憲兵隊の特務隊長も彼の影響下にありました。家家礼に属していた満州国軍の将校や特務隊長は、いずれも二股をかけた人たちでした。彼らは食糧や塩を山にかついできて遊撃隊に渡しては、遊撃隊の古着や破れた靴、穴のあいた鉢などを持ち帰り、パルチザンを何人殺傷したという偽りの報告をして賞金までもらっていたのです。
魏拯民は死のまぎわまで筆をおかなかったそうです。報告書を書いたり、遊撃闘争を総括する文章も書いたりしたのです。路軍の活動にかんする文書を起案することもありました。死の瞬間まで仕事をつづけるというのが、革命家としての彼の執念であったのだろうと思います。
臨終が迫ると、彼は戦友たちにモーゼル拳銃と文書の包みを渡してこう言ったそうです。
―― きみたちは血気さかんな青年なのだから、あくまで戦うべきだ。革命はきみたちに任されている。革命は困難なもので血も流し、犠牲もともなうものだ。しかし苦労することを恐れるな。われわれが流した血は無駄にはならないだろう。きみたちは必ず金日成同志を訪ねていけ。
魏拯民が死亡したのは一九四一年三月でした。享年三二歳でした。あまりにも早い死でした。弔銃の音もなく、追悼式もない寂しい永別でした。しかし、戦友たちは誠意のかぎりをつくして、なきがらを手厚く葬りました。
しかしその後、山から下りた中国人の隊員が敵の手引きとなって現れたため、墓のありかが露呈してしまいました。平素、魏拯民から目をかけられていた隊員だったというのに、なぜそんなことをしたのか理解できません。
魏拯民を戦闘の場で射殺したという敵側の資料は事実無根です。射殺されたのではなく病死したのです。日本人はそういうデマをよく飛ばしたものです。敵は懸賞金にありつこうとして彼の墓をあばきました。蛮人ならではの行為というべきです。
魏拯民のモーゼル拳銃がわたしの手に届くまでのいきさつを聞いてみると、彼の護衛にあたったメンバーのその後の道のりにもさまざまな曲折がありました。
魏拯民は最初、その拳銃を黄正海に渡しました。黄正海を非常に愛し、信頼していたからです。黄正海は最初、連絡員の任務を受け持っていました。ときには魏拯民の通訳も務めました。その後、警護小隊長となり、もっぱら魏拯民を護衛し、彼の活動を補佐することになりました。魏拯民の要望により、文書や資料の翻訳もし、彼が病床に伏して起き上がれないときには執筆も代行しました。
黄正海は郭池山とともに魏拯民の身辺を最後まで護衛しました。彼は魏拯民を誠実に護衛しました。ある日、密営で魏拯民の白馬が行方不明になりました。黄正海は機関銃射手に魏拯民を頼み、白馬を探しに出かけました。白馬を探すには足跡を頼りにしなければなりませんでした。彼は足跡を追っていくらか行くうちに、密営にしのび寄る敵を発見しました。敵も足跡を頼りに密営の方に接近していたのです。事態は危急を告げていました。警護小隊は食糧工作に出ていたので、魏拯民のもとには黄正海と機関銃射手しかいませんでした。黄正海は直ちに引き返して秘密文書を隠したあと、魏拯民を背に負って密林の中へ駆けだしました。間髪を入れず敵弾が激しくふりかかってきました。すると、彼は魏拯民を抱いて走りました。自分は犠牲になっても魏拯民だけは助けようという気持ちだったのです。ところが、黄正海は肩に銃傷を負ってしまいました。こうなっては、もう魏拯民を抱いて走ることができませんでした。彼は魏拯民を機関銃射手にゆだね、機関銃をつかんで掩護射撃をしながら敵を牽(けん)制(せい)しました。
こういう黄正海を魏拯民が愛さずにいられるでしょうか。魏拯民が彼にモーゼル拳銃を託したのは理由のないことではありません。
その後、黄正海は小部隊を率いて郭池山がいた密営に移ってきました。彼らは猪や熊などの獣を捕って食べたり、携帯用の食料として貯蔵したりしました。そうしているうちに、黄正海は熊狩りをして命を落としました。一発食らって逃げ出した熊を追っていったのですが、その熊が突然襲いかかってきたため、まったく思いもよらぬ不祥事となったのです。思いがけなく惜しい人を失ってしまいました。
黄正海が保管していたモーゼル拳銃は、こうして白鶴林と同郷の李学善の手にゆだねられました。彼は一日に一回は必ずこの拳銃を掃除しながら魏拯民をしのびました。その彼がまた、思いもよらぬことで命を落としたのです。李学善が死亡した後、魏拯民の拳銃は郭池山が保管することになったのです。
郭池山は小部隊活動のかたわら、ケシを栽培しながらソ連へ行く準備を進めました。柳(リユ)京(ギヨン)守(ス)の工作班が夾皮溝付近で、郭池山らと連係のある老人に会ったのはこのころだったと思います。その老人が秘密を固く守って教えなかったため、柳京守らは郭池山に会えずに引き返したのです。郭池山らはケシを栽培して得た金で軍服を新調し、食糧と塩も買い入れました。そうした準備をととのえて出発したのですが、それでも途中でさまざまな苦労をしたということです。ソ満国境を越えるときは、ズボンを脱ぎ頭に載せて川を渡ったそうです。
魏拯民の拳銃はこのように幾人もの手を経てわたしの手に届いたのです。
郭池山はその後、金一の小部隊に加わって満州へ進出しました。そして家家礼というテコを利用して、以前から連係のあった満州国軍の将校を包容して地下組織をつくり、人民の中に入って政治工作もおこないました。
郭池山をはじめ魏拯民のもとにあってその護衛を務めた朝鮮の共産主義者は、生前に彼があれほど思い煩っていた軍事一辺倒の傾向をなくし、武装闘争の大衆的基盤の強化のためにあらゆる努力を傾けました。
郭池山が戦死したのは一九四三年だったと思います。新たな偵察任務をおびて満州へ行ったのですが、任務を遂行して帰隊する途中、敵弾を受けて倒れたのです。
魏拯民は朝鮮革命がもっともきびしい試練にさらされていたとき、われわれを心から支持してくれた人です。それで、わたしはいまも彼を思い出すのです。
魏拯民は実践のうえで決心しがたい問題につきあたると、決まってわたしの見解を求めました。彼がどれほどわたしに信頼を寄せていたかは、楊靖宇の戦死後、第一路軍と南満省党委の活動にかんする問題についてすべてわたしと協議したことによっても分かります。第一路軍の幹部が魏拯民に何か結論を受けに来ると、彼はその幹部を毎回わたしのところに寄こしたものです。
魏拯民が死去した後、コミンテルンは東北抗日連軍第一路軍の活動と南満省党委の活動にかんする諸問題については、わたしと協議しました。
魏拯民は人間としてもりっぱな人であり、革命家としてもりっぱな人でした。りっぱな人間であり、りっぱな革命家であったため、わたしも誠意のかぎりをつくして彼を援助したのです。
魏拯民を介護するのに多くの人が骨をおりました。命をかけて彼を保護した国際主義者は一人や二人ではありません。
魏拯民は朝鮮革命にたいする関心とわたしにたいする友愛の情が格別であったといえます。魏拯民のもとで長らく活動したわたしの戦友たちの話によると、彼はつねに朝鮮革命の運命をわたしと結びつけ、二言目には金日成同志に忠実にしたがわねばならないと言っていたとのことです。
魏拯民の生涯が美しいものとなりえたのは、始まりと終わりが変わりないものであったからです。人生の第一歩を祖国と人民のために、人類のために踏み出した人は、人生の終末も祖国と人民のために、人類のために結ばなければなりません。それでこそ、その一生が人びとの記憶に永久に残る高潔で美しいものとなるのです。
抗日革命の時代は、人びとの精神世界が澄みきっていました。
国際共産主義運動内に現代修正主義が台頭してからというものは、国際主義という言葉を口にする人もほとんどいません。口をひらけば国際主義を高唱した人たちも、いまは私腹を肥やそうと如才なく立ち回っています。衣食には不自由しても、革命の道を歩む人同士が国籍にかかわりなく、なんでも互いに譲り合った時代が恋しくなります。共産主義者はいついかなる環境にあっても、国際主義的義務と信義に背いてはならないのです。

第二三章 国際反帝勢力と連合して

一 ハバロフスク会議

金日成同志はチュチェ七三(一九八四)年の夏、ソ連と東欧社会主義諸国への歴史的な公式友好訪問を終えて帰国する途中、ハバロフスクに立ち寄って一泊した。その日、金日成同志は極東の訓練基地での生活とハバロフスク会議について感慨深く回想した。

ハバロフスクはわたしが一度来てみたいと思っていたところです。前回は満州里を経てソ連に入ったのでハバロフスクに立ち寄ることができませんでしたが、今回はハッサンを経由し豆(トウ)満(マン)江(ガン)駅から帰国するコースをとったので、ここで一泊することにしました。以前からここに来てみたいと思っていたのですが、数十年の歳月が流れてようやくそれがかなえられました。
朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍がソ連極東軍部隊とともに国際連合軍を編制して共同闘争をくりひろげた日々、ハバロフスクはコミンテルンの活動家と朝・ソ・中三国の共産主義者、軍隊の指導者が相まみえて意思の疎通をはかり、共同闘争の方向と方途を模索した重要な会合の場となりました。当時、ここには極東軍司令部が位置しており、コミンテルン東洋宣伝部も一時はここにありました。
わたしがコミンテルンの招集した会議に参加するため、ソ満国境を越えてソ連領内に入ったのは一九四〇年一一月でした。必要な手続きを終えたわたしは、同行した戦友たちと別れ、ソ連軍将校に案内されてハバロフスクヘ向かいました。車窓からは雪におおわれた極東の大地が展望できました。わたしの眼の前には、この地に愛国の血を流した数多くの独立運動家と愛国志士の姿が浮かびあがりました。亡国の悲運を痛嘆し国権回復を叫びながら、この地でむなしく朽ちた烈士と憂国の士がいかに多かったことでしょう。銃器を求めようとして来た人、団体をつくろうとして来た人、弱小民族の悲しみを訴えようと血の涙を流しながら来た人…物見遊山のためにこの地を訪れた人は一人もいませんでした。しかし、国の独立は依然として民族の課題として残されていたのです。わたしはこの地に無縁仏となって眠る先達の英霊の前で、自力独立を成就して彼らの遺恨をはらしてやろうと心に誓ったものです。
ハバロフスクに向かうわたしの心中ははなはだ複雑でした。はじめて参加するコミンテルンの会合だったからでしょう。コミンテルンがわれわれを会議に招請したのは注目すべきことでした。それは、コミンテルンの指導部が朝鮮人民革命軍の存在をそれだけ重視しているしるしとなるからです。
コミンテルンがその会合に朝鮮人を招請したのはまれなことです。一九二〇年代に朝鮮共産党の関係者は芋の印判を持ってそれぞれコミンテルンに出入りしましたが、それはヘゲモニー争奪のための派閥行脚であって、共産主義運動を発展させる真の意味での活動ではありませんでした。その行脚の果てにもたらされたのは、朝鮮共産党の解散という恥ずべき結果であり、一国一党制による外国の党への義務的な移籍でした。
コミンテルンの指導部が朝鮮革命にかんする問題を独自の議題として会議で討議したことは別段なかったと思います。朝鮮共産党の解散以後、朝鮮革命はほとんどコミンテルンの視野の外にありました。コミンテルンの眼中にあったのは、中国やインドのような大きな国の革命でした。コミンテルン指導部の一部の人は、東北地方でたたかう朝鮮人が朝鮮革命のスローガンを直接かかげることさえ差し押え、実情に合わない指令をつぎつぎと下達して朝鮮革命に少なからぬ被害をこうむらせました。コミンテルンが朝鮮革命の独自性を認め、それにたいする支持をはじめて公式に表明したのは、コミンテルン第七回大会のときからです。
コミンテルンは朝鮮革命にさほど関心を向けませんでしたが、われわれはそれにこだわらず終始コミンテルンを支持し、その功績と存在価値を重視しました。コミンテルンは第一次世界大戦以後、新たな情勢に即応して共産主義運動の隊伍を結束し、その純潔を保つうえで大きな功績を残しました。世界革命の勝利をめざす闘争において国際的前衛の役割を忠実に果たしてきたコミンテルンの功績にたいし、われわれは相応の評価をしていました。朝鮮の共産主義者は朝鮮革命の主人としての誇りとともに、国際共産主義運動の堂々たる一員であるという自負をいだいて朝鮮革命の勝利のために邁(まい)進(しん)する一方、世界革命を発展させるためのコミンテルンの指示の実行にも努めました。
わたしはハバロフスク会議に大きな期待をかけていました。三国の武装力の代表がはじめて一堂に会して共通の関心事となる諸問題を討議することになるので、その過程は順調ではないかもしれないという憂慮もありましたが、会議の展望については楽観していました。
ハバロフスクに到着してみると、雪が膝にくるほど積もり、ひどい寒さでした。密林の中で戦ってきたわたしの目には、すべてが神秘めいたものに見えました。銃声や略奪もなく、飢餓もない平和な大通り、自由に語り合いながら街を闊歩する市民の幸せな姿、それらはみなわれわれが理想として描いてきた生活でした。一部の地図帳にはハバロフスクが哈府または伯力という地名で記入されています。かつて朝鮮人はウラジオストクを海参崴と呼んでいました。極東地方には双城子、煙秋、水清、蘇城という名で呼ばれた土地が少なくありません。ハバロフスクという都市の名は、極東開拓者の一人であるハバロフの名に由来しているといいます。都市中央の駅前広場にはハバロフの銅像がありましたが、非常に印象的でした。当時、この都市は二〇余万の人口を擁していました。
ハバロフスクに到着したその日、宿所で徐(ソ)哲(チヨル)と対面し、翌日は安(アン)吉(ギル)に会いました。徐哲は南満省党委員の資格で、安吉は第三方面軍参謀長の資格で会議に参加することになったとのことでした。東満州と南満州、北満州の戦場を渡り歩いていたときには戦闘にかまけてたびたび会えなかった戦友と顔を合わせてみると、その感激はなんとも言いがたいものでした。
第一路軍軍長の楊靖宇が戦死し、魏拯民も病床にあったうえに、方面軍軍長であった曹亜範、陳翰章も戦死した後だったので、われわれ三人は朝鮮人民革命軍だけでなく、中国共産党南満省委と東北抗日連軍第一路軍も同時に代表することになりました。言わば、われわれは南満州で活動する党組織と全遊撃部隊の代表でした。
わたしは徐哲と安吉から、第二路軍総指揮の周保中が一一月初にすでにハバロフスクに来ており、ついで第三路軍総指揮の張寿籛と政治委員の馮仲雲、第五軍政治部主任の季清も来ていることを知らされました。安吉と徐哲は、金(キム)策(チエク)と崔(チエ)庸(ヨン)健(ゴン)もハバロフスクに到着してわたしを待っていると話しました。そうしてみると、東北抗日連軍の三つの路軍と吉東、北満、南満の各省党委を代表する幹部がみな集まったことになります。
ハバロフスク会議が開かれる前に、コミンテルン代表のソ連極東軍将官リューシェンコに会いました。彼は、コミンテルンがハバロフスクで満州パルチザンとソ連軍代表の会議を開く趣旨と目的を説明し、新たな情勢の要請に即した対応策をともに講じようと言いました。そして、南満省党委と第一路軍の構成、活動内容についての資料を作成してもらえないだろうかと言いました。わたしはそれを承諾し、安吉、徐哲と共同で南満省党委と第一路軍の活動にかんする詳細な資料を作成しました。これが王新林に送った一九四一年一月一日づけの資料です。

王新林はソ連極東軍情報部長リューシェンコの仮名である。朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍部隊がソ連領内に入って活動していた時期、コミンテルンとソ連共産党、ソ連極東軍を代表する人物は自分の名を王新林と称した。ハパロフスク会議が最終段階に入ったとき、ソ連極東軍将官ソルキンがリューシェンコの職能を引き継いだが、彼もやはり王新林という仮名を使った。
コミンテルンの文書庫には、金日成同志がチュチェ三〇(一九四一)年一月、南満省党委(第一路軍)代表の名義で提出した資料の原文がある。その原文の冒頭はつぎの通りである。
「王新林同志!
東北抗日連軍第一路軍の一九四〇年の春から夏にかけての活動と関連してわれわれに提起されたすべての質問にたいし、われわれの知るかぎりの答弁をすることにする。それゆえこの報告は、抗日連軍第一路軍の状況をすべて包括するものではない。
… … …
ボルシェビキ的挨拶を送る
           金日成
           安 吉
           徐 哲
        一九四一年一月一日」

わたしは会議が開かれる前に、金策、崔庸健と感激的な対面を果たし、久方ぶりに周保中とも再会しました。安吉と徐哲は、会議が終わってハバロフスクを発つときまで、わたしと同じ宿所に泊まりました。彼らと寝食を忘れて旧交を暖めたこと、革命の明日の運命にかかわる問題について話し合ったことが昨日のことのように思い出されます。
すでに一九四〇年一月末、ハバロフスクではコミンテルン主宰の満州パルチザン指揮官会議がありました。朝鮮人民革命軍と第一路軍の代表は参加せず、周保中、張寿籛、馮仲雲など第二路軍と第三路軍の代表だけが参加した会議でした。会議では東北抗日遊撃闘争の経験と教訓を総括し、情勢の分析にもとづいて以後の闘争方針を確定したのち、ソ連極東軍との連係を保って相互協力する問題について協議しました。結果、統一的な歩調をとる問題で必要な合意をみました。
この成果にもとづいて一九四〇年三月中旬ごろ、東北抗日連軍側とソ連軍事当局の参加のもとに相互連係と協力を強化するための協議会が再び開かれました。これには東北抗日連軍第二路軍、第三路軍の代表と極東軍司令官代理、ハバロフスクとボロシーロフ(ウスリースク)駐屯軍の責任者、そしてリューシェンコなどが出席しました。この協議会で抗日連軍側は、東北抗日連軍にたいするコミンテルンとソ連軍の支援を強化することを要求しました。ところがこのとき、ソ連側は東北抗日連軍部隊にたいする指揮権の譲渡を要求しました。ハバロフスク駐屯軍司令官は、東北抗日連軍武装部隊を中国共産党組織から分離してはどうか、そうすれば東北の遊撃部隊にたいするソ連の支援がより容易になる、と言いました。ソ連側のこのような態度のため、協議会では大きな論難が生じ、東北抗日連軍とソ連極東軍事当局間の相互支持および協力の形式と内容の問題は初歩的な合意をみるにとどまり、円満な解決をみるにはいたりませんでした。結局この問題は、その後のハバロフスク会議で再び論議されることになったのです。
われわれが参加した、通称一九四一年のハバロフスク会議は一九四〇年一二月から一九四一年三月中旬まで、情報活動要員の兵営で続行されました。兵営の周りには柵がめぐらされ、会場としてはある工作員のアジトがあてがわれました。
会議の第一段階では、東北抗日連軍と朝鮮人民革命軍、各省党委の責任幹部がはじめて一堂に会したので、各路軍と省党委間の連係と、コミンテルンおよびソ連との関係で共同歩調をとる対策をめぐって数日にわたり真剣な協議を重ねました、そのあと、一九四一年一月初からコミンテルンおよびソ連当局者とともに、満州における抗日遊撃闘争の将来の問題と、ソ連極東軍事当局との相互支持および協力の内容と方法を基本問題として協議しました。コミンテルンとソ連側からはリューシェンコをはじめ数名の代表が参加しました。
ハバロフスク会議は、東北抗日連軍の指揮権の問題をめぐるソ連軍側と抗日連軍側の相反する立場のため、最初から不透明な雰囲気のなかで進められました。会議の雰囲気を不透明なものにしたもう一つの原因は、中国共産党の代表が会議に出席していないことにたいする抗日連軍側指揮官たちの不満にありました。最初、ソ連側はコミンテルンの名義でハバロフスク会議を招集するとき、吉東省党委と北満省党委に、中国共産党中央からも代表が参加すると通告していました。ところが、会議がはじまるときまで中国共産党中央の代表はハバロフスクに現れませんでした。以前から中央との連係の回復を待ち望んでいた東北抗日連軍の指揮官たちは少なからず失望しました。事実、彼らがハバロフスク会議に格別の関心を示して出席することになったのは、中国共産党中央の代表と対面できるという期待が大きかったからです。
中国共産党中央の代表がハバロフスクに現れなかった理由は、わたしたちにもよく分かりませんでした。ソ連当局が中国共産党中央に会議招集の通知をしなかったのか、それとも通知はしたが、それが届かなかったのか、理由はどうであれ、中国共産党中央の代表が現れなかったことは抗日連軍の一部の代表に疑惑をいだかせ、ソ連がコミンテルンの名義で招集した会議の趣旨そのものをいぶかしがらせ、初期の会議の成り行きを曇らせました。
会議は座談会の形式で進められたので、報告というものもありませんでした。東北抗日連軍各路軍の代表がその活動状況を互いに通報する形式で、上程された問題の協議に必要な認識と理解を深め合いました。わたしは、第一路軍と朝鮮人民革命軍の活動状況について通報しました。
当時の状況からすれば、東北抗日連軍の軍事・政治活動について総合的な報告を提出するのは不可能でした。中国共産党は、東北抗日連軍の活動にたいする中央集権的で統一的な指導ができない状態にありました。趙尚志や周保中などがいろいろな形で党中央との連係を模索し、また独自の東北党組織の結成についても構想しましたが実現にいたらず、それぞれ並立した北満省党委や吉東省党委、南満省党委がおのおの独自に活動しているありさまでした。そのため、東北抗日連軍も路軍別に活動せざるをえなかったのです。
東北革命を全般的に掌握して指導するというのは容易なことではありませんでした。数十万の日本軍が満州を占拠している状況のもとで、中国共産党が関内にいて東北地方の党および軍事活動を指導するというのは非常に困難なことでした。
ハバロフスク会議で重点的に論議されたのは、東北抗日連軍と朝鮮人民革命軍の将来の活動方向にかんする問題でした。結局、朝鮮と東北における遊撃闘争とソ連軍との相互関係をいかに結び、それを新たな情勢の要請に即していかに適応させ発展させるかということでした。
この問題と関連してソ連側は、ドイツ、日本、イタリアなどのファシズム勢力が防共連合を形成し、第二次世界大戦がひきつづき拡大されている状況下で、連合したファシズムとの戦いで勝利するには共同闘争を強化しなければならないが、そのためには実質的な措置が必要である、したがって東北抗日連軍が独自性を放棄し、ソ連軍と統合してはどうかと提案しました。そして、この措置はプロレタリア国際主義の原則にも合致し、東北革命にも利するはずだと力説しました。この問題は事実上、その前年の会議で東北抗日連軍の指揮官がもっとも頑強に反対した問題でした。
この一年の間に、世界の政治情勢と極東の軍事情勢には劇的な変化が相次いで起こっていました。ソ連の提案は、このような情勢の流れを反映したものでした。
当時、ソ連は西部国境方面に刻一刻と詰め寄ってくるドイツとの衝突をほとんど避けがたいものと見ていました。ドイツが西から攻撃してくるとき、日本軍が東から攻撃をかけてくれば、それこそ一大事でした。ソ連はどうあっても東西からの挟撃を避けようと全力をつくしていたのです。ソ連がもちだした協同行動案をみれば、情勢の緊迫さからくる彼らの焦りを十分に察することができました。
広大な国土の一方はヨーロッパに属し、一方はアジアの広い版図を占めているソ連としては、その長い国境線の一方だけを守備したり、ある一方の敵のみを防ぐ能力を備えるだけでは、国家防衛の完璧を期することができませんでした。
ソ連は国家建設の初期から、ヨーロッパとアジアから同時に攻撃してくる敵のいずれをも撃破できる準備をととのえる原則を立て、国防に大きな力をそそいできました。ソ連はこのような国防原理と対日・対中関係を考慮して、最初から極東を独立した軍事単位にしようとしたのです。しかし、第一次五か年計画は、経済的にも軍事的にもソ連のヨーロッパ地域の発展に主眼をおいたもので、その効力は極東の軍事力の強化にまでは及びませんでした。
ソ連をして極東の軍事力を急速に拡充させるようにした直接の契機は、一九三一年の九・一八事変でした。日本帝国主義の満州侵攻に大きな衝撃を受けた彼らは、日本が兵力を極東にまで進出させるのではないかという不安を常時いだいていました。九・一八事変以前の極東の兵力は、五万の歩兵と一〇〇台の航空機、三〇台の戦車ぐらいのものだったそうです。ソ連は、日本帝国主義が九・一八事変を引き起こした後から、極東の兵力を二倍、三倍、四倍と増強しはじめました。日本がソ連の不可侵条約締結の提案を拒否してからは、重爆撃機、新型戦車、潜水艦などを極東に配備して日本の侵略脅威に対処しました。一九三六年にソ・蒙協定を締結したのも、日本を牽(けん)制(せい)するのが目的でした。ソ連が極東の兵力増強にいっそう拍車をかけたのは、日中戦争が勃発し、ハッサン湖(張鼓峰)事件、カルキンゴル(ノモンハン)事件が相次いで起こり、東部国境の安全に重大な脅威を感じたときからです。東北抗日連軍をソ連極東軍の直属部隊にするというソ連側の提案は、一年前の主張の蒸し返しと解釈され、ひいてはソ連が自国の政治的・軍事的利益のみを優先させ、それに東北抗日運動を従属させようとしているという非難まで惹(じやつ)起(き)しました。当時の極東の情勢からすれば、ソ連の提案にはうなずける点がなくもありませんでした。ドイツと日本による東西挟撃の危険は遠い将来のことでなく、間近な現実として目前に迫っていたのです。ソ連は自国の東部に砲声が響くのを望みませんでした。
日本は満州の抗日武装部隊がソ連の教唆と指令を受けて活動しているかのように宣伝する一方、ソ連侵攻の口実を設けようと各面から策動していました。こういう実情からソ連は、極東の防備を固める一方、必要な外交的手段をつくして日本の侵略を未然に防ごうと全力を傾けました。
当時、ソ連はドイツと日本の侵攻に共同で対抗できる同盟国をもっていませんでした。ソ連はヨーロッパで増大する戦争の危険を防ぐため集団安全体制の創設を追求しましたが、西側帝国主義者の策動によって実現しませんでした。東方にもソ連を武力で支援できる同盟国はありませんでした。中国が日本と戦ってはいましたが、中国はソ連の支援を受ける存在であって、ソ連を支援する同盟者とはなりませんでした。国の東部だけでも安泰であることを望むソ連としては、東部で日本に武力侵攻の口実を与えてはならなかったのです。
ソ連が極東軍と東北抗日連軍を統合する軍事体制の創設を提案した目的は、一方では日本にソ連侵攻の口実を与えまいとするところにあり、他方では対日作戦が展開される場合、極東軍と協同できる同盟者を得ようとするところにあったと思われます。
東北抗日連軍とソ連極東軍の統合問題をめぐって、会場の内外では激論が交わされました。東北抗日連軍の指揮官には、ソ連極東軍の傘下に入る考えは毛頭ありませんでした。一〇年余り雨露にうたれ野宿しながら血戦をくりひろげてきたのに統合とはなんということか、絶対に東北革命を放棄することはできない、ソ連側は他国のことは眼中にもなく、自国のことばかり考えている、彼らの立場は個々の国の革命の独自性を尊重するという革命的原則を無視したものだ、この問題はスターリンかディミトロフに提起して解決すべきだ、と主張しました。後で知ったことですが、スターリンとディミトロフも東北抗日連軍側のこの立場を支持したそうです。結局、この問題と関連してリューシェンコはソルキンと交代させられました。
ソ連側は統合問題についてのわれわれの見解をたいへん知りたがりました。彼らはわたしに、ソ連側の提案は民族利己主義から発したものでないことを納得させようと努めました。彼らの言葉には、ソ連が健在でソ連革命が順調にいってこそ、中国革命も朝鮮革命も順調にいくという主張が強くただよっていました。
わたしは彼らにこう言いました。
―― あなたがたの提案にも一理はある。そういう提案を出したあなたがたの状況も理解できる。しかし、その要求は一方的で時期尚早だと思う。日本軍がソ連侵攻の機会をうかがっているのは事実だが、いまただちに戦争が起こるような徴侯は見えない。勝利をかちとった国の革命を守るのも重要だが、まだ勝利していない国の革命をおし進めるのもそれに劣らず重要なことだ。あなたがたは東北抗日遊撃闘争を軽視しているようだ。
すると彼らは、いかなる形の統合にも反対するのかと質問するのでした。
―― 違う。双方に有利な連合や協同方式であれば反対しない。わたしが反対するのは、一方が他方を無視したり、他方の独自性を認めない強引な統合である。朝鮮人民革命軍は中国の戦友たちとともに抗日連軍を編制して共同闘争を進めながらも、自己の独自性を維持している。だから共同闘争をしても問題は起きない。わたしは朝鮮人民革命軍を抗日連軍に溶解させるのにも反対だが、ソ連軍に配属させるのにも反対だ。その理由は、形式と内容においてわれわれの独自性を無視することになるからだ。朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍、そしてソ連極東軍との共同闘争をどのような形式と内容で進めるかという具体的な方法はこれから考えてみることにする。われわれは、共同闘争の形式と方法はソ連を助けるものにならなければならないが、朝鮮革命や中国革命の利益にも合致しなければならないと考える。
わたしの話を注意深く聞いたソ連側は、あなたは空転を続けてきたわれわれの論争に終止符を打ち、会議をしめくくることのできる糸口をもたらした、きょうのあなたの話からたいへんよい示唆を受けた、独自性の問題についてはもう少し検討してみる、と言うのでした。それで、わたしはこう話しました。
―― あなたがたがそう決心したのなら結構なことだ。一方的な主張はやめて早急に会議をしめくくろう。早く戦場にもどって小部隊活動もくりひろげ、組織建設や人民との活動も進めなければならないのに時間がもったいない。共産主義者が一つの議題をもっていつまでも口論するのはもってのほかだ。各自がプロレタリア国際主義の精神にのっとって理性的に思考するなら、なにも解決できないことはない。
周保中と張寿籛も、提起された問題にたいするわたしの見解を求めました。わたしは、各自の独自性を認めてくれさえすれば、各武装力の国際的な連合に反対しない、要はどのような形の連合かということだが、それについては時間をかけてさらに検討してみる必要がある、ソ連側の提案は一方的なものではあるが、内容はある、だからあたまから排斥することはない、われわれがともに同志的に私心のない態度でプロレタリア国際主義を最大限に発揮し、共同の利益にかなうよう問題の討議を早く終えることにしよう、と呼びかけました。
われわれの主張は会議で支持を受けました。会議の過程で表明したわれわれの原則的な立場は、朝・ソ・中三国の革命武装力間の団結と協力を実現するうえで肯定的な働きをしました。
ハバロフスク会議では、革命力量を保持、蓄積し、大規模の遊撃闘争から小部隊活動へ移行するというわれわれの戦略的方針が新たな情勢の要請に合致する正しい方針であることを確認し、東北抗日連軍と朝鮮人民革命軍の全部隊が力量保持に重点をおいて小部隊活動をくりひろげることについて真剣に協議しました。この問題は二日ほど協議されましたが、比較的順調に見解の一致をみました。
しかし、この問題の協議でも反論が全然なかったわけではありません。一部の人は、大規模な遊撃闘争から小部隊活動への移行を革命における後退とみなしました。大部隊活動でも物足りないというのに、小部隊活動などしていつになったら日本帝国主義が打倒できるというのだ、関内の同志たちが大部隊でスケールの大きい作戦を展開しているとき、抗日を先にはじめた東北人が小部隊活動などしては面目が立たない、と言う人もいました。
大部隊活動をしてこそ面目が立ち、小部隊活動をしては面目が立たないかのように考えるのは間違いでした。わたしは小部隊活動の方針と関連する問題でも、会場の内外でソ連や中国の戦友と論議をつづけました。われわれはすでに小哈爾巴嶺会議で、朝鮮人民革命軍の力量を保持、蓄積するため小部隊作戦に移行する方針を採択し、小部隊による分散活動を成功裏にくりひろげた経験も持っていたので、ソ連と中国の戦友たちはわたしの主張にかなりの関心を示しました。
わたしは彼らにこう説明しました。
―― 情勢は根本的に変わっている。わが方の損失も少なくない。革命の今日だけでなく、明日のためにも力量保持の問題をおろそかにしてはならない。日本帝国主義をたやすく滅亡させることができると思ってはならない。日本帝国主義を打ち破って祖国を解放するためには、朝鮮人民革命軍も東北抗日連軍も力量を保持し拡大しなければならない。小部隊活動をすれば、全民抗争のための組織建設も活発に展開することができ、食糧の入手も容易になる。そして活動にも便利である。われわれは昨年の夏から小部隊活動をはじめたのだが、結果はたいへんよかった。やりがいがある。大部隊活動は必要な時におこなっても間に合う。
小部隊活動を退歩と考える人たちに、小部隊活動の正当性についていくら説明してもよく納得しませんでした。それで情勢討論の方法を多く用いました。朝鮮と満州の情勢、ソ連の情勢にてらして小部隊活動への移行の正当性を論証しました。情勢討論を深める過程で、意見の相違は基本的に解消しました。あのとき、われわれは実に情勢討論を真剣におこなったものです。われわれは多くの会議をおこないましたが、ハバロフスク会議のときのように長い時間をかけて情勢討論を真剣にしたことはまずないと思います。
わたしは大部隊活動に固執する人たちに、コミンテルンも大部隊活動をさしひかえることを要求している、その要求には、ソ連を擁護しソ連革命の獲得物を守ろうという各国共産主義者の志向と決意も反映されている、大規模な遊撃戦がソ連の安全に不利な影響を及ぼすなら、当然それを考慮すべきではないか、と説得しました。そしてソ連側の代表には、あなたがたはわれわれをむやみにここにしばりつけておこうとしてはならない、力量を保持するからといって、腕をこまぬいていては革命を前進させることはできない、われわれは小部隊を組んで国内と東北地方に進出し、政治・軍事活動を活発にくりひろげる考えだ、と主張しました。
わたしの主張は一同の共感を呼びました。事実、あのときソ連側は、われわれが極東に居座って訓練をしたり、少々の軍事偵察などをしながら無難に過ごすことを望んでいたのです。そうすれば、日本にソ連侵攻の言質を与えなくてすむということでした。しかし、われわれは革命をそのように消極的に進めるわけにはいきませんでした。もし、その程度の活動で時間を過ごすとすれば、それこそ無為徒食することにしかならないのです。
われわれは議論のすえに、今後の活動は小部隊活動、大衆工作、組織建設、実力培養に基本をおくことにしました。これは、われわれが小哈爾巴嶺会議で決定した方針と一致するものでした。
会議でソ連側は、自国の領内に東北抗日連軍と朝鮮人民革命軍の活動基地を提供すると述べました。われわれはそれをいま一つの臨時基地とし、朝鮮と満州の広い地域で小部隊活動を展開することにしました。
ハバロフスク会議が終わった後、ソ連は極東地域に二つの基地を提供してくれました。一つはボロシーロフ付近にある南キャンプであり、いま一つはハバロフスク付近に設けられた北キャンプでした。
われわれは暫定的に南キャンブを占めました。東北抗日連軍第二路軍第五軍の一部の兵員も南キャンプに一緒にいました。北キャンプは第二路軍と第三路軍が利用することになりました。
当時、わたしは朝鮮人民革命軍司令官として南キャンプの責任者になり、しばらくして朝鮮人民革命軍と第一路軍から来た一部の兵員を統合して第一支隊を編制し、その支隊長を務めながら小部隊活動を積極化する対策を立てました。
われわれが極東に新たな臨時基地を設け、国内と満州一帯を出入りしながら小部隊活動を活発に展開することになったのは、抗日武装闘争史上一つの転換ともいえることでした。もちろん、これはまだ暫定的な措置ではありましたが、今後、抗日革命の最終的勝利をめざす闘争をより高い段階に発展させる重要な第一歩となりました。もし、あのとき新たな情勢と革命発展の要請に即応して時宜にかなった積極的な対策を講じなかったならば、われわれは革命を危機から救うことも、抗日革命の最終的勝利をかちとることもできなかったでしょう。
革命を進める過程には試練もあり、逆境もありえます。しかし、朝鮮革命には退潮期もなければ、小康期もありませんでした。われわれは困難を前にして動揺したこともなく、悲しみにうちひしがれて座り込んだこともなければ、敵の攻撃の前で守勢に回ったこともありませんでした。ただの一度でも、われわれが逆境に屈したり守勢に回ったりしていたならば、敵は朝鮮革命を容赦なく引きつぶしていたことでしょう。
われわれはたとえ死のうとも絶対に屈服せず、後退もしないという意志と胆力をもって、いつも禍を福に、逆境を順境に変えたものです。
ハバロフスク会議は小哈爾巴嶺会議とともに、朝鮮革命の新たな転換期を開く契機となりました。小哈爾巴嶺会議とハバロフスク会議は、一九四〇年代前半期の抗日武装闘争の内容と形式を規定づけ朝鮮の革命家が祖国解放の確固たる信念をもち、朝鮮革命の主体的力量を強化しながら迫りくる大事を主動的に迎えられるようにした重要な会合でした。
ハバロフスク会議以後、われわれは極東の臨時基地で軍事・政治訓練をする一方、白(ぺク)頭(トウ)山をはじめ国内各地に強固に築かれている秘密根拠地を拠点にし、国内の武装闘争と革命運動を同時に推進して、祖国解放の日を早めました。

金日成同志が新たな路線と戦略戦術を提示し、積極的な軍事・政治活動を展開しているとき、日満軍警は神経をとがらせ、それに対応するため各面から策動した。つぎの資科は、敵の狼狽ぶりを如実に示している。
「現在ソ聯の領導下に満州に対する策謀を行っている朝鮮共産党の要素は旧第一、第二、第三路軍の残余勢力で、その中心で活動しているのは金日成である。…
金日成はソ聯赤軍の直属傘下にあるオケアンスカヤ野営所系統軍事責任者の地位にある」〔「在満朝鮮人不逞団体の策動に関する件」朝鮮総督府警務局が各道警察部長に送った文書 昭和一九年(一九四四年)〕
金日成、崔賢、安尚吉、柴世栄等有力匪団ハ本年初頭迄ニ全部入蘇、ボロシーロフニ於テ各種訓練ヲ受ケ、四月以来新編成ト新方針ノ下二逐次入満シツツアリ」〔牡丹江領事代理古屋の報告 昭和一六年(一九四一年)六月一七日〕



二 革命家 金策

金正日同志は、金日成同志が逝去して数か月すぎたある日、幹部たちにつぎのように述べている。
「錦(クム)繍(ス)山(サン)議事堂には金日成同志が大事にしていた金庫がありました。その中に何が保管されていたかは、副官をはじめ誰も知りませんでした。
金日成同志が逝去した後、その金庫をあけようとしましたが、鍵が見つからなくてそれができませんでした。数日前、鍵が見つかったので金庫をあけてみると、その中には金日成同志が…金策同志と一緒に撮った写真が入っていました。…
元来、金日成同志は写真を全部党歴史研究所に保管していました。ところが、金策同志と一緒に撮った写真だけは直接金庫の中に保管していました。これは、金日成同志が戦友の金策同志をいかに偲んでいたかをよく物語っています。…」
領袖の追憶のなかでの永生、それは人間が一生を通じて浴する光栄のうちでももっとも大きな光栄であり、革命家が生涯をつくして到達できる幸福のうちでももっとも大きな幸福である。金策同志は、その光栄と幸福の絶頂にある忠臣のなかの忠臣である。なにゆえに彼は領袖の追憶のなかに生きつづける人間となったのであろうか。

わたしが金(キム)策(チエク)とはじめて会ったのは、ハバロフスクでコミンテルンが招集した会議に参加したときです。そこで崔庸健とも対面しました。それでわたしはハバロフスクが忘れられないのです。そのとき金策は、北満省党委と東北抗日連軍第三路軍の代表として会議に参加しました。
一、二日でなく、数か月間ハバロフスクに滞在したので、わたしと金策は互いにたびたび行き来しました。わたしと同じ宿所には安吉と徐哲もいましたが、金策はそこに来ては一、二時間話を交わして帰ったものです。
はじめて金策に会ったときに受けた印象がたいへん強かったので、いまもその対面のときのことがまざまざと思い出されます。まだ四〇にもならない年で前頭部がはげかかった彼の落ち着いた姿に、ひと目で心を引かれました。ところが妙なことに、初対面の金策がなぜかしきりに旧知のように思われるのでした。噂を多く耳にし、また心に思い描いていた人だったからでしょう。挨拶を交わした後、初対面なのに旧知のように思われると言うと、彼もやはり、金日成とは初対面だという気が少しもしないと言うのでした。わたしと金策がそのように理解し合っていたということは、互いに相手をそれだけ恋しがっていたことを意味します。
わたしは金策や崔庸健に会いたいあまり、部隊を率いて北満州にまで行ったことがあります。金策もまたわたしに会おうと、早くも一九三〇年に吉林にまで訪ねてきたことがあるのです。そして崔庸健もわたしとの共同闘争を熱望し、間島に四回も連絡員を派遣していたのです。闘争舞台は北満州であれ東満州であれ、当時われわれはみな朝鮮革命を考え、自分は朝鮮人で朝鮮の革命家なのだ、団体の所属や地域にかかわりなく、朝鮮の独立のために身をささげるべき朝鮮の息子なのだということを片時も忘れていなかったのです。この共通点が、東満州と北満州の朝鮮革命家をして、久しい前から互いに会いたいと思わせ、思い焦がれるようにしたのだといえるでしょう。
金策や崔庸健がなおかつ東満州に思いを馳せたのは、朝鮮人が恋しかったからです。東満州の第二軍が朝鮮人部隊であるなら、彼らの所属していた第三軍や第七軍はいずれも中国人が多数を占める部隊でした。言語と風習の異なる中国人のなかにいたので、数十万の朝鮮人が集結していた東満州をうらやみ、朝鮮人が大多数のわれわれの部隊を憧憬せざるをえなかったのです。
「金司令に会うのにこんなに遠回りさせられるとは…」
初対面の挨拶がすむと、金策が独り言のように言うのでした。それが妙にわたしの胸にこだましました。
挨拶を交わしてからもなお、金策はわたしの手を離そうとしませんでした。顔を見ると、目がうるんでいました。間島の朝鮮人と朝鮮人部隊がどんなに恋しくて、あの寡黙な人が涙まで見せたのでしょうか。わたしも思わず涙をこぼしてしまいました。
金策の父親は国が滅びると間もなく、家族を連れて間島に入りました。間島は土地が広く、住みよいという噂を聞いたようです。土地からすれば、鶴(ハク)城(ソン)も沃土といえるところです。しかし、故郷ではいくら農業に励んでも貧しさから逃れることはできなかったのです。故郷のよさは誰でも知っていることです。糊口をしのぐため、やむなく北国への道を選んだのです。金策の両親は、間島に行きさえすれば暮らし向きがよくなるものと考えました。息子が三人もいたので、人手の心配は要りませんでした。ところが、大きな期待をかけていた三人の息子は家事を放り出し、革命だ革命だと走りまわりました。金策一家に革命の風を吹き込んだのは、兄の金(キム)洪(ホン)善(ソン)でした。彼は三・一人民蜂起のとき街頭に出て独立万歳を叫び、独立軍部隊に加わって青山里戦闘(〔10〕)にも参加し、共産主義運動にも身を投じました。彼が教鞭をとっていた竜井の東興中学校にはロシアから来た学生が少なくありませんでしたが、彼らと接触するうちに社会主義思想と出会ったようです。金洪善は寧安県一帯で共産党の区委を務め、謀略にかかって無念の死を遂げたとのことです。金策の弟も筋金入りの革命家でした。金策は、たまたま新聞紙上で弟が西(ソ)大(デ)門(ムン)刑務所に服役している記事を読んだことはあるが、その後のことは分からないと言っていました。
金策は野良仕事をするかたわら、熱心に夜学に通い、そのころから革命運動に参じました。最初に関係した組織は東満青総でした。その後、共産党にも入党しました。彼が所属した細胞は、火曜派(〔11〕)の影響下にあった組織です。彼は、一九二五年に創立された朝鮮共産党が派閥争いのため解散させられた党であることを知りながらも、自分が一時、この党傘下のある細胞で生活したことを隠しませんでした。
当時、満州には満州総局と呼ばれるものが二つありました。一つは火曜派が掌握していた朝鮮共産党満州総局であり、いま一つはそれに対抗してM・L派(〔12〕)がつくりだした満州総局でした。
ヘゲモニー争奪に終始する派閥争いの内幕を知った金策は、権力争いをこととする共産党の上層人物に幻滅を覚えました。そのうち、獄につながれるようになりました。彼が派閥争いのなかで凋(ちよう)落(らく)していく共産主義運動の実態を前にして苦悩しているとき、今度はコミンテルンが朝鮮共産党を解散させたという驚くべきニュースが監房にまで舞い込んできました。派閥争いで満身創痍になった党ではありましたが、それすら解散させられたというのですから胸が痛むばかりでした。
それでは朝鮮の共産主義者は今後、どの道を歩むべきか、そして自分がなすべきことは何か、金策は獄中でも、出獄してからもこの一つの考えに没頭したとのことです。既成の世代に頼っては何もできそうになく、だからといって既成の世代を否定するとしてもそれに代わる勢力はなさそうだし、いくら考えても活路が見いだせませんでした。そのうえ、出獄はしたものの、ふところに一銭の金もないのだからこの身をどこに置けばよいのだろうか、と思い悩んだ末に、恩人に一言挨拶して行くのが道理だと思い立って訪ねていったのが許(ホ)憲(ホン)先生の家でした。
金策が裁判にかけられたとき、弁護にあたってくれたのがこの許憲先生なのです。金策はもともと、弁護人を求めませんでした。弁護人をつけてもらう金もなければ、弁護を受ける気もなかったからです。ところが、許憲先生は自ら進んで無料で金策の弁護を受け持ってくれました。彼は法廷で多くの革命家と独立運動家の弁護を担当し、量刑を減らしたり無罪にしたりしました。
金策は許憲先生の家で数日間保養させてもらいました。彼がソウルを発つとき、許憲先生はトゥルマギ(男子用外衣)を着せ、旅費もくれました。当時の金で三円か四円だったそうですが、金策はその金で汽車の切符を買い、途中の食事代にもあてたそうです。
金策と許憲先生との縁はこうして結ばれたのです。許憲先生が金策の弁護を受け持ってくれたのは純粋な愛国心の表われでした。朝鮮の愛国者が朝鮮人として当然なすべきことをして刑罰を受けるのが痛ましく口惜しくて、無料で弁護を受け持ってくれたのです。同情心、連帯感、愛国先輩としての道義といったものが作用したのだというべきでしょう。このように、許憲先生は実にりっぱな人でした。
解放後、金策が内閣副首相兼産業相を務めたとき、許憲先生は最高人民会議の初代議長を務めました。かつて被告席で裁判を受けた人とその弁護を受け持った人がともに国家の高位幹部になったのですから、これこそ奇縁というべきでしょう。
金策は副首相に任命された日、許憲先生にこういうことを言いました。
「先生、昔は先生がわたしを弁護してくださいましたが、これからは批判をしてください。わたしが副首相として、人間として間違ったことをしたら容赦なく打ちすえてください」
許憲先生は気だてはやさしいが剛直な人でした。もし金策が過失を犯すなら、ほんとうに打ちすえるような人でした。けれども、許憲先生は一度もそういう機会を得ませんでした。金策は副首相としても人間としても、批判されるようなことを一度もしなかったからです。その代わり、朴(パク)憲(ホン)永(ヨン)は副首相を務めていたとき、いつも許憲先生に嫌われました。許憲先生は何か思い当たるふしがあったのか、いつもわたしに、朴憲永には気をつけるようにと言ったものです。
金策の訃報に接して号泣した許憲先生の姿がいまも思い出されます。金日成首相にとってかけがえのない右腕だったのに、あまりにも早く逝ってしまった、と哀惜してやみませんでした。
金策は、許憲先生の家に厄介になったとき、恥ずかしい思いがして、食事ごとに出される温かいご飯も養分にならなかったと言うのでした。民族のためにこれといってなしとげたこともなく、分派分子に翻弄されただけで獄中生活をした自分をひとかどの革命家のように気づかってくれるので、針のむしろに座らされたような気持ちだったと言うのです。百回死んでまた生き返るとしても人民の期待に応えよう! これは、金策が許憲先生の家を去って間島に向かうときに立てた誓いだったといいます。
間島の地を踏んだ金策には、その間、父と妻が病死したという悲報が待ち受けていました。家には物心もついていない二人の息子が残っていました。しかし、私事にかかずらっている余裕はありませんでした。日本の特務が彼を逮捕するために出動したことを知ったからです。日本帝国主義者は狡(こう)猾(かつ)きわまりない連中でした。革命家を逮捕してさんざん痛めつけては、慈悲でもほどこすかのように正門から釈放し、また裏門から投獄したりするのでした。彼らの狡猾さたるや言いようのないものでした。
金策は二人の息子を義兄の家に預けて村を発ちました。古びた笠をかぶって農夫に変装し、義兄の牛を追って村はずれの峠にさしかかると、その牛が小屋に残してきた子牛を呼んでしきりに鳴くのでした。小屋の子牛も親牛を求めて悲しく鳴きつづけました。偽装も必要でしたが、その親牛をそれ以上引いていくに堪えませんでした。親牛と子牛が互いに呼び合って鳴く声を聞いているうちに、義兄の家に残してきた子どもが思い出されてわれ知らず涙があふれ、子牛も子どもも哀れになり、親牛を放してやったそうです。それ以来、金策は一六年間も子どもたちと会えませんでした。金策のような革命家でなくてはありえない話です。
子どもたちのその後の消息はないのかと金策に聞くと、ないとのことでした。義兄が生きていればなんとか飢えはしのいでいるはずだが、義兄にもしものことがあったら、乞食になっているに違いない、たとえ物もらいをして歩いても、生きていてくれれば幸いだ、生きてさえいればいつかは解放の日を迎え、甲斐性のないこの父とも会えるではないか、と言うのでした。
金策がわたしの噂を聞いたのは寧安県に行ったときでした、彼が息子らと別れてまっすぐ行ったところは寧安県でした。そこにいた東満青総時代の同僚と満州総局時代の知己から、吉林方面に既成の世代とはまったく異なる新しい勢力が登場している、その指導者は金(キム)成(ソン)柱(ジユ)だ、年はまだ若いが人望があり、包容力に富んだ人だ、軍閥の監獄につながれて苦労し、釈放されたという話があるが、いまはどこで何をしているかはよく分からない、という話を聞いたそうです。
東満青総には吉林とのつながりがあったので、彼らがわたしの活動の概要を知っていたのです。寧安県一帯には吉林で勉学した学生が少なくありませんでした。
金策はその話を聞くが早いか、わたしを訪ねて出立したそうです。しかし、そのときはすでにわたしが吉林を去った後でした。ところが、偶然、旅館でわたしの同志たちと出会ったのです。金策は彼らに後をつけられていたようです。金策の身元を確認し、吉林に来たいきさつまで聞いた彼らは、金成柱はいま吉林にいない、吉林は初めてのようだが、ここでぐずぐずしていないで早く身を隠す方がいい、いま「赤色五月」のあおりで軍閥が革命家を逮捕しようと血眼になっている、金成柱とは後でも会えるから、警察がにおいをかぎつける前に吉林省内から抜け出るのがいい、と忠告しました。そして旅費までくれて見送ってくれたそうです。
金策はその足で北満州方面に行ったのですが、また国民党軍に逮捕されました。彼が獄中にいるとき九・一八事変が起きました。その後、出獄するとすぐ、再び軍閥警察に逮捕され、未決囚として拘禁されました。即決裁判では死刑を言い渡されました。名目は共産主義者でも、まだこれといった運動もしておらず、軍閥の指一本触れたこともない人に死刑とは、途方もない刑罰でした。当時の満州は文字通りの無法地帯でした。金策は刑場にまで引き立てられましたが、九死に一生を得て助かりました。ある将校が現れて銃殺を中止させたそうです。その将校は多分、反日感情の強い進歩的な人だったようです。金策は刑場を後にしながら、この世は決して鬼ばかりではないと考えたそうです。
ところで、このような曲折を経る過程で、彼が得た教訓は何かということです。金策いわく、若いころから革命に参加しようとしたものの、大半は監獄や路上で過ごし、これといったこともできずに追い回されるばかりだったが、武器を手に取ってからはじめて能動的に敵を撃てるようになった、と言うのでした。
「敵は、素手で立ち向かう革命家をかかしのように思っているのです」
金策は笑いながらこう言いました。そして、武器を取らなければ、武装した強盗の前でかかしのような無力な存在となり、自分自身をも守ることができない、これは人生の教訓だ、と言うのでした。
わたしは金策の話を聞いて、正しい教訓を汲み取ったと考えました。それは金策が半生をかけて得た教訓でもありますが、革命闘争の一般的な合法則性ともいえるものでした。
革命は銃をもって進めるべきであり、民族の独立や社会的解放をめざすすべての闘争の結末は、おおよそ武装闘争によって決まります。われわれが抗日革命で勝利することができた基本的要因も、独自の革命武力をもっていたことにあります。
わが国の民族解放闘争舞台には金(キム)九(グ)、李(リ)承(スン)晩(マン)、呂(リヨ)運(ウン)亨(ヒヨン)などの各勢力をはじめさまざまの勢力がありましたが、日本帝国主義者がもっとも手ごわい相手とみなしたのは、われわれの朝鮮人民革命軍でした。その理由はなんでしょうか。それは、われわれが請願やスト、筆や口先ではなく、民族解放運動の最高形態である武装闘争の方法で日本帝国主義者と頑強に戦ったからです。
抗日革命の勝利は、革命は銃をもって進めるべしとする真理の正当性を実証し、解放後、新しい祖国の建設と社会主義偉業の遂行をめざす闘争の全過程で、われわれに革命的建軍路線を堅持し、強力な革命武力を建設することに全力を傾注させたのです。
国力も銃から生まれ、民族的自負も銃から生まれます。軍隊が強ければこそ民族が興隆し、国も繁栄するのです。銃を抜きにした自主性はありえません。銃が錆つけば人民が奴隷になります。
こんにち、金(キム)正(ジヨン)日(イル)同志が革命武力の首位に立って人民軍を無敵必勝の軍隊に育て、軍建設で驚異的な成果をおさめていることは、白(ぺク)頭(トウ)山で切り開かれたチュチェの革命偉業を継承し完成するうえでのもっとも輝かしい歴史的功績です。
金策は分派の弊害についても多くのことを語りました。彼は、自分がこれといった活動もできずに投獄されたのは、分派のためだと言うのでした。そして、自分は獄中生活を経験してはじめて、共産主義運動を在来の方法でおこなってはならず、分派を清算しなくては民族解放や階級解放はおろか、なにごともなしとげられないということを痛感したと言うのでした。また、わたしに会おうとしたのは、吉林に出現した新しい勢力が朝鮮共産党の傘下でもなく、分派とは無縁の清新な新しい世代の集団だと聞いて、そのような勢力とならためらうことなく手を握りたいと思ったからだ、と話しました。
彼は、自分の行跡で人生といえるものがあるとすれば、珠河で遊撃隊を組織し、武装闘争をはじめたときからであり、それ以前の生活は彷徨と模索の過程だったと言うのでした。それは事実です。彼は珠河で遊撃隊を組織して以来、北満省党委と東北抗日連軍第三路軍の要職にあって朝鮮革命と中国革命のためにめざましい活躍をしました。北満州の朝中革命家と人民は一致して、金策を老練で洗練された革命家として尊敬し愛しました。
「わたしは早くから金司令を注視してきました。われわれ北満州の朝鮮革命家がどれほど金司令に会いたがっていたか分からないでしょう。われわれはいつも金司令部隊のいる白頭山に思いを馳せながら戦いました。あのとき吉林で金司令に会っていたなら、その間そんなに気苦労はしなかったはずなのに…」
金策はつづけて、朝鮮人民革命軍が祖国への進軍を断行して普(ポ)天(チヨン)堡(ボ)を襲撃したというニュースに接したときも、最大の願いは金司令の手をとってみることであり、北満州の朝鮮革命家を代表して謝意を表したいことだった、と言いました。厳格な人として知られていた金策が、意外にも多感な人としてわたしの前に現れたのです。
彼は、わたしが北満州に派遣した人たちから東満州や西間島のニュースも多く聞いたが、朝鮮人民革命軍主力部隊の活動で第一に模範とすべきだと思ったのは将兵一致、上下一致、軍民一致の気風であり、思想と精神のうえで見習うべきことは、他国の地で同居生活をしながらも祖国の解放を主要闘争綱領としてかかげ、朝鮮人は朝鮮の解放のためにたたかうべきだと正々堂々と主張してきた自主精神である、と言いました。
金策はわれわれの闘争行跡を詳しく知っていました。驚いたことには、わたしが一隊員の銃床を修繕してやったことまで知っていました。彼いわく、革命闘争においても日常生活においても自分はつねに金司令の部隊をかがみにしてきた、と言うのでした。このように金策は謙虚な人でした。
金策はわれわれをかがみにしていたと言いましたが、彼こそ革命家のモデルといえました。彼は猛虎のような人だという評判もありましたが、実際は誰よりも隊員を大事にする政治幹部でした。彼は銃床にまつわる話を聞いて深く感動させられたと言いましたが、上下関係でのそれと似たエピソードは彼にもいくらでもあります。
革命軍の戦闘力は何か、それは同志愛だ、同志を大事にし愛せよ、愛するにしても自分の心臓のように愛せよ、同志より貴い存在はこの世にない、――これが隊員に強調した彼の思想です。
ある日、他の支隊の隊員が文書をもって金策のところに来たことがあります。彼はその隊員を兵舎で休ませ、文書に眼を通しました。そのうち夜が更けると、針と糸を持ってその隊員が寝ている兵舎に行き、軍服と下着のほころびを繕ってやりました。昼間文書を受け取るとき、すでにその連絡員の衣服が破れているのを見て、繕ってやろうと考えていたのです。自分の部隊の隊員でもなく、他の部隊の隊員でしたが、実の兄や父のように気を配ったのです。
金策は戦闘が終わるたびに、隊員に会って戦果を祝ってやりました。それも隊員を一か所に集めてではなく、一人一人訪ねまわり、城門を突破するときや満州国軍の兵営を襲撃するときのきみの手柄は何であり、呼号工作のときの長所と欠点は何であった、といったように戦闘の成果を具体的に評価してやりました。北満州部隊で戦った戦友たちの話によれば、隊員たちはそのような総括があった後はよりりっぱに戦ったとのことです。
金策は批判された隊員や処罰を受けた隊員との活動においてもきわめて老練でした。ある隊員が指揮官から忠告を受けると、必ずその隊員に会って過ちを悟ったのかどうかを確め、悟っていなければ理解するまでこんこんと諭しました。
金(キム)大(デ)洪(ホン)が小隊長を務めていたときのことだそうです。ある日彼は、入隊して間もない機関銃副射手を激しく叱りつけたことがありました。戦闘経験のないその隊員は、敵弾がふりそそいでくると、銃を空に向けて発射しました。それを見かねた金大洪は、「この卑怯ものめ、命がそんなに惜しいなら、銃を捨ててさっさと親もとへ帰れ!」とののしりました。戦闘が終わってから金大洪を呼んだ金策は、「隊員にそんなにつらくあたってはいけない。彼は新入隊員ではないか。はじめて戦闘に参加する隊員にあんな悪態をつくとは。隊員を叱る前に、きみから率先して模範を示すべきだ」と忠告しました。それ以来、金大洪は絶対に隊員たちに悪態をつかなかったといいます。
だからといって、金策が部下を甘やかす人だとばかり思ってはいけません。彼は場合によって、説得すべきことは説得し、問責すべきことは問責し、処罰すべきことは処罰する原則性の強い指揮官でした。重い過ちを犯したときには、きびしく追及しました。
金策の死後、張(チヤン)相(サン)竜(リヨン)が彼を回顧して話したことですが、こんなこともあったそうです。一九四二年の冬のことだといいますから、金策がハバロフスク会議に参加し、再び満州にもどって小部隊活動をしていたときのことです。そのころ、彼らの小部隊は食糧不足に悩まされていました。ある日、張相竜は終日山を渡り歩いて熊と猪を一頭ずつ仕留めましたが、宿営地へ帰ろうとしているうちに日が暮れてしまいました。獲物を隠して道を急ぎましたが、疲れはてたうえに道も険しくて、宿営地までもどることができませんでした。それで、密営から遠くない狩人の小屋に入って一晩を過ごし、翌朝、宿営地にもどってきました。その小屋は、特務に利用されている疑いがあるとして、金策が使用を禁止していた小屋でした。張相竜が使用禁止になっていた小屋で一晩過ごしてきたことを知った金策は、全(チヨン)昌(チヤン)哲(チヨル)を呼び、「張相竜はわれわれの隊伍にいる資格がない。厳重に処分すべきだ」と指示しました。全昌哲は、これまで革命のために忠実にたたかってきた隊員だから、一度だけ許してやってはと懇願しました。しかし金策は、「許せない。まずは屋外に三時間立たせておけ」と命じました。全昌哲は命令通り張相竜を外に連れていきました、二時間もたたぬうちに張相竜の体はすっかり凍りついてしまいました。それを見かねた全昌哲は、これならもう張相竜も自分の過ちを十分に反省したはずだから、解除してはどうかと金策に提起しました。すると金策は、過ちを犯した者の処罰を軽減しようとするのも同じ規律違反だといって、伝令に、全昌哲も外に出して立たせるよう命じました。金策はまる三時間が過ぎてはじめて、張相竜を幕舎に呼び入れました。そして、腹を空かしているはずだからまず食事をとるようにと言いました。
張相竜は食膳に向かったが、さじを取ることができませんでした。自分の過ちを深く反省したからです。それを見てやっと金策は、彼をそばに座らせ、きみは自分の過ちが大したものでないと考えるかもしれないが、それではいけない、わたしがなぜそれを重大視するのか、きみ一人の過ちによって小部隊の位置が露呈し、結果的にはわれわれ全員の生命はもちろん、革命任務まですべて台無しにするおそれがあるからだ、それでわたしがあの小屋の利用を禁止したのだ、しかし、きみは上級のそういう指示があったことを承知のうえで、それを無視して一晩冒険をした、そこに特務がいたらどんなことになったろうか、とやさしく諭しました。張相竜は、そのときの金策の言葉を一言ひとこと胸に刻みつけたとのことです。
金策は口数の少ない人でしたが、その代わり彼の言葉の一言ひとことは法律の条項のようにたがえることのできない重みをもっていました。
敵はいっとき、北満州の抗日遊撃隊員の士気をそごうと、金策が逮捕された、朴(パク)吉(キル)松(ソン)が投降した、ある支隊が帰順した、許(ホ)亨(ヒヨン)植(シク)がどうなった、というとんでもないデマを流したことがあります。それがまったくのつくりごとであることをよく知っている遊撃隊の指揮官と兵士は憤激しました。そのようなデマにうんざりした第二支隊長は、よし、敵にひと泡吹かせてやろうと言って、計略をめぐらしました。彼は部隊の周辺をうろついていた密偵を一人誘い込み、パルチザンが投降するつもりだから、きみがもどって憲兵隊と交渉してくれ、と頼みました。
憲兵隊はその密偵を通じて接触の場所と時間を通告し、支隊長には相当な表彰をするという約束まで伝えてきました。そして、帰順者の一隊を引き取るため、約束の時間に密偵を先立てて定めた場所に現れました。敵は林のなかに整列している第二支隊の隊伍を見てにやにやしながら手まで振ってみせました。このとき、第二支隊の隊員たちはいっせいに銃をかざして「動くな!」と叫びました。支隊長は敵に「この愚か者め! われわれは投降しに来たんじゃない。お前らをつかまえに来たのだ。手をあげろ!」とどなりつけました。すると敵の頭目は「共産軍は嘘をつかないと聞いている。こんな約束の破り方がどこにあるのか。軍隊というものは信義を重んじるべきだ」と抗議しました。それを聞いた支隊長は「この恥知らずめ! お前らはことさえあればデマを飛ばし、嘘八百を並べながら信義などとよく言えたものだ。お前らがあんまり大ボラを吹くから、われわれも一度ホラを吹いてみただけだ」と答えました。
第二支隊は敵を全部生け捕りにして帰ってきました。部隊では支隊長が大手柄を立てたとほめそやし、なかには成功した作戦だとおだてる人もいました。朴(パク)得(トク)範(ポム)が食糧調達にかこつけ擬装「投降」をして、きびしく批判されたのと同じような事件でした。
金策は第二支隊の指揮官を集め、敵がホラを吹くから遊撃隊も嘘がつけるというのは、いったいなんたる考え方だ、いくら擬装帰順だとはいえ、遊撃隊と投降という言葉を結びつけることはできない、革命軍の指揮官の資格がない、ときびしく問い詰めました。そして、その場で支隊長を解任し、他の指揮官もみな降任しました。
こういう話をすると、金策を処罰しか知らない人だと考える人がいるかもしれませんが、彼はやたらに人を処罰する粗暴な指揮官ではありませんでした。
もう一つ実例を上げましょう。
戦闘に参加したある隊員があわてたあまり、擲弾筒の弾丸が入っている背のうを戦場に残し擲弾筒だけかついで退却したことがあります。部隊では会議を開き、その隊員に批判を加えました。武器を失くした隊員を批判したり処罰したりするのは、革命軍部隊でもまれにはあることでした。批判を受けた隊員は、戦友の忠告を当然なこととして受けとめ、二度とそのような過ちは犯さないと決意しました。ところが、ある初級政治幹部が過ちを犯した隊員に厳罰を加えることを提起したので、会議の雰囲気がにわかに緊張しました。
金策は、過ちを犯した隊員の入隊年度を調べて新入隊員であることを知ると、責任は彼をよく教育しなかった指揮官にあるから、処罰ではなく援助をすべきだと結論を下し、初級政治幹部の提議を棄却しました。問題がここで終われば何事もなかったはずですが、厳罰を主張した初級政治幹部がなおも自分の主張を通そうとするので、事件はおのずと拡大せざるをえませんでした。自分の運命を憂えて終日、不安にかられて青くなっていた新入隊員は、とうとうその夜逃亡してしまいました。順調に解決されるはずだった問題が、まったく予期しなかった方向に進展しました。処罰を主張した初級政治幹部は憎悪の的になりました。隊員たちはみな非情な彼を批難しました。なかには反革命分子と糾弾する人もいれば、処罰してしかるべき人間だと息まく人もいました。
こうした事態について報告を受けた金策は、責任はほかでもなくわたしにある、隊員の政治生命を大切にしない政治幹部がいるのは、政治主任のわたしが責務に忠実でなかったからだ、と自己批判しました。そして、その日からその初級政治幹部を自分の警護班に編入させ、身近において個別的に教育しました。
金策は機会あるたびに指揮官と隊員たちに、軍民関係と上下関係を正しく保つよう強調しました。
金策は、わたしが他国の地で同居生活をしながらも朝鮮革命の旗をかかげていることを自主性と結びつけて高く評価しましたが、実際は彼自身も朝鮮人隊員に、われわれは中国人部隊で戦っているが、つねに朝鮮革命を忘れてはならない、朝鮮革命は他人がしてくれるものではなく、朝鮮人自身が遂行しなければならない、われわれはつねに祖国を忘れてはならない、と強調してきました。
革命にたいする見解、人民にたいする観点、自主性にたいする立場からはじまり党建設と国家建設、軍建設はもちろん、活動方法と活動作風の問題にいたるまで、多くの面でわたしと金策の間には共通点がありました。
金策が、自分の生活の細部にいたるまでわたしがよく知っているのには驚いたと言うので、わたしも最初から金策を注視してきたのだと言いました。
すると金策は微笑しながらこう言うのでした。
「顔も知らず、会ったこともない人同士が互いに注視し恋しがったのですから、これも何かの因縁ですね」
わたしもそれに同感だと言いました。
金策がわたしに会おうと吉林に訪ねてきたのが一九三〇年の夏ですから、われわれの友情はすでにそのときからはじまっていたといえるでしょう。
北満州部隊の高位職にあった金策は、年齢からしても革命闘争の経歴からしても、満州パルチザンの朝鮮人軍事・政治幹部のなかで長老格にあたる人物でした。また、わたしにしても、当時はまだ国家元首でも、党総書記でもなかったのです。
しかし金策は、ソビエト人や中国人の前で、わたしを朝鮮革命の代表者、指導者として引き立てました。どうして彼は自分より九歳も年下のわたしをあれほど絶対的に信頼し引き立てたのでしょうか。もちろん、その理由についてはいろいろな側面から説明することができるでしょう。金策は、革命を遂行するには指導の中心が必要であり、その指導の中心のまわりにみんなが一つに団結しなければならないという思想に徹していました。指導中心への渇望と憧憬が結局は、わたしにたいする格別の関心と愛情として表現されたのだとみることができます。
金策はわたしに会って以来、もっとも近しい同志となり、終始一貫、変わることなくわたしを慕い、補佐してくれました。彼は時局がどう変わろうと関係なく、わたしにすべてを託して誠実に活動してきました。
解放後、祖国に帰ってきてからも、金策は党建設と軍建設、国家建設と産業建設のために全国各地を奔走し、一日として安らかに過ごしたことがありませんでした。
祖国解放戦争(朝鮮戦争)のときも同じでした。当時、金策が足を運ばなかったところはないくらいです。前線司令官を務めたときには忠(チユン)清(チヨン)道にまで出陣しました。自分は最前線に出ていながらも、わたしが前線視察に出ると、「ここがどこだと思って最高司令官同志を連れてくるのだ。気は確かなのか」とわたしの随行員たちをどなりつけたものです。あのとき、わたしに随行して水(ス)安(アン)堡(ボ)に行ってきた人たちは、金策からひどく叱られました。
吉林時代には新しい世代の青年共産主義者がわたしを指導の中心として引き立てましたが、一九三〇年代と一九四〇年代の前半期には、金策をはじめ抗日革命闘士がわたしを統一団結の中心として引き立て、朝鮮革命の主体的路線を貫くためにたたかいました。
わたしを統一団結の中心として引き立てる過程を通じて、朝鮮革命には指導中心が形成されました。この指導中心を築くうえで、金策は特別の貢献をしました。わが国の共産主義運動史と民族解放闘争史において金策が果たした役割は、まさにここにあるのです。
当時、極東の基地には北満州で戦った人たちもいれば、南満州からきた人たちもいました。それに、そこで生まれ育った朝鮮人もいました。もしあのとき、おのおの自分の部隊をおし立て、自分の主張ばかりに固執していたとしたら、革命隊伍の団結は実現せず、中心も形成されなかったでしょう。
しかし、極東の基地に集まった朝鮮の共産主義者のあいだには、地方主義やヘゲモニー争いのようなことが一度も起こりませんでした。みな純潔な人たちばかりで、そのようなことが起こるはずもありませんでした。そのうえ、金策、崔庸健のような老将が最初からわたしを引き立てたので、指導中心が確固としていました。
金策がわたしをどれほど慕い信頼したかという実例を一つ話しましょう。
金策はハバロフスク会議に参加した後、一九四二年と四三年の大半を満州で過ごしました。彼が満州に行ったのは、北満州で活動する各小部隊を指導するためでした。ところが、小部隊の指導が終わってからも、彼は基地にもどってきませんでした。そのときは北満州部隊の指揮官である許亨植と朴吉松が戦死した後でした。
金策は戦友の血潮がにじんでいる土地を離れたくなかったのです。国際連合軍を編制するとき、指揮部では何回も無電を打って彼の帰還を求めましたが、そのつど仕事を全部終えてから帰るという返電を寄こすのでした。そのころ金策の小部隊は無線電信機を持っていました。国際連合軍の指揮官たちは返電がくるたびに、彼の対応ぶりにかなり不満をいだいていました。
わたしは、金策が、新たな情勢の要請からわれわれが国際連合軍を編制し、抗日革命の最終的勝利を早めていることを知らないのだと思い、わたしの名で無電を打ちました。金策はわたしの無電を受けてはじめて基地に帰ってきました。国際連合軍の指揮部が帰還を求めても聞き入れなかった彼が、どうしてわたしの連絡を受けるとすぐ帰ってきたのでしょう。それは、彼がそれほどわたしを慕い信頼していたからです。金日成同志がわたしの帰還を望んでいるなら、早く帰るのが当然だ、だから、理由のいかんをとわず、無条件帰らなければならない、というようにわたしの言葉や要求を絶対視したからです。
金策は極東の基地にいたときから、心からわたしを引き立て守ってくれました。一九四一年の春、わたしが小部隊を率いて出陣するときにも、わたしと同行する警護隊員の一人一人について気をつかいました。われわれが日本軍にたいする最後の攻撃作戦を準備していた時期には、金策はわたしに知られないように国際連合軍の朝鮮人指揮官を集めて会議を開きました。わたしの身辺警護と関連した会議でした。金策は会議で、全員警戒心を高めて金日成同志の身辺警護に万全を期さなければならない、金日成同志は朝鮮人民と朝鮮の革命家を代表する指導者だから、生命を賭して守らなければならない、と強調しました。
朝鮮人民革命軍の隊員たちが祖国に凱旋すると、金策はまたわたしの警護と関連する会議を開きました。彼は会議で、祖国に来てみると、情勢は聞いていたよりもっと複雑だ、テロ分子の蠢(しゆん)動(どう)がはなはだしい、気を引き締めないと、どんなことが起こるか分からない、平(ピヨン)安(アン)南道党責任書記の玄(ヒヨン)俊(ジユン)赫(ヒヨク)もテロの犠牲になった、金日成将軍が凱旋したことを絶対に口外してはならない、公表するときがあるから、むやみに漏らしてはならない、みな警護隊員になった心構えで、金日成将軍の警護に格別の関心を払わなければならない、と強調したのです。後には彼が主動になって警護隊も組織しました。
金策がどれほどわたしに忠実であったかを話そうとすれば、一日かかっても足りないでしょう。
いまもそうですが、解放直後にもわたしは対人活動に大きな力を入れました。人民との活動、南朝鮮革命家との活動、外国人との活動のため、息つく暇もありませんでした。解放直後、野坂参三もわが国を経由して日本へ帰りました。
解放直後は、大事な客が訪ねてきても接待するサービス施設がありませんでした。彼らを宿泊させる迎賓館すらなかったのです。それで、大半のお客はわたしの家に連れていってもてなしました。わたしの家といったところで一膳飯に汁一碗がせいぜいでした。
国が解放されたばかりだから仕方がないとみな思っていましたが、金策だけはこのことについてずいぶん気をつかっていました。彼は、わたしの家で用意する食卓に上等な酒を出せないことを人知れず気にしていたのです。
彼は、国の事情が苦しいのも事実であり、われわれの手に金がないのも事実だが、将軍の家にお客が来るたびに、いつも一升びんを持って市場に出入りするわけにはいかない、やがて共和国が創建されれば、将軍のところへ数多くのお客が訪ねてくるはずだから、醸造工場を一つ建てて、われわれの手で接待用の酒をつくろう、将軍の身辺安全のためにも、酒はわれわれの手でつくらなければならないと言って、わたしにも黙って全国的に有名な酒と醸造技術者を捜しはじめました。
解放直後、わが国でいちばんよい酒として評判が高かったのは龍(リヨン)岡(ガン)の酒です。ある醸造業者が娘と一緒につくっていたその酒は、解放前、日本の高官と金持ちが好んで飲んだそうです。金策は彼らを訪ねて龍岡へ向かいました。彼の話に大いに感動したその醸造業者は、国に醸造技術者が必要なら自分の娘を連れていくようにと言いました。その娘が姜(カン)貞(ジヨン)淑(スク)でした。そのときから姜貞淑は金策の食事をととのえるかたわら、酒をつくりはじめました。彼女が醸造場をつくりはじめると、金策は助手を一人連れて市場に行き、米を買ってきました。間もなく金策の宿所は醸造場になってしまいました。
数日後、金策は最初につくった酒をびんに詰めて、わたしを訪ねてきました。
「将軍、これは姜貞淑がつくった初の龍岡酒です」
金策はこう言いながら、杯になみなみと酒を注ぎました。龍岡の酒がいちばんだという世間の評判は嘘ではありませんでした。わたしがいい味だとほめると、金策は「それなら安心しました」と喜びを隠しきれませんでした。それ以来、姜貞淑がつくる龍岡酒は国家宴会用の酒になりました。このことが縁結びとなって、金策と姜貞淑は夫婦になりました。
金策が領袖の権威をどれほど絶対化したかは、わたしからの電話を受けるたびに、座席から立ち上がって襟を正し、ボタンをきちんとはめてから通話をはじめた事実によってもよく分かります。彼は病床にあるときにも、わたしからの電話だけは必ず起き上がって受けたものです。傍に人がいてもいなくても、そのような態度には変わりがありませんでした。領袖を心から尊敬しない人にはそういうことはできないものです。金策は、わたしがいなければ自分も存在しないと考える人だったのです。
去る祖国解放戦争のとき、もっともきびしかったのは後退の時期でした。一時的後退だ、戦略的後退だと公表しましたが、信念の弱い人は共和国の運命ももはや尽きるのではないかと考えたくらいです。
敵が沙(サ)里(リ)院(ウオン)を突破すると、前線司令官の金策は中(チユン)和(フア)、祥(サン)原(ウオン)、江(カン)東(ドン)一帯に平(ピヨン)壌(ヤン)防御線を構築した後、わたしに前線の状況を報告しながら、自分は後退してくる部隊で防御兵力を補強して最後までもちこたえるから、将軍は最高司令部のメンバーを率いて平壌を発ってほしいと懇願しました。
数日後、金策はまた電話で、最高司令部の位置を移すよう建議してきました。わたしは、敵の攻撃をそれくらい遅延させたのだから、もう後退せよと指示しました。しかし、金策は後退せず、党員証だけ送ってよこしました。最後の決戦を覚悟したのです。わたしは電話口に金策を呼び出し、きみが帰ってこなければわたしも平壌を発たないと言いました。それでやっと金策は防御部隊を率いて平壌にもどってきました。彼は人民軍の再進撃がはじまってから、預けた党員証を受け取っていきました。
金策は厳格でこわい人だという人もいましたが、実際、彼がきびしくあたったのは怠け者とおべっかつかい、不平分子、利己主義者、出世主義者と分派分子であって、下部の活動家や人民にたいしては限りなく慈愛深く謙虚な人でした。金策は同床異夢する者を非常に憎悪したので、朴憲永も彼の前では言行をつつしんだものです。金(キム)枓(トウ)奉(ボン)も最高人民会議常任委員会委員長を務めましたが、金策と顔を合わせるのを避けていました。
金策は矯(きよう)飾(しよく)と偽善を知らない人でした。
解放直後、満州の地をさ迷っていた息子が父親を訪ねてきたのですが、ボタンが二つの麻布の上衣にわらじ履きという姿でした。金策がわたしに挨拶させようとしましたが、息子はこんなわらじ履きの姿では将軍の前に出られないといって尻込みしました。こんな場合、普通の親なら子どもを商店に連れていき、服や靴を買って身なりをととのえてからわたしの部屋に連れてきたはずです。しかし、金策はそうしませんでした。彼は息子に、わらじ履きだからと恥ずかしがることはない、お前は金日成将軍がどんな方かよく知らないからだろうが、心配しないで入ろう、これまで裸足で過ごしてきたのに、いまさら金持ちの息子の真似をするわけにはいかないではないか、将軍はお前がわらじを履き、こんな服を着てきたのをもっと喜んでくれるはずだ、もし、お前がりっぱな洋服に革靴という姿で来たなら喜んではくれないだろう、と言って、息子を連れてわたしの部屋に入ってきたのです。
一六年ぶりに再会したわらじ履きの息子と連れだって金策がわたしの部屋に現れたとき、わたしは涙をこらえることができませんでした。あの日は金策よりもわたしの方がもっと泣きました。金策自身も心のうちではどんなに涙を流したことでしょう。
彼は長い間別れていた息子たちと涙ぐましい再会を果たしましたが、彼らとの生活は四年余りしかつづきませんでした。
金策が死亡したのは過労のためでした。彼の負担があまりにも大きかったのです。
わたしが金策と最後に会ったのは一九五一年一月三〇日でした。その年の一月末といえば、最高司令部が乾(コン)芝(ジ)里に位置していたときです。その日の夕刻、金策が前ぶれもなくわたしを訪ねてきました。彼は、「先月の二四日は金(キム)正(ジヨン)淑(スク)同志の誕生日でしたが、首相同志が寂しがるだろうと思いながらも、仕事に追われてつい来られませんでした。今月もすでに暮れだというのに、どう考えても義理を欠いた思いがし、また黙っているわけにもいかないので訪ねてきました」と言いながら遅くなったことを詫びるのでした。それでわたしは「昨年の一二月といえば共和国北半部に侵攻したアメリカ軍を追い出そうと目が回るほどだったのだから、互いに訪ねあう暇もなかったではないか。あまり気にしないほうがいい」と言いました。
その日の金策は、どうしたわけか彼らしくもなく感傷的でした。彼が散策しようというので、一緒に外を歩きました。金策は、戦争前にはこんなすばらしいところがあるのも知らずに過ごしたが、戦争が終わったらここに休養所をりっぱに建てましょう、と言うのでした。それでわたしもそうしようと言いました。事実、解放後われわれは新しい祖国の建設に多忙をきわめたので、どこに休息に適した谷間があり、どこに名所があるのか調べる暇もありませんでした。当時は休息といっても、長(チヤン)水(ス)院(ウオン)橋の下や麦(メク)田(チヨン)渡し場へ行って足を水につけて帰ってくるといった程度でした。
その日、かかとのすり切れた靴下を見せまいと気をつかっていた金策の姿が思い出されます。
わたしは金策に、あまり無理をしないで体に気をつけなさい、この寒い冬のさなかに肌がのぞく靴下では耐えられないだろう、わたしのためを思っても健康に留意しなさい、と言って新しい靴下にはきかえさせました。
その日、金策はわたしと一緒に夕食をとりたがりました。ところが、許(ホ)カイが突然わたしの前に現れ、党活動の状況を報告すると言うのでした。彼が社交的な言辞を弄してあれやこれやと並べ立てるので、だいぶ時間を費やしました。それで金策は食事もできずに乾芝里を去りました。彼は最高司令部を発つとき、「将軍、アメリカとの戦いはわれわれがやりますから、将軍は無理をせずにお体に気をつけてください」と頼むのでした。それがわたしへの彼の最後の頼みだったのです。そう言われて、なぜか胸が熱くなりました。
その日も、金策は執務室で夜を明かしました。それで、心臓麻痺を起こして息をひきとったのです。
軍医局長を兼任していた李(リ)炳(ビヨン)南(ナム)保健相から金策の死亡を知らされたとき、わたしはそれを全然信じようとしませんでした。数時間前までわたしと語り合って帰った彼がそんなに突然死亡したというのはとうてい信じられないことでした。護衛員がひきとめるのも聞かず、白昼に車を飛ばして内閣が位置していたところへ行ってみてはじめて、李炳南の報告が事実であることを確認しました。
わたしは前日の夜、金策をわたしのところに泊めなかったことを後悔しました。もしわたしのそばで休んだなら、夜を明かすこともなく、心臓麻痺も起こさなかったはずだと思いました。
わたしが後悔したことがもう一つあります。金策がわたしを訪ねてきたその夜、食事も一緒にせずに帰したことです。食事を一食ともにしたからといって、わたしの悲しみがうすれるはずはありませんが、なぜかそのことがいまもなお心残りとなっています。
金策と永訣した日のことはほとんど覚えていません。ただ一つだけはっきり覚えているのは、出棺のとき、最後に金策の手をとってみたことです。一〇年前、ハバロフスクではじめて取りあってなかなか離しがたかった手です。一〇年前のそのぬくもりをいつまでも忘れていませんでしたが、永訣の日にとってみたのは氷のように冷たい手でした。地方の現地指導から帰ってくると、まっ先に駆け寄ってわたしの手をとった金策の手でした。
金策は一生をわたしの忠実な戦友として生き、生涯を閉じました。それでわたしは、彼をなおさら忘れられないのです。金策の死後、わたしは彼の息子たちの親代わりになって面倒をみました。外国に留学させ、結婚式もあげてやり、孫娘が生まれたときには祝ってやり、たびたび家に呼んで一緒に食事もしました。それでいながら金策のために何かまだしてやれなかったことがあるように思われて、いつも心が満たされませんでした。
朝鮮革命が試練に直面したり、さまざまな難関につきあたるときには、金策のことがしきりに思い出されます。
以前にも話しましたが、わたしは車で金策の墓の前まで乗り付けたことがありません。彼の墓を訪ねるときには車に乗って行くのがすまなくて、いつも大(テ)城(ソン)山のふもとで車を降りて歩いて登ったものです。金策があの世の人になったからといって、彼を愛し尊敬するわたしの心が変わるはずはないのです。
わたしは革命の過程で多くのことを体験しましたが、そのなかでもいちばん胸深く刻みつけたことの一つは同志についての体験です。人民の自由と解放のために決死の覚悟で革命の道に投じた人にとってもっとも貴いのは同志であり、同志愛です。真の同志は第二の「わたし」だといえます。「わたし」は、「わたし」を裏切らないものです。それほど忠実で信義に徹した同志が団結すれば、天にも勝てるものです。それでわたしはつねに、同志を得れば天下を得、同志を失えば天下を失うと言っているのです。
同志という言葉は志を同じくするという意味ですが、志はすなわち思想です。一時的な利害や打算によって結ばれた同志の関係は強固でありえず、ときによって簡単にこわれてしまいます。しかし、思想、意志のうえで結ばれた同志の関係は永遠であり、そのような同志の関係は銃弾によっても、断頭台によっても断ち切ることができません。
朝鮮革命は指導者にたいする衷情によって崇高な模範を示した数多くの同志を生みました。そのような同志は、わたしのまわりに一つの銀河系をなしています。
金策の死後、われわれは彼を永遠に追憶するため、彼の故郷近くにある城(ソン)津(ジン)市と、彼が心血をそそいだ清(チヨン)津(ジン)製鉄所、そして平壌工業大学をそれぞれ金策市、金策製鉄所、金策工業大学と命名し、人民軍の軍官学校の一つも彼の名を冠して呼ぶことにしました。金策市には彼の銅像も建立しました。
わたしはこんにちも、金策の名で呼ばれる都市と工場、大学がつねに社会主義建設の先頭に立って進むよう期待しています。
金策は人のしんがりについてまわるのをいちばん嫌いました。彼はいつも先頭に立って進みました。わが国の産業建設に残した金策の功績は大なるものがあります。わたしは経済管理がスムーズでない工場、企業所を見るたびに、心の中で、もし金策がこれを知ったら、これを知ったら、と考えたりします。彼が産業相を務めていた時期、わが国の経済は歯車のようにかみ合って順調でした。
現在われわれのもとには金策と一緒に活動した幹部も少なくありませんが、みなさんは彼がわが国の産業建設につくした苦労を無駄にしてはなりません。


