チュチェ哲学の研究者の中には、ニーチェ哲学の研究者から方向を変えた一人がいる。
彼は、フランスパリ第1総合大学哲学教授であるピエル・ブトであった。
ピエル・ブトは、「生の哲学」を真の哲学として信じ、そこにすべてを尽くした人であった。
彼は、ブルジョア政治理念と哲学を擁護して執筆した著作だけでも数十巻になり、「フランス人物辞典」にもニーチェ哲学の研究者として紹介された。
いつか、彼は祖国解放戦争期とその後、数回にわたってわが国を訪問し、偉大な
彼は、チュチェ哲学を研究する過程に、その牽引力に引かれてチュチェ72(1983)年9月に初の平壌訪問を断行した。
彼がわが国に来て特別な関心をもち、読んだのは
彼は、平壌を訪ねた各国の学者たちの学習座談会にも参加し、チュチェ哲学の普遍性をさらに確信するようになり、家族には遠からず小説「モンテクリスト伯爵」のタンテスより思いがけない財物にありついて帰国するだろうという便りを伝えたのである。
彼は、その後ブルジョア哲学と完全に決別し、チュチェ哲学の熱烈な研究者に、その積極的な宣伝者に人生をかえるようになった。
チュチェ73(1984)年9月、「フランスクルチル」放送との実況会見で「私は東方にある朝鮮に行って帰った。そこで私は、新しい世界を発見した。それは人類がこれまで心の中で懐かしむ理想郷である」と述べた。
フランスでは、昔から最も高価に値し、珍しいものを黒いダイヤモンドに比べる風習がある。
彼が執筆した「鮮やかな朝の国の黒いダイヤモンド」について人々は「億万長者の宝石屋でも見ることができなかった黒いダイヤモンドをブトの書籍で見た」と評価した。
その後、彼はチュチェ思想国際研究所理事になった。
彼は、友人たちに次のように述べた。
「私が死ねば小さな碑を立ててほしい。赤い大理石に太陽を刻み、その下には五角星を刻みいれ、太陽は
彼が思いがけなく事故によって、世を去った後、フランスにあるチュチェ思想研究者たちはもう一つのチュチェ思想研究組織を結成し、組織を「ブト協会」と名付けた。
彼の未亡人であるジャン夫人は、
「たとえ、私の主人は世を去ったが、わが家族は今後も変わりなくチュチェ思想研究者に残るであろうし、主人が決まりをつけなかった仕事をわが家族が受け継ぐでしょう。」