目 次
第十三章 白頭山へ
(一九三六年五月~一九三六年八月)………………………………………… 一
1 汪隊長を討ち万順を味方に………………………………………………………………………… 一
2 思い出深い城市で…………………………………………………………………………………… 一五
3 『血の海』の初演舞台……………………………………………………………………………… 三四
4 女性中隊……………………………………………………………………………………………… 五四
5 白頭山密営…………………………………………………………………………………………… 七二
6 愛国地主 金鼎富…………………………………………………………………………………… 九四
第十四章 長白の人びと
(一九三六年九月~一九三六年十二月)…………………………………………一一七
1 西間島…………………………………………………………………………………………………一一七
2 水車の音………………………………………………………………………………………………一四〇
3 李 悌 淳 ………………………………………………………………………………………………一五七
4 南満州の戦友とともに………………………………………………………………………………一八二
5 『三・一月刊』………………………………………………………………………………………二〇六
第十五章 地下戦線の拡大
(一九三六年十二月~一九三七年三月)…………………………………………二二一
1 不屈の闘士 朴達……………………………………………………………………………………二二一
2 国内党工作委員会……………………………………………………………………………………二五二
3 白頭山麓での戦い……………………………………………………………………………………二七六
4 朴寅鎮道正……………………………………………………………………………………………二九九
5 民族宗教――天道教について………………………………………………………………………三二五
6 人民を離れては生きられない………………………………………………………………………三四八
7 良民保証書……………………………………………………………………………………………三六九
第十三章 白頭山へ
(一九三六年五月~一九三六年八月)
1 汪隊長を討ち万順を味方に
一九三六年の春は、われわれにとってとりわけめまぐるしい時期だった。この春には盛りだくさんの計画があった。新師団の編制、祖国光復会の創立、白頭山根拠地の創設準備など… それに馬鞍山をはじめ撫松のあちこちで突発したさまざまな重大事件が、予想だにしなかった数々の仕事をつくりだした。解決が迫られるそれらのことを処理し収拾するには、落ち着いた時間が必要だった。しかし、われわれをとりまく周辺の情勢は、そうした時間を与えてくれなかった。撫松地方に君臨する二つの勢力が、それぞれ自分なりの思惑でわれわれの活動を妨害し障害をつくりだしていた。その一つは汪隊長の満州国警察討伐隊であり、いま一つは万順の山林部隊(中国人の反日部隊)であった。
汪隊長とは汪なにがしの隊長という意味である。だが「汪なにがし隊長」または「汪隊長」という呼称には討伐界の王という意味も含まれていた。彼は軍閥張作霖の軍隊に服務していた当時から「匪賊討伐」が専業の討伐のベテランだった。九・一八事変(〔1〕)以後、唐聚伍が自衛軍を組織したときには彼もそれに加わり、ひところは反日の旗をかかげた。それでわれわれは南満州遠征に向かうとき、彼と接触して結構よい関係を保っていた。ところが、唐聚伍が中国関内に逃げ込んで自衛軍が崩壊するとすぐさま日本軍に投降し、かいらい満州国の旗をかつぐ警察隊長に早変わりした。それ以来、日本帝国主義の忠実な手先となり、身についた討伐の腕前を余すところなく発揮するようになった。
汪隊長はいったん討伐に出ると、素手で帰ることがなかった。討伐の対象を確実に仕留め、首や耳を斬り取っては上司の日本人に差し出した。そして高い称賛と賞金を受けた。汪隊長はとくに万順部隊となるとやっきになって追い回し、痛めつけた。撫松一帯で活動していた反日部隊は、汪と言えば影がよぎるだけでも震えあがるくらいで、汪隊長を「撫松の李道善」とも呼んだ。隣接県安図の悪名高い李道善は、その執拗さと悪らつさ、残忍さによって間島(吉林省の東南部地域)に広く知られた恐ろしい殺人鬼だった。汪隊長も李道善に劣らぬ手先だった。そういう汪隊長が、その年の春にわれわれの主な敵となり、障害となったのである。
一方、それに劣らず、救国軍の万順がわれわれの活動を妨害した。じつは、撫松に来るとき、われわれは万順部隊を主な友軍にしようとしていたのだった。ところが、彼の率いる反日部隊はわれわれを友としてではなく、むしろ敵のように対応した。金山虎が馬鞍山の児童団員のための服地を求めて来る途中、山林部隊に強奪される事件が起きたとき、遊撃隊員がその土匪と化した山林部隊への懲罰をひかえるべきだったのだが、憤激のあまりつい行き過ぎた報復をしてしまったのである。そのため、ことが少々こじれてしまった。われわれには予想外の頭痛の種がもう一つ生じたわけである。
「『高麗紅軍』はいたって純真なので、誰であれ貧民の財産に少しでも手をつける者は許さない。それでいながら、われわれ山林部隊の窮状など理解しようともしない。あいつらはわれわれとはそりが合わない
よそ者だ」
山林隊員のあいだにこういううわさが広がった。彼らは個々の遊撃隊員を見ても因縁をつけたり手にかけようとしたりした。共同戦線の対象がこうなので、われわれとしてはそれも大きな頭痛の種だった。われわれは間島での遊撃隊創建当初と同じような立場におかれた。当時と多少違う点があるとすれば、われわれの力が弱小ではなく、軍事的権威が公認されていたので、敵の陣営に属する汪隊長と、同盟者になりうる万順隊長のいずれもが、われわれを恐れているということであった。
どうすれば彼らの妨害をはねのけ、落ち着いた時間が得られるだろうか。思案の末に、汪隊長とは衝突を避けて適当にあしらい、万順隊長とは共同戦線を張ることにした。
わたしは汪隊長につぎのような内容の手紙を送った。
――あなたとわたしは旧知の間柄だ。あなたもわたしをよく知っており、わたしもあなたをよく知っている。だから、腹を割って話したい。われわれの主要な敵は日本軍だ。われわれに危害を加えないかぎり、満州国の軍警を相手に戦う意思はない。それで、あなたがわれわれの要求に同意するなら、あなたの統率する警察隊とその管轄下の各警察分署を攻撃しないことを確約し、和平を提議する――
こういう書き出しで、山林部隊にたいする討伐を中止すること、人民革命軍から派遣される工作員が城市や村落に自由に出入りしたり留まれるようにすること、人民革命軍に積極的な支持声援を寄せている愛国者にたいする弾圧を中止し、収監している愛国者を即時釈放すること、などの要求条件を出し、それを受諾すれば撫松県域での「治安維持」にできるだけ混乱をもたらさないことを保証した。
数日後、汪隊長から、わたしの提議に全面的に同意し、三つの要求条件を全部受諾する旨の回答が届いた。こうして、わたしと汪隊長のあいだには互いに手出しをしないという一種の密約が取り交わされたのである。双方が互いに約束を順守したので、しばらくの間はなんの衝突も起こらなかった。汪隊長はわたしの要求どおり山林部隊にたいする討伐を中止し、自分の管轄下にある城市や集団部落に遊撃隊の工作員や連絡員が自由に出入りすることにも目をつむり、朝鮮人愛国志士への弾圧や検挙の手も緩めた。われわれも汪隊長管轄下の部隊を襲撃したり、彼らの駐屯地域で騒ぎを起こすことのないようにした。わたしは民生団の調書包み(第四巻第十二章一節参照)を焼却したあと、隊員を武器獲得工作に送り出すときには、撫松県外の他の地方へ行って戦闘をしたり武器を得たりすべきで、県内では騒ぎを起こしてはいけないときびしく戒めた。
汪隊長は決して愚鈍な人間ではなかった。ずぬけて賢く敏感な人間だった。彼は間島と北満州でのわれわれの活躍ぶりと実力のほどを十分承知していた。そのためか、われわれとはおよそ戦おうとする素振りさえ見せなかった。われわれが撫松に現れたという情報に接するや、彼は部下にこう注意を与えたという。
「『高麗紅軍』には刃向かうな。なまじ襲いかかっては骨も拾えなくなる。兵力が少ないからとみだりに押え込もうとするな。彼らの気分をそこねないように避けるのが上策だ。勝ち目のない戦ははじめから挑まないほうがいい」
汪隊長はカーキ色の軍服を着た人民革命軍を目にすると、見ぬふりをして遠ざかった。そのかわり黒服姿の山林部隊を見つけると、気負い立って襲いかかった。千名を超す万順部隊に比べれば、わたしが直接引率していた兵員はそれほどのものではなかったが、汪隊長から被害をこうむるのはわれわれの方ではなく万順の山林部隊だけだった。じつは、汪隊長との和平条項に万順部隊に被害と損失が及ばないようにすることを明記したのは、反日勢力を保持、強化する目的もあったのである。
一九三〇年代の後半期にいたって反日部隊の活動は下火になっていた。救国軍の主力をなしていた王徳林、唐聚伍、李杜、蘇炳文などの部隊はすでに山海関かソ連をへて中国関内に退却してしまい、王殿陽部隊、殿臣部隊のような徹底した反日武装部隊は最後の一兵まで決死報国の覚悟で血戦を重ねた末、壊滅させられていた。丁超部隊、王玉振部隊など一部の部隊は白旗をかかげて投降した。撫松―― 臨江県境にあった万順配下の群小部隊と姉妹部隊からも投降兵が増えていた。一九三五年の秋、初水灘では馬興山部隊の九十余名の投降兵を歓迎する帰順式などというものまで催した。救国軍の残存勢力は小集団に分散し、深い山の中にたてこもって消極的な抵抗を試み、一部は土匪と化した。こうした実態は、一部の共産主義者のあいだに反日部隊との統一戦線を軽視し、ひいてはそれを不要とする偏向を生んだ。こういう状態を放置するなら、反日連合戦線にたいするわれわれの一貫性が失われることになる。
われわれは汪隊長と和平の約束を取り交わす一方、万順部隊と共同戦線を張る交渉もはじめた。われわれの部隊には山林部隊出身の年配の隊員がいた。わたしは彼を通じて万順につぎのような内容の手紙を送り届けた。
―― あなたの名はわが革命軍にも広く知られている。われわれは撫松に到着してすぐ、あなたに会って名乗り合い、反満抗日共同闘争の対策についても話し合おうと思った。ところが挨拶も交わす前に好ましからぬ衝突事件が発生し、それができなかった。これを遺憾とするものである。当方の政治委員が、革命軍の給養物資の強奪をはかって銃傷を負った山林隊員を審問したところによると、彼らはすでに二、三か月前にあなたの統率する部隊から逃亡して土匪に転落した脱走者である。事実がこうであるにもかかわらず、あたかもわが方の兵士があなたの率いる山林部隊の現役隊員に危害を加えているかのごとくうわさを広めているのは、両軍間の親睦を快しとしない敵の奸計である。わたしは両軍が誤解と不信を解消し、反感と敵意を捨て、戦友となり兄弟となって抗日共同戦線に乗り出すことを熱望してやまない――
万順は回答をよこさず、この提議を無視した。そうした沈黙の回答がなにを意味するかは明白だった。きみらなしでもやっていけるということである。事実、撫松一帯には万順隊長にそういう意地を張らせる状況が生まれていた。汪隊長がわれわれとの約束どおり、万順部隊をはじめすべての反日部隊にたいする攻勢を緩めていたのである。汪隊長は見かけは討伐をつづけているようなふりをしたが、実際には討伐をしなかった。万順の群小山林部隊は支援を受けなくても息をつき、生きのびられるようになった。これはかえって山林部隊の散発的な妨害策動をあおり立てる結果をまねいた。だが、われわれの重ねての警告によって、そうした散発的な加害行為もしだいに鳴りをひそめるようになった。
共同戦線は実現しなかったが、われわれは落ち着きを得た。汪部隊も万順部隊も、それ以上われわれに手出しをしなかった。ようやく手にしたその時間は、われわれがめざす仕事に専念できるようにした。
われわれは漫江でも大営でも、その地域の満州国軍警と和平交渉を進め、不可侵の約束を取り付けた。われわれがはじめて漫江へ行ったのは一九三六年四月の末ごろだった。そこには三十名ぐらいの警察隊員が居座っていた。それくらいの敵をかたづけるのはたやすいことだった。しかし、われわれは武力行使をせず、代表を送って警察隊と談判した。―― あなたたちには手出しをしない。そのかわりこの村落でわれわれが安心して過ごせるようにできるか。知らぬふりをし、後日上部から追及されれば遊撃隊の数が多過ぎて対抗できずじっとしていた、というように始末がつけられるか―― 警察隊はこの提案に二つ返事で応じた。遊撃隊が手出しをせず、談判をもちかけてきただけでもお辞儀をしたいくらいの気持だったのであろう。
李東学は保衛団の近くの家に機関銃を据え、射手に私服を着せて昼夜警戒勤務にあたらせた。その間に、わたしは漫江で祖国光復会の創立と関連して東崗会議に提出する文書をほとんど整理することができた。敵が攻めてくる心配がないので、仕事は目に見えてはかどった。
われわれは戦いをしかけようとしない敵にたいしては寛大な処置をとった。これは抗日武装闘争を開始した当初から鉄則としてきた対敵方針であり、抗日武装闘争の全期間にわたって終始一貫堅持してきた朝鮮人民革命軍の軍事行動準則であった。われわれは人を殺すためにではなく、生きんがために銃をとったのである。祖国を救い同胞を救うのがまさにわれわれの闘争目的であり使命であった。われわれの銃剣はもっぱら祖国を占領し、わが民族を圧殺し、朝鮮人民の生命と財産を侵害する敵の懲罰にのみ向けられた。それゆえ人民革命軍の正義の剣は、生かす価値のある者には彼らを保護する慈愛の宝剣となったが、生かす価値のない悪質な反抗者には断固たる懲罰の剣となったのである。
春のあいだ鳴りをひそめていた汪隊長はなにに触発されたのか、夏になると再び反日部隊にたいする討伐をはじめた。撫松県城駐屯の日本軍守備隊と憲兵隊から圧力をかけられたようだった。反日部隊兵士たちの首がまたもや撫松の街角の電柱にさらされるようになると、万順配下の山林部隊からは再び脱走兵が出てきた。抗日救国の理念に徹することのできない利己的で近視眼的な山林部隊の本性が息を吹き返し、反日勢力の結束に腐心していたわれわれをまたもや悩ませた。汪隊長の討伐に歯止めをかけなければ、万順部隊の崩壊はまぬがれえないことだった。わたしは汪隊長に二度目の手紙を送った。
―― わたしはあなたが配下の警察隊を動員して山林部隊にたいする討伐を再開したとの不愉快な通報を受けた。これが事実であれば、あなたはわたしとの協約を破ったことになる。わたしは、あなたが約束を破ることによって自分の名誉を傷つける結果をまねかぬよう熟考して身を処すことを勧告する。頑固に挑戦し反抗する者には寛容が適用されないことを銘記せよ――
この警告文が伝達されて一週間が過ぎても、汪隊長からの返答はなかった。万順部隊にたいする討伐も中止されなかった。「脅しつけるからといって怖がるとでも思うのか。おれは臆病者ではない。戦うというなら戦おう」おそらく汪隊長はこういう腹だったのだろう。撫松県内の要所要所に数百名の関東軍討伐兵力が増派されてきた。汪隊長はますます傲慢無礼に振舞った。
七月初旬にわたしは最後の警告文を送った。この手紙を送って四、五日目に、返答のかわりに汪部隊がまたも大碱廠付近の万順部隊の宿営地を奇襲したという知らせが飛んできた。われわれが撫松県と臨江県の境にある森林地帯に留まっていたときのことである。汪隊長の行為はわたしと戦友たちの怒りをかきたてた。上司である日本人に操られるかいらい満州国の警察隊長が共産主義者との約束に最後まで忠実であろうはずはなかった。しかし、彼らも中国人であり、それなりの理性というものがあるに違いなかった。われわれが満州国軍を相手に進めてきた敵軍切り崩し工作の根底には、そういう理性にたいする一種の信頼感があった。汪隊長を説得して不可侵協約を結んだのも、いわばそういう信頼感に根ざしていたのである。われわれが信をおいた敵軍の中下層の将校は、ほとんどが約束に忠実であった。額穆でわたしと思わぬ因縁を結んだ満州国軍の連隊長にしても、われわれに『鉄軍』という雑誌を系統的に送ってくれた大蒲柴河の満州国軍の大隊長にしてもそうであった。
ところが旧知の汪隊長は、われわれとの約束を弊(へい)履(り)のごとく捨て去ってしまった。信念のない者の行き着くところは背信しかない。彼には、日本帝国主義が滅び朝中両国人民が勝利するという信念がなかったのだと思う。汪隊長の裏切り行為を許すことはできなかった。ことに、彼がわれわれの辛抱強い期待と誠意に銃火をもってこたえたことには憤激せざるをえなかった。
わたしは金山虎を呼び出し、敏捷な戦闘員を三十名ほど選んで第十連隊の隊員と共同で汪隊長を懲罰するよう命じた。同時に、わたしも主力部隊を率いて西南岔付近の嘴子山へひそかに移動した。西南岔はさほど大きくない集団部落だったが、敵討伐隊の重要な発進基地だった。この村には警察分署と自衛団(日本が親日分子でつくった武装治安隊)の兵力もあった。われわれが西南岔戦闘を計画したのは、協約を破った汪隊長をこらしめ、敵を軍事的に制圧するのが主な目的だった。また、この戦闘によって新師団の武装に必要な銃器類を手に入れる考えだった。
新しく編制された師団は、すでにおこなわれた頭道松花江戦闘についで老嶺でも大がかりな戦闘を計画した。この戦闘が首尾よく終われば多くの武器が手に入るはずだった。われわれは綿密な作戦計画を立てて実行に移ったが、まったく予想外の状況が突発したため、戦闘を計画どおり進めることができなかった。敵の斥候の一人がこともあろうに、われわれの伏兵圏内に小用をたしに入ってきて待ち伏せていた隊員を発見し、あわてて銃声を発した。わが方の隊員もつられて応射した。こうして数十名の敵を殺傷し、何挺かの武器もろ獲したが、戦闘は計画どおりきれいに締めくくることができなかった。
老嶺では敵軍を完全に掃滅できなかったが、それは今回の西南岔で十分に埋め合わせるつもりだった。当時われわれの部隊には、西南岔の満州国警察に服務しているうちに分署長の悪行に不満を抱いて脱走してきた中国人隊員がいた。彼の話によれば、西南岔警察分署長は人びとのひんしゅくを買っている悪者だとのことだった。分署長は集団部落の住民は言うまでもなく、警官たちにたいしても暴君のように振舞っていた。中国人隊員は、自分が遊撃隊を訪ねてきた第一の目的は中国の解放に先立ってその警察分署長を処刑することだったと、怒りをこめて語った。われわれが老嶺につぐ戦闘の場として西南岔を選択したのは、例の脱走兵がそこの実状にくわしいという点を考慮に入れたからでもあった。
われわれは白昼に西南岔を襲撃することにした。正午から一時までの間は警官の昼食の時間であり、また武器掃除の時間でもあった。掃除のために武器が分解されているときに攻め込めば、さほどの抵抗も受けずに敵を制圧することができるに違いなかった。麦わら帽子をかぶり、農具を手にして農民に変装した遊撃隊員たちは、土城に接近するや素早く城門をくぐり抜けて警察分署の兵舎に躍り込んだ。分署長以下警官全員がたいした抵抗もできず捕虜になった。自衛団員も全員捕えられた。戦闘が終わったあと、われわれは警察分署の前に仮設舞台をつくって演芸公演をおこなった。そのあとで警察分署に火を放ち西崗方面へ撤収した。
警官たちを諭したのち路銀を渡し帰郷をすすめているとき、捕虜の一人が隊員にそっと尋ねた。
「ところで、パルチザンの隊員さん、城門はどうやって突破したんだね」
「飛び越えてきたのさ」
隊員は冗談を言った。
「それこそ神業というもんだ。いったい警備兵のやつらはなにをしておったんだろう」
案の定、西南岔警察分署の襲撃は汪隊長に大きな心理的打撃を与えた。彼は体面を保つためにも討伐にますます狂奔せざるをえなかった。
汪隊長をおびきだすために撫松県城の近辺に現れた金山虎は、三十名ほどの誘引班隊員を山林部隊に変装させた。もちろん彼自身も山林部隊の小隊長になりすました。汪を引きつける好餌が黒い服であることをわれわれはよく知っていたのである。夜中に県城付近のある村落に行った金山虎の小部隊は、農民の財物を取り散らかして山林部隊のまねをし、黄泥河子村に足をのばしてまた同じような手口で騒ぎを起こしては、裏山の谷間に姿を消した。県城周辺の村落に山林部隊が現れ、黄泥河子方面へ消えたという報告を受けた汪は殺気立ち、翌日の早朝、部隊を率いて黄泥河子村に駆けつけた。
「心配せずに、わしを待て。あの土匪どもを皆殺しにして帰ってくるから、昼食のご馳走でもととのえて待っておれ。昼食前にやつらの首をはねて帰ってくる。不届き者めら、目に物見せてやるぞ!」
村人の前でこう豪語した汪は、部隊を率い誘引班の跡を追って裏山を登りはじめた。裏山の中腹には第十連隊の戦闘員が待ち伏せをしていたが、早暁に金山虎の誘引班がそれに合流した。戦闘員たちは、あらかじめ誘引用のかかしを立てて汪の目を惑わせた。かかしのあいだに隠れていた戦闘員たちが先に銃声をあげた。汪とその配下の警察討伐隊は、森の中の黒服のかかしに向かって降伏しろと叫びながら猛烈に突撃した。手を上げるどころか逃げ出そうともせず、倒れもしない「山林部隊兵士」の執拗な応戦に汪は業を煮やした。彼は両手の拳銃を乱射しながら山をよじ登ってきたが、ついに遊撃隊員の目の前で絶命した。命運尽きて倒れる瞬間に汪の得た教訓がなんであったかは知る由もない。正義にたいする背信がどんな結末をもたらすかを遅まきながら悟ったのであれば幸いと言えよう。だが、それを悟ったとしても、時すでに遅しだったのである。
汪隊長がやられたといううわさが立つと、あちこちの反日部隊の指揮官が金山虎のところに来て、汪の首を売ってくれとせがんだ。これまで数多くの反日部隊の将兵の首をはねてさらした汪の悪行にたいする仕返しとして、撫松の城門に彼の首をさらしてやるというのである。わたしは、汪の死体を指一本触れずに撫松県警察隊に届けるよう、金山虎に指示した。その後、汪隊長の葬儀が仰々しくとりおこなわれたといううわさが耳に入った。その葬儀によって、人民革命軍のうわさはいやがうえにも高まった。敵軍のあいだには、人民革命軍に刃向かっては死をまぬがれないといううわさが広がった。汪隊長を懲罰した西南岔戦闘と黄泥河子戦闘については、韓雪野の長編小説『歴史』に比較的詳細に描かれている。
汪を除去したのち、われわれは日本軍まで制圧して撫松一帯を完全にわれわれの天下にしようと構想した。偵察兵を派遣して各方面の情報を収集しているとき、六十名余りの日本軍が撫松から船で臨江方面へ向かうということを探知した。わたしは即刻、伏兵戦の手配をした。この戦闘もまた痛快きわまるものだった。破損した船で命からがら逃げのびたのは十数人で、あとは全員魚腹に葬られた。こういう戦闘が幾度か繰り返されるうちに、撫松県一帯はわれわれの天下になった。
その年の夏はしばらくの間、大営で過ごした。温泉場のそばにテントを張り、さまざまな活動を進めた。祖国光復会の下部組織を結成する活動、撫松と臨江の山林地帯に印刷所、裁縫所、兵器修理所、後方病院を含む密営を設置する活動など、少なからぬ仕事をした。
われわれが陣取っている所から小さな峠を一つ越えると敵軍の駐屯地だった。われわれは大営に着くとすぐ、彼らに書面通告を発した。
―― われわれはしばらくの間、温泉で過ごすから、そのつもりでわれわれの前に現れようとも、逃げ出そうともするな。そこにじっとしていて、われわれが要求する物資を送り届ければよい。そうすればおまえたちの生命と安全は保証する――
敵はわれわれと目と鼻の先にいながらも、あえて近づこうとせず、かといって逃げ出すこともできなかった。そして命じたとおり、おとなしく物資調達者の役割を果たした。地下たびを持って来いと言えばそれを持って来るし、小麦粉を運んで来いと言えばそれを運んで来た。
万順がわたしに使者を差し向けて汪部隊の撃滅を祝い、安否を問うてきたのは、ちょうどこのころだった。その後しばらくして、万順が自ら大営温泉地にわたしを訪ねてきた。わたしがあれほど切実な手紙を送ったり使者を派遣したりして、共同戦線の結成を訴えたときにはなんの返答もよこさなかった驕慢な老人が自ら訪ねてきたのである。これは驚くべきことだった。それまでは共同戦線のためにわれわれが于司令や呉義成を訪ねたものだったが、汪隊長を除去したあとは名だたる万順が自らわたしを訪ねてきたのである。万順はひと目でゆうに五十歳を越した人と見てとれた。アヘン中毒のせいか、目がとろんとしていた。彼はわたしに会うやいなや、こう言った。
「反日部隊の兵士たちはみな、汪をやっつけてくれた金司令をこの上ない恩人と思っています。わたしは金司令へのお礼を兼ねて、司令と兄弟の義を結びたい気持を伝えようと訪ねてきた次第です。願わくは、わたしがこれまでもうろくして、はしたないまねをしたことをいっさい水に流し、遠路を訪ねてきたこの気持を汲んで、わたしと家(チャ)家(ジャ)礼(リ)(一族という意味の家父長的な結社―第三巻一八一ぺージ参照)を結んでいただきたいのです」
万順の申し入れを聞いて、わたしはしばしためらった。わたしは以前、于司令や呉義成と共同戦線を実現するときに提起したいくつかの条件を出し、それを受諾するなら家家礼を結ぶことも考えてみると答えた。その条件というのは、反日部隊がわれわれと親交を結んで友軍となること、日本帝国主義に絶対に投降、帰順しないこと、人民の財物を奪わないこと、遊撃隊の工作員や連絡員を積極的に保護すること、われわれと常時情報を交換することなどであった。万順は意外に快くこれらの条件に同意した。そしてわたしが、これらの条件に補足の説明を加えるたびに大きくうなずき、「達」の字をそえて「達見」だ、「達通」だと賛意を表した。結局、われわれはわずか数時間の対面によって共同戦線を結び、両軍は友軍となった。その後、万順はわれわれとの約束を一度もたがえたことがなかった。
汪隊長を討ち万順を味方につけたことは、南湖頭会議(〔2〕)以後の朝鮮人民革命軍の行路において一つの意義深い出来事となった。その意義は、たんに敵を軍事的に制圧し、人民革命軍の威力を誇示したことにのみあるのではない。撫松地区でのわれわれの不眠不休の努力は、白頭山地区へ進出するための足がかりをつくるうえで強固な土台石となった。この努力により、われわれは朝中両国人民と愛国勢力の共同戦線を実現する道でも忘れがたい思い出を残した。
2 思い出深い城市で
万順は家家礼や義兄弟といったものに大きな期待をかけていた。彼がわたしにそういう契りを結ぼうと提起してきたのは、人民革命軍と善隣友好関係を結び、それを後ろ楯にして敵にたいする軍事的優勢を占めるためであった。呉義成もひところ、わたしに家家礼を結ぼうと要請してきた。家家礼というテコを利用して人民革命軍との連合を実現し、共産主義者をそれに縛りつけておこうとするのは、反日部隊に共通の傾向だった。しかし、家家礼や義兄弟のようなものを結んだからといって反日共同戦線がおのずと実現し、それが強固な同盟に発展するわけでもなかった。強固な同僚関係は実戦のなかでのみ発展し、幾多の試練を克服する過程でのみその真価を測ることができるのである。われわれが白頭山へ進出する新たな情勢下で、敵を制圧する共同の軍事作戦を展開することは、反日部隊を人民革命軍の忠実な同盟者に変え、彼らとの連合を強固なものにする好機ともいえた。
一九三六年八月の撫松県城戦闘は、われわれと反日部隊との共同戦線を確固たるものにするうえで格別な意義をもつ代表的な戦闘であった。
「共同戦線を結んだついでに、大きな城市を一つ攻略してみませんか」
わたしがそれとなくこう提案すると、万順はためらう気配もなく快諾した。
「やりましょう。金司令の部隊となら、どんな大敵でもやっつけられるでしょう。わたしはいま天下を牛耳るような気分ですわい。大きな城市を一つ攻め落としましょう」
日本軍と聞けば刃向かおうともせず、尻に帆をかけるのがつねだった山林部隊の頭領にしては、その返答が驚くほど自信満々たるものであった。アヘンに酔った勢いでの空威張りだったのかも知れない。万順はわれわれの前でも遠慮なくアヘンを吸った。それはわれわれを格別に信頼している証拠だった。元来、中国のアヘン常習者は、なじみのない人の前では絶対にアヘンを吸わなかった。万順がわれわれを気安い知己とみるのは、いずれにせよ望ましいことだった。もともと、彼は反日部隊の隊長になるまではアヘンを吸わなかった。最初のころは戦いでも勇猛果敢だった。戦闘のたびに功を立て、ほどなく大部隊の指揮官に昇進した。あるとき彼の部隊が日本軍に包囲されて全滅しそうになったことがあった。包囲を突破する過程で多数の死傷者を出し、万順も九死に一生を得た。この一度の苦い体験が彼を悲観論者に変えてしまった。軍律もなく武装も貧弱な反日部隊の兵士たちにとって、突撃のたびにときの声をあげて山犬の大群のように襲いかかってくる日本軍はあまりにも手ごわい相手だった。それに加えて汪隊長の部隊までがつきまとい、行く先々で彼の部隊を痛めつけた。万順は深い山の中に土城を築いて閉じこもり、戦いを放棄した。そして住民の財物を奪って部隊をかろうじて維持した。人民の財物で生きていくのだから、土匪根性が増長するほかなかった。山中の老いたる「匪将」は愁嘆とうっ憤をアヘンにまぎらすようになった。
万順の部下のうち少なからぬ者は部隊の生活に嫌気がさし、銃を投げ出して故郷へ帰った。なかには土匪になりさがったり、白旗をかかげて満州国軍の兵営に下る者もいた。指揮官たちは賭博に明け暮れ、時勢の推移すら知らずにいた。ともすれば殴りつけ悪態をつく指揮官の専横のため、上下関係は目にあまるほどだった。万順部隊は壊滅寸前の危機に瀕していた。滅亡の兆しが見えてきた万順部隊を救う道は連合
を実現することであり、連合による実戦を通じて、戦いに勝てるという自信を与えることであった。万順部隊との提携に成功したのち、その場で彼らに大きな城市を一つ攻略してはどうかと提案したのもそのためであったのだが、万順が快諾したのでことはスムーズに運んだ。
「金司令が汪隊長をやっつけたのを見て、うちの将兵はみな感嘆しました。金司令部隊と一緒に城市を攻めるというなら、うちの部下ももろ手をあげて賛成するでしょうから、早いうちに作戦を練ってくだされ」
万順がこう言った。彼は老嶺と西南岔、西崗、大営などでのわれわれの戦果をうらやみ、それらの戦闘に適用された戦法や戦術をしごく神秘なものに思っていた。万順は、はるか昔の春秋戦国時代から中国の名将は知略によって勝利し、日本人は勇猛をもって戦いにのぞんだが、金司令はいったいどんな戦法を用いて連戦連勝するのかと尋ねた。わたしは笑いながら、戦法も重要だが、それにもまして重要なのは軍人の精神状態だと答えた。すると万順は、金司令の部下はみな勇敢無比の強兵であることがひと目でわかる、それにひきかえ自分の部下はみな愚劣な連中でとても頼りにならない、と深い溜め息をついた。
「そんなに気を落とすことはありません。われわれが反日共同闘争をしっかり進めれば、彼らも十分勇猛な兵士になれます。どの城市を攻めたらよいか、一つ選んでもらいましょう」
わたしがこう言うと、万順は手を左右に振りながら、それも金司令が選んでほしいと言うのだった。その日、われわれは攻撃の対象をめぐって意見を交わしたが、決着がつかずそのまま別れた。万順は撫松県城攻略の意向をもっているようだったが、主張はしなかった。わたしにとって、それはむしろ幸いだった。
撫松は吉林とともにわたしの生涯で忘れがたい、なじみ深い土地であり、満州大陸のどこにも見られる平凡な県都だった。わたしが小学校に通っていたころ、この土地には二階建て以上の重層建築は一つもなく、電気も引かれていなかった。撫松市街に点在する数百戸の家はたいてい、わらぶき家か掘っ立て小屋だった。たまにはレンガ造りや瓦ぶきの家、こぎれいな木造家屋もあったが、それは数えるほどだった。けれども、わたしは貧困にうちひしがれたそのわらぶき家や掘っ立て小屋を自分の体の一部分のようにいとおしく思い、足しげく通った小南門や頭道松花江をふるさとの情景のように、どこへ行ってもやるせない追憶のなかに思い浮かべたものである。
わたしはこの城市で生涯の羅針盤となった父の遺言を受けた。その遺志をかみしめ、父の柩にしたがって陽地村の墓所に行ったときからいつしか十年の歳月が流れていた。十年たてば山河も変わるというが、もう墓所の周辺の風景も変わっているに違いない。
撫松の敵を制圧するのは、白頭山へ進出しようとするわれわれの戦略的意図を貫くうえで大きな意義があった。それを誰よりもよく知っているわたしではあったが、なぜか撫松攻略の決断を容易に下すことができなかった。万順と別れたあと、祖国光復会の下部組織にたいする指導を進める一方、あちこちで手ごろな攻撃対象を選定するための城市偵察を本格的に進めた。
万順部隊との共同作戦の準備を進めている最中に、呉義成部隊の第一支隊長李洪浜が隊伍を率いて突然わたしを訪ねてきた。灼けつくような真夏の暑さもいとわず、遠路を強行突破してきた彼の顔と軍服はほこりと汗にまみれていた。李洪浜の第一支隊は呉義成部隊でも最強の基幹部隊の一つだった。李洪浜自身は呉義成の右腕といわれるほど上官に忠実で、またそれだけ寵愛されている有能な指揮官である。わたしとはどぎつい冗談も遠慮なく言える旧知の間柄だった。北満州の青溝子でちょっと会ってわかれた呉義成の部隊が、どうして南下する人民革命軍の部隊を追って撫松まで来たのだろうか。
「わたしを金司令のもとへよこしたのは呉司令なのです。金司令部隊は白頭山をめざして南下行軍中のはずだから、なんとか捜し出して共同作戦をやれと言われたのです」
彼は長行軍の疲れもものともせず、うきうきして呉司令の挨拶を伝えた。
「じいさんに金司令部隊を捜して行けと言われたときは、途方に暮れてしまいました。『この広い満州で神出鬼没の
「わたしたちの部隊がここで連日、銃声をあげているのは確かです。近いうちに万順部隊と一緒に大きな城市を一つ攻略する計画です。異存がなければ、李兄が率いてきた支隊もこの作戦に参加させたいと思いますが、どうですか」
「そんな幸運をわたしが辞退するはずはないでしょう。呉司令も共同作戦をやれ、とわたしの背中を押して送り出したんですからね。じいさんも、後始末をしてすぐあとを追ってくると言っていました」
万順部隊との連合に成功したやさきに李洪浜の支隊まで合流してきたので、われわれとしては盆と正月が一緒にきたようなものだった。わたしは胸が熱くなった。李洪浜が本当に人民革命軍を支援しようと、千里の道もいとわずやってきたというのか。青溝子で会ったとき、呉義成は自分を反日軍の前方司令として認めようとしない周保中の処置に大きな恨みを抱き、意気消沈していた。そのときにしても、彼はわれわれとの合作についてはそれらしいことを口にしなかった。周保中にたいする恨み言ばかり言っていた呉義成が、
折よく万順も来ていたので、その日、李洪浜は旅装を解くいとまもなく共同作戦の討議に加わった。攻撃対象をあらためて協議するとき、わたしは濛江をほのめかしてみた。濛江は一九三二年の夏、通化の梁世鳳部隊を訪ねての帰途、一か月ほど滞留して隊伍の拡大をはかり、地下組織の立て直しにあたった土地だった。足がかりもあり把握ずみの土地なので、戦いさえすればたやすく目的を達成することができるはずだった。だが万順が、あまり遠すぎるといって難色を示した。たとえ勝利したとしても、帰還の途中で包囲される恐れがあるというのである。彼は撫松県城に目星をつけていた。
「金司令、撫松を攻めましょう!」
李洪浜も拳を握りしめ、怒りに燃えて叫んだ。彼が撫松を攻めようと言った裏には、それだけのわけがあった。彼は額穆を発つとき、われわれの行方を探り出そうと牟振興という名の中隊長を斥候として先発させた。ところが、その中隊長は任務遂行中に撫松憲兵隊に逮捕された。憲兵隊は撫松に来た目的と接触の相手が誰であるかを吐けと脅迫した。中隊長はその詰問に沈黙をもって答えた。憲兵隊の悪魔どもは拷問の果てに、彼の口に熱湯を注ぎ込んだ。口腔と喉はただれ、唇もすっかり水ぶくれになった。それでもその強靱な中隊長は節を曲げず、無言の抵抗をつづけた。とうとう憲兵隊は、「通匪分子」の罪名を着せて拘留していた撫松地区の愛国農民とともに、彼を撫松北方の辺地に引っ立てて銃殺した。ところが、幸いに弾丸は急所を外れた。他の死体の上に倒れていた彼をある義人が背負い出して銃傷まで治療し、部隊に帰した。この不死身の中隊長の話によって、撫松地区に駐屯している日本軍警の残虐性が知れ渡るようになったのである。
李洪浜は、牟振興が憲兵隊に捕われている間に見聞きしたいくつかの惨劇のあらましを話してくれた。汪隊長の死後、日本軍警は「通匪分子摘発」の口実のもとに城門を封鎖し、住民に出入許可証を発給した。証明書の期限が過ぎたり、証明書を持たずに城内に出入りする者は容赦なく捕えて拷問を加え、反抗する者は闇から闇に葬り去ってしまったが、その殺人の手口たるや古今東西に類例のないほど惨酷なものであった。彼らは城門で捕えた人を西門橋付近の旅館に閉じ込め、夜が明けるころ西門外の頭道松花江辺の沼で試し斬りをして殺した。試し斬りというのは軍人精神をつちかうとして、研ぎすました刀剣で人の首を斬り落とし血しぶきを上げる、身震いする殺りく行為である。試し斬りにされた死体は頭道松花江辺の沼に投げ込まれた。後日、撫松の住民はその沼を殺人坑と呼んだ。敵は試し斬りの秘密をもらした人もそのつど摘発し、同じ手口で処刑した。そしてその死体もやはり殺人坑で水葬にした。
わたしの胸には憤怒の血がたぎった。撫松についての大切な追憶を銃声で破ったり硝煙でくもらせたくないという思いが、たわいのない一種の感傷にすぎなかったという強い自責の念にとらわれた。事実、撫松は臨江、長白とともに白頭山周辺の城市のなかでも敵が格別に重視している軍事要衝の一つであった。日本帝国主義者は撫松を「東辺道治安粛正」の中心拠点の一つとし、ここに関東軍、満州国軍、警察隊などおびただしい兵力を駐屯させていた。実戦で鍛えられたという高橋の精鋭部隊も撫松県城に居座っていた。それだけに、撫松を軍事的に制圧することは白頭山地区を掌握するうえで大きな意義があった。
撫松県城に居座っている凶悪な敵を倒して人民の恨みを晴らそう! 地獄のような城郭内で試し斬りの洗礼を受けている無実の死刑囚たちを救い出そう! どこからか、こういう血の叫びがわき起こってくるような気がして心を静めることができなかった。まず撫松から討とう! わたしと涙ぐましい縁で結ばれているこの城市で、無実の人たちが日本刀で毎日首をはねられているというのに、この悲劇を間近に見ながらどうして濛江へ行けるというのか。撫松を討てば地元の人びとの恨みを晴らし、反日部隊との統一戦線も強固な基盤のもとに発展させ、白頭山地区もより容易に掌握できるのだから、これこそ一刻の猶予も許されぬ戦いではないか。わたしにとって撫松県城を討つことは、この城市の全住民への最上の挨拶となり、もっとも熱烈で真実な愛情の表示になると思い直した。それで撫松を攻撃し、白頭山西北部一帯を掌握するための決定的な局面を開こうと決心した。
攻撃対象について合意をみたのち、撫松市街にたいする具体的な偵察をあらためて手配した。偵察資料を総合した結果、かなりの苦戦になることが予想された。撫松県城の防御施設は予想以上に堅固であった。満州のすべての城市のように、撫松も堅固な土城と砲台で囲まれていた。有利な点といえば、城門の警備を受け持っている満州国軍中隊がわれわれの影響下にあることと、わたしが撫松市街を熟知しているということだけである。その中隊内には、われわれの政治工作員によってつくられた反日会の組織があった。この反日会の責任者である王副中隊長は城市攻撃時間に合わせて信頼できる反日会のメンバーを歩哨に立て、一挙に城門を開け放つことを約束した。
われわれは作戦会議を開き、各部隊に戦闘任務を分担した。われわれの部隊が受け持った戦闘任務は、東山砲台を占領することと、大南門、小南門方面から攻撃して城内の敵を掃滅することであった。反日部隊には東門と北門の方を受け持たせることにした。県城の防御に集中している敵の注意をそらすため、人民革命軍の小部隊を派遣して前日に松樹鎮と万良河(万良郷)を攻撃することも策定した。この程度なら作戦準備は望ましい水準で進められたといえた。わたしは、この戦闘がわれわれ連合軍の勝利に終わるものと確信した。
ところが予想に反して、撫松県城戦闘は最初から重大な難関につきあたった。反日部隊が指定された集結時間を守らず、勝手に行動したのである。李洪浜部隊が先走った熱意を発揮し、集結地点の碱廠溝を経由せずに東門へ直行したうえに、万順配下の部隊まで約束の時間を守らずやきもきさせた。連絡兵を送って一時間以上待ったが、万順の部下は碱廠溝に現れなかった。攻撃の日時はわたしが単独で決めたわけではなかった。万順以下、各反日部隊の頭領たちとともに吉凶禍福の予兆を十分に考慮して割りだしたものである。反日部隊の指揮官は日取りを決めるのにもかなり迷信にとらわれていた。李洪浜支隊長は攻撃の日時がどんな数字で成り立つのかに気をつかった。陰陽説によれば偶数が陰で奇数は陽なので、すべての重大事は一、三、五、七といった奇数の日と時間に定めてこそ有(う)卦(け)に入るというのが彼の持論であった。ところが陰陽説をまったく意に介さないわれわれが、偶然に戦闘開始の日時を一七日の午前一時と決め、それがまた陰暦の七月一日だったので李洪浜をすこぶる満足させていた。
部隊の一部の兵員を率いて先に碱廠溝に到着した万順は、なすすべを知らずうろたえていたが、やがて部下たちに合掌させ、東の空に向かってなにか呪文らしきものを唱えさせた。天地神明の助けを乞いたい気持だったに違いない。各部隊の指揮官は、万順部隊が裏切り行為を働いたと言って老頭領をやりこめた。万順の顔からは脂汗がたらたらと流れ落ちた。この老頭領が目の敵にされておろおろしているのを見て、あわれな気がしてきた。そして不思議なことに、万順の責任を追及するよりも、むしろ彼を弁護してやりたい気持になった。事実、今回の連合作戦を成立させるために万順ほど熱意を示した人はいなかった。また、万順のように創意ある意見を多く出した人もいなかった。彼は自分の部下たちに、作戦の時間と規律を厳守するよう再三強調した。それは反日部隊との共同戦線をきわめて重視するわれわれにとって大きな支持となり鼓舞となった。万順が人民革命軍との連合のために先頭に立ってあれほど私心のない努力を傾けてきたのに、実践では作戦の展開に支障を与えたというところに、わたしが彼に同情せざるをえない心苦しいジレンマがあったのである。
だが、実際はわたし自身にしても、誰かを同情したりあわれんだりできる立場ではなかった。刻一刻と時間が流れるにつれ、この戦闘の総指揮役を果たさなければならないわたしの心は、もどかしさで締めつけられた。数百回の戦闘をおこなったわたしではあったが、このときくらい焦燥にかられ、狼狽したことはなかった。わたしは作戦会議で時間厳守の問題に力点をおいて強調しなかったことを後悔した。会議でわたしがとくに強調したのは、城市の住民の生命と財産を侵害せず、軍民関係に汚点を残さぬようにすることであった。東寧県城戦闘のときに反日部隊の兵士たちが犯したような非行がこの撫松で二度と繰り返されることを望まなかったし、またそれを容認することもできなかった。万順部隊の遅刻、それは別に気にとめてもいなかったことだった。それだけに衝撃が大きかったのだといえる。戦闘の勝敗を左右しかねないこの非常事故のため、臨機応変の対応策をとるか、さもなければ戦闘そのものを中止せざるをえない深刻な状況が生じた。だからといって、やっと実行にこぎつけた作戦を放棄するわけにはいかなかった。戦いを放棄すれば、連合作戦を目前にひかえて勇み立っている反日部隊兵士と人民革命軍隊員の熱気に水をかけることになりかねなかった。
万順部隊が約束の時間に到着できなかったのはアヘンのせいだった。彼の部隊の指揮官と兵士のなかにはアヘン常習者が多かった。その彼らがアヘンを吸えず行軍速度が出ないと言うのだった。共同作戦の勝利のために、われわれは仕方なく行軍中の万順部隊にアヘンを送った。こういう非常措置をとらなかったなら、彼らは終日路上でもたついていたに違いない。額穆県城戦闘を終えたとき、連合作戦で反日部隊が比較的よく戦ったのはアヘンのおかげだったと王潤成が言ったが、そのときはそれが冗談だと思った。ところがいまになってはじめて、彼の話が冗談でなかったことがわかった。
各部隊が集結地点に到着したのは、予定時間がはるかに過ぎてからだった。基本部隊を引率した連隊長がいちばん最後に息せき切って万順隊長の前に現れ、到着報告をした。万順はモーゼル拳銃を引き抜き、撃ち殺してやるといきり立った。このときくらいアヘンの弊害を骨身にしみて感じたことはなかった。そのときの苦い体験は、後日われわれをして遊撃隊ではアヘン常習者に銃殺刑を適用するという極端な規定までつくらざるをえなくした。
数百年の歴史を誇っていた古色蒼然たる清国の屋根瓦に亡兆がさし、垂木が崩れ落ちはじめたのも、このアヘンのためだという。ひところ清国は自国にアヘンを密輸するイギリスと二回にわたってアヘン戦争をおこなった。インドで栽培されるアヘンが清国にまで流れ込み、数百万に達する人をアヘン常習者にしてしまった。反面、莫大な銀が海外に流出した。イギリスはアヘン密輸で暴利を得た。林則徐をはじめ清国の先覚者は、人民とともにアヘン密輸に反対してイギリス侵略者との戦いに立ち上がった。抗戦は熾烈をきわめたが、支配階級の裏切りで、清国はイギリスに自国の領土の一部分である香港を割譲する破目になった。結局、中国はアヘンに呑まれたといえる。アヘンは清王朝が一九世紀についで二〇世紀の中国国民に残した最大の恥部であり苦痛であった。一九三〇年代に入っても、満州一帯ではアヘンが大量に密売されていた。有産者や官職にある者は言うまでもなく、明日の生計すらおぼつかない庶民のなかにもアヘン常習者は少なくなかった。鼻汁をたらしながら、うつろな目で無表情にあたりを眺めるアヘン常習者を目にするたびに、友邦の人民がなめている血涙の長い受難の歴史を思い返し、胸の痛む思いをしたものである。
全部隊が肩で息をつきながら行軍速度を速めたが、後の祭りだった。城門の前で約束の合図を待ちながら歩哨に立っていた満州国軍中隊の反日会メンバーは、交替時間になったのでやむなく機関銃の撃発装置部に砂をつめこんで撤収した。城門をひそかに開け放ち、城内に突入して敵を一挙にせん滅しようとした作戦計画は、最初から狂ってしまった。正直に言って、そのときわたしは戦闘を断念すべきではないかとさえ考えた。状況からすれば、むしろ戦闘を他日に延ばすほうが賢明な策かも知れなかった。しかし、血ぬられた撫松市街を目の前にして戦闘を断念するには、われわれの敵愾心があまりにも強く、白頭山地区の掌握をめざしてこの戦闘にかけたわれわれの期待があまりにも大きかった。一千八百余名もの兵力をもつわれわれが、城市を攻撃できずに退けばどういうことになるだろうか。世間では取るに足らぬ烏合の衆だと誹謗するだろう。そうなれば、反日共同戦線の大義は水の泡となり、近く白頭山でとどろかせようとしたわれわれの銃声もむなしいものになるに違いない。
わたしは、たとえ状況は困難であってもわれわれが先駆けとなり、決死の覚悟でこの作戦を勝利に導こう、と人民革命軍の指揮官たちにアピールした。撫松県城戦闘の序幕は、このように複雑な曲折をへて切って落とされた。人民革命軍の隊員はわたしの攻撃命令が下るやいなや東山砲台を一気に占領し、小南門方面へ突進した。反日部隊の兵士たちも北門と東門に向けて進攻した。小南門前の街路では白兵戦がくりひろげられた。城門へ肉迫する部隊に向けて砲台の機関銃が火を噴いた。小南門の近くに指揮所を定めていたわたしは、その機関銃の音で耳が遠くなりそうだった。人民革命軍の各部隊は機関銃中隊の掩護のもとに城門を突破して市内に突入した。ところが、人民革命軍の隊員が肉弾で最初の突破口を開いたやさきに、北門を攻撃していた万順部隊が敵の砲声に驚いて退却しているという連絡が飛び込んできた。わたしは李東学中隊長に、即時中隊を率いて北門の方に急行し万順部隊を援助せよと命じた。またしばらくして、東門を受け持った李洪浜の部下が反撃に出てきた敵を防ぎ切れず押されはじめたので、東門を出た敵がみんな小南門の方に押し寄せてきた。かてて加えて全光の指揮する小部隊が万良河襲撃戦を放棄してもどってきたという報告まであって、わたしの心を乱した。頭道松花江の水かさが増えて渡河できなかったというのである。北門を攻撃していた万順の部下があえなく後退させられたのは、砲声に驚かされたことだけが原因ではなかった。万良河の襲撃を断念してもどってくる味方の一部隊を敵の増援部隊と錯覚し、前後から挾撃されるのを恐れて逃げ出したのだった。万順部隊の攻撃隊形が乱れると、その余波が側面にまで及び、李洪浜部隊も散り散りになってしまった。全光が襲撃戦を放棄しながらそれを即時に報告しなかった結果は、戦闘過程全般にこのように重大な影響を及ぼした。
戦局の収拾がついてもいないのに、すでに東の空は白みはじめていた。戦況は刻一刻とわれわれに不利になってきた。そのとき李洪浜が駆けつけてきた。
「金司令、形勢が危うくなりました。このままでは全滅させられます」
彼が言わんとするのは即時総退却であった。
「ああ、万事休すだ!」
彼は首をのけぞらせ、明け染めてくる空を眺めながら絶望的に叫んだ。わたしは彼の肩をつかんで大声で言った。
「支隊長、気を落とすことはない。こういうときこそ気を確かにもって、禍を転じて福となすべきだ。福に禍あり禍に福ありというではないか」
わたしが彼にこう言ったのは、禍を転じて福となしうるなにかの妙案があってのことではなかった。反日部隊が退却しはじめたこの機に、誘引戦術を使って主導権を握ろうという決心をかためたにすぎなかった。戦況が不利になった場合、敵を城門の外におびきだし、谷間に追い込んで包囲せん滅するのは遊撃活動の戦術的原則でもあったが、これはわれわれの伏線でもあった。だが、こういう誘引戦術は夜間でなければさほど効果を発揮するものではない。われわれは空がすっかり明け染める前に撤収するか、それとも正面突撃の方法で決戦を挑むかという二者択一の岐路に立たされた。ところが、誘引戦を決心しながらも人命の損失を憂慮して退却命令を下せずにいたとき、天がわれわれを助ける奇跡が起きた。県城とその周辺に突如濃霧が立ちこめ、一寸先も見えなくなる不思議な現象が起こったのである。わたしは各部隊に、散らばった兵士を率いて東山と小馬鹿溝の稜線に撤収するよう命令した。
敵は退却する部隊をやっきになって追跡してきた。われわれが東山に登りはじめたとき、中心突出部の山ひだから一発の銃声が響いた。わたしは不安にかられて立ち止まった。そこには戦闘後の朝食の支度のために残してきた七、八名の女性隊員がいたのである。わが方の主要撤収方向が東山であることを探知した敵は、山ひだを先に占めて指揮部と主力部隊を両側から攻撃しようと企図しているようだった。山ひだの銃声はいっそうはげしくなった。女性隊員たちが敵の大部隊と熾烈な銃撃戦を展開しているに違いなかった。わたしは伝令を飛ばして山ひだの状況を確かめさせた。伝令は、司令部の安全のために血をもって山ひだを守り抜くという金確実、金正淑たちの決意を聞いて帰ってきた。事実この日、指揮部は山ひだを英雄的に守り抜いた女性隊員たちによって救援されたというべきであろう。女性隊員たちが敵を防ぎ止めなかったなら、われわれは敵より先に東山へ登ることができなかったに違いない。女性隊員たちとともに、人民革命軍第七連隊第四中隊が東山を死守したのだった。
山ひだで熾烈な攻防戦が展開されている間に、第七連隊の主力は立ちこめた霧を利用して東山南側の高地に長い伏兵の陣を張った。反日部隊も谷間を挾んで向かい側の稜線を占めた。そのときになって、主力部隊の撤収を掩護していた中隊は敵を誘引しながら霧の谷間の奥に撤収した。そして彼らも谷間のゆきどまりの山の背に登ってすばやく伏兵の隊形をとった。試し斬りで悪名をはせた高橋部隊は、いったん踏み込んだが最後、生きては帰れない死の落とし穴に全員引き込まれた。勝敗はすでに決まったも同然だった。われわれは山の上から下を撃ち、敵は谷間から上を撃つ銃撃戦がしばし天地をゆるがした。高橋部隊は、万順から勇猛の戦法と聞かされていた悪らつな戦術で波状突撃を繰り返したが、そのたびに死体を残して退却した。突撃が効を奏さないと知ると、彼らは射撃を中止し、山裾にへばりついて増援部隊の到着を待った。
わたしは、突撃命令を下した。りゅうりょうたるラッパの音とともに、伏兵陣から躍りだしたわが方の勇士たちは敵を手当たり次第になぎ倒した。白兵戦の先頭には「延吉監獄」というあだなの第七連隊分隊長の金明柱が立っていた。金明柱は五・三〇暴動に参加して逮捕され、延吉監獄に収監されていた人だった。彼は獄内の地下組織のメンバーとともに五年の間に六回も脱獄を企てた。斧で獄吏を倒して脱獄に成功した主人公がほかならぬ金明柱であった。戦友たちが彼に「延吉監獄」というあだなをつけたのは、そういういわれからである。彼には「延吉監獄」というあだなのほかに、「七星子」というもう一つのあだながあった。彼は七回の大戦闘に参加して七回大功を立てて負傷したのだが、戦友たちはそれを「七星子」というあだなで言い表わしたのである。七星子というのは七発装てんの拳銃である。彼は死を恐れぬ人民革命軍の獅子だった。金明柱の延吉監獄からの脱獄を命がけで助けた第八連隊中隊長の呂英俊も、この戦闘で「七星子」に劣らずよく戦った。金明柱と呂英俊はたたかいのなかで友情を結んだ無二の親友だった。
遊撃隊の「女将軍」金確実は、終始両眼を大きく見開いて機関銃を撃ちまくった。なぜ片目をつぶらないのかと戦友が聞くと、日本軍の汚らわしい面をはっきりと見届けるためだと答えたという。彼女が機関銃を撃ちまくるたびに、敵は悲鳴を上げてばたばたと倒れた。この日、金確実は銃剣をかざして白兵戦にも参加した。
金正淑が両手にモーゼル拳銃をかざし、機関銃射撃のように銃弾を浴びせて十数名の敵を撃ち倒したというエピソードも、この撫松県城戦闘が生んだものである。
アヘンのためにモーゼル拳銃で射殺されるところだった万順部隊の連隊長は、敵弾が降りそそぐ岩に登って号令をかけ、連隊を指揮した。この日はすべての反日部隊が実力を遺憾なく発揮した。
高橋の「精鋭部隊」は東山の谷間で全滅した。この悲劇的な事態は、その日の午前中に関東軍司令部に報告された。後日、『東亜日報』や『朝鮮日報』を見て知ったことだが、あのとき新京飛行場では撫松駐屯軍を支援するために爆弾と弾丸を満載した軍用機が飛び立ち、通化、桓仁、四平街などからは増援部隊が緊急出動した。中江鎮守備隊も撫松へ急派された。高橋もおそらく羅子溝の聞大隊長のように上部に相当大げさな通報をしたのであろう。でなければ、あれほど膨大な増援兵力が四方八方から撫松になだれこむはずはない。高橋を救援するための敵の兵力は臨江、長白、濛江などの隣接県からも雲霞のごとく押し寄せてきた。だが、非常な速さで推進されたこの狂気じみた収拾策も、わなにはまった高橋を救出することはできなかった。八月十七日の午後、一部の増援部隊が撫松に到着したときは、すでに勝敗が決まったあとだった。われわれが戦場捜索を終えて深い密林の中に撤収しているとき、新京から飛来した敵機がわれわれの手によって破壊された東山砲台と県城付近の住民家屋に手当たりしだいに爆弾を投下した。
「金司令、あの飛行機も司令の催眠術にかかったんじゃありませんか」
がむしゃらに急降下する爆撃機を小気味よさそうな目で眺めながら、万順が言うのだった。その一言だけでも撫松県城戦闘の目的はりっぱに達成されたとわたしは判断した。万順の前方には、戦利品を背中いっぱいに担いだ数百名の部下が連隊長に引率されて凱旋将軍のように元気よく歩いていた。アヘンが欠乏して集結時間さえ守れず作戦をひどく混乱させた兵士たちとは思えないほど、彼らの表情や足取りは一変していた。反日部隊の行軍隊伍からは笑い声が絶えなかった。
「こういう戦闘をつづければ、あの兵士たちはちゃんとアヘンがやめられそうですよ」
わたしは隊伍を指差しながら、確信をもって万順に話した。
「お願いがあるんですが、連隊長を許してやってくれませんか」
わたしがこう言うと、万順はにわかに涙ぐんだ。
「金司令、ありがとう。正直なところ、それはわたしが司令にお願いしたかったことですよ。司令はそのお言葉一つで、われわれ全員を許してくれたことになります。これからはうちの兵士も一人前になれそうです。わたしも呉義成のように金司令となら死ぬまで統一戦線をつづけますぞ」
確かに撫松県城戦闘は東寧県城戦闘や羅子溝戦闘と同様、反日部隊の将兵に思想改造の道を開いた衝撃的な出来事であった。彼らはこの戦闘を体験してはじめて統一戦線の妙味を知った。実践というものはつねに理論よりも生々しく力強い信頼を与えるものである。反日部隊との統一戦線についてのわれわれの思想と理論が空論ではなく真理であり真実であるということは、撫松県城戦闘によって再度証明された。
撫松県城戦闘は戦術的な面でわれわれに多くの深刻な教訓を残した。わたしはそれまで幾多の戦闘をおこなったが、このように状況の変化がめまぐるしい戦闘は一度も体験したことがなかった。戦争では概して敵の動きによって状況の変化が生ずるのが通例である。しかし撫松県城戦闘ではわが方の落度で異常の事態が発生し、そのために一時的な混乱も生じたのである。戦闘の過程で思わぬ状況が生じ障害が立ちふさがるほど、指揮官は鉄の意志と胆力をもち、冷徹な思考力を働かして新たな状況に対処し、臨機応変の方法で沈着に逆境を克服していかなければならない。国益を擁護するための対敵闘争にせよ、自然や社会を改造するための闘争にせよ、こうした要求が提起されるのは不可避であると思う。状況の変化に巧みに対処し、必要なときに必要な決心を迅速に下す能力は、すべての指揮官がそなえるべき重要な資質である。
わたしは撫松県城戦闘の結果をすこぶる満足に思った。正直なところ、わたしはこの戦闘の勝利の軍事実務的意義よりも政治的意義を重視した。その勝利の政治的意義を一言で要約すれば、反日部隊との共同戦線を強化したこと、白頭山西北地区をわれわれの手中にいっそうしっかりと掌握したことだと言えるであろう。掃滅した敵兵の数や戦利品の数量などはほとんど記憶にない。けれども、わたしはそれを少しも残念だとは思っていない。
3 『血の海』の初演舞台
抗日革命期の文学と芸術については、すでに多くの研究が進められたと思う。原作も大部分発掘され、それを現代の美感にふさわしく復元する作業もあらかた終わったといえる。抗日の炎の中から生まれた文学と芸術は、今日わが党の文芸伝統となり、わが国の文学・芸術史に特出した位置を占める貴重な財宝となっている。
わたしは専門の学者のように抗日革命文学や芸術にかんする理論を展開するつもりはない。ただ、漫江で人民革命軍部隊がおこなった公演活動について語ろうと思う。漫江での公演活動を紹介すれば、抗日革命期の文学・芸術の全容を把握するのに多少なりとも助けになるものと考える。
一編の芸術作品を完成させることが一つの城市を攻略する戦闘に劣らず困難で複雑な精神労働を要する仕事であることは、わたしも知らないわけではなかった。けれどもわたしは演芸活動に時間と努力を惜しまなかったし、その活動に役立つことであれば何事もためらわなかった。もし遊撃隊の隊伍に従軍作家か芸術家が一人だけでもいたなら、われわれは創作と創造の陣痛と苦悩を体験せずにすんだであろう。しかし、遺憾ながら人民革命軍には専業作家や芸術家出身の隊員が一人もいなかった。もっとも、朝鮮人民革命軍の戦果とわれわれの名声に励まされ、入隊を試みた文人もいた。それがスムーズに実現していたなら、朝鮮人民革命軍は自己の行跡を収録する歴史記録の執筆陣と、隊内出版物の発刊や演芸公演活動に不可欠の有能な創作集団をととのえて強力な宣伝扇動活動を展開することができたはずである。
われわれの隊伍には歴史学を専攻した人物もいなかった。それで歴史の記述は素人の手でなされた。人民革命軍の代表的な歴史記述者は李東伯と林春秋だった。彼らは多くの記録を残そうと努力したがその大部分は湮滅、消失してしまった。
解放後、学者たちはほとんど白紙にひとしい状態で抗日革命史の研究に取り組んだ。大部分の史料は抗日革命闘争参加者の回想にもとづいて作成され、敵側の文書もかなり参考にしたが、ねじまげられたり、誇張、矮小化された資料もあったりして、歴史の体系化と定着作業は少なからず難航した。そのうえ、宣伝部門の要職を占めていた反革命分派分子の妨害策動と無関心のせいで、抗日革命史にかかわる全面的な資料の収集は一九五〇年代の末になってようやくはじめられる有様であった。抗日革命史を反映した図書のうち、部分的ではあるが日付や場所などに若干のずれがあるのは、こうした特殊な事情のためだとみるべきであろう。
抗日闘士たちは歴史に名を残すためではなく、歴史を創造するためにたたかった人たちである。われわれは山中でたたかうとき、次の世代がわれわれを記憶しても、しなくてもかまわないという立場で万難を克服した。もしわれわれが歴史に名を残すために銃を手にとった人間であったなら、今日、新しい世代が抗日革命史と称している偉大な歴史を創造することはできなかったであろう。敵の包囲と追撃のなかで、たえず移動しながら遊撃戦を展開していたために、一枚の秘密文書すら安全に保管できなかった。万一の場合を考え、敵地からの走り書きの手紙も読み終えるとすぐ焼却してしまった。史料として価値があると思われる文書や写真などは背のうに入れてコミンテルンに送った。
一九三九年度にも、コミンテルンに文書をつめたいくつもの背のうを送った。しかし、それらの文書は目的地に届かなかった。そのときに流失した資料のうち、少なからぬものが日本の警察文書や出版物に載った事実から推して、護送者たちは途中で敵の手にかかったに違いない。われわれが祖国に凱旋するときに持って来たものといえば、それは歴史の記録や組織関係の文書ではなく、革命歌を書き記した手帳や戦友の住所氏名を書きとめたメモだけだった。学者たちが抗日革命史の研究でいちばん難儀しているのはこの点である。
朝鮮革命に内在する特殊な事情と複雑な内実をよく知りもしない帝国主義の手先や売文の徒、ブルジョア御用学者たちは、数件の文書から写し取った数字や事実を組み立てる方法で、祖国と革命偉業に限りなく忠実な朝鮮の息子、娘たちが肉弾となって切り開いてきた抗日革命史を取るに足りぬものにしてしまおうとやっきになっている。われわれの理念と社会制度を快く思わない人間が、わが党の革命歴史を矮小化しようとあらゆる毒舌をふるうのはさして驚くべきことでもなく、別に新しいことでもない。歴史は墨で塗りつぶせるものでもなければ、火で焼き捨てたり、剣で切り捨てたりできるものでもない。誰がなんと言おうと、われわれの歴史は歴史としてありつづけるであろう。
わたしが『血の海』の構想をあたため、その台本作業にとりかかったのは東崗会議の直後だったと記憶している。演劇『血の海』創作のおおもとは『間島討伐歌』にあったといえる。わたしは幼いころ、父から『間島討伐歌』を習った。父はわたしとわたしの友だちに間島討伐の話もよく聞かせてくれた。
安図で遊撃隊を組織したあと、部隊を率いて東満州へ行くと、その地方の住民は日本軍警の討伐のため言い知れない試練をへていた。討伐隊の軍刀と銃剣で日に数十名から数百名もの人が斬殺される惨事がうちつづく間島は文字どおり血の海だった。その血の海を目撃するたびに、わたしは父が教えてくれた『間島討伐歌』を思い起こし、それを思い起こすたびに朝鮮民族がなめている苦痛と受難を考え、憤懣やるかたない思いをした。ところが驚くべきことには、間島に住む絶対多数の朝鮮人がそういう悲惨な運命に甘んじようとせず、かえって手に手に銃や棍棒を取って憤然と立ち上がり、抗争をつづけている事実であった。この同胞あげての抗争には三綱五倫と三従の道に縛られていた女性と、そのチマにすがってだだをこねていた子どもたちまで参加した。わたしを大きく感動させたのは、まさにその姿だった。女性が家庭の枠から抜け出して社会変革の運動に飛び込んだのは一つの革命であった。わたしはこの革命の主人公たちに厚い尊敬と愛情を感じた。そうした女性を支持し同情するうちにわたしの脳裏には、倒れた夫の後を継いで革命の道を踏み出した一女性とその子どもたちの形象がはぐくまれていった。当時のわたしの正直な気持としては、そういう女性をヒロインにした作品がつくりたかったのである。
われわれは撫松に留まっている間、各地で演芸公演活動をおこなって人民を教育した。戦闘を終えては、そこに留まって公演をするか、公演が不可能な状況ならアジ演説をおこなってから部隊を撤収させた。革命軍の隊員が素朴な芸術小品を舞台にのせるたびに、人民は熱烈な拍手喝采を送ってくれた。いつか遊撃隊員たちが戦闘を終えての交歓会で『間島討伐歌』をうたったことがあるが、そのとき、これを聞いた人たちは老若男女を問わず誰もが涙を流し、日本帝国主義を呪い抗日の決意をかためた。この『間島討伐歌』一つだけでも涙の海を現出した思いもよらぬ交歓会場の情景は、演劇のような本格的な舞台形象によって人びとをより積極的に啓蒙したいという衝動をかきたたせた。だが時間が許さず、この欲求を実現することはできなかった。ところが東崗会議が終わったあと、李東伯が思いがけずわたしの心の隅にくすぶっていたその欲求に火をつけた。どこかの村から手に入れてきた新刊の文芸雑誌を見せてくれたのである。その雑誌には、獄につながれているある社会運動家の妻を描いた小説が載っていた。夫が下獄したのち、妻が子どもを他人にやり、再婚するというあらすじであった。わたしは李東伯に小説の読後感を聞いてみた。彼はさびしそうに笑った。
「わびしくなりますね。生活とはこんなものなのかと…。でも仕方がないでしょう」
「では先生は… この小説に真実が描かれているというのですか?」
「真実の一端は描かれているでしょう。悲しい話ですが、わたしのよく知っている社会運動家の妻も、他の男とねんごろになり、子どもを捨てて駆け落ちをしてしまいましたよ」
「そういう特殊なケースが、どうして真実だといえるのですか。朝鮮と満州でわたしが見た絶対多数の女性は夫に忠実で、子どもにも隣人にも、国にも忠実な女性たちでした。夫が獄につながれれば、夫に代わって爆弾やビラ束をかかえ革命活動に専念する女性、夫が革命の途上で倒れれば軍服をまとって夫の立っていた隊伍に立ち、銃剣を手にして仇敵を討つ女性、子どもが腹をすかせれば物もらいをしてでもひもじい思いをさせまいと心を砕く女性、これが朝鮮の女性なのです。そういう姿を見ずに、李光洙のように革命家の妻を冒涜するならどういうことになるでしょうか。彼が『民族改造論』を提唱したときソウル市内でビールびんをさんざん投げつけられたように、きぬた棒でしこたま叩かれないともかぎりません。われわれの母や姉たちのきぬた棒は武器奪取のときにだけ使われるわけではありません。これがまさに真実なのです。東伯先生、いかがですか」
李東伯はあらたまったまなざしでわたしを見つめ、うって変わった態度でうなずいた。
「そのとおりです。それが真実です」
わたしは真実の反映を文学の本道と心得ていた。真実を反映してこそ、文学は読者大衆を美しく崇高な世界へ導くことができるのである。真実を反映することによって人民大衆を美しく崇高な世界へ導くのが、ほかならぬ文学・芸術の真の使命である。その日、われわれは自分の知っているすぐれた女性闘士や女性活動家、徳行と貞節において模範といえる烈女について長時間語り合った。話が終わるころ、李東伯は突然こんなことを言った。
「将軍、女性革命家の運命を扱った演劇を一つつくってはどうですか」
「どうしてまた急に演劇のことを考え出したのですか。ひょっとして間島で教鞭をとっていたとき、教え子たちを連れて演劇運動をしたときのことを思い出したのではありませんか」
「こんな三文小説を書く人間に少々刺激を与える必要があると思うのです」
彼は例の雑誌を指で突き差してみせた。わたしは、女性革命家を扱おうというのはたいへんりっぱなアイデアだ、しかし演劇をつくるにはなにがしかのテーマが必要ではないか、なにか考えているテーマがあったら話してもらいたい、と言った。
「真の朝鮮女性とはどんな人間か、といったテーマです。朝鮮女性の実像を見せようというわけです。朝鮮人民の民族的受難は必然的に女性たちにまで闘争の道を歩まざるをえなくする、闘争のみが生きる道だ、こういうテーマですが、将軍のお気に入るかどうか…」
わたしは驚いた。彼が設定したテーマは、わたしが間島にいたとき女性が主人公の作品を想定して探求したテーマと似かよったところがあったのである。
「どうせなら、先生がじかにペンをとってはどうですか」
わたしがこう言うと、「パイプじいさん」はあわてて首を振った。
「わたしは、けちをつけることはできても創作はできません。この演劇の台本は将軍が書くべきです。書いてさえくだされば舞台のほうはわたしが引き受けましょう」
わたしは確答はしなかった。けれども李東伯のたっての願いがあって以来、わたしの脳裏には前から考えていたヒロイン、血の海の中で夫と子どもを失った悲しみにたえて憤然と立ち上がり、闘争の道を踏み出す素朴な女性の形象がいっそう鮮やかに浮かび上がってきた。ヒロインの魅力的な形象は、わたしを興奮させた。わたしはとうとう紙にペンを走らせはじめた。部隊が漫江に到着するころには台本を半分以上書き上げた。
わたしにとって演劇の創作は、これがはじめてというわけではなかった。撫松にいたときにも演劇公演をおこない、吉林や五家子でも演劇運動を活発に展開した。だが、武装闘争を開始して以来、演劇をそれほど舞台にのせることはできなかった。一九三〇年代の前半期に遊撃根拠地で演劇運動に熱をそそぐ人がいないわけではなかったが、吉林時代ほどには活発でなかった。時間と努力を要する演目に、遊撃区の芸術愛好家は情熱を傾けることができなかった。ならば、白頭山へ向けて南下行軍をつづける困難な路程で、なぜあえて演劇創作を日程にのぼらせ、それを実現させようと根気よく努力したのだろうか。わたしは大衆の意識化における演劇芸術の絶大な牽引力と効果に大きな期待をかけていた。当時は演劇ほど大衆の心をゆさぶる芸術は他になかった。無声映画がトーキーに発展し、それが一国の枠を越えて世界中に普及される前まで、演劇は芸術界でどのジャンルにも比べられないほど強力な感化力をもっていた。わたしも演劇となると時間を惜しまず見たものである。彰徳学校時代の同窓生のなかには演劇ファンが多かった。有名な劇団が平壌に巡回公演に来るたびに、わたしは康允範と一緒に市内へ行った。演劇は誰が見てもすぐ「すばらしい!」「つまらない」「まあまあだ」などと評価できる一般的で大衆的な芸術である。
一九二〇年代と一九三〇年代は演劇の開花期、全盛期だった。わたしが彰徳学校に通っていたころは、すでに従来の新派劇に代わって台頭した新劇が観客の目を奪っていた。進歩的な作家、芸術家たちは、無産者大衆のためのプロレタリア演劇運動に心血をそそいでいた。プロレタリア演劇運動家たちは劇団をつくって地方の労働者、農民を訪ねて巡演した。そういう劇団が平壌にもひきもきらずやってきたものである。解放後、わが国の演劇界で名声を博した黄澈、沈影なども一九二〇年代と一九三〇年代から演劇運動に心肝を砕いてきた芸術家たちである。当時はどこででも演劇、演劇と叫んでいたときだった。生徒が五十名程度の田舎の学校でも演劇熱に浮かされていた。こうした時代の風潮にのって、われわれも初期革命活動の時期に演劇運動を展開した。
『血の海』の台本を完成する過程は、集団的知恵の発現過程でもあった。劇の構成は言うまでもなく、一つのデテール、一つのせりふのためにも、同志たちは貴重な助言をしてくれたものである。
東崗で撫松県城戦闘の勝利を総括する反日部隊指揮官たちとの合同会議を終えたのち、わたしは主力部隊を率いて白頭山西方の衛星区域である漫江へ向かった。漫江は広大な高原の上の、白頭山にいちばん近い村里で、撫松県の南端に位置していた。ここから南方の多谷嶺を越えれば長白であり、西南方の老嶺を越えれば臨江である。一九三六年当時の漫江は八十余戸の民家が点在する小さな村にすぎなかった。この火田民村は南甸子、陽地村、万里河、杜集洞と同様、撫松地方にはまれな朝鮮人村落の一つだった。安図とは異なり、撫松には朝鮮人が多くなかった。県城から遠く離れている漫江は、人の行き来がまれな山奥の僻村だった。住民がわずかなうえに行き交う旅人もまばらで、見ようによっては人間社会から隔絶した絶海の孤島のような印象さえ与えた。訪れる人がいるとすれば、粗櫛や染め粉などの行商か、塩商人といった人たちだけだった。撫松の有志のなかでも漫江に出入りする人は多くなかった。崔辰庸総管が一、二度、そしてその後任として総管役についた延秉俊が五、六回足を運んだくらいだろう。
話のついでに、延秉俊がどういう人物なのか少し紹介しておくことにする。彼は洪範図麾下の部隊長の一人だった。洪範図の独立軍が沿海州方面に活動舞台を移したのち、どんな縁故があったのか撫松に来てひところ総管の地位を得て正義府の地方長官を務めたのだが、大衆の人望が厚かった。その後、彼は総管職を退き、大蒲柴河で鍼医になった。大蒲柴河という村は安図と敦化の境にあった。あるとき、その村に行ってきた金山虎が、延秉俊の医術は玄人はだしだとほめそやし、わたしにも一度治療を受けてみるようにとしきりにすすめた。それで、わたしは延秉俊を訪ねていった。わたしの脈を取った延秉俊は、将軍の気力は衰えきっている、鹿茸か野生の朝鮮人参が求められないだろうか、求められれば処方を書いて差し上げる、と言った。彼の処方どおり薬をつくって服用し、かろうじて健康を回復した。祖国に凱旋してかなりの時日が経過したある年、幹部の一人が健康を害して少々苦労したことがあった。そのとき、わたしは大蒲柴河で延秉俊が教えてくれた処方を思い起こしながら、しかじかの薬を使ってみるようにとすすめた。驚くべし、彼は数か月後にわたしの処方が大いに効力を発揮したと言うのだった。それで、それはわたしの処方ではなく、数十年前に満州で延秉俊という医家が教えてくれた処方だと説明した。その延秉俊はどんな因縁からか、漫江をかなりくわしく知っていた。
漫江の特産物のなかでも自慢できるのはジャガイモだった。この土地のジャガイモは内島山のジャガイモのように赤児の枕ほどのものもあった。漫江川にはコグチマスが多かった。漫江村の住民が使っている器はいずれも木を掘り削ってつくった木器でなければ、白樺の皮でつくったものだった。さじも木製であり、醤油やキムチを漬けるかめもやはり丸木を掘ってつくったものだった。
行軍隊伍が二本の白樺が立っている漫江村の入口にたどり着いたとき、われわれの来るのをどうして知ったのか、許洛汝村長をはじめ村人たちが桶やくり鉢に甘酒や濁酒を盛って待っていた。県城に塩を買いに行った農民が撫松県城戦闘のニュースを持ち帰って以来、村長は敵の動きをするどく観察するようになり、日本軍の飛行機がたびたび漫江方面に飛来するのを見ては、革命軍がこの村に来るに違いないと確信するようになったと言うのであった。わたしは濁酒を一杯飲みほしてから村長に尋ねた。
「こうして総出でわれわれを公然と歓迎して、あとのたたりはありませんか」
「心配ご無用です。この春、革命軍がここに現れて以来、漫江警察隊の連中はわたしらにもぺこぺこしています。まして汪隊長もやられた、撫松県城の日本軍も全滅させられたというニュースを聞いてからは、ただもう怖くて震えあがっている始末です」
こんなやりとりをしているとき、漫江川の橋の方から農民のにぎやかな声が聞こえてきた。
「革命軍のみなさん、今度もダンスを見せてくれるんでしょうね」
春に漫江村に来て演芸公演をしたとき、琿春出身の遊撃隊員数名が舞台に出てロシアの踊りをおどったことがあった。ソ満国境地帯で暮らしてきた琿春出身の隊員らはロシアの歌や踊りがたいへん上手だった。その踊りを見て目を丸くした村人は「や―、これは見ものだ。踊りというのは腕を振り、肩を上げ下げするものとばかり思っていたのに、あれを見ろ、足でドンドン蹴りもするんだな。ともかくあのダンスというのは見るだけのことはある」と言ってはやし立てたものである。
「はいはい、ダンスだけではありませんよ。それよりもっとすばらしいものをご覧に入れましょう」
李東伯がほのめかした「すばらしいもの」というのは、演劇を念頭においてのことだった。
われわれは許洛汝村長の家の一間に指揮部を定めた。この家はわたしの父とも縁が深かった。十年前、孔栄が馬賊に捕われた父を救い出して立ち寄った最初の家がここだった。そのとき許洛汝は孔栄と一緒に父を撫松まで護衛してくれた。わたしはこの家で『血の海』の台本を書く作業をつづけた。田国振が倒れたあとであり、また後日、人民革命軍の隊内新聞『曙光』を主管しながら数編の短編小説まで書いてそれに載せたことのある金永国もまだ入隊する前だったので、台本を書く作業は漫江に来てからもわたしの仕事にならざるをえなかった。李東伯は台本作業の参考にと、祖国で発行された幾種もの新聞、雑誌や単行本をしばしば手に入れてくれた。その出版物のおかげで、国内における政治的出来事や社会経済状況、文学・芸術界の実態をつぶさに知ることができた。
当時の進歩的な文学・芸術運動は、およそその内容と形式において日本帝国主義の民族文化抹殺政策から民族的なものを擁護し、発展させようとする愛国愛族的なもので一貫されていた。日本帝国主義植民地支配当時のわが国の進歩的な文学は、愛国愛族の精神と自主独立の思想で人民を啓蒙し、演劇、映画、音楽、美術、舞踊など各ジャンルの芸術の発展方向を誘導し、それに盛るべき内容を提示するうえで先導的役割を果たした。「新傾向派」文学と呼ばれた進歩的作家の文学運動は、一九二五年にいたって朝鮮プロレタリア芸術同盟(「カップ」)を誕生させた。「カップ」の創立以来、朝鮮の進歩的文学は労働者、農民をはじめ勤労人民大衆の利害を代弁し擁護するプロレタリア文学・芸術の発展に寄与した。李箕永、韓雪野、宋影、朴世永、趙明熙といったすぐれた「カップ」の作家たちによって、わが国の文壇では『故郷』『黄昏』『面会は一切拒絶せよ』『山燕』『洛東江』など、人民に愛読される数多くのすぐれた作品が創作された。作家のなかにはソウル鍾路の街角に小豆がゆの屋台を出して生計を維持しながらも、人民の精神的糧となり先導者となるりっぱな文学作品を書き上げた人もいる。その一つひとつの作品は凶悪な日本帝国主義の植民地支配を脅かす起爆剤となった。
「カップ」の作家の声が響くところにはつねに、思想犯の弾圧に血眼の日本軍警と情報要員の黒い影がつきまとった。その声が高まるほど、敵は首かせをいっそう強く締めつけた。二回にわたる検挙旋風により、「カップ」は創立十周年にあたる一九三五年に惜しくもその存在を終えざるをえなくなった。日本帝国主義が強いる「国民文学」(転向文学)に迎合するか、ペンを折ってしまうかという岐路に立たされたときも、大部分の「カップ」出身の作家は進歩的文人としての良心を守り通した。李箕永は内金剛の深山幽谷に閉じこもって焼き畑を起こしながらも、祖国と民族を限りなく愛する良心的な知性人、愛国的作家としての面目を保った。韓雪野や宋影もやはり、かろうじて生計を維持する窮状にあっても節操を曲げなかった。
日本帝国主義は「カップ」を解散させることはできたが、朝鮮文学に一貫する抵抗精神と愛国愛族の土壌から力強く芽ぶき成長してきたその文学の命脈は断ち切ることができなかった。「カップ」出身の文人たちが獄につながれたり山間僻地に追われていたとき、抗日革命隊伍内の知識人とともに、北部国境地帯の作家と中国本土の赤色区域、社会主義ソ連で活動していたわが国の亡命作家たちは、朝鮮共産主義運動と民族解放偉業に積極的に寄与する斬新で戦闘的な革命文学を創造していた。彼らは白頭の峻嶺と満州広野で血戦に血戦を重ねる抗日闘士を民族の寵児として高く称賛し、彼らへの愛情と共鳴を惜しみなく示した。後日『人間問題』の作者として広く知られた女流作家の姜敬愛は、竜井で間島人民の援軍運動を描いた『塩』という中編小説を書いた。
詩人の李燦と金嵐人が国境地帯でおこなった創作活動はわれわれの注目を引いた。李燦はわれわれが西間島へ進出したのち、鴨緑江対岸の三水と恵山鎮で朝鮮人民革命軍への限りない憧憬をこめて『雪の降る宝城の夜』のようなりっぱな叙情詩を書いた。金嵐人は東崗で祖国光復会が創建された年の十一月、臨江対岸の中江鎮で表紙に赤旗を描いた同人文芸雑誌『詩建設』を創刊し、抗日武装闘争を憧憬し朝鮮の独立を祈願する革命的な詩を数多く発表した。彼は自分が経営していた印刷所で極秘裏に『祖国光復会十大綱領』を二千部も印刷してわれわれに送ってよこした。朝鮮人民革命軍の戦果に励まされて参軍を企図した作家もいた。小説家の金史良は参軍を決心して満州広野をさ迷ったが、とうとう人民革命軍を捜し出せず、延安へ足をのばして長編紀行『駑馬万里』を書いた。
新しい祖国建設の時期と反米大戦(朝鮮戦争)の時期、わが国の文壇で創作された『白頭山』『雷鳴』『朝鮮はたたかう』『鋼鉄青年部隊』などの成功作が、解放以前に革命組織に加入したか、参軍をめざした文人たちによるものであったのは決してゆえなきことではない。われわれの武装隊伍には直接参加できなかったが、銃をとった気持でペンをとり、民族の啓蒙に尽くしたこういう作家たちがいたからこそ、われわれは解放直後の短期間に朝鮮人の好みに合った新しい文化をすみやかに建設することができたのである。
わが国の愛国的芸術家と先覚者は、日本でも映画業を発展させているのに、朝鮮人だからと映画がつくれないわけはない、われわれも先進国のように映画をどしどしつくって民衆に奉仕しよう、そして映画芸術でも自立の能力があることを万邦に示そうという決意で映画芸術建設の困難な処女地を開拓していった。羅雲奎(〔3〕)など良心的な映画人は『アリラン』をはじめ民族的情趣豊かな映画をつくって朝鮮の芸術家の実力を誇示した。
一九二〇年代と一九三〇年代は、日本色、日本かぶれの濁流のなかで失われていく民族性を固守し、民族的なものを発展させようとする強烈な志向が文学・芸術の各分野で噴出していた時期である。こういう時期に、崔承喜は朝鮮の民族舞踊の現代化に成功した。彼女は民間舞踊、僧舞、巫女舞、宮中舞踊、妓生舞などの舞踊を深くきわめ、そこから民族的情緒の濃い優雅な踊りのリズムを一つひとつ探し出し、現代朝鮮民族舞踊発展の基礎づくりに寄与した。当時、朝鮮の民族舞踊はまだ舞台化の段階には到達していなかった。劇場の舞台に声楽、器楽、話術などの作品がのることはあっても、舞踊作品がのることはなかった。ところが、崔承喜によって舞踊リズムが完成され、それにもとづいて現代人の感情に合う舞踊作品が創作されはじめて以来、状況は一変した。舞踊も他の姉妹芸術とともに堂々と舞台に登場するようになったのである。崔承喜の舞踊は国内にかぎらず、文明を誇るフランス、ドイツなどでも熱烈に歓迎された。
われわれが西間島へ進出していたころ、国内では日章旗抹消事件という衝撃的な事件が起こり、そのニュースが白頭山のふもとまで舞い込んできた。この事件の発端は、『東亜日報』紙が一九三六年八月、ベルリン夏季オリンピック競技大会のマラソン覇者である孫基禎を写真入りで紹介したとき、彼の胸にあった日章旗を消してしまったことであった。怒り心頭に発した総督府当局は、『東亜日報』を停刊処分に付し、関係者たちを拘束した。そのニュースを聞いたわれわれは、孫基禎の競技成果と日章旗抹消事件を伝える講演をおこなった。人民革命軍の全隊員は、『東亜日報』編集スタッフの愛国愛族の立場と勇断に熱烈な支持と連帯を送ったものである。
『血の海』の台本ができあがると、わたしはそれを「パイプじいさん」に見せた。台本を読み終えた彼は、これなら上々だと、原稿の束を宙にふりかざし外へ飛び出していった。漫江で演劇を舞台にのせるまでのいくつかのエピソードは、戦跡地踏査記や回想記などに少なからず紹介されている。それらの文章には、記憶がうすれて正確さを欠いていたり、忘れ去られた事柄もあるようだ。ことに、李東伯の苦労がまったく語られていないのは遺憾にたえない。
自ら舞台監督の役を買って出た「パイプじいさん」は配役の問題からして難関につきあたった。誰も討伐隊長の役を受け持とうとしないのである。論議の果てに、闊達な李東学中隊長にその役を強引に押しつけた。乙男のオモニ(母)の役は最初は張哲九に割りふられたが、のちに金確実にまわされ、甲順の役は金恵順に割りあてられた。討伐隊長役の選抜に劣らず「パイプじいさん」を悩ませたのは甲順の弟、乙男の役だった。十歳前後の幼い少年の役だったが、部隊にはそれに適した小柄の人物は一人もいなかった。それで乙男の役は漫江村の少年にやらせることにした。「パイプじいさん」は演出でもだいぶ手をやいた。彼が演技指導にあたっていちばん心配したのは、乙男役を演ずる漫江の少年だった。ところが思いのほか、この田舎少年が演出家の意図をもっとも敏感に受けとめたのである。そのかわり大人の方の演技がまずくて「パイプじいさん」をやきもきさせた。演技者のほとんどが、舞台に立つとコチコチになって、なんの仕草もできないのである。