三 他郷で春を迎え

朝鮮革命博物館を訪れる人は、一枚の写真の前に足を止めてなかなか離れようとしない。「他郷で春を迎え」という金日成同志の暢達な親筆入りの写真である。
かつて革命博物館を訪れた金日成同志はその写真の前で、これは自分がいちばん大切にしていた写真だと述べた。
金日成同志は抗日革命の時期を回顧するたびに、金正淑同志をしばしば追想した。金正淑同志はいつも、金日成同志の心の奥にもっとも大切で近しい同志として、忘れがたい革命戦友として生きつづけていた。

この写真は南キャンプにいたころ撮ったものです。南キャンプは、朝鮮人民革命軍部隊と抗日連軍第一路軍傘下の部隊が初期に利用したボロシーロフ(ウスリースク)付近の臨時基地です。ここをBキャンプとも呼んでいました。そこで一冬を過ごしてから、わたしは再び満州と国内に進出して小部隊活動をくりひろげました。一九四二年の夏季からは、独ソ戦争と太平洋戦争勃発という急変した情勢の要請にそって、東北抗日連軍およびソ連軍部隊とともに国際連合軍を編制し、北キャンプに定着しました。抗日闘士たちがAキャンプと呼ぶハバロフスク付近の基地が北キャンプです。
わたしはハバロフスク会議が終わってから南キャンプに行きました。一足先に来ていた崔(チエ)賢(ヒヨン)が、遠くまで出てきてわたしと同行の戦友たちを迎えてくれました。毛皮のオーバーに毛皮の帽子のわたしをきょとんと見つめていた彼が、どこのジェントルマンかと思ったら金将軍ではないか、と大笑いしたことが思い出されます。彼があまり強く抱き締めたので、息がつまる思いをしました。彼は、ハバロフスクで会議をしているという話は聞いていたが、何の会議でそんなに長引いたのか、と不平まじりの冗談まで言うのでした。
南キャンプから東へ少し行くと、ハバロフスクからウラジオストクに通じる鉄道があり、小さい駅があります。
南キャンプに集結した人民革命軍の隊員は、自力で兵舎を増設し、住宅や倉庫、食堂、洗面場なども建てました。兵舎は半壕舎式のものでしたが、現在の人民軍の兵舎のようにベッドは二段になっていました。あのとき、隊員たちは建設工事でだいぶ苦労しました。兵舎の前には、広びろとした運動場もありました。
南キャンプにいたころは、国内と満州での小部隊活動を準備しながら、政治学習に力を入れました。そのとき、映画を観るのははじめてだという隊員が大半でした。
そこへ行ってからは、食糧の心配をする必要がなくなりました。毎食二〇〇グラム程度の薄切りの食パンがあてがわれたのですが、はじめのうちは口にあいませんでした。食べつけない洋食のうえに菜もよくないので、みな食欲がわきませんでした。
そこには給養物資を運ぶトラックもありました。それが付近の副業農場を行き来して必要な物資を運搬しました。運転手はソビエト人でしたが、李(リ)五(オ)松(ソン)が運転を習おうとしていつも彼についてまわりました。副業農場にまでついて行くこともありました。彼は運転手について歩くうちに車の運転だけでなく、酒も覚えてしまいました。その運転手が無類の酒好きだったようです。
李五松はそのときに習った技術を生かして解放後もしばらくは車を運転しました。車といえば目がない彼でした。一度はわたしの車を運転して塀に突きあたったことがありますが、それ以来、同志たちは彼に運転をまかせませんでした。解放後、南キャンプにいたソ連の戦友たちが訪朝したことがありますが、例の運転手も平壌で旧友の李五松と再会しました。
極東地方で冬を送り、春を迎えたその年のことが忘れられません。
一九四一年は朝鮮革命においても大きな変化があった年ですが、世界的版図からみても大事件が多かった年です。六月にはドイツ軍がソ連を侵攻し、一二月には日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発しました。実に一九四一年は、人類にはかり知れない苦痛と災難をもたらした不幸な年でした。人類が数千年にわたって築きあげてきた文明が、戦車や大砲によって跡形もなく破壊された受難の年、戦禍の年でした。
しかし、独ソ戦争も太平洋戦争も、まだ将来のことでした。われわれは明日への楽観と確信にみちて、一九四一年を意義深く迎えました。朝鮮の革命家が時代と歴史、祖国と人民にたいしてになった聖なる任務を果たすべき時はいままさに目前に迫りつつあったのです。
新春を迎え、わたしは小部隊活動と今後の共同作戦についていろいろと構想しました。いったん構想を練った問題については、戦友とも意見を交わしました。そのころ金策と周保中がしばらく南キャンプに来ていましたが、彼らともたびたび協議しました。
われわれはハバロフスク会議後、小部隊を編制して国内と満州に派遣することにしました。わたしも小部隊を率いて出発する準備をととのえました。
出発の日が近づくと、金(キム)正(ジヨン)淑(スク)は、わたしと隊員たちの旅支度を手伝ってくれました。わたしと金正淑はすでに結婚した仲でした。わたしたちは革命の道を歩む過程で出会い、白頭山を越え苦楽をともにするうちに戦友となり同志となり、一生をともにすることになったのです。
わたしが彼女をはじめて知ったのは、大荒崴会議があったころです。会議の後か途中だったか、三道湾に行ったことがあります。三道湾は延吉県に属していました。そこの能芝営というところに党書記処があったのですが、彼女はそこで働いていました。能芝営で開かれた書記処の会議の場で彼女に会ったのです。
その後、馬鞍山でわれわれの部隊に編入された金正淑と再会することになったのですが、金(キム)明(ミヨン)花(フア)と一緒に漫江でわたしを迎えてくれた彼女の姿が印象的でした。その日、彼女と多くのことを語り合いました。話を聞いてみると、彼女は寄る辺ない身の上でした。彼女が頼るところは、革命戦友のふところしかなかったのです。金正淑はその後、ずっとわたしとともに戦いました。
金正淑がわたしの部隊にきた後、撫松県城戦闘があったのですが、この戦闘で彼女は女性闘士としての胆力と知略を十分に示しました。わたしがその戦闘で無事であったのも、彼女のおかげだといえます。戦闘は熾(し)烈(れつ)をきわめました。金正淑は戦場からやや離れた山ひだで、七、八人の女子隊員と一緒に朝食の支度をしていました。そこには、炊飯のできる家屋が一軒あったのですが、煙がたってもよそからはよく見えませんでした。ところが、女子隊員しかいないその山ひだに突如敵が襲いかかってきたのです。そこを奪われれば、部隊は前後から挟撃されかねませんでした。状況が急迫していることを知った金正淑はモーゼル拳銃をかざし、女子隊員とともに猛烈な銃撃戦を展開しました。女子隊員たちの手強い反撃に遭遇した敵は、多くの死体を残して退却しました。この戦闘があって以来、彼女はますます戦友の寵(ちよう)愛(あい)の的になったのです。
その年、われわれは長白で活動し、翌年の三月に撫松遠征の途につきました。その遠征のきびしさについては再三話していることです。正直な話、わたしも疲労困(こん)憊(ばい)していました。夜になると、ほとんどの隊員がへとへとになって眠りこけるのでした。
しかし、金正淑だけは焚き火のそばで夜通し隊員たちの裂けた軍服を繕っていました。行軍路がひどく険しかったので、軍服がすぐ破れてしまうのです。新入隊員の馬(マ)東(ドン)熙(ヒ)もその遠征のとき焚き火で帽子を焦がしたのを、彼女がきれいに繕ってやりました。その後にも見たことですが、彼女は何事であれいったん手にすると、根をつめてきれいに仕上げずにはおきませんでした。その夜、わたしは彼女を見て感服しました。何に感服したのか。人を助けずには安心して眠れない人並外れた品性と人情味に感服したのです。
この生活ぶりを通して、わたしは女性としての金正淑を深く理解するようになったのです。こういう経緯があったので、指揮官たちが彼女を桃泉里の地下工作班に網羅しようと提起したとき、わたしはためらうことなくそれに同意したのです。
金正淑は桃泉里と新(シン)坡(パ)一帯でりっぱに活動しました。わたしが彼女に革命家としての並々ならぬ手腕と能力を見いだしたのはこのときでした。彼女は大衆を感化し、目覚めさせ、奮い立たせるすぐれた腕をもっていました。彼女が靖安軍に逮捕されたとき、桃泉里とその周辺の住民が警察署に提出したという数百名の署名入りの「良民保証書」は、金正淑についての大衆の評定書ともいえるものでした。
彼女はいかにして人民からそのように信頼されるようになったのでしょうか。それは彼女が身命を賭して事にあたったからです。彼女は何事であれ、死を決する心構えで献身的に働いたのです。そのため、危険な局面にさらされても助かることができたのです。
金正淑は燃えるような人間愛の持ち主でした。彼女は人のためなら、いかなる犠牲をもいといませんでした。同志のためなら水火をも辞さないのが彼女の性分だったのです。
一九三八年四月、六道溝の敵を討っての帰途、双山子という地点で戦闘があったときのことです。戦闘があまりにも熾烈だったので、わたしまで機関銃を手にして一線で戦わなければならないくらいでした。四方八方から敵が攻め寄せてくるので、抜け出るすきも、一息入れて食事をとるひまもありませんでした。ところが、急に脇腹にぬくもりを感じました。ポケットを探ってみると、なんとマントーが入っているではありませんか。あたりを見回すと、金正淑が戦場をぬって戦友たちにマントーを配っていました。われわれはそれを一つずつ取り出して口に入れながら戦闘をつづけました。炊事場は崖の下の泉のそばにありました。彼女がマントーを盛った容器を持って、その急傾斜をどのように登ってきたのか解せませんでした。
このように、戦友にはいつも食を欠かせまいとして戦場にまで駆けつけて食べ物を配りながらも、彼女自身はいつも空腹をこらえていたのです。
いつだったか、部隊に食糧が切れてジャガイモだけで食いつないでいたときがありました。ジャガイモも何食か食べつづけると、飽き飽きして食べられなくなるものです。金正淑は戦友たちに幾日もジャガイモだけの食事をさせるのが心苦しくてなりませんでした。それで、彼らの食欲をそそる方法はないものかと、あれこれと考えました、そしてジャガイモをつぶしてチジム(お好み焼き)をつくったり、いためた山菜のあんを入れて餅をつくったりして出したのですが、それ以来、隊員たちはジャガイモ料理を嫌わずに食べるようになりました。
金正淑は自分のためではなく、同志のために一生をささげました。彼女の生涯は同志愛からはじまり、同志愛にもとづいて発展し、その過程で共産主義的道徳・信義を最大限に発揚する非凡な革命家になったのです。彼女が一生の間になしたことはすべて、同志と人民、革命のためのものであって、自分のためのものは一つとしてありませんでした。金正淑には、自分という観念がまったくなかったのです。わたしは飢えても凍えても病気にかかってもかまわない、ただ同志たちがひもじい思いをせず、寒がらず、元気であれば、それで満足する、わたしが死んで同志を生かすことができるなら、何も思い残すことなくよろこんで死を選ぶ、というのが金正淑の人生観だったのです。
彼女の同志愛がいかに真実で熱烈なものであったかは、一枚の毛布にまつわる話だけでも十分分かると思います。
先ごろ、金正淑の戦友である延吉県在住の徐(ソ)順(スン)玉(オク)がわたしに会いに平壌を訪れました。彼女はそのとき、一枚の毛布と双眼鏡を持ってきました。徐順玉は朝鮮人民革命軍主力部隊の司令部付き炊事隊員でした。夫の金(キム)明(ミヨン)柱(ジユ)もいっとき、主力部隊で軍事指揮官を務めました。彼は「延吉監獄」というあだ名で知られた人です。われわれが撫松地方で活動していたとき、彼は第七連隊に属していました。
徐順玉は、崔(チエ)希(ヒ)淑(スク)が腰房子での地下工作任務を終えて帰隊するときに連れてきて入隊させたのです。入隊当時の彼女の年齢は一五、六歳でした。崔希淑はそのとき、徐順玉の甥(おい)も連れてきました。厳(オム)光(グアン)浩(ホ)が青峰密営で敵のスパイだと決めつけた若年の隊員がこの徐順玉の甥でした。
金正淑は徐順玉を非常にかわいがりました。宿営地では、金正淑がいつも自分よりいくつか年下の徐順玉を抱いて寝たものです。そのたびに一枚の毛布を一緒に使ったのです。当時、司令部の近くにいた女子隊員は、金正淑と徐順玉だけでした。
徐順玉が持ってきた毛布は、金正淑が愛用していたものです。金正淑の背のうにはいつもその毛布がついていました。体より背のうが大きくて誰なのかよく見分けがつかないときにも、わたしはその毛布を見て彼女だと分かったものです。
徐順玉が小部隊の基地へ向かうとき、金正淑はその毛布を贈りました。その基地に金明柱や玄(ヒヨン)哲(チヨル)もいたのですが、おそらく金明柱と徐順玉はそこで結婚したのだと思います。
出発の日、徐順玉は金正淑に抱きついてしきりに泣きました。一枚の毛布をかけ合った仲だったので、涙をこらえられなかったのでしょう。
金正淑は徐順玉にやる記念品がないことを苦にしていました。それで徐順玉の背のうに毛布を入れてやりながら、これを記念に持って行きなさい、新品ではないけれど、あなたを実の妹のようにかわいがったわたしの体温がしみていることを忘れないでほしい、と話すのでした。その毛布が、半世紀後にわたしのところにもどってきたのです。半世紀以上もの歳月が流れていましたが、それが金正淑の愛用していた毛布であることはひと目で分かりました。徐順玉が持ってきた双眼鏡も、わたしが金明柱にやったものです。あのとき、毛布よりも大切なものがあったら、金正淑はためらいなく徐順玉に贈っていたことでしょう。彼女はいつも、もらうことよりあげることの方がもっと楽しいと言っていました。人から人情をほどこされるより人に人情をほどこすのがはるかに楽しいというのが、金正淑の人生哲学だったのです。
金正淑の同志愛は、わたしにつくそうとする努力、わたしのためにすべてをささげる献身性にもっとも顕著に表われました。自分の司令官への忠実性も、その本質は同志愛だといえます。
いつだったか、われわれが食糧を切らし、何食も抜いた状態で戦闘をつづけていたときのことです。戦闘指揮の最中に誰かがわたしのポケットに何かを入れてくれるのでした。振り返ってみると金正淑でした。戦闘が終わってからそれを取り出してみると、松の実を一粒一粒割って紙につつんだものでした。わたしは彼女に、どこで手に入れたのかと尋ねました。しかし、彼女はただ微笑をたたえるだけでした。後日、他の女子隊員が言うには、彼女が自分で木に登って取ったものだったとのことです。
金正淑は、何回もわたしを危機から救ってくれました。彼女はわたしの身辺の安全のためなら、いつでも肉弾となる準備ができていたのです。大沙河付近の戦闘のとき、わたしの周辺には危険な状況が生じました。一群の敵兵がわたしの方にひそかに接近していたのです。しかし、わたしは戦闘指揮に没頭していたので、そういう状況に気づきませんでした。そのとき、金正淑がいなかったら大事に至るところでした。彼女は身をさらしてわたしをかばい、襲いかかる敵兵をみな射ち殺しました。それでわたしは奇跡的に助かったのです。こんなことは一度や二度ではありませんでした。
わたしが山で何年間も着用していた綿入れの外套も、実は彼女がつくってくれたものです。どこで聞いたのか、真綿が銃弾を通さないということを知って、機会あるたびに真綿を集め、わたしに外套をつくってくれたのです。幾晩も眠らずにひと針ふた針と真心をこめてつくった外套が、わたしの体にぴったり合うのを見て、彼女はうれしさを隠しきれませんでした。
わたしは宿営地で夜を明かしたり寝るときには、携帯して歩いたノロの毛皮を敷いてその外套をかけたものですが、そうすれば体があたたまるのです。
ちかごろは、女性が編み物をよくしないそうです。機械でニット製品をつくる時代なのですから、そんな手間をかけようとはしないのでしょう。わたしはニット・ウエアを見るたびに金正淑を思い出します。彼女はわたしのためにずいぶんと編み物をしたものです。炊事だけでも手いっぱいで暇がないはずなのに、どのように時間を割き、どこから毛糸を手に入れてくるのか、見当がつきませんでした。とにかく、暇さえあれば読書か編み物のどちらかをしたものです。
山中で毛糸を手に入れるというのは容易なことではありませんでした。当時は、一包の針を手に入れるにも戦闘をしなければなりませんでした。にもかかわらず、金正淑は、敵と戦うため一年中外で寝食をしながら行軍するわたしを気づかって、綿入れの外套も腹巻きもつくってくれ、祖国が解放されるまで毎年欠かさず毛糸の靴下を編んでくれたのです。
彼女に苦労をかけるのがすまなくて、いつか、毛糸はどこからどう手に入れるのかと尋ねたことがあります。彼女はただ笑うだけで、何とも答えませんでした。正淑には毛糸の靴下があるのかと聞くと、それにもやはり答えませんでした。わたしがなおも退かずに問いかけると、しぶしぶ「将軍は大事をあずかっておられるのですから、そんなことを気にすることはありません」と答えるのでした。
金正淑は解放後にもわたしのために編み物をしました。わたしの靴下がすり切れると、繕わずにそれをほぐして糸巻きに巻きとり、それでまた靴下を編むのです。夜通し編んでは、朝になるとそれをわたしの寝床の横に置いてくれるのです。商店や市場に行けばそれよりましな靴下を買えるはずですが、そうしませんでした。一度買えば、糸がすり切れるまでほぐしては編み、またほぐしては編み、自分の手で編んだ靴下をわたしに履かせたのです。彼女は一足の靴下でも自分の手で編んでわたしに履かせたがりました。女性の真心とはこういうものです。
一度は彼女の並々ならぬ誠意に、不本意ながら腹を立てたことがあります。ある年の冬、彼女がわたしの洗濯物を自分の体のぬくもりで乾かして持ってきたことかあります。誰にも知られないようにしたことでしたが、それに感嘆した女子隊員が金正淑をほめているという噂がわたしの耳に入ったのです。洗濯物を体におびて乾かしたという話を生まれてはじめて聞いたわたしは、唖然として彼女を司令部に呼び出しました。ひどく凍えて真っ青になった彼女の顔を見て、わたしは涙が出そうになりました。生前の母にもできなかったことを彼女がしたのだと思うと、何をどう言ったらよいのか分かりませんでした。母でさえできなかったことを自分からすすんでなした金正淑の犠牲的な同志愛、それはいま思えば、自分の司令官にたいする革命的同志愛であると同時に、人間、金日成にたいする熱い愛情でもありました。
わたしは彼女にこう言いました。
―― 正淑、わたしを思ってのきみの誠意には頭が下がる。それだけはいつもありがたく思っている。しかし、どんなつもりでそんなことをしたのだ。そんなことをして傷寒にでもかかったらどうするのだ。きみを犠牲にしていい目を見ても、わたしの心が安らぐはずはない。二度とそんなことをしてはいけない。
すると彼女は、微笑をたたえてこう言うのでした。
「わたしの苦労などなんでもありません。将軍さえ健康でおられるなら…」
正淑の前では怒ったものの、わたしは彼女を帰してから涙をこぼしました。なぜか、その瞬間に母が思い出されたのです。わたしに傾ける彼女の真心に、早世した母の愛情も合わさっているような気がしたのです。体の熱を濡れた衣服に吸いとられて悪寒をもよおしながらも、歯をくいしばって顔に表わすまいとしていた彼女の姿を一生忘れることができません。
その後も彼女は、わたしの濡れた衣服や下着などを体におびて乾かしてくれたのです。そうしてみると、金正淑は身をもって敵弾から、そして雨や雪、傷寒からわたしを守ってくれたことになります。
わが国の歴史家は、われわれの歩んできた抗日革命の道を前人未踏の道と表現していますが、それは確かです。抗日革命闘士は革命のみならず、愛においても前人未踏の境地を開いたのです。生活は想像を絶するきびしいものでしたが、白頭山の火山礫にも愛は花咲きました。
親子間の愛、夫婦間の愛、恋人同士の愛、師弟間の愛、同志間の愛をはじめ人間生活に存在する愛において大切なのは、献身性であると思います。自分は飢え、寒さにふるえ、病気にかかっても愛する人にはそうさせまいと、必要であれば火中に身を投げ、刑具の前に進み出、氷の穴にも飛び込む、自己犠牲的な献身性のみが、もっとも美しく気高い真実の愛を創造することができるのです。
解放された祖国にもどって万(マン)景(ギヨン)台(デ)に行ったとき、家族や親戚は、山中で戦いながらも、よい妻をめとったとのことだが、婚礼はどこで挙げ、介ぞえ役は誰にしてもらい、祝膳は誰がととのえてくれたのか、としきりに尋ねるのでした。わたしは何とも答えることができませんでした。そんな問いに答えようとすると急にのどがつまり、言葉が出ませんでした。本当のことを話せば祖父や祖母が心を痛め、親戚たちにも気を煩わせることになりそうなので、答えることができなかったのです。
われわれが山中で戦うときは、祝儀の膳というものは考えられませんでした。生活が困難で苦しいという事情もありましたが、国を取りもどしもせず、亡国の民の恥辱をそそぐこともできない状態で、婚礼や誕生祝いなどとうてい考えられないことでした。われわれの隊伍にはそういうぜいたくを望む人は一人もいませんでした。
遊撃隊式の祝儀というのはきわめて簡単なものでした。隊員たちに、きょう、誰と誰とが結婚すると告げればそれですむのです。昨今の若者のように礼服を身に装って祝膳を受けるといった礼式など考えることすらできませんでした。少しましな場合でも、飯一杯がせいぜいでした。飯がなければ粥、それもなければジャガイモかトウモロコシを分け合ったものですが、だからといって不平じみたことを言う人もいませんでした。むしろ、それが当たり前で自然なことと考えたのです。
われわれは夫婦となった後も、所属の中隊や小隊で従前通りの生活をしました。指揮官であっても例外にはなりませんでした。結婚してすぐ戦場に出て倒れた夫婦もあり、別々の任務を受けて別れ別れになって生活する隊員もいました。
わたしと金正淑が結婚した日、戦友たちは何かしてくれようと気をつかいましたが、何も手に入れることができませんでした。部隊全体が食糧難で苦しんでいたおりに、どこから何が手に入るというのでしようか。
礼服も、祝膳も、媒酌人も、介ぞえ役もいませんでしたが、その婚礼は一生忘れることができません。金正淑も生前、その日をいつも追想していたものです。
新しい世代がこんな話を聞けば、そんなことがあるものかと首をかしげるかもしれませんが、当時の状況では他に方法がありませんでした。みんなそういうふうに式を挙げたのです。かえって、それを粋なものと思ったものです。明日の幸せのために今日の苦難を甘受し耐えしのぶことに生きがいを感じるのが、ほかならぬ抗日遊撃隊員の徳というものでした。彼らは次代のために、今日の祖国のためにそのように生きたのです。
わたしは白頭山密営や極東の訓練基地にいたとき、祖国が解放されれば、戦友たちの婚礼をりっぱに挙げてやろうと考えたものです。ところが、いざ国を取りもどしてみると、それも思うようにいきませんでした。解放はされたものの、人民の生活にゆとりがなく、食糧事情も逼(ひつ)迫(ばく)していたため、そうすることができませんでした。
解放直後、張(チヤン)時(シ)雨(ウ)がわたしを訪ねて来て、パルチザン出身者だという人が平(ピヨン)安(アン)南道党委員会の資金を引き出して個人の婚礼に使おうとしているが、そんなことが許されるものか、と抗議したことがあります。誰がそんなことをしたのかと問うと、金(キム)成(ソン)国(グク)だとのことでした。わたしは金成国を部屋に呼びつけ、彼の武装を解除するよう李(リ)乙(ウル)雪(ソル)に命じました。そして、何の権限があって道党委員会の資金を勝手にもちだしたのかと問い質しました。彼は涙まじりに、「孫(ソン)宗(ジヨン)俊(ジユン)の結婚式用に、礼服やふとんを用意し、祝膳もととのえてやろうとしたのです。親兄弟も親戚もいない独り身の彼をわたしらが面倒みてやらなければどうするというのですか」と言うのでした。それでも、わたしは彼をこっぴどく批判しました。孫宗俊にそうしてやればいいというのはわたしにも分かる、しかし、現状はそれを許さない、飯の一杯も出せずに式を挙げた過去のことを少しでも考えたなら、党の資金に手をつけるようなことはしなかったはずだ、国状がきびしいいま、パルチザン出身者らしく周囲に目を配って分別のあるふるまいをすることだ、といましめました。こうして彼を帰したものの、心が痛みました。実際のところ、生死、苦楽をともにした戦友の結婚式をりっぱに挙げてやろうとした金成国の心づかいはなんとけなげなものではありませんか。
多くの抗日闘士が解放された祖国にもどって結婚しましたが、式は簡素なものでした。わたしは、それがいつも胸につかえてなりませんでした。それで、金正日同志は、彼らが還暦や古希を迎えるときには、祝膳をととのえ、贈物をするのです。
ところが、金正淑だけはそんな幸福を味わうこともできず、三〇を越したばかりの年で、このように写真だけ残して世を去ったのです。わたしが正淑とこの写真を撮ったのも偶然でした。もし、革命の戦友たちが関心を払ってくれなかったなら、この写真も残らなかったでしょう。
わたしが小部隊を率いて出発する準備をしていたある日、戦友たちがやってきて写真を撮ろうと言うのでした。小部隊の工作に出かければいつまた会えるか分からないから、写真を撮って記念に残そう、カメラは手に入れてきたから、金将軍は顔だけ貸してくれればいい、と言うのです。軍服を着て外に出ると、崔賢がわたしを待っていました。まだ肌寒くはありましたが、あたりに春の気配がはっきりと感じられるころでした。わたしは、春の水気を含みはじめた樹木にもたれて、戦友と写真を撮りました。久しぶりに南キャンプで再会した記念、会ってはまた別れる小部隊工作の記念でもありました。他の戦友も二人、三人と組になって写真を撮りました。そこへ、誰に聞いたのか、数名の女子隊員が駆けつけ、自分たちも撮ってほしいと言うのでした。それで女子隊員たちとも何枚か撮ったのですが、彼女らはわたしと金正淑に、二人で撮るようにと勧めるのでした。それを聞いて金正淑ははにかみ、女子隊員たちの後ろに隠れてしまいました。女子隊員たちは無理やりに彼女を前に押し出しました。正淑は照れてどうしてよいか分からないありさまでした。戦友たちにしきりに押された正淑は、仕方なく笑みをたたえてわたしのそばに立ちました。その瞬間を逃さず、シャッターが切られました。わたしの一生で、女性の戦友と個別写真を撮ったのはこれがはじめてだと思います。わたしと金正淑にとって、これは結婚記念写真ともいえるものでした。
当時はわれわれも血気盛んな青春でした。夢も多く、笑いも多いころでした。他郷で迎えた春でしたが、みな確信にあふれ、意気込みも盛んでした。わたしと正淑にとっては、結婚後はじめて迎える忘れがたい春でした。わたしはその春を永久に記念しようと、写真の裏に、「他郷で春を迎え、一九四一・三・一B野営区にて」と記しました。
わたしは、この写真が歴史に残って、このように大きな博物館に展示されるとは夢にも思いませんでした。二〇年もの間抗日革命をおこなって、写真をたくさん残せなかったのが残念でなりません。そうしてみると、写真を撮ろうと言い出した戦友は本当にありがたい人たちでした。
金正淑の髪形は他の女子隊員と同じく断髪でした。ところが、この写真では髪の形が分かりません。髪の毛をかきあげて全部帽子の中に入れたので分からなくなっているのですが、それにはわけがあるのです。
その年の春、わたしが小部隊を率いて満州と国内に向かうときでした。ソ連の国境を越えて琿春地方を通過していたとき、不思議と足がぬくもってくるのを感じました。はじめのうちは長いこと行軍をしたせいだろうと思ったのですが、足を運ぶたびに足裏に何かあたたかくやわらかいものに触れる感じがするのでした。それで靴を脱いで見ると、髪の毛でつくった敷きがわがあるではありませんか。それでやっと、金正淑が部屋の中でも妙に帽子を脱がなかったことを思い出し、わたしのために透かして切った髪の毛で靴の敷きがわをつくったことに気がつきました。彼女が帽子を脱がなかったのは、薄くなった髪を人に見られたくなかったからだと思います。
その日、わたしと一緒に写真を撮った人は、いまは一人もいません。安吉も、崔賢も、正淑も世を去り、大勢いた戦友たちがみな他界し、わたし一人残りました。わたしと安吉、崔賢が寄りかかって写真を撮った樹木も、いまごろは大木になっていることでしょう。南キャンプはどう変わっているのか、一度時間を割いて行ってみたい気持ちにもなります。
金正淑は解放後も、真心をこめてわたしにつくしてくれました。彼女がどれほどわたしのために心を砕いたかは、数日おきに取り替える襟布も、糊づけをしてはきぬた打ちまでするのをみても分かります。きぬた打ちをすれば襟布がやわらかくなって首に触れてもかさかさしないからです。糊づけをした襟布に焼きごてやアイロンをかけると、こわばって肌がすれたり、首が動かしにくくなるのです。彼女はきぬた打ちもわたしが留守のときにだけしました。わたしが家にいるときは、思索の妨げになるからと、きぬた打ちをしませんでした。
彼女の忠誠心をうかがわせる逸話をもう一つしましょう。
祖国解放の前夜、対日作戦会議に参加するためモスクワヘ行ったときのことです。ある日の夜、迎賓館の寝床で夢を見たのです。金正淑が大きな部屋に本をどっさり持ち込んで、この本を思い通り選んで読んで下さい、これくらいの本があれば、司令官同志が一生読みつづけても読みきれないでしょう、と言うのでした。目が覚めて同志たちに夢の話をしたところ、彼らは大統領になる夢だと言うのです。彼らは冗談まじりのおおげさな夢合わせをしたあとで、それは将来運が大きく開ける夢だと言って祝ってくれました。その後、モスクワから帰ってきて金正淑に夢の話をすると、彼女も笑いながら吉夢だと言うのでした。それからひと月ふた月と過ぎるうちに、夢のこともうすらいでいきました。しかし、金正淑だけはその夢の話を覚えていたのです。解放後、わたしたちが解(ヘ)放(バン)山のふもとに住んでいたとき、彼女は書斎にぎっしり書物をそろえて、国も解放されたのだし、これからは思う存分読書をして下さい、と言うのでした。そして記念に写真を撮ろうと言うのでした。そのときの写真がいまも残っています。
金正淑の一生は、わたしにつくした一生であったともいえます。彼女はわたしと結婚してからも終始一貫、わたしを司令官、指導者、領袖としておし立て慕いました。わたしと金正淑との関係は、領袖と戦士、同志と同志の関係でした。彼女は、いつも自分を領袖の戦士と称していました。世を去るその日まで、普通家庭で用いる呼び方でわたしを呼ぶことが一度もありませんでした。わたしを、「将軍」、または「首相」と呼ぶだけでした。
解放後、女流ジャーナリストたちが金正淑を紹介したいといって訪ねてきたことがあります。そのとき金正淑は彼女らに、「戦士の一生は領袖の歴史の中にあるのです。金日成将軍についてもっと多く紹介して下さい」と話しました。わたしはその言葉の中に、金正淑の人並外れた品格をうかがわせるものがあると思います。
金正淑は一生苦労しつづけて世を去りました。それがあまりにも痛ましくて、永別するとき彼女の腕に時計をはめてやりました。そうするからといって、彼女が一生わたしにつくした真心を償うことができるわけではありません。また、そうするからといって、彼女を失った心の痛みをいやせるわけでもありません。それでも、わたしは彼女の腕に時計をはめてやりました。何のいわれもない普通の時計であったなら、そういうことは考えなかったでしょう。その時計には深いいわれがあったのです。
何年度であったか、祖母が、ぜひ必要だから値は少々はっても婦人用の高級時計を求めてほしい、と言うのでした。生涯、柱時計もなしに暮らしてきた祖母が、急に婦人用の腕時計を、それも高級なものをほしいと頼むので、わたしは不思議に思いました。しばらくして、婦人用の腕時計を買って祖母を訪ねました。そして祖母に、この時計をどこに使うつもりなのですかと聞きました。すると祖母は、お前たちが山で何の準備もなしに結婚したと聞いて、それが胸につかえてならなかった、山から下りてきてからもずいぶん経ったのに、まだ祝膳もととのえてやれなかったし、洋服の一着もつくってやれなかった、それで時計でもはめてやろうと思ったのだ、正淑が時計をはめて歩くのが見られたら言うことはない、と言うのでした。
金正淑が冥土の旅に立つときはめていった腕時計には、こういういわれがあったのです。孫嫁にそそぐ祖母の愛情は実に深いものでした。その愛情は、久しい前に世を去った父母の愛情にも代わるものでした。
ところが、わたしは彼女に何もしてやれませんでした。彼女は毎年忘れずに、質素ながらもわたしの誕生祝いをしてくれましたが、わたしは結婚して一〇年近く暮らしながらも、彼女の誕生日を一度も祝ってやれませんでした。彼女は自分の誕生日のことは口にさえ出せなくしたのです。
金正淑に何もしてやれなかったのが気にかかっていたので、共和国が創建された日、昼食時に家にもどり、彼女に酒をついでやりました。その間わたしのためにいろいろと苦労をかけた、何もしてやれずに苦労ばかりさせたが、きょうはわたしが一杯つぐからほしなさい、と杯をすすめました。すると彼女は、なぜ何もしてくれなかったと言うのですか、党を創立し、軍隊を創建し、共和国を創建したのに、それにまさる贈物などないはずです、一生の願いをかなえてくれたのですから、それ以上の望みはありません、と言うのでした。
金正淑が世を去った翌年、女性抗日闘士たちが金を出し合い党に持ってきて、彼女の墓をりっぱに修築してほしいと願い出るのでした。それで、工事がはじまったのです。牡(モ)丹(ラン)峰にあった金正淑の墓地に行ってみると、鉄柵をめぐらし、囲い石も積み、みかげ石で階段までつくっているところでした。わたしは、そこで工事に参加している女性闘士たちに、みなさんの気持ちが分からないわけではない、だがあれを見なさい、人民はまだ、あんなに小さな家に住んでいる、過去、血涙をしぼって苦労してきた人民なのに、暮らしはまだ楽でない、われわれはまだ祖国も統一していない、こんなときにみなさんの手でみかげ石の墓がつくられていることを正淑が知ったらどんなに人民にすまなく思うだろうか、みなさんがどうしてもというなら、墓のまわりに花や木を植えてください、そして彼女がなつかしくなったときは子どもらを連れてきてすごしたり、墓の手入れもしてくれればよい、これが正淑のためを思うことだ、だからいますぐ工事を中止し、みかげ石は建設場へ送ろう、と言い聞かせました。
一生涯、同志と人民のためにすべてをささげた金正淑でしたが、子女には一銭の金も、一つの財産も残しませんでした。彼女が使った金はわたしの月々の給料であり、彼女が使用した家や家具は、すべて国のものでした。
金正淑がわれわれに残した遺産といえば、金正日を未来の指導者に育て、党と祖国の前に立たせたことです。みなさんはわたしが金正日を後継者に育てたと言いますが、その基礎を築いたのは金正淑なのです。彼女が革命の前に残したもっとも大きな功績は、まさにこれです。
金正淑は世を去る当日にも、枕元に金正日を呼び寄せ、父にりっぱにつかえるよう、そして父の偉業を継承、完成するよう頼んだのです。それは、金正日への遺言でした。金正淑はその遺言を残して三時間後に目を閉じました。
わたしはいまも、よく金正淑を思い出します。彼女は数年間チマ・チョゴリで通すこともありましたが、なぜか私服姿より軍服姿の彼女がよく思い浮かぶのです。いつもよく思い浮かぶのは、体で乾かした衣服を差し出しながら、悪寒を堪えていた姿です。その姿を思い出すと、いまも胸がふさがる思いがします。


四 小部隊活動の日々

ひところ日本の御用出版物は、抗日連軍部隊の指揮官が戦死すると、その部隊が全滅したかのように宣伝しました。関東軍司令部をはじめ日満軍警も、抗日連軍の多くの部隊が抗戦をつづけていることを知りながら、一九四〇年代に入ってからは遊撃隊が壊滅したと言い触らしました。
抗日武装部隊が全滅し、われわれの抗戦が終焉を告げたのが事実なら、野副が吉林にあった司令部を朝鮮人民革命軍の活動地域である延吉に移したのは何のためであり、楊靖宇を討つのに振り向けていた兵力までことごとく白頭(ペクトウ)山の東北部につぎ込んだのは何のためでしょうか。また、パルチザンの「討伐」に関東軍、満州国軍、警察武力とともに、鉄道警護隊と協和会の連中まで残らず駆り出したのは何のためでしょうか。
われわれは小部隊活動の時期にも戦いをつづけました。無意味な衝突は避けながらも、必要な場合は敵に痛撃を加えたのです。言うまでもなく、兵力を保持するために大規模な戦闘は避けました。そのかわり大衆政治工作と偵察に多くの力をそそぎました。国内に多くの小部隊と工作班、政治工作員を派遣し、全民抗争の準備も進めたのです。小部隊と班の人員は場合によって異なりましたが、普通、小部隊は一〇名内外から数十名、班は数名で編制しました。武装はその使命と任務にふさわしく簡便なものにしました。小部隊と班を編制したあとは、それぞれの任務と活動区域を分担しました。小部隊と班は任務分担によって政治活動を基本とするものもあれば、戦闘を基本とするものもあり、偵察を基本とするものもありました。ただし、任務分担は固定したものではありませんでした。状況に応じて偵察班が政治活動をおこない、戦闘を基本とする班が偵察と政治活動を同時に受け持つといったように、他の任務を兼ねて遂行することもありました。
部隊の編制を終えたあとは、小部隊や班の臨時秘密根拠地を築くことに力を傾けました。小哈爾巴嶺会議以後に設けられた代表的な臨時秘密根拠地としては延吉県の倒木溝付近基地、和竜県の孟山村付近基地、安図県の黄溝嶺基地、汪清県の來皮溝基地などがありました。国内にも恩(ウン)徳(ドク)、先(ソン)鋒(ボン)、茂(ム)山(サン)、羅(ラ)津(ジン)から深部にまで南下して多くの臨時秘密根拠地を設営しました。臨時秘密根拠地には小部隊用の密営と通信連絡所、秘密会合所、補給物資保管所などを設けました。

小哈爾巴嶺会議後、金日成同志は自ら警護中隊の一部の隊員を率いて安図県の黄花甸子付近の湿地での戦闘で勝利をおさめ、小部隊活動の手本を示した。金日成同志はこの戦闘についてつぎのように回想している。

黄花甸子付近での戦闘は、小哈爾巴嶺会議後われわれが小部隊活動に移ってくりひろげた最初の戦闘です。小哈爾巴嶺会議が終わったあと、わたしは一個分隊ほどの警護隊員を率いて寒葱溝へ行ったのですが、帰路、黄花甸子で敵に遭遇しました。そのときの戦闘場面の一こま一こまがいまでも生々しく思い浮かびます。
馬塘溝や南牌子と同様、黄花甸子という地名にも由来があります。その地方の人たちに黄花甸子とはどういう意味かと聞くと、人によって答えが違っていました。ある人は野菊がよく咲く湿地という意味だと言い、ある人は忘れ草が多く咲く湿地という意味だと言い、またある人は青年男女の恋に由来する地名だと言うのですが、どれが合っているのかは定かでありません。その土地は何回か通過したことがありますが、野菊はさほど多くなく、忘れ草も目につきませんでした。しかし、湿地はありました。戦闘はその湿地で展開されたのです。
われわれ一行には黄(フアン)順(スン)姫(ヒ)も加わっていました。小哈爾巴嶺会議で討議、決定された方針を崔(チェ)賢(ヒョン)に伝達する任務を与えようと、わたしが彼女を呼び寄せたのです。黄順姫は小柄でしたが、敏捷で責任感が強く、また崔賢部隊の位置もよく知っていました。
夕暮れどきに、われわれは黄花甸子の裏山でしばし小休止しました。わたしは隊員を休ませ、あの湿地をいかに突破すべきかについて考えをめぐらしました。湿地の中間には流れがあり、その上に一本橋がかけられていました。橋の下には悪臭のする水が流れていました。その一本橋を渡って山を一つか二つ越えれば、われわれが臨時秘密根拠地として内定していた延吉県倒木溝まで直行することができるのでした。しかし、橋の向こう側に敵が待ち伏せしていないともかぎりませんでした。それで橋のたもとに目を据えていたところ、案の定、何かピカリと光るものがありました。もしやホタルの光ではとも思ったのですが、それは確かに敵の懐中電灯の光でした。橋を渡らなければ倒木溝に行き着くことができないというのに、敵が暗闇に潜んでいるのですから困り果てました。文字通り一本橋で仇敵に出くわしたのです。武装闘争の日々、敵に包囲されたり、死地に追い込まれたりしたことは何度もありましたが、あのときほど事態が急迫し、名案が浮かばなかったことはなかったと思います。
橋を渡らなければ一〇キロ以上も迂回しなければならず、それもまた容易なことではありませんでした。結局、何がなんでもいま来た道をまっすぐに進むしかなかったのです。わたしが辺りをうかがい、押し黙ったまま方途を模索していたので、隊員たちは息を殺し、緊張した面持ちでした。
しばらくして、わたしは敵に感づかれる前にすばやく橋を渡ることを決断し、出発命令を下しました。全員が無事に橋を渡り、後尾についていたわたしが最後に渡って草むらに足を踏み入れたとき、不意に敵の機関銃が火を噴きはじめました。わたしはすぐさま機関銃射手に敵の射手を制圧するよう命令し、隊伍を大道の方に移動させたのですが、そのとき全(チヨン)文(ムン)燮(ソプ)と黄順姫が決死の覚悟でわたしを守ってくれました。まさに危機一髪の瞬間でした。一歩踏み誤れば底無しの泥沼にはまり込みかねず、そのうえ敵の銃弾が雨あられと降りそそぎましたが、われわれは一人の犠牲者も出さずに無事危機を切り抜けました。天の恵みというべきです。もしあのときわたしが火急の事態に狼狽したり、すぐさま決断を下さなかったら、敵のわなにはまって大きな損失をこうむったことでしょう。
ところが、大道の方に移動している最中に、今度は前方に敵が現れたという斥候の連絡が入りました。橋のたもとの銃声を聞きつけて、待機していた主力部隊が押し寄せてきたに違いありませんでした。それで隊員たちに、急(きゆう)遽(きよ)橋の方にもどるよう命令しました。橋のたもとにいる敵と追跡してくる敵に銃弾を浴びせ、横に抜けて山に登らせました。それから休止命令を下しました。隊員たちは山の中腹に座って、やっと息をつきました。そのとき、橋のたもとにいた敵と大道の方から押し寄せてきた敵がすさまじい銃撃戦をはじめました。後日、安図地方の人たちから聞いた話によれば、敵は同士討ちをして死人の山を築いたそうです。誰が先に発砲したのかという責任が問われ、一本橋を渡ってきたのは化け物なのかパルチザンなのかといった悲鳴が上がり、敵の内部は大混乱に陥ったとのことです。
その後、われわれは延吉県発財屯と安図県五道揚岔付近でも多くの敵を掃滅しました。延吉県発財屯一帯では黄花甸子での戦闘と違って、三組の襲撃班による襲撃戦法と遠見戦術(同士討ちをさせる戦術)を組み合わせました。このときも敵は同士討ちの銃撃戦によって多くの死者を出しました。こういった戦闘は毎日のようにつづけられました。あるときはいくつかの小部隊が合流して大敵を痛撃したりしました。このようにわれわれは小部隊戦を基本としながら時折大規模な戦闘を組み合わせたので、敵は人民革命軍が大部隊戦から小部隊戦に戦術を変えたことにも気づかなかったのです。
黄順姫から小哈爾巴嶺会議の方針を伝え聞いた崔賢の部隊も小部隊活動を積極的に進めました。崔賢の部隊は汪清県においてまず大部隊で広盛屯と小城子の敵を討ち、つづいて小部隊に分散して縦横無尽に駆けまわって敵を掃討しました。延吉、和竜、安図の各県では呉(オ)白(ぺク)竜(リヨン)の小部隊、琿春県と東寧県一帯では金(キム)一(イル)、孫(ソン)長(ジヤン)祥(サン)の小部隊、東寧県と寧安県、穆棱県、五常県一帯では韓(ハン)仁(イン)和(フア)とともに朴(パク)成(ソン)哲(チヨル)、尹(ユン)泰(テ)洪(ホン)の小部隊がそれぞれ戦闘を展開しました。東北全域と朝鮮の北部国境地帯は小部隊と班の活動によって沸き返りました。

金日成同志はハバロフスク会議後、自ら指揮をとった小部隊活動の状況についてつぎのように回想している。

以前は小部隊と班は主に朝鮮の北部国境地帯と中国の東北地方で活動しましたが、この時期からは国内に深く入り、朝鮮南端の軍事要衝と遠くは日本本土にまで活動地域を拡大していきました。
小部隊と班の活動内容も多種多様でした。国内と東北一帯で、破壊された党組織と地下革命組織を立て直し、新たに設け、残っている武装部隊を収拾し再編する活動、全民抗争組織にたいする系統的かつ統一的な指導を確立する活動などをおこないました。これとともに、国内各地の秘密根拠地を補強し、情勢の要請に応じて新たな臨時秘密根拠地を築く活動、国内と東北一帯で愛国的青壮年を遊撃隊に受け入れて朝鮮人民革命軍の隊伍を拡大し、軍事幹部を育成する活動を進めました。同時に、積極的な襲撃戦と伏兵戦、破壊戦を展開して敵の後方を攪(かく)乱(らん)し、戦力を低下させる闘争、敵の軍事施設と基地、要衝にたいする軍事偵察活動および敵の支配体系と敵軍の内部を混乱させる闘争などを幅広く展開しました。
この時期の小部隊活動には東北抗日連軍の各部隊も参加しました。それにかんして部隊別に小部隊の活動地域を分担しました。こうして、朝鮮人民革命軍と第一路軍管下の部隊、それに第二路軍部隊の一部は朝鮮国内と東満州および南満州地域を、第二路軍の基本部隊は興凱湖以北から東崗にいたる地域をそれぞれ担当し、第三路軍部隊は慶城、鉄驪、海倫をはじめ各県で小部隊作戦を展開することにしたのです。
わたしは白頭山と極東の臨時基地を行き来して、国内と東満州、南満州での小部隊活動を指導する一方、軍事・政治学習も同時に進めました。誰であれ小部隊活動を終えて基地に帰ってくれば、政治学習と現代戦の訓練に参加することを義務づけていました。南キャンプからは、比較的人員の多い小部隊を率いて、わたしが真っ先に白頭山の東北部と国内に進出することにしました。そのあとに崔賢の小部隊と安(アン)吉(ギル)の小部隊も状況をうかがいながら国内と満州に進出することにし、活動区域と任務を定めました。
わたしが小部隊を率いて基地を発ったのは一九四一年四月でした。小部隊の主な任務は、東満州と南満州一帯に残って戦いをつづけている小部隊と各班との連係を結び、彼らにたいする統一的な指揮を保障することでした。これとともに、破壊された革命組織を立て直し、新たな組織を結成し、地下組織網から選抜された青年で武装隊伍を拡大する一方、彼らを祖国解放の最終作戦と新しい祖国の建設に必要な幹部に育成することも重要な活動目的の一つでした。われわれはまた、魏拯民の行方も探すことにしました。
当時、国内と満州の情勢は険悪をきわめていました。日本帝国主義者は一九四一年の初春から新たな「討伐」作戦に着手しました。「野副討伐司令部」は解体され、その権能は関東軍司令部に委譲されました。そして関東軍の基本部隊と各地区別の満州国軍軍管区司令部、関東憲兵隊司令部管下のすべての「討伐隊」が人民革命軍にたいする「討伐」に狂奔していました。それで、わたしが小部隊を率いて敵地に進出するのが心配で、一部の指揮官は情勢をうかがいながら行動するよう提言しました。金策もはじめはわたしの身辺を気づかって、そんな心配をしたものです。
わたしは小部隊工作に発つにあたって中隊長として、柳(リユ)京(ギヨン)守(ス)を選抜し、政治指導員には金一を任命しました。伝令には全文燮が任命されました。彼を伝令に任命したとき、金策は彼に、司令官のそばを寸時たりとも離れてはならないと強調しました。
小部隊の無線通信士には安(アン)英(ヨン)が選ばれました。彼は東満州と北満州で活動したことがあります。数年間教壇に立ち、青少年の愛国主義教育に努めました。東満州で活動したころは、巡回劇団を組織して大衆啓蒙活動もおこないました。安英は見識が高く、生活体験も豊富でした。北満州で大衆工作にあたったときは飯炊きをしたり、ケシ畑で賃仕事をしたりしたといいます。わたしが満州に向かうとき安英を無線通信士に選んだのは、彼が北満州部隊にいたときソ連で六か月間無線通信の講習を受けた経歴をもっていたからです。彼の口ひげがとても印象的でした。それで安英のことを「口ひげ」と呼ぶ人が少なくありませんでした。
小部隊の人員は三〇名ほどだったと思います。全員が日本の軍服を身につけたのですが、変装はなかなかのものでした。われわれ一行は四月上旬のある日、深夜に国境を越え、以前の根拠地を通過して白頭山の東北部方面へと行軍をつづけました。
われわれが白頭山の東北部でなすべき仕事は山ほどありました。われわれが東満州の遊撃区を解散し西間島方面へ進出すると、敵は東満州と白頭山東北部一帯で全面的な破壊作戦を強行したのです。それによってまねかれた事態を収拾するため、われわれは茂山地区戦闘後、再び白頭山の東北部に進出し、この一帯の革命化を積極的に推進しました。われわれがしばらくソ連に入っていたすきに、敵は再びここに正規軍を投入し、大々的な破壊旋風を巻き起こしました。そうして「東満州の治安は確立された」と大言を吐いたのです。白頭山の東北部で革命を再び高揚させるには、小部隊と班の勇猛果敢な活動によって朝鮮人民革命軍の健在ぶりを見せる必要がありました。そうすれば大衆を再び立ち上がらせることは十分可能でした。安図、汪清、延吉、琿春、敦化一帯を混乱に陥れたあとは、白頭山に進出して西間島一帯と国内により多くの革命組織をつくる一方、全民抗争力量を強化し、愛国的な青年を数百名選抜して、白頭山根拠地と極東の基地で軍事・政治幹部に育成する考えでした。
国境を越えた小部隊が数日間強行軍をして到着したところは、大黒瞎子溝密営からそう遠くない谷あいでした。いつか延辺に住む朝鮮人が汪清、東寧、琿春三県の県境で遊撃隊の宿営地の跡を見つけたといって、踏査の過程で撮影した録画テープを持ってきたことがありますが、それを見ると、その地帯は確かにわれわれの小部隊のメンバーが臨時秘密根拠地に定めたところのようでした。
この谷あいに着いたとき、携行していた食糧が底を突いてしまいました。それでわたしは金一たちを金廠へ派遣しました。汪清県金廠付近の金鉱を襲撃して食糧を調達し、大衆工作もおこなうよう指示したのです。
大黒瞎子溝基地の近辺で全文燮が熊をしとめたのですが、非常に大きいので、数人がかりのもっこでやっと基地まで運んできました。その熊から搾り出した油はブリキ缶一杯ほどにもなりました。
数日後、金一たちが食糧を調達して帰ってきました。金一は沈痛な面持ちで、工作の途中で張(チヤン)興(フン)竜(リヨン)が戦死したことを告げるのでした。張興竜が戦死したのは池(チ)甲(カプ)竜(リヨン)のためだったとのことです。金鉱を襲撃して帰隊する途中、池甲竜が腹ごしらえをしていこうと一言い張ったため一時間ほど費やしたのだが、その間に敵に追いつかれ、襲撃を受けたというのです。
金一は池甲竜の意見を容れたことを悔やみ、司令官同志に会わせる顔がないと言いました。張興竜の戦死という悲報に接し、わたしは胸をかきむしられる思いがしました。「牛事件」で処罰を受けた彼が、過ちを償うために血のにじむ努力を重ねていたことを思うと、なお胸が痛みました。
張興竜の戦死と時を同じくして一人の中国人隊員が敵に捕らわれたため、部隊の足どりが知れてしまいました。敵は金日成が現れたと色めき立ち、やっきになってわれわれを追跡してきました。そのときわたしは、われわれの足どりが知れたほうがかえってよかったと考えました。敵が金日成部隊が現れたと騒ぎ立てれば、人民もそれを知ることになり、結局は朝鮮人民革命軍が健在で戦いをつづけているということを宣伝することになるではありませんか。小部隊の進路に困難が立ちはだかったことはいなめない事実ですが、敵が進んでわれわれのことを宣伝してくれることになるのですから願ったりかなったりでした。
その後、われわれは行方をくらますため峰を越え、進路を太平溝方面に取りました。そして五月上旬には汪清県來皮溝に行き着いたのです。ここでわたしは金一と別れました。金一には、一小部隊を率いて夾皮溝を臨時秘密根拠地にして活動させることにしました。彼の小部隊の活動区域となる羅子溝と図佳線一帯には、遊撃区時代にわたしが手塩にかけて育てた組織メンバーが少なからずいたのです。わたしは金一に、この付近に崔(チエ)春(チユン)国(グク)の家族が住んでいるかもしれないから連絡をとってみるようにと指示しました。無線通信士の安英も二名の助手と一緒に夾皮溝基地に残すことにしました。夾皮溝基地は中間連絡所の役割も果たしていたのです。
わたしは二〇名ほどの隊員を率いて、白頭山東北部の豆満江沿岸の広大な地域に進出するため夾皮溝を発ちました。敦化県、安図県、撫松県、和竜県、延吉県など東満州の各県を股にかけて活動する考えでした。
わたしの小部隊は敦化県を経て、安図県寒葱溝に基地を設営し、連絡地点を設けました。寒葱溝はわたしが魏拯民に最後に会ったところです。寒葱溝に着いたころには季節が変わり、林はうっそうと生い茂り、日中は暑さを感じるほどでした。
寒葱溝からは長白、敦化、車廠子、国内と白頭山の各地に政治工作班を派遣しました。長白一帯に派遣されたのは韓(ハン)昌(チヤン)鳳(ボン)と韓(ハン)泰(テ)竜(リヨン)でした。彼らの任務は、長白地方の地下組織の活動を指導し、遊撃隊員の家族と親戚を捜し出し、組織とのつながりをつけて国内に移住させることでした。われわれの部隊には長白出身の隊員がたくさんいました。彼らの一家親族をみな組織に引き入れて国内に送るなら、全民抗争組織を結成するうえで重要な役割を果たすに違いありませんでした。また、堅実な青年を選抜して極東基地に送る任務も与えました。わたしは二人に、長白県桃泉里には誰がおり、またどこには誰それがいるということを具体的に教えました。そして、そこで地下組織を結成したあとは国内に進出し、労働者階級のなかに入るよう指示しました。
全文燮と金(キム)洪(ホン)洙(ス)は車廠子の奥地へ行き、われわれが前に埋めておいた武器と地図を掘り出してきました。そのとき敦化方面へ工作に出た隊員たちが、大荒溝付近の密林の中で狩りをして生計を維持していた朴(パク)という姓の老人を連れてきました。彼はもと樺甸県で反日会に関与していた地下組織のメンバーだったのです。わたしは彼と長時間話を交わしました。彼の話によると、山という山は日本の「討伐隊」で埋めつくされ、手先がうようよしているとのことでした。また、小部隊が拠点として利用していた炭焼き小屋やケシ栽培用の小屋、葬具小屋、洞窟などにも密偵がとぐろを巻いているので注意しなければならない、とつけ加えました。そして、住民をすっかり集団部落に押し込み、行き来するのも統制するうえに、互いに監視までさせるので地下工作をするのが本当にむずかしい、しかし、遊撃隊のためならなんでも精いっぱい援助する、と言うのでした。
彼は敦化県都と集団部落に出入りして組織関係者のリストを持ってきたり、われわれに食糧や必要な物資を調達してくれたものです。われわれは彼がもたらしてくれた資料にもとづいて、この一帯の組織をすみやかに立て直しました。その後、彼は敵に捕らわれて処刑されたとのことです。
このように、われわれは小部隊活動の時期、人民の積極的な支持と援助を受けました。敵地でこの困難な戦いを進めるうえで、人民の支持はわれわれにとって大きな励ましとなりました。われわれの闘争にたいする人民のこうした支持は、事実上、彼らがすでに全民抗争に立ち上がっていたことを示す明白な証左といえます。
われわれは地下組織網を拡大する一方、第一路軍の残存部隊と魏拯民の行方を捜すことにしました。そして、まず三つの班を編成し、敦化県と樺甸県、それに安図地方と和竜県北部、撫松県一帯に派遣しました。
そのとき柳京守がめざましい活動をしましたが、苦労もまた並大抵のものではありませんでした。樺甸県來皮溝へ行くには富爾河を渡らなければならないというのに、川の水かさが増していたのでそれは不可能でした。適当な渡河地点を見つけようと川岸を上り下りしているうちに食糧も切れ、帰隊の期日になってしまいました。何日間も飢えたうえに、任務を遂行できなかったことを苦にした柳京守は、病床についてしまいました。しかし、夾皮溝には誰かが行かなければならなかったのです。それで、わたしが小部隊を率いて、柳京守を派遣しようとしていたところに赴くことにしました。ところが、そのとき天幕で病の床に臥していた柳京守がそれを聞きつけて起き上がり、おぼつかない足どりでわたしの前に出てきました。そして、「将軍は行ってはなりません。わたしがもう一度行ってきます」と言うのでした。それはだめだとわたしがいくら言っても聞き入れようとしませんでした。彼はいったん強情を張ると説得などまったく無意味でした。結局は不本意ながら彼の意見に同意せざるをえませんでした。
人間が生活する過程には、彼がどのような人間であるかを点検する特別な機会があるものです。生死を分かつわれわれの遊撃闘争は、毎分、毎秒がそういう点検の機会であったといえます。一命をなげうつことを求められるような状況が日に何十回も生じたのです。柳京守は危難に直面するたびに自ら肉弾となって突進する人でした。それでわたしはいつも、もっとも困難なところに彼を派遣したのです。楽な任務は戦友にまかせ、困難な任務は自分が引き受け、栄光は譲って戦友に花を持たせ、責任が追及された場合はすべての過ちを自分が背負い、どんな処罰や叱責でも甘受するところに、まさに柳京守の人間的魅力があり、彼が誰からも愛される主な理由があったのです。
柳京守が樺甸県夾皮溝に向かうとき、わたしはわれわれが携帯している食糧を残らず与えるよう指示しました。ところが彼は全文燮に、将軍の分はとっておいたのかとそっと聞くのでした。全文燮が何とも言えずもじもじしていると、彼は伝令ともあろう者がなんたることだと叱りつけ、背のうの米をもどしたそうです。
数日後、柳京守は任務を遂行して帰ってきました。彼は疲労困(こん)憊(ばい)のあまり、わたしを見るやいなや気を失ってしまいました。ぼろぼろになった靴を脱がせてみると、腐った足から血の混じった膿(うみ)が流れていました。それでも、重湯を口に流し込んでやるとかすかに目を開き、活動報告をするのでした。それによると、彼らは來皮溝一帯で遊撃隊と連係のある農民に会ったのですが、彼が心を許さないので郭(クアク)池(チ)山(サン)たちに会うことができず、あちこちさまよっているうちに魏拯民が死亡したらしいという噂を耳にしたということでした。
柳京守はできる限りのことをしたにもかかわらず、任務を果たせなかったことをしきりに悔やむのでした。ところが時を同じくして、別の班の責任者として王人脖子に工作に行っていた池甲竜は変節したのです。
まさに一九四一年の試練は、誰が真の革命家で、誰がえせ革命家であるかをいま一度見きわめる試金石といえました。こういった試練と点検は、祖国が解放されるまで間断なくつづいたのです。解放された祖国に凱旋した抗日闘士はみな、数限りない試練のなかで点検しつくされたかけがえのない人たちです。
池甲竜の変節後、われわれの居場所を知った敵は、血に飢えた狼のように押し寄せてきました。わたしは隊伍を率いて敵の包囲を巧みに切り抜け、大沙河、小沙河を経て安図方面に進出しました。
安図と撫松の広大な地域で活動しながら、われわれは以前結成した組織を拡大することに主力をそそぎました。
組織のメンバーを通じて、魏拯民が病死し、彼の写真入りの広告が明月溝の市街地に貼り出されたという風聞が立っていることを知ったのもそのころのことです。また、三〇余名の遊撃隊員が南蛤蟆塘・北蛤蟆塘一帯と明月溝、延吉付近で活動しているという情報も入手しました。それで、この地にもうしばらくとどまることにし、一つの班を沙河掌、南湖頭、大荒崴、北蛤蟆塘一帯に派遣しました。そして、わたし自身は残りの隊員を率いて白頭山方面へ向かったのです。
わたしは間白山密営に行ったとき、小部隊と政治工作班、革命組織の責任者たちを呼び集め、新たな情勢の要請に即して主体的立場を堅持し、われわれの力で朝鮮革命を完遂するための思想教育活動を強力に展開する任務を与えました。また、国内と西間島一帯ですぐれた青年を選抜し、極東の基地で訓練する準備と、その他の多くの力量を白頭山密営と間白山一帯でしっかり育て、全民抗争に対処する準備を進めるようにしました。その後わたしは、穏(オン)城(ソン)郡でもこのような方向で国内組織の活動を指導したものです。
白頭山一帯での活動を終えて帰ってくるときの道のりも容易ならぬものでした。各小部隊の襲撃にあわてふためいた敵が、われわれの行方を捜そうと血眼になっていたからです。そのころは、どこでも「討伐隊」がいないところはありませんでした。大道にもおり、山の頂にもおり、谷間にもいるというありさまでした。
延吉県老頭溝は敵の軍事上の要衝の一つであり、関東軍の憲兵隊や特殊部隊、満州国軍、警察などが根城にしているところなので、通過するのが困難でした。しかし、ここを通過しなくては、四方が広大な樹海に通ずる山地へ抜けることも、小部隊の集結地点に行き着くこともできなかったのです。
われわれは日本の軍服に着替え、夜間行軍によって老頭溝を通過することにしました。ところが、あいにくなことに老頭溝鉄道を横切る前に夜が明けてしまったのです。日中は行軍を中止し、安全なところに隠れていなければなりませんでした。山から見下ろすと、大道のそばに数戸の家があり、さほど遠くないところに停車場がありました。それで、日が暮れるまでその農家に潜んでいることにしたのです。隊員たちを各農家に配置し、わたしは沿道の家に入りました。そして、中国の農民に変装した隊員が手ぐわで畑の草取りをするふりをしながらあたりを見張り、ほかの隊員はみな休息をとりました。
昼時に黄みがかった洋服を着た男たちがやってきたかと思うと、わたしがいる家の戸を乱暴に開け放ちました。部屋の中に兵隊がいっぱいいるのを見た瞬間、彼らはびくりとしました。一番前の男があわててきびすを返そうとしたときに、隊員の一人が彼の背に銃を突き付けました。わたしはその男に、部屋に入ってくるようにと言いました。それまで彼らは、われわれが日本軍だと思っていたようです。わたしがあなたは誰かと聞くと、自分は協和会の会長だが、金日成部隊が出没しているという情報が入ったので村にやってきたと答えるのでした。それでわたしが、われわれがその朝鮮人民革命軍だと言うと、彼はわなわなと震えだしました。
われわれは彼から多くの重要な資料を得ました。その日、わたしは彼が持っていた新聞を読んで、独ソ戦争がはじまったことを知ったのです。彼の話によると、日本は急遽ソ満国境一帯に兵力を集結しており、遠からずして日ソ戦争がはじまるという噂も飛んでいるということでした。わたしは彼に、われわれが村を発ったあとに、金日成部隊が白昼に老頭溝の市街地を通過したということをありのままに警察に通報するようにと言いました。その後、通報を受けた敵は、金日成部隊がわれわれの目と鼻の先で飯を炊き、余裕しゃくしゃくと昼寝までしていったとは不可解きわまりないことだ、と上を下への大騒ぎをしたとのことです。
われわれは一人の犠牲者も出さずに、集結地点である汪清県夾皮溝に無事到着しました。そしてそこで、工作任務を終えて帰ってきた金一の小部隊と合流しました。
わたしは六月についで七月の末ごろ、來皮溝で再び小部隊責任者会議を開きました。夾皮溝会議を招集した目的は、日ソ中立条約の締結と独ソ戦争の勃発によって激変した国際情勢と関連して、朝鮮人民革命軍の全将兵と小部隊の隊員にたいする思想動員をすることにありました。
そのころ、独ソ戦争の勃発をめぐって小部隊の隊員たちのあいだで議論が紛糾していたのです。独ソ間の戦争が朝鮮革命に有利な展望を開くと評価する者がいるかと思うと、ソ連が東西から二大強国に挟撃されたら朝鮮革命に不利な影響を及ぼすと判断する者もおり、世界情勢が朝鮮革命に及ぼす影響は日本のソ連侵攻が現実になったときに考えるべき問題だと主張する者もいました。そこでわたしは、これらの議論を早急に一つの見解に統一し、全隊員に革命勝利の確信を抱かせ、祖国解放の大事を主動的に迎える準備をととのえるよう彼らをさらに力強く立ち上がらせるために、夾皮溝で会議を招集したのです。
夾皮溝会議では、各地に派遣されていた小部隊と班の活動状況も総括し、以後の活動方向について討議しました。
この会議でわたしが終始一貫主張したのは何だったでしょうか。それは、大勢がどう変わろうと動揺するな、ドイツがソ連に侵攻したのは自ら墓穴を掘ることにほかならない、日本もソ連を攻撃すればドイツと同じ運命を免れない、しかし日本にはソ連を攻撃するだけの力がない、列強の力関係を見よ、地球の形がどう変わろうとファシズムは滅び、民主勢力は勝利する、朝鮮革命にも必ず明るい展望が開かれる、だから一時的な難関を前にして動揺したり躊躇(ちゅうちょ)することなく、革命の旗をあくまで守り通すべきだ、自分の力で祖国を解放し、朝鮮革命を完遂するという信念と覚悟をもつべきである、ということでした。
この会議で、わたしは今後の小部隊活動の方向も示しました。もとよりわれわれの兵力を保持するために無謀な正面衝突や数量上優勢な敵との交戦は避けるべきではあるが、敵背攪乱作戦を果敢に展開しよう、軍需物資の輸送路と補給基地も奇襲しよう、祖国解放作戦のための偵察活動と大衆政治工作をさらに強化しよう、と訴えたのです。
八月の初めに、われわれは汪清――羅子溝間の道路工事現場を襲撃しました。当時、日本軍はソ満国境一帯へ通じるこの地域におびただしい兵力を集結していました。日本軍が群がっているこの地域で銃声を上げれば、それは効果てきめんだと思われました。戦闘をするからには敵地のど真ん中でやろうというのが、わたしの腹積もりでした。
二つの方向に遮断班を一つずつ派遣したあと、日本軍に変装したわれわれは威風堂々と工事現場に向かって突き進みました。そして瞬時にして道路警備兵の武装を解除し、兵舎の中にいた敵を制圧したのです。あまりにも素早いわれわれの戦闘行動に、工事現場の労働者たちは呆然としていました。「われわれは金日成遊撃隊です!」という柳京守の声を聞いて、ようやく彼らは四方から駆け寄ってきてわたしたちを抱きしめました。
労働者のあいだで政治工作をしたあと、われわれは汪清県北部地帯を迂回し、下方に太平溝村を望む山頂に至りました。この戦闘があって以来、汪清地方ではわれわれの噂が広く伝わったとのことです。
山頂から双眼鏡で太平溝村を見下ろすと李光(リグアン)の家が見え、呉仲洽(オジユンフプ)や朴吉松(パクキルソン)の家も見えました。家の庭を行き来する呉仲洽の父親の姿も目に入りました。わたしは金一に、この一帯で彼らと手を組んで地下組織をつくる任務を与えました。その後、金一は呉仲洽の父親呉昌煕(オチヤンヒ)と朴吉松の父親朴徳深(パクトクシム)と連携して地下組織をつくりました。彼は、汪清県南北大洞一帯の農民と小汪清駅の労働者のなかにも地下組織をつくりました。そのとき呉仲洽の父親は、金日成部隊がまた白頭山に現れたという噂が広まって人民は大喜びしており、革命勝利の確信にみちていると語ったそうです。
朝鮮人民革命軍の小部隊は、敵の集中輸送と移動が本格的に進められているソ満国境一帯で、敵の作戦を破綻(はたん)させるべく軍事・政治活動も少なからず展開しました。図們駅の構内で軍用列車を衝突させたのも、和竜県頭道溝と汪清県で移動する敵を奇襲したのもそのころです。
国内と東北地方での小部隊活動を成功裏に終えたわれわれは、八月に極東の臨時基地にもどりました。
一九四一年九月中旬に、わたしは前回の小部隊活動の成果をかためるため、再び小部隊を率いて満州と国内へ進出しました。そのときの主な任務は、安吉、金一、崔賢らの小部隊と連係を結び、彼らが収集した偵察資料を総合し、豆満江沿岸と国内各地で活動する小部隊、班の活動を現地で指導し、彼らに必勝の信念を植えつけることでした。これは、激変する情勢の要請に即して小部隊と班の活動地域を国内深くにまで拡大することによって、祖国解放の大事を首尾よく迎え、ソ満国境一帯における日本のソ連侵攻企図の有無を見きわめるうえでも重要な意義があったのです。
出発に先立ち、わたしは安英を夫人に会わせました。そのころ安英の夫人李英淑(リヨンスク)は北キャンプに来ていたのです。両親の仲立ちで村の夜学の先生をしていた安英と結婚した彼女は、夫と一緒に崔庸健(チエヨンゴン)の部隊で戦いました。その後、無線通信の技術を学ぶために安英がソ連に入って以来、音信が絶えていたのです。ところが、妻が北キャンプに来ていることを知ったのですから、会いたがらないはずがありません。それで、彼らを対面させました。困難な戦闘任務をおびて発つ人の心には、なんのわだかまりもあってはならないのです。妻に会ってきた安英は新たな力を得たようで、笑顔をつくっていました。
汪清方面に出たわれわれが宿営地に定めたところには川がありました。降りつづいた雨のため、水かさが増していました。李斗益(リドウイク)と全文燮がその川で釣りをしたのですが、なかなかの腕前でした。そのとき彼らは、朽ちた木の切り株に群がる赤蟻を食っていた熊までしとめたものです。われわれは熊を切り取り、一部は川瀬に浸けておきました。谷川の水は歯がしびれるほど冷たいので、肉を浸けておいても腐りません。メリケン粉も深い池などに保管しておけば、変質する心配がありません。メリケン粉を袋ごと水に浸けると全部濡れてしまいそうですが、そうではありません。実際は外側の一センチほどが濡れるだけで、中身は大丈夫です。山の生活が不便なのは事実ですが、それなりの妙策があり、生きる方法があるものです。
ある日、わたしは小部隊の指揮官たちを集めてその間に入手した偵察資料を総合し、情勢について討議しました。そのとき、彼らは多くの興味深い資料を提供しました。そして異口同音に、日本がソ連に侵攻するか否かは、もうしばらく様子を見なければ分からないが、目下の状況からしてただちに侵攻するとは考えられないと言うのでした。安吉は傍証として、鉄道を通過する貨車にかんする偵察資料をあげました。彼の話によると、日本の警官たちは住民を集めて、遠からずソ連と戦争することになる、だから防空壕も掘り、道路工事も早急に完了しなければならないとせき立てているが、運行する貨車を調べてみると、無蓋貨車には大砲や戦車が積まれているが、有蓋貨車はそのほとんどが空っぽだったということでした。
牡丹江地区で活動していた崔光(チエグアン)の班が収集した偵察資料も興味を引くものでした。彼らは駅の近くの山から、連日双眼鏡で国境地帯への敵の移動を偵察したとのことです。列車が入ってくるたびに、崔光は昇降口を見すえ、車両から下車する人数を数えました。ある日、タバコをくわえた将校がホームに降り立ちました。立ち居振る舞いがとりわけ傲慢に見えたせいか、それともタバコをくわえて偉そうにしているのが目立ったのか、とにかく崔光はその顔をはっきり覚えておいたそうです。ところが、翌日も崔光は昇降口から降り立つその将校を見かけたのです。きのう下車した彼がきょうまた下車するはずはないと、最初は自分の目を疑いましたが、間違いなくその将校だったそうです。その日も、彼はタバコをくわえていたとのことです。それで崔光は、敵は連日有蓋貨車で兵隊を輸送しているが、それは見せかけだと見破ったのです。それはきわめて重要な情報でした。
崔光が帰隊したあと戦友たちは、彼は愛煙家だからそんな情報をつかめたのであって、さもなければ気がつかなかっただろう、とひやかしたものです。日本の将校がくわえていたタバコに崔光が目をつけたので、おのずとその男を注視するようになり、それで前日見かけた将校であることがすぐ分かったのだというのでした。
このように崔光はタバコのおかげで重要な情報を得たわけですが、タバコが禍して処罰を受けたこともあります。崔光は一六歳のときに青年義勇軍の小隊長になりました。若少にして小隊長になったので、隊員たちはみな彼を青二才扱いにしました。それで崔光は自分が青二才ではなく一人前であることを示すため、タバコを吸いはじめたのです。そうして覚えたタバコでしたが、いつしかやみつきになり、しまいにはタバコが切れると我慢しきれないほどになりました。いつか戦闘に参加した彼が、戦利品として一袋のメリケン粉とタバコ入りの段ボールを背負って帰隊したことがあります。部隊では党会議を開いて彼を処罰しました。食糧事情が逼迫しているときに、どうせならメリケン粉を一袋でも余計に背負ってくるべきであって、食いもできないタバコを背負ってくるとはなにごとだ、処罰を受けるのは当然だ、ということになったそうです。
当時われわれが収集した偵察資料を総合してみると、日本はソ連に侵攻する実際的な準備ができておらず、日本軍がソ満国境地帯に兵力を集結しているように見せかけているのは、南方進出の企図を隠すための欺瞞策であると結論づけることができました。これは日本が北攻ではなく南攻を準備していることを推測させるものでした。これは、ソ連の対日軍事戦略の策定に大きく寄与しました。
われわれは一一月の中旬に基地に帰ってきたのですが、そのときセッピョル郡煙峰(ヨンボン)にも立ち寄りました。
わたしが小部隊を率いて活動してきたあと、各小部隊が国内と満州に進出しました。姜健(カンゴン)の小部隊は一九四一年の末に牡佳線の新家店付近で敵の軍用列車を的にした大規模な伏兵戦を断行し、日本軍将校を乗せた客車とともに、装甲車とガソリンを満載した車両を一瞬のうちに炎上させました。朴成(パクソン)哲(チョル)の小部隊は一九四二年の早春に東寧県と寧安県、蚊河県一帯で活動しました。彼らは寧安県老松嶺と蚊河県青溝子、五常県一帯にとどまって活動していた戦友たちを捜し出して隊伍を拡大し、敵と度重なる遭遇戦を展開しながら、その年の九月まで小部隊活動をつづけて基地に帰ってきました。東北抗日連軍の柴世栄の小部隊は、寧安県、穆棱県、牡丹江周辺で活動したのですが、めざましい実績をあげて基地に帰ってきました。
わたしは第一段階における小部隊活動の成果を総括しながら、極東の臨時基地から再び国内と東満州一帯に進出したのは正しかったと考えました。なによりも、新たな状況下で大部隊活動から小部隊活動に移行したのはきわめて時宜にかなった措置であり、小部隊活動が大部隊活動に劣らず敵に甚大な政治的・軍事的打撃を与え、人民を反日抗戦へと大いに鼓舞するということをじかに体験しました。
小部隊活動の過程で達成した成果は、すべての指揮官と隊員に最後の勝利の確信を抱かせました。われわれの小部隊活動は内外の人民に、革命軍は依然として健在であり、敵に痛撃を加えて勝利に勝利を重ねており、革命軍のまわりに全人民が結集して民族あげての抗争をくりひろげるならば、十分、日本帝国主義を打倒し、祖国解放の日を迎えることができるということをはっきりと示しました。
「東南部治安粛正特別工作」と大規模な「討伐」作戦によって遊撃隊を掃滅したかのように空威張りしていた日満軍警は、われわれの巧みな小部隊作戦のために窮地に追い込まれ、あわてふためいたものです。
朝鮮人民革命軍の小部隊活動は、国際連合軍の編制と前後していっそう活発に展開されました。われわれはそのころ、目前に迫った最後の対日作戦を見通し、その遂行に資する軍事偵察活動と全民抗争の準備に主眼を置いて、小部隊活動の幅と深度を増幅していったのです。
その時期の小部隊作戦は、朝鮮人民革命軍主力部隊のメンバーで組織された小部隊の活動を基本とし、国際連合軍の別働隊に所属して活動していた朝鮮人民革命軍隊員の軍事偵察工作を結合する方法で進められました。当時の活動条件と軍事・政治情勢の要求からして、おのおのが独自に活動しながらも、必要な場合は互いに補足し協力するといった活動方式は、小部隊活動の政治的・軍事的成果をかため、さらに拡大していくことを可能にしました。
国際連合軍が組織されたあとの小部隊活動の特徴は、班活動を基本としながらも、これに比較的大がかりな小部隊活動を組み合わせる原則を堅持したことです。この原則にもとづき、軍事作戦においても班による活動に主力を置き、これに小部隊による襲撃戦と伏兵戦を適切に組み合わせたのです。

