目 次
第十六章 鴨緑江をこえて
(一九三七年三月~一九三七年五月)…………………………………………… 一
1 撫松遠征……………………………………………………………………………………………… 一
2 小湯河での一行千里………………………………………………………………………………… 一八
3 警護隊員たち………………………………………………………………………………………… 三五
4 三千里朝鮮の津々浦々に…………………………………………………………………………… 五三
5 権 永 璧…………………………………………………………………………………………… 七二
6 こだわったこと……………………………………………………………………………………… 九二
7 遊撃隊のオモニ………………………………………………………………………………………一〇六
第十七章 朝鮮は生きている
(一九三七年五月~一九三七年六月)……………………………………………一二四
1 普天堡の炎 一………………………………………………………………………………………一二四
2 普天堡の炎 二………………………………………………………………………………………一四〇
3 地陽渓での軍民交歓集会……………………………………………………………………………一五二
4 写真と追憶……………………………………………………………………………………………一六六
5 間三峰戦闘……………………………………………………………………………………………一七九
6 銃をとった少年たち…………………………………………………………………………………一九〇
7 革命的信義を思う……………………………………………………………………………………二一七
第十八章 中日戦争の炎のなかで
(一九三七年七月~一九三七年十一月)…………………………………………二四一
1 新たな情勢に対応して………………………………………………………………………………二四一
2 金 周 賢……………………………………………………………………………………………二五七
3 農民を備えさせた日々………………………………………………………………………………二七二
4 独立旅団のころの崔春国……………………………………………………………………………二九一
5 九月アピール…………………………………………………………………………………………三一一
6 「恵山事件」の教訓…………………………………………………………………………………三二八
第十六章 鴨緑江をこえて
(一九三七年三月~一九三七年五月)
1 撫松遠征
桃泉里と鯉明水で、「冬季大討伐」に狂奔していた敵に大きな打撃を与えたあと、わたしは主力部隊を率いて再び長白山脈を越え、北に向かおうと決心した。
わたしの撫松遠征プランを聞いた隊員たちは呆然とした。間もなく国内へ進出して敵を痛撃するのだと胸を躍らせ命令を待っていたのに、だしぬけに北上行軍とはなにごとか、せっかく切り開いた西間島と白頭山を放棄して、なんのために北へ行くのか納得がいかない、という表情だった。彼らは万事が順調に運んでいるのに、部隊が撫松に遠征すべき理由はないと考えた。それもあながち無理ではなかった。
当時、軍民の士気はきわめて高かった。敵とのあいつぐ戦いでわれわれは連勝していた。敵の狂気じみた「討伐」攻勢と政治的・経済的・軍事的封鎖作戦を尻目に、遊撃隊は新入隊員を加えて隊伍をひきつづき拡大し、武装装備と戦闘力をかなり強化していた。白頭山地区と鴨緑江沿岸一帯はすべてわれわれの天下になり、戦いの主導権はわれわれが握っていた。われわれの稠密な地下組織網は西間島全域に延びていった。南湖頭を出発するときの第一義的な目的はりっぱに達成されたといえた。残る問題は国内進攻作戦であった。
一刻も早く武装闘争を国内に拡大しなくては、国内での反日民族統一戦線活動を大きく進展させ、新しい型の党創立をめざす闘争を本格的に進めることもできなかった。祖国に進出して敵を懲罰するのは、われわれの最大の夢であり、国内人民の最大の願望でもあった。
国内の人民がわれわれの祖国進出をどれほど待ち望んでいたかは、つぎのような事実を通してもうかがい知ることができた。地陽渓に南徳とも那哈徳とも呼ばれる変わった名の村があった。この村の区長で、祖国光復会特殊会員の劉浩は、人民革命軍の援護活動に熱心だった。いつだったか、彼は村人たちとともに援護物資を持って密営を訪ねてきたことがあった。一行のなかには甲山から来た三名の農民がいた。甲山の人たちはアワ、カラスムギのいり粉やわらじなどをいっぱい背負って警戒のきびしい鴨緑江を渡り、密営を訪ねてきたのである。これほど多くの援護物資を三人で運んできたこともさることながら、それにも増してわれわれを驚かせたのは、彼らが白頭山の原始林をさまよい、飢えに苦しみながらも援護米にはいっさい手をつけなかったことである。わらじについての話もそれに劣らずわれわれを感動させた。彼らが持ってきたわらじは二百足を越えた。麻糸をよって縁に緒をすげ、底にもニレの樹皮に麻糸を織り込むなど丹精こめてつくったわらじは、どれも格好よく、しかも丈夫そうだった。
金山虎が労をねぎらうと、彼らは恐縮するばかりだった。昔話の道士のようにあごひげを長く垂らした最年長の老人が金山虎の手をとって言った。
「白頭山の将帥たちに、わらじのようなものしか差し上げられない不忠不義の百姓を許してくだされ。それを苦労などと言われては身のおきどころがありませぬ。粗末な履き物ですが、軍靴がわりに履いて、わしらの甲山からもあの島国のえびすどもを追い出してくだされば、死んでも心残りがありません。わしらは革
命軍を待つだけです」
朝鮮人民革命軍の国内進軍を待ちわびていたのは甲山の農民だけではなかった。いつか援護物資を持って密営を訪れた慶尚道出身の李秉元老は、わたしにこんなことを尋ねたことがあった。
「将軍さま、いったい、いつになったら日本の侵略者を朝鮮から追い払えるでしょうか。わたしが生きているあいだにそんな日が来るでしょうか」
祖国の同胞がいかにわれわれを深く慕い、愛しているかを、われわれはいつも肌で感じていた。甲山の人たちから贈られたわらじを手にした隊員たちは、一刻も早く祖国に進軍したいという強い衝動と願望にとりつかれていた。わたしの気持も同じだった。
しかし、わたしは彼らに、祖国とはまったく逆の方向に向けての行軍を命じたのである。そして首をかしげている戦友たちに、北上行軍を後退だと考えてはいけない、われわれは北上するが、それは祖国に向かって南下するのと変わりがない、祖国へ行くにはどうしてもこの道を歩まなければならない、われわれがしばし撫松へ向かうのは結局、国内進攻を準備するためであることを知らなければならない、と説いた。
撫松遠征作戦によって達成しようとした基本的目的は、以整化零(形のあったものが突如消えうせること)の機敏な戦法によって敵を混乱に陥れ、長白地方に集結した「討伐隊」兵力を最大限に分散させて注意をそらし、この一帯で活発に進められている地下組織網づくりの安全をはかるとともに、大部隊による国内進攻作戦に有利な状況をつくりだすことであった。
敵は一九三六年冬の「冬季大討伐」に失敗しながらも、革命軍の孤立、圧殺企図を放棄せず、朝鮮占領軍と国境守備隊はもとより満州国軍、警察隊の膨大な兵力をわれわれの部隊の活動区域にひきつづき投入していた。こうした状況のもとで、われわれが主導権を掌握し、自己の構想と決心どおり革命をひきつづき高揚させるためには、しばらくのあいだ活動区域を他に移す必要があった。そうすれば敵を受身に追い込み、西間島と国境一帯の革命運動の発展に有利な条件をつくりだせるのであった。長白に集中している敵の「討伐」兵力を分散させ、鴨緑江沿岸の革命組織を保護するのは、朝鮮人民革命軍の国内進出にも有利な条件をもたらすはずだった。人民革命軍が国内に進出して大部隊活動をおこなうには、まずわれわれの後方であり出陣基地である西間島に敵の大兵力が集中するのを防がなければならなかった。「図們会談」の内容が示しているように、敵が西間島一帯に兵力を集中するのは、人民革命軍部隊を長白の奥地に追い込んで圧殺するためでもあったが、主な目的はわれわれの国内進出を阻止することにあった。
朝鮮人民革命軍の大部隊が間もなく国内進撃を断行するだろうことは敵もすでに想定していた。大部隊による国内進出は時間の問題だった。日本帝国主義者がなによりも恐れたのは、ほかならぬこの点だった。人民革命軍の大部隊が朝鮮に攻め込んで軍事・政治活動をくりひろげるなら、それは日本本土への攻撃に劣らず大きな効果をあげるに違いなかった。敵は、われわれが国内に進出して何発かの銃声をあげても、それがどんなに禍の種になるかをよく知っていた。朝鮮人民革命軍の主力部隊が白頭山地区に進出したその年の冬から、彼らは人民を駆り出して毎晩、鴨緑江の氷を割らせる騒ぎを起こした。個別的であれ集団的であれ、人民革命軍の朝鮮進出を防ごうとしたのである。彼らはわれわれの国内進攻を恐れたあまり、そんな幼稚な防備策まで案出したのである。
日本の天皇が侍従武官を朝鮮と満州の国境地帯に送り込み、三週間も視察させたことについては前にも触れたが、日本の政界や軍部の首脳は、わが国の北部国境地帯から寸時も目を離すことができなかった。侍従武官は国境警備隊員たちに、国境を鉄壁のように守れという天皇の勅命を伝え、天皇、皇后の下賜品まで伝達した。その仰々しい伝達式の場面を想像した人民革命軍の隊員たちは、天皇も人民革命軍の朝鮮進攻に戦々恐々としているようだと言って苦笑した。
大部隊による国内進出を実現するには、敵が「銅(どう)牆(しょう)鉄壁」と豪語する国境警備陣にいくつかの突破口をあけなければならなかった。その先行作業となるのが、長白の山野に雲集した敵の「討伐」兵力を最大限に分散させることであった。敵を分散させるためにはまず、われわれが長白から移動する素振りをして見せなければならなかった。わたしが部隊を率いて移動すれば、敵はいやおうなしにわれわれを追跡するであろうし、いきおい国境防備も手薄になるはずだ。
わたしは撫松遠征の途中、撫松県と臨江県、濛江県の境で活動している崔賢部隊と第一軍第二師の戦友たちに会い、彼らとともに国内進攻作戦を勝利に導く共同作戦を立てようと思った。
撫松遠征のいま一つの目的は、遠征を通して新入隊員を新たな情勢の要請と朝鮮人民革命軍の使命に即して、政治的、軍事的、道徳的にしっかり教育し、訓練することにあった。
白頭山地区に新たな形態の根拠地が創設されたのち、われわれは数百名の入隊志願者で隊伍を補充した。朝鮮人民革命軍の積極的な軍事・政治活動とその成果に励まされた西間島一帯の青年は、先を争ってわれわれの部隊に入隊した。国内からも連日、愛国青年が武装闘争に参加しようとわれわれを訪ねてきた。部隊の兵力が増加したので、その質的強化に力をそそがざるをえなくなったのである。部隊の戦闘力を強化するうえで基本となるのは、指揮官と隊員のレベルを高めることであった。彼らの思想・意識水準と軍事実務水準を高めることなくしては、部隊を百戦百勝の隊伍にすることはできなかった。ところが、数百名に達する新入隊員はみな階級意識や革命への熱意は高かったが、まだ戦闘経験がなく、遊撃戦法に通じていなかった。それに政治的・文化的水準も低かった。新入隊員たちはきのうまで焼畑を起こしたり、日雇い労働をしたりしてその日その日をやっと生きてきた純朴な山出しの青年たちだった。手ぐわやシャベル、押し切りなどを使う農作業にはなれていたが、軍事にはまったくの素人だった。社会発展の初歩的な原理は言うまでもなく、朝鮮文字の字母も読めない非識字者もいた。
苦労を重ね、労働で鍛えられた青年たちではあったが、遊撃隊のきびしい生活にはなかなかなじめなかった。それで弱気になり不平をもらす者も現れた。睡眠不足や行軍の苦しさを訴える者がいるかと思うと、履き物や衣服が破れても自分で繕えず、古参の隊員に世話をやかせる者もいた。制式動作、夜間行軍法、方位判定法も知らない新入隊員、銃が故障すると古参の隊員に「これ、ちょっと見てください」と言っては、ぼんやり突っ立っているような新入隊員を率いて祖国へ進出することなど思いもよらないことだった。
彼らの入隊後、あいまあいまに古参の隊員をつけて速成の訓練をほどこしたり、断片的な知識を授けたりして水準を高めようと努めてはいたが、そんなやり方では、大勢の新入隊員に遊撃戦に必要な多面的な準備をさせることはおぼつかなかった。理想的な方法は、敵の注意が及ばない深い森林地帯で、当分の間じっくりと時間をかけて新入隊員に軍事・政治訓練をほどこすことであった。こうした本格的な教育過程をへずには、彼らを筋金入りの軍人に育てあげることができなかった。ところが、長白一帯には新入隊員の教育に適した地帯がなかった。長白の平地や奥地はもれなく「すきぐし」ですくように敵に捜索されていた。それでわれわれは、新入隊員訓練の適地として革命軍の後方密営が集中している撫松地区を選んだ。
総じて撫松遠征は、敵の大兵力が執拗な攻撃を加えてくる状況のもとでも主導権を掌握しつづけることができる進攻的な対策であり、部隊の戦闘力をいちだんと強化し、革命軍の国内進出に有利な環境を醸成するすぐれた戦術的措置だった。この遠征は、われわれの白頭山進出後、半年のあいだにおさめた成果をかため、拡大する道だった。
一九三七年三月のある日、われわれは撫松遠征の途についた。これには基本戦闘員のほかに裁縫隊、炊事隊、兵器修理所など兵站部の人員もすべて参加した。魏拯民、全光、曹亜範も同行した。
初日の行軍目標は多谷嶺を越えることだった。終日行軍をつづけたが、すごく降り積もった雪ときびしい寒さをついての行軍で、結局、山の中腹で一夜をすごさなければならなかった。その年の冬、長白山脈にはまれにみる大雪が降り、谷間には深さ数丈もの雪に覆われたところもあった。そんなところでは、一歩一歩体で雪を押し分けながら進まなければならなかった。長白山脈の積雪がどんなものであったか、はっきりしたイメージを得たい若い世代は、当時、撫松遠征に参加した闘士たちの体験談を聞く必要がある。遠征を終え、雪が解けたあと白頭山に向かって行軍していたわれわれは、カラマツの梢にわらじの片方がひっかかっているのを見た。それは、長白で入隊した新入隊員が撫松に向かって行軍していたときに雪に足をとられてなくしたわらじだった。
三月初といえば祖国の平地は雪解けの季節であるが、白頭山一帯にはまだ冬将軍が居座っていた。はげしい寒風のなかではテントすら張れなかった。テントを張ったとしても風にさらわれてしまうのである。こんな状況にぶつかれば、深い雪のなかに一個分隊ほどの人員が入れる穴を掘って、ノロ鹿の皮や樹皮を敷いて座り、背のうにもたれて眠るほかなかった。雪穴の入口には白布を張って風を防いだ。エスキモーが雪小屋や氷のなかでも無事に生存できる秘訣を、われわれは遠征の体験を通して知った。そのときわれわれは、膝までくる長いポソン(朝鮮の足袋)と甲山の人たちから贈られたわらじを履いていた。白頭山一帯ではそういう装いでないと、冬は出歩けなかった。それで、みんなわらじを履いたまま焚き火のまわりで寝た。
われわれは明くる日、やっと多谷嶺を越えることができた。この遠征はなみたいていの遠征ではなかった。朝鮮人民は「苦難の行軍」といえばすぐ、南牌子から北大頂子にいたる一九三八年冬の行軍を思い浮かべる。その行軍が「苦難の行軍」といわれるほど苦しかったことは確かである。しかし、苦しさからすれば、撫松遠征もそれに劣らぬ行軍だった。行軍距離は百キロそこそこで、期日は二十五日程度だったと思う。「苦難の行軍」の百余日に比べればなんでもないといえるかも知れない。しかし、その遠征も苦難にみちたものであった。寒さと飢え、睡眠不足、あのときの苦労たるや言うに言われぬものがあった。戦闘も多かったので、死傷者もかなり出た。
撫松遠征は、古参の隊員ですら歯をくいしばって堪えなければならないほどのきびしい試練であった。いわんや入隊して数か月しかたっていない隊員の場合は言うに及ばないであろう。わたしは古参の隊員がすべて新入隊員を一人ずつ引き受けて面倒をみるようにした。わたしも体の弱い三、四名の新入隊員の保護者になった。古参の隊員はみな兄がわりになって新入隊員の世話をやいた。行軍のときは銃や背のうをかついでやり、休むときは焚き火をたき、宿営のときは寝場所をしつらえ、衣服や履き物、帽子などのほころびを繕ってもやった。
珠家洞出身のある新入隊員はただれた両足の親指がのぞくほど履き物が破れていたが、それを繕おうともせず、休止号令が出るとすぐ焚き火のそばでいびきをかきはじめた。古参隊員は長白を出発したときの甲山のわらじを履きつづけていたが、予備の地下足袋も穴があいてしまっていた。わたしは彼にわたしの予備の履き物を履かせ、大針で彼の履き物を修繕した。そして、それは背のうにしまっておいて、他の新入隊員に履きかえさせた。わたしは本人が気まずい思いをするのではと、いつも人目を避けて履き物を修繕した。ところがあるとき、履き物の主(ぬし)に見つかってしまった。彼は涙ぐみ、やにわにわたしの手から針と履き物を奪い取った。
その日、わたしは新入隊員たちにこう言った。
―― きみたちは家にいたときはお父さんが編んでくれるわらじを履き、お母さんが繕ってくれる服を着ていたので針を使うこともなかったろうが、遊撃隊員になったからには、服や履き物の繕いは自分の手でしなければならない。自分のことは自分でしなければならないのだ。きょうは履き物の繕い方を教えよう。
彼らは、司令官にとんでもない負担をかけたとひどく恐縮した。
履き物や服がもっともいたむのは氷に覆われた雪の上を歩くときだった。そこでわたしは、そんな場所を歩くときの足の踏み方も教えた。
撫松遠征は飢えとたたかう過程でもあった。さまざまな困難がつぎつぎとわれわれの前に立ちふさがったが、最大の脅威は食糧難であった。行軍速度が予定よりはるかに遅れたため、長白を発つときに準備したわずかの食糧は多谷嶺を越えると、もはや底をついてしまった。草の根さえ掘り出すことが困難な雪原で、食糧を手に入れるというのはとうてい不可能だった。活路は敵の糧秣を奪うことだが、敵がどこにいるのか見当もつかなかった。食糧難に苦しめられたそのときのことがあまりにも強く印象に残っていたので、後日わたしはある同志に、撫松遠征は事実上「飢餓遠征」だったと言ったことさえある。日がな一日、一粒のトウモロコシも口にできず、水と雪で飢えをしのぎながら何里も行軍したこともあったのだから、そのぞっとする飢餓の苦しみをどうして忘れられよう。
遠征がほぼ終わりかけたころ、東崗付近の森のなかでのことである。われわれは中国人の民家を一軒発見した。食糧が切れて二日ものあいだ水で飢えをしのいでいたわれわれは、もしやその家で食糧を得ることができるのでは、といういちるの望みをいだいた。山でひそかにケシを栽培する人たちにはたいがい食糧の備蓄があった。われわれはその家の主に、部隊が数日間食糧を切らしている、穀物があったらいくらかでも分けてもらえまいか、と頼んだ。すると彼は、山林部隊に洗いざらい奪われてなにも残っていないとすげなく断った。ひき臼の下にはトウモロコシのぬかがうずたかく積もっていて、多量のトウモロコシをついたか製粉したに違いないのだが、いくら頼んでも無駄だった。やむなく、われわれはひき臼の下に放置されていたトウモロコシのぬかで飢えをしのぐことにした。トウモロコシのぬかは、アワやヒエのぬかと違って、いって食べても喉にからんでなかなか呑みくだせなかった。ひき臼でひいてもなかなか喉を通らず、水にといて呑みくだしても空腹をいやす足しにはならなかった。わたしは考えた末、伝令の白鶴林に指示した。
「ここから峠をいくつか越えれば、呉義成部隊が駐屯しているはずだ。司令はいないだろうが、部下の一部が残って抗戦をつづけている。そこへ行って、わたしが近くに来ていることを知らせ、食糧をいくらか分けてくれと頼んでみたまえ。彼らに食糧があれば、昔のよしみからしても拒みはしないだろう」
呉義成部隊を訪ねていった白鶴林は手ぶらで帰ってきた。ただ、その部隊の指揮官がトウモロコシぬかを一袋かついでやってきて、わたしに了承を求めた。
「金司令のせっかくの頼みにおこたえできなくて申しわけありません。お助けしたい気持はやまやまですが、わたしらも食糧を切らしているので、こんなものしか持ってこられませんでした。どうか悪く思わないでください」
その日、隊員たちはその中国人の家をあちこち探り、庭に置いてある棺の中にひき割りのトウモロコシがいっぱい入っているのを見つけた。満州地方の住民には生前から棺を作って家の前に置いておく風習があったが、それは神聖不可侵の葬具とされていた。そんな風習から、抗日革命闘争の時期に満州地方では棺にちなんだ逸話がいろいろと生まれたものである。家の主が棺の中にトウモロコシを隠しておいたのは理解できることだった。しかし隊員たちは憤激した。なかでも新入隊員の怒りははげしかった。珠家洞で入隊した新入隊員はわたしのところへ走ってきて、怒りをぶちまけた。
「将軍、この家の主はひどい根性まがりです。自分の垣根のなかに牛や馬などが入ってきても食べ物を与えるのが人情なのに、こんな人でなしがどこにいますか。まったく冷血漢です。うんとこらしめて、食糧は取り上げてしまいましょう」
わたしは彼をたしなめた。
「取り上げる? いかん。この家の食糧にはいっさい手をつけてはいけない。それよりわれわれが空腹をがまんするのだ」
新入隊員はいまいましそうに舌打ちをしながら引きさがった。われわれは棺の中の食糧を見つけたことは素振りにも見せず、トウモロコシのぬかで飢えをしのぎ、その家の人たちの説得に努めた。主人はわれわれと別れるときになっても、棺の中の食糧のことはうち明けようとしなかった。食糧を押収しようと言ってきた例の新入隊員は、わたしのそばに来て、「どうです、あんな人たちにはいくら説得しても無駄じゃありませんか」と言った。わたしは「そうでもない。食糧はくれなかったが、われわれがりっぱな軍隊だということを理解しはじめているようだ」と答えた。
このことを通して新入隊員たちは、人民のなかにはさまざまな類の人間がいるということ、したがって教宣活動も一律にするのではなく、なにごとであれ、人の心を動かしてこそ成功するものだということ、したがって軍隊が困難に負けて人民の財産にみだりに手をつけたり、彼らに好意や援助を無理強いしたりしてはならないということを深く悟った。もしあのとき、われわれが怒りをこらえずその家の人たちをこらしめるか、だまされた腹いせに食糧を押収したとしたら、新入隊員たちは、「人民を離れては生きていけない」というわれわれの座右の銘をたがえ、なにかにつけて人民を怒鳴りつけたり、特典を望んだりする官僚や馬賊のような人間になってしまったかも知れない。
漫江ぞいに行軍していたわれわれは、遠くから隊伍のあとをつけてくる人夫風の二人の男を見つけ、そばに呼んだ。彼らは断頭山木材所の労働者だった。挙動がいぶかしいので、なぜいつまでもついてくるのかとただすと、敵から遊撃隊の行方を探知してくるよう指示されたことを正直にうち明けた。遊撃隊を見つけて帰れば、情報の価値に応じて十分な報酬をもらえるが、手ぶらで帰れば「通匪分子」と断じられるか、ひどい目にあわされると言うのだった。断頭山木材所には大勢の人夫と山林警察隊がいるという。わたしは苦戦を覚悟のうえで、食糧を手に入れるために木材所を襲撃することにした。この戦闘は第七連隊と第八連隊にまかせた。彼らは木材所を襲って倉庫を開いたが、一俵の米もなかった。木材所の主人は遊撃隊の襲撃を恐れて米を倉庫におかせず、毎日ほかから運んできていたのである。木材所村には予想しなかった七、八百名の敵が駐屯していて、その軍勢がわが方に対戦してきた。人民革命軍の主力部隊が撫松方面へ機動しているという通報を受けて、「討伐」に増派されてきた部隊だった。第七連隊と第八連隊は、木材所の牛を二十頭ほど引いて、本隊に帰ってきた。追撃してくる敵は呉仲洽の率いる防御隊が防いだ。呉仲洽は各小隊から決死隊員を選抜して十回余りの接戦をくりひろげ、敵を頑強に牽制した。夜が明けて見ると、敵は五十メートル先まで接近していたという。防御隊が敵の攻撃を防いでいるあいだに、主力は東側の二つの峰を占めた。そして伝令を送り、二つの峰のあいだのカヤ原に敵をおびきよせて抜けだすよう呉仲洽の防御隊に命じた。防御隊の誘引戦術に引っかかって、広いカヤ原に入り込んだ「討伐隊」は、多数の死体を残して逃走した。
主力が戦闘に入る前に、一部の隊員が山かげで牛をつぶした。それをつぎつぎと焚き火で焼いたが、その匂いに何度生つばをのみこんだか知れない。食べきれなかった牛はばらして背のうに入れた。われわれはそれを時には生のままで食べながら行軍をつづけた。だが二、三日後にはそれも食べつくしてしまった。
敵の追撃がはげしくなると、全光は東漫江の密営へ行ってしまった。彼は密営に帰ると、われわれの部隊の隊員たちに小麦を何斗かもたせてよこした。隊員たちは、政治主任ともあろう者がそんなにしみったれなのか、肩書がもったいないと言って全光を非難した。彼を勇気も人情もない男だとののしる隊員もいた。彼らは、全光が撫松県城戦闘のとき補助的に計画した万良河襲撃戦闘を放棄して、作戦全般に混乱をもたらしたことにずっと疑惑をいだいていた。全光がふだんは幹部風を吹かせ、困難や危険に際しては身をかわすのがつねだったので、指揮官と隊員たちはほとんど彼を快く思っていなかった。大衆の感覚はするどかった。その後、全光は変節し革命に大きな害悪を及ぼした。
部隊は敵の追撃を受けながら漫江に沿って撫松への行軍をつづけた。全光がよこした小麦もすぐ底をつき、われわれは再び飢えにさいなまれた。その後、われわれは敵の追撃を振り切って頭道嶺にしばらくとどまった。食糧を手に入れなくては行軍をつづけることができなかった。姜泰玉をはじめ漫江出身の新入隊員が食糧を手に入れてくると申し出たのはこのときだった。彼らは前年、漫江で『血の海』と『ある自衛団員の運命』を観劇して感動し、その場で入隊を志願した隊員たちだった。部隊が漫江近くにいたったと知った彼らは、金沢環を先立ててやってきた。
「将軍、われわれが食糧を工面してみます。漫江の鼻先で遊撃隊が飢えるなんて話になりません。漫江には米はなくてもジャガイモならいくらでもあります。以前、遊撃隊の援護用に集めておいたジャガイモがあるのです。その場所も知っています」
わたしはその話を聞いて少し心が安らいだ。こうして十名内外の食糧工作隊が漫江に向かった。しかし、結果は期待はずれに終わった。援護用に貯蔵しておいたジャガイモはイノシシに食い荒らされていたというのである。食糧工作隊員たちはイノシシが食い残したわずかなジャガイモをかついで帰路についた。なにもないわれわれの境遇では、それもばかにならない収穫だった。ところが、ここで問題が起こった。食糧工作隊員たちが本隊に帰る途中、空腹のあまり、宿営地の近くに来て焚き火をしジャガイモを焼くという重大な過ちを犯したのである。明け方に宿営地の近くで焚き火をしたので、自分たちばかりでなく全隊の位置を敵にさとられたのである。そのうえ、敵を発見してからも、歩哨になんの合図もせずまっすぐ宿営地へ走り込んだので、就寝中の部隊は準備もできない状態で戦闘に巻き込まれることになった。勝手な行動はしばしばこのようにゆゆしい結果をもたらすものである。
わたしは新入隊員たちにつねづね、遊撃隊では勝手な行動は絶対禁物だ、どんなに苦しくても規律の順守を負担と考えてはならない、なぜなら規律は軍隊の生命であるからだ、宿営のさい履き物を脱いで眠ってはならず、どこへ行っても痕跡を残してはならない、上官が指定していない場所で焚き火をしてはならず、追撃を受けたときは密営や宿営地とは逆の方向に敵を誘導しなければならない、名を知らない草は食べてはならないなど、遊撃隊が守るべき規律と行動規範を強調していた。
それにもかかわらず、彼ら食糧工作隊員の不始末がもとで、われわれは敵と遭遇し大事な戦友を何人か失った。だが、わたしはそのとき彼らを批判しなかった。批判をして死人を生き返らせることができるのであれば、どんなによいだろう。戦友の死は批判をしのいで余りあるものだった。それは彼らにとって、批判や処罰よりもはるかにきびしいものだった。伝令の崔金山もそのとき戦死した。焚き火を発見してひそかに食糧工作隊を追ってきた敵は、宿営地を包囲して射撃を開始した。危機一髪の瞬間、崔金山は一身の危険をかえりみず、司令部に接近する敵を阻止した。わたしが最後に撤退するのを見た彼は、李鳳緑と一緒にわたしを自分の体でかばいながら敵に猛射撃を加えた。あのとき、彼らが命がけで護衛してくれなかったら、わたしは無事ではなかったかも知れない。
数発もの銃弾を浴びて重傷を負いながらも、崔金山は最後の弾丸を撃ちつくすまで掩護射撃をつづけた。彼の軍服は鮮血に染まっていた。李鳳緑が雪の上に倒れた崔金山を背負った。わたしはその後ろに立ち、モーゼル拳銃で李鳳緑を掩護した。彼が疲れると、わたしが代わって崔金山を背負った。包囲を突破したあと、李鳳緑の背中から崔金山をおろすと、彼はすでに息絶えていた。
崔金山はとりたててすぐれた点もなく、印象に残るような気質の持ち主でもなかった。しかし、司令部のメンバーは彼を弟のように可愛がった。彼は夢の多い少年だった。その夢の一つは汽車に乗ることだった。祖国が独立したら機関士になりたいとよく言っていたものである。
「あ、若い年で…。まだ二十前だろうに」
息絶えた崔金山を焚き火のそばにおろしたとき、わたしの背後で誰かがこう言った。その一言に、全隊が嗚咽(おえつ)した。
遺体を葬る前、崔金山の背のうをあけてみると、甲山の人たちから贈られたわらじと、はったい粉一袋があるだけだった。異国の地で生まれ、異国の水を飲んで育った流浪民の子、崔金山の最大の念願は祖国の地を踏むことだった。伝令になって遠い北満州の南湖頭から白頭山へ進出する途中も、毎日のようにわたしにいろいろな質問をしたものである。これからどれくらい行けば祖国が見えるのか、西間島へ行けば朝鮮のリンゴが食べられるだろうか、東海の景色はとてもすばらしいというが、将軍は見たことがあるのか、平壌やソウル、釜山に進撃するのはいつごろか… 彼が甲山の農民から贈られたわらじをとっておいたのは、祖国進軍の日に履くためだった。崔金山はわたしと一緒に同じ毛布にくるまって過ごし、長いあいだ司令部の伝令を務めた愛すべき少年であり、幼い戦友であった。それで、わたしは彼と永訣するときあれほど悲しく泣いたのかも知れない。
頭道嶺の地面はかたく凍りついて、斧や銃剣でも掘ることができなかった。それでわれわれは崔金山の遺体に雪をかぶせて葬った。そして後日、正式に埋葬しようと目印をつけておいた。
雪がすっかり溶け、撫松遠征を総括して白頭山方面へ再び進出するとき、わたしは部隊とともに崔金山を葬ったところへ行った。われわれは、東崗密営から持ってきた新しい軍服を彼に着せ、日当たりのよいところに土葬した。墓前にはツツジを何本か移植した。死んでからでも祖国の香りをかがせてやりたかった。異国に咲いた花だが、香りは祖国のものと変わりがないであろう。ツツジは彼のいちばん好きな花だった。
(金山! 安らかに眠ってくれ。われわれは再び白頭山に向かう。今年の夏にはおまえが願っていたように部隊を率いて必ず祖国へ進軍する。祖国に行けば、おまえの仇を幾百倍、幾千倍にして討ってやる)
わたしは心のなかでこう語りかけ、彼の霊前に別れを告げた。そのときの情景を想起すると、いまでも胸がうずく。彼が生きていれば、いまは白鶴林と同じ年輩になっているであろう。
一九三七年春の撫松遠征で、われわれは多くの大切な戦友を失った。「長白の山なみ血に染めて」と歌の一節にもあるように、われわれは当時、行く先々で血を流した。一歩一歩、血路を切り開いて進んだのである。
ここに戦友たちの輝かしい偉勲と労苦のほどを、そのまま生き生きと描き出せないのが残念である。だが、文章はつたなくても、まごころをつくせないわけはない。撫松のあの険しい嶺と谷間で、あくまで朝鮮を取りもどしてくれと言い残して世を去った戦友たち、死にぎわにもわたしの健康と健闘を願ってほほえんでくれた愛する戦友たちの霊前に碑文を刻む思いで、この文章を書いている。
2 小湯河での一行千里
漫江付近で数回の激戦をくりひろげた後、わたしは部隊を率いていちはやく楊木頂子密営に入った。楊木頂子は西南岔から老嶺に登る途中の山腹にあった。その地名はハコヤナギが多いことに由来するという。山頂へ登る小道の両側にそれぞれ密営が一つずつあった。片方が東楊木頂子密営、片方が西楊木頂子密営であった。われわれは先に西楊木頂子密営に寄った。そこに兪参謀の部隊がいた。東楊木頂子密営から南に峠を一つ越えると、すぐ先に高力堡子密営があった。老嶺を中心に三角形をなす、これら三つの密営を人びとは楊木頂子密営と呼んでいた。この密営は創設後、数年間利用されたが、林水山の「討伐隊」によって大々的な襲撃を受けた一九四〇年三月以後、廃営になった。そのとき大勢の戦死者を出し、密営は焼失したのである。
楊木頂子は忘れえぬところである。わたしの戦友であり信頼すべき助言者である李東伯がここで犠牲になった。警護中隊長の李達京が重傷を負い、担架で運ばれてきて息を引き取ったのもこの密営だった。わたしが『曙光』に『朝鮮共産主義者の任務』という論文を発表したのもここ楊木頂子だった。わたしはこの密営で魏拯民をはじめ軍指揮部の幹部とたびたび会い、連合作戦にかんする諸問題を討議した。
わたしは楊木頂子密営で、一九三七年夏の祖国進軍作戦を練り、その準備を進めた。国内進攻の準備で重要な問題の一つは補給物資を確保することだった。わたしは楊木頂子で呉仲洽をキャップとする小部隊を編制し、金周賢が待っている長白に派遣した。この小部隊には裁縫隊の女性隊員や凍傷患者、病弱者も入って
いた。一日一人当たり一碗のトウモロコシがゆもゆきわたらなかった苦しい雪上行軍に比べれば、長白で補給物資の工作にあたるほうがはるかに楽だっただろう。当地で、補給物資の工作にあたる小部隊とともに、西間島一帯と国内に潜入して活動する政治工作員を一緒に送り出した。
その後、遠征部隊は敵を誘導、分散させ、食糧を入手するため楊木頂子を発ち、小湯河の密林にある第四師後方密営へ向かった。密営には酒樽やミカン箱、リンゴ箱まであった。第四師の戦友たちは靖安軍をたたいて得た戦利品だと自慢した。その戦利品のなかには機関銃も三挺あった。
第四師の戦友たちは二日分ほどのトウモロコシを分けてくれた。部隊が第四師の密営を出発するとき、数人の隊員が「畢チビッコ」と呼ばれる隊員を口説き落として酒樽まで一つかついできた。わたしはそれを見て禁酒令を下した。わたしはもともと酒、タバコを奨励しなかった。酒とタバコはいずれも軍事活動に支障をきたすことが多かったからである。どの年であったかは思い出せないが、行軍中、部隊が混乱に陥ったことがあった。小休止のとき点呼を取ってみると、隊員が二人いなかった。それで二人を探しはじめた。あとでわかったことだが、彼らは行軍の途中でひそかに抜け出し、飲食店で酒を飲んだのである。彼らが手きびしく批判されたのは言うまでもない。
酒樽を見ると抜け目のない隊員たちが、寒さしのぎに一杯やろう、と李東学中隊長を口説きはじめた。李東学はそれに負けて、酒樽の栓を抜き、隊員たちに一杯ずつふるまった。
「司令官同志には内緒で、一口ずつだけ飲もう。一口ならかまわんだろう」
こうしてその日、警護隊員たちは一人残らず酒を飲んだ。他の中隊でも酒を飲んだ。このとんでもない均等分配のため、われわれは小湯河戦闘でたいへんな目にあうところだった。李東学の経歴で過失をあげると
したら、おそらくその日の過失がもっとも重大なものだったであろう。すっかり衰えた体に酒が入ったのだから、酔いも尋常ではなかった。そのうえ、歩哨も規定に違反して軽率に行動した。当日の朝、宿営地の外側で歩哨に立ったのは第八連隊の隊員だった。彼の立哨中、数百名の満州国軍が宿営地を包囲しはじめていた。人の気配を感じた歩哨は「誰か」と誰何(すいか)した。ところが、この満州国軍もしたたか者で、「おれたちは第四師だ。おまえたちは金司令部隊じゃないか」と応じた。虚をつかれた歩哨は彼らを第四師部隊と速断し、「そうだ。おまえたちはどこから来たのか」と反問までした。そうこうしているうちに、満州国軍「討伐隊」は有利な位置を占め包囲網をせばめた。満州国軍は歩哨に、おまえたちが金司令部隊に違いないなら代表を送れ、と言った。人民革命軍には隣接部隊と会うとき、代表を派遣するというしきたりはなかった。ところが第八連隊の歩哨は勝手に満州国軍側に代表を一名送った。尾根をすっかり占めた敵はその代表を逮捕し、武装を解除したあと攻撃を開始した。こうしてわれわれは暫時守勢に立たされた。
こうした状態で戦況を有利に逆転させるのは容易なことでなかった。敵はすでに司令部のある稜線の後ろに這い上がっていた。わたしは全隊に、高地を占めるよう命じた。李東学が隊員たちに飲ませた酒のつけは、このときまわってきた。命令を下したにもかかわらず、いちはやく高地に登れず、山裾でもたついている隊員が何人もいた。あとで知ったことだが、彼らは飲めもしない酒を受けて飲んだ者たちだった。警護中隊機関銃手の姜渭竜もその一人だった。早く高地を占めろと何度も叫んだが、彼はあいかわらず下の方でもたもたしていた。後日、告白したところによると、酔いのため足がふらつき、目まいがして思うように動けなかったという。機関銃手がそんな有様なので、さすがにわたしもあわてざるをえなかった。
敵と味方の間の距離があまりにも近かったので、高地は混戦状態に陥った。敵の猛射で李東学の背のうは
方々が破れ、隊員の一人は敵弾に片耳がふっとんだ。そのうえ、金沢環の第七連隊第二中隊はまだ敵の包囲から抜け出せないでいた。そんななかでも、功を立てたのは警護中隊の機関銃手たちだった。彼らはしばしば位置を変えながら敵に猛烈な射撃を浴びせた。そのあいだに第八連隊は包囲から抜け出した。金沢環の中隊も一個分隊を失ったが、混戦のなかから救われた。
戦闘は早朝から夕方までつづいた。この戦闘で、われわれは数百名の敵を殺傷し、多量の戦利品を得た。勝ちはしたが、その日の戦いはわれわれに痛ましい傷痕を残した。わが方の損害も少なくなかったのである。金山虎は隊員たちを救出するために奮戦し、数か所に銃創を負った。彼は息を引き取る前に白兵戦の名手金学律を呼び、突撃路を開くよう命じた。金学律は新昌洞で韓泰竜と一緒に入隊した大力の兵士だった。力も強かったが、剛直で勇敢だった。彼は城市襲撃戦のたびに先陣に立って突撃路を切り開き、戦闘が終われば米倉や補給物資の倉庫をあけて、まっさきに重い荷をかついだ。いつかは百キログラムの米俵をいっぺんに二つもかつぎ出して戦友たちを驚かせたこともあった。雪中にトンネルを掘って進むときも、先頭にはいつも彼がいた。命令を受けた金学律は敵軍のまっただなかに躍り込んで白兵戦をくりひろげ、銃剣で十余名の敵兵を倒したが、自分も八か所に傷を負った。まったく不死身のようであった。彼は白兵戦ができなくなると、手榴弾を投げて戦った。そして、最後の手榴弾を持って敵中にころがりこんだ。すさまじい爆音が高地をゆるがした。戦友たちは唇を噛んで彼の死を悼んだ。
最大の損失は第八連隊の政治委員金山虎を失ったことである。彼は五家子時代からわたしと長いあいだ苦楽をともにしてきた。われわれは普通の人間が革命を通してどんなに飛躍的な成長をとげるものであるかを語るとき、その典型としていつも彼を引き合いに出したものである。こうして「下男から連隊政治委員に!」という言葉は、革命が普通の人間の成長過程をいかに力強く促し、労働者、農民出身の平凡な勤労青年が革命の渦中で政治的、思想的に、軍事技術的に、そして文化道徳的にいかに長足の成長をとげるものであるかを示す一つの好例ともなった。
金山虎の死に胸が張り裂けそうで、わたしはその夜、食事がとれなかった。隊員たちは焚き火をたいて「司令官同志!」「司令官同志!」とわたしを呼んだが、そこへも行かなかった。全身が氷になって雪中に埋もれている金山虎のことを思うと、火を見るだけでも罪を犯すような気持だった。第八連隊長の銭永林もわたしと同様、夕食をとらなかった。金山虎は朝鮮人で、銭永林は中国人だったが国籍の違いによって彼らの革命的友情が妨げられたことは一度もなかった。銭永林はいつも金山虎の意思を尊重し、金山虎はいつも陰で銭永林の活動を誠心誠意助けた。銭永林のその悲痛な様子に、彼の部下たちも全員食事をとらなかった。金山虎と金学律のおかげで包囲を切り抜けた隊員たちは、自分たちを死地から救ってくれた命の恩人と犠牲になった戦友たちをしのんで最後までさじをとろうとしなかった。
戦闘が終わったあとも、敵は撤収する気配をみせなかった。兵力を増強して包囲網を完成し、われわれを小湯河の谷に追い込んで全滅させようと図っているらしかった。まかり間違えば、その包囲網に陥って進退きわまり、壊滅する恐れがあった。こんなときこそ、主導権を握って敵を守勢に追い込むのが遊撃戦の要求であった。わたしは部隊を山林の奥深くへ撤収させるふりをし、ひそかに戦場の跡にもどって、そこで宿営した。元の場所を中心に機動して敵を混乱に陥れる、われわれ固有の戦術だった。
このようにわれわれが敵を欺いているあいだ、敵のほうでは決戦にそなえてぞくぞく兵力をつぎこんでいた。敵もその春は「冬季大討伐」の惨敗を挽回しようと、大きく賭ける覚悟を決めたようであった。敵はひきもきらず小湯河谷に大兵力を集結していた。満州の全兵力がその谷間に集まってくるかのような観を呈した。日没後、台地から平場を見おろすと、数里にわたる小湯河の谷間にかがり火の海が広がり、大都会の夜景を彷彿させた。われわれを幾重にも取り囲んでいるそのかがり火を方向別に概算させて敵の兵力数を推算すると、数千に達する驚くべき兵力だった。火の海を眺める隊員たちの表情がこわばっていた。もはや小湯河の台地で最期を迎えるほかないという悲壮な覚悟をしたのであろう。
「司令官同志、抜け道はなさそうです。決戦の準備をすべきではないでしょうか」
第七連隊長の孫長祥が悲壮な顔をして言った。他の指揮官たちもひとしく同じ表情だった。孫長祥の「決戦」という言葉は、なぜかわたしの耳にうつろに響いた。五百にみたない小兵力で数千の敵に決戦を挑むというのは、はっきり言って自暴自棄の蛮勇としかいえなかった。決戦を挑んでわれわれがみな死んでも、それであすには革命が勝利するというなら、それも辞するものではない。しかし、われわれは最後まで生き残って、いったんはじめた革命を成功に導かなければならない人間たちだった。
「同志たち、生き残るのは死ぬことよりむずかしい。しかし、われわれは死を選ばず、みな生き残って革命をつづけなければならない。われわれには国内進攻作戦という大きな課題がある。これは時代と歴史がわれわれに求めている神聖かつ栄誉ある課題だ。このような大事を前にして死を選ぶことができようか。われわれはみな生き残って人民革命軍の国内進出を渇望している祖国へ必ず進軍しなければならない。だから難局打開の道を考えてみよう」
「司令官同志、打開策にも限度があります。こんな死地のどこに抜け穴がありましょうか」
孫長祥はなおも事態を破局的だとばかりみなしていた。
全隊が命令を待ちながらわたしを注視していた。司令官の位置がいかに重要で苦しいものかを、あのときほど痛感させられたことはなかったと思う。
わたしは大小のかがり火が一面にゆらめく谷間を見おろしながら、包囲網を突破する妙策を考えた。問題は、どの方面へどう突き抜けて敵の包囲の外に遠く脱出するかということだった。小湯河の谷間に散開している「討伐隊」の兵力を数千名と推算すれば、敵の後方はがらあきのはずだ。もしわれわれが包囲の輪を抜け出すとすれば、敵はわれわれが山の奥にもっと深く入ったものと判断するだろう。だとすれば、敵の包囲が比較的手薄な大道路のほうへひそかに抜けるのが上策だ。そして大道路を一行千里に突っ走ろう。こういう考えが頭にひらめいた。わたしはただちに命令を下した。
「同志たち、死を覚悟するのはよいが、誰も死んではならない。生きる道はある。これから小湯河の森林地帯を捨てて住民地区へ出るのだ。そして大道路ぞいに東崗方面へ行軍しようというのがわたしの決心だ」
指揮官たちは「大道路」という言葉に、いっせいに顔をあげた。移動のさいに隠密を保つのは遊撃隊の活動において鉄則とされていた。それにもかかわらず、敵の大兵力がわれわれを包囲しているときに住民地帯に出て大道路を行軍するというのだから、一同が驚きの目を向けるのは無理もなかった。孫長祥がわたしのそばに来て、無謀な冒険ではないかと不安げに忠告した。彼がわたしの脱出作戦をひどい冒険だと憂慮したのは根拠のないことではなかった。どう見ても、それは冒険だと断定せざるをえない危険きわまる作戦だった。敵が大道路を守っているかも知れず、また後方に一定の兵力を残しているかも知れなかったからである。
わたしはかねて抗日武装闘争の初期から、軍事冒険主義に反対してきた。われわれは勝ち目のある戦いだけおこない、勝ち目のない戦いは避けた。冒険をあえてしたのは、避けがたい場合だけである。だが、われわれが敢行した冒険はいずれも成功を前提としたものであり、自己の力を最大限に動員しての冒険だった。百発百中の命中率を狙う冒険、それは天が崩れ落ちても這い出る穴はある、というゆるぎない信念と闘志と勇気があってこそ断行できるものだ。わたしが小湯河の台地で決心した住民地帯への脱出と大道路行軍戦術は、勝算が確かな冒険だった。わたしがそれを勝算確実とみなしたのは、その冒険に、逆境を順境に変え守勢から攻勢に転ずるわれわれならではの徹底した攻撃精神がこめられており、敵の弱点を最大限に利用する科学的な計算が裏打ちされていたからである。
戦いはつまるところ、知恵と知恵の対決であると同時に、信念と信念の対決、意志と意志の対決、勇気と勇気の対決でもある。敵が小湯河一帯に数千の兵力を集結したのは、数量の優勢を頼んでの大規模な人海戦術によって、われわれを包囲せん滅しようとするのが目的だった。人海戦術による大包囲戦は、彼らが革命軍の「討伐」に出動するたびに用いる常套手段だった。敵はすでに世に数百回も知りつくされた陳腐で紋切り型の戦術でわれわれの全滅をはかったのである。敵が頼りとしたのは、もっぱら数千名というその膨大な兵力のみだった。そこに彼らの戦術の弱点があり、制約があった。敵は数里にわたる小湯河の谷間にかがり火の海を現出することによって、自軍の兵力と人民革命軍せん滅の戦術をそっくりさらけだしていた。それは、彼らがわれわれに作戦文書を手渡す愚を犯したにひとしかった。その失策によって、彼らはすでにわれわれに主導権を奪われたのも同然だった。わたしにはわれわれが安全地帯に抜け出す自信があった。それで、微笑して孫長祥の肩に手をおき、指揮官たちにこう言った。
「敵はここに数千の兵力を集結した。これは小湯河の周辺はもとより撫松一帯の住民地帯のすべての軍隊や警察隊ばかりでなく、自衛団兵力まで残らず集めてきたことを意味する。したがって、この近くの村や大道路はがらあきになっているはずだ。敵はいま密林に注意を集中している。まさかわれわれが大道路を通過して脱出するとは夢想だにしていないだろう。ここに敵のすきがある。われわれはこの空間を利用して東崗密営へ迅速に移動するのだ」
そのとき、わたしの話しぶりや態度は余裕しゃくしゃくとしていたらしい。指揮官たちの顔色がはじめて明るくなった。彼らは元気よく部隊に出発号令をかけた。まず第八連隊が谷間をくだっていった。警護中隊と第七連隊がそのあとにつづいた。行軍縦隊はかがり火を避けながら、大道路のほうに音もなく動いていった。集団の生死を分かつ複雑な状況や危険にぶつかったとき、指揮官の態度や言動が全隊伍にいかに深刻な影響を及ぼすものであるかを、そのときわたしは痛感した。指揮官が泰然としていれば隊員も泰然とし、指揮官がうろたえれば隊員もうろたえるものだ。
予想したとおり、道路にはまったく人影がなかった。村のはずれに焚き火の跡があるだけだった。われわれは疾走する急行列車のようにいくつもの村をなんなく通過し、東崗へ急いだ。われわれは銃弾一発撃つことなく、がらあきの敵中を無事にくぐり抜けた。われわれが発砲したのはたった一度、第八連隊が二つに分かれて行軍しているのを発見したときだった。前の隊列と後ろの隊列の距離は五百メートルを越していた。村々と大道路を通過するあいだに、隊員たちの気がゆるみだしたのである。彼らのなかには居眠りしながら行軍する者が少なくなかった。わたしは後尾の指揮官に命じて銃を一発発射させた。銃声があがってから、行軍速度が倍加した。歩きながら居眠りする者もいなくなった。
小湯河での大道路行軍戦術は、後日、祖国に進軍して、枕(ペゲ)峰から茂山地区に向かうときにも適用した。その戦術を一行千里の戦術という。後日、雑誌『鉄心』を見て知ったことだが、敵は小湯河戦闘のとき、日本、満州国、ドイツなど三か国のメンバーで構成された記者団まで連れていたという。記者の従軍はどの戦争でも見られる通例だが、満州から数千数万里も離れたナチス・ドイツの記者まで戦場に入り込んできたのを見ると、日本の「討伐」専門家たちが撫松地区作戦に相当な意義を付与し、また彼らがこの作戦は勝ったも同然と思い込んでいたことがわかる。『鉄心』に載った「東辺道討匪行」という記事によると、その記者団は日本の主要新聞である『東京日日新聞』『読売新聞』『報知新聞』の記者たちとともに、新京放送局のメンバーと満州国の外交官、ナチス・ドイツの国営通信社の通信員ヨハン・ネベルらだったという。日、独、満の出版・報道界と言論界の連合陣に外交官まで加わった、それこそものものしい参観団であった。おそらく敵は撫松地区「討伐」作戦を全世界に誇れるモデル作戦とみなし、この作戦で達成する「赫々たる戦果」をあまねく宣伝しようと、相当意気込んでいたのであろう。
時を同じくして、満州国軍政部軍事調査部の中枢幹部である鷲崎と事務官の長島、安東特務機関長の田中も現場に駆けつけた。彼らも、その年の春には撫松の険しい山並と谷間で日本軍が人民革命軍を全滅させ、「東洋平和のガン」を永遠に根絶できるという妄想にとりつかれていたのであろう。鷲崎は満州地方における共産主義運動の実状に精通している人物であり、その撲滅戦略の作成にあたって主役を演じたひとかどの策士だった。彼は『満州共産匪の研究』という非公開図書の主要筆者で、あなどりがたい筆力もそなえていた。
祖国解放戦争(一九五〇~一九五三)の末期、李承晩が丁形高地と呼ばれる小さい高地での戦闘を観戦させようと多くの外人記者を誘致したことがあったが、その報告を聞いたとき、わたしは撫松遠征当時のことをいまさらのように回想させられたものである。李承晩の軽薄な行為と日本の「討伐」界の頭目たちの虚仮(こけ)おどしには一脈相通ずるものがあった。相手を見くびり、おのれを過大評価する点では、ヒトラーや東条、ムッソリーニや李承晩も同類であった。
記者団一行を迎えた「討伐」司令官は、本部隊は山中で純粋の
敵が小湯河の樹海に造り出したかがり火の海は、われわれに大道路行軍戦術を着想させただけではなかった。それは、国境一帯に集結した敵を撫松方面に誘導しようとしたわれわれの遠征目的が基本的に達成されたことを確信させてくれた。人民革命軍が数千もの大兵力による包囲を突破し、いずこへとも知れず雲隠れしたという通報に、敵は愕然とした。敵は革命軍の行方を察することができず、うろたえた。敵兵のあいだには、さまざまなうわさが広がった。「遊撃隊の戦術は人間わざではない」「朝鮮パルチザンには諸葛孔明そこのけの道士がいる」「朝鮮人民革命軍は数年内にソウルに攻め入り、東京も討つそうだ」こんなうわさは民間にも広がり、農村の老人たちのたまり場でも話題になった。この行軍があってから、われわれの部隊にたいする伝説のような話はさらに増えた。
頭道嶺から東崗付近までの行軍もやはりきびしい食糧難を伴ったが、これは言語を絶するものだった。一行千里の行軍で東崗付近の密林に到着したわれわれは、そこに一か月ほどとどまる予定で食糧工作に取り組んだ。数百名の一か月分の食糧を確保するのは容易なことでなかった。ところが、思いのほか簡単に食糧を得るめどがついた。夜間、遠方監視にあたった隊員たちが近くにトウモロコシ畑があるのを見つけたのである。前年に栽培してまだ収穫しないまま冬を越したトウモロコシが畑に残っていた。白頭山周辺の山奥にはそんな畑が少なくなかった。何日もぬかと水で命をつないできた彼らは、戦友たちのことを思ってトウモロコシをもいで帰ってきた。ところが、彼らは畑の主の許しを得ていなかった。畑の主が見えず、どこに住んでいるのかもわからなかったし、歩哨の交替時間になったので、探し歩くゆとりがなかったのである。
わたしにきびしくとがめられて主人を探しに行った隊員たちは、数時間後、白髪の中国の老人を連れて帰ってきた。わたしは部隊を代表して老人に謝罪し、現金三十元を差し出した。すると老人は、とんでもないと手を振り、そんなわずかなトウモロコシのために、隊長さんがわざわざこの年寄りに謝罪をすることはない、土匪に食べられるのは惜しくても革命軍が食べるのは惜しくない、わずかなトウモロコシのために革命軍から代金をとるなど滅相もないことだ、あとで村人たちが知ったら、わたしのことをなんと言うだろうか、金もいらないしトウモロコシを返してもらおうとも思っていない、と言うのである。わたしは老人に、トウモロコシは老人の畑のものだから当然持ちかえるべきだし、お金は損をさせた償いだから受け取ってもらいたい、と言った。わたしがあくまでゆずらなかったので、老人はやむなく金とトウモロコシを入れた背負い袋を持って村へ帰った。老人は村まで付き添った隊員たちに、あの隊長さんは誰かと聞いたそうである。隊員たちは、
「わたしはきょう、金隊長にお目にかかってすっかり感服しました。金隊長がわたしのような百姓までこれほど大事にしてくださるので、ただただ恐縮するばかりです。人情には人情で報いたいのです。どうかあの橇のトウモロコシを受け取ってください」
今度はわたしのほうが老人のたっての好意を断りきれなくなった。彼から贈られたトウモロコシのおかげで、われわれはひとまず急場をしのぐことができた。
老人はわたしに食糧を入手する手立てまで教えてくれた。漫江に沿って八キロほどくだると、薬用人参畑がある、その畑の主人たちとかけあってみれば算段がつくはずだというのである。薬用人参を取り入れたあとに大豆とトウモロコシを植えはしても、自分と同じように収穫はせず、そのままそっくり売り払おうとしている、金将軍部隊がそのつもりなら、自分がかけあってもいい、と言うのだった。
わたしは伝令を一人つけて、老人に薬用人参畑まで足を運んでもらった。伝令は交渉がうまくまとまりそうだという知らせをもって帰ってきた。わたしは警護中隊と第七連隊から屈強な隊員を数人選んで、人参畑に送った。食糧工作隊が出かけているあいだ、部隊はトウモロコシで食いつないだ。数日後、工作にあたっていた警護隊員たちが大豆かすをかついで帰ってきた。それは人参畑の主人たちがとっておいたものだった。われわれはその大豆かすを生でも食べ、蒸したり、いったりもして食べた。
工作隊員たちの話によれば、人参畑の主人たちは革命軍が食糧に困っていると聞き深く同情してくれたという。人参を栽培したあとに植えた大豆やトウモロコシはまだ収穫せず、畑にそのまま放置されていた。それは部隊を一か月はゆうにまかなえる量だった。それをみな売ってほしいと言うと、人参畑の主人たちは、
夕食後われわれはすぐ、人参畑に向かって強行軍した。そして畑に到着すると、総がかりでトウモロコシと大豆を取り入れた。トウモロコシは実のままで保管し、大豆は株ごと刈り取って脱穀した。から竿がないので棒で打ったり足で踏んだりして皮をはいだ。大豆とトウモロコシを集計してみると数十石にもなった。わたしは人参畑の主人たちに会って礼を述べた。善良な人参畑の主人たちは、一か月以上使える塩まで提供し、しっかり戦ってもらいたいと激励してくれた。
食糧問題が解決したので、わたしは部隊を率いて東崗密営に向かった。そこは長白地区を発つときから、軍・政学習の場所に内定しておいたところだった。わたしは前年の春と夏、許洛汝老から、東崗の密林に昔、高麗堡子とか高力堡子と呼ばれた村の跡がある、そこにはわれわれの先祖が武芸を修練した砦の礎石が残っている、という話を聞いたことがあった。彼は、自分が漫江の樺拉子村に引っ越してきたのは十代の少年時代だったが、当時は高麗堡子の周辺に朝鮮人だけの村がいくつもあり、その一帯の焼畑は地味が肥えていて穀物がよく実ったと語っていた。
日清、日露戦争の余波が白頭山のふもとにまで及び、日本軍が高麗堡子にまで現れて村人たちを見境なく殺りくしたとき、憤激した村の青壮年たちは弓矢と槍、石つぶてをもって戦い、敵兵を撃退したという。高麗堡子が洪範図(〔1〕)部隊の練兵場として使われたとき、村の大多数の青年はその部隊に入隊して教練を受けた。庚申年(一九二〇年)の「大討伐」は高麗堡子を廃虚に変えてしまった。村は焼け野原となり、砦は爆破され、住民も全滅の憂き目にあった。生き残った人たちはわずかで、彼らは密林のなかに隠れ住んでいたが、数年前、思い思いにその土地を捨て、高麗堡子には人影が絶えてしまった。
許洛汝村長からこんな話を聞いて地図を広げてみると、はたせるかな高麗堡子という地名があった。白頭山を中心とするおよそ四十キロ圏には高麗堡子という地名がいくつもあった。それは臨江にも長白にもあった。安図県には高麗崴子という村があった。それは高麗人の砦があるところという意味の地名だった。白頭山の東側と南側の地帯には腰窩堡、普天堡、羅暖堡、神武城、倉坪、倉洞、恵山鎮、新乫坡鎮などの地名もあるが、これらの地名が語っているように、昔、砦や城または軍需倉庫や守備兵の守る渡し場のあったところである。これは高麗(〔2〕)時代や高句麗(〔3〕)時代は言うまでもなく、古朝鮮(〔4〕)時代からすでに、われわれの先祖が白頭山周辺の各所に城や砦を築き、国防に力をそそいでいたことを物語っている。
わたしは許老人の話を聞いて、愛国的な祖先が築いた昔の砦と、彼らの苦難の足跡が残っているという東崗密林のその地点を胸の底に刻みつけておいた。
高麗堡子の村跡を訪ねたわれわれは、薬用人参栽培者たちが使っていた二軒の空き家を発見した。撫松地方には山に入って人参を栽培する人が多かった。なかには寒い冬場は都市近郊の村に帰り、夏場だけ山で働く人たちもいた。われわれが発見した二軒の空き家は、果松山という同名の二つの山のふもとにあった。果松山とはチョウセンマツの多い山という意味である。葉が五つの松なので五葉松とも呼ばれるこのチョウセンマツを、撫松の人たちは漢字名で果松といった。東西に双子のように仲良く向き合っている二つの果松山には、文字通りチョウセンマツが青々と茂り、高山地帯の雄壮な風致に豪放な趣きを添えていた。
われわれは二軒の空き家を手入れし、そこで政治学習と軍事講習をおこなった。練兵場は東側果松山の密林のなかの空き地につくった。一か月分以上の食糧を確保して密営に落ち着くと、少なからぬ隊員は、部隊が当分「長期休息」に入るものと推測して喜んだ。それも無理ではなかった。長いあいだの強行軍と激戦で疲労困憊した隊員たちは、誰もが休息を願っていた。しかし、われわれには休息するゆとりがなかった。わたしは隊員たちが疲れをいやすいとまもなく、東崗密営で中隊政治指導員クラス以上の幹部会議を開き、撫松遠征を総括した。この会議では遠征過程で発揮された擁官愛兵の美挙が広く紹介され、今後そのような美風をいっそう奨励し、発展させるべきであることが強調された。
その会合についで招集された会議が、抗日革命闘争史で一つの歴史的分岐点をなした西崗会議である。会議は西楊木頂子密営で三日間おこなわれ、第二師と第四師の幹部と魏拯民、全光をはじめ軍指揮部の幹部たちも参加した。会議では国内進攻作戦方針が討議された。わたしがこの方針と関連して演説をした。参加者全員が、わたしの国内進攻作戦案に賛成した。会議では、国内進攻作戦と関連した各部隊の任務と活動方向、活動区域も決定された。
会議後、東崗密営でおこなわれた軍・政訓練の全過程は、もっぱら国内進攻をめざす政治的・軍事的準備をととのえることにあてられた。政治教育内容の基本は、朝鮮革命の路線と戦略戦術の問題、国際国内情勢にかんする講義であった。「祖国光復会十大綱領」の講義は、朝鮮革命にかんするわれわれの主体的路線を理解するうえで大いに役立った。この講義を通して、新入隊員は白頭山密営で学んだ知識をいっそう深めた。
わたしはこのときも経読み式の学習に反対し、実践と結びついた学習討論と問答式学習を極力奨励した。司令部のメンバーと軍・政幹部、警護中隊員はわたしが受け持って講義した。わたしは革命路線にかんする講義とともに、社会発展の初歩的な原理、世界的に有名な革命家や英雄、それに代表的なファシストについても講義した。国際情勢でわれわれの関心を引いたのは、エチオピアとイタリアの戦争、スペイン人民戦線軍の戦果、ドイツ、イタリア、日本のファッショ化にかんする問題であった。当時、敵側の雑誌にはヒトラーが地方軍を視察する写真が載っていたが、わたしはその写真を見せて、ヒトラーの危険性について警鐘を鳴らした。中国農民運動の著名な活動家の一人である方志敏烈士のことも話した。方志敏の英雄的生涯は、聴講者たちに深い印象を与えた。東崗軍・政訓練で模範生として評価された隊員のなかで、いまでも記憶に残っているのは馬東熙である。彼は学習熱が高く、討論もたいへん上手だった。彼は東崗軍・政訓練を通してりっぱな政治幹部に成長した。先祖の砦のあった高麗堡子で、かつての火田民と日雇い人夫たちは解放戦争の主要戦線を受け持つ頼もしい担い手に成長したのである。
後日、われわれが白頭山の奥地で多数の軍隊を養成したといううわさが世間に広がった。それに尾ひれがつき、ある地方では、われわれが白頭山の深い洞窟で天翔る数万の将帥を養成したという伝説まで広がった。そういう伝説を生んだところが、ほかならぬ東崗軍・政訓練所の高麗堡子だった。
東崗での軍・政訓練が終りかけていた一九三七年五月初、われわれは密営で朝鮮人民革命軍の隊内機関紙『曙光』を創刊した。その題号には解放された新しい祖国で暮らそうという朝鮮民族の切願と、その日を必ず早めようという朝鮮共産主義者の決意が強く脈うっていた。
この新聞の創刊号を出したあと、われわれはすぐ、祖国へ進軍するために東崗密営を出発した。
3 警護隊員たち
わたしは生涯のかなりの部分を戦場で送った。抗日戦争十五年に反米大戦(朝鮮戦争)三年を合わせると、二十年近くの歳月を砲煙弾雨のなかで過ごしたことになる。
ところで、奇跡といおうか幸運といおうか、わたしはかすり傷ひとつ負わなかった。抗日戦争当時、遊撃部隊では率先垂範がとくに強調された。指揮官はつねに困難の先頭に立ち、率先垂範することに生きがいを感じていた。攻撃のときは真っ先に進み、退却のときはしんがりになり戦友を守るのが人民革命軍の指揮官、政治幹部の気風であり、道徳であった。わたしもまた、そうした気風と道徳に忠実であろうと努めた。ときには隊員たちを救うため弾雨のなかへ飛び込み、ときには同志たちの忠告を振り切って、命がけの冒険もあえてした。機関銃をとり第一線で熾烈な撃ち合いをしたのも一度や二度ではない。けれども不思議なことにわたしはいつも無事だった。
極端な軍事民主主義を克服する過程で遊撃隊指揮部は、中隊長クラス以上の指揮官は突撃の先頭に立つべきではないという原則をうちだした。それ以来、指揮官たちが冒険をひかえるようになったのは事実であるが、危急にさいし体を張って危機を打開する共産主義者の本性はいかんともしがたかった。
朝鮮戦争のとき、アメリカ人はわたしを狙っておびただしい爆薬を消費した。たとえば、わが党の指導部に潜入していた朴憲永、李承燁らが、何日何時にわたしがどこそこへ行くという無電を打ち、必ずそのコースヘ飛行機がきて爆弾の雨を降らせたものである。
わたしが私服姿で、吉林、長春、ハルビン、卡倫などで地下活動をおこなっていたころは、拳銃や棍棒を持った「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」のメンバーや朝鮮革命軍隊員、共青員、反帝青年同盟員、少年探検隊員たちがわたしを守ってくれた。
わたしを実の息子や兄弟のようにいたわり、助けてくれる人民という名の保護者はどこにもいた。「蛟河のおばさん(〔5〕)」はどの地方にもいたのである。
尚鉞、張蔚華、陳翰章らの例からもわかるように、中国の人民や共産主義者たちもわたしの身辺を気づかい、格別の配慮をしてくれた。尚鉞先生は公安局の警官が学校に現れると、わたしを塀の外へ逃がし、陳翰章は軍閥の追跡を避けていたわたしをかくまい、寝食の世話をしてくれた。張蔚華がわたしの安全をはかり、写真現像液を飲んで自決したことについては、国際主義の手本として、前にも高く評価した。周保中はわれわれの部隊の指揮官に会うたびに、わたしの身辺保護を怠らないよう再三強調した。
第二軍軍長の王徳泰と第一軍第二師師長の曹国安が戦死してから、東満州の抗日武装部隊でも指揮官の身辺保護問題が深刻に論議された。王徳泰はモーゼル拳銃をかざし部隊の先頭に立って突撃し、惜しくも戦死した。彼は延吉県の朝鮮人村で育ち、朝鮮で労働もした経歴の中国人であった。彼が遊撃隊生活をはじめたのも朝鮮人村だった。そのためか、王徳泰を朝鮮人だとした日本官憲の記録もあるという。彼は最初、崔賢と同じ分隊に属し、平隊員から軍長にまで累進した労働者上がりの気さくな庶民的軍事指揮官であった。王徳泰、曹国安らの主な軍・政幹部の犠牲は抗日連軍の指揮官や隊員すべてに大きな衝撃を与え、警護問題に
かんする活発な論議を呼び起こした。そして少なからぬ単位で警護を専門とする部隊がつぎつぎに編制された。
こうした流れのなかで、わたしの身近にいた戦友たちも、司令部警護部隊の編制問題をいろいろと論議し、それがいったんまとまると、わたしに警護部隊の編制を正式に申し出た。しかし、わたしはそれを受け入れなかった。専門の護衛隊がなくても、われわれの部隊の指揮官や隊員は司令部をりっぱに守っていたからである。
しかし、一九三七年の春ごろになると、わたしとしても戦友たちの主張を拒みきれなくなった。われわれが白頭山地区に密営を設けたころから、敵は部隊の内部や周辺に多くのスパイや破壊分子を送り込んだ。そのなかには斧や匕首を持った者もいれば、下品な春画や毒薬を隠し持った者もいた。敵はわれわれが密営にいるときはもちろん、遠征に向かうときにも刺客をしのびこませた。なかには地下組織にもぐりこんで「熱心」に働き、信用を得たあと組織の推薦まで受けて遊撃隊に入り、司令部を害そうとした密偵もいた。日本の特務機関は、魏拯民は何千円、全光、陳翰章は何千円、崔賢、安吉、韓仁和はいくらと、名のある指揮官に賞金までかけて逮捕しようとした。資料によると、わたしにはさらに多額の賞金がかけられていた。
敵が司令部の主要メンバーを葬ろうと手段と方法の限りをつくしている以上、われわれもそれを粉砕する対応策を立てざるをえなかった。部隊の指揮官たちはまたもや司令部護衛問題をもちだした。魏拯民までがこれに同調した。
「金司令はわが身を軽んずるのが欠点です。攻撃の焦点が
わたしは彼の助言を受け入れざるをえなかった。みながそうしようということにあくまで反対するのは、無意味な片意地というほかなくなる。司令部のもとに警護隊が正式に発足したのは、一九三七年の春だったと思う。そのとき、先に立って警護隊の編制にあたったのは司令部組織課長の金平だった。わたしから中隊規模の警護隊を組織するようにと言われると、彼は意気込んでこれにあたった。一晩のうちに人選をすませ、警護中隊の装備明細まで書きあげた。わたしは組織課長が作成した警護中隊の隊員名簿を見て、それに反対した。それによると、各中隊の中核といえる選り抜きの隊員が残らず警護中隊に編入されることになる。西南岔戦闘で勇名をはせた金沢環、名だたる機関銃手の呉白竜と姜興錫、大力の姜渭竜、女将軍のほまれ高い金確実をはじめ、そうそうたるメンバーがことごとく名を連ねているのである。彼らを全部警護中隊に引き入れれば、他の中隊は骨抜きになりかねなかった。警護中隊にあてる装備もものものしいものだった。組織課長は、この中隊に機関銃も数挺割り当てたのである。当時、主力部隊の機関銃の大部分を警護中隊にまわせば、他の戦闘連隊には一挺ずつの機関銃もゆきわたらなくなる。わたしはそんな構想に同意することはできなかった。
「人選も不適当だし、装備問題にしても見当違いだ。他の中隊の戦闘力を弱めるくらいなら、警護中隊を編制する必要がどこにあるのだ。基本戦闘単位の中隊が弱体になれば、連隊の力が弱まり、連隊が無力になれば司令部そのものも安全でありえないはずだ」
「司令官同志、これはわたし一人の考えではなく、軍・政幹部の意見をまとめたものです。大衆の全般的要望を汲んだものですから、拒まないでください」
金平は大衆という言葉に力を入れ、なんとしてもわたしの同意を得ようとした。しかし、わたしは彼の提案を退け、わたしが作成した名簿を強引に押しつけた。そうしないことには指揮官たちの執拗な提起を抑えることができなかったのである。わたしの案では、警護中隊員のほとんどが戦闘経験の浅い新入隊員からなっていた。初年兵のなかには射撃になれていない馬鞍山児童団出身の少年隊員もいた。
この案は発表されるやいなや、指揮官たちの猛烈な反対にぶつかった。彼らは李東伯をわたしのところへさしむけた。「パイプじいさん」の助言なら、わたしも無視できないだろうと考えたらしい。司令官が応じない問題をなんとか貫こうとするときはきまって、李東伯を代弁者に押したてるのを、わたしも十分承知していた。「パイプじいさん」はその役割をいつもりっぱに果たしていた。いつもの例で、彼は今度も司令部に現れると、単刀直入に切り出した。
「将軍、謙譲にもほどがあります。いったい、そんな小坊主たちに司令部の護衛をまかせられるとでも言うのですか。彼らが荷物にならないならまだしも、いまに司令部が彼らの面倒をみる破目になるでしょう。ですから、いまのうちに考えなおしたほうがいいのではないでしょうか」
わたしは「パイプじいさん」に言った。
―― 警護隊の構成が主に初年兵からなっているといって案ずることは少しもない。ほどなく彼らも戦に慣れるだろう。先の「冬季大討伐」のときも新入隊員たちはじつによく戦ったではないか。また、彼らははじめての遊撃隊生活にもすぐになじんでいるではないか。いまに撫松遠征を終えれば、新入隊員もみな古参の隊員に劣らぬつわものに成長するだろう。わたしが新入隊員を基本にして警護中隊を組もうという理由は、彼らを身近に置いてしっかりした戦闘員に育てあげたいからだ。彼ら一人ひとりがみなりっぱな戦闘員になれば、司令部は一つの頼もしい予備隊を持つことになる。これはなんとすばらしいことではないか。遊撃隊生活にいまはまだ慣れてはいなくても、われわれがしっかり鍛えれば、誰もが強兵になれるのだ。人材の養成をぬきにしては革命の勝利を望むことはできない。
「パイプじいさん」は一言もなく引き下がった。それからは、むしろ彼がわたしの代弁者になって指揮官たちを説得した。李東伯まで態度を変えてわたしの案を支持するようになったので、指揮官たちはそれ以上自説を主張しきれなくなった。わが国の革命武力建設史上、最初の警護中隊はこういう曲折をへて誕生したのである。警護中隊誕生の地を当時は樹皮廠子密営と言った。
警護中隊には三つの小隊と機関銃班を設けた。司令部付き伝令と炊事隊員も組織生活は警護中隊でおこなうことになった。初代の中隊長には李東学が任命された。過ちを犯して平隊員に落とされていた「ポタジ」は、中隊長に返り咲くと大いに勇みたった。彼の過失というのは、配下の新入隊員が大衆工作条例に背いたことにあった。過ちは隊員にあるが、部下の教育をおろそかにした責任を負って中隊長を解任されていたのである。警護中隊が編制された日、李東学は隊員たちに機関銃を撃ちまくるような早口で訓示した。
「わが中隊の基本的任務はなにか。それは司令部をりっぱに守ることだ。革命の先輩たちは遊撃区時代から将軍をりっぱに守った。彼らはきょう、われわれにバトンをタッチしてくれたといえる。ところがわれわれの実態はどうか。みんな新入隊員でなければ少年隊員だ。わたしは、われわれが司令部を守るのでなく、司令部がわれわれを守るようになるのではないかと心配している。わたしが訴えたいのは一つだ。司令部にわれわれを守ってもらうのでなく、名実ともにわれわれが司令部を守ることだ」
「ポタジ」のこの演説は警護隊員たちに強い印象を残したという。しかし、なかには中隊長が隊員をあまりにも見くびっているようで、気分がよくなかったともらす隊員もいた。だからといって、李東学の演説が度を越していたとするのは当を得ていない。「ポタジ」の懸念はいわれのないものではなかったのである。初期の警護中隊の実態をありのままに言えば、われわれが彼らを守っていたといえるだろう。警護中隊は司令部を護衛する基本的任務と同時に、戦闘単位としての任務も果たした。その過程で、彼らは目に見えるほど早く成長した。警護中隊の少年隊員たちはわれわれに心配をかけまいとなにをするにも成人らしく振舞った。彼らがいちばん嫌ったのは、人格的に大人の待遇をしてもらえないことだった。
いつだったか、李東学が公式の席上で、中隊に所属する馬鞍山児童団出身の少年隊員に向かって、「ヒヨコ」と言ったことがあった。それで少年隊員たちはすっかり肩を落としていた。金正徳は夕食もとらず、しょげこんでいた。彼は馬鞍山出身の数十人の少年隊員のなかでもっとも大人っぽく、立ち居振舞もませていた。
わたしは彼がさじを取ろうともせず、しょんぼりしているのを見て、ただした。
「どうして食べないのだ。誰かと争ったのか」
「そうではありません。中隊長同志がわれわれをヒヨコだと言ったものですから…」
金正徳は口ごもり、顔を赤らめた。わたしはその天真らんまんな答えに、声を立てて笑った。
「ヒヨコと言われるのがそんなにいやなのか。それはおまえたちが可愛いからなんだよ」
「中隊長同志は可愛くてそう言ったのではありません。実際、ヒヨコには違いないんですから。こんなヒヨコたちがどうやって司令部を守れるというのですか。ぼくも、本当にたいへんなことになったと思っているんです」