物覚えが速く多感な金恵順でさえ、いざ舞台に立つと目が据わり、せりふもぎこちなくなった。泣くべきところではまったく口を閉ざしてしまい、「パイプじいさん」がなだめたりすかしたり、怒ったりしたが効き目がなかった。彼女が自分の役を思いどおりこなせず毎回指摘されるというのは、どう考えても理解に苦しむことだった。彼女は幼いころ学費がなくて学校にも満足に通えず、学校の垣根越しに見よう見まねで文字や歌を覚えた女性である。わたしは金恵順に、彼女が祖国と間島で身をもって体験したことを一つひとつ想起させ、この演劇はまさにきみのような人が体験したことを描いたものだ、日本軍が射殺した乙男はきみの実の弟だ、考えてみなさい、ついさっきまで姉さん、姉さんと慕っていた弟が血を流して倒れたというのに、どうして姉の胸に恨みの血の涙が流れないというのだ、と諭した。その瞬間から彼女の演技は一変した。わたしは李東学をも強くたしなめた。彼が「パイプじいさん」に、討伐隊長を何人か捕えてこいというなら喜んで捕えてくるが、そんなやつのまねは口が汚れるからできないと突っぱねたからだった。それで、討伐隊長の役を上手にこなすのがきみの戦闘任務だと、二度と口をとがらせないように釘を刺したのである。
銃と背のう以外にはなにも担いでこなかった遊撃隊員がまたたく間に仮設舞台をつくり、物珍しい演劇をはじめると、漫江の村人たちは驚きの目を見張った。舞台に自分たちがへてきた生活と同じことが再現されるや、胸をかき抱いて演劇の世界に引き込まれ、しまいには甲順とともに泣き、オモニとともに叫び声をあげた。なかには、自分がいま演劇を見ていることも忘れ、いきなり舞台に駆けあがって、乙男を撃ち殺した日本軍討伐隊長に扮した李東学の頭をキセルで殴りつける老人さえいた。演劇『血の海』がはじめて上演された日、漫江の村人は一晩中寝つくことができなかった。純朴な山里の人たちは、その夜だけは零時をはるかに回っても、まだ油灯のもとで演劇の感想を語り合った。ある家からは寄り集まってはしゃいだり笑ったりする声が聞こえてきた。その夜はわたしも夜露にうたれながら長いこと村道を歩いた。公演から受けた印象を語り合い、喜びにひたっている彼らの話し声や笑い声、息づかいを聞くと、とても眠れそうになかった。わたしは比類ない芸術の力に、ただ驚くばかりであった。いまの人の目からすれば、漫江での演劇はまったく素朴なものであった。ところが驚いたことに、その素朴な公演を見てすべての観衆が泣き、笑い、胸をかきむしり、手を叩き、足を踏み鳴らすではないか。その夜、漫江村の小径を歩きながらわたしはこんな思いにふけった。
(われわれがこの村で公演をしなかったなら、あの人たちはいまごろなにをしているだろうか。許洛汝村長が言ったとおり、おそらく宵の口から油灯を消し、闇のなかで眠りを誘うか、夢路をたどっていることだろう。ところが、この夜更けにも漫江の民家には油灯があかあかと点っている。だから、われわれはこの村に灯をもたらしたことになるではないか。この村に百俵の米を担いできてやったとしても、村人たちをあれほどまで興奮させることはできなかっただろう)
漫江での演劇公演は山里の素朴な若者や老人を啓蒙し、抗日革命闘争の積極的な参加者にし、後援闘士に変えた。そのとき多くの青年が舞台に駆けあがって熱烈に入隊を申し入れた。漫江は数多くの入隊者を出した土地の一つとなり、われわれの信頼すべき後方補給基地の一つとなった。この演劇が漫江の住民にどれほど深い印象を残したかということは、二十余年後に革命戦跡地踏査団が漫江を訪ねたときにも、地元の人たちが公演のあった場所だけでなく、登場人物の名やくわしい筋書き、さらにはせりふの一部まで生き生きと記憶していたという事実によっても十分うかがえるであろう。革命軍の思想と情操は『血の海』の舞台を通じて、人びとの頭脳と心臓と肺腑に漫江川の流れのごとくひたひたと打ち寄せたのである。一口に言って、抗日革命期の芸術は暗黒を押しのける灯火ともいえ、人びとをたたかいに立ち上がらせる陣太鼓ともいえた。われわれが芸術活動を「太鼓大砲」といったのは、至極正当なことであった。
現代芸術もそれと同じ使命をおびていると思う。人間が人間らしく自主的に生きていくのに必要な真の思想と真の道徳、真の文化をもたらすのがほかならぬ現代芸術の基本的使命である。人民革命軍の隊員たちは本当に才能があった。つきつめてみれば、芸術は高尚なものではあるが、決して神秘的なものではない。この事実が物語っているように、人民は真の芸術の享受者であるばかりでなく、真の創造者である。演劇『血の海』の公演は遊撃隊員を思想的、文化的に、情操的にりっぱに成長させるのにも大きく寄与した。
解放直後、わたしは家に訪ねてきた作家たちに、漫江での芸術活動を思い起こしながら、われわれは山中で戦ったとき身近に専業の作家や芸術家がいないのをどんなにもどかしく思ったか知れない、それで自分の手で曲をつくり、台本を書き、演出もした、けれどもこれからはあなたがたが主人だ、あなたがたがりっぱな作品を書いて新朝鮮の建設に立ち上がった人民を励ますべきだ、と話したものである。
一編のりっぱな詩や演劇や小説が万人の心をゆさぶり、革命的な歌は銃剣の及ばない所でも敵の心臓を射ぬくことができるというのは、じつに抗日革命期の文学・芸術活動によってわれわれが会得した真理である。人びとを革命的に目覚めさせる過程は、革命思想に共鳴させ感動させる過程だともいえる。人間を感動させるもっとも強力な手段の一つは文学と芸術である。いつだったか、わたしは日本の有名な歌手で参議院議員だった大鷹淑子(李香蘭)に、人間の生活には歌もあり踊りもあるものだと言ったことがある。人間の住む所に生活があるのは当然であり、生活のある所には芸術があって然るべきである。芸術のない世界がどうして人間の世界といえ、芸術のない生活がどうして人間の生活といえようか。それゆえ、わたしは人びとにいつも文学・芸術を愛せよと話し、また全国の大衆に文学と芸術を享受し、創造できる人間になれと説いているのである。
われわれはこの地に、万民が歌と踊りを楽しむ世界的な芸術の王国を築き上げた。これは漫江の素朴な仮設舞台で、たいまつとランプの明かりのもとで『血の海』を上演したときの、わたしの切々たる願いであり夢であった。いまでは全国各地に数百数千の収容能力を有する劇場、映画館、文化会館がりっぱにととのっている。芸術大学も各道にそれぞれ設置されている。わたしは新しい世代がこれらの殿堂で、前の世代がうたいつくせなかった歌を思う存分うたい、白頭山の香気がただよう芸術をたえず創造してくれることを願っている。
いまは固有の朝鮮語で『ピバダ(血の海)』と呼んでいるが、もとの作品名は『血(ヒョル)海(ヘ)』だった。漫江で『血海』が上演されたあと、それを見た人たち、その演劇公演に直接参与した人たちがあちこちで『血海歌』、または『血海之唱』という題名で公演活動をつづけたようである。その過程で筋書きや登場人物の名も少しずつ変わり、ある所では自分たちにもっと身近な生活素材と入れ替えたりしたようである。当時、われわれは『血の海』についで『ある自衛団員の運命』も舞台にのせた。この演劇には、『血の海』の公演に参加しなかった他の遊撃隊員たちが競って出演した。
解放後、わが国の作家、芸術家によって、漫江で上演された作品はすべて発掘された。
『血の海』がはじめて映画化されたとき、漫江の素朴な仮設舞台にかかっていたランプとともに、むしろござに座って泣いたり笑ったりしていた村人の姿が思い出された。漫江で『血の海』を上演したとき、その成果を熱狂的に祝ってくれた忘れがたい人たちの顔がもう一度見たい。半世紀を越す歳月が流れているので、当時の老人たちはもうこの世にはいないと思うが、わたしと同年輩の人や子どもたちの幾人かは漫江に住んでいるかも知れない。乙男の役を演じた少年も、生きていれば六十代の老人になっているはずである。
4 女 性 中 隊
ひところ朝鮮人は、独立軍唯一の女傑であった李寛麟をさして「万緑叢中紅一点」とたたえたものである。しかし、パルチザンを中核とする抗日の万緑叢中には、朝鮮民族が生んだ数百、数千の紅い花が美しく咲いていた。愛国の一念に燃える朝鮮のオモニや娘たちは、男でさえ耐えがたい肉体的負担と精神的苦痛をへながらも革命の道から退かず、祖国から日本帝国主義を駆逐する聖戦に生命も青春も家庭もささげたのである。そうした誇らしい女性闘士たちを思うと、一九三六年の春、朝鮮人民革命軍の主力師団の編制とほぼ時を同じくして組織された女性中隊が思い出される。
南湖頭会議以後、白頭山への進出途上で新しい主力師団とともに女性中隊を別個に組織したのは、遊撃隊伍の急速な拡大発展と抗日武装闘争全般の新たな高揚を示唆する驚異的な出来事であったといえる。女性中隊の誕生、これは封建的束縛によって数千年来、家庭に閉じこめられていた朝鮮の女性が堂々と革命闘争の第一線に立ったことを意味する画期的な出来事であった。いまは女性の社会的地位について語るとき、「革命の片方の車輪」という表現を使っているが、抗日革命の時期には女性が革命の片方の車輪であることを肯定する人は多くなかった。まして、女性が銃をとって男子とともに長期間、武装闘争をつづけることができると考える人はほとんどいなかったと言っても過言ではない。
正直なところ、わたしも最初のころは女性の参軍は無理だと考えた。女性は男子に比べて肉体的に軟弱だという考え、あの弱々しい体で遊撃闘争のあらゆる重荷をになうことは不可能だという先入観がわたしの頭を支配していたのである。もちろん、かつて外来侵略者との戦いで世人を驚嘆させる功労を立て、賛嘆の対象となるエピソードを残した女性たちがいたことを知らないわけではなかった。敵将小西飛騨守如安を討ちとるのに手を貸した平壌の名妓桂月香や晋州の論介のような愛国女性の武勇伝はあまりにもよく知られている。『壬辰録(〔4〕)』を読んだことのある人なら、幸州山城の戦いがいかに激烈をきわめ、その戦いで果たした女性の役割がいかに大きなものであったかを生々しく記憶していることだろう。権慄将軍が京畿道高陽郡の幸州山城に背水の陣を敷き、山城を包囲した三万余の日本侵略軍と手に余る決戦をつづけているとき、地元の女性たちは投石戦を展開している味方の兵士たちにチマに石を包んで熱心に運んだ。幸州山城の女性のその短い愛国チマは後日、朝鮮の主婦が台所仕事をするときやおしゃれ用として着けるスマートなエプロンになった。幸州山城の戦いに由来するそのエプロンは「ヘンジュ(幸州)チマ」と呼ばれている。高麗時代に男装して戦場に駆けつけ、契丹の侵略軍を撃退する戦いで武勲を立てた雪竹花の話もまた有名である。
歴史は雪竹花のような個々の女傑の参戦物語はいくつか伝えているが、純然と女性だけで組織された戦闘部隊が勇躍戦場におもむき、白兵戦を展開したという記録はこれといって残していない。しかし、われわれの展開した遊撃戦では、女性が看護婦や裁縫隊員、炊事隊員といった補助的な役割だけでなく、戦闘員としての使命も同時に果たさねばならなかった。いったん入隊と決まれば、女性も冷酷な戦争の論理にしたがって動かなければならない。戦争は女性だからと、人道主義をほどこしはしない。状況によっては男子と同じように重い装具を担い幾日も強行軍をつづけなければならず、凍りついた地面に腹ばいになっ
て銃撃戦を交えたり、ときには白兵戦にも参加しなければならない。政治工作や食糧工作のため敵地に派遣されることもあり、肌を刺す酷寒のなかで土工作業などもしなければならない。積雪寒冷のさなかに露宿しながら何年、何十年戦わなければならないのか、それもわからない。こうした難関に果たして女性がたえられるだろうか。こういう死地に女性をおもむかせるのが果たして正当なことだといえるだろうか。いくら考えても心が定まらなかった。
吉林時代からわれわれの運動圏内で活動したメンバーのなかには、わたしに入隊の意思を示した女性が少なくなかった。韓英愛も遊撃闘争に参加させてほしいと泣いて願い出た。だが、わたしは東満州に向かうとき、無理やりに彼女を北満州に残した。吉林時代の少年会員のなかにも、入隊したくて敦化までついてきた女性がいたし、中部満州から手紙で入隊の意思を伝えてきた女性もいた。いずれも愛国の一念に燃えた願いではあったが、そうした要望を聞き入れてやることができなかった。当時わたしの頭の中には、女性が武装闘争に参加したいというのは出すぎた欲だ、それは男のやることだ、女性にはそれなりの仕事がある、女性を家庭から引き出して社会革命に参加させるのはよいが、武装闘争までやらせることはできないではないか、という考えがなきにしもあらずだった。
武装闘争の準備が進み、各地で遊撃隊があいついで組織されるようになると、入隊を熱望する女性の声はいっそう高まった。地下組織で活動していた女性のなかには、他人がなんと言おうと強引に遊撃隊にやってきては、うむを言わせず居座ってしまう者も少なくなかった。形勢がこうなると、われわれも女性の参軍問題を正式に論議せざるをえなくなった。女性参軍の問題が話題にのぼると、一部の既婚者は言下にその可能性を否定してしまった。女性は家事をつかさどり男子は外で活動するのが祖先伝来の慣例だ、李寛麟がひところピストルを腰にさげて独立軍について戦ったのは事実だが、それは千に一つというケースであって、普通の女性がどうして険しい山を駆けめぐり、男子でさえ苦しがる遊撃活動ができるというのか、女性を戦地に引き出すのは冒険だ、と言うのだった。さらには、女性の参軍問題など論議する余地もないと言い張る者もいた。
しかし、車光秀をはじめ他の同志たちは、そういう主張を即座に一蹴してしまった。――きみたちは、人類史に母権制が長い間存在し、その母権制のもとで男子が女性に保護されて暮らしてきた時代があったことを認めるか。わが子が火の中にあれば、そこに真っ先に飛び込むのも女性だ。まして国が血涙にひたされているというのに、女性だからといってどうして腕をこまねいていられるというのか。女性の参軍はわれわれの姉妹自身の要求であるのみか、時代の要請でもあることを知るべきだ―― 結局、女性の参軍をめぐる論争は見解の一致にいたらず、空転を重ねた。われわれは青年男子で遊撃隊を組織したのち、形勢を見ながら後日論議し直すことにした。
ところが、こうして棚上げにされていた女性参軍の問題が、なんの意見の衝突もなく全員一致であっさり決まったのである。その契機となったのは、武器奪取のための間島の女性たちの闘争ニュースだった。和竜県の大胆な二人の女性がきぬた棒で日本人巡査を叩きのめして小銃を奪い取ったという快報が舞い込んできて、女性の参軍に反対していた人たちの口を封じてしまったのである。間島全土が武器を手に入れるために立ち上がっていた時期であった。組織を通じて武器獲得の重要さと切実さを知った十八歳のうら若い金寿福は、敵の武器を奪う方法を考え抜いた末、同僚の娘と連れ立って洗濯用のくり鉢を頭に載せ川辺の一本橋のたもとに行った。数日前の大雨で橋は流され、杭しか残っていなかった。二人は終日そこで洗濯するふりをしながら機会がくるのを待った。日暮れどきになってようやく日本人警官が一人現れ、おぶって川を渡せと命じた。金寿福が警官をおぶって川に入ると、もう一人の娘も手を貸すふりをして付き添った。川の真ん中まで来ると、金寿福は靴が濡れるとばたつく警官を水中に押し込み、きぬた棒でめった打ちにした。虐殺された両親の名で復しゅうをとげ武器を奪った二人の娘は、一九三三年の夏に抗日遊撃隊に入隊した。そのとき以来、金寿福には「きぬた棒」というあだながついた。後日、人民革命軍の主力部隊で裁縫隊の責任者を務めた朴洙環もやはり、きぬた棒で敵兵を倒して武器を奪った女性である。数名の女性が組んで警官たちに酒を飲ませて何挺もの武器を奪い取った例もあった。いかなる証書といえども、彼女らが奪った武器のようには朝鮮女性の到達した精神的高さと意志を力強く証言することができないであろう。朝鮮の北部国境地帯と満州の各地域では、女性が自ら奪取した武器を手にして武装隊伍に加わっていた。
女性たちのこの急進的な進出と深刻な変化はなにを物語るのであろうか。野菜づくりでもしながら不運を嘆いていた女性が、数百年来がんじがらめにされてきた封建的束縛から大胆に抜け出し、勇躍武力抗戦に参加するまでになったのはなぜだろうか。それは武器をとる以外には生きる道のない朝鮮女性の過酷な生活がまねいた必然的な帰結であった。女性が代々受け継いだ遺産は、束縛の鎖と怨恨だけであった。朝鮮封建社会の最大の罪悪の一つは、男尊女卑の戒律により、すべての女性を無人格の存在として束縛し卑しめたことである。女性は子どもを産み、食膳をととのえ、手がふしくれだつほど野良仕事をし、機を織る、一家の下女同様に考えられていた。若くして夫に死なれても、後家を通して死なねばならないのが女性であり、身売りを強いられるのも女性だった。朝鮮を占領した日本帝国主義は、そうした不幸のうえに女性の道具化、商品化という二重の不幸を強い、亡国の民という致命的な烙印を押した。
抗日革命はそうしたすべての厄運と不条理の根源を払拭してしまう暴風であり、朝鮮の女性を革命の道に導いた世紀の出来事であった。朝鮮の女性はペンではなく、鮮血によって大地に自己の新しい歴史を記しはじめたのである。
女性入隊者の数が増えるにともない、われわれは彼女たちをいっそういたわるべきだと考えるようになった。銃を握ったとはいえ、女性はやはり女性なのだから、遊撃戦を進める困難な状況下でも女性らしい生活ができるようにしてやらねばならなかった。遊撃隊の隊伍に女性隊員が生まれたときから、われわれはつねに妹の面倒をみる気持で彼女たちに特恵をほどこした。銃もいちばんよいものを与え、寝所もいちばん心地よいところに定め、戦利品もいちばんりっぱなものを選って分け与えた。
そうする過程で、その特別待遇をさらに高め、女性隊員の隊伍を別個に編制して彼女らの生活単位と軍事行動単位を一元化する必要性を感じた。女性だけの中隊を別個に組織すれば、革命的自負と熱意をいっそう高め、自覚と戦闘力を最大限に発揮させることができ、生活上の不便も少なくすることができると考えた。それでなくても、戦闘員に加えてほしい、銃をとって両親や兄を虐殺した敵を何人かでも倒して恨みを晴らしたいというのが、女性隊員の一致した願いであった。裁縫隊、病院、炊事隊を問わず、すべての女性隊員が異口同音にそういう願いを切々と吐露した。
わたしが司令部直属の女性中隊を編制しようと決心したのは、撫松で新しい師団を編制するときだった。そのとき新しい師団の根幹となった百余名の民生団(日本帝国主義の手先団体)嫌疑者のなかには、張哲九、金確実をはじめ女性隊員が少なくなかった。民生団嫌疑者の調書が焼却され、それまでの民生団嫌疑者が全員無罪と宣言されたニュースが広がると、あちこちに隠れていた「民生団」の連累者たちがわれわれを訪ねてきたのだが、そのなかにも少なからぬ女性がいた。李桂筍、金善、鄭万金などがそういう女性だった。布団包みを頭にして現れた朴禄金のように個別にやってきた女性隊員も多く、大碱廠と五道揚岔で独自に活動していて、新師団に編入された群小部隊と一緒に集団的に入隊した女性隊員も多かった。
わたしが迷魂陣密営に行ったとき、そこにいた裁縫隊の金喆鎬と許成淑が戦闘部隊にまわしてくれとせがんで、いくら説得しても聞き入れようとしなかった。裁縫隊の全員が是が非でもわたしについて行くと言うのである。きみたちがみんなわたしについて来てしまったら、軍服は誰がつくるのだと言うと、肩代わりできる病弱な女性隊員がいくらでもいるとのことだった。確かめてみると、迷魂陣密営には裁縫隊、病院、炊事隊に必要な人員を十分割り当ててもなお余るほどの女性隊員がいるのは事実だった。残りの女性隊員は戦闘中隊に繰り入れるか、さもなければより効果的な対策を立てなければならなかった。それでわたしは、テストケースとして女性中隊を別個に組織してみてはどうかと考えた。だが、迷魂陣の女性隊員だけでは一個中隊の人員にはならなかった。わたしは崔賢に、女性隊員たちがどうしても望むなら、女性小隊を組織してみるようにと耳うちをしておいた。
「女性だけの戦闘中隊を一つ別個に組織してはどうだろうか」
ある日、朴禄金にさりげなくこう言ってみると、彼女は歓声をあげ絶対賛成だと言った。しかし、金山虎と李東学は首をかしげた。
「女性だけで満足に戦闘ができるでしょうか。女性だけでは狂暴な日本軍を相手に戦えそうにありません。中隊と小隊の指揮を男子が受け持ってやるなら話は別ですが…」
金山虎がこう言った。
「男が指揮するのでは女性中隊、女性小隊と言えないではないか。女性中隊なら指揮も女性にまかせるべきだ」
わたしは彼の意見に同意しなかった。
「でも、それが可能でしょうか」
「きみたちは士官学校や軍事大学を出て指揮官になったというのかね」
金山虎は言葉につまったが、依然として釈然としない顔つきだった。李東学も「女性中隊か、女性中隊か…」とつぶやきながら首をかしげた。わたしが女性中隊の話をもちだすと、金周賢はただちに拒絶反応を示した。女性だけの中隊を編制して戦場に送り出せば戦いが失敗するのは目に見えている、そうなれば朝鮮人民革命軍の威信はどうなるのか、と言うのだった。漫江付近で女性中隊組織の準備が進められていた一九三六年の四月ごろ、前ぶれもなく男女混成部隊がわたしの前に現れた。男女混成とはいっても、男子は四、五名にすぎず、あとは金喆鎬、許成淑、崔長淑、黄順姫をはじめ全員が女性だった。わたしが金喆鎬に、病身の崔賢を置いてなぜここに来たのかと尋ねると、ほかならぬその崔賢の指図で来たと言うのである。床を上げた崔賢は、女性隊員たちに戦闘部隊にまわしてほしいとしつこくせがまれ、そのなかから健康な女性隊員を選んで小部隊を編制し、将軍の所に行けば願いがかなえられるだろうと言ったとのことである。女性隊員たちからもちこまれた無理難題をわたしに押しつけ、彼女たちの運命までもわたしの処理にまかせようという魂胆に違いなかった。この女性小部隊の隊長は趙という弱輩の男子隊員だった。ひよこのような新入隊員が女性小部隊の隊長になって隊伍を率いてきたのがどうも不釣り合いだったので、そのわけを聞いてみると、許成淑は「わたしらのようなチマ族が崔賢同志の眼中にあるはずがないではありませんか。炊事当番をさせるくらいが関の山で、隊長をさせるはずがありませんよ」と小鼻をふくらませた。副責任者もやはり太炳烈という小柄の年若い新入隊員だった。しかし、実際に隊伍を管理し率いてきたのは見るからに大柄の崔長淑だった。彼女は銃と背のうのほかにも、米をぎっしりつめた袋が入っている鉄釜と炊事道具、それに斧やのこぎりまで背負ってきたのだが、荷物のほうが人より大きいくらいだった。許成淑の荷もそれに劣らなかった。正直に言って、それまで遊撃隊生活をしながら、男女を問わずこの二人のように大きな荷を背負った隊員を見たのははじめてだった。崔長淑の荷をおろしてやったが、それはわたしの力にも余るほどだった。
「百人力だ!」
わたしが感嘆すると、太炳烈が「長淑姉さんはギョーザをいっぺんに百個もたいらげるんです。六十個をぺろりとたいらげ、歩哨勤務を終えてからまた四十個たいらげてもきれいに消化してしまう女大将なんです」とおどけた。とたんに爆笑が起こった。崔長淑は太炳烈を横目でにらみつけながら、それは真っ赤なうそだと弁明した。
「それがどうしてうそだというのだ。ギョーザをいっぺんに百個ぐらいたいらげられなくては、こんな大きな荷が担げるかね」
わたしが太炳烈の肩をもつと、みんなはまたひとしきり笑いこけた。
その日、わたしはそれとなく男女隊員の力くらべを仕組んだ。熊のような怪力といわれている男子隊員を呼んで、まず許成淑の背のうを背負わせてみた。彼は幼いときから野良仕事で鍛えられた人で、汪清一帯では指折りの相撲取りとして知られていた。餅を水につけて三十五個も食べたという大の餅好きでもあった。彼は許成淑の荷を担いで難なく立ち上がった。わたしは套筒(旧式小銃の一種)を二挺肩にかけてやりながら、その状態で休憩せずにどれくらい行軍できそうかと尋ねた。四キロくらいは休まずに行けそうだとのことだった。今度は崔長淑の荷を担がせてみた。彼は地面に手をついてやっと立ち上がった。さっきと同じように套筒を二挺肩にかけてやり、これならどれくらい行軍できそうかと聞くと、せいぜい二キロくらいだと答えた。崔長淑にその荷を背負ってどれくらい行軍したのかと尋ねると、てれて答えなかった。彼女に代わって金喆鎬が、大蒲柴河で戦闘したあと、ここまで休みなしで行軍してきたと答えた。それを聞いて全員が目を丸くした。大蒲柴河からここまでならほぼ四〇キロの距離である。男子隊員と崔長淑の力くらべでは崔長淑が勝ったわけである。
わたしは大蒲柴河付近での女性小部隊の戦闘について許成淑に語らせた。許成淑は顔が浅黒く、体格のがっちりした女性隊員だった。人情に厚い反面、口数が少なかった。だが、必要なことは直截に言ってのける一本気な性分だった。崔長淑を「先鋒大将」とする女性小部隊は、わたしを訪ねてくる途中、食糧が切れて苦労した末に山中である反日部隊に会い、彼らとの共同作戦で大蒲柴河付近の集団部落を奇襲した。女性隊員たちはその戦闘で男子隊員に劣らぬ闘魂を発揮した。反日部隊はりっぱな新式小銃をもっていたが、退却していた満州国警察隊が反撃に転ずるや、臆病風に吹かれてクモの子を散らすように逃げ出した。しかし崔長淑らの女性小部隊は旧式の套筒で敵を物の見事に撃破した。さらには、反日部隊が占めていた地点に攻め寄せる敵までも一手に引き受けて掃滅した。とくにその日、犠牲的に戦ったのは歩哨に立っていた女性隊員だった。彼女は脇腹に銃創を負って血を流しながらも、頑強に敵を牽制した。彼女の射撃で敵兵がつづけざまに倒れた。敵が死体を引きずって逃げはじめると、女性隊員たちは喊声を上げて突撃に移った。反日部隊の隊長は逃げ出す部下たちに向かって「この意気地なしめら! 朝鮮の女たちは套筒でもあんなに勇敢に戦っているというのに、おまえらは逃げ出すのか!」と怒鳴った。隊伍から離脱した反日部隊の隊員たちは、そのときにやっともどってきて追撃戦に加わった。戦闘は勝利のうちに終わった。この戦闘談を聞き、誰もが女性隊員たちの勇敢さと大胆さ、堅忍不抜の精神に感嘆した。
一九三六年四月、漫江付近の林の中では女性中隊の誕生が正式に宣言された。この中隊は司令部直属にし、小隊と分隊もわたしが編制してやった。初の中隊長には朴禄金が任命された。この女性中隊はわが国の建軍史上はじめての女性戦闘区分隊であった。女性中隊の誕生は数千年来、宿弊となっていた男尊女卑の思想と因習を打破し、女性の精神的・社会的地位を実際に男子と同等の地位につけた一つの出来事であった。古来、男尊女卑がもっともはなはだしく適用され発現したのは、政治分野よりも軍事分野である。もちろん、政治分野でも女性の参政権はほとんど認められなかった。だが、男性にたいする魔力のごとき女性の陰の支配力や影響力が政治や政治家に及んで、国の存亡まで左右した例は多い。しかし政治分野では、ときとして帝王や軍司令官をしのぐ力があったという女性も、軍事分野ではこれといった力を発揮することができなかった。軍事はほとんど男子の独壇場となっていた。われわれは軍事分野での男女平等を実現することにより、それが革命軍に限られたものであるにせよ、女性解放を実際のものにしたのである。
女性中隊の出現は、朝鮮人民革命軍の全民族的な幅と人民的な性格をきわだたせたという点でも意義があった。革命軍に女性中隊があり、その隊員が男子の軍人に劣らずりっぱに戦っているということは、やがて全民族の知るところとなり、世界を驚嘆させる意義深い話題となった。一九三〇年代後半期の朝鮮国内の新聞に、「
女性中隊を組織した後、われわれはそれが独り立ちできるように細やかに気を配って導き、実戦を通じて鍛えた。女性隊員の政治的熱意と自覚を高めるため、機会あるたびに感化に役立つ話もした。小湯河に留まっていたとき、女性中隊員にキム・スタンケビッチの話をしてやったことが思い出される。キム・スタンケビッチとは、ロシアに生まれ育ち、共産主義偉業に生涯をささげた有名な朝鮮の女性闘士である。本籍地は咸鏡北道慶源郡である。彼女は師範大学を卒業すると小学校の教師になったが、ロシア領内に来る同胞と亡命者が増えてくると教壇を去ってウラジオストクヘ行き、ロシア各地に散らばっている朝鮮人労働者の権益を擁護して献身的にたたかった。ツァーが打倒されたのち、ボルシェビキに入党した彼女は夫と子どもらを家に残して十月革命の獲得物を守る職業革命の道に立った。そしてハバロフスクのボルシェビキ極東部で対外活動を担当する一方、朝鮮独立運動家の李東輝、金立らに働きかけて韓人社会党を組織するよう熱心に後押しした。彼女のめざましい活動は沿海州はもとより、ロシア全土の朝鮮同胞の賛嘆の的となり、積極的な呼応を受けた。極東地方の形勢が反革命に有利に変わり、ボルシェビキ極東部がハバロフスクから撤収することになったとき、彼女は最後まで残り後始末をつけてから汽船に乗った。しかし、不幸にもアムール川の船上で白衛軍に捕われ、銃殺された。最期の瞬間に彼女は敵に向かってこう叫んだ。
「わたしは死を恐れはしない。卑劣で悪らつなおまえたちの命も長くはない。喪家の狗のごとき輩が共産主義を倒すというのは妄想だ」
そのとき、彼女の年は三十四歳だった。キム・スタンケビッチとともに、雪竹花、桂月香、柳寛順、李寛麟など有名な女傑たちも女性隊員の親しい精神的朋友となった。
女性中隊は誕生するやいなや人びとの注目を浴びた。どこへ行っても人民の愛情と尊敬を独り占めにした。五角の星が鮮やかな軍帽をかぶり、肩に騎兵銃をになった女性隊員の姿が遠目に見えても、人びとは「女の軍隊が来た!」と叫びながら村中を走りまわった。女性中隊が人びとに格別に愛されるようになったのは、まず女性隊員がいかなる状況にあっても気高く美しい道徳的品性をもって誠心誠意人民を助け、敬い、品行方正だったからである。どの村に駐屯しても、主人の家の庭を掃き清め、水を汲み、台所をかたづけ、畑の草取りをする女性隊員の姿を見ることができた。女性隊員は村人の前で踊ったりうたったりし、演説をしたり文字を教えたりもした。女性中隊は朝鮮人民革命軍の誇りであり貴い花であった。
実際のところ、発足当初の女性中隊の武装は貧弱なものであった。大部分が旧式の套筒であったが、なかにはそんな銃すら持っていない隊員もいた。彼女たちに軽くて格好のよい騎兵銃をになわせたかった。それで数回戦闘をしかけたが、騎兵銃はなかなか手に入らなかった。そのうち、西南岔付近に駐屯している満州国軍の守備隊が馬に乗って歩きまわっているという情報を入手した。偵察を通じて、その守備隊が兵舎を設営していることを知ったわたしは、工事場を襲撃することにし、その任務を女性中隊に与えた。そして彼女たちを力づけようと、工事場の近くまで同行した。その戦闘はきわめて印象的だった。いまにも大雨が降り出しそうな空模様だったので、敵兵は作業を中止し、歩哨の警戒も緩んでいた。朴禄金中隊長の銃声を合図に、工事場の付近に伏せていた女性隊員はいっせいに飛び出し敵兵の胸に銃口をつきつけた。あちこちから「手をあげろ!」「手をあげろ!」というするどい声が響いた。一人の敵兵が銃架から銃を取って反抗しようとしたが、張正淑がすばやく銃床で殴り倒した。戦闘は十分足らずで終わった。数名を殺傷し、あとは全員捕虜にした。数十挺の狙撃兵器をろ獲したが、残念なことに戦利品の中に騎兵銃は一挺もなかった。捕虜の話によれば、騎兵銃は騎馬巡察に出た者が全部持っていったということだった。彼らは自分たちを襲撃し生け捕りにしたのが女性遊撃隊であることを知って、驚きを禁じえなかった。
女性中隊はその後、数々の戦闘で輝かしい偉勲を立てた。大営戦闘や東崗戦闘も女性中隊が見事な腕前を発揮した戦闘である。女性中隊はどの戦闘でも忘れがたい手柄話を残した。張正淑は大営戦闘のとき弾丸を惜しみ、敵の歩哨を拳で殴り倒して突撃路を開いた。金確実をはじめ三人の女性隊員がおぼろ月夜に、銃弾を一発ずつ撃って敵の警備電話線を断ち切ってしまったという神秘めいた話も東崗戦闘が残したものである。歴史家の話によると、女性中隊の活動については、朝鮮総督府管下の咸鏡南道警察部がかなりの記録を残しているという。そこには、
祖国のために花のような青春をささげた抗日革命烈士の群像を思い起こすたびに、そのなかにいた女性中隊員と大胆無比の女傑たちがしのばれる。女性中隊の初の中隊長朴禄金は中隊をりっぱに統率した。多くの戦友は、彼女の特徴を一言で女傑と表現した。朴禄金が四十一文(約二十六センチ)の地下たびをはいていたといえば、おそらくびっくりする人もいるだろう。遊撃隊の戦利品のなかには地下たびなども多かったが、そんなに大きなものはまれだった。そのため、朴禄金はわらじばきのときが多かった。彼女は汪清にいた当時は区婦女会の主任まで務めたことのある女性活動家だった。暮らしがあまりにも貧しくて、嫁ぐとき布団一組も準備できず、着古しで婚礼をあげた。夫の姜曽竜の方もやはり赤貧洗うがごとしで、初夜の寝具すらととのえられなかった。夫婦は同時に入隊し、汪清遊撃隊の第一中隊に配属された。ある日、第一中隊の政治指導員がわたしのところに来て、朴禄金がお産をしたのだが、彼女が留まっている実家にはおくるみ一つつくる布切れもないと心配するのだった。その話を聞いて急いで行ってみると、本当に布団はおろか、それらしきものさえ見当たらなかった。男やもめの暮らしで娘の産後の面倒までみるのに弱り切っていた彼女の父親は、あいつぐ敵の討伐で転々と住居を変えてきたので、布団などいつ使ったものやら思い出せないくらいだと言うのであった。赤児はぼろに包まれていた。わたしはただちに小部隊を派遣して、布団用の布を手に入れた。裁縫隊員は夜を徹して、それでふんわりした厚手の夫婦用布団と赤児の布団と衣服をつくって送り届けた。ところが朴禄金夫婦は、赤児の衣服と布団は使いながらも、自分たちの布団は使おうとせず、大きな風呂敷に包んで箱の上に大事にたたんでおいた。身を刺すような寒い日でも、その布団には手をつけようとしなかった。姜曽竜が第七中隊の小隊長になって安図独立連隊へ行ったあと、汪清部隊に残っていた朴禄金は、夫の所属する部隊がわたしの部隊に編入されることになったといううわさを聞き、訪ねる決心をした。実家を発つとき、彼女は例の布団を父親に譲ろうとした。だが父親は、金隊長がおまえたちに下さった大事な布団だからおまえたち夫婦が使わねばならぬと言って、無理やりにそれを持たせた。朴禄金が持ってきた布団包みは、そのまま彼女のあだなになってしまった。戦友たちは名前のかわりに彼女を「布団包み」と呼んだのである。
朴禄金は見かけはむっつりしていたが、思慮深く人情味のある女性だった。人あたりがよく、地下工作の適任者でもあった。こういう点を参酌して一九三七年の初めに、彼女を長白県新興村へ政治工作員として派遣した。彼女に与えた任務は、権永璧、李悌淳を助けて、長白県上崗区一帯の女性を祖国光復会に結集することであった。彼女はその任務の遂行に努めたが、不辛にも敵に逮捕され、投獄された。彼女は李悌淳のように、他人のしたことまで全部自分の仕業だと陳述して、少なからぬ革命家を釈放させた。拷問で血まみれになった同志が意気消沈して監房に倒れていると、革命歌をうたって起き上がらせた。恵山警察署から咸興刑務所に移送されてきた朴禄金は、結核患者が収監されている房に押し込まれた。感染して監獄で死ねというにひとしかった。同房の結核患者は定平農組事件に連座して逮捕された金という名の女性だった。朴禄金は自分の体のことは考えず、重病のその女性を親身になって看護した。死に瀕したその女性はしばらくして保釈になったが、そのかわり朴禄金が病気に感染して床に臥す破目になった。仮釈放された女性の家族が恩返しにと絹のチョゴリと餅を差し入れに来たが、監獄当局はそれを許さなかった。一生涯、人のために多くの愛情をそそいできた人情深いこの遊撃隊の女傑は、仮釈放された女性が臨終を前にして示した涙ぐましい誠意すら受けられず、病苦にさいなまれた末、ついに獄中で目を閉じた。
女性隊員のなかには馬東煕の妹の馬国花もいた。馬国花はわれわれが西間島地方に進出して活動したとき、十七道溝の坪崗徳でわれわれの部隊の政治工作員であった金世玉の影響を受けて遊撃隊に入隊した。金世玉は馬国花の師であり恋人でもあった。祖国の解放を成就してから所帯をもとうと約束した二人は、すべてを未来に託し、ひたすら革命のために奮闘した。ある日、炊事当番だった馬国花は、台所でトウモロコシがゆを戦友たちの食器についでいるうちに、二人分が足りないことに気づいた。一人分は自分が一食抜けばそれですむが、あとの一人分はどうしたらよいのか。こういう苦しい立場に立たされためらっていた彼女は、金世玉に了解してもらうことにした。兵舎の外に金世玉を呼び出して苦しい事情を話した。
「世玉さん、わかってほしいの。今晩だけはあなたの分がないものと思って一食抜いてください。本当にすまないわ」
「すまない? こんなときは当然ぼくが一食抜くべきさ。そのかわり、祖国が解放されたら食事のたびにおかわりするから、そのつもりでいてもらおう」
金世玉はこんな冗談まで言って、明るい顔できびすを返した。その夜、馬国花は水で飢えをしのいだ恋人を思って寝つくことができなかった。自分が飢えたことは意に介さなかったのである。
彼らは二人とも祖国解放の日を見ずに戦死した。馬国花が戦死したのち、女性隊員たちは彼女の背のうの中からひとつがいの鶴を縫い取った布団皮を発見した。きびしい風雪のなかで馬国花が結婚用にととのえた持参品だった。世の中にこれほど貴く、これほど悲しい持参品がまたとあろうか。いかんせん、女性戦士は殺伐たる荒野に倒れ、花開かぬ青い夢だけを異郷に残して逝ったのである。女性隊員たちは、その布団皮で故人の屍を包んだ。
女性中隊は誕生して半年ほどしか存在しなかったが、祖国が永遠に記憶し、人民が末長く見習うべき不滅の偉勲を残した。抗日革命の第一線で武器を手に強敵日本帝国主義を相手に血みどろの戦いをつづけてきた女性戦士こそは、現代朝鮮女性の輝かしい鑑であり、人類解放闘争史の典型ともいうべき女性英雄である。彼女たちは女性の社会的・人倫的平等を真っ先になしとげ、わが国における女性解放の道を血潮をもって切り開いた先駆者であった。
わが労働党時代は、抗日革命闘争期に女性中隊員が発揮した白頭の革命精神と闘争伝統を継承した無数の女性英雄と女性活動家、女性労働革新者を世に出した。安英愛、趙玉姫、李洙徳、李信子、鄭春実をはじめ現代が生んだ女性英雄の思考と実践を支配したのは白頭の精神であった。わが国の数百万の女性は今日もこの精神で、この地になんぴともあえて侵すことのできない社会主義のとりでを築いている。
今日わが人民軍には、抗日の革命伝統を継承した多くの女性区分隊がある。銃を握って祖国の防衛線を守っている女性戦士は、ただ人民軍の女性区分隊にのみあるのではない。労農赤衛隊、赤い青年近衛隊にも銃を手にした女性隊員はいくらでもいる。全人民の武装化が実現したわが国では、人口の半数を占める一千万女性のすべてが、有事の際に祖国の寸土をも死守するために銃をとって戦う準備をととのえている。この一千万女性武装隊の原型が、ほかならぬ朝鮮人民革命軍司令部直属の女性中隊なのである。
5 白頭山密営
われわれが漫江村を発ったのは、季節外れのジャガイモの花がいまを盛りと咲いている八月の末ごろだった。収穫の時期を待っていた火田では麦の取り入れがはじまっていた。隊伍は黙々と南へ進んでいた。戦友たちは連隊政治委員の金山虎から若年の伝令兵である崔金山や白鶴林にいたるまで、誰もが白頭山地区進出の意義をあまりにもよく知っていた。
白頭山は軍事地形学的見地からすれば「一夫関に当たれば万夫も開くなし」の自然の要害といえた。言わば、守り手には有利で、攻め手には不利だということである。遊撃戦の拡大にあたっては、白頭山にまさる基地はなかった。高麗の尹瓘(〔5〕)や李朝の金宗瑞(〔6〕)も、ほかならぬこの白頭山地区にあって輔国開拓の重任を果たした。南怡(〔7〕)将軍もやはり白頭山の軽石の上で天下平定の雄大な夢を描いた。白頭山こそは朝鮮人民革命軍がよりどころとすべき最適のとりでであった。朝鮮人民革命軍が白頭山に新しい形態の根拠地を設けて国内への進出を強めるからといって、これまで満州の地でわざわざ開拓してきた活動舞台を放棄するようなことは考えられなかった。白頭山を拠点に朝鮮と中国双方の境域を行き来しながら縦横無尽の戦いを進めようというのであった。われわれは天険の白頭山を軍事的要害としてのみ重視したのではなく、それがもつ精神的意味もまた重視した。白頭山はわが国の祖宗の山で朝鮮の象徴であり、五千年の悠久な歴史を誇る民族史の発祥地である。祖宗の山―― 白頭山を朝鮮人がどれほど仰ぎ見たかは、白頭山将軍峰の裾の天池のほとりにある岩に「大太白・大沢守竜神碑閣」と刻まれているのを見てもよくわかる。国家の存立が深く憂慮された二〇世紀初に、大倧教や千仏教関係の人物である天和道人によって立てられた石碑である。それは白頭山を守る天池の竜神がこの国の民に無窮の安寧を与えてくれることを祈願したものだった。
白頭山にたいする崇拝はとりもなおさず朝鮮にたいする崇拝であり、祖国愛であった。わたしが幼いころから白頭山を祖宗の山としてとくに愛し崇拝してきたのは、朝鮮民族としての自然な感情であった。高句麗の領土拡張時期の扶芬奴や乙豆智の話を聞き、南怡将軍の雄渾な詩句を口ずさみ、尹瓘や金宗瑞の輔国開拓の話に耳を傾けながら、わたしは白頭山に宿る烈士たちの愛国精神に感動し魅せられたものである。成長するにつれてわたしの心にますます高くそびえ立ってきた白頭山は、朝鮮の象徴であると同時に、解放壮挙の象徴となった。白頭山に陣取ってこそ民族の総力を抗争の広場に呼集し、その抗争の最終的勝利を達成することができるという思想は、一九三〇年代前半期の抗日革命闘争がもたらした総括であり、当然の帰結でもあった。
漫江から白頭山へ行くには多谷嶺を越えなければならなかった。多谷嶺は山里で老いた狩人でさえ方角を見失いやすい太古の原始林に覆われていた。三か月前に先発隊の使命をおびて長白に派遣され、任務を果たして帰ってきた金周賢が案内役になって隊伍を導いた。彼が引率した小部隊は白頭山方面に進出し、その一帯の敵情と地形を偵察し、住民の動向を調べながら手ごろな密営候補地を探索する一方、部隊の進出路を首尾よく開拓していた。われわれは漫江川に沿って谷間の奥に足を向け、多谷嶺のうっそうたる原始林に踏み込んだ。季節からすれば夏はまだ終わっていなかったが、高山地帯の広葉樹は色付き、冷気が
ただよっていた。
われわれは多谷嶺を越えるこの行軍途上で、二十六回目の国恥日(朝鮮が日本に併呑された一九一〇年八月二十九日)を迎えた。漫江を発ったわれわれが足ごしらえをし直して南下行軍を急いでいたその時期はまた、第七代朝鮮総督に任命された日本陸軍大将南次郎のソウル到着とほぼ時を同じくしている。わたしは撫松県城戦闘の前に、宇垣一成の後任として南次郎が総督に任命されたことを紙上を通じて知っていたし、彼がわれわれと前後して朝鮮に踏み込むであろうことも推測していた。南次郎のソウル到着と朝鮮人民革命軍の白頭山進出が相前後したことは、われわれの心理に微妙な刺激を与えた。
日本の朝鮮占領が厚顔無恥な強盗行為であったことは周知の事実である。彼らは当初からその占領を合法的で正当なものと描写したが、「併合」はあくまでも徹底した強盗行為であった。強盗には強盗なりの生活哲学がある。他人のものを強奪しておきながら、それを取りもどそうとする主人を逆に強盗だと強弁するのである。盗人たけだけしのたとえどおり、日本帝国主義者が朝鮮人民革命軍にたいする卑称「匪賊団」「馬賊団」「共匪団」といった類の表現は、いずれもそうした強盗の論理によって考案された蔑称である。強盗が羽振りをきかせる世の中では、すべてが逆になるものである。招かれざる客の南次郎はわがもの顔で白昼堂々とソウルに足を踏み入れるのに、主人であるわれわれが道なき密林をかきわけ自分の国にひそかに入らなければならないとは、なんと痛嘆すべきことか。
多谷嶺を越えると、わたしは本来の行軍計画を変更し、鴨緑江沿岸を迂回して白頭山へ入ることにした。国境地帯の人民にも会い、国内の同胞にわれわれの銃声を聞かせようという考えだった。われわれが最初に立ち寄ったのは徳水溝だった。部隊には李済宇と亨権叔父が指導した長白地方の地下組織で長年、青年運動にたずさわって入隊した大徳水出身の姜現珉という新入隊員がいた。彼が革命軍に入隊したのは、われわれが撫松地方で活動していたときだった。彼はアヘンを持ち歩きながら牛商いのために撫松に足しげく出入りしているうちに、工作員の斡旋でわたしに会い、遊撃隊にも入隊した。われわれは姜現珉や金周賢の先発隊を通じて徳水溝一帯の住民の動向を具体的に調べた。
徳水溝は長白一帯の住民地区のなかでも革命化がもっとも進んでいた土地である。そこには三・一人民蜂起後、独立運動家たちによって開拓された反日愛国闘争の伝統と、その闘争を通じてたえず鍛えられてきた信頼できる大衆的基盤があった。徳水溝は姜鎮乾の指導した独立軍の本拠地だった。独立軍は徳水溝に四年制の小学校を設立し、青少年と農民の啓蒙活動にもあたった。八道溝にいた当時、わたしの父もしばしばこの地に足を運んだものである。独立軍関係団体の解体によって独立軍運動が衰退期に入っていたころ、李済宇の武装グループが「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」の綱領をかかげて徳水溝に進出し、軍事・政治活動を展開した。李済宇が逮捕されたあとは亨権叔父が崔孝一、朴且石とともに徳水溝を拠点に、この一帯の大衆を意識化、組織化した。彼らの努力によって、長白地方には白山青年同盟の傘下組織が結成された。この同盟は政治・軍事訓練所を設置し、多数の政治工作員と遊撃隊の後続隊を育てた。朝鮮革命軍武装グループが国内へ向かい、同盟の少なからぬ幹部が投獄された後も、同盟員たちは地道な地下闘争をつづけた。
われわれは多くの愛国志士と共産主義者によって啓蒙され革命化された大衆的基盤に期待をかけていた。部隊が徳水溝付近に到着すると、金周賢は先発隊として活動したときに信頼できる人物として目星をつけておいた廉仁煥老の家にわたしを案内した。部屋のどこを見ても貧窮にあえぐ田舎医家と見てとれた。鍼術にたけていて徳水溝一帯はもとより、長白、臨江、さらには鴨緑江の向こうからも橇や牛車で招かれるという評判の医者でありながら、薬の元金すら回収できず、妻は毎日パガジ(ひさごの容器)をチマに隠して米をもらい歩く有様だったという。以前、医院の看板をかかげていた八道溝と撫松時代のわが家を思い起こさせる暮らしだった。
廉老人はすすんでわたしの脈をとり、過労のうえに食をおろそかにしたため気力が衰えていると言って、野生の朝鮮人参を一本差し出した。漫江の許洛汝老もわれわれとの別れぎわに、保養の足しにと張哲九と白鶴林に野生の朝鮮人参を何本か渡したという。
「日本軍と満州国軍が撫松で、金将軍の率いる抗日連合部隊にやられて数百人もおだ仏になったと聞きましたが、本当ですかな?」
老人の質問だった。撫松県城戦闘のニュースはすでにここまで伝わっているようだった。わたしが本当だと答えると、老人はひざを打った。
「よくぞやってくれました! これで朝鮮も生き返ったようなもんですわい」
われわれに一夜の宿を提供し、一食のジャガイモ入り麦飯を供応したかどで、後日、廉老人は二道崗警察署に引っ立てられて虐殺された。老人がこうむった不幸を思い起こすと、いまでも身震いがする。いつか小部隊を率いてその地方を通過した機会に、わたしはわざわざ廉老人の墓を訪ね、神酒をついでお辞儀をした。
翌日、われわれは夜明けの露を踏んで大徳水に向かった。眼下に村が見下ろせる台地で、蒸したジャガイモで簡単な朝食をすませた。李東学中隊長には、旗竿を用意し、大徳水に下りて行くとき隊伍の先頭で旗を高くかかげ、ラッパを吹き鳴らすよう指示した。萎縮している人民に朝鮮人民革命軍の威風堂々たる姿を見せてやりたかったからだ。われわれを迎えた大徳水住民の喜びと驚きは大変なものだった。新式の小銃に機関銃までそろえた数百名の朝鮮の軍隊が白昼に、それも旗をかかげ天地をゆるがすラッパの音を響かせて現れたのは、村はじまって以来のことだという。
わたしはこの土地の人たちにも漫江でのように演劇を見せるつもりで仮設舞台を準備させた。ところが、昼食後に幕をあけようとした公演計画は実現できなくなった。食膳に向かおうとしたとき、不意に敵が押し寄せてきたのである。それで黄色く実った麦畑をはさんで戦闘がはじまった。すっかり実った穀物に被害が及ぶのではないかと気をもんだことをいまでも覚えている。敵は麦畑の向こうから、うねまづたいに接近してきた。敵が麦畑をほとんど抜け出すのを待って射撃の合図をした。隊員はこの戦闘で見事な腕前を発揮した。敵は数十名の死傷者を出し、二道崗方面へ退却した。これが長白に進出しての初の戦闘だった。大徳水で響かせた初の銃声によって、われわれは朝鮮人民革命軍が白頭山に進出したことを祖国の人民に知らせ、敵にも知らせたのである。
村は祝日のようににぎわった。隣村の人びとまで大徳水に集まってきて、われわれの勝利を祝ってくれた。村人はジャガイモの餅やノンマ麺(ジャガイモの澱粉でつくった麺)をつくってもてなし、隊員たちは歌と踊りでそれにこたえた。わたしがアジ演説をぶつと、それは大きな反響を呼んだ。カイゼルひげの老人はこう言った。
「将軍が白頭山で『朝鮮独立のために戦う気のある者はみなここに集まれ』と号令だけかけてくだされ。そうすれば三千里津々浦々から人びとが雲集するでしょう。わしも腰まがりの老体とはいえ、犬馬の労をいといはしませぬ」
あとで知ったことだが、こういう励ましの言葉をかけてくれたのは小徳水の「せむしじいさん」だった。この「せむしじいさん」については「パイプじいさん」もよく知っていた。「パイプじいさん」が軍備団で咸鏡南道通信事務局長を務めていたころ、「せむしじいさん」はそこで中隊長として活動していたというのである。「パイプじいさん」は十余年ぶりに感激的な再会を果たした古い戦友を誇らしげに紹介した。
「せむしじいさん」の本名は金得鉉だった。金世鉉という呼び名は独立軍当時から使いはじめた仮名だった。彼は先天的なせむしではなく、ただ背骨がひどく曲がっているだけだった。青年のころは腰のしゃんとした胸幅の広い、釣り合いのとれた体だった。その彼がせむしのように腰が曲がってしまったことには、敬意を表して然るべきいわれがあった。彼は咸鏡道生まれだったが、「併合」直後の陰うつな時世に生きる道を求めて徳水溝に移住してきた。この土地は、後にしてきた故郷と祖国へのノスタルジアにひたって生きる流浪民の開拓村だった。失った祖国を取りもどし、故郷へ帰る道を開いてくれるという軍備団が徳水溝に組織されると、金得鉉はためらうことなくそれに入団した。彼は軍備団の資金調達のため、十三歳の大事な娘を他人の養女にすることもためらわず、武器を手に入れるため内戦たけなわの遠いロシアにまで足をのばし、その戦場にも飛び込んだ。しかし、十余年にわたる献身的な活躍のために、後日、他の団友たちよりも長い監獄生活をしなければならなかった。囚人たちは日に十四、五時間も手動織機による機織り仕事を強要された。少し腰をのばしただけでも、鞭と棍棒が容赦なく背中に打ちおろされた。七、八年もつづいたそのおぞましい苦役は、とうとう金得鉉をいまのような体にしてしまった。「せむしじいさん」は廃人のように見えたが、その胸にひめた愛国の熱情と闘争意欲は少しも衰えていなかった。彼が李済宇の武装グループに真っ先に吸収されたのはゆえなきことではなかった。彼は金周賢と会ったときから、われわれの白頭山進出を一日千秋の思いで待ちわびていたと打ち明けた。金周賢は先発隊として長白へ来たとき、すでに彼と親交を結んでいた。
簡単な演芸公演と演説を終えてから、わたしは部隊に撤収命令を下した。村人たちは、なじんだばかりなのにすげなく行ってしまう法があるか、一晩だけでも泊ってほしいと懇請した。それでわたしは、敵が増援部隊を繰り出していつ攻め寄せるかわからないから、われわれが立ち去れば村が被害をこうむらずにすむ、と発たざるをえない理由を説明した。撤収のさい、道案内をつとめてくれたのはほかならぬ「せむしじいさん」だった。
わたしは金得鉉老に「祖国光復会十大綱領」と「祖国光復会創立宣言」をプリントしたパンフレットを手渡した。鴨緑江沿岸に進出してこのパンフレットを与えた最初の人は彼だった。それからしばらくして、徳水地区には祖国光復会の下部組織が生まれた。「せむしじいさん」は十六道溝の一分会のメンバーになった。徳水地区の末端組織のなかでも、その分会がもっとも中核的な組織だった。今日の朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)のように模範分会という称号があったなら、その分会が真っ先に模範分会になっていたはずである。金得鉉老は数匹の犬を飼っていた。嗅覚が非常にするどいその猛犬のため、密偵や警官はうかつに彼の家に近付けなかった。それらの犬は不思議なくらい人を嗅ぎ分けた。味方の人ならはじめての訪問者でも吠えなかった。金周賢、金確実、金正淑をはじめ個別工作に出る小部隊のメンバーや連絡員が徳水地区へ行くと、「せむしじいさん」のおかげをこうむったものである。
いつか、金正淑は単独任務をおびて長白県中崗区方面へ行ってきたことがある。われわれが白頭山に進出したその年の初冬だった。当時、個別任務を受けて出る者は、道中の食糧として生米ではなく握り飯や蒸したジャガイモのような即席の食べ物を携帯した。間島の抗日根拠地でも、個別任務にあたる連絡員はそうしていた。幾人もの人がグループで行動するときは見張りを立てて炊飯することもできたが、一人では火を起こして飯を炊くことはできなかった。「山の人」(遊撃隊のこと)のしるしになるからだった。正淑も蒸したジャガイモをいくつか携帯して腰房子を発ったのだが、途中で凍った乾(ひ)葉(ば)を食べている老婆と子どもに出会った。正淑はあまりにも悲惨な情景を目のあたりにして涙を流した。そして持っていたジャガイモをそっくり渡し、おぼつかない足でやっと山道をよじ登った。後日、正淑は自分がどう「せむしじいさん」の家までたどり着いたのかわからないと語った。我に返ると、「せむしじいさん」夫婦が自分の両脇に座っておもゆの食器とさじを手にしたまま涙ぐんでいたと言うのである。老夫婦はおもゆや緑豆のチジム(お好み焼の一種)をつくり、親鶏までつぶして正淑を手厚く介抱した。そういう介抱がなかったら、自分は生きて白頭山密営に帰れなかっただろうと、正淑は解放後もたびたび語ったものである。
「せむしじいさん」は、われわれの密営にも何回となく足を運んだ。不自由な体で援護物資を背負ってきては、機をうかがってそっとわたしの所に来たりした。半截溝戦闘のときにも彼は道案内をしてくれた。一九三九年に小徳水の林の中でメーデー祝賀大会を催したときには農民代表として参加し、われわれを喜ばせた。だが一九四二年初に「せむしじいさん」が病死したという悲報に接した。わたしは白頭山にいたころも、その後も「せむしじいさん」をしばしば思い出したものである。
一九四七年十一月、設立されて間もない万景台革命学院の院児に着せる制服ができあがったという報告があったので、それを着用した院児の姿が見たくて数名よこしてもらったことがある。そのとき、わたしの家に来た子どものなかには「せむしじいさん」の息子の金秉淳もいた。その後、学院を訪ねた金正淑は秉淳と個別に会い、遊撃隊時代からの愛用品だった万年筆を握らせ、熱心に勉強するようにと励ました。一九四九年八月、金秉淳は真新しい将校服に小隊長の肩章までつけてわたしと金正淑のまえに現れた。警備小隊長として配置されてきたのである。まったくの奇縁というほかなかった。その日から彼は一日としてわたしのそばを離れたことがなかった。正淑を失った悲しみもともにし、忠清北道水安堡の前線司令部にも同行し、慈江道高山鎮の
小徳水の台地で宿営した翌日、部隊を馬登廠の樹林の中に移動させて休息をとらせた。わたしも草むらに寝ころんで本を読んでいるうちについ寝込んでしまったのだが、そのとき突然、銃声が響いた。十五道溝方面と二道崗方面からきた敵が南北両方からほとんど同時に攻撃してきたのである。うっそうとした森のため彼我を見分けるのがむずかしかった。われわれがすばやく抜け出せば、挾撃してくる敵に同士うちをさせる絶好の機会だった。われわれは馬登廠の樹林からこっそりと抜け出して十五道溝の台地に登った。そこで敵同士の撃ち合いを見物した。これが小徳水戦闘と呼ばれている馬登廠望遠戦闘である。
その日、敵同士の猛烈な撃ち合いはたっぷり三、四時間はつづいたであろう。見物するのがあきあきするほどだった。敵は長い間撃ち合いを演じていたが、二道崗側がたまらなくなったのか、先に退却合図のラッパを鳴らした。そのラッパの音を聞いてはじめて、十五道溝側も同士うちをしたことがわかったのか、射撃を中止した。数百名の遊撃隊はいったいどこへ消えたのだろうか。影も形もないのだから、まったく不可解なことではないか。敵はこの不可思議な問題の解答をわれわれの「遁術」に求めたようである。われわれが「遁術」を使って「昇天入地」し「神出鬼没」するといううわさが国境地帯に広がりはじめたのは、この小徳水戦闘があってからのことだと思う。その日、敵は担架が足りなくて、新昌洞の民家の戸という戸をすべて取り外して死体を乗せ、あたふたと逃げ出した。そのため、新昌洞の住民はしばらくの間戸口にかますをかけて過ごさなければならなかった。
大徳水と小徳水で人民革命軍がとどろかせた銃声は、長白とその対岸の祖国の人民のあいだに大きな反響を呼び起こした。戦闘が終わったあと、ジャガイモ畑が台無しになったことをわれわれが心配すると、ある農民はこう言うのだった。
「ジャガイモ畑は駄目になったけれど、悪鬼のような日本軍があんなに無様に転がったのを見ると、豊作のジャガイモ畑を見るよりうれしいですわい」
その後、徳水溝一帯では幾人もの青年が入隊を志願した。彼らの入隊は長白地方で革命軍を急速に拡大させる大々的な参軍運動の幕開けとなった。
人民革命軍の長白進出と軍事的威勢に敵は色を失った。長白地方の警察機関では警官が集団的に辞表を出し、公職を避ける離職・引退騒ぎが起こった。敵の支配体制には大きな混乱が生じた。二道崗では集団部落の出入りも正門からではなく裏門からしているとのことだった。
われわれは長白に進出して軍事作戦だけをおこなったのではなかった。大衆を教育し結集する組織・政治活動も進めた。政治工作員によって徳水溝、地陽渓谷一帯では祖国光復会の下部組織が随所に結成された。国内でも組織が結成されはじめた。白頭山周辺の各地に結成されはじめたそれらの組織は、新設される根拠地の信頼するに足る政治的基盤となった。小徳水戦闘のあとにも、われわれは鴨緑江沿岸の村々を巡りながら、長白県の十五道溝東崗、十三道溝竜川里、二十道溝二終点など、いたるところで戦闘をくりひろげた。鴨緑江沿岸一帯は蜂の巣をつついたように騒がしくなった。
迂回コースをとった目的は十分に達成されたことになる。もう白頭山に入って根城をかまえてもよかった。わたしは金周賢と李東学を先立たせて白頭山密営の候補地へ向かった。主要指揮官と警護隊、それに一部の戦闘中隊が同行した。あとの人員は長白方面でもう少し騒ぎを起こす任務を与えて残しておいた。金周賢、李東学、金雲信らによって探索された小白水谷は、われわれが白頭山地区に定めた国内ではじめての密営候補地だった。小白水谷から西北に十六キロほどの所に白頭山がそびえており、八キロほどの地点には仙五山が、東北に六キロほど離れた樹林の中には間白山がそびえていた。小白水谷の後方に長く横たわっている山は獅子峰と呼ばれた。
われわれが部隊を率いて小白水谷に来たのは、家を離れた主人が久々にわが家に帰ってきたような慶事だった。抗日革命という大きな歴史の流れからすれば、活動の中心を東満州から白頭山に移したといえる。家を離れていた人が再びわが家に帰ってくれば、それは隣近所の慶事でもあるのだ。しかし、ある詩人の詩にもあるように「山鳥も寂しさにたえかねて飛び去ってしまう」という白頭の深山奥地の小白水谷には、祝ってくれる隣人とていなかった。われわれを迎えたのはそよぐ樹林と谷間のせせらぎのみであった。祖国の人民はまだわれわれが小白水谷に進出したことを知らずにいた。隊伍を組んで四十キロさえ行けば、両腕をひろげてわれわれをあつく抱きとめてくれる祖国の人民といくらでも会うことができた。しかし、その四十キロ向こうには、銃剣をかざしてわれわれを狙っている島国の招かれざる客がいた。その客さえいなかったら、白頭山の雪崩のように一気に駆け下りて、愛する人民と感激的な対面をすることができたはずである。しかし戦いのみが祖国の同胞との出会いをもたらしてくれるのであった。われわれはその戦いのために白頭山地区に進出し、その戦いのために小白水谷に根城を定めたのである。あのときわたしとともに小白水谷に来た人たちは、自分たちが根城としたその深い谷間が後日、世界中の人が訪ねてくる名高い史跡になるとは思いもしなかった。われわれは足跡を残さないように、落葉がたえまなく流れてくる小白水の流れにそって谷間の奥へさかのぼっていった。
今日、小白水谷を訪れる人びとは、ここが半世紀前までいかに太古然とした寂寞の地であったかを想像だにできないだろう。観光バスや人びとがひんぱんに行き交うりっぱな舗装道路、高級ホテルに比べてもさほど遜色のない踏査宿営所や宿営所村、四季にわたって絶えることのない行列と歌声――いまはこれらがかつての静寂と清爽に取って代わったが、われわれが最初に足を踏み入れた当時は、けもの道すらほとんど見当たらない原始林地帯だった。開闢以来の姿をそのままとどめていた当時の小白水谷は、そのすぐれた景観と天険の要害ともいうべき地勢からして、わたしの気に入った。小汪清の馬村にいたころ、遊撃隊の指揮部が陣取っていた梨樹溝谷の地形も申し分なかった。谷が深く山容も険しくて、敵が簡単には近づけなかった。まれに忍び込むようなことがあっても、撃退するのに好適の地勢だった。獅子峰の下方の合流点から白頭山密営の候補地に入る小白水谷の地形と山容は不思議なくらい小汪清の梨樹溝谷と似ていた。若干違うところがあるとすれば、梨樹溝谷より小白水谷の方が奥行きがあり美しいということだ。谷に深く入っていくにつれ、その違いははっきりしてくる。千山万嶽をしたがえた白頭霊峰のひだに位置する谷間であるため、やはり谷に深みがあり、山容も雄大だった。
われわれは日暮れ前に、将帥峰の向かい側の山裾と小白水のほとりにテントを張ってその夜を過ごした。わたしは三、四時間以上眠ることはほとんどない。山で戦っていたころも、だいたい午前二時ごろには決まって目を覚まし、灯を点して読書したものだが、その晩は疲れきってそれができなかった。朝起きてみると、霜が降りていた。白頭山地区は他所に比べて冬が長く、降雪量も多い。この地区に降り積った雪はなかなか解けない。六月の末か七月の初旬まで残雪が見られるかと思うと、九月下旬か十月初旬には山頂を薄化粧する初雪を見ることができる。雪が積り積って人の背丈を越すことも多く、そういうときは雪の中にトンネルをつくらなければ行き来ができない。密営の外に出るときは、かんじきをはかないと深い吹きだまりにはまって事故を起こしかねなかった。
しかし、常時強風と豪雪の脅威にさらされているこのきびしい高山地帯にも四季の区別はあって、われわれはそれぞれの季節がほどこしてくれる恩恵にあずかることができた。老黒山戦闘のときチョウセンヤマタバコをはじめて食べてみたが、たいへんおいしいもので、ご飯を包んで食べるとチシャよりも美味だった。オニタイミンガサは長白県十九道溝の李勲の家ではじめて賞味したが、それもやはり風味があった。白頭山地区にはそういう山菜が多かった。チョウセンヤマタバコは大紅湍の野に多く、オニタイミンガサは三池淵付近に、ヤナギヒゴタイは枕(ペゲ)峰に多かった。炊事隊員が摘んでくるそういう山菜が、白頭山の「住民」の夏の食卓をにぎわしてくれたものである。白頭山密営に定着して生活したとき、炊事隊員はカヤ原の端に畑を起こして野菜までつくった。いろいろな野菜をつくったが、白菜と大根はできなかった。だが、チシャとシュンギクだけはよくできた。小白水のイワナもときおり食卓にのった。当時は多くなかったが、いまは養殖に成功してかなり増えている。
白頭山密営の候補地に入った翌日、わたしは指揮官たちとともにあたりを見てまわった。先発隊が内定していた兵営の位置も見た。そして幹部会議を開いた。会議では南湖頭を出発して白頭山に来るまでの遠征について総括した。白頭山にかまえて遂行すべき活動についても真剣に討議し、任務を分担した。会議で討議され、その後ただちに実行に移された問題を集約して言えば、緊切な課題として提起された白頭山根拠地の創設を積極的におし進めることであった。それは密営建設と組織建設という二つの意味を包括していた。つまり白頭山根拠地の創設は、白頭山地区に密営を建設することと、白頭山麓の住民地帯に地下革命組織を建設することを意味した。
われわれが一九三〇年代の前半期に東満州に創設した遊撃区と、後半期に白頭山に進出して創設した白頭山根拠地とでは、内容と形態のうえでかなりの違いがあった。前半期の東満州遊撃区は固定した遊撃区を遊撃活動の本拠とした根拠地で、目に見える公然たる革命根拠地であった。しかし、後半期に創設した白頭山根拠地は、隠蔽された密営と地下革命組織に依拠して軍事・政治活動を展開した目に見えない革命根拠地であった。前半期には根拠地内の人民が人民革命政府の施策のもとで生活し、後半期には地下組織網に網羅された人民が、表面上は敵の支配下にあったが、内実はわれわれの指令と路線にしたがって動いた。また前半期には遊撃区の防御に主力をそそがねばならなかったが、後半期にはその必要がなかった。そのため、遊撃活動を広大な地域で展開できる可能性を得た。言わば、われわれは根拠地の形態を変えることによって、主動的な攻め手の位置に立つようになったのである。したがって、根拠地を拡大すればするほど、活動領域はそれだけ広がるようになっていた。われわれは白頭山密営を中心に長白の広い地域と、やがては白茂高原、蓋馬高原、狼林山脈へと根拠地を国内深部に拡大し、ひいては武装闘争を北部朝鮮から中部朝鮮をへて南部朝鮮にいたる全国的範囲に広げると同時に、党組織建設と統一戦線運動を拡大発展させ、全人民的抗争の準備も強力に推進する計画だった。
密営網の創設と地下組織網の建設がこのようにわれわれの存亡と生死、ひいては抗日革命の勝敗を左右する焦眉の問題となっていたため、この問題の解決に第一義的な関心を払わざるをえなかった。まず密営の建設を第一義的な課題とし、これを各部隊にまかせた。食糧と衣料を解決する課題は金周賢にまかせた。密営の設置と運営のためのこの二つの問題は、俗に言う食・衣・住の問題でもあった。地下組織網の建設を援助する人材を積極的に探し出し、朝鮮人民の士気を盛り上げて解放の聖業に献身するよう必要な戦闘活動を進めることもやはり重要であったが、この二つの課題は李東学の中隊に委任した。
指揮官たちは時を移さず白頭山根拠地創設の任務遂行にとりかかった。金周賢と李東学が中隊を率いて出発した。その他のメンバーにも個別の任務を与えて工作地へ送り出したのち、わたしも警護隊と第七連隊の一部のメンバーを率いて黒瞎子溝へ向かった。黄公洞村で別れた部隊の基本メンバーとそこで落ち合うことになっていたのである。
小白水谷から黒瞎子溝までの道程は非常に印象的だった。そのとき仙五山と三段瀑布を見たのだが、まったくの秘境だった。われわれは道を見失い森林の中で多くの時間を費やした。いまも忘れられないのは大沢温泉へ行ったときのことである。どの方角へどう抜けたものか見当がつかない樹海のただなかを二時間余りさまよった末に、数組の偵察班を各方面に送ったところ、そのうちのある偵察班が一人の老人を伴ってきた。白頭山の裾で独り暮らしをしているという老人で、漫江の方で塩と粟を求めて帰る途中、偵察班に出会ったというのである。われわれは老人に案内されて、大沢にある彼の小屋に行った。小屋のそばにはすばらしい温泉があった。湯がとても熱くて、ザリガニを入れると真っ赤にゆであがるほどだった。われわれはそこで沐浴や洗濯をし、ザリガニをゆでて食べたりした。いつかテレビの画面でアイスランド人が冬のさなかに露天温泉につかっているのを見て、大沢で温泉につかったときのことがまざまざとよみがえってきた。わたしはその老人と多くのことを語り合った。白頭山の裾にまで来て住みついたわけを尋ねると、もとは平地で暮らしていたのだが、時勢が傾くのを見て祖宗の山に登ってきたと言うのだった。
「どのみち亡国の民の恥を抱いて死ぬのなら、白頭山のふもとで暮らして死にたくなったのです。わたしに千字文を教えてくれた書堂(漢文を教える私塾)の先生はいつも、朝鮮人は白頭山を抱いて生き、白頭山を枕にして死なねばならぬと言っておりました。まったくあの言葉は石碑に刻んでおきたいくらいの金言ですよ」
眉を寄せて白頭山の方を見つめる老人の視線を追ってはるか彼方を見やると、彼の歩んできた泥沼のような人生の足跡が眼前に広がるようで、おのずと厳粛な心境になった。白頭山麓に生き、白頭山を枕にして死にたいという老人の言葉はわたしを感動させた。
「で、白頭山での山奥生活の味はどうですか」
「なかなかいいもんですよ。ジャガイモづくりとノロ鹿狩りの苦しい暮らしですが、日本人の姿を見なくてすむので太るような気がしますだ」
この老人との話を通じて、わたしは白頭山の存在が朝鮮民族の精神生活においてゆるぎない柱となっていることをあらためて確認し、白頭山を革命の策源地としたことがまったく正しかったことを痛感した。隣人もない独り身で、白頭山で晩年を強く生きぬいている彼は本当に愛国的な老人だった。残念なのは、老人の姓氏を聞かないまま別れたことである。羅子溝台地の馬老人のように、この老人にも書物が多かった。温泉浴をすませて大沢を発ち黒瞎子溝へ向かうとき、老人はわたしに幾冊もの小説をくれた。後日われわれは、この大沢温泉地に戦傷者や虚弱者のための療養所を設けた。
われわれが黒瞎子溝に到着した後のある日、蛟河地方で活動していた第二連隊のメンバーが訪ねてきた。そのなかには権永璧、呉仲洽、姜渭竜などがいて、久々に旧懐の情を分かち合った。わたしを訪ねてくるまでの彼らの苦労は並大抵のものでなかったという。寒さのなかを一重の服で飢えにたえながら白頭山へ来る途中、ある木材所を襲って牛を手に入れ、そのうちの二頭はわれわれのために引いてきた。見る影もなくやせさらばえた体と破れた夏の軍服姿を見て、わたしは胸が痛んだ。彼らもわたしにとりすがって泣いた。彼らを新しい軍服に着替えさせた。服だけでなく肌着も着替えさせ、脚絆や地下たびも替えさせた。洗面道具もそろえ、それにタバコとマッチも配るようにはからった。
司令部の命令で蛟河方面から帰ってきた姜渭竜は、朴永純とともに黒瞎子溝、横山、紅頭山地区の各所に密営を設置した。朴永純と姜渭竜は斧一つで一個連隊が十分宿営できるほどの丸太小屋を二、三日で難なく建ててしまう見事な腕をもっていた。長白地区の密営建設では、おそらくこの二人がいちばん苦労したのではないかと思う。曹国安の部隊のメンバーが黒瞎子溝に来て、われわれの部隊の隊員がわずか一日の間に彼らの宿舎を建てる腕前を見て驚いたのも、じつは彼ら二人のせいだったといえる。わたしが黒瞎子溝にしばらく留まっていて小白水谷にもどってきたときには、すでにいくつもの地点の密営地に新しい丸太小屋が建てられていた。司令部と部隊の兵舎、出版所と裁縫所の建物、衛兵所と検問所などが密林のあちこちに生まれた。密営の丸太小屋の戸にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになったのは、そのときからだった。粗末なノロ鹿の足の把っ手だったが、わたしにとってはそれが歴史的な時期を画する里程標のように脳裏に刻みつけられている。白頭山のわが「住宅」にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになって以来、つまり小白水谷にわれわれの根城が築かれたときから、白頭山密営は朝鮮革命の本拠地、中心的な指導拠点となったのである。
白頭山密営は朝鮮革命の策源地であると同時に心臓部であり、われわれの中核的な作戦基地、活動基地、後方基地であった。まさにその白頭山密営からやがて、北部、中部朝鮮の各地に数多くの秘密根拠地が扇の骨のようにのびていった。それらの密営から三千里津々浦々に革命の火を点ずるため、権永璧、金周賢、金平、金正淑、朴禄金、馬東熙、池泰環など多数の政治工作員が全国各地に向かい、また白頭山にわたしを訪ねてきた李悌淳、朴達、朴寅鎮など数多くの人民の代表が新たな革命の火種をいだいて再び人民のなかに入っていった。そして人民革命軍は敵を求めて出陣した。革命の運命と直結した大小さまざまの事柄が、ほとんどすべて白頭山密営で構想され設計され、行動に移された。白頭山密営網に属する衛星密営は朝鮮方面にもあり、中国方面にもあった。獅子峰密営、熊(コム)山(サン)密営、仙五山密営、間白山密営、無頭峰密営、小胭脂峰密営などは朝鮮方面に設置されたものであり、黒瞎子溝密営、地陽溪密営、二道崗密営、横山密営、鯉明水密営、富厚水密営、青峰密営と撫松地区の各密営は西間島方面に設置されたものだった。われわれは必要に応じてあちこちと場所を変え、これらの密営をすべて利用した。
白頭山地区の密営はそれぞれ異なった使命と任務を遂行した。純然たる秘密兵営の役割のみを果たしたのではなく、裁縫所や兵器修理所、病院といった後方密営の役割を果たすものもあれば、工作員の中間連絡所や宿営所の役割を果たすものもあった。白頭山密営網の心臓部は小白水谷の密営だった。そのため、当時われわれは小白水谷の密営を「白頭山一号密営」と呼んでいた。いまは「白頭山密営」とも言い、「白頭密営」とも言っている。最大限の安全と秘密保持のため、そこには司令部直属部署のメンバーと警護隊を含めた一部の基幹部隊だけを常駐させ、出入りをきびしく制限し取り締まった。当時われわれの所に常駐しない部隊や個々の人物が司令部を訪ねてくる場合も、小白水谷の密営ではなく二号密営(獅子峰密営)へ行って会った。二号密営では司令部を訪ねてくる部隊や個々の訪問客を迎え入れたり休息させたり、送り出したりし、ときには彼らに講習や訓練もおこなった。二号密営は司令部を訪ねてくる人のための窓口であると同時に待合所でもあり、面談所であると同時に宿泊所でもあり、また講習所であると同時に訓練所でもあった。司令部を訪ねてくる連絡員の場合も、足跡を残さないようにするため鯉明水の方から登ってきて、小白水谷の入口からは小白水の流れをつたって通わせた。われわれは密営の所在をむやみに教えはしなかった。誰でも知っているのなら秘密ではなく、密営でもない。白頭山密営とその周辺の密営の所在をつぶさに知っていたのは金周賢と金海山、金雲信、馬東熙などのように連絡任務をほとんど一手に引き受けていた数名の人と少数の指揮メンバーだけだった。白頭山密営とその他の密営、そしてそこにいた「住民」が、抗日革命が勝利する日まで自己の存在を隠しつづけることができたのは、まったく幸いなことだったといえる。
わたしにとって白頭山は青春時代の「わが家」だった。幼いころの故郷の家族とは比べようもない多くの家族がわたしとともにそこで過ごしながら白頭山の風雪にうたれ、今日の祖国を夢見た。白頭山でわたしと苦楽をともにしたかつての白頭山開拓者のうち、いま生き残っている人はわずかにすぎない。そういう事情は、われわれをして次の世代に白頭山のひだひだに宿っているわが党の革命歴史と烈士の闘争業績を紹介し伝えるべき一世としての使命を適時に正しく遂行できなくした。わたし自身も白頭山密営を適時に探してやれなかった。建党・建国・建軍事業、そして戦争、復興建設とあまりにも多くの仕事のため、若いときには白頭山時代の本拠地を訪ねる時間を割くことができなかった。
朴永純が生きていたころ、次の世代のために白頭山密営の跡を探し出すよう重ねて言った。しかし、往年のあの敏捷な「大工」も、自分の手で建てた黒瞎子溝や地陽溪、横山の密営の跡や青峰、枕峰、茂浦などの宿営地の跡は探し出しはしたが、白頭山密営の跡はとうとう探し出せなかった。だからといって彼らをとがめるわけにはいかなかった。彼らはその密営に行ったことがなかったのである。
結局、白頭山密営の跡は遅ればせながらわたしが探し出した。久々に暇を得たので、復元された白頭山地区の密営が見たくてそこへ足をのばしたことがある。ところが帰り道、小白水橋のあたりの地形にどうも見覚えがあったので、踏査員たちを小白水谷へ派遣した。百丈余りの切り立った崖岩のある谷間を踏み分けていけば、それほど広くないカヤ原があるはずだから探してみるようにと言った。そして、その谷間は山と山が重なり合っているので、外側からは見分けにくいことをとくに強調した。当時にしてもその地区は恐ろしく険しい所だった。いつだったか、鴨緑江沿岸の参観コースの道路をつくるため、責任秘書と武官に現地踏査をさせたところ、原始林の中で道を見失ってひどく難儀した。それで護衛中隊を送って彼らをやっと捜し出した。じつに迷魂陣に劣らぬ迷宮のような地帯だった。小白水谷に踏み込んだ探査・踏査メンバーはついにスローガンを書き記した樹木を発見し、ついで密営の跡と宿営地の跡も探し出した。こうして、朝鮮革命を継承していく次の世代に、昔どおりの白頭山密営の姿を見せられるようになったのである。
今日、白頭山は朝鮮革命の二世、三世、四世たちに、一世たちの白頭の革命精神を学ばせる学校となっている。広大な白頭の大地には大露天革命博物館がつくられた。歴史の流れとともに、白頭山のもつ象徴的な意味は豊富なものになった。事実、白頭山はすでに一九三〇年代の後半期に、その本来の象徴的な意味のほかに新しい意味をおびはじめた。死火山であった白頭山から噴出した「光復革命」の溶岩は二千万同胞の注目を引いた。抗日革命の炎が及んだ各地を訪ねた作家の宋影は、その踏査紀行文集に『白頭山はどこからも望める』という表題をつけた。この表題が示しているように、われわれが白頭山に陣取るようになって以来、白頭山はどこからも望める解放の活火山、革命の聖山となったのである。
6 愛国地主 金鼎富
世界の政治舞台に共産主義者が登場して以来、万国の無産者は「地主、資本家を打倒せよ!」というスローガンをかかげた。朝鮮の勤労者大衆もこのスローガンを高くかかげ、外国の帝国主義勢力と結託した反動的な搾取階級を葬り去るための、きびしくもはげしい階級闘争を長い間展開してきた。国民府の政党組織である朝鮮革命党左派の人物でさえ、一時は打倒地主、打倒資本家を闘争目標と宣言して打倒旋風をまき起こした。
われわれも、地主、資本家に反対することを自己の理念とし、闘争目標としていたことを隠すものではない。他人の生血を吸い取る搾取者に反対するのは、わたしが生涯にわたって堅持している原則である。わたしは過去と同様、現在も搾取者に反対している。数億万の勤労者大衆が飢餓線上をさまよっているとき、彼らの膏血をもって築いた財貨を湯水のように使い暖衣飽食する人間にたいしては、これからも憎悪すると思う。
物質的富の分配における公正さと社会的平等の実現を主張する人道主義的理念は、全世界の進歩的人民が肯定しているところである。われわれは、ごく少数の有産者とその代弁者による政治的独裁、経済的独占、道徳的堕落に反対し、それらに終止符をうつことを自己の神聖な義務とみなしている。もちろん、具体的実践においては搾取階級を打倒する問題と、その階級の個別的存在、個々の有産者にたいする問題は厳格に区別しなければならない。それでわれわれは、抗日革命の時期に、日本帝国主義とその手先である悪質な有産者だけを闘争の的にしたのである。
しかし、かつて一部の共産主義者は、階級関係において闘争の一面のみを強調しすぎ、愛国的で反帝的な要素をもつ地主や資本家を見るうえで極左に走った。具体的な状況や実態を考慮せず、有産者を政治的、経済的、社会的にむやみに粛清し収奪し迫害する杓子定規的な政策を実施することによって、一連の国々では共産主義にたいする誤った認識が生じるようになった。これは反共に血道をあげている連中に共産主義を中傷する口実を与えた。
共和国北半部には地主、資本家が存在しない。いまは階級的教育が高い水準で深化され、すべての活動家が階級路線と大衆路線を正しく結合している。富者をすべて悪いと決めつけていた一面的な見解、その経歴や功労にかかわりなく、地主、資本家階級出身の者は誰であれ、一律に取り扱うべきだとした偏狭な観点はなくなったといえる。出身が悪いからと悩んでいた人が朝鮮労働党に入党したり、適所に登用されて明るく暮らしているという話を聞けば、わが身の幸運のように喜ぶのがこの時代の大衆の心理となっている。これは、朝鮮労働党の幅の広い政治がもたらした貴重な結実である。われわれはこうした幅の広い政治を半世紀前にも実施し、現在も実施している。朝鮮の真の共産主義者はすでに抗日革命の時期から民族大団結の旗をかかげ、出身と信教、財産程度の異なる各階層の大衆を一つの勢力に結束するためにたたかってきた。地主金鼎富についての話は、地主、資本家にたいするわれわれの具体的な見解を理解し、われわれが実施している幅の広い政治の歴史的根源を把握するうえでの一助になるのではないかと思う。
わたしが金鼎富と初めて会ったのは一九三六年の八月末である。地陽溪村へ義援金工作に出かけた小部
隊が深夜、親日地主だといって、七十過ぎに見える老人以下数名の人を連れてきた。そのときわたしは、馬家子という二道崗付近の林業村で大衆工作にあたっていた。わたしは抑留者名簿に金鼎富という名前が記されているのを見てびっくりした。彼を「親日地主」として引き立ててきたのだから驚くほかはなかった。当時の小部隊責任者を李東学だと回想している人もいるが、わたしの記憶では金鼎富を連行してきたのは金周賢である。わたしは金周賢をきびしく問いただした。
「金鼎富を打倒対象と断定した理由はなんだね」
「あのじいさんは土地だけでも、ざっと百五十ヘクタールも持っています。地主一人でそんなに多くの土地を持っているという話を聞いたのははじめてです」
「で、百五十ヘクタールの土地を所有している地主だからといって、打倒の対象になるという法がどこにあるのだ」
「司令官同志! 一家の富に三村が滅ぶというのに、あんな富豪なら十村でも滅びますよ」
わたしは金周賢につぎの理由を聞いた。彼は、金鼎富が日本領事館分館の参事と親しくしており、その参事が慶尚北道永川かどこかから伊藤という日本人資本家を連れてきて、金鼎富に六千円もの大金を融通して材木商を営ませた、金鼎富が車まで一台買い入れて商売を繁盛させることができたのは、日本帝国主義者を後ろ楯にしたからだ、と長々と説明した。
「まだ他に理由があるのかね?」
「ありますとも。証拠は一つや二つではありません。金鼎富は護林会長兼農村組合長の役職について、満州国の役所にひんぱんに出入りしているそうです。息子の金万杜もおやじを笠に着て数年間、二道崗の区長を務めました」
それでは金鼎富に長所はまったくないのかと聞くと、金周賢はとまどった。長所についての世評は聞き出そうとしなかったばかりか、わたしがそんなことに関心をもとうとは考えもしなかったようである。
「長所ですか? そんな親日分子に長所など、あるはずはないでしょう」
小部隊責任者の答えは一から十まで否定的なものであった。終始主観的な解釈一辺倒の彼の報告は、なぜかわたしの胸を重くした。階級闘争と階級性しか眼中になかった従来の惰性から大きく脱していなかったうえに、金鼎富にたいする予備知識がなかった彼らは、わたしが長白地区に進出するさい、重要な統一戦線工作の対象として目星をつけておいた彼に「親日地主」だの「反動分子」だのという大げさなレッテルを貼りつけ、本人だけでなくその息子まで捕えてきたのである。これは、われわれの統一戦線方針のみか、祖国光復会の創立宣言文や十大綱領の精神にも反する行為であった。
そのうえ、彼らは金鼎富の家に電話のあることまで親日派の根拠とした。彼が電話を引いたのはただのぜいたくのためではない、密偵行為に使うためであろう、通話の相手は領事館か警察署、満州国の役所しかないではないか、そんなやつらに電話をするのは密告のためであって、ほかになにがあるのか、と金周賢は気炎を吐いた。事実、当時にしてみれば私宅に電話を引いて使うというのは、庶民には想像すらできないぜいたくであった。だからといって、自宅に設けた電話を親日のしるしとし、利敵行為の手段とまでみなすなら、それこそ牽強付会というものではないか。もし、すべての隊員がこういうふうに人びとを評価するなら、われわれの統一戦線政策は実践において重大な難関に直面する恐れがあった。これは金鼎富一人に限られることではなかった。
わたしは、小部隊のメンバーを責める前にまず、部下の教育をおろそかにした自分自身を叱責した。わたしが撫松で張蔚華とかかわりをもっていたときにも、一部の人は先入観をもってそれを憂慮した。張蔚華が送った橇数台分の援護物資と巨額の資金を受け取ってはじめて、彼らは有産階級のなかにも善良な人間がいることを認めた。ところが長白に来て、百五十ヘクタールの土地を持っている地主に出会うと、再び憎悪の目で見たのである。