国内と満州で朝鮮人民革命軍の小部隊と班の活動が日増しに強化されていたことを示す資料を紹介する。
「…新ニ入満シタル金日成、崔賢、柴世栄ナドハ…武力抗争ノ不利ヲ覚リ、主トシテ軍事、産業、経済方面ノ重要施設ノ破壊、民衆ノ赤化工作或ハ暴動誘発、士兵工作等ノ謀略的挙ニ出ラントスル傾向極メテ濃厚ニシテ」〔牡丹江領事代理古屋報告 昭和一六年(一九四一年)六月二三日〕
「一九四二年初、北部朝鮮で朝鮮のパルチザンは一連の戦闘作戦によって、日本の飛行機二二機と格納庫二つを破壊し、油槽船二隻と漁船九二隻を沈没させた」〔べ・ヤロボイ『朝鮮』 四四ぺージ 一九四五年九月 ソ連海軍出版社〕

国内と満州に派遣された小部隊は敵軍切り崩し工作も展開しました。小部隊の積極的な活動により日本軍の内部では厭戦(えんせん)思想がさらに蔓延(まんえん)し、軍隊に強制徴集された朝鮮の青年たちが武器を携行して脱走し、朝鮮人民革命軍の班員を訪ねてくるといった事件が続出しました。敵の航空隊のパイロットも暴動を起こして人民革命軍を訪ねてきたものです。
小部隊活動で得たもっとも大きな成果は、われわれを壊滅させようとした敵の企図を破綻させ、われわれの力量を保持、蓄積しながら、祖国解放の大事を迎える準備を着実に進めたことです。小部隊活動によって朝鮮人民革命軍がおさめた政治的・軍事的成果は、祖国解放の日を早めるりっぱな促成剤となりました。


五 信念と背信

最近、各新聞に抗日パルチザン参加者の回想記がまた掲載されていますが、それはたいへん結構なことです。
抗日パルチザン参加者の回想記は、その一つ一つがりっぱな教育的価値をもつわが党の貴い財宝です。「必勝の信念」も何とりっぱな内容ではありませんか。朝鮮人民は一九六〇年代にこの回想記をさかんに読みました。戦後、経済の復興と国の工業化を実現するうえで、抗日パルチザン参加者の回想記は大きな役割を果たしました。情勢がきびしく闘争が困難であるほど、「必勝の信念」のような回想記を多く読む必要があります。それは、情勢がきびしく闘争が困難になると動揺分子が現れるからです。
革命の途上、「苦難の行軍」のようなきびしい試練の時期が到来すると、革命的信念の薄弱な人たちのあいだには落伍者と逃亡者、投降分子が現れはじめました。
ソ連と日本の間に中立条約が締結されたときにも、われわれの隊伍からは動揺分子、逃亡者が現れました。回想記「必勝の信念」に出てくる池甲竜(チカプリヨン)も、そのような逃亡者の一人です。
日ソ中立条約は一九四一年四月に締結されました。わたしが小部隊を率いて活動していた時期です。日本の外相松岡がドイツ訪問の帰途、モスクワに立ち寄って中立条約を締結したのですが、その余波が人民革命軍にまで及びました。
締約双方が平和関係を維持すること、相互に領土の保全と不可侵を尊重すること、ある一方が第三国との紛争状態に入った場合、中立を守るというのがこの条約の骨子でした。このように、条約には朝鮮問題にかんする条項は一つもありません。朝鮮問題が上程されていないので、とくに朝鮮人の神経にさわることもありませんでした。しかし、少なからぬ朝鮮の革命家は、日ソ中立条約締結のニュースを聞いて失望しました。ソ連をもっとも信頼すべき同盟者とみなしていたのに、その同盟者が日本のような敵国と手を結ぶようになると、万事休すと考えるようになったのです。相互に領土を尊重し、平和関係を維持するというのはとりもなおさず、ソ連が日本と戦争をしないという意味ではないかと解釈して失望したのです。
このような判断は結局、隊伍の片隅に悲観主義と敗北主義、投降主義を生むことになりました。
日本は日ソ中立条約の締結後、それを大々的に宣伝しました。彼らはスターリンと松岡が会見する写真を新聞に載せましたが、それが動揺分子の心理に大きな刺激を与えたのです。
しかし、隣国で何かの条約が締結されたからといって、朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の根本的立場が変わるわけではないのです。われわれが革命をはじめるとき、ある特定の大きい国を頼んではじめたでしょうか。われわれは自己の信念にもとづいて革命をはじめたのであって、誰かの力を頼んで革命をはじめたのではありません。武装闘争をはじめてからも、隣国から手榴弾の一発さえ支援を受けたことなどありません。われわれは自国の人民の力を信じ、すべてを自力で解決しながら武装闘争をくりひろげ、党建設や統一戦線運動をおこなったのです。
その過程で中国人との共同闘争もおこない、ソビエト人との連合戦線も結成しました。同盟者があればよく、なくてもかまわないというのがわれわれの一貫した立場でした。それで武装闘争を開始した当初から、軍隊と人民を自主意識で教育し、自力更生の革命精神で武装させたのです。自主に徹すれば生き、外部勢力に依存すれば奴隷になり、自力更生をすれば栄え、そうでなければ祖国を解放することも、新しい国を建設することもできないとくりかえし強調してきました。
ところが、一部の指揮官は自力解放や自力更生を鼓吹する教育には力を入れず、日ソ間の矛盾やソ連の強大さについてのみ強調したので、ソ連と日本が戦争をしてこそ朝鮮解放の決定的な契機が到来し、ソ連のような大国の支援を受けてこそ日本を打ち破ることもできるという事大主義的な病菌が池甲竜のような人の頭を冒すようになったのです。
日本の外相がモスクワに行ってソ連と中立条約を締結したのは、一つの欺瞞(ぎまん)策にすぎませんでした。当時、日本は虎視(こし)眈々(たんたん)と北進の機会をうかがっていました。北進とはソ連を侵攻するということです。日本とドイツは、ソ連を侵攻するとき相互協力することを密約し、ウラルを境にしてソ連の広大な領土を東部と西部に二分してそれぞれ占拠するという分割案まで作成していたのです。しかし、国力が劣る日本としては、まだソ連を侵攻するのは時期尚早でした。それで南進論が優勢になったのです。東南アジアを席巻して戦略物資の予備を十分に蓄え、ヒトラー・ドイツがソ連に致命傷を負わせた後に極東に攻め入ってウラル界線まで一挙に占領しようというのが日本の魂胆でした。言わば、柿の熟するのを待って取りこもうとする策略でした。ソ連との中立条約は、この日程表にともなう一つの欺瞞策にすぎなかったのです。
中立条約が締結されてから二か月が過ぎてドイツ軍のソ連侵攻が開始されると、日本は遅滞なく「関東軍特別演習」を発令しましたが、これはソ連にたいする宣戦予告にひとしいものでした。この演習のとき、ソ満国境の関東軍兵力が二倍に増強されたというのですから、日本人の魂胆が十分うかがえるはずです。中立条約締結の立役者だった松岡自身が先頭に立って、ソ連との即時開戦を主張したという事実によっても、われわれは日本の支配層がいかに狡猾(こうかつ)で、破廉恥な連中であったかをうかがい知ることができます。
では、ソ連は日本のこのような欺瞞策を看破できなかったのでしょうか。ソ連は日本の策略をあまりにもよく見透かしていました。しかし、日本が進んで訪ねてきて平和関係の維持だの、領土の尊重だのと言うのですから、日本とドイツの合作による東西挟撃をかなり警戒していたソ連としては、これ幸いと思わざるをえなかったのです。当時ソ連には、ヒトラー・ドイツの侵攻という未曾有の重大な国難が目前に迫っていました。西部国境一帯に集結しているドイツの大兵力がいつ攻めてくるか分からない状況下で、シベリアを虎視眈々と狙っていた日本が中立を標榜したことは、ソ連に東西の両面戦争を遅延させる可能性を与えました。
日本の外相松岡がモスクワを発つとき、スターリンが駅頭にまで出て見送ったという事実によっても、われわれは独ソ戦争を前にしたソ連指導部の心理状態をうかがうことができました。それゆえ、中立条約の締結を契機にソ連が日本の友邦になったとするのは、愚にもつかない見解だといえました。
情勢が緊張をきわめるほど、それにたいして正確な評価と判断を下さなければなりません。表面の現象だけ見て、その本質を見きわめられなければ、往々にして取りかえしのつかない失策を犯すものです。池甲竜の実例がそれを示しています。
池甲竜が逃亡した事件を王人脖子事件とも呼びます。この事件が起きたのは一九四一年の春で、わたしが小部隊を率いて安図地方で活動していたときでした。当時わたしは寒葱溝に基地を定め、各地方に派遣された小部隊と班の活動を指導していました。小部隊活動の過程でもっとも障害となったのは、住民がみな集団部落に閉じこめられていることでした。彼らとの連係をつけようにも、思うようにいきませんでした。唯一の方法は、山中を出歩く狩人や炭焼き、薬草の採集者たちを通じて連係をつけることでした。
当時、狩人は早春から秋にかけて鹿柴を仕掛ける方法で鹿を捕っていました。鹿柴とは鹿を捕る落とし穴のことです。穴を深く掘ってその中に先のとがった鉄製の槍をたくさん突き立て、その上に鹿が通るとすぐ折れる細い木の枝を渡し、その上にカヤを敷いて塩をまいておきます。鹿が塩を食べようとカヤを踏めば穴に落ちて槍に刺される仕掛けになっています。鹿柴を仕掛ける人たちとうまくかけあうならば、地下組織との連係をつけ、敵情を探知することもできるはずでした。
わたしは小部隊をいくつかの班に分け、任務を与えて各地に派遣しました。池甲竜と金鳳(キムボン)禄(ロク)は安図県王人脖子に派遣されました。彼らには地方工作を進めながら食糧を調達する任務が与えられました。
各地方に派遣された班の責任者は、司令部の命令どおり五日に一回ずつ必ず活動報告を寄こしました。しかし、どうしたわけか池甲竜の班からは何の報告もありませんでした。それは非常事態でした。王人脖子に確実な人を送って実態を確かめるべきでしたが、司令部に人員がいなくてそれができずにいるところへ、柳京守(リユギヨンス)の班が司令部に帰ってきました。その班には金益顕(キムイクヒヨン)と中国人の徐宝仁という隊貝が属していました。三人ともオノオレカンバのようにがっちりした体軀の持ち主でしたが、そのさまはまったく見るに堪えないものでした。
食糧が切れて苦労し、富爾河が氾濫して二倍も遠回りして苦労し、また胃痙攣(いけいれん)を起こして苦労したうえに、大蒲柴河かどこかを通過するときには農夫を装った琉球人移住民の武装集団に遭遇してその追撃を振り切るのに並々ならぬ苦労をしたとのことでした。
わたしはその琉球人移住民の武装集団の話を聞いて、日本帝国主義者がいかに陰険で狡猾な連中であるかをあらためて思い知らされました。
柳京守と金益顕の話によれば、その武装集団は一〇〇人ぐらいだったとのことです。農民姿の人たちが畑で春作の種播きをしていたので、彼らに食糧を頼んでみようとしたのが禍の元になったのです。道端に隠れて機会をうかがっていた三人は、畑のへりに出てきた一人に声をかけました。わたしたちは抗日パルチザンだ、金は払うから食糧を少し買ってきてもらえないだろうか、と頼みました。ところがその農民は何も聞き取れませんでした。朝鮮語も中国語も通じないので、言語障害者かと思って手まねで意思表示をすると、やっと通じたそうです。隊員たちに頼まれて畑の方へのろのろときびすを返したその農民は、突然叫び声をあげるのでした。すると、野良仕事をしていた連中が四方に散ったかと思うと、石塚や草むらの中から銃を取り出し、柳京守らに向けて射撃をはじめました。大勢の人が何か大声をあげながら襲いかかってきました。それと同時に機関銃も火を噴きはじめました。彼らは機関銃を二挺も持っていたそうです。それこそ大きな罠(わな)でした。
柳京守らは二キロ以上も走りつづけてやっと彼らの追撃をかわしたのですが、そのときはもう眼をあける気力さえなくなってしまいました。幸いにも一行は、主のないジャガイモ畑で種芋を一たらい掘り出し、それを煮て食べました。その代金として五〇元を油紙に包んで棒の先につるし、主人の目につきやすい畑のへりに立てておきました。役牛一頭の値段が五〇元ぐらいだったのに、一たらい分の種芋の代金として五〇元も払ってきたわけです。
機関銃まで持った琉球人移住民の武装集団に遭遇した事実は、この時期の小部隊活動がいかに困難な状況下でくりひろげられたかをよく物語っています。敵は、革命隊伍を切り崩そうとありとあらゆる手段と方法をつくしたのです。
金益顕はひどく疲れていましたが、池甲竜の班の実態を調べる課題が提起されたことを知り、自分が行ってくると申し出ました。翌日、わたしは金益顕を王人脖子に派遣しました。金益顕は班の活動状況を調べる過程で、班責任者の池甲竜が敗北主義に陥って司令部から与えられた任務を一つも遂行していないことを知りました。池甲竜は、日がな一日、大半の時間を山頂から村を見下ろすだけで過ごしていました。金鳳禄は、食糧を切らして四日間、何も口にしていない状態だと言って草小屋に横たわっていました。工作任務を遂行できなかったうえに、気力も尽きて、司令部へ報告しにいくことはとうていおぼつかないとのことでした。
金益顕は草小屋にもどってきた池甲竜にこう諭しました。「工作任務を受けてからもう一〇日近くなるのに、司令部に報告もせず、腕をこまぬいていてよいものか。今夜でも狩人に会って工作をはじめよう」
しかし池甲竜は、いまは敵情がきびしくて動くのは危険だから、待つしかないと言うのでした。金益顕がいくら説得しても聞き入れませんでした。
翌朝、池甲竜は金益顕と金鳳禄が洗面に行ったすきに彼らの銃を奪い取り、こう言いました。
―― わたしはこれまで一〇年近く武装部隊と一緒に行動した。その過程で苦労という苦労をなめつくしながらも、苦労の末には朝鮮が独立するものと考えて耐えぬいてきた。しかし、いまはその夢が破れてしまった。きみたちも知っている通り、日ソ間には中立条約が締結された。わたしは、ソ連と日本の間には根深い敵対的矛盾があり、やがて戦争が勃発するものと信じてきた。戦争が起これば、ソ連軍と協同して日本軍を撃滅し、祖国を解放できるものと考えていたが、もはやそれも望めなくなった。だから、こんな空しいことはまっぴらだ。そのうえ持病までこじれてどうしようもない。わたしは家に帰るつもりだ。
金益顕はそれを聞いて、本気で言っているのかと問い質しました。池甲竜は「本当だ。いく日も考えつづけて決心したことだ。きみたちも行く気があるなら、一緒に行こう」と言うのでした。
金鳳禄は唖然とし、涙ながらにやり返しました。「逃げたければきみ一人で行け。わたしは死んでも司令官同志のもとへ帰って死ぬつもりだ。革命の前途が暗くなったからと、司令官同志を裏切って逃げる法がどこにあるのか」
池甲竜は「部隊を離れても林水山(リムスサン)のような犬にはならないから信じてくれ。どこへ行っても人間らしく生きるつもりだ」と言いました。
すると金益顕が面詰しました。
「革命はお先真っ暗だとしても、わたしたちは司令官同志を裏切ってきみについていくことはできない。時局がよいときにはしたがい、きびしいからと退くなら、それが人間の踏む道といえるのか。きみはどこへ行っても人間らしく生きると言ったが、山を下りてみろ。いくら人間らしく生きたくてもそれはできない。銃を手離す瞬間からきみの価値は、道端の石ころにも劣るものになる。林水山がどんなざまになり、崔容彬(チエヨンビン)や金白山(キムベクサン)がどんなざまになったかは承知しているはずだ。だから敵の側には絶対につくな。そして銃は返してくれ」
池甲竜は「わたしはもう決心したことだ。山を無事に下りるまで銃は返せない。銃はこの草小屋から遠くない橋のたもとにかけておく」と言いました。池甲竜が草小屋を去って山を下りた後、金鳳禄は橋のたもとに行って二挺の銃を取りもどしてきました。
池甲竜の逃亡後、金益顕と金鳳禄は約束の連絡地点へ向かいました。数日間、何も口にしていないうえに、途中で敵に遭遇したりしたので、予定の時刻よりかなり遅れて連絡地点に到着しました。そのため、わたしが派遣した連絡員に会えなくなりました。遊撃隊では、小部隊が地方工作に出かけると指揮部を移し、その代わりそこに連絡員を派遣するのを原則としていました。
二人は連絡員には会えませんでしたが、連絡地点を離れず、草の煮炊きで食いつなぎながら司令部との連係がつく日を待ちました。たらいに草を入れ、塩をふって煮ると草色の水がにじみでますが、それを少しずつすすって飢えをしのぎました。ある日は、数か月前に食べすてた牛の骨を煮てみると、汁のうえに白い米粒のようなものが浮きました。それは米でなく、骨の中にあったウジでした。その汁に酔った二人は前後不覚に陥ってしまいました。
数日後、餓死寸前の状態になった彼らは、皮のはげた木に焚き火の跡から拾った炭で、池甲竜は逃亡し、金益顕と金鳳禄は飢え死にしたと書き込みました。そして、草むらの中に並んで横たわり、死が訪れるのを待ちました。もし、あのときわたしが全文(チヨンムン)燮(ソプ)を連絡地点に派遣しなかったならば、金益顕と金鳳禄は名も知れぬ草むらの中で一握りの土くれとなってしまったことでしょう。
木の文字を発見した全文燮が山中を歩きまわって彼らの名前を呼びつづけましたが、金益顕と金鳳禄は気力が尽きて答えることすらできませんでした。全文燮は、蚊の鳴くような呻き声を聞きつけてやっと彼らを見つけ出しました。全文燮は二人を司令部まで連れてくるのに並々ならぬ苦労をしました。のちには彼自身も力が抜けて、足もとがおぼつかないありさまでした。しかし、全文燮は渾身の力をふりしぼって、二人を司令部にまで連れてきました。金益顕と金鳳禄は、重湯を少し吸わせると、ようやく失神状態から覚めました。
これがほかならぬ王人脖子事件なのです。わたしはこの事件を通じて大きな教訓を汲み取りました。
もっとも深刻な教訓はなんでしょう。それは、事大主義を克服して自分の力を信じるように教育する必要があるということでした。
池甲竜の逃亡は、革命勝利の信念を失ったために生じた事件であると同時に、事大主義のために起きた事件でもありました。その事大主義とは、ソ連にたいする事大主義でした。一部の指揮官は隊員にソ連にたいする幻想をいだかせ、日ソ間の矛盾によって戦争はいつか必ず勃発する、そうなれば日本帝国主義は滅亡する、というような認識を与えたので、このようないまわしい事態が生じたのです。一部の隊員のあいだにソ連にたいする事大主義があったのは事実です。強国の周辺にはつねに追従したり、偶像化したりする人たちが生まれるものです。そのため、スターリンと松岡の会見写真を見ただけで、朝鮮革命の前途が真っ暗だと考え、ひいては逃亡することまで考えるようになったのです。
われわれは池甲竜の逃亡のような事件が二度と起こらないように、「われわれの力で朝鮮革命を完遂しよう!」というスローガンをかかげ、事大主義を一掃する闘争を強力に展開しました。
わたしが王人脖子事件を通じて得たいま一つの重要な教訓は、革命家の生命は信念にあり、信念が崩れれば革命家の生命も尽きてしまうということです。
池甲竜が逃亡したのは革命勝利の信念を失ったからであり、金益顕や金鳳禄が逃亡せず、司令部に帰ってきたのは、草の煮炊きで飢えをしのぎながらも信念を守り通し、草むらの中に横たわって死を待つ瞬間にも、自分たちは死んでも革命は勝利するという信念をいだいていたからです。
信念は革命家の生命です。革命勝利の信念はどこから生まれるのでしょうか。それは自己の力を信じることから生まれるのです。自分の指導者への信頼、自分自身の力、自分の属する集団の力、自国人民の力、自分の党の力を確信するときにのみ革命家の信念が守られるのです。
人間は誰でも一定の信念をもって革命の道を踏み出すものです。要はその信念をどれほど長く守るかということですが、それは練磨の度合によって決まります。練磨の過程を十分に経ていない信念は、やがて腐敗し変質してしまいます。信念を練磨する手段となるのは、ほかならぬ組織・思想生活と革命的実践を通じての政治的・思想的鍛練です。
一部の人は、あたかも革命参加の年期が長ければ、自然に信念も強くなるかのように考えていますが、信念は年期によって決まるものではありません。年期は長くても自己修養を怠れば信念の上では弱者となり、年期はわずかでも自己修養を着実につめば信念の強者となるものです。
池甲竜にしても、年期からすれば金益顕や金鳳禄よりはるかに先輩といえます。彼は一〇年近く遊撃隊生活をした人です。金益顕がそれまで人民革命軍に服務した年数は四年でした。金鳳禄の場合は二年にしかならないので新入隊員ともいえるくらいでした。ところが、変節したのは誰だったのでしょうか。遊撃隊経歴の長い池甲竜は逃亡しましたが、後輩の金益顕と金鳳禄は節操を守り通しました。これは、年期が長く闘争功労の大きい人であっても、信念を失えば変質してしまうことを示しています。
池甲竜は建軍草創期から遊撃隊生活をしてきた人で、手柄も立てて中隊長にまで抜擢されました。ところが、きびしい時期が到来すると動揺しはじめました。最初は胃腸病を口実に革命任務の遂行に身を入れませんでした。それで女子隊員たちが腹巻きをつくってやったものです。持病で苦労する人だと同情し、特別に関心も払いましたが、しまいには困難に屈して逃亡してしまったのです。信念をもっていたときには、それでもよく戦ったのに、信念を失うと落伍者となり、信義も投げすててしまったのです。
林水山の場合も、革命参加の年期が短くて変節したのではありません。革命参加の年期からすれば、長老格といえました。八道溝鉱山で労働をしていた朴成哲(パクソンチヨル)が遊撃隊に入隊しようと蔵財村を訪ねたのは一九三三年でしたが、そのころ林水山はすでにそこで延吉遊撃隊第二中隊の政治指導員を務めていました。彼は朴成哲に、組織のルートを踏まずに来たからとして、ただちに帰れ、とどなりつけました。
林水山は入隊前に中学校にも通い、教員を務めたこともあります。背丈は六尺もあって、金一(キムイル)よりも高いくらいでした。ハンサムで見識もあり、口達者だったので、初期には戦友から好感も持たれました。ところが、しだいに彼の下地が現れはじめました。隊員のあいだでは彼を非難するうわさが広まりました。林水山という人間は口先ではもっともらしいことをよく言うが、実際は臆病者だというのです。
一九三八年の春、われわれは一か月の間に二回も六道溝戦闘をおこないましたが、それにはわけがあったのです。最初の戦闘は林水山が指揮したのですが、九分通り勝利した戦闘を台無しにしてしまいました。六道溝は一,〇〇〇戸あまりの人家が密集している大きな城市でした。城市内に敵兵がいくらもいないという報告を受けた林水山は、ただちに連隊を率いて六道溝の市内に攻め入りました。ところが、戦闘がはじまると間もなく、予期しなかった敵の部隊に遭遇しました。偵察兵が敵情をさぐった後に六道溝に新たに現れた部隊でした。連隊が城市に攻め入ったときは、敵が酒宴に興じている最中でした。ですから十分掃滅できる状況でした。しかし林水山は、敵の兵力が数量上優勢であることを知ると、恐れをなして退却命令を下しました。この命令は、遊撃隊を攻勢から守勢に立たせました。隊員たちはあっけにとられて戦闘を中止し、敵はそのすきに乗じて機関銃を乱射しながら反撃に転じてきました。結局、部隊は何の戦果もなしに六道溝の市街地から退却しました。
この戦闘があった後、敵は遊撃隊の攻撃を撃退したと大々的に宣伝しました。それを聞いた人民は、誰もが失望してしまいました。林水山の失策によって、最初の六道溝戦闘はこのように人民革命軍の権威に汚点を残したのです。
それでわたしは、六道溝戦闘をやり直すことにしました。わたしは部隊を率いて城市を攻撃し、一挙に六道溝を陥落させました。それ以来、敵は遊撃隊の攻撃を撃退したという宣伝を中止せざるをえませんでした。
われわれは指揮官会議を開き、林水山の過ちを批判しました。思想的に分析すれば、その過ちの主たる要因は卑怯さにありました。ところが、林水山は批判を受けた後も過ちを是正しませんでした。
「苦難の行軍」のときにも司令部から与えられた任務を遂行せず、後方密営に閉じこもって安逸をむさぼりました。北大頂子会議でまた、過ちを是正していない彼を批判しました。なかには、林水山の参謀長の職責を解任しようと提起する人もいました。しかし、わたしは彼にもう一度過ちを是正する機会を与えました。
林水山は、われわれのこの信頼に変節をもってこたえました。武装闘争の長期化に倦怠感を覚えた彼は、「野副討伐隊」の出現とその類例のない規模を見て戦々兢々としていた折、東牌子密営で単独任務を遂行することになったのを奇貨に敵側に寝返ってしまいました。それも一人で逃亡したのでなく、敵と内通して密営の周辺にあらかじめ「討伐隊」を待機させ、数多くの戦友を敵に捕らえさせたのです。少なからぬ隊員が敵に逮捕されたのは、林水山のためでした。
その林水山が、しまいにはわたしを捕らえようと、司令部にまで「討伐隊」を引き込んできたことがあります。
いまになって思い返してみると、林水山が戦場で銃を射つのを見た覚えがありません。彼は政治活動を口実に敵の銃弾がとどかない所ばかりうろつき回っていました。
林水山が投降したとき、敵は虎でも生け捕りにしたかのように得意になり、金日成パルチザンの五指に入る大物が多数の部下を連れて大日本帝国に帰順したと鳴物入りで宣伝したものです。
正直な話、林水山の投降はわれわれの隊伍に少なからぬ衝撃を与えました。みな深刻な顔になり、数日間、口もよくききませんでした。林水山の変節によって、われわれの部隊は事実、かなりの被害をこうむりました。
しかし、わたしはおじけもせず、気を落としもしませんでした。林水山は堕落分子でした。堕落分子とは、思想的に腐敗し変質した者をいいます。そのような者が隊伍内にいては、害毒を及ぼすだけです。
革命の過程で背信者が現れるのは、どの時代にもみられる一般的な現象です。国際共産主義運動史にはスターリンや周恩来、テールマン、チェ・ゲバラのような人物ばかりがいたのではありません。自分の領袖とその偉業に背いた人も少なくありませんでした。ベルンシュタインやカウツキーも、マルクス、エンゲルスを崇めた人たちでしたが、歴史には背信者として記録されています。彼らはマルクス主義にも背き、自分たちの教師であり革命先輩であるマルクス、エンゲルスをも裏切りました。一時、ソ連共産党の要職にあったトロツキーもソビエト国家の敵となりました。張国燾は毛沢東と中国共産党に背いて蒋介石のふところに逃げ込みました。背信者の末路はいずれも惨めなものでした。そういう連中が革命を裏切ったからといって、革命が挫折したり後退したでしょうか。かえって背信者が除去されるたびに、革命は新たな活力を得て高揚したものです。トロツキーが清算されたのち、ソ連の社会主義建設は目覚ましいテンポで進んだではありませんか。トロツキーは、自分がいなければスターリンの施策はすべて無意味なものとなり、ソ連という国が滅びるかのように考えましたが、ソ連人民は自国を世界一の社会主義強国に変えました。張国燾が共産党に背を向けて国民党の食客になった後、中国革命は衰退したのではなく、かえって上昇の一路をたどって全国的な勝利を達成しました。
林水山が敵に投降して司令部の秘密を全部売り渡し、「討伐隊」を連れて歩きまわり、われわれに被害をこうむらせもしましたが、朝鮮人民革命軍は弱体化したり崩壊したりはしませんでした。彼の変節以後、われわれの隊伍はいっそう鉄のように団結し、朝鮮革命は自らの純潔をしっかり保ち、最後の勝利をめざして力強く前進しました。
革命の背信者は戦後、わが国で社会主義建設が進められた時期にも現れました。崔昌益(チエチヤンイク)、尹公欽(ユンゴンフム)、李弼奎(リピルギユ)をはじめ朝鮮人民の前進運動に障害をつくりだした連中は、彼らの分派的企みが実現できなくなると、党に背き、祖国を裏切る道に走りました。ところが、彼らが排除されると、朝鮮革命には新たな高揚が起こり、チョンリマ(千里馬)時代が開かれました。そのときから、世界はわが国をチョンリマ朝鮮と呼ぶようになったのです。
背信者は民族主義運動の隊伍にも現れました。崔南善(チエナムソン)のような人を例にあげることができます。三・一人民蜂起のとき、彼が独立宣言書の起草に関与したことは周知の事実です。いつか彼の白頭山紀行を読んだことがありますが、一字一句ごとに愛国心が脈打っていました。愛国の士として知られたその彼が突然、良心と信念をすてて背信と反逆の道に走ったのです。抗日武装闘争がもっともきびしい試練に直面していた一九四〇年代の初期、崔南善は、わたしの名前を大きくあげて投降を促す勧告文まで書いて飛行機で散布しました。

ここに崔南善が幾人かの親日分子と連名で書いた勧告文の一部を引用する。
「荒涼たる山野を当てもなく徘徊しながら雨露にうたれて野宿をする諸君! 密林の原始境で近代文化の光明を見ず、不幸な妄信のため貴い生命を鴻毛(こうもう)のごとく賭している哀れな諸君! 諸君の呪わしい運命をいさぎよく清算すべき最後の日は来た。生きるか死ぬか…
おお、密林を彷徨する諸君!
この勧告文を見てただちに最後の断案を下し、更生の道に進み出よ。恥を恥と知り、懺悔すべきことは懺悔し、これまでの君等の世界に類なき不安定な生活から即刻脱離して、同胞愛の温情のもとにもどれ。そして、君等の武勇と意気を新東亜建設の聖業に転換奉仕せよ! 時はまだ遅くない!…
東南地区特別工作後援会本部
顧問 崔南善…
総務 朴錫胤…」
〔雑誌『三千里』 昭和一六年(一九四一年)一月号 二〇六~二〇九ぺージ〕

朝鮮人民革命軍部隊に「忠清(チユンチヨン)道の医者」というあだ名で呼ばれる五〇代の医者がいました。それが劉漢鐘(リユハンジヨン)です。彼はわれわれの部隊で数か月間、われわれとともに各地を歩いて戦傷者の治療にあたりました。知ってみると、非常に実直な人でした。
劉漢鐘は数本の金製の鍼(はり)とメス一刀を持って外傷という外傷は全部治しました。医術がすぐれているうえに誠意も一通りのものではなかったので、隊員たちはみな彼を尊敬しました。わたしも彼を尊敬し大事にしました。野宿の多い日々だったので、いつだったか彼に熊の皮を贈ったこともあります。城市攻略戦闘をして戦利品をろ獲するたびに、わたしはまず医薬品や医療器具から探し出して彼に与えるよう隊員たちに指示したものです。
劉漢鐘の健康がたいへん悪化したので、一九四〇年一月初に彼を家に帰しました。その年齢で山中で遊撃隊の生活をするのは、並みの意志や覚悟をもってはできないことでした。しかし、彼は三か月後に再びわれわれを訪ねてきました。
「数か月間、妻がつくってくれるご飯を食べながらぜいたくをしましたが、それも養分にはならず、飯粒がのどにひっかかる思いがしてなりませんでした。わが家に閉じこもってしがない命をつなぐだけなら、それが何の人生といえるでしょうか」
劉漢鐘はこう言って目をうるませるのでした。清らかな良心の持ち主でなくてはとうてい到達しえない高い次元の考え方でした。しかし、彼の健康状態では部隊生活をつづけるのは不可能でした。彼を説得するのに手を焼いたことがいまも思い出されます。劉漢鐘はたいへん残念がりながら家に帰りました。
解放直後、彼は娘を連れてわたしを訪ねてきました。彼とうれしく再会したときのことが、いまもまざまざと思い出されます。彼はわたしの手を握りしめ、「元気な将軍にお目にかかれてもう思い残すことはありません」と言って感激の涙を流すのでした。わたしは、日本帝国主義者を追い出したのだから、一緒に建国事業に邁進しましょう、と励ましました。
その後、劉漢鐘は平壌(ピヨンヤン)に腰を据えて革命家後援会の活動にたずさわり、平壌学院の軍医も務めました。彼の娘は北朝鮮臨時人民委員会秘書室のタイピストを務め、二人の息子は人民軍に入隊し、その後戦死しました。
このように、劉漢鐘は崔南善や林水山、池甲竜とはまったく対照的な人間でした。信念を失った林水山が逃亡を企てているとき、劉漢鐘は遊撃隊に入隊したのです。崔南善はわれわれに投降を促す勧告文なるものを書いて満州の山野と白頭山に散布しましたが、劉漢鐘は崔南善が「密林の原始境」、「不安定な生活」と描写した遊撃隊の生活がなつかしくて、数か月前に離れたわれわれの隊伍を再び訪ねてきて部隊への復帰を願い出たのです。劉漢鐘は平凡な医者でしたが、崔南善や林水山、池甲竜とはまったく段違いの人間ではありませんか。彼は水晶のように清らかな良心をもった真実の人間でした。彼がひきたって見えるのは、高潔な良心の持ち主だったからです。
わたしの体験によれば、革命を簡単に裏切るのは、信念をもたず大勢に追従する人たちや不平分子、偶然分子、出世主義者、意志薄弱者、えせ運動家でした。
仕事を怠る人、任務の遂行に無責任な人、困難な仕事を任せると顔をしかめてあれこれと泣きごとを言う人、表面では革命だの何だのともっともらしいごとを言いながらも、裏では私腹を肥やすのに余念のない人、他人の功労をためらいもなく自分のものにしてしまう人、臆面もなく嘘を言う人、こういうタイプの人間も、機会さえあればいつかは赤旗を投げだして敵陣に逃げ込むようになります。
ところで、こういうタイプの人間にみられる一つの共通点は、みながみな良心をすて去った連中であるということです。革命家にとって良心を抜きにすれば何が残るでしょうか。残るものは何もありません。理念も思想も道徳・信義もすべて崩れ去ってしまいます。良心をすてれば人格もいびつになります。
革命家になる前に人間になれというのはすなわち、良心をもった存在、道徳・信義に忠実な存在になれということです。人間は良心をもってこそ道徳もわきまえ、信義も守るようになります。良心をすてた人間には、道徳も信義も犠牲的精神も正義感も誠実さもありえません。領袖への忠実性を信念化、良心化、道徳化、生活化すべきだとする金正日同志の言葉は名言です。
良心をもつ人間であってこそ革命家になり、良心に錆がつくと信念にも錆がつき、良心にひびが入ると信念にもひびが入り、闘志が麻痺します。だから、革命家が良心をすてれば、その瞬間から革命家の資格を失い、つまらない人間になりさがるものです。
良心をすてた連中とは同じ道を歩むことも、同じ釜の飯を食べることもできません。そういう人間は良心をすてた瞬間から同床異夢と面従腹背をこととするものです。そういう連中とは訣別すベきであり、そうしなければ大きな禍をこうむるようになります。
池甲竜も良心が錆つきはじめたときから革命家の面目を失いました。
わたしが池甲竜の行動から良心に欠けた要素を発見したのは、六棵松戦闘のときでした。六棵松戦闘での主要攻撃対象は敵の兵営で、それは第七連隊と黄正海(フアンジヨンヘ)の区分隊が担当しました。戦闘が開始され、けたたましく響いていた銃声が、何分と経たぬうちに鳴り止みました。それは敵の兵舎を占領したことを意味しました。ところが、しばらくして兵舎から再びけたたましい機関銃の音が聞こえてきました。不審に思ったわたしは、ただちに状況を調べに池甲竜を送りました。ところが、彼は途中から駆けもどってきて、負傷したと泣きごとを言いながら座り込んでしまいました。見ると、木製の拳銃ケースが銃弾に射抜かれただけで、負傷はしていませんでした。拳銃ケースに弾丸が当たったときの衝撃で倒れ、軽い打撲傷を負ったようでした。
わたしは彼がおじけづいたことを見てとり、池鳳孫(チボンソン)と金学松(キムハクソン)に再び任務を与えました。二人は激しく降りそそぐ弾雨をついて戦場に駆けつけ、敗残兵が兵舎の秘密地下道にもぐりこんで抵抗していることを調べて帰ってきました。わたしはただちに隊員たちを兵舎から撤収させ、火攻め戦術で地下道を制圧するよう命令しました。しかし、この命令が届く前に呉仲洽(オジユンフプ)が犠牲になったのです。彼は自らの判断で火攻め戦術を使いましたが、隊員たちを撤収させず性急に捜索作戦をはじめて、取り返しのつかない大事に至ったのです。もし池甲竜が途中で引き返さず、適時に兵舎に駆け寄って状況を調べてきていたなら、わたしの命令はとどこおりなく呉仲洽に伝達されたはずであり、そういう不祥事をまねかずにすんだかもしれません。戦闘での状況処理は寸刻を争います。池甲竜が遂行できなかった任務を金学松と池鳳孫が代わって遂行するのに手間どっている間に、呉仲洽は地下道に隠れていた敗残兵の凶弾に倒れたのです。あのとき池甲竜はすでに戦闘員の良心をもっていなかったのです。他の隊員なら、重傷を負っても引き返すようなことはしなかったはずです。結局、良心が錆ついた者の無責任で卑怯な行動のため、甚大な被害をこうむったわけです。
良心をすて、革命を裏切った者の末路は、どの場合にも惨めなものでした。歴史はそのような連中にきびしい審判を下しました。罪が軽くて許された人たちも、死の瞬間まで人びとに顔向けができませんでした。
しかし、勝利の日まで革命的良心をもって信念を守り通した闘士には、人民が花束をおくり、月桂冠をかぶらせました。
八道溝鉱山から遊撃区を訪ねてきて入隊を願い出たとき、組織のルートを踏んでいないと林水山にはねつけられたことのある朴成哲は、その後、困難な闘争の道を最後まで歩んで祖国にもどり、いまは国家の要職で革命活動をつづけています。
いつだったか、朴成哲は行軍の途中、指揮官の許可を得て家に立ち寄ったことがあります。入隊以来数年間、家族の消息が分からず気にしていた折、部隊が自分の村を通ることになったので、父母妻子に会いたい思いにかられたそうです。ところが、朴成哲は家に入るやいなや、思いもしなかった難事に出会いました。妻が子どもをおぶい、夫について遊撃隊に入ると言い出したのです。朴成哲は「気は確かなのか。子持ちの女がどこへ行くというのだ」と制止しましたが、妻は彼のバンドをつかんで離そうとしませんでした。口で言っては聞き入れそうもなく、だからといって押しのけて飛び出そうとしても、妻がいまにも泣き出しそうでそれもできませんでした。泣き声を出したら最後、村中にそれが知れ渡り、敵の耳にも入って、遊撃隊の家族だと皆殺しにされるに違いありませんでした。
朴成哲が困惑しておろおろしていたとき、母親が嫁に言い聞かせました。「お前がいまはしたないまねをすれば夫を殺すことになりかねない。成哲が約束した時刻までに部隊にもどらなければ逃亡者になる。それは逆賊になる道だ。お前の夫がそうなってもかまわないのか」
妻は一言も言えず、ただ涙を流すばかりでした。それでも夫のバンドをつかんだ手は離そうとしませんでした。その姿を見かねた母親は息子に向かって、「男がいったん大志をいだいて家を出たならそれまでだ。こんな夜中に家に飛び込んで騒がせるとはなんたるざまだ。二度と家には顔を出すな。独立がなる前にまた帰ってきたらただではおかない」と叱りつけました。それでやっと、妻は夫のバンドを離したのです。母親の言葉に大きな衝撃を受けた朴成哲は、その足で家を飛び出してきたとのことです。
知識水準からすれば、朴成哲の母親や妻は林水山とは比較にもならない女性なのです。しかし、革命にたいする観点や立場からすれば、彼女らは林水山とは比べようもない先生でした。わが子をおぶってでも遊撃闘争に参加するという妻の志向もさることながら、国が独立する前に二度と家に現れたらただではおかないと叱りつけた母親の志はなんと高潔で崇高なものでしょう。
金益顕に朝鮮人民軍次帥の称号が授与された日、わたしは弱年の彼が地陽渓台地に訪ねてきて遊撃隊への入隊を志願したことや、池甲竜の懐柔をしりぞけて司令部を訪ねてくる途中、飢え死にしそうになると炭で木に文字を書き込み、草むらの中に横たわって死の瞬間を待ったことなどを思い出しました。金益顕は死を覚悟し、それを恐れなかったので、生き残って次代にまでその名が知られるようになったのです。
金益顕もりっぱな人ですが、彼と金鳳禄を介抱して司令部にまで連れてきた全文燮はまたなんと強靱で同志的信義に厚い人間でしょう。失神状態の二人の戦友を司令部にまで背負ってきた彼の目からは、とめどなく涙が流れていました。戦友の姿があまりにも痛ましくて、涙をこらえきれなかったのです。革命的信念が弱く、信義と良心に欠けた人なら、ひもじい思いをしないためにも同志をすてて逃げてしまったはずです。山から少し下りさえすればよいのですから、その気にさえなればどこなりと行くことができたのです。鉄条網があるわけでもなければ囲いも監視所もなく、何の妨げもありませんでした。銃をすてて山を下り、文書に拇印を押しさえすれば、飯も腹いっぱい食べられ、暖かいオンドル部屋でゆったりくつろぐこともできたのです。しかし、全文燮はその道を選ばず、二人の戦友を代わる代わる背負って司令部に帰ってきました。そして、その後も変わることなくわたしにしたがい、忠実に革命の道を歩んできたのです。
みなさんは、一生を輝かしく生きぬいた抗日の老闘士のような信念の強者を多く育てなければなりません。願望だけでは進めることのできないのが革命であり、社会主義偉業なのです。信念が強くてこそ、自分自身を守り、社会主義も固守することができるのです。
一〇〇日飢えても生きていけるという信念をもった人、ただ一日の誇らしい生のために一,〇〇〇日の苦労もいとわない人、絶海の孤島に残り、名も知れぬ草むらの中に一点の塵となって消えることがあっても、組織が自分を探し、自分の名を記憶してくれるはずだと信じる人、自分を育ててくれた指導者と同志への信義を守るためには、自爆も辞せず、絞首台にもためらうことなく上る意志をもつ人であってこそ、つねに勝利者となりえるのです。
革命勝利の信念をつちかう教育、社会主義偉業にたいする信念をつちかう教育は、国状が困難なときほど、より積極的におこなわなければなりません。わたしは信念の強い人を尊敬し大事にします。


六 国際連合軍を編制して

金日成同志は晩年に、朝鮮革命史でそれほど多く論議されなかった一九四〇年代前半期のソ連領内での活動を感慨深く述懐している。この回顧は、国際連合軍の編制とその活動の全貌を明らかにするもので、その歴史的意義は非常に大きいものである。

一九四〇年代にいたり抗日革命闘争は、祖国解放偉業の遂行において決定的な局面を開く新たな発展段階に入りました。この時期の闘争における重要な内容の一つは、われわれが一九四二年の夏からソ連領内で中国、ソ連の戦友たちとともに国際連合軍を編制し、日本帝国主義を最終的に撃滅する政治的・軍事的準備を全面的に強化したことです。
朝鮮人民革命軍がソ連、中国の武装力とともに国際連合軍を編制して共同闘争を展開したことは、朝鮮革命発展の新たな段階を意味するものと評価することができます。内容からすれば、朝鮮革命は日本帝国主義を駆逐して祖国を解放するのを当面課題としました。国際連合軍の編制により、われわれは祖国解放の偉業とともに、日本軍国主義そのものを最終的に壊滅させる世界史的課題をもあわせて遂行することになったのです。
国際連合軍の編制によって、われわれの武装闘争には大きな変化が生じました。国際連合軍の編制を機に、われわれは中国人民との共同闘争の段階から、朝・中・ソ三国武装力の連合を内容とする幅広い共同闘争の段階に、また世界の反帝・反ファシズム闘争の奔流に合流する新たな共同戦線の段階に移行したといえます。
一九四〇年代の前半期は、朝鮮人民革命軍が決定的な最後の攻撃作戦のために有利な地帯で隊伍を整備し、中核を保持、育成して、祖国解放の大事を主動的に迎える最終的準備をととのえていた時期といえます。
一九四二年七月にわれわれは、ソ連、中国の戦友たちとともに国際連合軍を編制し、朝鮮革命の主体的力量を全面的に強化する一方、国際反帝勢力との共同闘争を通じて日本帝国主義の撃滅と第二次世界大戦の勝利に寄与しました。ソ連の外交・軍事関係文書に、われわれが一九四二年の夏からソ連入りし、日本帝国主義を撃滅する共同軍事作戦を準備したと記述されているのは、そのためです。

金日成同志は、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍、ソ連極東軍の一部の部隊からなる国際連合軍編制の歴史的必然性とその発展過程についてつぎのように回顧している。

われわれが極東に臨時基地を定め、東北地方と国内で積極的な小部隊活動を展開したのは、国際情勢に大きな変化が起きていた時期です。
一九四一年四月、ソ連と日本の間には中立条約が締結されました。日ソ間には、日露戦争当時から歴史的に引きつがれてきた根深い矛盾が存在しました。それが日ソ間の新たな戦争を誘発する可能性は十分にありました。しかし、両国は即座の衝突を避ける方向で政治・軍事外交を推進していました。
ドイツと日本は、ソ連が神経をとがらせて警戒した、世界第一の好戦国でした。ソ連は、反共突撃隊として登場したヒトラー・ドイツの侵攻を未然に防ごうと各面から努力する一方、ドイツとの戦争を避けるか、あるいは最小限度でも遅延させる目的でドイツと不可侵条約を締結しました。そうしてから日本との和平を追求し、彼らの侵攻を防止しようとしました。日ソ中立条約の締結は、こうした脈絡のなかでもたらされた一時的な産物でした。
この条約の目的は、日ソ双方が互いに相手を牽制(けんせい)しようとするところにありました。条約が締結されたからといって、日ソ間に戦争が起こらないという保証はありませんでした。
一九四一年六月には独ソ戦争が勃発しました。わたしは小部隊のメンバー全員を集めて、こう強調しました。
―― 不可侵を約束したドイツがソ連を侵攻したからといって驚くことはない。ヒトラーらしいやり方だ。前を向いては手を握り、向き直っては不意討ちを食らわすのがほかならぬ帝国主義者の本性なのだ。しかし、ヒトラーは見込み違いをしている。ドイツのソ連侵攻はヒトラーの墓穴を掘ることになるだろう。大勢がどう変わろうと、われわれは脇目をふらず、既定の方針にしたがって最後の決戦の準備を着実に進めるべきだ。
ファシズム・ドイツの先制攻撃によって、ソ連の軍事力は戦争初期に大きな損失をこうむり、赤軍は不利な戦況を逆転させるいとまもなく、一時的な後退を余儀なくされました。ドイツ軍はキエフ、ハリコフ、ミンスクをつぎつぎと陥落させ、モスクワとレニングラードに迫りました。
その後、わたしは独ソ戦争の勃発による新たな情勢に対処するわれわれの活動方針を検討したのち、ハバロフスクに行ってソ連、中国の軍事幹部とともに、以後三国の武装力の協力をさらに強化する問題を協議しました。
一九四一年一二月、日本軍はハワイ真珠湾の米軍基地を不意に攻撃して太平洋戦争を引き起こしました。日米間の開戦はわれわれをすごく興奮させました。開戦一方の日本がわが国を占拠している敵国であったからです。
日本が日中戦争を終結していない状態でいま一つの戦争を引き起こしたのは無謀な賭(かけ)でした。外国から石油、ゴム、鉄といった戦略物資を取り寄せなければ生きていけない島国の日本が、何を見込んでそんな冒険に乗り出したのか理解できないことでした。日本がアメリカとの戦争で国力を蕩尽(とうじん)することは火を見るよりも明らかでした。
ともあれ、日本が太平洋戦争という大きな落とし穴に自ら飛び込んだことは、われわれ朝鮮の革命家に最後の決戦の時期を早める好機をもたらしたことになります。
われわれは、やがて日ソ間の戦争が起きることも予測しました。それが現実となれば、日本は中国、アメリカ、ソ連を相手にする三つの方面での大きな戦争を同時にすることになります。そういう場合、われわれは満州にある関東軍や朝鮮駐屯軍を相手に、より有利な状況で祖国解放のための最後の作戦をくりひろげることができるのでした。
どうすれば一日でも早く日本帝国主義を打倒し、祖国の解放を早めることができるか、われわれの関心はこの一点にしぼられました。もちろん、最後の決着をつけるには、われわれ自身の主体的力量を強化しなければなりませんでした。腕をこまぬいて、他の国が独立をもたらしてくれるのを待つわけにはいかないではありませんか。友邦の支援も自分自身の力が強くてこそ、効を奏するのであって、そうでなければ用をなしません。
われわれは国際反帝・反ファシズム勢力との連帯をはかるためにも相応の努力を傾けました。当時、ソ連の極東は朝・ソ・中三国の抗日勢力の重要な集結地となっていました。ソ中両国武装力との関係をどのような形でいかに持つかということは、朝鮮人民革命軍の基本集団が東北抗日連軍の戦友たちとともに極東の臨時基地から出陣して戦っている状況のもとで重要な問題とならざるをえませんでした。ソ中両国武装力との協同を円滑にすることは、朝鮮革命の主体を強化し、それを拡大するための国際的環境をつくるうえでも必ず重視すべき戦略的な問題でした。
ところが、われわれとソ中両国の武装力との協同をどのような形で実現するかは、それぞれの国の民族的利益と三国革命の共通の利益に即してわれわれ自身が決定しなければなりませんでした。
われわれはすでに、朝鮮人民革命軍の独自性は独自性で維持しながら、中国の武装部隊とともに東北抗日連軍を組織し、共同闘争を展開してきた経験をもっていました。朝中人民の共通の敵である日本帝国主義に抗して展開した朝中武装力の共同闘争は、両国革命の利益は言うまでもなく、抗日革命の客観的要求にも完全に合致するものでした。朝中両国の共産主義者の共同闘争は、双務的な軍事関係における一つの模範でした。
朝中両国の武装力が極東にいま一つの基地をもっており、またソ連極東軍がわれわれの側面に存在する状況のもとで、われわれは共同抗日の幅と深さをさらに増幅し、それを高い段階に発展させる必要がありました。これは朝鮮革命のために必要であるばかりでなく、中国やソ連の対日戦略にも合致するものでした。
わたしは朝・中・ソ三国武装力の理想的な連合形態を国際連合軍とみなしました。国際連合軍の編制にかんするわたしの構想については金策、崔庸健、安吉、姜健などの戦友たちも支持しました。彼らはこぞって、その構想の実現が早ければ早いほど有益だとし、ソ連、中国の戦友たちとの協議をわたしに委任しました。
ひところ、少なからぬ中国の同志は、満州の抗日武装部隊とソ連極東軍の一部の力量で新たな軍体制を創設して共同活動を展開するというコミンテルンとソ連軍事当局の発起を時期尚早だとして否定的な態度をとったことがあります。それはソ連側の一部の当局者が一方的な要求を提起したからでした。しかしその後、わたしが国際連合軍の編制にかんする構想を練り、それを討論にかけたとき、彼らは従来の立場から脱皮して、三国武装力の連合が機の熟した問題であることを一致して認めました。ソ連軍事当局もその構想を支持したのです。
わたしが国際連合軍の編制問題についてより具体的に協議したのは、一九四二年の春、南キャンプでソ連の高位軍事関係者に会ったときです。
その日、コミンテルンとソ連軍事当局を代表してわれわれと連係を保っていたソ連軍将官のソルキンは、モスクワ防衛戦の英雄について、またモスクワ防衛と反撃戦でぬきんでた実力を示したシベリア師団の戦功について生々しく紹介しました。彼はソ連極東軍の来歴についても誇らしげに語りました。極東軍とモスクワ防衛戦に参加したシベリア師団にたいする彼の自負は大変なものでした。
わたしが国際連合軍編制にかんする構想を話すと、ソルキンは、非常にりっぱな考えだ、現情勢からして国際連合軍を編制するのはもっとも適切な対案だ、といって、わたしの構想に同感しました。彼いわく、率直な話、自分もいずれはそんな対策が求められるのではないかと考えた、しかし、それが果たして朝鮮や中国の同志たちに理解され支持されるだろうか、それとは逆に大国主義的要求だと誤解されはしまいかと憂慮し、ためらっていた、と言うのでした。
わたしは彼の言葉にどことなくこだわりがあるのを感じました。それで彼に、自力独立はわれわれが一貫して堅持している原則である、しかし、それは国際的協力や国際革命勢力との連合を排除するものではない、自国の革命にも、世界革命にも有益な真の意味での国際主義に反対する理由はない、日本帝国主義のような強敵を撃ち破るには力を合わせなければならない、ソ連のような大国も外国の援助が必要であれば受けるべきだ、国際的に外国の援助を受けたり、他国の革命勢力と連合して戦うのは事大主義ではない、自分自身の力を信じようとせず、他国に頼ろうとばかりしたり、自国の革命は投げだして、他国の革命を援助するのが真の国際主義だと考える思想的傾向が事大主義なのだと思う、と話しました。
ソルキンは、わたしとの対談の内容をソ連軍事当局とコミンテルンに伝達し、国際連合軍の編制にかんする問題を急を要する懸案として浮上させました。
独ソ戦争が終結するまで日米間の戦争が終わらなければどのような形勢が生じるのか。われわれの共通の観測は、ソ連が対日戦争に参加するだろうということでした。ソ連は日本と中立条約を締結していましたが、万が一の場合を考えて対日参戦準備に万全を期さなければなりませんでした。国際抗日勢力との連合の実現は、対日戦争の準備においてソ連が追求していた重要な項目の一つでした。
コミンテルンやソ連自体の政治的・軍事的要求とわれわれの戦略的構想が一致することによって、国際連合軍編制の問題は比較的順調に進捗(しんちょく)しました。一九四二年七月中旬、われわれはソ連、中国の軍事幹部とともに朝・中・ソ武装力の連合問題を最終的に討議し、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の独自性を維持するという前提のもとに、国際連合軍を創設することを決定しました。
一九四二年七月二二日、わたしは周保中、張寿籛とともにソ連極東軍司令官アパナセンコ大将に会いました。丸顔で目つきが鋭く、がっちりした体軀の彼は、五〇代の老練な将官でした。彼はわたしの手を取り、朝鮮の若いパルチザン隊長に会えてうれしい、と言いました。わたしたちは司令官の執務室で、参謀長のニチェフ中将とも挨拶を交わしました。
アパナセンコは、ソ連、中国、朝鮮の革命武力が連合して国際連合軍を編制することは、朝鮮と中国の革命闘争のためだけでなく、ソ連の安全と対日作戦のためにもきわめて重要な意義をもつと言って、国際連合軍がその歴史的使命をりっぱに遂行するであろうとの確信を表明しました。
彼は、国際連合軍が編制されれば、朝鮮と中国の民族革命戦争に必要な軍事幹部を大々的に養成するうえで重要な役割を果たし、連合軍の朝中部隊は朝鮮と満州を解放するうえで決定的な勢力になるだろう、と述べました。その日、アパナセンコは、訓練の強度と質を高めて、いつでも戦争に対処できる万全の準備をととのえるべきだと重ねて強調しました。
アパナセンコはわたしたちを大きな作戦図が掛かっている部屋に案内しました。彼はわたしたちに、これまでの朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の遊撃闘争の実態と今後の作戦構想について知りたいと言って、満州と朝鮮の軍事・政治情勢についての説明を求めました。
周保中が作戦図の前に出て、東北抗日連軍第二路軍の活動状況を概括し、以後の東北解放作戦に関連する見解を述べました。
わたしは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第一路軍の活動状況と現状、そして日本帝国主義を撃滅し、朝鮮を解放するうえで必ず参考にすべき軍事的・政治的諸問題に重点をおいて説明しました。
アパナセンコは、朝鮮における日本軍の兵力配置、朝鮮自体の反日勢力の実態とその発展展望、ソ連との連合作戦の実際的な可能性などについて詳細な説明を求めました。わたしは彼が説明を求めた問題について具体的に通報しました。第三路軍の実態については張寿籛が説明しました。アパナセンコは北満州一帯の軍事情勢については比較的よく知っていました。
アパナセンコとの協議によって、国際連合軍にたいする各種兵器と軍事装備、被服と食糧など給養物資の供給はソ連側が祖当することになりました。そして、国際連合軍を形式上、ソ連極東軍独立八八旅団と称し、部隊の対外番号は八四六一歩兵特別旅団とすることにしました。国際連合軍はその存在と活動の秘密を保障し、擬装を完璧にするため縮小して編制する原則で旅団規模にすることになりました。
わたしは朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第一路軍の力量で編制された第一支隊の指揮を受け持ちました。第一支隊はその内容からして国際連合軍の朝鮮支隊でした。当時、敵の諜報・破壊活動から朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部の身辺の保護をはかって、軍事階級も実際より低めて象徴的なものにしました。国際連合軍の編制と時を同じくして、われわれはすべて北キャンプに集結しました。
国際連合軍の編制によって、極東の軍事・政治情勢は国際革命の側に有利に変わりました。まずソ連が少なからず利を得るようになりました。ソ連は日本の侵略策動に主動的に対応できる軍事的・政治的力量を確保し、中国の東北地方と朝鮮における軍事作戦の遂行にもっぱら従事する新たな特殊部隊をもつことになりました。
国際連合軍の存在は、朝鮮革命と中国革命にも有利な条件と環境をもたらしました。朝鮮人民革命軍はソ連極東軍と活動をともにすることによって、正規武力の枠内で祖国解放作戦に必要なもっとも現代的な作戦遂行能力と装備をそなえるようになりました。また、われわれはソ連領内で、大事が到来するときまで祖国解放の任務を自力で遂行できる十分な軍事的・政治的準備と実力をそなえることができるようになりました。
国際連合軍が編制された後、わたしは連合軍本部で再びアパナセンコに会いました。彼はそのとき、軍事委員をはじめ参謀部と政治部、兵站部のメンバーを連れて北キャンプに来ました。
国際連合軍はその日、分列行進をしました。分列行進隊伍の最先頭には朝鮮支隊が立ちました。朝鮮支隊の行進は堂々たるものでした。その日の行事は、国際連合軍の誕生を祝う一種の記念儀式ともいえました。
わたしはアパナセンコとともに昼食会にも参加しました。そのときアパナセンコは自分の経歴を紹介しました。彼は一〇月革命直後にソビエト政権を守るため白衛軍と戦い、ドイツ占領軍とも戦った老闘士でした。国内戦争の時期には騎兵師団を指揮し、中央アジア軍管区司令官を務め、極東軍司令官に転任してきたとのことでした。
ソ連当局は早くから極東軍を非常に重視してきました。歴代の極東軍司令官はいずれも名立たる実力者でした。ソ連の歴代国防相と高位軍事幹部のなかには極東軍出身が多くいました。
アパナセンコは一九四三年初に独ソ戦争のもっとも重要な戦線の一つであったボロネジ戦線副司令官に転任し、その年の夏、致命傷を負って戦死しました。この消息を聞き、国際連合軍の全将兵は一堂に会し、朝中共産主義者を支持し援助してくれた彼を追悼しました。
共産主義者の戦友愛は国籍を選びません。その当時、われわれはソ連人民の国難を自国の国難のように思いました。ソ連軍が前線で悪戦苦闘しているとき、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の多数の将兵が西部戦線への出動を志願していたことが思い出されます。コミンテルンとソ連当局は連合軍将兵の参戦要望があるたびに、あなたたちには自分の祖国を解放すべき重要な歴史的課題があると言って、それを受け入れませんでした。
われわれは社会主義のとりでであり、唯一の堡塁であったソ連をそのように熱烈に擁護し、貴く思ったのです。ソ連が滅べば社会主義も滅び、世界平和も守り通せないというのが、当時、共産主義者の共通観念でした。
少なからぬ国の人名辞典には、わたしが朝鮮人からなる大部隊を率いてスターリングラード激戦に参加し、そこで軍功を立てて赤旗勲章を授与されたと記述されています。他にも、わたしがベルリン攻撃作戦の第一線部隊にも参加したと記している文章があります。わたしはソ連政府から赤旗勲章は授与されましたが、スターリングラード激戦やベルリン攻撃作戦に参加したことはありません。辞典の編者たちがどこからそんな資料を入手したのか分かりませんが、いずれにしても、それらの文章が参戦熱にわき立っていた訓練基地の雰囲気の一端を反映していることだけは事実です。
国際連合軍の存在は、朝・ソ・中三国武装力の連合を恐れていた日本帝国主義者を恐怖におののかせました。反面、朝鮮人民には確固たる信念を与えました。

金日成同志がソ連領内に訓練基地を定め、対日最終作戦を準備した事実と関連する敵側の資料は多い。つぎにその一部を引用する。
金日成ノ動静ニ関スル件
入蘇中ノ金日成ハ…昨夏蘇聯哈府ヨリ…延安ニ赴キ同地中共要人毛沢東、賀竜、康生等ト会見シ、日蘇開戦前後ニ於ケル中共党軍ト抗聯軍トノ合作行動、其他抗聯匪ノ今後ニ於ケル活動等ニ付種々協議連絡ヲ遂ゲ更ニ延安付近ニ於ケル鮮人共産党員共会見シ、種々意見交換ヲ為シタルガ、金日成ハ昨年末頃、同地ヨリ飛行機ニテ帰蘇シ、目下、蘇聯哈府付近ニ保リテ…対満鮮諜報及思想工作ニ努メツツアルガ、尚金日成ハ哈府付近野営学校ニ鮮満人共匪、其他、入蘇セル鮮満人不逞分子、被拉致者等約三〇〇名ヲ収容シ哈府赤軍…指導援助ノ下ニ日蘇開戦前後ニ於テ一斉ニ入満、日本軍ノ後方攪乱ノ任務ニ当ラシムベク訓練教育中ナリト」〔南陽警察署長が咸鏡北道警察部長に送った警察資料 昭和一九年(一九四四年)二月二一日〕
金日成ハ今延安ニアッテ熱河省ニ兵ヲ進メテヰルラシイ。又、ニコライエフスキイ(沿海州)ニハ純然タル朝鮮人ノミカラ編成サレテヰル四個師団ノ軍隊ガ居ルガ、日蘇開戦ノ暁ニハ四個師団ノ軍隊ハ決死隊トシテ北鮮地方ニ上陸スルカ或ヒハ落下傘ニ依ッテ朝鮮内ニ降下スルデアラウ」〔『城大出身ヲ中心トスル大東亜戦争後方攪乱並武装蜂起不穏策動事件綴(四)』高原警察署 昭和二〇年(一九四五年)〕
「シベリヤを横断して帰った人が演説した中で、シベリヤの或る所に周囲一里もある陣地があって、其処に朝鮮の旗が立って居り、朝鮮人の兵隊が守備して居るのを見たと言った相だ」〔『特高月報』内務省警保局 昭和一九年(一九四四年)二月分七九ぺージ〕

国際連合軍編制の消息は、中国の東北地方で戦っていた反日愛国勢力にも好ましい影響を与えました。満州の東北抗日連軍の隊員たちが三三五五、河を渡り、連合軍に合流してきたことがたびたびありました。満州国軍の兵士たちが寝返ってくることもありました。
連合軍が組織される以前か以後だったか、饒河県東安鎮にいた満州国軍連隊の一個中隊の兵士たちが指揮官と日本軍将校を射殺し、数多くの小銃と機関銃、擲弾筒などを携帯し、木船でウスリー川を渡ってきたことがあります。そのとき、彼らを熱烈に歓迎し部隊に編入したものです。
国際連合軍が編制された後、われわれは戦闘・政治訓練を強化する一方、対日作戦準備に拍車をかけました。当時、われわれに提起されたもっとも重要な課題は、朝鮮人民革命軍の隊伍を政治的、軍事的にいっそううちかためることでした。
古代、中世、現代いずれの戦争においても、軍事作戦の根本原理は同じであるといえます。肝心なのは戦争手段の発展にともない、それをいかに駆使し、異なる軍種、兵種間の協同と提携作戦をいかに展開するかということです。
われわれは現代戦の戦法を把握するため真剣に努力してきました。この努力は国際連合軍が編制された後、倍加されました。朝鮮人民革命軍隊員の現代戦戦法の駆使能力は、訓練基地での訓練と学習過程を通じて相当な水準に向上しました。朝鮮人民革命軍の隊員たちは、白頭の広野で練磨してきた遊撃戦法をさらに完成する一方、正規軍の要求に合う現代戦の戦法を修得することにより、朝鮮革命をになった主力部隊としての政治的・軍事的面貌をりっぱにそなえていきました。
ソ連極東軍も国際連合軍の戦闘能力の迅速な向上に大きな努力を傾けました。一九四二年一一月中旬、アパナセンコはソ連極東軍南部駐屯軍の旅団総合軍事演習を催し、そこに連合軍の主要指揮官を招きました。
その日、われわれはハバロフスクから装甲列車でその旅団に行きました。翌日、そこでは旅団の冬季総合演習がおこなわれました。その日の演習には四つの歩兵大隊と戦車、砲、迫撃砲、通信、対戦車砲大隊をはじめ多くの兵員が参加しました。はじめて見る大規模の軍事演習だったので、われわれも大きな好奇心をもって興味深く参観しました。旅団の戦闘任務は高地の敵を攻撃、掃滅し、その高地を占領することでしたが、正午に開始された攻撃が午後四時に終わりました。
われわれはその後、ハバロフスク郊外のアムール川沿岸に駐屯していたいま一つの旅団の軍事演習も参観しました。その演習での旅団の任務は、ベリジョプカ村を中心に部隊を集結して戦闘準備を完了することでした。その演習もわれわれに深い印象を与えました。
われわれはハバロフスクで極東軍部隊の閲兵式も参観しました。軍事演習と閲兵式に動員された各種の現代的武装装備と戦闘技術機材がたいへんうらやましく思われました。いつになったらわれわれもあのような現代化した軍隊をもつことができるだろうか、これが軍事演習と閲兵式を参観しながらわたしがいちばん考えた問題です。国を解放したらただちに正規軍から建設すべきだという決心は、極東の訓練基地にいたとき、いっそう確固たるものとなりました。
朝・ソ・中三国の軍事指揮官たちのひたむきな努力と相互協力によって、国際連合軍は短期間に現代戦に相応した武装力にすみやかに発展することができました。
ソ連は前線の状態が切迫して、一個連隊、一個大隊の兵力なりとも補強が望まれるときにも連合軍には絶対に手を出さず、連合軍がもっぱら日本帝国主義者との最後の決戦の準備を着実に進めるよう援助してくれました。
ソ連の軍事幹部は、スターリンが朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の将兵をどれほど大事にしているかをたびたび話しました。スターリンは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍で戦った一人ひとりの戦士はみな、今後自分の祖国の解放と新しい祖国の建設で大役を果たす大事な人たちだから、一人の損失もないように大事にしなければならない、と言ったそうです。
ソ連極東地域での国際連合軍の創設と発展は、ヨーロッパに位置するチェコスロバキアとポーランドのレジスタンスの結束を促すうえでも手本となりました。
一九四三年のソ連とチェコスロバキア間の友好・相互協力にかんする条約の締結と時を同じくして、ソ連領土では赤軍とともにヒトラー・ドイツに対する共同闘争に参加することを目的とするチェコスロバキア人の部隊が組織されました。チェコスロバキア旅団はキエフ解放戦闘とベラヤツェルコビ解放戦闘など数々の軍事作戦に参加して赫々(かくかく)たる戦果をおさめました。
ポーランドもソ連領土でファシズム・ドイツと戦う軍隊を創建しました。ポーランド集団軍はルブリン解放戦闘を皮きりにポーランドをドイツ占領軍の手から解放する数々の軍事作戦に参加しました。
われわれがソ連領内で国際連合軍を編制して活動していた一九四三年五月、コミンテルン解散の消息が訓練基地にもたらされました。これにたいし訓練基地では諸説が飛び交いました。ファシズムとの対決において国際的な団結と協力がもっともさし迫った問題となっていた第二次大戦のさなかに、世界革命の指導機関として二〇余年間も存在してきたコミンテルンをなぜ解散したのかということでした。
レーニンがコミンテルンを組織したのは一九一九年です。コミンテルンの解散には二つの理由があったと思います。その一つは、コミンテルンが世界革命を指導した間、各国の共産主義的政党と革命勢力が十分に成長し、コミンテルンの中央集権的な指導と関与がなくても、自国の革命を自分の路線と力に依拠して独自に推進していけるようになったことです。いま一つの理由は、コミンテルンが世界的な範囲でのより幅広い反ファシズム連合の実現を妨げる存在となっていた事情とも関係しています。第二次世界大戦当時の反ファシズム連合は、理念と体制の違いを超越した新たな様相の連合でした。この連合をなす諸国がファシズムとの対決で示した超理念、超体制の立場は、社会主義国家であるソ連とアメリカ、イギリス、フランスなど資本主義諸国との連合、共産主義者とブルジョア右翼政治家との合作も可能にしました。こうした事情は、反帝を理念とし、世界の共産主義化を目的としていたコミンテルンの存在を考慮せざるをえなくしたのです。
われわれは、コミンテルンの解散が国際共産主義運動と当時の情勢発展の要請に合致する時宜にかなった措置であると認めました。
わたしは早くから、外国の力や路線に依拠せず、革命の各段階における戦略と戦術を自ら採択し、革命勢力も自分でととのえ、万事を自主的に開拓してきたわれわれ自身の闘争路程に大きな自負を感じたものです。
しかし、コミンテルンが解散したからといって、共産主義者の国際的な団結と協力が無意味なものになったのではありません。われわれは国際連合軍の枠内で活動の独自性を固守しながらも、依然として世界の友人たちとの団結と協力を強化していきました。