金正徳が沈み込んでいたのは、李東学が言っているように、自分たちが司令部護衛の重責を果たせないのでは、という危惧からであった。わたしは彼を見つめながら、もうりっぱな大人だ、と思った。もっとも彼は十七歳だったのだから、幼いとばかりみるべきではなかった。しかし、ちなみに言えば、警護中隊の少年隊員たちは、就寝時間になると本当にヒヨコのようにわたしのそばに寄り集まり、それぞれよい場所を占めようと競り合ったものである。彼らの狙う最上の場所は、わたしの両脇に寄り添って眠れるところだった。わたしはそのころ毛布が一枚しかなかった。そんなわけで彼らに両方から挾まれると、窮屈でならなかった。けれどもそれはわたしにとって負担ではなく、無上の喜びだった。わたしは横になるときはいつも両腕を広げて、「みんな早くおいで」と少年隊員たちを呼んだものである。すると彼らは歓声をあげて集まり、少しでも近くに寝ようと争うのである。
わたしの脇はたいてい李五松のような十代前半の警護隊員に割り当てられた。わたしは李五松ら最年少の隊員にそんな特典を授けながらも、誰もが一度はわたしと並んで寝られるよう、毎日位置を変えるようにした。わたしが順番を間違えて誰かに不公平な「恩恵」をほどこそうものなら、それこそ喧々ごうごうの抗議を受けるのである。
あるとき、なにかの用で就寝時間にやってきた金平が、寝場所のことで騒いでいる警護隊員たちを見て、顔をしかめた。
「司令官同志、ごらんなさい。こんな小坊主たちが、いったい警護任務を果たせると思うのですか。司令官同志の前であんなにふざけているのをみると、警護任務どころか、なんの役にも立ちそうにありません。きびしくしかって性根をたたきなおしてやるべきです」
彼は眉をひそめて警護隊員たちをねめつけた。もともと児童団出身の少年隊員を警護中隊に加えることに強く反対していた金平だったので、批判も手きびしかった。わたしは金平の批判が正しいとは思いながらも、父母兄弟の愛情が恋しくて、毎晩寝場所争いをしている子たちを叱ってどうするのか、と少年隊員をかばった。
一枚の毛布に何人もが足を入れて寝るのを、当時、われわれは「タバリ寝」と言っていた。十余人が毛布に足を突っ込んで、タバリ(荷を頭に載せるときの輪状の下敷き)のように丸くなって寝ることである。掛けるものがいつも不足し、野外で寝るのが日常の遊撃隊生活では、警護中隊の少年隊員たちが考え出したこの「タバリ寝」はたいへん調法であった。
解放直後、恵山方面で地方工作中だった李五松が活動報告のため、わたしのところへやってきたことがあった。当時、わたしの宿所は、現在党創立事績館がある解放山のふもとにあった。わたしはそこでしばらく同志たちと、山中で戦っていたときのように合宿生活をしていた。地方で工作中の同志が平壌に来るとみなそこへ訪ねてきたものだが、李五松ももちろん例にもれなかった。就寝時間になると、闘士たちは布団を敷きはじめた。すると、李五松が「将軍と一緒に寝るときは『タバリ寝』をしなくては」と言って、布団をみな片隅へ押しやった。そこに居合わせた北満州出身の同志たちは、「タバリ寝」がどんなものか知らなかった。李五松はわたしの手を取り、「将軍、今夜は白頭山時代のように『タバリ寝』をしてみませんか」と言った。しかし、わたしはその願いにすぐには応じられなかった。「タバリ寝」をするとなると、合宿者たちみんなを「タバリ」のなかへ引き入れなければならないのだが、彼らがそんなざれごとを喜ぶだろうかと、思ったからである。わたしのためらう様子を見ると、李五松は有無を言わせずわたしを寝かせた。「さあ、ここへ寝てください。足を少し曲げて。将軍の右側には金策同志、その隣は崔賢同志です。将軍の左脇はわたしの場所です」このあきれた指令で、金策も一言も言えず「タバリ」のなかへ引き入れられた。
わたしは警護中隊の少年隊員たちを非常に可愛がりはしたが、無原則に甘やかしはしなかった。過ちを犯せば、涙が出るほど叱りつけたり、骨のおれる任務をいろいろと与えて鍛えもした。零下四〇度を上下する吹雪の日にも、彼らを歩哨に立たせた。ときには古参の隊員と同じように血戦場にも立たせた。規律に背くと、各中隊をまわり歩いて自己批判をさせたり、一平方メートルほどの円のなかに立たせて、二時間、三時間と過ちを反省させたりした。そんなわけで、胸の痛む思いをしたこともよくあった。
幸いなことに、彼らはいくらきびしく批判され鍛練をされても、決してわたしを責めたり、恨んだりしなかった。あるとき、李五松が連絡任務の遂行にあたり、道を間違えて時間をたがえたことがあった。わたしが指定したコースをとらず、勝手に道を変えたためだった。そのときわたしは、李五松が司令部の指示を適時に遂行できなかったことを知りながらも、黙認した。この前例のない処置に、李五松はすっかりふさぎこんだ。
(おれには司令官同志の批判を受ける資格もないというのか。司令官同志はいまもおれを鼻たれ小僧だと思っているのだろうか)
こんなふうにひがんで思い悩んだ彼はわたしを訪ねてきて、ほかの隊員には処罰を加えながら、どうして自分には加えないのか、規律に背いたのだから処罰してほしい、と言った。真の愛情と信頼があるところでは、処罰はむしろ一種の信頼の表示ともなる。批判を受け、処罰されても、警護隊員たちが少しも不満とせず快く受け入れたのは、彼らをうわべではなく心から愛し、信頼したことへのこたえであった。
警護隊員の成長のためにとくに力を入れたのは、学習であった。わたしは平時にも、また密営での集中的な軍・政学習のときにも、彼らの教師役を務めた。当時、司令部には『東亜日報』『満鮮日報』『朝鮮日報』のほかにも内外の新聞や『レーニン主義の諸問題』『社会主義大義』『国家と革命』などの書物や教養の足しになる出版物が豊富にあった。わたしは警護隊員たちに、それらの資料をいつでも読める特典を与えた。その代わり、彼らに口頭ないし書面によって必ず読後の感想を求めた。このようにして、警護中隊は学習で人民革命軍の全部隊の手本となった。思えば思われるというが、情はそそげば返ってくるものである。わたしは、警護隊員たちに情をそそいだだけ、彼らからも情を受けた。
警護隊員は思想的にも軍事実務的にも急速に成長した。司令部の護衛もりっぱに果たした。正直言って、わたしは彼らのおかげで何度も危地を脱したものである。
いつだったか、われわれは安図県のある密営で林水山の率いる「特殊部隊」の包囲に陥ったことがあった。林水山はわれわれの主力部隊で参謀長を務め、のちに変節し、遊撃隊の「討伐」をもっぱらとする「特殊部隊」の隊長になった男である。彼は西間島一帯のわれわれの後方密営を手当たり次第に破壊していた。その日の朝、われわれは密営を発つ予定で朝食を早めにつくった。早く食事をすませて出発しなければならないのだが、歩哨の交替者がいなかった。そのときの歩哨当番は李乙雪であった。それで、わたしが代わりに歩哨に立った。彼が食事をしているあいだ、わたしはあたりに注意をこらした。霧が深くたれこめた日で、なんとなく不吉な予感がした。案にたがわず、近くであやしい人の気配がした。それは枯れ枝の折れる音だった。とっさに敵だと判断したわたしは、倒木の陰に体を伏せて、拳銃を発射した。ほとんど同時に、十数メートル前で敵の機関銃が火を噴いた。
あのとき、わたしが人の気配を感じ、倒木の陰に伏せながら拳銃を撃ったのは一瞬の出来事だった。そういう刹那に、食事中だった姜渭竜と李乙雪がわたしの身を案じて歩哨線へ駆けつけてきた。姜渭竜はわたしを倒木の陰から力まかせに引っ張り出し、李乙雪は軽機関銃を掃射した。正直なところ、わたしはそのとき、われわれの運命はここにつきるのでは、とさえ思った。それで熊というニックネームの姜渭竜がわたしを退避させようと必死になっているとき、死なばもろともという悲壮な覚悟までいだいたものである。しかし、不死鳥のような警護隊員たちは、弾雨に身をさらして奮戦し、わたしを死地から救い出した。敵が包囲網をせばめてくると、李乙雪は手榴弾をつかんで立ち上がり、「野郎ども、かかって来るなら来い。冥土の道づれにしてやる!」と大声で叫んだ。そのすさまじい勢いに恐れをなしたのか、敵兵は後ずさりしはじめた。このすきを逃さず、姜渭竜がわたしを弾雨の届かないところへ退かせた。
林水山はわれわれの撤収後、密営をすっかり荒らした。それでわれわれは惜しいことに文書類や写真、小冊子、医薬品などを収めていた背のうを失ってしまった。「特殊部隊」が引き揚げたあと、密営にもどってみると、わたしが代理歩哨に立っていた場所にあった、ひとかかえもあるハギの束が一刀両断にされたようになぎ倒されていた。「特殊部隊」の機銃掃射のすさまじさを物語る情景といえた。それを見たわたしは、「きみたちがいなかったら、わたしはきょう、あやうくあの世へ行くところだった」と言った。
警護隊員たちの司令官にたいする忠実な護衛ぶりは隣接部隊の中国人指揮官たちの耳にも届いたほどであった。彼らは日ごろ、わたしがしっかりした伝令や警護隊員に守られていることをうらやんでいた。そしてわたしに会えば、冗談めかして、善行をほどこすつもりで優秀な伝令を一人でもいいから譲ってくれとか、金司令の警護隊員なら誰でもいいから中国語を少し話せる隊員を何人か譲ってほしいと言うのだった。われわれの主力部隊の警護隊員や伝令は、楊靖宇や魏拯民、周保中、曹亜範らにとって、垂涎(すいぜん)の的だった。
撫松遠征の直後、曹亜範はわたしに、朝鮮人隊員のうちから伝令を譲ってくれと言った。わたしは伝令のうちでもいちばん大事にしていた金沢万を呼び、曹亜範をりっぱに護衛するようにと言い含めて彼のもとへ送った。曹亜範は反「民生団」(〔6〕)闘争のさい、朝鮮人の恨みを少なからず買い、またわたし個人の活動にもなにかとブレーキをかけた人物ではあったが、だからといって彼を排斥したり、せっかくの要請を無視したりすることはできなかった。わたしが新師団を編制することになったとき、曹亜範がわれわれの主力部隊の政治委員として派遣されてくることになったが、わたしはそれに反対した。彼の身辺安全を保障しかねるからだった。新師団には、反「民生団」闘争のさい、曹亜範の冷酷な仕打ちを受けた者がかなりいて、彼を嫌悪していたからである。わたしが師団の政治委員を兼ねたのはそのためであった。
金沢万はわたしに言われたとおり、曹亜範をりっぱに護衛した。曹亜範は金沢万を聡明で忠実な若者だ、りっぱな伝令を送ってくれて感謝する、とたびたび礼を言った。
楊靖宇も、りっぱな隊員を譲ってほしい、と何度も要請した。楊司令が第一軍と第二軍の軍・政幹部会議に参加するため南牌子に来たとき、わたしは彼に伝令を何人か譲り、さらに指揮官を含む数百名の隊員を割いて独立旅団を編制してやった。
魏拯民も楊靖宇や曹亜範と同様、わたしの育成した朝鮮人隊員をほしがった。彼のたっての要請で、わたしは警護隊員の黄正海と白鶴林を送った。金喆鎬、全文旭、任銀河、金得秀らもしばらく魏拯民のもとにいた。彼らはみな魏拯民を忠実に助け守った。周保中もひところ、朝鮮人の朴洛権を警護隊長に登用していた。第三方面軍の軍長陳翰章も馬鞍山児童団出身の孫明直を伝達長にしていた。わたしは、わたしが送った隊員たちが抗日連軍の各部隊で、国際主義的義務を遂行するため犠牲的に戦っているという消息に接するたびに、言い知れぬ喜びを感じたものである。
警護中隊員たちはいずれもわたしの生命の恩人であり、親衛戦士であった。右にあげた隊員のほかにも、わたしを守ってくれた戦友たちは多い。金雲信、崔元日、金学松、韓益洙、全文燮、金洪洙、崔仁徳、崔金山、趙明善、池鳳孫、金鳳錫、李鶴松、李斗益、呉在元…。彼らの名を心のなかで呼んでいくと、数千、数万の錯綜したかつての事柄が記憶のなかにおのずとよみがえってくる。
初代警護中隊長の李東学は連隊長に昇進したのち、一九三八年末ごろ壮烈な戦死をとげた。李東学の後任として警護中隊長になった李達京はもと第四師の機関銃手だった。百発百中の名射手で、李達京といえば知らない人がいないほどだった。彼はしばらく警護中隊の政治指導員を務め、李東学が連隊長に昇格すると、その後任になったが、一か月もたたずして戦死した。李達京の後を継いで警護中隊長になった朴寿万もじつに勇敢だった。彼は双山子戦闘のとき、わたしに集中した敵の火力をそらすため、機関銃手を伴ってあちこちに位置を変えながら戦ううちに凶弾に傷つき、それがもとで世を去った。
警護中隊の初代中隊長の李東学から第四代中隊長の呉白竜にいたるまで、司令部の護衛にあたった中隊長たちはすべて、わたしのためならどんな苦行にもひるまず、わたしの命令、指示を貫くためには水火もいとわぬ忠実な戦友たちであった。
わたしのために生命をささげた恩人のなかには、李権行という十代のうら若い警護隊員もいた。彼はわたしを実の兄のように慕い、尊敬してくれた。ある年の冬、敵の追撃を受けながら強行軍をしていたときのことである。たいへん寒い日だったが、雪中行軍をつづけてもなぜか足が凍えなかった。不思議に思って履き物を脱いでみると、綿のようにやわらかくもみほぐしたシラカワスゲが底に敷かれているではないか。李権行が敷いたものだと伝令が耳打ちしてくれた。
中国人は朝鮮人参、鹿茸(ろくじょう)、テンの毛皮を「関東(東北)の三宝」と称していたが、酷寒にも足を凍らせないシラカワスゲも「東北三宝」の一つに数えていた。湿地に自生するこの草がどうしてわたしの履き物に敷かれたのか。おそらく、李権行はわたしのためにシラカワスゲ草を見つけるたびに一握り、二握りと摘みとって背のうにしまっておいたのだろう。
彼が長白県十五道溝戦闘のさい、わたしを身をもってかばってくれなかったら、わたしは生き残ることができなかったであろう。あのとき、敵は司令部のある指揮所に集中射撃を加えてきた。李権行が何度も指揮所を安全な場所へ移そうと言ったが、わたしはそれに応じなかった。そこは戦場を一目で見渡せる有利な場所だったのである。ところが、敵弾が不意にわたしに集中しはじめた。とっさに李権行は両腕を広げてわたしの身をかばった。彼が盾となってわたしにぴたりとついたとたん、敵弾がその足の骨を砕いた。全身血まみれの李権行を胸に抱いて、銃創をあらためたときのわたしの気持をなんと表現してよいだろうか。わたしは担架に付き添って、「おまえは死なんぞ」「おまえは死なんぞ」と、何回も繰り返しながら彼を励ました。李権行は、「司令官同志、わたしは死にません。わたしの心配はなさらないで、また会うときまでどうかお体に気をつけてください」と、かえってわたしを慰めるのだった。そのときのわたしの表情がよほど悲しみにひしがれていたらしい。それがわたしに残した彼の最後の言葉だった。彼は後方病院に移されてから手紙をよこしたということだが、わたしの手には届かなかった。わたしが受け取ったのは、李権行が後方密営で治療中、敵に逮捕され、長白県警察署で連日むごい拷問を受けながらも司令部の位置を明かさず、最期まで節操を守りとおしたという消息だけだった。
司令部付き警護隊員のなかには、「リュックサック」というニックネームの隊員もいた。リュックサックは登山用背のうだが、彼がいつも異常なほど大きな背のうを背負っていたので、そんなニックネームがついたのである。なぜそんなものを背負っていたのか、その秘密がわかったのは臨江でのある戦闘のときだった。熾烈な攻防戦がくりひろげられていたそのとき、「リュックサック」はなぜかわたしのそばを一歩も離れようとしなかった。わたしは塹壕の土壁に敵弾が突き刺さるたびに、弾に当たらぬよう彼を抱き寄せ、土壁の上へ顔をつき出させないようにした。しかし彼はいつの間にかわたしの胸から脱け出し、敵兵が右から押し寄せてくるとわたしの右脇にくっつき、左側から攻めてくると左脇にくっつくのである。戦闘が終わって、綿の焦げる臭いが鼻をつくので、塹壕を見まわすと、なんと、彼の背のうにあいた二つの弾孔から煙がもれていた。ところが当の本人は少しも気づかず、誰かの服が焦げている、と騒ぎ立てていた。隊員たちが駆け寄って彼の背のうを開けてみると、真綿が丁寧にたたんで詰めてあり、そのなかから熱い弾丸が二個転がり落ちた。彼がなぜ大きな背のうを背負ってわたしに付きまとっていたのかを、そのときわたしははじめて理解した。結局、「リュックサック」の真綿がわたしを危地から守ってくれたのである。わたしはどうしてそんな奇抜なことを考えたのかと聞いてみた。すると彼は、金正淑同志が司令官同志の冬服をつくるとき、真綿を入れながら、こんな綿を入れると銃弾が貫通しないと言ったので、自分も司令官同志のために防弾用背のうをつくった、と答えるのだった。
抗日戦争での警護隊員たちの功労を手短に話すのは容易なことでない。しかし、ここで強調したいのは、朝鮮革命の命脈を守るために果たした功績だけについていっても、彼らは当然、後世の人たちの称賛と感謝を受けるに価するということである。彼らが革命の司令部を守るためにつくしたあの崇高な同志的信義は、今日、わが国の社会で時代の花として咲きほこっている忠孝一心の原点といえる。
わたしは抗日革命闘争当時の経験にもとづき、祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期にも十代の革命家の遺児たちで親衛中隊を組織し、
親衛中隊員たちはわたしの身辺の安全をはかって苦労をし、危険にさらされたことも多かった。ある年の冬、わたしは連合作戦のため成川の中国人民義勇軍部隊を訪ねた帰途に、敵爆撃機編隊の奇襲を受けたことがある。そのとき親衛中隊員たちはわたしを強引に畑のうねまに押し倒し、全員が防弾具となって二重、三重、四重にわたしの上に伏せた。これに似たことはその後も何回となくあった。
一九五〇年秋のあの困難をきわめた一時的な戦略的後退の時期にも、わたしとともに最後まで平壌に残って
親衛中隊の歌唱行進を目撃した平壌市民たちは、あのときそう思ったという。親衛中隊は平壌市内のすべての機関が後退を開始したのを見届けてから、わたしとともに首都を後にした。
抗日戦争時代の警護中隊員たちも、いまはもう還暦をはるかに越した老人となっている。彼らに代わって、いまは革命の三世や四世たちが党中央委員会と
4 三千里朝鮮の津々浦々に
白頭山麓ではじまった祖国光復会建設運動は、満州全域と三千里朝鮮の津々浦々に燎原の火のように燃え広がっていった。祖国と人民への熱い愛に貫かれた「祖国光復会十大綱領」の一節一節が民族の魂に新たな活力を吹き込み、三千里全国土を祖国解放の熱望に沸き立たせた。共産主義者はもとより民族主義者、労働者、農民とともに知識人、青年学生、手工業者、宗教者、民族資本家など国を愛するすべての同胞が祖国解放戦線に合流したのである。
祖国光復会建設運動はまず長白をはじめ西間島と満州各地で活発にくりひろげられた。満州地方で祖国光復会の組織建設が急速な進展をみせたのは、この地域の抗日運動が長い歴史をもち、大衆的基盤が強固であったからである。九十万に近い満州在住の朝鮮人は、その一人ひとりが引火性の強い火薬のような存在であった。彼らは点火すればすぐに爆発する強力な爆弾ともいえた。反日愛国勢力の総結集という大課題は、満州地方の人たちにとって、決してなじみのないものではなかった。卡倫会議で反日民族統一戦線問題が重要議題として論議され、この会議を起点に朝鮮の革命家たちが各階層の抗日勢力を結集する民族統一戦線の結成に向けて血のにじむような努力を傾けてきたということは周知の事実である。満州地方の人たちは統一戦線運動の試練にみちた歴史と経験をもっていたのである。このような土壌に「祖国光復会十大綱領」の種がいちはやく発芽し、成長したのは当然だといえた。
われわれは祖国光復会の組織建設においてもまずモデルケースをつくり、それを母体として四方に組織を拡大する方針をとった。そのようなモデルケースは、組織建設の基盤と運動経験があり、大衆の思想的動向が良好で革命性の強い、そして地下戦線を動かしうる一定の指導勢力がそなわっている地帯に先につくられた。三名以上の会員をもてば分会を、分会が三つ以上になれば支会を、さらに支会が三つ以上になると区会をつくらせた。祖国光復会の県組織はいくつかの区会によって構成された。
われわれは祖国光復会の下部組織を敵の軍隊や警察機関、官公署内にもつくらせ、その会員を祖国光復会特殊会員と呼んだ。特殊会員は日本人指導官の目が光っている靖安軍内にもいた。他方、われわれは祖国光復会の組織建設にあたって、朝鮮人民革命軍の作戦地域に組織をつくり、それをもとにして隣接区域や国内深くへ組織網を広げることに努めた。
祖国光復会の創立直後、われわれはまず密営で朝鮮人民革命軍主力部隊の指揮官・兵士会議を開き、隊内の全兵士、指揮官を祖国光復会に加入させる措置を講じた。これは部隊内の指揮官と隊員の一致した要請によるものであった。彼らは、司令官が祖国光復会の会長に推戴されたのだから、われわれも会員になり、統一戦線運動に助力すべきだと、ひとしく主張した。それでわたしは、彼らを一人残らず祖国光復会組織に加え、全人民を反日民族統一戦線に結集する宣伝者、組織者になれと励ました。
朝鮮人民革命軍の指揮官と隊員は誰もが歴史的使命感に燃え、各党、各派、各階層の大衆を祖国光復会組織に結束する統一戦線運動の旗手となった。西間島一帯のほとんどすべての村に祖国光復会組織を短時日内につくることができた条件の一つは、ほかならぬこれら旗手の役割にあった。当時、祖国光復会の組織建設で主役になったのは、朝鮮人民革命軍部隊から選抜された政治工作員たちであった。そこには祖国光復会創
立準備委員会に参加して活動したメンバーも含まれていた。こうした人たちが火種となって、満州大陸に統一戦線運動の熱風を巻き起こしたのである。
一九三六年の秋には早くも、汪清、和竜、琿春、延吉をはじめ東満州の各県に祖国光復会の組織が根づきはじめた。以前、大荒溝遊撃区があった檳榔溝には農民協会のメンバーを中核とする祖国光復会琿春県檳榔溝地区委員会が結成された。『三・一月刊』創刊号には、北間島に派遣されたある政治工作員が和竜地方の革命家全員の熱烈な賛同のもとに、四つの主だった村に祖国光復会分会と武装部隊を結成する準備を終えたというニュースが掲載されたが、この一例をもってしても、その地方の人民がわれわれの統一戦線路線をいかに積極的に支持していたかを知ることができると思う。
南満州一帯で祖国光復会の組織建設を担当したのは東崗会議に参加した代表たちである。彼らはまず、抗日連軍部隊内の朝鮮人兵士や指揮官を祖国光復会組織に引き入れ、われわれの統一戦線路線で武装させた。そして政治的見識の高い堅実なアジテーターたちを選んで朝鮮人居住地域へ派遣した。彼らは地方の革命家と手を結び、磐石、樺甸、通化、集安、濛江、桓仁、寛甸、輝南など南満州の各都市や農村に祖国光復会組織をつくった。
祖国光復会の組織網は北満州にも根をおろした。東崗で祖国光復会が創立されると、わたしはすぐ北満州の抗日連軍部隊で党活動に従事していた金京錫に、祖国光復会の創立宣言と十大綱領を送った。彼は東満州にいたときにも、延吉県三道湾一帯を中心に党活動をおこなっていた。わたしが彼に初めて会ったのは、三道湾の東満特委書記処を訪れたときだった。そのとき彼は民生団(〔6〕)の嫌疑をかけられうちひしがれていたが、大荒崴会議の話を聞いて、あまりのうれしさに涙を流したという。わたしは周保中の要請で彼を北満州の部隊へ送った。彼は祖国光復会の創立宣言と十大綱領を第五軍内の朝鮮人将兵に知らせ、中核分子を選んで祖国光復会支部を結成した。周保中はわたしの要請に応じ、第五軍軍長の名で支部結成を熱心に後援した。これを初めに、祖国光復会組織は方正、通河、勃利、湯原、饒河、寧安、密山など北満州の各県につぎつぎと結成された。その流れに乗って額穆県反日同盟も祖国光復会組織に改編された。この反日同盟のメンバーに祖国光復会の創立宣言と十大綱領を真っ先に伝え、同盟を祖国光復会組織に改めるよう導いたのは、当時、方振声とともに独立旅団を率いて官地付近で活動していた崔春国である。
北満州での祖国光復会の組織建設について語るとき、金策の労苦について触れないわけにいかない。
彼は『祖国光復会十大綱領』を入手すると、それを一字一字木版に刻み、数百部も刷った。それは北満州の抗日連軍部隊や各県の地方革命組織に広く配布された。彼はたびたび会議を開いて、祖国光復会の組織網を拡大し、各組織を実践闘争のなかで鍛える積極的な対策を講じた。
饒河県三義屯の朝鮮人共産主義者たちは檄文を発表して、祖国光復会運動への支持を表明した。彼らは檄文で「諸君! 祖国を忘れるな。老弱男女を問わず、地方党派の別なく、ささいな感情にとらわれず、反日を志す同胞はすべて団結して反日共同戦線に邁進しよう。一般同胞は、金のある人は金を、武器のある人は武器を、力のある人は力を祖国独立をめざす反日戦線にささげよう」と呼びかけた。北満州の人たちのこのアピールはわれわれの主張と一致した。南満州の戦友たちもわれわれと声を一にしていた。このように満州地方に住む朝鮮人は、われわれの統一戦線路線を民族大団結の経綸をもっとも早く実現する公明正大な愛国愛族の路線として受けとめた。
祖国光復会組織建設の主な目標は、あくまでも二千余万の同胞が暮らす国内にあった。これは、党建設と祖国光復会の組織建設、そして武装闘争の拡大発展を、ともに祖国を基本舞台として展開し、祖国の人民を主力にして遂行することをとくに強調した南湖頭会議の趣旨とも一致していた。
祖国光復会の組織網を国内深くへ広げるうえでも、朝鮮人民革命軍の政治工作員たちは決定的な役割を果たした。それに彼らが苦労して育成した西間島地方の中核的革命家やわたしの直接の影響のもとで統一戦線運動に取り組んでいた北部国境地帯の先覚者たちも少なからぬ寄与をした。
国内における祖国光復会の組織建設は、日本侵略者の暴圧と分派分子の路線上の錯誤のため、非常に複雑困難な状況下で進めなければならなかった。日本帝国主義は祖国光復会組織の国内への拡散をもっとも恐れ、国内深くへ押し寄せる統一戦線運動の波を防ごうと必死になった。弾圧のほこ先はなによりも国境一帯の愛国者と愛国的人民に向けられた。われわれの工作の手が及ぶと思われる団体や個人、われわれの思想と路線に同調し、われわれの武装闘争に民族再生の道を求める愛国志士や運動者はすべて、彼らのもっともきびしい弾圧の対象となった。鴨緑江以南の祖国の人民は、西間島の城市や村落で銃声やラッパが鳴り響き、炎が燃え上がっても、それを思いのままに聞くことも見ることもできなかった。人民革命軍が対岸の城市や村落を攻撃すると、敵は川辺に警戒網を張って人をいっさい近づけなかったのである。彼らは自分たちの惨敗ぶりが人民に知られるのをひどく恐れた。これによっても、彼らが人民革命軍政治工作員の国内潜入にどれほど神経をとがらせていたか察して余りある。しかし、人民革命軍の戦果を知りたがっていた国境付近の人民は、なにかと口実を設けて鴨緑江を渡り、そっと戦場を見てまわったものである。人民革命軍が敵を討った直後は、鴨緑江税関をヘて西間島方面へ流出する者が何倍にも増えたという、三水、甲山、厚昌地方の住民の証言は、祖国の人民がわれわれの武装闘争にいかに大きく励まされていたかを如実に物語っている。
分派分子も反日民族統一戦線運動の発展に重大な障害をつくりだしていた。彼らは自派勢力の拡張に汲々としながら反日愛国勢力を分裂させ、わが国の具体的実情に適合しない既成理論を教条主義的に適用し、愛国的な知識人や良心的な民族資本家を一律に排斥し敵視していた。革命は階級的土台の確かな限定された特殊な人たちによってのみ遂行されるべきだというのが、彼らの見解であり持論でもあった。
極左分子たちの舵で難航する大衆運動に各階層の愛国勢力を引き入れる扉を開き、暗中模索する共産主義者に光明をもたらすためには、国内革命にたいするわれわれの影響力を強め、祖国光復会組織のネットを全国に広げなければならなかった。
われわれは、国内での祖国光復会の組織建設を朝鮮人民革命軍の政治的指導がもっとも容易に及びうる北部国境地帯の鴨緑江沿岸からはじめて、国内深くへ拡大する方向で進めた。この活動の主要地域として選定されたのは甲山、三水、豊山地区であった。これらの地区はわれわれと地域的に近かったばかりでなく、そこには国内各地から集まってきたさまざまの運動者や先覚者、それに西間島地方に親類や親友、知人をもつ人たちが多かった。
甲山、豊山一帯での祖国光復会の組織建設は、権永璧、李悌淳、朴達、朴寅鎮らを通してわたしがじかに指導した。朴達がわたしに会ったあと、同志たちとともに甲山工作委員会を祖国光復会の国内組織―― 朝鮮民族解放同盟に改編し、傘下に各種名称の数十の下部組織をつくったことはすでに述べた。
甲山地方に祖国光復会組織をつくるには、祖国光復会長白県委員会とその下部組織が一役買った。長白県十八道溝珠家洞支会は、甲山郡江口里に祖国光復会支会を設けるとき重要な役割を果たした。江口里は珠家洞の対岸にあった。支会は、腰弁で珠家洞に毎日のようにやってきて畑づくりをしていた江口里のある農民に働きかけ、影響を与えた。その農民はやがて、志を同じくする村の若者たちを募って祖国光復会支会を組織した。甲山郡雲興面の白岩里支会も、長白県で活動していた祖国光復会組織の積極的な努力によって結成された。朝鮮民族解放同盟をはじめ甲山郡内の祖国光復会組織の傘下には、多くの林業労働者と火田民、宗教徒たちが結集した。祖国光復会長白県委員会は、下崗区対岸の三水地区祖国光復会の組織建設にも深くかかわった。祖国光復会光生里支会は、長白県十七道溝王家洞支会青年部の責任者で、のち朝鮮人民革命軍指揮メンバーの一人となった崔景和の影響と指導のもとに組織された。
祖国光復会の組織建設でもっとも成績がよかったのは豊山である。豊山は以前から反日思想の強い土地として知られていた。豊山地区の住民は、日本帝国主義の朝鮮占領後、耕地を奪われ、生活の道を求めて北へ移ってきた嶺南地方(慶尚南北道)出身の火田民や虚川江発電所工事場の募集人夫が多かった。当時、日本帝国主義者は日本本土と朝鮮、満州の経済的潜在力を侵略戦争の拡大につぎこむ計画の一環として、新興財閥の野口に数十万 能力の虚川江発電所建設を請け負わせた。工事に駆りだされた数千名の人夫は、統一戦線にもっとも結集しやすい大集団であった。豊山にはまた、数百名の愛国的な天道教徒とキリスト教徒がいた。豊山地区を祖国光復会の網の目で覆えば、白頭山根拠地を蓋馬高原一帯におし広げることができ、さらに厚峙嶺の東方各地にも祖国光復会組織を広げる足がかりを得ることになる。蓋馬高原一帯の革命化に成功すれば、そこを踏み台にして咸鏡南道の東海岸一帯も革命化し、反日民族統一戦線運動の炎を国内深くへ燃え広がらせることができるのである。われわれの豊山にたいする戦略的視野はこのようなものであった。
朝鮮人民革命軍の白頭山地区進出後、豊山地方の先覚者たちはわれわれと連係をつけようとして、足しげく長白に出入りした。なかには革命軍への入隊を夢みる人も少なくなかった。豊山に祖国光復会の種をまいた朴寅鎮、李昌善、李景雲ら天道教系の人物はいずれも、朝鮮人民革命軍の政治的指導を渇望して長白に渡ってきた豊山出身の愛国者であった。李昌善がまず入隊し、彼の紹介で朴寅鎮がわたしに会って統一戦線問題を論議した。李景雲もわれわれの部隊に入隊したあと、蓋馬高原一帯に政治工作員として派遣された。李景雲は豊山で水力発電所工事場の労働者のなかに入り、われわれの統一戦線路線と「祖国光復会十大綱領」を精力的に解説、宣伝して同志を糾合し、一九三七年春、祖国光復会豊山支会を組織した。その後、朴寅鎮と力を合わせ、中核的な天道教青年党員で生産遊撃隊を結成した。
祖国光復会豊山支会は短時日のうちに数百名の天道教徒を吸収した。天南面には祖国光復会下部組織の洪君地区反日労働会が組織された。一九三七年の夏、桃泉里―― 新坡地区の工作にあたっていた金正淑が豊山地区へ派遣した祖国光復会員の金裕珍は、李昌善と協力して黄水院ダム工事場の中核労働者を集めて祖国光復会裵上介徳支会を組織した。
蓋馬高原一帯での祖国光復会組織建設で豊山地区の成績がもっともよかったのは、朝鮮人民革命軍の政治的指導が強く及んでいたこととも関連している。人民革命軍の複数の小部隊とグループが豊山地区に進出して、地元の革命組織を援助したのである。わたしも新興地区の国内革命家に会って帰る途中、豊山秘密根拠地に立ち寄り、天道教徒たちに政治工作をおこなったものである。
祖国光復会の下部組織は、一九三〇年の炭鉱労働者の暴動で全国の人民の共鳴と支持を集めた新興地区にも根をおろした。ここを最初に切り開いたのは、長白県桃泉里から国内工作員として派遣された祖国光復会員の李孝俊である。
鴨緑江沿岸と蓋馬高原一帯での祖国光復会の組織建設は、しだいに東海岸一帯の都市や農村地域に広げられていった。朝鮮人民革命軍の政治工作員たちは、東海岸一帯の開拓でもすぐれた組織力と展開力を発揮した。彼らは一九三七年夏からたびたび狼林、赴戦、新輿、洪原、北青、利原、端川、虚川一帯に進出し、李周淵、李鏞、朱東煥ら国内革命家との密接な連係のもとに祖国光復会の組織建設をおし進めた。
朱東煥はわれわれと連係をつけるため、西間島に何度も足を運び、やがて王家洞村長の紹介で権永璧の工作圏に吸収された。権永璧と朱東煥は竜井大成中学校の同窓であった。朱東煥は長白と延吉地方で反日啓蒙活動に積極的にたずさわり、国内へ入ってからも革命運動に関係して西大門刑務所で二年余りの獄中生活を送った。そのことを知った権永璧は、彼に北青と端川地方での祖国光復会の組織建設をまかせた。国内に入った彼は、北青で趙政哲と力を合わせて金璟植らを獲得し、祖国光復会地区委員会を組織した。傘下には十もの分会がつぎつぎにつくられた。その後、彼は故郷へ帰り、仲間とともに祖国光復会端川支会をつくった。端川支会は傘下に端川邑その他にいくつもの分会を結成したばかりでなく、北方親睦会や南方親睦会といった親睦団体もつくって、そこに多くの大衆を結集した。
中日戦争勃発後、祖国光復会長白県下崗区委員会は大勢の工作員を国内に送り込んだ。そのとき魏仁燦も多くの同志たちと一緒に興南地区へ派遣された。軍需工場の多い産業中心地の興南で、下崗区の地下工作員たちは祖国光復会興南地区委員会の結成に成功した。ときを同じくして元山へ入った政治工作員たちは、先進的反日青年団体である高麗会のメンバーを祖国光復会組織に組み入れた。高麗会は大衆の意識化に努める一方、日本帝国主義の「皇民化」政策に反対するたたかいや悪質日本人校長の追放をめざす同盟休校などを組織した。祖国光復会桃泉里支会が派遣した地下工作員たちは、洪原地方にも祖国光復会の下部組織をつくった。組織の名称は洪原農民組合で、傘下にいくつもの支会をおいていた。祖国光復会の下部組織はそのほかにも、利原、赴戦、咸興などの各地に根をおろしていった。
祖国光復会の組織建設は、東海岸北部の各産業中心地や農漁村でも大々的にくりひろげられた。この地方は北部国境地帯の道のうち、早くから「吉林の風」が強く吹き込んだ地域であった。われわれが東満州で遊撃区をつくり、武装闘争を展開していたときから、この地方の人民には革命的影響が強く及んでいたのである。抗日武装闘争の直接の影響のもとに、この地方の人民は早くから反日救国闘争に積極的に参加した。とくに農民組合運動は積極的かつ頑強なたたかいによってわれわれの注目を引いていた。咸鏡北道地方はどの面からみても、大衆の意識化と組織化が比較的早く進む土地と目された。
われわれはこの地方に祖国光復会組織を拡大するため、優秀な政治工作員を多数送り込んだ。国境ぞいの北部の市、郡には小部隊も派遣した。朝鮮人民革命軍の小部隊とグループは咸鏡北道内の各地に秘密根拠地や活動拠点を設け、それに依拠して祖国光復会の組織建設と大衆運動を指導した。他方、われわれはこの地方の市や郡の反日運動関係者や大衆団体の指導者を根拠地に招いて一定期間教育を与えたあと、元の地域に送り帰して統一戦線運動の指導にあたらせた。清津の人が清津地方を、茂山の人が茂山地方を担当するのは実情に合う指導ができるようにするという点でも有利であったが、抗日革命の深まりとともに増大する工作員の需要をみたすうえでもたいへん合理的な方法だった。
人民革命軍政治工作員や愛国闘士たちによって咸鏡北道地方では、労働者の多い茂山、清津、漁大津、延社一帯や農民組合勢力の強い吉州―― 恵山鉄道沿線南部の市、郡から先に祖国光復会運動の火の手があがり、一九三七年夏には早くも祖国光復会の下部組織が結成されはじめた。祖国光復会組織は日増しに拡大され、一九四〇年代前半には組織数が数十を数えるにいたった。
咸鏡北道地方で祖国光復会の組織をつくる運動がもっとも幅広く、深く進められたのは延社と茂山地区であった。それは、一九三〇年代の後半期、われわれが西間島をあとにしてからは延社、茂山対岸の烏口江流域で主に政治・軍事活動を展開し、また同じころ国境地帯の革命運動に活力を吹き込むため、延社、茂山地区に小部隊やグループをたびたび送り込んだ事情とも関連している。崔一賢も小部隊を引き連れて延社地方に進出し、呉日男も七、八名からなるグループを引き連れてそこへ行ってきた。呉仲洽連隊長もまた、五十余名の第四中隊員を率いてそこに進出して活動した。それらのグループや小部隊が延社へ一度行ってくると、その一帯には祖国光復会の支会や分会が組織されたものである。
延社地区の祖国光復会の組織建設で功労のあった地下工作員は、崔元鳳と尹慶煥である。崔元鳳は延社地区祖国光復会の責任者であり、尹慶煥は同地区の党組織責任者であった。彼らはいずれも長白でわれわれが育てあげた工作員である。いま大城山の革命烈士陵に安置されている抗日革命闘士である崔元日の兄がこの崔元鳳である。崔元鳳は意志が強靱で思慮深く、革命性の強い人だった。彼のそうした長所をいちはやく見つけて高く評価したのは金周賢だった。金周賢は東崗で先発隊の任務をおびて長白へやってきたとき崔元鳳を知り、権永璧と李悌淳に引き合わせた。
長白県十八道溝の英化洞といえば、人民革命軍への援護活動ですぐれた功績があり、多くの抗日革命闘士を輩出したことでも知られた土地である。この英化洞で祖国光復会支会長兼党グループ責任者を務めたのが崔元鳳であり、彼を指導したのが金周賢と金世玉であった。二人の指導と励ましを受けながら、崔元鳳は祖国光復会組織や党グループをつくり、生産遊撃隊も結成した。金周賢は十八道溝に行くといつも、崔元鳳と金世玉の家に泊まり、地下革命組織の活動を手助けした。崔元鳳は遊撃隊員の留守家族をりっぱに教育し、一人残らず祖国光復会組織に参加させた。
一九三六年秋の三終点付近での戦闘後わたしは、他の人びととともに援護物資をかついで密営にきた崔元鳳に会った。一目で責任感の強いしっかりした人だと感じられた。中肉中背の体格だったが、統率力があった。荷を運んできた人たちは彼の号令一つで集合もし、解散もした。彼はわれわれに軍事情報もたびたび提供してくれた。
一九三七年の五月ごろ、茂山郡をはじめ北部地方での祖国光復会の組織建設をおし進めるため、わたしは崔元鳳を延社地区へ送った。そこで彼は他の工作員と協力し、延面水上流一帯のいかだ組師やいかだ流しを中心にしていくつもの分会をつくった。
崔元鳳の誠実な援助者であった尹慶煥は、金一が長白県八道溝佳在水で工作にあたっていたころ、その地区の祖国光復会組織で活動していた。彼は金一とも深いつながりがあったが、金成国との親交はきわめて厚かった。彼も崔元鳳と同じように、援護物資をかついで何度もわれわれの密営を訪ねてきた。われわれが佳在水を奇襲して密営に引き揚げたときも、尹慶煥は戦利品を運ぶ人びととともにわれわれと同行した。敵は遊撃隊へ荷を運んだ人たちを残らず調べあげ、そこから組織のルートを探り出そうと懸命になった。身辺に危険が迫ったことに気づいた尹慶煥は家族とともに東満州に移り、新開村と呼ばれていた烏口江流域の玉石谷の上村に落ち着いた。
その後、わたしは尹慶煥を延社地区へ派遣し、地区党の組織責任者に推した。いつだったか、彼は組織のメンバーと一緒に援護物資をかついで直洞に駐屯していたわれわれの部隊を訪ね、延社地区に分布している祖国光復会の各分会を統一的に指導する地区委員会の組織問題を相談したことがあるという。わたしはその前に、国師峰会議で延社地区の同志たちにこの問題と関連して助言したことがあった。祖国光復会の組織建設運動をさらに一歩前進させるためには、分散して活動している各組織を統一的に指導する整然とした指導体系が必要だと言ったのだが、彼らはそれを肯定した。
尹慶煥が荷をかついでわれわれの部隊を訪ねてきたのは、李東傑(金俊)が逮捕される前だったと思う。李東傑は青峰密営で過失を犯して処分を受けたあと、延社、茂山地区に派遣されて政治工作に従事した。彼は崔元鳳と緊密な連係を保ちながら延社地区の革命運動を指導した。
わたしは李東傑の後任として、国内工作経験のある金正淑を延社地区へ派遣した。金正淑が延社へ向かうとき、武装グループも同行した。金正淑は延社地方の革命家たちと共同で会議を開き、祖国光復会延社地区委員会を組織した。会議を終えて司令部へ帰ってきた彼女が、延社の組織から贈られたものだと言って、ミシンを差し出したことがいまも忘れられない。
崔元鳳をはじめ祖国光復会延社組織の愛国者たちは、茂山地区戦闘のときもわれわれをいろいろと助けてくれた。李東傑と崔元鳳、尹慶煥が倒れたため、延社地区組織の工作内容は長らく隠されたままだった。その一端が明らかになったのは、一九七〇年代初、わが党の革命活動史関連資料の収集が大衆的にくりひろげられたときのことである。
祖国光復会の組織建設に傾けたわれわれの努力は、西部朝鮮と中部朝鮮、そして南部朝鮮一帯でも実りをあげた。われわれは北部朝鮮はもとより、西部朝鮮、中部朝鮮、南部朝鮮一帯での祖国光復会の組織建設にも然るべき注意を向けたのである。平安南北道は黄海道とならんで民族主義勢力が非常に強い地方だった。西部朝鮮一帯は天道教の勢力とともにキリスト教の勢力もたいへんなものだった。ところが、これらの宗教勢力は信仰心が厚いだけでなく、愛国愛族の精神も強かった。三・一人民蜂起のさい、天道教、キリスト教、仏教の朝鮮三大宗教勢力がこれに積極的に参加したことは世に広く知られている。
西部朝鮮地方の青年のなかからは、金赫、車光秀、康炳善をはじめ新しい世代の共産主義者たちも輩出した。われわれは孔栄や康炳善を通じて早くからこの一帯に手を伸ばしていた。工作員たちは不二農場の小作争議で全国に名を知られた竜川地区でも大衆の意識化に努めた。不二農場の小作争議は、反日に活路を求めていたこの地方の人民の強烈な闘争精神と愛国の熱情の一端を示した。
西北朝鮮一帯での祖国光復会の組織建設で、新義州は重要な地位を占めていた。一九三七年七月初、この都市では祖国光復会新義州支会が結成された。八月には貧農といかだ流したちの梨山反日会が渭原で組織された。地下工作員たちは、鴨緑江中流の各地を巡りながら、祖国光復会の下部組織をつぎつぎと結成した。康炳善は一家親類すべてが天道教徒である有利な点を利用し、天道教の手づるを伝って組織工作を巧みに進め、多くの組織をつくった。
祖国光復会下部組織の根は厚昌郡と鉄山郡にも伸びた。わたしは祖国光復会の組織建設のため、陽徳、徳川、平壌、海州、碧城などにも小部隊や政治工作員を送った。
平壌と平安南道一帯における祖国光復会の組織建設では李周淵、玄俊赫、崔敬旻らの功労が大きかった。李周淵が端川から平壌に移ったのは、反日運動を新しい土地でより大胆にくりひろげるためであった。平壌正昌ゴム工場の職工反日会、平壌穀物加工工場の労働反日会、南浦反日会などはいずれも、李周淵の指導によってつくられた祖国光復会の下部組織であった。
大邱で獄中生活を終え平壌にやってきた玄俊赫は、われわれの統一戦線路線を受けとめて勝湖里セメント工場の労働者のなかへ入っていき、祖国光復会支会の結成に参加した。
わたしの従弟である金元柱が参加していた祖国解放団と江西地区の一心光復会も、祖国光復会の下部組織であった。
ひところ撫松でわたしの父の革命活動を熱心に助け、のちに祖国に帰った崔敬旻は、陽徳地区で統一戦線運動を猛烈にくりひろげた。彼は儒教を信ずる人たちのなかへも深く入っていき、彼らを啓蒙して祖国光復会組織に加入させた。祖国光復会の下部組織は平安南道の温泉地方にもあった。
黄海道地方における祖国光復会の組織建設では、われわれの工作員によって吸収された閔徳元が主役を演じた。黄海道一帯にはわれわれの政治工作員たちの手でつくられた臨時の秘密根拠地が多かった。それらの根拠地に依拠して活動していた工作員たちが閔徳元を獲得し、祖国光復会の組織建設に引き入れたのである。閔徳元ら黄海道地方の愛国者たちによって、道内の各地に祖国光復会の下部組織があいついで生まれた。
東海岸中部地方での祖国光復会の組織建設は、労働者の多い川内地区や襄陽、高城、文川などを中心にして進められた。川内里セメント工場の反日労働会は規模も大きかったが、活発な実践闘争で知られていた。襄陽の束草救国会と高城の長箭反日会も祖国光復会の組織であった。
南部朝鮮での祖国光復会の組織建設にかんする資料は、国土分断のため十分に掘り起こされてはいないが、日本警察の資料に残されているものだけをみても、その数が多かったことがわかる。
最近、日本における祖国光復会の組織建設とその活動にかんする資料もいくつか発見された。祖国光復会の下部組織が岡山をはじめ東京、京都、大阪、北海道などにもあったということだが、それは氷山の一角にすぎないであろう。
二十余万の会員を擁して全民抗争を準備した祖国光復会組織は、朝鮮の共産主義者が築いた朝鮮民族解放闘争史上の一つのモニュメントである。祖国解放の旗のもとに各階層の広範な愛国勢力を民族解放偉業へと奮い立たせるうえで、これらの組織はじつに大きな役割を果たした。なかでも第一の功績は、人民大衆の革命意識を高めたことにあるといえよう。朝鮮人民は統一戦線運動の過程で、朝鮮の解放は朝鮮人自身の力でなしとげなければならないという思想、武装した敵とは必ず武装して戦わなければならないという思想、そして朝鮮人民が民族の独立を達成するためには、階級、性別、年齢、党派、信教の違いを越えて一致団結すべきであり、世界の被抑圧人民と連合して共同戦線を張らなければならないという思想で武装するようになった。人民大衆の思想・意識の飛躍的な発展は、一九三〇年代後半期の民族解放闘争を強力に促す要因となった。
人民大衆の思想・意識の改造で特記すべきことは、彼らが、武器を手にして日本帝国主義と血戦をくりひろげる朝鮮人民革命軍を祖国解放の主力とみなし、われわれに自らの運命を全的に託し、われわれの指導にいっそう忠実になったことである。朝鮮民族解放闘争と朝鮮共産主義運動は、一九三〇年代後半期から、人民革命軍の中心活動拠点である白頭山を軸にして進められた。
朝鮮の人民大衆は白頭山からの声であれば、それがどのようなものであれ絶対的な真理として受けとめ、その大小と軽重を問わず必ず実行し、白頭山を支援するためとあれば生命すら惜しまなかった。朝鮮革命の指導中枢への人民大衆の忠誠心は、人民革命軍への物心両面からの支援として現れた。全国の人民は、財力、金力、人力、精神力を総動員してわれわれを助けた。
祖国光復会の各組織は、遊撃隊を援護する全人民的運動を展開した。祖国光復会甲山支会は、天道教の中央に納めていた教徒の「誠米(寄進米)」を、一九三〇年代後半期からは組織的に人民革命軍へ送った。人民革命軍が食糧難に陥っていると聞くと、西間島の人たちは婚礼や還暦祝い、誕生祝い用にたくわえておいた穀物までためらいなく差し出した。
祖国光復会新義州支会のメンバーは、鴨緑江に水豊発電所のダムが竣工した一九三八年ごろまで、われわれの部隊の活動区域に荷船で援護物資を運んできた。そのなかには織物、履き物、塩、火薬、雷管、導火線などさまざまなものがあった。ダムが竣工して船が通わなくなると、中国丹東市の三番通りと六番通りにそれぞれ援護物資の集結所を設け、そこからトラックや鉄道便で寛甸や興京、通化などの地方で活動する人民革命軍の大部隊やグループに送った。麻田洞分会の組織メンバーの一人は半トン以上の荷が積める帆船を一艘購入し、昼は運送業を営み、夜は組織のメンバーが集めた援護物資を積んでひそかに人民革命軍を訪ねた。
祖国光復会の会員たちは、白頭山から四百キロ以上も離れたソウルからも人民革命軍に必要な援護物資を求めて送った。祖国光復会北青組織の一員であった全朝協は、北青郡俗厚「ピオネール事件」に関係した「罪」で投獄までされた人だったが、一九三七年からは組織の委任でソウルヘ行き、地下工作にあたった。彼は組織を拡大する工作を進めるかたわら、遊撃隊援護資金を得るため、天秤棒をかついで水売りをはじめた。もともと北青の人たちは、ソウルで勉強する子弟の学資を工面するため、水売りをすることで有名であった。彼にはソウルで勉強させる子女がいなかったが、革命運動の一助になればと天秤棒をかついだのである。彼はそのようにして稼いだ金で織物や履き物、ざら紙、医薬品、謄写インクなどの援護物資を購入して北青に送った。すると、北青の組織がそれをわれわれに転送したのである。
ある日の早朝、水桶をかついで坂道を登っていた彼は、女物の金時計を拾った。財産家の婦女でさえなかなかもてないほどの高級品であった。彼は時計の主を探して付近の家々を訪ね歩いた。時計はある小店主の娘が婚約記念にもらったものだった。彼は時計の値段を上まわるほどの謝礼金をもらったが、それも援護物資の購入にあてた。そんな出来事があってから、彼は、小店主の家族と親類のように親しくつきあうようになった。その一家は彼の影響を受けて抗日遊撃隊を憧憬するようになり、遊撃隊の援護に誠意をつくした。 彼らは全朝協から頼まれた物資を自分たちの手で購入して北青へ送りもした。このように、ソウルの平凡な小市民までもが祖国光復会員の手引きで、遊撃隊援護活動に参加するようになったのである。
祖国光復会の国内組織は、全国各地でサボタージュ、ストライキ、デモ、暴動、小作争議などさまざまな形や方法で日本帝国主義の強盗のような収奪に反対するたたかいをはじめ「皇民化」政策を破綻させるたたかい、大陸侵略と戦争政策遂行に打撃を加えるたたかいを根気よく指導した。
祖国光復会の組織建設を通して朝鮮の革命家がおさめたいま一つの収穫は、この運動の過程で党組織建設の組織的・思想的基礎をより強固に築いたことである。われわれは祖国光復会の各組織で育成された中核によって、全国各地に党グループをつくった。これら党グループが結局、祖国光復会の各組織を指導し、大衆闘争も指導したのである。闘争のなかで生まれ、闘争を通して辛苦にたえ不断に鍛えられたこれらの党組織が、やがて解放された祖国で勤労者大衆の有力な政党を創立する礎となったのである。
祖国光復会の組織建設を通して、朝鮮の革命家たちはまた、大衆団体組織建設の豊富な経験も積んだ。このような経験がなかったなら、解放後、あれほど短い期間に民青、職業同盟、女性同盟、少年団のような階層別大衆団体を組織することはできなかったであろう。
祖国光復会の組織建設過程を通して朝鮮の共産主義者は、わが国の悠久な民族史上はじめて、真の愛国愛族に徹した、革命的で強力な統一戦線の典型をつくりだした。白頭山を軸にして形成された反日民族統一戦線は、わが国における民族統一戦線運動の源流となり、朝鮮人民のたくましい気概をいかんなく誇示した。祖国光復会組織建設の全過程は、朝鮮人民が分裂や対立より統一と和合を重んずる人民であり、党派や所属、信教にかかわりなく、一つの旗のもとに団結してたたかうすぐれた意志をもつ人民であることを実証した。
労働党時代の朝鮮人民は、団結力の
半世紀前に統一戦線の経綸をりっぱに実現した朝鮮民族が、なぜいまになって民族大団結を果たせないというのか。そういう理由はなにもない。
われわれは北と南、海外のいずこにいようと、必ず統一戦線を形成すべきである。統一戦線のみが、弱肉強食の法則が支配するこの世界で、朝鮮民族が生存できる唯一の道である。統一戦線は民族が民族として生き残るのに必要な永久的な生存方式である。民族の活路も統一戦線にあり、民族隆盛の道も統一戦線にある。これが国内外の朝鮮同胞に述べたいわたしの所信である。
5 権 永 璧
権永璧は寡黙な人だった。宣伝活動家といえば能弁家と思われがちだが、彼は師団宣伝課長を務めていたころも口数が少なかった。必要なことを筋道立てて数言述べるだけで、長広舌をふるったり、一度言ったことを繰り返したりするようなことはなかった。表情を見るだけでは、その考えや感情をおしはかることがむずかしかった。権永璧は虚言や虚勢をもっとも嫌った。彼はいったん言い出したことは是が非でもやりぬく性格だった。言行一致は彼の人となりを一言で言いあらわしうる特徴であり、人間的な魅力でもあった。われわれが白頭山と西間島を主な活動地帯にして戦っていたころ、権永璧に長白県党委員会責任者の重責を委ねたのも、その人間的魅力を重視したからである。
長白県党責任者というポストがいかに重要であったかは、いろいろな面から説明できよう。長白県党は、われわれが白頭山密営で人民革命軍党委員会を開き、なにかの路線や緊急課題を提起すると、それを真っ先に受けとめて実行する中枢的な党組織の一つであった。われわれの路線や課題は、そのほとんどが長白県党と国内党工作委員会、東満党工作委員会を通して西間島と北間島、国内に伝達され、その実行の結果もたいていはこのルートを通して人民革命軍党委員会に報告された。長白県党のこうした地位と役割は、われわれが白頭山密営に活動拠点を設けた状況のもとで、西間島をいま一つの足がかりにして国内と満州に革命を拡大発展させていかなければならなかった事情、そして朝鮮共産党の解散後まだ新しい型の党がつくられていない実情のもとで、人民革命軍党委員会が国内党工作委員会と東満党工作委員会、長白県党委員会などを通して党組織建設と抗日革命全般を指導しなければならなかった事情とかかわっていた。
一九三〇年代の前半期、われわれが東満州に遊撃根拠地を設けて戦ったとき、小汪清が抗日革命の中心地となったように、後半期には西間島を含む白頭山根拠地が抗日革命の中心地となった。白頭山密営はその中心の核であり、白頭山周辺の国内の広い地域とともに、長白地方はその核をとりかこむ果肉にひとしかった。長白地方にはわれわれが建設した密営が多かった。それらの密営を守り保持するには長白地方をわれわれの天下に変え、長白地方の人民を革命化しなければならなかった。
長白における祖国光復会の組織建設運動を展開するためには、敵とのするどい対決が避けられなかった。満州国の統治はずさんだったが、長白にある日本の情報陣や日満軍警の「討伐」兵力はあなどりがたいものだった。われわれが国内に進出するときは必ず長白を経由したように、敵もわれわれを攻撃するためには長白を経由しなければならなかった。長白は彼我ともに重視する軍事戦略上の要衝だった。
こうした事情から、われわれは長白県党責任者の選抜基準を高く定めた。長白県党責任者の重責を果たすには胆力、扇動力、包容力、組織力、活動力にすぐれていなければならなかった。地下戦線を指導するだけに、正確な判断力と緻密さ、臨機応変の知略をそなえ、とくに視野が広くなければならなかった。
こうした基準にかなう人物を選ぶにあたって、真っ先に頭に浮かんだのが、ほかならぬ権永璧だった。金平も彼を推薦した。わたしと権永璧とは同窓でも同郷でもなく、遊撃区時代から同じ釜の飯を食べながら苦楽をともにしたという仲でもなかった。一九三〇年代の前半期、遊撃区の勢いがさかんなころ、わたしは汪清にいたが、権永璧は延吉にいた。彼は蛟河遠征に参加し、一九三六年十月に白頭山密営に来て主力部隊に
編入された。
権永璧はすでに中学時代から反日運動に参加していた。「不穏学生」と目され退学処分を受けると、わたしのように職業革命家になった。わたしは、東満州地区で活動していたころ呉仲和だか朴永純だかに、権永璧にまつわる逸話を聞かされたことがある。それは、亡父の葬儀の日、彼が体験した惨劇とそのとき発揮した並々ならぬ自制力についての話だった。
ある日、工作地で父親の訃報に接した権永璧は、夕闇にまぎれて家に駆けつけた。彼が喪服をまとって柩の前に立とうとしたとき、いつ探知したのか、騎馬憲兵が葬儀場になだれこみ、家族たちを外に引きずり出した。そして、権永璧に向かっておまえが権昌郁かとただした。昌郁は彼の幼名だった。
彼は憲兵たちのなかに自分を知る者がいないことを見てとり、弟の昌郁はかなり前に家を出たあと行方がわからず、父親の死を知らせることすらできなかったと腰を低くして答えた。そのとき、兄の相郁は葬具小屋に行っていたので、兄になりすましたのである。憲兵たちは権永璧を逮捕できなかった腹いせに、柩が置いてある家に放火し、全焼するのを見届けてから引き揚げた。権永璧は父親の遺骸が焼かれる惨状を目のあたりにしながらも、唇を噛んで悲憤に堪えた。工作地にもどった彼は、同志たちがついでくれる酒も飲むことができなかった。唇を噛んだときの傷があまりにもひどく、数日のあいだかゆもすすれなかった。
権永璧は東満州の共産主義者のあいだで、並々ならぬ自制力をもつ青年闘士として知られるようになった。革命家が敵を打ち負かして大義を成就するには、権永璧のように一時的な衝動や苦痛を堪え忍べるようでなくてはならないというのであった。しかし、葬儀の日の出来事を聞いて、誰もがみな権永璧を称賛したわけではない。父の遺骸が冒涜されるのを見ながら反抗しなかったのは理解に苦しむ、子の道に背くものだ、なんとしてでも柩への放火を阻止すべきだったという非難もあった。権永璧の支持者たちは、そんなとき一般人なら当然、反抗すべきだろうが、彼は敵に正体を見破られてはならない人間だ、あのときもし反抗したとしたら、その場で銃殺されるか軽くても監獄行きだったろう、そうなれば革命運動が駄目になってしまうではないかと反論した。
権永璧は革命運動に身を投じて家を発つとき、夫人にこう言ったという。
「わたしは生きては帰れないだろう。たとえ生きて帰るにしても、革命が十年後に成功するか、二十年後に成功するかわからない。だからわたしを待たずに、自分の生きる道を求めるのだ。わたしがこの世にいないと思って、再婚してもとがめない。ただ頼みたいのは、子どもが大きくなったら、父親の跡を継ぐようりっぱに育ててもらいたいということだ」
この別れの言葉も論難の的となった。妻への別れの言葉にしては酷だ、女性を侮辱するものではないか、同じことなら勝利して帰る、それまで待ってくれ、となぜ言えないのか、妻を心から愛しているなら当然そう言うべきではないか、朝鮮の女性には国が独立するまで革命に身を投じた夫を待つ節操も義理もないというのか、女性を見下すにもほどがあると。
権永璧が夫人に言った言葉を額面どおり解釈するならば、それ以上の非難を受けて然るべきであろう。しかしわたしは、革命のために欣然と命を投げ出す覚悟のできた人、心から妻を慈しみ愛する人だけがそういうことを言えるのではなかろうかと思った。いったんはじめた革命運動に身も心もささげて最後までたたかいぬく心構えができている闘士でなくては、これほど率直で悲壮な言い方はできないものだ。わたしは権永璧のその言葉から、かえって真の人間像を見る思いがした。
数年後の一九三五年春、わたしは腰営口ではじめて権永璧と会った。当時、そこでは東満州各地の遊撃部隊と革命組織から送られてきた活動家を対象に、軍・政幹部を養成する短期の軍・政講習会をおこなっていたが、その受講者のなかに彼がいた。そのころは狂気じみた反民生団闘争で多くの愛国青年が異国の土と化していたころだったので、講習会で彼と会ったわたしは、なつかしい旧友に会ったような喜びを感じた。われわれは自己紹介をして語り合った。初対面にしては、かなり真しな対話だったと記憶している。夫人と別れたときの話も出た。
「奥さんにもう少し親切な言葉を残して発つべきでした。そうすれば奥さんの悲しみも少しはやわらいだでしょうに」
わたしが残念そうに言うと、権永璧はかぶりを振った。
「いつかは覚える痛みを、先にのばす必要はないではありませんか」
「それでは、いまでも生きては奥さんのもとに帰れないと思っているのですか」
権永璧はその問いにも泰然として答えた。
「生きて祖国の解放を迎え、故郷にも帰りたいとは思いますが、わたしはそんな幸運に恵まれそうもありません。わたしは敵との決戦に臨んで人の後に立つ考えはありません。父の恨みを晴らすためにもつねに先陣を譲らないつもりです。先陣で戦うべき者が、どうして生き残ることを考えられるでしょうか。そんな運などは望みません」
彼の言葉には真実がこもっていた。権永璧のその後の行跡が示しているように、彼は実際、血戦の場でも地下戦線でも、つねにもっとも熾烈で危険な先陣に立った。第二連隊が蛟河遠征に参加したとき、権永璧は第二中隊党支部の書記だった。遠征隊が敵の包囲に陥って全滅の危機にさらされたことが何度もあったが、そのたびに呉仲洽などの戦友とともに連隊を救出した。水も漏らさぬ国境警備網をかいくぐって鴨緑江を渡り、朴達にわたしの手紙をはじめて伝えたのも彼だった。
わたしが権永璧を長白県党の責任者に内定したいま一つの理由は、彼が一九三〇年代前半期の間島での活動期間に、地下工作の経験をある程度積んでいたことだった。権永璧の最大の長所は対人活動がきわめて巧みであることだった。彼は人びとを引きつけ、りっぱに統率できる活動家だった。黄南筍(黄貞烈)は、権永璧が甕声拉子で、村いちばんの長老の心を巧みにつかんだことをいまでも感慨深く回想している。その老人の気性のはげしさは普通ではなかったらしい。工作員が村の革命化をはかって甕声拉子村にたびたび入り込んだが、その老人のために足がかりをつくることができず、いつも追い返されたという。村人たちとうちとける前に、せっかちに思想から注入しようとしたからだった。とくに、工作員たちはその老人への働きかけをおろそかにした。封建思想が強いといって遠ざけるばかりで、獲得しようとしなかった。甕声拉子の老人は、五家子の「辺トロツキー(〔7〕)」老くらい頑固一徹であったらしい。権永璧は自分なりのやり方で老人に働きかけた。老人が礼儀作法をわきまえない者はいっさい相手にしないことを知り、初対面のとき、居ずまいを正して挨拶した。老人を訪ね、朝鮮の礼儀作法どおりにひざまずいて自己紹介をしたのである。
「ご老人、わたしは日雇い労働で口すぎをしている者です。ここは人情の厚い村だと聞いてやってまいりました。なにとぞよろしくお願いいたします」
権永璧の丁重な態度と人柄を見て上機嫌になった老人は、「若いもんが礼儀をよくわきまえておる。誰の子孫かは知らんが感心な若者じゃ。この村は人情がそう薄くはないから、村人たちと仲よく暮らすがよい」と言い、昼食までふるまった。甕声拉子でこの老人を獲得するのは、戦場で一つの高地を占領するほどむずかしいこととされていた。ところが権永璧は朝鮮式に一度うやうやしく礼をしただけで、その高地をいとも簡単に占領したのである。それで村の革命化もスムーズにいったという。わたしは権永璧を長白県党の責任者に内定したあと、彼に県内を一巡させた。実情を把握させるためだった。権永璧は一か月ほど現地を見てまわってから密営に帰ってきた。
一九三七年二月、わたしは横山密営で権永璧ら幾名かの地下工作員とともに会議を開き、長白県党委員会を組織した。この会議の決定によって、権永璧は正式に県党責任者の職務を遂行することになった。県党の副責任者には李悌淳が推薦された。会議はまた、傘下の区党と党グループを拡大することを決定した。
その日、わたしは権永璧に、活動範囲を広げて党組織と祖国光復会の組織を国内深くに拡大するよう強調し、入隊志願者を人民革命軍に推薦する問題、敵機関で働く者を獲得して組織に引き入れる問題、組織のメンバーによる軍事偵察問題など長白県党の諸課題を提起した。
その後すぐ、わたしは彼を敵地に派遣した。そのさい、黄南筍を彼の助手につけた。権永璧と黄南筍は工作上の必要から表向き夫婦に見せかけた。それは身辺の安全のための適切な偽装方法だった。黄南筍は早くから地下工作の経験を積んでいた。彼女は十五のとき、石人溝池蔵谷という村で地下工作に従事したことがあった。ある日、村のある農家で仕事を手伝っていた彼女は、台所にある釜を見てびっくりした。符岩村遊撃区の自分の家で使っていた釜だったのである。
(遊撃区にあった釜が、どうしてこの家の台所にあるのだろうか。この家の主人が「討伐隊」についていって、そこでもらってきたのではないだろうか)
彼女は幾晩もこんなことを考えて眠れなかった。池蔵谷の地下組織のメンバーはそれを聞いて、敵のまわし者に違いないからその一家を村から追い出そうと言った。しかし、彼女は忍耐強く主人一家の素性をつきとめようとした。その結果、この釜は「討伐隊」が符岩村遊撃区を襲って民家に放火し、家財道具を外へ投げ捨てたときのもので、「討伐隊」に強制的に駆り出されて符岩村に行ったこの家の主人が焼け落ちた家のそばでそれを拾い、荷車にのせて帰ったということが判明した。敵のまわし者とみられて追放されるところだった当家の人たちは、その後、間もなく反日会と婦女会に加入した。
ところが黄南筍と一緒に池蔵谷に派遣された林水山は地下工作に失敗した。理論水準が高く風采もよかったが、大衆にとけこめず食客扱いをされた。彼は反日会員の家に構え込みその家の食糧を食い減らしながら、家の主人にああしろこうしろと指図ばかりした。たまに外出をしても、手を後ろに組んで詮索するような質問を村人に浴びせ、相手はもとよりまわりの人にも不快感を与えた。林水山はとうとう村人のなかに足がかりをつくれず、遊撃区に引き揚げざるをえなかった。
自分が人民に君臨する特殊な存在と思いあがるようになれば、結局、大衆に見放される哀れな存在になるほかない。水に浮いた油のように人びとのなかにとけこめず、上っ面をなでまわすだけでは大衆の好感を得られず、彼らを獲得することもできないのである。
権永璧と黄南筍を長白に派遣するとき、われわれの密営には長白県で活動している地下工作員が大勢来ていた。その日、権永璧は彼らとともにわたしから敵中工作任務を受けた。彼は任務を喜んで受け入れたが、わたしは心が重かった。彼に過重な任務を与えたような気がしたのである。長白地区は七道溝から二十五道溝までの広大な地域を包括しているので、じつは合法的な党活動をするとしても負担が重くなる地域だった。しかも彼は、長白県党の指導だけでなく、国内の運動にも深く関与しなければならなかったのである。
長白に向かう地下工作員たちと別れるときのことでいまも忘れられないのは、地陽溪の農民たちが旧正月用に贈ってくれたイモ飴を割って食べたことである。食糧事情の苦しいときで、ご馳走を出すことができず、飴を少しずつ分けて食べたのだったが、なぜかそれがかえって感慨深かった。
――わたしはきみに長白をまかせる。長白と西間島を掌握してはじめて、われわれは人民の支援を受け、革命軍の後続隊も確保できるのだ。西間島を掌握せずには、大部隊で鴨緑江を渡っての国内作戦を進めることができない。われわれはなんとしてでも、今年の春か夏から国内進出を断行するつもりだ。きみはこれから敵地で民衆との活動をりっぱにおこなってほしい。きみの任務は、党の組織建設を進める一方、民衆を祖国光復会の組織に結集することだ。民衆を獲得するのはむずかしいことだが、それはきみの努力いかんにかかっている。わたしはきみを信ずる。
これは、わたしが権永璧を見送るときに言ったことである。われわれは権永璧一行が工作地に向かう日の午前、敵と一戦を交えたので、彼らはあわただしく出発しなければならなかった。
権永璧は十七道溝の「タスポ」の家と二十道溝の李悌淳の家に寄ったあと、司令部が工作拠点に指定した十七道溝土器店村に無事に入り込んだ。王という中国人地主が権勢をふるっているということで一名王家溝ともいわれる十七道溝は、長白県の中心部にあり、鴨緑江を渡れば、好仁、恵山などをへて国内深くへも行ける有利な地点にあった。王家洞は王家溝の村落の一つだった。
権永璧は吉恵線鉄道敷設工事場で日雇い労働をしていて失職した徐応珍の母方の甥というふれこみで、土器店村に落ち着いた。徐応珍は延吉地方で中学卒業後、反日組織に加わって革命活動をしていたが、それが発覚して西間島に移ってきた老練な地下工作員だった。徐応珍、崔景和など十七道溝の革命組織のメンバーは、権永璧が敵に疑われることなく王家洞に足がかりがつくれるよう住家を手に入れ、いくらかの畑地も分け与えたうえ、王家洞を管轄する警察署長にアヘンをつかませて居住承認まで受けた。そのときから権永璧は権洙南、黄南筍は黄貞烈とそれぞれ変名し、組織のメンバーが提供した小さな家で見せかけの夫婦生活をはじめた。後日、権永璧は、彼女に「同志」と呼びかけてははっとしたことがたびたびあった、とうち明けた。
援護物資工作班を率いて十七道溝へ行ってきた金周賢は、王家洞の住民のなかで新しく住みついた「夫婦」のうけがたいへんよかった、とわたしに言った。それは、彼らが村に入った日から、骨身を惜しまず村人たちを助けたからであった。権永璧は工作上の必要で方々の家を訪ねたが、そこで男手が必要なときには薪を割り、飼い葉を刻みもし、庭も掃いた。冠婚葬祭でとりこんでいる家では、餅をついたり豚をつぶしたりもした。彼が豚の皮をはぎ、ばらして臓物を処理する手並みを見て、村人たちは、屠殺業者も顔負けだと感心した。それで王家洞の人たちは、牛や豚をつぶすときは権永璧に頼むようになったという。
二人の工作員はそのまじめな、しっかりした仕事ぶりで村人たちの心をとらえた。二人は他人の手助けはかたくなに辞退したが、他人を助けるのは当然のこととした。権永璧は、地下工作員が他人に迷惑をかけるようでは工作は失敗したようなものだという自分なりの見解をもって、篤農並みに農事に精を出した。
権永璧らが王家洞に住みついたばかりのころ、村の祖国光復会員たちは地下活動に多忙な彼らを助けようと、しば刈りを買って出た。しかし、彼はその好意をどうしても受け入れなかった。
「みなさんの好意はありがたいが、それは困ります。ただの農民の分際でしば刈りまで手伝ってもらっては、すぐ敵に疑われます。ですから、手伝いたくてもひかえてください。それが本当にわたしを助けることになるのです」
地下組織のメンバーは他の方法を考え出した。刈ってきたしばを権永璧の家まで運ばず、彼の麦畑のふちにそっと置いておくのである。ところが、権永璧はそれさえも差し止めた。彼は自分の手でしばを刈り、堆肥も運んだ。王家洞での活動のあいだ、権永璧はいつも夜遅く床につき、朝早く起きた。彼は他の工作地へ行っても一日三、四時間しか眠らなかったという。権永璧は古びたふろしき包みを持ってよく出歩いていたが、事情を知らない者は、夫婦仲が悪くてしょっちゅう外泊しているのかも知れないと思ったという。下崗区の七道溝から上崗区の二十五道溝まで数十里の道を権永璧はひと月に何度も足しげく歩きまわった。長白県の村落という村落にほとんどもれなく足を運んでいた。彼が人並みに眠れなかったのは当然であった。いつか密営に活動報告をしに来たとき、彼の目は真っ赤に充血していた。体に気をつけたまえ、革命活動を一年、二年でやめるつもりか、と軽くたしなめたところ、組織をつくる楽しみがこたえられない、と言うのであった。
権永璧とその戦友たちの精力的な活動によって、一九三七年初春までに長白県の主だったほとんどの村落に地下党組織がつくられた。権永璧の傘下に多くの党グループ、祖国光復会の支会、分会が誕生し、その勢力は急速に拡大されていった。生産遊撃隊も党組織の保護と指導のもとにめざましく活動した。夜間に長白地方を闊歩し民心を思いどおり動かしたのは満州国の役人ではなく、権永璧の影響下にある人たちだった。
権永璧は以前にもまして多忙な日々を送らなければならなかった。彼が育成した何人もの有能な工作員が国内に送り込まれた。十七道溝の地下革命組織は、地下工作担当者を養成する原種場ともいえた。権永璧は半軍事組織の生産遊撃隊を通しても青年を教育し、鍛練した。生産遊撃隊に参加した青壮年は、昼は農作をし、夜は地下革命組織の防衛にあたるかたわら、有事にそなえて武装闘争の準備をおし進めた。権永璧は組織のメンバーである村長たちと相談し、自衛団の夜間巡察隊を生産遊撃隊員で組んだ。生産遊撃隊は夜間巡察隊という合法的な名で、敵のためではなく地下組織を保護するための巡察をしたのである。
多くの生産遊撃隊員が権永璧の指導を受けて闘士に成長した。崔景和もやはり彼の指導のもとに王家洞支会の青年部責任者および特殊会員責任者、王家洞党支部の組織担当責任者に成長した。彼の長男も児童団で闘士に成長した。権永璧は以前から入隊を熱望していた崔景和の意をくんで、彼をわたしのところに推薦して寄こした。
私生活のうえではいつも潔癖で良心的で、生まじめな権永璧であったが、地下戦線の重責をになってからは、ときと場合に応じて巧みな偽装策を用いて敵を欺き、自分自身と同志と組織をしっかり守った。組織の中核分子を敵機関に潜入させて重要な地位につかせたのも一種の偽装策だった。
権永璧は、地下党組織や祖国光復会組織のメンバーである村長たちが敵に信頼され、安全に遊撃隊援護活動を進められるよう、彼らに朝鮮人民革命軍軍需官名義の手紙を渡し、警察署に届け出るようにした。手紙には何月何日までにしかじかの援護物資を調達せよという要求とともに、警察に告発すればただではすまないという脅し文句が書きそえてあった。警察署では、そんな手紙を届け出る村長にたいしては忠実だとほめた。ところが、ひとり王家洞の村長だけは、権永璧の筋書きにしたがって手紙を届け出なかった。それは当然、敵の注意を引いた。ある日、半截溝警察署長は村長を呼びつけ、おまえは「共匪」と内通しているんだろう、証拠があるのだから、正直に白状しろと脅しつけた。王家洞村長は落ち着きはらって、証拠があれば見せてくれ、わたしは革命軍の「赤い弾」に撃たれるのを覚悟のうえで、お上のために村長を務めているというのに、「通匪分子」などと言われるのは残念だ、と答えた。署長は引き出しから人民革命軍軍需官の手紙を出して見せながら、村長は正直でない、正直な村長なら当然こんなものは届け出るはずだ、ほかの村長はみな届けているのになぜ知らぬ顔をしているのか、と迫った。すると王家洞村長はふところから手紙を取り出し、わたしももちろん警告文を受け取った、人民革命軍がわたしだからといって物資を要求しないはずがあろうか、さあ、これがその警告文だ、だが、わたしはあなたがたのためを思って届け出なかった、あなたがたがこの手紙を見ればなんらかの対策を講じなければならなくなるだろうが、対策があるのか、名うての「討伐隊」でも数百名の兵力をくり出して人民革命軍に惨敗しているというのに、こんな小さな警察署になんの妙策があるというのか、こんな手紙を差し出せばかえって署長さんたちを困らせることになるではないか、人民革命軍は適当にあしらうのが上策だ、わたしがうまく処理するから、署長は知らぬふりをしていてほしい、と言った。警察署長は感動し、それ以来、村長を格別信頼するようになった。権永璧の筋書きは効果てきめんであった。