張蔚華を同行者と認めた人たちが、どうして金鼎富が統一戦線の対象となりうる人物だと思い及ばないのだろうか。これは、統一戦線政策についてのわれわれの教育活動に欠落があることを意味した。われわれのいう各階層の大衆のなかには、経歴や生活境遇の異なる千差万別の人間がいる。そのすべての人間との活動にあてはまる唯一の処方というものはありえない。しかし、どの場合にも参考とすべき原則だけはなければならない。当時、われわれが人びとを評価するうえで基準とした原則は、親日か反日か、愛国愛族の精神があるかないかということであった。祖国を愛し民族を愛し人民を愛し、日本帝国主義を憎悪する人とはすべて手を結ぶことができ、反対に祖国と民族、人民は眼中になく、一個人の享楽と安逸のために親日に走る者はすべて闘争対象になるというのがわれわれの立場であった。わたしはこういう観点から、金鼎富も統一戦線の対象とみなしていた。そして長白に進出すれば彼に協力を願う手紙を届けるか、密営に来てもらって会おうと考えていた。
「わたしの考えでは、金鼎富にたいするきみたちの評価は図式的で非科学的だ。人をうわべだけで浅薄に評価してはいけない。きみたちが親日地主だという金鼎富は、実際は愛国地主だ。わたしは彼の過去をよく知っている。きみたちは地陽溪で幾人かの話を聞いて金鼎富はこうで、金下士はああだと人をみだりに評価しているが、それはうわべだけを見て内実を知らずに言うことだ。金鼎富がそんなに悪い地主なら、どうして地陽溪の住民が村に彼の頌徳碑を建てたのか。きみたちは地陽溪に金鼎富の頌徳碑があることを知っているのか」
小部隊のメンバーは、知らないと答えた。それでわたしは彼らに、きみたちが金鼎富の経歴を知ったら、親日地主だとなじりはしないだろう、彼は打倒対象ではなく包容対象であり、反動地主ではなく愛国地主であることをこの場でわたしが保証する、と話した。
「司令官同志の意図を知らずに金鼎富の取り扱いで誤りを犯しました。小部隊の名で謝罪し、地陽溪に送りかえすことにします」
自責の念にかられた金周賢の答えであったが、わたしはそれに同意しなかった。
「わたしも一度会ってみたかった人だから、帰すことはない。こうなったついでに、密営に連れて行ってじっくり語り合ってみたい。きみたちに代わって謝罪はわたしがする」
その日わたしは、金鼎富を統一戦線の対象とみなせる根拠について知っているかぎりのことを小部隊のメンバーに話してやった。それで、金鼎富の経歴はその日のうちに部隊中に知れ渡った。
金鼎富の出生年代は一八六〇年代の初めだと思う。われわれが長白地方に進出したとき、彼はもう七十代の老人であった。彼の故郷は平安北道義州郡青水洞である。わたしが吉林で学校に通っていたとき、義州生まれの張喆鎬は、富豪の身にもかかわらず独立軍運動に挺身してきた金鼎富についてしばしば好感をもって話した。金鼎富の息子の金万杜は、張喆鎬と呉東振の青水洞時代の竹馬の友である。独立軍が長白地方で気勢を上げていたとき、金鼎富は軍備団の南部担当部長として活動した。彼は財産をはたいて独立軍に布地や食糧をはじめ各種の給養物資を調達した。軍勢が盛んであったころは、地陽溪でジャガイモの澱粉をとり、水車を設けて穀物を搗いたりして団の食糧に供した。金鼎富の家は吉林、撫松、臨江、八道溝、樺甸などで活動する独立運動家が長白に行き来するときに利用した宿泊所でもあり、会合の場所でもあった。そういう縁からしても、わたしは金鼎富老をおろそかにできない立場にあった。金鼎富は次代の教育のためにも少なからず貢献した。地陽渓の谷間に彼の主管する漢学書堂が建てられたのは一九二〇年ごろだった。小作人の子女を他の土地の子どもらよりもりっぱに啓蒙しようという意欲を燃やした彼は、漢学書堂を新学中心の四年制小学校にかえ、やがてそれを百五十名以上の生徒を擁する六年制私立学校に切り換える革新的な措置をとった。金鼎富は隣村から来る子どもまで入学させた。その宗山私立学校の運営費と教師の給料は小作料でまかなった。学校では自主独立と愛国愛族の思想を植えつける民族教育を実施した。
地陽溪の小作人は自発的に小作料を納めた。作柄に応じて一俵なら一俵、十俵なら十俵と納められるだけ納めた。それは金鼎富が地主として小作人に土地の量と質に応じた現物納入量を定めなかったからである。地主と小作人のあいだには小作契約さえ結ばれていなかった。いわば、年中の収穫のうち何割は農民が取り、何割は地主に納めるという約束がなかった。一時、地陽溪で金鼎富の小作人であった抗日革命闘士の李致浩は、この世に金鼎富のような善良で太っ腹な地主がいるという話は聞いたためしがない、彼の土地を耕作しながら小作料がいくらなのかも知らなかった、米を何回も借りたが利子をつけて返済したことはない、それでも金鼎富は追及するどころか万事を小作人の自覚にまかせた、村人が彼の家の前に頌徳碑を建てたのはいわれのないことではない、彼が地陽溪の台地に多くの土地を持っていたとはいうが、それは平野部の十五ヘクタールの沃田より別段まさるものではなかった、と話した。
地陽溪の住民は口をそろえて、金鼎富を「うちのおじいさま」「うちの部長さま」「うちの校主さま」とたたえた。これはありきたりのことではなかった。隣村の地主たちは、金鼎富の徳行をたいへんけむたがった。彼らは自分の小作人が地陽溪を横目でうかがい、金鼎富の小作人をうらやむのではないかと恐れた。それで彼らは、契約なしで好き勝手に小作料を納めさせるというのは度を越した思いやりだ、そんなことをしては三、四年のうちに身代がつぶれてしまうだろう、と金鼎富を説得した。しかし、彼はそんなことにはいっこうに耳を貸そうとしなかった。小作の契約がないからといって、うちの三人家族が飢えるようなことはなかろう、小作人の腹がふくれればわしの腹もふくれ、小作人がひもじければ、わしもひもじいわけだから、人情も持ちつ持たれつだと考えればそれまでだと言い返した。金鼎富はこういう功徳を施す富豪だったので、満州国の役所や日本領事館でも、ないがしろにはできなかった。
小部隊が引き立ててきた地主のなかには金下士という人がいたが、彼もやはり愛国的な地主であった。彼に金下士というあだながついたのは、旧韓国の新式軍隊で下士官として服務したことがあるからである。彼の本名は金鼎七だった。彼は十代の若さで李朝の軍隊に志願して軍人生活をはじめた人物だった。ひところは朝鮮ではじめての新式軍隊である別技軍に加わり、開化党が甲申政変(〔8〕)を起こしたときには、それに強く共鳴したりした。山村のきこりのように素朴で清楚な彼の姿からは、剛健な政治的信念のほどがうかがわれた。甲午改革のとき王宮護衛の任にあたる侍衛連隊に所属していた彼は、その後、鎮衛隊に転勤し、亡国以後は義兵運動に身を投じ、それが衰えると生業に没頭した。金下士は、旧韓国末期の新式軍隊が存在したほぼ全期間をまじめに服務しとおした軍人であり、李朝軍隊の死滅過程と近代朝鮮の波瀾にとんだ国難を身をもって体験した歴史の生き証人であった。金鼎富の話によれば、彼が長年軍務に服しながらも下士官以上の階級に登用されなかったのは北関(咸鏡道地方の別称)出身であったためだという。金下士は、李朝の為政者が流刑地だと差別する甲山の出身であった。封建朝廷は軍政改革や門閥廃止を唱えながらも、西北関(平安道・黄海道・咸鏡道地方の別称)出身を人材登用から除外した旧時代の遺習を一掃できなかったようである。金下士は十ヘクタールの土地と幾頭もの役牛を持っている地主であったが、思考や行動においては進歩的で進取の気に富む愛国者であった。
しかし当時、少なからぬ人は、金鼎富や金下士のような人も統一戦線の対象になるというと、あきれた顔をして、そんなに多くの土地を持っているのに包容対象だというのか、それは「階級協調」ではないか、と言ったものである。事実、共産主義者の世界ではマルクスやレーニンの命題が唯一無二の指針となっていた半世紀前までは、われわれがどこかの地主と手を結ぼうとすると、一部の人はマルクス主義からの脱線だと論難し、いずれかの資本家を同盟者にしようとすると、レーニン主義の異端者だとおじけをふるったものである。それは、わが国の具体的特性と朝鮮革命の現実を無視してマルクス・レーニン主義を絶対視し、教条的に適用した結果である。
解放前の朝鮮農村における階級分化と土地所有関係の変化過程を示す統計資料を見ると、日本人大地主の数が増大するのに反比例して、朝鮮人大地主の数は急減して中地主か小地主になり、または没落したことがわかる。日本帝国主義者は、封建的土地所有関係を維持する方法で総督政治の基盤をかためた。その過程で一部の土着地主は総督府の庇護のもとに土地と資本を増やして商工業に投資する大地主になり、買弁資本家にまでなった。しかし、大多数の朝鮮人地主は中小地主としてとり残された。日本帝国主義の占領と植民地支配によって没落した一部の中小地主が、消極的ではあるにせよ反日愛国を志向したのは自然のなりゆきである。事実、朝鮮の地主、資本家のなかには抗日革命を積極的に援護した人もあり、解放されるとすぐ土地や工場をそっくり国に納めて平凡な勤労者になり、新しい祖国の建設に献身した人もいる。個人の蓄財よりも祖国と民族の繁栄を大切にする良心的な有産者には、共産主義者の施策に反対する政治的理由もなければ、共産主義者の指導する革命運動を妨害するなんの感情的・心理的根拠もないのである。
もちろん、わたしも幼いころは、地主、資本家といえばすべて無為徒食する寄生虫だと思っていた。わたしが有産者のなかにも良心的な人がおり、したがって彼らを愛国的な有産者と反動的な有産者に区別することができると考えるようになったのは、彰徳学校時代に白善行(愛国的な慈善事業につくした女性)が多くの土地を学校に寄付したということを聞いた後からである。張蔚華との因縁は、わたしにすべての有産者を打倒の対象とみなす人たちの見解を批判的に検討し、それを理論的に否定させるきっかけとなった。陳翰章を通しても、富者にたいする観点をいっそう明確に定立した。もし、われわれがこういう愛国的な人びとを有産者だからといって打倒したり、遠ざけたりすれば、どうなるだろうか。それは革命の支持者を排斥することになり、愛国的な有産者は言うまでもなく、多数の大衆を失う結果をもたらすであろう。大衆はそんな血も涙もない革命には背を向けるであろう。喜ぶのはただ敵だけである。階級闘争におけるささいな誤謬や脱線も結局、敵の戦略に歩調を合わせる最大の利敵行為となる。
わたしは遊撃隊の隊長として、部下の過失について金鼎富とその一行に謝罪せざるをえない苦しい立場に立たされた。小部隊責任者は、わたしが命令するやいなや待機させていた金鼎富一行を部屋に連れてきた。わたしは夜半に彼らを引き立ててきた部下の無礼な振舞いを深くわびた。金鼎富はなんの応答もなく、敵意と不安の入りまじったまなざしでわたしを見つめていた。他の人の表情も同じであった。おそらくことのなりゆきがどうなるものかと気をもんでいるようであった。彼らにもう少しやさしい言葉をかけてやりたかったが、とりつく島もなかった。こういう冷たい雰囲気ではとうてい対話が不可能だった。
「どんな軍隊なのかは知らないが、独立軍だったら必要な軍資金の金額を示し、胡(こ)狄(てき)だったら綁票代がいくらほしいのか話してくれ」
張りつめた空気を破ったのは金鼎富のとげのある声だった。彼の言葉は部屋の雰囲気をいっそう緊張させた。金鼎富とその一行は、われわれを独立軍か胡狄と思っているに違いなかった。綁票とは、胡狄や反日部隊がよく使う人質戦術で、綁票代とは人質を放免するときに取る身の代金のことである。金鼎富自身も胡狄に人質として二、三回捕われてひどい目にあった人である。
地主一行は息をつめてわたしを見つめていた。法外な身の代金を求められるのではないかと心配しているようだった。そのとき金周賢が十箱のタバコを持って再びわたしの前に現れ、地陽溪村の小店の主人があまりにも辞退するので、タバコ代を払えずそのまま帰ってきたことを報告した。わたしは地主一行に、その小店の主人の人となりを尋ねた。
「その金世一という人は心のやさしい人です。本人は体が不自由で、妻が米搗き仕事をして細々と暮らしを立てている家です。見るに見かねて雑貨商でも営むようにと、いくらかの金をやったところ、それを元手に小店を出したんです」
金万杜が一行を代表して答えた。わたしはそれを聞いて金周賢をたしなめた。
「苦しい生活をしている家だというのに、なんということをしてくれたのだ。主人が拒むからといって、代金も払わずに帰ってくるとは失礼もはなはだしいではないか」
こんな話が交わされると、驚いたことに部屋の雰囲気ががらりと変わった。地主たちは強い衝撃を受けたらしく、互いに意味深長な目配りでささやき合っていた。わたしの叱責がきつすぎるといった面持だった。再び話しかけるには絶好の機会だった。
「こんなうっとうしい真夜中にご足労をかけて申し訳ありません。不馴れな土地を歩きまわっているので、ときにはこんな過ちを犯すこともあるのです。部下の無礼な振舞いをどうかお許しください」
わたしがあらためてこう陳謝すると、彼らはやっと安堵の胸をなでおろした様子だった。
「では、この部隊はなんの部隊じゃろう? 身なりを見ると胡狄でもなく、往年の独立軍の服装でもないし…」
金鼎富もわたしに好奇の目を向けた。
「わたしたちは朝鮮の独立のためにたたかう朝鮮人民革命軍です」
わたしはこう答えて、長白の有志との初対面の挨拶に代えた。
「人民革命軍ですって? この前、撫松で日本軍をひどい目にあわせたあの
「ええ、その部隊です」
「
「金先生、ご挨拶が遅れてすみません。じつはわたしがその
金鼎富は半信半疑の目でわたしを見つめ苦りきった顔をした。
「七十を越した老いぼれだからと馬鹿にしてくださるな。いくらなんでも縮地の術を使うという
そのとき、金周賢が横から話に割り込み、あなたの目の前に座っておられる方がほかならぬ
われわれは、和気あいあいたる雰囲気のなかで談笑した。その日、彼らはわたしに多くの質問をした。なかでも金万杜は、金将軍は「三日先の天気」も読めるという人がいるが、それは本当なのかという突飛な質問までしてわたしを当惑させた。途方もない質問ではあったが、わたしは面映ゆい思いをしながらも一応は答えざるをえなかった。
「わたしが三日先の天気も読めるというのは途方もない話です。三日先の天気が見通せるのではなく、朝鮮人民革命軍が人民と連係を保って必要な情報をそのつど入手できるので、情勢が正しく判断できるだけのことです。わたしは、人民が諸葛亮(孔明)だと思っています。われわれは人民の支持と援助がなければ、一歩も動けません」
「民をそれほど、天のように高く見てくださるとは恐縮のかぎりです。わしらも将軍の大業をお助けしたい気持ですが、なにをすればよいのか教えてくだされ」
「じつはわたしも、長白に進出してみなさんにお会いして、そのことを相談したかったのです。わたしたちは武器を手に幾年もの間、満州の広野で日本帝国主義侵略者を打倒するための血戦を展開してきました。徒手空拳ではじめた戦いでしたが、人民革命軍はいまいたるところで敵に打撃を与えています。さきほどもお話したように人民の援助がなかったなら、革命軍は今日のような強力な軍隊に育つことができなかったでしょう。爪先まで武装した日本軍を打ち破って祖国を解放するためには、全民族が一致団結して力と心を合わせなければなりません。国を愛する人であれば、地主であろうと資本家であろうと、すべて奮起して人民革命軍を援護すべきです」
彼らは、わたしの話に大きく励まされたようであった。
「祖国を愛し同胞を愛する人であるなら、誰であれ革命を支援する義務があり権利があります。先生が地陽溪の台地に数十万坪の焼き畑を起こしたのは、資金と食糧で独立運動を助けようとしたからではありませんか。それで、小作人と独立の志士たちがその意を募って先生の頌徳碑まで建てたのではありませんか!」
「失礼ですが、将軍はどうして、このわたくしごとき者の過去をそんなによくご存じなのですか」
「先生のお名前は亡き父を通じても、また呉東振、張喆鎬、姜鎮乾先生たちからもうかがっておりました」
「父上のお名前はなんと申される?」
「金亨稷といいます。父は八道溝と撫松にいたころ、先生のことをよく話しておりました」
「これはまた、なんということだ!」
金鼎富は目をしばたたいて、わたしをじっと見つめた。
「金将軍が金亨稷の息子であることを知らないでいたとは…。幾年も片田舎に埋もれてむなしい月日を送っているうちに、時勢の移り変わりも知らぬ俗物になってしまいました。ことはどうであれ、将軍の父上とわたしは近しい間柄だった。…以前、父上が通った土地に部下を率いて来た将軍に会ってみると、この感激をなんと表現してよいかわかりません」
「わたしもやはり先生のような愛国志士にお会いできて、どんなにうれしいかわかりません。わたしの部下が深いわけも知らず、先生を引っ立ててきましたが、わたしは彼らに、金先生は親日地主でも反動地主でもなく、愛国地主だと話してやりました。わたしが地陽溪の村民のように先生の頌徳碑を建てることはできないまでも、愛国地主を親日地主とみなす不届きなことはいたしません。先生は独立運動のため心身ともにささげてこられたご自身の過去を誇りとすべきだと思います」
金鼎富は涙をたたえ、重ねて礼を言った。
「金将軍に愛国地主と言われては、この身がいまここで土くれになっても心残りはありません」
金万杜も父にならって額が地面につかんばかりにお辞儀をした。他の地主たちは不安と羨望の入りまじったまなざしで金鼎富親子を眺めていた。その気持を察した金鼎富は威儀を正し、同行した地主たちを指さして言った。
「将軍、実際のところあの人たちも反動地主ではありません。命にかけて保証します。もし、将軍がわたしを信頼してくださるなら、あの人たちを逆賊とみなさないでくだされ」
「先生が保証する方々なら、信頼できないわけはありません。先生自らが保証するのでしたら、わたしもあの方々を悪くは見ません」
地主たちは、わたしの返答を聞いてしきりに頭を下げた。最初の対話はこれで終わった。その日の対話はいまでも印象深く覚えている。もし、それが親日分子の罪業を取り調べる審問であったり、なんらかの罪業を告発する弾劾集会のようなものであったなら、わたしはいまも、雨のそぼ降る夜、馬家子の林業労働者の寮で金鼎富一行と深夜までつづけた対話を、これほどなつかしく思い出しはしないであろう。わたしはそのとき、彼らのうち誰が小作人をどのように搾取し、日本帝国主義の植民地政策にどの程度協力し、祖国と民族に恥ずべきことをどれほどしたかについては、まったくたださなかった。かえって、その地主たちが親日分子でないことを既定の事実とし、彼らにたいする信頼をためらうことなく披瀝した。その信頼のため、その夜、彼らは共産主義者にたいする認識を新たにした。事実、その日の会話は初対面の挨拶を交わし心の扉を開いたにすぎない。話し合いたかった基本問題はすべて伏せられていた。われわれの目的はまず、「祖国光復会創立宣言」の精神に即して地陽溪の地主たちを思想的に啓発し、朝鮮人民革命軍への物質的援護に最善をつくすようにし、彼らを通じて長白一帯の有志を革命の傍観者、妨害者から、革命の共鳴者、支持者、協力者に変えることであった。そのためには、まだ彼らとの多くの話し合いが必要だった。しかしわたしは、金鼎富とその息子だけは即刻、地陽溪に帰そうとした。
翌日、金鼎富老に村へ帰るようにすすめると、彼は、目をむいてわたしの言葉をさえぎった。
「将軍、昨夜わたしは、本当に多くのことを考えさせられました。このたび、わたしが将軍に会えたのはまったく天地神明の助けだと言わざるをえません。…わたしは以前から祖国と民族のためにつくそうといろいろと専念してきましたが、これといったことはできませんでした。わたしはもう年老いた身です。気力も衰えたが、徳行だけでは民族を救うことができないということがわかりました。晩年にいたって祖国の解放に役立つ道を見出せず思い悩んでいるとき、こうして将軍に出会えたのは天の恵みだと言わざるをえません。わたしが密営に残っていれば、せがれの万杜が地陽溪に帰っても、わたしをかたにして援護物資を送ってよこすことができます。おやじを連れもどすためには遊撃隊に物資を送らなければならない、わたしが遊撃隊に食糧や布地、靴を送るからといって神経を使うことはないと万杜が言えば、やつらも言うことがないではありませんか」
わたしは老人の話を聞いていたく感動した。その一言一言が良心の叫びとして胸をついた。だが、わたしは彼の言いなりになることはできなかった。
「ご老人のお気持はよくわかります。その高潔なお言葉だけでも大きな力になります。しかし、ここはご老人の滞在できる所ではありません。これといった居所もないし、食べ物も粗末です。そのうえ、これからだんだん寒くなり、日本軍の討伐も激しくなるでしょうから、どうみても家に帰るほうがいいと思います」
しかし、老人は頑として聞き入れなかった。彼は、遊撃隊の兵卒として戦うことはできないまでも、国の独立に貢献する絶好の機会を奪わないでほしい、と重ねて懇願した。わたしは金鼎富老をしばらく密営に留まらせ、彼の息子だけを先に帰した。
われわれは、密営に地陽溪の有志のための宿所を特別に設け誠意をつくして彼らをもてなした。欠乏だらけの山中生活ではあったが、部隊全員がかゆをすするときにも、彼らには非常用として蓄えておいた白米で飯をたいてやった。隊員には葉タバコを供給しながらも、彼らには巻きタバコを与えた。金鼎富はそのとき、密営で誕生日を迎え、一九三七年の正月も過ごした。彼の誕生日は陰暦十二月のある日だったと記憶している。その日になっても彼は家に帰ろうとしなかった。地陽溪から息子が送ってよこすことにした援護物資が到着するまでは密営を離れないと言い張った。わたしは、金鼎富にたいしてはもちろんのこと、彼の一家に罪を犯すかのような自責の念にかられた。七十代の老人を家にも帰らせず、山中で誕生日を過ごさせるのだから、こんな不人情なことがどこにあろうか。
わたしは敵中工作にあたる隊員に頼んで白米、肉類、酒などの食料品を用意し、老人の誕生日に伝令兵に担がせて彼のいる密営を訪れた。山海の珍味とはいえなかったが、そのとき金鼎富のために設けた誕生祝いは、人民革命軍の歴史ではほとんど前例のないものであった。戦友の結婚を祝うときもそういうご馳走を用意することはできなかった。当時の遊撃隊員の結婚祝いといえば、一膳飯に汁一杯がせいぜいであった。金鼎富はご馳走を見て目を丸くした。
「旧正月はまだだというのに、これはなんのご馳走なのかね?」
「きょうは先生のお誕生日です。人民革命軍の名で誕生日をお祝いします」
わたしは杯になみなみと酒をついで老人にすすめた。
「金先生、この寒い冬に山中で誕生日を過ごさせて申し訳ありません。ほんの気持だけですが、たくさん召し上がってください」
杯を受け取った金鼎富の目から涙がこぼれ落ちた。
「遊撃隊員がトウモロコシがゆをすすりながら国を取り戻そうと苦労しているのを見ると、一日三食の温かいご飯が喉を通りません。まして、この山中でわたしのような者の誕生日まで祝ってくれるとは、将軍のご恩は死んでも忘れませぬ」
「なにとぞ国の独立がなるまで、お達者でいてください」
「わたしのような老いぼれはどうなろうとかまいません。けれども将軍だけはお体を大切にして、塗炭の苦しみをなめている民族をきっと救わなければなりません」
その日、わたしは金鼎富と多くのことを語り合った。寒さがいっそうきびしくなり、山に雪がたくさん降り積もったので、今度はわたしが彼を家に帰さなかった。もしや深山の雪の中で何か変事でも起きてはと、長居したついでに密営で冬を越すようにはからったのである。金鼎富は四か月余りの密営生活で受けた印象を率直に話した。それは、人民革命軍にたいする総合的な印象であると同時に、長い間注視してきた朝鮮共産主義者にたいする集約的な評価でもあった。
「率直に言って、わたしはこれまで共産主義者をあまりよく思っていませんでした。ところが、金将軍の共産主義はまったく違う。同じ地主でも親日と排日に分けて親日だけを討つのだから、そういう共産主義を誰が悪いと言いましょうか。日本人は遊撃隊を『共匪』と呼んでいるが、それはうそ八百です。… いままで遊撃隊の飯を食べさせてもらいながら多くのことを考えました。もちろん、決意も新たにしたし。わたしの寿命は知れたものです。けれども、余生を誉れ高くまっとうしたい。たとえ死んでも人民革命軍を助けて死ぬつもりです。この金鼎富は生きても死んでも金将軍の味方であることを信じてください」
金鼎富は密営に来て、われわれの積極的なシンパになった。われわれが教育の対象、義援金工作の対象として連れてきた地主のなかには、農民から後ろ指をさされる者もいた。しかし、金鼎富が彼らの保証人になり、長老格となって全員を牛耳った。そして、彼らがすべて反日愛国の道に立つよう影響を及ぼした。金鼎富は人民革命軍の給養活動の足しにと三千余元もの大金を寄付し、布地や食糧をはじめ各種の物資も調達してくれた。われわれは彼が購入した布地で部隊の全隊員に綿入れと軍服をつくって着せた。
金鼎富の息子は地陽溪に帰ると、われわれに誓ったとおり、遊撃隊の援護に積極的に乗り出した。彼は村に帰るとすぐさま、役所から引き取った役牛の中から十余頭を売ってかなりの金をつくった。当時、県当局は、地陽溪農民の生活安定というふれこみで荒野を開拓させるため信用貸付の形で数十頭の役牛を彼に提供したのである。その後も彼は県役所に行き、保証書を書いて優良役牛二十余頭を引き取り、それを引いてくる途中われわれに渡し、自分の家のミシンまで援護物資として送ってよこした。
人民革命軍が白頭山地区に進出して以来、敵は長白の住民にたいする取り締まりと抑圧を強化した。金鼎富の家も監視の対象となった。ある日、金万杜は長白警察署に呼び出されて詰問された。
「われわれが入手した情報によると、
金万杜はそらとぼけた顔で大げさに泣きごとを言った。
「あなたがたは、わたしがあたかも
理屈に合った金万杜の話を聞いた警官は、それ以上詰問せず、彼を放免した。
彼ら親子は革命軍を援護するため、多くの田畑と役畜を売った。金鼎富は独立軍に食糧と資金を提供するために荒野を開拓して地主になったのだが、独立軍のために使い果たせなかった財力をすべて人民革命軍の援護に費やした。地主、資本家にとって生命ともいえる蓄財を断念し、その蓄財の元手となる財産を国のために惜しみなく差し出すというのは口で言うように簡単なことではない。まさに、ここに金鼎富の愛国心の深さがあり、抗日革命に寄与した功労の高さがある。わたしは抗日革命の全期間、金鼎富のような愛国衷情をいだき、あれほどまでわれわれに思い切った支援をしてくれた大地主を見たことがない。後日、彼が密営に来て自分の目で見て感じたことの一端が『三千里』という雑誌に、わたしとの会見談の形式で発表された。その一部を原文どおり紹介する。
「『…
『ご老人、寒い所でさぞかしご心労のことでしょう』と、やさしく挨拶の言葉をかけては(中略)『…わたしども若い者が暖かい床や安穏な生活を嫌うはずはないでしょう。二、三食、麦がゆがすすれなくても、この苦しみに甘んずるのはそれなりの理由があってのことです。わたしとて血も涙もあり、魂もある人間です。けれどもこの寒い冬に、わたしどもはこうして渡り歩いているのです』
彼は予想に反して匪賊の首魁らしからず話しぶりが静かで、物腰も粗野ではなかった。彼は金翁をいろいろと慰めながら、いまは厳寒のみぎり、雪中に寸歩を踏むのも容易ならぬゆえ、春にはきっと帰すから安心するようにと言い、部下の看守に特別優待するよう命じたという。…」
この文章は、恵山にいた朴寅鎮の弟子である梁一泉という人が書いたものである。金鼎富は日本当局の監視と統制下にある言論界に、自分の本心を比較的率直かつ大胆に吐露したようである。人民革命軍の動きにたいする報道管制がきびしかった時期に、雑誌『三千里』がこういう記事を載せたというのは驚くべきことである。
金鼎富はわたしの勧めどおり汪清蛤蟆塘に移住し、そこで解放の日を見られずに世を去ったという。彼に会ったとき二十代だったわたしも、もう八十を越している。してみると、当時の金鼎富よりも十年ほど年をとっていることになる。八十代ともなってみると、遊撃隊の密営での彼の辛苦がわがことのように、いっそう身にしみて思いやられる。老人のもてなしには誠意をつくしたつもりだが、いたらぬところも多かったと思う。彼をもっと暖かく十分にもてなせなかったことが、いまも心残りである。わたしは金鼎富その人のために墓も移してやれず、墓碑さえも立ててやれなかった。
思えば、はじめて白頭山に進出したとき、部隊はきわめて困難な状況にあった。金も食糧もなければ布地もなにもなかった。それを金鼎富がいろいろと求めてくれた。それは独立運動の先輩としての朝鮮の真の息子、娘たちへの一世一代の贈物であった。わたしはその恩を忘れることができない。金鼎富のような有産者、大地主が発揮した良心と愛国的美挙―― それは日本帝国主義にたいする全人民的抗争の準備を促すうえで無視できない貢献となり、われわれの偉業にたいする力強い支援となった。一九二〇年代とは違って武力抗争が反日民族解放闘争の主流をなしていた一九三〇年代に、地主や資本家がわれわれを物質的・財政的に、精神的に援助するというのは、命がけの冒険といえた。しかし金鼎富はそれを果たしたのである。これが金鼎富を愛国者とみなす根拠であり、数十年の歳月が過ぎたいまでも彼を忘れられない理由である。
わが国の南半部にはいまなお地主、資本家がいる。そのなかには億台の有産者もいるという。反動的な有産者もいるだろうが、愛国的な有産者も少なくないであろう。統一された連邦国家での地主、資本家にたいする朝鮮共産主義者の立場と態度はどのようなものか。この問いにたいする解答を求めようとするなら、愛国地主金鼎富についての話を聞くだけで十分であろう。
第十四章 長白の人びと
(一九三六年九月~一九三六年十二月)
1 西 間 島
白頭山の東部に位置する豆満江北方の各県は、以前から間島または北間島と呼ばれてきた。白頭山西部の鴨緑江以北の地域は俗に西間島と言われていた。西間島は、一九三〇年代の後半期における朝鮮人民革命軍の活動と直結している由緒深い地域である。ここでいう白頭山根拠地とは、ほかならぬ白頭山を中心とする西間島と国内の広大な地域を意味する。西間島の広大な地域は、朝鮮人民革命軍が国内に設置した白頭密営とともに、白頭山根拠地のなかで重要な位置を占めている。したがって中国側だけを念頭におくなら、白頭山根拠地を西間島根拠地と呼んでもさしつかえないであろう。
以前、白頭山根拠地を指して長白根拠地という人もあったが、それは適切な呼称とは言えない。ともすれば、白頭山根拠地の地域的な概念を、長白地方をはじめ西間島一帯に局限して理解するという誤解が生じうるからである。白頭山根拠地は長白地方に局限される根拠地なのではなく、白頭山一帯を中心とし、松花江上流と鴨緑江北部沿岸にまたがる西間島の各県と国内の広大な地域を包括する大根拠地なのである。
一九三〇年代の後半期は、朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動史において特筆すべき高揚期である。われ
われは白頭山地区に数十の密営を設置したあと西間島を活動舞台にして、南湖頭会議が示した新たな戦略的課題の実行にとりかかった。それ以来、西間島は交戦回数がもっとも多く、銃声がもっともはげしい戦場となった。
わたしはこれまで、西間島の土地のよさについて一再ならず述べてきた。土地がよいというのは景観がすぐれているという意味もあるだろうが、基本は住民がよいということだろう。景観はいくらすばらしくても、人情が薄ければよい土地とはいえない。逆に、草木の育たない不毛の地でも、そこに住む人びとの心が美しければよい土地といえる。当時、西間島には朝鮮人が多く住んでいた。移住民である朝鮮同胞は、焼き畑農耕によって得たジャガイモでなんとか食いつないでいる有様だった。彼らは西間島のやせた台地や溪谷に村をつくり、故郷の名をとって豊山台地、甲山台地、吉州台地、明川台地などと名付けた。そして、灯火の下で檀君(〔9〕)始祖や『温達伝(〔 〕)』の話をしながら、人生の坂道をあえぎあえぎ登っていた。地主の大部分は中国人であった。まれには朝鮮人地主もいたが、それはわずかなもので、土地の所有度からすれば富農と変わらぬ小地主であった。
西間島に住む朝鮮人は、そのほとんどが生計の道を断たれて祖国を後にした流浪の民か、もしくは日本帝国主義の朝鮮併呑後、亡国の恥をそそごうと反日独立運動に身を投じた愛国の志士であった。西間島の火田民村へ行きさえすれば、かつて独立軍運動に献身した人たちや彼らの世話をしていた人たちに会うことができた。前にも述べたが、独立軍の老将である姜鎮乾も長白県に住んでいたし、洪範図、呉東振、李克魯たちも寛甸、撫松、安図地方をへて、ここによく足を運んだものである。わたしの外伯父康晋錫も、臨江で白山武士団を組織して活動した。
西間島には、国内の各地で農組運動に参加し、それが失敗して家族ぐるみで移住してきた人も少なくなかった。彼らは長白のほとんどの村に夜学を設けて民衆啓蒙活動をおこなった。李悌淳、崔景和、鄭東哲、姜燉、金世玉など長白地方の名だたる革命家は、その多くが夜学で教鞭をとっていた人たちである。長白地方には国内からの亡命者や愛国的な有志が設立した朝鮮人私立学校も多かった。それらの私立学校では愛国主義教育が盛んにおこなわれた。夜学での大衆啓蒙と学校での青少年教育は、西間島の朝鮮人のなかから愛国者を輩出させた。西間島住民の民族性と反日感情が強かったのは、彼らの不幸な境遇がもたらした当然の帰結ではあるが、愛国的な思想家や先覚者による地道な啓蒙活動の結果でもあった。西間島に居住する朝鮮人はとりわけ民族性と反日精神が強かったので、この一帯では、工作員を一人派遣するだけでも簡単に中核を掌握し彼らを通して多くの人を組織に結集することができた。
われわれはすでに一九三〇年代の初めに朝鮮革命軍出身の工作員を西間島一帯に派遣して「吉林の風」を吹き込んだ。彼らによって、この一帯にはわれわれの組織がたくさんつくられた。南湖頭と東崗で新しい形態の根拠地創設の問題が論議されたあと、わたしは金周賢を責任者とする小部隊を西間島一帯に派遣した。彼らは長白県を中心とする白頭山周辺の多くの村を巡り歩いてこの地域の革命運動の実態を調べ、中核を掌握し、大衆教育もおこないながら、以後の主力部隊の政治・軍事活動のための地ならしをしておいた。彼らの努力により西間島一帯には、朝鮮人民革命軍主力部隊の活動を支援し、反日民族統一戦線運動を広く展開できる強固な土台が築かれた。これは、われわれが西間島一帯を急速かつ容易に革命化できる主な要因となった。大衆的基盤の強固な土地で有能な工作員が意識化活動を展開すれば、大衆の組織化、革命化過程が急速に進むということは、われわれが西間島地域を拠点にして活動したときに得たいま一つの貴重な経験である。
西間島を調べる過程でわかったこの地方の一つの特徴は、満州国の支配が強く及んでいないということだった。西間島一帯では主にジャガイモを栽培していたので、税を取り立てるほどの対象もほとんどいなかった。長白県などの場合は、県長のほかに住民を治める官吏が若干名いるだけだった。撫松に数か月滞在してみると、この土地の統治当局には土地の調査や登録などがきちんとできそうな人物もほとんどいなかった。そのため、所有者のいない土地を許可なしに耕作する者が多いと、官吏たちが嘆く有様であった。撫松地方の警察業務の特色は、血縁や地縁関係によってかろうじて維持されていることだった。そのうえ、警官のなかには猟師出身が多かった。射撃の腕前だけを見て採用したので、警官たちはそろいもそろって無知であり、住民を満足に取り締まることもできなかった。したがって、統治行政はおのずと無力なものにならざるをえなかった。
長白に来てみると、この土地の実態も撫松と大同小異だった。このような特性は、この一帯の大衆を比較的容易に意識化し組織化できる有利な条件となった。西間島には朝鮮の共産主義者を民生団に仕立てあげて迫害する者もいなければ、朝鮮人が朝鮮革命の旗をかかげて祖国の解放のために戦うのを非難したり、それにブレーキをかける者もほとんどいなかった。いわば、われわれが他国の地で間借り暮らしをしていると見下したり差別したりする者はいなかったのである。これは、われわれが白頭山を中心に鴨緑江沿岸と国内の深部で、いかなる束縛や制約も受けることなく、自分の信念と決心にしたがって抗日革命を発展させる政治・軍事活動を自由自在に展開できるいま一つの有利な条件となった。われわれは自己の党組織をつくるうえでも制約を受けることがなく、西間島側でも朝鮮側でも独自の党組織の建設をわれわれの構想どおり大胆に展開することができた。一言でいって、西間島一帯にはわれわれの足を引っ張る者がほとんどいなかった。城市を攻撃したければ城市を攻撃し、党組織をつくりたければ党組織をつくり、大部隊を率いて国内に進出したければ国内に進出することができた。
しかし、北間島の遊撃根拠地で戦っているときは事情が異なっていた。あのころは、豆満江を渡って国内の人民にちょっと会ってくるだけでも、民族主義だと非難された。われわれが人民革命政府の樹立を主張したとき、東満特委と県党指導部の面々はそれを無視し、中央の路線だとしてソビエト政府の樹立を強要した。
西間島一帯の住民の革命化を促し、また彼らがわれわれの自主的な闘争路線を積極的に支持するようになったいま一つの有利な条件は、この地方の人びとにロシアにたいする事大主義がなかったことである。彼らは社会主義を憧憬してはいたが、ロシアかぶれにはなっていなかった。しかし、国境を挟んで極東地方と地続きの北間島地方には、ロシアの影響が少なからず及んでいた。この地方の住民の日常用語にはロシア風のものが多かった。咸鏡北道地方の老人はいまでもマッチを「ピジケ」と言っているが、北間島の人びとも当時はロシア風に、やはり「ピジケ」と言っていた。汪清、琿春、延吉、和竜一帯の人びとは「少年団」「集団農場」「細胞」といった言葉よりも、「ピオネール」「コルホーズ」「ヤチェイカ」といったロシア語のほうが口なれた言葉になっていた。有識ぶってロシア語を乱用する人もいたが、大多数の人はロシア語を使うことによって、社会主義への憧憬と、世界ではじめて社会主義革命を成功させたソ連人民にたいする親近感を示そうとしたのである。ある意味では、ロシア語を使うことは共産主義理念にたいする素朴な共鳴の表現ともいえた。
北間島の人びとは老若男女を問わず、誰でもロシアの歌を一、二曲は口ずさむことができた。彼らはロシアの踊りもうまかった。遊撃区の公演舞台では、両手でふくらはぎを交互に叩きながら膝を曲げたり伸ばしたりする踊りをはじめ、今日の四月の春親善芸術祭の舞台で見られるようなロシアの踊りがよく披露されたものである。琿春や汪清などに行くと、ロシアの衣服であるルバシカを着用し、世界革命の勝利やプロレタリア独裁万歳を叫ぶえせ共産主義者もよく目にすることができた。ロシア語を使い、ロシアの歌をうたい、ロシアの踊りをおどり、ロシアの衣服を着て生活し、世界で初の社会主義国であるロシアを憧憬する過程で、いつしか北間島の人びとのあいだには、世界でロシアが一番でロシア人が一番だというロシアにたいする事大主義が生まれるようになった。
北間島の人びとには中国にたいする事大主義もいくぶんあった。中国革命が勝利してこそ朝鮮革命も勝利し、中国人の援助があってこそ朝鮮革命が成功すると考える人が少なくなかった。彼らはロシア語だけでなく中国風の言葉も多く使った。そこではシャベルのことを「カンチャイ」と言っていた。
これとは対照的に、西間島の人びとは中国語やロシア語を使わなかった。彼らは故国にいたときと同じように、純粋の咸鏡道弁や平安道弁を使った。生活風習や礼儀作法、食生活、言葉づかいなど、すべての面でこの土地に住んでいる朝鮮人は固有の民族性を保っていた。
われわれは白頭山に進出したのち、西間島を一回りして地理や住民の動向を調べているうちに、この一帯にはいろいろな面で遊撃活動に有利な条件がそろっていることがわかった。白頭山地区に革命の本拠地を設けて武装闘争を本格的に展開しようというわれわれの決心は、西間島の人びとに接し、西間島の風土になじむうちに、いっそううちかためられた。
朝鮮人民革命軍主力部隊の西間島進出は、わが国の歴史家と人民が抗日革命の全盛期と称する偉大な時代を開いた壮挙であった。それは、暗夜のごとき民族の受難史に光芒を投げかけた歴史的な出来事であった。愛国愛族の理念に忠実な朝鮮の息子、娘たちは、滅亡に瀕した民族の運命を前にしていつまでも悲嘆にくれてはいなかった。彼らは危地に陥った同胞を救うために、足音も高く白頭山に進出した。時が到来したのだから、生死をかけて決着をつけようという腹づもりであった。
思うに、われわれは「トゥ・ドゥ」を結成して以来、営々として十年もの間、白頭山への進出を準備してきたわけである。時が来れば白頭山で軍を起こして独立聖戦を展開せんとした樺甸時代の決意、その決意を実践に移すまでにはじつに多くの紆余曲折をへなければならなかった。われわれが歩んできた数千数万里の道程には直線コースは一つもなかった。その道はすべて勾配が強く険しいものであった。「トゥ・ドゥ」の結成後ただちに樺甸から西間島に直行していたなら、遅くとも五、六日のうちには白頭山に到着していたはずである。しかし、われわれは白頭山へ直行する道を選ばず、吉林とその周辺地域で革命勢力を扶植する基礎作業にとりかかったのである。その作業は活動舞台を東満州に移してからもつづけられた。なんのためだったのか。白頭山へ率いていく軍隊を育成するためであり、その軍隊を物心両面から支持声援してくれる人民の海をつくるためであった。
安図で遊撃隊を組織した当初も、わたしは部隊を率いて白頭山へ行きたい衝動を抑えることができなかった。安図から白頭山は指呼の間であった。しかし、登りたくても意のままに登れないのが白頭山であった。白頭の荘厳無比の偉容にひきかえ、われわれの隊伍はあまりにも軟弱かつ無勢であった。われわれはまだ生まれたばかりのトビにすぎなかった。頭上には蒼々とした大空が広がっているが、その大空へ飛び立つ強い翼がなかった。白頭山に陣取るには隊伍を拡大し、力を蓄えなければならなかった。白頭山は決して、その気になりさえすればいつでも行けるような所ではなかった。行きたくても意のままに行けないところに白頭山の真の意味があり、行けないがゆえにいっそう行きたくなるところに白頭山の真の魅力があった。白頭山は、日本の精鋭師団や軍団を撃破できる革命軍の鉄の部隊と鉄の戦士を待っていた。遊撃区を建設し死守する過程で一当百の鉄の部隊が生まれ、数百数十回の交戦を通して不死鳥のごとき鉄の戦士が育った。卡倫、明月溝、大荒崴、腰営口、南湖頭、東崗などで示された進路にそってまっしぐらに突進してくる路程で、朝鮮革命は白頭山に進出できる力を十分に蓄えた。われわれはこの力をもって西間島に来たのである。
振り返れば、抗日革命の歴史は、亡国の恥辱を胸に砂粒のように散らばった同胞と兄弟姉妹に旗幟と武器を与えて白頭山に導いた過程であり、白頭山で日本帝国主義を撃破した過程でもあった。その決定的な契機となったのは、南湖頭と東崗の森の中で開かれた会議であった。この二つの会議のあと、われわれの話題は白頭山に集中した。
―― 祖国がわれわれを呼んでいる。白頭山がわれわれを待っている。早く白頭山に陣取って党建設の準備を強くおし進め、祖国光復会の組織網も大がかりに拡大し、決死の全人民抗戦によって日本帝国主義侵略者を打倒しよう! 祖宗の山、白頭山で民族再生の鐘を打ち鳴らし、すべての朝鮮人を愛国に目覚めさせ、救国に奮起させよう。信念を失って挫折した人民に勇気を与えて立ち上がらせよう! 民族離散の流れを食い止め、団結して祖国に凱旋する歴史をわれわれが先頭に立って創造しよう!――
これが白頭山に進出するときのわれわれの意志であり信念であった。われわれは先祖たちのように、白頭山の頂を天に通じる道とはみなさなかった。それを祖国の大門とみなし、祖国の人民のなかに入る橋頭堡とみたのである。白頭山は西間島と国内と北間島を結ぶ三角地点に位置する重要な戦略的拠点であった。白頭山に陣取ることは、とりもなおさず国内の人民と西間島の愛国志士、北間島の共産主義者を一つのきずなで結ぶことを意味し、国内の革命運動と西間島の独立運動、北間島の共産主義運動にたいするわれわれの指導を一元化できることを意味した。白頭山を占めれば、祖国の地を足場にして日本との連係をはかり、山海関の向こうの中国本土の抗日運動とも連帯し、北間島をへて北部満州とソ連沿海州地方の共産主義者や反日独立運動家との合作を実現することもできた。
われわれは東満州で遊撃区を建設し死守したときの教訓を十分に生かして、西間島を北間島でのような完全遊撃区にせず、半遊撃区にした。前にも述べたように、半遊撃区とは昼間は敵の天下であるが、夜はわれわれの天下になる地域を意味する。西間島一帯の十家長、区長、面長などのポストは、ほとんどがわれわれの味方で占められていた。彼らは昼間は日本の軍警や満州国の官憲の使い走りをするかのように見せかけ、夜になると会議や夜学を開き、革命軍に送る給養物資や援護米を準備するなどして忙しく立ち回った。李悌淳、李柱翼、李勲、鄭東哲、李用述、廉仁煥らは半遊撃区の実相を体現していた代表的な人物だといえる。
かつて東満党組織の指導者たちは解放地区形態の遊撃区だけをつくり、外部の人びとを白眼視した。はては敵地内の住民を「白色大衆」だとして敵視し、中間地帯の住民は「二面派大衆」だとして敬遠した。大衆を「赤」と「白」に分けたのは大きな失策であった。この措置は、かえって遊撃区にたいする敵の封鎖を容易ならしめ、結果的には革命勢力をいっそうかたく結集する統一戦線の実現を妨げた。
こうした骨身にしみる体験をふまえて、われわれは西間島全域を半遊撃区にし、「赤」「白」の区別をつけずにこの一帯の大衆をすべて味方にしたのである。集団部落の警備を受け持っている自衛団員のなかにも味方は多かった。いつだったか、食糧工作のために八道江という集団部落へ出かけたことがある。八道江の自衛団にはわれわれが派遣した工作員がいた。彼の連絡を受けた小部隊は革命歌をうたい、威嚇射撃をしながら村を襲撃した。しかし、自衛団の武装は解除せずに、工作員があらかじめ準備しておいた食糧だけを持ち帰った。遊撃隊が撤収したあと、工作員は日本の警察へ駆け込み、遊撃隊が村を襲撃して食糧を奪っていった、しかし砲台だけは占領できなかった、砲台のおかげで命拾いをした、と彼らをまるめこんだ。このように西間島の人びとは遊撃隊員には心を許しても、日本の軍警や満州国の官憲には心を許さなかったので、われわれは万事を思いどおりにうまく運ぶことができた。
西間島はわれわれが白頭山地区に進出して以来、大部隊旋回作戦に移行するまでの三、四年間、朝鮮人民革命軍によって主動的に開拓され掌握された主な活動舞台であった。苦難の行軍以後、われわれの主な活動舞台は再び東満州に移された。小哈爾巴嶺会議以後、われわれは白頭山根拠地とともにソ連領内にいま一つの根拠地を設け、祖国解放の大事変を迎える準備を進めたのである。
総括的にみれば、抗日革命時期の朝鮮人民革命軍の活動の中心地は最初は北間島であり、つぎは西間島、最後は豆満江沿岸の張鼓峰一帯であった。これらの地帯は抗日革命の勝利を保障した重要な活動拠点であった。
東満州地区で活動していた時期にも体験したことではあるが、西間島に来てからも、敵の攻勢が強まり悪らつになるほど、多くの点で半遊撃区形態がきわめて有利であることをあらためて痛感させられた。西間島を半遊撃区にし、そこをわれわれの天下に変えたことは、白頭山地区進出後の各面における成果の秘訣であり、勝利の要因であった。
われわれは西間島を半遊撃区に変えたあと、軍事活動を活発に展開した。二十名前後の少人数を単位とする武装部隊が西間島一帯を縦横無尽に駆けめぐり、連日敵を痛撃した。また、国内にも多くの小部隊を送り込んだ。われわれが大部隊で活動せず、小規模の武装部隊に分散して活動した理由の一つは、ジャガイモやエンバクなどで、その日その日をやっと食いつないでいる人民に負担をかけないためである。五百~六百以上の大部隊の場合は言うに及ばず、二百名程度の単位で活動しても食糧が問題になった。
敵は一九三八年ごろまでに、東満州と南満州で集団部落の建設を完了した。集団部落化が完了して以来、革命軍の食糧調達はますますむずかしくなった。食糧を得るためには大きな戦闘をしなければならないが、それは結局、同志たちの血を食糧に替えるのも同然だった。それで、小部隊の活動を活発に展開して食糧問題を解決することにした。多少飢えるようなことがあっても、同志の血を流させてはならないとわたしは考えた。
抗日武装闘争の直接の影響のもとに、西間島一帯では人民の反日闘争精神が高まり、革命的進出が強まった。西間島に来て老人たちと語り合ってみると、長白の人たちはすでに一九三二、三年ごろから、われわれのうわさをよく耳にしていたとのことである。一九三六年の初めに李悌淳と李柱翼は、アヘン密輸業者を装って西間島に来た遊撃隊の政治工作員である権永璧、金正弼らに会い、朝鮮人民革命軍の活動情報を入手した。そのとき彼らは、遊撃隊の再編制が進められているという話を聞き、朝鮮人民革命軍の主力部隊が長白地方に進出する可能性があるという暗示も受けたという。そのニュースはまたたく間に長白県の各地に広まり、国内の甲山工作委員会のメンバーの耳にも入った。天上水で十家長を務めていた李用述は、すでに一九三二年ごろから同僚たちにわれわれの宣伝をしたという。いま
朝鮮人民革命軍の活動ニュースに鼓舞された長白地方の青年たちは、早くから遊撃隊への入隊企図を行動に移した。大徳水村で青年運動にたずさわっていた姜現珉は友人に「ぼくは金将軍が来るのをこれ以上待ちきれない。直接訪ねていって入隊するつもりだから、ぼくが発ったあとは家の面倒を見てもらいたい」と頼み、撫松方面に来て入隊した。われわれが長白に来てからというものは、西間島全体が参軍熱に浮かされた。遊撃隊に会いさえすれば、多くの青年が司令部を訪ねてきて入隊を申し込んだ。われわれはそのうちから一部だけを受け入れ、大部分は保留にした。地下活動を強化するためには、多くの青年を敵地に残さざるをえなかったのである。だが、集団部落が生まれてからは、入隊志願者はすべて受け入れた。青年たちが土城の中に閉じ込められていたままではなにもできず、強制労働に駆り出されるのが関の山だったからである。
われわれが長白に進出し、大徳水で最初の銃声をとどろかせて以来、西間島住民の反日気勢は天をも衝かんばかりであった。大徳水と小徳水で日本軍が大敗を喫するのを目撃した十六道溝の老人たちは、昔から人民を苦しめた者で滅亡をまぬがれたためしはなく、日本人だからとて無事であろうはずはない、と喜びを隠さなかった。青年たちは青年たちで、ああ、朝鮮は永久に滅びたのだと思っていたのに、そうではなかったんだ、血がわいてくるぞ、と歓声をあげた。
西間島一帯での朝鮮人民革命軍の武装活動が活発になると、鴨緑江両岸の人民は、われわれにまつわる多くの伝説をつくりだした。天道教を信奉する一部の老人は、人民革命軍の威力を宣伝しようと、
われわれは西間島で活動していたときにも人民から多くの援助を受けた。西間島の人びとが人民革命軍の援護にどれほど熱意を示したかは、現在わが党の文書庫に保管されている多くの回想資料が十分に物語っている。西間島の人びとは革命軍の援護に誠意をつくした。彼らは革命軍を助けることを良心の表徴とみなしていたのである。革命軍に背を向け、私利私欲や安楽のみを追求するのは、心が汚れている証拠とされた。
われわれが西間島に進出したのち、日本帝国主義者は革命軍と人民の連係を断ち、革命軍への人民の支援を阻もうとやっきになった。彼らは、朝鮮人同士が会って親しみの握手を交わしても、共産主義に染まったといって目を光らせた。西間島では村民が隣村へ行ってこようとしても、村長の承認を得なければならなかった。さじは家族の分しか持てないようになっていた。一つでも余分があると革命軍を助けることになるといって調査してまわり、余分のさじはすべて取り上げた。敵はまた、革命軍の首を取ってくれば五十円の賞金を与え、生け捕りにした場合はそれ以上の賞金を与えるという布告文を貼り出した。わたしにそれよりも多額の賞金がかけられていたことは、多くの資料によって広く知られている。ひところは人民を駆り出して山中に帰順を扇動するビラをまかせたり、毒入りの塩を「援軍物資」として遊撃隊に届けさせるようなことまでした。
これはすべて、遊撃隊と人民の血縁的なつながりを断ち切ろうとする術策であった。しかし、西間島の住民はそれにだまされなかった。敵があがけばあがくほど、人民革命軍との連係を強め、集団的な援軍運動をいっそう活発に展開した。敵が遊撃隊の活動を阻むため村ごとに夜警隊を組織すると、夜警隊員たちは巡察するふりをして、集団部落に潜んでいる地下工作員や人民革命軍の活動を助けて見張りの役まで引き受けた。敵は、少しでも革命軍を援助する動きが見える村は容赦なく焼き払い、それに関与した者は老幼を問わず皆殺しにした。地陽溪や大徳水、新昌洞もそんな目にあって焼き払われた。大徳水村のある教員は、遊撃隊に万年筆を送ったことが「罪」になり銃殺された。しかし、西間島の住民は血を流しながらも屈することなく、こぞって援軍運動に立ち上がった。
敵は朝鮮人民革命軍の軍事的攻勢に毎回打撃を受けながらも、人民の前では日本軍が常勝しているかのように虚勢を張っていた。小徳水で敵と交戦したとき、人民は革命軍が敗れたものと思い込んでいた。戦闘のあと、敵が勝者であるかのようにラッパを吹き鳴らしながら威を張ったからである。しかし、戦場に残された数十の日本軍の死体を見ては、それが思い違いであったことがわかった。敵はその死体を運びながらも、共産軍の死体だとうそぶいた。
われわれが十二道溝の敵を討って撤収したのち、十二道溝とその周辺では遊撃隊のうわさが広まった。あわてた敵は、いましがた革命軍が突入して撤収した北門の入口に日本軍将校の首をさらし、共産軍の頭目を成敗したと宣伝した。のちに北門に駆けつけたその将校の妻が、竿につりさげられた首を見て「ああ、あんたがこんなことになるとは」と慟哭したので、猿芝居であることがばれてしまった。こうした悲喜劇はたびたび演ぜられた。これと似た芝居は撫松や臨江でもあった。いつだったか、靖安軍の連中は上司の日本人から賞金をせしめようと、撫松と臨江の市街地に正体不明の人間の首と「
敵はいかなる手段や方法を用いても、西間島住民の反日感情を抑え、人民革命軍にたいする憧憬と援軍精神を圧殺することができなかった。援軍活動は消滅したのでなく、弾圧が強まるほどますます盛んになった。
西間島住民の援軍運動にかんしてはのちに述べるので、ここではいくつかの断片的な資料と人物だけを紹介しておくことにする。われわれが西間島の村々を通過するときには、村人たちは黒いジャガイモあめを隊員のポケットに入れてくれたものである。集団部落がつくられてからも、西間島の人びとは遊撃隊を積極的に援助した。日本帝国主義者が人民をすべて集団部落に押し込み、畑の面積と収量を計算して食糧統制を強めたが、彼らは巧みな方法でわれわれを支援した。ジャガイモを収穫するときは葉茎を取り払うだけで、ジャガイモは掘り出さなかった。遊撃隊に掘っていかせるためである。トウモロコシは林の中につくっておいた簡易倉庫に皮ごと入れておき、遊撃隊に連絡して持っていかせた。トウモロコシは皮ごと保管しておけば腐らないものである。彼らは大豆も取り入れないで、革命軍に知らせて持っていかせた。それである年は、冬中ずっと打ち豆をつくって食べたものである。畑の穀物を取り入れず遊撃隊に持っていかせる食糧支援の方法は西間島ではじめられた。
咸鏡南道の警察部長が恵山で語った有名な話はこうである。―― 今回この一帯を視察したところ、西間島が問題だ。第一に、西間島の住民は明らかにすべて遊撃隊と内通している。西間島で活動した遊撃隊の数は少なくとも数万名になるというのに、遊撃隊に与えた米は三斗にすぎないという。かりに遊撃隊が三百名来たとしても、一日の消費量は数斗になるはずなのに、なぜ三斗しか与えていないと報告するのか。これは西間島の住民が遊撃隊と内通している証拠だ。第二に、西間島の住民は赤化している。山から来た者、または匪賊を見たことはないかと聞くと、子どもまでみな、そんな者は見かけなかったと答える。だが革命軍を見たかと聞けば、見たと答える。これは西間島の住民が遊撃隊を自分たちの軍隊と考えており、赤化していることを示している。第三に、西間島は遊撃隊の恒常的な活動根拠地となっている。以前は西間島に独立軍や匪賊が夏か秋には来ても、冬になるといずこかへ立ち去ったものだが、
これは、革命軍と人民のきずながいかに固いものであったかを示す生々しい証拠であり、人民が革命軍をいかに決死の覚悟で擁護し支援したかを立証する資料といえる。
西間島の治安維持にいかに手を焼いたのか、敵は、共産主義、三民主義はいずれも民衆の進路を照らす灯台にひとしいものとなっているとし、「共匪や反満抗日匪の影響下から民衆を奪取し、これらの匪賊を崩壊させるためには、彼らの政治目標よりもすぐれた目標とそれに至る明確な道程が示され、民衆的政策が実施されねばならない。すなわち共匪が民衆を吸引するよりもさらに容易かつ円滑に民衆を動員して満州国の建国理想に向かって進む過程が示され、その方向に向かってすべての民衆を吸引するに足る政策が実施されねばならない。こうした指導方針による政治的・経済的・思想的・社会的国民運動の特殊な活動分野としての対匪賊工作のみが、克く政治・思想匪の根幹を衝き、これを克服することができる」と嘆声をあげている。「共匪」とは人民革命軍にたいする卑称であり、「反満抗日匪」とはかいらい満州国に反対し日本帝国主義に抗するすべての軍事勢力の総称である。
彼らはあらゆる手段と方法を用いて人民革命軍を掃討し、革命軍と人民の連係を断とうと試みたが、それはすべて徒労に終わった。
日本軍の討伐で村が焼け野原になってから、地陽溪の農民は役畜が足りなくて苦しんでいた。すぐにも農作にとりかかり、木材運搬の賃仕事もしなくてはならないというのに一頭の役牛もなかったのである。村人は相談した末に、県公署(県政府)にかけあって役牛を提供してもらうことにした。その交渉の代表として李なにがしの青年を選び、何人かの青年を護衛につけた。おそらく、彼が村一番の外交家で、口達者でもあったのだろう。彼は県公署へ行き、うちの村の人たちは共産軍と内通したことは一度もない、なのに日本軍は確かな証拠もなしに一夜のうちに村を灰にしてしまった、こんな口惜しいことがあるものか、いったい全体、県公署は目を開いてなにをしていたのか、二言目にはうちの村を「良民村」にするといっていたのに、討伐隊が襲ってきたのにどうして制止できなかったのか、こうなったからには「良民村」もくそもない、牛があってこそ農作を営み、農作を営んでこそ飯も食えるというもんじゃないか、とひとしきり苦情を並べ立てた。それがじつに真に迫り胸を打ったからだろうか、県公署は地陽溪の農民に二十頭余りの牛を貸し付けてくれた。
交渉が思惑どおりに運ぶと、彼は考えを変えた。ひと切れの肉も満足に食べられず山中で苦労している遊撃隊員のことが頭に浮かんだのである。耕耘や木材運搬の賃仕事ができなくても、この牛を革命軍に送って食糧の足しにしてもらうのがよいのではないか、こう考えた彼は、県の地下組織を通して遊撃隊に連絡した。自分たちが県公署から牛を引き取って村に帰るから、途中で待ち伏せをして「襲撃」し、その牛を密営に引いていくようにという内容であった。地下組織からの連絡を受けたわれわれは、県と地陽溪との中間地点に伏兵班を派遣したのだが、彼らはもっともらしく芝居を演じた。県公署では牛を無事に引いていけるように満州国軍の武装警備兵までもつけた。彼らが遊撃隊の襲撃をまぬがれなかったのは言うまでもない。護送兵を武装解除した遊撃隊員たちは、彼らの面前で李をはじめ地陽溪の青年たちを後ろ手に縛りあげ、おまえたちは日本と満州国にこびへつらう悪者で反逆者だから残らず銃殺に処する、といって全員を密営に連れていった。そのとき密営に来た地陽溪村の青年は全員遊撃隊に入隊した。それこそ一石二鳥の収穫であった。これは西間島時代の軍民関係を示すエピソードの一つにすぎない。
朝鮮人民革命軍が長白地方に進出した当初から、われわれを物心両面から支持声援してくれた援軍運動には、労働者、農民などの勤労者階級だけでなく、ドグマにとりつかれた一部の共産主義者が闘争対象とみなして敵視していた階層までもが合流した。長白県十九道溝には曹徳一という中国人大地主がいた。叔父の遺産を譲り受け三十代にして一躍富豪になった人で、八十余ヘクタールもの土地を持っていた。その一帯の農地は半分以上が彼の所有だった。また妾を六人も囲い、巡査たちとは義兄弟の交わりを結んでいた。教条主義者の視点からすれば、打倒対象といえる人物であった。彼に多少の長所があるとすれば、民族主義思想が強いことだったといえようか。人民革命軍が大徳水と小徳水で日本と満州国の軍警を撃ち砕くと、曹徳一はあわてふためき、妾を連れて長白県庁の所在地へ逃げ去った。そして家屋と土地は差配に管理させた。
この地主を区長の李勲が掌握した。そのいきさつが劇的であった。白頭山地区に密営を建設したのち、わたしは給養係に一九三七年の正月を迎える準備をするよう指示した。わたしは、白頭山に進出してはじめて迎えるこの正月を非常に重視した。隊員たちもこの正月を待ちこがれていた。部隊の給養担当責任者であった金周賢は、物資調達のため西間島の村々を足が棒になるほど歩き回った。長白で稲作を営んでいるのは十九道溝の鴨緑江流域だけであった。しかし、収穫された籾米はそっくり地主の米倉に運び込まれた。
そのうち、金周賢は政治工作員の池泰環から、正月の食卓を豊かにできる莫大な食糧と食肉、砂糖などの蓄えが曹徳一にあるという通報を受けた。金周賢は李悌淳にはかって、その場で曹徳一への人民革命軍名義の通告状をしたためた。―― われわれは、あなたが中国人としての民族的良心をまったく失ってはいないと思っている。だから日本の手先を除くすべての人民の財産を保護する原則に立脚して、あなたの財産にはいささかの損害も与えなかった。あなたは当然、この思いやりに実際の行動をもって報いるべきだ。われわれの期待にこたえるためには、すすんで革命軍を助けなければならない。いつ、なにをもって援助するかを早急に回答せよ――
通告状を受け取ったその日から、曹徳一は外部との接触を断ち、床に臥して悩んだ。通告状の要求どおり人民革命軍を援助するには日本人の目が恐ろしいし、要求を無視してしまうには革命軍の懲罰がこわかった。愛妾たちが枕元を取り巻いて愛嬌をふりまいてもとりあおうとせず、溜め息をつくばかりである。妾たちは大変なことになったと騒ぎ立てた。そのころ、李悌淳の指示を受けた李勲が曹地主の様子を見るために県都へ出向いた。町で会った地主の妾の一人が彼に、うちの旦那はここ数日、ご飯ものどを通らず夜もおちおち眠れない有様です、区長さんがお昼を一緒にしながら慰めてやってください、と泣きついた。うまいぐあいになったと考えた李勲は、仕方なさそうに地主の家へ足を向けた。曹徳一は救世主にでも会ったかのように李勲を喜んで迎えた。何杯か杯をあけたのち彼は、革命軍の通告状を差し出して「いったい、これをどうすればよいだろうか」と李勲に聞いた。通告状に目を通した李勲は曹徳一の手をとって、そんなに心配することはない、革命軍が兄さんを殺しはしないだろう、わたしも何か月か前に密営に捕まっていったことがあるが、革命軍は匪賊とは違っていた、みだりに人の命を奪いはしないから、兄さんが気前よく出してやれば革命軍も感心して兄さんを保護してくれるに違いない、と言い含めた。曹徳一は、それしきの財産を使うのは惜しくない、日本人が恐ろしいだけだ、ばれたが最後、あの世行きになるに決まっているのだから、ちゅうちょせざるをえないではないか、区長に妙案があったら教えてくれ、区長の言うとおりにする、と言うのだった。
「財産が惜しくないというなら差し出してしまいなさい。なにをそんなに心配しているんですか。兄さんが革命軍にうまくとりいってくれれば、わたしも十九道溝であと何年か区長を務め、農民も無事に過ごせるというものですよ」
李勲がこう言うと、曹徳一は革命軍に物資を送るのは区長にまかせるから、どうか面倒なことが起こらないようにしてもらいたい、と頼んだ。
曹徳一が援護物資を送ることにしたという通知を受けたわたしは、すぐに二十余名の隊員を十九道溝に送った。彼らは数十台の橇に六百余斗の米と数頭の豚、それに大量の砂糖を満載して無事に帰ってきた。曹徳一はその後も、われわれに数回にわたって相当な量の援護物資を送ってよこした。
西間島を革命のるつぼと化させた壮大な援軍運動参加者のなかには、日本の警官を務めた者もいれば、工事場の監督もいた。朝鮮人民革命軍の偉容に圧倒され、自分の半生を深く悔いて再生の道を歩もうと決心した三水郡のある巡査は、駐在所の首席と次席を処刑し、武器を奪って遊撃隊に入隊した。森林鉄道工事場と伐採場の一部の監督は、革命軍が行くと、強要に屈したふりをして倉庫の扉を開け、給養物資を手当たりしだいに引き出してくれた。二十道溝伐採場のある監督は、伐採労働をしていた労働者、農民と近くの山林隊員に、厭戦厭軍思想を鼓吹する『親日兵自嘆歌』という歌まで公然と広めた。
わたしは、援軍活動に積極的に参加した西間島の知識人も決して忘れることができない。当時、西間島の知識人といえば、そのほとんどが教員であった。彼らのうち、いまもわたしの記憶にあるのは、宗山私立学校の姜栄九である。彼は初めて会ったとき、自分は日本帝国主義の教育施策を実行する手先であり、将軍に会わせる顔がない、と言った。
「日本帝国主義の教育施策を実行する者だからといって、すべてが悪人だとみなす必要はありません。異国で心にかげりをもって育つ朝鮮の子どもたちに文字を教える先生たちに、なんの罪があるというのですか。やむなく日本帝国主義にしたがうとしても、民族的良心さえ失わなければ独立闘争に寄与することができるのです」
わたしがこう慰めても、彼は緊張したまま暗い面持ちでおずおずとわたしの顔色をうかがうばかりであった。わたしがまた、子どもたちを教えるとなると気苦労が多いことだろうと言うと、彼は苦笑いして、日本の教育をするのに気苦労をするほど骨をおることはないと答えた。その日、わたしは村を立ち去るときに彼にこう頼んだ。
「わたしが先生に頼みたいことは一つです。それは先生自身が朝鮮人であることを忘れないでほしいということです。次の世代に朝鮮の魂を守らせるためには、先生自身が朝鮮の魂を守らなければなりません」
姜先生はこれを肝に銘じた。われわれが村を発ったあと、彼はすぐさま祖国光復会に加入して活躍し、教鞭をとりながらもわれわれを積極的に援助した。謄写版、布地、食糧など、頼んだものはなんでも送ってくれたし、自ら援護物資を担いで密営に来ることもあった。ひいては、われわれが与えた電話機で盗聴してはそのつど敵情を知らせてくれた。
半生を教育事業につくしてきた彼は、解放された祖国に帰ってからも教壇に立った。ところが、一九五〇年代の末ごろだと思うが、平壌のある高級中学校の校長を務めていた彼が生徒を甘やかし、生産労働や建設作業に参加させるのをためらっているということを耳にした。彼を呼んでただしてみると、首をうなだれて事実だと答えた。
「先生が校長をしている学校で、そんな弊害があるというのは信じられません。もしや西間島時代のことを忘れたのではありませんか」
すると彼は、わたしたちの父母は日本人の支配下で爪がすり切れるほど苦労しながらも、子どもらには明るい教室で思う存分勉強させてやりたいというのが一生の願いだった、と言うのであった。
彼の気持は十分理解できた。しかしわたしは、子どもたちに勤労精神をつちかわず、叱りもしないで甘やかしてばかりいたら、将来どんな人間になるだろうか、子どもは苦労させて鍛えなければならない、荷物やモッコも担がせ、野良仕事もさせるべきだ、そうしてこそ額の汗の貴さを知り、労働者、農民を尊重するようになり、社会主義建設をりっぱに進めることができる、社会主義建設をりっぱに進めるためには、新しい世代に白頭の革命精神、西間島の人びとの闘争精神を受け継がせなければならない、と彼をきびしく諭した。
激戦の銃声が天地を震撼させたあの忘れえぬ地で、西間島の人びとはわれわれとともに革命的な軍民関係の礎を築き、天道教徒をはじめ愛国的な有産者と青年学生、知識人など広範な大衆を結集する統一戦線の基盤をかため、国内人民と革命家の連係を結ぶルートも切り開いた。西間島では、わが国の反日民族解放闘争史に輝かしいぺージを飾るすぐれた愛国者と人民英雄が輩出した。彼らが発揮した白頭の革命精神、西間島の人びとの闘争精神はいまも全人民の胸に力強く脈打っている。
2 水車の音
白頭山の地脈をかかえて生まれた西間島の農村集落へ行くと、水足の速い谷川があちこちに見られ、それを動力にして穀物を搗く水車の音が聞けた。月夜に遠くから聞こえるその水車の音は、胸にじんとくる郷愁を誘ったものである。それまで朝鮮人移住民の涙を搗いていた長白の水車は、われわれの白頭山進出を機に、その用途と意味が変わった。一九三六年の秋から、長白の人びとはその水車で多くの穀物を搗いて、われわれに送ってくれた。長白の地に設けられた数十の大小の水車のうちで、援軍活動とゆかりのないものはほとんどなかった。それらの水車は全人民的援軍活動の象徴として、わたしの脳裏に深く刻み込まれている。われわれが白頭山を拠点に長い間、抗日戦争を展開することができたのは、長白の人びとの積極的な支持と声援のおかげであったといえる。
長白地方で人民革命軍にたいする支援活動を最初にはじめたのは、十六道溝徳水溝の人びとであった。われわれが長白に進出して最初に立ち寄った村は新昌洞である。新昌洞を含めて十六道溝の谷あいにある村々を総じて徳水溝と呼んでいた。われわれが立ち寄った上新昌洞は、二つの谷川の合流点の下方にある四十戸余りの僻村であった。そこにも水車があった。その日、新昌洞の人びとは水車でソバを搗き、われわれに冷麺をもてなしてくれた。
徳水溝の人びとがはじめた援軍運動はその後、王家溝、薬水溝、地陽渓をはじめ西間島全域をわき立たせた。数日おきに米や布地を担いだ大勢の援護物資運搬隊が、森林の秘密路をへて密営にやってきた。あわてふためいた敵は長白一帯に兵力を増派し、人民を締めつけた。少しでもあやしげな気配が見えると村を焼き払い、人びとを手当たりしだいに引き立て殺害した。
「共匪に食糧や金品を供給したり、それと連絡をとる者は通匪とみなし即時銃殺に処する」
これは当時、長白県内各地に貼り出された威圧的な警告文である。白頭山付近の国境周辺の住民は地下たび一足、マッチ一箱も自由に持ち歩くことができなくなった。それでも密営には人民の援護物資が引きも切らず届けられた。人民革命軍にたいする長白の人びとの援護活動は、自分自身の死活の要求から起こった自発的な活動であった。彼らは、革命軍を援助することこそ朝鮮独立の道であると考えていたのである。それゆえ、革命軍を援助するためなら死も恐れず、真夏の炎天も、厳冬の豪雪もものともしなかった。
援軍運動に立ち上がった長白の人びとの群像を思い浮かべるたびに、英化洞の村長であり組織のメンバーであった李乙雪の父親李炳煇の剛直で素朴な姿がよみがえる。李炳煇の三人兄弟はいずれも長白地方の援軍運動の先駆者であった。一九三六年の末、黒瞎子溝密営にいたとき、李炳煇は英化洞の革命組織が準備した援護物資を持って司令部を訪ねてきた。彼らが持ってきた多くの援護物資のなかでいまも記憶に新しいのは、普通のものより綿が多く入っていて長さも倍ほどのポソン(朝鮮の足袋)である。荷物のなかからポソンを一足取り出して足にあてると膝まできた。わたしは英化洞の女性のまめまめしい手並みとまごころに感嘆した。
「造りがすばらしい!」
わたしがこうほめると、李炳煇は顔を赤らめた。
「将軍、長白は雪が深い所です。冬は足に気をつけないとひどく苦労をします」
初対面であったが、彼が非常に誠実で謙虚な人であることがすぐにわかった。彼は決して人の前に立とうとはしなかった。荷物を運ぶ人たちを率いて密営に来ても、自分が引率者であることはおくびにも出さず、同僚の後ろに立って注意深くわたしを見つめていた。わたしがポソンを手にしてしげしげと見ていると、誰かが米の背のうを開けてこう言った。
「司令官同志、これを見てください。おそらく日本の天皇もこんな麦にはお目にかかれなかったでしょう」
わたしはわが目を疑った。白雪のように真っ白できれいな麦粒! これが白米でなくて麦だというのか。どんなにまごころをこめて搗き、これほどきれいでおいしく見えるのだろうか。
「本当にご苦労さまでした。こんな麦を見るのははじめてです。どう搗けばこんなに白くなるのですか」
「四回搗いたんですよ」
「え? 麦は二回も搗けば食べられるではありませんか。本当に誠意のほどがわかります」
「うちの村の女衆は、もともとねばり強いたちなんですよ」
李炳煇は今度も功を譲って村の女性たちに花を持たせた。――これを搗くのに苦労したのは男たちではなく女衆だ。麦は手間をかけさえすればいくらでも搗ける。四回ではなく十回でも搗ける。革命軍のためなのだから、それしきのことはなんでもない。厄介なのは密偵が村を見回り、穀物を搗いているのはどの家で、なにを搗いているのか、搗いた穀物はどこへ運ぶのかと監視していることだ。その監視の目を避けるために婦女会員たちがどんなに気をつかっているかわからない。彼女らは恵山の市(いち)に行って革命軍に送る布地を買っては、腰に巻き付けたり、おむつのようにたたんで子どもの尻に当てたりする。市に行くときはわざわざ子どもをおぶっていく。わけを知らない年寄りたちは苦労を買ってしているようなものだと舌を打つが、女性たちはかまわず子どもをおぶっていく。そうしなければ布地の隠し場所がないからだ――
李炳煇は男たちの苦労については一言も触れず、女性たちの苦労ばかり口にした。彼の話はわたしを感動させた。わたしは背のうの中からひとつかみの麦粒をすくい出して匂いを嗅ぎ、回りの人たちに向かってこう言った。
「日本の天皇は高くても根のない木であり、われわれは目に見えなくても丈夫な根から生えた新芽だから、こんな上等の麦は天皇とて目にすることはできないでしょう」
英化洞の人びとが展開した援軍運動について知ったのは、翌年、李乙雪を通じてである。彼はその年に革命軍に入隊した。彼も父親に似て自慢をしたがらないたちだった。とくに、自分の両親の苦労についてはほとんど口にしなかった。しかし、失言といおうか、一つだけこぼした話があった。それは、彼の母が背のうをつくる布地を買う金をつくるためにクマイチゴを摘んだ話である。英化洞には食糧不足に悩む家が多かった。李乙雪の家も例外ではなかった。しかし、草がゆで食いつなぐ状態でありながらも、革命軍の支援ではひけをとろうとしなかった。それで夏にはクマイチゴを、秋にはヤマブドウやサルナシの実を採って恵山の市で売った。母が山の実を採ってきて選り分けると、李乙雪の幼い弟たちは母を取り囲んで生唾を飲み込んだ。子どもたちの気持は痛いほどわかったが、母は一粒のクマイチゴも与えなかった。子どもたちに食べさせては、それだけ革命軍への心づくしが足りなくなると考えたのである。
密営から帰った李炳煇は子どもたちに、わたしに会ったことを自慢した。それを聞いた李乙雪は、即座に遊撃隊を訪ねて将軍のもとで戦いたい、と言い出した。しかし、父親はそれを許さなかった。
「将軍の配下にある兵隊は、みんなたくましく銃の扱いもうまいというのに、粗麻の半ズボンでホミ(草取り鎌)しか手にしたことのないおまえが、どうして革命軍になれるというのだ。もう少し修養を積んでからにしろ」
李炳煇はこう言って息子の願いを拒み、祖国光復会の分会組織に加入させて鍛えた。翌年の夏に、彼は息子と甥を遊撃隊に送った。愛する息子たちを軍隊に送るのは援軍精神の
長白の人びとが送ってくれた援護物資には、いずれも涙ぐましいまごころがこもっていた。当時、焼き畑農作をしていた家では、四人の人手で一年に二十担~三十担(一担は二十斗)のジャガイモを得るのがせいぜいだった。ところが、一斗の澱粉をとるには十斗余りのジャガイモが必要である。当時、ジャガイモの澱粉一斗の値は六十銭内外であった。澱粉一斗を売っても、地下たび一足分の金にもならなかった。それで酒やあめをつくり、それを金に換えた。金があっても思うように品物を買えない時だったので、援護物資を一つひとつ準備するには、じつに大変な努力と知恵をしぼらなければならなかった。そういう悪条件のもとでも、長白県の人びとはいろいろな品物を準備して山に送ってくれた。長白県に住む朝鮮人で、援軍活動に参加しない人はほとんどいなかった。杖なしでは歩けない年寄りも、山に行ってシナノキの皮をはぎ、夜通し革命軍に送るはきものをつくった。女性たちは手先たちの目をくらますために、寒い冬の夜にも火を焚かず、交替で見張りをしながら臼を搗いた。
援護物資の運搬は、村長が手配する場合が多かった。長白県の村長たちはそのほとんどが祖国光復会の分会長か支会長だったので、彼らがそれを受け持てば、いろいろと有利だった。当時、革命軍の給養担当官は、故意に村長たちに物資の調達を要求する高圧的な公文を送ったものである。村長が革命軍への援護活動を手配しても、その責任を逃れる口実をつくらせるためであった。公文を受け取った村長は脅迫に屈したふりをして、秘密裏に援護活動を手配した。援護物資運搬隊が発つ日には村人がわれ先に駆けつけ、荷物の運搬を買って出た。
革命軍の隊員は長白県の人家を自分の家のように出入りした。当時われわれがよく立ち寄って世話になった家の一つが、廉宝貝オモニの家であった。廉仁煥の話によると、徳水溝の開拓者は姜鎮乾であるとのことだった。故郷で暮らせなくなった彼は親族の何人かを連れて鴨緑江を渡り、十六道溝の谷あいに村をつくった。廉宝貝は姜鎮乾の従弟の妻で、夫婦ともに姜鎮乾の影響を多分に受けて反日思想が強く、そのうえ根っからの正直者だとのことだった。そんな縁で、わたしは大徳水に行ったとき廉宝貝の家を訪ねた。いまでもわたしのまぶたには、ジャガイモまじりの麦飯を差し出しながら恐縮しきっていた廉宝貝オモニの姿がまざまざと浮かんでくる。彼女は、われわれが夜半に立ち寄ってもすぐご飯が炊けるように、いつも大きなくり鉢にエンバクと麦をふやかしておいた。彼女が炊いてくれるそのご飯はやわらかく香ばしくて、とてもおいしかった。夜中に煙突から煙が立つと敵の手先たちがいぶかしがるので、夫の姜仁弘は煙突を低くし、麦わらの束をかぶせて煙を下に散らすようにした。この夫婦は本当に心づかいがこまやかな人たちだった。
徳水溝の人びとはいずれも極貧の生活をしていたが、革命軍の世話をすることに大きな喜びを感じていた。敵が一朝にして大徳水村を火の海に変えたのはゆえないことではなかった。それは北間島の「血の海」を連想させる惨劇であった。焼け跡の灰を掃き出し、オンドル石の上に小屋を建てると、また敵が襲ってきては火を放った。
廉宝貝オモニの一家は、仕方なく新昌洞の張磨子へ移り住んだ。それを聞いて彼女に会おうと張磨子へ行ってみると、そこでも水車の音が聞こえた。わたしには、その音が吉兆のように思えた。なぜなら、水車の音が聞こえる所には決まって闘争があり、援軍を最上の喜びとする人民があり、炎の中でも燃えつきず、嵐の中でも動じない朝鮮の魂があったからである。水車の音は、あたかも援軍によって日本帝国主義への抵抗をつづける人民の荘重な太鼓の音のように聞こえた。わたしが伝令兵を連れて真っ先に行ったのは水車小屋だったが、そこに廉宝貝オモニがいた。わたしを見るや、彼女はくずおれてむせび泣いた。大徳水を後にしてきた彼女の泣き声には、あまりにも大きな悲しみがこもっていた。
「オモニ、気を静めてください。しかたがないではありませんか。がまんしなくては…」
わたしはやっとの思いでこう慰めた。この水車は彼女の一家がここに移って来て新しくつくったものだということであった。水車小屋のそばにある小さな丸太小屋が彼女の家だった。その日、彼女は隣村へ行ってニワトリを手に入れ、肉汁をつくり、鶏肉を具にしたノンマ麺をつくってくれた。これほどもてなしながらも、こんなものしかないと恐縮するのであった。わたしは長白県でよく食べたノンマ麺の味が忘れられず、いまでも貴賓を迎えての宴会のときには、凍りジャガイモかジャガイモの澱粉でつくった麺をスペシャル・メニューにしている。
その日の夜、彼女は、水車の音がわたしの睡眠を妨げるのではないかとたいへん気をつかった。しかし、それは無用な心配だった。わたしはその音を聞くと、かえってよく眠れ、思索しても頭がさえてくるのだった。
彼女の一家が張磨子に来て水車をつくったのは、自分たちの生活の便宜のためではなかった。それは援軍活動のためであった。しかし、この山奥の張磨子とて安心して暮らせる所ではなかった。敵はこの深い山中にも触手をのばした。二道崗の警官たちが突然襲ってきて水車をぶちこわし、村人たちを全員警察署に引き立てた。廉宝貝オモニの家族は三日間ひどい拷問を受けて瀕死の状態になり、牛橇に乗せられて帰ってきた。いちばんひどい目にあった姜老人は重態に陥った。それを聞いたわたしは、うっ血に特効がある熊の胆を送った。彼女の家族はその熊の胆を使ってみな回復したという。いちばん傷がひどかった姜老人も床を払って再び援軍活動に乗り出した。大工の腕がある彼は山からオノオレカンバを伐り出し、こわれた杵の長柄を修理した。子どもたちは、もう少し体がよくなってから仕事をするようにと引き止めたが、そんな言葉が老人の耳に入るはずはなかった。
「たわけたことを言うな。八十のじいさん、ばあさんも山で苦労している人たちを助けようと、わらじだ、ポソンだと身を粉にしているというのに、これくらい動ける体でいつまでも寝込んでいられるか」
こうして、張磨子の水車は再び援護米を搗きはじめた。姜仁弘老のたっての頼みもあって、息子の姜宗根を革命軍に入隊させた。そして彼をそばにおいて目にかけた。しかしその後、惜しくも戦死した。
十七道溝の坪崗徳に住んでいた金世雲の一家も革命軍を誠心誠意援助したりっぱな家庭である。彼は二人の弟と四人の子ども、そして親戚までも革命闘争に参加させ、その活動を積極的に援助した誠実な革命家であった。馬国花の恋人金世玉は彼の弟であり、抗日革命闘士の金益顕は末っ子である。長男も朝鮮人民革命軍に入隊してりっぱに戦った。彼は入隊後間もなく間三峰戦闘に参加し、その後国内での政治工作中に逮捕された。彼は十五年の刑を言い渡され、権永璧、李悌淳らとともに西大門刑務所で服役していたが、一九四五年の春に虐殺されたと聞いている。
革命軍の密営からさほど遠くない山奥にあった金世雲の家には、遊撃隊の小部隊や政治工作員が足しげく出入りした。国内から密営を訪ねてくる革命家も、この家で一泊するのがつねだった。彼の家は人民革命軍の隊員や政治工作員の無料宿泊所ともいえた。彼は中国人地主の土地で小作をしながらも、穀物をそっくりはたいて革命家の世話をした。権永璧も彼の家に居所を定め、長白県内の党活動を指導した。同志たちは金世雲に「タスポ」というあだなをつけた。「タスポ」とは「大(タ)師(ス)傳(フ)」という中国語の転義語で炊事員という意味である。彼はそのあだなにたがわず、多くの客を接待した。その家の釜は普通の釜の五倍もあった。その大釜でご飯を炊いては、大きなしゃくしですくって革命軍をもてなした。客が多い日は金世雲も袖をまくり上げて台所に立ち、汗を流しながら女たちの手助けをした。彼はひどい凍傷のためかかとがくずれ、満足に歩けない身障者であったが、一日に何回となく米俵を担いで水車小屋を行き来した。
「かかとさえまともについていれば、少々老いぼれたとはいえ遊撃隊で給養担当官ぐらいはやれるんだがな…」
彼は客人たちによくこんな冗談を言った。小作農の身で毎日のように大きな釜いっぱいの飯を炊いて政治工作員の世話をしたのだから、家に穀物が残るはずはなかった。おそらく、金世雲自身は食事を抜いたことが一度や二度ではなかったであろう。
革命を支援する長白の人びとの献身ぶりはたとえようもないものだった。彼らは家産をはたいてまで革命軍を熱心に支援し、必要とあらば命まで投げ出した。一九三七年五月、二道崗に通ずる路上で乳飲み児とその母親とおぼしき死体が見つかり、人びとを驚かせたことがある。その女性は自分の家に遊撃隊の負傷兵をかくまって治療していて逮捕された平凡な農村の女性であった。日本軍の憲兵が踏み込み、治療中の負傷兵と彼女を本部へ押送しようとした。ところが、彼女は並の人ではなかった。彼女は家を出るときふところにしのばせてきた小刀で憲兵将校の顔をめった切りにし、将校の腰から拳銃を抜きとった。おかげで革命軍の隊員は助かった。負傷兵の姿が消え去るまでの半時間ほど、彼女は拳銃を構えて憲兵将校を監視した。しかし、失神状態から意識を取りもどした将校が彼女に飛びかかって拳銃を奪い返し、彼女とその子を軍刀で斬殺したのである。このことは、間もなく巷のうわさになった。そしてある日の夜、彼女の死体がいずこかへ消え去るという非常事態が起こった。憲兵隊は、すわ一大事とあわてふためいた。密偵が四六時中監視の目を光らせていたのに、いつの間にか死体が消えたのだから、奇々怪々といわざるをえなかった。機会をうかがっていた二道崗か、その付近の革命組織がすばやく遺体を奪い去ったに違いなかった。
