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偉大な領袖金日成同志の回顧録

目 次

第一九章 試練の丘を越えて

一 馬塘溝密営
二 イタチ捕りの老人
三 独立軍最後の部隊
四 王村長と王署長
五 熱河遠征
六 楊靖宇との出会い
七 祖母 李宝益
八 南牌子の森林で

第二〇章 革命の新たな高揚に向けて

一 苦難の行軍
二 青峰の教訓
三 塩事件
四 大紅湍戦闘
五 玉石洞での端午の祝い
六 女性闘士たちの革命的節操



第二一章 大部隊旋回作戦の銃声

一 密営に訪ねてきた女性
二 中国人地主 劉通事
三 数十万の「大討伐軍」と対決して
四 呉仲洽と第七連隊
五 平安道の人
六 「ソ連を武力で擁護しよう!」


一 馬塘溝密営

中国東北地方にある靖宇県の旧称は濛江県である。この県には牌子と呼ばれる広大な樹海が広がっているが、その東側の牌子(東牌子)の密林に馬塘溝という地がある。朝鮮人民革命軍の主力部隊はここで、一九三七年一一月下旬から翌年の三月下旬まで、およそ四か月にわたる集中的な冬期軍事・政治学習をおこなった。金日成同志は生前、青少年学生や幹部、軍人の学習問題が論題となるたびに、抗日革命期の学習経験をしばしば述懐した。ここに紹介する回想談は、抗日革命闘争史の研究者たちに話した内容の一部である。

一九三七年の冬は、濛江県馬塘溝密営で部隊内の全将兵が軍事・政治学習に力をそそぎました。およそ四、五か月はじっくり学習したと思います。その年の春に東崗密営でも一か月余り集中学習をしたというのに、そのうえまたなんの集中学習なのかと、みなさんは奇異に感じるかもしれませんが、そう考える必要はありません。朝鮮人民革命軍は単なる軍事集団ではなく、政治と軍事をともに重視する革命軍です。文武を兼備してこそ武装闘争はもちろん、人民との活動や統一戦線活動、敵軍切り崩し工作などもそつなく進めることができるのです。われわれが隊員の教育に大きな力をそそいだのはそのためです。軍人育成の強力な手段は学習です。
みなさんも承知のとおり、われわれは早くから、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという観点に立ち、革命の勝敗を左右する決定的な要因は思想・意識にあるとみなしてきました。人間がすべてを決定するというのは結局、人間の思想・意識と知的能力がすべてを決定するということです。人間の思想・意識と知的能力は学習を通じてたえず高めなければなりません。
われわれが一年に二回も集中的な軍事・政治学習をすることになったのは、それなりの必要に迫られてのことでもありました。当時は、日本が東洋全域を席巻するものと考えて、少なからぬ人が気を落としはじめていたときでした。日本軍は中日戦争を起こして以来、中国関内の広大な領土を難なく占領しました。こうなると、人びとは動揺しはじめました。以前は国を取りもどそうと多少たたかった人たちも裏部屋にひっこんで「憂国の士」をきめこんだり、生きのびる策を講じるのに余念がありませんでした。革命軍の隊伍内にも、部分的な現象とはいえ動揺分子があらわれるようになりました。そういう状況にあって、隊員の思想教育と軍事教育に力を入れなければ、主体的革命勢力の強化はおろか、朝鮮革命の自主路線をあくまで押し通すこともできませんでした。
コミンテルンの看板のもとに徘徊するさまざまな路線がまねいた混乱もまた容易ならぬ問題でした。当時、コミンテルンに座を占めていた極左冒険主義者は、実情を無視した熱河遠征路線を押しつけ、朝中両国の革命に甚大な被害をもたらしていました。
共産主義に共鳴する人びとのあいだには、朝鮮共産党発起人グループによって作成されたという「朝鮮共産党行動綱領」なるものと、コミンテルン第七回大会での金(キム)某の演説文が配布され、それが結構人気を博していました。朝鮮共産党の解散後、正しい指導路線を求めて右往左往していた朝鮮の共産主義者が、「朝鮮共産党行動綱領」やコミンテルン大会の演説からなんらかの示唆を受けようと努力したのは理解できることです。コミンテルン大会の演壇や機関誌に朝鮮人の声が反映されたのも、もちろん喜ばしいことでした。しかし遺憾ながら、朝鮮共産党発起人グループの「朝鮮共産党行動綱領」やコミンテルン大会の演説には、朝鮮革命の実情に合わない事柄が少なくありませんでした。
われわれはすでに卡倫会議で、朝鮮革命の性格はブルジョア民主主義革命ではなく反帝反封建民主主義革命であることを定義づけ、遊撃区で人民革命政府路線を実践に移した経験をもっていました。それで、わたしはまず、人民革命軍の指揮官と隊員に朝鮮革命の自主路線についての知識をしっかり植えつける必要があると考えるようになりました。わたしが『朝鮮共産主義者の任務』という論文を書き、それを教材にして集中的な政治学習をおこなった理由の一つはここにあったのです。わたしはこの論文で、朝鮮革命の性格と当面の任務をあらためて述べ、朝鮮革命を自主的に遂行するための朝鮮共産主義者の課題を提示しました。わたしは新入隊員を政治的、軍事的に鍛えるためにも、いま一度軍事・政治学習をおこなうべきだと考えたのです。
敵の支配拠点から遠く離れている馬塘溝は、革命軍が軍事・政治学習をしながらひと冬をすごすには格好の場所でした。馬塘溝に到着した日、先発隊員たちの手製のストーブでジャガイモを焼いて食べたことが忘れられません。濛江地方も撫松や安図に劣らずジャガイモがよくできるところです。なかには木枕ほどもあって、パガジ(ヒサゴの容器)に一つしか入らないくらいのものもあり、味も結構なものでした。
われわれはまず軍事・政治幹部会議を開き、冬のあいだに各兵士、指揮官の到達すべき学習目標を定めたのち、部隊別、組織別、学習班別の会議で、学習に励む決意をかためさせました。「学習も戦闘だ!」「革命家にとって学習は第一の義務である」などの標語は、当時われわれが軍事・政治学習をはじめるときに示したものです。わたしはその標語を大きく書いて兵舎ごとにかかげさせました。遊撃隊には正規の教育を受けた人がわずかしかいませんでした。馬(マ)東(ドン)熙(ヒ)、崔(チェ)景(ギョン)和(ファ)、金(キム)永(ヨン)国(グク)、姜(カン)燉(ドン)といった人たちは比較的有識で「大学生」というあだなで呼ばれていましたが、その学歴というのも小卒、中卒程度でした。いずれも貧しい家庭の出身だったので、勉強したくてもできなかったのです。学歴からすれば医学専門学校を卒業した徐(ソ)哲(チョル)がいちばん高いほうでしたが、彼も金があって専門学校を出たのではありません。じつに頑張りやでひたむきなところがあったので、苦学して専門学校を出ることができたのです。われわれの部隊には朴(パク)素(ソ)心(シム)や車(チャ)光(グァン)秀(ス)、「パイプじいさん」ほどに博学多識の人は多くいませんでした。
馬塘溝で軍事・政治学習をはじめた当初、新入隊員のなかには軍事訓練に参加するだけで政治学習にはよく参加しようとしない人がいました。その代表的人物ともいえるのが朴(パク)昌(チャン)順(スン)でした。彼は自分の名前すら書けない非識字者でした。それでいて、それを全然恥とも思っていませんでした。彼は、読み書きはできなくても戦闘では他にひけをとらないと大口をたたいていました。そんな具合なので、学習時間に欠席するのは日常茶飯事でした。なぜ学習に抜けるのかと問うと、頭の中が真っ暗でとても読み書きは覚えられそうにない、むしろその時間に射撃の練習に励んで日本軍を多く撃ち倒したほうがましだと思う、と答えるのでした。
ある日、朴昌順を呼んで語り合ったとき、前に見えるイタヤカエデの木を指して、あの木は何に使えるだろうかと聞きました。彼は斧の柄にすればよさそうだと答えました。今度は、子牛を育てて役牛にするにはどうしたらよいかと違った質問をすると、鼻輪を通さなければならないと即答しました。農夫だった彼は、そういうことにかけては精通していました。それで彼に、解答は申し分ない、農業を営んだことのあるきみだからこそそういう答えができたのであって、そうでなかったらそういう道理はわからないはずだ、革命活動でもそういう道理がものをいう、何がどこに必要でどうしなければならないかをよく知る人であってこそ革命に役立つことがてきる、知らずにはイタヤカエデの木を見てもそれがりっぱな斧の柄になることはわからない、理屈は同じで敵を多く倒す妙策を知らぬ人にはそれができない、銃だけでは敵を打ち負かすことができない、きみがどうしても勉強はできないというなら、家に帰すことにする、学習は苦手だという人に、どうして困難な革命ができるというのか、銃を納めて帰郷し農業にたずさわれるようにしてやるしかない、どの道を選ぶか、と問いました。すると彼は、とんでもないことだとひどく嘆き悲しみました。革命に身を投ずる覚悟でわれわれを訪ねてきた朴昌順であっただけに、学習をいやがって帰るはずはありませんでした。それ以来、彼は気をひきしめて学習に取り組むようになりました。
新入隊員のなかには、頭のせいにして学習を怠る人がもう一人いました。権(クォン)某という人で、戦友から熱心に学習するよう忠告されても耳を貸さず、どこから聞きこんだのか、洪(ホン)範(ボム)図(ド)将軍も自分のような無学だったが、独立軍の隊長を務めてりっぱに戦ったではないか、読み書きができなくては革命活動ができないなんてとんでもない話だと反ばくするありさまでした。彼の学習嫌いには朴昌順も顔負けするほどでした。彼のわがまま放題のふるまいにさんざん手を焼いた管轄の中隊長と政治指導員もとうとう音をあげてわたしに助けを求めてきました。わたしはその新入隊員宛に手紙を書いて伝令に渡しました。そして誰もその手紙を読んでやらぬよう、前もって各中隊に釘を刺しておきました。伝令からわたしの手紙を受け取った新入隊員はあわてました。平隊員の自分が司令官の手紙を受け取ったのに、そこに何が書かれているのかわからないのですから、すわ一大事というわけです。彼は同友を訪ねまわって手紙を読んでくれるよう頼みましたが、行く先々で体よく断られました。やきもきした彼は、この小隊からあの小隊へ、あの中隊からこの中隊へと走りまわって手紙を読んでくれるよう哀願しましたが、誰一人その手紙を読んでくれませんでした。ですから彼がどんなに狼(ろう)狽(ばい)したかは推して知るべしです。彼は仕方なくわたしのところに来て、手紙に書かれていることを教えてほしいと懇願しました。わたしはそれを読んでやりました。手紙には、何を何時までに終えて司令部に直接報告せよという緊急指示が記されていました。ところが、彼が手紙を持って来たときはすでに指定の時間がだいぶ過ぎていました。司令官から与えられた任務を実行できなかった彼は、うなだれて脂汗を流しました。わたしは、どうだ、無学のため司令官の命令も実行できなかった、きみが敵地で工作中にわたしから手紙で何か命令を受けたと考えてみたまえ、そんなときどういうことになるだろうか、と言いました。彼は泣き顔になって自ら非を認めました。それ以来、熱心に学習するようになった彼は、後日りっぱな軍事・政治幹部に成長しました。
話のついでに、読み書きのできなかった人が学習に励んで闘士に育った話をもう一つすることにしましょう。汪清時代、われわれの部隊に金(キム)万(マン)益(イク)という隊員がいました。彼には「クーニャン」という変わったあだながありました。「クーニャン」というのは中国語で若い未婚女性のことです。彼は肌が白くおとなしいうえにきれいな顔をしていたので、汪清の人たちにそういうあだなをつけられたのですが、背丈は「クーニャン」に似合わず六尺もありました。金万益ははじめは青年義勇軍に所属して小汪清防衛戦闘にも参加しました。遊撃隊に正式に入隊してからは崔(チェ)春(チュン)国(グク)の中隊に配属されましたが、戦闘ではすこぶる勇敢でした。彼は二〇歳になるまで汽車も見たことのない純朴な田舎者でした。まったく純真そのもので、心の汚れというものがありませんでした。一度は彼が列車襲撃戦闘に参加して戦友たちの失笑を買ったことがあります。戦闘を前にして、彼が鉄道レールに伏せて耳をあてているので、戦友たちがおかしく思って何をしているのかと問いました。すると彼は、「なんだ、汽車というのはどんなものかと思ったがなんのことはない。こんな鉄の棒に乗って滑って走る鉄の橇(そり)だったのか」と言って起き上がりました。しかし、それほど無学だった金万益も、われわれのもとで読み書きを習い、のちには中隊青年幹事となって隊員を教育するまでになりました。中国の東北解放戦闘に参加して祖国にもどった彼は、姜(カン)健(ゴン)の師団で大隊長、連隊長まで務めました。祖国解放戦争を扱った国内図書に、金万益がソウルと大(テ)田(ジョン)を解放する戦闘で部隊を巧みに指揮した内容が記述されているかどうかわかりません。彼が戦死したのは洛(ラク)東(トン)江の界線でした。彼は腹部と首に重傷を負いながらも、二日間戦場を離れずに部隊の指揮をとりながら息を引き取りました。
軍事・政治学習を成功裏に進めるために、書記処と出版所のメンバーがたいへん苦労しました。彼らは密営からやや離れたところに出版所を設け、学習に必要な教材や参考書を少なからず印刷しました。『鐘(チョン)の(ソ)音(リ)』([1])の主筆を務めた崔景和や『曙(ソ)光(グァン)』([2])の発行を受け持った金永国はいずれも書記処のそうそうたる文筆家でした。彼らがチーフとなって「パイプじいさん」とともに教材の内容を解説する文や、学習に役立つ文学作品を熱心に書いて隊内出版物に掲載したり、熱心な読者に働きかけて、汗と戦場の臭いがただよう文章を書かせたりしました。自習班のメンバーは言うまでもなく、識字班の隊員までも、その年の冬には新聞、雑誌に投稿する文章を書こうとたいへん熱を入れたものです。文章を書こうとすれば識見も高まり、向学心にも燃えるものです。
政治学習の基本問題は、革命における自主性の堅持、革命的信念、自力更生の革命精神などでした。これらの問題は、中日戦争勃発後、朝鮮革命に生じたきびしい情勢の要請を反映したものでした。現在もそうですが、当時にしても自主路線を堅持することは朝鮮革命の生命線となっていました。『祖国光復会一〇大綱領』や『朝鮮共産主義者の任務』などの文献が馬塘溝での軍事・政治学習で主な教材として利用されたのは、ほかならぬそれらの文献に革命にたいするわれわれの自主的立場が明確に示されていたからです。
われわれは馬塘溝で軍事学習にも大いに力をそそぎました。軍事講義の重点は、遊撃戦法がまとめられている『遊撃隊動作』と『遊撃隊常識』を完全に消化させることでした。指揮官は戦術の練達に主眼を置き、隊員は射撃訓練と制式訓練を基本に実技の練磨に努めるようにしました。馬塘溝では遊撃戦術とともに正規軍の戦術も同時に修得させました。教育課程に正規軍の戦術修得を含めたのは、敵を戦術的側面からさらに深く把握するためでもありましたが、解放された祖国での正規軍建設という重大課題を前にして、それを担当しなければならないわれわれ自身が事前に必要な知識を得るためでもありました。われわれはしばしば野外に実戦さながらの状況をつくって戦術研究会をおこないました。そして平隊員たちにも戦術を修得させました。地図の価値を知らぬ新入隊員には、地図の見方や磁石盤による方位判定法も教えました。
新入隊員が軍事講義で習った知識を実戦を通じて確実なものにできるよう、ときには戦闘もおこないました。清江甸子戦闘や静安屯戦闘は、馬塘溝での軍事・政治学習期間におこなった戦闘です。その時期、隊員たちは給養物資を確保する目的で要撃戦を展開したこともあります。
静安屯を攻撃するとき崔景和を失いました。この戦闘で足ごしらえをおろそかにして凍傷を負った姜燉も、その後戦死しました。この二人はいずれも長白で入隊した隊員でした。彼らは普通の新入隊員とは違って、長白地方で大型の地下組織を数個ずつ担当して指導し革命軍に加わった、知識人出身の将来を嘱(しょく)望(ぼう)されていた隊員でした。崔景和は、権(クォン)永(ヨン)璧(ビョク)が王家溝で西間島一帯の党組織と祖国光復会組織の活動を指導したときに目にとめて育てた人です。彼が王家溝にいた時期の活動については再三述べているので、ここでは繰り返さないことにします。
姜燉もわれわれが西間島で見つけて育てた人です。彼は小学校の高等科しか出ていませんが、独学で中学講義録や社会発展史を修め、早くから大衆啓蒙活動に加わって反日愛国主義教育に大いに寄与した人です。彼が設立し指導した夜学は有名でした。彼はそれらの夜学を通して多数の革命家を育てました。われわれの部隊には彼の教え子がたくさんいました。李(リ)乙(ウル)雪(ソル)も彼の教え子の一人です。いまは英雄を一人育てただけでも大きなニュースになりますが、それを考えれば、姜燉はたいへんな功労者だといえます。姜燉は英化洞で祖国光復会の組織にも加わり、反日青年会も組織しました。彼が結成した組織は援軍運動を活発に展開しました。彼は十家長を表看板にして、われわれの活動に必要な貴重な軍事情報もそのつど収集して提供してくれました。彼が遊撃隊への援護物資を背負ってわれわれを訪ねてきたとき、黒瞎子溝密営で会いました。「恵(ヘ)山(サン)事件」が発生するや、彼は革命大衆を安全地帯に移したのち、村の青年たちを率いてわれわれの部隊に入隊しました。新入隊員でしたが、われわれは彼を中隊宣伝幹事に任命しました。彼は宣伝幹事の職分にふさわしく、隊員にたいする啓蒙活動に才腕をふるいました。全(チョン)文(ムン)燮(ソプ)も彼の影響をかなり受けているはずです。姜燉は学習討論や論争にいつも熱心に参加しました。隊内出版物にも何回となく寄稿しました。『鐘の音』に載った彼の文章は非常に印象深いものでした。「恵山事件」以後の長白地方での日本帝国主義者の蛮行を暴露した文章でしたが、筆者の体験がたいへん生々しく反映されていました。
部隊が馬塘溝で軍事・政治学習をしているあいだに、わたしは第四師部隊との連係をとるため姜燉を樺甸県へ派遣したことがあります。馬塘溝から樺甸県までは一二〇キロ以上の距離でした。敵の警備も厳重をきわめていました。わたしが第四師部隊の消息が知れず気をもんでいるという話を聞いた姜燉は、樺甸へ行ってくると申し出ました。そして、その任務をりっぱに果たしました。姜燉が樺甸から貴重な偵察資料を手いっぱいに持ち帰ったとき、わたしは彼の忠実さと勇敢さに感服しました。部隊が静安屯を襲撃するときにも、姜燉は手榴弾で砲台を吹き飛ばし、先頭に立って突撃路を開きました。彼は砲台を粉砕したのち防御隊に加わり、足にひどい凍傷を負いました。それで、帰営するとただちに治療対策を講じました。彼は凍傷を負った身でありながら、じっと床に就いて治療を受けようとはしませんでした。彼は治療のかたわら、講義を担当し、読み書きも教え、新聞に載せる文章も執筆しました。文字通り不眠不休の活躍でした。そのうち敵が密営を襲撃してくると、ためらうことなく銃をとって戦闘に加わりました。彼は腹部に貫通銃創を負い、その後遺症で死にました。惜しむべき人でしたが、無念の死別となりました。
姜燉の英雄的な生涯は、学習に誠実な人は革命実践においても模範を示し、祖国と人民の記憶に生きつづける偉勲の創造者になるという真理を実証しています。わたしの記憶しているパルチザン英雄は例外なく日常生活において学習を重視する人たちでした。学習を怠る人のなかからは、次の世代に模範となるほどの英雄は輩出しません。精神的糧(かて)の豊かな人はどこで何をしようと、必ず革命のために大きな偉勲を立てるものです。人民武力部の幹部の話によると、李(リ)寿(ス)福(ボク)英雄も学生のころ熱心な勉強家だったとのことです。わたしは、学習に励まずとも信念が強いという人を見たことがなく、信念が強くなくても革命的信義に忠実だという人を見たことがありません。学習に励む人であってこそ信念も強く、革命に投じようという情熱にも燃えるものです。
人はその知識に応じて見、聞き、感じ、受けとめるという金(キム)正(ジョン)日(イル)同志の言葉はきわめて意味深長な名言です。
われわれは軍事・政治学習期間に、隊員の文化的素養を高める活動も活発にくりひろげました。革命歌の普及や娯楽会もたびたび催し、革命的な小説や伝記・実話集などを紹介する読書発表会などもたびたび開き、隊員たちが楽天的に生活し、たたかえるようにしました。密営で娯楽会を欠かした日はほとんどありませんでした。わたしの人生体験によれば、歌は革命的楽観主義のシンボルであり、革命勝利のシンボルです。わたしがよく言うことですが、人間生活には詩もあり、踊りもあり、歌もあるべきです。人間生活に詩もなく踊りもなく、歌もないとすれば、生きる楽しみがどこにあるのでしょうか。われわれの歌は宿営地でもうたわれ、仮設舞台でもうたわれ、戦場でもうたわれました。歌声が高いということは士気が高いことを意味し、士気の高い軍隊は敗けることがないものです。歌声が高ければ革命隊伍が興起し、精強になります。歌声の高いところに必ず革命の勝利があります。
われわれはそのころ、生活文化にも格別な関心を払いました。汚れた身体に健全な精神を期待することができないように、不潔で無秩序な隊伍に鋼鉄のような戦闘力を期待することはできません。かつて敵軍は、われわれの部隊が宿営した跡、火を焚いた跡を見ても追撃を中止したものです。それを見ただけでも、人民革命軍の規律と秩序、戦闘力を推しはかることができたからです。
ところが、馬塘溝密営に来た当初には、たがが緩んでその場しのぎの日課を送る中隊がありました。はなはだしくは、薪の貯えも持たずにのんびりしていて、食事の支度をするときになって密営周辺の立ち木を伐り出してくるありさまでした。わたしは、密営生活で全部隊の模範を一つつくろうと決心し、呉(オ)仲(ジュン)洽(フプ)を呼びました。彼の指揮下にある第七連隊第四中隊はもっとも戦闘力のある中核部隊でした。呉仲洽に密営生活に見られる種々の欠点を指摘すると、彼はそれを自分の中隊にたいする批判として受けとめました。彼は中隊にもどると生活文化確立の旋風をまき起こし、中隊の面目を一新しました。三日後に再びわたしのところに来た彼は、中隊を整備するつもりで努力したから、一度見に来てほしいと言うのでした。翌日、軍事・政治幹部を率いて第四中隊を視察してみると、中隊の変容ぶりは一目瞭然でした。密営周辺の整備が隅々までゆきとどいていて、非の打ちどころがありませんでした。炊事場の前には煙の立たない枯木を割った薪が数か月焚いても余るほど積まれていました。わたしは中隊隊員の武器を検査するよう呉仲洽に命じました。中隊を整列させた呉仲洽は、まず自分の武器を第一小隊長に検査させ、合格をもらってから隊員の武器を検査しはじめました。わたしは参観に来た軍事・政治幹部全員に、呉仲洽と一緒に中隊の武器と服装の状態、兵舎、炊事場、洗面場の整頓状態を検査させました。それがすんだあとで参観者たちに、何か欠点があれば指摘するようにと言うと、異口同音に満点だと言うのでした。その後、他の中隊でも第四中隊の模範に習い、部隊管理と生活文化を一新させました。
馬塘溝密営で生活文化の確立に努めた話が出たので、そのころ同時に進められた禁煙運動が思い出されます。主力部隊での二度目の禁煙運動でした。白(ペク)頭(トゥ)山麓で戦ったころ李(リ)斗(ドゥ)洙(ス)が音頭をとった最初の禁煙運動はわたしの勧告によるものでしたが、馬塘溝密営での二度目の禁煙運動は愛煙家自身の発起によるものでした。
馬塘溝密営での集中的な軍事・政治学習でわれわれが総体的目標としたのは、全将兵を朝鮮革命に役立つ共産主義的革命闘士に育てることでした。どの社会においても教育の基本的使命は、人びとを当代の社会制度に忠実に奉仕させるべく育成することです。日本人は朝鮮を占領して教育のまねごとをしましたが、それは朝鮮の青少年を奴隷としてこき使える程度に手なずけるためでした。ですから、彼らは朝鮮人に高等教育をほどこそうとはしませんでした。奴隷としてこき使うためには、最小限度の実用的な技能をもたせればそれでよいということなのです。
科学に国境はないといいますが、学問そのものはおよそ誰のためにどう利用するかによって、利にもなり、害にもなります。知識が人類にとって有益なものとなり、人民に有用なものとなるようにするためには、教育によって思想的、精神的に、道徳的、道義的に、技術的、文化的にりっぱな資質をそなえた真の人間を育てなければなりません。そのためには思想・道徳教育に力を入れなくてはなりません。人間愛と人民愛、祖国愛は天から降ってくるのではありません。それは健全な思想と信念によって培われるのです。わたしは、道徳品性の低劣な者が、人間を愛し、人民を愛し、祖国を愛するのを見たためしがありません。
わが国の社会主義が他の国の社会主義と峻別される点は、党と国家が物質本位の経済建設にのみ力をそそぐのではなく、人間本位の思想教育を優先させ、技術的、実務的にのみではなく、精神的、道徳的にもりっぱな資質をそなえた真の人間を育てあげるところにあります。われわれは物質第一主義者ではなく、人間第一主義者であるがゆえに、わが国にすぐれた人材が増えることを最高の富とみるのです。
馬塘溝密営での軍事・政治学習は、真の共産主義的革命家の風格と品性をそなえた人間を育てる人間改造の過程でもありました。われわれが静安屯戦闘を終えて馬塘溝密営にもどるとき、新入隊員の一人が武器を無くしたことがあります。それは姜燉の小銃でした。姜燉は防御隊の陣で凍傷を負い密営に後送されるとき、自分の小銃を中隊政治指導員の朱在日(チュジェイル)に預けました。ところが、部隊が戦場から撤収するとき、まだ武器を与えられていなかった新入隊員が、政治指導員の重荷を気づかってその銃を自分が担いでいくと申し出ました。朱在日は彼の願いどおり銃を引き渡しました。部隊が静安屯からかなり遠のいたとき、朱在日は気だてのよい新入隊員の肩に銃がないのに気付いてびっくりしました。問いただしてみると、途中で小休止したとき肩の銃を下ろしたまま、つい置き忘れて来たと言うのでした。それで朱在日はその隊員と一緒に数里の道程を逆もどりして三時間余り暗闇のなかを探しまわったのですが、とうとう銃は見つかりませんでした。彼は密営にもどってくるとその足でわたしのところに来て、事の次第を報告し、銃を無くした新入隊員に処罰を加えるべきだと提起しました。武器を無くした者を厳しく処罰するのは革命軍の規律でした。わたしが腹案はあるのかと聞くと、まだないとのことでした。それならもどって、どう処罰すればよいかをよく考えてみるようにと言いました。銃を無くした新入隊員の失策もさることながら、それにも増して重大に思われたのは、彼になんの注意も与えずに銃を渡した政治指導員の軽率さと無責任さでした。朱在日は闘争歴もあり、事の処理にあたっては慎重な人でした。何事においても用意周到で責任感の強い彼が、新入隊員の扱いでそんな盲点をさらけだしたというのはまったく残念なことでした。わたしが彼に熟慮の余裕を与えたのは、彼が自分の過ちに気付き深く反省する機会を与えるためでした。翌朝、わたしのところに来た朱在日は、処罰は銃を無くした新入隊員ではなく自分が受けるべきだ、自分の不注意と無責任のために新入隊員に事故を起こさせてしまった、と言いました。彼は自分の欠陥を正しく見出し、率直に自己批判をしました。
わたしは、指揮官たちに教訓を汲みとらせるために会議を招集し、朱在日の問題を取り上げました。会議では彼を第八連隊第一中隊政治指導員の職務からはずし、書記処の補助メンバーに左遷することを決定しました。会議のニュースは新入隊員のあいだに大きな感動を呼びました。武器遺失の責任を指揮官が負って解任されるのを見た彼らは、革命軍内での上下関係がいかに気高い道徳的信義にもとづくものであるかを痛感させられたのでした。銃を無くした新入隊員は悩みぬいた末に朱在日を訪ね、涙を流して謝罪しました。朱在日はその隊員の前でも自己反省をしました。わたしは自分の誤りで解任されたのであって、きみのために禍をこうむったのではない、事故はきみが起こしたが、その責任はわたしにある、わたしは政治幹部としてきみをよく助けられなかった、それでいて事故の責任を戦友になすりつけようとしたのだから、きみに合わせる顔がない、と話しました。その後、書記処へ転属した彼は、新しい職務を誠実に遂行しました。
軍事・政治学習をしめくくる日、わたしは朱在日に科した処罰を解き、彼を警護中隊の政治指導員に任命しました。司令部付き給養担当官の職務を解かれていた金(キム)周(ジュ)賢(ヒョン)も思想修養と学習に励み、同じ時期に連隊長に任命されました。このように、馬塘溝での軍事・政治学習は個々の兵士、指揮官の政治的・軍事的資質と精神的・道徳的品格の向上においても大きな効力を発揮しました。
われわれは六棵松戦闘と夾信子戦闘ののち、白石灘というところでも四〇日間ほど軍事・政治学習をおこないました。白石灘密営で一か月以上も軍事・政治学習をすることになった主な理由は、六棵松と夾信子で二〇〇名余りの木材所の労働者がいちどに入隊した事情と関連していました。彼らを訓練せずには、つぎの段階の行動へ移ることができませんでした。新入隊員のなかには多くの非識字者がいました。彼らは革命に身を投ずる覚悟はしっかりしていましたが、総じて意識水準は低いほうでした。彼らのなかには、農民が人口の絶対多数を占めているわが国の実情のもとで、なぜ労働者階級が指導階級にならねばならないのかを理解できない人が少なくありませんでした。
林業労働者でわれわれの部隊に入隊した孫(ソン)宗(ジョン)俊(ジュン)も、当時は読み書きができませんでした。彼は安図で農業を営んでいた人です。ところが遊撃隊の寒葱溝襲撃があってから、目覚めはじめました。安図から寒葱溝まではさほど遠くなかったので、その戦闘が安図の人たちにたいへん大きな衝撃を与えたといいます。彼は林業労働者であったときに入隊したのですが、白石灘での軍事・政治学習に参加するときまで、農民が革命の指導階級になるべきだと考えていました。労働者階級より農民のほうが数のうえではるかに多いからだというわけです。
新入隊員のほとんどは銃の扱い方を知らず、制式訓練を受けたこともない人たちでした。人民革命軍では軽火器だけでも一〇数種も使用していました。日本製の機関銃があるかと思うとドイツ製の機関銃もあり、チェコ製の機関銃もありました。小銃の種類もいろいろで、拳銃は四種類以上ありました。遊撃隊員になるには、それらすべての武器に精通していなければなりませんでした。
どの戦闘のときだったか、日本軍の機関銃を数挺奪取したことがありました。日本製の機関銃のなかには、弾倉を上から差し込むものもあり、横から差し込むものもありました。弾倉を上から差し込む機関銃は射撃が容易でしたが、横から差し込む機関銃の射撃法は面倒でした。日本軍の機関銃射手を一人生け捕りにして射撃教範を説明させようとしましたが、なかなか応じませんでした。ところが、彼はアヘンさえ使えば秘密も何もなくなる人間でした。それで彼にアヘンをやって射撃教範の秘密を探りだしました。その後、わたしは機関銃教範をつくって隊員の教育に供しました。一種類の機関銃の射撃原理と分解・組合せ法に精通するのにもこんな手間をかけなければならないのに、まして木材ばかり扱っていた労働者を、軍事・政治学習をさせずにりっぱな遊撃隊員にするなどとうてい不可能なことでした。
われわれは呉(オ)白(ベク)竜(リョン)に命じて、敵を方々引きずりまわして散々な目にあわせ、白石灘から四〇~五〇里あたりの遠方に引き離した後、各地に小部隊を派遣して備蓄しておいた給養物資と武器を運び込ませ、密営にたてこもって軍事・政治学習をおこないました。われわれが数百名の新入隊員を受け入れたというニュースを聞いた崔(チェ)賢(ヒョン)も、数十挺の武器を送ってよこしました。
白石灘での学習は不測の事態に備えて二段階に分けておこないました。第一段階は所定の課目を短期間内に速成修得させる段階であり、第二段階は習ったことを反復させる段階でした。古参の隊員の学習目標は、知識水準を一段階以上高め、新入隊員の学習を助けることでした。新入隊員の場合は一か月で読み書きができるようにし、各種の武器に精通することを目標にしました。そして、連隊、中隊、個人同士がそれぞれ競争するようにしました。白石灘での軍事・政治学習にあたって、われわれは「学習も戦闘だ!」という標語とともに「困難で複雑なときほど学習を強化すべきだ」という標語をかかげました。
新入隊員はその後、すべて読み書きができるようになりました。その間の学習状況を調べるつもりで故郷の親兄弟宛に手紙を書かせてみると、誰もが自分の思想・感情を朝鮮語で自由に表現していました。彼らは小銃と拳銃、機関銃など各種武器の使用法と分解・組合せ法にも精通しました。新入隊員のなかには、隊内出版物に投稿する人もいました。その年の冬には、古参の隊員と新入隊員とを問わず、誰もが新聞、雑誌に投稿する文章を書きました。第一期の軍事・政治学習をしめくくる日には、授賞式を盛大におこない、娯楽会も催しました。優秀な成績をおさめた者には高価な時計や金の指輪、万年筆などを授与しました。
その年の冬、われわれは白石灘でよく打ち豆をつくって食べたものです。密営からほど遠くない地点に大蒲柴河というところがありましたが、その下方に取入れ前の大豆畑がありました。地元の農民の斡旋でその大豆を畑ごとそっくり買って収穫してくると、みんなが打ち豆をつくって食べようと言うのでした。白石灘密営には、敵の「討伐」を避けて移り住んできた家が一軒ありました。その家に宿をとっていたわたしは、凍った白菜の乾(ひ)葉(ば)を刻んでまぜた打ち豆をつくり、それを拳ほどの塊にして凍らせ、食事のたびに一つずつ鍋に入れて煮て食べたものです。毎日三食ともそうして食べましたが、飽きがきませんでした。食糧節約のため、トウモロコシは少ししか入れませんでしたが、結構おいしく食べられました。
白石灘での軍事・政治学習は、紅旗河戦闘や大馬鹿溝戦闘をはじめ大部隊旋回作戦の終了期と小部隊活動期の一連の軍事・政治活動で大きな効力を発揮しました。
わたしはその後も、知識があってこそ先を見通すことができるとし、誰もが自らの政治的・実務的水準をたえず高めるために、学びに学びまた学ぶよういつも強調しました。こんにちでは金正日同志が示した「全党が学習しよう!」という革命的なスローガンを実践する過程で、誰もが学びながら働き、働きながら学ぶ革命的気風が全国に確立されました。

二 イタチ捕りの老人

われわれが馬塘溝密営で軍事・政治学習をしていた期間にも、敵は朝鮮人民革命軍司令部の行方をつきとめようと血眼になっていました。人民革命軍の主力が白頭山地区を離れて濛江地区へ進出したことを遅ればせながら探知した日本の諜報・謀略機関は、朝鮮革命の首脳部を陥れる陰謀を企んでいました。
その時期の教訓的な話を一つすることにしましょう。ある日、金周賢が小部隊工作から帰ってきて言うには、かつて独立軍で活動したことがあり、いまは濛江に住みつきイタチの罠を仕掛けて歩きまわっているという老人に出会ったので宣伝工作をしたのだが、傾向がよかった、ということでした。
わたしはそのイタチ捕りの老人に好奇心を抱きました。まず、独立軍の出身であるということに気がそそられました。当時の世相といえば、中日戦争勃発以来、日本軍が中国本土に侵攻して北京を陥落した、上海を占領したと物情騒然としていたため、芯の弱い人たちはほとんど革命を放棄し、風の立たない奥の間や路地裏に身をひそめているときでした。一人の愛国志士でも懐かしく思われ、かつて多少なりとも独立運動に参与したという人に出会いさえすれば、ともども手を取って喜び合うという時節でした。まして、その独立軍出身の老人と接触したのが濛江であったというからには、その老人を通して沈(シム)竜(リョン)俊(ジュン)の行方がわかるかもしれないという期待を抱くようにもなったのです。沈竜俊は満州で正義府、新民府、参議府という独立軍の三府が勢力争いをしていたころ、参議府で大物として活躍した人物です。その沈竜俊が、参議府時代に輝南、樺甸、濛江一帯で活動し、三府が国民府に統合された後は濛江のどこかに住んでいると、風の便りに聞いたことがあったのです。
わたしが沈竜俊を知ったのは、彼がわたしの父の知友であったからです。中学時代には吉林の尚儀街にあった復興泰精米所や三豊旅館で彼をよく見かけました。当時、満州地方の独立運動家や独立軍の指導者は、三人一党、五人一派、八団九会の乱立状態を解消し、各党、各派、各界勢力の結集を目的とする三府統合を模索していましたが、ほかならぬその会合の中心地が吉林でした。正義府と新民府、参議府を一つの組織に統合する代表者会議のとき、沈竜俊は参議府の代表として参加しました。
わたしは金周賢に、イタチ捕りの老人についてもう少し調べ、彼が沈竜俊を知っているのか、知っていればいまどこでどう過ごしているのかを聞いてくるようにと言いました。任務を果たして帰ってきた金周賢の話によれば、老人は独立運動から手を引きはしたが、愛国心は失っておらず、沈竜俊の居所と生活についてもよく知っているとのことでした。老人は、沈竜俊は独立軍から退いた後、妻帯して濛江に移り住んだが、以前と少しも変わらず、志は持しているということまで自信ありげに保証したそうです。
金周賢の話を聞いたわたしは、沈竜俊が高齢の身でも独立運動に投じたときの初志をひるがえしていないとすれば、彼のつてを頼って濛江一帯に祖国光復会の組織を広げることができるのではないかと考えました。主義主張は異なっても、彼が愛国心を胸に秘めている以上、われわれの統一戦線に必ず合流するに違いないという気がしました。わたしが沈竜俊という人物をそれほど重視し、接触の方途を積極的に探し求めたのは、他にもわけがありました。当時われわれは、日本軍が中日戦争の泥沼に深くのめりこんでいる実情にかんがみ、一方では中国の反日勢力との共同戦線を強化し、他方では臨時政府系統の反日勢力との統一戦線のために努力していました。臨時政府系統の反日勢力と手を結ぶためには、われわれと臨時政府とのあいだに渡りをつけてくれる人物を見つけだす必要がありました。沈竜俊はその適任者でした。

沈竜俊はひところ、上海臨時政府に出入りしていた人物である。彼の属していた参議府は陸軍駐満参議府という名称をもつ臨時政府直属の団体で、大半の幹部は臨時政府から直接派遣された人たちであった。金日成同志は、沈竜俊と独立軍運動をともにして中国関内に入っていた人はいずれにせよ臨時政府と関係があるはずであり、中国国民党とも気脈を通じていたはずだと述べている。

そのころすでに、われわれの部隊には王徳林の特使が来ていました。われわれは彼に、職制にはない警護中隊の教官という職務をまかせていました。それで隊員たちは彼を李教官、李教官と呼んでいました。彼は中国将棋が上手だったので、わたしはたびたび彼と勝敗を競ったものです。
王徳林は中日戦争勃発直後、革命軍事委員会別働隊第二路軍の指揮を務めて蒋介石とつながっており、蒋介石もまた臨時政府と内通していたので、王徳林との手づるをつかみさえすれば臨時政府との合作を成功させるルートを十分開拓することができました。そういうときに王徳林が関内から李教官を特使として派遣してくれたことは望外の幸運でした。李教官の話によれば、王徳林は還暦に手の届く年になっているにもかかわらず引退せず、依然として抗日の第一線に立っているとのことでした。
陳翰章もわたしに王徳林の消息を伝えてくれました。 陳翰章は救国軍部隊にいたとき、呉義成の命を受け、天津へ行って王徳林に会ったそうです。そのとき王徳林は、自分が以前東北地方を離れて関内に入ったのは、蒋介石か張学良の援助を受けて反日闘争をさらに拡大するためであったと陳翰章に話したそうです。そのときおそらく陳翰章は、朝鮮共産主義者の武装闘争の実態を王徳林に詳しく話したものと思います。
沈竜俊と接触するためには、イタチ捕りの老人をさらに実検してみる必要がありました。そこで、老人に何回か任務を与えてみました。彼は任務を与えるたびに、それを着実に遂行しました。われわれは数回の実検を通じて、彼を信頼できる人だと判断しました。
こうして、つぎは沈竜俊にたいする工作に移りました。まずイタチ捕りの老人を通して彼にわたしの手紙と一緒に祖国光復会の一〇大綱領と創立宣言を送りました。沈竜俊に会ったイタチ捕りの老人の話では、わたしの手紙を手にした沈竜俊が呆然としていたとのことでした。それで何か反応はなかったかと問うと、追って返書を送ると言ったそうです。金周賢からそういう報告を受けたわたしは、沈竜俊について深く考えてみざるをえなくなりました。彼がわたしの手紙を手にして呆然としていたというのは、わたしにとって少々期待はずれの感じがしました。 沈竜俊が手紙を受け取れば、即座に密営に訪ねてはこられないとしても、それなりの反応を示すのではなかろうかと思ったのですが、なんとなく冷淡さが感じられました。第一線で銃を手にして駆けめぐり、国権回復のために奮闘した末、家庭に閉じこもった人であるだけに、往年のように再び反日戦線に立ってくれというわれわれの呼びかけに接して、少々とまどいがあったのかもしれません。反日戦線に立ってくれというのは、以前のように独立運動に身を投じてくれということなのですから、運動を中途で止めた人がそういう提言を受けて思案に暮れるのは当然のことだとみるべきでしょう。しかし、沈竜俊が祖国光復会の一〇大綱領と創立宣言を見てなんの意思表示もしなかったというのは、理解できないことでした。革命を中途で止めた人が再び革命の道に立ち返るとなれば、もちろん即座に決心がつかず、まごつくこともありうるでしょう。沈竜俊が返答しないのは、それなりの事情があってのことだろうと考えました。ともかく手紙を送った以上、返事を待つよりほかはありませんでした。返答をもらわずには、沈竜俊の気持ちを知ることができず、それに適した方策を講ずることもできませんでした。
数日後、濛江県へ出かけた小部隊のメンバーが、イタチ捕りの老人を通して沈竜俊の返書を受け取ってきました。沈竜俊は手紙の書き出しで、山中での苦労が思いやられると簡単な挨拶を述べてから、金(キム)亨(ヒョン)稷(ジク)先生の子息がいまは司令官になり、幾多の軍勢を率いて祖国と民族のためにりっぱに戦っていると知って心強く思う、と書いていました。そして、われわれの抗日武装闘争路線はきわめて正当であるとし、自分がその間、独立運動を放棄していたことに良心の呵責を感じる、手紙をもらって独立運動に立ち返る決心をしたから、なにとぞ援助してもらいたい、と望みました。
手紙をもらって、わたしはどんなにうれしかったかしれません。沈竜俊は年からすればわたしの父と同世代の人でした。一九三七年といえば、その世代の独立運動家は少なからず故人となったり、海外に亡命したり、獄につながれているころでした。一部の人は戦列から退いて木樵(きこり)となり、農夫となり、物売りともなりました。わたしの知る独立運動家のなかには知名の人物が少なくありませんでしたが、彼らはすでに一九二〇年代末期か三〇年代の初期に吉林一帯から姿を消していました。そういう人のなかには、中国関内に活動舞台を移した人も少なくありません。わたしが武装闘争をはじめる前に、吉林で最後に会った父の知友は孫(ソン)貞(ジョン)道(ド)牧師であったと記憶しています。武装闘争のために間島に移ってからは、撫松時代や吉林時代によく見かけた三府所属の独立軍指導者には一度も会うことができませんでした。けれども、わたしはどこへ行っても彼らを忘れませんでした。物故した父が思い出されるときには、父とともに人生を論じ、塗炭の苦しみに陥った民族の運命を案じた愛国志士の顔も思い浮かべたものです。ところが、その多くの志士がみなどこに消え去ったのか、わたしにはその行方すらわかりませんでした。そんなときに濛江で沈竜俊を探しだしたうえに、彼との連係がついて、再出発を誓う手紙まで受け取ったのですから、うれしくてたまりませんでした。
当時、われわれは祖国光復会の組織網を各地域に拡大する方針を示し、その実現方途を真剣に討議しました。討議内容の一部は隊内の新聞にも載せました。濛江地方に祖国光復会の組織を拡大するということは、とりもなおさず白頭山根拠地の威力と影響力をこの一帯にまで拡大することを意味し、それを足がかりに革命勢力を各方面にさらに拡大することを意味しました。
わたしはイタチ捕りの老人を通して沈竜俊に金を送り、『東亜日報』や『朝鮮日報』などの定期刊行物を購入させました。沈竜俊は数日内にわたしが頼んだ新聞や雑誌を送ってよこしました。われわれと沈竜俊のあいだには手紙も何回となく交わされ、金や物品もたびたび受け渡しされました。
こうして数か月間、沈竜俊との接触をつづける過程で、われわれは彼を地下組織活動に早く引き入れるべきだと考えるようになりました。司令部党委員会は会議を開き、沈竜俊への働きかけをさらに積極化しよう、そして彼を足がかりに、濛江一帯に祖国光復会をはじめ革命組織を広めようと討議しました。わたしは会議で、もう沈竜俊に任務を与えてもよさそうだ、濛江に祖国光復会の組織を一つ結成させてみよう、そして負傷者の治療に必要な薬材も頼んでみよう、これは彼にたいする最終的な実検になり、彼が政治生命を取りもどす絶好の機会にもなるだろうと言いました。参会者たちもわたしの意見に賛同しました。会議では、沈竜俊の顧問役として活動する政治工作員として誰を派遣するかという問題も討議しました。沈竜俊はいっとき参議府の大物として活躍したとはいえ、組織建設の経験はありませんでした。あるとすれば三府統合に参加したことだけですが、そんな程度の経験では非合法の地下組織の建設は不可能でした。われわれは有能な政治幹部を一人派遣して、沈竜俊を陰で援助することにしました。その適任者として、政治活動経験の豊富な金一(キムイル)が選ばれました。
沈竜俊からも、自分を援助する人を派遣してほしいという要望がありました。金将軍の願いどおり祖国光復会の組織を直ちに結成したいのだが、方策が見つからないとして、わたしとの面談まで求めていました。わたしはその二つの要望を好意的に受けとめました。しかし、わたしが濛江へ行くことについては、司令部のメンバー全員が反対しました。冒険だというのです。だからといって、わたしより倍も年の多い沈竜俊を密営に呼ぶわけにもいきませんでした。沈竜俊との対話を実現させるには、濛江市内でもなく密営でもない、第三の地点を選択する必要がありました。わたしはこれを最善の案とみなし、小部隊を派遣して適当な場所を選ばせることにしました。場所さえ決まれば、そこへ金一を送って沈竜俊と対話させる考えでした。
こういう作戦まで練ってから、イタチ捕りの老人を密営に連れてくるよう金周賢の小部隊に命じました。頭道松花江方面から司令部の位置する密営まで来るには、いくつもの地点を経なければなりませんでした。氷結した谷川をつたってきてから崖をよじ登り、第七連隊、第八連隊、警護中隊の各密営を順次経て司令部に至るのでした。誰であれ、司令部に来るには必ずこのコースを踏まねばなりませんでした。これは秘密保持のために司令部が定めた厳格な密営の出入秩序でした。密営を出入りするとき氷結した川面を渡れば足跡が残らないので好都合でした。氷上の雪に足跡が印されても、心配はありませんでした。風が氷結した川面の雪を全部吹き払ってしまうからです。風のないときは、靴を何回か雪にこすりつけて氷結した川面を渡れば足跡が残りません。これはわれわれが発見した冬季行軍法の一つです。われわれは馬塘溝密営に入るときもこの行軍法を用い、白石灘密営に入るときにもこの方法を用いました。
われわれが濛江県清江甸子から馬塘溝へ向かう日、その年の初雪が降ったと記憶しています。密営付近の崖岩の前まで来ると、氷結した川面の真ん中から水が湧きあがっているのが見えました。それを見て、頭道松花江の真ん中に温泉があるのかもしれないと言いだす隊員もいました。馬塘溝の関門にそそり立つ崖は急勾配で険しいものでした。全部隊がこの崖岩のために難儀しました。隊員は汗みずくになり、木の枝や草の根をつかんで一歩一歩よじ登りました。眉毛に霧氷がこびりつく厳しい冬のさなかに、頭道松花江の氷上に泉のように湧きあがる水を見ると、なんとも不思議な気がしました。頭道松花江は妙な川です。
イタチ捕りの老人も、われわれが馬塘溝に入るときに切り開いた秘密の通路を利用しました。彼が小部隊に案内されて第七連隊の歩哨の前を通過するときでした。歩哨が、このごろ密営に連れてくるのはスパイしかいないのに、あのじいさんの格好はどう見てもおかしい、あれがスパイとわかったら腕試しにおれが撃たせてもらおう、と冗談を言いました。聞くともなくそれを耳にした老人は恐怖の念にかられました。その年の冬は部外者を絶対に密営に立ち入りさせませんでした。会わなければならない人でも密営の外で会い、密営には呼びませんでした。ただし、何か罪状を取り調べて処理する必要のある者に限って密営に連れてきました。そういう状況だったので、歩哨はイタチ捕りの老人をスパイと見たのでした。歩哨がそんなことを言ったのは、彼らがその老人を中国人と思ったからです。その日の老人の服は朝鮮服ではなく中国服だったのです。彼がなぜ朝鮮服ではなく中国服を着てきたのかはわかりませんでした。ところがこの偶然の事が、歩哨に老人を中国人と見誤らせ、老人の耳に入ってはならないことを口走らせてしまったのです。もし、イタチ捕りの老人が罪のない人であったなら、そんなことを耳にしても意に介さなかったはずです。ところが、彼は歩哨の一言ですっかり顔色をかえてしまいました。遊撃隊が自分の裏をすべて知っていて、そう言ったのだと思ったからでした。われわれが沈竜俊との対話を準備していたとき、イタチ捕りの老人は日本人の強迫に負けて、司令部を陥れる任務を受け入れたのでした。小部隊にしたがって密営に来る日、彼はわたしに危害を加えるときの凶器まで携帯していました。ですから、安穏な気持でいられるはずはありません。
イタチ捕りの老人が司令部にあらわれたとき、わたしは王徳林の特使と将棋をさしていました。いざ会ってみると、なぜか老人の顔色がさえませんでした。後日、当人も告白したことですが、その日、歩哨の話を耳にした彼は、「金日成将軍は三か月先の天気まで読むとは聞いていたが、どうもわたしらが企んだことを全部知っているようだ。ただでは引っ張ってきそうもないところにわたしを引っ張り込んだのを見ると、わたしはもう終わりだ」と早合点したとのことです。任務を受けてびくついていたやさき、哨所でそんな話まで聞いたのですから、内心おだやかであろうはずはありません。イタチ捕りの老人の顔色がよくないのを見て、わたしは彼に同情しました。国を奪われ、濛江のような僻地に追われてイタチ捕りで暮らしを立てているというのだから、さぞつらい思いをしているだろうと考え、心のこもったもてなしをしました。隊員たちにはコウリャン飯の給食をしながらも、彼にはキビのご飯を食べさせました。ときには部隊を見学させ、娯楽会や講演会、学習討論会なども見せたりしました。こうして何日か訓練したり啓蒙したりしたのち、金一と一緒に沈竜俊との対話が予定されていた第三の地点へ送るつもりでした。われわれはこのように、いろいろと老人に十分影響を与えようと努めましたが、うまくゆきませんでした。警護隊員の話では、老人はキビのご飯を炊いてやっても口にしようとせず、嘆息ばかりついて、密営からいつ出られるのかと、そのことばかり気にしているとのことでした。わたしが老人と金一を第三の地点にすぐさま送らなかったのは、敵が馬塘溝一帯を包囲していることを知っていたからであって、他に理由はありませんでした。そのころわれわれは、要所要所に監視班を配置し、高地や高木の梢から望遠鏡で周囲を監視させていました。監視班は密営付近の山中から煙が立ち上ったり、処々に敵が集結しているのを発見していました。それでわれわれは、日中は煙を立てず、夜間にだけ少しずつ火を焚いて食事をととのえさせていました。
ある日、わたしは話をするつもりでイタチ捕りの老人を司令部に呼びました。しばらく話を交わしているとき、小部隊工作に出ていた隊員たちが活動報告に来ました。彼らは活動報告を簡単にすませたあとで、工作地から帰隊する途中、スパイ二名を捕らえたことをつけ加えました。一人は正体を素直に自白したので、諭してその場で放免し、もう一人は確証をつきつけても自分の任務と罪過を明かさず反抗するので処分したとのことでした。小部隊責任者の報告を聞いたわたしは、正体を隠しつづけた者を処分したのも正しく、正直に自白した者を放免したのも正しかったと評価しました。するとどうでしょう。突然、イタチ捕りの老人が地べたにひざまずき、だしぬけに、「将軍さま、どうかわたしをお赦しください!」と泣きつきました。わたしも小部隊の責任者もわけがわからず、老人の挙動を見守るのみでした。赦しを乞うからにはきっとわけがあるに違いないとは思いながらも、それがなんであるかは見当がつきませんでした。わたしは、どんなわけがあるのか落ち着いて話すよう老人に言いました。老人はわたしの言葉に勇気づけられたようでした。彼は「ちょっと待ってください」と言うと、外に出て白樺の木の根元に隠してあった手斧を持ってきました。そして、自分の罪を告白するのでした。彼は、自分の第一の罪は日本人から司令部に危害を加える任務を受け、密営に来ては貴賓のもてなしを受けながらも反省して自首せず手斧を隠したことであり、第二の罪は沈竜俊が変節したことを知りながら、それを司令部に告げなかったことだと言いました。
沈竜俊が変節したと知って、わたしは唖然としました。イタチ捕りの老人が日本人から任務を受けたことは、さほど驚くべきことではありませんでした。そういうことは白頭山密営にいたころにも何回か体験していたので、いまさらのことではありませんでした。しかし、かつての参議府の大物沈竜俊が変節して日本帝国主義者の手先になったというのには、まったく驚かざるをえませんでした。三府時代の沈竜俊は名望家で、民衆の期待も大なるものがありました。彼は反日扇動の気鋭のこもった言辞も大いに吐きました。そういう人物が日本帝国主義の犬になるとは嘆かわしいことではありませんか。わたしはイタチ捕りの老人に、沈竜俊が変節したことをどうしてわかったのかと問いました。彼は沈竜俊が日本人と謀議しているのを見たと言うのでした。どんな謀議をしたのかと聞くと、司令部をおびきだす方法を謀議したとのことでした。遊撃隊の代表が沈竜俊を訪ねてくれば、まずその代表を抑留して強迫し、司令官と某地点で会おうという内容の手紙を司令部に送らせ、司令官が約束の地点にあらわれれば、包囲して捕らえるというのが、沈竜俊と日本人による司令部誘引作戦の筋書きでした。イタチ捕りの老人の自白によれば、沈竜俊がわれわれに送ってよこした手紙はすべて日本人と相談して書いたものだったそうです。沈竜俊はわれわれから何か頼まれるたびに、必ず日本人のところに行って、革命軍にしかじかのことを頼まれたと報告し、彼らの指令どおりに動いたのでした。イタチ捕りの老人はまた、沈竜俊は日本人に投降し、変節して以来、長春に通いつめて「討伐隊」も何回となく引き込んだと言うのでした。そのときイタチ捕りの老人が事前に自白したから助かったものの、そうでなかったなら金一はもちろん、わたしもやられ、すべてしてやられるところでした。
人に信頼を寄せるということは、ときにはこういうすれすれの危険もともなうものです。しかし、わたしは禍をこうむりませんでした。これもやはり信頼というもののおかげだったといえます。なんの疑いも抱かず密営に引き入れ、部隊生活をあるがままに自由に見学させたので、老人の邪心が人間本然の良心に立ち返ったのです。人間心理の弁証法というものはじつに妙なものです。
金正日同志の言葉のなかに、「信頼は忠臣を生み、疑心は逆臣を生む」というのがありますが、これは名言です。不信によって得られるものはなくても、信頼によっては多くのものを得ることができます。だからといって、彼我を区別せず、心の臓まで預けてしまえというのではありません。人間は信頼するとして、実践を通じて点検すべきです。
老人は自分が知っている限りの情報を提供しましたが、戦友たちは彼を赦してはならないと主張しました。けれども、わたしは老人を寛大に赦してやりました。自分の罪過を素直に反省する人には、雅量をもってこたえるべきです。自分が犯した罪を良心的に告白する人にたいしては、その過去を問うべきではありません。
この事件を体験したわたしは、革命家にとって人への幻想は禁物であるという深刻な教訓を得ました。革命が困難な局面を経るときこそ、人への幻想は徹底的に排撃すべきです。人を信頼し愛するのはよいことですが、幻想をもって接するのはよくありません。思想というものは固定不変のものではありません。昨日、今日、明日と変わりうるのが人の心です。沈竜俊の実例がそれを証明しています。
人はその利害関係によって革命を促しもすれば、妨げもするものです。人民の利益を第一としてたたかう人の思想はダイヤモンドのように変わることがありませんが、革命の利益や人民の利益など眼中になく一個人の安泰と享楽のみを追求する人の思想はたやすく変質してしまいます。困難な時期に革命をいとも簡単に裏切るのが、ほかならぬ個人主義と利己主義に毒された人間です。わたしは沈竜俊の実例によって、人間の大本を忘れ自己保身の殻に閉じこもるようになれば、どれほど重大な背信の奈落の底に落ちることになるかを深く悟りました。自分のためにのみ生きる人は、親友も、同志も、隣人も、民族も、国もためらわず売るものです。



三 独立軍最後の部隊

「是日也放声大哭」に身もだえていた亡国朝鮮の歴史の舞台に武力抗争の旗をかかげて登場した独立軍は、義兵闘争と愛国文化啓蒙運動をはじめ、合法、非合法、暴力、非暴力などさまざまな闘争によって国権回復の意を遂げようと必死にたたかってきた、朝鮮の愛国志士の血潮たぎる独立への熱望と涙ぐましい労苦の結実であった。時代に立ち遅れ民衆的基盤が弱かったため凋落の道をたどらざるをえなかったとはいえ、独立軍は民族運動陣営の唯一の反日武装力であった。
金日成同志は、請願や哀願の方法ではなく銃剣を手にして日本帝国主義を打倒しようとした独立軍の志向を重視し、抗日革命ののろしを上げた当初から、彼らとの連携に終始大きな力を傾けた。つとに南満州の梁(リャン)世(セ)鳳(ボン)司令を訪ねて以来、抗日の第一線で独立軍とともに肩を並べて戦うことを切望した金日成同志の崇高な経綸と透徹した愛国の意志は、数年を経てはじめて結実をみるにいたった。金日成同志によって示された独立軍との合作路線にしたがい、独立軍部隊に反共から容共への道を開き、彼らに朝鮮人民革命軍側への義挙を断行させるうえで大きな役割を果たしたのは、崔(チェ)春(チュン)国(グク)と崔(チェ)允(ユン)亀(グ)であった。崔允亀はいかなる人物だったのであろうか。一九七五年一〇月、大(テ)城(ソン)山の革命烈士陵を訪れた金日成同志は、崔允亀の胸像の前でしばらく足を止め、彼について事こまかく回想した。崔允亀の人間像と彼の方向転換の過程は、それによって詳しく知られるようになった。ここに、転写する文章は、その日、金日成同志が党歴史研究所と革命烈士陵の関係者に述べた話、その他のおりに抗日革命闘争史の研究者や作家、革命事績部門の幹部に述べた話をまとめたものである。
崔允亀は平(ピョン)安(アン)北道義(イ)州(ジュ)の人です。呉(オ)東(ドン)振(ジン)、梁世鳳、張(チャン)喆(チョル)鎬(ホ)、李(リ)寛(クァン)麟(リン)、金(キム)時(シ)雨(ウ)、崔(チェ)東(ドン)旿(オ)、孔(コン)栄(ヨン)など、平安北道の鴨(アム)緑(ノク)江流域一帯には名のある独立運動家が少なくありませんでした。
一九二五年にわたしたちが撫松に行ったとき、父につきそって大営まで出迎えに来た人のなかには崔允亀もいました。彼は独立軍の末期には副司令、司令となって活躍しましたが、わたしたちが撫松へ行ったころはまだ下級の職にありました。わたしが撫松で小学校に通っていたころ、地元の人たちは崔允亀のことを「崔参士」と呼んでいました。わたしの父や母もそう呼び、彼の直属上官にあたる張喆鎬、呉東振、梁世鳳などもそう呼んでいました。「参士」というのは軍での崔允亀の階級でした。
彼が小隊長に昇進してからも、わたしは彼を「参士のおじさん」と呼び、その後部隊を率いてわれわれの側に移ってきてからも、二人だけのときは少年時代の習わしで「参士のおじさん」と呼んだものです。わたしが「参士のおじさん」と呼ぶと、彼も喜びました。もしわたしが「小隊長殿」と呼んだりしたなら、彼はかえって照れくさがったはずです。
崔允亀は口数の少ない人でした。その代わり、心に多くの言葉を抱いている人でした。口が重く、思慮深く、太っ腹で押しの強い、典型的な武官タイプの人物でした。父の話では、彼は幼いころから足に砂袋をつけて武術の稽古に励んだそうです。幼少のころから武術の稽古をはじめたのが確かであるなら、早くから大志を抱いていた人であったことがわかります。鴨緑江のほとりに義兵や独立軍がしばしば出没したので、少年期からその影響を受けざるをえなかったのでしょう。彼の父親は鍛冶屋でした。彼も書堂(漢文を教える私塾)で多少の読み書きを習いましたが、一〇歳そこそこの年で父親を手伝って鍛冶屋の仕事をしたそうです。寒い冬のある日、彼が上衣を脱ぎすてて冷水摩擦をしているのを見たことがありますが、拳法の選手のように筋肉が隆々としていました。その姿を見たわたしの父は、一人前の男子になるにはあれくらいの体格にならなくてはだめだと言いました。
崔允亀は一七歳か一八歳のとき、独立軍に加わって臨江県帽児山へ行きました。帽児山は白山武士団(〔3〕)の本拠地でした。いつか呉東振は父と崔允亀の話をしながら、彼を隊長の器だと評していましたが、それは非常に印象深く聞こえました。彼は体力のみでなく人柄や性格からしても隊長の器と言われるだけのものがありました。彼は戦闘経験も多く積んだ人でした。独立軍時代の彼の部下であった金(キム)明(ミョン)俊(ジュン)の話では、崔允亀は副司令に昇進してからも、いったん出陣となれば先頭に立って突撃したとのことです。正直に言って、わたしは撫松時代に崔允亀を独立運動の偉い人物とみて尊敬したものです。父は崔允亀を実弟のように慈しみました。父が病床にあったとき、彼は張喆鎬と一緒に毎日のように見舞いに来ました。父が他界したときには部下全員を引き連れて葬列に加わりました。彼も麻の頭巾(喪中にかぶる男子の帽子)をかぶり、号泣しました。そのとき彼はわたしを慰め、いろいろと力づけてくれましたが、わたしはいまでもそれをありがたく思っています。
崔允亀が正義府に属していたころ、どんな主義主張をもっていたのかは定かでありません。容共か反共かという尺度で彼の理念をはかるのであれば、それは反共より容共に近かったというべきでしょう。しかし彼は、孔栄や朴(パク)振(ジン)栄(ヨン)のように共産主義運動に早くから方向転換を遂げはしませんでした。
父の周辺には新思潮に共鳴し信奉する人が少なくありませんでした。しかし、彼らのうち、旗色を鮮明にして共産主義者の陣営に移ってきた人はそれほどいませんでした。当時、南満州と中部満州地方で新思潮を志向した人たちは、民族主義者に包囲されていました。この一帯で共産主義を志向する人が多数を占めていたなら、われわれが旺清門に行ったとき国民府の反動的上層人物からテロを受けるようなことはなかったでしょう。これとは対照的に、東満州地方では民族主義思想に比べ共産主義思想のほうが優勢でした。共産主義思想は浸透するやいなや、民族主義思想が反旗をひるがえす余裕もなく、この地域を席巻する支配的な思想となりました。東満州では、南満州や中部満州でのような両思潮の深刻な対立は生じませんでした。崔(チェ)賢(ヒョン)、尹(ユン)昌(チャン)範(ボム)、朴(パク)東(トン)根(クン)、金(キム)日(イル)竜(リョン)、朴(パク)斗(トゥ)京(ギョン)などの場合が示しているように、この一帯では多くの独立軍出身がこれといった曲折を経ずに、共産主義者の組織し統率する革命軍の隊伍に加わりました。ここでは新旧思潮の入れ替わりが流血や命がけの思想闘争をともなうことがありませんでした。この地方の人民大衆は、共産主義思想に接するやそれを自分の階級の指導思想として受け入れ、朝鮮民族解放闘争の民族主義運動から共産主義運動への方向転換を歴史発展の法則に合致する当然の推移とみなしました。
一九三二年の夏、わたしは通化で崔允亀と束の間の対面をしたことがあります。梁世鳳との合作談合のため、彼とは長く語り合うことができませんでした。われわれが南満州へ行って梁世鳳と合作について談合した当時にしても、独立軍の思想動向は容共意識より反共意識が支配的でした。独立軍上層部の反共意識と敵の離間策動のため、われわれがめざした合作を実現できずに通化を後にしたのち、崔允亀はたいへん残念がったとのことです。われわれは南満州ではこれといった成果を得ずに帰ってきましたが、だからといって独立運動家との合作を放棄したり断念したわけではありませんでした。民族主義者との統一戦線はなってもならなくてもよいとか、力の弱いときはおこない強いときはおこなわなくてもよいとか、主権を掌握するまではおこないその後はおこなわなくてもよい、という問題ではありません。それは民族の完全な和合と統一団結が実現するときまで恒久的に堅持すべき戦略であり路線でした。みなさん、考えてもみなさい。国が解放されて以来、数十年を経たこんにちにいたっても、われわれは依然として民族主義者との統一戦線を強調しているではありませんか。われわれが革命活動をはじめた初期から、民族統一戦線の問題を民族の完全な大団結が実現するまで一貫して堅持すべき恒常的な戦略問題とみなしたのは正当なことでした。われわれは梁世鳳との談合に失敗しはしましたが、いつかは独立軍との連合の実現する日が来ることを疑わなかったし、その日を早めるために熱情と努力を惜しみませんでした。あれほど頑固な中国人反日部隊とも共同戦線を結んだというのに、同じ血を分けた同族同士の共同戦線を実現できない理由があろうはずはありません。それが実現できないというのは、外国人にたいしても恥ずかしいことです。
第二次北満州遠征を終えて西間島に進出したのち、わたしはいろいろなルートを通して南満州の独立軍の消息を系統的に入手しました。そして、彼らとの提携を実現するための活動を進めました。まず連絡員を派遣して、祖国光復会の創立宣言と一〇大綱領を送りました。手はじめとして、独立軍との合作工作は南満州の抗日連軍の各部隊で活動していた朝鮮の同志たちに受け持たせました。李(リ)東(ドン)光(グァン)は祖国光復会南満州代表の資格で独立軍の工作にあたりました。ところが、独立軍側は頑として受け付けませんでした。梁世鳳なき後の独立軍司令のポストは金(キム)活(ファル)石(ソク)という人物が占めていましたが、彼は頑迷な反共分子でした。もちろん、独立軍内部には新思潮に共鳴し容共に傾く人も少なくありませんでした。しかし、国民府当時から高(コ)而(イ)虚(ホ)や玄(ヒョン)黙(ムク)観(クァン)といった徹底した反共狂信者に追従してきた右翼系が無視できない勢力をなしていて、彼らとの合作工作は思うようにはかどりませんでした。梁世鳳が生存していたとき、楊靖宇部隊との共同行動を実現したことがありましたが、ようやく芽生えたその容共の大事が金活石司令の代に引き継がれなかったのは、軍上層を占めていた反共分子らのためでした。
金活石を容共に踏み切らせることは、その麾下の数百名の部下の運命にかかわることで、一時も遅らせることのできない重大事でした。正直な話、われわれが当時、独立軍との合作にこれほど大きな意義を付与したのは、彼らの助けがほしかったからではありませんでした。一九三六年当時といえば、朝鮮人民革命軍が軍勢のうえでも軍事技術のうえでも精強を誇っていた時期です。われわれは独立軍の助けがなくても十分独自に戦える準備ができていました。反対に、独立軍は当時下り坂にさしかかっていた時期なので、きわめて困難な状態におかれていました。兵員はどんどん減り、武器も不足して、なかには槍や棍棒を携えている隊員もいるというありさまでした。弱体化した独立軍は敵と戦うでもなく避けてまわるだけだったので、武器と弾薬はもとより、食糧や衣服の補給源もありませんでした。

抗日革命闘士の金明俊は金活石の麾下にいて、朝鮮人民革命軍に入隊した崔允亀の同行者であった。金明俊は一九六〇年に書いた手記で、独立軍に入隊した時期とその後の独立軍の状況についてつぎのように回想している。
「一九三二年の秋、わたしたちは… 煙筒山付近に駐屯していた独立軍部隊を訪ねていった。村は独立軍歓迎宴の準備におおわらわだった。わたしと同友は豚をつぶしているところへ行き、あれこれと手伝いをして軍人の歓心を買おうと努めた。そのつぎは歩哨の使い走りをした。けれども独立軍の指揮官はまだ子どもだという理由でわたしたちの入隊志願を拒否した。その夜、わたしたちは決心して、移動する部隊のしんがりについて行った。わたしと同友は独立軍が村につくたびに彼らを手伝って熱心に働いた。わたしたちのかいがいしい働きぶりと参軍熱意に感心した中隊長は、とうとう入隊を承認してくれた。そのときのうれしさはなんと表現してよいかわからないくらいだった。しかし、入隊後しばらくして、わたしたちは独立軍が夢に描いていたような軍隊でないことを知って失望した。わたしたちがあれほど憧れていた独立軍には、銃がなくて棍棒を持っている人もいた。入隊さえすればすぐ銃をもらえるものと思ったのだが、わたしもやはり最初は銃がなくて、歩哨に立つたびに先輩軍人の套筒(旧式小銃の一種)を借りたものだった」
朝鮮人民革命軍に入隊した金明俊は、小部隊活動の時期、ソ連領極東の訓練基地で金日成同志の身近で数年間生活した。金日成同志は金明俊を通して、金活石司令の率いる独立軍の実情をいろいろと知った。金日成同志は、独立軍が崔允亀にしたがって朝鮮人民革命軍に編入したのは、わが国の民族主義運動発展の一つの必然的な帰結であったと述べている。

独立軍は武器を人民からの義捐金で入手したように、衣食住の問題も人民を煩わせて解決しました。管轄区域の住民に「年租」という名目の税金を課し、それを義務的に納入させました。徴収担当者は台帳を開き、所帯別に住民を呼び出しては一人ひとり納入状況をただしました。定められた納入額を納めない人がいると、叱りつけたり体刑を加えたりしました。
かつて正義府がそうであったように、国民府の軍隊も南満州で一つの独立国家にひとしい振舞いをしました。金明俊の話によると、独立軍は一九三〇年代の中期から本来の使命からはずれ、しだいに土匪化していったとのことです。独立軍のある小部隊は、食糧事情が苦しくなってくると鴨緑江畔に出て、筏流しの食糧まで奪い取りました。土匪を装って流れ口に待機していては空砲を数発放ち、筏を強引に岸辺に着けさせ、容赦なく食糧を奪い取っていくというのですから、これが独立軍のやり方といえるでしょうか。いかに窮余の策とはいえ、度を越しています。人民の保護者、救援者たるべき独立軍がこれほどまで堕落し腐敗するとは、なんと恥ずべきことではありませんか。独立軍内部ではしだいに軍紀が乱れ、脱営者が続出するようになりました。金明俊の小隊長も指揮部の箱から司令の印鑑と銃、金などを盗みだし、当直兵と歩哨を連れて逃走したとのことです。山林部隊も独立軍に出会うと有無を言わせず武装解除しました。独立軍の境遇は文字どおり四面楚歌でした。
われわれは、独立軍がその使命をまっとうできず壊滅するのを望みませんでした。独立軍が滅びて喜ぶのは日本帝国主義者であって、われわれに有利なことは何ひとつありませんでした。少なからぬ愛国志士が独立運動から退いたり、敵の従僕になりさがっているとき、それでも独立軍が創軍当時の初志をすてず、一つの軍事勢力として存在を維持していくのは、民族のためになることでした。存在を維持しているということだけでも、独立軍は民衆に支持され愛されることができたのです。最後の段階にきては活力がなくなったものの、初期と中期には多くの戦闘をおこない、少なからぬ戦果もおさめました。当時、独立軍の指揮官たちは、日満軍警の重なる「討伐」と内部の思想的混乱によって生じた軍の崩壊を食い止めようと腐心しました。独立軍の思想的変質でいちばんの問題は敗北主義でした。敗北主義思想は敵への投降、隊伍からの脱走、愛国軍隊としての体面をすてての土匪化などに表現されました。
金活石をはじめ軍の一部の上層人物と部分的な将兵は、蒋介石軍の援助に期待をかけていました。彼らは国民党に幻想を抱き、その支援を受けて軍を維持しようとはかりました。事大主義というのはなにも特別なものではありません。力が弱いとき他国に頼ろうとしたり、他国にすがって活路を開こうとすれば、おのずと事大主義が生まれるものです。事大主義という病気は、天性のものでもなければ天から降ってくるものでもありません。自分の力を信じなかったり、過小評価するようになれば、いかに愛国心の強い人でも事大主義者になってしまうものです。前にも指摘しましたが、独立軍の致命的な思想的制約は、まさに自分自身と自国人民の力を信じないところにありました。自分自身と自国人民の力を信じない人の行き着く終着点がほかならぬ事大主義であり、事大主義の導く道は売国と反逆です。事大主義者で祖国と民族を蔑視しない者はなく、祖国と民族を蔑視する者で売国と反逆の道に走らない者がいないということは、これまでの歴史が十分に証言しています。だからといって、独立軍の兵士、指揮官がすべて国民党の資金と武器に期待をかけていたわけではありません。司令は蒋介石を「神様」のように頼りにしていましたが、多くの指揮官は彼を信じませんでした。彼らはむしろ国民党軍との連合よりも朝鮮人民革命軍との連合にはるかに大きな関心を寄せていました。独立軍の兵士、指揮官はうわさだけでなく、実際の体験によって人民革命軍がどんな軍隊であるかをよく理解したのです。
金明俊がソ連領極東の訓練基地にいたころ聞かせてくれた話がいまも思い出されます。何年度だったか、金明俊が所属していた独立軍の小部隊が、集安県の山間村落で偶然、人民革命軍の一小部隊に出会ったことがあるそうです。深夜に村に着いた独立軍の小部隊は、宿を借りるつもりである家の戸を叩きました。ところがあいにく、その家には人民革命軍の小部隊が先客として投宿していました。独立軍の小部隊が宿所を求めてあの家この家と訪ねまわっていることを知った人民革命軍の隊員たちは、自分たちの投宿した家を快く空けてやりました。そして食糧を切らしたという話を聞いては糧米も分けてやりました。夜中、小用を足しに外に出た独立軍の隊員は驚くべき光景を目撃しました。消えかかった焚き火のまわりに、人民革命軍の隊員たちが抱き合うように円形をつくって露宿していたのです。敷き布団も掛け布団もなく、ただトウモロコシの茎を敷いているだけでした。こういう光景を見て感動しない人はいないはずです。翌朝、独立軍の隊員たちは、人民革命軍の兵士、指揮官が焚き火のまわりのトウモロコシの茎をかたづけ、水汲み、薪割り、庭掃除と家の老夫婦の仕事を手伝っている姿を見ては、いっそう感服しました。中国人の老主人も抗日遊撃隊員のふるまいに感動し、一人ひとり隊員たちの手を取っては、「こんな軍隊を見たのははじめてです。あんた方こそ本当の人民の軍隊、わしらの軍隊です」とほめました。これは金明俊の小部隊隊員たちの口を通して独立軍の上下層に広く知られ、語りぐさになりました。崔允亀もこの話を聞いて感銘を受けたとのことです。
独立軍兵士の心が人民革命軍の側に傾くのは阻みがたい流れとなりました。独立軍が生きのびる道は人民革命軍との連合以外にありませんでした。容共のみが生きる道であり、合作のみが唯一の活路でした。われわれが望んだのは、独立軍が精強を誇って独自に戦いつづけるか、または人民革命軍と力を合わせ共同で抗日をつづけてくれればということでした。独立軍側の状態からすれば、人民革命軍との合作成功の可能性は十分にありました。要は、反共を唱えて蒋介石に期待をかけている金活石司令とその追随者をどういう方法で味方につけるかということでした。われわれが派遣した工作員と南満州の同志たちからの通報によれば、崔允亀は祖国光復会の創立宣言と一〇大綱領を読んですこぶる満足したとのことでした。わたしが独立軍との合作を決定的に実現しようと決心したのは祖国光復会を創立した後であり、それを実践に移しはじめたのは白頭山地区と西間島に進出してからでした。それ以前にも、人民革命軍側としては主動的に独立軍指揮部との接触を何回か試みたことがあります。独立軍側としては民族反日勢力の合作にかんするわれわれの思想に反対はしませんでしたが、朝鮮人民革命軍と独立軍との連合にかんするわれわれの提案にたいしては口をつぐんでなんの返答もしませんでした。
そういうときに、南満州へ向かう崔春国に、独立軍との合作を推進する任務を与えました。南満州に到着した崔春国は、まず崔允亀にわたしの手紙を伝えたのち、両軍合同の問題について彼と極秘に談合しました。崔春国が共同抗日についてのわれわれの立場を説明すると、崔允亀は即座に両軍の合同に賛同しました。彼とわたしは昔からのよしみもありましたが、それにもまして独立軍のなかで彼の反日意志はもっとも確固としていました。そのとき崔允亀は崔春国に、「われわれの部隊は外形だけのもので、中味は食いつくしたキムチ樽のようなものだ。わたし個人の気持からすれば、部隊を率いていますぐにでも金(キム)成(ソン)柱(ジュ)隊長のもとに駆けつけたい。司令がどうしても我を通そうとするなら、わたし一人でも革命軍に転ずるつもりだ」と言ったそうです。崔春国は「われわれは独立軍の分裂を望まない。副司令が支持者を連れて白頭山に来るのもよいが、なんとか司令をよく納得させて朝鮮人民革命軍と連合できるようにしてみるべきだ」と崔允亀を説得しました。崔允亀は司令を説き伏せる自信はないと言いながらも、共同抗日の実現のために最善をつくすと約束しました。共同戦線を張らずには活路が開かれないというのは、彼が多年間、独立軍で民族運動の腐敗と変質の過程をじかに目撃して得た教訓でした。
金活石は部隊を三つに分けて分散活動をする方法で独立軍の損失を防ごうとしましたが、それは弥(び)縫(ほう)策にすぎませんでした。民衆のなかにしっかり根を下ろしていない独立軍は、陣容を補充する後続隊をもっていませんでした。崔允亀は、独立軍が衰退していくのに反し、人民革命軍が勃興するのはなぜだろうか、独立軍は軍紀が乱れて収拾しがたいのに反し、人民革命軍はますます軍紀が強まり、敵を震えあがらせるのはなぜだろうか、独立軍は人民を収奪せずにはなりたっていかないのに反し、人民革命軍は人民の財物を侵さずとも衣食に事欠かないのはなぜだろうか、独立軍は日本軍との交戦で連敗するのに反し、人民革命軍が連戦連勝するのはなぜだろうか、独立軍が人民革命軍を毛嫌いするのに反し、人民革命軍が独立軍を友軍とみなすのはなぜだろうか、と自問しました。崔允亀はその原因を民衆的基盤に求めたといいます。独立軍が広範な人民大衆の積極的な支持声援を受けられず孤軍奮闘するのも民衆的基盤が弱いためであり、部隊の腐敗変質の過程を食い止めることができないのも民衆的基盤が堅実でないためだというのが、彼の見解でした。そして、民衆から離れて民衆の頭上に君臨している独立軍の展望は暗たんたるものだが、民衆のなかから生まれ、民衆と運命をともにする人民革命軍の前途は洋々たるものだと考えたのです。
独立軍の民衆的基盤が弱いのは、必然的な現象でした。独立軍の活動と志向は、民衆中心の思想とは縁遠いブルジョア民族主義思想にその基礎をおいていました。この思想の特徴は勤労者大衆を革命の主人とみなさないところにあり、そのため各階層の広範な反日愛国勢力との統一を望まず、共産主義を排斥するところにありました。崔允亀は独立軍の衰退、孤立、崩壊の根本原因をまさにここに求め、人民革命軍との連合を実現したのち、共産主義者の構築した民衆的基盤に立ってのみ、民族にたいする本来の使命を忠実に果たすことができるという結論に到達したのです。
ところが金活石は、人民革命軍と連合して利を得るのは共産主義者であって、独立軍はその存在を終えることになるといって、合作提案を無視してしまいました。独立軍はたとえ寿命が尽きて滅びるようなことがあっても、共産主義者とは同じ釜の飯を食えないというのが金活石の立場だったとのことです。彼は、共産主義者の宣伝にだまされるな、彼らは階級闘争しか知らない人間だ、彼らが統一戦線を云々するのは一時的な欺瞞策だ、裏表のある人間たちだから彼らを相手にしないのが上策だといって、反共の立場から一歩も動こうとしませんでした。司令と副司令の議論が空転しているうちに、部隊の状況はますます悪化していきました。食糧と被服が欠乏しているうえに、敵の包囲に陥り身動きがとれなくなったのです。かてて加えて脱営する者、帰順する者、餓死する者が続出したため、将兵の士気は急速に衰えました。
崔允亀は最後の決着をつけるつもりで、司令と最終談判をしました。あなたがもしわたしの提議に応じられないなら仕方がない、部隊が二つに割れることになっても、わたしは連合を支持する隊員を連れてあなたのもとを去るしかない、いま決断を下さないかぎり全滅するほかない、蔣介石のところに行くなり金日成のところに行くなり、各自の望みどおり行動する自由を与えよ、と詰め寄りました。にっちもさっちもいかなくなった金活石は、彼の提議に同意せざるをえませんでした。彼の指示で独立軍の全将兵が集まりました。司令は苦境に陥った部隊の実情を悲愴な面持ちで説明したのち、「諸君のなかで金日成部隊へ行きたい者は前へ出ろ」と言いました。最初はそう言われても、前に進み出る部下はいなかったそうです。司令の腹を読みかねたからでした。容共分子を捜し出して処置しようとしているのか、わかったものではありません。いちばん最初に隊列の前に出たのは金明俊だったそうです。それにつづいて多くの隊員が前に出ました。どんな難事にあたっても、先駆者がいれば必ず解決されるものです。金明俊はまさに先駆者でした。それでわたしは、人民革命軍に入隊した彼にとくに目をかけたものです。
「あのときわたしの決心をあおりたてたのは崔允亀副司令でした。副司令は何一つ言いませんでしたが、眼差しでわたしたちを力づけ、決心どおり行動するよう促しました」
これは、かなりの歳月を経たのち、金明俊が金活石司令と決別したときのことを回想して言ったことです。こうして部隊は二つに分かれることになったのですが、いざ別れるとなると、みながみな泣いたといいます。金活石司令も泣き、崔允亀副司令も泣き… 泣かなかった人はいなかったそうです。体が二つに割かれたも同然なのですから、その辛さ、苦しさはいかばかりであったでしょうか。
独立軍は二つに分かれ、朝鮮独立の日に再会することを約束して、それぞれ違った方向に出発しました。一隊は崔允亀の引率のもとに朝鮮人民革命軍を訪ねて出発し、数十名にすぎない他の一隊は金活石の指揮のもとに鳳凰城付近へ移動しました。ただ一つ南満州地方に残って日本帝国主義者に抵抗していた国民府の軍隊は、こうして解体したのです。
「わたしは遠い回り道をして、やっと成柱隊長のもとにきた。まっすぐに来られる道だったのに… われわれがあまりにも優柔不断だったのだ」
これは崔允亀が南牌子でわたしに語った言葉です。
わたしは彼の義挙を心から称賛しました。崔允亀が断行した義挙は、わが国の民族解放闘争史と民族統一戦線運動史に特筆大書すべき驚異的な出来事でした。これは抗日武装闘争の初期からわれわれが一貫して実施してきた統一戦線政策の勝利であり、「祖国光復会一〇大綱領」の貫徹をめざす闘争で共産主義者が積み上げた、いま一つの塔ともいえました。朝鮮人民革命軍と独立軍の連合は、共産主義者と民族主義者が必ず学び参考とすべき一つの先駆的な手本となりました。その手本をつくりだした功労者である崔春国と崔允亀の功績は、わが国の民族統一戦線運動史と民族大団結の歴史の一ぺージを堂々と占めることができます。それでわたしは崔允亀が忘れられないのです。崔允亀は容共の先駆者、実践者であった、度量の大きい人でした。こういう事実からしても、抗日武装闘争史を専攻する歴史家は、民族統一戦線運動史の叙述にあたって必ず、崔允亀の功績を特筆しなければなりません。
崔允亀の義挙により、われわれの革命運動線上には、父の世代と息子の世代の同盟が結ばれたといえます。崔允亀は思潮からすれば、わたしの父の世代に属する人物でした。父の世代が大部分民族主義を志向していたのに反し、われわれの世代はおおむね共産主義を志向しました。共産主義と民族主義を氷炭相容れない関係だとみなしていた両世代の愛国者が、結局は理念の違いを超越して共同抗日の道を歩みだすようになったわけです。崔允亀の義挙は、理念が異なり、信教と政見の異なる人であっても、祖国と民族を愛する心をもっていれば十分団結し和合することができることを証明しました。
崔允亀は人民革命軍に移ってきたのち、共産党に入党もしました。彼は参謀の要職にあって抗日革命の勝利のために勇敢に戦い、一九三八年末、樺甸県で戦死しました。父の戦友でもあり、わたしの革命同志でもあった彼を、わたしは痛々しい気持で追悼しました。容共の道を開いた彼が、解放の日を見ずして逝ったのが何よりも痛ましかったのです。
崔允亀とは異なり、金活石は蔣介石に会いに行く途中、敵の手にかかって独立軍司令としての使命をまっとうすることができませんでした。日本帝国主義者は、金活石が蔣介石への幻想を抱いて彼と結ぼうとしていることを察知し、奸計をめぐらしました。蔣介石の特使に装わせた特務を送って金活石を欺いたのです。特務は偽造した蔣介石の信任状を示し、蔣総統が金活石司令との会見を心待ちにしているからと誘いました。 蔣介石への期待に目がくらんだ金活石は、相手の身元を確認しようともせず、軽率に特務の後にしたがいました。特務は彼をまっすぐ憲兵隊司令部に誘導しました。金活石の運命を誤らせたのは結局、反共病と事大主義病でした。わが国の民族史が示しているように、事大主義者と反共分子は例外なく、売国と反逆、背信の道を歩むものです。孫中山はブルジョア民主主義革命の指導者でしたが、容共政策をとったので広範な大衆に支持され、革命をつづけることができました。金(キム)九(グ)は晩年に反共から容共、愛国への再出発をすることによって、誇らしく民族史の一ぺージに記されるようになりました。金活石も彼らのように容共に転じていたなら、日本人の罠にはまらず、人民に愛される愛国者として生涯を終えることができたはずです。
それで、わたしは反共病にかかった人に会うと、反共は自分自身を滅ぼすのみでなく、民族と人民に背く道であることを強調しているのです。人民の側に立つ共産主義者に反対するのは、とりもなおさず人民に背くのと同じことだとみなすべきです。容共が愛国、愛族、愛民の道であり、反共が祖国と民族と人民に背く道となる理由の一つはまさにここにあるのです。
崔允亀にしたがって人民革命軍に移ってきた金明俊も、一生涯、忠実に革命の道を歩んできました。解放後は長らくわたしの副官を務めました。彼は実直かつ純朴な人で、いつもわたしの身近にいて補佐してくれました。金正日同志は、金明俊が独立軍の最後の人物だとして評価し、優遇しています。
洪(ホン)春(チュン)洙(ス)も独立軍から人民革命軍に移ってきた人です。
祖国の解放をめざす戦いの日々、独立軍部隊が朝鮮人民革命軍に合流して日本帝国主義侵略者と戦った歴史的経験は、こんにち北と南、海外のすべての民族愛国勢力が、思想と理念、政見の違いを超越して一つに団結し、共同で外部勢力とたたかうべきであり、またたたかうことができることを雄弁に証明しています。