地下工作の過程でわたし自身も体験したことだが、敵地で自分自身と同志と組織を偽装し保護するのは、最大の知恵と創意を要するむずかしいことである。権永璧はその重責を危なげなく遂行した。
わたしは、一九三七年春、国内進攻作戦をひかえて、軍民共同による普天堡市街地の偵察を各面から手配した。普天堡偵察の任務は長白県党組織にも与えられた。国内進攻作戦の重要さを誰にもましてよく知っていた権永璧は、その偵察任務を自ら引き受け、出発準備を急いだ。
ところで家を空ける口実をつくるのが問題だった。偵察のためには何日も家を留守にしなければならないが、もっともらしい理由がなければ敵から疑われ、尾行されるおそれさえあった。農民が農繁期に何日も出歩くというのはただごとではなかった。権永璧は今度も誰にも納得がいく妙案を考え出した。それは、組織のメンバーの一人を長白市内の郵便局へ行かせ、父親の死亡電報を打たせることであった。電報はその日のうちに権永璧に配達された。郵便配達夫が王家洞に来てそのことを人びとに知らせたので、彼の「不幸」は村人たちだけでなく、敵の耳にも入った。香典を持って権永璧の家へやって来た年寄りたちは、父親が亡くなったのになぜ早く行かないのか、と気づかった。権永璧は、小作人の自分がこの農繁期に何日も畑を空けるのが心配で決心しかねていると答えた。すると彼らは、父親の葬儀より大事なことがどこにある、畑仕事は自分たちにまかせて早く発つようにと促した。こうして彼は誰からも疑われずに王家洞を発って偵察任務を果たし、わたしに偵察の結果を報告することができたのである。
彼の懇請で、わたしは彼を普天堡戦闘にも参加させた。戦闘後、権永璧が十七道溝に帰ると、組織のメンバーは彼が「喪主」の務めをとどこおりなく果たせるよう、いっさいの準備をととのえていた。彼は父親の葬儀を終えて帰った息子のように、喪服を着て村人の弔問を受けた。偽装のためとはいえ、善良な年寄りたちまで欺かなければならなかった彼の心中はどんなものであったろうか。
権永璧は司令部の基本路線にもとづき、上級に報告すべきことは報告して処理し、自ら決心できることはそのつど決心して処理し、細心かつ巧みに地下工作を進めた。電話機や無線機のような通信手段がなく、レポを通して司令部との連絡をとるしかなかった当時のことで、工作員は上級に報告することなく自分の判断と決心にもとづいてことを処理する場合が多かった。権永璧はわたしの結論を要する重要な路線上の問題だけを司令部に報告し、大部分の問題は現場で組織のメンバーと協議して即決処理し、その経緯と結果を報告してきた。工作地は密営から遠く離れており、またわたしがいつも密営にいるわけでもないので、すべてを司令部に報告し、指示を受けて処理するのはまず不可能なことだった。権永璧はそれを誰よりもよく知っていたので、司令部に負担をかけるようなことは決してしなかったし、負担になるような問題は提起しようともしなかった。
ところがただ一度、敵の集団部落建設にどう対処すべきかについては、わたしに結論を求めてきた。敵は東満州でのように、西間島でも「匪民分離」を目的とする集団部落の建設を強制的に進めた。しかし長白地方の住民はほとんどが集団部落に入るのを嫌がった。権永璧の気持も同じだった。集団部落に入れば農民の生活上の苦痛を加重し、地下活動や遊撃隊援護活動にも大きな支障をきたすはずだった。だからといって、集団部落の建設にむやみに反対することもできなかった。敵は集団部落に入るのを拒む家に放火し、力ずくで撤去させた。反抗すれば発砲した。どうすればよいのか、県党委員会を開いて討議したが、結論が出なかったという。わたしは権永璧に、集団部落建設に反対するのは無謀なことだ、禍を転じて福となすため、みんなそこに入るようにと助言した。集団部落に入れば、われわれの活動がかなりの制約を受けるのは確かだ、しかし鉄条網が川の流れを遮れず、城壁が風をすべて防げないように、遊撃隊と人民のあいだに川のように流れ、風のようにゆきかう軍民の情と遊撃隊援護の大河は絶対に阻めない、心配せず集団部落に入るようにと言ったのである。
権永璧は工作地に帰ると、官道巨里の集団部落建設場に真っ先に出かけた。すると頑固派もあとにつづき、家を建て土城を築く作業に熱心に参加した。権永璧の指令にもとづいて、地下組織のメンバーは敵の施策を「忠実」に実行した。こうして官道巨里の集団部落は県警察当局から、真っ先に「安民村」という評価を受けた。第十七道溝の地下組織のメンバーは、官道巨里集団部落の主な役職をすベて占めた。徐応珍は自衛団の団長、宋泰順は副団長、田南淳は村長、権永璧は学校長という具合だった。他の集団部落でも状況は同じだった。
権永璧の地下戦線は長白の範囲を越え、咸鏡南北道と平安北道を含む国内深くにまで延びていた。彼は軍事活動でも多くの功労を立てたが、人民大衆を意識化する地下戦線の緊張したたたかいでも大きな功績を立てた。一九三七年夏、彼が連絡員に託してわたしに送ってきた手紙にはこんな内容が記されていた。
「司令官同志、率直に申しあげて、わたしは部隊を発つとき残念でなりませんでした。第一線から第二線に押しやられたと思ったのです。あのときのさびしさをどう言いあらわしてよいかわかりません。人民を祖国光復会組織に結集することが抗日革命の勝利を早める近道だという言葉は、耳が痛くなるほど聞いていましたが、別れの握手を求めた司令官同志のそばを離れるわたしの足どりは軽くありませんでした。しかし、ここに来て活動しているうちに考えが変わりました。いまでは地下戦線を第二線だと見る観点から大きく脱却しました。この戦線は第二線ではなく、明らかに第一線です。日ごと組織が拡大し、人びとが成長するのを見るにつけ、わたしは生きがいを感じています。この肥沃な土壌の主人に任じてくださった司令官同志に謝意を表する次第です」
人民を意識化し、組織化することに生きがいを感じるという彼の言葉には、深い真理がこもっていた。人民を組織し動員することは、革命家がいっときもゆるがせにしてはならない恒久的な活動だといえる。人民をたえず意識化し組織化するところに、革命の生命があり、勝利があり、永久性があるのだ。革命家がこの活動を度外視し、または軽視するならば、その政治的生理には変質現象が生じ、革命家としての生命を失うのである。
権永璧はこの原理をよくわきまえていたので、人民を組織し動員する活動に心血をそそぎ、その勇敢なたたかいの途上で、敵に逮捕されたのだった。獄中で彼がもっとも心を痛めたのは、自分と同志たちが苦心惨憺して育てあげた多くの組織が一挙に破壊されることだった。彼は自分にできる最善の策は、一人でも多くの同志を救い、組織を守ることだと思った。権永璧はおのれを投げ出して革命組織の被害を最小限にとどめようと努めた。彼はまず李悌淳にこんな白字の紙片を送った。白字とはペンや鉛筆ではなく手の爪で書いた文字のことである。
「いっさいをわたしに押しつけること!」
権永璧の意図と決意を知った李悌淳は、さっそく返事を寄こした。
「われらは一心同体!」
この電文のような文句がなにを意味するかを権永璧は理解した。権永璧と李悌淳は別々に収監されていたので、紙片のやりとりもそれ以上できなかったが、二人の戦友の心は一つに通いあっていた。彼らはまさに一心同体となって、組織を守るための決死の救出作戦を進めた。
「道正が白頭山に行かれたこととその後のことは、わたしと道正と将軍の三人しか知りません。ですから道正が口をつぐんでいれば、なんの罪もかぶらずにすむでしょう」
これは恵山警察署で取り調べを受けていた権永璧が、朴寅鎮道正に耳打ちした言葉である。権永璧がそう耳打ちをしていたとき、李悌淳も李柱翼に同じように念を押した。
権永璧と李悌淳の自己犠牲的な救出作戦のおかげで、朴寅鎮、李柱翼をはじめ多くの検束者が起訴をまぬがれて釈放され、あるいは予想より軽い刑に服して祖国解放の日を迎えることができた。長白と国内の地方組織にたいする権永璧の縦のつながりと指導内容は、裏切り者にも知られることなく永遠の秘密に付されていたので、それらの組織と所属メンバーはそっくり生き残り、ひそかに活動をつづけることができた。しかし、組織と同志を守った権永璧は、李悌淳、李東傑、池泰環、馬東熙などの闘士たちとともに決然と死の道を選んだのである。
彼は恵山警察署から咸興へ移送される列車の中でも、同志たちへのあたたかい心づかいを忘れなかった。そのとき彼のふところには七円があった。彼はその最後の七円も同志たちのために使おうと思い、護送警官に言った。
「このお金で果物とお菓子を買ってほしい。あんたらが手錠をかけたんだから、いやでも日本当局を代表して面倒をみてもらいたい」
他の同志たちもそれに応じ、さらに三十余円の金が集まった。護送警官は思いのほか従順にその頼みを聞き入れた。
権永璧は護送警官が買ってきた果物と菓子を同志たちに分け与えた。百余名の闘士たちは走る列車の中でそれを食べながら、無言のまなざしと微笑でうなずき合った。それは共産主義者ならではの精神的な饗宴であった。護送警官は家族同士のようなその親密な雰囲気に驚かざるをえなかった。
「きみら共産主義者はなんとも不思議な人たちだ。刑罰を受けに行くというのに、人情を分かち合うというのか。言ってみろ、そうするのが共産主義なのか」
「そうだ。共産主義者はこういうふうに生きるのだ。日本帝国主義を打倒したら、われわれは全人民が兄弟になる、そういう国を建設するのだ」
「だが、権永璧氏、当局はあんたにそんな国をつくる自由は与えんだろう。遅かれ早かれ、あんたは絞首台にのぼらねばならんからな」
「わたしは死んでも、戦友たちが必ずそういう理想郷をつくるだろう」
権永璧はそうした見解を法廷でもあらためて披瀝した。
「わたしは罪人ではない。われわれは祖国の領土から強盗日本帝国主義を追い出し、わが民族が自由で幸せに暮らせるようにするため抗日大戦に決起した朝鮮の愛国闘士であり、この国の堂々たる主人だ。誰が誰を裁くと言うのだ。裁判を受けるべき真犯人はおまえたちではないか。他国を占領し、他国人を思いのままに虐殺し、他国の財貨を勝手に略奪するおまえたちこそ、希代の強盗、殺人犯だ。歴史が公正な審判を下し、われわれを民族の守護者としておしたて、おまえたちを葬り去る日は必ず来るだろう」
ソ連軍が東欧の弱小諸国を解放しつつ西へと進撃し、米軍の空爆で東京の市街地が火の海と化し、朝鮮人民革命軍が白頭山地区と極東の訓練基地で祖国解放の日を迎える対日作戦準備に拍車をかけていたとき、権永璧はソウル西大門刑務所の絞首台で革命万歳を叫んで最期を遂げた。彼がこの世に残していった一粒だねの息子は、そのころ十五、六歳になり、清津市内で肥やし車を引いていた。
偉大な祖国解放戦争が勃発した一九五〇年の夏、わたしはソウルにしばらくとどまって南朝鮮の解放区の諸般の仕事を指導した。ソウルがはじめてだったわたしにとって、訪ねてみたいところは二、三にとどまらなかった。けれどもわたしはなによりもまず西大門刑務所へ行ってみた。わたしの知己や戦友のなかには、この刑務所とは血まみれの因縁がある人たちが少なくなかった。人民軍の勇士たちはソウルに入城すると真っ先に、戦車で刑務所の正門を押しつぶし、囚人を解放した。
西大門刑務所は日本帝国主義者が朝鮮で犯した罪悪と犯行の恥ずべき代名詞であった。この悪名高い刑務所で権永璧、李悌淳、李東傑、池泰環をはじめ日本帝国主義者に果敢に抵抗した朝鮮民族のすぐれた息子や娘が貴い命を失い、一片の土と化した。亨権叔父も麻浦刑務所で獄死した。わたしは山中で戦っていたとき、国が解放されたらソウルヘ行ってせめて彼らの墓参りでもしたいと思っていた。その願いが解放後、五年にもなってようやくかなったのは、祖国を両断した三十八度線のせいだった。墓標すらない墓で、探しあてるすべもなかったが、彼らの血潮と息吹のこもる刑務所の屋根や壁だけでも眺めることができ、多少気が休まった。解放後、五年の歳月が流れていたが、戦友たちの弔問すら受けられなかったその同志たちの霊前で、わたしは長らくこらえてきた涙を流した。
「わたしは息子ひとりを残していく。わたしの願いといえば、息子が大きくなって、わたしの仕事を継いでくれることだ」
権永璧は西大門刑務所で、戦友たちにこう言い残した。
刑務所を見まわってから街に出ると、その言葉がことさら鐘の音のように頭にがんがん響いてきた。それは権永璧のように生涯を誉れ高く生きた革命家だけが残すことのできる貴い言葉であった。わたしはいまも折にふれ、その言葉を思い出すのである。
6 こだわったこと
撫松遠征を終え、部隊を率いて再び長白に帰り、新興村付近で祖国進軍の準備を進めていた一九三七年五月下旬のことだった。ある日、わたしは伝令を伴い、新興村からほど遠くない吉城村を訪れた。吉城村は、われわれが白頭山地区へ進出した年の冬以来のなじみの村であった。
わたしは長白に来てからも大衆工作に力を入れた。援護物資を持って密営を訪ねてくる人たちにも会い、中間連絡地点やさまざまの秘密の場所に人を呼びもし、住民地区へじかに出かけて大衆と接触もした。このような活動を通して民心を知り、敵の動静を探り、大衆の啓蒙にも努めた。
わたしは長白地方の多くの農村をまわってみた。はじめて吉城村を訪れたとき、わたしはそこに三日間滞在した。農家が十戸足らずのむつまじい村で、わずか三日間で全村民と顔見知りになれた。われわれはここで大衆政治活動をおこなう一方、国内工作員とも会った。猟師を装ってこの村に現れた田中という日本人密偵を摘発し、処刑したのもそのときのことだった。彼は専門の特務機関で訓練を受け、長白地区に派遣されていた老獪な密偵だった。朝鮮生まれの彼は、この土地の者に劣らず朝鮮語を自由に操った。朝鮮の風習や作法にも明るく、十九道溝と二十道溝の人たちは、彼が何か月も猟銃をかついで長白地方を歩きまわるのを見ていながらも、日本人だとは気づかなかった。田中の正体を見破ったのは、吉城村の地下組織であった。
わたしは吉城村では張という老人の家に泊まった。その家は部屋が広く、暮らしも他の家に比べてゆとり
があった。村の老人たちは、わたしがこの家にいるとき、毎日のように遊びに来た。背に長いキセルを差してやってきては、夜遅くまで昔話をしたり、南次郎がどうの、満州国がどうのと時局を論じたりした。教育というものをほとんど受けていない年寄りたちだったが、情勢の分析だけは確かなものだった。国権を奪われた人民にとって、なによりも早く成長するのは政治意識なのであろう。
ある日の夕方、三十歳前後の丸刈りの農夫が、老人たちと一緒に張老人の家にやってきた。ちょっとした相撲取りを思わせる容貌や体つきとはうらはらに、驚くほど純朴でおとなしい若者だった。三十ともなれば、もう世事を知りつくしたような口を利くころである。農村のたまり場などに行けば、三十代の若者たちの声がいちばん高かった。十代や二十代の者がなにかを主張すると、乳臭いことを言うなと鼻で笑い、五十代や六十代の老人がなにか説教めいたことを言うと封建臭がすると決めつけるのも、血気盛んな三十代の若者たちだった。ところが、この青年はみんなの後ろにかしこまって、わたしの話を黙って聞くだけだった。年寄りたちがわたしの質問に答えて村の実情を話すときも、口をさしはさもうとしなかった。また年寄りたちが、白頭山にいる金隊長の軍隊はどれくらいなのか、パルチザンには速射砲もあるというが、本当か、日本はだいたい何年ぐらいで敗亡するか、金隊長のご尊父はなにをしておられる方か、などと思い思いに質問をするときも、彼はただ笑顔で聞いているだけだった。そして、わたしと目が合うと、首をすくめて前の人の背中に顔を隠すのだった。なにか聞きたそうな表情を見せることもあったが、おずおずしてすぐあきらめるのを見て、もしや言語障害者ではないかと思ったほどである。そんなぎこちない物腰を見ていると、なぜかわたしまでがぎこちなくなる思いがした。わたしは、年寄りたちに暮らし向きのことをなにかと聞き、その青年にも何度か質問をしたが、それでも口を開こうとしなかった。年寄りたちは
もどかしげに若者を振り返った。彼に代わって老人の一人がこう言った。
「将軍、あれは作男です。いまだに独り身で、親類とていません。金月容という名で、南道(南部朝鮮)で生まれたと言いますが、故郷も親の顔も覚えていない気の毒な男です。年も三十そこらというだけで、確かなことはわからないのです」
人間は自己喪失をすると意思表示も思うようにできないものらしい。どれほどむごい扱いを受けて、聞かれたことにも答えられない哀れな人生を送っているのだろうか。
彼のそばに座り手を取ってみると、まるで熊手のようにごつごつしていた。どんなに苦労して、手がこんなにまでなったのだろうか。腰は弓のように曲がり、衣服もひどいものだった。彼が年寄りたちの後ろに隠れるようにして座っていたのも、そんな身なりのせいだったのかも知れない。他人の質問に一言も答えられないような性格にもかかわらず、遊撃隊司令官のいる家にやってきたのは、それなりに自意識があり、思慮もあってのことだろうと思うと、それがうれしかった。いつから下男暮らしをしているのか、と聞くと、「小さいころから…」とやっと一言答えるだけだった。言葉つきからして全羅道の人と思われた。西間島を含む東北地方には、全羅道の出身が多かった。日本帝国主義者は満州の土地を大々的に略奪するため、悪名高い「鮮農移満政策」にもとづき、「集団開拓民」という名のもとに数万の朝鮮農民を中国東北地方に強制移住させたのである。
人びとが帰ったあと、わたしは主の張老人に尋ねた。
「ご老人、あの青年はどうしてまだ独身なのですか」
「小さいときから下男暮らしをしたので、三十過ぎのいまも嫁をもらえず、さびしく暮らしていますんじ
ゃ。健気な若者じゃが、嫁の来手がいません。娘をやろうという者がいないもんでね。独り身で苦労しているのをみると、まったく哀れというほかない。ほら、あんな小坊主も嫁をもらって大人扱いされているというのに…」
わたしは張老人が指差す戸外に目を向けた。学習ノートほどのガラス窓のある障子戸の外に、十二、三歳の少年がチェギ蹴り(銅銭などを紙や布で包んで羽根をつけ、足で蹴上げる遊び)をしていた。あんな年端もゆかぬ少年が嫁をもらっているというのである。早婚のうえに、強制婚、売買婚まで盛行する時代ではあったが、舌打ちせずにはいられなかった。
やや後の話ではあるが、われわれの部隊にもその少年に劣らぬ「ちびっこ新郎」が何人かいたものである。長白出身の遊撃隊員金洪洙も実際、十歳になるかならずで結婚した「ちびっこ新郎」だった。彼はそんな呼び名がぴったりのきわだって小柄の隊員だった。三十前後の老チョンガーと十そこそこの「ちびっこ新郎」! この笑えぬ対照に、わたしはうっ憤と悲しみを禁じえなかった。老チョンガーも「ちびっこ新郎」も時代の受難者という点では、似た者同士である。けれどもわたしは、三十になっても妻帯できずにいる老チョンガーのほうにより深い同情を覚えた。早婚の犠牲者だとはいえ、「ちびっこ新郎」にはそれでも妻があり、生活があるではないか。
その夜は、金月容のことを思って眠れなかった。一人の人間が歩んだ悲惨な半生を思い描いて、気持が落ち着かなかった。金月容の存在はそのまま受難にみちた茨の道を歩む祖国の姿であり、その浮き草のような人生は、亡国朝鮮が涙でつづる歴史の縮図であった。
わたしはその夜、彼に配偶者を決めてやらなければという衝動を覚えた。男一人に家庭も持たせてやれないようでは、奪われた祖国をどう取りもどせようか、と思ったのである。人民革命軍にももちろん、婚期を逸した老チョンガーが多かった。それは、彼らがいつ勝利するとも知れない長期の武装闘争の道を選んだからにほかならない。遊撃戦はあらゆる形の闘争のなかで、もっとも苦しく、犠牲を伴う戦いである。機動が激しく、行動半径の大きい反面、生活条件はきわめて悪かった。こんな戦いをしながら家庭を築くなど、普通の人間には想像することも実行することもむずかしいことである。少なからぬ女性隊員が入隊するさい、子どもたちをしゅうとにあずけたり、養子、養女にやったりしたのもそのためだった。夫婦がともに遊撃隊に入隊した例もままあったが、その夫婦生活は名ばかりのものだった。われわれは、外部勢力によってこのような異常な生活を強いられていたのである。
日本帝国主義者は、一握りの親日派や民族反逆者を除く全朝鮮民族を正常な生活軌道から仮借なくはじきだした。国権の喪失とともに、民族の風土に培われた固有の生活は破壊された。人間が人間らしく生きるために必要な初歩的な自由と権利、生存条件、伝統的な風習は跡形もなく踏みにじられた。日本帝国主義は朝鮮人民が豊かに暮らし、人間らしく生きることを望まず、犬や豚、牛馬のような存在に蹴落とそうとした。それで「愚民化」という言葉も生まれたのである。学齢児童が学校に通えず、浮浪者やルンペンが街をさまよい、生活苦のため青年男女が婚期を逸し、夫婦が同じ屋根の下で暮らせず山中で苦労していたが、彼らは朝鮮人などどうなろうとかまわなかったのである。ところが、彼らが背を向けるそのすべてが、われわれにとっては最大の関心事であった。われわれが家庭を持てないのはやむをえないとしても、金月容のような老チョンガーがどうして嫁をもらえないのか。国が滅んだからといって、家庭すら持てないというわけはないではないか。
わたしは二十代になる前、青年学生運動や地下活動にたずさわりながら、他人の縁談に何度か関与したことがある。その一例が、この回顧録の第二巻でちょっと触れた孫貞道牧師の長女の孫真実の縁談である。わたしが彼女の縁組にかかわったのは、まったく偶然ないきさつからであった。ところが、それが一時、吉林の同胞社会でうわさの種となった。学期休みに撫松のわが家に帰ると、母も吉林の学友たちと同じように、「仲人はうまくいけばお酒三杯、失敗すればびんた三つ」という先人の言葉をもってわたしをたしなめた。わたしは母の戒めを心にとめた。
当時、わたしの友人のなかには、恋愛や結婚をプチブル的感傷主義に由来する瑣末事だとし、革命と学習、労働を離れた想念はすべて雑念だと決めつける風潮があった。国を丸ごと奪われ亡国の民となったわれわれに、惚れたはれたの遊惰な生活が許されてよいのか、国権も回復できずに恋愛などをしてなにになり、異性を愛してなにが楽しいのか、というのである。もちろん、そのような立場や態度には極端な側面があったが、一部の民族主義者や旧世代の共産主義者たちが恋愛や家庭の問題でさまざまな不祥事を引き起こし、なかには革命の隊伍から脱落する者さえ現れるのを見て、そのような考えが強まり、ひいては家庭を持つ少なからぬ学友が学業をおろそかにし、家庭の雑事に埋もれる弊害を目のあたりにして、それが定見としてかたまるまでになったのである。
しかし、国が滅んだからといって、愛もなくなったとはいえないであろう。滅びた国のなかでも、生活はつづき、愛は花を開かせるものである。年ごろになれば、青年男女のあいだには愛が芽生え、恋愛もすれば結婚もするようになり、子沢山にでもなると、子なしが果報者だなどと愚痴の一つもこぼしながら生きるのが人生である。
わたしは、志を同じくする「トゥ・ドゥ」のメンバーが愛の問題で悩みもし喜びも味わい、離別もすれば結ばれもするのをいろいろと見てきた。金赫は革命に熱中しながらも承少玉を愛し、柳鳳和は李済宇を慕って革命活動に身を投じた。申永根は共青活動の過程で反帝青年同盟員の安信英と結ばれた。崔孝一夫婦は武装闘争の準備に役立てようと、十数挺の銃器を盗んで日本人武器商店を飛び出し、孤楡樹のわたしを訪ねてきた。車光秀は小説『アブ』に登場するジェンマーのような女性にあこがれていた。
愛は革命活動の妨げになったのではなく、むしろそれを励まし、促す推進力となった。崔昌傑が家庭を持っていたことは、南満州遠征を回顧したときに触れた。彼は柳河県に残してきた妻子を思っては、いつも勇気を奮い起こしたものである。承少玉の清楚な姿は、熱血漢の金赫に詩や音楽を生み出させる泉となった。全京淑は、金利甲が大連監獄につながれると家出して大連に移り、九年ものあいだ差し入れをつづけた。差し入れというただ一つの目的で、大連紡織工場の女工になったのである。敬虔なクリスチャンを両親にもつ全京淑をこのように世に広く知られる烈女にしたのも、ほかならぬ愛であった。こうしたなかで同志たちは、次第に愛と結婚、家庭についての考え方を変えていった。家庭を築いても革命活動はりっぱにつづけられる、家庭と革命は分立しているのではなく密接に結びついている、家庭は愛国心と革命精神の泉であり、原点であると認識し、それを一つの家庭観としたのである。
わたしは五家子で活動していたとき、辺達煥の縁組をとりもったことがある。彼は当時、五家子農民同盟の責任者を務め、多忙な日々を送っていた。野良仕事の余暇に社会活動をするので、いつも忙しく走りまわっていた。父と子がともにわびしいやもめ暮らしをしていたのである。辺達煥は年齢では李寛麟と同じ世代に属していた。わたしの父と同世代ともいえる人が、米をとぐ器の前にしゃがみこんで、ごつごつした手で石粒を選り出し、たらいや水がめを持って台所を出たり入ったりしている姿を見ると、そぞろ哀れを催したものである。いまは三十を過ぎても結婚など考えず、悠然と過ごしている青年が少なくない。むしろまわりの人たちがやきもきして、早く結婚しろとすすめても、なにもあわてることはありませんよ、と答えるのが普通だという。しかし、わたしが青年学生運動をしていたころは、三十と聞いただけで女性は相手を中年扱いし、目もくれなかった。
辺達煥はなかなかの美男子で、人間的にもまれにみる好人物だった。ふれまわりさえすれば、未婚の娘とでも再婚できたであろうが、もどかしいことに本人自身が再婚など考えてもいなかったのである。本人がそうなら父親がなんとかすべきなのだが、その辺大愚にも策がなかった。それでわたしが気だてのよい女性を選んで、仲をとりもったのである。わたしが思いきって仲人役を買って出たのは、ほかでもなく同情心のためだった。辺達煥は後添いを得たのち、農民同盟の仕事にいっそう情熱をそそぎこんだ。辺大愚ら五家子の有志たちは、吉林の若者たちは革命活動もりっぱにやるが、人情にも厚い、と賛辞を惜しまなかった。辺達煥の家庭問題を解決したことで、結局われわれはいろいろと利益を得たわけである。結婚は決して革命とは無縁ではなかった。それでわたしは、他人の恋愛や友情の問題を漫然と見すごすようなことはしなかった。
われわれが汪清地方で遊撃区生活をしていたときのことである。ある日、わたしは呉白竜中隊を率いて小汪清から嘎呀河方面に向けて行軍していた。中隊が峠を越えていたとき、前方から見知らぬ娘がうつむきながら歩いてきた。われわれの部隊に気づくと、彼女は立ち止まり、微笑を浮かべてこちらを眺めた。だが、部隊が近づくと目を伏せ、そそくさと通りすぎてしまった。田舎の娘にしては、容姿も物腰もかなりあか抜けていた。中隊はそのまま行軍をつづけた。ところで、しんがりにいた隊員が彼女のほうを振り返ったと思うと顔を伏せ、なにか物思いにふけるような様子で足を運ぶのであった。隊列が百メートルほど進んだとき、彼はまた後ろを振り返った。その目にはものさびしげな憂いと懐しさがただよっていた。わたしは彼を隊列の外へ呼び、小声で聞いた。
「なにをそんなに考え込んでいるのだ。さっきすれ違った娘を知っているのではないか」
彼は急に目を輝かせ、口もとをほころばせた。彼はたいへん正直で気さくな性分だった。
「あの娘はわたしの許嫁です。入隊後一度も会っていませんが、顔もあげずにすっと通りすぎてしまったのですから、どうにもやりきれません。顔をあげていたら、軍服姿のわたしが見えたでしょうに」
彼はこう言うとまた、娘の去ったほうに目を向けた。わたしは彼の力になってやろうという気になった。
「それなら、早く行ってその娘さんに会ってきたまえ。きみの軍服姿を見せ、積もる話も交わすのだ。そうすれば彼女もどんなに喜ぶことだろう。時間は十分にあげるから、話したいことはすっかり話してくるんだ。われわれは、きみがもどって来るまでつぎの村で休むことにする」
彼の目がうるんだように思えた。彼は、すみませんと一言いうと、一目散に走っていった。わたしは約束したとおり、近くの村で中隊に休止命令を下した。三十分ほどして、許嫁に会った隊員がもどり、わたしに経過報告をはじめた。わたしが、そんなことは報告しなくてもよい、と遮ったが、彼はかまわず話した。
「彼女は軍服姿のわたしを見て、見違えるようだと言うのです。そして、遊撃隊員の妻らしく一生懸命に働くと言うではありませんか。それで、わたしはこう言いました。わかったね、ぼくは朝鮮が独立するまで革命に身をささげることにした人間だ。きみは革命軍の妻になる人だし、革命軍の妻らしく生きるつもりなら、きみも組織に入り革命活動をすることだ…」
許嫁に会った隊員はその後、勇敢に戦い、彼女も地元の革命組織に入ってりっぱに活動した。愛は確かに情熱の泉、創造の原動力であり、生活を美しく彩る染色素である。
わたしは吉城村を発つとき、張老人にこう頼んだ。
「ご老人、ひとつ厄介なお願いをしたいと思います。わたしは昨夜、金月容という人のことを思って眠れませんでした。村のお年寄りたちと相談して、よいお嫁さんを見つけ、式も挙げてやっていただけないでしょうか]
張老人は狼狽した。
「将軍に、そんなご心配までかけて申しわけありません。わたしらが相談してきっとそうしますから、どうかご安心ください」
吉城村の年寄りたちは約束を誠実に果たした。祖国光復会組織は、金月容がりっぱな嫁をもらい一家を構えたことを知らせてきた。彼に娘をやったのは、十八道溝の寺谷に住む金老人だった。わたしが吉城村である老チョンガーのことを気づかったという話が、二十道溝を越えて十八道溝にまで知られたらしい。金老人はその話を聞くと、金将軍が目をかけたという人なら自分の娘をやろうと言い、吉城村にやってきて張老人と縁談をまとめた。このように金月容の結婚問題はすらすらと解決した。実際、金老人のような人はざらにはいないであろう。金老人は山裾の畑地を命の綱と頼む貧しい農民だったが、両家で別々におこなうのが風習の婚儀を、自分たちのほうでまとめてとりおこなうと申し入れたという。しかし新郎側の世話人たちが頑として聞き入れず、結局、式は吉城村の張老人の家でおこなうことになった。わたしは給養担当官の金海山に、戦利品のなかから最上の織物と食品類を選んで、吉城村へ送るよう指示した。
ところが、どうしたわけか、金海山は承服しがたい表情だった。そして、そうすると答えながらも、部屋から出ていこうとしなかった。
「将軍、その結婚式にどうしても贈り物をしなければならないのですか」
思いがけない質問だった。
「もちろんだ。気に入らないのか」
「戦友たちはこれまで、一膳の飯を前に置いて式を挙げたものです。そんなことを思うと、贈り物をする気になれません。一生に一度の婚礼を一膳の飯で挙げただけで、戦いの途上で倒れた同志たちがたくさんいたではありませんか」
わたしは彼の気持がよくわかった。戦友の婚礼は一膳の飯ですませながら、見も知らぬ人の婚儀に贈り物をしろと言われたのだから、不機嫌になるのも無理ではなかった。
「そういうことを考えると、わたしも胸が痛む。しかし、われわれが一膳の飯で式を挙げるからといって、人民もそうすべきだという法はないだろう。もっとも、朝鮮人民のなかにはそんなふうにしか式を挙げられない人が少なくないという。きみはそれが口惜しくないのか。もちろん密営の倉庫にある戦利品で朝鮮民族をすべて救済することはできない。しかし、民族の再生をめざして銃をとった朝鮮の若者たちが、金月容一人の結婚式くらいこれみよがしに祝ってやれないというのか」
金海山はその日のうちに贈り物をととのえ、隊員一人を伴って吉城村へ向かった。彼が布団の皮や米、缶詰などを持って密営を発つとき、わたしはふところの金をすっかりはたいて渡した。彼がにこにこして帰ってきたのを見て、結婚式が順調にいき、彼自身も十分なもてなしを受けたようだと思った。彼は、新郎が贈り物を受け取っておいおい泣き出したこと、村人たちは非常に人情の厚い人たちだったと告げただけで、ほかのことは報告しなかった。ただ、最後に意味深長なことを一言いった。
「将軍、西間島の青年の結婚式の贈り物は、みなわれわれが引き受けることにしましょう」
後日、同行した隊員から聞いたことだが、金海山は式場で新郎と杯を合わせるとき、ぽろぽろ涙を流していたという。わたしは、そのわけについてはあえて聞こうとしなかった。きっと、当時の朝鮮人一般に共通な民族的悲憤がむらむらとこみあげたのであろう。
わたしは金海山の報告を聞いて、いつか暇を見つけて彼らの新家庭を訪ねてみようと思った。新婚夫婦の暮らしぶりを知り、門出を祝ってやりたかったのである。国内進攻準備で多忙をきわめていたとき、部隊を宿営地に残し、伝令たちを伴ってわざわざ吉城村を訪ねようと思ったのもそのためだった。
人間の情というのはなんとも不思議なものである。わたしが金月容に会ったのはたった一度きりであり、交わした言葉も数言にすぎない。口をかたく閉ざし、意思の疎通もままならなかったうえに、表情もほとんど変えなかった、あのもどかしいほど純朴な彼が、どうしてわたしの気持をそんなにも引きつけたのだろうか、われながら不可解だった。彼はとくに魅力のある人間でもなかった。あるとすれば、この世のいかなるものにも汚されず白雪のように純真無垢な性格だとでもいおうか。それにもかかわらず、わたしは彼に会わずにはいられない強い衝動に駆られたのである。
その日、わたしを金月容の家に案内したのは張老人だった。家とはいっても誰かの使い古した納屋をざっと手入れしたものだった。ところがあいにく新郎は山へ柴刈りに行って留守だった。そのかわり寺谷の金老人の娘だという新婦がいそいそとわたしを迎え入れた。美人ではないが、本家の総領の嫁といった感じのおっとりした女性だった。性格もたいへん明るく、夫もすぐ同化させてしまいそうに思えた。
「月容君と一生をともにする決心をしていただいて、感謝のほかありません。実家のお父さんにもわたしの挨拶を伝えてください」
わたしがこう言うと、彼女は深々と頭をさげた。
「感謝はわたしたちのほうこそ… 夫を助けてりっぱに暮らしを立てていきます」
「子をたくさんもうけて、末長く幸せに暮らしてください」
わたしが彼女と話しているあいだに、伝令たちは庭で薪を割ってうずたかく積みあげた。
金月容の妻に会ってみると、うっとうしい胸のうちがすっかり晴れるような思いがした。そして、二人がいつまでもオシドリのようにむつまじく暮らすであろうという確信をいだいて村をあとにした。その日の吉城村訪問は、われわれが普天堡を襲撃するため坤長徳に登ったときまで、心に長く余韻を残していた。
わたしが作男の縁談をとりもち、贈り物までしたといううわさは西間島一帯に広まった。それ以来、人民革命軍への大衆の信頼と期待はいちだんと大きくなった。密営に運びこまれる援護物資の種類や量も増える一方だった。
十三道溝の城門の外に住むある老人は、息子の結婚式用にたくわえておいたヒエを送ってくれたが、それにもまして驚いたのは、挙式を二日後にひかえた息子が兄と一緒にそのヒエをかついで遊撃隊を訪ねてきたことである。わたしは、そればかりは受け取れないと固辞したが、彼らは頑として聞き入れなかった。家へ持って帰れば父親に追い出される、是非とも受け取ってほしいと懇願するのである。わたしは彼らの誠意を拒みきれなかった。金光雲というその青年が、結婚式をどのようにしたかはわからない。式に使う米を工面するのにずいぶん苦労したことであろう。富厚水の台地で彼らと別れるとき、なんの餞別もできなかったことがいまもって悔やまれる。
わたしは西間島を離れて以来、ついに金月容と会う機会に恵まれなかった。吉林をあとにしてからは、孫真実とも会っていない。彼女がアメリカに留学しているとは風の便りに聞いたが、結婚後の暮らしについては知るところがなかった。ただ彼女の幸せをひそかに祈るだけだった。
わたしはいまもって孫真実、辺達煥、金月容のことを忘れることができない。おそらく人間というものは自分が愛情をそそいだだけ、かつての知己や友人、同志、弟子たちへの思いが残るのであろう。
孫真実はアメリカで客死した。訃に接し孫元泰先生に弔電を送ったが、生前に一度会って懐旧の情を分かちあい、病気の見舞いでもできたら、どんなにかよかっただろうと思った。
金月容も丈夫なほうだったから、長生きしたであろう。
7 遊撃隊のオモニ
白頭山で長年苦楽をともにした戦友のなかに、「オモニ(母)」と呼ばれた女性遊撃隊員がいた。司令部付き炊事隊員の張哲九である。隊内には女性隊員が数十名もいたし、炊事隊員も少なくなかったが、「オモニ」と呼ばれたのは張哲九一人であった。年はわたしより十歳余り上だった。十歳程度の違いなら「姉さん」とか「トンム(同輩にたいする呼称)」と呼んでもおかしくないのだが、わたしもふだんは彼女を「トンム」と呼ばず、「哲九オモニ」と呼んでいた。張哲九よりずっと年上の「パイプじいさん」までもが「哲九オモニ」「哲九オモニ」と呼んでは微苦笑をさそったものである。
彼女が司令部付き炊事隊員になったのは、一九三六年春、馬鞍山でわたしが民生団の調書包みを焼き払った直後のことだった。わたしは金洪範から渡された民生団嫌疑者の大きな調書包みを一件一件調べていたとき、張哲九という名前をはじめて知った。なぜか彼女の調書は赤インクで書かれてあった。調書には、延吉県で党活動にたずさわっていた夫が民生団員だとされ、二年前に処刑されたことと、張哲九自身についても、延吉県王隅溝で婦女会主任を務めていたとき、軍糧を故意に地中に隠し、隊員を飢餓に陥れるなどの破壊策動をおこなったという、いくつかの「罪状」が記されていた。赤インクで書かれた調書、男のような名前の中年女性、こうしたことがまずわたしの注意を引いた。彼女は外見もまた、かなりきわだっていた。女性隊員のなかで背がいちばん低く、眉も非常に薄かった。眉がないのでは、と思われるほどだった。
彼女は夫への愛情から革命の道を踏み出すようになった。夫を深く慕うあまり、夫の活動をも愛するようになったのである。夫に言われたとおり、ビラも貼ればレポも務め、革命家もかくまい、読み書きも習い、秘密の会合にも参加した。そうした過程で革命の道へ踏み出すようになったのである。ところが、杖とも柱とも頼んできた夫が民生団の冤罪(えんざい)を着せられて処刑され、彼女自身も王隅溝で活動中に逮捕され、民生団嫌疑者を収容する獄につながれたのである。いつか彼女の家で夫と差し向かいで温かいヒエ飯にカラシナ漬けの食事をご馳走になった「王同志」が、彼女を棍棒で打ち、頭髪をつかんで振りまわした。しかし、遊撃隊員や革命大衆は審判場で彼女の処刑に反対した。彼女は処刑をまぬがれはしたものの、民生団嫌疑者の汚名をそそぐことはできなかった。
わたしは、神聖な革命を冒涜し、罪なき人たちを惨殺しようとする者たちによって人びとにかけられた民生団嫌疑の首かせをはずしてやったとき、彼女を司令部付き炊事隊員に任命した。張哲九が炊事を担当すると、われわれの食膳にはおかずの品数が増えた。彼女は味噌やしょう油、キムチの即製が上手だった。おそらくいまの人たちは、一日か二日でしょう油や味噌がつくれるといえば、信じようとしないであろう。大豆を焦げない程度にいって熱湯につけると、水が赤くなる。これに塩を入れて煮つめると、しょう油のようになるのである。また煮た大豆を壷に入れて熱い所に置くと、白っぽく発酵する。これに塩をふってわかしたものが納豆味噌で、味はメンタイの味噌汁にそっくりである。彼女がつくった即製の納豆味噌やミツバヒカゲゼリの漬け物は、隊員に祝日のご馳走のように喜ばれる高級料理であった。
彼女はまた、トウモロコシの胚芽をいって油を搾った。いつだったか、伝令の白鶴林が重病を患って寝込んだことがあった。ふだんなら樹皮のようなものでも食べるほどの彼が、やわらかいトウモロコシがゆさえ
も吐き気がするといって食べようとしなかった。張哲九は雪のなかからひからびた山菜を摘んできてあくを抜き、それをゆでてからトウモロコシの胚芽油でいためた。これを食べて、白鶴林は食欲をとりもどした。
張哲九は文字どおり遊撃隊の「オモニ」であった。部隊が出陣するときなどは、少年隊員のポケットにそっとおこげを入れてやったりもした。崔金山や白鶴林など少年伝令はもとより、呉仲洽や李東学のような古参の隊員も、張哲九には腹が減ったと遠慮なく言うのであった。
彼女が誰よりも可愛がったのは、部隊の末っ子である「おこげ大将」の李五松だった。張哲九は彼が遠くに姿を見せただけでも、おこげをチマに隠して走り寄り、彼のポケットに押し込んでやったものである。すると、李五松はそれを同じ年ごろの仲間と分けあって食べるのである。
わたしはそんな光景を目にするたびに、なぜ女のほうが男よりもずっと子どもたちによくなじみ、わけへだてのない仲になるのだろうか、と考えてみたものだった。男より女のほうが子どもにとって一生のあいだにより親しい肉親になるのは、衣食をはじめ子どもたちの面倒をみるのが主に母親だからだと思う。子どもたちの面倒をみるのは母親の務めである。だから「オモニ」という言葉の真意は、子を養い育てるもっとも慈しみ深い保護者だということなのであろう。
この保護者の使命を誠実に果たした張哲九は、われわれのもっとも親しみ深い「オモニ」となった。われわれがぐっすり寝入っている深夜にも、彼女は山菜を手入れし、臼(うす)をひき、箕(み)で穀物をふるうなど、翌日の食事の支度に余念がなかった。夜中に臼をひくときは、はげしい吹雪の夜でも、戸外でそれをした。彼女はいつも火の前で働くので、衣服も人一倍早く破れた。
ある日、密営で娯楽会が催され、彼女が指名された。戦友たちは誰もが彼女の歌を聞きたがった。料理の腕は確かなものだが、のどのほうはどうだろうかと期待をかけて拍手を送った。ところが、張哲九はいきなり立ち上がると、森のなかへ駆け込んでしまった。その唐突な行為に、みんなあっけにとられた。わたしは彼女を弁護した。
「哲九オモニが歌をうたわなかったからといって、気を悪くすることはない。オモニがみんなの前に立てなかったのは、衣服のためだったのだろう。みんなも知っているように、哲九オモニはつぎのあたった服を着ている。つぎはぎしたところは十か所以上にもなるだろう。そんな格好でみんなの前に立たされるオモニの気持を考えてみたまえ」
わたしの言葉にみな共感した。張哲九自身ものちに、あのとき自分が逃げたのは衣装のためだったと語った。
その後、わたしは小部隊を率いて戦いに出た折に、張哲九のために上等な服地を一着分買い求めた。一人の隊員に、値段のことは心配せずにいちばんよいものを選んで買ってくるようにと命じたところ、中年の女性に似合いそうなグレーの綿セルを手に入れてきた。生地についてはそれなりに明るい女性隊員が代わるがわる手に取ってみて、良質の服地だと請け合ったので、わたしも安心した。
わたしは、生前の母に一着の服もつくってあげられなかった。小沙河のアシ原のみすぼらしいわらぶき屋に病身の母を残して南満州遠征に向かうとき、見舞いに持っていった一斗のアワも同志たちが準備してくれたものだった。わたしが母のためにしたことがあるとすれば、たった一回、八道溝にいたころ、ゴム靴を一足買ってあげたことだけである。しかし、その金もじつは、運動靴代にと母からもらったもので、わたしが工面したものではなかった。母は、息子の誠意をただの一度も受けることなく世を去った。生前、一度としてわが子のおかげをこうむったことがなかった母は、没後も息子からひとくれの土もかけられず、一粒の涙もそそがれることなく、小沙河の岸辺にさびしく埋葬されたのである。哲九オモニのために服地を持って帰るとき、わたしの胸中には、生前も没後も息子のおかげをなに一つこうむることのなかった母への憐憫の情も宿っていた。
ところが戦闘を終えて密営に帰ってみると、わたしのいないあいだに、張哲九が金周賢の指示で後方病院に転属させられていた。彼女がなぜ司令部付き炊事隊から閑散な後方密営に移されたのか、その理由を知る者は誰もいなかった。帰隊した隊員たちはみな残念がった。わたしも気持がうつろになるのをどうすることもできなかった。
当時、部隊では炊事隊や裁縫隊、病院、兵器廠のような兵站部はすべて給養担当官が管轄することになっていた。だから給養担当官の金周賢が炊事隊員を他へ移したとしても、異とするにはあたらなかった。問題は司令部付きの炊事隊で全隊員から尊敬され愛されている、任務に忠実な張哲九がどんな理由で後方密営に移されたのかということだった。張哲九と一緒に密営に残っていた金正淑に聞いてみたが、彼女も知らなかった。
「後方病院のほうで哲九オモニをほしがったか、それともなにかやむをえない事情があったのではないでしょうか。哲九オモニは泣きながら密営を去りました。とてもつらそうなので、わたしのほうがかえって申しわけなく思うくらいでした」
金正淑は張哲九が後方病院へ向かったときの様子を話しながら、そっと目がしらをぬぐった。彼女が涙をこぼすのをみても、張哲九との別れが炊事隊員たちに痛ましい思いを残したのは疑いようもなかった。わたしもいましがた別れたかのような胸のうずきを覚えた。後方病院に送るにしても、わたしが帰ってからにすればよかったのだ、そうすれば彼女に服をつくってやることもできたではないか、と怨めしい思いさえした。ところが、わたしが本気で怒ったのは、金周賢から張哲九の転属理由を聞かされたときだった。
「わたしは、手斧事件以来、司令官同志の身辺は後ろ暗い点のない人たちだけでかためるべきだと考えたのです」
金周賢の言う張哲九の転属理由であった。彼が手斧事件で大きな衝撃を受け、司令部の護衛に万全を期すべく決心したのはうなずけることだった。司令部の安全を気づかう点では、金周賢は全隊の手本といえた。だからこそ、わたしも彼を格別に信頼し、愛したのである。
西間島全体が入隊熱で沸いていた一九三六年秋、われわれは志願者を集め補充中隊をいくつか編制して教官を送り、黒瞎子溝密営で速成訓練をおこなうことにした。ところが、この補充中隊の新入隊員のなかに、手斧と毒薬の袋を隠し持ち、わたしの殺害をはかる敵のまわし者がもぐりこんでいた。出身からすれば敵に吸収されるはずのない純朴な農村青年であったが、敵の権謀術数にはまって密偵に転落したらしかった。ある日、人民革命軍の服装をした敵兵が彼の家へ押し入り、「匪賊」のように振舞った。病身の母親の薬代に当てようと柴刈りをして得た金や食糧、ニワトリなどを手当たり次第に奪っていった。そのあと、宣撫工作班の男が現れ、彼の不幸を「慰め」る一方、自分らの要求を聞き入れるまで執拗に反共宣伝と脅迫を繰り返した。こうして、彼は不本意ながら反革命の手先になり、われわれの隊内に潜入したのである。しかし彼が買収された密偵であることは、誰も気づかなかった。密営にやってきたとき、腰に差してきた手斧を司令部の近くに隠してしまったので、彼が疑われるようなところはなにもなかった。あるとき、わたしは黒瞎子溝密営を訪れ、補充中隊の新入隊員たちが何日も乾葉(ひば)のかゆで飢えをしのいでいることを知った。苦労を覚悟で遊撃隊に入った人たちだとはいえ、わが家を離れてまだ幾月もたっておらず、苦難に慣れてもいない新入隊員たちなので、十分な事前教育をほどこさないと弱気になり、動揺しないともかぎらなかった。それでわたしはその夜、新入隊員たちを集めて、こんな話をした。
――諸君は父母妻子のいる心地よいわが家をあとにし、野外で寒さにふるえながら乾葉で飢えをしのがなければならないのだから、心の動揺が起きないともかぎらない。しかし、国を取りもどそうと出で立った青年たちが大志を貫くためには、こんな苦労も我慢して耐え抜かなければならない。われわれはいまは苦しい境遇にあるが、祖国を解放したあかつきには、こうして戦ったことに誇りをいだくようになるだろう。われわれは祖国を解放したのち、三千里の国土に住みよい人民の国を建てようとしている。搾取する人間も、抑圧される人間もいない、誰もが平等な権利をもってひとしく豊かに暮らせる人民の楽園をつくろうというのだ。工場も土地も人民の所有とし、すべての人の生活を保障し、教育と治療も国が責任をもっておこなう民衆第一の国を建てようというのだ。そのときには、世界の人びとがわが国に来てみてうらやむことだろう。
新入隊員のなかには敵から密偵の任務を受けた例の青年もいた。彼はわたしの話を聞いて、自分が敵にだまされ、りっぱな人を害しようとしていたことに気づいた。そして、たとえ厳罰に処せられようとも、いさぎよく自首しようと考えた。彼は決心どおり、わたしの前に手斧と毒薬の袋を差し出して自分の正体を明かした。その素直な告白を聞いて、われわれは寛大に彼を許した。
この出来事に衝撃を受けた指揮官たちは、それぞれ自分なりの教訓を引き出した。司令部の護衛にもっと力を入れなくてはならないと考える者、入隊審査を厳格にして、偶然分子や異分子の潜入を防ごうと考える者、さらには西間島全域で敵の手先や悪質な反動分子を一掃する闘争を大衆的にくりひろげ、一人のスパイや密偵も密営に近づけないようにしようと考える者もいた。
金周賢の考えはそれら以上に複雑であった。
「わたしはそのとき、司令部の護衛に万全を期するためには司令部の内外に深い注意をめぐらすべきだと考えました。敵は外におり、内部にはいないなどとは断言できませんし、外部の敵がカモフラージュして、われわれの内部にひそんでいる反動分子や動揺分子と連係をつけないともかぎらないではありませんか。経歴の複雑な人たちを司令部のまわりに置くべきではない、とわたしが考えたのはそのためです」
彼の言葉によると、結局、張哲九のような民生団の嫌疑者は司令部付き炊事隊員の資格がないということになる。わたしは口惜しさと憤りをおさえることができなかった。ひたすら誠実に革命につくしている純朴で実直な彼女を、どうしてそのように冷たく扱うことができたのだろうか。あれほどおおらかで思慮深い金周賢がこんな途方もない失策をしでかしたと思うと、よけい腹にすえかねた。わたしは語気を荒だてて言った。
「きみがわたしの安全をはかり、いつも気をつかってくれることには感謝している。しかし、きょうはきみに少し痛い忠告をしようと思う。張哲九オモニにたいしては、きみも、実直で勤勉な人情深い女性だとたびたびほめてきた。それなのに、どうして彼女への信頼がそれほどもろく崩れたのか。彼女はわれわれみんなの母がわり、姉がわりとなってきた。われわれに三度三度欠かさず温かいご飯、温かい汁をつくってくれたのは誰だったのか。哲九オモニだった。もし彼女が悪い女だったとしたら、われわれはとっくにこの世の人ではなくなっているはずだ。われわれを殺害する機会はいくらでもあったではないか。しかし、われわれは哲九オモニがつくるご飯を数百回も食べていながら、みな無事でいる。これは哲九オモニが疑いをかけられるいわれが少しもない堅実な女性であり、以前、彼女にかけられた民生団の疑いがまったく不当なものであることを証明して余りある」
金周賢は後日わたしに、あのときのように冷や汗をかいたことはなかった、と述懐した。実際、わたしは金周賢がそんなとんでもない失策をするとは夢にも思わなかった。彼は革命経歴の古い老練な軍・政幹部であった。われわれはいつも同じ釜の飯を食って過ごし、一つの机に向かいあって活動について討議し、心を一つにしてきた。わたしの路線や意図を誰よりも熟知しているはずの金周賢が、共産主義者としての信義や道徳に背いて、人の運命をこれほど非人情に扱ったとは、どうにも理解できないことだった。わたしは批判をつづけた。
「われわれが馬鞍山で民生団の調書包みを焼き払ってからもう半年が過ぎた。人びとの心のしこりもほとんどなくなっている。ところが、きみはなんのために、そのしこりをいまさらほじくりだすのだ。いまからでも張哲九は山をおりれば、再婚をし、暖かい部屋でご飯を食べながら安らかに暮らせるのだ。しかし彼女はそういう道を選ばず、われわれと一緒に苦しい山の生活を送っている。革命を志し、われわれを信頼しているからではないか。ところがきみは、彼女を司令部から追い出し、彼女にたいするわたしの信頼まで偽りのものにしてしまった。いったいわれわれは、ふだんは信頼していると見せかけて包容し、ことあるときは平気で追い出すような卑劣な人間だったというのか。信頼には偽りというものはありえないのだ」
金周賢はその日のうちに後方病院から張哲九を連れもどし、翌日は裁縫隊員たちに督促して、彼女の衣服をつくってきた。しかし、張哲九は金周賢の指示をいつも忠実に果たしながらも彼を敬遠した。
たまに密営の小道や食堂で二人が会うような機会があっても、敬礼をするだけで、自分から言葉をかけようとはしなかった。指示を求めるときは他の炊事隊員を彼のもとへ送った。
張哲九が後方病院で過ごした日数は一瞬にすぎないといえる。しかしその数日のことが忘れられず、彼女は長いあいだ心の傷をいやせなかった。不信が人間関係に及ぼす破壊力ははかり知れないほど大きいものである。ちりほどの不信が一生の恨みを買い、十年来の友情にも瞬時にひびが入るのである。
張哲九が司令部付き炊事隊にもどってから、密営は活気を取りもどした。食べ物の味もたちまち変わった。同じトウモロコシがゆでも、以前に比べてずっとおいしくなるのだから不思議である。それは、彼女のつくるものにまごころがこもっているからである。じつのところ、張哲九は腕利きの調理師というわけではなかった。だが彼女は前にもまして一生懸命に働いた。わたしの好むものであれば十里の道もいとわず求めてきた。ある日、わたしは十九道溝を通りかかったとき李勲の家で食事をもてなされ、オニタイミンガサの葉で飯を包んで食べた。はじめて食べるその味は、チシャの葉以上であった。密営に帰って閑談中、そのことを話すと、張哲九はさっそく数里も先の十九道溝へ行き、オニタイミンガサをどっさりかかえてきた。その後、白頭山密営地でオニタイミンガサの生えているところを見つけ出しさえした。
張哲九は湿気の多い炊事場の近くで木の枝や枯れ葉を敷き、体を丸めて寝るのがつねだった。そうした無理がたたって、右腕が次第に麻痺してきた。そのうえ熱病にまでかかった。わたしは彼女を安図県五道揚岔の谷間に送り、治療させた。「看護兵」の任務をおびて同行したのは朴正淑と白鶴林であった。のちには金正淑が彼女の看護を担当した。彼らは張哲九の介護のためずいぶん苦労をした。わたしも池鳳孫伝達長を伴って、五道揚岔にあった彼女の小屋を一度訪ねたことがある。
張哲九は数十日後、熱病から立ち直ったが、右腕の麻痺は治せなかった。そのため炊事はもちろん、銃の操作もままならなかった。自分が部隊の重荷になったと思い、張哲九は毎日、苦悩にもだえた。そして自分が部隊に残っていては戦友たちに負担をかけるだけだと思うようになった。一九四〇年代の初、隊内の身障者や老弱者をソ連に送ることにしたとき、彼女は同行を申し出た。別離を前に、張哲九はいつもはめていた銀の指輪を金正淑に贈り、朝鮮が独立したらまた会おうと約束した。しかし、その約束は果たされなかった。張哲九は、金正淑の死を遠い異境で聞いたのである。金正淑に贈られた銀の指輪はいま、朝鮮革命博物館に保存されている。
張哲九と一緒に司令部の炊事を担当していた人のなかには、連合東という名の中国人隊員もいた。彼は中国料理が上手だった。張哲九が誠実な炊事係であったとすれば、連合東は腕利きの調理師であった。彼がわれわれの部隊に入隊したのは一九三六年冬のことである。彼は入隊後、しばらく張哲九から遊撃隊の調理法を学び、張哲九は彼から中国料理のつくりかたを教わった。そうするうちに二人はたいへん親密な間柄になった。張哲九がソ連へ向かうとき、連合東は非常にさびしがり、中国料理を一包みつくって哲九オモニの背のうにつめこんだ。張哲九も彼と別れるのをとても名残惜しがった。
連合東の入隊は、思いがけない邂逅(かいこう)劇とかかわっていた。その主人公は、吉林で戒律を破り酒と豚肉を好んで飲食していた例のイスラム教徒馬金斗である。馬金斗は、わたしとは吉林毓文中学校時代の同窓であるばかりでなく、八道溝小学校時代の校友でもあった。
八道溝時代の知己のなかには印象深い人たちが多かった。八道溝警察署長の息子黎賢章もわたしとは浅からぬ因縁があった。彼も八道溝小学校の同窓で、父親はわたしの父の治療を受けていた患者の一人だった。それで恩返しにと祝祭日には欠かさず贈り物を持ってわが家を訪れたものである。わたしは西間島地域で遊撃活動をおこなっていたころ、黎賢章の紹介で八道溝警察署長とも連係をつけた。そのときの署長は黎賢章の父親ではなく、ほかの人であったが、彼もまた良心的な人間だった。彼はわれわれと戦わないことを約束してからは、革命軍に送る人民の援護物資にはいっさい手をつけずに通過させた。それでわれわれは長白県内の他の地区はすべてたたきながらも、八道溝だけは一度も攻撃しなかった。
馬金斗は性格が特異であったが、私生活も並外れたところがあった。早くも中学校時代に結婚をしたが、それも同時に二人の女性を妻に迎えたのである。二人の妻は姉妹であった。最初は姉と愛しあい婚約したのだったが、姉の使いをしていた妹が彼に思いを寄せ、恋の病にかかったので、やむをえず両親は娘を二人とも彼にやったのである。金にこと欠かなかった馬金斗は妻にも恵まれたわけである。
わたしは出獄して吉林を去って以来、馬金斗の消息についてはなにも聞いていなかった。ところが、運命のいたずらといおうか、彼とは銃口を向け合う敵同士となっていた。われわれが白頭山に進出した年の冬のことだった。馬金斗は二道崗の満州国警察「討伐隊」の隊長を務めていた。二道崗は黒瞎子溝密営からもっとも近い敵の主要「討伐」拠点で、満州国警察「討伐隊」のほかに、咸興第七四連隊から派遣された数百名の日本軍「討伐隊」が駐屯していた。わたしは最初、馬金斗が満州国警察「討伐隊」の隊長をしていることを知らなかった。その年の秋、二度目か三度目の二道崗襲撃戦闘のさい、隊員たちが逃亡した満州国警察「討伐隊」の隊長宅を捜索中、拳銃を手にして隠れている隊長の妻と調理師を見つけて引っ立ててきた。ところがなんと、その隊長の妻というのが馬金斗に嫁いだ妹のほうだったのである。
馬金斗の吉林での結婚式には、わたしも招待されて参加したので、すぐに彼女だとわかった。彼女もわたしを覚えていた。じつに劇的な出会いであった。彼女の話によると、馬金斗は早くも四人の子をもつ父親だった。自分は男の子を二人、姉のほうは女の子を二人もうけたという。彼女は、夫はいまも吉林時代のことが話題にのぼると金成柱先生のことを回顧している、その先生がどうして「
わたしは彼女に語った。
――あなたたちが「共匪隊長」だと言っている
馬金斗の妻は、「
馬金斗の妻は、
ところが、調理師は馬金斗の妻にはついて帰らず、わたしのところにやってきて入隊を申し出た。この調理師がほかならぬ連合東だったのである。彼は、馬金斗の二人の妻が一人の夫をはさんでいがみあっているので、ほとほと閉口した、革命軍に入れてほしいと言うのだった。
「わたしは馬金斗隊長から金成柱先生のことをいろいろと聞いています。その金成柱先生がほかならぬ
わたしは彼の入隊を許した。そのころ、魏拯民が横山後方密営で治療を受けていたので、彼に中国料理をつくってやれる調理師ができたのがうれしかった。隊内には彼の口に合う中国料理をつくれるほどの人がいなかったので、わたしだけでなく、金周賢もたいへんつらい思いをしていた矢先であった。わたしは連合東をしばらくのあいだ魏拯民のもとへ送って、彼の面倒をみさせた。魏拯民は、彼が一流の料理店で働いても遜色のない調理師だと言って、ことさら大事にした。連合東はそれ以来、日本帝国主義が敗亡し、一九四五年九月にわれわれが祖国に帰るまで、ずっとわたしのもとで炊事隊員を務めた。彼は同じ材料を使っても多種多様な料理がつくれる、特殊な才能の持ち主だった。彼は飯は大釜で炊くにかぎると言って、いつも大釜を背負って歩いたものである。
一九四〇年代の前半期、ソ満国境地帯の訓練基地にいたころ、われわれは中国の同志たちとともに、ソ連軍とも連合軍を編制してたびたび合同演習をしたものだが、そのたびに連合東の料理の腕が広く知れ渡り、中国側の指揮官はもとより、ソ連側の指揮官たちもわれわれの野戦食堂へよくやってきたものである。ある日、連合東がつくった中国料理を味わった周保中は、彼を譲ってくれないかと冗談まじりに言った。すると安吉が、それは結構な話だと請け合った。これがまじめなやりとりと勘違いされて、連合東の耳にまで入った。泣き顔になってわたしのところへやってきた彼は、自分を中国人部隊に移すというのは本当かとただした。
「どの部隊へ移ることになるかはわからないが、きみを欲しがる人が多くて困っている。ソ連の同志たちもきみを欲しいと言っている。ソ連の同志たちがどうしてもと言えば、そちらへ行くほかないかも知れない」
わたしの返答を聞いて、彼は飛び上がらんばかりに驚いた。そして、自分は中国人部隊にもソ連軍部隊にも決して行かない、といちずなまなざしで言った。
彼の言ったことが本心であったことを、わたしは日本の敗亡直後いっそうはっきりと知った。解放された祖国に来るとき、わたしは彼を呼び、十年近くの労をねぎらったあと、彼を周保中部隊に編入させることにした党組織の決定を伝えた。周保中は、連合東が自分の部隊へ来れば、連隊長に任命すると約束していた。連合東はそう言われると、ぜひとも朝鮮へ連れていってほしいと懇願した。
「いまはもう将軍のそばを離れては生きていけません。わたしが中国人だからといって、必ず中国で暮らさなければならないという法はないでしょう。連隊長だろうとなんだろうとみな願い下げです。わたしを将軍のそばにいられるようにだけしてください。日本軍の銃剣も満州の風も引き裂けなかった情誼ではありませんか。国籍が違うからといって、その情誼をむりやりに断ち切る必要がどこにありましょうか」
連合東の言葉にわたしは感動した。そこには、革命の途上で同志のために血も涙も流し、あらゆる艱難をなめた人ならではの人生観が集約されていた。彼の言葉どおり、人間は山河に引きつけられて生きるのではなく、人情に引きつけられて生きるのだといえる。白頭の密林と満州の広野で抗日闘士たちを一つの大家庭に結びつけたのもやはり情誼であり、愛であった。人間の住むところに情誼がなく愛がなければ、山河も光を失うものである。連合東がわれわれと行動をともにしたいと強く願ったのは、国際主義精神の崇高な現れでもあった。
わたしも本当は彼を手放したくなかったが、こう言って諭した。
――どうしてもと言うなら好きなようにするがよい。わたしもきみとは別れたくない。国籍などどうでもよい。ただ、きみの立場が苦しくなりはしないかと、それが心配なだけだ。きみも承知のとおり、中国はいま内戦前夜にある。わたしは中国革命を支援するため姜健をはじめ多くの朝鮮人軍・政幹部と闘士たちを送ることを周保中に約束した。朝鮮人が中国革命を支援しようとしているとき、中国人のきみが自国の革命に顔をそむけて朝鮮へ行くとしたら、誰でもおかしく思うだろう。きみ自身も決して穏やかな気持ではいられないのではないか。
連合東は中国への道を選んだ。彼は中国革命が勝利したら朝鮮へ行くから、そのときは平壌美人を妻に選んでほしい、と冗談まで言った。けれども、わたしは彼の望みをかなえてやることができなかった。彼は連隊長になって蒋介石国民党軍と勇敢に戦い、戦死したのである。その悲しい知らせを聞いて、わたしは彼を朝鮮に連れてこなかったことを悔やんだ。しかし、連合東は新中国の創建をめざす革命戦争に貴い生命をささげ、中国人民の心にいつまでも生きつづけることになった。
連合東は朝鮮に来られなかったが、そのかわり遠い中央アジア地方へ行っていた張哲九が朝鮮戦争後われわれを訪ねてきた。彼女が帰国して間もなく、白頭山時代の戦友たちが一堂に会した。彼女はわたしに電話をくれた。
「将軍、白頭山時代の同志たちがみな集まりました。時間をつくって参加していただけませんか。二十年ぶりにつくったトウモロコシがゆを、将軍にも味わっていただきたいのです。遠い他国から手ぶらで帰ったものですから、将軍に差し上げられるものはトウモロコシがゆしかありません」
わたしはぜひとも参加したかったが、事情が許さなかった。
「ありがたいことだが、わたしはこれから地方へ出かけるところです。人民と約束したことなので、取り消すことができません。またの機会にしてもらいましょう」
その日、戦友たちは白頭山でのように焚き火で炊いたトウモロコシがゆで舌づつみを打ったという。それ以来、わたしは白頭山時代がなつかしく思い出されると、張哲九にトウモロコシがゆをつくってくれるように頼んだものである。
張哲九はわたしの家の向かいの高台に住居を定めて暮らした。彼女はわたしの家を足しげく訪れた。わたしも暇を見つけては、彼女の家を訪問したものである。
祖国に帰ってから彼女がしたことは主に、若い人たちに白頭山でともに戦った戦友たちの話を語って聞かせることだった。
張哲九は一九八二年に死去した。彼女の死はわたしに大きな衝撃を与えた。彼女が息を引き取ったとき、わたしは生みの親を失ったような悲しみにとらわれた。彼女はまごころをつくして、わたしを実の弟のようにいたわってくれた。それは実母の愛に劣らぬものだった。
われわれは革命武力の建設で大きな功労を立てた闘士と同じように、彼女を国葬に付した。その平凡な女性を後の世の人たちもいつまでも忘れないよう、大城山の革命烈士陵には胸像を立て、彼女をモデルにした劇映画『しゃくなげ』もつくった。
わたしが平壌商業大学に彼女の名を冠したところ、人民はみな喜んだ。平壌商業大学に平凡な炊事隊員の名を冠したのは、職業の貴賎を問うことなく人民の生活上の便宜と食・衣・住の向上をはかって献身的に働く、サービス部門関係者や隠れた英雄を高く評価する朝鮮式社会主義制度のもとでのみ見られることだとして、感動したのである。
平壌商業大学を張哲九大学と命名するとき、わたしは新しい世代が彼女のように革命の任務に忠実な働き手になることを願ってやまなかった。
第十七章 朝鮮は生きている
(一九三七年五月~一九三七年六月)
1 普天堡の炎 一
普天堡戦闘の歴史的側面については、すでに多くの人によって十分に研究され詳述されているが、この戦闘をじかに策定し指揮したわたしにとっては、精神的体験や思い出話が少なくない。いまもなお、半世紀前の数々の情景が生々しく浮かんでくる。
普天堡戦闘は一言でいって、生き別れを余儀なくされた母と子の再会にひとしい出来事であったといえよう。祖国は普天堡に響いた銃声を機に、自分をもっとも大切にし愛する忠実な息子、娘に会うことができた。言いかえれば、この戦闘は亡国史の流れを解放に向けかえた決定的な契機の一つであったとも表現することができる。
わたしは解放後、祖国に帰り、抗日武装闘争時期の戦闘談を聞かせてほしいと各界人士から要請されるたびに、普天堡戦闘について話すのがつねだった。戦果の面からみれば、これより規模の大きい戦闘はいくらでもあった。普天堡を討ったとき、われわれが殺傷した軍警の数は実際はわずかなものであった。にもかかわらず、わたしは抗日戦争当時の主要戦闘を紹介するときには、いつもこの戦闘を最上位にあげている。それは、他の戦闘に比べこの戦闘をとくに重視しているからである。
普天堡戦闘については、多くの人がその実相を知りたがった。敵側の損失や被害状況などは、すでに戦闘直後に紙上を通して紹介されたので、こと新しく確かめるまでもなかったが、その作戦の動機については誰もが好奇心をいだいた。要するに、どうして普天堡戦闘をおこなうことになったのか、国境付近にはその程度の郡や村落が数十もあるのに、選りに選って普天堡を攻めたのはなぜか、といったことである。
われわれが普天堡戦闘をおこなったのは、広義には民族再生の転機をもたらすためであり、狭義には抗日革命闘争の決定的な段階、質的飛躍をもたらすためであったといえる。朝鮮の民族史は血涙に染まっていた。これは日本帝国主義が強要したものである。それで朝鮮民族は抗戦を開始した。武装闘争は朝鮮の息子たちが選択した抗日の意志であり、手段であった。われわれは反帝反封建民主主義革命のスローガンをかかげ、一方では武装闘争を進め、他方では党組織の建設をはかり、もう一方では統一戦線運動と反帝共同戦線運動を展開しながら抗日革命をおし進めてきた。この過程には難関も多かった。一部の人は、朝鮮人が朝鮮革命のスローガンをかかげてたたかうことまで犯罪視し、彼らの党利党略に服従するよう要求しさえした。
わたしは革命の道に踏み出した当初から、つねに思考の出発点を朝鮮革命においた。たとえわが身は異国にあっても、心はいつも祖国と同胞のもとにはせていた。一九二〇年代の後半期から、われわれが異国の地でおこなった活動はすべて、祖国を思い、祖国の解放を果たさんがためであった。われわれは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命の旗をかかげてたたかうのはわれわれの堂々たる権利であり、義務であると強く主張した。
南湖頭会議では、他の諸問題とともに武装闘争を国内に拡大することが重要な問題として論議された。この会議を通して示された朝鮮共産主義者の志向は、朝鮮に進出して銃声をとどろかすことであった。言いか
えれば、活動範囲を国内深くに拡大し、朝鮮革命を高揚させようということであった。一九三〇年代前半期までのわれわれの主な活動範囲は満州地方であった。抗日遊撃隊の創建と前後して国内にも何回となく出入りしたが、それは限られた活動であった。
一九三〇年代前半期のわれわれの活動は、主に力を蓄える段階であったといえる。朝鮮共産主義者の武装隊伍は数個師団を編制できるほどに成長した。これをもって国内に進出すれば、なしえないことはなかった。白頭山に構えて狼林山に一個師団、冠帽峰に一個師団、太白山に一個師団、智異山に一個師団というふうに四方に武装部隊を派遣して根拠地を設け、敵に連続打撃を加えるならば、朝鮮半島をるつぼのごとくわき立たせ、二千三百万朝鮮民族を全民抗争の場に奮い立たせることができる。結果的には、われわれ自身の力で祖国解放の宿望を果たす大路を開くことができる。これは南湖頭と東崗、西崗などでの一連の会議で重ねて論議された民族史の要求、抗日革命発展の総括であった。
一九三七年の春、われわれは西崗で数年にわたる武装闘争の過程を総括し、大部隊による国内進出を当面の課題としてうちだし、それにもとづいて必要な実務的措置を講じた。その措置により、人民革命軍を三つの方向に進出させる具体的な軍事作戦案が立てられた。それによれば、崔賢部隊は撫松から安図、和竜をへて豆満江沿岸の北部国境一帯に進出し、いま一つの部隊は臨江、長白一帯に進出し、わたしの率いる主力部隊は、敵の攻撃が二つの部隊に集中するとき、恵山方面に進攻してはなばなしく銃声をあげることになっていた。この作戦の総体的目的は国内の敵を討つことにあった。臨江と長白一帯に進出する第二師の活動も、いわば国内に進攻する二個部隊の活動をバックアップするのが目的であった。ところが、朝鮮人民のなかには日本軍の強大さに幻惑されている人が少なくなかった。彼らは日本軍がたちどころに満州を席捲してしまったことに驚愕し、世界にこういう軍隊にかなう軍隊はないとまで思い込んでいた。さらには、日本のような強国を相手に独立戦争をするというのは、タマゴをもって石に投ずるがごとき、こっけいで無謀な行動だと言う者もいた。
いろいろな兆侯からして、日本帝国主義が中国本土に侵略戦争を拡大するであろうことは、火を見るよりも明らかであった。中日戦争は時間の問題となっていた。日本軍が勢いに乗じて戦争の火の手を拡大するにつれ、「無敵皇軍」にたいする恐怖と幻惑はいちだんと増幅するに違いなかった。敵の強大さにたいする幻惑は、革命意識を眠り込ませる麻酔剤にひとしいものである。この麻酔剤の作用をなくすには、日本軍にたいする神話をうち破らなければならなかった。日本軍は強力ではあるが、討てば倒すことも壊滅させることもできるということを目のあたりに示さなければならなかった。
われわれが約五年のあいだ、北間島と西間島を中心に展開した武装闘争は、日本軍の神話を余すところなくうち破ってしまった。しかし、きびしい報道管制とゆがめられた宣伝のため、われわれの戦果は国内深くにまでは事実どおりに知られていなかった。このようなときにわれわれが大部隊で国内に進撃すれば、全国が驚嘆と感激にわき、人民は日本帝国主義を打倒して朝鮮を独立させる軍隊がいると喜ぶだろう。祖国の解放をなしとげる朝鮮の革命軍がいるという誇りと自負、これこそ二千三百万の同胞が勇躍祖国解放戦線に奮い立つ力と意志の基礎なのである。これがまさに、国内進攻作戦にのぞむわれわれの一貫した戦略的意図であった。
そのころ、わたしは二つの点に思索を集中していた。一つは、国内のめぼしい軍事要衝を攻撃して全国に衝撃を与えることであり、いま一つは、地下組織網を稠密に張りめぐらして全人民を反日抗戦に備えさせることであった。そうして祖国解放の決定的な時期が到来すれば、武装闘争と全人民の蜂起を結合して日本帝国主義を撃滅し、独立を達成しようということであった。これは多量の血と汗を要する困難な戦略ではあるが、他に道はなかった。白頭山地区と西間島一帯でのわれわれの活動はすべて、この戦略の実現に向けられていた。
国内進攻を間近にしてのわたしのいちばん大きな関心事は、祖国の実情をくわしく知ることであった。出版物だけでは国内の実情をつぶさに知ることができなかった。それで、国内に行ってきた工作員たちとよく話を交わした。ときには国内で活動中の地下組織員を呼び寄せて国内の実情を聞きもした。実情資料は新しい統計数字や衝撃的な事件にのみあるのではなかった。市場の風物や安宿の女将の愚痴からも、御用新聞のつまらぬ報道記事ではわからない重要な資料を集めることができた。そのうちでも、わたしがもっとも重視したのは人民の動向であった。人民がどのような苦痛をなめており、なにを考えているのかが、わたしの主な関心事だった。