長白県に珠家洞という村があるが、そこには名だたる革命家が多かった。「小刀じいさん」というあだなの金竜錫も珠家洞で活動していた。彼も、いま述べた名も知れぬ女性と同様、小刀で捕繩を切り、自分を護送していた日本軍将校を刺したことがある。彼が遊撃隊に入隊して給養担当官を務めていたときに、戦友たちは彼に「小刀じいさん」というあだなをつけた。それ以来、「小刀じいさん」は金竜錫の代名詞となった。解放後、彼が晩年を送っていた平壌のアパートの子どもたちも、彼を「小刀じいさん」と呼んだ。しかし、残念なことに「小刀おばさん」は名前すらわからずじまいだった。彼女の助けで脱出した負傷兵も、隊伍には無事にもどることができなかったようである。
いつかわたしは、珠家洞の地下組織のメンバーである池鳳八老の家に二名の隊員をあずけたことがある。胃腸病で苦しんでいた金竜淵と負傷した新入隊員であったが、名前は思い出せない。池鳳八老は二か月もの間まごころをこめて彼らを治療したが、討伐にあって命を失った。敵が珠家洞に襲撃してきたとき、彼は革命軍の隊員たちを山に避難させ、ひとり家にとどまっていた。自分まで避難してしまえば、裏山を捜索するだろうと考えたからである。彼らは革命軍の居場所を教えろと威嚇したが、老人は知らぬと突っぱねた。彼らは革のベルトで老人の顔を容赦なく打ちすえた。その顔からは見る間に鮮血がしたたり落ちた。しかし、つづけざまに鞭が振り下ろされ罵倒が高まるほど、彼はかたくなに口を閉ざした。生き埋めにしてやるといって、老人を穴の中に立たせて銃口を胸につきつけた。そして革命軍負傷兵の隠れ場所を教えろ、それだけ言えば賞金をやるが、言わなければ穴に埋めてウジの巣にしてやる、と脅した。それでも老人は口を割らなかった。逆上した敵は彼を穴の中に立たせたまま銃殺した。老人は死の間際に、村人たちに素朴な願いを残した。
「革命軍の面倒をよくみてくれ。それでこそ新しい世の中が早く来るのだ」
池鳳八老の最期にかかわるこの事件は、その後「珠家洞事件」と呼ばれた。わたしは後日、金竜淵の報告を受けてそれを知った。生涯畑を耕し、素朴に生きてきた善良な農民が、どうして、自分が生き埋めにされる穴の中で死を前にしてかくも泰然とし、巨人のごとく毅然として最後の瞬間をりっぱに飾ることができたのだろうか。革命軍をよく援助してこそ新しい世の中が早く来るという池鳳八老の遺言は、人間にとって信念がいかに大切なものであり、信念をもった人間がいかに偉大な力を発揮するものかを、われわれに切々と教えている。
長白県の人びとは危険を冒し、ひいては命までささげて革命軍を援助してくれたが、補償はなにも望まなかった。国が解放されてからも、自分はこういう経歴の持ち主だとひけらかす者は一人もいなかった。廉宝貝オモニは解放後、子どもたちを連れて恵山に渡ってきてそこに住み着いた。しかし、十余年が過ぎても、自分が恵山に住んでいることをわたしに知らせなかった。一九五八年に現地指導のため両江道へおもむいたとき、わたしは彼女が恵山に住んでいることをはじめて知った。駅頭で彼女に会ったのだが、髪は白くなっていた。
「オモニ、宗根に死なれ、主人にも先立たれ… きょうこうして頭に霜をいただいたオモニに会えて…」
わたしは喉がつまって言葉をつぐことができなかった。廉宝貝オモニの夫の姜仁弘は革命軍を助けたかどで警察署に引き立てられて殴打され、それがもとで血を吐き絶命した。わたしに取りすがった彼女の目からは涙がこぼれ落ちた。
「オモニ、昔わたしはオモニの家を自分の家のように出入りしたというのに、これはあんまりではありませんか。国が解放されて十年以上たっているのに、どうしてわたしの所に来なかったんですか。せめて手紙でも寄こしてくれたらよかったのに…」
彼女の荒れた手をなでながら、なかばとがめるように言った。
「わたしも将軍を訪ねて平壌へ行きたい気持はやまやまでした。でも、将軍にお会いしたがっているのは、わたし一人ではないじゃありませんか。みながみな訪ねていったら、いつもお国の仕事でお忙しい将軍をわずらわせるではありませんか」
昔はわたしを見ると、靴が脱げるのもかまわず村のはずれまで駆けつけてきたあの情熱的な長白の人びとが、解放された祖国に帰ってからは、自分の存在を世に知らせず、ひっそりと暮らしていたのである。その後間もなく、わたしは彼女を平壌に呼び寄せ、眺めのよい大同江のほとりの家に住まわせた。抗日革命の日々にわれわれを命を賭して助けてくれた長白の人びとは、みなこのような人であった。
前にも若干触れた金世雲も一九三七年の秋からは国内に入り、雲興、普天、茂山、城津(金策市)など各地を転々として地下組織を結成し、援軍活動をつづけた。その後は図們に渡り、解放の日まで牛方を装って地下活動をつづけた。驚くべきことは、足の不自由な彼が五体壮健な人に劣らず、広い地域を縦横無尽に行き交って地下活動をしたということである。彼は自分のしたことを誇らなかった。彼の国内活動にかんする資料は、ずっとのちになって日の目を見、歴史家の注目を引くようになった。このような人は金世雲一人ではない。当時、西間島住民の多くが祖国光復会の会員であったが、当世風に言えば彼らはみな隠れた英雄、隠れた功労者である。
敵は人民革命軍と人民の連係を断ち切るために集団部落をつくり、砲台や土城、鉄条網によって援軍活動の流れを食い止めようとしたが、白頭山へとそそがれる西間島住民の心まで閉じこめることはできなかった。集団部落内の自衛団長、村長、城の門番のほとんどが味方であったのだから、敵の集団部落騒ぎは笑い草といえる一つの茶番劇にすぎなかった。白頭山根拠地は東満州根拠地に比べて、住民地区との距離がはるかに遠かった。しかし逆に、軍民のつながりはより緊密であったといえる。行き交う情ももっと厚かった。人民を信頼し、白頭山を朝鮮革命の新たな策源地として設定したときの人民へのわれわれの期待は無駄ではなかった。清らかな愛国衷情と革命軍への赤誠をいだく白頭山根拠地の人民は、期待と想像を絶する援軍運動によって敵を唖然とさせた。
長白県の人びとは革命的援軍伝統の模範をつくりだし輝かした英雄的な人民である。援軍活動は各階層、各村各戸、老若男女を包括する汎国民的な運動に発展した。その援軍に支えられてわれわれは敵との困難な対決で百戦百勝することができたのである。広大な西間島の地をぬって流れる援軍の大河を見ながら、組織化された人民がいかに偉大な力を生むものであるかを、わたしはいまさらのように痛感した。農家が三戸しかない台地や谷あいにも組織は根を下ろしていた。そんな所でも連絡員に簡単な書き付けを持たせれば、熟睡していた人が飛び起き、革命軍が四キロほどの所に来ていて村で食事をしたいといっている、早く支度をして温かいご飯をもてなそう、と食事の支度を急ぐのであった。簡単な書き付け一つで組織を動かし、西間島の住民をいっぺんに白頭山に呼び集めることもできれば、白頭山の頂上に登って「朝鮮独立万歳!」を叫ばせることもできた。西間島の住民は一九三六年の秋以来、われわれの指示によって動く組織化された人民になっていたからである。
朝鮮のことわざに「珠(たま)は三斗でも、すげねば宝とならず」というのがある。西間島の住民の一人ひとりは、すべて珠にたとえられる貴重な存在であった。その珠を宝に変えたのが、まさに西間島をわれわれの天下に変えた祖国光復会組織であった。われわれが西間島の住民を組織的に結集していなかったら、どうなったであろうか。その個々の珠は敵に各個撃破されるか、塵土に埋もれて光を失っていたはずである。いかに愛国愛族に燃える人であっても、一人ではなにもできない。
それでわたしはつねに、革命家にとって最大の財産は組織だと言っている。自主化を志向する各国の革命家と人民にとって、組織のもつ意義は永久不変だといえる。時代が変わったからと組織の役割が薄れるものではなく、革命が生々発展するからと人民大衆の組織化を弱めてもかまわないというものではない。大衆の組織化は権力をかちとる闘争のためにも必要だが、権力をかちとったあとの国家建設のためにも必要であり、共産主義社会を建設したあと、その成果をふまえて革命をつづけるためにも必要なのである。革命に限りがないように、大衆を組織化する活動にも終点というものはありえない。まさにこれが社会発展の原理であり、発達した社会の建設をめざしてたたかうすべての人が重視しなければならない法則なのである。
われわれはいまも人民大衆を組織化しているが、共産主義社会を建設してからもたえず組織化するであろう。そして組織化された人民大衆の力によって、この地に末長く繁栄する自主的な社会を建設し、わが祖国と制度を鉄壁のごとく守りぬくであろう。
一九四〇年代の初めに日本帝国主義が「日ソ善隣政策」によって世人をあざむき、朝鮮共産主義者の「孤軍独戦」を喧伝して、われわれの闘争に水を差したときも、ヒトラー・ドイツがモスクワをめざして破竹の勢いで進攻し、共産主義者の「悲惨な終末」について云々していたときも、わたしは汪清と長白の水車を思い浮かべて力を得、信念をかたくした。世界「最強」を誇るアメリカ帝国主義とその追随国の軍隊を相手にした試練にみちた戦火の日々にも、わたしは長白の水車を思い出して明日の勝利を確信した。水車の音を思い起こして勝利を確信したといえば、いぶかしがる人もいるだろうが、これは事実である。わたしは確かに、長白の村々のあの水車に、われわれにたいする人民の絶大な愛情と確固不動の支持声援の意志、死を前にしても変わることのない志操を見たのである。
朝鮮戦争の一時的後退の時期に、わたしは李克魯先生と禿魯江(将子江)のほとりを散策しながら、長白の水車の話をしたことがある。白頭山にいたころ、長白の人びとが水車で搗いた援護米を送ってくれたので、われわれは飢えずに戦うことができた、敵が村を焼き払い水車をこわしても水車の音は絶えることがなかった、人民に依拠し人民の力を引き出すならば、いかなる強敵をも撃破することができる、ということを何回となく強調した。そして、あの当時、長白にいた朝鮮人は小さな谷川にも水車をつくって効果的に利用したのに、この広大な禿魯江の水をみすみす流してしまうのはあまりにも惜しい、戦争が終わったらこの川をせき止めて大きな水力発電所を建設しよう、と話したものである。
抗日武装闘争の時期に築かれた援軍伝統、軍民一致の伝統は、偉大な祖国解放戦争の日々をへていっそう不抜のものに拡大強化された。創建されて間もないわが共和国が地球上の「最強国」を相手にして戦い、打ち負かすことができたのは、敵側がほとんど軍事力のみを動員したのに反し、わが方は全人民が立ち上がり、軍民が団結して戦ったからである。
われわれの有力な援軍伝統、軍民一致の伝統は、今日わが党の指導のもとにいっそうりっぱに継承され発展している。いま全国いたる所で、人民が軍隊を助け、軍隊が人民を助ける「われらの村――われらの哨所」「われらの哨所――われらの村」運動が活発に展開されている。とくに
抗日大戦の日々に聞いた水車の音は、いまもなお、わたしの耳に残っている。その音とともに、長白の無数の人びとの顔がまざまざとまぶたに浮かんでくる。そのなかで絞首台の露と消えた人、監房で絶命した人はいかばかりだったろうか。援軍の途上、白頭の雪嶺で凍え死んだ人は、またいかばかりだったろうか。彼らの厚恩を思うと頭が下がり、感謝の念が胸にあふれてくる。
3 李 悌 淳
白頭山地区に進出するとすぐ、われわれは密営の建設を急ぐ一方、朝鮮人の住民地帯に祖国光復会の組織を結成する活動を本格的に展開した。
祖国光復会網建設の第一の対象としては、白頭山をかかえている長白地区と国内の甲山地区が選定された。組織結成の困難な課題を用意周到に遂行するには、命をかけてわれわれの活動を助けてくれる信頼できる人物を見つけなければならなかった。
西間島に進出した直後、わたしは小部隊を派遣するさい、李東学中隊長に再三強調した。―― きみたちの主な任務は人材を見つけだすことだ。長白の地をくまなく捜してでも信頼できる協力者を見つけるのだ。敵を討つのは副次的な任務だ。人材の探索に主力をそそぎ、勝てそうな敵だけを討ち、そうでなければ戦いを避けるべきだ――と。
李東学はこの任務をりっぱに遂行した。彼は李悌淳を連れて密営に帰ってきたのである。李東学はあわて者に見えるが、実際は非常に周到でそつのない人であった。大変な早口なので、はじめての人は面食らうほどだった。彼はいつも早口で隊員たちをきりきり舞いさせた。それで同僚たちは彼に「ポタジ」というあだなをつけた。「ポタジ」とは「ポッタッチル(きりきり舞い)」という言葉からきたようである。
李東学は中隊を率いて長白を一巡りしているうちに、二十道溝の台地で青少年たちに朝の体操をさせている若い村長に出会った。その村長がほかならぬ李悌淳であり、その土地が新興村であった。李悌淳は村長であると同時に夜学の先生でもあった。村人たちは老若男女を問わず、この村長を深い愛情をこめて、うちの先生、うちの先生と尊敬していた。
李東学は、李悌淳がどういう人間なのか探りを入れるつもりで、中隊の二、三日分の食糧を提供してもらいたいと頼んだ。すると村長は、中隊の全員でも担ぎきれないほどの食糧をまたたく間に集め、密営までの運搬まで買って出た。仕事のさばき方も見事であったが、並々ならぬ肝の太さに「ポタジ」は初対面のこの村長にぞっこん惚れ込んでしまった。彼は、軽率だとあとで多少批判を受けるようなことがあっても、李悌淳を司令部に連れていきたいと思った。それで、村長が荷物の運搬を買って出たとき、さっそくそれを承諾した。村長が村人を引き連れ自ら食糧を担いでいったことが敵に知れると厄介なことになりそうなので、隊員たちは李悌淳に繩をかけ、あたかもすごい罪人を護送していくかのように見せかけた。新興村を発った食糧運搬隊は三日後に密営に到着した。密営まであと十キロほどの地点に来たとき、李東学が村人たちを全員帰そうとすると、李悌淳は自分を密営まで連れていってくれと頼んだ。李東学は彼の胸中を探ろうと、わざと困ったような顔をして見せた。
「それは駄目だ。あんたのなにを信じて秘密基地に連れていけるのか」
すると李悌淳は彼の腕をとり、思いきった提案をした。
「それなら、わたしを一度試してみるがいい。たとえば、命がけの仕事をまかせることができるではないか」
李東学は村長の提案を受け入れ、三日のうちに膝までくる長いポソンを五足、それに脚絆を五足つくっ
てくるようにと言った。そして、それを約束の時間に持って来れば密営に連れていくし、約束の時間に来れないか手ぶらで来た場合は不合格だ、と釘を刺した。李悌淳は、そんなことはわけない、そんな問題なら難なく合格してみせる、と言いきって新興村へ帰っていった。彼は妻と義母に、今夜のうちに五人分のポソンと脚絆をつくってくれと頼んだ。彼女たちは李悌淳の妻が嫁入りするときに持参した、たった一組の布団をほぐしてポソンと脚絆をつくった。李悌淳はそれを持って待ち合わせの場所に現れた。それではじめて李東学は彼の肩を抱きよせ、自己紹介をした。李東学は自分のあだなが「ポタジ」であることや故郷がどこだということまで話し、「結局わたしが、あなたの家の布団を駄目にしてしまったわけですな」とわびた。李悌淳はテストに合格したわけである。
わたしが白頭山地区を一巡して帰ってくると、李東学は新興村という所でりっぱな青年を一人見つけたのだが、司令官同志に紹介したくて密営まで連れてきたと、李悌淳をひとしきりほめ立てた。彼の話によると、李悌淳は密営に来たここ数日間、隊内出版物を読むのに没頭して、少しも休んでいないということであった。非常にねばり強くいちずなところがあって、その間、隊員につきまとって武器の分解・組立法や方位判定法まで習得したという。
「聡明で実直なうえに、革命にたいする熱意もある情熱家のようです。それに人なつっこくて、ここ数日の間に隊員たちとすっかり親しくなってしまいました。大衆性のある人です」
李東学の話に誇張がなければ、新興村の村長にたいする総合的な評価は上々だといえた。李悌淳は女性のようにきれいな顔をしていた。印象的なのはいつも微笑をたたえているような目であった。見かけは非常に柔和で弱々しい感じがするが、実際は芯が強く岩のような不動の信念と冷徹な思考力をもった強靱かつ理性的な人間であった。貧農の家庭に生まれた李悌淳は幼いときから苦労のしどおしだった。学校にも行けず、母と一緒に他人の畑の草取りをして手間賃をもらい、十歳からは隣村の地主の家で下男暮らしをした。十一歳になった年のある日の晩、下男部屋でわらじを編んでいるところに母がやってきた。恋しくてならない母であった。しかし彼は、母が部屋に入ってきて、むしろに座っても顔を上げなかった。どうかしたのかい、と母が聞いても答えず、仕事の手を休めなかった。あわれな母は息子からあたたかい言葉一つ聞けずに部屋を出た。すると李悌淳は編みかけのわらじを放りだして母のあとを追い、涙声で言った。
「お母さん、二度と来ないで。お母さんが来ると、地主に馬鹿にされるんだよ。なにかもらいに来たんじゃないかと卑しめるんだよ!」
息子の気持を知った母は、息子を抱きしめたまま地べたに座り込み、むせび泣いた。そして、おまえが見たくなっても二度とここには来ないことにすると約束した。
李悌淳は正規の教育を受けられなかったが、独学で中等教育程度の知識を身につけた地道な努力家であった。十四歳まで下男暮らしをし、その後何年か夜学に通い、兄から国文(朝鮮の文字)を習った。
結婚してからは字典を肌身離さず持ち歩いて自習した。学校に行けなかったことを一生の恨みとしていた李悌淳は、新興村に来ると火田民の子どもたちのために夜学を開き、啓蒙活動に熱意を燃やした。
故郷にいたとき、李悌淳は少年会と青年同盟に加入して数年間、組織生活をした。兄が投獄されて以来、日本の警察は彼にも監視の目を光らせた。迫害と弾圧がつづくなかで身の危険を感じた李悌淳は、一九三二年の初めに妻の実家がある甲山方面に移住した。それは、ちょうど朴達などの先覚者がその一帯で愛国啓蒙運動を積極的に展開していた時期である。李悌淳は彼らとともに五豊洞一帯で秘密読書会を組織して新しい思潮を探求しはじめた。秘密読書会のメンバーは、受難にあえぐ国と民族を救う正義のたたかいに一身を投げ出す覚悟はできていたが、闘争の方策を見出せず苦悶していた。
彼らは正しい闘争の進路と名望のある指導者を探そうと各地に手づるを求めた。山をさすらう農組や労組出身の先覚者や主義者にも会ってみたが、彼らには明白な闘争路線や戦術がなかった。
李悌淳の目は朝鮮人民革命軍に向けられた。一九三四年ごろからは、人民革命軍が長白地方へ進出するといううわさが国内にまで伝わった。彼は琿春方面へ向かおうとした当初の計画を変更し、長白県二十道溝の千歌徳へ移った。後日、千歌徳を開拓した移住民は、その村を新興村と改名した。新興村から普天堡までは直線距離にするとさほど離れていなかった。その村からは枕(ペゲ)峰、小白山、棍杖徳とともに白頭山も望まれた。白頭山が望める所に住むということは、なじみのない異邦の風土で望郷の念にかられていた李悌淳に不思議な安堵感を与えた。しかし、官憲の圧制と生活苦は影のように移住民につきまとった。小作料と夫役、過重な雑税のため、あわれな火田民たちは腰を伸ばして空を見上げる暇さえなかった。祝日になると地主たちは小作農たちに貢ぎ物を要求し、たきぎを取る仕事もいっさい小作農に押しつけた。かてて加えて対岸の朝鮮の佳林里、泉水里の警官までが長白地方の朝鮮人移住民に、たきぎを取ってこいと強要した。巡査たちは民家を見まわるたびに、ニワトリの巣からタマゴをつかみだしてはその場で食べてしまった。火田民の食卓に上るものといえば、せいぜい麦めしか雑穀がゆであった。
六十余戸を数える新興村に牛のある農家が一軒もなかったのだから、農民たちがいかにひどい苦役にさいなまれたかは言わずもがなのことである。農民たちはみな人力ですきを引いた。ある若い夫婦が春のすき起こしをしていたときの話だという。彼らは終日畑を耕した。最初は妻がすきをとり、夫が牛の役をつとめてすきを引いた。しばらくして夫に代わり妻がすきを引きはじめた。ところが、すきは地に食い込んだままびくともしなかった。もどかしさの余り、夫は故郷にいたころ役牛を使っていたときのくせで「ハイッ!」と掛け声をかけた。夫に役牛扱いにされたと思った妻は、口惜しさのあまり畑に泣き伏した。夫はすきを置いて、つい口に出たことだから許してくれとあやまり、妻のそばに座り込んでは、こんなモグラのような生活がいつになったら終わるのだろうかと嘆いた。
このような生活境遇は、新興村の農民を民族的にも階級的にも容易に目覚めさせる下地といえた。この新興村の住民の大部分は、咸鏡南北道一帯から移住してきた零細農と、農組や青年同盟をはじめ各種の大衆団体で反日運動に関与し、新たな活動舞台を求めて離郷の道を選んだ亡命者であった。後日、祖国光復会新興村支会とそこの党特別支部で活動した金丙喆にしても、国内から亡命してきた人であった。彼は国内にいたときいつも同志たちに、農組が闘争で成果をおさめるためには必ず朝鮮人民革命軍の指導が受けられるルートをつくらなければならない、革命軍の指導なくしては国内闘争の勝利は不可能だ、と力説した。言うまでもなく、この主張は多くの同志から支持された。しかし一部の人は、革命軍のつてをどう求めるのかと難色を示した。しかし、彼は一人ででも遊撃隊を訪ねていくことを決心し、知人が活動している長白県の新興村に移住した。彼は、国内の人士のなかで海外の武装闘争と国内の政治闘争の不可分の関係と一元化の必要性をはじめて認識し、空理空論の域から脱し、積極的にそれを実現しただけでなく、革命軍との連係をつけてからは、われわれの路線を貫徹する道で生命までささげた先覚者、闘士の一人である。
李柱観、李柱翼など朝鮮の愛国者は一九三〇年代の初めに長白地方で在満韓人赤色農組を結成し、それに依拠して大衆闘争を展開した。迷信、賭博、早婚、買婚の打破や識字運動のような啓蒙運動からはじまった農組の活動は漸次、小作争議や夫役に反対する経済闘争の段階をへて、軍用道路や軍事施設の建設に反対したり妨害するなどの反日政治闘争に発展した。われわれが長白に祖国光復会の組織を結成するまでは、その赤色農組が新興村とその周辺の大衆運動を指導したという。
一言でいって、李悌淳は白紙のようにきれいな人であったといえる。経歴も比較的単純であった。それは、彼がえせ運動家や派閥分子の誤った思考や闘争方法に毒されていないという、もっとも確実な証拠であった。わたしはむしろ、その単純さを貴重なものと考えた。白紙のように汚れを知らぬ頭に移植される思想や主義主張はくもることがないものである。反日愛国運動を展開する過程で李悌淳が体得したという人生哲学のなかには、興味深いものが少なくなかった。彼は、人間がなすことのうちでいちばんむずかしいのは先駆者、指導者の役割を果たすことだと言うのであった。すなわち、他人が一つをおこなうときに二つ、三つをおこない、他人が一歩進むときに二歩、三歩進むのがもっとも骨のおれることだと言うのである。事実、彼の言葉には深奥な真理がひそんでいた。それは、人の先に立って社会改造の困難な道を切り開いていく革命家の苦衷を反映している真理であった。
「農作を営み、村長を務め、革命活動までするとなると、さぞ苦労が多いことでしょう」
わたしがこう言うと、李悌淳は笑って答えた。
「ええ、並大抵ではありません。しかし、その苦労がわたしにはかえって楽しみとなっているのです。この険悪な世の中で革命活動の苦労もなければ、なにを楽しみに生きていけるでしょうか」
彼は、大衆工作がいちばんの楽しみであり、同志を得たときの喜びがいちばんの喜びだと言った。大衆獲得にあたっていちばんむずかしい対象は誰かと聞くと、老人だと答えた。そして、大きな運動場と公会堂さえあれば、一つの村を啓蒙することくらいはわけのないことであり、一つの面(郡の下の行政単位)でもそっくり革命化することができると言った。わたしは、李悌淳の大衆観点と大衆工作にたいする見解にまったく共感した。大衆啓蒙にかんする李悌淳の経験のなかで興味を引いたのは「家庭夜学」の運営であった。「家庭夜学」とは家庭を単位に運営する夜学のことである。李悌淳の家でもそうした夜学を開いていたが、それには男女の別なく家族全員が参加した。李悌淳は毎晩、妻と妹たちを熱心に教育した。「家庭夜学」のおかげで、彼の家族はみな読み書きができるようになった。
大衆工作にかんする李悌淳の話を聞き、ふと思いあたるところがあって、密営に荷物を担いできた十家長たちの動向について尋ねた。李悌淳は、彼らの動向はみなよいといえるが、李東学中隊長が連れてきた千地主の養子が問題だと答えた。その養子は革命軍を匪賊と誤解しており、自分が遊撃隊に殺されるのではないかと心配して、密営に到着した日からずっと不安がっているということだった。
わたしはそれとなく尋ねた。
「李東学中隊長は義援金工作のために連れてきたとしましょう。ところで、あなたはどう考えますか。千地主の養子をどう処理すべきだと思いますか」
李悌淳は、そんな質問をあらかじめ予見していたかのように、心のうちを打ち明けた。
「わたしは遊撃隊が彼に手をかけはしないと思っています。地主の養子とはいうものの、実際は下男も同様のあわれな青年で、これといった罪も犯していません」
統一戦線の視点から問題をおおように考察する彼の寛容さと独特な思考方式に、わたしは驚きを禁じえなかった。千地主の養子にたいする彼の観点は実際上わたしの観点と一致していた。李東学がその養子を教育して、われわれにたいする認識を改めさせたので、彼は入隊を願い出るまでになった。本人の希望どおり、わたしは彼を革命軍に入隊させた。二十道溝戦闘のとき、彼は道案内をした。李悌淳が大きな信頼を与えた彼は、惜しくもその後の戦闘で戦死した。
とまれ李悌淳は誰からも好かれる特異な性格の男だった。彼は長白を革命化しうるまたとない適任者であった。必要な知識と方法さえ習得させれば、将来りっぱな地下組織活動家になれる人であった。わたしは長白地区に祖国光復会の組織を結成する仕事を彼にまかせようと心に決めた。しかし、当人は革命軍への入隊を熱望した。李悌淳は、部隊が戦闘に出ている間に多少の入隊準備をしたから、どうせなら入隊試験を受けさせてくれとせがんだ。入隊試験という言葉を聞いて、わたしは大笑いした。
「そんな必要はありません。『ポタジ』同志があなたをテストして連れてきたのですから、もう入隊資格証はもらったようなものです。あなたがどうしてもと言うなら、いつでも遊撃隊に受け入れましょう。しかしわたしは、あなたがほかの仕事をするほうが革命により大きな助けになると考えているのです」
李悌淳は解せない表情だった。
「ほかの仕事とはどんなことですか?」
「ただの射撃選手として出場するよりは、大きな組織をつくって日本軍を打ち負かせと朝鮮人民革命軍を支援してくれてはどうでしよう?」
「すると、わたしに組織をつくれというのですか?」
彼は好奇の目を向けた。
「そうです。あなたが暮らしている新興村をはじめ鴨緑江沿岸の随所に祖国光復会の組織をつくるということです」
わたしは、各階層の広範な大衆を反日民族統一戦線に結集することがいかに切実で重要であるかに力点をおいて説明した。聡明な李悌淳は、それなら地下組織の活動をしてみる、しかし能力が足りないので、そんなむずかしい仕事をやりとげられるか自信がない、と言った。
「そのことなら心配には及びません。習えばよいのです。生まれながらの革命家がいるわけではありません。誰でも革命を志し、実際の闘争のなかで一つひとつ着実に習って経験を積めば、革命家になれるのです。それに必要な知識はわれわれが教えましょう」
われわれは李悌淳のために単独講習をおこなった。講習の主題は朝鮮革命の路線と性格、戦略戦術についてであった。この講義はわたしが受け持った。祖国光復会の十大綱領と創立宣言、規約にかんする解説講義とコミンテルン史の講義は李東伯がおこなった。たった一人の受講生のために数名の有能な講師が代わる代わるあれほど実のある講義をおこなった例は、抗日革命闘争の全期間を通じて、あのときしかなかったと思う。講習を終えて密営を発つとき、李悌淳は真情を吐露した。
「わたしは一斗の食糧を担いできて、何石もの革命の糧を得て帰ります。この恩は一生忘れません。任務を与えてください。どこか地域を一つまかせてくれれば、朝鮮人が住んでいるすべての村に祖国光復会の組織をつくってみせます」
わたしは李悌淳に長白県上崗区地域をまかせることにした。発つ前に、彼は信任状を一筆したためてほしいと言った。わたしの判がある信任状があれば、広範な大衆を祖国光復会の組織に結集できるし、また活動もかなり容易に進めることができそうだと言うのであった。彼の望みどおりに信任状をしたため、署名の下に捺印までした。その小さな証明書を手にした李悌淳は、半年のうちに上崗区地域をわれわれの天下にしてみせると言い切った。それが空言でなかったことは、その後の彼の闘争実績が物語っている。
その日、李悌淳はわたしにこう頼んだ。
「将軍、ひとつお願いがあるのですが、かまいませんか? ほかでもなく、密営を発つ前に遊撃隊の軍服を着させてもらえれば本望です」
「そんなことならたやすいものです。願いどおりにしましょう」
わたしは快諾した。こんなことを言い出すくらいだから、どんなに革命軍に入隊したかったのだろうかと思った。李悌淳は地下解放戦線にすべてをささげる決意をかためながらも、革命軍への入隊の願望はそのまま胸に秘めていたのである。満州を占領した日本が中国本土、ひいてはアジア全域を呑み込もうという野望のもとに、新たな世界大戦に向けて暴走しているときに、軍服を身につけて抗日大戦に参加しようとするのは実際上、愛国主義の
「悌淳同志は、まるで軍服を着るためにこの世に生まれてきた人のようです。軍服姿がりっぱです。軍服まで着たのだから、朝鮮人民革命軍に入隊したことにしましょう。きょうからあなたは朝鮮人民革命軍の政治工作員です。悌淳同志、入隊を祝います!」
わたしは彼に近づいてその手を強く握った。彼の入隊をもっとも熱烈に祝ったのは李東学だった。李東学は軍服を着て喜色満面の村長をおぶってわたしの周りをぐるぐる回った。こうして、李悌淳は食糧を担いで密営に来て遊撃隊に入隊することになったのである。
李悌淳を家に帰すとき、敵をあざむくための小規模な戦闘を仕組んだ。その任務は李東学の小部隊が遂行した。まんまとあざむいて敵に一泡吹かせた李悌淳の後日談が痛快だった。わたしが教えたとおり、彼は山を降りると家にも寄らず、二十道溝警察分署に駆けつけてまくし立てた。――村長はもうまっぴらだ。あんたらは村長をこき使うだけで保護してくれないではないか。わたしが引っ張られたことを知りながら、あんたらはなんの救援対策も講じなかったではないか。わたしはもうこわくてたまらないから朝鮮に帰るつもりだ。犬死にするしかないあんたらの使い走りは、ほかの者にやらせるがいい――
すると警官たちはあわてて、どうかそんなことは言ってくれるな、あんたのことを心配しなかったわけではない、どこに連れていかれたかわからなかったので手を打てなかったのだ、気を静めて、どこに捕われていて、どう抜け出してきたのか早く話してくれ、と言った。李悌淳は、ずっと目隠しをされていたので捕まっていた場所はわからないが、明け方に逃げ出した場所は覚えている、休み時間に歩哨がうとうと居眠りしているすきに逃げ出してきたのだ、とまことしやかに話した。警官たちは、遊撃隊は何人ぐらいいたのか、逃げ出した場所はどこかを問いただし、自分たちをそこまで案内してくれと言った。事は筋書どおりに運んだ。警察討伐隊は李悌淳が教えた谷間に踏み込んで袋のネズミとなった。こうして敵は李悌淳を信じざるをえなくなった。
李悌淳は敵の信頼を巧みに利用して、その年の秋に金丙喆、李柱観、李三徳たちとともに祖国光復会新興村支会を結成した。この支会は、白頭山間近の西南方に生まれた初の祖国光復会組織であった。それ以来、李悌淳は村長の役職を李三徳に譲り、権永璧とともに長白県上崗区一帯を中心に組織網を拡大する活動に取り組んだ。われわれは長白県を便宜上大きく三つの地区、すなわち上崗区、中崗区、下崗区に区分し、上崗区はまた上方面、中方面、下方面に分けて活動した。新興村に支会を結成した李悌淳は、つづけて珠家洞、薬水洞、大寺洞、坪崗徳にも祖国光復会の支会を結成した。支会の傘下にはまた多くの分会をおき、反日青年同盟、婦女会、児童団などの外郭団体を設け、各階層の大衆を広く結集した。半年足らずの間に、李悌淳は上崗区全域に稠密な地下組織網を張りめぐらした。
白頭山密営をとりまく大部分の村には、祖国光復会の組織が網の目のように張りめぐらされた。その組織は県内の先進的な青年学生や知識人、宗教家のあいだにも浸透し、ひいては満州国の官公署や警察機関、靖安軍部隊内にも根を下ろすようになった。祖国光復会は傘下に各階層の広範な大衆を擁する大衆団体をおいた。祖国光復会の外郭団体には数万名の大衆が結集した。祖国光復会の各支会は生産遊撃隊を擁していたが、それは有事のさい人民革命軍に合流して大事をなしとげる強力な潜在力となった。
長白地区における祖国光復会組織の拡大は急テンポで進み、祖国光復会長白県委員会を設けて李悌淳を総責任者にした一九三七年の初めにいたっては、長白県全域が完全にわれわれの天下になった。長白の大部分の村が「われわれの村」になり、ほとんどの人が「われわれの味方」になった。長白の大方の村落の区長、村長の役職も「われわれの味方」が占めていた。彼らは表向きは敵の手先役を果たすふりをしていたが、内実はわれわれの仕事をしていた。
面長の李柱翼もそういう人であった。白頭山進出に先がけて長白地方に先発隊を派遣したとき、彼は金周賢によって吸収された祖国光復会の特殊会員だった。彼は隅勒洞に薬局を設けて医家の仕事をするかたわら面長を務めていたが、その肩書きをうまく利用して、われわれの活動を大いに助けてくれた。李面長が国内で水利組合に反対する闘争に参加したかどで投獄されたころから、李悌淳はずっと彼を注視してきたという。李柱翼は李悌淳の指導を謙虚に受け、彼の指示や頼みを忠実に実行した。
当時、政治工作員が国内に入ったり、鴨緑江沿岸の中国側の村落を足場にして安全に活動するためには、渡江証や居民証のような証明書が必要であった。居民証がなくては派遣地に行ったとしても隠れとおすことはできず、渡江証がなければ税関警官が構えている鴨緑江を自由に渡ることができなかった。居民証と渡江証は面長の保証のもとに警察機関が発給していた。そうした証明書は、面長の提示する民籍簿に登録された人に限って警察署が発給することになっていたのである。
李悌淳と李柱翼は政治工作員の安全で自由な活動を保障するため、白頭山にもっとも近い山里の二十四道溝に多くの幽霊民籍をつくることにした。そこは警官でさえ踏み込むのをためらうほど険しい辺地であった。李柱翼は長白一帯と国内で活動する政治工作員たちを偽名で民籍簿に載せ、それを警察署に持っていってひとくさり愚痴をこぼした。
「山奥の貧乏人はみんなが無知なので、なんにもわかっちゃいない。一年中山奥に閉じこもったままどこにも行かないんだから、まったくの世間知らずで、居民証がなければ住みつけないということさえ知っちゃいないんだ。だからしようがないさ。あの熊のようなうすのろたちに、こっちから持っていってやるしか。足が棒になっても仕方がない。まったく面長という役も楽じゃない」
警察署でも百姓たちの無知には往生させられると相づちを打ち、面長や村長が差し出す幽霊民籍にもとづいて大量の居民証を交付した。こうして、李悌淳の手もとにはいつも李柱翼が用意した余分の居民証が十分にあった。政治工作員たちはそれを持って随時よそへ行ったり、国境を行き来することができた。
長白地区の祖国光復会の組織網が急速に拡大され、その活動範囲が広がるにつれ、われわれは新たに設けられた組織をかため、それを足場にして革命運動を国内深くにまで拡大するため、一度に三十余名の政治工作員を派遣したことがある。新興村には初の女性中隊長である朴禄金(朴永姫)と二名の少年工作員が派遣された。李悌淳からその三人の居住手続きを頼まれた李柱翼は、彼らを偽名や変名で民籍簿に載せた。
十九道溝の地陽渓で区長を務めた李勲も、李悌淳の影響を受けて祖国光復会に加入した人である。李悌淳は密営でわたしに会って帰るとすぐ、李勲を訪ねて『祖国光復会十大綱領』について説明し、金将軍の望みだと、信頼できる青年たちに影響を与えて組織に受け入れる準備をするよう指示した。任務を受けた李勲が李悌淳に最初に紹介したのは、咸鏡南道永興(金野)で農組運動に関与し、のちに十九道溝の徳三村に来ていた安徳勲であった。一九三七年の春、李悌淳は安徳勲を責任者とする祖国光復会十九道溝支会を結成した。その管下の各村落には、その年の夏までにもれなく分会が結成された。分会長はたいてい村長が兼任した。組織の活動は活発をきわめ、この地方では少年たちが革命歌を公然とうたって歩くほどだった。
わたしは白頭山にいたとき、何回か李勲に会った。そのとき彼は、李悌淳について多くを語りながら、将軍は人に恵まれている、と言った。
「将軍は人を見る目があります。長白広しといえども悌淳ほど聡明で誠実な人は見たことがありません。新婚生活の楽しみもあとにし、いつも客地で革命運動のために奔走している姿を見ると、おのずと頭が下がります。わたしも彼のおかげで将軍の部下になれたのです」
司令部が長白県十九道溝の地陽渓の裏山にあったころ、李勲は妻と一緒にわれわれをよく助けてくれた。地陽渓の裏山は森林をへて黒瞎子溝まで行ける有利な地点だった。李勲の妻は長白県の市街地へ行っては、タバコ売りや豆腐売りを装って敵の動静を探り、異常があれば自分の家の庭に火を焚いた。人民革命軍の衛兵所では、それを見て敵の動きがあることを司令部に知らせた。大部隊が移動するような特殊な状況が生じた場合は、李勲が自ら駆けつけてきて詳細に報告した。このような愛国的な面長、区長、村長は長白の各所にいた。
長白がわれわれの天下になり、長白の人びとが味方になったことは、白頭山根拠地創設の戦略的課題を遂行するうえで朝鮮の共産主義者がおさめた大きな成果であった。白頭山に進出して以来、半年足らずの間に長白とその周辺を完全にわれわれの天下に変えることができたのは、李悌淳のような忠実で果敢かつ情熱的な革命家のおかげだといえる。李悌淳は抗日の戦火のなかで生まれた民衆の真の息子、真の忠僕であり、民衆の解放のために肉弾となって革命の道を切り開いたりっぱな朝鮮の愛国者、朝鮮共産主義者の一人であった。李悌淳は地下組織の活動家としての品格と資質を十分にそなえた洗練された革命家であった。
呉仲和と同様、李悌淳も家庭をりっぱに革命化した。まず自分と血縁的なつながりのある人びとを反日愛国思想で武装させてこそ、村全体を革命化し、ひいては全国、全民族を革命化することができるというのが彼の信念であり、革命活動方式であった。それで彼は、故郷にいるときから妹たちを革命活動に参加させた。彼の妹は兄の革命活動を積極的に援助した。李悌淳は新興村に来てからは、妻と義母も革命活動に引き入れた。夫のこまやかな指導と愛情につつまれ、妻の崔彩蓮は祖国光復会傘下の新興村婦女会会長に成長した。夫の影響を受けた崔彩蓮は思想的に早く目覚めた。彼女は情操豊かであったばかりか、政治的感受性も非常に鋭敏だった。こうした長所は彼女に革命活動の方法を早く体得させ、革命家が守るべき準則を厳守させた。李悌淳は人一倍の愛妻家であったが、非常にきびしくもあった。平素は冗談を言ったりおどけてみせたりしてやさしく妻に接したが、いったん地下活動となると公私のけじめをつけ、秘密に属する問題はいっさい口にしなかった。ある日、李巡査の妻が駆け込んできて、崔彩蓮にこう言った。
「彩蓮、あんたは三度の食事をきちんととりながら、まったくのんきなもんだよ。村の居酒屋でどんなことが起こっているのか知らないなんて」
なんのことかわけがわからず、けげんな顔をした。
「なんのこと? わたしが居酒屋のことまで知るわけがないでしょう」
「あんたはほんとに、なんにも知っちゃいないんだね。あんたの亭主が毎晩あそこで人妻たちとお楽しみだというのに… あんたときたら…」
李巡査の妻はこう言い残して立ち去った。崔彩蓮はさっそくその晩、当の居酒屋に行った。そっと戸を開けて中をのぞくと、李巡査の妻が言ったとおり見知らぬ男女がぎっしり座っていた。その真ん中に李悌淳が座を占め、李巡査の姿も見えた。しかし、李巡査の妻の言う「お楽しみ」らしきものはありそうになかった。そのとき彼女は、警察の目につきにくい、このだだっ広い居酒屋で夫の主宰する秘密会議がおこなわれていることを直感した。だとすると、李巡査も地下組織のメンバーらしかった。なのに、李巡査の妻はなぜあんなうそをついたのだろう。嫉妬のあまり秘密の会合を「お楽しみ」と勘違いしたようである。彼女は安堵の胸をなで下ろし、あわてて戸を閉めた。しかし、夫のするどい視線は彼女を見逃さなかった。その日、李悌淳は妻を叱りつけた。夫にひどく叱られながら崔彩蓮は、人の話にのってとんでもないことをしでかした、根も葉もない不信や嫉妬は家庭の和を破り、ひいては家庭そのものを破壊しかねない、夫婦のきずなはなによりも信頼が第一の基礎なのだと痛感した。その日、李悌淳は妻を叱責しながらも、自分の潔癖さを証明しようと居酒屋でしていたことをほのめかすようなことはしなかった。彼はそれほど口がかたい人間であった。われわれは革命家一般、とくに地下工作員や地下組織の活動家に必要な行動規範を法文化してはいなかったが、李悌淳には自ら決めている自分なりの心の法規があったのである。
わたしは長白地方にいたとき、新興村にある李悌淳の家を二度ほど訪ねたことがある。いつかは凍りジャガイモでつくった麺をごちそうになり、そこで一泊した。わたしが訪ねると、李悌淳は台所と部屋の間にすだれをかけ、妻に部屋の中をのぞかせなかった。それで崔彩蓮は食事のたびにわたしに食膳を運びながらも、わたしが
「あなたは、二言めには人を信じなければならないと言いながら、わたしには最後まで、あの方が
「それだけは誰にも言えなかったんだ。みんな将軍の身辺警護のためだったのだから、残念だろうがわかってほしい」
まさにこれが李悌淳流の法規であった。彼の強靱な性格と首尾一貫した原則性は、崔彩蓮の性格発展と世界観の形成によい影響を与えた。李悌淳は白頭山密営でわたしに会って帰ると、妻にこう頼んだ。
「これからは家に訪ねてくる客が多くなるだろう。だからジャガイモと澱粉、大麦、味噲、たきぎなどを十分に用意しておいてほしい。きみをわずらわせることになりそうだ」
その後、崔彩蓮は遊撃隊員や地下工作員の世話をするために大変な苦労をした。彼女は毎日、臼を搗いた。おびただしい量の穀物を搗いたので、李悌淳がつくってやった臼の底が抜けてしまいそうだった。
李悌淳は家庭を革命化してから村まで革命化した。彼は権永璧とともに新興村に党特別支部を結成した。その支部が結成されたのち、長白地方では多くの祖国光復会の会員が入党した。人びとを組織に結集し、遊撃隊を援護するうえで、新興村は断然トップを占めた。新興村の住民は遊撃隊が村にやってくるということを聞くと、油をとるためにエゴマを煎った。彼らは遊撃隊に送る援護米を準備するために食糧の節約に努めた。主産物のジャガイモは運搬に不便で、用途もあまりなかった。それでジャガイモを澱粉にして遊撃隊の密営に送った。新興村の女性たちは味噲も生でなく加工したものを送ってくれた。味噲に小麦粉をまぜて餅のようにこねあげ、それを火にあぶったもので、保管にも利用にも非常に便利であった。新興村の住民が送ってくれた援護物資は数万点に達した。彼らはそのおびただしい量の物資をすべて担いで密営や遊撃隊の宿営地まで運んでくれた。
新興村の住民は指導者に恵まれていたといえる。李悌淳が有能な人であったうえに、権永璧、朴禄金、黄錦玉らが彼をよく助けた。わたしは普天堡戦闘の前に新興村を訪ね、革命軍を熱烈に歓迎する団結した村人の姿を見て大きな感銘を受けたものである。村に到着すると、彼らは製麺器を四つ用意し、またたく間に数百人分のそばをつくりあげた。まったく目にも止まらぬ手並みであった。そのとき隊員たちは、新興村をさして「手放したくない村」だと言った。本当に新興村の住民は、誰も彼も手放したくない人たちだった。あとで知ったことだが、われわれが村に行くときには、そのたびに李悌淳が事前に非常会議を開いて歓迎対策を討議したとのことである。
李悌淳がすぐれた組織的手腕と臨機応変の妙計の持ち主であったことは、つぎのようなエピソードを通してもよくわかる。一九三七年の春、祖国光復会長白県委員会は新興村でメーデーのデモをおこなった。白昼に、それも衆人環視のなかで合法的なデモをおこなうには、敵に難癖をつけられないような策略が必要であった。李悌淳はキツネ狩りを口実に各村の青少年を指定の場所に集合させた。デモ隊は赤旗をかかげ、一列になって「朝鮮独立万歳!」を叫びながら、鴨緑江が見下ろせる尾根をつたって二十道溝の南隅村まで行進した。デモ隊は敵を混乱に陥れるため、ときたまほかのスローガンも唱えた。その日、鴨緑江両岸の住民たちはみな足を止め、この物珍しいデモを胸のすく思いで見物した。川向こうの佳林川駐在所と国境守備隊の軍警は革命軍が来襲したものと思い、山頂の騒擾がなんであるかを調べることすらできなかった。デモが終わり、それが一般住民によるものであることが判明したあとになって、敵はようやく長白に渡り、どうして多くの人間が騒ぎ立てているのかと聞いた。デモ隊は、キツネ狩りをしているのだと答えた。
「キツネ狩りをするのに、なぜ赤旗を持ち歩いているのか」と警官がまた聞いた。
「キツネは赤色をいちばんこわがるんですよ。だから赤旗を持って歩いているんです」
デモ隊は今度もなに食わぬ顔で警官たちをあざむいた。事実、赤旗はキツネ狩りにもデモにも必要なものであった。日本帝国主義の暴圧がますますエスカレートしていた一九三七年当時、白昼に数百人の集団が赤旗を振りながら独立万歳を叫んだというのも驚くべきことであるが、それが反日反満デモであることに日本の軍警も満州の軍警も気づかなかったというのもまったくの痛快事であった。これは、すぐれた知略と胆力をそなえた人でなければ、とうてい考え出すことのできない大冒険であった。われわれが普天堡を襲撃した後、李悌淳は新興村婦女会のメンバーを現地に派遣して戦果と世論を調査させ、それを通報してくれた。われわれは彼にそんなことを頼みはしなかった。彼が創意を発揮し、自分の決心でおこなったのである。
この二つの事実からしても、李悌淳が自分なりの革命の方法論をもった有能な活動家であり、情熱的な思索家であることがわかる。彼は革命と自分の双肩にになわされた時代の使命について、誰よりも頭を働かせた人である。彼のそうした陣痛の過程がたえず繰り返されなかったならば、短期間のうちに長白をあれほど徹底したわれわれの天下にするという奇跡は生みだせなかったであろう。
思索のない人間には創意が生まれず、創意のないところに創造と革新がありえないというのは誰もが知るところである。人間を世界の支配者にし、その気にさえなればなんでもなしとげられる有力な存在にしたのも、つきつめて見れば思索のたまものといえる。意識性をもつ社会的存在である人間は、不断の思索とその累積によって自然と社会と自分自身を改造し、世界の主人として堂々と君臨するようになった。わが党が幹部と党員と勤労者に情熱的な思索家になれと呼びかけるのは、自然と社会と人間の改造における思索の役割をもっとも重視しているからである。
李悌淳は思索と実践を正しく結合した創造的な人間であった。彼は法廷や獄中にあっても思索を中断しなかった。法廷における彼の思索は、共産主義者として生涯をどう終えるかということに集中された。
(わたしが法廷でできることはただ一つ、自分がより多くの「罪」をかぶってでも同志たちを救うことだ!)
これが、恵山警察署の留置場にいたときの彼の決心であった。実際に、李悌淳は自分を犠牲にすることによって多くの人を救い出した。面長の李柱翼が逮捕されたときも、彼は、われわれのしたことを知っているのは金将軍とわたし、きみの三人しかいない、将軍は山におり、わたしは絶対に口を割らない、だからきみさえ頑張りとおせば無事にすむだろう、と言った。李柱翼は言われたとおりにし、何日か拘留されただけで釈放された。李悌淳がすべての「罪」を一身にかぶったおかげで、新興村の党組織責任者であった金丙喆と李柱観も極刑をまぬがれた。他人のために自分を犠牲にしたところに、共産主義者としての李悌淳の崇高な美徳がある。
監獄にいるとき、権永璧を通して張曽烈が裏切ったことを知った李悌淳は、そのために堅実な同志たちがさらに犠牲になるのではないかと気が気でなかった。張曽烈が敵の犬になりさがったことを一刻も早く同志たちに知らせなければならないのだが、彼にはちびた鉛筆一本もなかった。考えたあげく、彼は下唇を噛みきった。唇からしたたり落ちる血を指先につけ、布切れに「張曽烈は裏切者」と書き、拷問室に呼び出されたときにほかの監房に投げ入れた。それで多くの同志が張曽烈の正体を知り、獄中闘争をいっそう頑強に展開した。
李悌淳の七年間にわたる獄中闘争の感動的な話を、ここにすべて紹介できないのが残念である。崔彩蓮が面会に行ったときの李悌淳の顔は、以前、祖国光復会の組織を結成するために奔走していたときの、あのきれいな若々しい顔ではなかった。昔の面影はどこにも見られず、骨と皮ばかりの痛々しい姿であった。しかし、そんな姿で鉄窓をへだてた妻との面会の場にのぞんでも、李悌淳は泰然と笑みを浮かべていた。そして別れるときには、食物ではなく世界地図を差し入れてくれ、と頼むのだった。この思いもよらぬ注文には崔彩蓮もどんなに面食らったか知れないという。
李悌淳が獄中にありながら世界地図を求めたのは、第二次世界大戦後の新たな世界構造、大戦の結果として新しく生まれ、万邦に光を放つであろう解放された祖国の姿を地図の上に描いてみたかったからではなかろうか。これは、死刑の判決を受けた後も、彼が絶望したり悲観することなく、祖国の輝かしい未来、世界の明るい未来を描きつづけていたという明白な証拠である。彼は現実にありながらも未来に生きた人であり、死を前にしても、解放された祖国の大地に百花咲き乱れる幸せな新しい生活を描いた人であった。それゆえ、転向をすすめる法官に向かって「共産主義は永遠の青春」と宣言してはばからなかったのである。
一九四五年の初めに、ソウル西大門刑務所の面会室に末娘を連れた崔彩蓮が現れた。生後二か月足らずで母親とともに投獄され、乳欲しさに泣いた末娘もいつしか八歳のかわいい少女になっていた。少女は鉄窓の向こうに現れたひげ面の男をいぶかしげに見つめた。
「あの人がおまえのお父さんだよ」
崔彩蓮はその男を指さした。父と娘は鉄窓越しに見つめ合っていたが、娘の口からは「お父さん!」という言葉が出なかった。八歳になるまで父を知らずに育った娘の口から「お父さん!」という言葉が簡単に出ようはずはなかった。少女は近所の父親たちが自分の子どもをかわいがるのをよく目にしてきた。それなのに、自分の父はどこかおかしかった。娘が来たというのに抱いてもくれず、鉄窓の向こうで笑っているだけだった。金属音がして、手錠をはめられたままの父の手が自分の頭をやさしくなでてくれたとき、やっと娘は「お父さん!」と叫んだ。李悌淳は涙をのんで「お父さんはすぐ家に帰るからね」と、実現しようのない「約束」をした。生まれてはじめて父を見る娘に、そんな空約束しかできなかった李悌淳の胸中はいかばかりであったろうか。
結局、彼は娘との「約束」を守ることができなかった。一九四五年三月十日、敵は李悌淳を審問場に呼び出して説き伏せようとした。きょうはわが日本皇軍の陸軍記念日だ、いまでも転向すれば死刑をまぬがれることができる、と。しかし、李悌淳はいかなる懐柔や重刑にも屈しなかった。長白の名もない山村の夜学の先生、村長であった李悌淳は、花のような青春を抗日革命にささげた熱烈な愛国者、不屈の革命闘士であった。
生まれながらの革命家というものはありえず、人間は生活と闘争の過程で闘士に、革命家に成長するのである。人間が革命家に成長する過程は各人各様であるが、思想が堅実で愛国愛族の一念に燃える人が、正しい指導を受ければ革命家になれるというのは革命の真理であり、歴史の教訓である。それゆえわれわれは、思想、技術、文化の三大革命の遂行において思想革命を優先視するのである。それは、思想革命こそは人びとを意識化、組織化し、熱烈な愛国者、不屈の革命闘士に育てる揺籃であり、人民大衆の自主偉業、革命闘争を強力に推進する原動力であるからである。
李悌淳が三回目か四回目に密営を訪ねて来たとき、わたしは祖国光復会の組織のためにつくした彼の労苦を高く評価した。すると彼は当惑した顔で両手を振り、こう言うのだった。
「とんでもありません。それはわたしの手腕や苦労のせいではありません。あの信任状が李柱翼面長のような人までも、たちまち祖国光復会の会員にしてしまったのです。彼は信任状を見て、金将軍が会長なら自分もその会員にしてくれと言うではありませんか。また長白の人たちは愛国的熱意が高い人たちなのです。わたしがしたことは、これといってありません」
李悌淳はこのように謙虚な人であった。彼はいまも大城山の革命烈士陵で、小さな半身像の謙虚な姿で新しい世代を見つめている。そばには彼とともに刑場の露と消えた権永璧、李東傑、池泰環たちの半身像も肩を並べて立っている。
4 南満州の戦友とともに
白頭山一帯の各所に密営を設営し、鴨緑江沿岸で軍事・政治活動を進めていたころにあったことのうちで、いま一つ印象深く思い出されることがある。それはわれわれの部隊を訪ねてきた抗日連軍第一軍第二師の戦友たちとともに生活し、共同作戦をおこないながら戦闘的友誼と連帯を深めたことである。
朝鮮人民革命軍と中国人共産主義武装部隊の協同問題は、すでに一九三五年三月の腰営口会議で真剣に論議された。この会議の決議にもとづいて、その後われわれの部隊は北満州への第二次遠征に出発し、他の部隊は新開嶺を越えて南満州へ進出した。われわれの側面で活動した代表的な中国人武装部隊としては、寧安地方の周保中部隊、密山地方の李延禄部隊、南満州地方の楊靖宇部隊、珠河地方の趙尚志部隊をあげることができる。そのころ、これらの部隊はそれぞれ隣接部隊との共同闘争を積極的にくりひろげていた。
南満州へ進出した東満州の独立第一師は、一九三五年八~九月濛江県那爾轟で第一軍の戦友たちと感激的な対面をした。当時われわれの部隊は再び老爺嶺を越え、周保中部隊との共同作戦を進めていた。南満州に派遣された隊伍には汪清出身の指揮官である呉仲洽や金平もいた。後日、呉仲洽は南満州の戦友たちが松葉のアーチや旗を立て、演壇をしつらえ、歓迎演説までして自分たちを大歓迎してくれたと感慨深く回想している。その行事はじつに見ものだったという。その日、南満州部隊を代表して楊靖宇が歓迎の挨拶を述べ、東満州部隊を代表して李学忠が答辞を述べたのだが、二人の演説は数百人の拍手喝釆でたびたび中断されたという。『人民革命報』紙の号外に、その状況を上手にスケッチした絵が載っていたと記憶している。
曹国安が師団の主力を率いて黒瞎子溝密営にやってきたとき、わたしは戦闘に出ていなかった。戦場にいたわたしに南満州部隊の到着を知らせてくれたのは、金周賢が寄こした連絡員であった。部隊の給養関係を担当していた金周賢は、客を盛大にもてなそうとたいへん気をつかっていたようである。わたしは南満州の戦友たちと早く会いたかったので、戦闘を終えるとすぐさま密営に引き揚げた。隣接部隊の戦友に会うのは、われわれの大きな楽しみの一つだった。人恋しさは、われわれすべての心をつねにとらえていた貴くも強烈な感情であった。遠く人里離れた山中で生活していたわれわれにとって、恋しいことは二、三にとどまらなかった。故郷や肉親、学友、愛する人たち、文明へのあこがれ…。そのいずれにもまして強かったのは同志にたいする恋しさ、人間にたいする恋しさであった。そんなわけで、部隊が住民地帯に留まる日はわれわれにとって祝日だった。曹国安部隊の戦友がわれわれの密営を訪ねてきたという知らせを聞き、わたしや戦友たちがいっせいに歓声をあげ、連絡員を抱擁したのもそうした感情の発露であった。
密営に帰ると、南満州から来た七、八十名の戦友たちが兵営から飛び出してきて、われわれをとりまいた。あっという間に抱擁と握手のうずに巻き込まれてしまった。その光景を第三者が見たとしたら、われわれが南満州部隊の密営を訪問して歓迎を受けていると思い込んだかも知れない。この出会いがきっかけになって、わたしと曹国安師長は親しくなった。
曹国安は意志の強い厳格な軍事学校教官といった風格であった。それが彼の初印象だった。しかし、何日か寝食をともにしているうちに、違った印象を受けるようになった。彼は情にあつく人なつっこい人柄だ
った。わたしより一〇歳ほど年上で、どっしりした人だった。彼が吉林省永吉県の生まれで吉林師範学校出身だったことも手伝って、わたしは同郷人に会ったような親しみを覚えた。彼は師範学校を卒業してから、吉林第一中学校で教壇に立ったこともあるという。その後、山東軍政大学や北京でも学んだが、マルクス・レーニン主義の学習に熱中したのは、それらの学校に在学していたときのことだったという。彼は抗日武装闘争に身を投じ、第一軍第一師第七連隊政治委員をへて、一九三四年秋から第一軍第二師の師長兼政治委員になった。
「金司令、協同して戦おうという相手がこんなざまできたと、とがめんでください。わたしが部隊の指揮をうまくとれなかったせいだから、なにとぞ了解のほどを…」
曹国安はわれわれをとりかこんでいる部下を指しながら、気まずそうな顔をした。南満州からの来客は、指揮官も隊員もみなよれよれの夏服を着ていた。肌着がのぞいている破れた軍服からは、師団が歩んだ苦難の長征の痕跡がありありと読みとれた。
「金司令、恥ずかしいことに、われわれはまだ隊員に冬服を着せてやれない有様です」
曹国安は、われわれの隊員が着ているふかふかした綿入れの冬服をうらやましそうに眺めながら、わびしく笑った。
「恥ずかしいなんてとんでもない。どんなに多くの戦闘をし、苦労をして、服があんなにまでなったのでしょう。北満州遠征を終えて帰るとき、われわれの部隊もそんな有様でした。われわれに冬服のゆとりが多少あります。どれだけあるかはわかりませんが、第二師の同志たちに異存がなければ、とりあえずそれでも着替えをさせてはどうですか。足りない分はすぐにつくることにして…」
わたしの言葉に彼は相好をくずした。
「そうしてもらえれば、もう安心して眠れます」
わたしは密営で、曹師長と二十日ほど起居をともにしながら共同闘争の問題で意見を交わしているうちに、彼とかなり親密になった。われわれは協同して戦う問題から部隊の管理、隊内教育、隊伍の補充方途、大衆工作方法、遊撃戦術、朝中両国革命の前途の問題はもとより、私事にわたる家庭の茶飯事にいたるまでざっくばらんに語り合った。わたしが彼の人柄で魅力を感じたのは、率直でざっくばらんなところである。彼は度が過ぎるほど率直で謙虚な人間であった。彼との対談で、十歳ほどの年齢の差は問題にならなかった。彼は年齢の差とか地位の高低などにこだわらず、相手が気に入れば腹の底まですっかりさらけ出してみせる人間だった。曹国安師長は部隊がへてきた紆余曲折と、その過程でこうむった人命の損失についてもためらいなく語った。
彼の指揮する第一軍第二師は、朝鮮人が磐石で組織した反日人民遊撃隊を母体にし、それに満州国軍の造反者と山林隊から移ってきた者からなる第一師第一連隊を網羅して編制された師団であった。師団の主な活動区域は磐石県とその周辺であった。ところで部隊は師団に編制されて以来、軍指揮部の作戦計画にしたがって毎年夏は輝発河北方の江北に遠征し、冬になると帰ってきて遠征過程での損害を埋め合わせ、兵員を補充しては翌年の夏再び江北に出撃していたという。遊撃活動区域の拡張を名目に、毎年一度繰り返される恒例の移動作戦であった。ところが、その規則的な移動作戦が敵の注意を引き、固定化された活動コースは彼らの作戦地図に記入された。敵はそのコースの要所に待機し不意に襲撃を加えるので、部隊は遠征のたびに大きな損害をこうむった。その年(一九三六年)の夏も、師団は遠征中かなりの兵員を失った。曹国安は師団の一部の兵力を率いて東満州の第一師部隊と協同して、遠く額穆県杉松まで行って来たという。彼らは遠征から帰って樺甸県会全桟一帯に集結し、撫松県をへてわれわれの所へ直行したので、第一軍の後方基地がある濛江県那爾轟に立ち寄れず、そのため夏服を冬服に着替えることもできなかったというのである。
部隊の難局を打開する方策に苦慮していた曹国安は、ある日、撫松県三道拉子河一帯で食糧工作をして帰った宋茂璇の小部隊から、われわれがおこなった撫松県城戦闘の話を聞いた。曹国安は戦闘談を聞いて大きな衝撃を受けたという。他の部隊は新しく編制された師団でも連戦連勝しているというのに、自分の部隊はどうして苦戦ばかりしているのか、遠征のたびに多くの兵員を失いながらも、どうして夏になれば決まって江北に行くのか、そこに教訓を汲み取るべき問題があるのではないか、彼はこう考えて指揮官協議会を開いたという。協議会では、部隊の軍事活動に決定的転換をもたらす諸対策が討議されたが、その一つが朝鮮人民革命軍部隊との共同作戦を一日も早く実現することであった。共同作戦をおこなえば戦術と戦法を改善し、有益な経験も積むことができるというのが、協議会における一致した見解であった。この提案の主唱者が宋茂璇であり、もっとも積極的な支持者が曹国安師長自身であった。師団はただちにわれわれの部隊の所在地に向かって樺甸県大東溝を出発した。察するところ、第二師の戦友たちはたいへんな苦労をしながらも、満足するほどの戦闘はできなかったようである。彼らがなめた試練や苦難の話を聞くと、なぜか人ごととは思えなかった。
世に南満州遊撃隊と呼ばれていた東北抗日連軍第一軍は、事実上、北満州にある遊撃隊とともに朝鮮人民革命軍主力部隊の主な隣接部隊であった。わたしは抗日戦争の初期から、南満州遊撃隊の強化発展に大きな関心を払い、たえず彼らとの共同闘争の実現に努めた。そして、そこへ遊撃戦争で鍛えられ育成された東満州の優秀な朝鮮人幹部を多数派遣した。一九三二年の夏、南満州へ行くとき、李紅光と李東光に代表を送り、彼らとの提携をはかったのも、そうした努力の一つだといえる。しかし遺憾ながら、彼らとの共同作戦は実現できなかった。
南湖頭会議以前の時期は、わたしは主に北満州遊撃隊との合作に力を入れていた。だから遠征部隊を率いて二度も北満州へ行ったのである。われわれはそこで共産主義者とも共同作戦をおこない、反日部隊とも連合作戦をおこなった。胸の痛む損害もあったし、犠牲もなくはなかったが、隣接部隊との連合は大きな威力を発揮した。
われわれが間島で遊撃根拠地に依拠して戦ったときには、南満州よりも北満州のほうが地理的にずっと近かったのも確かだった。嶺を一つ越えれば北満州なのである。しかし、われわれが西間島を新たな活動舞台にして戦いはじめた一九三〇年代後半期には、北満州よりも南満州のほうが地理的にいっそう近い隣接地となった。白頭山西南部地域で連日われわれがあげた銃声は、南満州部隊にも人民革命軍との共同作戦を一刻も早く実現しようという意欲をかきたてた。南満州部隊との連合は、もはや引き延ばすことのできない緊切な問題となった。曹国安師団は、われわれが白頭山地区に進出したあと、師団クラスの共同作戦を実現した最初の部隊だったといえる。
東満州や北満州と同様、南満州での遊撃闘争も朝鮮の共産主義者、革命家によって開拓され、主導されたといえる。南満州で活動した抗日連軍第一軍所属の第一師、第二師、第三師の民族別構成をみると、朝鮮人が多数を占めていた。楊靖宇、魏拯民、曹国安などを除いた大多数の軍事・政治幹部もやはり朝鮮人だった。
周保中は、一九四五年十二月、吉林のある集会での報告で、一九三二年に結成された精強な東満州遊撃隊と、一九三三年に結成された磐石遊撃隊、珠河遊撃隊、密山遊撃隊、湯原遊撃隊はいずれも朝鮮の同志たちと革命的な朝鮮の大衆によって組織され、それが後日、抗日連軍の各軍に発展した、第五軍にも優秀な朝鮮の同志たちが多く、抗日連軍各軍の軍長、政治部主任から小隊長、指導員にいたるまで各級軍・政幹部のなかには朝鮮の同志が多かった、と述べている。ここで言う磐石遊撃隊は南満州遊撃隊、抗日連軍第一軍の前身である。
磐石遊撃隊という俗称が示しているように、南満州遊撃闘争の発祥地は磐石地区である。磐石県党委員会がはじめて組織されたとき、その委員会に属していた共産党員は四十名ほどであったが、それも全員朝鮮人だったという。そこで、李紅光が十名ばかりの朝鮮人で最初の武装隊を組織したのだが、それが南満州遊撃隊の母体となった。三十余名で構成された南満州遊撃隊の最初の隊員たちも全員朝鮮人であった。磐石遊撃根拠地内に組織された反日会、婦女会、少年先鋒隊、農民委員会の責任者たちもほとんどが朝鮮人であった。南満州の遊撃運動を開拓し発展させるうえで、朝鮮人は先駆的、中核的、主導的な役割を果たした。
曹国安の師団にも朝鮮人が多かった。宋茂璇、朴順一をはじめ過半数の指揮官と多くの隊員が朝鮮人であった。これはわれわれとの共同作戦、共同闘争をより容易にする条件となった。
南満州の朝鮮人共産主義者は、われわれとの直接的な連係のもとに、あるいは独自の判断と決心と行動によって日本帝国主義者に手痛い軍事的・政治的打撃を与えた。彼らはときどき鴨緑江を渡って国境対岸を奇襲した。一九三〇年代前半期は、われわれがしばしば東満州から国内に進出した時期であった。人民革命軍の各小部隊は、一九三五年一月の一か月間に、穏城郡だけでも四回奇襲している。それらの小部隊が穏城郡の南山里と月坡洞、世仙洞と美山洞一帯に進出して敵の軍警と交戦したとき、ソウルの各新聞は遊撃隊が咸鏡北道の穏城、訓戎などを大挙襲撃したと大きく報じた。一九三五年五月には、朝鮮人民革命軍の一部隊が茂山郡三長面農事洞一帯で大衆政治工作をおこなったあと、安図県大馬鹿溝付近で追跡してくる日本警官と銃撃戦を交え痛撃を加えた。年々激しくなる国内進出の流れに乗じ、鴨緑江対岸で戦いながら祖国への思いをまぎらわせていた李紅光は、部隊を率いて渡河し、厚昌郡東興鎮を襲った。一九三五年二月十五日の夜、彼が指揮する第一軍第一師の三つの小部隊は、軽機二挺を携えて東興鎮を包囲し、警察署、金融組合などを襲撃して敵を唖然とさせた。人民革命軍のあいつぐ国内進出にうろたえた敵は、国境警備史上未曽有の事変だと悲鳴をあげた。
東興鎮襲撃の戦功で内外に名をはせていた南満州の部隊で、どうして曹国安師団がなめているような失敗がありえるのだろうか。彼のやつれた顔を見ていると、わたしはなんとも無念な思いがしてならなかった。
「わたしは最近、隣接部隊との共同闘争を発展させることだけが、われわれの無事をはかる唯一の活路であるという結論を得ました。ところが、その教訓をあまりにもおそく悟った。正直に言って、これまで金司令との連係をなおざりにしたのが悔やまれます」
曹国安はすべてを断念したように、息を大きく吐き出すと両手で顔をこすった。
「曹師長同志、ここで何日かゆっくり休んで元気をつけてください。天が崩れ落ちても脱け出す穴はあるというじゃありませんか。神ならぬ人間にどうして失策がないと言えましょう。一時の失敗は恐れるに足りません」
わたしは、飢えと厳寒、敵の包囲で部隊が全滅の危機にさらされた羅子溝台地における試練について、そして傷寒、大雪、あいつぐ敵の追撃で再三ぬきさしならぬ逆境に陥りながらも、義人たちにめぐりあって救われた第一次北満州遠征当時の話をして聞かせた。
不意に大勢の客を迎えて、宿所からして問題だった。わたしは隊員たちの丸太小屋をすべて客に提供し、われわれはたき火をたいてテントで寝るようにと指揮官たちに指示した。隊員たちは指示を受けるとすぐさま丸太小屋を客に譲ってテントを張り、たき火をたいたが、そのそつのない機敏な動作に客はみな感嘆した。隊員のなかにはたき火の名人が大勢いた。彼らは独特なやり方で丸太のたき火をたく方法を考案し、それを部隊中に広めた。それはいとも簡単な、しかも神秘なほど巧みな方法だった。同じ長さにほどよく切った丸太をいちばん下に五、六本、次は四、五本、その上は三、四本とピラミッド形に積み上げていき、いちばん上の二、三本を重ねた層にたき付け用の枯れ枝を置いて火をつけるのである。こうして火をたけば長持ちするばかりでなく、濡れた木も乾いた木のようによく燃え、火の粉が散らなかった。それに火の勢いがさかんでよかった。第二師の戦友たちは最初、そんなやり方で丸太に火がつくものだろうかと首をかしげた。ところが、しばらくしてピラミッド形に小高く積み上げた丸太が勢いよく燃え上がるのを見て、目を丸くし「ヤーヤー」と声をあげた。曹国安もしきりに感嘆した。
「この前、漫江で魏拯民と会ったとき、彼がわたしになんと言ったと思いますか」
彼はたき火に視線を落としたまま意味ありげな笑いを浮かべた。
「なんと言ったのですか」
「金司令部隊に行ったら、たき火のたき方から学べと言うのです。こんなにうまい火のたき方があったとは…」
彼は、ここに来て受けたもっともきわだった印象の一つはたき火と丸太小屋だと言った。たき火と丸太小屋さえあれば、深い山中や無人の境でも部隊がゆうに活動をつづけることができるということをここへ来てはじめて悟った、と率直に話した。
翌日、わたしは丸太小屋づくりなら腕に覚えのある数人のたたき大工と第七連隊第四中隊員に指示して、第二師の戦友たちが気がねなく過ごせるよう、専用兵舎をその日のうちに建てるようにした。彼らは丸太を伐り出し、その日のうちに大きな丸太小屋をりっぱに建てた。第二師の戦友たちも活気づいて仕事を手伝った。そうした秘密の兵舎が白頭山一帯の密林の随所に建設されていると聞いた曹国安は、ますますうらやましがった。そして、自分たちはこれまで白頭山のような無人地帯で過ごすのは不可能だと考え、いつも人家を捜して宿泊したものだ、山中に密営を建てて過ごすようなことはめったになかった、この前、江北へ行ったときもあちこちの人家に分宿した、と言うのだった。
南満州の戦友たちがわれわれの密営地に「わが家」をもつと、わたしは給養担当の金周賢と金海山に指示して、彼らの生活に必要な食糧と炊事道具を十分に供給し、部隊の倉庫にある数十着の軍服を出してやった。何着か不足して、全員にゆきわたらなかったが、朴洙環の裁縫隊が徹夜作業をしたおかげで、残りの人たちも翌日には破れた夏服をたき火に投げ込むことができた。たいした徳行ではなかったが、主人としての礼はつくしたといえよう。第二師の戦友たちに入浴もさせ、散髪もしてやった。そのころ黒瞎子溝密営には大きな風呂釜があった。呉仲洽たちが横山木材所を襲って手に入れてきた飼い葉を炊く大釜で、たいへん重宝だった。客たちがさっぱりと体を清めたあと、各人に洗面道具一式を贈り、タバコも数箱ずつ配った。
曹国安は司令部を訪ねてきて、部隊を代表し心から感謝すると述べた。そして、金司令部隊に手ぶらでやってきて、一から十まで世話になり申し訳ない、この親切にどう報いてよいかわからない、と言った。それでわたしは、同じ目的と理想のために戦う隣同士なのに、世話だのなんだのと言うことはない、わたしたちが曹師長の部隊を訪ねても師長がこれくらいのもてなしはするだろう、他の部隊に来て世話になるなどとは考えず、親類の家に来たと考えてもらいたい、どうしても恩返しがしたいというなら、ここにいる間、面白い人生体験でもたくさん話してほしい、と言った。曹国安は、学生あがりの自分に金司令の興味をひくほどの人生体験などあるはずがない、多少趣の異なった話の種があるとすれば、山東軍政大学で得た知識だけだが、金司令の参考になるのだったらそれでも話してみようと言った。
その後、彼はわれわれの部隊指揮官たちにたびたび正規戦の戦術講義をしてくれた。それはたいへん深みのあるものだった。彼の講義は、敵が運用している正規戦の戦術を深く把握し、それに対処するわれわれなりの遊撃戦術を完成するうえで少なからぬ助けとなった。その返礼として、わたしは曹国安部隊の中隊長、中隊政治指導員級以上の指揮官たちに、われわれが創造した遊撃戦の経験を語った。生々しい実戦の経験談が織り込まれていたので、南満州の客たちは興味深く聞いてくれた。わたしは第二師の戦友たちに、とくに擁軍愛民を格別重視するよう強調した。
―― 人民はわれわれの力であり、知恵であり、生命であることを銘記すべきである。それゆえ人民を信じ、人民に学び、人民に依拠し、人民を動かして戦わなければならない。人民の助けを受けたければ人民から愛されなければならず、人民から愛されたければ先に人民を愛さなければならない。一夜宿営して立ち去る土地だからといって、人民にみだりに負担をかけるならば、人民はそうした人たちをいやがるだろう。人民の財産に手をつけて害を与えるならば、その結果はいっそう致命的なものになるだろう。人民を肉親のように愛するならば、人民はおのずと、そうした人を慕うだろうし、そうした軍隊は必ず百戦百勝の軍隊になるであろう――
黒瞎子溝密営でわれわれと一緒に過ごす間、南満州の戦友たちは学習や会議、訓練などわれわれの部隊の日課を何度も参観した。それは彼らのあいだに大きな反響を呼んだ。彼らは、あなたたちのことを大学生部隊だと聞いていたが、まったくそのとおりだと感嘆するのだった。曹国安は心からわたしに言った。これまで自分は江南と江北を浮き草のように流浪するくせが身について、密営を設け、それに依拠して自力更生しようなどとは考えたことがなかったし、密営を中心にした遊撃活動地域に地下組織網をつくり、密営と地下組織網からなる根拠地を足がかりに闘争を拡大発展させていこうということも思いつかなかった、と。
「金司令部隊には、すべての面で軍隊の体臭が感じられます。いまでは金司令部隊が連戦連勝する秘訣がわかったような気がします」
ある日の夕方、われわれの部隊の娯楽会を見た曹国安は、森の中を散策しながら、わたしにそんなことを言った。
南満州の戦友たちは、われわれの部隊の生活を知ろうと熱心に努力した。彼らは日課もわれわれの方式に改め、学習と訓練もわれわれの方式でおこなった。密営にいる間、彼らは兵力を補強し、規律もいっそう厳格に立てて面目を一新した。
「ついに両部隊が共同で大きな戦いをやるときがきたと思います。力を合わせて『冬季大討伐』にやっきになっている敵を左右から叩きましょう。桃泉里をはじめ長白、臨江県境地帯は大衆的基盤もきわめて良好です。われわれがつくった地下革命組織の積極的な援助と後援も得られるので、りっぱな青年を入隊させて、隊列もすぐ補充できるでしょう。両部隊がしっかり協力して左右からたえず消耗戦を展開すれば、大きな戦果があげられると思います」
曹国安はわたしの意見に喜んで賛成した。われわれは必要に応じて共同作戦もおこなうことにした。第二師の戦友たちは名残を惜しみながら密営を去った。われわれの部隊の指揮官や隊員たちも惜別の情をおさえることができず、目じりに涙をにじませていた。別れる前に曹国安はわたしにこう頼んだ。
「金司令、隊員のなかから伝令向きの隊員を一人選んで譲ってくれませんか」
わたしは北満州での経験と同じようなことにぶつかった。あのとき周保中も、朝鮮人の隊員と指揮官を譲ってくれと言った。彼の願いをいれて、東満州部隊から朴洛権、全昌哲、安正淑、朴吉松など多くの朝鮮人の隊員、指揮官を北満州部隊に派遣したのである。
「曹師長がわたしの同志たちを、それほど信頼してくれて感謝にたえません。朝鮮人となにか特別な縁があるのではありませんか?」
わたしの問いに彼は「特別な縁といったものはありませんが、李紅光と李東光を知ってから朝鮮の同志たちに惚れ込んでしまったのです。李紅光が邵本良をやっつけたとき、われわれがどんなに感嘆したか間島の人たちはおそらく、よくわからんでしょう」と答えた。
邵本良とは、柳河県一帯で安図の李道善や撫松の汪隊長のように人民をむやみに殺し、略奪をほしいままにしていた満州国軍の悪質な高級将校であった。その部隊を、李紅光が柳河県の三源浦と孤山子、涼水河子一帯で撃滅したのである。李紅光は邵本良の部隊を壊滅させたあと、涼水河子付近で第一軍指揮部が敵の大兵力に包囲されたことを知り、大胆かつ巧みに楊靖宇を救い出した。そんなことがあって以来、楊靖宇をはじめ第一軍の幹部たちは彼を命の恩人として、勇猛の象徴として寵愛した。 李紅光が戦死したとき、楊軍長をはじめ第一軍のすべての幹部と隊員がどれほど悲しんだか知れない、と曹国安は言った。わたしは彼の願いを聞き入れることにした。
「わたしが汪清にいたころから目をかけてきた機関銃射手が一人いますが、気に入るかどうか。姜曽竜と言って… 小隊長ですが、機関銃射手を兼ねていてたいへんな力持ちです」
聞いてみると、姜曽竜は曹師長や第二師の組織課長宋茂璇とも旧知の間柄だった。それで、彼を第二師に編入させることに話がまとまった。これを知った姜曽竜は、わたしのそばを離れたくないと我を張ったが、曹国安の配下に入ってからは、第二師指揮部の護衛機関銃小隊長としてりっぱに戦ったという。
その後、曹国安部隊は長白、臨江県境一帯で猛烈な軍事・政治活動を展開した。彼らはわれわれの密営から桃泉里に直行し、そこに一週間ほど滞在しながら地下組織の助けで隊伍を補充し、密営の候補地も探索した。一方、わたしは金在水に書面で、祖国光復会の下部組織を動かして彼らを支援するよう指示した。桃泉里をはじめ下崗区の各村では、祖国光復会の下部組織を結成して援軍活動を活発におこなっていた。それらの組織は第二師を誠意をもって支援した。南満州部隊は彼らの支持のもとに、桃泉里の谷間に侵入した靖安軍との戦闘でも勝利することができた。
一九三六年十一月中旬のある日、人民から敵情報告を受けた部隊指揮部は、敵を夜間の伏兵戦で掃滅することにし、日没前に桃泉里砲台通りの谷間に伏兵陣を敷いた。そこは村のいちばん奥の家からわずか十数メートルしか離れていなかった。敵の大部隊は村に入るなり、人家から住民を引きずり出し、遊撃隊の行方を教えろと脅迫した。しかし、村人たちは遊撃隊が目と鼻の先に待ち伏せていることを知りながらも、知らないと突っ張った。ありがたい人たちであった。一瞬の失策で秘密が露呈するようなことになれば、村民全員がむごい報復を受けるきわどい状況であったが、彼らは命を投げ出す覚悟で遊撃隊の居場所を言わなかった。人民の死を恐れぬ支援のおかげで、第二師の戦友たちはその日の伏兵戦で大きな戦果をあげた。翌日も彼らは人民からもたらされた情報によって、前日の戦死者を運びに来た二十余台の自動車編隊に集中射撃を加え、敵を震えあがらせた。
桃泉里で隊伍を補充して大きな戦果をあげた曹国安は、わたしに手紙を寄こした。黒瞎子溝密営で過ごした効果がすでに現れはじめた、この曹国安は金司令に世話になったことが忘れられない、今後もあなたに吉報だけを送るだろう、という内容だった。
しかし不幸にも、彼はその夢を果たせなかった。第二師は臨江方面に進出中、長白県七道溝木材所付近で敵と遭遇し、その戦闘で曹国安は重傷を負った。彼は部隊の指揮を一時宋茂璇にまかせ、警護隊とともに安全な所に居残って傷の治療をした。ところが裏切者が彼の居所を密告した。敵は曹国安を生け捕りにしようと、四方から彼の居所を包囲した。警護隊は師長を救出しようと決死の戦いをくりひろげた。しかし、そうした決死の努力もむなしく、曹国安は幾発もの銃弾を浴びて戦死した。わたしは曹国安の戦死の知らせを聞いて、彼がわたしと別れるときに言った最後の言葉を思い起こした。
「金司令、この先、朝鮮を解放する決定的な作戦がはじまったら、わたしを呼んでください。そのときは部隊を率いて金司令を訪ねていきます」
しかし、彼はその約束を守ることができなかった。彼は朝鮮の解放はもとより、愛する祖国、中国の解放も見ることなく惜しくも戦死したのである。わたしはそれが残念でならなかった。
第二師軍需部長の朴順一が曹師長の戦死を知らせる手紙を持って密営にやってきたのは、一九三七年の初めであった。宋茂璇は、師長を失った悲しみと、これから部隊をどう指揮したものかと当惑しているもどかしい心境を率直に述べ、今後の活動方向について助言を求めた。わたしは指揮官を失って悲しみに沈んでいる彼らの境遇に同情し、当時としてはずいぶん長文の手紙を書いた。そこでわたしがとくに強調したのは、団結し心を合わせて部隊の危機を切り抜けることと、集団的知恵を発揮して部隊を管理することである。そして宋茂璇には降雪の多い状況のもとで、敵が容易に接近できない鯉明水の山地に密営をつくり、新入隊員の政治・思想教育と軍事訓練に力をそそぐよう助言したあと旧正月が過ぎてから部隊を訪問する意向を伝えた。
わたしが平凡な一弔問客として彼らを訪ね弔意を述べるのは、生前、故人と格別な親交を結んだ戦友としての当然の道義であり義務でもあった。師長を失った彼らには、わたしが訪ねていくことだけでも慰めになり、頼りになるに違いなかった。紅頭山戦闘後、わたしは約束どおり彼らを訪ねていった。その途中、桃泉里で戦闘をおこない、四門開庭村で一泊して鯉明水の上流と八道溝方向にそれぞれ偵察班を派遣した。第二師の戦友たちは連絡員を通じて、われわれが四門開庭村に来ているという連絡を受けると、夕食もとらずその夜のうちに駆けつけた。零時もかなり過ぎた深夜に、彼らが到着したという報告があった。わたしは金周賢を呼んで客をもてなす雑煮をつくっておくよう指示し、伝令を伴って迎えに行った。わたしが遠くから挨拶すると、指揮官たちが駆け寄り幾重にもとりまき抱きついた。顔が凍えきって、抱擁のたびに頬に大きな氷のかたまりがあたるような気がした。師長を代理していた宋茂璇は、宿所に着くまでずっとわたしの手を離さなかった。
「ありがとうございます。司令官同志はわれわれの部隊が大きな試練をなめているとき、われわれに力を与えてくれた恩人です」
「組織課長同志、わたしは、そんなにほめてもらえる人間ではありません。来るのが遅すぎたのではありませんか」
先日もそうだったが、その日も彼はわたしに格別な親近感を示した。わたしが曹国安を同郷人のように思ったように、宋茂璇もわたしを同郷人のように応対した。彼は五里河子という吉林近郊の農村で青年運動に従事し、抗日武装闘争に参加した人だった。五里河子はひところ李東光が青年運動を指導した所である。彼の指導のもとに宋茂璇をはじめ五里河子地方の青年は革新青年会を組織し、そのまわりに青年大衆を結集した。そのころ永吉県一帯には新興青年会、前進青年会という看板をかかげた青年組織も活動していた。宋茂璇は革新青年会の組織委員であった。一九二八年の春、この組織は李東光によって反帝青年同盟に改編され、後日さらに共青に改編された。われわれが吉会線鉄道敷設反対闘争と日貨排斥闘争を展開すると、五里河子の青年組織は連帯デモを断行した。李東光が五里河子一帯で青年運動を指導した時期は、わたしが吉林で青年学生運動を指導した時期と一致している。
宋茂璇は吉林時代を回想するたびに、正義府の一部の幹部をなじった。独立運動で苦労している先輩を非難するのは酷ではないか、とわたしがたしなめると、彼は顔色を変え、もっとひどく言っても言い過ぎではないと言うのだった。それで、どうして正義府の幹部に悪感情をいだくようになったのかと尋ねると、彼は、一九二八年の年頭に正義府が開催した吉林地方会議のことを話した。この会議に、彼は五里河子の代表として参加したらしい。会議には双河鎮代表、江東代表、新安屯代表も参加した。議題は義務金徴収にかんする問題であった。その日、高而虚は正義府を代表して過激な演説をした。彼は管轄区域の住民が義務金の納付をしぶっているので、軍隊を動員してでも徴収するとおどした。彼の演説がきっかけになって、主催者側と参会者のあいだに口論がはじまった。宋茂璇も五里河子を代表して反駁する演説をぶった。それで彼は閉会後、高而虚が送った暴漢に殴打され、卒倒した。
宋茂璇は旺清門で発生した国民府のテロ事件のこともよく知っていた。わたしは彼と、呉東振や玄黙観、高遠岩のことも語り合った。吉林時代の生活については細部まで話した。黒瞎子溝密営で一緒に過ごしたその日々、吉林時代のことはなんでも話題になったのである。しかし、ここ四門開庭の農家では、わたしも宋茂璇も吉林時代を話題にしなかった。われわれはただ曹国安師長を追悼し、彼のいない師団の運命と展望についてのみ論じた。われわれは第二師の戦友たちに雑煮をふるまった。大食漢として知られたある中国人指揮官は雑煮を三杯もたいらげた。彼は、今日こそ本当の正月を迎えたようだ、と言った。高力堡子木材所を襲撃した帰路、敵に追撃されて昼食もとれなかったと言うのである。
われわれの部隊と第二師の指揮官たちは、早朝、鯉明水戦闘をおこなうための連合作戦会議を開いた。わたしは多年の経験から、正午ごろ敵の来襲があるだろうという予感がした。わたしは敵の注意をわれわれに引きつけるために、わざと鯉明水方面に移動した足跡をたくさんつけておくように指示した。二道崗方面から来る敵は鯉明水の谷間に入るに決まっていた。それに第二師の戦友たちが高力堡子を襲い、遭遇戦のあと鯉明水の谷間に入ってきたのだから、八道溝方面の敵もこちらへ押し寄せてくるほかなかった。二つの方向から押し寄せる敵を叩く格好の待ち伏せ地点は、鯉明水の北水谷の流れが合わさる地点の付近だった。わたしは鯉明水の谷間に差しかかったときから、その地点に目星をつけていた。
わたしは作戦会議参加者に、その日に予想される敵の行動企図を語り、両部隊が連合して大兵力の敵を撃破する伏兵戦をおこなう必要性を強調した。伏兵戦の勝敗は隠密性の保障に大きくかかっているだけに、夜明け前に朝食をすませて待ち伏せ地点に到着し、各部隊が伏兵陣地を占めたあとは煙を上げるとか、話声を立てたりせきをしたり、陣地を離れるようなことが絶対にあってはならず、命令なしに射撃をしてはならないと強調した。また、敵にたいする呼号の内容と方法、捕虜の取り扱いについても具体的に説明した。ついで各部隊に戦闘任務を分担した。偵察資料によれば敵情にはたいした変動がなかった。わたしの提言で、出発準備をととのえた両部隊は一か所に集まって曹国安師長の追悼会を催した。わたしと宋茂璇が追悼の辞を述べた。