四 王村長と王署長

一九三〇年代の後半期、朝鮮人民革命軍を物心両面から積極的に支援してくれた中国の友人のなかには、敵の機関に奉仕する二人の王氏もいた。その一人は臨江県大荒溝の村長を務め、別の一人は臨江県賈家営で満州国警察分署の分署長を務めて地元の住民から王署長と呼ばれていた。日本帝国主義の植民地政策を末端行政機関で実行していた二人の王氏が、どんな機縁で朝鮮人民革命軍と連係を結び、のちに抗日革命の同調者、支持者にまでなったのであろうか。この二人にたいする工作は、金日成同志が中日戦争勃発後、自らおこなった政治工作の一つであった。金日成同志は王村長と王署長にそれぞれ一度だけしか会っていないが、数十年の歳月が流れたのちにも彼らを忘れずにいた。

わたしに王村長のことをはじめて話してくれたのは、第八連隊第一中隊の政治指導員朱(チュ)在(ジェ)日(イル)でした。臨江県大荒溝での敵中工作を終えて帰隊した朱在日は、大荒溝一帯で祖国光復会組織を拡大するにはまず王村長から味方につけるべきだと言い、彼について詳しく報告するのでした。
朱在日に王村長の経歴を話したのは、以前、彼が和竜県三道溝牛心山で党支部の書記を務めていたときに入党させた人でした。その人の正体が露呈して和竜にはそれ以上いられなくなったため、党組織は彼を臨江県に潜行させました。臨江県には彼の親戚がいたそうです。彼は大荒溝付近の小屋を借りて、ほそぼそと生計を立てていましたが、そこに来てからも党活動を放棄せず、自分のまわりに信頼できる人を集めているとのことでした。彼はかつての党支部書記であった朱在日に会うや、組織とのつながりを回復してもらいたいと申し出たそうです。わたしは朱在日に、ただちに大荒溝へ行ってその党員に会い、彼の保証するメンバーで組織を結成し、連絡ルートを接続するよう指示しました。朱在日は再びその党員に会い、司令部がじきじきにきみの活動を指導するから、安心して祖国光復会の組織を拡大するようにと言いました。こうして、大荒溝にわれわれの組織が生まれました。おそらくそれが、われわれが臨江県へ行ってはじめて発足させた祖国光復会の組織だったと思います。
わたしは朱在日に、王村長を味方につける任務も併せて与えました。こういう過程を経て、王村長はわれわれの工作対象として浮上しました。われわれは大荒溝の地下組織を通して半年以上、彼の動向を探りました。王村長にたいするわれわれの工作が実を結んだのは一九三八年の春でした。一九三八年の春といえば、われわれが馬塘溝での軍事・政治学習を終えて長白へ進出する時期でした。部隊の行軍コースに大荒溝が含まれていたので、臨江へ行けば時間をさいて王村長に会ってみようと考えました。われわれは長白へ南下する途中、いろいろと苦労をしました。大荒溝まであと二〇キロというところまで来たときには食糧が切れ、行軍をつづけることができなくなりました。隊員たちも疲れきっていました。そのままでは、部隊を率いて長白まで行き着くことができませんでした。隊員に食糧を与えないことには行軍も戦闘もできないというのに、一升ほどの食糧もないありさまなので、どうしようもありませんでした。戦闘でもして食糧をろ獲したいところでしたが、隊員は疲労困憊して戦闘はおろか、身を支えるのもやっとの状態でした。王村長にたいする工作に一段落つけようと考えたのはそのときでした。王村長への働きかけが成功すれば、食糧を手に入れ、われわれの活動に有利な環境をつくりだすこともできるだろうと考えたのです。
大荒溝の隣に小荒溝という村がありました。ところが、その村の地下組織が危機に瀕していました。
その村の組織も、朱在日が、牛心山で党支部書記を務めていたときに入党させたという例の党員が関係していたのです。その組織の活動はめざましく、小荒溝だけでなく他の村々にも組織網を拡大しつつあったのですが、つい秘密が露見してしまいました。敵は村を襲って組織のメンバーを見境なく殺害し、住居に火を放ちました。老人や子どもまで銃で撃ち殺され、剣で刺し殺されました。かろうじて虐殺をまぬがれた幾人かの組織メンバーと住民が大荒溝に逃げこみました。彼らの運命は王村長の胸三寸にかかっていました。そのころ、王村長は自衛団の団長も兼ねていました。彼がどういう立場をとるかによって、小荒溝の組織メンバーと避難民が助かるか禍をこうむるかが決まる瀬戸際でした。こういう事情もあって、わたしは早く王村長をわれわれの支持者、協力者にしなければならないという考えを強めるようになりました。
わたしは、王村長に働きかける工作員を大荒溝へ送り込みました。工作員たちは王村長をぜひとも獲得すべきだとは言いながらも、自衛団長の肩書きをもっている彼のことだから工作が暗礁に乗り上げるのではなかろうかと憂慮しました。けれども、わたしは工作の成功を信じていました。わたしがそう確信したのは、王村長を良心のある人と判断したからです。彼が良心のある人だとする証拠は何か。彼は村長兼自衛団長になって以来、管轄地域の住民を一人も手にかけていないという事実です。わたしはこれを重要な証左とみなしました。当時、おのれひとりの保身と栄達に目がくらんでいた者は、自衛団長や村長といった官職を手に入れようものなら、実績を上げようと愛国者の一人二人を手にかけるくらいのことは朝飯前でした。ところが、王村長は誰一人密告もしなかったし、手にかけもしませんでした。彼は小荒溝から来た避難民や遺族にたいしてもいまのところ危害を加えず、自分の管轄区域に住めるよう黙認しているとのことでした。もし彼が悪人であったなら、そうはしなかったはずです。自分の村に共産党の村から逃げてきたアカどもがいるからつかまえていけと密告するなり、じかに自衛団員を駆り出して避難民を全部殺し、賞金をもらっているはずです。日本の軍警が虐殺しかけて逃してしまった人たちを村に受け入れ、安住できるようにするというのは、普通の度胸や覚悟ではできないことです。もしもそういう事実が発覚した日には、村長自身がきびしい制裁の対象になりかねませんでした。王村長はそういうことまですべて覚悟のうえで、義俠心を発揮した人だと評価することができました。わたしは大荒溝に向かう工作員たちに、王村長は良心的な人らしい、大胆に接近して遊撃隊が日本帝国主義者と戦う目的を十分に説明すれば、彼をわれわれの味方につけることができるはずだと言い含めました。
大荒溝へ行った工作員たちは仮小屋の主人の手引きで王村長に会い、われわれとの合作を提議しました。王村長はそれに快く同意したうえ、わたしとの対面まで要望しました。革命軍の要求はなんでも聞き入れるから、金日成将軍にぜひ会わせてもらいたいと言うのでした。部隊の指揮官たちは、その要望をかなえてやるべきだ、いやそれはだめだと長時間論議しました。司令部にたいする謀略工作が頻発していたため、指揮官も隊員も神経をとがらせている時期でした。わたしは下部でこういう論議がなされていることを知り、指揮官たちを説き伏せて王村長を密営に連れてこさせることにしました。自分の要望が容れられたという知らせを受けた王村長は、極秘裏に村人を動員し食糧と靴類をはじめ数々の給養物資を準備して司令部を訪ねてきました。会ってみると三四~三五歳と見える好男子で、礼儀正しく身ごなしも上品なうえに闊達で、第一印象からして好感がもてました。王村長の家庭の様子や健康状態についてしばらく対話をしたのち、わたしは彼がその間、民族的良心を失わず知性人らしく生きてきたことを高く評価し、今後とも村長の肩書きを利用してわれわれを支援してほしいと説得しました。
「日本も満州国も長くはありません。あなたの村長の役職は満州国から与えられたものですが、あなたはそれを日本や満州国のためにではなく、祖国のため、人民のため、革命のために最大限に利用すべきです。そのためには、人民を動員して革命軍を積極的に支援しなければなりません。わたしは、あなたがわれわれの期待を裏切らないものと信じます」
王村長はわたしの信任を得たことをたいそうありがたがりました。
「わたしのような者をこんなにまで信頼していただき、このうえ申し上げることがございません。一生忘れずに、将軍のお言葉どおりたたかってみます」
彼はわたしのところに来るとき、酒肴まで携えてきました。とても気配りがよく社交性に富んだ人だという感じがしました。わたしたちは幕舎のなかでパイカル酒を酌み交わしました。王村長は酒に異常のないことを証明しようと、まず自分が一杯あけてからわたしに杯をすすめました。やがてほろ酔い気分になった彼は、誰にも話していないことだと前置きして、身の上話をしました。小説さながらに興味津々として筋の通った話で、ほろりとさせられるものがありました。
王村長の父親は東寧県で生まれ育った満州族でした。生活があまりにも貧しかったため、年が四〇になるまで結婚もできず各地を転々としているうちに、気の合う女性にめぐり合って所帯をもつことになったそうです。いつしか彼らの家庭にはかわいらしい男の子が生まれました。それがほかならぬ未来の王村長でした。一年二年と歳月が流れるうちに、息子はきりりとした顔立ちの聡明な少年に成長しました。ところが暮らしがあまりにも貧しかったので、息子を人並みに育てたくてもそれができませんでした。彼の父親は、満州よりましな暮らしのできるところはないだろうかと、いつも考えました。そういうところがあれば、すぐにでも息子を連れて満州を離れたい気持ちでした。そんなときに、ロシアへ出稼ぎに行く途中、路銀を工面しようとその村に留まっていた朝鮮の青年たちから、江東が住みよいという話を聞きました。われわれの祖父や父の世代の人たちのなかには、ロシアを俄羅斯(アラサ)とか江東と呼ぶ人が多かったのです。王村長の父親は、朝鮮の青年たちが村を発つとき、彼らと連れ立ってロシアヘ行きました。青年たちは金を稼ごうと金鉱を渡り歩きましたが徒労に終わり、ひと所に集まって農業を営みはじめました。そのうち、彼らを中心に農作を専業とする朝鮮人村が新たに生まれました。王村長の父親は中国人でしたが、その村で朝鮮人と一緒に生活しました。民族は違っても、彼らは実の兄弟のように仲良く暮らしました。子どもはその村の学校に通ったので、おのずと朝鮮の風習になじむようになり、朝鮮語も上手に使いこなしました。その後、ロシアでは新旧の党派争いがすさまじく展開されるようになりました。新党とはボルシェビキのことであり、旧党とは白衛集団を意味しました。村人も新旧党派争いのあおりで曲折を経たといいます。ボルシェビキの勢力が優勢になって反革命勢力を追い出せばボルシェビキの天下になり、白衛派が勢力を張れば一朝にして村が白衛派の天下になるというありさまでした。村人はしだいに共産党支持勢力と白衛派支持勢力とに分かれ、はなはだしくは一家のなかでも長男が新党派になれば、次男、三男は旧党派となってせめぎ合う騒乱が起こりました。争いの末に犠牲者まで出るようになりました。王村長の父親も旧党派にフォークで刺されて惨死しました。幼い息子はあわれな孤児の身になってしまいました。村人はみな少年を同情しましたが、新党派を支持して死んだ人の息子なので、旧党派の忌諱に触れてはと、誰も面倒をみてやることができませんでした。旧党派は新党派を根絶やしにするといって、少年をなきものにしようとしました、事態は急迫していました。父親に代わって少年の面倒をみてやったのは、東寧県からロシアヘ出稼ぎに来ていた朝鮮の青年でした。うすら寒い秋のある日、その青年は少年を連れて国境を越え、東寧県方面に脱出しました。少年の母親を捜すためでした。ところが、途中で馬賊にとらえられる破目になりました。馬賊は少年を人質にして、金品を巻き上げようとしました。しかし少年が天涯孤独の身であることを知って、殺そうとしました。そのとき馬賊の副頭領が、あわれな子どもを殺してなんになるのだ、朝鮮人は行きたいところへ行かせ、子どもはわしのところに連れてこい、と命じました。こうして、馬賊に旅費を巻き上げられ、少年まで奪われた朝鮮の青年はいずこともなく立ち去り、少年は馬賊の巣窟に残されて副頭領の保護を受けるようになりました。副頭領が少年を殺させなくしたのは、その子が気に入ったからでした。ある日の夜、彼は少年を連れて馬賊の巣窟を脱出したそうです。こうして彼の逃げ落ちたところがほかならぬ臨江だったのです。彼は大荒溝に来て畑と家を買い、金持ち然として少年を養子にしました。副頭領が金持ちになれたのは、馬賊団を脱走するとき共同財産として保管していた大金を持ち出してきたからでした。少年の養父となった副頭領は山東地方出身の王氏でした。彼は養子の少年にも王姓をつけました。権勢があってこそ豪奢な生活ができるというのが、彼の人生観でした。彼は養子を権勢家に育てるために学校にもやり、のちには村長にまで推し立ててくれたとのことです。王村長は、養父の恩ももちろん大きいが、実父が殺されたのち自分をかばって満州まで連れてきてくれた朝鮮の青年を生涯忘れることができないと言いました。
「金や財物を持っていながら、恩返しをするすべがなくてもどかしいばかりです。ただあの方のご恩に報いる気持ちで、朝鮮の人たちの不幸に同情し胸痛く思うのみです。小荒溝からの避難者のほとんどは朝鮮の人たちでした。それで小生は命を賭けてその人たちをかばったのです。恩人にお礼をする気持ちでです」
王村長は涙ながらにこう言いました。彼は義理堅い人でした。恩人にお礼をする気持ちで朝鮮人をかばっているという彼の言葉はわたしをいたく感動させました。
「あなたが朝鮮人の不幸に同情し、彼らを窮地から救ってくれたことをありがたく思います。義理を重んじる人は恩人にだけでなく、人民のためにもよいことをすることができます。これからあなたは自分を満州国に仕える村長ではなく、人民に仕える村長だと思ってください」
王村長はわたしの信頼を裏切らないと重ね重ね誓いました。王村長が村に帰るとき、わたしは彼に護衛を二名つけて送りました。その日から、彼はわれわれの友人となり、われわれを大いに援助してくれました。生きていれば会ってみたい気持ちは山々ですが、行方も知れず、生死のほどもわからないので、もどかしくてなりません。
王署長を獲得した過程も、王村長を獲得したときの過程と似通った点が少なくありません。王署長をわたしにはじめて紹介したのは、第七連隊政治委員の金(キム)平(ピョン)でした。金平はひところ崔(チェ)一(イル)賢(ヒョン)の中隊を率いて長白、臨江県あたりに進出し、小部隊工作を指導しました。各地へ小部隊を派遣してはその活動を指導するかたわら、自らも地方工作にあたりました。彼が派遣した小部隊のうち、あるグループは臨江県の五道溝と三道溝一帯で活動しました。
ある日、隊員の一人がグループの責任者のところに来て、賈家営の満州国警察分署のためにグループ活動が少なからず支障を受けているが、どう対処すべきかと伺いを立てました。おそらく彼は、分署を襲撃しこらしめてやりたいと思ったのでしょう。臨江や濛江、撫松地方を出歩く人は必ず賈家営を通過しなければならないのですが、そこに警察分署がでんと構えているのですから、問題は問題でした。金平はその隊員に会ったのち、彼から提起された問題をわたしに報告してきました。わたしは金平に、賈家営の満州国警察分署を掌握してみるよう命じました。襲撃はいつでもできるが、後のたたりもあってかえって面倒なことになりかねないから、大胆に接近して分署をわれわれの側に引き入れるのがよいと言いました。数日後、金平は、延吉県で区党書記を務めていたころからの知り合いが賈家営近辺の森の中に山小屋住まいをしているから、彼を仲立ちにすれば分署長と接触できそうだと言いました。延吉県一帯で赤衛隊の小隊長までした人だから信頼できると言うのでした。その人が「民生団」の連累者にされて死に目にあったとき、区党にいた朝鮮人が敵地に脱出させたいきさつがあったそうです。その人の姓は金氏だったと思います。その金氏は賈家営に来て以来、狩猟をして食いぶちを稼いでいたのですが、警察分署長が狩りを道楽にしていたので、自然に親しい仲になったというのです。
わたしは金平に、山小屋の金氏を知っているのはきみしかいないのだから、きみがじかにその人を通して王署長に接近するようにと言いました。ここまでは王村長を味方につけたときと同じような経緯だったといえます。かつての組織メンバーが警察官とよしみを通じるというのはまれなことでしたが、ありうることでした。しかし、どういういきさつがあってよしみを結んだのかを確かめる必要がありました。それがわかれば、王署長に接近する直路を開くことができました。金平が彼に会ってきて言うには、彼が遊撃区を離れたのは久しい前のことだが、心だけは以前と少しも変わっていないとのことでした。私服を着てあらわれた以前の区党書記を見るや、もしや変節して日本人の密偵になったのではないかと警戒するほどだったとのことです。軍服を着けていた人が私服に着替えて出歩くと、たまたまそういう誤解を受けることもありました。金平がわたしの指示で来たと聞いてはじめて、以前のようにうちとけた対応をしてくれたそうです。山小屋の金氏は、赤衛隊にいて「民生団」という汚名を着せられたまま敵地に抜け出してきたことをたいへん口惜しがっていました。彼は金平に、わたしを金日成将軍のところに連れて行ってくれ、金将軍の前でわたしが「民生団」でなかったことを話すから、あなたもその保証人になってくれ、金将軍が信じてくれれば、わたしは人民革命軍に入隊すると言いました。金平は彼に、金将軍のおかげで「民生団」問題はいっさい解決ずみだから、きみは何一つ心配せず革命戦線に立ち、胸を張って思い切り活動すべきだと話しました。金平の話を聞いた彼は、感激のあまり涙を流したとのことです。
山小屋の金氏が王署長とよしみを通じたのは一年前からでした。彼の狩猟区域にときおり王署長があらわれて狩りをしました。ところが、王署長は一、二匹しか獲物をしとめられないのに、金氏はきまって四、五匹はしとめました。ある日、王署長はそのこつを聞き出そうと山小屋に立ち寄りました。そして金氏の深い狩猟知識に感嘆し、きみは普通の猟師とは思えない、どことなく思想家かインテリくさいところがあると言うのでした。そう言われた金氏は、わたしが本物の猟師かどうか、明日狩猟の腕を競って確かめてみてはどうかと言いました。王署長はそれに同意しました。翌日の勝負で金氏が勝つと、王署長は酒をおごりました。山小屋で二人は酒を酌み交わしました。王署長が金氏に義兄弟の契りを結ぼうと言いだしたので、金氏は、わたしがあなたたちの家家礼(チャチャリ)に入るとなるとあなたの兄貴分にならねばならないが、それは少し考えさせてもらいたいと言いました。そして、あなたは分署長という重責をになっているのに、よくも分署をあけてたびたび狩りに出る暇がつくれるものだと、それとなく探りを入れてみました。すると王署長は、時間が余って狩りに出てくるのではない、むかむかするからだ、あの日本人どもは悪どいやつらだ、死にどころには満州国警察を立たせ、同じ星をつけていても満州国警察にはちょっとしたことでも怒鳴りつけたりこきおろしたりする、腹が立って我慢できない、と言うのでした。
山小屋の金氏からこういう話を聞いた金平は、彼に賈家営一帯で祖国光復会の下部組織を結成する任務を与え、さしあたり王署長に会えるようにしてもらいたいと頼みました。翌日、金氏は王署長を連れて金平に指定された接触の場所にあらわれました。王署長も王村長のように酒肴を用意してきました。酒は満州国官吏の大切な交際手段でした。王署長は王村長に比べ体がどっしりしていて性格も荒々しいほうですが、決断の早い人でした。なんでも逡巡することがなく、返答も明白でした。金平は王署長と初対面の挨拶をするとき、自分が金日成部隊の政治委員であることをあかしました。金司令の命を受けて共同抗日について談合しようとあなたを呼んだのだが、われわれと手を握る意向があるだろうかと、単刀直入に問いました。王署長は最初びっくりしてまゆ根をこわばらせたが、すぐに姿勢を正し、会うそうそう堅苦しいではないか、酒でも飲みながらゆっくり話をしようと言いました。彼は何杯か杯をあけると、金平のひざを叩いて「遊撃隊の政治委員は背は低いが気に入った。帯剣した者の前で眉一つ動かさず身分をあかすとはまったく恐れ入った」と感嘆しました。金平は「金日成司令官の部下は誰でもそうだ」と言いました。王署長は金平の耳に顔を寄せて、金司令に会わせてくれ、金司令に会わせてくれさえすれば、その前でわたしの決心を申し上げる、そのためにはあなたが家家礼に入らねばならない、それでなくてはあなたを完全に信頼することができない、と言うのでした。初日の談合によって、王署長は山小屋の主人も政治委員と同じ共産主義者であることを知りました。王署長は、山小屋の主人は家家礼に入って自分と兄弟になってからも共産党員であることを一度ももらさなかった、家家礼の秘密が一番だと思っていたが、共産主義者の秘密はその上をいく、といって感服しました。
わたしは金平に、家家礼に入ったからと姓が変わるわけでもないのだから、義兄弟の契りを結び、王署長を司令部に連れてくるようにと命じました。その後、わたしは賈家営付近で王署長に会いました。会ってみると、やはり王村長のように好感のもてる人でした。彼が贈物だといって野生の朝鮮人参を三本持ってきたことが思い出されます。王署長は、共同抗日をしようというわたしの提議にその場で同意しました。彼の言動はすこぶる自由闊達でした。自分は口すぎのために仕方なく警察勤めをしているのであって、共産党に反対しようと警察の帽子をかぶったのではない、日本人のやることを見ると銃を投げ出したい気持ちになるときがしょっちゅうある、金司令が手を握って共同抗日をしようというのには異議がない、金司令が分署長の役職をすてずに抗日をせよというのだから命令どおりにする、しかしわたしが警察の制服を着けていて、遊撃隊の誰もが金司令のようにわたしに接してくれるだろうか、両方の弾に当たって殺されるのではないか、と自分の思っていることを包み隠さずうちあけるのでした。わたしは王署長に、それは心配するに及ばない、あなたが正義を貫けば世間の知るところとなる、革命軍はたとえ敵の機関に加担した人であっても、抗日に参ずる人には危害を加えない、そのことについてはわたしが保証する、われわれのためにあなたにしてもらいたいことはほかでもない、われわれの活動を妨害しないことだ、これも抗日になる、ときどき情報を提供し、山小屋の主人と親しくして援助してやってほしい、と話しました。
それ以来、王署長はわれわれを積極的に支援してくれました。山小屋の金氏は彼の庇護のもとで賈家営に祖国光復会の下部組織を結成しました。われわれは王村長と王署長の助力で価値ある情報を少なからず入手しました。大荒溝の自衛団は、われわれの部隊の隊員に出会うとハンカチを振って歓迎までしました。
王村長と王署長にたいする工作の過程は、人間改造でわれわれが積んだいま一つの体験でした。この世のものはすべて改造できるというのがわたしの主張です。自然改造、社会改造、人間改造のうちでもっともむずかしいのが人間改造です。けれども、労すればすべて改造できるのが人間なのです。人間はその本性からすれば、美しいものと気高いもの、正義なるものを志向します。したがって、思想教育を正しくすれば誰でも改造することができます。人間改造というのは本質において思想改造です。しかし、ここで注意すべきことは、肩書きや身なりを見て人の思想を評価してはならないということです。言いかえれば、身分や職級を見てその人の思想を判断してはならないということです。もちろん、地主、資本家に搾取階級の思想があり、労働者、農民、勤労インテリに労働者階級の革命思想があるのは否定できないことです。しかし、洪(ホン)鐘(ジョン)宇(ウ)の(〔4〕)ように警察の制服を着た人にも、多かれ少なかれ良心があり、進歩的思想がありうるということを知るべきです。進歩的な思想というのはほかならぬ、人間愛、人民愛、民族愛、祖国愛です。人間の良心も結局はこういう愛によって表現されるのです。
われわれは人間改造において肩書きばかりでなく、国籍も問題にしません。良心があり愛国心がある人なら、中国人であってもためらうことなく手を握り、敵の機関に奉仕する中国人までも思い切って包容しました。われわれに敵の機関に奉仕した朝鮮人を教育し改造する力があり経験があるということは、敵の機関に奉仕する中国人をも改造できるということを意味します。人間を教育し改造する原理は、国籍にかかわりありません。朝鮮人の警官を革命の側に立たせながら、中国人の警官や村長だからと革命の側に立たせることができないはずがありません。抗日革命当時、われわれと手を握った中国の友人のなかには、満州国軍の高級将校や中下層の将校もいました。王村長や王署長のように、彼らもわれわれのために有益なことを少なからずしてくれました。
朝鮮民族はいま、祖国の統一を目の前にしています。南朝鮮にはわれわれと理念を異にする人がたくさんいます。地主、資本家をはじめ搾取階級に属する人や、官吏、企業家、商人も少なくありません。統一されれば、いずれにせよそれらの相異なる階層と同じ領土で暮らさなければなりません。理念が異なるからと、そういう人をすべて除去して共産主義者だけで暮らすわけにはいかないではありませんか。共産主義者ではないとしても、ともに統一祖国を建設していける共通分母を見出さなければなりません。わたしは、その共通分母は愛国、愛族、愛民だと考えます。愛国、愛族、愛民の思想をもつ人たちとは、同じ空気を吸って生きていくことができるのです。

五 熱 河 遠 征

熱河遠征は、中日戦争勃発を前後した時期、朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動と国内革命運動の発展に重大な難関をもたらし、抗日運動全般に甚大な損失を及ぼした教訓的な出来事である。この遠征は一九三〇年代の中期、世界各国における革命運動方略が「国際路線」によって提起されていた状況で、各国の民族革命が経なければならなかった一般的な難関がいかなるものであったかを立証する実例の一つであり、具体的には朝鮮革命の自主路線がいかに困難な闘争を通じて固守され貫徹されてきたかを示す特記すべき歴史的事実である。金日成同志は、コミンテルンから熱河遠征計画がはじめて通達されたときのことをつぎのように回顧している。

熱河遠征として知られている遼西、熱河地区への遠征計画がはじめてわれわれに伝えられたのは一九三六年の春でした。朝鮮人民革命軍の指揮官と王徳泰をはじめ東北抗日連軍部隊の指揮メンバーが一堂に会した席で、魏拯民からコミンテルンの指示だとして、熱河方面への遠征計画が伝達されました。熱河遠征の内容を一言で要約すれば、東北地方の抗日武装部隊が遼西と熱河方面へ進出し、東征抗日、失地回復のスローガンのもとに熱河方面へ進撃する労農紅軍部隊との連合作戦によって、中国関内に侵攻する日本帝国主義侵略軍を制圧するというものでした。コミンテルンのこの遠征の戦略的目的は、北上東征する労農紅軍(後の八路軍)と西征する抗日連軍部隊とが熱河領域で合流して、中国関内と東北地方での抗日闘争の一体化を実現し、抗日運動全般の新たな高揚を起こすというものでした。
当時、南満州の第一軍と吉東地区の第四軍、第五軍、北満州の第三軍、第六軍など、東北地方の抗日連軍各部隊は、長春の東側と東南部、そして東北部地域に半円弧形をなして分布していました。コミンテルンの戦略的意図は、この半円弧を西方に圧縮して長春を半円形に包囲攻撃し、熱河の界線まで進出して北上する労農紅軍部隊と合流し、中国関内に侵攻する日本帝国主義侵略軍に打撃を加えるというものでした。コミンテルンは熱河遠征計画を実行することにより、関内革命と関外革命が統一的な連関のもとに展開される新局面を開こうとしたのでしょう。日本帝国主義が東北三省を占領し満州国をつくりあげたころ、中国での反日闘争は主に東北地方に限られていました。二万五,〇〇〇里長征の過程で中国共産党内の「左」翼日和見主義路線が粉砕され、新たな指導体系が確立されて以来、中国人民の抗日闘争はより高い発展段階に入りました。関内における抗日運動の急激な成長は、東北地方の人たちを大いに力づけました。

熱河遠征計画が通達されることによって、熱河は再び世界の耳目を集める中日対決の灼熱地点となった。渤海湾方面に位置する熱河は、清国時代の熱河省都で、満清の歴史と深いつながりのある都邑(とゆう)である。熱河が清国の歴史と深いつながりをもつようになったのは、そこに康熙帝が建てた清朝の離宮があったからであり、また広寒宮と呼ばれたその離宮で清朝の名高い乾隆帝が生まれたからであるという。熱河は天険の要害としても知られていた。熱河西南方の山脈が万里の長城の拠点となっていることを見ても、この地帯が古来、軍事的に重視されてきたことがわかる。熱河がこのように由緒のある地方であったため、一九世紀の実学思想家の一人であった朴趾源も、李朝封建政府が遣わした使臣に随行して中国へ行き、『熱河日記』という長文の紀行文を残した。これには中国の文物や風習とともに、熱河の実状が生き生きと記されている。熱河がはじめて世界的な範囲で人々の耳目をひく地帯となったのは、九・一八事変以後、日本帝国主義が関内への侵攻ルートを開くため錦州と熱河を占領したときからである。

コミンテルンから熱河遠征計画が通達されたとき、それにたいする反応には各論があったといえます。王徳泰は西征計画に懐疑的な態度を示しました。彼は、数千名にすぎない遊撃隊の陣容をもって敵の軍勢が密集している満州国の首都を包囲せよということもそうだし、山岳地帯の本拠を離れて遠く平原地帯へ進出せよというのも冒険だ、それは遊撃戦の要求にも合わない、関内で労農紅軍が東征するからとわれわれが西征するわけにはいかないし、すでに大都市の攻撃戦にも失敗しているのに、われわれにその前轍を踏ませようとするのは一考を要する問題だ、と言うのでした。
軍閥間の混戦がくりひろげられていた一九三〇年代初期に中国共産党中央の指導権を握っていた李立三は、革命情勢発展の有利な側面を一面的に誇張し、まず一つの省またはいくつかの省での革命の勝利を可能だとする冒険主義的決議を採択させ、各主要都市で政治ゼネストと武装蜂起を起こさせました。党指導部のこの措置にしたがい、紅軍はいくつかの主要都市を攻撃しました。しかし、この作戦は成功しませんでした。こうした前例からしても、一部の人がコミンテルンの作戦計画に不満の意を表明したのは当然のことでした。当時、抗日連軍部隊で活動していた大部分の共産主義者は、コミンテルンの指示をすべて公明正大なものとして受け入れていました。そういうときに、一部の指揮官が遠征計画に疑念を抱いたのは注目すべきことでした。
しかし、魏拯民はこういう意見にとくに耳を傾けようとしませんでした。彼は指令の伝達者としてコミンテルンの計画を弁護しました。今回の遠征には南満州、東満州、北満州の抗日連軍部隊がすべて参加することになっている、国内の形勢もきわめて有利だ、したがってあながち勝算がないわけではない、と他の意見を軽く退けてしまいました。魏拯民はその後、金川県へ行き、東北抗日連軍第一軍の軍事・政治幹部たちにもコミンテルンの熱河遠征計画を伝達しました。
楊靖宇はその計画を伝達されてたいへん興奮したそうです。彼は最初から、コミンテルンの指示をそのとおり実行する意思を明白に表明しました。もともと、楊靖宇は関内革命との連係を結ぼうと意識的に努力していた人です。南満州の遊撃根拠地は関内と距離が近かったので、そういう連係は十分可能でした。当時、関内の労農紅軍は全国的な抗日救国運動の高揚を起こすためすでに北上し、東征の途上にありました。楊靖宇は東征する関内の抗日先鋒軍と力を合わせて敵の封鎖を突破し、東北抗日遊撃戦と関内抗日戦を連結し、共同作戦も実現しようと考えていたのです。楊靖宇が熱河遠征計画をどれほど積極的に支持したかは、その後、二回にわたる明白な失敗にもかかわらず、またも熱河方面へ進出した事実や、『西征勝利の歌』までつくって部下を遠征へと鼓舞したという事実を見てもよくわかります。
コミンテルンの極左冒険主義者は、われわれにも熱河遠征を断行せよという指令を何回も通達しました。一九三六年春の最初の指令についで、中日戦争が勃発した一九三七年の夏と一九三八年の春に、重ねて熱河遠征に参加するよう促しました。コミンテルンが一次、二次の遠征を求めた一九三六年と一九三七年は、朝鮮人民革命軍が白頭山地区と西間島一帯に進出して、党創立の準備と統一戦線運動を積極的に推進する一方、武装闘争を国内深くに拡大して意気天を衝く時期であり、朝鮮の共産主義者が自国の革命は自分が責任をもって遂行すべきだという自主的立場をいつにもまして堅持し、朝鮮革命の主体を強化するために全力を傾けていた時期でした。革命の前途は洋々としていましたが、われわれの前にはなすべきことが山積していました。われわれの努力によって、鴨緑江沿岸と国内では革命組織が雨後の筍のように生まれ、数千数万の革命家が育っていました。朝鮮人民革命軍には、それらの組織と革命家の活動を武装をもって保護し、白頭山地区と西間島を拠点にして国内革命を一大高揚へと引き上げるべき重大な課題が提起されていました。
こうした時期に勝算のない熱河遠征を強いられたのですから、われわれの気持ちは推して知るべしです。コミンテルンは遠征を強要しましたが、わたしは最初からそれを無謀なことと判断しました。われわれは当時、自らうちだした朝鮮革命の主体的路線を固守しながら白頭山根拠地を新たに設け、曹国安の第一軍第二師と協同して西間島一帯で大規模の戦闘も数回にわたって展開しました。また、大規模の国内進攻作戦も積極的に展開しました。一方、第一軍が占めていた南満州の一部の地域の軍事的空白も埋めながら、遼西と熱河方面へ進出した遠征部隊の活動を誠実にバックアップしました。言うならば、武装闘争の火の手を国内に拡大するという自主的な路線を堅持しながらも、コミンテルンが示した路線の実行に有利な局面を開く一石二烏の成果を上げていたわけです。南満州の武装部隊が熱河と遼西方面へ進出している最中、コミンテルンの指令を伝達した魏拯民自身は第一軍部隊と行をともにせず、多くの場合われわれと一緒にいました。
熱河遠征計画がきわめて無謀で非現実的な軍事作戦であったということは、中日戦争勃発後いっそう明白になってきました。しかし、コミンテルンはこの時期にいたっても「半円形包囲」の夢をすてず、抗日連軍の各部隊になおも勝算のない西征を促しました。中日間の対決が全面戦争に発展し、それを機に抗日運動が急激に高揚するや、コミンテルンは再び「半円形包囲」を成功させる決定的な時期が到来したとみなしたようでした。中日戦争が勃発したその年、中国では第二次国共合作が実現しました。共産党の指導する労農紅軍は国民革命軍第八路軍に改編され、綏遠、察哈爾、熱河への進撃を企図して気勢を上げていました。コミンテルンは熱河遠征にかんする新たな指令で、朝鮮人民革命軍の主力部隊が以前に第一軍の占めていた海竜、吉海線方面へいっそう深く進出して、長春を半円形に包囲する作戦に直接参加し、熱河方面へ進撃する第一軍の活動を積極的に支援することを求めました。この要求どおりにするなら、われわれは朝鮮革命の策源地である白頭山根拠地を離れ、遠く西方へ移動しなければなりませんでした。中国本土全体が戦場と化した状況にあって、八路軍熱河進撃隊との合流という問題設定は正直なところ、意味がありませんでした。
われわれが熱河への遠征計画を非現実的なものとしたいま一つの理由は、それが遊撃戦の要求に合わないという事情とも関連していました。遊撃隊が山岳地帯を離れて平野へ進出するというのは、魚が水を離れて陸に上がるにひとしい危険千万な冒険でした。東満州と南満州、北満州の山岳地帯は、共産主義者によって早くから開拓されてきた地帯であって、大衆的基盤が強固で地理的にも深く知りつくされている地域でした。ところが、抗日連軍部隊が本来の活動区域を離れて熱河や遼西まで到達するには、敵の要衝が密集している南満鉄道界線の広い平原地帯を通過しなければなりませんでした。その広大な平地で、大砲や戦車などの重兵器を備えている敵の正規軍と遭遇するなら、軽火器しかない遊撃隊はどういうことになるでしょうか。そんな場合の戦闘がどんな結果になるかは火を見るよりも明らかです。熱河は、八路軍の側からすれば万里の長城さえ越えれば至近距離の地域ですが、東北の抗日連軍側からすれば数百里も離れた遠方でした。相対的に劣勢の遊撃隊が、数量において数十数百倍に達する敵が要所要所をかためている平野地帯を通過して、そんな遠距離を行軍するというのは、初歩的な軍事常識にも反することでした。
わたしは熱河遠征が軍事戦略上無謀な遠征であることを魏拯民に何度も話しました。熱河遠征が必ずしも必要であるのかということにたいしては、魏拯民もしだいに半信半疑の態度をとるようになりました。それでいながら彼は、中日戦争が起きた状況下では、遠征の成功が中国全土での抗日を高揚させることになり、抗日第一の旗を一貫して堅持している共産主義者の堅実な反日精神と真の愛国主義を誇示することになるのではないかという一抹の未練はすてきれずにいました。熱河遠征が成功すれば、蒋介石を積極的な抗日へと導くうえでも有利な局面を開くことができるというのが彼の見解でした。わたしは魏拯民に、中国全土で抗日を高揚させるのも必要であり、共産党の真面目を誇示するのも必要であり、また蒋介石を積極的に抗日へと誘導するのももちろん必要なことだ、しかし、東北革命を犠牲にする代償としてそういう成果を得ようとしてはならないと思う、東北革命のために朝中両国人民と共産主義者がどれほど多くの血を流したであろうか、と反論しました。しかし、魏拯民は自分の立場を変えようとしませんでした。彼は、軍事戦略上の見地からすれば、熱河遠征計画が一定の弱点を内包しているのは確かだ、だからといって、大したこともせずにそれを放棄するわけにはいかないではないか、もちろん遠征をするとなれば痛ましい犠牲も出るであろうし、予想外の損失もこうむるだろう、しかし、犠牲や損失もなしにどうして大事をなし遂げることができるだろうか、と主張するのでした。
魏拯民は、周保中の第五軍と第四軍も中日戦争の勃発を西征実現の好機と見て、指令の実行により積極的に乗りだしていると言いました。魏拯民の話は事実でした。後にわかったことですが、吉東地区で活動していた周保中は、中日戦争勃発後の中国本土と東北地方の政治・軍事情勢を楽観的に評価し、大事変はすでにはじまった、大事変の発展と同時に即時すべての可能性を動員し、速い速度で熱河領域に進出する八路軍の遊撃軍と直接連係を結ぶべきだと力説したそうです。しかし、その部隊のメンバー全員が西征を支持したのではありませんでした。第五軍の副司令であった柴世栄は、西征計画の無謀さを悟り、その計画に懐疑的な態度をとったとのことです。
魏拯民は熱河遠征計画に冒険主義的要素があることを知りながらも、それを支持する立場にありました。わたしはその態度を、中国革命にたいする魏拯民なりの忠実性とみなしました。魏拯民は華北山西省の出身ですが、一九三〇年代の初期から満州に来て東北革命に参加した指導的人物の一人です。
彼は東北の党活動と抗日連軍建設に心血をそそぎ、日本帝国主義を撃滅掃討する軍事作戦でも大きな成果を上げました。東北革命への彼の執着心と関心には並々ならぬものがありました。しかし、彼は東北革命のみにとどまってはいませんでした。東北革命を中国革命の一部分とみなし、地域革命を重視しながらも中国革命全般の発展につねに関心を向けていました。彼は、全中国の革命の高揚に役立つことであれば、いかなる犠牲をも甘受すべきだという立場に立っていました。それでわたしは彼に、あなたが犠牲をいとわず熱河遠征の実現を望む気持ちはわかる、しかしわたしは、コミンテルンが遠征計画の作成にあたって、東北の実態と中国革命の要請を正確に反映したのかどうか、その計画の軍事的可能性を正確に検討したのかどうか、まして彼らの企図する遠征が遊撃戦の特性に合致するのかどうかを慎重に考えざるをえない、コミンテルンの熱河遠征計画には、中国革命の実態についての正確な洞察が欠けているばかりか、朝鮮革命への考慮がまったくないといえる、王明はコミンテルンで中国共産党の代表として活動しているが、彼の主観主義は普通ではないようだ、と指摘しました。王明が主観主義にとらわれている人であるということは魏拯民も認めました。

熱河への遠征計画はコミンテルンの指令として下されたが、それを作成し通達したのは王明であった。王明はモスクワにあって、中国の実情に合わない路線をやつぎばやに作成し通達した。王明路線の主な病弊は「国際路線」の美名のもとに強要した「左」翼日和見主義であった。しかし、中日戦争が勃発し、国共合作が成立してから、彼の路線は右翼日和見主義に転じた。彼は、すべてのことは国民党との合作と統一戦線によってのみ実現すべきだと主張した。金日成同志は、熱河遠征にかんする指令を朝鮮革命と国際革命との連関のなかで周到かつ敏活に実行していったことについてつぎのように回顧している。

当時、われわれは王明路線の日和見主義的本質を明白に見ぬいてはいませんでした。たとえ見ぬいていたとしても、正面から反対したり、その実行を露骨に回避したりすることはできませんでした。王明はコミンテルン執行委員会の委員であっただけでなく、コミンテルンの書記でもありました。彼の作成した指令はいずれも、個人名ではなくコミンテルンの名で通達されるのでした。
わたしは、熱河遠征計画が中国東北地方の革命運動の発展に利するところがないのみか、朝鮮革命の見地からしてもきわめて一面的で有害であると考えました。しかしながら、その実行においては慎重を期しました。
われわれは魏拯民とともに、第一軍管下の抗日連軍部隊と朝鮮人民革命軍主力部隊の活動方向について真剣に討議しました。魏拯民はわれわれの部隊が第一軍の活動地域である海竜、吉海線一帯に進出することを望みました。彼の要請どおりにすれば、われわれは白頭山地区で達成した軍事的・政治的成果を強固にすることができませんでした。それでわたしは折衷案として、まず当分のあいだは、臨江、撫松、濛江一帯で流動作戦を展開し、朝鮮革命を推進する政治・軍事活動を進め、適当な時期にその方面へ徐々に移動する意向を述べました。当時、われわれの部隊には、西間島と国内から入隊した新入隊員がたくさんいました。彼らを十分に訓練していない状況で、部隊が本来の活動地域を離れて不慣れな土地に移るのは好ましいことではありませんでした。わたしは、国内につくられた革命組織を保護、拡大し、今後国内進攻をさらに積極化するためにも、西間島と白頭山地区から遠くへは離れないことを彼に直言しました。魏拯民はわたしの立場に同意しました。
当時、楊靖宇は中日戦争の勃発によって急激に高揚しつつあった抗日気運に乗じて、なんとしてでも熱河遠征を成功させようと悪戦苦闘していました。しかし、一九三八年の春、第一軍の各部隊は遠征を開始するやいなや包囲に陥って苦戦を余儀なくされていました。そのうえ第一師師長の程斌が部隊を率いて敵に投降する非常事態まで発生し、第一軍の西征計画を大混乱に陥れてしまいました。七月中旬、楊靖宇は老嶺で第一軍の緊急幹部会議を招集し、西征計画を正式に取り消すとともに、軍内の秘密漏洩の防止に必要な改編措置を講じました。
程斌の投降はわれわれにとっても大きな衝撃でした。ややもすれば、第一軍の崩壊をまねくおそれがありました。われわれは第一軍を支援するため武器と軍需物資をととのえたのち、一部の部隊に、濛江県を迂回し金川、柳河県を経て通化界線に向けて部分的な軍事移動を開始させました。この軍事移動は、第一軍を包囲している敵軍を分散させ、第一軍の戦友たちに包囲突破の可能性を与えるためのものでした。敵軍を分散させるのは、遠征計画をどう実行するかという問題に先立ち、第一軍の戦友を救出することによって東北抗日勢力を保持し、数年来の共同闘争を通じて結ばれた朝中両国の共産主義者と人民間の戦闘的友誼を厚くすることに目的がありました。われわれの一部の部隊が敵の注意を引くためわざと目につくように通化界線に進撃しているとき、わたしは小部隊を率いてひそかに国内深くに入り、国内の革命闘争をさらに強化するための新たな対策を講じました。
一方、主力部隊は各方面で敵を痛撃しました。そのなかで印象に残る戦闘の一つが八道江付近の道路工事場襲撃戦闘でした。八道江には日本軍、満州国軍、武装警察隊と自衛団など多くの兵力が配備されていました。そのころ、この地方に駐屯していた敵は、臨江地区で活動する人民革命軍部隊の「討伐」にたびたび出動する一方、朝鮮の江(カン)界(ゲ)と中(チュン)江(ガン)から臨江を経て満州の内陸地帯に通じる軍用道路と鉄道敷設工事を大々的に進めていました。われわれは通化――臨江間で大きな工事場を襲撃して大混乱に陥らせ、多くの警備兵力を掃滅しました。戦闘が終わった後、工事を指揮していた数名の日本人請負業者がわたしとの会見を求めてきました。彼らはわたしに会うと、身の代金はいくらでも払うから命を助けてくれと頼むのでした。わたしは彼らに、あなたたちがいまこの工事を請け負っていること自体が日本の侵略行為に手を貸すことになるのは言うまでもない、けれどもわれわれはあなたたちに危害を加えようとは思わない、身の代金を払うということだが、革命軍はそんな金は受け取らない、それは馬賊のやることだ、身の代金は要らないから帰れ、その代わりこの工事場からは手を引くがよい、請負業をするならほかの仕事を請け負え、と話しました。そして、彼らを放免しました。われわれが工事場を襲撃した後、金日成パルチザンが臨江の西部にあらわれたといううわさが立ちました。日本人請負業者たちが帰ってから、われわれのことをかなり語り伝えたようです。
その後、われわれは続けざまに八道江、外岔溝、裏岔溝一帯で敵を掃滅し、ついで撫松県西崗戦闘を展開して敵の兵力をわれわれに引き付けました。われわれの敏活な戦術的移動により、敵は朝鮮人民革命軍の活動が予測できず、あちこちと兵力を引きずりまわり、戦々恐々としていました。これは、苦境に陥った第一軍を救出しようとしたわれわれの戦術的移動と一連の作戦的攻勢が成功したことを意味しました。後日、楊靖宇と魏拯民も、臨江、撫松、濛江一帯でわれわれが上げた銃声が、第一軍の窮状打開の決定打となったと何度も話しました。
北満州の抗日連軍各部隊も、西征の過程で大きな損失をこうむりました。北満州で活動していた各部隊がはじめて遠征の途についたのは一九三七年七月であり、それが本格化したのは一九三八年でした。しかし、南満州でと同様に、北満州での遠征も結局は失敗に終わりました。数年来、東北革命に混乱をまねき、無謀な戦闘と犠牲を強いた熱河遠征は、南満州では一九三八年に、そして北満州では一九三九年にいたって幕を閉じました。
それでは、多くの精力と人力、物量の消耗をまねいた熱河遠征の失敗の原因はどこにあったのでしょうか。多くの研究者はその原因を、日満統治秩序の確立と敵軍の圧倒的優勢という客観的条件に求めていますが、それは正しい分析だといえます。この時期に敵がいっそう本格的に実施した集団部落政策は、いわゆる「匪民分離」という言葉どおり遊撃隊と大衆の連係を容赦なく切断しました。この政策は日満統治秩序を強固なものにする反面、抗日武装部隊の活動に幾多の難関をつくりだしました。こうした要因により、遠征は大衆とのつながりと食糧補給路がほとんど断たれた状況で進められました。集団部落に閉じこめられた人民は、遠征部隊との連係を結びたくても、方法がありませんでした。援護物資の支援などは思いも及びませんでした。こうした状況のもとで、遠征部隊はやむなく敵を襲撃して食糧や布地などの給養物資を手に入れざるをえませんでした。銃声をひびかせるので、おのずと遠征部隊の戦略的移動にかかわる情報が的確に敵側に入るようになりました。かてて加えて遠征部隊の前には、一歩踏みだすごとに深い谷と高い砲台、険しい封鎖線と兵営が立ちふさがりました。
だからといって、遠征失敗の原因を客観的条件にのみ求めることはできません。周知のように、この遠征の主体は東北の抗日連軍部隊でした。熱河遠征を路線として押しつけたコミンテルンも、広義には遠征の主体だといえます。わたし個人の見解では、コミンテルンは路線の作成と指導において主観主義に陥り、抗日連軍部隊はその実行と実践において盲目的であったといえます。結局は、コミンテルンの主観主義と冒険主義が遠征を失敗に導いた基本的要因だったといえます。
大衆に受け入れられず、大衆の心を動かすことのできない路線では、りっぱな結実を期待することができないものです。われわれが何か政策や路線を採択するとき、人民のなかに深く入って彼らの声に耳を傾けるのは、主観主義に陥らないようにするためです。主観のとりこになる人は明き盲になってしまいます。いま一部の人は、自説に固執して下部の人の意見をないがしろにしていますが、それは大きな誤りです。諸葛亮も名だたる天才ではありましたが、人民大衆はそれよりもっと知恵深く賢明です。路線や方略は、万人にその正当性が認められてはじめて効を奏するものです。大衆の支持しない路線や方略は無用の長物です。大衆は正当かつ正確で透明な路線のためにのみ奮い立つものです。まして寸分の誤差もあってはならない軍事作戦の場合は言わずもがなのことです。

熱河遠征が無謀な作戦であったことは敵側も認めている。
「…彼等は事変後の客観情勢が彼等の遊撃行動の有利なるが如く軽信し大胆にも一昨年秋頃より昨年春にかけ東辺道…金川、柳河、臨江一部を抜け華北の熱河進撃軍と合流せんとするが如き不敵の行動に出るかの形勢がありましたが逸早く日満軍警の討伐に会ひ再び北上し樺甸、濛江、敦化、蛟河、撫松、安図等の県境即ち白頭山下の白色地帯を中心として赤区の建設を意図したのであります」(『思想月報』第七七号 司法省刑事局 昭和一五年(一九四〇年)一一月一三六~一三七ページ)

コミンテルンが下す指令のなかには、現実に合わないものがありました。しかし、われわれは毎回その指令を慎重に受けとめ、それを朝鮮革命の具体的実情と結びつけて実行しながら、国際的利益と民族的利益の両面を正しく結合させるため深く思索し、敏活に行動することに努めました。革命の前に障壁が立ちふさがり、複雑な情勢がかもしだされるときであるほど、主体的立場をいっそう堅持し自主的に活動するのは、われわれの一貫した原則です。コミンテルンとの関係でもそうでしたが、周辺の大国との関係でも、われわれはつねに自主性と国際主義を正しく結合してきました。われわれがこんにちまでジグザグの道を歩まず、革命を一路勝利に導いてくることができたのは、こういう要因のためであったといえます。
わたしはいまも、熱河遠征問題にたいするわれわれの立場と行動は正しいものであったと思っています。一九七〇年の秋、わたしは中国を非公式に訪問したことがあります。そのとき、中国側は朝鮮労働党の創立記念日を祝って北京で宴会を催しました。その席には、王明とともにコミンテルンに駐在していた人も参加しました。わたしは中国の幹部たちに、かつて朝鮮革命が周囲の圧力を受けて紆余曲折を経、またその過程で朝鮮の共産主義者が人一倍苦汁をなめさせられた事実を話しました。反「民生団」闘争の過程で多くの朝鮮の革命家が犠牲になり、とくに一九三〇年代の後半期には、コミンテルンに居座っていた一部の人が実情に合わない路線を強要したため、朝鮮人民革命軍の強化と抗日革命全般の発展が大きく阻害されたと話しました。
わたしがそういうことを話すと、周恩来が、その責任は王明にある、そうしてみると王明は中国革命に多くの損失をこうむらせたのみでなく、朝鮮革命の発展をも少なからず阻害したことになると言うのでした。コミンテルンが多くの主観主義的誤(ご)謬(びゅう)を犯したことについては、スターリンも認めています。
もしコミンテルンが熱河遠征を強要しなかったなら、われわれは西間島を離れなかったはずであり、そうすれば「恵山事件」が起きたとき、それを適時に収拾し、損失を最小限に食い止めることもできたはずです。人民革命軍の主力部隊が西間島に居残っていれば、敵はわれわれの革命組織を弾圧しようにも、あえてそうすることができません。もし弾圧したとしても、逮捕をまぬがれた人は山中に入って部隊に入隊すれば、被害をこうむらずにすんだはずです。事実、朴達(パクタル)も逮捕をまぬがれて山中を歩きまわったのですが、われわれといちはやく接触できなかったため逮捕されたのです。
熱河遠征があってから長い歳月が流れました。わたしがいまになってことさらにその遠征について回想するのは、事の是非を論ずるためではありません。是非を問おうとしても提訴するところがありません。いまはコミンテルンもなければ、なんらかの指揮棒もありません。けれども共産主義者は、主観主義と盲従のために損失をこうむった熱河遠征から深刻な教訓を学びとる必要があります。歴史は、革命の原理を無視して主観主義に偏する人にはりっぱな結実を与えはしないものです。

六 楊靖宇との出会い

金日成同志は抗日革命の道に投じた当初から、中国人民との共同闘争、中国共産主義者との国際主義的連帯を重視し、中国各階層の愛国勢力との反帝共同戦線をはるためにあらゆる努力をつくした。その過程で中国の多くの指導者や革命家、軍事幹部と親交を結んだ。東北地方の著名な抗日連軍指揮官であった楊靖宇は、金日成同志が共同抗日の日々、生死をともにした中国の名望ある革命闘士の一人である。楊靖宇についての金日成同志の回想には、中国人民と中国共産主義者への厚い友愛の情が脈々と流れている。

楊靖宇は、李(リ)紅(ホン)光(グァン)、李(リ)東(ドン)光(グァン)とともに南満遊撃隊の建設と発展に大きな功労のあった人です。南満遊撃隊は抗日連軍第一軍に発展しましたが、その軍長がほかならぬ楊靖宇でした。
われわれは抗日武装闘争の時期、朝中両国人民の共同闘争に大きな意義を付与し、抗日連軍各部隊との連合と協同をめざして努力を傾けました。これは、朝中人民の共同闘争の利益に全的に合致するものでした。そのため二回にわたる北満州への遠征を断行し、曹国安指揮下の第一軍第二師部隊との共同作戦も展開し、南満部隊との連係も深めていきました。南満部隊では、われわれに人員を多く求めてきました。われわれは彼らの要請どおり、わたしが手塩にかけて育てた軍事・政治幹部も少なからず派遣しました。 そういう過程を通じて南満州の共産主義者との連携が深まり、南満州の軍事・政治幹部との同志的な親交も深まりました。われわれが南満部隊を積極的に援助したことにたいし、楊靖宇はいろいろな経路から謝意を表してきたし、わたしも人づてにたびたび楊靖宇の安否を尋ねました。わたしと楊靖宇は、このように共同闘争の過程を通じてたえず親交を深めました。
わたしがはじめて楊靖宇に会ったのは、一九三八年の秋、南牌子で朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の軍事・政治幹部が集まって会議を開いたときでした。南牌子はたいへん意義深いところです。濛江県へ行くと牌子という大森林地帯があります。牌子の特徴は樹林が生い茂り、湿地がとても多いことです。抗日遊撃隊員たちは、この湿地の泥沼をフンドルレパン(揺れ地)と呼んでいました。泥沼にはコジゲをはじめいろいろな雑草が生い茂っていました。そこへうっかり足を踏み入れようものなら一大事です。泥沼がまたたく間に人を呑みこんでしまうのです。こういう泥沼は底なしだといいます。茂(ム)山(サン)地区戦闘勝利記念塔の右側の草原にもこれに似たところがあります。牌子の大森林地帯を方向別に、東牌子、西牌子、南牌子と呼んでいました。われわれが一九三七年の冬に軍事・政治学習をしたところは東牌子付近であり、楊靖宇をはじめ東北抗日連軍の幹部とともに熱河遠征の後遺症を清算する重要案件をもって会議を開いたところは南牌子でした。人も馬もあっという間に呑みこんでしまう泥沼が無数にあり、地勢の険しい南牌子は、部隊が秘密裏に集まって会議をするにはうってつけの場所でした。南牌子会議を一名濛江会議ともいうのは、南牌子が濛江県に属していたからです。
南牌子会議を前後した時期、朝鮮革命にはきわめて複雑な難局が生じていました。その一つは、朝鮮革命を圧殺しようとする敵の攻勢に起因するものであり、いま一つは、コミンテルンの一部の人の極左冒険主義的行動に起因するものでした。当時、日本侵略軍は中国の南方へ攻撃のほこさきを向ける一方、後方の安全をはかるという美名のもとに、東北抗日連軍部隊にたいする「討伐」に拍車をかけていました。敵の反革命攻勢は、われわれの武装闘争と抗日革命全般の発展をはなはだしく抑制していました。極左冒険主義がまねいた熱河遠征の後遺症も並大抵のものではありませんでした。熱河遠征の結果が示しているように、コミンテルンの指令が実情に合わない無謀なものであり、その遠征によって抗日革命が重大な損失をこうむったことが明白になった以上、黒白をつけてその後遺症を清算すべきだということは、誰もが認める切実な問題でした。革命の前に立ちはだかる難局を打開するには、敵の攻勢に対処する新たな戦術的方案と、極左冒険主義の後遺症を清算する実践的対策を早急に立てる必要がありました。そのために、朝鮮人民革命軍と抗日連軍第一軍管下の部隊が南牌子に集まることになったのでした。
そのとき、わたしは楊靖宇を待ちわびていました。彼が熱河遠征で甚大な被害を受け、そのうえ濛江へ来る途上でも多くの苦労をしていたからです。楊靖宇もわたしと会う日を待ちこがれていたとのことです。われわれは楊靖宇部隊の道案内を務めるメンバーを前もって差し向け、寝食の準備も十分にととのえ、彼らに供給する被服まですべて準備しておきました。
苦労の末の出会いであっただけに、わたしと楊靖宇の対面はじつに感激的なものでした。楊靖宇のぎらぎらとした目は、出会いの瞬間からわたしの心を引きつけました。人が一,〇〇〇両なら目は八〇〇両という言葉もありますが、わたしは楊靖宇の目を見て、彼が誠実で情熱的な男であることを即座に感じとりました。われわれは焚き火のそばで簡単な対話をしました。体が少し温まると、楊靖宇はだしぬけに、第一軍の朝鮮人隊員の話をもちだしました。第一軍部隊には多くの朝鮮人隊員がいたが、いずれも勇名をとどろかせた戦士たちだった、だが、彼らはみな生きてここに来ることができなかった、惜しい戦友を失った、としきりに痛嘆するのでした。彼が朝鮮の同志たちを失ったことをあまりにも嘆くので、わたしがむしろ彼を慰めなければならないくらいでした。
わたしと楊靖宇は、日本帝国主義にたいする共同闘争で運命的に結びつけられていました。一九三〇年代の前半期、南満州一帯では大刀会軍であった遼寧救国義勇軍総可令の王鳳閣が楊靖宇と並ぶ英雄になっていました。彼らは東辺道一帯で数々の戦闘を展開し、血も多く流しました。われわれが西間島一帯を活動舞台にして以来、敵はわたしと楊靖宇、王鳳閣の名を並べ連ねるようになりました。王鳳閣と夫人が殺害された後、敵の目はわたしと楊靖宇に集中しました。敵が金日成軍とも呼んだ朝鮮人民革命軍と楊靖宇部隊は、東満州と南満州で日本帝国主義者を実力をもって圧倒した二大武装勢力になりました。敵側の極秘文書を見ると、わたしと楊靖宇の名を書き連ねた個所を多く見出すことができます。新聞や雑誌もそうでした。

日本のある楊靖宇研究家は、吉林について記述した個所で「青年金日成が反日活動をして投獄された街」「楊靖宇が遊撃区に入る前にとどまった街」といった書き方をし、またある文章では、抗日運動が激しかった満州の地図に「楊靖宇と金日成が抗日遊撃戦争を展開した南満州地域」という説明文を書きそえている。楊靖宇の戦死についての文章では、彼が抗日ゲリラの指導者として、日本では金日成に次いでよく知られていると書いている。ここに当時の資料を補足しておく。「金日成は純粋の共産遊撃隊で、三〇歳に満たない若輩であるが…臨江、撫松、濛江、長白などいわゆる未討伐地帯に蟠踞し、現在約五〇〇名の部下をもっていると思える。現在としては東辺道第一の集結勢力である」(『鉄心』一九三七年五月号、一〇六ぺ-ジ)

対話を終えて、わたしは設営しておいた宿営地に楊靖宇一行を案内しました。秩序整然と設営された幕舎を見た第一軍の戦友たちは、驚きの色を浮かべました。彼らはそれが自分たちのための幕舎であることをなかなか信じようとしませんでした。われわれが第一軍幹部用の指揮部の幕舎へ楊靖宇を案内すると、彼はたいへん感激しました。金司令の部隊が客人を手厚くもてなすとはよく聞いていたが、この谷間に来てこんな歓待を受けようとは夢にも思わなかった、この冬がどんな冬なのか、と言ってすぐには幕舎に入ろうとしませんでした。幕舎に入って、数か月分の疲れを解き、ぐっすり眠るようにとすすめましたが、かたくなに辞退しました。彼が言うには、この部隊の戦友たちにまだ到着の挨拶もしていないのに、疲れを解くとは何事かということでした。わたしはそれを聞いて、楊司令は普通の人物ではないと思いました。隣接部隊からわれわれの部隊に来る客人は多かったが、彼のように宿所に軍装を解く前に到着の挨拶を先にしようとせく人はほとんどいませんでした。
わたしに最初、楊靖宇の話をしてくれたのは童長栄でした。童長栄は大連で党活動をしているとき、楊靖宇のうわさを耳にしたようです。撫順炭鉱の労働者たちは楊靖宇を実兄のように慕ったそうです。
第二師師長の曹国安も部隊を率いてわれわれの密営にとどまっていたとき、楊靖宇についていろいろと誇らしげに話したものです。楊靖宇は撫順党特別支部の書記に任命されたとき、擬装工作のため馬尚徳という本名を張貫一に直し、山東から職を探しにきたという名目で労働者のなかに入っていきました。山東出身の人が多く住んでいる撫順地方に腰をすえるためには、山東人に擬装するのが有利だったのでしょう。あるとき、撫順炭鉱の労働者が日本人の経営主を相手にストライキを起こしたことがあったそうです。ただちにストライキを決行しなければならないのに、炭鉱には労働者の権益を擁護して立つほどの人物がいませんでした。それで炭鉱夫たちは、いつも道理にかなったことを言う楊靖宇をリーダーに推しました。楊靖宇は自分の決心どおりストライキを頑強に展開しましたが、とうとう警察に逮捕されました。彼は警察に拘留されても、労働者の権益を擁護して主張を通し要求も押し通しました。そして、どんな拷問や脅迫にも決して屈しませんでした。地下組織は炭鉱夫たちの助力を得て、敵の手から楊靖宇を救出しました。
わたしは楊靖宇の望みどおり、われわれの密営に彼を案内しました。われわれの密営は尾根一つを隔てて、第一軍の戦友たちが宿営する密営と隣り合っていました。わたしの連絡を受けて、全部隊が密営の前に整列していました。楊司令は、その間の重なる熱河遠征でみな大きな被害をこうむったのに、兵力がこのように無傷で保たれているのは、金司令が定見をもって部隊をりっぱに統率してきたおかげだ、それに反し、自分は部下をほとんど失ってしまった、食べる物も着る物も寝ることもままならず、熱河へ進撃する途中で倒れた部下を思うとひとりでに涙が出る、きょうその部下を全員率いてここに来たのなら、どんなに誇らしかったことだろうか、と涙ぐむのでした。彼が戦死した隊員をしのんで涙する姿を見て、わたしは感動せずにはいられませんでした。彼は部下をこよなく愛する司令でした。
わたしは、行軍路で多くの苦労をした楊靖宇をねぎらってささやかな酒席をもうけました。酒席とはいっても、卓に乾物を置いて一、二杯の酒を酌み交わす程度のものでした。彼は革帯を解くのは久しぶりだと言って、腰の拳銃と戦闘カバンまではずしました。彼と一緒に南牌子に到着した叙(ソ)哲(チョル)はその光景を見て、あれは例のないことだ、楊司令は誰の前でも軍服をきちんと着け、武官らしい体裁をつくろうことに人一倍気をつかう人なのに、きょうはまったくの無礼講だ、とわたしの耳もとでささやきました。
初対面でしたが、楊靖宇はその日多くのことを語りました。彼がかつて工業学校に入学して紡織捺染を専攻したという話を聞いて、わたしはびっくりしました。未来の抗日連軍司令が紡織捺染を専攻したということ自体が、なんと興味あることではありませんか。彼の話によれば、工業学校で紡織捺染を専攻したのは、代々着るものも着られず貧しい暮らしをしてきた中国の同胞に、きれいな布地で服をつくってやりたかったからだったとのことですが、これは階級意識のあらわれだと思います。搾取され抑圧される人民大衆のために革命闘争に参加しようという決心は、こういう階級意識から生まれるものです。彼は一〇歳余の学生時代に、すでに学校当局の不公正な教育施策に抗して立ち上がったといいます。この事実一つからしても、彼が人一倍剛直で正義感の強い人であることがわかります。楊靖宇はもともと東北の出身ではなく河南省の人ですが、共産党の委任で東北地方に来て地下党活動もし、武装闘争もしました。最初は撫順地方で中国共産党撫順党特別支部の職務につき、のちにハルビンで地下党活動をしました。満州事変が起こり、東北各地で抗日武装部隊が続々と生まれていた一九三二年の秋に、中国共産党満州党組織は楊靖宇を南満州の巡視工作にあたらせました。彼が南満州に派遣されることになったのは、南満遊撃隊の構成上の特性とも関連していました。南満州の住民構成で大多数を占めるのは中国人でした。ところが、磐石で組織された南満遊撃隊は、最初は全員が朝鮮人からなっていました。南満遊撃隊の組織者である李紅光と李東光も朝鮮人であり、その麾下の隊員もすべて朝鮮人でした。このため、南満遊撃隊は初期に大きな苦渋を体験しました。漢族と満族が大多数を占める土地で、朝鮮人だけの遊撃隊が組織されたので、広範な住民大衆の保護を受けるのもむずかしく、補充人員を得るのも困難でした。
南満遊撃隊に派遣されていった人のなかには、ハルビンで共青の活動をしているときにわれわれと連係を保っていた徐哲も含まれていました。徐哲は朝鮮人ですが、中国人を装い、南満遊撃隊へ軍医官として派遣されていきました。組織では彼に、南満州では李紅光と李東光にだけ自分が朝鮮人であることをうち明け、他の人たちの前ではあくまでも中国人として行動するよう指示しました。貧しい火田民の子であった徐哲は、ハルビンで苦学をして医学専門学校を出たインテリ青年でした。彼は中国語に堪能で、中国人の風習にも通じていました。それは、彼が幼いころから中国人のなかで生活したからです。徐哲が革命の戦列に加わるようになった過程を見ると、面白いエピソードがたくさんあります。彼が小学校に通っていたころの話だそうです。ある日、日がな一日野原で牛に草をはませて家に帰ってくる途中、警官にひどい目にあわされました。牛の背にまたがって家に帰る彼に、警官がとんでもない言いがかりをつけて乱暴を働いたのです。警官はいきなり牛の背から徐哲を引きずり下ろして蹴りつけ、警官殿のお通りだというのに生意気に挨拶もせず、牛の背で偉そうな顔をしている、と怒鳴りつけました。いまにして徐哲は朝鮮労働党の政治局員にまでなりましたが、そのときは口答え一つできず痛い目にあわされました。そして、そのために数か月間いわれのない苦労をしました。以来、彼は警官といえば目の仇にし、彼らとぐるになって立ちまわる地主や役人たちも憎むようになりました。幼いころから中国の風土に順化し、東北の人たちの慣習になじんできた彼は、中国人に変身して南満遊撃隊を苦境から救ううえで格好の人物でした。彼は組織の期待どおり、中国人然としてふるまい、磐石遊撃隊の権威の向上と軍民関係の改善に少なからず寄与しました。
楊靖宇が南牌子に来たとき、引率してきた部下の数はいくらにもなりませんでした。彼は、熱河遠征で受けた損失を思うと胸が張り裂けそうだと言いました。楊靖宇の部隊は遠征の過程で多くの血を流しましたが、集安から濛江へ脱出してくる行軍の過程でも言い知れない辛苦をなめたとのことです。敵は飛行機や大砲などの重兵器まで動員し、彼の部隊を息つくひまもなく追撃しました。全部隊が包囲されて苦戦したこともありました。空中からは飛行機が来襲してくるし、前からは程斌が投降せよと呼号し、四方から大砲を撃ちまくって包囲網を狭めてくるし、脱出のすべがなかったといいます。彼は第一軍の朝鮮人戦闘員がとくに勇敢に戦ったと言い、もっとも苦しかった外岔溝戦闘のとき勇猛を発揮した朴先鋒(パクソンボン)連隊と朴成(パクソン)哲(チョル)中隊にたいする賛辞を惜しみませんでした。楊靖宇は外岔溝戦闘のとき最期を覚悟したそうです。外岔溝を突破する戦闘で決定的役割を果たしたのは、朴成哲の引率する中隊でした。朴成哲中隊の決死隊員は全員肉弾となって突破口を開きました。楊靖宇部隊の救出にあたって朴成哲が立てた戦功には大なるものがありました。楊靖宇は、あのとき自分の部隊に朝鮮人の隊員がいなかったら、外岔溝で敵の包囲を突破できず全滅していたはずだ、もし中朝両国の共産主義者が抗日連軍を編制せず別々に活動していたなら、こうして南牌子に来て金司令に会うことはできなかっただろう、と言うのでした。そして、朝鮮人の幹部を多数養成して派遣してくれたことに心から感謝すると言いました。
われわれが南牌子でおこなった会議は一〇日余りだったと思います。南牌子会議では、熱河遠征の極左冒険主義的な本質と、その重大な結果が辛らつに分析、批判され、その後遺症を清算する対策が真剣に討議されました、会議では、敵の大規模の攻勢に対処し、朝鮮人民革命軍の各部隊が白頭山を中心とする国境一帯へ進出して軍事・政治活動を積極的に展開する問題と、破壊された祖国光復会の組織を立て直し、大衆政治活動をいっそう活発に展開する問題、革命において自主的立場を堅持する問題などが討議、決定されました。そして、人民革命軍部隊を方面軍に編制し、その指揮官を任命し、各部隊の活動区域を分担しました。
歴史学者は南牌子会議の政治的・軍事的意義を正しく叙述する必要があります。南牌子会議は南湖頭会議と並んで、朝鮮革命と東北革命の主体性の強化において大役を果たしたといえます。革命の主体性とはなんでしょうか。独自の判断と決心によって、自国の特性と実情に即して革命を自主的に進めていくということです。
南牌子会議を契機にして、朝鮮革命はさらに一歩質的な飛躍を遂げました。人民革命軍の全将兵はこの会議に大きく鼓舞されました。人民革命軍の隊員は、苦難の行軍のような試練を意志や忍耐力だけで克服したのではありませんでした。彼らは南牌子会議の精神に大きく力づけられたのです。その力は行軍の全行程で、わたしとわたしの戦友たちをひたすら前へ前へと推し進めてくれました。われわれは一九三九年の春、北大頂子会議で南牌子会議の方針を再確認し、国内へ進出することを決定しました。南牌子会議で重要な路線上の問題が採択されていなかったなら、敵に一〇重、二〇重に包囲されていたあのきびしい環境のもとで、われわれが長白の峻嶺と雪原を踏み分けて祖国へ進出し、銃声をひびかせることはできなかったでしょう。茂山地区に鳴りひびいた朝鮮人民革命軍の銃声は、南牌子会議と北大項子会議の結実です。
わたしは南牌子で、われわれの部隊の隊員で楊靖宇と魏拯民の警護連隊を新たに改編し、その連隊に多くの人員を補充しました。指揮官も再任命し、楊靖宇には伝令もつけてやりました。警護連隊の改編過程を通じて、朝中両国共産主義者の親善と友愛はいっそう深まりました。南牌子会議が終わったのち、各部隊は分担されたそれぞれの作戦地域へ出発しました。楊靖宇との別れは出会いの日のように印象深いものでした。われわれは両国革命家の名誉にかけて、必ずや禍を福にかえ勝利者となって再会しようと約束しました。しかし残念ながら、その後わたしは楊靖宇と二度と会うことができませんでした。
楊靖宇はわれわれと別れた後、樺甸、敦化、濛江、輝南、撫松、金川などで積極的な軍事活動を展開しました。「東南部治安粛正特別工作」という名で強行された敵の「大討伐」のため、彼の部隊は折重なる困難とたたかわなければなりませんでした。もっとも困難だったのは越冬の準備だったといいます。越冬準備のためには戦闘をしなければなりませんでした。楊靖宇は分散活動の方法で「大討伐」をまぬがれようとしました。そういう決心をしたのはもちろん、遊撃戦の原則に反することだとはいえません。原理的に見て、正しい戦術も状況に即して用いるべきであって、そうしなければかえって禍をまねくことになります。軍事的状況というのは千差万別で変転きわまりないものです。小部隊で分散活動をすれば、敵の視野からは比較的容易に抜け出すことができます。楊靖宇もこの点を考慮に入れて「以整化零」「以零化整」を巧みに結合する方法で敵を討ち、部隊の危機を打開しようとしたはずです。しかし、新たな状況の要請にもとづいて分散した小部隊を大部隊の兵力として集結しようとしたとき、それが思惑どおりにいかなかったようです。大敵の包囲のなかにある状態で分散活動のみをするなら、敵が大部隊で攻撃してくるとき、それを撃破することはできません。敵を撃破できなければ結局は追撃されることになりますが、そうなると完全に受け身に立たされます。分散活動の最中に大部隊と遭遇してやむなく一戦を交える場合にしても、分散活動をする側が不利なのは言うまでもありません。楊靖宇の部隊が小部隊に分散して行動していることを探知した敵は、さらに大規模の兵力を投入し、挟撃掃滅作戦を強行しました。そのうえ、楊靖宇は流動作戦を展開せず、密営を設けてひと冬そこにこもっていたので、敵の集中的な「討伐」をまぬがれることができませんでした。驚くべきことは、この「討伐」作戦の最先頭に立ったのが、かつての楊靖宇麾下の師長で反逆した程斌であったということです。一九四〇年正月に通化省警察隊の隊長になった程斌は、濛江県西崗で楊靖宇部隊の主力と遭遇し、六時間ものあいだ交戦しました。また二月初には他の警察大隊とともに再び楊靖宇の主力と交戦しました。楊靖宇は一九四〇年二月、濛江県のある森林のなかで敵「討伐隊」と真っ向から戦って壮烈な最期を遂げました。最後の決戦がくりひろげられたとき、彼のそばには警護隊員たちしかいなかったといいます。そういう状態で敵の包囲に陥ったのです。敵は投降せよと連呼しました。しかし、楊靖宇は両手に拳銃を握り、熾烈な銃撃戦をくりひろげて倒れました。彼を最後まで護衛したのは、わたしが南牌子で譲った伝令の李(リ)東(ドン)華(ファ)でした。李東華は楊靖宇が倒れる瞬間まで、彼と運命をともにしました。われわれが新聞紙上で楊靖宇の最期にかんする悲報に接したのは、大馬鹿溝戦闘の直後だったと思います。敵を掃討して手に入れた新聞に彼の戦死を報じる記事が載っていたのです。わたしはそれを見て以来、食欲をなくしてしまいました。出身も民族も違いましたが、わたしは彼との出会いを思い起こして人知れず涙を流しました。
敵は楊司令の生首を写真に撮りました。そして、その写真を飛行機で満州各地にばらまきました。彼らは楊靖宇の腹まで割いてみました。なんの食べ物もない山中で、彼がいったい何を食べてあれほど超人的な闘魂を発揮したのかを知りたかったのでしょう。彼の胃袋には穀粒一つ見られず、乾草と草の根、樹皮をかみ砕いたものがあるだけでした。文字どおりの草根木皮でした。
南牌子で楊靖宇との友情を分かち合った同じ時期、われわれは金周(キムジュ)賢(ヒョン)、金(キム)沢(テク)環(ファン)、金永国(キムヨングク)など、もっとも大事にしていた三名の指揮官を失いました。それでわたしはなおさら、南牌子が忘れられないのです。
解放後、中国では楊靖宇の名にちなんで、彼の戦死した濛江県を靖宇県と改称しました。中国で楊靖宇烈士をしのんで通化市に「靖宇陵園」を設け、その開園式を催したとき、わたしは彼の霊前に花輪を贈りました。
解放後、中国共産党の指導者の一人は、東北抗日遊撃戦を位置づける文で、二〇余年の中国共産党の歴史でもっとも困難であった戦いは、第一に二万五,〇〇〇里の長征であり、第二に労農紅軍主力の長征後、南方に残留した紅軍の三年間の遊撃戦であり、第三に東北抗日連軍の一四年にわたる苦闘であったと回顧しています。東北抗日連軍の英雄的抗戦の旗には、中国人民が生んだ熱烈な共産主義者楊靖宇の血もにじんでいます。朝鮮人民は、共同抗日の道で楊靖宇が積みあげた輝かしい闘争業績を永遠に忘れないでしょう。