その年の四月か五月だったと思う。満浦方面に出かけて帰ってきた武装グループの一員が、わたしに活動報告をしたとき、山中で目撃したことだと言ってこんな話をした。
「なんと、手足が針金のように細い十歳そこそこの男の子たちが、松林で枯れ枝を拾っているではありませんか。わけを聞いてみると、学校でうっかり朝鮮語を使って殴られ、罰金を科されたので、焚き木を拾っているというのです。その子どもたちはみな普通学校(小学校)の二年生でした」
彼がその子たちから聞いた話によれば、日本人教員は木剣で子どもたちの足や背中をみみずばれがするほど痛めつけ、頭に水おけをかぶせて運動場に長時間正座させたうえ、罰金まで科したそうである。そのクラスでは朝鮮語を一言使えば五銭、二言使えば十銭、三回以上は退学だという。他の学校やクラスではまだそんな罰則をもうけていなかったが、日本人の教員が受け持ったそのクラスにかぎって「国語常用」を強要しているというのである。朝鮮語を使った子どもに罰金を払わせたというのは、とくに驚くほどのことでもなかった。国を丸ごと奪い取った日本帝国主義者であってみれば、できないことなどはない。以前から、朝鮮総督府当局が朝鮮人に日本語の使用を強制しようとやっきになっているという話をよく耳にしていた。慶尚北道のある普通学校では、すでに一九三一年の末から強制的に朝鮮語の使用を禁止した。一九三七年の春、総督府当局は、朝鮮の各級官公庁にいっさいの公文書を日本語で作成するよう指示した。こうした事柄は、日本の治下では必然的であって、こと新しい現象ではなかった。それでも、わたしはこみあげる憤怒をこらえることができなかった。
人間が言葉まで奪われてしまえば、人間としては知能を失った痴呆となり、民族が言葉を奪われれば、その民族であることを放棄するのと同じである。民族の表徴のうちで、血筋の共通性とともに言語の共通性がもっとも重要な要素となるのは世界公認のことである。民族語は民族の精神ともいえる。したがって言葉を奪い抹殺するのは、民族の全構成員から舌を切り取り、魂を奪うにひとしい残虐無道な所業である。領土と国権を失った民族にとって、残るものは言葉と精神しかない。だから、日本帝国主義者は全朝鮮民族を生ける屍にしようとしているのである。「皇民化」の本質は、朝鮮人を日本人とまったく同じ「一等国民」にして白米のご飯を食べさせようというのでなく、毎朝「宮城遙拝」や「神社参拝」をし、「皇国臣民の誓詞」を唱える日本国民の従僕にしようということであった。言葉を奪われることは少数の人の不幸や犠牲だけですむ問題ではなかった。それは全民族の運命にかかわる問題であり、二千三百万の同胞を一列に並ばせ、彼らすべてを一刀のもとに斬り伏せるような大殺りくと変わりなかった。
植民地主義者の第一の特質が野蛮さと貪欲さ、鉄面皮さにあるということは一つの常識である。国籍と皮膚の色に関係なく、他国を強奪した者はいずれも暴虐かつ狡猾で厚顔無恥な輩であった。しかし、わたしは他国の言葉と文字を奪う者、他国の人民に自分たちの神社を拝ませるという下劣かつ厚顔無恥の植民地主義者は、いまだに見たことがない。
朝鮮民族の運命がこんな境涯に陥っているというのか。武装グループがもたらした知らせは、わたしの血をたぎらせた。(一日も早く祖国に進軍して、敵に思い知らせてやろう。朝鮮民族は生きている、朝鮮民族は自分の言葉と文字を絶対に捨てはしない、朝鮮民族は「内鮮一体」や「同祖同根」を認めず、「皇民化」を拒否する、朝鮮民族は日本が滅びるまで武器を手放さず抗戦をつづけるということを示そう。それは早いほどよい)
一九三七年の五月初め、わたしはいま一つの思いがけない国内ニュースに接した。朝鮮共産主義運動の大物李載裕が逮捕されたという『毎日申報』特別号の詳報を目にしたのである。それは四ぺージ刷りの大特集であった。それには、警察に六回も逮捕され、六回とも脱出した李載裕が七回目に逮捕された経緯と、彼の経歴がオーバーといえるほどくわしく載っていた。新聞は李載裕を「朝鮮共産運動潰滅の最後の陣」、共産主義運動「二十年の歴史最後の大物」などとし、彼の逮捕によって朝鮮共産主義運動は終わりを告げるにいたったと喧伝していた。ブルジョア政治は一般的に知的トリックによるものだが、その提灯持ちの官報の活字の裏には、いつも支配階級の腹黒い意図が隠されているものである。『毎日申報』のその号外も例外ではなかった。総督府の密室にこもって反共を専業とする老獪な策士たちが、ある狙いをもって仕組んだ芝居であるということがすぐに読みとれた。
李載裕が名だたる共産主義者であることは事実である。彼は三水の出身だった。日本へ渡って苦学をした彼は労働運動に参加し、帰国後はソウルを活動舞台として共産主義運動をおこなったが、主に太平洋労組を担当して咸興一帯まで行き来し、各地方の労組、農組運動を指導した。聞くところによれば、度胸があり、臨機応変の機知と変装術にも長け、逮捕されるたびに脱出に成功したという。新聞は、もうこれ以上脱出は不可能であるから、朝鮮共産主義運動は最後の幕を下ろしたようなものだと断言した。
共産主義運動にたいする日本帝国主義の執拗な弾圧と謀略宣伝は、実際に多くの人を惑わせていた。そういう点で敵はかなりの効果をあげたことになる。数回にわたる大検挙で共産党が崩壊し、わずかに残った個々の共産主義者までもが李載裕の逮捕によって活動の終末を告げたというのであるから、その失望と挫折感は言いようもないものだった。共産主義運動を学問として研究していた人びとも、虚無感にとらわれて気を落とす傾向が少なくなかった。敵は標的を正確に選んだわけである。それは朝鮮民族を精神的に武装解除させることであった。その目的達成の助けになるのであれば、彼らはいかなる暴言や甘言もはばからなかった。日本帝国主義者は、一方では銃口を向け「服従するか、それとも死ぬか」と威圧し、他方では「さあ『同祖同根』で『内鮮一体』なのだから神社参拝も一緒にしよう」「満州には『王道楽土』に『五族協和』の花が咲き、日本には桜の花のなかに福祉が待っているから、満州か日本に行って長者になれ」「南方では綿を植え、北方では羊を飼い、大日本臣民となって全アジアを牛耳ってみよ」などと甘い言辞を弄して懐柔をはかった。
朝鮮民族が直面しているもっとも恐ろしい悲劇的な事態は、精神の崩壊という点にあった。日本帝国主義の独裁機関から流行歌を吹き込んだレコードにいたるまで、あらゆるものが朝鮮を抹殺し、朝鮮民族の魂を根こそぎにすることに集中していた。朝鮮は人間の住めない生き地獄に変わった。東邦の朝鮮には漆黒の闇夜のような暗黒が果てしなくつづいていた。その闇夜は日がたち月が過ぎても白むことを知らなかった。
(このいらだたしい従属の夜、屈辱の夜に終止符を打てないなら、われわれがどうして朝鮮の偉丈夫と言えようか。一日も早く祖国へ進出しよう。祖国に進出して長い悪夢に苦しむ民族の魂に生気をよみがえらせよう)
これが祖国進軍の準備を進めていた日々、われわれ指揮官と隊員たちの頭にこびりついていた考えであった。
天上水と小徳水をへて五月中旬、地陽渓台地にいたったわれわれは、そこで国内進攻のための隊伍の整備と各種の教宣活動を展開した。一方、国内情勢をよりくわしく把握するために朴達を呼び寄せた。彼はただならぬニュースをもたらした。恵山、甲山方面から敵の国境警備兵力が大々的に北上し、崔賢部隊が進出している茂山方面に向かっているというのである。その情報が確かなものであれば、崔賢部隊は包囲をまぬがれない。もちろん、こういう事態をまったく予期しなかったわけではなかったが、敵が革命軍の動きにそのように即刻反応を示したのは予想外だった。
西崗会議後、崔賢が部隊を率いて作戦地域へ向かったのは一九三七年四月ごろであった。わたしは彼が出発するとき、安図へ行ったら李道善部隊に注意せよと話した。李道善部隊は満州地方の「討伐隊」のうちでも、もっとも悪らつな部隊であった。李道善は安図に来て、はじめは小沙河の大地主双秉俊の私兵隊長を務めた。そのころ彼が放蕩三昧の生活をし、小作人を銃剣で乱暴に扱っているということは、わたしもずいぶん耳にした。遊撃隊の襲撃で何度かひどい目にあった彼は、貧乏人はみな共産党の味方だといって、ともすれば村落を奇襲しては焼き払ったり、村人の首を斬ったりした。そのため、住民のなかには彼にたいする怨念が積もっていた。特級の手先にふさわしい李道善の野獣のような気質を十分に知っている日本帝国主義者は、彼を間島地区警備司令部傘下の安図「討伐隊」隊長に任命した。この部隊は革命に恨みをいだく有産階級出身のならず者たちで構成されていた。李道善の特技といえば、一度手にかけた対象は生かして帰さないことであった。彼は彼我ともに認める名射手だった。
崔賢は険しい山を伝って北上し、戦闘を重ねながら撫松の奥地へ敵を誘引してから、急に方向を変え安図地区に進出した。彼の部隊は金廠に到着したとたん難関に直面した。部隊が渡河すべき川が氾濫していたのである。一部の隊員が仮橋をかけるあいだ、部隊は休止することになった。隊員たちがちょうど寝入ったとき、いきなり李道善部隊が奇襲をかけてきた。金鉱のボタ山をはさんで熾烈な銃撃戦が展開された。この銃撃戦で周樹東が惜しくも戦死した。最初は敵が攻勢に出て一方的な攻撃をした。しかし、周樹東に代わって部隊の指揮を担当した崔賢は、不利な戦況をいちはやく収拾し、逆襲に転じて敵を痛撃した。銃撃戦がはげしく展開されているとき、李道善が逃げ出したと、金鉱労働者が叫んだ。彼らは、李道善の容貌をよく知っていたらしい。遊撃隊員たちは逃亡する李道善を追撃し、機銃掃射を浴びせて撃ち殺した。その日、崔賢部隊は逃走する敵を六キロ先まで追撃して撃滅した。
金廠戦闘は人民の恨みを見事に晴らした有名な戦闘であった。崔賢が李道善を射殺して「討伐隊」を全滅させたニュースは、当時の新聞に大きく報道された。崔賢はもともと名だたる猛将だった。崔賢部隊の茂山地区進出過程には胸の痛む犠牲もともなった。彼らは「第四師の花」と呼ばれていた李京姫を失った。彼女が戦死したという知らせを聞いて涙を流さない人はいなかった。李京姫の一家はみな革命活動の過程で倒れた愛国精神の強い家庭であった。彼女は幼いときに兄と叔父を失い、祖母まで亡くした。父親は遊撃隊員であった。李京姫も恨みをいだいて倒れた骨肉の仇を討とうと武装隊伍に加わった。最初、指揮官たちは彼女の入隊を許そうとしなかった。年のこともあったが、彼女まで戦地に出てしまえば李家を守る人が一人も残らなくなるからであった。ところが、李京姫があまりにも強く懇願するので、根負けして入隊を許してしまった。
戦友たちが李京姫を「第四師の花」と言って実の娘、実の妹のように可愛がったのは、彼女の容貌がきわだって美しく愛らしいうえに、手が器用で気立てがやさしかったからである。彼女の得意の踊りと歌は部隊の自慢の種でもあった。李京姫が入隊したとき、指揮官は彼女に拳銃を与えた。小柄でか細いこの娘には小銃は無理だと思ったからである。しかし、李京姫は拳銃で戦うのが物足りなくて騎兵銃をかついで歩いた。彼女が騎兵銃を肩にして踊りだすと、戦友たちは拍手でアンコールを求めたという。李京姫は部隊の雰囲気を明るくする非凡なわざをもっていた。たとえば、ある隊員が怒ったりしょげこんだりしていると、その隊員に気軽にまとわりついて笑わせたり甘えたりした。彼女が踊ったり歌ったりさえすれば、疲れてぐったりしていた隊員も活気を取りもどして起き上がるのだった。李京姫は針仕事も刺しゅうも上手だった。彼女がつくったタバコ入れは誰もが珍重し、自慢の種にした。ごわごわした草も、彼女の手にかかれば美味しい料理になったという。李京姫は「討伐隊」と遭遇して戦うたびに、わざと戦友のそばからひとり離れて銃座をとり、狙い撃ちにして倒した敵兵を一人二人と数えたものである。ある戦闘のときには、たてつづけに六人もの敵兵を撃ち倒したが、銃弾を装てんし替えているすきに二、三人の敵兵を逃がしてしまった。李京姫はそれが口惜しくて唇をかみ、泣きべそをかいたという。
普天堡戦闘の後、三つの方面で活動していた部隊が地陽渓に集まって軍民交歓集会を催したとき、崔賢はわたしに、李京姫の最期について報告しながら涙でハンカチをぬらした。この虎のような男の目から音もなくしたたり落ちる涙を目にしたとき、わたしは彼女の死がわれわれにとってどれほど悲痛な損失であったかを痛切に感じた。
崔賢が致命傷を負った李京姫を抱き起こしたとき、その指の間から血が止めどなく流れ出たという。
「…ここが祖国の地なんですね。祖国の土を踏めたのだから幸いです。みなさん、わたしの分までりっぱに戦ってください」
これが崔賢の腕に抱かれて息を引き取るとき、戦友たちに言い残した彼女の最期の言葉であった。
その後、李京姫の父親も国内工作のため会寧方面に出て、敵に虐殺された。こうして父と娘は祖国の地に葬られた。解放後、わたしの頼みで、彼女と同じ部隊にいた戦友たちが茂山地区に行って李京姫の遺骨を探すためにずいぶん努力したが、探し出せなかった。戦死した場所がはっきりしないうえに、あわただしく平土葬にしたので、探す手だてがなかったのである。
われわれは、このように戦友の血に染まった踏み石を一つひとつ渡って祖国へ進軍したのである。
崔賢部隊は茂山地区の紅岩一帯に進出して敵に打撃を与えたあと、満州境域にいったん姿を隠し、再び白頭山東南方にある日本人木材所の上興慶水里第七土場を襲撃し、枕峰方面に迅速に移動した。恵山、好仁、新坡などにいた特設警備隊と軍警は、道路に沿って枕(ペゲ)峰方面へ急遽出動した。崔賢はわたしに連絡員を送って、部隊が処している状況を簡単に知らせてきた。それでも彼は救援を求めなかった。彼がわたしに連絡員を送ったのは、敵の動静がしかじかだから作戦上参考にせよとのことであって、救援を求めるためではなかった。彼はもともと困難というものを認めない人間だった。崔賢のような老練な闘士であってみれば、最善をつくして難局を打開するであろうことは疑う余地もなかった。しかし戦局の推移をただ楽観視しているわけにはいかなかった。この突発的な事態は、われわれの作戦に深刻な影響を及ぼした。状況はわれわれに全面包囲の危機にさらされた崔賢部隊の救出と、国内進攻作戦とをともにおし進める妙策を模索せざるをえなくした。
わたしは指揮官たちを集めてつぎのような問題を提起した。
――第四師が包囲された。崔賢は自力で突破できると言っているが、その決心を信じてわれわれが手をこまぬいていてよいだろうか。もし、その決心が危ういのであれば、われわれはどうすべきか。国内進攻を後回しにして崔賢部隊から先に救出すべきか。それとも国内進攻作戦を先におこなったあとで、つづいて救出作戦を展開すべきか。さもなければ、主力部隊を二つに分けて二つの作戦を同時に遂行するのが妥当か。崔賢部隊を包囲から救うには、国内のどの地点を討つのが理想的か。
一同は緊張した面持ちでわたしを注視した。いずれ劣らず切迫した深刻な問題だったので、論議は最初から熱気をおびた。指揮官たちの意見をまとめると大きく二つに分かれた。その一つは、北方へ押し寄せた敵を背後から討ってまず崔賢部隊を救出し、その後、状況をうかがって適当な時期に国内進攻を断行しようというものであった。この意見は多くの指揮官に反対された。主力部隊が崔賢部隊の救出作戦から展開すれば、もちろん成功はするだろうが、われわれの銃声を聞いて北部朝鮮と西間島一帯の敵が機動コースをたどってどっと押し寄せてくる公算が強いから、かえって主力部隊が敵の包囲に陥る恐れがあるというのである。
もう一つの主張は、崔賢部隊は戦闘力が強いから、いかなる犠牲を払ってでも自力で包囲を突破する可能性がある、だから予定どおり一刻も早く国境最前線の恵山を討とうというのであった。そうなれば、敵も狼狽して崔賢部隊にたいする包囲を解き、銃声のあがるほうへ引き返すはずだというのである。しかし、この案もやはり弱点があるとして反対された。それは、崔賢部隊が戦闘力の強い部隊だとはいえ、度重なる戦闘と行軍のため包囲を突破する能力を失っているかも知れない、それに主力部隊が恵山を討ったからといって、そこから遠く離れた茂山地区へ北上している敵が、果たして崔賢部隊にたいする包囲の輪を解いて引き返すだろうかということである。
わたしはそのとき、二つの作戦を一つに結合する方策を示した。
――われわれは必ず国内へ進攻しなければならない。この作戦の変更や取り消しなどはありえない。また、われわれは至急、崔賢部隊を救出しなければならない。国内進攻を重視するからといって、革命の同志を死地に置き去りにすることはできない。だとすれば活路はどこにあるのか。それは国内のある地点を撃って二つの目的を同時に達成することである。
指揮官たちは「ある地点」という言葉に耳をそばだてた。李東学が一同に代わって、その地点とはどこなのかと尋ねた。
わたしは地図を指しながら説明した。
――われわれは、その地点の選択にあたってつぎのようなことを考慮すべきである。それは敵軍が集結している枕峰からあまり離れたところではなく、むしろ敵の鼻の先といえる間近なところでなければならないということである。それでこそ、国内進攻が二つの効果を表わすことができる。枕峰からいちばん近い要衝は、恵山との中間地点にある普天堡である。普天堡を討てば、枕峰方面に集中している敵は、われわれの主力部隊と崔賢部隊に逆包囲されるという恐れを感じて包囲追撃戦を放棄し、進出した界線から撤収するはずだ。普天堡を討てば、恵山を討つのに劣らず国内に強烈な衝撃を与えることができる。したがって国内進攻の目的もまた十分に達成できる。問題解決の鍵は普天堡を討つことにある。
わたしがこのような方策を示すと、指揮官たちはうなずいた。
わたしは彼らにつぎのように問題を投じた。
――普天堡を討つにはいろいろと考慮すべきことがある。第一に、数百名もの部隊が敵の稠密な国境監視網をすばやく突き抜けて敵を討ち、すばやく抜け出す電撃戦が可能か。第二に、この戦闘はたんなる銃撃戦でなく、国内の人民に勝利の信念を与えることが主たる目的であるから、銃撃戦と同時に強力かつ迅速な政治扇動をしなければならないが、それが可能か。第三に、この機会に革命軍武力と地下組織が一つの目標をめざす連合作戦の模範をつくりだすつもりだが、その実現が可能か。
この三つはどれもむずかしい問題であったためか、指揮官たちはまたもや緊張した表情になった。
そのとき、権永璧が重味のある声で静寂を破った。
「司令官同志、自信があります。命令だけ下してください!」
「なにか裏付けがあるのかね」
わたしは彼に、他に答えようがないことを知りながらも返答を促した。
「あります。普天堡は祖国ではありませんか!」
わたしは彼の答えを聞いたというよりは、自分が叫んだような気がした。どうして、彼の気持とわたしの気持がこのように一つなのだろうか。おそらく他の人たちも心のなかではそう答えたに違いない。それはじつに、すべての人の心に渦巻いていた答えであった。異郷の雨露と風雪にうたれながらも連戦連勝してきた朝鮮の共産主義者が、自分に生命を授け、魂をはぐくんでくれた愛する祖国の地でどうして勝利できないといえよう。
短い会議ではあったが、多くのことが討議された。しかし、その細かい事柄は歳月の年輪のなかに埋もれてしまった。ただ、いまなお生きいきと記憶しているのは「普天堡は祖国ではありませんか!」と自信にみちて叫んだ権永璧の声だけである。国内進攻という歴史的な出陣をひかえたそのときにも、われわれの心のなかには祖国という大いなる存在を強奪された亡国の民のうっ憤が渦巻いていたのである。
2 普天堡の炎 二
わたしは長白県十九道溝地陽渓で国内進攻のための隊伍を編制し、全隊員を夏の軍服に着替えさせた。見るからに真新しい軍服姿の隊伍が長蛇の列をなして地陽渓を後にした。正直な話、われわれの身じたくがあれほど充実していたときはなかったと思う。
この道は、たんなる作戦上の位置の移動ではなかった。それは亡国の恨みを胸に、異国の空の下で国を取りもどそうと奔走していた朝鮮の共産主義者が、祖国の地に銃声を高らかに響かせるため、数年来、犠牲を払って準備してきた道であった。それでわれわれは、長い別れの末に待ちこがれた父母を訪ねていく心情で、祖国の人民に革命軍の勇姿を示すべく服装や装具を最上のものでととのえたのである。
それまでの軍服といえば、てんでにつくられたりしたものもあった。革命軍の軍服は裁縫隊が受け持ってつくるのが通例だったが、人手の足りないときには住民地帯の婦人の手を借りることもあったので、なかには不格好なものもあった。ときには軍服と私服がまじり、服装がまちまちだったりした。わたしは国内進攻作戦を決心したときから、司令部で作成したデザインどおり、部隊の全員に新しい形の軍服をつくって着せることにした。新しいデザインでは、帽子には赤い星の帽章を、上着には襟章をつけた。そして男性隊員のズボンは遊撃活動に便利なように多少改造した乗馬服の形にし、女性隊員にはひだつきのスカートかズボンを着用させることにした。上着は男女とも従前どおりの詰襟だった。
わたしが六百着の軍服をつくらせるため、裁縫隊を含めた兵站部のメンバーを長白へ派遣したのは楊木頂子であった。あらゆる危険をともなう苦しい撫松遠征の途上にあった当時の状況からすれば、軍服などに気をつかうゆとりはなかった。軍服はさておき、当座の食糧調達が焦眉の急であった。しかし、わたしは祖国への進軍を見越して数百着の軍服製作を手配した。
六百着の軍服製作の任務にあたった呉仲洽と金周賢の苦労はなみたいていのものではなかった。呉仲洽の引率する給養工作班が西崗から長白へ向かうときの苦労については、幾人もの抗日闘士が回想したり証言したりしているが、その全容はいまなおつまびらかにされていない。われわれが撫松へ向けて北上行軍をするときには、不十分ながら鯉明水戦闘で手に入れた食糧を持って出発した。ところが、長白に向かう呉仲洽の給養工作班には一升ほどの食糧もなかった。隊員たちは空腹のため力がつきて足を運ぶことすらできなかった。水で飢えをしのぐのも一日か二日であって、いつまでもつづくものではない。彼らはひもじさのあまり断頭山のほうに足を向けた。そこへ行けば、断頭山戦闘のときに埋めておいた牛の頭にでもありつけるのではないかと考えたからであった。しかし、いざその場所に行ってみると、肉は獣に食いつくされ、骨だけが転がっていた。それでも、彼らはその骨を煮出した汁でいくらか元気を取りもどした。彼らは再び飢餓に襲われた。そのうえ一行は凍死の危険にまでさらされた。刃のような雪氷に服はずたずたに破れ、肌がのぞいて凍え死にしそうな状況だった。もし、祖国進軍という目前の大望を一瞬たりとも忘却したなら、彼らは撫松か長白の雪嶺でへたばり、永遠に雪の中に埋もれてしまったであろう。
金周賢の話によれば、呉仲洽の率いる給養工作班が小徳水に到着したときの姿は、あまりにもひどく涙なしには見られないほどだったという。息絶え絶えの彼らを小徳水の住民が迎え、形だけのぼろぼろの服をは
さみで切り取り、新しい服に着替えさせたのだが、全身に血に染まった氷がこびりついて傷口を塩水で消毒し、丹毒をぬかなければならなかったという。呉仲洽以下、全員が凍傷を負った。ところが驚いたことに、彼らは意識を取りもどすが早くミシンに向かったという。このことを知った小徳水の祖国光復会会員と村人たちは、先を争って彼らの治療を買って出た。遊撃隊員と人民は一心同体となり、必要な布地を手に入れ、六百着の軍服を仕立て上げたのである。
いつだったか、朴永純はわたしに、抗日革命闘争の時期に軍隊と人民が車廠子で体験した数々の苦労をありのままに話しても、いまの若い世代には信じられそうもないので、ひどいことは加減して話していると言っていたが、一理ある話である。抗日革命当時の苦難を身をもって体験していない人には、いくら想像力を働かしても、その実相はよく理解できないであろう。どの年だったか、ソ連の軍事雑誌が、ソ連の軍事思想の核心はソビエト愛国主義であるとしていた。わたしは、社会主義的愛国主義をソ連の軍事思想の核心とみなしたソ連の人たちの観点は正しいと思った。朝鮮人民革命軍の性格と活動に貫かれていた軍事思想もやはり、その核心をなしていたのは愛国愛民である。われわれは、抗日遊撃隊のすべての隊員がいつ、どこにあっても祖国と人民の真の解放者、誠実な守護者になるようたえず教育した。祖国のためであれば、死んで土くれになることも辞さない、まさにそこに抗日遊撃隊の生活に貫かれた愛国主義の本質があったのである。
呉仲洽が六百着の新調の軍服をととのえて地陽渓に現れたのは五月末であった。戦友の血と汗によってつくられた軍服で身なりを一新した行軍隊伍は、一九三七年六月初に十九道溝を発ち、二十道溝、二十一道溝、二十二道溝をへて口隅水山が間近に望めるところにたどり着いた。そのとき、われわれの道案内をしてくれたのは十九道溝に住む千鳳順であった。千鳳順は、前方に見えるのが燕巣峰台地で、鴨緑江をはさんで祖国の地である坤長徳と向かいあっていると言った。
部隊は口隅水山村でしばらく休息したのち、燕巣峰台地に登った。六月三日の早暁であった。祖国の山並みが背伸びをして、われわれを手まねきしているかのようだった。
その日、部隊は燕巣峰台地で行軍の疲れをほぐした。金雲信をはじめ先発隊のメンバーは口隅水堰に行って筏の橋を用意した。われわれは六月三日の夜、鴨緑江を渡った。
全員が渡河を終えるまで、わたしは名状しがたい緊張感で全身が締めつけられた。国境は第一、第二、第三の警備線でも足りず、第四線もの警備陣が張りめぐらされているという、ものものしい警備ぶりであった。三百個に余る北部国境地帯の警察署と警察官駐在所には、数千の兵力が配置され、その機動性も並のものではなかった。恵山警察署では国境特設警備隊なるものまで編制し、朝鮮人民革命軍の国内進出に備えていた。後日、その警備隊の隊長であった大川修一も、それが遊撃隊の「討伐」を基本目的とする精鋭部隊であったと率直に認めている。
国境地帯の警察官駐在所と出張所の建物のまわりには塹壕や土壁、鉄条網、木柵などの障害物で堡塁が築かれ、要所要所に監視台や交通壕が設けられていた。平安北道警察守備隊には飛行機もあり、機関銃を装備した二艘のモーターボート、それにサーチライトまで配備し、人間は言うまでもなく、ネズミや鳥の動きまで監視しようとするがごとき態勢であった。咸鏡北道守備隊にもモーターボートが一艘配備されているとのことだった。沿岸の警察機関にはいずれも機関銃、サーチライト、望遠鏡、鉄かぶとが支給されているとも言い、大部隊による国内浸透はほとんど不可能といってもよい状況だった。しかし、いくらきびしい国境警備といっても、われわれをしりごみさせることはできなかった。
口隅水堰の騒がしい流れの音がわれわれの渡河をかばってくれた。近代朝鮮の騒乱をきわめた民族史がその音に凝縮して諸事万端を告げているかのようであった。
部隊は時を移さず坤長徳に登った。そこはうっそうとした樹林に覆われたなだらかな丘陵であった。その夜、部隊は歩哨を立て、そこで宿営した。
翌日は朝から、坤長徳の林のなかで戦闘準備をととのえた。布告、ビラ、檄文を準備し、指揮官会議を開き、偵察も手配した。肝心なのは、掌握ずみの敵情を現地で再確認することであった。馬東煕と金確実に偵察任務を与えて普天堡の街へ派遣した。二人は純朴な農民夫婦を装い、それらしき口実をもうけてあちこちの機関に入っては巧みに情報を収集した。偵察は詳細をきわめ、その日の夜には、転勤する山林保護区主任の送別パーティーがあるという情報まで入手してきた。われわれはすでに、各ルートを通じて普天堡について十分に偵察しておいた。権永璧や李悌淳のルートも動員し、朴達のルートを通じても敵情を立体的に把握していたのである。
部隊は日が暮れてから坤長徳を下った。街に入ると、隊伍は数隊に分かれて所定の位置を占めた。わたしは街の入り口のドロの木の下に指揮所を定めた。そこから主要攻撃目標の警察官駐在所までの距離は、わずか百メートルそこそこであった。市街戦の場合、指揮所が市街から、これほど近いところに定められた例はほとんどないという。これが、普天堡戦闘の重要な特徴の一つであったといえる。指揮官たちは指揮所を市内からもう少し離れたところに定めるよう提言したが、わたしはそれを聞き入れなかった。市街戦の推移をそのつど把握できるところに指揮所を定め、自分自身が戦闘のまっただなかに突入しようというのがわたしの望みであった。
戦闘開始直前の情景のなかで、いまでも覚えているのは、指揮所に近い農家の庭で将棋を指していた人たちの姿である。地下活動のときだったら、その人たちに話しかけたり、横から手を教えたりしたであろう。十時きっかり、わたしは拳銃を高くかざして引金を引いた。十余年の歳月、祖国の同胞に語りたかったすべてのことが、その一発の銃声にこめられて夜の街に響きわたった。その銃声は詩人たちがうたっているように、母なる祖国への対面のメッセージであり、強盗日本帝国主義を懲罰の場に引き出す呼び出しの信号音であった。
わたしの銃声を合図に、四方から敵の機関を攻撃するすさまじい銃声が聞こえてきた。最初に、この土地の警官の巣窟であり、あらゆる暴圧と蛮行の牙城である警察官駐在所に攻撃のほこ先を向けた。呉白竜の機関銃が駐在所の窓をめがけて猛烈に火をふいた。わたしは山林保護区の事務所に多数の敵が集まるという情報にもとづき、そこにも猛攻を加えるよう命じた。またたく間に街中が修羅場と化した。伝令は矢つぎ早にドロの木の下に駆けつけ、戦況を報告した。わたしは、彼らが来るたびに、人民には絶対に被害が及ばないようにせよと厳命した。
しばらくして、街のあちこちから赤々と炎が燃えあがりはじめた。面事務所(町役場にあたる)、郵便局、山林保護区、消防会館などいくつもの敵の統治機関がいっせいに火炎につつまれた。街全体が煌々たるライトに照らしだされた舞台のように明るくなった。郵便局を捜索した隊員は、金庫のなかからかなりの日本のばら銭を発見した。彼らは、撤収するとき、それを市内のあちこちに全部投げ散らした。駐在所へ突入して「愛国婦人会寄贈」の銘を刻んだ機関銃を奪い取り、大喜びしていた呉白竜の姿がすこぶる印象的だった。
わたしは金周賢を先立たせて街の中心部に入った。あちこちの路地から人びとが集まってきた。最初は銃声を聞いてなにごとかとおじけづいていた人たちが、アジテーターのアピールを聞いて、路地という路地からいっせいに飛び出してきた。詩人趙基天は、そのときの情景を描写して「夜の海原のようにうねりどよめく群衆」と表現したが、まさにそのとおりだった。
群衆がわれわれを囲んでざわめくと、権永璧がわたしに近づいてそっと耳打ちした。どうみても、祖国の同胞に挨拶かたがた一言演説すべきだというのである。雲集した人びとを見渡すと、きらきらと輝く星のような視線がいっせいにわたしにそそがれていた。わたしは帽子をとった手を高く振りあげ、必勝の信念に貫かれた反日演説をした。
「みなさん、国が解放された日にまた会いましょう!」
演説を終えたあと、こういう言葉を残し、炎になめつくされる面事務所の前を発ったが、胸はうずき、刃物でえぐられるように痛んだ。われわれの誰もが、この小さな国境の街に心臓の一部分を残していく思いなのである。立ち去る心臓と残される心臓が、別れを前にして声もなく慟哭した。
部隊が坤長徳を登りつめたとき、意外なことが起こった。号令もないのに、急に隊伍が散り散りになるではないか。隊員は競うように土をすくって背のうに入れるのであった。指揮官も遅れまじと祖国の土をふところにおさめた。二十二万平方キロメートルの国土に比べれば、一握りの土はあまりにもわずかである。しかし、その一握りの土には三千里の祖国が盛られ、二千三百万の同胞が盛られていたのである。それは祖国のすべてのように貴いものであった。
きょうは一つの街を討ったが、明日は百、千の街を討とう。いまは一握りの土を抱いていくが、明日は全国土を解放して独立万歳を叫ぼう! われわれはこう誓いを立てながら再び鴨緑江を渡った。
普天堡戦闘は、大砲も飛行機も戦車もなしの小さな戦闘であった。小銃と機関銃に扇動演説が加わった普通の襲撃戦闘で、死傷者も多くなかった。わが方には戦死者がいなかった。あまりにも一方的な奇襲戦だったので、一部の隊員はかえって残念がるほどだった。だが、この戦闘は遊撃戦の要求を
戦争や戦闘の位置づけは軍事的意義のみではなく、その政治的意義によっても決まるものである。戦争が他の手段による政治の延長であることを知る人であれば、これは誰にでも難なく理解できることだと思う。こういう事理からすれば、われわれは非常に大きな戦いをおこなったといえる。普天堡戦闘は、朝鮮と満州大陸でアジアの帝王のようにふるまっていた日本帝国主義をもののみごとに打ちすえた痛快な戦闘であった。人民革命軍は、朝鮮総督府当局が治安維持に遺漏なしと大言壮語していた国内に進出し、一つの面所在地の統治機関を一撃のもとに掃討して日本帝国主義者をふるえあがらせた。彼らにしてみれば青天の霹靂ともいえる打撃であった。「後頭部をガアンと強打せられたる如く」「千日刈った茅一炬に帰せしめた観あり」という当時の軍警当事者の告白がそのことを証明している。
万国平和会議(〔8〕)場の門前で日本の罪悪を告発し、列強に独立を請願した朝鮮という弱小国に、世界五大強国の一員を自負する日本軍を容赦なくうちのめす革命軍があり、その軍勢が日本帝国主義者の構築した「金城鉄壁」をわけなく越えて侵略者にきびしい懲罰を加えたという事実は、世界的にも大きな反響を呼んだ。普天堡戦闘を通して、日本帝国主義は剣を振りおろせば真っ二つになり、火を放てばわらくずのようにもろく焼け失せる一種の廃物のような存在であることを示した。日や月の光さえ失われつつあった祖国の地にとって、普天堡の夜空に燃えあがった炎はまさに民族の再生を予告する曙光であった。
『東亜日報』『朝鮮日報』『京城日報』をはじめ国内の主要新聞は、いっせいにショッキングな見出しで普天堡戦闘のニュースを報じた。『同盟』通信、『東京日日新聞』『大阪朝日新聞』など日本のマス・メディアと『満州日日新聞』『満州報』『台湾日日新報』など中国の新聞もこの戦闘を大々的に報じた。ソ連のタス通信はもちろんのこと、『プラウダ』と『クラスノエ・ズナーミャ』もこの戦闘の報道に紙面を惜しまなかった。東方の植民地弱小国の辺境で響いた一発の銃声に、全世界が驚嘆し興奮した。ちょうどそのころ、ソ連の雑誌『太平洋』に「北部朝鮮地域におけるパルチザン運動」という題の記事が載ったが、日本帝国主義に抗するわれわれの闘争を比較的詳細に紹介していた。ソ連の出版物にわたしの名前と闘争ニュースが大きく報じられたのはそのときからだったように思う。
普天堡戦闘にかんする記事はエスペラント語雑誌『東方獅子』にも載った。『東方獅子』発行の趣旨は、日本帝国主義の残虐さと略奪性の暴露、抗日戦争の報道、東方文化の宣伝などにあった。この雑誌に載ったすべての記事は当該国での翻訳出版が許されていたので、普天堡戦闘のニュースはこの雑誌が配布される多くの国に広く伝えられた。
普天堡戦闘は、日本帝国主義の植民地支配に終止符を打ち、民族の独立と自主権を回復させようとする朝鮮人民の革命的意志と不屈の闘争精神を内外に広く示した。この戦闘を通して、朝鮮の共産主義者はその活動の全過程で終始一貫堅持してきた徹底した反帝的立場と自主的立場、断固たる実行力と有力な戦闘力を示威した。われわれはまたこの戦闘を通して、抗日武装闘争を主導している共産主義者こそは、祖国と民族をもっとも熱烈に愛する真の愛国者であり、民族解放偉業を成功裏に完遂していくもっとも献身的で責任ある闘士であることを示した。そして、祖国の人民に武装闘争を軸とする抗日革命の広場にこぞって馳せ参ずる契機をつくりだし、国内における党組織の建設と祖国光復会の組織建設を一気におし進めうる状況をもたらした。
普天堡戦闘のもっとも重要な意義は、朝鮮は滅びたと思っていた朝鮮人民に、朝鮮は死なずに生きているということを示しただけでなく、たたかえば必ず民族の独立と解放をなしとげることができるという確信を与えたところにある。
この戦闘は、国内の人民にじつに大きな衝撃を与えた。呂運亨(〔9〕)は、朝鮮人民革命軍が普天堡を襲撃したというニュースを聞いて現場へ飛んでいったという。この戦闘ニュースに接してかなり興奮したらしい。解放後、彼は平壌でわたしと会ったとき、こう語った。
「遊撃隊が普天堡を襲ったというニュースを聞き、二十余年来、日本人の支配のもとで辱められてきた亡国の民の悲しみがいっぺんに消えてしまうような気がしました。わたしはそのとき、普天堡へ行って膝を打ったものです。これで助かった、檀君朝鮮(〔 〕)は生きているのだと思うと、おのずと涙が出るではありませんか」
安偶生の話によれば、金九(〔 〕)も普天堡戦闘にただならぬ衝撃を受けたという。安偶生は長いあいだ上海臨時政府のもとで金九の秘書を務めた。
ある日、金九は新聞に目を通しているうちに、普天堡戦闘の記事を見つけた。そして興奮のあまり窓を開け放し、「倍達民族(〔 〕)は生きている」と何回も叫んだという。
そのとき金九は安偶生に、いまは時局が険しいときだ、中日戦争が間近となると、運動家をもって自任していた者はみないずことも知れず姿を隠してしまった、こんなときに
このエピソードは、金九をはじめ国内と海外の名望家が普天堡戦闘を機に、抗日武装戦争に直接参加していた共産主義者をどれほど信頼するようになったかを示す好例といえる。こうした雰囲気は、反日民族統一戦線に各階層の愛国人士を結束させる有利な条件となった。普天堡戦闘後、少なからぬ民族運動家がわれわれに好感をいだくようになった。そのときの認識が解放後にも持ちつづけられ、新朝鮮建設のための合作で大きな効力を発揮した。してみれば、われわれは普天堡戦闘のおかげを少なからずこうむったことになる。
わたしの八道溝時代の忘れられぬ友人である金鐘恒は、東京で新聞配達をしながら苦学していたとき、『朝日新聞』を通じて普天堡戦闘を知ったという。ある日の早朝、『朝日新聞』支局に行った彼は主人から、配達部数のほかに百部の新聞を余計に配達するよう指示された。どうしてだろうと思い新聞を広げてみると、
金鐘恒の実例が示しているように、普天堡戦闘は朝鮮の良心的な知性人の人生にも大きな変化をもたらした。普天堡の夜空に燃えあがったのろしは、朝鮮のすべての心ある人と愛国の志士に真の人生の座標を照らす灯火となったのである。
3 地陽渓での軍民交歓集会
普天堡を襲撃して帰路についた部隊が口隅水谷に着いたとき、隊員たちは指揮官を通じて、一日の休息をわたしに提言した。それまでの抗日戦争の路程で、隊員が司令部に休息を求めた例はほとんどなかったと思う。それほど彼らは疲労困憊していたのであろう。実際、そのころは隊員も指揮官も一日としてゆっくり休むことができなかった。坤長徳では丸一日を過ごしたが、みな興奮して一睡もしなかった。それでも疲労を覚えなかったのに、戦いが一段落ついたので、全隊の緊張がゆるんだのであろう。隊員も指揮官もいっときの休息をとりたいと望んでいた。わたし自身も疲労と睡眠不足を覚えていた。それに、口隅水谷の村民まで、指揮官たちに休んでいくようにとすすめた。餅をつき、豚もつぶしたから、村民の誠意を無にしないでほしいと言うのである。空腹をかかえていた隊員たちは、餅と豚肉と聞いて気がそそられた。こうして連隊政治委員たちまで加わって、口隅水谷村民の誠意を受け入れようと申し出たのである。
けれども、わたしは休息命令を下すことができなかった。こういうときこそ、指揮官は警戒心を高めなければならないのである。国境を越えたからといって気をゆるめれば、大きな災厄に見舞われかねなかった。国境一帯の守備隊に非常動員令が下り、たいへんな騒動が起こっていることは目に見えており、その兵力がいつ、われわれに戦いを挑むか知れなかった。敵がわれわれを追撃してくるのは前例からしても間違いなかった。敵がわれわれの後方と側面にいつ押し寄せ、前方に現れるのはいつだろうか。ざっと推算してみても、口隅水谷に半時間以上とどまるのは許されないと思われた。戸数がいくらにもならない小さな村で、数百名の軍隊と荷を運ぶ人たちに短時間内に食事をとらせるのは難しかった。
わたしは戦利品の一部を村民に分け与え、各隊員の背のうに握り飯を入れるよう指示し、普天堡から荷を運んできた人たちの一部を送り帰した。そして全隊員と残った荷運びの人たちを引き連れて口隅水山に登った。わたしはなぜか、この山が戦場になりそうな予感がした。口隅水山は傾斜が六十度に達する岩山で、重い荷を背負って登るのは容易でなかった。先に登る者が不注意で石ころ一つ転がしても、それが連鎖反応を起こして恐ろしい石なだれにならないともかぎらなかった。それで伝令の白鶴林を送って、石を転がさないよう再三注意を与えた。みんなが前の人の足を支えて押しあげながら、用心深くよじ登っていった。
部隊が頂上に着くと、汗をぬぐうひまもなく戦闘配置をした。地形の特性を考慮して石を落とす作戦を組み合わせることにし、全員で要所要所に石を集めるようにした。そのあと、握り飯で簡単な朝食をとらせた。頂から見おろすと、われわれがとったコースをたどって早くも敵兵が群れをなして登ってきていた。それは国境特設警備隊で、隊長は大川修一であった。敵は気負い立って接近してきた。彼らが陣地から三十メートルほどまで近づいたとき、わたしは射撃の号令をかけた。高地では小銃と機関銃がいっせいに火をふいた。わたしも小銃で敵兵を狙い撃ちにした。敵兵は岩のすき間を伝って死にもの狂いで這い上がってきた。こんなときは銃を撃っても効果がないので、石を転がすよう命じた。隊員たちは石を転がしはじめた。小汪清防衛戦のときトンガリ山で石を落として戦った経験があり、口隅水山でまたやってみたが、その威力はたいへんなものだった。
この戦闘で隊員たちは、いま一度その腕のほどを示した。普天堡を襲撃したときは敵に反攻のすきを与え
なかったので、戦闘はわれわれの一方的な攻撃であっけなく終わってしまった。しかし、口隅水山戦闘はそういうわけにはいかなかった。敵の攻撃は執拗をきわめ、それだけに戦いがいがあった。突撃ラッパが鳴り響くと、呉白竜は猛虎のように駆けおりて、真っ先に敵の機関銃手を倒した。そして、ぶんどった機関銃をわたしのほうに向けて力強く振ってみせた。金雲信は大男の敵兵とはげしく渡りあい、ついに擲弾筒を奪い取った。
西側から遅ればせに押し寄せた満州国軍は、われわれの猛烈な攻撃ぶりに恐れをなし、遠くから何発か撃っては高見の見物をするだけだった。わたしは機関銃手たちに、そっちへ向けて少しばかり撃てと命じた。満州国軍が近くでうろうろするとき、空へ向けて撃つのは間島時代からの一つの慣例だった。満州国軍がそれを要請していた。われわれがそうしてやれば、彼らも革命軍にたいする「討伐」をせず、しばらく撃つような真似をするだけで引き揚げたものである。
この日、防御隊も栗田大尉が率いる恵山守備隊の攻撃を撃退した。
普天堡から荷を運んできた人たちは、口隅水山戦闘をはじめから終わりまで見て、人民革命軍の威力に大いに感嘆した。彼らは敵の敗亡ぶりもしっかり見届けた。そのとき彼らが体験したさまざまなことがらは無言の教材となった。荷運びの人たちは口隅水山戦闘まで目撃して、人民革命軍の戦闘的威力を再確認し、日本軍は「天下無敵」を豪語しているが、実際に天下無敵なのは日本軍ではなく朝鮮人民革命軍であることを新たに認識したのである。普天堡戦闘と口隅水山戦闘における人民革命軍の戦いぶりについては、高木健夫も激賞している。
後日、朴達はわたしに、あのとき口隅水山戦闘で生き残った敵兵はすっかり度胆を抜かれ、しばらくはどこへも出撃できなかったと言った。口隅水山戦闘で危うく命拾いした「討伐隊」のなかに、朴達と知り合いの朝鮮人巡査がいたが、よほど抜け目のない男だったらしい。その巡査は口隅水山に登りながら遊撃隊員の足跡を見つけ、山頂には間違いなく伏兵がいると直感した。それでゲートルを巻き直すふりをしながら日本人巡査たちをやりすごした。日本人巡査たちが山頂にほとんど近づいたとき、機関銃の音と手榴弾の炸裂音が山をゆるがし、悲鳴があがった。彼は山の下へ逃げ、戦闘が終わるまで川のふちに隠れていた。彼はこうしてうまく頭を働かせたので生きて帰れたと、朴達に自慢した。
口隅水山戦闘で奇跡的に生き残った国境特設警備隊長の大川修一は、数年前まで日本で平凡な市民生活を送っていたらしい。彼は晩年、その敗け戦を回想して文章を書いた。わたしはそれを読んではじめて、大川が口隅水山で重傷を負ったことを知った。人民革命軍の銃弾が彼の舌を射ぬいたという。負傷にしてはそれこそいまわしい傷を負ったものである。彼は長いあいだ入院治療を受けたが、傷は思うように治らなかったようだ。癒えない銃創の痕を出して見せている大川の写真はわたしも見た。大川もまた、旧日本のあまたの軍警と同様、悪名高い「皇道精神」のいけにえになったのである。
口隅水山戦闘での勝利は、その後の間三峰における戦果とともに普天堡戦闘の成果をかため、朝鮮人民革命軍の戦闘的威力と不敗性をいま一度誇示するものだった。国境一帯の敵は恐怖におののいた。敵側の文書では、口隅水山戦闘で彼らが「多数の敵」を掃滅したとしているが、それはまったくの捏造(ねつぞう)である。わが方には一名の戦死者もいなかった。敵は死体を運び出すために口隅水山近辺の村々から人民を強制的に駆り出し、戸板や布団を手当たり次第に徴発した。結局われわれは、恵山へ渡ってたたこうとした敵を口隅水山で撃滅したわけである。結果的には、最初、恵山進攻作戦によって達成しようとした目的が口隅水山戦闘によって十分に達成されたのである。
われわれは口隅水山戦闘後、敵の包囲を無事抜け出して帰った崔賢部隊と感激的な再会をした。崔賢の履き物や衣服は見るにたえないほどであった。彼はわたしに会うと、普天堡と口隅水山でのわれわれの戦果を口をきわめてほめそやした。そして、こんなことを言うのだった。
「わたしらは枕峰の付近で敵の包囲に陥ったが、彼らはにわかに包囲を解いて逃げてしまった。将軍、これはいったいどうしたわけなんだろう」
わたしは崔賢の第四師を救出するため、普天堡を襲撃することにしたその間のいきさつを手短に話した。崔賢はそれを聞いて豪快に笑った。
「きゃつらが引き揚げるのを見て天の助けと思ったが、結局は将軍のおかげだったんですな。いや、まったく大したものだ」
彼は「きゃつら」という代名詞をさかんに使ったが、それは彼が日本軍警をののしるときによく口にする卑称だった。
わたしは彼に、第四師の戦友たちに会ってみたいから案内してほしいと言った。すると彼は苦い顔をして、いまはそうするわけにいかないと言うのだった。なぜかと問いただすと、隊員たちの格好があまりにも無様だからだと答えた。わたしは金海山を呼んで、第四師の隊員たちに軍服を支給するよう指示した。それは国内進攻を前にしてつくった六百着のうち、崔賢部隊の分としてとっておいたものである。崔賢が言ったとおり、第四師の戦友たちの身なりは見るにたえなかった。ぼろぼろの衣服と日に焼けた赤銅色の顔は、彼らが踏み分けてきた苦難の道のりをそのまま物語っていた。崔賢は新しい服に着替え、ひげをそってから、わたしのところに来て正式にその間の活動状況を報告した。戦果はなみなみならぬものであった。
われわれは地陽渓で、第一軍第二師の戦友たちとも会った。第二師も任務をりっぱに遂行した。わたしは第四師と第二師の戦友たちに、主力部隊の国内進攻作戦を側面と後方から支援し、協力してくれたことに謝意を表した。西崗会議の決定にしたがって三つの方面に進出した革命軍の各部隊は、このように集結場に内定していた地陽渓の台地に集まり、戦闘的な友誼を分かちあった。新緑のしみる台地は祝日のような雰囲気につつまれ、痛快な武勲談が交わされた。
西崗会議の方針を貫くなかでおさめた革命軍各部隊の戦果は、それらを目撃した白頭山地区の人民に格別大きな喜びを与えた。朴達の組織ルートから入った通報によると、甲山、豊山、三水一帯の人びとは老いも若きも、革命軍が自分たちの地域を解放してくれる日が近づいたと語りあい、熱気にあふれているとのことだった。
崔賢の報告のなかで特異だったのは、上興慶水里の第七土場を襲撃したときに捕らえた河島という日本人についての話だった。この木材所は恵山に本所をもつ一つの作業支所で、河島はその現場責任者であった。第四師の戦友たちが彼を地陽渓まで連行してきたのは、彼が朝鮮語に堪能で、朝鮮の女性を妻にしている興味ある人物だということもあり、彼を人質にして軍資金を手に入れようという考えもあってのことだったという。
崔賢は、河島の運命を決める問題で全光や朴得範らと口論した、彼らは河島を処刑せよと強圧を加えてくるが、将軍はどう思うかと聞いた。わたしは、処刑などとんでもないことだと言下に反対した。
「河島が日本人だから処刑すべきだというのは理不尽だ。彼が在郷軍人で木材所の現場責任者だとはいえ、朝鮮人民に罪業を働いていないというなら、なんのために処刑するのか。人間の運命にかかわる問題は慎重に扱うべきだ」
崔賢はわたしの意見に同感だと言った。その日、わたしは河島に会ってみた。一言、二言話してみたが、予想以上に朝鮮語が上手だった。革命軍が怖くないかと聞くと、最初は不安だったが、いまはそうでないとのことだった。彼は、日本当局は遊撃隊を「匪賊」だと言っている、ところが今度革命軍について歩いてみると、そんな宣伝がうそだとわかった、匪賊なら他人の財産を奪うはずだが、そういうことは一度も目撃できなかった、遊撃隊はただ朝鮮の独立に努めているだけだ、何日も空腹に苦しみながらも主人のいない畑には入ろうとしない、どうにかして食べ物がいくらか手に入っても仲間に譲っている、こんな軍隊をどうして匪賊だといえようか、と言うのである。
わたしは崔賢、全光、朴得範に、河島は別に罪を犯しているわけではないし、ものの見方もしっかりしている、だからよく説諭して無事に送り帰すべきだと話した。
後日、組織ルートからの通報によれば、河島は木材所に帰ると、「朝鮮遊撃隊は匪賊ではなく、綱紀のすぐれた革命軍」だ、日本軍に滅ぼされるような弱兵ではないと宣伝したという。彼は警察に連行されても、自分の目で見たことだと言って、同じことを繰り返した。警察当局は彼に「赤色分子」というレッテルをはって日本へ追い帰した。河島が人民革命軍について語った話の要旨は当時、国内の新聞にも掲載された。
崔賢はその新聞記事を読んで、「河島は遊撃隊で食べた飯代をきちんと払った。将軍がなぜ彼を釈放しろと言ったのか、いまになっては納得がいく」と大笑した。
わたしは河島の例を通して、たとえ日本人であってもみながみな悪いと見るべきではなく、彼らの現在の行為と思想傾向によって慎重に処理すべきであることを改めて確信するようになった。
部隊が地陽渓に到着した日、十九道溝の区長李勲がわたしを訪ねてきた。彼は、普天堡と口隅水山での戦勝を祝って、村民が粗末なものだが食べ物を少しばかり用意しているから、軍民が一緒に食事をしてはどうだろうかと言った。李勲の口ぶりから察すると、いつものように簡単に昼食をもてなそうというのではなく、村をあげての祝宴を張りたいという意向のようだった。遊撃隊員の数は数百名にもなる。その彼らに一膳飯を出すとしても、十九道溝の人たちには大きな負担になる。彼らにそんな迷惑をかけることはできなかった。それで、食事の準備はしないでほしいと断った。
ところが、わたしの言葉であればいつも従順にしたがった李勲が、今度ばかりは聞き入れようとせず、人民の気持を汲んでほしい、いまとなってはどうしようもないと懇願するのである。
「将軍、これはわたし一個人のお願いではありません。十九道溝の民心です。これだけはどうか受けてください。わたしが将軍から断られて帰れば、村の女性たちまでわたしを大馬鹿者だといって石を投げつけないともかぎりません。それはまあわたしが我慢するとしても、全村が落胆するのは目に見えています。これをどうすればいいのですか」
こうまで言われると、区長の要請を拒みきれなくなった。人民の誠意をむげに退けて地陽渓を急に発ってしまえば、村民はどんなにがっかりし、遊撃隊員たちはまたなんと残念がることだろうか。
わたしは李勲に、こうなったからには、民家に分かれて食事をするより軍民がひとところに集まり、心ゆくまで楽しんではどうだろうか、端午も間近いのだから、軍民交歓集会と名づけて、その日は地陽渓の台地で白昼これ見よがしに盛大な祝賀集会を催そう、軍民が一つにとけあって互いに励まし、情誼を分かちあえるようにしよう、天地をどよもすほどの娯楽会や運動会も開いて、みんながいっさいの憂さを振り払い、楽しく端午を過ごそうと話した。
この案には第四師と第二師の指揮官たちも賛成した。願いがかない、李勲は相好をくずして喜んだ。遊撃区の解散後、軍民合同の行事を試みたのはこのときがはじめてであった。
軍民交歓集会の会場に内定した徳富洞は、李悌淳、金雲信、馬東煕、金周賢、池泰環、金一らが切り開いた革命村で、県都から数里も離れた台地にあり、巡査や区長もたまにしかやってこなかった。敵の統治機関もかなり遠くにあった。徳富洞からいちばん近い隅勒洞駐在所にしても、山道で遠く離れていた。われわれが徳富洞を集会の場に選んだのは、こうした点を十分に考慮したうえでのことだった。徳富洞からはその後、多くの青年が遊撃隊に入隊した。
わたしは五十数名の兵士、指揮官と一緒に、祖国光復会支会長の安徳勲の家で旅装を解いた。李悌淳が十九道溝で最初に手を結んだのが李勲と安徳勲だった。われわれは普天堡戦闘の前にもこの家に寄り、その後も立ち寄ってはなにかと世話になった。安徳勲一家は遊撃隊の援護に熱心だった。弟の安徳洙も堅実な人だった。彼はわれわれの活動を献身的に助けてくれた。
徳富洞には宋という姓の財産家がいた。国はどうなろうと、自分ひとり豊かに暮らせればそれでいいという親日傾向の強い地主だった。彼が金持だと知った工作員たちが、ある日、安徳勲の家へ宋と李勲を呼んで、遊撃隊を援護してほしいと頼んだ。そこへ地下組織メンバーの李勲まで呼んだのは、それなりの思惑があってのことだった。李勲が先にどれほど出すと言えば、宋も黙ってはいられないはずだった。それに工作員が李勲に乱暴な言葉づかいをすれば、地下組織のメンバーである彼の正体もより巧みに偽装できるはずだった。事は思いどおりに運んだ。李勲が先に村を代表していくらを出すと言うと、宋は工作員の要求を拒めず、百五十元出すと答えた。あとのたたりを恐れて、しぶしぶ出したのである。宋は工作員に百五十元も提供したことが口惜しくてならず、その腹いせに、安徳勲の家に遊撃隊の工作員が大勢出入りしている、と駐在所に勤める義弟に告げ口をした。そのことを知った李勲は、工作員と相談して安徳勲を遊撃隊に入隊させ、家族は朝鮮国内へ移す措置をとった。そういう緊急策を講じなかったなら、安徳勲一家はきっと皆殺しにされたであろう。一九三七年の夏か秋だったか、敵は「赤の村」ということで徳富洞を焼き払ってしまった。
わたしは安徳勲の家で十九道溝の有志と第二師、第四師の指揮官とともに、軍民交歓集会の細かいプランを組んだ。村の青年たちはそのとき、製麺器を五十余りもつくった。軍民は家々に集まり、夜が更けるのも忘れて歌をうたい、昔話に興じた。千鳳順の普天堡偵察談は毎回爆笑をさそった。
一九三七年五月末、千鳳順は隅勒洞出身の遊撃隊員金雲信から、普天堡の敵の武装装備と兵力配置状態を探るようにというわたしの指示を受けた。彼は普天堡の街に住む親類を通して、警察官駐在所には巡査が七名おり、軽機関銃も一挺あるということ、山林保護区事務所には日本人が五名いるが、主任は間もなく転勤するということ、民家は二百戸ほどだということなどを知った。けれども、それを自分で確かめずには信じるわけにいかなかった。ある日、普天堡の街に入った千鳳順は飲食店で酒を飲み、千鳥足で駐在所前の雑貨店に入った。彼は酒にひどく酔ったふりをして、一円札があったはずだがどこへいったのだろうとつぶやきながら、ふるえる手でポケットをまさぐった。そして五円札を一枚取り出し、「うん、一円札がここにあったわい」と言って、「マコー」というタバコを一箱買った。当時「マコー」は一箱五銭だった。五円を出したのだから、おつりは四円九十五銭になるはずだった。ところが、ずるがしこい女主人は、千鳳順が酔っぱらって五円札と一円札の区別がつかないのだろうと思い、九十五銭渡した。千鳳順の思惑どおりになったのである。彼は女主人に、五円札を出したのになんで九十五銭しかくれないのか、四円をもっと出せと言った。女主人は、いかさま師め、一円をくれておいて五円を出したなんて、よくもそんなずうずうしいことが言えたもんだ、さっさと失せろとののしった。こうして口論がはじまった。五円だ、一円だと言い争った末、女のほうが、駐在所の味を知らないからそんな言いがかりをつけるんだろうと脅かすと、千鳳順が、それじゃお巡りさんのところへ行って黒白をつけてもらおうと言った。女主人は駐在所が自分の肩を持つだろうと思ったのか、彼の言葉に応じた。二人は駐在所でも口ぎたなく言い争った。どちらも自分のほうが正しいと言い張るので、駐在所側も是非の判断がつかず口論を傍観するだけだった。千鳳順はそのあいだに、巡査の人数、機関銃や小銃の数などを確かめた。そして巡査に向かって、それじゃ一緒に店へ行ってみましょう、わたしが出した五円札は破れてまんなかに紙がはってある、それがあればわたしが白だし、なければこの女が白ですと言って当直の巡査を店へ連れ出した。千鳳順の言葉どおり、金庫のなかにはまんなかに紙をはった五円札があった。しかし女主人は、それは朝ほかの客が出したものだと言い張った。結局、このもめごとでは女主人に軍配があがった。千鳳順は彼女に「おかみさん、ずるがしこく立ちまわって、どっさり金でももうけるんだな」と捨てぜりふを残して店を出た。店主は不正直な女だったが、ありがたかった。彼女でなかったら、駐在所に入り込む口実が見つからなかったからである。
徳富洞の地下組織メンバーは千鳳順の偵察談を聞いて勇気がわき、誇らしくなった。人民革命軍の国内進攻作戦に村の地下組織メンバーが一役買ったのだから、大きな自慢の種になったのである。
全村が交歓集会の準備におおわらわになっていたとき、興をそぐ偵察情報が入った。満州国軍混成旅団長が人民革命軍を「討伐」するため長白を発ち、韓家溝方面に軍を出動させたというのである。われわれは崔賢部隊と組んで正面から戦いを挑み、敵を一撃のもとに撃滅した。旅団の敗残兵たちは革命軍の猛攻ぶりに仰天し、大勢の同僚を失ったその戦場への道を「狼牙道」と呼んだ。「狼牙道」とは文字どおり「狼の牙のような道」という意味である。
この戦闘によって、革命軍の権威はさらに高まった。戦利品のなかには、交歓集会をうるおす食品も多かった。
晴れ渡った端午の日、地陽渓の台地では軍民交歓集会が開かれた。三つの部隊が一か所に集まったので、広い台地はすっかり軍人で埋まった。祖国光復会の会員だけでも数百名も集まった。朝鮮民族解放同盟からも代表が送られてきた。各村の区長が秘密保持のため敵の手先を巧みによそへ誘導したので、集会は終始、自由な雰囲気のなかで進められた。この日は軍人と人民が別々に席を定めず、互いに入り交じって座をとった。年寄りたちが大勢参加したのがなによりもうれしかった。食べ物を囲んで車座をつくり、みなが存分に楽しみあった。村人たちが用意した食べ物のなかでいちばん人気があったのは、ヨモギ餅とヤマボクチの餅だった。
わたしは崔賢と一緒に、李勲、安徳勲の案内を受け年寄りたち一人ひとりと挨拶を交わした。ついで青壮年や女性たちの前を歩きながらみんなに挨拶した。彼らはみな、人民革命軍の国内進攻作戦を誠意をもって援助してくれたありがたい人たちだった。
チマ・チョゴリ姿で集会場に現れた女性隊員もいた。昼も夜も脱ぐことのできなかった軍服をしばし脱いで、故郷の娘時代にかえった彼女たちの姿は、まるで天女のようにあでやかだった。彼女たちは村の娘たちと対になって二人乗りのブランコ遊戯もした。森のなかには歌声が響き、踊りの輪がくりひろげられた。水を入れた真鍮のたらいに伏せたパガジ(ひさごの容器)を叩きながら歌の拍子をとる女たちもいた。
はじめて会った人たちがどうして、長い別れのあとに再会した肉親のようにこうも厚い情を交わすことができるのだろうか。わたしはその日、軍民が一緒になって花の園をつくった地陽渓台地の情景を見ながら、こんな考えにひたった。敵はわれわれを孤立無援の存在だとうそぶいたが、われわれは献身的な愛と支援が波うつ人民の大海原に浮かんでいた。地陽渓台地にくりひろげられた軍民合同祝賀集会は、遊撃隊が人民に愛され、人民は遊撃隊に守られながら険しい歴史のいばらを踏み分けてきた抗日革命の縮図であった。
わたしはその日、人民革命軍を代表して演説した。軍隊と人民は離れては生きていけない一心同体であるがために、革命軍は健在であり百戦百勝するのだという内容の短い即席の演説だった。そのなかで、国内進攻作戦についても簡単に触れたと記憶している。
国内からやってきた組織の代表も演説をした。各界人士の演説が終わると、隅勒洞からきたという老人が、長白県祖国光復会組織を代表してわれわれに祝旗を伝達した。普天堡戦闘をひかえ偵察任務をりっぱに果たした馬東煕が、委任によって祝旗を受け取った。赤い緞(どん)子(す)に黄色い絹文字を縫い取ったその小さい祝旗は、新興村の婦女会員と朴緑金がジャガイモの穴蔵にこもってつくったものだという。密偵や軍警がいつ現れるか知れないので、外に見張りを立て一針一針縫いとったというが、朴緑金のような女性工作員にそんな刺しゅうができるというのは驚きだった。
軍民交歓集会は盛大な閲兵式をもって幕をおろした。それは抗日戦争開始以来、われわれが挙行した多くの閲兵式のなかでも、かなり規模の大きいものだった。一九四八年の閲兵式と戦勝(朝鮮戦争勝利)閲兵式のとき、わたしはその壇上で、地陽渓台地での閲兵式を感慨深く思い起こしたものである。
地陽渓軍民交歓集会は、軍民の偉大な政治的団結力をあまねく誇示した集会だった。この交歓集会に参加した人たちは、一九四〇年代前半期、革命軍が完全に掃滅されたという日本帝国主義の宣伝を誰一人として信じなかったという。それは、地陽渓軍民交歓集会が人びとの胸にどれほど大きな印象を残したかを証明している。抗日遊撃隊員たちもまた、人民が自分たちへの愛情と信頼を捨てないものと確信し、その後も苦境に陥るたびに人民のなかへ入っていったものである。
ところで、その日、金喆鎬ら第四師の何人かの隊員は食糧が切れて行軍が遅れ、この盛大な交歓集会に参加できなかった。彼女らが集会に間にあわなかったのが残念でならなかった。
年がたち、解放された祖国で端午を祝うことになったとき、わたしは金正淑にはからって彼女ら全員をわが家に招いたものである。
4 写真と追憶
抗日武装闘争を開始してから、わたしがはじめて写真を撮ったのは長白県の地陽渓台地であったと記憶している。軍民交歓集会が終わりかけたころ、多くの戦友たちが、三つの部隊が集まった記念に写真を撮ろうと言い出した。第四師に写真機があったのである。それで、各部隊の機関銃を集めて前列にずらりと並べ、写真を撮った。みんな表彰でもされたかのように満悦の体だった。
しかし、少年隊員たちは一回きりの撮影では満足できず、個人や分隊別の写真も撮り、久しぶりに会った他部隊の親友たちとも記念撮影をしたいと希望した。警護隊員のなかには、わたしと一緒に二人で撮りたいとせがむ者まで現れた。ところが無愛想な写真師は三脚をたたんでさっさと退散してしまった。もっとも彼の立場も苦しかったに違いない。希望者は多く、乾板の枚数は限られているのだから、誰を撮り誰を撮らないというわけにもいかなかったのである。少年隊員たちは膨れっ面をしていた。わたしは写真師を呼びもどそうかと思ったが、そうする時間のゆとりもなかったのであきらめた。希望どおり写真が撮れず残念がる少年隊員たちの心情は理解できた。その年ごろなら誰しも写真を撮りたがるものだ。わたしにしても例外ではなかった。
わたしは小さいころ写真をそれほど撮っていない。ひき割りがゆさえ満足にすすれない貧しさでは、写真など思いもよらぬことだった。当時、万景台のあたりには写真館というものがなかった。写真を撮るには三里も先の平壌城内かペンテ通りに行かなければならなかった。まれに城内の写真師が三脚をかついで郊外へ稼ぎに来ることもあったが、万景台のような僻地にまでは足をのばさず、七谷あたりまでがせいぜいだった。
わたしが幼いころ、祖父から五銭玉の小遣いをもらったことがあった。生まれてはじめてお金を手にしたわたしは、三里の道を歩いて平壌城内へ行った。街のにぎやかな風景にわたしは気をのまれた。道の両側に並ぶ商店や市場には珍しいものがいっぱいあった。大道商人の「いらっしゃい、いらっしゃい」という叫び声は耳をろうするほどだった。けれども、わたしはひたすら写真館に向かって歩いた。なによりも写真が撮りたかったのである。しかし、五銭で写真を撮ろうとしたのは、あまりにも無邪気すぎた。洋服姿の紳士淑女が窓口の前で手の切れるような紙幣を出しているのを見てはじめて、ここは自分の来るところではないと悟った。わたしはあわてて写真館を飛び出した。五銭玉一つで文明の味を見るなど思いもよらぬ妄想だった。その日、写真館を後にしながら感じたことは、世界が金(かね)に押しつぶされているような幻覚だった。わたし自身もその重圧のため息苦しくなるような思いだった。それからは、城内へ行っても写真館には足を向けなかった。
吉林時代にもおよそ写真とは疎遠になっていた。映画館には入っても写真館は遠ざけた。吉林毓文中学校には財産家の子弟が多かった。彼らは遊興街や飲食店、公園などを遊びまわっていた。飲食や遊興に惜しげもなく散財するそのぜいたくさには唖然とせざるをえなかった。母がこつこつとためては送ってくれる学費で月謝を払うのがせいいっぱいのわたしにとってなによりもつらかったのは、彼らから写真館や食堂へ誘われることだった。そんなときはいつもなんとか口実をつくって断ったものである。
あるとき、母から郵便為替と一緒に手紙が届いた。
「お金をちょっと余分に送りますから、誕生祝いに写真を撮って送っておくれ。おまえが見たいときに写真でも一枚あったら、どんなにいいか知れない」
母の意に背くことはできなかった。弟の哲柱の話では、母がわたしを見たいときは、わたしの古い肌着に顔を埋めて涙ぐんでいるというではないか。どんなにわたしが見たくて、学費に写真代までそえて送ってよこしたのか。
わたしは母の言いつけどおり、写真を撮って撫松へ送った。それがいま、たった一枚残っている吉林毓文中学校時代の写真である。その写真を数十年間、大事にとっておいて、わが国の革命戦跡地踏査団が中国東北地方へ行ったときに差し出してくれたのが、わたしとは撫松時代から親交のあった婦女会員蔡周善である。彼女は長い年月、敵のきびしい監視のなかで危険をおかしながら写真を大事にとっておいた。そういうことは誰にでもできることではない。
その後もなにかの機会に何枚か写真を撮ったが、ほとんど消失してしまった。残っているのは、大布衫を着て高在竜と一緒に撮ったものだけである。それは数年前に見つかって、この回顧録の第一巻に紹介されている。
ところが、吉林時代に撮ったわたしの写真がどんないきさつからか敵の手に渡り、警察の捜査作戦に利用された。あるとき、密偵がわたしの写真を持って卡倫にまで現れ、村の見張りにあたっていた少年探検隊員に、こんな人を見たことがないかと聞いた。子どもたちがいちはやく密偵が現れたと知らせてくれたので、わたしは危難をまぬがれることができた。そして、わたしに危害を加えようとした密偵は朝鮮革命軍隊員の手で処刑された。それ以来、わたしはしばらく写真を撮ることをひかえた。
だからといって、写真への未練がまったくなくなったわけではない。時を選ばぬ出会いと別れ、祝い事…、そんなときには写真を撮って追憶の種にしたいと思ったものである。わたしの地下活動と遊撃隊生活には、写真に残しておくだけの劇的な場面が多かった。遊撃区時代にも印象深い光景が少なくなかった。けれども、それらはどれ一つ写真に残せなかった。事情が許さなかったのである。当時われわれは誰もが、将来のためになにかの記念や象徴となる証拠の品のようなものを残そうなどとは思わなかった。たたかいがきびしいうえに、急を要する重要課題がつぎからつぎへともちあがるので、別のことに気をつかうゆとりがなかった。
しかし、絶海の孤島にとり残された人にもそれなりの生活があるように、遊撃隊生活だからといって、年中、潤いのない生活しかできないという法はないではないか。少年隊員たちがしきりに写真を撮りたがるのを見て、わたしは大いに感ずるところがあった。第四師には写真機があるのに、わたしの率いる部隊にはそれがないのである。わたしは自らをかえりみざるをえなかった。いつも山中で過ごし、革命ひとすじに生きる隊員たちが世間一般の人間と同じように写真にあこがれ、しかもその思いがなみなみならぬものであることを知り、写真と縁を切って久しかったわたしは、大きな衝撃を受けたのである。
その日、わたしは宿所に帰ると何人かの指揮官に、少年隊員たちが写真を撮ってもらおうと第四師の写真師につきまとい、その手伝いまでしていた、それを見て、われわれにも写真機があればいいと思ったと言った。なにげなく言ったことだったが、それが驚くべき効果を現した。
われわれが長白を後にし、臨江県六道溝密営にとどまっていた一九三七年夏のことだった。ある日、長白で地下工作にあたっていた池泰環が密営にやってきて活動報告をしたさい、写真機を手に入れてきたと言ったのである。それは望外の喜びであった。彼が持ってきた写真機は、第四師のものと同じキャビネ判の三脚つきだった。彼は中年の写真師も連れてきていた。わたしがなにげなく言ったあのときの言葉を忘れずにいたに違いない。
池泰環は金一が地方工作中に見つけだし、鍛えあげてわれわれの部隊に送ってよこした人だった。金一と同様、口が重く、手堅い性格だった。任務を受けると、篤農のように黙々とそれをなしとげた。金一と池泰環は性格から働きぶり、動作まで不思議なほど似通っていた。
池泰環から写真機を手に入れたいきさつを聞くと、冒険小説のようだった。彼は金学喆という遊撃隊員と一緒に十九道溝区長の李勲を訪ね、写真機の問題について立ち入った相談をした。区長はさっそく地元の祖国光復会の会員とその入手方法を考えあった。そんなある日、李勲は池泰環のところへやってきて、いま住民たちの居民証と住民登録用の写真を撮るために二十道溝警察分署に写真機が一台持ち込まれているという情報をもたらした。それを奪えば遊撃隊の役に立つばかりか、住民登録も遅延させることができるから一石二鳥だというのである。日本帝国主義は東満州で実施してきた集団部落制と中世的な「保甲制度(〔 〕)」を西間島でも強行しようとしていた。それで戸口調査をおこなう一方、証明書用の写真を撮っていたのである。彼らはそのほかにも通行(滞留)許可証や物品購買許可証なども発行して、人民をがんじがらめにしようとしていた。十五歳から六十五歳までの住民は居民証と通行許可証がなければ居住も通行も許されず、物品購買許可証なしには食糧や布類、地下たびのたぐいを買うこともできなかった。許可証なしに商品を買ったことが分かると、「通匪分子」と断定されてひっくくられた。
だが、警戒厳重な警察分署から写真機をどう奪い取るかが問題だった。池泰環と李勲は長時間、額を集めて相談した。翌日、李勲はさも困りきった顔をして二十道溝警察分署長の前に現れ、こんなに手を焼かされては区長を務めようがないとぼやいた。百姓どもはまったく無知な輩で、警察分署へ行けば写真を撮ってもらえるといくら言い聞かせても誰ひとり信じようとせず、区長が現れると捕吏にでも出会ったように恐れるのだからまったくやりきれない、とこぼした。分署長は苦々しそうに舌打ちした。
「有志たちは有志たちでまた、すっかりむくれています。十九道溝十里の谷あいに住む数百所帯の農民を二十道溝に連れ出して写真を撮るとなれば秋が過ぎてしまう、取り入れをそっちのけにして写真ばかり撮っていて口に入るものができるのか、と言って食ってかかるんですから、どうしてよいのかわかりません」
李勲はこう言って椅子にぐったりと腰を下ろした。
「区長も困ったものだ。そんなことを分署へ訴えてわしにどうしろと言うのだ。対策は区長が立てるべきじゃないか。なんとか方法はないのか」
李勲が待ち構えていたのは、分署長のその最後の言葉だった。彼はしばらく考え込むようなふりをしたあと、こう言った。
「この警察分署は百姓どもがおっかながっているし、十九道溝からも遠すぎます。いっそのこと十九道溝の李宗述の家で撮ることにしてはどうでしょうか。あそこの庭は広くて写真を撮るにはあつらえ向きです」
李宗述は敵の手先だった。警官や官吏が行くと酒肴をよくもてなすので、みななにかと口実をもうけては彼の家へ行こうとした。分署長は、それは名案だと李勲の案に同意した。こうして写真機は警備のきびしい二十道溝警察分署から李宗述の家の庭に移され、十九道溝の住民が呼び集められた。分署長は巡査たちを引き連れて李宗述の家へ向かった。李宗述が彼らのために一席もうけたのは言うまでもない。分署長は巡査を一人庭に立たせて酒席についた。しばらくすると、見張りの巡査まで宴席に加わった。一同に酔いがまわり気炎をあげているとき、村の地下組織のメンバーが部屋に飛び込んできて、「匪賊が写真機を奪っていく」と叫んだ。そして、「匪賊」が前の山にも後ろの山にも群がっている、とおろおろ声で言った。青ざめた分署長は拳銃を引き抜いていまにも外へ飛び出しかねない様子を見せた。それは酔った勢いの蛮勇といえた。李勲は分署長を引きとめた。
「匪賊は大勢いるのに、一人で立ち向かってどうするつもりです。命を大事にすべきです。死せる獅子より生ける犬という言葉もあるではありませんか」
彼は分署長を裏庭へ引っ張っていき、うむを言わせず豚小屋に押し込んでわらをかぶせた。ほかの巡査たちもわれ先に隠れ場所を見つけて身をひそめた。そんなとき、遊撃隊員たちが現れ、写真を撮りに集まった住民たちの前で演説し、写真機を持って悠々と引き揚げた。
写真機の奪取に参加した隊員が面白おかしく話すので、わたしは涙が出るほど笑いこけた。
「対岸匪賊状況に関する件」と「恵山事件判決書」という日本帝国主義の秘密文書には、つぎのような内容の記録がある。
「小葡萄溝ニ至リ部民百名ヲ集メ撮影中ニ、一時三〇分頃、拳銃携帯ノ
種板とは、いまのフィルムと同じようなものだが、旧式の写真機はフィルムではなく、ガラスの乾板を使っていた。