鯉明水は長白県四登房山脈の分水嶺から西に流れて八道溝河に流れ込む川である。四門開庭はこの川の上流付近にある村で、そこから流れに沿って六キロほど下れば、十五、六戸の朝鮮人だけの火田民村があった。それが鯉明水村である。各部隊は夜がすっかり明ける前に伏兵陣地を占めて塹壕を掘った。周辺の山の急斜面は深い雪に覆われ、鯉明水は一面氷が張りつめていた。きびしい寒気が骨を刺すような日和だったが、戦闘員の士気はきわめて高かった。わたしの指揮する戦闘はいつも勝つといううわさを聞いていた南満州の戦友たちは、出陣命令を受けたときから今度の戦闘は大勝すると自信にみちていた。
わたしは主力を合流点付近の山の尾根に配した。荒地を開拓して畑にした尾根で、谷間に向かって下向きの射撃には絶好の位置だった。高地の中心にわたしの指揮所を置き、前方にわれわれの第七連隊と警護中隊を、左に第八連隊を、右に第二師の戦闘員たちを待ち伏せさせた。谷間の向こう側の低い尾根には六、七十名の勇士からなる突撃隊を配した。この二つの山と向き合った高い山は密林に覆われた険山で、われわれの攻撃を受けた敵がそこに逃げ込むことは不可能であった。われわれの占めた伏兵地点の前方は約百メートル幅の平地で、敵を全滅させるのにあつらえ向きの集中射撃区域であった。わたしは二道崗方面および八道溝方面から来る敵を監視し牽制するために、双方にそれぞれ一個分隊ほどの防御隊を送った。防御隊の手旗信号を受ける受信哨所は指揮所の裏山に配した。戦闘員たちは塹壕の中に伏せて敵を待った。ところが、昼がすぎても敵は姿を現さなかった。
「敵は来ないんじゃありませんか?」
待ちくたびれた白鶴林が歯をカチカチ鳴らしながら、低くささやいた。
「せくんじゃない。いまにきっと来る」
じつは、わたしも歯を鳴らし体を震わせていた。戦闘員たちは雪中に伏せたまま凍えたトウモロコシ餅を取り出して食べた。わたしは白鶴林が背のうから出してくれたトウモロコシ餅一個で昼食をすませた。ひどい寒さで、金属に指が触れると凍りつくほどだった。午後二時が過ぎても敵は姿を現さなかった。二月の酷寒に八、九時間も雪中に腹這いになっているのは容易なことでなかった。しかし、勝つためにはそれ以上の辛苦をもしのばなければならないのである。ここで痛撃を加えるならば、敵ももう、むやみにわれわれに手出しができなくなるだろう。
午後五時ごろになってやっと、八道溝方面の東南側高地の防御隊から敵が現れたという信号があった。双眼鏡で見ると、満州国軍将校の率いる尖兵が先頭に立ち、そのあとから日本人指導官の率いる本隊がのろのろついてきていた。わたしは伝令を送り、先頭の尖兵は通過させ本隊の後尾が伏兵圏内に入ってから射撃命令を下すから、みだりに射撃しないよういま一度各部隊に伝達した。敵の出現と同時に、にわかに天気が険しくなった。黒雲が空を覆った。雪さえなければ、陰惨な夕暮れの大地はすっかり闇の底にのみこまれてしまったであろう。冷たい北風が吹きつけた。吹雪のため、敵兵は目もあけられない有様だった。敵の本隊が伏兵圏内に完全に入るや、わたしは合図の銃声を発した。四百余挺の小銃と数挺の機関銃がついに憤怒の火を噴いた。射撃についで韓益洙に突撃ラッパを吹かせた。敵はそれこそ袋のネズミとなったのである。
戦果は大きかった。敵兵百余名を殺傷し、二個中隊を投降させ、三挺の軽機関銃をはじめ百五十余挺の小銃と多くの弾薬をろ獲した。命拾いをして逃げ延びたのは尖兵だけだった。八道溝方面の敵を掃滅しているとき、二道崗方面から来た敵は、谷間に響くけたたましい銃声におじけづいて、防御隊のいる山の出鼻に立ち止まってしまった。防御隊は立往生している敵兵に集中射撃を浴びせた。敵は死傷した同僚をおきざりにしてあたふたと逃亡した。わたしは、四門開庭村の各民家に敵の負傷兵を背負いこんで手当てをし、食事も与えて無傷の捕虜と一緒に家に帰すようとりはからった。自分は六回捕虜になって六挺の銃を納めたのだから、当然遊撃隊を助けた功労者扱いを受けてしかるべきだ、と言ったある満州国軍捕虜の有名な逸話が生まれたのはこのときだったと思う。
鯉明水戦闘で八道溝方面の敵は「冬季大討伐」の主力を失った。遊撃隊を全滅させると豪語していた敵の威勢は地に落ち、「冬季大討伐」騒ぎは水の泡となった。結局われわれは鯉明水戦闘の勝利によって敵の「大討伐」作戦にとどめをさしたのである。こうした意味で鯉明水戦闘は格別な感慨をおぼえる戦闘であった。第二師の戦友たちはすっかり士気を取りもどした。わたしは彼らと寝食をともにしながら、師団の将来の活動に必要な助言を与え、彼らが桃泉里と天上水一帯の祖国光復会組織の支援のもとに安全に活動できる対策も協議した。彼らはわたしに言われたとおり桃泉里の谷間に深く入って密営をつくり、暖かい季節が来るまで政治学習と軍事訓練をしながら静かに過ごした。桃泉里の地下組織は彼らに木綿の布地やわらじ、大きなポソン(朝鮮の足袋)など多量の援護物資を提供したという。
南満州の戦友たちと再会したのは、新緑がもえはじめた五月中旬ごろ、鯉明水村から西に少し離れたある山の尾根であった。密営で安楽に過ごした第二師の戦友たちは血色がよかった。ところが当惑したのは、その部隊に属していた朝鮮人たちがどうしてもわたしのそばを離れようとしないことだった。彼らはわたしの所にやってきて、部隊に編入させてほしいと懇願した。わたしは彼らを説得するのに喉がかれるほどだった。
―― われわれが中国の同志たちと連軍を編制して戦うのは、朝鮮人だけの部隊を組織して戦うよりも中国人民の支持と援助を得るうえで有利な点を考慮したためである。きみたちの部隊は第一軍に属するが、朝鮮人が半数以上を占めているのだから、朝鮮人民革命軍の一別働部隊と考えてもよい。それなのに、誰もがわれわれの所に来たいと言えば、四方八方の敵とはいったい誰が戦うのか。南満州の方の敵はきみたちをはじめ第一軍の部隊が撃滅し、東満州の方の敵は第四師の部隊が撃滅し、北満州の方の敵は北満州の部隊が撃滅するというふうにしてこそ、われわれも白頭山一帯の敵とりっぱに戦える。きみたちが四方で敵を牽制してくれなければ、敵は総力をあげて主力部隊を壊滅しようと殺到するだろう。それでわたしは、苦労して育てあげたすぐれた軍・政幹部を北満州の部隊にも送り、南満州の部隊にも派遣しているのに、きみたちがみなわたしのもとに来たいと言うのでは困るではないか。祖国を取りもどそうと父母妻子のもとを離れてきた人たちなのだから、抗日大戦の勝利のために私的感情を超越しよう。奪われた祖国を取りもどしたあかつきに、みなひと所に集まって暮らし、昔話をしようではないか――
実際、わたしは南満州の戦友たちを支援するため、彼らが求めるたびに人びとを送った。そんなことは一度や二度ではなかった。わたしが南満州に送った人たちはみな頼もしい偉丈夫だった。李東光と李敏煥も経歴からすれば東満州から抜擢されて南満州に行った人たちである。一九三七年三月、曹国安の後任として師長の重責をになった曹亜範にせがまれて、伝令の金沢万を彼に譲ったこともあった。
第一軍の総務処長だった孫溶浩は、吉林師範学校在学中からわたしが組織した留吉学友会の会員として活動した学友であった。彼は音楽とスポーツにぬきんでた才能をもっていた。体格がりっぱで容姿もととのっていたので、吉林市内の若い娘たちにたいへん人気があった。彼は師範学校の高跳び選手で、バイオリンも弾いた。孫溶浩はその後、共青活動をして警察に逮捕され、新義州監獄でしばらく苦労した。出獄後、永吉県五里河子で農村革命化につくし、翌年、南満州の磐石県に移って県党機関紙『反日青年日報』の主筆を務めた。一九三七年の冬から、彼は第一軍の指揮部で総務処長として活動した。わたしは一九三八年の冬、南牌子で彼と再会した。彼はたいへん喜び、わたしと一緒にいたいと言った。しかし惜しいことに、彼が三、四か月後、富爾河付近のある戦闘で壮烈な戦死を遂げたという悲報に接した。
南満州遊撃部隊へのわたしの関心はいつも、われわれの近くで活動している第一軍第二師に多くそそがれた。彼らは普天堡戦闘の勝利を祝う軍民交歓会にもやってきて、喜びを分かち合った。間三峰戦闘はわれわれの主力部隊と第四師、第一軍第二師が連合しておこなった戦闘であった。第一軍第二師とわれわれの部隊は数年間、白頭山西南部一帯で共同闘争をりっぱにおこなった。一九三〇年代後半期の敵の警察文書や新聞紙上に、わたしの名前と曹国安の名前が並んで載ることがときどきあったが、これは朝中両国の革命家が肩を組んで共同闘争、共同作戦の苦難の道を切り開いてきた生きた歴史の反映といえよう。
わたしはいまも、われわれの革命闘争が一路勝利の道を歩んでいたそのころを思い返すたびに、第一軍第二師の戦友たちをしのんでいる。曹国安、宋茂璇、朴順一… 名前を呼んだだけでも胸が熱くなる彼らの顔が吹雪の中になつかしく浮かんでくるのである。
5 『三・一月刊』
人類の生活に及ぼす出版物の威力については、古今東西を問わず誰もが認めているところである。ある人は、過去の世界はいくつかの未開な民族を除けば、すべて数冊の書物によって支配されてきた、とさえ言っている。歴史は、出版物が社会の改造発展においていかに大きな役割を果たすものであるかを十分に証明している。世界を動かすのが人間であるとすれば、その人間を動かすものの一つが、正義と真理を代弁する良心的な知識人と時代の先覚者によってつくられる出版物だと言っても過言ではないと思う。
われわれは出版物をさして大衆の教育者、宣伝者、組織者といっている。革命的出版物はまた、領袖と党、大衆を一つのきずなに結びつけるすぐれた手段であるともいえる。レーニンは新聞『イスクラ』の発刊にあたってその創刊号に、「燃え上がる炎も一点の火花から」という題辞を載せたが、これは全世界の共鳴を呼ぶ金言となった。この題辞にいう火花はその後、十月の炎となってロシアの大地に燃え広がった。
わたしを革命の道に導くうえでも、じつは出版物が大きな作用をしたといえる。世界の名言のなかには「ペンは剣よりも強し」というのがある。われわれは『セナル(〔 〕)』『ボルシェビキ(〔 〕)』『農友(〔 〕)』を発刊して出版物の真価を知り、それらの出版物に銃や剣に劣らぬ期待をかけた。出版物は革命闘争の有力な武器の一つである。この武器の射程距離は無限である。われわれが白頭山で『三・一月刊』や『曙光』などの出版物を通して、祖国と祖国の同胞を忘れてはならないと訴えると、その声を南満州と北満州のすべての遊撃隊員や人民が聞くのである。数百万大衆に向かって、同一の思想と闘争スローガンをいっせいに迅速に宣伝し、大衆を結束し、彼らを組織的、思想的に鍛えるうえで、出版物ほど大きな威力を発揮する宣伝・扇動手段はおそらくないであろう。
抗日武装闘争の時期、同志たちはよく口頭宣伝を「口大砲」、演芸活動による宣伝を「太鼓大砲」、出版物による宣伝を「筆大砲」あるいは「文大砲」という平たい言葉で表現したものである。口頭宣伝や演芸活動による宣伝は、出版物宣伝に比べて相対的に効果が早く現れ、扇動性が強いが、出版物による宣伝は持続性があり、地域的な制約を受けないという長所がある。敵が言論を統制し、国体の維持にさしさわりがあると思われるいっさいの言動を銃剣と棍棒で仮借なく圧殺している状況のもとで、革命組織にたいする統一的な指導を保障する組織・宣伝活動は、いきおい非合法的な方法で秘密裏におこなわざるをえなかった。こうした実情で、われわれは遊撃戦争にもっとも適した宣伝・扇動手段を研究し、われわれが最良の手段だと考えた「筆大砲」の発射にしかるべき関心を払わざるをえなかった。そこでわれわれは白頭山に密営が創設されると、そこに出版所を設け、祖国光復会機関誌『三・一月刊』を創刊したのである。
東崗で祖国光復会を創立するさい、われわれはその機関誌の発行についても論議した。反日民族統一戦線という大きな器に各階層の民衆をすべて入れて、抗日大戦を全民族的な規模に発展させるには「口大砲」や「太鼓大砲」も活用すべきだが、とくに「筆大砲」の効果を発揮させなければならなかった。一九三〇年代の前半期、民族統一戦線のためのわれわれの政治工作は、多分に地域的な性格をおびていた。われわれの統一戦線工作の範囲は主に、満州地方と朝鮮の北部地帯であった。しかし、祖国光復会はその範囲を朝鮮全域と中国本土、日本、ソ連、アメリカをはじめ同胞の住むあらゆる所に反日民族統一戦線の旗をひ
るがえそうとしたのである。
こうした目的を果たすため、われわれはしばしば各地に工作員を派遣した。だが残念なことに工作員の数は限られていた。遊撃闘争の初期から東満州で統一戦線運動に深くかかわった軍・政幹部の多くを北満州に残したので、活動家が不足していた。活動家不足による空間を埋める重要な方途の一つは出版物の活用であった。大衆に愛される機関紙・誌をりっぱにつくって随所に配布すれば、それら一つひとつの雑誌や新聞がとりもなおさず、一人ひとりの工作員に代わりうるとわたしは確信した。ところがやむをえない事情のため、それを適時に発刊することができなかった。そのころはたえず戦闘をおこない、移動も頻繁だった。われわれはいつも敵の包囲のなかにあった。荷を背負って一日に数里、数十里を行軍しなければならなかった。敵はわれわれに出版物を発行するゆとりを与えなかった。
白頭山に密営が創設され、そこに出版所が設けられてから、ようやく祖国光復会の機関誌『三・一月刊』を出すことができた。『三・一月刊』は二千万の総動員によって国の独立を達成しようという祖国光復会の理念の実現につくすことを基本使命とする大衆政治理論誌であった。われわれは苦心の末、祖国光復会の使命にふさわしい『三・一月刊』という題号を選んだ。「三・一」は三・一反日人民蜂起を意味した。三・一人民蜂起は日本帝国主義侵略者に抗し、全民族的なたたかいをくりひろげた朝鮮人民の壮烈な独立運動であった。したがって『三・一月刊』という題号には民族の意志が反映されており、そこにはわれわれが朝鮮革命の主体的路線を固守し、白頭山を本拠に全朝鮮的な規模で武装闘争を拡大発展させようという戦略的意図とともに、全民族の総動員で全人民的抗争を準備しようという意味もこめられていた。『三・一月刊』は祖国光復会の機関誌として発刊されたが、朝鮮人民革命軍党委員会の機関誌の使命もおび、また全国、全民族を対象とする大衆政治誌の使命も同時に果たすことになった。それで、この雑誌は朝鮮人民革命軍の隊員や共産主義革命家ばかりでなく、民族ブルジョアジーや宗教家、独立軍兵士にも愛読される汎民族的な雑誌にしなければならなかった。
われわれは書記処のメンバーを基本にして『三・一月刊』編集部を設け、主筆には記者の前歴のある李東伯を任命した。李東伯の主管のもとに編集部は創刊号の発刊準備に取り組んだ。彼らは雑誌の編集方向と出版実務の問題についてさかんに論議した。理想的な編集形式を見つけ出すために国内の出版物も熱心に研究した。そのころ、国内の出版界では新聞、雑誌の閉刊、停刊旋風が吹きまくっていた。多少とも愛国的な要素のある雑誌はすべて弾圧されて閉刊させられており、参考にできる雑誌は幾種もなかった。『三・一月刊』編集部は参考にするために国内の雑誌を調べたが、それらを基準にしたり、模倣したりはしなかった。あくまでもすべてを創造的に新たに探求した。
われわれは『三・一月刊』が大衆政治理論誌の体裁をととのえ、祖国と民族を愛し、民族の大団結をはかる思想で内容が一貫されるようにした。毎号、社説のほかに、「わが民族の祖国解放運動ニュース」「反日民族革命戦線各地の勝利通報」「問答欄」「祖国要聞」「国際要聞」「文芸欄」などの固定欄も設けた。原稿は主に書記処が属している朝鮮人民革命軍部隊内の筆陣を通して確保し、そのほか各地で活動する人民革命軍部隊と祖国光復会の組織を通して集めることにした。原稿を確保する措置として、東満州、南満州、北満州の主要地点に『三・一月刊』誌特派員をおき、広範な読者の投稿を奨励した。
どうすれば、『三・一月刊』の編集を読者大衆の仕事に転換できるか、各階層読者の雑誌への投稿を恒常化できるか、すべての読者から編集内容を豊富にし編集形式をたえず改善するための助言を得ることができるかを真剣に討議、模索した末、李東伯は投稿規定というものをつくった。彼がつくった投稿規定を読むと、なかなかおもしろかった。それを見れば文才がなくてもペンを取って、なにか一気に書いてみたいという衝動にかられるようになっているのである。規定には各界愛国志士の名論卓説を募るため投稿を歓迎する、という要請にはじまり、原稿の内容にともなう記事の枚数と投稿方法、熱心な投稿者への優待適用などの条項が具体的に記されていた。われわれは組織のルートを通じて投稿規定を下部に通知し、創刊号にも「投稿歓迎!」という見出しで紹介した。
投稿規定を配布してからほどなく、各地から原稿がぞくぞく寄せられた。それらの原稿を受け取って大喜びしていた「パイプじいさん」の姿がまざまざと浮かんでくる。わたしも喜ばしい気持で投稿されたさまざまな文章をほとんど読んだ。梁世鳳独立軍の参謀長が寄稿した祝賀の手紙にも、祖国光復会の創立を歓迎する彼らの衷情がこもっていたが、南満州で祖国光復会代表として活動していた李東光と上海に住む朴某同胞代表との対面を記した文章も印象的であった。上海の同胞代表は北京、天津をはじめ中国各地で多年間独立運動に従事した人で、祖国光復会創立のニュースを聞き、南満州までやってきて、国の内外で祖国光復会を軸とする統一的な戦線を展開しようと建議したという。これは祖国光復会の組織を中国本土の広い地域に拡大できる好機となった。われわれはその原稿を受け取ると早速、有能な政治活動家を一人李東光のもとへ送った。このように『三・一月刊』発刊の準備中、編集部は祖国光復会の組織網の拡大強化に直接寄与する通信処のような役割も果たした。
祖国光復会のある区委員会が、人民革命軍を励ますために祝旗をつくり、それにそえて送ってきた手紙の内容もやはり感動的であった。
「…愛国同胞の熱い同情により、貧しいふところから一銭、二銭あるいは一円と醵(きょ)金(きん)しました。こうしてこれまで集めた総額は八円七十一銭ですが、これで軍需品を買って贈るにはあまりにも少額なので、われわれと全愛国同胞の意見により、歓迎旗をつくって贈ることにしました。…」
われわれは真心こもるそれらの手紙を創刊号に掲載した。創刊準備中もっとも心配していた原稿が予想外に多く集まったので、「パイプじいさん」の機嫌は上々だった。ある日、彼は司令部ににこにこしながらやって来て、わたしの前に十数枚の白紙を置いた。
「ほかの原稿はありあまるほどです。いまは、肝心な創刊の辞と論説さえできればレイアウトに着手する運びとなりますが、それはどうしても祖国光復会の会長同志が引き受けてくれるべきです。このとおり紙は持ってきました」
「それじゃ主筆はなにをするのです。文章家として名が高い主筆が健在なのに、わたしがそのポストを乗っ取るべきだというのですか。そういうわけにはいきません。創刊の辞は当然、主筆が受け持つべきです」
わたしは忙しいことも確かだったが、受難の道を歩んできたこの誠実な文筆家に創刊の辞を書かせて、うっ積していた亡国の悲しみを吐露させ、二千万同胞に訴えたかった火のような言葉を思う存分叫ばせたかった。それで創刊の辞は彼にまかせた。そのかわりわたしは、「三・一運動の回顧」という題名の論説を書くことにした。しかし仕事に追われて執筆がのびのびになった。やっと時間を割いてペンを取ったとき、折あしく密偵を捕えたという報告と、敵の討伐隊が密営に押し寄せているという通報があって戦場に行かなければならなかった。
当時もっともなつかしく思い出されたのは、金赫と崔一泉であった。卡倫と五家子時代の莫逆の友であった『ボルシェビキ』の主筆金赫と『農友』の主筆崔一泉は、双璧をなす有能な文章家であった。詩人金赫の文章は氾濫する長江のように豪放かつ激動的であり、崔一泉の文章は民族的な情調が濃くしかも知性的で分析がするどかった。金赫は『ボルシェビキ』に自分で作詞、作曲した革命的な歌もときどき掲載した。『ボルシェビキ』に載った彼の作品のうち、いまも記憶に新たなのは、『資本主義社会詛(そ)呪(じゅ)歌(か)』と『反派閥歌』である。『資本主義社会詛呪歌』は資本主義社会をのろい、搾取者をきびしく弾劾した歌であり、『反派閥歌』は、ジャガイモに彫った印鑑などを持ち歩きながら、他人におぶさって党の創立をはかろうとする分派・事大主義者の正体をするどくあばいた風刺歌謡であった。金赫や崔一泉がわれわれのそばにいたなら、「パイプじいさん」の負担はかなり軽くなっていたであろう。
わたしは三・一運動を回顧する論説も、祖国光復会の創立文書も、『血の海』『ある自衛団員の運命』の台本のように激戦の合間に書かなければならなかった。
『三・一月刊』創刊号の発刊準備で最後まで難題となったのは、出版器材を手に入れることであった。そのころわれわれには、古い謄写版が一台あるだけだった。謄写インクやローラー、原紙、用紙も不足していた。出版所では足りないものをすべて自力でおぎなった。謄写インクが切れると、白樺の皮を燃やし、その上にブリキの円錐形のふたをかぶせ、ふたについた煤を集めた。それを油にひたし、工場製の謄写インクに混ぜて使った。ローラーが使えなくなると、にかわに松脂を混ぜて煮立てたものを型に流し込んでつくり、鉄筆が使えなくなると、大針でつくった。『三・一月刊』のために傾けた彼らの血のにじむような努力は、自力更生、刻苦奮闘の手本に価するものであった。
そうした努力はついにりっぱな実を結んだ。一九三六年十二月一日、『三・一月刊』創刊号が誕生したのである。その日「パイプじいさん」は、最初に製本された創刊号を一部持ってきて、こう言った。
「無為に過ごしたわたしの半生で、それでもなにか有意義なことをしたものがあるとすれば、『三・一月刊』の創刊号をつくったことです。将軍、お忙しいでしょうが、『三・一月刊』の呱々の声を一つ聞いてやってください」
彼は興奮した声で創刊の辞の最初の部分を読んだ。
「わが朝鮮が強盗日本侵略者に占領され、二千三百万白衣民族が日本帝国主義の亡国の奴隷となって以来、われわれの生命と人権は犬畜生にも劣るものになった」
『三・一月刊』は発行と同時に大きな反響を呼んだ。創刊号は軍隊と人民のあいだで好評を博した。各地の祖国光復会組織は、『三・一月刊』の発行を祝う歓迎の言葉とともに、配布部数を増やしてほしいと要請する手紙を送ってきた。組織の名で雑誌の次号を注文する人たちもいた。
われわれが『三・一月刊』の発行に必要な出版器材の明細書を作成して、その解決方途を模索していたころ、朴達が日本留学生に依頼して性能のよい新しい謄写版を二台手に入れた。端川駅に到着した謄写版を一台ずつジャガイモの袋に入れて牛車で甲山まで運んできたが、警察の監視がきびしいので終日山にひそみ、夜半に民族解放同盟出版部のある五豊洞に持ち込んだという。朴達は最初その謄写版を二台ともわれわれの密営に送ろうとした。しかしわたしは、一台だけわれわれが使い、一台は甲山に残して朝鮮民族解放同盟機関誌の発刊に利用するようにした。朝鮮民族解放同盟は『火田民』という機関誌を発行していた。朴達が送ってくれた謄写版はたいへん性能がよかった。古い謄写版に比べて数倍の能率をあげ、次号からは雑誌を数百部ずつ刷ることができた。
『三・一月刊』の人気は予想をはるかに上まわった。読者がこの雑誌を愛読したのは、編集形式が斬新なことにもあったが、重要なのはその内容が民族統一戦線の思想で貫かれていたからだと思う。それはこの雑誌が、民族に課された時代の課題をもっとも敏感に正しく反映していることを意味した。日本軍国主義のファッショ攻勢に対処して朝鮮の革命家がなすべき第一義的な課題は、各階層人民を反日民族統一戦線にかたく結集し、全人民的抗争の基盤を築くことであった。
『三・一月刊』が発刊されてから、祖国光復会の組織網を拡大強化する活動は急テンポで進んだ。人民革命軍参軍者の隊伍とわれわれの支持者、共鳴者の隊伍も飛躍的に拡大した。一、二発の「筆大砲」がこんなに大きな威力を発揮するものかと、「筆大砲」の当事者さえ驚くほどだった。いつだったか、朴寅鎮は権永璧と会った席で、嶺北のほとんどすべての天道教徒を短時日内に祖国光復会の組織網に参加させることができたのは、『三・一月刊』が大きな役割を果たしたからだ、と語ったという。
『三・一月刊』発刊の第一の功労者は言うまでもなく李東伯であった。祖国光復会を創立するときにも彼は多くの苦労をしたが、『三・一月刊』の創刊と発行につくした苦労には比べることができない。彼の晩年はすべて『三・一月刊』にささげられた。わたしは八十年の生涯の間、「パイプじいさん」ほど紙を大事にする人を見たことがない。彼は木の葉ほどの紙もとっておいては、必要なときにゴマ粒のような文字をぎっしり書き込んで利用した。「パイプじいさん」は文字の書ける白紙にタバコを巻いて吸う人を見ると、紙を粗末にするなときびしく批判した。彼自身はいつもパイプでタバコをふかしていた。彼がパイプを使うようになったのも、紙を節約するためだったのかも知れない。事情はどうであれ、そのパイプのおかげで李東伯が多くの紙を節約したことだけは確かだった。もしもそのパイプがなかったとしたら、彼は生涯に数千枚の紙を消費したであろう。
祖国が解放されたら、われわれの抗日革命闘争史を書くのだと一日も欠かさず日記をつけ、手に入る資料を丹念に収集して背のうにしまっていた『三・一月刊』主筆の李東伯は、楊木頂子密営で討伐隊の奇襲にあって戦死した。敵は脱出できなかった老弱者とともに「パイプじいさん」を射殺し、密営に火を放った。「パイプじいさん」が大切に保管していた多くの文書と写真、日記帳が彼の身体とともに焼けて跡形もなくなった。彼が独立した祖国にささげうるもっとも貴重な贈物だと考えていたその史料が、一朝にして灰になったことを思うと、いまでも痛憤にたえない。その大きな荷物のなかで、彼の書いた日記帳だけでも残っていたなら、いまの若い世代がどんなに喜ぶことだろうか。
後日、楊木頂子密営に行ったとき、わたしは草ぶき家の焼け跡から彼の遺骸を探し出し、自分の手で埋葬した。生前、李東伯があれほど愛用していたパイプは見つけることができなかった。すべてが焼けて灰になり、彼の遺物としてとっておけるものはなにもなかった。炎の中でも燃えずに残ったのは、傑出した老インテリ革命家にたいする抗日革命闘士たちの感慨深い追憶だけである。ところが数年前、白頭山密営が発掘されるに及んで、彼の筆跡になるスローガン入りの樹木が発見された。わたしは生きている『三・一月刊』の主筆にめぐりあったような思いで、それらの樹木の前から長く立ち去ることができなかった。
李東伯は抗日革命の時期にわたしが出会った知識人のうち、もっとも良心的で革命的で、博識なインテリの一人であった。
個々の国のさまざまな時代に生きたインテリの先進的代表者たちは、社会の革命と改造において少なからぬ役割を果たした。近代以降、わが国でも革命運動の発展でインテリが果たした役割はきわめて大きい。彼らにはさまざまな制約があったにもかかわらず、それぞれの経路と方法でわが国の民族解放運動と共産主義運動に献身した。李東伯もそのような一人であった。彼は一九二〇年代にわが国のインテリが歩んだもっとも一般的で普遍的な道をたどり、抗日武装闘争の隊伍にまで加わった革命的インテリの代表者であった。李東伯は優柔不断で動揺するインテリから、もっとも積極的な武力抗争に奉仕する正真正銘の革命的インテリに成長した人物であった。
白頭山にいたころの隊内出版活動家のうち、李東伯につぐ文筆家は、国内の赤色農組で活動し、朴達と李悌淳のつてを頼って入隊した金永国である。彼は軍人としてはAクラスには入れなかったが、筆力においては比肩する者がない有能な人物であった。彼が鉄筆で書いた文字を見た人たちは、機械で印刷したようだと舌を巻いたものである。一晩のうちに十枚以上のガリを切りながらも、字体が活字のように揃っていて、「パイプじいさん」からいつもほめられていた。欠点といえば気ままに行動する傾向があり、よく物忘れをすることだった。健忘症がひどすぎて、あるとき休止した場所に銃を置き忘れ、八キロも行軍したあとで、「しまった。おれの銃!」と言って、あたふたと引き返したことがあったくらいである。それできびしく批判され処罰も受けた。
「銃はきみの命のようなものだ。自分の命を置き忘れるそんなぼうっとした精神で、どうやって文章を書くのだ」
懲罰処分が解除されたあとで、わたしがこう聞くと、彼は頭をかきながらも臆面もなく「世界的な文豪はほとんどみな、ひどい健忘症でした」と答えた。わたしも「パイプじいさん」もつい大笑したものである。
情熱的な文学の徒だった金永国は暇さえあれば詩や小説を書いていた。われわれが一九三七年に隊内機関紙として発刊した『曙光』の紙面には、彼の作品がよく掲載された。いまでもおぼろげながら思い出すのは、『曙光』の創刊号に「よそのご主人は革命軍に入り、うちの夫は自衛団に入った」というくだりのある四、五聯の歌詞が載ったことである。彼はその歌詞に『アリラン』の節に合わせてうたうようにという但し書まで添えた。『曙光』の二、三、四号には彼の短編小説が連載された。彼は『曙光』の主筆である。若くて才能にめぐまれたこの文筆家は、一九三八年の秋、金周賢と一緒に虚弱者と負傷兵のために蜂蜜を採取しているとき、討伐隊の狙撃を受けて残念なことにあまりにも早くわれわれと永別した。
政治週刊紙『曙光』には、遊撃隊員のための政治・軍事学習資料が多く掲載された。わたしが執筆した『朝鮮共産主義者の任務』も『曙光』に発表された。『曙光』の熱心な筆者のなかで頭角を現したいま一人の人物は林春秋であった。彼は金永国を助けて『曙光』の編集と発刊に積極的に参加した。
『鐘の音』は馬塘溝密営で軍・政学習をはじめるさいに発刊された隊内週刊紙で、主に軍・政学習に参考となる政治・軍事学習資料や教育資料が掲載された。『鐘の音』の主筆は崔景和であった。彼は高等教育を受けていなかったが、困難な新聞の発刊をりっぱに主管した。彼にそれができた秘訣は平素学習に励み、多方面の知識を身につけたからであろう。彼は故郷にいたころ、自習をして大学入門書を読破した。
彼の話は一日中聞いてもあきがこなかった。読者のあくびをさそうような三文小説も、いったん彼が語り手になると、一流の名作に変貌した。能弁は彼の最大の武器であり財産であった。それでわたしは、彼にしばしばアジ演説をやらせた。大衆は彼の演説にすっかり聞き惚れたものである。
崔景和は故郷にいたころ青年学生運動に深くかかわり、敵の追跡を避けて長白に亡命してきた。長白では書堂の先生という表看板で大衆の啓蒙に没頭した。もちろん祖国光復会の組織にもいちはやく加入した。彼は権永璧の工作ルートと連絡がついて以来、十七道溝党支部組織部の責任者になり、城津(金策市)方面政治工作員になったが、ふとした失策で地下活動がつづけられなくなり、遊撃隊に入隊した。彼が入隊すると、女性隊員たちは美男子が来たとささやき合った。しかしわたしは、彼の容貌よりもその才能と人柄に引かれた。彼は筆が立ち、絵もたいへん上手なまれに見る才子であった。『鐘の音』のイラストは大部分彼の手によるものだった。政治学習時間には講師を務め、戦場では真っ先に突撃する前衛闘士であった。一九三八年初の静安屯戦闘のときも彼はすすんで突撃班に参加し、部隊の進撃路を切り開いたが、致命傷を負って最期を遂げた。
崔景和のようなりっぱな戦友を失って哀惜の念にたえず、わたしは彼が戦死した日、夜通し涙ながらに追悼文を書いた。われわれは酷寒のなかで彼の追悼式をおごそかにとりおこなった。
隊内の反日青年同盟機関紙『鉄血』は、一九三九年末の大部隊旋回作戦をひかえて発刊した速報形式の週刊紙であった。李東伯、金永国、崔景和のようなそうそうたる筆陣がみな死去したあとだったので、出版物の編集や発行は初心者にまかせなければならなかった。わたしは要領を教えながら仕事をさせるつもりで、司令部の党支部と青年同盟の両方の活動を担当していた姜渭竜に『鉄血』の発刊を委任した。最初彼は、それだけはとてもできない、どうかほかの者にまかせてほしい、と手を横に振った。わたしが無理強いをしてはじめて、彼は仕方なく分担された任務を引き受けた。そしてみんなに手伝ってもらいながら、あまり遜色のない新聞を出した。『鉄血』も『三・一月刊』や『曙光』と同様、肯定的な資料の編集に重点をおいた。『鉄血』の第一号に掲載された李乙雪の紹介記事と、槍で敵の新式チェコ製機関銃を奪ったある新入隊員の戦闘談は、そうした肯定的資料の手本だったといえる。
白石灘密営での軍・政学習が終わるころ、青年隊員の勇敢さと士気を鼓吹するために、戦闘で武勲を立てた者に栄誉の赤帯を授与する制度を新たに制定した。赤帯を授かった隊員には、祝日や部隊でとくに定めためでたい日に、それを軍服につけさせた。
軍・政学習の総括を契機に発行した『鉄血』特刊号には、学習総括にかんする記事とともに、新たな表彰制度が設けられた便りなども載せて読者の関心と興味をそそるようにした。こうして、われわれの革命的出版物は読者大衆のりっぱな宣伝者、教育者となったばかりでなく、英雄的偉勲の鼓舞者、闘争の積極的な援助者、生活の親しい道づれになった。
『三・一月刊』をはじめ抗日革命期のわれわれの出版物のもっとも重要な特徴は、それが数人の人材の主観によってではなく、広範な読者大衆の積極的な参与によって執筆、編集、発行されたことである。他のすべての活動においてと同様、われわれは出版物をつくるうえでも大衆を動員し、大衆に依拠することを鉄則とした。
部隊が南牌子に留まっていた時だったと思う。ある日、密営を散策していたわたしは、ある女性隊員が森の中でひとり座って雑記帳になにか熱心に書いているのを目にした。書き物に熱中していた彼女は人の近づくのにも気づかず、鉛筆の芯をなめながら一字一字こまめに字を書いていた。なにを書いているのかと尋ねると、農村に行って話して聞かせる宣伝文だという。わたしはそれを読んで驚いた。小学校中退者の文章にしてはずいぶんのびのびとし、よくととのっていたからである。「在満朝鮮青年に告ぐ」という題のその文章は中味があり、主張がはっきりしていた。それでその文章に少し筆を加えて『三・一月刊』に載せた。読者たちはそれに大きな感動を受けたようである。
このように、小学校にすら満足に通えなかった平凡な炊事隊員も、われわれの出版物の筆者になった。大衆の積極的な参加と支持があったからこそ、われわれはなんの補給も受けられない困難な状況のもとでも、『三・一月刊』『曙光』『鐘の音』『鉄血』のような出版物を発刊し、革命的出版物の伝統の根源をしっかり築くことができたのである。
現在わが国には特出した功労のある出版報道部門の活動家に、
第十五章 地下戦線の拡大
(一九三六年十二月~一九三七年三月)
1 不屈の闘士 朴達
朴達はかつて軍服を着たことがなかったし、わたしと同じ部隊で戦ったこともなかった。わたしが白頭山地区で朴達に会ったのは数回にすぎない。彼は何度もわたしを訪ねてきたのだが、二度ほどはわたしが不在で会えなかった。一面識もない人物と一、二度会って、その人となりをすっかり知るというのはむずかしいことである。しかし、一夜にして万里の長城を築くという言葉もあるように、わたしと朴達は最初の対面でかなり深く理解しあえたといえる。
李悌淳と同様、朴達も世の荒波に汚されていない純朴な人間だった。派閥に属したこともなく、主義者風を吹かせて尊大ぶることもなかった。朴達はわたしが吉林時代にしばしば会った金燦や安光泉のような時流に乗じた運動家ではなかった。彼は純朴な田夫然としたところがあったが、言葉づかいや物腰は洗練され、学識も豊かだった。最初の対面からも重みのある人物であることが容易にうかがえた。従来のさまざまな運動について自分なりの批判もし、民族の活路について憂えもした。彼は、従来の運動方式を打破するに足る指導者を探しあぐねて、興南や端川にも行き、間島にも渡ったという。朴達が指導者を求めて悶々とした日々を送っていたとき、われわれのほうでも国内の有能な革命家を見つけるために百方手をつくしていた。
朝鮮革命の主体的路線を貫くにあたって重視した戦略的課題は、一方では国内に武装闘争と政治闘争全般を指導しうる有力な策源地、秘密拠点を築くことであり、他方では強力な政治勢力と軍事勢力をととのえ、自力で解放を達成するための全人民的抗争の準備を促すことであった。国内に強力な政治勢力を築く活動は、祖国光復会網を拡大し、各階層の広範な愛国勢力を反日民族統一戦線の旗のもとに結集すると同時に、国内に強力な党組織網をめぐらし、武装闘争を中心とする全般的抗日革命を一大高揚へと導く中核陣容をととのえることを意味した。これは事実上、われわれが白頭山に陣取って展開することになるすべての政治的・軍事的活動の成否を左右する鍵ともいえた。
われわれは国内革命運動の拡大発展をはかるたたかいをゼロの状態ではじめたわけではなかった。国内にはわれわれが足場にして革命を深めていくに足る一定の組織的基盤があり、日本帝国主義の軍刀と棍棒の下をくぐりぬけてきた、鍛えられた政治勢力も存在していた。労働組合や農民組合をはじめ全国各地に雨後の筍のように現れた階層別の大衆組織、それらを抗日へと導く点検ずみの闘士たち、重なる失敗や紆余曲折をへて鍛えられ、洗練され、強くなった人民、挫折と被害を体験するたびに胸をかきむしり、血涙をもって記録した闘争の教訓… これらは国内の革命運動を新たな戦略と戦術にもとづいていちだんと深化発展させる強固な基礎であった。国内の革命運動の業績と経験を尊重し、その成果をふまえて既成の運動を収拾し、新たな時代の要請に即応して発展させることは、国内の革命運動との関係でわれわれがとった姿勢であり、方針であった。
われわれは一九二〇年代末、一九三〇年代初から、「トゥ・ドゥ」および朝鮮革命軍で育成した優秀な工作員を北部国境地帯と国内深くにまで送り込み、政治的・軍事的基盤を築くための一連の準備を先行させていた。国内の革命運動をいちだんと高い段階に発展させるには、朝鮮民族解放闘争と共産主義運動の中心的指導勢力として登場した人民革命軍の朝鮮国内への本格的な政治的・軍事的進出と、国内の運動への積極的な支援が必要であった。事実、失敗と挫折を繰り返してきた国内の革命運動は新たな指導と路線を待望していた。運動の上層部は派閥争いで混乱していたが、下部の先覚者や人民は革新的な路線と指導を受け入れ、決戦にのぞむ態勢をととのえていた。党の再建に熱をあげていた闘士たちも、地下や獄中で失敗の経験をかえりみながら活路を求めて暗中模索していた。
われわれには、こうした要請に敏感にこたえうる実際的な対策が必要であった。なかでも第一義的なことは、ほかならぬ抗日武装闘争と国内革命運動の一元化を実現することであった。抗日武装闘争と国内革命運動の一元化を実現するということは、言葉をかえて言えば、国内の革命運動にたいするわれわれの指導を実現するということである。この課題を果たすためにはなによりも、国内で李悌淳のような堅実な革命家たちを探し出し、彼らとの共同の努力によって祖国光復会の網の目を急速に拡大し、全民族を反日聖戦へと呼び起こす対策を立てなければならなかった。その適任者として選ばれたのが朴達であった。朴達をわたしに紹介したのは李悌淳である。
「朴達は自分が正しいと信じることのためなら、刃の上にでも立つ気骨のある男です。理論も大したものです。あるときは、ひとかどの思想家気取りで偉ぶっていた端川出身の長髪族と論争をたたかわし、ぐうの音も出なくしたことがあるほどです。咸鏡南北道を開拓するには朴達に会うべきです!」
わたしは李悌淳の話を聞いて、心中大いに喜んだ。しかし、会う前にそのすべてを信じることはひかえた。実際、わたしはうわさの高い名士に会って、期待を裏切られて失望したことがよくあったのである。かつてわたしは、主義主張にかかわりなく多くの名士に会ったが、それなりの卓見といえるものがなく、思考や実践に目新しいものがない人が少なくなかった。
朴達は、わたしが吉林時代に会った安昌浩、金佐鎮、李青天、呉東振、孫貞道、沈竜俊、玄黙観、玄河竹、高遠岩、金燦、安光泉、申日鎔、徐重錫のような一流の名士ではなかった。朴達の場合は、せいぜい田舎の巡査や特高が注目する程度の人物にすぎなかった。ところが、その素朴な田夫然とした人間が結局、朝鮮革命に大きな痕跡を残した巨人として頭角を現し、わたしの忘れえぬ莫逆の友、同志となったのである。李悌淳の話によれば、朴達の本名は朴文湘であるが、パクタル(オノオレカンバ)のように強健な男であるということで、隣人たちが「朴(パク)達(タル)」と呼び、それがいつしか別名となり、とうとう実名になってしまったという。
朴達は咸鏡北道吉州郡徳山面の生まれで、父親が明川でイワシ工場を経営したというから、暮らしはそう悪くはなかったようだが、学歴は普通学校(小学校)を卒業しただけだった。十一歳で嫁をもらい、十六歳で父親が経営するイワシ工場に就職して月給とりの会計係になった。おそらく父親は、息子を早く独り立ちさせようとしたのであろう。朴達は早婚を恥じて、友人たちに結婚したことを打ち明けようとしなかったという。昼食どきに家へ帰っても、妻がひとりでいると、食事を出せと言えず、部屋の中を行ったり来たりしたそうである。父親は太っ腹で思いやりもあったが、酒色を好み、妾をかこっていた。そんなことから朴達の生母は夫からうとんじられ、息子は母親に深く同情していたようである。
「わたしがいちばん憎んだのは、妾をかこう人間たちでした」
いつだったか、朴達はわたしにこんなことを言った。
「わたしはずっと、妾をかこった父親のもとで母がなめた苦しみを目撃しながら、蓄妾制度の苦い味を骨身にしみて体験した人間です」
彼は解放後、われわれが法によって蓄妾制度を廃したのをたいへんりっぱなことだと喜んだ。蓄妾制度のために母親がこうむった不幸は、朴達を生涯苦しめる原因となった。彼は、夫のあたたかい愛情をほとんど受けることができず孤独に生きた母親の人生から教訓を汲み、酒色を遠ざけ、五つも年上の妻に終生いちずな愛情をそそいだ。朴達がいま一つ軽蔑したのは吝(りん)嗇(しょく)漢(かん)であった。彼は職級や職業、性別にかかわりなく、けちな人間はみな憎んだ。
「わたしは、けちけちした人間を見ると一日中、飯が喉を通りません」
わたしが朱乙(現在の鏡城)で朴達に会った一九五七年には、そんな閑談ができるほど彼の健康は好転していた。それを聞いてわたしは、彼がなによりも嫌うのは個人主義、利己主義であることを知った。
朴達自身は人徳が高かった。俗にいう人情味のあふれる人間だった。ジャガイモの取り入れどきになると、彼は家の前を通りかかる人たちを呼び入れた。今年のジャガイモの味は格別だ、ちょっと味わってみないか、と食い気をそそっては手を引くのである。ジャガイモを植えなかった家には、ジャガイモの餅をついて贈ったりした。朴達のような人情の持ち主が金持であったら、大変な慈善家になっていたであろう。彼は貧しくても、隣人のためならなにも惜しまない人間だった。
朴達は小学校卒業後、独学で漢学を学び、中学の講義録も読んだ。朴達がいかに勤勉な篤学の士であったかは、彼が西大門刑務所に服役中、身体の障害にめげず『東医宝鑑(〔 〕)』を全巻読破した一事をもってしても、よくわかるであろう。「恵山事件(〔 〕)」のとき、朴達の家を家宅捜索した警官たちは目を丸くした。『祖国光復会十大綱領』『祖国光復会創立宣言』をはじめ『社会主義大義』『社会進化論』『植民地問題の基本知識』『無産階級の婦人運動』『失業反対闘争宣言』『社会主義事典』『第七回コミンテルン大会における王明の演説』『中国共産党創立十五周年記念』『朝鮮問題に関するテーゼ』『党員の基本常識』など社会主義関係の書籍が大量に現れたのである。まっとうな家具一つない家ではあったが、書物にかけては長者だった。
朴達はわたしにはじめて会ったとき、自分はこれといって学んだこともなく、知識も浅いから文盲とみなして一から十まで教えてほしいと言ったが、それはへりくだって言ったことで、実際はマルクス主義革命理論一般について相当の知識を有していた。しかし、彼は自分の知識をひけらかそうとはしなかったし、それで他人を威圧しようともしなかった。まして、なにかの「ヘゲモニー」を握ろうなどという野心はつゆほどもなかった。彼は物欲も地位欲もないつつましい人間だった。ほかならぬここに、真の人間、真の愛国者、真の革命家としての朴達の真骨頂があるのではなかろうか。朴達はつねに、自らを学ぶ人間の立場に置き、誰かが自分の手を取って正しい道へ導いてくれることを切望した。甲山工作委員会を組織するときも、その包括範囲を「甲山」という地方的なものに限定し、工作委員会という名称を用いることでその暫定的な性格も明確にした。彼らは最初から、やがて朝鮮共産党が創立されればそれに服従することを前提とし、そのときに組織の名を適切なものに変えることにしていた。朴達が甲山工作委員会を組織したのは、反日闘争を導くに足る指導者に出会えなかった実情から、自力で地方的な枠内でだけでもまず組織をつくり、運動をはじめてみようという立場からだった。
朴達が甲山工作委員会を組織する過程は平坦なものではなかった。当時、甲山地方の一部の社会運動家は、軍警の暴圧におじけづいて投降主義的立場に陥っていたが、彼らはその理由を党中央機関の不在に求めて、自分たちの立場を正当化しようとした。
「甲山郡内で自然発生的に起こる反帝闘争をあおるようなことはひかえるべきだ。将来、朝鮮共産党が組織されて新しい路線が示され、その路線によって甲山における運動が指導されるまで、われわれは待つべきである。こうするのがマルクス・レーニン主義に忠実であり、中央集権制の原則を尊重することである」
朴達はそのような立場を革命からの逃避であると批判し、甲山郡で起こる自然発生的な運動はわれわれが組織化すべきであり、それを全朝鮮的な運動へ発展させるために努力しなければならない、そうしてこそ、将来共産党が組織されても、党中央がこの地方の運動をより容易に指導できるようになるであろう、と指摘した。甲山工作委員会はこのように、好機の到来を座して待つとか、警察の目を避けて他地方に逃れ、一身の安穏を求めようとする者たちとの妥協のないたたかいを通して組織されたのである。朴達は、敵の弾圧から甲山工作委員会を守るため、下部組織の名を政友会、前進会、反日会などとさまざまなものにした。大衆を啓蒙するために、振興会や自衛団のような御用団体もためらわず利用した。それらの団体の名で夜学会や運動会、早起き会などがおこなわれると、内実を知らぬ警官たちは、甲山の田舎者たちもそろそろ忠実な皇国臣民になりつつあるようだ、と悦に入った。
朴達は月一回の工作委員会下部組織責任者の会合を開くときには、サッカーの試合を催した。人びとが集まり、試合がはじまると、その陰でひそかに会合を開き、任務の分担をおこなうなど、必要なことはなんでもした。祭祀、結婚式、誕生祝い、還暦祝いなども組織のメンバーや責任者の秘密の会合に利用した。合法的な可能性を利用するので、組織の偽装もうまくいき、組織活動も活発に進めることができた。工作委員会のメンバーはこのような合法的活動の可能性を最大限に利用するため、日本の警察やその手先との関係もきわめて巧みに保った。工作委員会の指令で、ほとんどの組織メンバーが日本帝国主義の御用団体や末端行政機関に入り込み、「積極分子」として活動した。これは日本の軍警や手先への敵対感情をむきだしにして、あたまから対決姿勢をとっていた新幹会(〔 〕)、労総、青盟、赤色労組、赤色農組などの闘争方法に比べれば、じつに大胆な革新的措置であった。
国内の闘士たちのなかで、朴達がはじめて応用したこの外柔内剛の偽装戦術は大きな効果を現した。警察機関や自衛団その他の官公署、農村振興会、消防組、学校組合、山林保護組合などの団体で、村長や区長、なになに長といった肩書きをもって言いつけに柔順なふりをしていれば、敵の気を緩めさせ、その内部を十分に把握することができ、彼らのまわりに結集している勢力を瓦解させて味方にし、また人民を保護するうえでも効果的だった。朴達は甲山工作委員会の責任者であるばかりか、その委員会の政治部と争議部も担当しているしたたかな革命家であったが、敵の管轄する公共団体にも入っていた。彼は普天面新興里一区の農村振興会副会長、一区一新書堂契の契長、自衛団副団長、雲興面大五是川里消防組の消防手などの要職を公然と占めていたのである。
「恵山事件」の第一次投獄者のうち、六十三名が自衛団員であったという一事をもってしても、彼らがいかに巧みに日本帝国主義の御用機関や団体を利用していたかがわかるであろう。その六十三名のなかには、振興会庶務部長、自衛団五家組長、山林保護組合評議員、産農指導区指導委員、火田測量総代、中堅青年講習会受講生、書堂学務委員、簡易学校評議員など、さまざまな肩書きをもつ人たちがいた。
甲山工作委員会はこのように合法と非合法の方法を巧みに組み合わせて、農村地域の特性に合ったスローガン、たとえば小作料の引き下げ、火田の自由開墾、夫役反対、高利貸し反対、亜麻の強制栽培反対、小麦の強制栽培反対などのスローガンをかかげて強力に闘争を展開した。一見して経済闘争にかたよっているような印象を受けかねないが、そこには亜麻や小麦の強制栽培に反対する深刻な政治闘争のスローガンも含まれていたのである。甲山地区の農民が亜麻の強制栽培措置に反対したのは、その作物が軍需品の原料に利用される事情とかかわっていた。彼らは亜麻の種を釜で蒸して植えたり、まばらに植えて枝分かれが多くなるようにして、使いものにならなくする方法で強制栽培措置を破綻させた。
いずれにせよ、李悌淳の話を聞いただけでも、朴達が一日も早く手を結ぶべき人物であることは確かであった。われわれは朴達に会う方法を相談し、李悌淳を国内連絡責任者に任命した。李悌淳はさっそく連絡任務を果たした。朴達が人民革命軍代表の派遣を要請しているという李悌淳の報告が、連絡員を通じてわたしに伝えられた。彼はわたしとの会見を熱望しながらも、なぜかじかには密営に訪ねてこようとしなかった。わたしはこのことからも、彼がきわめて思慮深い革命家であると確信した。軽率な行動をつつしむ朴達の慎重さと用意周到さは、彼にたいするわたしの信頼と好奇心をつのらせた。われわれには鍋のようにたやすく沸いてもすぐに冷めてしまったり、風の吹くままに揺れる軽はずみな思想家ではなく、真面目で沈着で用意周到な革命家が必要だった。わたしは朴達の要請どおり、党活動経験の豊かな権永璧を甲山地方に派遣した。そのときわたしが権永璧に託した朴達への手紙はつぎの通りである。
祖国を愛し、日本帝国主義に反対してたたかっている国内の愛国者のみなさんへ
国内で凶悪な敵日本帝国主義とたたかっているみなさん!
われわれは祖国の解放をめざして武器をとり、満州の広野で日満軍警と戦っています。
われわれはみなさんとかたく手を握り、総力をあげて日本帝国主義に抗し、祖国の解放をめざしてたたかうことを望んでやみません。
われわれの代表を派遣しますので、虚心坦懐に意見を交わされるよう望みます。
敬礼
金 日 成
権永璧が甲山に向かうとき、李悌淳も同行した。二人が朴達に会ったのは一九三六年十二月であったと思う。朴達はそのときはじめて、権永璧を通じて祖国光復会が創立されたことを知った。権永璧は、朝鮮人民革命軍が展開してきた主な活動内容についても彼に紹介した。権永璧の出現は、われわれとの連係を熱望する朴達に衝撃を与えたらしい。権永璧が帰ってきて言うことには、朴達は感情をめったに顔に現すことがなく、「金仏」というあだなまでつけられているとのことだったが、わたしの手紙を見てはうれしさのあまり、目をうるませたという。
「彼はすぐにでも将軍に会わせてほしいと言いました。司令官同志さえ承諾してくだされば、いつでも訪ねると言うのです」
彼の報告を聞くと、わたしも朴達に会いたい気持がいっそうつのった。わたしは、われわれの密営で朴達に会うことにし、会見に必要な対策を講じるよう権永璧に指示した。朴達のほうでもわれわれを訪ねてくる準備をした。準備といっても、それは鴨緑江を無事に渡ることだった。当時の殺伐とした情勢のもとでは、非合法の渡河はほとんど不可能であった。彼はいろいろと渡河方法を考えた末、恵山警察署管下の大(クン)水(ウン)溜(デンイ)村にある駐在所に金巡査を訪ねていった。
「金巡査さん、長白の消息を聞きましたかい?」
朴達は駐在所に入ると、大変なことでも起こったかのように仰々しく言った。金巡査ばかりか他の巡査たちも何事かと彼に視線を集めた。
「なんのことだ?」
「長白地方に匪賊がはびこり、住民が他の地方に移住しようと穀物をどんどん手放すので、値段ががた落ちだそうです。それで、大豆を牛車二台分ほど仕入れて金儲けをしたいんですが、安い大豆を手に入れたかったら、ひとつ渡江証を出してくれませんかね」
巡査たちはすっかり乗り気になり、渡江証を出してやるから自分たちにもみそ用の大豆を運んできてくれ、と頼んだ。渡江証は思いのほかたやすく手に入った。こうして朴達は鴨緑江を無事に渡り、李悌淳の家へやってきた。彼が朴達を案内して司令部に到着したのは、夜が明けはじめるころだった。李悌淳が言っていたように、朴達は広い肩幅に比べて顔が小さく、どこか身体のつくりに釣り合いがとれないような感じの人だった。外貌からすれば風雲児らしいところはほとんど見られず、きこりのような印象だという李悌淳の言葉が当たっているようだった。しかし、わたしを見つめるするどい眼光には非凡なものが感じられた。
「とても会いたかったです」
これが朴達の最初の挨拶だった。飾り気のない簡単な挨拶だったが、真情がにじんでいた。その短い無骨な言葉に、なぜかわたしは胸が熱くなった。
朴達は吉州で留置場に入れられたときから、わたしとの対面を心に描きはじめたという。敵の監視を避ける一方、組織の拡大をはかって吉州に移った彼は、製紙工場の工事場で土木労働に従事中、警察に連行され、留置場に入れられた。ある日、朴達は紙くずの束のなかから、朝鮮人民革命軍が長白地区に進出し敵を痛撃しているという記事が載っている新聞を発見した。それ以来、彼はずっとわれわれに思いを馳せていたというのである。放免された朴達は甲山に帰ると、われわれと連係をつける手づるをつかもうと、行商人になりすまして鴨緑江沿いの農村をくまなく巡り歩いたという。
「実際、今日こうして将軍にお会いできたのは、まったくの幸運です」
朴達はうれしさのあまり、またもわたしの手を取って強くゆさぶった。
「朴達同志に会えて、わたしも同じ気持です。あなたは朝鮮人民革命軍が白頭山に進出してからわたしたちを訪ねた最初の国内代表です」
「わたしが代表だなんて、とんでもありません。この甲山の田舎者が…。吉州や城津、咸興のような都会で、なにかの運動をするという人たちは、わたしのような者は見向きもしません」
彼は物腰まで「甲山の田舎者」らしく振舞おうと努めているように見えた。しかし、わたしは朴達のそのへりくだった話しぶりや身のこなしから、むしろ彼が並々ならぬ人物であることを感じた。
「都会にだけ大人物が出るという法はないではありませんか。李悌淳同志を通じて甲山工作委員会がその間、多くの反日愛国活動をおこなったことを聞きました。国内にそんな骨のある人たちがいるので、われわれには大きな励ましとなります」
身体を温めるようにと白湯をすすめたが、朴達は一口すすっただけで、国内の状況を報告したい、とせきこんだ。全身が熱情につつまれた感嘆すべき男だった。朴達との本格的な対話は翌朝からはじまった。われわれはそのとき、じつに多くのことを語り合った。対話は、朴達が当時の国内情勢と甲山地方の運動状況を紹介することからはじまった。彼は国内情勢をおよそつぎのように説明した。
国内情勢は衰退期に入っているといえる。党再建運動は気息えんえんとしているようだし、農組運動も下火になっている。運動家たちは弾圧にたえられず、あの山この山と隠れ歩いている。再起する力はあるのか? ない。たとえ勇気をふるって立ち上がったところで路線がない。盲滅法にたたかえるわけがないではないか。彼らは生命の危険を避けることにのみ汲々としている。勇気を失わず闘争をつづけている人たちもいるにはいるが、相変わらず分派的習性を捨てきれないでいる。上海派、オロシャ派といった派閥がいまなお残っているばかりか、咸南派、咸北派というのもあり、はては同じ咸南派のなかにも咸興派、洪原派、端川派などが派生していがみ合い、甲論乙駁を繰り返しては精力を使い果たし、大衆を混乱に陥れている。
「国内革命運動の最大の隘路は正しい指導に欠けていることです。つまり万人を納得させるだけの路線がなく、そのような路線を提起しうる人物がいないことです。それで以前、端川で農民暴動が起きたときも、コミンテルンに使者を送って助言と指導を要請したのですが、そこでもこれといった収穫がなかった模様です。だから、われわれは誰を頼りにできるというのですか」
朴達の説明は一言でいって、国内の革命運動で切実に解決がまたれる最大の問題は路線問題、指導の問題であると理解できた。
われわれの対話で論議されたいま一つの重要な問題は、朝鮮人民革命軍の使命と性格にかんすることであった。朴達は、少々ぶしつけな質問をするが悪く思わないでほしい、と深刻な表情で言った。
「いま、国内の革命家のあいだでは、
李悌淳の言葉どおり、確かに朴達はたいへん率直な人だった。わたしは朴達のために、かなり長い説明をせざるをえなかった。
出版報道機関が、わたしの率いる部隊を東北抗日連軍第二軍第六師と呼んでいるのだから、国内の革命家がそんな疑問をいだくのは当然である。しかし、わたしの率いる部隊を完全な中国の軍隊であると認めるなら、それは大きな間違いで、事実にも反する。東北抗日連軍というのは文字通り、中国東北地方で活動する各種抗日遊撃部隊の連合軍である。そこには共産党系の中国人遊撃部隊、救国軍系の中国人反日部隊、そして朝鮮共産主義者が組織し指揮する朝鮮人抗日遊撃隊などが参加している。それは反日抗戦で共同歩調をとるために結集した一種の国際的な連合軍である。日本という共通の敵、祖国の解放という同じ目的、東北という同一の闘争舞台、さらに歴史的に形成されてきた朝中両国人民の親善の情と共通の境遇、こうしたことが朝中両国の共産主義者と愛国者の武装部隊にそういう武力連合を実現させたのである。連軍体系はあくまでも自発性によるものだから、抗日連軍は各民族軍の自主性と独自性を尊重している。われわれ朝鮮人民革命軍は連軍の名で中国革命を支援しながらも、祖国の解放を根本使命とする民族軍隊としての性格を完全にそなえて朝鮮革命に主力をおき、独自の活動をおこなっている。朝鮮人民革命軍が創建初期から祖国の解放と自民族の自由のために戦う朝鮮の民族軍隊であることは、満州に住む同胞ならみな知っている。われわれは中国人の多い地方では抗日連軍と称し、朝鮮人の多い地方では朝鮮人民革命軍と名のっている。ひところ、ある人たちは一国一党制の原則をたてに、朝鮮人が朝鮮革命をすることに文句をつけ、わが民族軍の独自性と自主的権利を侵し、踏みにじろうとさえした。その後、コミンテルンは朝鮮人が朝鮮革命をおこなうのは一国一党制の原則に背くものではないとし、われわれに抗日連軍から分立して独自に活動するよう勧告した。けれども、われわれはそのままでいることにした。分家すれば、われわれへの中国人民の支持が弱まる恐れがあり、われわれの活動も不便になりかねない。連軍を民族別に分離するのは中国人も望んでいない。われわれが維持している連軍体系は、共通の敵と戦う朝中両国戦友の血縁的つながりの所産であり、国際的な反帝共同行動の模範であると胸を張って言えるのである。われわれの自主的権利が侵されず、また中国人が嫌わない以上、われわれは今後もこの体系を維持するつもりである。できることなら、モンゴル民族軍やソ連軍とも抗日連軍を編制して戦いたい。
朴達はわたしの説明を聞くと、部屋中が明るくなるほど顔をほころばせた。
「なるほど。そうとも知らず、われわれはいたずらに失望していました。金将軍のパルチザンが中国軍所属の軍隊なら期待をかける余地はないではありませんか。しかし、いまは勇気百倍です!」
「それならわたしもうれしい。さらに言えば、朝鮮人民革命軍については確信をいだいても結構です。日本軍は強い軍隊には違いないが、決して無敵ではありません。われわれは白頭山を拠点にして朝鮮国内に解放戦を拡大するつもりです。祖国の解放は時間の問題です。われわれは自力で祖国を解放する力を蓄えつつあります。そのなかに、ほかならぬあなたが指導する甲山工作委員会も含まれていることを銘記してください」
わたしと朴達との対話でつぎに重要な話題となったのは、われわれの統一戦線政策と祖国光復会についての問題であった。朴達は、反日民族統一戦線の必要性とその拡大強化のための措置、『祖国光復会十大綱領』に盛られている総体的志向に全幅的な支持を表明した。彼は、祖国光復会がうちだした目的の高さと普遍性、包括している勢力の膨大さにおいて、かつての新幹会や槿友会のような左右合作の所産であった民族団体とは根本的に異なる、巨大型の団体だと評した。だからといって、彼がわれわれの措置や方針のすべてを支持したのではなかった。彼は祖国光復会の名称や一部の条項には異見を示した。
「わたしは、われわれ共産主義者が民族解放をめざしてたたかってはいても、最終目的はあくまでも共産社会の建設にあるとかたく信じています。ところが、祖国光復会の名称や十大綱領を見ると、そういう共産主義的綱領の要求からはほど遠く、民族主義の線にまで後退した感があります。いわば
朴達はおそらく、われわれが運動の
そこでわたしは、革命は何人かの共産主義者の力だけではやれない、各階層の広範な大衆が総動員されてはじめて、われわれの革命は勝利しうる、周知のように日本帝国主義植民地支配下では労働者や農民や共産主義者ばかりでなく、全民族が圧制のもとで呻吟している、このような状況のもとでは朝鮮の独立に利害関係がある勢力をすべて反日民族統一戦線に結集しなければならない、あなたは祖国光復会の名称問題に異議があるようだが、それはどの階層の人たちもみな受け入れることのできる適切な名称だ、いま一部の人は団体名を一つつけるにも革命とか、赤色とかいった表現が入らなければ気がすまないようだが、それは極左的偏向の一つの現れである、われわれは汎民族的な統一戦線組織体の名称に祖国という表現を使うことで、それがある限定された階級や階層のための組織ではなく、全民族のための組織であることを明確に示そうとしたのだ、と説明した。
朴達は、城津、鶴城、吉州、端川、北青など各地方の人たちとしばしば会って経験の交換もしているが、彼らは地下活動をおろかしく、ずさんにしているようだと言った。たとえば、城津などでは農組員たちが端午の節句に相撲場へ行っても、これみよがしに赤鉢巻をしてずらりと並んで座るというのである。そんなやり方で、彼らは非組織大衆との違いを示した。土俵で味方が不利になると、勝算があろうがなかろうが、つぎつぎに選手を繰り出す人海戦術で相手を圧倒しようとやっきになり、それでも実力ではかなわないとみると、競技にけちをつけて騒ぎを引き起こし赤色農組の威力を誇示した。役員席に座っている私服刑事はそんな機会を逃さず農組の中核を見分け、それを手がかりにして農組のアクチブを検挙したり地下組織を摘発したりした。
当時、一部の地方では郷校との関係でも極左的偏向を犯していた。郷校は儒教の祖である孔子の霊を祭る地方有志たちの封建臭の強い組織である。そこでは掌議、校監などの名誉職を授け、挨拶を交わすときは、誰それ掌議様、誰それ校監様などといって敬意を表わすのを礼法としていた。これはもちろん封建的儒教道徳を宣揚するもので、なにも奨励すべきことではなかったが、だからといって露骨に反対したり、一朝一夕にやめさせようとすべきではなかった。ところが、極左に毒された一部の青年は封建に反対すると称して、祖父の掌議の冠を燃やしたり破ったりする愚行を働き、年寄りにキセルで打たれるような醜態をさらすことさえあった。老人たちは、共産党のやからは三綱五倫も知らず、長上を敬うことも知らない無頼漢だといきりたった。
そうした間隙から利を得るのは日本帝国主義者だけだった。彼らは、郷校で孔子の霊を祭るとき、郡守(郡長)も参加して拝礼するようにさせた。共産主義者は年寄りにたてつくが、日本の官庁はそうではないと見せびらかすためだった。彼らはこのように、地方の郷校組織まで共産主義勢力を除去するために巧みに利用した。
「重ねて強調しますが、『赤色』とか『革命』とかいう大げさな名称をつけたからといって団体の活動がスムーズに運ぶのでもなければ、組織の革命性がおのずと保障されるものでもありません。祖国光復会の組織は当該地方の実情や大衆の覚醒程度に合わせて、さまざまな名称をつけて組織することができます。たとえば労働者は労働組合を、農民は農民組合を組織し、青年は反帝青年同盟や共産青年同盟のようなものを組織するといったふうに、実情に即して組織をつくるべきです。われわれが確認したところでは、国内の各地に振興会という御用団体がありますが、そこに少なからぬ大衆が加わっているようです。各階層の大衆を獲得するためには、そんな団体にも入っていくべきです。入っていってそこに属する人たちを革命化すれば、祖国光復会の創立宣言の趣旨にそって団体の性格も徐々に変えていくことができるでしょう。大切なのは外観ではなく内容です。朝鮮革命に有利なことであれば、どんな名称の組織であろうと、それにこだわることはありません」
朴達はわたしの説明を聞いて自らをかえりみた。
「お話をうかがってみると、確かにわたしたちの運動方式に問題があるようです」
わたしは朴達の話から、国内の闘士たちの考え方に盲点と制約があることを知った。思考と実践における彼らの最大の過ちは一言でいって、民族主義運動と共産主義運動にたいする教条主義的理解であった。彼らが民族主義運動一般を排斥し、敬遠するのは、当時、マルクス・レーニン主義をよく消化できず、うのみにしていたえせ共産主義者や読経式マルクス主義信奉者一般が犯していた極左的偏向であった。わたしは、朝鮮の共産主義者にとって民族の解放にまさる大義はないとあらためて強調し、民族を離れた共産主義運動などありえず、またそんな共産主義運動は不要である、と言った。
「われわれのいう民族の概念のなかには、労働者、農民だけでなく、祖国を愛し、民族を愛し、創造的労働を愛し、解放された祖国の未来を愛する各階層の大衆がすべて含まれています。これがほかならぬ民族総動員の基準であり、祖国光復会の入会基準です。われわれはこのような基準にもとづいて、朝鮮の自由と独立のために可能な人をすべて動員しなければなりません。外部勢力によってではなく、民族自体の力で国の独立を成就すべきであり、また成就できるという自主独立思想にもとづく民族の総動員だけが、朝鮮の運命を破滅の淵から救えるのです」
朴達は思考と実践において少なからず教条に陥っていたが、それを率直に認め、わたしの主張を素直に受け入れた。わたしは彼に、甲山工作委員会を祖国光復会の傘下組織にし、その名称を朝鮮民族解放同盟と改称するよう提案した。朴達はこれに快く同意した。われわれは長時間、祖国光復会網を国内に拡大するうえでの朝鮮民族解放同盟の任務と具体的な方策を協議した。戸外にたき火を起こし、火にあたりながら対話をつづけた。朴達が密営に留まっている間、わたしは彼と、国内に党組織を拡大する問題をはじめ朝鮮人民革命軍の援護問題、敵の支配機関への浸透問題、国内の革命家の身辺を守る問題、今後の連絡方法と連絡場所、暗号、連絡員の問題など多くのことを討議し、すべての問題で完全な理解と見解の一致を見た。
朴達と会ってわたしが受けたもっとも深い印象は、率直さとこだわりのない性格、革命にたいする真しな態度だった。彼はよいものはよい、いやなものはいやだとはっきり言うタイプの人間だった。
世間には往々にして、心の中ではいやだと思っても口先では同意し、よくないと思っても相手の顔色や時勢をうかがって、よいと言う人たちがいるものである。たとえ相手の気分を多少損ねるようなことがあっても、真実をそのままに語る覚悟と勇気をもって、黒は黒、白は白と言い切れる人が多くなければならないのだが、そうでない場合もある。上司の顔色をうかがって、白を黒、黒を白と言い、時勢に応じてこうも言ったりああも言ったりして、上部におもねるのは忠臣ではなく奸臣である。奸臣の舌先に真実は宿りえない。しかし朴達は、気に入らないことは気に入らないと率直に言った。正直なところ、わたしは彼のそういう性分にすっかり惚れ込んでしまった。魅力というのは決して複雑、絢爛、多弁、仰々しさなどにあるのではないと思う。もっとも単純で平凡、素朴、率直なところにこそ、人間の魅力の核心があるのである。
共和国政府の初代国家計画委員会委員長であった鄭準沢は小市民出身のインテリであり、分派分子から政治的迫害を少なからず受けた幹部であったが、わたしの前ではつねに正論を吐いた。彼は経済政策の実行にあたって、可能なことだけを可能だと言い、不可能なことを決して可能だとは言わなかった。たとえば、わたしにゆがめられた報告が入って、ある生産指標について不正確な見解をもちかねないと思うと、わたしの執務室へやってきて、四時間、五時間と待たされるようなことがあっても、必ず正確な実態を報告したものである。それでわたしは、彼のおかげで国家経済管理全般をつねに正確にとらえ、経済の指導を正しくおこなうことができた。
昔は、人材の登用にあたって、第一に家柄、第二に容姿、第三に言葉つきを見たという。だから、身分が低く、体格が貧弱で、口が無調法な人はいくら有能でも壮元(科挙甲科の首席)及第はむずかしかったという。わたしの外祖父は、「人材は家柄や財産、容姿、言葉つきをもって登用すべきでなく、能力と人となりを見て登用すべきだ」と言ったものである。朴達に会って、ふと外祖父のこの訓戒が思い出された。見るからに純朴なこの朴達こそ気骨があり、見栄を張らず、うわべを飾らない率直でこだわりのない誠実な人間である。最近のはやり言葉で言えば、彼は確かに「心に残る人」である。
「わたしは身が粉ごなに砕けても、最後まで将軍と志をともにし、祖国の解放をめざしてたたかうつもりですから、信じてください。それに、国内党工作委員会と朝鮮民族解放同盟のことは心配しないでください」
朴達はこう言い残して、わたしと別れた。もちろん、彼は李悌淳の村で満州産のみそ用の大豆を牛車一台分買って帰り、約束どおり巡査たちに分け与えた。
一九三七年一月、甲山工作委員会の指導的中核たちは朴達の司会で甲山工作委員会を朝鮮民族解放同盟に改編するための会議を開き、『祖国光復会十大綱領』を朝鮮民族解放同盟の綱領として採択した。会議では、反日民族統一戦線の実行対策も討議された。組織を甲山地方の枠から道の範囲、全国的な範囲へと拡大する問題、同盟組織内にいっさい分派的要素が入り込まないよう厳重に警戒する問題、秘密厳守の問題、同盟員の教育問題、機関誌の発行問題など、当面のいろいろな実践的問題が真剣に討議された。
甲山工作委員会の朝鮮民族解放同盟への改編は、祖国光復会の運動史上特別の意義をもついま一つの歴史的な出来事であった。朝鮮民族解放同盟は、祖国光復会組織を国内深くへ拡大する一つの発進基地となった。甲山工作委員会が朝鮮民族解放同盟に改編されたあと、甲山地方の共産主義者の考え方や活動スタイルには大きな変化が起きた。彼らは朝鮮民族解放同盟の機関誌『火田民』にわれわれの路線を紹介する記事などを載せて下部の組織に配布した。甲山をはじめ咸鏡南北道一帯には、われわれの路線と方針がいちはやく伝えられ、祖国光復会の下部組織が急速に成長した。反日闘争の炎はかつてない勢いで燃え上がった。
一九三七年五月、わたしは再び朴達に会った。崔賢部隊の茂山方面進出により、甲山一帯の情勢はきわめて険悪になった。国境一帯にはまた、蟻のはいでるすきもない厳重な警備陣が敷かれた。だが、朴達は今度も警官をうまく言いくるめて合法的に村を発ち、わたしを訪ねてきた。われわれは国内情勢と活動状況について長時間語り合った。国内の運動状況についての朴達の報告を聞いて、われわれはみな満足した。祖国光復会の組織網を拡大する活動は、朝鮮民族解放同盟の前衛闘士たちのねばり強い努力によって急速に進捗していた。祖国光復会の組織は甲山地方をはじめ、いまの両江道一帯はもとより、遠く城津、吉州、端川、洪原その他東海岸一帯の主要地域にも広く伸びていた。闘争方法もはるかにみがきがかかっていた。
わたしは朴達に戦利品の二挺の軽機関銃を見せた。朴達がそれらをさすりながら喜んでいた姿がいまもありありと思い浮かぶ。
国内の同志たちに会って感じた問題点は、彼らが運動の国内的側面にのみとらわれて問題を設定する狭い枠組みから抜け出せず、それを国際的に拡大して幅広く考察する能力が不足していることだった。そこでわたしは、朝鮮革命の国際的環境、つまりコミンテルンや中国共産党、日本共産党のような諸組織との関係問題からはじまって、国際的にもちあがっている出来事との関連のなかで朝鮮革命の問題を設定するよう、彼らの見識を高めるのにかなりの時間を割いた。これは国内における彼らの活動を積極化させるためにも不可欠のことだった。
当時の国際情勢はきわめて流動的であった。ヨーロッパ大陸がスペインの国内戦争で白熱化しているとき、アフリカ大陸はイタリアのエチオピア占領によって騒然としていた。イタリアのエチオピア占領は、ある意味ではスペイン内戦にまさる問題点だといえた。スペイン内戦が国際的性格を大きくおびているのは確かであるが、それは国内戦争の枠を出ない出来事であった。ところがイタリアのエチオピア占領は、一弱小国への強大国の侵略であった。ところで、ここで問題となるのは、強大国といわれるイギリスやフランスのような国がそのような武力侵攻を助長し、とりわけ国際連盟がなんら効果的な措置をとることなく、エチオピアを侵略の生けにえにささげたことである。
日本の満州侵略とドイツでのナチス政権の出現は、イタリアに強盗さながらの恥知らずな侵略行為を許した国際的背景であった。ヒトラーは政権を握るとただちに大ドイツ帝国の建設に取りかかった。アメリカ、イギリス、フランスなどの資本主義列強は、ヒトラー政権の出現に不安を感じながらもその反共政策に共感し、寛大な譲歩をおこなって、ドイツの武力を共産主義勢力への防壁に利用しようとした。これに力を得たファシスト・ドイツは、一九三五年一月、ザールを併合し、同年三月にはべルサイユ講和条約の軍事条項を破棄するにいたった。ベルサイユ講和条約はドイツに莫大な戦争賠償金を課する一方、ドイツが十万以上の軍隊を持つことを禁じ、戦車や飛行機はもちろん千トン級以上の艦船すら持てないよう規定していた。しかしヒトラー・ドイツはそのような条項を一方的に破棄し、徴兵制を布いて三十六個師団五十五万の常備軍を設けることを決めた「国防軍編制法」を発表した。ゲーリングはドイツ空軍の編制を公式に宣言した。ナチス・ドイツのこうしたすべての動きは、イタリアをむきだしの武力侵攻へとそそのかし、力づける大きな要因となった。
イタリアは侵攻の口実をかまえるため、エチオピアとのさまざまな軍事衝突を起こした。イタリアの大々的な軍事的侵攻が時を争って準備されていた緊迫した情勢のもとで、国際連盟加盟国であったエチオピアはその事実を国際連盟に提訴した。しかし、国際連盟はそれを重視しなかった。国際連盟の主導的地位を占めていたイギリスとフランスは、自国の権益を大きくそこなわない植民地問題でイタリアとことを構えようとはしなかった。エチオピアは再三仲裁を要請した。一説によれば、エチオピア皇帝はジュネーブの国際連盟総会でエチオピアを助けてくれるよう涙を流して訴えたという。エチオピアは国際連盟加盟国でないアメリカにまで覚書を送り、影響力の行使を請願したが、「中立法」などを制定して孤立主義政策をとっていたアメリカはとりあおうとしなかった。
一九三五年十月、イタリアは宣戦布告なしにエチオピアに侵入した。軍隊と人民の激しい抵抗もむなしく、エチオピアは敗亡した。国際連盟はイタリアにたいしなんら効果的な制裁も加えず、形式的に宣言した経済制裁の幕裏で、イギリスとフランスがイタリアに武器を提供しているのを見て見ぬふりをした。「ザリガニはカニの味方、草と緑は同じ色」という言葉のとおりだった。国際連盟の威信は失墜した。とはいえ、帝国主義列強の侵略道具として終始利用されてきた国際連盟が強者の側についたからといって、なにも驚くにはあたらなかった。国際連盟は結成直後に早くも「委任統治領分配」形式による植民地再分割をあらわに庇護し、露骨な反ソ政策を実施した。国際連盟が日本帝国主義の満州侵略をいかに臆面もなく弁護したかは、世界の良識が今日も生々しく記憶している。国際連盟はファシスト・ドイツのザール占領と、スペインにたいするドイツとイタリアの武力干渉も阻止できなかった。そればかりか、これらの国の侵略を非難する声明一つ出さなかった。世界平和を維持する国際機構としての使命をになって出現した国際連盟はその後、オーストリアとチェコスロバキアヘのドイツの侵略行為まで黙認することで、事実上それに手を貸し、励ました。ファシズム勢力と軍国主義勢力の専横がつのる国際情勢の急激な進展と国際連盟の無力な存在は、共産主義者に民族解放闘争を主体的な力によって自主的に展開すべきであることをはっきりと示した。
わたしが朴達と二度目に会ったのは、日本帝国主義の中国本土への侵略が時間の問題となっていたときである。「華北事変」によって、華北は事実上、日本帝国主義の支配下におかれた。「華北事変」後、日本帝国主義は軍備拡張と戦争準備にいっそう拍車をかけた。一九三六年八月、広田内閣は、日本は東亜大陸における地位を確保する一方、南洋へ進出するという基本国策を確定した。これは中国を全面的に侵略すると同時に、北進してソ連を圧迫し、時機を待って南方へ進攻しようという戦力方案の一つであった。
朴達をはじめ国内の共産主義者は、わたしの国際情勢分析を非常に慎重に受けとめた。わたしは、日本帝国主義者が遠からず中日戦争を引き起こすであろうという前提のもとに、国内の革命家がそれに対処して勢力を結集し、新たな情勢を利用して日本帝国主義との闘争を積極的にくりひろげる任務を与えた。
「日本の動きには、ただならぬものがあります。日本は早晩、中国でより大きな戦争を引き起こすでしょう。これはわれわれのたたかいに有利な局面を開くはずです。もちろん彼らは戦争遂行のために収奪を強め、締めつけもするでしょう。しかし、彼らの後方にはすきも多くなるでしょう。日本が戦線を広げれば、われわれも広い範囲で縦横無尽に活動する余裕が生じるのです。だからあなたには、新たな情勢に能動的に対処する準備を十分にととのえてほしいのです。朝鮮民族解放同盟を活発に動かして反日勢力をより多く結集し、暴動的進出へと動員しうる態勢を十分にととのえることです」
わたしはまた朴達に、普天堡の街の略図をつくり、日本帝国主義の国境警備状況をくわしく調べて報告するよう特別任務を与えて密営から送り出した。朴達はわたしから受けた任務をりっぱに果たした。彼の作製した略図と敵情報告資料は、普天堡戦闘の戦果の保障に大きく寄与した。普天堡戦闘後六日目に連絡員を送り、再度朴達を呼んだが、わたしが部隊を率いて間三峰方面へ急行していたため会うことができなかった。普天堡が痛撃を受けたあと朝鮮総督府は緊急会議を開き、咸興第七四連隊と長白県駐屯軍、国内の警官を集結して、大々的な討伐攻勢を準備していたのである。
わたしはその年の七月、再び朴達を呼んだ。しかし、彼が敵に逮捕されていたので、そのときも対面は実現しなかった。李炳璇がひとりでやってきて、朴達が逮捕されたことと国内革命運動の実態を報告した。わたしは彼に、明川、城津地方で活動している共産主義者に会えるよう連係をつけてほしいと頼んだ。同時に、国内で生産遊撃隊を組織する任務も与えた。この任務は後日、留置場から出てきた朴達に伝えられた。一九三八年六月、朴達は国内組織への弾圧が強まるきびしい情勢のなかで、その収拾策について助言を得ようと、わたしを捜して一か月以上も長白一帯の森林を歩きまわったという。そのころ臨江、濛江方面で活動していたわたしは、かなりあとになってそのことを知った。
日本警察は朴達をはじめ朝鮮民族解放同盟の中核メンバーを捕えようと血眼になっていた。恵山警察署の朝鮮人警部崔鈴は、私服刑事や自衛団、消防隊まで総動員して朴達を追跡した。朴達と金鉄億は金鉄億の従兄金昌泳の裏切りで一九三八年九月と十月に、それぞれ敵に捕らわれた。その後、李竜述(李庚封)も逮捕された。刑吏たちは朴達に想像を絶する拷問を加えた。彼らが知りたがっていたのは、われわれの所在と朝鮮民族解放同盟組織メンバーのリストであった。しかし、酷悪な拷問も鉄石の意志をもつ朴達を屈服させることはできなかった。敵は最初、彼に死刑を言い渡したが、のちに証拠不十分で無期懲役刑を宣告した。殺人鬼の拷問は朴達の肉体をむざんに破壊した。背骨が折れ、足の骨が砕けた。しかし彼の魂は変わりもせず、動揺もしなかった。彼は不自由な体で、いまの若い世代には想像すらできない監獄の苦しみにたえながら、七、八年に及ぶ逆境を奇跡的に乗り越えたのである。
解放後のある日、わたしは朴達が生きて西大門刑務所から出てきたという通報を受けた。担架に乗せられて刑務所の門を出た朴達はしばらくソウルに留まり、夫人の介護を受けた。医師は彼に脊髄炎という診断を下した。のちに医学博士の崔応錫が診察し直して、朴達の病名は脊髄結核であると訂正した。朴達はソウル大学病院に入院して治療を受けた。わたしは北朝鮮臨時人民委員会の事務局長をソウルに差し向け、朴達を平壌へ連れてこさせた。以前の朴達は一夜に数十里の道をやすやすと行き来した、オノオレカンバのように強健で気の強い血気さかんな男であった。ところがその日、人の背におぶさってわたしの前に現れた朴達は、拷問で下半身が麻痺し、昔の面影はどこにもない骨だけの痛ましい障害者だった。そのやせさらばえた体は、手のひらに乗せられるほど小さく見えた。それでも朴達は両手でわたしに抱きつき、ぽろぽろ涙を流した。生きて再び会えたのだから、もう死んでも悔いがないと言うのだった。朴達を診察した医師たちは、死刑宣告にもひとしい診断を下した。回復の見込みがあるという医師は一人もいなかった。朴達は刑務所の門を出るときすでに、死の影を背負っていたのである。
わたしは、わが家の隣に朴達の居所を定め、彼の蘇生をはかって綿密な治療対策を講じた。良薬という良薬はすべて求め、名医といわれる医師も残らず集めて彼の治療に専念させた。そして、朝夕執務室へ行き帰りするときに見舞いに立ち寄った。何年度だったか、南浦の牛山荘に乳牛があると聞いてそれを引いてこさせ、牛乳をしぼって飲ませもした。三年間の大きな戦争をおこなったあとも、朱乙休養所に「朴達閣」を別に設け、そこで治療をさせた。朴達が朱乙で療養生活をするときはいつも、彼の好みの野菜を平壌から航空便で届けさせもした。
「早く病気を治して将軍のお手伝いをしなくては…」
これは朴達がいつもベッドの上で心配げにつぶやいていた言葉だった。彼は病魔を追い払い再起するため非常な努力を払った。しかし、医療チームの心こもる治療もかいなく、病勢は日に日に悪化していった。ところが驚くべきことに、朴達は身動きもままならない重態にあっても、党と革命に献身しようとつねに心を砕いていたのである。
一九四九年のことだったと記憶している。牛山荘休養所で療養生活を送っていた朴達は、付近の果樹園でリンゴに袋を掛けないため病虫害をこうむっていることを知った。それで彼は、たまたま休養所に来ていた南朝鮮出身の
朴達は自分が再起不能であり、それに余命もあまり残されていないことを知ると、ベッドに横たわったまま青少年教育に役立つ本を書きはじめた。そのことを知ったわたしはすぐ朴達を訪ね、そんな無理をしてはいけない、と止めた。すると朴達はわたしの手をとり、自分がこれまで生き延びることができたのは将軍のおかげです、だから少しでも革命に寄与できるなら心が軽くなり、長生きできそうです、わたしは国内党工作委員会委員と朝鮮民族解放同盟責任者の任務をまっとうできず日本警察に逮捕され、結局、いまは国の食糧をむだ食いする廃人になってしまったが、あの日授かった革命任務を果たす気持で、多少なりとも力をつくしたいと思うから、止めないでください、と言うのだった。
「オストロフスキーは失明しても革命のために長編小説を書いたではありませんか。わたしはそれでも目が見えるのに、本を書けないわけはないでしょう。もちろん、文才がないので傑作など書けるはずはありませんが」
朴達は生涯自分の手足となり、看護婦ともなった忠実な妻玄今善と医療チームに助けられながら、手記『祖国は生命より貴い』と、抗日革命闘争時代の甲山地方における共産主義者のたたかいを描いた自伝風の長編小説『曙光』を書きはじめた。心臓の血を搾り一字一字刻むようにして書いた彼の文章は、そこにこもる革命への炎のような衷情のゆえに、人びとの胸をゆさぶった。多くの読者が彼に読後感と感謝の手紙を寄せた。朴達は、彼の本が人生の貴重な道づれになっているという読者の手紙に励まされ、つづけざまに数冊の本を著した。
ある日、彼は物差しでベッドの大きさを測り、あれこれと確かめてから紙に数字を書いて夫人に見せた。この寸法どおりに机をつくってくれれば、それをベッドの上に置いて文章を書くと言うのである。数日後、大工が注文された机を心をこめてつくってきた。朴達は机の足を両手でさすりながら夫人に言った。