七 祖母 李宝益

李(リ)宝(ボ)益(イク)女史の生涯は、敬愛する領袖金日成同志と偉大な指導者金正日同志を生み育てた万(マン)景(ギョン)台(デ)一家の革命闘争史に特別な位置を占めている。多くの子孫をもった女史は、彼らすべてを革命の道に立たせた後も、金輔鉉先生とともに枝折戸から吹き込む雨風をしのぎ、あらゆる苦しみにたえた。女史の苦労の足跡は、満州の野山や雪原にも点々と記されている。金日成同志は、革命に投じた子と孫のために一生涯労苦を背負い、人知れず静かにこの世を去った祖母を痛々しく追想してつぎのように語っている。

日本帝国主義者は中日戦争を引き起こした後、わたしにたいする「帰順工作」を大々的にくりひろげました。彼らはこの工作に、学生時代の同窓生や教師、「トゥ・ドゥ(〔5〕)」時代の縁故者、獄中での転向者、知己を手当りしだいに引き入れました。のちには万景台のわたしの祖母までも白頭山一帯を引きまわして数々の苦労をさせました。骨肉をおとりにした「帰順工作」は彼らの最後の手段でした。朝鮮は昔から「東方の礼儀国」として隣邦に広く知られています。朝鮮民族が礼儀をわきまえ、人情深く、忠孝心に富んでいることは、昔わが国に来た西洋人もひとしく認めています。旧韓末のわが国を遍歴した帝政ロシアの学者たちは、帰国後皇帝に奉呈した文で、朝鮮は礼儀・道徳において最上の国であると強調しています。敵がわたしの祖母を「帰順工作」に引き入れたのは、祖父母への孫の孝心を悪用して、わたしをなんとかしてみようという魂胆からでした。帝国主義侵略者に情け容赦というものはありません。彼らは朝鮮人の醇風美俗や伝統的な倫理道徳までも自己の強盗さながらの戦略に悪用しました。前世紀後半、西洋人が大(テ)院(ウォン)君(グン)を(〔6〕)屈伏させて門戸を開放させようと、その父にあたる南延君(ナムヨングン)の陵墓をあばいたのもその一例です。
わたしは部隊を率いて濛江一帯で活動したとき、祖母が長白県佳在水村に引き立てられて軟禁されているという通報を受けました。敵は毎日、夜は祖母を閉じこめ、夜が明けると山中を引きずりまわして、「成柱(ソンジュ)や、おばあさんが来たよ。わたしのことを思っても早く山から出ておいで」と呼び立てるよう強迫しているとのことでした。佳在水からの通報には、長白の各村落に貼り出されたという触れ書きの内容もそえてありました。金日成の祖母が佳在水に来ている、金日成はただちに山をおりて祖母に会うべしという内容でした。敵はパルチザンの密営がありそうな大森林地帯に来るたびに、祖母に孫の名を呼べと強要しました。しかし、そんなことに応じる祖母ではありませんでした。ですから、あとはいじめと乱暴しかないに決まっています。彼らは刑事犯でも扱うように、銃口で祖母の背中をこづいて脅したり、すかしたりしましたが、なんの効果もありませんでした。彼らはわたしの祖母をあまりにも知りませんでした。田舎のばあさんだから、ドンと足を踏み鳴らし、目をむいて怒れば、怖じ気づいて言うとおりにするものと思ったのでしょうが、それはとんでもない当て外れでした。
佳在水の地下組織では、祖母が気の毒で見ていられないから部隊を出動させて救出作戦をしてほしいと言ってきました。部隊を出動させるのが無理なら、自分たちの組織のメンバーを動員してでも祖母を救出するつもりだから、どちらにするか決断を下してくれというのでした。そういう連絡を受けたわたしは暗然としてしまいました。身震いがし、腹が煮えくり返ってこらえきれませんでした。零下四〇度を上下する氷雪の荒野に高齢六〇の老婆を引きずりまわして苦労させるとは、生身の人間としてできることでしょうか。すぐにでも部隊を率いて敵を討ち、祖母を救い出したい気持ちでした。けれども、怒りを抑え、こらえました。ましてそのころは「恵山事件」のため、西間島と国内の革命組織が試練を経ている最中でした。数百名の革命家が獄につながれ、血を流していました。そんなときに自分の祖母を救おうとするなら、わたしがなんの面目で革命を指導できるというのでしょうか。戦闘を手配すれば、祖母の救出は可能であったでしょう。しかし、まかり間違えば、敵の網にかかりかねませんでした。金(キム)平(ピョン)は自分の引率している小部隊を動員してでも、祖母を救い出すと言いましたが、わたしはそれを許しませんでした。それよりも工作地へ早くもどり、朴達(パクタル)をはじめ朝鮮民族解放同盟のメンバーを救出する対策を講じるよう説き伏せました。拳で涙をぬぐいながら立ち去った彼の姿が忘れられません。
彼が去ったのち、じつはわたしも泣きました。祖母を身近にしてこらえるのは本当につらかったのです。以前は数俵の米や数挺の銃を得ようと戦闘をしたこともあり、一、二名の愛国者を救うためにもためらいなく戦闘を手配したものです。ところが、わたしの祖母が遠くもないところに引き出されて迫害を受けているという知らせを受けながらも、こらえなければならなかったわたしの心情はどんなものであったでしょうか。救出したいのはやまやまでしたが、それをじっと堪え忍ばねばならなかったのが、ほかならぬ司令官としてのわたしの苦衷でした。人として私情に克つということは、じつにむずかしいことです。幼いころから祖母に格別可愛がられてきたわたしとしては、佳在水の地下組織からの通報を受けた瞬間から、なんとしても心の安定を保つことができませんでした。そのときの胸の痛みをなんと表現すればよいかわかりません。
幼年時代と少年時代のわたしにとって、祖母は母に劣らず大きな位置を占めていました。万景台で幼いころを過ごしたときに、もっとも印象深く覚えていることの一つは、飴をのせた板を肩にかけた飴売りが「飴を買いなされ、飴を買いなされ」と村中を呼びまわる光景でした。ときにはリヤカーにぼろや古ゴム靴などを積んだ飴売りが村に来ることもありました。飴売りが飴を切る大きなはさみを鳴らして客を呼ぶと、村中の子どもたちが集まってきます。そんなときは、わたしも甘い飴が食べたくて生唾をのみこんだものですが、わたしの家には金もなければ、ぼろや履き古したゴム靴もありませんでした。そのころ、わたしの村にはゴム靴を履いている人がわずかしかいませんでした。わたしの家でもみんなわらじを履いていて、ゴム靴を履くなど思いも及ばぬことでした。村のちびっ子たちが飴売りの台板やリヤカーを取り囲んで騒がしくしているときにも、わたしはそこに割り込まず、庭先で鶏の餌をやったり、家の裏手のしょう油がめのそばへ行って蟻の動きをのぞきこんでいるふりをしたものです。家の大人たちが、わたしのそんな気配に感づかないはずはありませんでした。ある日、祖母は貴重な米をパガジに入れ、飴と取り替えてきたことがあります。何本かの飴ん棒を持ってきてわたしにくれたのですが、幼心にもありがたい気持ちでいっぱいでした。ひき割りの粥で口すぎをしているありさまで、何本かの飴ん棒のために米を持ちだすというのは容易ならぬことでした。祖母の情がこもったそのパガジと飴ん棒がいまもありありと思い浮かびます。
わたしは母の背におぶさった記憶よりも、なぜか祖母や亨(ヒョン)実(シル)叔母におぶさったことのほうが記憶によく残っています。祖母は実家へ遊びに行くときにも、よくわたしをおぶっていったものです。男の子が六、七歳なら、多少物心がつくころです。その年になると、はにかんで人の背におぶさって歩く子どもはほとんどいません。ところが祖母は烽(ポン)火(ファ)里に来るたびに、うちのチュンソン(金日成同志の幼名)がどれくらい大きくなったかおぶってみよう、と言ってわたしの前に背中を向けてしゃがみこんだりしました。わたしがはにかもうがどうしようが関係ありませんでした。祖母の背におぶさると、髪の毛とひとえのチョゴリから青草のようなにおいがするのですが、わたしはそのにおいがとても好きでした。それは労働のなかで一生を生きてきた祖母特有のにおいでした。わたしたち親子が万景台で暮らしていた時分、祖母はわたしを独り占めにしていました。幼いころのわたしは、祖母のそばにいるほうが多かったのです。祖母のやわらかい腕は、幼いころのわたしの枕のようなものでした。その枕がわりの腕に頭をのせると、なぜかよく眠れました。祖母はわたしを抱いて寝るとき、いつも不思議なおとぎ話をして、空想をはばたかせてくれました。ときには、食事のときに取っておいたおこげやナツメなどをそっとわたしの口に入れてくれたものですが、それがまたなんともいえない味でした。
父と死別して以来、わたしへの祖母の愛情は何倍にも増しました。祖母は一家の長孫であるわたしの成長を見守ることを人生の唯一の楽しみにしていたようです。祖母に何か楽しみがあったとすればどんなことだったでしょうか。錦衣玉食の楽しみだったでしょうか、諸方漫遊のぜいたくをする楽しみだったでしょうか。祖母の素朴で切なる夢は国の独立でした。朝鮮の独立を待ち望み、その独立のためにたたかう子や孫の面倒をみ、誠実に後押しするのが祖母の仕事であり楽しみだったのです。祖母の愛情は多くの場合、わたしへの期待と信頼にあらわれました。一九二六年といえば、わたしの父が物故した年です。その年の夏、撫松の陽地村にある父の墓所を訪ねた祖母は墓前に伏して悲しげに慟哭したあと、わたしにこう言いました。
「チュンソン、いままでお父さんがになっていた荷を、今度はお前がになうことになったのだ。お前はお父さんのあとを継いできっと国を取りもどすのだよ。わたしやお母さんに孝行できなくてもいいから、朝鮮の独立のために身も心もささげなさい」
わたしは祖母のその言葉に胸をゆさぶられました。もしあのとき、祖母が朝鮮の独立ではなく、将来金持ちになれとか、出世してくれというようなことを言ったのなら、わたしはそれほど大きな感動を覚えはしなかったでしょう。祖母はそんなことを毛頭考えもしませんでした。そうしてみると、祖母の志は非常に高い次元にあったといえます。わたしは祖母のこの言葉に大きく力づけられました。祖母がわたしに国の独立という重大事を託したのは、わたしへの信頼の表示でした。その後、祖母は万景台へ帰らず、しばらく撫松に留まっていました。わたしたちが安図へ引っ越した後は、そこへも来て母や叔母を気づかい慰めもしました。
祖母の特徴は一言でいって、剛毅な老婆と表現できるでしょう。祖母はその年かさの女性にしてはまれに見る気丈な人でした。貧しくて不幸で善良な人にはこのうえなくやさしく柔らかですが、ひとでなしにたいしては秋霜のごとくきびしい人でした。いかなる強権や不義にも屈しようとしないのが祖母の気性であり心意気でした。祖母が小心で弱々しい人であったなら、わたしは佳在水の地下組織からの通報を受けたとき、あの衝撃にたえられなかったはずです。わたしは祖母がわたしの心情を理解し、革命家の祖母らしく、人質として強いられるあらゆる苦渋と試練に強くたえぬくものと信じました。あのとき、わたしが祖母をそう信じたのは正しかったのです。
華成義塾(〔7〕)時代の同窓生であった朴且石(パクチャソク)が、南牌子密営に来てわたしに会ったことがあります。われわれが楊靖宇をはじめ第一軍、第二軍の幹部たちと重要な会議を開いたときのことです。彼がわたしを訪ねてきたのは「帰順工作」のためでした。そのつぎは李(リ)鐘(ジョン)洛(ラク)が訪ねてきました。朴且石は自分が犯した罪を率直に自白し、わたしの祖母を連れて西間島一帯を歩きまわったことをうち明けました。彼の話を聞いてみると、祖母はわたしが信じていたとおり、敵に少しも屈しませんでした。
祖母を人質にして引きずりまわしたのは「帰順工作班」の連中でした。李鐘洛と朴且石はその工作班に属していました。日本の謀略家は、わたしの祖母を「帰順工作班」に加えるよう彼らに強要しました。李鐘洛と朴且石は万景台にあらわれ、わたしの祖父と祖母に、孫に会いたくないか、会いたかったら会いたいと言え、孫は無駄骨ばかりおって身を滅ぼす破目になったから、助けたい気持ちがあったらわたしらの言うとおりにしろ、と言いました。祖母は、人間は一度死ねばそれまでだ、新聞に死んだという記事まで載った孫が生きているというのはどういうことだ、そんなでたらめは聞きたくもない、と言って背を向けました。これにあわてた李鐘洛は、あの記事はうそだ、成柱は生きている、けれども成功する見込みもない独立運動をつづけ、険しい山の中で無駄骨ばかりおっている、東洋全体が日本の天下になったというのに、それも知らず白頭山で塩もなくて生米と松の葉ばかり食べているので、獣のように体中が毛むくじゃらになり、足の先はすれて丸くなり、その姿は人間とはいえないくらいだ、成柱が奇妙な縮地の術を使ってあちこちと姿をくらませて戦うので、山から連れだすことができない、日本政府では成柱が寝返ってきさえすれば、関東軍の大将でも朝鮮軍司令官でも、なんでも好きな役につけてやると言っている、もちろん、家族も御殿のような屋敷でぜいたく放題の暮らしをすることができる、それで成柱を早く連れもどさなければならないのだが、その役はおばあさんが受け持ってくれるのがいちばんよさそうだ、と言いました。そして数百円の大金を差し出し、これは日本の偉い人のほんの心付けだが、この金でひとまず暮らしに必要な物から買い、お手伝いも雇うようにと言いました。祖父は怒り心頭に発し、この不届き者め、わしらに孫の命を金と取り換えろというのか、そんなたわごとは止めてさっさと消え去れ、と一喝して札束を庭へ放り投げたそうです。祖母はまた祖母で、日本軍の大将どころかその大旦那の座につけてくれると言っても連れには行かない、うちの息子の亨(ヒョン)稷(ジク)と亨(ヒョン)権(グォン)を死なせたことだけでも胸が張り裂ける思いだ、わたしの目の前からさっさと消え去れ、と一喝しました。形勢がこうなるや、李鐘洛と朴且石はそれ以上どうすることもできず、すごすごと引き下がりました。口や金ではわたしの家族を動かせないと知った敵は、銃をつきつけて祖母を引きずりだし、満州へ向かいました。こうなるや祖母は、よし、お前らが無理やりにわたしを連れて行くというなら行こう、だからといってお前らを助けやしない、その代わりわたしはわたしで、この機会に孫が戦っている白頭山と満州各地を存分に見てまわることにするから、どっちが勝つか試してみよう、と言いました。祖母の意地はまったく普通の意地ではありませんでした。
「帰順工作班」の特務たちは、一年近く西間島の山岳地帯を歩きまわって祖母を苦労させました。ですから、六〇を越した老身の祖母にしてみればどんなにつらかったことでしょうか。ある日、朴且石は祖母の足の裏に水ぶくれができたのを見て、「おばあさん、とんだ苦労をさせて申し訳ありません。こんな気の進まないことをするので、本当はわたしらも心苦しい思いをしています。さぞ骨がおれることでしょう」と祖母を慰めました。彼は転向したとはいえ、同情心だけはあったようです。祖母は、骨はおれても、孫が戦っている野山を見ると力が湧いてくると言いました。敵が筒先で背中をこづきながら孫の名前を呼べと強要するたびに、祖母は「わたしはそんなふざけたことは言えない。お前らはわたしを殺して無事でいられると思うのか。孫の鉄砲玉をくらいたければ、やりたいとおりやってみろ!」と反対に脅しつけました。事実、「帰順工作班」の連中も、自分たちに成算がないのを知らないわけではありませんでした。彼らはいつ遊撃隊の襲撃を受けるかわからないので、戦々恐々としていました。革命軍司令官の祖母を人質にして引きまわしている自分たちの行脚がどんな報復にあうかは、彼らも十分承知のことでした。「帰順工作班」の特務たちは、なんとかして遊撃隊の銃弾だけはまぬがれたいと考えました。それで祖母に、自分たちは遠く離れて保護するから、その代わり一五歳くらいの男の子をお供のつもりで連れ歩き、孫を捜してみてくれと頼みこみました。敵が怖じ気づいて身を隠そうとしているのを見抜いた祖母は、「よりによってなぜ子どもを連れて歩けというのだ。わたしは何がなんでも、ほっぺたのぶよぶよしたお前らとご一緒させてもらうよ。革命軍が怖くてそんなことをしようとするなら、お前らの上官にそのとおり言いつけてやる」と脅しつけました。そのため特務たちは、逆に祖母に引かれて下手に出る格好になってしまいました。祖母は特務たちをどやしつけながら、気の向くままに行動しました。寒ければ寒くて山へ行けないと言い、疲れれば疲れて休むと言いました。ときには風呂の湯が生ぬるかったり、日本人が先に湯を使った痕でもあろうものなら、金将軍のおばあさんをなんだと思ってわたしをぞんざいに扱うのかとたしなめ、特務たちが食事時に日本料理や中国料理を出すと、朝鮮料理を出せと堂々と要求しました。そのたびに、「帰順工作」に駆り出された連中は、祖母の機嫌をとろうとしました。
元日の朝、「帰順工作班」を受け持った日本人の督察官は李鐘洛と朴且石を呼びつけ、金将軍の祖母から新年の挨拶を受けたいから、年賀に来させろと命じました。これを聞いた祖母は苦笑し、「よくもそんなことが言えたものだ、無礼者め! そいつこそ金将軍の祖母のところに年始回りに来いと言え!」ときびしく叱りつけました。督察官はそれを聞き、驚きのあまり手にしていた杯まで落としたそうです。気を損ねると凶器をふりかざし、相手が謝るまで難癖をつけてがなりたてる性悪だったそうですが、その日に限っては気がくじけたのか乱暴沙汰に及ばず、「さすがに金日成の祖母だけのことはある。孫が白頭山の虎というが、彼女もやはり虎のばあさんに違いない」と感嘆してやまなかったとのことです。このように剛直で傲然と構える祖母の前で、朴且石は毎日、脆弱な変節者としての罪をただされるような気持ちだったと率直に告白しました。「帰順工作班」の特務たちは結局、無駄骨をおっただけで、祖母を万景台へ帰らせました。
わたしは朴且石が体験した「帰順工作」状況を聞き取り、祖父母への尊敬の念をいっそう深めました。そして心のなかで、故郷の祖父母に深く感謝しました。朴且石は密営を去るとき、日本人の強要にたえかねて転向はしたが、祖国と民族の前に、とりわけ山中で苦労しているわたしの前に、二度と恥ずべきことはしないと誓いました。わたしは彼に何本かの野生の朝鮮人参と手紙を渡し、祖父母にそっと伝えてくれるよう頼みました。解放後、祖国に帰って祖父母に、わたしの手紙を受け取ったか尋ねてみると、受け取ったとのことでした。しかし、朝鮮人参は受け取っていないとのことでした。おそらく、朴且石をわれわれの軍営に送り込んだ日本人の督察官が横取りしてしまったのでしょう。

万景台の祖父母は、南牌予密営から朴且石を通して送られてきた手紙を孫の金日成同志が祖国の解放をなし遂げて凱旋するときまで大切に保管していた。その手紙は一九四六年五月二九日付けの『正(チョン)路(ロ)』の紙面に掲載されてはじめて世に知られることになった。新聞『正路』は『労働新聞(ロドンシンムン)』の前身である。革命を裏切った転向者に処罰や処刑ではなく、密書の伝達というむずかしい頼みごとをした、世にまれな事実によっても、金日成同志の天のごとき度量と寛容をうかがうことができる。朴且石もひとかけらの良心をもっていたなら、その度量の前に人知れぬ涙を流したはずである。彼が上司に手紙を渡さずきちんと伝えたのを見れば、密営での約束を守ったわけである。祖国解放偉業への信念と信義に徹し、つねに楽観的であった血気さかんな二〇代の将軍の気迫と体臭をじかに感じさせるこの短い手紙が世に公開され、次代にまで伝えられるようになったのは、じつに幸いといわざるをえない。手紙の全文はつぎのとおりである。

「おばあさまの深いお気持ちがよくわかりました。
男児ひとたび国事に身をささげた以上、この身は完全に国のもの、民族のものであることは言うに及びません。
いずれ遠からず、おばあさまのところへ帰る喜びの日が来るはずですから、ご安心ください」

万景台の金日成同志の家族一同は、この手紙を見てひとしく涙にぬれた。その後、李宝益女史は林水山(リムスサン)の属していたいま一つの「帰順工作班」に引き立てられ、北間島一帯であらゆる苦労を強いられた。停戦後、李宝益女史の葬儀に参列した親類縁者と知己たちは、この部分を回顧するときの金日成同志の目に沈痛の色がただよっていたと語っている。

祖母が再び満州に連れられてきて苦労しているという知らせを受けたのは、わたしが安図県車廠子付近にいるときでした。そのとき祖母を連れて歩いた「帰順工作班」の構成を見ると、日本人の特務が大多数を占めていました。この工作班には、われわれの主力部隊で参謀長を務めた林水山も属していました。彼は投降したとき日本の上司に、なんとしてでもわたしをつかまえてみせるとかたく誓ったそうです。この工作班は最初、亨禄(ヒョンロク)叔父を人質として引き立てようとしました。祖母を連れて行っても歯が立たず、得るものがないと判断したのでしょう。亨禄叔父は祖父母の膝もとに残ったただ一人の息子でした。彼らが万景台にあらわれて叔父を強引に引き立てようとすると、祖父はオンドル床を拳で叩きながら、絶対に許さないとはねつけ、祖母は、わたしの膝もとに一人しか残っていない息子をだしにして長孫をつかまえようというお前らも人の子なのか、天罰が下るからいまに見ろ、と叱りつけました。亨禄叔父もやはり、たとえこの場で死のうとも甥をつかまえる仕事には手を貸さないとつっぱねました。敵の強圧で結局、祖母がまた空しい満州行脚の途につくことになりました。祖母には、お前らがいくら馬鹿まねをしたところで金将軍のおばあさんには勝てやしないという腹がまえができていたのです。亨禄叔父に代わって死を覚悟して家を出た祖母は、今度も北間島の険しい山々を幾月も引きまわされましたが、敵の前に一度も志操を曲げることがありませんでした。宿所や路上で、指示どおり動かないからと林水山に責めたてられると、祖母はお前はうちの孫を裏切ったが、わたしは生きようと死のうと孫の味方、朝鮮の味方だ、お前の命がどれくらい続くかこの目で見よう、とやり返しました。
わたしはそのころ、祖母が再び人質として引き立てられてきたという知らせを受け、戦闘を活発に展開しました。これは、わたしが健在で戦いをつづけていることを祖母に知らせる最良の方法であり、言葉では形容できない思いをこめて祖母に送るせめてもの挨拶でした。祖母はわれわれの戦勝ニュースを耳にするたびに、そばに誰がいようとはばかることなく「さすがはうちの孫だ、偉い! 早く日本軍を全部やっつけて、朝鮮にいる日本人を追い出すんだ!」と気勢を上げたといいます。敵は今度も祖母を故郷へ帰らせざるをえませんでした。それ以来、彼らは人質でわたしをおびきだす工作を打ち切りました。結果を見れば、銃一挺手にしていない老身の祖母が敵を負かしたことになります。しかし、里の家族にたいする軍警の迫害とさげすみは度を増すばかりでした。一家に愛国者が多かったうえに、わたしが革命軍の司令官であったため、わたしの家族は数十年にわたって言い知れぬ苦しみをなめさせられました。日本の植民地支配時代の末期、亨禄叔父は粗末な漁具を手に入れ、彼らの暴圧を避けて南(ナン)浦(ポ)へ行き、漁獲で細々と暮らしていました。
わたしの家門でいちばん苦労が多かったのは祖母でした。解放後、万景台のわが家にもどった最初の日、祖母に「わたしのためにたいへん苦労したことでしょう」と言うと、祖母はかえって明るい笑顔で「わたしの苦労なぞお前の苦労に比べられるほどのものではなかった。…苦労といえば日本人のほうがもっとしたはずで、わたしの苦労はなんでもない。お前はお国を取りもどそうと戦ってひどく苦労し、日本人はわたしの世話をやくのに苦労したよ。お前のおかげでわたしはあちこち見物して帰ってきたよ。こんなことはぜいたくというもので、苦労なんぞじゃない」と言うではありませんか。わたしは二〇年ぶりの帰郷なのに、おじいさん、おばあさんへの手みやげ一つもてずに来たとわびました。すると祖母はかえってわたしを諭しました。
「どうして手みやげがないというのだ。独立より大きな手みやげがあるか! お前が無事で解放をもってきてくれたのだから、これ以上のことはない。お前が大きく、解放が大きいのであって、この世にそれ以上大きいものがあろうものか」
七〇に近い田舎の老婆にしてはあまりにも豪放な言葉でした。わたしはそれを聞いて、わたしの祖母は本当にたいした祖母だと感服しました。日本帝国主義の銃剣による支配が頂点に達していたあのころ、祖母が敵の強権と威嚇に屈せず、革命家の母、革命家の祖母としての尊厳と志操をあくまで守り通したことは大きな勝利だといえます。わが国のおばあさんたちのなかには、わたしの祖母のような愛国者がたくさんいました。
わたしはときおりこんなことを考えたりします。祖母は共産主義者でもなく、職業革命家でもない、学校に通ったこともなければ、組織的な革命教育を受けたこともない、にもかかわらず、読み書きもできない田舎育ちの老婆が何故にあれほど堂々と敵と張り合い、事々にあれほど賢く剛直にふるまうことができたのだろうかと。思うに、わたしの家門の気風、そして革命が祖母をそういう女傑にしたようです。わたしの家門の気風とはどんなものでしょうか。この世でもっとも貴いのは国と人民であるから、国と民族のためなら命をも惜しみなくささげるということ、一言でいって、愛国、愛民、愛族だといえます。祖母は子や孫からかなりの影響を受けたと思います。息子や孫がすべて革命に投じたため、祖母もその影響を受けざるをえませんでした。子が革命に参加する家庭では、おしなべて両親が革命に加わるものです。革命に加われなければ、革命の同調者、援助者にでもなります。人はよく、りっぱな親をもつ子は、その薫陶よろしきを得て有用な人材になると言います。もっともな話です。同じように、親もりっぱな子をもてば、啓蒙され目覚めます。そして、わが子に歩調を合わせるようになります。こういう理由で、家庭の革命化における若い世代の役割がきわめて重要であることをわたしはいつも強調しているのです。もちろん、父が革命家であったからと、その子や孫もおのずと革命家になるというものではありません。革命家たらんとするなら、親の影響も重要ですが、自らの努力が必要です。夢にも先祖の恩恵をこうむろうなどと考えてはなりません。わたしは一門の若い世代が、国の独立のためにたたかって倒れた父と烈士のあとを継ぎ、社会主義建設と祖国統一のためのたたかいでつねに先頭に立つことを望んでいます。祖母が晩年にいたっても農耕に専念したのも、結局は国のためであり、社会主義のためを思ってのことでした。
祖母が敵と強くたたかうことができたいま一つの要因は、われわれの力が強大であったことにもあります。敵がわたしにたいする「帰順工作」をくりひろげたころ、朝鮮人民革命軍は全盛期にありました。革命軍の威容と名声が祖母を力づけないわけはありませんでした。もしわれわれが革命武力を建設した後、敵との対決で連戦連勝の戦果をおさめられなかったり、広範な大衆を統一戦線の旗のもとに結集させることができず、現状維持の態勢で山中にひそんでいたなら、祖母はあれほど高飛車な態度で敵を負かすことができなかったでしょう。社会主義建設でも理屈は同じです。若い世代が多くの仕事をして大いに力を養ってこそ、祖国が富強になり、人民が高い尊厳と自負を抱くようになります。尊厳というものは天から降ってくるものではありません。党が偉大であり、領袖が偉大であり、国が富強であってこそ尊厳というものも生まれ、自負も強くなるものです。若い世代が主力となって党と領袖をりっぱに支え、仕事に励んで富強な祖国を建設しなければなりません。

一九四六年六月九日、万景台の村人と抗日パルチザン参加者、平壌(ピョンヤン)市の党・行政機関の幹部は、万景台人民学校で金日成同志の祖母の誕生七〇周年を祝う宴会を催した。その席には平壌に駐在していたソ連軍のロマネンコ少将も参加し、抗日革命闘士と各来賓についで祝辞も述べた。祖母の誕生七〇周年の祝宴が社会的に大きな関心のなかで盛大に催されることを知らずに万景台に来た金日成同志は、各界代表の心からの祝辞を受け、長孫として親族を代表して答辞を述べた。祖母の七〇年の生涯を数言で集約した答辞の要旨はつぎのとおりである。

わたしの祖母は無学の田舎の女性です。けれども、息子や甥、孫が革命に身を投じたとき、それに少しも反対せず、かえって激励し、彼らが革命活動のために膝もとを離れ、あるいは敵の手にかかって死に、あるいは獄につながれ、あるいは行方知れずになりましたが、祖母は決して失望しませんでした。しまいには敵に引き立てられ、満州まで行ってあらゆる辛苦をなめながらも、初志を貫きとおしました。これは何を物語っているのでしょうか。それは祖母が読み書きはできなくても、希望をもって最後までたたかったということを意昧します。祖母は前途を見通し、最後まで希望をすてなかったのです。祖母のその希望はついにかなえられました。昨年八月一五日の朝鮮の解放がそれです。祖母はこの日を見るためにきょうまで生き長らえ、ついにそれを見ることができました。それゆえわたしは、きょうのこのような宴会がこれに限らず今後も何回となくつづくことを望みながら、あわせて祖母もさらに長寿を保ってくださるよう望むものです。

李宝益女史は一九五九年一〇月、八三歳を一期として生涯を閉じた。解放後の一四年を除くほぼ七〇星霜は、貧困とたたかい、不義とたたかい、外敵とたたかった風雪の歳月であった。銃剣の強圧のもとでの二回にわたる満州行脚は、最大の受難であった。しかし、女史は延々数十年に及ぶ暗黒の時代を赤手空拳で生きぬき、孫によってもたらされた解放の日を迎え、この地にうち立てられた社会主義の楽園を見た。あの息づまる暗黒の時代を経て、女史が長寿を保つことができた秘訣はなんであったのか。八〇余星霜にわたる女史の受難にみちた生涯の実見者であり立証者である金日成同志の言葉を銘記しよう。

祖母が長寿を保つことのできた要因の一つは労働です。祖母は祖父とともに、一生を労働で生きてきました。子や孫の衣食をまかなうための不断の労働、これが祖母の肉体と意志を鍛えたのです。たえず体を動かし、人びとの生活に有益な何かをたえず創造する人は総じて長生きするものです。祖母は心の奥底に夢をたたんで暮らしました。言わば、明確な目的をもってその日その日を有意義にすごしたのです。祖母の生涯は空しく過ぎ去ったように見えますが、実際はそうでありません。一歩一歩に意味があり、目標がありました。前にも話しましたが、祖母は生涯、何かを待ち望みながら生きてきました。解放前は独立の日を待ち望み、解放後はわたしの帰郷を待ち望み、わたしに会ってからは万民が幸せに暮らす日を待ち望み、祖国が統一する日を待ち望みました。一生を期待と希望のなかで生きる人は長生きするものです。そういう人は試練にもよくたえます。
わたしの体験によれば、革命に参加するのは夢が多く理想の高い人です、夢が多く理想が高くてこそ、偉大な発明もします。祖母は夢の多い人でした。祖母が長寿を保てたのは、夢が多いためだったといっても過言ではありません。思想が確固としていて信念と意志が強いこと、夢が多いこと、勤勉であること、これが祖母に長寿を保たせた秘訣です。祖母李宝益は国家元首の祖母でしたが、一生涯、質素で清廉な暮らしをしました。わたしは祖国に帰った後、党の創立と国家の創建が終われば、祖父と祖母を平壌に呼んで一緒に暮らそうと思いました。けれども祖父と祖母はそれを望みませんでした。正直な話、それくらいの年齢なら孫の扶養を受けて安らかな余生を送ってもあげつらう人はいません。わが国には革命烈士の遺族を優遇する制度があるし、祖父や祖母はそういう優遇を受けるだけでも、余生を安らかに送れるはずでした。けれども祖父母はそういう国の恩恵にあずかることを望みませんでした。また、孫のおかげをこうむってぜいたくをすることも望みませんでした。あくまでも平凡な庶民として暮らそうとしました。それで晩年まで農耕をつづけたのです。「仕事のない人がいちばん哀れな人だ」というのが祖母の素朴な哲学でした。
一生労働のなかで年老いてきた祖父、祖母にほんの少しの休息でもさせたくて、わたしはときたま二人をわが家に迎えました。そのたびに二人は何か仕事をくれと言いました。それでいつかは、割れたパガジを繕ってくれるよう頼んだこともあります。祖母は、孫嫁がつくってくれる料理は格別おいしい、ひ孫たちを抱くのはなんともいえない楽しみだと言いながらも、仕事がないから退屈でたまらない、土が踏めないのでなんともいたたまれない気持ちだと言って、いつも一週間とたたずに万景台へ帰ってしまうのでした。ときには、生活のたしに何かして差し上げようとすると、祖母は、わたしの心配はしなくてもよいから人民のことを心配せよと言って、いつも断りました。首相も人間なので、わたしだからと自分の祖母に楽をさせてやりたいという欲がないはずはありません。まして、死地をさまよい、辛酸をなめつくして九死に一生を得て帰ってきた祖母ではありませんか。一生涯ひとえの衣服で通した祖母に厚手の綿入れを着せ、誕生日には一、二本の焼酎なりとも携えて行って、長寿をことほぎたいのが、わたしの偽りない気持ちでした。ところが、祖母はそんなささやかな誠意すら受け付けませんでした。正直に言って、わたしがもし首相でなく平凡な一般公民であったなら、祖母のために何かしらもう少しして差し上げることができたはずです。自分の手で木を伐り瓦家を建ててやり、劇場へ案内して『沈清(シムチョン)伝(〔8〕)』の観覧をさせるなどして、安らかな余生を送れるようにしたでしょう。しかしながら、わたしは国事に忙殺されていたので、祖母に綿入れの一着もあつらえてやれませんでした。祖母はこの世を去るときまで、曽祖父の代から引き継がれてきた質素な草ぶきの家に住みつづけてきました。わたしは全国の農村に瓦家を建てるようはからい、驚天動地の大変革をもたらしながらも、自分の祖母には新しい家を建ててやれませんでした。わたしが祖母にしてやったことは、これといって思いあたりません。あるとすれば、老眼鏡を一つ買ってあげたことだけですが、それだけは祖母も快く受け取ってくれました。
国事に追われて東奔西走するうちに歳月は流れ、祖母は帰らぬ人となりました。こうして祖母と死別してみると、後悔されることが少なくありません。母にたいしてもそうでしたが、祖母にたいしても、わたしはやはり孝養をつくすことができなかったようです。生前の祖母に綿入れの一着なりともつくってやっていたなら、これほど心が痛みはしないでしょう。

八 南牌子の森林で

抗日武装闘争が高揚期に入っていた一九三〇年代の後半期、日本帝国主義者は朝鮮人民革命軍にたいする軍事的攻勢を強化する一方、銃砲によって得られなかったものを懐柔工作によって得ようと執劾に策動した。彼らは、革命の背信者を遊撃隊の内部に送り込んで「帰順工作」さえ巧みにおこなえば、革命軍を内部から思想的に瓦解させることができるものと考えた。彼らは革命を中途で放棄した脱落分子と背信者を「帰順工作」の先頭に立たせたのだが、そのなかには金日成同志のかつての同窓生や革命活動の縁故者もいた。金日成同志は南牌子会議について言及するたびに、華成義塾時代の同窓生であり、「トゥ・ドゥ」時代の同志であった李(リ)鐘(ジョン)洛(ラク)と朴且石(パクチャソク)が「帰順工作」の任務をおびて密営にやってきたことを回顧した。

南牌子での会議のとき、李鐘洛と朴且石に会ったことを余談として話すことにします。李鐘洛と朴且石はわたしと華成義塾にも一緒に通い、「トゥ・ドゥ」と建設同志社(〔9〕)もともに組織し、朝鮮革命軍を組織するときもともに活動した人たちです。数年間、革命活動をともにすれば、兄弟と変わりない密接な関係で結ばれるようになるものです。この二人はわたしと四、五年も革命活動をともにした。彼らは金(キム)赫(ヒョク)や車(チャ)光(グァン)秀(ス)などの吉林の同志たちより一歩先んじてわたしと結ばれた人たちです。われわれが樺甸で「トゥ・ドゥ」を結成したときには、金赫や車光秀はまだ網羅されていませんでした。しかし、朴且石と李鐘洛は二人ともその組織の中核をなす人物でした。そういう関係からしても、この二人はわたしが革命の道に投じたころの最初の同志であると同時に、最初の同行者といえる人たちです。
学生青年運動や地下闘争をしていた人たちがさまざまな曲折を経て離散し、片一方は山中で武装闘争をはじめ、片一方は敵に逮捕されて獄につながれるといった経緯で、互いに生死のほどもわからずにいて数年ぶりに再会したというなら、それはきわめて意義深い巡り合いといえるでしょう。しかし遺憾ながら、われわれの対面は愉快なものとはなりませんでした。なぜなら、李鐘洛と朴且石は日本の関係機関から「帰順工作」の任務を受けて密営にあらわれたからです。彼らはかつての革命同志としてわたしを訪ねてきたのではなく、日本人に糸を引かれる操り人形として「帰順」のかけひきをする目的でわたしを訪ねてきたのです。獄につながれた人がそういうかけひきをしに来るということは、彼らがわたしも裏切り、革命も裏切ったことを意味します。ですから、彼らは貴賓とはなりえませんでした。わたしは、革命を裏切ったかつての同窓生と対座するという、苦い体験をしなければなりませんでした。
人民革命軍にたいする敵の「帰順工作」が大々的に、より悪らつに展開されはじめたのは、およそ一九三〇年代の後半期からだったと思います。当初、日本帝国主義者は抗日武装部隊との戦いで「帰順工作」を基本政略とはしませんでした。彼らは弱小の抗日遊撃部隊と反日部隊を軍事的に制圧することに全力を集中しました。軍事的方法以外のいかなる方法も認めず、また用いもせず、許しもしませんでした。文字通り「討伐第一主義」を主張し、それを押し通しました。日本軍首脳部は「討伐」を唯一の手段とし、「帰順工作」などはさせようともしませんでした。そういうことは「武士道精神」にもとる幼稚な行為と考えたのかもしれません。彼らはさらに「誘導的帰順厳禁主義」という法度まで設けました。これを見ても、日本の軍部が東北の抗日武装勢力を軍事的方法のみでも十分除去できる対象とみなし、われわれの活動に軍事的にのみ対応してきたことがわかります。おそらく彼らは、九・一八事変当時、張学良麾下の三〇万の大軍が一朝にして崩壊したのを見て、かなり自信を得るようになったのでしょう。しかし、軍事的攻勢だけでは抗日遊撃隊の成長と抗日武装闘争の発展を阻むことができませんでした。こうなるや、日本帝国主義者は「文化討伐」という新たな考案品をもちだしてきました。「文化討伐」とは「治本工作」や「思想工作」「帰順工作」などを指すものです。

日本帝国主義侵略者が「軍事討伐」と同時に、抗日武装闘争の「抜本塞源」をねらう「文化討伐」戦術を用いるようになった理由を、彼ら自身の言葉を通して知るのも興味あることである。日本司法省刑事局発行の『思想月報』第七七号(一九四〇年一一月 一三九~一四一ぺージ)にはつぎのようなくだりがある。
「共匪の討伐が何故斯様に困難であるかと申しますれば、共産軍は共産主義に基く根強い闘争意識に燃え、又巧妙なる宣伝戦術を有し、而かも地理的には山岳畳々の密林地帯を遊撃地区とし『敵攻むれば我退き、敵退けば我進む』のゲリラ戦法を用ひ、而かも民衆政治工作に就いては、特異の潜行宣伝工作に依り之を獲得するのであるから、絶対に武力のみに依る討伐で成果を収め得ない…(中略)武力のみに依拠する事は一時効果はあっても決して抜本塞源の方策ではないのでありまして、飯の上の蠅を追ふか、雑草の芽を刈る程度の効果しかないのであります。(中略)
即ち従来の数次に亙る討伐を敢行し乍ら今日尚彼等を跳梁せしめた重大な原因は一に武力のみに力を注ぎ、その治本工作、思想工作に些か欠ける処があったのに国家の凡ての機関が之れに協力せず単に軍にのみ任せ過ぎた為めではないかと存じます」

敵は「文化討伐」の美名のもとに「帰順工作」を大々的にくりひろげる一方、「以匪征匪」政策にしたがい、抗日武装隊伍から脱落した投降者と帰順者で「討伐隊」を組織し、かつての戦友や上官、部下たちの「討伐」にあたらせました。「以匪征匪」とは、直訳すれば「匪賊」をもって「匪賊」を征するという意味です。敵が一九三〇年代の後半期になって「文化討伐」という非軍事的方法をより積極的に活用したということは、彼らがそれまで万能としてきた軍事一辺倒政策の破綻を意味します。軍事的攻勢だけでは目的が達成できなくなったので、「帰順工作」のような卑劣な手段も講じるようになったわけです。
一九三七年~三八年といえば、われわれの抗日武装闘争が全盛期にあった時期です。軍勢も膨大で、戦果も赫々たるものがありました。大きな城市の一つ二つを攻略するくらいはいとも簡単なことでした。武装闘争の影響のもとに大衆闘争ももりあがっていました。ところが、ようやく高揚しつつあった抗日革命が、熱河遠征のために莫大な被害をこうむるようになりました。楊靖宇の第一軍をはじめ東北抗日連軍所属の少なからぬ部隊が遠征の過程で多数の兵員を失いました。抗日武装部隊からは逃走者や帰順者が出てきました。少なからぬ指揮官が武装闘争を放棄し、敵の懐にころげこみました。こういう事情からして、敵は東北の抗日武装勢力が崩壊寸前にあるとみなしました。収拾しがたくなった烏合の衆だから、内部的にも完全に四分五裂の状態になって右往左往しているはずだ、いずれにせよ叩きさえすれば倒れるだろう、と思い込んだのです。
敵が「文化討伐」を重視するようになったいま一つの理由は、そのころ「帰順工作」によって得たいくつかの成果に味をしめたからだとも考えられます。重要指揮官の投降は彼らに、共産主義者の信念や意志にも限界があると思い込ませ、そういう考えにもとづいて人民革命軍の切り崩し工作を推進させることになったのです。日本帝国主義者は「文化討伐」の標的を朝鮮人民革命軍に定め、一方では軍事的攻勢を強め、一方ではわたしにたいする「帰順工作」を執拗にくりひろげました。それではなぜ、彼らが朝鮮人民革命軍を「討伐」の標的としたのでしょうか。その理由は明白です。それは朝鮮人民革命軍が一九三〇年代初期から日本帝国主義者に重大な脅威を与える主要敵手となっていたからであり、また東北地方の抗日武装隊伍のうちでもっとも戦闘力が強く、掃滅しにくい存在となっていたからです。そのため、新聞、雑誌にわれわれの部隊の活動がかなり紹介されました。われわれの闘争ニュースはアメリカにも伝えられました。

当時、アメリカで発行されていた海外同胞紙『新韓民報』に掲載された文章の一部をここに紹介する。
「ここ最近の天津通信に依れば、その報道はかなり詳細を極めたもので次の如し。韓中義勇軍中でもっとも勇猛果敢に戦う軍隊は韓人金日成将軍(内地の新聞とその他韓国側の消息に依れば間島を根拠にして活動する金日成氏の武装部隊があって、去る六月、国境を越え甲山普天堡を襲撃して倭軍警の肝胆を寒からしめ、その後も同軍の行動が東亜日報と他の新聞にしばしば報道された。…)統率のもと純然たる韓人で編制された師団という。…彼等の団結存在は生死をともにすることにあり、一種の家族式系統的支配に義俠忠勇等、伝統的精神訓練を併せ、その団結がいっそう固いことである。そのため領袖がいったん命令を下せば、その部下は水火をいとわず突き進むのである。…彼等の目的はひたすら民族のために敵を討つことのみであり、戦略は多くして遊撃方式をとり、神出鬼没によって、倭敵をして右往左往、錯乱状態に陥れることである。ソ連軍事家の観測は『もし一朝、中日両国が正式宣戦をするなら、日本が満州一角の義勇軍に対抗するとしても軍勢二〇万は要する』としている。その言葉を信ずるとすれば、彼等の実力はきわめて偉大なるものではないか」(『新韓民報』一九三七年九月三〇日)

日本帝国主義者は軍事的方法を用い、事実無根のデマ宣伝をするなど、あらゆる術策を弄して朝鮮人民革命軍を完全掃滅しようとしましたが、効を奏することができませんでした。文字通り無為無策の体でした。彼らの攻勢が強まれば強まるほど、われわれの隊伍は鉄壁にかためられ、われわれの闘争ニュースは羽をひろげてより広い地域に伝播していきました。軍事「討伐」でも成果が得られず、わたしが討死したというデマを流しても効果が得られなかった彼らが、窮余の策としてもちだしたのがほかならぬ「帰順工作」でした。彼らがこの工作にどれほど大きな期待をかけていたかは、わたしの祖母を引きずりだしたことを見てもよくわかります。
敵は「文化討伐」の標的をめぼしい人物に定めました。彼らの段取りは周到なものでした。当時、楊靖宇にたいする「帰順工作」は「省帰順工作班」が担当し、わたしにたいする「帰順工作」満州治安部警務司所属の「中央特別帰順工作班」が担当しました。敵の軍警がわたしの撫松小学校時代の教師まで「帰順工作」に利用しようとしたという日本官憲の資料もあるといいますが、その教師が実際にわたしを訪ねてきたり、間接的な方法でなんらかの連絡をよこした事実はありませんでした。
朴且石と李鐘洛が南牌子密営にあらわれたのは、敵がわたしにたいする「帰順工作」に熱を入れているときでした。近親者を通しての工作が効を奏さないとみると、今度はかつてのわたしの同窓生を差し向けることにしたのです。わたしの考えでは、日本の謀略家は、朴且石は「帰順工作」にたいするわたしの反応をみるためのテスト人物とし、李鐘洛は決定的な機会に利用する基本人物としたようです。
朴且石がわれわれの密営に来たのは、部隊が南牌子にいるときでした。ある日、歩哨隊から歩哨長が飛ばした伝令が来て、朴且石という人がわたしを訪ねてきたことを知らせました。その連絡を受けて、わたしはびっくりしました。朴且石は一九三〇年の夏、工作任務をおびて国内に潜入し、警察に逮捕された人です。監獄入りした人が突然、南牌子に何用であらわれたのだろうか、もし彼が刑期を終えて釈放されたとしても「要注意人物」としてきびしい監視下におかれているはずなのに、その監視をどうかわし、敵の二重三重の包囲下にあるこの密営にまで訪ねてきたのだろうか、といぶかしく思いました。革命の道に立ちもどろうと千里の道もいとわずやってきたのなら、おぶってでもやりたいくらいですが、敵が彼にそんな自由を与えるはずはなく、どう考えても怪しい気がしました。しかし予感はどうであれ、わたしを訪ねてきたというので会ってみることにしました。彼に会えば、獄中の亨権叔父や崔孝一(チェヒョイル)の消息もわかるだろうし、そのほかにもいろいろと知りたいことがありました。
朴且石に会ってみると、外見は以前と変わりありませんでしたが、心は別人でした。彼は生き別れになった骨肉にでも会ったように喜びながらも、なぜか気がふさいでいました。わたしは、昔の血気はどこへいってしまってそんな小心な人間になったのだ、獄中生活にもたえたのだから前を見つめて勇気を出せと言いました。すると朴且石は、獄中で転向し、敵の回し者になって南牌子まで来ることになった経緯を涙ながらにうち明けるのでした。彼は刑を受けて数年間獄中生活をするうちに、しだいに革命勝利の信念を失い動揺しはじめたとのことです。亨権叔父を十字の刑罰台に縛りつけ体刑を加える光景を見せられたときから、抵抗する気力すらなくなったというのです。朴且石が動揺していることを目ざとく看破した敵は、彼を別の刑務所に移しました。そして刑期を満たす前に釈放し、転向させて「帰順工作班」に引き入れました。
敵がわたしにたいする「帰順工作」をもくろんだとき、そこに朴且石を引き入れたのは張(チャン)小(ソ)峰(ボン)でした。張小峰はわれわれが中部満州地方を開拓するとき、金赫、金(キム)園(ウォン)宇(ウ)らとともに卡倫を革命化するうえで功労のあった人です。ところが彼も、一九三一年初に李鐘洛と一緒に武器工作に出て長春駅で逮捕された後、転向しました。敵は彼に女をつけ、長春で所帯までもたせました。そうして彼を職業的な特務として利用しました。日本の諜報機関がわたしと関係の深い人物を物色しているとき、張小峰が李鐘洛のことを教えました。そして、李鐘洛をして朴且石まで引き入れさせたのです。朴且石は官憲に審問されたとき、「トゥ・ドゥ」時代のわたしとの親交についても陳述し、その後反帝青年同盟を組織したことや、共青を組織したのち吉林を中心に活動し、武装グループに属して国内へ派遣された経緯までいっさい自白したことを、わたしに正直にうち明けました。
わたしは彼に、きみのやっていることは自分一人の考えなのか、それとも誰かの指示なのか、と問いただしました。彼は、自分はなんの役付きでもない、日本人に強要されてここに来たが、成柱にこんなばかなことが通じるはずがないのを承知のうえで、それでもこの機会に成柱の顔でも一度見ていこうと思って来たのだ、と涙をこぼしました。わたしに会いたくて来たというのは本心だったようです。朴且石はわれわれに必要な情報もあれこれと教えてくれました。彼はわたしの祖母を「帰順工作」に引き入れようと万景台へ行ったことまですべて話しました。平壌生まれの彼は、少年時代から亨権叔父と親しい仲でした。彼は亨権叔父に会いに万景台にしばしば出入りするうちに、祖父母とも話を交わす間柄になりました。朴且石の話によれば、こういうことを敵に教え、わたしへの「帰順工作」に彼を大いに役立てることができると推したのが李鐘洛だったというのです。朴且石は祖母を引きまわして苦労させたのは死んでも拭いきれない罪業だが、祖母の身辺だけは十分に気を配ったと言いました。そして、自分や李鐘洛は獣にも劣る人間のくずであり、自分のような者は百度殺されても何も言えないと嘆息をつきました。
朴且石もわたしと一緒だったころは正義感が強く、反日精神に徹した青年革命家として、大きな抱負を抱いて組織活動に積極的に参加しました。朝鮮革命軍が結成された後は、課された任務を確実に遂行しました。ところが、逮捕されて鉄鎖につながれる身になると、思想も変わり、人間性もついえてしまいました。それでも彼にかつてのものが何かしら残っていたとすれば、それはわたしへのほのかな友情でした。彼は日本帝国主義者に使われはしても、意識的に彼らに協力したり、またはその代価として栄達をはかろうとはしませんでした。ただ日本が強大であるから革命勝利の可能性はないと判断し、命でもつなげれば幸いだと考えました。命をつなぐには転向するほかなく、転向したので日本人の指図に従順にしたがわざるをえませんでした。彼は「帰順工作」には参加しても、仕方なしにしたのです。日本帝国主義者を憎みながらも、彼らの意図と指令にしたがわねばならなかったのは、朴且石のように革命的信念をすてた人間に降りかかる当然の悲劇でした。
わたしは朴且石に会って、人間の真の姿とはなんであろうかと深く考えてみました。朴且石は年をいくつかとっただけで、顔形は前と同じでしたが、以前とは違っていました。外形は残っているが、どこか中身がないように見えました。魂の抜けた人間になってしまったということです。つまるところ、人間の真の姿は結局、思想だといえます。思想を抜きにして、人間に残るものはなんでしょう。ただの形骸です。思想が崩れれば人格も崩れるものです。朴且石は思想を投げだしたため、無気力な人間になってしまったのです。思想を失った人間の姿は、目のない顔と同じです。
わたしは朴且石が変質したことを知りながらも、敵の手中から再び取りもどす気持ちでいろいろと説諭し、忠告もしました。敵がわたしの昔の同志を奪い去ったのに、わたしがまた彼を奪い返せないはずはない、という反発心が作用したといおうか…「トゥ・ドゥ」時代の朴且石に完全に改造し直すことはできないとしても、愛国心だけでもよみがえらせてやりたいというのがわたしの心情でした。
わたしの心にも、朴且石への旧情は残っていました。民族にたいし罪を犯しては人間らしく生きることも死ぬこともできない、とわたしが言うと、朴且石はそれを肯定し、日本帝国主義者に転向してからというものは、生きることさえうとましく、毎日毎日が苦役だ、こうして生きるくらいなら命をつないで何になるのか、いっそのこと死のうと決心しながらも、勇気がなくて自殺もできなかった、きょう成柱に会って話でも交わせたので心だけは軽くなった、これ以上生きたい気持ちはないから殺してくれ、死ぬにしても成柱の手で死なせてくれ、と言うのでした。わたしは彼に、きみ一人殺したからといってわたしの心が晴れるものではない、きみは自分の罪を洗い去るためにも、またかつて革命活動をともにした同志たちとの義理を思っても、いまからでも良心と体面を守って再出発すべきだと諭しました。彼はわたしの言葉を肝に銘じると言いました。実際のところ、そのとき戦友たちは朴且石を処刑しようと言いました。けれどもわたしがそれを制しました。相手が自分の罪を正直に自白して反省したので、あくまで人間的に応対しました。隊員たちが仕留めてきた猪の肉を供応し、彼と向かい合って酒も何杯か酌み交わしました。そして司令部の幕舎で一晩泊らせ、人間らしく生きるよう忠告して帰らせました。朴且石はわたしに誓ったことをたがえませんでした。わたしに頼まれたとおり、祖父母に宛てた手紙も伝えました。
朴且石が南牌子密営から無事にもどってきたのを見た敵は、しばらくして今度は李鐘洛を密営に送り込みました。李鐘洛を南牌子密営に連れてきたのは、臨江へ出かけたグループでした。その年の冬、われわれは隊員の冬服をととのえるため一グループを臨江へ派遣しました。そのグループは任務を遂行する過程で、取り引きの上手なある商売人に出会いました。彼は、日本人に奉仕するかたわら、遊撃隊にも物資を提供する二股膏薬の如才ない人で、人民革命軍のグループに会うと商談をもちかけました。そちらの望む布地と綿は調達するから、その代わり日本軍の軍属を一人革命軍の司令部まで案内してくれと言うのでした。グループの責任者はそれに同意はしながらも条件をつけました。われわれが多くの荷を運ぶには途中で面倒が起こらないようにしなければならぬが、そちらの上部に断りを入れて革命軍にたいする挑発を中止させろと言いました。こうして、臨江、佳在水から南牌子にいたる広い地域に陣を張っていた敵の「討伐隊」はしばらくのあいだ作戦を中止し、鳴りをひそめていました。グループはこのように敵の企図と弱点を逆利用し、大量の給養物資を南牌子まで安全に運んできました、そのときグループが連れてきたのが、ほかならぬ李鐘洛でした。
李鐘洛は最初から横柄なふるまいをして隊員たちのひんしゅくを買いました。革命軍の軍営に立ち入ったという恐怖感や萎縮感らしきものはまったくなく、ふてぶてしく笑い、ぞんざいな口を利き、はばかりなく行動しました。彼は歩哨隊を引率して密営の入口に出ていた呉(オ)仲(ジュン)洽(フプ)に、寒い冬にさぞ苦労が多かろうと言って、時計を差し出しました。呉仲洽は自分の懐中時計を取りだして要らないと断りました。すると李鐘洛は、遠慮せずに受け取れ、時計が二つあればもっとよいではないかと言いました。呉仲洽は、時計は一つを基準にすべきであって、きょうは革命の時計をはめ、明日は反動の時計をはめるようなことはすべきでないと一矢を報いました。これは、革命の側から反動の側へ乗り移った李鐘洛の反逆行為にたいする辛らつな批判でした。李鐘洛は密営にやってきて厚かましくふるまいましたが、わたしとしては会うやいなや彼の罪状から詰問することができませんでした。一刀のもとに断ち切ることもできず、火に投じて焼き払うこともできないのが人間の情というものなのでしょう。かつて結んだ彼との友情があまりにも深かったのです。李鐘洛もやはりわたしともっとも親しくした人です。「トゥ・ドゥ」時代の李鐘洛は、一家言を吐くそうそうたる革命家でした。同友のうち誰よりも軍事に明るく、新思潮にも敏感でした。一六歳のころから、すでに統義府に所属して独立軍の活動に参加した人です。愛国心が強く行動も勇敢で、線の太い人でした。そして多情多感な人でもありました。わたしが彼を朝鮮革命軍の責任ある地位に推薦したのは、彼にたいする強い期待と信頼の表示でした。彼はそれだけ信望のある人物でした。ですから、それほどにも大事にした彼が信頼を裏切って転向したと知らされたときのわたしの失望は言うに言われぬものがありました。
李鐘洛は自分が日本軍の軍属として「帰順工作班」に属していることを隠しませんでした。彼が言うには、「トゥ・ドゥ」の綱領どおり、日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放をなし遂げ、ひいては全世界に共産主義を実現することができるなら、もちろんそれに越したことはない、しかし、それは到底実現不可能な妄想にすぎない、「トゥ・ドゥ」の組織に加わり、朝鮮革命軍を組織し、そして監獄にぶちこまれたときも、わたしはその理想を実現できるものと信じていた、しかし九・一八事変と七・七事変を経てからは考えが変わった、朝鮮での共産主義運動はすでに幕を閉じた、「内鮮一体」は動かしがたい現実となり、それにともない日本は東アジアの主人となった、中原(〔10〕)を掌握する者は東洋の天下を治めることができるといわれたが、中日戦争の実態を見よ、北京、上海、南京も日本軍の手に落ち、徐州作戦、武漢作戦、広東攻略戦が成功裏に終結した、東北三省を一気に席巻し、いまでは広大な東亜大陸の半分以上を占領した無敵の大日本帝国だというのに、その力に何をもって対抗できるというのか、成柱はずっと山中ですごしているので大勢がどう変わっているのかよく知らないはずだ、わたしがここに来たのは、山中で無駄な苦労をしている成柱を助けるためだ、とのことでした。彼はあたかも、わたしのためにすばらしい善行でも施しに来たかのような口ぶりでした。
わたしは彼の弁舌と体臭からして、この人間は腐るだけ腐って、生き返らす可能性がないと直感しました。わたしは会議が終わるまで、われわれを包囲している敵に邪魔をさせないようにするため、李鐘洛に彼ら宛の手紙を書かせました。手紙はわたしが言うとおりの内容で書き取らせました。金日成軍の軍営に来てみると、現在司令部は白頭山方面に移動して不在である、そこまでは数十里の道程なので、連絡をとるにはしばらく時間がかかりそうだ、いま金日成麾下の一部隊と会って司令部に連絡する交渉をしている最中だから、諒解して次の通報が届くまで静かに待ってもらいたい、と。われわれは李鐘洛の自筆の手紙をわれわれを包囲している敵に届け、余裕綽々と会議を続行しました。
ある日、李鐘洛に、顔につやもあり手もきれいなのを見ると結構よい暮らしをしているようだと言うと、彼は日本人から支給される金でよい暮らしをしている、自分がよい暮らしをしているのは成柱のおかげだと言うのでした。金日成が大物なので、日本人はなんとかして自分のほうに寝返らせようと、金日成をよく知っているか、以前親しくしていた人を抱き込んで厚遇しているとのことでした。そして、自分のような者でさえこんなに厚遇されているのだから、金日成が寝返りさえすれば日本人がどんな高い待遇をしてくれるかは言わずと知れたことだ、彼らは金日成将軍が寝返ってくればどんな官職にでもつけてやると言っている、朝鮮軍司令官でもよいし、ほかの官職でもなんでも要求どおりにしてやる、朝鮮軍司令官を務めて朝鮮を管轄するなり、またはここで高位職について満州を管轄するなり、思いどおりにすればよい、どちらを管轄するにせよ日本と合作してくれさえすればよい、やがて太平洋西部沿岸には必ずやアメリカが勢力を伸張して日本も朝鮮も満州もすべてわがものにしようとするはずだから、アジア人同士が手を取り合ってアメリカを牽制し撃退してこそアジアの活路が開かれる、と話していたと言うのでした。
日本人はきわめて狡猾でした。彼らは李鐘洛を送り込むとき、「帰順」という言葉を使っては通じないことを知り、いわゆる「合作」という妥協案を出して話し合うよう指示したのです。アメリカの勢力を牽制するためアジア人同士が合作しようというのは、日本人がひところ大看板をかかげて標榜した大アジア主義の表現です。日本の主導下にアジア人のための繋栄するアジアを建設しようというのが大アジア主義だと、日本人が鳴り物入りで宣伝しました。しかし、それを真に受ける愚か者がどこにいるでしょうか。大アジア主義は、アジアにたいする日本帝国主義の独占野望を隠蔽するための隠れみのでした。帝国主義者は他国を侵略するたびに、それを合理化する口実をつくって大義名分とするものです。彼らは大和民族の優越性を唱え、世界は日本を中心とする一つの家であるとする「八紘一宇」の思想を鼓吹しました。そうかと思うと、朝鮮を侵略するときには「独立する能力のない民族を日本が引き受けて導き保護」するとうそぶきました。満州を攻撃するときには「自衛権の発動」を口実とし、満州国をつくりあげるときには「五族協和」「王道楽土」の建設を唱え、中日戦争を引き起こすときには暴徒と化した中国を懲罰するという「暴支応懲」「更生新支那建設」「日・満・支三国の結合」などのスローガンをかかげました。
李鐘洛が熱心に大アジア主義について説教するので、わたしは、もしわれわれが日本に攻め込んで鉄拳で日本人を押さえつけ、これから朝鮮の主導下に大アジア主義を施行すると宣言するとすればどうなるだろうか、それでも日本は大アジア主義を正当なものとして受け入れるだろうかと問いました。また、きみは日本を無敵必勝の存在として描いているが、それならなぜ彼らは数年来、朝鮮人民革命軍を軍事的に制圧できずに頭を悩ましているのか、日本が無敵必勝なら、正々堂々とわれわれを平定すべきであって、なぜきみのような人を仲立ちにして幼稚な「帰順工作」をするのかと問いつめました。李鐘洛はその問いにも満足な返答ができず、それは日本人が金日成という人物を大事にしているからであって、他に理由はないだろうと言うのでした。そして、優勝劣敗はどうすることもできない世の道理だから、勝ち目のない抗戦は止めて日本人の提議を受け入れるべきだ、いまこの南牌子周辺だけでも三個師団の兵力が水も漏らさぬ包囲陣を張っている、抗戦を放棄しなければ毒ガスか、新型高性能の大砲で皆殺しにするつもりらしいと言いました。わたしは李鐘洛に、日本人が朝鮮軍司令官はおろか総理大臣にすると言っても、わたしは戦いを放棄しない、毒ガスをまき、高性能大砲を撃つなら撃ってみろと言え、それでも朝鮮人民革命軍は屈伏しないと断言しました。
そのとき、李鐘洛から韓英愛(ハンヨンエ)の消息も聞きました。彼の話によれば、日本人はわたしにたいする「帰順工作」を準備するとき、韓英愛もマークしていたとのことです。しかし、彼女が断固として拒んだため引き込むことができなかったといいます。李鐘洛は、新義州(シンイジュ)刑務所で韓英愛と刑期生活をともにしたのだが、彼女の成柱への義理立ては並大抵のものではなかったと言いました。自分も日本人の指図で彼女を「帰順工作」に引き入れようと口を利いて、けんもほろろに拒絶され、面責されたとのことです、彼女は、わたしはそんな卑劣なことはしない、あなたも止めたほうがよい、金成柱がそんな「帰順工作」に乗る人だと思うのか、ときびしくとがめたとのことです。わたしはその話を聞き、心のなかで彼女に感謝しました。反面、李鐘洛には嫌悪を覚えずにはいられませんでした。そして、見ろ、韓英愛のような女性でさえ志操を守って転向を拒んでいるのに、鐘洛、きみは革命を投げだしただけでも物足りず、日本人の犬にまでなって恥ずかしくないのか、見苦しく変わり果てたものだ、と叱りつけました。
わたしを説き伏せるのが無駄だと知った李鐘洛は、隊員たちを釣り込もうとしました。警護隊員の一人に会って、親はいるのか、家族が恋しくないかと言い、日本人は以前は遊撃隊を生け捕りにすると皆殺しにしたが、いまは生かしてくれるだけでなく、身代をつくってくれる、親元に帰りきれいな嫁をもらって楽な暮らしがしたかったらわたしと一緒に行こう、と誘い込みました。そういう通報を受けたわたしは、不承不承日本人の使いをする朴且石とは違って、李鐘洛は祖国と民族も眼中になく、意識的な利敵行為をする日本帝国主義の忠犬であり腹心であることを確認しました。隊員たちの一致した要求により、司令部は李鐘洛を民族反逆者と規定し、彼を処刑することに同意しました。李鐘洛の死体の上には、同窓生であれ誰であれ、裏切り者はこのように処刑されるという内容の警告状をそえておきました。
わたしが南牌子で李鐘洛と朴且石に会ったいきさつを話すと、たいていの人は小説のような話だと言います。あのときのいきさつをそのまま綴れば、本当にりっぱな小説になるのではないかと思います。早くから革命の道で生死と運命をともにすることを誓った人が、裏切り者となってあらわれ、日本の強大さを宣伝し、われわれの抵抗が無意味であると力説して革命軍司令官を「帰順」させようとしたのですから、そんな深刻な話がどこにあるでしょうか。それは、わたしの数多くの体験のなかでも、きわめて特異な体験でした。
正直に言って、わたしは二人に会って、非常に気分を害しました。住所姓名も知れず、一面識もない。人物がそういう工作任務をおびてやってきたのなら、そんなに心の痛手を受けることはなかったでしょう。彼らも「トゥ・ドゥ」を結成するころは意気軒昂としていました。われわれはみな、生きても死んでも運命をともにしようと誓い合いました。そういう誓いを立てるときは、誰一人裏切るとは思えませんでした。ところが、わたしがもっとも大事にし信頼した人のなかから裏切り者が出たのです。
革命の上昇期には革命闘争に参加する人も多く、革命隊伍から動揺分子や脱落分子などもあまり出ません。しかし、情勢が革命の側に不利になり、困難が重なるようになると動揺分子が生まれ、逃走者や投降分子も生まれます。ですから、幹部は情勢がきびしく国情が困難なときほど、人びとにたいする思想活動に力をそそがなければなりません。もちろん、人の思想は目に見えません。人が自分の思想がなんであるかを額に貼りつけて歩かない限り、革命隊伍内で革命的信念を失った動揺分子や敗北主義者を選り分けるのは至難の業と言わざるをえません。しかし、人の思想は活動と生活を通じて何かのきっかけで必ず露呈するものです。幹部は個々人の準備程度と思想・意識状態に応じて、革命的信念を強固にする思想活動に力を入れるべきです。
教訓は何か。思想は信念化されるべきであって、純粋な知識だけのものであっては役立たないということです。信念化されない思想は変質しやすいものです。思想に変質をきたすと、李鐘洛や朴且石のような人間になってしまいます。したがって、自分が正当であるとみなす思想に接すれば、それを確固とした信念としなければなりません。豊富な知識も革命的信念に裏付けられてこそ、あくまでも新しいものを開拓していく真の創造力となります、目は現実を見ますが、信念は未来を見ます。信念が崩れれば精神が死に、精神が死ねば人間そのものが無用の長物になります。人間の道徳的信義や良心もすべて信念にその基礎をおいています。信念のない人は良心をもちえず、道徳的信義も守れず、人間としての体面を保つこともできません。人は信念が強ければ自分の人生をりっぱに切り開き、同志のためにも正しく身を処し、党と革命、祖国と人民のためにも真の貢献をすることができます。
忠実性は信念化、良心化、道徳化、生活化されなければならないというのが、ほかならぬ金正日同志の主張です。深奥な哲学です。わたしは忠実性を信念化、良心化、道徳化、生活化すべきだとする金正日同志の主張に全的に共感するものです。

第二0章

革命の新たな高揚に向けて

一 苦難の行軍

一九三八年の一二月初から翌年の三月末にかけての、濛江県南牌子から長白県北大頂子にいたる朝鮮人民革命軍主力部隊の行軍を苦難の行軍という。この行軍があってから、いつしか半世紀以上の歳月が流れた。しかし、朝鮮人民はいまもこの行軍を忘れていない。金日成同志がこの行軍を通じてうち立てた偉大な功績と抗日遊撃隊員の発揮した不屈の革命精神は、朝鮮人民が万代にわたって継承すべき大切な遺産となっている。この節では、金日成同志が歴史家と作家に語った苦難の行軍についての回想談をまとめて収録した。