金日成同志がソ連領内を舞台に展開した軍事・政治活動は、国際的にも大きな関心事となっていた。朝鮮人民革命軍の動向と組織構造、その活動内容を探ろうとする日本の軍部と警察、特務機関の策動は執拗(しつよう)をきわめた。日本帝国主義はコミンテルンの解散と関連して非常に神経を使い、以後、朝鮮における共産主義者の運動方針の帰趨、とくに金日成同志の活動について、様々な判断と憶測をたくましくした。
日本の官憲が発表した「コミンテルンの解消と今後の見透」の一部をつぎに引用する。
「…朝鮮は日本帝国主義の植民地とされ、従ってまた今次戦争に於ては日本帝国主義を敗戦に導き、それによって朝鮮の先づ民族解放、民族的独立を獲得することが当面の戦略的目標となるわけであり、…武装闘争の任務について言へば…在満共匪金日成一派ないし中国共産党の領導下に在る朝鮮義勇軍の活動の如きはこの方針の現れであるが…現在の朝鮮に於ける運動は日蘇関係の如何に依っても規定せられ、日蘇現状維持の場合と正面衝突の場合とに依って局面は急転し、後者の場合、運動が急速度にテロ化され、武装闘争化されて行くべきは盟邦独逸の占領下に在る諸国に於ける事例に徴するも瞭かな如くである」〔『思想彙報続刊』一三一ページ 昭和一八年(一九四三年)一〇月 高等法院検事局思想部〕
日本帝国主義者は、コミンテルンの存在と解散とにかかわりなく、朝鮮における共産主義運動と民族解放運動は、朝鮮人民自身の闘争として独自性をおび、金日成同志の指導する武装闘争が国際反帝勢力と連合する場合、それはきわめて大きな力となることを認めざるをえなかった。

国際連合軍の組織とその強化、発展のために傾けた朝鮮共産主義者のあくなき努力は、革命闘争において個々の国の自主性、独自性と、国際的な団結と協力の二つの原則を正しく結びつけた模範となります。
国際連合軍を組織し強化、発展させる過程で得た成果と経験は、日本帝国主義を撃滅する最後の決戦の日々にはもちろん、戦後の複雑な政治情勢下で主体的立場に立って、社会主義諸国をはじめ国際革命勢力との連合戦線を維持し拡大するうえでも貴重な資産となりました。


七 東北抗日連軍の戦友とともに

国際連合軍の時期に、わたしは周保中、張寿籛、柴世栄、馮仲雲など東北抗日連軍の多くの戦友と同じ隊伍で、深いつながりをもって生活しました。長い歳月が流れましたが、あのころの事柄が忘れられません。
東北抗日連軍の指揮官のうちで、わたしといちばん深いつながりのあったのは周保中です。彼との親交がはじまったのは、一九三〇年代の前半期に間島で救国軍との統一戦線活動を進めていたときからです。周保中とは反日兵士委員会にもともに参加し、羅子溝戦闘もともに戦いました。汪清にいたとき、二回にわたって北満州遠征を断行しましたが、二回とも周保中らと連合作戦を展開しました。しかし、一九三〇年代の後半期に活動舞台を白頭(ペクトウ)山地区と西間島に移してからは一度も彼に会えませんでした。
「道は幾筋にも分かれていても、大門は一つ」これは周保中がわたしと別れるたびに格言めかして言った言葉です。活動舞台が異なり、闘争路程も違っているが、共同抗日闘争を展開するかぎり、必ずいつかは再会できるという意味でした。
ハバロフスク会議直前に会ったときにも周保中は、「それみなさい。金司令、わたしが言ったではありませんか。道は幾筋にも分かれていても大門は一つだと」と言って呵(か)々(か)と笑うのでした。数年ぶりの巡り合いだったので、胸がじいんと熱くなりました。
「楊司令が戦死したという消息を聞いて以来、南満州の同志たちのことが心配でなりませんでした。日本軍が金司令に莫大な懸賞金をかけているといううわさも聞きましたが、苦しい局面をよくも切り抜けてくれました。東満州と南満州がどんなに危険な戦場かはわたしがよく知っていることです。こんなに元気な姿でハバロフスクに来た金司令に会えてうれしいかぎりです。金司令が来るのを今か今かと待っていました」
周保中は心からこう言うのでした。彼は前よりだいぶ老けて見えました。顔には樹海と雪原で辛苦をなめてきた跡がありありと刻まれていました。その間さぞかし苦労が多かっただろうとわたしがねぎらうと、彼はかえって、自分らの苦労はなんでもない、南満州の同志たちの苦労とは比べるべくもない、そういう苦労をしながらも屈せず連戦連勝したのだから、われわれとしてはただ驚嘆するのみだ、コミンテルンの幹部やソ連軍指揮官の賛辞もひと通りのものではない、と言うのでした。
わたしがハバロフスクで周保中に会ったのは、コミンテルンが東北の遊撃隊指揮官とソ連極東軍代表の会議の開催を急いでいたときです。それだけに周保中との語り合いも多くはこの会議と関連した問題に向けられました。
周保中の悩みは、革命の民族的任務と国際的任務、革命闘争における独自性と国際的連帯の問題をいかに結合するかということでした。彼は中国共産党中央との連携を待望していたのですが、それが実現せず焦燥ぎみでした。中国共産党員の周保中が党中央の指導のもとに東北革命を発展させようと数年来苦慮してきたのは当然なことといえました。周保中はつねに党中央とのつながりを優先させながら、ソ連との連帯をはかろうと努力しました。それは東北地方で戦っていた中国の戦友たちの一般的な態度でもありました。ひところ、コミンテルンとソ連軍事当局が東北抗日連軍をソ連の指揮圏内に引き込もうとしたこともあるのですから、周保中がそういうことがまた起こりはしないかと憂慮したのはよく理解できます。
その日、わたしと周保中は、新たな情勢の要請からしてソ連との軍事的・政治的協同と協力は切実に必要である、しかし、その具体的な形式と方法は個々の国の民族革命の利益と国際革命の利益を正しく結びつける方向で解決されなければならない、すなわち、東北抗日連軍や朝鮮人民革命軍の独自性を維持する方向でなされるべきだ、という見解の一致を見ました。
周保中は話し合いの最後に、「今回の協商では南満州の代表の発言がきわめて重要だと思います。わたしは金日成同志を全的に信頼します。反日兵士委員会のころも金司令の発言はいつもわたしたちの論題を主導したではありませんか。これまでと同じく今後も、新たな状況に即して手を取り合って活動しましょう」と熱を込めて言うのでした。わたしにたいする彼の信頼は真実そのものでした。
周保中は、ソ連を擁護し、ソ連に樹立された社会主義制度をつねに支持しながらも、その国の人たちの言動や処置に大国主義的な要素が多少なりとも現れると快く思いませんでした。
わたしは周保中に、原則的な立場を堅持しながら、大きな度量をもって同志的協力精神を示すならば、相手の誤った態度を十分正し、しこりもやがては取れるだろう、と言いました。彼はうなずきながら「ともあれ金司令は老練です」と言うのでした。それで、わたしが老練だからなのではなく、周司令が経験していないことを経験しているからだ、われわれは他人の家に同居しているのだから、と言いました。それでやっと彼は、そうだ、朝鮮の同志たちは東満州で「民生団」問題のため大変な苦しみを味わっていますね、と言うのでした。
周保中は吉東で活動していたときすでに、反「民生団」闘争が極左的に進められたことを暴き、それは東満党特委の活動上の誤りによってもたらされたものだと批判した人です。彼は間島時代から朝鮮の革命家の闘争に比較的公明正大な立場を取っていました。
前にも話したことがありますが、われわれが祖国光復会を結成したとき、周保中は自分の指揮下にあった東北抗日連軍の部隊内につくられた支部の活動を積極的に後援してくれました。それは一九三六年一二月にあったことで、これは朝鮮革命にたいする国際主義的な支持と連帯の表示でした。
周保中が朝鮮革命にたいしてこのように好意的な立場をとったのは、われわれが遊撃闘争の草創期から彼を心から支援し、数回にわたる連合作戦を通じて彼に良い影響を与えたこととも関連しているといえます。
第一次北満州遠征のときには遠征隊の過半数の隊員を周保中に引き渡すことによって彼を援助しました。そのとき、北満州の戦友たちとともに連合作戦も多く展開しました。第二次北満州遠征のときは、第二軍と第五軍の合同総指揮部も設け、大がかりな連合作戦を展開しました。指揮は周保中、政治委員はわたし、副指揮は平南洋(李荊璞)がそれぞれ担当しました。総指揮部傘下の六つの部隊が活動地域を分担したのですが、西部の安図部隊は周保中が、葦河部隊はわたしが受け持ちました。われわれは西線指揮部、中線指揮部というように地域別の指揮部を設け、その管下に幾つかの部隊を分けて配属させ、撫松から穆棱一帯を行き来しながら連合作戦を展開したものです。
わたしと周保中との縁はこのように深いものでした。そのためもあってか、周保中は国際連合軍の時期にも大小さまざまな問題をわたしと相談したものです。ソビエト人と協議する問題が提起されても、彼はまずわたしの見解から求めました。なぜそうするのかと問うと、間島時代から金司令に助言を受けるのが習慣になっているからだと答えるのでした。
国際連合軍時代の周保中は、形式上の等級にこだわることなく、わたしをつねに朝鮮人民革命軍の司令官、朝鮮革命の指導者、連合軍内の朝鮮側代表と認めて敬いました。わたしたちはよくある団体の共同委員長のように、相互に支持し協力しながら共同で活動しました。それは双方が互いに相手を尊重したからです。わたしと周保中の関係は深い尊敬と信頼にもとづく同志的、兄弟的な関係でした。
わたしが周保中についてよい印象をもっている主な理由の一つは、彼が東北革命の開拓と発展において先駆者の役割を果たした朝鮮共産主義者と朝鮮人民の業績を誰よりも高く評価していたからです。いつだったか、彼は、自分は二つの忘れがたいことを記憶しているが、その一つは抗日遊撃闘争で朝鮮人が前衛的役割を果たしたことだ、と言いました。
朝鮮革命にたいする周保中の立場は明白でした。彼は朝鮮人が朝鮮革命のために戦うのを当然なことだと評価し、東北革命は朝鮮人を抜きにしては考えることができないということを一貫して主張しました。また、東北抗日連軍第二軍はすなわち朝鮮人民革命軍であったとし、共同闘争の過程で歴史的に存在していた朝中抗日武力の連合をいつもほめたたえていました。
周保中は東北革命において朝鮮の共産主義者が果たした前衛的役割について指摘し、一九三二年度に結成された強力な東満遊撃隊と一九三三年に結成された磐石遊撃隊、珠河遊撃隊、密山遊撃隊、湯原遊撃隊、饒河遊撃隊はすべて、朝鮮の同志たちと革命的な朝鮮の大衆によって創建された、それがのちに抗日連軍第一、二、三、四、六、七軍に発展した、第五軍にも少なからぬすぐれた朝鮮の同志たちがいた、抗日連軍各軍内の軍長、政治部主任から小隊長、指導員など、各級軍事・政治指導幹部はいずれも、朝鮮の同志たちであった、と話していました。

周保中が王新林に送ったつぎの書簡内容は、彼が金日成同志をいかに尊敬し高く評価していたかをよく示している。
金日成はもっともりっぱな軍事幹部であり、…朝鮮の同志たちのうちでもっともすぐれた活動家である。彼は満州南部と鴨緑江東部、朝鮮北部地帯できわめて重要な活動をすることができる」(一九四一年七月一日 王新林宛の周保中の書簡)
金日成は南満第一路軍で現在、唯一の重要な幹部である。楊靖宇、魏拯民両同志が倒れた後、ひとり金日成が南満遊撃闘争の指導と、南満州全体と関連した問題にひきつづき責任をもっている」(一九四一年九月一五日 王新林宛の周保中の書簡)

わたしが周保中の人間像で好ましく思ういま一つのことは、彼が革命闘争にたいする原則的立場と自国革命にたいする熱烈な擁護精神をつねにもっていたということです。周保中は中国革命をソ連革命に服従させたり、ソ連革命の付属物にしようとする傾向にたいしては容認しませんでした。彼はプロレタリア国際主義にもとづくソ連革命との連帯、ソ連擁護を主張しながらも、つねに中国革命の独自性と独自の発展を堅持しました。
革命にたいする周保中のこのような原則的立場は、われわれの主張と一致するものでした。革命家の価値は革命にたいする自主的立場の強さに正比例するというのがわたしの主張です。自主的立場が確固としたものであればあるほど革命家の権威は高まり、自主性が透徹したものであればあるほど革命は百戦百勝するものです。
国際連合軍の時期にも、周保中は変わることなくわたしを金司令と呼びました。しかし、解放後平壌に来ては、一度も金司令と呼びませんでした。彼は自分を以前のように心安く周司令と呼んでほしいと言いながらも、わたしにたいしては必ず首相同志と呼びました。それがどことなく耳慣れず、また、わたしたちの間に不要な隔たりをおくような気がして、以前のように金司令と呼んでほしいと言いましたが、彼は真顔になって、それはいけません、と言うのでした。
わたしと周保中はときたま諭争も交わしました。彼が一度主張すると、頑として動じないので譲歩を得るのは容易ではありませんでした。わたしもなかなか譲歩しませんでした。しかし、しまいには両者の主張が調整、補足され、見解の一致に到達したものです。こうした過程を通じてわたしたちの友情はさらに厚くなり、理解もいっそう深まりました。
わたしと周保中はときたま私生活の話も交わしました。彼の主な話題は家族と同志についてでした。彼には周偉という幼い娘がいました。四〇歳になる年でもうけた子だったので、その可愛がりようは普通ではありませんでした。その子が何か一つでも可愛いしぐさをして見せると、周保中はわたしにそれをよく自慢しました。そんなときには彼の顔に幸せな父親の笑みがこぼれたものです。
周保中とその夫人、王一知は長い間、同じ部隊で生活し、北満州の密林のなかで結婚したのです。周保中が妻と娘の話をするときには目がきらきらと輝いていました。彼は話が好きな人でした。あるときは部隊の周辺に住むナーナイ族の独特な生活様式についての見解を話したり、ハバロフスク市内の下宿のロシア人夫婦について話したりしましたが、その観察力と描写力はなかなかのものでした。
いつだったか、周保中は雲南省の自分の故郷で盛んに催されるという闘鶏祭りについて話したこともあります。その地方の人たちは陰暦二月八日ともなれば、晴れ着をまとい、自分の家の雄鶏(おんどり)の首に赤いリボンを結んでよその雄鶏と戦わせるそうです。鶏はその地方の崇拝の対象となっていました。伝説によると、地元の祖先は養鶏をして栄えたとのことです。鶏を頼りにして家計をもりたてるという話まで伝えられているとのことでした。周保中は、国難の打開にあたっては鶏など頼りにすることはできないが、敵の撃退では雄鶏のように勇敢でありたいと言うのでした。
彼は寡黙でむっつりした印象を与えますが、人情味があり、義理がたい人でした。徳には徳で報い、情には情でこたえる人でした。それは彼の後半生がよく物語っています。
周保中は数年間、国際連合軍でかいがいしく立ち働きました。彼は中国革命の発展のために献身しながらも、つねに国際主義的義務に忠実でした。周保中が自国のことのみを考え、国際革命の任務を無視したり、世界革命万歳を唱えるだけで自国の革命を傍観していたなら、時間をさいてまで回顧するだけの存在にはならなかったでしょう。
わたしは、周保中が東北地方に小部隊をたえず派遣して、遊撃闘争の命脈をしっかりつないでいくようにするたびに、彼が中国人民の真の息子であることを感じ、連合軍内の各民族部隊の友好・団結とソ連擁護のために努力する姿を目のあたりにするたびに、彼が真の国際主義戦士であることを感じました。
周保中は、国際連合軍の隊伍管理や給養活動も遜色なくおこないました。異民族部隊の集合体である国際連合軍の生活には複雑な問題が少なくありませんでした。訓練綱領の作成と訓練指導、人事問題から会館の建設など生活上の問題にいたるまで、彼の関与しないことはまずありませんでした。ある日は逃亡者が出て彼を悩ませたことがあり、ある日は自動車事故のために汗を流して走り回ったこともあります。
国際連合軍が組織された当初は、一部のソ連軍将校と息が合わなくて周保中も少々手を焼きました。しかし、ソ連軍事当局のきびしい要求によって、ソ連軍将校の生活気風は一変しました。
周保中はつねに口より実践的模範をもって隊員を導こうと努力しました。北キャンプでの落下傘訓練のときのことでした。彼は訓練の初日から隊員たちとともに降下訓練に参加しました。その過程で、命を落としそうになったこともあります。飛行機から飛び降りたのに、落下傘が開かず、補助傘を開いてかろうじて死を免れたのです。そのとき彼は肩を負傷しました。中国の戦友たちはわたしに、周保中が二度と降下訓練をしないように説得してほしいと頼んだことがありました。しかし、わたしは周保中にそういうことは言いませんでした。言ったところでとても歯が立たないことをよく知っていたからです。
一九五一年の春、雲南省婦女連合会の主任を務めていた王一知が慰問団として平壌に来たとき、最高司令部にわたしを訪ねてきたことがあります。彼女は、わたしがきびしい戦争の重荷を担っていながらも元気でなによりだ、と言って涙ぐむのでした。そのとき、彼女は、「保中から頼まれたことづてです。絶対に危険な前線の道を歩まず、身辺の安全に最大の注意を払ってほしいということです」と言うのでした。わたしは周保中のそのことづてをありがたく思いました。それで、「帰国したら周司令にわたしの挨拶を伝えてください」と言いました。王一知は「これは保中の頼みであると同時に、わたしの頼みでもあるのです。わたしたち中国人はいま、首相同志の身辺をたいへん案じています」と言うのでした。彼女の話によれば、周保中は国際連合軍の時期にも、わたしが小部隊活動に出て予定の日に帰隊しないと、夜通し寝ないで部屋を出たり入ったりしながら心配したとのことです。それは国境と国籍を超越した友情でした。

金日成同志は抗日革命が勝利し、日本帝国主義の植民地支配が清算された新たな歴史的転換期に周保中と別れた。
しかし、金日成同志と周保中の間にはその後も戦闘的友誼にみちた付き合いと往来がつづいた。金日成同志は、解放後、周保中との親交がいかにつづいたかについてつぎのように回顧している。

解放後、わたしは数回、周保中に会いました。二回はわが国で、最後は北京で会いました。
周保中がわが国にはじめて来たのは一九四六年の初春で、そのときは南陽(ナムヤン)で会いました。当時、彼は東北民主連軍副総司令員兼吉遼軍区司令員を務め、国民党反動派と戦っていました。
蒋介石が反共に走り、国民党軍を総動員して解放地区を攻撃することにより、中国大陸は再び国内戦争の渦中に巻き込まれました。周保中は東北地方の形勢がきわめて険悪であると言って、彼我の力関係と軍事・政治情勢を説明してくれました。
日本帝国主義者の敗退後、満州はしばらくの間、政治的空白地帯となっていました。この地域を掌握するため、蒋介石国民党と中国共産党ははげしく争いました。国民党も共産党も、満州を中国全土掌握の主要な対決場とみなしたのです。
国民党がアメリカの積極的な支援のもとに艦船と航空機、それに陸上から数十万の軍隊を投入したため、組織されたばかりの東北地区の民主連軍は優勢な敵を相手に力に余る戦いをしなければなりませんでした。
周保中がわたしに会おうとしたのは、こうした情勢に対処するための緊急支援を求めるためでした。中国共産党中央委員会で一時、組織部長を務め、党中央東北局の副書記に任命された陳雲を、毛沢東が平壌に派遣して、われわれの支援を求めたのもそのころでした。
わたしは周保中に、中国の戦友たちが以後、東北で進める作戦と関連して提起される問題をすべて解決し、最大限の支援を与えることを約束しました。正直な話、当時わが国の状態は、他国に援助を与えるほどのゆとりはありませんでした。しかし、われわれはそんなことなどまったく念頭に置きませんでした。朝鮮革命の見地からしても、東北が蒋介石の天下になるのは許しがたいことでした。
当時、東北では抗日遊撃隊出身のすぐれた軍事・政治幹部である姜健、朴洛権、崔光をはじめ約二五万人に達する朝鮮青年が東北解放戦闘に直接参加していました。
王一知も東北解放作戦と関連した周保中の頼みをもって数回わが国を訪問しました。彼女が最初に来たのは一九四六年の夏か秋だったと思います。当時、蕭華の率いる遼東軍区の兵力が鞍山、海城にたいする攻撃をおこなっていました。それと時を同じくして鞍山、海城地区に駐屯していた国民党軍の一部隊が反乱を起こしました。
この反乱の知らせを受けて驚愕した蒋介石は、反乱を中止しなければ掃滅すると脅しながら猛烈な攻撃を加えました。反乱部隊はその攻撃に押されて朝中国境沿岸に後退しました。ところが、鴨緑江まで来てはもう後退の余地がなくなりました。
周保中は反乱部隊を救う方策を協議するため、続けざまに代表をわが国に送りました。王一知もその代表の一人として羅南(ラナム)に来ました。その後、われわれはその反乱部隊がわが国の領土を経て東部満州に入るルートを提供しました。
わたしが平壌で王一知に会ったのは一九四七年初です。彼女は周保中に代わって、東北解放作戦をいろいろと援助してくれて感謝する、という挨拶からしました。つづいて彼女は、今度二万余名の負傷兵と家族、後方人員、二万余トンの戦略物資を安全地帯に疎開させるには、どうしてもまた朝鮮の領土を通過しなければならない実状なので、金将軍の助力を請うと言うのでした。
わたしはその場で彼女の要望を受け入れ、ただちに必要な対策を立てるようはからいました。王一知は、全東北民衆が金将軍の恩を忘れないだろうと言って、重ねて謝意を表しました。
その日、わたしは彼女に、われわれが極東で別れるとき、林(リム)春秋(チユンチュ)が記念品として贈った腕時計はいまも持っているのかと聞きました。彼女は笑いながら、ソビエト人にやったと答えるのでした。朝中友好のシンボルとして、年取って腰が曲がるときまで手放さないと言っていたその時計をなぜソビエト人にやったのか理解できませんでした。その時計は林春秋が愛用していたものでした。われわれが訓練基地を去る日、周保中と王一知は別れを惜しんでわれわれをなかなか放してくれませんでした。そのとき、林春秋が自分の腕時計をはずして王一知に贈りました。最初、彼女はそれを受け取ろうとはしませんでした。当時としてはなかなかの貴重品であったからです。わたしが、取っておくのがいい、その時計が役立つときがあるだろう、と言って、やっと彼女が受け取ったのです。長春が解放された後、彼女は放送局を掌握し放送を担当する一方、たびたび武器運搬にも参加しましたが、その腕時計が大いに役立ったそうです。王一知の話によれば、武器を運搬するときソ連軍のある自動車運送隊の援助を多く受けたとのことで、時計はそのソ連軍運送隊長に記念品としてやったそうです。彼女は、その時計は結局、中・朝・ソ三国人民の戦闘的友誼のシンボルとなった、と言うのでした。
そのとき、わたしは王一知をすぐ東北に帰らせず、保養するようはからいました。彼女が健康を害していたからです。彼女は朝鮮にとどまっている間、牡丹(モラン)峰をはじめ平壌市内の各所を参観しました。
王一知はその後も、戦略物資の運搬問題を解決するため平壌に来ました。王效明と彭施魯もそのころ平壌に来ていました。三人はそのとき、国際連合軍時代の戦友たちと感激的な対面をしました。
周保中がその後、王一知をわたしのところに寄こしたのは多分、一九四七年の夏だったと思います。東北民主連軍は五〇日間の戦闘で八万余の敵兵を殺傷し、四二の省、鎮を解放する戦果を上げましたが、前線の状態は依然として緊張していたときです。民主連軍側の将兵たちは靴が不足して難儀していました。多くの将兵が裸足で険しい道を行軍しているとのことでした。王一知がわたしを訪ねてきたのは、靴を解決するためでした。わたしはすべての製靴工場が他の靴の生産を中止し、中国の戦友たちに送る靴を生産するよう緊急指令を下しました。

東北解放作戦に関連した中国の文献資料によれば、チュチェ三六(一九四七)年の最初の七か月間にわが国が東北民主連軍側のため二一万トンの物資を輸送し、その翌年の一年間には三〇万九〇〇トンの物資を輸送したとされている。朝鮮を通過した人員は、チュチェ三五(一九四六)年の後半期には一八個部隊にのぼり、チュチェ三六(一九四七)年の九か月間に朝鮮を経由して東北根拠地に入った入員は一万名以上にもなる。チュチェ三七(一九四八)年に南陽橋頭を通過しておおよそ九,〇〇〇名が豆満江を渡り、新政治協商会議に参加するため中国の少なからぬ民主党派、無党派と華僑の代表が朝鮮を経由してハルビンに行った。公務で朝鮮を通過した中国共産党幹部の数は数えきれないほどだという。

東北解放作戦が勝利のうちに終結した直後の一九四八年の秋、周保中は王一知と娘の周偉を連れて吉林省政府主席兼東北軍区副司令員の資格で再びわが国を訪問しました。そのときの訪問は、東北解放作戦を物心両面から援助したわれわれに謝意を表するためでした。周保中が貨車に積んできた多量のメリケン粉はほかならぬその感謝のしるしでした。
わたしはそのとき、周保中夫妻を金剛(クムガン)山に送ることにし、金策を案内役として同行させました。金剛山の温泉休養所でしばらく保養して帰ってきた彼らは、紅葉の燃える金剛山の景色に感嘆したと言い、とても喜んでいました。平壌に帰ってきた周保中夫妻は、金策とともに万(マン)景台(ギヨンデ)を訪問し、わたしの父母の墓にももうでました。その後はわたしが金正淑と一緒に周保中夫妻を連れて安吉の墓参りをし、記念写真も撮りました。
わたしはいまでも周保中を回顧するときには、祖国解放戦争(朝鮮戦争)第二段階のときにあったことをよく思い起こします。われわれが一時的後退をはじめたときのことです。
ある日、見知らぬ二人の青年がわたしを訪ねてきて、周保中の手紙を差し出しました。彼らは周保中が東北解放作戦を指揮するときから彼の副官と運転手を務めていた朝鮮青年の玄周栄(ヒヨンジユヨン)と金吉竜(キムギルリヨン)でした。周保中が雲南省副省長に転任するときにも連れて行った人たちでしたが、人民軍が後退するという知らせを聞いては、早く朝鮮に行くようにと、背中を押して送り出したとのことでした。周保中は手紙で、身はたとえ遠く離れているが、心はいつも朝鮮の塹壕(ざんごう)のなかにあるとし、しっかりした責任感の強い二人の青年をわたしに任せる、と書いていました。
祖国が試練にさらされているとき、周保中のその手紙がどんなにわたしを力づけたかしれません。革命同志間の友誼とはまさにこういうものです。歳月は流れても、間島と北満州、そして極東の訓練基地で、われわれが白雪のように純潔な気持ちで分かち合った戦闘的友誼と友情は変わるはずがなかったのです。
戦友愛とは生命力の強い愛です。戦友愛が生命力の強い愛となるのは、それが硝煙のなかで磨かれた愛であり、同志に代わって炎のなかにも飛び込み、死ぬこともできる愛であるからです。
人間が信義に忠実であるのはなんと美しいことではありませんか。信義ゆえに人間は気高い存在となり、信義ゆえに人間生活は百花咲き乱れる花園のように美しくなるのです。
わたしが周保中に最後に会ったのは、一九五四年一二月に中国を訪問したときです。そのとき彼は、持病の心臓病をこじらせて頤和園の介寿堂で療養していました。周恩来総理が彼を北京で治療するようはからったとのことです。
周保中はわたしに会うとあつく抱擁して目をうるませるのでした。鋼鉄のような男が、その日はしきりに涙を流すのでした。病床に臥した身であったためか、気力までひどく弱くなったようでした。それでも彼は、わたしの安否から問い、戦争三年の間にさぞかし苦労が多かっただろうとねぎらうのでした。
周保中は病床にあっても休まず著述活動をおこない、『東北抗日遊撃戦争と抗日連軍』という分厚い著書も残しました。頤和園での対面があってから一〇年後の一九六四年二月、周保中は長い病苦のすえに帰らぬ人となりました。彼の霊前に弔電を送った日は仕事が手につきませんでした。わたしは何もできず、執務室の中を行きつもどりつしながら周保中をしのびました。
国際連合軍の時期にわたしは柴世栄とも再会しました。彼がわたしを抱きしめて、「老金(ロジン)」「老金」と呼び、かさかさする頬をわたしの頬にすりよせた姿がいまもありありと目に浮かびます。わたしより二〇歳ほど年上の柴世栄が目上の人を呼ぶときのように「老」までつけて呼ぶので、わたしは、この金日成を中老にしてしまうつもりか、と言って笑いました。すると彼いわく、金司令はわたしを共産主義者に導いてくれた先輩なのに、年齢に何の関係があるのか、と言うのでした。
柴司令の本名は柴兆昇です。日本軍が満州を占領する前は和竜県の某地で警察署長を務めたといいます。九・一八事変が起きると、彼は警官からなる小規模の武装隊を組織して反満抗日の闘争に立ち上がりました。
わたしが柴世栄と知り合ったのは、彼が汪清地方で救国軍の一部隊を指揮していた一九三三年でした。呉義成部隊との合作を実現してから柴世栄を訪ねていったのですが、会談は成功しませんでした。しかしその後、柴世栄は連共の道に立ち、のちには共産主義者となって、わたしとよしみを結びました。柴世栄とは東寧県城戦闘も羅子溝戦闘もともに戦いました。
その後、北満州に活動舞台を移した柴世栄は、東北抗日連軍第五軍軍長にまでなりました。第二次北満州遠征のとき、われわれは彼の部隊との連合作戦をたびたび展開しました。そのとき彼は、中線指揮部の指揮を取りました。われわれは額穆と寧安一帯で連合作戦を展開したのです。
柴世栄はわたしを革命の先輩として敬い、わたしの前ではいつも腰を低くしていました。そのたびに、わたしは彼の気高いひととなりを感じました。国際連合軍が編制されてから、わたしと柴世栄は第一支隊と第四支隊をそれぞれ指揮しました。
いまは柴世栄も故人となりました。彼が物故したのがどの年だったか覚えていません。極東の訓練基地で彼と一緒に撮った写真を見るたびに感慨無量になります。それは、共産主義思想が一人の人間をいかに改造したかを示す生き生きとした絵巻です。
柴世栄の未亡人、胡振一が息子とともに平壌を訪問したことがあります。彼女は東北抗日連軍第五軍で戦い、訓練基地に来ていました。白髪まじりの彼女が息子とともに錦繍山(クムスサン)議事堂のホールに入ってきたとき、わたしはその白髪越しに柴世栄の面影を思い描いたものです。
国際連合軍当時の中国の戦友のなかには、東北抗日連軍第三路軍の政治委員であった馮仲雲もいます。彼は青華大学党支部の書記を務め、一時はハルビンで教鞭をとったこともあります。革命の道に身を投じてからは、北満省党委と傘下の各県で党活動に従事しました。彼は獄中生活も二度経験しています。党活動の過程で過ちを犯して処罰を受けたこともあり、銃傷を負ったことも二度あります。
馮仲雲は東北抗日遊撃闘争とソ連との軍事的・政治的連帯の問題を解決するため、一九三九年の秋から一九四〇年二月にかけてソ連で活動しました。一九四〇年代初に開かれた北満省党委と吉東省党委の合同会議、その後のソ連当局との会議の開催においても、彼の努力が大いに貢献しました。国際連合軍の時期には政治部情報課長を務めるかたわら、指揮官養成のための政治課目教員も務めました。
馮仲雲は極東の訓練基地にいたとき、久しい前に別れた妻子の消息が知れず、たいへん気をもんでいました。彼が妻子のことで寝つかれなかったり、ふさぎこんだりすると、戦友たちは彼に、便りがないのをみると十中八九この世の人とは思えないから、いまからでも新所帯を築いて落ち着いたほうがいい、と勧めました。しかし彼は、そう言われるたびに、一生を男やもめで通すことがあっても他の女はもらわない、ときっぱり断るのでした。再会できる望みはほとんどありませんでしたが、ひとたびめとった妻を変わることなく愛し、待ちつづけるところにも、革命家、人間としての彼の高潔で剛直な風格がうかがわれました。
夜のひまな時間に散策しながら、恋人を慕う中国の歌を口ずさんでいた馮仲雲の姿がいまも思い出されます。解放後、彼はあれほど恋しがっていた妻に会い、仲睦まじく暮らしたとのことです。彼は周保中のように、深い尊敬と感謝の念を抱いて朝鮮人民と朝鮮人民革命軍の英雄的闘争をつねに称賛しました。

馮仲雲は松江省人民政府主席を務めていたとき『東北抗日連軍一四年の苦闘簡史』という本を著した。その内容の一部を引用する。
「抗連第二軍の前身は東満遊撃隊である。…東満抗日遊撃隊はもと延吉、汪清、和竜、琿春の四つの反日遊撃大隊に分かれていた。間島地区の住民は朝鮮人が大多数を占めていた。そのため、東満遊撃隊では朝鮮人が主要根幹となっていた。
…著名な朝鮮の民族的英雄、金日成将軍の統率のもとに安図、臨江、長白、鴨緑江に進出して…兄弟軍の抗連第一軍の楊靖宇司令と会合した。
…また、金日成将軍の統率のもとに朝鮮祖国光復軍を組織した。数回、鴨緑江を渡河して朝鮮本土の北部地域に深く進出し、活動を開始した。ここで日本帝国主義侵略者と数回にわたって血戦を交え、また秘密裏に朝鮮人民の祖国光復会の地下組織を結成した。
…解放後、朝鮮国内の老若男女がこぞって金日成将軍を歓迎し、民族的英雄金日成将軍万歳を熱烈に唱えた」

松江省人民政府の主席であった馮仲雲はその後、北京図書館館長、水利・電力部副部長を歴任しました。彼は水利・電力部副部長を務めているとき、朝中両国間の発電所共同利用の問題でわが国をたびたび訪問しました。
一九五八年九月に馮仲雲が中国水利・電力部代表団の団長としてわが国を訪間したとき、わたしは水豊(スプン)発電所で彼に会いました。彼と一緒に発電所の設備を見て回り、ダムの上から水豊湖の美しい景色を眺めながら、鴨緑江に新しい発電所を共同で建設し、水力発電分野で両国間の協力をいっそう強化する問題について話し合ったことが思い出されます。彼はその後、文化大革命のとき、右派のレッテルを貼られて苦労したあげく、一九六八年の春に獄死したといいます。
わたしの誕生八〇周年のとき、馮仲雲の夫人薛文が息子と娘を連れてわが国を訪問しました。極東の訓練基地にいたとき、馮仲雲があれほど恋しがっていた夫人でした。抗日戦争当時、満州省党委の活動家であった彼女は、小柄で知的な容姿の女性でした。
薛文の話によれば、馮仲雲は獄死してからほぼ一〇年後の一九七七年の末に名誉回復になり、北京郊外の八宝山烈士陵に安置されたとのことです。馮仲雲の遺族一行が涙を流しながらわたしの懐に抱かれるとき、わたしも過ぎ去った昔日を思い起こし、目頭が熱くなりました。
馮仲雲の遺族はその後も数回にわたってわが国を訪問しました。いつだったか、馮仲雲の長女、馮憶羅が平壌に滞在中、還暦を迎えました。そのとき、金正日同志が彼女に還暦祝いの膳を贈りました。わたしと馮仲雲の間に結ばれた戦闘的友情と親交はわたしたちの次代によって脈々とつづいているのです。
国際連合軍の時期に政治幹部として活動した張寿籛もわたしが親しく付き合った中国の戦友の一人です。彼は北満州にいるとき、第三路軍の軍長として活動しました。彼を李兆麟とも呼びました。彼は馮仲雲とも莫逆の間柄でしたが、金策とも気が置けない間柄でした。
彼の風格で特徴的なのは謙虚さと献身性でした。そのためか、彼とは初対面でもう親友のようになってしまいました。喜ばしいことがあれば同志を引き立て、骨のおれる仕事が提起されればわが身を投げ出す彼に、わたしはすっかりほれ込んでしまいました。
コミンテルンが保管していた遊撃部隊の指揮メンバーにたいする評定書では、張寿籛をすぐれた組織者、勇敢で精力的で、創意に富んだ遊撃隊の指導者と評価しています。抗日戦争当時に彼がつくった『露営の歌』は北満遊撃隊員のあいだで盛んにうたわれたそうです。
抗日戦争の勝利後、張寿籛は中国共産党松江地区委員会書記、松江省副省長などを歴任して精力的に活動中、ハルビンで国民党特務に暗殺されました。
いまは周保中も、張寿籛も、馮仲雲もみな不帰の客となりました。
一九九二年四月、国際連合軍時代の戦友たちが訪ねてきてわたしの誕生八〇周年を祝ってくれました。陳雷とその夫人李敏、そして李在徳… 彼らはいずれも賓客でした。
陳雷はもともと、東北抗日連軍第六軍の軍部宣伝課長、第三連隊の政治主任を務めた人です。国際連合軍の時期には小隊長、解放後は中国共産党黒竜江省委書記、黒竜江省省長などを務めました。彼が黒竜江省友好代表団を率いてわが国を訪問したのは、黒竜江省党顧問委員会の主任を務めていたときです。
陳雷は八〇周年の誕生日を迎えるわたしに、「千秋歳祝金日成同志八秋大寿」と書いた掛け軸を贈ってくれました。その文で彼は、わたしが日本帝国主義およびアメリカ帝国主義との苦難にみちた闘争を勝利に導き、朝鮮に人民の楽園を建設したとし、高麗国とともに千万年長寿することを祈ると書きました。彼は書道に造詣(ぞうけい)の深い人でした。
李敏は、抗日戦争の時期にうたわれた歌謡百曲を収録した革命歌謡集を贈ってくれました。国際連合軍の時期、彼女はアナウンサーでした。
豆満江と鴨緑江を一つ隔てた近しい隣邦として暮らしてきた朝中両国の人民と革命家は、抗日大戦のその日から延々半世紀以上も同じ塹壕のなかで血と肉と骨を分かち合い、ともに戦ってきました。
この貴い闘争伝統と兄弟の友誼は、世代と世代をついで今後もひきつづき美しい花園として咲き誇ることでしょう。

チュチェ八三(一九九四)年七月、金日成同志急逝の報道が電波に乗って全世界に伝えられた。この青天霹靂(へきれき)の訃報に接し、人びとは天が崩れ落ちるような大きな衝撃を受けた。全世界が涙にぬれ、その逝去を悲しんだ。
陳雷と李敏は金日成同志と永訣するため車でハルビンを出発した。瀋陽駐在の総領事館から陳雷夫妻が陸路を通じてわが国に向かっているという報告を受けた金正日同志は、鴨緑江橋頭で彼らを迎え平壌に案内する対策を講じた。平安北道党委員会が準備した車が鴨緑江を渡ってきた陳雷夫妻を乗せて新安州(シンアンジユ)まで来たとき、そこには金正日同志が差し向けた車が待機していた。
ハルビンを発って一,〇〇〇キロの道のりを昼夜二日間も走りながら陳雷夫妻を眠れなくしたのは、抗日戦争のその日から彼らの脳裏に焼き付けられた金日成同志の慈愛深い面影であった。彼らが金日成同志の遺体の前に到着したとき、時計の針は零時を指していた。長い旅路でしわになった服装を整えるひまもなく、金日成同志のそばに駆け寄った彼らは、敬愛する主席同志、あなたの戦友陳雷と李敏が来ました、と言って熱い涙をこぼした。金正日同志は追悼会の幹部壇で陳雷夫妻に会った。
周保中の娘、周偉は金日成同志に再び会えなかったことを一生の心残りとし残念がっていた。チュチェ八四(一九九五)年一〇月に、彼女は金正日同志に手紙とともに自分の手で編集した写真帳を贈った。その写真帳には周保中の生涯を示す多くの写真資料とともに、金日成同志と抗日女性英雄金正淑同志の写真も数枚あった。周偉が朝鮮訪問の願望をかなえたのは、チュチェ八五(一九九六)年の夏であった。幼年時代、極東の訓練基地のころから胸にとどめてきた金日成同志への追憶を抱いて平壌に駆けつけてきた周偉は、旅装を解くやいなや錦繍山記念宮殿を訪ねた。
金日成主席! …周偉が参りました。いま一度目を開けてこの周偉を見て下さい。主席…」
彼女はこうつぶやいてはとめどなく涙を流した。周偉の心には、父母の後をついで朝中親善を輝かす一輪の花と咲くべく誓いが燃えていた。


八 北満州から来た闘士たち

ハバロフスクに到着して一日か二日過ぎたときでした。安吉(アンギル)が言うには、近い所に崔庸健(チエヨンゴン)が来ているが、わたしにとても会いたがっている、わたしが到着したことを知ったらいまにも駆けつけてくるだろうとのことでした。わたしもやはり彼にとても会いたく思っていたところでした。彼は金策(キムチエク)、姜健(カンゴン)、許亨植(ホヒヨンシク)、朴吉松(パクキルソン)と同じく、以前から会いたいと思っていた戦友の一人でした。
間島地方で活動していたころ、わたしが断行した第二次北満州遠征の主な目的の一つはほかでもなく、金策、崔庸健をはじめ北満州一帯の朝鮮人戦友に会い、彼らの闘争を支援することでした。避けがたい事情があって、その目的は惜しくも果たせなかったのです。
崔庸健もわたしの所へ四度も連絡員を派遣したとのことです。連絡員の一人は敦化まで来て引き返したそうです。
東満州と南満州、北満州の各地に分散して活動している朝鮮の共産主義者が交流し合い、合作、協同、連帯をはかろうというのはわれわれの一致した願望であり、志向でした。
崔庸健は北満州の抗日連軍建設で主動的役割を果たした功労者の一人です。抗日連軍の第四軍と第七軍は、彼が主役となって建設した部隊です。彼は極東に入る前は軍参謀長として活躍しました。
わたしに最初、彼の話をしてくれたのは、黄埔軍官学校出身の朴勲(パクフン)でした。安図で反日人民遊撃隊を創建し、訓練に励んでいたときのことです。当時、われわれにとって最大の難問は軍事教官の不足でした。遊撃隊は組織したものの、われわれには部隊を訓練するだけの軍事専門家が一人しかいなかったのです。わたしと車光秀(チヤグアンス)、朴勲は、膝を交えるたびに、どこからか軍事専門家を連れてこれないものかと相談したものです。それで、おのずと崔庸健も話題にのぼるようになったのです。
朴勲はわたしに、孫文の死後、国共合作が破綻すると、黄埔軍官学校内の朝鮮の青年はみなちりぢりになったが、そのなかで注目するに値するのは崔(チエ)秋海(チユヘ)だ、彼は黄埔軍官学校にいたとき訓練教官を務めた、そんな人が一人か二人だけでもいれば大いに助かるのだが、いまはどこで何をしているのか分からない、と言うのでした。後で知ったことですが、崔秋海とは崔庸健の別名でした。彼は崔秋海のほかにも金志剛(キムジガン)、崔石泉(チエソクチヨン)の別名をもっていました。
崔庸健がハバロフスクに来ているということを聞いたわたしは、それなら待つことなくこっちから訪ねて行こうと言いました。わたしが安吉を先に立たせて宿所に到着すると、崔庸健はパッと立ち上がってしばらくわたしをじっと見つめるのでした。彼は肩幅の広い武官型の男でした。
「満州で会えなかった金司令とオロシャに来てやっと会えたわけですね!」
彼はわたしの手を取って挨拶がわりにこう言って涙ぐむのでした。彼は、金司令が近いうちにハバロフスクに来るだろうという話は聞いていたが、すでに到着しているとは知らなかった、先に訪ねていけず、宿所まで足を運ばせて申し訳ない、と何回も言うのでした。
「金司令と一緒に戦うのが一生の願いでしたが、こうして会えて本当にうれしい。これからは、別れないことにしましょう」
崔庸健は革命の道を踏み出した後、曲折の多い道を歩んだ人です。彼もわたしと同じように学生運動から革命活動をはじめたとのことです。崔庸健が中学生のとき、その学校でアメリカ人校長を排撃する同盟休校が起こったのですが、彼はその主謀者の一人でした。アメリカ人校長は恐れをなして逃げ出しましたが、日本官憲の干渉で崔庸健をはじめ闘争を指導した生徒は全員退学処分を受けました。
その後、崔庸健は三・一人民蜂起に参加し、反日出版物の発行にも関与して、刑務所に収監されたこともあります。その後しばらくソウルにいたのですが、そこで偶然、上海臨時政府の工作員と親しくなって行動をともにすることになり、はては彼に誘われるまま上海臨時政府を訪ねて祖国を後にしたのです。彼は、どうにか上海に行き着きはしたものの、臨時政府の実態を目の当たりにしてがっかりしたそうです。その後、共産主義運動に足を踏み入れた彼は、闘争の過程で一定の軍事的経験をつむことができましたが、祖国を後にするときにいだいていた国権回復の初志とは違ってだんだん中国革命に深入りするようになりました。当時、中国の関内で活動していた朝鮮の青年は、少なからず中国革命に期待をかけていたのです。
彼は当時のことを回想するたびに、たとえ他国の革命であっても張り合いは感じたが、なぜか縁に押しやられたようなやるせない思いがしてならなかった、ときには中国革命イコール朝鮮革命、朝鮮革命イコール中国革命といった等式まで立てて自分を合理化しようとしたが、故国の現実に背を向けて遠くに逃げのびてしまうような気がして、いつも罪の意識を拭い去ることができなかった、と話すのでした。
孫文が連ソ・連共・扶助工農を提唱し、国共合作に依拠して北京政府を転覆し国民革命政府を樹立しようとしたとき、崔庸健はその闘争に積極的に参加しました。北伐が成功して国民革命勢力が中国の東北地方まで掌握するようになれば、朝鮮の独立に有利な環境がつくりだされるだろうと判断したというのです。
しかし、大勢は彼の望む通りに進展しませんでした。孫文の死後、蒋介石は国共合作を破壊し、共産主義者にたいする大虐殺の挙に出ました。彼は共産主義者を弾圧するうえでは国籍を選びませんでした。この大虐殺の時期、関内で蒋介石の手にかかった朝鮮人は少なくありませんでした。
崔庸健も死線を幾度もくぐり抜けなければなりませんでした。彼は血なまぐさい大虐殺の旋風を避けて、関内から脱出しました。彼が訪ねて行った所がほかならぬ北満州であったとのことです。彼は、そのとき間島へ向かわずに北満州へ直行したのは、航路喪失のような失策であったと後悔するのでした。
「あのとき間島へ行っていたなら、金司令にもっと早く会えて朝鮮革命にも役立ったはずなのに、まったく惜しいことをした。一世一代の悔恨です」
わたしも彼に、早くから崔庸健のような軍事専門家と手を握れなかったのが残念でならない、金策、崔庸健のような人が東満州にいたなら、われわれは朝鮮革命のためにもっと多くのことができたはずだ、過ぎたことは仕方ないとして、あなたのような中核が北満州に行って抗日ののろしを上げたため、その地方の朝鮮人を革命化し、抗日連軍運動も発展させることができたのではないか、大衆を革命化すれば、それは朝鮮革命のための準備となり底力となる、また中国革命にも有益なこととなる、朝鮮革命と中国革命を分離して考えてはならない、中国の地で革命活動をする以上、中国の共産主義者との共同闘争、中国の抗日勢力との共同戦線を重視しなければならない、あなたたちのこれまでの北満州での活動は、中国の解放のための活動であると同時に、朝鮮の解放のための活動でもあった、と話しました。
崔庸健はそれまでの生活で自分をいちばん苦しめたのは孤独感であったと言うのでした。なぜ孤独だったのかと尋ねると、敵は強大で革命の前途があまりにも遼遠であるように思われたうえに、中国人の中での生活なので自然に孤独になった、そして孤独感がつのると、白頭(ペクトウ)山で戦っている朝鮮の共産主義者のことを考えたものだ、と言うのでした。
それを聞いて、わたしに連絡員を四度も派遣した彼の気持ちが理解できました。
崔庸健は祖国光復会一〇大綱領を手にしたとき、大きな衝撃を受けたとのことです。彼はそれを読んでからは、朝鮮革命にさらに貢献するには、白頭山に行って金司令と一緒に戦わなければならない、それができなければ金司令の部隊との連係でも強めなければならない、と考えたと言うのでした。
それでわたしも、北満州の朝鮮人戦友に会うため、一九三五年に第二次北満州遠征を断行したことを話しました。
その日、わたしと崔庸健は、東満州と北満州で武装隊伍を組織するため東奔西走した一九三〇年代初の事柄についても話題に乗せました。
崔庸健は、北満州の農村に訓練所を設けて武装隊伍は組織したものの、勢力拡大が思うようにいかず気に病んだと言うのでした。彼は、金司令が全民抗争を主張していることは以前から聞いているが、全人民をどういう方法で抗争に立ち上がらせるのか、その構想を聞かせてほしい、と言うのでした。
わたしは彼に、こう説明しました。
―― 朝鮮民族の大多数が極限状態にあって民族の再生を渇望しているのが祖国の現実である。彼らを武装させれば数十万の大軍が生まれることになる。では、どのように武装させるのか。働きながら武装活動を展開する半軍事組織を各地につくろうというのだ。工場地区には労働者部隊を、農村には農民部隊を、都市には学生部隊を組織するのである。すでに一九三〇年代後半期から北部朝鮮一帯には生産遊撃隊や労働者突撃隊がつくられて活動している。これからはそういう組織を全国各地につくる考えだ。それは誰がつくるのか。抗日武装闘争で鍛えられた中核が各地方に派遣されるはずだ。これは決して遠い先のことではない。世界の大勢は日本帝国主義が滅亡する方向に進展している。いま日本は中国とだけ戦争をしているが、やがてもっと大きな戦争を引き起こすであろう。日中戦線の戦況も暗たんとしているのに、また別の戦争を引き起こすなら、それは日本を敗北させる結果をまねくだろう。数年内に最後の決戦の時は必ず到来する。そのときには朝鮮革命の主力である朝鮮人民革命軍の総攻撃作戦と相まって全国の抗争組織をいっせいに立ち上がらせる全民抗争の方法で最後の決戦にのぞまなければならない。これが祖国解放作戦にかんするわたしの構想であり、自力独立路線である。
わたしの話を聞いた崔庸健は、自分の民衆観に問題があるようだと言うのでした。彼は、これまで祖国の人民を救援の対象とみなすのみで、解放作戦の担い手とはみなさなかった、革命は先覚者がすることであって、誰にでもできることではない、労働者、農民が革命の原動力であるのは事実だが、彼らがみな革命に参加できるわけではない、先覚者が血を流して人民に解放された祖国をもたらすべきだというのが自分の民衆観だった、それで大衆を革命化する政治活動より軍事一面にかたよったのだ、と話すのでした。
話を交わすうちに、はじめは朴訥(ぼくとつ)に見えた彼が時々笑みをたたえるようになりました。
崔庸健は、ハバロフスクに来る道々でも、ソ連との軍事的協力に関心をもつだけで、朝鮮国内での全民武装や祖国解放作戦のような問題については考えていなかった、いまは金司令に会えて前途が明るく見通せるようになった、と言うのでした。
「金司令、正直な話、わたしは白頭山へ行って戦いたかったのです。白頭山へ行けばわたしも朝鮮人としての本分を果たせると思います。平隊員でも何でもよいから、白頭山へ行って金司令の部下として戦い、白頭山に骨を埋めたいというのがわたしの願いです!」
崔庸健は涙を浮かべてこう言うのでした。
「南満州、東満州、北満州とちりぢりになって戦っていた朝鮮の革命家が一堂に会したのだから、これからは別れ別れにならず、手をしっかり取り合って、朝鮮のために戦いましょう」
わたしは崔庸健の宿所を去るときこう言いました。
わたしは、崔庸健との対面で強烈な印象を受けました。彼が涙ながらにわたしに言った言葉には、かねてからの願望がこめられていました。それは、身は異国にあっても自国の革命にじかに寄与しようという強烈な願望であり、一つの中心を立ててそのまわりに結集し、主体的に革命を遂行しようという確固たる志向でした。これは、崔庸健一人に限られた願望や志向ではありませんでした。朝鮮の共産主義者は南満州と東満州、北満州のどこにいようと、みなそのような願望と志向をいだいていたのです。崔庸健が白頭山へ行って戦いたいと、あれほど切望したのは、わたしへの信頼と期待の表われであり、同時に、革命をするとしても朝鮮革命をし、死ぬとしても朝鮮のために死にたいという、愛国心の発露でした。
崔庸健の願いの多くはその後、国際連合軍が組織されることによってかなえられました。ハバロフスクでの初対面後、彼はわたしと行動をともにすることになりました。結局、白頭山へ行ってともに戦いたいという彼の願いは、こうしてかなえられたのです。
極東で会った北満州の戦友のなかには、姜健もいます。国際連合軍が編制される前、わたしは北キャンプに行って姜健と会ったことがあります。わたしと会ったときの彼の喜びようが普通でなかったので、そこに居合わせた第二路軍と第三路軍の軍事・政治幹部がみな驚いたくらいです。北満州の軍事・政治幹部のうち、わたしと姜健との縁故関係を知っているのは、周保中をはじめ第五軍出身の数名の指揮官だけでした。わたしと姜健は旧知の間柄でした。わたしは、満州で彼に何回か会ったことがあります。一度は第一次北満州遠征のときで、もう一度は第二次北満州遠征のときでした。
姜健は、一九三八年から第五軍第三師第九連隊の政治委員として活躍しました。入隊後、間もなく連隊クラスの政治幹部になったことからして、彼にたいする信望がどれほど大きいものであったかをうかがうことができます。われわれが小哈爾巴嶺会議で小部隊活動の方針を採択したあと、第五軍でも部隊の改編がありました。姜健はそのとき、第二路軍総指揮部直属警護隊の政治委員に任命されました。警護隊の隊長は朴洛権(パクラククオン)でした。
わたしは北満州に行き来する連絡員に会うたびに、姜健のことをよく尋ねたものですが、そのたびにりっぱに戦っているという話を聞きました。彼は第五軍で、成長が速く前途が嘱望される、軍事的才能に長けた指揮官として広く知られていました。入隊後、二、三年のうちにそうそうたる人物になれたのは、戦(いくさ)上手であったこともありますが、それに劣らず人民を深く愛する品性にも起因していました。人民は、姜健を実直で素朴な人であるとして、たいへん慕ったそうです。彼が部隊を率いて住民部落に入ると、人民は姜政治委員が来たといって、熱烈に歓迎し、先を争って自分の子を入隊させてくれと願い出ました。それほど姜健の部隊は人気があったのです。姜健が部隊の綱紀をうち立てたため、部下の組織性と規律性も強かったといいます。
姜健は戦いでも猛者と言われました。彼は軍事指揮官としての才能と手腕を遺憾なく発揮したのです。彼の軍事的才能は、小部隊活動の時期にいっそう顕著に表われました。とくに、伏兵戦と列車転覆作戦を得意としました。日本軍の将校を乗せた専用列車を爆破したこともあります。彼は小部隊活動の時期、数多くの列車転覆作戦や鉄橋、道路、軍需倉庫の破壊作戦を巧みに指揮し、敵に甚大な打撃を与えました。
姜健と再会したその日は、アムール川のほとりで長時間、旧懐の情をあたためたものです。
国際連合軍が編制されたときから、彼はわたしと一緒に生活しました。わたしたちが生活していた家を、当時は丸家(トリジプ)と呼んでいました。この家で国際連合軍の主要指揮官が生活したのです。丸家とは、当時シベリア地方によく見られた円筒形の住宅です。廊下を中心に部屋がぐるりと配列されている家です。
わたしはその後も、幾度も姜健と語り合いましたが、思考と実践において手落ちがなく、話も上手でした。彼を無味乾燥でこちこちの軍事指揮官だと評する人もいましたが、それは姜健という人間をよく知らないからです。彼は冷徹で生真面目でありながらも、多感で人情味の豊かな人でした。彼は自分の主張や見解を粉飾しない人でした。普段考えていたことを飾らずにそのまま吐露するのです。
姜健は故郷の話をよくしたものです。彼のふるさとは慶尚(キヨンサン)北道の尚州(サンジユ)です。彼が尚州を後にしたのは一〇歳のときです。幼いころに離郷したのですが、故郷にたいするイメージが鮮明で、なつかしさも切々たるものがありました。尚州が酒と絹の名産地であり、柿もよくできると聞かされました。彼が尚州の名酒や柿、絹について、洛東(ラクトン)江や俗離(ソクリ)山について話すときは、いつも目をうるませていたものです。外見は味気なく冷淡に見えても、ふるさとについて話しはじめると詩人のように感情を抑えきれず、普段とは違って饒舌(じょうぜつ)になるのでした。彼は、他家の養女になった故郷の姉のことも胸痛く回想しました。
姜健のように生まれ育った故郷を熱愛する人は、革命に参じても熱烈に行動するものです。郷土愛に燃える人は祖国愛も強く、祖国愛の強い人は革命にたいする熱意も高いものです。
わたしと姜健との交友関係は、国際連合軍の時期に熱烈な同志愛に昇華しました。
わたしが姜健の人間像にとくに感嘆させられたのは、彼の並はずれた軍事的眼識と強い責任感です。彼は該博(がいはく)な軍事知識の持ち主でした。軍事作戦について論議するときなどは、自分の見解の発表に熱を上げたものですが、その主張が独特で深みもありました。
姜健は中国語に堪能で、ロシア語も上手でした。彼がロシア語の勉強をはじめたのは北キャンプに来てからです。勉強をはじめてそれほど経たないうちに、ソ連軍将校と簡単な会話も交わせるようになり、ロシア語のソ連軍事規範も自力で読解できるようになりました。彼の頭脳の明晰さについては、ソビエト人も中国人もひとしく感嘆したものです。漢文の略字も自分なりにつくって使いました。
姜健の成長をいちばん喜んだのは金策でした。金策と姜健は師弟の間柄です。金策が寧安で活動しているとき、しばらく私立学校で教鞭を取ったことがありますが、そのとき姜健は彼に教わったそうです。
「信泰(シンテ)は私立学校の時代にも秀才として知られたものです。そのころもう『三国志演義』を丸暗記したくらいです」
金策はいつも自慢げにこう話したものです。信泰というのは姜健の本名です。金策と姜健は師弟の間柄ではあっても、品性からすれば双子の兄弟のようでした。金策は生前、剛直で生真面目なことで知られたものですが、姜健も彼に劣らず剛直で生真面目でした。原則性や展開力の面でも、二人は瓜二つでした。
解放後、姜健が総参謀長を務めていたとき、部下には年上の者も少なくなかったし、革命活動の年期の長い人も一人や二人ではありませんでした。しかし、彼らの誰もが姜健の前では遠慮がちだったものです。それは、彼が革命的原則に徹した人であることをよく知っていたからです。姜健は原則上のことにかけては、相手が誰であろうといささかの譲歩もしませんでした。たとえ、相手が近い血縁の者であっても、原則に反する事柄にたいしては容赦しませんでした。
金正日同志が、姜健の党と領袖への忠実性と革命的原則性に見習うよう幹部に強調しているのは正しいことだと思います。姜健は新しい世代が見習うにたる有能な幹部であり、魅力に富む軍事指揮官でした。あまりにも若い年で戦死しましたが、もし生きていたなら武力建設により大きく貢献したことでしょう。
姜健は最後の血の一滴まで革命にささげた人です。彼は、一生休むことなく活動しました。日本が敗亡した後は中国革命を支援するため祖国にも帰れず、吉東分区司令官として東北解放作戦に参加しました。そのとき、彼は多くの朝鮮人部隊を組織しました。東北解放作戦に参加した朝鮮人の数は実に二五万人に及んだといいます。彼は激務の連続で胃腸病にかかりました。帰国後、保安幹部訓練所第二所の所長を務めていたときも、胃潰瘍(いかいよう)で苦労しました。そのころは食事の時間を守ったことが一度もありませんでした。彼の胃潰瘍がひどかったので、宴会のときにも彼には酒はもちろん、サイダーも飲ませませんでした。
人民武力建設分野における姜健の功績は大なるものがあります。ソウル解放戦闘と大田(テジヨン)解放戦闘の勝利をはじめ、戦争第一段階に人民軍がおさめた戦果には、姜健の偉勲に負うところが大です。
人民軍が洛東江の線に進出したとき、彼はわたしに戦況を報告してから、数日後には故郷の尚州で姉にも会えそうだと言うのでした。しかし、それは彼の遺言になってしまったのです。一九五〇年九月、彼は故郷を間近にした地点で惜しくも戦死しました。
姜健は有能な幹部でした。彼は政治にも、軍事にも通じていました。享年三二歳でした。われわれに若い総参謀長がいるのをソビエト人もうらやんでいました。姜健があんなに若い年で帰らぬ人となったのは、実に哀惜にたえないことです。彼には共和国英雄称号を授与し、その功績を末長く伝えるため、第一中央軍官学校を姜健軍官学校と命名しました。共和国創建二〇周年のときには、沙(サ)里(リ)院(ウオン)市に彼の銅像を建立しました。姜健を失ったことが残念でなりません。わたしはいまもしばしば彼を思い出します。
東満州出身の抗日闘士たちが極東の訓練基地に入るときひとしく願ったのは、北満州の朝鮮人の戦友に会うことでした。北満州の戦友たちも極東に来るときは同じ気持ちだったそうです。わたしが北キャンプにはじめて行ったとき、北満州から来た朝鮮人隊員たちはいっせいに兵舎から飛び出してきて歓迎してくれました。ほとんどがはじめて会う人たちでした。北キャンプを去るとき、わたしをなかなか帰らせようとしなかったことが、昨日のことのように思い出されます。
北満州出身の朝鮮人闘士たちは、東満州の闘士たちを故国から来た人のように接してくれました。北満州も東満州も満州という点では変わるところがないのですが、東満州のほうが北満州よりずっと朝鮮に近いからでしょう。朝鮮人が開拓した東満州の地であり、朝鮮人が切り開いた東満州の革命であってみれば、そこを故国の一部分のように考えるのも無理からぬことでした。東満州出身の抗日の闘士たちは、わたしと一緒に祖国にも何回か進出しました。ですから、北満州の戦友たちがわたしたちを故国の同胞のように接するのはごく自然なことだったのです。
北キャンプにはじめて行ったときひときわ目立って見えたのは、口ひげを生やした金竜化(キムリヨンフア)でした。彼の口ひげがとても印象的でした。
そのつぎは冗談好きの崔勇進(チエヨンジン)で、彼も口ひげを生やしていました。彼が一歩前に出て同僚を一人ひとり紹介するのでしたが、格式張らずユーモアたっぷりなので、初対面という気が全然しませんでした。彼は人を紹介するとき、姜尚昊(カンサンホ)は記憶力がぬきんでている、金竜化と金大洪(キムデホン)は名射手だ、張相竜(チヤンサンリヨン)、金智明(キムジミヨン)、全奉瑞(チヨンボンソ)は尻が軽くて荷車のようによく働く、金曽東はのみこみが早い、柳応三(リユウンサム)は篤農だ、といったふうに個々の特徴を一言で説明しました。日を経てみると、そのときの彼の人物評は全部正確でした。
姜尚昊は頭脳明晰(めいせき)で、金竜化と金大洪はすぐれた射手であり、張相竜や金智明、全奉瑞、朴(パク)宇(ウ)燮(ソブ)、金陽春(キムヤンチユン)などは、どんな任務が与えられてもそのつどせっせとなしとげる勤勉で誠実な努力家でした。張相竜は極東の訓練基地にいたころ、わたしと金策の間の使い走りをよくしてくれました。柳応三は農業に明るい人でした。北満州にいたときも遊撃区の営農を主管しましたが、北キャンプに来てからも副業農場の仕事となるとあれこれと関与したものです。いっとき、彼は人民武力部で副業部長を務めたこともあります。
わたしはそのころ、崔敏哲(チエミンチヨル)と李宗山(リジヨンサン)にも会いました。李宗山は北満州出身のうちでもいちばん年若い隊員でした。彼が非常呼集の銃声を聞いて、ベッドから転げおちた話を崔勇進から聞かされて、一同腹をかかえて笑ったものです。
北満州から来た女子隊員たちは、だいたい性格が開放的でした。北満州には広漠とした平原が広がっています。広い土地で暮らせば、人の性格も豪放になるのでしょう。彼女らは、馬も上手に乗りこなしました。朴京淑(パクキヨンスク)と朴景玉(パクキヨンオク)は無電の名手で、王玉環は馬術に長けていました。李淑貞も馬を上手に乗りこなすとのことでした。許昌淑(ホチヤンスク)、全順(チヨンスン)姫(ヒ)、張喜淑(チヤンヒスク)は敏腕の裁縫隊出身で、李桂香は名射手でした。
崔勇進は同僚を紹介するとき、いつも茶目っ気な冗談口をたたきましたが、そのつどこっけいな表情をつくって人びとを笑わせたりしました。崔勇進が面白い人だということは西間島にいたときにも聞いたことがありますが、実際に会ってみると噂にまさる人でした。
崔勇進が名だたる猛者で、したたか者だということは、主力部隊のあいだにも広く知れわたっていました。彼が猛者として知られるようになったのは、モーターボートで視察中の日本軍「討伐隊」の高位将校とその随員を全員水葬にする戦闘で勇猛をふるったときからでした。
崔勇進は革命的原則性の強い人です。北満州で連隊長か中隊長を務めていたとき、部隊の食糧を調達しようと、自衛団員の父親を訪ねて行ったことがあります。崔勇進の父親はもともと武器を手にして独立軍で戦った反日独立運動家です。独立軍運動が立ち消えになった後、銃を捨てて家にもどってくると、敵は彼を朝鮮人の分裂・離間策動に利用しようと自衛団に強制入隊させました。
崔勇進が父親に、いま部隊が食糧不足で苦労している、だから食糧を少し分けてもらいたい、と言うと、父親はお前にやる米はない、とかぶりを振るのでした。崔勇進の家にはいくらかの土地もあり、食糧の余裕も十分にありました。大金持とは言えないまでも、粥などはすすらずに十分暮らしていけました。彼の父親がかぶりを振ったのは、遊撃隊と内通していないということをほかの自衛団員に見せるためだったのか、それはよく分かりません。短気な崔勇進は、父親に断わられて憤慨しました。彼は、独立軍にいたお父さんがそんな態度をとってどうするのか、お父さんこそ誰よりも遊撃隊をよく援助すべきではないか、抗日遊撃隊員は強盗日本帝国主義を打ち倒して奪われた国を取りもどそうと、満足に食べることも、着ることも、寝ることもできず、雨露にうたれて野宿しながら戦っている、祖国の解放のために血を流して戦っている遊撃隊を援助しないのは、国も民族も眼中にない反逆者だ、食糧をくれなければただではおかない、とまくしたてました。
息子の話に心を動かされたのか、とにかく彼の父親は、荷車一五台分もの食糧をもたせました。その後も多くの食糧と武器を手に入れて遊撃隊に送りました。彼は自衛団の看板をもっていながらも、銃を手にして独立軍に従軍した往年の愛国心と節操をまげず、援軍運動に熱心に参加したのです。その後、彼は日本人に虐殺されました。
国際連合軍の時期に、崔勇進はわたしの支隊の中隊長を務めました。崔勇進中隊といえば、ソビエト人も感嘆したくらいです。彼の指揮する第一中隊があらゆる面で先頭に立ったからです。彼は厳格で勝ち気で、仕事熱心な指揮官として知られていました。
崔勇進は解放後、平壌(ピヨンヤン)防衛の責任ある地位にあって、スパイ・謀略分子との闘争をりっぱに展開し、平壌学院や中央保安幹部学校での正規武力の中核育成にも尽力しました。彼が水産相を務めていたときは、漁獲高も上がったものです。彼はいっとき、副首相も務めました。
わたしは訓練基地で、かつてわたしが北満州に派遣した闘士たちとも感激的に再会しました。崔光(チエグアン)、金京錫(キムギヨンソク)、全昌哲(チヨンチャンチヨル)、朴洛権、金玉順(キムオクスン)、安正淑(アンジヨンスク)などは、わたしが東満州で活動していたときに派遣した同志たちです。
崔光はわたしに会うや、これは何年ぶりですかと言って泣き出しました。泣きやんでからは「将軍、わたしは北満州に行っても、いつも将軍のおられる白頭山のほうばかりあおいでいました。もう、いくら命令されても他の部隊には絶対行きません」と言うのでした。国際連合軍の編制後、彼は小隊長を務めました。
わたしが崔光にはじめて会ったのは、彼が児童局長を務めているときでした。そのとき、彼は、児童団演芸隊を率いてわたしの所に来て公演をしました。わたしが第一次北満州遠征に発つころには、児童局長を止めて青年義勇軍に入隊していました。そのころまで崔光は、銃を発射すれば薬きょうのまま弾が飛んでいくものと思っていたそうです。彼は入隊して間もなく小隊長になりました。
吊廟台戦闘のときは、わたしを護衛するため小隊を引率して腰営口の西側の山に来て夜を明かしたことが思い出されます。崔光はその後、老黒山戦闘にも参加しました。極東に来る前は、周保中の第五軍指揮部で警護隊の小隊長を務めました。周保中は崔光に目をかけていたそうです。
そういう縁で、周保中は東北での対日作戦に必要な人員を選抜するとき、真っ先に姜健、崔光、朴洛権の派遣を要望したのです。姜健は東北で分区司令官を、崔光、朴洛権、南昌(ナムチヤン)洙(ス)はそれぞれ連隊長を務めました。崔光の連隊の活動区域は汪清県一帯でした。彼らは、満州国時代に日本人が備蓄しておいたコーリャンを食べながら部隊をかため、戦闘もおこないました。当時、一部の人は崔光の組織する軍隊が多すぎると物言いをつけました。県には二〇〇名の兵員しかおけないことになっているというのです。それで崔光は、県都から外れた農村地帯に行って兵員の徴募をつづけました。そのとき組織された武装隊伍は、のちの東北解放作戦はもちろん、わが国の建軍事業にも大いに貢献しました。
崔光の部隊は敦化方面でも大きな戦果をあげました。彼らは戦闘は戦闘でつづけながら、一方では党組織や大衆組織の建設もしました。
崔光を祖国に召還したのは一九四六年の初秋でした。そのとき彼に、しっかりした隊員を選んで連れてくるよう指示しました。崔光は部隊の引き継ぎをし、約二〇〇人の選抜された人員を率いて帰国しました。平壌に到着した日、金策と武亭(ムジヨン)が駅頭で彼らを迎えました。金正淑(キムジヨンスク)は崔光が来ると聞いて、真心をこめて食事をととのえました。
崔光は帰国後、保安幹部訓練所第一所の参謀長を務めました。のちには朝鮮人民軍第一師の師団長として祖国解放戦争(朝鮮戦争)に参加しました。彼がわが国の建軍事業に残した功績は非常に大きいものがあります。
崔光は人間としても、軍事家としても誠実でした。プエブロ号事件が発生したときは、情勢が緊張しているからといって一年間も帰宅せず、執務室で寝食をしました。彼は一生涯、純潔な心で党と領袖につくした人です。革命活動の過程で曲折も経、気苦労もしましたが、心は絶対に変わりませんでした。崔光はわたしがもっとも大事にし、愛した武官の一人です。
金正日同志も彼を深く信頼し、愛し、引き立てています。金正日同志が崔光をいかに信頼しているかは、最高司令官に推戴されたのち、七〇歳を越した高齢の彼を朝鮮人民軍総参謀長に任命したことをみてもよく分かります。
わたしは極東の訓練基地に行くとき、朴吉松、許亨植とも会えるだろうと考えていました。しかし、残念なことに、彼らに会うことはできませんでした。二人とも北満州で戦死していたのです。
許亨植は珠河遊撃隊の創建者の一人です。彼のことは金策が多く話したものです。北満州出身の闘士で、許亨植のことを話さない人はいませんでした。
金策から聞いた話のうちでいまでも覚えているのは、許亨植が江南への冬季行軍中に、自ら処罰の歩哨勤務に立った話です。そのときの行軍はまったくきびしいものだったそうです。許亨植は隊員の疲労を軽減してやろうと、指揮官も歩哨勤務に立たせ、彼自身も歩哨に立ちました。時計がなかったので、線香に火をともして時間をはかりました。線香が一本燃えれば交替時間とみなしたのです。ある日の夜、許亨植は門前の歩哨に立ったのですが、うっかりして交替時間をたがえました。翌朝、彼は隊員たちの前で自己批判をし、晩になると進んで処罰歩哨に立ちました。参謀長が処罰歩哨に立つのを見たある隊員が見るにたえず、線香を半分ほど折ってしまいました。これを知った許亨植はその隊員に、指揮官を思うきみの心はありがたい、しかし、きみは重要なことを見逃している、革命隊伍内には二重規律は許されない、いったん定められた秩序は誰もが同じように守らなければならない、それでこそ隊伍の規律が確立されるものだ、きみもわたしと一緒に今晩処罰歩哨に立って、おのおの自省してみよう、と言ってその晩もまた処罰歩哨に立ったとのことです。
許亨植は訓練基地に早く来るようにという金策の連絡を受けてからも、計画した作戦をしめくくろうと日を延ばしているうちに、惜しくも訓練基地に到着できず戦死しました。いかなる軍事作戦の成功も、許亨植のような大器の指揮官一人の損失を償えるものではありませんでした。彼の死は、祖国解放作戦を構想していたわれわれにとって、実に手痛い損失となりました。
朴吉松は、汪清で活動し、のちに北満州へ行って支隊長まで務めた人です。呉仲和(オジユンフア)の影響を受け、弱年にして秋収・春慌闘争にも参加しました。朴吉松の父親朴徳深(パクトクシム)は小作農を営むかたわら船方もしました。この老人はわたしがよく知っています。人民がわれわれの部隊に送ってよこす援軍物資を、この老人が何回も船で運んでくれたものです。
朴吉松は児童局長を務めていたころ、わたしの部屋に足しげく出入りしたので、すぐ親しくなりました。彼は仕事熱心な青年で、児童局長の仕事だけでは満足しませんでした。いつも、参軍の機会を狙っていた彼は、われわれが第二次北満州遠征に出発するとき、連れて行ってほしいとせがみました。わたしは彼の入隊志願を否決し、工作員として羅子溝へ派遣しました。羅子溝には汪清、琿春一帯の遊撃区から来た革命大衆が集結していました。彼らを保護する適任者が朴吉松だったのです。彼は大衆工作に長けていました。
その後、連絡員を通じて朴吉松の消息を何回か聞きました。朴吉松が北満州に入ったのは、羅子溝一帯で彼の正体が露呈したからです。彼は収監されて拷問を受けましたが、病気ということで保釈された後、われわれの部隊を訪ねるつもりで羅子溝を脱出したのです。彼は若い年で獄中でもりっぱにたたかいました。
彼は老爺嶺を越えるときから、われわれの行方を探そうとずいぶん苦労したとのことです。そのうち、寧安県笑来地盤付近で活動していた部隊に入隊し、二〇代で支隊長の重責をにないました。彼は共青生活でも模範的でした。朴吉松が支隊長であったとき、その連絡兵を務めたのが李宗山です。
朴吉松の支隊は戦(いくさ)上手の部隊として知れわたっていました。彼の支隊には騎馬隊がありましたが、敵はその騎馬隊をたいへん恐れたそうです。朴吉松は計画した仕事をきれいにしめくくって極東に入ろうとしていたやさき、敵に逮捕され、惜しくも犠牲になったのです。
李宗山が受信した知らせをもってわたしの所に飛んできました。それによると、朴吉松は行軍の途中、敵との激戦で重傷を負って意識を失い、敵に捕らえられたそうです。わたしの連絡を受けてすぐ極東に入って来たなら、そんな大事にはいたらなかったはずなのに、本当に悔しくてなりません。
羅子溝にいた朴吉松の父親を平壌に連れて来させたのですが、崔光と金玉順が朴徳深老を扶養するといってその手続きをはじめました。ところがこれを知った金一が、小部隊活動時代の縁故からしても朴徳深老は自分が面倒をみるべきだと言い張りました。両方とも譲ろうとしなかったので、その噂がわたしの耳にまで入りました。金一はわたしに裁決を求めました。わたしは、革命の一世の気高い人間性を満足に思い、金一にこう言いました。
―― 朴吉松の父がなぜ金一や崔光、金玉順の父でしかないのか。その老人はわたしたちみんなの父であり、わたしたちは彼の子女である。だからみんなが朴吉松となって老人を扶養しよう。
こうしてわたしは、当時、相・副相たちが住んでいた普通(ポトン)江畔の高級住宅に朴徳深老を住まわせるようにはからいました。
北満州の戦友の話をすればきりがありません。
わたしは極東の訓練基地で、国際連合軍の別働隊としてソ連軍との共同偵察に参加した北満州出身の闘士にも会いました。洪春(ホンチユン)洙(ス)にもそのときに会ったのです。彼は独立軍出身です。独立軍にいたとき、平壌、江西(カンソ)、安岳(アンアク)、沙里院などをめぐり歩いて義援金募集工作をしました。彼は名射手で、偵察活動にも長けていました。祖国解放作戦のときは第一線で戦いました。
国際連合軍に参加した朝鮮の共産主義者は、かつては南満州や東満州、北満州でそれぞれ戦ってきた人たちですが、思想・意志の上でかたく団結し、朝鮮革命の最後の勝利を推進していきました。老爺嶺は東満州と南満州、北満州の境界線となっていますが、その嶺も朝鮮の共産主義者の心にまで境界線を引くことはできませんでした。彼らはみな、白頭山へ行ってわたしと一緒に戦って死にたいと言っていたのです。
白頭山へ行って戦いたいという一致した願望は、とりもなおさずわれわれの隊伍の思想・意志の統一を保障する要因となり、朝鮮革命の主体的力量の強化に大きく寄与しました。