「机のつくりがたいへんりっぱだ。これを大事にしてほしい。少し休んでから、この机を置いてものを書くことにしよう」
しかし、朴達はその机に向かって一度も文章を書くことができなかった。党と革命、祖国と人民への熱い衷情に高鳴っていた彼の心臓が鼓動を止めたのである。その訃報に全国が深い哀悼の念につつまれた。
われわれは朴達の家で、史上例のない党中央委員会常務委員会を開き、葬儀を国葬でとりおこなう決議を採択した。出棺のとき、わたしは柩に付き添った。白頭山で朴達と別れるとき、遠くまで見送れなかった口惜しさがいつまでも心残りになっていたので、せめて永訣するときだけでも送ってやりたかった。とめどなくあふれでる涙で、ハンカチがぐっしょり濡れていた。わたしは金策(〔 〕)を失ったときのように、また食事がとれなかった。ただの一度でも、彼が解放なった祖国の大地を闊歩するのを見ていたとしたら、あれほど胸が痛まなかったであろう。
われわれはその後、朴達が解放前に住んでいた普天郡雲興里の家屋を原状どおりに復元し、その前に彼の銅像を建てた。確かこれが、わが国で建てられた最初の革命家の銅像であったと思う。
朴達は敵とのたたかいで翼を失ったが、生の最後の瞬間まで革命のために屈することなくたたかった闘士である。じつに朴達は、朝鮮人民革命軍の白頭山進出以後、抗日武装闘争と国内革命の一元化を真っ先に果たした国内革命家の堂々たる代表者であり、われわれのためにもっとも多くのことをなし、苦労も多かったわれわれの国内全権代表であった。朴達のような闘士たちのおかげで、われわれは解放直後、あれほど複雑な情勢のなかでも短時日に党を創立し、富強な自主独立国家をうち立てることができたのである。
2 国内党工作委員会
われわれ自身の共産党をもつことは、朝鮮の革命家の一貫した願望であり、新しい世代の共産主義者が抗日革命闘争の展開にあたってかかげたもっとも重要な戦略的課題の一つであった。われわれは抗日武装闘争の全期間、革命闘争の実践のなかで鍛えられたすぐれた前衛闘士によって党の基層組織を拡大強化していく自主的な党建設方針を貫徹してきた。抗日革命の主力をなす朝鮮人民革命軍は、党創立の組織的・思想的準備を担当する党建設の主導的力量となった。朝鮮人民革命軍党委員会の指導的機能と役割の強化にともなって活発化した党建設活動は、武装闘争を政治的に強く支える一方、それにたいする党の指導と大衆的基盤を強化し、武装闘争を中心とする朝鮮革命全般を大高揚へと導く強力な推進力となった。抗日武装闘争に直接参加している共産主義的前衛闘士によっておし進められた党組織建設活動は、一九三〇年代の後半期にいたって、わが国の共産主義運動の確固たる主流をなし、そのゆるぎない正統性を代表するようになった。
われわれの党建設活動は、最初から複雑多難な道を歩まざるをえなかった。それは朝鮮革命の特殊性と、それにともなうさまざまの障害と関連していた。朝鮮の共産主義者は、自己の党をもつための闘争過程で人一倍大きな犠牲を払い、他人が直行する道を遠回りしなければならない陣痛を体験させられた。植民地諸国の抗争闘士が党の創立過程で一般的に直面する難関とともに、われわれは他国に間借りをしていた特殊な立場にあったため、他国の共産主義者が体験しなかった試練と苦衷をなめざるをえなかったのである。
前にも述べたことだが、コミンテルンは一九二八年に朝鮮共産党の承認を取り消して再組織することを指令し、一国一党制の原則にしたがい満州と日本にいる朝鮮共産主義者に駐在国の党に入ることを求めた。一部の人はこれを朝鮮共産主義者が否応なしに甘受すべき宿命として受けとめ、大勢に順応して外国の党に入り好機が到来するのを待つという受身の道を選び、また一部の人はコミンテルンの主観主義的な措置に不満をいだいて服従せず、駐在国の党に党籍を移さない状態でしばらくの間従来どおりの運動をつづけた。しかし、惰性によって散発的に活動していたこういう人たちは、その存在をあまり維持できず、いずれも挫折してしまった。
共産主義者が必要にしたがって外国の党に臨時に党籍をおくのはありうることである。共産主義運動は民族的運動であると同時に、階級的連帯を前提とする国際的な運動であるから、その運動を受け持った闘士が国籍を超越して一時外国の党組織に入るのは、どう見ても不自然なことではない。コミンテルン本部がモスクワにあったとき、そこにいた少なからぬ各国共産党の指導者や政治亡命者は、自国の党籍を保持したままソ連共産党組織に臨時登録し党生活に参加していたのである。問題はコミンテルンが朝鮮共産主義者の母体組織を解消し、彼らを苦しい間借り生活をせざるをえない屈辱的な立場に落ち込ませたことである。こうした理由からして、われわれは当初からコミンテルンの措置を穏当を欠いたものとみなした。だからといって、それに神経をとがらせて逆らったり、運動そのものを放棄するような自暴自棄の行動には走らなかった。コミンテルンが取った措置を一時的なものとして受けとめ、自らの主動的な努力によって新しい型の党を建設するために根気強くたたかった。
まず、コミンテルンの示した原則が許容する範囲内で朝鮮革命の具体的な実状にかなった方途をたえず模索しながら、独自の党を創立する準備をおし進めた。「トゥ・ドゥ」の前衛闘士を網羅した建設同志社の結成はその起点といえる。しかし、朝鮮人民革命軍の主力部隊が東満州や北満州で活動していた一九三〇年代の前半期にはまだ、党建設をめざすわれわれの努力が国内深くにはさほど及んでいなかった。もちろん当時、すでに穏城、鐘城など豆満江沿岸の国内各地にいくつかの基層党組織を設けてはいたが、党組織の建設をめざす新しい世代の共産主義者の主な活動舞台はまだ東満州に限られていた。われわれは朝鮮人民革命軍党委員会の強化に力を入れる一方、間島各県の党組織との緊密な連係のもとに党組織を拡大し、やがて党組織を国内に大々的に結成するのに必要な中核を育成した。
われわれが南湖頭会議の精神にもとづいて党建設方針を具体化し、その実現のための諸対策について討議したのは、一九三六年五月の東崗会議であった。この会議では国内に党創立の組織的・思想的基盤を本格的に築く課題が上程され、その対策として国内党工作委員会を組織し、革命闘争の根幹によって前衛的な党組織の拡大をはかる問題が協議された。この会議では、党組織の建設は遊撃隊内に局限したり東北一帯のみを舞台にすべきではなく、国内深くにまで党創立の組織的・思想的基盤を築くこと、これまでは豆満江対岸の国境地帯の一部の地域にのみ基層党組織を設けたが、これからは国内の広大な地域に党組織をつくり、国内での党創立の準備を統一的に指導するために国内党工作委員会を組織すべきだということが重点的に強調された。国内党工作委員会を組織することは、全国的範囲で展開されるようになる反日民族統一戦線運動にたいする党の指導を強化するためにも切実に必要であった。このように重大な使命をおびた国内党工作委員会を実情に合わせて組織するためには、朝鮮の実情に明るい国内共産主義者たちとの虚心坦懐な意見の交換がぜひとも必要であった。
朴達の密営訪問は、こうした意見交換の絶好の機会となった。党組織の建設、これはわたしと朴達とのあいだで論議された中心的な問題の一つであった。祖国光復会の問題を論議したあと、われわれは国内に党組織をつくる問題について数時間も真剣に語り合った。わたしが国内に祖国光復会の組織だけでなく、共産党組織もつくるべきだという意向を述べると、朴達は驚きの色を浮かべ、どんな共産党組織なのかと尋ねた。それは当然な質問だった。共産党が存在しない国、党再建の試みがことごとく水泡に帰し、それにそそがれた闘士たちの涙ぐましい労苦と情熱が鉄窓の中のうら悲しい追憶としてしか残っていない国、すでに久しい前から法によって結社の自由が奪われている国に共産党組織をつくるというのはどういうことなのか。朴達はこんな疑問をいだいて自分の耳を疑っているようだった。われわれの共産党、朝鮮の共産党組織をつくる考えだ、とわたしが答えると、彼はまた問い返した。
「朝鮮に共産党組織をつくることについて、コミンテルンはどう考えているのですか。コミンテルンがそれを承認したのですか?」
「それはわれわれがすることであって、コミンテルンが承認するかしないかとは関係のないことでしょう。国内にわれわれの党組織をつくる問題で、コミンテルンの承認が必要だという法はないではありませんか」
朴達は首をかしげた。
「各国の共産党はみなコミンテルンの支部であり、その指導と統制を受けることになっているのに、コミンテルンの承認もなしに、勝手に党組織がつくれるというのですか? コミンテルンがそれを許すでしょうか?」
朴達は確かに教条主義的な思考方式から抜け出していなかった。
「そもそも革命というものは自分の意思でやることであって、誰かの指令や承認を得てやることではありません。一つうかがいましょう。あなたは誰かに言いつけられて革命活動をはじめたのですか。誰かの承認を得て甲山工作委員会という組織をつくったのですか」
「そうではありません」
「では、マルクスが共産主義者同盟を組織したのは、誰かの承認を得てのことですか。またレーニンがボルシェビキを組織したのは?」
言葉につまった朴達はなんとも言えなかった。
「マルクスやレーニンは誰の承認も得ずに党をつくったというのに、われわれにはそれができないというのは筋が通りません。コミンテルンはすでに一九二八年の十二月テーゼで、朝鮮の共産主義者に党再建の課題を示しています。テーゼで提示されたとおり、国内にわれわれの党組織をつくるのに、誰があえてそれをとやかく言えるのですか。コミンテルンもとやかく言えないはずです。許可だの承認だのという問題自体が成立しません。それはあくまでも朝鮮共産主義者の自主権に属する問題です。わが家のことは家族同士で解決すべきであって、わざわざよその人間に聞く必要はないでしょう。朝鮮革命の主人はあくまでもわれわれではありませんか」
これでやっと、朴達は自分の考えが足りなかったと言って、わたしの立場と提案に積極的に賛成した。
「わたしはまったく愚か者でした。われわれ自身が朝鮮革命の主人だとは考えず、コミンテルンが各国の革命を左右するのだとばかり考えていました。ところで将軍、国内に党組織がつくられるとすれば、それはどこに所属するのですか。また誰の指導を受けるようになるのですか」
「国内の党組織は朝鮮人民革命軍党委員会に所属し、またその委員会の指導を受けるようになります。朝鮮に共産党が存在しないという現在の特殊な状況下で、朝鮮人民革命軍党委員会は朝鮮革命全般にたいする指導的機能を果たす参謀部となっています。この党委員会の活動は武力によってしっかり保護されています。日本帝国主義の野蛮な憲兵警察支配は、朝鮮での党再建の可能性をすっかり奪い去ってしまいました。党再建のために奔走していた闘士の大部分はいま獄につながれています。敵の魔手にかかっていないのはただ一つ、武力によって保障されている朝鮮人民革命軍党委員会だけです。朝鮮人民革命軍党委員会が朝鮮革命全般にたいする指導的機能を果たす理由はここにあるのです。
朝鮮人民革命軍党委員会が朝鮮革命の参謀部の役割を果たすことになったのは、わが国の共産主義運動発展の必然的な帰結です。歴史がわれわれにそのような使命を果たすように求めたのです。今後組織される国内党工作委員会は、朝鮮人民革命軍の軍事的保護下に入るでしょう」
「これですべてがのみこめました」
朴達は明るく笑った。われわれはすぐさま国内党工作委員会の組織にかんする実務的問題の討議に入った。そのときも朴達は先に質問をした。いつも先に質問をしてから論議に入るのが体質化しているようだった。
「いま国内では、党を先に建設すべきか、大衆団体を先に組織すべきかということがさかんに論議されています。咸興の人は党の建設を優先させるべきだと主張し、端川や洪原の人はまず大衆団体を組織し、実践闘争を通じてのみ党を創立することができると固執しています」
「あなたの見解はどうなのですか」
「これといった見解はもっていません。常識的に言えば党を先に創立すべきでもあるようですし…それも自信はありません」
朴達はそういう論議の原点をコミンテルンの十二月テーゼに求めていた。このテーゼの原題は「朝鮮の農民および労働者の任務にかんするテーゼ」である。この文書を通じてコミンテルンは、朝鮮の共産主義者が労働者、農民団体のなかでの活動を活発化し、新幹会をはじめ新旧民族解放団体内での闘士獲得に努め、党の思想的団結を重視してそれに全力を集中し、一日も早く朝鮮共産党を再組織し強化発展させるために最善をつくすことを求めた。ところが一部の共産主義者は、このテーゼが党建設と大衆団体の組織を同時に提起しているかのように受けとめたため、認識上の混乱をまねくようになったのである。
「それは論議の対象にならない問題だと思います。事の順序を決めるのは具体的な条件や実情であって、十二月テーゼとはなんの関係もありません。状況によって党組織が先につくれる所には党組織をつくり、大衆団体が先につくれる所には大衆団体をつくればよいではありませんか。党員の資格をそなえた人が三人でもいれば、その三人だけでもただちに共産党グループをつくることができるのです。しかし、入党適格者が一人もいなければ大衆団体を先に組織し、そこで共産主義者を育てあげてから党組織をつくることもできます。もちろん、党と大衆団体は相互に結びついているので、この両者を人為的に分離して考察してはいけません。しかし、順序はどうあれ、共産主義者は大衆のなかでの党の後続隊の育成に全力をつくすべきであることを忘れてはなりません。党員の資格をそなえた前衛闘士さえいれば、党組織はいつでもつくれるものです」
朴達は、わたしが構想している国内党工作委員会の果たす機能について尋ねたので詳細に説明した。
―― 国内党工作委員会は国内の革命闘争を統一的に指導し、国内の党組織建設を担当する地域的な指導機関である。統一的な指導機能を果たす参謀部がなかったため、いま国内運動は分散性と自然成長性という二つの致命的な弱点を克服できずにいる。国内に分散して活動している愛国の志士と共産主義者を一つの勢力に結束し、彼らを直接連結させるためには、それを担当する指導機関がなくてはならない。その指導機関がほかならぬ国内党工作委員会だ。こうした委員会が発足すれば、そこに朴達同志を加える考えだ。あなたはこの委員会から派遣された国内全権代表の役目を果たすことになる。国内各地に散らばっている闘士の一人ひとりと会ってみたいが、いまはそういう時間の余裕がない。
わたしの考えでは、あなたが帰ったらまず咸鏡南道と咸鏡北道をはじめ各地方の運動家に会い、彼らを国内党組織に結集する準備をおし進めてもらいたい――
わたしの話を聞いて、朴達は慎重な面持をした。
「あまり買いかぶらないでください。わたしにそれだけの能力があるかどうか、いたらぬところが一つや二つではありません」
率直なこの言葉は彼への信頼感をいっそう深めさせた。そのとき開かれた朝鮮人民革命軍党委員会では、わたしを責任者とし、金平と朴達を委員とする国内党工作委員会が組織された。朴達にはこの委員会の現地執行者として、甲山地方をはじめ国内各地域での党組織建設活動を主宰する任務が与えられた。朴達は、国内に基層党組織を先につくり、それにもとづいてやがて党中央機関を組織し党創立を宣言するというわたしの方法論を支持した。この会議が終わったあと朴達は、国内運動家の活動方法上、指摘すべき点や参考とすべき要項があったらよく教えてほしいと要請した。わたしは、なによりも亡命者式の活動方法から脱皮すべきだと助言した。
「いま国内の同志たちを見ると亡命者式の方法で活動していますが、それは百害あって一利なしの方法です。日中は山にひそんでいて、日が暮れるとひそかに村に下りてきて人に会おうとするので、組織のメンバーは敵の監視を恐れて彼らと会うのを避けています。亡命者式の方法では組織を拡大することができません。これから、敵地で地下活動をする同志たちは生産労働に参加し、最大限に合法的な活動の可能性を得るようにしなければなりません。亡命者式の活動方法はただちに捨て去るべきです」
すると、朴達は顔を赤らめた。
「じつはわたしもそういう亡命者式の方法で活動してきました。わたしたちは正面衝突することばかり考え、場合によっては迂回の方法も使うべきだということには気がつかなかったのです」
われわれは公式の話からはずれて、しばらく雑談を交わした。わたしは、誰もがキッドの靴をはき、リーゼントスタイルでステッキをついてモダンぶっているというのに、旧習を嫌う朴達同志がなぜ坊主頭をしているのかと尋ねた。すると彼は、労組運動にたずさわっていたとき警察署に連行されると、巡査がきまって髪をつかんで頭を壁にぶちつけるので、しゃくにさわってあっさり丸刈りにしてしまったと言うのだった。わたしにはその丸刈りがきわめて機知に富む処置に思えた。彼は、わたしが望むなら、髪をリーゼントか角刈りにしてもよいと言った。
「そんな必要はありません。あなたがわざと刈ったのですから、いまさらもとどおりにする必要はないでしょう」
「将軍が反対しないなら、坊主頭のままでいることにします。これからまた警察の厄介にならないともかぎりませんから」
事実その後、朴達は警察と監獄でさんざん苦労したのである。
わたしは、革命の利益のためとあれば巡査試験のようなものでも受ける用意があるかと尋ねた。すると彼は目を丸くしてわたしを見つめた。
「まさか、わたしを巡査に化けさせるつもりではないでしょうね」
「革命の求めなら巡査のまねもしてみる必要があります。だからといって、あなたに巡査をさせるつもりはありません。巡査の帽子はかぶってもかぶらなくても、そういうことを通して駐在所の信用を得さえすればよいのです」
朴達は会心の笑みをもらした。
「巡査たちと多少親しんではいますが、巡査試験を受けることまでは考えませんでした。今度帰ったら一度受験してみることにします」
朴達は翌年の春、本当に巡査試験を受けた。受験を前にして駐在所の首席巡査を訪ねた彼は、すました顔でこう言った。
「首席さん、わたしも巡査になりたいんですが、どうお考えですか。わたしに巡査になる資質があるでしょうか」
首席は興奮を隠しきれず、やにわに椅子から立ち上がった。
「それは本気か?」
「本気ですとも。巡査になりたい気持がなかったら、こうして首席さんを訪ねてきはしませんよ」
「きみなら資質があり余る。うまくいけばこの駐在所の首席にもなれる」
「いくらなんでも首席さんの椅子を横取りするわけにはいかないでしょう。そんな無礼がどこにありますか」
「いやかまわん。きみのような人が忠実な皇国臣民になるなら、わしは大日本帝国のために喜んで首席の椅子を譲る用意がある。その心意気は見上げたものだ。早く試験を受けてみろ」
朴達は、さも巡査になりたがっているかのようにうわさを広めて受験した。だが、答案をいい加減に書いたので不合格になった。彼はわれわれが仕組んだ脚本どおり見事な演技をしたわけである。日本人も彼の経歴を記した機密文書に「昭和十二年(一九三七年)三月、咸鏡南道にて巡査を志願、甲山署で受験し落第す」と書き込んでいた。巡査試験を受けて以来、朴達は日本人から信用されるようになった。管轄駐在所の金なにがし巡査は、朴達は巡査試験まで受けた良民だと、幾度も身元保証人になった。このように朴達は巡査たちをバックに、彼らへの忠実を装って自由自在に活動した。
国内党工作委員会の組織は、われわれがうちだした自主的な党創立方針を固守し、国内における党組織建設を強力に推進するうえで画期的な意義をもつ出来事であった。これは朝鮮共産党の解散後、分散的におこなわれていた党再建運動のたんなる延長や反復ではなかった。国内党工作委員会の指導のもとに展開された国内における党組織建設活動は、コミンテルンが主宰した党再建運動や、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)が赤色労組運動を通じて実現しようとした党再建運動とは本質的に区別される徹頭徹尾、自主的な党再建運動、党組織建設闘争であった。
一九三〇年代に入ってコミンテルンは、朝鮮における民族解放闘争、とくに党再建運動に少なからず関心を向けるようになった。それは、ヨーロッパにおけるファシズムに劣らず、極東では日本軍国主義が日増しに危険な勢力として登場していたためである。コミンテルンでは、朝鮮における共産党再建問題をめぐってクーシネンをはじめ多くの人がそれなりの見解を示していた。その代表的なものが、コミンテルン第七回大会以後論議された朝鮮民族革命党の組織にかんする提案である。朝鮮での反日を目的とする民族革命党の組織にかんするコミンテルンの意思をより詳述したのは、『コミンテルン』に載った、満州の反帝統一戦線にかんする楊松の文章だったと思う。彼はこの文章で、間島における現況は、中国共産党組織を拡充するために中国と朝鮮の革命的な労働者、農民をより多く入党させると同時に、朝鮮民族革命党を組織することを要請しているとし、この党のもっとも重要な任務は反日と朝鮮の民族独立をめざす闘争となるべきであり、この新しい党の創立者は共産主義者であるべきだと主張した。また、この党は性格上、反日統一戦線的な党になるべきだとした。こうした主張はコミンテルンと、当時コミンテルンに駐在していた中国共産党のメンバーの見解を代弁しているものといえた。
しかしわれわれは、朝鮮における党組織建設問題と統一戦線結成問題を独自の判断と決心によって解決した。党組織の建設と統一戦線結成の問題を同時におし進めながらも、両者の混交は避けた。それは、党が統一戦線を代表したり、統一戦線体組織そのものが党になることはありえなかったからである。当時、独立運動家のなかには、民族唯一党という名目で左右両翼の政治勢力をすべて包容する中国の国民党に似た政治団体の結成を企図する人もいた。
われわれは国内党工作委員会を組織して党組織の建設をおし進める一方、反日民族統一戦線体としての祖国光復会を結成する方法で全民族の大団結の実現を進めた。もちろんコミンテルンはそれ以前にも、各面から朝鮮における党の再建をはかった。コミンテルンの指導下にあったプロフィンテルン執行局が一九三〇年九月に発表した「朝鮮の革命的労働組合運動の任務にかんするテーゼ」(九月テーゼ)は、主として革命的労働組合の結成を共産党再建の必須の条件として示していた。朝鮮の共産主義者はこの九月テーゼにもとづいて革命的労働組合(赤色労働組合)の結成に努め、それを大衆的基盤として共産党の再建を推進した。翌年十月、プロフィンテルンの傘下組織であった上海駐在の汎太平洋労働組合書記部も、「太労十月書信」と称される「朝鮮の汎太平洋労働組合書記部支持者に送る緊急檄文」で、革命的労働組合を結成し、それを大衆的基盤にして共産党を再建するよう促した。プロフィンテルン系統のこれらの文書は、一九三一年五月に発表された、コミンテルン執行委員会のクーシネンによる「朝鮮の共産主義運動にかんする建議書」とともに、内容的には朝鮮における共産党再建問題を直接取り扱ったものであった。一九三四年六月、モスクワでは朝鮮共産党発起人グループの名義で「朝鮮共産党行動綱領」が発表されたが、これもやはり朝鮮における共産党再建のための努力の一環といえるであろう。
朝鮮人民にたいする日本帝国主義の暴虐な植民地支配がつづき、革命運動にたいする弾圧が日を追ってはげしくなる状況のもとでも、国内の共産主義者はさまざまな形態の党再建運動をたえまなく展開した。咸鏡南道、咸鏡北道での共産党事件、朝鮮共産主義者同盟結成事件、朝鮮共産党再建コミンテルン朝鮮レポート会議事件、朝鮮共産党再建準備委員会事件などは、当時国内各地で展開された党再建運動の一環である。
中国を根拠地とする党再建運動もあった。M・L派とソウル・上海派は中国の吉林一帯を中心に党再建準備委員会、党再組織中央幹部会、党再建同盟、党再建整理委員会などを組織して党再建運動を展開した。日本でも東京を拠点に党再建運動が展開された。
一九二〇年代の末から一九三〇年代の中期にかけて全国的範囲で展開された赤色労組運動、赤色農組運動も、党再建運動の一環といえる。初期の合法的な形態から地下運動の非合法的形態に移行した赤色労組と赤色農組の基本的な闘争目的は共産党の再建にあった。国内と海外で展開された党再建運動は、そのほとんどが既成の古い運動形式と事大主義的傾向、派閥観念からさほど脱していない上層部の運動にとどまっていた。しかし、こうした制約にもかかわらず、われわれは従来の再建運動の成果をふまえて国内に新しい型の党組織をつくるために努力した。言うならば、以前の赤色労組と赤色農組の線を求め、そこにわれわれの党細胞をつくるため多くの努力を傾けたのである。
一九三七年の五月下旬、われわれは白頭山根拠地で国内党工作委員会第二回会議を開き、国内党工作委員会の機能と役割を高め、国内における党組織建設活動と革命運動にたいする指導をいっそう強化する対策を講じた。会議では、国内党工作委員会組織後の党組織建設状況を総括し、国内における党組織建設活動の課題と方途について真剣に協議した。そのときわたしは、党組織の建設と党生活において事大主義と教条主義に反対することをとくに強調し、国内に分散して活動している共産主義者を党をはじめ各種の革命組織に吸収し、党組織が増大している現実の要請に即応して党の組織指導体系を確立するためのいくつかの案を提示した。この会議で討議、決定された内容は、朝鮮人民革命軍の朝鮮国内への進出を積極化し、党組織建設と国内革命闘争を発展させるうえで一つの明確な里程標となった。
その後、われわれは国内党工作を支援する使命をおびた政治工作隊を派遣した。一九三七年の夏と秋に、国内党工作委員会委員の金平と権永璧、鄭日権、金周賢、馬東熙、金正淑、白永哲、李東学、崔景和、金雲信、李昌善、李景雲、李炳璇らをメンバーとする政治工作隊が北部朝鮮の各地域に派遣され、党組織建設活動と大衆工作をおこなった。この工作隊を北部朝鮮政治工作隊と呼んだ。この工作隊は、北部朝鮮一帯を革命化する方法で、国内党組織の建設を実質的に助けた。工作隊員には政治活動区域を分担させた。そのような政治活動区域は政治区とも呼ばれた。政治区は一号政治区、二号政治区、三号政治区、四号政治区、五号政治区に分けられた。その地域的範囲は、主として金平がわたしと合議して設定した。政治区は東海岸から西海岸にいたり、番号もそれによって決められた。工作隊員たちは当該工作地へ行ってじかに組織・政治活動を進めたり、各自が育てたすぐれた工作員を派遣して間接的方法で活動したりした。
李東学を責任者とする北部朝鮮工作隊の一グループは、国内党建設の基盤構築に有利な条件をつくるため、一九三七年の初め、李悌淳の案内のもとに甲山郡雲興面一帯の農村で反日愛国思想と朝鮮独立を鼓吹する数百枚の布告文、檄文を散布し、大衆宣伝活動をおこなってすばやく帰隊した。三水郡一帯を受け持った馬東煕や池泰環のグループもあいついで国内に入り、周到かつ活発な政治工作を展開して嶺北地方(咸鏡北道一帯)の民心をゆさぶった。
わたしは朴達の活動上の便宜をはかって、孫長福という若い連絡員を派遣した。孫長福には、国内に入ったら日本官庁の戸籍に登録し、朝鮮で生まれて育った人間を装うようにと命じた。孫長福を連れて駐在所に行った朴達は、なに食わぬ顔をして首席巡査に言った。
「首席さん、喜んでください」
首席はけげんな顔をして二人を見くらべた。巡査試験を受けて以来、朴達にたいする首席の態度は驚くほど親切になっていた。
「なにか、めでたいことでもあったのか?」
「ええ、ただで弟が一人ころがりこんできたんですよ」
朴達はもじもじする孫長福を前に押しやり、駐在所中に聞こえるような大声で言った。
「弟が一人いたらといつも思っていたわたしに、父がそれをかなえてくれたんですよ」
「というと、このチョンガーは父が定めてくれた義弟なのか?」
「いや、これは父が吉州にいたとき、他の女に手をつけて儲けた腹違いの弟なんですよ。生母が死んでさまよい歩いているうちに、甲山に腹違いの兄がいると聞いて、のこのこやってきたのです。それで、わたしが面倒をみることにしたわけです」
「そうか、ただでこういう子どもを一人儲けるとは、きみの親父もなかなかのやり手だな」
首席の言葉に、駐在所の巡査たちはどっと笑った。いい気分になった首席は、なにも言わずに手続きをしてくれた。朴達は孫長福を朴永徳という名で戸籍にのせた。こうして孫長福は地下活動をはじめた。
ところが数日後、思いもかけぬ事件が起きて甲山地下組織の活動に被害が及んだ。甲山郡雲興面大中里のある農家に強盗が入って現金二十円を強奪していったのだが、その強盗が正体を隠そうとして山から来た人のように振舞ったのである。当時、遊撃隊員をさして「山の人」と言い、遊撃隊工作員を「山から来た人」と呼んでいた。強盗事件が起きたちょうどそのとき、朴達は祖国光復会の下部組織の活動を指導するため大中里に行ってきたのだった。この偶然の一致のため、朴達は「山から来た人」という嫌疑をかけられ警察に拘束された。そのとき警察では朴達の家に吉州から来た李炳璇という人物が出入りしていることをかぎつけ、彼も一緒に逮捕しようとしたが、あいにく当人がおらず無駄足を踏んだ。李炳璇は吉州で赤色農組事件に連座し、その前年に金永国と一緒に甲山に来たのであった。金永国が遊撃隊に入隊した後、李炳璇は普天面のある木材所に籍をおき、その一帯の民族解放同盟組織の指導にあたっていた。その日、日本人警官は朴達の家にいた孫長福を李炳璇と思って捕えたが、年からして李炳璇でないことを確認し、そのまま立ち去った。
当時われわれは、長白と国内に多数の政治工作員を派遣したが、朝鮮人民革命軍の隊員だけでは充足しきれなかった。必要な人員をみたすには少なくとも一個連隊に相当する政治工作員が必要だったが、遊撃隊が軍事活動を二の次にして政治活動ばかりするわけにはいかなかった。われわれは政治工作の経験を積んでいる長白地方の地下組織メンバーと、かつて東満州一帯の革命組織に加わり大衆工作の経験を積んだ隊員たちを選抜して国内に派遣した。時を同じくして、長白県の祖国光復会組織からも、李悌淳のルートから多数の工作員が国内に入った。
政治工作員の派遣は、国内党工作委員会委員の金平が担当した。当時の彼の職責は第七連隊政治委員であった。彼は朝鮮人民革命軍司令部で敵中工作にかかわる活動を担当していたすぐれた政治・軍事活動家で、豊富な地下活動経験の持ち主だった。彼は一九三〇年代の前半期はもちろん、後半期に入ってもわたしの仕事を大いに補佐してくれた。金平は抗日革命の時期、わたしがもっとも大事にし信頼した政治・軍事活動家の一人である。もっとも彼はその後、裏切者の密告で敵に逮捕されて苦労もし、政治生活にも汚点を残しはしたが、わたしにたいする忠実性にかけては変わりがなかった。彼は朝鮮人民革命軍司令部と党委員会の活動に少なからず関係し、われわれが国内の革命家との連係を強めながら武装闘争を国内へ拡大し、全人民的抗争の準備を本格化していた時期に、その活動を直接担当していたので、当時の事柄には誰よりも明るかった。軍事問題とともに、とくに極秘裏に進められた政治工作にかかわる事柄のうち、金平だけしか知らない内容も少なくなかった。彼が回想したくわしい事柄や事件、年代はおおよそ正確なものだった。彼が残した記録は、わが党の革命歴史を豊富なものにするのに大いに寄与したと思う。彼が最後まで遊撃隊伍でたたかい、祖国解放の日を迎えることができたなら、それに越したことはなかった。いまでも、わたしの忠実な補佐役であった白頭山時代の金平が忘れられない。
国内に派遣された政治工作員は、労組、農組など既存の組織と個々の共産主義グループに深く浸透し、党組織の建設と祖国光復会組織の拡大をはかる活動を精力的に展開した。政治工作員のめざましい活動によって、国内の人民のあいだには「白頭山の風」がすさまじい勢いで吹き込んだ。彼らの影響のもとに、国内の同胞は朝鮮人民革命軍にたいする正しい認識をもつようになり、多くの人が人民革命軍への入隊を希望して白頭山にやってきた。
われわれは国内党組織建設のためのいま一つの措置として、朝鮮民族解放同盟組織で鍛えられたすぐれた同盟員で国内党グループを結成した。歴史家は朴達を責任者とするこのグループを「三人組」と称している。この「三人組」は基層党組織としての役割とともに、国内党建設の母体組織としての役割も遂行する使命をになっていた。党組織の拡大と党勢拡大のための朴達の活動方法で特異なものは無名党組織の結成であった。無名党組織とは、正式の名称はもたないが実際には秘密裏に活動する党員の組織のことである。このような組織は祖国光復会内にもあった。無名の地下革命組織は、敵の弾圧がその極に達した場合の組織建設の独特な方法の一つである。組織の名称をつけず、会議も開かないかわりに、個別的に会って教育し、闘争方法を教え、任務の分担などもしたので、たとえメンバーの一人が検挙されたとしても他のメンバーには被害が及ばないようになっていた。
わたしと別れて甲山に帰った朴達は、国内党組織の建設に精魂を傾けた。彼はわれわれが示した方針どおり、甲山と三水一帯を国内党組織建設の原種場にし、それを基盤にしてしだいに他郡、他道へと活動舞台を広げていった。われわれがこの地方を国内党組織建設の原種場にできる最良の適地として選定したのは、その地帯の特殊な社会的・経済的条件を考慮したからである。三水、甲山といえば、まずは流刑の地として知られている。「三水、甲山へ流されようとも」という朝鮮のことわざは、この地帯が有名な流刑の地であったことに由来している。李朝時代に封建王朝の迫害を受け、ここに追われて流刑生活をした没落両班の子孫は、だいたい火田民か鉱夫となって最下層の生活をしていた。「韓日併合」以後、生きる道を求めて蓋馬高原一帯に流れ着いた流浪の民も、ここまで来てくわで切株を掘り返し、小屋で寝起きしながら力に余る焼き畑農業を営んだ。この地方の住民構成は階級的見地からすれば素地がいいといえた。
遊撃活動に有利な高原地帯の奥深い自然条件は、一九一〇年代から義兵と独立軍が火繩銃を手に決死輔国の理念をいだいて転戦する戦場となり、社会運動家を抱きとめる朝鮮最大の避難所となった。北部朝鮮のほとんどすべての地域から、合法的活動の権利を奪われた社会運動家が隠れ里を求めてここに集まってきた。朝鮮国内はもちろん、北間島と西間島、シベリアからも有志たちが集まってきた。
朴達の話によれば、一九二〇年代の中ごろに平壌崇実中学校の同盟休校を指導した四人の反日運動家が三水、甲山一帯に来て火田民たちの社会主義研究グループをつくったのが、この地方の社会主義運動のはじまりになったという。その後、東海岸沿いの各地方で労組運動、農組運動に腐心していた人たちがここに亡命してきて、彼らとともに青年同盟や農民同盟をつくり、前衛同盟も結成した。これらの理由からしても、三水、甲山地方は国内党組織建設の原種場になる十分な条件をそなえているといえた。
甲山工作委員会は最初、特定の名称ももたずに発足した。一九三四年五月にはじまり、最初は李庚封を引き入れ、ついで金鉄億を獲得し、つぎには沈昌植とつぎつぎに広げ、亜麻強制栽培反対闘争、迷信打破闘争、早婚反対闘争などをおこなった。そのうち、二年ほどして互いに組織のメンバーであることがわかり、その無名の組織を甲山工作委員会と名づけた。
国内党組織建設で得たこのような経験にもとづき、その後わたしは党支部の活動方法について書いた文でこの方法を定式化し、一九四〇年代の前半期にグループ工作のため国内に派遣される隊員たちにこの方法を活用するよう指示した。解放後、ある人はこう回想している。
「ある組織に加入した。その組織の名称と内容は秘密に付されていてわからなかった」
甲山出身のある革命家は、朴達から手渡された秘密書籍を読み、使い走りをしただけなのに日本の司法機関によって重刑を科され、解放されるまで獄につながれていたと述懐している。このような人たちが、特定の名称もない組織のメンバーだったのであろう。
朴達は三水、甲山一帯を国内党組織建設の原種場にしたのち、そこで育てあげたすぐれた人たちを選んで隣接した郡や道に派遣しはじめた。彼らに与えられた任務は、工作地へ行って党組織建設の土台を築くことであった。朴達はわれわれの方針どおり、工作員に必ず適切な職業をもたせる方向で活動を組織した。こうすれば、工作員の身分が社会的に合法化されて任務をりっぱに遂行することができるばかりでなく、亡命者式の活動方法を根絶して大衆のなかにしっかりと根を下ろすことができた。
朴達は茂山郡にだけでも五、六人の工作員を派遣した。朝鮮民族解放同盟の傘下組織である普天面宣徳洞反日会の責任者であった蔡応浩も、そのころ茂山郡に派遣され、政治工作員との連係のもとに遊撃隊の給養物資を調達するための義援金工作と大衆を組織化する活動を進める一方、生産遊撃隊を組織するための準備活動を猛烈に展開した。彼は「恵山事件」以後も、延吉、和竜一帯を亡命地とし、茂山地方に足しげく通い地道に林業労働者を革命組織に結集した。朴達は朝鮮民族解放同盟青年部責任者の李竜述と李炳璇を咸鏡北道南部の各郡に派遣した。そして彼らを通じて、国内革命運動と党組織建設にかんする方針が城津赤色農組のリーダーの一人である許聖鎮に伝達された。われわれの路線を支持して最後までたたかうことを誓った許聖鎮はわたしに会おうと甲山まで来たが、無駄足を踏んで帰ったという。あいにく、わたしは「熱河遠征」の悪影響を収拾するため臨江、濛江一帯へ出向いていたからである。
朴達は党組織の建設と祖国光復会組織の拡大に努める一方、朝鮮革命の軍事的力量の強化のためにも大いに力をそそいだ。李炳璇が密営に来たとき、わたしは彼を通じて、国内党組織のメンバーと祖国光復会の青年中核によって生産遊撃隊を組織する任務を朴達に伝えた。朴達は生産遊撃隊組織の手はじめとして自衛団を利用した。日本帝国主義者は「郷土防衛」の名のもとに自衛団を大々的に拡張し、銃器まで持たせて自衛団員を訓練していた。自衛団に生産遊撃隊員を全部もぐり込ませれば、武器に精通し、敵にも大いに信頼されるばかりでなく、いざというときには一斉に立ち上がって敵に銃口を向けることができると考えた朴達は、大五是川自衛団の副団長という肩書きを利用して、所定の入団年齢に合った生産遊撃隊員を全員自衛団に入団させ、彼らに指導的ポストを占めさせた。
朴達は、北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織するというわれわれの方針を実現するためにも大きな努力を傾けた。われわれは北部朝鮮一帯で武装闘争をすみやかに拡大発展させる必要から国内党組織のメンバーを中心とする北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織する構想を示した。茂山、甲山から赴戦嶺にいたる嶺北の広大な地域は遊撃活動に適した理想的な地帯であった。そのころわたしは国内の同志たちに、北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織せよ、部隊の指導的中核になりうるすぐれた遊撃隊員を選抜して送る、彼らを母体にして隊伍を拡大し訓練もせよ、と指示した。北部朝鮮反日人民遊撃隊の隊長には第七連隊の崔一賢が、政治委員には朴達が任命された。もし、朴達をはじめとする朝鮮民族解放同盟の幹部の大部分が逮捕、投獄される不祥事が起こらなかったなら、北部朝鮮反日人民遊撃隊の編制は計画どおり順調におこなわれたはずである。国内党組織のメンバーは、金周賢別働隊が国内に派遣されたときにもその活動を積極的に援助した。
朴達は、日本の軍警が国内党組織と朝鮮民族解放同盟のメンバーを手当たり次第に検挙しているきびしい状況のもとでも、たたかいを中断しなかった。彼はすでに築きあげた基層党組織と祖国光復会の組織網を地下に温存させるためにあらゆる努力をつくした。「恵山事件」のため国内党組織と朝鮮民族解放同盟のメンバーが直面している試練については、金平がわたしに逐一通報してくれた。わたしはその通報を受けるとすぐ、馬東煕と張曽烈を国内に派遣した。しかし、この救援措置は、二人が朴達の行方を求めて各地を訪ねまわっているうちに逮捕され、成功しなかった。それで今度は、国内工作経験の豊富な金正淑を大鎮坪に派遣した。その間、端川、北青、洪原、新浦など東海岸地区で組織の拡大をはかっていた朴達は大鎮坪に帰り、苦境に追い込まれている組織の収拾にあたっていた。金正淑は千辛万苦の末に朴達に会い、会見の結果をわたしに報告した。わたしは白永哲を責任者とする連絡グループを甲山地方に送り込んだ。白永哲は遊撃隊の活動とともに、国内工作の経験も多く積んでいた。彼は隅勒洞地方に密営を設けて各地で食糧工作をしていたが、馬東煕と張曽烈が逮捕された後、部隊に呼びもどされていた。白永哲は国内に踏み入った瞬間から警察の追撃を受け、言い知れぬ苦労の末に朴達、金鉄億、李竜述らに会った。わたしは連絡グループと一緒に白頭山にやってきた朴達一行に、破壊された革命組織を立て直し、国内革命に新たな高揚をもたらす任務を与えて再び甲山地方へ送り込んだ。
朴達一行とともに再び国内に入った白永哲は、束薪地区で工作中に日本人警官と遭遇した。腹部に銃弾を浴び腸を押えて抵抗をつづけたが、逮捕されてしまった。日本人警官は彼を土穴の中に座らせ、道行く人に「共産匪賊」だといって石を投げさせ、生き埋めにした。朴達と国内党組織を救援する闘争は、じつに莫大な努力と犠牲をともなった。敵は朴達を捕えようと、密偵と裏切者を各地に送り込み、山という山はすべて捜索する騒動を起こした。朴達は国内党工作委員会委員として、われわれを助けて国内における党組織の建設と反日民族統一戦線運動の拡大に大きな貢献をした。彼は国内党組織を担当した主要人物であった。
国内における党組織の建設をおし進めるうえで、金平、権永璧、金正淑などの政治工作員も重要な役割を果たした。彼らは新坡、豊山、狼林、赴戦、興南、新興、利原、端川、虚川など北部朝鮮と長白一帯で折り重なる難関と試練をのりこえ、各地域に党組織をつくって共産主義者をかたく結集した。
わが党の前衛闘士の積極的な活動によって国内の広い地域に党組織が急速に拡大された。甲山、新坡、豊山などの咸鏡南道、咸鏡北道と陽徳地方、そして平壌、碧城など西部朝鮮一帯の多くの鉱山、炭鉱、工場、農村、漁村、都市に革命組織がぞくぞくと建設された。赤色労組運動や赤色農組運動の熱風がおさまっていた地域では、再び革命的な労組運動と農組運動が息を吹き返した。従来の労組、農組が再組織、再編成される過程は、そのまま党組織が生まれる過程と一致した。党組織と祖国光復会組織は北部朝鮮一帯ばかりでなく、遠くソウルをはじめ中部朝鮮一帯と慶尚道、全羅道一帯にまでいたり、済州島と玄海灘を越えて日本にまで拡大された。
国内における党組織の建設は、長白と臨江一帯での党組織建設との密接なつながりのもとに推進された。党組織は長白、撫松、臨江一帯の朝鮮人居住地域にも根を下ろし、東満州と南満州一帯にも拡大された。党組織の建設が全国的・全民族的範囲で強力に推進される過程を通じて、分散して活動していた共産主義者が組織的に結束され、朝鮮革命全般にたいする党の指導がさらに強化された。朝鮮人民革命軍党委員会の統一的な指導のもとにすべての党組織が動く、全国的範囲の強力な党組織体系が確立された。
これは、われわれが抗日革命闘争でかちとったいま一つの大きな獲得物であり、白頭山へ進出して以来、鴨緑江と豆満江沿岸地区で得た軍事作戦上の勝利に劣らぬ政治的勝利であった。党組織建設のためのわれわれの血みどろの闘争は、祖国の解放を早める力強い推進力となったばかりでなく、自主的な党創立の偉業をりっぱに完遂しうる強力な基礎となった。派閥争いと理論の欠如、実践能力の不足のため疎外され軽視されてきた朝鮮共産主義運動は、抗日武装闘争の炎のなかで自己の新たな道を力強く切り開きはじめたのである。
3 白頭山麓での戦い
われわれの白頭山進出後、長白県を含む東辺道、とりわけ北部東辺道一帯は、関東軍と満州国治安当局にとってじつに頭の痛い最悪の「治安不良地帯」になった。日満軍警は神経をとがらせて東辺道を注視した。長白地方のさまざまな事件が新聞紙上をにぎわした。それまで治安良好地帯とされていた白頭山麓が物情騒然としてきたのである。
日本侵略者は満州占領直後から、朝鮮とならんで満州をアジア制覇の戦略的基地にしようと東辺道の治安にも深い注意を向けた。東辺道は、中国の北洋政府が東北地方を遼寧、吉林、黒竜江の三省と十道に分けるさいに設けた一行政区域で、現在の吉林省と遼寧省の一部を含む広大な地域である。東辺道は鴨緑江を境に朝鮮と隣接していたので、「鮮満一体化」の理念からしても、また膨大な鉱物資源と森林資源を擁しているという経済的側面からしても、日満の政界や実業界はもとより、軍部も特別な関心を向ける重要な対象地の一つとなっていた。
ところが、その北部地域をわれわれが完全に掌握し、鴨緑江沿いに南下しながらたえず軍事・政治活動を展開したのだから、敵も驚かざるをえなかった。あわてふためいた関東軍は、東辺道を含む満州一帯に恒久的な治安対策を立てるとして「満州国治安粛正計画大綱」なるものを策定し、満州国政府はそれにのっとって「三か年治安粛正計画要綱」を発表した。ここで中心的な特別工作対象地とされたのが、ほかならぬ北部東辺道(長白、臨江、撫松、東崗、輝南、金川、柳河、通化、集安の各県)であった。満州国は、中央に「東辺道復興委員会」を、通化に「東辺道復興弁事処」および「東辺道特別治安維持会」を設ける一方、満州国軍部
日本軍部の神経をもっとも強く刺激したのは、朝鮮人民革命軍の各部隊が西間島で連日のように銃声をあげ、その裏で各地に白頭山密営網と地下解放戦線を核とする新しい形態の革命根拠地がつくられていることであった。そこで東京では、植民地朝鮮の
南と植田の密談につづいて、随員の関東軍憲兵隊司令官東条と朝鮮総督府警務局長三橋の会談がおこなわれた。これらの会談で採択されたのが、国境警備の強化、大規模な共同討伐作戦の展開、西間島一帯の集団部落化を骨子とする抗日武装部隊圧殺のための「三大政策」である。東条と三橋の会談では、双方の連合行動を強める具体的な対策が討議された。「三大政策」の核は一九三六年の「冬季大討伐」であり、その主要目標は朝鮮人民革命軍司令部が位置する白頭山であった。「冬季大討伐」が従来の作戦と異なる点は、満州に出陣した朝鮮駐屯日本軍兵力と在満関東軍との混成討伐作戦であったということである。その戦術
は、大兵力による包囲と、髪をくしけずるように谷や尾根をくまなく捜索する新しいすきぐし戦法を組み合わせたもので、その年の冬の間に抗日武装部隊を完全に掃滅するのが目的であった。これによって、朝鮮総督府は「治安維持と国境警備の強化」を第一の課題として国境警備兵力の増強と防御施設の拡充に努め、日本帝国の国家予算から莫大な追加資金の支出まで受けることにした。朝鮮駐屯日本軍部隊と特設国境警備隊、国境一帯の警察部隊には大挙出動命令が下った。関東軍も東辺道に最大の関心を向け、討伐作戦の準備をおし進めた。
白頭山を中心に、鴨緑江と豆満江に沿った国境一帯にはさまざまな討伐部隊が大々的に投入された。
南部朝鮮の警察部隊も北部の山岳地帯へ移動した。チチハルの関東軍部隊は白頭山方面へ南下しはじめ、朝鮮駐屯日本軍第一九師団傘下の部隊も鴨緑江を渡った。日満警察部隊と満州国軍討伐隊も出動した。鴨緑江沿岸には警察官駐在所がいちじるしく増設され、随所に検問所が設けられ、川のあちこちに電話線が張りめぐらされた。このころから、彼らは警察官の妻にも射撃の練習をさせた。せいぜい牛車や馬橇しか見られなかった白頭山一帯の山間奥地の細道を砲車や輜重馬車が通り、密林のいたるところに軍馬がひづめの跡をつけはじめた。
白頭の密林はその年の初冬から討伐隊で埋めつくされた。彼らは「今回の討伐を最終的なものとし、治安を決定的に確立する」とし、白頭山一帯の密林をくまなく捜索した。白頭山麓では、朝鮮人民革命軍と日本侵略軍の新たな決戦が刻々と迫っていた。形勢はわれわれにたいへん不利であった。まず兵力のうえで、敵は比較にならないほど優勢であった。それに航空隊の支援まで受ける精鋭部隊がその基本をなしていた。彼らは行政、経済、警察などのすべてを動員していたが、われわれには動員すべきなにものもなかった。あるのはただ、人民のひそかな支援だけであった。
軍事上の常識や経験からすれば、このような状況のもとでの攻撃は考えられないことだった。しかし、われわれは既成の慣例や常識を越えて、攻撃を主とする新しい独自の戦法によって敵を守勢に追い込んだ。われわれは一九三六年十一月、黒瞎子溝密営で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を開き、南湖頭会議後の朝鮮人民革命軍各部隊の軍事・政治活動を総括する一方、敵の「冬季大討伐」攻勢を粉砕し、白頭山根拠地を強化する対策を協議した。われわれの基本戦略は敵の数量上、技術上の優勢を思想的・戦術的優勢によって撃破することであった。われわれは戦闘員の思想的決意を強め、それにもとづいて大部隊活動と小部隊活動を適切に組み合わせ、誘引待伏せ、奇襲、鉄壁の防御、そして敵の退路を断ち、隊伍を寸断して掃滅する戦法など、積極かつ能動的な戦術を活用して、戦闘ごとに勝利をおさめた。
われわれの巧みな軍事作戦によって、敵は「冬季大討伐」の開始早々から苦汁をなめた。彼らは朝鮮人民革命軍の各部隊が鴨緑江沿岸に進出した初期、われわれが反満軍部隊と同様にそこで冬を越せないであろうと考えた。しかし、それは誤算であった。敵の討伐が強まれば強まるほど、われわれは退却したのでなく密林の中にいっそう深くひそみ、神出鬼没の術を駆使して白頭山の周辺と鴨緑江沿岸の国境一帯でますます猛烈な軍事・政治活動を展開して敵を守勢に追い込み、新設した白頭山根拠地をうちかためていった。
その年の冬、敵に痛撃を加えた多くの戦闘のなかで代表的なものは、黒瞎子溝入口での戦闘と紅頭山戦闘、桃泉里戦闘、鯉明水戦闘などである。
黒瞎子溝入口での戦闘は、敵の密営奇襲掃討作戦を機先を制して挫折させた防御戦であった。「冬季大討伐」の緒戦から苦杯を喫した敵は、軍事作戦を強める一方、多数の密偵を送り込んで、朝鮮人民革命軍司令部の行方を探り出そうとした。敵の「冬季大討伐」が開始されると、わたしは部隊の主力を率いて、黒瞎子溝密営の方に行っていることが多かった。
そんなある日のことだった。数人の隊員とともに前方の哨所で警戒勤務についていた呉仲洽が、農夫の身なりをした不審な男たちを密営に連行してきた。尋問の結果、敵の密偵だとわかった。彼らは樹林をぬって密営の方へ忍びよっていたところを、その動きをずっと監視していた隊員たちに押さえられたが、狡猾にも、日本帝国主義者の迫害にたえかねて革命軍を訪ねてくるところだ、将軍に会わせてほしい、と空とぼけたという。挙動が疑わしいので身体をあらためると、その一人が腰に刃のするどい手斧を隠していた。それは特務機関が殺人用につくった凶器である。結局、一人は行商人になりすまして何年もスパイ行為を働いてきた悪質な特務で、いま一人は強制されて道案内を務めた純朴な農民であることが判明した。彼らの任務はわれわれの正確な位置を探知し、密林を捜索しながらあとについてくる討伐隊に合図を送ることだった。密偵の自白によると、敵は日満合同討伐隊を編制し、一部隊は二道崗からまっすぐ黒瞎子溝へ押しよせ、他の部隊は十六道溝馬家子の西北側から遊撃隊の密営に近づいており、約束の合図の声をあげればただちに攻撃が開始されることになっていた。密偵は、この討伐は会寧の航空隊が支援することになっているとも言った。彼の陳述は人民革命軍偵察班が収集した情報と合致していた。しかし、敵はまだ包囲の輪を完全に形成してはいなかった。密偵を通じて司令部のおおよその位置をつかんだ敵は、羅南一九師団傘下の日本軍討伐隊と二道崗の満州国軍討伐隊を黒瞎子溝に投入し、朝鮮人民革命軍司令部と主力を奇襲して「不安の禍根」を根絶しようともくろんだのである。
状況はきわめて不利で、急を告げていた。敵が山を捜索しながら密営に近づいている状況のもとで、われわれは密営付近の有利な地帯で敵を叩いてから、ひそかにそこを抜け出し、撤退する敵を三浦洞地帯でいま一度夜襲することにした。黒瞎子溝の南側は深い谷間であった。敵の主力が入り込むはずの谷には、瓶の首のような形の狭い場所があった。谷の両側は崖に慣れたけものでさえ足のつけようもない切り立った絶壁だった。敵兵を追い込んでせん滅するにはうってつけの場所である。
わたしは第二中隊と第四中隊を西北側と東北側の高地にひそませ、谷の奥に偽装陣地をつくらせた。
そして何人かの隊員をそこへ残し、そこに主力がいるかのように火をたき、声をたてるよう指示した。
そのあとで誘引班を送り出した。敵陣に潜入して夜通し騒動を起こし、夜明けに大部隊が行動したかのような痕跡を残して撤収するよう命じたのである。夕闇が迫るころ、誘引班は敵陣に入り込んだ。
その夜の寒さはとりわけきびしかった。しかし、伏兵の位置が発見されないよう、たき火を禁じた。
誘引班は主力が待ち伏せている位置へ敵をおびきよせるため、谷間に大部隊が移動したかのように乱れた足跡を残しながら偽装陣地の方へ登っていった。間もなくそちらの山腹にいくつものたき火の煙が上がり、にぎやかな歌声が響いた。それらは誘引シナリオによる陽動作戦であった。
誘引班を追って谷間に入り込んだ敵の視線は当然、たき火をたいて騒ぎたてる偽装陣地に集中した。敵の尖兵は騎馬隊であった。しばらく立ち止まって谷奥の偽装陣地に目をこらし、ひそひそ話し合っていた騎馬尖兵のなかから、黒馬の騎兵が抜け出し、谷の下手に向けて馬を走らせた。他の二頭もあとにつづいた。半時間ほどして、騎馬尖兵は長蛇の歩兵縦隊をしたがえて再び谷間に現れた。縦隊の各先頭には馬にまたがった将校が長い軍刀をきらめかせながら進んできていた。それが羅南一九師団管下の部隊であった。靖安軍の将校連は馬がなく兵士と同じように歩いていた。後尾には分解した迫撃砲を鞍に乗せた数頭の馬がしたがっていた。他の谷からも敵が入ってきた。明らかに包囲の輪をつくろうとしているのである。百余にすぎないわが方の兵力に比べて、それは五倍を上まわる大討伐兵力であった。
この戦闘で敵を破る秘訣の一つは時間をかせぐことにあった。敵が包囲陣を完成する前に強烈な一撃を加えてからひそかにそこを抜け出し、次の地点に移らなければならなかった。わたしは密偵を処刑する銃声を合図に先制打撃を加えることにした。合図の銃声があがると、敵はまたたく間に壊滅状態に陥った。ほとんどの敵兵が攻撃開始の合図を受ける前にばたばた倒れ、砲弾をこめた迫撃砲が空しく戦場に転がった。黒瞎子溝入口の谷間は敵兵の墓地と化したのである。われわれは戦場を捜索したあと、闇にまぎれてそこを抜け出した。
予想どおり、敗残兵の道案内を受けた敵の増援部隊が日暮れとともに一か所で宿営準備をしているという敵情が、偵察班から司令部へもたらされた。わたしは呉仲洽に、敵の宿営地を夜襲するよう指示した。彼はただちに一個小隊をもって襲撃隊を組んだ。夜間襲撃戦では多くの人員を必要としなかった。
襲撃隊を引き連れて敵の宿営地にひそかに近づいた呉仲洽は、木陰で居眠りをしている歩哨を捕え、簡単に尋問した。宿営の配置状況を確かめず不用意に突入しては、荷役に駆り出された人民に被害が及ぶ恐れがあった。歩哨は口の軽い男だった。彼は、日本軍が宿営地の中央を占め、満州国軍はそのまわりに宿営し、人夫は弾除けとしていちばん外側に配されていると言った。歩哨に立つのは満州国軍だけで、朝鮮から派遣されてきた日本軍はたき火のまわりに濡れた靴を吊るし、正体なく眠りこけている、とも言った。呉仲洽は襲撃隊を三人ずつに分けて巡察兵に仮装させた。合言葉を使って歩哨線を難なく通過し、中央深く入り込んだ彼らは、日本軍のテントに不意の射撃を浴びせた。驚いて飛び起きたテント内の敵兵は靴もはけずにあわてふためき、彼我の区別もつかぬまま盲滅法に撃ち合い、多くの将兵が悲鳴をあげながら倒れた。宿営地は蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。襲撃隊は敵の混乱を見届けると、戦場からすばやく抜け出した。敵兵は夜通し同士討ちをつづけ、多数の死傷者を出した。命からがら逃げ出した者もほとんどが凍え死んだ。靴もはけず、毛皮の外套も着られずに逃げた者たちが白頭山の酷寒にたえられるはずはなかった。敗残兵たちは宿営地に散らばっている数百の死体をそのまま運び出すことができず、首を切って麻袋に入れ、馬車に積んで早々に退散した。
この戦闘のあとも、われわれは鴨緑江右岸の各地で痛快な戦闘をあいついでおこなった。十一月二十日には敵の討伐拠点の一つである長白県十四道溝市街襲撃戦闘をおこない、数日後には十三道溝桃泉里上村の敵を奇襲掃討した。一部の小部隊は十五道溝と十九道溝一帯で政治・軍事活動を展開した。
黒瞎子溝入口での戦闘とあいつぐ戦闘で度胆を抜かれた敵は、その後の二、三か月間、あえてわれわれのいる白頭山付近に近づこうとしなかった。だからといって彼らが討伐を完全に放棄したわけではない。時間をかせいで新たな討伐を強行しようと画策していた。われわれは警戒心を高めた。全部隊が密偵の侵入を防ぐため警戒態勢に入った。他方、敵を軍事的に制圧する新しい戦術的対策も立てた。
白頭山麓はしばらく静穏を保った。
わたしが長白県十九道溝の区長李勲を密営に呼び、地下工作の方向と方法の要領を教えたのもこのころのことであり、援護物資を担いで密営にやってきた十七道溝の住民と話を交わしたのも同じころのことであった。朴達、朴寅鎮との出会い、朝鮮人民革命軍暫定条例の公布、祖国光復会組織の急速な拡大など、これらの事柄のため、一九三六年末~一九三七年初の白頭山地区の冬は、いまもわたしの記憶に印象深く残っている。
その思い出のなかには、長白県十九道溝の農民安徳勲もいる。彼に会ったころは、長白県一帯でわたしにかんする神話じみた話が語り伝えられ、
「将軍は三日先の天気ばかりか、ずっと先のことまで見通すとのことですが、本当でしょうか」安徳勲が金平に投げた最初の質問だった。
「本当ですとも」
金平は平然と答えた。安徳勲は満足げにうなずき、勢いづいてまた尋ねた。
「隣村の年寄りたちの話ですと、将軍は事あるときは目を開き、そうでないときは目をつむっているそうですが、それも本当だと信じてよろしいでしょうか」
「本当だと思ってよろしい。将軍は何事もないときは目をつむっていますが、目を開くと、それこそ大変なことが起こります」
「将軍が縮地の術を使うというのも本当でしょうか」
「本当です。将軍は山を引きよせては四方八方を飛びまわり、東にひらり西にひらりと身をおどらせるのです」
「うわさでは、金将軍が昔の洪吉童(〔 〕)も顔負けの神出鬼没の将帥だと聞いていましたが、やっぱりそうだったんですね」
いずれもあきれるような質問であり、返答もそれに劣らずあきれたものだったが、主人が真顔で質問し、客もそれに劣らず真剣な顔つきで答えるので、わたしはその問答に口をはさむこともできず、黙って聞いていた。とりわけ驚いたのは、あんなに正直で生一本な金平がそんな途方もない返答をしながらも、いっこうに悪びれず、照れた様子も見せなかったことである。
安徳勲は金平に、あんたは将軍に何回ほど会ったのか、いま将軍がこの村に来ているのかと聞いた。金平はこの問いにも、しょっちゅう会っている、金将軍はいまこの村に来ている、と答えた。主人がちょっと座をはずしたすきに、わたしは、なぜそんな愚にもつかぬことを言うのか、と金平を軽くたしなめた。金平は笑って、人民がうわさを信じているからには、それを百パーセント肯定してやらなければならないと言うのだった。人民が、朝鮮に天の下した神秘的な将帥がいると言うのは、そのような将帥が現れて祖国を取りもどしてほしいと思っているからであり、そのような将帥が本当にいると信じるならば、奪われた祖国を必ず取りもどせると確信してわれわれにしたがい、反日聖戦にいっそう力強く奮い立つであろうからだと言うのである。
「同胞たちはいま、日本侵略者がいくら威張っても、わが民族のなかには神術に通じた将軍がいる、だから日本侵略者を恐れることもしりごみすることもない、金将軍にしたがって戦えば必ず朝鮮を独立させることができる、と考えはじめているのです。これは司令官同志一個人にたいする崇拝ではありません。それはわが朝鮮人民革命軍への絶対的な信頼であり、期待なのです。人民がそう望んでいるのに、わざわざ否定して失望させる必要がありましょうか」
わたしは金平の言い分を聞き、今後、軍事作戦をより大胆かつ巧みにおこなって人民の期待と信頼にこたえようと思った。金平の言葉どおり、わたしについての伝説じみた話から人民は大きな力を得ていた。朝鮮に日本侵略者を震え上がらせる将軍がいると聞いて、心身を引き締めた多くの熱血青年が競って人民革命軍に入隊した。正直な話、われわれはこの民間説話のおかげをずいぶんこうむったわけである。その後、安徳勲も人民革命軍に入隊した。彼は他の隊員に劣らずりっぱに戦い、濛江のある戦場で倒れた。李致浩は落葉と雪で遺骸を埋葬するほかなかったそのときのことを、のちのちまで胸を痛めながら追憶した。
敵がわれわれの密営地に再び接近しはじめたのは、一九三七年の新年に入ってからである。満州と朝鮮の北部国境地帯に出没する抗日武装勢力を一撃のもとに掃討しようとした企図が失敗すると、昭和天皇は軍部の提言をいれ、侍従武官四手井を特使として派遣し、革命軍の猛烈な遊撃活動によって「治安維持」が破綻した鴨緑江沿岸の国境一帯を一か月ほど現地視察する一方、朝鮮総督南と関東軍司令官植田、それに朝鮮駐屯日本軍司令官小磯らとともに、人民革命軍への討伐攻勢を強める対策を討議するよう命じた。勅命を受けた侍従武官は、東京から空路鴨緑江を越えてやってきた。これを機に、敵は討伐にいちだんと熱を上げた。
紅頭山密営への敵の奇襲討伐は、四手井が国境一帯の視察をおこなっている最中に強行された。そのとき、革命軍の給養係は旧正月の準備に余念がなかった。人民革命軍の基本戦闘部隊は前方発進基地の地陽渓密営と黒瞎子溝密営の方に出動し、わたしは護衛兵たちと一緒に紅頭山密営に残っていた。しかしやむをえぬ事情で、旧正月を二日前にして紅頭山密営を離れた。わたしはまず、紅頭山と横山のあいだの谷間に位置している多谷嶺密営に寄って金鼎富を慰労し、そのあと白頭山最後方の密営へ向かった。『三千里』誌に紹介された、わたしと金鼎富との会見の場がその密営である。白頭山最後方の密営とも言われる横山密営には、病弱な児童団員たちが保養生活を送っている小屋、李桂筍、朴順一ら病弱者や患者を治療している病院、朴永純の兵器修理所、朴洙環の裁縫隊などもあった。心臓病を患っていた魏拯民もそこで療養生活をしていた。そのころは、「パイプじいさん」以下書記処のメンバーも「天にいちばん近い村」であるここで仕事をしていた。
わたしは密営の人たちの活動や生活状況を確かめ、必要な対策を講じてから、金平、権永璧ら何人かの軍・政幹部を参加させて朝鮮人民革命軍党委員会を開いた。会議ではまず、黒瞎子溝軍・政幹部会議以後の朝鮮人民革命軍主力部隊の軍事・政治活動を総括し、敵の「冬季大討伐」を決定的に粉砕する当面の闘争課題を討議した。とくに桃泉里、鯉明水境界線と撫松地区への戦闘部隊の戦術的および戦略的移動問題、国内進攻作戦の時期選択の問題などが論議された。この問題は後日、西崗会議でさらに具体的に討議された。会議ではつぎに、朝鮮人民革命軍党委員会の組織体系の確立問題を討議し、権永璧を委員長とし、李悌淳を副委員長とする長白県党委員会と、李悌淳を責任者とする祖国光復会長白県委員会を組織した。その日の朝鮮人民革命軍党委員会は、敵の「冬季大討伐」を粉砕し、白頭山根拠地を守るうえでも、またわが国の党組織建設史のうえでもきわめて重要な意義をもつ会議であった。
この会議には魏拯民も参加した。横山で迎えた旧正月はたいへん印象的だった。朴永純が空き缶でつくった製麺器でノンマ麺を打ち、正月祝いの食卓にのせたのはこのときのことだった。裁縫隊ではギョーザを、病院の人たちはうどんをつくった。横山の人たちはいろいろと珍しいご馳走をつくって、われわれをもてなしてくれた。魏拯民は、横山密営でわたしと一緒にノンマ麺をおいしく食べた一九三七年の旧正月のことをその後もよく思い出し、機会あるごとに朴永純の腕前をほめたものである。
一九三七年の旧正月のことを思い起こすたびに、喬邦信という中国人警護隊員の顔が目に浮かぶ。あのとき、喬邦信はギョーザを十五個も食べたうえ、さらにそばを二杯もたいらげた。彼ら五人兄弟は地陽渓で同時に革命軍に入隊した。彼は末弟だったので、われわれは彼を「小(ショウ)五(ウ―)子(ズ)」(五番目)と呼んだ。「小五子」があるとき手に傷を負った。その傷をわたしがかみそりで手術した。麻酔なしの荒療治だったので、ひどく痛かったはずである。それでも彼はりっぱにたえた。手術の跡がなかなかいえず、かわやへ行っても彼は自分でバンドを締めることができなかった。それで、いつもわたしが彼の世話をやかなければならなかった。靴が濡れると、脱がせて火に乾かしてもやった。あるとき、会議に参加するため警護隊員を伴って安図県五道揚岔へ行き、裏切り者の密告で敵に包囲されたことがあった。そのとき喬邦信は非常に勇敢に戦った。しかし惜しくも、そこで彼の兄が一人戦死した。
横山で旧正月を楽しく過ごし、その翌日、紅頭山密営に帰ったのだが、帰営してしばらくすると、遠方監視所の方から不意に銃声が聞こえた。状況は緊迫し、形勢はわれわれにきわめて不利であった。味方の兵力は李斗洙中隊の何人かの隊員と、わたしを護衛する機関銃班員たちだけだった。敵の兵力は少なくとも五百名を越えていた。それに遠方監視所で敵を発見したのは、敵兵がわれわれを制圧しうる監視所の高地にほとんど登りつめたときだった。わたしはすかさず、南側の尾根をいち早く占めるよう隊員たちに命じた。そして李斗洙中隊長には、監視所から隊員たちを引き揚げさせ、敵に道を開いてやるよう指示した。撤収する隊員は敵の目につくつるぎ尾根づたいに下りてくるように命じた。それは一歩踏みはずせば深い谷間へ転がり落ちて雪に埋もれかねない一本道だった。その一本道に敵を誘引すれば、一人で百人、千人もの敵を倒せるのである。紅頭山の南側の尾根は、つるぎ尾根に押しよせる敵を手に取るように見下ろしながら猛射を浴びせうる戦術的要所で、退却する敵を下の谷底へ追い込んで撃滅できる所であった。命令を受けた監視兵たちは敵をつるぎ尾根の方へ誘引した。つるぎ尾根と南側の尾根のあいだの谷間は文字どおり「陥穽谷」となった。われわれの勝利に与したいま一つの要因は、李斗洙がわたしの命令で南側尾根の斜面に氷を張らせておいたことにある。その氷の斜面にさえぎられ、敵兵は一人としてわれわれのいる尾根に登ってくることができなかった。
紅頭山戦闘は、軍事常識からすればとうてい考えられない戦いであった。けた違いの少数兵力であったが、われわれは敵をほとんど全滅させたのである。わが方では中隊長の李斗洙が銃創を負って、後方病院に送られたにすぎなかった。
戦闘後、わたしは敵の宿営地に夜襲隊を送る一方、撫松方面へ抜け出す対策を立てた。敵はいったん退却したとはいえ、増援部隊とともに再び攻撃を加えてくるに違いなかったからである。わが方の兵力はあまりにも少なく、ここで戦いをつづけるのは好ましいことでなかった。こんなときはひそかに抜け出すのが上策である。われわれが撤収対策を討議しているとき、谷はずれの方から遊撃隊の突撃ラッパの音が鳴り、つづいてけたたましい銃声が響いてきた。呉仲洽の部隊が敵を撃滅しているのであった。呉仲洽は、討伐隊が紅頭山方面へ押しかけていることを人民から知らされ、司令部の安全を気づかって急遽駆けつけたのである。彼はわたしが送った夜襲隊とともに敵の宿営地の中心部に突入し、猛射撃を浴びせて残り少ない敗残兵を一人残らず掃討した。呉仲洽は敵を撃滅すると、韓益洙をわたしのもとへ差し向け、部隊を引率して紅頭山にやってきてもよいかを尋ねてきた。わたしは、紅頭山密営にたいする敵の襲撃は完全に挫折したのだから、本来の計画どおり行動すればよいと指示した。呉仲洽はわたしの指示を受けてからも、司令部の安全を確認してからやっと黒瞎子溝へもどっていった。呉仲洽はじつに忠実な人だった。
紅頭山戦闘のさい、日本軍の荷を運び、死体の処理までさせられた二道崗のある農民は、後日わが国の踏査団員にこう語ったという。
「あのとき、日本軍は人夫を一戸当たり一人ずつ徴発しました。そんな所へ一度引っ張り出されるとほとんどの人が足に凍傷を負い、なかには足の爪がみな抜けてしまう者もいました。はじめて引っ張っていかれたときはこわかったし、また、実際に戦場にうつぶせているときは、全身に冷や汗が流れたものです。けれども、戦闘はいつも遊撃隊の勝利に終わったので、内心どんなにうれしかったか、疲れがふっとんでしまうほどでした。でも、やつらが逃げていくときは、あの汚らわしい死体を引いてこいと言われるので、いやでたまりませんでした。紅頭山戦闘のときも、死体があまり多すぎて、担架では全部運べず、死人のゲートルをほどいて首に巻き、ずるずる引っ張っていきました」
いつだったか、訪朝した日本のあるジャーナリスト代表団に会ったときのことであるが、そのなかに非常に背の高い新聞記者がいた。会見の席上では黙ってメモばかりとっていた彼が、昼食会のとき不意に口を開き、心のうちを腹蔵なく語り出した。金主席は「白頭山の虎」と言われていた方なので、恐ろしい人だろうと思っていたが、きょう会って見ると、ずいぶん親しみがわく、じつは、自分は紅頭山戦闘で度胆を抜かれた旧日本軍少尉だ、と話したのである。そして、自分は夜襲をかけられたとき歩哨の点検に出ていたので危うく命拾いをした、ところが生きて帰ったというので憲兵隊で活を入れられるなど、さんざんな目にあわされた、それが腹に据えかねて軍職を離れ、のちに記者になった、と言うのだった。
紅頭山戦闘に参加した敵軍は日満合同討伐隊であった。ところが、そのとき戦死したのは日本軍だけで、満州国軍のほうには死者がなかった。日本軍将校は満州国軍将校に向かって、戦死したのはみな皇軍で貴様たちだけ生き残ったのはどうしたわけだ、パルチザンの銃弾が皇軍にだけ当たる磁石をつけていたとでもいうのか、そんな磁石などあるわけはない、貴様たちが生き残ったのは遊撃隊と内通している証拠だと言って、殴ったり蹴ったりしたという。
われわれが紅頭山でけた違いの敵と戦って勝利しえた要因はなんであろうか。それは、遊撃隊員の強靱な精神力であったといえる。必勝の信念、不屈の闘志、自力更生、刻苦奮闘の革命精神、献身性と犠牲精神、これらの精神は今日わが国で「白頭の革命精神」と一般に言われている。数倍あるいは数十倍の敵を前にしてもうろたえたり絶望したりせず、必勝の信念と不屈の闘志、自己犠牲の精神をもって戦ったので、われわれはいつどこで、いかなる敵と戦っても敗れることがなかった。
抗日遊撃隊員の必勝の信念と不屈の闘志が、どれほど強烈であったかを実証する例は枚挙にいとまがない。李斗洙は岩屋の病院で、李桂筍や朴順一ら三、四人の傷病者と一緒に宋医師の治療を受けながら苦しい日々を送っていた。病院とは名ばかりで、満足な薬や注射器もなく、メスのようなものもなかった。しかし、その貧弱な病院にも「白頭の革命精神」だけは横溢していた。
重患の朴順一は第二師の軍需部長だったが、手当てが遅れたために足が腐りはじめていた。普天堡戦闘の直後、わたしは病院に食糧と一緒に戦利品の医薬品や缶詰、夏の軍服、靴などいろいろな物品を送り、病魔に必ずうちかつこと、全快後戦場での再会を希望する、という内容の手紙もそえて送った。
手紙を読んだ朴順一は、空き缶でつくった手製ののこぎりを取り出し、腐った足を自分の手で切断すると言いだした。宋医師や他の同志たちはその決心をひるがえさせようとし、別の方法を考えてみようと言った。しかし彼の決心はにぶらず、同情する仲間たちを消極的だとたしなめさえし、自分は前から足をこの手で切断する覚悟を決めていた、この決心を実行に移すにはきみたちのちょっとした手助けが必要だ、足を押さえてくれ、早く全快して革命の持ち場へ帰りたい、と言うのだった。彼はしなりがちなブリキののこぎりで丸六日間、革命歌をうたいながら腐った足を自分の手で切断し、そのあとで気を失ったという。幸いにも傷口は徐々に癒えた。
その年の初冬、彼らは病院をいっそう深い山奥に移し、小屋をかけて過ごした。ところが、その病院が討伐隊の捜索にかかった。一番先に敵を発見した朴順一は、同志たちを救う一念で、自分を生け捕りにしようとする敵兵に組みつき、「討伐隊だ」と叫んで崖下に転がり落ちた。革命のためわが足を自ら切断してまで命を保とうとしながらも、同志たちのためには惜しみなく命をささげるこのような人たちが、白頭山で生き、戦ったのである。朴順一の叫び声のおかげで、木を伐りに小屋を出ていた李斗洙は容易に難を避けることができた。しかし、李桂筍ら数人は捕らわれ残りは戦死した。
戦友たちも、小屋も、食糧もなく、山中にひとり残った李斗洙は筆舌につくせぬ苦しみを味わった。丸六日間、一粒の穀物も口にできずに過ごしたあと、李桂筍が食事の支度をするたびに幾粒かずつとっておいた食器二杯分ほどの大豆を発見した。それを食べつくしてからは、イノシシの餌と言われるトクサを噛みながら命を持ちながらえた。あの白頭山のきびしい酷寒のなかで、衣服までぼろぼろになって古い麻袋の切れ端で身を包み、原始人のように野外で過ごさなければならなかったのだから、その苦しみをなんと表現できようか。カラスはまわりの木々に毎日のように群がって、騒々しく鳴きたてた。ときにはかわるがわる降りてきて、彼の顔を羽でなでたりした。李斗洙はもう死んだほうがましだと考えた。灰の中に埋めてどうにかもたしてきた火種まで消えてしまったのである。しかし、死を覚悟した瞬間、全快して戦場で会おうと言ったわたしの言葉や、戦友の安全をはかって崖下に転落した朴順一の最期が思い出されたという。
「わたしには死ぬ権利がない。自ら死を選ぶのは、わが身を犠牲にしてわたしを助けてくれた同志への裏切り行為だ。生きて再び戦場に立てというのは司令官同志の命令だ。わたしにはこの命令に背く権利がない」
李斗洙は生きるために必死の努力を払った。食糧も衣服もない絶海の孤島にひとしい山中で、じつに三か月と二十日間を独りで過ごし、奇跡的に一命を取りとめたのである。李斗洙と同様、朴順一や李桂筍、そして戦死したすべての戦友もやはり、肉体は塵土となって消え失せようとも、精神は白頭の霊峰のように烈々たる不死鳥であった。
われわれは紅頭山戦闘後、つづけて桃泉里戦闘、鯉明水戦闘をおこなった。紅頭山戦闘を終えると、わたしはただちに部隊の主力を率いて長白県下崗区方面へ移動した。敵が白頭山周辺一帯に再び大兵力を集中して大捜索戦を展開している状況のもとで、新たな軍事作戦をおこなうには、彼らの注意をほかへそらせる必要があったのである。主力部隊の下崗区方面への移動は、敵の討伐兵力を分散させ混乱を引き起こしたあと、「冬季大討伐」を決定的に粉砕するための戦術であった。もともとわれわれは、旧正月後、南満州の戦友たちとも会うことを約束していた。
部隊が腰房子付近の村に入ると、宿営命令を下し桃泉里へ偵察班を送った。彼らは途中、小部隊に敵情を知らせにくる桃泉里地下組織メンバーの一人に会った。その通報によると、われわれの大部隊と小部隊の組み合わせ戦術にかかって一冬中翻弄され、無駄骨を折った靖安軍部隊が、われわれとの戦いにけりをつけると称して、司令部の行方を捜し求めているということだった。腰房子から桃泉里または崔令監谷へ行くには、白樺やシラカシ、背丈を越すアシやカヤなどがからみあって延々とつづく細道を通り抜けなければならなかった。われわれはこの道を通って桃泉里上村へ行ったが、そのとき、伝令兵の崔金山が低木の茂みに入って、とげに目を刺され騒動を起こしたものである。
もし、この十二キロの道へ敵軍を引き込むことができれば、彼らは一列になって行軍するほかないので、われわれの基本部隊が倒木にさえぎられた要所要所に待ち伏せていて、容易に寸断し掃討できるに違いなかった。わたしは、まず小部隊誘引戦で敵を疲労困(こん)憊(ぱい)させたあと、大部隊による伏兵戦で徹底的に掃滅する決心をし、呉仲洽を司令部に呼んだ。彼には敵軍を台地の細道へ誘引して寸断し、撃滅する任務を与えた。誘引班は敵の行軍縦隊が現れると、その先頭隊列に一斉射撃を加えた。そしてすばやく身をひるがえし、伏兵隊の隠れているいばらの台地へ移動した。その意図を知るよしもない敵軍は、やみくもにそのあとを追った。誘引班はいばらの茂る台地の道へ入り込んだ。いばらは、山になれていない敵兵には鉄条網にもひとしい障害物であった。このいばらに悩まされて、敵の隊伍はおのずと切れ切れになった。そのずた切れの隊伍に伏兵隊が猛射を浴びせた。敵兵は谷間を右往左往し雪を血に染めて倒れた。数百にのぼる兵力がわれわれのこま切り戦術にかかって惨敗を喫したのである。日が暮れかかるころ、敵は多くの死傷者を戦場に捨てて桃泉里へ逃げ去った。
桃泉里地下組織から、敵がその晩のうちに本拠地に引き揚げようとしている、と知らせてきた。われわれの夜襲を恐れてあわてているというのである。部隊が集結場所から桃泉里前の道路へ行き着くには、少なくても二時間余りかかる。そこまで行く時間をかせぐには、なんとかして敵の出発時間を遅らせる必要があった。そこでわたしは、できるだけ敵の夕食準備を引きのばすよう桃泉里地下組織に指示した。桃泉里地下組織は部隊が山から降りて伏兵陣をはる時間をつくるため、ずるずると食事の支度を長引かせた。敵はいらいらして早く夕食をつくるよう催促したが、地下組織メンバーの区長鄭東哲は誠意をこめているかのように、靖安軍のみなさんがせっかくわたしらの村に来たのに、粗末な接待はできないとニワトリをつぶさせたり、米を搗かせたりして夕食の支度を遅らせた。結局、敵は真夜中近くになってようやく村を発った。それは、われわれが桃泉里前の道路の左右に伏兵陣をはり、半時間ほど待っていたときだった。
この伏兵戦で、われわれは靖安軍部隊を完膚なきまでに打ちのめした。カヤの茂った台地には敵の死体が転々としていた。遊撃隊員たちはそれらの死体から銃を取り上げて悠々と引き揚げた。この死体の運搬に二十四頭の牛が駆り出された。牛橇一台に九体ずつ乗せ、十三道溝まで運んでいったという。それ以来、人びとは「牛橇一台に九つ、二十四台なら合わせていくつになる?」と言い合って敵の敗北をあざ笑った。
桃泉里戦闘後、部隊は富厚水谷へ移動した。そこで、われわれは南満州の戦友たちに会い、彼らとの連合作戦でいま一つの痛快な戦闘をおこなった。それは敵の「冬季大討伐」作戦を決定的に粉砕した最後の戦闘であった。敵が全力をつくして構想し、強行した「冬季大討伐」の撃破と朝鮮人民革命軍の連戦連勝によって、長白の地は完全にわれわれの天下になった。日本帝国主義者は朝鮮人民革命軍を軍事的に制圧し、革命軍の祖国進出を阻もうと必死になったが、戦うたびに惨敗をまぬがれなかった。彼らはわたしを政治的、道徳的に葬ろうと「匪賊の首魁」「共匪の首魁」などとそしり、ありとあらゆる策を弄したが、それも効を奏さなかった。そうなると彼ら自身も、われわれの遊撃戦術を「神出鬼没」「昇天入地」などと言って恐れた。
日満軍警は、千変万化のわれわれの戦法に手も足も出なかった。敵がもっとも恐れたのは「ラワ戦法」であった。彼らは出版物や内部の訓令で、山岳地帯で「ラワ戦」のわなにはまらないよう、繰り返し強調した。いったん「ラワ」にかかると、誰も抜け出せないという恐怖心が日満軍警のあいだに熱病のように蔓延した。「ラワ戦法」とは、朝鮮人民革命軍のもっとも代表的な遊撃戦法の一つである伏兵戦に日満の軍警がつけた名である。「ラワ」とは羅網の中国式発音で、天と地のどこにも抜け穴のない天羅地網、つまり包囲網、わなという意味である。
一九三六年末~一九三七年初の「冬季大討伐」で敗北を喫した敵は、その討伐経験を語るさい、われわれの「ラワ戦法」でさんざんな目にあったことをよく話題にした。満州警察誌『鉄心』は、一九三七年五月号に掲載した混成旅団の軍事教官石沢の「
われわれの遊撃戦術についてはコミンテルンの学校でも注意を向けたようである。抗日革命闘士朴光鮮は機会あるたびに、コミンテルン学校の教員が朝鮮人民革命軍の遊撃戦法についてよく強調していた、と回想している。ソ連にはコミンテルンの運営する学校がいくつかあったが、当時、満州地方の共産主義者はそれらの学校をコミンテルン学校、またはコミンテルン大学と呼んでいた。コミンテルン学校は世界各国の革命組織から推薦されてきた留学生や共産主義運動家の政治・軍事教育を目的としており、朴光鮮もそこでしばらく学窓生活を送った。
朝鮮人民革命軍が長白の地に上げた銃声は、総督府の首脳をはじめ朝鮮駐屯日本軍警、日本本土の政客や軍閥、資本家を戦慄させた。侵略者や反動勢力はその銃声に驚愕したが、朝鮮人民は喜び勇んだ。われわれは長白で展開した大胆な軍事作戦によって連戦連勝し、朝鮮人民革命軍の祖国進出への道を切り開いた。これらの作戦によって、朝鮮革命の事実上の主力である朝鮮人民革命軍の地位は確固不動のものとなった。
わたしは、われわれが長白でおこなった戦いが世界を震撼させる大規模なものであったとは考えない。世界の戦史には数千、数万、ひいては数十万の死傷者を出した大戦役や大決戦がいかに多かったことか。われわれが一回の戦闘に投入した兵力はわずか数百名にすぎず、敵の死傷者も三けたか四けたにすぎない。しかしわたしは、これらの戦いを大きな誇りをもって振り返るものである。わたしが重視するのは、苦しい戦いのなかで発揮された革命軍の魂である。人民革命軍の意志は敵を圧倒した。敵を精神的に圧倒すれば、勝利は必然的にもたらされるものである。われわれが長白の地で展開した血戦の跡を大切にする理由はここにある。
4 朴寅鎮道正
祖国光復会機関誌『三・一月刊』の創刊号には「天道教上級領袖の某氏、わが光復会の代表を親しく訪問」という見出しの短い記事が載った。この記事は、内外に有力な大衆的地盤をもつ天道教委員の某氏が、ほとばしる愛国的熱情をいだいて自ら祖国光復会代表のわたしを訪ねてきたことと、彼が祖国光復会の綱領と主張にすべて賛同し、同時に天道教青年党の百万の党員を朝鮮独立戦線に立たせる意向を表明し、以後、祖国光復会とより緊密な連係を保つことを確約したというニュースを伝えている。
この記事の主人公某氏とは朴寅鎮道正(教区の管理責任者)である。秘密保持のため某氏とせざるをえなかった数行の記事の裏には、一冊の本にしても書ききれないほどの深いいわれが秘められていた。彼がわたしに会うため白頭山密営に訪ねてくるまでの内幕を知るには、同号に載った血潮たぎる青年愛国勇士が人民革命軍に続々入隊したという記事と結びつけてみる必要がある。その記事にはこういうくだりがある。
「祖国西北部各地の血潮たぎる青年愛国勇士は、毎日七、八名ずつ群をなして鴨緑江、豆満江を渡り… 金師長部隊に入隊している。…彼らは朝鮮国内の地勢や道路、各地の状況にくわしいので、武装隊の前衛として国内出入りの先頭に立つことを志願した」
われわれが国境地帯に進出して二度目か三度目かに新昌洞村へ行ったときのことである。その村の青年数名がわたしの所に訪ねて来て入隊を志願した。国境地帯の入隊志願者なので、身体に異常がなければ全員入隊させるよう指示した。ところが李東学は、他の青年は全員合格させてもよさそうだが、豊山出身の「天道屋」だけは一考を要するのではないか、統一戦線にもほどがある、天道教を奉じる宗教信者をみだりに革命軍に入隊させてよいものだろうか、とかぶりを振った。わたしは、村人から「天道屋」と呼ばれている当の青年を司令部に連れて来るよう李東学に命じた。身なりは見すぼらしかったが、渋皮がむけたさっぱりした青年が李東学にしたがって、なんの気おくれもなくわたしの前に現れた。二重まぶたの目と笑うたびにちらつく金歯が印象的だった。
彼は豊山郡天南面瑟里で嶺北地方の天道教道正の朴寅鎮と同じ村で暮らし、その教育と影響を受けて天道教青年党の党員になった李昌善であった。朴寅鎮の愛弟子という理由で、彼にはつねに警官の監視と尾行がついた。師の朴道正は、豊山で三・一運動を主導したというかどで幾年もの獄中生活をした要注意人物であった。日本人警官は道正の家の軒下に巡察箱をとりつけ、巡察を口実に週に一回定期的に訪ねて来て彼の動向を探り、月に一度は首席巡査がじかにやってきた。その歓迎できない定期的な巡察と不断の監視は李昌善にまで及んだ。道正の家に来る警官は、彼の家を素通りすることがなかった。それで李昌善は師の同意を受け、日本人警官の監視とそのわずらわしさからまぬがれようと長白地方に移住したというのである。わたしが李昌善の入隊をすぐに承認すると、李東学は公正を欠いた判決でも下されたように小鼻をふくらませた。
「司令官同志、宗教信者がパルチザンになったところで、ろくに戦えるはずがないではありませんか。勤労青年もざらにいるというのに、選りによってあんな天道屋を入隊させて隊伍の構成を汚す必要はない
ではありませんか」
わたしは冗談まじりに李東学をたしなめた。
「きみの目はきくようできかないね。李悌淳が人物だということはその場で見抜いたのに、彼が宝物であることは見抜けないんだね。すが目でもないのに、とんでもない見方をするもんだ」
「マルクスも言ったじゃありませんか。宗教はアヘンだと。あんな天道屋が宝物だなんて、頭痛の種にならなければ幸いですがね」