これまでみなさんは、わが党の革命伝統を体系化し宣伝するうえで多くの仕事をしました。作家たちも革命伝統をテーマにした教育的価値の大きい文学作品をたくさん創作しました。みなさんから苦難の行軍について話してほしいという要請を受けたのは久しい前のことです。それできょうは少々時間をかけて話すことにします。
われわれが苦難の行軍を断行した一九三八年の末から一九三九年の初めは、抗日武装闘争史上もっとも困難な試練の時期でした。当時の情勢からしてみれば、われわれが大部隊を率いて祖国に進出できる状況ではありませんでした。厳(オム)光(グァン)浩(ホ)のような者が、革命の退潮期が到来したと公然と口にするほど、政治情勢はわれわれにとって非常に不利でした。そのような時期に大部隊で国内進出を断行するというのは事実上大きな冒険でした。それにもかかわらず、われわれは大胆に国内に進出するため鴨緑(アムノク)江沿岸への行軍を断行しました。なぜか。それは朝鮮革命に差し迫った逆境を順境に転ずるためでした。座して心配ばかりしていては問題を解決することができませんでした。もちろん、密営のようなところに引きこもっていれば、ひと冬を無事にすごすこともできたし、兵力を維持することもできました。しかし、そのような方法で現状を維持していたのでは、革命の難局を打開することができないではありませんか。それでわたしは、困難を覚悟のうえで苦難の行軍を断行し、祖国に進出することにしたのです。革命をひきつづき高揚させるには、それしか方法がありませんでした。
一九三八年は西間島地区と国内人民の士気が落ちていた時期です。「恵(ヘ)山(サン)事件」で多くの地下組織のメンバーが逮捕されると、国内の革命運動は試練にさらされるようになりました。そのうえ、敵は人民革命軍は全滅したと宣伝攻勢を強めていました。全滅なぞうそ八百の宣伝でしたが、それが少なからぬ人をまどわせました。敵の宣伝がデマだということをよく知っている人たちでさえ、もしやと思わざるをえないほど、人民の耳に入るのは気のふさぐうわさばかりでした。ひとかどの革命家までも信念を失い、白頭(ペクトゥ)山の方をうかがうばかりでした。
宣伝活動では、敵側がわれわれよりもずっと有利な条件をそろえていました。彼らは強力な宣伝手段をもって合法的に宣伝活動をすることができました。いつどこで革命軍が「全滅」したという衝撃的な記事をもっともらしく新聞に載せて数万部発行すれば、数千数万の人がそれを読みます。放送もその宣伝に加わりました。われわれの宣伝手段といえば、せいぜい隊内で発行される数種の新聞と雑誌、扇動ビラ、檄文くらいのものでした。それに各地方の地下組織が発行するいくらかの印刷物があるだけでした。しかし、それさえも非合法的な方法で、苦労して配布しなければなりませんでした。一枚のビラをまいたために命を落とした愛国者もいました。地下組織のメンバーは背のう一つほどのビラをかついで国内に入るにも、死を覚悟しなければなりませんでした。
敵が革命軍は全滅したと宣伝しているとき、それがデマであることを明かし、革命軍が健在であることを宣伝する最善の方法は、国内に進出して銃声をあげることでした。銃声をあげさえすれば、地下組織をたくさんつくることも可能でした。西間島から来た連絡員の話によると、長白地区の地下組織はほとんど破壊されたとのことでした。そして国内でも多くの人が検挙され、難を逃れた組織のメンバーはどこに身を潜めたのやら連絡をつけるすべもないとのことでした。そういう報告を受けたわたしは、いくら破壊がひどくても切り株ぐらいは残っているはずだ、切り株だけでも残っていれば組織を再建することができるだろうと考え、ともかく長白へ行って組織を収拾してから祖国に進出することにしました。
そのとき一部の人は、馬塘溝でのようにひと冬密営にこもって軍事・政治学習をし、暖かくなってから新しい作戦を展開してもよいではないか、厳冬のさなかにわざわざ苦労を買って出る必要はないではないか、と主張しました。しかし、わたしはそんな主張を受け入れることはできませんでした。国内の反日闘争がきびしい試練を経ているときに、それをどうして座視することができましょうか。苦労は革命の初期からつきまとってきたことで、いまさら始まったことではありませんでした。われわれが歴史に類を見ない苦労をしたのは一度や二度ではありませんでした。国内の反日闘争が試練に直面し、国内の人民が白頭山だけを頼みにしているというのに、自ら祖国解放の使命をになって立った革命軍がそれを対岸の火を見るようにしているわけにはいかないではありませんか。草の根や木の皮で食いつないででも祖国へ行こう、犠牲もありうるし紆余曲折もあるだろう、銃剣の林を突き抜けて進まねばならぬ道なのだから艱難辛苦がないはずはない、そうであっても大きく踏みだしてみよう、思い切って体当たりしてみよう、というのがそのときのわたしの気持ちでした。以上話したことが、苦難の行軍を断行することになった動機といおうか、わかりやすく言って、苦難の行軍の目的は国内を大きくゆさぶることであったといえるでしょう。
周知のように、抗日武装闘争の過程には苦しい行軍が何回もありました。一九三二年の秋にわたしが部隊を率いて安図から汪清に向かったときの行軍もそうであり、第一次北満州遠征を終えて間島に帰ってくるときの行軍もそうであり、一九三七年の早春の撫松遠征も苦しい遠征でした。しかし、濛江県南牌子から長白県北大頂子にいたる行軍は、その期間からしても、困難さからしても、それまでの行軍とは比較にならないほど困難な行軍でした。行軍期間が一〇〇余日にわたったので「一〇〇日行軍」とも呼ばれています。実際の行軍期間は一一〇余日にも及びました。あまりにも苦労がひどかったので、この行軍を「苦難の行軍」と名づけたのです。
わたしはこれまで行軍について書かれた本をいろいろ読みました。『鉄の流れ』のような作品は映画でも見たし、小説でも読みました。しかし、苦難の行軍のように困難で曲折の多い行軍について書いた本は、いまだかつて読んだことがありません。中学時代に『鉄の流れ』という長編小説を読んだときは、この世にこれほど苦難にみちた行軍があるものだろうかと考えさせられたものです。当時わたしは、折り重なる苦難を乗り越えていく主人公コジュフの姿に深い感銘を受けたものです。ところが苦難の行軍を体験してからは、それもわれわれの体験した苦労に比べればなんでもないと考えるようになりました。
苦難の行軍の内容を一言で要約すれば、厳酷な自然とのたたかい、ひどい食糧難と疲労とのたたかい、恐ろしい病魔とのたたかい、奸悪な敵とのたたかいが一つにからみあったものであったといえます。これにいま一つの深刻なたたかいがともないました。それは苦難にうちかつための自分自身とのたたかいでした。初歩的には生き残るためのたたかい、ひいては敵にうちかつためのたたかいが、この苦難の行軍の基本内容でした。じつに苦難の行軍は最初から最後まできびしい試練と難関の連続でした。
その年は中秋(〔11〕)の前に初霜が降り、中秋が過ぎたかと思うともう初雪から大雪になりました、初冬からあまりの寒さにオノオレカンバの木が凍って裂けたといううわさが立ったくらいです。それに食糧難と萎縮症まで重なり、休むことも眠ることもできない状態で一日に何回も敵と戦わなければならなかったのですから、その苦労は筆舌につくしがたいものでした。南牌子から北大頂子までは徒歩で五、六日で行ける距離です。ところが、われわれは数知れない戦闘をおこなわなければならなかったので、一〇〇日余りもかかってやっとそこにたどりつくことができたのです。
みなさんも苦難の行軍の路程図を見たことでしょうが、どうでしたか。その行軍路は複雑きわまりないものと思えたはずです。苦難の行軍は肉体的な負担や苦痛の面からしても、それまでの遠征とは比較にならないほど壮大な行軍でした。
それでは、苦難の行軍が朝鮮人民革命軍の活動史において類例のない困難な行軍になったのはなぜかということです。その理由はほかでもありません。敵のたえまない追撃と包囲のなかで行軍が進められたからです。その追撃と包囲がいかに執拗なものであったかは、みなさんには想像もつかないでしょう。日本帝国主義者は「討伐」の総力を朝鮮人民革命軍の主力部隊に集中しました。第一軍は壊滅状態で生き残っているのはわずかにすぎない、残っているのは金日成部隊だけだ、総力をあげて金日成部隊の「討伐」に取り組めと騒ぎ立てました。敵は通信手段として伝書鳩まで利用するなどして、戦闘に熱をあげました。敵はどのような戦術を用いたのか。革命軍が休むことも食べることも眠ることもできないようにすることでした。このような戦術のもとに一度に数百人もの兵力を次から次へとつぎこんできたので、日に二〇回以上も戦闘を交えたこともありました。
あのときわれわれが以前の遠征行軍のときのようにひそかに南牌子を発っていたなら、あれほどの苦労はしなくてすんだはずです。しかし、われわれは敵に気づかれないようにひそかに行軍を開始することはできませんでした。行軍の第一歩から銃声をあげざるをえませんでした。行軍に必要な食糧を確保するためにも交戦するほかなかったのです。それで、密営を発つとすぐある集団部落を襲撃しました。その銃声を聞きつけて以来、敵はわれわれに食い下がって離れませんでした。第二方面軍がどの方面に向かっているかを察知した敵が、われわれをすておくはずはありませんでした。南牌子密営を包囲していた敵はすぐに追撃を開始しました。敵の機動はすばやいものでした。われわれが二〇キロほど強行軍をして食事の支度をしているとき、もう敵が襲いかかってきました。ですから食事どころではありません。仕方なくといだ米を背のうに収めました。そんなことが一度や二度ではありませんでした。戦闘をともなわない行軍なら、なにもあれほどまでやきもきすることはなかったでしょう。追撃と包囲がつづき、そういう状況下で間断なく戦闘をすることになるので、なおさら骨がおれたわけです。行軍の最大の困難はまさにここにありました。
あのとき、われわれが直面したいま一つの大きな試練は食糧難でした。苦難の行軍時に食糧難にあったのはいろいろな原因によります。われわれはもともと一九三八年の秋に、ひと冬をすごすのに十分な食糧を準備しておきました。しかし、南牌子での会議のあいだに、多くの食糧を消費し、また残った食糧は先に担当地域へ向かう部隊に全部分け与えたのです。冬のさなかなので、山菜や草の芽にありつくこともできませんでした。敵の追撃がそれほどでもなければ、山の鳥獣をしとめて生肉ででも食いつなぐことができたのですが、銃声をひびかせては危ないのでそうするわけにもいきませんでした。一度だけは、わたしが熊狩りを許したことがあります。大木の空洞の中で冬眠中の熊を見つけた呉(オ)白(ベク)竜(リョン)が、なんとか一発撃たせてほしいというので、近辺に敵がいないことを確かめ、一発でしとめる自信があるなら撃てと命じました。彼は一発で雄牛ほどの大熊をしとめました。行軍の初期に、隊員たちは一日に二食の粥で間に合わせました。しかし食糧の予備が底をついてくると、すぐに一日一食に減らしました。しまいにはそれさえも口にできなくなり、雪をほおばりました。食料らしきものはなにも口にできないので、目がよく見えなくなりました。休憩が終わって立ち上がると、目の前がぼうっとして足を踏み出すことができないありさまでした。それでわたしは解放後、幹部たちに会うたびに、空腹の苦しみを味わってみなければ米や農民のありがたさはわからない、飢えを知らない人は革命について知っているとはいえない、と話したものです。
ある日、わたしの許可を得て呉白竜が七道溝の奥地の木材所を襲撃し、数頭の馬を引いてきたことがあります。食糧が底をついたときだったので、われわれは馬肉で飢えをしのぐことにしました。敵に包囲されていたので、それを焼くこともできず、塩もつけずに生のまま食べたのですが、二食目からは吐き気がしてのどを通りませんでした。生肉を食べたので下痢を起こし、飢えていたときよりも苦しい思いをしました。隊員たちは下痢に苦しめられながらも、生の馬肉を食べつづけました。食べられるものはそれしかなかったので、やむをえませんでした。しかし四、五日後には、凍りついたその馬肉まで食べつくしてしまいました。抗日革命闘士のなかに背の低い人が多いのは、食べ盛りのころに必要な栄養分を十分に摂取できず、苦労を重ねたことにも起因しています。苦労をしすぎたので、背が伸びなかったのです。抗日武装闘争の時期、われわれは食べ物らしいものを思うように口にすることができませんでした。山菜や草の根、木の皮、こうじ、米ぬか、酒かすといったもので食事に代えることが多かったのです。粗食することが多いうえに、それさえ不規則だったので、消化器官がやられないはずがありません。
カストロが訪朝したときわたしに、抗日武装闘争の時期に食糧や被服、寝所はどのようにし、零下四〇度もの酷寒をどうしのいだのかと聞きました。それで、苦難の行軍当時の食糧難と酷寒の苦痛についても話したものです。カストロはわたしの話を聞いてたいへん感心した様子でした。彼が遊撃戦をしたときは、われわれのような苦労はしなかったようです。キューバは中国の東北地方や朝鮮とは違って非常に暑い国です。それに食べ物も豊富です。
わたしが山中で戦ったときいちばん心が痛んだのは、戦友たちを十分に食べさせられず、婚期の隊員に結婚もさせてやれず苦労ばかりさせることでした。わたしがいまここでいくら苦難の行軍の困難さについて話しても、体験者でないみなさんにはその実相がわからないでしょう。行軍の困難さについては、路程をたどって具体的に話すことにしましょう。
敵ははじめから「猛攻長追戦術」を用いました。さかんに攻め立てしつこい追い討ちをかけるという意味です。言うならば、猛烈な攻撃に執拗な追撃を組み合わせた戦術です。敵の攻撃と追撃が執拗をきわめたので、われわれは炊飯のいとまもなく、生米を嚙みながら行軍をつづけなければなりませんでした。「猛攻長追戦術」の基本は、ダニのようにしつこくつきまとって相手を苦しめる「ダニ戦術」です。「ダニ戦術」は「討伐隊」をあらかじめ要所要所に配置しておいて遊撃隊があらわれたら攻撃し、いったん遊撃隊を発見したらどこまでも食い下がって離れずに掃滅するという戦術です。この戦術は、遊撃隊が休むことも眠ることも食べることもできないように追いつづけて攻撃し、精根つきはてて全滅にいたらせることをねらって考案したものです。敵は交替で十分な休息をとることができましたが、遊撃隊は休むことも食べることもできずに戦いつづけたのですから、その困難たるや言いしれぬものでした。
昔の兵書に、優勢な敵の交替式長距離追撃戦にかかれば敗戦は必至であるから、そういう窮地に陥らないようにする大将が戦上手な大将であるというくだりがあります。言わば、そんな策略にはまったら手も足も出ないということです。ところが、われわれはまさにその策略にはまってしまったのです。四方八方から敵がダニのように食いついて離れないのですから、本当にたいへんなことになってしまいました。われわれは深い落とし穴から抜け出る妙案を考えださなければなりませんでした。それで考えだしたのがジグザグ戦法でした。わたしは連隊長たちを呼びよせ、これからジグザグに行軍することにする、そして曲がり角で待ち伏せて敵があらわれたら機関銃を撃ちまくるのだ、そうすれば日本の「ダニ」を払いのけることができる、と説明しました。ジグザグ戦法は、背丈を越すほどの雪が積もった満州の山地で、追撃してくる敵を討つ最適の戦法でした。その年の冬はまれに見る大雪で、先に立つ人が雪を踏みかためて道をつくらなければ行軍をつづけることができませんでした。あまりにも雪が降り積もったので、いかに強壮な隊員でも五〇~六〇メートルほども進めば力がつきて座りこんだものです。それ以上に雪が深いところでは体を横転させながら道をつくったり、トンネルを掘って進んだりしました。雪があんまり深いところでは、隊員たちの脚絆をほどいて一本に結び、みながそれをつかんで行軍しました。そうして落伍者が出るのを防いだのです。いずれにせよ、敵はわれわれがつくったジグザグ路を進んでくるほかありませんでした。行軍縦隊のしんがりをつとめた呉(オ)仲(ジュン)洽(フプ)は、ジグザグ路の曲がり角ごとに機関銃を携帯した二、三名の戦闘員を待ち伏せさせておいて、敵を要撃させました。そして敵が死体を処理するあいだに伏兵要撃班を移動させ、敵が近づいてくるとまた同じ方法で掃滅しました。敵はわれわれがつくった一本道を進んでくるので、そのたびに要撃されて守勢に立たされ、多数の死者を出さざるをえませんでした。反対にわれわれは主導権を握り、敵に連続強打を加えることができました。
われわれの部隊は雪中行軍をつづけ、一九三九年の一月初には、ついに長白県七道溝の奥地に至りました。そこまで来るあいだに、臨江県腰溝集団部落襲撃戦闘、螞蟻河付近戦闘、王家店襲撃戦闘をはじめ多くの戦闘をおこないましたが、それはみなさんもよく知っていると思います。 日が経つにつれて敵はより多くの兵力を「討伐」に繰り出しました。追撃を重ねるほどに死傷者は増えましたが、彼らは新しい部隊を投入して執拗に追撃してきました。敵は予備の兵力が無尽蔵であったから、何百人かの死者を出したところで痛くも痒くもなかったのでしょう。
遊撃隊員たちは行軍しながらも眠り、夢まで見たものです。歩きながら眠り夢まで見たくらいですから、その疲れはいかほどであったでしょうか。われわれの行方を探そうと敵の飛行機が偵察しにくるので、われわれは焚き火もろくにたけませんでした。それは現在国営五号農場で農薬散布用に使われているような飛行機でしたが、ともかく飛行機には違いありませんでした。それが毎日のように飛んできては、われわれの行方を探知して地上の部隊に連絡したのです。
ある日、われわれの行方を探し当てた敵は、人民革命軍の行軍縦隊に蜂の群れのように襲いかかってきました。前にも敵、後ろにも敵、横にも敵、空にも敵という状況でした。あまりにも急迫した事態に直面したので、わたしは前方の敵は機関銃小隊に掃滅させ、背後の敵は第七連隊に牽制させ、残りの隊員は側面突破の戦法で敵の包囲から脱出することにしました。こうして、そのときはかろうじて危機を脱することができましたが、それも一、二回のことであり、いつもそんな綱渡りをするわけにはいきませんでした。方面軍の大兵力で集団行軍をするので、不都合な点が少なくありませんでした。まず行軍の痕跡を消すのがむずかしく、つぎに食糧を調達するのが困難でした。数十人もの人が精いっぱいかついできた食糧も二、三日経つと底をつくありさまでした。食べることも休むこともできずに戦いつづけてきた隊員たちは、行軍の途中でばたばたと倒れる始末でした。
どうすれば全員無事に長白に行き着くことができるだろうか。わたしは思案の末、集団行動から分散行動に移ることにしました。しかし、分散したからといって、万事がうまくいくわけではありませんでした。分散すればまたそれなりの負担と苦衷があるわけです。そのときわたしは、第二方面軍をいくつかの方向に分けて活動させ、わたし自身は第七連隊と一緒に行動する考えでした。 ところが、幹部会議に参加した指揮官たちはみな、わたしが第七連隊と行動をともにすることに反対しました。彼らは、司令部は七道溝の奥地の密営のうちでもっとも安全な青峰密営に入るべきだと主張しました。彼らがこう主張するのは、わたしの身辺の安全をはかるためでした。われわれの部隊のうちでもっとも頻繁に戦闘をするのが第七連隊なのに、彼らと行動をともにしてはわたしの身辺が危険にさらされるというのです。わたしは指揮官たちの主張に同意することはできませんでした。青峰密営には負傷者と病弱な人だけを送ることにしよう、朝鮮人民には戦う金日成が必要なのであって、腕をこまぬいて隠れている金日成は必要でないと言うと、指揮官たちはそれ以上反対できませんでした。結局われわれは、方面軍を三つの方向に分散することにしました。司令部は警護中隊と機関銃小隊を率いて青峰密営を経て佳在水方面に向かい、呉仲洽の第七連隊は長白県上崗区一帯に進出して活動し、第八連隊と独立大隊は撫松県東崗一帯で活動することにしました。
方面軍が分散行動に移ったときから、苦難の行軍は第二段階に入ったといえます。いまでは昔話になりましたが、あのときわたしは本当に心が痛んだものです。司令部と別れる戦友たちはみなさびしがり、涙を流しました。彼らは警護中隊の隊員たちに、口々に司令官をしっかり守ってくれと重ね重ね頼みましたが、そのあつい決死擁護の精神にはわたしも涙をこらえることができませんでした。隊員のなかにはぼろぼろの服から肌がのぞいている人もあり、すりきれた靴の代わりに足に脚絆を巻きつけたり、牛皮をパルサゲ(軍靴を履くときに素足を包む布切れ)のように巻いている人もいました。そんなありさまでありながら、自分のことよりも司令官の身辺を気づかうのですから、涙が出ないわけがありません。あとでわかったことですが、呉仲洽は別れるとき呉白竜に、自分たち第七連隊が敵を誘導していくから、きみたち警護中隊は絶対に戦闘を避けるのだ、そしてなんとしてでも司令官を青峰密営にとどまらせるようにと頼んだとのことです。
苦難の行軍のときに司令部の安全をはかって呉仲洽が発揮した犠牲的精神と忠実性をわたしはいまも忘れることができません。司令部に危険が及ばないようにするために、彼は七道溝の奥地を発ったそのときから追撃してくる敵を自分たちの方に引きつけながら、苦しい戦いをつづけました。自分たちを司令部に偽装したので、あらゆる負担を一身にになうことになったのです。敵がわたしを捕らえようと血眼になっているときに、彼らが金日成を防衛している司令部の集団を装ったのですから、敵がいっそうやっきになって追撃してくるのは当然でした。あのとき呉仲冾の連隊は一週間余りも穀物を口にできない状態で敵を誘引しながら、たえまなく戦闘を展開したそうです。彼は紅頭山戦闘のときにも遠方で銃声を聞いて駆けつけ、司令部をりっぱに防衛しました。彼のおかげで、われわれは敵にそれほど痛めつけられませんでした。司令部に集中していた敵の兵力が分散したからです。しかし、食糧難だけはどうすることもできませんでした。われわれは飢えにたえながら青峰方面に向かって行軍をつづけました。青峰には、わたしが給養担当者を送って栽培させたジャガイモがあったのです。ジャガイモがまだそのまま畑にあるなら、それを食べながら数日なりとも隊員たちを休ませる考えでした。あのときわれわれは食料を切らして飢え死にするところでした。
ところが、われわれは青峰付近で思いがけないアワ畑に出ました。あたりの地形地物を確かめてみると、春にわれわれが新台子密営に向かう途中、種を播いておいた畑でした。おそらく山奥に来てアヘンを栽培していた人が耕作した畑だったのでしょう。あのとき、畑で種播きをしていた主は、遊撃隊員の姿を見るとあたふたと逃げてしまいました。匪賊か日本軍と思ったのでしょう。畑の主が逃げ出すのを見て、隊員たちはたいへんすまなく思いました。それでわたしは、こわがって逃げ出した人だから種播きをしにもどってはこないだろう、わたしたちのためにこういうことになったのに畑を一年間遊ばせておくわけにはいかない、わたしたちが種播きをして、秋に畑の主が来て取り入れができるようにしてやろう、と言ってアワを植えさせたのです。ところが、その畑のアワが取り入れられないまま残っていたのです。そのとき雪をかぶったアワの穂を見て、隊員たちはどんなに喜んだかしれません。ある隊員は戦友たちに、この世に“神様”がいるというのは本当らしい、“神様”でなかったら死にかかったおれたちを助けてくれるはずはない、と冗談を言いました。するとほかの隊員が「将軍、いまは“神様”も革命軍の味方です」と口ぞえをしました。実際はわれわれが“神様”のおかげをこうむったのではなく、われわれ自身のおかげをこうむったわけです。あのとき畑の主が逃げ出すのを見ながら、われわれが種播きをしないで通り過ぎていたら、こんな幸運には恵まれなかったでしよう。
もともとわれわれには、新しい宿営地に到着すると畑を起こしてアワやジャガイモ、カボチャなどを植える習わしがありました。宿営地から少し離れた平地の土を掘り返して種を播き、後日その場所が見つけられるように目印を付けておいたものです。すると伝令たちは、将軍、今後ここにまた来られるのですか、と聞きました。帰ってきもしないところに種播きをしてもしかたがないという意味でした。わたしは、来るかもしれないし来られないかもしれない、十中八九は来られないだろう、しかしわれわれは再び来ないとしても、連絡員や小部隊が来るかもしれないではないか、彼らがこんな無人地帯を通りかかって空腹を感じたときに、ジャガイモやカボチャにありつけたらどんなに喜ぶことだろう、と話したものです、われわれは部隊が一度通過したところに一号道路、二号道路、三号道路、一五号道路といった番号を付けておきました。工作任務を果たして帰ってきた連絡員や小部隊の隊員たちに、どの道を通ったのかと聞くと、三号道路だとか一五号道路だとか答え、食糧が切れて苦労しなかったかと聞くと、以前、行軍の途中、将軍が宿営地に起こさせた畑のカボチャを煮て食べたとか、ジャガイモを掘り出して焼いて食べたと答えたものです。抗日革命の時期の食糧難はひととおりのものではなく、われわれは白樺の脂(やに)まで食べました。白樺の脂は薬材として使っただけでなく、食糧の足しにもしました。
われわれは雪の中から一本一本苦労して集めたアワの穂を搗(つ)き、粥をたいて食べました。もちろん、踏み臼もわれわれが即席でつくったものでした。一週間ほど粥を食べると、多少元気が出てきました。しかし、そのアワもすぐなくなってしまいました。食糧を手に入れる唯一の方法は、青峰密営に行って各自が背のうにジャガイモを詰めてくることでした。
青峰密営に向かう途中に川がありました。すぐ川を渡らなければならないのに、川の水が凍っていないので渡ることができませんでした。深い山奥の谷川は、もともと冬でも真ん中のあたりがよく凍らないのです。橋を渡ろうにも敵の歩哨が見張っていそうなので、すぐには決断を下すことができませんでした。しかし、橋を突破するしか方法はありませんでした。われわれは決死の覚悟で一人ずつ橋を這って渡りました。われわれ一行が橋を渡り終わると、すぐに敵が追撃してきました。それで戦闘がはじまったのですが、われわれは敵を尻目に、すばやく山に登りました。その山の上にジャガイモ畑があったからです。わたしは、追撃してくる敵を牽制しているあいだに、一部の隊員を割いてジヤガイモをかつがせる考えだったのです。ところが、山の上には家もなく、ジャガイモもありませんでした。密営にいた給養担当者たちがすっかり食べてしまったようでした。いつの間にか追いついてきた「討伐隊」は機関銃掃射を浴びせてきました。事態は急迫していました。わたしは隊員たちに、谷間に抜けて向こうの小高い平地に下りるのだ、下りていくうちに日も暮れるだろう、そして道も見つかるはずだ、雪が深く食料もないうえに「討伐隊」がしつこく追ってくるから大道に出て強行軍をし、遠くに抜け出さなければならない、と指図しました。
われわれは強行軍の途中で山林部隊の兵営を発見しました。将卒たちはみな銃声に驚いて逃げてしまい、兵舎には誰もいませんでした。ところが、その兵営にはばら肉をはじめ食べ物がたくさんありました。何人かが、これは日本軍が毒を盛った食べ物らしいと言いましたが、そうではなさそうでした。オンドル床に賭博の道具が転がっているのを見ると山林部隊の兵舎に間違いなく、彼らが食べ残して逃げたのは明らかでした。オンドル床もぬくもりがありました。敵の追撃さえなければ、ぐっすりひと眠りして疲れを解きたくなるような居心地のよい兵舎でした。しかしわれわれには、食卓いっぱいに並べられた食べ物を口にする時間の余裕すらありませんでした。ざっと見ても、司令部のメンバーが二日ほどは食べられる量でした。わたしは、食べ物を全部背のうに詰めるよう指示しました。われわれが山林部隊の兵舎を出ると、敵はまた追撃してきました。まったくしぶとい追撃でした。われわれには、地べたに座ってまんじゅうや乾パンをほおばるゆとりもありませんでした。司令部が敵の追撃をなかなか振り切れなかったのは、佳在水で地下工作をしていた金なにがしという人が敵につかまったためです。彼は、われわれが西間島に進出した後、長白で入隊した人でした。入隊する前は地下革命組織で活動し、入隊後も勇敢に戦いました。数年間われわれとともに戦い、地下工作のために派遣されたのですが、敵につかまったあと節操を守りぬくことができなかったようです。たぶん彼が敵にわれわれの行方を教えたのでしょう。
敵は、長白一帯でいちばん銃声をひびかせている呉仲洽の連隊が司令部でないことにようやく気づき、「討伐」兵力をすべてわれわれに集中してきました。飛行機も連日われわれの移動する方向に飛来しました。司令部をめざして四方から敵が追ってくるので、われわれは抜け出すすべがなくなりました。隊員たちは真っ青になりました、汪清時代からわたしと行動をともにし、あらゆる苦労を体験した呉白竜でさえ血の気が失せていました。絶体絶命の窮地に陥ったと考えた指揮官たちは、みなわたしの顔を見つめるばかりでした。アジ演説というものはこんなときに必要なのです。わたしは休止のあいまに司令部のメンバーを集めてこうアジりました。
――林の中の針は万人が双眼を光らせても簡単には探し出せない。われわれが知恵を働かしさえすれば、大密林と大敵のなかでも針のように十分自らを隠すことができる。李(リ)舜臣(スンシン)将軍は鳴梁(ミョンリャン)海戦のとき少数の船で日本軍の大艦隊を打ち破り、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の大勢を逆転させた。これは世界の海戦史に特筆大書すべき奇跡といえる。李舜臣はどのようにして敵を破ったのか。もちろん知恵と策略、勇気をもって破った。しかし、それより大きな要因は愛国心であった。日本軍を討たなければ国が滅び、国が滅びれば日本人の奴隷になってしまうと考えて発奮し、敵を破ったのだ。愛国心が強かったからこそ知恵と勇気も最大限に引き出せたのだ。愛国心さえすてなければ、われわれもこの難局を打開することができる。もちろんわれわれが直面している情勢は険悪である。しかし革命勝利の確固たる信念をもち、難関に屈しなければわれわれも十分大勢を逆転させることができる。だから自信をもって行軍をつづけよう。
こういった内容で演説をすると、隊員たちは口々に、「将軍、命令を出してください。わたしたちは最後まで将軍についていきます」と明るい顔で行軍路につきました。隊員たちの言葉にわたしも力を得ました。
あのときわれわれはじつに多様な戦法と戦術を用いました。苦難の行軍は、遊撃戦によって創造されたあらゆる戦法と戦術の総合的な試験場であったといえます。われわれがあのときどんな妙策を使ったかについて二三話すことにしましょう。行軍の途中で行方をくらます方法には、足跡を埋めるなり消すなりしてすばやく立ち去る方法もあり、倒木を伝って横に抜ける方法もあります。なかでも敵をあざむく痛快な方法は、前と後ろからあらわれる敵に同士討ちをさせて姿をくらます方法です。これを望遠戦術といいますが、同士討ちさせておいて遠くから眺めるという意味でこう名づけたのです。われわれが長白県紅土山子と富厚水の台地で敵をさんざんな目にあわせたときに用いた戦法がまさにこれです。
紅土山子は文字通り大きなはげ山です。あのときわれわれは敵の追撃を受けてその山を二回りしていたのですが、前方からも敵があらわれると、倒木を伝ってすばやく横に抜けました。前後からわれわれに攻撃をかけて一本道で出くわした敵の両部隊は、互いに相手を人民革命軍だと思い込んで激烈な撃ち合いを演じました。相手が味方であることを知らないのですから、それこそ死に物狂いの激戦になりました。われわれは富厚水の台地でもこれと似た戦術を用いました。敵の大部隊が追撃してきたのですが、振り切る手がありませんでした。それで、紅土山子でのように台地の周りを回ることにしました。二回りくらいしたときに他の「討伐隊」があらわれたのですが、それがちょうどわれわれとわれわれを追撃していた敵の間に挟まる格好になりました。その台地を一周するには一日かかるので、連係のない二集団の敵が二重に追撃するという奇妙な出来事も起こるわけです。わたしはひきつづき隊員たちに台地の周りを回らせながら、めいめいに橇のながえほどの木を一本ずつ切ってかつがせました。そしてその木を切り株と切り株の間に渡し、それを伝って横に抜けさせました。われわれが白被に身を隠して林の中で生麦をかじりながら休息しているあいだ、互いに相手の後尾に追いついた敵の両軍は激しい同士討ちをつづけました。われわれはそれを遠くから見物し、銃一発撃たずに多くの敵を掃滅することができました。富厚水の台地で途方もない損失をこうむった敵は、遊撃隊が神出鬼没と昇天入地の妙策を用いるので、とうてい撃滅できないと悲鳴をあげたものです。
われわれは一日に何回もそのような妙術を使って、多くの敵を掃滅しました。しかし、日本軍の兵力は補充するのに事欠きませんでした。国土に比べて人口が多すぎるから海外膨張策をとらねばならないと騒ぎ立てた日本ですから、いくら「討伐軍」を失ってもすぐ補充したのです。それとは反対に、山中で戦うわれわれは一人の戦死者が出ても、すぐにそれを補うことができませんでした。
富厚水台地での戦闘があったのち、わたしは部隊を率いて夜通しの強行軍で佳在水方面へ抜けました。わたしがしきりに丘陵地帯に向けて部隊を誘導すると、隊員たちは、「将軍、そっちに行くと平地です。まかり間違えば集団部落に行き着いてしまいます」と心配しました。わたしは彼らに、いまの状況では森林地帯にいるよりも丘陵地帯へ抜け出るほうが上策だ、このまま追われてばかりいたのでは守勢に立たされて手の打ちようがない、敵は兵力が多いから毎日のように「討伐隊」を交替させているが、われわれにはそんな予備兵力はない、だから人員の損失が出るだけだ、きょうも一人、あすも一人、あさっても一人というふうに隊員が次第に減れば、最後には何人残るというのだ、第七連隊と第八連隊の戦友たちはいまわれわれがこのような窮地に陥っていることを知らないはずだ、司令部を支援せよと連絡するわけにもいかないのだからほかに方法はない、敵を森林地帯でかわし、われわれは丘陵地帯に出るのだ、敵は丘陵地帯にはさほど注意を払わないから、そこに出れば当分のあいだ休息しながら兵力を保持することができる、と言いました。灯台もと暗しということわざもあるように、かえって住民地区に近いところこそ、われわれにとってもっとも安全な場所となりえたのです。
われわれは佳在水村が一目で見渡せる小さい丘陵に居座ることにしました。丈が二メートルほどの松とクヌギが生い茂っている心地よいところでした。下は崖になっており、崖の下には小川がありました。佳在水村の犬のほえ声が聞こえるほどのところでした。佳在水は水車村とも呼ばれていました。われわれはそこで、日が暮れると天幕を張り、明け方にはそれをたたんで装具をまとめ、戦闘準備をととのえた状態で休息をとったり学習をしたりしました。南牌子を発って以来、天幕を張ってすごしたのはそれがはじめてでした。われわれはそこでいくらか疲れをいやすことができました。わたしは司令部のメンバーと膝を交えて、今後の活動方向と戦術的問題についてたびたび討議しました。旧正月が過ぎて暖かくなったら、四方に散らばっている部隊を呼び集め、各地で敵を撃滅し、破壊された組織を立て直して国境沿岸と祖国に進出するというのがわれわれの計画でした。
ところが、食糧が切れたのが問題でした。餓死寸前の状態というのに、われわれには一升の米もありませんでした。わたしは警護中隊の政治指導員である李(リ)鳳緑(ボンロク)を佳在水村へ差し向けました。そこには金一(キムイル)がつくった地下組織がまだ活動していたのです。安(アン)なにがしという地下組織のメンバーもその村に住んでいました。彼はわたしと縁の深い農民でした。彼の父親が山林隊に拉致されたとき、わたしがその頭領に手紙を送って救い出したことがあったのです。頭領は以前われわれに世話になったことがあるので、わたしの手紙を受け取るとすぐ彼の父親を家に帰したそうです。その農民は金一の影響下で革命活動を援助していたのですが、そのことがあってまもなく地下組織のメンバーになりました。
わたしは李鳳緑に、佳在水へ行ったら水車小屋の主人に会い、安という名の農民とも連係をとるようにと指示しました。李鳳緑はまずその水車小屋を訪ねました。主人に会った彼は、山中で戦っていたのだが敵の「討伐」が激しく食糧難もひどいのでこうして人家を訪ねてきたとあいまいな自己紹介をしたあと、夜分に申し訳ないがとがめないで話を聞いてほしい、と言いました。すると水車小屋の主人は、帰順するつもりなのか、とひややかに問いました。李鳳緑が相手の出方を見ようと、そうだと答えると、彼は非常にがっかりした様子でした。そして、山での苦労はたいへんだろうが、だからといって帰順などしてよいものか、国を取りもどそうと銃をとった以上は最後までがんばり通すべきであって、はじめたことを中途で投げ出してはいけない、いくらつらくても帰順などするものではない、と説諭したとのことです。そして、金日成将軍はご健在かと尋ねたそうです。李鳳緑は、将軍がどこにいるかはよくわからないが、いまも革命軍を率いて敵をやっつけていると答えました。すると彼は、それ見なさい、金将軍が元気で革命軍を統率しているというのに、自分の隊長をすてて帰順するとはなんということだ、と叱りつけたそうです。相手が信頼できる人物だと確信した李鳳緑は、わたしは帰順するために来たのではなく食糧を手に入れるために来たのだ、山には戦友たちがいる、金を出すから食糧を都合してほしい、と言いました。彼は、金で買うのは危険だ、自分らが唐臼を搗く手間賃代わりにもらう米をもみ殻の中に隠しておくから、客のいないときにそっと持っていくように、と言いました。水車小屋の主は本当によい人でした。李鳳緑は佳在水村で食糧工作をしているうちに、彼が祖国光復会の会員であることを知りました。彼は安某という農民とも親しい間柄だったのです。「恵山事件」のあとも佳在水の組織が破壊されなかったのは、われわれの工作員が組織の線を極秘に付していたからです。
わたしはそのとき水車小屋の主人の話を聞いて、もう大丈夫だ、われわれにたいする人民の支持は変わっていない、人民の支持があるかぎりわれわれは勝てる、活路が開かれた、と考えたものです。水車小屋の主人は食糧をかついで、われわれとともに苦難の行軍に参加したのも同然でした。彼が食糧を調達してくれなかったら、われわれは将棋やコニ(十六六指に似た駒遊び)などをしながら今後の行動方向についてじっくり議論するなど思いもよらないことであり、十中八九餓死していたことでしょう。
水車小屋の主人だけでなく、村中の人がわれわれを助けてくれました。ある日李鳳緑がわたしのところに来て、佳在水村の人たちが食糧を準備し、正月の料理もこしらえたそうだから取りにいかせてほしいと言うのでした。苦難の行軍をはじめて以来、数十日余りをなまの米となまの肉、水だけで食いつないできた隊員たちを思うと、村人たちの誠意を無にする気にはなれませんでした。それでわたしは、人民の心のこもった正月料理をもらってくるよう命じました。佳在水村の人たちのおかげで一九三九年の旧正月はひもじい思いをしなくてすみそうだ、と安堵の胸をなでおろしました。隊員たちにひもじい思いをさせた心づらさがようやくとけるような心地でした。
ところが、佳在水村の人たちの誠意を受けるに受けられない事態が発生したのです。というのは、李鳳緑と一緒に村に行った李虎林が逃走してしまったのです。手ぶらで帰ってきた李鳳緑は、李虎(リホ)林(リム)が逃走したので食糧も何も捨ておいてきたと報告しました。司令部の警護隊員のなかから逃亡者が出たのは、これがはじめてでした。以前は行軍がいくら苦しくても、われわれを捨てて逃げ出すような裏切り者は出ませんでした。ところが苦難の行軍のときには、われわれの隊内で逃亡者が四名もあらわれたのです。以前はそういう考えを起こさなかった人たちがあのときに逃げ出したのは、恐ろしい苦難にそれ以上たえることができなかったからです。李虎林は遊撃隊での生活は長くありませんが、わたしがとくに目をかけてきた人です。朝鮮からやってきた隊員であったので、人目に立つほどかわいがってやったのです。彼は日本語が上手でした。それで彼には敵情偵察の任務をよく与えたものです。彼は、一、二名の隊員をともない、電柱に登って敵の電話を盗聴しました。屈強で知識もあるので、ゆくゆくは指揮官に任用しようと考えていたのに、革命は失敗に終わるものと速断して逃げ出したようです。李虎林の裏切り行為のため、われわれは非常に危うい状態に追いこまれました。一刻も早く居所を移し、安全対策を講じなければなりませんでした。わたしは佳在水村の裏山を発ち、果てしない広野を白昼行軍で突破することにしました。これからは敵があらわれようとどうしようと脇目もふらずに歩けと指示しました。
敵が大部隊で攻撃してくるとき分散活動に移るのは、遊撃戦術の一般的な原則です。われわれは苦難の行軍のときにも、この原則を守りました。そのおかげで、「討伐」兵力をある程度分散させることができました。しかし分散活動をする過程で、兵力の少ないわれわれ司令部は存亡の危機に何回となく陥りました。それは敵が、われわれが司令部であることを知り、総力を集中したからです。
このような教訓があったので、われわれは北大頂子で苦難の行軍の総括をするとき、戦術の問題についてかなり論議しました。そのときわたしは、分散活動が大部隊の攻撃に対処する遊撃戦の戦術の一つではあるが、それを一律に適用してはならないということを強調しました。ほかの指揮官たちも、司令部が大部隊の援護もなしに単独で分散活動をするという冒険は二度と繰り返してはならない、と力説しました。わたしは苦難の行軍を総括しながら、いかに原則にかなった戦術であっても、その適用においては教条主義に陥ってはならないということを骨身にしみて感じたものです。
われわれが白昼行軍をはじめて間もなく、また逃亡者が出ました。一人は李教官と呼ばれていた王徳林がよこした北京大学出身とかいう者で、もう一人は中国人隊員でした。そのうえ隊列には数名の負傷者もいました。あれやこれやで残っている者はいくらもいませんでした。人数がこれ以上減ると、歩哨の交替もできなくなるありさまでした。
行軍命令が下ると、呉白竜はわたしに、「将軍、われわれが行軍をはじめたら砲台から弾丸が降り注ぐにきまっていますが、あの野原をどう突破するのですか」と問いました。わたしは、どうするもこうするもない、前後に機関銃を一挺ずつ構えて、前方の敵は前で撃ちまくり、背後の敵は後ろで撃ちまくりながら強行軍するしかない、と答えました。
佳在水の敵は砲台からわれわれをそれと見下ろしながらも、あえて手出しをすることができませんでした。主力は「討伐」のためみな山に出ており、村には人員がいくらも残っていないうえに、われわれの気勢に威圧されて攻撃をしかけることができなかったようです。われわれはなんの妨害もなく、白昼に堂々と野原を横切って森林地帯に行き着くことができました。そして、そこで食事をし、しばらく休止しました。このような場合のことを天恩というのでしょう。野原を無事に通過してみると、われわれ自身もキツネにつままれたような気持ちでした。敵が攻撃をしかけてくるものとばかり思っていたのに、攻撃はおろかくしゃみ一つせずに砲台から見下ろしていたのですから、無理もないでしょう。遊撃闘争の過程ではときにこんなこともあるのです。野原を無事に通過した隊員たちは、今度も“神様”が革命軍に味方してくれたのだと喜びました。人間は土壇場に立たされたとき、死ぬか生きるか勝負をつけよう、人間一度は死ぬもので二度死ぬことはないと腹を据え、何事にも積極的に立ち向かうなら、克服できない難関はないものです。
われわれが森林地帯から抜け出して再び行軍をつづけているとき、背後に敵があらわれたという報告が入ってきました。隊列からの脱走者がわれわれの行軍方向を教え、「いま金日成は大部隊を分散させ、数十人を率いているにすぎない。だから今度は難なくかたづけることができる」と耳打ちしたようです。しばらくして、前方の斥候からも敵があらわれたという報告が入りました。前も後ろも敵となれば一大事でした。呉白竜がまたわたしの顔を見つめながら「将軍、敵はわれわれが司令部であることを察知しているようですが、どうしましょうか」と問いました。わたしは彼に、決死の覚悟で戦うほかない、前方の敵はわれわれのことを何も知らず、われわれに出くわすことも知らないで安心しきっている、背後の敵はわれわれの人数や疲労のほどを知りつくしている、だから背後の敵と真っ向から戦うのは無理だ、ほかに方法はない、一個分隊ほどの人員で背後の敵を牽制させ、主力はなにも知らずにやってくる前方の敵をかたづけることだ、そうしてこそ包囲を突破することができる、と言いました。後ろから追撃してくるのは日本軍の「討伐隊」でしたが、前方からわれわれを脅かしているのは満州国軍でした。当時、満州国軍は朝鮮人民革命軍と戦うのを恐れていました。したがって討つべき相手は前方にありました。わたしは呉白竜に、部隊を率いて前方を突破せよ、弱い敵をたたいて、ひるんだすきに息つくひまを与えず突撃し、敵の兵営まで追い討ちをかけて泡を吹かせてやれ、と命じました。呉白竜は隊列の前に機関銃射手を配置して敵をなぎ倒し、突撃ラッパを吹き鳴らしました。満州国軍は数十名の死傷者を出すと、われわれがかなりの大部隊だと思いこみ、背のうや装具を投げ捨てて退却しました。われわれは投げ捨てられた敵の背のうから食料を集め、靴まで履きかえ、大道に出るまで敵を追いまくりました。こうしてわれわれは敵の追撃をかわし、逆に敵を追撃する主動的な立場に立つことになりました。
それ以来、われわれは戦術を変えました。言うならば、敵をかわす戦術から先手を打って敵を討つ主動的な攻撃戦術に転換したわけです。妙策を使って敵を避けてまわる戦術ばかり用いていては、隊伍を救うことができなかったからです。兵書にも、強敵の鋭鋒はかわし、攪乱して疲労させ、敵が動揺すれば激しい攻撃を加え、敵が退却すれば猛烈に追撃して強敵を弱敵に、味方の逆境を順境に変えるのがすぐれた用兵法である、とされています。われわれはこうした戦術を広く活用し、苦難の行軍のときにも幾多の難局を切りぬけ、守勢から攻勢に転じたものです。
わたしは、集団部落を一つ襲撃して敵を守勢に追いこむ一方、食糧を確保することにしました。旧正月が間近に迫っていたので、何か月間も飢えている隊員たちを十分に食べさせてやりたいという思いも切実でした。そういうわけでくりひろげた戦闘が、ほかならぬ十三道湾集団部落襲撃戦闘でした。われわれは戦闘に先立って敵の電話を盗聴しました。それは十二道溝へ撤収した満州国軍の将校が臨江県の上官にかける電話でした。彼は電話で「金日成部隊に遭遇したのだが、ものすごい攻撃をかけてくるのでもちこたえられなくなって退却し、現在十二道溝にとどまっている。今後の行動にかんする指示を待つ」と報告していました。彼は隣の集団部落にも電話を入れて、パルチザンが襲撃してくるおそれがあるから注意するようにと警告しました。われわれはその情報にもとづいて近くの敵を討ち、つづいてもう一つの部落を襲撃して大量の食糧と食料品を手に入れました。食料品のなかには、彼らが食べようと準備したギョーザもありました。ろ獲品が多すぎたので、一部は雪の中に埋めて印をしておきました。こうして、われわれは十三道湾戦闘でろ獲した食糧と食料品で、その年の旧正月は盛りだくさんの御馳走にあずかったものです。遊撃闘争だからといって、いつも苦しい思いばかりしたわけではありません。衣食に事欠くのは日常茶飯事でしたが、ときには十分に食べ暖かい衣服を着てすごすこともあったのです。
十三道湾戦闘があって以来、敵はわれわれ司令部にそれまでよりも多くの「討伐」兵力を集中しました。四方八方いたるところ「討伐隊」だらけでした。敵があまりにもしつこく追撃してくるので、われわれは零下四〇度を上下する高地で幾夜をすごさなければならないこともありました。われわれ司令部の隊伍はそのような困難な状況下にあっても守勢に回ることなく、また別の集団部落を襲撃しました。分散活動をしている大部隊にわれわれの位置を知らせるための戦闘でした。その部落の名はよく思い出せません。長白県上崗区一帯で活動していた呉仲洽の第七連隊はその戦闘のうわさを聞くや、司令部が危険にさらされていると判断し、司令部に集中する敵の兵力を分散させるために、またいくつかの集団部落を襲撃しました。それらの戦闘は、われわれに自分たちの部隊の位置を知らせる合図でもありました。第七連隊が司令部を訪ねてきた後に、撫松方面で活動していた第八連隊と独立大隊もわれわれを訪ねてきたし、青峰密営にいた給養担当者たちまで北大頂子に集まってきました。隊列を点呼してみると、前年に濛江県南牌子を発ったときの人員とさほど変わりがありませんでした。南牌子を出発するときの隊員のほとんど全員が生き残っていたのです。そのときの感激は言葉ではあらわしようもありません。抗日戦争の期間に別離も多かったし、また幾多の対面もありましたが、あのときほどの感激的な対面はなかったと思います。北大頂子は祭典の場のようににぎわいました。一〇〇日以上も死地で苦労した末に再会した隊員たちは、抱きあって笑ったり転がったりして懐かしがりました。苦労のあとの対面であるほど、その喜びは大きいものであるようです。同志がどれほど大事であるかを知るためには、別離も体験してみる必要があります。血を分けあった同志が別離と対面を繰り返す過程で、同志愛はいっそうかたく熱烈なものになるものです。そういう同志愛はいかなる風波が荒れようとも容易に崩れ去るものではありません。
苦難の行軍は単なる部隊の移動のための行軍ではありませんでした。それは一つの戦役に匹敵する大規模の軍事作戦であり、抗日武装闘争の縮図であったともいえます。この行軍の過程で、われわれは軍人として体験しうるあらゆる苦痛を味わい、また人間として体験しうるあらゆる試練をなめました。われわれは苦難の行軍を通じて、抗日武装闘争に参加した共産主義者こそは真の祖国の息子、人民の息子であり、自民族と民族解放偉業にもっとも忠実な革命闘士であることをいま一度天下に示しました。抗日遊撃隊員たちは苦難の行軍の過程で、自己の人格をいちだんと磨きあげました。行軍の過程で形成された朝鮮の共産主義者の美しいイメージは、朝鮮人民が子々孫々にわたって見習うべき共産主義的人間のりっぱな典型となっています。いかなる逆境にあっても信念を曲げず、指導者のまわりにかたく団結して勝利した共産主義者の典型を創造したこと、まさにこれが苦難の行軍の重要な成果であり、抗日革命の最大の功績の一つです。苦難の行軍に参加した人はすべて英雄です。この行軍に参加した人たちは生き残った人であれ、倒れた人であれ、誰もが英雄といえます。
すべての隊員が万難を排して不死鳥のごとく生き残り、勝利者となれたのは、いろいろな要因によるものと思います。その要因のうち、いくつかに限って言及しましょう。わたしが第一にあげたいのは、百折不撓の革命精神と自力更生、刻苦奮闘の革命精神、革命的楽観主義の精神です。このような精神的要因がわれわれをして万難を排せるようにしたといえます。われわれはあのようにひどい困難のなかにあっても失望したり悲観したりすることなく、つねに勝利の日を思い描きながら、あらゆる困難を克服したのです。言わば、革命勝利の信念が強かったのです。もしあのとき、われわれが目前の難関にこだわって落胆したり革命勝利の展望を暗たんたるものと考えたならば、あのようなきびしい試練にうちかつことができず、雪のなかで自滅したことでしょう。
われわれが苦難の行軍を勝利をもって終結することができた要因としてはまた、革命的同志愛をあげることができます。行軍の終わりのころに呉仲洽たちに合ったときのことが、いまでも忘れられません。彼はわたしにとりすがって男泣きに泣きました。わたしも彼を見ると涙を抑えることができませんでした。あのときは肉親に会ったとき以上にうれしかったものです。あまりのうれしさに胸がしびれてきました。わたしはそのとき、この世のすべてが手中に入るとしても、この大事な戦友たちと二度と再び別れまいと決心しました。その年の冬、戦友たちに分散活動をさせてから、わたしはたいへん気をもんだものです。本当にあのときほど戦友たちを待ち焦がれたことはなかったでしょう。みなさんのなかにも除隊軍人が少なくないので、戦友愛というものがどれほど強烈なものであるかをよく知っていると思いますが、この世に戦友愛ほど熱烈で生命力の強い愛はないでしょう。そして、戦友たちのあいだの道徳的信義ほど気高い道徳的信義もないでしょう。
革命的同志愛は抗日革命の全過程に貫かれてきた勝利の重要な要因です。しかも、苦難の行軍の過程では、隊員たちの道徳的信義がいつにもまして集中的に発揮されました。「一合のはったい粉」のような逸話は、その時期に生まれた無数の美談のうちの一つにすぎません。伝令は司令官用の非常食としていつも背のうに一合ほどのはったい粉を携帯していましたが、それをわたしが独りで食べられるでしょうか。それで隊員たちと分けあって食べたのですが、それが次代に伝説のような話として語り伝えられるようになったのです。このような事実は一度や二度にとどまりません。おそらくあのとき隊員たちは、戦友のために皮膚が必要であればためらうことなく自分の皮膚をそいで差し出したことでしょう。一身をなげうってでも革命同志のためにつくすのが革命的同志愛なのです。
いつか話したことですが、李(リ)乙雪(ウルソル)は、新入隊員が焚き火のそばで眠っているうちに服を焦がしてしまい、寒さに震えているのを見て、自分の綿入れを脱いでやり、自分は酷寒のなかをひとえの軍服ですごしました。それでも彼は凍死しませんでした。それは、ほかの隊員たちがまた彼に火より熱い同志愛をそそいだからです。結局われわれは、一〇〇余日にわたる行軍の全行程を、ともども一合のはったい粉を分け合う精神で生活し戦ったので、飢え死にしなかったのです。破れた服を着て酷寒をついて行軍しましたが、つねに身も心も熱く燃えていました。戦友たちが一人も餓死したり凍死したりすることなく不死鳥のように生き残ることができた秘訣は、ここにあります。愛の力が死を打ち負かしたのです。同志愛で団結した集団、同志愛にもとづきかたく団結した隊伍は必勝不敗であることを、われわれはあのときいま一度骨身にしみるほど体験しました。
苦難の行軍を成功裏に終えることができたいま一つの要因は、われわれにたいする人民の愛情と支援でした。われわれは苦難の行軍の過程で、佳在水の水車小屋の主人のようなありがたい人たちから多くの援助を受けました。苦難の行軍に参加したのは軍隊だけだと考えてはいけません。あの行軍には人民も参加したのです。米や塩、履き物、布地などの給養物資をかつぎ、死線を越えてわれわれを訪ねてきた二道花園と腰溝の人たちはみな、われわれとともに苦難の行軍に参加したものと評価して然るべきです。羅子溝の台地や天橋嶺でも体験したことですが、われわれが窮地に陥ったときに救援者、援助者、同行者としてあらわれたのはいつも人民でした。わたしは、このような人民がいるかぎり、苦難の行軍も勝利をもって終結することができるという確信を深め、力を得たものです。
苦難の行軍が勝利の行軍となりえたのはまた、時々の状況に適した巧みな遊撃戦法を能動的に活用したことにあります。
われわれは困難な環境のもとで社会主義建設を進めています。朝鮮革命は依然として困難な行軍路を歩みつづけています。したがって、現在も苦難の行軍はつづいているといえます。かつては数十万の日本軍がわれわれを包囲して追撃してきましたが、いまはそれとは比べものにならないほど強大で暴悪な帝国主義勢力がわが国を圧殺しようとしています。事実、われわれは戦時下と変わりない状態におかれています。こういう困難な状況のもとで、われわれが生きていく道はなんでしょうか。それは、抗日革命烈士たちが苦難の行軍の過程で発揮した白頭の革命精神をそのとおり実生活に具現することです。
われわれは抗日戦争の時期だけでなく、新しい祖国の建設と偉大な祖国解放戦争の時期、戦後の復興建設の時期にも、自力更生、刻苦奮闘の革命精神、楽観主義の精神で万難を排し革命の勝利をかちとりました。苦難の行軍という偉大な行軍の歴史をもつ人民には、不可能というものはありえません。このような行軍の歴史を遺産として受け継いでいる人民は、いかなる力によっても征服されることがありません。

二 青峰の教訓

抗日革命の歴史を叙述した書物や教科書には、青峰という同名の史跡地が二つ出てくる。一つは、金日成同志が一九三九年五月、朝鮮人民革命軍の主力部隊を率いて茂(ム)山(サン)地区に進出したときに第一夜をすごした由緒深い両(リャン)江(ガン)道三池淵(サムジヨン)郡の青(チョン)峰(ボン)宿営地であり、いま一つは一九三〇年代の後半期に抗日遊撃隊員が後方密営として開拓した西間島の青峰である。三池淵郡の青峰については誰もがよく知っている。しかし、西間島の青峰へ行った人はさほど多くない。その密営が苦難の行軍とともに抗日革命史の一ぺージを占めるようになったのは、そこで革命家の信念と忠実性を検証する重大な事件が起こり、人民革命軍のすべての隊員に深刻な教訓を残したからである。その教訓は現在も新しい世代に多くのことを教えている。青峰密営での事件について金日成同志が回想した内容の一部をここに紹介する。

われわれは苦難の行軍を開始した後、負傷者と患者を青峰密営に送りました。青峰密営はわれわれの後方基地でした。白頭山の周辺と西間島一帯にはそのような後方密営がいくつもありました。青峰密営には給養担当者がつくったジャガイモもあって、負傷者と病弱な者が数か月は食糧の苦労をせずにすごせる安全なところでした。
一九三九年の十三道湾集団部落襲撃戦闘があった後、わたしは戦利品の一部を青峰へ送りました。青峰に手植えのジャガイモはあるにせよ、それだけでどうして旧正月をすごすことができるでしょうか。それでふだん口にできない食料品を選んで密営の戦友たちに送ったのです。そのとき荷物をかついで青峰密営に行ってきたのは部隊の連絡員でした。ところが彼は司令部へやってきて、密営で「スパイ団事件」が発生したという驚くべき話を伝えたのです。司令部のメンバーはその話を聞いて、みな目を丸くしました。共産主義者が統率する革命軍隊内で「スパイ団事件」が起きたとすれば、それこそ重大な事態というほかはありません。連絡員は「スパイ団事件」のいきさつを要約した李(リ)東傑(ドンゴル)の手紙とともに、証拠物件として押収したという「毒薬」袋なるものまで差し出すのでした。李東傑の手紙には、女子隊員の金(キム)正(ジョン)淑(スク)、金恵順(キムヘスン)、金善(キムソン)、徐(ソ)順玉(スンオク)などはみな日本帝国主義のスパイであり、彼女らが毒薬で革命戦友たちの殺害を企んだことが判明したという内容がしたためてありました。連絡員の話によれば、青峰へ行ってみると当の女子隊員たちは繩で縛られており、拷問された跡まで見受けられたとのことでした。
その報告を受けたときの衝撃は、張(チャン)捕(ポ)吏(リ)や韓鳳善(ハンボンソン)などの闘士たちが「民生団」に仕立てあげられたときのそれよりも何倍も大きいものでした。みなさんもよく知っているように、「民生団」問題は一九三六年の南湖頭会議ですでに結末がついていたのです。われわれはそれ以米、「民生団」という言葉を口に出すことさえ嫌っていました。「民生団」騒ぎによる損失があまりにも大きく、傷跡があまりにも深かったからです。だというのに、今度は青峰で「民生団」に匹敵する「スパイ団」なるものが摘発されたというのですから、わたしの気持ちはいかばかりだったでしょうか。
わたしははじめから青峰で摘発されたという「スパイ団事件」が、一顧の価値もないでっちあげだと判断しました。女子隊員たちにスパイの烙印を押した密営の指揮官の主張には信頼するに足る証拠が一つもなかったからです。彼らが証拠物件として送ってよこした毒薬というのは、実は歯磨き粉だったのです。わたしは隊員たちが止めるのも聞かずに、その粉を舌先に当ててみたのですが、歯磨き粉に間違いありませんでした。歯磨き粉を毒薬というのですから、なんとあきれた話ではありませんか。
青峰の女子隊員たちは革命実践を通じて十分に鍛えられ、点検された人たちでした。彼女らはみな革命ひとすじに生きてきたのです。彼女らの唯一の理想は祖国の解放をなし遂げることでした。そういう理想をもっていなかったなら、女性の身で銃をにない、かんじきを履き、草根木皮で飢えをしのぎ、婚期になっても嫁がずに、男でもたえがたいきびしい試練の道を歩むはずがないではありませんか。そのような女性たちにスパイのレッテルを貼るというのは、まったくのこじつけであるばかりか、冒涜であり、愚弄であり、犯罪でありました。
金正淑がどんな女性であるかについてはあらためて言うこともありません。わたしが一言で保証できるのは、階級的立場や闘争経歴からみて、彼女は敵に内通するいささかの理由もない女性であるということです。日本帝国主義者のために父母兄弟を全部亡くした人が、敵のスパイになるというのは話になりません。金恵順や金善、徐順玉にしても革命的覚悟のできた女性たちでした。彼女らは悪い連中の手に乗るような人たちではありませんでした。彼女らをスパイに仕立てあげたのも言語道断でした。このような女子隊員たちをスパイとみなすのは、間島で多くの人に「民生団」の濡れ衣を着せ処刑した金(キム)成(ソン)道(ド)や曹亜範の妄動と変わるところがありません。
われわれの部隊には敵のスパイになりさがるような女性は一人もいませんでした。遊撃区の時期も、遊撃区が解散した後も、女子隊員のなかからは一人の裏切り者も出ませんでした。苦難の行軍のときに隊伍をすてて逃げ出した者のなかに女子隊員がいたでしょうか。一人もいませんでした。林(リム)水(ス)山(サン)が投降するときに恋仲であった女子隊員を連れて逃げましたが、その女性も遊撃隊にいたときにスパイ行為はしませんでした。
女子隊員は男の隊員より苦労ももっとしました。昨今の家庭での女性の負担を考えれば、誰でもわたしの言うことがうなずけると思います。女性は男子と同様に社会活動に従事しながらも、家事の重い負担をほとんど一身に引き受けています。われわれは女性の負担を軽減するいろいろな施策を講じましたが、いまなおわれわれの母や妻、姉の苦労はなくなっていません。
抗日革命の時期にも、負担は女子隊員により多くかかりました。女子隊員たちは男子と同様に戦闘に参加しながら、炊事もしなければなりませんでした。炊事道具や食糧も、そのほとんどは女子隊員が背負って歩きました。男の隊員たちが疲れきって、焚き火のそばで泥のように眠りこけているときにも、女子隊員たちは男の隊員の破れた軍服を繕ってあげたものです。破れた服は針と糸で繕えばすみましたが、焦げた服は布切れを当てなければなりませんでした。当てる布切れがないときには、自分のチマの裾を切り取って継ぎ足したものです。わたしはそういう光景を目のあたりにして以来、軍服を供給するとき女子隊員にはチマを二枚ずつあてがうようにしました。女子隊員たちは、男の隊員に劣らず苦難にもよくたえたものです。ある面では男の隊員よりも辛抱強かったといえます。
女子隊員の話が出たついでに、崔(チェ)順(スン)山(サン)について少し話しましょう。崔順山は名うての兵器廠担当官であった宋(ソン)承(スン)泌(ピル)の妻です。彼女は延吉地方で地下党活動をするかたわら炊事係りも務め、救国軍との統一戦線活動にも参加した古い党員でした。延吉出身の闘士たちは口をそろえて、彼女を責任感の強い強靱な女性だと評価していました。崔順山は遊撃隊に入隊した後も、長らく炊事係りを務めました。ある日、行軍の休止時間に彼女は夕食をととのえようと米をといでいて、手のひらに針が突き刺さりました。その拍子に針は折れて肉に深く食いこんでしまいました。しかし、それを抜く時間の余裕がありませんでした。早く食事の仕度を終えなければ、部隊のつぎの段階の行軍に支障をきたすからでした。崔順山はその日から手のひらの痛みに苦しめられました。普通の女性なら、当分のあいだ炊事はできないと訴えるはずですが、この剛毅な女子隊員はそのことをおくびにも出さず、針を抜いてくれと頼みもしませんでした。小隊長に食事が遅いととがめられても、弁解しようとしませんでした。自分が炊事から手を放せば、ほかの戦闘員が自分に代わってそれをしなければならないことを知っていたからです。そうこうするうちに針は手の甲まで貫いてしまいました。彼女は手の甲に針の先が突き出してきたときに、ようやく針を抜いてくれと戦友たちに頼みました。それで戦友たちが毛抜きで針を抜いてやったのです。折れた針が肉に刺さっているのに、人知れず半月もその痛みをこらえながら戦友たちに食事をつくってやる女性、まさにこれがわれわれとともに抗日戦争の炎を突きぬけてきた女性闘士の真面目なのです。
このような女性闘士たちにスパイという恥ずべきレッテルを貼りつけるというのは、どう考えても理解できないことでした。密営の責任者である厳(オム)光(グァン)浩(ホ)は数年間政治活動にたずさわったこともある人なのに、どうしてなんの根拠もなしに女子隊員を疑い、スパイ呼ばわりするのだろうか。彼は自分が縛りあげて丸太小屋に監禁した女子隊員たちが、革命にたいして一点の曇りもない真の愛国者であることを知らないというのか。彼の証言どおり彼女らがスパイであるとすれば、いったいこの世に信頼できる者がいるだろうか。
李東傑の書面報告を見るだけでは真相をつかむことができず、なにがどうなったのかまったく判断することができませんでした。わたしはその日のうちに金(キム)平(ピョン)を呼び、事態の真相を調べる任務を与えると同時に、「スパイ団」を「摘発」したという密営の責任者厳光浩と政治責任者の李東傑、それに拘束されている女子隊員全員を司令部に召致するよう指示し、現地へ差し向けました。
金平が帰隊した後、わたしは事件の関係者に一人ひとり会ってみました。青峰密営で発生した事件は想像を絶するものでした。青峰密営の責任者は厳光浩でした。わたしが厳光浩を後方密営の責任者として派遣したのは、彼の欠点を直させるための一種の同志的な配慮でした。彼は思想の面でも作風の面でも重病といえる欠点の持ち主でした。厳光浩はとうてい黙認しがたい悪習をもっていたのです。それは分派的な習性でした。分派行動をする者には、自分を買いかぶって人を見下げる悪い癖があります。人を見下げるので、しきりに同志をこきおろし、同志たちのすることを非難するようになります。分派的習性に染まった者には例外なく出世欲があります。そういう人は出世の機会に恵まれなければ、他人を後ろ盾にしたり権謀術数を弄してでも、高位職にありつこうとします。分派分子たちが野心家だという非難を受けるのはそのためです。厳光浩はまさにそういう人でした。
厳光浩は革命隊伍に加わった当初から野心家の本性をあらわしました。延吉地方で五・三〇暴動の機に乗じて革命運動に参加した彼は、ひところ独立第一師で中隊政治指導員を務めたこともありましたが、はじめから人望を失いました。さも偉そうにふるまい、いわれもなく戦友をけなしたからです。独善的で革命同志も先輩も眼中にない人間を好く人はいないものです。厳光浩は反「民生団」闘争までも出世の機会に利用しようとしました。彼は多くの人を反動と決めつけたのです。「民生団」員を告発し断罪する集会では、彼のはねあがった主張がいちばん声高くひびいたものです。しかし、革命組織は彼を見捨てませんでした。彼は多くの同志を故意に見放しましたが、組織は彼を寛大に許し、再生の道を開いてやりました。われわれが馬鞍山一帯で新しい師団を編制するとき、厳光浩はわたしのところに来て、誠実に仕事をしてこれまでの過ちを改めると誓いました。わたしはその言葉を信じ、彼を中隊政治指導員に任命しました。ところが、彼はその信頼を裏切りました。彼はともすれば隊員たちを怒鳴りつけ、中隊長の仕事を助けるのでなく、一段上にかまえて訓戒を垂れてばかりいました。そして、闘争歴が長いことを鼻にかけて先輩ぶり、骨のおれることには身を入れようとしませんでした。戦場では一線に立つのではなく、いつも銃弾の及ばない隅にいました。こんな人には、大衆の鑑となり導き手となるべき政治指導員という職務がふさわしくありませんでした。
こういう理由で、われわれは厳光浩を政治幹部の職責からはずし、改悛の機会を与えるために後方密営に送ったのです。わたしは彼を青峰に送るとき、負傷者の治療と生活条件を保障し、給養担当者たちと一緒に農作に精を出して部隊の食糧を備蓄する任務を与えました。しかし、彼はその任務を怠ったばかりでなく、予備の兵舎を建てるようにという司令部の指示も実行しませんでした。七道溝の奥地でわれわれと別れて青峰密営へ行った負傷兵と裁縫隊員は、宿所が足りなくてたいへん不便な思いをしました。彼らは厳冬のさなかに天幕を張ってすごさなければなりませんでした。そのうえ密営には医薬品や食糧も不足していました。けれども、苦労のなかで鍛えられた遊撃隊員は、いささかも不平を鳴らしたり泣き言をいったりしませんでした。彼らは敵と血戦をくりひろげている戦友を思い、あらゆる困難をたえぬきました。そして密営の日課を厳守し、学習も決まりどおりにしました。
ところが、隠すことほど現われるという言葉のとおり、この学習の過程で、厳光浩の有害な思考方式と敗北主義者としての正体が露見したのです。ある日、密営では南牌子会議の方針にかんする学習討論がおこなわれました。そのとき厳光浩はロシア革命の経験を実例としてあげながら、どの革命であれ高潮期と退潮期があるものだ、高潮期にはそれに適した戦略を立て、退潮期にはまたそれに適した戦略を立てなければならない、そのためには情勢の変化を見て正確な判断を下さなければならない、そして退潮期の兆しが見えれば退潮期が到来したことを率直に認めるべきである、それでは朝鮮革命はいまどの段階にあるのか、退潮期にある、考えてもみろ、熱河遠征も失敗し、「恵山事件」が起きて革命組織もすべて破壊されたではないか、それでも退潮期でないというのか、このような状況においては「一歩前進二歩退却」の教訓を肝に銘じなければならない、すなわち攻勢と正面対決は避けて有利な機会が訪れるまで退却すべきである、これが革命を救う道である、と主張しました。厳光浩は密営内のすべての隊員にこういう主張を押しつけようとしたのです。熱河遠征と「恵山事件」の余波で革命がかなり萎縮していたときなので、聞きようによってはそれも事理にかなった主張のようにも思えました。
しかし密営にいた女子隊員たちは、厳光浩の主張が司令部のそれとは違うことを看破し、即座に彼の主張を論駁しました。客観的な情勢が革命闘争に大きな影響を与えるということはわたしたちも否定しない、だからといってそれを絶対視してはならない、情勢が不利であればあるほど革命家はそれに立ち向かい、禍を転じて福となすために奮起すべきである、これは司令官同志の意志だ、朝鮮の共産主義者は情勢が有利なときにも戦い、不利なときにも戦いをつづけてきた、もし朝鮮の共産主義者が情勢が不利なときには隠れていて、情勢が有利なときにだけ活動したとすれば、朝鮮人民革命軍という常備の武装隊伍をもつことはできなかったはずだ、それに厳重な警備の目をかいくぐって国内に進出し、普(ポ)天(チョン)堡(ボ)を討つといった大胆な軍事作戦を展開することもできなかったはずだ、マルクス・レーニン主義は共産主義学説であるから革命活動と実践においてそれを指針とするのはもちろんよいことだ、しかし司令官同志がいつも強調しているように、マルクス・レーニン主義も朝鮮革命の実情に即して創造的に適用すべきであって、教条的に適用してはならない、あなたは「一歩前進二歩退却」の内容も取り違えているようだ、朝鮮革命が折り重なる難関を打開して発展してきたということを知らないというのか、あなたは現在のような情勢にあっては退却のみが上策だと言うが、われわれに退却できる後方がどこにあるというのだ、われわれが退却すれば革命の高潮期は誰がもたらしてくれるのか、南牌子会議で司令官同志が宣言したように、われわれは困難に直面したときにこそそれに立ち向かわなければならない、そうして逆境を順境に変えるべきだ、と彼女らは主張したのです。そのとき金正淑が先頭に立って、厳光浩の敗北主義を辛らつに批判しました。彼女は司令部の路線や作戦上の方針に反する誤った思想にたいしては、いささかも妥協することなく断固たたかいました。彼女は徹底した思想論者でした。
女子隊員たちからこのような反撃を受けると、厳光浩はマルクスとレーニンの命題を引き合いに出して、なんとかして自分の主張を合理化しようとしました。そうすればするほど、彼の論旨はますます鼻持ちならないものになってきました。野心家、日和見主義者としての厳光浩の正体は、論争の過程でいっそう明らかになりました。そのときになって女子隊員たちは、彼が夏中ずっと密営にいながら患者の治療の準備や冬越しの準備もせずに、職務に怠慢であったわけがわかりました。しかし、彼女らは厳光浩に裏切り者とか降伏主義者とかいう政治的レッテルを貼りつけはしませんでした。学習の過程での論争であったので、彼が自分の理論的誤りを認め、同志たちの主張を素直に受け入れたなら、論争はそれで無難に終わっていたはずです。われわれは学習討論の過程であらわれるさまざまな思想的誤りについては、決して問題視しませんでした。人のレベルと準備程度はそれぞれ異なるので、事物現象の理解と把握で一定の差があるものです。すべての人がはじめから思想的に完璧な人間でありうるわけはありません。人間がもっている思想的な未熟さは学習と革命の実践を通じて克服され、またその過程を通じて思想的に鍛えられ円熟していくものです。それゆえわれわれは、革命原理に反する不透明な論調があっても、それを糾弾したり批判したりするのでなく、論争の方法であくまで啓発するようにしたのです。ところが、厳光浩は女子隊員たちの主張を正当なものとして受け入れ、思想改造に努めるのでなく、降伏主義者としての正体を粉飾しようとやっきになり、論争の相手に報復を企てたのです。
厳光浩は女子隊員たちを迫害する過程で、その正体を赤裸々にさらけだしました。彼の妄動たるや、間島で反「民生団」闘争がおこなわれたときの「粛反工作委員会」のメンバーの行為と違わぬばかりか、その動機と目的においてはむしろそれよりも卑劣で陰険なものでした。厳光浩が女子隊員たちを迫害したのは、自己の罪状を覆い隠すためでした。彼は女子隊員たちの口を封ずるために罪をでっちあげ、それを彼女らに転嫁する手口を用いました。女子隊員たちを罪人に仕立てあげれば自分に手出しができないし、司令部に報告することもできないだろうと考えたのです。なんと卑怯で危険な考え方ではありませんか。
青峰密営には年少の新入隊員が一人いました。ある日、その隊員が厳光浩の許可を得ずにそっと密営を抜け出したことがありました。それを知った厳光浩は即座に、逃亡者が出たと騒ぎ立て、捜索隊を派遣しました。捜索隊は密営の付近で焚き火でジャガイモを焼いている新入隊員を見つけました。密営に帰った捜索隊は厳光浩に、新入隊員がちょっと隊伍を離脱したのは逃げるつもりではなく、空腹にたえきれずジャガイモを焼いて食べるためであった、とありのままに報告しました。その隊員はさほどひもじい思いをしたことがなかったのです。しかし、密営を震撼させる事件をでっちあげる機会を狙っていた厳光浩は、とうとうその新入隊員に逃亡者の烙印を押してしまいました。そして、ジャガイモを焼くために火を焚いたというのも敵に合図をするための仕業に違いないと決めつけ、彼にスパイのレッテルまで貼りつけました。新入隊員は、それは違うと重ねて抗弁しましたが無駄でした。厳光浩は彼に、敵からどんな指令を受け、それを実行する過程で隊内で仲間にしたのは誰々であるかを吐けと強要し、拷問まで加えました。昨日まで一つ釜の飯を食っていた部下に表彰はしてやれないまでも、「逃亡者」だの「スパイ」だのというレッテルを貼ってひどい拷問まで加えたというのですから、なんと身震いのする話ではありませんか。厳光浩が「スパイ」だと決めつけたその新入隊員は、少々修養が足りないとはいえ、階級意識に徹した青年でした。彼には隊列から脱出する根拠もなければ、スパイになる理由もなかったのです。にもかかわらず厳光浩は、彼が女子隊員たちを「破壊工作」に引き入れ、密営内の革命同志を毒殺しようとしたという虚偽の自白をするまで拷問をつづけたのです。しまいには、その「自白」を根拠に女子隊員たちを拘束し、暴行を加えるまでにいたりました。
何年間も対人活動にたずさわり、隊伍の統一団結を唱えてきた厳光浩が、どうしてこれほどまでになってしまったのか、わたしにはとうてい理解できませんでした。後日、彼の罪業を調べる過程ではじめて、彼が醜悪な人間に転落した動機がなんであったかを知るようになりました。厳光浩は後方密営に派遣されたことを降職と考えたのです。自分を政治幹部の地位から解任した司令部の処置をうらみがましく思ったので、給養担当者として当然すべき仕事もせず、故意に職務を怠慢したというわけです。女子隊員たちとの論争があって以来、彼は敗北主義者としての汚らわしい正体を隠すために、超革命的な要求をつづけざまにうちだしました。警戒態勢を強めるという口実のもとにたびたび非常呼集をかけて病弱な人たちを苦しめるかと思えば、食糧の節約という名目で一日二食の食事を一食に減らすという方法でわざと人びとを飢えさせました。一日一食に切り詰めなければならないほど、青峰密営の食糧事情が逼迫していたわけではありません。米はありませんでしたが、穴蔵にはかなりのジャガイモがあったのです。密営から少し離れた台地の林の中には相当な面積の畑があって、そこでジャガイモや白菜などを栽培していました。厳光浩が任務を忠実に遂行していたなら、全部隊が青峰で越冬することもできたはずです。出世の道が閉ざされたと判断したその瞬間から、厳光浩は革命に嫌気がさし、内外の情勢が複雑かつ困難になると、革命の前途を遼遠たるものと考えるようになったのです。そういう思想的病根が結局、学習討論の過程で露呈するようになったのです。
厳光浩がこのように危険な専横をきわめていたとき、それを食い止めることのできる唯一の人物は、密営の政治責任者である李東傑でした。第七連隊の政治委員である彼は、職級からすれば厳光浩の上官にあたります。彼は負傷していたので、われわれが七道溝の奥地で分散行動に移るとき、彼に密営の政治活動を担当させて青峰へ送ったのです。ところが李東傑は厳光浩のへつらいと権謀術数に乗せられて、事態の真相と本質を見抜くことができませんでした。もしわたしが連絡員を青峰に送らなかったなら、厳光浩の謀略は実現し、女子隊員たちは命を落としていたことでしょう。
事件の実相を調べているうちに、厳光浩は李鐘洛よりも低劣で悪らつな人間であることがわかりました。李鐘洛の犯行は敵に逮捕されて変節を強いられた後のことです。しかし、厳光浩は革命隊伍の内部にいながら思想的に腐敗変質し、それを隠すために同志を陥れ迫害するという反動的な行為をしたのです。「民生団」騒ぎで間島の遊撃区が陣痛を経ていた一九三〇年代の前半期を除いては、われわれの隊伍内に拷問や刑罰といったものは存在しませんでした。隊伍内で発生する誤りや欠陥は解説と説得、批判の方法で是正していました。指揮官が隊員を拷問するといった極端な行為は考えることすらできませんでした。ところが、厳光浩は自分の正体が露見すると、隊員との関係を誰が誰をという相容れない敵対関係におき、ためらうことなく彼らを陥れる犯行に及んだのです。彼は自分が生き残るためには隊員たちをかたづけるしかないと考え、その企てを実行に移すため、少々規律違反をした新入隊員に逃亡者、スパイの烙印を押し、女子隊員たちが使っていた歯磨き粉を毒薬と断じたのです。そして、しまいにはその女子隊員たちまでもスパイに仕立てあげてしまいました。
厳光浩は桃泉里で数か月、金正淑とともに地下工作をしたこともあるのです。にもかかわらず金正淑をスパイに仕立てあげるとは、無頼漢ならではの乱行といわざるをえません。彼は金正淑がどんな女性であるかを知りつくしていたはずです。
厳光浩の実例は、出世欲に溺れると組織も同志も道義も眼中にない悪漢になり、革命の裏切り者にもなることを示しています。当人も告白したことですが、女子隊員たちにたいする謀略が失敗した場合、彼はその責任をまぬがれるために逃走することまで考えていたのです。
この事件を通しても感じたことですが、革命においてははねあがり分子、過激派、独善的な人間、面従腹背する者、表面では批判し裏では抱きこもうとする者、気分屋、不平分子、功名・出世主義者などがいつも厄介な問題を引き起こします。こういう人たちにたいする対策をそのつど立てなければ、大きな禍をこうむることになります。厳光浩事件はまた、日常的に思想的修養を積まなければ、革命勝利の信念が揺らぎ、不平分子、意志薄弱な人間となって少々の難関にも屈し、しまいには敗北主義者となって革命闘争に莫大な弊害を及ぼすという教訓を残しています。
厳光浩がでっちあげた「スパイ団事件」は、われわれの隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的団結を根底から切り崩しかねない重大事件だったといえます。それゆえ、われわれは厳光浩の問題を司令部党委員会で慎重に検討した後、北大頂子で開かれた指揮官・兵士大会で大衆審判にかけました。青峰密営で起こった事件の内容が具体的に公開されるや、全将兵は最悪の逆境にあっても信念を曲げず、われわれの路線を固守した女子隊員たちを支持しました。それとは反対に、厳光浩と、鋭い政治的眼識をもって事態の本質を見抜くことができず、その犯罪を黙認した李東傑にたいしては、人民革命軍の名で処刑することを要求しました。厳光浩は最初、自分の罪過の弁明に汲々としていましたが、大衆の糾弾を受けてはじめて犯行を認め、涙を流しながら助命を哀願しました。
それとは対照的に、李東傑は最初から一言も弁明せずに自分の誤りを率直に認め、処刑してくれと言いました。それほどに彼は大衆の批判を素直に受け入れ、自分の非を心から反省したのです。李東傑は気骨があるうえに人情味もあって好感のもてる人でした。政治活動や地下工作ではひとかどの実力者でした。わたしが南牌子会議で呉仲洽を第七連隊長に任命したとき、彼をその連隊の政治委員に任命したのは、その資質と豊富な政治活動の経験を重く見たからです。こういう人が下級の指揮官に翻弄されるという誤りを犯したのは、密営にいるあいだ厳光浩の部屋を宿所とし、彼のへつらいに乗せられたうえに、隊員との活動をおろそかにしたためでした。もっとも、彼は重傷を負っていたので、対人活動ができる機会はあまりなかったでしょう。しかし、自分が外に出られないなら、隊員を部屋に呼んででもたびたび会うべきでした。密営で「スパイ団事件」が発生したと厳光浩が騒いでいたとき、李東傑が一人の隊員だけでも会っていたら、すぐに真相を突き止めることができたはずです。ところが李東傑は、厳光浩の報告を受けた後、一人の隊員にも会わず、彼が専横をほしいままにできるように放置しておきました。厳光浩が新入隊員を審問するといえば審問させ、また女子隊員たちを拘束するといえばそうさせました。李東傑は厳光浩の話を聞くだけで、隊員たちの言い分は聞こうとしませんでした。ですから、厳光浩のような野心家の奸計から隊員の政治的生命を守ることができなかったのです。まさにここに、政治幹部としての李東傑の罪責があったわけです。そのため、すべての将兵は厳光浩に対するのとまったく同じ観点から李東傑を見たのです。政治幹部が大衆と呼吸をともにしなければ、こういう結果をまねくものです。
人びとの政治的生命を扱う幹部は、大衆と呼吸をともにすることを片時も忘れてはなりません。大衆と呼吸をともにするというのは、人民がシャベルを手にするときは自分もシャベルを手にし、人民が粟飯を食べるときは自分も粟飯を食べ、人民とすべてを分かちあうということです。大衆と呼吸をともにしない人は、人民の感情や心理がよくわからず、彼らの要求と志向がどんなものであるかもわかりません。われわれの一部の幹部には、自分を批判した人たちを陰に陽に迫害し、批判の度合いによっては、なんの罪もない人びとを政治的にもてあそぶ弊害が見受けられます。はなはだしきにいたっては、自分にこびへつらう何人かの話だけを聞いて人びとの運命にかかわる問題を軽々しく処理することさえあります。幹部が職権を悪用して人びとの政治的生命を勝手に扱うならば、人民の恨みと憎しみを買い、党と大衆を切り離すことになります。
わが党は仁徳政治をおこなう党であり、わが国は仁徳政治の恩恵のもとに万人が一つの大家庭のなかでむつまじく暮らす国です。われわれの仁徳政治は、人びとの肉体的生命のみでなく政治的生命をも保護し、見守るべき使命をになっています。わが党がもっとも重んじるのは人びとの政治的生命です。思想と理念を同じくする人びとがひとところに集まって成るのがすなわち組織であり党であり、各人はその集団のなかで政治的生命を授かるようになります。数百万の大衆が持している政治的生命がそのまま組織の生命となり、党の生命となる理由がまさにここにあるのです。したがって、人びとの政治的生命をみだりに傷つけたり、それに墨を塗りつけたりするのは、とりもなおさず党の寿命を縮めることになります。党がその最高綱領を実現するときまで生き長らえるためには、対人活動を正しくおこない、人びとの政治的生命をりっぱに保護しなければなりません。これがほかならぬ青峰の教訓です。みなさんはつねにこの教訓を銘記しなければなりません。
李東傑の誤りは重大なものでしたが、許せるものでした。彼が誤りを犯したのは、政治責任者としての自覚がくもり、厳光浩にあざむかれたためでした。彼は主動的にではなく、受け身の立場で厳光浩に同調し、その謀略を黙認したのです。われわれはこういった点を参酌して、李東傑を降職処分に付することにとどめました。厳罰をまぬがれた李東傑はわたしを訪ねてきて、処罰が軽すぎると言いました。
「もっと重く罰してください。わたしをいちばん危険なところに送ってください。わたしの過ちは、血を流し、命をなげうたなければ償うことができません。それでこそ戦友たちもわたしを許してくれることでしょう。そして以前のように同志と呼んでくれるでしょう」
李東傑はその後、司令部が与えた任務を忠実に遂行しましたが、敵に逮捕され、八・一五解放の前夜に西(ソ)大(デ)門(ムン)刑務所で絞首刑に処されました。抗日革命闘争の時期、彼は李東傑という本名以外に金(キム)俊(ジュン)という名も使っていました。

三 塩 事 件

一九四九年六月、金日成同志は共和国内閣小会議を指導した。会議では塩の配給制を廃止し、自由販売制を実施する問題が討議された。金日成同志はその日、会議をしめくくるにあたって、抗日武装闘争の時期の体験によれば、塩を切らしたときほど苦しいことはなかった、それで山中で戦ったとき、米を切らすことはあっても塩だけは切らさないように努めた、塩の生産が急増し、備蓄できるまでになったのだから、これからは塩を自由販売することにしよう、と述べた。塩を自由に売買する措置をとった金日成同志は、幹部たちの前で苦難の行軍のとき塩不足のために苦労したことを回想した。一般に塩事件と呼ばれている事のいきさつについて、金日成同志が数次にわたって語った回想談をまとめてここに紹介する。