池泰環は金学喆と李勲の力を借りて、わたしの願いをりっぱにかなえてくれたわけである。池泰環が敵地から連れてきた写真師の本名は韓啓三といい、遊撃隊では李仁煥と呼ばれた。年は四十近いが、背が高く大の力持ちで、遊撃隊生活にはうってつけだった。
わたしは写真術を学んで、必要なときにはじかに隊員の写真を撮ってやろうと思った。それで写真師に手ほどきをしてもらった。わたしが熱心に聞くので、彼は、なぜこんなつまらぬことに時間を割くのかとたずねた。彼は芸術的な構図のとり方やシャッターを切るこつなどを懇切丁寧に教えてくれた。李仁煥はわたしが誰かを知ると、自分の心のうちをすっかりうち明けた。そのなかでいまも印象深く残っているのは、「キノコ刺し」の話である。彼はわれわれの部隊に来るとさっそく「キノコ刺し」を探したという。「キノコ刺し」とはなにかと聞くと「耳をそいで乾かしたもの」だと言う。敵は、革命軍は人を捕まえると耳をそぎ、それをキノコのように数珠つなぎにして乾かしていると宣伝している、また日本帝国主義は傘下に各種の分課をもつ「宣撫班」という謀略団体を使って、遊撃隊は顔が真っ赤で角を生やしている人食い人種だと宣伝している、自分もそれを真に受けていた、と言うのだった。
「李宗述の家の庭に遊撃隊が現れたとき、わたしはすっかり縮みあがってシェードをひっかぶり、ぶるぶる震えていました。これでおだ仏だと観念して、耳をしっかりおさえていたのです。ところが実際に遊撃隊を見ると、みないい人たちばかりではありませんか」
わたしは彼に子どもが多いと聞いて、家へ帰るようにすすめた。ところが彼は言うことをきかず、子どもは妻が育てるだろうから、どうか自分を追い返さないでほしいと懇願するのだった。それが真剣そのもので、てこでも動かない様子なので、わたしは彼の入隊を許した。新しい軍服に着替えて喜ぶさまを見ると、わたしもうれしかった。
六棵松戦闘と信子戦闘のあと多くの労働者が入隊し、いくつかの分隊が編制されたが、そのとき李仁煥は分隊長に任命された。彼は入隊後、遊撃隊員の写真をたくさん撮った。現像液をいつも持ち歩き、写真を撮るとすぐに現像した。彼は戦いでも勇敢だったので、隊員たちから尊敬され慕われた。
あるとき、彼は悪性の感冒にかかって寝込んでしまった。われわれは彼を誠意をつくして看護した。彼が寝るときは、みなすすんで綿入れの上着を脱ぎ、幾重にもかけてやった。わたしも毛布で彼の頭のまわりをかこい、枕もとに座って、読書をしながら夜を明かした。彼は目をさますと、わたしの手を握り、自分のような取り柄のない者のためにどうしてこれほどつくしてくれるのか、この恩をどう返せばよいのかと言って涙を流した。彼は、われわれと生活をともにするようになってはじめて人間らしい扱いを受け、真の人生がどういうものかを知った、日本侵略者の下僕になって飯にありつくより、遊撃隊でたとえ草の根をはみ一日を生きても、胸を張って人間らしく生きるほうがよいと言うのだった。
ある日、彼はわたしの前に三脚を立て、軍服をきちんと直してくれながら言った。
「きょうはわたしの願いを聞き入れてください。将軍の肖像写真を撮りたいのです」
彼はわたしの写真を国内へ持ち込んで、同胞たちに見せるというのである。それで、気持はありがたいが、写真を撮って世間に公開するのは部隊の規律に背くことだ、だから革命が勝利した日、存分に撮ろう、解放を迎えたら最初の肖像写真をあなたに撮ってもらおうと言った。すると、彼は泣き笑いをした。わたしはそんな微妙な笑いをはじめて見た。その表情がいまもありありと目に浮かぶ。
小哈爾巴嶺会議後、大部隊活動から小部隊活動に移ることになったとき、わたしは李仁煥に家へ帰るよういま一度すすめた。しかし、彼は部隊に残って戦いつづけ、惜しくも戦死した。
わたしはいまでも写真を撮るとき、李仁煥が旧式の写真機をかついできて、一枚撮りましょう、とわたしに焦点を合わせているような錯覚によくとらわれる。李仁煥は死んだが、彼が撮った写真のうち何枚かは奇跡的に歴史に残された。臨江県五道溝密営で撮ったわたしの写真と、烏口江流域での女性隊員たちの写真はいずれも彼の手になるものである。五道溝密営のほうの集団写真は、国内工作にあたっていた金周賢小部隊の帰還を記念して撮影したものだった。じつは、その日の写真はわたしがシャッターを切るつもりだった。ところが警護隊員たちがわたしと一緒に撮ろうとせがみ、李仁煥も自分がシャッターを切るからとわたしの背中を押した。それでわたしは仕方なく、変装用の黒ぶちメガネをかけたまま彼らと並んで撮ったのである。
わたしと李仁煥が撮った写真は、残念ながらほとんどなくしてしまった。敵は写真を入手すると、それをわれわれの指名手配に利用した。わたしと警護隊員たちが保管していた写真は、林水山の「討伐隊」に黄溝嶺密営を襲われたときに遺失した。
数十年の歳月が流れたあと、それらの写真の一部が、満州国の幹部警察官だった加藤豊隆という日本人の手に入っていたことを知った。彼はわたしの写真を三枚持っていたが、一枚は紛失し、二枚が残っているとして公開したのである。加藤は「満州国警察重要写真、文献資料集成」という文書に「神秘な抗日英雄
「…
彼は、当時「討伐」隊員が写真の裏に「
われわれの隊員や指揮官のなかには、一枚の写真も残さずに戦死したものが数えきれないほど多い。いまは事情が変わった。戦死者が出ればその軍功に応じて表彰し、故郷には訃報を送って社会的な関心を集めている。しかし、抗日戦争当時は犠牲者を出しても訃報はおろか、姓名を刻んだ墓碑を立てることすらできなかった。敵が随時襲いかかる状況のもとで、雪や石で死体を覆い、それもできず松の葉をかぶせるだけでそうそうに立ち去らなければならないときもあったのである。戦死した隊員を葬るときは、その燃えるような青春を荒野に葬るのが痛恨きわまりなく、一握りの土くれがいわおのように重く感じられたものである。一枚の写真も残さず、そのように世を去った烈士がいかに多かったことか。戦友との死別も悲しいが、生き別れもつらいものだった。そんなときに写真を撮って、お互いに交換していたらどんなによかったろう。
なによりも堪えがたかったのは、女性隊員がその花のような容姿を一枚の写真にも残せず倒れたことだった。彼女たちがあけに染まって倒れたのを見ると、わたしの胸は張り裂けるように痛んだ。彼女たちが残したものは背のう一つしかなかった。しかも、そこにあるのは朝鮮地図にムクゲを縫い取った小さな刺しゅうだけである。その刺しゅうを遺骸の上に置いて、土を一握り、二握りとふりかけるとき、剛毅なつわものたちの手も震えざるをえなかった。
歳月はあまりにも多くのものをうちこわし、抹消して忘却のかなたへ追いやってしまう。喜びも悲しみも、日がたち月が変わり年が過ぎるにつれ、しだいに薄れ遠ざかってしまうという。しかし、わたしの場合は必ずしもそうだとはいえない。倒れた戦友の一人ひとりがどうしても忘れられないのである。去った者も送った者も、骨身にしみる恨みをいだいていたためだろうか。わたしの記憶には、彼らの姿が数百、数千枚の鮮明な青写真のように刻みつけられている。年月がたてば写真も色あせ記憶も薄れるものだが、彼らの姿だけはなぜか、年とともにいっそう生き生きとよみがえり、心をとらえて離さないのである。
大城山に革命烈士陵をつくるとき、ある人たちは大きな記念碑を建て、そこに闘士たちの名を刻もうと言った。しかしわたしは、烈士たちの像を建てたかった。抗日英雄の個性的な姿を再現させて後世の人たちに見せてやりたかった。ところが、闘士たちはほとんどが一枚の写真も残さずに世を去ったのである。それでわたしが彫刻家に、その闘士たちの容貌を克明に説明して再現させたのである。
日本帝国主義が扱った「恵山事件」の資料集には、多くの闘士たちの写真が載っていた。貧しい人の写真は法を犯したときにだけ新聞に載るものだと言ったのはゴーリキーだったと思うが、われわれの闘士たちも手錠をはめられることによって、最初にして最後の写真を残したのである。
わたしが抗日革命闘争時代の姿を何枚か写真に残せたのは、池泰環が写真機を手に入れてくれたおかげである。ところが、池泰環自身は写真機の前に立ったことがなかった。不屈で有能な地下政治工作員であった彼は、「恵山事件」で逮捕されてはじめて、敵側の文書に写真を残したのだった。それは捕繩をかけられたままの写真で、憤りにみちて顔をそむけ、するどい視線を床に向けていた。人一倍自尊心が強かった彼の心はいかに恨みにたぎっていたことだろうか。死刑を言い渡された彼は、泰然として「おれは日本帝国主義者に存分に血の償いをさせた。もう死んでも心残りはない」と言い放ち、声をあげて笑ったという。
わたしには眠れぬ夜が多い。仕事に忙殺されているときもそうだが、遺品一つ、写真一枚残すことなく去った烈士の姿がまぶたに浮かぶ夜は、しばしまどろむことすらできないのである。そのためか、わたしは年とともに、写真を撮ることをおろそかにしないようになった。工場や農村に出かければ、勤労者や婦人、子どもたちとも撮り、軍営を訪れれば人民軍の軍人たちとも撮っている。いつだったか、延豊高等中学校へ行ったときは、半日近い時間をかけて子どもたちの写真を撮ってやったこともある。
いまはりっぱな制度のもとで、人間と職業に貴賎の別がなく、誰でも功績があれば栄誉にあずかり、万人の喝采も浴びる。そしてどこでも多様で豊かな文化生活が楽しめる。労働のなかで生まれた踊りと歌が祝日の広場や祝典の舞台に移され、不夜城をなす夜の街や公園には、そぞろ歩く幸福な人たちの姿があとをたたない。
五十年ほど前までは、それは月世界のような幻想にすぎなかった。抗日闘士たちの大半はこのような生活を見ることなく世を去った。しかし、彼らが生命をささげ、血潮をもって切り開いた歴史の道がなかったなら、われわれの世代の今日と明日がありうるであろうか。
5 間三峰戦闘
軍民交歓集会後、われわれは崔賢部隊と合同で八盤道の集団部落をたたいてから別れることにした。八盤道は間三峰の近くにあり、三百余名の満州国軍「討伐隊」が駐屯していた。
国内進攻作戦が計画どおりに遂行され、三つの大部隊が集まって軍民交歓集会も盛大におこなったので、隊員と指揮官たちの士気は天をも衝く勢いであった。なかには大部隊が集結した機会に、国内に再進攻するか、長白市街のようなところを攻撃して、人民革命軍の気概をいま一度誇示しようと正式に提起する者もいた。だが軍事行動の見地からして、普天堡をたたいた直後、国内進攻作戦を繰り返すのは合理的でなかった。恵山方面の空気がただならぬ状況のもとで、長白市街を攻撃するのも、一考を要する問題だった。血気や欲望だけでは戦いで勝利できるものではない。それで、わたしは攻撃対象地として八盤道を選んだのである。
われわれに八盤道の情報を提供してくれたのは第二師の戦友たちだった。彼らはわれわれの密営に滞在していたとき、その土地の実情を詳細に語ってくれた。その後、われわれは八盤道に地下組織をつくっておいた。その地下組織メンバーのなかに劉という姓の満州国軍兵士がいた。彼は自尊心が強すぎたため指揮官たちに憎まれ、上官から理不尽な迫害を受けたのを機にわれわれの部隊に寝返り、分隊長を務めていた。彼からも満州国軍大隊内の実情をくわしく聞くことができた。
一般的に遊撃部隊は、敵が集中している軍事要衝を攻撃したあとは、すばやく抜け出す戦術を用いて遠くへ移動するのがつねである。しかし、普天堡を攻撃したあと、われわれはそうしなかった。敵も遊撃隊の戦法に通じているだけに、その点を考慮して対策を立てるに違いないからだった。実際に、関東軍はわれわれが撫松方面に抜け出してくるものと見て、道路の要所要所に大部隊を密集配置していた。そのことを予見したわれわれは、すばやく抜け出す戦術ではなく、敵のすぐ近くに居座る戦法を用いたのである。
われわれが国境の近くから遠く離れなかったいま一つの理由は、その一帯の祖国光復会組織の活動を助けながら国内の実情をより具体的につかみ、上昇期にある国内の革命を積極的におし進めるところにもあった。われわれは八盤道方面にゆっくり移動しながら行く先々で工作員たちを呼び、地下工作の状況を聞いて新たな課題を与える一方、地元組織の責任者に会って活動方法の手ほどきもした。
そんなとき、情報工作任務を受けて恵山におもむいていた李勲から通報が届いた。桃泉里の韓秉乙老が持ってきた李勲の通報には、咸興第七四連隊が数十台のトラックに分乗し、急遽恵山に出動したことが記されていた。敵はすでに新坡方面から鴨緑江を渡河しはじめており、「討伐」責任者は金錫源という悪質な朝鮮人将校だという。一部には、そのとき咸興第七四連隊を率いて「討伐」に向かった日本軍側指揮官が金仁旭という朝鮮人であったという資料もある。しかし、当時、国内と長白の地下組織からわれわれに寄せられた通報はいずれも、「討伐隊」を率いて咸興を出発した敵将の名を金錫源だとしていた。
後で知ったことだが、金錫源は日本帝国主義が咸興駅でおこなった仰々しい壮行式で、「武運長久」と血書した旗をおし立てて天皇に忠誠を誓い、
豪語したという。金錫源の咸興第七四連隊が恵山、新坡を発つときにも壮行式が挙行された。日本帝国主義の手先が民家をまわって人びとを駆り出した。警官、日本人有志、官吏、在郷軍人たちは通りに出て歌をうたい、日章旗を振って騒ぎ立てた。「討伐隊」は大兵力だったので、新坡の渡し場から三十~四十名乗りの木船で一日中、川を渡ったという。
こういう具体的な資料を専門の情報員でもない李勲が入手したというのは驚くべきことだった。わたしから恵山市内の敵情偵察の任務を受けた李勲は、木材商とふれこんで工作地に潜入することにした。彼は、十九道溝管内の祖国光復会分会長たちにはからって数日内に数百本の木を切り出し、それで筏を組んだ。木材商の身分証明書も手に入れた。李勲は以前、八年間も筏師として働いたことがあった。彼はもう一人の組織メンバーと一緒に筏を操って恵山に向かったが、運よく川岸で崔警部の親戚にあたる老人に会った。崔警部は「恵山事件」のとき、多数の愛国者を投獄した悪質な警官で、朴達を逮捕したのも彼であった。崔警部の叔父は、筏に組んだ数百本の丸太を見て、何本か売ってくれと言った。李勲は、崔警部の叔父さんなのに代金をとるなどとんでもないことだと言って、丸太を二本ただで与えた。喜んだ老人は李勲に市内の木材商を紹介した。その木材商の婿も自分の甥と同じく恵山警察署に勤めていると言うのである。李勲は木材商と初対面の挨拶をしたあと、長白は「匪賊」がはびこって暮らしにくい、木材を売って一儲けしたら恵山に出て暮らしたいが、力添えを頼むと言った。彼は木材商に市価の半値で丸太を売り払い、その家で数日間過ごした。その間、彼の婿の金巡査にも紹介してもらい、一杯おごるということで酒席ももうけた。李勲が金巡査と木材商を最初に料理屋に招いた日のことだったという。ほろ酔い機嫌になった金巡査は、何日何時に金錫源部隊が恵山に到着するという秘密をもらした。彼は「普天堡事件で地に落ちた帝国の権威、軍部の権威を取りもどそうと金錫源を派遣したようだが、なかなかの猛者だそうだ。彼は
咸興第七四連隊が恵山市を通過する日、李勲は背広にスプリング・コートというりゅうとした身なりで歓送者の群れにまぎれこみ、「討伐隊」の兵員と火砲、機関銃の数をかぞえた。そして壮行式が終わるとさっそく鴨緑江を渡り、われわれに連絡を送った。それが司令部に届いたのとほとんど時を同じくして、張海友と金正淑から送られた連絡員も司令部に到着して、さらにくわしい情報をもたらした。連絡員は、鴨緑江を渡った敵の部隊が十三道溝で行方知れずになったが、組織のメンバーが探索中だと言った。李勲の情報と桃泉里、新坡の組織の情報は符合した。地元組織からの資料を総合すると、「討伐」兵力はおよそ二千名と推定された。
敵が朝鮮駐屯軍のなかでも精鋭を誇る咸興第七四連隊を「討伐」に繰り出したのをみれば、朝鮮総督の憤怒といらだちはひととおりでなかったらしい。普天堡戦闘、それと前後して国境一帯で連続打撃を受けた敵は心理的なパニックに陥ったらしい。中国本土にたいする侵攻が間近に迫っていたときなので、日本帝国主義は後方の安全にかなり神経をとがらせていた。そんなときに「銅牆鉄壁」を豪語した朝満国境一帯が戦乱の巷(ちまた)と化したのだから、総督が激怒するのも当然のことといえた。
情勢は、われわれが西崗で作戦方針を作成するとき、国内進撃後、三つの方面に進出した部隊が一か所に集結する方針をとったことが先見の明ある措置であったことを示していた。二千という敵兵の数はわれわれにはるかにまさっていた。こうした状況のもとでは戦闘を避けるのが常識である。しかし、わたしはあえて朝鮮から出動した日本軍大部隊と正面からぶつかる決心をした。敵の大部隊による攻撃には、すばやく分散して機動作戦をとるのが遊撃戦の一般的戦術であるが、今度は慣例を破り、大部隊を大部隊で撃破することにしたのである。
八盤道方面へ移動していたわれわれはひとまず行軍を停止し、戦場を選ぶことにした。わたしは老馬家西方の山に登って地形を確かめた。そこは四方に視界が開けている間三峰だった。間三峰は十三道溝から八道溝にいたる四十余キロの広い台地に横たわる西崗高原の北にある三つの峰である。間三峰の北側は原始林の樹海が果てしなくつづき、その先に四登房山脈の連峰が浮かんでいた。毛杜徳基とも呼ばれる土地だった。間三峰の南側も東西四十キロを越える樹海で、西崗高原と呼ばれるその台地に八盤道や老局所などの村落が点在していた。間三峰は太古然とした原始林の樹海のただなかに島のように突起した峰であった。敵がここまで来るには十三道溝から西崗城に登る山角や峰々を通過しなければならないので、戦場としては間三峰がうってつけだった。
夕方、指揮官たちが集まって戦闘方案を討議した。わたしは、敵の正規戦法に引きずりこまれずに遊撃戦法を能動的に活用すべきことを強調した。そのためには、われわれが先に尾根を占め、敵を谷間に誘引しなければならなかった。部隊の配置においても、ありきたりの方法を踏襲してはいけなかった。敵がわれわれのからめ手だとみなしそうなところに兵力を多く配置する一方、樹林を利用して左右に迅速に機動しながら臨機応変に戦えるようにした。わたしは第四師と第二師の指揮官たちを集めて作戦を練ったあと、明け方、権永璧、金在水、鄭東哲をはじめ間三峰に呼んだ国内と長白地方の政治工作員たちと席をともにして、革命組織の活動方向と任務について討議した。
敵が間三峰に押し寄せてきたのは、ちょうどその日の朝だった。早朝からこぬか雨が降り、霧が立ちこめていた。崔賢部隊が占めた山頂の監視所でまず合図の銃声が鳴った。わたしはすぐ尾根の指揮所にあがった。崔賢は歩哨隊が敵の包囲に陥る恐れがあるとみて、一個中隊を率いて前方へ突っ込んだ。敵はたちまち彼の中隊を包囲してしまった。戦闘は緒戦の成り行きによって士気が左右されるだけに、なんとしても事態を収拾しなければならなかった。わたしは李東学に、警護中隊を率いて崔賢中隊を早く救出するよう命じた。日本軍は満州国軍を弾除けにして猛攻を加えてきたが、崔賢中隊と李東学中隊が内と外から猛火を浴びせて挟撃したので、敵の包囲陣が崩れた。激しい白兵戦の末、中隊は救出された。事態を逆転させたわれわれは、敵を何度も峡谷に追い込んで終日、痛撃を加えた。
しかし、日本軍は野獣のように猛り狂った。日本軍の突撃は執拗をきわめた。彼らは同僚の屍を踏み越え、喉が張り裂けんばかりに喊声をあげながら、つぎからつぎへと波状攻撃をかけてきた。小汪清防衛戦闘のとき、朝鮮から出動した日本軍間島派遣隊の突撃を経験し、なんとしぶといことかと思ったものだが、咸興第七四連隊の突撃はそれ以上に猛烈だった。わが方は十余挺の機関銃をすえて弾幕を張りめぐらしたが、敵はそれにもひるまず群れをなして攻めよせた。こんな攻撃が一日中つづいた。そのためわれわれはかなり苦戦した。一部の地点では敵がわが方の陣地に突入したので、白兵戦をくりひろげなければならなかった。そのうえ、雨が降りつづいて戦場は凄惨をきわめた。そのとき考えさせられたのは、いかにして軍国主義は人間をこれほど執念深く分別のない野獣のような存在にしえたのだろうかということだった。
日本軍国主義者の言う「大和魂」は、不正義を正義とはきちがえ、悪を善と思い込む白痴、火に飛び入る夏の虫さながらに銃口の前に飛び込んで犬死にしながらも、それを武士道だと自負する盲目、他民族の死骸の山を前にして祝杯をあげ記念写真を撮る野蛮人、自分が死ねば天照大神が照覧し、天皇が冥福を祈り、国民が永遠に記憶してくれると妄想する精神障害者を輩出した。日本の軍閥や大臣は、そうして死んでいった将兵を短く咲いて散るサクラになぞらえて「皇軍の精神」だなどと賞揚した。日本軍兵士は自分たちの死が日本帝国繁栄のいしずえになると信じたが、それは途方もない妄想だった。「皇道精神」は日本を興隆に導くどころか、滅亡に追い込んだ。
遊撃隊の指揮官と兵士はこういう観点で日本軍を評価していたので、彼らがいかに狂暴に立ち向かってきても、革命家の自負心、愛国者の自負心をもってそれを見下した。
われわれは状況を巧みに利用しながら日が暮れるまで敵を痛撃した。女性隊員たちが戦闘中にうたった『アリラン』の歌が全隊に広がった。激戦場で歌をうたうのは強者だけがなしうることである。間三峰の戦場に響いた『アリラン』は革命軍の精神的な豊かさを示し、楽天主義を誇示した。『アリラン』を聞いた敵の心理状態を推察するのはむずかしくないであろう。あとで捕虜たちから聞いた告白によれば、その歌を聞いて最初は呆然とし、つぎは恐怖に駆られ、はては人生のはかなさを感じたという。負傷者のなかにはわが身を嘆いて涙を流す者もおり、他方では脱走兵まで出たという。
敵はおびただしい死傷者を出しながらも、豪雨をついて日が暮れるまで攻撃を中断しなかった。わたしは八盤道方面の偵察任務を遂行して帰隊する朴成哲小部隊と食糧工作班に伝令を送って、敵の背後をつかせた。金錫源は前面と背後から挟撃される危険にさらされ、日も暮れたので、わずか二百名ほど残った敗残兵を集めて逃走した。
間三峰戦闘は数々の逸話を残した。崔賢のラッパ手金慈麟は擲弾筒を大腿部で支えて発射し、その衝撃で大腿骨が骨盤からはずれてしまった。崔賢は金慈麟を怒鳴りつけ、擲弾筒を二、三発発射して砲陣地に群がる敵兵をなぎ倒した。そして脱臼した金慈麟の足を両手でぐいと引っ張り、すぐにはめ込んだ。その日、わが軍の擲弾筒にあたって金錫源が負傷したという話も伝えられたが、真偽のほどは定かでない。咸興第七四連隊の「討伐」は完敗に終わった。
間三峰戦闘の敗残兵のなかには、咸興に帰隊せず脱走した者たちもいた。たとえば堺という兵卒は金錫源について行かず清津へ逃亡して日本帝国主義が敗退する日まで居酒屋を営んだという資料もある。彼は間三峰の激戦で生き延びたことがよほどうれしかったらしく、客によくその話をしていたという。彼は、自分は日本人だが朝鮮語を知っていたおかげで命拾いをしたと話した。あのとき将校は、たとえ亡霊になっても山頂に登れと兵士たちを督励した。彼はぶるぶる震えながら山の中腹まで登っていった。日本軍が山頂近くにいたったとき、革命軍が一斉射撃を加えてきた。皇軍はあっという間に数十名の死傷者を出した。堺は無我夢中で山の下へ駆けおりたが、その途中、山頂から「朝鮮人は伏せろ!」という叫び声が聞こえた。朝鮮語を知っていた彼はとっさに武器を放りだして同僚の死体の横に伏せた。夕方、遊撃隊員たちが銃と弾帯を集めるために戦場を捜索した。彼らは堺が死んだものと思ってそのまま通りすぎた。心臓の鼓動が止まるような恐怖と強い厭戦気分にとらわれた彼は、闇にまぎれて山を這いおり集団部落にたどり着いた。
「この堺が朝鮮語を少しばかり知っていたのがもっけの幸いだった。結局、朝鮮語がおれを助けてくれたわけだ。それでいまでも朝鮮語を熱心に習っている」
これは、彼が酒を飲みながらよく言ったことだという。堺の口コミで清津市内とその周辺一帯では間三峰戦闘にまつわる逸話とともに、わたしについてのうわさが広く伝わった。脱走して小市民になった侵略軍の一兵士の告白は、朝鮮人民の士気を大いに高める結果をもたらしたのである。
間三峰戦闘後間もなく、隊員たちは戦場周辺の村落で敵の敗北ぶりをくわしく聞いてきた。戦闘があった翌日から、敵は恵山、新坡そして間三峰付近の村から担架や牛車、馬車、トラックなどを徴発して死体を運搬した。地元農民の話では、戦闘直後、間三峰とその一帯の村落には、日本軍の死体が枕を並べていたという。敵は死体を白い木綿で覆って民間人の接近を取り締まった。彼らがもっとも恐れたのは、自分たちの惨敗ぶりが世間に知れることだった。新聞も間三峰戦闘で死傷者数がいくらも出なかったかのように偽った。
金錫源がわれわれを追って新坡から鴨緑江を渡るときは一日がかりの渡河だったが、帰りは半時間ちょっとしかかからなかったという。死傷者があまりにも多かったので、彼らは死人の首を切って麻袋や木箱に入れ、牛車や馬車でトラックが待機しているところまで運び出した。黒い幌をかけたトラックがその麻袋と木箱を載せて鴨緑江を渡った。残された死体は火葬にされたが、その煙と臭いのために間三峰地区の農民は何日ものあいだ息をするのも苦しいくらいだったという。
首の運搬にあたっていた日本軍兵士に、ある農民がそしらぬ顔をして、「兵隊さん、この車に積んでいるのはなんですか」と聞くと、とぼけ顔で「カボチャ」だと答えた。農民はにこにこして「カボチャの大豊作ですね。汁の実にすればおいしいから、たんとめしあがれ」と皮肉った。それ以来、「カボチャの頭」という言葉が流行した。人びとは日本軍の死体を見ると「カボチャの頭」と当てこすったものである。
金錫源ら敗残兵は繁華な恵山を避けて、新坡と豊山をへてひそかに咸興に帰った。出動するときは壮行式でにぎわった咸興駅が、帰るときは喪家のような光景を呈した。駅頭に出迎えたのは留守を預かっていた兵卒たちだけであった。その彼らは負傷兵だらけの帰営軍人を囲むようにして、すごすごと市街地を抜けた。市民の目をあざむき、敗北を隠すために、そんな窮余の策をとったのであろう。
咸興の武徳亭といえば、日本軍人が剣道を修練する練武場として知られていた。しかし間三峰戦闘のあと、しばらくのあいだ彼らはそこで打ち合いをすることがなかった。新坡の通りでは、間三峰戦闘後、夜警の声も聞かれなくなったという。
間三峰での敗戦は、日本のサムライたちにとってそそぐにそそげぬ恥辱となり、金錫源という名はその恥辱の代名詞となった。結局、普天堡戦闘とそれにつづく間三峰戦闘によって、朝鮮総督南次郎と関東軍司令官植田謙吉が「図們会談」で朝鮮人民革命軍の完全掃滅をはかって作成した「画期的な戦略」は水の泡となった。
こうして一九三七年初、われわれが計画した大部隊による国内進攻作戦は成功裏に終結した。間三峰戦闘は、われわれの抗日武装闘争史で一つのピークをなす意義深い戦いだった。この戦闘は口隅水山戦闘とともに、普天堡戦闘の成果を強固なものにした。口隅水山戦闘と間三峰における激戦によって、普天堡戦闘の勝利はいちだんと光彩を放った。たとえて言えば、間三峰戦闘と口隅水山戦闘は普天堡戦闘のこだまといえた。われわれはこの戦いを通して「無敵皇軍」の神話を完膚なきまでに打ち破り、朝鮮人民革命軍の威力をいま一度天下に誇示した。間三峰戦闘は、朝鮮人民革命軍の白頭山地区進出後、抗日革命の全盛期をもたらすうえでエポックを画する重要な戦いであった。
運命のたわむれといおうか、われわれの宿敵金錫源は解放後、三十八度線をはさんで再び崔賢と対峙した。崔賢はそこで警備旅団を指揮していた。李承晩が金錫源を三十八度線付近に送り出したのは、間三峰での惨敗の恥をすすぐ機会を与えようとしたのかも知れない。
北への義挙を断行した「国軍」兵士の話によると、金錫源は三十八度線を守っているとき共産主義者を口汚くののしっていたという。崔賢も彼とぶつかったら目に物見せてやると待ち構えていた。朝鮮戦争前夜、金錫源は不意に三十八度線を越えて大々的な奇襲をかけてきた。こうして松岳山で戦いがはじまった。おそらく彼は崔賢をさんざんに痛めつけ、あわよくば亡き者にするつもりだったらしい。激怒した崔賢は、三十八度線を越えた「国軍」をせん滅し、少数の敗残兵を開城まで追撃した。彼は、こうなったからには金錫源をソウルまで追いかけて捕らえると言い出した。わたしは崔賢に即時撤収せよと厳命した。金錫源が以前は日本帝国主義者の忠犬になりさがり、戦いを挑んできたが、いまはアメリカの主人の手のうちにある、まかり間違えば同胞同士が血で血を洗うことになり、全面戦争にまで拡大しかねない、金錫源も朝鮮人だから、いつかは反省するようになるだろうと説いた。
いまは崔賢も金錫源もこの世にない。彼らに代わって今日では、亡国の悲しみというものを知らぬ新しい世代が北と南で、銃口を向けあって軍事境界線を守っている。わたしは北と南のすべての新しい世代が、民族の血筋を断った人為的な障壁を一日も早く取り除き、自主的な統一祖国でむつまじく暮らすことを願うものである。金錫源も晩年にはそうした念願をいだいたことだろう。
6 銃をとった少年たち
人民革命軍の白頭山地区進出の余波のうちで特筆に価するいま一つの出来事は、青少年の入隊熱だった。鴨緑江沿岸の森林や谷間で銃声がこだまするたびに、われわれの密営には入隊を志願する青年がひっきりなしにやってきた。入隊志願者の増加につれて、興味深い出来事もいろいろと起きた。
あるとき、顔が浅黒く、びしょぬれのズボンをはいた蓬髪の少年がわたしを訪ね、兄の仇を討ちたいから入隊させてくれとせがんだ。上豊徳の少年だった。村で青少年の夜学教師をしていた長兄は遊撃隊に食事を提供したことが発覚して警官に虐殺され、次兄は普天堡戦闘直前に将軍の部隊に入隊している、それで自分も革命軍を訪ねてきたと言うのである。少年の名は全文燮といった。
わたしは彼に、きちんと乾いた服を着てくる青年もみな入隊させることができないでいるのに、濡れた服を着てくるような腕白小僧を入隊させることはできん、と冗談めかして言った。すると全文燮は、濡れたズボンをはいてきたのは母のせいだと言うのである。全文燮が上豊徳に来た遊撃隊についていくと言うと、母親は、おまえはまだ小さいから駄目だとはねつけ、彼が眠っているあいだにズボンをたらいにつけてしまった。着たきりのズボンを濡らしておけば、着替えがないので遊撃隊についていけないだろうと思ったのである。全文燮はあわてた。彼の革命軍入隊は少年会組織で決まっていた。革命軍に入隊できるなら裸のままでも白頭山へ一気に駆けていきたい思いだった全文燮は、早朝、たらいのズボンをざっと絞ってはき、家を発とうとした。それで母親も息子の遊撃隊への入隊を許したという。
これは鴨緑江沿岸を中心に、朝鮮の北部国境一帯と西間島の広い地域で高まっていた入隊運動がどれほど過熱していたかを示す一つの例であった。全文燮の例が示すように、この運動には二十代、三十代の青年ばかりでなく、十代の少年も参加した。最初、隊列補充担当の指揮官たちは、そんな少年が来ると取り合おうともせず、頭からはねつけて追い返した。当時われわれの部隊の兵士や指揮官は、十四、五歳の少年が銃をとって武装隊伍に加わっても、ともに戦えるとは思っていなかった。子ども好きの金平ですら、そんな少年が志願してくるとかぶりを振ったものである。
部隊が地陽渓台地にとどまっていた一九三七年夏のある日、小銃の丈にも及ばない小さな子どもたちが二十名ほどやってきて、入隊させてくれとせがんだので、彼は当惑してわたしにどうしたものかと尋ねてきた。
「もう少し大きくなってから来るようにと、いくら言って聞かせても駄目なのです。しまいには、将軍に会わせてくれ、将軍に会うまでは帰らないとまで言い出すしまつです」
わたしは少年たちのところへ行き、彼らと話をした。みんなを倒木に座らせて、名前や年齢、父親の職業から居住地まで一人ひとりに尋ねた。一言質問するたびに、彼らははじかれたように勢いよく立ち上がって答え、その誰もが自分を大人っぽく見せようとりきんだ。彼らはいずれも敵の「討伐」で親兄弟や近い親類が虐殺される惨劇を目撃し、復しゅうを誓って銃をとろうとした少年たちだった。うちとけて語り合ってみると、どうしてなかなか芯が強く大人びていた。世間が険しいと子どももませてくるというのは本当だった。目にするのは不幸、体験するのは生活苦ばかりなので、朝鮮の子どもたちは年はいかなくても世情に通じていた。革命はたぐいない力と速度で人間をゆさぶり、覚醒させるのである。革命は新しいものを産む学校だ
と言ったある著名人の言葉には、深い真理が宿っているとみるべきである。
あのとき入隊を夢見てわれわれの宿営地へ訪ねてきた二十余名の少年はいずれも、波瀾に富むわが民族史の一ぺージを体現した、もっとも悲惨な受難者たちであった。そんな少年たちが社会改造の重任を自ら担い、大人でも苦しい武装闘争に参加したいと切々と訴えるのを聞いて、わたしは深く感動した。その日、わたしが会った少年のなかには李乙雪、金益顕、金鉄万、趙明善もいたと記憶している。いまでこそ彼らは、朝鮮人民軍の次帥、大将、上将といった将官になっているが、あのときは銃をとる資格があるかどうかをはかる検閲台に立たされた少年にすぎなかった。この少年たちをいかにすべきか、こわいもの知らずの幼いタカたちをどうなだめて家に帰したものか、わたしは困りはてた。屈強な若者でさえ力に余り、不断の訓練と修養を積まなければ落伍しかねないのが革命軍生活なのである。
わたしは子どもたちにこう言い聞かせた。
「おまえたちが親兄弟の仇を討とうと、銃をとる決心をしたのは感心なことだ。それは愛国心のあらわれだ。だが、おまえたちはまだ小さいから革命軍に入隊するのはむずかしいと思う。遊撃隊の兄さんや姉さんたちがどんなに苦労しているか、おまえたちにはとてもわからないだろう。革命軍は真冬にも山の中で雪を寝床にして寝なければならない。何日も雨にうたれながら行軍するときもある。食べる物がなくなったら草の根や木の皮を煮て食べたり、水を飲んで我慢するのが革命軍の生活だ。わたしの見るところでは、おまえたちはそんな苦労を辛抱できそうにない。家に帰ってもう少し大きくなってから銃をとるのがよいと思うが、どうだろうか」
それでも彼らは聞き入れなかった。彼らは、どんな苦労もいとわない、大人たちが雪の上で寝るんだったら自分たちも雪の上で寝る、大人たちが戦うときは自分たちも戦うと言って、あくまでも遊撃隊への入隊をせがんだ。
わたしはこのときほど、われわれに軍事学校のないことを残念に思ったことはない。
(この可愛い子どもたちをみな軍事学校に入れて訓練し、鍛えることができればどんなにすばらしいだろう。独立軍もいっとき満州各地に軍事教育を目的に士官学校を設けたではないか)
しかし、それは日本帝国主義者の満州占領以前のことである。日本帝国主義が大兵力を展開した一九三〇年代後半期の満州は、われわれに独立軍がしたように軍事学校を設けるゆとりを与えなかった。密営に養成所のようなものを設けて軍事訓練をほどこせないだろうかとも考えてみたが、それも実情にあわなかった。世界のあらゆる「バロメーター」は、日本帝国主義者が新たな発火点を見出して中国でいま一つの九・一八事変を引き起こすであろうことを予告していた。われわれはこれに対処し大機動戦を準備していた。こんなとき、十代の少年たちを武装隊伍に受け入れるのは、困難な行軍をひかえて背のうをもう一つ背負いこむようなものだった。だからといって、不利な点ばかりを列挙して頭ごなしに家に帰れとは言えなかった。正直に言って、その少年たちは一人残らずわたしの気に入った。階級的自覚のほどをみても大人に劣らなかった。大人たちがすき腹を我慢するなら自分たちも我慢できるという少年たちの言葉に、わたしはとくに強い印象を受けた。
口先だけの憂国の志士や、人生朝露の如しと無為に歳月を送る革命の裏切り者や堕落分子に比べて、入隊希望がかなえられなければ家には帰らないと頑張るこの子たちは、なんと高潔な精神をもつ熱烈な愛国者であろうか。幼い彼らの入隊志願は、その可否を決する前に花束を贈ってしかるべきことであった。
わたしは、この闘志にあふれた少年たちを闘士に育てあげたかった。すぐには戦闘隊伍に加えられないだろうが、方途さえ見つければ一、二年内に頼もしい後続隊に育てることができそうだった。一年か二年のあいだに、この少年たちがみな古参の隊員にひけをとらない戦闘員に成長するならば、それこそたいへんな収穫である。睡眠や食事を少し減らすことがあっても、古参の隊員がその気になって取り組めば、少年たちは短時日のうちに屈強な戦士に育つに違いない。わたしは少年たちだけの中隊を編制して、状況が許せば密営で訓練をし、部隊が機動するときは一緒に連れて歩きながら実戦を通して教育し鍛えようと考えた。いわば、軍事学校ないし軍・政幹部養成所の使命を果たしながら、それに実戦教育を結合する特殊中隊を編制しようということだった。わたしは少年たちを入隊させることにして、彼らに宣誓書を書くようにと言った。おまえたちが本当に遊撃隊に入りたいなら、今夜中に宣誓書を書いて出すのだ、なぜ革命軍に入って銃をとろうとするのか、入隊したらどのように生活し戦うつもりかを書くのだ、それを読んでみて決定する、と。
金平ら大部分の指揮官はわたしの話を聞いて困惑した。馬鞍山から連れてきた子どもたちだけでもかなりの負担なのに、この子たちまで入隊させたら、それこそたいへんなことになると言うのだった。
翌日、少年たちが提出した宣誓書をみると、決意はみな上々だった。読み書きができず他の子に書いてもらったものもいたが、わたしはそれを問題にしなかった。学校に行けず読み書きを習えなかったのは欠点ではない。みんな宣誓書をりっぱに書いたとほめると、少年たちは歓声をあげた。
わたしは中隊政治指導員以上の指揮官を司令部に集めて、馬鞍山出身の児童団員と今度、西間島から来た子どもたちで少年中隊を編制すると正式に告げた。少年中隊の中隊長には呉日男を、事務長には女性隊員の全姫を任命した。呉日男は司令部直属の機関銃小隊長を務め、射撃が上手で隊伍の管理にもそつがなかった。彼はたぐいない忍耐力と闘志の持ち主だった。彼の忍耐力の強さは、口隅水山戦闘のときの逸話がよく物語っている。彼は戦闘中に銃創を負った。しかし、そのことを素振りにも見せなかったので誰も気づかなかった。地陽渓に到着したとき軍服ににじんだ血を見て、みんなが重傷ではないかと騒ぎだした。上着を脱がせてみると、体に銃弾が突きささり、その端がわずかにのぞいていた。それでも彼は笑っていた。軍医がいないので力の強い姜渭竜に彼の体を押さえさせ、わたしがピンセットで弾丸を摘出したが、思うようにいかなくて脂汗を流した。麻酔もない手術だったが、呉日男は呻き声一つ立てなかった。筋肉にささった弾丸をやっと抜き出し、銃器清掃用のワセリンを塗ったあと後送を命じると、彼は「これくらいの傷がどうしたというのです。もうすぐ敵が追撃してくるというのに、機関銃小隊長が隊伍を離れるなんてとんでもないことです」と言って、とうとう発たなかった。わたしは呉日男のこうした闘志が少年隊員たちに好ましい影響を与えるに違いないと信じた。
事務長の全姫も闘志にかけては人後に落ちなかった。年齢は少年中隊員と大差がなかったが、なかなか気丈な女性だった。全姫の家庭事情にくわしい金喆鎬は、彼女が十歳のとき祖父の鍼箱をぶちこわしてしまったほどのきかん気の娘だと話した。
全姫は十歳のとき母を亡くした。祖父は鍼術に通じ村人たちの治療をよくしたが、嫁の病気は治せなかった。幼い全姫は、母を救えなかった責任が祖父の鍼箱にあると思い込み、石で鍼箱を叩きこわしてしまった。祖父が「このあまっ子、このあまっ子めが」と怒鳴ると、彼女は「母ちゃんの病気も治せない鍼箱なんかいらない」と言っておいおいと泣いた。それで祖父も全姫を抱きしめてすすり泣いた。翌年、全姫は兄も亡くした。遊撃隊員だった兄は、敵中工作中、二人の同僚とともに逮捕された。敵は彼らを局子街の裏山で処刑した。三名の闘士は、血が噴き出し骨がくだけるむごい仕打ちを受けながらも、敵の罪状を告発し「革命万歳!」を叫んで雄々しく最期を遂げた。
幼い全姫も村人たちにまじってその光景を目撃した。兄の英雄的な最期は彼女を感動させた。敵は群衆に向かって、「見ろ、日本に盾突くやつらはみなこんなざまになる。それでも革命をやるつもりか」と怒鳴った。群衆は口を閉ざしていた。ところが幼い全姫の口から「革命万歳!」というかん高い叫び声があがった。驚いた敵は彼女にとびかかり、袋叩きにした。その後、全姫が遊撃区に入ったとき、大人たちが「あのとき、どんなつもりで万歳を叫んだんだい」と尋ねると、彼女は「わたしも兄さんのように死にたかったの。どうせ死ぬんだったら『革命万歳!』と叫んで死にたかったの」と答えた。この短い言葉には早くも、自分の生命よりも革命を先に考える胆力が宿っていた。
死を恐れない全姫の大胆で勇敢な性格は、少年中隊員たちのよき手本となりえた。わたしは全姫も呉日男と同様、責任をもって少年中隊員の面倒をみる適任者だと確信した。事務長というのは、いまでいえば人民軍の下士官長のような任務を遂行する職責である。
わたしが少年中隊の編制を発表したあとも、少なからぬ指揮官は司令部の措置に当惑していた。あの子たちはわれわれの足手まといになり、われわれの活動に支障をきたすのではなかろうか、あのちびっこたちが果たして、大人でさえ堪えがたい試練にうちかてるだろうか、と考えてのことだった。わたしが司令官の権限を発動して少年中隊を編制したのは、少年たちの願いをすみやかに解決するためだった。少年たちの革命への強いあこがれ、親兄弟の仇を討とうという炎のような敵愾心が、なによりもわたしを感動させたといえる。少年たちに会って、遊撃隊の後続隊の育成問題に関心を向ける必要性を感じ、少年たちで特殊な軍事組織をつくれば、それが後続隊の育成問題を解決する一つの方法になるのではなかろうかと考えたのである。わたしは、彼ら少年中隊員と同じ年ごろで遊撃隊に入隊した曹曰男、李成林、崔金山、金沢万、白鶴林など、それまでの伝令が成長した経緯からみて、十四~十七歳なら十分、大人と同じ働きができると確信した。
われわれは少年中隊を編制するとすぐ、彼らに軍服を着せ武器を授与した。武器はほとんどが、子どもたちの背丈にあう三八式騎兵銃だった。新しい軍服に武器までもらって小躍りしていた少年中隊員の姿を思い出すと、いまでもほほえましくなる。
わたしは呉日男と全姫に、少年たちを当分のあいだ地陽渓の台地で訓練したあと、七道溝の富厚水密営で集中的に訓練をおこなうよう任務を与えた。遊撃隊生活に必要な基礎知識と基礎動作を一、二か月間で習得させるための速成訓練要綱は、わたしがじかに作成して呉日男に与えた。彼はそれを見て、こんな強度の訓練を子どもたちがこなしきれるか疑問だが、やってみると言った。
少年中隊は翌日から地陽渓台地で訓練に入った。そのころ、わたしは中日戦争に対処する方針を構想しながら緊張した日々を送っていたが、時間を割いてしばしば少年中隊の訓練を指導した。訓練場に出向いて模範動作をしてみせたり、早く軍人らしくなるためには歩調教練を熱心にやらなければならない、照準練習のときには標的を敵の胸板とみなければならない、などと訓示したりした。
地陽渓で少年中隊の訓練が二週間ほどおこなわれたとき、わたしは会議を開くため小白水密営へ向かった。出発に先立って、わたしは呉日男に、少年中隊員を富厚水密営に連れていって訓練をつづけるよう命じた。いざ少年たちを行軍隊伍に立たせるとなると、気がかりな点もなくはなかった。実際、当時の行軍は容易ではなく、苦労のなかで育った子どもたちだとはいえ、安心できなかったのである。富厚水密営は比較的安全な後方密営で、訓練基地としてはうってつけの場所だった。そこには少年中隊員が二、三か月は過ごせるほど食糧が十分に貯蔵されていた。わたしはあらかじめ、富厚水に密営を設営し、食糧を準備する任務を金平に与えておいた。少年中隊はそのおかげを十分にこうむったわけである。わたしが富厚水近くの六道溝密営で敵の背後打撃戦を指揮していたとき、少年中隊員は富厚水密営で猛訓練をおこなった。初水灘と小白水で会議を終えたあと、そこへ行って彼らの訓練を見たわたしは、地陽渓にいたときとは見違えるほど進歩していることにすぐ気づいた。少年中隊を編制した措置が正しかったことは、その訓練を見るだけでも実感できた。驚くほどの成長ぶりにわたしは喜びを禁じえなかった。
そうしたある日、全姫が司令部にやってきて、だしぬけに「将軍、困ったことになりました。いったいどうすればいいんでしょう」と切りだした。少年中隊でいちばん小さい子が毎晩、家を恋しがって泣くというのである。泣くと聞いて、わたしは驚いた。遊撃隊員といえども家庭を持つ人間である以上、少年中隊員が家を恋しがるのはあたりまえのことだといえたが、そのことで泣いたりするというのでは捨てておけなかった。
全姫の話によると、その少年は中隊が八道溝河を過ぎるとめそめそしはじめたという。なぜ泣くのかと聞くと、だんだん家が遠くなるので心細くなってきたと答えた。入隊するときは部隊が家の近くで活動するものと思ったのに、行軍距離が遠くなるので弱気になってきたらしい。
わたしは全姫に、可愛い子は棒で育てよと言うではないか、少し強く言い聞かせるべきだと言った。全姫は彼を前に立たせてきつく叱った。ところが、その叱責が反作用を起こした。彼はすっかりむくれて、家に帰してくれと言いだした。わたしは彼を司令部に呼び、本当に家に帰りたいのかと聞いた。彼はなにも言わず、わたしの顔を見つめるだけだった。それでわたしはこう言った。
「どうしてもというなら、家へ帰りなさい。だが、ここから十九道溝までは何十里にもなる。それでも行けるかい」
「来た道をたどって行けば帰れます」
答え方からして、だだをこねているのではなく、自分なりにいろいろと考えたうえでのことらしい。わたしは全姫に、少年中隊用の非常米が何升か入っている背のうを持ってこさせ、それを彼に与えた。
「じゃ、好きなようにしなさい。家まで行くには食べ物がなくてはならないから、これを持って行くんだ」
それが中隊の非常米であることを知っている彼は目を丸くした。
「いやです。これを持っていったら、中隊はなにを食べるんですか。ぼくはひとりだから、どうにでも食べていけます。トウモロコシ畑に入って、実をもいで食べればいいんですから」
「それは泥棒をするようなものじゃないか。そんなことをしてはいけないから、この米を持っていけというのだ。遊撃隊で何日か生活したのだから、それくらいのことはわきまえなくてはいけない。そうじゃないかね。この背のうを持っていくのだ」
「みんなの腹をすかせて、ひとりで食べるなんてことはできません」
彼は、わたしが肩にかけてやろうとする背のうをかたくなに下ろした。
「そんなことを知っているおまえが、血を流して戦う仲間を山中に残し、ひとり家に帰るのが恥だということはわからないのか。おまえはしっかりした子だと思っていたのに、そうじゃなかったんだな」
ことがここまで及ぶと、少年は泣きだした。この子たちは実際、まだ親の保護を受ける年ごろだった。ここにも日本帝国主義による民族受難の一端をかいまみるような思いがした。だが、ここで彼が家へ帰ればどういうことになるだろうか。少年中隊員のあいだに動揺が起きるだろう。わたしは彼が入隊するときに提出した宣誓書の内容を思い出させて、いま一度言い聞かせた。
「男子の一言金鉄のごとしという言葉がある。ところが、おまえは自分自身の誓いを道ばたの石ころのように踏みつけにしようとした。人間はそんないい加減な約束をするものでない。いったん銃をとったからには最後まで戦い、勝って家に帰らなくてはいけない。それでこそ両親にも喜んでもらえるはずだ」
こうして彼は、家へ帰ろうなどという考えは二度と起こさないと誓った。
こんないきさつがあったためといおうか、わたしはその後、彼にとくに目をかけた。わたしは彼の長所が同志愛にあると思った。自分は飢えても中隊の非常米には手をつけられないというその友愛心こそ、白雪やユリの花のように清く美しい同志愛でなくてなんであろう。
わたしは同志愛を革命家の資質を検証する試金石と見ている。同志愛は、共産主義者をこの世でもっともりっぱな人間たらしめる人格の核心であり、道徳的基礎であり、共産主義者を他の人間と区別する一つの明白な基準である。もしも人間に同志愛というものがなければ、その人生は砂上の楼閣のようにもろく崩れてしまうであろう。同志愛の強い人間にはたとえ欠点があっても、それを容易に直す力がある。わたしが十九道溝出身のその少年から発見したのは、この点だった。
全部隊が少年中隊員を実弟のようにいたわり親切に面倒をみた。古参の隊員は彼らを一人ずつ受け持って熱心に教育した。少年中隊員たちに頼もしい後援者が一人ずつついたのである。
もっとも誠実で積極的な後援者はなんといっても中隊の責任者呉日男だった。彼は少年のなかに落伍者があってはといつも気をつかった。いつだったか、上豊徳で入隊した「ちびっこ新郎」金洪洙に包足巾を巻いてやっているのを見て、わたしは深く感動した。そのとき呉日男は金洪洙に「洪洙、おまえは嫁をもらうことではおれの先輩だが、包足巾を巻くことでは後輩だ。だから恥ずかしいと思わないですなおに教わるのだ。だが、おれが嫁をもらうときはそうはいかん。そのときはおまえがおれの先生になるのだ」と話していた。「ちびっこ新郎」の金洪洙は呉日男に足をまかせて、中隊長の手の動きを注意深く見守っていた。呉日男が格別に金洪洙の世話をしたのは、妻帯者の彼がとやかく人の口の端にのぼらないようにという気づかいからであったに違いない。
女性隊員たちも少年中隊員を格別可愛がってなにくれと気を配った。彼女たちも少年中隊員を二、三名ずつ受け持って世話をした。そして背のうの整頓の仕方から飯の炊き方、焚き火の起こし方、縫い物の仕方、足の裏の水ぶくれの治し方など、生活上のこまごまとしたことを一つひとつ教え、世話をやいた。
中隊長につぐ熱心な世話人は金雲信だった。彼は党組織から李乙雪を担当するよう任務を受けたらしい。暇さえあれば李乙雪に付き添って照準練習をさせる彼の熱心な指導ぶりは、他の古参隊員にも好ましい影響を与えた。そのおかげで李乙雪は名射手に育った。後日、李乙雪が共産党に入党するとき、金雲信はその推薦人になった。
古参の隊員は行軍のときも少年中隊員たちをリードした。夜間行軍のときは前の人にぴったりついて歩き、周囲の状況に気を配り、異常があればそのつど指揮官に報告し、休止後の出発にさいしては紙くず一つ残してはいけないなどという常識は、古参の隊員たちが行軍中に彼らに教えたものである。
わたしも少年中隊に深く気を配った。急流を渡るときは、いつも少年中隊のちびっこたちを背負って渡ったものである。「ちびっこ新郎」金洪洙もわたしにおぶさって川を渡ったことがある。嫁をもらった男が、子どもみたいになんたるざまだと冷やかされても、この天真爛漫な新郎はちっとも気にしなかった。わたしは少年中隊員と行軍するときは「前方に木があるから気をつけろ」「水溜まりがあるから飛び越えろ」「気をつけて川を渡れ」などとこまかく注意を与えた。
少年中隊員はいつもひもじい思いをした。遊撃隊の食事が家庭のそれにまさるはずがなかった。いつだったか、彼らと一緒に長白から臨江に向かって行軍したとき、食糧が足りずかゆをすすることが多かった。かゆをすすった日は、なお元気がなかった。炊事隊員はいつもわたしの食事を別に運んできたが、わたしはそのたびにかゆの器をもって少年中隊員の食卓に割り込み、かゆを分けてやったりした。几帳面な性格の事務長全姫は、ある日わたしのところへやってきて、どうかそういうことをしないでほしい、いつもかゆを分けてやっていたら司令官同志の健康はどうなるのか、どうしてもそうするというなら、自分たちも食事をしないと泣き顔で言った。わたしはこう言って彼女をなだめた。
「全姫、あまり心配することはない。ちょっと腹をすかしたからといって、どうということはない。しかし少年中隊員の場合は違う。まだ鍛練が足りないのでひどくこたえるのだ。食べざかりの年にかゆばかりすすっているのだから、どんなにひもじい思いをしていることだろう。こんなとき、われわれが面倒をみてやらなければ、誰がみるというのだ」
少年中隊員の成長のために、わたしがもっとも関心を払ったのは思想教育だった。わたしは暇さえあれば彼らの講師になった。まず、読み書きのできない少年に文字を教えた。少年たちは偉人伝にたいへん興味をもった。それで偉人伝をよく話して聞かせた。そのあと、朝鮮の亡国史を講義した。彼らのなかには安重根、尹奉吉、李奉昌のように拳銃や手榴弾をもって歩き、天皇や朝鮮総督を爆殺しようと夢想する空想家もいた。そんな子らには、テロでは国の独立は達成できない、武装闘争を軸にして全民抗争をしてはじめて祖国を解放することができるのだと教えた。そんな少年にわれわれの革命路線を認識させるには、ねばり強い努力を要した。
長白から臨江に向かって行軍したとき、われわれは数十回も戦闘を交えた。しかし、わたしは少年中隊員を一度も戦闘に参加させず、遠くから古参隊員たちの戦闘を観戦させた。いつだったか、ある少年中隊員が戦場で流れ弾に当たって負傷したことがあった。傷がうずくと、少年は「お父さん、お父さん」と泣きべそをかいた。わたしはそんな様子を見て、あの子の親が息子の銃創を見たらどんなに心を痛めるだろうかと思った。それで呉日男に、少年中隊員は革命偉業を継承すべき宝だから、大事にして面倒をよくみなければいけないと言った。われわれは少年中隊員を掌中の玉のようにいつくしんだ。だからといって、彼らを貴公子のように甘やかしてばかりいたのではない。過ちを犯せばきびしく批判し、古参の隊員たちと生活をともにさせて鍛えもした。
ある日の夜、宿営地を見まわっていたわたしは、少年中隊員が靴を脱いで寝ているのを発見した。それは規律違反だった。われわれは宿営規定をつくるとき、戦闘員が靴を脱いで就寝することを禁ずる条項を加えた。随時、敵の奇襲を受ける遊撃隊生活において、一時の不自由に負けて靴や衣服を脱いで寝るのは自殺行為にひとしかった。それで指揮官と兵士たちは、宿営地でいつも軍服を着、靴をはいたまま、銃を抱いて寝たものである。事ある時にいちはやく行動を起こせるよう、背のうは枕にして寝た。その夜、わたしは全姫をきびしく批判した。
「そんな安っぽい人情をもってしては少年たちを闘士に育てることができない。もし、この瞬間に敵襲があったら、靴を脱いで寝ているあの少年たちはどうなるのだ。足が傷つきもすれば、凍傷にかかる恐れもある。あの少年たちの親は、息子たちをわれわれにまかせたのだ。だからわれわれは親兄弟のつもりで、あの子たちの世話をやかなければならない。いまは胸が痛み、むごいと思えても、将来を思って少年たちを原則的に育てなければならないのだ」
その夜、わたしの批判に大きなショックを受けた全姫は、数十年後、人民軍副総参謀長の重責を負った趙明善に会った席でこう話したという。
「あのとき、あなたの足のことでわたしが批判を受けたことを覚えていらっしゃる?」
趙明善は、かつての事務長が言わんとすることをすぐ悟って感慨深げに答えた。
「覚えていますとも。わたしが宿営地で靴を脱いで寝たばかりに、全姫同志が…。革命活動の第一歩を踏み出した少年中隊のころでしたね。苦労は多かったが、あのころがなつかしい」
誰でも幼いころの苦労や他人から受けた愛の思い出は一生忘れられないものである。その追憶は消えることのない灯火となって、ほのぼのと人生を照らしてくれるものである。半世紀を越える年月が過ぎ、当時十四、五歳だった少年もいつしか七十の峠を越しているが、彼らは実弟のようにいたわり可愛がってくれた同志たちを忘れられないのである。
古参隊員のあたたかい援助と配慮のなかで、少年中隊員は急速に成長した。彼らは古参隊員と一緒に戦闘に参加させてほしいと言いだした。少年中隊員がはじめて参加した戦いは新房子戦闘だった。それ以来、彼らは古参の隊員と肩を並べて数々の激戦を体験した。その過程でいろいろなことがあった。わたしがいくら強く念を押し、くどいほど注意を与えても、いざ戦闘がはじまると、少年中隊員たちは大人には想像もつかない突飛なことをしでかしてはらはらさせたり、笑いを呼んだりした。平素はたいそう落ち着いてみえる少年も、戦闘がはじまるとのぼせあがり前後を忘れて行動した。ある少年は遮蔽物に頼るのが面倒になり、上半身をのりだして射撃をし、古参隊員に引き倒されるような場面もあった。焚き火で新しい軍帽を焦がし、しばらく無帽で過ごしたある少年中隊員は、帽子ほしさのあまり、敵兵とぶつかったとき相手を撃ち倒すより帽子を先に奪おうとして、あやうく命を落とすところだった。立哨中にノロ鹿を見つけて我慢しきれず発砲し、全隊を非常呼集させた少年中隊員もいた。
苦しい戦いの日々に、少年中隊員たちは数々の戦功も立てた。遊撃隊生活の非常状況は、彼らに普通の生活では想像もつかない非凡な知恵と勇気を発揮させた。あるとき、全文燮、李斗益、金益顕は連絡任務を受けて目的地に向かう途中、満州国軍の小部隊と遭遇した。互いに同時に相手を発見したので、先手を打たなければ敵に包囲され全員捕虜になる恐れもあった。危機一髪の瞬間、少年中隊員たちはやぶの中に伏せ大人の声色を使って、「第一中隊は左、第二中隊は右に展開!」と叫び、敵を狙い撃ちにした。とたんに敵は戦意を失い、あわてて逃走してしまった。少年中隊員たちは連絡任務を無事に果たして帰隊した。ところが、彼らはそんな戦功を立てながらも別に大したことではないと思っていたのである。それで彼らの戦功はすぐには部隊に知られなかった。わたしも呉日男中隊長から聞いてはじめて、三名の少年たちの感嘆すべき行為を知ったのである。
少年中隊員たちは思想・意志の面でも、道徳の面でも見違えるほど成長した。彼らは万事を自力でおこない、できるだけ古参の隊員に負担をかけまいと努力した。少年中隊が編制された年の秋のある日、金益顕は焚き火のそばで寝て、ふくらはぎに火傷をした。それに眼病まで患って苦労をした。古参隊員たちは目のよく見えない彼を助け、行軍中は体を支えて歩いた。金益顕はふくらはぎがひどくうずいたが、わたしや古参の隊員に心配をかけまいと、そんな素振りを見せなかった。わたしは彼が足の火傷で苦労しているに違いないと思い、薬を送ってやった。金益顕の火傷を見て、わたしは彼の意志と忍耐力にいたく感心したものである。
抗日戦争の全期間、少年中隊員は年齢や体力の制約を克服して古参の隊員に劣らずりっぱに戦い、武装闘争に多大の寄与をした。日本軍警は、少年中隊上がりの遊撃隊員とは口もきくな、と言ったという。少年中隊出身には対抗するなということである。
金一の手引きで少年時代に入隊した金成国の例をあげよう。金一は長いあいだ間三峰のふもとの村落で、当地の祖国光復会会員金相賢の援助を受けながら地下工作をおこなった。金相賢は金一を自分の農作業小屋に三か月間もかくまい、誠意をもって工作の手助けをした。金相賢はやもめ暮らしをしていた。妻に先立たれ残った三人の子どもが手にあまり、みな下男奉公に出した。その長男が金成国である。金一はこの気の毒な一家をなんとか助けたかったがままならず、考えあぐねた末、金成国を遊撃隊に送ることにした。ある日、彼は畑で草取りをしていた金成国に会い、わたしあての紹介状を渡して訪ねていくようにと言った。こうして少年金成国は手ぐわを放りだし、粗麻の衣服を着たままわたしを訪ねてきて遊撃隊に入った。
幼いころから人一倍苦労した金成国は、物覚えが速いうえに胆力があり頑張り屋で、日ならずして射撃術や遊撃隊の行動規範に通じ、数か月後には機関銃手呉白竜の副射手に選抜されるまでに成長した。金一は深い愛情をそそいで日ごろから彼の面倒をみた。松花江のほとりできびしい冬を過ごしたときのことである。そのころ金成国はしばらく防御隊の任務についていた。あるとき、焚き火にあたっていたが、足の裏が熱くなったので靴を脱いだ。ところが折悪しく敵の奇襲を受けた。それに射手の呉白竜もその場にいなかった。金成国は指揮官の命令ですばやく、凍りついた松花江の氷上に出て機関銃を据え敵に猛射撃を加えた。彼は自分が裸足で戦場に飛び込んだことに気がつかなかった。彼が射撃に熱中していたとき、誰かが後ろで彼の足を引っ張った。かっとなって振り返ると、金一が肌着を引き裂いて自分の足を包んでくれているではないか。金成国は自分が裸足で戦闘に参加したことに気づいた。敵の退却後、金一は「なんということだ、足を切断したいのか」と叱った。戦闘後、金一がわたしに言うには、金成国は機関銃をかついで松花江の氷の上を走っていたが、足が氷上から離れるたびにピチッ、ピチッと音がしたという。厳冬に裸足で氷上に機関銃を据えて猛火を浴びせる金成国もただ者ではないが、弾雨をついてそれを追い、肌着を裂いて足を包んでやった金一もまた普通の人ではなかった。あのとき金一がそうしなかったなら、金成国はきっと足にひどい凍傷を負い、翼のない鳥になってしまったであろう。のちに金成国は、わたしと金一の推薦で共産党に入党した。
彼がいかに革命に忠実な闘士であったかは、小部隊活動のころの数々の逸話がよく物語っている。一九四〇年代の前半期は、遊撃隊員一人ひとりの革命精神が点検される試練の時期であった。このきびしい時期に、金成国はいささかも動揺することなくりっぱに戦った。彼は地下工作任務を受けて国内へ往き来していたが、あるとき単身で羅津市内へ行き、ちょっとした不注意で警官に不審尋問された。通りでにわか雨にあい商店に入って傘を買ったのだが、それがなんと女物の日傘だった。佳在水の山村で幼いころから苦役にさいなまれてきた金成国には、雨傘と日傘の区別がつかなかったのである。商店から日傘をさして通りに出ると、たちまち人目を引いた。不審に思った通りすがりの警官が、その日傘をどこで盗んだのかとただした。金成国はありのままに商店で買ったと答えた。なぜ女物を買ったのかという問いに、隣の奥さんに頼まれて買っていくところだと言いつくろった。しかし警官は金成国を駐在所に連行してしつこく尋問した。彼は警官を椅子で殴り倒して逃げようかとも思ったが、自制した。そんなことをすれば市内で地下工作をつづけることができず、他の工作員がまた死線を越えて羅津に来なければならないのである。金成国を連行してきた警官が市内の巡察に出かけると、かわって他の警官が彼を尋問した。尋問中に机の引き出しをあけた警官は、さっきの警官が彼から押収しておいた数百円の工作費を発見した。金を見て欲がわいた警官は彼をすぐ釈放した。
翌年の夏にも、金成国は小部隊に加わって工作中、あやうく危機を脱した。工作任務を遂行して基地へ帰る途中、敵と遭遇し射ち合いをした彼は、数か所に傷を負ったが谷間の草むらに隠れ、敵の捜索をかわした。わたしは任哲を責任者とするグループを派遣して彼を探させた。彼らは谷間で瀕死の金成国を発見した。数か所に傷を負った彼が死ななかったのは奇跡といえた。彼は意識を失うまで草をもいで食べたという。
金成国が訓練基地に帰ると、わたしは関係機関を通して彼をソ連の野戦病院に送った。彼はそこで一年間治療を受け、健康を取りもどした。病院の医療従事者や患者たちは彼を親切に介護した。とくに担当看護婦は彼を朝鮮パルチザンの不死鳥だと言って献血までしながら、昼夜を分かたず献身的に看護した。彼女はドイツ人だった。反ファッショ闘士の父親がヒトラー一味に銃殺されたあと、母親とともにソ連に亡命したという。彼女は金成国を東方弱小民族の闘士として尊敬し、誠意のかぎりをつくした。彼の治療のためにはどんな苦労もいとわなかった。トイレの出入り、洗面、食事などのいっさいを世話し、回復期に入ると食欲がわくようにと家のニワトリをつぶし、口に合いそうな料理をこしらえてきた。退院の日、娘の母親が病院を訪れ、彼を自宅に招待した。患者は退院後も療養をつづける必要があるから、自分の家で何日か過ごし元気をつけてから行くようにとすすめた。金成国は喜んで承諾した。娘の母親はその街の美術学校の教師だった。彼女はシベリアのきびしい気候のもとでも数十羽のニワトリを飼い、多年生のトウガラシも栽培していた。母と娘は毎日ニワトリを一羽ずつつぶし、いろいろな料理をこしらえて食卓にのせた。彼女たちは暇さえあれば朝鮮パルチザンの闘争談を聞かせてくれとせがんだ。彼女たちをもっとも感動させたのは、十代の幼い身で革命の嵐に身を投じた少年たちの話だった。少年たちが遊撃闘争に参加していることをたいへん不思議がった。母親は朝鮮の英雄闘士をヨーロッパに紹介したいと、しばしばカンバスに彼の顔を描いた。彼の療養期間、娘は彼を通して朝鮮を知り、朝鮮の歴史、朝鮮の革命家と人民を理解した。彼を知ってから、娘は朝鮮を愛するようになった。
「少年隊員の話を聞いただけでも、あなたの国が日本との戦いで勝つと確信できます。あなたたちはきっと日本をうちまかすでしょう」
娘は何度もこう言った。
金成国が部隊に帰る日、彼女たちはソ連の医師たちと一緒に別れを惜しんで、彼を遠くまで見送った。そして餞別として彼に記載額の多い貯金通帳を贈ろうとした。しかし、彼はその好意を固辞した。娘の母親は別れるとき、こんなことを言った。
「あなたはもっと療養しなければならない。でもわたしたちはこれ以上あなたを引き止めない。いくら引き止めても、あなたはわたしの家にじっとしていないでしょう。あなたのような闘士たちのいる朝鮮革命は必ず勝利するでしょう」
わたしは金成国の帰還談を聞いて、彼につくしたドイツ人親娘の国際主義的行為に深く感動した。それで彼にお金と豚肉を持たせ、朝鮮人民革命軍の名で謝意を表しに行かせた。
少年中隊がいかにりっぱな思想鍛練の溶鉱炉であり、有用な軍事・政治学校であったかは、金鉄万の例をみてもわかる。彼は、地陽渓一帯で小部隊工作をした「パイプじいさん」に連れられ少年中隊に入隊した。最初、彼がわたしの前に現れたとき、わたしは「パイプじいさん」をとがめた。「小銃よりも小さい子どもを部隊に連れてきて、その始末をどうしろというのですか」と苦情を言うと、李東伯は心外だと言わんばかりに「小さい子だなんてとんでもない。あれでも十七歳ですよ。体は小さくてもやることなすことはすっかり大人です」と言って金鉄万をかばった。わたしはそのとき、彼が「パイプじいさん」に年齢を偽ったのだろうと思った。わたしの目には彼がせいぜい十二、三歳にしか見えなかったのである。それで彼に、登れない木は仰ぎ見るなと言って、家に帰るよう説得した。しかし彼はにやにや笑って「将軍、小さいといって馬鹿にしないでください。これでもわたしはどんな野良仕事でもやってきました」と言って腕を振りまわした。たしかに彼の腕は他の少年たちに比べて強そうに見えた。
彼は少年中隊に入隊後、なにをしても他にひけをとらなかった。少年中隊の解散後は第七連隊で呉仲洽連隊長の伝令になり、任務をりっぱに果たした。呉仲洽が戦死したとき、涙をいちばん多く流したのは金鉄万だった。彼は呉仲洽の後任として連隊長になった呉白竜の護衛に格別気をつかった。金鉄万は小部隊活動期間もずっと呉白竜のグループに属してソ満国境や豆満江を足しげく渡り歩き、反日抗争勢力の結集をはかる政治工作や敵の軍事要衝の偵察活動を果敢に展開した。抗日の火の海のなかで鍛えられた軍事指揮官としての金鉄万の胆力と才能は、反米大戦のときに遺憾なく発揮された。彼は第一次南進のときにもよく戦ったが、敵背での闘争もりっぱにおこなった。彼の指揮する連隊は楊口、春川、加平、通川、浦項、青松、軍威など江原道と慶尚北道一帯百余里の広い地域で縦横無尽に転戦し、敵の背後をあいついでたたいた。彼我のあいだに一進一退の激戦がつづくなかで、楊口地方の農民は秋の取り入れもできずにいた。それで金鉄万は楊口を解放すると、郡内の幹部を全員呼び集めて悠然と取り入れの手配をした。楊口郡の郡民は彼の連隊の協力を得て数日のうちに畑の穀物をすっかり刈り入れた。
金鉄万は折にふれ、自分が党から信頼され愛される軍・政幹部に成長することができたのは、ひとえに
少年中隊には加わらなかったが、彼らと同じ年ごろに武器をとり遊撃隊で戦った少年隊員たちも抗日戦争の勝利に大きくつくした。
トンネル工事場で働いていた金炳植は十五のとき、ひとりで遊撃隊を訪ねてきて入隊した特異な少年だった。入隊後しばらく文朋尚と崔春国の伝令を務めたが、指揮官たちは彼をきびきびした兵士だと言ってたいそう可愛がった。金炳植はたびたび敵中工作に派遣されて多くの功を立てた。彼は警戒のきびしい豆満江を口笛を吹きながら思うままに渡り、雄基(先鋒)、羅津、会寧など朝鮮の北部国境都市を隣村へでも行くように出入りした。彼が生命を賭して国内に潜入し収集してきた敵情資料は、祖国解放作戦の準備に大いに役立った。解放前夜、彼は不幸にも敵に逮捕された。日本の刑吏たちは彼の活動が日本帝国の足もとに時限爆弾をしかけるようなゆゆしい行為であったと知り、死刑を宣告した。死刑はのちに無期懲役に減刑された。敵も彼が未成年者であることを考慮したらしい。金炳植は西大門刑務所で最年少の「囚人」となった。彼は雑役に従事しながら、その獄舎に収監されていた権永璧、李悌淳、李東傑、池泰環、朴達、徐応珍などの監房に出入りしながら連絡員の役目を果たした。敵は彼を帰順させようと拷問もし、威嚇、懐柔もしたが、どれも効を奏しなかった。彼は節義のかたい闘士だった。
抗日革命闘士のうち最年少の入隊者は李宗山と李五松であった。李宗山は十一のとき抗日連軍第三軍に入隊して遊撃隊員となった。李宗山が革命軍を訪ねたとき、その入隊を審査したのは第三軍政治主任の馮仲雲だった。彼ははじめ李宗山に、小さくて入隊できないから家へ帰るようにとすすめた。十一歳で軍人生活をするというのは実際上、常識はずれなことだった。それに彼は背も低かった。年は一、二歳偽れても背丈をごまかすことはできない。しかし李宗山は執拗にねばりつづけ、とうとう馮仲雲の承諾をとりつけた。李宗山は入隊後、人びとの期待にそむかぬよう軍務に励んだ。部隊の指揮官や隊員たちは、物覚えが速く動作がきびきびし、骨惜しみをしない彼を実の弟のように可愛がり、いたわった。彼は第三軍で主に伝令を務め、一時、金策と朴吉松の伝令になったこともあった。
金策が、りっぱな副官になりそうだといって、李宗山をわたしに譲ってくれたのは一九四三年ごろだったと思う。そのときから李宗山はわたしのそばで多年間過ごした。いまでも忘れられないのは、金策がなにかの機会に話してくれた李宗山の出生のことだった。彼の家族はもと平壌の八洞橋に住んでいたが、わたしが彰徳学校に通っていたころ満州に移住したという。臨月の母親が審陽行きの列車内で産み落としたのが李宗山だった。産婦には赤子のおくるみも、おむつもなかった。それで乗客たちが小銭を集めてくれた。李宗山の母親はその金でやっと赤子の産着を買うことができた。
解放後、李宗山は孫宗俊らとともに、長年わたしの副官を務めた。彼は副官に任命されるや、ぷつりとタバコをやめた。わたしの健康をおもんぱかってのことだった。十余年も身にしみついた習慣を一朝一夕に改めるというのは言うほどやさしいことではない。
われわれが青溝子で第三軍に軍・政幹部を派遣するとき、そのメンバーのなかには汪清遊撃隊で分隊長を務めていた呉仲洽の弟呉仲善(呉世英)もいた。彼は第三軍で大隊政治委員を務めていたとき、ある戦闘で右手の人差し指を失ってしまった。それで彼が手巻きのタバコを吸うときは、李宗山が代わってタバコを巻いてやり、他の隊員のところへ行って火をつけてきた。火をつけるには相手のタバコに自分のタバコを近づけて一口吸い込まなければならず、そうしているうちにいつしか愛煙家になってしまったという。わたしがたまにタバコをすすめても、李宗山は受け取らなかった。彼が禁煙をつづけるのには、わたしもすっかり感心していた。
われわれとともに抗日革命の険しい峠を数知れず踏み越えてきた幼い遊撃隊員のなかには、一九三六年の春、女性小隊を率いて迷魂陣に来た太炳烈がいる。彼が朝鮮人民革命軍に入隊してはじめて銃をとったのは十五か十六のときだったという。彼はよく「小粒トウガラシ」というニックネームで呼ばれた。背が低く小柄ながらも芯がしっかりしていたからである。太炳烈は戦場では勇猛、生活では規律正しかった。彼は抗日遊撃隊に入隊後、廟嶺戦闘、金倉戦闘、間三峰戦闘、木箕河戦闘、大蒲柴河戦闘、大沙河―― 大醤缸戦闘、額穆県城戦闘など多くの戦闘に参加して古参兵にひけをとらない誇らしい戦功を立てた。彼の百発百中の射撃術は、そうした武勲を立てる日々、実戦のなかで練磨されたものである。彼が李竜雲連隊長と一緒に敦化県のある集団部落に入って、三十余名の満州国軍をあっという間に撃滅した武勲談は、いまでも抗日闘士のあいだで興味深いエピソードとして語られている。彼がなかなかの猛者だったので、いっぱしの古参兵も彼を若輩扱いして軽んずるようなことはしなかった。
抗日戦争の日々に太炳烈は主に安吉、全東奎、李竜雲など軍・政幹部の伝令として活躍した。多くの軍・政幹部が、のみこみが速くて責任感が強く、仕事熱心な彼を自分の配下におきたがったものである。彼は伝令を務めながら、指揮官の身辺の安全に特別な関心を払った。指揮官が危険なところへ飛び込もうとすると、彼は両腕を広げてたちはだかった。冒険をつつしめというのは将軍の指示だ、その指示に背いていいのか、と早口に責めたてた。大沙河―― 大醤缸戦闘のとき、全東奎連隊長が戦死したのは、彼の制止をふりきって弾雨に身をさらす冒険を犯したからだった。安吉は、太炳烈が自分の軍服をつかんで冒険しないでくれと懇願したとき、それにしたがったからよかったものの、そうでなかったら自分も全東奎のように死んだだろうと話していた。
小哈爾巴嶺会議後、小部隊活動に参加した太炳烈は、汪清県のある密林で敵の大部隊と不意に遭遇して激戦を交え、太股に重傷を負った。骨のあいだに弾丸が突きささり抜き取ることができなかった。出血がひどく、ときどき意識を失った。傷口にはウジがわいてぞっとするほどだった。早く手当てをしないと、腸や膀胱まで化膿する危険な症状だった。ところが、看護兵の任務を受けて密林に残った王という隊員は、手術はおろかなんの医学知識ももちあわせていなかった。太炳烈は石で小刀をとぎ、自分の手で銃傷を手術した。傷口に小刀を刺し込んで力いっぱいえぐると、黄土色の膿汁とともに腐乱した筋肉と骨のあいだにささった弾丸が出てきた。そんな胆力のおかげで彼は一命を取りとめたのである。