宗教家にたいする彼の偏見は確かに度を越していた。それでわたしは真剣に彼を説得しなければならなかった。
―― 宗教をアヘンだと言ったマルクスの命題を極端に、一面的に解釈してはならない。それは宗教的な幻想に惑わされてはならないという意味で言った言葉であって、宗教家一般を排斥せよという意味ではない。愛国的な宗教家であれば、それが誰であろうとすべて包容し、手を握るべきである。遊撃隊は抗日救国を第一の使命としている愛国的武力であり、労働者、農民だけでなく全朝鮮民族のために戦う人民の軍隊であることを知るべきである。もちろん、遊撃隊で中核的な役割を果たすのはわれわれ共産主義者である。しかし共産主義者が中核的役割を果たす武力だから、他の階層や勢力を排除しようというのではない。たとえ宗教家であっても、本人が望むならためらいなく武装隊伍に入隊させるべきだ。きみは、われわれがいまどんな拾い物をしたのかまだわかっていないのだ。あの青年のルートで甲山、豊山、三水地方の天道教徒のあいだに祖国光復会の種をまくことができ、ひいては嶺北の大地をわれわれの天下に変えることができる。いまにあの青年の価値がわかるようになるから、彼に親切に接し、大事に保護してやりたまえ――
李東学がわたしの言葉をどんな気持で受けとめたかはよくわからない。
新昌洞の村人がつけた「天道屋」というあだなは、李昌善の入隊後にもついてまわった。そのあだなには同志的愛情でなく、非友好的な嘲弄と軽蔑の響きがあった。李昌善はそのあだなを聞くたびに顔をしかめ、反感の色をあらわに示した。密営で新入隊員を歓迎する娯楽会が催されたときのことである。旧隊員と新隊員が交互に出演し、たいへん面白かった。その日、旧隊員は新隊員のために得意の芸をすっかり披露した。新隊員もそれに負けじとつぎつぎに進み出た。ところが、せっかくの娯楽会が司会者の失言でご破算になってしまった。李昌善の番になると司会者が「つぎは新昌洞から入隊した『天道屋』さんの歌を聞かせてもらいましょう」というたいへんな失言をしてしまったのである。機嫌をそこねた李昌善は、歌もうたわず即座に退場してしまった。
これをめぐって部隊内はけんけんごうごうとなった。非難のほこ先は娯楽会の司会者に向けられた。旧隊員でもない新隊員に「天道屋」とはなんたる言い草だ、人を馬鹿にするにもほどがある、というのである。一方では李昌善を尻の穴が小さい人間だと悪く言う者もいた。あだなで呼ばれたからといって、歌もうたわずに退場してしまったら娯楽会はどうなるのか、革命軍の隊員になろうと家を出た大の男が、それくらいのことを根にもつなんて男といえるか、闘士になんかなれはしない、了見が狭い、と非難した。娯楽会の司会者と李昌善をめぐっての相反する論議は、結局、一般的には宗教家、具体的には天道教徒にどう対応すべきかという問題に転じた。わたしは部隊のすべての指揮官と隊員たちに、天道教にたいする見解と立場を明白に解説してやらなければならなかった。
――天道教はわが国固有の民族宗教である。崔済愚が天道教を東学と命名して「西学」(天主教)との違いを明確にしたことからしても、この宗教の民族的性格がよくわかる。天道教はその基本的思想と理念において愛国的で、進歩的な宗教である。それは天道教がかかげた「輔国安民」と「広済蒼生」のスローガンを見ても十分にうかがうことができる。天道教徒は数十年間そのスローガンをかかげ、国の独立をなしとげて万民が幸せに暮らせる理想的な社会を建設しようとたたかってきた。そういう民族宗教を宗教だという理由だけでむやみに排斥し、その教徒を「天道屋」という言葉で侮辱してよいものだろうか――
天道教理念の愛国愛民精神と天道教徒の愛国闘争について解説し、天道教徒に接するうえで必ず守るべき原則的立場と統一戦線政策について再び明白に認識させて以来、李昌善にたいする「天道屋」というあだなはなくなり、そのかわりに「金歯」という新しいあだなが生まれた。そのあだなが遊撃隊伍内で名前のように固着してしまうと、本人もそれに合わせて自分の姓を「金」に、名は「甲夫」に変えて自ら「金甲夫」と称した。後日、彼は政治工作に出るときにもその仮名で活動した。
李昌善は農村生まれであったが、非常に有識かつ聡明で、文化的素養も高いほうであった。とくに歌舞や漫談などが得意で、娯楽会のときは独り舞台を演じるくらいだった。また人あたりがよくて、初めて会った人ともすぐ親しくなった。彼は率直すぎるといえるほどの人間であった。一面、彼にはちょっと英雄気取りのところがあった。彼が入隊して一、二か月しかたっていないときのことである。部隊政治部の組織課長を務めていた金平がわたしの所に来て、「金歯」が自分を中隊政治指導員以上の地位に昇進させるときが来たのではないかと言っている、と話すのだった。当時「金歯」が所属していた中隊の政治指導員の政治理論・実務水準はそれほど高いとはいえなかった。早くから天道教青年党の幹部にまでなったことのある有識な「金歯」にしてみれば自分より劣って見える上級の指導を受けるのがどうも気にそまなかったようである。わたしは李昌善を呼び、彼がまだよく知らない中隊政治指導員の長所と功績について話し、必要な助言も与えた。
――きみは今後、中隊政治指導員にとどまらず、もっと重要な位地につくこともできる。しかし、百里の道も一歩からはじまり、大学生も小学校をへなければならないように、有能な軍事・政治幹部も見習いと訓練の段階をへなければならない。きみはいままで朝鮮人民革命軍の隊員としての見習いの段階をへた。これからは有能な政治工作員になるための段階をへなければならない。わたしはきみを入隊させるときから、今後、天道教徒にたいする政治工作をまかせようと思っていた。きみは一個中隊程度ではなく数百名、数千名、さらには数万名の天道教徒を祖国光復会の組織に結集し、指導する政治工作員になるべきであり、やがてはさらに大きな政治幹部になるべきだ。司令部の組織課長金平と宣伝課長の権永璧を個別担当講師につけるから、政治理論を学び、大衆工作方法と地下活動の経験も体得したまえ。もっとも重要なのは人民的品性を学ぶことだ。謙虚はもっともりっぱな美徳であることを肝に銘じ、革命先輩だけでなく同輩や後輩もすべて師とみなし、一生学びつづける学生の立場に立てば、すべての人に尊敬され慕われるようになるだろう――
その後、わたしは彼を戦闘中隊からはずして司令部の政治部に移した。それ以来、「金歯」は隊内にあっては第七連隊の宣伝幹事として、隊外では天道教方面担当の政治工作員として活動した。後には宣伝幹事の仕事を他の人にまかせ、専門の政治工作員になった。李昌善は朴寅鎮をはじめ北部朝鮮地区の多くの天道教徒を祖国光復会の組織網に吸収するうえで大きな功労を立てた。われわれは彼を通じて朴寅鎮と天道教の内部状況を事前に知り、また天道教徒との接触もした。
朴寅鎮は天道教団で相当な地位の人物であった。文庵という道号をもつ朴寅鎮は、一九〇九年に入道した後、天道教の各級の教職を歴任し、一九三二年に智源布の道正となった。当時、天道教は全国的に二十九の布(ポ)(天道教の教区)があったが、主に豊山、三水、甲山、長白などを包括した智源布は、全国の天道教布のなかでももっとも大きな布組織の一つであったという。朴寅鎮は一名嶺北道正とも呼ばれた。
朴寅鎮の父親は、全琫準(〔 〕)麾下の南接軍で甲午農民戦争の勝利のために積極的に戦った東学党(〔 〕)のメンバーの一人だった。農民戦争が失敗に終わった後、数十万を数える戦争参加者にたいする大虐殺がはじまるや、彼は故郷を後にして全羅道から遠く離れた嶺北の地に身を避けた。朴寅鎮は、父親が昔話のように聞かせてくれた天道教祖たちと父の抵抗の生涯に自らの人生行路を見出した。三・一人民蜂起は、彼の意志と信念を点検する最大の試練であった。彼は豊山で万歳デモを組織し、デモ隊の先頭に立ち一千余名の大衆を率いて官庁に突入したとき、敵弾を受けて重傷を負った。彼は三年間、咸興刑務所と西大門刑務所で獄中生活を送った。だが、そのきびしい獄中の苦しみも、彼の心に深く根ざした信仰心と抵抗精神を抹殺することはできなかった。出獄後、彼は独立軍と手を握って三、四年間各地方を歩きまわり、その援護活動に献身した。しかし、独立軍がこれといった力も発揮できず他国に追われる破目になると、溜め息と涙のうちに彼らを見送り、日本人をそれほど見ずに暮らせる所を探し、豊山郡天南面の深い山奥に家族とともに移住して伝教室を設け夜学も開いた。そして李昌善をはじめ村人に天道教の教理を宣伝し、愛国精神も植えつけた。だが、その山里も完全な避難所にはならなかった。週末と月末ごとに決まっておこなわれる招かれざる客の定期的な家庭訪問は、彼をして豊山を離れざるをえなくした。彼は長白県城の新しい街へ移住した。
李昌善は、人間朴寅鎮を知るうえで参考となる、ある興味深い逸話を聞かせてくれた。朴寅鎮が二十九歳の老チョンガーの身で隣村に見合いに行ったときのことである。見合いがすんだあと、仲人の老婆が彼の意向を聞いた。彼は異存はないと答えた。ところが娘の父親はキセルをすぱすぱ吸うだけでなんの意思表示もしなかった。
「お主は年が二十四歳だというが、本当かね?」
しばらくして、父親は喧嘩でも仕かけるように無愛想に口をきいた。これまでうそというものをついたことがない実直な朴寅鎮は、仲人が自分の年を五歳も減らして二十四歳と言っておいたとはつゆ知らず、二十九歳だと正直に答えた。仲人の老婆は悲鳴をあげた。チョンガーの年が二十を越しただけでも身障者か能なしと疑われた早婚の時代だったので、二十九歳と聞いて娘の父親が顔をしかめたのは当然だった。朴寅鎮はあまりにも貧しかったため、婚期を逸して老チョンガーになっていたのである。娘の父親は彼に爆弾宣言を下した。三十に近い老チョンガーには娘をやる気がないと言うのだった。彼は目がくらむ思いだったが、勇気を出し熱気おびた口調で、わたしに鼻がないのか目がないのか、いったいご主人がなぜわたしを断るのか聞かせてもらおう、と食い下がった。相手側は困惑した様子で、なにも特別な理由があるわけではない、年の多すぎるのが疵だ、うちの娘より十一歳も上なのにそれを無視して婚約を許すとなれば、かわいい娘を育てて年のいったやもめに嫁がせたといういやなうわさが飛びそうなので許せないのだ、と言った。朴寅鎮はそういう答えを聞いても退こうとしなかった。理由がそれだけなら、自分は是が非でもお宅の娘と結婚する、年はとったとはいえ、いまだに女性の手を一度も握ったこともない純粋なチョンガーなのに、どうして男やもめ呼ばわりされねばならないのか、婚約が許されるまでは絶対に引き下がらない、どうしても承知しないというなら娘を袋に入れて担いででも行くから、そのつもりではっきりした返事をしてもらおう、と強引に迫った。
そのとき、娘の兄がにやりとしながら、本当に妹と結婚するつもりなら千円の金を出せ、と意味ありげに耳うちした。千円なら二十頭以上の牛が買える大金である。子牛一頭もない朴寅鎮にとっては想像すらできない金額だった。だが彼はすずしい顔で、娘さえくれれば金は出すと大見えを切った。
老チョンガーの顔を人相見のように見つめていた娘の父親は、ついに婚約を許した。朴寅鎮は老チョンガーの境遇をまぬがれ、その家の婿となった。もちろん千円の金は問題にもならなかった。金の話は、新郎となるべき者の性根のほどをうかがう一つの試しにすぎなかったのである。確かに朴寅鎮道正は気骨があり、自尊心が強く、豪胆で闘魂たくましい人であることが読みとれた。「金歯」の話を通じて知った朴寅鎮の人間像には、なにかしら人びとの感動を呼び起こすなにかがあった。
李昌善を天道教方面担当の政治工作員として派遣する準備がととのってから、わたしは、われわれと天道教徒はともに国と民族を愛する朝鮮人であり、「斥倭」と「輔国安民」を最優先の目標としてたたかってきた貧賎民衆の友であるので、手を取り合って合流し、団結した力で日本帝国主義に立ち向かってたたかうべきであるということと、近い将来、双方の代表が一堂に会して真剣に協商したいという希望をとくに強調し、彼を朴寅鎮のもとへ送った。李昌善は三日後に密営にもどってきた。朴寅鎮は、合流して反日戦を展開しようというわたしの提案に賛同し、協商のために自分たちに代表を派遣するよう要請したというのである。
わたしは朴道正との協商にのぞむ準備を進めた。ところが、いくつかの避けがたい事情がわたしに密営を発たせなくした。折しも南――植田の「図們会談」の直後だった。敵の「冬季大討伐」作戦の開始で、人民革命軍はきびしい難局に直面した。討伐攻撃と時を同じくして、多くの密偵がわたしを陥れようと血眼になっていた。戦友たちは新たに創設された密営の運命を思っても、わたしの身辺安全のためにも、司令官が直接協商の場に出向くのはひかえるべきだとし、頑としてわたしの出発を制止した。密偵が司令部の付近まで潜入するという事件が発生した直後であったので、誰もが神経をとがらせていた。それで結局、わたしは朴寅鎮との協商に金平と李昌善を派遣せざるをえなかった。
金平は幼いころからやらないことがない海千山千のつわものであり、何事でも容易に処理できる練達の実務家であった。彼は漢文にも明るかった。子どものころ五、六年間も書堂で漢文の勉強をしたおかげであろう。長じては正規の学校教育を受け、人民革命軍に入隊してからは遊撃隊の指揮官を養成する移動学校で軍・政教育も受けた。彼は教員の経歴ももっていた。李昌善とともに彼に天道教徒との協商代表として白羽の矢が立ったのは、天道教についての彼の知識と政治工作の経験が物をいったのだといえる。
朴寅鎮とわれわれの代表との対談は、長白県十七道溝王歌洞にある天道教長白宗理院院長李銓化の家の奥の間でおこなわれた。金平はまず、相手側にわたしの署名と捺印のある信任状を示した。そして朴寅鎮に「祖国光復会十大綱領」と「祖国光復会創立宣言」を伝えてから、天道教勢力との提携問題について真しな協議に入った。
朴寅鎮は、日本帝国主義を駆逐したのち、われわれがどのような政権をうち立てようとしているのかに大きな関心をいだいていた。彼は旧韓国政権のような王政復古にも、ロシアに樹立されたソビエト式政権にも反対し、「亡命政府」と評されていた「大韓民国臨時政府」を合法化する形式の政権にも反対した。金平が「祖国光復会十大綱領」の第一条について、全朝鮮人民の総意によって民主主義的方法で選挙された人民の代表の代議制にもとづく人民政権の樹立をめざしていることを具体的に説明すると、朴寅鎮は、十大綱領に明記されているとおりに民衆政権をうち立てるなら絶対賛成だが、いざ国が解放され、政権を樹立するときになって約束を破り、ソ連式の共産政権を樹立するのではないかという憂慮と疑念を忌憚なく示した。当時、ソ連では反党分子と敵対分子にたいする粛清が進められていたが、それが隣国の民心に否定的な影響を及ぼしていたのである。金平は、解放後、抗日武装闘争をした共産主義者が政権を握るとしても、ソ連式の共産政権は樹立しないということ、「祖国光復会十大綱領」に明示されているように、独立した祖国にわれわれがうち立てる政権は、民主主義を最大限に具現した政権であり、民衆自身が主人となって政治をおこなう政権、つまり労働者、農民だけでなく各階層の広範な愛国勢力の利益を擁護し代弁する人民の政権になるであろうと力説した。そして、その主張の真実味を保証するため、われわれが間島の遊撃区でソビエトを人民革命政府に改編したときの話もしたという。
朴寅鎮は、祖国光復会の十大綱領と創立宣言にたいしては異議がない、その綱領と宣言がただの宣伝でなくてあなたがたの本心であり、確固不動の実践的な意志であるなら、われわれ天道教徒も反日民族統一戦線に参加する用意がある、しかし参加を決定する重大事は自分一人で決めて処理できる簡単なことでないため、同徳(天道教徒同士の呼称)たちとも協議し、天道教中央の教領である崔麟とも協議してから返答すると言った。そう言いながらも彼は、崔麟に会う前に自分が直接密営を訪問し、わたしとの会見が実現されるようはからってはもらえないだろうかと、それとなく尋ねた。金平は彼の願いをかなえるために最善をつくすと約束した。朴寅鎮は、われわれと手を結ぶとか結ばないとかということについては軽はずみに口に出そうとしなかった。条件付きのおぼつかない返事をした。手を結ぶかいなかは、わたしに会ってから決めようとしているのは明らかだった。ともあれ、会談はきわめて建設的なものであった。
翌日、朴寅鎮は長白宗理院傘下の男女教徒を五十名余り呼び集め、朝鮮人民革命軍の代表を歓迎する大宴会を催した。豚をつぶし、餅をついたりしてわれわれの代表を歓待した。天道教青年党の党員たちを歩哨に立たせて娯楽会まで催した。出し物の歌舞がすべて愛国心と闘争熱をあおるものであったので、金平は天道教徒の愛国精神にいまさらのように感服させられたという。その家の主である李銓化は、安重根が伊藤博文を射殺するためハルビンヘ向かうとき、彼と同行した禹徳淳がうたったという「まみえたり、まみえたり、仇敵にまみえたり…」という歌をなんと悲愴にうたったことか、一同は悲憤慷慨して涙をこぼしたという。
朴寅鎮が密営を訪問したのは一九三六年の初冬であった。彼が帯同してきた人のなかで、現在まで記憶に残っている人物は李銓化である。彼らはみな黒のトゥルマギ(外衣)姿であった。そのトゥルマギにはみなコルム(結びひも)の代わりにボタンかけが付いており、それも一つでなく二つであった。天道教徒はそのように際立ったボタンかけを付けたトゥルマギをまとうことによって、自分たちを他の人びとと区別する衣服様式をもっていた。朴寅鎮は、わたしに会うやいなや、密営に招かれたことにたいし心からの謝意を表した。
「将軍にお会いしたいという願いが、こんなに容易にかなえられようとは思っていませんでした。抗日独立戦に銃一挺、金子一文も力ぞえできず、恥ずかしいかぎりです」
この一言によっても、朴寅鎮が非常に謙虚で礼節を貴ぶ良心的な人物であることがうかがわれた。わたしは彼にわれわれの真情を吐露した。
「われわれは金品よりも良心を貴ぶ人間です。なにがしかの金、何挺かの武器を援助してくれた、ということよりも、国をどれほど愛しているかを重視します。わたしは道正がこれまで変わることなく愛国心をいだいていることを聞きました。その高潔な心がわれわれにとっては何百倍もの力になります。この騒がしい時世に、愛国の節操をかたく守りとおしている道正のような方がおられることは、われわれにとってまことに大きな力となり、喜びとなります」
朴寅鎮は、「それは過ぎたお言葉です。わたしはそのようなお言葉をいただける人間ではありません」と言った。そして、日本人のデマに乗って、たとえ一時ではあっても解放聖業に邁進する人民革命軍を「匪賊団」と誤解したことを心からわびた。
それでわたしはこう言った。―― 互いによく知らぬままであれば曲解が生じ、敵意をもつようにもなる。わたしはそれを気にとめない。大切なのはこれからのことだ。過去のことは白紙にし、志をともにして先のことだけを考えよう。われわれの代表から聞いたとは思うが、われわれは国を愛し、民族を愛し、日本侵略者を憎む各階層の同胞をすべて結集し、民族あげての抗日大戦をくりひろげるために、この春に祖国光復会を結成した。その綱領に異議がなければ、良心的な天道教徒も抗日大戦に合流してもらいたい。団結してたたかえば勝利し、団結せずに四分五裂してしまえば祖国の解放もなしとげられず、百戦百敗するということは歴史の教える苦い教訓である。もしも、甲午農民戦争の最盛期に湖西地方(忠清道地方)の北接軍を総指揮していた崔時亨が、湖南(全羅道地方)の南接軍を指揮していた全琫準の連合提案を適時に受け入れ、ソウルヘの進撃を妨害しなかったなら、歴史はいくらか変わっていたかも知れない。東学党の乱が失敗に終わった主な原因の一つは、各地、各層の愛国勢力が一致団結せず、散り散りになって勝手にたたかったところにある。したがって、反日聖戦を勝利に導き解放をなしとげるためには、全民族が一致団結してたたかわなければならない。民族の団結は反日に民族の総力を傾注できるもっとも賢明な方策であり、民族大勝への道である。天道教徒だけの力では「斥倭」に成功し、「輔国安民」をはかることができない。朝鮮人民革命軍も単独では朝鮮の独立をなしとげられない。他の反日愛国勢力もすべて結集してこそ、勝利が見通せる。それゆえ、互いに民族大団結の縒り紐となって、祖国光復会のまわりに団結しよう――
朴寅鎮は、祖国光復会の創立宣言と綱領は非のうちどころのないりっぱなものであり、将軍の意見もいたって正当なものであるから、必ず天道教中央の崔麟を説得し、全国の三百万教徒を一挙に祖国光復会に加入させるつもりだと断言した。民主主義中央集権制の原則が徹底している天道教団では、中央に絶対的な採決権が付与されているようであった。しかし、現実的にはそうなる可能性が非常にうすかった。天道教中央の上層部が腐敗堕落し、変質していたからである。
わたしは自分の見解を朴寅鎮に率直に述べた。―― そうできるなら、それに越したことはない。しかし崔麟にはあまり期待をかけないほうがよい。彼の最近の動向や文章を見ると、歴代の天道教教主とはおよそ異なった道を歩んでいるようだ。彼は東学の理念も、民族も裏切って敵の権力の侍女に転落しつつある――
すると朴寅鎮は、どうして崔麟のことまでそんなにくわしく知っているのか、じつは天道教徒のなかにも崔麟がおかしくなっていると快からず思っている人が少なくないし、自分もやはり彼に疑念をいだいている、と心中を打ち明けた。
崔麟は三・一独立宣言の作成に加わった人物の一人である。彼は三・一運動の勃発に少なからぬ寄与をした。そのために獄中生活もした。しかし出獄後、三世教主孫秉煕の推挙で天道教教領の地位についてからは、彼の人生行路に「方向転換」の兆候が現れはじめた。彼は天道教の
「崔麟がこのように総督の提灯持ちの役までしていても、それらすべてが天道教と天道教同徳のためであると述べてきたので、絶対多数の教徒はそれが偽善であることに気づかなかったのです。わたしもそう信じて相も変わらず彼を崇拝してきたのですが、昨年の夏、李銓化宗理院院長がソウルで彼に会って来て言うには、崔麟のものものしい家の構えを見ても、言動からしても、以前とはかなり変わっているというのです。しかし、自分の目で確かめないかぎり、彼に裏切者の烙印を押したくはありません。それでソウルヘ行く機会に彼と一度会って確かめてみるつもりです。近々ソウルで天道教中央大会が開かれるので、そのさいはわたしもソウルヘ行きます。彼が腐敗したのが確かなら、われわれも彼を切り捨てねばならないでしょう。われわれも自分の腹でやるつもりです」
朴寅鎮ははばかることなく自分の立場を明らかにした。面談では内外の情勢と民族主義運動の現状、抗日武装闘争の発展過程、解放後の祖国建設など、いろいろな問題が話題にのぼり、意見が交わされた。話は昼夜の別なくつづけられた。休憩のときは客にわれわれの部隊の生活ぶりも見せた。朴寅鎮は、人民革命軍の武装装備が思ったより近代的だ、隊員の姿がとてもりりしく、生気はつらつとしている、兵舎が整然としていて周辺の環境がきれいだ、日課がきちんと組まれている、軍人の誰もが規律正しく節度があって正規軍のような感じがする、と言って敬意を表し、驚嘆してやまなかった。彼はまた、密営地の奇妙な山容にも感嘆してやまなかった。遊撃隊密営の山水は、あたかも天道を開いた崔済愚が二度もこもって修行したという慶尚道梁山の千聖山渓谷のような錯覚にとらわれる、と言うのである。千聖山内院庵には、有名な『花王戒』の著者である薜聡の父元暁大師が唐の僧侶一千余名に仏陀の万の善行を称えた『華厳経』を教え、みな聖人にしたという故事が秘められているが、東学始祖は由緒深いその地で道を修め東学を創始したというのである。
朴寅鎮は、われわれが白頭山の蒼林の中で祖国解放のために修行を積み、『華厳経』や『東経大全』よりいっそう死活にかかわる民族再生の大経綸である「祖国光復会十大綱領」を作成し、多くの若者を兵士に育てている姿を見るだけでも力がわいてくると言うのだった。
彼が密営に来てもっとも大きな衝撃を受けたのは、わたしが彼に清水奉(ほう)奠(てん)の機会をつくったときであった。天道教には呪文、清水、侍日、誠米、祈とうなど、教徒が順守すべき五款功徳というのがある。真鍮の器に清水を供えて拝むことを清水奉奠というが、これは天道教界では一日たりともおろそかにできない掟となっている。清水は天地の根本を象徴し、そこには天地の恩徳を忘れまいとする教徒の誓いがこめられている。崔済愚が修道生活をしたとき、日に三度清水を供えて瞑想にふけり、また、彼がさらし首にされる最期の瞬間にも清水を供えて拝んだため、天道教徒は始祖の霊血を象徴する清水奉奠を伝統的に法化、慣習化してきたのである。わたしは華成義塾に通っていたころ、崔東旿や康済河などの天道教徒が毎晩九時になると家族を全部集め、清水を供えて拝む情景をよく目撃したものである。
わたしは、朴道正と閑談を交わし夜九時近くになって、ふと清水奉奠の時間になったことに気がつき、伝令に清水を一杯汲んでこさせた。そしてそれを荒づくりの丸木の卓の真ん中に丁重に供え、道正に清水奉奠の時間になったと告げた。
「聖地の水ですが、真鍮の器の代わりにほうろう引きの器についできたことをお許しください。道正、真鍮の器でないととがめずにどうぞ拝礼してください」
わたしがこうすすめると、朴寅鎮は非常に驚いたまなざしでわたしを見つめた。
「天道教を崇拝しない将軍の軍営に来てまで、どうして清水奉奠ができるでしょうか」
「東学党の乱のとき、東学徒たちは戦場でも毎日清水を供えて呪文を唱えたというのに、道正が数十年の間守ってきた掟を密営に来たからといって破ってはならないでしょう。どうぞ安心して呪文を唱えてください」
朴寅鎮は客としての礼儀を守ってかたくなに辞退したが、わたしは「祖国光復会十大綱領」にも人倫的平等と信教の自由を保障することが明示されているのに、無神論者の前だからといって信仰心の人並はずれて強い道正が、平素の掟をただの一度でもおかすことになれば、かえってわたしの方がすまないではないかと重ねて清水奉奠をすすめた。結局、朴道正は清水を供えて座り、二十一字の呪文を唱えた。繰り返し三回唱えたあと、彼は水を一口飲んでから粛然とした顔で話した。
「白頭山渓谷の清水の味は格別です。わが国の祖宗が飲んでいた水で清水奉奠をしたのですから、今晩のことは一生忘れません。将軍のような武人が、天道教の掟をこのように尊重してくださるとは夢にも思っていませんでした。まったく感無量です」
そうしてみると、朴寅鎮は反共に毒された教徒と同じように、共産主義者は宗教と宗教上のすべての戒律を無視、排斥し、憎悪しているものと考えてきたに違いなかった。
何年度だったか、アメリカ在住の同胞金聖洛牧師が祖国を訪問したとき、わたしは彼との昼食会の席で食前の祈とうをするようすすめたことがある。そのとき彼は、たいそう驚いたようである。共産主義国家の主席が宗教家の食前の祈とうにまで関心を払うというのか、それこそ謎のような話だと思っている様子だった。その日、わたしが金聖洛牧師に食前の祈とうをすすめたのは、なにか面目をほどこそうとしたためではなく、わたしが宗教と宗教信者を否定してかかりはしないということを宣伝するためでもなかった。わたしはただ、客を客らしくもてなそうという主人としての礼儀と、一生を篤実なキリスト教信者として生きてきた彼が、祖国に来ても拘束されることなく教道を守れるようにという純粋に人道主義的な感情でそうすすめただけのことである。
わが国の憲法に明記されている信教の自由についての条項は、空論やシャボン玉のような空約束ではない。われわれは昔も今も信教の自由をじゅうりんしたことはなく、宗教信者を弾圧したこともない。もし、共和国政権のもとで制裁を受けたり、政治的試練をへた宗教家がいるとすれば、それは祖国と人民の利益を売り渡した犯罪者と民族反逆者だけであろう。解放後、一部の地方で分派分子が宗教家を差別し、宗教そのものを敵視する偏向が現れて社会的に物議をかもした例がなかったわけではないが、それはどこにでもあった一般的な現象ではなく、まして中央の組織的な意思や指令によって発生した弊害でもなかった。
アメリカ帝国主義に抗する祖国解放戦争(〔 〕)の直前までにしても、わが国には礼拝堂や寺院がたくさんあった。国が解放されてから七(チル)谷(ゴル)に行って見ると、そこにも彰徳学校時代に見た礼拝堂がそのまま残っていた。現在、人民大学習堂が位置している平壌の南山台には大きな礼拝堂が二つもあった。ところが、神の使徒を自称するアメリカ人が空爆によってそれらの建物をすべて破壊してしまったのである。仏を祭る大きな寺や庵も爆弾の洗礼を受けた。十字架や聖像、聖書は焼けて灰となるか、廃虚の中に埋もれてしまった。信徒も屍となって冥土の客となった。
このようにアメリカ人が礼拝堂を破壊し、信徒たちも殺害したのである。「神様」もそうした蛮行を制御できなかった。こうした理由で戦争中、朝鮮人民のあいだでは礼拝堂を訪ねる人が少なくなった。わが国の宗教信者は、「神様」に天国へ行かせてくれと祈る必要をもはや感じなくなったのである。宗教が人間の運命を開くうえでなんの役割も果たせないということを知った信者は、自ら信仰を捨て、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという原理、人間がこの世界の創造者であり、支配者であるという原理にもとづくチュチェ思想の信奉者になった。戦後、彼らは献金を募って礼拝堂を再建しようと急ぎはしなかった。そうではなく住宅や工場、学校を先に建設した。わが国の新しい世代のなかには「神様」や「ハンウルニム」(天道教で大宇宙の造物主をさす)あるいは仏を信じれば福を授かり、天国へも行けると思う青少年がいない。彼らが信者になったり宗教団体に加わったりしないのはそのせいである。
いまもわれわれは依然として、宗教を悪く見たり宗教家を迫害したりしていない。かえって国家が彼らに無償で教会堂を建ててやり、生活条件も保障している。何年か前には
南朝鮮には相当な数の信者がいると聞いている。そのなかには民主、統一、平和をめざす三大戦線で猛活躍している愛国者や闘士が少なくない。いま南朝鮮と海外の宗教家のあいだに容共愛国人士が増えているのは、彼らが「共産党宣言」を支持しているからではない。われわれと彼らを結びつけているきずなは愛国愛族の思想感情である。このようなきずなは一九三〇年代にも存在した。愛国愛族の精神さえあればいかなる階層とも手を結べるというのは、「祖国光復会十大綱領」で明らかにされた統一戦線の原則である。われわれはこの原則にもとづいて朴寅鎮道正とも手を結ぶことになったのである。
一部の人は、信教の自由にかんするわれわれの思想を、統一戦線の網の中に宗教家を引き入れるための一時的な懐柔策であるとわい曲して宣伝している。そういうねつ造は、いくら声を大にしても絶対に通じるものではない。呉東振、孫貞道、崔東旿、康済河らの信者とわたしが結んだ親交は、純潔な愛国愛族の感情にもとづくものであって、なんらかの策略から発したものではない。わたしは彼らをマルクスの信奉者にしようと試みたこともなければ、共産党の提灯持ちにしようと考えたこともない。ただ心から彼らの信仰心を尊重し、その人格と人権を重んじただけである。
朴寅鎮道正が清水を供えて拝礼したあと、わたしにたいする認識を改めざるをえないと率直に告白したのもゆえなきことではない。その日、朴道正は清水奉奠をすませたあと、だしぬけにわたしにこう尋ねた。
「わたしにはぜひ、おうかがいしたいことが一つあります。わたしたちが『ハンウルニム』を崇めるように、将軍も崇めるものがあるのでしょうか。あるとすればそれはなんでしょうか」
わたしは、道正のその質問をわたしにたいする信頼の表示として受けとめ、真面目に答えた。
―― もちろん、わたしにも神のように崇めるものがある。それはほかならぬ人民である。わたしは人民を天のごとくみなし、神のごとく人民に仕えてきた。わたしの神はほかならぬ人民である。この世に人民大衆のように全知全能で威力ある存在はない。それでわたしは「以民為天」を生涯の座右の銘としている――
朴寅鎮はわたしの答えを聞いて、白頭山へ来たかいがある、少々遅くはあったが、本物の「ハンウルニム」がなんであり、どこにあるのかがいまはじめてわかった、と意味深長に語った。そして、天道教の始祖崔済愚の「人乃天」の思想は将軍の考えと相通じるところがある、と言ってすこぶる満足げだった。
朴寅鎮道正とその一行は三日間の滞留期間に、出版所や裁縫所を見てまわり、実弾射撃も参観し、遊撃隊員の演芸公演も観覧した。
「わたしは五十年のあいだ生きてきながら、知ることも見ることもできなかったことをここに来てはじめて知り、はじめて見ました。まったく見上げたものです。正直に言って、わたしはこの密営がすっかり気に入ってしまいました。これからわたしがなにをすべきかもはっきりわかり、決心もつきました。崔麟を訪ねたら、すべての天道教徒を祖国光復会に引き入れる大事をなしとげます。それができなければ、わたしの傘下にある嶺北の八つの宗理院の天道教徒だけでも全員引き入れます。そして、全国の血潮たぎる百万の天道教青年党の党員もすべて銃を手に、将軍麾下の兵卒になるようあらゆる努力をつくします。わたしの言葉を信じてください」
これは密営を発つときに朴寅鎮が言った言葉である。密営を訪問して帰った朴寅鎮は、天道教徒を祖国光復会の組織に引き入れる活動を精力的に進めた。彼は長白の天道教徒を祖国解放戦線に結集する一方、一九三七年八月には三水宗理院に出向いて宗理院院長の趙完脇、長白宗理院院長の李銓化らと協議し、われわれとの統一戦線活動を積極的におし進めた。「金歯」が彼を積極的に助けた。朴寅鎮は、今後自分の仕事を補佐できる李昌善のような人材を育ててくれるようにと、すでに七、八名の青年をわれわれの所に派遣していた。天道教青年党の豊山郡代表李景雲らが朝鮮人民革命軍主力部隊に入隊したのもこのころである。
朴寅鎮はわたしに約束したとおり、一九三六年十二月、天道教中央大会に参加するためソウルヘ出かけた。崔麟が密告するかテロ行為を企てれば、朴寅鎮の身辺にただならぬことが生じかねなかった。
それで彼がおこなおうとする談判の手助けと身辺警護のために、李昌善にわたしの伝令の金鳳錫をつけて朴道正をソウルまで無事に護衛していくようはからった。
朴寅鎮はソウルに到着するとすぐ、崔麟がその間、明倫町にある洋館風の自宅をいっそう豪華にしつらえたことと、「独立のための自治」を実現するには日本と和解すべきだとして、多額の天道教資金を総督府に「国防献金」したという暗然とさせられるうわさを耳にしたが、かろうじて義憤をこらえ、彼を辛抱強く説得した。しかし、崔麟は眼中人なしであった。朴寅鎮はこみあげる憤激を抑え切れず、いまあなたがおこなっている献金は、独立聖業に逆行する売国的で反民族的な背信行為であり、かえって日本の国力をいっそう増強させ、朝鮮の従属をさらに持続させる結果をまねくだけだと糾弾した。そして、崔麟の面前で『祖国光復会十大綱領』をふりかざし、朝鮮の独立をなしとげる真の道は献金ではなくこの綱領にある、われわれが進むべき唯一無二の道はこの道だけだ、われわれ教徒は
十大綱領にしばし目を通した崔麟は、あわてるな、
崔麟と決別した朴道正は、すぐさま豊山郡内の天道教徒を網羅する祖国光復会豊山支会を結成し、ついで甲山、三水、恵山、長白の各地帯にも天道教の中核分子で祖国光復会の支会を結成した。それらの支会はそのまわりに多くの天道教徒と農民を結集した。朴寅鎮の影響下にある祖国光復会の各組織は、密営に多くの援護物資を送ってよこした。朴寅鎮自身も援護物資を求めようと、恵山と豊山に足しげく行き来した。いつだったか、彼は遊撃隊員が野営するとき敷き物にするようにと、十枚余りの獣皮まで準備して送ってよこしたことがあるが、それを見たわたしの戦友たちは口をそろえて朴寅鎮を称賛したものである。
地陽渓にいた朴寅鎮の弟子のなかには、金鼎富から数千坪もの小作地を借りて人民革命軍に送る援護米を生産するために人知れず汗を流した人たちもいた。そうした小作地で取れた穀物が密営に運ばれていることを知っていたのは朴道正だけだった。彼の妻と娘たちも朝鮮人民革命軍を援護するため、給養物資の運搬に積極的に参加した。
朝鮮人民の自由と解放のために昼夜を分かたず献身していた朴寅鎮は、一九三七年十月、不幸にも「恵山事件」のあおりで日本の警察に検束された。朴寅鎮道正の闘争実績と、われわれとの関係をおぼろげながら察知した敵は、執ように自白を強要した。おまえが
「人倫を冒涜するのは、われわれではなくておまえたちだ。おまえたちこそわが天道教の宗旨を踏みにじった張本人だ。おまえたちは数千数万に達する朝鮮の『ハンウルニム』を牛や豚のように毎日屠殺場へ引き立てているではないか。軍警の銃剣がひらめく所でわれわれ白衣民族の血が川をなし、生きた人の肝でさえ恨みの果てに腐っているのをおまえたちも知っているはずだ。答えてみよ。罪は誰が犯し、裁判は誰が受けるべきなのか。われわれは朝鮮国の神聖な天道を踏みにじり、数知れぬ人びとを殺害した強盗を許すことはできない。そして、その強盗どもが不法につくりあげた国体なるものを認めることはできない。それでわれわれ三百万教徒は、二千万同胞とともに憤然と立ち上がり、血の抗争をくりひろげているのだ。わたしの体の血がおまえたちの帝国を焼きつくす一点の火花になるなら、死んで灰になろうと誇りを感じるであろう!」
炎のようなこの弾劾は敵を戦慄させた。逆上した敵は老いた道正に極悪非道な拷問を加え、身動きもできない廃人にしてしまった。重病まで重なった道正は瀕死の状態になった。彼の死期が迫ったことを察した敵は、病気という名目で彼を仮釈放した。朴寅鎮は病床にふしたまま一九三九年の春を迎えた。臨終を前にした彼は、一生、夫に忠実につくしてきた妻に渾身の力をふりしぼって言った。
「わたしは死を前にしたいま幸福感にひたっている。それは水雲大神師の子孫らしく晩年を誉れ高くしめくくったからだ。この朴寅鎮は朝鮮の男児として生まれ朝鮮の男児として逝く。祖国が解放されたら、おまえは子どもたちを連れて
朴寅鎮がいまわの際にあるという連絡を受けた愛弟子の一人が師のもとに駆けつけた。道正は彼を見るや、日ごろ自分が好んで口ずさんでいた『トンドルラリ』をうたってほしいと言った。『トンドルラリ』という題名は「トントルナリオリラ(暁の日は来たらん)」という言葉が縮まったものだという。日本帝国主義侵略者を追い出して再び平和に暮らせる日が来るという信念をうたった歌である。厚峙嶺を隔てて北青とつながっている豊山では、一九三〇年代の初期から『トンドルラリ』の歌と踊りが広まっていた。朴寅鎮の主導下に祖国光復会の下部組織が遊撃隊援護活動を活発に展開するようになって以来、豊山地区の各地下組織では援護活動をおこなうたびに、敵をあざむく方便としてこの歌舞をしばしば利用したという。忠実な弟子は師の望みどおり『トンドルラリ』をうたいはじめたが、喉がつまって最後までつづけられず泣きくずれた。朴寅鎮は、「先生!」「先生!」とむせび泣く弟子の手を握って静かに言った。
「金将軍が健在で革命軍が白頭山にいるかぎり、白衣同胞は必ず暁の日を迎えるようになるだろう。おまえたちは、いまに百花繚乱たる『ハンウルニム』の国で暮らせるようになるだろう。わたしにはその日がはっきり見える。見えるとも」
容共救国の道で大きな功績を立てた朴寅鎮道正は抗日革命が生んだ愛国志士の一人である。
解放後、わたしは朴寅鎮を思い出すたびに、何度も彼の未亡人と子孫に会ったものである。一九九二年の夏、抗日革命闘士の遺族と会ったときにも、その未亡人が九十過ぎの年でも健在だということを聞いて、歩くのが不自由ならおぶってでも連れて来るようにと頼んだ。道正の老いた未亡人は車から下りると、誰の助けもかりず自分の足でわたしの前に駆けよった。彼女は他の遺族たちのように、わたしを「将軍さま」とか「主席さま」とは呼ばず、「ハンウルニム」と呼んだ。そういう呼び方をしないようにと言っても彼女は聞き入れなかった。
「わたしは夢のなかでも『ハンウルニム』にお目にかかりました」
朴寅鎮の夫人でなければ口にできないその呼び名と率直な告白に、わたしは道正と会った昔のことが思い出され、目頭があつくなった。
朴寅鎮に積極的に助力した天道教青年党の党員で、朝鮮人民革命軍の政治工作員であった李昌善は、白頭山の酷寒がもたらした凍傷のために惜しくも命を失った。それはたぶん一九三八年の冬だったと思う。最近、関係部門の活動家が彼の妻の従弟のアルバムから思いがけない一枚の写真を見つけた。李昌善が天道教青年党の党員として活動したころに義兄弟の仲間と一緒に撮った写真だが、そのうちの一人が信念と意志の化身である李仁模だというのである。彼は朴道正の多くの弟子のうちの一人であったようだ。こうしてみると、朴寅鎮は希代の愛国者たちを育てた恩師でもある。
5 民族宗教――天道教について
天道教にたいするわたしの見解と立場は、朴寅鎮のような知名の宗教家を革命の同伴者に獲得するうえできわめて重要な影響を及ぼした。もしも天道教の門外漢であったり、それに偏見と敵意をもっていたとしたら、朴寅鎮との協商を試みはしなかったであろうし、全国数百万の天道教徒を祖国光復会の旗のもとに結集する大胆な作戦もおこなえなかったであろう。
この機会に、天道教にたいするわたしの見解と立場を少し述べたい。東学の理念やその発展史については、わたしなりに言いたいことが少なくない。
ある主義主張や教理を知る経路や方法は多様であると思う。わたしにマルクス・レーニン主義への手引きをしてくれたのが書物であったとすれば、キリスト教への手引きをしてくれたのは礼拝堂であった。わたしが幼年時代、母に連れられてたびたび礼拝堂へ行ったことは前に触れた。はじめて宗教儀式を見、キリスト教の教理を説く牧師の説教を聞いたのも、その礼拝堂であった。崇実中学校出身の父と七(チル)谷(ゴル)教会の長老で教育者であった外祖父は、キリストについて造詣が深かった。わたしが彰徳学校に通っていたころ、七谷ではかなりの人がキリスト教を信じていた。康良煜(〔 〕)先生もキリスト教信者であった。孫貞道、呉東振、張喆鎬、金史憲、金時雨など、父の知己にもキリスト教信者は多かった。わたしはキリストを崇める信者たちにとりまかれて幼年時代を過ごしたともいえる。キリスト崇拝者は小学校時代の同窓生にも多かった。当時はキリスト教を宣伝する書籍も多かった。そうした環境のせいで、わたしはキリスト教を知るようになったのである。
イスラム教を知ったいきさつはそれとは多少違っている。これには笑いをさそう面白いエピソードがある。はじめてイスラム教を紹介してくれたのは、吉林毓文中学校時代の同窓生の馬金斗である。彼はイスラム教徒であった。健啖家の彼は、教の戒律を破って足しげく料理店に通い、豚肉を肴にして酒を飲んだ。いつも人目のつかない片隅に席を取り、たえず不安そうに周囲をうかがいながら飲食するのである。酒を飲み豚肉を食べることが知れたら、イスラム教徒としての面目が立たず、教団からきびしくとがめられるからだった。馬金斗と一緒に何度か料理店に行くうちに、イスラム教徒には酒と豚肉がタブーになっていることを知った。わたしが中学時代に身につけたイスラム教の一般的な知識は、彼との付き合いで得たものである。
わたしが天道教に興味をいだくようになったのは、甲午農民戦争が生んだ緑豆将軍―― 全琫準を知ってからだった。父は烈士たちの名を口にするときはいつも、洪景来(〔 〕)、李儁(〔 〕)、安重根(〔 〕)、洪範図と並んで緑豆将軍の名をあげた。しかし、そのころの全琫準にたいする知識は、彼が甲午農民戦争の主人公で、最期まで節を曲げなかった勇猛果敢な人物であったということだけだった。幼いころなので、父はそれ以上の知識を授けてくれなかった。
わたしに緑豆将軍の生涯と甲午農民戦争の全貌をはじめてくわしく教えてくれたのは康良煜先生である。先生は敬虔なキリスト教信者であったが、天道教についても深い知識をもっていた。先生の条理にかなった講義を聞いてから、わたしは甲午農民戦争と天道教を結びつけて見るようになった。東学党の乱の悲惨
な終結と緑豆将軍の悲劇的な最期は、朝鮮の国政を破滅の淵に追い込んだ封建朝廷の事大主義と無能ぶり、日清両国の野心と内政干渉にたいする強い憤りを覚えさせた。わたしは東学党の乱が近代朝鮮の反侵略・反封建闘争史をりっぱに飾った大きな出来事であり、この戦争が輩出した勇士たちこそ、近代朝鮮民族の政治生活と精神生活に深刻な影響を与えた鷲であると思った。甲午風雲の寵児全琫準は、わたしの胸に永遠に消えることのない一点の火花として宿るようになった。
わたしの天道教にたいする認識は、華成義塾時代にいっそう深まった。義塾には天道教徒が多かった。塾長の崔東旿先生が天道教三世教主孫秉熙の弟子だったことは、彼の息子の崔徳新(〔 〕)が述懐している。塾監の康済河とその息子の康炳善もやはり敬虔な天道教徒であった。華成義塾には『東経大全』や『竜潭遺詞』などの東学経典をそらんじて学をひけらかす学生もかなりいたし、天道教中央が出している月刊誌『開闢』を持ち歩き、東学の視点で見た朝鮮の農村がどうの、李敦化の文章がどうのと熱弁を吐く熱心な読者もいた。崔東旿は、学生が『共産党宣言』を読むのは戒めたが、『東経大全』や『開闢』を熟読することは奨励した。歴史の教師が欠勤すると塾長はときどき代講をしたが、その場合、歴史の授業は決まって東学史の講義になってしまった。先生は、朝鮮近代史のショッキングな出来事や諸事実をつねに東学と結びつけて分析し評価した。崔東旿は天道教の教理にもとづいて、国本、民本、人本の三本主義をさかんに説いたが、それは孫文の三民主義と一脈通ずるところがあった。天道教にかんする先生の話のなかでもっとも興味深かったのは、この宗教の教祖である水雲崔済愚にかんするものであった。先生が崔済愚の経歴と東学創始のいきさつを語ったあと、とくに強調した言葉はいまも記憶に残っている。
「われわれは東学を創始した崔済愚先生を水雲大神師と敬って呼んでいる。したがって諸君も『崔済愚』『崔済愚』と言わず、水雲大神師という尊称で呼ぶのが望ましい」
崔東旿によれば、九世紀朝鮮の有名な学者であった孤雲崔致遠は崔済愚の遠い先祖である。崔済愚の父親崔鋈も詩才にぬきんでていた。彼の『近庵文集』はその時代の著名な詩集として知られている。六歳で母親を亡くし、十六歳のときに父親を失った崔済愚は、二十年近くの間、全国を放浪しながら悪政、悪弊に苦しむ国と民衆を救う道を求めた末、一八六〇年四月、ついに近代朝鮮史の発展に大きな影響を与えた天道教の教理を世に出し、東学の創始者となった。崔済愚が天道教を東学と称したのは、「西学」の天主教に対峙して東方に住む朝鮮人の信仰哲学であることを強調するためであった。
崔済愚の活動した時代は、権勢政治と党争による疲弊がその極に達し、国力が極度に衰退していたときであった。封建的虐政に抗する農民暴動が頻発し、それに飢饉と洪水が重なって社会的・政治的混乱は文字通り絶頂に達した。両班(封建時代の特権階層)と常民間の身分的・階級的対立も極限に達した。数百年の間、李王朝の存立を制度的に支えてきた封建的身分関係は、国の中興と社会の発展を妨げる呪わしい桎梏となった。貪官汚吏の虐政と経済の破綻で民生は塗炭の苦しみにあり、民権は形骸さえとどめなくなった。数百年間鎖国をつづけた東邦朝鮮は、あくなき富の蓄積と領土の拡張に血眼になっていた列強の垂涎の的となった。天主教を道案内にした欧米列強の触手はいまや朝鮮半島にのびはじめた。
「是日也放声大哭」(一九〇五年、日本によって強制された「乙巳条約」締結にたいする民族的痛嘆)の前奏曲は、事実上そのころすでに準備されていたのである。そんなときに、国と民族の運命を心から憂える時代の先覚者たちが、新しい思想と理念を求めるのは当然のことである。崔済愚はその先覚者の先頭に立って「人乃天」「輔国安民」を基本理念とする東学を創始し、その教理を広めるため情熱的な布教をおこなった。
「諸君、東学を知るにはまず『輔国安民』の標語を見よ!」
崔東旿は、天道教を説くときには決まってこんな標語をプラカードのようにかかげた。
「外には外国の侵略に抗して国を守るのが『輔国』であり、内には悪政に反対して民衆の安寧をはかるのが『安民』である。これこそりっぱな天道ではないか。成柱、『輔国安民』をどう思うかね」
いつだったか塾長は、だしぬけにこんな質問をした。
「りっぱな標語だと思います。『輔国安民』を提唱したのが天道教なら、わたしはその教理を支持します」
それはわたしのいつわらぬ気持だった。そのころ共産主義理念はすでにわたしの生活で重要な思想的支柱となっていたが、わたしはためらうことなく東学への支持を表明した。国を守り民衆の安寧をはかるのは、良識ある人なら誰でも切望するところであった。崔東旿は口許をほころばせて、満足そうにわたしを見た。
「『輔国安民』に反対するようでは朝鮮人でない。共産党の唱える世界革命のスローガンもよかろうが、この『輔国安民』こそ、わが国と倍達民族(古代朝鮮民族の呼称の一つ)にとって、なんと切実なスローガンではないか。確かに水雲大神師様は霊験あらたかなお方だ」
華成義塾時代のわたしの天道教についての知識は、実践とは縁遠い狭小な生かじりのものであり、まだ凡俗で断片的なものにすぎなかった。わたしが東学を実践と結びつけて注意深く研究しはじめたのは、吉林時代からであった。朝鮮革命の新しい進路を模索する過程では、すでに歴史によって否定された主義主張や解釈はほとんど退けられてきたが、だからと言ってわたしは過去の理念や運動そのものを虚無主義的に評価するようなことはしなかった。わたしは既成の理論や他人の経験を盲目的に取り入れることには反対しながらも、長所はこだわりなく摂取したのである。
卡倫会議を前後するころ、われわれの革命実践では統一戦線の問題が重要な戦略的課題として浮上した。どの勢力を包容あるいは排斥し、または孤立させるべきかという問題が随所で提起され、たえず複雑な論争を引き起こした。統一戦線の対象が論議されるときは決まって、宗教問題が民族資本家の問題とともに無視できない主要な論題となった。
天道教はキリスト教とともに、わたしがもっとも重視した宗教の一つである。われわれが天道教を注視し、その教徒の活動に関心を払ったのは、それが朝鮮の民族宗教であり、理念や実践活動において一貫して愛国愛民を志向し、布教の範囲がきわめて広く浸透力が強いからであった。
『資本論』と同様、『東経大全』も深く掘り下げてみる面白さはあったが、文章が難解で最後まで読み通すのがむずかしかった。森羅万象を神秘的かつ深奥に著述した崔済愚の文章には、わかるようでわからない曖昧模糊としたところがあった。解放後、天道教中央の幹部だった金達鉉も水雲大神師の文章が難解であることを認めた。彼はその文章が柳麟錫の檄文のように平易であったなら、東学はさらに数十万の教徒を集めたであろうと言った。
わたしの天道教案内書は、雑誌『開闢』であった。『開闢』という題号は天道教の重要な教理である「後天開闢」からとったものである。『開闢』は創刊後数十号を発行する全期間、政治時事総合雑誌の面目を保ち、民族の啓蒙に大きく貢献した。民族主義的色合いの濃い雑誌であったが、社会主義理念を紹介する記事も載った。当時としては読者の人気を博した斬新で革新的な大衆雑誌であった。それは天道教青年党の組織が朝鮮の北部地域と遠く東満州、南満州、そして北満州のハルビン一帯にも支部を増やしていたころで、『開闢』は満州領内にも多くの読者をもっていた。
わたしは『開闢』誌上で、吉林時代に知った論敵申日鎔の文章も読んだ。彼は一九二〇年代中期の農村問題に熱中していた。彼が雑誌に発表した「農村問題の研究」は、理論的に深みのある論文であった。『開闢』には世界各国の文物を紹介する記事も多かった。なかでも印象深かったのは、孤楡樹か五家子にいたころ読んだ「南満州行」という紀行文である。「南満州行」の筆者は李敦化で、満州地方の自然風景と中国人の生活風習、撫順炭鉱労働者の悲惨な生活境遇、わが国の独立運動家の活動状況などをくわしく紹介していた。その紀行文によれば、南満州地方の住民には、死んだ人を棺に入れて土葬するのでなく、屋外に放置し、また七歳未満の幼児の死骸はむしろにくるんで木に吊るす変わった風習があったという。
『開闢』の記事のなかでもっとも読者の興味を引いたのは、愛国主義を鼓吹する記事であった。雑誌には「朝鮮民族固有の優越性」「高句麗国民の気象と努力」「天恵に富む朝鮮の地理」など朝鮮の歴史や地理、自然、各地の特色、物産を賞揚する記事がしばしば掲載された。「八道代表の八道自慢」もそんな記事の一つだった。これは朝鮮八道代表のお国自慢で、ある実学思想家の八道住民の気質にたいする評からとったものだ。たとえば平安道人の気質を「猛虎出林」だとし、「林から出た虎」のような気性だが、あっさりしてあとくされのない平安道人が登場してお国自慢をしている。また「泥田闘狗」、つまり「泥田で争う犬」のように一度食いついたら絶対に離さない性分の咸鏡道の「趙ヤルゲ(あざとい人間の代名詞)」なる人物が登場し、祖宗の山―― 白頭山は咸鏡道にあるという前口上にはじまり、得々とお国自慢をしている。こうして八道の人たちの特徴をいかにも生き生きと描き出しているので、読む人は笑わずにはいられなかった。その八道自慢は初めから終わりまで民族の誇りと自負を呼び起こす話を面白おかしく織り込んでいた。関係部門を通して調べたところ、「八道代表の八道自慢」は一九二五年七月号に掲載されたものだった。最近その雑誌を取り寄せて久々に読み返し、新たな感慨を催した。半世紀前にも感じたことだが、確かに面白い記事である。
『開闢』の人気記事のなかには「外国人の見た朝鮮の印象」というのもあった。それは、ドイツ、フランス、中国、日本、アメリカ、ロシア、イギリスなど各国人が朝鮮で受けた印象を「才芸は世界一」「三大感嘆」「礼儀は天下第一」「朝鮮の四大美」「朝鮮にたいする七大信条」「自然美、人情味」「朝鮮人の印象」などと書いた短いものであった。外国人の視点から見た朝鮮を朝鮮人の視点で吟味しなおすのは、じつに楽しく愉快なことだった。『開闢』誌は、朝鮮人の立場から見た朝鮮のすぐれた点について「淳良さは天下第一」「健康上の優良点」「倫理道徳は無類」「将来の世界の模範民」「残忍暴悪さのない朝鮮人」と書いた。「朝鮮の東学党と中国の国民党」という記事も読者の興味を引いた。筆者は、東洋で社会革新の大義のために奮闘する集団は中国の国民党と朝鮮の東学党のみであると主張し、崔済愚が孫中山よりも四十余年前に東学を創始したことを誇りとした。
わたしの記憶では『開闢』の筆陣のなかでもっとも多くの記事を書いたのは、天道教中央の編集課主任で『開闢』編集人の李敦化だったと思う。李敦化の号は夜雷であった。彼は東学の教理を理論的に定立し、哲学的に解釈するうえで中心的役割を果たした有能な理論家であった。「人乃天要義」「神人哲学」「水雲心法講義」「天道教創建史」などの著書を通じて果たした布教活動におけるその功績は、天道教史にしかるべきページを占めるであろう。
わたしは『開闢』の読者になってから、李敦化にひそかに関心をもつようになった。わたしに夜雷先生をかなりくわしく紹介してくれたのは朴寅鎮だった。彼も夜雷にかなり好感をいだいていた。朴寅鎮はわたしに、李敦化に会ってみてはとすすめたことさえあった。しかし、山中で日本帝国主義と戦っていたわたしが、ソウルにいる彼と会うのはまず無理なことだった。解放後、彼が陽徳に住みつき天道教に関与していると聞きながらも、暇がなくてとうとう会えずじまいだった。ただ天道教青友党委員長の金達鉉を通じて、ときおり彼の活動消息を断片的に聞くにすぎなかった。李敦化の最期については、金達鉉もよく知らなかった。その後、関係者から知らされたところによれば、彼は一九五〇年の秋、人民軍とともに慈江道地域まで後退し、そこにしばらく留まっていたが、アメリカ空軍の爆撃で死亡したという。李敦化のような才人を失ったことは、彼を愛してきた『開闢』のかつての読者や天道教徒にとって、哀惜にたえない損失であった。李敦化は、政治的見解においては少壮派革新勢力に属さない保守的な穏健派だったようである。しかし、民族性の固守、民族的体面の維持、道徳的自我の完成を主張した文章から推して、彼は祖国と民族を熱愛した清廉かつ良心的な知識人、宗教家であったに違いない。
わたしは康炳善と一緒に『開闢』の記事を読んでしばしば読後感を語り合い、東学の地位と教理の問題について論争もした。康炳善は「トゥ・ドゥ」のメンバーのなかでは、天道教にもっとも通じていた。彼は共産主義を熱烈に信奉したが、自分の崇めた東学思想と天道教組織に少なからぬ愛情をいだいていた。康炳善の故郷の昌城と、義州、碧潼、朔州地方には天道教徒が多かった。康済河、崔東旿、孔栄などはみな平安北道地方の天道教界で主役を演じた愛国の志士である。康炳善は天道教のつてを頼って、一九三〇年代後半期に平安北道地方で祖国光復会の下部組織をかなり拡大した。天道教の少壮派革新勢力が概してそうであったように、彼も最初は東学党の乱以来わが国の反侵略・反封建闘争で果たした天道教の役割をほとんど絶対視し、民族の運命開拓における大小事はすべて天道教によってのみ解決できると考えていた。天道教の問題をめぐるわれわれの争点では、これが基本であったといえる。もちろんわたしは封建主義に反対し、侵略に抗するたたかいと、国の近代化を実現し社会進歩をもたらすたたかいで立てた東学の功労を認めるにやぶさかではなかった。東学の民族性と愛国愛民性も認めた。しかし、東学に依拠してのみ万事が解決されると主張する立場と態度には同調しなかった。
後日、康炳善自身も実践闘争を通して天道教万能の観点を改めた。一九三〇年代前半期、張蔚華とともに撫松で地下活動に献身した彼は、一九三〇年代後半期、北満州でわれわれの政治工作員として活躍中、警察に検挙され、監獄で壮烈な最期を遂げた。
東学徒の主張する「人乃天」の思想は、人を天になぞらえて尊重したという点では比較的進歩的であったとみなせるが、宗教的観念からほとんど抜け出せず、人間自身を神的存在とみることによって、理論的不整合をまぬがれなかった。東学を創始した崔済愚やそれを継承した二世、三世の教主は、天道教は儒教、仏教、仙教の三教を総合した、つまり各宗教を有機的に一つに合わせた最後の真理であり、したがって、それは決して天主教のような異端の宗教ではないと主張した。天道教の理論家たちはその後、先輩たちの主張した単純な三教総合説を一歩前進させ、民族宗教としての東学の固有な特性と独創性を誇示した。天道教のある革新派理論家は天道教教理の独創性を主張し、既成宗教の諸教理、たとえば仏教の寂滅説、仙教の玄妙説、キリスト教の天国説、儒教の天命説やその他さまざまの迷信と偶像的仮面をすべて否定し、人間すなわち仏であり仙であり神であり天である、したがって人間以外にはなにもないという「神人一体」「人乃天」を説いた。「神人一体」「人乃天」、すなわち人間は「ハンウルニム」であるというのが東学の基本思想である。
天道教では、「ハンウル」すなわち宇宙全体が「至気」というある特殊な気運によって成り立っているとしている。これは物質でも精神でもないが、物質的なものであると同時に精神的なもので、自然も人間も神もすべて「至気」によってつくられたとするのである。「至気」は世界の始原であり、万物の根元であるとする東学の「至気説」は、あらゆる物体に霊魂があるとする霊魂説の一種で、汎心論に属するとみるべきである。この「至気説」にもとづいて天道教では、人間は生きても死んでも「ハンウル」のように霊魂をもっているとみる。すなわち、人間は世界万物のうちもっともすぐれた霊魂をもつ特殊体だというのである。
霊魂説を認めるならば、人間は自分の意識と意思によって自主的、創造的に生きるのではなく、霊魂に支配され、ある宿命的な生の軌道に乗って生きるほかないという結論にいたるであろう。霊魂説は不可避的に宿命論に陥る。宿命論からは、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという説が引き出せず、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという真理も引き出せない。
東学による未来社会の展望も、社会の発展法則に合う科学的な目標にはなっていない。彼らは非暴力的な闘争によって世の中に徳を広めていけば、すべての人間が神仙のようになるときが来るであろうし、そうなればついに地上天国が実現すると言うのである。人間の神仙化は各人がふだん呪文を唱え反省と自覚を重ね、良心化をはかることによって達せられるとみた。一言でいって、「人乃天」の思想は、唯物論ではなく唯心論にもとづいた思想である。天道教はその階級的制約と理論的・実践的未熟さのゆえに、反日民族解放闘争において主導的役割を果たすことができなかった。これが東学万能をわれわれが支持しなかった主な論拠である。
われわれは天道教をこうした観点でみたが、肯定的な側面をより重視し、天道教には理念的にも実践的にも統一戦線の大路でわれわれと提携しうる可能性があると認めた。
天道教は地上天国の建設を
天道教は、純粋な信仰から来世の幸福、死後の天国を説くキリスト教や、倫理的修養や知識の摂取を教化の基本とし、現世的実践道徳を重視して政教一致を主張する儒教とも差異があるばかりでなく、人間は誰でも仏になれるとして慈悲を基本宗旨とみる仏教とも区別される、と東学の理論家たちは主張している。彼らはまた、静的な仏教に比べてキリスト教は動的であるが、天道教はキリスト教よりもはるかに動的な宗教であり、仏教は理性的傾向が強く、キリスト教は感性的傾向が強いが、天道教はこの二つの側面を兼ねそなえている、としている。
われわれは天道教の教理が天の盲目的崇拝に反対し、人間そのものを信じなければならないとしている点と、他の宗教のように天や神の超自然性と超人間性を云々して封建社会制度や封建的身分制度を天が定めた秩序であると説教しない事実からして、天道教が人間の尊重と平等を主張する進歩的宗教としての肯定的な側面をもっていると認めた。
もちろんわたしは、朝鮮革命の主体的な路線を立てるにあたって、それまでの諸理論や運動に関心を払い、民族宗教としての天道教の位置と役割についてもある程度肯定した。しかしわれわれは、あくまでもわが国の歴史発展の特殊性と朝鮮革命の環境、従前の運動にたいする歴史的分析にもとづき、そしてわれわれの民族的伝統と階級的力関係を十分に検討した科学的基礎に立ってチュチェ学説をうち立て、朝鮮革命の進路を探求し、それに適した戦略戦術を立てたのである。新しい世代の共産主義者は決して、天の助けや天命によって革命をおこなおうと考えたことはなかったし、人民自身の力を信じ、それに依拠してたたかうべきであるという理論的な柱と信念をもって闘争の道に入ったのである。
天道教をいかにみるべきかという問題についてさらに多くの論議をしたのは、祖国光復会創立以後の時期であった。とくに朴寅鎮道正の密営訪問と前後して、部隊の指揮官のあいだには東学への関心が高まった。われわれは朴寅鎮の密営訪問後、天道教徒との統一戦線方針をいっそう確信をもっておし進めた。
かえりみれば、天道教は宗教的理念からして外部勢力を排撃し、国の独立と国民主権の確立によって民生の安全を期する「輔国安民」を達成し、ひいては世界的な「布徳天下」「広済蒼生」によって平和な世界、地上天国を建設すべく実践闘争に乗り出したのであった。東学はその主義主張における愛国愛民性と強い抵抗精神によって、広範な庶民と没落した両班の支持を得た。いっさいの貴賎の差別撤廃を叫ぶ東学思想の伝播拡散は、貴賎の差別を絶対化した封建的儒教思想の支配的地位を大いに脅かし、封建的特権層にたいする重大な挑戦となった。それで東学の教祖崔済愚は、一八六四年三月、左道乱政(道に背き政治を乱す)のかどで大邱で処刑され、また李朝封建政府のきびしい弾圧と追跡をかわして秘密裏に東学の普及と組織の拡大に全力をつくし、甲午農民戦争指導者の一人として活躍した二世教主の崔時亨もソウルで刑死した。東学を創始者の本意にそって天道教と命名し、三・一運動の発起人の一人となった三世教主の孫秉熙も日本帝国主義官憲の過酷な弾圧と迫害を受けた。歴代教主の生涯が示しているように、天道教はその発端はもとより、発展過程においてもあくまでも愛国的で愛民的であった。
天道教界で東学第一革命と呼ばれる甲午農民戦争は、一九世紀後半期の朝鮮人民の反侵略・反封建闘争においてもっとも規模の大きい激烈な農民戦争であった。甲午農民戦争は天道教上層の計画や指令によって勃発したのではなく、あくまでも腐敗した無能な封建特権層の専横と野蛮な収奪に憤激した農民の暴動であり、反政府農民戦争であった。この戦争は「除暴救民」「斥洋斥倭」「輔国安民」の旗のもとに、東学上層部とはかかわりなく、全琫準をはじめ農民暴動指導者たちによって開始された。暴動指導者たちは自分の属する東学組織を利用して、各地の東学布組織と連係をとり、古阜農民暴動(古阜民乱)を全面的な農民戦争に発展させた。
甲午農民戦争は、一九世紀アジア反帝民族解放闘争の暁鐘を打ち鳴らした歴史的事変であり、中国の太平天国農民戦争、インドのセポイの反乱とともにアジアの三大抗戦として特記されるべきものであった。甲午農民戦争は日清両軍の介入で失敗したが、各地に離散した農民軍はその後、反日義兵運動の主力となって救国抗戦をつづけた。
甲午農民戦争はわが国の歴史発展に大きな痕跡を残したばかりでなく、東洋と世界の政治情勢の発展に大きな影響を与えた。東学革命の意義をグローバルな視点で考察したわが国のある歴史家は、二〇世紀に世界を大動乱に陥れたすべての世界史的事変の発端が、朝鮮での東学革命に起因していると評した。そしてこうつづけた。朝鮮東学党の革命がなかったなら日清両軍間の戦争は起こらなかったであろうし、日清戦争で清国が勝っていたならロシアは満州侵入の機会が得られなかったであろうし、ロシアの満州侵入がなかったなら日露戦争は起こらなかったであろうし、日露戦争でロシアが敗北しなかったなら、オーストリア・ハンガリー帝国はバルカン半島に翼を伸ばせなかったであろう。そしてオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合がなかったなら、オーストリアとセルビア間の戦争は起こらなかったであろうし、オーストリアとセルビア間の戦争がなかったなら第一次世界大戦は起こらなかったであろう。また世界大戦の機会がなかったなら、ロシアのロマノフ王朝の転覆は夢にも考えられなかったであろうし、赤色ロシアの出現もありえなかったであろう。あ! 東学党よ! 汝は世界大戦の間接的な導火線であり、労農ロシアの産みの親である。東学思想を賛美する人びとは、東方近代化の第一歩をこのように東学に求めるべきだ。
三・一運動のさいにも天道教勢力は大きな役割を果たした。三・一人民蜂起の主力軍はもちろん広範な労農大衆と青年学生、知識人階層であった。しかし、この蜂起を発起した民族代表のなかにキリスト教徒、仏教徒とともに天道教徒がいたし、しかもそれを発議したのは天道教徒側であり、全国三百万天道教徒の過半数がデモに参加したことは、この反日闘争で果たした天道教の役割がどのようなものであったかをよく示している。
このような天道教の透徹した抵抗精神が、われわれをして彼らとの統一戦線を重視させた主な要因の一つである。天道教は朝鮮の土着宗教であって、その理念と主張が斬新で抵抗精神が強く、また教の礼式が単純で運営方法がきわめて素朴で平民的であった。
共和国内閣の初代逓信相だった金廷柱は、東学が素朴な民族宗教であったことをいつも誇りにしていた。われわれが抗日遊撃隊を組織したころ入信し、かつて天道教青年党中央執行委員まで務めた彼は、その教理について広く深い知識を所有していた。彼は恰幅のいい天道教徒で、わたしに会うとよくジョークを飛ばした。
「首相、終日の執務で頭も痛いでしょう。わたしの話でも聞いて疲れをほぐしてください」
彼はわたしの執務室に現れてこんなことを言っては、よく閑談をした。ある祝日にもやってきて、ひとしきり天道教の自慢をした。
「わたしらの天道教には、味わいのあるみそ汁の匂いがしませんか」
なにをさしてみそ汁の匂いと言うのかと尋ねると、「清水奉奠」一つを見てもよくわかる、「清水奉奠」をするときの座り方を一律に定めず、あぐらをかいてもよく、両膝を立ててもよく、両膝を斜めに折って座ってもよいというような自由は、他の宗教では想像もできないことだろう、と言った。
わたしは金達鉉とも宗教についてしばしば論じた。彼は日本帝国主義植民地支配時代に天道教組織で活動したころの体験談をよく話した。会って話し合う機会が多くなるにつれ、わたしと彼のあいだには首相と天道教青友党党首という実務的な枠を越えた人間的つながりができた。彼は私生活で困っている問題についても、ざっくばらんにうち明けた。
ある日、夜中の十二時すぎに、彼は北朝鮮臨時人民委員会庁舎のわたしに面会を求めてきた。わたしが北朝鮮臨時人民委員会委員長を務めていたときだったから、一九四六年のことだったと思う。深夜、予告もなしに訪ねてきたので、わたしは少なからず驚いた。なにかわたしに急いで知らせなければならない変事でもあったのでは、という不吉な予感さえした。ところが金達鉉は意外にも、公用とはまったく関係のない突飛な依頼をして、いっそうわたしを面食らわせた。
「年がいのない、じじいだととがめないでください。ちょっとわきまえのないお願いかも知れませんが、野生の朝鮮人参か鹿茸のような補薬を手に入れてくださるわけにはいかないでしょうか」
執務室に入ってきてからもすぐには用件を言い出せずもじもじしていた彼は、思いきったようにこう切りだした。そして、なにか失策でもしでかした人のように、わたしの視線を避けて目を伏せた。この老委員長がどうしたのだろうとよく見ると、耳たぶが赤らんでいた。
「いつも健康がご自慢の先生が、きょうはどうして急に補薬が入り用だとおっしゃるのですか」
わたしは彼に椅子をすすめながら静かに尋ねた。
「じつは、女房をおさえつけることができないのです。最近若い女を後妻にしたのですが、すっかりうとまれてしまいまして…。将軍、ひとつ人助けをしてください」
「わかりました。ご夫人が先生をみくびらないようお力添えしましょう」
わたしの返事を聞くと、金達鉉は喜色満面で執務室を出ていった。わたしは野生の朝鮮人参と鹿茸を求めて彼に贈った。それから一年後、金達鉉は再びわたしを訪ねてきた。
「将軍のおかげで、七十のこの年で男の子をもうけました。家内が大喜びしましてね。赤ん坊の百日祝いに将軍をご招待します」
「それはたいへんおめでたいことです。よい時世なので、そんなおめでたいこともあるのですね。喜んでおうかがいします。ご夫人にわたしのお祝いの挨拶を伝えてください」
金達鉉は前回と同じように、にこにこしながら執務室を出た。わたしは約束どおり、百日祝いの日に金達鉉の家を訪ねた。夫人は盛りだくさんのご馳走を出し、将軍のおかげでわが家に花が咲きました、と言って頭を下げた。彼女はその夜ずっと笑顔で客を接待した。
戦時中(朝鮮戦争)のある日、わたしは慈江道の別午で金達鉉に会った。われわれは冷麺を食べながら天道教の話をした。金達鉉はその日、誠米は天道教に固有なりっぱな掟で、教団運営の重要な財源だと言った。事実、崔麟など何人かを除いた大多数の歴代天道教指導者は、いずれも私利や功名を退け質素に暮らした。彼らは財源の不足で苦労がたえなかった。給料をもらえずに教団を運営するというのはなまやさしいことではない。天道教では教団を運営する聖職者に給料を払わないそうである。聞くところによると、南朝鮮の天道教徒たちはいっとき開闢社印刷工場の跡に劇場を建て、その収入で教団の財政をまかなったという。中央大教堂に設けた二つの結婚式場も財政を補充する重要な手段になったが、そこでは時間単位で使用料を取ったという。少々みみっちい話だが、財政のためにやむをえなかったという。
わたしが天道教徒との統一戦線を重視するようになったより重要な理由は、その上層は優柔不断で日和見主義的であったにもかかわらず、絶対多数の教徒は反日愛国的であり、階級的構成において貧賎者、貧農が基本をなしていたからである。元来、天道教は農民を基本とする農民運動から発したものであり、その理念も農民的であった。資本主義的発達が微々たる段階にとどまり、近代的労働者階級の部隊がまったく存在しなかった当時のわが国の実情で、東学運動が農民を土台にして展開されたのは当然であり不可避的であった。しかし東学運動はたんなる農民のための運動ではなかった。それは都市の貧民や小商人を含むすべての貧賎者の志向と利害関係を代弁した幅の広い大衆運動であり、外国侵略者を徹底的に排斥し、国の近代化を強く志向した全民族的な反侵略愛国運動であった。
三・一運動の失敗後、天道教の上層部は闘志を失って民族性を守るためのわずかな布教活動と理論活動にとどまり、その一部上層、たとえば崔麟などは三年間の獄中生活を終えて出獄すると、親日派に転落した。しかし上層の変節にもかかわらず、下層は日本帝国主義占領下のきびしい状況のもとでも、天道教の愛国的伝統を継承するために全力をつくした。これが、わたしが天道教との統一戦線を重視し、その実現が可能であると確信した根拠であった。
天道教運動を国の他の革命勢力と結びつけ、国際革命との提携を模索して東奔西走していた革新的な運動指導者たちは、天道教を「貧賎民衆の忠僕」「異規模同質性の共産党」と称してコミンテルンとの連携をはかった。一九二五年十月末、朝鮮農民社理事会の名で李敦化が赤色農民インターナショナルに加入を申請したのは、その一例であるといえよう。朝鮮農民社は一九二五年十月、ソウルで創立された天道教青年党傘下の農民組織である。第一次世界大戦の終結とロシアにおける労農政権の樹立、そして三・一人民蜂起後の内外の情勢の進展のなかで、一九一九年九月、天道教教理の研究、宣伝と朝鮮新文化の向上発展をめざして青年天道教徒の李敦化、鄭道俊、朴来弘らは天道教青年教理講演部を創立し、わが国最初の運動的色彩をおびた青年団体を発足させた。この団体は間もなく天道教青年会と改称した。青年会は傘下に言論機関として開闢社を創立し、一九二五年から政治時事雑誌『開闢』を発刊した。また少年部を組織して朝鮮の子どもたちの情操をはぐくみ、倫理的待遇と社会的地位を人乃天主義にふさわしく向上させる活動を活発にくりひろげた。
天道教青年会は一九二三年、天道教青年党に発展し、「後天開闢」による地上天国の建設を直接の目的とする天道教の前衛的組織となった。この党は中央に本部を、府と郡に地方部を、面と洞に接(東学の教区または集会所)という末端組織を設けるなど、整然とした組織体系をととのえた。そして、党勢拡大三か年計画を立てて積極的な布教をおこない、短期間に多数の貧しい青年を入党させて隊伍を拡大した。天道教青年党はとくに、東学党の乱の被害を受けなかった礼成江以北地域でもっとも影響力のある教派勢力となった。一九三五年度に刊行された天道教青年党史によれば、当時、党地方部は国の内外を含めて百余か所にあった。そのうち北部朝鮮地域が七〇%と圧倒的多数を占め、平安道は四十か所でもっとも多かった。事実、いまの慈江道と平壌市、南浦市をも含む以前の平安道地域には、当時ほとんどすべての郡に天道教青年党地方部があった。天道教勢力の圧倒的多数が北部朝鮮地方に分布していた当時の実情は、わたしが天道教との統一戦線を重視したいま一つの無視できない要因であったといえる。
天道教革新勢力も三・一運動以後、世界の大勢に乗じて教派勢力を拡大し、反日愛国闘争をいっそう積極的にくりひろげるために奮闘した。天道教三世教主の孫秉熙が死去したあとの一九二二年七月、天道教の少壮派革新勢力は高麗革命委員会を組織して天道教勢力の収拾、再編に努め、沿海州と満州を中心にした海外と国内での活動を積極化した。高麗革命委員会はその後、秘密地下革命組織の天道教非常革命
当時、崔東曦は片山潜への手紙で、コミンテルンが朝鮮革命、朝鮮における事態の進展をどのようにみているかを問い、朝鮮革命を公正かつ積極的に支援してくれるよう要請した。天道教は朝鮮で革命が起これば、東は日本の社会革命勢力、北はソビエト・ロシアおよびコミンテルンと緊密な連係を結び、朝鮮、日本、ロシアの三角的連鎖活動をおこなう計画であったという。このように、天道教革新勢力は守旧派の妨害と憎悪を受けながらも、国際革命勢力と提携して武力抗争をくりひろげようと各方面から努力した。
天道教革新勢力は、東学運動からはじまった愛国愛民の熱情と積もり積もった怒りを反日闘争にふり向けようと苦慮したが、これといった結実をもたらすことができなかった。そのうえ三・一運動の失敗後、天道教内部では急進派と穏健派のするどい対立と分裂が生じ、また日本帝国主義はそれを巧みに利用しようとした。そうした実情のもとで、急進派は分裂を防ぐという名分で妥協し、それがもとで天道教革新勢力は骨抜きにされ、反日運動は一種の改良主義運動に漸次退化したようである。上層が民族改良主義に転落し、公然と親日化する状況のもとで、天道教はしだいに革命性を失い、時運に見放されるようになった。しかし、天道教の地方組織とそれに属していた絶対多数の教徒と青年党員はさまざまな合法・非合法組織を結成し、日本帝国主義の植民地支配に抗する各種の闘争をおこなった。しかし惜しむらくは、彼らには明確な闘争方略がなく闘争を統一的に導く指導力量もなかった。
こうした時期に、われわれは白頭山に進出し、「祖国光復会十大綱領」を発表したのであった。数百万の天道教徒は、この十大綱領を熱烈に支持した。彼らは待望してやまなかった夜明けの鶏鳴が白頭山から響いてきたと確信し、祖国光復会の旗のもとに結集した。このように天道教がわれわれとの統一戦線に応じ、祖国光復会の下部組織に広く参加したのは、天道教にたいする公明正大な評価と幅広い理解にもとづいた、われわれ自身の主動的かつ積極的な努力の結果であるとともに、愛国愛族、反外勢を理念とする天道教組織そのものの発展の歴史的必然であり、合法則的な帰結であった。理念と宗旨、主義主張にはもちろん一定の違いがあり、運動の出発においても相違点がなくはなかったが、われわれは同じ民族、同じ血筋だという大義に立って、かたく手を取り合ったのである。わたしはそのとき、民族を離れた共産主義運動はありえず、階級的利益とともにつねに民族的利益を重視すべきであるということを痛感した。
こうした共通性からして、われわれは、かつて反共の最前線に立っていた崔徳新とも容易に和解することができた。わたしと崔徳新は齢七十が過ぎて対面したが、昔日の宿敵という観念は微塵もなく、崔東旿先生のもとで愛国の精神をはぐくんだときの心境で感激的な邂逅を果たし、共産主義と天道教という理念の違いを超越して同じ民族、同じ血肉として和気あいあいと語り合ったのである。
最近、わたしは「祖国光復会十大綱領」の現代版ともいえる「祖国統一のための全民族大団結十大綱領」を発表した。われわれが白頭山地区に進出して朴寅鎮との提携を果たした一九三〇年代には、祖国の解放が民族至上の大課題であったが、二〇世紀が暮れゆく現在は、分断祖国を統一祖国に変えることが最上の宗旨、理想になっている。外部勢力を撲滅し民族の自主権を取りもどそうとするわれわれの闘争が、早くから「輔国安民」「斥洋斥倭」のスローガンをかかげた東学徒――天道教徒の熱烈な支持を受けているのはあまりにも当然なことである。
分断によって、朝鮮民族はすでに半世紀近くもさまざまな受難を強いられている。それが民族自身がまねいた自律的な悲劇ではなく、外部勢力の強要による他律的な受難であってみれば、どうしてわれわれが外部勢力に反対し、民族の統一と民族自強、民族大団結を叫ばずにいられようか。それでいま、朝鮮の北と南、海外の愛国的な天道教徒、キリスト教徒、仏教徒はこぞって外部勢力による分断の悲劇に終止符を打ち、統一祖国の新しい日を早めるために力をつくしているのである。
早くからわれわれが、二十余星霜を満州の広野と白頭の台地で武器を手に抗日をしたのも、結局は一身の安逸や栄達、一階級や階層の利益のためではなく、全民族を日本帝国主義の植民地支配から解放するためであった。
民族の上に神はなく、民族の上にいかなる階級や党派の利益もなく、民族のためには越えられない深淵も障壁もないというのが、今日、北と南、海外のすべての朝鮮人の共通の宗旨であり、日とともによりいっそう痛感させられる現実である。
わたしはいまも、われわれ共産主義者が民族のために一生をささげてたたかったその目的と理想が実現し、七千万同胞が統一された祖国の地で年々歳々幸せに暮らせるようになれば、それが東学の烈士たちの望んだ世の中、地上天国ではなかろうかと思う。民族の精神が生き生きと脈打っている東学の理念、天道教の理念を持しているのは民族の誇りである。愛国と愛族、愛民にかたむけた天道教烈士の衷情は民族史に末長く生きつづけるであろう。
6 人民を離れては生きられない
人民に支持されない軍隊は決して強い軍隊になれず、戦いで勝者になりえない。これは抗日革命闘争の全期間、わたしが骨身にしみて体験した真理である。わたしは抗日武装闘争の日々、「魚が水を離れては生きていけないように、遊撃隊は人民を離れては生きていけない」と一貫して主張してきた。それを一言に圧縮した標語が「擁軍愛民」である。「擁軍愛民」とは、人民は軍隊を擁護し、軍隊は人民を愛護するという意味である。
われわれが白頭山で戦っていたとき、人民の支持声援がいかに積極的で献身的なものであったかは上述したとおりである。古今東西の遊撃戦史上、類例をみない擁軍の熱意と援軍の気風はどこから生まれたのであろうか。果たして、なにが人民をして擁軍の主体、援軍の担当者となり終始一貫、人民革命軍を命がけで支持声援させたのであろうか。
その理由はまず、革命軍の人民的性格に求めるべきであろう。人民の息子、娘で組織された軍隊、人民の自由と解放のために戦う軍隊、人民の生命、財産を守る軍隊であるからこそ、そういう軍隊を人民が支持し援助するのである。しかし、その構成と使命が人民的であるからといって、人民がすべての軍隊を命がけで擁護し支援するわけではない。表看板に「人民」という文字が書かれていても行状が悪く、軍紀が乱れていれば、人民はそういう軍隊をよい目では見ない。人民を心から愛し敬い、人民の利益と生命、財産を心から守る軍隊であってこそ、人民から惜しみなく支持され声援される。
朝鮮人民革命軍はそういう資質をすべてそなえていた。人民革命軍の軍紀で核をなしていたのは徹底した愛民性である。人民革命軍の指揮官と隊員たちは、各自の存在価値を人民に求めた。彼らは、人民が存在しているからこそ自分たちも存在し、人民が幸せであってこそ、自分たちも幸せになれるとみなした。人民の喜びがすなわち自分たちの喜びとなり、人民の悲しみがすなわち自分たちの悲しみとなった理由はまさにここにある。したがって、人民を離れては朝鮮人民革命軍そのものの存在が無意味であり、なんの価値もなかった。また人民を離れては、遊撃隊がその存在を維持してゆくこともできなかった。
われわれは遊撃戦争を開始した当初から人民のふところを安らぎの場とし、人民の支持声援を生命線とみなしてきた。そもそも遊撃隊の母体そのものが人民なのである。われわれの父母もほかならぬ人民であり、朝鮮革命の保護者もほかならぬ人民であった。したがって、軍民一致はわれわれにとって死活の問題であった。軍隊が人民を愛し、また人民に支持されるのは、戦って勝つか負けるかという勝敗の問題であるまえに、生き残るか滅びるかという存亡の問題であった。われわれがこれを重視しなかったなら、敵がよくうそぶいた「蒼海の一粟」のような微々たる存在となり、流れただよった末に四散してしまったであろう。
われわれは遊撃戦争の過程で、軍民関係や将兵関係、部隊の日常生活において革命軍隊の規範と行動準則となる思想を新たに成文化する必要に迫られた。それで作成し公布したのがほかならぬ朝鮮人民革命軍の暫定条例である。条例を作成した基本目的は、革命軍の人民的性格を強め、愛民性を法文化し、それをしっかり維持しようとするところにあった。もちろん人民革命軍は正規軍ではなかったが、それに劣らぬ
兵力と整然たる軍事編制をととのえていた。多数の隊員を指揮官の命令や指示、慣習の力によってのみ動かすことはできなかった。
一九三〇年代の中期といえば、敵が西間島で集団部落の建設をおし進め、人民革命軍の影響力を防ぐための「匪民分離」に総力をあげていた時期である。日本帝国主義者は遊撃隊と人民のあいだにくさびを打ち込み、遊撃隊の生命線となっている援護ルートを遮断するために手段と方法を選ばなかった。人民革命軍のイメージを汚し、革命軍を軍事的、政治的に、経済的に封鎖するためなら、手段を選ばなかったのである。
人民革命軍が匪賊のようなまねはできない真の人民の軍隊であり、自分たちの軍隊とは比べようもなく道徳的な軍隊であることは彼らも承知していた。にもかかわらず、人民革命軍を「匪賊」と中傷するところに敵の狡猾さがあり、人民革命軍の政治的・道徳的権威を失墜させようとする彼らの下心があったのである。
われわれが軍民一致を生命線としていたとすれば、敵は「匪民分離」を執拗に画策していた。日本帝国主義者は馬賊団の罪業までわれわれになすりつけ、人民革命軍の人民的性格を傷つけようとした。敵のデマ宣伝によって損傷した革命軍のイメージを取りもどし、それを