わたしがいまから話す塩事件は、一九三九年の春、苦難の行軍の終わりの時期にあった出来事です。この塩事件はいまでも忘れることができません。
人間は塩を欠かしては生きていけません。塩を食べないと手足がむくみ、脱力状態になって動けなくなります。草食動物も塩分を摂取しなければ生きていけません。山中の塩気のある水たまりの付近に鹿の角が落ちたりしているのは、鹿が塩分を摂取するためにしばしばそこへ来るからです。
遊撃隊の生活には四大必需品難というのがありましたが、それは食糧難、履き物難、マッチ難、食塩難でした。抗日革命闘士にこの四つの困難のうちでいちばんたえがたいのはなんであったかと聞けば、多分大多数の人は食塩難であったと答えるでしょう。
もともと北間島や西間島地方は塩が不足していたうえに、官庁の統制がきびしかったので、貴重品にならざるをえませんでした。塩は満州地方でも官庁の専売品となっていました。敵は住民地区の塩が人民革命軍の手中に入らないよう、厳格に取り締まりました。商人が朝鮮から密輸入した塩を住民地区で密売して歩くこともありましたが、さほど足しにはなりませんでした。間島の奥地では、塩の代用品としてあくをとった木の灰を食用にする家も少なくありませんでした。わたしは東満州にいたとき、一家が岩塩一粒で一食を補うのを目撃したことがあります。わたしが汪清で活動していたとき、崔春国の中隊に出向いて高(ゴ)賢(ヒョン)淑(スク)に、炊事隊でいちばん困っていることは何かと聞いてみると、第一にあげたのが塩でした。高賢淑は呉白竜の家の隣近所に住んでいましたが、敵の「討伐」で家族の多くを失い、その敵を討とうと遊撃隊に入隊した女性です。彼女は入隊してすぐ炊事隊員に任命されましたが、わたしが中隊に行って食事をするたびに、おかずが何もないといって恐縮するのでした。あるときは、塩味をつけていないおかずを膳に出したことが気恥ずかしくて、わたしの前に顔を出せず、かまどの前で小さくなっていたものです。高賢淑の話によれば、彼女の家でも一家が一粒の岩塩で食事をすますことが多かったとのことです。中国の岩塩は一粒がインゲン豆ほどの大きさでした。
第二次北満州遠征のときは塩不足がはなはだしくて、ある中隊では隊員たちが塩を入れた小さな非常袋をバンドに下げていたものです。袋といっても、指がやっと入る印鑑袋ほどのものでした。非常袋の塩は、どうしても塩分がとれない切羽詰まったときにのみ消費しました。塩不足を経験したことのないみなさんには、多分この話が昔話のように聞こえるでしょう。パルチザン時代に塩を手に入れるために敵地に行って命を落とした隊員も一人や二人ではありませんでした。地下組織のメンバーも塩を調達する過程で少なからず命を落としました。塩を手に入れる主なルートは地下組織の線でした。地下革命組織に金を渡せば、その組織が大衆に働きかけて塩を買い入れたのです。言うまでもなく、部隊に運ばれる塩のなかには人民が買ってよこしたものもありました。
敵は、われわれがどういう経路で塩を手に入れているかをよく知っており、塩不足のためにいかに大きな困難をなめているかということも手にとるように知っていました。これは敵に、塩をもって人民革命軍を壊滅させる恐ろしい策略を企てさせる条件を与えました。敵は、塩を利用してうまく謀略をめぐらせば、銃声をあげなくても革命軍を全部生け捕りにするか全滅させることができると考えました。
彼らは体験を通じて、単なる軍事的・政治的対決だけでは朝鮮人民革命軍を打ち破ることができないことをよく知っていました。それで「帰順工作」をくりひろげ、集団部落政策や焦土化作戦も試みたのです。一時は「民生団」をつくりあげ、朝中両国人民のあいだにくさびを打ちこむ民族離間戦術で、われわれの革命勢力を内部から瓦解させようともしました。日本人は、はなはだしくは「金日成射殺説」まで流し、わたしのうわさが広がるのを阻もうとさえしました。言わば、金日成が彼らの手にかかって果てたかのようにデマを流し、もう金日成もいなくなったから独立闘争もおしまいだというふうに宣伝し、朝鮮民族の反日熱気に水を差したのです。当時、朝鮮と満州の少なからぬ出版物は、わたしがどの戦闘でどのように戦死したと、もっともらしく綴った現地報道形式の記事まで載せました。一九三七年一一月、『京城日報』は、満軍「討伐隊」が五時間にわたる激戦の末、金日成を射殺するのに成功した、父子二代にわたって抗日反満運動をつづけてきた金日成も「討伐軍」によって窮地に追い込まれ、ついに三六歳を一期として波乱万丈の生涯を閉じたと報道しました。満州国軍の雑誌『鉄心』にも「金日成匪討伐詳報」という見出しで、わたしを死に至らしめたという記事が掲載されました。それによると、金日成が撫松県楊木頂子付近で満州国軍の奇襲を受けて苦戦に陥り、部下八名とともに戦死したが、村人に確認させたところ「金日成に間違いない」と証言したということでした。この「功労」によって満州国軍第七連隊中隊長であった李某は、関東軍司令官、満州国治安部大臣から特別昇級と賞状を授かり、一万元の賞金までもらったそうです。ところがその後、金日成が再びあらわれ、ほとほと困惑したとのことです。
日本帝国主義者は朝鮮人と中国人を生体実験にまで利用しましたが、その目的はなんであったのでしょうか。それは言うまでもなく、朝中両国人民と革命軍を標的にしたものであり、ひいては東洋制覇を妨げるいっさいの敵対勢力にたいする生理的抹殺を策したものでした。しかし敵は、いかなる手段と方法によっても抗日革命の炎を消すことができず、朝鮮人民革命軍の存在をなくすこともできませんでした。業を煮やした敵は井戸やパンに毒薬を入れ、はなはだしくは塩や米にも毒薬を入れて送りこむという卑劣な方法でわれわれを殺害しようとしました。われわれは長白に着いて間もなく、敵の策略にはまりそうになりました。西間島に進出して大徳水で最初の戦闘をおこない、つづいて小徳水での戦闘を終えた後、馬順溝というところで中秋節日の準備をしていたときのことです。ある日、歩哨長がわたしのところへ駆けつけ、ある老人が衛兵所にあらわれて隊長に会わせてくれとせがんでいるが、どう処置したものかと言うのでした。わたしが老人に会ってみると、彼は革命軍が長白で求めた塩には毒が入っていると告げるのでした。敵が塩に毒を入れたというのです。それが事実かどうかを確かめるために、毒が入っているという塩を動物に食べさせたところ、たちまち毒物反応があらわれました。その老人が知らせてくれなかったなら、一大事になるところでした。塩に毒薬を入れる方法でわれわれを全滅させようとする敵の企みは、われわれが塩不足に苦しめられているときほどいっそうはなはだしくなりました。
われわれは一九三九年の春にも塩を切らしてたいへん苦労しました。分散行動をしていた各連隊がひとところに集まって司令部とともに行動し、苦難の行軍をしめくくろうとしていた時分でした。行軍がほとんど終わりかけていたときだったので、隊員の士気は上々でした。そのときは食糧も確保され、気侯も暖かでした。春を迎えたので、みな胸をおどらせていました。ところがある日、不可解なことが起こりました。行軍中の隊員たちが酒に酔った人のように体の均衡を失ってふらつくのでした。幾人かだけならいざ知らず、大勢の隊員がそういう状態なのでたいへんでした。隊員はみな顔がむくんでいました。一部の隊員はむくみがひどくて目も開けられないありさまでした。わたしは、隊員が脱力状態になった原因は塩の欠乏だと考えました。むくみがひどい原因も塩分がとれないことにあると判断したのです。司令部のメンバーは一〇日間ほど塩を口にしていなかったのです。呉仲洽に塩をいつから食べていないのかと聞くと、第七連隊も司令部と別れてからはほとんど食べていないとのことでした。ですから塩が原因であることは明らかでした。行軍をしめくくり、再び国内へ進出して敵に打撃を与えようとしていたときに、このような光景を目のあたりにしたのですから胸がふさがる思いでした。なんとしてでも塩を手に入れなければなりませんでした。そうしなければ部隊が全滅するおそれがありました。
わたしが敵地へ行って塩を求めてくる適任者を物色しているとき、警護中隊を率いていた呉白竜が金鳳(キムボン)禄(ロク)という新入隊員を推薦しました。金鳳禄はろ獲物資をかついでついて来て家にもどらず、われわれの部隊に入隊した青年でした。遊撃隊に入隊していくらも経っていませんでしたが、生活でも戦闘でもそつがありませんでした。呉仲洽も、彼は着実な人だ、彼の両親が西崗に住んでいるから彼が行けば必ず塩を求めてくるだろうと言いました。金鳳禄を呼んで塩を求めてくる自信があるかと聞くと、やってみると答えました。いまごろなら父が山へ柴刈りに出ている時分だから、私服に着替えていけば密偵の目をかすめて父に会うことができるし、父に会いさえすれば塩は問題ないとのことでした。わたしは彼に任務を与え、助力者を一人付けました。彼はその隊員を連れて目的地へ向かいました。
彼の父親は息子に会うや非常に喜び、おまえが金将軍の部下になったとは見上げたもんだ、将軍がおまえを預かってくれたのでわたしも安心だ、しかし最近、日本人の宣伝では金将軍が戦死したというが、それは本当なのかと問いました。金鳳禄は、それは真っ赤なうそです、わたしはいましがた将軍の軍営で将軍じきじきの命を受けてお父さんに会いに来たのです、将軍は健在です、と言いました。それを聞いた金鳳禄の父親は目をうるませて、やっぱりそうだったんだな、実際わしらは将軍が戦死したのどうのといううわさを聞いて、どんなに気を落としたかしれない、金将軍が生きておられるのだからもう大丈夫だ、と喜びを隠しきれなかったそうです。息子から家に来たわけを聞いた老人はびっくりして、塩のために革命軍が戦もできないとはとんでもないことだ、なんとしてでも塩を求めて金将軍の心労を省いてさしあげる、と言いました。
老人は息子の前で自信ありげにそう言ったものの、塩を手に入れるのは口で言うほど簡単なことではありませんでした。一人で一、二斤買うのならいざ知らず、それ以上の量となると敵に疑われるおそれがありました。当時、満州国官庁や警察機関では、商店で塩を制限量以上売ることを禁じていました。そして、随時商店での塩の販売状況をひそかに調査していました。商人のなかには、住民の物資購買状況を敵に日常的に通報する手先もいました。金鳳禄の父親はある程度の塩は一人でも求めることは可能でしたが、行軍に参加している軍人が数百名にもなるという息子の話を聞いて、一、二斤でも多く買って送ろうと思い、ふだんから親しくしている隣の老人に頼んでみることにしました。わけを聞いた隣の老人は協力することを約束しました。ところが、その老人が自分と親しい他の老人に、金日成将軍が塩を求めてくるようにと山から人をよこしたので、自分もひとはだ脱ぐことにしたと、得意げにしゃべってしまったのです。そして、そちらも遊撃隊を援助する気持ちがあるなら、精一杯塩を買い集めることだと言いました。そうして三人目の老人も塩の購入に乗り出したのですが、それが事の起こりになったのです。その老人は協和会員である自分の息子が密偵であるとはつゆ知らず、秘密をもらしてしまったのです。当時、日本帝国主義は「宣撫班」だの「帰順工作隊」だのというものを組織して「帰順工作」をくりひろげていました。そんなことには協和会の者も一役買っていたのです。敵の密偵であった息子は、父親から聞いた話をすぐさま上司に報告しました。われわれが村の老人たちから多量の塩を買い入れようとしていることを知った関東軍特務機関では警察機関に命令を下して、西崗一帯の商店の塩を全部買い占めさせ、その代わり長春から飛行機で急送させた塩を商店に配達させました。敵が飛行機で運んできた塩には毒が入れてあったのです。その毒入りの塩を食べるとすぐに死ぬのではなく、徐々に頭が痛み、足の力が抜け、戦闘力を喪失します。金鳳禄の父親をはじめ塩を買い集める老人たちは、そういう内幕を知るよしもありませんでした。敵の計略はきわめて隠密にしかも狡猾に企てられたので、生き馬の目を抜くという商人たちですらまったくその気配を察知することができませんでした。
二人の老人は塩をかついで金鳳禄とともに遊撃隊の宿営地に向かいました。彼らが部隊に到着したのは午後の一時か二時ごろだったと思います。わたしは彼らの労をねぎらい、塩を各部隊に分配するよう指示しました。そのころ金(キム)正(ジョン)淑(スク)は司令部の安全をはかって、いつも酢を携帯していました。司令部の炊事は彼女が担当していたのです。彼女は司令部の分としてもらってきた塩に酢をかけてみて、毒が入っているようだと言いました。食べ物に酢をかければ、毒が入っているかどうかがすぐわかります。酢は毒にすぐ反応します。それで司令部のメンバーと警護中隊の隊員はその塩を使いませんでした。もともと彼らは、司令官がはしをとるまでは食べ物に手をつけないことを道徳とし規律としていたのです。その日も彼らは、わたしが会議を終えて幕舎にもどってくるのを待って、なにも食べませんでした。わたしは会議の途中に老人たちが持ってきた塩に毒が入っているようだという報告を受け、休会を宣言しました。焚き火に塩をほうりこんでみると、案の定、青い炎が立ち上りました。塩に毒が入っていると青い炎が立つものです。わたしは給養担当官に、各部隊に分配した塩を全部回収するよう指示しました。司令部の指令が伝達されると、指揮官たちはあわてふためきました。隊員たちがすでに塩を少しずつ食べたというのです。一部の部隊では塩の回収命令を受けても、塩にまで毒を入れたりはしないだろうといって、すぐに出そうとはしませんでした。さらに一部の隊員は塩を小さな袋に入れて隠すありさまでした。
とくに問題になったのは、すでに毒入りの塩を食べて奇襲戦に向かった第七連隊と第八連隊でした。われわれはその日の夜に敵を襲い、食糧を確保してから黒瞎子溝密営方面へ向かう計画でした。それで第七連隊と第八連隊に戦闘任務を与えて送り出したのです。夜が明ければ、われわれに毒入りの塩を食べさせた敵が攻めてくることは明らかなのに、基本戦闘部隊を戦闘に送り出したのですから、心配は増すばかりでした。早く呼びもどさねばと考え、伝令を飛ばそうとしていたやさき、戦陣に向かった隊員たちが息も絶え絶えにもどってきました、呉仲洽があのように元気をなくして報告するのははじめてでした。ほかの戦友たちも同じでした。足がふらつくあまり、宿営地に到着するまえに倒れてしまった人もいました。敵は、われわれが塩を食べて戦闘力を失ったときに奇襲をかけて、一撃のもとに壊滅させるか、全員生け捕りにしようと企んだのに違いありません。狡猾な敵は、塩が何時ごろ部隊に到着し、何時ごろその塩を食べ、また何時ごろになれば全隊員が倒れるかを見越していたはずです。事態はきわめて重大でした。司令部のメンバーを除いた全部隊が毒に冒された状態で敵の攻撃を受ける破目になったのです。部隊が全滅するか、さもなければ天の恵みで生きのび反日抗戦をつづけることができるかという深刻な状況でした。わたしは、一九三七年の春、小湯河で数千名の敵に包囲されたときよりももっと胸が騒ぎました。あのときに味わった当惑感をどう表現すればよいのかわかりません。小湯河では数千名もの大軍の包囲のなかにあっても、隊員が戦闘能力を失っていなかったので、切羽詰まれば正面から敵陣を突破する決心ができていました。しかし、今度は状況が違っていました。中毒状態の部隊が敵と一戦を交えることになったのですから、胸がふさがる思いでした。
われわれは事態の収拾策を慎重に討議しました。激憤した一部の戦友は、塩を持ってきた老人たちを直ちに処刑しようと言いました。敵の手先だというのです。そうでなければ、毒入りの塩を持ってくるはずはないというのでした。それは道理に合わない判断でした。その老人たちが敵に内通し、それが毒入りの塩であることを知っていたなら、西崗村へ行った遊撃隊員に渡してしまえばすむものを、あえてわれわれのところにまでかついでくるはずがありませんでした。また、父親が自分の息子を殺そうと毒入りの塩を持ってくるはずもありません。わたしは二人の老人を処刑しようという戦友たちをきびしく叱りました。息子にりっぱに戦ってもらおうと決死の覚悟で重い塩をかついできた老人たちをあたたかくもてなせないまでも、処刑しようとはなにごとだ、きみたちは毒を盛られて理性を失っている、あの老人たちもわれわれと同じように塩に毒が入っているとは知らなかったはずだ、われわれはいま敵の奸計にはめられている、わたしの推測では、毒の効き目が最高潮に達したときに敵が攻めてくるはずだ、だから身動きのできる人は速やかに戦闘準備をととのえ、早急に解毒対策を講じるのだ、ほかに方法はない、夜が明ければ敵があらわれるだろう、現在、戦える人員はいくらにもならないから、きょうこそは決戦をくりひろげなければならない、と言いました。しかし、基本連隊の隊員は体が言うことをきかないというのでした。わたしは彼らに、いくら力が出なくても敵が襲いかかってくるまえにここを離れなければならない、命がある限りみな這ってでも安全な森林地帯まで行かなければならない、さもなければ敵機が飛来して爆撃し、地上部隊が砲撃を開始して包囲してくればわれわれは全滅する、と話しました。こうして基本連隊を安全な森林地帯まで這っていかせることにしました。そして、司令部の護衛兵と機関銃小隊には万全の戦闘準備をととのえさせました。
しばらくして、わたしの予測どおり敵が襲ってきました。われわれは敵と二日間も苛烈な戦闘を交えました。基本戦闘連隊の隊員はみな安全地帯に移して寝かし、少数の機関銃小隊と司令部護衛兵で襲いかかる敵を迎え撃って撃退しました。あのとき司令部のメンバーは、まさに決死の覚悟で勇敢に戦いました。
敵が心身を徐々に麻痺させる毒薬を使ったのをみると、われわれを全員生け捕りにしようとしたようです。われわれさえ生け捕りにしたら、満州における「共匪討伐戦は終結した」と宣伝したことでしょう。当時敵は、金日成部隊さえ壊滅させれば遊撃隊「討伐戦」は終わると宣伝していたのです。
われわれは敵を撃退したのち、各連隊を避難させた森林の中に病院を設け、緑豆やカボチャを食べさせながら一週間ほど治療に専念しました。その結果、全員が完全に健康を回復しました。
あの塩事件のとき、ほんとうにわたしは脂汗を流したものです。塩に毒が入っていることがわかったとき、いちばん驚愕したのは金鳳禄でした。自分たち親子が持ってきた塩に毒が入っていたのですから、彼はどんなに困惑したことでしょうか。金鳳禄と彼の父親は真っ青になってうろたえ、処分を待つ罪人のように口も利けませんでした。わたしは塩をかついできた二人の老人に、われわれはあなたがたを少しも疑わないばかりか、誠心誠意援助してくれたことをありがたく思っていると話して安心させました。そして西間島の物情に明るい金一に、彼らを家にではなく他の安全な土地へ連れていくようにと指示しました。謀略作戦が失敗したばかりでなく、かえって多くの死者を出した敵が逆上して失敗の責任を罪のない老人たちになすりつけ、どんな仕打ちをするかわからなかったからです。遊撃隊員の息子と示し合わせて多量の塩を遊撃隊へ送ったという理由だけでも、敵は金鳳禄の父親と隣の老人を殺害しかねなかったのです。金一は、わたしが与えた任務を責任をもって遂行しました。まず二人の老人に安全な隠れ家をあてがったのち、家族もそこへ移しました。金一は、老人たちがかついできた塩に毒が入れられたいきさつも探り出してきました。第三の老人の息子が敵の手先だったのです。
過ぐる戦争(朝鮮戦争)の時期、保健医療部門に潜入した敵の雇用スパイは、食べ物に毒性物質を入れて患者の生命を奪う残忍な殺人行為をはたらきました。それは人民の士気をくじき、医療従事者相互間の不信と不和を助長する意識的な犯罪行為でもありました。アメリカ帝国主義は朝鮮人民を絶滅させるために細菌戦さえも強行しました。
反革命は革命を攻撃するのにいつも手段と方法を選びません。二〇世紀の歴史が示しているように、帝国主義者は洋の東西を問わず、いずれも殺りくの熟練者です。彼らは、他人に拘束されず自主的に生きようとする人びとを抹殺するための技巧と能力をたえず練磨しています。現代帝国主義者はいま、数百の革命家や数万の革命軍を掃滅するための作戦ではなく、社会主義国全体を一時に崩壊させるという途方もない作戦を展開しています。したがって、われわれは彼らの策動につねに警戒心を強めなければなりません。
抗日革命の時期、山中で塩不足のためにあまりにも苦労したので、わたしは解放後、北部国境地帯から来た人たちに会うたびに塩の供給状況から聞いたものです。いつか厚(フ)昌(チャン)郡の郡消費組合副委員長に会ったとき、郡内の住民が要求する商品でいちばん不足しているのは何かと聞くと、塩だと答えました。わたしは一九四七年の夏、金剛(クムガン)山でキャンプをして帰ってきた昌城(チャンソン)地方の少年に執務室で会ったことがあります。そのとき、その少年も昌城の人たちが塩不足で非常に苦労していると言いました。それで商業部門の幹部に指示して、山間僻地の住民に塩を十分に供給する対策を立てさせました。両江(リャンガン)道地方は北間島や西間島と同様、海から遠い内陸山間地帯なので、塩が足りないはずです。戦時中、高(コ)山鎮(サンジン)に行ってみると、慈江(チャガン)道でも塩が非常に不足していました。それで一時的後退期の困難な状況ではありましたが、高山鎮の住民にわたしがじかに塩を供給してやったことがあります。
幹部は、内陸地帯の住民が塩を切らして苦労することのないよう、日ごろから深い関心を払わなければなりません。鹿牧場では鹿に塩を欠かさず食べさせるべきです。


四 大紅湍戦闘

一九三九年五月、金日成将軍は朝鮮人民革命軍の主力部隊を率いて再び鴨緑(アムノク)江を渡り、白頭(ペクトゥ)高原で敵撃滅の銃声をあげた。そのとき、朝鮮人民革命軍の隊員が祖国に進出して第一夜をすごしたのは、現在の三池淵(サムジヨン)郡鯉(リ)明(ミョン)水(ス)労働者区からさほど遠くない青峰の密林である。その宿営地の跡は、ほぼ二〇年がすぎてはじめて発見され、世に知られるようになった。その後、相ついで茂(ム)山(サン)、延社(ヨンサ)の史跡地が発見された。
ここに収録する文章は、いろいろな機会に茂山地区戦闘と関連して語った金日成同志の回想談をまとめたものである。

南牌子から論議されてきた祖国進出の問題は、北大頂子で最終的に確定されました。隊員たちは一刻も早く祖国へ進出し、普天堡戦闘や間三峰戦闘を上まわる大がかりな戦闘をおこなって、いま一度世を震撼させたがっていました。力が強大になっていたときであり、そのうえ一〇〇余日間にわたる苦難の行軍を通じて鋼鉄のように鍛えられたときだったので、恐ろしいものがなかったのです。その力をもってわれわれはその年の春、鴨緑江沿岸で幾多の城市と集落を相ついで襲撃しました。そうしてひそかに祖国へ進出しました。祖国に進出した理由についてはたびたび触れていると思います。前にも述べたことですが、朝鮮人民革命軍の政治・軍事作戦のもっとも重要な目標は、祖国への進軍でした。われわれは北満州で活動しようと、東満州で活動しようと、大小さまざまな軍事作戦を展開しながらも、その総体的目標はつねに祖国進出と祖国解放におき、それに全力を集中しました。
祖国への進出で重要なのは、適切な時期を選ぶことでした。一九三七年の六月が祖国進軍の時宜にかなっていたとすれば、一九三九年の五月もやはりそうでした。なぜでしょうか。それは当時の情勢からしても、われわれ自身の志向や国内人民の念願からしても、朝鮮人民革命軍の祖国への進軍は一刻の猶予もならないさし迫った問題となっていたからです。わたしは、当時の内外情勢を深く分析し、それにもとづいて再び武装闘争を国内深く拡大する決心をかためました。
一九三九年五月といえば、世界の東方では中日戦争の真っ最中であり、西方では第二次世界大戦が準備されていた時期です。日本帝国主義は長期戦にもちこまれた中日戦争を早急に終結させ、対ソ攻撃の可能性を打診する一方、南方進出の戦略を練り、強固な後方を確保するため朝鮮人民にたいする経済的収奪とファッショ的暴圧を強めるとともに、朝鮮人民革命軍にたいする攻勢を強化しました。その代表的な例が「恵山事件」です。この事件のため、西間島地方の革命組織と北部朝鮮一帯の一部の革命組織は甚大な被害をこうむりました。無事だった組織も少なくありませんが、中核的な組織はほとんど破壊されました。被害をまぬがれた革命組織の場合にしても萎縮した状態でした。敵は「恵山事件」後、朝鮮人民革命軍が全滅したというデマをひろげました。某地ではわれわれの「壊滅」と彼らの「武勲」を祝う大会なるものまで催されました。われわれの「終末」というデマに乗せられた一部の地方の革命組織のメンバーは、金日成将軍が亡くなったというのが事実なら、朝鮮革命は無に帰したも同然だ、見込みもない革命をやって何になるのかといって、遊撃隊工作員のいる密営に来てわたしが無事かどうかを確かめて帰るというようなありさまでした。
こうした状況のもとで、抗日革命を高揚させる最善の策は、朝鮮人民革命軍の大部隊が国内に入って敵を討ち、自己の存在を内外に示威する以外にありませんでした。幾人かの工作員が国内に潜入して、革命軍は滅んでいない、金日成将軍も健在であり、革命も前進しているといくら言い聞かせても、当時の環境ではそんな宣伝が通じるものではありませんでした。
われわれが祖国への進軍を断行することにしたいま一つの重要な目的は、破壊された革命組織を立て直し、拡大するとともに、党組織の建設と統一戦線運動をさらに積極的に展開して、人民を全民抗争へと立ち上がらせるところにありました。
国内の革命組織がその隊伍を最大に拡大したのは、普天堡戦闘と間三峰戦闘の直後です。銃声があがればそのたびに人びとは目覚め、革命組織に結集するものです。われわれが南湖頭会議以後、西間島に進出して戦わず、あぐらをかいて人民が調達してくれる食糧を消費するだけですごしていたなら、長白地方の革命組織はあれほど早く増大しはしなかったでしょう。西間島地方で革命組織が雨後のたけのこのように続々と生まれた主な要因は、われわれが思想活動を活発に展開したことにもありますが、さかんに戦闘をして革命軍の気概を示し、抗日革命の勝利の確信を抱かせたことにありました。
わたしが国内進出の候補地として茂山地区を選んだとき、一部の指揮官は驚いた様子でした。普天堡戦闘以後、敵がこの地帯にもっとも悪質な守備隊兵力を数倍に増強していることを知っていたからです。大部隊がそれを突破するというのは、事実上きわめて困難で危険なことでした。しかし、もっとも困難かつ危険であったからこそ、わたしはこの地区へ進出することにしたのです。そういう地区に進出して敵を撃滅するならば、北部朝鮮のどの地区に進出するより数倍の効果をあげることができるからでした。当時、茂山地区には鉄鉱山の労働者と水力発電所工事場の労働者、林業労働者など労働者階級の大集団が集結していました。われわれがこの一帯で銃声をあげれば労働者によい影響を与え、そのうわさは彼らを通してたちまち全国各地に広がるはずでした。数発の銃声で茂山の労働者階級と咸鏡北道の労働者、農民を目覚めさせ、ひいては全国の人民を抗日革命により力強く呼び起こすのがわたしの意図だったのです。
一九三九年の春、朝鮮人民革命軍の各部隊は茂山地区へ進出しました。そのとき、われわれは五号堰をつたって川を渡りました。李五(リオ)松(ソン)はわたしがおぶって渡しました。川を渡りながら、この川の名を知っているかと聞くと、知らないと答えました。そのころ、隊員たちには国境という概念がほとんどありませんでした。わたしが鴨緑江だというと、彼はおろしてくれとせがみました。祖国の川につかってみたいと言うのでした。
その堰のほとり一面にはツツジの花が咲きこぼれていました。隊員たちは祖国のツツジを見るやいっせいに歓声をあげました。その日の光景でいまも忘れられないのは、女子隊員たちがツツジの木々の前にしゃがみこんで花を見つめながら、感激のあまり泣いたり笑ったりしていた姿です。ある女子隊員は両腕を大きく広げ、ツツジを抱きかかえて涙を流しました。顔は笑っているのに、目からは涙があふれでているのでした。あのときわれわれが見たツツジは、たんなる自然の花ではありませんでした。それは外敵に奪われた祖国の一部分、自分の体の一部分にひとしいものでした。ツツジはほほえんでいましたが、わたしの目にはそれがただのほほえみとしては映りませんでした。パルチザン隊員たちがツツジを見て涙ぐんだように、ツツジもわれわれを見て涙ぐんでいるかのように思われたのです。愛国心というものはじつに強烈な感情です。ツツジになんの悲しみがあり、涙があるでしょうか。過去のツツジだからといって、いまのツツジと違うところがあるわけではありません。しかし、亡国の悲しみを抱いていたわたしの目には、ツツジさえもその亡国を痛嘆し涙を流しているかのように見え、外敵に奪われた地に咲いては散る悲しい境涯をその涙で訴えているかのように見えたのです。その日、遊撃隊員たちはこの花をただツツジとはいわず、祖国のツツジと呼びました。祖国のツツジ、この言葉には、祖国と人民をこよなく愛し、解放の春を早め、解放なった祖国の大地に人民の幸せな楽園を築こうとする遊撃隊員の熱烈な念願がこめられていたのです。わたしはツツジの花を見るたびに、抗日武装闘争期の日々が思い出され、詩でも詠じたい衝動にかられたりします。祖国のツツジ、白頭山のツツジ、うす紅色のツツジ、祖国の春を告げるツツジ! どんなに多くの意味が秘められている美しい花でしょうか。
われわれが青峰に着くと霧が晴れて日が差し、とてもおだやかな日和でした。露に濡れたゲートルを焚き火で乾かしたことがいまも記憶に残っています。敵情と地形を確認するため青峰の頂に登ってみると、遠くに煙が立ちのぼり、斧で木を伐る音が聞こえてきました。それでわたしは、指揮官たちに敵が近くにいるかもしれないから隠密裏に行動するよう注意を与えた後、各部隊の宿営場所を定め、歩哨を立て、偵察も派遣しました。部隊の宿営準備が終わると、隊員たちは立木の皮をはいでスローガンを書き記しました。抗日革命闘争の時期、隊員たちはいたるところでスローガンを書き記しましたが、そのなかには具袁愛という人もいました。一時、興隆村で暮らしたことのある人で、学習に熱意があり、字も上手でした。入隊前に中学校の教師だった延安吉も達筆でした。金正淑も多くのスローガンを書き記しました。惜しい人たちが他界したものです。しかし、樹木とともに字が残っているので、彼らも生きているように思えます。人民が非常に貴重な宝を探し出してくれたものです。青峰にあるスローガンを記した樹木からは、わたしと一緒に戦った闘士たちの息吹が感じられます。スローガンを記した樹木を見ると、生きている闘士たちを見るような気がします。抗日革命闘士たちが樹木に記したスローガンはたんなるスローガンではなく、貴い革命的な文献です。そのスローガンには闘士たちの血がそのまま脈打っています。それはわが党と人民が永久に保存し管理すべき万代の財宝です。
青峰で一夜宿営したわれわれは翌日、乾滄(コンチャン)へ移動しました。乾滄で宿営したとき、敵は釣り人に変装した二人の密偵を宿営地に送り込みました。乾滄一帯には釣りができそうな場所が見当たらないのに、釣り人のなりをした密偵たちは白昼に宿営地付近にあらわれたのです。どう見ても素振りが怪しいので歩哨が取り調べようとしましたが、一人は取り逃がしてしまい、一人だけつかまえました。彼の懐からは拳銃が発見されました。密偵が白状したところによると、敵はすでにわれわれが国内に入ってきたことを知り、おびただしい守備隊と警察隊を投入して密林の中をくまなく捜し回っているとのことでした。われわれが予測したとおり、敵はこの一帯に兵力を集中していたのです。こうした状況のもとでは、敵の包囲からひそかに抜け出すのが上策でした。わたしはありうる敵の動きにそなえて、われわれの行動方向をくらます戦術的措置をとりました。二つの小部隊を編制し、その一隊は胞胎(ポテ)里方面に進出して敵を討つことにより、朝鮮人民革命軍が数か所で活動しているような印象を与えて敵を混乱させ、他の一隊はわれわれが再び鴨緑江を渡って長白方面に抜け出たかのように足跡を残して姿を消すようにしました。
翌日の明け方、乾滄を発ったわれわれは枕(ペゲ)峰に向かって行軍しました。その日は霧が深く立ち込め、一寸先も見えないほどでした。斥候隊は東西を失って苦労しました。それでわたしは斥候隊に追いつき、軍用地図を開いて磁石で方向を定めてやりました。その日の行軍は危険きわまりないものでした。敵の捜索隊が不意にあらわれ、遭遇戦を交えることになったら一大事でした。捜索隊があらわれてもかたづけるのは問題ありませんでしたが、いったん銃声をあげれば、その後の行動に大きな支障をきたすおそれがあるので、神経をとがらせて行動せざるをえませんでした。
枕峰に到着して宿営命令を下したのち、敵情を探るため偵察班を差し向けたところ、枕峰の東側の原始林の中にすばらしい新設道路があるのを発見したという報告が入りました。確かめてみると、それはすでに情報をつかんでいた甲茂警備道路でした。この道路は甲山(カプサン)と茂山の無人地帯を結ぶ非常警備道路でした。この道路の使命は、人民革命軍が国内に進出した場合、機動手段を動員して必要な地点まで「討伐」兵力を急派することでした。工事が終わったばかりで、きれいに掃除をして竣工検査を待っているところなので、部外者の通行をいっさい禁じているとのことでした。偵察班は、いたるところに「通行禁止」の標識があるのを見たと言いました。
日本帝国主義者はわが国のいたるところにそのような「通行禁止」区域や「立入禁止」区域を設け、朝鮮人の往来をきびしく取り締まっていました。日本帝国主義の植民地支配時期、平壌市の中心部には日本人だけの街があったのですが、その街に朝鮮人があらわれさえすれば日本の警官や商人はにらみつけたものです。 朝鮮の子どもは日本の子どもが通う学校の門前に近づくことさえできませんでした。たまにそんなことを知らない朝鮮の子どもが日本人学校の校庭に足を踏み入れようものなら、たちどころにびんたを食わされるか、物もらい扱いをされるのが落ちでした。しかし、日本の子どもは朝鮮人学校や朝鮮人の居住地区にあらわれては意のままにふるまいました。いつだったか、平壌城内に住んでいた日本の不良少年が彰徳(チャンドク)学校の近くのマクワウリ畑を集団襲撃し、七谷(チルゴル)の貧しい農民が夏中丹精して育てたマクワウリを台無しにしてしまったことがありました。そのとき、わたしは彰徳学校の学友らとともに彼らをこっぴどい目にあわせて城内へ追い払いました。
敵は国境沿線にまで「通行禁止」区域をつくり、朝鮮人の通行を禁じましたが、われわれはそれを容認するわけにはいきませんでした。朝鮮人は朝鮮にたいする日本の支配を否定するということを示すためにも、なんとしてでも朝鮮人民革命軍の威勢を誇示し、甲茂警備道路を建設した敵に打撃を加えなければならないと、わたしは考えました。敵が国境一帯にこのような警備道路まで建設し、ものものしい警戒網を張りめぐらしているのを見ると、普天堡と間三峰での惨敗を挽回しようと万全の態勢で待ちかまえているようでした。
わたしは軍事・政治幹部を集め、われわれがおかれている切追した状況をありのままに知らせてからこう問題を投げかけました。
――いま、われわれは敵の包囲のなかで行軍をつづけている。前も後ろも横もすべて敵だらけだ。われわれが国内に入ってきたことに気づいた敵は、咸鏡南北道の各地から国境守備隊、警察隊をはじめ多くの「討伐」兵力を駆り出して大々的な包囲・捜索作戦を準備している。逃走した密偵がわれわれを発見したので、いまごろは敵が青峰を捜索し、乾滄を経てわれわれを追跡しているかもしれない。いち早く茂山方面へ抜け、北大頂子で立てた作戦計画を実践に移さなければならないのに、前進するのがむずかしくなった。まかり間違えば敵の完全包囲の網にかかってしまう。どうすれば一気に茂山へ進出することができるだろうか。
すると、指揮官たちはわれ先に対策案を出しました。長白方面に誘引班を派遣して敵の注意をそちらへそらしたうえで、茂山方面へ抜けようと言う者もあれば、茂山地区への道が断たれているのなら、いっそのこと枕峰あたりで間三峰戦闘のような大がかりな戦闘をやろうと言う者もいました。いずれももっともらしい案でしたが、一気に茂山地区へ抜け出せる妙案ではありませんでした。わたしは指揮官たちの意見を最後まで聞き取り、それにたいする討議をさせた後、わたしが考えた案を示しました。それは、敵が建設して竣工検査を待っているという甲茂警備道路をつたって白昼に大道行軍を断行しようというものでした。その提案を聞いた指揮官たちはみな目を丸くしました。白昼に、それも普通の小道ではなく、敵がわれわれの「討伐」を目的に特別に建設した道路を大部隊で行軍しようというのですから、無理もありませんでした。わたしは指揮官たちの表情を見て、彼らがわたしの案に乗り気でないことをすぐ見て取りました。それはかえって、わたしに大道を利用する白昼行軍の案が戦術的に妥当だという自信をもたせました。わたしは指揮官たちにその案の戦術的意図と実現の可能性について説明しました。
――われわれが甲茂警備道路を白昼に行軍するのが十分可能であることは、この場に集まったみなさんの態度が証明している。みなさんは白昼に大道を行軍しようというわたしの意見を聞いて唖然とした。敵も、朝鮮人民革命軍の大部隊が自分たちが特別に建設した警備道路を白昼に隊伍を組んで行軍するとは夢にも思わないだろう。まさにこの点に白昼大道行軍の確実な可能性がある。敵が不可能だと考えていることを大胆に強行するところに、この行軍の可能性を約束する戦術的裏付けがあるのだ。
指揮官たちはみな確信をもって枕峰を発ちました。そこかしこに咲き乱れるツツジのため、行軍中の隊員たちの顔が赤く照り映えていました。ツツジは三池淵のほとりにもいっぱい咲いていました。湖畔のツツジと水面のツツジが一つにとけあってえも言われぬ景観をなしていたので、そこに小屋でも建てて住んでみたいと思ったくらいです。白頭高原のような高山地帯にこんなすばらしい名勝があるとはじつに驚嘆すべきことでした。高山地帯の風致は独特な魅力をもっています。白頭山に似て雄大荘厳でありながらも、繊細でほのぼのとした感じを与えるのが三池淵の景色だといえます。高山地帯の美と平野地帯の美が一つにとけあったといおうか、三池淵のような風光は金(きん)にもかえられないものです。
わたしはそのとき三池淵を見て、われわれがどんなに美しい山河を奪われたかをいまさらのように骨身にしみて感じたものです。三池淵の絶景に心を奪われたわたしは、日本帝国主義を撃退して祖国を解放したら、ここを世界に誇る人民の保養地にしてみせる、と心に決めました。あのときの理想がいまではりっぱな現実となりました。いま三池淵は、世界の人びとが先を争って訪ねてくる革命戦跡地となったばかりか、高山地帯の特異な風致を誇る有名な保養地になっています。
一九五六年、金正日同志がわが国ではじめての革命戦跡地踏査団を率いて両江(リャンガン)道内の革命戦跡地を訪ねたときにしても、三池淵のほとりには倒木と枯れ葉の山しかなく、ほとんど手入れがなされていませんでした。湖には古びた小舟一艘と、戦争前に地元の人たちが湖の風致を引き立てるために建てたという旧式の池亭が一つあるだけでした。わたしがソ連と東欧人民民主主義諸国への公式訪問を終えて帰国すると、金正日同志は革命戦跡地踏査団の活動結果を報告し、踏査の過程で学び感じたことを高ぶった口調で話しました。そのとき彼は、革命烈士の息吹がそのまま感じられる由緒深い革命戦跡地が相応の水準で整備されず、粗末なつくりになっていたり、自然のままに放置されており、参観者に説明をする講師さえいない実態にたいへん心を痛めていました。一九五六年といえば、思想活動で事大主義と教条主義を一掃し、主体性を確立する旋風が起こりはじめたばかりの時期でした。当時はまだ、わが党の思想活動に主体性が確立されていませんでした。そのため、わが党の革命活動史にかんする資料や遺物がさほど発掘されず、革命戦跡地もりっぱに整備されていなかったばかりでなく、革命伝統の研究も本格的に進められていないありさまでした。そういうときに金正日同志が平壌第一中学校の生徒で革命戦跡地踏査団を組み、白頭山地区の踏査に向かう勇断を下したのは、大きな意味を有することでした。
三池淵を発ったわれわれは、甲茂警備道路をたどって茂山地区へ超急行しました。当時はこんな戦術を一行千里といったものです。一行千里とは、一気に一,〇〇〇里(日本の一〇〇里)を行くという意味です。抗日武装闘争の時期、われわれはこの一行千里の戦術を何度か用いましたが、効果てきめんでした。しかし、白昼に警備道路と名付けられた新道を数百名の大部隊が一行千里の行軍をしたためしはありませんでした。だから、甲茂警備道路の開通式はわれわれが挙行したことになります。われわれはまっすぐに伸びた敵の警備道路を白昼に歩武堂々と行軍し、その日のうちに豆満江沿岸の茂浦(ムポ)に到着して宿営しました。敵は後日、われわれが彼らの警備道路を白昼に行軍したことを知り、「未曽有の怪事」だと悲鳴をあげたそうです。甲茂警備道路で強行した一行千里の行軍は、数個の連隊や師団の敵を掃滅することにまさる大きな成果をあげました。
わたしは茂浦宿営地で指揮官会議を開き、行軍過程を総括したのち、大紅湍地区へ進撃する任務を下達し、まず新四洞(シンサドン)と新(シン)開(ゲ)拓(チョク)一帯で軍事・政治活動を展開することにしました。翌朝、茂浦宿営地を出発したわれわれは、大紅湍が原に到着してすぐに国師堂付近で昼食をとり、計画どおり部隊を二つの方面に進出させました。第七連隊は杜(トゥ)集(ジ)岩を経て新開拓方面に進出させ、わたしは警護中隊と第八連隊を率いて小蘆(ソロ)隠(ウン)山のふもとにある新四洞に出ました。
われわれはそのとき、新四洞で政治工作を展開しました。わたしは川向こうの台地に司令部を定めたのち、何人かの警護隊員と伝令をともない、村でいちばん大きな木材所の労働者の宿舎を訪ねました。突如茂山地区にあらわれたわれわれを見た人民は、この冬に朝鮮人民革命軍が全員凍え死にしたというのは真っ赤なうそだ、こんなに多くの軍隊がどこに潜んでいて、どうやって茂山にあらわれたのかと、感激と喜びの色を隠しませんでした。宿舎とは名ばかりで、牛や馬の小屋と変わるところがありませんでした。部屋のなかでわたしの目を引いたのは、真ん中に渡された洗濯紐のような長い綱でした。これは何かと聞くと、労働者たちが寝るときに足をかけるための綱だとのことでした。部屋があまりにも狭くて真ん中に足を向けあって寝るのだが、思うように足がのばせないので、交互に足を綱にかけて寝ていると言うのでした。労働者は人間扱いはおろか、牛馬にも劣る扱いを受けていました。牛や馬のような家畜はそれでも人間の保護を受けているではありませんか。
その夜、宿舎には大勢の人が集まってきました。部屋といわず庭といわず、立錐の余地もありませんでした。わたしは新四洞の人たちの前で演説をし、地元の労働者のあいだで組織・政治活動もおこないました。その夜、新四洞の人たちから心のこもったもてなしを受けたことも忘れられません。新四洞には種もみが足りなくて種まきもできなかった火田民が少なくありませんでした。それにもかかわらず、金日成将軍が率いる朝鮮の軍隊が来たといって、婦人たちはキビのご飯を炊き、ノンマ(ジャガイモの澱粉)麺までつくってくれました。これに感動した隊員たちは、新四洞を発つとき、背のうにしまっておいた兵糧米まで残らず彼らに渡しました。金正淑は小麦粉をはたいてすいとんをつくって、世話になった家の人たちにふるまったり、少女のひびが切れた手にクリームを塗ってやったりしました。われわれが発つとき、新四洞の人たちはみな涙を流しました。
新開拓で打撃を受けた敵が必ず追撃してくるものと予見したわたしは、地形上有利な大紅湍が原で敵を掃滅することにしました。それで、新四洞を発ち、大紅湍が原に出て小高い丘に伏兵陣を張り、新開拓に進出した呉仲洽の第七連隊がもどってくるのを待ちました。わたしの命令どおり新開拓で銃声をあげて引き上げてくる第七連隊は、敵をせん滅したうえに数名の日本人監督まで捕らえたので、少し気分がうわついていました。そのため、敵があとをつけているのも気がつきませんでした。追尾してくる敵は、新開拓がやられたという急報を受けて出動した国境守備隊と蒼坪(チャンピョン)の警察隊でした。
最初、隊員たちは第七連隊を追撃してくる敵軍を味方と見違えました。霧がかかっていたうえに、敵が霧を利用して第七連隊の後尾にぴったりついて来たからです。わたしは第七連隊のあとをつけてくる鉄かぶとの部隊が敵であることをすぐ見抜きました。状況はわたしの予見どおりに進展していましたが、敵の銃口にさらされている第七連隊がきわめて危険な状態にありました。敵が第七連隊のあとを追っていたので、待ち伏せをしている第八連隊と警護中隊の隊員たちは射撃命令が下っても細心の注意を払って射撃しなければ、味方に被害を及ぼすおそれがありました。そうかといって、敵と味方の間隔が広がるまでじっと待っているわけにもいきませんでした。われわれが時間を引き延ばすうちに、敵が先手をうって第七連隊を攻撃しかねなかったのです。そうなれば、給養班の隊員と荷をかついでくる木材所の労働者も大きな被害を受けるおそれがありました。
わたしは先頭の第七連隊の隊員はそのまま伏兵陣を通過させたのち、隊列後尾の給養班の隊員と労働者に伏せるよう合図をしてから、射撃命令を下しました。数百挺の銃がいっせいに火を噴いたのですが、その銃声はじつにすさまじいものでした。隊員たちはかなり興奮していました。この銃声が全国に響き渡るのだと考えると、全身から力と激情が湧きあがったのでしょう。この戦闘のときは、わたしも隊員たちに劣らず興奮しました。われわれの一斉射撃で敵はばたばたと倒れました。しかし、生き残った敵兵は必死になって抵抗しました。国境地帯の軍警は他の軍警よりしぶとく暴虐でした。彼らの抵抗ぶりはあなどりがたいものでした。日本軍としても国境地帯には精鋭分子を配置していたのでしょう。われわれと敵のあいだに挾まった第七連隊の給養班の隊員と労働者は、激しく降りそそぐ弾丸のため、頭をもたげることもできないありさまでした。労働者たちはどうしたらよいのかわからず、あわてふためくばかりでした。彼らのなかには日本人もまじっていました。そのとき、戦場では奇妙な光景が現出しました。労働者たちが二つに分かれたのですが、朝鮮人は荷をかついだまま人民革命軍の陣地へ駆けこみ、日本人は肩の荷を捨てて日本軍警の方に這っていくではありませんか。朝鮮人労働者で日本軍警の方へ行った者は一人もいませんでした。わたしはそれを見て、民族の血は争えないものだということをいまさらのように痛感したものです。
その日、大紅湍でわれわれと一戦を交えた敵はほとんど全滅しました。わが方では二名の負傷者と一名の戦死者が出ました。戦死した隊員の名前は金世玉(キムセオク)で、馬(マ)東(ドン)煕(ヒ)の妹馬(マ)国(グク)花(ファ)の恋人です。彼は第七連隊の事務長とともに、荷をかついできた人たちを安全な場所に避難させている最中に胸に貫通銃創を負ったのです。傷口を見ると、助かる見込みはないという思いがしました。金世玉をおぶっていったのは金成国(キムソングク)だったと思います。彼の背中が血まみれになっていたことが思い出されます。豆満江を渡るとき木材所の労働者たちを帰そうとしたのですが、彼らは命の恩人である金世玉が重態に陥っているというのに、このまま帰るわけにはいかないと言って、ずっとついてきました。部隊が豆満江を渡った後も金世玉は昏睡状態から覚めませんでした。彼が息を引き取ったとき、われわれはみな泣きました。われわれについてきた労働者たちもあふれる涙をおさえることができませんでした。彼を埋葬したところは長山嶺のふもとです。解放後、われわれは彼の遺骨を探し出して大紅湍に葬りました。
金世玉を長山嶺のふもとに葬ったその日、わたしは重傷を負った南東(ナムドン)洙(ス)を付近のある密営へ後送しました。彼は密営にいって一〇〇日余りのあいだ、ロビンソン・クルーソーのような生活を送りました。部隊との連係が絶えた孤立無援の状態で、身動きすることすらままならない重傷者が食糧もなしに一〇〇余日をすごしたといえば、真に受けない人もいるでしょう。しかし、それはまぎれもない事実です。南東洙の看護を担当したのは、山林隊から移ってきたばかりの「丁じいさん」と呼ばれる中国人でした。彼は、人民革命軍は「匪賊」だという日本人の宣伝を真に受け、一儲けしようとわれわれの部隊に移ってきたのでした。山林隊で略奪をこととするよりも「共産匪賊団」に入ったほうが儲けが大きいだろうと考えたのです。ところが、人民革命軍が匪賊ではなく紳士的な軍隊であることがわかると、ここは自分のようなあぶれ者がいるところではないから、南東洙を殺害して故郷に帰ろうと考えはじめました。共産軍を一人なりとも殺さなければ故郷に帰っても無事にはすごせないと思ったのです。「丁じいさん」の企みを見破った南東洙は、夜中に小屋から這い出して、枯れ葉の中に二日間も身を隠していました。「丁じいさん」が姿を消したあと、彼は、木の葉や草の芽、リスやヘビを食糧にしてその日その日を生きながらえているうちに、わたしが派遣した連絡員に会いました。しかし、その連絡員も「討伐」に遭って犠牲になりました。またしても孤立無援の状態に陥った彼は、部隊の行方を探してさ迷ったあげく、自分の母親が地下工作をしている甲山を経て東満州に渡り、中国革命の力ぞえをしました。後日、彼はわたしの連絡を受けて帰国しましたが、それが何年度だったかはよく覚えていません。そのとき彼は、「わたしは将軍がくださった毛布もなくしてしまい、いまになって帰ってきました」といってむせび泣くのでした。わたしの戦友たちは茂山地区に多くの痕跡を残しました。「甕チョコメンイ(甕声拉子のちび公)」というあだなの鄭日権(チョンイルグオン)も朴成哲(パクソンチヨル)とともに紅岩(プルグンバイ)一帯に進出して活動したことがあります。
日本帝国主義占領者は、朝鮮人民革命軍が茂山地区に進出し大紅湍が原で日本の軍警を大量掃滅し、悠々と豆満江を渡っていったという知らせを受け、茫然自失の体でした。朝鮮人民革命軍が国内にあらわれたということだけでも、彼らは気絶せんばかりだったのです。
南湖頭会議以後、朝鮮人民革命軍の主な活動舞台は白頭山西南部の西間島一帯でした。われわれが白頭山地区に進出した後、朝鮮と満州の新聞、通信はそろって西間島一帯における遊撃活動について大々的に報道しました。恵山から新乫(シンガル)坡(パ)を経て中江(チュンガン)鎮(ジン)一帯にいたる鴨緑江沿岸の軍警は神経をとがらせ、朝鮮人民革命軍の「越境侵入」を阻止する防備対策に苦慮しました。咸鏡南道警察部では、いわゆる「対岸匪賊状況」と題してわれわれの活動状況を全面的に収集し、その情報資料を朝鮮総督府警務局と朝鮮駐屯軍司令部、咸鏡南北道と平安北道をはじめ国境地帯の関連道警察部、羅南第一九師団司令部などに定期的に報告、もしくは通報していました。日本の軍部と警察のブレーンは、革命軍が明日はどこで何をするかということまで予測していたのです。
ところが、彼らがまったく予想だにしていなかった白頭山のふもと、それも国境守備隊がかためている茂山地区にわれわれがあらわれ、「討伐」に駆り出された軍警を一撃のもとに掃滅し、煙のように消え失せたのですから、敵が唖然としたのも無理はありません。敵の失策は、熱河遠征の悪影響が残っているうえに苦難の行軍の過程でこうむった損失のため、朝鮮人民革命軍はその存在をほとんど失うほどに壊滅したのではないかと誤算したところにあり、「わずかしか残っていない」革命軍が長白、臨江をはじめ鴨緑江沿岸か、濛江、撫松のような北部東辺道の奥地でなんとか命脈を保とうとしているに違いないと早まった判断を下したところにありました。
茂山地区戦闘は普天堡戦闘とともに、われわれが国内で展開した軍事作戦のうち、もっとも規模が大きく意義も大きい戦闘でした。普天堡戦闘が朝鮮は死なずに生きていることを示した戦闘であるなら、大紅湍戦闘は、敵が全滅したと宣伝していた朝鮮人民革命軍が健在であるばかりか、ますます強大な勢力となって日本帝国主義者に連続鉄槌を下していることを実際に示した歴史的な戦闘でした。茂山地区に響き渡った朝鮮人民革命軍の銃声は、意気消沈していた国内の人民に朝鮮革命はひきつづき上昇一路をたどっているという信念を与え、「恵山事件」のあおりで一時的にせよ萎縮していた国内革命に新たな活力を吹きこむ強心剤のような役割を果たしたのです。茂山地区で達成したわれわれの軍事的勝利はまた、朝鮮人民革命軍は全滅したとふれまわっていた敵の宣伝が真っ赤なうそであることを満天下に暴露しました。この戦闘があって以来、人民は、敵が何を言っても真に受けませんでした。茂山地区戦闘以後、労働者、農民をはじめ国内の各階層の広範な大衆は、朝鮮人民革命軍が健在であるかぎり祖国解放の日は必ず訪れるという信念を抱き、先を争って抗日革命の激流に身を投じるようになりました。

五 玉石洞での端午の祝い

大紅湍戦闘後、朝鮮人民革命軍の主力部隊は活動舞台を白頭山の東北部に移し、豆満江沿岸一帯で軍事・政治活動を猛烈に展開した。その時期の軍事活動で代表的なのは烏口江戦闘であり、大衆政治活動でいちばん異彩を放ったのは玉石洞での端午(〔12〕)の祝いであった。和竜県の玉石洞は、茂山郡に面する豆満江対岸の山村である。
金日成同志は、大紅湍地区を現地指導した日々に豆満江のほとりで、茂山地区戦闘後、白頭山の東北部で展開した軍事・政治活動について感慨深く述懐した。

一九三九年の端午の日に、玉石洞でサッカーの試合をしたことが思い出されます。三〇余年の歳月が流れましたが、あのときのことが忘れられません。遊撃戦争のさなかにサッカーの試合をしたといえば、真に受けない人もいるでしょう。しかし、遊撃戦争だからといって、一年中、銃撃戦ばかりしていたわけではありません。われわれは戦いながらも、遊撃隊の特性に合わせて文化生活もしたのです。一九三〇年代の前半期には、遊撃区で運動会もたびたび催したものです。汪清遊撃隊にはいっぱしのサッカー選手が少なくありませんでした。その後は、第二次北満州遠征をひかえて羅子溝でサッカーの試合を催し、玉石洞でも催したのですが、なんとも楽しいひとときでした。間島地方の朝鮮人はサッカーが上手でした。そのなかでもいちばんうまかったのは竜井の人たちでした。
大紅湍戦闘後、われわれは予定どおり闘争舞台を白頭山の東北部に移したのですが、それは、この一帯を朝鮮革命の戦略的基地にするためでした。その年の五月下旬、安図県大溝軍事・政治幹部会議でわたしは、白頭山の東北部で軍事・政治活動を強化し、この一帯にいま一つの強力な革命のとりでを築く方針を示しました。遊撃区を解散した後、新たに設けられた朝鮮革命の根拠地は、そのほとんどが西間島一帯と白頭山を中心とする国内の各地に分布していました。こうした実情のもとで、白頭山の東北部と豆満江沿岸の北部朝鮮一帯に新たな革命根拠地を設けるならば、朝鮮人民革命軍の活動基地と作戦基地、後方基地を全国的版図に広げ、それらの根拠地に依拠して朝鮮革命全般をいっそう強力に推進することができるのでした。革命を拡大発展させるということをむずかしく考える必要はありません。革命の原動力になりうる人たちの隊列を拡大することが基本であり、もう一つは活動拠点を広げることであり、いま一つは武装を増強することです。換言すれば、人間、領土、武器の問題を客観的情勢の要求に即応して解決し、たえず拡大していくことが、とりもなおさず革命を深化させていくことだといえます。人間があり、領土があり、武装があれば、革命を固守し拡大発展させていくことは十分可能です。
根拠地を確保するためには、何よりも積極的な軍事作戦によって敵を制圧し、当該地域内の人民のあいだで政治活動と組織建設活動が自由に展開できる有利な環境をつくりださなければなりません。そうしてこそ、敵が革命軍の活動を妨げることができなくなるのです。大紅湍戦闘後、われわれは豆満江を渡るやいなや東京坪戦闘、輝楓洞戦闘、烏口江戦闘、青頭村戦闘、青山里付近の木材所襲撃戦闘など多くの戦闘を矢継ぎ早に展開しましたが、その一つ一つの戦闘はみな敵を軍事的に制圧し、人民革命軍の活動に有利な条件をつくることにその目的があったのです。
戦闘が終わると、われわれは人民大衆のなかに深く入り、政治活動や組織建設活動をくりひろげました。玉石洞で軍民が一堂に会して端午の節日を楽しくすごしたのは、われわれがおこなった特色ある政治活動の一つでした。新しい活動地域に行くたびに、地元の実情に応じて多様な形式と方法で政治活動を活発に展開して大衆の革命化を積極的におし進め、武装闘争の大衆的基盤を強固にするのは、われわれの伝統的な活動方法であり、一貫した活動方式でした。
もとより、玉石洞での端午の祝いは、われわれが前もって計画したり準備したのではありませんでした。敵の弾圧がはげしく、情勢がきびしかったので、端午の祝いなどは考えも及ばないことでした。この祝いは、茂山地区進攻作戦を終えて和竜に渡り、人民に会う過程でわたしが決心して催したのです。
どの地方に行っても感じることでしたが、当時、間島地方の人民も意気阻喪し、萎縮しきっていました。和竜でわたしが最初に会ったのは、アヘン中毒にかかった若い農民の兄弟でした。当時、中国の東北地方にはアヘン常習者が大勢いました。アヘンが貨幣と同様に通用していた時分なのですから、ことさらに言うべきことでもありません。アヘンというものは、世の中が乱れているときほどはびこるものです。朝鮮に住んでいたその兄弟は、移民のあおりで間島にまで流れてきたのでした。
わたしは容姿もりっぱな若者たちがアヘンに毒されているのが理解できず、農作をするには心身ともにすこやかでなくてはならないのに、なぜきみたちは人間をぬけがらにするあんなものを吸うようになったのか、と聞いてみました。すると、彼らは恥ずかしがりもしないで、アヘンでも吸わなければつらいこの世を生きていくことができない、生きたくて生きているのでなく、死にきれずに生きているのがわたしたちの人生なんだから、アヘンでも吸って何もかも忘れるしかないではないか、はじめは酒で気を紛らせようとしたのだが、酒は人が寄り集まり、杯を交わしあって陽気に騒ぐ面白みで飲むものなのに、日本人は祝日に人が集まって遊ぶことさえ禁じている始末だから酒も気ままに飲めない、それでアヘンに切り替えたのだ、と言うのでした。そして、もうすぐ端午の節日だが、寄り集まってどぶろくも飲めない端午ではしようがない、以前、故郷にいたときは端午の日に相撲やブランコ乗りをし、草餅を食べながら楽しくすごしたものだが、国を奪われてからはそんなことは考えることもできない、と嘆くのでした。それを聞いて心がうずきました。人間は夢がなければ、生きていても屍と変わるところがありません。人間は生きる楽しみがあるから生きるのであって、ただ食って寝るために生きるのではありません。生きる楽しみとは生きがいを意味します。生きがいをもって生きるというのは、人間が人間としての権利を思う存分行使し、生活を創造しながら人間らしく生きるということです。ところが、アヘン常習者の若い兄弟にはそういう生きがいがありませんでした。城壁と鉄条網に閉じ込められて生きる人生がなんの人生といえるでしょうか。それは生存であって生活ではありません。生活をぬきにした生存は事実上なんの価値もなければ意味もないのです。
もともと、わたしは幼いときからアヘン常習者をよく思っていませんでした。しかし、この若い兄弟には同情を禁じえませんでした。それで、わたしは彼らを諭しました。
――民族が危急存亡の秋に瀕しているというのに、アヘンを吸って空しい歳月を送っているようでは、朝鮮の青年としてぬぐうことのできない罪を犯すことになる。見なさい、弱年の伝令や女子隊員までが国の運命を救うために銃を手にして戦っているというのに、恥ずかしくないのか。きっぱりとアヘンを断ちなさい。
わたしの話を聞いて、兄は頭をかきながら、なんの意欲もなくその日その日を生きているのが恥ずかしい、と言いました。
わたしはアヘン常習者の農民兄弟に会ってから、人びとが希望を抱き、胸を張って生きていけるように、軍事・政治活動をいっそう積極的に展開しなければならないと考えました。しかし、演説のような政治活動だけでは人民の士気を奮い起こすことができませんでした。人民は勝利する革命を自分の目で見、耳で聞きたかったのです。目で見、耳で聞ける革命とは、とりもなおさず戦闘でした。幾多の演説より一発の銃声のほうが大きな効果を発揮する時期が一九三〇年代だったのです。それでわれわれは、政治工作とともに軍事活動を強化しました。まず、かの農民兄弟が住んでいる輝楓洞の隣にある集団部落と輝楓洞の敵から討ちました。すさまじい攻撃を受けた敵はほとんど応戦もできずに、算を乱して山へ逃げてしまいました。これを見た輝楓洞の住民はこおどりして喜んだものです。
われわれが白頭山の東北部に移動して、豆満江沿岸の一〇余の集団部落をたてつづけに襲撃し、数百名の敵を掃滅する戦果をあげると、日本帝国主義者はわれわれの部隊の活動を阻もうと必死になりました。ちょうど関東軍がカルキンゴルで局地戦を引き起こした時期でした。この戦闘が起きると、数万の日本軍が前線へ出動しました。敵としてはそれこそ非常時局として大騒ぎしている時期でした。そんなときに、彼らの後方深部で革命軍の銃声があいついであがったのですから、敵も狼狽せざるをえませんでした。
和竜一帯の山々は敵兵で埋めつくされていました。あまりにも多くの兵力が「討伐」に駆り出されたので、ある日、望遠鏡で敵情を探ってきた参謀長の顔は青ざめていました。彼はわたしに、これ以上戦いをつづけては大変なことになりかねない、と言いました。彼我の兵力は比べものにならないと言うのでした。わたしは彼に、われわれは建軍当初から数のうえで数十倍、ときには数百倍も優勢な敵と戦ったのであって、劣勢の敵と戦ったことはない、兵力が劣るからと、いったんはじめた作戦を中止するとはなにごとだ、こんなときこそ巧みな戦術を用いて敵に息つくひまを与えず痛撃を加えるべきだ、と叱咤しました。
そのころ、中国の華北戦線で特出した軍功を立てて天皇の表彰まで受けた日本軍将校が百日坪に到着し、「討伐隊」の指揮をとっているという情報が司令部に届きました。その将校は勲功によって表彰休暇をもらい、本土へ帰る途中だったそうです。ところが、朝鮮人民革命軍の主力部隊が安図と和竜にあらわれ、集団部落をつぎつぎと襲撃しているということを耳にし、そんなゲリラ部隊一つ始末できずに敗戦を重ねるのは皇軍の恥であり、日本国民の恥である、わしが金日成部隊を全滅させてこの恥をそそいでみせる、と豪語したというのです。その将校の虚栄心はなかなかのものであったようです。彼の胸には「阿修羅」の入れ墨があり、無敵の勇将をもって任じていたそうです。「阿修羅」は仏教で戦いの鬼神とされています。
百日坪へ偵察に出ていた隊員たちは「阿修羅」にかんする資料とともに、和竜県の日本人警官たちがわれわれのために端午の贈り物を準備しているという奇怪な情報をつかんできました。一方では天皇の表彰まで受けて休暇で郷里に帰ろうとしていた「阿修羅」がわれわれを「討伐」するために進んで百日坪に来たというのに、他方では警官たちがわれわれのために端午の贈り物なるものを準備しているというのですから、なんと漫画めいた話ではありませんか。この情報に間違いがなければ、敵が準備しているという贈り物騒ぎはたしかに古今東西未曽有の喜劇でした。彼らが端午節を心から祝うために贈り物を準備するわけはありませんでした。
わたしは、敵があえて贈り物を準備するといったふざけたまねをするのは、まだ革命軍の鉄腕の味をよく知らないからだと判断し、百日坪の敵を烏口江の方へおびきだして一撃のもとに掃滅する戦術を練りました。われわれが戦闘の場として選んだ地帯は、百日坪からさほど遠くない芦原でした。芦原の真ん中には烏口江が流れ、一方の岸に沿って車道が伸びていました。川と道の両側は樹林地帯なので、待ち伏せするのに有利でした。敵が烏口江畔に姿をあらわしたのは、朝霧が晴れはじめたころでした。重武装した数百名の敵が数挺の機関銃射手を先頭に、威勢よく行軍してくるのでした。敵の全隊伍がわれわれの待ち伏せ圏内に入ったとき、軍刀を腰にさげた将校がふと道端に立ちどまったかと思うと、これを見ろ、と声を張り上げるのでした。その声に敵の縦隊はいっせいに足を止めました。
部下の士官数名が駆け寄って溝をのぞきこみ、首をかしげました。多分われわれの隊員の誰かがそこに足跡を残したのでしょう。戦闘が終わって戦場を捜索したとき、戦死した日本軍将校たちの胸をはだけてみたところ、溝のそばでわれわれの足跡を最初に発見した、軍刀をさげたその将校がほかならぬ「阿修羅」と自称する「討伐隊」の隊長でした。「阿修羅」が溝のそばで立ち上がる瞬間、わたしは射撃命令を下しました。われわれは瞬時にして二〇〇余名の敵を殺傷または捕虜にしました。「阿修羅」は軍刀のつかに手をかけたまま溝のそばに倒れてしまいました。それを見た隊員たちは、故郷に帰っておとなしく休暇をすごしていたなら命をつなぐことができただろうに、血気にはやったおかげであの世行きになった、と哀れんだものです。
この戦闘がほかならぬ、百日坪戦闘とも呼ばれる有名な烏口江戦闘です。この戦闘についての趙(チヨ)明(ミョン)善(ソン)の回想記はわたしも読みました。烏口江戦闘で苦杯をなめて以来、敵はあえてその谷間に寄りつこうとしませんでした。そのときから烏口江流域の村々は閉門村と呼ばれるようになりました。閉門村というのは、敵が入ってこれないように門が閉ざされた村という意味です。烏口江流域に多くの閉門村が生まれたので、われわれも存分に政治工作を展開することができました。
玉石洞での端午の祝いは、朝鮮人民革命軍が烏口江戦闘をはじめ豆満江沿岸の諸戦闘でおさめた輝かしい勝利を祝う一種の祝祭行事でもありました。豆満江沿岸の村々は、解放の日でも迎えたかのようににぎわいました。青壮年たちは、今度の端午の日には思う存分楽しもうと、ブランコをしつらえたり相撲場をつくったりしました。
われわれが烏口江戦闘を終えて引き上げるとき、面白いことがありました。一人の農民がタバコや酒をはじめいろいろな飲食物を携えて部隊を訪ねてきたのです。最初、わたしはそれが人民からの援護物資だと思いました。ところが、意外にも彼は手を横に振りながら、これは自分の贈り物ではなく、和竜県の警察の頭目が金日成将軍に贈るお節料理だというのでした。してみると、偵察班がつかんできた情報は正しかったというわけです。贈り物の包みの中には密封された一通の手紙も入っていました。それは呉白竜に宛てたものでした。敵が手紙の宛名を呉白竜にしたのをみると、彼がわたしの信任を得ていることをよく知っていたのでしょう。手紙には、日本帝国と一〇年近く戦ったのだから、その実力のほどを思い知ったであろう、端午も間近いのだから、この贈り物を受け取り戦いは止めるべきだ、ここらが年貢の納め時ではないか、この警告に応じない場合はただではおかない、としたためてありました。あとでわかったことですが、この警告の手紙は、日本帝国主義者が和竜県一帯の警察「討伐隊」の総指揮を担当していた宇波に書かせたものでした。宇波は和竜県警務課長を兼任していました。彼は若いころ満州に渡り、共産主義者との戦いに一生をささげることを誓い、領事館の警察署に勤務しました。
われわれがはじめて宇波と遭遇したのは一九三二年の秋でした。南満州遠征から帰ってきて敦化県城を襲撃したのですが、宇波はそのとき、県城内の日本領事館警察署で必死に応戦しました。生き延びたおかげで、彼は上司から表彰まで受けたということです。日本軍には、戦闘の勝敗に関係なく戦死者には一階級昇進させ、多額の報償金を与える制度がありました。彼らは負傷者にも報償金を支給しました。金で万事を動かす資本主義の軍隊ですから、そういう方法で刺激を与えるほかないでしょう。李道善も死後に一階級昇進しました。
宇波は東満州の各地を転々として警察情報部門で立身出世し、一九三九年ごろには数百名の兵力を率いる警察「討伐隊」の頭目となったのです。後日、彼は記者たちにこの手紙のことを警告文だと言いましたが、わたしが見たところでは警告文ではなく、要請書まがいのものでした。銃剣ではらちがあかないので、哀願してでもわれわれを屈伏させようとしたのでしょう。
警告文が効を奏するものにするには、それを送る時期を的確に選択しなければなりません。換言すれば、相手が劣勢になってうろたえたり、疲労困憊して戦意を喪失したときに送ってこそ、大きな効果をあげることができるのです。しかし、宇波は時期の選択も対象の選定も誤りました。当時、われわれは守勢に回っていたのではなく、攻勢に出ていたのであり、武装闘争は下降期ではなく上昇期にあったのです。朝鮮人民革命軍は兵力にしても戦術にしても精強でした。宇波はわれわれを恐れながらも、戦力が手薄な軍隊と考えたに違いありません。
宇波がわれわれに警告文を送ってよこしたのは、朝鮮総督南次郎の指令によって咸鏡北道警察部長の筒井が多くの慰問品を準備し、記者まで連れて茂山郡三長面一帯に出向き、われわれに痛めつけられた軍警をねぎらっていたころでした。南は普天堡戦闘直後にもその裏調査のために、視察団の名目で朝鮮総督府警務局長を現地に派遣しました。宇波は警告文なるもので「ただではおかない」のなんのと息まきましたが、それはただの虚勢にすぎませんでした。
わたしは呉白竜に返事の手紙を送るようにと指示しました。彼は筆が立つほうではありませんでしたが、それらしく手紙をしたためました。お前たちはわれわれを「討伐」しようと七~八年間も苦労したが、得たものは何か、われわれの武器調達者、食糧輸送隊の役割を果たしただけではないか、哀れなのはわれわれではなくお前たちだ、もうあきらめて妻子の待つ家に帰るほうが身のためだ、じきに端午の節日だが、生菓子を準備して待っていろ、こちらが客人となってお前たちに身の振り方を教えてやる、と非常に強硬な言い回しでつづりあげたのです。
わたしは、端午の日には玉石洞の三里四方の谷間に住む人はみな運動会に参加させ、輝楓洞をはじめ隣村から来られそうな人もみな招くように、と指示しました。玉石洞には数ヘクタールにもなる広い台地がありました。われわれはそこにゴールの柱を立ててサッカーの試合をしました。敵が和竜一帯におびただしい「討伐」兵力を集中しているときに、そのどまんなかでわれわれが余裕綽々として端午を祝い、サッカーの試合までしたといううわさが広がれば、数回の戦闘や数百回の演説にまさる効果をあげることができるはずでした。敵地でのサッカー試合は、いま一つのわれわれの方式の独特な政治活動方法でした。
革命軍と村の青年とのサッカー試合はなかなかの見物でした。機能は知れたもので試合の運びもひどいものでしたが、双方の選手たちがボールを蹴りそこなって代わる代わる草原に転がるので、場内では爆笑が絶えませんでした。老人たちは、玉石洞に村ができて以来、きょうのように村人たちが心置きなく笑いさざめくのを見るのははじめてだ、と言いました。試合は引き分けに終わりましたが、政治的得点は満点でした。ブランコや相撲も盛況をきわめ、軍民交歓会や演芸公演もアンコールの連続で予定の時間をはるかに超過するありさまでした。村人たちは端午の祝いを催した革命軍に謝意を表しました。
その日、玉石洞では数十名の青年が革命軍への入隊を志願しました。これは、われわれの政治工作が村人の心を大きくゆさぶったことを意味します。スポーツ競技や娯楽も政治活動の一形態とみる所以です。
現在、わが国には数百数千の劇場、映画館、会館がありますが、機関、企業所の会議室まで合わせると数万の集会場があるわけです。これは政治活動と大衆文化活動を思い通りに展開できるりっぱなメカニズムです。ところが、幹部はこれを効果的に利用しようとしていません。多額の資金を費やして建てた建物なのに、重要な行事や会議をおこなうときに何回か利用するだけで、いつも遊ばせています。こういう建物を利用して科学講演会や情勢講演会、弁論大会、詩の朗唱会などをおこない、有名な科学者、作家、芸術家、スポーツ選手、英雄、労働革新者との交歓会などもたびたび催せば、どんなによいでしょうか。マイクも劇場も放送局もないパルチザン生活でしたが、われわれはあらゆる可能性を生かして人民大衆にたいする政治活動をたえずおこなったものです。
その後、玉石洞とその周辺の人民はわれわれを援助してりっぱにたたかいました。アヘンを吸っていた輝楓洞の若い農民の兄弟もアヘンをやめ、組織のメンバーとなってりっぱにたたかったのではないかと思います。

豆満江沿岸の村々を革命化する金日成同志の活動は和竜一帯にとどまらなかった。国内革命にも深い関心を寄せていた金日成同志は、端午を数日前にひかえて国師峰へおもむき、地下革命組織責任者・政治工作員会議を招集した。国師峰は豆満江の支流である西(ソ)頭(ドウ)水(ス)沿岸に位置している。国師峰会議を準備し招集するうえで主役を果たしたのは、政治工作グループの責任者であった李東傑である。国師峰会議のことが話題にのぼるたびに、金日成同志は格別な愛情と親近感をもって李東傑について回想し、彼を忠実な指揮官であったと評価した。

われわれは大紅湍戦闘を終えて和竜に渡るとすぐに司令部党会議を開き、李東傑の罰を解き、その日のうちに国内政治工作の重大な任務を与えました。
国内革命にはなすべきことが山積していました。国内革命の中心的課題は、「恵山事件」のために破壊された地下革命組織を一日も早く立て直し拡大することでした。われわれは茂山地区に李東傑を派遣して、そこに以前李(リ)悌(ジェ)淳(スン)や朴(パク)達(タル)が築いたような強力な地下組織網を設ける計画だったのです。わたしは彼に、国内に進出したら茂山郡内の適当な地点で国内地下組織責任者と政治工作員の会議を開く計画だから、その準備をするようにと指示しました。李東傑は会議の準備を手ぬかりなく進めました。彼はまず豆満江のほとりの中国人村に住んでいる朝鮮人を掌握し、そのつてをたどって随時国内に入り、組織とのつながりを回復し、会議の準備も着実に進めました。
そのころ司令部と李東傑との連絡を責任をもって取り次ぎ、彼を積極的に援助したのは金正淑でした。わたしは彼女を豆満江沿岸の国境近くの村に派遣し、李東傑とたえず連絡をとらせました。金正淑は司令部と李東傑との橋渡しをし、わたしの指令と意思を時を移さず伝達しました。当時、茂山郡三長面一帯の農民は、耕地不足のため夏のあいだは中国に渡って農業を営み、秋になると穀物を取り入れて朝鮮に帰ってきたものです。茂山の人たちは、これを「間島農作」といっていました。甲山地方の農民のなかにも「間島農作」をする人が少なくありませんでした。金正淑はまず「間島農作」をする人たちを掌握し、彼らを通して国内との連係を保ちました。茂山、延社地区を革命化するうえでは李東傑と金正淑が大きな役割を果たしました。李東傑は工作任務を受けて二〇日足らずのあいだに会議の準備を完了しました。
その日、わたしは李東傑の案内で豆満江の堰の橋を渡り、会議の場として内定していた国師峰に登りました。国師峰会議では、地下革命組織を拡大し、朝鮮革命をひきつづき高揚させる一連の対策が討議されました。会議が終わったのち、李東傑はわたしに二つの問題を提議しました。一つは、自分が築いた三長地区の組織を国師峰会議の方針どおり延社一帯へと拡大発展させて、党組織のモデル、祖国光復会組織のモデルにしたいということであり、いま一つは、国内組織の責任者たちに政治活動方法を教えるために、国師峰会議の参加者全員を玉石洞の端午の祝いに参加させてほしいということでした。わたしは彼のこの提議に同意しました。
会議が終わった後、李東傑は玉石洞でわれわれとともに端午の日をすごし、アジトに行って祖国光復会の各組織に国師峰会議の方針を伝える一方、ある国内組織のメンバーとの連係のもとに延社地区へ進出する準備を進めました。ところがアジトで不意の襲撃を受けて銃傷を負い、敵に逮捕されました。李東傑が逮捕された後、組織メンバーの一人が彼から預かっていた手帳を携えて烏口江密営を訪ねてきました。その手帳には、安図県の大溝と和竜県の玉石洞、そして国内の三長、延社一帯の地下組織の実態と延社地区での活動計画が暗号で記されていました。李東傑は万一の場合を考えて必要な資料をそのつど手帳に書きとめ、それを彼の家に預けておいたようです。
朴達の話では、李東傑は獄中でも監房の壁を叩いて同志たちと連絡をとり、彼らを闘争へと立ち上がらせたそうです。彼は法廷でもりっぱにたたかいました。法廷に立つときはいつも真っ先に「朝鮮革命万歳!」を唱えて、共産主義者の気概を示したそうです。李東傑は、金(キム)周(ジュ)賢(ヒョン)のように活動の過程で重大な過ちを犯しましたが、革命の実践を通じてその過ちを是正し、人生をりっぱにしめくくりました。人間は機械ではないので、活動の過程でときに過ちを犯すこともあります。犯した過ちをいかに是正するかは、その人の思想と修養の程度にかかっています。彼は自己批判も誠実にしましたが、連隊政治委員の職務を解任された後、思想鍛練にも専念しました。そのため、同志たちの信頼をすぐ回復することができたのです。
人間の真価は、処罰を受けたときに顕著にあらわれもするものです。組織から何か処罰を受けると、修養の足りない人はそれを素直に受け入れるのではなく、あんまりだの、承服しがたいだの、大げさだのと不平を並べたてます。そしてあの手この手で批判した人に仕返しをし、同志たちと仲たがいするようになります。同じ革命の持ち場で働く同志たちが互いに心を許さないようでは生活になんの張り合いもないではありませんか。同志たちに心を許さなければおのずと集団の外にはみだし、しまいには腹に一物をもつようになります。しかし修養を積んだ人は、同志たちからいくら手きびしい批判を受けてもつねにそれを虚心に、真剣に受け入れるものです。そういう人は、同志たちの批判を補薬とみなします。金周賢や李東傑が指揮官の職務からはずされるという重罰を受けた後も、失望したり堕落することなく自分の過ちを是正することができたのは、同志たちの批判を補薬と考え、それをよく消化したからです。同志たちの批判にたいする消化能力をみれば、その人の人格と修養のほどがわかります。李東傑は人格と修養の点で模範といえる共産主義者の一人でした。
李東傑は犠牲となりましたが、彼がくだいた肝胆は豆満江沿岸と国内深くで数十数百の火種となりました。李東傑が逮捕されたあとは、彼に代わって延社地区へ行った金正淑が、その地の組織のメンバーと連係を保ち、彼が望んでいたように党組織と祖国光復会組織をつくりあげました。それらの組織は全民抗争を準備するうえで大きな底力となりました。豆満江をただの川と考えてはなりません。


六 女性闘士たちの革命的節操

金日成同志は生前、祖国解放の日を見ることなく、戦場や絞首台で壮烈な最期を遂げた女性闘士たちと、最後まで革命的信義に忠実であった女子隊員たちについてもしばしば回想した。この節では、朝鮮革命が最大の困難に直面していた日々に、一命をなげうって革命の利益を守り、共産主義者の栄誉を固守した女性闘士たちにかんする金日成同志の回想談のうち、その一部をまとめた。