翌年、汪清の工作地でわたしに会った太炳烈の戦友たちは、彼が自ら自分の足を手術したいきさつを語りながら「あれはなんともしぶとい男です」と言った。しぶといと言ったのは、意志が強いということだろう。戦友たちがそう評したのも無理はないとわたしは思った。自分の傷を自分の手で治療するというのは誰にもできることではない。それは大きな胆力と勇気を要する行為である。長年、彼と一緒に過ごしたわたしは、彼が本当にしぶとく胆の太い人間であり、革命の利益のためとあれば猛虎のごとくたたかう忠実で決断力があり、原則に徹した人間であることを知った。彼はどこでどんなことをしても決して原則を曲げるようなことがなく、不正と妥協しなかった。彼がもっとも憎んだのは分派分子と軍閥主義者だった。そのため金昌鳳のような軍閥主義者でさえ、気骨があり党性の強い彼には勝手な指図ができなかった。
太炳烈は抗日戦争中もりっぱに戦ったが、祖国解放戦争のときにも多くの軍功を立てた。戦後は副官としてわたしの仕事を誠実に助けてくれた。
若いときの苦労は買ってでもせよという言葉もあるが、太炳烈がこのようにあらゆる艱難辛苦にうちかつ革命家に成長することができたのは、少年時代に銃をとったからにほかならない。少年のころから武装闘争をすれば、筋金入りの革命家、水火をいとわぬ鋼鉄のような人間になるものである。
半年のあいだに、少年中隊員は古参の隊員に劣らぬ戦闘員に成長した。彼らの成長ぶりは驚くほどだった。彼らが軍人らしい風格をそなえるようになったので、一九三七年の末ごろ、わたしは少年中隊を解散し他の各中隊に配属した。この措置によって少年中隊員は予備隊員から基本部隊の戦闘員になった。
少年中隊出身の遊撃隊員からは裏切り者や落伍者が一人も出なかった。これは彼らが党と革命、祖国と人民にいかに忠実であったかを実証するものである。地球の東方と西方でファシズムが最後のあがきをしていた解放前夜のあのきびしい歳月にも、彼らはわたしとともに小部隊活動を忠実に推進した。新しい朝鮮を建設する日々には、彼らは師団長や連隊長になり、革命の先輩とともに国の武力を建設し、アメリカの将軍たちや戦車を陥穽に追い込んでせん滅した。
人民軍の初代総参謀長だった姜健も十六歳のときに革命軍に参加している。彼は三十歳で総参謀長になった。姜健が一九四八年末にソ連を訪問したとき、彼を空港に出迎えたソ連の大将、元帥クラスの高位軍事幹部たちは、朝鮮人民軍総参謀長がたいへん若いのを見て目を見張った。姜健が帰国してその話をしたとき、わたしは笑って言った。
「わたしがその場に居あわせていたら、きみが少年のころすでに有名な軍人だったと言ってやったのに」
わたしは少年中隊を編制して以来、人間の肉体的年齢と精神的年齢をまったく区別して見るようになった。そして両者のうち、基本は精神的年齢だと思った。青少年期の精神的年齢は一年に二、三歳、さらには五歳も成長しうるのである。
青少年教育は国の運命開拓においていま一つの天下の大本である。少年中隊の経験が示しているように、革命の継承者、後続隊の準備は早いほどよく、りっぱにおこなうほどよいのである。
7 革命的信義を思う
西間島と白頭山地区における抗日革命の貴い成果は、その一つひとつがみな血みどろの闘争によってもたらされたものであった。革命の進展にともない、それを破壊しようとする敵の攻勢もかつてなく苛烈になった。中日戦争を引き起こした日本帝国主義は、その重荷にあえぎながらも、現代軍事科学の最新成果と、数十年にわたる暴圧政治と領土拡張の過程で磨きをかけたファッショ的弾圧手段を総動員して朝鮮革命を圧殺しようと狂奔した。しかし、いかなる計略や術策をもってしても、われわれの前進運動をおしとどめることはできなかった。
敵が力をもって革命の圧殺をはかるたびに、われわれは巧みな戦法と妙計の力、同志的団結と革命的信義の力によってそれを打破した。そして、敵が弾圧に狂奔すればするほど人民との連係をいっそう強め、われわれの内部を思想的に瓦解させようとすればするほど隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的結束をさらにうちかためた。
信義は人間本然の道徳的観念である。旧社会においても真の人間は信義を重んじ、それを人間の基本的表徴としてきた。しかし、旧社会の道徳規範では、ある一方が他方を束縛し、他方はその一方に無条件服従すべしとする不平等が説かれ、人間の自主性と創造性を抑制する歯止めがかけられていた。旧社会の道徳規範は、愛民や為民といった進歩的な要求をかかげることができなかった。
われわれは革命闘争の過程で旧社会から引き継がされたさまざまな封建的人間関係と道徳規範を打破し、新たな共産主義的人間関係と道徳規範をつくりだし、それを一つの財富として新しい世代に受け継がせた。
抗日遊撃隊の上下関係、同志関係、軍民関係に貫かれていたのは、愛と信頼にもとづく共産主義的信義であった。この世には幾千幾万もの法がある。しかし、千差万別の人間の際限ない実践活動を法のみによって統制し操作できると考えるなら、それは早計にすぎる。法はこの世を動かす万能の武器ではない。人間の思考や行動には、法によっては規制できない分野もある。愛や友情を法によって規制することができるだろうか。もし司法機関が法を発動し、今日から誰が誰を愛し、誰を友とし、誰を妻にせよと強要するなら、そのような法を誰が受け入れるだろうか。法の力だけで万事を取り仕切ることはできない。法の不可とするところを代わって果たすのがほかならぬ信義と道徳なのである。
われわれは同志の獲得から革命をはじめ、同志的信義と結束を強め、深く人民のなかに入って彼らとの血縁的な結びつきを強める方法で革命をたえず深化させてきた。いまもそうであるが、以前も同志愛は朝鮮革命の勝敗を左右する生命線であった。朝鮮共産主義者の歩んできた幾十星霜の栄えある闘争の道程は、同志愛と同志的信義の発展の歴史であったといえる。
われわれの隊伍は蓄財や投機目当てに寄り集まった烏合の衆ではなく、祖国の自由と独立という同一の志向と目的をもって結束した革命家の集団であった。思想と理念の共通性は、われわれに最初から生死をともにさせた。したがって、われわれの隊伍には同床異夢や面従腹背の輩が居座る場はなかった。
同志愛と同志的信義を重んじるのは、集団主義を生命とするわれわれの隊伍の存在方式であり、同時に本来の要求でもあった。抗日遊撃隊は、一挺の銃、一俵の米、一足の履き物を手に入れるためにも、力を合わ
せ知恵を集めた。その過程で彼らは「千万べん倒れようとも敵を討とう!」という革命的信念とともに、「死ぬも生きるもともに!」というもっとも気高い共産主義的倫理をつくりだし、団結すなわち勝利という一つの真理を引き出したのである。
抗日革命は、人類がいまだ体験したことのない前人未踏の革命であった。それは困苦と熾烈の面で、どの時代の革命とも比べられない波乱にみちたものであった。われわれが延々と歩んできた曲折多い道程には、今後幾世代にわたっても体験しえないであろうあらゆる苦難が凝縮されている。抗日遊撃隊員は難関と試練がおり重なるほど、同志的団結のスローガンを高くかかげた。そして、同志愛の力によって、それらの難関と試練を乗り越えた。われわれを孤立させ、圧殺しようとする敵の戦略には革命的信義と団結の戦略をもって対抗した。
抗日革命時代の信義のなかできわだった地位を占めるのは、指導者と大衆との信義である。われわれは、朝鮮革命における統一団結の中心が形成されてから今日にいたるまで、終始一貫、指導者と大衆とのつながりを強めることに格別の関心を払い、指導者と大衆の渾然一体と道徳的・信義的結合に最善の努力を傾けた。
わたしが強調する指導者と大衆の関係は、先人の説いた「君臣有義」の義理ではない。君臣有義とは、君主と臣下のあいだには義理がなくてはならないという意味である。朝鮮の共産主義者にとって指導者と大衆の相互関係は、一言でいって一心一体と表現することができる。指導者は大衆に奉仕し、大衆は指導者に忠誠をつくすのが、ほかならぬ指導者と大衆のあいだに通うわれわれ流の共産主義的信義である。
新しい世代の青年共産主義者は、わたしを統一団結の中心とし、指導者と戦士が一心同体となって民族の運命を開くために献身する新しい歴史を創造した。新しい世代の青年共産主義者と抗日革命闘士が体現した共産主義的信義で核心をなすのは、ほかでもなく自分の指導者、自分の司令官への忠実性であったといえる。新しい世代の共産主義者は、派閥争いや権力争いというものを知らなかった。いったん指導の中心をおし立ててからは脇目をふらず、指導者にもっぱら運命を委ねた。ここに、彼らの共産主義的信義の純潔さがあったのである。
金赫、車光秀などの新しい世代の青年共産主義者をはじめ、想像を絶する困難な抗日革命戦争の時代にわたしとともに戦った数多くの抗日遊撃隊員はいずれ劣らず純潔な信義の体現者、気高く美しい道徳の創造者であった。
抗日革命闘士の信義について語るとき、真っ先に思い浮かぶのが金一の顔である。金一は五十年近い歳月、風雪に耐えてきた人間である。彼はわたしとともに抗日戦争を戦い、新しい祖国の建設と反米戦争、それに社会主義建設もおこなった。
抗日革命時代の金一は、活動経験の多い老練な政治幹部として広く知られていた。彼は安図と和竜地方を中心に、間島一帯で地下党活動と反日部隊の工作を多くおこなった。その過程で数多くの革命家を育てあげた。金一は白頭山で活動したころ、杜義順、孫長祥、銭永林などの頭領の率いる反日部隊を訪ねまわって工作し、大きな成果をあげた。彼の工作手腕は並々ならぬもので、安図の銭永林は自分の部隊を人民革命軍に編入させてわれわれとともに戦おうと決心したくらいである。
金一は最初、彼らを撫松へ連れて行った。われわれの部隊が撫松方面に進出したという知らせを受けたからだった。ところがあいにく彼が部隊を案内して撫松地区に着いたとき、われわれは漫江を離れて長白地方へ行っていた。こうなると反日部隊の隊員らは、金一にだまされたといって動揺しはじめた。そのうえ食糧難まで重なり、金一はまったく苦しい立場に立たされた。隊長以下、全隊員が三日間も飲まず食わずの行軍をつづけているとき、幾人かの隊員がとある山中で薬用人参畑を発見した。飢え死にしかねない状態だった隊員たちは、隊長の顔色をうかがおうともせず、われ先に人参を掘って食べはじめた。人民革命軍の指揮官である金一としては想像もできないことだった。彼は、畑の主人の許しも得ず勝手に人参を掘り出すのは人民の利益を侵す行為だとたしなめ、両手を広げて制止した。理性を失った反日部隊の隊員たちは銭永林のところへ行って、朴徳山(金一の本名)は正体のあやしい人間だ、彼は最初、
金一は反日部隊の隊員らに殺されるかも知れないと思ったが、それを覚悟のうえで、むしろ淡々とした口調で彼らを説得した。
「よし、わたしを殺す気なら殺してもよい。だが一つ頼みがある。わたしが人参畑の主人に会って謝ってくるから、それまで待ってもらおう。人参にはこれ以上手をつけないでくれ。これ以上手をつけては人参代を払いきれない」
これに感じいった銭永林は、即座に金一の保証に立った。そして、人参畑に手をつける者は銃殺すると言い放ち、金一を人参畑の主人を捜しに行かせた。畑の主人を連れてもどってきた金一は、主人の好意で背のうに入れてきたまんじゅうを隊員たちに分けてやり、主人にはアヘンの塊を差し出して、自分にはこれしかないが、まんじゅうと人参の代として受け取ってほしいと頼んだ。そのアヘンは急場しのぎにと王徳泰からもらったものだった。主人はかたくなに辞退したが、金一は無理にそれを彼の手に握らせた。感動した畑の主人は、山に貯蔵してあった越冬用の食糧をそっくり提供し、銭永林部隊を漫江まで案内した。漫江にたどり着いた反日部隊の隊員たちは、金一のところへきて非を認め謝った。わたしは反日部隊を連れて白頭山地区に来た金一と紅頭山密営で会い、銭永林部隊をわれわれの主力部隊に編入させた。
金一は、歯がゆい思いがするほど口数の少ない人だった。密営で話を交わした最初の日、革命にはいつ参加し、どんな闘争をしたのかと聞くと、革命に参加したのは一九三〇年代の初期からだが、これといった闘争歴はないと一言答えただけだった。何度聞いても答えは同じだった。初対面ではあったが、あまりにも口数が少なく、付き合いの下手な人という印象だった。これは金一の長所でもあり欠点でもあった。金一の性格上の長所は、飾り気がなく生真面目なことであり、いかなる風波にも動揺せず、ひたすら忠実につくす点であった。彼は生涯、泣き言めいたことを言ったためしがなく、終始黙々と仕事に打ち込むばかりだった。わたしの命令、指示であれば、それを上級にたいする下級の義務としてだけではなく、指導者にたいする戦士の信義として実行する真の革命家であった。彼はどんな任務であれ、道義心をもって実行したので、その遂行においては中正を失うことがなかった。
馬塘溝密営で、金一を第八連隊第一中隊の政治指導員に任命したときのことがいまも忘れられない。その職責は容易ならぬものであった。連隊長の銭永林は前年に輝南県城戦闘で戦死し、連隊政治委員も適任者がいなくて空席となっていたので、第一中隊政治指導員が臨時に連隊政治委員の任務まで兼任しなければならなかった。そのうえ、中隊長も熱意は高いわりに能力が欠けていた。わたしはそういう実態をありのままに説明し、きみがどんな位地で活動しなければならないのかわかるかと尋ねた。慎重な面持ちで考えていた金一は、しばらくして「わかりました!」と一言答えてはまた口をつぐんでしまった。任務を受けるときの彼の態度はいつもそうだった。任務の軽重にかかわりなく、毎回「わかりました!」という決まりの文句で受けとめては、それ以上なにも言わなかった。
翌日、金一にアドバイスするつもりで第一中隊を訪ねると、彼はいなかった。たまたま居合わせた中隊長の話では、金一は新しい職務につくが早く、第一小隊の駐屯地である撫松県北崗屯へ向かったという。前日、金一を中隊政治指導員に任命するとき、わたしが撫松の第一小隊の消息が絶えているとなにげなく口にしたことを心にとめ、現地へ行って第一小隊の実態を調べようと考えたらしい。
翌日の早朝、金一はかなりの食糧と武器を手にして中隊に帰ってきた。それを聞いて、わたしは自分の耳を疑った。馬塘溝から北崗屯まではたっぷり四十キロはある。彼が帰ってきたのが確かなら、一昼夜のうちに往復八十キロ以上を強行軍したことになる。金一は背のうを肩にしたままわたしのところへ来て、第一小隊は全員無事で任務もりっぱに遂行している、第一小隊との連係が途絶えたのは連絡員が途中で道を間違えたからだ、北崗屯から持ち帰った食糧と武器は第一小隊が敵を討って手に入れたものと、人民からの援護物資を合わせたものだ、地元の青年たちが入隊させてくれと懇願するので、司令部の承認も得ずに連れてきたと簡単に報告した。
金一を宿所に帰したのち、彼が連れてきた入隊志願者と面接する過程で、金一が第一小隊を率いて金竜屯の警察署と悪質地主の家を襲撃し、大量の武器と食糧を獲得した事実を知った。
金一は二つの目的で敵の巣窟を襲撃した。その一つは、地主と警察を懲罰して人民の恨みを晴らすことであり、いま一つは、わたしがいちばん心配していた食糧問題を解決することであった。当時、われわれは食糧不足のため難儀していた。一か所の密営に数百名も集まって何か月間も軍・政学習をしていたので、給養係が工作してくる食糧だけではとうていまかないきれなかったのである。戦闘をせずには一俵の食糧も手に入れることができない状況だった。そんなときに、予期しなかった大量の食糧を金一が手に入れてきたので、全部隊がそのおかげをこうむることになった。わたしとしては、まったくありがたいかぎりだった。その後、金竜屯の住民は革命軍への恩返しだといって、四、五回も援護物資をかついで馬塘溝密営を訪ねてきた。
部隊の食糧が切れると、金一はいつも率先して隊員たちを率い食糧工作に出かけた。また彼は敵地での地下工作を終えて帰るたびに、袋に米をつめてかついできた。自分は食を抜いたり粒トウモロコシを食べながらも、わたしにはいつも米の飯を食べさせようと、たいへん気をつかった。金一の背のうがいつも人一倍大きく重かったのは、食糧の予備を入れていたからだった。
金一はいかなる場合にも自分のことより同志と隣人のこと、党と革命の利益を先に考えた。彼は長いあいだ党と国家の高位にあったが、特典や特恵、特待がほどこされるのを望まなかった。下部の者が特別待遇をしようとすると、絶対に許さなかった。
金一は解放後も、抗日革命闘争のころのように、忠実にわたしを補佐してくれた。彼はわたしの望むことであれば、どんなことでも骨身を惜しまなかった。党活動、軍建設、経済指導と持ち場や分野を選ばず、複雑な国事に黙々と専心した。
どの年だったか、金一は党中央委員会政治委員会で、自分を清川江火力発電所の建設現場へ全権代表として派遣してほしいと要請した。当時、清川江火力発電所は、国家的な投資と関心が集中していた重要なプロジェクトだった。それだけにわたしも、工事の指揮を担当できる人物をそれとなく物色している最中だった。しかしわたしは、彼の要望を慎重に考慮せざるをえなかった。かなり健康を損なっていたからである。彼が以前のように自分の体をかえりみず、仕事に熱中しては、どんなことが起こるかわからなかった。ところが、金一があまりにも強く要望するので、聞き入れざるをえなくなった。その代わり、工事現場に行っては顧問役として督励する程度にし、絶対に無理してはならないという条件をつけた。現場に着いた金一はすぐさま仮設バラックに事務室をかまえ、七、八階のビルに相当する高い階段を毎日数十回も上り下りしながら、建設を急ピッチでおし進めた。彼は大晦日まで現場にとどまって昼夜兼行の奮闘をつづけ、一号ボイラーに点火されるのを見届けてから平壌にもどり、わたしにその間の活動報告をした。
金一はこういう人間だったのである。彼が物故する三日前まで執務室で仕事をし、所属の党細胞で党生活を総括し、党中央委員会の責任幹部を呼んで、
金一が終生わたしを心から敬い慕ったように、わたしもまた最後まで彼を肉親のように大切にし愛情をそそいだ。山中での遊撃戦のころの苦労がたたってか、金一はその大柄な体躯に似合わず、たびたび病魔におそわれた。一時、医師たちは彼に胃ガンという恐ろしい診断まで下したことがあった。それを聞いたわたしは、心痛のあまり、予定してもいなかった平安南道温泉地方への現地指導に出かけた。平壌にいては仕事が手につかず、食事もとる気にならず、心を鎮めるすべがなかったからである。
金一までこの世の人でなくなったら、わたしのそばで話し相手になってくれる人はいくらも残らなくなる。ところが多くの医師がひとしく、金一の病を不治の病だと言うのだから、まったく救われない気持だった。ガンでないと主張する医師は一人しかいなかった。多数の意見にしたがうのがつねであったわたしも、その日ばかりはなぜか、その医師の診断にすがりつきたい気持だった。わたしは途中で車を止め、外相に電話をかけ、ガン分野の権威者だというソ連の名医を至急招請するよう指示した。外相の電報を受けたソ連当局は、われわれが指名した医師をすぐ派遣してくれた。金一を診察したソ連の医師は、ガンではなさそうだという結論を下した。彼らは金一をソ連に連れて行って他の名医にも診察させたが、その医師もやはりガンでないと診断した。もしあのとき、ガンだという最初の診断にしたがって胃を切除してしまったなら、金一は命を長らえることができずに終わっていたであろう。
金一が病気にかかったと知らされるたびに、わたしは彼に会い、きみはわたしのためにいなくてはならない存在だ、いまはもうわたしと抗日革命をともにした老闘士が幾人も残っていないのに、きみまでいなくなったら、さびしくて我慢できないではないか、あまり無理をせず、体に気をつけてほしいと頼んだものである。しかし、金一は重病にかかり杖に頼って歩くような状態になっても、執務室や生産現場を離れず、党と革命のために一つでも多く仕事をしておこうと情熱を燃やした。そうして不治の病にかかったのである。いつか、彼はなにを思ったのか、病気が治ったら来年の四月十五日には万景台へ行って、ローラーコースターに乗ってみたいと言うのだった。それを聞いて、わたしはなんとなく胸騒ぎがした。平素口数の少ない人がそんな心の内までうち明けるのをみると、もしや自分の余命がいくばくもないことを予感しているのではなかろうかという思いがした。案にたがわず、金一はその年の大晦日の、子どもたちの迎春公演も観覧できなかった。それでその夜、わたしは金一の家を訪ねた。
「毎年、きみと一緒に迎春公演を観覧したのに、今夜はきみがいないので、涙がこぼれてどうにもしかたがなかった。それで訪ねてきたのだ」
ベッドに横たわっている金一にこんなことを言って腰をあげると、逆に彼が玄関まで付き添ってきて、「お願いですから過労は避けてください。絶対に無理をしてはいけません」と重ね重ね頼むのだった。その夜、わたしは金一の体に障るのではないかと、新年の祝杯もあげることができなかった。それがいまなお心残りでならない。わたしが帰ったあと、金一もやはり、わたしと祝杯をあげなかったことを後悔したという。祝杯をあげたからといって、彼の病気が治るわけでもなく、またわたしの気持が晴れるわけでもない。けれども金一を思い出すたびに、いつもこのことがわたしの心をうずかせるのである。
金一はわたしに対するときと同じように
抗日革命闘士は指導者への信義を守るうえでのみでなく、革命同志への信義を守るうえでも
黄順姫と金喆鎬の友情は、抗日遊撃隊員のあいだで発揚されていた共産主義的信義のモデルともいえる。わたしは黄順姫を見るたびに、あんなに小さくて繊弱な女性が白頭山の寒風のなかで、どうして十年間も武装闘争をつづけることができたのだろうかと考えたりする。解放後、平壌に帰り、国内の人士に、黄順姫を十年間も遊撃闘争に参加した女性だと紹介すると、なかには信じられないと言う人もいた。朝鮮人民革命軍部隊には黄順姫のように小柄な女性隊員はあまりいなかった。それでも彼女は、不屈の闘志で革命に参加した。体躯が堂々としているからといって必ずしも革命に忠実で、信義をよく守るわけではない。林水山は黄順姫に比べれば体が二倍以上の大男だったが、困難に耐えきれず節を曲げ、同志への信義も裏切ったのである。これに反し、黄順姫は祖国が解放される日まで、革命活動をいっときも中断しなかった。信義と信念に徹していれば、平凡な女性でも革命にのりだし、金今順のような少女も節操を守って断頭台をも恐れないのである。黄順姫があれほど小さな体で最後まで革命をつづけることができたのは、信念が強く信義に徹していたからである。
わたしが軍服姿の黄順姫をはじめて見たのは迷魂陣密営だった。女性隊員の兵舎は以前、山林部隊(中国人反日部隊)が使っていた中国式のもので、炕(かん)(オンドル)の床がたいへん高かった。そこに腰をおろして見下ろすと、見覚えのない小さな娘が廊下に立って物言いたげにわたしを見つめていた。ほかならぬそれが一週間もねばって入隊を許され、部隊のしんがりについて迷魂陣までやってきた黄順姫だった。正直な話、そのとき、わたしは彼女が児童団員だと思ったのだが、遊撃隊員だと自己紹介されてびっくりしてしまった。
「まだ背も小さいのに、どうして遊撃隊に入ったんだい」
わたしがこう尋ねると、黄順姫は、日本帝国主義者に虐殺された父親と戦場で倒れた姉の仇を討つためだと答えた。黄順姫の兄の黄泰雲も崔賢部隊の中隊長を務め、寒葱溝戦闘で戦死した。
入隊初期の黄順姫は部隊の重荷になった。しかし、やがて彼女は戦友たちに愛される革命軍の華となった。負けずぎらいで分別があり、原則を通しながらも人情味があり、信義に厚かったからである。
金喆鎬は生前、黄順姫の犠牲的な努力で死地を脱した一九四〇年春の出来事を折にふれ回想したものである。ある日、黄順姫は崔賢連隊長から、後方密営へ行ってしばらくのあいだ負傷兵と老弱者の面倒をみる任務を受け、一行とともに富爾河方面へ向かった。一行の大部分は負傷兵だった。それにもましていちばん困ったのは、臨月の身だった金喆鎬が行軍途上でお産をしたことだった。ところが、産婦には生まれる子のための支度がなにもできていなかった。おむつはおろか、赤子を包む一片の布もなかった。黄順姫は自分の綿入れを脱いで赤子を包んでやった。そうしているうちに、「討伐隊」が発砲しながら一行を追いつめてきた。戦友たちを見まわしていた金喆鎬は、どうせ生かせそうにない子なのだから捨てていくと黄順姫に言った。そう言いながらも、赤子を抱いたまま起き上がろうとしなかった。それを見た黄順姫は、なんということを言うのだ、わたしたちがこうして苦労をしているのはなんのためなのか、すべて次の世代のためではないか、子どもを捨ててわが身の無事を願うくらいなら生きてなんになるのかと叱りつけ、産婦の腕からやにわに赤子を抱きとった。そして山の背に駆け上がり、人目につかない小松の茂みに隠した。それで産婦も銃を手にして黄順姫の後にしたがった。
しばらくして、黄順姫が山の下へ荷物を取りに行ってもどってくると、金喆鎬が空を見上げて涙ぐんでいた。どうしたのか、赤子は見えなかった。黄順姫がわけを聞こうと彼女に近づいたとき、間近でまた銃声が響いた。二人は一行とともに応戦しながら山から山へ、谷間から谷間へと追跡する敵をかわして二日間も走りつづけた。こうして「討伐隊」の追撃を完全に振り切ったとき、金喆鎬は失神してどっと倒れてしまった。黄順姫はほうろうの器で湯を沸かし、それを彼女に飲ませようとしたが、どうしても口が開かなかった。仕方なしにさじを歯のあいだに差し込み、やっとのことで湯を口にふくませた。金喆鎬は生き返った。そのとき黄順姫は、赤子はどうしたのかと尋ねた。ある草むらのなかに置いてきたことが分かり、彼女は遠い道を取って返し、「討伐隊」と戦火を交えた山へ行った。だが、あわれにも赤子はすでに冷たくなっていた。自分の赤子のために、ひとえの上衣のままで遠くへ行ってきた黄順姫を見て、金喆鎬は、せいぜい一、二時間しか生きられないと知りながらも、その子を包んだ綿入れをもってくることができなかったと詫びた。
「お姉さん、わたしたち大人には綿入れなんかどうでもかまいませんわ。名も無いまま死んでいったあの子に、寒い思いをさせなければそれでいいのです」
空腹と寒さのために体をわななかせながらも、黄順姫はこう言って彼女を慰めた。
金喆鎬は、そのときの黄順姫の友情を終生忘れなかった。臨終をまぎわにしたある日、彼女は病床を見舞った黄順姫に、こう言った。
「順姫、わたしはもう駄目だわ。わたしはあなたのおかげで富爾河で死なずに一生、
その日、二人は迷魂陣でのように、寝床をともにして夜通しパルチザン時代の思い出を語り合った。
「苦難の行軍」のとき、長白で入隊した新入隊員が夜、焚き火のそばに寝て軍服を焦がしたことがあった。焦げ方がひどくて素肌の半分もかくせない有様だった。彼はそんな格好で行軍の初日から体を震わせながら隊伍にしたがった。戦友たちはみな同情し心配もしたが、助けようがなかった。誰もが着たきりだったからである。
あつい同志愛の持ち主だった李乙雪は、その姿を見かねて、ある日、自分が着ていた軍服の上衣を脱いでその隊員に差し出した。新入隊員はびっくりして彼を見つめた。
「あなたは、なにを着るつもりで…」
「おれは遊撃隊の生活に慣れているから、ちょっとやそっとの寒さではまいらないよ」
「いや、わたしの不注意で服を焦がしたのに、あなたの服を着ては面目ない」
新入隊員はなかなか彼の好意を受けようとしなかった。口だけでは意地をはる相手をどうしようもないと思った李乙雪は、力ずくで彼の服をはぎとり自分の上衣を着せた。彼にこんなことができたのは、新入隊員を助けるのが先輩隊員としての当然の道義だと考えたからである。
戦友たちはみな、李乙雪がその冬を耐えぬけないだろうと思った。警護中隊のなかでも弱年で、体質も弱いほうだったからである。満州地方に一、二年でも住んだことのある人なら、その冬のきびしさがどんなものかは知っているはずである。寒い日は頭髪に霧氷がこびりつき、手でそっと触れると、つららのようにぽきりと折れる。そういう厳寒のさなかに、おおまかに繕った穴だらけの夏服で幾日も行軍をつづけるというのは、奇跡にひとしかった。けれども、李乙雪は寒いという言葉を一度も口にせず、行軍のたびに先頭に立って雪をかき分けた。宿営地ではいつも彼が真っ先に薪を集め、テントを張った。そして機関銃班の仕事を終え、戦友たちが焚き火を囲んで座るのを見てから、自分の靴を焚き火にあてるのだった。
李乙雪の強靱な意志と同志的信義は天性のものなのではない。彼は民族がなめている受難と苦痛を生活のなかで体験するうちに、搾取され抑圧される人びとへの同情心をいだくようになり、人民を愛し、同志を愛し、隣人を愛することを学びとったのである。
李乙雪は南牌子会議以後、警護中隊の機関銃班に配属されて機関銃副射手を務めた。それ以来、彼は司令部の護衛にすべてをつくした。彼は一生銃を手離さず、いついかなる時にも変わることのない姿勢でわたしを護衛してきた警護隊員だった。わたしは北大頂子会議で「苦難の行軍」を総括するとき、李乙雪を同志愛の模範とし、その品性と同志的信義を高く評価した。『鉄血』の編集チームも、その創刊号で彼の模範を称賛した。
朝鮮人民革命軍が強かったのはなぜかと問われるたびに、わたしは、信義によって結束した集団だったからだと答えてきた。われわれの団結が道徳と信義にもとづかず、ただ思想・意志の共通性によるものだけであったなら、われわれはこれほど強くはなかったであろう。正規軍の支援もなく、国家的後方もない最悪の状態で、日本帝国主義のような強敵を相手にした長期にわたる革命戦争でわれわれが勝者になりえたのは、決して兵力が多かったり武器がすぐれていたからではない。数百万の正規軍を擁する敵に比べれば、われわれの兵力は物の数ではなかった。彼我の武装には比べるまでもない大きな差があった。ひとえに、忠誠と信義によって結合した思想・意志の結束があったからこそ、われわれは強敵を打ち倒すことができたのである。
幹部と党員たちは、革命にたいする林春秋の忠実性と信義に見習う必要があると思う。彼は党と領袖への信義を高い境地で具現した闘士であった。わたしが林春秋とはじめて知り合ったのは、一九三〇年の秋、彼が朝陽川で逢春堂薬局の主人という看板を使って間島地区党および共青書記処の連絡任務を果たしていたころだったが、これについてはすでに簡単に触れた。それ以来、彼は延々六十年近い年月をひたすら革命にささげてきた。「永遠なる同行者、忠実な援助者、りっぱな助言者」という名句は
林春秋は知識をもって朝鮮革命に大きく貢献した人物である。彼は知識を元手に、党建設活動や軍医活動、それに著述活動もした。彼の生涯はそうした活動に終始した。林春秋の才能のうちできわだっていたのは、独学で修得した医術だった。彼が十八歳で医師の免許状を得て「開業」したといえば、いぶかしく思う人もいるだろう。しかし、それはまぎれもない事実なのである。彼は医師の肩書きで大衆を啓蒙し、連絡任務や革命家の育成にもあたった。彼が八道溝付近の竜水坪村へ行っていたときも、多くの人を推薦して遊撃隊に送ったというから、彼の医術がどんな性格のものであったかは推測するにかたくないと思う。
林春秋が遊撃区に来たとき、革命組織は彼を軍医に任命した。軍医として活動するあいだ、彼は多くの戦傷者や病人を治療した。十四、五歳のころから農作のかたわら独学で修得した医術だというのに、臨床成績は上々だった。彼に一、二度治療してもらった人たちは、口をそろえて彼を名医だとほめた。林春秋を名医だといっていちばん引き立てたのは崔春国だった。崔春国が重傷を負ったとき、その手術を担当したのがほかならぬ林春秋だったのである。満州国軍に遭遇して、不幸にも敵弾を受けて大腿骨が砕けた崔春国の傷口を見た人たちは、異口同音に脚を切断しなくては命が危ないと言った。だが、林春秋はそれに同意しなかった。脚を切断してしまえば、遊撃隊指揮官としての責務を果たせなくなるのはもちろん、一個人としても不自由な体になるからである。彼は、崔春国が一万の敵兵にも替えがたい有能な軍事指揮官であり、わたしがもっとも大事にしていた革命軍の猛将であることをなによりも重視した。彼は崔春国の大腿部の切開を最小限にとどめ、砕けた大腿骨のかけらをコッヘルで摘み出す方法で手術をした。こうして崔春国は一年後に大地を闊歩できるようになった。手術した方の脚が短くなって多少引きずりはしたが、それでも行軍に加わり、戦闘の指揮にもあたった。林春秋の大胆な手術が大いに効を奏したわけである。
わたしも第一次北満州遠征を終えて三道湾能芝営にあった東満党書記処を訪ねたとき、林春秋にいろいろと世話になった。彼は毎日のように効能のある草薬や滋養物をもってきては、誠意をつくしてわたしを介護してくれた。崔賢、呉振宇、曹亜範、曹道彦などの傷も彼の手当てを受けて全治した。
一九三七年の秋から翌年秋までの丸一年、林春秋は金川県と臨江県、濛江県竜泉鎮の大森林地帯に点在する人民革命軍の密営を巡り歩き、戦傷者たちの治療にあたった。往診に出かけることが多かったが、その半径はたいてい数里に及んだ。いまでは医師が往診や衛生宣伝に出かけるときは救急車や乗用車などを利用しているが、抗日戦争当時の軍医にはそんなぜいたくはできなかった。往診に出歩いて、「討伐」にでもあわなければ幸いだといえた。
いつだったか、林春秋は敵の「討伐」にあって九死に一生を得たことがある。黄溝嶺戦闘の戦利品のなかから崔賢がくれた綿入れの軍服一着を背のうの後ろに結いつけて峠を登っていたが、不意の機銃掃射に見舞われた。「討伐隊」の難を逃れたあとで背のうを開いてみると、なんと弾丸が七発も突きささっていたという。背のうに綿入れがなかったら、間違いなく命を落としていたことだろう。
抗日戦争当時の林春秋は、党活動家としての対人活動やオルグとしての活動、それに著述活動も積極的におこない軍・民教育に大いに寄与した。わたしは林春秋とたびたび接触しているうちに、彼に政治活動家の資質があることを知った。事実、彼は入隊以前に延吉地方で大衆団体の活動家として大衆を教育し指導した経験をもっていた。その点を考慮に入れ、わたしは彼に軍医の仕事とともに党活動もまかせた。彼は朝鮮人民革命軍党委員会委員、警護連隊党書記を務め、東満党工作委員会の活動にもたずさわった。
東満党工作委員会は発足後、わたしの期待どおりには活動していなかった。それでわたしは南牌子会議の後、林春秋を東満党工作委員会の責任ある地位につけた。この工作委員会は、間島地方の党組織と大衆団体を拡大して人民の組織的結束をはかり、武装闘争の基盤を強化する一方、党創立の基礎をうちかためることを使命としていた。東満党工作委員会は、長白県党委員会や国内党工作委員会と同じような使命を果たした。東満党工作委員会の主な活動舞台は、間島と咸鏡北道一帯であった。遊撃根拠地の解散後、間島地方の党組織はいずれも東満党工作委員会の傘下に入っていた。
林春秋はわたしとの連係のもとに、茂山、延社一帯と東満州地方に多くの政治工作員を派遣し、党組織と大衆団体を拡大していった。小哈爾巴嶺会議以後、汪清、延吉、敦化、琿春、安図、和竜一帯での小部隊活動のころ、われわれは東満党工作委員会によって結成された革命組織の援助を少なからず受けた。それらの組織が基本となって、われわれの活動を各面からよく支援してくれた。
林春秋は抗日革命当時の党活動経験を生かし、解放後の党建設活動でも大きな足跡を残した。最初は平安南道党委員会の第二書記を務め、のちには江原道党委員会の委員長を務めた。彼が江原道党委員長を務めているあいだ、境界沿線での活動には万事遺漏がなかった。解放直後、わたしは抗日革命闘士たちに、できるだけ高い地位を与えないことにしていた。ほとんどの高位職は、国内の人士と海外で革命活動にたずさわって帰国した人たちに与えた。わたしと一緒に武装闘争の試練をへてきた人たちに、有能な人材が少なかったからではない。各階層の人士をすべて結集する統一戦線の政治のためには、そういう措置が必要だったのである。にもかかわらず、北朝鮮に五つの道党しか存在しなかった当時、林春秋に限って江原道党委員長の職責をまかせたのは、彼の党活動経験を重くみたからである。
林春秋の活動のうち、わたしがことさら感懐を新たにするのは、彼の著述活動である。彼は多くの書物を著して次の世代に残した。『抗日武装闘争のころを回想して』をはじめ、彼が残した著書のなかには国宝としての価値を有するものが少なくない。林春秋が本格的な文筆活動をはじめたのは、『三・一月刊』の名誉記者になってからのことである。彼の文章は朝鮮人民革命軍の隊内機関紙・誌にたびたび掲載された。『三・一月刊』に載った「満身創痍の日本経済」という文章は問題作と評された。林春秋は戦闘、行軍、治療と息つく暇もない困難な環境のなかでも、寸暇を惜しんで毎日のようにわれわれの活動内容をそのつど記録した。紙がなくなると、白樺の樹皮を手に入れてでも、朝鮮人民革命軍の闘争日誌を整理した。その日誌が『抗日武装闘争のころを回想して』の基礎資料になったということは、林春秋自身もかねがね述懐している。
魏拯民は生前、林春秋に朝鮮人民革命軍の活動史を書くよう何度もすすめたという。党活動も、軍医の仕事も、名誉記者の活動もやるべきだということは言うまでもない、しかし、それに劣らず果たすべき重要な使命は、朝鮮パルチザンの活動史を書くことだ、これを肝に銘じるべきだ、たとえ他の隊員たちが決戦にのぞんで全員討ち死にするとしても、きみは生き残ってこの使命を果たし、自分の司令官の業績と自軍の闘争史を後世に必ず伝えなければならないと力説したという。
林春秋は警護連隊の党書記の時期に、魏拯民のもとに長くとどまって彼の活動を補佐し、病気の治療にもあたった。それで魏拯民は彼と一緒にいることを喜び、いつもそばにいてくれるよう頼むのだった。林春秋はわたしと魏拯民の連係を保ち、朝鮮人と中国人の友好を強め、両国武力の共同戦線を強化するうえできわめて重要な役割を果たした。
林春秋が著した『抗日武装闘争のころを回想して』をわたしがはじめて手にしたのは、一九五〇年代の末ごろだった。当時はまだ朝鮮人の頭に事大主義の影響がかなり残っていた。そのうえ革命伝統教育が不十分で、人民と青少年のあいだにはわれわれの武装闘争の歴史がほとんど知らされていなかった。少なからぬ幹部はソ連邦共産党略史については、『イスクラ』がどうの、ブハーリンがどうのと、そらんじるほどだったが、南湖頭でどんな会議が開かれたのかと問うと、はっきり答えられない有様だった。こういうときに『抗日武装闘争のころを回想して』が出版され、人民の面前にはじめて抗日革命の輪郭を描き出してみせたのである。それ以来、この著書は抗日革命史の研究になくてはならない原典となった。林春秋はこの書物を著すことによって、抗日革命に参加したすべての共産主義者と愛国的人民にたいする信義と義務を果たそうとしたのである。彼は自分自身を顕示したり、自分の功をひけらかすためにではなく、朝鮮人民の万年大計の財富となる革命伝統を次代によりりっぱに継承させ、完成させようという気高い目的をもってこの書をものしたのである。
林春秋は、金正淑、金哲柱の活動を基本内容とする回想記をはじめ、わが党の革命伝統と関連する多くの図書と教育資料を書いた。そして多くの資料を考証し体系づけ、わが党の歴史に輝く偉勲を立てた。彼は、青年共産主義者をモデルにした『青年前衛』という多部作の長編小説まで書いた。
わが党はいま林春秋を、われわれが切り開き勝利に導いてきた抗日戦の輝かしい革命史の権威ある立証者、有力な保証者と評価している。この評価は正確かつ正当なものだと思う。
正直なところ、林春秋は困難な抗日革命に参加せずとも、医術だけで十分生計を立てられる人だった。けれども、彼は数十数百回もの死線をくぐりぬけながらも、革命の道から一歩たりとも退いたことがなく、領袖と同志たちへの信義に一度も背いたことがなかった。彼は竜井監獄にとらわれていたとき、自分は死んでも革命は勝利すると考え、自分一個人は死ぬことがあっても、革命組織と同志たちはなんとしてでも保護しなければならないという観点から野蛮な拷問に耐えぬいた。しかし、革命を裏切った者たちは、自分が死んでしまえば革命も無意味だと考え、組織と同志たちに累を及ぼしてでも自分は生きなければならないとして拷問に屈した。これが、真の革命家とえせ革命家の違いなのである。
わたしは林春秋が信義に忠実な人間であるということを解放後、いろいろな事実を通じていっそう深く知ることができた。彼が延辺朝鮮族自治州の成立準備のため中国東北地方へ全権代表として派遣されていくとき、東満州へ行ったら抗日革命烈士の子女たちを一人でも多く探し出して祖国に帰すよう頼んだ。林春秋は中国人民が苦しい国内戦争を進めているとき、前線援護と政権機関の組織、教育事業の基礎づくり、各階層人士との活動など多忙な日々を送りながらも、抗日革命烈士の子女を残らず探し出して祖国に帰した。さらには、符岩洞時代の知己であり革命戦友でもある金正淑の兄弟を探そうとして新聞広告まで出した。幹部協議会を開くときは必ず、祖国に革命家遺児学院が設立されることを知らせ、一人でも多くの遺児を探そうと、自ら遠出の身支度をととのえ、間島に散らばる村落を足が棒になるほど訪ね歩いた。
ぼろをまとった見すぼらしい姿の子どもたちが広告を見てやってくるたびに、林春秋はその子らをしかと抱きとめ、「おまえは誰それの息子だったな。おまえは誰それの娘だね。
林春秋は多数の遺児と革命烈士の遺族を探し出し、祖国のふところに抱かせた。そのとき学院に入学した子どもたちが、いまは党中央委員会政治局委員になり、道党委員会責任書記や人民軍の将官にもなって、各自の任務をりっぱに果たしている。
祖国解放戦争の時期、林春秋はひところ地方で活動したことがあるが、保健省主管の会議に出席するため平壌に来るたびに牡丹峰に登り、抗日烈士の眠る墓地の芝生に白い布を敷いて仮寝の夜を過ごしたという。市内の旅館などには最初から泊まろうとさえしなかった。当時の牡丹峰には、金策、安吉、崔春国、金正淑らの墓があった。野天で、それも前後左右に戦友たちの眠る丘の上で、白布一枚に体を横たえる露宿なのだから、眠れるはずがない。それでも林春秋は、平壌に来ると決まって牡丹峰へ登り、戦友たちの横に寝床をとるのだった。そして、後日彼から聞いたことだが、「戦友たちよ、祖国がきみたちをもっとも必要としているときに、どうしてここに眠っているのだ。将軍はいま朝鮮の運命を双肩にになって孤軍奮闘している。それがわからないのか」と、墓場の戦友たちとこもごも語り合ったという。
祖国と人民の運命を決する瀬戸際にあったときなので、牡丹峰の草木の陰に抗日烈士の霊が眠っていることに気をとめる市民はそれほどいなかった。まして、大柄ないかつい男がときおり、その霊を抱いて夜を過ごし、明け方、牡丹峰の丘を下りてくるのを知る人はいなかった。
わたしはそんな話を聞いて、林春秋こそは信義に厚い真実の人間であり、闘士であると思った。これが、わたしの言わんとする抗日遊撃隊式の信義である。この世には人間の信義と愛にまつわる美談がいくらでもある。しかし、抗日革命闘士たちのそれをしのぐ崇高かつ真実で美しい信義をわたしはいまだに知らない。
林春秋はいつも、自分を
口を開けば革命を唱えていた者が変節したという話を聞かされると、隊員たちはみな失望したものである。昨日まで『インターナショナル』を口ずさみ、革命の勝利を言いたてていた者が、にわかに敵の手先になりさがるとき、兵士、指揮官たちが味わう苦痛と挫折感はなんとも表現しがたいものだった。
しかし、幾人かの裏切り者が出たからといって、十年かけて築いた城壁が崩れ去るものではない。われわれは隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的結束の強化をもって敵の白色テロにこたえた。われわれにはそれ以外に勝つ道がなかったのである。
第十八章 中日戦争の炎のなかで
(一九三七年七月~一九三七年十一月)
1 新たな情勢に対応して
われわれが蘆溝橋事件にかんする衝撃的なニュースに接したのは、間三峰戦闘後の一九三七年七月中旬ごろだった。わたしはかなり前から、九・一八事変が新たな「九・一八」を生み、日本帝国主義の満州占領が数百万平方キロに及ぶ中国全土への全面的な侵攻につながるものと見越していた。だが、実際に蘆溝橋事件を導火線として中日間に戦争が起こったというニュースを聞いては、いささか興奮せざるをえなかった。人民革命軍の隊員と指揮官のあいだでは、情勢の進展をめぐって多くの論議が交わされた。論点は言うまでもなく、この戦争が今後の世界情勢と朝鮮革命の発展にいかなる影響を及ぼし、この新たな情勢を朝鮮革命にどう有効に利用するかということであった。
中日戦争が勃発するときまで、われわれのなかには蘆溝橋という橋があるということを知る人がほとんどいなかった。この橋で真夜中に鳴り響いた銃声がほぼ三千日間も中国領土を血の海に浸し、世界を大戦の渦中に巻き込む前奏曲になろうとは誰一人考えなかった。一九三九年九月、ファシズム・ドイツのポーランド侵攻を第二次世界大戦の開始とみるのが公認された一般的な見解となっているが、それより二年前の日本帝国主義者による蘆溝橋事件を第二次世界大戦の発火点とみなす見解もないわけではない。
中日戦争は九・一八事変と同様に、日本帝国主義者が執拗に追求し完成させてきた対アジア政策の所産であった。日本帝国主義が満州を席巻したとき、すでに世界の公正な世論は、彼らが遠からず中国関内へ侵攻するであろうことを示唆していた。実際に日本帝国主義は東北三省を占領した後、中国本土への侵略の準備に全力をそそいだ。一九三三年一月の山海関攻略と華北地区への侵入、熱河作戦による省都――承徳の占領、秦皇島上陸、河北省東部地区への進撃など、これらの軍事作戦は日本軍が満州事変を起こした後の数年のあいだの出来事であり、やがて強行される中国本土への侵略の下準備の一側面であった。
蒋介石国民党政府は日本帝国主義の華北侵攻に抗戦をもってこたえるのでなく、人民の決死の反対にもかかわらず、売国的かつ反民族的な「塘沽協定」の締結によって、万里の長城以北の広大な領土を事実上、日本帝国主義の占領地にかえ、華北を日本帝国主義の監視と支配下におく結果をまねいた。こうした宥和政策は結局、日本帝国主義の侵略的野望と戦争騒動をあおりたてることになった。日本帝国主義者の差し金のもとに、華北の親日勢力は「華北五省自治運動」なるものを展開した。いわゆる「独立」を要求するこのような売国運動の結果として、親日的な「冀東防共自治政府」がつくりあげられた。このようなエスカレートの方法で満州全域と華北の命脈を完全に掌握した日本帝国主義は、一九三六年初、排日運動の厳重取締りと、中国、満州、日本の経済合作、共同防共などを骨子とする「対中国外交方針」なるものをうちだし、中国関内への侵略準備を露骨化した。日独「防共協定」の締結は、新たな戦争の準備を促し、助長する外部的要因となった。蒋介石国民党政府の屈辱的な対日姿勢と売国的かつ反民族的な政策は、日本帝国主義者に中国本土への侵略を意のままに拡大できるようにした。日本帝国主義の中国本土侵略がますます加速化し、国と民
族が存亡の瀬戸際に立たされたそのときにも、蒋介石は対内的には紅軍を包囲攻撃し、人民の抗日救国運動を弾圧し、対外的には外部勢力に屈服する「安内攘外」政策を追求して対日妥協路線を維持した。蒋介石の卑屈な対日協力政策は、日本の中国関内への侵略を黙認し、蘆溝橋事件のような重大事件の画策へと日本を誘導する結果をまねいた。
日本帝国主義が中国にたいする本格的な侵攻を断行するにいたったのは、中国をめぐる帝国主義列強間の矛盾の当然の帰結でもあった。一九三七年、アメリカからはじまった新たな経済恐慌の波は再び世界を巻き込みはじめた。帝国主義列強は新たな市場の開拓に血眼になった。市場争奪戦は列強間の矛盾を激化させた。この矛盾のなかでもっとも代表的なものの一つが、まさに中国における利権をめぐる米・英帝国主義者と日本帝国主義者間の軋(あつ)轢(れき)と対立であった。日本帝国主義は欧米列強との対決で優位を占める方途を中国との全面戦争に見出した。彼らは、この戦争のみが中国にたいする日本の独占的支配を可能にし、この地域から米・英勢力を駆逐して日本をアジアの盟主たらしめるだろうと考えた。これにたいする米、英の態度は二面主義的なものであった。彼らは、一方では日本帝国主義の無分別な侵略的暴挙を制御しようとしながらも、また一方では中国の利益を犠牲にして、日本帝国主義の侵略を助長した。そして、日本をそそのかして反ソの方向へ向かわせた。米、英はこういう方法で、中国における自国の従来の利権を維持しようとはかった。
華北事変後、日本帝国主義は軍備拡張と戦争準備の政策をおし進めながら、東アジア大陸での優位を確保すると同時に、南洋進出の方針を基本的国策として確定した。これは、中国とソ連にたいする戦争政策をそのままおし進めながら、同時に時機をうかがって東南アジア方面へ南下しようとする戦略的方案であった。
近衛内閣は米、英、仏などの帝国主義列強の「不干渉」政策を巧みに利用しつつ、中国内部にまだ抗日民族統一戦線が確固と結成されていない有利な状況をとらえ、ついに中国にたいする全面戦争を開始した。一九三七年七月七日、日本軍は軍事演習中に兵士一名が失踪したという口実で宛平県城にたいする捜査を頭ごなしに要求した。それが発端となって衝突が起きた。宋哲元の第二九軍が抵抗すると、日本軍は蘆溝橋を占領し、北京を包囲した。蘆溝橋事件は偶発的な小さな衝突で、現地交渉によっても十分解決できるものであった。それにもかかわらず、戦争挑発の口実を探し求めていた軍部の圧力により、近衛内閣は七月十一日、日本駐屯師団の中国派遣を閣議で決定し、口では軍事的衝突の不拡大を唱えながらも、実際にはこのささいな事件を中日戦争拡大の口実に利用した。八月十三日、日本軍は早くも上海を攻撃するにいたった。蘆溝橋に響いた銃声は、ついに中日間の大戦争にエスカレートした。
中日戦争の勃発は、朝鮮共産主義者にいくつもの新たな課題を提起した。われわれは激変する情勢の要請に即応して、主動的かつ積極的な戦略戦術を立てざるをえなくなった。中日戦争勃発のニュースを聞いたのち、わたしは数日間、この戦争の展望と朝鮮革命に及ぼす影響、これにたいするわれわれの態度と対応策について考えつづけた。
中日戦争は、日本帝国主義が華北を占領するくらいでとどまる局地戦ではなかった。また、満州事変のように、数か月のあいだに速戦即決するという性格の戦争でもなかった。この戦争そのものが長期戦に移行しうる火種をかかえており、地域戦争、ひいては世界大戦へと拡大する可能性をはらんでいた。中日交戦双方のほかに第三諸国を引き込む可能性もなきにしもあらずだった。確定的なのは、日ソの衝突が不可避であるということであった。歴史的に考察すれば、朝鮮と満州は日露角逐戦の重要な場であった。それは今世紀初の日露戦争勃発の主な原因となった。ソ連の成立後にも、日本の大陸侵略野望のため、日ソ関係は依然としてするどい対峙状態にあった。中日戦争の前夜にも、ソ連と日本はアムール川の中間にある二つの島の領有権問題をめぐってきわどい対決ぶりを見せた。それは一触即発の戦争の危険をはらんだ対決であった。モスクワでの直接的な外交交渉によって紛争はいったん解決されたが、日本はその後も日満共同防衛という名分のもとにきわめて強硬な姿勢でソ連と対峙した。世界の大多数の世論が、日ソ間のこの紛争が大戦争の火の元になるであろうと示唆したのも、あながち根拠のないことではなかった。日本帝国主義が満州を占領したのち中国本土を侵略し、ひいてはモンゴルとソ連の極東地域を占拠する野望をいだいていることは秘密ではなかったが、日本はソ連との全面戦争を時機尚早と見ているようだった。彼らは日増しに強まるソ連の国力と国防力をそれとなく恐れていた。 日本が中国との戦争状態のままソ連とも戦争をはじめることになれば、それ以上危険かつ愚かなことはないに違いなかった。日本には二つの大国を向こうにまわして、同時に戦争ができるほどの国力も備わっていなかった。
人民革命軍の少なからぬ隊員と指揮官は、戦争が拡大すればするほど朝鮮革命に不利な影響を及ぼすと思っていた。わたしは中日戦争の勃発に対処する戦略的方針を早急にうち立て、明確な目標をもってたたかわなければならないという緊迫感に迫られた。一九三七年七月中旬、白頭山密営で開かれた朝鮮人民革命軍主力部隊の指揮官会議と、同年八月初に長白県初水灘で招集された朝鮮人民革命軍軍・政幹部会議は、この方略を策定した会議であった。わたしはこの会議で、急変する情勢に主動的に対処して抗日武装闘争を強化し、朝鮮革命全般を新たな高揚へと導く戦略的方針を示した。白頭山密営で開かれた会議には、馬東熙、李悌淳など白頭山地区と国内で活動していた政治工作員と地下組織の責任者たちも参加した。
この会議で論議された中心的な問題は、中日戦争に対処して革命の主体的力量をうちかため、敵背攪乱作戦を強化し、全民抗争の準備を促進することであった。われわれはこの課題を遂行する重要な方途の一つとして、白頭山西南部一帯と国内により多くの地下組織をつくる問題と、朝鮮人民革命軍の政治工作グループが狼林山脈を利用して革命根拠地を築き、国内各地に生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織する問題を真摯に討議し、新坡、長白県下崗区一帯における党組織建設と祖国光復会の下部組織建設状況、大衆政治工作と遊撃隊援護活動の状況を調べ、その経験を一般化する対策も同時に討議した。
当時、日本帝国主義は自国を世界五大強国の一つ、三大海軍国の一つと自称していた。列強も日本をそのようにみていた。しかしわれわれは、彼らが遠からずして恐ろしい落とし穴に落ち込むものと思った。日本帝国主義は、初期には中国の抗戦勢力に生じた空白に乗じて一時的に優勢を占めるとしても、最終的には滅亡するだろうと確信していた。不正義の戦争はつねに内部矛盾をともなうものである。自国内における戦争勢力と反戦勢力間の矛盾と、利権争奪のための帝国主義列強間の矛盾は、日本の戦争遂行に歯止めをかける無視できない要因であった。日本帝国主義者は国際的にも孤立していた。彼らはヨーロッパにドイツ、イタリアといった同盟国をもってはいたが、それら同盟国からの実質的な援助は期待できない状態にあった。日本帝国主義が中日戦争を拡大し「南方進出」を断行すれば、それは不可避的に帝国主義列強間の矛盾と対立を激化させる結果をもたらすほかはなかった。あくなき貪欲と膨張欲にとりつかれた日本帝国主義者は満州を侵略した後、それをまだ消化できないまま、強欲にも中国本土まで併呑しようと襲いかかったが、それは猫が牛頭をあずかるようなものだった。日本が消化不良を起こさないという保証はなにもなかった。
日本帝国主義は中日戦争の勃発を機に、朝鮮における植民地支配機構をいっそう強化し完備した。各種のファッショ悪法が新たにつくられ、人民の思想と身体をがんじがらめに縛りあげた。一九一三年から実施してきた「軍機保護法」も戦時の状況にあわせて改悪された。敵は「戦時兵站基地としての朝鮮の特殊な使命」だの、「大陸政策遂行において朝鮮がになった任務」だのといって、すべてを戦争遂行に服従させた。朝鮮にたいする日本帝国主義の略奪は経済的領域にとどまらず、人的資源にも及んだ。青壮年を徴発して戦場に駆り出し、膨大な労働力を軍需工場と軍事施設の建設工事場に強制的に動員した。
中日戦争の勃発とともに、かつてない激しさと悪らつさをました日本帝国主義のファッショ的弾圧と経済的略奪は、朝鮮民族の境遇を耐えがたいどん底に突き落とした。しかしわたしは、たとえこのように不利な点があるとしても、中日戦争によって生じた複雑な情勢を巧みに利用すれば、禍を転じて福となすことができるとみなした。初水灘での軍・政幹部会議でも情勢をこのような視点から評価し、それに対応することを強調した。白頭山密営での会議では、朝鮮革命の主体を強化するための課題が組織建設の側面から多く論議されたが、初水灘会議では敵背攪乱作戦の方針を実行するための課題が抗日連軍部隊との共同作戦問題を中心に軍事的側面から多く協議された。わたしはこの会議でもやはり、豆満江、鴨緑江沿岸一帯をはじめ広大な地域で敵背攪乱作戦を強化し、国内に小部隊と政治工作員をより多く派遣して反日民族統一戦線運動をひきつづき拡大強化することについて強調した。
われわれは敵背攪乱作戦をおよそ二つの方向で展開することにした。その一つは、狼林山脈に依拠して密営網を設け、国内各所に生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織して全民抗争の軍事的基盤を築き、国内で各種形態の大衆闘争を通じて日本帝国主義の後頭部を痛撃することであり、いま一つは、遊撃戦によって日本侵略軍の中国関内への機動を阻み、彼らの戦略作戦を破綻させることであった。
初水灘会議では、新たな戦略的方針にもとづいて朝鮮人民革命軍の各部隊を部分的に改編し、各部隊の活動地域を実情にあわせて分担した。国内に派遣する武装グループと政治工作グループの問題も協議した。
敵は中日戦争を起こした後、われわれの動きをするどく注視した。どう探り出したのか、日本軍警の頭目たちは、われわれが新たな活動方針をうちだして部隊を改編し、活動地域を分担したうえ、八月二十九日の国恥日を契機に満州の主要都市を攻撃し、国内へいっせいに攻め込むことを協議したとし、その対応策を講じるために上を下への大騒ぎをした。後でわかったことだが、敵の機密文書にこのような事実が詳細に記されていた。
初水灘会議を終えたあと、長白―― 臨江県境への再進出に先立って、わたしは東北抗日連軍部隊との連合作戦と敵背攪乱作戦の問題を協議するため魏拯民に会った。当時、彼は漫江上流の樺皮河べりの東漫江密営で静養していた。その日、われわれ一行を東漫江密営に案内したのは、中隊政治指導員の朱在日だった。彼は東漫江一帯の地形にくわしかった。朱在日は江原道の出身だったが、幼いころ和竜地方へ行って暮らし、漁郎村で遊撃隊に入隊した。遊撃区が解散したとき、和竜に住んでいた六所帯が初水灘へ転居したのだが、そのうちの一所帯が朱在日の家族であった。反日部隊で活動していた彼は、一九三七年三月に妻と一緒に司令部を訪ねてきた。わたしは彼を反日部隊出身の中国人兵士の多い中隊の政治指導員に任命した。彼が中国語に堪能で、中国の風習もよく知っていたからである。のちに、彼は警護中隊の政治指導員を務め、連隊政治委員にまで昇進した。
朱在日は目的地までわれわれを無事に案内した。魏拯民は、中日戦争が拡大している現在、もっとも重要な問題の一つは朝中両国人民と共産主義者の相互協力を強めることだと言った。
「われわれは朝鮮の同志と朝鮮人民の協力に大きな期待をかけています。あなたがたはこれまで私心を去って中国革命に誠心誠意助力してくれました。わたしはプロレタリア国際主義という言葉を耳にするたびに、まず朝鮮の同志たちを思い浮かべます。いままでわれわれが同じ塹壕で苦楽をともにしてきた日々は、両国の歴史だけでなく国際共産主義運動史にも永久に残るものと思います。金司令、朝鮮民族がなめている試練を今日は中華民族がなめさせられているのです。この試練の時期に、朝鮮人民がわれわれの側に確固と立つものと確信します」
魏拯民の言葉には切々たるものがあった。第二軍の政治委員兼南満省党委書記の重責をになう彼は、真実を語る率直な人であった。反民生団闘争の極左的な誤りを是正する闘争の過程がよく示しているように、魏拯民は誰よりも朝鮮共産主義者の苦悩と苦痛を理解しようと心から努力した。わたしは、彼が朝鮮人民に同情し、朝鮮共産主義者の闘争を各面から援助してくれたことに相応の敬意を表してきた。彼も終始一貫、格別な愛情と親近感をもってわたしに接してくれた。魏拯民は、東北地方の抗日武装闘争における朝鮮共産主義者と朝鮮人民革命軍の役割をいつも高く評価していた。
その日、魏拯民は中日戦争勃発後の中国の内外情勢と中国共産党の対日戦争方針について詳細に通報してくれた。そのなかでとくにきわだっていたのは、新たな国共合作と抗日民族統一戦線の実現をめざす中国の共産主義者と進歩的愛国人士の動きであった。
七・七事変と呼ばれる蘆溝橋事件が起こった翌日、中国共産党は中華民族がこぞって決起する抗日戦争のみが唯一の救国の道であることを明らかにし、「民族統一戦線の強固な長城を築いて日本帝国主義の侵略に抵抗しよう」と全国にアピールし、七月十五日には「国共合作を提唱する中国共産党の宣言」を国民党中央に送った。中国共産党が国民党側に内戦の中止と国共合作を提唱し積極的におし進めたのは、もちろんこれがはじめてではなかった。日本帝国主義が満州を占領し、関内へ侵略のほこ先を向けていたにもかかわらず、蒋介石の国民党は共産党に反対し労農紅軍の「討伐」にのみ熱をあげ、積極的な抗戦対策を講じなかった。蒋介石は膨大な軍事力を動員して瑞金にあった中央ソビエトを抹殺しようと、五回にもわたって大規模な「討伐」作戦をおこなった。国民党は外敵よりもむしろ共産党をいっそう敵視したのである。
中国共産党としても、当時までは抗日に主力をそそぐことができなかった。共産党の主要課題は土地革命と国民党との戦いであった。外敵が侵略してきたときには内戦を一時中止し、国民が力を合わせて抗戦しなければならない。しかし中国では、第二次国内革命戦争として知られた内戦と内紛を終息させることができず、一九三〇年代の中期に入っていた。その後、中国共産党は大勢にしたがって抗日第一主義の新たな戦略をうちだした。中国共産主義者は「北上抗日」のスローガンのもとに歴史的な二万五千里の長征を断行し、陝甘寧辺区に新たな根拠地を設けた。その後、彼らは「東征抗日」のスローガンのもとに、日本帝国主義侵略者との直接的な対決に入った。中国共産党はその後、「反蒋抗日」から「連蒋抗日」へとスローガンをかえ、国共合作を実現するため忍耐づよく努力した。中国共産主義者のこうした努力は「西安事件」を契機に深化し、中日戦争勃発後に盧山でおこなわれた蒋介石と周恩来との会談によって、ついに二度目の結実をみるにいたった。
盧山会談のとき周恩来が、満州と華北、そして朝鮮での共産主義者の抗日運動を積極化する問題を蒋介石と論議したという魏拯民の話は、わたしの耳に快くひびいた。それは、中国共産党中央が抗日戦争遂行における朝鮮共産主義者の地位を正当に評価しており、朝鮮共産主義者の指導する武装闘争に大きな期待をかけ、積極的な支持、協力を熱望していることを意味するからだった。一九三七年初、毛沢東はソ連の国際政治雑誌『太平洋』に寄稿した「全中国の救国会メンバーに送る手紙」で、日本帝国主義に反対する積極的な闘争、抗日主義が可能であることを証明する実例として、東北地方での抗日遊撃隊の活動をあげた。彼は、東北地方の抗日遊撃隊が数年間の闘争で十万以上の敵兵員を掃滅し、数億円に達する損失を与え、中国本土への日本帝国主義の侵攻を牽制し遅延させたと書いた。東北抗日遊撃隊にたいするこうした評価には、朝鮮共産主義者の業績も含まれていた。魏拯民とわたしは、日本帝国主義がシベリアより中国本土を先に併呑しようとしている状況にあって、敵背攪乱作戦では北満州の抗日連軍部隊よりも、東満州や南満州の抗日遊撃部隊がより多くの任務をになうべきだという点で見解が一致していた。
魏拯民は対話の過程で、孔憲永の部下が南京政府密使という肩書きでソ連をへて第二軍の指揮官たちを訪ねて来たが、会ってみてはどうかと言った。南京政府の密使が満州に来たというのは、国民党の南京政府が東北抗日勢力との合作を各面から模索していることを示していた。孔憲永は王徳林の救国軍で副司令を務めていたときから、わたしとも親しく付き合っていた人物である。彼はかつて、われわれとともに人民革命軍を創建するときにも相応の役割を果たした。孔憲永はソ連極東軍司令部の連絡を受けて一部の人員とともにソ連へ行き、関内に移った。関内での彼の活動は注目に値した。彼は李杜、王徳林などとともに南京政府との連係を保ち、張学良の旧東北軍とも連帯しながら、満州における抗日闘争に深い関心を払った。東北義勇軍総司令に任命された後は、南京国民党政府との連携のもとに、東北地方の抗日運動にたいする外周からの支援をしばしばおこなってきた。孔憲永が南京政府の名義でわれわれに密使を派遣したのは、彼が満州地方の抗日武装闘争に依然として大きな関心をいだいている証であった。
密使に会ってみると、彼も孔憲永と同じく東満州で反日闘争に参加した経歴の持ち主だった。密使は、関内での闘争と東北地方での闘争を一つに結合する必要を強調し、関内で国共合作が実現し、中国共産党指導下の労農紅軍が国民革命軍の所属部隊に改編され、蒋介石の統一的な指揮下に入るようになったのだから、東北地方の抗日武装部隊の活動も南京政府の総体的な作戦構想下に包括されるべきではないかという趣旨の説明をした。わたしは彼に、関内と東北地方の具体的な実情の違いと東北地方における抗日武装闘争の相対的独自性をあげ、彼の提案に疑問を呈した。密使はわれわれの見解の妥当性を認め、提案を取り下げた。しかし関内と東北地方の不可分の関係については、忘れることなく密接な連係を保って支持、協力してくれるよう再三強調した。わたしは、関内の闘争を助ける意味で、東北三省と朝鮮で日本帝国主義の背後を徹底的にたたくことを公約した。密使は、自分がソ連を経由してくるとき、中日戦争の過程で生じる負傷兵の治療問題についてそこの関係者と協議し、助力を受けられるようにはからってきたから、傷病者が出れば必要に応じて約束ずみのルートから後送するようにと言った。われわれにはすでにソ連に老弱者を送った前例もあり、また独自のルートもあったが、密使の好意をありがたく受けとり、以後、そのルートも同時に利用させてもらうと答えた。
魏拯民との談話を通じて、わたしは中日戦争にたいする戦略において、われわれと中国共産党の見解が基本的に一致していることを確認し、敵背攪乱作戦でも大きな成果をあげることができるという自信をもつようになった。
魏拯民と別れたのち、われわれは長白―― 臨江県境のあるなだらかな山の背で朝鮮人民革命軍指揮官・兵士大会を開いた。会議の場所の近くに井戸のような垂直の洞穴があったことが思い出される。いたずら好きの隊員がその洞穴に石を転がすと、しばらくしてどぼんという音が返ってきた。高い稜線の岩間にどうしてこんな洞穴が生じたのか不思議でならなかった。
この会議では中日戦争と関連する朝鮮人民革命軍の戦略的課題が提示され、それを実行するための指揮官・兵士たちの決意がそれぞれ披瀝された。今日の決起大会のような会議だったと言おうか、白頭山密営と初水灘での会議の決定を実行するための決起大会であったと言ってもよいであろう。
この大会については、革命歴史の専門家や著述家たちがいろいろな文章を書いており、会議に参加した闘士たちも折にふれて回想しているので、これ以上詳述しないことにする。白頭山会議と初水灘会議、指揮官・兵士大会はいずれも、中日戦争に対処するわれわれの政治的・軍事的方策を示したというところに意義がある。
われわれは中日戦争の初期から国内進攻作戦の勝利を強固にしつつ、敵背攪乱作戦を果敢に展開した。朝鮮人民革命軍主力部隊は蘆溝橋事件直後に、長白県十九道溝の馬順溝付近戦闘と長白県十三道溝の西崗城襲撃戦闘、それに竜川里劉家洞付近戦闘など数々の戦闘を遂行した。当時、民族革命党の機関紙『前途』は、われわれの敵背攪乱作戦について「これは確かに朝中両国民族の偉大な連合戦線の斉一性」だと書いている。
そのころ敵背攪乱作戦のため長白を出発した崔賢部隊も、臨江、通化、柳河、濛江と転戦しながら連続戦果をあげた。安吉と朴長春も姜健部隊と連合して、敵を痛快にたたきのめした。金策、許亨植などの海倫遠征部隊と瀋陽鉄道沿線まで進出した南満州部隊も、敵の背後に痛撃を加えた。われわれの武装小部隊と政治工作グループは国内深くに潜入し、いたるところで敵の手足を縛りあげた。朝鮮と満州で朝中共産主義者が展開した政治・軍事活動と熾烈な敵背攪乱作戦は、中国の抗日陣営を大いに励ました。中国を一気に占拠しようとした日本帝国主義の甘い夢は、北部中国と上海境域での中国人民の闘争と、朝鮮人民革命軍と中国東北地方の抗日連軍部隊の積極的な敵背攪乱作戦によって完全に破綻した。
「一撃論」「短期終戦論」を唱えていた日本が長期戦に移行するにともない、われわれの敵背攪乱作戦も新たな段階に移った。中日戦争の長期化に対応して、われわれは臨江県新台子密営でそれまでの敵背攪乱作戦状況を総括し、朝鮮国内での背後攪乱と敵の軍事輸送系統、とくに兵器と弾薬の輸送を破綻させる問題を討議した。その時期におこなわれた代表的な戦闘が輝南県城戦闘である。輝南県城は交通の発達した平地の城市なので、襲撃するには非常に不利だった。近くには吉海線が走っていた。輝南付近の各所には「討伐隊」の拠点が構築されていたので、城市攻撃に成功するとしてもすばやく撤収できなければ、敵増援部隊の追撃を受ける恐れがあった。輝南県城進攻はいろいろな面で難点があったが、それを承知のうえで、われわれはこの戦闘に朝鮮人民革命軍主力部隊の第七連隊を派遣し、新たに編制された李東学、崔春国の警護連隊と第四師の一部を参加させた。それは、この県城が敵背攪乱作戦の打撃目標として格好の対象だったからである。輝南県城は敵の主要「討伐」拠点の一つであるばかりか、その周辺一帯の各県に派遣されていた満州国軍部隊の兵站基地でもあり、城内には二つの大きな軍需品倉庫もあった。
この戦闘には、抗日連軍部隊とともに反日部隊も参加した。わが連合部隊は不意に城内に攻め入り、敵の軍需品倉庫から大量の布地と綿、食糧を奪取して主動的に撤収した。県城襲撃戦闘後、各部隊は海竜、磐石、濛江などの各方面から押し寄せる日本軍と満州国軍の増援部隊にいま一度こっぴどい打撃を加えた。輝南県城戦闘に先がけてわれわれの主力部隊がおこなった撫松―― 西崗伏兵戦も、敵背攪乱作戦のうえで重要な意義を有するものだった。
敵背攪乱作戦の日々、われわれは李達京、金永煥、全哲山など貴い戦友を失った。金永煥は汪清で共青活動にたずさわり、その後遊撃隊に入隊した。遊撃区活動のころ、わたしは彼を延吉遊撃隊の中隊政治指導員として派遣した。一九三七年十二月、金永煥は延吉で壮烈な戦死をとげた。全哲山は琿春遊撃隊の出身であった。わたしが彼にはじめて会ったのは老黒山戦闘のときだった。その後、彼は汪清第四中隊の政治指導員に任命された。彼については呉振宇がよく知っている。全哲山は一九三七年九月に額穆で戦死した。
この時期、われわれは南満州で祖国光復会の代表として活動していた李東光も失った。有能な政治幹部であり、勇敢な遊撃隊指揮官であった彼の死を悼み、楊靖宇はわたしにこんな話を聞かせてくれた。敵の南満州「討伐」作戦たけなわのころ、李東光は通化中心県党委が破壊されたという報告を受け、敵の「討伐」司令部がかまえている孤山子を経由して柳河方面へ行かなければならなかった。彼は薬商人を装い、二名の護衛だけを連れて白昼、敵のたむろする孤山子の街に入った。路地という路地には李東光を指名手配した布告が張り出され、つぎのようなことが書かれていた。
「南満特委、共産匪賊頭目李東光、年齢三十歳前後、長身、頭髪半縮れ毛、目が特に大きい。
右の者を告発もしくは逮捕せる者は厚く褒賞し、かくまう者は極刑に処す」
李東光は自分を指名手配した布告が張り出されている掲示板の真向かいに立ち、それを全部読んでから悠然と街を後にしたという。
李東光、李達京、金沢環、金永煥、全哲山の生涯は、祖国と人民への限りない愛と献身的奉仕のりっぱな模範であり、敵背攪乱作戦にのりだした朝鮮共産主義者の意志と魂を熱い血で歴史に記した貴い道のりであった。
わたしの生涯を通じての志向は、防御ではなく攻撃だったといえる。わたしは革命に身を投じたその日から今日にいたるまで、敢然として立ち向かう攻撃戦術をもって人生を生きぬいてきた。前進途上に難関が立ちはだかるたびに、わたしはその前でためらったり動揺したりしなかったし、迂回したり避けたりすることもなかった。困難なときほど信念を失わず、不退転の意志とねばり強い努力によってそれをのりきってきた。革命発展の各段階において、われわれが主に敢然として立ち向かう攻撃戦術を用いたのは、わたし個人の好みや性格のためではなく、複雑で試練にみちた朝鮮革命の要請であった。
中日戦争の勃発後、世界をゆさぶる複雑な政局の渦中にあって、われわれがもし防御や後退、迂回の方法にのみすがっていたならば、われわれの前に立ちはだかる難局を打開することはできなかったであろう。だから、わたしはいまも、あのときわれわれが逆境に立ち向かい、それを順境にかえた革命的戦略が至極正しいものであったと考えている。
2 金 周 賢
金周賢は抗日遊撃隊のもっとも代表的な給養担当幹部として、朝鮮人民のあいだに広く知られている。しかし、彼は給養関係の活動でのみ腕をふるったのではない。彼はすぐれた軍事指揮官であり、有能な政治工作員でもあった。遊撃隊に入隊する前までは、地下組織活動にも多く関与していた。
わたしが金周賢を知ったのは、抗日遊撃隊を組織する前のことである。一九三一年、わたしが興隆村で武装闘争の準備を進めていたころ、金周賢は大沙河の高登廠という村で、農民協会と反日同盟組織の責任者として地下活動にたずさわっていた。彼をわたしにはじめて紹介したのは、小沙河区党組織責任者の金正竜である。対面して話し合ってみると、たいへん謙虚で率直な人だった。
ある日、金周賢が独立軍出身者を反日同盟から全員除名しようとしていることを金正竜から聞かされ、わたしは彼を訪ねていった。偏狭な人たちから独立軍の悪口ばかり聞かされていた彼は、独立軍出身者を闘争対象と見ていた。わたしは、革命における統一戦線の意義を述べ、反日愛国思想をもつ独立軍出身者にたいする偏見を正すよう長時間、説いた。翌日、金周賢は除名対象にしていた独立軍出身の有志たちを訪ねまわって謝罪した。有志たちは、金周賢をわきまえのある人だとほめそやした。
そんなことがあってから、金周賢は活動の過程で困難な問題にぶつかると、よくわたしに相談に来た。わたしもときどき彼の家を訪ねた。八歳もの年齢の開きにもかかわらず、われわれは気のおけない友となった。一九三一年といえば、まだわたしは抗日遊撃隊の隊長ではなかったが、彼はわたしの意見をいつも素直に受け入れた。わたしは彼の謙虚な人柄に魅せられた。彼もわたしにたいへん好意を寄せた。彼はわたしの言うことなすことを文句なしに支持した。
ところで、彼の一家は金周賢を手におえない強情っぱりだとみなしていた。彼が結婚し家庭をもつまでのいきさつを聞くと、なるほどとうなずけないでもなかった。