九 革命の根をつちかい

革命とは闘争のみを意味するものではありません。革命には闘争もあり、生活もあります。闘争と生活を融合させ、闘争のなかで美しい生活を創造し、社会の進歩と繁栄をとげていくのが、まさに共産主義者の志向する革命なのです。
抗日革命闘士は、人間の想像を絶する艱難(かんなん)辛苦をなめながらも、共産主義者のみが設計できる気高く美しい生活を創造し、いたるところに道徳・信義の理想郷を建設しました。彼らは闘争のなかで愛し合い、夫婦にもなりました。闘士たちの生活には詩や歌もあり、涙も喜びもありました。
朝鮮革命は一九四〇年代に入って新しい意味と内容をもち、さらに実り多い発展の道をたどりました。いよいよ抗日革命の最後の勝利に向かって前進していた一九四〇年代に、われわれに新たな希望と喜びを与えたのは、革命の二世が生まれたことでした。
金(キム)正(ジョン)日(イル)は一九四二年二月一六日の明け方、白(ペク)頭(トウ)密営で生まれました。金正日の誕生はわが一家にとって、またとない大慶事でした。わたしと金(キム)正(ジョン)淑(スク)は、銃声の絶えない戦場で朝鮮の男児として生まれた金正日の将来を熱い心で祝福しました。
金正日が生まれたとき、わたしは父と母が生きていたならどんなに喜んでくれただろうかと考えたものです。祖父母が初孫、初孫といってわたしを可愛がってくれたように、こよなく可愛がったことでしょう。孫は子よりも可愛いと言いますが、彼には祖父母がいませんでした。曾祖父母はいましたが、はるか遠くの故郷にいたので、ひい孫の誕生を知らせる術もありませんでした。
わたしは幼いころ家族からとても可愛がられました。一〇人を超す大家庭の家族みんなが、わたしを一門の柱だと言って格別に見守ってくれました。村人たちの愛情も一通りではありませんでした。独立運動に身を投じた家庭の子孫だからと、なおさら愛情をそそいでくれたのでしょう。
ところが金正日は、そういう愛情を知らずに育ちました。彼が幼年時代のほとんどを過ごした白頭密営と極東の訓練基地には、人家すらありませんでした。われわれは住所も番地もない丸木小屋やテントで、ときには氷雪におおわれた露天で青春時代を過ごしました。
金正日の幼年時代は軍服を着た人たちのなかで流れました。彼は家族から受けられなかった愛情をわたしの戦友から受けたのです。金正日はわたしの愛情よりパルチザン隊員の愛情のなかで成長しました。戦友たちは、白頭山にもう一人の未来の将軍が生まれたと喜びを隠しきれませんでした。金(キム)策(チェク)は幼年時代の金正日をいつも「幼い将軍」と呼びました。
朝鮮人民革命軍の隊員は、誰もが抗日の炎のなかで朝鮮革命の新世代が生まれ、白頭山のカラマツのようにすくすくと育っているのを見て、朝鮮革命の洋々たる前途を確信し、幾百倍の力と勇気と闘志をいだいて祖国解放の日を早めるためさらに力強く戦うようになりました。
金正日の誕生を共同の慶事とし、彼に私心のない愛情をそそいでくれる戦友の姿から、わたしの一家への彼らの愛情が代を継いでつづく真の愛情であることを胸熱く感じました。
前にも述べたことですが、わたしは一生を同志たちの愛情のなかで生きてきました。わたしがこれまで健康な体で革命と建設を指導してくることができたのは、ひとえに同志と人民のおかげです。わたしは一四歳のときに母の膝元を離れて以来、ずっと人民と同志のなかで暮らしてきました。抗日革命の日々にも、新しい祖国建設の日々にも、祖国解放戦争の日々にも、同志たちは終始一貫、わたしを誠心誠意助け、守ってくれました。盾となって敵弾を防ぎ、雪や雨、病魔も防いでくれました。気苦労をするときも、同志と人民が力になってくれました。わたしも力が尽きたり辛いことがあるときは、まず同志と人民を訪ねました。彼らがいれば、力も湧き、前途も明るくなり、いかに困難なことでも十分やりとげられるという自信も生まれました。
ここで、みなさんに、極東の訓練基地でのことを少し話そうと思います。
国際連合軍を編制し、われわれが北キャンプに集結したその年の冬、満州や極東地方には雪がたくさん降りました。ひどい積雪のため、山の獣まで餌を求めて民家に下りてくる始末でした。膝までくる雪のため、しばらくは自動車も通えないありさまでした。
そんなときに、小部隊工作に出ていた金一が重い米袋を担いで基地に帰り、金正淑に会いに来ました。彼は、パン食がほとんどの基地の状況を考えて米を少し手に入れてきたから、他には使わず司令官にぜひご飯を炊いて差し上げるようにと頼んだのです。金一がわたしのために米を担いで来たのは一度や二度ではありません。自分は毎日、粒トウモロコシを食べながらも、わたしには何とかして白米のご飯を食べさせようといつも気をつかったものです。
柳(リュ)京(ギョン)守(ス)も兵(へい)站(たん)部から米が少しずつ供給されると金正淑の所に持ってきては、他言せずにわたしにご飯の食事をさせるよう頼むのでした。
わたしと戦友との間に行き交った革命的同志愛と共産主義的道徳・信義は、金正日の誕生後、金正淑と金正日への道徳・信義としても表現されました。
金正日が生まれると、金正淑は、わたしと自分の軍服をほどいてつくった服を着せました。訓練基地にいたときも、事情は同じでした。当時はソビエト人も戦争のため満足に食べられませんでした。少なく食べ、少し寝、地味に着る、というのが彼らのスローガンでした。そのため、おくるみと布団、帽子もととのえることができませんでした。それで、女子隊員たちが布の切れ端をつぎ合わせて布団をつくってくれたのです。金正日は祖国が解放されるまで、その布団を使いました。
戦友たちは、司令官の息子がつぎ合わせの布団を使っているのをいつも心づらく思っていました。それがいたく胸にこびりついていたためか、解放後林(リム)春(チュン)秋(チュ)は中国東北地方で活動中、休暇で帰国するとき、わたしと金正淑への贈物として毛布を五〇〇枚も買ってきました。わたしはそれを、万(マン)景(ギョン)台(デ)革命学院に贈りました。
生活が困難をきわめたころでしたが、朝鮮人民革命軍の隊員は、真心をこめて金正淑と金正日の面倒をみてくれました。とくに女子隊員たちには苦労をかけました。彼女らは金正淑の面倒をよくみてくれました。
金正日は幼年時代から軍隊を慕い、軍人の世界にあこがれました。それでわたしの戦友たちは、彼と会えばまず軍帽をかぶせてやったものです。ある隊員は、彼に贈ろうと、敵地工作の合間合間に木を削って、おもちゃのピストルをつくったりしました。白頭密営とは違って極東にいたときは、部隊がわたしの家の近くに位置していたので、訓練の余暇や休息の日には多くの隊員がわたしの家を訪ね、金正日を抱きとってあんよをさせ、肩車をしたり歌を教えたりしました。ときには、アムール川のほとりに連れていき、水上を走る発動機船や空を飛ぶ渡り鳥を見せたりしました。
パルチザンの息子に生まれ、砲煙にくすんだ服を着、軍糧を食べ、突撃の号令を聞きながら育った彼の人生は、最初から並のものではありませんでした。
金正日が幼いころから剛直で腹がすわっていたのは先天的であるともいえるでしょうが、それよりも彼がこの世でもっとも強い正義感と信念をもった闘士たちのふところで、闘争と生活の真理を学び、何の屈託もなくのびのびと育ったからです。金正日が幼いときから年のわりに精神的にませていたのも、パルチザンの影響を受けて育ったからだと思います。パルチザンの高潔な感情や情操は、豊かな滋養となって彼の魂にそそがれ、白頭山頂の岩のようにたくましい彼らの気質は、男児としての彼の性格に血と肉を補ったのです。
金正淑と金正日を助けるうえでは男子隊員たちもひけをとりませんでした。多くの男子隊員がわたしの家に来て、金正淑の労を省こうといろいろと世話をやきました。白頭密営でもそうでしたが、極東の訓練基地にしても栄養剤らしいものは別にありませんでした。みんなが窮乏生活に耐えている時期だったので、助けたい気持ちはあっても、実際には何とも方法がありませんでした。そんなときに、林春秋をはじめ多くの戦友が、自分にあてがわれたパンを少しずつ取っておいては金正淑に持ってくるのでした。独ソ戦線の支援で誰もが空腹に耐えていたときですが、彼らは毎日のようにパンを集めてくれました。金正淑はそのうちの一部だけを消費し、あとは残しておいて彼らに返しました。
いつのことだったか、林春秋が無線通信機を背負って満州へ小部隊工作に出たことがあります。彼は司令部と無線通信で連絡をとりながら、数か月政治工作をつづけました。そのとき彼は、任務もりっぱに遂行しましたが、基地へ帰るときにはタマゴを何十個も手に入れて来ました。小部隊の工作地から訓練基地までは距離が遠いうえに、通う道も平坦な大道ではなく、銃剣の林立するまさに死地でした。ですから、自分一人の身をかばうのもむずかしいのに、無線通信機を背にしてタマゴまで持ってくるのに、どんなに苦労したかがうかがわれます。
彼がタマゴの包みを持って現れたとき、わたしは金正淑と金正日のためを思う彼の真心に胸を熱くしました。
事実、林春秋と金正淑は古くからの友情でつながっていました。金正淑が符岩洞で夜学に通っていたとき、林春秋は郭(クアク)池(チ)山(サン)と一緒に講師を務めました。彼は病気で苦しんでいる人びとへの医療奉仕にも熱心でした。金正淑の家族も彼に治療を受けたことがあります。いつだったか、病気にかかった金正淑を介護したのも林春秋であったそうです。
彼は国際連合軍時代だけでなく、一生涯わたしと金正淑と金正日のために尽くした人です。国が解放されるや、林春秋は金正淑の一家、親類を捜すためにもいろいろと心を砕きました。
彼は次代に、金正淑、金(キム)哲(チョル)柱(チュ)、金(キム)基(ギ)松(ソン)の生涯と闘争業績を紹介し宣伝することを義務とし、幾年もの間資料を集めて、彼らにかんする本も何冊か著しました。
林春秋は武器を手にして戦うかたわら、知識をもってわたしの活動を補佐した代表的なインテリです。彼は該博(がいはく)な知識をもって、抗日武装闘争の初期から歴史の記録と著述活動をおこないました。彼が歴史家としての第一歩を踏み出したのは、わたしが延吉県朝陽川でおこなった党および共青幹部との談話を記録に残したときからだといえます。それ以来、彼は朝鮮人民革命軍の従軍史家として、南湖頭会議と南牌子会議、小哈爾巴嶺会議など、主要会議には欠かさず参加し、忠実に会議の記録を残しました。
林春秋はコミンテルン関係の出版物にも数件、投稿しました。どの年であったか、『太平洋』誌にその雑誌の特派員と林春秋との会見記が載ったことがあります。わたしはそれを読んで、林春秋が特派員にわれわれの部隊をさかんに自慢したことを知りました。彼は、朝鮮人民革命軍は綿密な戦闘計画とすぐれた戦術、迅速さと正確さ、勇敢さのため失敗したことがなく、隊伍は独自性が強く、文化的で楽天的であると指摘していました。また特派員は会見記で、林春秋が朝鮮人民革命軍の戦果にかんする記事や、児童団員金(キム)今(グム)順(スン)の英雄的最期についての文を投稿したことまで叙述していました。
林春秋はいつも戦友たちに、隊内出版物の運営も重要であり、コミンテルンに送る報告書や文書の作成も、革命軍の戦果を資料として総合するのも重要だが、それよりさらに重要なのは、朝鮮共産主義運動とわが国の民族解放闘争にかかわる金司令の闘争史を体系的に記録しておくことである、たとえ筆致はにぶく、知識も浅薄であっても、金日成同志の伝記を書いて後世に末長く伝えたい、とよく言っていました。
パルチザンのなかには、武器を手にして革命偉業に貢献した人は多くいましたが、林春秋のようにかたい信念をいだいて自発的にパルチザンの歴史を収録し、後世に残した人はまれです。
林春秋は党活動経歴の古い老練な政治幹部です。にもかかわらず、わたしが林春秋を政治幹部としてより、文筆家、史家として引き立てるのは、われわれの革命活動史の定立において彼のなしとげたことが何ものにも替えがたい大きな貢献となるからです。彼は豊富な史料をもって、われわれの革命活動史を総合、体系化し、掘り下げて考証しました。彼が抗日武装闘争についてそのような考証ができたのは、いつも日記を書いていたからです。林春秋のような文筆家、史家が抗日武装闘争期の資料を整理しなかったら、われわれの活動史のうち多くの部分が日の目を見ずに終わってしまったことでしょう。
林春秋はわれわれの革命活動史の定立においてのみでなく、その紹介・宣伝においても大きな役割を果たしました。解放直後、平(ピョン)安(アン)南道党委員会で党活動にたずさわっていた彼は、趙(チョ)基(ギ)天(チョン)、(〔13〕)鄭(チョン)寛(グアン)澈(チョル)な(〔14〕)ど多くの作家、芸術家に、普(ポ)天(チョン)堡(ボ)戦闘をはじめ抗日パルチザン闘争の話を多く聞かせました。林春秋は、革命伝統を基本内容とする図書や数多くの回想記を執筆し、わが党の歴史文書庫を豊かにするのに貢献しました。
彼は領袖の革命思想と革命活動史、わが党の革命伝統を擁護し輝かすことであれば、いかなる障害もはねのけました。林春秋は国際連合軍時代、わたしの論文『朝鮮共産主義者の任務』をもって政治講義をしたことがあります。そのとき、他の国の一部の指揮官は、この論文を講義案に含めるのは考慮すべきではなかろうかと言うのでした。しかし林春秋は、われわれはすでに以前から金日成司令官を朝鮮民族の指導者、領袖として戴いている、自分の領袖の著作をもって講義するのに雑音が多すぎる、と言って、『朝鮮共産主義者の任務』の講義をつづけたのです。
林春秋はわたしの健康のためにもたいへん気をつかいました。彼が連隊党書記を務めていたとき、会議で討議された問題だと言ってわたしに通知してくれたことがあります。どんな問題かというと、わたしが絶対に背のうを背負ってはならないということでした。わたしは彼を呼び出し、きみは革命参加の年期も古いのに、なぜ会議でそんな問題まで討議するのか、と質問しました。すると彼は、これは党員の要求です、司令官が背のうを背負って歩くのを人が見れば、われわれが後ろ指をさされます、大衆の意思ですから受け入れなければなりません、と言うのでした。
林春秋はわたしに献身的であったように、金正日同志の指導にも忠実でした。
それでは、どうして林春秋が領袖と指導者を熱烈に敬慕し、その指導に忠実な革命家になれたのでしょうか。それは、彼が金(キム)赫(ヒョク)、車(チャ)光(グアン)秀(ス)や金策のように分派の弊害をよく認識し、実際の体験を通じて領袖の貴さを誰よりも骨身にしみて痛感したからです。
金正日同志は林春秋を革命の第一世代におし立て、敬いました。林春秋にたいする彼の愛情と配慮は格別なものでした。林春秋が外国駐在大使として原則を守り、駐在国の当局者と激しく争って帰国したとき、党内に潜入していた分派・事大主義者は、外交慣例にありえないことをしたとし、処分を適用すべきだと主張しました。しかし、金正日同志は、林春秋が現代修正主義者とりっぱにたたかい、朝鮮人の気概を示したと評価し、庭園の旬のすぎた桃を贈りました。彼は、林春秋が革命闘争の初期からともに戦った数多くの革命烈士の闘争を考証してわが党の歴史的財宝にしただけでなく、海外で外交代表として活動する期間、国宝的価値を有する図書『抗日武装闘争期を回想して』を完成し、抗日武装闘争をわたしの闘争史、朝鮮人民革命軍の闘争史として定義づけ、総合的に体系化したことを高く評価し、その労をねぎらいました。
林春秋は著述活動において、金正日同志の指導と後援を大いに受け、その過程で金正日同志の人間的魅力に感服し、彼を師とあおぎ、指導者としてしたがい、欽慕するようになりました。それ以来、林春秋は活動と生活で提起されるすべての問題を金正日同志に報告し、その結論にしたがって動くようになり、行く先々で彼の偉大さを宣伝する講演もおこない、本も著しました。
林春秋が著述活動に専念していた一九六〇年代の後半期、国際共産主義運動内では革命偉業の継承問題、とくに後継者の問題が論議の焦点となり、時代の要請として提起されていました。後継者の正しい選定は、革命と建設、国と人民の明日の運命を決める根本問題です。後継者の選定を誤って革命を台無しにし、国を滅ぼした例はいくらでもあります。
一〇月革命以後、ソ連人民が短期間に国を世界的な強国に築きあげた基本的要因は、レーニンが後継者を正しく選んだからです。レーニンの忠実な戦友であり教え子であるスターリンは、一生涯、領袖の偉業に忠実でありました。レーニンの死後、スターリンは彼の柩の前で六項目の誓いを立てました。その後、彼は革命と建設を指導する過程でその誓いをすべて実践に移したのです。
ドイツ軍がモスクワ近郊にまで進攻したときも、スターリンは政治局員や他の幹部は疎開させながら、自分はクレムリンに残って前線の指揮にあたりました。スターリンの生存中は、ソ連で万事がスムーズに運びました。ところが、フルシチョーフが執権して以来、事がもつれはじめました。そのときから、ソ連党内に現代修正主義が台頭し、ソビエト人は思想的に変質しはじめたのです。フルシチョーフは自分を育ててくれた領袖の恩も忘れ、個人崇拝にかこつけてスターリンを中傷し、スターリンに忠実であった老革命家もすべて政治局から排除し、党隊列からも除名してしまいました。
その後、林春秋はモスクワの赤の広場のレーニン廟を参観中に、失脚したモロトフに偶然出会ったことがありました。そのときモロトフは林春秋に、あなたたちはソ連党の前例を考えても絶対に修正主義に走らずに、自分の領袖の思想と業績を忠実に継承していくようにと言ったそうです。林春秋は、後継者の問題を正しく解決しなければ党も革命も台無しになるということをそのとき明確に悟ったと言うのでした。
歴史の苦い教訓が示しているように、後継者の表徴で基本となるのは、領袖とその偉業への忠実性であり、道徳・信義であるといえます。領袖への忠実性は、道徳・信義を抜きにしては考えられません。領袖への忠実性と道徳・信義、これは後継者がそなえるべき第一の表徴です。そして、高い資質と指導品格をそなえた実力者であってこそ、領袖の切り開いた革命偉業をその思想と意図どおり輝かしていくことができるのです。
朝鮮人民は、領袖の思想体系と指導体系の確立において金正日同志が発揮した非凡な才腕と革命的原則性、領袖の路線と構想の擁護、実現において示した不屈の意志とエネルギー、高潔な忠誠心と孝心に感服し、金正日同志こそは領袖の思想と意図どおり、チュチェの革命偉業を代を継いで最後まで導き完成させていく指導者であることを深く悟ったのです。
朝鮮人民は以前から、金正日同志を尊敬し忠実にしたがってきました。金正日同志への忠実性においては、抗日革命闘士が以前もいまも先頭に立っています。抗日革命闘士が金正日同志を領袖の唯一の後継者に推戴したのは、彼が党と国家、軍隊を指導すれば民族の将来が保障され、白頭山で切り開いたチュチェの革命偉業がいささかの振れもなく代を継いでりっぱに継承され、発展するという確固たる信念をもっていたからです。抗日革命闘士が彼を領袖の後継者に推戴したのはとりもなおさず、軍隊が彼を民族の領袖におし立てたことを意味します。
金一、崔(チェ)賢(ヒョン)、呉(オ)振(ジン)宇(ウ)とともに、林春秋も金正日同志をわが党と国家の首位におし立てるうえで先駆者の役割を果たしました。
抗日革命闘士が金正日同志をあくまでもわたしの後継者としておし立てたのは、何よりも人間としての彼に魅せられたからです。金一はいつも、金正日同志のように領袖に忠誠と孝心をつくす忠臣はこの世にいないと言い、林春秋は、金正日同志のように革命の先輩を敬い、革命伝統を熱烈に擁護する人はいない、金正日同志のような偉大な思想の大家、指導の大家はいないと言い、呉振宇は、金正日同志のように無比の胆力とすぐれた知略をそなえた総帥はまたといないと言っており、崔賢と李(リ)宗(ジョン)山(サン)は、金正日同志のように人情味にあふれる人はいないと言っています。
わたしと金正淑、金正日につくすうえでは、李(リ)乙(ウル)雪(ソル)も長い年期を積んでいます。
解放後、彼が副官を務めていたころ、朝早く起きては警備状態を巡察し、わたしの家の台所で金正日と一緒に朝食を取っていた姿が目に浮かびます。それくらい、李乙雪は幼い金正日と親しかったのです。わたしが現地指導に出かけるたびに、李乙雪は車の中で金正日を側に座らせたものです。彼は金正日をいつもよく理解し、いたわりました。
いまも、戦争当時、新(シン)義(イ)州(ジュ)で金正日に会ったときのことが思い出されます。彼は久しぶりに疎開地からわたしのところに帰ってきました。そのとき金正日が、副官長としてわたしに同行した李乙雪に、母に代わって将軍によく気を配ってほしいと言った言葉がいまも耳に残っています。
金正日がなぜいまも李乙雪を信頼し、ありがたく思っているのか。それは母の死後、李乙雪が副官長のころ、自分をあたたかく見守ってくれたからです。
金正日は父母にいちばん可愛がられるころに母に先立たれました。そのうえ、戦争まで起こり、彼は幼い妹と一緒にしばらくわたしとも離れていました。戦後は経済復興のためわたしが各地を出歩いていたので、彼らに気を配ることができませんでした。ありし日の母をしのびながら幼年時代をさびしく送っていたとき、父母や親戚に代わって彼に肉親の情をそそいでくれたのが、ほかでもない李乙雪のようなわたしの戦友たちでした。
李乙雪が幼年時代の金正日をどんなに慈しみ、気を配ったかを示す話を一つしましょう。一九五三年の夏、わたしが党および政府代表団を引率してソ連を訪問したときのことです。訪問日程を終えてモスクワを出発する前日、ソ連側が歓送宴を催したのですが、そのときに出されたスイカの味が格別でした。宴会が終わって宿所にもどると、段ボールの包装をしていた李乙雪がわたしを見てたいへんあわてるのでした。何を包んでいるのかと聞くと、彼は少々ためらいがちに、お子様たちにあげようとスイカを一つ手に入れてきました、と答えるのでした。箱の中のスイカは水がめほどもある大きなものでした。そのスイカを受けとった金正日の喜びようはたいへんなものでした。彼は戦争で苦労した人民にもこんなスイカを味わわせてやれたらどんなにいいだろう、種を取ってスイカづくりをしてみよう、と言うのでした。その日、金正日と一緒に取った種で、李乙雪は翌年からわたしの家の庭園でスイカの栽培をはじめました。それが年ごとに増えていったのです。
李乙雪は幼いころ両親のもとを離れ、一生をわたしの下で生活しました。数十年間警護隊員を務め、帝国主義者とも戦い、大国主義者や反動派、分派分子ともたたかったので、あらゆる辛酸をなめつくしました。その過程で非常に剛腹な人になりました。
ハバロフスク会議後、わたしは朴(バク)永(ヨン)純(スン)と李乙雪をすぐボロシーロフ(ウスリースク)の無線通信講習所に送り、講習が終わりしだいまっすぐ帰隊するよう指示しました。
わたしが小部隊を率いて白頭山の東北部と国内で活動している間に、李乙雪は無線通信の受講を終えて帰隊する準備をしていました。彼が講習の総括で優の評価を受けた日、ソ連軍のある高位幹部がコミンテルンの指示だと言って、朝鮮へ行く準備をするよう命じました。李乙雪は呆然としてしまいました。ソ連軍の幹部は、あなたを信頼してのことだ、われわれが戦略上重視している城(ソン)津(ジン)はあなたの故郷なのだから、そこに潜入して敵の動静を無電で報告してくれればいいのだ、と言うのでした。李乙雪は、故郷へ行って工作したい気持ちはあるが、わたしは司令官から講習が終わりしだい帰隊して無線通信の教官を務めるよう命令を受けているので了解してほしい、と断わったそうです。ソ連軍の幹部は翌日も李乙雪を説きふせにかかりました。金日成同志の承諾は自分たちが後で受けるから、朝鮮へ行ってくれと言いました。ソ連軍の幹部はコミンテルンをかさに着て少々高圧的な態度に出たようです。李乙雪は、わたしは司令官の命令を実行するまではどこにも行けない、これまで無線通信技術を所有した通信兵がいなくてわれわれがどれほど血を流したか、あなたは分からないだろう、その轍を踏まないためにも、わたしは司令官の命令どおり早く部隊に帰らなければならない、と言い張りました。
そのころは極東に仮住まいをしていた状態で、まだ国際連合軍も編制されておらず、統合された指揮系統もなかったので、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍はそれぞれ独自の指揮系統と秩序にしたがって生活していたのです。そんなときにソ連軍の幹部がわれわれとの事前協議もなしに、コミンテルンをかさに着て無線通信講習所を卒業して帰隊する李乙雪を転属させようとしたのはむちゃなことでした。李乙雪が司令官の命令を実行するまでは、どんな任務も受けることができないと言ったのは、わたしへの絶対的な忠誠心の表われでした。
彼は、少年中隊の時代から現在まで、わたしの警護に一生をささげながらも、わたしの意に背いたり任務遂行を怠ったことは一度もありません。寝ても覚めてもひたすら領袖のみを考え、領袖の健康と身辺の安全のためにすべてを尽くしてきたのです。わたしが一九三九年に烏口江で釣をしたときも、わたしの後ろに機関銃をすえて護衛任務を果たしたのは警護隊員の李乙雪でした。
彼は解放後もわたしをりっぱに護衛しました。戦時中、最高司令部の周辺には反革命分子がたむろしていました。祖国の運命と直結している極秘資料が朴(パク)憲(ホン)永(ヨン)、李(リ)承(スン)燁(ヨプ)を通してアメリカ側に筒抜けになっていたのです。一九五二年の夏、李承燁は部下を通じて無線通信で最高司令部が位置していた乾(コン)芝(ジ)里の谷間に数十機の米軍機を誘導し、最高司令部の周辺に爆弾の雨を降らせました。最高司令部の建物のそばには時限爆弾まで投下されました。そこからわたしがいた家までは至近距離でした。李乙雪はそのとき非常会議を開き、副官や警護員らに決死隊となることを呼びかけ、党員証を納めてから、もっこで時限爆弾を運び出し、谷間に放り込みました。この事件を契機に、彼は最高司令部の周辺に潜入していた謀略分子や反動分子を一網打尽にしました。
李乙雪は反党・反革命分派分子ともよくたたかいました。一九五六年にわたしがソ連をはじめ東欧社会主義諸国を歴訪して帰ったときでした。ある日、副官長であった李乙雪が、いま崔(チェ)昌(チャン)益(イク)、朴(バク)昌(チャン)玉(オク)らが裏でただならぬ動きを見せているから格別に注意すべきだと言って、彼らの動きを逐一報告するのでした。南日(ナムイル)も電話で、崔昌益と朴昌玉の動向があやしいと知らせてきました。
李乙雪は金(キム)昌(チャン)鳳(ボン)の軍閥官僚主義とも真っ向からたたかいました。
彼はわたしのために一生を尽くしてきたように、金正日同志にも忠誠を尽くしています。
李乙雪と朴永純は南キャンプにもどり、多くの無線通信士を養成しました。
李乙雪はその後、祖国解放の最後の決戦がくりひろげられる重要な作戦地点や日本軍の主力が配置されている戦略的要衝で、たびたび小部隊工作をおこないました。彼は小部隊の一員として、無線通信機を担いで汪清県老黒山一帯に出て、偵察活動をしたこともあります。そのころわれわれは、敵が老黒山一帯に大きな飛行場を建設し、数百機の飛行機や数百門の大砲、数百台のトラックを集結しているという情報を入手しました。ところが、それを確認することができず、作戦の準備に大きな支障を受けていました。ソ連側もその情報の正確さいかんを確認すべく苦慮していました。それで小部隊を老黒山に派遣したのです。小部隊は飛行場の中まで大胆に潜り込み、そこにある新しい飛行機やトラック、そしてその周辺の新型砲がすべて木製の擬装物であることを探り出しました。李乙雪は偵察を終えるが早いか、無電でわたしに小部隊活動の結果を報告しました。
いま多くの人は、われわれが指導の継承問題をりっぱに解決したと言っていますが、この問題の解決では抗日革命闘士の役割が大きかったと言うべきでしょう。抗日革命闘士は幼いころの金正日に着る物、食べる物を与え、あんよを教えました。そのころから、金正日の心には、抗日革命闘士への信頼と尊敬の念が芽生え、抗日革命闘士の心には彼への信頼と親愛の情が芽生えたのです。金正日の思想的・精神的成長と感情・情操の発展においてもっとも主動的かつ積極的な作用を及ぼしたのは、ほかならぬ抗日革命闘士です。
金正日同志がそなえている必勝の信念と鉄の意志、革命的楽観主義は、抗日革命闘士と親しくするうちにいっそう充実したものとなり、しっかり鍛えあげられたと言えます。
抗日革命闘士は金正日同志との接触を通じて、彼の領袖への限りない忠孝心と道徳・信義、人民にたいする愛情と献身的奉仕精神、領袖の思想と意図通り先達の切り開いた革命偉業を代を継いであくまで完成しようという不屈の意志と信念を学びとり、金正日同志こそは祖国と民族の明日の運命をりっぱに切り開く指導者であることをひとしく感得したのです。
金正日同志を白頭山の息子というのは、抗日革命の申し子であるということであり、民族の息子であるということです。彼は抗日革命闘士のふところで人生の第一歩を踏み出し、そのふところで朝鮮革命の嚮導星として登場した朝鮮の息子です。
抗日革命闘士は、金正日同志をわれわれの偉業の継承者におし立てただけでなく、その指導体系を確立するうえでも先駆者の役割を果たしました。後継者をおし立てるからといって万事が自然にうまくいくのではありません。それでわたしはいまも、抗日革命闘士に会うと、わたしたちがもう少し長生きして金正日同志の力になってやろうと呼びかけているのです。
領袖の偉業の継承、完成において重要なのはまた、後継者の指導に忠実にしたがう中核の育成、後続隊の育成です。中核をかため後続隊をりっぱに育成しなければ、後継者の指導体系を確立することも、その路線と方針を貫くこともできません。
われわれは解放後、白頭山で戦った中核をもって革命を発展させました。われわれはいま、党員と軍人と青年からなる数十数百万の中核部隊を擁しています。指導者がおり、中核がいれば、何も心配はありません。金正日同志が指導する朝鮮革命の未来は、あの青空のように明るく洋々としています。
金正日同志の生家が位置している渓谷を小(ソ)白(ベク)水(ス)谷(コル)と呼びます。小白水谷は、わが国の高山地帯でのみ見られるすばらしい絶景です。一九八〇年代にわれわれがこの密営を発見する前まで、小白水谷は人跡まれな千古の密林でした。軍事にうとい人が見ても、天険の要塞、金城湯池といえる地形です。朝鮮人民革命軍司令部の所在地としてはうってつけの場所でした。
正(ジョン)日(イル)峰の以前の名は将(チャン)帥(ス)峰でした。金正日同志の業績を子孫万代に伝えるため、将帥峰を正日峰と命名したのです。朝鮮人民は、歌までつくって正日峰を全世界に自慢しています。
金正日同志を民族の指導者に育てたのは白頭山です。白頭山の闘士が彼を嚮導星におし立て、白頭山の精気が彼の気概となったのです。
朝鮮革命の代がぐらつかないのは、金正日同志が抗日革命の炎のなかで生まれ育った民族の領袖であるからです。彼は全人民の支持と寵愛を受けている人民の指導者です。
パルチザンの息子に生まれ、軍隊と人民の全面的な支持と信頼のもとに領袖の後継者、民族の指導者となった金正日同志の偉業は、今後も必勝不敗であることでしょう。
第二四章 民族あげての反日抗戦によって

一 解放の日を思い描いて

祖国の解放後、抗日革命闘士の多くは履歴書の学歴欄に、「八八軍官学校」または「八八野営学校」と記入した。当時、幹部事業を担当していた人たちは、多難な遊撃闘争をつづけてきた抗日革命闘士のほとんどが軍官学校を出ていることに驚きを禁じえなかった。朝鮮革命の一世たちが誇りをもって履歴書の学歴欄に記入した「八八軍官学校」の実体は何か。
彼らは後日、国際連合軍時代の軍事・政治訓練にかんする金日成同志の回想談を聞いてはじめて、その実相を知った。

国際連合軍の編制後、われわれは小部隊作戦と偵察活動を猛烈にくりひろげる一方、軍事・政治学習と訓練も大々的におこないました。
当時われわれが使ったテキストは、正規の軍事教育機関で扱われていたものよりも内容上幅広く、深みのあるものでした。それにいっそう多面的でもありました。訓練の強度も正規の軍事学校のそれに比較すべくもありませんでした。訓練綱領自体が指揮官の養成を目標にしたものだったので、軍官学校を卒業したといってもさしつかえないでしょう。抗日革命闘士たちが履歴書の学歴欄に、国際連合軍時代を念頭において「八八軍官学校」とか「八八野営学校」と記入したのは、そうした理由によるものとみなすべきです。もちろん、そんな看板がかかげられていたわけではなく、卒業証書のようなものもありませんでした。けれども数年間の訓練課程を終えると、誰もがみな現代的な軍事・政治大学を卒業したものと考えたのです。
彼らはそのとき多くのことを習得しました。軍事理論も学び、現代正規戦の戦術や戦法も学びました。国際連合軍時代の教育は軍事一面の教育ではありませんでした。それは政治と軍事を兼ねた総合的な教育と訓練であり、祖国解放作戦の準備であると同時に、解放された祖国における党・国家・武力建設の準備でもあったのです。それでわれわれは、政治教育と軍事教育をともに重視しました。経済学や哲学も学び、党建設理論も研究し、経済の運営にかんするテキストも勉強しました。
しかし、そのすべてが最初から順調に運んだわけではありません。
一九四二年末から一九四三年初にかけて、第二次世界大戦の形勢は反ファシズム勢力の側に有利に進展しはじめました。スターリングラードにおけるソ連軍の大勝は、ファシズム・ドイツの気勢をくじき、独ソ戦争だけでなく、第二次世界大戦の戦局を逆転させたのです。
待望の祖国解放の日が近づくにつれて、わたしの仕事も山積しました。あのときわたしがもっとも苦心した問題の一つは、解放された祖国における新しい国づくりをどのようにおこなうべきかということでした。党を創立し、国家を建て、武力建設、経済建設、文化建設などもおし進めなければならないのに、革命の指揮メンバーであり中核力量である幹部の不足が最大の難題だったのです。
わたしが当時考えたことは、多難な武装闘争を通して鍛えられ、点検された抗日闘士たちを、軍事のみならず党活動をはじめ国家管理や経済、教育、文化のどの部門を担当させても問題なくやりこなす万能の幹部に育てあげることでした。わたしは、国際連合軍での軍事・政治学習と訓練を通して、このすべてを解決することにしました。ところが、初期の訓練綱領をみると、軍事訓練に比べて政治学習の比率は低いものでした。
わたしは政治理論学習の比率を軍事訓練より低くしてはならないと考えました。それで、アパナセンコ大将に会ったときにそう話しました。アパナセンコは、国際連合軍の第一の任務は朝鮮と中国東北地方の民族革命軍事幹部の養成にあるとし、朝鮮と満州が新しい局面を迎えたとき、赤軍と連合して戦えるよう訓練に励み、現代戦の戦略戦術と技術機材、武器に精通すべきであると言うのでした。わたしは、訓練と軍事幹部の養成に偏るべきではない、朝鮮の解放後、新しい国づくりをするには自主独立国家建設の柱となる各分野の幹部を養成する必要がある、そのためには訓練綱領で政治学習の比率を高めなければならない、だからといって、軍事訓練の時間を割いて政治学習をしようというのではない、訓練はそのままこなしながら、政治学習をもっとやろうというのだ、と強調しました。アパナセンコは正しい意見だとして、わたしの主張に同意しました。こうして国際連合軍の軍事・政治訓練綱領における政治学習の比率は著しく高まったのです。
われわれは軍事・政治訓練を開始するにあたって、隊員たちにたいする思想動員と教育活動を積極的におこないました。党グループや共青組織では会議もおこない、新聞や壁新聞を通して決意の披(ひ)瀝(れき)もさせ、構内放送も流しました。
各支隊では、有能な軍事・政治幹部で政治学習担当の講師と教員を構成しました。
国際連合軍の編制後、極東軍司令部は政治学習担当教員のための短期講習を催しました。ところが、聴講生たちの反響はかんばしくありませんでした。中国語をやっと話せる人が講義をするので、講師の話が理解できないというのです。それで、聴講生の苦情を斟酌(しんしゃく)して、ソビエト人講師に中国語の通訳をつけました。しかし、聴講生たちにはそんなやり方も不都合でした。通訳に時間の半ばをとられるので、講義の効率も高いとはいえませんでした。そこでわれわれは、ロシア語のテキストを朝鮮語に訳したあと、われわれの実情に合わせて講義案をつくり直し、政治学習担当の教員たちに配りました。
初期の政治学習用テキストには、哲学や経済学のような一般理論科目のほかに、ソ連邦共産党史、ソ中両国の歴史、地理と関連したものが扱われていました。『共産党宣言』や『レーニン主義の諸問題』などを解説したテキストもありました。もちろん、それらのテキストは隊員たちの政治的見識を高めるのに役立つものでした。しかし、朝鮮人民革命軍隊員にソ連と中国の歴史を教えながら朝鮮の歴史を教えず、祖国光復会一〇大綱領の学習をさせないというのは話になりませんでした。それでわれわれは実情に合わせて、祖国光復会一〇大綱領と創立宣言、『朝鮮共産主義者の任務』をはじめ以前から必読文献としてきた幾冊かの著作をテキストに含め、朝鮮の歴史と地理も教えることにしました。
あのころ、政治学習指導教員たちは講義案を作成するのにたいへん苦労しました。訓練に欠かさず参加しながらテキストをつくり、講義もするのですから、いつも他の隊員より多忙な日々を送ったものです。
われわれの教員の講義術はなかなかのものでした。豊かな闘争経験を持つ闘士たちの講義だったので、人を引きつけるものがあったのでしょう。安吉(アンギル)の講義を何度か参観しましたが、なかなかのものでした。長年の政治幹部であった彼は、政治科目の講義も独特のやり方で進めました。それはユーモアと比喩に富んでいて、受講者は笑いのなかで革命の真理を会得したものです。安吉は講義中、必要と思われるところでは詩も吟じ、歌もうたいました。ある講義では、丸一ページものレーニンの命題をそらんじてみせさえしました。行軍中、隊員たちがへとへとになり足を引きずって歩くのを見るとただちに休止命令を下し、太鼓を叩いたりハーモニカを吹いたりして、隊員たちを踊りや歌に引き込むのが安吉独特のやり方です。そんなやり方が講義でもそのまま表われたのです。
林(リム)春(チュン)秋(チュ)は講義も上手でしたが、学習の個別指導はいっそうすぐれたものでした。彼は討論や論戦を通じて聴講生一人ひとりのレベルと学んだ内容の消化の程度を知り、課外時間に必要な個別授業をおこないました。それでも講義の内容を十分に理解できない隊員がいれば、就寝時にその隣に寝床を移して個別指導をしたものです。
金(キム)京(ギョン)錫(ソク)も人気のある講師でした。口下手でしたが、講義の準備をきちんとして聴講生に好感を与えました。彼は講義案をつくるときはいつも徹夜をしたものです。講義案ができあがると、必ずわたしの意見を聞きました。非常にまじめでひたむきな性格でした。講義案の作成にあたっては、冒頭から結びの言葉にいたるまですっかり成文化したものです。当時の習慣が身についた金京錫は、解放後も、どんな演説文であれ必ず自筆の原稿を持って大衆の前に立ったものです。報告文もすべて自分の手で書きました。
教員たちがこのように熱心だったので、隊員の実力が向上しないわけがありません。安英(アンヨン)、全(チョン)昌(チャン)哲(チョル)、李(リ)鳳(ボン)洙(ス)の講義も好評を得ました。フルーンゼ軍事大学を出た劉亜楼も講義が上手でした。彼がソ連の新兵器カチューシャ砲の講義をしたことが思い出されます。
わたしもしばしば政治講義をしました。
軍事・政治学習の総括では、朝鮮支隊の隊員の成績が部隊で一番よいという評価を受けたものです。部隊政治部にいた馮仲雲も朝鮮支隊の隊員の成績に感嘆しました。彼はわたしに、朝鮮の同志たちがよい成績をあげる秘訣は何か、と聞きさえしました。わたしが、秘訣などあるわけがない、ねじり鉢巻きで、顔に冷湿布をしてひたすら勉強にうちこんだためだと冗談まじりに答えると、彼は「粘り強さにかけては朝鮮人にかなう者はいない」と首を振るのでした。あのとき、朝鮮支隊の隊員たちが粘り強かったのは事実です。彼らが軍事・政治訓練と学習でつねに部隊の手本になったのは、革命への責任感が強かったからです。
支隊の隊員のなかには、馬塘溝密営での朴(パク)昌(チャン)順(スン)のように学習嫌いの人もいました。代表的な例として朴(パク)洛(ラク)権(クオン)をあげることができます。朴洛権は東満州で青年義勇軍に所属していましたが、北満州の戦友たちの要請により、わたしが優秀な隊員と指揮官を派遣したさい、第五軍に配されて周保中の警護隊長を務めた人です。
朴洛権は水火をも辞さない勇敢無比のつわものでした。彼は軍事指揮官としての奇知に富み、そのうえ敏(びん)捷(しょう)でした。彼は汪清遊撃隊にいたとき、日本軍「討伐隊」との銃撃戦で腹部に重傷を負ったことがあります。そのとき、彼は外にはみ出たはらわたを手で中へ押し込み、這って遊撃区へ帰ったものです。北満州部隊で警護隊長を務めたときには護衛任務をりっぱに果たして周保中の寵(ちょう)愛(あい)を受けました。周保中自身も朴洛権のおかげでたびたび危地を脱することができたそうです。
朴洛権の特技は武器を扱う手並みが神業に近いことでした。彼はどんな武器でも一、二度扱ったら、目をつぶってその分解と組合せをやってのけたものです。実際、それは神業というほかありません。ところが、軍事理論の学習となるとはじめから嫌がるのでした。彼は理論の学習をするようにと言われると、苦虫を嚙みつぶしたような顔をしたものです。理論学習の時間には教室の隅に座って、講師と視線が合うことすら怖れました。
わたしは、いまきみは小隊を指揮しているが、やがて大規模の現代戦をすることになれば連隊や師団の指揮もとることになるだろう、なのにいまのように現代的な軍事知識を熱心に学ばないのでは、どうやって連隊や師団の指揮をするというのか、経験だけに頼って部隊を指揮しては、多くの隊員が命を落とすことになりかねない、そんなことになってはどうするのか、と彼をたしなめました。
それ以来、朴洛権は固く決心して理論の学習に取り組みました。歩兵戦術理論の勉強をするため終日アムール川のほとりに出ていた彼を見かけたことがありますが、熱病に浮かされた人のように全身が汗みどろでした。
解放後、わたしは彼を東北地方へ派遣しました。彼は連隊を率いて長春解放戦闘に参加しました。彼が長春解放戦闘のような大市街戦で連隊をりっぱに指揮して勝利をおさめたのは、極東基地で歯をくいしばって戦術学習に励んだおかげだといえるでしょう。先頭に立って敵陣に突撃し、迫撃砲弾の破片をいくつも体に受けて戦死したそうですが、彼らしい最期でした。彼は朝中人民にともに記憶される英雄として歴史に名をとどめています。
学習も戦闘だという言葉は、われわれが実際の生活のなかで見いだした真理です。革命家は生の最後の瞬間まで学習を中断してはなりません。学習をしないと思想に錆がつき、先を見通すことができません。金(キム)正(ジョン)日(イル)同志が学習を人びとを革命家に育てる第一の工程とみなし、つねに学習を強化するよう強調しているのはそのためです。
われわれは、部隊に設けられた課外教育施設や宣伝・扇動手段を通じても隊員を教育し、彼らの政治的視野を広げるようにしました。訓練基地には映写室と図書室、放送室を備えた会館がありました。部隊の将兵はこの会館で集会を催したり、映画を観覧したりしました。部隊の放送時間には学習と軍事・政治訓練、日常生活で手本とすべき軍人や小隊、中隊、大隊を広く紹介しました。国際情勢にかんする報道も多く流され、独ソ戦争のニュースは毎日のように伝えられました。
国際連合軍では新聞も発行されました。支隊と中隊には壁新聞が、小隊には戦闘速報がありました。新聞と壁新聞、戦闘速報には、軍人の思想・道徳教育や軍事・政治訓練の準備と総括にかんする内容が多く掲載されました。
われわれは、赤軍創建記念日や一〇月革命記念日、メーデーなどの祝日の行事を通しても、隊員にたいする革命教育、階級的教育をおこないました。当時、部隊では独ソ戦争で勇敢に戦ったソ連の英雄を多く紹介しましたが、これは軍人によい影響を与えました。犠牲になった革命戦友をしのぶ追悼式も意義深くおこない、軍人を革命的に教育しました。
柳(リュ)栄(ヨン)燦(チャン)が死んだときも、訓練基地で追悼式をおこないました。柳栄燦は金(キム)正(ジョン)淑(スク)が桃泉里で地下工作をしていたときに革命組織に引き入れて鍛え、遊撃隊に連れてきた人ですが、戦闘でも勲功を立てました。彼は兵営建設用の砂を運んでくる途中、アムール川で船が転覆して溺死しました。
われわれはそのころ、各戦線司令官であったアパナセンコ、ワトチン、チェルニャフスキーの追悼式もしました。追悼式では、楽隊が葬送曲を演奏しました。部隊には楽隊もあったのです。
連合軍では講演会も開き、独ソ戦争参加者との交歓会もしばしば催しました。
われわれは極東基地で軍事理論学習と軍事実動訓練も猛烈におこないました。戦術訓練、射撃訓練、水泳訓練、スキー訓練、落下傘訓練、無線通信訓練など現代戦に備えた各種訓練をもれなくおこなったのです。現代戦の訓練では戦術訓練を基本とし、攻撃と防御の訓練に力を入れました。同時に兵器学、地形学、衛生学、工兵学の勉強もし、対化学戦の知識も与えました。遊撃戦の訓練は襲撃戦と伏兵戦に重点を置いておこなわれました。全員が実戦の経験者だっただけに、この訓練となると張り切って参加したものです。
軍事訓練のときは、果てしなく広がる広野にテントを張って生活しました。あの広野の印象はいまも忘れられません。
わたしが訓練の方向を示すと、中隊長や小隊長がテキストをつくって実行しました。われわれは抗日戦争と独ソ戦争の経験にもとづいて、わが国の地形条件と朝鮮人の体質に合ったわれわれの方式の訓練をすることを原則にしていました。
戦術訓練は、教育綱領の一つの題目の学習が終わると、実動訓練によってその消化程度を評価するというやり方でおこなわれました。指揮官の戦術訓練はわたしが担当しました。戦術訓練の目的は、各軍人が原級以上の職務を遂行できるようにすることにありました。中隊長は大隊ないし連隊を指揮し、小隊長は中隊または大隊を指揮し、兵士は小隊や中隊をりっぱに指揮する能力を培おうというのでした。戦術訓練は小隊ないし中隊を単位にしておこなわれました。指揮官に任命された隊員に状況を設定して任務を与えると、彼は状況を判断し決心をしてから戦闘を組織し、命令を下したものです。
戦術訓練をはじめたばかりのときでした。ある日、わたしはある中隊へ行って戦術訓練の状況を点検しました。その日は孫(ソン)宗(ジョン)俊(ジュン)が小隊長の任務を担当しました。彼は自信満々と小隊を指揮しました。わたしは彼に、前方には各種の遮断物が設けられており、高地は増強された敵の中隊が占めているという状況を新たに設定してやりました。すると、孫宗俊は一線形前面突撃を試みました。わたしは彼にヒントを与えて、迂回突破戦術をとらせました。そして再度攻撃をかけさせました。
孫宗俊が状況に合いもしない一線形攻撃を試みたのは無理もないことでした。それは、機甲部隊を先頭に、部隊を一線形に散開させて攻撃するという当時の戦闘規定にしたがって、訓練を機械的におこなったことに起因していました。そのような攻撃方法は、山や谷の多いわが国の実情には合いません。
わたしは戦術訓練要綱を全般的に検討し、われわれが積んだ遊撃闘争の経験を踏まえてそれを発展させる原則で、わが国の実情に見合った要綱を新たに作成して訓練をおこなうようにしました。わたしは呉(オ)振(ジン)宇(ウ)に歩兵小隊の攻撃戦術を扱った模範訓練要綱をつくらせました。呉振宇は当時下士官でしたが、わたしの援助を受けながらりっぱな模範訓練要綱を作成しました。その要綱をもって、全支隊を集めて包括的な模範訓練をしたのですが、非常な好評を博しました。呉振宇は全支隊が参加しておこなう機動訓練計画も作成しました。
射撃訓練は、それぞれ距離の違う不動標的と移動標的、出現標的の射撃を基本にしておこないました。射撃訓練場は部隊から一〇キロほど離れた所にありました。朝鮮支隊は射撃でも連合軍内で最高の成績をあげました。射撃は李(リ)斗(ドウ)益(イク)がすぐれていました。
われわれは名射手を選抜して狙撃兵訓練もしましたが、それは地形学訓練を兼ねておこなわれました。最初は指定の目標物を命中させる訓練をしました。あまりにも多く射撃したため、狙撃兵たちは兵舎に戻ってからも耳鳴りがすると言ったものです。こうした訓練を積んだあと、各狙撃兵に行軍コースが示された地図と磁石盤を与えて、どこそこの地点で鳥を何羽捕らえ、何時何分までに帰隊せよと指示しました。どこそこで何度方向を変え、どこそこへ帰れという指示を実行するだけでも丸一日かかるというのに、鳥までしとめなければならないのですから、容易なことではありませんでした。
基本は射撃術を高めながら、同時に読図法を熟達させることにあったのです。
われわれは極東の訓練基地にいたとき、スキーと水泳の訓練にも力を入れました。祖国解放の大事が到来したとき、狼林(ランリム)山脈や咸(ハム)鏡(ギョン)山脈などで遊撃戦をおこなうにしても、また鴨緑(アムノク)江や豆満(トウマン)江を渡って祖国解放作戦を展開するにしても、スキーや水泳を習っておく必要があったのです。
水泳の訓練は夏期にアムール川でおこないました。わが国が海洋国であるということを考慮して、わたしはこの訓練を重視しました。われわれの支隊の隊員はほとんどが海を知らずに育った人たちでした。泳げる者は何人もいなかったのです。それで大部分の者が川を怖がりました。当時は、水泳の訓練は降下訓練につぐ困難な訓練だといわれたものです。
最初地上で手足を動かす練習をしたあと川辺へ行き、水泳の達者な何人かの隊員が泳ぐ動作をして見せながら教えました。水にいくらか慣れると、対岸まで綱を渡し、それを頼りに泳いでいくようにしました。
ところが馮仲雲をはじめ何人かの隊員は、いくら練習をさせてもその甲斐がありませんでした。川に入るが早いか石のように沈んでしまうのです。馮仲雲はめがねまで失ってしまいました。金京錫も独りで練習をしていて、危うく溺れそうになりました。彼は水中に沈むと、川底を這ってやっと岸にたどり着いたということです。
水泳がいちばん上手な隊員は全(チョン)順(スン)姫(ヒ)でした。彼女が水泳に長じていたのは、川の近くで暮らしたおかげだといえます。泳げなかったころは大人に負ぶってもらって川を渡ったのですが、物心がついてからはそれが恥ずかしくて水泳を習ったとのことです。彼女は第七軍で看護兵をした経歴があるということで、訓練基地でも部隊軍医所の看護兵を務めました。彼女に水泳の手ほどきを受けた隊員は少なくありません。
水泳訓練を終えると、ひきつづき渡河訓練をおこないました。渡河訓練は一種の総合訓練だといえます。完全武装して二五キロほど強行軍をしたあと、装具類を携帯したまま小隊別に筏を組んで川を渡るのです。この訓練では、落伍者が一人出ても減点されました。崔(チェ)光(グアン)の小隊は渡河訓練に長けていることで知られていましたが、孔(コン)正(ジョン)洙(ス)のためにいつも他の小隊に一位を奪われたものです。
孔正洙は遊撃隊に入る前は下男ぐらしをしたそうです。人間としては申し分のない品性の持ち主でしたが、元来鈍重で、軍人らしいところがありませんでした。ひと冬の間に帽子をいくつも焦がしてしまったこともあります。焚き火でズボンが焦げてもあわてない、のろのろとした性格だったのです。
孔正洙は第五軍に所属していたときも崔光の小隊にいたそうです。ある日、彼のことでやきもきしていた崔光が腹立ちまぎれに、どこでも好きな所へ行けと言って彼を追い出したことがあります。それでも彼は足を引きずりながら部隊のあとについてきました。崔光はそれを見て感動したそうです。彼は絶対に心変わりするような男ではない、と思ったというのです。
わたしは崔光に、追い出されてもどこへも行かずに、革命をつづけると言ってついてきたのをみると人間は申し分ないではないか、骨を惜しまずに助けてやろう、と言いました。崔光はわたしの言葉を心に銘記して、彼を個別的に訓練しました。七メートルもの高さの飛び込み台から水中に身を投ずる訓練をするときも、孔正洙だけは別に指導しました。わたしも遠くからその様子を見守りました。孔正洙は頭から飛びこむことができず、腹を水面に打ちつけては、腹が破裂しそうだと悲鳴をあげました。しかし、それにめげず訓練をくりかえしたものです。とにかく一風変わった人でした。解放後、彼はわたしの副官や崔庸健(チェヨンゴン)の護衛軍官を務め、大隊の指揮もとりました。
われわれはアムール川でボートにも乗りました。一人乗りのボートで、「アムロチカ」と呼ばれていたものです。ナーナイ人たちはそのボートをうまく乗りこなしました。隊員たちは、それでハバロフスクまで往復する競争をしたものです。かいは一本だけ使いました。アムール川が忘れられません。
われわれは水泳や渡河の訓練とともに上陸戦の訓練もしました。わが国は三面が海に囲まれ、河川も多いので、渡河と海岸上陸戦は間近に迫った対日作戦にとって必須の訓練だったのです。あるときは羅(ラ)津(ジン)港を想定した上陸戦の訓練もしました。
水泳の訓練以上に難しいのは落下傘訓練でした。この訓練では、男子隊員よりも女子隊員のほうがむしろ大胆でした。男子隊員のなかには落下傘訓練を怖がる人もいましたが、女子隊員のなかにはそんな臆病者は一人もいませんでした。
落下傘訓練の第一段階は模擬訓練でした。跳躍台からおが屑を敷いた地面に飛びおりる訓練です。そのつぎは回転器でぐるぐる回る訓練をしました。この訓練では多くの女子隊員が目まいをして苦しみましたが、誰一人として音を上げる者はいませんでした。
落下傘訓練はボロシーロフ付近の草原でおこなわれたのですが、そこには軍用飛行場がありました。
まず落下傘のたたみ方を習いました。これが終わると、五〇メートルほどの高さの落下塔の上から、あらかじめ開かれた落下傘で降下する練習です。五〇メートルの高さから降下しながら、風向きによって体の向きを変えるのですが、これに習熟すると、飛行機に乗って降下する資格が与えられるのです。ひと組は一〇~二〇名ほどでした。はじめは一,〇〇〇メートルの高さから降下し、ついで六〇〇メートルの高さに引き下げられましたが、普通は八〇〇メートルの上空で降下命令が下されました。
飛行場の周辺は見渡す限り砂糖大根畑でした。われわれが降下すると、野良仕事をしていた女性コルホーズ員たちが駆けつけて、落下傘を引き寄せたり、砂糖大根の皮をむいてくれたりしたものです。
降下回数の多い隊員には青色の記念バッジが与えられましたが、われわれの支隊では崔勇進(チェヨンジン)が最多記録をあげてそれを授かりました。
わたしもたびたび落下傘訓練に参加しました。訓練では、帽子を紛失する者、長靴を失う者、足をくじく者、落下傘が木の枝に引っかかって宙ぶらりんになる者など、いろいろな出来事が起こったものです。
体重が八〇キロを越すか四〇キロに満たない隊員は、安全上の理由から落下傘訓練への参加が許されませんでした。体重が重すぎると降下速度が速くて負傷するおそれがあり、軽すぎるとかえって上空に舞いあげられ、どこに流されるかわからないからです。全順姫は体重が軽いので飛行機よりも高く吹きあげられ、やっとのことで降下したものです。金(キム)曽(ジュン)東(ドン)も違う方へ吹き流されました。彼はたいへん小柄な人だったのです。方向違いの方に流されて木の枝に吊りさがった彼をわたしが助けおろしたのですが、子どものような軽さでした。金曽東は祖国解放戦争のとき、ソウルおよび大(テ)田(ジョン)解放戦闘で偉勲を立てて共和国英雄称号を授与されました。
われわれは落下傘訓練を空挺隊訓練と組み合わせておこないました。この訓練は一九四四年以降に多くおこなわれました。空挺隊訓練では、抵抗する敵兵を降下しながら掃滅する動作、降下後に迅速に散開する動作、敵背を打撃する動作などを練磨しました。
落下傘訓練をすると体重が減り、激しい空腹感を覚えたものです。訓練がきついうえに、独ソ戦争勃発後、前線支援のため部隊の食糧供給量が減少していたのです。
それで、われわれは更地を利用して畑をつくりました。ジャガイモや大豆、野菜などを栽培して自給自足することにしたのです。われわれはそのおかげをずいぶんとこうむりました。われわれの支隊では山菜を摘んで食糧の足しにしました。訓練基地の周辺には、ワラビ、オケラ、タラなどの山菜が多かったのです。われわれが山菜汁をつくって食べていると、部隊軍医所のソ連の医者たちが、得体の知れない草を食べてはいけないと言って、食事を中断させようとしました。しかし、汁をすすってみると、なかなかいけると言うのでした。山菜は薬になると教えると、それからは山菜に目がないありさまでした。
ある日、われわれの隊員と部隊の兵站(へいたん)部長を務めるユダヤ系のソ連軍少佐が、畑でジャガイモの植え方のことで口論したことがあります。少佐は隊員たちがジャガイモの目をくり抜いて植えるのを見て、そんなやり方をしては駄目だと騒ぎたてました。隊員たちは、駄目かどうかは取り入れのときになれば分かると言い返しました。その年、ジャガイモはたいへんよくできました。ジャガイモを丸ごと植えつけた所では小石ほどのものしかできませんでしたが、目をくり抜いて植えた所ではこぶし大のイモがとれたのです。それを見て、少佐はわれわれの農法を認めました。その年の春、われわれの支隊では、目をくり抜いたあとのジャガイモをゆでて食べながらも、収穫を二倍に増やしたのです。
われわれは狩猟隊を組んで猟もし、休日にはアムール川で魚も捕ったものです。川にはどう猛な魚が多く棲んでいました。なかには数十キロの大魚もありました。産卵期になると、アムール川にはサケが群れをなしてあがってきました。それを網で捕っては塩漬けにし、卵は筋子にして食膳に乗せたものです。捕った獣や魚を西部戦線に送ったこともあります。
訓練基地では無線通信訓練もしました。
北満州部隊には一九三〇年代後半期にソ連に出入りしながら無線通信技術を学んだ人がいましたが、われわれの支隊では朴永純(パクヨンスン)と李(リ)乙(ウル)雪(ソル)が臨時基地に来てはじめてそれを学びました。彼らはボロシーロフで三か月間無線通信の講習を受けてきて、他の隊員たちに教えました。無線通信の訓練には、男子隊員の李(リ)宗(ジョン)山(サン)、李(リ)五(オ)松(ソン)と金正淑、朴(パク)京(キョン)淑(スク)、朴(パク)景(キョン)玉(オク)、金玉順(キムオクスン)、李(リ)英(ヨン)淑(スク)、王玉環、李(リ)在(ジェ)徳(ドク)、李(リ)敏(ミン)など女子隊員のほとんどが参加しました。
以前東満州と南満州で活動した部隊では、無線通信がほとんど利用されませんでした。無線通信士を養成するにはコミンテルンかソ連の援助を受けなければならないのですが、それは容易でなかったのです。無線通信士がいないので、無線通信機を何度かろ獲したものの宝の持ち腐れでした。
われわれは司令部と各部隊に連絡員をおいて、徒歩で通信連絡をしたものです。連絡員たちは休むいとまもなく歩きつづけたのですが、その一歩一歩の道が死線といえました。連絡の途上で犠牲になった戦友は一人や二人ではありません。李治浩(リチホ)は入隊後数年間、司令部の連絡員として活動しました。彼は司令部の通信を届ける途上で飢えに苦しみ、敵に捕らえられ、血まみれになるまで打たれたこともあります。苦労を重ねましたが、功労も少なくありませんでした。
このように徒歩で連絡をとるありさまなので、苦労をしながらも連絡の機動性をはかることができませんでした。そうした教訓を踏まえて、われわれは無線通信の訓練に格別の意義を認めたのです。
解放後の祖国で、正規武力の建設はもとより、国の神経というべき通信機関を設立し、文化・宣伝活動を進めるにしても、通信の根幹となる人材を養成しなければなりませんでした。
当時、金正淑は無線通信や落下傘訓練をはじめ各種訓練に参加しながらも、国内の各地へ赴いて小部隊活動を積極的にくりひろげました。
無線通信の訓練では女子隊員たちが模範的でした。彼女らは無線通信の訓練でも熱意を示しましたが、スキー、水泳、落下傘降下、渡河などの訓練にも男子隊員と同じように参加しました。あのときの訓練は非常に激しいものでした。ソ連の将校も、自分たちが軍官学校に通っていたときより何倍もハードだと言ったものです。それでも女子隊員たちは泣き言を言わず、全員が訓練に欠かさず参加しました。
落下傘訓練をはじめるとき、われわれは子持ちの女子隊員と体の弱い一部の女子隊員を除外することにしました。それを聞いて、女子隊員たちはみな残念がりました。安(アン)正(ジョン)淑(スク)はわたしのところにやってきて、泣きながら抗議するのでした。「訓練をしないのなら、わたしたち女子隊員はなんのために子どもたちを残してロシアにまで来たというのですか」安正淑は極東へ来るとき、他家のしおり戸の前に幼児をおいて来たのでした。李(リ)貞(ジョン)仁(イン)も他人の畑の番小屋に娘をおいて来たとのことでした。彼女らは、祖国解放の日を早めることが愛するわが子と再会する道だと言って、ぜひとも訓練に参加させてほしいと頼むのでした。
朴京淑は軍人食堂の食べ物が喉を通らないにもかかわらず、無線通信機から片時も離れませんでした。出産後も猛訓練をつづけたものです。彼女の熱心な学習と訓練ぶりを目のあたりにした無線小隊の教官は、朝鮮の女性は実に勤勉で根気強い、と称賛を惜しみませんでした。朴京淑は無線通信機を背負って金(キム)策(チェク)と一緒に敵地に潜入し、数か月間小部隊活動をしたこともあります。彼女の無電の腕前は大したものでした。
金正淑も訓練に励みました。彼女は足首をくじいてひどくはれあがったときも、スキーの訓練をつづけたものです。わたしが案じると、彼女は紙に包んだ角砂糖を一つ差し出し、「これを口に含んで訓練すると息づかいが楽になります」と言って、かえってわたしのことを心配してくれるのでした。
落下傘訓練のとき、わたしがいちばん気がかりだったのは、軽量の女子隊員たちが果たして無事に降下できるだろうかということでした。ところが、彼女らは落下傘を適時に開いて、指定の場所に正確に着地したものです。体重を補うため背のうにれんがを入れて降下訓練に参加する女子隊員もいました。
まさにこれが抗日闘士たちの青春時代でした。解放された祖国の明日を思い描いてあらゆる苦難を笑って乗り越えるところに、われわれの幸せがあり、喜びと生きがいがあったのです。訓練が激しいうえに睡眠時間や力も足りませんでしたが、われわれは解放された祖国の明日を思い描いて、あらゆる苦難や試練を笑って克服したのです。それで抗日闘士たちはいまも当時を貴重なものとして心にとどめているのです。
誰の生涯にも青春時代はあるものです。しかし、ずっとあとにも誇りをもって振り返ることのできるように青春時代を送るというのは、決して容易なことではありません。祖国と民族のための道にわが身を投じ、燃えるような情熱と闘志をもって万難を排して進むその一歩一歩にまさる、有意義で誇りある生活はまたとないでしょう。わたしは、現代の青年も抗日革命にわが身を捧げた闘士たちのあの精神を受け継いで、立ちはだかる障害と難関を乗り越え、祖国と革命のために力強くたたかうものと信じてやみません。
日本とドイツが落日の運命をたどっていたとき、祖国解放の大事を目前にひかえたわれわれは、朝鮮革命の主体的力量をいちだんとかためるため祖国についての学習に大きな力を入れました。朝鮮革命にかんする正しい理論と戦略戦術、祖国の歴史と地理、経済と文化、道徳と風習などの知識がなくては、自力独立も、新しい国づくりもおこなうことはできず、革命にたいする自主的な立場と独自の見解を確立することもできなかったからです。
ところが、隊員たちは概して祖国についてよく知りませんでした。多くが満州生まれだったので、無理からぬことだといえるでしょう。朴(パク)成(ソン)哲(チョル)は慶(キョン)尚(サン)北道の生まれとはいうものの、一〇歳ごろに故郷を後にしてからはずっと満州で暮らし、李乙雪も城津(ソンジン)の生まれだとはいえ、幼少のころ豆満江を渡ってからは長白に住みつき、そこで遊撃隊に入隊したのでした。
それでわたしは、隊員たちに朝鮮革命の主体的路線と祖国についての学習をしっかりさせなければと考えました。ところが、残念なことには訓練基地に朝鮮関係の書籍が不足していました。朝鮮で出版された本は小部隊工作で国内に向かう人たちに任務を与えたり、ソ連の同志たちに依頼して入手したものです。『朝鮮地理通鑑』という本も手に入れましたが、それは祖国の地理を勉強するうえで大いに役立ちました。
ある日、林春秋に、大きな朝鮮地図をつくるようにと指示しました。そして地図には主な山や川、平野、湖、地下資源、各地方の特産物、名勝や文化遺跡などをもれなく書き入れるようにと言い含めました。林春秋は手間をかけて地図をつくりました。それは白紙数枚を張り合わせた大きなもので、見事な出来映えでした。
わたしは政治学習の時間にこの地図をかかげて、朝鮮人民革命軍政治幹部および政治教員を前にして、『朝鮮の革命家は朝鮮をよく知るべきである』と題する演説をしました。この日の演説でわたしは、朝鮮の革命家は朝鮮の歴史と地理をよく知るべきだと強調し、祖国解放の大事を主動的に迎えるためのいくつかの課題についても指摘しました。それ以来、国際連合軍内の朝鮮人隊員はみな、「朝鮮の革命家は朝鮮をよく知るべきである」というスローガンをかかげて、祖国についての学習を深めたものです。
あれは中秋のころだったと思います。その夜、われわれは密林の上に浮かんだ明るい月を眺めながら、夜が更けるまで祖国と故郷について語り合いました。祖国にたいする恋しさと愛情は、われわれに無限の力と勇気を与える泉でした。こうしてわれわれは奮起一番、学習と訓練に励んだのです。
あのとき抗日闘士たちは、戦闘と力に余る訓練に明け暮れる張り詰めた日々を送りながらも、正規の大学に匹敵するカリキュラムをりっぱに消化したものです。それは決して生易しいことではありませんでした。
あのとき流した汗と努力は、解放された祖国の地で大きな効果を発揮しました。
解放後、わたしと一緒に活動した人たちのなかには、有名大学を出た人が少なくありませんでした。ソ連で東方勤労者共産大学を出た人たちもいましたが、彼らと話してみたところ、党建設や国家建設についての知識は知れたものでした。
抗日闘士たちは何を任せても、りっぱにやりとげました。金策に産業部門を担当させたところ、破綻した国の産業経済を短時日で立て直しました。また安吉に正規武力の建設に必要な軍事幹部を養成する学校を設けて運営するよう命じたところ、彼もその任務を難なくなしとげました。大衆工作や政治活動では、遊撃隊出身者の右に出る者がいませんでした。
われわれは、抗日革命闘争の全期間、つねに革命勝利の確信をもって、明るい未来を思い描きながら、解放された祖国の明日を担って立つ準備を積極的におし進めたのです。
祖国解放戦争(朝鮮戦争)のさなかに、わたしが平(ピョン)壌(ヤン)市復興建設の設計図を作成するよう指示したところ、一部の人は戦争がいつ終わるか分からないというのに、復興建設の設計とは何ごとだと目を丸くしたものです。しかし、それから二年後に戦争が終結したとき、われわれはその設計にもとづいてただちに平壌市の復興建設に着手することができたのです。
革命家は現在だけでなく、遠い将来を見通して事業を設計し、おし進めなければなりません。難関を前にして泣き言を並べるのでなく、困難をものともせずに立ち上がって明日のための設計図をつくり、生活を先取りして創造していくというのは、何とすばらしいことではありませんか。時間をくりあげ、未来をたぐりよせるのは攻撃精神です。抗日革命の最後の勝利を見通していたあのころも、われわれは変わることなく革命的楽観と確信にみちて軍事・政治訓練に励み、祖国解放の日を早めていったのです。
今日の難関を笑って乗り越え、明日の祖国のために昼夜を分かたず働く人たち、思索と探究を重ねながら次代の未来を設計していく人たちだけが、真の共産主義者、熱烈な革命家になれるのです。


二 全民抗争の炎は全国土に

金日成同志は日本帝国主義との最後の決戦にそなえて、朝鮮人民革命軍の総攻撃に全人民の蜂起と背後連合作戦を一つの統一的な体系に結びつける遠大な構想を練り上げ、それを祖国解放実現の戦略的路線としてうちだした。革命武力と全民族の総動員によって祖国解放の大業を成就しようというこの雄大な構想には、抗日革命の炎のなかで成長をとげた朝鮮人民への絶対的な信頼と期待がこもっていたのである。

先覚者や闘士の力だけでは国の独立を成就することができないというのは、世界革命運動史の総括であると同時に、わが国の民族解放運動史の教訓でもあります。
わたしは抗日革命を開始したときから、一貫して全民抗争を主張してきました。当時われわれが唱えた全民抗争とは、全人民を革命化して抗日革命に総動員するということでした。言いかえれば、全国、全民族挙げての組織的かつ積極的な反日抗戦によって国の解放を実現するということでした。全人民を革命化するには、彼らを意識化、組織化しなければならず、全民抗争によって日本帝国主義を打倒するには、意識化し組織化された人民を政治的にだけでなく、軍事的にもしっかり鍛えなければならないというのが、全民抗争にかんするわたしの主張だったのです。
全民抗争の準備が本格的におし進められたのは、われわれが白頭山を拠点にして武装闘争を鴨緑(アムノク)江沿岸と国内に拡大しながら、祖国光復会の旗のもとに党建設と統一戦線運動、大衆組織の建設を活発に進めていたころからです。全民族の総動員によって国の解放を成就することを呼びかけた祖国光復会一〇大綱領は、事実上の全民抗争宣言といえました。
われわれが全民抗争方針を独自の路線として示し、それを実現する実務的措置を講じはじめたのは、日中戦争がはじまった後だったと思います。全人民的反日抗戦の問題をもって白頭山密営でも会議をし、初水灘と新興(シンフン)でも会議をしました。九月アピールは全民抗争のアピールとみなしてもよいでしょう。
われわれは白頭山に進出していたとき、北鮮反日人民遊撃隊結成の構想もうちだしたものです。
われわれは、間白山に設けられた講習所を通じて、地方の各組織で鍛えられた人たちを選抜して全民抗争に必要な指導中核を大量に養成する一方、北部地帯をはじめ国内の各地に半軍事組織をさらにつくり、それを拡大、強化することに大きな力をそそぎました。
国内に派遣された政治工作員たちは、いたるところで労働者突撃隊や生産遊撃隊を組織しました。最後の決戦の日が迫るにつれて、われわれは全民抗争の作戦準備にいっそう拍車をかけたのです。
こうしたときに、朝鮮支隊の指揮官たちが一堂に会しました。論議の焦点は、最後の決戦の準備にかんする問題でした。会議に参加した朝鮮支隊の指揮官はみな、全人民を反日抗戦に動員する準備を十分にととのえ、われわれ自身の力で祖国の解放を達成しようというわたしの意見に、全幅の支持を表明しました。
その後わたしは、国内における党組織と大衆団体の建設状況および秘密武装組織の活動状況を把握したうえで、祖国解放の三大路線を示しました。祖国解放の三大路線とは、朝鮮人民革命軍の総攻撃と、それにともなう全人民の蜂起、背後連合作戦によって祖国解放の歴史的偉業を成就しようというものです。これは十分に実現可能な路線といえました。何を根拠にそういえたのか。民心を見てそうした判断を下したのです。当時、民心はもっぱらわれわれに向けられていました。白頭山を仰ぎ見る人は多く、さらに訪ねてくる人も少なくなかったのです。遊撃隊を訪ねて金日成の部下になるという人は一人や二人ではありませんでした。徴用や徴兵を忌避した人たちも山中に入って鍛冶場(かじば)を設け、日本帝国主義者と決着をつけるのだと言って武器をつくったものです。日本の統治下では苦しくてもう生きていけない、金日成パルチザン部隊が朝鮮に進撃してきたら、われわれも立ち上がって日本帝国主義者に鉄槌を下そう、生きるか死ぬかけりをつけようというのが当時の民心だったのです。
釜山(プ サン)と下関を結ぶ関釜連絡船「興安丸」の三等船室の天井に「朝鮮独立大将金日成」と記され、ソウルの南大(ナムデ)門に「近日金日成大将祖国凱旋」という「不穏な落書」が発見されて、日本の官憲を驚愕させたのは、まさにそのころです。
一九四〇年代の前半期にいたって、各階層の広範な人民はますますわれわれに民族の運命を託し、われわれが祖国を解放する日を待ちこがれていました。民心は天心だといいます。民心には人民の志向と願望がこもっています。民心がまとまりさえすれば、いかなる大事でもなしえるものです。わたしはまさにここに可能性を見いだしたのです。祖国解放の三大路線はそういう点を参酌してうちだした路線です。
最後の決戦のための作戦計画の骨子は、朝鮮人民革命軍の主力部隊が迅速に国内に進出してすべての道を占め、そこで戦闘行動を展開する一方、全国にアピールを発して山中に潜んでいる労働者、農民、青年学生を集結して武装隊伍を組み、これと合わせて全人民的な武装蜂起によって一挙に敵を撃滅し、国を解放するというものでした。これは勝算のある作戦でした。抗日武装闘争を通して鍛えられた革命軍の隊員を根幹にし、国内の愛国的な青壮年をもって武装隊伍を拡大したあと、いたるところで決死の戦いをくりひろげるなら、われわれ自身の力で国を解放することは十分可能でした。
要は、決定的な時期に人民を抗争の場に導くことですが、それも難しいことではありませんでした。三・一人民蜂起のときにも独立万歳を叫んで二〇〇余万人が決起したのですから、最後の決戦だと呼びかければ、いかに多くの人民が抗争の場に駆けつけるかは言わずもがなでしょう。
もちろん、この方針は何らの反対意見もなしに、誰もが賛同したわけではありません。わたしが全民抗争路線をうちだした当初は首をかしげる人もいましたが、ほとんどの人は最初から十分に成算のある方針だとして支持を表明しました。
われわれの全民武装方針には東北抗日連軍の指揮官たちも感嘆しました。彼らは、貴国は完全な植民地であるうえに、武装闘争も主に国外で展開しているありさまだというのに、どうしてそのような問題が提起できるのか、と言うのでした。それでわたしは、全民武装、全民蜂起はわれわれの主観ではない、人民がそれを渇望しているのだ、われわれは人民が渇望し求めていることをスローガンとしてかかげたにすぎない、と説明しました。
一九四〇年代の前半期は、国内で日本帝国主義者の支配体制が次第に麻痺していた時期です。太平洋戦争で日本の敗北が確定的なものになるにつれて、官吏のあいだに職務を怠る傾向がさまざまな形で現れました。
わたしは趙明善(チョミヨンソン)からこんな話を聞きました。小部隊工作で国内に入った彼が、山中で巡査を一人捕らえたことがあります。趙明善はその巡査に、この非常時にどうして山の中でぶらぶらしているのかと聞きました。すると巡査は、日本が敗れる日が遠くないと考えると万事が煩わしくなり、うさ晴らしに猟でもしようと思って来た、と答えたそうです。
当時の日本の官憲の精神状態はこんなものでした。敵の精神状態がこんなありさまなのですから、支配体制が揺らぐほかありません。敵の支配体制内に生じたこのような脆弱(ぜいじゃく)さは、国内抗争組織が大々的な全民抗争を準備しうる可能性をもたらしたのです。
政治工作員と抗争組織のメンバーは敵のこうした弱点を利用して、下は面の官吏や警官にはじまり、上は道知事や総督、さらには総理大臣や天皇にいたるまで上下の区別なしに宣言文や警告状を送りつけ、彼らの心胆を寒からしめたものです。

