七星門は朝鮮の平壌市中区域景上洞にある高句麗の平壌城の内城の北門である。
七星門という名は「北斗七星」から「七星」をとった名前として北側にある門であるという意味で名付けたのである。七星門は6世紀の中葉、高句麗が平壌城を築城するとき、最初に建てられたが、今の門楼は1712年に再建したものである。
七星門は平壌城の北側の城壁が万寿台の丘を通った有利なところに位置して防御には便利な城門である。それに七星門は妙な構造によってその防御力をはるかに高めるようにしている。
七星門の構造で特異な点の一つは、両側の城壁を10mぐらい食い違って築造し、その間に城門を横に配置し、外側に出した城壁をもう少し突出させながらそれを擁城にしたのである。七星門の構造で特異な点の今一つは虹の門の道内とその前に急な坂道をつくって昇り降りを困難にさせることにより、城に上る敵の打撃に有利につくったことでkある。
城門の築台は別に築かず、食い違って築かれた両側の城壁間に虹の門の道を出している。これは古い城門で俗に見る形式である。丸く出された擁城の上には姫垣を築き、その下部には補強する堤をつくった。上には前面3間、側面2間の一重軒の入母屋式の屋根の簡素な門楼を建てた。
1010年、数十万の大兵力で侵入した契丹侵略者は七星門でせん滅的な打撃を受け、壬辰祖国戦争の時期である1593年1月、平壌城奪還戦闘時に義兵たちと人民は七星門に突入して景上谷と練光亭にとぐろを巻いている倭敵1万余名を掃滅し、輝かしい勝利を収めた。したがって、人々は久しい前から七星門を「勝利の門」であると呼んだ。
七星門は今日、革命の首都平壌の国宝遺跡として良く保存、管理されている。