金周賢一家の故郷は咸鏡北道の明川だったが、暮らしに困り中国東北地方の和竜に移住したという。彼は、幼年時代を過ごした故郷をいつもなつかしがっていた。書堂(漢文を教える私塾)での課程を終えると国内の漁大津に移り、漁業労働をしながら成長した。彼の兄は、妻帯すべき年ごろになっても帰ろうとしない弟を強引に大沙河へ連れもどし、あらかじめ目星をつけていた隣村の娘との縁談を強引にまとめた。本人の意向にかまわず親たちが勝手にまとめた婚約だったので、金周賢は相手の顔も知らなかった。彼は親同士が婚約をまとめたことなどは意に介さず、沿海州帰りだという邱山学校の教師の家に入りびたり、ロシア革命の話に夢中になった。彼の家では婚礼の支度におおわらわだったが、彼は父親に、見も知らぬ娘と一緒になる気など毛頭ないと言い放った。父親は、息子が照れかくしにそんなことを言ったのだろうと思い、笑ってとりあおうとしなかった。ところが式を数日後にひかえて、新郎たるべき彼が突然、行方知れずになってしまったのである。親たちはたいへんなことになったと青くなり、娘の家のほうでも大騒ぎになった。金周賢の兄は弟を探し出すために、家事をなげうって冬中、間島各地を捜し歩き、やっと邱山学校の教師から、弟がロシアヘ行ったということを聞き出した。彼は苦労の末にロシアまで行って弟を連れもどした。金周賢は結婚を拒むわけにはいかなくなった。彼が帰るとすぐ、結婚式は大急ぎでとりおこなわれた。金周賢は妻を
めとってからも野良仕事はそっちのけでいつも出歩いた。考えあぐねた父親は、彼に家を一軒建ててやった。かまどを分ければ妻子を養うためにも家庭に落ち着き、農事に打ちこむだろうと早合点したのである。しかし、そうした処置はかえって彼の革命熱に油をそそぐ結果になった。別に家を持つと、もう両親の統制を受けずにすむので、わが家を本拠にして組織の結成や大衆啓蒙など思いのままに行動した。はては家のなかに地下室をつくり、新妻まで革命活動に引き入れた。金周賢の父親は「あいつの強情には勝てん」とすっかりあきらめた。
わたしはこんな話を聞いて、金周賢がなかなか芯のある男だと思った。誰がなんと言おうと、自分の意思と決心によって選択した道をあくまで突き進むその気骨に、わたしはすっかりほれこんだ。われわれが安図で抗日遊撃隊を組織して間もなく、金周賢はそのような頑強さと進取の気性をもって和竜で遊撃隊を組織し、指揮官となって活躍した。
それ以来、何年か別々に活動していたわれわれが再会し、同じ部隊で活動するようになったのは、馬鞍山で新師団を編制したころからだった。朝鮮人民革命軍の主力部隊が新たに編制されると聞いて、真っ先に馬鞍山にやってきたのが金周賢の小部隊だった。幹部不足に悩まされていたときだけに、彼の出現はオアシスに出会ったようにありがたかった。当時、部隊には給養担当の適任者がおらず、連隊政治委員の金山虎がその仕事を兼任していたので、部隊の編制にさいし、わたしは金周賢を司令部付き給養担当官に任命した。彼は部隊の給養活動を強力におし進めた。これといって、せわしなく立ちまわったり、配下の隊員を強く督励しているふうでもなかったが、食糧や衣類も難なく手に入れ、部隊の生活を潤いあるものにした。
有能な給養担当官としての金周賢の本領は、部隊が白頭山地区に進出して活動したころ遺憾なく発揮された。彼が一度工作に出かけると、たちまち援護物資をかついだ支援者の列がぞくぞくと密営にやってくるのである。いったんその気になりさえすれば、なんでも必ず手に入れてきた。
抗日武装闘争の全期間を通して、一九三七年の元日ほどみちたりた正月はそうなかったと思う。それも、白頭山に来てはじめての正月だから粗末に過ごすわけにはいかないと金周賢が準備に力を入れたおかげである。普天堡戦闘をひかえてととのえた六百余着の軍服と軍帽、脚絆、弾帯、背のう、テント用の布地、そのうえ人数分の靴、大量の食糧なども彼が担当し呉仲洽と協力して入手したものであった。父親は、妻一人まともに養えないだろうと心配したが、彼は素手のほかなにもない白頭山で、数百名の大家族を養う重責をになって労をいとわなかったのである。わたしがその労をねぎらい給養活動の成果をたたえると彼は、西間島の住民がよい人たちだから、すべてがスムーズに運ぶのだと答えたものである。
部隊を養うために唇がひび割れ、充血した眼を休める暇もなく奔走する金周賢の涙ぐましい努力に感動した人民は、知恵をつくして彼を助けた。彼は人民のなかに入るといつも彼らとうちとけ、その労苦を思いやりやわらげる人民の息子となり、部隊にもどっては、思いやりの深い母親となった。西間島の人たちは彼を「うちの金担当官」とも呼んでいた。
金周賢は、かたく閉ざされた心の扉も難なく開かせる特殊な手腕と特異な親和力をもっていた。いつも真実を語り、真情をもって人に接し、良心的でつつましく謙虚なその人となりが人びとの心を引きつけたのである。金周賢が給養活動だけでなく、政治工作でつねにりっぱな成果をあげたのも、それに負うところが大きかったのではなかろうか。
金周賢の給養活動で独特なところは、なにをするにも政治的な方法で処理したことであったといえる。たとえば軍服づくりの任務が与えられると、彼は配下の隊員たちに司令部の指示をおうむ返しに伝えるのではなく、任務の緊急性や遂行方途を懇切丁寧に説明するのである。
そうした政治活動の手腕を高く評価したわたしは、骨のおれる複雑な政治工作課題がもちあがると、よく彼を呼んだものである。白頭山根拠地を築くため先遣隊を送るときも、金周賢を責任者に任命した。先遣隊の任務はたんに白頭山密営の候補地を選び、部隊の移動通路を開き、国境地帯の敵情と人民の動向を探るだけでなく、反日地下革命組織の結成に必要な政治勢力を見出し、その準備をさせることにもあった。それだけに政治工作をどうしても並行させなければならなかったのである。
金周賢はその政治工作任務をりっぱに果たした。彼が先遣隊として白頭山地区で積んだ業績は、記録に残して大いに誇れるものだった。小白水谷、熊山、獅子峰、仙五山、黒瞎子溝、地陽渓谷、徳水谷をはじめ白頭山地区の密営侯補地はすべて、金周賢の先遣隊が見つけだしたものである。彼は地陽渓、小徳水、新昌洞、官道巨里、宗理院村、坪崗徳、上豊徳、桃泉里、三水谷など西間島の村々をめぐって、党組織建設と統一戦線運動に献身しうる多くの人材を見つけ、革命軍の予備源も少なからずととのえた。彼らは、祖国光復会の十大綱領と創立宣言にもられたわれわれの革命路線を、国内と西間島の広い地域に伝播するうえでも大きな役割を果たした。金周賢先遣隊がおさめた成果は、抗日武装闘争をいちだんと飛躍させる一つの跳躍台となった。
困難な課題がもちあがるたびにまず呼ばれる人物、金周賢はわれわれの部隊でそういう存在だったのである。彼は誰からも重んじられ愛される部隊の宝であった。革命任務にたいする強い責任感と高い政治的能力、すぐれた組織的手腕、老練な活動方法は、すべての指揮官が手本とすべきものだった。一言でいって、金周賢は文武両道の人物であった。
金周賢の業績と活動能力を大いに買っていたわたしは、一九三七年八月中旬、彼を国内派遣小部隊の責任者に任命した。中日戦争が勃発した直後のことである。先にも触れたように、この戦争が勃発すると、われわれは国内で政治・軍事活動を大々的に進め、敵の背後を猛烈に攪乱し、情勢の要請に即応して抗日革命闘争をいちだんと高揚させる計画を立てた。この計画を実現するためになによりも重要なことは、政治的、軍事的に鍛えられた有能な隊員を選抜して小部隊を組み、国内の必要な地域に先遣隊として送り込み、われわれの構想を実現する活動を展開させることであった。国内の革命組織はさまざまなルートを通じて、城津、吉州、明川、端川など咸鏡北道南部と咸鏡南道北部の海岸地帯に沿って山中に多くの人が集まり、朝鮮人民革命軍との連係をもとうと苦心していることをわれわれに知らせてきた。小部隊の基本的任務はそれらの愛国青年を見つけだして遊撃隊を組織し訓練する一方、武装闘争への参加が無理な虚弱者は、適切な講習をおこなって地下革命組織のメンバーに育てあげることであった。それとあわせて、住民のあいだで地下組織と武装隊伍を拡大するための大衆政治活動と人材の発掘も予定されていた。さらにわたしは、小部隊に白頭の山なみと摩天嶺山脈、赴戦嶺山脈に武装闘争の拠点となる密営候補地を選定する課題も与えた。
この使命の重要性からして、筋金入りの隊員たちで小部隊を編制した。そこには朴寿万、鄭日権(甕声拉子のちびっこ)、馬東煕、金赫哲ら政治工作ですでに顕著な実績を示していたメンバーが加わっていた。老練な指揮官を隊長とし、豊かな闘争経験を積んだ隊員をもって組まれたこの小部隊に、わたしは大きな信頼と期待を寄せ、彼らの意気込みと決意もまたたいへんなものだった。わたしは彼らが任務をりっぱに果たして帰るものと信じて疑わなかった。
「朗報を待っている」
わたしは小部隊を送り出すとき、金周賢にそれ以外のことは言わなかった。彼はくどくど説明しなくても、わたしの意図を十分に汲みとれる人だった。わたしが一言いえば十を察するのが金周賢の特徴だった。それで、彼に任務を与えるときは長い説明をしないことにしていた。実際、金周賢にたいするわたしの信頼はそれほど絶対的だった。
早くて四、五か月、遅くても五、六か月で小部隊がりっぱな成果をあげて帰るだろうというのが、われわれ一同の期待だった。ところが驚いたことに、小部隊は出発後一か月余りで、だしぬけに部隊に帰ってきたのである。まったく予想外の深刻な事態だった。わたしは金周賢の顔色を見て、国内工作が失敗したことを即座に読みとった。彼の報告はわたしを唖然とさせた。小部隊は愛国青年が集まっているという城津地方には行き着けず、甲山で立ち往生したあげく引き揚げてきたのである。
李悌淳の新興村ルートをへて国内に入った小部隊は、朴達の組織の線をたどって恵山方向へ向かう途中、地元の組織から日本の産金業者が本国へ運搬していく金塊を仲坪鉱山に保管していると知らされた。この通報を受けた金周賢は、鉱山を襲撃して金塊を奪うことにした。給養担当官という職業的な本性が知らぬ間に彼をつき動かしたのである。実際、金塊がいくつか手に入れば、部隊の給養活動にとって思いがけない儲け物といえた。鉱山を襲った小部隊は、いくらかの金塊を得た。しかし、その代償が大きかった。仲坪鉱山での銃声に動転した敵は、数十名ずつ隊を組んで小部隊を追跡しだしたのである。小部隊は鉱山を脱け出し徳山洞の裏山に登ったが、四面包囲の危機に陥り進退きわまった。金周賢は通告状を一枚書き、風に乗せて敵に送った。
「まぬけ者どもめ、神出鬼没の革命軍をまだ知らぬのか。われわれは鴨緑江を渡るぞ!」
通告状を読んだ敵は大挙して鴨緑江へ向かった。そのすきに小部隊は敵の包囲を脱することができた。幸い包囲網を抜け出しはしたものの、国内深くへ進出することは不可能だった。咸鏡南北道の山岳地帯と遊撃隊工作員の通路と思われる道々にはすでに敵兵が群がっていたからである。金周賢は、後日再び機会をみて国内に入り、工作任務を果たすことにして、いったん帰隊することにした。普天堡戦闘を機に
小部隊が工作地へ行けずにもどってきたという知らせは、遊撃隊員たちの心にも暗い影を投じた。あれほど地下工作に長けていた金周賢が工作地まで行けず途中で引き返してきたのをみると、国内の空気はよほど殺伐としているに違いないと語り合い、みな沈うつな表情になった。ややもすれば、武装闘争の国内への拡大は当分不可能ではなかろうかという悲観的な考えが生じかねなかった。金周賢の失策はこのように収拾しがたいものだった。
わたしは金周賢の失策がどうしても信じられなかった。いくつかの金塊のために小部隊の活動を破綻させたその過ちは、われわれの構想を実現するうえで取り返しのつかない重大な結果をまねいた。彼の勝手な行動によって、人民革命軍の敵背攪乱作戦と国内進攻作戦には大きな空白が生じたのである。わたしはいまも、彼があのとき東海岸方面にまっすぐに進出して愛国青年たちに会っていたとしたら、われわれの武装闘争史はいま少し豊富になっていたのではなかろうかと、残念な思いにかられるときがある。それほど当時のわたしの失望と挫折感は大きかった。わたしの憤りも度を越すほどのものだった。けれども不思議なのは、はげしくたかぶる感情の渦に巻き込まれながらも、頭を垂れて処分を待つ金周賢に一言の追及も叱責もできなかったことである。怒りや失望が極限に達すると、声も出なくなるものらしい。わたしはなにも言えず、じっと彼の顔を見つめるだけだった。
司令部党委員会は会議を開いて金周賢の問題をとりあげた。同志たちは口ぐちに、彼の犯した過ちの重大さを辛らつに論難した。激昂のあまり、拳で床をはげしく叩く者もいた。おそらく金周賢は生まれてはじめてそんな批判を受けたに違いない。彼は観念したかのように、肩を落として座っていた。
その日の会議で多くの同志たちが正しく分析したように、金周賢が極端な行動をあえてした根本的原因は、彼が小才におぼれ、高慢になり、問題を近視眼的に見たことにあった。彼は小部隊の任務を戦略的な高みからとらえていなかった。だから金塊という言葉を聞いて、つい理性を失ってしまったのである。彼は鉱山を襲うさい、後難については考えなかった。彼が告白したとおり、これもあれもと欲を出したのである。つまり鉱山を襲って金塊を手に入れ、青年たちに会って武装部隊も組織しようと欲張ったのである。
もちろん、その告白は正直なものだったと思う。そこにはいささかの偽りもなかった。わたしは金周賢がどれほど正直で潔白な人間であるかを、よく知っていた。しかし意図はどうであれ、小部隊が工作地へ行けずに引き返してきたのだから、彼らの行為にみんなが憤激するのは当然だった。わたしは彼を許したかったが、それを口にすることはできなかった。司令官が親しい隊員とそうでない隊員を差別するとか、原則に背くようなことは許されなかった。情にほだされて目をつぶれば、それはどう見ても百害あって一利なしというものであろう。わたしが彼のためにしてやれる最大の援助は、過ちを是正する機会を与えることだった。
司令部党委員会は、金周賢を給養担当官の職責から解任することを決定した。わたしももちろん、それに賛成した。だが処罰を受け、うなだれて司令部を去る金周賢の後ろ姿を見ながら、彼が過ちを犯さないよう事前に十分なアドバイスができなかった自分自身をひそかに責めた。小部隊を派遣するとき、まわりでどんなことが起こっても、それにかまわず国内の同志が待っているところへ直行するよう一言でも注意していたなら、こんな事態にはならなかったであろう。正直な話、給養担当官であれば金塊といったようなものに心を奪われ、活動コースを変えかねないという異常な状況までは予想できなかったのである。
金周賢は解任後、思想鍛練をりっぱにおこなった。今日ではそのような思想鍛練を革命化といっている。炊事隊員になった彼は、配属されたその日から釜を背負って歩いた。きのうまで部下であった隊員にまじって釜を背負って歩くというのは、口で言うほどやさしいことではない。そういう境遇に立たされれば、ほかへ移してくれと願い出るのが普通である。しかし金周賢は炊事隊員として働くことを少しもいとわず、恥ずかしがりもしなかった。むしろ、そばの隊員たちが気がねするほど黙々と熱心に働いた。表情も明るく、いつも快活に振舞っていた。
ある日、わたしは金周賢の生活ぶりが気になって、第八連隊の食堂へ行った。金周賢は額に汗をにじませながら隊員たちの給仕をしていた。そのとき一人の隊員が自分の汁をまたたく間にたいらげ、さじで食器を叩きながら声高に金周賢を呼んだ。
「おい、炊事隊、汁のお代わりだ」
やんわりとお代わりを求める普通の声ではなく、明らかに人を小馬鹿にした口調だった。だが、金周賢は顔色一つ変えず「はい、ただいま」と答えると、しゃもじで汁を汲み急いでその隊員のところへ行った。
その夜、わたしは金周賢にぞんざいなものの言い方をした隊員を呼び、過ちを犯して降格された者だからといって呼び捨てにしたり、見くだしてはならないと言い聞かせた。過ちを犯した人であるほど、よそよそしくしたり、猜疑の目を向けたり、さげすんだりすべきではなく、いっそうあたたかく接し、心から力になってやるべきだと諭した。隊員は自分の態度を反省した。
地位というものは固定不変ではない。それは下がることもあれば上がることもあるものなのだから、真の同志的関係を保つためには、地位ではなく人間を見るべきである。隣人が苦境に陥ったときは、ふだんよりもっと親身になって助けるべきである。抗日革命闘士たちは、戦友が過ちを犯し職責を解かれても、冷たく扱ったり排斥したりするようなことなく、過ちをきれいにそそぐよういろいろと援助したものである。
金周賢が炊事隊員になって一週間ほどしたある日の行軍中、わたしは彼のそばに寄って、背のうを寄こすようにと言った。銃と背のうのほかに釜までかつぎ、重い足どりで歩く姿がなんとなく気の毒に思えたのである。しかし、彼は重くないと言って断った。わたしが背のうの肩ひもに手をかけると彼はかたくなにわたしの手を押しのけて、隊列のあとにしたがった。そんな姿を見ると、なんとなくわびしい気持になった。もしや、党会議で解職処分を受けたことを不満に思っているのではないかとさえ思った。なにげなくその顔を見ると、涙が頬を伝っていた。わたしの胸は押しつぶされるように重苦しくなった。あの剛毅な男がなぜ涙を流すのだろう。
金周賢は個人的に見れば大きな悲しみと不幸を背負っていた。妻は地方工作中に敵の「討伐」にあって殺害され、娘も病死していた。ただ一人残った息子は、彼が遊撃隊に入隊するとき他人にやってしまった。それ以来、彼はひたすら革命ひとすじに生きてきたのである。
その夜、隊員たちが寝静まったあと、わたしは金周賢に会うつもりで第八連隊の宿営地に足を向けた。ところが、炊事場まで行って思いがけない光景にぶつかった。寝床で眠れぬ夜を過ごしているに違いないと思った彼が、なんと小川のほとりにしゃがみこみ、へちまで釜を磨いているのである。わたしは彼に、あすから兵器廠で働くようにと言った。そこへ行けば静かな環境で働けるし、自尊心を傷つけられるようなこともないから気が休まるだろうとすすめたのである。すると彼は、目に露を宿して、自分は処罰を受けても司令官のそばで受けたい、司令官のそばにいてこそ心が休まると答えるのだった。
「昼に、きみがひと知れず泣いているのを見た。それで、そのことをわたしなりに解釈し、炊事隊にいるのが心苦しいようだから、兵器廠に移そうと考えたのだ」
こう言うと金周賢は微笑を浮かべ、わたしの手を取った。
「そうではありません。わたしは、わたしを処罰して胸を痛めている司令官同志に申しわけなく思い、それに自分の恩知らずな行為が心苦しくて、つい涙をこぼしたのです。司令部党会議でわたしの問題がもちだされたとき、わたしがいちばん恐れたのはなんだと思いますか。それは、わたしを隊伍から除き、どこか遠くへ追いやるのではないかということでした。わたしは死んでもここで死にたかったのです。革命の隊伍を離れて、どこに生きがいがありましょうか。わたしを捨てずに炊事隊で働けるようにしてくださっただけでも、ありがたいことです」
わたしは彼の話を聞いて、夜遅くまで小川のほとりにしゃがんで釜を磨いている彼の心情が理解できた。彼は自分の身はどうなろうと、わたしのそばにさえいられればよいと思っていたのである。そばにさえいられれば、自分が指揮官になっても炊事隊員になってもよく、批判され処罰を加えられても、ただ革命隊伍からはずされさえしなければよいとするところに、金周賢の真面目があった。
こういう気質の人は、同志から加えられる批判や処罰を信頼と愛情として受けとめるものである。金周賢は、自分の誤った行為が革命にどれほど大きな損失を与えたかを深く考えたのである。
(自分は革命家になりきったつもりだったが、こうしてみるとまだまだだ。司令官同志の信任を得ていたから隊にいられたのであって、こんな未熟な革命家がどこにいるだろうか。同志たちの批判はみな合っている。これを機会に思想鍛練に励んで、筋金入りの遊撃隊員になろう)
こう考えて、彼はいっそう自己改造に励んだという。
金周賢は釜を背負っていた日々、学習にも打ち込んだ。彼が処罰を受けた年の十一月、司令部書記処がわたしの論文『朝鮮共産主義者の任務』を小冊子で出版すると、それを真っ先に手に入れて熟読したのは彼だった。体に障ることも考えず学習に打ち込むさまを見て、炊事隊員たちは、自分たちが慕い尊敬していた以前の上官がもしや倒れはしないかと心配した。そして、金周賢の背のうから小冊子をこっそり取り出し、テントの後ろの石の下に隠した。金周賢はそれを探そうと何日か苦労し、そのせいかげっそりと頬がこけてしまった。小冊子を失って食欲までなくしてしまう有様だった。あわてた炊事隊員たちは、隠しておいた小冊子をそっと背のうにもどした。そして、「周賢同志、もう一度よく捜してみてはどうですか。背のうのなかの物がどこへいくというのですか」と言った。金周賢は背のうをさぐって小冊子を見つけると「いや、不思議なこともあるものだ」と言って、子どものように喜んだ。
彼は思想鍛練をりっぱにおこなった。さすがに労働者あがりの古参の革命家だけあった。彼が自己改造に努める様子は、感動なしには見られないほどだった。それでわたしはいまも、幹部たちが自らを革命化しようとするなら金周賢のようにすべきだと話している。
金周賢が給養担当官の任を解かれて六か月目に、わたしは彼を第七連隊長に任命した。もとの位置に復職させず連隊長に任命したのは、彼がつねに銃声の響く戦場に立つことを願っていたからである。連隊長になった金周賢は勇敢に戦った。長白県の佳在水および十二道溝の戦闘をはじめ、臨江県六道溝戦闘、双山子戦闘、呉家営戦闘、賈家営戦闘、新台子戦闘など、朝鮮人民革命軍主力部隊がおこなった一九三八年の春季攻勢とその後の大小の戦闘で、老練かつ大胆な軍事指揮官としての実力を遺憾なく発揮した。その年の夏は新台子から濛江、柳河、金川地方にまで進出して、敵の背後をたたく戦闘をりっぱに指揮した。彼に率いられた第七連隊は、人民のあいだでの政治宣伝もたいへん活発におこなった。村落に入れば、連隊長自身が率先して対人活動に熱心に取り組んだ。
金周賢は一九三八年十月、濛江県南牌子の密林で金沢環、金永国と一緒に後方病院の患者のために蜂蜜を取っていたところを「討伐隊」に奇襲され戦死した。彼は連隊長になってからも、隊員の面倒をみるために奔走した給養担当官のころのように、戦友たちの生活上の問題を片時も忘れなかったのである。
戦死後、戦友たちは彼の遺品となった背のうを開けてみた。中身はなにもなかった。誰にもあるべきはずの予備の履き物すらないのである。彼の伝令に尋ねると、前日、靴を履き古した隊員に与えたという。金周賢が残した背のうを抱きしめると、涙がどっとあふれ出た。彼が給養担当官を務めて以来、革命軍のために工作した糧秣や軍服地、履き物をすべて合わせれば、山をなすであろう。履き物だけでも数千足になる。けれども、彼は自分の予備にとっておいたたった一足の靴まで隊員に与えたのである。そのからっぽの背のうを見て、わたしは革命家の財産と人生観とはどんなものであるかを深く考えさせられた。幸せを願うのは人間の本性である。この世には拝金主義者が多い。そのような人の目から見れば、金周賢は財産のかけらもない無産者だったといえよう。しかし、わたしは金周賢こそまごうかたなき富豪だったと思う。なぜなら、彼は生の最後の瞬間まで、億万の黄金にも替えがたい高潔な思想と精神を身につけていたからである。
3 農民を備えさせた日々
中日戦争勃発後の新たな情勢は、全民抗争の準備を切実に求めた。われわれはあらかじめ力をつちかい、時機が到来すれば朝鮮人民革命軍の軍事作戦に全民抗争を結合して祖国の解放を達成する構想を徐々に練りあげていった。
農民が人口の絶対多数を占めていたわが国において、彼らの参加なしには全民抗争は不可能であった。一部の人は、農民は労働者と違って組織性と意識性が弱いため、革命の主力にはなれないとしていたが、わたしは見解を異にしていた。正しい指導が保障され組織的に結束しさえすれば、農民大衆も強大な革命勢力になりうることを、わたしはすでに一九三一年の秋収(秋の取り入れ)闘争のときに体験していたのである。わたしは実際の体験を通して、農民大衆を革命的にしっかり備えさせれば、強大な抗争勢力になると確信していた。
われわれの先祖は子孫に貧弱な農業を引き継がせた。他国が耕耘、播種、収穫などの農作業を機械化していたとき、わが国の農民は原始的な手作業で農地を手入れし五穀をつくっていた。彼らは代々、封建的なくびきによって地主階級と封建支配層から過酷に搾取され、あらゆる蔑視と迫害を受けてきた。
農民の生活境遇は、日本帝国主義の朝鮮占領後いっそう悪化した。日本帝国主義の「土地調査令」「産米増殖計画」「鮮農移満政策」など強盗さながらの略奪政策によって朝鮮の農村と農業は荒廃し、農民の貧窮化過程はさらに促進された。日本帝国主義は、朝鮮占領初期に「土地調査令」の名目で農民から数十万ヘクタールに及ぶ土地を略奪したが、その土地は朝鮮総督府と「東拓」「不二興業株式会社」などの植民地拓殖会社と日本本土から流れ込んでくる移住民に分配された。その後、日本が「産米増殖計画」を発表し、それを悪らつにおし進めたのも、自国の食糧危機を打開する一方、朝鮮農村への資本輸出を大々的におこなって莫大な利潤を得ることが基本目的であった。
日本帝国主義が公布した「朝鮮民事令」には、「…小作人は不可抗力により収益で欠損をこうむった場合であっても、小作料の免除、または減額を請求することができない」という条項がある。これは処遇改善を求める朝鮮農民の闘争をあらかじめ法律的に禁止する布告令にひとしいものであった。小作人は餓死の境涯にいたっても口を閉じておとなしくしていろということである。このように朝鮮総督府は、農民にたいする日本人農場主と地主の略奪を最初から制度的にしっかり保障していた。小作農が農民全体の過半数を占めていた朝鮮農村の実状を考えるとき、この「民事令」に束縛されていた朝鮮農民の境遇がどんなものであったかは、察して余りあるであろう。一俵の米でも余計に奪おうとする日本帝国主義と地主階級の強盗さながらの搾取ぶりは、じつに獣(けもの)さえ顔を赤らめるほど暴悪かつ貪欲なものであった。「東拓」は地方と農場単位に駐在員や管理人をおき、その下に農監なるものを配置して小作人をきびしく監視、統制させた。小作料を滞納したり営農を「怠慢」し、農場主に反抗する気配が少しでもあると即刻、小作契約を取り消し、小作地を取り上げた。日本人農場主は私設留置場まで設け、農場側に不平を言ったり、生存の権利を要求する小作農が現れると、容赦なくそこにぶちこんだ。わたしは彰徳学校に通っていたころ、中原農場で小銃を手にした日本人が野良仕事をする朝鮮農民を監視し、ぐずぐずすると撃ち殺すと威嚇しているという新聞記事を読み、
憤激のあまり眠れなかったことがある。
日本帝国主義者は、朝鮮農民の血と汗によって生産された米を毎年七百万~一千万石も本土へ運び去った。そして、朝鮮人には満州産の粟や豆かすを運び込んで食べさせた。粘り気のある真っ白な米はすべて日本人に奪われ、腐敗した粟で食いつながなければならなかった朝鮮人の心はどんなであったろうか。総督府に庇護された朝鮮人地主も農民の膏血をしぼろうと競い合い、それに差配や高利貸まで一枚加わる有様だった。
日本帝国主義の反動的な農業政策は、朝鮮農村の階級分化を促した。農村での離農現象が激増し、火田民という新しい階層が生まれたのは、階級分化がもたらした植民地特有の悲しい情景だといえよう。これ以上故郷で暮らせなくなった農民たちは、深い山中や人跡まれな僻地に入って焼き畑農業を営んだ。そうでもしなければ、糊(こ)口(こう)をしのぐことができなかった。しかし、そんな焼き畑農業も安全ではなかった。総督府が「山林保護」「山火事防止」の口実で「火田民追放運動」を起こしたからである。わたしは西間島で活動していたころ、焼き畑農業から追放された農民に何回も出会ったことがある。朝鮮農民の大々的な海外流出は必然的なものであった。
日本帝国主義者は朝鮮人を海外に追い出しながら、人口過剰と食糧不足で難渋する本土から移住民を大々的に引き入れた。彼らは「産米増殖計画」の第一期とした十五年間だけでも、四百万の日本農民を朝鮮に移住させようと企てた。田中義一は一九二五年九月に、日本憲政研究会を前面に立てて「日本人一千万名朝鮮移殖計画」なるものを発表させたことがある。彼は内閣総理大臣に就任すると拓務省を新設し、その移殖計画の実行に着手した。一千万の過剰人口がそのまま流れ込むとなれば、朝鮮はいったいどうなるだろう。朝鮮民族は日本人のなだれの下敷きになって、まともに息をつくこともできなくなってしまうではないか。日本帝国主義の反動的な農業政策はわが国の農民生活を零落させ、民族的・社会的・階級的矛盾を激化させた。
農民大衆は生存権を要求して立ち上がった。三・一人民蜂起以来、わが国では小作人組合、小作相助会、農友会、作人同盟などの農民団体が出現しはじめた。農民の権益を代弁する初期の代表的な団体は小作人組合であった。日本帝国主義支配下の朝鮮農民運動で主流をなしたのは小作争議であった。一九二〇年代の小作争議は、おおかた小作権の確保と小作料の削減など経済的スローガンをかかげておこなわれた。この争議を主宰したのが小作人組合だった。農民組合は解放前の朝鮮農民運動でもっとも一般的で主導的な組織形態であった。この組織は、客観的情勢発展の要請に応じて、農民運動に生存のための経済的スローガンとともに政治的要求を反映したスローガンも同時に提起した。
わが国で全国的性格をおびて出現した最初の大衆組織は朝鮮労働共済会である。この労働共済会には農民部あるいは小作人部をおき、多数の小作農を結集して農民運動の発展に大きな役割を果たした。
初期の農民運動は幾多の紆余曲折をへた。農民の小作争議がしだいに激烈になってくると、日本帝国主義は警察を動員して銃剣で弾圧し、先頭に立った農民運動の先覚者たちを手当たりしだいに逮捕した。一方、「朝鮮農会」傘下の御用組合を通して農民を懐柔し、農民勢力を分裂させようと悪らつに策動した。
初期の農民運動が紆余曲折をへなければならなかったのは、民族改良主義者と初期共産主義運動家が及ぼした悪影響とも少なからず関連している。当時、農民運動を組織し指導したおおかたのリーダーは純粋の農民ではなかった。彼らのなかには小ブルジョア知識人と民族改良主義者が少なくなかった。それは当時の社会的・歴史的条件では避けがたいことでもあった。
農民運動の指導層にいた民族改良主義者たちは、純真な農民に「無抵抗運動論」を吹き込んだ。彼らは、小作人と地主はいたずらに争うのではなく、互いに理解し合って仲よくすごすべきだと説いた。そうすれば、小作人と地主の紛争は春の雪解けのように一朝にして解決するというのである。
農民運動の指導層には、初期の共産主義運動家もかなり入っていた。農民運動に高揚の兆しが見えはじめると、彼らは農民団体を自派の影響下におこうと派閥争いに熱をあげた。農民の利益より自派勢力の拡張に目がくらんだ彼らの派閥争いによって、農民運動は大きな被害をこうむった。農民団体相互間、あるいは同じ団体内にはなはだしい反目と対立が生じ、多くの農民団体がその役割を果たせなくなった。しかし、そうした陣痛のなかでも農民は闘争をつづけた。農民は敵の反革命的な暴力に革命的な暴力をもってこたえたのである。一九二〇年代末の竜川不二農場の農民の大衆的な進出と端川、永興(金野)地方の農民の大規模な暴動はその代表的な例である。竜川不二農場で起こった小作争議は、竜川地区に派遣されていた「トゥ・ドゥ」系列の新しい世代の共産主義者との連係のもとに発生した大衆的な暴力闘争であった。
一九二〇年代末と一九三〇年代初、プロフィンテルン(赤色労働組合インタナショナル)とその傘下組織である汎太平洋労働組合の書記部が数回にわたって、太平洋沿岸の国ぐにに赤色労組と赤色農組を組織する問題を提起して以来、朝鮮では革命的な労働組合と農民組合を設立するための具体的な措置が講じられた。その結果、一九三〇年代初からわが国では赤色農組が組織され、従来の農組も赤色農組に改編された。「赤色」「左翼」という言葉は、改良主義と区別するために使われた表現である。当時、共産主義運動圏では、この「赤色」という言葉がいたるところに氾濫していた。
赤色農組の圧倒的多数は北部朝鮮一帯に集中していた。一九二〇年代まで、わが国の農民団体の過半数は南部にあった。小作争議の件数も北部より南部のほうが多かった。それは湖南平野をかかえている朝鮮の南部地方の農家数が北部地方よりはるかに多かったからである。しかし、一九三〇年代に入ってからは事情が変わった。農民運動の基本戦線は南部から北部に移った。革命的な農民団体の数も農民の激烈な闘争件数も北部がもっと多かった。農民運動の中心が南部朝鮮から北部朝鮮へ移った基本的な原因は、白頭山が朝鮮革命の策源地となり、またその一帯が地理的に間島やソ連に近かったからだといえる。赤色農組は北部朝鮮一帯だけでなく、三南地方(忠清南北道、全羅南北道、慶尚南北道の総称)を中心とする南部朝鮮一帯にも組織された。
中国東北地方と北部国境地帯での朝鮮共産主義者による抗日武装闘争は、赤色農組の盛況をもたらす有力な要因となった。事実、抗日武装闘争がはじまってから北部朝鮮に組織された農民組織はすべて、国内の人民がわれわれと連係をもって反日闘争を展開する過程で生まれたものであって、自然発生的に生まれたものではなかった。当時、明川農組事件の咸興地裁公判記録に記載されている農組決議文にはつぎのようなくだりがある。
「その闘争の結果、延吉県庁の事務室焼却、日本領事館分署焼却、日本軍と交戦、日本軍退却、
これは当時、北部朝鮮一帯の農組が抗日武装闘争の影響のもとに活動したことを示す端的な例である。
しかし、赤色農組が主宰した農民運動には、左翼日和見主義者と民族改良主義者の有害な策動による大きな欠点があった。左翼日和見主義者は農組に「赤色」という衣をまとわせて垣根を高くし、関門主義に走った。彼らは小作農と貧農、雇農以外の農民はすべて敵対階級か動揺する階層と決めつけ、農組に近づけないようにした。そのため、愛国的な中農や反日感情の強い地主が赤色農組の門へ入るのは及びもつかないことであった。赤色農組員の利用する井戸と非農組員の利用する井戸が別々になっていた村もあったくらいだから、そのころの関門主義がどれほどのものであったかは容易に想像できると思う。赤色農組の関門主義は、非農組員の愛国熱に水をかけ、彼らに農組のすべての活動に敵意をいだかせ、その子どもたちまでも農組側と非農組側に分けさせてしまったのである。
赤色農組の活動に現れたいま一つの欠陥は、「打倒式」の活動方法だった。赤色農組のメンバーは、なにをするにしても過激に振舞ってこそ革命性があるものと思い込んでいた。たとえば、農組の上層から迷信を打破せよと言われると、彼らは礼拝堂の近くに行き、石を投げて窓ガラスを割ったり、礼拝堂の尖塔の十字架を倒したりした。そして、祠堂を破壊し供え物を踏み散らした。はては礼拝堂に出入する信者の聖書を取りあげては、衆人環視のなかでそれを破ったりもした。早婚に反対せよと言われると、馬に乗って新婦を迎えに行く新郎の行列を襲って馬を押収したり、新郎を抑留したりして結婚式をぶちこわすこともあった。こういうとき、若年の新郎は度胆をぬかれて家に逃げ帰ったり、恐怖にかられ声をあげて泣いたりした。農組が民族解放や階級解放のために実情にかなった有益なことをいろいろとしながらも、部分的な活動で荒々しい振舞いをしたため、一部の人は農組のすることであればはなからかぶりを振る始末だった。
われわれが赤色農組の活動で最大の弱点とみなしたのは、自己の組織を守る明確な戦略戦術的対策を講じなかったことである。そのため敵の弾圧と分派分子、民族改良主義者の有害な作用を食い止めることができなかった。少なからぬ農組はあれこれの機会に組織を露呈した。農組員と非農組員の利用する井戸が別々であれば、組織大衆が露顕しうるということを考えるべきなのに、農組のリーダーたちはそれを無視した。そのため、敵のまわし者は家の中にいても、窓越しに農組の井戸を利用するのがどの家なのかをすぐに見分けることができた。一部の農組は、今日の政権党の外郭団体のように会員名簿や会費台帳までそろえていたが、これもやはり、組織を露呈する原因となった。警官はアジトを襲撃するたびに会員名簿を押収し、それを見て農組員を残らず摘発した。それも一度に二百~三百名という大量逮捕だった。
こうしたいくつかの例は、農組が組織の秘密や安全のため厳に戒めるべき事柄であったにもかかわらず、それを無視して無分別な露出症にかかり、丸裸同様の状態で敵と対決してきたことを意味する。この露出症は、敵に農組を全面的に破壊する可能性を与えた。農組は、農民団体相互の連帯と統一行動のための活動体系も確立していなかった。
これらの欠陥は、農組にたいする正しい共産主義的指導が欠如していた朝鮮農民運動の指導上の弱点と未熟さに起因していた。農民運動を指導していた上層部には、運動を発展させる科学的な計画と正しい戦略戦術がなかった。
しかし赤色農組運動は、このような弱点と制約性を内包していたにもかかわらず、朝鮮農民運動の発展に無視できない貢献をした。堅実な農組リーダーたちと、農組に加わっていた多数の農民大衆は、自分たちの政治的・経済的要求を実現するため、日本帝国主義のたび重なる検挙旋風にも屈することなく反日・反地主闘争をねばり強く展開した。われわれは、農組運動の過程で発揮された農民大衆のこうした勇敢さと大衆性、堅忍不抜さを非常に重視した。われわれが労働者階級とともに農民大衆を全民抗争勢力の柱とみなしたのは、きわめて正当なことであった。
中日戦争の開始は、われわれに全民抗争の準備を加速化できる可能性をもたらした。この準備作業で、わが国の人口の八割以上を占める農民大衆をいかに意識化、組織化するかということは、きわめて重要な意味をもっていた。労働者階級とともに国内の農民大衆を革命化することは、抗日革命の遂行でわれわれが第一に掌握していくべき生命線ともいえた。
わたしは、農民を全民抗争勢力として備えさせるうえでもっとも効果的な方法の一つは、国内の既存農民組織を祖国光復会の下部組織に再編することだと考えた。しかし、少なからぬ軍・政幹部は、国内の既存組織に、あれは左翼だ、これは右翼だとレッテルをはりつけ、あたまから排斥する態度をとった。従来の農組はなかったことにし、新たな農組を組織すべきだというのが彼らの見解であった。従来の農民団体や農民運動はすべてとるに足らぬものであって、復活もしくは再編するに値しないとするのは虚無主義であった。そういう虚無主義的見解は、共産主義運動そのものの要求と祖国光復会創立宣言の趣旨にも合わないばかりか、既存の農民運動が築きあげた土台と成果を自ら抹消することであり、農民を結束するうえでも百害あって一利もないことであった。
われわれの構想は、その組織が反日を志向し、反帝反封建を志向するものであれば、名称や功労の大小を問わずすべて反日民族統一戦線の旗のもとに結集しようというものであった。問題は祖国光復会の十大綱領と創立宣言の趣旨に即して、解体寸前にあった従来の農組をいかに再組織し、再編するかにあった。
われわれは全民抗争の準備と関連した指揮官会議で、国内のすべての労組と農組を祖国光復会の下部組織に再編するか、その影響下におくという方針を採択した。これは国内の革命運動にたいする、われわれの直接的な指導を実現することを意味した。われわれはこうした観点に立って、国内に派遣する政治工作員を選抜した。
当時、革命隊伍内には金永国、安徳勲ら国内の農組活動に関与した人物が少なくなかった。われわれの活動地域であった西間島にも、かつて国内での独立運動や農組運動にたずさわっていた人物が多かった。
国内農民運動にたいするわれわれの指導は、複数のルートを通して実現された。農組運動にたいするわれわれの指導を保障するうえで中軸の役割を果たしたのは、われわれの主力部隊から選抜された政治工作員と西間島地方の祖国光復会の各組織で育成された地下組織のメンバーであった。国内農民運動の変革にあたって彼らがあげた業績を知るには、咸鏡北道の南部地方に派遣された政治工作員たちの活動内容を見るだけでも十分であろう。
祖国光復会が創立された後、われわれは趙政哲、柳京守、崔景和、趙明植など信頼できる政治工作員をこの地区に派遣した。彼らは国内に入って農組の中核分子を掌握し、そのなかからしっかりした人を選抜してわれわれのところに送り、各地方の農組にも派遣した。城津農組のリーダーの一人であった許聖鎮も、農組出身の政治工作員である李炳璇の紹介でわれわれの系列につながるようになった。彼はわたしに呼ばれて西間島まで訪ねてきた。仲坪鉱山襲撃事件の影響でわたしには会えなかったが、甲山で朴達を通して国内革命運動にたいするわれわれの路線は伝え聞くことができた。故郷にもどった許聖鎮は、一九三七年九月に開かれた咸鏡北道南部三郡の亡命者の会合で、国内革命運動にたいするわれわれの方針を伝達した。この会合をきっかけに、統一戦線戦略をはじめわれわれの革命路線は咸鏡北道一帯に伝播した。
政治工作員たちは国内革命家と農組の積極分子のなかに深く入り、全民抗争と反日民族統一戦線についてのわれわれの思想で彼らを武装させ、農組を祖国光復会の下部組織に再編したり、その影響下におくための組織建設活動に不眠不休の努力をかたむけた。朝鮮人民革命軍の政治工作員と堅実な農組リーダーの共同の努力によって、国内の農民運動には大きな変化が起きた。
国内農組の動向で注目すべきことは、抗日遊撃隊への熱烈な憧憬であった。一九三六年秋、明川で開かれた婦女親睦大会の国際国内情勢にかんする報告のなかで「…十九道溝労農ソビエトの樹立、
赤色農組をはじめ国内の革命組織が人民革命軍の活動に驚きの目を見張るようになったのは、国内革命運動にたいするわれわれの指導を保障するうえで有利な条件となった。われわれの指導が及びはじめてから、国内の農民運動には画期的な路線上の変化が起こった。
国内の赤色農組はまず、階級闘争一点張りの従来の方式から脱皮し、攻撃の主たるほこ先を日本帝国主義者に向けた。農組の一部の文書に「農組〇〇に提起される任務は、日本にたいする大衆の不平不満を革命的積極性に導くことである」というくだりが見られるのは、こういう実態の反映だと見るべきであろう。
国内の堅実な農民運動のリーダーたちは、農組に結束させる対象の幅もかつてなく広げた。ある地方の先覚者懇談会の内容を記した文書を見ると、当時の農民運動のリーダーたちは農組の基層組織に貧農だけでなく、中農と富農を含めた各階層の積極分子をも参加させることを要求し、それを実践に移していたことがわかる。規律と秘密を守ることができ闘争意欲のある人であれば、階層にかかわりなく組織に加入させるというのが農組建設の一般的な要求となったのは、祖国光復会の創立宣言と十大綱領の趣旨にも合致するものであった。ある赤色農組などは、その傘下に小市民委員会と学生委員会まで設け、それに雑貨商、店員、飲食店経営者、仲介商人、商業資本家、自由労働者と普通学校の生徒まで参加させた。国内の一部の農組は、良心的な地主まで反日闘争に参加させる積極的な措置を講じた。ある農組の場合は、道路新設工事に反対する闘争を指導するさい、地主まで宣伝隊に参加させた。また、自衛団をはじめ日本帝国主義の末端統治機関と御用団体に組織のメンバーを潜入させ、それらの団体をしだいに「赤化」する方法で合法闘争と非合法闘争を巧みに結合した。彼らが発行したパンフレットでは、合法的可能性を拒む理論は左翼日和見主義的なものであると指摘し、あらゆる合法的可能性を十分に、そして巧みに結合するよう勧告している。少なからぬ農組は活動における独自性を保障しながらも、それぞれの地方が相互に一定の連係を保ち、実情の通報から闘争方法の選択と闘争目標の設定にいたるまで、すべての面で共同歩調をとった。
われわれの影響のもとに赤色農組運動で起こったこのような変化は、従来の農民組織を革命的に再編するのに有利な条件をつくりだした。政治工作員たちは国内の同志たちと手を取り合って、農組を革命的に再編する活動に積極的に取り組んだ。こうして、従来の農組を基礎とする祖国光復会の組織が咸鏡北道と咸鏡南道の多くの地域に生まれ、新義州支会など数多くの祖国光復会の下部組織が鴨緑江中流地帯の農民にまでその影響力を広めた。そのころ政治工作員たちは、平壌、南浦、鉄原、ソウル、仁川、大邱、釜山、全州、光州などの祖国光復会の組織を拠点に、中部および南部朝鮮の農民のあいだにもそれぞれの名称をもつ革命組織を結成した。
われわれの工作員と国内の同志たちは、農民大衆を組織的に結集する活動とともに、彼らを意識化する活動に力点をおき、朝鮮人民自身の力で祖国の解放を達成すべきだという自主独立の精神で農民を武装させた。これと関連して当時の農民組織の出版物は「祖国光復会十大綱領」の解説文を大々的に掲載した。このような教宣活動は、農民の歴史的使命感を高めさせた。そして、農民に日本帝国主義の植民地支配に反対する思想を植えつけるとともに、国際国内情勢と社会発展の合法則性、朝鮮革命の前途、朝鮮人民革命軍のめざましい闘争ニュースなどを広く宣伝して、彼らに必勝の信念をいだかせた。九月山と碧城地区に出向いた工作員たちは、国内で活動していた閔徳元を通して碧城地区の農組を革命的に再編した。彼は碧城地区の中核分子と船で仁川地区に渡り、その地区の労組と農組のメンバーを意識化する活動を精力的に進めた。金正淑も豊山地区をへて一九三七年七月中旬に端川、利原地方に出向いた。そのとき彼女は豊山郡把撥里で李仁模に会い、赤色読書会の関係者を中核に祖国光復会の組織拡大問題について真剣に討議した。李仁模は、朝鮮革命軍の国内工作グループが把撥里内中警察官駐在所を襲撃し、「クマンバチ」というあだ名の悪質巡査部長を射殺したとき、それを目撃した一人である。この事件に刺激された豊山地方の先覚者たちは赤色読書会を組織し、反日闘争をはじめた。李仁模もその読書会に加わって活動し、一九三二年と三三年の二回にわたって約一年間獄につながれた。
最近、李仁模に会って確かめたところによると、彼はわれわれとの連係をもつため、朝鮮人民革命軍の重要作戦区域であった二道崗に二回も足を運んだという。南満州部隊の小部隊が東興鎮を襲撃したときには、そこまで足をのばしたほど彼の参軍志望は熱烈なものだった。それほど積極的に努力したにもかかわらず組織の線が見つからず、われわれに会えなかったのは残念なことだと言わざるをえない。もし、あのとき李仁模がわれわれと会うことに成功していたなら、彼の人生行路は大きく変わっていたであろう。李仁模は二度も投獄されたが、闘争は中断しなかった。彼は豊山地区革命委員会のメンバーとして、把撥里分会と黄水院ダム労働者突撃隊、安山厚峙嶺生産遊撃隊などの組織で精力的に活動した。
金正淑は一九三八年九月下旬、再び豊山で李仁模と豊山地区革命委員会に加わっていた彼の同僚らに会い、組織を拡大強化し敵地での活動を縦横に展開する対策を協議した。李仁模は金正淑に会ったのち、祖国光復会の下部組織を拡大するため大いに努力した。彼の活動範囲は、われわれが国内共産主義運動にたいする指導を実現するにあたり、必要な対象の一つと目していたソウルコミュニスト・グループにまで及んでいた。これは、李仁模の活動でもっともきわだった点であった。彼は朱炳譜とともにこのグループにわれわれの祖国解放路線を伝え、ソウルの運動圏にわれわれの影響を広めたのである。金三竜にわれわれの路線をじかに伝えた豊山赤色読書会時代の李仁模の上級にいた朱炳譜は、竜井の東興中学校在学中から反日学生運動に参加した人物である。彼は一九三七年からソウルの某学校に籍をおき、豊山にたびたび往き来しながら、われわれの影響下にあった共産主義者たちと緊密な連係を保っていた。その過程で豊山地方に派遣されていた金正淑とも連係がつき、国内革命にたいするわれわれの路線と戦略戦術を比較的正しくつかむことができた。金正淑は朱炳譜とともに、ソウルを中心とする中部朝鮮一帯の国内共産主義者をわれわれの反日民族統一戦線運動に結集する問題を論議した。李仁模の回想によると、そのとき金三竜はわれわれの統一戦線路線を伝え聞いて非常に喜んだという。朱炳譜と李仁模はソウル地区の金属、紡織、繊維、印刷、染色、被服など各部門の労働者のなかに深く入り、労働者階級の先進分子で労組を組織して全民抗争準備のための基礎作業を進める一方、国内革命組織にたいするわれわれの指導を実現するため地道に努力した。
李仁模は国内革命運動のためにも多くの活動をしたが、日本に祖国光復会の組織を拡大する活動でも少なからぬ功績を残した。一九四〇年の夏、彼は朱炳譜の指令で『祖国光復会十大綱領』をたずさえて東京へ渡り、豊山出身の苦学生で組織されていた豊友東京苦学生親睦会を革命的な組織に再編している。これでわかるように、李仁模は天から降ってきた人間ではない。彼を世界に知られる信念と意志の化身にしたのは祖国光復会の組織であり、その組織の種を三千里津々浦々に播きつけるため千辛万苦した白頭山の闘士であった。
豊山での工作を終えた金正淑は、東海岸の端川地区へ向かった。端川地方の先覚者のうち、われわれがとくに目星をつけていたのは、かつて新幹会に関与した端川農組の指導メンバーの一人である李周淵であった。彼は一九三〇年の端川農民暴動にも関与した人物である。金正淑は地元の祖国光復会会員に案内されて李周淵に会った。端川農民暴動事件で七年間の獄中生活をした彼は、そのころ山中の寺で病気を治療していた。金正淑は、監獄で苦労をし病身になった李周淵をあたたかく慰めた。そして、われわれの反日民族統一戦線路線と全民抗争方針を伝達し、農民大衆を意識化、組織化して全民抗争の準備をおし進めることについて話した。李周淵は、かつて自分はひとかどの運動家気取りで四六時中走りまわったものだが、いま振り返ってみると、あたかも羅針盤のこわれた老朽船に身をゆだねて大海を漂流するようなものだったが、いまは新しい船に乗ったような気分だといって、革命に忠実であることを誓った。
李周淵にたいする工作を終えた金正淑は、利原の遮湖海岸で李鏞に会った。彼はハーグ密使事件の主人公である愛国烈士李儁の息子である。彼は北青農組事件で逮捕され、釈放後は反日会を組織し指導していた。李儁がハーグで憤死した後、李鏞は「おまえの身は必ず国のためにささげよ」という父親の遺訓を守り、しばらくのあいだ独立軍運動に身を投じていた。しかし、間もなく運動への熱意がさめてしまった。独立軍運動の看板そのものはいかめしかったが、正しい指導を受けられないかぎり大事はなしえないことを悟ったからである。彼は一時、共産主義運動にも少なからず関与した。しかし、水に浮いた油のように大衆から離れた派閥が互いに野望をみたそうと争っているのを目にしては、そこから離れた。その後、彼が深く関与した農組の村でもやはり、いざこざが絶えなかった。マルクスを真似た長髪のえせ運動家たちが農組の上座でふんぞり返り、農民に頭ごなしに指図していた。これを見かねた李鏞はある日、上座の長髪の男を指弾した。するとその男は、「おまえはどうしてそうも傲慢なのだ。李儁の息子だからというのか。千里も向こうの毛唐の前で血をふりまいて訴えたからといって、誰かが独立をもたらしてくれるとでもいうのか」と彼を面責するのであった。李鏞は胸をたたいて慟哭した。自分が侮辱されるのは我慢するとしても、父の愛国の魂が侮辱されたのだと思うと口惜しくてならなかった。そのときの心の痛みは数年が過ぎてもいやされなかった。李鏞が独立軍運動と初期共産主義運動、農組運動にまで参加して得た結論は、いくら有力な大衆であっても、指導者に恵まれなければ力を発揮できないということだった。
李鏞は同志たちを組織に結束する一方、白頭山につながるルートを見つけようと八方手をつくした。金正淑は、厚峙嶺以南一帯の農民大衆を結集して全民抗争勢力をととのえるというわたしの構想を彼に伝えた。李鏞は、わたしの意を体して祖国解放の聖業に一命をささげる決意をかためた。金正淑と別れるとき、彼は将軍がいればこそ朝鮮が生きているのだと言い、わたしを指して朝鮮国の「正統領」と呼んだという。何年度だったか、わたしは北部朝鮮一帯の革命組織が教育資料に利用した『金蘭之契伝』を見たことがある。出所を調べてみると、北青の人たちがつくったものであった。北青郡青興里にはうっそうとした松林がある。そこは風光に恵まれた閑静なところなので、昔から地元の有志たちが遊興の場とし、折にふれ集まっては風流韻事にふけったところだった。反日意識の強い北青地方の中核分子は、警察の目を避けるため有志たちを前面に立てて「金蘭契」を結んだのである。金蘭契とは、心を合わせれば鋭さは鋼鉄のようで、かぐわしさは蘭のようだという意味で、僚友間のあつい情誼をさす言葉である。近しい親友同士が結んだ契という意味に解される。北青の中核分子はおおかた「金蘭契」のメンバーであった。彼らは有志たちを前面に立ててたびたび松林に集まり、風流を楽しむふりをして精神修養に努めた。そうしているうちに、契のメンバーのなかでもっとも見聞が広く博識で、人びとから学者として尊敬されている長老の会員が『金蘭之契伝』を書くことになった。そこに「正統領」という言葉が出てくるのである。
李鏞は、同年九月、北青地区党グループを組織し、その責任者となった。党グループの初期のメンバーは遮湖反日会の中核分子たちだった。彼は党グループを動かして遮湖反日会と付近の農組、労組を祖国光復会のまわりに結集するとともに、厚峙嶺以南の東海岸一帯を中心に全民抗争勢力を築いていった。
白頭山との連係がついた後、李周淵の生活にも大きな変化が生じた。新たな闘争任務を受けた彼は、家に帰ると妻に約束した日に闘争の道に発った。七年ものあいだ、ひたすら夫への差し入れにつくしてきた貞淑な妻を残して、故郷を後にする彼の心中には切ない憐憫の情がわき起こった。しかし私情を押し殺し、寺にやってきた妻ときっぱりと別れた。それ以来、解放される日までの八年間、彼は水入らずの夫婦生活を知らず、独り身で敵の監視の目をくぐってたえず居場所を移し、行く先々で同志たちとともに労働者や農民に反日闘争精神を植えつけるため知恵と情熱をそそいだ。李周淵と李鏞は白頭山を仰ぎ見ながらたたかったときのように、解放後も変わることなくりっぱに活動した。
「祖国光復会十大綱領」の旗をかかげ、統一戦線運動と全民抗争の準備のために奮闘した国内農組のリーダーのなかには李元渉という人物もいた。彼は農組を祖国光復会の下部組織に再編した吉州地区反日地下組織の責任者である。彼の指導する組織のメンバーは、革命軍を援護することであれば水火もいとわなかった。彼は吉州パルプ工場から用紙を抜きとって白頭山に送りつづけた。当時、東海岸一帯の各農民組織では、革命軍に送る各種の必需品を新坡、恵山まで公然とトラックで運搬したものである。
農組の活動家たちは、農民大衆のあいだでわれわれの武装闘争に呼応して全民抗争に立ち上がることを呼びかける宣伝扇動活動も活発に展開した。定平農組のメンバーは投獄されても、獄中でわれわれの闘争について大いに宣伝し、明川一帯の農組活動家も彼らに劣らずわれわれのことを宣伝し、反日闘争に立ち上がるよう呼びかけた。
全民抗争を準備した日々、国内でわれわれの路線にしたがい犠牲を払ってたたかった愛国烈士は、幾千、万と数えきれない。それら有名無名の革命家は、われわれの工作員たちとともに全国各地で数十数百万の農民大衆を祖国光復会の傘下に結集した。
農組が革命的な組織に再編されてから、朝鮮農民運動は抗日武装闘争と密着するようになった。これは、農民運動の発展を加速化する有利な条件となった。全国の農民団体は「祖国光復会十大綱領」の実現をめざす闘争を通して、反日民族統一戦線の強化と全民抗争の準備促進に大きく寄与した。だが、その過程で国内革命は多くの農組活動家と愛国的な農組員を失った。
農民運動は労働運動とともに、抗日武装闘争を主軸とするわが国の反日民族解放闘争史に堂々たる位置を占めている。われわれは銃剣をふりかざす日本帝国主義のファッショ的な虐政のもとで、民族自主権の回復と農民の階級的解放のために命をも投げだしてたたかった革命の先達を忘れてはならない。
4 独立旅団のころの崔春国
中日戦争が勃発した一九三七年の夏、朝鮮人民革命軍主力部隊は主に長白、臨江地区で活動しながら、北満州を出発した独立旅団の到着を待っていた。この独立旅団は、遊撃隊の創建初期からわたしと苦楽をともにした同志たちが根幹となって編制された部隊であった。
一九三五年春の腰営口会議の決定にもとづき、東満州地方の人民革命軍各部隊が南北満州の広い地域に進出し、中国人部隊との共同作戦を活発にくりひろげたことについては前に述べた。われわれも北満州で第五軍部隊との連合作戦をおこなった。その間、わたしは汪清連隊と琿春連隊の一部の隊員を金策、崔庸健の活動していた三江地区に派遣した。
北満州の戦友を訪ねて遠い道程を行軍しているうちに、その兵力は増強されて大部隊に成長した。そして一九三七年の春、独立旅団は西間島へ進出することになった。この旅団の党委員会書記兼第一連隊政治委員を務めたのが崔春国であった。独立旅団の朝鮮人隊員は、北満州の中国人部隊と中国人民を誠心誠意援助した。崔春国は汪清で戦ったころも中国人民や反日部隊との活動をりっぱにおこなって、彼らから深く愛され尊敬された。
西崗会議後、わたしは北満州に残しておいた隊員たちを西間島へ呼んだ。しかし一日千秋の思いで待っていた独立旅団は、普天堡戦闘が終わり、七・七事変勃発後かなりの時間が経過してから臨江地区に到着した。彼らの身なりを見て、われわれは驚いた。軍服はぼろぼろで地下たびもすっかり破れ、足を布で包み、紐や縄で縛っていた。わたしはそんな崔春国の背中をなでながら、汪清時代から今日までいつもむずかしい任務を与え苦労をさせてすまない、とねぎらった。崔春国は、到着が遅れたうえ、途中で崔仁俊中隊長や朴竜山小隊長などりっぱな戦友たちを少なからず失って面目がないと言い、涙を流した。五月初旬に北満州を出発したというから、遠征行軍は数か月もかかったことになる。彼らが出発したという依蘭から鴨緑江沿岸までは四千キロほどある。その遠く険しい道を踏破してきたのだから、その間いろいろな出来事があったであろうことは想像にかたくない。
林春秋は、十七のころから宝物のように持ち歩いていた鍼箱をなくしてしまったと、たいへん残念がった。鍼箱のなかには、多くの患者を治療してすっかり細くなった金製の高価な鍼も二本あったという。
「じつに苦しい行軍でした。ここにずらりとテントが並んでいるのを見ると、別世界に来たような気がします」
林春秋は、ほんとうにテントで寝たことがあったのだろうか思い出せないくらいだと言った。わたしはさっそく給養担当官を呼び、彼らがゆっくり休めるようテントを提供し、全員に新しい軍服を支給するよう指示した。しかし、崔春国ら指揮官たちは夕食を終えるとすぐわたしのところへやってきた。ぐっすり眠って旅の疲れをほぐすようにとすすめたが、久しぶりに司令官のもとに帰ったので横になっても眠れそうにないと言って、せきこむように中日戦争のニュースを尋ねた。何か月も血みどろの行軍をつづけた彼らは、中日戦争が起こったことも知らず、ずっとあとになってはじめてそれを耳にしたと言うのであった。わたしは情勢を説明した。
―― 九・一八事変は日本の満州占領をもって終結したが、七・七事変はそうはいかないだろう。いま中国人民は、日本帝国主義侵略軍にたいし挙国一致の抗戦をくりひろげている。もはや蒋介石も抗日に背を向けることができなくなった。中国共産党のイニシアチブで国民党との抗日民族統一戦線が結成された。それにもとづいて西北地方の紅軍主力は、朱徳を総司令とする国民革命軍八路軍に改編された。紅軍と国民党軍が合同して長期戦をおこなえば、国力と兵力が限られている日本は持ちこたえることがむずかしいだろう。いま日本軍は威をふるい破竹の勢いで進撃しているが、彼らの日章旗にはすでに滅亡の兆しが現れている。中日戦争に対処して、われわれはすでにたびたび会議を開き、必要な決議も採択している。会議の方針にしたがって敵背攪乱作戦を猛烈におこない、国内革命勢力をさらに拡大強化しながら全民抗争の準備をととのえるのが、われわれの課題である。敵背攪乱作戦の主な戦略地帯は、鴨緑江沿岸一帯と南満州地区である。中日戦争の基本戦線は北支戦線であり、したがって日本軍がそこへ軍需物資を送るには鴨緑江沿岸と南満州地区を通過しなければならない。それで、われわれは鴨緑江沿岸で活動している。同志たちもこれから鴨緑江沿岸か南満州地区で活動することになるだろう。
彼らは普天堡戦闘と間三峰戦闘に参加できなかったことを口惜しがった。崔春国は、北満州で抗日連軍部隊内の多くの朝鮮人と会ったが、彼らはみな白頭山に思いをはせていたと言った。そして依蘭県城戦闘のときに、崔庸健と会ったときのことをくわしく語った。
崔庸健は崔春国を抱擁し、きみは金司令のところから来たそうだね、うれしい、金司令に会ったような思いだ、金司令がわたしと金策に会おうと北満州まで来て、意を果たせずに白頭山へ向かったそうだが残念でならない、と言い涙ぐんでいたという。
解放後、崔庸健も依蘭県城戦闘のとき崔春国に会ったことを折にふれて話題にした。その戦闘は、崔庸健をはじめ北満州の各部隊と東満州の部隊が共同でおこなった規模の大きい戦闘だった。北満州各地で戦っていた各部隊が馬で八十キロから百二十キロ行軍し、敵に夜襲をかけて夜明け前にいちはやく撤収したという。夜の闇を恐れていた敵は、兵営周辺や土城のあちこちにあかあかと電灯をともしていたが、崔春国所属部隊の隊員たちがつぎつぎにそれを撃ち落としてしまった。その銃声と閃光に敵兵は度胆を抜かれ、あえて手向かおうともしなかったという。
その後、新たに編制された独立旅団は西間島方面へ来るようにというわたしの指示を受けた。その指示は大きな反応をもたらしたという。西間島方面へ来ることになった独立旅団の隊員たちは一日中食事もせずはしゃぎまわったが、姜健、朴吉松ら北満州に残留する戦友たちは落胆のあまり食事もとらなかったという。
独立旅団の南下行軍は波瀾に富んでいた。指示を受けた崔春国は、その日のうちに各所に分散していた部隊にレポを飛ばす一方、隊員たちに満州国軍の軍服を着せ、大胆に平地に出て大道路行軍を決行した。数回の戦闘で手痛い打撃を受けた敵が遊撃隊「討伐」のために山を捜索しているときだったので、平地はがらあきに違いないと推測したのである。一行は大道路を行軍したおかげで、一度も戦闘を交えずに一週間目に東京城近くにたどり着いた。行軍のスタートは順調だったが、その後、多くの部隊が集まり、旅団長方振声が行軍隊伍の指揮をとるようになってから混乱が生じた。林春秋、池炳学、金洪坡、金竜根など行軍参加者の話によれば、旅団長の方振声と旅団党書記の崔春国のあいだに、用兵戦術上まったく相容れない意見の食い違いがあったためだった。
東京城を通過してから行軍隊伍が敵の大部隊としばしば遭遇する局面が生じたので、崔春国は交戦を避け犠牲を出さないようにするため、旅団を小部隊に分けて行軍しようと主張した。それは遊撃戦の要求にかなった正しい主張であった。しかし方振声は、隊伍を分散すれば収拾がつかなくなり、旅団の戦闘力が弱まる、旅団は一緒にいてこそ旅団であって、分散すれば旅団ではないと言って崔春国の案をいれず、大部隊行軍に固執した。その結果、敵とひんぴんと遭遇して犠牲者が増え、部隊の活動はいろいろ制約されるようになった。そうした苦労をつづけながらも、隊員たちはみな祖国進軍の日を待望していた。重傷を負った一少年隊員は崔春国の膝の上で息を引き取りながら、自分をぜひ祖国の地に埋めてくれと遺言したという。当時の状況では、とうていかなえられない遺言だった。崔春国は彼の遺体を火葬に付し、その一握りの灰を紙に包んで事務長の背のうに保管させた。一握りなりとも祖国の地に埋めてやりたかったのである。
崔春国は戦友たちの犠牲を少なくするため、草原で草をはんでいる百余頭の軍馬を奪い、それに乗っていこうと提案した。
――われわれは敵に発見された。分散行軍してこそ行方を隠せるのだったが、あなたの反対でわれわれは禍をまねき、多くの戦友を失った。こんなことではさらに多くの損害をこうむるだろう。包囲される前に迅速に抜け出さなければならない。敵がわれわれを追撃するのではなく、われわれに引きずられるようにすることだ。騎馬行軍をすれば、われわれは能動的に敵を引きまわして撃滅することができる。いまのように受け身であがいていては、部隊は全滅をまぬがれない。
方振声はその提案もはねつけた。騎馬行軍は自殺行為だというのである。言葉をつくして説得したが、頑として受け入れなかった。崔春国の提案はとうとう旅団党委員会にまでもちこまれた。党委員会の全委員が崔春国の戦術的方案を支持した。こうして、ろ獲した百余頭の軍馬に負傷兵と虚弱者を乗せて部隊は南下行軍をつづけた。徒歩の者は軍馬に荷を積み、身軽になって歩いたので、いきおい行軍速度が速くなった。追撃していた敵は、崔春国が予想したとおりはるか遠くに引き離され、あたふたとあとを追ってくる破目になった。旅団は官地付近で、追いすがる敵を掃討した。その後、軍馬は屠殺して食料にあてた。
騎馬行軍によって部隊はしばらく息をつくことができたが、敦化―― 哈爾巴嶺鉄道沿線でまたも難関にぶつかった。鉄道沿線に敵軍が所狭しと群がっていたのである。旅団長は退くほかないと言って退却を主張した。崔春国は、いまは鴨緑江に向かって一歩でも前進すべきであって後退してはならない、退路で敵に遭遇したら危険はさらに大きくなる、敵は間違いなくわれわれの背後に増援部隊を派遣しているはずだ、と言って彼の意見に反対した。すると旅団長は、こんな状況のもとで前進をするなどもってのほかだと、かんしゃくを起こした。
彼らが議論を交わしているとき、近くの大道路を満州国軍の一個部隊が行軍していた。その行軍縦隊を見た崔春国は、満州国軍のあとからついていくのが上策だと言った。旅団長は敵のあとからついていくとはなにごとかと目を丸くした。崔春国は説明した。
―― あの満州国軍はいま大砲を引いていくのが精一杯で、周囲に気を配るゆとりがない。たとえあとにつづくわれわれを見たとしても味方と思うはずで、まさか白昼公然と遊撃隊が自分たちのあとについてこようとは夢にも思わないだろう。だから敵のあとからついていき、鉄道沿線地帯を通過してしまえば、いちはやく山に入ろう。
旅団長もその意見には反対できなかった。崔春国の提案にしたがったおかげで、旅団は鉄道境域を無事に通過することができた。しかし敵の大小「討伐隊」との遭遇と交戦はその後もつづいた。漂河付近では五百余の敵兵と遭遇し、二日間も血戦をくりひろげた。その戦闘で多くの隊員が背のうを失ったが、祖国の地に埋めてくれと遺言した少年隊員の遺骨を入れた事務長の背のうもそこでなくしたという。
崔春国は、刻一刻と狭まる敵の包囲から旅団を救出する唯一の突破口は小部隊分散行軍しかない、と再び強く主張した。だが旅団長は今度も、そうすれば一、二個中隊は助かるかも知れぬが旅団は全滅する、自分だけ助かろうとてんでに逃げ出そうというのか、生きても一緒に生き、死んでも一緒に死ぬべきだと強弁した。旅団党委員会は再び二人の主張を真剣に討議した。旅団長の優柔不断な態度に憤激した崔春国は、拳で自分の胸をたたきながら言った。
――この場に自分一人助かろうとする者がどこにいるというのか。死を恐れる者は一人もいない。しかし、目的地に行き着く前に犬死にすることはできない。あれほど祖国の地にあこがれている隊員たちを中途でみな失ってしまったら、われわれ指揮官はその罪をどうつぐなうというのだ。一、二の指揮官の愚かな行為によって隊員を失い、われわれ自身も死んでしまえば抗日大戦は誰がおこない、革命は誰が進めるというのか。旅団兵力を保持して西間島に行くためには分散行軍に移るほかはない。
会議に参加した大多数の指揮官は、大部隊行軍に固執する旅団長を冒険主義者として指弾し批判した。同志愛のべールをかぶった卑怯分子だと決めつける指揮官もいたという。後日、方振声が敵に帰順したのをみれば、卑怯分子と断じたのもあながち根拠のないことではなかったようである。もちろん方振声は自発的にではなく、敵に逮捕され脅迫と懐柔に屈して帰順したのであるが、そのいきさつはともかく、投降と変節の兆しは彼の日ごろの生活のふしぶしに見られた信念と意志の薄弱さと小心さからして、かなり前から芽生えていたのだと思う。方振声は、旅団が分散して戦闘力の強い部隊と有能な指揮官が離れていけば自分の身辺が危くなると考え、臆病風に吹かれていたに違いない。
漂河での旅団党委員会の会議後、独立旅団は分散行軍に移行してやっと敵の封鎖を突破することができた。ところが、方振声は同志たちの忠告を最後まで受け入れることができず、崔春国に反感をいだいた。方振声は正規の軍事教育を受けた旧東北軍の将校出身で、職級のうえでも旅団の指揮権を握っていた。彼とは対照的に、崔春国は初等教育すら受けていない最下層出身だった。彼は遊撃隊に入隊してはじめて読み書きを習い、軍事を習得しながら成長した指揮官だった。しかし、人材や人物の優劣がたんに学歴によって決まるものでないことを方振声は知らなかった。方振声が自らを反省したのは、数日後の松花江渡河戦闘のときだったという。分散行軍をしていた旅団は、そのころすでに隊伍を再集結し大部隊で行軍していた。隊列は夕闇が迫るころ那爾轟付近の松花江に着いた。長雨で水かさが増し、海のように広くなった松花江が波を立てて流れていた。敵が現れる前にすみやかに渡河を終えなければならなかったが、五、六名がやっと乗れる小舟一艘しかなかった。そのため、かなりの人員は夜が明けはじめるまで渡りきれなかった。川を渡った者も渡れなかった者も、のろのろと進む小舟と白みはじめた空に不安げな視線を向けていた。そんなとき敵が現れた。崔春国は十余人の敏捷な隊員を選び、自分たちが敵を誘導するから早く川を渡って柳樹河子付近の森のなかで待機するようにと言い、敵を迎え撃った。彼が敵を誘導したおかげで、渡し場に残っていた隊員たちは無事に川を渡ることができた。旅団は柳樹河子付近で数日間、崔春国の決死隊を待った。崔春国は四日目に決死隊員全員を率いて現れた。どこで手に入れたのか、全員が食糧までかついでいた。そのときにはじめて、方振声は崔春国の肩を抱いて謝罪した。
独立旅団の北満州地区における活動と南下行軍路での話を聞いて、わたしがなによりもうれしく思ったのは、旅団の全隊員がわたしの期待に背かず任務をりっぱに遂行したことと、彼らがわたしと別れたときに比べ著しく成長したことだった。その手本を示したのが崔春国だった。もちろん、彼はわたしのそばにいたときも遊撃戦術に通じた軍事指揮官だったし、非の打ちどころのない政治活動家でもあった。ところが独立旅団の北満州での活動と南下行軍の過程で、彼の軍事的才能と指揮能力はいっそう円熟したのである。
小さいときから下男奉公をし、鉄道工事場で働きながら成長した崔春国はのみこみが早く、遊撃隊に入隊すると射撃動作や制式動作などもすぐに習得した。品性と能力がともにすぐれていたので、わたしは彼を中隊政治指導員に任命した。すると崔春国は泣き顔になって、まだなにかと未熟な自分には他人を指導する政治指導員は務まらない、自信があるのは日本帝国主義者とその手先を撃ち倒すことだけだから、平隊員でいさせてほしいと頼むのだった。わたしは彼に、国を愛し日本帝国主義者を憎むきみのその精神を隊員の胸に植えつけるのだ、そうすれば政治指導員としての任務をりっぱに果たすことになる、と説得した。そして手帳を一冊取り出し、最初のぺージに「地面に字を書いてでも勉強をしなければならない」と書いて渡した。
その後、崔春国は人一倍学習と訓練に励んだ。彼は朝鮮語の読み書きだけでなく、漢文も自習した。彼が性急に漢文にまで欲を出したのには、それなりのいきさつがあった。ある日、崔春国は「以整化零」という言葉の意味がわからず、わたしを訪ねてきた。わたしがその音訓を教え意味を説明すると、彼は「ほう、漢文というのは妙な味がありますね。書堂に通えなかったのが悔やまれます」とつぶやくように言うのだった。
崔春国はいつも背のうに漢字の辞典を入れて持ち歩いた。小汪清防衛戦闘が九十日以上もつづいた苦しい戦いであったことは前にも触れた。ところが崔春国は、その九十日のあいだにも漢文の勉強を怠らなかった。
あるとき、わたしは崔春国の中隊が駐屯している三の島へ行き、彼に、政治指導員は踊りもおどり、歌も上手にうたえなくては中隊を活気あふれる楽天的な部隊にできないだろう、と言った。すると崔春国は、毎晩、外で人知れず踊りの稽古をした。ある日、夜明け前の薄暗がりのなかで稽古に熱中している彼の姿をたまたま目撃した中隊炊事隊員の高賢淑は、中隊長のところへ駆けつけ、政治指導員同志は気がふれたようだ、とおびえた声で言った。中隊長は腹をかかえて笑った。これは後日、三の島の有名な逸話になった。
それほど崔春国がまじめで生一本な性分だったので、わたしは東満州の遊撃区で戦ったときも、困難な任務はいつも彼の中隊に与えたものである。五千余の敵と九十余日にわたって熾烈な戦いをくりひろげた馬村作戦のときも、崔春国の第二中隊が基幹的な中隊として戦った。わたしが敵の背後を攻撃するため根拠地を離れるときは、決まって崔春国に根拠地防衛の任務を与えたし、彼は必ずその任務をりっぱに果たした。そのように信頼していたので、いきおい、わたしのいない場所には崔春国を残しておくようになり、なにかの都合でわたしが行けない重要な地点には彼を派遣するのが、いつしか一つのならわしとなっていた。わたしと崔春国が人間的にたいへん親しい間柄だったにもかかわらず、いつも遠く離れているようになったのはそのためだった。
わたしは崔春国の成長ぶりを目のあたりにして、抗日大戦の嵐のなかでぬきんでた軍事的才能を発揮している戦友たちの姿をまぶたに描いてみた。
崔賢、安吉、金策、崔庸健、李学万、許亨植、姜健…
敵が懸賞金をかけていた抗日の名将のなかには、黄埔軍官学校の教員まで務めたことのある崔庸健を除いては、正規の軍事教育を受けた人物は一人もいなかった。軍事教育はおろか、数年前まで軍人になるなどとは考えたこともない人たちだった。そうした人たちが、なんと有能な軍事指揮官に、すぐれた政治幹部に成長したことか!