以前、満州各地に割拠していた独立軍団体は軍民関係においてよい印象を与えもしたが、反面、好ましからぬ印象も少なからず残した。義兵や独立軍にたいし人民がまま好ましくない印象をいだくようになったのは、彼らが軍民関係において道義をわきまえず、人民に過重な経済的負担をかけたことが主な原因であった。ある独立軍の指揮官たちは、正義府の某中隊長のように、軍資金や独立運動寄付金の名目で人民から集めた莫大な金品を個人の享楽のために使い果たしていた。日本帝国主義者はこのような非行までも人民革命軍の誹謗中傷に利用した。独立の旗を振って歩きまわる者はすべて、人民の財産を略奪して私腹を肥やす強盗だと、独立軍と人民革命軍を同列において非難した。敵によってかぶせられたそういう汚名をすすぐためにも、われわれは人民革命軍の人民的性格をいっそう際立たせなければならなかった。
われわれが暫定条例を作成することにしたいま一つの目的は、革命軍内に新入隊員が急増した事情とも関係していた。
朝鮮人民革命軍は人民に被害を与えるような戦闘は絶対にしなかった。これを知っていた敵は戦闘で守勢に立たされると、村落に入って民家の壁や垣根にへばりついて抵抗したりした。しかし、われわれはいかに戦況が不利になっても、村や民家をよりどころにして戦おうとは決して考えなかった。一九三四年の初夏、人民革命軍が羅子溝戦闘に先立ち三道河子村に入ったときもそうだった。敵は羅子溝へのわれわれの進出を食い止めるため、おびただしい兵力を繰り出して攻撃してきた。そのときもわたしは、わざわざ敵を村の外の野原におびきだして撃滅するようにした。そうしなければ、村人たちに被害が及びかねなかった。そのため敵兵を半分ほど逃がしてしまった。これと似通ったことは一再ならずあった。
人民革命軍は村落にちょっと立ち寄る場合も、人民の解放のために戦う軍隊だといって威張るようなことは絶対にしなかった。背のうをおろすが早く、水汲み、かまどの火入れ、庭の掃除、薪割りなどをした。そういうことでは司令官も例外ではなかった。われわれはつねに指揮官自らが隊員の鑑となり、模範を示して彼らを導くように教育したのである。このように人民を愛し助けることは、遊撃隊草創期からの朝鮮人民革命軍隊員の第一の本分、戒律とされてきた。
ところが、われわれが白頭山地区に進出した初期、一部の新入隊員のあいだに軍民関係を傷つける好ましくないことがときどき起こった。新入隊員のなかには農村青年もいれば、かつての反日部隊出身もおり、満州国軍の造反兵士もいた。初歩的な訓練過程もへていないさまざまな出身の新入隊員のなかには、ときおり革命軍の伝統的な規律に反する行為が現れ、部隊の権威を失墜させることがあった。
部隊が十九道溝六鉄炮洞の李老人の家にしばらく留まっていたときのことである。李老人はたまたま取入れの仕事を手伝うために来たという、甥にあたる年若い青年をわたしに紹介した。靴やゲートルが新しいのをみると、取入れの準備をよくしてきたに違いなかった。その若者との対話がとても面白かった。どんなことでも口さえ開けば、数言でその特徴を言い表わす大変な能弁だった。外に出てしばらくして帰ってきた若者を見ると、新しいゲートルや靴が古いものに替えられ、機嫌もよくなかった。わたしがなにかあったのかと聞いても、もじもじしながら返事を避けるのだった。それで金正弼小隊長に、わけをくわしく調べてみるよう指示した。金正弼が帰ってきて報告するには、満州国軍の造反兵士の一人がその若者を強迫してゲートルや靴を取り替えたのだが、そんなとんでもない非行を働いておきながらも、小隊長の批判をすずしい顔で聞き流していたというのである。金正弼はひどく憤慨していた。
「軍隊が民衆のために山中で苦労しているのだから、民衆が軍隊に仕えるのはあたりまえではないか、満州国軍ではこんなことはありふれたことだ、と弁解するではありませんか」
わたしは大きな衝撃を受けた。かつて外国を占領した侵略軍の頭目たちが占領地域での殺人、強盗、強姦、略奪などの犯罪行為を合法化し、部下にそれを許した例は多い。中日戦争と太平洋戦争の時期、日本軍は戦地に従軍慰安婦まで連れて歩いた。軍民関係を汚すことについては満州国軍も日本軍に劣らなかった。殺人、放火、略奪をこととする軍隊で非行に慣れきっていた兵士なのだから、ゲートルや靴などを取り替えるくらいのことはいくらでもありうることだった。しかし人民革命軍では、そういうことが決して見過ごされてもよい失策とはみなせなかった。愛民を鉄則とするわれわれの立場からすれば、それは重大な違法行為であった。わたしは革命軍を代表して李老人に謝罪せざるをえなかった。
「ご老人、これはわたしたちの仕付けが悪かったせいです。ご立腹でしょうが、ふつつかなわが子の粗相と思って許してください」
すると、老人は目を丸くしてわたしの言葉をさえぎった。
「そんなことを言われては、かえってわしのほうが恐縮です。年中、山で戦う兵隊さんが靴くらい取り替えたのがどうだというのです。許しだなんて、とんでもないことですわい」
こんなことがあって以来、わたしと老人の親交はいっそう厚くなった。わたしは十九道溝に行くときは決まって六鉄炮洞の李老人を訪ねて挨拶をしたものである。
部隊ではその村へ行って給養物資の工作をすることが多かった。いつかはそこでニワトリを手に入れてきたことがあった。わたしは病弱な魏拯民のために、そのニワトリを丸蒸しにするようはからった。そのとき、彼は病気をこじらせてわれわれの部隊にきていた。ところが、ニワトリを手に入れてきた隊員は、飼い主が辞退するので代金を払えなかったというのである。確かめてみると、それもまた例の李老人であった。給養工作の経験を積んでいる隊員だったが、事の処理がずさんだった。わたしはその隊員が属していた給養部隊の小隊長を連れて李老人を訪ねていった。脱穀をしていた老人の手伝いをしてから、小隊長に指示して、「先日はニワトリの代金を払えず申し訳ありません」と言って十元を差し出させた。そのころニワトリ一羽の市価は一元五毛くらいだったので、二羽で三元であるが、老人の暮らしの足しにと思って代金をたっぷり支払わせたのである。ところが、それがかえって老人の怒りを買ってしまった。
「わたしがこの金を受け取るなら朝鮮人とはいえません。イタチにも面子があるというのに、この老いぼれの面子も少しは考えてくだされ」
「ご老人、受け取ってください。親鶏とわかっていたらお返ししたはずですが、それとも知らず使ってしまいました。春にひよこをかえす親鶏をつぶしてしまったのですから、わたしたちがご老人を破産させてしまったようなものではありませんか」
わたしは、やっとのことで老人の手に金を渡すことができた。老人はうるんだ目を袖で拭き、二年前の強奪事件について話すのであった。
ある日、彼は狩りに出て鹿一頭を仕留め、それをある金持に売った。そのうわさを聞いた兵隊たちがどやどやとやってきてやみくもに銃剣を突きつけ、金を出さなければ撃ち殺すと脅かした。それで鹿を売った金を残らず取り上げられてしまった。それ以来、軍隊という言葉を聞くだけでもかぶりを振るようになった。しかし、人民革命軍が人民を大切にするのを目にしてからは、こんな軍隊ならなにも惜しむことはないと考えるようになったという。そういうおりにたまたま、革命軍が黒いニワトリを求めているということを耳にした。それで、こんなときこそ気持だけでも誠意を示そうと親鶏を差し出したのに、かえって三倍以上の代金をもらったのだから、民草としての道義にもとるという自責の念にかられると言うのだった。老人の話を聞いて、その誠意をむげにしたのではなかろうかという気もした。しかし、人民の誠意には必ず償うことにしている革命軍の伝統的な規範に反して、老人の誠意だからと受け入れるわけにはいかなかった。しかし一部の新入隊員は、革命軍への人民の私心のない支持声援を当然のことのように思い、彼らの境遇や生活状態にたいする慎重な考慮もなしに援護物資を軽々しく処理していた。
その代表的な例が一九三六年の秋にあった薬水洞での「牛事件」である。そのころ部隊は、長白県十九道溝の地陽渓の奥に留まっていた。われわれは食糧不足で難儀していた。ところがある日、乾(ひ)葉(ば)を拾いに薬水洞の方に出かけた二人の新入隊員が一頭の牡牛を引いてさもうれしげに帰ってきた。わけを聞いてみると、遊撃隊が乾葉汁で飢えをしのいでいるということを知った薬水洞の農民たちがよこしたものだった。最初、彼らは牛を受け取ろうとしなかったが、農民たちが自分たちの誠意だからどうか受け取ってくれと、無理やりに牛の手綱を握らせるので、仕方なく引いてきたと言うのである。片方ではすでに釜が沸いていた。幾日も穀粒を喉に通していなかったときなので、新入隊員は言うまでもなく古参の隊員や指揮官までも、久しぶりに牛肉が腹いっぱい食べられると喜んでいた。わたしもやはり、乾葉汁を一杯すすって夕食にかえなければならない隊員たちのことを思うと、早く牛をつぶせと命じたい気持だった。しかし、空を仰いで悲しげに鳴く牡牛の飾り付けをあらためて見て気が変わった。念入りにつくった鼻輪、赤の布地をきれいに巻きつけたおもがい、黄色い鈴や硬貨などには、飼い主のこまやかな愛情がこもっていた。いまにも牛をばらして釜に入れんばかりに腕まくりで立ちまわっている隊員たちを集め、わたしは静かに言った。
「牛を飼い主に返そう」
牛を引いてきた二人の隊員は唖然としてわたしの顔を見つめた。他の新入隊員の顔からも笑みが消え、失望の色がただよった。幾日も空き腹にたえてきた彼らにとって、それはまったく意外な命令だったのであろう。溜め息をもらしている新入隊員たちに、わたしはこう諭した。
―― わたしがなぜ牛を飼い主に返そうというのか。それはこの牛が農民の大事な財産であるからだ。飼い主がどんなに牛を大事にしていたかを見たまえ! あの鈴はおそらく飼い主の家に代々大事に受け継がれてきたものに違いない。硬貨はたぶん、その家のおばあさんが嫁いでくるとき巾着の紐につけてきて一生大切にしていたものだろう。朝鮮の母親たちはそういうふうにして、牛にたいする愛情を表わすのだ。牛を返さねばならないいま一つの理由は、薬水洞農民の営農がこの牛に多くかかっているからだ。われわれがそういうことを考慮せず、人民の誠意だからと牛をつぶしてしまったら、どうなるだろうか。飼い主とこの牛に頼っていた隣近所の農民たちは、明日から牛の代わりに仕事をしなければならなくなるだろう。牛が運ぶ荷物を人が担いで運び、牛が耕していた畑を鍬やホミで起こそうとどれほど苦労するだろうか。こういうことを考えれば、この牛をつぶしてわれわれの心が安らかであろうか。きみたちもほとんどが貧しい農民の息子なのだから、汗水たらして苦労する父母のことを考えてみたまえ――
わたしの言葉に呵責を受けたのか、牛を引いてきた隊員は二人とも目をうるませて、自分たちが間違っていた、処罰してほしい、と言った。わたしは処罰の代わりに、薬水洞に行って牛を返すよう彼らに命じた。
当時、わたしは新入隊員があると、しばらくの間は彼らと起居をともにし、ある程度鍛えてから中隊や連隊に配置していた。一度に数十名も入隊させるときはそうできなかったが、三、四名の少ない人員を入隊させるときは、たとえ数日なりとも一緒に連れていた。そうすれば、彼らの家庭の事情やレベル、性格、趣味などを知り、適切な教育対策を立てることもできた。
一九三六年十月ごろ、一度に十余名の林業労働者が入隊したことがあった。わたしは、彼らのうち年若い三人を入隊当日から連れていた。ある日、彼らは歩哨勤務を終えての帰り道に、畑の主人の許しを受けずにトウモロコシを取り、背のうにつめて帰ってきた。部隊の食糧が切れて、司令官同志までも水で飢えをしのいでいるので、トウモロコシでもたっぷり召し上がってもらいたかった、と言うのだった。驚いたことに、彼らは人民の財産に手をつける違法行為をしておきながら、かえって司令官のために、部下の道義をつくしたかのように思い込んでいたのである。わたしは、司令官のためにという彼らの気持は十分理解できたが、それを受け入れることはできなかった。
「きみたちの誠意はありがたい。しかしきょう、きみたちは人民の利益をはなはだしく侵害したのだ。主人の許しも受けず背のう三つ分のトウモロコシを取ってくるとは、こんな無法がどこにあるというのだ!」
「わたしたちは朝鮮の独立のために苦労している軍隊なのに、これしきのことはたいしたことではありません。以前、うちの村では独立軍のために金製の品物まで納めたものです。わずかなトウモロコシのことで文句を言う農民がいるとすれば、それは親日派と変わりありません」
しっかり者に見えるチビ隊員が三人を代表して言うのだった。彼らはかわるがわる一言ずつ口にしたが、それには少しも反省の色はなかった。祖国解放のために戦うことを鼻にかけて人民の利益を侵す彼らの間違った観点を正してやらなければ、これからどんな変事や弊害が生じるかわからなかった。
わたしは一時間余り彼らを説諭したのち、取ってきたトウモロコシをそっくりもとの畑に返すよう命じた。そして中隊長を彼らについて行かせた。数時間がたっても彼らは帰ってこなかった。わたしはなにか事故でも起きたのではなかろうかと心配になり、伝令兵を先立たせてトウモロコシ畑に行ってみた。すると、彼らはトウモロコシを畑のへりに置いて座っていた。中隊長にわけを聞いてみると畑の主を待っているのだと言うのであった。わたしは隊員たちを見まわした。彼らの目はみな赤らんでいた。そのとき、わたしはふと八道溝の小学校時代に読んだ『三字経』の「人之初性本善」という最初の文句を思い出した。人間の本性はもともと善だという意味である。この文句が示しているように、人間本来の性はじつに美しいものである。宿営地に帰る道々、わたしはあらためて三人の隊員にこう強調した。
―― 今日のことを教訓にして、これからは人民をもっと愛するのだ。われわれが人民をないがしろにすれば、人民はわれわれに背を向ける。人民から見放されることほど恐ろしいことはない。革命家にとって最大の悲劇は人民の愛を失うことだ。われわれが人民の愛と支持を失えば、いったいなにをよりどころにして戦えるのか――
その晩、彼らは寝床につくまで一言も口にしなかった。それでいちばん年若い隊員の手を取って、どうして口をつぐんでいるのだ、きょうのことが胸につかえているのではないのか、と聞いてみた。
「そうではありません。この軍隊は本当にりっぱな軍隊だとしみじみ感じたのです。これからは二度とあのようなことはしません」
彼は涙ながらに、きっと人民から愛されるりっぱな遊撃隊員になってみせると誓うのだった。
革命軍の体面を汚す行為は、軍民関係にのみ現れたのではない。連隊長クラス以上の指揮官のあいだには、兵員が増えてくると指導を下部に接近させず、一般的な指示を下すだけで兵士大衆とよく溶けあわない傾向が現れるようになった。果ては一部の指揮官は、もう隊伍が数百人に増えたのだから、位によって上下の服装も寝食も別にすべきであって、ともすると極端な軍事民主主義が助長されて隊伍が統率できなくなりそうだ、とまで言いだした。新しく登用された一部の初級指揮官のあいだには、高い官位にでもついたかのように尊大ぶる傾向がたびたび現れた。
一九三六年の秋、長白地方で活動していた部隊が十四道溝付近を出発し、密営へ向けて夜間行軍をしていたときのことである。出発に先立って斥候隊を任命し、行軍中の注意事項とともに、とくにタバコを吸わないよう強調した。夜間行軍中にタバコを吸うのは、敵に自らをさらけだす行動にひとしかった。隊伍がある山の曲り角を折れているとき、隊列の先頭を占めていた中隊の方から急にタバコの臭いがただよってきた。しんがりの司令部の目が届かない間に第二中隊の誰かがすばやくタバコを吸いだしたに違いなかった。翌朝、中隊長たちを呼んで調べてみると、驚いたことに平隊員ではなく中隊長の李斗洙と金沢環が禁煙指示に違反した張本人であることを率直に白状した。なにかをはじめると、まずタバコをくわえるのが彼ら二人の習慣であった。わたしは彼らをきびしくたしなめた。
「ここできみたちに禁煙の必要性についてくどくど説明するつもりはない。昨晩、もし敵がきみたちのタバコの火を発見したり、タバコの臭いをかぎつけて不意討ちをかけてきたら、部隊はどうなったであろうか。われわれがいま戦っている抗日戦争は意志と規律の戦いだといえる。抗日戦争は祖国を解放しようとする革命的意志と、他国への占領を合法化し、それを永久化しようとする侵略的野望とのきびしい対決だ。この対決でわれわれが勝利を重ねているのは、ほかならぬわれわれの意志と規律が敵のそれより強いからであり、政治・道徳の面でわれわれが敵よりはるかにすぐれているからだ。ところが、われわれの隊伍にきみたちのように意志薄弱な者がつぎつぎに現れたら、どういう結果になるだろうか。規律が緩んだ意志の弱い軍事集団は敵との戦いで必ず敗れるものだ。きみたちは大の愛煙家と自称しているが、きみたちほどの愛煙家は平隊員のなかにいくらでもいる。きみたちがタバコを吸うときは彼らも吸いたいに決まっている。しかし、平隊員のなかには昨晩の行軍中にタバコを吸った者は一人もいない。これはなにを意味するのか。きみたちが自分を特殊な存在と思い込んでいることを意味する。軍律を守るうえで特殊というものはありえない。ところが、きみたちは特殊な存在のように振舞った。こういうことを許すなら、それは指揮官の特権を許容することになる。われわれは特権というものを認めない。それを認めれば、下級が上級を信じなくなる。損害をこうむるのは将兵一致、擁幹愛兵だ。きみたちの誤りは重大であるのか、ないのか」
李斗洙と金沢環は誤りの重大さを認め、どんな処罰でも受けると言った。
「無論、きみたちに処罰を加えることはできる。しかし、それは簡単な方法だ。わたしは同じ誤りを二度と繰り返さないよう、きみたちに心から警告する。これを処罰だと思いたまえ」
その日、わたしは李斗洙に「禁煙団団長」の任務を与えた。
同じころ、連隊政治委員金平の伝令が、またも極端かつ無規律な上下平等を主張して部隊の空気を乱した。許範俊というその伝令は、少し年がいっていて武装闘争にもわりと早く参加した旧隊員だった。もとはわたしの伝令であったが、動作が鈍くて司令部の伝令には向いていないといって、金平が自分の連隊に連れていった。金平は許範俊の後任として自分の伝令である李権行を司令部によこした。許範俊は金平のもとに移ってから、ときおり指揮官たちに口答えをして悶着を起こした。連隊の指揮官たちが連絡任務を与えると素直に受けとめず、不遜な態度を取ることもあるとのことだった。指揮官たちはたまりかねて、彼の問題を上申した。これをそのまま伏せておいては、上下間の友愛にひびが入り、擁幹気風が消えうせてしまう恐れがあった。
こうした諸々の理由と人民革命軍内に生じた新たな環境を十分に考慮したうえで、朝鮮人民革命軍の暫定条例を作成し公布したのである。それは、白頭山に進出してはじめて迎える正月の準備をおろそかにすることはできないといって、金周賢が奔走していたときだから、おそらく一九三六年の末ごろだったと思う。金平が草案を作成してきたが条例という感がうすかった。それで十五条項からなる草案を作成しなおした。以後さらに補充、完成することを前提にして暫定条例とした。
朝鮮人民革命軍の暫定条例には、革命軍の性格と使命、指揮官と兵士の日常生活における規範と行動準則が詳述されていた。この条例でわれわれがとくに注意を向けたのは、軍民関係と将兵関係の問題である。それは暫定条例の各条項に革命軍の人民的性格が強調されていることをみてもわかる。
―― 本軍は、日本帝国主義者とその手先に反対し、祖国の独立と人民の自由と解放のために戦う朝鮮人民革命軍である。
これは条例の第一条である。人民革命軍の組織原則を規制した条例の第二条にも、本軍は朝鮮人民のすぐれた息子、娘で組織された真の朝鮮人民の革命軍隊である、と明記されている。
軍民関係についてはつぎのように明記した。
―― 本軍は、「魚は水を離れては生きていけない」ということを肝に銘じて人民の生命、財産を守り、人民と生死、苦楽をともにし、軍民が一致団結して祖国の独立と人民の解放のために戦う。
将兵一致の条項はつぎのとおりである。
―― 本軍の指揮官と隊員は擁幹愛兵、将兵一致の精神で軍規と風紀を自発的に守る。
暫定条例には、日本帝国主義者とその手先の財産を没収して抗日戦争の経費に充当し、その一部で貧しい人民を救済するという条項もある。また、朝鮮人民革命軍との共同作戦を望む部隊と、本軍に共鳴する国と人民との共同戦線をはかるという条項もある。その他にも暫定条例には、人民革命軍の軍事編制と各級指揮官の任免にかんする司令部の権限、入隊資格と入隊および脱隊手続き、処罰対象の範囲などが規定されている。また、朝鮮人民革命軍の旗、記章、軍帽の星の模様も規制されている。
暫定条例の目的は明白であった。それは人民の利益をいささかも侵さず、軍民、将兵が一つとなり、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮して、人民が渇望してやまない祖国解放の歴史的偉業を必ずわれわれの力で達成しようということである。暫定条例に貫かれている基本精神は愛であった。すなわち、人民への愛、兵士への愛、指揮官への愛を鉄則とせよということであった。
わたしの体験によれば、軍民一致や将兵一致は規定や原則だけではなしえない思想・感情の一致性である。これをなすには、軍隊と人民、指揮官と兵士、上級と下級のあいだに互いにいたわり、大切にし合う人間的な情愛が同時に通わなければならない。心から愛し合い、親しみ大切にする人間的な情愛こそが、思想をかたく結びつける強力な接着剤となるのである。こうしてみると、朝鮮人民革命軍の暫定条例は誰かを統制し取り締まるための規則や法文ではなく、軍隊と人民、指揮官と兵士をあつい愛情でつなぐ愛の法典、愛の憲章といえる。
わたしは朝鮮人民革命軍の暫定条例を作成し公布した後、すべての指揮官と兵士にそれを厳守するようにさせた。それ以来、軍民関係、将兵関係は切っても切れず、離れようにも離れられないあつい血縁的な関係にいっそうかたく結びつけられた。指揮官と隊員は餓死、凍死の脅威にさらされるきびしい状況にあっても、みだりに人民の財産に手をつけなかった。ときにはやむをえない事情で、住民の了承を得られない状況のもとでわずかのジャガイモでも掘り出していくときは、お詫びの書き置きと、元値の何倍分かの金を畑のへりかジャガイモの穴ぐらに置いていったものである。村落に立ち寄ると、住民を助けることから先に考え、供応を受けようなどとはつゆほども考えなかった。
部隊が長白県二十道溝のある村に留まっていたときのことを、わたしはいまも忘れることができない。そのときもわたしは、村でいちばん貧しく見える小さなわらぶき家に宿所を定めた。その家では六十を越した老夫婦が幼い孫一人を大事にかかえて暮らしていた。息子は筏流しで非命に倒れ、嫁は腸チフスを患って死んだという。一人前の人手のないその家は、わらぶきの屋根が腐って天井から雨が漏り、軒下の土縁は崩れて、人の住む家とは思えないほどだった。宿をとった最初の日、わたしは伝令兵と一緒に村の裏山からカヤを刈ってきて屋根をふきかえ、土縁も積みなおした。
その日、夜もだいぶ更けたときだった。にわかにニワトリの羽ばたく音がするので、イタチがニワトリ小屋に入ったのではないかと思って外を見た。意外にも老人が松明をかざしている老婦に助けられてニワトリを捕まえているところだった。わたしが、どうしてこんな夜中にニワトリをつかみだすのかと尋ねると、老人は急用ができたからだと言うのだった。その家にはニワトリが三羽しかなかったが、老人はそのうちの二羽を引き出した。一羽は雄鶏で、もう一羽は太った雌鶏だった。わたしはこの雌鶏が昼にタマゴを産み、巣から下りてきて鳴いているのを見ていた。老人は紐でニワトリの両脚を縛りつけ、雌鶏は台所に投げ込み、雄鶏は小脇にかかえて枝折戸の外に出ていった。なぜか、老婆もいそいそとその後にしたがった。それから二、三時間たっても二人は帰ってこなかった。わたしは土縁に腰を下ろして二人の帰りを待った。明け方になってやっと姿を現したが、小脇の雄鶏はそのままで、顔色からしてたいへん失望しているようだった。
「ご老人、どこにおいでになって、いまごろお帰りになったのですか」
「いやはや、まいったもんじゃ。村中五十余戸の家をみな訪ねまわってきたところじゃよ」
雄鶏を土縁におろしながら老人が答えた。わたしはわけがわからず、いったいなんのために夜通しそんな苦労をするのかと尋ねた。
「あんたがたの隊長さんの名が
「どうしてその家を見つけようとするのですか」
「あんたがたの奇特なおこないを隊長さんに申し上げ、この老いぼれのお礼を言おうとしたんじゃ。あんたがたに世話をかけて、だまっている法はないじゃろう。それでほんの気持だけだが、隊長さんにニワトリの一羽でも差し上げようと思ったのじゃが、あいにく…」
老人が最初に訪ねたのは上手の村の地主の家だった。隊長なら当然、村でいちばん大きな家に泊まっているはずだと思ったからだ。老人は地主のつぎをいく差配の家にも行って見た。そして村の五十余戸の家をつぎつぎと訪ねまわった。老人はこういういきさつを話し、身寄りのない貧乏な老いぼれだと、村中が自分たちを馬鹿にしていると嘆くのだった。
「もっとも、わしらのような老いぼれが、こんな格好で隊長さんにお目にかかるというのも虫がよすぎる話じゃ。けれどもあんまりじゃよ。隊長さんを自分の家に泊めておきながら探しまわってどうするつもりか、とからかう人もおったんじゃ。いったい、あんたがたの隊長さんはどの家におられるんじゃ」
老人は村中をくまなく訪ねまわったにもかかわらず、その尋ね人が自分の家にいようとは想像だにしていなかったのである。老人があまりにも気をもむので、わたしは自分の身分を明かした。しかし、老人はわたしの話を真に受けなかった。どだいそんなことはありえない、と言うのであった。
――以前、独立軍が村に出入りしていたときは、中隊長ともなるといちばん大きな家に上がり込み、牛をつぶして酒宴を催したものなのに、隊長がこんなむさくるしい家に泊まるはずがない。まして隊長のような偉い人が屋根をふきかえたり、土縁を積み、コウリャンがゆもいとわず召し上がるというのか。あんたもわしらを馬鹿にして隊長の居所を隠しているに違いない――
老人はこう言って、腹を立てるのだった。翌日、老人は伝令兵の話を聞いてやっと納得した。われわれはニワトリをつぶして接待しようとする老夫婦をやっとのことで止め、村を発った。こうしたことは何回となくあった。
朝鮮人民革命軍の暫定条例は、軍民一致の関係を強めるうえでじつに大きな生命力を発揮した。もし、隊伍内に人民への愛と徹底した奉仕精神を確立していなかったなら、われわれは人民革命軍の運命とわれわれ自身の生存をたえず脅かしていたきびしい試練の日々に、おり重なる難関を克服できず革命を中途で放棄していたかも知れない。
朝鮮人民革命軍の暫定条例が公布されて以来、部隊の将兵一致の面においても新たな転換がもたらされた。指揮官は隊員と苦楽をともにすることに慣れていた。隊員がかゆをすすれば指揮官も一緒にかゆをすすり、隊員が雪のうえに枯れ葉を敷いて寝るときは、指揮官も同じように枯れ葉を敷いて寝た。
朝鮮人民革命軍の指揮官は司令官から小隊長にいたるまで、すべてが「小釜」を戒め反対した。「大釜」「小釜」というのは、もともと蒋介石の国民党軍隊で生まれた言葉である。国民党軍隊では将校ともなれば、一般兵士が煮炊きする大釜とは別に、小釜で特別料理をつくって食べるのを当然のこととしていた。上下を厳格に区別し、上を絶対的に優遇して、下を絶対的に冷遇することでは日本軍がとくにひどかった。日本軍では伍長クラスにでもなると、下級兵士に足の裏や靴の裏をなめさせる野蛮な「気合」入れや懲罰をほしいままにしたものである。朝鮮人民革命軍では「小釜」を絶対に許容しなかった。それを許せば、特別料理の特恵にあずかろうとする特殊層が生まれ、そうなれば特殊層と大釜の一般食をとる広範な隊員のあいだには溝ができるものである。口では万民平等を唱えながら、食の面から区別し不平等を助長するなら、そんな偽善者をいったい誰が支持し、したがおうとするだろうか。
われわれは地位の高低にかかわりなく、すべての指揮官がいつどこでいかなる状況にあっても、平隊員と同じように一つ釜の飯を食べることを鉄則としていた。すべてが同じ釜の飯を食べるのは、絶対に背くことのできない人民革命軍の軍律、食の倫理となっていた。食物も着る物も、寝床もみなまったく同じであったため、隊員の面倒をみる義務を負っている指揮官たちは事実上、隊員よりかえって少なく食べ、粗衣をまとい、粗末な寝床を占めることが多かった。
いまもわれわれは「小釜」に反対している。だいぶ前のことではあるが、ひところ首都と地方の少なからぬ食堂では裏部屋を別個に設け、幹部が来ると特別料理を出したものである。裏部屋を設けてはいけないと、何回となく中央から赤信号を送ったにもかかわらず、サ―ビス部門ではずるずると「小釜」を運営しつづけた。それは結局、人民性のない幹部のあいだに特殊化を助長する結果をまねいた。一部の幹部は下部の者から裏部屋や貴賓室に案内されると、それを当然なことと思い特別待遇を受けようとした。わたしは「小釜」に賛成しない。それを放置すれば、あらゆる「妖怪」がはびこるようになるからである。「小釜」からはブルジョア思想しか出てこない。そして、党と大衆のあいだにひびが入り、社会主義への信念が崩れかねない。朝鮮式社会主義が健在であるのは、党が官僚化せず、われわれが「小釜」を許さなかったこととも大いに関係している。
朝鮮労働党が作成し施行しているすべての政策の基礎には必ず人民性がおかれている。人民性はわが党と軍隊と国家の性格を支配する基本的要因である。われわれは体験を通じて、人民性を基本的な生存方式とする党と軍隊は必勝不敗であるという真理を実証した。ごく少数の特権層にのみ奉仕することは人道主義でないばかりか、反人民性の露骨な表現である。
資本主義国の軍隊では真の軍民関係、同志関係、上下関係など存在せず、また存在することもできない。そこではもっぱら強圧、欺瞞、葛藤、対決、盲従、盲信があるのみである。悲しむべきことは帝国主義国の軍隊では兵士相互間でもいたわり合う人間本然の美しい世界を見出しがたいということである。「先に食え。おまえが食わなければおまえが食われる」これが資本主義国の軍隊で将校が吹き込んでいる人生哲学である。これによると、「おれ」以外の存在はすべて敵となり、捕食の対象となる。第二次世界大戦の末期、ニューギニア戦線にいた日本軍の兵士たちは食糧が切れて人間を捕食したという。いまも資本主義国の軍隊では「おまえか、おれか」という野蛮な生存方式を植えつけている。
朝鮮人民革命軍の暫定条例を施行する過程を通じてうちかためられた軍民一致と将兵一致の伝統は、今日、わが党の正しい指導のもとに全面的に継承され発展している。人民軍軍人は人民を愛し援助することを最大の喜びとしている。軍隊が人民を助け、人民が軍隊を助けるのは、今日わが国のどこでも見られるありふれたことになっている。新聞やテレビでよく見るように、わが国の娘たちは祖国防衛の持ち場で負傷した傷痍軍人を自ら訪ね、その目となり手足となっている。日とともに咲きほこる軍民一致の姿から、わたしは無上の幸福感を覚える。
人民軍内では将兵一致の伝統もさらにうちかためられている。今日、人民軍の指揮官たちは兵士をわが子のごとく、実の弟のごとくいたわり愛している。自分の生命までささげて隊員たちを救い出した英雄的な指揮官も多い。兵士たちは中隊長を長兄、中隊政治指導員を長姉と呼んでいる。人民軍の基本戦闘単位である中隊での上下関係は、まさにこのような血縁的な関係である。
わが国は世界に堂々と誇れる強力な武器を持っている。それはほかならぬ軍民一致、将兵一致である。このような強力な武器はいかなる軍事科学や技術によってもつくりだせない。ただ真の愛情によってのみつくりだせるのである。
7 良民保証書
わたしが金正淑を桃泉里に派遣したのは、一九三七年三月、西崗会議の前夜であった。その年はどこでも工作員の派遣を要請していた。李悌淳、朴達、権永璧、金在水などもみな工作員を求めた。それで、そうした要請にこたえる一つの措置として、金正淑を桃泉里へ派遣したのである。
李悌淳の新興村と朴達の大(クン)水(ウン)溜(デンイ)村を結ぶ線が、咸鏡北道全域と咸鏡南道東部地区にわれわれの地下組織網を広げるルートであったとすれば、桃泉里と新坡を結ぶ線は、咸鏡南道の西部・南部地域と国内の内陸地帯へ組織網を広げるルートであった。桃泉里は長白県下崗区地域の中心に位置する村で、下崗区地区はもとより臨江県を含む南満州の広大な地域に祖国光復会の組織網を広げるうえでも、またそれらの組織との連係をつけるうえでも拠点となりうる地点であった。
桃泉里の向かい側の新坡は、朝鮮の労働者たちが集結している興南工業地帯と連係をつけるうえで有利な位置にあり、東海岸南部地域と内陸深くへ地下組織網を拡大するうえで格好の足場となる地点であった。わたしが新坡をとくに重視したのは、国内への秘密ルートを比較的容易に開拓しうる可能性をそこに発見したからである。新坡には張海友(張孝翼)がいた。密営を訪ねてきた人たちのなかには、彼が出獄後ただの小市民になりさがってしまったようだと言う者もいたが、それは新坡の地下運動家たちの内幕をよく知らない他の地方の人たちの推測にすぎなかった。わたしは権永璧の報告を通じて彼が小市民に転落したのでなく、依然として革命をつづけており、すでに金在水とも秘密裏に連係を保っていることを知っていた。
張海友は独立運動家たちに愛されていた。彼はわたしの父と緊密なつながりをもって、独立運動家や亡命者の多い沿海州へしばしば出かけ、そのつどわたしの家に寄って一晩か二晩泊まったものだが、父と向かい合って食事をし、酒をすすめられていたことが忘れられない。一九二〇年代の半ば、彼が独立運動関連者として逮捕され、獄中生活を送ったとは聞いていたが、その刑期がどれくらいだったのか、また彼が民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換した経緯もわからなかった。解放後やっと、彼が言い渡された刑が七年であり、昭和天皇の即位による「恩赦」で二年目に釈放されたことを知った。いずれにせよ、革命運動の経験が豊かで、わたしとは近しい間柄の彼が新坡にいるのは、活動の展開に有利な兆しであった。その後、桃泉里地下組織を通じて確かめたところによれば、彼は性質が少しすさんでしまったが本心は変わっていないとのことであった。張海友と気脈を通じれば、国内への有力なルートが開けるに違いなかった。
張海友の工作に誰を派遣すべきか。誰を送ればその有望な国内ルートを比較的容易に開けるだろうか。適任者の選抜にはわたしも金平も頭をひねった。第七連隊政治委員の金平は政治工作員を派遣する極秘の仕事も担当していたのである。あられの降るある夜、わたしは金平を宿営地のたき火の前に呼んだ。それはわれわれが多谷嶺を越え、撫松県楊木頂子密営に向けて北上していたときのことであった。細面の金平はあいつぐ戦闘や雪中行軍でかなりやつれていた。
「新坡ルートの開拓者を選んだかね?」
わたしは数日前と同じ質問を繰り返した。数日前はあいまいな返事をした彼が、その日は自信ありげに答えた。
「選びました。わたしの考えでは黒の正淑が最適任者だと思います」
わたしは驚いた。なんとわたしの考えと同じだったのである。
「黒の正淑」とは金正淑のことである。部隊には正淑という名の女性隊員が三人もいた。張正淑、朴正淑、金正淑である。誰かが「正淑さん!」と呼ぶと、三人が同時に「はい」と答えたものである。そのような情景がときには楽しい笑いを誘いもしたが、生活上の不便や混乱をまねくこともあった。それで戦友たちは「イキの正淑」「青の正淑」「黒の正淑」と呼びわけるようになった。「イキの正淑」こと張正淑は作業や行軍のときよく息をはずませるので、そう呼ばれるようになった。しかしなかには、彼女の行動がいつも生き生きとしていたからそんな愛称がついたのだと言う人もいた。どちらもあたっているようである。朴正淑が「青の正淑」と呼ばれるようになったのは、彼女が遊撃隊に入隊したとき青いチマを着ていたからである。「黒の正淑」という金正淑の呼び名にも同じようないわれがある。彼女は遊撃区で生活していたときも、革命軍に入隊したときも一張羅の黒いチマを着ていたのである。
「彼女に新坡開拓の重要任務が果たせるだろうか」
わたしは、金平が金正淑を適任者として選んだ理由が知りたくて、それとなく尋ねた。
「わたしが延吉県八道溝で党活動をしていたとき、正淑はわたしの指導を受けながら共青活動をしました。彼女はなにをやってもそつがありません。それに女性中隊での政治活動の経験もあるではありませんか。本人の意向はどうかわかりませんが…」
わたしも金平の見解に同感だった。しかし、わたしはまだ金正淑の人となりを完全に把握していたわけではなかった。彼女はわれわれの部隊に配属されてまだ一年しかたっていなかった。われわれは互いに別の土地で亡国の民の生活を体験し、異なる経路をへて革命に参加したのである。わたしが金正淑の名をはじめて聞いたのは、小汪清馬村にいたときである。王隅溝北洞から汪清へやってきた児童団演芸隊員たちのにぎやかなおしゃべりのなかから、尹丙道の名とともに彼女の名がときどき聞かれた。そのあどけない子どもたちは、自分たちの児童団指導員に大きな憧れをもっていた。
その後は一時、延吉県児童局長を務め、汪清県児童局長に転任してきた李順姫から金正淑のことをよく聞かされたし、尹丙道もときおり彼女のことを話題にした。どこの村へ行っても一人か二人はいる「正淑」というありふれた名前は、こうしてわたしの記憶にとどめられるようになった。人びとの評から察すると、大胆でねばり強く、それでいて気立てがやさしく、人一倍思いやりの深い娘であるということであった。わたしが汪清にいたころ、彼女について知っていることはこんな程度であった。
延吉県児童団演芸隊が汪清に来たとき、わたしはその子たちに赤いネッカチーフ四十枚を贈り物にした。そのとき、八区共青委員兼県児童団演芸隊責任者であった金正淑は、それを受け取り、たいへん感激したという。金正淑は馬鞍山密営にいた第四中隊の隊員のうち、極左分子もあえて「民生団」のレッテルを貼ることができなかった唯一の人物であった。だが彼らは彼女を民生団嫌疑者たちの中隊に配属した。 おまえも朝鮮人だから、疑いがあろうとなかろうと「罪」を犯した朝鮮人と一緒にいるべきだ、と言いたかったのであろう。金正淑はそのような不快な処置をかえって喜んで受け入れた。いわれもなく罪をかぶせられた戦友たちと運命をともにしたかったのである。彼女は民生団嫌疑者たちと同じ兵舎で生活しながらも、それを恥としなかった。
小づくりで器量も十人なみのその平凡な女性隊員が全中隊に愛されていたわけを、わたしはその後の生活を通じて知ることができた。金正淑は自分のためではなく、他人のために生きる人であった。他人のために自分のすべてをささげた生、それが金正淑であり、彼女が歩んだ人生であった。彼女はつねに自分を犠牲にして他人のためにつくした。食べ物があれば大柄な隊員や幼い隊員に分け与えた。正淑から食べ物をもっとも多く分けてもらったのは、弟の基松の親しい仲間だった第四中隊第一小隊の縮れ毛のチビ隊員であったろう。金正淑は他の隊員たちがみな寝静まったあとも、男子隊員の軍服や軍靴を繕ったものである。同志や共同の偉業にたいする献身性は、金正淑の性格の核心をなしており、またそれが彼女の人間的な魅力でもあった。
わたしは、林春秋、金正弼、朴洙環など延吉出身の隊員たちから、反民生団の旋風が東満州に吹き荒れていたとき、能芝営で獄につながれていた民生団嫌疑者たちに毎日ひそかに食べ物を差し入れていた娘がいて、そのおかげで、あらぬ罪で監禁された受難者たちが飢え死にをまぬがれたという話をたびたび聞いた。その娘がほかならぬ金正淑だったという。民生団嫌疑者に差し入れをしたことがわかれば、彼女も民生団の嫌疑をかけられたであろう。
わたしが金正淑とはじめて会ったのは三道湾遊撃区であるが、彼女の経歴や一家の災難についてくわしく聞いたのは、一九三六年の春、漫江にいたときであった。ある日、わたしは東崗会議の報告を書き終え、晴々とした気持で前哨を見てまわり川のほとりに出た。そのとき、どこからか郷愁をそそる澄んだ歌声が流れてきた。歌声のする川上の方へ足を伸ばしてみると、柳の川辺で二人の女性隊員が洗濯ものをゆすいでいた。その一人が金正淑であった。わたしはその日はじめて、彼女の生まれ故郷が咸鏡北道会寧であり、五つか六つの年に、一家が郷里を離れて満州に移ったということを知った。
会寧の人たちは自分たちの郷土を咸鏡北道の名勝として誇りにしている。かつての六鎮の一つとして知られているこの由緒深い要塞地は、抗日革命闘争期には日本軍の羅南第一九師団第七五連隊本部と飛行隊が駐屯している軍事要衝として、われわれの作戦地図にも大きく記されていた。いま会寧の人たちは、自分たちの郷土が羅雲奎のような映画界の鬼才や趙基天(〔 〕)のような有名な詩人を生んだことに大きな誇りをいだいている。また会寧が有名な白アンズの産地であることも自慢にしている。花の咲き乱れる春、会寧を訪れるなら、街中が白アンズの花におおわれている風景を楽しめるであろう。
しかし金正淑は、そんな美しい郷土でわずか数年しか暮らせなかった。彼女が物心ついたころから目にしたのは、馬賊が土ぼこりをあげて駆けまわる北間島のすさんだ山野であった。金正淑は両親と兄弟姉妹をつぎつぎと失った。父親は独立運動家であった。敵に捕らわれてむごい拷問にかけられたこともあれば、野宿して凍傷を負ったこともあり、それがもとで重病を患い早くして世を去った。不遇な生涯を終える真際、父は愛する正淑に窓を開けてくれと頼んだ。そして充血した目に涙をたたえ、南の空を眺めながら言った。
「わしは死んでも朝鮮の地に埋もれたかった。土くれとなっても朝鮮の土くれになりたかった。しかし、この願いさえもかなえられそうにない。おまえはどこへ行っても故郷を忘れてはいかん。朝鮮を忘れるなよ。そして、朝鮮のためにたたかうのだ」
金正淑が十四のとき、間島の地を血の海に変えた侵略者が符岩洞を襲って村に火を放ち、彼女の母と兄嫁を無惨に殺害した。そのとき兄嫁が彼女に残したのはまだ幼い乳飲み子だった。この甥のために彼女は乳をもらって歩いた。おなかをすかして泣く子を抱いて村中をまわり、ときには一里以上も先の隣村まで行ってもらい乳をした。金正淑はそんな苦労をして育てた甥とも生き別れをしなければならなかった。彼女が遊撃区に移ることになったとき、地下工作の任務をおびて八道溝鉱山に行く兄の金基俊が、甥を無理に引き離したのである。彼女は甥を遊撃区へ連れていくつもりだったが、兄が許さなかった。それで彼女の出発が一日遅れた。翌日の早暁、討伐隊が村を襲った。銃声が響くと、彼女は甥を抱いて山へ走り登った。その足で遊撃区へ向かうつもりであった。そこへ兄が息を切らせて追いつき、おまえはまだ革命に参加する覚悟ができていないと叱った。革命に参加するつもりなら、なによりも先に革命のことを考えろ、家族の心配などしてどうして革命がやれるんだ、この子の心配はしなくてもよいと言うと、泣きわめくわが子を抱きとり、振り向きもせず谷を降りていった。きびしく叱りはしたものの、兄も涙があふれ妹に顔を向けることができなかったのであろう。それが兄と妹の永遠の別れとなった。
金正淑はその後、二度と兄と甥に会えなかった。兄は鉱山で地下工作中に逮捕され、拷問の末死亡し、甥は行方さえわからなくなった。たった一人残った弟の基松も、符岩洞から三道湾遊撃区に移る蔵財村の人たちを救うため、児童団の信号ラッパを吹いて討伐隊を誘引し、敵弾に倒れた。金正淑は解放後も弟を思い出しては涙を流し、街で十代の子どもたちを見ては、甥も生きていればあの子くらいになっているだろうにと、そっと溜め息をもらしたものである。
金平と話し合った後、わたしは金正淑を司令部へ呼んだ。
「金在水同志から、有能な地下工作員を送ってくれと連絡員を通して何度も要求してきている。鋭気があり、地下工作の経験も豊かな人だが、担当区域があまり広すぎて相当困っているようだ。とくに女性たちとの活動がうまくいかなくて、たいへんもどかしがっている。女性を地下組織に引き入れるには、彼女たちの行動を縛っている年寄りたちとの仕事をうまくやらなければならないのだが、それがまた容易でないようだ。きみは桃泉里を拠点にして下崗区一帯の婦女活動を指導し、金在水同志を極力助けてほしい。下崗区一帯の活動が軌道に乗れば、新坡へ渡って張海友と手を結び、三水地帯に強力な地下組織を結成しなさい。そして興南、咸興、北青、端川、城津、元山など東海岸一帯の工業都市や農漁村に祖国光復会の組織網を急速に広げるのだ。国内で秘密結社活動をするのは、人民革命軍の保護下にある長白での大衆工作に比べて何倍も危険で困難だ。くれぐれも気をつけて任務をりっぱに果たしてほしい。きみがこの困難な仕事をきっとやりとげるだろうと、わたしは信じる。困難にぶつかれば、そのつど同志たちと人民に依拠しなさい」
これは、わたしが金正淑を桃泉里に派遣するときに話したことの一部である。
桃泉里地区には、すでに一九三六年の晩夏からわれわれの工作ネットが伸びていた。鄭東哲の話によると、ベルリン・オリンピックのニュースが桃泉里の山村にまで伝わっていたころ、下崗区一帯に金遠達という「ばくち打ち」が現れて若者たちと手なぐさみをしたが、そのときよく話題にしたのは、オリンピックのマラソンで朝鮮人が一等と三等を取ったのに、授賞式で掲揚された旗は日章旗だったという話である。
小柄できびきびし、才気にあふれたその若い「ばくち打ち」は、わたしが派遣した政治工作員の金在水であった。彼は冒険小説などにあるような変わった闘争経歴の持ち主だった。一言でいえば、王隅溝ソビエトの初代会長、延吉県党委員会書記、東満特委組織部長… これが一九三〇年代前半期までの彼の経歴であった。ところが、順調だった彼の人生行路をすっかり掻き乱しかねない出来事がもちあがったのである。東満特委が羅子溝に移転したとき、彼は特委の同僚とともに敵に逮捕され憲兵隊に連行された。彼らは金在水と朱明に転向文を書かせ、自分たちへの協力を強要して任務を与えた。
―― きみたちはわれわれに逮捕されたことをいっさい口外せず、特委の活動をつづけるのだ。革命組織もつくりつづけてよい。われわれはそれには関知しない。ただ組織への新規加入者たちの名簿を欠かさず渡してくれれば、それで満足する――
彼らは、特委クラスの幹部が転向したと快哉を叫んだが、金在水は革命をつづけるために偽装転向、偽装誓約をしただけであった。彼は敵の機密文書と工作資金を奪って東満特委にもどり、事件の顛末を正直に報告した。一足遅れて特委を訪ねた朱明は、敵の指図どおり組織を欺瞞し、その代価として当然の懲罰を受けた。金在水は許されはしたが党から除名された。彼は政治的にはもちろん、道徳的にも葬られたのである。一朝にしてすべてを失い闘争圏外に放り出された彼は、独り山奥に隠棲し、死にも劣る偽装転向を悔い、悩みもだえた。
どのような逆境にあっても、共産主義者としての信念と意志、精神的・道徳的純潔を守ることを最大の栄誉、
金在水は、敵をあざむいてでも出獄し革命をつづければそれでよいという単純な考えにとりつかれ、革命家の崇高な道徳的規範をおかしたのである。そのことで悩んでいた彼は、わたしが馬鞍山で民生団の文書包みを焼却し百余名の「犯罪」嫌疑を白紙にもどしたといううわさを聞いて、わたしを訪ねてきた。そして、実地のたたかいで自分の潔白さを証明したいと言うのだった。
「わたしを処刑しようと生かそうと、それは自由にしてください。けれども、わたしは革命活動をつづけたいのです。このままでは、なんともたまりません」
金在水は、胸を叩きながらこう訴えた。
わたしは金在水を信じた。それで彼に地下工作の任務を与え、長白県下崗区方面に派遣したのである。わたしは彼が二度とそのような汚点を残すことはないだろうと確信した。彼が組織にたいし率直であったのは、革命的良心を持している証拠であった。わたしはその良心を信じたのである。彼は浅はかにも偽装転向をしたが、それがどんなに不名誉な罪悪行為であったかを身をもって悟ったのだから、命を失うことがあっても二度と恥辱の道を選ぶようなことはしないはずだった。
彼は偽名を使い、天上水をへて桃泉里へ入っていった。最初、天上水の祖国光復会支会長の李用述から信頼してよいと言われた鄭東哲、金斗元、金赫哲(金秉極)らの性向を確かめるため、ばくちをした。下崗区一帯には彼ほど腕ききのばくち打ちはいなかった。彼がばくちを打つときは、腕ぬきをつけ、花札をその中へ素早く隠したり取り出したりしながら相手の目をあざむいた。「かぶ」や「おいちょ」のような高い手になると、楽しそうに『漁郎打令』を歌ったりした。彼の正体を知るよしもない村の年寄りたちは、あの金遠達だかなんだかというならず者が若者たちを悪に染まらせていると騒ぎ立てたが、いつしかばくち場では組織がつくられていた。やがてそれは祖国光復会長白県下崗区委員会の中核組織になった。彼の精力的な活動によって、一九三七年初まで、桃泉里を中心とする下崗区のほとんどの村に祖国光復会の組織が生まれ、その後、生産遊撃隊も組織されるようになった。
桃泉里に派遣された金正淑がはじめて金在水と会ったのは、天上水の人たちが「谷奥の家」と呼んでいた李用述の家であった。この家は八人の兄弟姉妹が同居する大所帯であった。この家で祖国光復会天上水支会が結成され、四男の李用述が支会長に選ばれた。
われわれは、なにかとこの家の世話になった。隊員たちが地方工作に出かけるたびに、ずいぶん厄介をかけたものである。わたしも一九三六年末から一九三七年の夏にかけて、三度も世話をかけたが、最初のときは三日間も泊めてもらった。貧しい火田民ではあるが親切な一家だった。李用述の長兄は、金在水の依頼でわれわれの部隊の印鑑を二つも彫ってくれたが、わたしはその印鑑を長い間使った。
金正淑は、「谷奥の家」に半月ほど泊まり込んで支会の活動を助ける一方、地下工作の準備をすすめた。金正淑は厳玉順という偽名を使い、茂山からの移住民家族の一員だということにして桃泉里へ向かった。赤紫のチョゴリに紺サージのチマ、首の長いポソン、これが「茂山の家のセエギ」厳玉順が桃泉里の人たちのなかへ入っていったときの身なりであった。咸鏡道の人たちは若い女性をさして「セエギ」と呼んでいた。
桃泉里は新坡の対岸から十二キロほど離れた山村であった。桃泉里で生まれ、そこで二十年以上暮らした魏仁燦の話では、この村の開拓者は「韓日併合」直後、朝鮮から渡ってきた独立運動家たちである。桃泉里は一九三〇年初まで独立軍の勢力圏内にあった。その後、国内から農組運動に従事した先覚者たちが集団的に亡命してきてから、この一帯は共産主義思潮が優位を占めるようになった。一九三六年下半期からは、人民革命軍小部隊がひんぱんにやってきて人民に革命的影響を与えた。こうして桃泉里とその周辺一帯には祖国光復会の組織網がはりめぐらされたのである。人民革命軍がしきりに出入りし、桃泉里やその近辺で遊撃隊が連戦連勝すると、この一帯の住民は勢いづいて闘争意欲に燃え、敵は恐怖におののいた。敵の恐怖がどれほどであったかは、つぎのようなエピソードがよく物語っている。
桃泉里学校の前に泉があった。うだるような真夏の暑さにも、その泉の水を飲むと歯にしみるほど冷たかった。水の味が格別だといううわさを聞いた日本人警官がその原因を知ろうと、水の重さを計ってみたところ、ほかの泉の水より重かった。
「こんな泉の水を飲んでるから、桃泉里のやつらはいやに目が澄んでるんだな。みんなパルチザンに違いない!」
彼らは、こんなことを言って泉を埋めてしまおうとした。その話を耳にした鄭東哲区長が警官たちにこう言った。
「この泉の水は遊撃隊員たちが行き来しながら飲みつけているものです。泉をなくしたと知ったら、旦那さんがたの責任を追及するかも知れませんよ」
これを聞いて、敵はあえて泉を埋めることができなかった。一口に言って、桃泉里は大衆的基盤が強固で革命勢力の強いところであった。
金正淑は野良仕事に精を出しながらも、夜は村人たちの家へ遊びに行き、彼らと顔なじみになった。彼らとなじむなかで一人ひとりの名前を覚え、さらに北青の家、甲山の家、興南の家などというそれぞれの家族の呼び名も覚えた。後日、彼女に聞いた話では、一週間で村人たちの名前や家族の呼び名をみな覚えたという。金正淑は、このようなごく普通のことを人民のなかへ入っていく最初の工程とみなしたのである。
「教員もクラスを受け持つと、まず出席簿を手にして子どもたちの名前から先に覚えるというではありませんか。そうすれば子どもたちのなかへ入っていけるわけでしょう。政治工作員も教員と変わりがないと思いました。名前を知らずには人民のなかへ入っていけませんからね」
これは、彼女が桃泉里の工作から帰ったとき金平に言った話である。
金正淑は司令部の指示にしたがって、活動の重点を女性工作におき、彼女たちとの接触を深めた。当時はまだ桃泉里に女性組織がなかった。ほとんどの女性が家に閉じこもり、世の動きというものを知らなかった。それに年寄りたちが彼女たちの行動を縛っていた。たまに誰かが読み書きを習いたくて夜学をちょっとのぞいても年寄りたちは大騒ぎをした。金正淑は、桃泉里で女性の革命化を促す鍵は年寄りたちとの仕事をうまく進めることだと判断した。事実、感受性の強い青年に比べて、老人は何事にもきわめて頑固であった。彼らはわが身の不運をかこちながらも、自らの運命を開くことなどはまったく考えていなかった。老人を啓発せずには若い世代の組織化もうまくいくはずがなかった。実際、金正淑は年寄りや女性のために苦労することが多かった。
吉林や孤楡樹、五家子一帯でのわたしの活動経験が、それをよく物語っている。前にも述べたが、五家子を革命化するときは「辺トロツキー」老人が障害であった。彼を説き伏せずには五家子の革命化はもちろん、組織の結成も不可能であった。「辺トロツキー」老人を味方にしてはじめて、わたしはそこに反帝青年同盟を組織することができたのである。孤楡樹の玄河竹もわれわれの重要な工作対象であった。玄河竹はわたしの父の親友であったうえに影響力も大きかったので、孤楡樹を訪れるたびに、わたしはまず彼を訪ねて挨拶をし母の挨拶も伝えた。
金正淑はもともと敬老心が厚かった。彼女が桃泉里で年寄りと接触した経験談を聞いても、意識的に工作したという感じがほとんどしなかったほどである。金正淑は人びとを工作の対象、教育の対象としてではなく、純粋に普通の人間として接した。工作上の必要で獲得すべき人を相手にする場合も、相手を被説得者、自分を説得者の位置におくのではなく、隣人と近所付き合いをするようにした。そうしたなかで、彼女は村人から信頼される娘となり、親しい隣人となった。これが地下工作員としての金正淑の重要な特徴であった。
わたしも生涯を通して切実に体験したことだが、人民のなかへ入っていこうとすれば、まず自分を人民の子であり、忠僕であり、友であると思い、また彼らを自分の父母や兄弟、教師と思わなければならない。自分が人民の教師であり、人民に君臨する官僚、人民を治める指導者であると思い込む人間は、人民のなかへ入りその信頼を受けることができない。人民はそのような人たちには心の扉を開こうとしないのである。
金正淑は通りすがりに立ち寄った家でも、そのまま立ち去るようなことはしなかった。その家の手助けをして薪を割ったり、水を汲んだり、穀物を搗いたりするのである。村人たちにたいする金正淑の誠意は、石の上にも花を咲かせるほど深いものだった。こうして彼女は老人たちに慕われるようになった。桃泉里革命化の突破口はこのようにして開かれたのである。
あるとき劉歌洞の地主が、熱病にかかった下働きの少女を山小屋に捨てたことがあった。ところが誰もあえて、その哀れな少女を助けようとは思いもしなかった。それを知った金正淑はためらうことなく山小屋へ行き、寝食をともにしながら少女を介抱した。驚いた同志たちが山小屋へ駆けつけて彼女を説得した。助かる見込みのない一少女のために危険を冒し病気でも移されて、もしものことがあったら司令部から受けた重要任務はどうする、その責任は誰が負うのか、介抱するにしても寝食をともにすることだけはやめてほしい、と。
金正淑は笑って、彼らを安心させた。
「心配しないで帰りなさい。命が惜しくて子ども一人さえ助けられないようでは、国はどう取りもどし、人民はどう救えるのですか。人民にささげた命なのです。なにも恐れることはありません」
彼らは金正淑を山小屋から連れもどすことができなかった。そうして金正淑はその哀れな少女の命を救った。桃泉里の人たちは彼女を「うちの玉順」と呼ぶようになった。塩漬けのサバ一尾が手に入っても、「うちの玉順」を食事に呼び、子どもの百日祝いがあっても「うちの玉順」を誰よりも先に招いた。金正淑はもはや村人の大事な娘とも孫娘ともなり、姉妹ともなったのである。
彼女は村人の暮らしに深く心を配る一方、下崗区地域の革命化のために奔走している金在水の身辺に慎重な注意を払った。その年の二月、金在水はわれわれが山から届けた『三・一月刊』を祖国光復会の各組織に配布中、最後の一部を残して敵の不審尋問にかかった。警察署に連行された彼は、文盲を装ってしらをきった。
「山へたきぎを取りに行って拾った本ですだ。刻みの巻き紙にしようと持ってきたのに、なんで取り上げるんです。返しておくんなせえ」
警官たちは彼を白痴だろうと思い、いったん釈放した。しかし、その裏で彼の身元を洗いはじめた。一時、金遠達という偽名で下崗区一帯に出入りしていた金在水は、桃泉里の李孝俊という人の家に居所を移してからは、彼の従兄を装い、名も「俊」の字をとって李永俊と改めていた。
金正淑は金在水と、敵の調査をかわす手だてを相談した。そして「李永俊は白痴である」と敵に信じ込ませるのが上策であると認めた。彼らのシナリオにしたがって、翌日、李孝俊の家では隣近所をびっくりさせる大騒動がもちあがった。李孝俊の若い妻が、居候していた男やもめの「義理の従兄」李永俊を洗濯棒をふりかざして家から追い出したのである。彼女は、阿呆の従兄がしょっちゅう家の物を盗み出してはばくちばかり打っているので、自分たちは乞食同然になった、と泣きわめいた。妻が家で騒動を起こしているとき、李孝俊は警察を訪ね、ばくちのほかに能のない阿呆の従兄のため家がつぶれる破目になった、戸籍から従兄の名を消して、どこかへ追い払ってくれ、と哀願した。一方、「阿呆の従兄」も『三・一月刊』誌一部を持って警察署へ行き、「旦那さんがたが欲しがっているこの本を差し上げますから、どうか、いとこの孝俊と嫁さんがおらを叩き出さんようにしてくだせえ」と泣きついた。『三・一月刊』を見た警官たちは驚いて、どこからこれを持ってきたのかと問いただした。金在水は、この前遊撃隊と日本軍が交戦した三浦洞の戦場跡で拾ったと答えた。
「この前、旦那さんがたが欲しがって取り上げた本も、本当はそこで拾ったんだけど、裏山の胞胎山で拾ったとうそをつきましただ」
警官たちが目をむいて怒鳴りつけると、金在水はふところから懐中時計を取り出し、にやにや笑ってみせた。
「そこへ行ったら、こんな時計や万年筆もお金も、なんでも転がっていますだ。それを教えたら、みんなひとに取られてしまいますわい。弟夫婦がおらを追い出さないようにしてくれたら、旦那さんがたにその宝の山を教えてあげますだ」
この一件で警官たちは李永俊が本物の白痴だと思い込み、それきり調べを打ち切ったという。
鄭東哲、柳栄燦、金赫哲、李哲洙ら桃泉里の先覚者や革命的大衆は、金正淑の地下工作と身辺の保護をはかってできるかぎりのことをした。彼らは金正淑のために、新坡から新聞も定期的に手に入るようにした。鄭東哲が新坡の組織メンバーである雑貨店主に購読料を払い、彼の名で新聞を取るようにしたのである。彼は新聞が配達されるとすぐ、商品を包んで送ったり、そのまま送ったりした。おかげで金正淑は『東亜日報』と『朝鮮日報』を欠かさず読むことができた。
鄭東哲は冠婚葬祭があると、そこへ金正淑を招き、桃泉里に来た遊撃隊の工作員や他地方の地下組織の連絡員と会わせるようはからった。一九三七年夏、彼の家では男の子が生まれて祝いの宴をもうけた。そこには遊撃隊から派遣されてきた「青の正淑」(朴正淑)ら数人の政治工作員と地下組織のメンバーが参加し、巡査や区長、密偵なども顔を見せていた。鄭東哲は敵の目をくらますため、工作員同士で初対面の挨拶をさせた。金正淑も朴正淑と慣例どおりに挨拶を交わした。彼女は両手をついて「はじめまして」と「青の正淑」に深々と頭を下げた。区長は数日前から金正淑にお辞儀の練習をさせておいたのである。金正淑は毎晩、井戸端で水がめを頭に載せて歩く方法も身につけた。端午の節句をひかえて、幾晩もぶらんこ乗りの稽古もしたという。彼女はそうしたことをすべて、女性地下工作員の資質をそなえる必須の修業と考えたのである。
金正淑が桃泉里を革命化するうえで重点をおいたのは、大衆を意識化し革命組織に結集することであった。彼女は「祖国光復会十大綱領」をかかげてわれわれの革命思想を熱心に宣伝した。こうしていつしか指導的中核が育成され、彼らによって反日青年同盟と婦女会が組織された。平穏だった山村がついにわれわれの有力な活動基盤となったのである。金正淑はいたるところで人民を擁軍愛兵の思想で教育し、婦女会員や青少年と力を合わせて援護物資をととのえ部隊に送った。彼女の援軍教育は大きな実りをあげ、桃泉里では山東地方から来た中国人移住民までもが人民革命軍に援護物資を送るほどになった。児童団員は戦場の跡を歩きまわって銃弾を拾い集めた。
援軍運動の
金正淑の指導を受けた腰房子の婦女会会長尹於福は三人の子持ちであったが、二歳の幼児をおぶって三十二キロを越すわれわれの密営を訪れ、遊撃隊への入隊を懇願した。参軍熱の高さを示す例はいろいろな形で表われた。ある家では息子を遊撃隊に送ってから、にせの墓をつくり祭祀までしたほどであった。遊撃隊留守家族への監視と弾圧がきびしいときだったので、息子が死んだように見せかけて敵の目をあざむこうとしたのである。
金在水の『三・一月刊』配布露呈事件後しばらくたったある日、わたしは金正淑の新坡工作を支援するため崔希淑を腰房子へ送った。彼女が到着すると、金正淑は桃泉里をはじめ下崗区地区の婦女会と青年会、少年会組織の指導を彼女にまかせ新坡の工作に専念した。彼女の新坡での工作は張海友への接近からはじまった。当時、張海友は新坡地区で三水共産主義者工作委員会のメンバーとともに反日革命運動に従事していた。そのころ桃泉里の区長で祖国光復会特殊会員の鄭東哲と三水共産主義者工作委員会の張海友、林元三、徐載逸らの交際がはじまり、互いに気脈を通じるようになった。徐載逸は洗濯屋で働きながら組織工作に尽力し、金正淑との連絡任務も果たした。張海友とその組織の動向を正確につかむため、金正淑は鄭東哲に張海友の組織メンバーの一人である林元三と義兄弟の契りを結ばせた。彼女は鄭東哲を通じて十分な事前調査をしたうえで、張海友とじかに接触した。金正淑は石田洋服店の裏部屋で張海友に会い、わたしの親書を伝えた。
「
張海友がこう所信を表明したという報告を受け、わたしは金正淑の新坡工作が成功するものと確信した。
張海友は年齢や闘争歴を鼻にかけたり、こせこせするような革命家ではなかった。正しいことであれば無条件支持してそれにしたがい、私情にとらわれることなく、大義と大業のためならためらいなく自分を犠牲にできる人だった。
その後しばらくして、張海友は三水共産主義者工作委員会のメンバーをもって祖国光復会新 坡支会を結成する一方、金在水と金正淑の指導のもとに、石田洋服店の裏部屋で三水共産主義者工作委員会を母体とする朝鮮人民革命軍党委員会直属の新坡地区党グループを組織した。
祖国光復会支会や党グループの会合は主に光鮮写真館でおこなわれた。写真館二階の修整室は金正淑がもっともよく利用した秘密連絡所である。光鮮写真館主の李舜垣は祖国光復会新 坡支会の中核メンバーであった。ソウルの写真講習所を出たあと開業したのだが、写真が上手で人望が厚く人付き合いがよかったので、彼を通じると対人活動がスムーズに運んだ。彼は多くの敵側資料を写真に撮って、われわれに提供した。あるときは人民革命軍の国内進攻に役立つようにと、新坡の全景を撮って送ってくれた。その家の現像室ではビラも多く刷ったという。夫人は組織の秘密活動を黙々と支えた誠実な協力者だった。
金正淑は光鮮写真館のほかにも石田洋服店、泉水場そば屋、新坡宿屋、茶碗商店、水車小屋など新坡地区の随所に秘密連絡所や秘密工作場を定め、ひそかに出入りしながら地下活動を進めた。泉水場そば屋や新坡宿屋、茶碗商店などは組織のメンバーの接触、連絡の場として多く利用され、同時に遊撃隊への援護物資の集結・保管場としても利用された。援護物資の主要運搬ルートの秘密拠点として利用されたのは水車小屋だった。邑(町)から少し離れた水車小屋は、敵の注意をあまり引かない所にあったので、物資の保管と運搬にたいへん便利だった。そこの主人の親類筋に筏流しを業とする人がいたので、援護物資を鴨緑江の対岸へ送るときは、容易にその協力を受けることができた。水車小屋の主人も筏流しも、ともに祖国光復会会員だった。新坡を通して、じつに多くの援護物資がわれわれに届けられた。十三道溝には物資が多くなかったので、長白県下崗区一帯の組織も援護物資の大半を鴨緑江対岸の新坡で購入しなければならなかった。新坡地区の組織から遊撃隊に送られる食糧、布地のような多量の援護物資は、ほとんどが水車小屋アジトと五函徳宿屋を経由して筏や渡し舟で鴨緑江を渡っていった。五函徳宿屋は家族ぐるみで組織された特殊分会であった。
金正淑は、桃泉里と新坡地区で活動する間、白頭山密営や三水へも行き来し、新興、北青、端川など東海岸地区へも行き、その一帯の革命家たちとの接触も深めた。阿安里と五函徳の秘密連絡所は主に他地方へ工作員を送るさいのアジトとして利用された。金正淑は、赴戦、長津、新興、興南一帯に向かう地下革命組織のメンバーは主に阿安里分会責任者の家から派遣し、甲山、北青、徳城、端川一帯へ向かうメンバーは五函徳の秘密連絡所から派遣していた。興南工業地区に地下革命組織をつくる任務を与えて魏仁燦工作グループを送り出したのも、阿安里のアジトであった。金正淑は新坡地区の多くのアジトを足しげく巡り歩きながら組織を拡大していった。彼女は決してアジトを固定しなかった。ときには変装もして秘密連絡地点や工作場所を変えながら、それらを巧みに利用した。それは組織を偽装し、身辺の安全をはかるうえでも必要なことだった。
金正淑が桃泉里から帰ったとき、わたしは彼女に尋ねた。新坡の警官たちはフクロウのような目をもっているというのに、いったいどのようにして正体を隠しおおせることができたのか、新坡市内へ数十回も出入りしながら敵に捕らわれず自由に活動しえた秘訣はなにか、と。金正淑は返事の代わりに微笑をたたえて、新坡へ渡って密偵に尾行されたときのことを話した。
「新坡の渡し場から街へ向かっているとき、粗末な麦わら帽子をかぶった男がついてくるのです。最初は尾行だと思いませんでしたが、わたしが街へ入ってからも、後ろの方に見え隠れするので、ちょっとおかしく思いました。その人はある飲食店の前で所在なさそうにタバコを取り出して口にくわえたのです。ところが、それは刻みではなく巻きタバコではありませんか。それを見ておやっと思いました。貧しい農民が巻きタバコなど吸えるわけがないではありませんか」
金正淑はあの裏通りからこの裏通りへと密偵を引きまわしたあと、市場の中へまぎれ込み、幼児をおぶって重そうなかごを頭にのせて歩いている顔見知りの女の荷をすばやく受け取って頭にのせた。それで密偵は彼女を見失ってしまったという。
「わたしが密偵や警官の手にかからなかったのは、責任感のためでした。敵につかまったら司令部から与えられた任務を果たせなくなる、と思うと、ひとりでに肝が据わってくるではありませんか。それに、大衆が命がけでわたしを守ってくれました」
金正淑のこの話は、桃泉里――新坡地区工作についての彼女自身の総括でもあった。彼女が困難な敵中工作任務を無事に果たせた重要な秘訣は、ほかならぬ責任感にあり、さらに大衆のなかに深く入ったことにある。彼女が敵地での地下工作で驚くほどの創意を発揮できたのも、そういう責任感があったからである。わたしは彼女を桃泉里に派遣するとき、政治工作以外の任務は与えなかった。それは敵中工作で過重な負担をかけないためであった。しかし金正淑は政治工作に力をそそぐかたわら、部隊の活動に必要な軍事情報を随時収集して司令部へ送ってくれた。彼女は桃泉里と新坡の地下組織を動かして多くの情報資料を集めた。これは鄭東哲、張海友、林元三などの革命家たちに負うところが多かった。
鄭東哲は情報収集工作にたけていた。警察署長、税関長、面長など統治機関の役付きらと義兄弟の契りを結び、彼らと「兄さん」「弟」と呼び合いながら、秘密を探り出した。この義兄弟グループには、十三道溝役所の幹部や新坡から派遣された特高も加わっていた。鄭東哲は彼らを招いてしばしば酒宴を張った。アヘンを好む官吏のためには吸飲の機会ももうけた。
祖国光復会下崗区委員会は敵の機関に会員を巧みに潜入させた。十三道溝警察署の管下にも二、三名の祖国光復会特殊会員がいたという。行政末端単位の使い走りである区長や十家長もほとんどが革命組織のメンバーであった。林元三は靖安軍連隊本部で筆耕をすることになった機会に、多くの軍事機密を収集した。彼は革命軍の活動に参考になりそうな作戦地図や統計資料があると手早く書き写し、それを丸めてくずかごに投げ込み、夕方、紙屑を焼却するときに取り出して組織に渡した。光鮮写真館と石田洋服店は、敵情資料収集と連絡のアジトとしてもしばしば利用された。新坡支会傘下の祖国光復会員のなかには面事務所や金融組合など敵の機関で書記として働く者もいた。彼らはたえず敵情資料を集めて光鮮写真館か石田洋服店に持ち込み、組織に通報した。金正淑は間三峰戦闘のときも、この地区のアジトを通して金錫源の指揮する大部隊の動きをつぶさに調査し、いちはやく司令部に通報して人民革命軍の勝利に大きく寄与した。
金正淑は組織のメンバーを動かして、新坡一帯の軍警の兵力と軍事施設の配置状態、武装状態などを調べ、鴨緑江の川幅、水深、流速、それに渡河と撤収に適した地点まで自ら確認し、必要な略図を添えてわれわれに送ってきもした。わたしは桃泉里の工作状況を総括するとき、金正淑のこうした創意に富む努力を高く評価した。渡河と撤収に有利な地点を調査した理由を彼女に尋ねると、いずれ、人民革命軍が新坡を攻撃するときが来ると考えたからだと答えるのだった。
一九三七年夏、金正淑は敵に逮捕された。桃泉里の婦女会員たちが、われわれの出版所に送ろうとして求めた紙束が、靖安軍の捜査で発見されたのがもとだった。金正淑は、その紙束は鄭東哲区長から頼まれ、自分が買ってきて保管してもらっていたもので、住民台帳に使うものだと言い張った。その毅然とした態度と筋の通った話しぶりが敵をいたく刺激した。言葉に窮していらだった将校は、恐れる色もなく舌がよく回るのをみると革命軍のスパイに違いないと決めつけ、うむを言わせず繩をかけて靖安軍部隊本部のある腰房子へ連行した。金正淑は最期を覚悟し組織にあてて遺書をしたためた。
「安心してください。わたしは死ぬでしょう。けれども組織は生きつづけるでしょう。わたしの財産のすべてである二元を送ります。組織の資金にあててください」
鉛筆で書いたその遺書と現金二元は、彼女が監禁された家の老婆から隣家に伝えられ、さらに鄭東哲の手をへて組織に伝えられた。組織ではそのメンバーを動かして緊急救出対策を講じた。桃泉里の組織は代表団を靖安軍部隊本部に送り、無実の良民を不法逮捕したことに強く抗議し、即時釈放するよう要請した。彼らの抗議は効を奏した。靖安軍部隊本部は部隊の移動にかこつけて、金正淑を十四道溝警察署に移送した。
鄭東哲は、金正淑をさらに十三道溝警察署に移すよう工作した。十三道溝警察署は一等級高い一級警察署だったので、彼女の移送問題は難なく解決した。金正淑は両手を縛られたまま押送された。二つの警察署のあいだに桃泉里があった。彼女が警官に護送されて桃泉里を通りすぎたのは昼下がりだった。桃泉里の村人たちは、繩目にかけられ警官の銃口にこづかれながらはだしで歩いていく「茂山の家のセエギ」を悲憤の涙で見送った。ある老婆はわらじを持って駆け寄り、血が流れている金正淑の足にはかせながら、護送警官をののしった。
「うちの玉順になんの罪があって引っ立ててゆくんだ。うちの玉順を共産党だと言ってつかまえていくというが、玉順のような人が共産党なら、わたしも共産党についていくよ!」
鄭東哲は金正淑のあとを追って十三道溝警察署へ行き、署長に釈放を求めた。署長は五百名の良民保証書を持ってくれば、金正淑を「良民」と認めて釈放しようと約束した。署長が途方もなく多人数の保証書を要求したのは、後日、上級から問題にされた場合の、責任回避の口実をつくっておくためであった。空の星を取ってこいというほどむずかしい要求だった。しかし、鄭東哲は彼らの要求どおり保証書をそろえて署長の机の上に置いた。署長は目を丸くした。「逆賊」とか「共匪」に見られた「不穏分子」を「良民」と認める保証書に印を押したがらないのは大衆の一般的心理である。署長は鄭東哲との「友情」もあって、体面上、良民保証書を持ってくれば釈放するとは約束したが、それはとうてい不可能だと見ていたのである。
五百名の印と拇印が並んだ良民保証書、それは一つの奇跡であった。そのようなことがどうして可能だったのだろうか。二百余戸にすぎない桃泉里の村に、それだけの地下組織メンバーがいるはずもなかった。いくら組織が奔走したところで、組織メンバーの数倍もの民衆が人の言いなりに危険千万な保証書においそれと判を押すはずはなかった。そんなに多くの人がためらうことなく良民保証書に捺印したのは、人民が金正淑をそれほど深く愛し、支持したからである。言いかえれば、強権や金権にまさる人民の絶大な信頼と支持がこうした奇跡を生んだのである。
敵の魔手から無事に解放されて桃泉里に帰った金正淑は、村人たちに取りかこまれたとたん、「わたし、おなかが減って死にそうだったわ。姉さん、ご飯」と言ったという。これは身内同士でなくては言えない遠慮のない言葉である。彼女が桃泉里の人たちを身内のように考えなかったとしたら、そんなことをすぐ口にすることはできなかったであろう。
解放後、興南市人民委員会委員長を務めていた林元三が、会議に参加するため平壌に来たおり、かつての桃泉里・新坡時代の親友だった張海友、鄭東哲と連れ立って、わたしの家を訪問したことがある。張海友と鄭東哲は当時中央の要職にあった。民主党平安南道委員長の金在水も一緒に来た。その日、金正淑は客のためにギョーザをつくった。話題はおのずと桃泉里・新坡時代に移っていった。金正淑は同志たちのおかげで死地から救われた当時のことを感慨深く回顧し、涙ぐんだ。そして、腰房子に監禁されていたとき、たやすく脱出できたがそうしなかった、ともらした。
「本当はね、歩哨の一人くらい倒して脱出するのはたやすいことでしたの。でも、そうはできませんでした。わたしが監禁されていた家の老夫婦が気の毒なことになると考えると、歩哨を倒して逃げることができなかったのです。わたしはその人たちを見て考えました。ここから逃げるのはたやすいことだ、でも、そうやって逃げたら、この家の年寄りたちはどんな目にあい、わたしを良民だと保証した鄭区長はどうなり、桃泉里の地下組織と住民はまたなんと多くの被害を受け迫害されるだろうか、こう思うと、わたし一人が犠牲になっても組織を守り、人民を保護しようという覚悟ができました。わたしはその夜、安らかな気持でその家の居間で眠りました。一身をささげようと決心すると気が休まり、恐怖心も、ためらいもなくなりました」
これが桃泉里・新坡時代の「茂山の家のセエギ」の姿だった。
良民保証書のおかげで危地から救われた金正淑は、しばらく桃泉里地区と国内で地下工作をつづけたあと、司令部に帰ってきた。彼女が部隊に帰るとき、祖国光復会桃泉里支会の柳栄燦も一緒に来た。彼は金正淑の保証で遊撃隊に入隊した。われわれがハバロフスク近くの訓練基地で対日作戦の準備に余念がなかった一九四四年、柳栄燦は野営地の建設資材を船で運んでくる途中、不幸にもアムール川で溺死した。金正淑はおりあるごとに、忘れられない恩人だと言って彼を回想した。
金正淑が桃泉里を発つとき、ついていくと言ったのは柳栄燦一人ではなかったという。婦女会員たちもまといついて、一緒に連れていってくれと涙ながらに懇願したという。ある婦女会員は胞胎山の峠までついてきて帰ろうとしなかった。金正淑はいろいろと説得したがどうしても聞き入れないので、銀の指輪を抜いて彼女の指にはめ、彼女の赤い腰帯をほどいて自分の腰に巻いた。赤い毛糸のその腰帯は、彼女が金正淑の保証で婦女会に加入した日、記念に編んで自慢にしていた大切なアクセサリーだった。
「連れていきたくないのじゃなくて、連れていけないから、わたしがひとりで行くのですよ。だから寂しく思わないでね。この赤い腰帯がみなちぎれて一本の糸になるまで身につけ、なつかしい桃泉里の人たちを思い出しますわ」
この愛情深い言葉に彼女はそれ以上我を張ることができず、せめて便りだけでもしてくれと切々と言った。
金正淑は部隊に帰ってからも、約束どおりいつも軍服の下に赤い毛糸の腰帯を巻いていた。彼女はわたしと結婚したのちにはじめて、一度もほどいたことのない赤い腰帯にまつわる話をしてくれた。その腰帯を通して、金正淑はいつも人民の体温を肌に感じながら生活した。彼女の心は人民から離れたことがなかった。
わたしはときどき、こう自問してみることがある。どうして金正淑はあの困難な地下工作にたずさわりながら、あんなに多くの人たちから愛され、助けられたのだろうか。もしも金正淑が人民に真の愛をそそがなかったなら、彼女が危機に陥ったとき、人民は彼女をかえりみなかったであろう。人民のために一身を投げださない人は、危難にさいして人民の心からの援助を受けることはできない。金正淑は人民を愛し、いたわっただけ、人民から報いを受けたのである。そうしてみると、五百名の捺印のある良民保証書は、彼女が人民のまことの忠僕であることを証明する永遠の証書だと言えるであろう。
金正淑が桃泉里を発ったときから半世紀以上が過ぎた一九九一年の秋、両江道地方を現地指導していたわたしは、彼女が心魂を傾けて開拓した新坡の地を訪れた。長い歳月が流れていたが、彼女の地下活動にまつわる史跡遺物はそのまま大切に保存されていた。その一つひとつの遺物と史跡にたいする新坡の住民の誠意はまったく感嘆に価するものだった。その日、解説員たちは金正淑の足跡が記された史跡を案内しながら、彼女の活動をくわしく説明してくれた。そこには、わたしのよく知らない事件や細部の事柄も少なくなかった。
わたしは、鴨緑江の岸辺に昔日の姿のまま残っている陰惨な砲台を見ながら、金正淑がこの地方を革命化するために多くの冒険に身を挺し、危険な瀬戸際に立たされたのも一度や二度ではなかっただろうと考えた。
夕日が沈みかけるころ停車場に向かったわたしは、新坡の街並みを振り返り、そぞろ立ち去りがたい思いにとらわれた。
注 釈
〔1〕 九・一八事変 一九三一年九月十八日、日本が強行した中国東北地方にたいする武力侵攻事件。「満州事変」ともいう。(1ページ)
〔2〕 南湖頭会議 一九三六年二月二十七日から三月三日まで、中国寧安県南湖頭で開催された朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議。この会議で
〔3〕 羅雲奎(一九〇一~一九三七) 朝鮮の劇映画創始者の一人。シナリオ作家、映画演出家、俳優。劇映画『アリラン』をはじめ十八編のシナリオを創作、二十余編の映画を演出、二十五編の映画に主役として出演。( ページ)
〔4〕 『壬辰録』 壬辰祖国戦争(文禄・慶長の役)の時期(一五九二~一五九八)に活動した歴史的人物と、当時の具体的な事柄にもとづいて朝鮮人民の反侵略闘争を描いた小説。( ページ)
〔5〕 尹瓘(?~一一一一) 一二世紀初、女真族の侵略を退ける戦いで武功を立てた名将。( ページ)
〔6〕 金宗瑞(一三九〇~一四五三) 豆満江流域の防備をかため、女真族の侵入を防ぐのに大きな役割を果たす。左議政として活動。高麗王朝(九一八~一三九二)の歴史を叙述した『高麗史』と『高麗史節要』など多くの史書を編纂。( ページ)
〔7〕 南怡(一四四一~一四六八) 十七歳で武科に及第。二十六歳で兵曹判書に任ぜられる。青年将軍であった彼は、辺境を侵して西北国境一帯を騒がせた女真侵略者を懲罰する戦いで偉功を立てた。( ページ)
〔8〕 甲申政変 朝鮮初のブルジョア改革。一八八四年十二月四日、金玉均を中心とする開化派が政変を起こして新政府を構成し、政府の政綱を発表したが、三日天下に終わる。一八八四年ブルジョア改革ともいう。( ページ)
〔9〕 檀君 朝鮮民族の始祖。五〇一一(一九九三年現在)年前に平壌に生まれ、初の古代国家である「朝鮮」(後に古朝鮮と呼んだ)を創建。平壌市江東郡に檀君陵がある。( ページ)
〔 〕 『温達伝』 高句麗人民によってつくられた説話。貧しかったため支配階級から「馬鹿」と呼ばれ、虐待され蔑視されていた主人公の温達が、王宮から追い出された王女と結ばれて武芸を修め、やがて将軍になり外敵を退ける戦いで勇敢さと犠牲的精神を発揮した話。( ページ)
〔 〕 『セナル』
〔 〕 『ボルシェビキ』 初の党組織―― 建設同志社の機関誌。一九三〇年七月、卡倫で創刊。最初は月刊雑誌であったが、後に週刊新聞となる。( ページ)
〔 〕 『農友』 一九三〇年の秋、中国の懐徳県五家子で創刊された農民同盟の月刊機関誌。( ページ)
〔 〕 『東医宝鑑』 一七世紀初までの朝鮮伝統医学のすべての成果を集大成した医書。有名な医学者許浚によって一五九六年~一六一〇年に編纂され、一六一一年に出版された。( ページ)
〔 〕 「恵山事件」 日本軍警が一九三七年の秋と一九三八年十月に鴨緑江沿岸一帯で朝鮮の革命組織と革命家を摘発、弾圧するために起こした二回にわたる大検挙事件。( ページ)
〔 〕 新幹会 一九二七年に共産主義と民族主義の両陣容の合作によって出現した統一戦線組織。全民族の団結をかためることを綱領として示し、民族の総力をもって朝鮮の独立を達成しようとした。日本帝国主義の弾圧と破壊策動のため、一九三一年五月に解散。( ページ)
〔 〕 金策(一九〇三~一九五一) 咸鏡北道金策市(旧城津、金策の名を冠して改称)の出身。革命闘争の過程で日本警察に逮捕されて数回の獄中生活を体験。一九三二年に朝鮮人民革命軍に入隊して指揮官として活躍。解放後、党の創立、人民政権の建設、正規の人民武力の建設のために献身。朝鮮民主主義人民共和国内閣副首相兼産業相を務めた。祖国解放戦争の時期には軍事委員会委員および前線司令官として戦争勝利のために献身。( ページ)
〔 〕 洪吉童 朝鮮中世の小説『洪吉童伝』の主人公。変幻自在の術を使って悪を討つ人物として描かれている。( ページ)
〔 〕 全琫準(一八五四~一八九五) 甲午農民戦争(一八九四~一八九五)の指導者。青年期に書堂の訓導を務めた。封建支配層の収奪に反対する全羅道古阜農民の暴動を農民戦争に発展させてたたかったが、裏切り者の密告で逮捕され死刑に処された。( ページ)
〔 〕 東学党 一八六〇年頃に出現した東学という朝鮮の民族宗教の信者の集団。東学とは西学(キリスト教)に対抗する東方すなわち朝鮮の学門という意味。東学徒は一八九四年の甲午農民戦争で大きな役割を果たした。( ページ)
〔 〕 祖国解放戦争 一九五〇年六月二十五日から一九五三年七月二十七日にかけて、朝鮮人民がアメリカ帝国主義をかしらとする侵略者と李承晩かいらい一味の武力侵攻に抗して戦った正義の戦争。( ページ)
〔 〕 康良煜(一九〇四~一九八三) 平壌市万景台区域七谷の出身。日本帝国主義の植民地支配当時、教師、牧師として愛国的な教育活動と布教に従事。解放後、北朝鮮臨時人民委員会書記長、朝鮮民主主義人民共和国
〔 〕 洪景来 一八一一~一八一二年の平安道農民戦争の指導者。( ページ)
〔 〕 李儁(一八五九~一九〇七) 一九〇七年六月、オランダのハーグで開かれる第二回万国平和会議に朝鮮高宗皇帝の密使として参加し、国際世論に訴えて日本の朝鮮占領を阻止しようとしたが、日本や彼らと結託した帝国主義者の謀略策動により正式の朝鮮代表としての参加を拒まれ、抗議のしるしとして会議場で割腹した。( ページ)
〔 〕 安重根(一八七九~一九一〇) 十七歳のときから軍事学を研究。西友学会の会員として教育活動に従事。一九〇七年末、ロシア沿海州で反日義兵隊指揮官として活躍。一九〇九年六月、義兵を率いて咸鏡北道慶興駐屯の日本守備隊を攻撃。一九〇九年十月、「北満州視察」の名目で満州に来た朝鮮侵略の元凶伊藤博文をハルビン駅頭で射殺。( ページ)
〔 〕 崔徳新(一九一四~一九八九) 日本帝国主義の朝鮮占領後、中国に移住し、民族主義者の武装組織である光復軍の将校となる。解放後、南朝鮮で軍団長、外務部長官、西ドイツ大使などを歴任。一九七七年アメリカに亡命。その後、朝鮮民主主義人民共和国に永住し、祖国平和統一委員会副委員長、天道教青友党中央委員会委員長として活躍。( ページ)
〔 〕 趙基天(一九一三~一九五一) 革命詩人。咸鏡北道会寧出身。日本帝国主義の朝鮮占領後、ロシアヘ移住しオムスク・ゴーリキー師範大学を卒業、祖国の解放とともに帰国。一九四七年、