新たに造営された革命烈士陵を見て回り満足に思います。その間みなさんは陵を造営するのにさぞかし苦労したことでしょう。安置された闘士のうち女性闘士は何人ですか。女性闘士が一〇余名も安置されたのなら、りっぱなことです。彼女たちはみな胸像を立て、碑石にその名を刻むに値する人たちです。
李(リ)順(スン)姫(ヒ)は共青幹部としてりっぱにたたかいました。一時、汪清地方で児童局長を務めた彼女をわたしはよく知っています。李順姫は節操の堅い女性でした。敵は弱年の彼女を見くびり、地下組織の秘密を吐かせようとしましたが、無駄でした。彼女はひどい拷問を受けながらも秘密をもらしませんでした。このような闘士は当然、次代の前におし立てるべきです。
張(チャン)吉(ギル)富(ブ)女史は遊撃隊員ではありませんでしたが、馬(マ)東(ドン)熙(ヒ)を生み育てた革命家の母らしく一生をりっぱに生きぬきました。彼女は娘と嫁も遊撃隊に入隊させ、自身は革命家たちの世話をやきました。彼女の息子と娘、嫁はみな武装闘争に参加して戦死しました。武器を手にして抗日戦争に参加した人はみな英雄です。当時は英雄称号を授与する制度がなかったのでしかたがありませんが、そういう制度があったならば、張吉富女史の息子、娘たちはみな英雄になっていたはずです。英雄を三人も育てた母親なのですから、当然、革命烈士陵に安置すべきです。彼女は高齢の身で社会主義建設にも積極的に参加しました。張吉富女史を除いた他の女性はすべて、武器を手にとってわれわれとともに抗日革命の道を歩んできた女子隊員です。
金(キム)策(チェク)、姜(カン)健(ゴン)たちの列に二人の女性闘士が安置されていますが、これは抗日革命闘争における女性の地位と役割を示しているといえます。金(キム)一(イル)、林(リム)春(チュン)秋(チュ)、崔(チェ)賢(ヒョン)などの老闘士たちはわたしに、人民と戦友たちの一致した願いだといって、金(キム)正(ジョン)淑(スク)をそこに安置することを懇請しました。
崔(チェ)希(ヒ)淑(スク)をその列に安置するよう推薦したのはわたしです。彼女は第一列に安置するに値するりっぱな闘士です。金正淑と崔希淑を同列に安置したのは、抗日革命の日々に結ばれた二人の友情を考えてもごく自然なことだといえるでしょう。金正淑が桃泉里一帯で困難な敵中工作の任務を遂行していたとき、崔希淑は腰房子という村に潜入して彼女の活動を陰から助けました。金正淑が新(シン)坡(パ)に渡って組織建設活動にうちこむことができたのは、崔希淑が腰房子で彼女の活動を積極的に援助したからです。崔希淑は一九三九年の秋、烏口江一帯で大量の軍服の製作にあたったときも、金正淑と力を合わせて仕事をりっぱにやりとげたものです。軍服の製作で発揮した崔希淑の強い責任感と功労を評価し、わたしは彼女に金の指輪と時計を贈りました。
崔希淑は朝鮮人民革命軍の女子隊員のうちでも古参兵に属していました。彼女が入隊したのは一九三二年だったと思います。一九三二年といえば、東満州の各県で反日武装隊伍が続々と生まれていた時期です。朝鮮人民革命軍には女子隊員が少なくありませんでしたが、一九三二年に入隊した女性はさほどではありません。一九三二年に入隊したのなら、古参兵の処遇を受けて然るべきです。
わたしが彼女にはじめて会ったのは一九三六年の春だったと思います。その年の春に延吉、和竜地方の各部隊から多くの女性がわれわれの主力部隊に編入されましたが、金正淑や崔希淑もそのときに主力部隊に移ってきたのです。女子隊員たちはみな崔希淑をお姉さんと呼んだものです。男の隊員のなかにも彼女を姉さんと呼ぶ人が少なくありませんでした。崔希淑は年齢からしても隊員たちの姉にあたりました。彼女はわたしよりいくつか年上でした。女子隊員のなかでは金(キム)明(ミョン)花(ファ)や張(チャン)哲(チョル)九(グ)につぐ年長者であったようです。崔希淑が戦友たちからお姉さんと呼ばれたのは、たんに年のためだけではありませんでした。彼女は日常生活と任務の遂行でつねに隊員たちの模範となったばかりでなく、よく戦友たちの世話をやいたものです。地方組織で何年ものあいだ共青や婦女会の活動、反日部隊の工作などをしてきた彼女は、政治的資質も高く、統率力もありました。それでわたしは彼女になにかと困難な任務を与えたものです。崔希淑が小哈爾巴嶺会議以後も朝鮮人民革命軍の裁縫隊の責任者としてひきつづき活躍したのは、彼女にたいするわれわれの信頼のあらわれだといえます。
主力部隊のすべての指揮官と兵士は、崔希淑の並々ならぬ忠実性と革命性にたいしいつも驚異の目を見はったものです。彼女のすることなすことは、いつも戦友たちを感動させました。わたしが彼女の崇高な信義と人格に感服したのも一度や二度ではありませんでした。苦難の行軍時に目撃したことですが、ほかの隊員がみな寝入っている真夜中に、彼女は焚き火で凍えた手をあたためながら戦友たちの軍服を繕っていました。彼女は水で空腹をまぎらしながら、二日でも三日でも課された任務を果たすまでは絶対に休みませんでした。それでいて、活動の成果について論じるときはつねに戦友たちに花を持たせました。軍服の製作が終わって功労者を表彰するときに金の指輪と時計をもらい、「軍服をつくるのに苦労したのは一人や二人でないのに、わたしだけがこんな特典にあずかっては…」といって恐縮していた彼女の姿が思い出されます。
小哈爾巴嶺会議後、小部隊工作に参加していた崔希淑は、重要な情報を携えて司令部に向かう途中、敵の「満山討伐」に遭いました。「満山討伐」とは櫛でくしけずるように山中をくまなく捜すという意味です。小部隊を発見した敵は、遊撃隊員を生け捕りにしようとやっきになって追撃してきました。崔希淑は包囲されて脚に貫通銃創を負い、敵に捕らえられてしまいました。敵は秘密を吐かせようと彼女に言うにいわれぬむごい拷問を加え、しまいには両眼までえぐりだしました。しかし、いかなる拷問や威嚇も崔希淑のかたい節操をくじくことはできませんでした。彼女は死ぬまぎわにこう叫びました。
「わたしにはいま目がない。しかし、わたしには革命の勝利が見える!」
この叫びに度胆を抜かれた敵は、崔希淑の心臓をえぐりだしました。共産主義者の心臓がどんなものであるかを見きわめようとしたのです。革命家の心臓だからと特別なものであるはずはありません。心臓には革命家のしるしもなければ反逆者のしるしもないのです。ただ革命家の心臓が祖国と民族、革命同志のために脈打つものだとすれば、反逆者の心臓はつねに自分自身のためにのみ脈打つものだといえるでしょう。敵は崔希淑を逮捕するやいなや、わたしが表彰として彼女に与えた金の指輪を取り上げたとのことです。しかし、敵は彼女の心臓に脈打っているわれわれにたいする信頼と信義は決して奪いさることができなかったのです。敵は彼女の心臓をえぐりだしはしても、このようなものの道理は解せなかったはずです。祖国を心から愛することのできない人は、革命的節操がどんなものであるかわからず、共産主義者の生命観に秘められている気高く美しい精神世界の高さも理解することができないのです。
崔希淑が犠牲になったという悲報に接したわれわれは、彼女があれほど夢見た祖国解放の日を見ることなく倒れたことに哀惜の念を禁じえませんでした。女子隊員たちは悲しみのあまり食事もとろうとしませんでした。
わたしも長いあいだ悲しみを振り払うことができませんでした。しかし、彼女が遺した言葉にわたしは大きな力を得ました。敵に両手を縛られ、両眼を奪われた最悪の状態にあっても、革命の勝利が見えると叫んだ崔希淑の言葉には、なんと烈々たる誇らしい革命的気概が脈打っているではありませんか。「革命の勝利が見える!」――これは誰しも口にできる言葉ではありません。それは自己の偉業の正当性と真理性を確信する人のみが口にできる言葉であり、革命的節操の強い闘士のみが吐ける名言です。この言葉は女性闘士崔希淑の一生の総括でもあったのです。
「革命の勝利が見える!」という言葉はこんにち、朝鮮人民と青少年にとって革命的楽観主義を象徴する金言となっています。女性闘士のあの叫び声は、いまも朝鮮人民の耳に生き生きとこだましています。わたしは楽観主義を主張し、楽天的な人間を愛します。天が崩れ落ちても脱け出る穴はあるというのは、わたしが重んじている座右の銘の一つです。わたしが辛酸をなめつくしながらも、いかなる動揺や偏向もなしに、つつがなく革命と建設を指導してくることができたのは、この楽観主義のおかげです。わたしは、一条の光さえ見ることのできない失明の状態で遺した崔希淑の最後の言葉をいまでも忘れていません。それは、その言葉に朝鮮の共産主義者の強靱な意志と不変の信念が秘められているからです。重ねて強調しますが、崔希淑はきびしい試練をのりこえてきたわれわれの革命隊伍の第一列に堂々と立たせることのできる女性革命家です。彼女の夫朴(パク)元(ウォン)春(チュン)は西(ソ)大(デ)門(ムン)刑務所で獄中生活をしました。
崔希淑のような最期を遂げた女子隊員は一人や二人ではありません。安(アン)順(スン)和(ファ)の最期にしてもそういえます。人間がそういう最期を遂げるというのは容易なことではありません。安順和は李(リ)鳳(ボン)洙(ス)の妻です。李鳳洙が軍医を務めていたとき、彼女は同じ部隊で裁縫隊の責任者を務めました。もともと彼らには五人の子どもがいました。しかし、その五人の子どもはみな、遊撃戦争の過程で死んだり、父母と生き別れになったのです。凍傷のために両足の指を全部落とした長男は重患とともにソ連に入り、長女はハシカで死に、次男は遊撃区に攻めてきた日本軍の銃剣にさされて死にました。次女は飢え死にし、三男は他人の家に預けたのですが、その生死も行方もわからないとのことです。李鳳洙の回想記がいくつか世に出たので、三男が生きているなら父を訪ねてくるはずなのに、わたしはまだそういう話を耳にしていません。二歳にもならないうちに他人に預けられたのなら、実の父母が誰であるかもわからないでしょう。養父母がその子に実の親がいることを教えなかったのかもしれません。
一九三八年の春、安順和は敵に逮捕されました。密営にいた遊撃隊員たちが司令部の命令によって南満州へ発つ準備をしていたある日、「討伐隊」が密営を襲撃したのです。当時、その密営には主に病院のメンバーと裁縫隊の隊員がいました。敵に逮捕された彼女は言いしれぬ苦しみをなめました。敵は遊撃隊員の行方と食糧倉庫、弾薬庫、薬品倉庫の位置を言えと、彼女に残忍な拷問を加えました。「討伐隊」の隊長は、勝ち目のない戦いに血と青春をささげるのが惜しくないのかと甘言で彼女を説き落とそうともしました。もしあのとき安順和が拷問に屈して口を割っていたなら、敵は彼女を殺さなかったでしょう。敵は帰順した者を処刑せず、「優遇」する方法でわれわれの革命隊伍を瓦解させようと狂奔しました。帰順申請書に保証人を記し、拇印でも押せば、昨日まで「打倒日帝」を唱えて、武力抗争をしていた人でも命を落とさずにすんだのです。安順和が女性の身で敵の懐柔と拷問に屈しなかったのは、じつに驚嘆すべきことです。最初、敵は彼女を蹴ったり踏みつけたりしたあげく、髪を引き抜きました。それでも安順和が「こいつら!」「何をいうか!」と怒鳴りちらしてますます頑強に抵抗するや、弾がもったいないといって彼女の胸部と腹部にクヌギの棒ぐいを打ち込みました。掌にとげがささっても顔をしかめるのが人間の本能なのに、頑丈な棒ぐいが肉と骨を裂いて深く打ち込まれたときの彼女の苦痛はいかばかりであったでしょうか。しかし、安順和はそんなたえがたい苦痛を味わいながらも、最後まで革命家の節操を曲げなかったのです。彼女は言いたいことは言いつくし、守るべきことは守りぬいたのです。クヌギの棒ぐいが体に打ち込まれる瞬間には、最後の力をふりしぼって「朝鮮革命万歳!」「女性解放万歳!」を唱えたのです。
安順和が犠牲となったあと、戦友たちは彼女の背のうを解いて遺品を整理しました。遺品のなかには、彼女の夫李鳳洙が一九二〇年代の末にウラジオストックで埠頭の人夫をして稼いだ金で買ったセル地のチマと、編みかけのテーブル掛けがありました。セル地のチマは一〇年間、一度も身に着けないまま背のうの中にしまっておいたものだそうです。なぜ彼女はセル地のチマをそれほど大事にしたのでしょうか。祖国が解放されたのちにそれを身に着けようとしたのに違いありません。われわれはこの一つの遺品を通しても、彼女が革命の勝利する明日をいかにかたく信じていたかがわかります。古シャツをほどいた糸であいまあいまに編んでいたというテーブル掛けもやはり、祖国が解放されたのちに夫の机にかけようとしたのでしょう。妻のなきがらをセル地のチマで覆ってやろうとした李鳳洙は、一〇年前につけられたチマのひだがそのまま残っているのを見て、胸の痛みをこらえることができず涙にくれたとのことです。
崔希淑、安順和のような女性は北満州の抗日武装部隊にも少なくありませんでした。北満州で戦った朝鮮の女性たちがいかに革命的節操を守りぬいたかは、韓(ハン)珠(ジュ)愛(エ)の実例をみてもよくわかります。裁縫隊の責任者であった彼女は、後方密営で遊撃隊員の綿入れをつくっていたときに「討伐隊」の襲撃を受け、幼い娘とともに敵に捕らえられました。戦友たちを逃がすために彼女はわざと自分を敵の目にさらし、勝算のない応戦をつづけているうちに「討伐隊」に捕らえられてしまったのです。彼女は数か月も鉄窓に閉じ込められていました。敵は母子が同じ監房にいるのはぜいたくすぎるといって、母と子を別々に収監しました。そして彼女の心を揺さぶるために、ときたま娘を連れてきては面会もさせました。母性愛を悪用したのです。しかし、いかなる術策をもってしても韓珠愛の節操をくじくことはできませんでした。敵はウスリー江のほとりで彼女を銃殺しました。日本憲兵隊の刑吏らは彼女に一言でも罪を悔いたら生かしてやると言いましたが、彼女は最後まで屈しなかったのです。
北満州の遊撃隊で活動した安(アン)順(スン)福(ボク)、李(リ)鳳(ボン)善(ソン)をはじめ八名の裁縫隊員は、包囲網を狭めながらにじりよる敵と決死の覚悟で奮戦し、生け捕りにされそうになると牡丹江の深い水中に身を投じてうら若い命を散らしました。これに似た話は東満州の女子隊員たちにもみられました。七名の女子隊員が内島山へ向かう途中、敵に包囲されると、富爾河に身を投じて青春をささげたのです。彼女たちの悲壮な最期は、抗日革命史の一ぺージに新たな伝説をとどめました。
何年度だったか、わたしは中国を訪問したとき、牡丹江八烈女の闘争を題材にした映画を見て深い感銘を受けました。北満州の女性たちだけでなく、南満州の遊撃隊員たちの親しい姉であった李(リ)順(スン)節(ジョル)も革命家らしく節操を守りぬきました。金(キム)寿(ス)福(ボク)は長白県の朱家洞で地下工作にあたっていたときに逮捕され、犠牲となりました。英雄というのは特殊な人ではありません。崔希淑や安順和、東満州の七烈女のような人たちを指して英雄というのです。
碧(ピョク)城(ソン)郡女性同盟委員長であった趙(チョ)玉(オク)姫(ヒ)が朝鮮戦争の一時的後退の時期、敵地でパルチザン闘争を展開し、敵につかまって虐殺されたとき、われわれは彼女に共和国英雄の称号を授与しました。彼女も崔希淑や安順和のように革命的節操をあくまで守りぬいた強い女性でした。敵は手足の爪を引きはがし、両眼と乳房をえぐりだし、焼き火箸を生身に押しつけましたが、彼女は屈することなく大声で敵を断罪し、「朝鮮労働党万歳!」を唱えて壮烈な最期を遂げたのです。趙玉姫がパルチザン闘争で敵兵を討ち取ったにしても、その数は知れたものでしょう。われわれは彼女が殺傷した敵兵の数を重くみたのではなく、刑場に引かれながらも顔を上げて敵の滅亡を宣告した、その高い気概と革命的節操を大切に思い、彼女を表彰すべきだと考えたのです。農事に携わり、女性同盟の活動を何年かしたにすぎない平凡な女性が、かくもりっぱな最期を遂げたというのは驚くべきことではありませんか。わたしは全国の人民と世界の良心の前に趙玉姫をおし立てたいと考え、彼女をモデルにした映画をつくらせ、彫像を立て、彼女の故郷の農場に趙玉姫の名を冠するようにしたのです。

ある日、朝鮮革命博物館を訪れた金日成同志は抗日革命闘士李(リ)桂(ゲ)筍(スン)の遺髪の前で長らく足をとどめた。それは彼女が一六歳のとき、革命に身を投じる決意をこめて母に送った垂れ髪であった。李桂筍の遺髪を長らく見つめていた金日成同志は、貴重な遺物だから大事に保存するようにと念を押し、その後、しみじみと彼女の思い出を語った。

髪にまつわる話によっても、李桂筍が非常にりっぱな革命家であったことがよくわかります。わたしはその遺髪を見ると、われわれの母と姉、わが国の女性革命家たちの清純かつ強固な節操について考えさせられます。
元来、朝鮮の女性は外柔内剛で節操がかたいのです。わたしは抗日革命の過程でそれをいっそう深く体験しました。李桂筍の遺髪は女性革命家の節操を象徴しているといえます。
わたしが満州で地下活動をしていたとき、わたしの母は靴底に髪の毛を敷いてくれました。それは母が朝鮮で暮らしていたときから何年ものあいだ大切にしておいた髪でした。寒さのきびしい冬に、吹雪が荒れ狂う無人の境を行軍していたのですが、どうしたわけかいくら歩いても足が凍えませんでした。歩けば歩くほど足の裏がほかほかとしてくるのでした。目的地に着いて靴をぬいでみると、底に髪の毛が敷かれていたのです。そのときわたしは、この世に愛情というものがいくらあっても、母の愛にまさる愛はないと思ったものです。あのとき母が敷いてくれた髪の毛は母性愛の表現でした。上海に朝鮮人の臨時政府が樹立され、中国の東北地方に正義府だの参議府だの新民府だのといった独立軍団体が生まれ、人民から税金を取り立てていたとき、少なからぬ女性が髪を売って独立献金に供したという話を聞きました。そのころの髪は愛国心のあらわれでした。
わたしが李桂筍について話しながら髪にまつわる過去の話をするのは、その遺髪一つを見ても彼女の人間像を十分に把握することができるからです。李桂筍のことは彼女とともに戦った金一と朴(パク)永(ヨン)純(スン)がよく知っています。彼女にかんする資料を収集するには、金一第一副首相と朴永純に会って取材する必要があります。金一第一副首相は寡黙なので取材する面白味がないという人もいるそうですが、それは彼をよく知らないからです。彼は自分の自慢はしたがりませんが、人のこととなると多弁になります。
李桂筍を革命の道に導いたのは彼女の兄李(リ)芝(ジ)春(チュン)でした。李芝春はわたしが毓文中学校に通っていたとき、吉林の師範学校でわれわれの指導のもとに革命闘争に身を投じた人です。その後、彼は両親が住んでいる和竜に帰って共青活動の指導にあたったのですが、敵に捕らわれて虐殺されました。敵は彼を銃殺したあと、その遺体を焼き捨てました。結局、彼は二度殺されたわけです。漁郎村遊撃区で兄の訃報に接した李桂筍は、翌日の未明に垂れ髪を切り落としました。彼女はその髪を母に送って頼みました。
「お母さん! わたしが家を発ったあと兄さんまで亡くしてさぞかし辛いことでしょう。しかし、悲しまないでください。…敵に涙を見せないでください。…お母さんにわたしの髪を送ります。長いあいだお目にかかれないかもしれませんが、この髪をわたしだと思ってください。革命が勝利するその日まで、くれぐれもお体を大切にしてください」
これは母に送る李桂筍の永別の挨拶ともいえました。そのとき彼女は一生を革命にささげようと決心したのに違いありません。 和竜で数年間、地下活動をした朴永純の話によると、李桂筍は幼いころから革命にたいする感受性と知恵が人並外れていたので、みんなに可愛がられたそうです。
一九三三年の夏、李桂筍は党組織から竜井市内に入って地下工作をするよう指示されました。彼女の主な任務は、破壊された地下組織を立て直すとともに、新たにつくりあげることでした。敵の重要な支配拠点の一つである竜井地区には軍警や密偵が密集していました。この地方に根城を構えていた諜報機関の触覚はきわめて鋭敏でした。遊撃区の革命組織がこれといった地下工作の経験もない李桂筍をそんな土地に派遣したのは、彼女にたいする信頼のあらわれといえます。当時、竜井市内の党組織と婦女会、少年先鋒隊をはじめ大衆団体の大部分は破壊され、組織のメンバーはほとんど検挙されていました。
李桂筍は万事を自分の力で解決しようという決意をかため、人の出入りが多いそば屋の雑役婦になりました。顔を煤だらけにしてそば屋の手伝いをする田舎くさい女が共産党の派遣した地下工作員だと見る人は一人もいませんでした。そのそば屋は工作拠点としてもうってつけでした。李桂筍は水汲みや洗濯、皿洗いなど主人から言いつけられる仕事はなんでもやりこなしました。主人は思わぬ拾い物をしたものだと、ほくそえみました。ところが、破壊された組織を立て直し、新たな組織を設けるためには、日がな外を出歩ける仕事に就かなければなりませんでした。それに適した仕事はほかならぬそばの出前持ちでした。当時は裕福な家や権勢をふるう家ではそばを注文したものです。家にいながらノンマ麺を何人前持ってこいと言いつけると、出前持ちがそばと汁を別々に出前箱に入れて家まで届けるのです。女主人の信用を得た李桂筍は出前持ちになりました。彼女はそばの出前に出るたびに、暇を盗んで組織のメンバーに会いました。そうして少年先鋒隊の組織から立て直しました。ところが、どんぶりの入った出前籍を頭に乗せて一日に数里も足を運ばなければならない出前の仕事は口で言うほどたやすいものではありませんでした。ある日、出前箱を頭に乗せて道を急いでいた彼女は、疾走してくる日本警察の自動車を避けようとした瞬間に出前箱を落とし、どんぶりを割ってしまいました。そのため李桂筍は主人に叱られ、出前持ちをやめさせられました。しかし、彼女は気を落とさず、その日の営業が終わると、疲れもいとわずそば屋の裏庭に出て、石を入れた出前箱を頭に乗せ、真夜中まで歩く練習をつづけました。李桂筍のいちずな熱意が主人の目を引かないわけはありません。当時、彼女は一七歳くらいだったと思います。
女性闘士たちは、一五~一六歳にもなると政治工作をしたものです。彼女たちは一〇代にしてアジ演説や敵中工作をおこない、組織建設活動も展開しました。その年で彼女たちは世情に通じていたのです。国を奪われ苦労を重ねたので、いまの青年より早熟であったのは確かです。しかし、苦労を重ねたからと、誰もが先覚者となり、闘士となるわけではありません。肝心なのは思想です。思想的な準備ができてこそ、早くから革命闘争に参加することができ、革命活動をするにしてもりっぱにすることができるのです。思想が堅実でなければ革命はできません。李桂筍が革命に忠実であったのは、思想が堅実であったからです。
いま一部の人は、二〇歳ならまだ乳臭いといって、彼らの声に耳を傾けようとしません。幹部の人事に携わる人たちも、二〇代はまだ世間知らずの子どもだとみなす場合が少なくありません。そういう人たちは、三〇代か四〇代、五〇代にならなくては幹部になれないものと考えていますが、それははなはだしく間違った見解です。二〇代の青年でもまかせさえすれば、重大な任務を十分遂行することができます。わたしは解放直後、建党、建国、建軍の偉業を遂行する時期にこのことを身にしみて体験しました。抗日革命の時期には二〇代の青年が県党書記を務め、省党書記、師長、軍長も務めました。わたしは二〇代で革命軍の司令官になったのです。若い人たちを登用せずには幹部陣営の老齢化をまねき、そうなれば、われわれの前進運動が活力を失うようになります。幹部の人事ではあくまでも老・中・青を組み合わせなければなりません。
李桂筍が東満州の人たちの話題の的となったのは、和竜県党書記を務めていた夫の金(キム)日(イル)煥(ファン)が「民生団」の濡れ衣を着せられ、排外主義者の手にかかって死んだときでした。そのとき、間島地方の人たちはこぞって、金日煥を虐殺した主犯を憎悪し、未亡人となった李桂筍にたいしてはみなが同情を寄せました。多くの人たちは、李桂筍が東満州党指導部の処置に幻滅し、革命活動から手を引くか、遊撃区を去るのではないかと考えました。当時、間島地方の組織メンバーと遊撃隊員のなかには、東満州党指導部の極左的妄動に見切りをつけて遊撃区を去った人が少なくありませんでした。反「民生団」闘争が極左的に展開されたために、共産主義者のイメージが損なわれたのは確かです。普通の女性なら革命に嫌気がさし、遊撃区を立ち去るか、落胆して自分の身の上を嘆きながら歳月を送ったことでしょう。しかし、李桂筍は反対に覚悟を決めて立ち上がり、自分に与えられた任務をよりりっぱに遂行することによって革命に利益を与え、夫が革命にたいしていささかも恥じるところのない潔白で良心的な人間であったことを証明しようとしたのです。
車廠子遊撃区が飢餓に見舞われたとき、李桂筍は臨月の体でしたが、栄養を満足にとることができませんでした。しかし、彼女は自分自身と生まれてくる新しい生命を気づかったのではなく、空腹のあまり身動きさえできない遊撃区の人びとのことを心配して、毎日のように山菜を摘み、木の皮をはぎました。それさえも底をつくと、蛙を捕り、その卵を集めて、栄養失調にかかった人たちに与えたりしました。その後、李桂筍は出産しましたが、乳が出ませんでした。かてて加えて、そんなときに遊撃区が解散したのです。彼女は幼い娘を姑に預けて敵地に送り、自分は遊撃隊に入隊しました。その乳飲み児は金日煥が虐殺された後に生まれた遺腹だったのです。親子の別離は涙ぐましいものであったといいます。乳飲み児は母の懐から離れまいと泣きすがり、姑も泣き、李桂筍自身もわが子がかわいそうで何度も立ちもどっては抱きしめてむせび泣き…それが涙ぐましい別離にならないはずがありません。遊撃区の解散とともに家族や親戚、知己、革命戦友が四方八方に散っていったあの当時は、すべての人が彼女たちのように涙のうちに惜別の情を分かちあったのです。
李桂筍の姑が孫娘を生かすためにたいへん苦労したそうです。もらい乳も一、二度であって、いつも人の世話になるわけにはいきませんでした。それで麦やトウモロコシの粒を噛みくだいて幼児の口にふくませたそうです。
このように、李桂筍は女性としてはたえがたい大きな不幸と苦痛を胸に秘めて銃をとった闘士だったのです。彼女は撫松でわれわれの部隊に入隊しました。その後しばらくして、わたしは李桂筍を後方病院に送りました。そのとき彼女は凍傷を負っていたので、戦闘部隊で戦えない状態だったのです。最初、彼女は病院には行かないと拒みました。第一線で戦わせてほしいと涙ながらにせがむのでした。しかし、わたしは彼女のためを思って、その願いを聞き入れませんでした。凍傷がどれほど恐ろしいものであるか知らないようだが、これから戦う機会はいくらでもあるから、いまは病院に行って治療を受けなさい、わたしの父も凍傷のために亡くなった、足の指が腐乱して杖にすがらなければならない身体障害者になってしまったらどうするのか、と諭してはじめて、彼女は病院で治療を受けることを承諾しました。
彼女が治療を受けていた遊撃隊の後方病院は黒瞎子溝密営にありました。そこから白頭山は目と鼻の先でした。一九三七年の旧正月にわたしは横山地区の後方密営を一巡りしました。朴永純を責任者とする兵器修理所の隊員たちが空かんで製麺機をつくり、ノンマ麺をつくってわたしにもてなしてくれた旧正月というのが、そのときのことです。後方病院を訪ねたとき、李桂筍は料理をつくってわれわれをもてなそうとかいがいしく働きました。宋医師の話では、彼女は治療を受けるよりも、すすんで看病係や炊事係の役目も果たし、体を酷使しているとのことでした。わたしは病院を発つとき李桂筍に、他の仕事にはいっさい手をかけずに治療に専念しなさい、そうしないと病気を治すことができない、と言い聞かせました。その後は一度も彼女に会うことができませんでした。ただ連絡員を通して、病院の人たちに手紙と給養物資を何回か送ったことはあります。
われわれがしばらく白頭山地区を出払っていたあいだに、敵は後方密営に「討伐隊」を投入しました。そのとき宋医師を責任者とする後方病院も襲撃されたのです。激戦の末、朴(パク)順(スン)一(イル)は戦死し、李桂筍はつかまって長白県に護送されました。生き残ったのは李(リ)斗(ドゥ)洙(ス)だけでした。そんなことになったとはつゆ知らず、わたしは金(キム)正(ジョン)弼(ピル)と韓(ハン)初(チョ)男(ナム)に食糧をもたせて病院に送りました。病院で治療を受けている患者たちも全快しただろうから、全員連れてくるようにと指示したのです。ところが、彼らは獣とも人間とも見分けがつかないほどひどい格好をした李斗洙だけを連れて部隊にもどってきました。そのときになってはじめて、わたしは後方病院に降りかかった災難を知ったのです。わたしは四方に偵察班を送って李桂筍の行方と生死を調べさせました。ところが彼らがひとしくもたらしたのは、彼女が敵に捕らわれて一〇余日後に虐殺されたという悲報でした。ある偵察班は、李桂筍の最期を目撃したという長白の住民にも会ったということでした。
李桂筍が銃殺されたのは市の立つ日だったそうです。敵はその日、「転向」した女子共産軍の反省演説があるという触れを回して住民を学校の運動場に集めました。恵(ヘ)山(サン)方面からやってきた商人も残らず運動場に引き出されました。では、李桂筍がなんのために住民たちの前で演説する合法的機会をつくってくれと要求したのかということです。わたしはここに、共産主義者としての彼女の真面目があると思います。彼女が運動場に住民たちを集めてくれと言ったのは、反日革命の宣伝をもって人民との永別の挨拶に代えようとしたためです。彼女が数言の反省演説をすれば、敵は彼女を生かしたかもしれません。しかし、李桂筍はそんな卑劣な道を選びはしませんでした。彼女は死を覚悟していたのです。死を覚悟した人は銃剣を恐れず、なんでも言えるものです。
李桂筍は、わたしは死んでも朝鮮人民革命軍は健在であり、その司令官も健在である、朝鮮人民革命軍を打ち破る力はこの世にない、日本帝国主義が敗亡し、祖国が解放される日は遠くない、みなが一致団結して敵の暴圧をはねのけ、反日抗戦に立ち上がろう、という内容の演説をしたとのことです。彼女は最後まで人民の忠実な奉仕者、教育者、宣伝者としての使命と本分を果たそうと努めたのです。反省演説をすると紹介した女子共産軍が反日を扇動する革命宣伝をしたのですから、敵の狼狽ぶりはどんなものであったでしょうか。長白地方の人たちは、いまでもそのときの光景をはっきりと覚えているというのですから、彼女の演説は住民たちに非常に大きな衝撃を与えたに違いありません。
李桂筍が有名な女性闘士となったのは、このようにりっぱな最期を遂げたからです。彼女の生涯における頂点はまさにこの最期にあるのです。生涯の頂点とは、人間の精神力と活動力が最高潮に達した時期を意味するといえます。そういう頂点が訪れる時期は人によって異なると思います。二〇代に迎える人もあれば五〇代に迎える人もあり、六〇代か七〇代に迎える人もあるでしょう。一時、名声を博しながら中途で恥ずべき一生を終える人より、李桂筍や崔希淑のように人生の終わりを毅然としめくくる人たちを歴史はいつまでも忘れないものです。わたしが李桂筍を忘れられないのはそのためです。李桂筍のような女性闘士は世界に向かって堂々と誇ることができます。彼女が歩んできた英雄的な生涯は、革命的な小説や映画のりっぱな素材になります。李桂筍は朝鮮民族が生んだ真の娘であり、女性革命家のりっぱなモデルの一人です。
李桂筍の母親は長いあいだ孫娘の生死がわからず、心を痛めていました。そうして、停戦後にやっと総合大学(金日成総合大学)に通っている孫娘に会い、娘の遺髪を手渡したのです。三代にわたって伝えられたその遺物はたんなる遺髪ではなく、烈女李桂筍の誉れ高い人生の象徴だったのです。二歳のときに生き別れを強いられ、顔も声も記憶にない母親が一握りの遺髪となって娘の前にあらわれたのですから、この世にこんな出会いがまたとあるでしょうか。娘は母の遺髪にほおずりしながら、とめどなく涙を流しました。李桂筍の娘はいま、両親が命をなげだして切り開いてきた革命の代を忠実に受け継いでいます。
一命をなげうって革命家としての尊厳と節操を守りぬいた女性の例は枚挙にいとまがありません。
女性が革命の片方の車輪を受け持っているというわたしの主張は、抽象的な概念ではありません。それは血に彩られた抗日革命史と、わが国の女性解放運動の参加者、実見者としての生きた体験にもとづいているのです。

第二一章

大部隊旋回作戦の銃声

一 密営に訪ねてきた女性

一九五六年の秋のことであった。金日成(キムイルソン)同志の秘書は、咸(ハム)鏡(ギョン)北道人民委員会の書記長から長い電話を受けとった。それは、鶴(ハク)浦(ポ)炭鉱託児所に勤めるある女性が、解放前、朝鮮人民革命軍で戦った者だといって金日成同志に会わせてほしいと懇願するので、平壌(ピヨンヤン)へ行かせるという内容であった。
数日後、その女性が内閣庁舎へ訪ねてきた。用件を尋ねる秘書に、彼女は「ただ、ぜひともお会いしたくて…」と涙ぐむだけであった。そのとき金日成同志は外国代表団との活動で多忙をきわめていた。代表団との活動を終えた金日成同志は、秘書からその女性が訪ねてきたという話を聞き、「姜興錫(カンフンソク)の妻、池(ジ)順玉(スンオク)が…彼女は生きていたのか」と深い追想にふけるのであった。
池順玉とはどういう女性であろうか。金日成同志は一九七二年五月、朝鮮革命博物館を見てまわったときと、一九七六年三月、音楽舞踊叙事詩劇『大部隊旋回作戦』を観覧したとき、そして一九八五年一〇月、大(テ)城山(ソンサン)革命烈士陵を訪ねたとき、池順玉について語ったことがあるが、その回想談をここにまとめて紹介する。

われわれが茂(ム)山(サン)地区進攻作戦を成功裏に終えて白頭(ペクトゥ)山東北部で軍事・政治活動をくりひろげるかたわら、第八連隊の活動を指導していたときですから、多分一九三九年の夏だったと思います。ある日、第七連隊長の呉(オ)仲(ジュン)洽(フプ)がわたしを訪ねてきて部隊の実態を報告しました。報告を終えた彼は、司令部に来る途中、烏口江上流で姜興錫の妻と出会い、第八連隊の密営に連れてきたと言いました。それが池順玉でした。彼女が、夫に会いたくて訪ねてきたと言って密営にあらわれたとき、われわれはひとしく、その情熱に感嘆したものです。松花江や烏口江流域の山岳地帯は、敵の軍警と密偵がいつもうろつきまわる危険な遊撃戦区でした。ややもすれば流れ弾の犠牲になりかねず、「通匪分子」として処刑されるおそれもありました。そういう危険を冒して女性の身で、しかも一人で夫を訪ねてきたというのですから、感嘆せざるをえませんでした。
池順玉の夫の姜興錫は名射撃手としても名を馳せていましたが、愛妻家としてもうわさのある人でした。そのうわさによれば、彼の背のうには妻宛の手紙が何通もしまってあるとのことでした。 一〇代の少年期に結婚した彼は、間もなく革命を志して家を出ました。それ以来一〇年近く、妻に一度も会っていませんでした。妻の方もやはり夫を非常に恋しがりました。あとで知ったことですが、情報ルートを通してそのような事実を内偵した日本帝国主義者は、池順玉を脅迫してスパイ活動に引き入れたのです。
ともあれ、姜興錫が妻と劇的な再会をすることになったのですから、喜ばしいことであるのは言うまでもありません。あいにく姜興錫は食糧工作に出かけていたので、わたしが彼女に司令部へ来るようにと連絡しました。池順玉に会って見ると、身だしなみが端正で礼儀作法をわきまえた女性でした。わたしは彼女と昼食をともにしました。戦友たちは彼女に、このイワナは将軍が夫人のために自ら釣ったものだから遠慮せずに食べるようにとすすめました。そう言われて、池順玉はかなり驚いた様子でした。どうしたわけか、彼女はご飯を少ししか食べませんでした。たくさん食べるようにといくらすすめても無駄でした。
わたしは彼女に、話相手として女子隊員を一人付けてやりました。二人は同じ毛布にくるまって夜明けまで語り合ったようでした。この夫婦の再会をひかえて、隊員みなが祝い事でも迎えたようにはしゃぎました。一〇年近い歳月、困難な武装闘争をつづけた末の再会だったので、わたしも祝福してやまない気持ちでした。戦友のすべてが姜興錫の帰りを待ち遠しく思っていたものです。
ところが池順玉に会ってみて、疑わしいことが一つありました。 彼女が夫の居所をどうして知り、死地にひとしい山中をどう訪ねてきたのかということです。言うなれば、われわれの部隊の位置をどうして正確に探し当てることができたのかということです。池順玉と話を交わした人たちも、彼女の話すことはつじつまが合わないと言うのでした。
彼女が密営に来て三、四日経ったとき、呉仲洽と呉(オ)白(ベク)竜(リョン)が息せき切ってわたしのところに駆けつけてきました。呉仲洽は、人情にかられて確認もせずに日本の密偵を司令部へ連れてきてしまった、と青天のへきれきのような報告をし、自分の失策をわびたのです。呉白竜は、革命軍の小隊長の妻たるものが遊撃隊を援助できないまでも、日本帝国主義の手先となって来たのだから、こんなひどいことがどこにあるか、すぐさま銃殺してしまおう、と息まきました。
彼らの話によると、姜興錫の妻と寝起きをともにしている女子隊員が、池順玉の挙動にいぶかしいふしがあり、話もつじつまが合わないので怪しみ、夜中に彼女の服を手探りで調べたところ、縫い込んだ毒薬袋を発見したということでした。敵の毒薬攻勢をうんざりするほど体験していたので、隊員たちはそれをすぐ判別できたのです。毒薬の袋が発見されたことを本人は気づいているのかと問うと、気づいていない、それで、ただ監視だけつけておいたと言うのでした。
わたしは、その話を聞いて大きな衝撃を受けました。しばらくのあいだ心を鎮めることができませんでした。日本の密偵や破壊分子がわれわれの部隊に潜入して摘発された実例は、もちろん以前にもありました。摘発されたスパイのなかには、われわれとは敵対関係になりえない勤労者階級の出身も少なくありませんでした。日本帝国主義者は純朴な作男や労働者にもスパイの任務を与えて派遣したのです。しかし、革命軍に夫を送り出した女性を、それも革命軍で小隊長を務めている人の妻を密偵に仕立ててわれわれの軍営に送り込んだ前例はありませんでした。革命軍小隊長の妻がスパイの任務を受けてあらわれたというなら、それこそ重大事件です。日本の諜報謀略機関の要員は、じつにたちの悪い連中でした。わたしは、姜興錫がこの知らせを耳にすれば、どんなに驚くだろうかと思いました。まかり間違えば、家庭がめちゃめちゃになるおそれがありました。
わたしは、呉仲洽と呉白竜の反対を押しきって、もう一度池順玉に会いました。そして、彼女と比較的長い時間、話を交わしました。姜興錫の家庭の近況や革命軍を訪ねてくるときの苦労、そして彼女の実家の様子などを聞きました。話題は自然に姜興錫の話に移りました。わたしが、姜興錫は明日か明後日あたり工作地からもどるはずだと言うと、池順玉は急に顔をおおってわっと泣き出してしまったのです。そして自分の手でチョゴリの縫い込みを解いて毒薬袋を取り出すと、「将軍さま、わたしは天罰を受けるべき女です。殺されてもなんとも言えない女です!」と全身をわなわな震わせました。わたしは彼女に水を一口飲ませて気を落ち着かせました。そして、あなたが自白したのは幸いなことだ、自分の罪を正直に告白する人にたいして革命軍は寛大に処理する、ましてあなたは姜興錫小隊長の妻ではないか、だから怖がらずに話したいことは全部話しなさい、どういう経緯でスパイになり、スパイになってからどんな訓練を受け、革命軍を訪ねてくるときにどんな任務を受けたのか詳しく話してみなさい、と言いました。すると池順玉は、スパイにさせられたいきさつと訓練の内容、任務と入山の経緯などを具体的に自白しました。

後日、この光景を目撃した呉白竜は、そのときのことを回想してこう語っている。
「あのときわたしは、寿命が一〇年も縮む思いだった。背筋が寒くなり、全身に冷汗をかいた。毒薬を持ってあえて将軍の前に現われるとは…それを炊事釜か食器にそっと入れたとしたら、どんなことになっただろうか。あのちっぽけな女が朝鮮革命をすっかり台無しにするところだった。考えただけでもぞっとする」
抗日革命闘士たちが池順玉を回想することすら嫌う理由は、まさにここにあった。
琿春駐在の日本領事が作成した情報機密資料には、池順玉をスパイとして派遣した目的とその他の状況についてつぎのように記されている。
三 派遣ノ状況
一 指令ノ内容
(一)姜興錫ノ獲得ニヨル内部分裂工作
(二)幹部ノ毒殺
(三)匪ノ取調ニ対シテハ父母ノ強要ニ依リ夫ニ面会ノ為メ入山セルモノナルコトヲ告グルコト
二 連絡ノ方法
本人並ニ本人ノ獲得セル匪側人物ニ於テ特務科片田警佐或ハ南警
尉ニ直接連絡スルコト
三 入山日時及場所
父母ニ対シ本工作ヲ承諾セシメ八月五日ヨリ同九日迄五日間延吉ニ於テ本人ニ対シ各種必要知識ニ務メ八月一〇日係員同行匪ノ潜伏地ト目セラルル和竜県孟河洞西南方一〇八八高地並ニ西方依蘭溝方面ニ目標ヲ置キ(八月八日午后一〇時金日成主力部隊一二〇名ガ和竜県竜沢村ヲ襲撃シ西南方密林地帯ニ逃走シタルニ依リ斯ク判断セリ)入山セシメタリ
四 帰来予定
不明ナルモ概ネ二、三箇月ヲ要スル見込」(「琿領情機密第一八六
号、昭和一五年七月二六日 琿春領事 木内忠雄報告」)

日本の特務機関では池順玉を「生間」と呼びました。「生間」とは『孫子兵法』に出てくる言葉で、必ず生還すべき間諜という意味です。池順玉を「生間」に選んだことからして、敵は彼女に相当の期待をかけていたようです。彼女を職業スパイとして利用しようとしたのかもしれません。
彼らは池順玉に、おまえの夫は遊撃隊の機関銃射手になって多くの皇軍を殺したのだから、その罪は三代を滅尽してもなお拭いきれない、しかし、おまえが共産軍部隊を訪ねていって夫を帰順させ、われわれが与える任務さえ遂行するならば賞金もたくさんやり、よい暮らしができるようにしてやる、と言いました。三代を滅するというのには池順玉もどうすることもできませんでした。 わたしは彼女の自白を聞いて胸が痛んでなりませんでした。彼女が哀れにも思われました。わたしは女性の心に秘められた清らかな愛情と純情まで、われわれとの対決にためらうことなく悪用する日本帝国主義者の卑劣さと悪らつさに怒りをおさえることができませんでした。革命を圧殺するための帝国主義者の手段と方法には限りがありません。革命隊伍を内部から分裂、瓦解させるためには父母妻子の愛情、兄弟の愛情、師弟の愛情までも悪用するのが、まさに日本帝国主義者の習性なのです。彼らは朝鮮民族の魂を踏みにじってもなおあき足らず、朝鮮人民の美しい人情の世界まで焦土化しようとしました。いわば、朝鮮人を野獣化しようとしたわけです。
われわれの武装闘争は、外部勢力によって強奪された領土と国権を取りもどすたたかいであったばかりでなく、人間を守り、人間的なすべてのものを守るための野獣との対決でもありました。人間を野獣化、不具化、奇形化するのが帝国主義者の本性です。妻にスパイ訓練を与えて夫の仕事の邪魔をさせ、夫の司令官と戦友を毒殺するよう強要するのが、野獣化でなくてなんでしょうか。
この惑星に住む人びとは、いま環境汚染について大騒ぎしています。もちろん、環境汚染が人類を脅かす大きな頭痛の種であることは確かです。しかし、それよりもっと大きな危険は、帝国主義者によって加速化されている道徳の崩壊と人間汚染です。この世界の下水道とごみ処理場では、毎日のように帝国主義反動派とその手先によって、人間の仮面をつけた野獣と奇形児、不具者が生みだされています。人間汚染は歴史の発展を妨げるもっとも大きなブレーキです。
わたしは、うつぶせて泣く池順玉をなだめながら、心配することはない、遅ればせながら自分の罪を悟ったのだから、われわれはあなたを少しも違った目で見ない、強要されてやむをえずしたことなのだから仕方ないではないか、起ちなさい、と言いました。
池順玉がスパイの任務を受けてきた女性であるということが部隊に知れわたるや、密営にいた人たちはみな目を丸くしました。もとよりわたしは池順玉の問題を秘密に付しておくつもりでしたが、呉仲洽と呉白竜が部隊の安全を思い、事を公にして警戒心を高めさせたのでした。
司令部に駆けつけた姜興錫は、密営でひそかに広まっているうわさを耳にして気も触れんばかりの状態でした。彼が自分の手で妻を処刑するといって拳銃を手に息まくので、わたしは何を仕出かすかわからないと思い、彼を説得して自分の連隊のいる紅旗河の奥地へ送りだしました。久方ぶりに会う夫婦をこうして別れ別れにしなければならなかったので、わたしも気が沈みました。
軍長の職責をになっていた陳翰章のような人でさえ、自分を帰順させようと訪ねてきた父親に乱暴を働こうとしたというのですから、姜興錫の心情は理解して余りあるものでした。度量があり人情にもろい安吉(アンギル)も、どの年だったか、帰順をすすめにきた親族の者を自分の手で処刑しようとし、いさめられて止めたことがあります。
そのようなことが起こるたびにわたしは、むやみに銃をふりまわしてはならない、考えてもみよ、人民のために戦う軍隊が革命的原則を守るのだと、自分の肉親を撃ち殺すならば、そんな軍隊を誰が支持してくれるというのか、敵はまさしく革命軍がきみのような思考方式で親子同士、兄弟同士が互いに敵となって骨肉相争うことを望んでいるのだ、なぜこうした道理をわきまえず、先走ったことをするのかと諭したりしました。しかし、姜興錫の場合はそうした説諭が通じませんでした。そんな事情があって、しばらくのあいだは密営のほとんどの隊員が池順玉を疑って警戒しました。さらには、彼女を当然厳罰に処すべきだとさえ主張しました。
けれどもわたしは池順玉を信じました。彼女は一家を救うために仕方なくスパイの任務を引き受けたのであり、強要と欺瞞宣伝に乗せられ、革命軍にたいする正しい認識をもてなかった女性でした。階級的に目覚めなければ、そういう落とし穴に陥ることもありうるのです。池順玉は革命組織を通じて系統的に教育された女性でもありませんでした。しかし彼女は、わたしと人民革命軍の真の姿を知ると、即刻死を覚悟して罪過を包みかくさずうち明けたのです。もし彼女がひきつづき悪意を抱いていたなら、自白どころか、われわれの食べ物に毒薬を入れたはずです。その機会はいくらでもありました。しかし、池順玉はその道を選ばず、遅ればせながらも自白をしたのです。このような女性は必ずわれわれの味方になるはずであって、敵の味方にはなりえません。
いつだったか金策(キムチェク)から、李啓(リゲ)東(ドン)殺害事件のいきさつを聞いたことがあります。李啓東は金策とともに獄中生活をし、珠河遊撃隊も組織した古い党員です。雲南講武堂出身の彼は戦闘指揮にもすぐれていたとのことです。ところが、そういうりっぱな軍事・政治幹部を周光亜というスパイが殺害してしまったのです。周光亜は遊撃隊に潜入したのち、一部隊の秘書長の地位にまで昇進した者でした。彼は部隊の規律がゆるんだすきをねらって李啓東を暗殺しました。
こうした実例を見ても、隊員たちが池順玉を警戒したのは当然なことです。しかし、わたしは池順玉を赦しました。なぜ赦したのか。自分の罪を自ら告白した彼女の良心を読み取ったからです。人間がこの世でもっとも高貴な存在となるのは、理性と良心、道徳と信義をもった存在であるからです。人間は良心を除いてしまえば見るべきものがありません。人間は良心を汚せば、社会的存在としての人間の価値も失うことになります。
池順玉は一時、良心を汚しはしましたが、自分自身とたたかってその良心を取りもどしました。彼女はわれわれにたいする善意をもって自分の汚点をうち明けた女性です。人間はいったん泥沼にはまるのは簡単ですが、そこから抜け出すのは容易でありません。しかし、池順玉はわたしに助けられ、苦しい自分との闘争を通じてそこから抜け出したのです。これは彼女に更生する力があることを意味します。だというのに、自分の過ちを正直に反省し、再出発しようと決心した人を泥沼に押し込む必要はないではありませんか。革命は人間の良心を守り、輝かすたたかいでもあります。わたしは池順玉のその良心を守ってやりたかったのです。
日本帝国主義者は、家門に革命家が一人いても、その革命家を肉親から孤立させ切り離そうと画策しました。われわれの愛国勢力を手当たりしだい圧殺し、分解させ、各個撃破しようとするのが彼らの終始一貫した策略でした。彼らは、朝鮮民族内部の血縁的つながりを「帰順工作」に悪用したりもしました。彼らの終局的な目的は、共産主義者を人民大衆から切り離すことです。そのためのもっとも悪らつな方法の一つが、骨肉を互いに警戒させ、憎悪させ、殺し合うようにすることでした。敵のこうした奸計と手法を知りながら、われわれがそれに巻き込まれるならば、これほど愚かな行為がどこにあるでしょうか。それゆえわれわれは、たとえスパイの任務を受けた人であっても、国と同胞を売り渡す大罪をおかさない限りはみな赦し、改心させる措置をとったのです。
あるとき、総督府から派遣された密偵がキリスト教徒を装って、われわれを訪ねてきたことがあります。密偵は何袋かの小麦粉を持参し、他郷で苦労している革命軍のためにと朝鮮から持ってきた贈物だから、ギョーザでもつくって召し上がってくださいと言いました。わたしは、その小麦粉を全部使ってギョーザをつくるよう炊事隊員に指示しました。やがて炊事隊員が皿にギョーザを盛ってわたしの前にあらわれました。密偵は、わたしのすすめるギョーザを辞退しました。重ねてすすめると、顔色が真っ青になりました。小麦粉に毒薬を混ぜて持ってきたのですから、当然のことでした。わたしは彼に、あなたは何がそんなにねたましくて、国を取りもどそうと野天で苦労しているわれわれを害しようとするのか、朝鮮人として生まれたからには朝鮮人らしくふるまうべきであって、そんな汚れた生き方をして何になるのか、いまからでも心を入れ替えて再出発することだと諭しました。われわれは彼を山小屋に置いて十分もてなして帰らせました。その後、ある雑誌にその事実が載ったそうです。
わたしは呉白竜の反対にもかかわらず、池順玉を密営にそのまま置いて教育することにしました。そして、しばらくして彼女を裁縫隊へ送りました。大部隊旋回作戦をひかえて六〇〇着の軍服をつくる任務が課された裁縫隊では、人手が足りなくて困っていました。姜(カン)渭(イ)竜(リョン)も裁縫隊に動員されていましたが、彼もやはり池順玉が来るのを快く思いませんでした。それで崔希(チェヒ)淑(スク)をはじめ女子党員たちに池順玉をあたたかく見守り、正しく教育する任務を与えました。彼女たちは池順玉を真心をこめて世話し教育しました。
わたしは中秋の節日をすごして花拉子方面に向かうとき、紅旗河の奥地にいる姜興錫をそこへ呼び出しました。こうして花拉子の深い密林で、ついに彼ら夫婦の劇的な再会が実現したのです。
われわれは、しばらく花拉子にとどまって軍事・政治学習をしました。そのとき池順玉は、われわれがつくった学習教材で熱心に学習しました。彼女は小学校に通ったことのある識字者でした。その後、行軍期間にもへこたれず部隊と行をともにし、炊事当番も務めました。不慣れで骨のおれる生活ではありましたが、彼女の顔はいつも明るく輝いていました。
ところが、万事上々に運んでいたことが突如、悲劇へと急転しました。姜興錫が六棵松戦闘で無念にも戦死してしまったのです。われわれは最初、池順玉にこのことを告げませんでした。彼女がこの大きな衝撃にたえられないのではないかと思ったからです。
池順玉は行軍のたびに、金雲信(キムウンシン)が肩にしている機関銃をときおりじっと見つめたりしました。それは姜興錫が生前に所持していたものでした。戦友たちは、彼が地方工作に行くとき機関銃を金雲信に預けていったのだと言いましたが、それは事実上なんの効き目もない言葉の遊びにすぎませんでした。六棵松戦闘後、われわれは松花江のほとりの森の中で演芸公演を催しました。わたしはそこで、物思いに沈んでいる池順玉の姿を目にしました。
夫を亡くした池順玉をそのまま部隊に残すことはできなかったので、われわれはその後、家へ帰らせることにしました。彼女を帰さないと、その一家親族が禍をこうむりかねないからです。彼女が密営を発つときは、もちろん旅費も与え、道案内も付けてやりました。密林の彼方に姿を消すまで何回となく振り返ってはわたしを見つめていた彼女の姿が、いまでもありありと目に浮かびます。
停戦(朝鮮戦争)後、池順玉がわたしを訪ねてきたということを聞きました。そのときはあまりにも忙しくて彼女に会うことができませんでした。彼女は多分、心さびしい思いをしたはずです。その後はあれやこれやで、時間をつくることができませんでした。平壌まで来て、わたしに会えずに帰った人は一人や二人ではありません。池順玉が悪びれずにわたしに会いに来たのをみると、われわれと別れてからも祖国と民族にたいし、罪となるようなことはせずに生きてきたようです。あのとき彼女に会っていたら、山を降りてからの彼女の生活について詳しい話を聞くことができたでしょう。幸いにも当該部署から『現代史資料』という本が届けられたので、書物を通してではあっても、その経緯の一端を知ることができました。その本を見ると、池順玉が家に帰ってから、自分をパルチザン密営に送り込んだ敵の前でどのようにふるまい、革命軍の内部生活についてどう説明したかが推測できます。
木内琿春領事が上司に提出した報告には、朝鮮人民革命軍の幹部はすべて思想が堅実で、終始革命勝利のための努力に熱中し、隊員はこれに自然とひきつけられ、もっぱら幹部を信頼し、命令に絶対服従していて諸般の工作の実行が容易であるということと、第二方面軍が士気旺盛で団結力があるのは、軍指揮の金日成が猛烈な民族的共産主義思想を有し、頑強で健康なうえに統制の妙術を心得ているところにある、というようなことが指摘されていました。それくらいなら、われわれの部隊の実相が比較的公正に述べられていると思います。それは、池順玉が人民革命軍の生活と隊員たちの精神状態について、偏見をもたず正確に説明したことを意味します。

池順玉が家に帰ったのち、敵側が彼女をいかに取り扱ったかは、木内領事の報告内容のうち、つぎのような事項を見ても十分にうかがうことができるであろう。

「一 所見並ニ処置
一 所見
(一)本人ノ供述ハ現下ノ各種情勢ニ照シ理路整然トシテ一応首肯スルコトヲ得ザレド本人ハ入山当初毒薬ヲ隠匿携行セルヲ発見セラ
レタルニ不拘何等処刑ヲ受ケズ一個年余ヲ匪団ト行動ヲ共ニシタルノミナラズ無事放遺セラレタルハ或ハ匪ノ内意ヲ受ケ偽装帰来シタルモノニ非ズヤトモ思料セラレ今後ノ言動慎重注意ノ要アリ
(中略)
二 処置
(一)池順玉ノ身柄ハ在安図片田工作班長ニ引渡シ隠密ニ監視シツツ偽装帰来者トノ前提ノ下ニ懐柔ニ努メ補足的取調ヲ進ムルト共ニ特別工作ニ別セシメアリ」(「琿領情機密第一八六号、昭和一五年七月二六日琿春領事 木内忠雄報告」)

日本帝国主義者は、池順玉がなんの制裁も受けることなく無事にもどってきたことに、かなり神経を使ったそうです。人間を単なる物言う動物としかみなさない彼らの思考方式では、その秘訣を探り出せるはずがありません。
池順玉を懲罰すべきだと主張する人もいましたが、わたしは彼女の罪を問わず赦してやりました。もしわれわれが彼女を処刑していたら、どうなったでしょうか。彼女の婚家と親類はすべて反動家族という濡れ衣を着せられたはずです。われわれが進める革命は人間を葬るためのものではなく、人間を愛し、保護し、人間性を固守し、それを最大限に発揚させるための革命です。人間を葬るのは容易なことですが、救うのは非常にむずかしいことです。しかし、われわれはいくら骨がおれても、過ちを犯した人に再生の道を開き、人間として真の生活が営めるよう信頼し助力すべきです。人間を人間らしく処遇し、復活させるのがもっとも誉れ高く偉大な革命です。
帝国主義者は人間を石ころのように簡単にすてますが、われわれはもっとも貴い存在として大事にし救いだすべきです。また、いったん信頼した人を見捨ててはなりません。わたしがいつも言うことですが、金(キム)正(ジョン)日(イル)同志の品性のうちでいちばんりっぱな点の一つは、まさに人をとても大事にし愛することであり、一度信頼した人は絶対に見捨てないことです。
いつだったか、金正日同志は下部の幹部に、ナポレオンは「汝ら予を信ずるがゆえに、予また汝らを信ずる」と言ったが、自分はそれとは反対に「わたしはきみたちを信ずる。きみたちもわたしを信ぜよ」と言っていると話していました。これは金正日同志の哲学的信念となっています。つねに人民を信頼し、人民を愛し、人民のために献身する金正日同志に会うたびに、わたしは、わが国と朝鮮人民の将来について安心できると思うのです。

帝国主義者が人間を汚し、人間の運命を台無しにするのを生業としているとき、金日成同志は、共産主義者がもっとも大切に扱い、保護すべきなのは、まさしく人びとの政治的生命であり、人間関係は積極的な愛の原理、信頼の原理、救援の原理で一貫した気高い道徳と信義で結ばれるべきであることを実践を通して示した。これは朝鮮革命の神聖な倫理道徳である。

二 中国人地主 劉通事

解放後、金日成同志は彭真と会見したとき、朝中両国の人民と共産主義者が抗日のスローガンを高くかかげて武装闘争を展開した時期を感慨深く回顧した。彭真は、民族解放をめざす共同闘争で朝鮮人民と朝鮮の共産主義者の発揮した気高い階級的友誼とプロレタリア国際主義精神を高く評価し、余談として東北解放作戦当時、多くの中国人地主が朝鮮人民革命軍司令官金日成という署名捺印入りの確認書を差し出し、かつて自分たちが抗日連軍を援助したことを力説したと語った。東北解放作戦当時、彭真の職責は東北民主連軍政治委員であった。その後、金日成同志は、抗日革命闘争史の研究者がその確認書にかんして提起した質問に答えて、つぎのように回想している。

確認書の話が出たので、劉通事のことが思い出されます。劉通事についての話を聞けば、援軍確認書がどんなものであったかがよくわかるでしょう。
劉通事は、われわれが白頭山の東北部へ活動舞台を移した後、和竜県で会った有名な中国人の富豪です。長白県で会った朝鮮人の愛国地主金(キム)鼎(ジョン)富(ブ)に劣らず、われわれと深いかかわり合いをもった人です。彼の本名は劉依賢です。朝鮮語が母国語のように流暢に話せるので、中国人と朝鮮人との意思の疎通が必要なときは、自ら通訳を買って出たりしました。それで、人びとは彼を劉通事と呼んだのです。通事とは現代語でいえば通訳という意味です。
われわれは白頭山東北部へ移動して烏口江戦闘を終えた後、和竜と国内の三(サム)長(ジャン)地区、安図県一帯をひと巡りし、烏口江密営にとどまって政治・軍事活動を猛烈に展開しました。その当時、基本部隊はよそへ行き、司令部にいたのは機関銃小隊と警護中隊だけでしたが、食糧不足で困難に直面していました。密営付近に住んでいた朝鮮人はみな貧しい農民で、われわれを助けようにも助ける力がありませんでした。工作員の話によれば、われわれの部隊が敵の管轄区域である和竜県にあらわれるや、彼らは「革命軍が米を奪っていく」と宣伝し、数か所に食糧を集めては一日一人当たりの食糧消費量を定め、村から荷車を引いてくる代表に二日分ずつ支給しているとのことでした。はては、県内の住民に石油を二瓶ずつ準備させ、革命軍が来て食糧を求めたらそこにふりかけるよう強要しているというのです。
わたしは食糧問題の解決策を求めて苦心している最中、ある村に出向いて住民と話を交わしているうちに、以前、小汪清遊撃区に住み、遊撃区が解散したとき和竜県に来たという人に会いました。その人と話し合う過程で、中国人富豪の劉通事について詳しく知るようになりました。劉通事さえ獲得すれば、反日愛国勢力を掌握するのにも有利であり、給養物資も解決できそうでした。ところが、朱(チュ)在(ジェ)日(イル)や姜(カン)渭(イ)竜(リョン)のように入隊前に和竜に住んでいた人は、彼に期待をかけてはならないと言うのでした。そして、劉通事は一時、自衛団長まで務めた悪質な反共分子だから、懲罰しようという意見まで出しました。朱在日と姜渭竜は、劉通事の内情を比較的詳しく知っていました。
彼らの話によると、劉通事の一家は和竜県都から約一二キロ離れた牛心山のふもとに住んでいるとのことでした。その村の名を竜潭村といったようです。劉通事の家は四隅に砲台を築き長い土城をめぐらしたものものしい邸宅でした。当時、劉通事の兄はすでに七〇を越した老人で、家門の長老として大切にされており、次男の劉通事自身は一家の柱として官庁などに出入りし、主に外の仕事を受け持っていました。そして三男の劉依清は執事をおいて財産の管理にあたっていました。

抗日革命闘士の李(リ)鳳(ボン)緑(ロク)や朴(パク)正(ジョン)淑(スク)の話によると、劉通事の一家は土地だけでも一〇〇垧(垧は中国の土地面積の単位)も所有していたそうである。一垧が三,〇〇〇坪であるから一〇〇垧なら三〇万坪、すなわち一〇〇ヘクタールに及ぶ広大な土地である。そのうえ、大豆油工場、唐麺工場、醸造場などを経営し、いくつもの商店を持っていた。和竜市内には百貨店、飲食店、塩専売店などを構え、代理人に運営させていたという抗日革命闘士たちの回想談もある。

劉通事一家は財産家としても知られていましたが、反共をモットーとしていることでも有名でした。和竜出身の遊撃隊員たちは、この一家の人を指して「悪質のなかでもまたとない悪質」だと言いました。劉通事の息子が和竜市内で満州国の警察官を務めていることだけ見ても、この家がどんな家かわかるではないか、と言うのでした。劉通事の息子は警察官の権勢をもって人夫や小作人たちを銃剣で抑えつけ、またその父親の劉通事は、共産党と関係があると思われる者を息子の勤める警察署に知らせて尋問させたり、小作権を剥奪するといった方法で生きる道を断ってしまうというのです。
しかしわたしは、劉通事一家をただちに懲罰し、その家産を強制収奪しようという一部の人の意見に同意しませんでした。それは金鼎富との関係で得た教訓もあったうえに、劉通事にたいする評価を異にする人もいたからです。それで、劉通事について深く把握もせず、下手に処理することはできませんでした。
わたしが劉通事について違った視点で見る余地があると感じたのは、彼が朝鮮語に通じているということと、民衆とわだかまりなく交わるという点でした。また、ある人の話では、官庁で朝鮮の小作人のことで問題が起こると、自ら通訳を買って出ては、小作人の味方になってくれることもあったということで、これもよいことであって悪いことではありませんでした。なかには彼が国を失い異国の地で苦しい暮らしをしている朝鮮の小作人を哀れに思い、特別に面倒をみてくれていると言う人もいました。牛腹洞に住む劉通事の妾が朝鮮の女性だという話もあり、それも興味をひく話でした。
異郷に住む朝鮮の農民を同情し、朝鮮の女性を妾宅にかこっておき、朝鮮語と朝鮮の風俗まで好む人がなぜ、ある人たちからはまたとない悪質地主と評されているのか。同情深い劉通事がなぜ、朱在日や姜渭竜のような家庭には警察署通いをさせ、つらくあたったのか。わたしはこの謎を解くために隊員たちを竜潭村へ派遣しました。彼らは竜潭村に行って劉通事について多くのことを調べてきました。その結果、劉通事が共産主義運動をする人と反目するようになったのは、ほかならぬ五・三〇暴動のためであったことがはじめて明らかになりました。
周知のように、五・三〇暴動のときの極左冒険主義者の乱行は目に余るものがありました。土地を少しでも持っている人にたいしては、親日であれ反日であれ一律に攻撃の対象としたではありませんか。彼らに扇動された暴動参加者は地主の家の門をたたきこわし、穀物倉庫に火を放つなど、さまざまな妄動をあえてしました。そうした極左的な妄動は、共産党のイメージをすっかりそこなってしまいました。それ以来、劉通事は共産党を不倶戴天の敵とみなし、共産主義運動家がいそうな家にたいしては情け容赦なく迫害を加える一方、地主を保護してくれる軍閥とはいっそう親しくするようになったのです。九・一八事変後、間島地方に遊撃根拠地がつくられ、共産党が赤色区域と白色区域を区分して白色区域の住民を敵視しているという話を耳にした劉通事は、ますます反共へと突っ走りました。彼は満州で主人顔をする日本人も憎み、共産主義者も憎みました。そして「共産党はわたしの宿敵だ」と口ぐせのように言っていたといいます。
わたしは、彼が一時的な誤解から反共に走ってはいるが、よい影響を与えさえすれば反共から容共、愛国の道に立ち直らせることができると考えました。劉通事は、日本帝国主義が満州を占領した後、自分の家の私兵を解散させ、武器を回収していったことに不満を抱いていました。わたしは彼のこの反日感情にとくに留意しました。
わたしは懲罰や財産の没収ではなく、劉通事の反共意識を正し、反日愛国精神をいっそう助長し、朝鮮革命の支持者、後援者に教育、改造しようと決心しました。それで、彼のところへ第七連隊の呉(オ)日(イル)男(ナム)を責任者とする工作グループを派遣しました。呉日男は劉通事に会うと、金日成将軍が通事との面談のために自分を派遣したのだが、この要望に応じる意向はないかと問いました。すると劉通事は苦笑いしながら流暢な朝鮮語で、「捕らえていくなら黙って捕らえていけばいいものを、なぜ面談というべールをかぶせるのだ。共産軍の隊長が地主との面談を要望するのは、捕らえていくとは言えないからだろうが、あんたらが和竜県内に出没しているといううわさが立ったときから、この劉依賢はもう、まな板の上の魚も同然だと覚悟していた。わしはすでに死を覚悟しているのだから、相談だのなんだのと回りくどいことを言わず、殺すなり引っ張っていくなり、財産を奪うなり、勝手に処理しろ」と言ったそうです。彼は多分、呉日男の工作グループが自分を拉致しに来たものと思って毒づいたのでしょう。じいさんの傲然たる構えはひととおりのものではなかったそうです。
劉通事のあまりもの態度に、呉日男は最初、今度の工作は失敗だとまで思ったそうです。劉通事がたてつけばたてつくほど、呉日男はなんとしてでも、このじいさんを抱きこんで司令部に連れていこうと決心しました。彼は、朝鮮人民革命軍は五・三〇暴動のとき反日と親日、愛国と売国を区別せず金持ち一般を手当たりしだいに襲った人たちとは質的にまったく異なる真の共産主義者の集団であり朝中人民の民族的解放と生命財産の保護を神聖な使命としている軍隊であることを説明したあと、通事が司令部の要望にどうしても応じられないというなら、このまま黙って引き下がることにすると言いました。呉日男がいざ引き下がると言うや、劉通事はしばらく口をつぐんで深く考えこみました。そして態度を変え、どうせのことなら腰を下ろして時局談義でも聞かせてくれればよいではないか、そんなふうにあっさり行ってしまうくらいなら、ここまで来る必要はなかったではないかと引き止め「金司令がわしとの面談を要望しているのが確かなら考えてみよう」と言いました。多分、後のたたりが怖かったのでしょう。そのうえ呉日男の物腰が上品で、時局談義もなかなかのものなので、劉通事も少々好奇心をそそられ、怒りがやわらいだのでしょう。
「金司令部隊が戦上手の部隊だという話は、わしもよく耳にしている。だが金司令も共産党だというからには、金持ちを憎む本性には変わりないだろう。もっとも、ちょっと小耳にはさんだ話もあるし、またあんたらの話とやり方を見ると、ほかの軍隊とは少し違うことは確かだが…ともかく金将軍のお呼びだというから、行くには行く」
劉通事はこう言ってから、自分を連れていくなら後ろ手に縛って罪人を護送するような格好にしてくれ、わしが自分から金司令の要望に応じておとなしく付いていったことを日本人が気づいたら、討伐隊を送ってわしの首をはねるかもしれない、わしの一家も無事ではいられないだろう、だから拉致する格好で連れていってくれ、と言うのでした。呉日男はそれは妙案だと思いながらも、ためらわざるをえませんでした。彼がわたしから受けた命令は、劉通事をおだやかな方法で連れていくことであって、捕らえていくことではありませんでした。司令部の承認を得ずに彼を縛って連れていくなら、長白県で金(キム)周(ジュ)賢(ヒョン)グループが金鼎富に強引な手を使ったときと同じ事態をまねきかねないと彼は判断したのです。呉日男がそう判断したのは幸いでした。
報告を聞いてみると、劉通事が出した案は妙案だったので、それに賛成しようと思いました。ところが、一部の指揮官が、劉通事の案どおりにすれば警察官を務めている息子が騒ぎを起こしかねないし、守備隊まで出動して大騒ぎになるおそれがあると言いました。竜潭村で銃声をあげれば、和竜県都の敵が増援軍を急派するはずです。劉通事の案どおりにするには、舞台を広げ、作戦のスケールを大きくする必要がありました。わたしは劉通事の家がある竜潭村を中心に、三つの村の敵を同時に襲撃することにし、第七連隊、第八連隊と警護中隊まで全部率いて出陣しました。
わたしは劉通事のあいやけの住む竜潭村の隣村に指揮部を定めて作戦を指揮しました。作戦に先立ち、われわれは最初の計画を変更し、家内の諸事を取りしきっている劉通事は当分のあいだ家に居残らせ、その代わり彼の弟の劉依清を連れていくことにしました。そうすれば、劉通事の息子と軍警の神経をさほどとがらせることなく、劉通事を連れ出すのと同じような効果が得られるだろうと考えたからです。劉依清には子だねがありませんでした。中国人には古来、兄弟のうち子だねのない者をいちばん可愛がる固有な風習があったので、劉家の人が劉依清を取りもどす交渉をするという口実でわれわれと連係をとっても、敵やまわりの人から怪しまれるおそれがありませんでした。
作戦は計画どおり成功裏に進められ、各部隊も三つの村からいっせいに撤収しました。部隊が村を発つとき、劉通事は兄の三男を呼び、叔父の世話をせよといって劉依清につきそわせました。劉通事が兄の息子をつきそわせたのは、劉依清をさびしがらないようにしてやろうと思ったからでしょう。密営に引き上げる途中、劉依清がしきりに座り込もうとして手をやかせたそうです。肥満した体で足もとがおぼつかないうえに、アヘンの酔い気が醒めてしまったのでしょう。彼はアヘン常習者でした。それで彼を担架に乗せました。革命軍がアヘン常習者を担架に乗せて数里の道を歩くことなど、想像できるでしょうか。こんなことはめったにないことでしょう。正直な話、そのときわれわれはいろいろと奇妙な体験をさせられたものです。
わたしは警護中隊長の呉白竜に、劉通事の弟と甥の保護に万全を期すよう指示しました。警護中隊の隊員は客用のテントを張り、彼らの面倒をよくみました。食糧難で苦労していたときでしたが、彼らにだけは毎食白米のご飯と肉汁をたっぷり出してやりました。しかし、劉依清はそれをあまり食べませんでした。ぜいたく放題な食事をしていた富豪の息子だから口に合わないのだろうと思ったのですが、理由はほかにあったのです。彼が食欲を落としたのはアヘンを切らしたからでした。劉依清は警護隊員に、ご飯は食べられなくてもいいからアヘンをくれと、毎日のようにせがみました。アヘンさえくれれば金はいくらでも出すと言うのです。しかし隊員たちは、その願いを聞き入れてやることができませんでした。そのころわれわれには、軍医処で麻酔剤の代用として使っていた非常用のアヘンが少しあるだけでした。アヘンのためにいらだちをおさえられなくなった劉依清は、ついに警護隊員に悪罵を浴びせて当たり散らすようになりました。地主の息子が革命軍の密営に来てアヘンを出せとうるさくせがむとは、まったくあきれた話ではありませんか。
わたしは客人を司令部の幕舎に連れてこさせました。彼の形相は見るにたえないものでした。アヘン常習者がアヘンを吸飲できないと、目がとろんとして体もまともに支えられなくなります。わたしは非常用を全部はたいてでも劉依清に毎日アヘンを少しずつ与えるよう軍医処に指示しました。劉依清はアヘンを吸飲するやいなや目に生気を取りもどし、にこにこ笑って快活になりました。彼はこれまで筋肉を使う仕事などしてみたことがないようでした。はなはだしくは寝具のかたづけ方も知らず、甥がかたづけたりしました。それこそ生来指一本動かさず、ぜいたく三昧に暮らしてきた無為徒食の輩だったのです。
ある日、わたしはよもやま話の末に、人間は自分の力に応じて体を動かして働いてこそ、生活の楽しみがあり、食欲もわくものだと話してやったことがあります。昔、ある王女は何から何まで人にしてもらったので、リンゴの皮も自分の手でむけない不具になってしまったという話もあるが、他人に頼ってばかりいると結局、そういう痴呆になると話しました。その話を聞いた劉依清は、自分もその王女と変わりない愚か者だが、一つだけ上手にできることがあると言いました。ギョーザを上手につくる腕があるというのです。その話を聞いてわたしはうれしくなりました。廃人になってしまったと決めこんだ人に、大した技術ではなくても、ギョーザをつくる腕前があるというのですから、なんと幸いなことではありませんか。わたしは司令部の炊事隊員にギョーザの材料を持ってこさせました。劉依清は練った小麦粉を薄く伸ばしては中味を入れ、つぎつぎとギョーザをつくるのですが、その腕前は本当に普通でありませんでした。ギョーザの形も見栄えがしましたが、それがまた目にもとまらぬ早技なのです。わたしは、戦友たちと一緒にそのギョーザを食べながら、彼のすばらしい手並みをほめたたえました。
つぎの日から、劉依清はギョーザをつくる仕事となると、袖をたくしあげ、炊事隊員を手伝いました。そして、そんな日はいつになく饒舌になるのです。ひいては、わたしに冗談を飛ばしさえしました。ある日、ギョーザをつくって幕舎にもどってきた彼は、金司令の言うとおり仕事をしてみると、生活の楽しみがあると言うのです。本心から出た言葉でした。しかし、ギョーザをつくる仕事が毎日あるわけではありません。彼は仕事のない日には退屈しきった表情で、しきりにアヘンを吸いました。わたしは教訓になりそうな話をたくさんしてやりました。アヘン戦争の話から孔子、孟子にいたるまで、さまざまな話をしました。しまいには、中国の歴史に名を残した愛国的な資産家についても話しました。話のはずみで張蔚華や陳翰章のような富豪出身の革命家の名も自然に話題にのぼりました。劉依清は、わたしの話にとても興味深く耳を傾けました。
ある日、彼は筆と紙を所望しました。張蔚華のように革命のために自決はできなくても、金と財物で金司令を援助したいと言って、兄の劉依賢宛に手紙を書くのでした。そして、その手紙をわたしに見せてくれまでしました。手紙の内容を見ると、われわれがその間、彼を人間らしく処遇したことが無駄ではなかったことがわかりました。彼はまず、自分自身と甥が無事であることを伝えていました。そして、わたしと同じ幕舎で寝起きし、ギョーザも一緒につくったりしていることを伝え、革命軍の隊員が自分にたいし実の兄弟のように誠心誠意見守ってくれることを強調し、その間手厚い待遇を受けたので恩に報いなければならないのだが、兄さんが米と布地、履き物などの物資を送ってくれれば、革命軍の活動に大いに役立ててもらえるし、自分らもすぐ家に帰れるだろうと書いていました。彼を教育し啓蒙したかいがあったわけです。
弟と甥を山へやって、それとなく不安の日々を送っていた劉通事は、弟からの手紙を受け取ってたいへん喜びました。そして、いついつまでにそちらで必要とする物資を準備しておくから、荷を運搬する人たちをよこしてほしいと言ってきました。わたしは李鳳緑に一個小隊ほどの隊員を付け、劉通事の準備した援軍物資を受け取ってこさせました。運搬隊がかついできた物資のなかには、数百着の軍服が仕立てられるてんじく木綿や地下たび、それに、白米、小麦粉、煎餅などもあり、豚肉や大豆油もありました。劉通事はわれわれの密営にそういう物資を三回も送ってくれました。
隊員たちとの接触が頻繁になると、彼は正式にわたしとの面談を求め、自分を密営に連れていってくれと言いました。どうせ革命軍を援助するからには、司令に会って挨拶でも交わしたいとのことでした。それで、彼を密営に連れてこさせることにしました。
劉通事が密営に来るとき、警察署に勤める息子は父の出立に反対したそうです。そして、叔父の手紙を受け取って革命軍の密営を訪ねる決心を下したようだが、よくよく考えるべきだ、叔父の手紙によると、叔父と従弟が金日成将軍と同じ幕舎で寝泊りし、ギョーザも一緒につくっているというが、それは信じられない話だ、革命軍の司令官がどうして民間人と寝食をともにすることができるのか、それに叔父は地主の息子ではないか、共産党は地主を打倒の対象としている、革命軍の隊長が敵対階級の息子と寝食をともにし、民家の主婦のようにギョーザをつくるとは、それはとんでもないうそだ、金司令の部下の誰かがそう手紙に書けと強要したに違いない、と言ったそうです。劉通事は息子に、馬鹿なことを言うな、このわしがこのごろ金司令の部下と何回か接触してみたが、彼らは誰もがみな礼儀正しく人情味のある若者だった、それでわしは、金司令はりっぱな部下をもったものだと思った、わしにたいする彼らの行動一つ見ても金司令の人となりがわかり、部隊の綱紀がうかがわれる、どうせ革命軍と関係を結んだ以上、ともかく山へ行って金司令に会い、おまえの叔父が書いてよこした手紙の内容が事実かどうかをじかに確かめてみたい、と言いました。
彼はわたしを訪ねてくるとき、上等なラシャ地で仕立てた軍服とコート、長靴と帽子を贈り物として持ってきました。ふたことみこと話を交わしてみると、人格や学識からして弟とは比べものにならない、ただならぬ人物でした。上品でありながらも言行が傲然として威厳がありました。劉通事はわたしに朝鮮語で、山中でさぞ苦労が多いだろうとねぎらい、その間、弟と甥をよく見守ってくれて感謝すると言いました。わたしはわたしで、その間多くの援軍物資を送ってよこし、また老軀をおして訪ねてきてくれたことに謝意を表しました。われわれは劉通事のために別個にテントを張り、そこで弟と甥に会わせました。劉依清は兄に、「共産軍が赤い鬼だというのはたわけた話だ。それはみんなうそだ。世の中にこの人たちのようにりっぱな人はいない。金司令部隊は紳士部隊だ」と、口をきわめて革命軍を称賛しました。彼はさらに、金司令のおかげで自分は開眼したとまで言ったそうです。劉依清がわれわれのことをどんなに宣伝したものか、劉通事は弟に会ってわたしのところに来ては、重ね重ね謝意を表しました。
わたしが劉通事に会ってみていちばん驚いたのは、彼が朝鮮語と朝鮮の風俗ばかりでなく、朝鮮の歴史や文化についても非常に詳しいということでした。それで、彼とはよく話が通じました。劉通事の話のなかでいちばん胸を打たれたのは、国を奪われ、異国の地で苦労している朝鮮人を目にするたびに、同情心を禁じえないという彼の言葉でした。わたしが中国人を好み愛しているように、劉通事も朝鮮人を非常に愛していました。劉通事はだしぬけにこんな質問をしました。
「ちまたではいま、金司令部隊を『共匪』と言っています。金司令が共産党だというのは本当ですか」
「人民革命軍を『共匪』というのは日本人の言うことですが、わたしが共産主義者であることは事実です」
「それでは、いままで反共の側に立ってきたわたしを、金司令はどう思いますか」
彼がわたしに会おうと密営にまで訪ねてきたのは、この質問にたいする回答を得るためであったのかもしれません。それだけに、わたしは熟考して答えなければなりませんでした。
わたしは抗日武装闘争の初期から、反共の側に立つ多くの人と談判しました。于司令も反共の側であり、呉義成もはじめは反共の側にいました。朝鮮人の梁(リャン)世(セ)鳳(ボン)も愛国者ではありましたが、共産主義者を敵視し、晩年になって容共に踏み切りました。于司令や呉司令、梁司令との談判では、統一戦線のためにわたしがいつも共産主義を弁護し、容共の必要性と正当性を説く立場にありました。容共か反共かという選択権は彼らにありました。したがって、わたしはつねに主動的な姿勢で談判を進めながらも、じりじりする思いで彼らの返答を待たねばなりませんでした。しかし、劉通事との対話では問題が違っていました。わたしは彼の反共行為を糾弾できる位置にあり、劉通事はその判決に耳を傾けざるをえない立場におかれていました。にもかかわらず、彼が自ら自分の反共行為にたいするわたしの立場を知ろうとしたのは、たいへん好ましいことでした。いずれにせよ彼は率直で鷹揚な人でした。
わたしの体験によると、反共には二つの部類がありました。一つは共産主義者が権勢を得れば自分らが滅びると考え、必死になって滅共に執着する人たちの意識的で積極的な反共であり、他の一つは、エセ共産主義者の非行を目撃して共産主義にたいする嫌悪感を抱くようになったり、帝国主義者の悪宣伝を聞いて共産主義を排斥し、敬遠視するようになった人たちの盲目的な反共でした。劉通事の場合は、後者の部類に属するといえました。劉通事を反共から容共に踏み切らせるためには、彼にわれわれの立場を率直に話さなければなりません。援軍物資などを得ようと彼の気に入るようなことばかり話してもならず、また彼が反共の側に立っていた地主だからと、あたまから悪い人間だと決めつけてもなりませんでした。要は、彼の行いでよい点はなんで悪い点は何かということをはっきりさせ、彼が反共に代わって容共、愛国の道を選ぶよう正しく導くことでした。
「通事が反共の側に立っていたことを、わたしは非常に残念に思っています。しかし、われわれは通事を懲罰する考えは毛頭ありません。それは、通事が共産主義者についてよく知らずに反共に走り、また反共に走りはしても中国を愛し、中華民族を愛してきたからです。反共に走っても亡国は望んでおらず、地主であっても国があっての中国の地主であることを望んでいるのが、まさに通事です。わたしはこの点を非常に重視しています。国を愛する人は容共の道に容易に踏み切ることができます」
わたしがこう言うと、劉通事は涙ぐんでわたしの手をとりました。
「金司令、ありがとうございます。この和竜の地に人の数は多く口の数は多くても、わたしに愛国心があるということを認めてくれたのは金司令しかおりません。この評価一つで、枕を高くして寝ることができます」
彼は、自分はこれまで心が狭くて反共に走ってきたが、容共に立つにはどうすればよいのかと聞くのでした。それでわたしは、容共は何も特別なものでない、反満抗日によって革命軍を支援してくれるのも容共だ、通事はわれわれに弟と甥をよこしたその日から、すでに容共に踏み出している、心から国を愛し民族を愛する人は結局、みな共産主義を理解し、共産主義者と手を握るようになる、共産主義者も国を愛し、民族を愛するからだ、朝鮮の地主にとっても中国の地主にとっても、容共抗日は第一の愛国大事である、と話しました。劉通事は、金司令のおかげで遅まきながら自分の値打ちを知ったことが、どんなに幸いなことかしれないと言いました。
つぎの日から、彼は妙に無口な人になってしまいました。どこか具合が悪いのかと尋ねても、ただ違うと答えるだけでした。わたしは呉白竜を呼び、その間、警護中隊が劉通事を世話する過程で何か不始末はなかったかと聞きました。呉白竜が言うには、別にこれといったことはなかった、劉通事が密営をひと巡りさせてくれというので、訓練状況も見せ、娯楽会も見物させた、ただ炊事場に行ってコウリャンと山菜を半々に混ぜて粥を炊いているのを見て、少し気分を悪くしたようだとのことでした。劉通事は、自分が数十石の米を送ったのに、なぜ米の飯を炊かずにあんな物を食べているのか、米を節約しようと粥を炊くならもちろん理解できる、しかし食糧が足りないからと、司令官にまで粥を差し上げるのは道理に反することではないか、と言ったそうです。司令官が部下と同じ釜の飯を食べるということが、多分、彼に大きな衝撃を与えたようです。彼は軍医処を見てまわり、そこで患者の治療に使う非常用のアヘンを自分の弟に使わせたということまで知ると、ますます感激してやまなかったそうです。
わたしは呉白竜の話を聞いて、劉通事の一行を家に帰らせなければならないと思いました。ところが劉通事は、自分が先に家にもどり弟と甥は当分のあいだ密営にとどまらせてくれ、と頼むのでした。われわれの部隊により多くの物資を送りたいのだが、そのためには、革命軍に物資を渡す口実をつくらなければならないというのです。弟と甥が密営に残っていれば、物資を送ったことが発覚しても、日本人に弁解する口実ができるということです。劉通事がありもしない口実をつくってまで、われわれをもっと援助すると自ら請け合ったのはたいへんありがたいことでした。心から信頼されれば、その信頼に報いようと手をつくして努力するのが人間の本性なのだと思います。
劉通事との別離にさいして、わたしは簡素ながらも送別会を催しました。彼はその送別会で、自分が共産主義者一般を敵視し、人民革命軍を「匪賊」と誤解していたことをわび、今後革命軍を助けることなら、金でも物資でも惜しまないと言いました。
彼はわれわれと別れるとき、今後八路軍が東北を解放した場合、自分が朝鮮人民革命軍を物質的に支援したことを認めてもらえるよう確認書を書いてほしい、と言いました。わたしは絹の布に漢字で、劉通事はりっぱな愛国志士である、抗日連軍を物心両面から援護したと書き、その下に司令官金日成と記して捺印しました。彭真が見たという証書はほかならぬ、そういった確認書だったろうと思います。
当時、満州地方の少なからぬ中国人地主は、うわべは日本人に協力するかのように見せかけましたが、裏ではひそかに抗日闘争に立ち上がった人たちを援助しました。彼らは、やがては日本帝国主義が敗北し、かいらい満州国が再び中国に帰属する日が来るという望みをすてずにいました。中国人地主は「ツーシーガン」といって、人民革命軍を助けては必ず確認書を書いてくれと頼みました。それでわたしは、そのような証書を長白県の地主にも書いてやり、額穆県と敦化県の地主にも書いてやりました。もともと、中国語の「ツーシーガン」という言葉は「猪」「食」「糠」の中国式の字音で、猪が糠を食べるという意味です。ところが、これを「朱」「食」「康」と書けば、それも発音は「ツーシーガン」となりますが、この場合は「朱徳が康徳を食う」という意味になるのです。当時、八路軍を朱徳と毛沢東の姓をとって朱毛軍と呼んでいました。康徳は日本人が樹立した満州国皇帝薄儀の年号です。中国人は、八路軍が東北を解放するという意味の隠語として「ツーシーガン」といったのです。
劉通事がわれわれのところから帰って以来、烏口江密営には以前よりもはるかに多くの援軍物資が入ってきました。彼は各種の援軍物資を惜しみなく自動車で送ってよこしました。それらの物資は、われわれのその年の越冬準備に大きな助けとなりました。劉通事は、自分の弟が軍医処の非常用アヘンを消費した代償として、木枕ほどのアヘンの塊まで送ってよこしました。われわれは、その年の中秋を間近にして劉通事の弟と甥を帰らせました。劉依清はわれわれと別れるとき、涙をこぼして泣きました。彼は、家に帰ったらまずアヘンと縁を切って人間らしく生きると言いました。
彼らを帰らせた後、われわれもすぐ烏口江密営を離れました。その後、劉通事兄弟とは二度と連係をもつことができませんでした。しかし、わたしはいつも劉通事を忘れなかったし、彼が良心的に生きていくものと信じました。劉通事の親戚で甥にあたる劉振国という人がいましたが、彼が党歴史研究所宛によこした手紙によると、劉通事もこの世を去る日までわたしを忘れず、しばしば回想していたそうです。彼は密営から帰った後、自分の抗日意志をはっきりと示し、われわれのことも大いに宣伝したようです。劉通事は目を閉じる最期の瞬間まで、わたしが烏口江密営で書いてやった証書を家宝として保管していたそうです。彼の死後は弟の家でそれを保管していたようです。その話を聞いて、感慨にふけらざるをえませんでした。あのとき、密営で会って胸襟を開いたのが機縁となって、わたしと劉通事は一生涯、互いに忘れられぬ友人となったのです。結局、われわれは互いに遠く離れていながらも、いつも親しくすごしたことになります。
これは何を物語っているのでしょうか。国も民族も骨肉も眼中になく、ただ個人の利益と享楽のみを追求する資産家とは志をともにすることができないが、国を愛し、民族を愛し、人間を愛する良心的な資産家は、国籍と党派、政見の違いにかかわりなく、われわれの同行者になれるということを物語っています。理念の違いや財産の有無は、人間を評価する絶対的な基準にはなりえません。もっとも普遍的な人間評価の基準があるとすれば、それは祖国愛と民族愛、人民愛、人間愛でしょう。人間を貴ぶ人が民族を愛し、民族愛の強い人が祖国を愛するというのは一つの法則であり、誰も否定できない真理です。この真理を無視すると、対人活動で左右の偏向を犯すようになります。一時、抗日革命闘争史を紹介、宣伝する一部の文章に、劉通事を悪質な反共地主と規定したことがありますが、それは正しい評価とはいえません。出身と経歴のみをみて人びとをみだりに評価したり、彼らの運命を軽率に扱うならば、対人活動で重大な過ちを犯すようになります。愛国者を売国者とみなしたり、革命の支持者を反革命分子に追いやることもあり、それとは反対に、売国者を愛国者に、反革命分子を革命の支持者に見間違うようにもなります。