一九四三年二月、国内の抗争組織は、徴兵制の実施と関連して日本の首相東条に数通の警告状を送りつけた。碧城郡の青年一同の名による警告状をここに紹介する。
「宛名 東京市 東条首相官邸 東条総理大臣閣下
(中略)
朝鮮独立致す。
…敵国日本よ覚悟致せ。お前等が幾ら半島に徴兵制度を施き兵隊を育成しようとするが、私は早くその日を待ってゐる。我に銃剣を持たせてくれ。我等の敵は日本人だ。…
我等は祖国朝鮮のために生命を捧げた者ではあるが、敵国日本には何所までも反抗だ。死ぬまでも反抗だ。死んでもなほ反抗だ。我等は… 徴兵にこそ真先に出かける。我が胸に抱かれてゐる宿怨を晴らすため、敵国日本に反抗のため、いや滅亡させるため」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和一八年(一九四三年)二月分 七二ページ〕

われわれは全民抗争の準備を進めるうえで、つぎのような問題に深い関心を払いました。その一つは、国内にある秘密根拠地を全民抗争の軍事的・政治的拠点としてさらにかためながら、新たな臨時秘密根拠地を設けることであり、いま一つは、国内により多くの小部隊と工作班、政治工作員を送り込み、新たな情勢の要請に応じて全民抗争の力量を祖国解放作戦にしっかりそなえさせることであり、さらにもう一つの問題は、国内の全民抗争の力量にたいする統一的指導を実現することでした。
全民抗争は武装蜂起を抜きにしては考えられず、活動の拠点なしには実現できるものではありません。それゆえ、わたしは全民抗争にかんする路線をうちだしたとき、狼林(ランリム)山脈をはじめ主要な山脈に朝鮮人民革命軍部隊の活動基地、作戦基地、補給基地、全民抗争力量の武力的拠点となる秘密根拠地などを設けることに第一義的な注意を向けたのです。こうして、白頭山脈を中心とする東北部地域、鴨緑江沿岸と狼林山脈、赴戦嶺(プ ジョンリョン)山脈を中心とする北部内陸地域、それに西部地域や中部地域など、全国各地に数多くの秘密根拠地が設けられました。
一九四〇年代に入ってからは、新たな情勢の要請に応じて、このような秘密根拠地以外に、祖国解放作戦を展開するうえで戦略戦術上、重要な意義をもつ全国の要所要所にさまざまな形態と規模の臨時秘密根拠地を設けました。
われわれは根拠地の建設を先行させながら、国内に多くの小部隊と工作班、政治工作員を送り込みました。わたしもたびたび小部隊を率いて国内深くに進出したものです。
われわれが送り込んだ小部隊や工作班、政治工作員は、豆満江と鴨緑江沿岸の国境地帯だけでなく、ソウルを含む中部朝鮮一帯と釜山、鎮海(チン ヘ)をはじめ南部朝鮮一帯、そして遠くは日本にまで潜入して政治・軍事活動を活発にくりひろげ、広範な反日大衆を全人民的抗戦にそなえさせました。

金日成同志が派遣した政治工作員の活動について、日本の官憲資料にはつぎのように記されている。
金日成輩下思想班長の検挙
在満不逞朝鮮人の首領金日成は従来より抗日不逞策動に狂奔中なるが、尖鋭分子なる其の輩下思想班長金某(当二一歳)が最近不逞目的を以て間島省図們に潜入し、地下工作に従事中、同地警備機関に検挙せられ目下厳重取調中なるが、現在迄に判明せる潜入目的並活動状況次の如し。
(一) 潜人目的 日蘇開戦の際、満州並朝鮮に於ける後方攪乱及鮮系第五列部隊組織並日銀券蒐集の為。
(二) 活動状況 金日成の思想班長として前記の如き使命を帯び哈府より秘かに入満し、図們に於て鮮系不逞分子約二〇名を獲得…
(三) 背後関係 京城 (ソウル)に第五列本拠の存在すること明瞭となり、目下詳細取調中なり」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和一八年 (一九四三年)二月分 八二ページ〕

全民抗争の準備を進めるうえでいま一つ重要なのは、国内の抗争運動を統一的に指導する指導機関を設けることでした。
国内党工作委員会の組織後、全国各地に党グループがつくられ、それらが大衆団体を指導しました。一九三〇年代の末からは、各地域に散発的につくられた党グループと反日大衆組織にたいする統一的な指導を実現する使命を帯びた地区党委員会が生まれ、地域的指導機関としての役割を果たしはじめました。一例として金正淑が組織した延社(ヨン サ)地区党委員会を挙げることができます。
一九四〇年代の前半期には、平安(ピョンアン)南道一帯で共産主義の先覚者からなる地区党委員会が組織されて活動しました。平安南道地区党委員会は、平壌、价川(ケ チョン)、南浦(ナム ポ)をはじめ各地域に傘下の党グループをもち、それを通じて道内各地の祖国光復会組織と全民抗争組織を指導しました。咸鏡北道に組織された清(チョン)津(ジン)地区党委員会は、日鉄を中心に清津地区の各工場に多くの党細胞を擁していました。
全民族的な反日抗戦によって日本帝国主義を撃滅するためのわれわれの主動的かつ積極的な政治・軍事活動の結果、一九四〇年代の前半期、国内では全民抗争の力量が急速に成長しました。一九四二年に日本帝国主義が探知した国内の反日地下組織だけでも一八〇余にのぼり、その人員は五〇万人を越えるといわれました。敵に知られなかった組織まで合わせると、その数ははるかに多かったものと思われます。
当時、国内外の反日団体の活動における一般的な傾向は、大半の組織が政治的性格と軍事的性格をあわせもつ組織に発展しており、全民蜂起と武力抗争を主要な闘争目的、課題としていたということです。多くの闘争団体が、自らの闘争目的は全民抗争、一斉蜂起、武装暴動、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦に合流することにあると公然と表明し、組織の名称も「金日成隊」、白頭山会などと、われわれとじかに結びついたものを用いたものです。
ソウルで組織され、済州(チエ ジュ)島のモスルポをはじめ国内各地、そして日本にまで勢力を広げた「金日成隊」は、目的や活動方式からみても、抗日革命の末期に活動した注目に値する全民抗争組織でした。
金日成隊」という抗争組織の存在が明らかになったのは、一九四五年六月ごろだったと思います。そのころ、新潟県警察部は、徴用で日本に連行された朝鮮人のあいだで「金日成隊」という組織が活動していることをかぎつけ、それを摘発しようと血眼になりました。
金日成隊」は、広範な反日大衆を結集して抗争態勢を確立し、朝鮮人民革命軍が国内進攻を開始すれば、それに合流して祖国解放の最後の聖戦に参加することを目的にしてたたかいました。この組織は主要な軍需工場、企業所、港湾、軍事施設建設場など作業現場に根をおろした組織でした。日本の機密文書によると、「金日成隊」は、大東亜戦争は間もなく日本の敗戦をもって終結し、日本の敗戦と同時に朝鮮は独立するということ、敗戦後の朝鮮の政治形態は富める者も貧しい者もおらず、すべての人が平等に幸せに暮らす政治形態になるということ、そして「独立後の朝鮮の最高指導者金日成」であるということなどを宣伝したとのことです。
いま少なからぬ研究者が、一九四二年三月に済州島の某飛行場で起こった朝鮮人労働者の大規模な暴動は「金日成隊」が陰で糸を引いたものと見ていますが、その見解にも一理あると思います。

つぎに、『ニューヨーク・タイムズ』一九四二年七月一八日付けの記事を引用する。
「朝鮮人、日本の大基地破壊
労働者たちが朝鮮西海の入口に位置するクエルパート(済州島)を攻撃して空軍兵力一四二名を射殺。
愛国者の暴動はつづいている。
(中略)
ワシントン発七月一七日… 去る三月、朝鮮でつづいている積極的な反日暴動は、クエルパート島にある日本空軍基地の甚大な破壊をまねいた。 …
クエルパート島は朝鮮半島南端の向こうにあり、朝鮮海峡と朝鮮西海の入口の重要地点を占めている。報道によれば、三月二九日、島の朝鮮人労働者が空軍基地を襲撃したという。彼らは無線通信所を破壊し、四棟の地下格納庫に火を放った。この襲撃で一四二名の日本人飛行士および技術要員が死亡し、二〇〇名が火傷もしくは負傷した。
二つのガソリン貯蔵タンクと六九機の飛行機も破壊された。日本はその後、襲撃後生き残った四〇〇名の朝鮮人を全員殺害した。
報道によれば、三月一日、北部朝鮮でも朝鮮人たちが爆薬で三つの発電所を爆破したという」

白頭山会は一九四二年の夏、咸鏡北道城津(ソンジン)(現在の金策市)で組織されました。日本警察の資料によると、白頭山会は早稲田大学に籍をおく人物の指導のもとに組織されたとされています。われわれが白頭山を根拠地にして戦っていたので、それを組織の名称とし活動中だということでした。この資料には、白頭山会が朝鮮独立をめざして人民革命軍への参軍闘争と民族意識高揚の活動をくりひろげたという記録もありました。
平壌一帯には祖国解放団という名の抗争組織がありました。わたしの従弟の金元柱(キムウォンジュ)が属していた組織です。祖国解放団は、朝鮮人民革命軍の祖国解放作戦に合流して武装暴動を起こすことを主な目的とする積極的な抗争組織でした。彼らは平壌をはじめ朝鮮中西部の工場地帯と農村に入り、労働者、農民、青年学生など各階層大衆のあいだに組織を広げていきました。組織網は警察機関と敵の官公署にまで張りめぐらされていました。
組織の運動方針も線が太く、進取的なものでした。例えば、祖国解放団は朝鮮の青年を徴兵、徴用の名で強制連行する第一線機関の破壊を計画し、また人民革命軍と連絡をつけて武器を入手したあと、組織メンバーのなかから優秀な者を選んで武装闘争に直接参加させることも計画していたのです。警察署と面事務所を襲撃すること、供出米を奪回すること、徴兵・徴用文書を奪取すること、交通機関を破壊すること、九(ク)月(ウォル)山に鍛冶場を設けて刀槍武器をつくること… このように実行計画は一つや二つにとどまりませんでした。祖国解放団の指導部は、日本軍や軍需工場内に組織をつくることも考えていたのです。
元柱の話によると、祖国解放団は斗団(トウダン)里で組織されたということです。元柱が逮捕されたのは、日本帝国主義統治末期の拳銃奪取事件のためです。元柱が逮捕された後、警官が毎日のように家に押しかけ、銃を探し出そうと家中をひっかきまわしました。警察は元柱を逮捕して、金日成の従弟を捕らえたと騒ぎ立てたそうです。
国内の抗争組織のうちで比較的規模の大きい組織としては、日鉄秘密結社と京城帝大出身者からなる武装蜂起準備結社を挙げることができます。
日鉄秘密結社は、われわれの一小部隊から送り込まれた政治工作員の指導のもとに、日鉄労働者を中心にして結成された組織です。一九四〇年代に日鉄に共産党再建組織がつくられたのは、それなりの理由があります。この組織を主導したメンバーのなかには、共産主義運動の経歴からすると既成の世代に属し、労組や農組の運動にかかずらって監獄の飯も何度か食べた人が少なくありませんでした。
日鉄秘密結社は、朝鮮人民革命軍の国内進攻に合流して武装暴動を起こすことを主な目的とし、その準備を進めました。この結社は富潤(プ ユン)地区に秘密根拠地を設け、武器と食糧、医薬品を貯蔵し、ビラやパンフレットもつくりました。また、主要な工場に行動隊を組織し、武装暴動開始の合図と日時、武器奪取の対象と手順、方法を明らかにした具体的な行動計画まで作成していたのです。
日鉄秘密結社は組織が発覚するまで、日本帝国主義者の戦時生産にブレーキをかける破壊工作も活発におこないました。この抗争組織は、工場の周辺にある日本軍の高射機関銃を奪取するという大胆な計画まで立てていました。日鉄反日会組織は鉄の生産を破綻させる闘争とともに、生産された銑鉄を日本へ積み出せないようにする荷積み拒否闘争も組織しました。そのため、多くの貨物船が鉄を積めずに清津港に何日間も停泊するという事態まで発生しました。
ソウルで組織された武装蜂起準備結社も規模が大きく、実践の態勢をととのえた組織でした。京城(ソウル)地区武装蜂起準備結社には、既成世代の共産主義者とともにインテリが多く参加しましたが、国内の秘密結社のなかで知識人があれほど多く参加した組織はほかになかったと思います。一名、城大秘密結社とも呼ばれた組織です。解放前、巷(ちまた)で「城大事件」として騒がれたのがほかならぬこの結社にかかわる事件だったのです。
京城帝国大学を略して城大ともいうのです。この結社を裏で動かしたのは、われわれが準備させて送り込んだ工作員でした。京城地区武装蜂起準備結社の組織者である金一(キムイル)洙(ス)や徐重錫(ソ ジュンソク)は、わたしが吉林にいたころからなじみになった古くからの共産主義者でした。
金一洙はソ連の極東地方に入り、李儁(リ ジュン)の息子、李鏞(リ ヨン)と一緒にソ連赤衛軍の朝鮮人大隊で中隊長を務めたこともあります。白衛軍を撃滅する戦いにもたびたび参加し、多くの軍功を立てたといいます。一九二〇年代初には高麗共産党の李東輝(リ ドンヒ)らと一緒に活動したとのことです。彼は一時、朝鮮共産党の再建運動にも参加しましたが、後日、党は再建すべきだが、芋の印判を持ってコミンテルンを訪ねるといった馬鹿なまねは二度としないと語ったそうです。
彼は、党の建設は中央を先につくって創立を宣言する下向きのやり方ではなく、大衆のなかに入って基層党組織を先につくるというように、上向きのやり方で進めるべきだというわたしの主張も虚心に受け入れました。
のちに満州に亡命した彼は、東満党特委で活動中、日本の警察に逮捕され、数年間獄中生活を強いられました。刑期を終えて出獄した彼は、われわれの部隊を捜すため東北地方に向かい、あちこちさまよい歩いたそうです。しかし、われわれを探し当てることができなかったので朝鮮にもどり、労働者のなかに入っていったのです。彼が労働者階級を重視したことからみて、古い殼を脱していたことは確かです。
徐重錫、徐完錫(ソ ワンソク)兄弟もわたしと昵懇(じつこん)の間柄です。
徐重錫はもともとはソウル派に属していましたが、のちにM・L派に鞍替(くらが)えしたのです。彼は吉林にいたとき、黄貴軒(ファンギ ホン)の父親(ちちおや)黄白河(ファンベク ハ)と親交がありました。
わたしは、徐重錫が吉林で青年活動をしていたころに彼と知り合いました。わたしが下宿していた張喆(チャンチョル)鎬(ホ)の家の隣に彼が住んでいたので、なじみになったのです。それで、われわれはよく論争を戦わせたものです。その後、彼は派閥争いはやめにすると断言しました。一国一党制にしたがって人びとが中国の党に籍を移したとき、彼は最後まで頑張って党再建運動に奔走しました。そのうちに逮捕され、数年の間、獄中生活をしました。それなりの定見もあり、志操も堅固な人でした。徐兄弟は解放後も、祖国の統一と南朝鮮革命のために献身しました。
ソウルで武装蜂起準備結社をつくった国内の抗争闘士たちは、興南(フンナム)窒素肥料工場をはじめ各地の工場や鉱山、学校などに組織を拡大していきました。京城地区武装蜂起準備結社は秘密活動拠点を設けて、武器の購入から出版物の印刷、軍事情報の収集にいたる幅広い活動を積極的にくりひろげました。さらには組織のメンバーに武器の使用法を教え、軍事訓練もほどこしました。
日本帝国主義支配当時、朝鮮に一つしかなかった京城帝大に通う学生は名うての秀才ぞろいで、ほとんどが有産階級の子弟でした。日本人が朝鮮人を啓蒙するためにそんな大学を建てたわけではありません。朝鮮人が私立大学設立運動をはじめたのでそれを禁じ、その代わりに、植民地支配の手先を養成する大学を一つつくり、帝国大学と名付けたにすぎません。そんな大学で武装蜂起準備結社が生まれたというのは何とも驚くべきことです。
安亨俊(アン ヒョン ジュン)もソウルで全民抗争組織をつくってりっぱにたたかいました。彼は早くから北部国境一帯で、わたしの叔父金亨権の指導を受けながら反日青年運動を展開しました。
彼はソウルの鐘路(チヨン ロ)に某株式会社の看板をかかげ、その傘下にいくつかの企業所を設けて組織工作を進める一方、革命の資金を調達するため大胆に活動しました。また、傘下企業所の林業労働者やいかだ流しのあいだに全民抗争組織をつくりました。彼は他の同志たちと一緒に、経営難で倒産した日本人の皮革工場を安値で買い取り、それを武装蜂起準備結社の後方基地、連絡基地にし、工場の数万円の収益金を腹に巻いて歩きながら、武器などを購入したということです。解放直後、彼はソウル市人民委員会の初代宣伝部長を務めました。わたしは一九四六年の春、金策(キム チエク)と一緒に北朝鮮臨時人民委員会の執務室で彼に会ったことがあります。
李克魯(リ グン ロ)をはじめ朝鮮語学会の学者たちも組織をつくってたたかいました。
咸鏡北道の人たちは、会寧(ヘ リヨン)の鵲(カチ)峰人民武装隊、熊(コム)山労農武装隊、羅津人民武装隊などと郷土の武装隊の自慢をよくしますが、実際彼らが自慢するだけのことはあります。それらの武装隊は少なからぬ役割を果たしました。茂山(ム サン)鉱山の青年労働者からなる白衣社という組織は、ソ連から流される朝鮮語放送を聞きながら、宣伝工作をし闘争もくりひろげました。
鉄山(チヨルサン)の愛国団や順安(スンアン)鉄工所の反日武装隊など、さまざまな名称の武装隊が全国各地にありました。それらのうち、少なからぬ組織はわたしとともに活動したか、わたしが派遣した人たちによってつくられたものです。われわれの影響のもとに活動した興南地区の抗争組織は、日本帝国主義が極秘のうちに開発していた大量殺戮(さつりく)兵器の生産を破綻させるため決死のたたかいを展開し、彼らが敗亡するまでその開発を阻みました。朴寅鎮(パクインジン)、李昌善(リ チヤンソン)らと一緒に早くから豊山(プンサン)一帯で反日大衆団体の結成に尽力した李(リ)貴顕(ギ ヒヨン)が送り込まれた咸鏡南道の虚川(ホ チヨン)一帯でも、水力発電所工事場の労働者と多くの愛国者が組織をつくってりっぱにたたかいました。
全民抗争組織は日本侵略軍の内部にもありました。
一九四四年、鎮海海兵団所属の朝鮮青年たちが日本帝国主義の敗亡を確信し、敗戦国の軍隊で犬死にするくらいなら、金日成部隊に馳せ参じて朝鮮の独立に尽くそうと衆議一決して集団脱走したという有名な話は、みなさんもよく知っているはずです。
いつぞや中国を訪問したとき、周恩来と彭徳懐が語ったところによると、抗日戦争当時、中国戦線から武器を携行した多くの朝鮮青年が訪ねてきて、金日成部隊に送ってほしいと要請したが、当時の状況がそれを許さなかったので、華北の義勇軍に送ったということでした。
平壌に駐屯していた日本軍第三〇師団でも朝鮮の青年たちが反日学徒兵武装隊を組織し、朝鮮人民革命軍に集団的に合流する計画を立てていたそうです。この武装隊は傘下に二個の支隊をもち、また支隊が四、五個の分支隊をもつ整然とした組織でした。結成当初は闘争の方向が分からず暗中模索の状態でしたが、われわれとの連絡がとれてからは正しい進路を見いだし、活動をいちだんと積極化したということです。
反日学徒兵武装隊の行動計画はきわめて大胆なものでした。彼らは、中秋を機に一斉に兵営を脱出して、いったん陽徳(ヤンドク)郡北大(プク テ)峰のふもとに集結し、警察署や憲兵隊を襲って武器、弾薬、食糧を補いながら、山を伝って普天(ポ チヨン)堡(ボ)近辺の山中に行くことにしました。そこで山中に潜んでいる徴用・徴兵忌避者を集めて隊伍を補充し、活動拠点を設けて遊撃闘争をくりひろげ、そのうちに朝鮮人民革命軍の主力部隊と合流して祖国解放作戦に参加するという計画でした。彼らは最後の作戦会議で、目標は白頭山というスローガンをうちだし、朝鮮人民革命軍に合流する準備を周到に進めたのですが、一人のメンバーの不注意のため計画は失敗に終わりました。当時、日本の軍部はこの事件について建軍以来最大の反乱陰謀の一つだと慨嘆したものです。
以前、国内で共産主義運動にかかずらっていろいろな組織に属した少なからぬ人たちも、全民抗争路線を支持し、日本帝国主義との最後の決戦の時期にわれわれの戦いに合流しました。
李鉉相(リ ヒョンサン)もコミュニスト・グループ事件で西大門(ソ デ ムン)刑務所で服役していたときに、われわれの全民抗争方針に接したそうです。そこには朴(パク)達(タル)や権永璧(クォンヨンビョク)、李悌淳(リ ジエスン)もいました。彼らが李鉉相に祖国解放作戦にかんするわたしの構想を伝えたということです。そうして彼は断食をはじめました。なんとしてでも出獄し、抗争隊伍を組んで日本帝国主義を打倒しようと決心したのです。二〇余日間の断食で病気になった李鉉相は仮釈放され、しばらく療養生活をしたあと智異(チ リ)山に入り、徴兵、徴用を忌避して潜んでいた青壮年や学生たちを集めて武装小部隊を組みました。彼が陣取った智異山は解放区形態の根拠地でした。彼はわれわれとの連合作戦を実現するため、白頭山に連絡員を派遣したこともあるそうです。
わたしが派遣した趙東旭(チヨドンウク)もソウルで全民抗争の準備をりっぱにおこないました。彼がつくった六・六同盟という組織は、傘下に登山隊や蹴球団をはじめいくつもの合法組織を擁していましたが、ソウルの反日組織とも深い連係をもっていたそうです。趙東旭は解放後もソウルに残り、南朝鮮の青年運動をわたしの意図にそって導くために努力をつくしました。彼は平壌に来ると、その足でわたしを訪ね、一〇年間の活動について報告したものです。
獄中で秘密組織をつくり、われわれの全民抗争方針を貫くたたかいを進めた人のなかには金三竜(キムサムリョン)もいます。彼はソウル西大門刑務所で服役していたとき、獄中で共産主義者サークルを組織し、日本帝国主義の転向強要に反対するたたかいをくりひろげました。彼が投獄されたのはコミュニスト・グループ事件のためでした。彼はコミュニスト・グループの結成後、組織部の責任者として活動しました。ソウルコミュニスト・グループというのは、ソウル共産主義者グループという意味です。それは党の再建をめざす組織でした。
この組織に加わっていた少なからぬ人は、国内共産主義運動にたいするわれわれの指導を受け入れ、のちに全民抗争に合流しました。前にも話したように、われわれが派遣した工作員たちはソウル市内に潜入して、コミュニスト・グループのメンバーに「祖国光復会一〇大綱領」を配布し、朝鮮人民革命軍の戦果も伝えたといいます。
ソウルコミュニスト・グループはソウル一帯の各工場、企業所に職種別傘下労組まで設け、さまざまな形態の反日闘争も進めたそうです。この闘争を組織し指導した金三竜は、獄中でも敵に屈しませんでした。ソウルから帰った朴達は折に触れ、金三竜は信義に厚く志操の堅固な革命家だと話したということです。獄内でも日本帝国主義者に屈せず最後までたたかった数少ない人のうちの一人だということでした。李鉉相と同様、金三竜も西大門刑務所で朴達らに会ったのです。獄中で二人は親交を深めたようです。出獄した朴達をソウル病院に入院させ、誠心誠意面倒を見てやったのが金三竜です。朴達がわたしの命を受けて平壌に来るときも、彼が手回しをしたということです。彼は朴達に託して、わたしに安否を問う手紙も寄こしました。
金三竜は強い信念と敏腕な組織力をそなえた党活動家であり、国と民族、共産主義偉業のために一生をささげた愛国者でした。南朝鮮労働党が非合法化されたとき、わたしは金三竜の身辺を気づかい、情勢が険しくなったらためらわずに北半部に来て活動するようにと伝えました。しかし、彼は持ち場を離れず、地下に潜って南朝鮮の党活動を責任をもって指導しました。そして裏切り者の密告で南朝鮮の警察当局に逮捕され、銃殺されたのです。
朝鮮革命は一九四〇年代の前半期、祖国解放の大事をひかえて、全人民を周到に準備させました。一九四五年八月、わが国で敵の支配体制がどうしてあんなにもろく崩壊したのでしょうか。それは、われわれの全民抗争組織が全国各地で決起し、日本人の統治機関を徹底的に破壊したからです。

一九四〇年代の前半期、全国各地に組織された全民抗争力量の反日闘争が積極化したことについて、旧ソ連の出版物にはつぎのように記されている。
「太平洋戦争の時期、朝鮮で反日運動がいちだんと強化され、日本の形勢は悪化した。
朝鮮では、日本の軍事対象におけるサボタージュと破壊工作にかんする事実が数多く記録されている。例えば、一九四二年二月、新義州で軍需物資を積んだ七両の車両が爆破され、製紙工場が焼き払われた。雄基では六棟の燃油庫が爆破され、倉庫が焼け落ちた。済州島では日本の航空基地の朝鮮人労働者が六九機の日本軍用機を破壊した。…」〔べ・ヤロボイ『朝鮮』四三~四四ぺージ ソ連海軍出版社 一九四五年九月〕

祖国解放をめざす最後の決戦を準備するとき、朝鮮民族の内部の力は総動員されました。民族内部の愛国勢力が最大限に団結し決起した全民族的な反日抗戦──これは一九四〇年代前半期における朝鮮革命発展の新しい様相であり、特出した成果であるといえます。
対峙していた共産主義と民族主義の二つの勢力が、この時期にいたって、理念の違いを越えて再び合作をとげたのだともいえるでしょう。
李鏞は共産主義者だったでしょうか。そうではありません。彼はもともと民族主義者でした。それもわたしの父と同年配の老世代に属する人でした。にもかかわらず、彼はわれわれに同調したのです。真に国を愛する人には、共産主義か民族主義かということは問題ではありません。
金九(キム グ)は共産主義者だったでしょうか。そうではありません。彼は民族主義者であり、しかも頑固な反共分子でした。にもかかわらず、われわれに軍資金を送ることをアメリカ在住の同胞にまで呼びかけたのです。のちには、われわれとの軍事的連合をはかって連絡員まで派遣しました。
日本に留学していた学生たちは、共産主義の信奉者であったから金日成の部下になると絶叫したのではありません。白頭山への道が愛国の道であり、独立の道であることを知っていたからです。
主義主張や理念にこだわっていては民族の団結をなしとげることはできません。一九四〇年代の前半期に祖国解放の大事を迎えたときのように、各自の主義は差しひかえて共通点を見いだし、それを絶対的なものとみなすべきです。抗日革命の経験と教訓はそれゆえに重要なのです。


三 対日作戦の突破口

対日作戦前夜に、祖国解放の旗、プロレタリア国際主義の旗をかかげて小部隊偵察活動をくりひろげ、壮烈な最期を遂げた朝鮮人民革命軍の勇士は数えきれない。小部隊偵察活動に参加した朝鮮人民革命軍の隊員たちは、犠牲的なたたかいによって対日作戦の突破口を切り開いていった。
ここに記す金日成同志の回想談を通じて、読者は敵中偵察活動における朝鮮人民革命軍隊員たちの英雄的な偉勲を想起するであろう。

祖国解放の対日最終作戦を準備していた時期、朝鮮人民革命軍は先鋒(せんぽう)に立ってその突破口を切り開いていきました。
対日作戦の遂行とその準備を進めていた日々、朝鮮人民革命軍の活動は、国際連合軍内の朝鮮人民革命軍主力部隊の直接の線を通しても進められ、国際連合軍別働隊の線を通してもおこなわれました。
対日作戦を見込んだ軍事偵察活動、とりわけ国際連合軍の共同偵察作戦を積極化するのは、当時の情勢からしてきわめて切迫した問題でした。日本帝国主義者の戦略的企図を事前に探知するには、日本本土はもとより、ソ連と国境を接している満州や朝鮮で軍事偵察活動を大々的に展開しなければなりませんでした。
一九四〇年代の前半期、祖国解放の大事を前にしたわれわれには、以前とは比べようもない膨大な偵察任務が提起されていました。当時、われわれは日本帝国主義との最後の決戦を準備していました。そのため偵察対象も増大するほかなかったのです。一つや二つ、または三つや四つの対象にたいする襲撃戦や破壊戦、伏兵戦を主としていた従来の作戦では、勝算のある対象だけを選んで戦いを進めたので、偵察対象も限られたものでした。しかし今度は、敵軍の駐屯地と要塞区域、飛行場、砲火力陣地をはじめ、すべての敵対的要素を偵察対象に含めなければならなかったのです。さらには反動団体の所在地とその構造的特性、民心の動きなどもすべて偵察対象になったのです。
一九四〇年代の前半期にわれわれが軍事偵察を重視したいま一つの理由は、日本軍の機動が頻繁になり、指揮機構がしばしば改編されたことにもあります。
ドイツがソ連侵攻を開始すると、日本の軍部は満州の関東軍兵力を数十万も増強しました。ドイツ軍がモスクワを占領し、ソ連が混乱に陥ったら、ただちに北攻を開始する考えでした。そうした野心があったからこそ、彼らは満州に軍隊を大々的に移動させたのです。ところが案に相違して、ドイツ軍のモスクワ攻略がならず、膠着(こうちゃく)状態になりはじめると、抜け目のない日本の軍部は北攻は時期尚早と判断して「北守南攻」に移り、真珠湾攻撃だのシンガポール陥落だのと騒ぎたて、満州方面に集中していた兵力の大半を南方にまわしました。だから、それを補充するために新たな人員と戦闘機材を移動させるほかなかったのです。
朝鮮人民革命軍の隊員たちは、満州と国内の広大な地域を縦横無尽に駆け巡りながら、祖国解放作戦に必要な多くの偵察資料を収集しました。
わたしは、彼らが入手した偵察資料のうちもっとも重視すべきものは、朝ソ、朝満、ソ満の国境一帯に構築された要塞と、要塞区域にかんする資料だと考えました。これらの資料がなかったら、対日作戦をあれほどりっぱに進めることはできなかったでしょう。われわれが事前に敵の意図を知りえたので、「虎の子」をもって任じていた関東軍精鋭部隊がろくに抵抗もできずに降伏したのです。
日本人がこの要塞区域を難攻不落と豪語したのも無理からぬことです。人びとはフランスのマジノ線やドイツのジークフリート線が大規模なものであることは知っていても、日本の要塞や要塞区域がどれほどのものであったかはよく知らないようです。日本人が構築した要塞区域を一つにつなぎあわせると、総延長が一,〇〇〇キロメートル以上になります。日本は長年、莫大な物資をつぎこんでこの要塞線を構築したのですが、一つの要塞区域に平均五〇〇ものコンクリートと木造のトーチカが配され、指揮所、監視所、火力陣地、各種掩蓋(えんがい)、塹壕、連絡壕、対戦車および対歩兵障害物などを合わせると、文字通りアリの這い出るすきまもありませんでした。関東軍の主力がこの区域に配備されていたことからしても、日本の軍部がこの要塞区域を戦略的にいかに重視していたかが分かるでしょう。それでわれわれは、要塞区域の偵察にもっとも力を入れたのです。
わたしが小部隊を率いて満州や国内に出入りしていたとき、東興鎮要塞区域の北側を通過したことがありますが、いたるところで敵のトーチカや巧みに擬装された掩蓋に出くわしました。そのあたりで野営し、早暁に目を覚ますと、そこが敵の設けた地下構造物の掩蓋であったり、トーチカのそばであったりしたものです。
敵の営所の近くの山麓で野営したこともありました。そのとき、わたしは隊員たちをそっと起こして、敵兵の目の届かない所へ連れていきました。朝食をとりながら、きみたちが昨晩寝たのはどこだったと思うか、敵の営所のすぐそばだと言うと、みな目を丸くしたものです。
要塞区域を偵察するにあたっては、一つの対象にいくつかの固定した偵察班を送り込みました。例えば、咸鏡北道の慶興(キヨンフン)(恩徳(ウンドク))要塞区域は十余の偵察班が担当しました。琿春、東興鎮、東寧の要塞区域にもそれくらいの班が送り込まれました。
偵察兵たちはあのとき、要塞区域に潜入して、トーチカのコンクリートのかけらまで持ち帰ったものです。トーチカの大きさや砲の口径などはひもや物差しで計れるでしょうが、敵の歩哨のすぐ近くで、音も立てずにコンクリートのかけらをとってくるというのは想像もつかないことです。ところが、彼らはそんな難題もりっぱにやってのけたのです。
偵察兵たちは、国境一帯の要塞区域だけでなく、羅津、清津、元山(ウオンサン)一帯やはるか祖国の南端にある鎮海要塞、麗水(リヨス)要塞なども偵察しました。彼らは広大な地域に展開されている要塞やその兵力、大砲、飛行場と飛行機の数、さらには港湾施設、軍艦の種類と排水トン数、港湾出入秩序、通信接続所の位置、軍需品倉庫など、必要なものはなんでも探知してきました。
要塞区域と要塞の偵察では、呉白竜(オベクリヨン)を班長とし金鉄万(キムチョルマン)、韓千秋(ハンチヨンチユ)、金赫哲(キムヒヨクチヨル)らからなる偵察班がぬきんでた功を立てました。彼らは国内偵察任務を数十回も遂行しました。
最初のうちは無線通信機がなかったので、通信手段に伝書バトを利用しました。目的地に到着すると、ハトの足に付けたアルミニウムの筒にその旨を書き入れて、基地に知らせたものです。一九四二年ごろからは、国内と満州に潜入した小部隊と偵察班のほとんどが無線通信機を利用しました。
国内に入るときは、たいてい日本人が国民服と呼んでいた服に地下足袋といういでたちで、乾燥食品を携行しました。いったん国内に入ると、汽車や自動車、牛馬などを利用せずに、徒歩で目的地に向かったものです。
偵察兵たちには、派遣地の地理や風習、言葉づかいについても十分に習熟させました。
敵は、朝鮮人民革命軍の小部隊や工作班の潜入を防ぐため、豆満江沿岸と北部国境地帯における警戒を片時もゆるめませんでした。革命軍が潜入すると思われる丘陵には糸などを張り巡らして常時監視し、それが切れていたら、すかさず軍犬と住民を駆りたてて捜索したものです。ときには地面についた足跡を見て、偵察兵の潜入いかんを判断することもありました。
呉白竜の偵察班は何度も危険にさらされたものです。
あるとき、彼らは雄基(ウンギ)(先鋒(ソンポン))から慶興(恩徳)へ抜ける猪瑟(チョスル)嶺という峠道で、悪質な警防団員に遭遇しました。翌朝、敵の軍警は警防団員の死体を発見し、猪瑟嶺一帯で大々的な捜索をくりひろげました。この捜索には数百名の住民まで駆り出されました。偵察兵たちはナラの林に潜んでいたのですが、住民たちは彼らを見ても見ぬふりをしました。金鉄万はそのとき、ナラの枝に、われわれは朝鮮独立のために戦う革命軍であるとしたためた紙切れを吊しておいたそうです。捜索に駆り出された人たちはそれを見て、ひそひそ話し合った末、ここにはいないと言って、つぎの谷間に向かったということです。
呉白竜の偵察班は国内工作にあたって、多くの臨時秘密根拠地をつくりました。甫老知(ポロジ)山や小炭窯場(チヤグンカメウオン)、青鶴(チヨンハク)山などにあった臨時秘密根拠地は彼らが設けたものです。彼らはこのような臨時秘密根拠地に依拠して、大衆工作も主動的に進めました。その過程で積極的な協力者を少なからず獲得しました。彼らは炭焼きの老人を味方に引き入れ、情報工作や新聞・雑誌の購入にあたらせました。そして、彼がある程度情報工作に慣れると、清津港と元山港の偵察任務を与えて現地へ送りました。彼は元山の親類の家を根城にして長い間元山要塞を偵察し、重要な情報を呉白竜の偵察班に提供しました。
呉白竜はまた、甫老知山の奥で畑仕事や炭焼きをして生計を立てている日本語の達者な人を偵察活動に引き入れ、しばらく訓練したあと日本に派遣しました。当時、日本軍はその地方の軍馬補充部で馴らした馬を毎年、秋に日本に積み出していました。そのたびに朝鮮人のなかから馬方をつのって日本に送ったのですが、呉白竜は馬方のなかにその人を潜り込ませたのです。呉白竜から極秘の任務を受けた彼は、日本に渡ると、羅津――新潟、清津――敦賀航路を利用して朝鮮―― 日本ルートを開くことに尽力しました。
呉白竜偵察班の活動における特徴は、活動範囲が広く、資料がきわめて科学的であることでした。
朝鮮南端の要塞の地、鎮海、馬山(マサン)、釜山一帯の情報も、呉白竜が派遣した情報員が入手したものです。釜山に送り込まれた情報員は、雑貨商を装って偵察任務を遂行したそうです。麗水要塞でも、われわれが送った工作員が活動しました。彼らは大がかりに、しかも巧妙かつ正確に偵察活動を展開しました。対日戦争前夜にソ連軍が作成した羅津、雄基、清津など、東海岸地帯の主要港湾上陸作戦計画は、全的に呉白竜の偵察班が集めた資料にもとづいたものでした。彼らは港湾の偵察を実に大胆におこないました。
金赫哲はこの偵察班が生んだ朝鮮人民革命軍の英雄戦士です。彼は一〇回目の祖国への偵察工作のさい、惜しくも戦死しました。三名で班を組んで国内に入ったのですが、そのなかに関節炎に悩まされていた隊員がいました。任務はりっぱに遂行したものの、その隊員が歩行困難になり、偵察班は窮地におちいりました。それで金赫哲は彼を背負って歩きました。その日は大雪だったので、歩を運ぶのにたいへん苦労したということです。三人が雪の中で悪戦苦闘している間に時間が過ぎ、川向こうの約束の地点で彼らを待っていた案内員は引き揚げてしまいました。班長は数日間なに一つ口にできず餓死寸前におちいった戦友たちを救うために、食料を求めて村へ下りていきました。そのあと、金赫哲の懸命の介抱にもかかわらず、関節炎に苦しんでいた隊員は息を引き取りました。金赫哲もかろうじてわが身を支えているありさまでした。彼は雪の中を這っていくうちに力が尽き、二度と再び立ち上がれませんでした。抗日武装闘争の時期に金赫哲のように餓死した人は一人や二人ではありません。
翌春、村の農民たちが彼の遺体を発見し、豆満江の岸辺に埋葬しました。関節炎に苦しんだ隊員の亡骸(なきがら)もそのかたわらに葬られました。金赫哲は最期の瞬間まで拳銃を握っていたそうです。農民たちはそれを見て、彼らがパルチザンであることを知ったのでしょう。金赫哲は、金正淑が桃泉里で地下工作にあたっていたときに部隊に連れてきた人です。非常に勇敢で忠実な人でした。桃泉里出身の隊員はみなりっぱに戦ったものです。
慶興要塞区域の偵察は孫泰春(ソンテチユン)の偵察班が受け持ちました。彼らも任務をりっぱに遂行しました。彼らは雄基の裏山に臨時秘密根拠地を設け、多くの情報を集めたものです。孫泰春は一九四二年の夏、敵に包囲されると、襲いかかる敵兵に素手で立ち向かい、壮烈な戦死を遂げました。
孫泰春は和竜遊撃隊からわれわれの主力部隊に編入された人です。われわれの部隊に移ってからは、分隊長や小隊長も務めました。同じ和竜出身の朴永純と金周賢(キムジュヒョン)は口をきわめて彼をほめちぎったものです。彼らは孫泰春のことを、しっかり者、剛直で信念と志操の堅い情熱家だと評しました。その評価はいささかも誇張されたものではありません。彼は戦友たちからたいへん愛されていました。遊撃隊の経歴からすると、金周賢と入隊年度を同じくする老兵クラスに属していました。彼はちぢれ毛の美男子でした。
孫泰春には、彼の人となりをしのばせる小説のようなエピソードがあります。
彼は和竜に住んでいたとき、親同士の約束である娘と結婚することになっていました。親たちの約束はともあれ、彼らは互いに深く愛しあっていました。二人の仲に影がさしはじめたのは、革命活動に携わっていた娘の兄が逮捕されて入獄し、そのうえ借金のかたに地主にあばらやさえも差し押さえられ、一家が村の葬具小屋で暮らさなければならなくなったときからです。
当時、孫泰春は長仁江という所で共青活動をしていました。いいなずけの一家の窮状を目のあたりにした彼は、胸が張り裂ける思いでした。けれども、彼には娘の一家を救う術がありませんでした。
考えあぐねた末に、近くの村で共青活動をしている金某なる青年の父親を訪ね、いい嫁を世話するから、その代わりに牛を一頭もらえないだろうか、と持ちかけました。いい嫁という言葉に気がそそられた父親は、何年かのちに牛代を払ってくれるなら異存はないと答えました。孫泰春が約束したいい嫁とは自分のいいなずけのことだったのです。
こうして牛を手に入れた孫泰春は、それを売って地主に借金を返し、差し押さえられたあばらやを取り戻し、娘の一家を葬具小屋から救い出しました。そのあとで娘に会い、事情を打ち明けたのです。娘は最初、絶対にほかのところには嫁に行かないと泣きくずれました。しかし、「ぼくだってきみをほかへやりたくない。でも、地主に苦しめられている父母兄弟のためにぼくたちの仲を犠牲にすべきではないか。だから反対しないでくれ」と孫泰春に説き伏せられて、何も言えずに泣くばかりだったということです。
ところが不運なことに、結婚当日、「討伐隊」が村を襲ったのです。村は修羅場と化し、新郎新婦は礼服姿のまま逃げ出しました。こうして一家は散りぢりになり、新郎は遊撃隊に入り、新婦は敵地にとどまって共青活動に携わったそうです。そして、孫泰春も遊撃隊に入隊しました。金某なる青年はその後、汪清遊撃隊に属して戦い、戦死しました。数奇な運命をたどったその女性は孫泰春のことが忘れられず、一生独身で通したということです。
わたしは、孫泰春にはいつも困難な任務を与えたものです。彼は間三峰戦闘や茂山(ムサン)地区戦闘、紅旗河戦闘など、わたしが指揮した重要な戦闘に毎回参加し、そのつど人並みはずれた気概をもって勇敢に戦いました。紅旗河戦闘のときは、尖兵の任務をりっぱに果たしました。
孫泰春の一家は汪清の呉泰煕(オテヒ)一家と同様に、家族の者がみな抗日戦に身を投じた革命家の家門です。孫泰伊(ソンテイ)、孫泰雲(ソンテウン)、孫泰竜(ソンテリヨン)など、兄弟の多くが遊撃隊や革命組織に入って戦い、犠牲になりました。
金学松(キムハクソン)は慶興要塞区域の偵察任務の遂行中に戦死しました。彼も孫泰春と同じく、敵に包囲されたそうです。彼は入手した偵察資料を金鳳錫(キムポンソク)に託し、敵兵を誘引して戦死したのです。
清津と羅南(ラナム)の要塞の偵察には韓泰竜(ハンテリヨン)の班も参加しました。彼らは日本の憲兵や靴の修繕屋、人力車夫などに擬装して活動しました。しかし、いかに巧みに擬装し、臨機応変に活動しても、山中の高射砲陣地だけは警戒が厳重で、偵察のしようがありませんでした。陣地に接近せずには砲の口径や数を確かめることができないというのに、どうにも近づきようがなかったのです。
ある日、韓泰竜らは、高射砲陣地の方に通じる坂道で荷車を引いている一人の老人を見かけました。
老人が往生しているので、彼らは荷車を押してやりました。老人は何度も礼を述べました。そのとき、韓泰竜は、「食を乞いながらさ迷い歩く」わが身を嘆きました。老人は彼に同情し、日本人が滅びたら朝鮮人も暮らしのめどがつくのだが、と嘆息するのでした。韓泰竜はすかさず高射砲陣地を指さし、日本人はあんなに多くの大砲を持っているのだから滅びるはずがないと言いました。老人は苦笑をもらし、あの山の大砲はほとんどがにせものだ、本物は数門にすぎず、残りはみんな木製のにせものだ、ここで木を伐って皮をはぎ、ペンキを塗って陣地に運び込んだものだ、と言うのでした。彼は、清津一帯の兵力配置や清津港の船舶の出入り、物資の輸送状況まで詳しく知っていました。老人の話を他のルートを通じて得た資料と照らし合わせてみると、完全に合致したということです。
穏城(オンソン)、慶源(キョンウオン)、慶興をはじめ北部国境地帯の要塞区域と要塞の偵察では、朴(パク)光(クァン)鮮(ソン)や洪(ホン)春(チュン)洙(ス)の偵察班が大きな功を立てました。
朴光鮮の偵察班は軍事偵察と大衆工作を巧みに結びつけました。彼らは軍事偵察に主力をそそぎながらも、大衆を革命化する政治工作を片時もないがしろにしませんでした。彼らは大衆工作をりっぱにおこなったので、軍事偵察を進めるにあたっても人民から多くの援助を受けることができたのです。
穏城、雄基、慶源、慶興、羅津一帯には、一九三〇年代初からわれわれが設けた組織が多くありました。朴光鮮の偵察班が多くの情報を集めたのは、これらの組織をうまく動かしたからです。
解放後、朴光鮮は小部隊活動の時期を回想し、自分たちの偵察班が咸鏡北道の北部一帯で活動したとき、穏城の人たちにいちばん世話になったが、彼らは一九三〇年代の前半期から「吉林の風」と「間島の風」の影響を多分に受け、援軍活動をたゆみなくつづけてきた組織のメンバーやその子たちだった、と語ったものです。あのとき穏城で偶然に手を組んだ区長も地下組織のメンバーだったということです。区長は偵察兵に会うと、今夜は豆満江の渡し場の取り締まりを強化せよという指令が下ったから川を渡るな、電話を盗聴するのならどこそこでするのが安全だ、といったように必要な情報を適時に知らせてくれたそうです。
朴光鮮の偵察班を助けてくれた人のなかには、南陽(ナムヤン)憲兵分隊の憲兵伍長もいたそうです。朝鮮人が憲兵伍長を務めるというのは珍しいことでした。まれに洪鐘宇(ホンジョンウ)のように憲兵補助員をした人はいても、憲兵伍長にまでなった朝鮮人はほとんどいなかったのです。
朴光鮮らはその伍長を味方につけることにし、積極的に接近しました。伍長と接触を重ねるうちに、彼が一九四〇年代初期から孫長春(ソンジヤンチユン)とつながりがあった祖国光復会の特殊会員であることが判明しました。慶源郡で小部隊活動をしていた孫長春が戦死したあと、彼は人民革命軍の手が届くのを待ちながら深く潜伏していたのです。
憲兵伍長は憲兵隊を経由する情報をもれなく偵察班に伝えました。また、朝鮮人民革命軍の小部隊や革命組織のメンバーを積極的に保護しました。あるとき、豆満江流域の要塞区域の偵察にあたっていた小部隊のある班が敵に検束されました。そのとき、憲兵伍長は彼らを見張っている警防団員と密偵たちに、自分が確認してみると言いました。そして、この男たちは憲兵隊所属の「密偵」だ、味方を捕まえるとはなにごとだと怒鳴りつけ、偵察兵たちを釈放させたということです。
南陽は、国境一帯の要塞区域と日本本土との連係を保つ中継地点でもありました。わが国の北部国境地帯と中国の東北地方を結ぶ主要な道路と鉄道、通信網は主として南陽を経由し、大陸侵略のための補給物資も南陽を経て東北地方に送り込まれていました。そうした意味からして、この偵察班が南陽の憲兵伍長を情報工作に引き入れたのは、敵中工作における大きな収穫であったといえます。
朝鮮人民革命軍の小部隊と工作班は大胆にも、敵機関で働く人たちまで軍事偵察に引き入れました。
西水羅(ソスラ)警察署の給仕は、慶興要塞区域と羅津要塞の偵察に参加した偵察班を大いに助けました。彼は仕事に精を出して署長の信頼を得たあと、多くの情報を収集し、のちには重要な軍事機密文書まで盗み出しました。韓昌鳳(ハンチヤンボン)と趙明善(チヨミヨンソン)が北部国境地帯で活動していたとき、頻繁に出入りした青鶴(チヨンハク)の日本人警官のなかには、彼らの影響を受けて情報工作を積極的に助けてくれた人もいたそうです。
小部隊と工作班は、偵察活動を通して日本帝国主義者の作戦企図と兵力の移動状況を随時探り、われわれが最後の攻撃作戦を練るうえで参酌すべき価値ある膨大な資料を集めました。日本人はよく手管を弄するので、偵察兵たちは反復偵察をおこなったのです。敵は手練手管をつくしましたが、偵察兵たちの目を欺くことはできませんでした。
尹泰興(ユンテフン)も関東軍第一方面軍の編制状態についての正確な情報を集めて、国際連合軍指揮部の対日作戦計画の策定に大きく寄与しました。
われわれは、敵の支配区域に多くの工作員を長期潜伏させることにも大きな関心を向けました。当時、工作員たちは敵中の重要な機関、満州国軍や満州国警察は言うまでもなく、日本軍部隊にも潜伏していました。
地下工作にあたる人には必ず守るべき一つの重要な原則があります。どのような状況のもとでも、自分を派遣した人の帰還命令を受けないかぎり、むやみに工作地を離れたり、工作の秘密をもらしてはならないのです。この原則は生命を賭して守らなければなりません。朝鮮人民革命軍の工作員たちはこの原則を命をかけて守りぬきました。
池(チ)京(ギョン)洙(ス)の場合を例にあげましょう。朝鮮人民革命軍司令部は最後の攻撃作戦をひかえて、彼に敵中に長期潜伏して地下工作をおこなうよう命じました。工作地はソ満国境地帯でした。彼は工作資金で土地と家を買い、所帯も持ちました。彼は地主になりすまし、巧みに日本の軍警を取り込みました。そして、彼らから得た極秘情報をそのつど司令部に送ったのです。彼の情報は、祖国解放の最後の攻撃作戦で効力を発揮しました。
わたしは祖国が解放された後も彼を呼び戻しませんでした。彼の潜行地でやがて蔣介石の国民党軍との決戦がおこなわれると考えたからです。池京洙は工作地が解放されると、小作人たちに襲われる前に進んで土地と家屋を差し出し、黙々と野良仕事に励みました。自発的に土地と家屋を差し出したおかげで、彼は打倒の対象になりませんでした。ところが、ほどなくしてその地帯が国民党軍の支配下に入ったのです。彼は小作人たちに分け与えた土地を取り戻し、また地主になり、国民党軍の上層部と親交を結んで彼らから貴重な情報を引き出しました。
しかし、そのように黙々と功を立てた池京洙は、東北地方が国民党軍の統治下から解放されると、反動派の烙印(らくいん)を押されて審判台に引き出され、あやうく農民の手にかかりそうになりました。彼は審判場で殴打されながらも、自分の素性を明かさなかったのです。そこに居合わせた同志たちが、彼が抗日遊撃隊員であることを保証したからよかったものの、さもなければ大変なことになるところでした。わたしはそのことを知って、ただちに彼を祖国に呼び戻しました。
琿春県密江付近にはソクセ谷という地がありますが、そこに廉(リヨム)某なる老人が住んでいました。彼は猟で生計を立てていました。当時、日本の官憲は一般住民には猟を許可しませんでした。許可する場合は、彼らの情報活動に協力するという条件をつけました。廉老もそうした条件をのんで猟をしていたのです。
ところが、図們の偵察を担当した任哲(イムチヨル)の偵察班が彼に近づいて協力を求めたのです。廉老はそれに応じました。つまり、彼は日本の官憲の指令と遊撃隊の要請を同時に実行する二重スパイを務めることになったのです。彼は敵には偽りの情報を与え、遊撃隊員には本当の情報を提供しました。
任哲の偵察班が図們の偵察に成功したのは、この老人をうまく利用したからです。それまで図們地区に派遣された偵察班は敵の防諜網にかかって失敗を重ねていたのに、この偵察班だけは成功したのです。図們は日本帝国主義の秘密諜報機関や軍警の集結地でした。
解放後、廉老は日本のスパイをはたらいた反動派だということで、家産を没収されました。彼も池京洙のように審判場に引き出されて、つるし上げられたようです。一九四六年の初めに、任哲が廉老の潔白を保証しました。それ以来、彼は愛国者として人びとから尊敬されるようになりました。
対日作戦の突破口を開く軍事・政治活動は、対日作戦の日が近づくにつれて、いっそう積極化されました。
敗戦前夜、日本の政界と軍部では「朝鮮を死守」すべしという主張が台頭しましたが、彼らは、朝鮮は自活自全体制での大陸戦争の兵站(へいたん)基地、最終戦の拠点になるだけでなく、日本の運命を決する輸血路になる、ゆえに絶対に放棄してはならないと騒ぎ立てました。「朝鮮死守論」は、朝鮮を最後の拠点にしてあくまで戦い、なんとしても生き残ろうということです。いわゆる「朝鮮死守論」が実践に移されるということは、すなわち朝鮮が日本帝国主義を撃滅する最後の決戦場になるということを意味しました。
こうした実情からして、われわれは国内の偵察により大きな力をふり向け、敵の重要な軍事機密を探り出すことに重点をおくことにしました。なかでも敵の軍用飛行場の偵察は重要な意義をもっていました。
日本帝国主義者は戦争をエスカレートさせながら、朝鮮と満州に多くの飛行場を新設または拡張しました。朝鮮では東海岸一帯に飛行場を建設したのですが、清津や吉州(キルチユ)などにある飛行場はすべて戦争を拡大する過程で建設されたものです。
ところが、吉州に新設された飛行場では、飛び立った飛行機がみな墜落するのでした。試験飛行をくりかえして、ようやくそれが吉州地溝帯の気流のせいだということが分かりました。それで日本人はただちにこの飛行場を閉鎖しました。飛行場の建設のため多くの農民が農地を失い、路頭に迷ったということです。東海岸地区に派遣された偵察兵たちは、こんな情報まで集めてきたのです。
会寧飛行場に派遣された偵察班は、この飛行場には本物の飛行機は数機しかなく、残りはすべてにせものであることを確認しました。
東海岸から平壌まで足を伸ばした金慈麟(キムジャリン)の偵察班は、牡丹(モラン)峰に登って飛行場を撮影しました。飛行場には飛行機と自動車の修理工場がありました。それに部品倉庫、運輸職場、病院、食堂など多くの付属建物も見えました。彼らはそれらをみなカメラに収めました。飛行場の中に入るときは日本の憲兵に変装したということです。
北満州に派遣された金(キム)大(デ)洪(ホン)も飛行場の偵察をりっぱにおこないました。彼は日雇い労働者を装って、四か月もの間、ソ満国境地帯にある飛行場を偵察しました。そこの飛行機も本物は二〇機未満で残りはにせものだったそうです。
偵察兵たちの苦労は大変なものでした。ある偵察班は敵の移動状況を偵察すべく、鉄道のそばの構造物の汚水の中に何日も潜んで、軍用列車の通過時間と車両編成を調べ、またある偵察班は、酷暑の日に敵の戦術訓練状況を偵察すべく、一日中、息がつまりそうなアナグマの穴のような所に隠れて、あぶら汗を流したものです。
訓練基地から数百キロ離れた所で偵察活動をおこない、全員が壮烈な戦死をとげた偵察班のことが忘れられません。その偵察班は、指定の日には必ず偵察の結果を無電で司令部に報告したものです。偵察資料が豊富で正確なうえ、時を移さず報告してきたので、われわれはもとよりソ連側の同志たちも非常に満足していました。
そんなある日、その偵察班が無電で非常信号を送ってきたのです。偵察班が敵の包囲に陥った、無線通信機は山の頂にあり、最後の情報を送るから即時受信せよというものでした。現在、敵が無線通信機のある山を包囲し、しだいに接近している、若い隊員が先に出ていき奮戦したが戦死し、ついで年配の隊員も戦死した、無線通信士の自分は情報を送信したあと、手榴弾の束を爆破させ、一人でも多くの敵兵を倒して死ぬ覚悟だという内容でした。南満州生まれの女子無線通信士は、以上のような通信を送ったあと、壮絶な戦死を遂げたのです。
金洪洙(キムホンス)も壮烈な最期を遂げました。彼は一九四三年に偵察任務をおびて琿春方面に向かい、そこで逮捕されました。敵は拷問の限りをつくし、秘密を吐けと迫りました。それでも口を開かないので、敵はジャガイモをすりつぶす機械に彼を投げ込んで惨殺したのです。
彼の最期を伝える記事が国際連合軍の新聞に大きく掲載されたものです。困難な任務をいつも進んで引き受けるので、わたしがとくに目をかけていたのですが、かくも壮絶な最期を遂げたのです。
池鳳孫(チボンソン)も同年の春、偵察任務の遂行中、琿春で戦死しました。
朝鮮人民革命軍の小部隊と工作班の偵察活動とその過程における彼らの英雄的闘争について話せば、枚挙にいとまがありません。
対日作戦の突破口を開く敵中偵察活動の日々にわれわれがおさめた成果は、人民の支持を抜きにしては考えられません。あのとき、われわれは人民から多大の援助を受けました。
われわれは困難な敵中偵察を準備するにあたって人民の援助に大きな期待をかけ、小部隊や工作班を送り出すときには、敵中では必ず人民に依拠し、人民の援助を受けるよう重ねて強調したものです。しかし一方では、敵中偵察という新しい方式のたたかいが、以前東北地方や国内で銃声をとどろかせながら大部隊で遊撃戦をくりひろげていたときのように、人民と親しんで血のかよったきずなを結び、彼らの理解と共感、支持を得ることができるだろうか、という不安もつきまといました。
しかし、対日作戦の血路を開くこの苦難の戦いで、われわれは行く先々で人民の支持と声援を受け、われわれが変わることなく人民を信頼し、人民に依拠したのはまったく正しかったということが実証されました。わたしはあの日々に、われわれが人民を信頼し、人民に依拠したように、人民も朝鮮人民革命軍を信頼し、白頭山を仰ぎみながらたたかっているということをいっそう強く感じたものです。われわれが人民を信頼し、人民もわれわれを信頼し、全民族がわれわれを支持するかぎり、われわれは必ず勝利するというこの真理、この確信は、われわれにはかりしれない力と勇気を与え、日本帝国主義撃滅の最後の決戦へと突き進ませたのです。
われわれが集めた数百、数千の偵察資料は、対日作戦の準備と最後の勝利に大いに寄与しました。朝鮮人民革命軍のこのような大胆かつ幅広い偵察活動がなかったならば、一〇〇万の関東軍を撃破する対日作戦がかくも短時日に勝利をもって終結することはなかったでしょう。
それゆえわれわれは、一九四〇年代の前半期に、朝鮮人民革命軍が積極的な小部隊および班活動と、地道で果敢な軍事偵察活動によって対日作戦の突破口を血潮をもって開き、日本帝国主義を撃滅、掃討するうえで前衛的かつ決定的な役割を果たしたことに、大きな誇りと自負をいだいているのです。


四 民族の魂

一九四〇年代の前半期、朝鮮民族は、民族として存在しうるか否か、蹂躙(じゅうりん)された民族性を復活しうるか否かという運命の岐路に立たされていた。姓を日本式に変えなければ生きていけず、神社参拝をし、朝鮮語を捨てて日本語を常用しなければ生きていけないのが、朝鮮人民に強いられた運命であった。
朝鮮の愛国的人民と進歩的知識人は、このような悲劇的状況のもとでも、抗日の総帥金日成将軍が活動する白頭山を仰ぎ、民族の魂を守るたたかいをたゆみなくつづけた。
このことについて金日成同志はつぎのように回想している。

日本帝国主義者は一九四〇年代に入り、いっそう悪辣(あくらつ)に「皇民化」政策を強行しました。「皇民化」とは朝鮮人を日本人化するということです。五,〇〇〇年の歴史を誇る朝鮮民族を数十年の間に日本化しようとしたのですから、彼らの植民地化政策がいかに悪どいものであったかは想像に難くありません。
国民学校の新入生に真っ先に教えたのが日の丸の旗の歌でした。このように日本帝国主義者は、国民学校時代から「忠君愛国」を押しつけたのです。自刃して「忠義」を全うしたという狂信的な天皇主義者、乃木の話を、いたずらに子どもたちの教科書に載せたのではありません。「忠君愛国」思想を吹き込むために、乃木のような軍国主義の権化を忠孝のモデルとして押し立てたのです。「皇国臣民の誓詞」や「皇国臣民体操」もまた、朝鮮人を日本人に同化させようとして押しつけたものです。
資源を強奪されるのも生身を切り取られるほど痛恨に耐えないことでした。彼らは資源の略奪にあきたらず、真鍮(しんちゅう)製の鉢や箸、さじ、はては祭事用の燭台や盃まで奪い去り、女性の髪からかんざしまで引き抜いていきました。
以前は金剛(クムガン)山に数百年を経た大樹がたくさんありました。ところが、日中戦争がはじまってからは、金剛山の寺院周辺の大樹までことごとく伐り出したのです。あまりにも莫大な富を略奪されたので、総額がいくらになるか想像がつきません。だから朝鮮人が憤慨するのは無理からぬことです。
しかし、それ以上に憤懣(ふんまん)やるかたないのは、日本人が朝鮮人の民族性を抹殺するために、ありとあらゆる悪行をはたらいたことです。色物の服を着ろ、創氏改名をしろ、「国語を常用」せよ、「神社参拝」をせよ、「正午の黙禱(もくとう)」をせよなどと、悪行の限りをつくしたのです。
わたしが当時、日本人の悪行のなかでもいちばん腹にすえかねたのは、朝鮮人に朝鮮語の使用を禁じ、日本語の常用を強いたことです。民族は何よりも血統と言語の共通性によって特徴づけられます。朝鮮語を抜きにしては朝鮮民族はありえません。だから朝鮮語の代わりに日本語を使えというのは、朝鮮民族をこの世から永遠に抹殺しようとする企みでなくて何でしょうか。言語を失えば、民族は死減するのです。
当時、日本帝国主義者は「内鮮一体は国語の常用から」という標語をかかげて、官庁や会社、学校、工場は言うまでもなく、家庭や教会、ひいては銭湯でも日本語を使うよう強要しました。『皇民日報』なる新聞は「国語の普及」をはかる専門紙でした。日本帝国主義者は「国語の常用」を唱えたあげく、朝鮮人作家に作品を日本語で書くよう強要し、『国民文学』という日本語版の雑誌まで発刊しました。
日本帝国主義支配時代の末期には、演劇を上演するにあたっても一幕以上は必ず日本語でおこなうよう要求しました。解放後、黄撤(フアンチヨル)、文芸峰(ムンイエボン)、趙霊出(チヨリヨンチユル)らに会って聞いたところによると、朝鮮の映画俳優には日本語の発声を強要し、朝鮮歌謡をレコードに吹き込むときも、一節以上は必ず日本語でうたうよう歌手に要求したそうです。はては「国民皆唱運動」なるものをくりひろげて、ファッショ的な軍歌までうたわせました。
学校で日本語を使わない生徒は非国民扱いを受けたものです。朝鮮語を使うと、官庁では相手にされず、配給ももらえませんでした。日本語を使わない人には汽車の切符も売ってくれない世の中だったのです。
「神棚」というのは、日本の開国神といわれる「天照大神」の神符を祭る棚のことです。そのような「神棚」をすべての家につくらせて、「同祖同根」を宣伝したのです。解放後、祖国に帰ってみると、「神社」のそばで用をたしたというかどで監獄に入れられた人もいました。
わたしは極東の訓練基地にいたとき、ある農民が姓を日本式に変えないと息子を退学させるとおどされて、しぶしぶ創氏改名をしたが、先祖に申し訳ないことをしたと嘆き悲しんだ末、石をかかえて井戸に身を投げたという話を聞いたことがあります。
時局がこんなありさまでは、生きていても死んだも同然でした。
他国を占領した侵略者が植民地で民族同化政策を実施するのは、もちろん驚くべきことではありません。トルコはブルガリアで、イギリスはアイルランドで、帝政ロシアはポーランドで、フランスはベトナムでそれぞれ自己流の同化政策をとりました。しかし、他国の国民から言葉と文字を奪い、自国式に姓名を変えさせたのは、日本帝国主義者以外にはないでしょう。他国の宮廷に押し入り、王妃を惨殺した連中ですから、いったい何を遠慮することがあったでしょうか。日本帝国主義は一九四〇年代に入り、朝鮮社会のあらゆる分野で、前世紀末にあった王家蹂躙のような悪行をためらいもなく強行しました。朝鮮人はまさに死滅するか、生き残るかという瀬戸際に立たされていたのです。
朝鮮の知識人には、日本帝国主義者の民族抹殺政策に抵抗するか服従するかの二つの道しか残されていませんでした。言うまでもなく、大半の知識人は抵抗の道を選びました。しかし、一部には現実から逃避して民族に背を向けた人もおり、屈服してわが身の栄達をはかった人もいました。また、日本帝国主義の民族同化政策にもろ手を挙げて賛成し、協力した人もいたのです。わたしは極東の基地にいたときも、国内の出版物を丹念に読んだものです。それで、誰が愛国的で誰が売国的か、誰が官位につき誰が入獄したか、誰が転向し誰が絞首台の露と消えたかといったことをよく知っていました。みなさんのなかにも、創氏改名にかんする李(リ)光(グァン)洙(ス)の文章を読んだ人がいることでしょう。わたしは『毎日申報』紙上でそれを読みました。わたしは天皇の臣民である、わたしの子も天皇の臣民として生きるであろう、姓を香山と改めるのが天皇の臣民によりふさわしいと思って創氏をした、云々という内容でした。李光洙は日本の神武天皇が即位した地の山の名にちなんで香山と姓を改めたということでした。その文章には、朝鮮人の体面や自尊心のかけらもうかがうことができませんでした。李光洙はまったく汚らわしい人間になり果ててしまったわけです。「民族改造論」で民族衣装の周衣(トウルマギ)とチョゴリを脱ぎ捨てたとすれば、この文章ではズボンも下着も脱ぎ捨てて、公然と親日を宣言したのです。彼は雑誌に、志願兵制を賛える文章まで発表しました。
解放後、李光洙はその親日行為を「民族保存」のための愛国的行為だったと釈明しました。民族を保存するために親日行為をせざるをえなかったということですが、彼が真に民族の保存を願っていたのなら、どうして志願兵制を賛えたのかということです。志願兵になって戦場から無事に帰った人がはたしてどれほどいたでしょうか。
仏教徒のなかに韓竜雲(ハンリヨンウン)という詩人がいました。三・一人民蜂起のさい、民族代表三三人のなかに名をつらねた人です。彼は仏僧でしたが、朝鮮の独立は請願によるべきではない、民族自らの決死の行動なしにはそれは不可能である、と主張した行動派でした。敵に逮捕されたときは、弁護士も差し入れも保釈も、いっさい断りました。ほとんどの民族代表がおじけづいて動揺していると見てとるや、監房の便器を床に叩きつけ、卑劣漢ども、いったい貴様らは国と民族に尽くそうとする者たちなのか、と大喝したそうです。
後日、日本人が買収をはかって、彼に国有地を分けてやるともちかけました。しかし、韓竜雲はそれもきっぱりと断りました。同僚や親友たちが金を出しあって、ソウルの城北(ソンブク)洞に家を建ててやろうとしたときは、総督府の石造建築が目障りだといって、家をそれと反対向きに建てさせたものです。
ある日、彼は鐘(チョン)路(ロ)の四つ辻で李光洙に出くわしました。そのころ、李光洙は朝鮮の青年に学徒兵になるよう勧めていたそうです。李光洙と韓竜雲は親しい間柄でした。ところがその日、韓竜雲は李光洙に目もくれず通りすぎようとしました。あっけにとられた李光洙は韓竜雲の腕をとらえ、おれは春園だ、おれが分からないのかと問いつめました。すると、韓竜雲はかぶりを振って、自分の知っている春園李光洙はもうこの世の人ではない、と答えたそうです。これは、仏僧が民族の魂を捨てた李光洙に下した死刑宣告であったといえます。
崔南善(チエナムソン)も愛国から親日に転向しました。彼は、朝鮮は日本文化に同化せざるをえない運命にあると言ってはばかりませんでした。李光洙や崔南善は知識にかけてはひとかどの人でした。しかし、信念のない知識や文才は無用の長物にすぎません。崔麟(チエリン)も日本人の同化政策に屈服しました。文人のなかには、親日的な詩を書いて総督府から賞をもらった人もいました。
一部の知識人が朝鮮人に生まれたことを嘆き、先祖を改めて日本の着物を着、宮城遥拝をし、はては「天皇のため誉れ高く死のう」などとたわごとを並べて民族に背を向けていたとき、愛国的な学者や教育者、作家、芸術家、言論人など良心的な知識人は、そんな連中につばを吐きかけ、朝鮮人の志操をあくまで守りぬいたものです。
李箕永(リギヨン)の例をとりましょう。
李箕永は「カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)」事件で二度も投獄されました。林和(リムファ)のような人間は入獄するとたちどころに変節しましたが、彼は出獄後も愛国的文人の姿勢を崩しませんでした。
彼が出獄後、失業者としてソウル市内をさまよっていたころは、日本帝国主義者が「朝鮮思想犯保護観察令」を公布し、思想犯とされる愛国者や進歩的な人士を思想犯保護観察所に強制収容していたときでした。そして、親日思想にもとづく「報国」を強要しました。「報国」はほかならぬ転向を意味していました。
李箕永も三日にあげず警察暑に呼ばれて転向を強要されました。敵は彼にも日本語で作品を書き、日本語で親日講演をするよう要求しました。しかし、剛直な彼にはいかなる強圧も通じませんでした。敵が「国民文学」を押しつけると、彼はこれみよがしに朝鮮語で小説を書き、敵の「皇民化」政策に対抗しました。「要注意人物」のリストに載ったあとの彼の暮らしはきわめて苦しかったそうです。どれほど金に困っていたのやら、次男が死んだとき、葬儀の費用も工面できず、わが子の遺体のそばで『銭』という短編小説を書いたということです。
李箕永はうるさくつきまとう書察に我慢できず、家族を連れて金剛山のふもとの谷間に居を移しました。しかし、監視の目は山奥でもまといついて離れませんでした。親日分子らに石を投げられて、家の戸が何度も壊されたそうです。それでも彼は、愛国的知識人の気骨をみじんも失いませんでした。夜になると、山中に潜んでいる徴兵・徴用忌避者たちが彼の助言を求めるために訪ねてきました。そんなときは彼らに、牛や馬のように草をはんでも山を下りずに日本人に抵抗せよ、とアジったものです。そのとき李箕永の影響を受けた青年たちは、解放後、彼が住んでいた地方の幹部になったそうです。
李光洙は創氏改名をしましたが、李箕永は日本帝国主義が滅亡するまでそれを拒みました。彼は、創氏改名をすると犬畜生に堕すると言って、自分はもとより親類にもそれを許しませんでした。
解放後、平壌(ピヨンヤン)で李箕永にはじめて会ったとき、先生はそんなにひ弱い方なのに、どうして獄中の苦しみにも堪え、創氏旋風にもうちかつことができたのか、何とも驚くほかない、と言いました。すると彼は、柳寛順(リユグァンスン)のように一七歳のうら若い娘が生命をなげうって節操を守ったというのに、わたしのような文人が志操を曲げたらどうなるのですか、自分は関東大震災のとき、東京で日本人が竹槍や日本刀、鉤(かぎ)などで朝鮮人を手当たりしだいに殺すのを見て、死んで鬼神になってでも彼らに復讐せずにはおかないと心に決めた、と答えるのでした。
民族の魂を奪おうとした日本帝国主義の同化政策に歯向かって断固たたかった愛国者のなかには申釆浩(シンチエホ)もいました。
申釆浩は歴史学の権威であり、著名な作家、エッセイストでもありました。彼は実に名文家でした。吉林時代に、孫貞道(ソンジヨンド)牧師から申釆浩の弾劾文を見せてもらったことがあります。朝鮮をアメリカの委任統治領にすることを要望した李承晩(リスンマン)を論難した長い文章でしたが、その迫力ある鋭い論調に感服し、くりかえし読んだものです。孫牧師も、それで弾劾文を大事に保管しているのだと言っていました。
申釆浩は上海や北京などでいろいろな新聞、雑誌を出して、妥協主義者を糾弾する文章を多く書きました。彼の文が新聞に載ると、人びとは我先に新聞を買ったそうです。彼の文章を読むと、ぴちぴちと跳ねる生命体を見るような気がします。一字一句に朝鮮人の魂が躍動しているような文章でした。
申釆浩は一九二〇年代末に日本帝国主義者に逮捕され、旅順監獄で服役しました。彼は一〇年近い月日を獄中で送りながらも、日本人に屈服しませんでした。彼は獄中にあっても、民族の魂が脈打つ文章を書きつづけました。彼が旅順監獄で『朝鮮上古史』と『朝鮮上古文化史』を書きつづけたこの一事をもってしても、彼がいかに民族の正統性と魂を守るために努力したかがよく分かります。申釆浩は血の最後の一滴まで注いで執筆をつづけ、異国のわびしい監房で息をひきとりました。
監獄の露と消えながらもわが身を燃やして民族の魂を守り、民族精神を啓発しようとした愛国の士や知識人の不屈の抵抗精神を見て、わたしは、彼らの魂を守り、その一人一人の魂を一つに合わせて全民抗争力量の重要な一翼とならしめるべきだという思いをいっそう強くしたものです。民族の魂を守る問題と全民抗争の準備は不可分の関係にありました。民族の魂を守る問題は、全民抗争準備の精神的基礎であるばかりか、その重要な一環でもありました。民族の魂を守るたたかいなくしては、全民抗争の隊伍に広範な愛国勢力を結集することができなかったのです。
われわれは、民族の歴史と文化、伝統を守るべき知識人の使命を重視し、国内外の知識階層のなかに工作員を間断なく送り込みました。
わたしは国内に向かう政治工作員たちに、母があって子があるように、人間は誰もが民族の懐から生まれ、死んでも民族を離れることはできない、われわれは誰もが民族という一つの家で一つの血をもってつながっている、だから民族を守るたたかいでは主客が別に存在するのではない、革命も民族のためにおこない、武装闘争も民族を守るためにおこなうのだ、われわれが取りもどそうとするのは国土だけではなく、われわれの歴史と文化、民族そのものである、したがってきみたちは、全人民の武装化と民族の魂を守る闘争をしっかり結びつけて、全民抗争の準備をりっぱにおこない、学者、教育者、言論人、作家、芸術家をはじめ広範な知識階層のあいだで祖国光復会の組織を拡大して、彼らがこぞって民族の魂を守る火花となり、弾丸となるようにしなければならない、と強調したものです。
一九三八年末、『東亜日報』はソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校で赤色研究会なる秘密結社が摘発され、その嫌疑者が検挙されたという記事を載せて読者の関心を集めました。共和国の初代教育相、白南雲(ペクナムウン)も赤色研究会のメンバーでした。
屈服すれば「人間扱い」を受け、抵抗すれば畜生のように扱われたあのきびしい時期に、白南雲は知識人として民族性を守りつづける抵抗の道を選びました。彼は日本で苦学し、商科大学を出ました。そしてその後、延禧専門学校の教壇に立ったのです。『朝鮮社会経済史』は彼の代表的な力作です。彼は教鞭(きょうベん)をとるかたわら、著述に専念しました。日本帝国主義が民族経済を圧殺し、朝鮮民族という言葉自体をなくそうと狂奔していたときに、白南雲が朝鮮の社会経済史を著わしたのは、たいへん愛国的な行為といえます。
延禧専門学校には経済研究会という合法団体がありました。この団体を革命的性格の強い組織に発展させるうえで主要な役割を果たしたのが白南雲だったのです。彼は仲間の教授たちとともに、たんなる学術研究団体であった経済研究会を、共産主義を志向する赤色研究会という政治的色彩の濃い組織に発展させました。わたしが送った政治工作員と連係がついてからは、赤色研究会の全般的活動は祖国光復会一〇大綱領の実現を指向しました。学期休みには、会員すべてが大衆のなかに入って啓蒙活動をおこなったそうです。
朝鮮総督府警務局発行の「最近に於ける朝鮮治安状況」という官憲資料には、赤色研究会が共産革命達成の目的のもとに、研究討論会、講習会、読書会などを催し、会員に共産主義思想の注入と宣伝をするなど、積極的な活動をつづけてきたと記されています。
白南雲は日本帝国主義が敗亡するまで隠遁(いんとん)生活をしながら『李朝実録』の翻訳に携わったということです。彼が『朝鮮社会経済史』を書いたり、経済研究会を赤色研究会に発展させたり、『李朝実録』の翻訳を決心したりしたのは、日本帝国主義の「皇民化」政策への挑戦だったのです。
普天堡(ポチヨンボ)戦闘のニュースを聞いてその年の冬からストーブに火をつけず、冷たい部屋で頑張り通したという人が白南雲です。どうしてストーブに火もつけずに過ごしたのでしょうか。金日成以下パルチザンの全将兵が年中枯れ葉を夜着にし、粗食で過ごしていることを知り、申し訳なく思ってそうしたということでした。
わたしは内閣を組織するとき、白南雲を初代教育相に任命しました。彼はその後、科学院院長や最高人民会議常任委員会副委員長などを歴任しましたが、たいへん良心的に活動しました。
朝鮮人民が生んだ世界的な遺伝学者であり、育種学者である桂応祥(ケウンサン)先生も民族的自尊心が人一倍強く、科学的信念のかたい人でした。
彼は少年のころからひたすら勉学に励みました。非常に貧しくて紙の代わりに落ち葉に字を書いたくらいだそうです。たまたま靴下などが手に入ると、普段は履かずにポケットに入れておき、人の家を訪れるときだけ履き、履き物もすり切れないように、いつも持って歩いたということです。
倹約して学問に励んだかいがあって、桂応祥は日本で大学を卒業し、大学院も出ました。彼は学生時代から秀才として聞こえていたので、大学院を出ると日本各地から引く手あまたでした。大学の指導教師も彼を欲しがりました。彼は、満州にすばらしい農事試験場ができるから、そこへ行って一緒に研究をしようともちかけました。しかし、桂応祥はそれらの要請を一切断りました。日本軍のいない土地でカイコの研究をつづけるのが願望だったのです。彼は祖国で科学の研究をしたかったのですが、それも断念しました。
彼は長い間思いわずらった末、中国関内に行くことにしました。そのころはまだ中国の南方地帯に日本軍が侵入していなかったのです。日本軍が関内に進攻したのは七・七事変以後のことです。日本軍が広東を占領するに及んで、彼は祖国に帰ろうと思いました。そこまで日本人の統治下に入ったからには、先祖の墓がある祖国の地に帰ろうと決心したのです。彼は南中国から帰るさい、異国の地で苦労を重ねてつくり出した新品種の蚕卵を持ってきました。
解放後は米軍政のやり方が気にくわず、トランクに蚕卵をつめて平壌に移ってきました。桂応祥にはじめて会ったとき、朝鮮人の魂をもってしては米軍の統治下ではどうにも生きていくことができなかったという彼の話を聞いて、わたしは彼が民族的自尊心が非常に強い学者だという思いをいっそう強めたものです。桂応祥は共和国北半部にやってきてから、生産性が高く免疫性の強いカイコの優良品種を数多くつくり出しました。
民族の魂は信念の強い人だけが守っていけるのです。知識人として真に祖国と人民に尽くすには、熱烈な愛国心と強靱(きょうじん)な科学的信念をもたなくてはなりません。
日本帝国主義植民地支配の末期、国内で民族の魂を守って激しいたたかいをくりひろげた組織のなかには、朝鮮語学会もあります。李克魯(リグンロ)の話によると、朝鮮語学会は一九三〇年代初につくられたそうです。朝鮮語研究会というのはその前身です。
朝鮮語学会は人びとに広く知られることはありませんでしたが、多くのことをおこないました。わが国で朝鮮語辞典の編纂(へんさん)事業が本格的に進められたのは、朝鮮語学会が組織されてからです。それまでは、わが国にこれといった朝鮮語辞典はありませんでした。もちろん、辞典をつくろうと苦心した学者は少なくありませんでしたが、国が滅びている状況のもとでりっぱな辞典をつくるというのは、きわめて困難なことでした。にもかかわらず、朝鮮語学会の人たちは進んでその任に当たったのです。
言語を抜きにした文化の発展は考えられません。文化の発展は、その基礎にある言語と文字を合理的に整理し、統一することなしには不可能です。言語と文字を合理的に整理し統一するうえでもっとも有力な手段は、民族の言語資源を総合し、集大成した辞典だといえます。
民族語辞典の編纂にはおそろしく手間がかかるうえに、彼らにはその資金もありませんでした。日本人の目を避けて秘かにやらなければならなかったので、広範な大衆の援助を受けることもできないありさまでした。言葉と文宇を表記するための統一的な規準も定立されていなかった状況下で、膨大な辞典の編纂に取り組まなければならなかったのですから、その苦労は推して知るべしです。彼らは不慮の事態にそなえて、原稿も二枚ずつ書き、別々に隠しておきました。国が滅びて数十年経ち、日本語ができなければ、口があっても言語障害者以上に蔑視された時期に、石ころのように見捨てられていた朝鮮語の単語を宝石のように一語一語集めて辞典に載せたのですから、彼らはなんとりっぱで義にみちた愛国者たちでしょうか。
朝鮮語学会は秘密裏に対外活動も積極的にくりひろげました。一九三五年、イギリスで開かれた国際音声学会や、翌年デンマークで開かれた世界言語学会議にも参加して、日本帝国主義が朝鮮語をどのように抹殺しているかを全世界に告発しました。
わが国で朝鮮文字を整理、考究した最初の機関は、世宗(セジヨン)王が設けた正音庁でした。世宗が事大主義に染まった崔万理(チエマンリ)のような学者たちの必死の反対を押し切って訓民正音を勧奨したのは、非常にりっぱなことだといえます。彼は『龍飛御天歌』も朝鮮文字でつくらせ、公文書も朝鮮文字で書かせ、儒教、仏教の経典も朝鮮文字で出版させました。
正音庁が廃止され、朝鮮文字がないがしろにされはじめたのは、燕山君(ヨンサングン)の時代からです。朝鮮文字は数百年間、雑草のように見捨てられ、一八九四年の甲午更張によって蘇りました。前世紀末にようやく日の目を見た朝鮮文字を、今度は日本人が「国語常用」を云々して踏みにじりはじめました。これに反旗をひるがえしたのが、ほかならぬ朝鮮語学会だったのです。
ところが、祖国の独立と朝鮮語の整理、普及をめざしてたたかったこの団体は、一九四二年の秋から弾圧を受けはじめました。そして、朝鮮語学会の数十名の学者と関係者が日本の警察に逮捕されたのです。
国内の小部隊工作から帰った隊員からその話を聞いて、怒りを抑えることができませんでした。スターリングラードでソ連軍が数十万のドイツ軍を壊滅させたというニュースにキャンプ中が沸き立っているときでしたが、わが国の学者が数十名も捕まって拷問を受けていると思うと、食事も喉を通りませんでした。
学者たちは咸興(ハムフン)監獄で辛酸をなめ、悪どい拷問の余りに予審中に獄死を遂げた人もいました。日本の警察は朝鮮語学会が反日独立団体であるとしながらも、それがわれわれの影響下にある組織だということまでは見抜けませんでした。収監された学者たちが命をささげ、血を流しながらも、あくまで秘密を守ったからです。
朝鮮語学会内部には、われわれの組織とじかにつながっていた李克魯をはじめ、先覚者からなる秘密の地下組織がありました。崔一泉(チエイルチヨン)がソウルに李克魯を訪ねたのは一九三六年の秋と三七年の夏のことですが、そのときわれわれの組織は彼に、国内の知識人のあいだに祖国光復会組織をつくる任務を与えて送ったのでした。崔一泉は長春の『東亜日報』支局長としてソウルに出入りしながら、任務をりっぱに果たしました。
李克魯も監獄でひどい拷問を受けました。彼が悪どい拷問を受けたのは、同志たちがしたことまで自分がしたと言い張って、人の「罪」までかぶったからです。彼はソウルに帰ってからも満身創痍(そうい)の身をかえりみず、朝鮮語学会を拠点に、民主勢力の団結と自主的な独立国家の建設をめざして大いに活動しました。
解放後、李克魯が四月南北連席会義([15])に参加するため平壌に来たとき、わたしは彼に、われわれは朝鮮語学会事件を深い関心をもって見守った、日本警察の連日の拷問に死人も出ていると聞いて心配でならなかった、ところが朝鮮語学会の人たちは獄中でも屈しなかった、われわれはその強靱な反日意志と集団的な愛国心に感服したものだ、と言いました。すると彼は、「それはほかでもなく、頼るところがあったから頑張りぬけたのです。自分たちの意地がどこから出たとお思いですか。白頭山のほかにはありえないではありませんか」と答えるのでした。そして普天堡戦闘後、語学会の会員たちは有り金をはたいて焼酎を一本買い、それを酌み交わしながら感激の涙を流したと話したものです。
李克魯が民族の魂を守るうえで鑑(かがみ)となる人物であり、共産主義者からも民族主義者からも愛される人物であったからこそ、われわれは四月南北連席会議の幹部壇に彼を座らせ、また参会者の名義による『全朝鮮同胞に檄す』という文書の朗読もさせたのです。
四月南北連席会議が終わったとき、李克魯は平壌に残ってわたしと一緒に働きたいと言いました。それで、ソウルにいる彼の家族もみな平壌に呼び寄せました。彼は長年内閣で閣僚を務めました。彼は誰にたいしても敬語を使う、謙虚で礼儀正しい人でした。
いつだったか、李克魯の履歴書を見て驚いたことがあります。訪問していない国がなく、会見していない人がいないのです。中国、日本、ソ連、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなど有名な国はすべて訪れていたのです。彼はレーニンにも会っています。それは、モスクワで極東人民代表会議が催されたときのことです。そのころ上海にいた李克魯は、李東輝(リドンヒ)、朴鎮淳(パクジンスン)らと一緒にモスクワヘ行き、クレムリンでレーニンに二度も会ったそうです。彼は、民族運動家のなかでも大物といわれる人にはほとんど会っています。彼は崔一泉、辺大愚(ピヨンデウ)、黄白河(ファンべクハ)をはじめ東北地方で活動した人たちもよく知っていました。李克魯にドイツ留学を勧めたのは、モスクワに滞在していたウィルヘルム・ピークだったということです。彼の斡旋でベルリン総合大学に入学し、卒業するときには哲学博士号を授かりました。
いつぞや李克魯に、哲学博士号を得たというのに、どうして朝鮮語の研究を専門にするようになったのか、先生が祖国に帰ったとき、実業界に進出するよう勧めた人もあり、官職について頭角を現わすよう勧めた人もいたそうだが、なぜ言語学者になったのか、と聞いたことがあります。すると彼は、アイルランドを旅したとき、その国の人たちが自国語の代わりに英語を公用語にし、看板や道路の標識など何から何まで英語で書かれているのを見て、朝鮮の言葉と文字もこんな運命に追いやられるのではないだろうか、国に帰ったら母国語を守る運動に一生をささげようと決心した、と言うのでした。
朝鮮語学会事件はわれわれに大きな衝撃を与えました。銃剣も絞首台も恐れず、血をもって民族の魂を守りぬいた知識人の姿に、われわれは生きている祖国、生きてたたかっている祖国の姿を見たのです。
京城帝大の学生たちも組織をつくり、民族の魂を守って大いにたたかいました。この組織に加わった愛国的知識人たちは、最初から日本帝国主義の朝鮮民族抹殺政策に反旗をひるがえし、民族の魂を守るたたかいを果敢にくりひろげたのです。
京城大組織の愛国的知識人たちは、親日的な文人や御用学者たちのたわごとに反撃を加える一方、合法的な演壇を通じて朝鮮民族の優秀性を広く宣伝しました。彼らは、朝鮮民族は怠惰な民族ではない、派閥争いを好む民族でもない、朝鮮人の生活が苦しいのは怠惰のせいではなく日本帝国主義者のためだ、彼らが朝鮮民族の富をことごとく奪っていくからだ、誰があえて朝鮮民族を立ち後れた民族だというのか、朝鮮民族は知恵や文明度において世界に堂々と誇りうるすぐれた民族だ、日本帝国主義者がいかに弾圧を加えても、そしていくら大きな犠牲を払おうとも、朝鮮民族は自らの民族性を守りぬくであろう、と弁じたのです。
しかし、言論だけでは暴力を振り回す連中に太刀打ちできないというのが、知識人たちの得た教訓でした。そこで彼らは、大きな山脈に根拠地を構え、炭鉱や鉱山の労働者、山中に潜む徴兵・徴用忌避者で武装隊伍を組む準備に取り組んだのです。
数多くの青年学生や学者、宗教家、教育者、作家、芸術家、言論人が全民抗争組織に加わり、日本帝国主義の民族抹殺政策に抗して最後まで勇敢にたたかいました。組織外の知識人たちも信念を抱いて、敵の同化政策に抵抗しました。いかに暴虐な抑圧や鉄鎖も、覚醒した知識人の民族の魂を守るたたかいをくじくことはできないものです。
歴史に名を残した功労ある知識人は例外なく、祖国と民族に忠実な、信念と意志の強い人たちでした。それでわたしはつねに、知識人たちに祖国と民族を熱烈に愛し、いかなる逆境にあっても不屈の意志、革命的信念を貫くよう強調しているのです。