わたしは硝煙にくすんだ崔春国の頼もしい姿を見ながら考えた。
(すでに、われわれには一つの戦略的地帯をまかせうる頼もしい人材が十分にととのっている。やがて時機が到来すれば彼らに部隊をまかせ、きみは咸鏡北道へ、きみは狼林山脈へ、きみは太白山方面へというふうに、祖国解放作戦の任務を与えることができるだろう。国内各地へ進出した部隊に呼応し、各地で生産遊撃隊と人民が決起するならば、日本帝国主義を敗亡させ、最後の勝利をかちとることができるであろう)
独立旅団が到着した日の夜、わたしは汪清時代に三の島の第二中隊に行ったときのように、久しぶりにテントのなかで崔春国と並んで横になった。感慨深い寝所だった。われわれは夜通し積もる話を交わした。その夜、崔春国はこんなことを言った。
「白頭山のほうへ行くのだという考えがなかったら、わたしたちはおそらく中途で倒れてしまったでしょう。ぜひ生きて祖国の地を踏まなければならないと思うと、死地に陥っても活路が見え、くたくたになって倒れても起き上がる力がわきました。汪清で戦ったころ、故郷の穏城に何度か行ったあとは、ここ数年、祖国へは行けませんでした。祖国の土の匂いをかぎたいものです」
わたしは胸に熱いものがこみあげて彼の手を強く握り、そんなに祖国をなつかしがるきみに、祖国の地を踏む機会をすぐには与えられそうにない、と言った。結局、わたしは一日か二日後に話そうとしたことをその夜、話さざるをえなくなった。
当時、東満州と南満州で活動していた抗日連軍部隊では、軍・政幹部の不足に悩んでいた。敵の「討伐」によって南満州部隊は破局的な損害を受けていた。敵が「南満州の共匪は一掃され、治安が確保された」と広言したほど、第一軍の遊撃闘争は難関にぶつかっていた。中日戦争の勃発にともなって戦略的に重要度を増した南満州で遊撃闘争を拡大強化するには、まず有能な軍・政幹部を補強しなければならなかった。ことに南満州部隊では曹国安師長が戦死したあと、指揮官の警護を強化する特別措置をとることが懸案となっていた。軍団や師団の親衛隊、中核部隊となるべき警護部隊には、もっとも有能な軍・政幹部とえりぬきの戦闘員を配置すべきだというのが、指揮官たちの共通した見解だった。そうした実状を考慮した魏拯民は、春以来、崔春国の旅団が到着したら、そっくり自分たちにまわしてくれと要請していた。南満州部隊の苦境や南満州遊撃闘争の戦略的意義、そして魏拯民の苦衷を先刻承知しているわたしとしては、彼の切実な要望をむげに断ることができなかった。
崔春国は、わたしが望みをかなえてやれなくてすまないと言うと、かえってわたしを慰め、「革命の要請とあればまた発ちましょう。そのことであまり気をつかわないでください。いまにそばにいられる日がくるでしょうし、祖国の地を踏む日もくるでしょう」と言うのだった。
「そう思ってくれればありがたい。汪清時代から一緒だった人たちだけでもそばにいてもらいたいのだが、老魏(魏拯民)は、そんな人たちを余計欲しがるものでね」
独立旅団が到着したことを知った魏拯民は翌日、早速わたしを訪ね、慎重な面持で切り出した。
「独立旅団の将兵たちの話を聞いてショックを受けました。部隊の興亡はやはり指揮官にかかっています。指揮官がしっかりしていないと部隊が滅びます。方振声は旅団長の資格がありません。彼に警護連隊をまかせるつもりだったが、その計画を取り消さなくてはならないようです。ソ連では国内戦争のとき、ツァー軍出身将校の力にあずかるところが大きかったというが、われわれはそんな幸運にもあずかれなかった。警護連隊を統率する軍・政幹部を一人見つけるのもむずかしくなったのだから、まったく困ったものです」
案にたがわず、彼の口の端には、われわれ朝鮮人側から連隊長と連隊政治委員の適任者を出してほしいという気持がうかがえた。
その日の独立旅団行軍総括では、旅団の行軍を巧みに指揮した崔春国の功労が高く評価され、行軍で模範を示した戦闘員たちが表彰された。反面、方振声と彼に追従した指揮官たちはしかるべき批判を受けた。わたしは会合を締めくくりながら、われわれが数のうえで優勢な敵と戦うにあたって、遊撃戦術を縦横に活用することがいかに重要であるかを強調した。
――われわれが遊撃戦を捨てて正規戦に頼るのは、ツバメが空を飛ばず地を踏んで餌を求めるにひとしい愚かなことだ。古い兵法にも、戦うべきか戦わざるべきかを知る者が勝者になり、敵が勝てないようにし、敵に勝つ機会をうかがう者が、戦に長けた者だとしている。われわれはどこでどんな敵に出会っても、巧みな遊撃戦術を用い、勝ち戦をしなければならない。
その日の行軍総括には魏拯民など中国人指揮官や隊員たちも参加したので、わたしは朝鮮語と中国語の両方を使って演説した。
行軍総括後、われわれは警護連隊を新たに編制した。連隊長にはわれわれの部隊の警護中隊長であった李東学を、政治委員には崔春国を任命した。林春秋も魏拯民につきそわせ、その治療にあたらせることにした。独立旅団所属の他の兵員も全員そこに配属した。結局、魏拯民は希望どおり、もっとも有能な朝鮮人軍・政幹部と精強な戦闘員で編制された警護連隊をもつことになった。魏拯民は喜色満面だったが、警護連隊に移った者のなかには、わたしのそばにいられなくなって残念がる者が少なくなかった。林春秋までが、国内に派遣された政治工作グループに自分を送ってくれと懇願するほどだった。
数日後、新編制の警護連隊は魏拯民とともに南満州の輝南地区に向けて出発した。出発前夜、崔春国は別れの挨拶にやってきた。中秋がすぎて間もない月夜だった。われわれは司令部のテント横の草原に座って別れを惜しんだ。
「きみは北満州での疲れもいやせずに、また南満州に発つことになった。一息つく暇も与えず、また遠くへ送り出すことになってすまない」
「とんでもありません。わたしをそれほど信頼してくださって、力がわきます」
「輝南は敵の警戒のきびしいところだというから、くれぐれも体を大事にしてほしい。穏城で渡し場の派出所を襲撃したときのように向こう見ずなことをしたり、せっかちに行動したりすることのないように気をつけたまえ」
穏城渡し場の警官派出所襲撃事件とは、一九三五年初、崔春国が中隊の隊員たちを率いて豆満江を渡り、長徳渡し場を襲った戦闘のことである。それはわたしがかなり前から構想していた国内進攻作戦のさきがけとしておこなった戦闘だった。渡し場の派出所は、主に豆満江を渡る通行人を取り締まっていたが、そのきびしさは目にあまるものがあり、穏城から援護物資を運ぶ地下組織のメンバーは渡し場でいつも冷や汗をかかされ、統制物資を取り上げられることもよくあった。穏城の地下革命組織では、この派出所の警官たちを一度こっぴどい目にあわせてくれ、と言ってきた。それでわたしは、崔春国の中隊に襲撃任務を与えたのである。日の出前に戦闘員たちと一緒に凍りついた豆満江をひそかに渡った崔春国は、隊員を派出所の周辺に待機させ、ひとりで派出所に入っていった。当直警官が一人いるだけだったので、銃声を響かせずとも目的を果たせる状況だった。ところが、ストーブを早く焚かなかったと警官が給仕の少年を蹴るのを目撃した崔春国は、つい自制心を失い、警官に向かって発砲した。そのために、渡江登録をしに派出所の前庭に集まっていた群衆に満足なアジ演説をすることもできず、そうそうに引き揚げることになった。
警官一人を撃ち倒しただけの小さい戦いだったが、その波紋は大きかった。少人数の遊撃隊が多くの人たちの面前で国境哨所を襲ったのだから、この先どんな出来事がもちあがるかわからない、と人びとはうわさしあった。それは、その後、活発に展開された鴨緑江、豆満江対岸の敵を掃討する作戦の前ぶれであった。
「あれは若気の至りというものです。あわてず沈着にやれば、大衆の前で胸のすくようなアジ演説ができたのですが… せっかちに行動したばかりに、基本の目的を果たせなかったのです」
崔春国は、そのとき政治工作を満足にできなかったことを残念がった。
「大胆に行動するのはよいが、指揮官は万事に用意周到でなければならない。これからは連隊ばかりでなく、軍団司令部の運命にも責任を負うことになったのだから、なにごとにも慎重を期さなければならない。無益な冒険は禁物であることを銘記すべきだ。きみは祖国解放の大業のためにも必ず生きてわれわれのもとに帰ってこなくてはならない。祖国解放作戦を展開するときは、きっときみたちを呼びもどす。普天堡戦闘に参加させられなかった借りをそのとき何倍にもして払おう」
この言葉が効を奏したのか、崔春国は北満州に派遣されたときとは違って、笑顔でわたしのそばを離れた。彼は南満州に行ってからも、わたしと緊密な連係を保ち革命任務をりっぱに果たした。わたしは崔春国を南満州に送るとき、桓仁、集安、通化を中心に鴨緑江沿岸一帯で活動している独立軍を包容する工作任務を与えたが、彼はその工作でもりっぱな実績をあげた。魏拯民はわたしに通信を寄こすたびに、警護連隊の活躍を誇らしげに通報してきた。そうした消息のなかでいまでも忘れられないのは、崔春国が一通の手紙で数百名の満州国軍を意のままに動かしたことである。
連隊を率いて敵のある軍事要衝付近を通過していた彼は、偵察を通してそこには数百名の満州国軍と警官だけがいることを知り、満州国軍部隊長に次のような内容の手紙を送った。
――われわれは中国人を敵とみなしておらず、敵にまわしたくもない。貴方と戦うつもりはないから、貴方もわれわれに手出しをするな。われわれにはいま休息が必要だ。富爾河に立ち寄り、貴方の土城内に入ってしばらく休んでいきたいが、妨害しないよう警告する。
これは、遊撃隊とはできるだけ交戦を避けようとしている満州国軍の動向を十分に参酌したうえでの手紙だった。満州国軍側は連絡兵を寄こし、革命軍の要求をすべてのむから三十分間だけ待ってくれと言ってきた。革命軍が三十分間待つあいだに、満州国軍部隊は城市をあけて裏山に退避した。城市にとどまったまま遊撃隊を入城させて、後日、日本軍に追及されたら、言い逃れるすべがないからである。崔春国連隊は城内に入って休息をとるかたわら、大衆政治工作をおこなった。日が暮れると、裏山の満州国軍は焦燥にかられてしきりに口笛を吹いた。日本軍が現れたらことだし、そうかといって遊撃隊に立ち退けとも言えない苦しい立場をわかってほしいという合図だった。
崔春国は部隊に出発命令を下し、満州国軍部隊長に簡単な挨拶の手紙を残した。
―― ゆっくり休ませてくれて感謝する。今後ともわれわれを友と思い、援助してほしい。朝中人民の共通の敵日本帝国主義は必ず敗北し、朝中人民は必ず勝利するであろう。
崔春国はこうしたやり方で多くの満州国軍を意のままに操り、彼らを反日に向かわせた。驚くべきことは、満州国軍部隊長たちに送ったそのような中国語の手紙のほとんどが彼の直筆になるものであったということである。
彼は一九三〇年代後半の初期から末期まで、南北満州の広野で縦横無尽に活躍し、抗日連軍の中国人遊撃部隊の活動を極力支援した。それで、中国の人民や革命同志たちから国際主義戦士として尊敬された。行く先々で中国の友人たちは、プロレタリア国際主義と朝中親善のためにつくした彼の功績を深い愛情と尊敬の念をもってたたえた。
それでは、いかにして彼が南北満州全域に名を知られた当代の抗日猛将になりえたのだろうか。抗日革命時代の一瞬一瞬はふだんの一日、一か月、はては十年に匹敵するほど人びとを大きく変化させた。ずく鉄が炎のなかで鋼鉄に鍛えられるように、かつての非識字者や貧民が革命という巨大な奔流のなかで闘士、英雄、先覚者に成長し、社会を改造し新時代を創造する主人公となった。崔春国はまさにこの革命に全身全霊をささげ、闘争のなかで自らをたえず鍛えたのである。
ここで崔春国の人間味を語る興味ある逸話を一つ紹介しよう。一九四五年の解放後、崔春国が新婚生活をはじめたばかりのとき、彼の家庭を訪問した林春秋が夫人に、夫が気に入ったかと冗談まじりに聞いた。夫人は恥じらいを含んだ笑いを浮かべ、夫が遊撃闘争をしたというのは本当ですかと問い返した。そして、数日前、崔春国の部隊で運動会をしたときの出来事を話した。
その日、軍務者の家族も招かれて運動会の見物に出かけた。崔春国の夫人も晴れ着姿でそれに参加した。夕方、家に帰ってきた崔春国は、さも不機嫌な表情でこう言った。
「きみには、それほど着る物がないのか。部隊中の人が集まったところに、なにも麻の服を着て来ることはないだろう」
夫人は「麻」の服と言われて吹き出してしまった。カラムシを粗末な麻と見間違えたのである。
「あれは麻ではなくて、カラムシです。夏向きの生地では
「そうだったのか」
崔春国は顔を赤らめ、しどろもどろに妻に謝ったという。夫人は話し終えてから、あんなに純真な人がどうやって日本帝国主義と戦えたんでしょうか、と首をかしげた。林春秋は大笑いしてから、真顔になって言った。
「ご主人をよく見ました。崔春国君はそれこそ善良で純真な人間です。穏城渡し場の派出所を襲撃したとき、巡査に殴られて鼻血を流していた小さい給仕を介抱してやれなかったことを、いつまでも苦にしているような男なんですよ。しかし、ご主人はまたとても強い人なのです。彼の左足を注意してごらんなさい。傷跡があるはずです。銃弾で足の骨が砕けたのを、わたしが麻酔剤もなしに手術して縫合したのですが、うめき声ひとつ出さずに恐ろしい苦痛に耐えたのです。人民や同志たちの前では羊のようにおとなしく、敵には虎のように恐ろしく、難関には鉄のようになってあたるのがご主人です。これから長年暮らしていくうちに、どんなに強い男かわかるでしょう」
林春秋の言葉を裏切って、末長い幸せが約束されているかに思われた彼らの夫婦生活は長くつづかなかった。偉大な祖国解放戦争が起こって一か月余が過ぎた一九五〇年七月三十日、第一二歩兵師団の安東解放戦闘を指揮していた師団長崔春国は、安東市街を間近にして致命傷を負った。参謀長の池炳学が駆けつけたとき、彼は道ばたの乗用車のなかに横たわっていた。すでに臨終が迫っていた。池炳学がしきりに声をかけると、かすかに目をあけた崔春国は、軍医に自分の命を五分間だけ延ばしてほしいと言った。その最後の五分間に、師団長は渾身の力をふりしぼって、安東の敵を完全に包囲せん滅する自分の作戦的意図を参謀長にくわしく説明した。
「わたしの代わりに、きみが
これが、池炳学の手を取って言った崔春国の最期の言葉だった。
崔春国が戦死したという悲報を受けたその日、わたしのまぶたには左足を引きずり気味に歩く彼の姿が鮮やかによみがえり、彼の戦死がどうしても信じられなかった。彼の左足は抗日の戦場で骨が砕け、少し短くなっていた。しかし彼はその不自由な足で数千キロの道を踏破した。解放直後は保安幹部訓練所分所長の重責をにない、訓練生と一緒に渡河訓練もすれば、険しい崖をよじのぼる山岳訓練もしながら、国の軍事力の強化のために献身した。
若いころ崔春国がひんぴんと渡って敵に恐怖を与えた豆満江、そのほとりにある彼の故郷穏城の通りには、いま抗日革命時代の軍服姿の彼の銅像が立っている。
銅像製作者たちは崔春国の容貌と性格を正しく知ろうと、彼の夫人を訪ねた。
「崔春国同志の思い出のなかで、もっとも印象的だったのはどんなことでしょうか」
夫人に投げた最初の質問だった。
「とくに印象的だったといえるようなことはありません。あるとすれば口数が少なかったことでしょうか。何年かの夫婦生活のあいだに主人が言ったことは、みんな合わせても、百にもならないでしょう。いっそのこと気性が荒くて、平手打ちの一つでもくらわせてくれていたなら、印象に残ったでしょうに…」
崔春国夫人は、記憶に刻まれるほどの夫婦生活の細やかな出来事のないことをさびしがった。そして、こんな意味深長なことを付け加えた。
「うちの次男に一度会ってみてください。この子は父親にそっくりで、おとなしい子です。もっとよく似るには強いところもあってほしいのですけど、それはまだわかりません。でも、これからきっと、そのように育てたいと思っています」
結婚当初とは違って、夫人は自分の夫がどれほどりっぱな人間であるかをよく知っていたのである。そうなのだ。どこまでもやさしく、あくまでも強い人間、それが抗日の勇将崔春国なのである。
5 九月アピール
一九三七年九月、われわれは中日戦争に対処して全朝鮮同胞に送るアピールを発表し、多数の政治工作員を国内に派遣した。わたし自身も国内に入ろうと決心した。労働者の大集団が集結している地域に入って、全民抗争準備の突破口を開くためであった。第一の目的地は咸鏡南道新興地区、第二の目的地は豊山地区で、同行人員は十余名であった。
祖国の全土が危険きわまる敵地となっていた当時、わずかの警護隊員を連れて国内深くに入るというのは、実際容易ならぬことだった。軍・政幹部たちは、わたしの国内潜行を再考してほしいと重ねて懇願した。洋服姿のわたしを見た「パイプじいさん」は、「司令官がそんな身なりで咸興近くまで行くと言うのですか。敵の警備が普通でないと聞いていますが」と言ってしきりに引き止めた。しかし、わたしは決心をかえなかった。そのころのわたしには、金周賢小部隊の国内工作失敗の損失を挽回しようというはげしい心のもだえがあった。わたしは九月アピールの要求を自分自身にたいする要求として受けとめていたのである。わたしが国内深くに入ると言ったとき、いちばん気まずそうな顔をしたのは金周賢とその小部隊のメンバーだった。金周賢は、自分たちの小部隊がとんだ失敗をしでかしたので、司令官が自ら国内工作に出かけようとしているのではなかろうかとさえ思ったようである。もっとも、そんなきらいがまったくなかったわけではない。
発表されたのが九月であることから、九月アピールと称されたこの文書でわれわれがとくに意義づけたのは、およそ二つの問題であった。その一つは、中日戦争と朝鮮革命の相関性について正しい認識を与えることにより、朝鮮人民が信念を失わず、反日運動を強めていくようにすることであった。
当時、新聞に目を通している市井の人のなかには、中日戦争がつづき日本軍の戦果が拡大されるにつれ、朝鮮の独立は不可能になるとする悲観論者が少なくなかった。その年の八月初から、崔南善、尹致昊、崔麟などのいわゆる著名人士は、内外の新聞に日本帝国主義との妥協を説く文をあいついで発表した。それらの文章はわたしも読んだ。
崔南善は、日本の存在とその勃興はすなわちアジアの気運、東方の光であるとし、東方諸民族は日本を盟主として大同団結すべきだと説いた。三・一独立宣言文の起草者の一人である崔南善は、かつて、白頭山は東方万物の最大依支、東方文化の最要核心、東方意識の
崔麟は、内鮮一体によって「国民的赤誠」を発揮すべきだと力説した。三・一独立運動発起人三十三人グループの一員にしては、あまりにも背信的かつ売国的な言動であった。
尹致昊は、朝鮮人と日本人は同じ船に相乗りした運命共同体だと主張した。朝鮮の近代史に明るい人なら、旧韓国時代の高官であった尹致昊をよく知っているはずである。彼は高い官職についていたが、「韓日併合」に断固として反対した。そのため獄にもつながれた。七・七事変当時、彼は七十を越す高齢の身であった。
そんな彼が栄達をはかったり、命を惜しんでことさら日本帝国主義に追従したとは考えられない。祖国が解放され、世間に顔向けができなくなった尹致昊は、八十を越した身で自害して果てたという。自決をもって恥辱をすすごうとしたのを見ると、彼に良心があったことは確かである。そんな人物が日本帝国主義に転向するようになったのは、日本を過大評価したうえに情勢推移の判断を誤ったからだと思う。
われわれが新興地区へ進出するとき、三水近くから道案内をしてくれた張海友も中日戦争の展望について非常に知りたがっていた。わたしは彼に、中日戦争を近視眼的に見ては絶望しかねない、中日戦争は貪欲な日本軍国主義をしておのずと広大な地域に兵力を分散せざるをえなくし、兵力難、物資難、補給難、原料難にあえがせる結果をまねくであろう、したがって中日戦争は朝鮮人民の独立戦争に絶望ではなく明るい展望を開いている、いわば、目的達成の絶好の機会を与えている、それゆえわれわれは、日本帝国主義との決戦をくりひろげる民族あげての全民抗争の準備をおし進めるべきだと話した。
九月アピールで提起したいま一つの重要な問題は、全民抗争準備の戦略的方途を示すことであった。それでわれわれは、アピールにつぎのような内容をもりこんだ。
―― 中日事変はますます緊張の度を加えている。最終的勝利が中国側にあることは疑う余地もない。これより有利な機会はまたとないであろうから、われわれは一朝有事のさいに断固たる行動に出なければならない。後方における武装暴動と破壊工作のための前衛的な実行組織として生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織するのは、とくに重要かつ緊切な問題である。生産遊撃隊と労働者突撃隊はそのメンバーを動員して武装暴動を起こし、後方で破壊工作をくりひろげ、軍需工場とその他重要な企業所を放火、破壊し、…全民抗争の時期が到来すれば、朝鮮人民革命軍の軍事行動に合流しなければならない。そうすることによって日本軍を完全な敗北へ追い込むべきである。こうしてこそ、われわれの課題、すなわち朝鮮の独立を達成することができる。
われわれは九月アピールで、生産遊撃隊と労働者突撃隊を中心に全民抗争の準備を拡大していくことを戦略的方針として示した。
九月アピールの発表後、われわれが国内進出の最初の目的地として新興地区を選択したのは、この地区が咸興、興南などわが国の労働者がもっとも多く集結している大工業都市をかかえているからだった。赴戦嶺山脈の南裾に位置した新興地区のうっそうとした樹林のなかには、われわれの政治工作員によってすでにいくつかの密営が設けられ、小部隊の活動拠点となっていた。その密営群の一点に、興南地区をはじめ東海岸の各地で活動する政治工作員と労組、農組の中核メンバーが集結することになっていた。
われわれが第二の目的地として豊山地区を選んだのは、その地区に水力発電所工事場の労働者と、祖国光復会の組織に結集した天道教徒が多く住んでいたからである。新興をへて豊山までの路程は、図上の直線距離にして三百二十キロ以上もあった。
われわれは謄写版刷りの九月アピールを金鳳錫の背のうに入れて出かけたが、それをいちばん最初に張海友に見せた。一行が三水付近の青山嶺の山腹で休止するあいだに九月アピールを繰り返し通読した張海友は、生産遊撃隊と労働者突撃隊の組織を重要な問題として提起しているのがとくに気に入った、元山ゼネストを見ても労働者階級の団結力はじつにすばらしいものだと言った。彼の言うとおり、一九二九年の元山ゼネストで特記すべき点は、労働者階級の団結力と戦闘力であり、連帯、協力の精神であった。元山ゼネストがあった翌年、新興炭鉱の労働者が暴動を起こし、その後も朝鮮各地で労働者のストライキは毎年続発した。しかし、それらの大衆的ストライキは、ほとんど要求条件を貫徹することができず、中途で挫折してしまった。
われわれは九月アピールを作成するさい、過去の労働運動の経験から長所を生かし弱点を克服する方法で労働運動の新しい航路を切り開き、以後は苦い失敗を繰り返さないようにしようとした。
朝鮮に近代的な産業労働が発生したのは、一九世紀末、開放政策の時流に乗って外国資本が流入しはじめたときからである。わが国における産業労働の起こりを一八世紀と見る人たちもいるが、そのころの近代産業はまだ萌芽的形態であったといえる。封建王朝が門戸を開放して以来、外国資本がなだれこんでくるなかで港湾が建設され、鉄道が敷設され、工場が操業し、鉱山が開発され、港湾労働者、鉱山労働者、鉄道労働者、土木建設労働者など産業労働者の数が急激に増大しはじめた。
産業労働の生成発展は、労働団体の結成をもたらした。一八九〇年代の末、いち早く李圭順によって港湾労働組合が組織されたが、それを労働組合の先駆けと見る人もいる。
初期の労働団体は、義兄弟や扶助契の形で組織されたが、それはしだいに労働契や組合の形に発展した。「乙巳保護条約」の後には鎮南浦労働組合、平壌新倉里労働組合、群山の共同労働組合をはじめ近代的な労働組合が全国各地に結成された。もちろん、当時の労働組合はほとんど自然発生的に組織された工場別の組合であったが、それらの労組団体の発足とともに階級の利益のための労働者の集団的闘争が起こりはじめたのは確かである。一九一〇年代に入って、労働争議は全国各地で起こった。一九二〇年代にいたり、全国的な合法的労働団体として労働公済会、労働大会、労働聯盟会などが組織されて以来、労働者の闘争はたんなる労働条件改善のための争議にとどまらず、日本帝国主義の侵略に抗する愛国的な政治運動に発展した。日本帝国主義は「治安維持法」を公布し、大衆的な労働団体への弾圧を強化しはじめた。労働争議を起こす労働者を検挙、投獄し、労働団体を解散させ、集会を厳禁した。そのため、わが国の労働運動は大きな打撃を受けた。そうした状況のもとで一九三〇年九月、プロフィンテルン執行局は、「九月テーゼ」と呼ばれる「朝鮮の革命的労働組合運動の任務にかんするテーゼ」という決議を採択し、労働組合を産業別に組織して、そこに工場委員会や労働者相談室などを設けて組合の強固な下部組織を築くよう強調した。また一九三一年十月、汎太平洋労働組合書記部は、朝鮮における労働運動の実態を分析し、非合法の赤色労組を結成するという当面の任務を提示した。
共産主義的国際労組運動の支援のもとに、わが国では一九三一年から平壌、興南、元山、清津、ソウル、釜山、新義州などの産業都市で赤色労組を組織するための闘争が猛烈に展開された。それらの赤色労組は、労働者大衆のあいだにマルクス主義を普及し、彼らを階級的に自覚させるうえで大きな役割を果たしたが、分派分子の策動と敵のきびしい弾圧によって盛況期を迎えることなく、わずかにしてその存在にピリオドを打たざるをえない運命に瀕した。われわれが九月アピールを持って新興地区へ向かった当時、大部分の労組リーダーは投獄されるか変質または隠遁している状態で、労組は有名無実のものであった。
波瀾にみちた朝鮮労働運動史の深刻な教訓もやはり、革命大衆を正しく指導できなかったところにあった。われわれは、従来の労働運動を冷静に歴史の鏡に照らし、まず労働者階級のなかに入って労組をすみやかに再建し、労働者大衆の力と知恵に依拠してのみ、全民抗争の準備を正しく推進することができると考えた。そういう意味で、九月アピールの発表は、最悪の沈滞状態にあった労組、農組運動を中日戦争の勃発という状況に即応して復活させ、路線転換をとげるうえで一つの転機となった。
わたしは張海友とともに青山嶺を登る道々で、労組のことをしきりに話題にした。
独立運動を志し朝鮮各地と中国、ソ連の沿海州一帯を転々としながらあらゆる辛苦をなめつくした張海友は、咸興、興南地区で活動していたかつての太平洋労組の関係者についてもよく知っていた。彼の話によれば、プロフィンテルン傘下の太平洋労組ウラジオストック朝鮮支部の責任者は金鎬盤であり、彼の指導のもとに一九三一年二月、咸興労働者連盟を赤色化した咸興委員会がはじめて組織されたという。わたしは張海友の話を通して咸興地区赤色労組の幹部の名を少なからず知ったが、そのなかには馬場正男という日本人労働者もいた。金鎬盤は太平洋労組ウラジオストック支部から提供された千二百円の労組資金を持参し、夫人同伴で咸興、平壌、ソウルなどで活動中、一九三一年の夏、警察に逮捕されたという。太平洋労組傘下の咸興地区日本人労組のメンバーも、一九三二年か一九三三年に全員逮捕された。
咸興、興南地区の労組運動に生じた空白を埋め、運動に新たな活力を吹き込むために、わたしはすでに朴金俊、金錫淵など地下工作の経験をもつ政治工作員をこの一帯に派遣していた。しかし彼らも、この地区の労働運動を根だやしにしようとする日本帝国主義者の魔手を逃れることはできなかった。朴金俊をはじめ幾名もの労組リーダーは、多くの仕事を残したまま監獄や留置場につながれてしまった。こうした実情を考慮して、われわれは一九三七年の春から興南地区へ、西間島で育てた政治工作員を数名派遣したのである。
われわれ一行が青山嶺の頂に登ったとき、新興地区の秘密根拠地で活動していた小部隊責任者の韓初男(ハンチョナム)が突然、われわれの前に現れた。密営で待機するようにと指示しておいたのになぜ来たのかと問うと、赴戦に野口の別荘があり敵の警備もいつもよりきびしいので、気がかりで駆けつけてきたと言うのだった。それで張海友を新坡に帰らせ、以後の道案内は韓初男にさせた。しばらく行くと、広々とした碧い湖が現れた。それは赴戦湖二号ダムで、湖畔にそって左側に登って行くと一号ダムが見えるが、その近くに警察官駐在所があり、そこからさらに一・五キロほど登ると野口の別荘があるとのことだった。
日本の新興財閥野口は朝鮮に軍需工業を創設し、電気・化学工業を独占するため水力発電所を建設し、興南に朝鮮窒素肥料株式会社と軍需工業会社も設立した。そして、赴戦と虚川に建設される水力発電所の監督に便利な地点に別荘も建てた。数々の悲話を秘めた赴戦湖の沿革をたどってみても、野口が朝鮮人をどれほど残酷に搾取したかがうかがえる。一九二五年、赴戦高原を視察した野口は斎藤朝鮮総督に手紙を送り、ここは水力資源と森林資源に恵まれているうえに安い労働力も無尽蔵なので発電所を建設したいと具申した。手紙を受けた斎藤は、安い労働力をいくらでも雇って水力発電所の工事に着手せよ、大日本帝国の憲法がそれを保証するであろうから、安心して工事を進めてもよいと奨励したという。
赴戦湖のダム工事は一九二〇年代中期からはじまり、水路工事にあたってはなんの安全対策も立てなかったため、各種の事故で生命を失った朝鮮人労働者はなんと三千人に達したとのことである。ダムが完工したときには、用水を早く溜めようと周辺の農家を立ち退かせないまま水門をおろしたので、六百余戸の農民が人為的な水害をこうむって悲嘆に暮れる惨状を呈したという。また通水式のときには、処女をいけにえに捧げれば水の神に守護されるとし、朝鮮の少女を水中に投げ込む蛮行まで働いたという。野口は口さえ開けば、朝鮮人労働者を牛馬と思えと言い放った。ダム工事のときの彼の言動があまりにもひどかったので、日本人でさえも「野口が通った跡には草も生えない」と非難したほどである。
野口別荘周辺の警備がきびしかったので、われわれはそこを避けて遠回りし、数日後に基本目的地である新興の東奥谷密営にたどり着いた。途中、日本帝国主義の目を避けて山中にこもっていた二十名ほどの青年たちに出会ったが、彼らが山に入った経緯はまちまちだった。赴戦江発電所の工事場で悪質監督を石で撲殺した者がいるかと思うと、工事用のダイナマイトを盗みだそうとして発覚し、逃げだした者もおり、咸興の街から興南に行く途中、「日本帝国主義を打倒せよ!」「野口はわれわれの血を搾り取って肥料をつくっている」というビラを拾って警察に検問され逃げだした者もいた。「面長の崔」と呼ばれる背の高い高原出身の青年は、自分を「官制共産主義者」だと紹介した。「面長」というのは官職ではなく、面(めん)がずいぶん長いからと友だちがつけたあだ名であり、「共産主義者」は自らつけたあだ名であった。ソウルに出て中学校に通っていた彼は、家からの仕送りが切れて中退し、高原に帰ってからはしばらく職にもありつけず街をうろついていた。そのうち、近くのある工場で赤色労組事件が起こった。警察はそれに関与した者ばかりでなく、あやしいと思われる者も全員検挙し、「面長の崔」にも累が及んだ。審問がはじまると、彼はなにも知らないと事実を話したが、うそだといってひどい拷問を加えられた。はては鼻にトウガラシ粉を解いた水までそそぎ込まれた。耐え切れなくなった彼は、労組運動に参加したと偽りの自白をした。そのため特高は、「面長の崔」に一つひとつ教えながら、彼を共産主義者につくりあげたのである。「おまえはどうして共産主義を信奉するようになったのか、その動機を話せ。おまえはそれも知らないと言うだろう。共産主義者はみなこの世から搾取と抑圧をなくし、労働者、農民の政権をうち立てようと主張している。おまえもそのために共産主義に同調したのだろう。白状しろ」と刑事が言うと、彼は「はい、そのとおりです」と答えた。こういうふうに三か月間にわたる予審の過程で、彼は共産主義についての初歩的な知識を身につけるようになった。そして一年間服役して出獄すると、彼はれっきとした「共産主義者」になった。その後も、日本の警官は尾行をつづけた。高原警察署の特高がつくりだした「共産主義者―― 面長の崔」は、本物の共産主義運動のルートを求めて山づたいに北へ向かう途中、同僚たちに会って一緒に山中生活をするようになったのである。
彼はわたしに、ここに集まっている者はみな日本帝国主義とたたかう覚悟ができている、これから共産主義運動に参加したいと言った。彼の話を聞いていちばん笑いこけたのは金平だった。金平は、マルクスやエンゲルスもこの話を聞いたら爆笑するだろう、マルクスは、ブルジョアジーが自分たちに利潤をもたらす商品だけでなく、自分たちを葬るプロレタリアートもつくりだしていると言ったが、そうしてみると、日本の警察は自分たちを葬る共産主義者をつくりだしたわけだと言うのだった。それでわたしも隊員たちに、見たまえ、われわれが祖国に来なかったなら、このような現実はわからなかったであろう、祖国の青年はみなこのように日本帝国主義とたたかう覚悟で、われわれを探しもとめて山中をさまよっているのだと話した。わたしは彼らに九月アピールを配り、赴戦嶺秘密根拠地の小部隊と連係をつけるようはからった。
赴戦嶺山脈に沿って南下する道すがら、いくつかの密営を見てまわり地形を調べてみると、この一帯は今後の全民抗争のための武装闘争根拠地にうってつけの地域であった。この山脈は白頭山脈ともつながっていた。
われわれが赤松の生い茂った東奥谷密営に到着すると、そこには赴戦嶺山脈ぞいの東海岸地区から来た三十名ほどの政治工作員、革命組織の責任者、労組、農組の中核分子が待機していた。金在水、金正淑の指導のもとに興南地区の地下組織を開拓した魏仁燦が金赫哲の道案内で東奥谷密営に現れた。彼の体からは生臭い魚の臭いがした。敵の目をあざむくために行商を装い、サバを一かごかついできたからだった。彼ら二人は幼いころから桃泉里で一緒に育った竹馬の友で、少年時代には社会主義国ソ連にあこがれ、沿海州へ行こうと金公洙と一緒に親にも内緒で冒険旅行をしたこともあった。彼らの両親と親類縁者はみな思想的傾向がよかった。
魏仁燦が桃泉里の祖国光復会組織から工作任務を受けて興南地区に潜入したのは、一九三七年六月の夏だった。そのあとすぐ、金公洙をはじめ数名の工作員が興南地区に増派された。時を同じくして元山には許錫先、新興炭鉱には李孝俊、昌城には康炳善が派遣され、清津では朴于賢が祖国光復会組織との連係のもとに活動をはじめていた。
祖国光復会興南地区委員会が結成されたのはその年の八月だというのに、すでに多数の労働者がそれに吸収され、組織の運営も活発になされているとのことだった。地区委員会責任者の魏仁燦は、母親に労働者向きの簡易食堂を営業させ、そこを連絡場所にして活動状況を随時、金正淑、金在水に報告した。彼らが興南地区へ行ってはじめて組織を結成したときの話はきわめて教訓的だった。
桃泉里から派遣された工作員たちが最初、足がかりにした本宮化学工場の建設労働者のなかに、十四歳の少年がいた。彼の仕事は焼いた鋲を運んで、高所で作業するリベット工に投げ渡すことだった。ところがある日、その少年が一瞬にして死体に変わる惨事が発生した。少年が放り上げた熱い鋲が運悪く上から落ちてくる鉄片とぶつかってもろにカーバイド槽に落ち込んだのである。瞬間カーバイド槽が爆発し、少年は全身に火傷を負って倒れた。労働者たちが駆けつけたとき、少年はすでに絶命していた。ところが日本人監督は少年の死体を病院に運ぼうとせいた。それは少しでも手当てをして死亡したことにすれば、安全対策が講じられていないことにたいする労働者の不満をおさえることができるばかりでなく、慰謝料をやらなくてもすむからだった。工作員たちが監督の見えすいた下心をあばくと、労働者たちは憤激して騒ぎを起こした。恐れをなした監督は、少年の死体に手をつけることができなかった。労働者たちは少年の葬儀をとりおこない、彼の両親に慰謝料を支払うよう、工場側に圧力をかけた。
この事件がきっかけとなって興南の工作員たちは労働者の信望を得、工場内に初の組織を結成することができた。彼らは「協助契」という合法的な名称で組織を運営した。ところがある日、ただならぬことが起きた。ある中年の男が「協助契」に現れ、だしぬけに「わたしはプロフィンテルンだ」と名乗った。プロフィンテルンは、赤色労組インターナショナルの略称である。彼は太平洋労組に関与したことがあったようで、思わせぶりに自分をプロフィンテルンと称し、「きみたちに警告するが、自重したまえ。このころ日本人は中日戦争で荒れぎみだから彼らに逆らわないほうがいい。慰謝料だのなんだのと出過ぎたことはすべきでない。きみたちのために要注意人物のわたしが迷惑する」と言い残し、そそくさと立ち去った。それ以来、興南の工作員たちは労組関係者たちが極左から極右に転向したとみなし、彼らを警戒しはじめた。西湖地区の労組のなかに党組織を拡大する任務をおびて派遣された金錫淵も、以前の労組関係者のなかには日本帝国主義の弾圧に恐れをなし、日本の「白色労組」やヨーロッパのサンジカリストのように妥協的傾向に走る者が少なくないと嘆いた。
張海友の話によれば、興南地区の赤色労組は発足当初、反日闘争にきわめて積極的だったという。一九三〇年の初期、興南労働組合は工場の近くに秘密文書を保管する地下室までつくり、活動を猛烈に展開した。組合のメンバーはその地下室で檄文を刷り、夜になると街に出て反日スローガンをはりだした。あれほど勇敢だった往年の赤色労組はいったいどこへ消えてしまったのだろうか。
わたしは興南の工作員たちに、太平洋労組の関係者を放任しておいたのはたいへんな誤りだ、彼らを革命的に教育すれば、労組関係者がサンジカリズムに走るようなことはなくなると説き、今後の闘争方向を示した。
――われわれはまず、東海岸地区の都市、農村、漁村、鉱山、炭鉱に祖国光復会の下部組織をより多くつくり、隠れている労組、農組の関係者をすべて捜し出し、少なくとも数年内に新興、興南、咸興、元山一帯に数万の抗争勢力を確保しなければならない。赴戦嶺山脈を中心に秘密遊撃根拠地を設け、さしあたっては数百名単位の武装部隊をいくつか常時確保していなければならない。労働者のなかには突撃隊を、農民のなかには生産遊撃隊を組織し、それらの組織はいずれも目につかない秘密組織にすべきだ。九月アピールが地下水のように大衆のなかに深くしみこむようにしなければならない。抗日革命の初期には人数に比べて武器が少なかったが、いまはかえって武器は多いが人が足りない。余分の武器で国内のすべての青年を武装させ、決定的な時期に全民抗争に決起できるようにすべきだ。
わたしは以上のようなことを、そのとき強調した。
翌日、わたしは警察の監視がそれほどではない新興炭鉱に足を向けた。新興炭鉱の代表としてきていた李孝俊がわたしを案内してくれた。そこには数百所帯の炭鉱夫家族が軒を連ねたみすぼらしいバラックで青息吐息の生活をしていた。この地区では疾病と労働災害で毎年、数十名もの生命が奪われていた。わたしはここに来た組織のメンバーと労組の中核分子を蔘畑山の秘密の場所に集め、九月アピールを解説し、当面の任務を与えた。そのとき炭鉱組織のメンバーの一人が訪ねてきて、赤色労組の幹部を務めていた従兄が名前をかえて自分の家に身を寄せていると言うのだった。聞いてみると、その人物は労組員にたいする検挙旋風が起こったとき新興に来た人だった。労組がストライキの指導を誤ったため、多くの人が獄につながれ、なかには日本帝国主義の手先になりさがって組織の秘密を売り渡す者もいた。彼は労組のリーダーたちが警察に逮捕されているとき、かろうじて難を逃れ新興炭鉱に来たのだが、組合の同志たちに合わせる顔がなくて家に閉じこもっていたのである。
わたしは新興炭鉱を発つ前に彼に会った。わたしが革命の道をともに歩もうと言うと、彼は、地下から出てひどく破壊された労組を立て直し、九月アピールの要求実現に全力をつくすと誓った。彼は労組員の名簿をそっくり保管していて、興南地区の労組関係者をほとんど知っていた。彼と興南地区の組織のメンバーとの連係をつけたわたしは、軽い足どりで豊山へ向かった。赤蟻嶺の密営で一泊したわれわれは、まっすぐに黄水院ダムの工事場へ足をのばした。荒涼とした嶺北の地で風雨にさらされ、ダム工事に駆り出されている人夫の惨状は、苦役と疾病にさいなまれる新興の炭鉱夫と少しも変わるところがなかった。豊山では、天道教出身でわれわれの政治工作員になった「金歯」がりゅうとした洋服にステッキという姿でわれわれを案内した。
黄水院ダムの工事場をへて豊山郡所在地を通り過ぎたわれわれは、ある火田民村の片隅にある狩人の家で朴寅鎮に会った。火鉢でジャガイモを焼いて食べながら、国と民族の運命について語り合った火田民村でのその夜のことを、わたしはいまも忘れられない。そのとき、朴寅鎮は崔麟を無類の売国奴だとなじった。彼がいちばん憎悪したのは「三大愛国者」と自任する崔麟、崔南善、李光洙であった。朴寅鎮は、この三人をことさらに憎むのは、彼らがあたまから朝鮮民族を未開民族と見くびっているからだと言った。
「自民族をさげすむ人間で、正しい道を歩んだ者は見たことがありません」
朴寅鎮の言葉は正しかった。革命は信念があっておこなうものであり、その信念は政治的理念への信頼である前に、自国人民にたいする信頼と誇りなのである。自民族、自国人民への信頼と誇りがなければ、愛国心など生まれるはずがないのである。
朴寅鎮と別れて暗い夜道を歩きながら、わたしはしきりにそんな考えにとらわれた。わたしは豊山地区の政治工作員に九月アピールの内容を説明するときにも、朴寅鎮の言葉を引用した。われわれは、朝鮮人民、朝鮮の労働者階級を信頼して全民抗争を準備する以外に他の道はないと力説した。
祖国の山野に秋色が深まっていた時季に、祖国解放の大綱をたずさえて遠く険しい道をひそかに巡り歩いたわれわれの祖国遍歴は無駄ではなかった。われわれが新興、豊山地区を一巡して以来、赴戦、咸興、興南、元山、端川、豊山、新興など、国内各地では全民抗争勢力が急速に成長した。黄水院ダムの工事場に労働者突撃隊が組織されると、それについで厚峙嶺生産遊撃隊が組織されたという知らせがあいついで伝えられた。各工場でストライキが続発し、工事場では人夫の集団的な脱走事件が発生した。咸興―― 新興地区の各工場、炭鉱でも労働者突撃隊が組織され、各所でサボタージュや手抜き工事、爆発事故などが頻発した。咸興万歳橋の欄干と東興山の九千閣に九月アピールの主旨をもりこんだビラがはりだされたのもそのころであり、
咸興、興南地区の工作員たちは、九月アピールに接して以来、対労組活動でも革新を起こした。彼らは身をひそめていた労組関係者を百人以上捜し出し、全員を祖国光復会の組織に吸収した。興南地区労組は、労働者突撃隊のプールとなった。もし「恵山事件」が起こらなかったなら、興南地区の組織のメンバーはもっと多くのことをなしとげたであろう。この事件のあおりで魏仁燦、金公洙、金応鼎らが逮捕され、咸興刑務所に収監された。
元山、文川、川内里地区でも、われわれの組織はさかんに活動した。川内里セメント工場の組織のメンバーは、九月アピールが発表されたその年の秋に、一千余名の労働者をストライキに立ち上がらせ、敵を狼狽させた。元副首相の鄭一竜は文川製錬所の出身だが、彼は解放前にそこに地下組織のメンバーが多かったと自慢していた。自分も彼らの影響のもとに日本人の現場監督との闘争によく参加したが、当時は陰で自分を指導したのが地下組織のメンバーであることには気がつかなかったと述懐している。
解放後、わたしが平壌で凱旋演説をしたちょうどその日、文川製錬所では初の溶鉱をとった。それも、そこで地下活動をしていた祖国光復会組織のメンバーの愛国的発起によるものであった。
政治工作員と組織のメンバーは、獄中でも九月アピールを宣伝し、闘争をつづけた。
われわれが発表した九月アピールの影響力は大なるものがあって、それは国内の革命運動を白頭山に結びつけるうえで決定的な役割を果たした。水豊発電所労働者出身の元建設相の崔在廈も、生前、一九三〇年代末から中部朝鮮以北の大きな工場や建設場の労働者は、ほとんど白頭山とつながる組織の影響のもとにあったようだと言っていた。彼自身も同僚たちに同調してストライキやサボタージュに何回も参加したことがあるという。彼が言ったとおり、当時、朝鮮の産業地帯にはどこにも祖国光復会の組織が根を下ろし、その組織の影響下で労働者階級のたたかいが力強く展開された。これは中日戦争を引き起こし朝鮮人民にたいする弾圧と略奪に狂奔していた日本帝国主義者への抵抗の証であった。反日救国の初志をまげて日本帝国主義に屈伏した連中がいくら口をそろえて反共と親日を宣伝しても、朝鮮の労働者階級は動揺することなく愛国の志操を守ってたたかいつづけたのである。
九月アピールが発表されてから五、六年後のある日、新聞紙上には朝鮮の青年学生に学徒兵志願を勧誘する曹晩植の文章が載った。それが本当に曹晩植の手によるものであったか、それとも日本帝国主義がでっちあげたものであったかは定かでないが、ともかく世人を驚愕させたのは事実である。おそらく当時の人びとは、曹晩植まで転向するくらいなら、わが国の民族運動の指導者のうち転向しない人物など一人もいないだろうと考えたに違いない。
しかし、労働者階級は動揺することなく、われわれが示した全民抗争の準備をおし進めた。特殊兵器を開発していた興南地区のある秘密軍需工場では世間を騒がせる大爆発事故が起こったが、敵の調査によればそれは偶発ではなく、意識的な破壊工作によるものであった。革命組織のメンバーは、蟻のはいでるすき間もないという敵の巣窟にまで潜入して、彼らに打撃を与えるたたかいをくりひろげたのである。このように労働者階級は九月アピールを積極的に実行に移した。
九月アピールは、抗日武装闘争を展開していたわれわれ共産主義者が、中日戦争によって変化した情勢の要請に即応して勤労者大衆のなかに深く入り、彼らを目覚めさせ決起させることによって、祖国解放の大業をいっそう成功裏に遂行できるようにする強力な武器となった。
6 「恵山事件」の教訓
一九三七年は抗日革命の全盛期であった。主力部隊による白頭山地区進出の波に乗って、歴史的な転換の時代に入った朝鮮民族解放闘争と朝鮮共産主義運動は、かつてない幅と深さで高揚の一路をたどっていた。
万事がわれわれの意図と意志どおり順調に進んでいたそのころ、朝鮮革命は容易ならぬ挑戦にぶつかった。われわれが白頭山地区を発って撫松、濛江県一帯で活動しているあいだに、敵はいわゆる「恵山事件」なるものをでっちあげ、革命勢力にたいする大々的な弾圧旋風をまき起こしたのである。彼らは、われわれが白頭山地区に進出して以来、一年余にわたって築きあげた地下組織を手当たりしだいに破壊し、われわれの指導と路線に忠実な革命家を大量検挙し処刑した。数回にわたる検挙旋風を通じて、敵は数百数千の愛国者を検挙、投獄した。拷問によって獄死した人だけでも数えきれないほどである。この事件のため、朝鮮革命は甚大な打撃を受けた。国内党工作委員会の積極的な活動によって一瀉千里にはかどっていた党組織建設活動と祖国光復会組織建設活動は莫大な損失をこうむった。
わたしは濛江県大甲拉子密営で、金平と金在水から「恵山事件」についての詳報をはじめて聞いた。そのときの痛憤たるやどう表現してよいかわからないくらいだった。それは、幾多の無念な犠牲を出した民生団騒ぎ以来はじめて体験する大きな喪失感であった。
わたしは「恵山事件」を体験して、革命家の信念と意志について深く考えさせられた。「恵山事件」は、個々人の革命にたいする忠実性と信念と意志の強さを検証する一大試練であったといえる。いわば、この事件は真の革命家とえせ革命家を区別する一つのきびしい点検の過程であった。信念と意志の強い人は革命家としての節操を守って敵との対決で勝利し、反面、信念と意志の薄弱な人は革命家としての尊厳をすてて背信と屈従の道に転落した。
事件当初、拷問に耐えかねて敵に隊内の秘密をそっくり売り渡した変節漢のなかには、吉恵線と白茂線の鉄道工事場に派遣されて活動していた地下工作員もいた。われわれは彼らを通して鉄道工事場の労働者のなかに革命組織を扶植しようとした。ところが彼らは警察署へ連行され、棍棒でいくつか殴られると、すぐさま敵に投降してしまった。彼らには、命を投げだしても組織の秘密を守り、革命の利益を守ろうというかたい覚悟と不屈の闘争精神が足りなかった。彼らが秘密をもらさなかったなら、長白一帯の革命組織は無事であったはずである。われわれはすでに一回目の検挙で権永璧、李悌淳、朴寅鎮、徐応珍、朴禄金など数多くの指導中核と組織のメンバーを失うという惨禍をこうむらなければならなかった。
信念と意志は革命家がそなえるべき基礎的資質である。この資質をそなえていない人は革命家とはいえない。真の人間の表徴を論ずるとき、われわれは当然ながら、その人間がどんな思想と信念をどう身につけているかを重視する。なぜなら、思想と信念の強い人間であるほど生きる目標が明確で、その目標を達成するため誠実に努力するからである。
したがって、われわれは革命家の育成にあたって、すべての人に共産主義的信念をもたせることに特別な努力を傾けた。われわれが信念を革命家の重要な表徴とし、その培養に格別な努力と精力を傾けているのは、民族解放、階級解放、人間解放の旗のもとに進められる社会主義・共産主義の建設過程が、人類の遂行する
すべての革命のうちでもっとも困難かつ長期の変革運動であるからである。鉄の信念と意志がなければ、自然と社会のあらゆる束縛と挑戦から人間の自主性を擁護し実現する困難な変革運動を最後まで勝利へ導くことはできない。信念を信念たらしめる強力な同伴者、保護者はまさに意志である。
信念と意志は不変のものではない。環境と条件によっていっそう強くもなれば弱くもなり、変質をきたすこともあるのが信念と意志である。革命家の信念と意志に変質が生じれば、その革命ははかり知れない代償を払わざるをえなくなる。そういう理由で、われわれは信念を植えつける教育を共産主義的人間育成の必須の工程とみなしているのである。
信念と意志は革命的な組織生活と実践活動を通じてのみ練磨され、不断の教育と自己修養の過程をへてのみ堅固で確実なものになる。このような工程を踏まない信念や意志は砂上の楼閣にひとしい。恵山警察署の取り調べ室で革命家の信念を守りとおせなかった人たちの場合がそうであった。彼らは革命的な組織生活と実践過程を通じて心身を十分に鍛えられなかった人たちであった。彼らの思想・意識は嵐のなかで鍛えられなかったのである。彼らはみな抗日革命の全盛期に入隊し、勝ち戦だけを体験した人たちであった。革命が上昇期にあるときには、その時流に乗ってこのように隊列内に思想的に堅実でない偶然分子がまぎれこむのである。
「恵山事件」についての報告を受けたわたしは、ただちに、朝鮮人民革命軍党委員会非常会議を開き、危機に瀕した革命組織を保護し、党組織と祖国光復会組織の建設をいっそう活発に展開する対策を討議した。
一回目の検挙で長白一帯の指導中核をほとんど逮捕、投獄した敵は捜査の幅を広げ、西間島全域と鴨緑江対岸の甲山一帯に触手をのばしていた。敵は朝鮮革命の命脈を寸断してしまおうと、いくらかの実績におごって気勢をあげていたが、われわれが苦労して建設した地下組織がすべて破壊されたわけではなかった。長白と甲山一帯には敵の捜査網から逃れて他の地域に脱出したり、深い山奥に隠れている人が少なくなかった。長白県党と長白県祖国光復会組織の指導部は、権永璧、李悌淳、徐応珍、朴寅鎮らの逮捕によって解体状態にいたったが、朴達、金鉄億、李竜述らを中心とする朝鮮民族解放同盟指導部は無事に活動をつづけていた。わたしはまず張曽烈と馬東熙を国内に派遣し、身を潜めている朝鮮民族解放同盟の指導メンバーを探し出し、彼らを通して組織の被害状況を調べ、破壊された組織の再建対策を立てることにした。われわれの総体的志向と意図は、敵の弾圧による損失を最小限に食い止め、禍を転じて福となすことであった。
朝鮮民族解放同盟のメンバーを探して甲山郡一帯の山村を訪ねまわっていた馬東熙と張曽烈は、南興洞で産農指導区の書記を務めていた金泰善の密告で逮捕された。金泰善は馬東熙の同郷の友であった。二人は甲山に来てからも深い友情を交わして青少年時代を過ごした。長白県に渡ってある講習所に通っていた金泰善が学費難で学業をつづけられなくなったとき、彼に仕送りをしてやったのはほかならぬ馬東熙であった。金泰善が講習所を中退しなければならなくなったとき、馬東熙は書堂の運営費を五円も融通して彼が勉学をつづけられるようにした。その後も彼は草取りの賃仕事やしば刈り、代書などをして稼いだ金をせっせと親友に送りつづけた。講習所を卒業して産農指導区書記の職についた金泰善は、馬東熙の母親である張吉富を訪ねて「オモニ、わたしが学を修めて口すぎができるようになったのは、東熙が親身になってわたしを助けてくれたおかげです。わたしの目の黒いうちは一生、東照の友情を忘れません」と言った。馬東熙が朝鮮民族解放同盟指導部との連係を結ぶ任務を受けて甲山へ行ったとき、南興洞の金泰善の家をアジトにしたのは、そういう友情をかたく信じていたからであった。ところがその間、敵の忠実な従僕に変わってしまった金泰善は、馬東熙と張曽烈がやってきて寝食の世話を請うと、さも親切に食事や寝床を提供しながら、
馬東熙と張曽烈は敵に逮捕されてから、互いに異なる運命をたどった。
馬東熙がどのように拷問に耐え、どう秘密を守りとおしたかということは、抗日闘士の回想記や文芸作品を通して広く知られていると思う。馬東熙はどんな人物かと問えば、人民学校(小学校)の児童でも組織の秘密を守るため自ら舌を噛み切った人だと答える。自分の舌を噛み切るというのは誰にでもできることではない。そういう覚悟は、生きて逆賊になるより死んで忠臣になることを望む真の人間でなくてはできないものである。人間、いったん死を覚悟すれば何事でもなしうる。馬東熙の勇気と犠牲的精神は信念の強さに根ざすものであった。その勇気と犠牲的精神は、いかなる拷問や脅迫によってもくじくことができない鉄の意志の発現であった。馬東熙は、自分が秘密を守れば組織は無事であり、自分が死んでも革命は勝利すると信じていたのである。
馬東煕を信念の強い人間につくりあげたのは革命的実践であった。彼は白岩地方に住んでいたとき反日会を組織し、教鞭をとって火田民の子どもたちの愛国主義教育にも努めた。人民革命軍に入隊した後は古参の隊員とともに苦難にみちた撫松遠征を体験し、警護中隊の学習講師として隊員の政治的・文化的資質を高める啓蒙活動もおこなった。その過程で、人間は亡国の民になれば喪家(そうか)の狗(いぬ)にも劣る身の上になり、民族が生きる道は闘争にあり、革命に参じてこそ生きる道が開かれ、革命をしなければ子々孫々、牛馬にも劣る奴隷生活を強いられるということを真理として受けとめ、それを確固たる信念とした。
馬東熙は幼いころから、そういう信念の持ち主になる気質をそなえていた。彼は不公平なこと、破廉恥なこと、非良心的なことにはいささかの妥協もしなかった。相手が下劣な人間であると見抜けば、それが担任の教師であっても断固として決別した。小学校時代の彼の担任の教師だった趙某は、教育者としての良心など露ほどもない俗物であった。彼は学業成績を実力によってでなく、ひいき筋かどうかによって不公平に評価した。そでの下を使う家や金持、権勢家の子どもらには実力とは関係なく点数を上げた。そして、自分がひいきする生徒を立てるためなら、他の優等生の点数を削ってしまうという不正もあえてした。馬東熙が
馬東熙の父親馬虎竜は、一人息子が幼い年で学校をやめて生業につくことを望まなかった。それで昼間、市場で買ってきた小学生の帽子を息子の前に出し、おまえが帽子もなしで出歩くのを見かねて、いましがた帽子を買ってきたばかりなのに、学校をやめて野良仕事をするとはいったいなにごとか、教員が金持の息子をひいきしたり、権勢家の顔色をうかがうのはありふれたことなのに、そんなことで先生に文句をつけてどうしようというのだ、早く担任の先生のところへ行って謝れと言った。しかし、馬東熙は最後まで妥協を拒んだ。そして、父が担任の先生を訪ねていこうとするのも必死になって引き止めた。
その後、馬東熙と担任教師の趙は敵対関係になり、それぞれの道を歩むようになった。馬東熙は時代の反逆児となって愛国戦線に参じたが、趙は教壇をすてて売国反逆の道に立った。彼は巡査をふりだしに刑事に昇進し、愛国者の摘発に血眼になった。彼が目を光らせて真っ先に監視したのは馬東熙であった。彼は馬東熙の一挙一動を細大もらさず注視した。確実な証拠がなければ、事件をでっちあげてでも刑場へ引き立てるかまえであった。趙が本格的に馬東熙を尾行しはじめたのは、彼が長白地方を行き来しながら人民革命軍の影響を受けはじめたころからだった。ある日、馬東熙は長白へ行って遊撃隊代表の金周賢に会い入隊承認を受けて帰ってくる途中、鴨緑江の橋のたもとで待ちかまえていた趙刑事に出くわした。趙刑事はするどい目で馬東熙をにらんでいた。馬東熙は橋のたもとの雰囲気がただならぬことにすぐ気づいたが、何食わぬ顔で家に帰り、出発の支度をした。その日、馬東熙の母親は白頭山へ向かう息子に別れの食膳をととのえた。しかし、馬東熙はその食膳につくこともできないまま、早々に家を発たねばならなかった。趙が彼を捕らえようと巡査たちを連れて庭に現れたのである。馬東熙は裏戸から家を抜け出し、無事に鴨緑江を渡った。
教師が教え子を捕らえようとたちまわる世紀末的な現象は、日本帝国主義支配層の強要する反人倫的な風潮がまねいた悲劇であった。解放後、張吉富女史はわたしに会うたびに、この話を昔話のように語ったものである。
馬東熙は口隅水山戦闘後、戦場付近で遊撃隊の「討伐」に参加し九死に一生を得て逃げ出す趙刑事に出くわした。彼は馬東熙を見るやいなや銃を乱射した。馬東熙は、祖国も民族も教え子も眼中にない、この厚顔無恥な親日反動分子を即座に射殺してしまった。
この話からも馬東熙の人間像を知ることができ、彼の信念がどんな土壌に根をおいていたのかがうかがえる。
わたしが馬東熙と行をともにしたのは一年半ほどにすぎない。彼は誰からも愛される忠実な遊撃隊員であったが、遊撃隊で過ごした期間に人びとの記憶に残るほどの事件や逸話はこれといって残していない。しかし、彼にまつわる一つの逸話だけは忘れられない。われわれが撫松遠征を終えて東崗密営で軍・政学習をおこなうため、食糧工作をしていたときのことである。そのころ、馬東煕の属する第七連隊第三中隊も毎日のように食糧工作に動員された。ある日の夜、中隊長は食糧工作に出かけるとき、足に凍傷を負った馬東煕と新入隊員たちに、密営に残って翌日の朝食の準備に粒トウモロコシを挽く任務を与えた。馬東煕は中隊長の命令どおり挽きうすでトウモロコシを挽きはじめた。一日中苦しい雪上行軍をしたうえに食困症(食後眠気をもよおす症状)まで重なり、耐えきれないほどの疲労を感じた。しかし、馬東煕は顔に雪をこすりつけながら眠気をこらえた。ところが他の隊員たちは、自分たちは食べなくてもいいから横になっていると言った。馬東煕が一人でうすを挽いているとき、彼らはなにもせずに寝ていたが、トウモロコシを全部挽き終えると、どうお返しをしたものかと顔を見合わせて心配した。新入隊員のなかには、ときとして彼らのように挙動のしっかりしない者もまじっていた。馬東煕はあきれ、彼らをきびしく叱りつけた。わたしが密営に到着すると、馬東煕はこのいきさつから話すのだった。同志愛もなく、わきまえもないあんな者たちを連れて、どうして革命ができるのかと嘆いた。彼がひどく気を落としているようなので、わたしは、いまは組織的鍛練が足りないからそうであって、しっかり教育すれば彼らもりっぱな隊員になれると話した。その新入隊員たちはもちろん、その後、仕事でも戦闘でもすばらしい真の強兵に育った。
馬東煕は入隊後、短期間のうちにりっぱな戦闘員に成長した。彼は普天堡市街の偵察も首尾よく遂行した。任務の遂行にあたって発揮した献身性と積極性にたいする高い評価として、普天堡戦闘の勝利を祝う軍民交歓集会場で人民代表団からわれわれに祝旗が贈られたとき、わたしは朝鮮人民革命軍兵士を代表してそれを受ける栄誉を彼にになわせた。その後の生活が証明しているように、馬東煕は確かに朝鮮人民革命軍全兵士の堂々たる代表となりうるすぐれた革命戦士であった。一言でいって彼は共産主義者のモデルと言える人物であった。
馬東煕は誰よりも司令部の位置を正確に知っていた。しかし彼が秘密を吐かなかったので、われわれは無事でありえた。
馬東煕が最期を遂げた翌日、牛車に棺を乗せて恵山に来た馬虎竜は、息子の遺骸を引き取って警察署の前を通りかかったとき崔警部に出くわした。彼は馬虎竜にこう言った。
「じいさん、死んだ息子を運ぶ感想はどうかね」
同族殺しの役を果たしている崔警部を日ごろから憎んできた馬虎竜は、あふれる涙を拭いながら憤然として答えた。
「わしの息子は朝鮮の独立のためにたたかって死んだ。娘も嫁もそうして死んだ。日本人の品物を盗んで死んだんじゃない。わしは父親として誇らしく思っている」
馬東煕の父親はこの一言のため、のちに逮捕される破目になった。しかし咸興刑務所で獄死する最期の瞬間まで、革命闘士の父、愛国者としての節操を少しもまげず堂々と刑吏に立ち向かってたたかった。
馬東煕とは対照的に、張曽烈は棍棒がいくつかふりおろされるが早く、自分の知っている密営や地下組織を全部吐いてしまった。馬東煕は舌を噛み切りながらも革命家の節操をまっとうしたのに、張曽烈はどうして革命の前に立てた誓いを弊履のごとく捨てて、いまわしい背信の道を選んだのであろうか。学歴や理論水準、活動能力からすれば、彼は馬東煕に少しも劣らぬ人間であった。遊撃隊生活の期間からすれば、むしろ馬東煕の先輩格にあたる。賢くて人づき合いのいい張曽烈は入隊早々、隊員たちから「幹部候補」とうわさされていた。司令部でもやはり、「幹部候補」として目星をつけていた。彼は入隊後、普通の人のように段階式にではなく、一挙に師団青年課長の地位にまで躍進した人物であった。師団青年課長ともなれば、権永璧や金平に劣らず信頼を得ていたことを意味する。われわれが張曽烈をどれほど信頼していたかということは、長白県党が組織されたとき、彼をその委員に選出したことをみただけでも十分察せられるであろう。一言でいって、われわれは張曽烈に与えうるものをすべて与えたのである。
彼はわれわれとともに腹を空かし、手足を凍らせ夜を明かしもした。彼は困難を前にして悲観したり自信を失ったりすることがなかった。われわれとともに、ただ黙々と苦難に耐え抜いた。しかし、彼は鉄窓につながれるやいなや降伏してしまった。ありとあらゆる困難に耐えながらも、刑場での拷問には耐えられず、ちり紙を捨てるがごとく革命家としての体面と節操を簡単に投げだしたのである。
張曽烈の裏切りについての報告を受け、わたしは鉄窓の外での人生観と鉄窓の中での人生観には違いがありうるという真実を痛感させられた。鉄窓の外での張曽烈の世界観が共産主義的なものであったとすれば、鉄窓の中での彼の世界観はユダのそれにひとしかった。彼は自分一人の肉体と、革命の利益を交換する商売人に転落したわけである。
張曽烈は敵に多くの秘密を売り渡した。自分が関与した組織をすべて公開し、長白県の上崗区と中崗区管下で自分と連係を結んでいた革命組織の指導中核のメンバーを全部教え、司令部の位置と密営の位置まで知っているものはすべてばらした。それに、警官たちを案内し、十九道溝アジトにまで来て池泰環と曹開九を逮捕させた。
曹開九も張曽烈と同様に変節した。彼は裁縫隊が位置していた干把河子密営に警官たちを案内し、裁縫隊員全員を犠牲にした。干把河子で戦死した女性隊員のなかには馬東煕の妻金容金もいた。
どうして張曽烈は、このように汚らわしく醜悪な人間に変わったのであろうか。平素彼がいだいていた共産主義的信念はたんなる形骸にすぎなかったのであろうか。もちろん、彼も信念について多くのことを論じた。しかし、彼の信念は強固な土台をもたない見せかけのものであった。彼は刑場のものものしい光景と警官の毒気を含んだ姿を見て、たぶん大日本帝国の威容に恐れをなし、抗日革命によってその帝国を打倒するというのは実現不可能なたわいない空想にすぎないのではないかという懐疑主義に陥ったのであろう。
強固な土台に支えられた信念とはどういうものであろうか。それは自分の貴ぶ理念にたいする絶対的な信頼であり、その理念のためであれば餓死、凍死、殴死の覚悟までしている、そういう信念である。言いかえれば自己の偉業の正当性と自分の階級、自国人民の力にたいする確信であり、自らの主体的な力で万難を克服し、革命を最後まで完遂していこうとする覚悟を意味する。しかし、張曽烈には殴り殺される覚悟ができていなかった。自分が殴り殺されても革命の利益を守らなければならないという覚悟をもつべきであったが、彼はそれとは反対に、革命はどうなろうと自分さえ無事であればそれまでだと考えたのである。
張曽烈は革命を売り渡した代償として肉体的生命を救うことができたが、その代わりそれよりも高貴な政治的生命は失ってしまった。人びとが馬東煕を記憶しながらも、張曽烈を記憶していない理由はここにあるのだと思う。
馬東煕と張曽烈という二人の人間が歩んだ対照的な行路をかえりみるたびに、わたしは金赫と張(チャン)小(ソ)峰(ボン)を思い出さざるをえない。彼らも同じ時代に同じ地点で、同じ軌道に乗って革命にのりだしたが、その終着点は南極と北極のように違っていた。この格差の出発点もやはり、二人の人間がいだいていた信念と意志の質的な違いに求めるべきだと思う。
金赫は組織生活と革命的実践に忠実な人間であったが、張小峰は理論に明るく頭脳明晰である代わりに実践がともなわず、うぬぼれの強い人間であった。この世の辛酸をなめつくした金赫はいかなる苦労も恐れなかった。しかし張小峰は、肉体を酷使するような仕事には身を入れなかった。一人は水火もいとわぬ熱血漢であり、他の一人はにわか雨のときにもズボンの裾をまくりあげ、ぬかるみの中の石を選んで踏み、靴に泥をつけまいと気をつかう冷めた計算ずくの男だった。
わたしが卡倫や孤楡樹などへ行き来したころ、僚友たちは金赫を才子と認めながらも、彼が革命のために一役果たすものとは思わなかった。詩を書き作曲をする青白きインテリが革命をしたところで知れたものだという先入観にとらわれていたのであろう。ギターを肩にして何回か街を出歩くだけでも辻楽士扱いされた時代だったので、事情を知らない人が金赫をそういう目で見るのはさして不思議なことではなかった。
しかし、張小峰にたいしては誰もがかなりの期待をかけていた。後に裏切りはしたが、彼は名物男であった。彼は仮名で多くの文を書いて発表した。雑誌『ボルシェビキ』にいちばん多く寄稿したのも張小峰だった。彼は車光秀と肩を並べられるひとかどの理論家であり、アジテーターでもあった。彼の理論水準はすこぶる高かったので、火曜派の巨頭であった金燦でさえ彼と論争すると、いつも守勢に立たされしどろもどろの体だった。わたしは卡倫会議のときも張小峰の家に宿をとった。わたしと僚友たちは、彼が幾年か後に留置場で転向文を書いて日本帝国主義の忠犬となり、われわれにたいする「帰順」工作に参加するとは夢にも思っていなかった。
このように肉体的生命のほかに、人間のもついま一つの生命といえる政治的生命の年限は、信念の有無と強弱によって決まるのである。信念と意志の強い人間ほど、政治的生命の維持では長寿者になる。早々と信念をすてた人間の政治的生命は、非命に夭折してしまう。
われわれの主力部隊の参謀長を務め敵に投降した林水山は、李鍾洛や張小峰よりもさらに嘆かわしい反逆行為を働いた。彼は「討伐隊」の隊長となり、かつての戦友たちを殺害しようと狂奔した。敵は彼を密偵として利用し、役に立たなくなるとあっさり見放した。それ以来、彼は荷車を引き酒を売り歩いた。師団参謀長から酒売りへの転落、それは信念を失った彼にもたらされた哀れむべき運命の帰結であった。
解放直後、彼は荷車に酒樽を積んで安図から三池淵をへて恵山に来る途中、柳京守の率いる小部隊に出くわした。その日、柳京守一行はわたしの命令で、白頭山周辺に出没する日本軍の敗残兵を掃討するため現場へ向かう途中だった。林水山は、かつて自分の配下にあった隊員たちを見るや、ばつが悪そうに、「きみたちも、とうとう山から降りてきたんだね。
武器を手に取り、われわれとともに険しい抗日革命の道を歩んできた人の絶対多数が、信念も意志も強い不撓不屈の闘士であったことは言うまでもない。彼らは最悪の逆境に陥った瞬間でも革命家の節操をすてず、祖国解放の信念を汚さなかった。われわれの戦友と戦士たちは異国の荒野に朽ち果てながらも「未来を愛せよ!」と言い残し、「共産主義は青春!」と叫んだ。信念をもつ強者だけがこのように最後を飾ることができるのである。こういう信念がなかったなら、抗日遊撃隊員たちは満州のあの酷寒と飢餓に耐えられなかったであろう。
革命家の信念と意志について論ずるとき、わたしはいつも、その序列の先頭に柳京守のような人を立てている。自己の領袖や指導者の思想を信念とし、その信念を固守して生涯をまっすぐに歩むうえで、柳京守は万人が学ぶべき模範を示した。
わたしと柳京守が初めて対面したのは、一九三三年九月、東寧県城戦闘の直後であった。戦闘を終えて小汪清にもどり、隊員たちを休ませているとき、崔賢の率いる延吉遊撃隊の隊員たちがわたしを訪ねてきた。そのなかに、崔賢に影のようにつきまとう若い隊員が一人いたが、それがほかならぬ柳京守であった。彼は、連絡員の不手際で延吉遊撃隊が東寧県城戦闘に参加できなかったことをたいへん残念がっていた。彼は戦闘に参加できず「遅刻生」の破目になった腹いせを崔賢にぶちまけた。
「中隊長同志、小汪清まで来てご飯だけご馳走になって、このまま帰れるのですか。どこでもいいから金隊長の指揮のもとに一度敵をやっつけてから帰りましょう」
その一言によっても、柳京守がただ者でないことがすぐにわかった。そのとき彼の年は十八歳だったが、革命隊伍に加わったのは十六歳のときであった。
「金隊長、あの三孫は年が若くてもれっきとした闘士です。馬鹿にできませんよ」
三孫とは柳京守の本名である。これが彼にたいする崔賢の総評であった。わたしはその一言で、崔賢が柳京守にとりわけ目をかけていることがわかった。
十八歳というこの若い隊員の短い人生行路には、亡国のため太陽や月さえ光を失った祖国の悲しい姿が投影されていた。柳京守の経歴できわだっている点は、幼いときから下男奉公をしたことと、十代で春慌(春の端境期)暴動に参加して軍閥当局に逮捕され、竜井監獄でひどい拷問を受けたことである。間島地方には革命家が多かったが、幼い年で監獄で水拷問やトウガラシ粉の拷問を受けた人は多くない。張曽烈や李鍾洛のような人間とは違って、柳京守は敢然とその試練に耐えぬいた。何気なく柳京守の手を握ってみると掌がタコだらけで、まるで鉄板のようだった。
わたしは、柳京守が幼いころ耳学問をしたという話を聞いて同情を覚えた。耳学問とは他人が勉強するときそのかたわらで目と耳で文字を覚え、その理を解して知識を修得する学習方法をいう。彼は薪を背負って市場に行ってくるたびに、私立学校の窓ぎわにかがみ、教員が黒板に書く文字を見てはそれを棒切れで熱心に地面に書いた。そうして朝鮮文字と九九を完全に覚えた。そのうち、柳京守の耳学問は全校に知れ渡り、同情を買うようになった。その向学心に感動した教員の郭燦永(郭池山)は彼を学校に入学させ、学費も自分が負担した。耳学問で学ぶ薪売りの少年も普通ではなかったが、見ず知らずの子どもを入学させて学費まで負担する教師もまた並の教育者ではなかった。しかし、柳京守は家庭の事情で学校を卒業することができなかった。彼は学校を中退し、地主の家で下男奉公を強いられた。彼の学校中退に大きな衝撃を受けた郭燦永は、教職を退いて労働者、農民のあいだで革命的な啓蒙活動をはじめた。そして後には抗日遊撃隊に入隊し、指揮官として活動した。
柳京守は下男暮らしをしながらも、ひきつづき郭燦永の指導を受けた。教え子にたいする郭先生の愛情と関心は並々ならぬものがあった。ところが、郭先生はいわれもなく民生団の嫌疑をかけられ、審判台に立たされる破目になった。左翼排他主義者は、なんの理由もなしに彼を中隊長の地位からはずした。彼の一挙一動は監視兵の監視のもとにおかれた。郭燦永が大衆審判の場に引き出されたとき、柳京守は命を賭けて彼の保証に立った。彼が審判の場で恩師の保証に立ったことは、万人に称賛されてしかるべき大勇断であった。そのころ柳京守自身も民生団嫌疑者の名簿に登録されていた。民生団の嫌疑者が民生団のレッテルをはられた「被告」をかばったり同情するというのは、銃口に身をさらして自分を殺してくれと請願するにひとしい自殺行為であった。しかし柳京守は身をもって恩師の無罪を証明した。その「罪」で彼は民生団の獄舎につながれた。柳京守の勇敢な行為は、教え子が恩師につくす
彼がこのように信義に厚かったのは、信念が強かったからである。信念の強い人間は道徳と信義もりっぱに守るものである。革命家は正義を擁護し、不正を憎み、真理のみを語るべきであり、同志と人民にたいする信義をりっぱに守るためには、命までも投げだす覚悟ができていなければならないというのが彼の信条であった。彼は左翼排他主義者と分派・事大主義者に、民生団と断定された人たちの絶対多数はなんの罪もない人たちであり、革命に忠実な人を民生団と決めつけむやみに処刑するのは犯罪であると糾弾した。そして、いまは反民生団闘争が極左的に展開され革命隊伍内に混乱が生じているが、いつかは必ず収拾される日が来るに違いないということをかたく信じて、民生団の汚名を着せられた堅実な革命家と愛国的人民を断固として擁護したのである。
命を的に、審判場で恩師を救った柳京守の勇敢な行動は、東満州の革命家と人民を強く感動させた。わたしも大荒崴でその話を聞き、小汪清での彼との対面を感慨深く思い起こした。
わたしは馬村で延吉遊撃隊の戦友たちを見送るとき、崔賢にこんな冗談を言った。
「あの三孫を見ると、のどから手が出るほど欲しくなりますね。われわれの出会いの記念に、あの子を譲ってくれませんか」
崔賢は冗談まじりにわたしの話をまぜっ返した。
「いまは駄目ですな。あの子は戦闘ではなかなかの腕前ですが、物の考え方はまだ頼りないもんですよ。三年くらい仕込んで金隊長に差し上げますから、それまで待ってもらいましょう」
柳京守がわたしの身近に来て、中隊長として活動しはじめたのは小哈爾巴嶺会議以後からであった。小汪清での初対面のときから十年近い歳月、彼は崔賢部隊で機関銃手を務めた。そのため彼と会う機会はそれほどなかったし、こまやかに面倒をみてやることもできなかった。わたしが柳京守のためにしてやったことがあるとすれば、「幼い革命家」という称号を与えたことだけだった。しかし柳京守は、その称号を自分への表彰として受けとめた。そしてわたしを心の柱とし、革命のために一生をささげようと決心した。
わたしはいまも、われわれが茂山地区戦闘を成功裏に終結し、天宝山一帯へ進出していたときのことが忘れられない。われわれの行方を探知した敵は天宝山とその周辺に「討伐」兵力を集結し、人民革命軍への大々的な掃討戦を展開しようと画策した。崔賢部隊は、われわれに集中する敵の兵力を最大限に弱化させるため、天宝山市街を攻撃した。その市街戦がいかに熾烈をきわめたかは、敵が婦女子まで駆りだして手榴弾を投げさせたことからも察することができる。城市の敵はほとんど掃滅された。しかし崔賢はそれに満足しなかった。彼はより多くの「討伐」兵力を掃滅する誘引戦を展開しようと決心し、五十名余りの隊員たちで戦闘班を組み、天宝山市街から八キロほど離れた森林の中に伏兵の陣を張った。その戦闘班に柳京守が含まれていた。柳京守の小部隊は敵をおびきだすため「討伐隊」の宿営地を連続的に奇襲した。ある夜は同じ宿営地を二回も襲撃し、またある夜は「討伐隊」の作戦地図まで奪い取り、敵が業を煮やして人民革命軍を追撃せざるをえなくした。柳京守はそのとき、まる三日間、水もろくに飲まず、もっとも危険で重要な戦闘を一手に引き受けた。この作戦で柳京守が立てた手柄について、崔賢は解放後も折にふれ生き生きと回想したものである。
崔賢部隊は峠を七つも越え、敵に息つく暇も与えず連続攻撃を加えた。敵は沼沢地でも数百名の死傷者を出した。崔賢部隊のおかげで、主力部隊は敵の抵抗をそれほど受けることなく、無事に天宝山一帯へ進出することができた。われわれはそこで最初計画していた崔賢部隊とは会えず、そのかわり崔春国の部隊に出会った。われわれが崔春国の部隊に会っていたころ、崔賢部隊は逆に天宝山から数里離れた地点でつぎの誘引戦を準備していた。崔賢の話によると、そのとき第四師のすべての遊撃隊員はわれわれに会えないのを非常に残念がったそうだ。
わたしにたいする柳京守の信義の深さは、じつにはかり知れないものがあった。それがいかに高潔で真実なものであるかを、わたしは小部隊活動の時期にいっそう胸に熱く体験した。革命家としての柳京守の人となりは司令官の命令、指示にたいする無条件的な実行精神に集中的に現れた。彼は司令官の命令実行にあたってそれらしき誓いや約束はしなかったが、いったん立てた誓いや約束は間違いなく履行するりっぱな品性をそなえていた。
――われわれの頼るべきところは司令官同志のふところしかない。司令官同志に忠実につくしてこそ、われわれは祖国の解放を遂げ、自分自身の運命も切り開いてゆくことができる。司令官同志の意図どおりに戦いさえすれば、われわれは勝利する。
これがまさに、柳京守が日ごろからいだいていた信念であった。こういう信念をいだいていたからこそ、彼はいかなる悪条件のもとでもわたしの命令や指示をりっぱに実行することができたのである。
一九四一年の初春、わたしは満州各地と国内での小部隊活動を指導するため、柳京守の中隊を率いてソ連極東の訓練基地を出発し、白頭山一帯に進出したことがある。そのとき柳京守は中隊のメンバーとともに、わたしの仕事をなにかと助けてくれた。わたしは寒葱溝に司令部の居所を定め、各地ヘグループを派遣した。柳京守もわたしの命令で何回となく連絡任務を遂行した。彼は司令部を発つたびに、自分たちに与えられた食糧を警護隊員に渡し、将軍の食事をよくととのえるようにと頼んだ。また、わたしに禍が及ばないように、しばしば陽動作戦を展開して敵の注意を他にそらしたりした。
司令部が寒葱溝に位置していたとき、わたしは柳京守に、樺甸県老金廠の連絡地点へ行って魏拯民に会ってくるよう指示したことがある。それは数十もの敵の検問所と封鎖区域を突破しなければならないむずかしい任務だった。それで司令部では、彼に十名ほどの人員をつけてやった。しかし、柳京守は司令部の護衛を気づかい、二人だけを連れて老金廠へ向かった。彼は三人分の食糧としてわたしが割り当てた一袋の米までそっと全文燮に渡し、五、六升を携帯しただけだった。柳京守が任務を遂行してもどってきたとき、寒葱溝はあたり一帯が「討伐隊」のかがり火に覆われていた。司令部のテントが張られていたあたりにも、かがり火がいくつも燃えていた。指定された帰隊時間はわずかしか残っていなかった。幼い二名の隊員は、わたしの生死を案じて涙ぐんだ。事実、その夜の寒葱溝に現出した火の海を見ては、司令部が無事であると思った人はいなかったであろう。しかし、柳京守はいささかの動揺もなく落ち着いて、「もう時間は三十分しか残っていない。この三十分以内にあのかがり火の司令部の位置まで行き着けなければ、司令官同志の命令をたがえることになる。司令官同志はこの危険のなかでも、われわれ三人を最後まで待っているはずだ」と言って二人の隊員をなだめた。そして二人を山頂に残し、司令部のテントがあった場所をめざして下りてきた。そしてその付近で、わたしが残留させた隊員に出会った。柳京守が任務を終えて帰ってくれば間違いなく司令部の場所を探すであろうというわたしの確信と、状況がどう変わろうと、司令官はグル―プを派遣した出発地点で任務を終えて帰隊する部下を待っているはずだという柳京守の判断は、寸分の狂いもなく一致したのである。
わたしが定めた日時と場所を寸分の狂いもなく守ろうとする柳京守のゆるぎない姿勢と徹底した実行精神は、司令官はいかなる状況にあっても隊員を見捨てないという確固たる信念と、司令官の信頼と愛情にこたえるためにはどんな犠牲や苦痛も覚悟すべきだという真の道義心に根ざすものであった。
柳京守はこういう信念と道義心をもって、解放後、鉄道警備隊を組織し、戦車部隊を建設し、戦争の各段階における
それで、わたしはいまも人民武力省の指導的幹部に会うたびに、軍人を育てるからには、いかなる情勢の変化や逆境にあっても屈することを知らず、信念と意志をかたく守りとおす剛直な闘士、忠臣に育てあげるべきだと話している。
歴史的経験は、革命が上昇一路をたどり情勢が有利なときには、隊伍内に動揺分子や変節漢は出ないが、内外の情勢が複雑に変化し、革命の途上に難関が立ちはだかるときには、隊伍内に思想的混乱と動揺が生じ、投降分子、落伍分子が現れてはかり知れない弊害を及ぼすことを示している。
日本帝国主義の満州占領や中国本土侵攻といった国際的大事変は、わが国の民族解放闘争や共産主義運動の隊伍内に大きな政治的刺激と思想的混乱をまねく一つの契機となった。堅実な共産主義者は、九・一八事変以後、日本帝国主義にたいする全面的な抗日武装闘争を展開すべき歴史的時期が到来したとみなし、朝鮮革命を新たな高揚へと導いたが、一部の民族主義運動家や革命的信念の弱い共産主義運動家は、満州まで占領した日本帝国主義にはもうかなわないと速断して闘争を放棄するにいたった。
日本帝国主義の中国本土侵攻についても同じことがいえる。当時われわれは、日本帝国主義の大挙中国侵攻は必然的に兵力の分散と消耗をまねくことになるため、中国東北地方における抗日武装闘争の発展に有利な情勢をもたらすものと判断した。もちろん、こうした判断を下すさいに、われわれは中日戦争が招来する新たな政治的・軍事的難関を予測しなかったり無視したりしたわけではない。われわれは中日戦争によって急変する情勢の有利な側面を重視し、不利な局面を有利に変えるために主動的な努力をおこなった。革命家にとって大切なのは、まさに難局を果敢に突破するこういう不撓不屈の闘志と信念なのである。
ところがこのときも、抗日運動隊伍にまぎれこんだ偶然分子や一時的な同伴者のなかには、収拾しがたい思想的混乱が生じた。彼らは日本帝国主義が中国本土に攻め込み、武漢三鎮まで占領するのを見て、すでに大勢は傾いたものと見、これを逆転させる力はこの世にはないと考えたのである。こうした思想的変質の過程はつまるところ敗北主義を生み、それが温床となって少なからぬ革命の脱落分子や市井の俗物、背信者が出てくるようになった。
そのうえ、日本帝国主義者は中国領土の大部分を占領し、太平洋戦争の準備に取りかかる一方、満州における抗日運動を最終的に抹殺しようと連続的な大「討伐」攻勢をあえてかけた。そのため、南北満州の各地であれほど活躍していた反日部隊はほとんど消滅し、熱河遠征のあおりで南満州の楊靖宇部隊までが甚大な被害をこうむった。
熱河遠征の失敗によって東北抗日連軍の少なからぬ部隊が試練をなめていたそのころ、中国人のなかからも投降分子、逃亡者が出ていた。一九三八年の夏、楊靖宇麾下の第一軍部隊は、熱河への再度の遠征を開始するやいなや敵の大包囲網に陥り、言い知れない苦汁をなめさせられた。そのころは、敵が軍事的攻勢とあわせて抗日遊撃隊員にたいする帰順工作を執拗に展開している時期でもあった。投降した者を処刑せず帰順者として受け入れるという満州国皇帝の「恩赦の大詔」なるものが公布され、革命を放棄した者や卑怯者、意志薄弱な者たちを誘惑した。抗日武装部隊にたいする「討伐」作戦が悪らつかつ執拗に展開されるなかで、遊撃隊と人民の離間をはかる「匪民分離」策動も強化された。革命軍は人民の支援を受けようにも受けられない窮地に陥った。住みなれた生まれ故郷にひとしい遊撃根拠地を離れ、熱河方面への勝算のない遠征の途についた抗日連軍部隊は、なじみのない土地でこれといった人民の支援も受けられず、敵の重なる「討伐」でさんざん痛めつけられた。
こんなときに、楊靖宇の右腕ともいわれ、南満州の抗日猛将として名声を博していた第一軍第一師の師長程斌が、遼寧省本渓で投降に反対する政治幹部を射殺し、部隊を率いて敵軍に投ずる背信行為を働いた。そのため、第一軍は容易ならぬ難局に直面した。東北抗日連軍第一軍の指揮メンバーの活動ルートと所属部隊の番号、密営地点などの秘密事項を知りつくしていた程斌の裏切りは、第一軍にとって致命的な打撃であった。彼の帰順によって第一軍の西征計画は完全に破綻してしまった。その後、程斌は通化省警務庁長岸谷の手先となり、楊靖宇捕殺作戦の先頭に立った。彼の案内する「討伐隊」との激戦で、南満州で名声をはせた抗日の勇将楊靖宇は惜しくも戦死した。岸谷が熱河省の副省長に転任すると、程斌は彼にしたがい、「熱河一心隊」という警察「討伐隊」を組織してその隊長におさまった。
程斌や全光のごとき輩の例によってもわかることだが、職責の高い人間であればあるほど、その裏切りはいっそう悪らつで禍も大きいものである。
程斌の投降を知らされたとき、わたしにはそれがなかなか信じられなかった。彼が敵に寝返るほどの特別な理由が考えられなかったからである。彼には地位にたいする不満もなかった。だとすれば、投降の理由はなんであったのだろうか。わたしの判断では、彼の裏切り行為は革命の勝利への信念を失ったことに起因している。七・七事変後、連日戦果を拡大していた日本軍の威勢に恐れをなし、革命の前途に絶望を感じたのである。いつ成功するかわからない革命のために苦労するくらいなら、むしろ逆賊呼ばわりされても安楽に暮らせる道を選ぼう―― これが程斌を敵に寝返らせた思想的動機であったに違いない。
程斌は名をはせた勇将ではあったが、察するところ思想修養をおろそかにしたようである。わたしの言う思想修養とは、主に信念の培養、楽観主義の培養を意味する。思想鍛練に励まない人間は逆境に立たされると、すぐ困難に屈してしまうものである。そういう意味で、わたしはいまも思想優先論を主張する。
程斌の飼い主であった岸谷は、敗戦後、家族ともども自決した。しかし程斌はその汚らわしい命をつなぎとめようと、多くの日本軍捕虜を自分の手で射殺し、身分を偽って八路軍にまぎれこみ、指揮官の地位にまでのぼりつめた。しかし、そんな幸運が長続きするはずはない。程斌はカモフラージュして愛国者になりすましたが、裏切り者の正体を隠しつづけることはできなかった。解放後、数年たったある日のことである。彼が雨の降る瀋陽の街を傘をさして歩いているとき、雨をよけて彼の傘に入ってくる男がいた。その男もやはり程斌のように身分を偽って暮らしていた反逆者だった。彼は程斌が何者かをよく知っていた。なんのはずみでか、彼らはそれぞれ当局に出向いて、互いに相手を裏切り者だと告発した。そうこうしているうちに、程斌が投降分子であることがあばきだされた。信念をすてて敵のふところに転げ込み、革命にはかり知れない損失をこうむらせたこの唾棄すべき人間に、人民裁判は相応の判決を下した。程斌の運命は、信念をすてて同志を裏切る人間の末路がいかなるものであるかを示す生々しい実例である。
楊靖宇部隊が壊滅したのち、「討伐」の砲火はわれわれに集中した。敵は
ソ連と日本が中立条約を締結したときにも、われわれの隊伍には逃亡者が現れた。われわれの隊員のなかには、ソ連への依存心、今様に言えば事大主義が少なからずあった。一部の指揮官が民族自主意識を培養する教育に力を入れず、ソ連擁護、ソ連重視、ソ連第一の思想を一面的に強調したので、ソ連に頼りさえすればすべてが解決されると考える弊害が生じた。いわば、ソ連の支持と援助なくしては朝鮮の独立も不可能だと考えるようになったのである。
このときほど、民族自主意識こそが革命家の信念を左右する決定的要因であるという真理を痛感させられたことはなかったといえる。革命は自国人民の力に依拠して自主的に遂行すべきであるという自力独立の観点を確固とうち立てていた人のなかからは、逃亡者や裏切り者が出なかった。しかし、自分自身や自国人民の力を見くびり、大国に頼って祖国と民族の運命を開こうと試みた人のなかからは落伍者や投降分子が現れた。
自国人民の力を信じようとしない人間は、困難な環境にぶつかると例外なく敗北主義に陥り、敗北主義に陥ればたちどころに革命勝利の信念を失い、闘争を放棄するか、中途半端に終えてしまうのである。こういう類いの人間は、大国が革命の途上で紆余曲折をへるようになると、自国の革命も破局にいたったものと考える。革命は国際的性格をおびるものであるから、国際反帝勢力との団結をめざす共産主義者が他国の共産主義者の失敗に同情したり、彼らの悲しみを自分の悲しみとするのはもちろんよいことである。また、大国の革命の失敗が自国の革命に一定の影響を及ぼすこともある。しかし、大国の革命が一時的に挫折したとしても、それによって小国の革命も破局を迎えるかのように考え旗を降ろすならば、それは大きな誤りである。革命は国際的性格をおびる前に、まず民族的性格をおびるものである。革命は民族国家別に進められるのであるから、個々の国の共産主義者が自力で革命を遂行しようという確固たる決心と信念をもち、自国人民の力に依拠して頑強にたたかっていけば、いかに険しい高地でも十分に占領できるというのが、わたしの終始一貫した主張であり持論でもある。
わたしの体験によれば、革命をやさしいものと考えて武装隊伍に加わった者、信念が不透明で意志薄弱な者、分派根性から脱しきれず他人を見下げ遠ざける者、敗北主義者は、内外情勢が複雑になり革命に試練が迫ると、例外なく背信の道に転げ落ちる。
林水山など一部の者がわれわれを裏切って以来、わたしは戦友たちにたびたびこんなことを話したものである。
――情勢はきびしく、たたかいはますます困難になってくる。われわれの革命偉業が実を結び、国の独立が必ず達成されるであろうことは、誰もが信じていることだが、その日がいつなのかは誰にもわからない。だから、最後までわたしについてくる自信のない人は気にせずに家へ帰れ。逃亡するのは卑劣な行為だが、申し出て行くのはとがめない。われわれが十年以上も革命の道をともに歩んできたのに、挨拶もせずに別れるという法はないではないか。家へ帰りたいという人がいれば見送ってやる。そして、闘争を中途でやめたことを問題にしない。力が足りず、信念が弱くて隊伍を離れるのは仕方がないではないか。行きたい人は行ってもよい。
こんなふうに直截に話して、革命勝利の信念をかためるよう隊員たちを教育した。
わたしはこう宣言したが、戦友を捨てて家に帰る隊員はいなかった。朝鮮の真の共産主義者は、いかに情勢が複雑で難関が折り重なっても、信念を失わず断固として抗争をつづけ、ついに日本帝国主義を打ち倒し、祖国解放の大業をりっぱになしとげたのである。
われわれは「恵山事件」によって甚大な打撃をこうむったが、ただちに収拾策を講じ、その損失を埋め合わせるための闘争を力強くくりひろげた。朝鮮共産主義者の不撓不屈のたたかいによって、党組織の建設と祖国光復会組織の拡大をめざす活動は、中断されることなく活発におし進められた。
抗日戦争が生んだ英雄たちのあとを継ぎ、いまは困難な持場でいかなる逆境にも屈することのない不屈の闘士が続々と輩出している。
一九九〇年代は、信念と意志が黄金にもまして価値あるものと評価される時代である。現代は、全人民が信念と意志をうちかためることはもとより、党と国家が社会主義・共産主義への鉄石の信念をもって、帝国主義連合勢力の執拗な封じ込め政策と反動的な思想攻勢からわれわれの信念と体制を固守し、金剛石のようにかたい意志をもって直面した難局を打開していくことを要請している。
革命烈士たちが血潮をもって守りぬいてきた信念をすて、その信念の創造物である社会主義をすてた少なからぬ国では、民生が窮乏に陥り、あらゆる社会悪と不倫背徳がまかり通っているのが現状である。歴史は、信念をすてた者たちに相応の代償を払わせるものである。
わが国がいかなる逆風にも揺るがない強国になったのは、わが党の信念が強く、人民の信念が強いからである。信念の強い党は変質せず、信念の強い国家は崩壊せず、信念の強い人民はくじけないのである。
われわれはこれまでも苦難の道を歩んできたが、これからはさらに困難な道を歩まなければならないかも知れない。しかし、朝鮮人民はそれを少しも恐れない。信念の歌を高らかにうたい、ひたすら前進する人民であってこそ、自主時代の高峰をきわめることができるのである。
注 釈
〔1〕 洪範図(一八六八~一九四三) 反日義兵隊隊長、独立軍指揮官。一九〇七年に反日義兵隊を組織し、一九一七年には中国の間島地方で朝鮮独立軍を組織して日本帝国主義侵略者と戦った。とくに、一九二〇年六月と十月に行われた鳳梧谷戦闘と青山里戦闘で日本軍に甚大な打撃を与えた。その後、ソ連の極東地方に移り、赤軍とともに日本軍や白衛軍と戦った。( ページ)
〔2〕 高麗 九一八年から一三九二年まで存続した朝鮮史上初の統一国家。王建によって建てられる。国名は初の封建国家であった高句麗を継承するという意味で高麗と命名。首都を開京(今日の開城)においた。( ページ)
〔3〕 高句麗 紀元前二七七年から紀元六六八年まで存続した朝鮮初の封建国家。( ページ)
〔4〕 古朝鮮 紀元前三〇世紀初、檀君が平壌を首都にして建てた朝鮮民族初の奴隷制国家。本来の国名は「朝鮮」であったが、李朝封建国家の「朝鮮」(一三九二年成立)と区別するため古朝鮮と呼称した。( ページ)
〔5〕 「蛟河のおばさん」
〔6〕 「民生団」 朝鮮人民の反日意識を麻痺させ、朝鮮の革命家に危害を加え、朝中人民を離間、対立させて革命隊伍を内部から瓦解させるために一九三二年二月、日本帝国主義侵略者が間島地方でつくった反革命的スパイ・謀略団体。当初からその反革命的な正体があばかれ、一九三二年四月に解体した。しかし、日本帝国主義の謀略に乗せられた左傾日和見主義者と分派・事大主義者によって、「反民生団」闘争は三年間も極左的に行われ、多数の朝鮮の革命家が「民生団」員にでっちあげられ処刑された。( ページ)
〔7〕 「辺トロツキー」 民族主義者辺大愚のあだな。五家子を開拓した有志の一人で、ことあるごとにトロツキーを引き合いに出したので、そう呼ばれた。村の諸事を取り仕切り、自分と理念や主義主張が異なる思想潮流が村に浸透するのを絶対に許さない頑固な老人だったが、
( ページ)
〔8〕 万国平和会議 一九〇七年六月、オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議を指す。李儁をはじめとする朝鮮代表は、朝鮮に対する日本帝国主義の侵略行為を暴露、糾弾するため皇帝の密書を携えていったが、帝国主義者の謀略と陰謀により正式の代表としての参加を拒まれた。意を果たせなかった李儁は会議場で割腹し、死をもって帝国主義者に抗議した。( ページ)
〔9〕 呂運亨(一八八六~一九四七) 京畿道楊平出身。初期に「上海臨時政府」と高麗共産党に関与し、朝鮮の独立のために活動。ソウルで「朝鮮中央日報」社長、「朝鮮建国準備委員会」委員長、「南朝鮮民主主義民族戦線」議長などを歴任。一九四六年、平壌で
〔 〕 檀君朝鮮 紀元前三〇世紀初、朝鮮民族の始祖である檀君によって建てられたわが国初の古代国家。この古朝鮮を檀君朝鮮と呼んでいる。( ページ)
〔 〕 金九(一八七六~一九四九) 黄海南道海州出身。初期は反日義兵闘争に参加。三・一人民蜂起後、上海で「韓国独立党」を組織、「上海臨時政府」主席を務める。日本帝国主義の敗亡後、南朝鮮に帰り、対米従属に反対。一九四八年、平壌での南北朝鮮政党・大衆団体代表者連席会議に参加してソウルにもどった後、容共統一をめざしてたたかい、暗殺される。( ページ)
〔 〕 倍達民族 朝鮮民族の別称。「倍達(ペダル)」とは、朝鮮初の奴隷制国家である古朝鮮を建てた「パクタル族」の名称に由来している。( ページ)
〔 〕 「保甲制度」 一九三〇年代に日本帝国主義侵略者が、朝鮮人民革命軍と人民とのつながりを断ち切るために満州一帯で採用した統治制度。「保甲制度」は十戸を一牌とし、十牌をもって甲、いくつかの甲を保とし、それを直接警察署長の統制・監督下においた。これによって同じ牌内の住民が「法」に違反した場合、連帯責任を負って全員が処罰されるようになっていた。( ページ)