在米同胞の孫(ソン)元(ウォン)泰(テ)は、ある日、金日成同志の接見を受けたとき、「主席、南朝鮮には資産家がたくさんいます。やがて統一されたら、あの多くの資産家をどうしますか」と尋ねた。そのとき、金日成同志はつぎのように答えている。

外部勢力に依存して民族を売り渡す極端な反動派でないかぎり、彼がどんな人であろうとすべて手を握るつもりです。祖国統一のための全民族大団結一〇大綱領は、われわれのこのような立場を集大成したものです。

三 数十万の「大討伐軍」と対決して

日本帝国主義者は一九三九年の秋から一九四一年の春にかけて、東南部三省「治安粛正特別工作」の名目のもとに朝鮮人民革命軍にたいする未曾有の「大討伐」を強行した。金日成同志はこの作戦を指揮した野副とその管下「討伐」隊長の敗北告白文を読み、関係者に「よく大言壮語する日本軍が、こんなに気抜けしたことを言っているのをみると、あのとき彼らも相当泡を食ったようだ。人民革命軍の苦労は言わずもがなである。生死を分ける決戦だった」として、当時の彼我の対決について詳細に回想している。

われわれが武装闘争でいちばん苦労したのは、一九三〇年代の末から一九四〇年代の初めにかけての時期でした。苦難の行軍のときも苦労しましたが、日本帝国主義者が「治安粛正特別工作」の名目のもとに東南部三省にたいする大々的な「討伐」を強行したときの苦労も並大抵のものではありませんでした。東南部三省というのは吉林省、通化省、間島省をいいます。どの段階の闘争もみな困難かつ複雑でしたが、この時期の苦労は本当に忘れることができません。
われわれは偶然な機会に、敵が一九三九年の秋から長期的な「大討伐」を開始しようとしていることを知りました。そういう情報を提供してくれたのは、同年六月の烏口江戦闘で革命軍の捕虜になった「奉天部隊」のある中隊長でした。われわれは烏口江戦闘で多数の将校と兵士を生け捕りにしました。彼らは、革命軍が自分たちを一人も殺さず、旅費までくれて帰らせるのを不思議に思いました。われわれは参軍を希望する捕虜のなかからしっかりしたものを選抜し、敵軍のなかにあってわれわれに助力する任務を与えて帰しました。そのとき、われわれに教育されて満州国軍にもどった将校のなかに一人の中隊長がいました。われわれに情報を提供してくれたのは、その中隊長でした。彼は、「間島地区討伐隊」が新たに編制され、自分の中隊もそれに編入されたこと、「大討伐」は一〇月初から開始されるが、今回の作戦は前例のない大規模なものであること、革命軍が即刻、対応策を講じなければ甚大な損失をこうむりかねない、ということを知らせてきました。
その情報のおかげで、敵がわれわれにたいする大規模の新たな作戦を準備していることを知り、それに対処する準備を比較的余裕をもって進めることができました。「東南部治安粛正特別工作」の全貌をはぐってみると、その段取りはひととおりのものではありませんでした。まずこの「討伐」作戦は、以前には見られなかった日満軍警一体の「大討伐」として準備が進められていました。この作戦は、関東軍司令官梅津と満州国治安部大臣じきじきの指揮、監督のもとに、二〇余万の日満軍警と各種の半軍事人員を繰り出す大戦争ともいえるものでした。われわれが抗日戦争を宣言して以来、日本帝国主義者は毎年、革命軍にたいする「討伐」作戦を強行してきましたが、その規模は毎年増大する一方でした。一九三四年以後の攻囲作戦と、一九三六年秋からの北部東辺道における「討伐」も相当な規模のものでした。しかし、「東南部治安粛正特別工作」の名目のもとに準備された新たな「討伐」作戦は、それが遂行される地域の範囲からしても従来のすべての「討伐」をはるかに上回るものでした。一九三六年の「北部東辺道治安工作」のとき、佐々木を頭目とする「通化討伐司令部」の作戦地域は一個の省の範囲にとどまるものでしたが、一九三九年の「野副討伐司令部」の作戦地域は吉林、通化、間島の三省と牡丹江省の寧安県まで含むもので、これは結局、四省を包括するものでした。

『満州国軍』に掲載された一文には、「東南部治安粛正特別工作」の準備過程の一端がつぎのように記されている。
「関東軍の予定した予算額は三〇〇万円で、これ以上は絶対に出ないという。討伐開始の第一日である一〇月一〇日、関東軍司令部で、飯村参謀長、満州国総務長官星野直樹、治安部次長薄田美朝、野副少将の代理として北部参謀が会談し、北部参謀は治安粛正計画を説明し、道路の新設補修、通信、集団部落等々について地図を以って説明し、討伐費が三,〇〇〇万円必要である旨を請求した。星野長官は経費は何とかすると約束し、飯沢主計処長も経費は捻出するから是非三省討伐を成功させるよう要望した。その結果、最后的な徹底した治安工作を推進することができたのである」(『満州国軍』蘭星会 四〇〇ぺージ)
「野副討伐司令部」の新たな作戦は、前回の「通化討伐司令部」の作戦に比べ、地域は三~四倍、数量は一二.五倍、費用は一三倍以上で、この数字によっても日本の軍部がこの「討伐」にいかに大きな期待をかけていたかがうかがえる。

日満軍警の首脳部は、この「討伐」作戦をたんなる軍事上の「討伐」のみに局限せず、「帰順工作」と「思想工作」「治本工作」などを結合して、その幅と深度、方法と手段の緻密さからして、従前の「討伐」をはるかにしのぐ空前の作戦にしました。また日本帝国主義者は、「討伐」作戦の開始にあたって、それを「聖戦」または「聖伐」と表現しました。「聖伐」とは聖なる「討伐」という意味ですが、彼らがそういうふうにその「討伐」を美化したのは笑止千万なことです。日本は海外侵略戦争を何回も起こしましたが、宣戦布告をしたことはほとんどなく、また最初からそれを戦争とは表現しませんでした。すべての戦争を「事変」とか「事件」と表現し、その戦争行為を合理化し、合法化するのが彼らの常套手段です。それでいながら、彼らが「東南部治安粛正特別工作」という新たな作戦を「聖戦」とか「聖伐」としたのは、じつに意味深長なことでした。これは、日本の軍部が人民革命軍との対決を一方的な「討伐」とか「粛正」とみなしていた従来の観点から脱して、交戦関係、戦争関係とみなしはじめたことを意味します。

金日成同志は、日本帝国主義者がこの時期になってものものしい総力戦の体制で作戦を展開しなければならなかった理由と、彼らの作戦目標についても述べている。

中日戦争とカルキンゴル(ノモンハン)戦闘での連続的な失敗のため、日本の軍部内はかなり騒然としていました。三か月もあれば終結し、長くて半年なら幕を下ろせると壮語していた中日戦争は、二年がすぎても勝つ見通しがつきませんでした。日本軍の主力は戦争の泥沼に深くはまりこんでいきました。日本の軍部のなかには、中国大陸とカルキンゴルでの敗戦の原因を、軍部内における派閥争いや軍事・技術機材の劣悪さに求める人もいましたが、軍部官僚と軍事専門家のなかには、人民革命軍部隊の後方攪乱作戦とそれによる後方の不安定、補給路の遮断、戦意の喪失などに主な原因を求める人が少なくありませんでした。もっとも、人民革命軍部隊の後方攪乱作戦のため、敵が大きな損失をこうむっていたのは事実です。それで日本人は、これではいかんと思ったようです。彼らは、背後の人民革命軍部隊を放置しておいては、中日戦争も対ソ作戦も成功裏に遂行することができないことを悟ったのです。これは、彼らが抗日遊撃隊にたいする観点を変えざるをえなくなったことを意味します。
このように、日本帝国主義者が「東南部治安粛正特別工作」という新たな作戦を練り、総力戦の体制でそれを実行せざるをえなくなったのは、人民革命軍との交戦過程の総括にもとづく必然的な結果です。敵がこの「粛正工作」で達成しようとした目的は、人民革命軍の各部隊を最終的に掃滅し、存在そのものをなくしてしまうことでした。野副の訓示内容は、人民革命軍部隊を完全掃滅するという壮語に終始していました。彼はその訓示で、これまで数年間、吉林、間島、通化の三省で「討伐」を繰り返したにもかかわらず、遊撃隊が衰退しないので、今回は自分が重責をになって征馬を白頭山に向け、一撃のもとに倒して匪賊の禍を根絶することにした、と大言壮語し、部下に人民革命軍部隊のメンバーを一人残らず掃滅せよと叱咤していました。征馬を白頭山に向け、一撃のもとに倒すというのは、ほかならぬわれわれを念頭においてのことですが、この訓示によって明白に判断できるのは、敵の主要攻撃目標が朝鮮人民革命軍であるということです。
われわれは、総力戦体制下の大規模作戦で敵がどういう戦略戦術を用いるかについても深い関心を向けましたが、日本の軍部が長いあいだわれわれの遊撃戦術を研究、総括してうちだした新たな戦術は、遊撃戦を遊撃戦によって制する戦術であることを看破しました。わたしは、敵が遊撃戦を遊撃戦によって制する陰険な企図をもっていることを、「討匪」工作参考資料を入手した後いっそうはっきり確認することができました。そのころ、敵はわれわれにたいする「討伐」の経験をまとめたこの資料集を各「討伐隊」に配布して十分に研究させていましたが、これは一種の反遊撃戦教範でした。日本の軍部は、反遊撃戦のための特殊部隊に革命軍と同じ服装をさせ、訓練や行動もやはりパルチザン式にさせました。こうした事実は、日本の軍部が朝鮮人民革命軍を掃滅するために、どれほど細密な調査と新たな戦術を模索してきたかをよく物語っています。
わたしは、野副との対決がきわめてきびしい戦いになるに違いないということと、この戦いで勝利するためには必ず、従前とはまったく異なる新しい戦術を案出して適用しなければならないと考えました。数十万大軍の攻勢を破綻させ、革命の持続的な高揚を保つためには、いつにもまして緻密かつ積極的な作戦を保障できる妙策を見つけ出さなければなりませんでした。わたしはその妙策として、大部隊旋回作戦を選択しました。大部隊旋回作戦とは一言でいって、大部隊で秘密コースをたどり、広い地域を旋回する長期的な流動作戦です。ただの旋回ではなく、多様な戦法で敵を討ちながら旋回する作戦です。こうした流動作戦をせずには、二〇万の大軍と戦って勝利するのは不可能でした。
「野副討伐司令部」が張りめぐらした「地区討伐隊」「小地区討伐隊」の網は、吉林、間島、通化の三省はもとより、北満州にある牡丹江省の寧安、東寧、穆稜などを覆いつくしていました。まかり間違えば、この網にかかって抜け出せなくなるおそれがありました。しかし、この網をよく探ってみると、密なところもあれば疎らなところもありました。網をすでに張りめぐらしたところもあり、張りめぐらす過程にあるところもありました。網の目の大きさもまちまちでした。われわれの主な活動区域である間島省には、すべての県に「討伐隊」が配備されていました。
わたしは最初の旋回地域を敦化と額穆の西方に定めました。この両地方には、われわれがつくりあげた多くの地下組織があり、大衆も革命化されていたので、足場にするのに好都合でした。われわれが大部隊でそれらの地方を攻めるなら、敵の注意がそこに向けられるはずです。そうすれば、つぎの進出地域を濛江、撫松、長白方面に定め、そこへ急旋回して再び銃声をあげるのです。敵がわれわれの跡を追って濛江と撫松、長白方面に出てくるとき、われわれは再び間島省の南端を経てもとの場所にもどるというのが、わたしの構想でした。わたしはこうした旋回期間をおよそ一年と見積もりました。旋回作戦は大部隊で断行すべきだというのが、わたしの主張でした。敵を避けるのではなく、われわれに有利な諸所の地点で敵を掃討するのが、この大部隊旋回作戦の目的でした。敵を攻めるときには再起不能にまで追い込むせん滅戦を展開すべきですが、そのためには必ず、大部隊による旋回作戦を展開しなければなりませんでした。
大部隊旋回作戦の遂行にあたって、わたしがとくに重視したのは旋回コースの秘密を守ることでした。コースの秘密がもれた日には、敵の「ダニ戦術」にかかるか、包囲に陥ってたいへんな困難に際会するおそれがありました。それに、この作戦は一つの難間をかかえていました。何かというと、食糧の補給がむずかしいという点でした。遊撃隊が固定した地域で活動する場合は、事前に食糧を確保して密営に蓄えておけばよいのです。しかし、ひと冬中、大部隊で流動しながら活動する場合は事情が違います。食糧問題のめどをつけなければ、大部隊旋回作戦は成立しません。わたしがこの作戦案を構想してから、ただちにそれを公開できず、しばらく留保したのはそのためでした。
わたしは、すでに部隊の移動コースを定めた状況のもとで、第七連隊と第八連隊、警護中隊を動員し、われわれが通過する重要地点ごとに前もって食糧を貯蔵させる措置をとりました。まず、安図県の北部と樺甸県、敦化県一帯に食糧を貯蔵しておくことにしました。そのころはまだ取り入れの前だったので、食糧を手に入れるのは容易なことではありません。取り入れと脱穀がすまなければ食糧を買えないわけですが、それがすんでいないので方法がありませんでした。だからといって、都会の穀物商を訪ねて買うわけにもいきません。わたしは食糧工作に出かける指揮官に、穀物を畑にあるままで先買いしてみるようにと言いました。このような方法で食糧を確保するとすれば、買い取ったあとで、自分の手で畑の穀物を刈り入れ脱穀しなければなりません。全部隊が総がかりになっても手が足りないほど手間のかかる仕事でしたが、この方法をとるしかありませんでした。食糧問題が基本的に解決されたその年の一〇月初、わたしは安図県両江口で軍事・政治幹部会議を開き、白頭山東北部の広い地域で大部隊旋回作戦を展開することを正式に発表しました。
両江口とその付近で活動していたときのことでいま一つ忘れられないのは、ある農民がわれわれを訪ねてきて、一四~一五歳しかならない息子を革命軍に入隊させてほしいと懇願したことです。大部隊旋回作戦のような大きな試練を前にして、少年を入隊させるというのは実際上、熟考を要する問題でした。わたしはその少年に、われわれは昼も夜も行軍しなければならない軍隊だ、一日に一〇里行軍するときもあり、二〇里行軍するときもある、それでもついてこられるか、と聞きました。少年は李(リ)五(オ)松(ソン)を指して、あの兵隊の兄さんが歩くなら自分もついていけると答えるのでした。わたしは農民に、息子を遊撃隊に預けて心配のたねになるのではないかと尋ねました。すると彼は、それくらいの覚悟もなしに息子をどうして革命軍に預けられるというのか、麻に連るるヨモギという言葉もあるのだから、将軍に預ければ安心できる、と言うのでした。少年もしっかりしており、父親もりっぱでした。わたしはその少年を入隊させることにしました。一部の人はわたしに、苦労を買うようなものだと言いましたが、大部分の指揮官と兵士は、司令官があんな少年を入隊させるのを見ると、今度の作戦の成功は疑いないと喜びました。もし今度の作戦が勝ち目のないものであるなら、司令官が進んであんな荷を背負うはずはない、というのが彼らの判断でした。
わたしはその少年を伝令の列に加えていつも連れて歩きましたが、のみ込みが早く行動が敏捷で、目に見えて成長しました。その後、わたしは会議のため両江口へ行くときにも、その少年を連れていきました。会議を終えてすぐ帰路についたのですが、それは平坦なものではありませんでした。野副の第一期「討伐」が開始されたときだったので、厳重な警戒を要する状況でした。それで前方に斥候を立てて隠密に行動しました。ところが鶏冠拉子付近で敵の奇襲に遭いました。鶏冠拉子というのは、峰がニワトリのとさかに似ているところからつけられた名です。その峰がわれわれの前方の左側にそびえていました。その付近の地形は、待ち伏せする敵側にはとても有利で、行軍中のわれわれにとっては奇襲を防ぐのにとても不利な地形でした。もし「討伐隊」がこの一帯に来ているなら、こうした地形を見逃すはずはないと思いました。敵は遊撃戦の方式で抗日遊撃隊を掃討する構えだったので、待ち伏せの陣をはって待機するのも考えられることでした。だからといって、行軍コースを変えて骨のおれる迂回路を選ぶわけにもいきませんでした。わたしは隊伍の前に機関銃をつけさせ、早足で危険区域を通過せよと命令しました。われわれが鶏冠拉子の崖の下まで来たとき、突然、峰の方からけたたましい銃声がひびいてきました。敵は一本道に沿って進むわれわれの隊伍に集中射撃を浴びせてきました。敵の奇襲で「チョコメンイ(ちび公)」というあだなの古参の隊員と金正徳(キムジョンドク)が重傷を負いました。そのとき、わたしは両江口で入隊した少年が心配になって彼の名を呼びました。ところが、なんとその少年が高地の敵に向けて発砲しているではありませんか。あの危急な瞬間に、どこからそんな勇気がわいたのか、まったく驚くばかりでした。少年隊員は「司令官同志、動いてはいけません!」と叫んで、わたしをかばおうとまでしました。わたしは彼に「いや、動くんだ。位置を変えながら撃て!」と言いました。そして近くにある塚のくぼみに彼を引き込みました。そうしているあいだにも、敵弾はひっきりなしに飛んできました。じつに進退きわまった状態でした。わたしは野原の一〇〇メートルほど向こうにくぼみがあるのを発見し、あとにつづけと号令をかけながらそこに向けて走りました。隊員も負傷兵を支えてわたしのあとにつづきました。しかし、そこも安全地帯とはいえませんでした。われわれは川岸に下りてしばらく走り、敵が占めている崖に向かって進みました。隊員たちに、そっちへ進まなければならない理由を説明するゆとりはありません。ただ、先頭に立ち、敵陣に向かって走りつづけました。そのとき、隊員はおそらくおかしく思ったはずです。一〇人そこそこの少人数で敵の大部隊めがけて突撃するはずはないのに、どうする気なのか、というふうにです。しかし隊員はためらうことなく、わたしのあとにつづきました。わたしに隊員への厚い信頼感があったように、隊員もまたわたしへの絶対的な信頼感をもっていたのです。われわれが崖に接近したときから、弾幕は頭上をかすめていくだけでした。隊員たちがわたしの戦術的意図を読み取ったのはそのときだったと思います。敵はわれわれが野原の方へ抜けたものと思い、そっちに向けてめくら射ちをしました。そうして高地から下りてきては、喊声をあげながら野原を包囲しはじめました。そのあいだにわれわれは側面の高地に登りました。野原を三面から包囲した敵は、しばらくのあいだ猛烈な同士討ちを演じていました。
鶏冠拉子での戦闘は、「野副討伐隊」との初の遭遇戦であったといえます。わたしはこの戦闘によって、敵が新たな作戦をひかえてわれわれの遊撃戦術をかなり研究したことをいっそうはっきり知り、大部隊旋回作戦案が戦術的に正しい選択であることを確信しました。鶏冠拉子戦闘は、その年の冬、われわれが遭遇した軍事的状況の縮図であったといえます。
わたしが両江口での会議を終えて帰ってくるあいだに、部隊ではすでに進めていた食糧工作を全部終えていました。裁縫隊員も命令どおり軍服の縫製作業をほとんど終えていました。
われわれは、大部隊旋回作戦の第一段階を敦化遠征とも称していました。この段階のコースは、花拉子から敦化に抜け、つぎに濛江、撫松方面へ向かうものと理解してもよいでしょう。花拉子を発って白頭山方面に行く途中、北方に方向を変えて敦化の奥地を流動しながら大戦闘を何回か展開し、濛江県東牌子か撫松県白石灘の大森林に入って行軍の疲れをいやし、軍事・政治学習もしながら、小寒、大寒の期間を密営ですごすという計画でした。
わたしは第一段階の作戦の準備にあたって、林(リム)水(ス)山(サン)に警護中隊の一個小隊と独立大隊をつけて東牌子へ送り、小部隊を白石灘に送って、密営の設営と大部隊の食糧と被服の準備を担当させました。こうした準備を終えたのち、敦化遠征の途につきました。敦化遠征については、六棵松戦闘と夾信子戦闘を想起すれば容易に理解できるはずです。この二つの戦闘は敦化遠征期間におこなわれたのです。
われわれは大部隊の移動コースを擬装するため、最初、三長方面に行くかのように二道江上流の方へ進出しました。花拉子から二、三里ほど行くと、夜が明けはじめました。川から離れ、足跡を消して近くの森に入り、疲れをいやしました。朝食をとって元気を取りもどしてから、独歩行軍法で白頭山の方へ行軍しました。そうして、内島山付近に着いてからは行軍方向を一八〇度転換し、三道白河の氷をつたって北へ向かいました。敵を再び混乱させるためでした。行軍方向をそのように逆転させると、数回の戦闘に匹敵する効力があらわれます。敵は混乱状態に陥り、あちこちをさまよい、白色地帯に入って凍え死にするか、気力がつきて戦闘力を失うようになります。われわれがこういうふうにデマ情報を流して行軍路を明かしたのは、できるだけ敵をあちこち引きまわして最大限に気力を衰えさせ、寒さと疲労のため身動きができないようにするためでした。牡丹嶺を越えるとき、雪のためにたいへん苦労しました。ぼたん雪が降り積もって嶺の岩肌を氷板にしてしまったので、足が滑って往生しました。そのため、行軍速度がにぶらざるをえませんでした。主力部隊は牡丹嶺を無事に越えて敦化の森に姿をくらましました。
このように、大部隊旋回作戦は最初から艱難辛苦をきわめました。それにしても壮快なスタートでした。われわれは敦化遠征の出だしから、敵を猛烈にたたきはしませんでした。ただ、秘密コースの維持に必要な程度にたたきました。にもかかわらず、敵側は多くの死傷者を出したのです。

金日成同志は、敦化遠征の過程を回想するたびに、行軍途上での反日青年同盟の会議についてもしばしば言及した。

わたしは、敦化遠征の過程で反日青年同盟の会議を招集しました。反日青年同盟は、南湖頭会議の決定にしたがい、共青を発展的に解散して改編した青年組織です。わたしが反日青年同盟の会議を招集したのはそれなりの理由があってのことでした。敦化に行くと、四道荒溝というところがあります。四道荒溝はわたしが吉林監獄から出獄した後、しばらくのあいだ破壊された地下組織を立て直しながら静養したところです。われわれが牡丹嶺を越えて最初に着いたのが、この四道荒溝付近でした。ところが、実情を調べに住民村落に行った隊員が朴得範(パクドクポム)事件にかんする当地の地下組織の反響を聞き取ってきました。
朴得範事件とは一言でいって、人民革命軍の指揮官の一人であった朴得範が革命軍の名誉と引き換えに給養物資を手に入れた事件です。彼らは一時、食糧と被服が欠乏してひどく困っていたそうです。給養物資が切れれば、敵を討つか、革命組織に働きかけて補給するのが人民革命軍固有の方法です。しかし朴得範は戦おうともせず、地下組織に働きかけようともしませんでした。彼は戦闘を恐れる指揮官でした。ですから、卑劣きわまりない方法で食糧と被服の欠乏を打開しようとしたのです。彼の適用した方法は、人前で話すのもはばかられることです。
朴得範は敵の密偵に、一個師団を引き連れてそちらに投降するつもりだが、被服や食糧を切らして困っている、これこれの食糧と布地を提供し、それを指定する場所に運んでくれ、そうすれば服を着替え隊員の元気も回復させてから下山する、しかし、密偵であるきみの保障だけでは信用できないから、食糧と布地を運んでくるとき、われわれの生命の安全を保障できる代表を送ってほしい、と言いました。密偵はそれに同意し、ただちに所属の特別工作班に報告しました。敵はこのかけひきに大いに乗り気になりました。吉林省と敦化県の頭目は、通報を受けるが早く寄り集まって対策を練り、接触地点にそれらしき代表を送りました。朴得範は彼らを迎えて談判しました。談判の最中に配下の指揮官が来て約束の物資が全部到着したことを告げると、彼は敵側の代表を即座に皆殺しにしてしまったのです。
その後、朴得範はこっぴどく批判され、警護旅団に左遷されましたが、組織の信任に背いて一九四〇年、敵に逮捕されると帰順してしまいました。見せかけの帰順が本当の帰順になったわけです。彼は敵側に寝返ったあと「朴特設隊」なるものを組織し、かつての戦友たちを帰順させようと走りまわりました。
朴得範事件は非常に深刻な教訓を残しました。わたしは朴得範が帰順したことを知り、彼が見せかけの帰順を演出したのは偶然なことではないと思いました。見せかけの帰順なるものは、本当の帰順をする要素のある人でなくては考えだせないことです。朴得範の転向は、見せかけの帰順を考えだす人は、いつかは本当の帰順をしかねないということを示しています。
ところで、わたしが重大視したのは、少なからぬ人が卑劣な方法で給養物資を調達した朴得範の行為を何か壮挙でもあるかのように評価していることでした。はなはだしくは、四道荒溝へ偵察をしに行ってきた隊員は、朴得範がすばらしいことをしたのに相応の評価も受けられず、過度の制裁を受けたかのように思っていました。彼はわたしに住民の動向を報告しながらも、朴得範を遊撃隊の名誉を失墜させた指揮官だと言っている四道荒溝の住民を快く思っていない様子でした。彼は反日青年同盟員でした。反日青年同盟員が朴得範の行為を肯定的なものと見るなら、それは危険きわまりないことです。青年活動を担当している指揮官と話し合ってみると、方面軍のなかには偵察班のメンバーのように、朴得範事件を評価する同盟員が少なくないとのことでした。わたしは反日青年同盟員の精神状態に問題があると思いました。同盟員の会合を持とうと指揮官に言うと、彼らは宿営地に着くやいなや全員眠り込んでしまったというのです。それまで、われわれの部隊にはそんなことがありませんでした。宿営地に到着すると全隊員が武器の掃除や軍服の繕い、ひげ剃り、薪拾いをするなど、引き締まった節度のある生活をしてきました。ところが、その夜は全然様子が違っていました。遠征の過程でひどく疲れていたのは言うまでもありません。だからといって、宿営の準備もせずに全員眠り込んでしまってはたいへんではありませんか。こんな精神状態では、流動作戦を最後までねばり強く進めることができません。
その夜、呉仲洽連隊長に一個中隊のテントを空けさせ、そこで反日青年同盟の会議を開きました。会議にはわたしも参加しました。会議では、反日青年同盟員のあいだにあらわれている不健全な思想的傾向が批判され、青年のあいだで困難克服の精神に欠けた傾向、衛生美化に無関心な傾向、文化娯楽活動によく参加しない傾向などが批判され、それを是正する対策が論議されました。わたしはこの会議で、朴得範事件の重大さをあらためて想起させ、個々の隊員が人民革命軍の権威と名誉を損なう行為にたいしつねに警戒心を高め、そういう行為とは原則的立場に立ってたたかうことと、人民との関係を正しく保つことについてとくに強調しました。
この会議を通じて指揮官の自覚も高まりました。少なからぬ指揮官は、宿営の準備もせずに眠り込む隊員を見ても目をつぶり、むしろ同情までして是正対策を立てませんでしたが、この会議を契機に気を引き締めるようになりました。反日青年同盟の会議は、六棵松戦闘と夾信子戦闘のための思想動員活動であったともいえます。そのときの思想動員が大きな効力を発揮しました。会議のあと、六棵松を襲撃したのですが、隊員の誰もがりっぱに戦いました。夾信子戦闘もものの見事に成功しました。この二回にわたる戦闘のあと、隊員たちは、司令官が急に反日青年同盟の会議を招集した理由を知ったのです。
思想活動は仕事がむずかしく情勢がきびしいときであるほど、いっそう積極的におこなわなければなりません。わたしは思想論を主張します。わたしは思想至上主義者であり、思想をいかなる財宝よりも大切にする人間です。二〇余万の大敵との決戦にのぞむとき、何を頼んで大部隊旋回作戦という過大な作戦を立て、それを最後まで強行することができたでしょうか。全軍の一致団結と強靱な革命思想を頼んだからです。われわれに飛行機があったでしょうか、戦車があったでしょうか。人民と隊員と軽火器のほかには何もなかったではありませんか。それで、思想動員をしてから連続戦闘にのぞんだのですが、それが効を奏したというわけです。

金日成同志は遠征の過程で、林水山の怠慢のため最初に計画した作戦を変更せざるをえなくなったことについても回想している。

反日青年同盟の会議に先立ち、金(キム)正(ジョン)淑(スク)と李(リ)斗(ドゥ)益(イク)が司令部を訪ねてきて東牌子密営の実態を報告しました。最初わたしは、敦化遠征に発つとき、東牌子へ行って一、二か月、いちばん寒い時期をすごしてから撫松県と長白県を迂回し、国内を経て和竜に立ち寄り、出発地点である安図にもどるつもりでした。ところが、東牌子に派遣された林水山は、大部隊を迎え入れるなんの準備もしていませんでした。彼は情勢の緊張を口実に、わたしから与えられた任務を遂行しようと懸命に努力しませんでした。それを見かねた金正淑と李斗益が林水山に代わってその任務を遂行しようと努力しましたが、東牌子に行っているメンバーの越冬用程度の食糧しか確保できませんでした。
こうした状況のもとで、わたしは最初に計画した基本コースを利用できなくなったという結論を下しました。食糧もない密営に行って大部隊が居候をするわけにはいきません。事実、そのとき林水山はもうすっかり変質していたのです。その後、結局は敵の懐にころげこんでしまいましたが、裏切り行為というものは一日や二日でできるものではありません。背信も準備がなければならず、思想的腐食の過程がなければなりません。思想の腐敗、変質は一定の過程を経るものです。林水山は二言目には革命を叫びましたが、すでに「恵山事件」以来、思想的に変質していたのです。われわれが彼を信任したあまり、適時に発見できなかっただけのことです。
予備コースとしていた撫松県白石灘は地勢としてはよかったのですが、住民村落から遠く離れていました。密営から一二キロほどのところにいくつかの村落が点在していましたが、そこにはわれわれのつくった地下組織があまりありませんでした。食糧も問題でした。前に派遣した小部隊と呉白竜が松花江の水路を利用して貯蔵しておいた食糧がいくらかありましたが、それは貯蔵場所も遠く、またあとで消費することにしていたものでした。白石灘一帯に先発隊を派遣しましたが、そのほとんどは女性でなければ虚弱者でした。こうした状況のもとで、大部隊が予備コースである白石灘に直行するというのは及びもつかないことです。われわれは抜け出しようのない迷路に入り込んだ状態になりました。寒さはますますきびしくなるのに、設定ずみのコースは準備不足であり、新しいコースを開くには時間的な余裕がなく、敵がわれわれのあとにぴたりとついてくるので、牡丹嶺のふもとに長居することもできず、まったく困り果ててしまいました。食糧さえあれば、他の困難はなんでもたえられました。そういうときにまたも、義人があらわれてわれわれを助けてくれました。地元の人が取り入れせずにいた大豆畑を斡旋してくれたので、急場をしのぐことができたのです。こうして、われわれは六棵松と夾信子の木材所を強襲し、食糧をはじめ各種の物資をろ獲した後、ただちに急旋回して南側にコースをとり、白石灘密営に行き着きました。ここまでが、大部隊旋回作戦の第一段階であったといえるでしょう。
六棵松と夾信子での戦闘は、大部隊旋回作戦の第一段階をりっぱに飾った戦闘でした。山といい谷といい「討伐隊」のすきのない網で覆われた和竜――安図地帯を抜け出しただけでも驚くべきことなのに、電撃的に敦化の敵の主要駐屯地を連続襲撃したわれわれの絶妙な作戦は、敵を唖然とさせました。敵は六棵松と夾信子が襲撃され、部隊が撃破されたという急報を受けて、急遽敦化方面へ兵力を集中しはじめましたが、そのときはすでに、われわれがひそかに南の方に抜けて松花江流域にたどり着いたあとでした。
わたしが第一段階の作戦でもっとも大きな成果と見たのは、六棵松と夾信子の木材所労働者のなかから入隊した二〇〇余名の新入隊員で武装隊伍を拡大したことです。戦闘後、松花江畔の森の中で演芸公演をしたのですが、それが終わってから、荷物の運搬を手伝ってついてきた労働者のなかから、数多くの青年が入隊を志願しました。労働者階級出身の青年のなかからこんなに多くの人を入隊させたのは、抗日遊撃隊の建軍史上はじめての慶事です。入隊したばかりの隊員にすぐには武器や軍服を供給しきれなかったので、彼らを入隊させ次第、赤い星のついた腕章をつけさせました。女子隊員がその腕章を徹夜してつくっていたことが、いまも思い出されます。
白石灘密営での軍事・政治学習は、大部隊旋回作戦の第二段階に属すると同時に、第一段階の総括でもありました。われわれは白石灘で十分な準備をととのえたのち、第二段階の作戦に移行しました。作戦第二段階の活動コースは、白石灘から白頭山東北部の無人地帯である二道白河、三道白河、四道白河地帯を経て国内に進出し、和竜県を経て安図県に再びもどることでした。
白石灘で軍事・政治学習をしている最中に、密営が敵に発見されました。食糧工作隊が麻袋に入れてきた大豆が事を引き起こすもとになったのですが、それはまったく思いがけない不注意からでした。食糧工作隊は麻袋に穴があいたのをいち早く発見できませんでしたが、その穴から一粒二粒と落ちた大豆が密偵の目にとまったのです。
密営を発見した敵が、われわれの部隊にたいする全面的な攻囲作戦を準備しているという情報を受けたわたしは、それに対処する作戦を練りました。まず、ある指揮官に一個中隊を率いて敵地に進出し、両江口を襲撃して下崴子の方へ抜けるように命じました。そして警護中隊の一個小隊には、白石灘の後ろの高地にある各哨所で攻め寄る敵を痛撃して露水河方面へ撤収するよう命令しました。わたしは主力を率いて敵の攻撃開始三〇分前に密営を発って露水河方面へ移動しました。敵を落とし穴に引き入れるためには、われわれが密営にいるかのように見せかける必要があったのです。
敵はわれわれが撤収するやいなや、密営に襲いかかりました。なんの抵抗もない静かな密営を見た敵は、してやったりとほくそえみ、いっせいに突撃しました。それでも警護中隊の名射手たちは射撃せず、敵のなすさまを見ていました。夜が明けると、敵の飛行隊が密営の上空に飛来し、地上で手を振る味方にめくら滅法に爆弾を投下しました。爆弾の炸裂音を聞いて、兵舎に入っていた敵が外に飛び出してきました。それを機に革命軍の機関銃が火を噴きました。敵が企んだ陸空挟撃は、結局、人民革命軍と日本軍飛行隊が協同して日満軍の歩兵を掃討したことになります。
敵が白石灘でひと騒動起こしているあいだに、われわれは悠々と白頭山の方へ南下しながら、追撃してくる敵を露水河で討ち、二道白河を渡って内島山東方の森林に姿をくらましました。その後、花拉子付近の木材所を襲撃し、両江口へ行った中隊と白石灘に残留していた警護中隊のメンバーを集結させました。わたしが茂(ム)山(サン)の三(サム)水(ス)坪(ピョン)へ偵察を派遣したのは、そのときだったと思います。
偵察班は国境警備があまりにもきびしかったため、豆(トゥ)満(マン)江を渡るやいなや、偵察も思うようにできず追撃されつづけ、九死に一生を得て帰隊しました。こうした状況のもとで、大部隊による国内進攻は冒険でした。わたしは、当分のあいだ国内進攻を見合わせることにし、食糧の解決をはかると同時に国内の敵の反応を見るつもりで、大きな木材所を一つ襲撃することにしました。そういう目的で豆満江近くにある大馬鹿溝木材所を襲撃したところ、国内では非常に鋭敏な反応を示しました。わたしは敵が国境警備を鉄桶のようにかためているという報告を受け、追撃してくる敵と数日間交戦しながら、花拉子南方の森林に入りました。その後、紅旗河で前田部隊と一戦を交え、大部隊旋回作戦に一段落をつけたのです。
「野副討伐隊」との対決を、ある地域の軍司令官との対決と見てはなりません。「野副討伐隊」との対決は、すなわち日本の軍部との対決であり、「大日本帝国」との対決でした。敵はいわゆる「粛正大綱」であれほど喧伝した治表、思想、治本の三大工作のうち、どれ一つとして成功させられず、無駄骨をおっただけでした。結局、この対決ではわれわれが勝利したのです。

敗戦後、退役して九州の農村で余生を送っていた野副は、当時のことを回想してつぎのような一文を残した。
金日成部隊は数個の分隊に分かれて行動しつつ、各々金日成部隊と称し、こっちにもあっちにも金日成部隊がいるかの如き偽装戦術を用いた。また金日成なる人本人は一人であろうが、金日成なる名を用いる者は更に幾名かいたため、本物の金日成が如何なる人物であるかをつかむことがむずかしかった」
間島暴動を弾圧し上司の信任を得、「野副討伐隊」で特殊工作任務を遂行していた長島の述懐によれば、彼も朝鮮人民革命軍の神出鬼没の戦術によって苦杯をなめさせられたことがうかがえる。
「私が野副部隊で特殊工作を受け持ったとき、金日成部隊なるものがあるというので確かめてみたところ、この部隊の作戦は絶妙だった。金日成部隊がここに現われたというのでそこへ駆けつけると、今度はまたあっちに現われたという。あたかも金日成部隊が神出鬼没であるかのようであったが、実は一部隊がそれほど速い時間にあちこちに現われたのではなく、部隊をいくつかに分けてあちこちに現われるようにしながら、それらの小部隊にいずれも金日成部隊と名乗らせたのである」
長島はつづけて、朝鮮人民革命軍との苦戦を回想しながら「抗日連軍の高位幹部はみな射殺されるか逮捕または投降したが、金日成だけはよくも…生き残って終戦後北朝鮮に帰り首相まで務め」ていると述べている。

四 呉仲洽と第七連隊

ある年、長編小説『きびしい戦区』を読んでいた金日成同志は、呉(オ)仲(ジュン)洽(フブ)が最期を遂げる場面であまりにも胸が痛んで読みつづけることができず、死別して久しい彼をしのんで夜を明かしたという。金日成同志は、大部隊旋回作戦の第一段階をりっぱに飾った敦化県六棵松戦闘について話すたびに呉仲洽の最期を思い起こし、彼の英雄的生涯を振り返るたびに、抗日革命の日々、朝鮮革命の司令部を死守した第七連隊の決死擁護精神と闘争業績について、深い愛情をこめて述懐している。

われわれが呉仲洽を失ったのは、六棵松戦闘のときでした。その戦闘で中隊長の崔(チェ)一(イル)賢(ヒョン)と機関銃小隊長の姜(カン)興(フン)錫(ソク)も亡くしました。 三人ともわたしが格別に愛し大事にしていた指揮官でしたが、無念にも同日同時に彼らを失いました。抗日戦争の過程で多くの戦友を失いましたが、呉仲洽を亡くしたときがいちばん口惜しく胸が痛みました。
呉仲洽の特徴を一言で表現すれば、声は小さいが影の大きい人だといえます。影が大きいというのは、足跡が大きく残した功績が大きいという意味です。人民革命軍の指揮官のうち、崔(チエ)春(チユン)国(グク)や呉仲洽のように声の小さい人は多分いなかったと思います。声が小さいということは、自分をよく表に出さないという意味にも解釈できるし、もの静かでおとなしいという意味にも解釈できるでしょう。呉仲洽は軍事指揮官としては珍しいといえるほどもの静かでおとなしい性格の持ち主で、声は小さくても仕事は多くする人でした。そして自分をおし立てようとしない謙虚で素朴な人でした。崔春国は花嫁のような人だとよく言われましたが、呉仲洽はそれよりもっとおとなしい人でした。欠点を探しだそうとしても、これとはっきり言えないようなタイプの人物でした。呉仲洽は日常生活ではもの静かでおとなしいように見えても、革命実践となるときわめて果断な人でした。そして、いったん決心をかためれば、水火をもいとわず突進する猛虎のような男児でした。めったな難関など物ともせず、何事であれ最後までやりとげ、課された任務を果たすまでは眠ろうとも休もうともしませんでした。
呉仲洽は正義を擁護する精神に徹している反面、不正とは絶対に妥協しませんでした。彼が他人より早く階級意識に目覚めたのは、正義にたいする強い擁護精神と不正にたいする非妥協性のためだったと思います。
ある年、呉仲洽の家では日照りのため、凶作に見舞われたことがあったそうです。呉仲洽の父親は地主を訪ね、作柄がこうこうだから、今年だけはなんとか大めに見てもらいたいと懇願しました。しかし、吝嗇で悪どい地主は同情するどころか、かえって泥棒呼ばわりをして呉仲洽の父親をステッキで打ち据えようとしました。それを見てたまりかねた呉仲洽は、ステッキを振り回す地主をからざおで殴りつけました。そのとき呉仲洽は一四歳か一五歳だったそうですから、幼いころから彼の正義感がいかに強かったかがうかがえるでしょう。正義感の強い人は階級的に早く目覚め、革命にも早くから身を投じます。そして隊伍の先鋒に立って、生死をわかたずたたかうりっぱな闘士に成長するものです。
呉(オ)泰(テ)熙(ヒ)老の話によれば、呉仲洽は幼いころから独立軍ごっこがたいへん好きだったそうです。彼が住んでいた村は、金(キム)佐(ジャ)鎮(ジン)が白馬にまたがって行き来したところでした。ですから、おのずと独立軍の影響を受けざるをえませんでした。彼は従兄の呉(オ)仲(ジュン)和(ファ)の影響を受けて共産主義思想に目覚めるようになりました。彼が早くから革命に目覚めたのは、国を強奪した者への憎悪心と反抗心が強かったからです。
いま考えても、呉仲洽ほど大胆で勇敢な指揮官はまれでした。昔から名将は、武道を修めるにあたって知、仁とともに胆と勇を重んじ、その培養に努めたといいます。虎がわが子を崖から転げ落とすのはなぜでしょうか。胆力を鍛えるためです。呉仲洽は講武堂に通ったこともなく、道士に巡りあったこともありませんが、抗日の炎のなかで革命家が身につけるべき胆と勇の力を培いました。
彼は一九三九年の中秋を前にして和竜県三道溝付近の金鉱を襲撃したとき、戦場でまれに見るエピソードを残しました。戦闘指揮の最中、呉仲洽は額に敵弾を受けました。ところが、弾が少しそれたせいか、彼は助かりました。額に弾丸を受けても倒れず、戦闘の指揮をつづけたというのは、まったくの奇跡でした。いくらそれ弾だとはいえ、人間の薄い頭蓋骨が弾丸に当たって無事だったというのは信じられないことかもしれませんが、それは紛れもない事実でした。伝令に包帯を巻いてもらったというその傷を、わたしも見ました。戦友たちが呉仲洽に、きみは運がいい、「神様」のご加護を受けたのだと言うと、彼は、日本軍の弾丸は卑怯者の額は射ぬけても、共産主義者の額は射ぬけない、と言いました。
彼が額に敵弾を受けながらも戦闘の指揮をつづけているとき、今度は敵の手榴弾が城壁を越えて隊員たちの足下に落ちてきました。危機一髪の瞬間でした。呉仲洽はすばやくその手榴弾をつかんで、城壁越しに力いっぱい投げ返しました。敵は自分らが投げた手榴弾が投げ返されてくると、度肝を抜かれて四方へ逃げ出しました。呉仲洽はその瞬間を逃さず、隊員たちに突撃命令を下しました。それこそ、いま一つの奇跡といわざるをえません。手榴弾は投擲の瞬間から爆発の瞬間まで、わずか二、三秒の余裕しかない近距離殺傷兵器です。爆発寸前の手榴弾をつかむということ自体がもうたいへんな冒険です。呉仲洽はそういう、ひやひやする冒険を平然とやってのけたのです。この二つのエピソードによっても、呉仲洽がどんな人間であるかを知ることができるでしょう。
呉仲洽は戦上手の軍事指揮官でした。軍事指揮官としての彼の長所は、まず状況判断と決断が速く、戦闘指揮が緻密なことでした。彼はいったん決心すると、ためらうことなく断行する特技をもって、あたかも練達の力士が巧みなわざで剛力の相手を倒すように、いくら優勢な敵と遭遇しても、それに見合った戦術を使って間違いなく掃滅しました。事実、呉仲洽は崔(チェ)賢(ヒョン)や崔春国に劣らぬ洗練された軍人でした。ところが、彼はいつも司令部と一緒に行動していたので、あまり評判が立たなかったのです。
わたしはこれまで数十年間、革命の道を歩んできましたが、呉仲洽のように組織性と規律性の強い人はそれほど見ていません。 彼が組織性と規律性の強い闘士であることは、何よりも上級の命令、指示にたいする絶対性、無条件性によって表現されました。任務を受けるときは「わかりました!」という一言で無条件受けとめ、何事であれ弁解することがありませんでした。呉仲洽はわたしの命令と指示を一分一秒もたがえず無条件、あくまで遂行しました。どこそこへ行ってこれこれの任務を遂行し、いつまでにどの連絡地点に到着せよと命令されれば必ず任務を遂行して指定された時刻に到着し、ときに任務遂行の過程で予期しなかった事態が生じれば、小部隊を残してその任務の遂行にあたらせ、自分は基本部隊を率いてなんとしてでも約束の日に帰還しました。そんなときは、われわれが予定どおり帰隊しなければ司令官同志に心配をかけるといって、隊員を教育し励ましました。
呉仲洽連隊長は、部隊の管理と隊員の教育においても、必ずわたしの指示どおりにする模範的な指揮官でした。あれほど困難な状況のもとでも、彼は正規軍のように部隊を几帳面に管理しました。彼の指揮する第七連隊には、破れた靴やズボンをはいている隊員が一人もいませんでした。行軍の最中でも破れた服を着ている隊員を見つけると、小休止のときにそれを繕わせました。このように部隊管理が徹底していたので、彼の率いる部隊では一件の事故も起きませんでした。
呉仲洽は、わたしが何気なくつぶやく独り言もすべて、司令官の命令や要求として受けとめました。一九三九年の中秋をひかえたある日、わたしは烏口江密営で呉白竜と一緒に散策しながら何気なく、「もうすぐ中秋だな…」とつぶやいたことがあります。ところが、その言葉がいつの間にか呉仲洽の耳に入りました。わたしの意図ともくろみを誰よりも敏感にとらえる呉仲洽はそれを聞き流さず、なぜ司令官同志は中秋が近づいていることを口にしたのだろう、新入隊員が中秋を迎えて故郷を懐かしむだろうと、その節日の準備が気になっていった言葉ではなかろうかと自分なりに解釈したのです。数日後、彼は中秋節日の準備のために戦闘をおこない、多量の食糧と食料品をろ獲してきましたが、そのなかには月餅もありました。わたしが呉仲洽の要望で、第七連隊の隊員と司令部のメンバーに月餅の由来を話して聞かせたのもその年の中秋のことです。
呉仲洽は、わたしの銃声までも正確に聞き分ける忠臣でした。苦難の行軍の途中、集団行軍をしていたわれわれがしばらく分散行動に移ったことがあります。わたしは呉仲洽と別れるとき、春に三水谷で会うことを約束しました。当時、朝鮮人は十三道溝の谷間を三水谷と呼んでいました。
一九三九年の三月初旬、わたしは三水谷のある村落にたいする襲撃戦の指揮をとりました。そのとき呉仲洽はわれわれの銃声を聞きつけ、「あれは司令官同志があげた銃声だ。わずか一個中隊の兵力しかない司令部が露見して敵の包囲に陥るおそれがある。命を賭して司令部を守ろう!」と、先頭に立ってわれわれのいる方に向かって駆け出したそうです。
呉仲洽はもともと実直な人でした。汪清県元家店というところで地下活動をしていた彼が、遊撃隊に入隊して間もなかったころの話を一つしましょう。当時、汪清遊撃隊には銃が足りませんでした。遊撃隊に入隊した人も多く、入隊を希望する人も多かったのですが、銃の不足が問題でした。それで銃を持てない隊員は、劇映画『遊撃隊の五兄弟』に出てくるように刀や槍を持って歩きました。呉仲洽も最初は、鍛冶場でつくった刀を腰にさげていました。汪清遊撃隊では銃を持たない隊員をいつも最後列に立たせました。呉仲洽は歩哨に立つたびに他の隊員の銃を借りましたが、それを少しも恥ずかしがりませんでした。彼が何か月間も刀を持つだけだったので、戦友たちは彼を見るたびにからかったものです。
ある日わたしは呉仲洽に、「きみはいつも刀をさげて最後列に立たされても口惜しくないのか」と本気で聞いてみました。すると彼は、「この刀でも大したものだと思っています。銃がそう簡単に全員にゆきわたるはずはないでしょう。戦闘さえあれば、銃はいつか手に入ると思います」と答えるのでした。口ではそう言っても、他の隊員がみんな銃を持っているのに刀と炸裂弾だけ持って最後列に立たされるのですから、さぞ気恥ずかしい思いをしたことでしょう。しかし彼は、それを少しも顔に出さず、平然と刀をさげて歩きました。
わたしは槍や刀しか持っていない遊撃隊員の銃を補充するため、戦闘をおこないました。銃を得るには戦闘をおこなうしか他に方法はありません。それで図們から三岔口を経て牡丹江に引き込まれる鉄道工事場を襲撃しました。呉仲洽はこの戦闘で数挺の小銃を手に入れたうえに、敵将校の拳銃まで奪い取ってきました。ろ獲した武器を誰に授与するかは戦闘総括会議で決定することになっています。われわれは戦闘で勇敢性を発揮し、規律を模範的に守る隊員に優先的に銃を授与する原則を立てていました。鉄道工事場襲撃戦闘の総括会議には、わたしも参加しましたが、呉仲洽はそこではじめて武器を授与されました。その後、呉仲洽は分隊長、小隊長、中隊長などの軍職を順次踏んで連隊長に昇進しました。彼は革命軍の指揮官の模範といえます。
呉仲洽の長所をあげれば、その他にも少なくありません。呉仲洽はおとなしくはあっても、日常生活では快活かつ楽天的であり、人づきがよく向学心も並々ならぬものでした。彼は大口をたたくことがなく、品行方正で、同志たちの批判はどんなことでも受け入れて誠実に改めました。また部隊の管理も几帳面にし、自力更生、刻苦奮闘の精神も人一倍強い人でした。
朝鮮人民革命軍隊員としての呉仲洽の成長は、とりもなおさず第七連隊の成長といっても過言ではありません。第七連隊の前身は独立連隊です。独立連隊は汪清、延吉、和竜をはじめ東満州の各県から一個中隊ずつ選抜して編制した連隊です。汪清県からは第七中隊が独立連隊に編入されました。汪清第七中隊は汪清第一中隊から分立した中隊で、独立連隊に所属しては第二中隊と呼ばれました。呉仲洽はその独立連隊第二中隊の青年幹事を務めました。独立連隊は一九三五年に独立第一師第二連隊に改編され、南湖頭会議以後、朝鮮人民革命軍主力師団が新たに編制されたとき新師団の第七連隊となりました。第七連隊は、新師団の中核部隊でした。呉仲洽、呉白竜、姜(カン)曾(チュン)竜(リョン)は、こうした変遷過程を歩んできた第七連隊の歴史とともに系統的に発展し、連隊長にもなり、中隊長にも小隊長にもなりました。
第七連隊は大多数が朝鮮人で構成されていました。われわれは汪清時代から呉仲洽を系統的に育てたように、第七連隊も力を集中して他の単位より指導を深め、新師団のなかでいちばん戦闘力の強い模範連隊につくりあげました。まず、小隊長、政治指導員、中隊長など連隊内の指揮官を優秀な人でかため、彼らを政治的思想的に、軍事技術的にしっかり準備させるための教育活動を計画的に進めました。連隊内の指揮官に、遊撃戦に必要な各種の教範は言うまでもなく、宿営の方法、炊事の仕方、行軍の仕方、方位判定法、仮設舞台の設置方法と演芸会のプロ作成と紹介文の書き方にいたるまですべて教えました。第七連隊を模範連隊にするため、朝鮮人民革命軍司令部と師団の幹部が大きな努力を傾けました。彼らはたびたび連隊に出向いて指揮官を政治的、軍事的に啓発し、難題をそのつど解決してやりました。そういう過程を経て第七連隊は模範連隊となり、朝鮮人民革命軍主力部隊の誇りとなったのです。
わたしは第七連隊で鍛えられた隊員を、他の部隊の指揮官として多く派遣しました。魏拯民もわれわれに軍事・政治幹部の派遣を求めるときは、決まって第七連隊の指揮官を要求したものです。第七連隊で鍛えられた指揮官は他の部隊に派遣されると、そこでまた多くの指揮官と模範戦闘員を育てあげました。第七連隊はまさに、軍事・政治幹部を育成する原種場のような役割を果たしました。李(リ)東(ドン)学(ハク)か朴(パク)寿(ス)万(マン)が指揮した警護中隊ものちに模範中隊となりました。この中隊には第七連隊の出身が多くいました。革命軍に政治・軍事幹部を養成する常設の教育機関がない状況下で、第七連隊を通じて系統的に育成した幹部を他の部隊にたえず派遣する方法で幹部の需要を満たしたのは、われわれが抗日革命の過程で蓄積したいま一つのりっぱな経験です。模範をつくりあげ、それを全国に一般化するわが党の伝統的な活動方法は、このように抗日革命の過程で得た経験にもとづいています。
朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部のなかには、第七連隊が輩出した指揮官が数えきれないほどたくさんいました。呉仲洽、金周賢、李東学、李(リ)東(ドン)傑(ゴル)、呉白竜、金(キム)沢(テク)環(ファン)、崔一賢、呉(オ)日(イル)男(ナム)、孫(ソン)泰(テ)春(チュン)、姜興錫、姜曾竜はみな第七連隊の出身です。第七連隊の中隊政治指導員のなかには「チョチョボリ(寂しがりや)」というあだなの人もいました。姓は崔だったようですが、名前はよく覚えていません。目の縁がいつもうるんでいるように見えて「チョチョボリ」と呼ばれていた彼は戦いでいつも勇敢でしたが、小湯河戦闘で金(キム)山(サン)虎(ホ)とともに戦死しました。崔一賢は北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織するとき、将来の隊長と目されていた人であり、金沢環中隊長もしっかりした人でした。
指揮官が筋金入りであれば、その部下もみな筋金入りになるようです。中隊長は連隊長に似つき、小隊長は中隊長に似つき、隊員は小隊長や分隊長に似つくものです。誰もが知らず知らずのうちに、上級幹部の人格と性格に似るようになります。第七連隊は総じて呉仲洽に似て、鋼鉄の連隊になったといえます。
他の部隊の指揮官や兵士は、呉仲洽の率いる第七連隊をたいへんうらやましがりました。白頭山根拠地で活動していたとき、しばらくのあいだわれわれの部隊とともに生活した第一軍の曹国安師長は、しっかりした隊員を一人譲ってもらいたいと言って、機関銃に精通した人を要求しました。曹国安が欲しがったのはほかでもなく、第七連隊の名うての小隊長であり機関銃射手である姜曾竜でした。姜曾竜は朴(パク)禄(ロク)金(クム)の夫です。姜曾竜に第一軍第二師に移る気はないかと聞くと、言下に断りました。最初は朴禄金と別れたくないからだろうと考えましたが、彼の話を聞いてみるとそうではありませんでした。彼が言うには、妻と別れるのは我慢できても、将軍の下を離れたくないし、また呉仲洽の率いる第七連隊とはなんとも離れがたいとのことでした。彼は呉仲洽にすっかりほれこんでいたのです。呉仲洽と姜曾竜は汪清時代の竹馬の友であり、汪清第一中隊にいたときからずっと同じ中隊で生活してきた仲でした。呉白竜も第八連隊の機関銃射手として異動するとき、呉仲洽の率いる第七連隊を離れたくないと言って手こずらせました。この二つの例によっても、呉仲洽の人望のほどがうかがえるはずです。第七連隊の隊員がもつ自分の部隊への愛着と団結力はなかなかのものでした。
われわれは過ちを犯したり、政治的・軍事的実務に欠けた人たちも第七連隊に送って鍛えさせました。一九三八年、臨江県新台子付近のある密営で機関銃小隊長が過ちを犯したことがあります。彼は実務能力も足りなかったので、臨時に第七連隊第四中隊へ送りました。その機関銃小隊長を呉仲洽のところへ送るとき、わたしはこう言いました。
「自分が責任をもって部下の生活を見守ってやれないようでは、もう幹部の資格がない。自分一人の過失のため多くの隊員に苦労させたことに痛みを感じるようでなくては、幹部としての役割を果たすことができない。きみは第七連隊へ行ってもう少し学び、鍛えるべきだ」
その機関銃小隊長は第七連隊へ行き、呉仲洽の助力を得て別人のように変わって元の職にもどりました。
第七連隊は朝鮮人民革命軍の管下部隊のなかでいちばん戦闘力の強い部隊でした。それで司令部では、もっとも急を要する重大な任務はいつも第七連隊にまかせました。第七連隊は朝鮮人民革命軍の基本攻撃手でした。わたしは行軍や宿営をするときにも、戦闘力と責任感の強い第七連隊をいつも後衛として配置しました。敵の追撃と不意打ちがつきものの遊撃隊の生活では、後衛がたいへん重要でした。われわれは宿営をするときには必ず、司令部から行軍してきた道を三〇〇~五〇〇メートルぐらい逆もどりした地点に、戦闘力の強い一個部隊を後衛部隊として残しました。司令部から後衛部隊までの距離が一~二キロぐらいある場合もありました。後衛部隊と司令部のあいだには、一定の間隔をおいて歩哨を立てたり監視兵を配置したりしました。われわれの経験によれば、人民革命軍の「討伐」に駆り出された敵は、前方で要撃する戦法はあまり使わず、遊撃隊の後ろに食い下がって追撃してくる戦法を多く用いました。われわれが戦闘力の強い部隊を後衛として配置したのはそのためです。一九三九年の春、茂山地区へ進出するときにも、青(チョン)峰(ボン)宿営地で第七連隊を後衛として配置しました。第七連隊の隊員たちは、焚き火もたけずに夜をすごしました。焚き火をたくと、敵に発見されるおそれがあったからです。それでも彼らは、つらさをこらえて一言の不平ももらしませんでした。
わたしは早くから、人民軍では呉仲洽のような人を典型としておし立てるように言ってきました。呉仲洽を典型としておし立てるというのは、呉仲洽を見習うということです。金正日同志はすでに一九六〇年代の初期に、人民軍が第七連隊を見習うよう強調しています。彼は幼いころから、呉仲洽がどんな指揮官で、第七連隊がどんな連隊であったかをよく知っていました。
では、幹部と党員、人民軍の将兵が呉仲洽から何を学び、第七連隊の何を見習うべきなのでしょうか。呉仲洽の長所はいろいろと分析できますが、なかでももっとも重要なのは、革命への限りない忠実性だと思います。革命にたいする呉仲洽の忠実性はどのように表現されたのでしょうか。それは、自己の司令官にたいする忠実性に明白に表現されました。
呉仲洽は何よりもまず、わたしの思想と路線に忠実でした。彼は朝鮮共産主義運動と朝鮮民族解放運動にかんするわたしの思想と路線をつねに正当なものとして受け入れ、それを深く研究しました。そして、いついかなる状況のもとでも司令官の思想を無条件擁護し、その思想に反する傾向とは猛虎となってたたかいました。呉仲洽はわたしの思想と、司令官の指示した軍事作戦的方針を法とし至上の命令として受け入れました。呉仲洽には不純な思想が寄り付けませんでした。そういう人には不純な思想が通じないのです。思想的に潔白な人は、汚水の中でも腐敗しません。連隊長の思想が堅実であったので、第七連隊は全員が司令官と呼吸をともにしていたのです。
革命にたいする呉仲洽の忠実性はまた、司令官の命令、指示にたいする無条件的な実行精神と、その命令、指示の実行における強い責任感によって表現されました。呉仲洽は司令官の命令、指示であれば、寸分の狂いもなく最高の水準で必ず実行しました。その命令、指示がいくら過度のものであっても、泣き言をいったり不平を鳴らしたりすることは絶対にありませんでした。彼は司令官から与えられた任務を遂行したのちは、必ずその結果を報告し、命令、指示の実行過程であらわれた欠陥を一つも隠そうとせず、具体的に総括しました。
司令官の命令、指示にたいする呉仲洽の態度から幹部が見習うべきいま一つの長所は、一つの仕事を遂行してからは、それについでまた他の仕事をまかせてほしいと要請することでした。呉仲洽は手持ち無沙汰でいるのを嫌いました。仕事を一つ遂行すれば、必ず他の仕事にとりかかりました。今風の表現をすれば、継続革新、継続前進する人でした。第七連隊が他の連隊に比べきわだって苦労が多かったのは、呉仲洽が仕事熱心な連隊長であった事情と関連しています。呉仲洽は、たやすい仕事よりむずかしい仕事をまかされたときにいっそう喜ぶ特異な気質の軍事指揮官でした。
呉仲洽の革命にたいする忠実性、司令官にたいする忠実性は、政治的、思想的にのみでなく、生命を賭して司令官を守ろうとする決死擁護精神としても表現されました。呉仲洽は司令官の身辺の安全のためなら、連隊とともに肉弾となって飛び込み、いかに困難な戦いをも辞しませんでした。わたしが紅頭山で李斗洙中隊を率いて数百の敵を相手に苦戦していたとき、遠く離れたところで戦闘任務を遂行していた呉仲洽は、司令官同志の身辺が気づかわれるといって、敵の宿営地を電撃的に奇襲しました。後方が奇襲されるや、生き残った敵兵は仕方なく逃走してしまいました。あのとき、わたしは呉仲洽のおかげをたくさんこうむりました。漫江付近で戦闘がくりひろげられたとき、部隊の撤収を指揮するわたしを肉弾となって守ってくれたのも、呉仲洽と第七連隊の隊員たちでした。断頭山戦闘のときも同じでした。数百名の敵をしりにつけて撤収する司令部を、後衛を務めた第七連隊が掩護してくれました。
司令官にたいする呉仲洽の並み外れた忠実性は、苦難の行軍のときに集中的に表現されました。彼は行軍の初期にジグザグ戦法を使って、ほぼ半月間も決死的な後衛戦をくりひろげて司令部を防衛しました。他の機会にも述べたことですが、われわれは苦難の行軍の途中、七道溝の奥地で大部隊による集団行動が不利であると判断し、分散行動に移行しました。そのときわれわれと別れた呉仲洽は、進んで司令部を装い、二か月間以上も険しい竜崗山脈と長白山脈を縫って敵を誘引しました。そのため第七連隊の苦労は並大抵のものではありませんでした。司令部はそのおかげで、しばらくのあいだ敵の追撃を幾分そらすことができました。
七道溝の奥地でわれわれと別れるとき、呉仲洽連隊には一粒の食糧もありませんでした。食糧を手に入れるためには、人家から遠く離れてはなりません。にもかかわらず呉仲洽は、嘉魚河、四登房台地、紅頭山の西方、双岔頭の北方を経て徳水溝に至る行軍コースをとりました。この路程は、無人の境にひとしい白色地帯でした。あるものといえば、山小屋のようなものだけです。そこは一度足を踏み入れたが最後、迷路にはまりこんでとうてい抜け出せないところでした。しかし呉仲洽は飢えに苦しめられながらも、司令部を狙う敵を自分の連隊におびきよせるため、わざとそうした険路を選んだのです。
最初、彼らは木材所を襲撃して手に入れた牛肉と馬肉で食いつないでいましたが、深い山中に入ってからは食べ物を手に入れることができませんでした。食べるものといえば雪しかなかったそうです。ある日、敵が自分の連隊のあとを追ってこないことを知った呉仲洽は、隊員たちにこう呼びかけました。
「われわれが司令部でないことに敵が気づいたのかもしれない。そうだとすれば、これまでわれわれは無駄骨をおったことになってしまう。逆もどりして、どうあっても敵をしりにつけてこなければならない。全員わたしのあとにつづけ!」
彼はモーゼル拳銃を引きぬき、ようやく歩きぬいてきた数里の道を引き返し、敵の宿営地を襲撃しました。そして、とうとう敵をおびきだしました。それ以来、第七連隊は敵が追撃してこなければ、引き返して一回二回と敵を痛めつけました。すると敵は、鼻輪でつながれた子牛のように第七連隊のあとを追ってきました。食糧が切れると、連隊は日本軍が屠殺して捨てた牛の皮を煮て食べながら行軍をつづけました。呉仲洽連隊は、その年の旧正月を凍ったジャガイモですごしました。それでも彼はかえって「われわれはこの山頂でこんなものでも食べているのに、司令部では何を食べているだろうか」と、われわれのことを心配していたそうです。
彼は行軍途上で飢えと脱力感に苦しむ隊員たちに、われわれはいま一〇年一日のごとく苦労をつづけているが、苦しみが終われば楽が来るものだ、やがてわれわれが日本帝国主義を撃滅し、解放された祖国に向かって行軍するときのことを考えてみたまえ、朝鮮人に生まれて、これより誇らしく光栄なことがまたとあるだろうか、きょうのこの苦難の行軍が解放された祖国に向かう道であることを忘れてはならない、これは金日成司令官のお言葉だ、みな司令部のために前進しよう、と呼びかけました。
呉仲洽はこういう人でした。彼は胸に大きな火の玉を抱いて戦ってきた人でした。その火の玉なるものは、革命にたいする熱情でした。その熱情の核はほかでもなく、司令官にたいする忠実性でした。いま一度言いますが、いついかなる状況のもとでもすべての兵士、指揮官が一致して、まず司令部の安全から先に案ずるのが第七連隊に固有な特徴であり、司令官の命令、指示を生命のように重んじ、それを最高の水準で実行し、司令部の意図を誰よりも敏感にとらえるだけでなく、その意図がなんであるかを把握すれば肉弾となって率先断行し、最後まで頑強にやり遂げるのが、まさに第七連隊の生活と闘争における戦闘的な気風だったのです。わたしの方に飛んでくる敵弾をわが身でふさいで倒れた李(リ)権(グォン)行(ヘン)も第七連隊の出身であり、司令部の命令、指示を実行する途上で貴い生命をささげた呉日男、孫泰春、金(キム)赫(ヒョク)哲(チョル)も第七連隊の出身でした。
呉仲洽、崔一賢、姜興錫も司令部を守って生きぬき、六棵松戦闘で惜しくも戦死しました。それで、わたしは六棵松戦闘を思い出すたびに心が曇るのです。もちろん、戦闘そのものは見事にやってのけました。ところが、その戦闘で大事な指揮官を三人も失ったのです。その夜の一〇時、呉仲洽は第七連隊と黄(ファン)正(ジョン)海(ヘ)の区分隊を引率し、先頭に立って六棵松の敵の兵営を攻撃しました。彼らが基本攻撃部隊でした。どうしたわけか、その日わたしは呉仲洽に、身に気をつけよという一言もいえませんでした。もちろん、そう言われたからと、身を惜しむような呉仲洽ではありません。
彼は困難なときであるほど、部隊の先頭に立つ指揮官でした。わたしは第七連隊と黄正海の区分隊を送ったのち、ほどなく第八連隊を出動させました。第八連隊には、木材所の労働者のなかに入って政治工作をおこなうかたわら、敵の軍需品倉庫から食糧と軍需品を奪取する任務を与えました。
呉仲洽は突破班を率いてすばやく木棚を越え、鉄条網を断ち切って隊員たちに突撃命令を下しました。第七連隊は敵が我に返るすきも与えず、一挙に砲台と兵営を占拠しました。あわてふためいた敵は兵営の地下道に潜り込みましたが、呉仲洽はいち早く地下道の入口に火を放つよう指示しました。地下道の入口から煙が立ちはじめると、敵はそれ以上たえられず、外へ這い上がってきました。しかし、わが方の勝利が確定的になったとき、思いがけない一撃を受けました。地下道に隠れていた敵兵が、捜索作戦を指揮していた呉仲洽連隊長に致命傷を負わせたのです。伝令の金(キム)鉄(チョル)万(マン)も負傷を負いました。敗残兵の断末魔の抵抗に遭って、第七連隊の有能な指揮官である崔一賢と姜興錫も命を落としました。致命傷を負った呉仲洽もやはり、無念にも絶命しました。一生涯険しい道を踏みわけ、革命のためにあれほどわが身をかえりみず戦ってきた、火の玉のような人が逝ってしまったのです。
わたしは抗日武装闘争の時期、同志たちに、いかなる戦闘においても最後のしめくくりの段階で格別注意を払うよういつも強調したものです。事故はおおよそ、その最後のしめくくりの段階で生じるからです。六棵松戦闘でも結局、戦闘をしめくくる最後の五分間に大事な戦友を三人も失いました。おそらく呉仲洽はあのとき、気を緩めたのでしょう。戦況がわが方に有利であったうえに、綿の燃える臭いにたえかねた敵兵が手を挙げて出てくるのを見て、自信過剰になったようです。
呉仲洽はもともと失策というものがない人でした。生活も几帳面でしたが、戦闘の指揮も見事なものでした。警戒心についていうなら、どの指揮官よりも徹底していました。それでいて、なぜその日に限って足下に敵がいることを考えなかったのか理解できません。そもそも偵察班員の敵兵営の内部偵察に手抜かりがあったのです。偵察さえ綿密にしていれば、そんな不祥事は起こらなかったはずなのに、じつに残念なことでした。負傷を負った金鉄万がわたしのところへ来て、大声で泣きながら呉仲洽の戦死を告げたとき、わたしは最初、わが耳を疑いました。しかし、それが厳然たる事実であることを知ったわたしは、ほとんど理性を失い、呉仲洽を殺したのはどいつだ、呉仲洽を殺したやつは許せない、と叫びながら敵の兵営に向かって駆け出しました。
わたしはどんな悲しみに遭っても、隊員の前では感情をおさえるのになれていましたが、その日は本当に我慢できませんでした。わたしがどんなにいとおしんだ呉仲洽でしょうか。いまでも、あのときのことを思い出すと胸がつぶれる思いです。その日、多くの敵を掃滅し、多量の戦利品を得ましたが、それがすべて煩わしく思われました。隊員たちもあのときほど悲しんだことはなかったでしょう。撤収命令が下ると、隊員たちは戦友の屍を肩にして六棵松を発ちました。数百名の隊伍が涙のうちに歩を進めましたが、話し声一つ聞こえませんでした。われわれは大きな悲しみのなかで追悼式を挙行しました。追悼の辞を述べようと前に出ましたが、目の前が涙でかすみ、胸がつかえてまともに言葉が出ませんでした。わたしは昔もいまも困難を前にして涙を流したことはありませんが、悲しみを前にしては誰よりも涙を多く流したのです。
六棵松戦闘は大きな意義をもつ戦闘でした。この戦闘を契機に敵の第二期「討伐」作戦は混乱に陥り、革命軍には大部隊旋回作戦の第一段階で勝利しうる契機がつくりだされました。敵が白頭山東北部の豆満江沿岸一帯に大兵力を集中しているとき、われわれが敦化の奥地に進出してひとしきりすさまじい銃声をあげたのですから、敵は啞然とせざるをえませんでした。六棵松戦闘でもやはり、朝鮮人民革命軍主力部隊の中軸部隊である第七連隊がいちばんりっぱに戦いました。第七連隊は「鋼鉄部隊」ともいえる無敵の部隊でした。この部隊が一当百の部隊になりえたのは、連隊を指揮した呉仲洽の功労というべきでしょう。彼が忠臣であり名将であったので、第七連隊が強力な部隊になりえたのです。
わたしは金(キム)赫(ヒョク)、車(チャ)光(グァン)秀(ス)と同様、呉仲洽を忘れることができません。呉仲洽はわたしにとって革命戦友であり同志であると同時に、命の恩人でもありました。呉仲洽連隊は敵のたえまない攻撃と挑発から朝鮮人民革命軍の司令部を鉄桶のごとく防衛してきた防弾壁であり、難攻不落のとりででした。呉仲洽が戦死してから、わたしは以前にもまして隊員たちをいとおしみ大事にしました。そして個々の隊員に、戦闘に入れば視野を最大限に広げてありうる損失を未然に防ぎ、慎重に行動するよう戒めました。しかし、何をもってしても、呉仲洽を失った損失だけは埋め合わせることができませんでした。
人びとはよく、わたしが呉仲洽をりっぱな革命家に育てあげたのだと言いますが、そうとばかり考えてはいけません。われわれは呉仲洽を通して、家庭の革命化について深く考えてみる必要があります。以前、汪清を含めた間島全域で一番に数えられた愛国的な革命一家はほかならぬ呉泰熙一家でした。この一族では、ほとんどすべての人が抗日革命に参加しました。地下工作員や人民革命軍隊員として活動し犠牲となった人だけでも二〇人近くいるのですから、国につくしたこの一家の愛国衷情のほどをゆうにうかがうことができるでしょう。
呉仲洽があのようにりっぱに革命の道を歩むことができたのは、早くから呉氏一族の長老からりっぱな薫陶を受けたことが主な要因だったと思います。呉氏一族から多くの若者がそうそうたる革命家に成長した背後には、彼らに正しい人生行路を示した呉泰熙、呉(オ)成(ソン)熙(ヒ)、呉(オ)昌(チャン)熙(ヒ)、呉(オ)正(ジョン)熙(ヒ)など老人四兄弟の並々ならぬ労苦が秘められています。呉氏一族では子女の教育をたいへん重視し、とくに道徳教育に力を入れました。それがまさに愛国主義教育、反日教育、革命教育の強固な基礎となりました。呉氏一族の人たちは、貧しい暮らしのなかでも子女の教育に大きな意義を付与し、子どもを学校にやるために格別の努力を傾けました。呉氏一族に中学を出た者が一〇余人もいましたが、官吏としての出世コースではなく、みながみな革命の道を選びました。それは呉仲和の役割に負うところが大でした。呉仲和は家庭の革命化を地道に進めました。われわれが南・北満州遠征を終えて汪清に行ったころ、すでに呉氏一族の青壮年と婦女子はみな革命組織に加わっていました。呉仲洽の家は呉氏一族のうちでもいちばん貧しい暮らしをしていました。それで革命化の進捗も速かったのです。呉仲洽はまず自分自身を革命化し、ついで弟たちを革命化し、家族全体を革命化したのです。呉仲洽の三人兄弟はみな、連隊と大隊の軍事・政治幹部として活動し戦死しました。
わたしは一九四一年の夏、羅子溝一帯で小部隊活動をしていたとき、呉仲洽の父親呉昌熙や朴吉松(パクキルソン)の父親朴(パク)徳(トク)深(シム)と連係を結びました。当時、呉氏一族は羅子溝に住んでいました。山から望遠鏡で呉氏一族の家を見下ろすと、家の者が背負子に薪をいっぱい乗せてしおり戸から入る姿まで見えました。呉氏一族の人たちは羅子溝に来てからも、革命軍の留守家族らしく生活していました。当時、わたしは金(キム)一(イル)を送って、呉昌熙、朴徳深老を中心に羅子溝一帯の革命軍留守家族で地下組織をつくらせました。小部隊活動の時期、白頭山東北部に進出したとき、呉昌熙老から多くの援助を受けました。この老人の手引きで慶(キョン)源(ウォン)(セッピョル)地区へ渡り、革命組織をつくりました。
呉氏一族はまことに史書に記録されるべき革命一家です。わたしはいまもしばしば、呉仲洽が生きていたらどんなにいいだろうかと考えたりします。もし彼が生きていたなら、わが国には無数の第七連隊が生まれているはずです。
いま金正日同志は人民軍内で呉仲洽を見習う運動を指導していますが、それはたいへんよいことです。かつてわたしのそばには、呉仲洽のような忠臣がたくさんいました。呉仲洽のような忠臣を多く育てて、金正日同志のそばに立たせるべきです。
金正日同志は朝鮮の未来であり、朝鮮革命の運命です。わが祖国が末長く繁栄し、わが国の社会主義が生々発展するためには、金正日同志が健やかでなければならず、全党、全軍が金正日同志の指導に忠実にしたがわなければなりません。幹部は金正日同志を革命の頭脳として仰ぎ、白頭の密林で切り開かれたチュチェの革命偉業を代を継いで継承し完成するかたい覚悟をもって、社会主義建設の各部門でひきつづき輝かしい成果を達成するとともに、呉仲洽連隊が司令部を防衛したように、朝鮮革命の最高司令部である党中央委員会と金正日同志を生命を賭して擁護、防衛しなければなりません。