五 反日愛国勢力との団結をはかって

全民族の団結と反日愛国勢力の総結集によって祖国の解放を成就することは、金日成同志が抗日革命の全期間、一貫して守りつづけた路線であり、戦略的方針であった。
金日成同志は、抗日大戦の初期から国内外のすべての反日愛国勢力との団結をはかるため心血をそそぎ、労苦を尽くした。すべての反日愛国勢力の結集をめざす金日成同志の活動は、一九四〇年代の前半期にもたゆみなくつづけられた。

わたしは生涯にわたって、愛国的かつ進歩的な民族主義者との団結を重要な路線とし、その実現に大きな努力を傾けてきました。
ひところ民族主義運動は共産主義運動とともに、わが国における民族解放闘争の二大構成部分の一つをなしていました。朝鮮の民族解放闘争は民族主義運動からはじまったのです。一九四〇年代の前半期にも民族主義は依然一つの思潮として残っており、民族主義運動勢力も微々たるものとはいえ、一つの反日愛国勢力として存在していました。改良主義勢力を除く多数の民族主義運動家は、依然として反日の旗をかかげ、国内と海外で日本帝国主義への抵抗をつづけていました。民族主義運動勢力は国内の人民や海外同胞のあいだで一定の影響力を保っていました。
梁(リャン)世(セ)鳳(ボン)との合作の努力が失敗に帰した後も、われわれはしりごみせず、反日民族運動家たちとの統一戦線結成のため不断の努力を重ねました。
反日民族運動家たちもわれわれとの連帯をいろいろと試みました。かつて共産主義者をあたまから排斥し敬遠していた人たちも、次第にわれわれの方に傾きはじめました。
われわれとの連合を志す反日独立運動家の動きが普遍的な現象として一つの明確な流れとなったのは、一九三〇年代の後半期からでした。一九三六年五月、われわれが祖国光復会を創立して民族総動員を呼びかけ、統一戦線運動を強力に展開すると、民族主義者たちはそれに積極的に呼応しました。南満州で活動していた独立軍の参謀長、尹(ユン)一(イル)坡(パ)がわれわれに支持の書簡を送ってきたことや、上海にある朝鮮人居留民団の朴(パク)某なる独立運動家が南満州にやってきて、祖国光復会南満州代表の李(リ)東(ドン)光(グァン)に会ったこと、また金活石(キムファルソク)の麾下(きか)にあった独立軍の残存勢力が崔允亀(チエユング)に引き連れられて朝鮮人民革命軍に進んで編入したことなどは、その代表的な事例だといえます。
では、民族主義運動の陣営がそれまでの排他的な立場から脱して、われわれとの合作を重視しはじめたのはなぜでしょうか。それは一言でいって、朝鮮人民革命軍の権威が高まり、その影響力が強まっていたからです。抗日武装闘争は朝鮮の民族解放運動の主軸をなしていました。朝鮮人民革命軍は反日民族解放戦線の主力軍であり、民族独立の意志と信念の最高代表であり、抗日革命の組織者、統率者であったのです。民族解放運動の線上にはさまざまの反日勢力がありましたが、そのなかで敵にもっとも大きな打撃を与えていたのはほかならぬ朝鮮人民革命軍でした。日本帝国主義者がもっとも怖れた存在も朝鮮人民革命軍であり、朝鮮人民が最大の期待をかけていた武装力も朝鮮人民革命軍だったのです。朝鮮人民は、日本帝国主義を祖国から追い出すことのできる実際上の軍事力は朝鮮人民革命軍以外にはないとみなしていました。
金九(キムグ)の側近の話によると、金九は普天堡戦闘で日本軍が壊滅したというニュースを聞き、歓声をあげて喜んだそうです。当時、南京にあった朝鮮民族革命党の機関紙も「朝鮮革命武装運動の吉報」という見出しで、普天堡戦闘について詳しく報じました。編集部はその新聞を『朝鮮日報』咸興支局にまで発送したとのことです。それは、主義主張を越えた汎民族的な支持と激励、連帯の表われでした。われわれが普天堡を襲撃したというニュースに、中国関内の独立運動家たちもかなり興奮したようです。
金九は早くから武力抗争の道を模索しました。一九二〇年代初に彼が組織した労兵会も、実は武力抗争を志向する団体でした。彼は、無抵抗主義的な実力の培養とか外交手段によって朝鮮の独立をとげようとする人たちを快く思っていませんでした。彼の痛恨事は、大規模な軍隊をもって存分に武装闘争を展開できないことでした。それで、われわれの武装闘争に並々ならぬ期待と関心を寄せていたのです。
解放直後、ロサンゼルスで発行されていた『朝鮮独立』という同胞紙に、金九を非難する記事が掲載されたことがあります。それは、在米同胞が金九の呼びかけにこたえて、金日成部隊と朝鮮義勇軍のために巨額の軍資金を調達して送ったにもかかわらず、献金を呼びかけた当の本人は戦乱を口実にそれを金日成部隊にも朝鮮義勇軍にも送らず、中途で消費してしまったというものでした。金九が軍資金を送れなかったのは理解できることです。軍資金を送るには組織のルートに頼るしかありませんが、当時、われわれへのルートを見つけるのは容易でなかったはずです。わたしは、金九がわれわれへの献金を呼びかけたことから、彼がわれわれの武装闘争を支援するためにいろいろと努力したことを知りました。間三峰戦闘も中国関内の独立運動家に大きな衝撃を与えたそうです。
われわれの闘争に海外の民族主義運動団体が急激に関心を高め、かつてない容共への活発な動きを見せるようになったのは、われわれが祖国光復会を創立して、誰にでも受け入れられる民族共同の闘争綱領である祖国光復会一〇大綱領を発表したこととも関連していました。
当時、中国関内の反日愛国勢力は、主義主張と闘争方式の違いから力を合わせることができず、分裂状態にありました。彼らは大きく二派に分かれていて、一つは民族主義派と呼ばれる金九派であり、いま一つは人民戦線派と呼ばれる金元鳳(キムウォンボン)派でした。金元鳳派は共産主義系に近い独立運動の左派でした。両派は、蔣介石国民党と国民政府軍事委員会、そして中国共産党とそれぞれ独自のつながりをもっていました。
中国関内の独立運動家と統一戦線を張るためには、二つの問題点を解決しなければなりませんでした。まず、関内の反日民族団体が一つの勢力として団結することでした。言いかえると、さまざまな主義主張と活動方式をもつ各団体が相異点をさしおいて、抗日愛国の旗のもとに単一の戦線を結成しなければならなかったのです。つぎには、その単一の戦線に結集したすべての反日勢力とわれわれとの合作を、新たな基礎のうえで実現することでした。われわれは祖国光復会の創立後、これらの問題点を解決するため、終始熱心に取り組みました。日中戦争の勃発後は、関内の運動との連帯をはかっていっそう積極的で主動的な活動を展開しました。
日中戦争の開始後、中国では第二次国共合作が実現し、内外の大きな関心を呼びました。国共合作の実現は中国人民の救国抗戦に新たな局面を開き、中国革命の発展を大きく促しました。
このような情勢を背景にして、小党として分立していた金九系と金元鳳系は一九四〇年九月、それまでの対峙状態にいったん終止符を打って単一戦線の結成に成功し、共同宣言も発表しました。共同宣言には、祖国光復会の創立宣言と一〇大綱領に示されている事項と同様の内容が多く盛り込まれていました。臨時政府はその後、金元鳳系を引き入れて左右合作を果たしました。民族主義運動内部のこうした動きは、われわれの注意を引かざるをえませんでした。
一九四〇年代の前半期にも、われわれは国内と日本の反日愛国勢力の結集に努める一方、満州および関内の反日愛国勢力と手を取るために、いろいろなルートを通じて積極的な活動をくりひろげたものです。
太平洋戦争と日中戦争が激化するにつれて、日本は滅亡の道にいよいよ深くのめりこんでいきました。日本の敗亡を予告する出来事が各地であいついで発生しました。
激変する情勢は、国内と海外のすべての反日勢力が結集して、日本帝国主義との最後の決戦にそなえることを求めました。数十年間の反日闘争史は、主義や党派を越えた民族力量の強固な団結だけが祖国解放の日を早める道であることを人民大衆に悟らせました。国内外の広範な愛国勢力を結集して強力な全民抗争力量を築くことは、時代がわれわれに負わせた歴史的な課題であり、各階層の愛国人士と人民大衆の共通の念願だったのです。

一九四〇年代における朝鮮の独立運動家の活動方式と民心の動きの変化について、日本の警察はつぎのような記録を残している。
「内外ヨリスル朝鮮民族ノ策謀目的ハ、民族主義系タルト、共産主義系タルトヲ問ハズ朝鮮独立ニアリ、現在表面的ニ朝鮮独立ヲ明確ニ示シアルハ重慶下ニアル者及アメリカノ下ニアル者ト…ソ聯ト中共下ニアル者ハ終極ノ目的ハ朝鮮独立ヲ明確ニテアリ」〔朝鮮総督府警務局長が昭和一九年(一九四四)年五月に各道警察部長に送った文書〕
「思想事件に於ける特異なる点
従来の如く主義主張の理論構成に拘泥せず、中心目標である朝鮮民族の独立に重点を向けており、故に従来対立関係にあった共産主義運動との関係に於いても著しく接近し、民族主義分子と左翼分子との混在合作に依る事件の如きも稀ならぬ状況にあり」〔『高等外事月報』第五一号五ぺージ 朝鮮総督府警務局保安課 昭和一九年(一九四四年)三、四月分〕

われわれが中国関内の反日愛国勢力との連係を確立するうえで注目した団体の一つは、上海臨時政府でした。日本軍が中国本土に攻め入って以来、臨時政府はつぎつぎと居所を変えました。国民党政府のあとについて所在地を何度も変えたので、内実は看板をどうにか維持するほどの苦境に追い込まれていたのです。臨時政府関係者の回想によると、のべつ引っ越しの荷物を担いで各地を転々としたそうです。あるときは、荷を解きもせずに旅館の片隅に座っていて、戦禍を避けて他所へ移ったということです。
果てしない派閥争いや憲法改正、改閣などであえいでいた臨時政府は、基本的な生存条件も保てず、身の危険にもさらされて苦労をつづけました。その苦労のほどは、金九が、財政難で政府の体裁をととのえることすらむずかしかった、政府庁舎の借り賃が三〇元で、雑役夫の月給が二〇元にみたなかったにもかかわらず、それを支払う力もなかったので、家主に何度も督促される始末だった、自分は臨時政府庁舎の床の上で寝、食事は同胞の商売人の家を訪ね歩いてすませた、乞食も大乞食だった、と嘆いたことからも察せられるでしょう。
一九四〇年、臨時政府は放浪生活を終えて蔣介石政府の疎開地重慶に落ち着きました。それ以来、彼らの生活はかなり安定したそうです。臨時政府が光復軍を組織したのも重慶でのことです。臨時政府が傘下に光復軍のような兵力をもったのは、彼らの活動において一つの前進だったといえます。
当時、光復軍の関係者は彼らの出版物に、金日成と楊靖宇、趙尚志などの名をあげながら、朝鮮人民革命軍の戦いと東北抗日連軍の活動内容を紹介したものです。
しかし、その勢力はその歴史や構成、武装のいずれを見ても脆弱なものでした。臨時政府の関係者も、彼らの武装力の発展には限界があると自認していました。李(リ)青天(チョンチョン)が海外反日勢力の実態を分析して、臨時政府勢力の主導権の確立は困難であるとしたことや、臨時政府は何らの準備もなしに八・一五の解放を迎えたと率直に語ったのは、そのような実情を反映したものだと思います。

日本の警察が光復軍について残した記録の断片をつぎに引用する。
「光復軍の陣容は臨時政府の誇大な宣伝とは裏腹に、極めて貧弱で、各支隊員はわずか一〇余名に過ぎず、但第五支隊のみが総計五〇名を数えるが、そのうち二〇名は羅月煥直属の無政府主義者、残りはすべて朝鮮人捕虜なるも文盲に近く、阿片を密売する不逞業に従事した者大部分なれば、極めて貧弱にして、殆ど見るべき活動をせずに過ごしていた」〔黄海道警察部高等警察課 昭和一八年(一九四三年)二月〕

それでもわれわれは金九系とも手を握ろうとしました。彼らとの合作が成功すれば、祖国解放の最終作戦に彼らの武装力も動員できるというのがわたしの見解だったのです。
金策は最初、われわれが臨時政府の金九系と合作するのを快く思っていませんでした。その理由は、反共分子の金九との合作が果たして可能であろうか、たとえ合作が実現したとしても、それがどれほどの効果をあげるだろうか、ということでした。しかしわたしの説明を聞くと、自分は金九の愛国心を重く見るのでなく彼の反共的な面だけを問題視していたと反省し、わたしを支持しました。そして、関内の反日勢力との関係は許(ホ)貞(ジョン)淑(スク)を通して促進するのがよいだろうと提案するのでした。
崔庸健も、最初は金九との提携に気乗り薄でした。臨時政府にたいする態度からいうと、金策よりもずっと懐疑的でした。派閥争いをこととする者と手を握る必要はない、手を握ったところで得にはならない、合作するならむしろ金元鳳系とすべきではないか、と言うのでした。もっとも、崔庸健ものちには金策と同様、わたしの主張に理解を示しました。
金元鳳は義烈団をつくって、関内と東北地方はもとより、国内でも暗殺や襲撃・破壊活動をおこなっていました。その後、朝鮮義勇隊を組織しましたが、その第一区隊長は、解放直後、中央保安幹部学校の校長をしばらく務めた朴孝三(パクヒョサム)でした。朴孝三は四〇人ほどの隊員を従えていました。後日、金元鳳から聞いたところによると、朝鮮義勇隊は規模も小さく装備も貧弱で、独自の活動はほとんどできず、中国人部隊にまじって、拡声器で反戦宣伝や敵軍切り崩し工作などをしたということです。
われわれは、規模や装備は貧弱であるにせよ、武力で日本帝国主義を打倒しようという彼らの意気込みを重んじたのです。
われわれは華北の朝鮮独立同盟と朝鮮義勇軍の存在にも関心を向けました。
当時、武(ム)亭(ジョン)がそこで大きな役割を果たしましたが、彼は紅軍の建設と中国人民の解放闘争にも寄与したことで知られています。祖国に帰ってからは、民族保衛省副相や砲兵司令官を務めました。わたしは彼の住まいをわが家の近くに定めてやりました。
武亭は祖国に帰ってからも武力建設に参加して功を立てましたが、もともと軍閥官僚気分の強い人で、祖国解放戦争のときに批判を受け、軍職から身を引きました。武亭は解職処分を受けましたが、彼が重病をわずらっていたとき、わたしは最善の治療対策を立ててやりました。当時、中国の長春にはルーマニア医療団が経営する病院がありました。武亭はそこで治療を受けたのです。その後、武亭がわたしのそばで目を閉じたいというので、彼を祖国に連れもどしました。彼が他界したとき、わたしは彼の功労をたたえて葬儀をりっぱにとりおこないました。
武亭はわたしとはじめて会ったとき、金将軍の噂はよく聞いた、そのたびに力が湧いた、日本の侵略者を震えあがらせる将帥が朝鮮にいると思うと本当にうれしかった、自分は八路軍にいたが心はつねに白頭山に飛んでいた、朝鮮義勇軍が金将軍部隊に合流できないものだろうか、朝鮮義勇軍と朝鮮人民革命軍が協同して日本帝国主義を撃滅できないだろうかと考えて、金日成将軍と手を握ろうとあれこれ苦心した、と語ったものです。

朝鮮義勇軍華北支隊の組織後、支隊が金日成同志との連係をはかって活動した状況について、日本の官憲資料にはつぎのように記されている。
「朝鮮義勇軍華北支隊の動静
…一九四一年五月、六月頃に新たに朝鮮義勇軍華北支隊を編成した。
その後、京漢線一帯の我等の占領した地域を目標にして同志獲得、各種謀略宣伝に狂奔すると共に、在満不逞鮮人金日成との提携、鮮内同志との連絡等工作中にあり…『我等は内部の団結を固め、華北朝鮮同胞二〇万、東北(満州)、国内(朝鮮)の革命人士及び革命団体、武装隊伍を連合して、朝鮮民族解放のために終始一貫反日闘争を堅持する』云々の宣言発表…」〔黄海道警察部高等警察課 昭和一八年(一九四三年)二月〕

解放後、内閣の初代文化宣伝相を務めた許貞淑も、一九四〇年代には延安にいました。彼女の話によると、延安で活動した朝鮮人運動家のなかにはひとかどの人物がかなりいましたが、彼らはみなわれわれの部隊にあこがれていたそうです。あこがれの余り、彼女も周恩来と朱徳に満州に行かせてくれと何度も頼み、そのために中国の人たちからそれは民族主義だと批判されたとのことでした。
わたしはその話を聞いて、われわれが関内との連係を模索していたとき、関内の朝鮮人運動家や愛国人士もわれわれとの合作を熱烈に望んでいたということがよく分かりました。
当時、彼らは八路軍に属して敵軍切り崩し工作をさかんにおこなったのですが、その主な対象は日本軍内の朝鮮青年たちでした。彼らはそのような青年たちに向かって、日本軍の弾よけになるな、敢然と脱出して、北中国方面の者は朝鮮義勇軍か八路軍へ、中部中国と南中国方面の者は朝鮮義勇隊か新四軍へ、満州方面の者は金日成部隊へ行けと呼びかけました。彼らは、脱出してくる朝鮮人徴兵者にかんする待遇規定の宣伝もしました。それは、重機関銃を持ってきたら、しかじかの賞金を与え、三年間日用品の優待特典を与える、軽機関銃か擲弾筒、小銃を持ってくればいくら、また投降する者は各自の希望に応じて勉強もでき、治療も受けられるといったようなものでしたが、その効果は大きかったそうです。
中国関内で活動した朝鮮の愛国者のなかには、共産主義者もいれば民族主義者もいました。彼らは主義主張にかかわりなく、誰もがわれわれとの連帯と合作を求めていました。それは、どの面からみても歓迎すべきことでした。
われわれも主義主張をもって人びとを色分けして差別するようなことはしませんでした。中国共産党の影響下にあろうが、蔣介石の保護下にあろうが、そんなことはいっさい問題にせず、愛国を志向する人なら誰でも合作の対象とみなしたのです。
中国関内との連絡ルートには事欠きませんでした。ソ連の軍事当局やコミンテルンのルートも利用できたし、東北抗日連軍が関内に派遣する連絡員を利用することもできました。また、われわれがじかに連絡員を必要な方面に送り込むことも可能でした。
われわれが中国の東北地方で武装闘争を進めていたとき、関内との連絡に利用したルートのなかには、饒河・東崗方面の東北抗日連軍第七軍のルートがありました。それに、新疆省の伊梨と甘粛省の蘭州、延安に通じる国際ルートもありました。いま一つのルートは、満州の東辺道から満州と中国の国境線を結ぶ遊撃路でした。
当時、極東の訓練基地には、中国関内で紅軍師団長を務め、ソ連で軍事教育を受けた後、延安に帰らず国際連合軍に加わり、講義を受け持つこともあった劉亜楼と盧冬生、中国共産党の連絡員、王朋らがいました。わたしは、彼らが関内に帰るときには、延安と重慶の朝鮮人への手紙を頼むつもりでした。ところが、この三人は日本帝国主義が敗亡するまで延安に帰れませんでした。劉亜楼は東北解放作戦のさい、東北野戦軍参謀長を務めました。のちに中国人民解放軍空軍司令員になっています。盧冬生も東北地方に残って松江軍区司令員を務めました。彼は確か宋明とも呼ばれていたはずです。彼は一九四五年末に戦死しました。
われわれは、東北地方へ向かう小部隊や国内の地下組織のルートを通じても、関内の人たちと連絡をとろうと努めました。
わたしは金策の助言を聞き入れ、許貞淑を重視しました。許貞淑との連絡がつけば、彼女を通して延安と重慶一帯の反日勢力と手を握る道も開けるはずでした。わたしが許貞淑に白羽の矢を立てたのは、彼女の愛国的な闘争歴を評価したからであり、また彼女が金策と縁の深い許憲(ホホン)の娘であったからです。
わたしは「トゥ・ドゥ」の一員であった康炳善(カンビヨンソン)の主宰する新義州(シンイジユ)の地下組織に、関内との連絡をつけるよう指令を与えました。その指令にしたがって、新義州の地下組織は天津の一工作員に、重慶と延安方面に朝鮮人民革命軍の連絡ルートを開く任務を与えました。彼は、われわれと重慶、延安との合作のための中間連絡地点を設けることに努めたそうです。

金日成同志が国際連合軍の時期、中国関内の反日愛国勢力との民族統一戦線、中国共産党など抗日勢力との反帝共同戦線をはかって幅広く活躍した事実にかんして、日本の警察機関は数件の情報を入手した。
金日成の活動状況
金日成は…現在、ソ聯極東ウラジオストク付近のオケアンスカヤ野営学校にあり、在満不逞鮮人の獲得、領導に暗躍中なり。最近の情報に依れば、米ソ合作の秘密協定に基づき、在中米空軍の満鮮地方空襲に呼応して、満鮮地帯で満鮮連絡の鉄道破壊に依り軍需輸送を妨害すると共に、民心攪乱工作を展開するため近辺の満鮮主要地区への工作員密派を目下準備中とのこと。
乃ち金日成は去る六月中旬頃、前後二回に渡りモスクワヘ赴いた他に、また重慶、延安に渡り駐中ソ米大使館及び中共関係機関と協議を重ねた後、将来に対処する…工作密派要員を、以前鴨緑江沿岸地帯で活動した当時の鮮満人抗連匪をもって鉄道破壊謀略団及び思想謀略工作班を再編し、ソ聯ハバロフスク付近で斯の謀略工作の教育訓練中と伝えられるものなり」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和一九年(一九四四年)一一月分 七六ぺージ〕

われわれが関内の反日愛国勢力との連携を模索していたころ、重慶にいた反日愛国勢力もわれわれとの合作を実現するため大いに活動しました。安重根(アンジユングン)の甥で金九の秘書を務めた安偶生(アンウセン)の回想によると、金九もわれわれに連絡員を派遣したそうです。遺憾ながら、連絡員は満州の地を踏む前に解放を迎えたということでした。一九四二年一二月には、臨時政府派遣員の資格で金某なる人が牡丹江まで来ながら、われわれに会えず重慶に帰ったそうです。
日本帝国主義は、われわれと中国共産党に所属する関内の朝鮮人共産党系が中江鎮(チユンガンジン)、臨江、恵山鎮(ヘサンジン)、通化付近を中心線として連絡しあっているという情報も伝えています。
われわれは国際連合軍の時期に、小部隊工作を進めながら宗教勢力にも関心を向けました。
一九四二年末、寧安県東京城にある大倧教本部の第三世教主、尹世復(ユンセボク)をはじめ多くの教徒が警察に検挙される事件が発生しました。彼らは、自教の使命は日本と満州国のくびきから脱し、朝鮮民族による倍達(ペダル)国の再建をはかることにあるとして、反日活動を展開したそうです。大倧教の一幹部は、大東亜戦争での日本の敗北は避けられない運命にある、だから、この機会に祖国解放を早めるべきだ、ビルマにバ・モーがいるなら朝鮮には金日成がいる、朝鮮民族の幸福は独立によってもたらされる、と公然と主張しました。
小部隊工作に出ていた隊員たちから、牡丹江省警務庁が大倧教の幹部を手当たり次第に逮捕していることを聞いたわたしは、寧安県に総本部をおいていた第二方面軍所属の反日会に、敵の弾圧策動を粉砕して愛国的宗教家たちを保護する対策を立てるとともに、樺甸、敦化、安図一帯の反日勢力を組織のまわりに結集する活動に拍車をかけるよう指示しました。
対日作戦を準備していた日々にわれわれが注目した国内の反日民族団体は、呂運亨(リョウンヒョン)が組織した朝鮮建国同盟でした。朝鮮建国同盟は、一九四四年に発足した反日地下団体です。この同盟は、呂運亨の郷里である京畿(キョンぎ)道楊平(ヤンピョン)一帯の農民を中心にしてつくられた農民同盟という傘下組織ももっていました。
一九四四年といえば、民族主義団体への日本帝国主義の弾圧が極度に達していたときです。敗亡を前にした日本帝国主義者は、国家総動員令だのなんだのといったファッショ的悪法を振りまわして、反日的な要素があると見たら、相手かまわず捕まえていっては取り調べ、処刑していたのです。そのようなときに、ソウル一帯で朝鮮建国同盟という反日団体をつくったのは、いかにも呂運亨らしい剛毅なやり方でした。
建国同盟が秘密をかたく守ったので、ソウルにいたわれわれの工作員も当初は目の前でそんな組織が動いていることを感知できませんでした。われわれは一九四五年に入ってはじめてその存在を知ったのです。
呂運亨は朝鮮建国同盟をつくるとすぐにわたしに人を送り、朝鮮独立同盟にも連絡員を派遣しました。残念ながら、連絡員はわれわれを探しあてることができずに引き返しました。呂運亨が延安へ送った人は、朝鮮独立同盟の人たちに会ったそうです。呂運亨の連絡員がわたしに会えなかったのは、当時われわれがソ連の訓練基地で活動していたからです。
呂運亨が普天堡戦闘後、われわれに会おうといろいろと努力したように、われわれも彼との合作に努めました。呂運亨への働きかけは、ソウルにいる政治工作員に任せました。なんとしても呂運亨に接近するよう任務を与えたのですが、後日聞いたところでは、相手がどうしても心を許さないので、一度も腹を割って話をすることができなかったということです。
呂運亨は建国同盟内に軍事委員会を設け、武装闘争によって日本帝国主義の背後を攪乱する計画も立てたとのことです。この計画はわれわれの志向する全民抗争路線に合致するものでした。
関内のすべての反日愛国勢力との合作をめざしたわれわれの活動は、しかるべき結実を見ることができませんでした。日本の敗北があまりにも早かったからです。朝鮮人民革命軍の主力部隊と国内の抗争組織が呼応して祖国解放の最終作戦をくりひろげたとき、関内の武装力はそれに直接参加できませんでした。金九はこのことを非常に残念がりました。彼は、日本の降服は自分にとって吉報と言うよりも天が崩れ落ちるようなショックだった、長年、苦労を重ねて参戦の準備をしたというのに、そのすべてが水泡に帰したと痛嘆し、自分たちは今度の戦争で何もできなかったから、将来、発言権が弱まるだろう、と憂慮したそうです。
しかし、合作をめざす双方の努力がまったくの水泡に帰したわけではありません。そのときは実を結ばなかったにせよ、いずれ効果を現わすものです。一念天に通じるという言葉もあるように、民族の解放に尽くした努力は、歴史によって必ず報われるものです。
反日愛国勢力との団結をめざしたわれわれの努力は歴史の培養土となり、解放された祖国で、各階層の参加する統一戦線の結成として日の目を見たのです。
わたしはいまも、われわれが抗日革命の初期から統一戦線活動を一つの重要な目標、路線とし、その実現をめざして全力を尽くしてきたのはきわめて正当なことだと思っています。
正直に言って、一時、青年共産主義者と民族主義者の間には多少の摩擦と対立がありました、高而(コイ)虚(ホ)や玄黙観(ヒヨンムククァン)ら国民府の上層部がわれわれの同志たちを数名殺害した旺清門事件以後、われわれはしばらく民族主義者との接触を断ち、彼らをきびしく糾弾しました。その事件のあと、一部の同志たちは、このさい民族主義者とはきっぱりたもとを分かとうと主張しました。
しかし、旺清門における犠牲がいかにひどく、痛ましいものであっても、国民府の反動的な上層部の罪業を民族主義陣営全体の過ちに増幅して転嫁するわけにはいきませんでした。われわれは大義のために、同志たちの犠牲による悲しみと怒りを忍び、統一戦線の旗を一貫してかかげなければならなかったのです。それで過去を水に流して、国民府の残存勢力として南満州で活動していた梁世鳳の部隊を訪ね、反共の代名詞のような存在であった金九との合作も模索したのです。
われわれがそうした心理的な苦渋を克服できず、感情に任せて極端な行動に走り、民族主義者を敵視しつづけていたならば、統一戦線は机上の空論に終わったことでしょう。
統一戦線に向けたわれわれのひたむきな努力と誠意の前には、金九のように頑固な反共人士も感動せずにはいられなかったのです。金九のような民族主義者が一朝にしてわれわれと手を組んだと考えてはなりません。彼が臨時政府を認めない米軍政のやり方に反感をいだき、またたんに李承晩と気が合わないからといって、反共から容共に移ったわけではありません。抗日の日々から胸にいだいてきた愛国の熱情が、われわれと金九を融合させたのです。
歴史的事実が示しているように、われわれが早くから念頭においていた人たちは、解放後、みな統一戦線の旗のもとに集まりました。一九四八年四月の南北連席会議に参加した政客たちの顔ぶれを見てみましょう。金九、金奎植(キムギュシク)、趙素昮(チヨソアン)、崔東旿(チエドンオ)、厳恒燮(オムハンソプ)、趙皖九(チヨワング)、金月松(キムウォルソン)…など名だたる民族主義者はすべて参加したではありませんか。つまるところ、金九ら臨時政府の人士は一人残らずわれわれを訪ねてきたことになります。
朝鮮建国同盟の主人公、呂運亨も平壌に来てわたしに会って帰ったし、朝鮮独立同盟の指導者たちも同僚たちと一緒に平壌に来ました。金元鳳も平壌に来て初代国家検閲相を務めました。
共和国北半部では早くも一九四六年に、各党、各派、各界の愛国勢力の参加する民主主義民族統一戦線が結成されました。
民族の大団結をなさんとするわれわれの意志は、対日作戦を準備していた日々にいっそう磨かれ強固なものになりました。もしそうした意志の練磨過程がなかったとしたら、解放後、愛国と売国、進歩と保守、民主と反動との間に鋭い闘争がくりひろげられていた複雑な状況のもとで、主義主張と闘争経歴の異なる内外の各階層の愛国勢力をあれほど忍耐強く統一戦線の広場に呼び集めることはできなかったでしょう。
常時、外部勢力の威嚇を受けている朝鮮民族の座右の銘は、何よりも民族大団結であるべきです。民族の栄枯盛衰は、ひとえに民族の全構成員がこの座右の銘にどれほど忠実であるかにかかっていると思います。
思想と理念、政見と体制よりも民族を優先視する、公明正大にして一貫した政策の深い歴史的根源と多大な業績、貴重な経験があるからこそ、われわれは今日、祖国統一のための全民族大団結一〇大綱領をうちだし、全民族を統一偉業へと立ち上がらせることができるのです。


六 玄海灘のかなたでも

祖国解放の大事を主動的に迎える準備を進めていた一九四〇年代の前半期、われわれは国内に強力な全民抗争力量をととのえる一方、日本本土内でわれわれの革命組織が全民抗争運動の一翼を担うようにすることに特別な注目を向けました。
日本におけるわれわれの活動は、二つの方向で進められたといえます。一方では、日本にすでにつくられている祖国光復会の組織と各種形態の反日組織を、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦の開始に呼応して立ち上がれるよう整備しながら、ひきつづき新しい組織を増やしていくことであり、他方では朝鮮人民革命軍の特殊工作員が日本帝国主義の牙城に深く入り込み、敵の軍事情報を探ることによって、対日軍事作戦の勝利のための準備を本格化することでした。
元来、われわれが日本本土に政治工作員を本格的に送りはじめたのは、一九三〇年代の後半期、朝鮮人民革命軍の主力部隊が白頭山と西間島地区に進出し、祖国光復会の下部組織をつくりはじめてからのことです。敵の心臓部に革命の砲台を築こうというのは、朝鮮の共産主義者が武装闘争の初期からかかげたスローガンでした。
政治工作員が日本に入るには、もちろん死を覚悟しなければなりませんでした。よくても監獄行き、さもなければ絞首台に立たされるのです。それに、日本への出入りは船によるほかありませんでした。そこでは制服、私服の警官や刑事、密偵が常時目を光らせていました。この危険きわまりない通路をとって工作員が日本に入り込むのは容易なことでありませんでした。それでもわれわれは日本を断念しませんでした。

日本の内務省警保局が作成したつぎの資料は、朝鮮人民革命軍の日本本土への軍事偵察活動がどれほど活発であったかをよく示している。
金日成の鮮内(朝鮮と日本)両地への特殊密偵派遣に関する件。
在満不逞鮮人…金日成一派の策動は依然熾烈を極める様相にあり、最近本省朝鮮特派員から下記の如き情報がある故、情勢に即して厳重手配すべし。
特に海港警備、列車移動警察実施等、府、県では大いに留意すること。
一 派遣目的
ソ聯から特別に派遣された共匪から成る特殊密偵を用いて朝鮮及び日本に於て諜報勤務に従事せしめる事に有る。
二 派遣地点
図佳線、奉吉線の各重要軍事地点
鮮内の主要港(清津、羅津、釜山、木浦、元山、群山、新義州)
日本の下関及び敦賀
三 派遣員の年齢、服装、携帯品
年齢 二〇~二五歳の鮮満系男子
服装 国防色の背広型洋服に編上靴
携帯品 トランクに政治、経済、文芸等各種雑誌、洗面道具等を持っている。
其の外は詳らかでないが、この密偵は日本語に堪能で本来教員、警察官等の経験を有する者らしく、言語、態度等に於て日本人と異なる所がないといふ」〔内務省警保局 昭和一六年(一九四一年)一一月八日〕

われわれが日本本土を重視したのは、そこが日本帝国主義植民地支配の牙城であり、本拠であったからです。本拠を揺さぶれば、敵の心臓部を強打し、植民地支配を崩壊させるのにも大きな効果があるのです。
日本在住の朝鮮人、とりわけ強制連行された多くの朝鮮青年を意識化、組織化するのは、対日作戦が目前に迫っていた当時、軍事・政治情報を収集するためにも必要であり、戦争の弾よけになる運命の彼らをファシズム日本の魔手から救い、集団的に革命の側に引き込むためにも必要であったのです。
日本本土の反日勢力は、国内と海外の反日愛国勢力とともに、日本帝国主義を最終的に撃滅する対日作戦にさいして朝鮮人民革命軍の戦いに呼応し積極的に進出できる無視できない勢力でした。
日本の歴代天皇の年号をみると、彼らが他国の人たちに慈愛でもほどこしてくれそうな印象を受けます。「明治」「大正」「昭和」という年号は、どれももっともらしい意味をもっています。ところが、昭和の時代は日本が近隣諸国を人間屠殺場に変え、国際的な殺人魔として登場して数億の人類に不幸と災厄(さいやく)をもたらした時代であり、明るい政治を標榜した明治天皇は、朝鮮を取れ、東洋を取れ、世界を取れ、あれも取れこれも取れ、とサムライどもをそそのかしました。清国と戦争をし、ロシアとも戦争をして莫大な権益をせしめたのが、あの明治時代だったのです。その時期に、彼らは白昼、銃剣を振りかざしてわが国を強奪しました。大正時代にも日本は悪行をほしいままにしました。このように、歴史的に日本帝国主義者は朝鮮人の生皮をはぎ、膏血(こうけつ)をしぼりながら、あらゆる蛮行を働いたのです。
朝鮮人は日本に連行され、犬畜生のように扱われました。人間を犬や豚、牛や馬のように扱うことにかけては、日本の右に出る国はありませんでした。朝鮮人は日本に行きたくて行ったのではありません。軍隊や警察が道行く人たちを捕まえては荷物のようにトラックに放り込んで連れ去ったのです。夜中に肌着のままで連行され、日本に引かれていった人もいます。強制連行しては軍隊式に隊伍を組み、わずかな自由も与えませんでした。船や汽車で輸送するときは、便所にまで見張りをつけて監視しました。
日本人は朝鮮に来て、「一視同仁」という言葉をさかんに使いました。言わば、朝鮮人を日本人とまったく同じように見るということです。それは甘言にすぎません。「一視同仁」が日本人の本心なら、どうして自国に引っ張っていった朝鮮人を牛馬のように虐げたのでしょうか。
旧日本を描いた文学作品のなかに「たこ部屋」という言葉が出てきますが、それは「タコつぼ」「タコ穴」といった意味です。タコは岩礁の穴にすんでいます。北海道の土木労働者は、もやし箱のような宿舎を「たこ部屋」と呼んでいました。「監獄部屋」と呼ぶのは危険なので、遠まわしに「たこ部屋」と言ったのです。朝鮮人労働者の寝起きする飯場は「半島部屋」と呼ばれました。半島から来た人の寝泊りする部屋という意味ですが、そこは「たこ部屋」よりもっとひどかったといいます。夜は外から錠をおろし、何匹もの犬がいて、逃亡はおろか、戸外への出入りもできませんでした。一言でも朝鮮語を使おうものなら、竹刀や棍棒で労働者を突いたり殴ったりしました。逃亡をはかると、鼻にひもを通して、あちこち引きずりまわすようなこともしました。日本の請負業者や雇用主は、朝鮮人労働者の背中を刀で割いて、その中に焼いた鉛のかたまりを入れるという拷問まで平気でしたものです。癇にさわると、作業現場で労働者を殴り殺して水の中に投げ捨てたり、コンクリート・モルタルの中へ埋め込んだりさえしました。
民族的自尊心の強い朝鮮人に、そんな虐待や侮辱が甘受できたでしょうか。朝鮮人はおとなしく、すなおではあっても、負けん気は強いのです。日本に徴用や徴兵で引かれていった人は百数十万にのぼったといいますが、彼らはみな腹に一物もっていたのです。それは何かというと、日本を滅ぼそうという腹でした。抗日遊撃隊が朝鮮に攻め込めば、自分たちもいっせいに立ち上がって日本帝国主義者をうちのめそうという腹だったのです。こういうことを考えていたのは労働者だけではありません。日本に渡って勉学していた青年学生もみな、そんな考えをいだいていたのです。日本にいる朝鮮人留学生は一万余にのぼったといわれています。留学生が一万名を越えるというのは少ない数ではありません。
わたしは、日本での朝鮮人の惨状を耳にするたびに、心が痛んでなりませんでした。それにくらべれば、満州にいた朝鮮人はそれでもわれわれの保護を少しは受けていました。ところが、日本にいる朝鮮人はそんな保護を受けることができませんでした。それでわれわれは、彼らをなおさら同情したのです。しかし、同情だけで彼らを救えるものではありません。人間が人間に同情するのは誰にでもできることです。搾取と抑圧に苦しむ人民大衆に、共産主義者がしてやれる贈り物のうちでもっともすばらしいものは組織です。組織だけが人民を破滅から救うことができるのです。
日本で朝鮮人がつくった組織はたくさんありました。共産主義組織、民族運動組織、啓蒙組織、学生組織、そのほかにもさまざまな組織がありました。
日本でくりひろげられた反日運動でも、青年学生が重要な役割を果たしました。彼らは在東京朝鮮人留学生学友会という組織をつくり、三・一人民蜂起の前夜には独立宣言書も作成しました。その宣言書の写しが国内にも持ち込まれて、独立運動家たちに大きな衝撃を与えたものです。
日本が武力をもってわが国を併呑(へいどん)したときは、抗議のしるしとして東京と京都にいた大勢の朝鮮人留学生が集団的に帰国したそうですが、この一事をもってしても、朝鮮の青年学生の抵抗精神がいかに強いものであったかがうかがわれるでしょう。
民族運動の形態で進められた在日朝鮮青年学生運動は、請願、デモ、実力養成などという消極的な闘争形態で敵に抵抗していたとはいえ、それは朝鮮同胞に少なからぬ影響を与えました。
有名な無政府主義者の朴烈(パクリョル)も日本留学生でした。彼は日本天皇の暗殺を企てたという罪名で無期懲役刑に処せられました。二〇余年も獄につながれ、解放後釈放されました。
一九二五年に朝鮮共産党を創立した人のなかには、日本に留学した人が少なくありません。日本にマルクス主義が伝播すると、彼らはさまざまな思想団体や組織をつくり、新思潮の研究と普及に努めました。一九三〇年代初、在日朝鮮人の共産主義団体は早くも三〇余に達し、それらに加わった人員数は数千にのぼったといわれます。共産党組織は日本共産党の一つの支部の形態で存在しました。
新思潮の影響下に、在日朝鮮人のあいだでは労働運動も発展しました。大阪には、東亜合同組合という民族企業団体もありました。朝鮮人は日本に渡って、宗教組織も多くつくりました。日本には新幹会の支部もありました。
このように、在日朝鮮人のあいだには、各種形態の組織が綿密につくられていたのです。もちろん、それらの組織は主義主張もさまざまで、活動方式もそれぞれ違っていました。啓蒙、親睦、相互扶助などの枠内にとどまる組織もありました。しかしわれわれは、全民抗争の見地からして、それらの一つ一つがみな大きな底力になりうると考えました。純然たる啓蒙団体であっても、息を吹き込んで革命的な実践闘争の場に引き出すのは十分可能なことでした。すべての組織が反日を志向していたのですから、その成否はわれわれの努力いかんにかかっていたのです。
日本に引かれていった朝鮮同胞のなかのあれこれの組織はいずれも、日本帝国主義の心臓部にある時限爆弾のようなものでした。この爆弾に火を点ずる使命がわれわれに負わされていたのです。それでわれわれは、朝鮮人からなる数十万の労働力と反日勢力が集中している日本本土を特別に注目するようになったのです。
日本への工作員の派遣は、反日朝鮮人運動と抗日武装闘争を一つの脈絡に結びつけ、日本各地で自然発生的、散発的に進められている朝鮮人の大衆運動を統一的に指導するとともに、この運動を新たな情勢の要請に即して質的に発展させるため早々に実行しなければならない問題でした。
日本への工作員派遣ルートとしては、主として釜山(プサン)―下関航路と清津(チヨンジン)―敦賀航路が利用されました。長期間潜伏させる重要な政治工作員は、第三国の港を利用し、遠く迂回して送り込みました。
日本にもっとも容易に出入りできる階層は留学生でした。富裕な人たちがトランクや行李をさげて日本に留学するのは一種の流行でした。
わたしは朴達(パクタル)と金正淑(キムジヨンスク)に、われわれの工作員として活動できる有望な留学生を物色するよう任務を与えました。その後金正淑は、豊山(プンサン)地方から日本に渡って苦学をしている青年たちが東京に留学生組織をつくっていることを探知しました。敵の首都にある留学生組織を革命的な組織に改編すれば、日本本土の心臓部から朝鮮人を革命化する道が開かれるのです。東京―横浜を中心とする京浜地区は、日本で人口がもっとも稠密な工業地帯でした。朝鮮人留学生と労働者がもっとも多いのも京浜地区でした。
わたしは金正淑に祖国光復会一〇大綱領を渡し、豊山出身の留学生と連係をつけて、東京にあるという彼らの組織をわれわれの影響力が及ぶ傘下組織につくり変える方途を考えてみるよう指示しました。金正淑は朱(チュ)炳(ビョン)譜(ボ)にわたしの意向を伝え、東京の留学生組織を掌握する方途を相談しました。朱炳譜が日本に送る適任者として選んだのは、ほかならぬ李仁模(リインモ)でした。
東京で豊山出身の留学生がつくった組織というのは、豊友東京苦学生親睦会です。豊友とは豊山出の友という意味です。この親睦会はときどき集まっては時局を談じたり、身の上話をしたり、読書の感想を語りあったり、ときには会員にアルバイトの口を世話したりしていました。文字通り純然たる親睦団体だったのです。多少なりとも政治的色彩をおびていたとすれば、それは「内鮮一体」はごまかしだ、「同祖同根」はほらだ、「一視同仁」はうそ八百だなどと、日本帝国主義をののしっていたことぐらいです。
李仁模は東京に到着するとただちに、この組織に白頭山の風を吹き込みました。豊友東京苦学生親睦会のメンバーは、祖国光復会一〇大綱領と創立宣言を読んで俄然色めき立ちました。こうして、何の目標も方向舵もなく、うつうつとしてむなしい日々を送っていた親睦会は、反日愛国団体につくり変えられたのです。
当時、日本の大学で勉強していた朝鮮人留学生は、白頭山で戦うわれわれを支持し、われわれと合流すべくいろいろと努力しました。
反日地下組織は高等学校、中学校、専門学校などにも少なからずつくられていました。
一九四四年の上半期に日本の警察によって摘発された金沢朝鮮人学生民族主義グループも、朝鮮人民革命軍主力部隊の政治工作員によってつくられた抗争組織でした。金沢中学校の朝鮮人留学生の活動について、わたしは朝鮮人民革命軍の政治工作員、李哲洙(リチヨルス)から詳しく報告を受けていました。李哲洙は特殊任務をおびて清津で活動しました。彼は学生の身分で政治工作をおこなっていたとき、日本の金沢中学校へ留学する学生のなかに工作員を潜り込ませました。金沢に渡った工作員は、朝鮮各地から来た学生たちを糾合して、校内に無名の組織をつくりました。無名としたのは、敵の弾圧にそなえての措置だったそうです。この組織もやはり、決定的な時機に武装蜂起をもって人民革命軍の国内進出に呼応することを最終目的としていました。
日本警察の資料によると、この無名の組織に参加していたメンバーは、北朝鮮出身の独立運動家金日成が白頭山を根拠地にしてパルチザンを組織し、朝鮮の独立をめざして戦っており、また、優秀な朝鮮同胞を訓練しているから、自分たちもその麾下(きか)に馳せ参じて独立運動に尽力しよう、という誓いを立てていたそうです。日本にはいくつかの系列の反日抗争組織がありましたが、このように白頭山へ来てわれわれの戦いに合流することを闘争目標として明確にかかげた組織はいくらもありません。ほとんどの抗争組織はわれわれの闘争ニュースに力を得て、われわれが最後の攻撃作戦を展開するとき、それに呼応するという意気込みでたたかってはいましたが、警察の弾圧を考慮して、そのような闘争目標を表面にうちだしてはいませんでした。
大阪には苦学生からなる忠誠会という組織もありました。もともと大阪には、済州(チェジュ)島と慶(キョン)尚(サン)道から渡っていった苦学生や労働者が大勢住んでいました。済州島の人たちは抵抗精神が高く、団結力が強いと言われています。総聯の人たちの話によると、大阪の貧民区域に集まって暮らし、大学の夜間学部で勉強していた済州島の青年たちはおしなべて民族意識が強かったそうです。民族意識の強い所では組織も生まれ、革命家も輩出するものです。
済州島出身の留学生たちは、大阪で、済州島生まれの青年をもって同人夜学を設け、そこで学んだ人たちで反日親睦団体をつくっていたのですが、われわれの工作員たちから祖国光復会一〇大綱領を入手したあと、反日親睦団体のメンバーと日本大学夜間中学部の学生たちで忠誠会という新組織をつくったのでした。この組織の綱領と闘争任務はりっぱなものでした。忠誠会がどんな組織であるかは、会の趣旨を見るだけでも十分わかります。すなわち、ソ連と日本が戦争をはじめればただちに朝鮮に帰り、同胞青年を指導して日本に抗する独立運動をくりひろげ、金日成が本格的な攻勢に転じるときにはそれに呼応して果敢に決起する、というのがこの会の趣旨でした。
忠誠会が日本帝国主義の弾圧を受けると、関係者たちはソウルに帰り、われわれが送った国内工作員と手を取って革命活動をつづけました。解放後は、南朝鮮と日本で祖国統一をめざすたたかいに力をつくしました。彼らは済州島パルチザンとも連係をつけていました。
朝鮮人留学生の反日地下組織は、日本の神学校にもありました。代表的なものとしては、神戸の中央神学校の朝鮮人学生民族主義グループをあげることができます。彼らのたたかいで注目に値するのは、白頭山で戦うわたしを、将来が大いに期待される独立運動家とたたえ、民族意識と独立精神、愛国心をはぐくんでいたことです。
岡山の第六高等学校につくられた朝鮮人学生親睦会も、祖国光復会の下部組織に改められました。岡山の六高朝鮮人学生親睦会を祖国光復会の下部組織につくり変えたのは、当時、東京の大学に通っていた閔徳元(ミンドクウオン)です。彼は、朝鮮の解放は朝鮮同胞の至上の課題だ、祖国光復会は民族のすべての愛国勢力を祖国解放の聖戦に結集することを呼びかけている、留学生も朝鮮の知識人として、日本帝国主義者に連行されてきた不幸な朝鮮同胞を啓蒙し、意識化して反日組織に結集し、日本内部に混乱期が到来したとき、いっせいに立ち上がって独立を成就しよう、と訴えたそうです。当時、工作員たちはおおむねそうした内容の宣伝を多くしました。
閔徳元は、呂雲昌(リヨウンチヤン)、金在鎬(キムジエホ)など組織のメンバーに学期末休暇中の闘争任務も与えたそうです。組織のメンバーは、学期末の休暇に入ると郷里に帰り、一家親戚や友人、同窓生のあいだで啓蒙活動をくりひろげました。
当時の啓蒙活動の中心は、抗日遊撃隊の戦果を宣伝することでした。戦果を知らせ、祖国光復会一〇大綱領などの解説をおこないながら、朝鮮の独立を心から願うなら祖国解放の聖戦に奮い立とう、そんな気持ちはないのか、と単刀直入に問いただしたものでした。このようにして、信頼のおける親類や親友から先に糾合して組織に引き入れていきました。
六高事件には注目すべき点が少なくありません。六高組織のメンバーは、弟やその友人が日本人の宣伝にだまされて少年航空兵を志願しようとすると、彼らに金日成部隊を訪ねていけ、と勧めたという話もありますが、それも注目に値することです。そのとき、組織メンバーの宣伝に共感した数名の青少年が満州に向かったものの、われわれを探し当てることができず、空しく引き返したということです。
祖国光復会岡山分会の一部の人は、解放後、祖国統一のための活動に献身し、ある人たちは智異(チリ)山に入って李鉉相(リヒヨンサン)らとともにパルチザン闘争を展開しました。
反日抗争組織は労働者のなかにもたくさんありました。日本の主要工業地帯である京浜地区や阪神地区、そして北海道や新潟など朝鮮人の多い所には、労働者の抗争組織が少なくありませんでした。
京浜地区の組織のうちきわだっていたのは、東京で組織された同盟会です。同盟会は労働者を根幹にし、これに苦学生を加えた反日組織でした。この組織は日本天皇の正統性を否定し、また、派閥を排撃し、朝鮮人愛国者の活動や朝鮮人民革命軍の戦いを称揚しました。同盟会は、労働者や苦学生のあいだでわれわれの宣伝をさかんにおこないました。

日本の官憲資料は、同盟会がおこなった宣伝内容についてつぎのように記している。
「北満に於ける… 金日成は我が同胞にして其の勢力たるや偉大にして日本軍隊も相当悩まされつつあり、屢々鮮内を襲撃するも朝鮮人同胞の家は決して襲はず、日本人家屋並に日本人目掛けに為す処は実に見上げたる行為なり」〔『特高月報』内務省警保局 昭和一七年(一九四二年)三月分 二〇二ページ〕

同盟会の戦略は、敵の志願兵制を逆に利用していったん軍事教練を受け、有事に日本帝国主義者に銃口を向けるというものでした。同盟会は、朝鮮の独立は共産主義運動を通してのみ成就できると主張していました。

金日成同志にたいする京浜地区の朝鮮人労働者の敬慕と反日気勢がいかに高いものであったかは、東京のある労働者組織メンバーのつぎのような決意からも十分にうかがい知ることができる。
「一 金日成は満州国に於て朝鮮独立団を組織して活動している。将来朝鮮の大統領は金日成であり、吾々は彼の後に続くべきだ。二 徴兵に合格して日本の為に戦死することは犬死である。金日成の下に馳せ参じ朝鮮の為に働くべきだ」〔『特高月報』内務省警保局 昭和一九年(一九四四年)三月分 七五ぺージ〕

京浜地区は、一九二〇年代に在日本朝鮮労働総同盟が発足して活動した所です。この労総はずっと前に解散し、その余韻として労働運動がかすかにつづけられていたのですが、そこへ白頭山の風が吹き込んで既成の組織が革命組織に改められ、新しい組織も生まれるという旋風が巻き起こったのでした。
われわれが工作員を多く送ったのは北海道地方でした。北海道に入り込んだ工作員のなかに、金太玄(キムテヒヨン)という偽名の人がいました。北海道が目的地だったのですが、彼はそこへ直行せずに、まずクリル(千島)列島にある軍用基地建設場に行き、祖国光復会一〇大綱領を宣伝しながらひそかに組織をつくっていきました。そのうちに逮捕され、刑務所へ護送されていく途中、脱走して地下に潜りました。しばらく隠れていたあと北海道に渡って活動をはじめ、炭鉱、鉱山、飛行場、水力発電所建設場などで働く朝鮮人徴用労働者を反日組織に結集していきました。彼は政治工作を巧みにおこなったそうです。
彼は労働者たちに、祖国とは何か知っているか、あなたたちは祖国を失ったために、海を渡り、この北海道に連れてこられて苦労のかぎりを尽くしているのだ、祖国ではわが民族が国を取りもどすために、血みどろのたたかいをつづけている、あの白頭山の密林には、銃を手に生命を賭して日本軍と戦っている人たちがいる、祖国があってこそわれわれも存在する、われわれは金日成部隊とともに戦って、一日も早く祖国を解放しなければならない、祖国を解放するには必ず組織をもち、人びとをわれわれのまわりに結集しなければならないと宣伝し、祖国光復会一〇大綱領を一条ずつ解説しました。そのあとに、一〇大綱領を支持する人たちで組織をつくっていったそうです。このようにして獲得した労働者たちが、のちに北海道各地の強制労働現場でストの先頭に立ってたたかった主人公なのです。夕張炭鉱労働者の暴動も、ほかならぬその工作員が組織したものでした。
日本で出版された『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』を読むと、北海道と南サハリン、クリル列島などで進められた組織づくりの状況や、反日・反戦闘争の内容をかなり詳しく知ることができます。この本は、朝鮮人強制連行真相調査団が編纂(へんさん)したものです。調査団の副団長、藤島宇内は著名な評論家で、わが国をたびたび訪問しています。彼は、日本人のなかではわが国の革命戦跡地をいちばん先に踏査した人です。
朝鮮人強制連行真相調査団が編纂した本には、北海道のある土木工事場に入り込んだ工作員が朝鮮人労働者に朝鮮人民革命軍の活動内容を宣伝し、彼らを反日闘争に立ち上がらせたという資料もあります。その工作員は工事場でサボタージュをしばしば組織し、逃亡者も大勢出して軍需生産に支障を与えました。逃亡者たちは他の工事場に潜り込んで、闘争の火付け役を果たしました。
日本帝国主義者は敗亡の日が迫ると、「作れ、送れ、勝て」というスローガンをかかげて、軍需生産を必死に進めました。日本の共産主義者や反戦活動家は、「作らない、送らない、勝てない」という反対のスローガンをかかげてたたかいました。
そんなときにわれわれの工作員が反日勢力を動かして軍需生産にブレーキをかけたのは、日本の敗北と朝鮮の解放を促すうえでたいへん有益なことでした。
北海道の札幌に入り込んだ工作員は、軍事基地の建設場に引っ張っていかれた朝鮮人労働者のあいだに地下組織をつくり、それを次第に拡大しながら、武装蜂起の準備まで進めたそうです。
工作員たちは北海道の大学をはじめ各学校でも活発に動きました。彼らの影響のもとに、日本人労働者や進歩的青年学生も反帝・反戦闘争に合流しました。
日本の主要工業地帯の一つである阪神地区は、われわれの工作員の影響が強く及んだ所です。この地区の組織のなかできわだっているのは、兵庫県のある工場の朝鮮人徴用労働者たちがつくった協和訓練隊特別青年会という組織でした。ここに入り込んだ工作員は、われわれが派遣した政治工作員から教育を受け、訓練された人でした。
旧日本の秘密文書には、国内工作員の名が高英石(コヨンソク)となっていますが、わたしの記憶にないことからみて、それは本名ではなく、偽名だと思われます。

協和訓練隊特別青年会事件にかんする日本官憲の資料の一部を引用する。
「在尼崎朝鮮人民族主義グループ協和訓練隊特別青年会事件検挙取調状況
…主謀人物…炳奎(二七歳)は… 漸次民族的自覚を持ち居りたる処、偶々在満朝鮮独立運動の…金日成麾下の高英石と称する者より『近く日ソ開戦し之に呼応して朝鮮も立上らねばならない。昭和二〇年(一九四五年)八月頃満州の金日成は朝鮮に侵攻することになって居る。それで之が準備として自分は朝鮮青年の統一及び食糧確保…使命を帯びて今回は金日成より密派されたのである。朝鮮青年は将に祖国独立の時機を迎えたのであるから大いに活躍してもらい度ひ…』との扇動を受け… 当面同志の獲得には鮮内よりは寧ろ朝鮮青年の多数が稼働する内地に移入労働者として潜入、其の集団生活を通じて一大組織を結集し金日成一派の朝鮮侵攻に内鮮呼応して一斉蜂起すべしとなし昭和一九年(一九四四年)三月下旬大谷重工業尼崎工場に渡来し同僚たる移入朝鮮人労務者を目標に民族意識を覚醒昮揚して結集団結を図る等策動を推進する所有りたり」 〔『内鮮関係月報』 昭和二〇年(一九四五年)六月〕

極東の訓練基地にいたころ、われわれは国内と満州、日本に多くの政治工作員を送りましたが、彼らは朝鮮人民革命軍の総攻撃戦に合流できるよう、全民抗争力量をりっぱに準備しました。
当時、日本には金昌国(キムチヤングク)のようにわたしがじかに選んで送った政治工作員もいれば、われわれの指導下にある国内組織がわたしの指令を受けて派遣した政治工作員もおり、国際連合軍別働隊の線とつながる特殊偵察員もいました。とにかく、彼ら政治工作員はみな、われわれの全民抗争計画に焦点を合わせて、日本でのすべての反日勢力をしっかり準備させるために大いに活躍しました。
金日成隊」を例にとっても、彼らは新潟鉄工所に強力な反日勢力を築き、主要軍需品の生産を妨げて日本の戦争遂行能力を弱め、また数十名の新入り徴用労働者の集団逃走も成功させました。
京都の朝鮮人労働青年たちは、やがて白頭山を根拠地にして朝鮮独立の計画を実行する目標を立て、いくつもの工場に反日組織をつくりました。
実に、北は北海道から南は九州にいたるまで日本のいずこにも、そして大学生や神学生、炭鉱労働者や徴用労務者にいたるまで、朝鮮人のいる所にはどこでもわれわれの組織がつくられていたのです。

つぎの資料は、朝鮮人民革命軍の政治工作員や特殊偵察員の日本派遣に、日本の警察当局がどれほど戦々兢々としていたかをよく示している。
資料は、朝鮮北部の航路に就航中の船舶が補充船員を募集したところ、ふだんは応募者がまるでいなかったのに、そのときは、かなり教養があると思われる日本語の達者な者がどの港でも四七、八名も応募したので、彼らの腹のうちが疑わしく採用を中止したとし、その理由をこう述べている。
「情報に依れば彼等は何れも濃厚な民族主義思想抱持者なるが、内地渡航の容易ならざるを知り、比較的容易に内地に渡航し得る船員を志望し内地港湾に寄港したる際脱船して、東京、大阪、其他の大都市に潜入し、在住朝鮮人を扇動して、其の民族意識を高揚せしめ、内外呼応して不穏行動に出でんとしつつものの如くなるを以て、満州方面より渡航する朝鮮人並容疑朝鮮人船員の動向には厳重警戒の要あるべし」〔『特高月報』内務省警保局 昭和一六年(一九四一年)八月分 七七ぺージ〕

日本本土は、全国にびっしりと張りめぐらされた朝鮮人抗争組織によって、噴火寸前の活火山の上におかれている状態だったといえます。これは、われわれの政治工作員と各工作班の積極的な闘争によってなされたものでした。
しっかりした精神をもつ朝鮮人のなかには、強大国の協商によって民族の前途が開かれると考えるような愚か者はいませんでした。武装闘争こそ国と民族を救う唯一の道であると確信した朝鮮人民の一致した立場と観点が、朝鮮のすべての愛国勢力を人民革命軍のまわりに結集する要因になったといってよいでしょう。
朝鮮人はいたずらに白頭山を仰ぎ見たのではありません。そこに革命軍がいたからこそ、白頭山、白頭山と異口同音に叫んだのです。昔は白頭山が祖宗の山として民族に愛されたのですが、朝鮮の共産主義者がここで抗日大戦をくりひろげるようになってからは、革命の聖山として民族に愛されているのです。
われわれが武装闘争を急速に発展させ、それを主軸にして主体的な革命力量をうちかためてきたことには、実に大きな意義があります。抗日革命の全過程が示しているように、植民地民族解放闘争では、基本の基本が武装闘争です。武装闘争を高いレベルでおし進めてこそ、人民もそれだけ早く目覚め、各階層の広範な大衆を帝国主義侵略者にたいする抗戦へと容易に動員することができるのです。
亡国によって深手を負った朝鮮人民の民族的自尊心は、われわれが白頭山で武装闘争をくりひろげるようになってから、一〇〇倍、一,〇〇〇倍に高まりました。それは、以前の民族的自尊心とは比較にならない高い形態の革命的自負です。こうしてみると、朝鮮人民の真の民族的自負と祖国愛は、白頭山にその始原があると言ってよいでしょう。
抗日武装闘争の影響のもとに日本本土につくられた全民抗争諸組織は、各種形態の実践闘争を通じて民族自主意識を高め、日本帝国主義の敗亡を早めるのに寄与しました。
このような歴史がなかったとしたら、総聯の運動も現在のような発展をとげることはできなかったでしょう。総聯が強力なのは、その土台がしっかりしているからなのです。


七 最後の決戦の日

金日成同志が朝鮮戦争後、ソ連を訪問したときのことである。クレムリンで金日成同志を迎えたソ連共産党の責任幹部は、自国の幹部を順に紹介した。そのなかには当時のソ連国防相マリノーフスキー元帥もいた。彼は自分の番になると「わたしたちは顔なじみですから紹介するには及びません」と笑顔で言った。そしてこう付け加えた。「金日成同志が極東にいた時分にハバロフスクで知り合ったのです」
金日成同志は、「そのとおりです。わたしたちは古くからの戦友です」と言って、彼と熱く握手を交わした。
両国の幹部たちは驚嘆を禁じえなかった。では、金日成同志とマリノーフスキーのよしみが結ばれたきっかけは何か。ハバロフスクではどういうことがあったのだろうか。

日本帝国主義を撃滅して祖国を解放する最後の決戦の準備は、ヒトラー・ドイツの敗戦後、本格的に推進されました。
一九四五年二月、ヤルタではソ・米・英三国首脳の秘密会談が開かれました。ちょうどそのころは、ソ連軍がハンガリーの首都ブダペストを解放し、ベルリンヘの総攻撃戦を準備していたときでした。ドイツの敗北は時間の問題でした。
ソ・米・英首脳がヤルタで討議した中心議題の一つは、ドイツ敗北後のソ連の対日参戦問題でした。会談で、ソ連はドイツの敗北後二、三か月経って対日戦に参加することにしました。ソ連の対日参戦の確定は、日本帝国主義の支配下にあったアジアの被抑圧民族と革命家にとって大きな励ましとなりました。
われわれは到来する祖国解放の大事を主動的に迎える準備に拍車をかけました。
ソ連軍がベルリン解放作戦を開始して間もなく、極東戦線軍司令部はわれわれにドイツの敗北を知らせてくれました。国際連合軍に所属していたソ連軍将兵はその日、夜通し祝宴を張りました。倉庫の酒はそのときことごとく飲み尽くされたようです。軍医所のアルコールも一晩のうちに底をついてしまいました。ソビエト人はもともと酒好きです。ソビエト人、朝鮮人、中国人の別なく、みな戦勝の喜びにあふれて踊り、そして歌いました。われわれはソ連の勝利をわれわれみんなの勝利として喜びました。イタリアの敗北がドイツの敗北につながり、ドイツの敗北が早晩日本の敗北へとつながるのは明白なことでした。ドイツの敗戦は日本の敗戦を予告する前奏曲ともいえました。一時、世界を騒然とさせたファシズム勢力は、いまやアジアとヨーロッパで墓穴へ向かうリレーをしているようなものでした。今度はそのバトンが日本に渡される番になったのです。
われわれも日本帝国主義の敗亡を早め、祖国の解放を実現する準備を進めなければなりませんでした。
対独戦勝を祝う集会が終わったあと、連合軍所属の朝鮮人指揮官たちは一堂に会し、祖国解放作戦について長時間論議しました。正式の会合ではありませんでしたが、雰囲気は非常に真(しん)摯(し)で厳粛でした。みな情熱にあふれて、日本帝国主義を撃滅して祖国を解放しようと叫びました。いまにも豆満江を渡って国内に進撃せんとする意気込みでした。
論議の焦点は自力独立と全民抗争の問題でした。われわれは誰もが自力で祖国を解放するという確固とした主体的立場を堅持すべきである、そのためには、朝鮮人民革命軍の政治的・軍事的威力を全面的に強化し、国内の抗争組織を十分に準備させ、朝鮮人民革命軍の祖国解放作戦に合流させて全人民的な抗争を展開しなければならない、さらには、ソ連、中国の武装力との軍事的連携を強化し、ソ連の全般的対日作戦と緊密に結びつけて共同作戦の準備を整えるべきである、というのがその日の論議の要点でした。
その後、わたしはソ連との軍事的・政治的協力問題をもって、ソ連の極東戦線軍指揮部と数回にわたって協議をおこないました。あるときは周保中や張寿籛と一緒に行き、またあるときは金策や崔庸健と一緒に行って別個に協議をしたこともあります。
その間、ソ連は日本の侵攻がありうるとして、対日作戦をひそかに着々と準備してきました。作戦準備はドイツの敗北前も、敗北後も進められました。

ソ連指導部はドイツと苦しい戦いをつづけていた一九四三年ごろ、総参謀部の極東担当部署を強化する措置を講じ、極東兵力を戦時作戦の遂行に適合するよう改編した。スターリンは極東戦線司令官と各集団軍司令官を、対独戦で豊かな実戦経験を積んだ将官と交代させた。極東戦線司令官アパナセンコがモスクワ南方のボロネジ戦線副司令官に転任し、そのポストにカリーニン戦線司令官であったプルカエフが就いたのもそうした措置の一環であった。スターリンは、一九四四年に入って、ソ連軍がソ連境外の東ヨーロッパで軍事作戦を積極化していたときにも、極東地域に増援兵力を急派し、戦力を最大限に強化することを命令した。

