「解放の千里の道」は金日成主席が1925年1月22日から2月3日まで日本帝国主義に奪われた国を取り戻す固い決心の下、故郷マンギョンデから中国東北地方の長白県八道溝まで歩んだ千里にのぼる不滅の歴史的道のりである。
チュチェ思想、先軍思想の創始者であり、朝鮮革命と世界の自主化偉業を勝利へと導いてきた金日成主席の百戦百勝の革命活動の歴史は、主席が13歳の時に歩んだ「解放の千里の道」から始まった。
早くからお父さんにより「志遠」の思想(祖国と民族のための闘争の道で真の生きがいと幸せを求める革命的人生観であり、代を継いで闘ってでも必ず国の独立を成し遂げなければならないという百折不撓の革命精神)で教育された
金日成主席は朝鮮を知らなければならないというお父さんの志を奉じ、祖国に来て勉強しながら日帝の植民地支配のもとで苛まれている祖国の悲惨な現実を目の当たりに見、奪われた国と民族を取り戻す遠大な抱負と鉄の意志を打ち固めた。
そのある日、主席は反日民族解放闘争をおこなっていたお父さんが再度日帝警察に逮捕されたという知らせを聞くようになった。主席は父の敵、一家の敵、朝鮮民族の敵である日帝を打ち破って、奪われた国と民族を取り戻す決心を固めながら、故郷マンギョンデを発って千里の道についた。
その道は1月の酷寒(朝鮮で一月は、寒い季節である冬のなかでも一番寒い月である。)と吹雪に耐えながら千古の密林の雪道を一人で突破する実に困難な道であった。
故郷マンギョンデを発って13日目の1925年2月3日に、朝鮮の北部にある鴨緑江のほとりにいたった主席は、悲しい気持ちでこれから離れる祖国の山河を見渡した。そのとき主席は今日はたとえ悲痛な気持ちで祖国を発つが日帝を打ち破って必ず祖国に戻ってくると固く誓ったのである。
金日成主席は、祖国が解放された後、この日のことを回想しながら、私は13歳の時に朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまいと固く決心して鴨緑江をわたりました。私はそのとき誰かがつくった「鴨緑江の歌」を歌いながら、何時またこの地を踏むことができるだろうか、わたしが生まれ育ち祖先の墓があるこの地に再び帰る日は、いったい、何時のことであろうか、こう思うと幼い心にも悲しみを抑えることができませんでしたと述べている。
金日成主席が革命の大志を抱いて歩んだ「解放の千里の道」は、祖国解放をめざす闘争へとつながった栄えある闘争の道であった。
主席は「解放の千里の道」を歩んだ翌年の10月に、朝鮮において初めてのチュチェ型の革命組織―打倒帝国主義同盟を結成して朝鮮革命の出発を厳粛に宣言し、数多くの革命組織をつくり、新しい世代の青年革命家を育成しながら朝鮮革命の自主的発展の道を切り開いてきた。
偉大な金日成主席は「解放の千里の道」での誓いを実現しようとお父さんから譲られた二挺のピストルを元手にして革命の銃を高くかかげて抗日大戦を勝利へと導き祖国解放を成し遂げた。そして立ち遅れと貧窮のみが支配していた朝鮮の地に、自主で尊厳の高い人民大衆中心の社会主義社会を建てあげた。
マンギョンデ故郷のしおり戸を出て「解放の千里の道」を歩んだ歴史的なその日から始まって一生の間、時代と革命、祖国と人民の前に不滅の業績を積み上げた金日成主席の革命偉業、百戦百勝の偉業は、今日、金正日総書記によってりっぱに継承されている。
金正日総書記は、金日成主席が「解放の千里の道」を歩んだ50周年に際し、「解放の千里の道」を踏査行軍するようにした。
金正日総書記は踏査行軍を青年同盟の伝統的な活動としておこなうようにし、踏査行軍の主要地点ごとに青少年時代の金日成主席の銅像を立てて、主席の歩んだ革命の千里の道がより輝くようにした。
金正日総書記は青少年学生たちが踏査行軍の過程で、「解放の千里の道」に秘められた金日成主席の革命歴史と業績を深く体得し、社会主義祖国の躍動する現実を直接体験するようにした。
総書記はまた、踏査行軍の参加者が険しい峰も超え、荒い雨風や吹雪も体験しながら心身を鍛え、強い意志を培ってすべての青年学生少年たちがいかなる試練や苦難も克服していく、頼もしい革命の次代として準備していくようにした。
今日、朝鮮人民は金日成主席が「解放の千里の道」を歩んだ84周年と
金正日総書記が「解放の千里の道」の踏査を発起した34周年に当たる今年を、強盛大国建設のあらゆる部門で歴史的な飛躍をもたらす新しい革命的大高揚の年として輝かせていく決意も高く力強く前進している。