五 平安道の人

金日成同志の生涯には、出会いと別離でおりなされた奇異な出来事が数多く記されている。会っては別れ、別れては再び会うことがあったかと思えば、一度会って別れてからは再び会えなかったこともあり、会うことになっていてもやむをえない事情で会えず、世を去るまでまったく音沙汰がなかった人の行方がのちにわかって、金日成同志の胸をうずかせたこともある。
一九九三年一〇月、金日成同志は抗日革命闘争史の研究者に大部隊旋回作戦の回想談を語ったとき、六棵松で束の間の対面をした平安道の人について話した。その日、金日成同志は回顧録『世紀とともに』の抗日革命編第七巻に一節を設けて平(ピョン)安(アン)道の人について書きたいと語り、自分が歩んできた革命活動の過程にはそのような奇縁の人が多かったと述懐した。

話のついでに、六棵松で会った平安道の人について少し話すことにします。
われわれが呉仲洽の追悼式を終えて宿営地に向かうときでした。伝令がわたしのところへ来て、見知らぬ人が六棵松から部隊の後を追ってきて、わたしに会わせてくれとせがんでいると言うのです。抗日武装闘争の時期、わたしは訪ねてきた人をそのまま帰したことがありません。いくら忙しくても、会うべき人とはすべて会いました。敵の統治区域や国内から訪ねてきた人と会うのは、遊撃戦に専念していたわれわれの生活では一つの楽しみでもありました。しかし、その夜だけは誰にも会う気がせず、煩わしいばかりでした。六棵松戦闘で呉仲洽を亡くしたのがあまりにも口惜しく、哀惜の念にたえなかったからです。そのうえ、崔一賢と姜興錫まで失ったので、食事をする気もなく、口も利きたくありませんでした。呉仲洽の戦死は、わたしにとっては右腕を失ったのも同然でした。本当に、あのときわたしは精神的に大きなショックを受けていました。
わたしは伝令に、今夜は誰とも会いたくないから、客をよく理解させて帰すようにと言いました。伝令は困ったような顔をして、来客にはもう何度も説得したが、金日成将軍とは知り合いだから、せめて一分間でも会って挨拶できるようにしてもらいたい、とねばっていると言うのです。伝令の話を聞いて不思議に思いました。六棵松には知り合いらしい人がいなかったからです。その一帯はわれわれが初めて踏んだなじみのない土地でした。伝令について行ってみると、背負い袋をかついだ中年の男が立っていました。客はわたしをよく知っていると言ったそうですが、わたしにはどこで会ったのかよく思い出せませんでした。しかし、その人はわたしを見るなり、「わたしです。平安道の者です」と言ってわたしの手を取るのでした。「平安道の者」と聞いて、彼が誰だったかをすぐ思い出しました。
ある年、部隊を率いて森林の中を行軍しているとき、とある奥まった谷間で焼け落ちた家を一軒発見しました。まだくすぶっている焼け跡には、男の子をおぶった中年の男が悲しげに涙を流していました。わたしはその中年男をなだめて、わけを聞いてみました。彼が言うには、数時間前に斧を持って山へ登り薪を取っているあいだに「討伐隊」が襲いかかって家に火を放ち、妻と子どもを撃ち殺したとのことでした。おぶっている子は、自分を探しにきて命拾いをしたと言うのでした。それを聞いて、こみあげる憤りをおさえることができませんでした。わたしはその一家の敵討ちをしようと決心しました。その人に敵兵の数と引き上げた時刻を聞いてみると、「討伐隊」の数は四〇人ぐらいで、引き上げてから三〇分ぐらいしか経っていないとのことでした。わたしは隊員たちに、見たまえ、日本軍はこんな野蛮人だ、なんの罪もないこの家族がこんな目にあったのだ、どうすべきか、と問いました。すると隊員たちは、ただちに復しゅう戦をしようと言い、われさきに自分を送ってくれと申し出るのでした。それで敏捷な隊員を五〇人ほど選抜し、突撃隊を組みました。彼らは「討伐隊」を追いかけ、宿営の準備をしていた敵兵を全滅させて帰ってきました。
わたしは焼き払われた家の跡を発つとき、主人に五〇元を渡しながら、あなたの境遇を考えれば家でも建て直してやりたいが、これしかない、この金で他の土地に移って暮らしを立ててみなさい、将来、国が独立したらまた会おう、と言いました。五〇元というのは決して少ない金額ではありません。役牛一頭は買える金額でした。当時は粟一斗の値段が三角だったのです。主人は「わたしはもともと平安道に住んでいたのですが、西間島が住みよいといううわさを聞き、ここに来てこんな目にあいました。このご恩は死んでも忘れません。お別れするまえに、せめて隊長さまのお名前でも覚えておきたいんです」と言うのでした。彼があまりにも懇願するので、戦友たちがわたしの名前を教えました。
わたしは災難にあった人が平安道から来たという話を聞いて、親近感と同情を覚えざるをえませんでした。彼が平安道の人なら、わたしの同郷人ともいえたからです。満州に住む朝鮮人の構成状態からすれば、平安道地方から来た人も少なくありませんでした。しかし、その大多数は南満州に住んでいて、間島地方にはそれほどいませんでした。いつだったか、西間島で平安道から来た人の家に立ち寄ったことがありますが、その家でアミの塩辛を出してくれました。この満州の地でアミの塩辛をどこから手に入れたのか尋ねてみると、嫁が実家へ行って持ってきたとのことでした。そのとき、初物のトウモロコシにアミの塩辛をつけて食べたのですが、格別な味でした。わたしは幼年時代を西部朝鮮地方ですごしたので、アミや白エビの塩辛が大好きでした。
一瞬にして三人の家族を失った平安道の人の不幸を目のあたりにして、慣激をおさえることができませんでした。当座の口すぎにといくらかの金を与えて発ちはしましたが、心は晴れませんでした。平安道の人にのしかかった不幸と苦痛を考えると、おのずと足どりが重くなりました。妻を亡くし幼い子を連れて、どう暮らすのだろうかと心配になりました。しかし、わたしは名残を惜しんで彼と別れるほかありませんでした。
ところが、世の中はまったく広くて狭いものです。名も知らぬ山中でしばし会って別れたその平安道の人と敦化の奥地で再び会おうとは、夢にも思いませんでした。呉仲洽さえ失っていなかったなら、わたしもたいへんうれしかったはずです。しかし、戦友を失ってあまりにも深い悲しみに沈んでいたので、懐かしい人ともうれしい気持ちで会うことができませんでした。わたしは悲しみをやっとおさえて、六棵松に住みついた経緯と、この夜半にわたしに会いに来たわけを尋ねました。彼は、われわれと別れたのち、息子を連れて六棵松に来て職にありつき、後妻を迎えてなんとか暮らしを立ててきたと答え、「わたしら親子が生きのびられたのは将軍さまのおかげです。あの五〇元がなかったら、わたしらは物乞いになったか、飢え死にしたはずです。わたしは伐採労働をしながら白米を一斗準備しておいて、将軍さまに会えるのはいつの日かと心待ちにしていました。そして将軍さまがこの地方においでになられるよう『神様』にお祈りしていました」と言うのでした。
彼は義理を重んじ、恩を忘れない人でした。わたしはその一斗の白米を通して、人民革命軍に寄せる人民の熱い愛情を見、清らかな真心と信義を感じとりました。そして、このような人民のためにも、われわれが悲しみにたえ、勇気を奮い起こして立ち上がり、幾千倍もの報復をしなければならないとかたく決心しました。その夜、わたしは平安道の人とゆっくり話をすることができませんでした。われわれも道を急がなければならなかったし、彼も長居することはできないと言いました。彼が涙ながらに立ち去るとき、わたしも重い気持ちで見送りました。
それ以来、祖国が解放されるまで、その人の消息を一度も聞きませんでしたが、解放直後、新(シン)義(イ)州(ジュ)で再会しました。新義州で学生の騒擾事件が起きたときですから、一九四五年一一月だったと思います。新義州学生事件は東中学校から始まりました。この学校の生徒が反動分子にそそのかされて道党庁舎を襲撃したのですが、騒擾を適時に収拾しなければ事態がどう進展するかしれませんでした。金日成が行かなければ収まりがつかないというので、飛行機で新義州へ飛びました。元来、東中学校には愛国的な生徒が少なくありませんでした。洪(ホン)東(ドン)根(グン)牧師も東中学校の出身であるはずです。解放前から民族主義思想の影響を多く受けてきたこの学校の生徒に、エセ共産主義者の非行にからめて反共意識を吹き込む者がいたので、火薬に火がついたように彼らが道党庁舎を襲撃する妄動に走ったのです。
新義州に到着したわたしは、東中学校の校庭に市民と学生を集めて演説をしました。学生はわたしの演説を聞いて、自分たちが反動分子に操られて無分別な行動に走ったことと、共産党に反対するのは新しい祖国の建設にも、民族の団結にも百害あって一利もないことであることを悟りました。それ以来、彼らは二度と騒擾を起こしませんでした。
演説を終えて宿所にもどろうとしたとき、思いがけないことに六棵松で別れた「平安道の者」がわたしを訪ねてきました。彼もその日の大衆集会に参加していたそうです。わたしと彼はみんなのまえで旧知の仲のように抱擁しました。わたしは同行した幹部たちに、六棵松戦闘のときに会ったことのある人だと紹介し、彼と知り合いになったいきさつを話しました。
人間はよいことをすればよい友に巡り合い、よい友とは別れても再び会えるものです。昔の老人がよく使った言葉に「三益友」と「三損友」というのがあります。「三益友」とは、交わって得になる三種類の友人という意味です。すなわち、正直な人、信頼できる人、見聞の広い人が「三益友」で、そういう人とは付き合ってもよいということです。「三損友」とは、交わって損をする三種類の友人という意味です。すなわち、偏見の強い人、優しくても気骨のない人、口達者で中身のない人とは付き合うべきでないということです。古人の言ですから全部正しいとはいえませんが、付き合って得になる友人と損になる友人を比較的正確に定義づけていると思います。行軍途上でしばし会って別れた人を「三益友」と「三損友」の枠にはめて論ずるのは少々おおげさかもしれません。しかし、「平安道の者」が善良で信頼できる人であることは確かです。そのような人は、他人に利益を与えはしても、害を与えはしません。彼が正直で信頼できる人だということは、われわれが六棵松に来たことを知って、米を背負って訪ねてきた一事によっても十分うかがい知ることができます。彼の見聞がどの程度のものであったかはよくわかりませんが、山奥で暮らしていたのですから、その見聞の広さは知れたものでしょう。ともあれ、わたしは彼が「三益友」に属するよい友人に違いないと考えます。義理を重んずる人、ちょっとした恩でも忘れない人、情には情をもってこたえる人はみなりっぱな人です。
わたしは平安道の人に、いまは国が解放されたのだから、いつでも会える、わたしを旧友と思っていつでも訪ねてくるようにと言いました。わたしたちはあいにくその日もまた、会う早々別れなければなりませんでした。わたしは仕事が忙しく、彼もわたしの時間を奪おうとはしませんでした。彼とは三回とも容易ならぬ状況下で会ってはまたあわただしく別れたので、名前や生まれ故郷すら聞けませんでした。一九四五年の末ごろといえば、誰もが解放熱に浮かされていた時分であり、いちばん忙しく走りまわっているときでした。わたしもやはり、建国事業で非常に忙しい日々を送っていました。そのため、あのような奇縁で結ばれた平安道の人ともゆっくり話を交わすことができなかったのです。いま考えると後悔します。「討伐」で妻子と家を失って泣いていたとき、彼の背におぶさっていた子がいまも生きているなら、六〇歳を越しているはずです。その子の名前でも覚えていたら、どんなによかったことでしょう。
新義州で別れて以来、彼がなぜ一度もわたしを訪ねてこなかったのかわかりません。戦争中、新義州ではアメリカ軍の爆撃で多くの死傷者が出ました。彼がその後も新義州に住んでいたのなら、爆撃に遭って死亡したのかもしれません。六棵松戦闘にかんする回想資料を提供した人は何人ぐらいですか。そのなかに平安道の人と思われる人はいませんでしたか。彼と戦争前にまた会えなかったことが後悔されます。平安道の人がいつまで生きていたかはわかりませんが、生前、国のために多くの有益なことをしたはずです。
先にも述べましたが、人々に会うのは人民のなかに入るのと同じく、わたしのまたとない楽しみです。わたしは八〇年間を生きてくるあいだ、多くの人と会っています。若いころに会った人々を追想し、その姿を一つ一つ思い出してみるのはじつに楽しいことです。いまもわたしがもっとも残念に思っているのは、会いたかったすべての人に会えなかったことです。そのなかでも、もっとも困難な時期にわたしを助け支持してくれた恩人に会えず、彼らの生死すらわからずにいるのがいちばん気にかかります。とくに、会う約束までしておいて会えなかった人たちのことを思うと、いまも胸がうずきます。そういう人のなかには金(キム)治(チ)範(ボム)という農民もいます。
解放前からソウル近郊で農業にたずさわってきた金治範は、一九五〇年八月、ソウル市と京(キョン)畿(ギ)道の労働者、農民、青年、文化人からなる人民観光団の一員として平(ピョン)壌(ヤン)に来ました。わたしは八・一五解放五周年にあたる日に、内閣庁舎で百数十人に達する観光団全員と会見しました。ところが、彼らと話し合う過程で、爆撃のとき別れた観光団員の一人がまだ到着していないことを知りました。それがほかならぬ金治範という農民でした。彼がどんな人なのか観光団員に聞いてみると、一九四三年ごろからソウル地区に潜入した朝鮮人民革命軍の政治工作員と連係を結び、彼らを物心両面から支援した愛国者だというのです。観光団員の話によれば、金治範は解放後も家族をみな救国闘争に立たせ、息子は李承晩政権に抗して戦い、死刑を言い渡されたとのことでした。
それを聞いて、ぜひともその農民に会ってみたくなりました。観光団員も、彼がわたしとの会見の席に参加できなかったことをたいへん残念がりました。わたしは会見時間を何回も延ばしながら、忍耐強く彼の到着を待ちました。しかし、彼はとうとうわれわれの前にあらわれませんでした。いったい、彼はその時刻にどこへ行っていたのでしょうか。あとで知ったことですが、彼は観光団を探してあちこち歩きまわっているうちに、爆撃を受けて崩れたある幼稚園の建物から負傷した子どもを救出して入院させるのに手間どって遅れたのでした。そんな話まで聞くと、いくら仕事が忙しくてもその農民に必ず会おうと思いました。彼がわたしに会えなかったことでがっかりしているだろうと思うと、夜もまともに眠れませんでした。翌日は彼らが万(マン)景(ギョン)台(デ)を見学するというので、わたしもわざわざ時間を割いて万景台へ出かけることにしました。わたしの祖父と一緒に彼に会うつもりでした。祖父も農民であり、金治範も農民なのですから、会いさえすれば意思の疎通がうまくいくだろうと思ったのです。
翌朝、わたしはその農民への贈り物を用意して万景台に行きました。万事をさておいて、祖父と一緒に万景台の家で金治範を待ったのですが、その日も約束の時刻がすぎても南から来たその客は姿を見せませんでした。それで祖父に、わたしに代わって客に会ってもらうことにして内閣庁舎にもどってきました。彼がその日の朝も約束の時間を守れなかったのは、運悪く観光団一行が八(パル)洞(トン)橋付近で敵機の爆撃に遭ったからです。祖父はわたしの頼みどおり彼に会い、贈り物も伝えました。
平壌観光を終えてソウルに帰った金治範は、前線援護に力をつくしました。家族全体が奮い立って前線に食糧や弾薬を運び、人民軍の負傷兵も真心をこめて看護したそうです。彼のその後のことはわかりません。観光団員として来たときすでに六〇に近かったのですから、生きていれば一〇〇歳を越しているでしょう。あのとき、急用さえなかったなら彼に会えたはずなのに、残念なことになりました。彼に会ってやれなかったことが心残りでなりません。祖父がわたしに代わって会ってくれたのがせめてもの慰めですが、もしそれもできなかったなら本当に寂しい思いをするところでした。
「善い行いをすれば良い友を得る」というのは当を得た格言です。良い友人を得るためには、善いことをたくさんしなければなりません。国と集団、同志と隣人のために善いことをしない人には、良い友人ができません。平安道の人は、わたしが人民の自由と解放のためにたたかう過程で得た友人です。わたしは彼を親友だと思っています。背中に子どもをおぶって焼き払われた家の跡で悲しく泣いていた彼の姿と、米をかついで六棵松に訪ねてきた彼の姿がいまもありありと目に浮かんできます。

六 「ソ連を武力で擁護しよう!」

地球上で初めて労働者、農民のための人民の政権を樹立し、人間による人間の搾取を根絶したソ連は、社会主義と社会の進歩を志向する諸国人民にとって理想郷となっていた。全世界の共産主義者と革命的人民は、かつてこの理想郷を擁護、固守するため、私心のない支援を送った。鎌とハンマーを印した赤いソ連国旗には、英雄的なソ連人民が流した血とともに、世界各国の国際主義戦士の熱い血潮もにじんでいる。朝鮮人民革命軍は、ソ連にたいする軍事的脅威が生じるたびに、「ソ連を武力で擁護しよう!」というスローガンをかかげて日本帝国主義の背後を痛撃した。日本軍の反ソ攻撃を阻止する作戦の過程で倒れた隊員も少なくない。金日成同志は、ソ連を武力で擁護した日々をつぎのように回想している。

共産主義者は、民族革命と世界革命の相互関係を正しく認識する必要があります。以前、一部の人は、共産主義者が民族革命に関心をもつのはマルクス主義の原則にもとるとし、また一部の人は、朝鮮の愛国者が祖国の独立を達成する前にソ連革命や世界革命について云々するのは、民族にたいする背信行為であると主張しました。民族革命と世界革命の相互関係についての左右の偏向のため、わが国の革命運動には一時、少なからぬ思想的混乱と対立が生じていました。われわれが抗日武装闘争をくりひろげながら「ソ連を武力で擁護しよう!」というスローガンをかかげたときに、一部の人はそれを快く思いませんでした。民族主義者に共産主義者を中傷する言質を与えかねないと言うのです。日本帝国主義とその手先はわれわれに、「ソ連のいけにえ」「スターリンの供物」になるなと宣伝しました。国際主義の真意をわきまえていない人たちは、われわれが血をもってソ連を支援しようと言えば、それを無益な犠牲とまで考えていました。
われわれが力に余る民族革命を進めながらも、ソ連を武力で擁護しようというスローガンを高くかかげ、ソ連人民のたたかいを血をもって支援したのは、なによりも当時の情勢がそれを要請したからです。当時、ソ連は孤立無援の状態にありました。いわば、帝国主義の包囲のなかにありました。こうしたときに共産主義者がソ連を武力で擁護するのは、革命の利益の見地からしても必要なことでしたが、道徳的信義のうえでも正当なことでした。それで、われわれは抗日武装闘争を開始した当初から、プロレタリア国際主義の旗を高くかかげてソ連を支持し積極的に擁護したのです。
ソ連を支持、擁護する闘争は一九三〇年代にかぎらず、一九二〇年代にも展開されました。洪範図(ホンボムド)は初期、共産主義者ではありませんでしたが、共産主義運動を排斥しはしませんでした。彼は民族主義運動から愛国活動をはじめた人ですが、その枠内にのみ踏みとどまらず、民族主義運動そのものを絶対視しようともしませんでした。朝鮮の独立運動家のなかには、三・一人民蜂起以後、ソビエト・ロシアに入って武装闘争に参加した人が少なくありません。彼らは国民戦争当時、赤軍と極東パルチザンに加わってソビエト政権を守るために多くの血を流しました。その過程で洪範図も少なからぬ軍功を立て、レーニンとの会見もしました。
日本帝国主義は一九二〇年代の初期にも白衛軍を支援し、ロシア領極東地方にたいする武力干渉をたえまなく強行しました。当時、ロシア領極東地方の共産党組織は、沿海州で活動していた洪範図に支援を要請しました。そのとき独立軍上層部の一部の人は、朝鮮人が自分の足下の火も消せない分際で、他国のために血を流すのは馬鹿げたことだと言いました。しかし洪範図は、日本軍と戦う軍隊はすべて味方だとし、血をもって赤軍を支援しました。
洪範図が参加した戦闘のうちで有名なのは、イマン激戦です。イマンはウスリー江のほとりにあります。独立軍部隊の戦いぶりがあまりにもすさまじかったので、イマン戦闘があって以来、日本軍と白衛軍は朝鮮語の号令を聞いただけでも震えあがって逃げだしたといいます。ソ連人はすでに久しい前に、イマン戦闘での戦没者のために記念碑を建てました。この事実一つを見ても、朝鮮人民とソ連人民間に結ばれた共同闘争のきずながいかに長い歴史をもっているかがわかります。洪範図は部下たちに、ソ連は世界ではじめて無産者の共和国をうち立てた国だ、だからわれわれが助けもし、また助けてももらわなくてはならない、孤立無援の状態にある国なのだから、困難なことがどんなに多いだろう、力いっぱい助けよう、と言いました。有識ぶったことを言う人に比べて、なんと度量の広い人ではありませんか。
ソ満国境一帯で赤軍と直接対峙していた関東軍の動きを見ても、当時帝国主義者がソ連の圧殺を狙っていかに悪らつに策動したかがよくわかります。日本帝国主義は一九三二年から一九三九年までのあいだに、広く知られたハッサン湖(張鼓峰)事件やカルキンゴル(ノモンハン)事件をはじめ、およそ一,〇〇〇回に及ぶ大小の国境紛争を引き起こしましたが、これは数日に一回の武力挑発があったことになります。ソ満国境地帯では硝煙の立ちこめない日がありませんでした。ソ日間の敵対関係は歴史的に根深いものでした。一九〇四~一九〇五年に日露戦争があり、その結果ロシアが日本に多くの利権と領土を譲渡したことは周知の事実です。
一〇月革命以後、新生ソビエト共和国にたいする帝国主義列強の武力干渉があったとき、日本帝国主義もそれに積極的に加担しました。彼らはシベリア出兵を強行し、露骨な武力干渉によって白衛軍を支援しました。ソビエト・ロシアにたいする武力干渉に乗り出した帝国主義列強の軍隊のうち、もっとも悪らつで野蛮をきわめたのは日本軍だったそうです。日本侵略軍は沿海州地方を血の海にかえました。日本軍がパルチザン隊長のラゾを捕らえ、機関車の火室に押し込めて焼死させたのもそのときのことでした。共同出兵をしていたアメリカ、イギリス、フランスの軍隊が赤軍の反撃を受けて撤退した後も、日本軍だけは兵力を増強しつづけ、執拗に食い下がりました。清国とロシアを武力で制圧して以来、日本帝国主義者は誇大妄想にとりつかれていたのです。彼らは、日本が征服できない国などありえず、日本軍が撃滅できない強軍などありえないと考えるほど傲慢になり、重大な国際紛争が起こるたびに毎回、その割り前をあてこんで首をつっこみました。
ソ連と日本の対立は、中日戦争の勃発を契機にいっそう表面化したといえます。日本が七・七事件を引き起こすと、ソ連は中国を支援しました。それ以来、ソ日関係はさらに悪化しました。一九三七年八月、中国と不可侵条約を結んだソ連は、日本の管理区域内にある自国領事館の一部を主動的に閉鎖したのち、自国にある日本領事館の一部も閉鎖するよう日本側に促しました。ソ日間の矛盾は年ごとにますます深まりました。かてて加えて、一九三八年一月、日本当局が満州に不時着したソ連の飛行機を抑留する事件が発生し、再びソ日関係を緊張させました。ソ日間の対立と矛盾が局地戦争か全面戦争に拡大するであろうことは、誰の目にも明らかでした。
日本帝国主義者は一九三六年八月の「五相会議」で、対ソ侵略を国策として策定しました。彼らはこの会議で、対ソ侵略戦争の具体的な計画を確定し、極東のソ連軍兵力を開戦当初に即刻掃滅できるよう、満州と朝鮮の兵力を増強すべきだとしました。ヒトラー・ドイツは第二次世界大戦前夜に「バルバロス」なる対ソ作戦計画を立てましたが、それより先に日本軍部は「乙」という対ソ作戦計画を立てていました。ソ連を狙ううえでは、日本のほうがドイツより先行していたわけです。関東軍司令官植田は「満ソ国境紛争処理要綱」で、国境線の不明確な地域では現地司令官が国境線を任意に定め、衝突が起きた場合は兵力の多寡、国境線の如何をとわず、必勝を期すべしとしました。日本軍の不当な国境紛争挑発のため、ソ連はいつ全面戦争に巻き込まれるかしれない不安定な状態におかれていました。
われわれはソ連にたいする日本軍の強盗さながらの挑発行為を見て、義憤を感じざるをえませんでした。ソ連を武力で支援しようというわれわれの決意は、連日、関東軍との血みどろの戦いをくりひろげていた朝鮮共産主義者にとって、至極自然な同志的感情の発現でした。社会主義を志向して戦うわれわれにとって、労働者、農民の政権が樹立されたソ連は文字通り理想郷であり、人民を抑圧し搾取していた寄生虫集団を一掃した社会が地球上に存在するということ自体がすでに驚くべき現実でした。それでわれわれは、血を流してでもソ連を保護し固守すべきだという決意をかためたのです。
日本帝国主義者は朝中人民を離間させた手口を用いて、朝鮮人民とソ連人民のあいだにもくさびを打ち込む政策をたえまなく実施しました。いっとき彼らは、琿春出身の親日的な朝鮮青年を基本に国境監視中隊なるものを編制し、それをソ満国境界線に配置してソ連人と戦わせました。そして、満州国軍政部大臣の賞金を与える芝居まで演じました。日本帝国主義者はまた、間島に在住する朝鮮人のなかから多くのスパイを養成してソ連に送り込んだかのようなうわさを広めて、ソ連人に朝鮮人を憎悪し敬遠させるようにしむけました。われわれが小汪清で遊撃区生活をしていたとき、琿春連隊の戦友たちは、日本帝国主義者の離間策動のため琿春連隊とソ連国境警備隊が険悪な仲になり、ある中隊長は朝鮮人にたいするソ連人の見方が変わったのも知らず、従前どおり彼らとの接触を試みて抑留されそうになったことまであったと言っていました。一九三八年の夏には、ソ連極東内務人民委員部のある高位将官が琿春を経て日本に亡命したといううわさまで立ちました。
一九三〇年代の中期、極東在住の朝鮮人を中央アジア地域へ集団移住させる措置がとられました。ソ連の人たちは、カザフスタンやウズベキスタンヘの朝鮮人の集団移住が自衛のためのやむをえぬ措置であると説明しましたが、朝鮮人はそれを快く受け取りませんでした。わたしもやはり、その消息を聞いて亡国の民の悲しみを骨身にしみて感じさせられました。しかしわれわれは、大義のためにソ連擁護の旗をひきつづき高くかかげました。われわれがソ満国境一帯でくりひろげたすべての戦闘は、作戦上不利であることを承知のうえで、ソ連を支援するために主動的におこなった戦闘でした。当時われわれは、ソ連と軍事協力にかんする条約を結んだわけでもなく、また洪範図のようにソ連側から要請を受けたわけでもありません。それはソ連にたいする同志的連帯と、共同の敵日本帝国主義にたいする敵愾心によって自ら決心し断行した軍事行動でした。
ソ連を擁護し支援しようという人民革命軍隊員の熱意と志向がどれほどのものであったかは、一九三四年の冬、ソ連の飛行機が演習中、旋風に巻き込まれて満州の虎林に墜落したときの飛行士救出作戦が如実に物語っています。ソ連飛行士の救出作戦で主動的な役割を果たしたのは朴光鮮(パクグァンソン)でした。当時、朴光鮮は、虎林から数里離れたところで反日人民遊撃隊連絡所の工作員として、于揚部隊と称する中国人反日部隊の工作任務を遂行していました。ソ連の飛行機がウスリー江のほとりに墜落したその日は、ちょうど五〇余名の屈強な朝鮮青年を于揚部隊に入隊させた意義深い日だったそうです。飛行機が墜落するのを目撃した朴光鮮は連絡所に駆けつけ、戦友たちにソ連の飛行士を救出しようと呼びかけました。一方、日本軍も日本軍でソ連の飛行士を生け捕りにしようと押し寄せてきました。遊撃隊員たちは少数人員であったにもかかわらず、機関銃と小口径砲で乱射してくる一〇〇余の敵と決死の激戦をくりひろげました。敵輜重隊の襲撃に出動しようとしていた于揚部隊の隊員たちも戦闘に加わりました。ところが歯がゆいことに、飛行士は敵味方を区別できず、飛行機のそばに手を束ねて立ちつくしていました。朴光鮮が朝鮮語で、心配せずに早くこっちに来いと叫びましたが、飛行士はかえって遊撃隊を敵と思ってピストルまで発射するのでした。こうしたなかで朴光鮮を助けたのは、于揚部隊で反日部隊の工作にあたっていた朝鮮人でした。彼は達者なロシア語で、「われわれは革命軍だ。早くこっちに来るんだ」と叫びました。飛行士はそれを聞いてやっと遊撃隊の方へ這ってきて救援されたのです。
ソ連飛行士の身辺を守り、健康を回復させようとする遊撃隊員の心づかいは、じつに涙ぐましいものでした。そのころ遊撃隊員はトウモロコシ粥も満足に食べられない状態でしたが、その飛行士のために敵の輜重隊を襲って奪った小麦粉でパンをつくり、イノシシを捕って肉をもてなしたりもしました。寒い冬の日にウスリー江の氷を割って獲った魚を食べさせもしました。ひどい打撲傷を負い、捕虜の恥辱を受けるところだった飛行士は、遊撃隊員に警護されて無事祖国に帰ることができたのです。この事実は、人民革命軍部隊内で国際主義教育の材料として広く利用されました。
一九三八年の夏、日本帝国主義者はハッサン湖事件を引き起こしました。一名張鼓峰事件とも呼ばれるこの事件は、それまで日本帝国主義者の挑発した国境紛争のうち、もっとも規模が大きく破廉恥なものの一つでした。張鼓峰は当時の雄(ウン)基(ギ)郡四(サ)会(ヘ)里の対岸に位置するソ連領の小さな高地です。ソ連ではその高地を無名高地と呼んでいました。高地の付近にはハッサン湖という湖があります。ハッサン湖事件とも張鼓峰事件とも呼ばれるのは、こうした地理的概念に由来しています。日本帝国主義者は最初、ハッサン湖を自分の領域だと主張し、それが通じなくなると、張鼓峰にあるソ連の国境哨所を攻撃しました。張鼓峰を占拠したのち、兵力を増強してウラジオストック以南の沿海州地域を制圧しようという魂胆からでした。日本軍はソ連側の哨所を占拠し、その一帯に羅(ラ)南(ナム)第一九師団を基幹とするおびただしい兵力を集中しました。ソ連側は大兵力を動員して、祖国の領土に侵入した日本侵略者を懲罰し、彼らをソ連領内からことごとく駆逐しました。
ハッサン湖事件が起きたとき、われわれは臨江一帯で活動しながら敵の背後に打撃を加えました。日本の軍部はソ連や中国にたいする軍事挑発をおこなうたびに、いつも自分らの背後に打撃を加える人民革命軍の存在にかなり神経をとがらせていました。日本支配のガンとなっている抗日遊撃隊を掃滅できずにいることは、日本の政界や軍部にとって最大の頭痛の種であり、禍のもとでした。われわれが臨江県で軍事・政治幹部会議を開き、ソ連を武力で擁護するための敵背打撃戦を果敢に展開する方針を示すと、人民革命軍のすべての指揮官と兵士はそれを積極的に支持し実践しました。人民も革命軍の戦いに呼応しました。

日本帝国主義の挑発的なソ連侵攻に反対する朝鮮人民革命軍の軍事作戦と並行して、国内の愛国的な人民のあいだでも抗議闘争が活発に展開された。つぎの資料はその傍証となるものである。
「朝鮮総督府警務局発行の『最近における朝鮮治安状況』に載った資料によれば、日本帝国主義のハッサン侵攻にたいする反抗の表示として八月二日の夜、清津(チョンジン)埠頭の一五〇人以上の人夫が作業をボイコットし、スト参加者のうち多数の者がパルチザンに投じたという」(『独立と民主主義をめざす闘争における朝鮮人民』ソ連アカデミー出版社)

ハッサン湖事件後、ソ日間には休戦協定が締結されました。この事件の解決にあたって、ソ連は日本にきわめて強硬な態度をとりました。日本軍部の好戦分子はソ連の強硬姿勢に萎縮しました。ソ連は日露戦争当時の無力なロシアではなく、あなどりがたい国力をもった大国でした。日本帝国主義者はソ連という国を見直すようになり、執拗に追求してきた対ソ侵略計画について再考せざるをえなくなりました。けれども日本帝国主義者は、ソ連侵略の野望をすてませんでした。彼らは日本にたいするソ連の強硬政策をいま一度打診する目的で、満蒙国境一帯で新たな軍事挑発を企てました。俗にノモンハン事件とも呼ばれるカルキンゴル事件はこうして起こったのでした。カルキンゴルというのはソ満国境近くのモンゴルの川の名で、ノモンハンとはモンゴル語で平和という意味だそうです。日本帝国主義者がカルキンゴル事件を引き起こした目的は、カルキンゴル川東部のモンゴル領土を占領し、彼らが敷設しようとする第二鉄道を掩護するための防御地帯を構築し、さらにはシベリア鉄道の幹線を切断し、ロシアから極東を奪い取ることでした。これと同時に、ソ連が日本の武力侵攻にどう対応するか、ソ連の対日戦略は何であり、軍事力はどの程度なのかを具体的に探知し判定しようということでした。それまでソ連の軍事力についての具体的な情報はほとんど公開されておらず、多くのことが未知数となっていました。そのころソ連軍部では少なからぬ高位軍事幹部が戦列から除去されましたが、日本はそれについても関心をもって注視しました。彼らは軍部内のそうした変化がソ連の軍事力にどの程度の影響を与えたかについて、たいへん知りたがっていました。
周知のように、日本の政界と軍部では北進論と南進論が台頭し、ソ連を先に攻撃するか、南方を先に席巻するかという戦略上の問題をめぐって長いあいだ激論がたたかわされてきました。カルキンゴルでの武力挑発は、北進の可能性いかんを検証する一種の試験戦争ともいえました。
カルキンゴル一帯は広漠とした砂丘と草原からなっているそうです。カルキンゴル事件は、モンゴル国境守備隊員の国境侵犯というとんでもない難くせをつけて日本人が故意に引き起こした事件です。ところが、その局地戦の直接的な動機となったのは、カルキンゴルの草原で草を食んでいた羊の群れだったという話もあります。牛や羊のような家畜に、国境や立入り禁止区域がわかろうはずがありません。にもかかわらず日本軍は、羊の群れが越境したという馬鹿げた口実を設けて満州国警察にモンゴル人を捜索、逮捕させ、それを奇貨にカルキンゴル事件を引き起こしたというのです。日本帝国主義者はすでに一九三五年に偽造地図をつくり、満州国の国境線を自分に有利なようにモンゴル領を二〇余キロも押し上げておきました。
日本がカルキンゴル事件のような大規模の武力挑発を以前から準備してきたということは、この事件の主役を担当した日本軍の高位指揮官のなかに、一時モスクワ駐在日本大使館の武官を務めたことのある将官小松原が加わっていた事実によってもよくわかります。小松原は反ソ謀略で手腕を発揮した功労で、対ソ作戦の第一線ともいえるハイラル駐屯師団の師団長に昇進した人物です。事件当初、彼は師団を率いてモンゴル領内に深く侵入し、カルキンゴル西部の広い地域を占拠して日本軍の橋頭堡にかえました。そこにはモンゴル軍が少数で、ソ連軍もそこから一〇〇キロ離れたところに駐屯していました。小松原はこの点を利用したのです。しかしソ連軍とモンゴル軍は連合し、小松原師団をはじめ敵の大部隊を壊滅状態に陥れました。日本は本土から兵力を増派して大規模の集団兵力を編制し、新たな作戦をくりひろげました。ソ連側では白ロシア軍管区副司令官のジューコフをカルキンゴル戦線に派遣しました。ジューコフは、戦車と航空隊による打撃を基本とし、高度の機動力と不意打ちで数的に優勢な日本軍部隊を全滅させました。カルキンゴルでの局地戦はその年の九月中旬、ソ連・モンゴル軍の勝利をもって終結しました。
ソ連・モンゴル連合軍がカルキンゴルで苦戦していたとき、われわれはソ連を武力で擁護するため、朝鮮人民革命軍の各部隊に後方攪乱作戦を展開する新たな命令書を作成し下達しました。その命令書にしたがって同年の夏、朝鮮人民革命軍の各部隊は多くの戦闘をおこなって日本帝国主義のソ連侵攻を阻止するのに大きく貢献しました。その代表的な戦闘としては、一九三九年八月の大沙河-大醬江戦闘をあげることができます。大沙河-大醬江戦闘は、敵がカルキンゴルに投入する第六軍を新たに編制するため、兵力の移動と軍需物資の輸送であわただしく動いているときにおこなった攪乱作戦でした。この戦闘は二日間にわたって展開され、五〇〇人の敵兵を掃滅した大戦闘でした。
金振(キムジン)は大沙河戦闘で、敵の銃眼をわが身でふさいで部隊の突撃路を開きました。金振の模範に見習って、偉大な祖国解放戦争のときにも、数多くの人民軍兵士がわが身で敵の銃眼をふさぎました。金振はわれわれが第二次北満州遠征を断行したとき、寧安県八道河子で入隊しました。われわれが八道河子村に入ったとき、呉(オ)振(ジン)宇(ウ)が下男暮らしをしていた青年を一人連れてきましたが、それが金振でした。革命軍への入隊をあまりにも熱心にせがむので受け入れました。金振については呉振宇がよく知っています。金振の小隊長は呉振宇でした。金振は書堂に数日しか通えなかった青年ですが、入隊後、戦友たちに助けられて勉強に励みました。しばらくのあいだはわたしが連れて歩きながら、直接読み書きを教えました。素朴な青年でしたが、朝鮮革命に大きく貢献して壮烈な戦死を遂げました。金振のような人については、新しい世代に大いに紹介し宣伝する必要があります。敵の銃眼をわが身でふさいだ英雄が、ほかならぬソ連のカルキンゴル戦闘を支援する戦いで生まれたのは、非常に意義深いことだと思います。
カルキンゴル戦闘を支援する後方攪乱作戦の過程で戦死した女子隊員の許(ホ)成(ソン)淑(スク)も忘れがたい人です。許成淑は自衛団長だった父親と義絶し、若い年で単身遊撃区を訪ねて革命軍に入隊した女子隊員でした。父親が自衛団長を務めていることをひどく苦に病んでいたそうです。許成淑は日に何回も自衛団長をやめるようにと哀願しましたが、頑固な父はそれに耳を貸そうともしませんでした。父を説得しきれなかった許成淑は、憤然と家を飛び出して三道湾遊撃区に入りました。一九三三年のことですから、彼女が一六~一七歳のときでしょう。わたしがこの話を聞かされたのは、それから数年後のことでした。
事情はどうであれ、許成淑が父親と義絶までして敵視するのは、一考を要することだと思いました。わたしは女性中隊を組織する問題と関連して許成淑に会ったとき、父親にたいする立場から改めるべきだ、父が自衛団長を務めていれば、反逆行為をしないようにねばり強く説得し助けるべきであって、そのように目の敵にしてはならない、と軽くたしなめました。すると彼女は、父のことはいっさい口にしないでください、と首を横に振るではありませんか。それでわたしは、たとえ父が親日分子になったとしても、きみがそのような立場に立ってはならない、誤りを責めるまえに父を革命の側に立たせることを考えるべきであって、決別を宣言して敵の側に押しやってどうしようというのか、自分の父親も改造できない不孝者が革命、革命といったところで知れたものだ、近いうちに女性中隊を組織する予定だが、父親にたいする態度を改めなければその中隊に編入させない、と言いました。すると許成淑は泣き顔になり、自分の考えが間違っていた、今後機会があれば父をよく説得するから、女性中隊には必ず入れてもらいたい、と懇願するのでした。その後、彼女は女性中隊に加わってりっぱに戦いました。彼女はいつも勇敢に戦ったので、戦友たちから「許将軍」または「女将軍」と呼ばれたものです。
間三峰戦闘があった日の夜、わたしは崔(チェ)賢(ヒョン)に会い、許成淑に時間を与えて家へ行かせようと言いました。親子の対面の機会をつくって仲直りをさせるつもりでそう言ったのですが、崔賢もわたしの意見にすぐ同意しました。彼は、部隊が明月溝付近に到着すれば、許成淑を必ず父親のところへ送ると約束しました。しかし許成淑は二度と父親に会うことができませんでした。彼女が父親を訪ねていこうと旅支度をしていたとき、カルキンゴル戦闘を支援して大沙河-大醬江戦闘をくりひろげる作戦が準備されていました。許成淑は、ソ連を武力で擁護する大作戦を前にして、一身上のことを先に考えることはできない、家を訪ねるのは後回しにしたい、と言うのでした。
大沙河-大醬江戦闘があった日、彼女は立哨中、不意に敵の軍用車編隊と遭遇しました。もともとその日の歩哨当番は許成淑でなく、部隊でいちばん年上の古参隊員だったそうですが、食事をすませてその隊員を助けようと歩哨所へ行っていたのでした。敵兵を乗せた何台もの軍用車が歩哨所の近くに接近してくるのを見た許成淑は、古参の隊員を指揮部へ状況報告に走らせ、一人で防戦に努めました。彼女が発砲したのは、敵前に自らをさらけだしたのも同然でした。自分を露出してでも、敵の攻撃を多少なりとも阻止しようとしたのです。敵の火力は彼女に集中しました。許成淑は体に数発の敵弾を受けましたが、携帯していた手榴弾を全部投げつくしてから眼を閉じました。彼女の英雄的な行動によって、その日、部隊はありうる損失を未然に防ぎ、適時に出陣することができました。許成淑が戦死したのは、二二歳か二三歳のときだったはずです。その年なら胸にどんなに多くの夢を抱いていたことでしょう。その青春の夢をソ連のカルキンゴル戦闘を支援する戦いにささげたのです。まさに国際主義の花と言うべきです。
全東奎(チョンドンギュ)連隊長と梁衡宇(リャンヒョンウ)連隊政治委員も大沙河-大醬江戦闘で戦死しました。二人とも琿春出身で、末頼もしい若者でした。彼らは隊員たちから慕われ尊敬されていましたが、それは高い人格と資質をそなえて率先垂範する指揮官だったからです。梁衡宇は琿春遊撃隊の草創期から活躍した人物です。彼の属した部隊が大沙河-大醬江戦闘のさいに受けた任務は、大沙河を襲撃したのち小沙河の高地を占めて攻撃してくる敵を牽制することでした。ところが、大沙河戦闘が長引いたため、小沙河の高地は敵に先に占められてしまいました。小沙河の高地を奪取するか否かによって大沙河-大醬江戦闘の勝敗が左右される決定的な局面で、梁衡宇は機関銃を手にして戦いの先頭に立ちました。隊員たちは彼にしたがって高地へ肉迫しました。ところが、革命軍が高地を占領する寸前に梁衡宇は腹部に銃創を負いました。彼は左手で銃創を押さえ、右手で機関銃を撃ちまくりながら、「日本帝国主義は朝鮮人民の不倶戴天の敵だ。彼らはいまソ連を侵攻しようとしている。あの敵どもを一人残らず討ち取ろう。ソ連を血をもって守ろう」と叫び、隊員たちを突撃へと奮い立たせました。隊員たちは怒濤のような猛攻によって高地を一気に占領しました。琿春時代から梁衡宇と並んで成長した全東奎連隊長も、敵軍部隊を全滅させて英雄的な戦死を遂げました。大沙河―大醤江戦闘で戦死した遊撃隊員はみな、革命偉業に忠実な国際主義の烈士だったのです。
腰岔戦闘も人民革命軍がソ連を支援するため、犠牲をいとわず敢行した戦闘です。新任の連隊長李(リ)竜(リョン)雲(ウン)がこの戦闘を指揮しました。連隊はこの戦闘だけでも数百の敵兵を掃滅しました。ところが、戦闘を指揮した李竜雲は胸部に貫通銃創を負いました。幸いにも銃創はその後治癒しましたが、小哈爾巴嶺会議以後、ソ満国境地帯でコミンテルンとの連携をとり、小部隊工作を遂行中に倒れました。彼が遂行した小部隊工作もやはり、国際主義的性格のものでした。
和竜県三道溝金鉱山駐屯の警察隊襲撃戦闘、安図県富爾河襲撃戦闘、汪清県百草溝襲撃戦闘をはじめ、カルキンゴル事件当時、人民革命軍がソ連を支援しておこなった後方攪乱作戦の実例は枚挙にいとまがありません。人民革命軍部隊の後方攪乱作戦に敵がどれほど悩まされたかは、彼らがソ満国境地帯へ通ずる道路と鉄道周辺の一〇〇~二〇〇メートル区間の草木をすべて伐り倒してしまった事実によってもよくわかります。しかし、そんなことでは、人民革命軍の要撃を防ぐことができません。人民革命軍部隊の勇猛果敢な活動によって、ソ満国境地帯へ通ずる鉄道では軍用列車爆破事件と脱線事故が相ついで起こりました。人民革命軍の各部隊は敵の後方に相つぐ打撃を加えて多くの兵力を掃滅しただけでなく、遊撃隊の活動区域に多数の敵を釘づけにして、ソ連にたいする武力挑発に兵力を円滑に動員できなくしました。ハッサン湖事件当時、敵はわれわれを牽制するため、間島地区だけにも二個旅団の兵力を投入しました。カルキンゴル事件のときには、それよりも多くの兵力を投入したといいます。
このように、ソ連を武力で擁護しようというスローガンをかかげてわれわれがおこなった敵背打撃戦は、日本帝国主義の対ソ侵略を挫折させるうえで重要な役割を果たしました。散兵線が前進するとき、全隊伍が先鋒を掩護するのは軍事学の初歩的な原理です。共産主義者の視点からすれば、地球上に一つしかなかった社会主義国ソ連は、散兵線の先頭を切って進む兵士のような位置にありました。朝鮮の共産主義者はまさに、国際共産主義運動の先頭に立って進むソ連を掩護するため、関東軍の背後に打撃を加えたのです。勝利した革命を支持、擁護し、その革命の獲得物の保持、強化のために最善をつくすのは、共産主義者の国際主義的任務であると同時に、信義であり道徳でもあります。先んじた革命を積極的に援助してこそ、遅れをとった革命もその連関のなかで成功裏に躍進することができるのです。まさにこうした理由から、共産主義者の国際的連合は互いに助け支持し、補い合うものとならなければなりません。
カルキンゴル戦闘は関東軍の惨敗に終わりました。五万に達する死傷者と捕虜、行方不明者、これは火遊びを好む好戦分子にもたらされた当然の代価でした。部隊の兵員を全部失った日本軍指揮官は、自分の手で軍旗を焼却して自害したり、上部から自決を強いられたとのことです。関東軍司令官の植田をはじめ参謀長、作戦課長、作戦参謀など関東軍の首脳は、休戦協定の締結前に全員罷免されました。カルキンゴル戦闘で苦杯をなめたのち、日本帝国主義の対ソ政策には一定の変化が起こりました。一時的に、ソ連にたいする強硬政策を宥和政策に変えたのです。
あるいは、こんな質問を提起する人もありうるでしょう。朝鮮の共産主義者が抗日戦争当時、血潮をもってソ連を支援し擁護したのは正しかったのか、ソ連で社会主義が崩壊し資本主義が復活したこんにちの現実は、かつてソ連を擁護して傾けた朝鮮共産主義者の国際主義的支援が無益であったことを意味するのではないか、と。一言でいえば、それは論ずる余地もないことです。朝鮮人民のなかには、そんな問題をもちだして是非を論ずるような人はいません。それは、社会主義にたいする信念をすてた人のみがなしうる行為です。われわれは、ソ連にたいする朝鮮共産主義者の国際的支援に虚無感を抱いたことは一度もありません。ソ連が崩壊したからといって、かつてわれわれがソ連の革命闘争を支援したことが徒労に帰したわけではありません。正義のためにつくした信義や努力は、無駄にならないものです。
われわれは、ソ連での社会主義の崩壊を一時的な現象と見ています。社会主義が人類の理想であり、歴史発展の当然の路程である以上、その再生が必定であることは明々白々です。社会主義は不正ではなく正義です。社会主義が正義であるなら、その初の体現者であるソ連を支援したのも正義かつ聖なることであって、むなしいことにはなりえません。われわれはかつて、ソ連の人たちが苦しい立場におかれていたとき、武器を手に血を流して彼らを支援したことを、いまも誇りとし自負しています。いまはソ連という国号もなくなり、ソビエト国家を建設した草創期の老革命家もいません。いまのロシアには、カルキンゴル戦闘に直接参加した老兵もさほど残っていないはずです。ましてあのとき、われわれがソ連のために後方攪乱作戦を展開したことを回想できる人は、ほとんどいないでしょう。しかし、追憶する人がいないからと、われわれが心血をそそいで培ってきた国際主義の花園が無意味なものになるはずはありません。
われわれはかつて、他人が知ろうと知るまいと、武器をとってソ連を積極的に支援しました。これはソ連のためであると同時に、われわれ自身のためでもありました。ソ連人は、朝鮮共産主義者の国際主義にたいし、国際主義をもってこたえました。いまは民族利己主義に走る国が少なくありません。他人はどうなろうと、自分さえよい暮らしができればそれまでだという考えが、少なからぬ人たちの頭を支配しているようです。わたしは個人利己主義に反対するだけでなく、民族利己主義にも反対します。自分だけよい暮らしをしようとするのが人間らしい生き方といえるでしょうか。人間が味わう楽しみのうち、他人を助けることより大きな楽しみはないと思います。

七 「前田討伐隊」の末路

一九四〇年三月の紅旗河戦闘は、大部隊旋回作戦の最後の時期をりっぱに飾った戦闘であったといえます。
「東南部治安粛正特別工作」によって革命軍を壊滅させると喧伝していた敵が、この戦闘でこうむった打撃は並大抵のものではありませんでした。まるまる一個の「討伐」中隊が全滅するという悲惨な終末に遭って、敵はあわてふためき、なす術を知りませんでした。当時はどんな時期だったでしょうか。中日戦争が持久戦にもちこまれ、ハッサン湖事件とカルキンゴル事件のため日ソ関係が極度に緊張していた時期でした。また第二次世界大戦の炎がますます燃え広がっていた時期でした。そうしたときに、関東軍首脳部は東北抗日運動の最終的な撲滅を云々して「東南部治安粛正特別工作」なるものをくりひろげたのです。
われわれが敵にたえまない打撃を加えながらも、いったん戦闘を終えてはいつの間にか跡かたもなく姿をくらますので、彼らはわれわれの行方をつきとめようと冬中、敦化と撫松の奥地を探しまわりました。そんなときに、すべて凍え死にしたといわれていた朝鮮人民革命軍の主力が突如、安図―和竜県境にあらわれ、紅旗河で「前田討伐隊」を全滅させたのですから、敵はさぞ仰天したことでしょう。
紅旗河戦闘は普(ポ)天(チョン)堡(ボ)戦闘、間三峰戦闘、東寧県城戦闘、撫松県城戦闘などの大規模の戦闘とともに、われわれが展開した軍事作戦のうちでも忘れがたい作戦の一つとして記憶に残っています。それでわたしも前田を覚えているのです。和竜県「警察討伐隊」のただの中隊長にすぎなかった前田について言うなら、実際上、朝鮮人民革命軍の相手になるほどの存在ではありませんでした。 しかし彼は、撫松の王隊長や安図の李(リ)道(ド)善(ソン)のようにもっとも悪質な「討伐隊長」でした。職級からすれば取るに足らぬものでしたが、朝鮮革命の司令部をなきものにしようと狂奔して全滅したことで悪名をとどろかしたといえます。
そのころ、われわれは大部隊旋回作戦にもとづき、計画的に休息し学習もしながら、敵にあいつぐ軍事的打撃を加えていました。紅旗河戦闘を一か月ほど前にしたときのことです。白石灘密営で軍事・政治学習をしていたわれわれは、密営を奇襲してきた敵にいち早く痛撃を加え、安図方面に抜け出しました。大部隊旋回作戦が第二段階に入ったのはまさにこのときからです。
ところが、この第二段階ははじめから多くの苦労をともないました。東牌子密営に行っていた林水山が司令部から与えられた任務の遂行を怠ったので、予定されていた秘密コースが利用できず、計画にもなかった他のコースを利用しなければならなかったからです。そのため、新たに定められたコースはほかならぬ人里離れた白頭山東北部の白色地帯でした。日本軍にはベテランの測量士が多かったそうですが、この一帯にはあえて足を踏み入れることができなかったといいます。測量できなかった地帯なので、地図に白色のまま残すほかありませんでした。それで白頭山東北部の一部の地域を白色地帯といっていました。われわれは白石灘を発つとき、その白色地帯を通過して茂(ム)山(サン)、三(サム)長(ジャン)に進出し、いま一度銃声を大きく響かせてから和竜県を経て安図県の中心部にもどってくる計画でした。われわれが白石灘を後にしながら新しく立てた大部隊旋回作戦の第二段階計画はこういうものでした。
われわれは露水河で一回戦闘をおこなった後、頭道白河、二道白河、三道白河を横切って安図県の南端に向けて行軍しました。白色地帯を突破するときはたいへん苦労しました。当時は積雪も敵であり、寒風も敵でした。寒さと空腹はたえがたいものでした。しかし、もっとも困難なのはよく道に迷うことでした。すべてが白色ずくめなので、どこがどこやら見分けがつかず、目印をつけることもできませんでした。大馬鹿溝付近に来ては食糧も切れ、衣服も靴もひどく破れました。われわれは大馬鹿溝を襲撃して給養物資を補いました。大馬鹿溝というのは大きなウマ鹿の谷という意味であり、小馬鹿溝というのは小さなウマ鹿の谷という意味です。以前は大馬鹿溝の鹿が豆満江を渡って朝鮮にきて草を食み、冬には大馬鹿溝に帰って茅を食べるなどして両国の境界を行き来したものでした。「討伐隊」の本拠地である大馬鹿溝には、山林警察中隊の本部もありました。大馬鹿溝は国境方面の「討伐」拠点といえるところでした。日本帝国主義はここにある山林伐採会社と作業場を通して、軍需用の木材を大々的に略奪していました。
われわれは戦闘に先立って大馬鹿溝に偵察班を派遣しました。ところが、帰ってきた彼らが偵察報告をしてから言うには、目が灰色で背がばか高い変な人種を見たとのことでした。鼻がとんがり、手の甲にまで毛の生えたえたいの知れない種族で、どこの人間なのか判断できないと言うのでした。それで隊員を一人送って確認させたところ、木材所の運転手をしている白系ロシア人であったとのことです。ハルビン地方には多くの白系ロシア人がいました。わたしも一九三〇年の夏、ハルビンで多くの白系ロシア人を見たことがあります。われわれは敵の主力が出払ったすきに、急行急襲の戦術でまたたく間に大馬鹿溝を掌握しました。白系ロシア人の運転手たちは革命軍の隊員たちに金の指輪を差し出しました。おそらく匪賊部隊だと思ったのでしょう。隊員たちがそれを受け取らなかったので、彼らは変わった人間もいるものだといわんばかりに首をかしげました。彼らの物の見方はそれほど立ち後れていたのです。
大馬鹿溝を襲撃してろ獲した小麦粉はたいへんな量でした。その小麦粉を大馬鹿溝の住民に一袋ずつ分け与えました。ろ獲した物資がたいへんな量で、全隊員が背中いっぱいかついでも余ったので、数十名の木材所の労働者が自発的に荷物を運搬してくれました。最初は白系ロシア人を説得してトラックで一定の地点まで運び出そうとしたのですが、彼らが言うことを聞かないというのです。そこで、ロシア語ができる人を白系ロシア人のところへやって説得させ、彼らを動かしました。
そのとき、わたしは白系ロシア人と対話をしてみました。なぜ祖国に住まず中国に来たのかと聞くと、彼らは、自分たちのような地主、資本家の出身を共産党は歓迎しない、父親は社会主義革命に反対したから罪があるとしても、自分たちには実際上なんの罪もないと言うのでした。ソ連に送ってやれば共産主義者とともに社会主義建設に参加する用意があるかと聞くと、あるとのことでした。
ろ獲物資をかついでわれわれについて来た人のなかには、日本人労働者も一人いました。彼は帰ってからよい宣伝をしたとのことです。革命軍に会ってみると、みんなよい人たちだった、彼らはみな自分らのような労働者の味方だった、わたしが日本人であることを知りながらも差別せずに接してくれた、そして日本の労働者も朝鮮の労働者と力を合わせて日本帝国主義を打倒すべきだと言っていた、と見聞きしたとおり宣伝したのです。そのため、木材所の監督につかまり、よそへ追い立てられたとのことです。
われわれが大馬鹿溝を奇襲すると、安図と和竜一帯の敵は超非常警戒態勢に入りました。彼らは人民革命軍の主力部隊を掃滅しようと血眼になりました。その先頭に立ったのが和竜県「警察討伐隊」隊長の県警務課長宇波とその部下の前田でした。
和竜県警察当局が「警察討伐隊」を組織したのは一九三九年五月、われわれが茂山地区戦闘を終え、豆満江沿岸で大規模の戦闘を連続くりひろげていたころでした。和竜県「警察討伐隊」は、もっぱらわれわれを牽制し掃滅するために急編成した兵力でした。この「討伐隊」は前田中隊を含めた四個中隊と鉄道警備隊の二個中隊で構成され、間島地区「討伐」隊長の指揮のもとに遊撃隊の「討伐」に狂奔していました。遠く北方にいるものと思った革命軍が突如、和竜―安図県境に出没して大馬鹿溝を襲撃するや、和竜県「警察討伐隊」は業を煮やしてわれわれの追撃に総力をあげました。のちに知ったことですが、前田はともすれば、金日成部隊の主力は自分らが受け持ってかたづけると豪語し、われわれにたいする「討伐」に誰よりも悪らつに取り組んだといいます。
「野副討伐司令部」は、わたしの首に一万元という大枚の懸賞金をかけていました。それよりはるかに多額の懸賞金をかけていたという資料もあります。満州国治安当局が「警察賞」を制定したとき、普通賞一〇元から治安部大臣名義の最高賞金を二〇〇元としたことを考えるなら、一万元という懸賞金は法外な金額であることがわかります。
朝鮮で下級警察官を務めて満州にきた後、首都警察庁管下の警備司令部と、主に朝鮮国境対岸のいくつかの地域で警察署長を務めたことのある前田は、間島一帯での「治安粛正工作」で立てた「功労」により、治安部大臣賞まで受けたそうです。われわれが大馬鹿溝を襲撃したという報に接して俄然殺気立った前田は、遊撃隊を全滅させると誓って血書を書き、「討伐出征式」までおこなったとのことです。日満軍警合同「討伐隊」は総出動して白頭山麓の大森林を包囲し、「蟻の這い出るすきまもない捜査網」を張りめぐらしました。
わたしは「討伐隊」が必ずわれわれの後尾に食らいついてくることを予見し、巧みに敵を振り切る計画を立てました。まず一個小部隊の隊員と、ろ獲物資を運んで大馬鹿溝へ帰る四〇名余りの人たちに、あちこち足跡を残すようにしました。敵はその足跡にだまされ、やっとつかまえた遊撃隊を取り逃がしたと歯ぎしりして口惜しがり、だが今度はそうはいかない、いかに金日成が神出鬼没だとはいえ地に潜れはしまい、白頭山をくまなく捜せば共産軍司令部は必ず探し出せると大言を吐き、連日、山中を捜索してまわりました。
われわれは敵をまいて振り切ったのち、しばらくのあいだ花拉子密営で悠然と主力部隊の軍事・政治学習をしながら休息もとって疲れをいやしました。それから茂山方面へ行軍をつづけました。花拉子一帯に散開して革命軍の行方を探し出そうと懸命になっていた敵は、ついにわれわれの行方を探知し後を追いはじめました。行軍の途中で「討伐隊」の人夫として徴発されていた農民に会い、一,〇〇〇人ほどの敵軍がわれわれを追っていることを知りました。三月とはいえ、腰まで埋まる積雪のため、敵味方の双方が行軍に難渋していました。しかし、敵の行軍速度はわれわれを上まわっていました。われわれが前で新雪をかき分けて道をつけていくと、敵はその跡をたどって追ってきたからです。
そのうえ、部隊内には萎縮症患者が出ました。最初は一、二名だった患者が、のちには一五人ほどに増えました。わたしは林(リム)春(チュン)秋(チュ)に、それらの患者をどう治療するつもりかと聞きました。林春秋は遊撃隊の政治幹部でしたが、臨床経験を積んでいる人で、アヘンを使うと言うのでした。それで、よかろう、アヘンを使うなり何を使うなり精いっぱい治療してみるようにと言いました。患者はアヘンを飲んで急場をしのぎました。しかし、行軍ができるほどには回復しませんでした。敵を遠く引き離さなければならないのに、患者のため行軍速度が鈍り、敵味方の間隔は四、五キロほどに縮まりました。
紅旗河上流の大馬鹿溝河は、いくつもの谷川からなっていました。そのうちのある谷間にたどりつくと、日が暮れはじめました。木材所の労働者が使いすてた空き家が幾棟かあったので、歩哨を立てそこに隊員を宿営させました。隊員を十分に休ませなくては戦闘ができません。隊員たちは敵が背後に迫っているのをよく知っていたので、行軍を中止し、そんなところで宿営することにいささか不安なようでした。しかし、わたしが先に横になると安心しました。わたしは「前田討伐隊」を紅旗河の谷間で撃滅することにしました。紅旗河の谷間を待ち伏せ地点として定めたのは、花拉子まで来た敵が基地に帰るには、必ずこの谷間を通過するものと推定したからです。それに、その地形は敵を要撃掃滅するにはうってつけのところでした。のちに和竜県警務課長が言ったように、その谷間は待ち伏せにかかったが最後、「まったく戦術を使おうにも使いようがないとしか言えない不利な地形」でした。わたしが紅旗河の谷間を戦闘の場と決めたことを知った呉白竜は、「将軍、敵はわれわれの戦法をよく知っているのに、自らそういうわなにかかってくるでしょうか」と心配しました。一理ある話でした。敵がもっとも恐れたのは、ほかならぬわれわれの誘引待ち伏せ戦術でした。敵はこの戦術を「ラワ戦法」とまで名づけ、内々にそれを克服する対策の研究もさかんにしていました。「金日成のラワにかかるな」という言葉が警句のようになっていたというのですから、彼らがわれわれの誘引待ち伏せ戦術にどんなに泡を食ったかがうかがわれるでしょう。敵は、遊撃隊が待ち伏せしていそうなところは、できるだけ通らないことにしていました。呉白竜はそういうことを念頭においていたのです。わたしは、日本軍が「ラワ」を警戒していることを知っている共産軍はそんな戦法を繰り返しはしないだろうと考える敵の意表を衝いて、紅旗河の谷間に待ち伏せの陣を張り、そこで追撃してくる「討伐隊」と戦うことにしました。いわば、二度と使わないだろうと敵が断定する戦法を再び適用する計画を立てたのです。
翌日、行軍をはじめたわれわれは、小馬鹿溝の方角へ尾根をつたって谷間に降りました。その谷間の両側の山は妙な形をしていました。上流に向かって右側には三兄弟のような形をした三つの峰がありました。待ち伏せの陣地としてはうってつけの場所でした。谷間の右側にも峰がありました。その峰の麓にこんもりした林がありましたが、それもわれわれに有利な地形地物でした。
わたしは指揮官会議を開き、簡単な戦闘手配をしました。谷間の右側の三つの峰には機関銃小隊と警護中隊を、左側の峰の端には第七連隊と第八連隊を配置することにしました。ただし、各部隊はわざと下の方に降りていって、高地に登ってくる足跡だけかき消してそれぞれ定められた場所に待ち伏せし、誘引班は足跡を大きく残してひきつづき谷間に抜け出るようにしました。また孫(ソン)泰(テ)春(チュン)を責任者とする一個の班は谷間の手前の高地の北側を占め、敵の退路を遮断させることにしました。誘引班には谷間の端まで行って、防御隊の任務を遂行させることにしました。
その日、われわれは紅旗河の谷間で計画どおりの戦闘をおこないました。急に暖かくなったので、日なたの方の雪は解けてしまい、道もぬかるんできました。正午がすぎ、日がだいぶ傾いたころになって紅旗河の谷間に敵があらわれました。望遠鏡で谷間の入口を見下ろすと斥候でした。斥候にしては大人数でした。敵の斥候はいつも一、二名といったところですが、一〇人ほども先発させているのを見ると、花拉子の谷間の「討伐隊」を全部繰り出してきたようでした。斥候の後ろからは尖兵があらわれました。尖兵が最後の高地の前を通過するとき、軍刀をおびた将校が谷間にさしかかりましたが、それが前田であったことはあとで知りました。敵の先頭が待ち伏せ圏内に深く入ってきていました。前田は足を止め、雪の上の足跡と妙な谷間の地形を注意深く見まわしました。わたしは、彼が谷間の上に斥候を派遣するか、部隊を後に引かせようとしているのではないかと思いました。しかし、一〇日余り山岳地帯を歩きまわり、無駄足ばかり踏んで疲れきっていた前田は、冷静に思考し判断すべきその運命的なときに気をゆるめてしまったようです。前田が一本の木の下に立ちどまっているのを見て、部下の将校たちがそのまわりに集まってきました。前田は軍刀を前について、彼らに何か指示を与えました。そうしているうちに、敵の基本隊伍は全部待ち伏せ圏内に入ってきました。わたしはこの絶好の機会を逃すまいと、射撃命令を下しました。その最初の打撃で、敵は早くも半数以上が倒れました。谷間の左右両側から不意に挟撃された前田は、すぐさま全隊伍をその場に散開させ、主力をもって北側の高地を占めようとしましたが、西側の雑木林に待ち伏せていた革命軍の猛烈な側面射撃に遭い、目的を達することができませんでした。戦況が不利になると、前田は最後の決戦を決心したのか、突撃命令を下しました。そして軍刀を引き抜き、突撃の先頭に立ちました。彼は重傷を負ってもなお、倒れる最期の瞬間まで戦闘を指揮しました。残りの敵も決死の抵抗を試みました。前田の部下は死体の山を築きながらも銃を手離しませんでした。武器を捨てて投降した三〇人ほどの敵兵を除いて、前田中隊は全滅しました。死傷者は一四〇人以上にのぼりました。
革命軍の隊員は紅旗河戦闘をりっぱに戦いました。六棵松で戦死した呉仲洽に代わって連隊長になった呉白竜もりっぱに戦い、金一も突撃隊長の役割をりっぱに果たしました。戦闘が終わった後、戦場を捜索してみると戦利品はたいへんな量でした。戦利品のなかには無線電信機もあり、また数万発の弾丸もろ獲しました。武器があり余っていたときなので、処置に困りました。そこでろ獲した武器のうち、一部は古い武器を持っていた隊員に与え、残りは大事変の時期の備えとして油紙に包んで地中に埋めたり、朽ち木の穴にかくしたりしました。
戦利品の整理を終えたとき、遠くもないところで満州国軍「奉天部隊」が火を焚き、われわれを見守っていましたが、怖気づいて襲いかかれず、銃を乱射するだけでした。わたしは呉白竜に命じて、ろ獲した機関銃の性能検査をかねて猛烈な威嚇射撃を浴びせさせました。
その夜、呉白竜は「奉天部隊」が忍び寄ってきたことを報告し、彼らを掃討してもよいかと聞きました。わたしは、放っておけ、見物人までたたく必要はない、彼らをたたくよりそのまま帰したほうがよい、そうすればわれわれに代わって彼らが前田部隊全滅のニュースを世間に伝えてくれるではないか、と言いました。
われわれは紅旗河で戦闘を終えた後、戦場を捜索しているうちに、戦死した将校の胸の隠しから遺書が出てきたのを見て、前田が部下に遺書を書かせていたことを知りました。絹で包んだ遺書でしたが、その内容はきわめて悲壮なものでした。捕虜の話によると、前田は出陣の直前に部下を集め、中隊は地区「討伐隊」の一員として金日成部隊と戦わなければならない、彼らに勝つには大和魂を培い、天皇のために死ぬことも覚悟せねばならない、と言って遺書まで書かせたとのことです。そして、自分の死後のために白木の箱まで準備しておいたそうです。
わたしはその話を聞いて、前田は一介の「討伐中隊長」にすぎないが、じつに徹底した国粋主義者であることを知りました。前田を極端な民族排外主義者、反共ヒステリーにつくりあげたのは、日本の軍国主義と国粋主義思想であると思います。日本帝国主義者は全国民を徹底した国粋主義の信奉者にするため、あらゆる手段と方法をつくしました。国粋主義はつねに愛国主義の外皮をかぶっています。それゆえ、思想的に目覚めていない人には国粋主義の毒素が容易に浸透するものです。以前にも話したことがありますが、日本の軍国主義者は青少年に、満州を併呑してこそ日本が豊かになるという侵略思想を執拗に注入しました。人びとが毎日消費するパンや菓子などの食べ物にまで、海外膨張を鼓吹する刺激的な文字を刻みつけているとのことでした。食べ物を食べながらも、他国を併呑することを考えろ、ということです。宣伝もこれほど執拗につづければ、その毒素が人びとの頭に浸透せざるをえません。
一部の人は、あたかもブルジョアジーにはなんの思想もないかのように思っていますが、それは誤った考え方です。共産主義者に共産主義思想があるのと同様に、ブルジョアジーにはブルジョア思想があるのです。彼らは彼らなりに自分の思想を信奉する忠犬を育てるのです。一時、革命軍内の一部の指揮官は、日本軍内で皇道精神を注入している問題について、その欺瞞性とでたらめさのみを一面的に強調しました。そのため、日本軍兵士を銃を手にした木石とみなす偏向があらわれました。これはきわめて危険な傾向でした。
われわれが、わが国の軍隊の政治的・思想的優越性を強調するのは、敵に思想がないことを意味するのではありません。われわれの思想のほうが敵のそれよりすぐれているということであって、敵は明確な思想をもっていないから見くびってもよい、ということではありません。わたしは政治幹部に、敵の思想的脆弱性のみを強調せず、脆弱ではあっても、彼らも思想を注入しており、極悪な反共毒素で兵士を飼いならしていることを無視してはならないと説いています。
敵は紅旗河戦闘を通じて、したたか苦杯をなめました。それは、いくら朝鮮人民革命軍の後を追いまわしても得られるものは何もなく、かえって「前田討伐隊」の末路のような悲惨な結果しかもたらされないということと、朝鮮人民革命軍を打ち破る力はこの世にないという苦い教訓でした。われわれは紅旗河戦闘を通じて、朝鮮人民革命軍は健在で勝利に勝利を重ねており、いかなるきびしい試練が立ちはだかろうと、決して屈することも、滅びることもないことを天下に示したのです。
紅旗河戦闘は国内の人民にも好ましい影響を及ぼしました。紅旗河から朝鮮までは指呼の間であったので、前田が革命軍にすっかりやられたといううわさは、すぐに豆満江を渡って祖国に伝わりました。朝鮮人民革命軍の運命がどうなるものかと息をつめて注視していた人民は、そのうわさを聞いて大いに力づけられました。この戦闘があって以来、人びとは革命軍が滅びたという宣伝がいくらなされても、それを信じませんでした。
紅旗河戦闘を契機に、朝鮮人民革命軍の威力のほどを伝える話はさらに広範に広がっていきました。人民が朝鮮人民革命軍を絶対的に信頼し、それに自分の将来をすべて託するようになったのは非常に好ましいことでした。それは祖国解放の大事変を前にして、朝鮮のすべての反日愛国勢力が自信をもって全民抗争を積極的に推進できるようにしました。これは、紅旗河戦闘を通じてわれわれがおさめたもっとも大きな成果でした。
それとは反対に、金日成部隊さえ掃滅すれば東北での抗日遊撃戦争はやがて終末を告げると宣伝していた日満軍警にとっては、青天の霹靂といえる不祥事であり、悲惨な敗戦でした。和竜県警察当局は前田部隊全滅の報に戦々恐々とし、自分らは天運に恵まれなかったというほかないと悲鳴をあげ、朝鮮人民革命軍の巧みな戦法の前にあって前田部隊の敗亡は不可抗力のものであった、と告白せざるをえませんでした。「前田討伐隊」の壊滅は、日満軍警の首脳部があれほど大きな力をそそいだ「東南部治安粛正特別工作」の破綻を意味するものでした。

前田の直系上官であった和竜県警務課長の宇波は敗戦後日本に帰り、つぎのような一文を残した。
「間島省の満州国警察にいた私が金日成将軍のひきいる抗日部隊の討伐に参加したのは、一九三八年から四一年にかけてであった。(中略)
困難な情報収集のなかで、比較的たしかな情報として『金日成将軍は吉林市の学校を卒業した。きわめて優秀で、政治的判断力、組織指導力はずばぬけており、信望があつかった』というのがあった。(中略)
金日成将軍のずばぬけた指導力は、抗日遊撃闘争のなかでも遺憾なく発揮されたようだ。とくに、たくみな誘導作戦や待伏せによっていためつけられることが多かった。(中略)
一九四〇年三月一一日、紅旗河の渓谷にある大馬鹿溝が金日成部隊に襲撃された。大馬鹿溝は山林警察中隊本部があり、討伐隊の拠点だった。本部がやられ自動車修理所は焼かれ、武器、弾薬、食糧、被服がうばわれた。
布上地区討伐隊長は、警察討伐大隊に日本軍の大場、赤堀部隊と協同作戦をくみ、金日成部隊を追跡、せん滅せよと命令した。
私は前田武市中隊にその任務をあたえた。三月二五日、前田中隊は大馬鹿溝から少しはなれたところで、金日成部隊と出あい、大激戦となったが、前田中隊長以下全滅という結果に終わった。待伏せ作戦にかかったのだった。この前田中隊の全滅は討伐隊に大きなショックをあたえた。
金日成部隊は地理に明るく、たくみな戦術を駆使してくるため、密林の討伐作戦はほとんど成功しなかった。(中略)
当時金日成パルチザン部隊は、『われわれは金日成将軍のひきいる朝鮮人民革命軍だ。祖国光復のたたかいに妥協はない』『討伐隊はわれわれに武器、食糧、衣服を補給してくれるもっとも歓迎すべきお客さんだ』と意気さかんであった。いま朝鮮民主主義人民共和国は金日成首相の指導のもとにすばらしい発展をとげている。
すぐれた指導者の指導のもとに前進している朝鮮人民は必ずや祖国の統一を実現するであろうと、私は自分の体験をとおして確信している」
金日成同志はその後も紅旗河戦闘について回想しながら、軍国主義の復活に警戒心を高めるよう強調している。その話の一部はつぎのとおりである。

日本の支配層は第二次世界大戦を経て、世界制覇という愚かな夢想から覚めたと言いますが、それが事実であるなら日本という国のためにも望ましいことであり、隣邦の諸人民のためにも幸いなことです。しかし現在、日本支配層の言動を見ると、いまなお「大東亜共栄圏」や世界制覇を夢見ているのではないかという疑いが晴れません。日本の少なからぬ反動勢力は、いまなお朝鮮とアジア諸国を侵略し略奪した罪過、数百万人の生命を奪った罪業を認めず、これにたいする補償をしていません。あまつさえ、二〇余万の女性を性奴隷として駆り出して動物のように扱った野蛮な罪業すらも明白に認めていません。かえって経済力を頼んで政治大国化、軍事大国化を遂げようと夢見ています。ヨーロッパ諸国で新ファシストがうごめいているのも危惧の念を抱かせることです。軍国主義の復活に警戒心を高めなければなりません。


注 釈

〔一〕 『鐘の音(チョンソリ)』 朝鮮人民革命軍の隊内週刊紙。一九三七年一二月、濛江
県馬塘溝密営で発刊。

〔二〕 『曙光』 朝鮮人民革命軍の隊内機関紙。一九三七年五月、撫松県東崗で週刊政治新聞として創刊。後に雑誌として発刊される。

〔三〕 白山武士団 金日成同志の外伯父にあたる康晋錫先生によって組織された武装団。朝鮮の平安道地方の独立運動家を中心に組織。
金日成回顧録『世紀とともに』日本語版第一巻 六五ページ参照)

〔四〕 洪鐘字 一九一九年から日本の憲兵機関に勤め、金日成同志の父であり、朝鮮における反日民族解放運動の卓越した指導者である金亨稷先生をはじめ、朝鮮独立運動家を積極的に後援した人物。(金日成回顧録『世紀とともに』日本語版第一巻 七〇~七五ページ参照)

〔五〕 「トゥ・ドゥ」 打倒帝国主義同盟の略称。一九二六年一〇月一七日、
金日成同志によって樺甸で組織された朝鮮で初の真の共産主義的革命組織。これは民族主義者や従前の共産主義者の分派とはまったく異なる新しい型の革命組織であった。当面の課題は日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放と独立をなしとげることであり、最高目的は朝鮮に社会主義・共産主義を建設し、ひいてはすべての帝国主義を打倒して世界に共産主義を建設することであった。「トゥ・ドゥ」の結成は朝鮮労働党建設の始点となり、この同盟から朝鮮労働党の根がおりた。
金日成回顧録『世紀とともに』日本語版第一巻 一六六~一七七ページ参照)

〔六〕 大院君(一八二〇~一八九八) 李朝二六代王高宗の父、一八六三年から一八七三年まで国家の実権を掌握した李朝封建国家の支配者。姓名は李昰応。
「大院君」とは、李朝時代、国王の死後、王位を継ぐ直系の子孫がいない場合、傍系王族のうちから王位についた国王の実父に冠した尊号。

〔七〕 華成義塾 朝鮮の民族主義者が独立軍の幹部養成を目的に一九二五年初に設立した二年制の政治・軍事学校。金日成同志は一九二六年六月、この学校に入学したが、ここで教える民族主義思想と旧式の軍事訓練に幻滅を覚え、より広い舞台に進出して共産主義運動を高い段階で本格的に展開するため、同年一二月に中退した。華成義塾在学中に打倒帝国主義同盟を組織。

〔八〕 『沈清伝』 父母につくす女性の孝心を描いた口伝説話をもとに一八世紀に創作された小説。作者不詳。小説は女主人公沈清が早くして世を去った母に代わって目の不自由な父に孝養をつくして開眼させるという内容。

〔九〕 建設同志社 金日成同志が一九三〇年七月三日、卡倫で組織した初の党組織の名称。建設同志社は党の基層組織を設け拡大するうえで、母体としての意義をもつ組織であった。(金日成回顧録『世紀とともに』日本語版第二巻 五七~七二ページ参照)

〔一〇〕 中原 中国の地域名。黄河の中流、下流地域。(河南省の大部分、
山東省の西部、河北と山西省の南部を含む)

〔一一〕 中秋 古来伝統化されてきた秋季の民間祭日。陰暦八月一五日。先祖の墓に詣でて祭礼をおこない、その年の勤労の成果を祝って各種の娯楽も催す。