ソ連はドイツの壊滅後、対日作戦計画を最終的に検討する段階に入りました。われわれはわれわれなりに、朝鮮人民革命軍の作戦方向と具体的な活動計画を立てはじめました。もちろんそれはソ連軍との連合を前提とする計画でした。
ソ連の高位指揮官たちは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の活動に大きな期待をかけていました。国際連合軍の全部隊は対日作戦を間近にひかえて、以前よりも訓練の度を数倍強めました。そのころの軍事訓練では、国際連合軍を構成している各民族部隊の特性を生かしつつも、すべての民族部隊が対日連合作戦で歩調を合わすことに大きな関心が払われました。
連合作戦が効力を発揮するには、国際連合軍内の各民族部隊の作戦分担をどう決め、各軍種、兵種間の戦闘時の協同と歩調をいかに合わせるかということが重要でした。国際連合軍の軍事訓練はこの問題の解決にしかるべき力を入れました。
朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の各部隊はこれと同時に、多年にわたる抗日戦で創造し、練磨した遊撃戦法を完成し、それを大規模正規作戦で効果的に駆使する方法を探求することにも不断の努力を傾けました。われわれは各種の訓練を同時におし進め、とりわけ祖国解放作戦で欠かせない偵察訓練、工兵訓練、無線通信訓練、空挺隊訓練に重点をおきました。ソ連軍が対独戦中に積んだ最新の戦争経験も十分に研究し、習熟しましたが、そのレベルは相当なものでした。
国際連合軍が組織されて間もないころ訓練基地に派遣されてきたソ連の教官は、ほとんどが往年の国内戦の参加者でした。ところが、対日作戦を最終的に準備していたころには、独ソ戦争の参加者が教官の大部分を占めるようになりました。数年間の現代戦で鍛えられた人たちだけあって、教育内容も非常に斬新でした。
当時、われわれは国内の抗争組織を準備させるため、祖国に多くの工作員を送り込みました。彼らは白頭山密営や間白山にも行きました。そして、以前からそこで抗争組織を指導していた政治工作員とともに、最後の決戦の準備を進めていきました。
わたしもそのころ国内に入り、当面の対日作戦と関連して国内の各部隊の活動方向を示す一方、ソ連の全般的対日作戦準備とわれわれの作戦計画を一致させることに多くの時間をかけました。
ソ連は一九四五年の夏、ワシレーフスキーを総司令官とするソ連極東軍総司令部を創設し、三つの大規模戦線軍をそれに所属させました。ザバイカル戦線軍はマリノーフスキーが担当し、第一極東戦線軍はメレツコフが、第二極東戦線軍はそれまで極東戦線軍司令官を務めていたプルカエフが受け持ちました。
第一極東戦線軍の基本作戦地域はハルビン以南の中国東北の一部の地域と朝鮮であり、第二極東戦線軍の作戦地域はハバロフスク西方の東北地域でした。
従来、国際連合軍は第二極東戦線軍に属して軍事作戦をおこなうことになっていましたが、朝鮮人民革命軍部隊は主として第一極東戦線軍と連携していました。ソ連極東軍総司令部の発足後わたしは、第一極東戦線軍司令官メレツコフ、軍事委員スチコフと頻繁に会いました。第二五集団軍司令官チスチャコフや集団軍指揮官レベゼフとも親交を結びました。彼らは対日作戦の開始とともに部隊を率いて朝鮮へ進出することになっていました。
ソ連極東軍総司令部の所在地はハバロフスクでした。わたしはハバロフスクを行き来しながらワシレーフスキーともなじみ、マリノーフスキーとも親しくなりました。
一九四五年の夏に入ってから、ソ連極東軍総司令部は連合作戦会議をたびたび開きました。ワシレーフスキーはソ連軍総司令部の作戦構想をわれわれに詳しく説明してくれました。彼は、関東軍主力を包囲して数個に分断、孤立させ、一挙に掃滅する計画だと語りました。
われわれは、祖国解放にかんしては従来の作戦方針を変わりなく堅持しました。当時われわれは、間白山一帯に集結した朝鮮人民革命軍部隊は予定された通路から進攻して各道を解放し、極東の訓練基地に集結している朝鮮人民革命軍部隊は平壌地方をはじめ各地域に空輸で迅速に進出して、既設の秘密根拠地を足場に電撃的な軍事作戦を展開するという計画を立てていました。同時に、国内で活動している朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員は、抗争組織を大きく拡大して人民を全民抗争に立ち上がらせ、全民族が各地で朝鮮人民革命軍の進撃に合流するようにしました。
わたしはいまでも、この作戦計画はわが国の当時の軍事・政治情勢からして、祖国の解放を短時日に果たすもっとも正しい方法だったと思っています。国内各道に落下傘で降下したパルチザン部隊が全民抗争部隊とともに、四方からいっせいに敵陣に攻め入るのですから、難しいことはないはずです。海岸線に構築された要塞地区へはソ連軍が空爆と艦砲射撃の掩護のもとに上陸し、国境方面からは歩兵部隊が機甲部隊を先頭に怒濤のごとく進撃する手筈だったのです。ソ連軍側とはすでにそのような約束が交わされていました。
当時、われわれは最後の決戦をひかえて、国内に小部隊と工作班を多数送り込んでいました。
われわれは、全パルチザン部隊と人民武装隊および抗争組織に、敵を完全に撃滅した後、植民地統治機構を一掃し、人民の生命、財産を保護し、党と人民政権機関を創設する任務も与えていました。
ソ連極東軍の指揮官のうち、わたしがいちばんよく会ったのはメレツコフでした。彼は頭のはげかかった四〇代末の将官でした。わたしはメレツコフの経歴を知って、スターリンが彼を沿海州方面の戦線司令官に任命したことがうなずけました。いっとき極東の一部隊で指揮官を務めたメレツコフは、レニングラード軍管区司令官を経てソ連―フィンランド戦争で主力を担当した第七集団軍も指揮しました。彼はソ連軍総参謀長も務め、極東への赴任前はモスクワ北西部のカレリヤ戦線司令官として活躍したとのことでした。
メレツコフは旧友にでも会ったかのようにわたしの手を強く握り、会えてうれしいと言いました。彼はわたしに席を勧めてから、日本帝国主義との戦争では朝鮮の同志たちがわれわれの先輩です、対日作戦における朝鮮の同志たちの役割は非常に重要です、われわれはあなたがたの活動に大きな期待をかけています、と言うのでした。
メレツコフは、国際連合軍における朝鮮支隊の活動について大まかに聴取したあと、朝鮮国内の軍事・政治情勢を詳しく説明してほしい、とわたしに頼むのでした。彼とその同僚たちは、朝鮮における日本の兵力配置と統治方法、国内人民の反日闘争と革命組織の分布状況、秘密根拠地と結びついた武装隊の活動などに格別な関心をもっていました。
対日作戦をひかえたある日、わたしは連合軍指揮官たちと一緒にモスクワヘ行きました。ソ連軍総参謀部が催した会議に出席してみると、メレツコフやスチコフをはじめ対日作戦に関連のある各戦線司令部の責任幹部がみな集まっていました。そこではワシレーフスキー総司令官とも再会しました。
朝鮮人民革命軍の空挺隊戦法にもとづく祖国解放作戦計画については、全員が賛成しました。そのとき、東北抗日連軍の各部隊には、満州地方の主要都市に真っ先に飛んで、ソ連軍地上部隊の進撃路を開く任務が与えられました。
わたしはモスクワでジューコフとも会いました。当時彼はドイツ占領ソ連軍総司令官兼ドイツ管理監督理事会のソ連側代表でした。ジューコフがどうしてそこに来ていたのかは分かりませんでしたが、わたしとしてはたいへん印象深い対面でした。名高い歴戦の勇将ジューコフは、非常におおらかで気さくな人でした。
ソ連の人たちは心からわれわれを厚くもてなしてくれました。それは外交的慣例を越えた特別な歓待でした。われわれはモスクワ滞在中、レーニン廟を参観し、歴史博物館にも行ってみました。モスクワ防衛戦の有名な戦跡地も訪れ、二度目ですが映画『チャパーエフ』も観ました。
対日作戦にかんする会議が終わってからも、ソ連の人たちはなぜかわれわれをすぐ極東に帰そうとはせず、ゆったりと市内見物ばかりさせるのでした。数日後、彼らはわれわれをジュダノフのもとへ案内しました。当時、ジュダノフはソ連共産党中央委員会政治局員兼書記を務めていました。ジュダノフの所にはスチコフが先に来ていました。ジュダノフは、スターリンの委任により東方から来た人たちに会うことになったと前置きして、われわれの抗日武装闘争を激賞するのでした。彼は、スターリンやスチコフから朝鮮のパルチザン金日成のことをいろいろと聞いていたが、思っていたよりもずっと若く見えてうれしい、と言いました。彼によれば、スターリンもわれわれの活動に格別の関心を寄せているとのことでした。
わたしとジュダノフとの話し合いは、当面の軍事・政治情勢についての問題からはじまりました。わたしはその日、ジュダノフとの話し合いを通して、彼が解放された朝鮮を民主主義的独立国家につくりあげる方途についてのわたしの見解を知りたがっていることを感じました。話し合いの途中、ジュダノフはだしぬけに、朝鮮人は国の解放後何年ぐらいで独立国家を建設できるだろうか、と尋ねました。わたしは、長くても二、三年なら十分だろうと答えました。わたしの返事を聞いたジュダノフは両手をこすりながら喜びました。それでもなお、意外だといった表情は隠そうとしませんでした。
わたしはそのとき、ジュダノフがなぜ朝鮮解放後の自主独立国家建設問題に大きな関心をもち、二、三年というわたしの返事を聞いて半信半疑の面持ちを隠さなかったのかを察しました。その理由はほかでもありません。ヤルタ会談で戦後の朝鮮問題の処理が論議されたさい、ルーズベルトが信託統治案を持ち出していたからです。植民地から解放されたアジアの弱小国は、強大国の後援のもとに「民主的制度のもとで教育されるべきである」というのが、彼の一貫した主張だったのです。ルーズベルトは一九四三年の春、ワシントンで米国務長官、英国外相らと会談したとき、朝鮮とインドシナは強大国の信託統治下におかれなければならないと言明しました。彼は、朝鮮人には「完全な独立を得るまでには約四〇年間の収拾期間」が必要だと言いました。彼は朝鮮民族をひどく見くびっていたようです。
わたしは、朝鮮人民が長期にわたる抗日武装闘争と民族解放闘争を通して政治的に大きく目覚め、鍛えられたことと、その過程で自力で国家を建設できる堅実な指導中核と広範な愛国勢力が形成され、豊かな闘争経験と無限の創造力、洗練された組織力と強力な動員力をそなえるにいたったことを力説しました。
ジュダノフはわたしの説明を注意深く聞いたあと、解放後の朝鮮人民の建国闘争にどのような支援が必要だろうかと尋ねました。
わたしは、ソ連はドイツと四年間も戦い、今度はまた日本と大戦争をしなければならないのに、何の力があってわれわれを援助するというのか、もちろん援助してくれるのはありがたいが、われわれは可能なかぎり自力で国づくりをするつもりだ、困難でもそうするのが将来のためにもよいと思う、わが国では歴史的に事大主義が亡国の根源として存在しつづけた、新しい国の建設では、事大主義の弊害が絶対に生じないようにするのがわたしの決心だ、わたしが期待するのは、わが国へのソ連の政治的支持だ、ソ連が今後、国際舞台でわれわれを積極的に支持し、朝鮮問題が朝鮮人民の利益と意思に即して解決されるよう努力してくれることを望む、と言いました。
ジュダノフはわたしの話を聞いて満足しました。彼は、先ごろ東欧のある国の人は自分に会う早々自国はもともと経済的に立ち遅れているうえに戦災が甚しく、困難が一、二にとどまらない、ソ連が本家になったつもりで援助してほしいと言った、あなたの立場と何と対照的ではないか、これこそ東方と西方の違い、日昇る国と日没する国との違いなのかもしれない、と言うのでした。この最後の言葉はもちろん冗談でした。そこに日昇る国と日没する国の違いがあろうはずはありません。違いがあるとすれば、東欧の指導者たちが自国人民の力よりもソ連を頼りにしたということです。東欧諸国はほとんどがソ連軍によって解放されました。それで、それらの国はソ連に依存し、ソ連式に社会主義を建設しました。ソビエト人が「A」と言えば彼らも「A」と言い、はては、モスクワが雨になると彼らも傘をさすといわれたほど事大主義がひどかったのです。東欧社会主義諸国が滅んだ原因の一つがこの事大主義にありました。
ジュダノフは、わたしとの話し合いの内容をスターリンに報告すると言いました。わたしは、その後もジュダノフと何度か会い、親交を深めました。
メレツコフもスターリンにわたしのことをいろいろと話したようです。わたしはいまも、旅順でのことが忘れられません。解放直後、わたしは旅順に行ったことがありますが、そこでメレツコフに会いました。彼はわたしといろいろ話したあと、自分はすぐにモスクワへ行ってスターリンに会うことになっているが、彼に頼みたいことはないかと尋ねました。わたしは、ソ連軍司令部の軍票を廃止して朝鮮の貨幣を発行する問題、産業国有化の問題、朝鮮人民革命軍を現代的な正規軍に改編するのにソ連が必要な援助を与える問題など、いくつかの案を出しました。メレツコフはその後も、われわれの活動をいろいろと助けてくれました。
彼は沿海辺境軍管区司令官であったころ、ときおり平壌へやってきましたが、そのたびにソ連軍司令部より先にわたしの家を訪ねたものです。メレツコフはマリノーフスキーと一緒に平壌を訪れたこともあります。そのとき、駐朝ソ連軍司令官は彼らを外国人専用のホテルに案内しようとしました。しかし、彼らは司令官の好意を退け、自分たちは金日成同志を訪ねて来たのだから、邸宅へ行って夫人にマントーでもつくってもらうつもりだ、と言ってわが家を訪ねました。マリノーフスキーとメレツコフは、わたしが在宅していようがいまいが、まったくお構いなしでした。彼らは非常に鷹揚でざっくばらんでした。けれども、何の前触れもなしに客の訪問を受けたので、さすがに金(キム)正(ジョン)淑(スク)も当惑したようです。マリノーフスキーは、自分たちが平壌に向かうとき金日成同志にそう知らせておいたのだが、連絡を受けながらも飛行場に出迎えに出ず、家を留守にしているところを見ると、よほど忙しいのだろう、多忙な人を待つことはない、先に御馳走にあずかることにしよう、と言って、朝鮮冷麺に「朝鮮フレーブ(餅)」を注文したそうです。
ジュダノフとの会見を終えたわたしは、スチコフと一緒に極東にもどりました。極東で結ばれたスチコフとの親交はその後もつづきました。スチコフは朝鮮問題の解決をはかっていろいろと努力してくれました。彼はモスクワ三国外相会議の決定によって設けられたソ米共同委員会のソ連側代表団団長として、朝鮮の統一と自主的発展のための外交活動を情熱的にくりひろげました。
モスクワから帰ったわたしは、朝鮮人民革命軍の指揮官たちを集め、その間の活動状況を知らせました。
一九四五年八月九日、ソ連は同盟国との協約によって対日宣戦布告をし、日本軍と交戦状態に入りました。
同日、わたしは朝鮮人民革命軍の全部隊に、祖国解放のための総攻撃戦開始の命令を下しました。そのとき、最後の攻撃作戦に先立って、朝鮮人民革命軍各部隊に、雄(ウン)基(ギ)郡土里(トリ)、琿春県南別里、東興鎮など敵の国境要塞区域の各軍事要衝を奇襲して敵軍の防御体制を混乱させ、要塞区域内の兵員と火器機材に打撃を加えるよう命じました。
われわれとの連合作戦で第一極東戦線軍司令部が何よりも苦慮したのは、もっとも効果的な打撃を加えうる場所を選択することでした。つまり要塞化された国境地帯のどの地点をたたけば、日本軍の防御体制全般をゆさぶることができるかということでした。わたしはわれわれがその問題を解くことにしました。
日本軍は一九四五年まで満州とソ連、モンゴルとの国境地帯におびただしいトーチカを構築しました。朝鮮に建設された四か所の要塞地帯はすべてソ連攻撃の発進基地でした。
日本帝国主義が一〇余年にわたって建設した朝ソ、朝満、ソ満国境一帯の要塞区域には関東軍と朝鮮駐屯軍管下の各部隊をはじめ、陸海空軍の膨大な兵力が集結していました。敵はこの要塞区域を「難攻不落の防御線」と豪語していました。敵が構築した要塞はすべて秘密地下要塞でした。日本帝国主義は要塞建設に駆り出した人夫を秘密保持の名目で皆殺しにしました。それらの要塞は、対日作戦の遂行において最大の障害となっていました。ソ連軍の指揮官たちは要塞線の背後にある関東軍を大敵とみなしましたが、わたしは要塞線の突破こそ難題だとみました。わたしが要塞区域の何か所かをたたいてみようと考えたのもそのためです。
わたしが、開戦に先立って局地戦をやってみようと提案すると、第一極東戦線軍の高位指揮官たちはみな面食らった表情でした。わたしは、対日作戦の突破口を開くには軍事要衝を何か所か襲撃して、敵が隠密裏に増強してきた防御体制と隠蔽(いんぺい)している兵員および火器機材を一挙に露出させるべきだ、と主張しました。
こうして朝鮮人民革命軍の一部隊が開戦前夜、豪雨をついて、豆満江一帯に構築された要塞の一角、土里を襲撃したのです。土里は慶(キョン)興(フン)要塞区域と雄基―羅(ラ)津(ジン)要塞区域に沿った奇妙な位置にありました。土里が落ちれば、敵はその一帯の広い地域を手放さなければならず、慶興要塞も危険にさらされるのです。わが戦闘員たちは土里の警察官駐在所に焼き討ちをかけ、村を解放しました。土里は祖国解放の最後の決戦で朝鮮人民革命軍部隊が真っ先に解放した村です。敵は増援部隊を急派しましたが、援軍は恐れをなして雄尚(ウンサン)嶺で足踏みし、駐在所が炎上するのを遠見するだけで引き返したそうです。

朝鮮人民革命軍部隊の土里襲撃について、日本の一出版物はつぎのように伝えている。
「八月八日、午後一一時五〇分、朝鮮人の一団約八〇名がソ連軍とともに快速艇に乗って豆満江を渡り土里に来襲した。
ここはソ連領土を指呼の間に望むところである。まず土里の警察官駐在所が襲撃された。…九日午前三時ごろ…トラックを土里に向かわせたが、ときすでにおそく…トラックは雄尚嶺からひき返してきた」〔『朝鮮終戦の記録』二九ページ〕

ソ連軍と連合戦線を形成した朝鮮人民革命軍の別働隊、先遣隊の勇戦によって開かれた突破口は、対日戦の電撃的終結をめざすわれわれの作戦的意図を貫くうえで決定的な契機の一つとなりました。
間白山密営を最後の攻撃作戦の出撃陣地としていた朝鮮人民革命軍各部隊は、隊伍を増強しながら作戦計画に従って進撃し、他方、豆満江沿岸に集結した各部隊は一気に敵の国境要塞を突破して慶源(キョンウオン)、慶興一帯を解放し、ひきつづき雄基方面へと戦果を拡大して国内の広い地域を解放しました。そして海岸上陸部隊の先遣隊として出陣していた一部の部隊は、地上部隊との緊密な協同作戦によって雄基に上陸し、戦果を拡大しながら清(チョン)津(ジン)一帯へと進撃をつづけました。
他の部隊は金廠、東寧、穆棱、牡丹江を解放し、追撃戦をくりひろげて関東軍に致命的な打撃を与え、豆満江の対岸に進出しました。
早くから国内に派遣されていた朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員たちは、人民武装隊や武装蜂起組織、広範な人民を武装暴動へと力強く動員しました。彼らは全国各地で日本帝国主義侵略軍と憲兵、警察機関を襲撃、掃討して敵背攪乱闘争を果敢に展開し、進撃する人民革命軍部隊を極力支援しました。
慶興要塞を撃破する戦闘では、桃泉里出身の韓(ハン)昌(チャン)鳳(ボン)がりっぱに戦いました。韓昌鳳は国際連合軍の先遣隊のなかでも真っ先に豆満江を渡った人です。豆満江を渡河した先遣隊は、地方革命組織の支援を受けながら敵の砲台やトーチカを一気に破壊し、元(ウオン)汀(ジョン)一帯を解放しました。
豆満江一帯の要塞突破作戦では訓戎(フンユン)の馬乳(マユ)山戦闘も有名です。馬乳山と月明(ウオルミョン)山一帯は敵が難攻不落と豪語していた所です。敵は訓戎橋を爆破し、トーチカを築いた高地に陣取って、決死の戦闘態勢を整えていました。朴(パク)光(クアン)鮮(ソン)は日本兵に変装した朝鮮人民革命軍偵察班を率いて夜半豆満江を渡り、馬乳山の背面にひそんで敵情をつぶさに偵察しました。敵の馬乳山防御兵力はおよそ二個大隊だとのことでした。偵察班は本隊に無電で敵情を知らせ、豆満江を強行渡河した部隊の先頭に立って勇敢に戦いました。
馬乳山一帯の人民武装隊は交戦前に敵の火薬庫と砲弾、弾薬の野積み場を爆破し、全般的な戦闘の勝利に寄与しました。
土里襲撃戦に参加した呉白竜の先遣隊は、万香峠での戦闘でも偉勲を立てました。万香峠は雄基―羅津要塞への陸路を遮断する敵側の重要な関門でした。万香峠で部隊の前進が阻止されると、呉白竜は自分たちが敵のトーチカと砲台を破壊すると申し出ました。彼は隊員たちを率いて高地に這い登り、味方の前進を妨げるトーチカを残らず爆破して部隊の進撃路を開きました。ソ連軍将兵は親指を立てて、朝鮮のパルチザンが一番だとたたえました。
朝鮮人民革命軍の隊員のなかには、祖国の解放を一日後にひかえて戦死した人もいます。それは金鳳錫(キムボンソク)です。金鳳錫はわたしがとりわけ目をかけていた伝令です。彼はわたしの連絡任務をずいぶん遂行しました。彼は伝令でしたが、政治工作をりっぱに果たして人ひとを驚嘆させたことが一度や二度ではありません。
一九三〇年代の末ごろ、金鳳錫が尹(ユン)炳(ビョン)道(ド)と一緒に、わたしから任務を受けて敵の「討伐」拠点である竜井に潜入し、中学校に入学して学帽をかぶり、青年学生のなかで工作をおこなったということを知れば誰もが驚くはずです。朴寅鎮(パクインジン)を護衛してソウルへ行き、天道教徒の記念行事に参加して天道教上層部に革命的影響を与えた遊撃隊員がほかならぬ金鳳錫なのです。
金鳳錫は祖国解放作戦遂行中の呉白竜にわたしの命令を伝え、その帰途戦死したのです。わたしは、ソ連軍との連合作戦にかんする具体的な命令を呉白竜に伝えるために金鳳錫をさし向けたのでした。彼は任務を果たしてすぐに引き返しました。途中、ある家に立ち寄って食事をしたのですが、そこの主人が悪者で、警察に密告したのです。彼は追跡する敵と勇敢に戦い、壮烈な最期を遂げました。その日は一九四五年八月一四日でした。わたしが非常に愛していた隊員でしたが、遺骸すら見つけることができませんでした。革命烈士陵を訪れる人たちは、祖国解放の一日前に戦死した彼の胸像の前で哀惜の念にとらわれ、その場に長いこと立ち尽くすそうです。
羅津を解放したのは羅津人民武装隊です。
羅津上陸作戦を担当したソ連太平洋艦隊所属の戦隊は、この作戦が困難な戦いになるだろうと予想していました。羅津は敵が莫大な労力を投じて建設した規模の大きい要塞地だったからです。港湾には敵艦が常時停泊し、市周辺の高地には高射砲部隊もいました。
しかし、ソ連軍が羅津に進出したとき、都市はすでに解放されていました。
羅津に陣取っていた日本軍は、最初ソ連軍が市内を爆撃し、艦砲射撃を加えると、張鼓峰事件と同様の衝突だろうと思い、決死の防御態勢を取ったといわれています。このような状況のなかで、人民武装隊の一小部隊が夜半、市内にひそかに進入して要塞司令部と憲兵隊、警察署を襲撃し、陸軍の軍用倉庫に火を放ちました。ひきつづき、待機していた人民武装隊の本隊が市内に突入し、敵を挾み撃ちにしたのでした。

羅津解放戦闘に参加したソ連の一将校は手記にこう書いている。
「…われわれが都市に接近したとき、機関銃の連射音と砲声が聞こえてきた。都市周辺で朝鮮の農民たちが手を振りながら『万歳』を叫んでいた。彼らの話によると、市内ではすでに二日間も金日成パルチザン部隊と日本軍との間で戦闘がおこなわれているとのことだった。羅津市内の小さな広場や狭い道路は、敵軍のトラックと荷車で埋め尽くされていた。朝鮮のパルチザンが日本軍の退路を断ち、彼らを市内に封じ込めたことを知った。われわれとパルチザンに挾まれた日本のサムライたちは武器を捨てて捕虜になりはじめた。われわれは、郊外からこちらに走ってくる一〇〇余名の武装した一団を見た。『われわれは金日成パルチザンの隊員です』と部隊の指揮官が戦車部隊の大佐にせきこんで言った」〔イ・ウルジュメラシュビリ『朝鮮での手記』より〕

人民武装隊は全国各地で種々の名称をもって日本帝国主義を撃滅する戦いに参加しました。人民武装隊は各道のほとんどすべての地域で活動しました。
咸(ハム)鏡(ギョン)北道では慶興、雄基地区に組織された人民武装隊が開戦当初から朝ソ連合軍と力を合わせてりっぱに戦いました。清津、吉州(キルチュ)、城津(ソンジン)地区の武装部隊は敗残兵を掃討し、八・一五解放前に早くも武力で各工場を掌握し、警察機関を奇襲、掃滅しました。
崔一(チェイル)が組織した鵲(カチ)峰武装隊は、祖国解放の最後の決戦で大きな役割を果たしました。崔一は一九四一年の夏、会(ヘ)寧(リョン)地区に派遣されました。そのとき呉白竜の工作班が彼の道案内をし、活動地域も選定してやったそうです。崔一が炭焼きや徴用・徴兵忌避者、先進的な青年たちで武装隊を編制し、隊長となって活動した地域は会寧の鵲峰一帯でした。武装隊を組むさい、誓書を朗読し、宣誓もしたとのことです。その武装隊には臨時の規則や行動準則までありました。
崔一は慶興郡鹿(ロク)野(ヤ)里の態(コム)山地区で活動していた朴(パク)昌(チャン)範(ボム)とも連係を取りました。朴昌範は熊山臨時秘密根拠地を拠点にして活動したわれわれの政治工作員でした。
鵲峰武装隊は最後の決戦がはじまる前に早くも戦闘行動に入っていました。北部国境地帯で戦いがはじまったときは、元汀、青(チョン)鶴(ハク)、馬乳山界線から敗走する敗残兵を掃討し、火薬庫や燃料油倉庫も爆破しました。この武装隊はソ連軍の進出を待たずに自力で会寧を解放しました。彼らが鵲峰地区で掃滅した敵兵はかなりの数にのぼるといわれています。彼らは飛行機をはじめ高射砲と多数の被服類や装具類を奪取しました。
両(リャン)江(ガン)道と咸鏡南道一帯の抗争組織は、ソ連軍の進撃に先立って多くの警察署と敵の統治機関を襲撃、掃滅しました。
江(カン)原(ウオン)道の鉄原(チョルウオン)、法洞(ポプトン)地区や、平(ピョン)安(アン)北道の塩州(ヨムジュ)、朔州(サクチュ)地区の抗争組織もりっぱに戦いました。
新(シン)義(イ)州(ジュ)地区の抗争組織は、総攻撃命令が下った翌日から警察官派出所や国境守備隊営所を襲撃、破壊し、道警察部と道庁を占拠し、飛行場にたむろしていた一群の敗残兵を武装解除し、八月下旬に進駐したソ連軍司令部に引き渡しました。
平安南道と平壌地区では、祖国解放団を中心に構成された大規模な抗争隊伍が兵器廠を襲撃し、道庁と府庁を占拠し、敗残兵力を制圧しました。
黄(フアン)海(ヘ)道の抗争組織も、日本帝国主義の降伏前に各地の敵を襲撃、制圧しました。
最後の決戦のころを思い出すたびに残念でならないのは、ソ連の訓練基地で数年間、祖国解放作戦の準備を進めてきた朝鮮人民革命軍の主力部隊が従来の計画通りに作戦をおこなえなかったことです。わが軍が北部国境地帯で日本軍との交戦状態にあったとき、わたしは前線部隊の作戦を指揮するかたわら、空挺隊の朝鮮出撃準備を完了していました。前線の状況に合わせて空挺隊を部分的に改編もし、武器や弾薬、装具類一式を新品で供給もしました。そうして空挺隊はトラックで飛行場に向かいましたが、そこで引き返さなければなりませんでした。それは、日本が突如として降伏したからです。日本が降伏したという驚くべきニュースが伝えられたとき、はじめのうちはとうてい信じられませんでした。あれほど傲慢、暴虐で執拗な日本という強敵が、開戦一週間にして降伏しようとは想像もできなかったからです。しかし、日本の降伏は疑うべくもない厳然たる事実でした。
日本の敗亡は、われわれの父祖が目を閉じながらも念じた悲願であり、朝鮮人民が数十年間耐えがたい苦痛と犠牲を強いられながらも、歯を食いしばってねばり強くおし進めてきた抗争の終着点でした。日本の敗亡によって、わが祖国と民族の前途には輝かしい再生の道、復興の道が開かれました。
日本のあわただしい降伏を日米間の駆け引きの所産と評する向きもありますが、内幕はともかく、日本がもう何か月だけでもあがいていたら、われわれは自力で十分朝鮮全土を解放することができたでしよう。

日本帝国主義の突如の降伏と関連した、当時の状況について記した文を引用する。
「日本が次第に敗戦の道に落ち込み、ソ連が正義の武器を取って日本への攻撃を準備していたとき、金日成将軍は再び部下の精鋭を満州に派遣し、関東軍を全滅させる計画を立てた。
満州のすべての要衝に軍隊を配置し、飛行機二〇余機も用意されていた。それはほとんどが徴兵、学徒兵など日本軍内の朝鮮人将兵と連絡して立ち上がる計画だった。そこでこの世紀的な計画をまさに実行しようとした直前、日本の降伏を見ることになり、遺憾ながらこの計画は反故になって中止されたのである。もしこの計画がもう少し早く立てられたか、あるいは日本がもう少し遅く降伏したとしても、金日成将軍はその絶倫の戦略戦術を思う存分発揮し、ごうごうたる飛行機のプロペラの音とともに、そして勇壮な軍隊の砲声とともに喊声も高らかに歩武堂々と入国したであろう。これはひとり金日成将軍だけでなく、わが民族にとって千載の恨事である」〔東京で発刊された『文化朝鮮』誌所載「金日成論」から 昭和二二年(一九四七年)五月〕
日本の敗戦が伝えられた日、全国が喜びの涙にむせんだといいます。平壌の練光(リョングアン)亭や乙密(ウルミル)台の前では終日、踊りの輪がくりひろげられたそうです。国権を強奪されて四〇年、国土を併呑されて三六年、長い暗黒の夜と忍びがたい奴隷生活から脱した民族の歓呼は三千里全土を震撼させました。
日本天皇が降伏宣言をした一九四五年八月一五日以後も、日本軍は抵抗をつづけました。それは、戦後朝鮮の共産主義化を防止し、朝鮮の自主独立を妨害すべく米日両帝国主義が人為的に仕組んだものでした。
一九四五年八月一六日、朝鮮総督府と朝鮮軍管区司令部は「政治運動取締要領」なるものを公布し、各地方に駐屯している管下の部隊に、朝鮮人民の解放闘争の鎮圧を指令しました。彼らは、朝鮮駐屯軍はいまなお健在だと公言し、日本の無条件降伏を奇貨として独立運動を起こすなら、断固武力を行使するゆえ軽挙妄動するなとあえて警告を発したほどでした。これは、日本の無条件降伏後も朝鮮では戦闘行為が終息しなかったことを示しています。朝鮮総督府と朝鮮駐屯軍が降伏宣言を無視している状況のもとで、国内の抗争勢力は抵抗をつづける日本軍敗残兵と統治機構を仮借なく掃討しました。
平壌市と平安南道では、抗争組織と武装組織がソ連軍の入城に先がけて日本軍敗残兵力を掃討して武装を解除する一方、党組織をつくり、地方自治機関を創設しました。人民的な自治機関は末端にまでつくられて道内の行政を管掌し、民政を主管しました。
史料によると、咸鏡南北道を除いても、国内の抗争組織と武装隊は八月中旬の一週間だけでも一,〇〇〇か所近くの敵統治機関を襲撃、掃滅しています。
以上のように朝鮮の解放は、一五年にわたって日本帝国主義者に強力な軍事的打撃を与え、それを根底から揺さぶった朝鮮人民革命軍と、各階層を結集した全民抗争力量の総動員によってなしとげられたのです。朝鮮人民革命軍と人民の長期にわたる抗戦があったからこそ、ソ連の対日作戦はこのように短期間に終結しえたのです。
朝鮮の解放は、ソ連軍が日本の関東軍を撃滅していた有利な状況のもとで、朝鮮人民と人民革命軍が自らの力によってなしとげた偉大な結実です。一九三〇年代と四〇年代の前半期にわれわれが組織した国内の抗争組織と武装隊が、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦計画に従って、国内各地に陣取っていた日本帝国主義の侵略兵力と植民地統治機構を制圧、掃討して国を解放したのでした。

朝鮮人民自らの主体的な力によって朝鮮の解放が成就されたことを明示している資料を引用する。
アメリカ人は早くも一九四五年八月一五日以前に、外交文書のなかで、「朝鮮共産軍(金日成部隊)が適切な時期に朝鮮半島を席捲するかもしれない」とし、アメリカの一大学教授は、「旧満州(中国東北地方)こそは太平洋戦争の核心部であり、金日成将軍によるレジスタンスは、その後の日本の軍事的膨張を挫折させる大きな原因となった」と書いている。
日本帝国主義の敗亡をもたらし、朝鮮を解放するうえで朝鮮人民革命軍の果たした役割について、ソビエト人はつぎのように書いている。
「朝鮮…は四〇年間(一九〇五年以来)…圧制者に対する闘争を独力でつづけてきた。一九四五年八月まで、朝鮮ではパルチザン部隊が活躍し、…ソビエト軍の日本撃滅戦を積極的に援助した」〔エル・マリノーフスキー『関東軍撃滅す』翻訳版三一一ページ〕
敗戦後、日本軍平壌守備隊長竹下は、ソ連軍第二五集団軍司令官チスチャコフ大将と面会した時、朝鮮に二個軍団と九個師団、それに多数の憲兵、警官を擁していたのは、対ソ戦の準備と同時に、朝鮮のパルチザン闘争を撃破することに重要な目的があったとうち明けた。

朝鮮人民は数百年にわたる反日闘争の歴史をもっています。早くも一六世紀末にわが国は数十万の日本侵略軍と七年間もの壬辰祖国戦争(文禄・慶長の役)を戦いました。
近代から数えても朝鮮民族の反日闘争史は七〇年を越えるといえます。一八七五年の雲揚号事件のときにも、朝鮮人民は武器を取って日本侵略軍と戦いました。支配層は日本軍の威勢に恐れをなしてなすすべを知りませんでしたが、軍隊と人民は断固として戦いました。
その後、衛正斥邪運動(〔16〕)や義兵闘争、啓蒙運動、独立軍運動など、暴力と非暴力、合法と非合法を問わず多様な方法で、侵略勢力を駆逐すべく数十年間闘争をつづけてきました。
白頭山が祖宗の山として朝鮮の諸山を率いているのと同様、白頭の密林で開かれ発展してきたわれわれの抗日武装闘争は、民族の解放と社会の進歩をめざす朝鮮人民のたたかいの主流をなしています。
朝鮮の解放は二〇年の歳月にわたった抗日革命闘争の総括であると同時に、内外の広範な反日愛国勢力が数十年間、血と汗を惜しみなくささげ、犠牲をいとわず民族をあげてくりひろげた英雄的抗戦の結実であるともいえます。


八 凱 旋

チュチェ三四(一九四五)年八月、朝鮮は解放の熱気に包まれた。三千里の国土を震撼させた感激の渦のなかで、人民は民族の英雄金日成将軍の凱旋を一日千秋の思いで待っていた。
民族の領袖を生んだ古都平壌は、金日成将軍の凱旋を待って夜も静まることを知らなかった。チュチェ一四(一九二五)年、吹雪のさなかに故郷を発った金日成将軍。その将軍の凱旋を四〇万の平壌市民は今日か明日かと待ち焦がれた。
ソウルでは、呂運亨、許憲、洪命熹などの名高い人士たちによる金日成将軍歓迎準備委員会が組織された。ソウル駅前は連日、金日成将軍を迎えようとする数千数万の市民で埋めつくされた。
三,〇〇〇万の心臓は金日成将軍の凱旋を待ち構えて、激しく脈打っていたのである。

日本の無条件降伏を伝えるニュースを聞いて、訓練基地の朝鮮人民革命軍隊員たちは、興奮に駆られて帰国の準備に取りかかりました。二〇年もの間、他郷で雨露をしのいできたわたしも、一刻も早く故郷に帰りたいと念じました。しかし、われわれは祖国と郷里への思いを胸に秘め、帰国の日をしばらく延ばさざるをえませんでした。
朝鮮人民革命軍の祖国凱旋を待ち焦がれている国内人民の気持ちを、われわれも知らないわけではありませんでした。しかし、われわれは出発を急ぎませんでした。準備万端ととのえて祖国に凱旋しようというのが、われわれの心づもりだったのです。準備とは何か。それは新しい国づくりの準備でした。祖国解放の戦略的課題が完遂された状況のもとで、われわれは新しい国づくりの時間表をくりあげなければならなかったのです。
一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米軍戦艦「ミズーリ」号で、日本の無条件降伏を法的に確認する国際的な調印式がおこなわれました。その日、日本政府と軍部を代表して、重光外相と梅津参謀総長が降伏文書に署名しました。重光は中国駐在日本公使の任にあったとき、烈士尹奉吉(ユンボンギル)が投げた爆弾によって片足を失いました。梅津も日本軍部の名物男でした。彼は一九三九年の秋から一九四四年の夏まで関東軍司令官を務めました。日本関東軍が存在した全期間に司令官は一〇回余りすげかえられましたが、彼は最後から二番目の司令官でした。敵が「東南部治安粛正特別工作」という仰々しい看板をかかげて、朝鮮人民革命軍にたいする大「討伐」騒ぎを起こしたのは、ほかならぬ梅津が関東軍司令官に就いていたときのことです。
多年にわたり、人類にはかり知れない不幸と苦痛をもたらした第二次世界大戦は、日本の降伏と反ファシズム勢力の勝利をもって終結しました。われわれの宿敵梅津が降伏文書に署名し、敗戦の苦杯をなめていたとき、われわれは抗日革命に勝利し、民族解放革命の新しい歴史を創造した主人公となって、帰国の準備を進めていたのです。
第二次世界大戦の終結は、共産主義思想の発祥地であるヨーロッパと植民地民族解放闘争の最前線であったアジア諸国に、民主主義にもとづいて新しい社会を建設する展望を開きました。
国内情勢も良好でした。
祖国が解放されるや、全国各地で人民委員会が組織されました。国内党組織の革命家と抗争組織のメンバーが中核となって、いたるところで党組織や大衆団体をつくりはじめました。平壌やソウルなど国内の主要都市には、内外の作家、芸術家たちが民族文化建設の新たな夢を抱いてぞくぞくと集まりました。労働者たちは武装自衛隊を組んで工場、企業所や炭鉱、鉱山、港湾、鉄道などを守りました。全民抗争の過程で発揮された人民の救国熱は、解放後、建国熱へと転換したのです。
朝鮮革命の当面の課題からしても、また最終的な目的達成の見地からしても、内外の情勢はきわめて楽観的でした。しかし、われわれはいささかも気をゆるめることができませんでした。
日本帝国主義は敗亡したとはいうものの、反革命は革命への攻撃を断念していなかったのです。日本天皇の無条件降伏宣言後も、日本軍の敗残兵は抵抗をつづけていました。一方、親日派や民族反逆者、そして搾取階級の代弁者は、裏にまわって新しい国づくりを妨害する陰謀を企てていました。革命の裏切り者と異分子、政治的野心家は正体を隠して、党組織や人民政権機関に潜入しました。
われわれは極東にいたとき、米軍が三八度線以南に進駐するというニュースを聞きました。米軍が進駐すれば、わが国には二大国の軍隊が同時に駐留することになります。戦敗国でもない朝鮮に二つの国の軍隊が駐留するのは、口実や名分のいかんにかかわりなく、好ましくないことでした。
甲午農民戦争(〔17〕)のとき、日本と清国がそれぞれわが国に出兵しました。けれども、朝鮮人民は彼らの恩恵を何一つ受けていません。両国の出兵は結局、日清戦争へとつながり、朝鮮の国土は戦乱で荒廃化しました。
ソ米両軍の駐留によって、わが国は社会主義と資本主義の対決の場と化する恐れが生じ、それを背景に朝鮮民族は左翼と右翼、愛国と売国とに分裂する危険にさらされたのです。党争がはびこり、党派と外部勢力が結託すれば、行きつくところは亡国しかありません。
このような状況のもとで、朝鮮民族の自主権を守り、新しい国づくりを進めるためには、何よりも朝鮮革命の主体的力量を全面的に強化しなければなりませんでした。
朝鮮革命の主体とは、朝鮮人民自身のことです。
わたしは革命運動の初期から、抗日革命の直接の担い手である人民を教育し、組織し、動員するために全力を傾けました。祖国解放の最後の決戦に参加した数十数百万の抗争隊伍は、一時的な感情で戦場に馳せ参じた烏合の衆ではありません。それは、われわれが何年もの歳月をかけて鍛えあげた、組織化された大衆の隊伍だったのです。
わたしは一人の革命同志を得るために、一〇里の道も遠しとしませんでした。また、人民を守るためなら、肉弾となって火の中にも飛び込んだものです。
抗日革命の全過程は、人民大衆を歴史の主体とみて彼らを意識化、組織化し、祖国解放のたたかいの第一線に立たせた愛と信頼の歴史であり、人民大衆自身が自らの血と汗によって、歴史のりっぱな主体であることを誇示した、偉大な闘争と創造の歴史です。この人民と人民革命軍の闘士たちこそ、新しい祖国の建設を担当すべき朝鮮革命の主体でした。人民の愛と支持のなかで、人民の力を信じ、人民に依拠してたたかうとき、いかにきびしい試練をも克服し、いかに困難なたたかいでも勝利するというのは、われわれが抗日革命の炎のなかで得た貴重な真理なのです。
国が解放されると、少なからぬ人は、祖国を取りもどすのが難しいのであって、いったん取りもどしてから新しい社会を建設するのはさほど難しいことではない、と言ったものです。しかし、わたしは国づくりこそ複雑にして困難な事業だと考えました。
抗日革命を朝鮮人民自身の力で遂行したように、新しい祖国の建設も朝鮮人民自身の力でやりとげなければならなかったのです。建党、建国、建軍はもとより、民族経済と民族教育、民族文化の建設、科学と技術の発展など、あらゆる分野を朝鮮人民自身の力で切り開いていこうというのがわたしの決心でした。人民を新しい祖国の建設へと奮い立たせるには、彼らを教育し、組織し、動員する革命の参謀部と政権がなければならず、新社会の建設を武力で支える軍隊がなくてはならなかったのです。わたしはこうした見解にもとづいて、一九四五年八月二〇日、訓練基地で朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議を開き、朝鮮革命の主体的力量を強化するための新たな戦略的課題として建党、建国、建軍の三大課題を示しました。
われわれはこの三大課題を実現する具体的な活動の方向と方法を討議し、必要な仕事の手配もしました。建党、建国、建軍の三大課題を遂行するための工作班を組み、派遣地も確定しました。姜健(カンゴン)、朴洛権(パクラククォン)、崔光(チエグァン)、任哲(イムチヨル)、金万益(キムマンイク)、孔正洙(コンジヨンス)らは、中国の東北地方へ派遣されることになりました。
われわれは祖国に向かう前に、数日間にわたって工作員のための講習会を開きました。そこでは、派遣先における活動の内容と方法から各地方の風習にいたるまで、多くの問題が扱われました。講義はわたしと金策(キムチエク)、安吉(アンギル)が受け持ちました。
講習会が終わると、戦友たちは早く祖国へ行こうとせきたてました。そのころは誰もがみな帰国の日を待ちのぞんで、子どものようにはしゃいでいたのです。われわれは帰国するさい、子ども連れの女子隊員はゆっくり帰国させることにして、訓練基地に残しておきました。
朝鮮人民革命軍は分散して帰国しました。それは、ソ連軍との連合作戦計画にしたがって部隊別に指定の位置を占め、戦闘行動に移ったとき、日本が突如、無条件降伏したからです。
国内各地に落下傘で降下するため訓練基地で待機していた部隊は、ハバロフスク、牡丹江、汪清、図們を経て陸路で祖国へ帰ることになっていました。ところが、事情によってその計画を取り止め、コースを変更して船で帰国することにしました。そのころ、関東軍の敗残兵が牡丹江の南にある鉄道のトンネルを爆破したのです。敵は迂回道路に通ずる橋梁や牡丹江飛行場の滑走路まで破壊していたので、われわれは自動車も汽車も飛行機も利用できないありさまでした、それでやむなく牡丹江から極東基地に引き返し、ウラジオストクから軍艦で帰国の途についたのです。
ソ連第一極東戦線軍司令部の大佐がわたしを護衛して同行しました。艦長はわたしに、普通の速力でも一昼夜なら元山(ウオンサン)に着くと言いました。
われわれがウラジオストクを出た日は、海が荒れていました。艦の両舷から山のような波が甲板をたたくのですが、その光景はじつに壮観でした。ほとんどの隊員が船に乗ったことがないので、船酔いで往生しました。一行は艦中で一夜を送りました。翌日は波がおさまりました。船べりから茫々たる大海原を眺めていると、なぜか胸がいっぱいになったのをいまもって忘れることができません。わたしのまぶたには、一三歳のときに渡った鴨緑(アムノク)江の姿がふと浮かんできました。亡国の悲しみに凍りついていたあの鴨緑江と祖国のありとあらゆる川が解放の熱気に解けて、この海と化したのではないかと思われました。肉親や親しい友、戦友を異国の土の下に残して、二〇年ぶりに帰国するわたしは、何とも形容しがたい悲喜こもごもの心境でした。
われわれが元山港に上陸したのは、一九四五年九月一九日でした。埠頭でわれわれを迎えたのは、元山市駐屯ソ連軍司令部の人たちでした。あの日、埠頭にいた朝鮮人のなかで記憶に残っているのは、当時ソ連軍将校だった韓一武(ハンイルム)です。彼が江原道党委員長を務めたのはその後のことです。
ソ連軍側がわたしの動きを秘密に付していたので、埠頭には歓迎大衆の姿が見えませんでした。
後日、許憲、洪命熹、呂運亨などわたしの凱旋を待ち構えていた国内の人士たちは、上陸のさい群衆の歓迎がなかったことを知って、なぜ事前に知らせなかったのか、そんなふうにこっそり帰ってきては、民衆の気持ちはどうなるのか、と残念がるのでした。元山市党委員会の李舟河(リジユハ)も同じようなことを言いました。許憲は、わたしの帰国の日が事前に公開されていたなら、毎日ソウル駅で待ち受けていた人たちはもとより、ソウル市民の大半が徒歩や汽車で元山に駆けつけただろう、と言うのでした。
しかし、われわれはそのような仰々しい歓迎をいささかも望んでいませんでした。抗日闘士たちは民族解放のために数千数万の日々、戦場や絞首台で流した血と苦労の報いを受けようなどとは思ってもいなかったのです。
わたしはあのとき、祖国に帰ってすぐ朝鮮人民革命軍の凱旋を公表するのでなく、黙って人民のなかへ入り、建党、建国、建軍の三大課題を遂行するための地ならしをするつもりでした。その地ならしが終わったあとで、祖国の人民に挨拶をしようと思っていたのです。
わたしは元山に到着したあと、地方の党活動家との接触を通して、早く人民のなかへ入る必要をいま一度痛感しました。
わたしは元山に上陸した日、多くの人と語らいました。元山市党の人たちとも話し、東洋(トンヤン)旅館で労働組合の代表をはじめ地方の有志たちとも会いました。なかでも李舟河とはじっくり話し合ったものです。
元山の人たちと会ってわたしが総じて受けた印象は、国内のどの党派、どの組織も人民に明確な建国路線を示していないということでした。
元山市党の一部の幹部はソビエトを夢見ていました。彼らは、朝鮮の進路の問題が話題にのぼると、即時社会主義革命をおこなうべきだと主張するのでした。彼らのそうした主張は、元山市党の建物の壁に掛けてあった「共産主義の旗のもとにプロレタリアートは団結せよ!」というスローガンにもそのまま反映されていました。
わたしはそのスローガンを見て、あなたたちは労働者階級の力だけで新しい祖国を建設するつもりなのか、と尋ねました。すると彼らは、自分たちは共産革命をめざしてたたかっているのだから、労働者階級に頼るしかないではないか、と言うのでした。
彼らの主張は、一九二〇年代の後半期にわたしがしばしば出くわした初期共産主義者たちの主張と大して変わるところがありませんでした。あれから二〇年経ち、解放された祖国でそんな主張をまた聞いたのですから、うっとうしくてなりませんでした。彼らの政見や主義主張にはなんらの進歩も認められず、時勢の新しい流れにそって動こうとする真剣な態度もみられませんでした。
わたしは元山市党の人たちに、「共産主義の旗のもとにプロレタリアートは団結せよ!」というあのスローガンは、反帝反封建民主主義革命を当面の課題としているわが国の実情には合わない、民主主義の旗のもとに団結せよと改めるべきだ、解放された祖国で人民の自由と権利が保障される民主的な社会を建設するには、労働者階級だけでなく、その同盟者である農民はもとより、新しい社会の建設に利害関係のある各階層の愛国的な大衆を統一戦線に結集し、全民族の力でわが国を富強な自主独立国家につくりあげなければならない、と説きました。
夕食の前からはじまった彼らとの対話は食後にもつづけられました。彼らがしきりに質問するので、わたしはなかなか席を立つことができませんでした。徐哲(ソチヨル)と金益鉉(キムイクヒヨン)がわたしに随行していたのですが、金益鉉がわたしに、もう一二時です、山でもしょっちゅう夜を明かしていたのに、解放された祖国に来てまで徹夜をするつもりですか、と言うのでした。わたしは、国は解放されたが、われわれはいま新たな出発点に立っていることを忘れてはならない、といましめました。
元山市党の人たちとの話し合いは、帰国後、わたしが祖国光復会一〇大綱領の精神にもとづいて国内の人たちに建国路線の輪郭を示した、祖国における最初の対話でした。わたしはその日、わが国に樹立されるべき政権形態は民主主義人民共和国でなければならないということも主張しました。
李舟河をはじめ元山市党の人たちや元山市の有志たちと会ってみて、わたしは、八・一五の解放後ただちに建党、建国、建軍の三大課題を内容とする新しい朝鮮建設の里程標を作成し、そのうえで帰国の途につき、祖国に着くとその足でそれぞれ指定の派遣地へ向かうことを決心したことがまったく正しかったことを改めて確認しました。
わたしは元山に到着するとただちに、咸鏡南北道で活動することになる工作班の一部を北行き列車に乗せて送り出したのです。同じ日、鉄原(チヨルウオン)方面を担当した工作員たちも南行き列車に乗って派遣地へ向かいました。
人間の体験することのできる最悪の苦しみと逆境のなかで、革命に青春をささげながらも、まったく休息をとることができなかった戦友たちに、一日の休みも与えず、早く発つようにと促すほかなかったのですから、わたしの心も軽くありませんでした。まして、われわれが元山港に上陸した日は中秋の前日でした。元山で中秋をすごし、疲れをいやしてから戦友たちを送りたいという思いが胸をよぎりましたが、緊張した国内の情勢を知って、そんな未練を払いのけたのです。咸鏡南北道へ向かう工作班は、列車の中で中秋を迎えました。車内は墓参りに行く人たちで超満員だったそうです。
派遣員のなかには金策や安吉もいたし、崔春国(チエチユングク)、柳京守(リユギヨンス)、趙政哲(チヨジヨンチヨル)もいました。彼らはわたしと別れるのをたいへん残念がりました。
わたしも寂しい思いをしました。抗日戦争で重傷を負った崔春国と趙政哲が肩を組んで不自由な足を引き引きデッキに立ち、わたしに手を振るのを見ると、胸中が穏やかでありませんでした。麻酔もせずに手術を受けたその足で、彼らはどんなに多くの戦場といばらの道を切り抜けてきたことでしょう。
崔春国と趙政哲は解放された祖国で戦傷者の待遇を受けながら、何年間か抗日の戦場で積もった疲れをいやして然るべき人たちでした。しかし、彼らはその疲れをいやすいとまもなく、笑顔で北方の派遣地へ向かったのです。
前途には、富強な自主独立国の建設という未踏の高峰が幾重にもそびえていました。それらの峰を越えるには、さらに多くの血と汗を流さなければならないのです。抗日大戦も前人未踏の戦いでしたが、新しい祖国の建設も道なき道を進むたたかいだったのです。それが道なき道、無数の困難と試練が横たわるいばらの道でなかったなら、そんなにまで急ぎはしなかったでしょう。
わたしは出発を前にした金策に、暇をみて必ず郷里を訪れるよう念を押しました。崔春国と柳京守、趙政哲、李乙雪(リウルソル)にもそう言いました。彼らの故郷はみな咸鏡南北道だったのです。
しかし、派遣地から平壌に呼び戻されるまで、誰一人として郷里を訪ねた人はいませんでした。故郷への慕情が冷めたからではありません。高度の使命感と責任感がそれを許さなかったのです。みなさんは、わたしが降仙(カンソン)製鋼所へ行くとき生家にも立ち寄らなかったと、『万景台の分かれ道』という歌を作ってうたっていますが、実際のところ抗日革命闘士は凱旋後、一人として故郷を訪れず、建党、建国、建軍の地ならしをしました。司令官の命令、指示を遂行するまでは、故郷に帰る権利がないというのが、彼らの思考方式だったのです。
このように、われわれは祖国の地を踏んだその日から、人民のなかへ入っていきました。抗日闘士たちは白頭山で履いた靴のひもをほどくいとまもなく、新たなたたかいの場へと向かったのです。彼らは一様に、その派遣地を一つの作戦地域と考えていたのでした。われわれの祖国凱旋は、凱旋というよりも、新たな革命の大路を開くための戦略的移動であったと言うべきでしょう。
一九四五年九月二〇日、わたしは西海岸地区へ赴く戦友たちと一緒に、平壌行きの列車で元山を後にしました。浮来山(プレサン)駅では、汽車で平壌から来た北朝鮮駐屯ソ連軍司令部の代表に迎えられました。彼は、祖国凱旋を熱烈に祝賀すると言って、わたしの手をかたく握りしめました。
われわれ一行は、九月二二日の午前に平壌に到着しました。
訓練基地に残っていた女子隊員たちは、その年の一一月末ごろ、咸鏡北道の先鋒(ソンボン)を経由して帰国しました。金正淑は清津に着くとすぐ、電話でわたしにそれを知らせました。彼女ら一行は安吉、崔春国、朴永純(パクヨンスン)など清津派遣班の助力を受けながら、建党、建国、建軍の三大課題のための大衆工作に努めました。
清津に滞留中、金正淑は清津製鉄所、古茂山(コムサン)セメント工場、富寧(プリヨン)冶金工場をはじめ多くの工場、企業所、教育・文化機関などを見て回り、各階層大衆の政治工作にもあたりました。彼女が会った人たちのなかには、労働者、農民、事務員、家庭の主婦、そして党と政権機関、勤労者団体の責任幹部は言うまでもなく、中学生もいました。
清津市民は金正淑を熱烈に歓迎したそうです。『セギル新聞』は第一面に「金女史の半生」という見出しで、彼女の革命活動を大きく報じたものです。
北方都市で多くのことを体験した彼女は、平壌に来てからも清津のことばかり話していました。彼女は、中学生たちと写真を撮ったことや、自分たち一行に昼食をもてなしてくれた羅津そば屋の人たちの温かい心づかいなどについて、よく話したものです。幼い金正日も女子隊員たちと一緒に祖国に帰りました。
わたしも平壌入りした翌日から戦友たちとともに、建党、建国、建軍の三大課題の遂行に取り組みました。八・一五の解放後、わたしがもっとも多忙な日々を送ったのはそのころです。
凱旋後の活動でも基本は対人活動、人民大衆との活動でした。一方では、工場や農村、住民地区で人民に会い、他方では、事務室や宿所で白頭山時代のように戦友たちと寝食をともにしながら、内外から訪ねてくる各階層の人たちと会って国事を論じました。
戦友たちはわたしに会うたびに、まず帰郷して祖父母に挨拶するのが道義ではないかと言いました。いくら勧めてもわたしが言うことを聞こうとしないので、林春秋(リムチユンチユ)はわたしに内緒で万景台(マンギヨンデ)を訪れ、行きずりの旅人をよそおって家族の安否をうかがってきました。そのおかげで、わたしは故郷の一家のことを詳しく知ることができました。
九月末ごろ、どうして分かったのか、わたしが平壌に来ているという噂が市内に広がりました。噂を聞いて、叔父の金亨禄(キムヒヨンロク)が平安南道党を訪ね、わたしに会わせてほしいと懇請しました。林春秋は叔父に、甥(おい)の特徴を話してくれと言いました。叔父は、「甥の本名は金成柱(キムソンジユ)です。万景台ですごした子どものころはツンソニとも呼ばれました。笑うと、えくぼができたものです」と答えました。
その日の夕方、林春秋はわたしの宿所へ叔父を案内してきました。叔父はわたしを見ると、「たいへんな苦労をしたろうな」と言ったきり、涙にむせびました。異境の空の下にさびしく眠る肉親と、二〇年の歳月、雨風にさらされ、心を痛めてきたすぎし日々を思い起こして、胸がつまったのでしょう。叔父のなめた苦労もまたいかばかりであったでしょう。
「成柱が国を取りもどして帰ってくるまで、わしは家事に追われて、兄さんや義姉さんの墓にも行けなかった。うちの家族はどうしてこうも寿命が短いのだろう」
叔父はこう言ってわたしの顔をまじまじと見つめました。そして、あんなにきれいだった顔がどうしてこんなに荒れてしまったのか、白頭山の風のひどさは聞きしにまさるようだ、と顔を曇らせるのでした。
しかし、顔の荒れ様は叔父の方がひどかったのです。二〇年前より倍も老けてみえる叔父の姿に、わたしも涙を抑えることができませんでした。どうしてこんなにしわが増えたのか、この無数のしわの一本一本にどれほど多くの人生の苦労が刻まれているのだろうか、という思いがしました。
「白頭山が近くにあったら、わらじでもつくって成柱の軍隊に送れたものを、二〇年もの間、わしは何一つしてやれなかった」
叔父のこの言葉に、わたしはこう言って慰めました。
「叔父さんは家を守ってくれたではありませんか」
その日、わたしは叔父と夜もすがら昔語りをしました。そして翌日、万景台に帰しました。そのさい、わたしに会ったことを誰にも話さないでほしいと言うと、叔父は分かったと答えました。ところが万景台に帰ると、祖父に成柱が平壌に来ているとそっと耳打ちしたのです。祖父は「そりゃそうだろう。たとえ白頭山が変わっても、うちの成柱が変わるはずがなかろうて。いま巷では『全羅道の金日成』だの『咸鏡道の金日成』だのと騒いでいるが、朝鮮にそんなに大勢金日成がいてたまるもんか」と言ったそうです。
わたしは一〇月九日に降仙製鋼所を視察し、翌日党を創立したのち、一〇月一四日に平壌市民の歓迎大会ではじめて祖国の人民に挨拶をしました。
実のところわたしは、歓迎市民大会といった大げさな場で人民にまみえる気など毛頭ありませんでした。ところが、国内の人士や戦友たちが盛大な歓迎集会を主張して譲らなかったのです。
わたしがある日の会合で金栄煥(キムヨンファン)という仮名を使わずにはじめて本名を名乗ったとき、誰かが演壇に立ち、金日成将軍の祖国凱旋を歓迎する全民族的な集会を開こうと提案しました。参会者はこぞって熱烈な賛意を表しました。そのころすでに、平安南道党と平安南道人民政治委員会が共同でわたしを歓迎する行事の準備を内々に進めていたのです。大会の前日には、牡丹峰のふもとの公設運動場に松葉のアーチや仮設舞台まで設けられました。
わたしはあらかじめ金溶範(キムヨンボム)に、仰々しい行事などしないようにと言いつけました。しかし、平安南道党の人たちは聞き入れませんでした。彼らは市内の大通りや路地に、金日成将軍が平壌入りし、一四日、公設運動場で人民に挨拶をするというビラまで貼り出したのです。
一九四五年一〇月一四日正午前、会場の平壌公設運動場へ向かうため車で大通りに出たわたしは、広場や道路にあふれる人波を見てびっくりしました。大会場はすでに黒山の人だかりでした。場外の木々にも大勢の人が登っていたし、最勝(チエスン)台や乙密(ウルミル)台の方も群衆で埋め尽くされていました。会場の内外にみちあふれる歓迎の熱気に包まれ、わたしは群衆が歓声をあげるたびに手を振って答礼しました。
この市民大会にはソ連第二五集団軍司令官チスチャコフ大将やレベゼフ少将も列席しました。
その日、多くの人が演説をしました。曹晩植(チヨマンシク)も演壇に立ちました。彼の演説のなかで、聴衆を笑わせた一こまが思い出されます。彼は調子づいて、朝鮮が解放されたと聞いて夢ではなかろうかと、この腕をこんなふうにつねってみたところ確かに痛かったです、と手真似をしながら話したものです。
わたしが演壇に立つと、「朝鮮独立万歳!」を叫ぶ群衆の歓声は最高潮に達しました。
歓呼の声を耳にした瞬間、二〇年間積もり積もった心身の疲れが一挙に吹き飛ばされるようでした。民衆の歓呼の声は熱風となって、わたしの身に、そして心に強く迫りました。
一〇余万群衆の燃え上がる熱気と歓呼を一身に受けながら壇上に立ったとき、わたしを包んだのは、いかなる美辞麗句をもってしても形容することのできない幸福感でした。生涯でもっとも幸福なときはいつだったかと聞かれたら、わたしは、まさにあのときだったと答えるでしょう。それは、民衆の子として民衆のためにたたかったという幸福感、民衆がわたしを愛し信頼していると感じるところからくる幸福感、その民衆の懐にいだかれているという幸福感にほかなりません。
一九四五年一〇月一四日、平壌公設運動場にあがった民衆の歓呼の声は、祖国と同胞のためにわたしがなめた半生の艱難辛苦への表彰であり、謝礼であったといえます。わたしはその謝礼を、わたしにたいする人民の愛と信頼として受けとめました。わたしがつねづね言っていることですが、この世に人民の愛と支持を得ること以上の幸福はありません。
人民の愛、人民の支持―― わたしはいままでこれを革命家の存在価値と幸福をはかる絶対的な基準としてきました。人民の愛と支持を抜きにして革命家に何が残るでしょうか。残るものは何もありません。
ブルジョア政治家は金で人民を引きつけますが、われわれは血と汗によって人民の信頼を得ました。わたしは人民が示した信頼に感激し、それをわたしが享受しうる一世一代の幸福と受けとめました。
その日のわたしの演説の骨子は、民族の大団結でした。わたしは、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で愛国事業に貢献しよう、全民族が一致団結してこの地に富強な自主独立国家を建設しよう、と呼びかけました。群衆は天地をゆるがす拍手と歓呼で支持賛同を示しました。

当時の新聞『平壌民報』は、一〇月一四日の平壌公設運動場での光景を「錦繡江山を揺さぶった四〇万の歓声」という見出しでつぎのように伝えている。
「四,〇〇〇年の歴史を誇る平壌、四〇万の人口を擁する平壌とはいえ、かつてこれほど多くの人が集まった例があるだろうか。これほど意義深い集会をもった例があるだろうか。…
…とくに大会を歴史的に意義あらしめ、会衆を感動させたのは、朝鮮の偉大な愛国者、平壌の生んだ英雄金日成将軍がここに臨席し、民衆に喜ばしくも熱烈な挨拶と激励を送ったことである。…朝鮮同胞がもっとも敬慕し待望していた英雄金日成将軍がそのりりしい勇姿をあらわすと、場内には熱狂的な歓声が沸きあがり、会衆は歓喜のあまり感涙にむせんだ。…群衆に与えた感動は鋼鉄のようで、山野を震わす歓声のうちに、『この人とともにたたかい、ともに死のう』という人びとの決意は見る見る高まった」

当日の市民大会は、朝鮮人民が新しい国づくりの壮途につく行軍の第一歩だったといえます。
わたしはその日、会場で叔母の玄養信(ヒヨンヤンシン)と外叔父の康用錫(カンヨンソク)とも会いました。大会が終わり、幹部壇からおりて叔母に会ったときのことを思うと、いまでも目頭が熱くなります。身動きすらままならぬあの人ごみをどうかきわけてきたのか、叔母はわたしの乗用車の中で涙を流していました。幹部壇へとしゃにむに進む叔母を朱道逸(チユドイル)が引きとめて車に乗せたということでした。
叔母はわたしの手を握りしめ、「成柱、何年ぶりか」と言って喉をつまらせました。
「叔母さん、大所帯のきりもりで、さぞかし苦労なさったことでしょう」と、わたしは手短に挨拶をしました。
「苦労は山で戦った成柱のほうがよっぽどひどかったろうに、年中あったかいオンドル部屋ですごしたわたしらに何の苦労があったと言うんだ。わたしはここへ来ながらも内心心配したものだよ。うちの人は成柱が帰ったと言ってたけど、成柱じゃなくて『全羅道の金日成』だったらどうしようかとね。ところが演壇を見上げたら間違いなく成柱じゃないか。どんなにうれしかったことか」
叔母はこう言って、また涙を流すのでした。
その光景を見て、戦友たちもみな涙をこぼしました。
「叔母さん、平壌中が笑いさざめき、踊りをおどっているというのに、こんなうれしい日にどうして泣いてばかりいるんですか」
「成柱を見ていると、義姉さんや義兄さんのことが思い出されてね。こんな日に、義姉さんや義兄さんが生きていて、成柱の演説を聞いたらどんなに喜んだことか」
「叔母さん、きょうは叔母さんがわたしの母代わりです」
こう言うと、叔母はわたしの胸に顔をうずめて号泣しました。
わたしは、叔母がわたしの母を思って泣いているということがよく分かりました。母と叔母は実の姉妹よりも仲がよかったのです。叔母がわたしの家に嫁入りしたのは一五歳のときだそうです。わが家の暮らしがあまりにも貧しかったので、はじめのうちは家の人たちとよくなじめませんでした。それをわたしの母にいたわられて、しだいに家族になじむようになったのです。
母は生前、叔母にたいへんやさしくしてやったものです。母と叔母は野良仕事のときもいつも一緒でした。畑の草取りの合間には、寝不足で疲れきっている叔母を少しでも眠らせようと、母は自分の膝を枕にしてあげました。そして、寝入った叔母の髪をそっとといてやるのでした。このように母のあたたかい心づかいを受けながら嫁入り暮らしをはじめたのですから、母を忘れることができなかったのでしょう。叔母は、母が他界したとき、安図へ行って焼香一つできなかったことを非常に心苦しく思っていました。
叔母は、自分のようなつまらない人間が一〇〇人集まっても、義姉さんの代わりはできない、だけど、今日は義姉さんの魂が飛んできて、この運動場にいるみたいだと言って、袖で目じりを押さえるのでした。そして、泣いては笑い、笑っては泣きながら、亨禄叔父と大喧嘩をした話をしました。叔母は、腹黒いあの人はわたしに内緒で城内へ行ってお前に会って来たんだよ、なのにずっと知らぬふりをしていて、昨日はじめてその話をするじゃないの、それでひとしきり文句を言ってやったのさ、金日成があんた一人の甥で、わたしの甥じゃないって言うのかい、と言ってやったら、ひじは内側に曲がるもので外側には曲がらないもんだ、なんて突拍子もないことを言い出して、大喧嘩になったのよ、とひとしきり話すのでした。
その日の午後、わたしは叔父、叔母と一緒に万景台へ向かいました。一行は現在の道路を行かずに、順和(スンファ)江の渡しで車を降り、そこから舟で故郷の村へ行ったのです。岸のぬかるみには、昔と変わらず渡し舟まで歩いて行けるように飛び石が並べてありました。わたしが子どものころズボンをまくりあげてモクズガニ捕りをしたところです。
あの日、故郷の村に足を踏み入れたとき、わたしを迎えてくれたきぬたの音と万景峰の若松の芳香はいまでも忘れられません。あのきぬたの音がなぜそんなにも潤いがあり、あの若松の芳香がなぜそんなにもすがすがしかったのか、いまもって分かりません。カルメジ原のほうから長く尾を引いて聞こえてくる牛の鳴き声に耳をすまし、久方ぶりに味わう情趣に胸が締めつけられる思いをしたものです。
獄中の父を思って寝つかれなかったあの幼年時代が昨日のことのように思われるのに、いつしか三三歳になっていたのですから、いにしえの人たちがどうして無情な歳月の流れを、一寸の光陰にたとえないわけがありましょうか。
亡国四〇年目にして祖国を取りもどし、離郷二〇年目にして故郷に帰ったのだから、わたしは、その祖国と故郷のためにあまりにも長い歳月をささげたのでは、という思いがしました。
亡国は一瞬であり、復国は一,〇〇〇年だというのが、抗日革命二〇年の行程を歩みながら、わたしが得た一つの重要な教訓でした。失うのはたやすいが、取りもどすのは難しいのがすなわち祖国だという意味です。一瞬にして失った祖国を取りもどすために数十年、数百年の苦労を強いられるというのが、現世のきびしい掟(おきて)なのです。
インドが英国の植民地となり、二〇〇余年ぶりに独立したということは周知の事実です。フィリピンとインドネシアは三〇〇余年、アルジェリアは一三〇余年、スリランカは一五〇余年、べトナムは一〇〇年近くにして、それぞれ国の独立を果たしたのですから、亡国の代価はなんと高いものでしょうか。だからこそ、わたしはいまも折に触れ若い人たちに、祖国を失えば生きていても屍(しかばね)に等しい、亡国の民になりたくなかったら国をしっかり守れ、亡国の悲しみに痛哭する前に、祖国をいっそう富強にし、石くれ一つでももっと拾って城塞を高く築け、と言い聞かせているのです。
故郷に帰ったその日の風景のうちでいまだに忘れられないのは、股裂けズボンをはいた二、三歳の男の子が、道端でわれわれ一行に向かって手を振っていた姿です。その平凡な光景がなぜか、わたしの胸を熱くしたのでした。美しい故郷、その平和な世界で無邪気に、のんびりと手を振る子どもの姿は、明らかに新朝鮮のシンボルだと思われました。
叔母のあとに従って生家の庭に足を踏み入れたときは、胸が高鳴りました。二〇年前は広場のように思えた庭が、そのときは手のひらほどにしか見えませんでした。しかし、ここが二〇年にわたる苦難にみちた行軍の終着点だと考えると、洋々たる大河を渡って岸にあがったような心地でした。
見慣れた生家の軒を目にすると、幼いころ子守歌をうたい、凍えた手を息で温めてくれた父と母、春に散る花のように地中に埋もれたその父と母が、昔の面影そのままに生き返り、「成柱!」と呼びながら走ってきてわたしを抱きしめてくれるのではという幻覚にとらわれて、わたしは足を踏み出すことができませんでした。
ポソン(朝鮮の足袋)のまま庭に走り出てきた祖父は、わたしを抱きしめ、「帰ってきたのか…よく顔を見せてくれ、顔を」と、涙にくれるのでした。祖母も、「父さんと母さんはどこへ残してお前一人で帰ってきたのだい…どうして一緒に帰ってこなかったのかい」と声をあげて泣くのでした。
わたしは、祖父と祖母に平壌から持参した酒をすすめながら、こう言いました。
「おじいさん、おばあさん。三〇を越すこの年まで孝行を尽くすことができず、申し訳ありません」
「そんなことを言うもんじゃない。お前の父さんが果たせなかった朝鮮独立をお前がやりとげたのだから、それが孝行というもんじゃ。それにまさる孝行がどこにある。国と民に尽くすことが孝行なんじゃ」
祖父はこう言って、一息に杯をほしました。そして微笑をたたえ、きょうは酒がほんとうにうまい、と言うのでした。けれどもその手はかすかに震えていました。その日は、祖母も気軽に杯を傾けました。
しかしわたしは、祖父母に孝行を尽くせなかったという申し訳ない気持ちをぬぐい去ることができませんでした。祖父母にあまりにも心配をかけとおしたという思いが頭にこびりついて離れなかったのです。国と民に尽くすのが孝行だと言った祖父の言葉をありがたく受けとめるほかありませんでした。
その日、南(ナム)里の人たちはみなわが家に集まりました。わたしが帰郷したと知って、斗団(トウダン)里や楸子(チユジヤ)島からも人びとが連れ立ってやってきました。わたしの幼友達も飲食物を携えてぞくぞくと集まってきました。
ささやかな家族宴は、数十人を数える大宴会に変わりました。大勢の人がわたしを歓迎して踊り、歌いました。曽祖父の金膺禹(キムウンウ)の代からいろいろとわが家の世話になった崔(チエ)老人も、「クンニリ節」に合わせて踊りをおどったものです。叔母は、わたしの父がつくった子守歌をうたいました。
その夜、わたしは二〇年ぶりに故郷のわが家で休みました。そのとき、わが家はオンドルの修理中で、戸も外されたままでした。まだ乾ききらない床にはわらが敷かれ、その上にござむしろが置かれていました。
祖父は、近所の家の離れに宿を取っておいたから、今夜は窮屈でもそこで泊まるようにと言いました。わたしは祖父に、わたしたちは山でぜいたくに暮らしていたのではありません、雨露に濡れながら野宿をしたものです、空を屋根に、草木をふとんにして生きてきたのです、こんなにすばらしいわが家に帰りながら、どうして人の家に厄介にならなければならないのですか、わたしはここで寝ます、と言いました。
祖父は満面に笑みをたたえ、お前がそうしたいのなら、その家には断りを出そう、二〇年ぶりに帰ったわが家だ、人の家に厄介になるなんて確かに気づまりだ、と言うのでした。
祖母はござむしろの上に、わが家に代々伝わる木綿の布団を敷いてくれました。布団の皮は、祖母が織った木綿の布でつくったものでした。
深夜、祖母はわたしの枕の下に腕を差し入れて、そっと聞くのでした。
「山で嫁をもらったんだって? 嫁も山にいたのかい」
「はい、わたしと一緒にパルチザン闘争をした人です」
「子どもはお前に似ているのかい」
「似ていると言われています」
「それはよかった」
祖母はほかにもいろいろと尋ねました。わたしは祖母の腕が痛むのが心配で、おばあさん、わたしの頭が重くありませんか、と聞きました。祖母は、なにが重いもんかねと言いながら、もっと深く腕を差し込むのでした。三〇を越える孫がかわいくて、幼年時代にそうしたように、腕を枕にしてくれる祖母の愛情がわたしの胸を熱くしました。
「国が解放されたのだから、満州にある父さんと母さんの墓も移してこなくては」
これは、その晩、祖母が最後に切り出した話でした。祖母としては当然気になる問題だったのです。他郷の土の下に眠るわが子たちの骨を郷里に移して葬りたいと願う、その気持ちを理解できないわけがありましょうか。
「おばあさん、墓を移すのも大事ですが、わたしにはそれより先に捜さなければならない恩人がいます。姻浦(ヨンポ)里の居酒屋でお父さんを救ってくれた黄(ファン)さんと、カドク嶺の全州(チヨンジユ)の金(キム)老人、傷寒にかかったわたしを死境から救い出してくれた趙(チョ)老人たちを捜したいのです。その方たちを捜したあとで、墓を移すつもりです」
「よく言った。そうしたら陽地村に眠る父さんも喜ぶだろうよ」
わたしは祖母に、吉林時代と間島時代、そして白頭山時代にわたしを助けてくれた恩人や戦友、知人のことを夜通し話しました。また、異国の山野や他郷の名も知れぬ丘で寂しく眠っている父や母、叔父の金亨権や弟の哲柱のことがしのばれて、涙にぬれました。すると祖母も声を殺してむせび泣くのでした。
祖母は嗚咽(おえつ)をこらえてわたしの腕をさすり、こう慰めてくれました。
「父さんと母さんは亡くなったけど、その代わり正淑を家に迎えたじゃないか。それに正日が生まれて、わが家の代を継ぐことになったしね」
わたしは白頭の山々や満州の雪原における戦いの跡を静かに振り返り、わたしとともに祖国に帰れなかった戦友たちの面影をしのび、恩人たちのことを思い、幼年時代を追憶し、そしてわれわれが建設する新しい祖国の未来をまぶたに描きました。
解放された祖国で二〇年ぶりに味わう万景台の夜、その夜はまさしく平和な夜でした。世界大戦が終わり、祖国が解放されてから満二か月、しかし、三,〇〇〇万の朝鮮民族は、なおも解放の喜びにひたっていました。
しかるに、その三,〇〇〇万のなかで、祖国の解放がそのまま国土の分断と民族の分裂を生み、それが半世紀になんなんとする大国難につながるものと予測した人がはたしていたでしょうか。